>脇差の件は知っているよ。だがその日の遣り取りでやりこまれたので自殺しただけでしょ。
>そして富蔵の番人は脇差提供したんじゃないよ。寝ていた時に取られたの。
>そして同じ茶筅が持ってきたというものでも、その時番人が寝ていたのは変わらないよ。
だからそもそも金作と富蔵が対決審問に至ったのは両者の言い分が食い違っていたからで、
対決審問を経て富蔵の側も金作から告発されてるんだって。
とすれば当然、第2回の対決を経なければ有罪を確定することが出来ないが、
富蔵にも金作の出世話に乗ってしまった落ち度が判明している。
常識的に考えてみましょう。「富蔵の」番人が寝ている隙に「金作に」取られたと言うが、
一体どういう状況で取られるわけよw 協力者が多数存在して、出入り自由だったような状況しか考えられず、
そのような情況でたかが番人1人寝込んだ程度で武器を奪われるような警備をするはずがない。
この報告書だけでも不自然と言われてるのを知らんのかね。
政事堂への報告を鵜呑みにしている時点で、既に客観的な立場とは言い難いよ。
>>676 そうやって印象つけるのはお前の狙いだろ。別に俺はサトウの回顧録も否定してないよ。
ただ書かなかったか、忘れたんだろうといっている。
ていうか伊藤が捏造する理由はまだかね?
>>675 思い出した、そういえばお前は「暫く」の解釈で議論になっているくらいなのに、
何故か「暫く」をぬいて語っていたな。
こういう事するからお前は信じられないんだよ。
基本お前は無知な上に嘘つきだからね。
そしてそれはお前の個人的な解釈に過ぎない。ああ、そうですか、としか言いようがないね。
身分意識がどうであろうと、使えるなら使うし、使えないなら使わない。
身分意識のほうが重要なら、そもそも農民も使わないよ。
そもそもエタを「暫く」使わなかったのは、エタは武士に隷属する下級公務員のような存在であり、
彼等を海防や治安維持に使う必要があったからという説もあるな。
そういえばお前人が足りておらず、徴兵すらしていたと主張するんだろw
なら「暫く」でありすぐに解禁されたんじゃねーのw
んじゃ流石にお○かさんの付き合いは疲れるのでそろそろ寝るわ。
明日相手してやるから、それまでに勉強してきな。
まあ考えられるとしたら富蔵およびその番人が上とグルで、寝てる隙に取られたと称して
拷問苦に耐えかねた金作に自決用の短刀を渡してやったようなケースだろうね。
何とも凄まじいこってす。
また維新団が遊撃隊と異なり、死傷状況について詳細な報告を省かれており、
一新組が「屠卒」と言う文久屠「勇」取立の趣旨に反する公式呼称を用いられていたのは前述の通りだが
(身分差別を前提として結成された諸隊であっても、差別的呼称=醜名除去は隊の士気をあげる上で重要
配下と家業の独占支配権を必要とした弾左衛門が手下の者全ての醜名除去を求めているのはこのため)
一新組・維新団と山代茶筅中でも異なる扱いがされている。
山代の場合、斥候に出て7月27日に戦死した2名の隊士の遺族に米5俵が与えられており、
明治2年に山代宰判が作成した書類では名字が書き込まれている。
また50年史の「慶応二年四境戦役戦傷病死者名簿」を見ると、
彼らは詳しく身元が記された上に「岡ノ寮」に埋葬されたことまで記されているが、
維新団・一新組は身元の記述が著しく簡素である上に、招魂場への埋葬が確認できていない
(「屠卒はこの例にあらず」と記された史料もある)。
このことから、被差別民内部での差別の存在を推定する学説も有力に存在する。
山代茶筅中は輜重輸卒として使われていたようだが、このように斥候もしくは戦闘補助を行うこともあり
その戦死者は従軍44名中2人戦死、12名負傷、損耗率は実に3割以上に上っている。
どうでもいいがこの時代、6月19日の大野攻略に失敗した長州の死者が数名であったことで分かるように、
損耗率が1割も行けば充分に激戦である。
さらに長州君は維新団は最初から身分取立の希望などなかったと言うが、
地元古老へのヒアリングで維新団から数名が選抜されて遊撃隊に所属していると言う証言がある。
つまり維新団そのものは士分取立を辞退したが、身分上昇を希望する者は確実に存在したことになる。
藩はあくまでも地元付きの被差別民である維新団についてはもとに戻らせた上で、
そこから選抜した者だけは動員している。ここからも維新団が身分固守に甘んじていたと言うような神話は成立しない。
さらに一新組の性格に触れて「文久の屠勇取立令は実態として成立していなかった」
とする見解もある。
当時は被差別民内、農民内部においても貧富の差が顕著であり、
豪商・豪農の隊士募集は貧民層の一揆、打ちこわしなどの糾弾から自己を防衛するための私兵的性格を持ち合わせていた
(そのために藩に協力した。もちろんそればかりでなく利権問題もある)ことは周知の通りである。
(長州藩においては攘夷戦争、幕長戦争前のそれぞれについて一揆の発生が確認されている)
「屠卒」が公式にも使われており、一新組についても時政の私兵的性格が濃厚である。
このような「郷土防衛隊」すなわち地域有力者が村落秩序を防衛するための部隊は、
基本的には長州以外の諸藩でなされたものと一致している。
庄内藩においても本間家がスポンサーとなり、藩と一体化して積極的に農兵募集に協力している。
長州藩において、「志願兵」は尊王攘夷に触発されたと断定するのは初歩の初歩も知らない人間。
>>678 はい、では何度も言っているように
サトウが「書かなかったか、忘れていた」状況証拠を挙げてみましょう。
サトウがいかに交渉経過について詳しく記しているか、英国の政策の裏面も隠していないか、
そのために日記から大分量を引っ張ってきたんだけどね。
サトウは四ヵ国艦隊襲来事件については、事後の幕府との交渉と比較にならないくらい豊富な記述を残している。
