184 :
ほんわか名無しさん:01/12/12 19:34
age
見つけやすいようにage
186 :
ほんわか名無しさん:01/12/13 09:40
人間じゃないけど、動物のお話でもいいですか?
私は毎朝、会社まで車で通勤しているのですが、
ある日の朝、交通量の多い道のド真ん中に何か
動物がいるのを見付けました。速度を落とし
よく見てみると、2匹の子猫でした。しかし、
1匹は横たわったまま動きません。どうやら
道を横断しようとして、1匹だけ車にひかれて
しまったようです。もう死んでいるのでしょう。
それをわかってか知らずか、残った1匹はもう
1匹の側に寄り添って、そこから動こうとしま
せんでした。横をすごい速度で車が通り抜けて
いくのに、ピッタリと寄り添って、頑なに動こう
としないのです。この2匹は兄弟だったのでしょうか。
生まれてから、ずっと2匹で行動を共にしていた
のかもしれません。連れ合いを亡くしたもう一匹
の子猫が、じっと死んだ連れ合いを見つめていた
のが印象的でした。
朝から涙が止まらない1日でした。
もっと泣かせて・・・
今更ながら
>>1に言いたいんだが
>家に持って帰ってきたおにぎりは、冷凍庫にいれて、
>元気のない日に、1コづつ、大事に大事に、食べました。
おにぎり腐るだろ
元気の無い日にもっと元気なくなるって
>>188「冷凍庫に入れて、元気のない日に1コづつ解凍して」食べたんだろ?
190 :
ほんわか名無しさん:01/12/13 16:01
>>188 だから、冷凍してんじゃん、冷凍。
よく読め。
別に泣ける話では無いかも知れないっす。スマソ。
僕の友人(同級生)は一年位前に交通事故で意識不明、次の日に亡くなりました。
事故の時、僕と自転車で学校に行く途中でした。
いきなり酷い金属音が鳴り、後ろを見ると、、、血の付いた自転車がボロボロになって落ちてました。
あっけに取られた瞬間、上から友達が落ちて来ました。多分、轢かれて上に飛び上がったようで。
アスファルトに当った時、肉と肉が腫れ上がるような音がして、怖くて目の前が青く染まりました。
僕が目がさめた時には、もう死んでいました。
遺体はぐったりとした感じでした。
193 :
ほんわか名無しさん:01/12/13 17:06
>>192 泣けるっちゅうか、スプラッタ。
怖いぞ、それは・・・。
ガキの頃の友人なんだけど、同じクラスに動物好きの女の子がいて、友人はそいつが好きだった。
だけど、奴ぁ動物が苦手だった。
で、ある日の下校中、偶然橋の下で見つけた子猫がいてさ。
俺はもともと猫が好きだったからすぐ抱き上げたりしたけど、そいつには全然無理で逃げ腰だった。
「雨の日にこうやって捨て猫に餌を与えてる姿を見ると○○好きになってくれるぞ〜(笑」
ガキながらませたことを言って無理やりそいつに給食の残りのパンを猫に与えさせた。
逃げ腰だった奴も次第になれ、1週間もしないうちに猫の魅力に取りつかれていた。
んで、お約束だけどしばらくして猫が轢かれて死んで・・・。
涙もろい俺は泣きだしてしまったが、そいつは滝のように涙を流して悲しんでいた。
で、そんな姿を目撃した○○が我ら泣きまくる男二名を見てどう思ったかは秘密だ。
爺さんは昔そば屋をやっていたんだけど、今はお弟子さんに譲って悠々自適な生活をして
いた。それでも、お弟子さんが可愛いのか気になるのか、たまに店に顔を出してはお弟子
さんの手伝いをしていた。
その日もお弟子さんの店に顔を出して、店の手伝いをしていたら出前の注文が入り、爺さ
んが代わりに行ってくると申し出たそうだ。
主人たるもの店にいられる時はいるべきで、出前なんかは引退したジジイに任せておけと
言いそのまま出前に出ていった。
出前先はお得意さんの警察で、行き慣れたところなので往復十分もあれば帰ってこられる
