伊藤隆さんは富田メモ・日記について、『諸君!』2006年10月号に掲載した
「碩学が読み解く「富田メモ」を弄ぶ“危険な誘惑”」において、
>>707と
>>708以外では要約すると主に次のような見解を主張してる。
・昭和天皇の行幸等を決める手続きはどういうものであるかに全く触れていない。
参拝する、しないということが、天皇の一存で簡単に決まるものではないのではないか。
宮内庁長官、次長、侍従長といった天皇の側近や内閣が天皇の行動に関わっていないということは
考えられない。
・昭和天皇の発言とされる文章を読めば、天皇は靖国神社の「筑波」宮司の時代から、「松平」宮司の時期
までの経緯を詳しくご承知のように思われる。となれば、合祀に関して天皇がその賛否に全く関わられなかった
のだろうかという疑問が生じる。
・「富田日記」「富田メモ」が天皇と靖国神社問題全体をどのように記述しているかを見ないと、
この記述を軽々しく解釈することは困難ではないか。もし「A級戦犯」問題で天皇が靖国神社行幸が
止められたとしたら、春秋の例大祭には勅使を派遣するなど、靖国重視の姿勢を示し続けてこられた
こととどういう一貫性があるのだろうか。行幸は駄目で、勅使はよいというのは妙な事。
・靖国問題が対中韓関係も含めて政治問題になっていくなかで、靖国神社行幸をなさらない理由を「A級戦犯」
合祀を含む政治問題化と結びつけて昭和天皇がご説明なさっただけとも考えられる。
・人の記憶、過去の事柄についての解釈は時間が経つに連れて変化することはしばしば見られること。
「富田メモ」に記述された昭和天皇の十年ばかり以前の自己の行動についてのご記憶が、靖国問題を
めぐる政治状況の変化によって自らの解釈が変化しなかったとはいえない。