「征韓論」から「日韓併合」への道

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4shin ◆WBRXcNtpf.
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 日本において「征韓論」が再び唱えられたのは、明治23年、第一次山県内閣において、山県有朋が「主権線」演説によって、朝鮮半島を勢力範囲とするべき主張がなされてからでした。
これに先立つ4年前の明治19年、日本では、ノルマントン号事件が起き、英貨物船難破の際、英人乗組員は脱出、日本人船員は溺死しましたが、領事裁判で英船長は無罪となり、条約
改正の必要を痛感させられています。明治新政府においては、安政の5カ国条約を改正する必要がありましたが、最初の「征韓論」は条約改正の必要の後、生じてきています。二回目の「征
韓論」も同様でした。文明開化を果たした日本においては、欧米列強に迫られた後は、つい「韓国を併合すればいい」という安易な発想に陥ってしまう癖が付いていたのです。しかし、最
初の「征韓論」と同様、二回目の「征韓論」も明治25年、樺山資紀が「蛮勇演説」によって国権拡張を唱えましたが、品川弥次郎の選挙大干渉事件を理由に、松方内閣は軍艦建造費などに対す
る削減案が可決され、総辞職してしまい、失敗に終わってしまいました。ここで、国民協会は「対外硬」論によって、条約改正交渉に反対し、強行外交を行うことを主張しました。そして、
明治26年、明治大帝は、第二次伊藤内閣の軍事予算に対し、「建艦に協力せよ」との詔勅(「建艦詔勅」)を発布し、予算は可決されました。1894(明治27)年、朝鮮南部で農民によ
る蜂起が発生しました(東学等の乱)。朝鮮政府はこれを鎮圧できず、清国軍が救援出兵し、日本軍も出兵しました。日本の企図する朝鮮政府改造要求が清国に拒否されて両国は開戦(日清
戦争)、日本は、仁川港外、豊島沖で清国軍を撃破、朝鮮半島において、平壌で清国軍を撃破、清国軍は朝鮮から退却しました。さらに、黄海の海戦において、北洋艦隊を撃破、旅順口、
威海衛を占領し、北洋艦隊を降伏させ、1895(明治28)年、下関条約にて日本は、清国と講和しました。下関条約において、清国は朝鮮の独立を認め、遼東半島を日本に割譲しました。
ところが、1895(明治28)年4月、露・独・仏の三カ国が、日本に遼東半島を清国に返還するよう勧告(三国干渉)してきました。日本はやむなくこれを受諾し、世論はこれを「臥薪嘗
胆」と呼びました。戦後において、伊藤内閣(第二次)は、民党と妥協、連立内閣として「戦後経営」を行うことになりました。朝鮮においては、三国干渉の後、閔妃が、ロシアに接近し、独立
党を追放して政権を握りましたが、駐韓日本公使の刺客により、閔妃は暗殺され、大院君が政権復帰しました。三国干渉によって日本は大陸と朝鮮への足掛かりを失ってしまいました。そし
て閔妃が、ロシアに接近したことにより、「征韓論」はロシアとの対立を孕むことになったのでした。明治29年5月14日、小村・ウェーバー覚書によって、閔妃殺害後の事後処理がおこな
われました。日清戦争後の朝鮮において、日本をロシアが押し返したのでした。同年5月26日、露鮮秘密協定によって、ロシアは、朝鮮国王に対する保護や朝鮮に対する軍事的・財政的援
助のほか、防衛同盟の協約も約し、ロシアは、朝鮮の重大な国内騒乱あるいは外国からの独立侵犯があった場合、朝鮮に対して軍事的その他の援助を供与することを約束しました。さらに、
ロシアは、同年6月3日、露清密約(李・ロバノフ条約)によって、清国と日本の領土侵略に対する相互援助を約し、また、ロシアは東清鉄道敷設権獲得しました。そして、ロシアは日本と
の間にも、同年6月9日、山県・ロバノフ協定によって、朝鮮財政の共同援助と変乱時の合意による出兵協定を約しました。これで、ロシアは、朝鮮とは同盟、清国とは日本に対する同盟、
日本とは朝鮮の共同防衛を約したことになりました。1897(明治32)年、朝鮮は、親露政権が、日清両国に対抗する意味で国号を「韓国」と改称し、ロシアに付いたことを表明しました。
5shin ◆WBRXcNtpf. :2011/11/23(水) 14:13:02.43 ID:CJSEmARL0