ところなのに、三十分たっても爺さんは帰ってこないので、おかしいと思い始めた頃、出
前先の警察署から電話がかかってきた。
爺さんのバイクが、右折しようとしたトラックに後ろから追突され、意識不明の状態で病
院に搬送されたとの連絡だった。
結局爺さんは三日間ほど意識不明のままでそのまま逝ってしまった。
その時、お弟子さんが俺たち身内にいきなり土下座をして、『俺がオヤジさんに配達を頼
んだせいです。すみませんでした』と泣きながら繰り返していた。
当然、お弟子さんに責任があるなんて思っていなかった俺たち親族は、そんなお弟子さん
を慌てて引き留めたが、それでもお弟子さんは床に額をすりつけたままで顔を上げようと
もしなかった。
そして、その姿を見た時にこれまで堪えていた涙が一気に溢れてきたのが不思議でしょう
がなかった。
後日通夜の時に、病院で一緒に爺さんを看取ってくれた警察の人がやってきて、『自分た
ちが出前を頼んだせいで……』と頭を下げた。
その時に叔父が『オヤジの味をそこまで気に入ってもらってオヤジも本望だったと思いま
す。オヤジの味はこの○○君(お弟子さんの名前)がしっかり受け継いでいます、これから
もひいきにしてやってください』と言ったのが今も心に残っている。
あれから十年以上経っているけど警察の人はずっとお弟子さんの店のお得意さんのままだ。
長文&とりとめのない話でスマソ。
196 :
ほんわか名無しさん:01/12/13 23:15
初めての新規スレ作成してレスが「激しくガイシュツ!!」→「今だ!2番ゲットォォォォ!!」→「遅かった...鬱だし脳」で終わり、そのまま倉庫行きになったこと。
去年、母が癌で亡くなった。
3ヶ月間母がすごしていた病室を片付けていると、引き出しから封筒が見つかった
封筒には一言「お母さんへ」と書かれていた。
思い出した。漏れがリア厨の時、林間学校で強制的に書かされたものだった。
漏れの母校では、林間学校に行く前に学校側が生徒の家族に
生徒に手紙を書いて欲しいと秘密裏に依頼して
その手紙を故郷を離れた時に突然生徒に渡すというドッキリ企画が代々あったらしい。
で、実際担任から生徒に手紙が渡されると、大半の生徒は
「なんだよこれ?バカじゃねえの?ギャハハ。」
って感じのリアクション。
しかしクラスで一番派手な女(後にヤリマンとなるとなる)が泣いているのを見た担任は俺たちを叱った。
しぶしぶ返事を書く生徒たち。もちろん心はこもっていない。
担任の教師が「何か記念になるものを入れておくといい。」っていったから
漏れは紅葉をいれておいた・・・。
母の病室で見つけた封筒の中には、汚く、短く、おざなりな文章の書かれた手紙と
ぼろぼろになった紅葉の破片。
こんなものを長年とっておくほど、漏れは母に言葉をかけられず
思い出を作ってあげられなかったことを思って
母がかわいそうで、とにかく泣きじゃくった
長文&駄文ゴメソ みんなは親を大事にしてね
>>195 お爺さんの最期 痛みや苦しみが少なかったらいいな・・・涙
>>197 >漏れの母校では、林間学校に行く前に学校側が生徒の家族に
>生徒に手紙を書いて欲しいと秘密裏に依頼して
>その手紙を故郷を離れた時に突然生徒に渡すというドッキリ企画が代々あったらしい。
ここの意味がよくわかりません
201 :
ほんわか名無しさん:01/12/15 01:35
うう・・・・
爺さんと手紙の話、両方きた・・
202 :
名無しさん:01/12/16 17:33
age
203 :
ほんわか名無しさん:01/12/17 01:43
ウワアアアアアアン
205 :
ほんわか名無しさん:01/12/17 10:46
「静山社」(東京都新宿区)。現在、社員は3人だが、「ハリー」を出版する前はシリーズの翻訳者でもある松岡佑子社長(58)がひとりでやっていた。
