「征韓論」から「日韓併合」への道

このエントリーをはてなブックマークに追加
1shin ◆WBRXcNtpf.
 明治新政府においては、「条約改正」と共に「征韓論」が打ち出されました。「征韓論」は、日清戦争・日露戦争といった数々の困難を経て、
1910(明治43)年、ようやくにして、「日韓併合」という形で実現したのでした。そして、1945(昭和20)年8月15日に解放され
るまで存続していたのです。
2shin ◆WBRXcNtpf. :2011/11/23(水) 14:00:21.45 ID:CJSEmARL0
 明治新政府においては、維新後に「征韓論」が唱えられました。明治維新は江戸幕府に対する薩長連合の戦争でしたが、大戦争の後は、兵力が残ってしまいますので、侵略をして、
そこに兵力を駐屯させるというやり方があります。豊臣秀吉は、天下を統一した後、二回に渡って朝鮮への出兵を試みています。日本人が天下を統一した後に残った兵力を朝鮮に
差し向け、そこを奪い去り、統治を任せて、恩賞の代わりとするというのは歴史上初めてのことではなかったのです。この方法は戦国時代においては割とうまくいきましたが、明
治においてはそれほど容易ではなかったのでした。明治新政府においては、明治6年、「征韓論」を西郷・板垣らが提唱しました。これは、大久保らの反対で実現せず、さらに明
治6年の政変によって、征韓派は一斉に下野しました。このように明治新政府においては、朝鮮出兵は直ちに実現されることはなかったのです。それどころか、「征韓論」を唱えて
いたものは、政府を追われ、反対派との戦を強いられることになっていきます。明治7年、佐賀の乱においては、江藤新平らが「攘夷征韓」を唱えて蜂起し、大久保の政府軍に鎮圧
されました。明治9年、秋月の乱においては、旧秋月藩士族が、「征韓・国権拡張」を主張して挙兵しましたが、鎮圧されています。また、萩の乱においては、萩の士族が秋月の
乱に呼応して挙兵しましたが、これも鎮圧されました。「征韓論」と反対派の対立の最大のものは、明治10年の西南戦争でした。この時は、西郷隆盛ら旧薩摩藩士族が武力蜂起を
起こし、政府軍に鎮圧されています。しかし、明治11年、紀尾井坂の変において、反対派の大久保利通も暗殺されてしまいました。このように、戦国時代とは異なり、明治新政
府においては、「征韓論」は実現されず、それを巡って、明治新政府を樹立した人たちが殺し合うまでに発展してしまったのです。しかし、明治新政府による「征韓論」は密かに進行
していました。明治8年、江華島事件において、日本の軍艦が朝鮮漢江河口の江華島付近で示威をし、砲撃を受けたことをきっかけに、明治9年8月、日朝修好条規(江華条約)が
締結され、釜山など3港の開港、日本の領事裁判権の承認、無関税特権の獲得など不平等条約を朝鮮との間に結びました。この当時、朝鮮半島においては、大印君が「鎖国攘夷策」
を採っていましたが、親日策を採る閔妃(息子の高宗の妃)に対し、大院君が、明治15年、壬午事変により、クーデターを決行、日本公使館も襲われました。変後、日本は、済
物浦条約(賠償金、・公使館守備兵駐留権など)で朝鮮に謝罪させました。この後、閔妃は、親清策に転じました。日本は、独立党(金玉均・朴泳孝)らと結び、明治17年、清仏戦
争に清が敗れたのを機に、クーデターを起こして、事大党(親清政策を採る保守派)を追いましたが、清の干渉で失敗してしました(甲申事変)。翌年、日本は朝鮮との間に、漢城条約
を結びこれを謝罪させました。また、同年、日本と清国とは天津条約において、朝鮮における甲申事変の処理策として、
@日清両国軍の朝鮮撤退、A日清両国軍事顧問の派遣中止、B将来の出兵時は互いに通知しあう、
の3条を約しました。戦国時代に豊臣秀吉が朝鮮への出兵を行ったときには、明からの援軍が来ましたが、明治新政府が「征韓」を行ったときにも、清からの干渉が入り失敗に終わっ
てしまいました。日本が朝鮮を獲ろうとすると、朝鮮の外交関係から中国が介入してくるのです。