>>1 スレ立てありがとうございます!乙です!
スレタイバージョンアップ良いねー
てs
スレ立て乙です!
もしかして近代史版再建後初の1000レス突破かな?
>>1乙です
>>5 近代史家総合スレが3スレほど消費してた
それを除けば初めてかな
スレ数もそれに次いで多く続いてるね
木戸家もすごいなあ。この木戸幸一って人も波乱万丈だろ。
歴博は木戸家から資料の寄贈をされてたのか
来月の展覧会期待しちゃうな
歴博楽しみだ
しかし関西在住(しかも南の方)なので
始発に乗って日帰りにするか一泊するか悩む
★information
国立歴史民俗博物館・企画展示
「侯爵家のアルバム −孝允から幸一にいたる木戸家写真資料−」
会場:企画展示室A
期間:2011年3月1日(火)〜5月5日(木・祝)
料金:一般・830円 高校生〜大学生・450円 小中学生・無料
休館日:3月7日(月)、14日(月)、22日(火)、28日(月)
4月4日(月)、11日(月)、18日(月)、25日(月)
関連講演会
「木戸侯爵家の成立と木戸家資料」
会場:歴博講堂
日時:4月9日(土)14時00分〜16時00分
講師:田中 正弘 (國學院大學栃木短期大学)
※入場無料、当日先着順に受付、定員260名
国立歴史民俗博物館 〒285-8502 千葉県佐倉市城内町117
http://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/index.html
都民でもちょっとした小旅行になりそうだw
講演も行きたいなあ
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/23(水) 00:03:24.04 ID:0LiycbXf0
なんで千葉県なんていう木戸に縁もゆかりもない場所でやんのかね。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/23(水) 00:04:51.13 ID:0LiycbXf0
あと思ったんだけど
西郷が明治時代に「おたくの久坂が生きてたら私が参議なんて偉そうにしてられません」
って言ってたのは木戸にたいする皮肉なのかね。木戸は久坂以下だよ
って遠まわしに言ってたんだろうなあ。
縁もゆかりもないって…ageたんこの博物館の成り立ちくらい調べてから書き込みなよ
そんなだからいつも訳のわからない妄想しか語れないんだよ
久坂と西郷って接点あったのか?
長井殺しを唆した仲じゃなかったっけ
接点あるよ
西郷は久坂に「長井雅楽は斬るべきだネ」とか余計なこと吹き込んでます
たんに長州への牽制のためにやったのだと思われます
>>15 ソースきぼん
>>14 前スレで話題になったことすら読んでないのかな
>「おたくの久坂が生きてたら私が参議なんて偉そうにしてられません」
それはどう考えても自分は木戸参議と久坂参議の下だったでしょう、という謙遜
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/23(水) 08:01:08.02 ID:0LiycbXf0
>>20 どうしてそうなるの?
基本西郷と木戸は仲悪かったと思うよ。お互い顔には出さなかっただろうけど。
西郷にしてみると大村が木戸派閥だから戊辰の恨みみたいのあるだろうし。
西郷の思想と木戸の思想は相容れなかっただろうしね。
スルー検定の季節ですね
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/23(水) 08:24:27.14 ID:0LiycbXf0
木戸と西郷の関係ってのは議論のしどころだろ?
ここを議論しないでどうすんの?
木戸は大村を暗殺した黒幕は海江田だと思ってたわけだし。
西郷はその海江田と深い繋がりがあるわけで木戸からすると
嫌って当然だと思うけど。
それに海江田は大村の開明性を嫌っていたわけだから木戸も
薩摩の士族には嫌われてたんじゃないかな。
木戸は、嫌いな奴や大久保とかに対する不満は結構赤裸々に日記に書いてるが。
森無礼とかw
西郷に関してはそういう記述あったっけ?
薩摩勢で木戸日記の登場人物というと贈り物の黒田や
木戸追跡中の大久保の印象が強くて西郷はいたかいないかってレベルでは
でも流石に西郷が反乱した時は残念そうに回顧してたような
とりあえず三傑スレを立て直してそっちでやりなよageたん
木戸が西郷をきらっていたって俗にはよく言われるが、
ソースがあっていわれているのではないようだ。
木戸は西郷や大久保の実力や、維新に力を尽くしたことは大いに認めていて、
そういう記述は上でも出てるようにいろいろ残っている。
「身の毛がよだつ」とかいってんのは、自分は大久保の政治手法の話であって
本人がきらいだっていうのとはまた別なんじゃないかって思っているが、
まあこれは議論がわかれるところだろうな。
西郷の木戸評は基本的に聞いたことがない。
「木戸は自分を嫌っているだろう」と西郷がいったか書いたかしたという話を
どっかで聞いた気がするが、自分はソースを知らない。
西郷が木戸に対し、久坂に言及したってその話を、
木戸を嘲笑するためにいったと解釈しようといっても、
その前後の状況がわからなければ検証のしようがない。
ふつうに読めば、久坂をほめ、自分は謙遜する言葉としか読めない。
そう解釈する理由が、何となくこの二人は話があわなそうだとか、
木戸が嫌っていそうな人間の親分だからとか、そんだけだろ?
陰でとか仲間内でいってんならともかく、
西郷が直接木戸を馬鹿にする理由なんてあるのか?
そういうシチュエーションってどんな?
そのシチュエーションがわかってはじめて、
「ああそれは、木戸を馬鹿にしたんだな」って納得できるんだよ
だからソースはっていってんの。
「三井の番頭さん」も自分はソース知らないんだけど、
商人と癒着していると見られていた、当時大輔だか小輔だかの井上にいやみをいうのと
長州一の実力者を力がないとを馬鹿にするのとじゃ、ぜんぜん違うだろうが。
自分のイメージにあわせて強引に解釈していると感じてしまうから、
議論にならないんだよ。
もうちょっと議論になりそうな提示のしかたを考えなよ。
維新の三傑で斬り合ったら余裕だのに・・・
やっぱ京都奔走時代が青春って気がする
>>23 木戸は保守的だとか攘夷派だとか、そういう理由で人を嫌ったりしないんだよ
よほどのことがない限りな 怒るのと嫌うのをいっしょにすんな
長州藩にも、維新後になっても攘夷だの廃藩反対だのいう連中は山ほどいて
特に藩政や軍に関わってるその手の代表はせっせと留学に送り出してる
まだそういう思考が残ってんのは仕方がないことだとわかってて
啓蒙だ教育だとやっているわけで
薩摩の西郷従道について「留学に出した甲斐あったじゃんw」
みたいなこと書いた書翰残ってたよな
>>23 海江田は大村の開明さを嫌っていたの?
江戸開城後に、後で届けますと海江田が篤姫に約束した絵画などの財宝を、
大村が海外に売って軍資金にしてしまったことでえらく怨まれた件なら知ってる。
ひたすら徳川のなけなしの財を浪費するだけで慶喜の邪魔ばかりしてたような、
篤姫ら大奥に対してはざまぁww大村グッジョブ!だが。
木戸の青春時代っていえば、やっぱ江戸の塾長時代なんじゃと思うけどな
水戸との連携なんかも、まだ若さが滲んでる感じがするし
斎藤家で踊ったりしててわろた
ageたんて西郷も貶めたいんだね
情けないイヤミを言う男にしたいとは
>>30 > 斎藤家で踊ったりしててわろた
kwsk!
>>31 巻が進むにつれ、大久保超age、西郷激sageになる翔ぶが如くを読んだのかもね
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 20:52:03.03 ID:nwFz14CE0
西郷対木戸はあっただろう。西南戦争はなんか
西郷対木戸の戦争って感じもするなあ。西郷対大久保なんだろうけど。
戦ったのは大村が作った軍隊だし。まあ山県は西郷派だけどさ。
明治十年二月二十五日木戸日記に十二年来西郷に対する気持ちを書いてます
もうそろそろスルーしてもいいでしょうか
話がずれてんのにも気づいてないんでしょうかこのageの方
どうしてこう十把一絡げみたいな安い解釈しかしてこないんでしょうか
>>32 正月に練兵館で宴会してたんだったかな?
歓之助さんたちと吉原に行ったり、勉強しまくったり、この頃は普通の学生みたいで微笑ましい
木戸(大村が生きていれば西南戦争なんて直ぐ鎮圧できたのに・・・・)
あっという間に斎藤一家に馴染んでるな
まあもともと人懐こい性質だし、父親亡くしてからあまり経ってないしなあ
吉原行く前に3回だか風呂に入ってたりw
萩から江戸へ初めて行く道中記も楽しい
この頃から風呂好きだったんだね
あとこの頃の桂って結構大食漢じゃない?
>>41 『逸話』の山尾の証言で、練兵館時代に
いっしょに風呂行って帰りに二人で盛りソバ4枚酒2本とか
飯食いに行って二人で三人前頼んだとかあったよなw
まあ体育会系の大学生みたいなもんだから無理もない。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 21:03:19.54 ID:xpDmHN4O0
それでも病弱だったんだよな。
嘉永六年の日記こないだぱらぱら見てたら、
前スレで話題になってた「血二、三合吐いた」っての出てきたw
マロリー・ワイス症候群w 吐くの習慣化するほど飲むなってのw
>いっしょに風呂行って帰りに二人で盛りソバ4枚酒2本とか
>飯食いに行って二人で三人前頼んだ
これだと身体の大きい若者としては普通っぽいが
血を吐くほどなら普段相当飲んでいたのだろう
まあ、維新前に死ななくて良かったこと
煙草は吸ってなかったんだよね?
湯治に煙草盆持ってってたってミットフォードが書いてたよ
ありゃちょっと意外
タバコは好きな酒の味を変えてしまいそうだ
たいしたスモーカーではなくたまに吹かす程度だったのでは
吉冨宛の手紙にも、そちらに煙草入れを忘れたので預かっておいてほしい
というのがあったよね
あーあったあったそんな手紙
もしかして中身の煙草よりも煙草入れそのものが凝ったお気に入りの品なんじゃ?
と思った記憶がある
確かにお金に執着しない割にはステーショナリーに愛着を持つ人みたいだよね
あの時代の人は皆持ち物を大事にしてたのかもしれないけど
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 23:03:12.21 ID:ntEvy42R0
あの時代の美徳が分からないよな
質素がいいとされてたらしいけど
大久保は豪邸を建てて薩摩藩士から嫌われたらしいんだが
桐野は家こそ質素だったが派手な服を好み。金時計してたらしいし
どっちなんだ?って思うわ。西郷なんかは服も質素だったらしいけど
木戸は明治後はどんな暮らし?豪邸?
豪邸かどうかはともかく広い。常に食客が山といる。
別邸も持ってたし、ある程度贅沢なこともしてたろうが(骨董趣味とか)
人の面倒も人一倍見ていた。
死ぬ前に東京の家を新築していたが、地域の失業者を集めてやらせていたので
人数の割になかなかはかどらなかったが、かえって彼らのために喜んでいたという。
まあ当時のトップリーダーたちは、人の世話するのも仕事だったからな。
当時はそれほど情報が豊富だったわけでもなく、伝手がすべてだから、伝手がある人は頼られた。
大久保の家は接待用に洋風の部分を作ったというだけで、まったく贅沢ではなかったんじゃね?
現代人の感覚だと居候を大量に抱えた木戸や大隈は物好きだなあと思ってしまうw
図録GET!かなり内容は濃い。
だが解説文やコラムの一部で「おや?」と感じる記述も見受けられるし、真しやかに広まっている創作話をそのまま書いている部分もある。
この辺りは検証する必要があるな。
目録高いけど購入しようか思案中。
またか…>創作話…
どの話?
幾松に関してだが、武士の娘とか三条河原の話とか。
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 20:31:37.39 ID:PW9d8D+I0
広沢暗殺容疑が木戸にもかかったのって
渡邊昇つながりなのかな。渡邊と木戸は練兵館派閥で
渡邊がすごい粛清とかした男で広沢もこいつがやったらしいってうわさになって
それなら木戸の差し金か?って感じになったのかな。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 20:38:43.59 ID:PW9d8D+I0
後、他人の評価。あんまり同時代の人から評価されない木戸だけど
アーネストサトウの批評があったのでレスしとく
サトウ「桂は温和で紳士的な態度において、きわだった人物だった。
しかしその背後には軍事的にも政治的にも最大の勇気と決断力とを、
蔵しているのである」
同時代の人から評価されないとは初耳だw
前スレで木戸の評価を出せとさんざん粘着して、
サトウ、ヒュブナー、福地桜痴、大隈、春嶽、中岡等いろいろ教えてもらったのですが
派閥妄想age厨くんのスズメほどの脳みそには入らなかったのです
きっと、現代の小説やビジネス系の歴史本に引用されてない同時代人の評価は、
なかったことになっちゃんだろうね
むしろ、現代での評価が低すぎだろ
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 08:11:38.52 ID:6S0Gdrwg0
>>62 教えてもらったというが、サトウの発言を書き込んではいないじゃん。
あるのならどういう発言か書き込むべきだろ。
ちなみに前スレでも出てたけど松陰の評価は
「知己なり」で友達だよって感じの発言だからね。
歴史板じゃググる能さえないやつは想定外
つかサトウ評って司馬さえ引用してるのに今さら何書いてんの?ageたんは
司馬の小説さえ木戸を悪く書いたとこのみ拾い読みかよ
サトウのこの木戸評はいちばん知られてる方だよね
司馬も引用してるし、
サトウの回顧録は岩波文庫でずっと出てるし、
今は『遠い崖』もあるから、だれでも簡単に参照できる
木戸好きになる人ってたいていさ
それまでの思い込みをひっくり返される驚きを体験してたりするし
新しいメンバーがスレに入ってくると、
いろいろ情報やら史料やら教えて楽しさや感動を再体験したり、
新しい視点をもらってまたおもしろい話題や展開が生まれたりするんだけど
この人って、ひたすら教えて君なわりに、
いくら情報や考えをこっちが出しても、楽しい一次資料には目も向けないし
最初のへんな思い込みを頑として変えないから
教え甲斐がないんだよね 悪いけど
何言ってまたどうせ思い込みベースに絡まれるに決まってると思っちゃう
だっていまだにSageすらできない人だよ?
やりとりする気にもならんわ
でも、まだ脱糞君よりは建設的かもしれないと思ってしまうw
とりあえず日本語だし
何かよくよく変なヤツが湧くねここも
うん
最近破壊的な荒らしとか来ないから
平和でいいよね
脱糞君が定期的に暴れてた頃から見てるけど、
見たくもないコピペでスレを消費するよりはマシかもね
教えて君でググらない、史料を読む気すらないようだし、でも自分の意見だけは通そうとする、
ゆとり世代、ってやつなんだろwww
>>72 ゆとり世代ですが何かw
…とまあそれはともかく、木戸展行ってきたわけだが上の御方が言ってるように
説明文においおい…ってつっこみたくなる文が多かったな
挨拶文でもわかるんだけどこれ御子孫の意向が随分反映されてっぽいんだがこの辺り
誰も違和感なかったのかね
あと、家系図もらえるんだけどこれがすごい何がすごいって久光が家系図に入ってる
ところがすごいw
久光と親戚関係なっちゃってたんだなww
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 19:23:59.10 ID:6S0Gdrwg0
で面白いのとかあった?詳しく書いてよ。
東京に住んでるから千葉まで遠くていけないんだよね。
くやしいのう、くやしいのう
東京なら近いじゃないか羨ましい
自分は千葉まで片道5時間はかかる関西住まいだが行くぞ
>>76 木戸好きの鏡だな!
自分は東海に住んでるが行けそうにないから図録で我慢するよ。図録楽しみだなぁ。
神奈川在住だが、駅から歴博までの距離考えると2時間半みとくべきかなあ
土曜日用事が入りませんように…!!!
79 :
58:2011/03/04(金) 17:24:03.22 ID:2rzaIdjo0
>>73 目録は御覧になりましたか?
ずっと疑問なんだけど、何故これほど多くの資料が歴博に寄贈されたのか不思議でたまらない。
>東京に住んでるから千葉まで遠くていけない
引きこもりか?w
東京千葉間の移動が困難とは社会復帰の日は遠いな…
>>79 推測だけど、歴史系の国立博物館を建てるという目的と
初代館長が井上の孫だからというのが合わさった結果では?
大久保の資料目録もあるし
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 19:04:39.94 ID:+Q0uAwC00
けどあれホームページ汚いよな。まるで京成佐倉駅から
すぐみたいな感じだけど調べたら結構遠いじゃん。
歴博って、幕末維新史にはまる前から一度行ってみたいとは思ってたんだ
日本を代表する歴史研究施設兼博物館だよね
文化庁からも相当史料類を移管されているはず
しかし、歴博の設立に深く関わった初代館長は井上馨の孫で、
歴博の兄弟館的な大阪の民博の原型をつくったのは渋沢栄一の孫なんだな
ちょっと因縁めいてて面白い
民博も行ってみたいんだが、これまた関東から行くにはちょっと行きにくい場所だ…
歴博行ってきた
予想外にお客さんの年齢層が高かった
説明文は確かに微妙なのがあるというか一人ツッコミ所のある文の人がいるというか
もう一人はいい感じなんだけど
ちなみに高杉と仲が良かったから高杉の写真があっても不思議じゃないのにって言ってた
榎本一家の集合写真まであるのに
つか本当になんであるんだ榎本一家の集合写真w
86 :
79:2011/03/05(土) 13:10:46.85 ID:mYZdBp280
>>81 ありがとう。
>初代館長が井上の孫だから
は、なるほど。
Wiki にも「歴博の基本コンセプトは、井上の発想によるところが大きい。」と記述されているから、
>>81 の推測は可能性の極めて高いものなんだろうな。
ますます目録が欲しくなってきた。
目録や図録など刊行物は行けば買えるよね
大久保の資料目録も買おうかな
>>85 高杉の写真は貴重だろうから木戸家が持ってたことがあったとしても
高杉関係者等に返してしまったのかも
木戸ファンの年齢層高いのわかる
若いときは高杉、坂本、新撰組など派手な連中に引かれるからなあ
木戸の読みやすい入門書とか書く人がいないのも、木戸を中心に研究しようという動機で
史学科に入る若い人があまりいないせいだろうと思う
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 15:42:04.05 ID:JA5uAe1G0
行ってきた! 楽しかった!
11時のギャラリートークから参加して、ほかの企画展も見てきたから結局閉館まぎわまでいたんだ
順天堂記念館とかも見に行きたかったのにそれどころじゃw
歴史関係書籍もだけど他館の図録が山ほどあるからそこでも時間がかかった&散財したんだぜ
木戸と彦太郎のリラックス写真ガラス版の、後年の孝正による箱書きが泣かせる…
あああ〜、自分も行ったら金使いそうだw
写真の内容は濃いね〜
図録だけじゃなく、目録も買うことをお勧めするよ
帰ってきた〜ふーやれやれ。やっぱり2時間半はかかるな。
ぜんぜん込んではいないよ。じっくり見てまわれる。
ギャラリートークはやや微妙なところもあるが、
説明を受けてこそ生き生き伝わる部分もあるのでできれば参加することをお勧めする。
自分は解説はそれほど気にならなかったな。まあこのぐらいなら許容範囲って言うか。
誰が書いたどことどことどことどこに引っかかったかはよくわかるがw孤独ってゆうなw
敬親・元徳父子との関係についての説明は、すごくいいと思った。
図録を買えば、展示をそっくりそのまま買ってきたようなものだよ。
変質を防ぐために会場の照明は暗くなっているので、図録のほうがかえってじっくり見られるし。
図録も目録も通販で購入可だから、ゴールデンウィークまで来られそうにない人は利用すべし。
自分も目録も買ったが、基本は簡単な内容がわかる程度の一覧表なんだが、
ちょっとねたばれしていい?
ちょっとだけ口絵がついていて、江川太郎左衛門(長男英敏のほう)から
桂小五郎に学頭を命じる辞令の写真があってびっくらこいた。
あと高杉の「投獄文記」があって、同じ内容のものはいくつかあるが原本といえるのはこれなんだって。
解題によると、孝正も詳細な日記を残しているそうだ。孝允生前じゃないけどね。読みたいなあそれ。
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 00:15:21.01 ID:LCKPOLES0
図録とか目録っていくらぐらいなの?
あとなにかおみやげになりそうなもの売ってた
>>92 > 孝正も詳細な日記を残しているそうだ。
よくよく詳細な日記を残す一族だな
ブロマイドは1枚6銭だったらしいw
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 10:21:12.98 ID:LCKPOLES0
今から行こうと思うんだけど、すごいな公式の徒歩の地図。
マンションを目印にするなよって思うんだが。
アンケートに「価値ある展示だから他の地方でも巡回展やってほしい」と書いてきた
>>92 許容範囲といってもあの人の文章、普通に感じ悪い部分多いよ
どの小説からの引用だよって聞きたくなるような部分あるし
>>98 まあたしかにね…嘘までは書いてなくても、
よくある間違った解釈へ誘導しちゃうような修飾語がそこここに入るんだよね。
しかもあの人が、この展示の責任者なわけでしょ。
>>100 まあ幸か不幸か、木戸展の場合
今さらあんな解説文を鵜呑みにするような客は行かないだろうけどね…
アンケートあるなら、その辺をちょっと書いてみるのもいいかも
ここの歴博って前に、沖縄での集団自決の際に軍人からの指示があっただとかなんとか、
事実に無い記述を左翼の圧力で記載して云々〜とか問題になってたよな
中国から伝わったものを韓国発祥と書いたり他にも色々問題あるらしいし、
博物館自体がなんかうさんくさい印象がある
ま、学芸員や責任者次第でなんかあるのはどこも同じで
いい出したら萩博物館だってひでぶばqあwせdrftgyふじこlp
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 17:46:26.11 ID:LCKPOLES0
歴博行って来た。正直木戸の奴は少ないと思ってしまったな。
普通の展示の方が面白かったもん。なんか時代別に展示してたけど
平城京前の古墳時代あたりまでの発掘物とか面白かったな。
埴輪とか土偶とか。土偶なんてすごいデザインの多いんだよね。
平城京になってから仏教伝わって逆にデザイン的には面白みのないものになったけど。
で木戸関係なんだけどほとんど写真なんだよな。しかも結構見たことあるのが多いし。
思ったのは幾松って青木さやかにそっくりだなって事ぐらい。
木戸幸一のほうはもう少し歴史を説明して欲しかったと思う。
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 17:49:47.89 ID:LCKPOLES0
で個人的に歴博で面白かったのは途中に図書室があって
そこに木戸関係文書と木戸日記が置いてあった。
あれ借りれるのかな?できれば買いたかったんだが。
その場でパラパラ立ち読みするしかなかった。で面白いのは
関係文書かな。吉田松陰がないのね。木戸と接点が薄いのか
あるいはあいうえお順なのでまだなのかは分からないけど。
あれの手紙の量で木戸の交友関係わかるなって。西郷なんて3通ぐらいしかなかった。
>>105 >>106 この人このスレで今まで何読んでたの
人の話聞かないと思ってたらほんとに聞いてなかった
多分「木戸と○○(長州人)は仲が悪い」と明記された史料が出てくるまでこの調子かとw
しかしある意味行動力あってワロタ
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 18:16:18.89 ID:LCKPOLES0
そうそう、説明文の西郷みたいなカリスマ的リーダーではなかった。
孤立していた。みたいのがあったけど。あれは違うよね。
木戸は幕末から孤立というか人と距離取ってるから、
明治になってもそのスタイルだっただけの話。
>>109 とりあえず君が木戸に何を求めてるか分からないが、誰かと比べなければ満足しないのか?あと君の文章見てて思うのだが木戸について悲観的な見方しか出来ないなら、歴博行くぐらい行動力あるんだから他の偉人を研究して好きになったほうが良くないか?
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 19:16:43.25 ID:LCKPOLES0
ちがうんだよなあ。俺は幕末の中で一番の人物は木戸だと思ってるからね。
木戸のなにがすごいってあのバランス力でしょ。だからだれかにどっぷりだと
ダメなんだよね。常に一歩引いて冷静に考えてた。
なんか木戸が松陰やら高杉やらと仲良くなくちゃ気がすまない人たち多いけど。
松陰の死んだ後に腑分け見物を楽しみにしてたり、ナガイウタに近づいたり。
松陰一筋でない事はわかると思うんだけどな。
一筋じゃないなんて当たり前のことを大げさに取り上げるからあんたは変なんだよ
木戸は多くの人と付き合いがあったし、非常に情の深い人間ではあったが、
自分の考えをしっかり持てる知性があったし、
相手への情とは別に相手のよい面と問題点をきちんと把握し、
しかもそれを相手に忠告するだけの誠意があった
それをあんたに言わせると距離があるだの別の派閥だの阿呆なことを言い出すから
このスレの住民の神経を逆なでしてるんだってことが
まあいくらいってもわからないんだろうね。
みんなが何度も言及している関係文書も現物を見るまで情報スルーしてたんだもんね
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 19:43:43.17 ID:LCKPOLES0
関係文書の中身を書いてほしいんだよな。
「関係文書ミロ」を口癖のように言ってたけど正直
あれを見るのはつらいし。ぱらっと呼んだけど古文だしね。
後日記立ち読みしたんだけど。そんなに読めないから最後のほうだけみたんだけど
最後の文章は黒田清隆の事書いてるんだよね。薩摩嫌いってのもどこまで
本当なのかわからないねえ。
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 19:58:50.90 ID:wKxFRilD0
木戸孝允が薩摩嫌いは多分デマと思う。ここの政治家に好き嫌いや
ここの政策に受け入れたくない部分はあったとしても、薩摩だから嫌い
と言うものではなかったと思われる。
木戸はそれほど度量は狭いとは思えない。
以上、個人的見解
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 20:11:19.59 ID:LCKPOLES0
そもそも俺は司馬がいう薩摩人の特徴と長州人の特徴ってのが
信用できないんだよね。俺は東京育ちだからかもしれんが。
住んでる地域によって性格が偏るってどうも信じられない。
>目録買った偉い人
忠太郎さんの日記や松本順造に関するもの、あるいは生咲(木崎)家関連のものって載ってる?
>>117 御家族からの寄贈というだけあって忠太郎や好子(芳子)の資料もありますよ〜
忠太郎さんに関するものは20代の日記や晩年の日記に達磨等々かなり多いようで
幼いころの写真等十枚近く展示もされています
又、忠太郎は土佐藩士松本順造と松子の妹信の子となっています
好子は明治2年11月22日東京で生まれています
どうも木戸家では育っていないようで、他人の手で育てられたようです
孝允死後、少したってから東京に呼び寄せられた?ようで
明治14年頃から河瀬正孝の家で暮らし
正二郎と娶わせるつもりが亡くなったので彦太郎と結婚したようです
その頃芳子は、京都の松子や忠太郎とも手紙のやり取りをしていたようで
簪をもらった礼の手紙や写真を送った手紙が数通あり
宛名は御母上様木戸忠太郎様となっています
忠太郎を養子にする件について、明治8年末に山口県へ、明治9年3月に東京府へ届けを出してるね。
東京への届けは、親戚として彦太郎も印を押している。そうかすでに家長なわけだしね。
孝正が木戸家を継いだ際に忠太郎に別の戸籍を立て、
松子が死んだ後生咲家に遺産として金を渡し、縁切りをしているようだ。
ところで目録ぱらぱら見ていたら、憲法が制定された際、
木戸の霊前へ報告の勅使が出ているみたいだね。ちょっとテンション上がったw
好子さんは結局明治2年生まれということなのか、(本にある)松子が引き取って育てたというのも違うと。
忠太郎は縁切ってるのにもかかわらずずっと木戸の苗字だったのか。
この辺の私的なことは研究書には載らないし興味深い。
いやべつに忠太郎は縁を切ってるわけじゃないよ 孝正(木戸家)が生咲家と縁を切っただけだと思う
誤解を与えたならスマソ
忠太郎に別に一家を立てさせたというだけで、ずっと親戚づきあいはあるようだ。
養子の忠太郎が跡を継がず、血縁だが養子ではない孝正が跡を継いだので、その兼ね合いで別家を立てさせたのだろう。
幸一とのツーショットあるし、木戸幸一一家が完成した達磨堂の前で写真取ってたりするしね。
すいません。本当早とちりしてしまいました。なさけない。
展示いかれた方のお話本当参考になります。変な風に取らずいろいろ書き込んでください。
自分も早く展示会行きたいです。
うん。忠太郎は獄中の木戸幸一にも定期的に手紙かはがきを出し見舞ってる。
ただ、好子の母については何もわからず。
生まれた時期等を考えたら、母は東京の芸者さんで生んだ後に里子に出され
のち母は芸者を続けたが、木戸との縁も長く続かなかった女性。
と考えるのが自然かな…
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 08:57:23.22 ID:z9NwKlTh0
木戸幸一は戦争推進派だったの?説明みると否定的に書いてたけど。
>>123 好子の母だけは謎だなあ…
でも木戸の実子であることはたしかなんだよね
>>123 面倒見の良い木戸が子供を生んでくれた女性と
ただ疎遠になるとは思えないので、好子が木戸家で育ってないなら
幼いときは実母がどこか家をもらって育てていたかもしれないね
で、松子に気を遣って通信の記録は残してないとか
薩長同盟結んだら、藩内で投石や罵声浴びる仕打ち。
持病が悪化したろうに・・・・
>>118 ありがとう。
少し詳しく教えて欲しいのですが、
> 忠太郎さんに関するものは20代の日記や晩年の日記
これは目録に存在が書かれているだけですか?
あるいは図録で紹介されている以外の内容について、目録でも紹介されていますか。
> 又、忠太郎は土佐藩士松本順造と松子の妹信の子となっています
図録の系譜で松本順造と信の子と書かれているのは確認しましたが、
これは目録あるいは展示解説文のどちらですか。
更に「土佐藩士」であり「小浜藩士」では無いのですね。
>>119 >松子が死んだ後生咲家に遺産として金を渡し、縁切りをしているようだ。
縁切りしたことを明らかにする資料が紹介されているのでしょうか。
松子没後も生咲家(政治郎)と木戸家(孝正、幸一)は頻繁に書簡のやり取りをしているので、俄かには信じられません。
又孝彦氏が忠太郎氏の養子となり母方である生咲家とも交流していたことも書簡等で明らかです。
忠太郎氏は贈位を辞退しており、生咲家ともに木戸本家にはやはり遠慮というか配慮していたのは伺え知れますが、
縁を切られたというのはやはり信じ難いです。
目録によると、忠太郎の日記は
『課餘日録』として明治23年4月〜27年10月まで13集と
『日記』が昭和24〜26・32年の4冊を所蔵しているとあり内容までは記載されてはいない。
木咲家のことは、明治19年4月23日付で
『証(翠香院遺物として金150円、向後貴家へ対し一切関係を絶つ旨制約)』
木咲政二郎・市兵衛から木戸孝正殿執事宛と
同じ証(金額は違う)が、小関のぶから木戸孝正・木戸忠太郎宛があると記載。
信から忠太郎宛にも書かれているので、縁切りというより一応書いただけではないかな?
お金を受け取っているので。
“一切関係を絶つ”とあるので違和感があったが、
実際に手紙が残っていて交流があったのなら良かった。
松本順造の事は、目録に『木戸忠太郎・木戸松子親類書』あり、
目録の巻末の解説に、忠太郎の「実父は土佐藩にして同国南新町3丁目に住し
松本順造と称す忠太郎4才の時死去」とこれに書かれているとある。
この親類書は木咲市兵衛が明治27年5月21日没の記載があるので
それ以降つくられてようだとある。
>図録で紹介されている以外の内容について、目録でも紹介されていますか
どういう意味か少しわかりずらいのだが、図録は今回の展示物、
目録は歴博で所蔵の1500点以上の木戸家関係資料をすべて簡単に記載している。
的外れな回答ならお許しを。
>>129 制約は誓約です。
>>126 好子が死亡した日の孝正の日記に、
『好子は幼少より他人に養育せられ苦を嘗め近年より幸福快楽の身となったばかりなのに…』
とあるので、母親とも暮らしてはいなかったようです。
>>130 > 母親とも暮らしてはいなかったようです。
そうなんだ。どうも好子さんの出生、生い立ちは謎めいてるね。
>>128 >>129 忠太郎が木戸姓で分家を立てること、彦太郎が木戸家を相続することから、
形の上で生咲家と縁をきちんと切っておく必要があったということなのかもしれませんね。
何となく安心。
しかし目録、リストもだけど最後の解説だか解題だかもけっこう読みでがあります。
当分楽しめそう。
彦太郎くん、実母に続いて伯父にも死なれ、解放感と孤独感で無軌道になっていたらしい。
山尾は彦太郎の後見してるし、ハルさんのこともいろいろ気遣ってるね。ほんと家族ぐるみのつきあいだな。
>>119 > ところで目録ぱらぱら見ていたら、憲法が制定された際、
> 木戸の霊前へ報告の勅使が出ているみたいだね。
ええ話や!
アンケートあったのか。。。
明らかに間違ってるとこあったので、抗議したかった。
木戸のとこじゃないけど。
名和と青木が似てたのがちょっと驚いた。
あ、萩の生家にある正次郎君と撮ってる写真、彦太郎になってたよね。
>>134 着流しっぽいの着てるツーショットの話? あれ実は彦太郎くんだったって話ね。
確かに日記の記述と合致するし、木戸家にあった写真は彦太郎(孝正)による感動的な箱書きまでついてる。
>>136 その写真です。写真ガラス板の箱のふたの内側に、孝正(彦太郎)本人による箱書きあり。
明治三年に元徳公が島津公に会いに行くときに随行を許され、
長崎で何泊かしたとき、早朝伯父さんに呼ばれて、庭先でこの写真を撮った。
その写真はかわいがってくれた福原のお祖母さん(来原良蔵の実母か?)にあげた。
明治四十四年の春に山口の福原家にいったときにこの写真を見せられ、
温かな声が聞こえてきそうなほど顔かたちがはっきり写っていて
懐かしさにたまらなくなり、乞うて譲り受けた、と書かれています。
木戸の日記の記述まで書き出してある。
…って孝正さん伯父さんの日記読んでたんだなw
まあこのころなら史料編纂やら伝記執筆やらのためにさんざ貸し出してもいるか。
実際の写真はこの画像よりも周囲が写っていて、
へんなついたてみたいなものを背景に写していることがよくわかるので、
宿の庭先で写したという孝正の証言にも合致するかと。
関係ないが今「松菊木戸公伝」でぐぐったら、ぐぐるぶっくすにうぷされていたw
ぐぐるアカウントつくったら無料ダウンロードできるらしい…知らんかった…
138 :
134:2011/03/09(水) 20:44:10.77 ID:zCoW0UgR0
それ、それ、そのキドブルーな写真。
それ彦太郎なの?顔がどう見ても正次郎だと思うのだけど。。。
薩摩行くときの長崎というと、例のおそろいチェックシャツのときでしょ?
