大東亜戦争とは「今」何を残したと思う。 弐号

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1日本@名無史さん
 大東亜戦争とは・・・
 歴史は繰り返される。人は間違う生き物です。
 大東亜戦争とは、先人が後世のために立ち上がった戦いだと私は思う。
 歴史は繰り返される。何のためになぜ立ち上がったかを、日本国民の共通認識にしなければらない。

 日本の歴史の上で煌びやかな歴史があると言った人がいる。その歴史は鎌倉幕府であると。
 頼朝は、朝廷に対し、土地の権利を主張している。
 その権利以外は不問とした。

 世界でもまれに見る皇室の存続は、
 「万世一系仁慈を持って国を統治され給う天皇陛下」
 が君臨され給うからであらう。

 事、大東亜戦争の戦火の中におられた先人には、私は感謝の気持ちを思い痛むしだいです。

 人一人では、何もできない。
 国家として戦った戦い・・・国民が支持した大東亜戦争です。

 忘れていいはずがない。


2名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 20:01:14 ID:OW24jHZS0
>>1
連合国が俺らの統治に便利という政治的手段>天皇存続

支持しなきゃ憲兵とかに捕まるから。特に敗戦傾向顕著になってからの国民士気低下はひどかった。
それを公然と口にすることもできなかった>支持
3名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 22:58:42 ID:w4HOX+jX0
その2が立ったか。

大東亜戦争は何を残したのか。戦後教育で育った連中に蔓延する自虐史観かね?
自虐は大好き、恥の文化は忘れました、というんじゃ、日本人が劣化した
のは間違いない。

実際、戦後教育を受けて定年を迎えた今の老人は、尊敬に値しない恥知らずが
多くて困る。そして、こういう連中に限って「憲法九条を守れ」と絶叫するんだ。

日本の安全保障を真剣に考えたら「憲法九条を守れ」などという寝言は死んでもいえない。

4名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 04:07:20 ID:ZKQaaytC0
開戦前夜 焼き捨てられた報告書 現実を直視、今年こそ
三度目の奇跡 第1部 私は45歳(2)

 70年前の日米開戦前夜。正確に日本の国力を予測しながら,葬り去られた幻の報告書がある。
報告書を作成した「戦争経済研究班」をとり仕切ったのは,陸軍中佐の秋丸次朗。1939年9月,
関東軍参謀部で満州国の建設主任から急遽帰国した。同班は「秋丸機関」の通称で知られる
ようになる。英米との戦争に耐えられるかどうか,分析を命じられた秋丸。東大教授の有沢広巳,
後の一橋大学長になる中山伊知郎ら著名学者を集め,徹底的に調べることにした。

 調査開始から1年半を経た1941年半ば。12月8日の日米開戦まであと数カ月の時期に,
陸軍首脳らに対する報告会が催された。意を決するように,秋丸がいった。「日本の経済力を
1とすると英米は合わせて20。日本は2年間は蓄えを取り崩して戦えるが,それ以降は経済力は
下降線をたどり,英米は上昇し始める。彼らとの戦力格差は大きく,持久戦には耐えがたい」。
秋丸機関が出した結論だった。
 列席したのは杉山元参謀総長ら陸軍の首脳約30人。じっと耳を傾けていた杉山がようやく口を
開いた。「報告書はほぼ完璧で,非難すべき点はない」と分析に敬意を表しながらも,こうつづけた。
「その結論は国策に反する。報告書の謄写本はすべて燃やせ」会議から帰ってきた秋丸は
メンバー1人ひとりから報告書の写しを回収し,焼却した。
ttp://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819FE0E0E5E2E29B8DE0E5E3E0E0E2E3E2819A93E2E2E2
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=3400783
5名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 09:03:19 ID:F3GAvS8k0
『科学と社会』 中谷宇吉郎(岩波新書)
http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/12/post_4bb9.html