その上で砲台撤去、及び条約の諸条項によって「完全に」要求が満たされた、
と満足している。英国側が彦島租借を模索していたような様子は一切記されていない。
さすがに自分も驚いたわ。長州の郷土史家は一坂がちょっと高杉に批判的なこと書いた程度で怒り狂うから注意しろよ、
とは聞いていたが、サトウ日記を否定したらもはや日本近代史とは言えないだろw
この時点でカルトに嵌まった基地外を相手にしてるようなもんだ。
まあ、あれだけ英国の本音を書きまくってるサトウが、
既にアヘン戦争の南京条約、アロー戦争の北京条約で実現している領土割譲要求を
隠蔽する必要性そのものがないのだが。
租借要求が恥ずかしいだろうと思うのは日本の勝手な感覚で、
この当時は租借要求はちっとも恥ずかしいことではない。堂々とやってます。
また吉田稔麿が建言した文久3年春の屠勇取立の具申(内容を書簡から知ることが出来る)
には面白いことが書いてある。
長州藩の兵力の不足と増員の必要、そのための農兵取立を図っている藩の現状を踏まえた上で
「農民が必ずしも積極的ではない」と指摘し、「浮食の徒」を採用するほかないと論じている。
これは吉田が屠勇取立で存在感をアピールする立場にいることを差し引いても重要な指摘である。
さらに吉田は「一戦に敗北した後」兵士登用を図っても、彼らは世間が恐れるに足りないことを悟ってしまうから
集まりっこないと分析し、今のうちに登用して総督に付属させておけば憂いがないと主張する。
ここから、これは明らかに攘夷戦開始前に書かれた建言であることが分かる。
つまり吉田は攘夷戦における農兵の応募意欲を「不充分」として、
さらに攘夷戦に敗北した後は被差別民の応募すらおぼつかなくなると言う危機感を抱いている。
この吉田の危機感は、実際に攘夷戦の過程で長州藩民が示した行動によって裏付けられる。
長州藩は当時、アメリカの南北戦争に伴う綿花価格の高騰を受けて綿織物生産に大きな影響が出ており、
庶民の排外感情は強かったから、これが尊攘思想に転じやすい素地はあった。
ところが例えばサトウは報復攻撃時に長州藩の民衆が進んで大砲搬出、撤去を手伝い、
戦争は自分たちを非常な苦境に陥れたと口々に訴えるのを聞いている。
仏水兵ルサンなる人物も「英米仏蘭連合艦隊幕末海戦記」でこれを裏付ける記述をしている。
また連合艦隊は8月2日に豊後姫島に集結し、5日から攻撃を開始しているが、
報復攻撃直前の3日〜4日にその対岸の三田尻で数百人が参加した打ちこわしが発生している。
連合艦隊の到着後、臨検もあって物流が途絶したためだが、良民は怒りの矛先を藩や豪商層に向けている。
このため長州藩の防衛態勢に重大な危機が発生している。
長州藩領民が「尊王攘夷」一色に染め上ってなどいなかったのはこの一事でも明白。
ちなみに長州藩は幕長戦争直前にも粛清を強めたためか、一揆の勃発が起きている。
なお、長州の打ちこわしではこの時も、天保期も、
被差別民が最初に狙われたり、被害が集中する傾向がある。
被差別民側も藩の募兵に積極的に応ずることで豪商農層と同じく、
一揆や打ちこわし、暴動やリンチから身を守るメリットがあったと見られ、
(藩の軍事力の一員となればこれを壊乱した側が処罰の対象となる。
被差別民には他にも些細なことで処罰を受ける例があり、長州藩の差別が公、私を問わず
極めて厳しかったことを窺わせる)
長州における「志願」の動向を「理想に燃えた義勇兵」と捉える発想は、もはや過去のものであり、
特に藩権力の手先的立場にあった被差別民については、文字通り身を守るために志願した経緯を無視できない。
もっとも維新団、一新組などは茶筅隊事件以降、隊則を制定され、自主的性格を払拭させられている。
ちなみに時政が隊士募集を始めるのはこの打ちこわし一件の後。
豪商、豪農や村方にとってみれば、打毀しや一揆の勃発を私兵を駆り集めて防がなくてはならない。
長州の諸隊は設立発起だけ見れば志願兵制に見えるが、
実態を見ていくと兵の徴募過程では各藩の農兵隊とさほど変わりがない。
ただ長州藩においては攘夷戦争、幕長戦争突入により、
都市、村落の支配層が藩と結びつくスピードが速められたと言うだけの話。
688 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 01:41:04.84 ID:/bi9wpl60
謀反人の前で牢番が寝込むとかあり得ねえよw
どんだけトンチキな警備やってんだよ
朝鮮は1866年に丙寅洋擾でフランス軍艦7隻、兵数1300で攻められたが結局撃退してんだよな
>そもそも隊士は何人いて、どんな素性の人たちがいて、それがどのように隊で編制されたのかが分からなければ、
>それ以上の分析はできません。やはり日記は日記だということになります。
>ですから、「隊士の名簿」というのは研究には是非必要なものでした。
>しかし、まとまった形の隊士の名簿というものはしばらく出てきませんでした。
>それが、昭和40年に『郷土』という下関郷土史会の会誌に10隊の名簿が掲載されました(※1)。
>奇兵隊の名簿も含まれていますが、いずれも隊の編制にしたがった名簿で、
>隊士一人一人がどのような身分であったかということは分かりませんでした。
>翌、昭和41年9月に、同じ『郷土』に「忠勇義烈 長藩奇兵隊名鑑(※2)」
>という隊士の身分が書かれた奇兵隊士の名簿が掲載されました。
>隊士の本多友一という人物が記載し、山縣有朋公爵家に所蔵されていたもので、
>その分析(下関市立大学 小林茂氏による)も『郷土』に載っています。
>まず、身分を士、農、町、社・僧、と分けて、隊士を分類すると、
士 272人 48.6%
農 237人 42.4%
町 25人 4.5%
社・僧 25人 4.5%
計 559人
ttp://www.geocities.jp/furi_316/kihei-1.htm 穢多どこ?
