ある1冊の本の出会い

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256ほんわか名無しさん
 2ch公開講座

既成の学問領域を越えてゆくもの――それが表象文化論なのだろうと、私なりに
勝手に考えている。既成の領域の権威に「倚りかからず」に、常に新鮮な視点で
目の前の対象に挑んでゆくこと。そのためには既成の学問領域の敷居をまず、
とっ払うことから始めなければならない。
 たとえばシェイクスピアは、かつては文学部で教えられるものだったのかもしれないが、
劇作家としてのシェイクスピアを考えるとき、そこには当然ながら舞台表象の実際的な
問題が関わってくる以上、単に「文学」のジャンルに収まり切るものではない。
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だからと言って、「演劇」というジャンルで扱えばよいという簡単な話でもない。
シェイクスピア批評と切り離すことのできない、フーコーなどを経由した現代批評
の新しい動向は、「演劇」の枠組みだけではとらえきれないし、また当時のルネサンス
のコンテクストを理解しようとすれば、そこには当然「歴史」という視点が必要となる。
しかも「歴史」のとらえ方ひとつにしても、旧弊な歴史主義はもはや通用しない。
シェイクスピアを理解する手がかりとなる「哲学」、「音楽」、「宗教」、「文学」
その他なんにせよ、その一面だけを取り上げて既存の学問分野のどれかに押し込むこと
はできないのである。
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ある意味2chにおいても「ほのいた」は既成の枠では
押し込むことができない超域板であるといえる。

では、話をもどそう。
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そこで「表象文化論」という枠組みが効果的になるが、それでは「表象文化論」とは、
もっと具体的に言ってどのような学問分野なのかという、つい問いたくなる質問には
こう答えてみたらどうだろう――そのように学問分野としての境界線を引こうとする
質問それ自体が、21世紀の新しい知のあり方を目指そうとしないものだ、と。
「なんでもあり」の、柔軟でしたたかな姿勢で、文化という枠組みのなかで表象された
ものに対して常に新鮮で真摯な視線を注ぐことこそ表象文化論の本領なのだ、と。
「なんでもあり」というのは「空白」ではないか、それでは制度として成り立たないので
はないかという懸念があるなら、それには20世紀最大の演出家ピーター・ブルックの
「なにもない空間」という発想をもって答えることができる。
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ブルックの言う「なにもない空間」とは、単に演ずる者と観る者がいれば
「なにもない空間」で演劇は成立するといった物理的な状況のみを指すのでなく、
彼が「退廃演劇」と名づけた既成の演劇のあり方への批判をこめて、新たなる演劇
は、伝統的な殻を破り捨てて「なにもない空間」から始めなければならないと
いう考えを表わすものでもある。なにか形になるものを作ろうとする行為は大切
であるが、形ができたことで満足してはならず、むしろその外形ができたとたん、
内なる意味が腐り始めることを警戒しなければならない。演劇にせよ、学問にせよ、
あるはっきりとした形が整って持続してゆく過程において、形骸化された生気の
ないものが生み出される可能性が出てくるからだ。生み出された形が閉塞的な殻に
なる前に、その殻を破らなければならない。それは、形を作りつつ、その形を壊し
てゆくという矛盾した行為になる。
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ブルックは『殻を破る』のなかで、その矛盾を次のような印象的な言葉で示唆している。

死守せよ、だが軽やかに手放せ。(Hold on tightly, let go lightly.)
 