加えて、難病患者の手記など地味な書籍を扱い、文芸書は未体験という同社がなぜ、世界的ベストセラー(約1億1千万部)を出版できたのか。そのいきさつ自体が、いささか“ファンタジー”めいている。
4年前のクリスマス。夫の幸雄さんが肺がんで急逝した。残されたのは、夫ひとりでやっていた赤字経営の出版社。同時通訳者として活躍する妻に、夫は「自由に生きろ」と言ってくれた。だが、松岡さんは「静山社はつぶさない」と宣言したという。
そんなある日、ロンドン在住の英国人の友人から、「出版するならこれは?」と渡されたのが、現地では既にベストセラーとなっていた『ハリー・ポッターと賢者の石』。
一晩で一気に読み、「魔法にかかった」(文芸春秋昨年11月号の手記)松岡さんは、出版元に即座に連絡。交渉を開始する。
ハリーが英国で生まれた翌年、98年10月のこと。日本からはすでに、大手出版社3社が手を挙げていた。だが、松岡さんは熱心にコンタクトを続け、2カ月後、「ユウコがいちばん情熱的」との原作者の言葉とともに版権を獲得。
松岡さんは「夫の遺影を前に、ひとりシャンパンを抜いた」
このスレ見ない方がよかった。。
命のメッセージ
この話の主人公、たかし君(9歳)は、折り紙の好きな
明るい少年である。
彼は5歳の時、重度の心臓病、心筋症であると診断される。
完全に治すためには移植するしか方法はなかった。
貴嗣君が2年生だった6月の朝、母親の節子さんは貴嗣君の
様子がおかしいことに気付く。呼びかけにも応えず、右足が
硬直しているようだった。
急いで病院に運ばれた貴嗣君は、脳梗塞の疑いがあると言われる。
子供が脳梗塞になることは非常に稀なことであるが、心筋症で
あった貴嗣君の脳の血管がつまってしまったのだ。彼は
右半身が麻痺してしまい、その上、声が出せない、つまり失語症
になってしまったのである。
節子さんは、紙に平仮名を書き、貴嗣君に指してもらって意志を
確かめようとしたのだが、平仮名を読むことも困難らしく、
できなかった。せめて声だけでも出せるようになってほしい、
と両親は願っていた。
そんな貴嗣君を病から救ったのが、クラスメイトのみんなだった。
病気で入院している貴嗣君のために千羽鶴を折っていたみんなは、
お見舞いに行きたいと担任のT谷先生に言う。
しかし、病状の悪化していた貴嗣君は面会謝絶の状態が続いていた。
そこで土谷先生は、クラスメイト全員の声のメッセージを
テープにとり、千羽鶴と一緒に貴嗣君のもとへ届けたのである。
節子さんはそのテープを、何日も貴嗣君に聞かせた。
そして、奇跡は起こったのである。
節子さんが貴嗣君にジュースをひとくち飲ませ、クラスメイトの
テープを流していた時だった。
「もっとのみたい」。
貴嗣君がしゃべった。節子さんは信じられず、
「もう一度言ってごらん」と言うと、たどたどしいながらも、
「もっとのみたい」と言ったのだ。
貴嗣君に、声が戻ったのだ。
医師や看護婦も、信じられないような奇跡に、喜んだ。
この春、4年生になった貴嗣君は、右半身に少し麻痺が残るものの、
暖かい同級生たちに囲まれて、楽しい学校生活を送っている。
December 23rd
サンタクロースはいる!?スペシャル
命のメッセージ 再び
1999年冬、碧南市立新川小学校、5年1組。以前放送された
たかし君は、脳硬塞に倒れながらもクラスメートたちの励ましの
メッセージに立ち上がった男の子だ。彼も今は5年生、
右手右足に不自由な所は残っているものの、多くのクラスメートに
支えられ、楽しい学校生活を送っている。
担任のK原先生は、「彼は友達と遊んだり、勉強したり、
自分が何かに参加していると感じられる時に一番いい顔をしていますね。」
と言う。
しかし、貴嗣君には悩みがあった。自分は何かをしてもらう