北川説をまんま引用してるやつワロス
アイツ攻撃的すぎて相手にされてねえよ
長州ヲタ君の説はほぼ北川健の門下生の某ブログからの引用なんだが、
北川は部落民が利用されたとか、上から組織されたとか指摘すると
「それじゃ部落民が愚民だと言うのか!」みたいに切れるんだよな。
反論する錚々たる研究者も扱いかねてる。
で、部落民を登用した長州藩の幹部は素晴らしいと言う結論になってくわ、
高杉はエタの登用を予定していたとか根拠薄弱な主張を繰り返すわ、
結論的には長州藩マンセーになってしまう。
権力者の視点を否定すると称して、他人を愚民史観だと批判するあまり、
部落民は常に賢い判断をしていたと考えるから藩指導者と部落民の軋轢を一切想定しない。
結局、藩は無謬と言う結論になってしまう。
まあ部落史ではうるさい人がいるので相手にしたくないが、
長州ヲタ君の大きな問題点は、一方では近世身分秩序を「差別ではなく区別だ」と肯定しながら、
一方では諸隊が尊攘思想に燃えた志願兵、義勇兵であり「農兵、商兵」より進んでいる、優れている
と言う近代的な進歩史観に基づきまくりの発想で北川説を引用している点。
ちょうど極左がヒトラー思想を引用して自分の立場を正当化してるようなもんだ。
もっともスターリンとヒトラーは同じようなもんだし、
日本でも無産政党出身者が戦争協力の一番手だったんだから、そういうのもありなのかもな
被差別民が解放への希望なんか持ってなかったと言う説は、
長州藩が天保大一揆の時も連合艦隊襲来の時も被差別民部落が真っ先に襲撃される
と言う全国の一揆の中ではかなり珍しい履歴を持っていることであっさり否定される。
もっとも解放への希望を持ってない奴なんているのかねw
まあ長州はド田舎だったから被差別民も遅れてたのかも知れないが、
百姓一揆が被差別民を集団で大規模に襲撃したような例は、
長州の天保一揆のほかには文政6年の紀州のこぶち騒動くらいだろう。
江戸時代を通しても、記録に残ってるだけで200軒とか打ちこわしにあった例は、
他にちょっとないんじゃないかな。
幕末は被差別民の権利意識も向上していたことや、
武州鼻緒騒動のように良民が被差別民の手業に手を染めたりする縄張り争いが始まり、
全国で被差別民一揆が勃発しているし、百姓一気に被差別民が参加する一揆も18世紀末から増えている。
安政4年の岡山藩の渋染一揆では被差別民1000数百人が藩の触書に反発して強訴し、触書を撤回させている。
ちなみに、この時の嘆願書が「指定された服を着てたら警察業務を行う時の妨げになるから」と言うのだが、
こんなの建前に決まってるのに、「本心だ!あんたはエタの職務熱心を否定するのか!!」
とか言い張っちゃう人がいるから困るんだよね。
それはともかく、こうしてみると長州くらいじゃね?