彦太郎だともう少し大きい(年が上)のでは?
子供子供して見える+木戸が老けてない?
彦太郎は1857年生まれだから、明治三(1870)年には数えで14、満で12歳。
小学校6年生と考えりゃ、こんなもんじゃね?
木戸は写真によって老けたり若返ったりするぞ。
このときは日記によると風邪をひいてたらしい。
だから宿で写真撮ったのかな?
>>137 詳しい情報をどうも。
箱書きにそこまで書いてあるなら記憶違いはなさそうだね。
>>138 チェックシャツの集合写真で元徳公の横に座ってる少年も
上の写真とそっくりで、木戸の年頃も同じに見えるよ。
木戸日記によると、チェックシャツ写真撮ったのは二日前。
四月二十六日 晴八字頃より製鉄場へ公に陪して至る。ただ余の名を表し、始終公ご微行なり。
十二字帰宿。二字過よりまた諏訪社へ陪従して参詣す。写真師上野彦馬を訪い上下一統連立を写す。
帰途千秋亭に至り小憩す。晩に至り帰宿。今晩乗艦のはずなり、天気定まらずよってまた延引す。(後略)
四月二十八日 曇 昨夜来小風邪にて臥床。写真者宿に来て余と彦太郎連座の体を写す。
晩刻近処の骨董店にて朱檀卓唐枕盆等を求む。十字過乗艦。
ガラス板写真て詳しく分からないが裏表が逆になる事ってあるのかなぁ
松子と峯(後に青甫の嫁になる木戸家女中頭さん)等の写ってるのとか
着物の上前が逆になってるのが数枚あるけど
今のフィルム写真と同じで、焼き増しするときうっかり裏焼きとかはありそうだね。
そういや目録によると、木戸が亡くなって正二郎が跡を継ぐとき、
木戸が保護してた三歳の男の子を養子に出してる。
あれが例の門前の捨て子かな。
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/10(木) 23:24:34.20 ID:wWs5qo2F0
なんかさ、写真の中に顔を引っかいて消してあったの合ったよね。
2枚ぐらいあったと思うが。なんか怖いな。貴重な写真を破いてまで見たくない顔だった
わけでしょ?
当時は、写真に写ると魂を抜かれるという迷信があったために、
その人物を守るために削られることがあったらしい。
そのほか、手が大きくなるという迷信もあり、
手を隠したり、手を後から塗りつぶしたりした写真も多いという。
相変わらず安易な断定しすぎ。
あの写真に女性三人と不自然な位置に男が一人写ってるのは
三人で写したら真ん中の人が早く死ぬという迷信のため四人で写したんだろう。
ところで、東北関東の方は地震でえらい被害が出てるけど千葉の歴博あたりは大丈夫なのだろうか。
歴博のサイトに今日から月曜まで休館して安全確認や展示場の復旧を行う旨告知がしてある。
関東もかなり揺れたからな
みんな博物館見学どころではないし、展示場も乱れたことだろう
ここは管理に万全を期してもらいたい
桂のエピソードで地震があったので津波を警戒して
周りのみんなと逃げたが練兵館?に残ったほうがいいと言い出すやつらが
いて仲間たちだけで逃げた。
ってのがあったな。津波は来なかったけど寮が潰れて逃げなかった人たちが
亡くなったって奴。
安政の大地震かな。藤田東湖が母親を助けに家に戻って亡くなったんだっけ。
吉田栄太郎が藩邸の復旧に活躍したと読んだ気がする。
幕末も結構地震あったよね。土佐の方でもあった気がする。
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/15(火) 19:30:06.00 ID:d5xoHl920
あげ
小五郎が今関東にいたらダッシュで長崎あたりへ逃げそうだな
生き残る奴は頭いいよ
自分は決断遅いとつくづく思う停電後の夕暮れ
>>153 氏ねよ
本物の桂小五郎(松菊木戸孝允)だったら、一気に東北に長州軍(官軍)を攻め込ませて、さっさと配下に置くな。
そのほうが東北民も厳しい厳しい身分差別や東北武士によるレイプから解放されて断然嬉しかろう。
もしかしていつもの人?
桂は長州人包囲網が敷かれた京都から皆が撤退していく中でギリギリまで居続けたんだし、
今の状況でも避難勧告受けるまで、仕事ならどこにでも居続けるだろ
156 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/16(水) 18:50:10.25 ID:rnXXp8LX0
「いつもの人」ってのは誰を指してんの?
あんまりへんなのはいつものとちがうだろ
あちらはへんだしかまってちゃんだが悪意はない
悪質なあおりはスルーで
図録2ページ目の正二郎と松子が腰掛けて写してる写真
正二郎の幼さと京都で写している事から明治元年8月末〜明治2年6月のはず
松子は『葉菊菱』の紋付の着物着ているようだから
木戸さんこの頃もうこの『家紋』使ってたんだ
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/18(金) 19:15:32.23 ID:U1BZdiUF0
逃げの小五郎ってあだ名はどういう状態を指してるのかね。
危険を顧みずに京都に潜入して新撰組から逃げまくってた状態の事なら格好いいけど
禁門の変とかクーデター時に逃げまくってたことから付いてたら格好悪いあだ名になるなあ。
160 :
忍法帖【Lv=3,xxxP】 :2011/03/18(金) 19:28:33.07 ID:MkDKYW090
大室
>>158 もしかして改名したときに紋も改めたのかな。
>>159 低脳国賊くんもいい加減しつこいね。
「逃げの小五郎」は、反長州史観の国賊司馬遼太郎が但馬出石での潜伏生活を名誉毀損するために作った小説タイトル。
それを更に反長州史観・反木戸史観の国賊ども(国賊NHK含む)が木戸様のあらゆることに「逃げ」のイメージを故意におっかぶせて名誉毀損し続けているだけ。
まともな人間なら、政治的亡命者を「逃げの」などと名誉毀損することなどあり得ない。
ましてや京都に近い但馬出石でわざわざ潜伏している者を。
ましてや蛤御門の変後も乞食に身をやつしてまで今日で3日間も潜伏生活を送っていた者を。
へんなのにはかまうなっていうのに
「逃げの小五郎」、というより「殿(しんがり)の小五郎」と言った方がしっくり来る気がする
小五郎の時は逃げてないよなあ。
孝允の時は逃げてるけど。
そして捕まるけど。
166 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 06:43:08.69 ID:HRVWUHpL0
>>165 小五郎のときも一回辞表だして藩主に呼び戻されたりしてたと思う。
>>166 そのとき世子公からの手紙持ってきたの高杉じゃなかったっけ。
文久のころすねた高杉を京都に呼び出すのに聞多つかったりとか、
世子公のやることはいちいちツボがわかってる感じで面白い。
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 17:01:23.42 ID:HRVWUHpL0
明治以後の政治的逃亡にどんな意味があったのかで評価変わるよね。
大久保にたいする牽制だったんだろうけど。取り様によっては
普通に逃げてるだけにも見えるからなあ。
>>168 実際に病死することになる脳の病気を「政治的逃亡」などとは決して言わんのよ、ふつうのまともな人は。
キミ、「低脳国賊」と言われるだけのことは十分あるよ。十分重症過ぎると思う。
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/20(日) 12:31:03.99 ID:8xG12lbq0
じゃあ明治になって要職につくのを散々断ったのはただ
病気だったってだけだと思うの。
木戸が逃亡したかったのは「内閣」からだよ。
下野した後も、政治的な行動はちゃんとしてる。
ただ藩閥政治の中心にいると、思うように動けないからね。
そういう窮屈な環境から逃げたしたかったのは確かかもしれない。
今の与党見てればわかるでしょ。
小沢=大久保
菅=木戸
って感じかな。菅に例えたら木戸がかわいそうだけど、まあ例えとして。
菅もいろいろ変えていきたいんだろうけど、小沢のわけのわからん存在感が
邪魔して思うようにいかない、って感じ?
大久保のやり方が間違ってると思っても、同じ与党だからあからさまに対立もできない。
対外的には閣内一致してるように見せなきゃならない。
佐賀の乱の時も内心木戸は江藤を殺したくなかったが、それを表には出さないで大久保の留守を担ってる。
でもそれが限界だったんだろうね。大久保が佐賀から戻ると途端に下野した。
木戸にもいろいろ葛藤があったんだと思うけど、その背景を理解しないで
ただ逃亡者と位置付けるのはかわいそうだよね。
小五郎の時も、本当にただの逃亡者ならさっさと京都から脱出してるだろ。
逃げの小五郎ってイメージ作った司馬さん、ほんと罪作りなひとですね。
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/21(月) 09:17:05.88 ID:6WNuxAsx0
藩閥政治外でなにしたかを書かないと意味のない文章だな
意味がないも何も、ここにいる人間は、木戸が小五郎時代から死ぬまでの履歴を
ある程度の知識としてもっているのが前提で書き込んでいるはずだから、
別にはしょっても問題ないと思ってたんだがな。
藩閥政治外でなにしてたかなんてのはすでに既出だし、
その程度の知識がないなら、半年どころか一年以上ロムってろというレベルだなw
気持ちは分かるが…スルー推奨
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/22(火) 00:31:24.63 ID:y9yfYf2k0
結局書かないんだよね。
>>171 小沢に例えられる大久保も可哀想だと一応つっこんでおくw
しかし何気に分かりやすい
あと恥ずかしながら司馬作品一切ノータッチの俺は
逃げの〜の言い出しっぺ?が司馬とは初めて知った
くそ、だからこんな浸透してんのかよ
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/22(火) 17:53:08.06 ID:y9yfYf2k0
逃げの〜ってのは当時から言われてたんじゃないの?
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/22(火) 18:37:23.12 ID:y9yfYf2k0
司馬小説とかだと禁門の変の時とかに戦地に赴かなかったのが
武士としてどうか。みたいな批判もあったな。
クーデターの時も長州に行かなかった
みたいに書いてたな。司馬小説では。
司馬は小説書いてる訳だから、別に何書いてようと関係ないんだよ
批判だなんだも結局個人の感想の域を出ない。これは論文系でもそうだけど
自分の意見としてそれを採るのは自由だが、他が有り得ないように考えるのは間違いだ
そこらへんよく考えて、とりあえず通りいっぺん勉強してから書き込んだら?
逃げの〜、って実際は何が初出なんだろうね。
当時から言われてたという史料はあるのか、後の世の創作なのか。
>>179 国賊司馬遼太郎はあり得ないプロットを勝手に妄想してあり得ない感想、というよりあり得ない名誉毀損をやrかしてるから問題なんだが。
ワシントンDCで駐米大使をやりながら、東京で首相をやれ、それができないのは臆病者だからだ!
とあり得ない主張をするいう名誉毀損キ●ガイみたいなもんだよ、国賊司馬遼太郎は。
坂の上の雲を書くにあたって「フィクションを一切禁じて書くことにした」
と自ら語った司馬はかなり問題ありだと思う
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/22(火) 22:11:18.99 ID:y9yfYf2k0
結局竜馬も司馬の竜馬が本物みたいになってるし。
司馬の影響力は凄いって事だろうな。
不満があるならやはりこのスレでテンプレかなにかで
司馬の書く木戸はここが創作であると示すべきなんだよね。
そういう事をしていかないといつまでも司馬の桂小五郎が
一般的な桂小五郎になるよ。当たり前の話なんだけどね。
184 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/22(火) 22:39:10.49 ID:y9yfYf2k0
ああそれと思ったんだけど、松陰と木戸が師弟関係ってのは
誰が広めたデマなのかね。司馬は木戸と松陰の小説なんてのは書いてないし。
今でも普通に木戸が松下村塾塾生みたいなイメージ強いもんな。
藩校で松陰と木戸が師弟関係だったのは事実だからなあ
その後は師弟というより友人だけどさ
木戸が村塾出身イメージを持たれている一番の原因は、
萩の松陰神社内の村塾(実物)に掲げてある塾生写真一覧に木戸がいるからだろう
小説や漫画やドラマなら疑う人もいるだろうけど、ああいう公式的な場の展示は疑わないだろうからなあ
ここは司馬の書く木戸を語るスレじゃない。
司馬が書く木戸が正しくても間違っていてもこのスレでは関係ない。
そんなくだらんテンプレつくる必要は全くない。
坂の上の雲に関する発言は知らないけど、名誉毀損だ何だ言ってたら創作なんて読めない訳で
世の中名誉毀損の歴史小説なんか溢れかえってる
早乙女みたいな電波も本出せちゃうんだから
創作と史実の区別がついてないのは問題だがそれは受け手の問題だよ
だから教えてちゃんもいい加減、司馬が小説家であり彼の作品は創作だと認識すべきだな
そういう意味では銀魂も竜馬も翔ぶも変わんないんだって
それこそ司馬のテンプレなんか司馬スレでやりゃあいいことだし
テンプレ作れるほど、繰り返し繰り返し司馬読んでる人はここにはそんなに居ないと思うw
逃げの小五郎は明治の講談本あたりが元なんだと思ってた何となく 痴遊とか
木戸が歴史の本でも村塾生とよく書かれてるのは、松菊木戸公伝にそう書いてあるからじゃないの
これは世間のイメージに惑わされた妻木氏の検証ミスだろうね
まあ、木戸が村塾生ではなく、明倫館での松陰の兵学の生徒であって、
しかし木戸は松陰を友人であると同時に師として敬愛していたってのは
このスレの常連ならほぼ間違いなく知ってることだよねえ
なんせ司馬でさえそういうこと書いてるからageたんでさえ知っているw
なのにageたんがなぜ執拗に師弟関係じゃないっていうのかは謎だけどw
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 06:55:26.02 ID:0nPYv7by0
師として敬愛してたってのはどうかな?あの時代年上には
「先生」とかつけて呼ぶ物でしょ。年上じゃなくてもつける場合あるし。
木戸は大村の事も先生と呼んでたりしたらしいし。それで師弟関係と
結論付けるのは早いと思う。落語家みたいなもんで関係ない人でも一応師匠っていっとけ
みたいな感じなんじゃないのかな。
ときどき思うんだけど、『木戸松菊公逸話』に出てくる、行方不明になった書きつけ、
どんなことが書いてあったのかね。今井太郎右衛門の談話にあるやつ。
北野天満宮の近くにあった古井戸に隠してそのまま埋もれた、ってことまでわかってんのに、
発掘されないのかな。もう掘り起こされて、価値もわからず焼かれてしまったのかなあ。
見つかったら幕末史的にすごい発見なのに。誰か探さないかね。
松陰の添削がいっぱい入った
桂の建言書草稿が残ってるんじゃなかったっけ。
ところでぐーぐるで『木戸松菊公逸話』タダで読めるよ。
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 17:34:48.41 ID:0nPYv7by0
ネットで木戸のまとめサイトみたいのたまにあるけど
大体女性が作ってるよな。やっぱその手の人たちは
高杉との友情とか松陰との師弟関係みたいのを重視してるみたいね。
気に入らねえなら自分で一次資料読んで作れよ
文句言うだけなら誰でも出来るんだよ
194 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 20:32:14.92 ID:Sn+t9vxa0
192を見てなぜ「文句」と捕らえるのかが分からないなあ。
俺は分析をしてるだけだよ。木戸の女性人気の要因の。
この手の仲間思いで友情に厚い木戸像ってどこから来たのかね。
竜馬がゆくあたりからかな。けど司馬はそういう風には書いてないよな。
>>194 木戸孝允日記・文書・関係文書を読むと仲間思いで友情に厚いことがよくわかります。
歴女と腐女子もごく稀に詳しく調べてマニアックなネタ拾ってくる奴がいるので侮れない。
だが大半はry
むしろ木戸が親切じゃないと評した仲間がいるなら教えて欲しいな
仲間思いじゃないと判断するんだから相当数いるんだろ?
そういや醒めた炎で、木戸は師への恩は忘れなかったが手塚律蔵だけには冷たかった、
みたいな記述あったけど、具体的にどういう根拠で冷たかったとのだろう?
何かそれが分かる書簡とかあるのかな。
(手塚も長州出身なのに)長州藩士に命を狙われたあたりのことなのかな。
もーageたんはぐーぐるぶっくすで
『史実考証木戸松菊公逸事』『史実参考木戸松菊公逸話』
どっちもタダで読めるから読んできなよ〜
買う必要もない、図書館にも行かなくていい、しかも文語じゃないよ
あんたの好きなラクしてオンラインで知識ゲットだよ
どうせ、正しい知識に基づいて突っ込んでも
聞いちゃいないか、歪めて受け取って的外れな反論してくるかだし
もーこの人はほっといて なんかおもろい話題ないのかね
>>198 でもさ、維新後も木戸と接触あるよね
何をもって冷たいって言ってるのかね。日記で熱く語ってないから?
『醒めた炎』って瀬脇に開明したことは書いてあったっけ?
単に、師と感じるほどの感化を受けることがなかったのかもね
内藤先生は若き日の師なわけだし、松陰、斎藤父子、江川太郎左衛門、中島三郎助なんかには、
相当大きなインパクト受けてるからなあ
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 23:43:16.14 ID:Sn+t9vxa0
松陰 斉藤 江川 中島
沢山師匠いるって基本矛盾してるからね。結局浅く広くなわけで。
強い師弟関係ってのとは真逆だよ。
今『醒めた炎』確認した。手塚は堀田が老中になってから忙しくなって
桂はほとんど神田孝平に習ってたんだね
木戸の日記の明治元年〜二年ごろって、外国係グループで行動してるときに
よく神田孝平出てくるよなあ
しかし村松剛のいう「冷淡」ってのが、単にほかの師匠に対するように
上へも置かないような丁寧な応対をしていないってだけなのか、
具体的に何か冷たいことしたのか、そこまではわからんねこれじゃ
なんか、手塚襲撃に久坂や高杉がからんでるんじゃ?ってな予断から来てるだけって気もする
お前、寂しい人間だな
>>187 伊藤痴遊じゃないよ。勝海舟による名誉毀損評論から。
それに国賊司馬遼太郎・国賊NHK大河ドラマの極めて悪質なところは、
「小説」「創作」という極めて不適切な形で現実の歴史人物に対する名誉毀損評論を恣意的にガンガン入れまくっている点。
桂さん好きです
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/24(木) 08:05:33.61 ID:6zqv+EgK0
>>204 つまり師匠の考えにドップリはまってないって事になるからね。
距離を取ってるって事だよ。日記とかの文章は関係ないよ。
師匠の考えに盲目的に従う方が珍しいと思うが。
間部要撃の件では、村塾生も殆ど全員が反対したわけで。
師匠の考えにドップリはまり
>>208の言い方借りるが盲目的に従うのだけが師弟関係ではないと思うのだけどなあ
それこそ浅い関係
ま、日記や書簡関係ないって言ってる時点で理解できんと思うが
日記と書簡に重きを置かないってのは、理解不能だなぁ
後期の大久保に送ってるいかにも他人行儀wな書簡ですら
滲み出る木戸の感情の現れが半端ないのに
筆まめな長州人が残してくれた宝の山を読まないなんてもったいない
日本の歴史上、一番世の中が変わったといってもよい時代
松蔭先生を師と仰ぎつつも、みんな師を飛び越えて時代を創っていきましたとさw
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 07:33:46.14 ID:92KdVZQI0
松陰は別に桂の事を弟子とは思ってないけどね。
忠太郎少年と一緒にうつってる袴姿の少年って、もしかして品川弥二郎の息子かな?
晩年、箱根に行く時、松子さんが弥二郎の嫁と息子を誘ったようだから(弥二郎は嫁が体弱いからと断った)
子供同士仲が良かったような気もするが…ちょっと想像広げすぎかな。
>>213 それっていつごろの話? 木戸さん死後の松子さんと忠太郎が京都から箱根へ行ったの?
ありえなくはないよね。
当時、藩閥っていうよりは互助会っていうか県人会的なノリで、長州出身者は連絡取り合ってたろうし、
そことつながっているかいないかで、東京での生き易さがぜんぜん違ってくる。
同じぐらいの年回りだったら、木戸さんが忠太郎の今後を考えて引き合わせてたって可能性はある。
木戸晩年の明治9年9月に木戸や正二郎達と箱根へ行った時の話です。
孝允死後、西京木屋町に居を移し母松子と一人二人の婢をかかえいとやすらかな月日を送る。
と、後に忠太郎は書いているので、松子は晩年京都を出て箱根へ行ったりする事もなかったのでは…。
ただ、好子が手紙に今年は東京に出てこられると聞き楽しみにしていますと書いているから
一度くらいは東京に出てきているかも…。
忠太郎は松子の死後東京に出て、一高から東京帝大理学部卒の理学士。満州鞍山の鉄鋼脈を発見しているが
少年の頃から文学に親しんで尾崎紅葉や柳田国男や小波等々文学畑の人々と親しく交流があったようです。
>>215 トン。少なくとも、友達にしよう作戦はあったんだろうね、木戸側に。
そういえば、青木→やじのヘンな書簡に、やじの奥さん体弱そうな話題があったような。
近デジ検索したら、忠太郎さんの書いた論文らしきものが出てくるんだよね。
どう考えても自分にはちんぷんかんぷんだろうから中身は見てないけどw
あ、松子さんと好子さん、手紙のやり取りあったんだ?
それってやっぱり孝正と結婚してから?
なんか木戸周辺の女性たちは、人間関係がいろいろありそうで構えてしまう
しかし木戸にとって好子はいったいどういう存在だったのか
妻忠氏が取り上げなかった手紙とかに何かないのかね
木戸の死後、正二郎と結婚させようと呼び寄せてるんだから
木戸の周辺の人間は当然存在を知っていたわけだし
>>217 孝正と結婚する前の明治14・5年頃から松子と忠太郎宛の手紙が何通か残ってる
この頃は孝正も正二郎も東京にいないよね
好子の存在は木戸が倒れてから知ったようにも感じられる所もあるんだよな
好子の戸籍は木戸死後きちんととしているようにも受け取れるし
でも芳子(本人の手紙はこの字)の「よし」は孝允の「よし」から名付けたとも思えるし
ホント好子に関しては謎だらけだ
関係文書3の概観に
手紙の記述から見て、引き取った好子の面倒も松子はみてるみたいとある
これはこの部分を書いた人の意見だから実際はわからないが。
教育のこともあるので他家に預けたとか?
木戸は(松子のぞく)生咲家の女性達の行儀をよく思ってなかったようだから、
実の娘は感化されないようによそにあずけてしまったのかな?
あるいは好子の存在はなかなか松子に言い出せなかっただけか…
手元に置いておくだけなら、拾ったwでも何でも理由付けはできる訳だし
他所に預けざるを得ない何かがあったんじゃないかとも思うし
単純に幾松さんに引け目があったんじゃないかとも思う
>>219 関係文書3では松子が洋行中の木戸に宛てた手紙に『子らも元気にしています』
とか書いているから、好子を養育しているようだ。と解題されているけど
河瀬英子や東一の事とも思えるね。
一番不思議なのは日記に一度も登場しない事。
箱根へ行く時や山口へ帰る時、松子さんを連れて行くときは下女や下僕も一緒だから
下女下僕の名も一緒に書かれているのに好子の名は無いからね…。
あの時代、正室以外の子でも問題ないし、松子さんには子がないのだから
松子さんに気を使う必要も全くないと思うけど。
図録見たけど東一やっぱり高杉に似てる
木戸と一緒のも松子と一緒のも
二人の太腿に手を置いて甘えん坊な様子がまた良い
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/28(月) 19:55:09.58 ID:SaanoVYo0
木戸の女性関係だけで結構盛り上がってるなあ。
このスレも女性が多いのか?
それにしても、忠太郎が明治5年生まれってことは、
例の萩ものがたりの、出石の女の産んだ隠し子説は完全に否定されるね
まああれはもともと、「ミネ」とかいう女の名前からしてあやしかったけど
図録の年表の好子の年齢が正しいとしたら、慶応2年生まれだから
好子のほうが出石の女の子ども説が出てもおかしくないのに誰も言ってないな
今まで気にする人がほとんどいなかったからだろうけど
どっちにしろ八重(スミ)の子どもだったら、それこそ木戸が引き取らないわけないよな
>>223 あーほんとだ、どっちも東一ひざに左手を置いてるね
母や祖父母らに思い切り可愛がられて育っただろうに
あの年でひとり東京に来てるんだから人恋しかったんだろうな
図録は印刷ミスが多いようだ。目録の改題等とは年月日が異なっているものが多々ある。
目録では、
好子は明治2年11月22日東京生まれ。写真の書かれている才もそうなので
明治2年生まれで間違いない。松子を東京に呼び寄せる前に東京でつくった子だろう。
忠太郎は目録改題では、
明治4年4月14日生まれ。本人も後年そう書いているから
これも明治四年京都生まれのはず。
トンクス
そっか好子さん二十歳で亡くなったってきいたよな
229 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 20:14:50.00 ID:+5RWpFvh0
この時代ってなぜか子供生まれる率低くない?
桂なんてとっかえひっかえ女いただろうに。一人だけって。
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 16:38:00.48 ID:b/F8pxMBO
木戸孝允は、一見、とっかえひっかえ女性がいたようにみえるが
実は、それほどでもなかったようです。
芸者と大騒ぎするが、それでお仕舞いで、それ以上のに発展しなかったことが常と思われます。
大久保や松方を忘れないであげてください
モテるということと肉体関係しまくりということとは別次元だもんな
薩摩→男好きだが妾も子も沢山
長州→女好きだが妾も子も少なめ(妾に関しては伊藤は除く)
というイメージ
相思相愛の夫婦は子育ての苦労をしなくていいと天から判断されるらしい。
山尾んとこ子だくさんじゃなかったっけ
あとちょっと後だが児玉源太郎!
木戸は一次資料に触れるほど、松子を大事にしていると感じる
忠太郎を育てて養子にしているし、松子の親にも月六両だか仕送りしている
弟の事を京都の槇村に頼んでいる手紙も確かあったよね
大恋愛で結ばれているから当然かもしれんけどね
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/31(木) 20:20:37.07 ID:Ers/IEDk0
この時代の金銭感覚って分からないよね。
木戸は伊藤が外国で帽子買って喜んでたのを叱ってたけど
嫁にプレゼントとかは送りまくってたんでしょ?
女に金使うのは仕方ないって常識だったのかな?
>木戸は伊藤が外国で帽子買って喜んでたのを叱ってたけど
そんなエピあるん? KWSKぷりーず
239 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/01(金) 18:00:52.84 ID:K0b3WXKS0
>>238 あれ?なかったっけ?使節団の時に伊藤が調子にのって
木戸が「あの伊藤は昔はなんたらといってなんたらだったものだが」
と嫌味をいったエピソード。
別に嫌みじゃないと思うが…
松菊逸話?だったかに誰かの談話で全文のってたと思うが、普通に伊藤が悪いと思ったのは自分だけなのかな
まあ取る人によって印象は違うのだろうが、
逸話を中途半端に紹介して作者は木戸sageしたいんだなあと思った文をみた事があるよ
それって、何両もするものすごい高価な煙草吸ってるって
贅沢の例を挙げて怒ってたやつじゃないの?
帽子の話なんて聞いたことないなあ。
単に煙草吸ったり帽子買ったりするぐらいで怒りゃせんでしょ
。
たぶん葉巻なんだろうけど、
高価な葉巻っていかにも思い上がりの象徴っぽいよね。
まああのころの伊藤は怒られても仕方ないよな。
木戸が女に金使ってる話ってあったかなぁ
使節団の時は嫁に土産ぐらいは買っただろうけど
自分の趣味の骨董品集めに一番金使ってる印象が強いけど
骨董屋めぐりも大好きだし
木戸が女に金使ってる話ってあったかなぁ
使節団の時は嫁に土産ぐらいは買っただろうけど
自分の趣味の骨董品集めに一番金使ってる印象が強いけど
骨董屋めぐりも大好きだし
244 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 03:45:07.80 ID:oaw0lkaS0
幾松は値札を確かめずに欲しいものを買うので
木戸はあとで支払いがたいへんだったそうだ。
値札が付いた商品を買うシステムって、明治後期に開店した三越あたりからじゃないの?
木戸が生きてた時代の日本には無かったと思うけど。
岩倉使節団が行った時期のパリでならあったかもしれないけどな。
>>244 松子の髪結いおタキの娘の話。『明治百話』篠田鉱造著より
とても派手っ気な奥様ですね。
あれが有名な京都の芸子あがりと思われぬくらいに江戸肌で、
御気前のよかったことは、買い物に値をお聞きになったことがない。
出入りの小間物屋が御通のお座敷へ物品をならべて置くと
「コレとコレとアレを」と仰って値段なんかお聞きにもならず、
「御勘定を」と女中が来る。スグ何百円でもお支払いになったそうです
お芝居がお好きで市川左団次贔屓であって、
芝居のはねた後で芝居茶屋へお招きになり門弟も一同に御酒を下され、
賑かに騒いでお帰りになり「アア面白かった」とよろこんでいられたそうです。
「おたき、外に廻らなければお前も猿若町へ連れてってやるよ」連れていかれ、
よく御維新の話もなさいまして、「殿様が非人のような姿をして、お尋ねになった時
まさかと思ったが、おれだと仰しゃったら声に覚えが、心に浸み込んでいるので
シガミついて泣いたものだよ。」と苦労と恐怖をよくしみじみお話になり
「いつ何時斬られて血染めになるかも知れないと覚悟はしていても
どうせ殺されるのなら、殿様のお名を汚さないよう」と神仏に念じていたお話を
髪を結いながらうかがっていると、気のせいか涙の目を見るような気がした。
それが殿様がお薨れになると、押込め隠居みたいになり、京都へお住まいになって…
あの御方は東京で死なしたかったと母がいつも申していました。
この本を参考にしているなら、どこにも木戸が松子の支払いに困ったとは書いていない。
政府トップの嫁が下々の者にあまり細かいケチな事も出来んと思うけど。
手紙では、夫婦で結構貸した金の心配をしている。
洋行の話が出た時なんか松子のドレス代六百円をどうするか夫婦で悩んで
松子は誰かにドレス借りるって言ってたと思う。
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 15:24:38.82 ID:qukv44q00
このスレって女性も多そうだから聞くけど。
幾松って女性に好かれる女性なの?それとも女性に嫌われる女性なの?
人気はあるのかな?嫌われそうな感じもするけど。
248 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 17:34:51.69 ID:jyGHSLgwO
松子夫人は、芸子上がりなので経済観念は、イマイチだった可能性はあるが、
木戸孝允ほどの人物が惚れこんだ女性。
しっかりしたところのある女性だったと思われる。
白馬の騎士・白馬の志士・白馬の元勲=桂小五郎・松菊木戸孝允
シンデレラ姫=幾松・松子・翠香院
>>247 「女ってスイーツな話が好きだよね?」って訊かれてるみたいでムカツク
あんまり意味ない質問するなよ白けるから
251 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 19:31:58.45 ID:qukv44q00
いやさ。
木戸が雲隠れしてる時に結婚した女性とかと幾松の関係とかどうなってんのかな?
って思うんだよね。あと後に木戸にたいして他の女性を紹介したりしてるんでしょ?幾松は。
そこあたりの感性がよく分からないんだよね。
ageにレスする必要はなし
>>240 自分も普通に伊藤が悪いと思ったよ。
伊藤は、むこうの踊り子さんが着てた服を見て、その生地が燃えるのかどうか試してみようって
火をつけたらしいことが逸話に出てた。
そりゃ木戸じゃなくても怒るわな。
>>253 伊藤博文だったけ?
日本をキリスト教国にしようとして、木戸に怒られたの。
いいかげんageやめろ
歴博展示5日再開&会期延長オメ
しかし9日の講演会は用事が入って行けない…orz
誰か行ったらレポたのんます
257 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/03(日) 11:58:11.07 ID:Ogw1SybH0
>>254 そう。しかも人前でこっぴどく起こられたらしい。
そのせいもあるんだろうね。大久保のほうに付いたのは。
>>248 幾松はかなり勝気だがしっかりした人だったと思う
幕末木戸を庇護し出石まで迎えに行き、木戸ほどの人が選んで添遂げ、
育てた忠太郎が頭脳明晰で人柄も素晴しかったそうだからね…
259 :
sage:2011/04/04(月) 09:33:37.13 ID:WWhR+tO70
GOOグルブックスで木戸松菊公逸話と木戸松菊公逸事が見つからない、というか
見方がわからないのは私だけでしょうか。。。
近隣の図書館には残念ながらないので読んでみたいのですが、教えていただけないでしょうか?