 『科学の力によって不可能を可能にならしめよ』
 こうした戦争中のスローガンは、一見まともなことを言っているようにも見える。しかし本当に不
可能なことも可能であるかのごとく、戦争に邁進して理性を見失っていった軍部。一般の人と
てそれを信じて闘ったのだ。
 中谷宇吉郎は『雪の結晶』の研究でも有名な人だ。その彼に軍部より依頼があったという。
それは千島列島や北海道の霧を晴らしてくれというものだったそうだ。確かに釧路など濃霧で
有名だ。視界を遮るので航空機の滑走のじゃまになる。
 科学者中谷宇吉郎としては、地表から上空に至る霧の濃度を測り、水滴を蒸発させるだけ
の熱量を試算した。滑走路の霧を消すだけなら重油ドラム缶20本もあればよいということになった。
 ところが軍は『重油をドラム缶20本も使うくらいなら科学者なんかに頼むまでもない。』と言っ
たそうなのだ。重油はあまりに貴重で、軍でも調達できないものだったのだろう。
 しかし中谷宇吉郎は言う、『なにか呪文のようなものを書いて、それを一度ふればいいという
ようなことならば、科学者はいらない。それならばどこかの行者に頼めばいいのである。』
 燃料も無く、どうやって地上の温度を上げ、霧を晴らせよと言うのか? 雨乞いのように、お
呪いをして霧を晴らせとでも言うのか、と宇吉郎はその軍の姿勢に呆れている。
 霧で有名なロンドン、イギリスでも同じ様な方策が考えられたようで、宇吉郎と同じやり方で
滑走路から一時的に濃霧を晴らし、実際に敵機攻撃に向かったとある。効果はあったのだ。
敵のドイツ機は濃霧の中からイギリス航空隊が襲ってくるとは思いもよらなかったのである。
 しかし日本ではあまりの物資不足に科学的な方法は顧みられず、科学者への期待も、『科
学の力によって不可能を可能にならしめよ』と、マジックのように、ありもしないところから物が飛
び出すような研究を求められていたのだ。
6名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 11:46:21 ID:tnHKSfxp0
>>3
と、自分に気に食わないからってそうやってレッテル貼りと罵倒をしてそれが何か正しい、と思うウヨも駄目な産物だなw
当然、自分たちのその史実無視の日本美化が自慰史観といわれるのも自業自得。
7名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 14:22:40 ID:1FEMFXze0
「自衛を口実に侵略した過去があるから、自衛権自体にも制約を加える」という日本の態度はまちがいなく大東亜戦争の暴走が残した後遺症
8名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 19:03:27 ID:OX07J+p80
真珠湾攻撃を発令した者 は 誰でしたか、教えて欲しい。
9名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 19:28:05 ID:F3GAvS8k0
>>8
http://www5a.biglobe.ne.jp/~nkgw/history43.htm

【大海令第一号】発令
昭和16年(1141)11月5日
山本連合艦隊司令長官ニ命令
     一、帝国ハ自存自衛ノ為十二月上旬米国、英国及蘭国ニ対シ開戦ヲ予期シ諸般ノ作戦準備ヲ完整スルニ決ス
     二、連合艦隊司令長官ハ所用ノ作戦準備ヲ実施スベシ
     三、細項ニ関シテは軍令部総長ヲシテ指示セシム

11.05 「大海令第一号」発令(但し、実際は11月8日、東京において山本五十六司令長官に発令される。永野軍令部総長の奉勅命令)

※奉勅命令=天皇が直接下す命令
108:2011/01/04(火) 20:20:09 ID:OX07J+p80
>>9
感謝いたします
命令に 従えません と 辞表を 出せば、次の 長官に 命令が 出る 仕組み ですね。
重光大使が ミゾリイ号で 署名した 文書 は 何でしたか、また 文面は 何
が 書かれてのですか。
11名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 22:09:49 ID:GTC54s5E0
大東亜戦争にいたる道を丁寧にたどっていくと、日本は自らが望んでいない戦争に引きずり
込まれたことがよくわかる。