一揆や打ちこわしのたびにがこれだけ被差別民を襲撃するようなことしてるのは。
>>689 撃退してるよ。朝鮮の官兵は旧式装備に青銅砲くらいだろ。
それでもフランスの講和条件を拒絶して1か月以上戦い、首都に進撃する仏軍を撃破して60人以上を死傷させ、
最終的に仏軍を撤退させている。ちょうど幕長戦争が一段落した頃ね
ちなみにこの年(慶応2年だが)、米国船のシャーマン号事件も発生して、
慶喜が江戸将軍家と朝鮮王家との交流を利用して仲裁を頼まれたりしている。
結局、この後の米国の侵攻も撃退されるんだけど。
こうしてみると東アジアの戦争で2000人程度の襲来で、すぐに白旗あげて停戦まで持って行かれたのは、
長州藩と内紛が続いてた清くらいか。薩摩藩の場合は英軍も勝敗が分からない感じだったからね
武士が朝鮮官兵に負けてたら恥ずかしいよ。
696 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 07:39:23.55 ID:PVGoAHP30
富蔵はスパイ確定
>>686>>687 うーん、奇兵隊の義勇隊的性格を否定して諸藩の農兵と同一的
というのは納得できないなー。
まず、美祢の例があげられてるけど、逆に志願の場合も多いわけで
会議所での自立性もある。そして、前に述べられているように義勇兵の
特徴が隊内抗争なら、それも認められるわけだし。藩権力を強調するなら
元治の反乱が説明つか無いよ。それに構成員の半分近くは農民でも
あるけど、残りの半分は下級武士だろう。
同一性を指摘するならむしろ新撰組なんじゃ。
あと私は下関戦争や部落関係で熱弁ふるってる奴とは別人ネ。
金策富蔵の裁判は、あからさまにあやしいな。
だいたい、周囲は諸隊なんだから、反乱なんて起こせねえだろ。
699 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 09:26:45.46 ID:s3nbampg0
「志願」「徴兵」で分ける発想が無意味かと。
フランスで革命包囲網を撃退したのは徴兵だし。
フランスも最初は義勇兵募集で凌いだけど反乱は起きるわ数は足りないわ
結局ヴァンデの内乱みたいな凄まじい弾圧と徴兵制度施行による大兵力によって革命防衛に成功したからなあ
徴兵制でも民主制のスウェーデン、ドイツ、韓国とか極めて士気が高いわけだし
志願制でも権威主義体制の軍隊はやる気なし(不満や軍の乗っ取りを恐れて徴兵を敷けない場合も)
長州藩は吉田松陰が一君万民思想まで行ってるわけ。
攘夷の為に国民国家を作るのが目的になる。
弟子の久坂と高杉が思想を引継ぎ、それをどう実現に持ってくかの段階になる。
>>676-677 伊藤の回顧談よりサトウの回顧談といっている人間が、
第二奇兵隊が当時藩にあげている正式な報告書の史料価値を認めないのかw
笑えるジョークだよw
そもそも上関の部隊の件はほぼ全て第二奇兵隊の報告書の解釈によってしか判読しないというのに。
>常識的に考えてみましょう。「富蔵の」番人が寝ている隙に「金作に」取られたと言うが、
だから読めよ。番人共とあるので複数の番人が前日の疲れで寝落ち。
物音がしたと思ったら、忍び込んだ茶筅が脇差を渡して自殺していたと書かれているわけ。
別に文書だとここが違って、富蔵の番人の脇差で自殺しているんだけどね。
ちなみに複数の支援とかは普通に可能だろ。単独でも可能だけど。
奇兵隊が隊士全員を捕縛したのは、金作の自殺の後の話。まだ残された人間が組織的な犯行に及ぶ可能性はあるよ。
最初は救おうとしたけど、自殺を選んだのか、それはわからんけどね。
また拷問や尋問をする番人って事は獄吏なんだろうし、これやっているのはたいてい部落なんで、
取られたのは嘘で自殺を手伝ったとかあるかもしれんが、そんなの特定できんよ。
あと拷問とかリンチとかで死んだら、「病死」に良くなるから、
自殺の可能性は普通に高い。
ていうか政事堂への正式な報告書を元に間違い指摘したら、
自分の妄想を下にお前は客観性を失っているとか言われたんだがw
こんな奴が史料批判がどうとか言っているのかよw
>>680 山代のケース斥候中に行方不明でわかりやすいが、他のケースは戦闘中。
そして長州の戦術は散兵戦術。死因特定は難しい。
そしてエタなども恩賞や死亡した時の手当ても正規部隊とかわらんよ。
>つまり維新団そのものは士分取立を辞退したが、身分上昇を希望する者は確実に存在したことになる。
だからなんだ。出世したいものは士分取立てが認められて戦い続け。
戦いたくないものは辞退をして土地もらって引退したんだよ。
武士になったら対面保つ為に金かかるし。そんな金ないからってのが理由。
>6月19日の大野攻略に失敗した長州の死者が数名であったことで分かるように、損耗率が1割も行けば充分に激戦である。
遊撃隊がどんだけこの方面で死んだと思っているんだ?
ちなみに維新団の死者はその後の病死も含めて二名。8月までの戦闘での死者でこれだ。
ていうか6月19日の戦闘での死者は一人、負傷者は六人、即戦闘復帰可能の人あわせて七人だよ。
この一割の損耗率はこの方面で最後まで戦った時の損耗率。普通に低い。
小倉方面は死者だけで一割越えている。(傷での病死などもある為)負傷者はその数倍が出るのがざらなので。
三割くらいには普通に達しているだろうね。
遊撃隊の損耗率もそのくらいはいっていたかと。
激戦区に回されたわりには被害は出てないよ。
つかその方面で最後まで戦った時の被害での損耗率を、一戦闘での被害のように記すのはなんで?
数字大きくしたい印象操作?
>>683 既に何度も書いているが。彼は英国の翻訳家(それもまだ当時は勉強中の身)
英国の立場を守る必要性がある。
あくまで翻訳家であり重要な事は聞いてない、もしくは勘違いしていた。
実際日記の記述には謝りが存在する。
連合各国とその事ではまだ意見調整していないものだった可能性がある。
ただたんにブラフで元々狙ってなかった。なので断られる前提なので書かなかった。
伊藤の言により、その時坂本は国産み神話からどうとか言っていたそうなので、
そこまで当時の彼が翻訳できたか疑問。
彼は後年日本駐在の公使になっており、そういう事を発表するのを避けた。
彼の子供は日本にもおり、避ける必要があった。
日記がそのまま記載されている「公使日記」などとちがい、
「一外交官のみた明治維新」では当時の日記や手紙などをみての回想談であり、
それも晩年のもの。記憶違いミスなどがあってもおかしくない。
また伊藤が高杉の回想談を語ったのはそれを出版する前であり。
伊藤が嘘を言っているのなら否定なりなんなりしてもおかしくない。
なおその頃には伊藤は死んでいる。遠慮をする必要もない。
一番大事な事だが、伊藤本人が嘘をつく理由もない。
それが合ったとしても別にサトウの本との矛盾があるわけでもない。
同じことを何度も繰り返して反論させるからうんざりする。
何で被差別民部隊問題でこんだけムキになるんだよ。お前はどっかの同和問題のやくざか??