ばかりで、何の役にもたっていない・・・。
貴嗣君の悩みは大きくなり、先生にも相談した。そこで、
普段は図書委員が中心になって行われる人形劇を、
貴嗣君が進めるのはどうだろうか。
そしてみんなに手伝ってくれないか、と先生はクラスのみんなに話した。
全員が手をあげ、協力してくれることになった。
本番は4日後、碧南市心身障害者センターで行われることになった。
普段からこのセンターと交流のある貴嗣君は自然と力が入る。
人形劇の練習に加えて、道具や舞台も用意しなくてはならない。
人手不足と聞きつけて、元2年1組の貴嗣君のクラスメートが
手伝いにきてくれた。
4日間、貴嗣君は夜遅くまで台詞と人形の練習をした。
そのみんなの努力が実り、本番当日の劇は大成功。
楽しい時間をセンターの人々に贈ることができた。友達の大切さ、
人になにかしてあげたいという気持ちの大切さを再び貴嗣君に
感じたのであった。
June 15th
感動のアンビリバボー
たかし君の夢〜手紙から始まる奇跡〜
4年前に心臓が萎縮する心筋症が悪化、脳梗塞になった岡田貴嗣君。
たかし君は、右半身麻痺と、言葉がでなくなるという症状から、
友達の助けと励ましから立ち直った。そんなことから、
いつも前向きに明るく頑張ってきたたかし君だったが、
彼のお母さんから番組宛に手紙が届いた。
たかし君の体調が最近思わしくなく、自分は大人になれない、と、
希望を失ってしまっているのだという。
一体たかし君に何が起こったのだろうか?
たかし君は、いつも友達の助けを借りながら学校生活を送ってきた。
自分は何かをしてもらうだけで、何もしてあげられない。
それが、たかし君が元気をなくしている理由のようだった。
6年生になったたかし君は、学校生活最後の楽しみである
修学旅行に、友達の協力を得て行けることになった。
しかし、そこでも車椅子や友達や先生の力を借りるばかりで、
友達の大切な時間が自分のせいで犠牲になっているのではないか、
と元気を取り戻すことはできなかった。
ところが、先日のアンビリバボーの放送でダウン症という重い病を
抱えながらも頑張る岩元綾さんの姿を見て、
たかし君は彼女に会ってみたいと思ったようなのだ。
彼女の、病気に負けずにかけがえのない人生を精一杯生きる姿に
感動したのだ。
しかし、この二人が会うには大きな問題があった。
たかし君は最近心臓の調子が思わしくなく、飛行機や長距離の移動は
無理のようだった。
また、綾さんも心臓に負担のかかる長距離の移動は無理と思われた。
そこで、番組スタッフは綾さんにたかし君のビデオレターを
送ったのだ。綾さんはそこに、懸命に生きるたかし君の姿に感動し、
彼女もたかし君に会いたいと、長旅を快諾してくれたのだ。
ついに、綾さんとたかし君の出会いの場が設けられた。
たかし君の最近の不安を知った綾さんは、自分が今までどのように夢を
諦めずに追ってきたかを話し、たかし君の夢の話も聞いた。
たかし君は、綾さんとの出会いでようやく元気を取り戻したようだった。
実は、たかし君は金沢市の小学校に小さな奇跡を起こしていた。
たかし君の母親の知人が勤めるこの学校には25羽のうさぎがいるのだが、
冬になると野菜が不足して困っているという話を聞いたたかし君が、
自分のおこづかいでにんじんを数回に渡り送っていたのだ。
その行為は人々の心を揺り動かし、今年はPTAの会議で
うさぎの飼育費が出ることになったというのだ。
たかし君は言う。
「人のために何かをしてあげようと思うんじゃなくって、
生きていること自体がみんなの励ましになっていると気づいた。
これからも生き続けていきたい」。
命の大切さを知っているたかし君だからこそ、
6年生にしてこんな言葉が出るのだ。
January 18th
追悼特別企画
たかしくん、奇跡をありがとう