結局、史実を徹底的に検証すると、当時の日本の主張は正しく、シナ事変を非難する理由はない
ことがわかる。大東亜戦争にいたっては、完全にアメリカに嵌められたというのが正解だ。
「大東亜戦争は侵略戦争である」という政府見解も戦後教育も、史実を無視した大嘘なのである。

史実を無視して自虐にのめりこむ馬鹿を量産したのが、腐りきった戦後民主主義教育なのである。

日教組は日本のガンであるという中山元文部科学大臣の発言は正しい。


12nl:2011/01/04(火) 23:08:21 ID:OX07J+p80
>>11
Tyoosen tyuuruu-gun no Ooryoku-koo ekkyoo.
kantoo-gun niyoru Mansyuu-koku no seturitu.
Syanhai ziken no bakudan 3 yuusi, Nankin kouryaku
to sono sai no ninkanzin"korosi, Zyuukei bakugeki,
nado rekisi wo tadoreba, mata Kokusai Renmei dattai nado
hurikaereb, Nihon teikoku syugi no sinryaku sensoo te koto wa
akiraka da.@@@
Rekisi wo musi suru yakara wa Nippon-zin ka?
13名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 00:44:14 ID:enIJgstj0
日中戦争

低能サヨ・・・日本は満州事変以降、一貫して中国全土侵略を企てた。
低能ウヨ・・・中国の事柄のみ。中国だけに要因。


満州事変も色々問題があったが、とりあえず区切り。

中国・停戦後の非武装地帯に抗日勢力が入ったりする。
日本・華北に分離工作をかけ、中国の領土や関税権等に対する主権侵害。
中国・抗日救国の気運。停戦中に事件。
日本・通告を出し、華北で占領行動(@直後に通州)。チャハル作戦の認可。
中国・上海租界駐留の日本軍攻撃。
日本・首都追撃戦。(南京〜重慶)

@通州事件は、日本の傀儡(冀東)所属の寝返りなので、片側の要因とせず。
14名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 00:45:47 ID:enIJgstj0
中国で条約蔑ろに独走し、ナチスと組み、
妥協案や警告も蹴り、南下政策をとった日本。

アメリカ「南部仏印まで進駐したら、重大な事態になるぞ」
稚拙日本「”対米英戦を辞せず”構わず南進だ」
アメリカ「欧米領まで視野にしやがって。石油止めてやる。これからは強硬姿勢だ」

馬鹿「戦争は不可避だったんだ、アメリカに完全に嵌められたんだ」
15名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 00:53:07 ID:aBI1ma200
>>14がいう馬鹿の典型

★ハミルトン・フイッシュ(米上院議員)

「日本は、フイリピンおよびその他のいかなる米国の領土に対しても、野心を有していなかった。
しかしながら、ひとつの国家として、日本はその工業、商業航行および海軍のための石油なしに
存立できなかった。非常な平和愛好家である首相の近衛公爵は、ワシントンかホノルルに来ても
よいからルーズベルト大統領と会談したいと、繰り返し要望していた。彼は、戦争を避けるため
には、米国側の条件に暫定協定の形で同意する意思があったが、ルーズベルトは、すでに対日戦、
およびその帰結としての対独戦を行なうことを決意していたという理由で、日本首相との話し合
いを拒否した。」

16名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 00:55:06 ID:aBI1ma200
>>14がいう馬鹿の典型その2

★フランクリン・ルーズベルト 元米国大統領

「如何にしたら日本が先に、米国に攻撃を仕掛けるかを検討中である。」

(英国王立公文書館の資料にあるチャーチル首相が大西洋上の軍艦で
ルーズベルト大統領と昭和16年8月10日と11日におこなった大西洋憲章制定
に関する秘密会談の一部より)

17名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 00:57:39 ID:aBI1ma200
はい、最低の馬鹿ID:enIJgstj0が滅びましたぜ。
愉快愉快w
18名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 01:57:09 ID:enIJgstj0
文盲の馬鹿ID:aBI1ma200 >>15-17