茶筅以外は埋葬に関して異なる扱いがされていた可能性が高いことは
慶応二年四境戦争戦役戦傷病死者名簿より明らか。
招魂場名が記載されていない。
軍監の報告書もそうだが、遊撃隊と維新団では公式文書での戦死傷の報告も簡略化されているし、
一新組に関しては文久の屠勇取立令で否定されたはずの「屠卒」が普通に使われている。
維新団と言う地付きの組織としては士分取立は辞退していても、
身分上昇を望む者が存在しそいつらは遊撃隊に入ってた事実は否定できないじゃんか。
どこが維新団は最初から身分上昇を望んでいなかったと断言できるんだよ。
>>703 具体的な数字の反論は一切なし。「達しているだろうね」こそ主観だろ。
印象操作はどっちだと言いたくなる。お前ちゃんと軍監の報告書見てないだろ。
言っておくが、維新団の死傷者は上述した通り、遊撃隊と異なり詳細な氏名場所戦死状況などの記載がない。
よって「確認された限り」の数を記しているので、これよりもっと多くなっている可能性がある。
さらに慶応元年遅くに結成され、隊規の制定が直前の5月と言う部隊と遊撃隊を一緒に前線に出していることも無視。
山代茶筅中は輸卒としての性格が強かったと見られるにも関わらず、
7月の再度の激戦の直前に斥候と言う危険任務に付かされており
44人の参戦中死者2名、負傷者12名と言う凄まじい損害を出している。
輜重輸卒で損耗率3割なんて、船を沈められまくった第2次大戦の日本軍の輜重輸卒くらいだろう。
それを前線の戦闘を予定されたベテランの隊と一緒にされたらたまったものじゃない
>>692 別に彼の受け売りではない。ただ彼の言っている事は正しいよ。
ついでに彼を批判している研究者ってただの街道やら、
まだ生き残っているのが奇跡的なマルクスに汚染された人達ばかりだからw
ちなみに君の元ネタはとてもわかりやすいねw
「長州藩維新団」解放出版社←いわずと知れた街道系のところ
奇兵隊関係は田中彰かと思ったら、一坂太郎だろうね。
長州奇兵隊あたりで正解かな。
>>705 数が少ない部隊なんだから一回の戦闘で運が悪ければその程度減る事はある。
そしてその部隊は別に前線に回されたわけではないのだから、ほんと運が悪かっただけ。
部落だからといって最前線に回されて大損害が出たのなら可哀想だが、
そもそも前線任せられるだけの力量がある部隊じゃない。
>維新団と言う地付きの組織としては士分取立は辞退していても、
>身分上昇を望む者が存在しそいつらは遊撃隊に入ってた事実は否定できないじゃんか。
維新団としては身分上昇など狙ってないが、全ての隊員がそうではなかったという事。
大多数が望んでおらず。その中で一部の人間が望んでいたからといって隊全体の性格を、
その一部の事例で決めるのはただの詭弁に過ぎない。
>同じことを何度も繰り返して反論させるからうんざりする。
同じ事をそのまま返す。電波飛ばすのはいい加減やめろ。
それと「維新団が士分取立を辞退した」と言う話のソースなんだが、
今日、大学で先輩に参考文献を聞いてみたら面白いことが分かったよ。
維新団の聞き取りの先駆者である河村恵之にはこのような記述がある
「戦後論功の節、総監毛利氏郷卿の肝入りにて維新団の抜群の戦功を称えて、
士族取立ての議あり、しかれども粟飯炊く折焚く芝の細煙り、耕す方寸の地もなく、
山もなく、木の枝一片も近○の咎の的となり、茨の道の歩みには名を得て実を欠く
武士は食わねど高楊枝の譬、有難迷惑で名を重じて体面を保てば口が干上がる、
部落にも評定の結果返上に一決し、元の木阿弥に甘んずるに至る、旧維新団玉倉錬武地一円は下賜さる」
つまり維新団は「木の枝一片」を採るのも責められるような状況で、
「部落にも評定」していることからかなり迷って全体衆議にかけた上で、泣く泣く士分取立を辞退し、
「元の木阿弥」に甘んじたと言うのが内部実態だと河村は認識している。
ちなみに被差別部落民でも、この頃は貧富の格差が相当開いているから、
比較的富んで名字を称するような被差別民もいたわけだが、維新団が「武士は食わねど高楊枝」
になることを最も恐れていたことが窺える。
>>707 強引な反論だなあ。数が少なければと言うけど、分子に当たる数は死者2人負傷者12人だぜ。
どこがサンプルとして少ないと言えるんだ。長州藩の大野での1回の戦闘分くらいは損耗が発生している。
これは8月8日までの記録だからね。それ以降発生した可能性のある山代茶筅中の損耗については不明だよ
高杉は上級武士としてのプライドや毛利家への忠心が超絶高いから
その自分が内乱起こそうとしてるのに武人の様に藩への忠義も感傷も無い土民がしたり顔で止めるなって事だろ
維新団の記述で最も注目に値するのは「木の枝一片も…咎の的となり」
に象徴されるように、採集権をめぐって近隣の一般集落と争いが生じ、
おそらく維新団の出身集落は泣き寝入りを迫られていたと思われる点ね。
つまり維新団には常に水利、山林その他の利用権を巡って侵害状況があったと推定される。
現に天保大一揆でも、打ちこわし件数741軒中171軒がエタ部落であったこと、
報復攻撃開始前の三田尻の打ちこわしでも被差別民が真っ先に襲撃されていることから
これは充分首肯できる。
全国的にも百姓一揆が被差別民にこれだけの規模の襲撃をかけた例は、こぶち騒動と長州藩くらいしかない。
つまり「維新団の練兵場」であった土地(もちろんそこなら近隣住民からクレームはつかない)
を賦課されれば、ようやく自分たちの土地が手に入るわけだよ。
経済的な権利を確立できない限り、「武士は食わねど高楊枝」になると言う恐れが強かったのが窺える。