アンビリバボーと難病の少年の2年9ヶ月
これまで、当番組に3回に渡って登場し、難病と闘いながらも
懸命に生きる姿で感動を巻き起こしてきた岡田貴嗣君が、
残念ながら昨年11月にこの世を去った。
わずか12年の短い命だったが、彼は数々の奇跡を起こしてきた。
・1998年4月25日放送 命のメッセージ
・1999年12月23日放送 命のメッセージ 再び
・2000年6月15日放送 たかし君の夢〜手紙から始まる奇跡〜
彼は取材のたびに、前向きに生きる姿を私達に見せてくれた。
そして、彼も番組を通しての数々の出会いを生きる励みにしてくれた。
彼は亡くなる前の日も元気に学校に行っていた。
体調が優れなくても、友達とのふれ合いを何よりも大切にしていた貴嗣くん。
「友だちっていいよ。ぼくも友だちにやさしくしたい。
そして友だちを大切にしたい」
という彼の言葉は、とても印象に強い。
貴嗣くんは体調を崩し始めた頃、うつ状態になってしまっていた。
内疾患の場合、周囲からは彼の体が命にも関わるほどの病を抱えていても
見た目にはわからない。そのため、母親に背負われている時に
知らない人から「あらあら、こんなに大きいのにおんぶしてもらって、
甘えん坊さんね」などと声をかけられることがあった。
貴嗣くんはそんな時、
「お母さん、大きい子がおんぶされてるのは、どこか怪我をしているとか、
必ず理由があるはずだよ。
それなのに、何も知らないで大人があんなことを簡単に言うのはおかしい」と
怒っていたという。母親が何も説明せずにその場を離れると、
貴嗣くんは母親の肩をぎゅっと掴んだという。
彼にとっての小さな抗議だったのだ。
その後、町中でも車椅子に乗らなくてはならない程体調を崩しても、
彼は学校に行って友だちに会うことをとても楽しみにしていた。
学校に行けば、全て解ってくれる友だちがたくさんいたからだ。
その後、友だちや番組を通しての新しい多くの出会いの中で、
生き続けたいという希望を持ってくれた貴嗣くんに安心し、
取材スタッフは小学校を卒業し、中学に入ったころの彼を取材できることを
とても楽しみにしていた。
ところがそれは夢となってしまう。
2000年11月24日、体調の良かった貴嗣くんはビデオにとっておいた
見たい番組を、夜遅くまで母親と一緒に見ていた。
いつもと何も変わるところはなかったという。
お腹が空いたという貴嗣くんに、母親は焼そばを作ってあげることにした。
母親が台所に立っていると、
突然貴嗣くんは「あれ、おかしい、体が動かない」と言った。
その時は、台所で火を使っていたこともあって
それほど気にも止めていなかったのだが、しばらくしてトイレに行った時、
貴嗣くんは「あっ」と胸をおさえてその場にうずくまってしまった。
「お母さん、先生に電話して」という貴嗣くんの声に、
母親は心配になってすぐに救急車に電話をした。
母親は貴嗣くんを抱えて外で救急車が来るのを待った。
病院で貴嗣くんは、人工呼吸と先生の心臓マッサージを受けながら、
最後まで生きようと頑張っていた。
母親も、懸命に頑張った貴嗣くんをほめてあげたいと語っている。
2000年11月25日早朝、岡田貴嗣くんは12才の短い命を閉じた。
学校と友だちが何よりも好きだった貴嗣くん。
彼の死を痛む声は大きかった。
「もう一度帰って来てほしい」
「貴嗣くんは人の役にたちたいといつも考えていて、とてもえらかった」
「貴嗣くんは物じゃなくて、たくさんのものを私達にくれたので、
ありがとうと言いたい」と友だちは口々に言っている。
貴嗣くんのいた6年1組の教室には、今も彼の机が残っている。
彼が務めていた委員会もそのままだ。
貴嗣くんは今も友だちの心に生きている。
3月には、みんなと一緒に小学校を卒業する。
貴嗣くんは本当に多くの人に感動を与えた。