>>259 まずぐぐるのアカウントをつくる必要があります。
そのうえで、ぐぐるの「しょせき」を選び、「木戸松菊」で検索すれば出てきます。
クリックすると、横に「無料」とあり、その下の「だうんろど」をクリックすると、
自分のらいぶらりに追加され、オンらいんで閲覧することができます。
専用でばいすを持っていれば、そちらに移すこともできます。
ただし、ぐぐるぶくすには、場合により同じものが複数うぷされており、
無料だうんろどできるもの、一部だけみられるもの、
どちらもできないものなどがあったりもするようですのでご注意ください。
木戸は禁門の変の後の潜伏先を高杉にも教えてなかったんだよな。
その後、帰る時になっても高杉に教えてなかったみたいだし。
なにかしらあったんだろうな。
そりゃ潜伏してるのに「迎えに行くから居場所教えろ」ってやってる人に教えたら困るだろ
久坂みたいに駕籠で乗り付けかねんしw
禁門の変当時、木戸も高杉も長州俗論派から最も命を狙われてるから、
さすがに高杉には万一のことを考えて教えられなかったんだろう。
高杉のほうでもそれを察していて、
桂さんが潜伏先をこっそり教えそうなのは村田蔵六ぐらいだろう、と察しを付けてるぐらいだからな。
高杉に対しては信頼してはいるが信用はできないんだろう
ていうか、桂の行方を知ってるとしたら幾松か高杉だと、
誰でも思うからだろ。
ここで奇説を唱えてみる。
木戸は自分の立場を優位にするためにわざと高杉伊藤に
剣術の後輩を刺客として付きまとわせた。
帰ってきてそいつと高杉伊藤を仲裁させる事で
自分の立場を上げる作戦だった説。
どうだろう?今ぱっと思いついて意外とありえるんじゃないかな?って思ったんだけど。
>>266 キモ過ぎ。そんな気色悪いこと考えるのは会奸・奥羽越・旧幕側の血筋だけだろ。
スルー
>>266 なんで高杉たちが長府藩士&藩内攘夷派に狙われることになったのか
調べたほうがいいw
桂って薩長同盟する時藩内から嫌われまくったらしいけど。
桂の人気の推移ってどんな感じだったんだろうな。
まーた資料は小説ですか
毎度の事だが「〜らしいけど」の根拠資料も提示せずに、推論を書いたり意見を求める。
いい加減にやめたらどうだ?
せめて根拠資料を明らかにするぐらいは、意見を求める際の最低限のマナーだと思うが。
先頭に立つものには支持もあれば批判もあるのは当然
激動の時期にはさまざまな意見や考えが入り乱れぶつかり合うのも当然
意見の違いと好き嫌いは必ずしもイコールではないのも普通のこと
そんなこともわからんうえに、意見聞いといて聞く耳持たない奴には
なに突っ込んでも無駄だと思うが
つまりね民衆の支持があったのかが疑問なんだよね。
あれだけ民権を主張した木戸だけど当時の民衆はどう思ってたのかな?って
明治政府のことなんて民衆はなにも分からなかったのかな?
士族くずれぐらいが政治内容知ってただけなんだろうか?
とりあえず「新聞雑誌」の創刊事情について、
できればその後の各新聞による木戸関係の記事を調べろ
木戸が新聞を作った?ってのはなんとなく知ってるんだけど。
結局当時の新聞も富裕層にしか届いてないんじゃないの?
>>274 確かに民衆の多く、特に地方の農村(当時大半は農村だろうけど)漁村なんかは
自分たちがその日食べて暮らすのが精一杯で政治の事なぞ考える事もなかったかも…
支持・不支持なんて考えは元士族ぐらいしか持ってなかったかも
明治4年のサトウの証言では、旅の途中で出会った丹波の商人が
普仏戦争やらロンドンだニューヨークだという
とてもそいつらが興味をもちそうにない話題を持ちかけてきて
明らかに新聞雑誌を読んでいるためだとある
木戸は人民に政府の方針や海外の情報を伝え啓蒙するために新聞雑誌を創刊させ
できるだけ広く読まれるようにと周旋した
四境戦争の時もちらしを配って民衆に色々知らせた訳だしね
わざわざ民衆でもわかるような文章にするよう指示付きで
どうすれば民衆が読んでくれるかは考えてやってるでしょ
たしか府県によっては、役所で「新聞雑誌」や他の買い上げられた新聞が読めるようになっていた
そこで買うこともできたが立ち読みもできたはず
木戸は人民一般が時代の変化についてこられる状態ではないのを承知していた
なにしろ仲間の志士でさえ攘夷から離れられずにいる時代だ
だからこそ普通教育の徹底を志し人民への情報発信の方策を考えた
皇国を支えるべき人民が育つのを待って議会を開設するべきと考え
その準備として地方官会議を実施し村会町会を提案し
繋ぎとして有司による政治をコントロールするべく憲法の制定を目指した
忠孝の時代の人ではあるし今の民主主義とはちょっと違うが出口はほぼ同じ
>>279 四境戦争のころに、難局を乗り越えるには庶民の理解と支持が不可欠であると考え、
事実効果をあげたのが、その後の木戸の発想の原点だったんだろうね
明治初年の高官の中では図抜けてマスコミュニケーションの重要性を考えていたのでは
「ザンギリ頭を叩いてみれば」なんて、実際考えたのは誰だか知らないが
ああいうことも宣伝効果を期待して載せろってのは木戸の発想だろ
平賀源内的っていうか、武士っぽくない
実際の創刊にあたってはヒコに話を聞いたりブラックと話をしたりしたのも影響あったかも
283 :
sage:2011/04/07(木) 07:18:15.72 ID:UULZBujN0
>>260s
ありがとうございます。
さっそくやってみます!
けど一般庶民は西郷隆盛を支持してたわけでしょう?
「ザンギリ頭を叩いてみれば〜」と高杉の、「坊主頭を叩いてみれば安いスイカの音がする」は似てるよね。
よくある言い回しだったのか、もしくは彼らの周りで流行ってた言い回しだったのか。
そういうアンケートをとったという資料があるからそうレスしてるんだよね?
ちゃんとその資料が何かも書いてねw
ちなみに日本最初のブロマイドは木戸で飛ぶように売れたんだよね
妻木の公伝に日本初と書かれていたように思うが
木戸の生前から舞妓や芸子のブロマイドは出回っていたと
明治の古写真特集何かで読んだ
>>286 そりゃ西郷は写真とってないからな。
そんな事いったら西郷の銅像は結構早くから建てられたよね。
たしか奥さんが西郷はこんなんじゃないって言ったらしいから。
明治中に建ってたわけでしょ。
早くって西郷の死後20年も経ってからですが…
別に西郷に凄く人気があったことは否定しないけど
一般庶民が西郷支持だったという根拠が銅像なの?
ていうか新聞の話の流れでいきなり西郷支持を持ち出してくるってことは
当然単なる人気の話なんかじゃなくて西郷の政治思想を支持って話なんだよね?
そこの辺りもう少し分かりやすく説明してくれる?
一般庶民は政治思想とか理解してなかったんじゃないか?っていう話なんだけど。
士族とか富豪とかぐらいしか政治理解できなかったんじゃないかな?
伊藤の時代とかだとさ。伊藤がなくなった時国葬になって民衆が駆けつけたらしいじゃん。
山県は人気がなくて国民は誰も来なかったらしいけど。
で、西郷が木戸より民衆に支持された根拠となる資料は?
そういや、最初は大久保か木戸の銅像を上野に建てる予定だった、
と銅像の変遷についての本で読んだな。
結局は旧幕臣や在野の薩摩出身者が中心になって働きかけて西郷の像になったんだとかなんとか。
(政府の薩摩閥は遠慮してあまり働きかけなかったとか。ごめんうろ覚え)
伊藤の神戸の像の顛末はなんとなく聞いてたけど笑えるやら泣けるやらw
>>281 > なにしろ仲間の志士でさえ攘夷から離れられずにいる時代だ
それは、昭和戦後の、江戸幕府の不平等条約による屈服開港(実質的な植民地化)を無理やり隠蔽・擁護しようとする極めて悪質な反長州史観・反薩長史観。
「攘夷」は「鎖国」という意味では全くない。
そう誤解させたがっている曲学阿世のエセ学者が多いことは知っているが。
そこんところを間違えちゃいかんな、少なくとも木戸ファンは。
敵でない外国人となら積極的に交流・交易するし、
敵になりかねない外国人からも極力正確な情報を得るというのが、松陰以来、攘夷の志士たちの必然。
ていうより、兵法の基本。
木戸やその他の志士たちも、攘夷思想(清のように列強から植民地化されてしまうことには断固反対!という極めて自然発生的な思想)を捨てる理由は全くないと思う。
吉田寅次郎、桂小五郎、村田蔵六、高杉晋作、周布政之介の凄いところは、攘夷のためには(対等な)開国・留学が必要不可欠!と当初からあっさり考え実行していた点。
1858年の時点で吉田寅次郎、桂小五郎は攘夷のための留学希望者。のちに高杉も。更に長州ファイブも。
維新後も木戸は、攘夷のためには朝鮮を日本の味方にする必要があると松陰同様に考え、征韓論を明治政府で一番最初に提唱したりしているわけで。
更に、攘夷思想の最も現実的な基盤は、「即今攘夷」「破約攘夷」、すなわち不平等条約断固拒否→条約改正交渉なわけで、
明治政府の人間で攘夷思想をもっていなかった人間などただの一人もいないはず。
じゃ一応「封建的思考や排外主義から抜け出せないでいた」と訂正しとくわ
主君の土地を盗んだとか的外れな非難をする連中や
外国人追い出すべしと見境なくわめくようなやからに
木戸が手を焼いてたのは事実だからな
>>290 一般庶民は政治思想を持っていなかったという根拠と
政治思想を持っていないと西郷支持になるという根拠となった資料を教えて下さい
政治的な面でいえば、大久保が官の間ではともかく一般には専制的だと人気なかったのはガチで、
木戸は事実上唯一の大久保の対抗者として、
新聞購読層には実像以上に民権派として捉えられてたみたいだね。
西郷に期待してるのは、政府の開化政策がそもそも気にくわない連中で、おもに不平士族じゃね?
さてこの新聞購読層だけど、江戸時代の瓦版の流れと考えれば、案外広く読まれていただろう。
一般の農民はまだ難しかったかもしれないが、
豪農や村の顔役なんかは手に入れる機会さえあれば読んでておかしくない。
商人職人の類は、そう金を持ってなくても回し読みとかして読むだろう。
商人は情報が命だし、要人がどーしたこーしたなんて話なんざ庶民の娯楽のひとつだしな。
理解度は人により千差万別だろうが、みんな商売にかかわる政策や有名人の動向には興味津々だよ。
だからブロマイドが飛ぶように売れちゃったりするんだよ。
民権派としてってところがどうもなあ。板垣はすごい国民に人気のあった
政治家だったらしいけど。木戸はあんまそういうイメージがついてないし。
民権派としてのイメージね。
実際議会設置や憲法の必要を説いたのは木戸が早かったんだろうけど。
それがどれだけ理解されてたのかが微妙。板垣にいいところ全部持っていかれた幹事あるなあ。
結局何一つ資料は出せなくて吹いた
その板垣評価、戦後の民権運動評価に引きずられてないか?
木戸評価も戦後の評価に引きずられてるな、それ。
だいたい、木戸のような枢機の人物と、民権「運動家」を、民衆だってごっちゃにせんわ。
ソース;脳内
まぁsageられるようになっただけ進歩したageたんw
板垣に詳しいひといたら教えてほしいんだが、
民衆の板垣人気って木戸の生前からそんなにすごかったの?
なんとなく、木戸死後、西南戦争終結から自由党結成の14年あたりにかけて
盛り上がってったのかと思ってた。
民撰議院って言葉がわかりやすくて受けがいいのはわかるけど、
現代の歴史教科書で読んだときの印象ほど当時一般に影響もったわけではなくね?
結果的に後の伏線にはなったけどさ。
板垣って下野した後すぐに民権の建白書出してるんだよな。
どういう思想の変化だったんだろ。
変化って…あれは単に
「薩長以外の俺たち士族にも権力よこせー!」
って話じゃないの?
歴博の講演良かったよ
終始木戸を褒めてくれておりました
この講演で改めて思ったのは、木戸だけじゃなく来原も複雑な立場だったことと
彦太郎たちはあんな子供の内に留学したんだなあってこと
そら日本語に苦労するわ
この先生の話をもっと聞きたかったのでホールの使用時間制限が残念だった
うう…講演行きたかった…
来原の話、ぜひ詳しくレポたのんます!
レポは無理だけどw
来原一家と木戸の家族としての関係の話がメインだったよ
来原も養子で跡継ぎが他にいる微妙な立場の上、長井の事でフルボッコで自刃とか
知識としては知っていても話として改めて聞くとなんか可哀想だった
木戸との個人的な感情云々には特には触れず
木戸の死後に彦太郎が孝の字を使って改名したいと申請をしたという辺りを
もう少しゆっくり聞きたかったな
聞きながらなんか朝ドラの家族みたいなのを想像してしまったw
留学中は木戸に言われた日本語習得の為の手紙書きをめんどくさがっていた彦太郎が
木戸の死後は日本語習得の為に木戸のようにまめに日記を書くようになり
自分の子供にも日記を書くように言ったところでスタッフロールが流れました
トン! ほんと来原は気の毒…精神的に追い詰められちゃったんだろうね。
木戸にとって来原は友人だし洋式兵制導入の同志だし義兄弟だし、辛かっただろう。
彦太郎、伯父さん死んでから改心してがんばったんだw 日記にはそういう意味があったんだw
目録読んでると実母の死と伯父の死でダメダメ期間長かったようだけど。
そういや、やっぱり目録に、杉孫七郎(当時宮内省)が山尾に、
「彦太郎改名するなら、位階を与える儀式の都合もあるから届け早めにしたほうがいいよ」って手紙を出してたな。
しかし山尾、練兵館以来の付き合いで、治子さんや彦太郎のめんどうを見てやるぐらいに木戸と仲良しなのに
意外に今まで木戸との関係にあまり触れられてないよね。山尾の話は出なかったの?
山尾の名前はちょくちょく出てきたけど彦太郎絡みだね
留学の時(山尾の弟と同行)、木戸家相続&改名の時に尽力、好子ちゃんとの結婚
まあ勿論木戸の世話になった人という前振り付きだったけど
講演は、明治以降の木戸の功績や理念を紹介した後
木戸日記が代々書かれた理由=彦太郎が日記を書くに至った経緯、という流れなので
桂時代のことは家族絡み以外は言及してなかったよ
そういや好子ちゃんのことを木戸に似て冷静で頭のいい出来た人だったって説明してた
他にも色々と、何かここまで好意的に見て説明してくれる学者さんがいたのかと驚いた
正二郎留学前に井上の反対を振り切って正二郎を連れて帰藩したのは
留学前に幼い正二郎を母に会わせてあげたかったんだと思います、とかね
行って本当に良かったよ
あ、ごめん
山尾の名前が出てきたの好子ちゃんとの結婚じゃなくて寿栄子ちゃんとの結婚の間違い
地味だなあ。もっと大久保との対立とか西郷との対立とかそこあたり
語らないと一般受けしないだろうに。
講演面白かったねー
写真チョイスしたの、辛口コラムの人だったことが驚きだったよ…
山尾は彦太郎東大退学wの時の保証人でも出てきてたハズ
木戸と彦太郎正二郎の関係話をじっくり聞けてほっこりした
彦太郎の手紙のくだりは笑いが巻き起こってたねw人に見せたら笑われるとかw
たどたどしくてかわいかった
うわーんいいなーいいなーほんとに行きたかったよ講演…うらやましひ
講演録みたいなの歴博の発行物に載るかなあ?
>>311 木戸侯爵家寄贈資料展だから、そんな話はしない
315 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 22:33:32.53 ID:PQPrIKa90
「桂、じつに事をなすの才あり、胆略と学問乏しきは残念なり。 この節大いにくじけたるも胆、学、乏しきゆえなり」
松陰の桂評ってこうなってたんだな。大体は「事をなすの才あり」の部分だけとる事
多いけど。その後に否定の文章が長く続くんだな。
だから喧嘩してたときの評だけあげつらってそういうこといったのはS馬の桂サゲテクニック
松陰全集でも読んで出直してこいと何度いったらわかるんだ
なんで僕の過激な作戦に同意してくれないんだよこのヘタレ!ってだけの話で
それを本人評にされてもなあ
まあ他の資料を読めない理解できない人に何を言っても仕方ないけどw
318 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/10(日) 22:59:53.13 ID:PQPrIKa90
喧嘩というか、あれでしょ、松陰が藩主拉致を計画して
桂が松陰の弟子たちに松陰と会うなって言ってた時期でしょ?
そういう時期だからこそ本音なんじゃないの?
あんたはその評しか知らない癖にその時期も糞もないだろw
>写真チョイスしたの、辛口コラムの人だったことが驚きだったよ…
チョイスはよかったけど、
来原はる子の写真が無かったのが残念。
目録には翠香院と実母っていうのがあったから見たかった。
>>318 「枝葉を見て樹を見ず」ってこういうのをいうんだろうね……
しかも落ち葉か、原形をとどめないアレンジ生け花しか見てないしw
この時期の松陰の評価こそが本音だというならば、久坂高杉も手厳しく非難されてますが?
このあたりは人物評ってより松陰が精神的に追い詰められていた証にすぎない。
小説家が自分の構想通り物語を進めるために史料のおいしいとこだけ拾ってくるのはわかる。
だから貴兄も創作板か小説板に移動して、思う存分妄想を語ってください。
同じ主張するんでも、もうちっとベースになる知識が感じられる論でないと
論争でなく叩きになるだけだからこっちも疲れるんだわ。
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/11(月) 17:56:06.83 ID:vf5Ffi/q0
まあけど学問はなかったわけでしょ。松陰から見て。
>>322 本当は木戸はかなりの博学だったけどね。
324 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/11(月) 23:31:35.82 ID:vf5Ffi/q0
じゃあ木戸と松陰のつきあいってのは薄かったって事になるね。
木戸が博学だってのに松陰は気づかなかったわけだから。
ていうか学がなかったって評は絶交中以外に何があるの?
絶交中の評を本人評としたら高杉とかも酷いことになるよ?って話の流れの中で
「でも」って何に対する「でも」なの?ageたん?
すげぇや、その発想の飛躍(笑)
…こうやって構ってあげるから、ここに居着いてるんだろうな…
327 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/12(火) 08:04:57.75 ID:De7d1j5V0
あのねえ。俺は別に松陰が桂を低評価してた事をどうこう言うつもりはないんだよね。
俺は松陰自体がたいした事ないと思ってるから。
ただコレで松陰と桂の距離感が大体わかるでしょ。
それだけでわかるわけねーだろ
アホまるだしなこといつまでも主張してんじゃねえよ
>>327 松陰と桂に距離感があったかなかったかなんてはっきりとしたことは誰も言えない
ただこのことに限らず少しの資料だけで簡単に憶測で判断するのは危険だと思うよ
松陰というとどうしても松下村塾との関連から取り上げられることが多くて
その他は下田渡海以外はスルーされがちだけど、
実際には来原、周布、桂と連絡取り合っての
あと松島剛蔵とか山田亦介あたりもかな
長州藩への洋式兵制導入に果たした役割は小さくないよな。
そのあたりを知らずして桂と松陰の関係を云々するなんざ笑止千万。
あと、どこぞのスレで変なこといってたみたいだけど
学者としての能力識見と軍事指導者としての力は別物なw
むしろ村田蔵六みたいに両方の力があるのが例外だからw
>>330 激しく同意。
吉田寅次郎のいいところを受け継ぎ、足りないところを上手く補えたのが桂小五郎と村田蔵六。
>>331>>330 同意。
長州藩の大砲使って老中間部詮勝を天誅してたら、
さすがに、その直後(1858)に長州征伐を喰らって倒幕はなかっただろうからな。
幕府が異勅で勝手に結んだ安政の不平等条約に対する世間の反感が十分に高まってからでないと、
さすがに倒幕はやりにくかっただろうと思う。
「お上」意識の問題で、
幕府が無能な悪役という認識と、天皇・朝廷こそが本当の正義の味方という希望が十分に広まってからでないと、
有力な尊攘藩といえども大砲使って幕府と戦争やらかすのは無理・無謀。
この段階では、薩摩とか土佐とかはまだ藩としては長州に全然付いて来れてないし。
大体、陽明学の知行合一よろしく尊王攘夷を単純に実践してるだけでは
水戸藩尊攘派のように倒幕勢力になるまでには至らず、危険視され、孤立して粛正されてしまうだけ。
そういうことを敏感に察知して立ち回れる稀有な学と胆は、
桂小五郎と村田蔵六と周布政之助と高杉晋作あたりにしかなかったように思われる。
木戸って奇兵隊討伐についてはどう考えていたのかな?
かつての同志も中にはいたと思うんだが。
吉田松陰の牢屋友達で松下村塾の教師をしていた富永も追われていたが
残念だと考えていたのか仕方ないと思っていたのか。
高杉は奇兵隊が思った以上に力を持ちすぎてうぜーみたいに思ってたみたいだね
好き好んで作った訳じゃないって言い訳を前原にしてるし
前原は普通に奇兵隊嫌いだったみたいだし
でも木戸はどうだったんだろうね
「奇兵隊討伐」という言い方自体なにからなにまでまちがっとるがな
しかしあれだね あんたもこの話題大好きで何度も持ち出してる割に
四境戦争時の第二奇兵隊暴走処罰と脱退騒動と萩の乱がごっちゃになってそうなとことか
諸隊を「奇兵隊」って括ってしまってはばからないてきとーさとか
ぜんぜん進歩が見られないね
自分も脱退騒動についてはもっと知りたいから、興味のままに調べつくして教えてほしいわ
まあ、自分だって脱退騒動で討たれたのは諸隊のうちの
ほんの一部に過ぎないことぐらいは知ってるけどな
第二奇兵隊の暴走処罰といえば、先日ふらっと上月城跡(兵庫県の西の端)に行ってみたら、
山道口すぐ側に立石孫一郎の生誕地碑があってびっくりした。
てっきり長州出身だと思ってたんだが、
どういういきさつで他藩出身者が第二奇兵隊(の一部)を率いたんだろう。
赤根処刑のとばっちりで世良が謹慎してたあたりと繋がるのかな。
>>336 いつもageてる人とは別人じゃないか?
都合が悪い話だからってそんな噛みつかんでも。
木戸の不平士族の反乱に対する感想は「兵隊の驕慢はあたかも病後の薬毒の如し」だ。
政治のためとはいえ冷たいねえ。
酷い自演を見た
木戸はいろいろ書き残しているので、論者にとって都合のいい一部分だけ取り出して証拠と言い立てやすい。
しかしそのような取り上げかたで語れる一面的な人物ではない。
ageたんの他にもいるんかい……
この話題はよく紛糾するねえ
>>337 親戚(立石家)が昔毛利の家臣だったみたいだね
地元にいられなくなって色々あってその伝を頼って奇兵隊に入ったっぽい
井汲の剣の弟子だったという説もあるみたいだから
ひょっとしたらそっちの伝もあったかもしれないが、まあ想像の域を出ないかなあ
>>339 マンセーじゃなきゃ自演扱いか。
まあいいけど。
だって相変わらず奇兵隊討と不平士族の反乱を一緒にしてるから
>>336 別に都合が悪いから文句つけているわけではないよ。
脱退騒動について、もっと実情を知りたいってのは自分の本音。
だれだって完璧ではないし、木戸にはある面では情を切り捨てる中央の政治家としての考えがあるのも事実。
あと感情が激しいのもなw
だけど、中途半端な視点から、からかい半分に論じるのはちがうと思うし、
政治的な論理だけで討たれたほうを自業自得とだけいうのもまずいけど、
それこそ判官びいきで権力側は悪という見方も一面的すぎるだろ。
兵が武器を持って乱を起こしたら、権力側としては鎮圧するしかない。
慰撫に応じた連中は処罰したわけじゃないんだろ。
木戸は、脱退騒動の前にも兵への対応には十分気をつけるよう藩へ申し入れているし、
鎮圧後も他の兵たちの処遇に心を砕いている。
萩の乱の頃だって士族授産に力をそそいでいる。
そういう事実を知っているから、なおさらね。
完璧にはできなかったかもしれないけど、それこそ誰もが完璧ではないだろ。
前原って士族のために何かやったのか?って、萩の乱に関しては思ってしまうなあ。
>>342 なるほど。
ああいう場所に生まれ育ったらアンチ毛利になりそうだが(七難八苦的な意味で)
毛利の元家臣が親戚だったのね
地元に居られなくなったとは…ちょっと調べてくる。ありがとう
347 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/13(水) 22:58:02.55 ID:cv/pUTwl0
高杉と前原って結構繋がりがあるみたいだね。このスレとか
高杉晋作のスレ見る限り。で前原は木戸を憎んでたと。
いっとくけど前原が木戸に隔意をいだくようになったのは戊辰戦争あたりからな
木戸は自分が北越戦線に直接行こうとしたり、それが却下されても手紙や金送って
前原の誤解だかを解くよう努めているけれど
どうもどこかの時点でのことを全体にあてはめたがる人がいて困るわ
349 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/14(木) 07:54:36.36 ID:mwPr3xpW0
松陰と一時の繋がりがあっただけで生涯の友人としたりするのと一緒だね。
その手の挑発は木戸日記と文書系一通り読んでからにしてねageたん
事実に基づいてないと挑発というよりは妄想だからね
それも出来ないなら小説スレ行ってね
351 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/14(木) 20:31:46.66 ID:SAr+SusC0
それと前原については一時の関係悪化までであそこまでするとは
思えないから。維新前から木戸に対してはなにかしら溜まってたんだと思う。
萩の乱も自分が立てば松下村塾派が味方すると思ってたんだろうなあ。
ageたんがあまりageなくなったから新しい渾名としてSS(ソース司馬)たん
っていうのはどうだろうと考えていたんだが、またageるようになってしまったんだな
それはともかく、前原は桂が前原の世話をうっかり忘れてたのを恨んでたりして
とか思ったが、それじゃあまりにも前原が小物すぎるので却下したw
>>351>>352 前原は、木戸個人に謀反を起こしたわけじゃなくて「有司専制」(代表格は大久保利通)に謀反を起こしたわけだから、
前原個人は、同様に「有司専制」に反対の木戸を援護射撃したつもりなんじゃないのか?
>>351 イミフw
予想以上に開明的な明治維新政府に、
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
となって下野してたところを
更に反政府運動の首領に担ぎ上げられてしまった薩長の代表格が前原誠司と西郷隆盛ってだけ。
何しろ開明的なはずの江藤新平ですら反政府運動の首領に担ぎ上げられちゃうんだから。
とにかく、彼らは彼らなりに不平氏族のガス抜き役として大いに明治日本に貢献したと言えるだろう。
なにしろ江戸幕府に変わって薩長土肥幕府になっても全然おかしくなかったところを、
薩長土肥中心とは言え四民平等・人材主義の近代的な政府になりつつあったわけだから。
354 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/14(木) 23:49:43.36 ID:SAr+SusC0
>>353 萩の乱の決起文では木戸を名指しで批判してたんじゃなかったっけ?
後、前原は木戸の目の前で処刑されたってのがあったんだけど、これは本当かね。
裁判とか江藤の例にならって東京でやらずにその場でやったんだろうけど。
大久保が江藤を処刑したのをあれだけ怒ってたのに。木戸はどう気持ちの整理つけたのかね。
>>353 前原誠司になっとるww前原一誠と漢字一字違いだから間違えやすいね
>>354 その場ってどこのこと?
逃走中に捕まった場所のこと?
>>354 萩の乱のときは木戸現地に行ってないっしょ? ずっと体の調子悪いんじゃね?
前原は萩で処刑されてるから立ち会ってない。
358 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 08:21:26.94 ID:lwsvEh3N0
>>357 そうなの?ネットで見たサイトに書いてあっただけだから
多分そのサイトが間違いだったんだと思う
>ネットで見たサイト
>ネットで見たサイト
>ネットで見たサイト
>>358 ネットにしろ書籍にしろ、裏づけもせずに
木戸を悪の黒幕的アレンジで書いてるのけっこう多いからね。
木戸に興味ない人は何も考えずそこからコピペしちゃうからなくならない。
だからこのスレの常連は「一次史料にあたるべし」っていいたくなるわけよ。
>>353 もしそうだとしたら前原が切なすぎるな>援護射撃
歴博で講演してくれた先生の本を読んでみようと思って調べてみたら高いw
図書館にあるかなあ
ていうか授業が木戸日記の解読って生徒が羨ましすぎる
363 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 20:58:19.97 ID:81k7CtRz0
でも結局前原は処刑しちゃってるんだよなあ。江藤ほど有能じゃなかったから
木戸もかばう気すら起きなかったのかもなあ。
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 23:09:29.43 ID:81k7CtRz0
後、思うんだけど正義党と俗論党の対立って本当にあったのかな?
ナガイが俗論党でしょ?けど周布とナガイって別に対立してなかったと思うんだが。
もちろん桂とナガイも対立してないでしょ?松陰とナガイは対立してたけど。
松下村塾派がかってに派閥作ってナガイ関係を追い落とした感じするんだよなあ。
久坂とかナガイを暗殺しようとしてたらしいが。桂からすると久坂はうざかっただろうなあ。
そういえば桂の師匠?の江川と松陰の師匠の象山は
犬猿の仲だったらしいね。
象山自身も江川の弟子ではあるが、江川が嫌ってたようだな。
もし、師に対してもあの尊大な態度で接してたのだとしたら嫌われるのもさもありなん。
先見あるのに理想高すぎて世渡り下手だよねぇ木戸さん。1番国民に根差した政治家なんだけどな。
先見と世渡りのバランスの良さは伊藤が最強かな。伊藤は来原・木戸・井上に代表される人運が半端ない。
けど桂さんも『いつの間にか』の出世だよね藩内で。上層部のお気に入り?
>>367 木戸さんは世渡りとか全然考えてないだろ、藩主に対してさえ意見が理解してもらえないとすねて引っ込む潔さなんだから。
木戸さん出世のトントン拍子っぷりは謎だよね
実力があったのだろうことは置いといて、特にコネがあった風でもないのに
練兵館塾頭ってのがよほど大きかったのか周布さんと気が合ったのが大きかったのか
松陰先生と仲が良かったのが大きかったのか
それほどトントンとは出世してないだろ。高杉クーデター後に一気に政界入り
するけど。それまでは役職的にはそれほどでもないような。有能ゆえに周布とかの
相談役になってたりはしただろうけど。
木戸さんの場合、人間関係から全てが本人の優秀さに尽きると思うけど
>>370 いや外交官的役職で長州の『顔』だよすでに。
人当たりが柔らかくてよかったのかな。でも不思議と伊藤と違って八方美人とはあんまり取られないね。
練兵館塾頭はすごいね。何で藩費から漏れたんだろ。病がちなのと、元が士族じゃないからかな。
長井雅楽からも桂が必要って言われてた記憶がある。
>>372 有能若手官僚って感じでしょ。クーデター後に長州藩内閣に仲間入りって感じだと
思うけど。
>>374 違う。少なくともすでに内閣には入っている。
他藩との関わりが1番多い役職なんだから。
外務大臣的な。それがクーデター後に総理になった。
クーデター前にとっくに藩の中核は担ってるよ
文久2年の、航海遠略策の阻止や薩摩藩との調整のあたりから藩政機務に関わってるね。
藩論転換後の7月には行相府の右筆・政務座副役となり完全に内閣入り。同じ月に学習院用掛任命。
クーデター前は
周布と長井の連立政権って感じで松陰はテレビタックル出てくる政治批評家みたいな位置。
クーデター後は
山田宇右衛門が総理で桂は官房長官とか幹事長とかそんな感じかな。
378 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 21:11:44.24 ID:qPjj1MKg0
松陰って密航の件がなかったら長州の政界に入ってたのかな?
軍学者だからまた別物なのかね。
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/21(木) 08:20:20.11 ID:3iSMKiGy0
あげ
>>377 長井が生きてた頃は、航海遠略策を周旋する役で働いてたと思う。桂。
藩命で。
381 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 21:18:43.21 ID:qUOHkzC60
周布と桂で水戸の浪士の前で長井を褒めまくってたとかあったけど
>>378 密航の件が無くても何かしらやってそうな気がするw
384 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/23(土) 20:14:43.65 ID:hYJkO8DY0
桂って別に長井と敵対してたわけじゃないんだよなあ
松陰は長井と敵対したけど
>>384 敵対はしてないが対立はした。政治上の意見が違ったから。
それが藩命である限り、当然のこととして桂は長井の政策に沿って動く。
一方で反論を変えるための活動もしている。
ただ、それは長井を殺そうと思ってやってたわけではなく、
長井の政策がまずいと思ったからやっていただけ。殺そうと思うほどの対立ではない。
もともとは桂はそういうこと考えるタイプじゃない。
木戸は残酷なことがきらいだった、ってのは伊藤の証言にもあるね。
ところで、長井が航海遠略策を持ち出したのって、松陰の死後じゃなかったっけ?
たまたま、松陰の入獄を促す幕府の命を国元に持ってくる役回りになっただけで、
それ以前に松陰と敵対するようなことって何かあったか?
>>385 長井はは久坂等松下村塾出身者に敵視されたけど
松陰自身に敵視されていたかな?
>>386 結論から言えば、その事実はないね。長井は特に保守派ってわけでもないし。
晩年に松陰が藩政関係者について愚痴ってたのは、むしろ自分に近いのに自策を取り上げてくれない周布とかっしょ。
で、航海遠略策が藩論になったのは松陰死後の文久元年。この時点では周布もこの策に賛成。
松陰江戸送りの際の経緯への誤解もあって(誤解だと言ったのは桂だが)村塾生に必要以上に敵視されたが、
実際に松陰と何かあったわけではない。
桂は、航海遠略策に反対って意味では村塾生(特に久坂)と同論だったけど、
政策への評価と本人への評価をきちんと区別できる冷静さがあったってことだね。
↑なことを書きつつ思ったんだが。
俗論党への処分を要請することで、椋梨の斬首には木戸も関わったわけだが、
基本的にはこういう、政策の違いが殺し合いになる事態は、避けたいと思っていたろうなあ…
と、後年の江藤がらみのことなど思うと、強く感じる。
そういうことを解消しないと、たとえば三権分立みたいな考えも、成立しなくなっちゃうしね。
389 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/24(日) 09:53:59.75 ID:DsVeXCPZ0
松陰江戸送りの件で因縁あるわけじゃん。それに松陰を牢に入れたのも
長井じゃなかったっけ?違ったっけ?