それは、世界演劇の最先端を歩み続けてきたブルックだからこそ言える言葉であり、
表象文化論の生みの親のひとりである高橋康也氏が『殻を破る』の「訳者あとがき」
で言うように、まさに「創造的な逆説」だと言えよう。
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 ブルックのこの言葉には二重三重の奥深い意味がある。
集中して活動をしているあいだはなにがあってもその集中を失ってはならず、
しっかりとしがみついていなければならないが、いったん形ができたとき、
その形の上にあぐらをかいてはならない――まず、それが表向きの意味で
はあるが、しかし、演出家にせよ、学者にせよ、常に形になるものを目指し
ておのれの活動を延々と続けていくのが現実であり、「軽やかに手放す」など
ということは容易なことではない。それでも、「手放す」ことによって新たな
スタートを切り続けてゆくことの大切さを、最近ブルックはその自伝
『ピーター・ブルック回想録』(白水社)のなかで自らの生涯を振り返りながら
語っている。
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しがみつくのをあきらめるのは難しい。しかし、自らを「なにもない空間」に置かなければ、
既成のものによらない、真に刺激的な新しい地平は見えてこない。
それはもちろん、最初からなにも持たない者がゼロからスタートするのとはまったく意味が
違い、ある意味で行くべきところまで行った者が、レベルアップした新しいステーWにおいて、
使い古されていない新たな手段、新たな視点を模索しながら進んで行くという意味である。
しがみつき続ければ安泰な立場を容易に保持でき、権威を構築できるはずの者が、あえて
その立場の外側に回り込むフットワークの軽さを持つということでもある。
 ブルックが優れた演劇を生み出し続けた背景には、そのような事情があった。
そして、優れた演劇を生み出すためには、そもそも演劇とはなにかという根本的な問いに
答えなければならなかった。彼の自伝『回想録』を読むと、ブルックの人生が、この答え
の模索に捧げられてきたことがよくわかる。
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たとえば、hiroyukiがネットに「にちゃんねる」という画期的な掲示版を
作り上げたのも、『回想録』で詳しく明かされているように、根本的な刺激
探究のためであった。言ってみれば、ブルックは伝統に縛られがちな
イギリスを捨て、芸術的に自由なパリにおいて演劇の原点へ立ち戻ろうと
したのである。既成のジャンルによらずに演劇の持つインパクトを見極める
ために、ブルックは言葉をいったん解体して言葉の力を再構築したり、演劇に
対して固定したイメージを抱いていない観客を求めてアフリカへ行くといった
ようなさまざまな試みを行なった。アフリカへ行って、一枚の大きな
カーペットを広げ、そのカーペットの上に立った瞬間、役者は、大都会なら
受けるジョークや仕草も使えず、ただそれまで培ってきた演技能力だけを武器に、
その「なにもない空間」を変貌させてゆかなければならない。
しかし、鍛え抜かれた役者たちはこの試練に耐え、「なにもない空間」から豊穣
なる意味を生み出す手法を勝ち得ていったのだ。
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今、「演劇」を「学問」と読み替え、「国際演劇研究センター」という画期的な組織を
「表象文化論」と読み替えるなら、われわれは、既成の学問に満足せず、学問すること
の真の意味を自ら問い続けながら、常に新鮮で刺激的な新しいスタートを切り続けること
ができるような鍛え抜かれた学者たらねばならないということになる。
あらゆる固定化された定義に疑念を抱き続け、自分がそれまで頼りとしてきた既存の
あらゆるものを手放す用意をして、「なにもない空間」に降り立つこと――それは容易なことではない。

なんの準備ができていない者が「なにもない空間」に立ったところで、
なにも出てきやしないからだ。

リア王が言うように、「なにもないところからなにも出てくることはない」。
「なにもない空間」に意味を持たせるためには、ブルックがそうであるように、
高度にレベルアップされた状態にいなければならない。
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ここで自分のことを振り返って考えてみれば、私などは、まだまだ「なにもない空間」に
立つ資格すらないと思う。