そして、彼はいつまでもみんなの心の中に生き続けている。
貴嗣くん、奇跡をありがとう。
May 3rd
特別企画
たかし君の卒業 未来に広がる命のメッセージ
3年半に渡る取材を通して、友達の大切さ、
生きていることの素晴らしさや大きな希望を与えてくれた岡田貴嗣君。
残念ながら彼は、2000年11月25日に12歳という若さでこの世を去った。
今年1月に番組で貴嗣君の追悼特別番組を放送したところ、
300通を超えるメールやお手紙が届いた。
彼の人生は短かかったが、本当に多くの人々の心を打つものだった。
自分が生き続けることが、人の役に立っていると気付いた貴嗣君。
今回は、彼の亡き後も続く奇跡のエピソードをお送りする。
世田谷区に住むOさん(28歳)は、3年前に子宮ガンを宣告され、
ライフワークだった美術デザインの仕事も断念せざるをえなくなり、
さらに待ち望んでいた第2子も流産し、不安の中で子育てをしていた。
しかし、貴嗣君の懸命に生きる姿を見て、
「こんなに小さい子が頑張っているのに、めそめそしていられない」
と勇気づけられたという。
現在3歳になる自分の子供にも、人の役に立ちたいという気持ちを
持ってもらいたい、命の大切さを伝えたい、というのが彼女の願いだ。
また、兵庫県姫路市に住むMさん(29歳)も
貴嗣君に勇気をもらったと話す。生まれてきた息子、T君に障害があり
、手術をしなければ短くて2・3日、長くて1ヶ月の命と宣告された。
始めは何も考えられなかった美也子さんだったが、
T君の生きられる限りの生命力にかけようと、
手術をしないことに決めた。
その後、T君は4ヶ月後には目も見えるようになり、
手足も元気に動かすようになってきたのだ。
丁度その頃、彼女はテレビで貴嗣君の姿を見た。
そして、T君には生きていてくれるだけでいい、
そして自分達の子供に生まれてよかった、と思って欲しいと考えた。
彼女は今、T君と外に出たいと、夏用の帽子を編んでいる。
兵庫県伊丹市に住むKさん(22歳)は、
貴嗣君の姿を見て自分と重ね合わせずにはいられなかった。
Kさん自身も重度の心臓疾患を患って生まれたからだ。
20歳になったら寝たきりになり、突然死になってもおかしくはない、
と言われていた彼女は、今年無事22歳を迎えた。
日常生活では人知れず多くの悩みを抱えていた彼女だが、
貴嗣君の「生きているだけでいいんだ」という言葉に、
自分も生きているだけでもいいのかな、
と肩の荷が下りたような気がすると語った。
貴嗣君は、Kさんを安心させてあげていたのだ。
さらに、貴嗣君に勇気をもらったのは、
病に苦しむ人達だけではなかった。
今年の1月、愛知県の碧南駅に二人の女子高生が降りた。
岐阜から来たという彼女たちは短いスカートをはいて化粧をし、
今時の女の子といった風貌だった。
駅の地図をずっと眺めていた彼女達に駅員が声をかけ話を聞いてみると、
彼女達はアンビリバボーを見て
貴嗣君の学校に行こうとしていることがわかった。
駅から連絡を受けた学校は、貴嗣君のお母さんに電話をして
学校に来てもらった。16歳のTさんとAさんは、
番組を見てすぐに「貴嗣君のお母さんに会いたい」と思い、
誘い合って会いに来たのだという。
一見、活発そうで何の悩みもなさそうに見える二人だったが、
Tさんは一つ上の兄と10歳年下の妹の間で家族内での悩みを抱えていた。
二人は、重い病気と闘いながら生きる貴嗣君を尊敬できると感じた。
そして、彼を見てやさしい気持ちが持てるようになり、
また余裕がでてきたと話す。
貴嗣君がたくさんのことを気付かせてくれたと二人は話す。
そのお母さんに会えた日のこと、そしてやさしい気持ちが持てたことを
二人はいつまでもわすれないであろう。
2001年3月19日、新川小学校では卒業式が行われた。