>>389 萩の野山獄に入れたのは長井関係ない。
むしろ松陰に近い藩要路たちが松陰を守るために入れたといってもいい。
その後の、江戸送りの幕命を運ぶ使者に、たまたま長井がなっちゃっただけ。
それを、長井のせいだと思い込んで怒ったのは塾生たちで、松陰ではない。
現実的には、この時点で藩として幕命に逆らうとかあり得ないし。
長井が幕府に松陰の江戸送りを促すとか、藩の恥となるような活動をするわけもない。
そのへんの事情がよくわかっている桂は、当時長井の関与をはっきり否定している。
391 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/24(日) 11:32:02.70 ID:DsVeXCPZ0
じゃあ松陰の長井評みたいのはないの?松陰と長井も会ったことあるでしょ。
たしか江戸送り前に松陰と長井で会ってなかったっけ?
一人で二回線使ってるの?
なんでageは自分で調べるってことが出来ないんだろう
歴博講演で貰った年表を見てて初めて知ったんだけど文譲って江戸で病没したんだね
藩邸にでもいたんだろうか?
>>394 江戸藩邸にいたよ。どの屋敷だったかな?
桂はその頃沿岸警護の任についていて江戸に居らず、
藩邸の誰かに看病を頼んだが、甲斐なく文譲は亡くなってしまった。
ありがとう
義兄とはいえ親子程の年齢差があるし家族が同じ江戸にいてくれたのは
精神的な支えになってたかもね
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/25(月) 21:54:15.40 ID:pZemQO5m0
昔の時代だから気軽に話せる人ではないんじゃね?
まして木戸なんか礼儀正しいわけだから歳の離れた義兄なんて
作法がめんどくて会うのもしんどそう。
ageたんには聞いてません
いつ文譲が江戸に来たかはよくわからんが藩命でとあるな。
文書一の三が桂→文譲宛の手紙で、安政元年(嘉永七年)三月付と推定されているやつ、
「こないだちょっと話しましたけど、粟屋って因藩の人が江川塾入りたいって僕に相談してきてて
僕がぐずぐずしちゃってたんです。五月に戻れるかよくわからないし
その間すみませんがよろしくお願いします」みたいなことが書いてある。
これは多分、文譲が江戸藩邸にいて、桂は相模だったか、相模へ行く前に斎藤塾から出してる手紙なんでは。
で、萩の友蔵さんに文譲が亡くなったことについて手紙書いたのが十月。少なくとも七か月以上江戸にいたんだろう。
同じく六月に、山縣弥八宛に看病を感謝する手紙がある。
↑最後の行の六月は十月の間違い スマソ
401 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/28(木) 22:16:54.27 ID:FYq4akxy0
梅田雲濱って久坂と高杉と大楽の事は語ってるのに桂のことは語ってないんだな。
会わなかったのか。もしくは大した人物ではないと思ったのか。
ageたんはまたどこぞのサイトから孫引きか
いや高杉スレから孫々引き
>>401 梅田雲濱はいかなる人物かよく分からないな。
どんな、人なの?
405 :
402:2011/04/30(土) 16:22:37.77 ID:KpEplRgM0
>>404 学者だろ。「妻は病床にふせ子は餓えに泣く」とかの人だろ。
ageたんはレス番すらまともに読めんのか…
松陰を語る際欠かせない人物だよな…ある意味>雲濱
大楽は一時期雲濱に師事してたんじゃなかったか?
師匠としては月性の方が大楽への影響大きいだろうけど。
あと、大楽は一時期咸宜園で学んでいるんだよね。咸宜園といえば、大村益次郎や、長三洲も学んでいる。
学問一筋の大村は置いといて、大楽と長は、長州の陪臣と天領日田の医者の息子という違いはあるが、
学問に長じながら尊王運動に身を投じて諸隊で書記をしたり、わりと似たような経歴を持つ。
年齢も近いし。大楽のほうがずっと過激だがw
戊辰あたりまでは似たような道をたどってるんだが、その後は
木戸の主要なブレーンとして「新封建論」を書いたりしている長と、士族解体に反発する大楽は対照的。
もちろん、同じ師に学んだからって同じ思想になるわけではないのは
松門みたいに師匠の個性がすごい場合だって同じだから当然なんだが、
なんか歴史の不思議さっていうか、当時の状況の複雑さやら何やら感じてしまう。
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/30(土) 20:06:08.38 ID:kBAOw35B0
梅田のせいで松陰は安政の大獄で捕まったわけでしょ。
松陰自体は梅田をそれほど評価しなかったらしいが実際の所は知らんけど。
もういい加減だれが評価したのしなかったのを基準に語るのやめれば?
しかも実際のところは知らんとかいいながら言うことに何の意味があるわけ?
そろそろ自分で史料や論文読んで判断しろよ
410 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/03(火) 17:06:24.34 ID:fMqtNiwH0
大政奉還から戊辰ぐらいまで木戸って基本表にでてないんだよなあ。
ここあたりで西郷と渡り合ってたらドラマ的に面白いのに。
でも、木戸は新政府のシステムの基本を殆ど考え創ったんだよね。
412 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/03(火) 18:42:23.71 ID:fMqtNiwH0
大政奉還→王政復古あたりは長州は表舞台(京都)に出れないしなあ。
大村が西郷と渡り合って(というか西郷が引いたというか)
ドラマ的に面白いんだからそれでいいじゃん。
最近の大河ドラマみたいになんでもかんでも無理矢理一人が活躍せんでも面白いドラマは出来る
414 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/03(火) 18:48:41.08 ID:fMqtNiwH0
大村対西郷は面白いので
裏で木戸と大久保あたりで対決してて欲しかったな。
ところで大村に官位が与えられてそれで大村が優位に動けた。
みたいな話あるけどあれは司馬だと大久保が動いたって書いてたんだけど
なぜ大久保はそこまで大村買ってたんだろ?木戸が動いたって事はないの?
その前に聞きたいんだが、いつになったら小説と史実を混同するのをやめるんだ?
416 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/04(水) 21:59:57.18 ID:aJ6OX6OL0
あげ
>>415 わかちゃいるけどやめられない。
人によつては分かってないからやめられない。
なんとなく過去スレ6〜から見たけど大久保の木戸感がわからない
なんだって木戸の辞職を阻止するのか。政治に必要と言っても
事あるごとに対立してるし。
いずれ起こる江藤や前原みたいな事態が怖いなら、むしろ井上が誘ってた渡米を反対する
理由なんて無いんじゃないの?
言い方は悪いけど大事な局面で悉く病気してる上
後半はホントに体調悪いんだから(実際死んでる訳で)政府の中枢においとくには
頼りない人間だったんじゃないの?
的中率抜群の先見の明とか思想の近代性は異常な才能はあったと思うけど…
大久保がそれを見抜いていたから政府から遠ざけたくなかったって
言う都合の良い解釈をしてもいいのかね
この間読んだ論文では国民に木戸の人気がありすぎたからみたいな推察してたな
木戸の政治思想が本人の意図するところ以上に偶像化されまくってたとか何とか
でも大久保が今でいう世論をそこまで気にするのかなあという気もする
ていうか気にするなら木戸の政策に少しでも協力してもいいだろとw
大久保は終始一貫して、政府を支えるには薩長の連携が必須と思っていたが、
伊藤ではとかくフリーダムな長州の連中をまとめるにはたよりない、
と思っていたのではないか。だから、広沢がいればまた違っていたろうな。
それから、上でも出てた人気の件。
民権派を看板にした新聞による政府叩きが相当激しくなっている時期。
自分たちの基盤が不安定であることを感じており、安定させるためには木戸という
「薩長連携磐石」「民権重視」のわかりやすい象徴を取り込む必要があり、
だからこそ大阪会議も実現したわけで。
土佐代表・議会派の板垣はオマケ扱いだがw
あと、案外あれで大久保は木戸の政策を拾っていると思う。
すぐにじゃないし、だいぶ変えちまうが。
地租減額もそうだし、木戸の死後に地方自治もなんかやってたよな。
議会的なものはまだ早いってぶっ潰すからわかりにくいがね。
もう一つ重要なのは、木戸はいくら大久保と意見が齟齬しようと、
政府の危機となれば必ず大久保と連携してきたし、
反政府活動やら反乱やらには終始一貫して批判的で距離を置き、
お誘いがあってもお断りしてきた、という実績がある。
板垣や江藤みたいな危なっかしさがないんだよな。
「政策上の反対」はしても、「反対のための反対」は絶対にしないし。
そういう意味では、大久保は木戸を理解し、信頼していたんだと思う。
421 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 17:45:24.51 ID:/wfgFEPQ0
木戸が庶民に人気だったってのは嘘くさいんだよな。
当時の人らが民権とか分かるとは思えないし。三権分立とかも。
庶民の人気で言えば西郷の方があっただろう。ていうか文明開化を
庶民が期待してたとも思えんしな。
木戸が支持されてたとしたらそれはインテリエリートとかじゃね?
学者とかある程度、法律とか海外の知識がアル奴じゃないと
木戸は支持しづらいと思う。
>>421 別に「庶民に人気」なんて話はしてないけど。
あくまで政治に関心のある新聞購読層や文化人、言論人の話。
顔はいいし、幾松とのロマンスも知られていたから、
けっこう庶民にも人気あったとは思うけど、まあそれは今の話題には関係ない。
ついでに言えば、西郷の庶民への人気の話はもっと関係ない。
庶民には人気ないってじゃあインテリエリートが木戸の写真を買いまくったのか
ageたんの妄想がキモすぎて吹いたw
424 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 18:21:52.23 ID:/wfgFEPQ0
そもそも当時の写真をまるで今のアイドルの写真みたいに扱うのはどうなの?
明治維新を成し遂げた人物の顔を見たいって事で売れたんでしょ?
今みたいにテレビがあって政治家の顔が知れ渡ってる時代じゃないんだよ。
顔見たいだけなら役所で写真の載ってる新聞か誰かの持ってる写真でも見て終らせるっつの
文化人がまじめな理由で買うだけなら、あんなに何種類も出ないだろ
あんなにいろんなの売られてたってのは自分も予想外だったがw
もう少し時代が下れば、婦人雑誌や少女雑誌で皇族華族はアイドル扱い
それこそ今みたいにアイドルが山ほどいる時代とはちがうんだぜ
427 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 19:20:31.71 ID:/wfgFEPQ0
>>425 当時の新聞に写真を載せる技術があったのかが甚だ疑問ではあるんだが。
明治維新成し遂げた人を見たいって理由なら大久保と西郷の写真も結構売れたのかな?
というか木戸の写真がどんだけ売れてたのか知らんけどw
政治家もアイドルなのかー、まあ、今のご時世もそんな感じではあるけど
四十路のおじさんのブロマイド馬鹿売れという字面が現代の感覚と違っているのを承知でも
こう…こみ上げるものが…
大久保さんも維新後の写真は威厳があって格好良いし、西郷さんも写真は無いけど人好きする顔だったのか
背丈も込みで三傑は見栄えするね。勿論政治家的意味でだけど
>>429 あのブロマイド写真撮ったのはギリギリ30代じゃないか?
去年の大河のタニショー木戸と同じぐらいの年齢だぞ!
フクヤマ龍馬や大久保トシミッチーなんかもうちょい上だぞ!
ブロマイドばか売れしてもちっともおかしかないぞ!
…なんか盛大に話がずれたな。大久保の木戸観の話してたんじゃなかったっけ。
431 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/07(土) 18:38:53.73 ID:XeVhaGMZ0
大久保と木戸の関係を知るには木戸の価値がどれだけあったのかだよね。
あくまで長州派閥の長として手元において置きたかっただけなのか、そうでないのか。
司馬小説とかだと大久保超有能なんで木戸に頼る必要性が見えないし
長州派閥でも木戸には西郷みたいな統率力ないって書きかたしてるから
木戸の重要性もなくなってくるんだよなあ。
>司馬小説とかだと
ageたんってさ、
司馬小説しか読んだ事なのに「俺、幕末にはちょっとうるさいよ」
って、学校でドヤ顔で自慢してる中2みたいだ
大河に便乗して発売される歴史ムックとか歴史小説の参考資料に、小説の名前が書いてあると、買う気がなくなる
小説は作者の創作だから、史実じゃないのに
大久保は有能だし迫力もあるが、絶対的な権力を持っていたわけではないだろ。
六年政変で政府がガタガタになったあと、かろうじて残った中で
有能で仕事大好きな連中を掻き集めて仕事させたのが大久保って感じだ。
あの前後から西南戦争終結まで、各地で反乱はあるわ一揆はあるわ対外問題は起こるわで
政府は常に不安定。それを何とか支えていたのはたいしたもんだと思うが
政権を安定させる(あるいはそう見せる)ために、木戸の取り込みも含めいろんな手を打ったんだとオモ
しかしいいかげん司馬を参照して疑問点を挙げるのはヤメロ
あれは薩摩中心大久保アゲ小説だから参考には ま っ た く ならない。
エンタメとして楽しんでおくにとどめてくれ。
大久保アゲ本を参照にするならせめて佐々木克氏の選書とかにしろや。
研究書の中では一般向けだし面白いと思う。
木戸との関係も大久保サイドからかなりわかりやすく書かれている。
小説といえば今さらながら山田市の小説を読んだ
参考文献の一次史料のなさには乾いた笑いしか出てこなかったが
木戸と市の関係は凄く良かったな
いくらなんでもここまで薩摩勢との確執がないわけないだろと突っ込みたい部分もあったが
偉大な先人たちから引き継いだものを後世に授け伝えていくという物語のテーマ的には
まあありかなと
このままの人物造形で作ってくれたら映画も楽しみだ
問題なのは
幕末の小説を読んだ事がある人の8割ぐらいが
司馬遼太郎の小説で
しかもそれ以外は読んでいないって事なんだよなあ
だから、司馬遼太郎の価値感で固まってしまう
小説自体はなかなか面白いからタチ悪かったりする
一端固まったら他の価値感を潜在的に取り入れなくなってしまう
おまえら文句言いつつもageたんの相手するよな
面倒見いいなw
437 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/08(日) 19:33:28.54 ID:wazv64V60
結局、面白い小説がないからなあ。面白いのがあれば読むんだが
木戸孝允日記を現代口語訳したら面白そうだけど
醒めた炎に挑戦してるけどやっぱ幕末明治とあるていど把握してないときついw
それでも桂木戸関連の描写が細かくてやめられない
特に幾松の手紙がツボってから俄然読むのが楽しくなってきた
(あと作り話は作り話ってちゃんと書いてくれるから助かる
龍馬VS桂の話とか千鳥母子の話とか)
孝明天皇のイメージも良い方へ変わったし、司書の人地下室に走ってもらって
借りた甲斐があった。ただいつ読み終わるのか
440 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/08(日) 21:32:37.03 ID:wazv64V60
俺も醒めた炎は読んでるけど三巻の王政復古のあたりで止めてしまったな。
文章が読みづらいんだよね。専門用語とかも堂々と使ってくるし。
うん…ほんとageたんは、小説板行ったほうがいいと思うよ…
A山K乃が『桂小五郎』の準備をしているらしいので、
まあ過去作での扱われ方からして変な書かれ方はしないだろうと期待してみる
でも明治はほとんど書いてくれんかもなあ…
河出からもうじき出るはずの大久保本には出てくるだろうけど
へーちょっと楽しみ
山田市んのも明治以降を期待して読んでたんだが・・
まぁアレはタイトルで悟れって感じか
>>441 マジで?まあ次から次へと…
つかA山女史ブログか何かやってたよな、探したらないんだが
大久保本も一生辿るならすごいハイスピード小説になりそうだしなーどうかねえ
論文や学術書ばっかで気晴らしに読むには好きだよこの人の。ぱっぱと読めるし
無駄に戦闘態勢で読んでしまう司馬や古川はもう疲れるわ
>>443 >無駄に戦闘態勢で読んでしまう司馬や古川はもう疲れるわ
あるあるww
でも「どんな悪口を書いてやがるか見てやんよ」とか思って結局読んじゃうw
空気読まずにあさっての話題で悪いんだけど、
木戸は和田のお姉さんたちとはどんな感じにつきあってたのかねぇ。
はるちゃんが姉さんたちと折合悪かったっぽいこと、
木戸がある程度「まあまあ」してたらしいことは手紙なんかから察しがつくけど、
木戸自身、姉さんたちのことはどの程度援助なりつきあいなりしてたんだろう。
スレ住人諸賢的に「常識じゃねえかそんなもん」な話題だったらすまない。
>>444 それは自分も知りたいなあ
木戸なら義理の姉さんとでも仲良くやってそうだけど。
例の歴博の目録読んだかぎりでは、文譲さんのあとつぎ文景(芳助)さんは
ふらふらしてあぶなっかしいような印象だったんだが
いまひとつしゃきっとしない甥っ子たちも木戸の頭痛の原因だったんだろうなw
てか木戸関係文書の続きを早く読みたいんだが。
和田さん一族はもちろんだが、
山尾とか山県とか山田とか広沢とか毛利一族とか
容堂公とか春嶽様とか福沢福地とか読みたくてたまらん
木戸が送った手紙よりも木戸が受け取った手紙の方が残ってる確率高いよな。
文譲が死んだとき芳助は17歳でぶらぶらしていて、木戸日記では次男の直二郎もぶらぶらしてるようだ
勝三郎は勤勉だったようだが禁門で亡くなってるからな…
和田家も明治になった時は財産食いつぶして裕福じゃ無かったかも…
明治になってから、木戸は芳助に仕事の世話をしてるから職には就いてるようだし
二水に頼んで嫁さんも世話してあげてるが…
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/09(月) 21:46:56.30 ID:cRG8iHmS0
「木戸の歴史的意義」とかより「木戸が肉親とかとどう接したか」みたいのに
興味ある人のレスが定期的にあるけど女性かな?
自分の中では理解できない感覚だわ。
ところで、今年も松菊祭が開催されるか知ってる人いる?
>>449 ありがとう!!
是非とも参加したいと思ってる。
>>449 松菊祭か・・・・・名前からしてカッコイイ
>>447 独り言はチラシの裏にでも書いてくれ
あともうsageないの?
木戸に興味のある人が集まる場所なんだから、木戸のプライベート面に興味湧く人がいてもおかしくないというか、極めて通常の感覚だと思うがなあ。これってミーハーなのか?
木戸の歴史的意義を語りたいなら、まず自分が小説以外の本を読んでこいよ…
一坂の木戸本ならageたんでも読めるんじゃない?あれもちょい問題あるけどw
てかその発言、場所が場所なら吊し上げられるからやめた方がいいぞww
んな生身の人間に興味ない奴の戯言なんざスルーしときゃいいよ
しかし、山口の甥っ子の仕事と結婚の面倒見て、海外の甥っ子と養子の日本語特訓し、
妻の甥っ子を養子にし、拾いっ子も養子にし、
恩師の子どもは養子にしたり仲人したり、後輩二人(伊藤青木)の離婚の後始末をし、
愛妻連れて殿様ズの宴会に行き、風雅の友と骨董品を漁り、植木屋と友達になってあちこちに植樹、
その上政府にあって大久保と議論をし四方八方に根回しし、新聞を創刊させ、
官吏や学者の家を急襲して意見を聞き、建言書を書くわ手紙を毎日山ほど書くわ、
さらにまた故郷で士族授産のために周旋し……って、木戸さん全方位フル回転ぱねぇわ
つねづね木戸さんと伊藤には加速装置ついてるんじゃないかって思ってるんだが
比べると大久保さんはやり手だけどスピードは普通に見える…
ageたんは肉親話辺りになると話について来られないからねぇ
ソースが司馬じゃあw
木戸はそこらが書かれた本がないから余計に知りたくなるんだよなー
木戸をよく書いてくれるのは比較的偏りのない人が多い気がするけど、たまに熱烈なファンが書いた本読みたいなと思ってしまうw
妻木とまでは言わないからさー
大河ドラマの主役にでもならんかぎり、脚光をあびることはないんだろうなあ
>官吏や学者の家を急襲
毎度毎度ここで笑ってしまうw
迷惑かけんなよとも思うけど凄くらしいんだよなぁ
本人居ない時にお邪魔しちゃってションボリしながら家帰ったりしたこともあったのかなーとか思うとすげー和む
>>455 今大河にしたら悲惨だぞ。
木戸は理由もなく非戦を喚き続けるだけなのに周りから総マンセー、
松子は名だたる志士からモテまくり、木戸の功績はほとんど松子のアイデアとかになるぞ。
>>454 >木戸をよく書いてくれるのは比較的偏りのない人が多い気がするけど、たまに熱烈なファンが書いた本読みたいなと思ってしまうw
大久保本における佐々木克先生の位置付けですねわかりますw
今青木自伝を読んでるんだが笑ってしまって仕方がない
彼が木戸小説を書けば良かったんだよ
青木自伝と関係文書1巻を読むと、青木のオンケルラブっぷりに笑うwww
>>457 巧妙が千代の事か
病気打撲で満身創痍、それでも漸進主義等の主張を孤立してでも押す所が良いのに
木戸に限らず対立する事に意義があるのに無理矢理主役を認めたり見直す演出が
多いよな大河。家康何人に恐れ入ってんだ
>>459 とんでもねーもんができんだろーがwww
こう言ったら怒られるんだろうけど、木戸孝允の価値観考えって結構現代人と近いから
昨今の大河の傾向からすると題材とするにはうってつけの人物じゃねと思ったりはする
>>462 木戸はイデオロギッシュなところが少ないから、
その考え方や価値観が、一時代が去った後でも普遍性を持ちうる=現代人とも近い よね。
まともな人に脚本・演出やらせれば、木戸布教のきっかけになる気はする。
ただうっかり田淵センセイにまかせたりすると、
木戸「やはり慶喜は斬らざるを得んか…」
幾松「待っとくれやす!あの人にも家族がフンダララー愛する人とフンダララースイーツスイーツ」
木戸「お前の言うとおりだ。愛は皇国を救うスイーツスイーツ」
西郷「まっことスイーツスイーツ」
……な感じに仕上がりそうな悪寒。
>本人居ない時にお邪魔しちゃってションボリしながら家帰ったりしたこともあったのかなー
けっこう日記に「伊藤んち行く。不在。」とか「後藤んち行く。不在。」とかあった気がするw
大河ねえ。スイーツはいい加減にしてほしいわホント。
ていうか、女のニーズまで今年は見誤ってるだろ確実に。
アツ姫のほうが今回よりはずーーーーーっとましじゃなかったか?
いちおう史実的にも目的もって大奥に送り込まれてる人物で、原作つきだったからな。
どうも最近の大河は、主人公ヨイショの仕方が一面的過ぎて萎える…
他キャラ下げなきゃ主人公アゲができないような下手くそな脚本やめてほしいわ。
それに、その時代を描けずにどこが大河ドラマだっちゅうねん。
幾松だって、君尾と組ませて勤皇芸者って感じにすれば、
女大河的にもいい感じのキャラに仕上がると思うんだがな。
分をわきまえた、しかし気概のある女性にしてほしい、ってのが贅沢な望みに思える今日この頃…
西郷「スイーツどん、もうここらでよか…」
まあ次大河で幕末、長州を扱うなら高杉あたりかなーとも思う
明治噛むなら伊藤とか
主役になって池田屋の屋根上ったり禁門の変で戦ってたり
征韓論争でピンピンしてたり宿敵大久保と厚い友情を誓うくらいなら
脇役でも良いから良い木戸像を見たい。龍馬伝もぼちぼち良かったし
その良い木戸像ってのがあやふやだからなあ。なにをもって良いとするかだなあ。
龍馬伝が良かったのは、木戸が酒好きで人の良い社交家だったとこ。
あの登場の仕方は衝撃だった♪
あと高杉との関係性がかなりちゃんと書かれていたのも珍しかった。
…こんな基本的なことで喜べちゃう木戸好きの不遇っぷり…
469 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/11(水) 23:20:53.84 ID:S2eixFCM0
大河では花神で頭丸めた高杉を見たときの木戸と幾松のリアクションが微笑ましかったなあ
>>459 青木がいくらやる気まんまんでオンケルを褒め称える小説を書いても、
いつの間にやら主役は青木自身になってるような気がするんだがw
幾松って頭は良かったのかな?木戸の仕事とかどれくらい理解してたんだろ
高杉の恋人は頭の悪い人だったらしいけど
>高杉の恋人は頭の悪い人だったらしいけど
また司馬ソースでっかw
ちゃんとした史料にソースあるなら教えてくれ
元々の頭の出来は置いといて、
あの頃の女性に「夫の仕事を理解する」ことは求められていなかったんじゃないかね。
むしろ賢しらに物知り顔する女房は悪妻扱いされる気がする。
だから仮にわかってたとしても、普通は
「女に何がわかりましょう」って素振りでいるだろうし、
外部から「あの奥さんは旦那の仕事内容をわかっているのか、いないのか」
を窺い知ることは困難じゃなかろうか。
そもそも女性の資料とかって残ってるの?当時日記とか書いてたのかな?
幾松が逃亡中の桂を助けてたってのは司馬の創作ではないの?
ミットフォードが雑誌に書いてるぐらいだから、明治初期によく知られた話だったのだろう。
まあ外国人が好きそうなエピソードだよなw ミットフォードってややドリーマーだしw
>>474 木戸日記・文書・関係文書を読めば松子の事も当然書かれているから資料としてはかなり残っているほうでは?
『逸話』では今井太郎右衛門さんが元治甲子の乱の後京都に潜伏している木戸に幾松は
今井家から弁当を作って運んだと証言している
芸者姿で潜伏先に来て注意されたり(それで幕府が小五郎の居場所特定)
維新後の買い物はっちゃけてたり手紙に落ち着きが無かったりで
武家の女性とか要人の妻って感じではないけど
禁門後もずっと桂を支援して出石まで迎えに来てくれたり
醒めたか松尾氏の本かで木戸には始終従順な女性だったって結論漬けてるよね
維新後夫婦であっちこっち行ってるあたり木戸もまんざらでも無いみたいだし
(癇癪起こして火鉢投げた時のアフターケアも確か松子じゃなかったっけ)
子供ができなかったのが悔やまれる
当時って結婚とか簡単に出来たものなの?身分とかうるさかった時代だと思うんだけど
普通だったら士族は士族と結婚してなおかついい所の坊ちゃんはいい所の嬢ちゃんと
結婚するものではなかったの?
基本は、士族の中でも似たような位置づけの家柄の人同士じゃなきゃ結婚しない。
木戸は松子を縁戚の岡部氏に養女にしてもらって結婚してる。身分違いの結婚の常套手段だよね。
まあ木戸はバツイチだから周囲の目も甘かったかもな。
松子さんは士族の中では評判のいい奥さんにはならなかったろうね。
もうちょっと時代が下ればちがってきたかもしれんが。でも外国人受けはよいだろう。
ミットフォードは、士族の奥さんの、控えめで夫に絶対服従的に見えるとこがやだったらしく
松子さんへの評価は高い。快活で、屈従的ではなく、むしろ自然に男たちの会話に参加してきて、
でも政治の話とかには口を出さない、って感じかな。
ミットフォードに限らず、当時の欧米人の日本人の女性に対する評価は、
「庶民の若い女性は気さくで物怖じしないけど、武家の女性は内気すぎるよね。
あと眉そったり歯を黒くしたりするのは勘弁してほしい」ってまとめられるな。
バツイチなんだよなあ。たしか松陰が江戸に送られたあたりで別れたんだっけ?
あの時代ってそう簡単に離婚とかできなさそうだけど、よほど桂は嫌われてたんだろうなあ。
まあ離婚したおかげでその後命知らずな行動取れたんだろうけど。
早いうちから妻子もちだったらまた変わってたかもな。
江戸時代って今より離婚率が高かったと言われてるんだけど
離婚が恥という認識も今より薄かった
>>480 >あの時代ってそう簡単に離婚とかできなさそうだけど、よほど桂は嫌われてたんだろうなあ。
むしろ「あの時代」だから、本人を好きとか嫌いとかだけで
くっついたり別れたりしないのでは?
一体桂か和田かどっちだよってな色々めんどくせえ家だから
出てっちゃったんじゃないか、という見方の人が多かった気がするが。
ageたんって木戸のこと嫌いなの?
ファンなら一次資料読みたくてたまらなくなると思うけど
小説はあくまで小説だから、資料読む気がないならここではロムっとくだけにしたほうがいいよ
婚約した時点でさえ会ったことがなかった
家には文譲の三人目の妻と、その妻とは血の繋がらない三人の息子、治子ちゃん一家
ついでに6才しか違わない養子
家の財産を管理してくれていた友藏は死んでいなくなった
18才
そこまで好きにならなかったと言われればそれまでだが、まあ普通に逃げるな
文譲が生きてたら別所帯だったのかなあ?
その場合治子ちゃん一家がどこに行くかわからないけど
桂と富子さん(だっけ?)そもそも嫌われるほどいっしょにいないよな。
あの家に和田のお姉さんと子ども3人(長男は桂と5つ違いか? 三男は桂養子)、
来原夫妻と子ども2人、使用人を除いて計8人の他人がいるわけだろ。
しかもあのころの桂は松陰が過激に走ってたり自分も体調崩したり大変だったから
嫁さんにかまってるどころじゃなかったろうなあ。
嫁さんが出てったのも桂がそれを放置したのもわかる気が。
しかしageたんってほんと木戸を孤高だか孤独だかにするのが好きなんだなw
あ、ごめん リロってなかった
桂は富子を気に入ってた
誰だっけかの手紙に「小五郎が気に入っていると聞いていたのに実家に帰ってると聞いて驚いてる」とあった
小五郎も実家に帰った富子の父に、そろそろ迎えに行こうか…みたいな手紙を書いてる
でも、帰ってこなかったのは、我慢できない何かがあったのだろう
ああ、その手紙湯治中に出したんじゃなかったっけ? 湯治にいっしょに行かなかったことは何か書いてあった?
家にいれば女同士の軋轢が少なからずあったろうし(治子さんって気が強そうだ…)
そんな中で桂が自分の側に立ってくれないような気がしたとか、そんなことかもなー
桂本人は中立のつもりでいても、より力を入れて嫁さんかばってやらなきゃダメだろうなこの場合w
しかもそんな簡単に実家帰っちゃうってことは、富子さん本人もよっぽど気が強いか逆に弱いかだわな。
江戸時代の離婚制度を上っ面だけググッたら武家の離婚率10%だって
(現在は2%、江戸時代の庶民は4%)
まあ理由は
>>484と
>>485だろうなあ
しかし富子さんと離縁せずに京都で幾松とうっかり大恋愛したらもれなく高杉ルートか
人間関係ネタを引っ張って悪いけど、木戸と幾松が維新後仲が悪かったって
ソースはどこから来たの?
10年間に距離をおいた事はあったかもしれないけど互いの手紙や
木戸死後の松子の様子見てるととても冷え切ったとは思えないんだけど
欝病木戸のイメージから勝手に想像されてたら腹立つなー
仲が悪かったら洋行に連れていくのにあんな乙女ちっくな照れ方しないと思う
>>490 ( ゚Д゚)ハァ?
照れるところがいいんじゃないか
照れるのが悪いとは言っとらんw
そういう俗説が一昔前はあったのだろうか、講談とかで。
『醒めた炎』の後書きもこんな大作書いてその締めがなんでこんなプライベートな話題なんだろうと
思ったけどそういう話が根強くあったからかもしれない。
(死後京都へやられたのも話の原因か)
ていうか木戸は他所に女作って子供までいるのに。
愛人がいたら夫婦は不仲なんて言ってたら偉人の大半が冷めた夫婦になるぞ
それを言ったら現代的感覚での仲が良いってのとも違うと思うけどね。
何がどう違うのか根拠を示してから述べてくれ
小説『幾松という女』で維新後二人は不仲で松子が浮気していたと書かれているが
これは昭和11年の『英傑群像』を参考に書いたようで
グーグルブックスでも読めるが本自体が信憑性の無い内容だった
明治から二人の物語は有名で当時から多数出版もされているがどの本も仲がいい
忠太郎氏が20代に書いた両親の思い出が『人物万華鏡』昭和42年朝日新聞社刊に載っているけど
父は夜は余の冷たき手足をその肌で温めてくれた等々(三人で川の字で寝てたようだし…)
夫婦仲は良かったとしか思えない
忠太郎氏は加茂川の清き水を仏前に供えること母の願いのため京に居を移すと書いている・・・
明治11年1月16日の読売新聞は翠香院先月28日西京木屋町へ着されて
日々招魂場の木戸公の墓へ怠らず参詣と書いている
霊山の墓地は舗装された今でもかなり急な坂道と斜面で木戸の墓はその一番上にあるので
当時は参拝するのもかなりたいへんだったはず
忠太郎氏の思い出でも母と墓参した事を書いているので松子は一途に木戸を慕っていた
やっぱり芸者さんだと子ども出来にくいのかな 一括りには出来ないだろうけど
木戸が種なしなのではとか、詳しくない頃には思ってたw
二人の間に子どもいたらなー惜しい(´・ω・`)
後、幕末で人間関係を論ずる時に手紙を過信するのは
ちょっと違うと思う
あれって現代でいうと
「これからの季節、朝夕冷え込んでまいりますのでお身体にお気をつけください。」
みたいな文章で
「ほらやっぱり木戸はこの人のことをこんなに心配してるから、仲がいいんだ」
って言ってるように見えるなあ。文章書いてるんだから本題に入る前に決まった文章とか
書くとおもうんだよね。
ならまず実際に文書を読んでから発言しようね^^
それほど日記や手紙に書いてないけど、けっこう一緒に行動してるんだよねえ木戸と松子さん。
奥さんのことこまごまと触れるもんじゃないとか、一緒に歩くもんじゃないとかいう時代だったから触れてないだけで、
井上と洋行話してるころには手紙でデレてるもんなw
聞多も鹿鳴館で夫婦連名の招待状だしてるぐらいだし、
夫婦二組一緒に洋行してたらもっとデレるようになったろうに残念。
明治二年の秋に箱根に引っ込んだときも松子さん一緒なんだよな。
押し掛けてったミットフォードが「二人はハッピー・カップル」と書いてるw
このときは木戸だけ体調悪いからと移動に竹の輿使ってて、マジ体悪かったらしい。
>>500 木戸と松子の手紙は本題がお互いを思い合ってる
「胃が弱いから寝しなに物を食べないように」とか
「松平に貸した金は返ってきたから心配しなくていいよ」とかw
ageたんのソースは司馬オンリーと思ってたけど、司馬に夫婦仲悪いとか書いてあったっけ
少なくとも、具体的なソース無しで「思う」だけの意見よりも、木戸日記と手紙の方が信憑性あるだろw
じゃあなんで入籍後不仲説なんてのが出てくるの?