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 この翌年、もうひとつの西洋人の一群が「征韓論」に関ってきました。1898(明治31)年3月6日、独清条約によってドイツは清国より膠州湾を租借しました。同年、イギリスによって威海衛は、
25年間租借されたのです。威海衛は、日清戦争において日本が一時的に占領しておいた土地ですが、ここをイギリスが清国から租借してしまったのです。さらに同年3月27日、ロシアは、ドイツ
を仮想敵国として、旅順・大連を25年間租借しました。日本に対して三国干渉を行った列強諸国のうちのドイツとロシア、さらにイギリスまでが清国から租借地を借り受けたのです。しかし、同年
4月、ロシアは日本に対して、西・ローゼン協定によって、朝鮮における日本の商工業をロシアが阻害しないということを約してきました。日本が「征韓論」によって朝鮮を狙っていたのに対して、列
強は清国を狙ってきていたのです。ここで、清国では押寄せて来た列強への反乱が始まってしまいました。1899(明治32)年、義和団の乱です。義和団は「扶清滅洋」を唱えて、外国人排斥運動を
展開したので、1900(明治33)年6月には、「北清事変」と呼ばれ、義和団の乱に対して欧米・日本8カ国連合軍による鎮圧作戦が開始されました。清朝政府も各国に宣戦布告し、各国は連合軍
を送って鎮圧しました。日本は、山県内閣が義和団の乱に派兵しています。「北清事変」を通じて日本では、これまで「対外硬」に反対していた民党(大隈重信・板垣退助ら)が藩閥に対して妥協し、
1900(明治33)年9月、立憲政友会結成が結成されました。立憲政友会は、伊藤博文が総裁となり、憲政党(大隈重信、板垣退助ら)を中心に結成されたのでした。同年10月には、第4次伊
藤内閣が組閣され、外交方針の議論が行われ、伊藤博文・井上馨らの『日露協商論』(朝鮮における日本と満州におけるロシアとを相互に認める(満・韓交換)考え。)と山県有朋・桂太郎・小村寿
太郎らの『日英同盟論』とが対立しましたが、『日英同盟』の方向への転換を表明しました。1901(明治34)年6月には、日英同盟を推していた桂太郎による桂内閣が組閣されました。同年9月、
北清事変後の「北京議定書(辛丑和約)」が清国政府と参戦国など10カ国間により取り交わされ、日本の軍事力の有用性が評価され、「極東の憲兵」と評されました。同時にこの時、ロシアは鎮圧名目
で満州を占領していたのです。さらに、ロシアは東清鉄道南部線(ハルビン〜旅順間)開通させました。1902(明治35)年、日英同盟が締結され、イギリスと日本は、ロシアの南下策に対して同
盟を結んだのです。さらに、イギリスは清、日本は清・韓2国に対して特殊権益を持つことを承認しました。1903(明治36)年には、東大七博士が、意見書「対露強硬論」を桂首相に提出しま
した。イギリスとの同盟を果たした後はロシアとの戦争になりますが、国内においては、内村鑑三らが「非戦論」を唱え、世論は「主戦論」と「非戦・反戦・厭戦」に分かれていきました。
6shin ◆WBRXcNtpf. :2011/11/23(水) 14:21:12.84 ID:CJSEmARL0
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 三国干渉において干渉してきた西洋人(ドイツ・ロシア)とそこに利権を見出した西洋人(イギリス)とが義和団の乱を通じて清国に狙いをつけ、そこでイギリスとロシアとが対立したので
日本はイギリスとの同盟を結んでロシアと戦争をするという形を造られてしまったといえます。これは「征韓論」という日本本来の目的とは異なったことになっていますが、西洋人の圧力には抗
し得なかったようでした。1904(明治37)年2月、日露戦争が開始されました。日本は、旅順口にいたロシア軍を攻撃して、仁川から上陸、仁川港外にてロシア軍を撃破。〔仁川沖海戦〕、
ロシアに宣戦を布告し、さらに日韓議定書を調印し、韓国保全の名目で日本軍の行動の自由を約しました。朝鮮半島に上陸した日本軍は鴨緑江でロシア軍を破り〔鴨緑江会戦〕、さらに遼東半
