なぜ、日本人はアメリカ人が好き?

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236名無しさん@お腹いっぱい。
>>231
>戦後、アメリカが日本を手厚く援助した
重大な誤解があるよ。
アメリカが無償援助したものもあるが極一部。
ドイツへの援助額の2%くらいだったかな。
それに多くは有償で日本がローンで払ってるんだ。
それに、アメリカ政府が送ったのではなく、
アメリカの日系人たちが自分たちで集めて送って
くれたものが多い。
そんなにアメリカをありがたがるほどのことじゃないよ。
237名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/02(日) 22:50:16.99 ID:pSEWJKI80
終戦直後(一九四六〜一九五一年)、ガリオア・エロ基金を通じて、
敗戦日本に対して食糧と医薬品、石油、工業原材料、機械などを提供して
くれました。一八億ドルの無償援助のはずが、一九四八年、突如、
アメリカは返済を要求します。もちろん、約束がちがうと反発しましたが、
アメリカは無視。日本政府もお人好しとしかいいようがありませんが、
返済額四億九〇〇〇万ドル、返済期間一五年、年利二・五パーセント
という条件で受け入れてしまうのです。さすがに怒りを込めて、一五年
待たずさっさと完済しました。
善意といいながら、アメリカが日本人をいかにバカにしていたかがわかります。
というのも、アメリカが送ってきた食糧の中身は家畜飼料用の脱脂粉乳と雑穀類だったのです。
戦後、増産を続けた結果、農産物が余るや、その廃棄先に日本を選んだのです。
敗戦で食料に飢えた日本国民はいいカモだったと思います。
いま年金世代の日本人はパンと脱脂粉乳という学校給食をありがたく食べていたはずです。
将来にわたって、この余剰農産物を売り込めるよう、一九五四年、アメリカは余剰農産物処理法
(農業貿易促進援助法)を成立ざせます。パンを食べて育った子どもは大人になっても洋食が
当たり前になるように戦前の食生活を一変ざせ、未来永劫、アメリカの農産物を輸入するようにし向けたのです。
おかげで、もともと完全食だった日本食が激減し、いまや、世界で名だたる生活習慣病国家に転落しています。
アメリカは目論見通り日本に医薬品を販売して大儲けしています。
アメリカはけっして善意の国ではありません。善意に見えれば見えるほど、
実は裏があるのです。
都合が悪くなったら条約でも契約でも約束でも平気で破る国です。
238名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/02(日) 22:55:29.94 ID:2wMtKlHs0
>>236
日系人って、収容所に強制収容されていたんだろ?
莫大な食料などの物資をどうやって終戦直後に調達できるんだ??
239名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/02(日) 22:55:29.84 ID:pSEWJKI80
戦後復興をアメリカが資金援助したマーシャルプランはヨーロッパが対象で、日本は埒外でした。
なにしろ、その正式名は「欧州復興計画」なのです。討論では、誰もこの勘違いを訂正しませんでした。
日本にも、アメリカの復興資金は来ました。ガリオア・エロアと総称されるもので、
ガリオアは「占領地域救済政府資金」、エロアは「占領地域経済復興資金」の略です。
ありていに言えば、占領を円滑に行うための資金です(占領費用そのものは被占領国、
つまり日本が負担しました)。それが、1946年からの5年間で17億ドルほどでした。
西ドイツはガリロア資金だけで1兆6500億ドル、日本のほぼ1000倍です。ドイツには、
その上にマーシャルプランがあったわけです。日本には、当時アメリカ国内で
だぶついていた脱脂粉乳やコーンなどの雑穀が送られ、それを日本国内で売った収入を、
日本政府が使いました。
エロア資金、当初は無償ということだったのに、アメリカはあとになって突然、
「あれは貸したものだ、返せ」と言ってきました。日本政府としては寝耳に水です。
7年ものすったもんだの交渉の末、年賦で返すことになり、日本は70年代に入ると前倒しで完済しました。
ララ物資というのもありました。アメリカのNGOから贈られた脱脂粉乳や衣料で、
戦後の学校給食はこのララ物資の脱脂粉乳に始まりました。わたしも、小学校の昇降口に並ぶ、
脱脂粉乳の紙製のドラム缶を憶えています。
ところで、このララというNGO(Licensed Agencies for Relief in Asia アジア救援公認団体)は、
日系人の組織でした。アメリカの海外支援NGOは、ヨーロッパだけを支援の対象にしていました。
それで、日本に特化した支援団体を日系人がつくったのです。
けれど、このことはGHQが極秘にしました。
ただ、「アメリカの民間団体」とだけアナウンスしたのです。
240名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/02(日) 23:13:20.83 ID:pSEWJKI80
ララ物資
支援物資は1946年11月から1952年6月までに行われ、重量にして3300万ポンド余の物資と、乳牛や2000頭を越える山羊などもあり、
全体の割合は食糧75.3%、衣料19.7%、医薬品0.5%、その他4.4%となった。[1]多数の国にまたがり、
多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったためその救援総額は不明であるが、
推定で当時の400億円という莫大な金額であったと言われている[2]。
南北アメリカ大陸在住の日系人が寄附の中心であったが、日本国内での物資配付にあたっては
連合国軍最高司令官総司令部の意向により日系人の関与について秘匿され、
アメリカからの援助物資として配付された。