調べたら松子が浮気をしたとか、木戸の姉との不仲説とかあるみたいだけど。
>>505 だから、不仲説の元は
>>498を読めばわかる
治子(木戸の妹)との不仲説は関係文書を読めばわかるが
木戸家に預け留学していた彦太郎が帰国後自堕落な事を松子に諫言され
木戸家の下僕下女にも馬鹿にされていると人から聞いた為
治子は武家の妻、下僕下女が主筋の彦太郎を馬鹿にするのは主婦たる松子が悪いと思ったらしいのと
元々芸者上がりの松子を信用していなかったようで、
「おば様はお前を罠にはめようとしている。その罠にかかってお前がへまをして
それをおじ様に告げ口されておじ様がそれを信じたら大変だ…」と彦太郎宛に書いているから
そのあたりからきたのだろうけど
木戸の手紙は何千通も残っていて、家族関係だけでも挨拶程度ではなく中身は濃く人間関係も簡単には言い表せない
また聞きの信憑性がはっきりしないサイトを調べるより
機会があれば是非日記手紙を読むことをお勧めする
本人及び関係者の日記手紙証言より
ソース不明のゴシップを信じたがるageたんには何を言っても無駄かと
木戸夫妻が不仲と言う説は初めて聞いたね。
人は悪い噂は立てたがるもの。話半分で聞いておきましょう。
ageたんは、西郷との華々しい対決とか、
近しい人びとから距離を置いて孤立とか、
さらに妻との不仲とお互いの浮気やらのゴシップとか、
史実とは関係ないドラマを妄想して楽しみたい人だもんねw
そして、そういう人のニーズに答えてがっぽり儲けようとする
性質の悪いゴシップマスゴミが存在するのは、
昔も今も同じだろw
>>509 まあこのスレの人たちは木戸がマスコミを作ったと大絶賛してたけどね。
さすがageたん
木戸が目指した新聞とゴシップの区別もつかないとはw
幾松って連絡係として仕事しながら情報収集とかしてたり
ちょっと特殊だよね。仕事上の付き合いって感じだったのかもな。
別に特殊じゃないよ
あの時期の色街の人はそういう形で政治参加してた
幕末の志士に協力した女性は、多い見たいね。
春を売る女性にも志を持った女性は、いたのだろうね。
>>512 >>513 >>514 ホントかね? 後年の講談じゃないの?
情報収集した事実なんか無いように思うけどな。
松子が木戸を庇護したのは事実だけど、
案外そこまでしたのも松子だけだったんじゃないのかなぁ。
梅ちゃんだって未来の旦那を庇ってます
幕末の女性だと松尾多勢子とか野村望東尼とか有名じゃないか
壮々たる面々を匿ったり援助してるぞ
君尾あたりはどうなの?
勤皇芸者としてのエピソードが全部作り事ってわけじゃないよね?
だれかくわしい人いる?
君尾さんはかなり長生きだったから回顧話とかで裏づけされてないっけ
門多を守った鏡のエピソードでかなり有名だけど
幾松は勤皇芸者以上に小五郎の為に京都から出石までの大冒険がすごいと思うよ
しかも最後は武士も嫌がる細い林道を何日も一人で歩くとか
それでようやく小五郎に会えたと思えば女作って妊娠(→流産)させてましたは
当時の価値観倫理観小五郎最大の鬱屈期を考えれば責める気は無いけど
話の流れ的には酷えと思ったw
出石の流産の話もホントなのかなぁ?
広戸直蔵の息子正蔵(当時はまだ生まれてない)が、松本屋の老嫗が公の事を尋ねにきて
この人の姉か妹が公を丁寧にいたし余程寵愛したらしいと語ってるけど女の年もわからん
『逸話』の出石のスミちゃんの話では、
3月3日に幾松が迎えに来てから、公と幾松とスミちゃんと三人で三回程松本屋旅館に行っている
いくら当時でも自分の子を流産した女性の居る所に幾松と行くかなぁ。それ以外なんの話も残ってないようだし
スミちゃん曰く、甚助が5日程畳屋のオシマという女に公の世話をさせたが
公があの女はどうしても嫌というので、また私がお世話しました。と語っているところみると、
オシマとは、せまられて困るなり何かあったように感じたけどね
潜伏中は女の人にせまられて困った話を洋行中にしてたから、
出石の女性関係ではオシマの事が一番信憑性があるようにも思うけどね‥
幾松の事をくれぐれもよろしくってデレまくった手紙を出したのって潜伏中だっけ?
>>520 一時期身を寄せていた城崎の温泉宿の娘と深い仲になったが流産、
って書いてたのは司馬だが事実かどうかは知らん
孕ませたのが本当としても、相手はスミちゃん=八重さんではない
スミちゃんとは、幕吏の目を誤魔化すため形だけ入籍ってとこじゃね?
実質的な夫婦関係があったわけじゃないよなアレは
オシマって人の件読んでも、食事係にしてみたけどだめだったから、
また私(スミちゃん)がご飯作りました、たまには洗濯もしてあげました、
って感じだな 色気ナッシング
>>521 そうかアレはデレか…!
考えてみれば、幾松のことをデレつつ広戸兄弟に甘ったれてる手紙だよなw
書き方が変で誤解を与えてしまったようですいません。
出石ではなく、城之崎松本屋の娘の流産の話です。
スミちゃんとは偽装入籍もしていないと思われます。
524 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/21(土) 18:01:38.67 ID:7gV+zU940
けど潜伏先に幾松がわざわざ行ったのはなんでだろうな。
他に人いなかったのかね。伊藤でいいと思うんだけど。
そのころ伊藤がどんな目にあってたか考えてから書き込んでください
伊藤の方こそ助けて桂さんとなってた訳だよな
527 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/21(土) 20:15:11.35 ID:7gV+zU940
伊藤は暗殺者に命狙われてて長州に入れなかったわけでしょ。
ちょうどいいじゃん。
桂を探し出して長州に呼び戻す事にしたけど、その一番の原因は禁門や
その後の粛清で久坂や周布ら人材がごっそりいなくなって長州が
回らなかったから
伊藤や高杉はクーデター後で命を狙われてて自由に動けない、村田蔵六ら少ない
重鎮が藩を出るわけにはいかない
でも(長い事長州を離れてひょっとしたら帰らないかもしれない)桂を
藩に帰るよう説得するにはその辺の暇そうな奴に頼むわけにはいかない
藩政等に取り立てて必要無い+桂を帰るように説得できる+意欲がある
=(京から逃げて下関に来た)幾松
になったんじゃないっけ
そのころには居場所は桂から手紙が来てわかってたんじゃないの?
じゃなきゃさすがに幾松送り出せないよね
>>529 丁度その時桂の京都脱出や出石の潜伏を世話した廣戸甚助が村田や幾松の所に来て
桂の正確な場所が知れる
それで幾松→廣戸と出石を目指すも途中廣戸が(博打→借金→)脱落して一人で迎えに
村田→桂の正確な居場所を言わない
高杉ら→村田に手紙送っても教えてくれないので結局居場所はわからない
だから、突然且待望の桂帰還→大早に雲霓を望む如き有様
って言われるんじゃないだろうか
この辺りは醒めた炎が一番わかりやすくて詳しいから読んでくれ
出石の甚助が小五郎に頼まれて京へ幾松の様子を調べに行くと
幾松は自身の身も危なくなったため、
対馬藩の多田荘蔵一行が対馬に帰るのに、一緒に連れられ馬関へ落ちた後だった。
そこで、また小五郎に頼まれ甚助は馬関へ赴く。
その頃、長州は高杉がクーデターに成功したが政治を仕切る人材が無く小五郎の帰りを望んでいた。
甚助が来て小五郎が出石に潜伏していることがわかったが、
長州藩士は大阪や京あたりをうろつくと殺されてもおかしくない。関所もある。
大村益次郎の手紙を持って幾松が甚助に案内され出石へ迎えに行く事になる。
ほんじゃまあ、桂のほうから働きかけがあったってことだよね
高杉の「桂さんどこ?どこ?教えろや」
→場所のアタリをつける
→「ちょっとその辺りへ旅行に行ってくる」
は笑える
久坂の潜伏先に駕籠乗り付けの二の舞になる姿が目に浮かぶようだ
534 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/22(日) 07:16:20.89 ID:e4sOn6BD0
結局の所、高杉は桂になにをして欲しくてわざわざ探してたんだろうな。
政治的な事をさせたかったらしいが。具体的に桂じゃなきゃ出来ない事ってのがわからないんだよな。
戦略立ててばらばらぼろぼろの藩をまとめて引っ張ることだろ。
536 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/22(日) 10:32:47.90 ID:B+segDWd0
高杉伊藤井上山県に出来なくて桂に出来る事ってなんだろうなあって話。
藩内を調整しまとめることだろう
高杉じゃ藩政府の方に渡りをつけられるとは思えないな。井上も同様
藩を一致させていくための交渉は、弁舌能力と対応力と忍耐力が肝心な訳で。
高杉井上に忍耐力は望めないと思われるw
伊藤山県じゃ向こうさんにしてみりゃまだ軽輩同然だから話にならんし
>>534 高杉が桂にさせたかったのは下関開港問題の処理ね
防長一体にならなきゃいけんこのクソ忙しい時期に、支藩との関係悪化必至なことになっちゃった!命狙われてるし。助けて桂さん!
思いついたら即行動じゃトップは張れんのだなーとよく分かる一例
藩すべてをまとめるってことは、多岐にわたる各部署各地域に周旋しなければならない
しかも、とかくもめがちな支藩ともしっかりと意思を通じて行動を共にする必要がある
高杉井上は藩主父子とは近いし、要人に知り合いも多いが、
そういった広範囲の人々を納得させられるだけの経験も信用も人脈もまだない
しかも藩内クーデターの首謀者として、藩内を各派閥をまとめるにはわだかまりも残る
桂は若いころから剣で知名度を上げ、藩外交担当者としてまた周布のブレーンとして政治の経験を積み
藩主父子の信頼も厚く、他藩に知己が多く諸国の事情に通じている 宮中の事情にも明るい
さらにいえば、藩内クーデター不参加のため感情的なわだかまりが生じにくい
こんだけの条件がそろってるのは、当時の長州では桂だけだよ
伊藤と山県はこの時点では年齢的にも実績的にも身分的にも問題外だな
540 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/22(日) 20:14:29.34 ID:B+segDWd0
伊藤ってそんなに若造なんだっけ?明治になるとすぐに参議になってるから
この時点で侮られてたって言われてもピンとこないんだよなあ。
すぐに参議になったっけ?
参議になったのは明治六年政変のあたりな
それでもまだ早いと反対論が多かったが、
病気で動けない木戸が強力プッシュ …だったよな
ついでにいうと伊藤は1841年生まれ 桂より8歳年下
慶応元年の時点では数えで25歳 桂は33歳 高杉27歳
井上は31歳だから何とかなりそうな年齢だがやっぱ経験も人脈も木戸とは段違いだよな
広沢は桂と同い年で、内政には十分な経験があったろうし徴士になった段階では木戸と同格だが
この時点のこの局面ではやはり桂じゃなきゃだめだったんだろうな
伊藤山縣は歳よりも身分の方が障害だと思うけどね
そりゃそうだ>伊藤と山県
そんで、広沢と桂の違いは、外交云々よりも、やっぱ諸隊とのつながりかなあ、と思う
単に対外的な問題や、普通の内政上の課題だったら、
広沢だって江戸京都にいたし、内政には桂よりよっぽど経験があったし広沢でも良かったかもだが
クーデターによって諸隊が勢いを得て、それをコントロールするのが藩の重大な課題になっていた
これは、諸隊とほとんどつながりのない広沢では無理だろう
諸隊の幹部には村塾系の人間が多いから、桂ならある程度抑えがきく
山県なんかも、かなり以前から桂とつながりができてるしね
諸隊のほうにも、桂なら自分たちの話が通りやすいという期待があったのだろう
もちろん、桂の先を見通す能力が、後から見れば桂の資質として最重要なんだが
このころの長州の幹部連中が、それをどの程度理解してたのかなあ
そういう部分は、若いころの軍艦建造の件から見えてて、それが評価されて出世したんだろうけどな
広沢もすごいやつだと思うけど、やっぱり地に足のついた、冷静で現実的な政策や実務能力がすごいんで
将来の見通しを立てる能力はやはり桂にはかなわなかったろう
廃藩置県に賛成したのも、明治三年の末、暗殺されるちょっと前ぐらいだった
546 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 08:06:17.60 ID:TBCA1D950
井上って桂と2歳しか違わないんだ。なんかパシリのイメージだったから
もっと年下かと思ってた。ていうか高杉より年上なんだ。
高杉が井上使いまくってたイメージつよいけど。
井上が大正4年まで生きれたわけだから木戸も健康なら大正までいけたわけだよなあ。
そう考えると早死にが多いね。幕末の人らは。
聞多が高杉にパシられたって、具体的に何の話?
伊藤と混同してないか?
聞多と高杉は気持ちの上でも格の上でも同等だろう
小姓役ってとこも同じだし
高杉がクーデター起こしたとき井上が諸隊の一つを率いたからって
高杉が井上の上位に来たわけでもない
政務座での役職で、井上と高杉って上下関係あったっけ
どっちにしろ、この時期の長州で桂と比べるなら広沢(波多野)しかないんじゃないの
宍戸(山県)は桂広沢より少し年上でなかなかの胆力だけど二人には一歩譲る感じだな
何回も言われてるけど
ageたん、半年ROMった方がいいよ
個人の勝手なイメージなんか知らんわwww
明治になると伊藤が井上より立場が上になるけど
幕末ではそうでもないのか。
井上は松下村塾で学んでいないのですね。
高杉とは少なくとも塾での先輩後輩の間柄では無かったということか。
身分は井上と高杉は同じくらいなのかな?
550 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 22:40:52.37 ID:TBCA1D950
伊藤と井上が親友みたいな感覚になってるからちょっと現実と
ズレが生じるね。
井上って歳のわりに幕末で目だってないんだよな。しかも上士だったわけだから
もっと目立てたはずなのに。松下村塾メンバーじゃないから派閥が違ったのかもしれないけど。
また派閥厨か…
井上が目立ってないって、幕末の実際の活躍としちゃ伊藤より上だと思うが
たまたま伊藤が高杉の決起にまきこまれたから、小説ではやや目立ったってだけ
小説の知識、というより勝手な印象だけで話を進めようとするのはいい加減にやめてほしい
552 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 22:58:01.98 ID:TBCA1D950
どうも大事にされてない感じするよ。井上。大体外国に密航するのだって
命捨てての事でしょ。伊藤はこの時期では大したことないけど。
井上は上士でしかも歳だって高杉久坂より上なわけだから。
wikみたら江川に師事したらしいけど。本当?ってことは桂の弟弟子になるのか。
それにしてはやっぱ目だってないよね。松下村塾派閥が幅利かせてた時代って
あると思う。特に久坂高杉あたりが生きてた頃は。
よし!
来年の大河は井上聞多だ
広沢はホントにもったいなかったなあ
木戸と視点や守備範囲が違ってて、議論もできるし妥協点探るのもうまいし
うまく補い合えるコンビだったと思うんだよね
大村と広沢が生きてれば、精神的にも肉体的にも木戸への負担が減って
もう少し長生きしてたし活躍もできたと思う
555 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 23:13:07.25 ID:QXC1m0Iv0
【神戸】パチンコ禁止デモ
時間:5月29日 (日) 14:30集合 15:00出発
場所:神戸市役所北側 花時計前
556 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 23:20:09.24 ID:TBCA1D950
広沢って幕末時代なにしてたかよくわからないよね。
本格的に表に出てくるのは高杉クーデター後でしょ。それで木戸と同じ1800石なんて。
どういう評価したらそうなるんだ?って感じだし。
それを考えるとやっぱ井上は評価低いよね。外国まで行って頑張ってたのに。
舐められてたのかな。井上。
藩主にめっちゃ可愛がられてましたがな井上
自分が知らないからって活躍してないことにすんなよー
558 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 23:38:32.77 ID:TBCA1D950
その割に評価低いって言ってるんだけど。
だから当時、松下村塾系じゃないと出世できない時代だったんだと思う。
けど久坂高杉が死に、松下村塾じゃない人らが権力を握るようになったわけでしょ。
木戸、大村、広沢と。
で興味深いのは大村と広沢は暗殺されるんだよね。長州閥の中で
狙ったように松下村塾系じゃない大村と広沢が暗殺された。
奇説になるけど。松下村塾系対ノット松下村塾系の対立ってのも
説の一つとしてあっていいと思うんだけどね。
只の無知の妄言を説とか言うな厚かましい
評価低い=小説に出てこない
なのかな?ageたんの脳内的には
561 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 23:50:26.22 ID:TBCA1D950
>>560 要職についてなかったり。賞典禄も調べる限り貰ってないでしょ?
山県、前原、山田は600石なのに。
>>559 まあ妄想的な奇説ではあるけど。この考えを元に萩の乱とか
考えると面白いでしょ。
でも小説でも井上って結構活躍しててキャラも濃いよなあ
身分高くて外遊までしてんのに評価低い、というと杉孫が思い浮かんだ
杉孫って周布の甥っ子なんだね
「だと思う」とかいうな知りもしないで
井上は隊を率いて幕軍と戦ったり広沢とともに休戦交渉したりしてる
長州代表として薩摩に赴いてもいる
ただし、イギリス行きも含め修業のほうに力を入れていたので
政務の実績は広沢のほうがずっと上 それまでの実績は外交の桂に対し内政の広沢とも言える
広沢の幕末の対幕府・対薩摩他藩交渉、そして内政の実績が買われ徴士として頼られた
広沢が新政権で重要な地位を得たのは実績からして当然といえる
しかし井上も重要な直轄地・貿易港長崎を任されたのだから新政権に軽視されていたはずもない
長州で最初に徴士とされたのは広沢と井上 続いて伊藤、やや遅れて木戸
また変な言いがかりつけそうだからいっとくけど、木戸が遅れたのは仕事で上京自体が遅れたからな
>>563 内政の広沢?w それはちょっと違う。
広澤藤右衛門は村田蔵六と同格。
つまり二人とも木戸さんの補佐役。
藩に戻ってから桂は内政の実質的トップ(用談役)となり、木戸性をもらい、
薩長同盟締結までは外交面でもトップで、
でも幕府にお尋ね者にされちゃってたから、
外交面では木戸の名代に(一用所役に過ぎない)広沢が珍重され、
(用所役ですらない)井上・伊藤も同様に木戸・高杉の名代としてフル活用される。
木戸は自分自身を顧みて、他藩出身者との外交で人材育成をも図っているように見える。
この(ふざけた)事情に薩摩など他藩出身者が気付かぬはずはなくて、
広澤真臣さんはあえなく犠牲となってしまわれました。
いや、内政のっていってんのは、幕長戦前の話。誤解を与えたならすまん。
それまでの段階で内政の経験は、桂より広沢のほうが地道に積んでるだろ。桂は外交や国政に向かってて。
もちろん、木戸政権下では、木戸が全体方針を定め、広沢宍戸杉井上あたりが合議し奔走してるわけで。
その奔走してた中ではやはり広沢がぬきんでていた、ってことには変わりないと思う。
あと、賞典禄は不満を抑えるためのものだから、軍人とか不平を言い出しそうな公家諸侯に厚いんだよ。
まあ諸侯の場合、家臣にも分与したりしてるけど。
木戸や大久保はそもそも反対してたし、薩長の中心人物たちは辞退しまくり、
藩への下賜も半分返上を建白したりしてる。あとで財政が苦しくなることはわかってるしな。
567 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/24(火) 07:20:20.73 ID:boOQK1HX0
桂がトップっていっても他にもうひとりいたでしょ。松陰がこの人にはかなわないって
いった人が。。
山田宇右衛門ね
爺さんのイメージが強かったが亡くなったの55才なんだな
もうちょっと長生きしてくれたら木戸も少しは楽だったかも
>>568 木戸日記でも、山口に戻ったとき墓参りして、
「あの頃自分を味方して支えてくれたのは山田翁だけだった…」
と回顧してるよね。あと家で高杉久坂の手紙見つけちゃったりもw
形の上では山田翁が木戸の上にいたが、政策主導はあくまで木戸。
家老やら各部署の頭の固い連中やらと木戸との緩衝材になってくれたと察せられる。
木戸は宇右衛門の息子の欽一郎の世話もしてあげてるね
東一を東京に連れてきた時、欽一も一緒のようだよね
山田先生の息子も面倒みてたのか…!
周布さんの息子の金槌くんwは金渡して神戸の伊藤んとこ送り込んで、
のち留学、だっけ?
572 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/24(火) 23:22:38.77 ID:boOQK1HX0
>>569 その山田が形の上だけだったってのは何情報なの?
うーん急にそんなこと言われても常識だと思ってたからな。
もちろん、長州は合議制であり、木戸の独裁ってわけではないが、
基本的に、当時としては常識はずれなことを含めて、木戸の考えに沿って長州藩が動いているからなんだが。
そういった考えは、書簡や建言書として残っている。
そういう一次資料をいま引っ張ってくることはできないから、とりあえず手元の本から関連箇所を書き抜くと、
小五郎は国政用談役だから、役職のうえでは毛利筑前の下に位置する。六十四歳の小殿さまが政策上のこまかい
問題にいちいち口を出すわけではなく、小殿さまの手許役、山田宇右衛門(百石)は、数えの五十三歳だった。
山田の支持のもとに、これ以後の外交、軍事面の指導には実質上小五郎があたる。彼は政治堂の用人(顧問)を
兼務したので国用に関しても発言力をもち、結局は両面にわたっての政策推進者の役割を演じた。
(『醒めた炎』上巻 藩政改革)
あと、引用は避けるが、高橋秀直氏の論文「薩長同盟の展開 ─六ヶ条盟約の成立」(『史林』88巻4号 2005年5月)にも、
はっきりと「木戸政権」という言葉をつかって、長州藩の方針の背景と木戸政権の人材構成について述べられている。
悪いけどそのあたりを読むか木戸文書を読むかしてくれ。
高橋論文は単行本の『幕末維新の政治と天皇』にも収録されていたかもしれん。
あれは幕末史を見直す名著だからお勧めする。
574 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/25(水) 21:40:28.79 ID:F982zQcn0
実質トップみたいなのが多いよね。木戸って。
ていうか一度もトップにたってないって事なんだろうなあ。
徹底的に合議制を重んじるからね
明日は命日祭だね
午後から雨らしいけど、足場悪いから小雨で済んで欲しいな
新政府でもトップに立つ機会を自分で潰してたしね
明日行く人は雨に気をつけて
一年ぶりに霊山墓地来たけど、地図が新しくなって伊藤の碑とか品川の墓が地図から消えてる…
山道を整備する気は全く無いと言うことか?
先週行ったら、墓石の周りの石の柵もかなり傷んで危なげだった
うえーまじで
1日遅れで明日行く予定なんだが
地面ドロドロ?
霊山で無名の志士たちと一緒に眠っている木戸さんって良いよなぁ
581 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 01:23:19.57 ID:KfxYbgpu0
左とん平に顔が似ている
582 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 07:29:46.77 ID:I4HEXZ5Y0
木戸って国葬とかしたの?
このころはまだ国葬って発想がない 葬儀委員長(?)は伊藤博文
時勢に逆らって仏式 当時は当然だが神式が大流行だった
最初の国葬は岩倉具視ですね 明治十六年
木戸の葬儀は、東京日日新聞の記事によると、京都東山界隈はえらい事だったようです
(ご存知かも知れませんが・・・)
早朝より伊藤参議をはじめ山口より出られたる勅奏官は何れも堤町の旅館に集まり葬事を幹し、
その他三条、大久保、大木、西郷、佐々木の諸公より在西京の勅奏官は悉く総出にて来会される。
旅館の門外数十丁の間は巡査が警衛し、門内の右の方には幕を打廻らし、
奥には座敷より仮屋を立て出し正面に棺を据え、未亡人、岡部氏令娘、岡部氏妹、その
他婦人一人(たれか知らず)棺の右に坐す。
導師は西本願寺大教正大谷光尊にて、その他僧侶五十余人旅館に至る。
伊藤参議は玄関に迎え、導師棺前に進み焼香読経を始む。
程なく勅使として鍋島侍従、両皇后の勅使として香川宮内丞並びに閑院宮同道にて入来。直ちに焼香。
それより親族親友はじめ大臣以下焼香。おわりて正午出棺。
行列の真先に二本の高張り提灯を立て京都府八等属山根直吉郎騎馬にて先導、同じく騎馬にて巡査等五十名これに次ぐ。
それより高張り、先徒士重川久兵衛、木咲政次郎、続いて儀杖兵小隊、導師(馬車)僧侶や徒士等々に、
典礼、結衆十五人づつ、香炉を捧げる人に剣を持つ者等々
棺徒士は田中貞介と岡村又太郎、出石の広戸直蔵の名もあった。次に白丁40人・・・
次に葬主にて徒士入江宗作、佐々木正兵衛、親族(馬車)、親友(馬車・騎馬)高張り
三条、大久保、大木、佐々木、西郷等諸公と華族等(馬車・人力)、次に儀杖兵その後を追う。
道筋は河原町から四条を経て祇園石壇下より高台寺総門へ。
斎場は会葬者多数のため前庭に仮屋をいくつも立て祭壇・読経所・休息所にあて幕をまわした。
式終了後、故木戸の遺体は霊山に運ばれ、埋葬された。
その上に「故内閣顧問贈正二位勲一等松菊居士」と記された木碑が立てられた。
神道政策に木戸も伊藤も反対していたのと、幕末の長州と西本願寺の関係を考えれば仏式は当然かなとも…
初七日等の法要も西本願寺で行っている。1回忌は染井の本宅で親友が集まり行ったと書かれていて
歴博の木戸幸一一家と忠太郎夫妻が達磨堂前で写した写真は、翠香院の五十回忌の法要の時で、
やはり西本願寺で行っている
585 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 18:46:18.48 ID:I4HEXZ5Y0
あれ?けど高杉は神式の葬式したんじゃなかったっけ?
長州と西本願寺の関係って何?詳しく教えて。
後、西郷ってのは西郷ジュウドウだよね。佐々木ってのは?
木戸スレまで来て佐々木を知らない高杉信者なageたん乙
高杉は遺族と奇兵隊が神式か仏式かで揉めて山縣が桂に相談してたような
木戸の葬式は西本願寺が本気出してみましたって感じだよね
弁当足りなくて追加注文したんだっけ
588 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 21:06:11.00 ID:KfxYbgpu0
のり弁1000人前追加!
へい!
本願寺は戦国時代から毛利家と関係が深いからね。対信長とか。
禁門の変の際にも、西本願寺は多くの長州藩士を匿い無事落ち延びさせている。
長州出身で明治元年からの本山改革に参画した島地黙雷は、『新聞雑誌』にも参画し
木戸や伊藤と共に神道偏重・廃仏毀釈を廃し信教の自由を確立するため奔走した。
割と早い段階で木戸日記に名前が見えるし、欧米視察中にも木戸と会っている。
いや、面白くないから
ごめん、ageタン宛ね
592 :
585:2011/05/28(土) 21:17:26.10 ID:I4HEXZ5Y0
588は俺じゃないからね。
>>587 >>589 そこあたり結構重要なのに話題にされないよね。木戸はキリスト教とかの問題とかも
結構考えてるし。東照宮とかも。全く議論されてないんだよね。
後、山県との関係性とかももっと議論されても言いと思うけどな。
結局明治になって力持ったのって伊藤山県なわけでしょ。井上はどれくらい力持てたか
分からないし。
いや。宗教問題や東照宮の件はこの過去スレでもあるから。
山県の話はあんたが高杉派閥とか言うからまともな話にならないんじゃね?
井上が力もってたこともさんざんさんざんさんざん既出だから。
もちろん改めて話題にするのはおっけーだけど、キミの決め付けにはいつも神経逆なでされるわ。
明治史に疎い俺が滑り込みで公爵家のアルバム行ってきた
目録売り切れてたんだなー残念
図録じゃなくて目録が売り切れてたの? すげーなw
ここで内容が一部明らかになったのも大きいかもしれんw
キリスト教といえば、パーソンは木戸のことを「無宗教だった」みたいに言ってるんだよね。
事実としてそうなのか、敬虔なクリスチャンからみるとそう思えたのかは興味深いところだ。
まあユダヤ教発の各一神教の信者からすれば、多神教の宗教観って不可解なんだろうけど。
目録まじかー
重いしどうせずっと在庫あるだろうし後で通販しようと思ってたのに
家の用事で西本願寺に行けそうでちょっと嬉しいw
>>589 西本願寺が反幕贔屓で東本願寺が幕府贔屓なんだよな。
山田や品川らは禁門後に西本願寺に匿ってもらって、頭剃って坊さんのフリをして逃げのびたらしい。
それもあって、監視の為か嫌がらせか新撰組が一時期西本願寺を頓所にしてた。
明治初期に西本願寺を移設してきた寺に行ったら、新撰組が付けた刀傷が残っていたなあ
598 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/29(日) 14:13:14.01 ID:PY4b9U2G0
目録自分で最後でした
ちょっと問題が起こって汚れモノでしたが・・・
>>595 宗教観の違いは難しいね
木戸は友人や家族の墓や祇園さんや湊川神社にもよく参拝しているから、日本人的には無宗教とは思えないけど
日本人は先祖に感謝供養、祈願ってかんじで、
キリスト教は日々祈れば神が必ずお救いくださるってかんじかね???
実際木戸はキリスト教の歴史どれくらい知ってたんだろうな
青木の証言を信じるならば、ヨーロッパで日本のキリスト教化について意見を求められたとき、
青木はキリスト教徒の血腥い歴史を説明して反対したそうだが。
もちろん、パーソンからもいろいろと話を聞いていると思うんだが、
パーソン的には木戸にちゃんとキリストの福音について伝えられなかったという悔いがあったらしい。
思ってた以上に、木戸との出会いはパーソンの中で大きかったみたいだ。
まあ異教徒の木戸の名前を、息子につけちゃうぐらいだからなーw
木戸孝允は、当時の日本のキリスト教徒以外の国民よりは
知っていたかもしれないが、やっぱり、あまり知らなかったんだろうね。
ただ、岩倉使節団で欧米視察してからは、独学で勉強した可能性は
あると思う。西洋をよく知るために
それと宗教そのものへの関心も皆無でない気がするのだが。
パーソンとは絶対キリスト教の話をしてたでしょう。
パーソンも「木戸はキリスト教を日本に導入しようとしていた」とは語っている。
604 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 07:51:33.38 ID:2X7BnuNT0
松陰はキリスト教反対派だったんだよな、踏み絵をやめた幕府に怒ってたらしいし。
>>604 うん あのころは木戸もふくめほとんどの志士はそうだよね
民衆一般もふくめ切支丹は大きらい
江戸時代、キリスト教は思想的・軍事的侵略のイメージと結びついている
安土桃山の頃伝道していた修道会の文書等を見れば
それも故なきことではない
だから、江戸を通して貿易に食い込んできたオランダはもとより
幕末のイギリスもカトリック国ではないことを強調している
まともな外国人との接触が増えるにつれアレルギー状態を脱していったが
接触の少ない地方の民衆の嫌悪感を払拭するには時間がかかった
606 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 18:28:37.90 ID:2X7BnuNT0
けど踏み絵をしていたってことは当時もまだキリシタンはいたって事なんだろうな。
明治までずっと隠れて信仰してたのか。
607 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 19:31:45.53 ID:LopPrV+k0
西郷にしろ大久保にしろ木戸にしろ自分で哲学作るタイプなのに宗教なんての信じるはずないがなw
道徳的な教養があるとすれば士道くらいでしょ
人知外の現象に対する概念としては天という概念があったし
まして当時は帝国主義時代で植民地化真っ盛り
世界で独立国なんてのは数えるほどしかない
植民地化政策もキリスト教が使われてる
清国のアヘン戦争も幕末の知識人はよく知ってた
その危機感が明治維新の出発
元々天皇中心の政体を作るのが目的でなく、日本を列強の侵略から食い止め独立を守るって所から始まってるんで
608 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 19:37:58.68 ID:2X7BnuNT0
士道ってのと木戸はどうなんだろうね。イメージが合わない。
「武士道とは死ぬ事と見つけたり」てのと真逆でしょ。木戸は。
それに木戸は養子だからな。この時代の養子がどんな扱いなのかわからないけど
養子だから意識的に立派な武士らしく生きようってのもあったんだろうけど。
周りから馬鹿にされなかったのかね。
練兵館の理念を知っていれば木戸の士道がどういうものかはわかると思うが
当時は養子とるのはごく普通の行為だったから馬鹿にされたりってのは考えにくいな
和田の父は医者とはいえ藩主の侍医で士分相当だったわけだし
ただし桂は養父母をじきに亡くして武家で育っていないので
いっそう努力したという面はあるかもしれないが
そういえば、和田の父と青木周弼先生は、蘭医仲間であっただけでなく
駄洒落仲間らしきエピソードがあるがあれは史実なんだろうかw
611 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 23:04:59.63 ID:LopPrV+k0
武士道は死ぬ事と見つけたりも大雑把に当たってるだろうけど、武士道は公の為に私を殺す事って方が当たってるんじゃないか
典型的なのが西郷や松蔭で、この二人は若年の頃に自分の私心や私欲を徹底的に自己教育と教養で殺し公的人間に作り上げたタイプだし
松蔭の場合は玉木先生にスパルタ教育受け、授業中に蝿が止まったのをついかいてしまったら、それは公の授業よりかゆいという私心を優先する私欲であるとぼこられたらしい
公的な正義を貫く為に幕府に妥協できず刑死になった
西郷の場合、どうやったら世の中を動かせる人間になれるかと考え抜いた末、命も名誉も官位も金もいらない人間と結論に達した
それを生涯貫き、明治維新最大の功労者と明治維新に対する最大の反乱者になった
反政府勢力に悪の権化の様に憎まれた大久保すら私心や私欲はほとんどなく公的正義が絶対だった
理想達成の為に権力を欲したくらいで死んだ後は借金だけ残って返済の為に大久保が学校に寄付した金を返済にあてた
三傑の理想は武士を商人や百姓にするというより、全国民を武士の水準まで引き上げるのが理想だった
その手法論でそれぞれ違いが出てきて対立した感じかね
豚切りすまん
今日西本願寺行ってきたけど、全く無計画だったからどこに木戸の縁を見出せばいいのか分からんかったw
もっと勉強してから行くんだった・・
うーん後悔
西本願寺は、どでかいお寺だからねw
別院の翠紅館跡には座敷に小五郎や久坂達の写真も飾られているようだが…値段が高すぎるw
養子で思い出したけど、御堀が病気で死にかけてるときに
ちょうど木戸が仕事で山口へ帰ってきて、
関係者2、3人がそれぞれ
「危ないんで見舞いに行ってやってください!」と言ってきた。
見舞いに行くと御堀は、○○家の□□を自分の養子にしてください、
と木戸に頼み、その翌日だか翌々日だかに亡くなった。
御堀は大組士で木戸の何代かあとの練兵館塾頭、いわば木戸の後輩。
禁門の変の時には西本願寺経由落ちのび組で、薩摩への恨みが大きい。
維新後は薩摩と手を携える木戸を非難し、
霊山での最初の鎮魂祭の時も、酔って木戸に激語を吐いている。
御堀との確執は当時の木戸にとって最大の心痛の一つで、
なんとか海外視察へ送り出し目を開かせようとした。
御堀が、そんな経緯のすえ、木戸に後事を託して死んでいくってのが、
木戸の長州での位置づけを表してるような気がして
なんだか感動したんだよね。
615 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 22:41:36.59 ID:nUzINh490
長州トップなのに部下が着いてきてないんだよなあ。
薩長同盟の時も家に石投げられたとかなかったっけ?