残念ながら、貴嗣君に卒業証書を渡したいという校長以下教員達と
卒業生達の願いは叶わなかったが、
彼の遺影は一番の親友というクラスメイトの片山健吾君に
支えられて卒業式に参加することができた。
式の中、貴嗣君の在籍した6年1組の別れの言葉には、
「友達って、いいよ。僕も友達に優しくしたい。
そして、友達を大切にしたい。」という貴嗣君の言葉が盛り込まれた。
式の後、教室では貴嗣君のお母さんにクラスメイトから
感謝状と花束が贈られた。
お母さんは、こんな形で貴嗣君が一緒に卒業させてもらえるとは
思ってもいなかったようで、涙が止まらなかった。
6年1組全員の心の中に今も貴嗣君は生き続けている。
2年間担任の先生だったK原先生にも、
生徒たちから思いがけないプレゼントが最後にあった。
生徒達全員が次々と自分の名前を告げると、こう言った。
「先生に大切なことを学び、心から感謝しています。
ありがとうございました」。
卒業式で泣いたのは初めてだと、K原先生は話した。
教え子を亡くすというつらい出来事。
クラスは貴嗣君から本当に多くのことを学び、
涙を乗り越えて一緒に成長してきた。
貴嗣君は本当にたくさんの人々に勇気と生きる希望を与えてくれた。
貴嗣君、卒業おめでとう。
>>207-213 奇跡体験!アンビリーバボーより
215 :
ほんわか名無しさん:01/12/17 16:45
あげ
貴嗣君・・・ありがとう・・・(号泣)
219 :
ほんわか名無しさん:01/12/18 16:51
age
私が小4のとき、4年4組だったのですが、
川本君という子が、3年生の中間頃、病気で、そのときから入院生活が始まりました。
川本君も4年4組の予定なので、クラスの皆で
「待っていようね。」と約束しました。
そして川本君が回復に近づいていて、戻ってこれるかもしれないという知らせがはいって、
皆で喜んで、
「もう少しだ!」と皆で思って、川本君のために千羽鶴を折ることにしました。
担任の先生が出張で自習だったとき、千羽鶴を折り始めました。
皆すごいスピードで、雑ながらも、目標は明日までにと決めていました。
1〜5時間使ってまでも。
あと15羽、あと14羽、、、と4年生の慣れない手つきで頑張っていました。
5時間目のチャイムがなったころには、後11羽たりませんでした。
「11羽くらいなら、明日先生が来る前におれるよね!」と
家に帰っていきました。
そして次の日。
「できたーーー!!!」と教室中に声があがりました。
担任の先生が教室にはいってきたら皆で、
「あっ、先生!千羽鶴をね、川本君に折ったんだよ!」
「そう!昨日の自習の時に、頑張って1000個折ったんだよ!」
「これで川本君、一緒に勉強したり遊んだりできるかなぁ?」
「ねぇねぇ、先生。いつくらいにここに戻ってこれるんですかぁ?」
と口々に言っていました。
先生は沈黙。
「・・・先生?」
「どうしたの?川本君は?」
先生は静かに口を開いて
「・・・川本くんは・・・・・・昨日の夜・・亡くなりました・・・」
と先生が涙を流しながら皆に告げたのです。
賑やかだった教室が、一瞬にして静まり返ったのです。
「・・先生、嘘でしょ?」
「だって、もう少しで帰ってこれるって先生言ったよ。。」
「先生のうそつき・・・」
「川本君は死んでないよねぇ?亡くなったって、死んだって意味じゃないよねぇ・・?先生?」
そして皆が涙目になった頃、先生はその場に泣き崩れてしまい、
生徒も泣くしかなくなってしまい、その日の4年4組は、
一番元気なクラスのはずが、一番静かで寂しいクラスとなったのです。
そして千羽鶴は川に流しました。
皆で「川本君へ届きますように・・」と願ったのです。
あんまり泣けないかもね。ゴメンネ・・
>220-221
?ごめん、よくわかんないや。
>207-214に対応した話なの?