維新団の「ありがた迷惑」は、この最初の調査の文脈では、武士なんか望まない、安泰な日常生活に戻りたいと言うことではなく、
経済的権利が確立されていない不安な生活状況で土地をほったらかすわけにいかない、
と言う強い危機感のあらわれ。文字通り命がけで戦い取った経済的権利なんだわ。
>>709 敵軍とかち合ってでる負傷者としてはその程度は普通。
ましてや後方支援やら偵察やらが主任務なら、錬度も低い。
あと大野を上げているが、その戦闘は別に部隊の多くが撃破されたみたいな敗戦じゃないから。
敵の守りが頑強なので、引いただけの話。
だから死傷者も別に対してでない。勝っているほうは負傷者を助けられるので死者が抑えられるからな。
>>711 部落は納税の義務はない。
そして山への入会権は普通にどこでも揉める元。
既存の村落で分け合っているのに、新たに勝手に取りに来る奴がいれば大問題。
戦国時代なら普通にそのまま戦争にすら発展しかねないもの。
ちょっと山から木をとってとか何を言っているんだの世界だよ。
どろぼーと変わらんよ。
そしてエタのもっている牛馬解体の権利が農民からすると許せなかったのもあるだろうな。
自分の所で買っている家畜も死ねば部落が処理するので、部落の資金源にはや代わり、
農民は重税で苦しんでいるのにね。
そして部落は農民側ではなくて、体制側なんだという事を理解すべきだね。
彼等は末端の支配層に過ぎない。
維新団については別の証言者もいるんだが、赤根の話が出てきたからそっちを先にしよう。
あれは酷い話だね。
>>710 赤根武人の追贈の嘆願運動の顛末については有名な話で、
明らかに山県有朋の私怨で止められたのが実情。公使館焼打ち、攘夷戦争と、
赤根は常に高杉の忠実な同志として勇敢に戦っていると言わざるを得ない。
ところで赤根出奔までの顛末を纏めると、彼が決して不忠者などではないことが分かる。
なぜなら高杉も決起前年11月下旬に九州から帰国し、御盾隊小隊司令の冷泉らに決起を促された際、
即座に決起に反対し、勝手な行動を起こして諸隊内部を分裂させては「大事成就し難からん」
と断言して、赤根の藩政府との交渉路線を支持しているからだ。
この後で高杉は持論を変えていくのだが、12月8日に萩との交渉から戻った赤根に
「それでは交渉がぶち壊しになる」と驚き、遊撃隊の太田を尋ねて行動中止を強く求め、
遊撃隊はこの時点でいったん決起計画から離脱する。
これに激怒した高杉は、決起を促した冷泉にすら「酒を食らって歌を歌い、傍若無人」
と記されているような醜態で御楯隊を訪問した(12月12日)
この際、太田市之進、野村靖、品川弥二郎と言った幹部クラスまで高杉をいさめたのに対し、
高杉は有名な「一土民、毛利家恩顧の臣」と言う出自を罵倒する演説を行う。
なお一説には、この場に山県や当の赤根まで同席していたと言う証言もある。
こんな封建エリート意識むき出しの演説が支持されなかったことは明らかで、
奇兵隊日記にも「谷梅之進馬関へ脱走」つまり高杉の行為は「脱走行為」として記録されている。
ちなみにスポンサーであった白石正一郎が高杉の決起を知って「暴挙党」
と記し、賛同していなかったのは明らか。高杉決起後も、諸隊は駐屯地を移しただけで、
赤根が驚いて停戦工作を依頼するまでは特に目立った行動は取っていない。
赤根の留守中に、赤根と何らかの形で対立していたと思われる(奇兵隊日記を改竄している)山県が、
主導権を取って絵堂に襲撃をかけ、高杉に呼応してしまったことで、
赤根は山県によって放逐された形になってしまった。これが赤根の不運の始まり。
もちろん彼の処刑の際も全く取調がなされなかったことは周知の通り。
この経過は関係者はよく知っており、赤根の追贈運動も山県の反対がなければ実現寸前だった。
>>713 長州藩の場合、天保一揆で打ちこわし件数700軒余のうち170軒がエタ部落だと言うことが著しい特徴。
お前は幕府の弾左衛門の身分上昇嘆願をどう思うかと聞いても
「それは幕府の問題だ」とスルーして答えなかったのに、
今ここになって「どこでもやっていること」と正当化する。
これをダブルスタンダードと言うのだ。だからお前と議論するのは嫌なんだよ。
まあ北川健のような狂信的な長州マンセーの研究者の支持者と議論するなんて、
まるで極左と議論してるようなものだから噛みあいっこないけどね
少なくとも高杉の決起は、事前に御楯隊の決起呼びかけを一蹴して
諸隊の和を強く求めた自分の主張に矛盾するばかりか、
奇兵隊から見たら「脱走」に他ならなかったんだな。
維新団の話の続きに戻ると、もう1人、後日の証言者が登場する。
長州オタ君の説は自分で気づいているかどうかはともかく北川説に他ならないのだが、
例えば萩野静枝は昭和48年に北川の取材を受けた人物だが、上の河村恵之と同趣旨の証言をしている。
たとえばこの記事のネタ元は萩野氏だと推定されている。
「凱旋した40人には間もなく士分取立の声が起こった。しかし土地を持たぬ者のみじめな生活を知る彼らは、
名よりも実を望んで、褒賞として近くの玉蔵地区の山林が分与された…」
(以下は取材者が被差別民に思い入れた余計な感傷が入ってるので略)
で、結論としては文久の屠勇取立令は実態として成立していた様子がないから、
維新団は士分取立が事実上不可能であると言う実態を見透かされた上で、
代償として山林を要求したとみられる。
>>714 そりゃ高杉の決起に立たないから罵倒されただけでしょ
高杉の立場からすれば損得成否で動かない土民と
忠死覚悟の自分は違うと言ってるわけで
それをさも忠義面して止めるからよけい腹立ったんだろな
>>715 はあ?一般的な部落を語るのに。関東近辺のエタ頭で利権のドンの話がなんの参考になるというんだね?