お〜い竜馬乙
617 :
614:2011/05/31(火) 23:35:40.26 ID:brRefX0q0
あ、お〜い竜馬ネタだったんだ。
どんな資料に書いてあるのかと頭ひねってたんだ。
ぐいぐいひっぱっていくカリスマリーダーではないが、
地道な人々にも好き勝手やってる連中にも、最終的には頼られている
そんな木戸さんが切なくてほっこりして好きなんだわ。
618 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 23:58:38.89 ID:GoDuRV8B0
木戸さんは無視無欲で安心感はあった様だ
619 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/01(水) 07:20:28.83 ID:ZDqLUvjx0
頼られてたのか利用されてたのかは微妙な所だけどね。
大久保なんかは特に利用してただけにも見える。
だからここは妄想を書く場所じゃないっての
ageたんは日本語わからないみたいだから理解できないんだろうけど
621 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/01(水) 08:13:03.80 ID:ZDqLUvjx0
>>620 それじゃあ。木戸は大久保に全幅の信頼を寄せられてたの?
大久保は信頼してたから木戸を政府に引き戻したかったのか?
何が「それじゃあ」なんだかw
ageたんのレスはソースが皆無なので史料のソース付きでレスしないと
いつまでたっても妄想乙としか返しようがないってだけの話です
>>420 を読め
好意的な解釈だけど対立しつつも征韓論や反乱等の要所要所では
木戸と大久保の意見は一致、そのあたりでは大久保は木戸をざっくり言えば
信頼してるだろ
少なくとも利用してた だけ ではない
この辺りは言葉遊びになるから不毛だし相対的には語れないよ
それこそ木戸がガチの病気や嫌気が差した時大体は大久保が政府にいるから
私はいなくても大丈夫だよね帰ります と引っ込もうとする
そんで大久保が譲歩して政府に戻るあたりは政治的な駆け引きにも見える
大久保に押し付けてるのか、信頼してるのか利用してるのか…時々により比率は
かわる 大久保だってそう
>>613 翠紅館て東山の?
霊山行ったのにスルーしちまったぜ
でも確かに高そうだなw
今は親鸞一色で悔しいから賽銭だけしてきてやったww
625 :
420:2011/06/01(水) 12:33:50.39 ID:yIoBOOXZ0
>>623 ありがとうございます。おっしゃるとおりです。
たしかに420は好意的解釈に偏っているきらいがあります。
しかし木戸と大久保はお互いにむっとすることも多かったでしょうが
基本ラインでは相手の技量を認め 強い国を作らんとする意志を信頼し
かけひきしながらも協力していたのはガチだと思います。
ageたんは「こういうことも話すべきだろw」とかいいながら
何を説明し論じても自分のイメージに合わなければスルーで
また似たような話を蒸し返すので虚しいですな。
しかしなんだって長州での木戸の立ち位置の話へのレスが
大久保に利用されたかどうかって話なんだ
ageたんって話題が自分の好まない方向性に行くと
いっつもそういう話のずらし方をするよな
保守以外のage と根拠・ソースの無いレスは、
華麗にスルーすれば良いのに。www
スルーされればその内改めるだろうから。
628 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/01(水) 18:57:09.62 ID:ZDqLUvjx0
大久保を考える事が木戸の長州での立ち居地を考えるって事になるんだよね。
420にしたってさ。大久保は伊藤では長州勢を纏められない。広沢がいれば別だったんだろうが。
って言ってるけど。井上はいるんだよね。出自も歳も木戸とそんな変わらないわけで。
井上はダメで木戸は良い理由ってのが木戸がなぜ長州の派閥の頂点に立てたかになって
伊藤が後に総理になり。井上が総理にならなかったので長州の内情が考察できる。
629 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/01(水) 19:12:55.62 ID:69enejUL0
大久保が木戸を必要としたのは長州閥の長が木戸だったからだろなぁ
実績的にも古参の志士で誰も認める元勲
西郷を追放してからはますます必要になった
国家構想が明確で明治政府を容認しあらゆる手を使って守ろうとした大久保からしたら自分より格的に上の西郷も同格の木戸も本音じゃ邪魔だったろうけどw
大久保からしたら板垣も江藤なんて眼中なく論ずる相手ともみなしてなかっただろう
630 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/01(水) 20:47:06.59 ID:ZDqLUvjx0
木戸って大久保と西郷だったらどっちがマシだったのかなあ。
なんとなく西郷の方がマシっぽいけど。禁門の変の恨みあるからやっぱ両方嫌いだったのかね。
木戸が信頼してた大村益次郎なんかは、西郷は室町幕府を開いた足利尊氏の如き者と言ったらしいし
政府の連中も木戸も死の近くまで西郷を疑い恐怖してた
最終的に、西郷は昔の知人で国家に尽したが今日の時勢に暗く疑惑生じて挙兵したがそういう悪意はないと疑惑解いたみたいだけど
西郷があるいわ外国の英雄だったら、西郷幕府みたいなの開いてたかもしれないが
江戸250年の大教養時代が作り出したあくまで日本的英雄だった
大久保は嫌いだけど直接文句言ったり長時間会談はする。
西郷は嫌いで会話もしたくない、ので大村や山県にパス。
ついでに、小松は好きで会話も楽しい。
というイメージ。
小松がもっと長生きしてたら薩摩との意志疎通は少しは楽だったろうなー
西郷は木戸の視点から言えば
政府と軍は癒着厳禁って言ってんのに使節団が帰国したら軍のトップになってる
(発起こそ木戸自身だけど)征韓論はまずいって言ってんのに主張し続け下野
政府転覆や反乱は論外って言ってんのに西南戦争のドン
意見の相違のベクトルが大久保所の騒ぎじゃ無い気がするんだけど。
木戸ってそこまで西郷きらってたのか?
木戸の理解の外にいる生き物だったのは確かだろうが。
そういやたしか西郷が慶喜の助命を突然言い出したとき、
木戸がそれを支持しつつも秀逸な皮肉いってたらしき証言があったよね。
証言者が皮肉だって理解していたかは謎だがw
>木戸の理解の外にいる生き物
確かにW
木戸は薩摩事体が嫌いだったのは日記や手紙ににじみ出ているように感じたが。
だからといって、それを政治に持ち込むような器の小さい人間じゃないが
広沢暗殺の犯人も薩摩がらみと思って探索させてようだし
黒田絡みの好感度一進一退は面白い
637 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/02(木) 19:01:22.11 ID:rCrYh2ll0
木戸と西郷が一番話した時ってもしかして薩長同盟の時ぐらいなのかね。
幕末西郷にコテンパンにやられて同志ほとんど死んで
長州も滅亡寸前に追い込まれたしな
それでも木戸は薩摩への怒りを抑えてた方だとは思うけどな
大嫌いだとしても木戸の薩摩批判ってのは政府の中で薩摩だけ優遇されてて
公平じゃ無いっていう怒り方だと思うんだけど
敬愛する敬親の眼前でアンタ廃止って言った苦しさを思うと薩摩藩の殿様辺りのなあなあは
理屈面でも感情面でも最高に面白く無い
明治後の木戸は政府に対して常に不満持ってたが、一方でこれで仕方ないと最終的には政府を守る路線に寄ってる
自分が政府を手を汚しても主導するほどの気力や胆力もなかった
木戸が自分の構想を主導しようとしたら、どっち道大久保的な国権主義になるか西郷の様に野に下り反乱になるかしかなかったろうなあ
なかったのは胆力じゃなくて健康ね
政府を守る立場に回ったのは、仕方がないからではなく、
政府がしっかりしていなければ国は崩壊するのはあまりにも明らかだったし、
いたずらに乱を起こすようなやり方を嫌ったから
木戸の手法は先頭でぐいぐい引っ張る方式じゃなく
こまめに周旋し説得して同意者を増やしていく方式だったから
功績が目立たない面もあるけれど、長い目で見るといろいろ達成していると思う
彼の主張が首尾一貫していて理にかなっており、それが次第に理解されてくるからだろう
強力なリーダーシップにドリームをもつ気持ちもわからんでもないが
そういうタイプばっかりでやる政治って怖いよ
…そうして考えると、大久保の木戸に対する態度って、
「木戸が同意すれば全員が同意したのと同じだし」的だよな。
ほんと政治手法が木戸とは正反対だなあ。
643 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/03(金) 07:58:55.90 ID:nm3HXYPC0
胆力なしってのは松陰も言ってたんだよな。事をなす才はあるのにね。
からだ悪いよね木戸。
明治2年5月の日記に、ボードウィンの診察を受けることになった経緯が書いてある。
前年から体力気力ががたっと衰えて、休ませてくださーいっていってたのが、
じゃ、春になったら休んでいいよ、っていってくれたから、
去年はよしっと思って懸命に働いた。
(たしかに元年あとのほうの日記を読み返すと、
「すごく働いてる」的な記述が散見されるw)
ところが春になってみると再幸やらなんやらで休ませてもらえず、
結局体調不良で供奉できずに京都にとどまっていたら、
「ボードウィンに診てもらって治して東京に来い」と命令が来たんだと。
んで、心労もあるんだからと海水浴。ほかにもなんか治療やってるけど。
二日酔いを除いても、しょっちゅう体調悪くて寝込んでるし
木戸がふらふらしてるようにみえても、そりゃ仕方がないかな、と。
海水浴に婦女児携へって、松子や正二郎も一緒のようだけど、
あの時代もう女性も海水浴していたのかな
馬車から落ちた時も三ヶ月くらいは寝込んで
来原はる子が亡くなった前後も体調悪く50日間は外出もせず
聞多や俊輔のタフさがうらやましい
2年5月末には東京に行って、6月頭には参議拝命
ところが1か月後には待詔院学士の辞令w
体調の悪さをおして東京まで来たのは何だったんだと
参議復職辞令を蹴って(広沢に押しつけて)
箱根に湯治に行っちまった気持ちもわかるw
647 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/03(金) 18:26:13.12 ID:fp5fXM1Y0
本当に体調悪かったのかって話にもなるけどな。
ミットフォードが、箱根で木戸は体調が悪く輿をつかってたと書いていた
木戸日記には竹輿とあったかと
別の村の鉄泉までみんなでおしゃべりしながら歩くんで、
輿の垂れ幕(?)を上げたままにしていた
松子さんは宿で使用人らしき少女とお留守番
一行がもどってきたら村の入り口まで二人がお出迎えw
>使用人らしき少女
これが手を付けたっていう小間使いか?
体調悪くてもアッチは別なのね
>>649 日記によると、
小田原本陣上清水の娘で長。宮の下より始終きて用を助く。纔十二・三歳才なり
箱根滞在中だけ手伝いに来ていただけ。
651 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/04(土) 17:33:00.45 ID:o7RXFT170
政治家なんだから体調悪いって言ってれば普段から
体調悪い振りぐらいするわなあ。
久々に来てみたが相変わらずageたんの妄想が炸裂してるな
653 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/04(土) 22:04:05.43 ID:jWWeq9TD0
妄想というか俺は木戸という人物がどういう人物だったのか見極めたいだけなんだよね。
桂の初期の志士活動 松陰死後の長州での立ち居地 禁門の変までの京都での行動
復帰後の活躍 戊辰戦争時代の役割 明治初頭から洋行までにしたこと 洋行後の政界からの距離感
他にも人物とのつながりとか。長州でも山県とかとの距離がどうもわかりづらいよね。山県自体が分かりづらいんだけど。
後は大久保西郷はもちろん。 江藤とか板垣とかとどの程度つながりがあったかとか。
史料を読まずに妄想に引き込もって何を見極める()つもりなんだか
だからスルーでいいってば
いつまでもかまってほしくてageてばっかだし
もっと変なのが呼び込まれるからよしてほしい
荒らしに構う奴も荒らし
ageてるバカは見分けつくからもう構うな
657 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/05(日) 09:20:47.46 ID:12neWOkX0
いや。わかるよ。俺も基本は史料重視派だから。ただ幕末は史料が手に入らないし。
日記だ、手紙だって言ったらさ。それこそ専門的な人たちじゃないと語れなくなるから。
ある程度の推測はしかたがないねえ。
しかも知ってる人たちがその知ってる事を出さないんだもん。「俺知ってるよ」って言ってるだけ
だからなあ。
>基本は史料重視
基本は、って事は小説とかも重視するんだろ
近代史スレなんだから、日記や手紙を読んだ感想が見たいわ
荒らしに相手するのも荒らしなのは分かってるけど、ほんとブログで一人で語ってたらいいのに
ageたんと仲良くなれそうな史料読めない読まない人は、絶対ここ見てないからさ
幕末なんて資料多い方だろうに
近代史に片足突っ込んでるんだから
史料だって入手不可能な訳じゃないのに
何贅沢言ってんだか
660 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/05(日) 13:58:17.82 ID:/4l9KjeV0
大久保や木戸の後継者には伊藤が居るからね
理念的な面でも手法でも一番近いよ
伊藤は共和を理想としてたっぽいし地位や勲章蓄財にもあまりこだわりなかったし
661 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/05(日) 16:34:57.86 ID:dCM4AOay0
>>659 史料が多すぎるのが問題って事言ってるんだよ。しかも手に入らないし。
俺は三国志も好きなんだけど。三国志って史料は三国志正史しかないぐらいなんだよ。
だから三国志正史をどう読むかが面白くなるんだけど。
いいわけの相手してても意味ないよ…『醒めた炎』でさえ途中で投げ出した人じゃん
今更だけど松菊て しょうぎく でいいの?
うん
あーでも元ネタは「しょうきく」だからそっちか?
《陶淵明「帰去来辞」の「三径荒に就けども、松菊猶存す」から》
隠者の住居の荒れ果てた庭にも、緑変わらぬ松と清らかな香りの菊はまだ残っている。
隠遁(いんとん)生活にも昔の知己がいること、
また、乱世にも節操の高い志士が存在することのたとえ。
(大辞泉)
調べたらやっぱ「しょうきく」だった
いい加減なこと書いてスマソ
667 :
663:2011/06/06(月) 01:43:34.39 ID:XgyEnT0N0
いやいや、めちゃくちゃありがたい
こちらこそ浅知恵ですまん
ぶっちゃけまつぎくだと思ってた時期もあったくらいだw
号で訓読みはネーヨ自分
元ネタと合わせて改めてカッケーなぁ
ありがとさんでした
節操の高い志士で 隠棲したがりで お花好きな 木戸にあまりにぴったりの号
周囲の人間がみなそう思ったからこそ、数ある号の中でこれが一番メジャーになったんかw
669 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/06(月) 18:46:20.84 ID:U+f5YZ4P0
そうかな?あんま松菊って感じしないんだよね。高杉の春風並にあってない気がする。
号で合ってないなーと思うのは、本人はすごい俗世にまみれているのに世外、だなw
高杉さんちは春が通字だし諱は自分で決めた訳じゃないだろうし仕方ない。
春を知らせるものの、時には竜巻をも起こすはた迷惑な春一番的な意味で、春風は合ってると思うがね。
井上は当時の世の中(の常識)では手におえませんって意味でならいける
どんなんでもなんとなく皆合ってる気がする
号じゃなくて名前なら山県はいつもどうしてこうなったって思うが。
徹底図解幕末明治開いたらしょうぎくってなってたけど
>>666が正解だよね
木戸か桂か分けたくない時に使いたいと思いつつも認知度無いから無理だった
672 :
666:2011/06/07(火) 00:39:55.29 ID:xdwcLJ7s0
うーんものすごく自信があるわけじゃないが
もとネタがどの辞書どの百科引いても「しょうきく」なのと、
近デジで妻木の本と孝正編の本がどちらも読み仮名「ショウキク」で入ってるし
そんなこんなでこっちが正しいかなと
青木自伝の木戸がいちいち泣いているのは
青木のイメージ画像なのか本当に泣いたのかどっちなんだろうか
イメージ映像じゃないかな〜
もともと自分は、木戸の書簡や日記の「落涙」だの「涕涙」だの「悲泣」だのも、
漢文的悲憤慷慨表現だと思って半分スルーしてるんだが。
青木書簡の表現も、木戸とは違う角度で大仰だからなあ。
少なくとも年月が奴の記憶をデコレーションしているかとw
木戸が主役って時代の主役の所があまりない
安政の大獄まで松蔭
金門の変まで久坂
四境戦争まで高杉
明治から伊藤
青木自伝の中で確か台湾征伐で木戸の辞職を説得しようとした青木の前で
火鉢投げてから、青木を抱負して泣きに泣いたみたいな話なかったっけ
あれがイメージ画像だったら青木フィルターかかりすぎだろ
>>676 あん時は涙ぐむくらいはしてそうだけどな〜w
火鉢投げたってことは相当激昂してたんだろうから
そもそも火鉢って投げられるもんなの?
結構でかいよね
流石に黒田よりは小さいんじゃないのかな?
ただ火鉢は持ち上げにくそうだけど…
てか危ない
基本的にはマジ泣きしてた方が面白いと思っている派だが
青木自伝の憲法のところだったか
相手(青木)を見つめながらこっそり泣いたって所は青木のイメージ映像を疑わずにはいられない
火鉢っていっても巨大なものから小さなものまで、材質だっていろいろだ
小型の手あぶり火鉢か、木製の長火鉢じゃないかな
江戸の長火鉢はそうとう凝ったものもあったようだし そういうの自室で使ってそう
まあ木戸は体は弱いが力は強いよね
黒田の件見ても、道場で剣術だけでなく、柔術とかもやってると思う。捕縛術も
青木はなあ…たしか独逸発木戸宛書簡でも、
「女々しいんでヤジとしょっちゅう泣いてま〜す♪」
みたいなのもあったじゃん
あれもどうなのよ。じじつなのかよ。と追及したい気分だw
桐の火鉢だったような
部屋はえらい事になってただろうな。灯りは消え畳は焼け焦げだったけw
682 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/08(水) 22:22:20.30 ID:35EgyftJ0
しかしあの時代って写真もそれほど流通してないのにどうやって
木戸とか探してたんだろうな。新撰組は。後、命狙われてるのに
ひょいひょい集まりすぎ。手紙で済ませられんのかね。
青木自伝借りてこようw
まあ少なくとも浸るタイプだよな青木
木戸にめんどう押し付けてるくせによw
そういや青木が買い取ったのって、木戸の九段の家? それとも別んとこ?
684 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/09(木) 00:18:59.85 ID:Y5MO0gAz0
世に住む日日 3巻
「桂は晋作よりも多分にするどさを欠く人物であったが」
これはどうなんだろう?
木戸は愚痴愚痴言うの自分でも認識してたようだけどw
伊藤もゲンナリして木戸は気難しくて困った
それに比べ大久保は度量が広かったと言ってたような
まぁその点については褒めちぎってる大隈も婉曲的に認めているがw
まあ、台湾の件で木戸が下野した後、ガタガタの政府を一致協力して支えたのが
大久保・伊藤・大隈+岩倉なわけだから、そういう評価になるのは当然だ
彼らにしてみれば木戸の反対意見はすべからく愚痴になるわけで
それにしちゃ大隈は木戸のよい評価を残しているほうだともいえる
しかし木戸を政府に取り込んでおいて地方官会議をディスった大久保が
度量が広いと言うべきかは木戸好きとしては言いたいことはあるw
でも伊藤は、木戸の死後がんばって地方官会議やったりしてるし
愚痴愚痴はともかくw、木戸の識見はのちのちまで認めているよね
まあ伊藤にとっては木戸は「尊敬はしてるけど口うるさくてうっとうしい親」だからな
大隈は大久保にべったりだったんでしょ。
>>683 駒場と代々木だから、渋谷あたりかな。九段の家じゃないよ。
青木に二千八百円で売却シタリ。青木の先妻離縁話の時、木戸さん千円だか出していたから、
その関係で青木に売っていたのかな。
九段の家は木戸死後、北白川宮に…と忠太郎は語っているが…。
染井の別荘の周りの土地も段々と買い占めて広大にしていたし、
手紙から察するに、井上も横浜や京都にも土地を買ったり売ったりして利益をあげていたようだから
木戸さんも土地購入に積極的だったかな。晩年も京都の駅周りにも購入しようとしていたようだし。
青木自伝によると岩倉使節団で会った時に青木がやたらと土地の購入を勧めてるんだよなw
価値の定まらない株より土地!って書いてあったけど
この時期の日本にそんなに株って流通してたのかな?
そういえば練兵館時代は実家が桂の資産を運用して利子を渡してた気がするけど
これは金貸しとかなのかな?
和田の父が金貸してたかは忘れたが、貸家を持ってたって話はあったと思う。
何か投資はしてたんだろう。
冨成氏の『木戸孝允』で土地売買がらみで
木戸の山口の土地遺贈の件ディスっててちっと腹が立った。
「父譲りの理財の才があり」とか皮肉ってたが、理財のどこが悪い? と正直思う。
その「理財の才」のない士族たちのためにどんだけ骨折ったかw
まあ三傑の中では頭抜けて金のこと考えてたのは事実だろう。
>価値の定まらない株より土地!って書いてあったけど
>この時期の日本にそんなに株って流通してたのかな?
株取引がまだ軌道に乗ってないからこそ「土地!」だったのかね青蛇的に。
類似のしくみは江戸時代からあったとは思うが。
青木は農場経営とか手広くやってるな。
まあ青木がそういう才覚あったからこそ、
ドイツにやってきた留学生たちの専攻を強引にばらけさせて、
のちのち日本のためになったという面はある。
>>691 確か西郷も経理については強いんだよな
まあ大久保が一番数字に弱いのは確実だな
木戸って嫁の妹にも手を付けたの?
>>691 書生へのアドバイスが「借金持つな貯金しろ」な人だもんね
妙な所で現実的というか所帯臭いというかw
井上との洋行計画の時だったか、松子さんの衣装について何か凄い細かく計算してなかったっけ
そのくせ頼まれたらホイホイお金貸すし、わからん人だ
親しい人や恩人に頼まれると断れないからこうなる
当時って上流階級の女性の洋服っていくらしたんだろうね
しかしそこまで具体的に話勧めてて結局行けなかったのはなんか可哀想だな
大久保云々の前に健康的にもタイムリミットだった気がする
体調悪いのにそんなに洋行ってしてみたいモンなのかね
ドレスは布地たくさんいるし、布地は輸入ものだろうし、
男性の服より需要がまだうんと少なかったろうし、
相当高かったんじゃないかな。
国内では着る必然性ないしなあ
案外松子さん洋装写真も写真屋の貸衣装かもw
>>694 子孫の話では忠太郎は幾松の妹の子という説が濃厚らしいな
長州の女好き振りは凄い
容堂と意気投合したのもうなづけるw
なんというあからさまなツッコミ待ち
女性問題に関しては、根拠薄弱な三流週刊誌なみの書き込みか。(・◇・)?
釣られてる釣られてる
そういや松菊の読みの件。
ぐぐるぶっくすの『木戸松菊先生』、本文総ルビなんだわ。
妻木氏のお話の後で木戸について語った蘇峰の講演録らしいけど、
ぜんぶ「しょうきく」ってルビふってある。
しかし蘇峰の話よりも、その前の妻木の話の方が読みたい気がするぜw
えんえん引きずってスマソ
釣られて悪いけど、
木戸と松子、夫婦で容堂公等と今戸の御茶屋で宴会。酔いつぶれて一同泊すって。ワロタw
705 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/10(金) 21:04:14.27 ID:Sqz2y+ta0
結局忠太郎は
匿われてた桂が広戸兄弟の妹ミネに手を付けて生まれたの?(一坂太郎説)
桂が幾松の妹・信に生ませたの?(生咲家子孫の説)
ちょっと調べた感じ後者の説の方が有力ではあるみたいだけど。
ってことは姉妹丼しちゃったのか…
と気になって聞いたんだがね。
>>703 ひっぱるついでに
木圭はなんて読んでたのだろうか
>>706 もっけい、じゃないかな?
もっけいと言うと「いまだ木鶏たりえず」を連想するが、
中島三郎助の雅号が木鶏だったりする。
当時はそんなに読み方とかにこだわってなかったんじゃないかな。
隆盛とかも適当に決めたらしいし。
きけい と読んでた恥ずかしい
「未だ木鶏たりえず」かあ。かっこいいな中島三郎助。
木圭は号じゃなくて記号みたいなもんだし、読み方が決まってたわけでもないだろうとは思うが、
中島の号にかけてたかもと想像するとなんかいいね。
中島との師弟関係ってどんなもんだったんだろうね。
このスレだとすごい強い繋がりだったみたいに言われてて
「死んだ時に酒飲むのやめた」とか「なくなった場所に行って泣いた」
とかあるけど。
実際の付き合いの部分は誰も語らないよね。
木圭は読むとしたらもっけいかきけいかなーと思いつつ
ねらーかよと突っ込みながらかつらと読んでたw
自分は「ぼっけい」だと何かぼけてておもしろいなーと思ってたw
けっきょく木戸が嫁の妹に手を出したって話は事実無根なの?
それともここでは触れちゃ駄目な話題なのか。
>>714 三ヶ月ぐらい前の写真展がらみの話題をよく読んでね
またね
関係無いけど三ヶ月前の歴博で好子さんが明治二年生まれたって初めて
知った。確か醒めた炎では高杉の見舞いでもたもたしてたのは
高杉の見舞いだけじゃなくて好子ちゃんが生まれたから?(=好子幕末生まれ)
みたいな流れが無かったっけ
醒めた炎で他にもこりゃ捏造だろって思う所ある?
村松氏があの本を書いてから、幕末維新史の研究も進んだし、新たな事実がわかったことも多いだろう
たとえば、桂が江川塾に入門したとはいわれていたけど、英龍の跡継ぎに江川塾学頭に任命されてたなんて
今回の歴博寄贈史料から初めてわかったんじゃないか?
解釈の問題まで含めれば、そりゃいろいろあるだろうね
719 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/14(火) 07:34:07.64 ID:HF8G150e0
英龍の跡継ぎに江川塾学頭に任命されてたなんて
なにこれ。初めて聞いた
>>719 今回の歴博の木戸家資料目録口絵に載ってたかと。
英敏名で。英武の兄。
あの目録の口絵に、その学頭任命書と、
高杉が野山獄で書いた手記の原本が載ってたのは、
資料を整理してた研究者たちもびっくりしたからだと思う。
目録再版せんかのう
余らせたくないだろうから難しいかもしれんが
再販はしないと聞いたから、要望がよほどないと無理かと
悲しいけど、一体誰が買ったんだ
再販お願いしてみようよ
自分はメールする
どっちにしろ買う気ではいたからとりあえず問い合わせはしてみる
>>723 ごめん、買ったんだけどこのスレの人ほど知識ないや…申し訳ない
723だけど、
どこにそんなに木戸ファン潜んでるんだよwww
の意味のつもりだったんだ
申し訳なくなんて思わないで、堪能してほしい
>>727 こちらこそ変な気を遣わせてしまってすまん…ちゃんと有効活用するよ
木戸好きってそんなに多いんだなwww目録が無くなるとかないわwww
何をとち狂ったか二回行って何も買わずに原始米カレー食って帰った自分が
憎い。再販メールお願いしようかな
今回のは何かきっかけがあったかはわからないけど、ああいう展示またやると良いな
木戸家から寄付された膨大な資料の整理が終わったよ記念じゃなかったっけ
あの先生の木戸についての講演もいつかまたやってほしいなぁ
731 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/14(火) 22:34:33.26 ID:u6QPeuDh0
展示自体はかなりしょぼかったからな。しかもいろいろ回って最後に見たから
それまでの展示品とのギャップで更にしょぼく見えてしまった。ただ写真展示して
あるだけだもんな。あんなのネットで展示しろよってレベルだし。
てっきりもっと木戸ゆかりの品とか展示してあるもんだとおもってたけどな。
薩長同盟した場所再現とかしてほしかったわ。
ところで口絵の解説は以下のとおり。
江川太郎左衛門より桂小五郎宛の学頭辞令 文久元年(1861)11月8日
桂は嘉永6年(1853)江川太郎左衛門英龍(坦庵)に入門し、高島流砲術を学んだ。
この辞令の太郎左衛門は坦庵没後に跡を継いだ英敏のこと、
また学頭とは江戸芝新銭座にあった江川家経営の縄武館の学頭のこと。
今、つい目録読みふけってたんだが、
蝦夷の地名を北海道と改称し会津藩の残兵に開拓させる意見書らしきものがあるらしい。
北海道の命名者というと松浦武四郎が定説のようだが、松浦案は「北加伊道」。
それが「北海道」として太政官布告されるに当たって、木戸も関与してたんだろうか。
誰かの説を後押しってのが一番ありそうだが。うう、全文知りたいぜ。
734 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 22:51:10.95 ID:YnM7Zbry0
木戸がなにをしたのかが分かりにくいからなあ。
文部卿 内務卿とかやってるんだが。結局なにしたのかは不明だし。
再来年大河の主人公が新島襄の嫁らしいが、
新島絡みで木戸も少しだけ出るかな?
篤姫と言い江と言い最近は○○の嫁が多いね
なら幾松もと言いたいけど
>>463か・・・。
木戸との接点は八重に出会う以前の新島が留学中
通訳として使われてたっていう事くらい?
モブで出ればラッキーくらいに考えとく
後は、小野組転籍関連で山本覚馬が木戸に直接会いに来たくらいかな、
槙村はちょくちょく出るだろう。
内容には期待しないが、明治期の木戸がちょっと見れたら嬉しい
同志社設立のとき、新島は木戸に協力求めてるよね
そんで最初大阪で考えてたんだけど、宗教がらみで通らなかった
(たぶん当時の大阪の実力者は渡辺昇だったと思う
大村藩はキリスト教問題敏感だしな)
んで槇村の京都へとなったかと
直接頼んだのか書簡で頼んだのかどっちだっけ?
どちらにせよちょろっと出てくる可能性はありかとオモ
そーだ、大阪会議のとき、木戸たちと会って
大阪に学校作れないかって話をしたんだった
だから伊藤とか井上とかも出てくるかもしれん
司馬作品で語るのは批判するのに大河での木戸を語るのはOKなの?
司馬作品のフィクション設定をもとに、
ちょっと調べりゃわかることをいちいち持ち出すのと
これから大河にどんな風に関わってくるか楽しみにするのは違うと思うが
ほっといていいよ かまってほしくて絡んでるだけだから
まさか、話題の性質の違いがわからんほどアホとは思えないし
京都府上京区役所のHPでは、新島が京都で山本覚馬に会ったのも木戸の紹介としている
新島は土手町の家を貸してほしいと手紙で頼んだりもしているね。木戸は三本木か木屋町なら良いが…と断っているけど。
いくら昨今の大河でも、木戸が登場せんことは無いだろう。
745 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 21:44:12.68 ID:je8Kk2bw0
きのう二上がり、きょう三下がり、調子そろわぬ糸筋の、細い世渡り、
日渡りも、そこでなぶられ、ここではせかれ、主の心に誠があらば、
つらい勤めもいとやせぬ
これってどういう意味?