「南部仏印後にアメリカは強硬姿勢になった>>14」て書いてるのに読めない。
その前の日本の拡大路線は、軽率さを批判されても当然。
19名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 04:32:25 ID:S5qhbCHX0
>>14
その結果、雲南省での戦闘は悲惨だったようだな。
騰越玉砕記に詳しく書いてある。
20名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 11:00:44 ID:vismBWnV0
つうか陰謀論にありがちな、史実として発動されたわけでもない強硬発言をつまみぐいトリミングしても。
喧嘩を「本当に」吹っかけたのが日本側からって史実は変わらないしねぇ。
21名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 14:22:56 ID:rsxb4uNV0
陰謀論者の妄想を信じるとしても
「情報戦に完敗した挙句、やっぱりやらかした行為の主体であるのち違いなし」
と史実以上に日本の評価を下落させるだけだからな
なんでドヤ顔で日本の責任軽減論ととらえているのかさっぱりわからん
22名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 16:17:56 ID:CZBjxQLN0
日本は戦争時に『アメリカとヨーロッパの奴隷支配から解放してくれた!』と言われ、
日本兵は現地の人間に非常に感謝された。
イギリスやフランスのプランテーション(殆ど奴隷扱いの農場)の代わりに、学校と病院を作り、
医者と教師を日本から連れて荒れた国内を整えた日本の統治時代を懐かしむ声は今も聞く。

インドネシアの元大統領などは村山前首相が『戦争の時は日本が迷惑をかけました』と謝ったときに
『謝る必要はない。日本の軍隊がオランダを追い払った時、私は神の遣わした軍団だと思った』と言っている。

同じ事をしていても、中国と韓国が『侵略された!』と金をせびり続けているのとは大違いだ。(?x?)
海外(特に東南アジア)で『日本人だから(^^)』と親切にされるたびに思います。
昔の日本人が何をした・・・・と。

今の政治家&官僚&マスコミおかしいよ。
一度台湾に旅行に行って見たらいいんだ。中国系台湾人の高級ホテルじゃなくて
元から台湾にいた台湾人のホテルとレストランを使ってさ。

麻生さんの読み間違いを言う前に、日本の国土回復と外国の搾取の手を切り落とす為に
世論に働きかけるのがマスコミがするべき『正義』だろうに。
日本は戦後100年経たないうちに、大陸と半島の団体に脳ミソを徐々に侵されたとしか思えない。

23名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 16:33:54 ID:FIp10eCnP
>22
独立国のタイに武力進駐し
独立が決まってたフィリピンを占領してる事を

君は知らないのか
知ってるが無視してるのかどっちだ?

前者なら無知だし
後者なら卑怯だ
24名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 16:43:13 ID:y/V/vqpVP
近代史版そのものが、低能ウヨを隔離するための隔離板なのだが

このスレを立てたウヨポエマーと
門外漢がした頓珍漢な発言をもとに大日本帝国を美化する
中卒コピペゴキブリ吉田はこの板の2大馬鹿だな

ポエムがやりたければゴーマニズム板に行けと教えてやったのに
馬鹿な奴だ>>1
25名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 16:52:08 ID:y/V/vqpVP
>>22
お前に質問したいんだけど

>学校と病院を作り
その学校と病院の名前を言ってくれないかな
当然全部ね

>インドネシアの元大統領
誰のこと?あと発言の出典もね
「ネットのどっかのサイト」なんて言わないでね

>中国と韓国が『侵略された!』と金をせびり続けているのとは大違いだ
同じじゃないよ、片や独立国だった国を併合したり征服したりなんだから
あと金をせびるというのが、賠償金やODAのことなら東南アジアも
相当せびりとっているぜ。そりゃ親切にしてくれなきゃw
26名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 17:39:12 ID:cBw4l4Tv0
>>22
>イギリスやフランスのプランテーション(殆ど奴隷扱いの農場)の代わりに、学校と病院を作り、
は?
日本軍は、資源収奪のためにインドネシアではそれまでのサトウキビ栽培を止めさせて棉花の強制栽培させたんだが
で、それが上手くいかず、しかも東南アジア地域内で出来上がっていた、島嶼部は原料作物生
産、大陸部は食糧生産という分業関係を壊して、放置したから各地で食糧不足が発生し餓死者も多数でてるんだが