サンプルとして非適当なんだよ。お前がやっているのは例外を見つけてきて、
ほら、こんなケースがあります。だから○○はこうなのです。
と言っているだけ、これはただの詭弁。
ちなみに俺にダブスタはありえないな。
どこでもやっている事ってなに?入会権のことか?
入会権を持ってないのに、木を取ればそれはどろぼーと変わらんよ。
その部落民が悪い。
山に入ってものを取るくらい、と簡単に言っているみたいだが。
戦前まではこれがとても重要な問題であるのに。それを理解していない輩がいるとはね。
>>717 だから武士の名を得ても、土地もないなら武士としての対面を保とうと思ったら食べるものもない。
といっているでしょ。
だから実を得ようといっているわけ。身分上昇よりも、目先の金がほしかったってだけ、
そういう部落の心情があるわけ。これは別に悪い事ではない。
んで、武士の名をもっても対面が保てる、江戸のエタ頭のケースが当てはまるのかって事だよ。
江戸のエタ頭はこう言っている、
だから維新団のみなも身分がほしかったはずだ、差別はいやだったはずだ、
だが辞退したのは、差別を恐れてだ!
とか言っちゃうお前さんはおかしいんだよ。
と言うか、いま気づいたが長州オタ君は
>>690に挙げられている奇兵隊の出自の内訳
559人分に関して、どこに「穢多」がいたのか指摘できてないね。
自分も大学で聞いてみたが「奇兵隊は出自まで書いてないでしょ?」と変な顔をされたよ。
「長藩奇兵隊名鑑」しか参照史料がないはずだと。
で、見てみたらこれ普通に頻繁に引用されてるんだが、どこにも穢多をその身分で入隊させていた
と思われるような記述はない。
長州オタ君は高杉は慶応元年に奇兵隊入隊に関して「エタの者を除くのほか」と言った発言の前に
「暫く」がついてないじゃないか、と反論するのだがそんなの研究者はみんな知っている。
なぜかと言えば奇兵隊に穢多身分を堂々と受け入れたと言う記録がないため、
実態として穢多がその身分のままで入隊を許可されたケースはないか、
ごく限定されたケースだったと見られる上に、
この「暫く」を「一時的」とかなり好意的に解釈するのは少数説なんだな。
文久の屠勇取立令の建前から言えば、奇兵隊にも屠勇の入隊を認めるのが当然であるにも関わらず、
高杉は「暫くは見合わせよう」と反対するベクトルで発言しているのは自明だから。
つまり正義派政権は被差別民の入隊と言う「公約」遵守を迫られる段階になって
「暫くエタの者を除くのほか」といきなりモラトリアムを付しているわけだ。
これを補強する証拠は他にもある。屠卒の隊は諸隊の反乱に対抗するため、
俗論党政府(彼らは自分のことを「正義党」と称していたが)の命令により設立が始まった。
これを正義派政権がそっくり引き継いだわけだ。
ところが正義派政権は被差別民の選抜徴兵制に際しての人数定員の条件を守っていない
(根こそぎ動員になっている)のであるから、いいかげん文久屠勇令の布告を守れよと言う圧力がかかっている。
高杉の慶応元年1月6日の書簡で反対していると見るのが通常である。
被差別民の話ばかりしていても仕方ないので、諸隊の性格や、
本当に志願兵である諸隊は強かったか、支持を得ていたか、民衆の支持は充分だったか、
と言う点についても論ずる。
馬関戦争の際に連合艦隊の集結地点の対岸の三田尻で数百人規模の打ちこわしが発生したこと、
さらに幕長戦争を控えて、石州口に当たる奥阿武宰判弥富村では2月中旬と下旬の2回にわたり、
やはり数百人規模が参加した打ちこわしが発生している。
注目すべきは、攘夷戦争、幕長戦争を控えて、周布らは恐らく敗戦を予想していたと見られる。
そのために民衆のアジテーションのために神風伝説を流布させたり、敵国撃退のためのお百度参りのようなことを銃後の領民に組織的に強いて、
一種の洗脳を徹底して行っていること。つまり尊攘思想、神国思想は藩上層部が意図的に刷り込んだ
戦時中の国定教科書みたいな教育をやりまくったわけだ。実際、木綿価格の上昇で長州藩領民がそれに共感しやすい要素は充分あった。
以下続く
もっとも長州藩領民がそこまで馬鹿だったわけじゃなく、
実際は一揆、打ちこわしの多発により、庄屋・豪農と言った富裕層が藩秩序防衛と一体化し、
兵を私に集めて徴集が出来たわけだが。現実に藩と彼らとの間で取引がなされている
例えば奇兵隊の会計方を務めた白石正一郎は有名な諸隊のスポンサーだが、
彼は支藩清末藩1万石の御用商人であり、荷受問屋を営んでいたが自前の船は持っていない。
よって長州藩の最大の財源である下関の北前船交易に参加できない程度の商人だった。