746 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 20:29:30.74 ID:Mve74ILJi
【東京】新宿駅前反パチンコ街宣 & パチンカーへの呼びかけ
【日時】6月25日(土) 9:00集合
【場所】JR新宿駅東南口階段下
【活動予定】
9:00〜9:30東南口階段下にて反パチンコ街宣
9:30〜10:00駅近辺のパチンコホールに並ぶパチンカーへ直接呼びかけ
10:00〜11:00東南口階段下にて反パチンコ街宣
再来年大河・・・愚痴っぽい陰鬱としたおっさんに描かれないと良いなー
日記とか資料読むとミーハーで冗談好きで面倒見の良い一方
留学生って言われるくらいの勉強家の賜物で論理的に物事を考えて
ちゃんと現実見てる理性的な人だと思うんだけどなあ
愚痴っぽいしすぐスネるのは本当だけど、前者のイメージを消す程か?
勝手な憶測だけど「孤立だが孤独だか鬱病木戸」って実際の本人像を
あえて無視した上で支持する一定の層がある気がする
>>747 政治家として孤立してたし。鬱病なのも明治後なら本当だろう。
>>747 孤立してたら下野したのをわざわざ強引に引き戻す必要ないのにね
ageたい誰かの為に木戸をsageる必要があるけど
政府に必要とされて引き摺り戻された事実は変えられないから妙なことになるんだよなぁ
つかあんなに活動的な鬱病があるならお目にかかりたいw
どんだけ友達と遊びまわってるんだよと
下野してるときだって、山口士族授産やらいろいろやってるもんなあ
内閣顧問の期間だって、皇族財産の件やら何やら働いてる
病気で引きこもってるときはそれはそれで友達が集まってきてるしな
悲憤慷慨が基本の漢文調表現力があまりに豊かなため誤解されてる面もw
751 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 17:04:29.28 ID:6RtkhpDP0
八重が木戸に戊辰の時の感情をぶつける、って言うシーンもありそうな気がする。
国のため、と理屈ではわかってても感情では割り切れんからだろうね。
それを受けて真摯に謝罪し八重を感服させる大人物ぶりを見たい。
>>751 八重が戊辰の恨みをぶつける相手はまず槙村じゃないの?w
んで覚馬がなだめる。
もし木戸と会うシーンがあるとしたら、
盲目になり足を悪くした覚馬をおぶさって槙村救済を訴えるあたりか
しかしゲゲゲの人が脚本ならちょっと期待できるね
戊辰以降のドラマは少ないから楽しみ
政治的孤立と友達が着ていたのを同列で語るのはどうなの?
着てるってどんだけ顔真っ赤にしてんだ
木戸は鬱では無い。
しかし、明治9年頃からは政治の中枢からは外れて孤立していたのは事実だろうね。
晩年、木戸は伊藤を嫌ってたようだけど、伊藤は色々報告して礼はつくしてる。
本人も京都に引っ込んで暮らしたがっていたし、
木戸ファンとしても、もうこの辺で隠居するなり、洋行するなりでいいんじゃないかとも思う。
まあ、隠居しても中央政府が気になってほっとけんだろうけど。
756 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 21:56:45.65 ID:AF9gfuw70
それに大久保が木戸を引き戻したがってたのは
長州の不平士族が木戸を持ち上げて反乱を起こすのを恐れてただけだろうしね。
反乱の後に木戸に復帰を要請したのは岩倉と三條だよ
地租改正で木戸の主張が全面的に通って復帰論が強まった
まあageたんのいうとおり、
政治的に孤立してたからって個人として孤立してたわけじゃないからなw
まあ政治上だって、大久保・伊藤・大隈らから離れてたからそういわれるけど
それイコール孤立って、何かちがわね? と思わなくもない
その辺詳しい人意見求む
派閥として孤立していたのは確かだと思うけど
政策的にはなんだかんだいって結局は木戸の建言した事が通ってるからなぁ
地方分権も井上を筆頭に山田品川青木伊藤が「木戸さんの遺志を継ぐぞ!」「おー!」
とやっていたわけで
政治的に孤立してたのを、普段の生活でも孤独を好んで書生を寄せ付けなかった。みたいに
本来は違うと分かっていながら確信犯(誤法)で捏造しちゃう司馬先生のようなのもいるからね
物語上わかりやすい極端なキャラ付けにする為とはいえ、
それが史実と混同するやっかいな読者も沢山いるし
761 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 23:21:13.18 ID:AF9gfuw70
世に住む日日 2巻より
維新後の木戸孝允は、政界の巨頭でありながら、かれの青年期からの傾向である
憂鬱症が高じ、政界のなにもかにもが気に入らず、ときには明治政府そのものが
気に入らなくなり、萩に帰って死にたい、と口ぐせのようにいった。
>>760 まあ今はうかつに司馬知識を披露したら
即「まだ司馬の話を史実と思ってる奴なんていたんだ」って言われがちだし
歴史学者に至っては司馬=史実な輩を堂々と批判してる人もいるしね
その内状況も変わるんじゃね
763 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 23:30:31.33 ID:AF9gfuw70
状況は変わんないと思う。だって司馬小説が一番売れてるし。読まれてるんだもん。
俺も司馬を否定しようとは思ってるけど。三国志演義みたいなものになりつつあるんだよね。
結局形に残ってるから。いくら史実とは違うよって言ったって聞く耳持たない奴の方が多そう。
テレビでだって坂本竜馬人気落ちるの嫌だろうからやたら竜馬を持ち上げるし。
入口の小説を読んで史実を調べたら結構違ってた,てのも歴史系の楽しみの一つの形だよね
ヒストリアのアンコールで桂やるってさ…あの内容で誰がアンコールしたんだww
誰得www
いや俺得なんだけど。
予約録画してたら開始時刻がズレたため、フォロータイムだけを見逃したんだ
正直マジ泣きした。何のためにsageラッシュを我慢して見続けたのかと。
それいつですか
>>765
禁門と出石の件はやり直しを要求するw
でも霊山や会津救済や松子さんの可愛い手紙なんかは良かったなあ
DVD録画してたけどせっかくだからBDで録り直そう
>>766 来週の通常放送だよ
シンジくん再放送wよりも、再来週の中島三郎助の方が気になる
桂弟子入りはスルーかもしれんけどね
孤立については、河瀬秀治の談話によると、
「木戸が嫌っていた西洋かぶれの亜剌比亜馬たちは、
木戸に新案を相談すると熟考の後でなくては容易に用いないが、
大久保に相談すると何事でも気受けがよいので、
知らずしらず大久保のほうに依頼して、公は孤立の姿になった。」
「しかし公は大久保と疎遠になっては国家が憂慮され、
利通もまた公に離背されては国家の危機と懸念されていたから、
大久保は何事かあると必ず木戸に相談して、
我々もその使いをしたことが度々あった。」
秀治は内務省で大久保の下にいたし、
木戸家には頻繁に泊まりに来て親しかったから信憑性はある。
目録再販来たね
今度こそは買いそびれないように早速郵便局に行ってくる
771 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/23(木) 21:46:51.93 ID:GyVG+nRo0
>>767 会津救済なんてしてたのですね。
木戸と会津は不倶戴天の敵と言うイメージが世間では強かろうから驚き。
でも、戊辰後の過酷な仕打ち(23万石→3万石、行き先はあっちの自己選択なのでここでは問題にしない)
の言いだしっぺは誰なんだろうかねー?
桂や龍馬らが同時期に剣術修行の為江戸に上ったとよく解説されているが、
実際には龍馬ら土佐人の方は海防警備の勉強・任務の為で剣術修行のほうはどうもオマケらしい。
桂も同じかな?
桂は竜馬や武市と比べるとかなり長い期間江戸にいて塾長やってたらしいね
桂は藩に願い出てお暇をいただいて剣術修行
>>769 資料ありがとう。絵に描いたような急進派と斬新派の特徴だなあ
欧米の悪い部分まで取り込んだりしない様に取捨選別して日本風に直せと
口うるさく注意した結果明治政府の母ちゃんだか婆さん扱いとはかわいそうに
>>770 再販無いだろうとかここで言われてたから嬉しすぎる
再販マジ?
直接、歴博にメール問い合わせした人から、再販ないって言われたという話を聞いたから
歴博の通販扱ってるページに再販って載ってたよ
昼休みに郵便局まで走ってくる
確認してきた
売れ残ると悪いし
欲しい人は今買うしかないね
三傑で妾を囲わなかったのって木戸だけじゃね?
イケメンなのに
最初の結婚も遅い方だし、女好きだけど自分の生活に組み込むまではって感じなのかな
遊び人に見えて実は、愛妻家
男前って評判だったみたいだし若い頃それなりに遊んで満足したんじゃないかな
同時期に妾の家庭を作ってないだけで幾松が離れてる時は好子の母親とか
出石の女とかいたみたいだし。病気してからはもっぱら家内家内だけど
というか骨董骨董勉強教育花花みたいに三十後半で趣味が一足早く隠居モード
なんとなくは遊んでなかったか
江良加代さんとか。字あってるかわからんが
彼女と仲良いということを記述した本は見たことないけど、どっかにあるのかな
中島の話ってこのスレの人たちは美談に仕立ててるけど。
中島の方がどう思ってたかでずいぶん変わると思うんだけど。
中島が木戸を嫌いぬいてたら美談でもなんでもないよね。
>>783 魚取りは趣味まではいかないのかな
伊勢だったかが船から落ちたのは漁した時?
>>784 江良加代の事は事実じゃないよ。
江良加代は文久2年3月祇園社の近くで生まれているから、明治元年数え年7才。
でも、木戸日記には明治元年7・8月頃、京都の座敷に『東山の妓加代等座す』と数回ある。
明らかに木戸が贔屓にしていた『東山の加代』は江良加代とは別人。この東山の加代にも貢いでいたわけじゃない。
この頃、松子との正式な結婚を奥平数馬に相談して、明治元年8月松子や正二郎を山口から京都に呼び寄せている。
ただ、東山の加代が三世井上八千代に踊りを習っていた関係で、木戸は三世井上八千代とも親しく交流があり、
明治3年12月、京都に寄った木戸の日記には“井上夫人(八千代の事だろう)の寓を訪れる”等々ある。
この関係から、井上八千代は槇村正直等とも親しく、明治5年京都で博覧会が催された時、
当時はそれほど有名でなかった井上流が抜擢され、都踊りの始まりとなる舞を踊る事となり、今日の発展を見る。
そういった井上流発展の経緯が、『三世井上八千代』に書かれている為、
よく調べもしない人が東山の加代を江良加代と思い込んだのだろう。
春秋に愛にし木々ハ蔭かれて 松のミ色をほこる今日かな 木戸孝允
明治10年正月の歌会はじめ御題は『松不改色』松子を意識してつくったかw
木戸さんお誕生日おめでとう。
旧暦だと今日なんだっけ
どっちを祝えばいいのかよくわからんがおめ
両方祝えば倍目出度い\(^ー^)/
確かにw
高杉は自分でハピバスディツーミーやってたけど
木戸も誕生日は祝うものって意識はあったのかな
当時は数え年で、正月迎えたら1才プラスだから
誕生日を祝う考えは無いんじゃないかな?
来週のヒストリアにも出そうだね
まああの番組に期待はしちゃいけないけど
795 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 22:01:48.42 ID:pDme0U3x0
あげ。松陰が桂の事を「学問がない」って言ったけど具体的に
どんな学問が足りないと思ってたんだろうね、松陰は。
あの時代だと国学とかなんだろうか。歴史知らずだったのかな。木戸は。
尊王精神とかがなかったのかもなあ。松陰からみて。
ageたん久しぶり〜
桂が松陰の弟子だった時期なんてほんのわずかなんだから
実際に松陰がどの程度桂の学問の進み具合を知っていたかは疑問だし
この場合かっとなって書いたことだから本気で検討する必要はまったくないが
基本的に松陰の学問に対する判断の基準値はおそろしーーーーーく高いと思う
797 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 23:21:12.64 ID:pDme0U3x0
けどかっとなったとしても「学がない」って言ってるぐらいだから
本当に学がなかったんだろう。
東大卒の奴と喧嘩してさ「根性がない」とか言ったりするけど
「学歴がない」とは言わないジャン。せめて「頭が悪い」ぐらいは言うかも知れんけど。
学がないって言っちゃうぐらいだから本当になかった可能性もあると思うんだよね。
少なくとも久坂や高杉よりはなかったんじゃないかなあ。松陰評価で。
喧嘩して「ばーか」って言っただけの話に東大生とかどこまで残念な知能なんだageたん
もうageたんに構うのやめようってば
何度言っても木戸と喧嘩中の松蔭の言動を正規の評価にしたがるんだから
800 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 01:03:38.65 ID:rn7OG5zd0
800age
いやさ、自分は桂の学問云々よりも、松陰の学問に対する恐ろしい情熱がずっと気になってたんだ
松陰に期待されて競い合わされちゃったw高杉と久坂でさえ、
はっきりいって先生の理想にはぜんぜん追いつけてなかったと思うんだよね〜
村塾生の中では、その期待を持たせるだけのものが二人にあったんだろうけれど
まあ松陰にそんだけの学問への情熱とわけわからんパワーがあったからこそ、
藩幹部の連中松陰をついつい甘やかしちゃったんだろうねw
802 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 08:38:09.32 ID:KmeyQrct0
>>801 松陰の学問はかなり偏ってると思うけどなあ。
松陰とは死ぬまで喧嘩したままだったんだろうか?
近代デジタルライブラリー、6月30日の追加で
木戸日記、木戸文書、遺文集など公開されてるよ
見てみた
これ途中からなのかなあ?
公爵家のアルバムってあんま人はいってなかったんだなあ。
見たときはこんなもんかと思ってたんだけど。
今日行った幕末の絵師の特別展示がしてある博物館行ったけど
比べ物にならないほど人が入ってたなあ。無名な絵師なのに。
>>805 日記は明治元年(慶応4年)4月1日から始まっている。
それ以前の備忘録や小遣い帳は遺文集に収められている。
禁門前の1・2年分の書類(三箱分)は今井家に預けていたが、幕府の探索を恐れ今井家が井戸に捨て紛失だっけか。
慶応年間あたりの詳細な日記も残していてもよさそうだけど、企画展の目録にも無かったな。
>>807 捨てたんじゃなくて、今井氏の縁戚の酒屋に預けたら、
ちょっと危ない感じになってきたんで古井戸(涸れ井戸か?)に隠したんだけど、
そのことをころっと忘れて井戸を埋めて畑にしちゃったので行方不明だって
誰か発掘調査やってくんないかなー もう建物建っちゃって無理か
最近岩倉書簡やら井上文書やら見つかってるし、木戸文書ももっと見つかってほしい
特にこのころのはほとんど残ってないからなあ
809 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/06(水) 22:23:10.60 ID:SMt7rq9t0
あげ、過疎ってルナ。
ヒストリアやってる時間に書き込まれてもw
今日けっこう出てたね
特に目新しい情報があったわけじゃないけど
桂の中島に対する誠意ある師弟関係を割と強調してて良かった
弟子入りの所だけちょこっと紹介するのかなと思ってたが、
人物評とか江戸に再び入った時に訪ねたとか残された家族とか
思ったより取り上げてくれて良かった。
東北行幸にも触れてくれてたらなお良かったがまあ尺が限られてるしな。
少なくとも先週のアレよりよっぽど良かったよw
確かに
先週のあれはキリキリして見たというか、これが名作選ておいwwwという感じだったが
今日の扱いは真っ当で心安らか
ヒストリア、先週のアレは今回の伏線だったのだ
814 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/07(木) 07:57:21.77 ID:a45xyM0h0
ヒストリア見逃したわ。中島の回なんだっけ?
木戸が中島の家族を引き取るくだりとか。木戸が酒を飲むのをやめたくだりとかあったの?
あと再放送とかある?
桂が中島に弟子入りした時にちゃんと弟子として仕えさせてくれって言って
喘息の薬の御使いをさせてもらったり
中島が周りからなんで桂を厚遇するのか聞かれたとかいうエピソードは創作?
816 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/07(木) 17:41:00.55 ID:oy+Bpn120
松陰が桂に「勝と中島は日本の宝だから喧嘩してるなら仲をとりもつように」
みたいな感じの手紙送ったってのは「風雲児たち」の創作なの?
昨日のヒストリアでコメントしてた佐々木譲の「くろふね」にも、そのエピソードがあったな
ageたんに構わないように
819 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/07(木) 22:49:27.34 ID:B5ZmlG5L0
松陰と中島になにか繋がりあったのかな。桂に中島を推薦したのが松陰とか
このスレで見た気がするが、松陰は幕府の人と繋がりあるようには見えないんだよね。
後、松陰と勝も佐久間門下なのに繋がり薄いよね。氷川清話に松陰の事が全く出てこないって
どういう事?記者たちがインタビューしたなら吉田松陰の事出てくると思うんだよね、
松陰って明治30年ぐらいだともう忘れ去られてたのかな?けどその時ちょうど
伊藤 山県 あたりの松下村塾門下が幅利かせてるときなんだけどなあ。
820 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/08(金) 21:01:09.70 ID:pozO37se0
あげ。
821 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/09(土) 14:19:51.60 ID:2kWhXWUc0
幕末維新の最大の功労者は、西郷でも木戸でも坂本でもなく、幾松である。
幾松がいなければ桂は出石で野に埋もれたままで、薩長同盟もなく徳川の世が続いていた。
822 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/09(土) 15:55:41.83 ID:2nOK+Mqa0
>>821 桂のかわりに広沢か井上あたりが行ったんじゃね。薩長同盟。
高杉はいかないだろうけど。
もう桂から連絡来てるんだし、幾松以外の誰かが迎えに行っただろ。
少し遅くなったかもしれないが。
薩長同盟の人選は、他が有り得ないとは言わないが難しいな。
井上では藩内での位置づけも藩外での知名度も、
長州を代表するには到らないだろ。
広沢はどうかな?力量はともかく知名度が上がるのはこの後だし。
高杉は知名度はぐんと上がったが、藩内調整力に不安ありまくり。
木戸は藩内外で一目も二目も置かれて来たし、
失敗から学べる男だからな〜。
諸隊の幹部連れてって目の前で西郷なじって見せるぐらい、
他のやつでもできたかもしれないけど、
桂だから説得力があったし、西郷も譲ったかなと。
結果論とはいえ桂だからあれだけうまく行ったと思うな。
ていうか高杉迎えにいこうとしてたやん
頓挫したが
825 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/09(土) 17:44:34.19 ID:2kWhXWUc0
1ヶ月に渡る幾松の説得で桂は帰長を決断した
幾松がいなければずっと出石で荒物屋をやってた
高杉、次第に捜索目標が正確に絞りこまれてくのがすごいよなw
おそらくいずれは勝手にたどりついてたろうし、
リアル桂がヒストリアのごとくぐずってたとしても
(これは自分から連絡とってる時点で有り得んが)
必ずや桂連れ帰りに成功しただろうな。
あまりに騒ぞうしい捜索ので桂も潜伏を諦めただろうw
桂は一年位身を隠したら戻ってくるつもりだと大島宛の手紙に書いていたね。
幾松が迎えにいく時に持って行った、村田蔵六から桂宛の手紙は、
「…当地も昨年八月戦争後静謐に而商売も有之候間、御下り被成候而関地之形勢御考合被成度候
昨極月より萩御城下も正俗論とか相始り正俗両党戦争に相成、
正月十一日より15日迄四度之戦争に俗論家利を失い敗走致し、
正義徒復快致し候由風説承り候。関地は城下相距り、
且つ正義に快復致し候へは最早静謐に而、…何卒急に御下り被成度待入申候。
慶応元年二月七日 林竹次郎様 村田亀蔵より」
この手紙を読めば普通に帰ってくるだろうね。
石橋を叩いてわたるタイプだからズルズル伸びそうではある
高杉が桂を迎えに行った場合 パターン1
「桂さん!俗論派はわしが一掃した! 戻って政権執ってくれ!」
「晋作!?どうしてここが分かった?」
「この地方の方言がしゃべれない新参の色男がおらんかと、そこらじゅう聞いて回った」
「……わかった。とりあえず移動しよう(ため息)」
高杉が桂を迎えに行った場合 パターン2
「桂さん!俗論派はわしが一掃した! 戻って政権執ってくれ!」
「晋作!?俗論派を一掃した本人のお前が、なぜここにいる?」
「馬関開港しようとして石頭連中や支藩の連中に命を狙われ逃げてきた!」
「……わかった。私が何とかするしかあるまい……(ため息)」
アンサイクロの木戸のページの最後、どうにかならない?
あの項目もともとなかった上に別人が悪意で書いたの丸分かりじゃん
あ、本当だいつのまにか<アンサイクロペティア
つい先日までなかったのに
どうみても司馬の私見ですありがry
アンサイクロまで気にしてもなあ
高杉なんか原型留めてないような所だし
でも笑いをとれそうな文を書ける人が書き直してくれたらいいね
>>829 ワロタ
実際に来てたら久坂みたいに駕籠で乗り付けてそうだなあ
833 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 17:30:21.94 ID:5xYdOf2Z0
>>827 でもヒストリアでは幾松の必死の説得で翻意したと・・・
ヒストリアは残されている史料から風説まで、最大限に利用しさらに独自に脚色して
話を面白くしようとしてるんだよ
木戸は活動時期が長すぎて、自分の専門範囲時期以外の木戸については
実に適当なことを言う研究者が多いしな 脚色しやすいんだろ
一応大河とは別の情報を盛り込もうというコンセプトはあるようなんだけどね<ヒス
去年の大河ではいつになく武闘派だったので、ヒスではやたらチキンにw
そのかわり大河では龍馬も殺しかねなかったけど、ヒスでは東山霊山の墓碑の件や
会津救済の手紙に愛妻ぶりの情報まで入れていた
837 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/13(水) 02:02:02.17 ID:RdSkgACd0
その時歴史が動いただったかな、龍馬はただの薩摩のパシリで大した人物じゃなかったと放送してたなw
838 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/13(水) 17:31:23.42 ID:1Nc8cOSj0
>>830 長州藩もたいがいすごい事になってるなあ。
839 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/13(水) 22:58:08.75 ID:mpSwDvmh0
☆信者とかが書いてんだろうなぁw
840 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/15(金) 09:53:54.20 ID:M78mo9Zn0
腐女子臭いスレだな
あれは魔界だ。
こんなもんではない。
842 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/15(金) 17:48:53.30 ID:oXk0q4CY0
アンサイクロペディアは冗談とパロディが基本なのに・・・
それが真実を書いてちゃあいかんよ。
アンサイクロのカラクリ天井と撤退中に御所で討ち死の部分は笑ったww
伊藤なんて散々だし、嘘っぱちが前提で読むもんだよ
剣術大会で龍馬に負けた、証拠に手紙もある、とか史実ぶって書かれる小説や漫画より全然面白い
>カラクリ天井と撤退中に御所で討ち死の部分は笑ったww
禁門の変の、足をくじいて80年代少女漫画ばりのドジッ子ぶり
ってとこも笑った
もれなく黒田や火鉢が飛んで来るとかもw
史実と俗説と茶化しのバランスが絶妙だよな〜
相当くわしい人じゃないと書けない名作ギャグがいくつもあって
かなり出来がいいとオモ
ラストはあってもべつに構わんがフツーすぎて面白くはないなw
なんか建設的な話題がないなあ。
武市の漢文が発見されたらしいが。木戸の新発見とかないのかね。
木戸の子孫の倉庫あたりあさってみたいなあ。愚痴った漢文とかありそうなのに
桂が倒幕を意識し始めてから、それが目的になるっていつ頃?
具体的には廃藩置県、中央集権国家の設立
関係文書もそろそろ出ても良さそうなもんだが。
まだ半分ぐらいは残っているだろ。全五巻には収まりそうに無いけど。
どうなってるんだろ。
御火中の筈の手紙が何通増えるか楽しみです
ウィキの高輪談判の項見たら、意外にちゃんと木戸の働きが書いてあった
大久保に手紙で、薩摩が贋貨鋳造を自ら認めることの利を説いた件
あのときって、東京再幸になって主な連中は東京へ行ってんのに、
木戸だけ体調不良で京に残って療養してたときなんだよな
これがなきゃ、大隈の対処案はいつまでたっても通らず、大隈は業を煮やして辞職したろう
政府にいなくても裏でこんだけの仕事ができるのが木戸だよなーと思う
へえ。こんなのあったんだな。まったく有名になってないけど。
明治で財政の事が分かるのは井上と江藤だけという司馬の主張は
まちがってるのかな。
司馬を真に受けちゃいかんw
>>848 わろたw
あれってもらった側はつい面倒で棄て忘れてんのか
「いやいやあとで参考になるかもだし」なのか
あるいは「いつかこれを切札にフヒヒw」なのか、どれなんだろうな
「木戸翁の真筆を燃やすとかないわペロペロー」な奴のことはおいとくとして
青木w
燃やしてスルーがありすぎてこの時代の枕詞か結びの定型文なのかって気になってくる
本当に残して欲しくないのなら、毛利元就みたいに
「読み終わったら返してね」
「まだ返ってこないけどあの手紙早く返してね。あ、この手紙も返してね」
と書けば良かったものを。
そういうのは殿様だから言えたことじゃないか?
返してもらうにも相手にお金かけさせることになるんだし
べつにただの想像なうえにどうでもいいことですまんのだけど、
自分は、木戸と愉快な仲間たちの間に交わされた手紙は
むしろ飛脚に頼んだのは少ないのかなーと勝手に思ってる。
友人知人の誰かでついでがある人に届けてもらったり、
近所の場合は家の使用人とかに持たせてそうな。
飛脚利用にしちゃ頻繁すぎるし、どこか重要な宿場とかなら
そういう便もよさそうだけど、辺鄙なとこにいてもガシガシ手紙往復させてるしなあ。
どうでもいいついでに自分のお気に入りの一通は
木戸→周布書簡の
「久坂から意見書の草案が送られてきたけど読めません。
そちらにもう少しマシなバージョンが届いてると思うんですけど
ちょっと貸してくんないですか」
とかいうやつだw
伊藤ややじや入江は、江戸藩邸と国元の間の飛脚便やったりしてるよな。
飛脚みたいに走ったわけじゃなさそうだがw
奥平数馬から桂宛の
「麻田(周布)は相変わらず麻田で、豪論痛飲しています
来着し一同で飲みましたが、詳しいことはお伝えしませんので
どうぞ本人からとくとお聞き取りあれ」
みたいな手紙も好きだ!
奥平って桂より一回りも年上なのにw
周布→桂の
「忙しく書類仕事してたら、久坂坊主がいきなりやってきて
涙流しながらすごい形相で『信州へ行かせてください!』とかいってさー
志士の一念ほっとくわけにもいかんし
こんなことお前にしか相談できないから明日ちょっと来てくんない?」
って書簡もいいw
長州のオヤジどものふところに、桂がしっかり入り込んでるのがよくわかる
話がずれるが、手紙や日記を読むと当時の生活事情も結構分かって興味深い。
奥平に宛てた木戸最後の手紙は5月4日に京都から出して5月8日に東京に届いてるから、
郵便事情も結構良かったのかな。
萩から山口まで馬で10時間だったり、
東京から京都は徒歩なら12、3日はかかってるけど、横浜から大阪は船で3日。
京都伏見から大阪は深夜に船で河を数時間で下ってたりしてる。
860 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/21(木) 21:33:54.10 ID:WWlNGsQX0
>奥平
と言われて一瞬、兼輔の方かと思った。
関係文書読むと、萩の乱の時はみんな奥平数馬の事心配してるんだよな…
ヤジは謙輔から数馬への遺書を預かったけど、めでたい書ではないから後日自分が持ち帰る。
と、木戸宛に書いてる。つらい。
>>859 その議論は数年前の話だから、
その後、新しい木戸家所蔵の一次資料(忠太郎の親族書や藩への養子届け等々)が公開され、
松子の妹信と松本順造の子であった事が証明されているからねえ…。
まあ、元々忠太郎は養子であることははっきりしていた。
木戸については関係文書が今やっと出版されているところだから、
これから新しく分かってくる事が他にもあるんじゃない。
>>862 信の子である事は間違い無いが、松本順造については証明されたと言える段階では無い。
松本順造について調べると疑問点が多く出てくるし、忠太郎が読売新聞で「小浜の松本家」と語っていたのと矛盾も生じる。
松子が婚姻の際身分を合わせる為に岡部家の養女となったように、迂回縁組が為されていた事も考えられる。
木戸が松子の家族に初めて会ったのは明治に入ってからという事実を
ひっくり返せるような疑問点とも思えんがw
どっちにしろI坂の但馬の女の子ども説じゃ
ぜんぜん年齢が合わんがな
姉妹丼に関しては桂ならやりかねないと思わせる所があるからなあ。
木村幸比古の本でもヤリチンぶりを殊更ピックアップされてたし。
桂というか長州志士が全体的にそういうノリだっただけだと思うが。
ていうか親族巻き込んで大騒ぎになったI坂説のソースが木村でしょ
そしてその根拠となった資料を提示できてないと聞いたが
姉妹丼説って、そもそもI坂説のおかしさを指摘した人が、
「こういうことなら分かるが」って例示した憶測にすぎないんだろ
なんでこんなとこで事実みたいに語られるわけよ
木戸日記に、明治7年6月始めて松子の親弟妹等に会うと書いている。
木戸が父親であるはずがない。
>>864 木戸が実父とは書いてないんだがな。
>>862 が
>松子の妹信と松本順造の子であった事が証明されているからねえ…。
と書いているから証明された訳では無いと書いているに過ぎない。
草まで生やすなら松本順造について相当詳しく調べていると理解しても良いかな。
調べもしていないなら一坂と同程度だな。
NHK・さかのぼり日本史が今明治をやっているが、解説が断固間違っている。
日本国の議会政治の父は、明らかに、松菊木戸孝允。
無知な国賊放送局NHKに電突よろしく。
さかのぼり日本史は見てないけどNHKな上に解説が確か佐々木さんでしょ
木戸の功績なんて語る訳がない
さかのぼると、8月は版籍奉還と廃藩置県で木戸主役のはず。
期待してはいけないのだろうか。
どうだろう、解説者によっては引き続き大久保無双かもしれん
つか8月は以前の再放送(昭和期)のようだ
木村幸比古ってどうなん
876 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/24(日) 19:55:01.55 ID:wAckmXtZ0
>>876 そんなにキモくはないよ。だけど、笑い話になる状況じゃないんだよな、そもそも出石あたりは。
それに、高杉は功山寺挙兵後、藩をお留守にできる状況にもないし。(しかし、負けじと創作に挑戦。)
高杉晋作が桂小五郎を迎えに行った場合 パターン3
高杉「桂さん!お久しぶりです。」
桂「おおー晋作!? 久しぶりじゃのう。でも、こんなところで一体何をしておる? どうしてここが分かった? こら、こら(晋作、桂に抱きつく)」
高杉「ここら辺で背の高いすごーい色男を見かけんかったか、ちゅうて聞いて回ったら、すぐにわかったいいねwwwww」
桂「なんだ。そんなに目だっとったんか。これでもしっかり商人に変装したつもりだったんじゃけんどのーwwwww」
桂「で、藩はどんな様子だ? 何があった? 用向きはそれだろ?」
高杉(しばし沈黙)
「今度は藩の俗論派どものために正義派がまたまた多くの志士たちを失ってしもうたです。」(涙目)
「誠に申し訳ない。」(涙)
桂「いやいや、私に謝らんでもよい。私もここで潜伏しておった身じゃ。」
高杉「いやいや、桂さんが賢いのはよ〜くわかっちょるけぇ。ほんと、桂さんほど賢い人を私は見たことがありません。」
桂「面と向かってそんなこそばゆいこと言うな、晋作。」
高杉「じゃけど、桂さん、言わして下さい。わしゃーすごーく悔しかったけぇ奇兵隊と諸隊に呼びかけて、仇だけは取ってやったんよ。」
「んで、今は、元通り、正義派政権にもどしてやったそ。じゃけど、今、藩をまとめられる人物がおらんそよ。
わしは反乱の首謀者じゃし、周布殿は自裁しちょるし。」
桂「周布殿がか?周布のじいさんまで責任取らされたのか?」
高杉「いや、周布のじいさんは、あくまで自ら責任を取っての自裁じゃけぇ問題はないんじゃけんど」
桂「そうか。それはほんの少しだけ安心した。・・・・・じゃが、それは難儀な話じゃのう・・・・・。」
高杉「そういね。じゃけぇ、桂さん、長州に、はよー戻って来て下さい。殿様も山口の政事堂で心待ちにしちょるけぇ」
桂「そうか・・・・、わかった。話は分かった。とりあえず温泉はいらんか。ここの温泉は気持ちええぞ〜(にこり)」
普通にキモいからそれ
>>876 実際書簡読んでもあーゆーノリだもんよ連中
もちろんそこに腐女子的妄想の余地はない
長州は江戸時代初期から衆道禁止
久坂「薩摩や土佐って××なんだってよー!」「ゲーッまじ!?」
みたいなエピソードあったよなw
腐女子的ノリというより大学サークル的ノリのような気がする長州
>>877 抱きつくのはやりすぎ
手をつなぐのはあり(試撃行日誌)
きっついよね。木戸の家族関係とかを語ってるのもきつい。
キモイだの腐女子だの単発IDで煽ってるのは
久坂大楽高杉スレから流れてきた夏厨だから
触らない方がいいよ
銀魂云々言ってるあたり程度が知れる
>>872 あれなんで憲法からずっと佐々木さんなんだろうな。
こないだの内務省の回はともかく、
憲法や十四年政変は伊藤之雄さんや瀧井さんを呼ぶんじゃ駄目だったんだろうか。
佐々木さんひとりの解説でさかのぼってくと結局
「すべての道は大久保に通ず!」になっちゃうよなー。
佐々木さんも大久保も好きだけどもさ。
1ヶ月ごとの括りになっているから、8月が再放送なら
9月は佐々木さんじゃない誰かがひと月担当するんじゃないかな
〃⌒> : ´: : : : : : \\:\
{{ ̄ ̄, . : ´: : : : : / : : : : : : ヽ ヽ: \
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}レ ´/: : : : : :-〃: : :/ : / : :/ : : ||: : : : :,
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/ ノ: : :〃んィi∨{ : 八:\ : : /: / : /: : : : |
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八人: : ∧ ー'  ̄>一彡: : : : : :/: : :/
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,. ―:′ }': : , : 一: ´:/
/ : ;/: : : : /
毎日変態新聞の最近の葬儀報道はつまらなくなったとかいう悪趣味な記事の中で
木戸&容堂助平コンビの葬儀の模様が取り上げられとるw
でも木戸の葬儀記事って大して面白くなかった気がするけどなあ
淡々と事実を羅列してるって感じだったけど、毎日が取り上げたのは福地版じゃないとか?