開戦当初は日本のことを解放軍と思った人間も結構いたが、統治が進むにつれて主人がヨー
ロッパ人から日本人に変わっただけと気づき、戦争後半になると東南アジア各地の日本軍は
現地の独立運動勢力との戦闘を余儀なくされたことくらい、近代史やってる人間ならみんな知ってるよ
27名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 19:21:18 ID:JfoBSNLH0
白人の支配より日本人のほうがひどい、と反乱起こされまくった史実を無視して何がしたいのか。
28日本@名無史さん:2011/01/05(水) 19:47:46 ID:h8A/7djJ0
>>26
自己の独立意識と、自尊心と。
西洋がしたことと・・
昭和十七年三月一日、今村均中将が率いる第十六軍はジャワ島上陸作戦を行う。三月九日に降伏せしめた。
予想以上に短期に終結せしめた理由に、オランダ人支配に対する現地人の反感と、ジャワの古伝説「ジョヨボヨ」がある。

インドネシアの人である、「スバルジョ」・「スマントリ」の言葉を読んでいるのでしょうか?

 「みんな」知っていると言う大勢にいるような言い方を成さる方ほど歴史を知って見えない方が多い。
29名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 19:51:57 ID:0OFC2Nck0
>>28
伝説ってもしかして(日本軍に擬せられる)新しく来た侵略者は短時間で帰り、その後に独立がもたらされるってやつじゃないか。
そんなヨタ話すらつまみぐいなのか?
30日本@名無史さん:2011/01/05(水) 19:54:35 ID:h8A/7djJ0
>>29
知らない事をあわてて書くと、間違うから控えたほうがいい。
31名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 20:00:49 ID:0OFC2Nck0
>>30
自己分析乙。
で、そのヨタが本当だったとしても、結局日本軍の底意を見破られ、こぞって反日闘争が起こった事実は変わらないわけだが。
32名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 20:05:50 ID:0OFC2Nck0
抗日運動は、インドネシアの独立の実現につながっていった。対日闘争を実施するのに、インドネシアのリーダーたちは非常に慎重だった。
日本の占領がとても冷酷だと知られていたからだ。もし、はっきり抵抗すれば、日本占領政府はすぐに誰でも殺すだろう。
このため闘争の方法は、その時々の状況に合わせていた。

(インドネシア「中学校2年生歴史教科書」)

オランダの支配よりひどい、とやっぱり公的教育で教えたり、
イスラム教徒に天皇崇拝強制した結果「原爆は日本への天罰」といったりしているのもインドネシア。
33日本@名無史さん:2011/01/05(水) 20:14:02 ID:h8A/7djJ0
>>31
質問に答えられないのか?

「結局日本軍の底意を見破られ、こぞって反日闘争が起こった事実」
ってどんな歴史的事実を指しているのでしょうか?

 張作霖爆死事件?
 華府会議?
 対華21カ条?
 基本国策要網?
 梅津・何応欽協定?
 土肥原・宗哲元協定?
 盧溝橋?

 反日中国に、今何の変化があるわけ?
 ちなみに、当時の中国は、今の政権ではない事が重大たる事実で、昭和初期の反日は、英米露の策動が現在では白日の下に。

「結局日本軍の底意を見破られ」と仰るなら、英米の底意をご存知なのでしょう。
34名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 20:17:16 ID:0OFC2Nck0
>>33
おい、インドネシアの話からは逃亡か?
話そらしする前に礼儀ってものがあるだろうにw
基礎知識もなく嘘吹いてごめんとか。
35日本@名無史さん:2011/01/05(水) 20:18:30 ID:h8A/7djJ0
>>32
誰が書いたのでしょうね。
華僑という、民族浄化主義者は、大東亜諸国を侵食しているいい例です。

 では、なぜインドネシアには日本人の軍人を祭る英霊墓地があるのか?
 日本人の銅像(一兵)があるのか?