白石正一郎は「豪商」「スポンサー」と言われるような規模の商人ではない。
あわよくば長州本藩の人脈と結びついて北前船の交易利権を狙うと言う意図で正義派人脈に接近した
と推測される。
このように攘夷戦争の段階では正義派政権の政権掌握と相まって、藩の内部の豪商・豪農は
「出し抜かれる」危険性が高まっていたのであり、先手を打って自ら募集に応ずる例が多く見られた。
文久の攘夷戦争の段階で、長州は軍事国家的色彩を強めていたから、藩に逆らって特権を奪われることは致命的だったのである。
時政が三田尻打ちこわしの直後から隊の募集を始めていることは、文字通り豪商層が自力救済を求めていたことを物語る。
四ヵ国連合艦隊の襲来の後、講和が始まって上陸したサトウは面白い記述を残している。
(以下引用)
一般の人々はみな、外国人追放の命令を下したのは大君であると確信していた。
…私は、長州に行って砲台を破壊するよう幕府に頼まれたのではないかと聞かれた。
私は「いや、大君は海峡を開くことは自分には出来ないと言った」と答えた。
それから私は、その間の事情について自らの意見を述べ、大君は大名と大国の板挟みになって
両方に矛盾した言質を与えなければならなかったのだ、と言って聞かせた。
すると人々は異口同音に「ホンマダ」(本当だ)と叫んだ。
…ここからも、長州藩領民は「幕命による攘夷」であることを信じ切っていたこと、
サトウの説明によって初めて幕府の立場に得心が行ったことを物語る。
なお、中略した場面には「幕府は二股政策をやっている」と主張する男の存在も確認されており、
かなり多くの長州藩民衆は「攘夷は幕命である」と思い込まされて戦争に協力したものの、
その背景について何らかの疑念を抱き、サトウの説明にたちまち共感したと推論できる。
つまり長州藩の領民は、攘夷実行を「何か変だけど、幕府がそう命じているなら」
と言う心境で戦ったと推察される。藩は確実に「幕府も命令している」と言う点を強調したのである。
これは北前船交易で、諸藩との交易が幕府の保障なくしては行えなかった長州藩の実情
(たとえば家近は、村田失脚は、幕府の天保の改革の失敗に連動しているとする)
を反映したもので、サトウらに対する民衆の態度を見ても、「尊攘感情」と思われる要素はあまりうかがえないのである。
>>721 それ結成時の自称身分の数字。
その後拡大していくわけ、一壊走信者はその程度の事も知らないの?
ちなみに屠勇取立て令は七月。
ついでに言っておくと高杉の発言だけおってもあまり意味ないな。
どうせこの人すぐ奇兵隊追われるんだし。どこまで影響力があったのやら。
あと北川が長州信者は悪い冗談だなwお前のような狂ったアンチにはそうみえるのかもしれんが。
まだまだ突っ込みたいところが山済みだが、明日は速いのでやめとこう。
まあ頑張って醜態をさらしてくれたまえ。
・また、民衆が「外国人追放=攘夷を命じたのは幕府である」と信じ切っていたこと、
・にも関わらず攘夷を実行した長州攻撃を幕府が外国と組んで行ったのではないかと問われていること
から、長州藩は領民に対して、幕命が決定された正確な経緯を伝えていないどころか、
幕府が外国艦隊に依頼して長州藩攻撃を行ったと言う噂まで流布していたことが窺える。
前述したように、周布は攘夷戦に際して「敗北」を予想しており、
しかしながら俗論党排斥後に政権を維持し、反発の強かった洋式軍制を導入するには、
臨戦態勢が必要であると認識して攘夷に踏み切ったと思われる。
つまり、攘夷戦争と馬関戦争の結果として周布・桂・高杉らが開国論に転換したと言うのは、
完全に間違った理解であり、当然、久坂もこれを認識していた。
吉田栄太郎が屠勇取立の献策で「農兵の募集が必ずしも満足が行く状況にない」
と指摘しているのも、民衆の募兵の動きは藩上層部の期待に沿わない程度には鈍かったことを物語る。
このこう着状況を一挙に変えたのが、外には外国との戦争、幕府との戦争、
内には俗論党とその支持者が存在し藩政府がいつ転覆するか分からない
と言う臨戦状況を作り出して、豪商豪農層からの献金、私募を強く促した上に、
民衆の危機感を直接的に煽ると言うチキンレース的な戦争状況の作出だったのは間違いない。
繰り返すが、長州は尊攘思想に燃えた民衆の協力を得て攘夷戦争に突入したのではなく、
民衆動員や豪商豪農層と藩の結びつきを強め、俗論党や穏健派を抑え込むために臨戦状況を選択している。
民衆にとっては現実に外国との戦争に入ったと言う否応ない実感が第一であり、
尊攘思想は後付であったのは疑いない。