福地は当時南西戦争で忙しいにもかかわらず、木戸伝を数日にわたって紙面に掲載したんじゃなかったっけか
毎日に載ってたのは
>>584の最初のとこちょっとだけ
福地版ってどこで見れるの?
>>584が福地版(の抜粋?だよね?)
ごめん、これが面白い葬儀記事だったのか
もっと私情まみれでいいのに福地〜、と思ってたもので
891 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/28(木) 11:01:47.26 ID:V0ey1Wwr0
桂「腐女子と歴女はキモ過ぎるから私の事を研究しないでくれたまえ。
私は美人が好きなんだ。君たちみたいなデブスの相手はしたくないよ」
, ': : : : : : / : : : } : : : : `、
/ : i: : i i /: : / ; {、 : :、: : .
〈}: |: : |_|:{ : / /: :} \ヘ! : i
i: |: |:イ| | ∨:/: /:厂 〉i: : !
|: | 从|笊V|ハ/V笊V从: :|
|八{{{ ヒヅ ヒヅ '}}}: :|
|: i`∧// 、 //∧': : |
|: |: i:iヘ、 ,、 'i: | : i:|
|/|: i:i : i> __. イi: :i: | : i:|
{ 从vイ `丈´ `〈j厶バ!
/} i\_/ ゚}ヘ._/ {\
┌───'─┴─┴┸‐┴‐┸─┴一ー──‐┐
⊥ ⊥、
{厶 〉 〈/ ハ
仁ヽ) `Y.ノ
{‐、.〉 |/
ヽ|
>>891 |
| キモ |
| . |
| まさか、それを創作と思ってるのか? |
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〉、」 / ,ノ
{ `≧=‐----‐ ´≦´ }
>>891 キモ
まさか、それを創作と思ってるのか?
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( 二二二ニ) ノΘ(__ ) ゙ 、∵.;|∵’,
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>>891 │ | │ | | | イン ,'´ ̄`ヘ、 // | \
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_,,,...//〃ー,_/(. / /ミノ__ /´('´ / .∴・|∵’
,,イ';;^;;;;;;;:::::""""'''''''' ::"〃,,__∠_/ ,∠∠_/゙〈ミ、、
/;;::◎'''::; );_____ @巛 く{ヾミヲ' ゙Y} ゙
≧_ノ __ノ))三= _..、'、"^^^ \ ! }'
~''''ー< ___、-~\( ,' /
\( ,'.. /
そんな頑張ってレス番真っ赤にしても仕方なかろうに。お前は板垣か。
久坂が面食いだったのは有名だけど他の面々はどうだったんだろうな
お雅さんは防長一の美人で有名だけど選んだのはあっちだから高杉の趣味かどうか謎だし
桂は妹のことをいまいち呼ばわりしてるが美人だし、あれ本音なのか建前なのか
ブス専・・・?
>桂は妹のことをいまいち呼ばわりしてるが美人だし
当時としたらごく普通程度の身内についての謙遜だろ
愚兄とか愚妻とかいうのと同じ
木戸の葬儀が仏式、高杉は神式
>>899 高杉は、山口では神式、萩では仏式で葬儀をしている
どっちにするか家族と奇兵隊が揉めて山縣が木戸に相談したんだっけ
どっちがどっちだったんだろう
902 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 16:32:08.61 ID:QN++Jfhc0
\韓国の.../
(⌒) ピッ 日テレにするか
/ ̄ ̄| ∧_∧
| ||. | ━⊂(・∀・ )
\__| ======== \
| | /※※※※ゞノ,_)
\少女時.../
(⌒) ピッ TBSにするか
/ ̄ ̄| ∧_∧
| ||. | ━⊂(・∀・ )
\__| ======== \
| | /※※※※ゞノ,_)
\キムチの.../
(⌒) ピッ フジにするか
/ ̄ ̄| ∧_∧
| ||. | ━⊂(・∀・ )
\__| ======== \
| | /※※※※ゞノ,_)
\韓流の.../
(⌒) ピッ テレ朝はもういいわ
/ ̄ ̄| ∧_∧
| ||. | ━⊂(・∀・ )
\__| ======== \
| | /※※※※ゞノ,_)
(⌒) ピッ 寝よっと・・・
/ ̄ ̄| ∧_∧
| ||. | ━⊂(・∀・; )
\__| ======== \
| | /※※※※ゞノ,_)
来原良蔵の横浜外人館襲撃計画を知って、世子に報告したのは小五郎らしいけど
小五郎自ら止める等、他に手立ては無かったのだろうか
それとも良蔵自身はどちらにしても死ぬしか道が無いと考えていたのかな
桂自身の説得がそれまで通じずに来たから、
あと止められそうなのは藩主父子だけだと思ったのでは
伊藤の「処世術は桂さんのが巧いかもだけど人物識見ともに来原さんが数段上です!」
てのはそこらの経緯をめぐっての感情が相当入ってるよな。
その答えを聞いた高杉がなんてコメントしたのか知りたいところだが。
しかしまあ色々因縁は深いんだろうけど、伊藤は司馬にエサ与えすぎだろw
(来原との比較論は拾われてなかったようには思うが)
話者が悪いのか記者が悪いのか知らんが話が断片的すぎて
いまいち当時の裏面やら両者の真意やらわからんところがあるし。
つか伊藤はだったらさっさと桂から離れりゃいいじゃんとしか
桂は基本的に来る者は拒まず去る者は追わずなんだから
「処世術は桂さんのが巧いかもだけど人物識見ともに来原さんが数段上です!」
これまじ?伊藤こんな事まで言ったの?最悪だなあ。
良蔵は文久2年8月25日に京から江戸に出て、28日襲撃失敗、29日切腹だが、
遺書は両親宛が6月23日付、夫人宛が7月1日付だった。
自決するつもりだったのだろう。
>>907 ソースは『伊藤公直話』な。
高杉に来原と桂どちらが上だと思うかと訊かれてそう答えたと言ってる。
そんでそれが回り回って桂の耳に入ってえらく不興を買った、とも。
そりゃ誰だってそんなことを言われりゃ面白くないだろうが、
この場合は来原の思想・行動の解釈や対処のしかたについて
桂と伊藤で懸隔があったんだろうなーと。
あと桂と伊藤じゃ藩内での立場が圧倒的に違う。
個人としては刎頸の友であっても、政治的に外せない呼吸というのはある。
そういうのを無視して少壮客気の気炎をふかされても、っていうのが
不興の理由なんじゃないかと思うわけだが、
ただ「不興を買った」というだけじゃ
いくらでも司馬的木戸像(嫉妬がどうの猜疑心がどうのという)が描けちゃうわけだよな。
あ、どっちが上かじゃないや。
単に「人物比較論を問」われたんだそうな。すまない。
幕末において「人物が上」っていうのはどういう基準なんだろうな。
魅力だけの判断じゃなさそうだし。胆力?ってのが深くかかわってくるのかねえ。
まあ伊藤にとって来原は、最初に自分を認めてくれた人で、ぶっちぎりの大恩人
来原がいなければ桂の育にもならなかった可能性が高い
(村塾には吉田稔麿の絡みでいったかもだが)
当時の伊藤が後年のように長井のことを評価していたとは思えないが
そういうこととは別に来原が絡むと桂への思いがもやもやするのは不可抗力かと
伊藤の中での来原の席次は、松陰センセより上じゃなかったっけ。
木戸家の後継ぎにやたら介入してきたり、
孝正に対して木戸の愚痴を言ったのは、来原の息子だからというのが大きいんだろうな
>>913 山県と違って伊藤はあんまり松陰を評価してないね
高杉評にしても、伊藤は立場によって言うこところころ変わるから一概に判断は出来ないけど
コピペ
602 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[
[email protected]] 投稿日:2011/08/01(月) 10:01:48.96 ID:Iz7y36HN0
・木戸は言うほど責任逃れ男ではない。
・大阪会議後、板垣島津の政治的反乱の件で保守、急進の双方から挟み撃ち。福沢諭吉にも心配されるような状態でも、
今やめるわけにはいかない、と踏みとどまっていた。
・諸隊反乱時、命を狙われながらも自ら鎮圧。もし責任逃れ男なら、即東京に逃げ帰っていただろう。
なぜか、上記のようなエピソードは紹介しない司馬氏。
・木戸と伊藤の関係。
・木戸と伊藤が外遊中不仲になった理由として、伊藤の言い分しかひろっていない。
・伊藤に対して木戸が激怒した原因は、大久保と仲良くなったための嫉妬ではなく、「キリスト教を国教化」と伊藤が主張したから。
(とぶがごとく執筆の2年前に、そのエピソードが語られた青木周蔵自伝が発行されている)
・「あいつは、昔豆腐が高いと言って…」の愚痴について、伊藤はまじでシャレにならないくらい浮ついていた。
伊藤の養子の証言:伊藤は、外遊中、派手に豪遊していた。踊り子のスカートに遊びで火をつけて罰金とられた。
なぜか上記のようなエピソードは紹介しない司馬氏
・木戸が若者相手にするのが面倒くさくて書生もとらない(大嘘もいいところ)
・木戸の家には千客万来。多くの人が話を聞いて貰いに、遊びにきていた。
・木戸の家には書生が確認できるだけでも4人はいたはず。
・それ以外にも長州の若手(その他の藩の人間も)が集まってきていて、だべっており長州サロンのごとくで、木戸は皆から母のように慕われていた。
ここにきて全く逆のエピソードまで作り上げた司馬氏。
・木戸が征韓論時に倒れた理由。
・馬車から落ちて、頭を強打していたことを全く語らず、神経症と断定。
やっぱり父じゃなくて母なんだw
木戸は皆から母のように慕われていた。
これのソースは?
外遊中木戸と伊藤が不仲になった原因の一番は、
伊藤と森有礼が条約改正を簡単に出来るといった事じゃないの?
日本で委任状を貰って再びアメリカに戻ると、自分に対する木戸の態度が変わってた、と伊藤自身言ってる
その後の軽はずみな行動を見て決定的になったのかもしれんが…
ていうか
「処世術は桂さんのが巧いかもだけど人物識見ともに来原さんが数段上です!」
これが本当ならもう元から伊藤と木戸は相性悪かったんだろうし。
伊藤は木戸の事嫌いだったんだろう。木戸も伊藤は有能だから傍においておいただけで。
内心は大久保とさも似たりだったんだろ。
>>919 伊藤博文がなんとほざこうと、
大久保利通と伊藤博文の後進国ドイツをわざわざ真似るという大間違いが、結局、後々尾を引いたという意味で、
松菊木戸孝允>>>>板垣退助>>大隈重信>>>>>大久保利通・伊藤色文
という構図は全く変わらんからw
けどなあ。明治の大政治家として伊藤の評価は揺るがないだろうし。
なにをもっと後々尾を引いたというのかもわからないし。
>>921 精神的・文化的・政治的な後進性
リービッヒの最小律の法則ってのがあってな、
一番できの悪いリーダーが結局、レベルを決めてしむんだよ。
比較厨は比較スレでも立ててそっちでやれ
ドイツ(プロシア)に期待したのは木戸(+青蛇)もいっしょやん。
木戸を変な神格化しないでほしいわ。
いま明治はじめごろの書簡読んでるけど、伊藤と木戸は普通に親密だよ。
そりゃ来原がらみで複雑なものもあったかもしれないが、
人間と人間の関係なんて、そんなにかんたんに断じられることじゃない。
>>924 木戸様が大久保・伊藤ごときと同じようにプロシアをお手本にしようと?
山県有朋たち軍人でさえ、普仏戦争までは、プロシアなんかには目もくれてない。
木戸様からすれば、
大久保ごときはまるでこちらの真意を理解できぬ困った同僚、
伊藤ごときはお調子者の不肖の弟子に過ぎない。
明治の初めごろなんてやる事沢山あって連絡取り合わなきゃいけない時期だから
書簡があることで親密とはいえない。
>>926 書簡の内容が親密だといってるんだが?
>>925 木戸+青木の憲法案はプロシアベースです。「政規典則」ね。
のちに伊藤が学ぶ法学者グナイストにも、岩倉使節団時に既に話を聞いている。
もちろん木戸は、日本に適応するに良いところを取るという姿勢だったが、
まだ新興国であり、帝政でもあるプロシアのほうが、英仏よりも日本の参考とし易いと考えた。
青木や品川による、いわゆる「ドイツコネクション」の形成には
木戸も大きく貢献している。
ドイツ人教師の招聘や、ドイツから帰国した留学生の登用など。
青木が、ドイツに留学してくる連中の専攻をうまいことばらけさせたので、
留学生の活躍の場が広がったという面もあるが。
余談だけど当時の新聞読んでたら、
木戸さん明治9年の秋頃からドイツ人を雇って、ドイツ語を習っていたらしい。
1月に解雇(京都奈良巡幸の為か)したようだけど。
>>928 それ時期的に松野クララさんじゃないか?あの、ドイツで林学学んでた松野君の奥さん
確か来日して松野君と上野静養軒で結婚式あげるまでドイツ語教師として木戸家で
住み込み働きしてるよ、ちゃんと木戸との契約書もある
かなり若いんだよなあ、1月解約は結婚したからではなかったかと
実はもう一人雇ってたのかもしれないけど
ああ、クララさんってピアノ教師だよね。
語学習ってるねー木戸。
パーソン日本にいるのに、英語あきらめてドイツ語に行った?
青蛇が手紙にドイツ語書いてくるからか?
まあ、木戸はドイツだからいいとか、イギリスだから悪いとかはないよね。
イギリス式の憲法に否定的だったのは、
イギリスは慣習法で、成文憲法はなく、それこそ百年単位の年月をかけて
慣習に基づいて動く議会中心の政体をつくってきたのに、
がらっと政体を変え慣習を改めようとしている日本に、
いきなり議会中心の政体を導入できるわけがないから。
自分は先日、伊藤がトラウマオブ来原のために木戸に対して云々…
と言い出した者だが、なんだか荒れる種蒔いたようですまない。
ちなみに自分は大久保も伊藤も好きだし、ドイツ傾斜は各人軽重があるとはいえ
あの時点でそれが必ずしも悪いことだったとは思わない。
伊藤はときに軽操のきらいがあるけど
反面そのフットワークのかるさがいいと思ってる。
まあその軽いノリでその時その時ペラペラ好きなこと喋るもんだから、
いらん軋轢も呼ぶだろうし司馬につけ込まれるんだろうし…と思ったりしたんだ。
長々と弁解すまない。
いやだからさ、木戸はプロシアベースの憲法案を作ったけど、
それがFAだとは思ってないんだよ。
日本が一足とびにイギリスやフランスのような政体になるのは、
人々にまだ政自意識がなかったし、
世界への目どころか藩意識からも抜け出せていないものがほとんどだった。
まずは有司専制的な少数支配でいくしかなかったが、
その有司に一定の規制を課すための、プロシア式の憲法。
もっとも、日本にあわせて木戸自身がそうとう手を入れてるようだがね。
教育や地方議会により民度が上がってきたら、
議会制を定めた憲法を定めればいいというのが木戸の考え。
だから板垣みたいな「即民選議会を!」という
当時は非現実的主張には批判的だったわけで。
政自意識 → 政治意識
だからさ、おいつけ追い越せ後進国の
途中経過的モデルとしてのプロシアなわけ。
漸進主義の木戸らしい選択だろ。
太平洋戦争で問題になる大日本帝国憲法とかの内容と
木戸が考えてた内容は違うの?軍部が勝手に動き回れる憲法は
伊藤が作ったわけでしょ?
いいからageたんは識見辞書でひいて
革命日記嫁よ
>>929 ドイツ人女性だか婦人と書いてたからクララさんの可能性が高い。
数日前の記事には松野さんが独逸人のクララという人と結婚とも載っていたし。
松野夫人も結婚するまでの数ヶ月は木戸家に住み込んでたんだ。
イギリス型憲法目指したのは大久保の方じゃね?
フランス風の民権論者だった中江兆民を留学させ、フランス風民権論を出版させたりしてなかったっけ
ただし民権移行は明治30年辺りからで、それまでの過程は逆に徹底した有司専制少数支配でなければ国家は瓦解すると
民力つくまでは一個の英雄的統治者が判断下さなければとしたわけで
>>938のような大久保びいきによるデマを時々目にするが、
事実無根どころかそれこそ真逆じゃないの?
どうなった?
>>935 帝国憲法は軍部の統制については今と比べると甘かったしそれを批判されるのは仕方ないが、
軍部が勝手に動き回れる保障はしてないぞ。
立憲後の明治政府ではそんな事例ないでしょ?
統帥権の独立が悪かったとよく言われるが、これは政治家が統帥権を握って軍を私するのを防ぐための措置でもある。
実際、もし大西郷が政権内に居たとき正規軍を含めた蜂起を画策していたらどうなったか。
これは大西郷に限った話ではなく、軍に絶大な影響力を持った政治家が誕生すれば同じこと。
政治家が軍を掌握して終身大統領とかになる例は、アフリカや中央アジアなどでは今でもしばしば見られる。
たとえば有名な統帥権干犯問題は、最初は海軍の一部が主張するだけで自然鎮火したのに、
犬養や鳩山が目を付けて焼け木杭に火をつけたから、政権までぶっ飛ばす大火になった。
軍部が統帥権干犯を理由に、予算権その他に堂々と介入し始めるのはこれから。
それ以前にも軍大臣現役武官制で間接的に干渉する余地を与えたのはミスだと思うが、
これにしたって民衆の反感かって逆効果になったりするリスクがあり、また大正期に一度は
廃止されてるんだよね。二・二六のあとに復活したけど。
ぶっちゃけ運用側が腐ってたり民衆がそれを支持したら、どんな憲法でもダメだと思われ。
大久保の憲法案がイギリスタイプだったのは事実だよ。
もっとも、イギリスには成文憲法がないので、
イギリス式に議会が優先される憲法という意味。
薩摩はイギリス留学生多いからね。そっちからの献策をとってる。
大久保と木戸はどちらも、いずれは議会が必要だがまだ難しいと考えた。
それに向けて教育や市町村会で人民の意識を向上させるなど準備し、
さらに、議会開設までの権力に枷をはめる憲法がすぐ必要と考えたのが木戸。
後世の人間がなんとかするだろうと成り行きまかせなのが大久保。
そもそも、プロシアかイギリスかで良し悪しを判断できるほど
単純な話じゃないだろ、時代的にも。
ビスマルクに心酔した大久保の憲法案がイギリス式ってのは面白いけどな。
木戸の建言で制度取調となったから自分も出しといたって感じもする。
昨夜半鹿児島の電報御示、披見仕候。所詮大挙の勢力はこれ無しと相察せられ申候。
実に連年小グヅグヅは却て国家平安の為によろしからず、何卒此度は判然御所分これ有りたく希望いたし申候。
兵隊の驕慢はあたかも病後の薬毒の如し。
長州の如きは久しく混雑候ゆえ其経験御坐候得共、薩は一新巳来の新居に付兎角其味相分り兼候処、
此境に至り候えば彼内輪にても自ら明白に了解候事に付、
前途の為めには所致の宜敷を得候巳上は好都合と相考え申候。
木戸冷たいな
>>942 > ビスマルクに心酔した大久保の憲法案がイギリス式ってのは面白いけどな。
イミフ てか、不文憲法案とか、字義的にあり得ん
「民主未ダ以テ取ル可ヲズ。君主モ亦、未ダ以テ捨ツ可ヲズ。」
大久保は民主の政が天理だと考えてる。
「天下ヲ以テ一人ニ私セズ、広ク国家ノ洪益ヲ計カリ、洽ネク人民ノ自由ヲ達シ、法政ノ旨ヲ失ハズ、首長ノ任ニ違ハズ、実ニ天理ノ本然ヲ完具スル者ニシテ・・・」
その上で、「民主ノ政」は、アメリカ、スイス他の例をあげ、「創立ノ国」「新徒ノ国」ではうまくゆくが、として退ける。
君主ノ政は「明君」「良弼」あるときうまくゆくが、ピュリタン革命やフランス革命をまねくことは必然だとする。
「君主ノ政」は人為からでて、天理にかなわない場合が多く、長く維持すべきではないとする。
日本は、維新以来君主専制だが、今日は適用できても、すでに時勢は半バ開化に入っている。
将来もこれを固守すべきでない。
大久保は、君民共治を打ち出す。
「定律国法ハ即ハチ君民共治ノ制ニシテ、上ミ君権ヲ定メ、下モ民権ヲ限り、至公至正、君民得テ私スベカラズ。」
>>945 くわしくありがとう。
木戸も共和制を志向していたわけではないし、
木戸と大久保は結論の部分では基本的に似たような考えなんだよな。
考えてみれば、木戸がイギリス式に批判的だったのは、板垣の「イギリス式議会論」なんだよね。
慣習法によって律されているイギリス式議会が、そのまんま日本に導入できるもんかい、って話。
憲法で議会が規定されてりゃまあいいわけだ。
それでも時期尚早だと思ってたろうけど。
>>944 だから、イギリスの政体を成文憲法としてあらわしたらこんな感じ、
ってな議会重視型憲法案なんだってばよ 分かれよ
西郷どん、大久保さぁ、木戸君を維新三傑と並べても、大人と赤子かの様な人物識見に違いがありもそ。
一個の存在が風雲として成立し、存在自体が恐れられた西郷どんは英雄でごわす。
政治の天才・大久保さぁは人傑でごわす。
木戸君はせいぜい智者でもそ。
木戸君は西洋回って表面を掴み、なんだか分かった気になり西郷どんや大久保さぁを頑迷としもしたが、二人はさらにその奥を深く洞察してるでごわす。
大久保さぁの死で野の突き上げが起き、民権移行議会憲法制定を早めてしもいもうした。
こいが逆に人民の発展と機が熟さず、不完全な民権議会憲法になりもした。
明治天皇。伊藤君。山縣君。「明君」「良弼」がおった時は確かに上手く生きもしたが、私利私欲保身政治家が跋扈し国家が変質して大過を犯し、敗戦と云う形でフランス革命の様な変革が起きてしもいましたでごわす。
きもい
>>945 > 君主ノ政は「明君」「良弼」あるときうまくゆくが、ピュリタン革命やフランス革命をまねくことは必然だとする。
どうして、あの有名な、英国の名誉革命を外してるの?w 持論と矛盾するから?w
>どうして、あの有名な、英国の名誉革命を外してるの?w 持論と矛盾するから?w
横レスすまんが、名誉革命は、大久保的にいえば君民共治を実現する革命だろ。
その前にラジカルな清教徒革命が起きてるからこそ、こういう穏健な形になった。
別に省いたからって持論と矛盾云々ではないと思うが。
ちなみに17世紀のイギリスの政治の流れは、
なんちゃって絶対王政(そこそこ議会に発言権あり) → 清教徒革命で国王処刑・共和制
→ 王政復古で絶対王政やりたがり → 名誉革命で議会が優勢な王政に
今はその時期じゃないと判断していただけで実は…というなら
時期が来たら実行出来るように根回しや準備をしていたのかと
>>943 そら冷たいっつーか、政治的に鹿児島だけを特別扱いせざるを得ない状況に
木戸はずっと怒ってたから当然でしょ。
改革は全国一律平等に行うべきって持論だったから。
まさか大西郷が参加するとは思ってなかったようだが。
>此境に至り候えば彼内輪にても自ら明白に了解候事に付
って辺りから察するに、軍部内の薩摩派の押さえには自信があったのかね。
>>943 木戸様は、西郷と直接話つけに行くと一番最初に立候補してるぐらいだから、
明治政府内では最も西郷に温かい人。
> 実に連年小グヅグヅは却て国家平安の為によろしからず、何卒此度は判然御所分これ有りたく希望いたし申候。
> 兵隊の驕慢はあたかも病後の薬毒の如し。
それにしても素晴らしい見識だな、木戸様は。
西郷に暖かいっつったって、最後どうする気だったのかね。
捕らえて謹慎処分で済ませられるの?
>>954 (大阪会議に次いで)鹿児島会議だろうな。
薩長同盟締結時の時のように木戸様がガンガン説諭して、西郷が「それでよか」と了承して、
鹿児島県も他の県と同様に明治政府の管轄下に入り、西郷を参議に復帰させる。
西郷と薩摩が一枚岩じゃないからなあ。久光がいるし。
木戸は大久保のことを久光に相談したとかのエピソードもあるらしいが。
結局どうだったのかは分からないし。
反乱した奇兵隊の奴らが武器を手放して降参すれば善処するといわれて騙し討ちにされてなかったっけ?
松下村塾の教師だった富永有隣は投降したら殺されると踏み逃亡していたような。
奇兵隊の反乱って何の話だよw
まず正確に書けよ
脱退騒動といった方が正確だな。
確かに130人もの処刑命令を出したのは木戸だが。
ところで坂下門外の変で桂達が水戸藩と共闘し、
老中暗殺に成功した後は長州が幕政改革に踏み込む約束だったらしいが
具体的にどんな改革プランを考えていたんだろう?
この話は醒めた炎に載っているのかな。
>>957 奇兵隊の松村源一が聞いた田邊という人の話によると
富永有隣が田邊の家にいた時に脱退組がやってきて
脱退騒動に否定的な冨永を無理矢理連れて行ったわけだが
木戸スレにも夏休みが来たんだなww
962 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/09(火) 00:42:52.62 ID:X2mQ5DLT0
やっぱ奇兵隊の件が木戸にとってはウィークポイントなんだろうね
>>962 全然。
物わかりが悪くて悪ノリしてて横暴なだけの反乱軍を鎮圧しただけだから。
待っていさえすれば、いくらでも帝国軍人になる道はあった。
むしろ不満を溜め込ませ過ぎて西南戦争の首魁となってしまった西郷隆盛、
西南戦争を未然に抑えられなかった大久保利通等と比較すれば明らかなように、
維新の三傑の中でも不満分子のガス抜きに早めかつ小規模で成功している唯一の御仁が松菊木戸孝允。
山口県庁の役人が駄目なせいで反乱分子が出たけど
木戸はその不満に対する具体的なフォローを始めてたからね
そもそも木戸が武力鎮圧する羽目になったのはたまたまタイミングがあってしまっただけだし
萩の乱とか本当に規模がショボイからなw
日本最大の内乱となった西南戦争との差が際立つ
佐賀の乱にしても、言っちゃ悪いが江藤程度でもあんだけの規模だったのに
966 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/09(火) 08:14:04.03 ID:X2mQ5DLT0
奇兵隊粛清してなければ萩の乱がもっと大事になってたんだろうね
多分ならないよ
前原は庶民主体の諸隊が嫌いで、脱退騒動の時にも彼らに対して付け上がってんじゃねー
って思って自分がぶっ潰すつもりだったから
木戸の様な対応を薩摩にしたら薩摩兵が群がり立ち新政府が吹っ飛んでる
長州は高杉らの功績で藩内革命終わってた面もあるし
西郷と大久保が明治10年まで暴発を防いで力を養い新政府が薩摩と戦える力をつけた
西南戦争も西郷が政府を本気で覆す気あったり、大久保が対応誤れば新政府側があっさり負ける可能性もあった
969 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/09(火) 21:31:10.76 ID:X2mQ5DLT0
西郷はつぶす気はなかったって言いたいの?
日記、明治三年2月14日に「東京に以外の説あるを聞不堪慨泣也」とあるのだけど
前原一誠反乱の風評がこの時からあったと理解していいのかな?
は? なして明治三年に前原反乱説? 脱退騒動収束の最中に?
なんか書簡とかで前原のこと触れてるの?
木戸ageのために奇兵隊脱退sageは間違ってるとおも
責任者のポジにいた木戸は確かに不運だが
上の脱退騒動sageは、ほぼみんな西郷びいきの
薩摩age木戸sageのつもりじゃね?
974 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/10(水) 12:57:32.24 ID:1ZWknYyd0
松菊木戸孝允という文字を見るとウィキペディアで記事名をこれに変えた人物を思い出す。
そもそも奇兵隊じゃねえだろ諸隊って書けよ
脱退騒動のメインは遊撃隊だしよ
そこ不正確だと疑いの目で見ちまうんだよ
脱退騒動 → 脱隊騒動
>>968 イミフ ていうより間違いだらけの妄想p
> 木戸の様な対応を薩摩にしたら薩摩兵が群がり立ち新政府が吹っ飛んでる
木戸のような対応を西郷や大久保がしたら下手クソ過ぎて逆に薩摩内で殺されてしまい、新政府での薩摩閥がなくなっていたってこと?
> 長州は高杉らの功績で藩内革命終わってた面もあるし
藩内革命?????
功山寺挙兵→絵堂の戦いは、正義派が俗論派政権をひっくり返したクーデターということだけであって、
その後の維新や維新政府への対応・不満とは何の関係もない。
> 西郷と大久保が明治10年まで暴発を防いで力を養い新政府が薩摩と戦える力をつけた
薩摩藩が中央政府に納税すべきものを納税せず力を全く不当に養っていたという部分のほうが大きいのではないだろうか。
薩摩一藩を長土肥等で制圧することはいつでも可能だったはず。
廃藩置県前も、西郷が率いてきた薩摩軍はそのように警戒されていた。
> 西南戦争も西郷が政府を本気で覆す気あったり、大久保が対応誤れば新政府側があっさり負ける可能性もあった
負ければ賊として処断されることは全く同じなので、西郷が維新政府を本気で覆す気があったなかったに関係なく、西郷軍が全く同様に負けただろう。
それから大久保は実際には政府側の迎撃態勢が整わないうちから薩摩武士を激怒させ挑発しただけであり、明らかに対応を誤っており、
実際になんとかかんとか上手く対応したのは山縣有朋や谷干城。
>>971 この日、脱隊騒動鎮圧の兵は東京に帰ってるのと、「意外な説」を知らせたのは井上聞多のようなので
なんの事だろうと考えると前原一誠関係しか思い浮かばなかったので…
確かにこの時点で反乱の説があるのはは早すぎるか…
980 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/10(水) 21:14:20.26 ID:S02fzJL70
前原は隙あらば反乱おこそうと思ってたんじゃないの
でもその割には下準備が杜撰すぎやしないだろうか
普通に考えたら脱隊騒動がらみの風説や誹謗だと思うが。
実際、常備軍を藩のために動かしたととやかく言う者もいたようだし。
聞多が連れてきた軍は結局出番なかったようだがね。
このころはまだ、前原がキレるほど士族解体は進んでないだろ。
偏見かもしれないが、前原は佐賀の乱や神風連の乱がなければ、
不平は言ってても起たずに終わったかもと思う。
うっかり条件が揃っちゃったって感じ。
奇兵隊は鎮圧側じゃないのかな
前原は明治三年九月に官職を辞して帰郷
三浦梧楼いわく、高杉=木戸=三浦らしいが、これは政治思想ってことなんだろうか
脱隊騒動の主力は百姓・町人からなる遊撃隊。上級士が主力の干城隊・振武隊とそして奇兵隊がこれを鎮圧した。
廃藩置県にあたって東京に集結させられた近衛軍の場合、長州藩はどの部隊を提供したの?
松陰師の評価
久坂評「玄瑞の才は縦横無礙なり。高からざるに非ず、且つ切直人に逼り、度量も亦窄し。然れども、自ずから人に愛せらるるは、潔烈の操、之れをやるに美才を以てし、且つ頑質なきが故なり。」
高杉評「識見気魄、他人及ぶなし。」
稔麿評「識見高杉晋作に彷彿す。但し、些かの才あり大いにその気魄を害す。」
皆人の駕馭を受けず、高等の人物なり。
入江評「入江だけは国のために死ねる男児である。」
前原評「勇あり 、智あり、誠実人に過ぐ。」
木戸評「桂、事をなす才あり、胆略学乏しきは残念なり。」
伊藤評「才劣り、学幼し。性質素直だが華なし、中々の周旋家になりそう。」
だからなんで喧嘩中に言ったことをドヤ顔で持ち出してくんの
スルーしとけよ 夏だからよ
990 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/13(土) 08:40:07.61 ID:5st/pvxK0
>>987 >木戸評「桂、事をなす才あり、胆略学乏しきは残念なり。」
むしろ桂小五郎を友として信じていたからこそ、
自分の行動(老中・間部暗殺計画)に同意してくれなかったことに対する
松陰がやるせなさ、歯がゆさをその一文に表したのだろう。
桂の人間性を低評価しているわけではないと思うな。
991 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/13(土) 11:28:14.14 ID:cKTG+d3O0
松陰の来原評はどんなだったんだろ?
伊藤は来原と桂じゃ数段来原のほうが上って言ったらしいけど。
ageちゃんって壊れたテープレコーダーのように同じことばかり書いてて怖いんだけど
993 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/13(土) 12:04:00.26 ID:cKTG+d3O0
俺は同じ事は書かないようにしてるよ。スレが似たような話題で繰り返されるのは
決着が付いてないからでしょ。だから前にも言ったがテンプレ作るべきだって。
自覚なしとかほんとに怖いんだけど
>>993 なら自分で正しい所感を述べられる程度に勉強してから出直して
てめえで勝手に決着つけやがれ
それよりだれか新スレ立ててくださいたのんます
乙&梅
ume
1000 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/14(日) 01:43:13.52 ID:v++nAg9+0
千
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。