島に上陸した第二軍が旅順半島の付け根にある南山にてロシア軍を撃破し〔南山の戦〕、大連を占領しました。その後、遼陽を目指して北上し、旅順援護に来たロシア軍を撃破〔得利寺の戦〕
〔大石橋の戦〕、しました。ここで日本は海軍と陸軍が連携して、ロシアの旅順艦隊を攻撃、海軍はロシア艦隊の旅順脱出を阻み〔黄海の海戦〕〔コルサコフ海戦〕、ロシア艦隊は旅順に引き
返してきました。ロシアはウラジオストック艦隊が援軍に回りましたが、日本はこれを阻止〔蔚山沖海戦〕しました。第三軍は、旅順にあるロシア軍要塞への攻略に取り掛かりました。(ここ
で日本は韓国と第一次日韓協約を結び、日本政府推薦者を財政・外交顧問とさせたのでした。)さらに、第一軍、第二軍、第四軍は、満州の戦略拠点、遼陽に迫り、占領しました〔遼陽会戦〕。
その後、ロシア軍は攻勢に出ましたが、失敗〔沙河会戦〕し、両軍は、沙河を挟んで対陣しました。この頃、ロシアのバルチック艦隊は旅順を援護するべく出発しました。日本は旅順攻略にお
いて203高地を占領して、ロシア軍を降伏させました。沙河での対陣はロシア軍から攻勢に出ました〔黒溝台会戦〕が、日本は危機を脱し、第三軍と合流し、奉天を占領しました〔奉天会戦〕。
奉天会戦での日本軍の勝利の報を聞いてアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトは和平交渉を開始しましたが、ロシアはバルチック艦隊の派遣を理由に拒否しました。両軍はその後、終
戦まで、四平街付近で対峙しました。バルチック艦隊は日本近海で日本海軍と海戦となり、日本海軍はこれを撃破しました〔日本海海戦〕。ロシアはようやくにして、和平交渉に応じたのです。
和平交渉の進む中、日本軍は樺太を攻略し、占領しました〔樺太攻略〕。1905(明治38)年9月、ポーツマス条約がアメリカ・イギリスの仲介で調印され、日本は韓国の指導権、ロシアの
経営する東清鉄道の長春以南と付属権益、樺太南半分、関東州租借権、沿海州、カムチャッカ半島の漁業権を得ました。ポーツマス条約の調印に対して日本国内では、日比谷焼き討ち事件が起こ
るほど屈辱的な条約とみなされました。政府は東京に戒厳令をしいて軍隊を出動させました。同年11月、桂内閣は第二次日韓協約(乙巳保護条約)によって、韓国から外交権を摂取してこれを
保護国化し、漢城に統監府を設置し、初代統監に伊藤博文が就任しました。
7shin ◆WBRXcNtpf. :2011/11/23(水) 14:24:15.37 ID:CJSEmARL0
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 1907(明治40)年6月、韓国皇帝がハーグ第2回万国平和会議において独立回復を提訴し、韓国全権委任の会議参加が拒絶されるという
事件が起きました(ハーグ密使事件)。この事件を機に、同年7月18日、日本は韓国皇帝高宗を退位させ、7月24日、第三次日韓協約を結ん
で、内政権を掌握、さらに8月1日、軍隊を解散させました。軍隊の解散命令に対して韓国全土で反日抵抗が発生しました。日本はこれを鎮圧
しながら、1908(明治41)年、東洋拓殖会社を朝鮮拓殖事業を営む会社として設立しました。朝鮮最大の土地所有者として、営農・灌漑・
金融を行ったのです。しかし、韓国義兵闘争は収まらず、1909(明治42)年10月、統監伊藤博文が暗殺されるという事件が発生、さら
に同年12月、総理大臣李完用が襲撃されるという事件も発生しました。1910(明治43)年8月、日韓併合条約が調印され、韓国の全統
治権を日本に譲渡することが約されました。そして、韓国の名称は廃され朝鮮となりました。同年10月、日本は、朝鮮総督府を設置し、初代
総督に寺内正毅が就任しました。朝鮮総督府は、天皇に直属し、軍事・行政一切を統括する機関でした。ここに、「征韓論」はここにようやく達
成を見たのでした。義兵闘争は日韓併合後も続き、1914(大正3)年になってようやく鎮圧されました。
 近代においては、戦国時代とは異なり、欧米列強の時代でしたから中国のみならず、イギリス、ロシア、アメリカ、フランス、ドイツといっ
た欧米がこれに関ってきました。日本が韓国を併合するには、大変な苦労を強いられたのでした。