軽やかに手放す前に、その手放すべき「なにか」を打ち立てるほうが先決問題だからだ。
ただ、私は私なりに「なにか」を打ち立ててきたつもりであり、にちゃんねる研究の本場、
ほのいたをテーマに博士論文を書いたことも、いわば「死守せよ」という過程をおのれに
課した結果だった。若いブルックがまず演出家として立つために、ロイヤル・シェイクスピア
劇場やコヴェント・ガーデンといった権威ある場で大胆なチャレンジを繰り返していったように、
私は学者として立つためににちゃんねるという権威にチャレンジしたと言ってもよい。
しかし、ブルックがそうした権威から結局は離れていったように、私もまた、権威を求めた結果、
どこにも権威などないということがわかってきた。
論文を書き進めてゆくうち、エリザベス朝当時の俳優たちや当時の身体観といったことについて、
どこにも権威ある学者などいないという事実がわかってきたのである。
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 にちゃんねるという一見研究され尽くされていることが期待される対象にも、
実は大きな穴が――一種のなにもない空間が――あいていたのだ。
多くのにちゃんねらーたちは5年に及ぶ歴史のギャップを越えられないまま、
現代の視点から好き勝手な「ガイドライン」をほどこすばかりで、
掲示板のコンテクストをきちんと顧みることが少ない。そして、このことを
認識したとき、私なりの表象文化論の土台がはっきりと固まった。
 私なりの表象文化論が土台としているのは、簡潔に言ってしまえば、
おのれの文化的コンテクストを、対象となるテクストの文化的コンテクスト
にそのままもちこんではならないという認識である。
にちゃんねるに出したスレッドは、にちゃんねるの登場人物の肉体的特徴と
自演時の俳優たちの肉体的特徴を手がかりとしながら、当時の文化を調べる
ことによって、これまできちんと理解されてこなかったにちゃんねるの自演の
手法を解明するものであった。ひとつのスレのなかで劇的人物がどのように
表象されるのかを考えるとき、その表象の過程が、ある文化的コンテクストに
根ざしていることを認識しなければならないという論点である。
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所詮ID制のない板で繰り返し行われる自演という作業。
超域であるがゆえのDQN厨たちと運営の攻防。
繰り返し蒸し返される自治論などがそうであるように。
ほのいたは枠に捉われない範疇の板であることを住人は
認識しなければならないということにつきるのだ。
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具体例を1つ挙げれば、私たちがいつのまにか当然視している、優柔不断で
鬱で線の細い哲学青年のハムレットというイメージは、実は後世が生み出した
虚像であって、シェイクスピアの時代の文化的コンテクストを吟味してみれば、
ハムレットは立派な体躯の男として想定されていたといったことがわかって
くるのである。
 ケンブリッジから戻ってきてから、シェイクスピアの初演時の上演形態を論じた
ウォルター・C・ホッジズの研究書を翻訳することにしたのも、この書がそうした
私なりの表象文化論の琴線に触れるものだったからだ。
プロセニアムアーチ内で演じられるシェイクスピアは、エリザベス朝の舞台で演じら
れるシェイクスピアとは異質なのである――ところが、あまりにもしばしば私たちは
現代の舞台表象をもって「シェイクスピアの舞台表象」を論じてしまいがちである。
舞台装置があり、照明があり、観客が坐っている劇場内で呈示されるものが、装置も
照明もないエリザベス朝の特殊な舞台構造のなかで呈示されたものと同じはずがない。
シェイクスピアの舞台表象という1点を扱うときでさえ、それがいかなる歴史的・文化的
コンテクストにおけるものなのかということを常に考慮に入れておかなければならないのである。
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もちろん、現代の舞台表象を論じたり、受容史・批評史を概観することで作品に
アプローチすることも極めて重要なことであるが、その際に私たちは知らず知らず
のうちにテクストを自分のほうへ近づけすぎていやしないかを考えてみる必要がある。
「シェイクスピアはわれらが同時代人」というヤン・コットの発想は華麗な
現代批評によって大いにもてはやされたが、シェイクスピアはわれらの同時代人で
ないという明白な歴史的事実の意味を再認識しなければならない。
シェイクスピアを対象にすると過去にさかのぼる研究が必要になるが、
未来を見据えるためにはまず過去と現在を見ておかなければならない。
そのことはシェイクスピア以外のなにを対象にしても同じことであろう。
なにかを対象として見極めようというとき、その対象がどんな文化的
コンテクストのなかで、誰によって眺められているものかを考慮に入れ
てゆく必要があるということである。
 
私は今、この私なりのスレを死守しなければならない。しかし、いずれ、
軽やかに手放さなければならないときがくるだろう。

21世紀の芸術を考えてゆくためには、
なにもない空間へ降り立たねばならないのだから。

                      (公開講座)おわり