↑ごめん、>207-214に対応してるとかは自分の勘違いデシタ。首つってきます。
224 :
ほんわか名無しさん:01/12/19 02:05
マジ泣きage
225 :
ほんわか名無しさん:01/12/20 03:40
月面で死亡した宇宙飛行士からの最後の言葉
「ま白き星より青き星の冒険者に我が思いを託す。いずれ赤き星も越え思いは果てなく」
火星へのミッション成功を祈って……。
226 :
ほんわか名無しさん:01/12/20 03:43
セブ島から特攻出撃した大和隊隊員植村少尉が幼いわが子に
あてた遺書。
素子 素子は私の顔を能く見て笑いましたよ。私の腕の中で眠りも
したし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって
私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代叔母様に私のこと
をよくお聞きなさい。私の写真帳もお前のために家に残して
あります。
素子という名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思いやり
の深い人になるようにと思って、お父様が考えたのです。
私はお前が大きくなって、立派なお嫁さんになって、幸せになったの
を見届けたいのですが、若しお前が私を見知らぬまま死んでしまって
も、決して悲しんではなりません。お前が大きくなって、父に会いたい
ときは九段にいらっしゃい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様の
お顔がお前の心の中に浮かびますよ。
父はお前が幸福者と思います。
生まれながらにして父に生き写しだし、他の人々も素子ちゃんをみると
真久さんにあっている様な気がするとよく申されていた。
またお前の伯父様、叔母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がって
下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福を
のみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあっても
親無し児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護って
おります。優しくて人に可愛がられる人になって下さい。
お前が大きくなって私のことを考え始めたときに、この便りを読んで
貰いなさい。
昭和十九年○月某日 父
植村素子へ
追伸 素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて
自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒に
いたわけです。
素子が知らずにいると困りますから教えて上げます。
2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。
その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。
少女「あんたら地元の人間か?」
団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」
少女「で、何しにきたんや?」
団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」
少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」
団体「・・・・?」
少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。
寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて
夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。
私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。
あんたらにわかるか?
消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。
でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」
最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。
あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。
団体は撤退。
彼女は門をくぐった時に守衛さんが彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。
228 :
ほんわか名無しさん:01/12/20 05:42
まじ泣いた・・・。
うち母子家庭なんですけど母が亡くなったらって考えて本当に苦しくなった。
今からまた受験勉強がんばってきます。
今からでも母を喜ばせていこうと思った。
本当にいいスレありがとう。
229 :
ほんわか名無しさん:01/12/20 06:13
遅レスごめん
<141〜144 ボロボロ泣いちゃったよ。私(31)のおじいちゃんとおばあちゃん、
90近くて一応まだ元気なんだけど、今のうちにいっぱい手握ったり、大好きだってこと
伝えておこうと思ったよ。亡くなってからじゃ、もう出来ないんだもんね・・・。
それにしても、医者無神経過ぎ!
あとのレスこれから読みます!
230 :
ほんわか名無しさん:01/12/20 06:36
↑31っていうのはレス番ではなくて、年齢です。念の為・・・
(TT)うああ・・・・・なんて心に響くスレなんだ・・・・・・
232 :
ほんわか名無しさん:01/12/20 06:51
早朝にこのスレはつらい…
喉の奥が熱い……
233 :
ほんわか名無しさん:
自分は右でも左でも無いけど・・・
>>226 >>227 阪神大震災の時は 本当に自衛隊の皆さんにもよくしていただいた。
(各都道府県の警察・消防・ガス水道電気電話関係の方々にも同様にお世話になった)
今思い出しても涙がこみ上げてくる。
それだけに
自衛隊の人を戦地の真っ直中に送って
>>226のような思いをして欲しくないな。
どの国の人にも辛い・怖い思いをして死んで欲しくない・・・。