 歴史とは、ゆがめるものとする考えが有る事を理解しなければならない。

 中華思想とは、そういう歴史です。
 
36名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 20:21:43 ID:0OFC2Nck0
>>35
だからイスラム教徒・・・
それは日本軍から脱走して協力した日本兵の話。
日本軍は敗戦後、オランダ軍に従って独立運動を継続して弾圧した。
日本に逆らってまで協力してくれた相手をほめているのであって、華僑とかどうとかじゃない。
無知の上都合悪いと基本知識もわきまえない陰謀論で逃げかよ。
大丈夫か?
37日本@名無史さん:2011/01/05(水) 20:22:14 ID:h8A/7djJ0
>>34
では君が、、
「スバルジョ」・「スマントリ」の言葉
を知っているようで。

所見を聞きたいものです。
38名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 20:23:44 ID:0OFC2Nck0
>>37
意味不明の話そらしか陰謀論の大嘘で逃げて何になるの?
まだ「史実とは違うが日本が貢献したことになってほしい」と感情や願望わめくほうが見好いぞ。
学問板の範囲外だがw
39名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 20:24:49 ID:oFwRJlic0
>>28
独立指導者って全部、欧州の植民地宗主国による教育を受けた連中じゃん。
民族意識を確立させたのは列強側の植民地統治方針の転換によるものだろ。
40日本@名無史さん:2011/01/05(水) 20:25:31 ID:h8A/7djJ0
>>36
人それぞれいろんな人はいる。
基本知識を語ってくれないか?君が言い出したことだ。インドネシアの基本知識。
当然、古伝説「ジョヨボヨ」から説明してくれる事でしょう。
41名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 20:28:08 ID:0OFC2Nck0
正直、伝説なんてわけわからんものに付き合いたくはないが。
第五の時代と呼ばれる予言部分で、「トウモロコシ(別版では在位の短い王様)が一回実るほど短い間、北から来た人間が支配するが追い払われる」とあるじゃん。
42名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 20:29:29 ID:0OFC2Nck0
>>40
いろんな人がいる、と話を抽象化するが、じゃあお前はどうして現実にはいそうもないトンデモを強弁したんだw
おかしいじゃん。自己妄想内ですら矛盾してるぞ。
で、話そらしと陰謀論的嘘以外もうないの?
43日本@名無史さん:2011/01/05(水) 20:34:44 ID:h8A/7djJ0
>>39
君の矛盾は甚だしい。
インドネシアの指導者を具体的に上げる事も無く・・・まぁ知らないのでしょう。

 「スカルノ」・「ハッタ」・「スバルジョ」・「スマントリ」・「プートラ」・「ペタ」・・・誰が、君の言う趣旨に合うのだろうか。
44名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 20:36:59 ID:0OFC2Nck0
>>43
おい、スカルノからしてオランダ人が作った学校にかよって、さらにオランダ人ばかりが通う学校にいって教育受けた人物じゃないかw
基礎知識なしで恥をかくのが自分ってまだわからん??
45日本@名無史さん:2011/01/05(水) 20:38:18 ID:h8A/7djJ0
>>42
ごめん。君が言っている事は意味不明です。

何度も言うが、
大東亜戦争とは、先人が命を賭した戦いです。忘れていいはずが無い。

だから、詳細を明確にしなければ成らないのです。日本国民として。
46名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 20:39:27 ID:0OFC2Nck0
>>45
お前は忘れる以前にまともな基本知識もなく嘘を吐いているだけじゃないか。
意味不明なのはお前さんのその無様な逃亡までする安っぽいプライドだよ・・・w
47日本@名無史さん:2011/01/05(水) 20:39:30 ID:h8A/7djJ0
>>44
君が言うオランダ人が作った学校で、彼は何を学んだのか?
48名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 20:40:26 ID:0OFC2Nck0
>>47
その前にまずお前の初歩的間違いをみとめろよ。
質問返しばかりの詭弁逃げする前に。
49名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 20:41:16 ID:x/Es1POo0
シナは欧米やソ連の経験を参考にしてチベット、ウイグル、内モンゴル植民地を独立させるべきだな。
50日本@名無史さん:2011/01/05(水) 20:42:22 ID:h8A/7djJ0
>>46
君は何も答えていない上に、人の非難だけでしかない。

