おまいら自分の住んでるところの画像をうpしれ19

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769774号室の住人さん
栗林中将の採用した戦術は、持久抵抗によって上陸部隊をすり減らすこと
を狙ったものであった。火砲は摺鉢山の斜面と元山飛行場北側の高台の、
海上からは死角となる位置に巧みに隠蔽されて配置された。食糧と弾薬は
持久抵抗に必要となる2.5か月分が備蓄された。1945年1月に発令された最
終作戦は、強力かつ相互に支援し死守するべき陣地の構築を要求したもの
で、大規模な逆襲、撤退、および万歳突撃はいずれも厳禁とされた。

防御準備の最後の数ヶ月間、栗林中将は、兵員の建設作業と訓練との時間
配分に腐心した。訓練により多くの時間を割くため、北飛行場での作業を
停止した。12月前半の作戦命令により、1945年2月11日が防御準備の完成目
標日とされた。12月8日、アメリカ軍航空部隊は硫黄島に800トンを超える
爆弾を投下したが、日本軍陣地には損害をほとんど与えられなかった。以
降、アメリカ軍のB-24爆撃機がほぼ毎晩硫黄島上空に現れ、航空母艦と巡
洋艦も小笠原諸島へ頻繁に出撃した。頻繁な空襲で作業は妨害され、守備
隊も眠れぬ夜が続いたが、実質的に作業進行が遅れることはなかった。1月
2日、十数機のB-24爆撃機が千鳥飛行場を空襲し損害を与えたが、栗林中将
は応急修理に600名を超える人員と、11台のトラックおよび2台のブルドー
ザーを投入し、飛行場はわずか12時間後に再び使用可能になった。