ヰ記列伝一 0null0 伝
'''0null0'''(読み方不明)は、管理者見習い。自称は「俺」で、この
呼び方を改めようとしても改めることができずにいる。子供あり。
固定ユーザとしての初書き込みは2003年9月6日。その内容は、わずか一
語「暇な人。」であった。今日からは想像もできない人物像である。そ
れとも、暇だからこそある現在なのか。
初の記事修正は、「ワールドゲームズ」で、オリンピックという単語に
[[ ]]を付け加えた。赤リンクとスタブ記事を作って遊んでいたが、急
速にウィキペディアのスタイルを身につけ、価値ある修正を施すように
なった。しかし、長文の記事を書くのはいまもって苦手である。
一週間後の9月13日には、自分のノートページに「百科事典という大前
提を逸脱している書き込みが増加しているのはいかがなものなのだろう
か。」などと不満を漏らした。これ以後、この主張がウィキペディアに
おける彼の存在意義となっていく。
10月20日から、ウィキペディアでは、新聞記事への外部リンクについて
議論が続いていた。0null0はこの議論に加わっていなかったが、22日に
「Wikipedia‐ノート:ニュースサイトNo.2」に外部リンクは必要なのか、
と疑問をさしはさみ、Opponentから激しく反発された。
その夜、0null0の会話ページに、Opponentが「猛省を求めます」と、
Darjeelingが「この方(0null0さん)は、いわゆる書き逃げでし たよね。」
と相次いで書き込んだ。有力コテハンが他人のノートに非難の書き込み
をする行為は、衝撃とともに編集合戦の不吉な予感を人々に与えた。
2ちゃんねるの趣味板にある「Wikipediaについて語るスレ」にウィキ
ペディアからの漂着者が増えたのは10月21日、22日からである。はっき
りはしないが、これも本体の荒天の影響かもしれない。
0null0はしばし沈黙してから三日後に答えた。「ある疑問・疑念が晴れ
ない限り、回答する予定はありません。しかしながら、それがどういう
疑問・疑念かということについては間違いであった場合非常に失礼にあ
たるのでここでは説明しません。」という歯切れの悪いものであった。
後にわかることだが、この疑問とは、Darjeelingら複数のユーザは、
Opponent当人が世論形成のために取得した分身ではないかというものだ
った。
この事件から、0null0の運営問題に関する関心はいっそう高まったと思
われる。10月末からは、あまりうまくいかなかったものの、鉄道問題に
介入を試みた。11月1日からは、2ちゃんねるの前述のスレッドに書き
込みをしている。
11月5日午前深夜に、Opponentが管理者に推薦されると、過去にOpponent
がした白紙化攻撃をとりあげてこれに反対した。同日夜に自らウィキペ
ディアの管理人に立候補した。2ちゃんねるで自分が0null0に攻撃され
ていたことを知ったOpponentが反対すると、0null0はこう答えた。
「私はOpponent氏の賛同記事についてはかなり色眼鏡でみている。そこ
以外ではみたことのないステハン(その場だけのハンドル)が散見され
る。(中略) 私が昨今、Wikiぺで思っている最大の疑問がこれです。」
というものであった。こうして0null0は、あちこちで囁かれていたOppo
nent分身疑惑を正面から突きつけた。
彼の管理者立候補に対する反応は賛否があったが、管理者と常連の反応
は好意的であった。0null0は自分の後に立候補者が続くと思っていたよ
うだが、その点はあてが外れた。現在、論点は0null0をしばらく見習い
にするか、早めに管理者にするかに移っている。
Opponentとの対立や2ちゃんねるでの放言から、0null0には粗暴な印象
がつきまとう。が、本人は引くことも追わぬことも知っていると自負し
ている。書き込みを調べれば、それも間違いではない。0null0への支持
が今ひとつ広がらないのは、彼の貢献がノートや短文付加、修正にとど
まり、すべてのウィキペディアンが賞賛するような充実した記事が少な
いせいであろう。ここから彼を議論好きとする批判も出てくる。執筆者
として0null0より優れた人は、確かに多い。管理者は優れた執筆者でも
あるべきなのか、その必要はないのか、そのあたりの意見の違いが彼に
対する人々の態度を左右しているようだ。