私にはプライドは無く、先人の戦跡を明確にしたいだけである。

君は私の質問に何一つ答えていない。
だろ。

51名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 20:54:43 ID:oFwRJlic0
>>43
ほぼ全員だろ。スカルノもハッタもスバルジョも
スマントリもプートラの四人組も。
現地の原住民学校や中等学校に通ったり、
オランダ本国のライデン大学に留学したりしてるじゃん。
彼らが日本の教育を受けたとでも言うわけ?
52名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 22:09:22 ID:aBI1ma200

ID:0OFC2Nck0は、追い詰められて逃げた。
悪口しか言えない低レベルな荒らしなど放っておけばよい。

スカルノたちはインドネシアでも特別なエリートだ。
オランダ政庁の誤算は、スカルノがインドネシア独立運動の
指導者として民衆を束ね、民衆の心を掴んでしまったこと。
オランダとしては愚民化教育で独立運動を封じ込めてきたからね。

そして、スカルノは、日本軍がたった9日でオランダを降伏させた
ことで、独立に強い自信を持つようになり、今村均将軍と度重なる
会談を重ねながら、日本への協力を約束した。スカルノが日本に協力
を誓ったおかげで、日本軍に対する反乱やテロは少なかった。

スカルノは日本を利用して独立するつもりだったようだが、今村将軍
のことだけは、本当に尊敬していたようだ。

53名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 23:23:31 ID:oFwRJlic0
>>52
愚民化の方針は一定程度、転換された。
それが当時流行の啓蒙統治、蘭印では倫理政策か。
教育や医療等の植民地人の民生にも今までよりは
だいぶ気を配るようになった。日本の朝鮮や台湾の統治も
その流行に日本も乗ったってだけで、特筆に価しない。
植民地の市場を拡大し、現地人採用で統治コスト削減を
図るものだが、諸刃の剣になったね。

愚民化教育を徹底的にやってたなら、高等教育機関の
設立とか、ライデン大学へ留学させるなんてやらないよ。
そこも日本と同じ。一般の植民地人には少し劣った教育を、
支配の柱とする少数のエリートにはそれに見合った教育を。
54名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 02:22:30 ID:QpWi7e0L0
>>28
今村均は確かに称賛される施策を行ったと思うけど、蘭印は独立させず、
帝国領として利用する方針を持っていた軍中央からは、蘭印の独立心
を養うとして不興を買い、今村はすぐに左遷され、蘭印での施策も変更されたじゃん

大東亜共栄圏のこと、少しでも勉強すれば誰でも知ってる基礎知識のはずだがね
55名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 02:46:50 ID:QpWi7e0L0
>>28
>自己の独立意識と、自尊心と。

・南方占領地行政実施要領(1941.11.20.大本営政府連絡会議決定)
一 軍政実施ニ当タリテハ極力残存統治機構ヲ利用スルモノトシ従来ノ組織及民族的慣行
ヲ尊重ス  

二 作戦ニ支障ナキ限リ占領軍ハ重要国防資源ノ獲得及開発ヲ促進スヘキ措置ヲ講スルモ
ノトス 占領地ニ於テ開発又ハ取得シタル重要国防資源ハ之ヲ中央ノ物動計画ニ織リ込ム
モノトシ作戦軍ノ現地自活ニ必要ナルモノハ右配分計画ニ基キ之ヲ現地ニ充当スルヲ原則トス 

