朝鮮への植民地支配は本当に残酷だったのか rigel5

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174名無しさん@お腹いっぱい。
【日韓】新日鉄とポスコの蜜月関係が壊れた理由[04/27]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1335613417/


恩を仇で返される、韓国への技術移転

■高信太郎「おもろい韓国人」より抜粋

浦項製鉄という東洋一の製鉄所があります。
実を言うとそれは、日本の新日鉄がプラント輸出してできた製鉄所なんです。
でもね、僕らがそこで見せられた浦項製鉄の成り立ちについての映画では、
全部自分達の力でやったことになっていて、「日本」の「に」の字も出てきません。
「東洋一の製鉄所である。どうだ、まいったか!」というそればっかりですよ。

その浦項製鉄はプロのサッカーチームをもっているんですが、そのチームマスコットが
なんと「鉄腕アトム」なんです。(中略)
それで日本にきた韓国人がアトムを見て「日本人はけしからん!無断でわれわれの
アトムを使っている」なんて言っている。

おもろい韓国人 愛があるから、ここまで言える: 本: 高 信太郎
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4334724604/503-1925740-7198339?v=glance&n=465392



『いい加減にしろ韓国』 豊田有恒 

感謝されない日本の技術移転
ぼくの友人T氏が、提携先の製鉄会社の社員である。かれの依頼で、その会社の独身寮で
講演を頼まれたときのショックは、いまだに忘れられない。かれは、「うちの会社には、
韓国が好きな人間は、一人もいないでしょう」と言った。

ぼくも見学してきたが、韓国の浦項製鉄は、日本の最新鋭工場と、同じレイアウトに
なっている。 単一工場での出銑能力では、日本と同じだが、人件費などの相違から、受注量が
いまや日本をしのいでいる。だから、単一の工場では世界最大の生産量ということになる。

この工場の建設にあたっての苦労話をさせたら、日本最大のこの製鉄会社の社員には、
いくらでも言い分はある。
「確かに契約として、会社として、やったことでしょう。だけど、それだけじやないんです。
日本人は韓国に負い目を持っています。だから、このプロジェクトを成功させなけりゃ
いけないという使命感をみな持っていました。サラリーマンだって、生身の人間です。
ほんの一言でいいんです。韓国語にも、ありがとう−−カムサ・ハムニダって、言葉があるで
しょう。要は、気分の問題なんです。日帝36年を持ち出されると、こっちとしては、なにも
言えません。うまく言えないけど、すべて終わったあとで、ぜんぶ自分たちがやったっていう
態度にでられると、こっちとしても我慢しなけりやいけないと判っていても、割り切れない
気持ちになるんです」
友人を通して、このとき知り合った製鉄会社の同僚は、こう言ったものだ。

この類の日本人の不満は、あちこちで聞かされた。
 
これは、直接に聞いたものではないが、日韓共同プロジェクトとして、ソウル市の
地下鉄一号線の工事は、日本の技術援助で完工した。
だが、その開通式にあたっては、日本の援助には一言も言及されなかったという。

(豊田有恒『いい加減にしろ韓国』P71-72 祥伝社)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4396103476
175名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/10(木) 23:24:20.21 ID:S9eTC+bj0
ヒロシ 浦項の日本人顕彰碑の顛末と製鉄所のいきさつ
http://blogs.yahoo.co.jp/ureeruhiroshi/61467080.html
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/c9/13/ureeruhiroshi/folder/1444053/img_1444053_61467080_0?1282552343
韓国の人たちって歴史に向き合う誠意を持っているのでしょうか?
「そうしたことが行われたのも歴史の一部」っていうのは本来日本人の功績に対して言う言葉ではないでしょうか?

僕から見れば、韓国人の信用を落とすだけだと思うのですがねえ。


韓国 浦項の日本人顕彰碑 セメントで固められたまま保存
8月13日15時0分配信 毎日新聞

 【ソウル西脇真一】韓国南東部・浦項(ポハン)市は、植民地時代に市東部の九竜浦(クリョンポ)で港湾建設など
に尽力した日本人をたたえて建立された顕彰碑について、1945年8月の解放後にセメントで塗り固められた
「原状」で残すことを決めた。市は、九竜浦に残る日本式家屋などを「近代文化歴史の道」として保存・整備中。
顕彰碑もセメントをはがす復元を計画したが、日韓併合100年の今年、「そうしたことが行われたのも歴史の一部」
(関係者)として、そのまま残すことにした。

 九竜浦は19世紀末、日本漁船の寄港が始まり、香川や岡山などの漁民による移住漁村が形成された。
1930〜45年の最盛期には、約1000人の日本人が暮らした。

 浦項市によると、顕彰碑は九竜浦開拓の先駆者で、岡山県出身の十河(とがわ)弥三郎をたたえようと
44年に建立が決定。港を望む裏山の神社のそばに建てられたが、解放後、地元住民らが両面をセメントで
塗り固めた。また、植民地時代は神社の参道に並ぶ石柱に日本人の名前が彫られていたが、解放後、
これを裏側に向けて名前を見えなくし、今は参道側に韓国人の名が刻まれている。

(略

 日本人観光客も増えており、市は顕彰碑の復元を計画。九竜浦港はズワイガニなど韓国東海岸有数の
漁業基地になっており、地元には当時、碑を塗り固める作業に加わったものの「(十河が)港湾整備などに
力を尽くしたのは事実だ」として、今は復元に賛成する古老もいる。

 しかし、住宅も含め植民地時代の「負の遺産」の整備には、一部市民らの反発もあり「どうすべきか」と検討。
結局、そのままの保存を決めた。浦項市の張正述(チャン・ジョンスル)国際協力チーム長は「碑をセメントで
覆わねばならなかった当時の人の心情も理解してほしい」と言う。市では今後、碑のそばに過去の経緯を
書いた解説板を設置する方針だ。

 浦項市は人口51万人。世界有数の製鉄会社、ポスコ(旧浦項総合製鉄)本社のある「鉄都」として知られる。
朴承浩(パク・スンホ)市長の方針で全市職員約2000人を研修で福岡へ順次派遣するなど日本との関係も深い。


ところでここにある東洋最大規模の製鉄所は新日鉄の技術協力で作られたものですが、完成した時の式典に
技術者達は招待されず、もっぱら韓国人が自力で建設したように扱われました。

「1973 年、日韓基本条約に伴う対日請求権資金などによる資本導入と、八幡製鐵及び富士製鐵(両社は1970年
に合併し新日本製鐵となる)と日本鋼管(現在のJFEスチールとなる)の三社からの技術導入により、
慶尚北道浦項市に国営の浦項総合製鉄所第一期設備を建設した。

技術導入後、ベトナム参戦を契機とした急激な経済成長の中で、日本の援助により3回に渡る拡張事業の末、
1983年、粗鋼生産能力910万トン規模の浦項製鉄所を完成させた。」      ウィキより


ところが
【韓国】浦項製鉄所は韓国が自力で建造した製鉄所である (朝鮮日報)

・・・・韓国独自の技術で建設した韓国初の一貫製鉄所の高炉から溶銑が生産され始めたのである。
1970年4月の着工以来、3年3カ月の歳月をかけて待ちに待ったその瞬間、人々は互いを抱き合い、
歓声をあげた。荒地で作業を始めてから5年、朴正熙大統領が1966年の訪米で米国の製鉄工場を
視察してから7年後のことだった。工事費だけで1215億ウォン、京釜高速道路の建設費用の3倍にもなる
莫大な金額だ。単一事業としては、史上最大の規模だった。・・・・