七 国防資源取得ト占領軍ノ現地自活ノ為民政ニ及ボササルヲ得サル重圧ハ
之ヲ忍ハシメ宣撫上ノ要求ハ右目的ニ反セサル限度ニ止ムルモノトス  

八 米、英、蘭国人ニ対スル取扱ハ軍政実施ニ協力セシムル如ク指導スルモ之
ニ応セサルモノハ退去其ノ他適宜ノ措置ヲ講ス....原住土民ニ対シテハ皇軍ニ対
スル信倚観念ヲ助長セシムル如ク指導シ其ノ独立運動ハ過早ニ誘発セシムル
コトヲ避クルモノトス

二十八 原住民族ニ対シテハ先ヅ皇軍ニ対スル信倚観念ヲ助長セシムルニ
努メ逐次東亜解放ノ真義ヲ徹底シ我作戦施策ニ協力セシメ資源ノ確保敵
性白人勢力ノ駆逐等ニ利用ヲ考慮ス



・大東亜政略指導大綱  (1943.5.31.御前会議決定) 
六 其他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通定ム  
(イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決
定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム
56名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 04:49:10 ID:MatXqXdk0
>>22
>日本は戦争時に『アメリカとヨーロッパの奴隷支配から解放してくれた!』と言われ、
>日本兵は現地の人間に非常に感謝された。

末期のフィリピンじゃ日本軍は駐屯地より外には出られないくらい抗日ゲリラの攻撃に苦しんでたわけだが
57名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 11:15:53 ID:cDtoJqGT0
>>52
レスを追えば、お前がID:0OFC2Nck0に基本知識の無いことさえ指摘され、逃げまくりのことは明白だが。
ID変えたりしてもいってることが史実の初歩と妄想だけじゃ丸わかりだぜ。
あとオランダ降伏してないが。最後まで日本と戦って日本を降伏させてはいるが。本当に初歩知識もないのな。
それとも植民地守備軍の降伏=全体の降伏と思ってる?
58名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 11:16:38 ID:cDtoJqGT0
史実の初歩と→史実の初歩さえわきまえない嘘と
59名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 12:18:27 ID:cDtoJqGT0
敵だからこそ結果として利用された面があるのが現実なのに、
○×の手先だ! とか逆に○×は感謝している! とか泣き喚く屈折思考が一番わけわかんねえw
60名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 13:47:27 ID:9Th3CoiwP
先人の事績を明確にしたい、と言いつつ
自分では何も挙げない>>1ってどんな精神構造してるの?
人に何かしてもらいたいというなら、自分の要望を
述べるべきじゃないかね?

たとえば○○について知ってることがあったら教えてほしいとか

>>1が何がしたいのか全然わからない
戦没者への慰霊のポエムが詠みたいのなら、悪いが板違いだ
61名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 13:58:50 ID:EKbOpQlg0
だからなんで日本軍のことを覚えていたい、とかいうくせに初歩的知識も無いまま妄想だけを書き込むんだ?
本当は日本軍が嫌いなのか、ID:h8A/7djJ0とかは。
僕のかんがえたえらいにほんぐん、なら他板でやれよ。
62名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 16:11:34 ID:QpWi7e0L0
>>60
>戦没者への慰霊のポエムが詠みたいのなら

歴史学の成果に大体30年周期で文学者からケチが付けられるんだけど、言うことはそれ一点なんだよな

東大比文の連中とかって、何で学者として扱われてるんだろうな?
訳わからん
63名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 21:41:44 ID:7j1NQ2tm0

バカサヨクと呼ばれる連中には「戦争が怖いから大日本帝国が嫌い」という間抜けな連中が多い。

戦争を忌み嫌うことと、歴史を正しく評価することとは全く別問題であることにこいつらは気づいていない。

そして、こういうバカに限って「今世界のどこかで行われている戦争」にまるで無関心だったりする。

自己中心的なご都合主義はやめろ。

64名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 22:45:49 ID:7j1NQ2tm0
張るところを間違えたので、ここに張りなおす。

大東亜戦争の残した遺産

1.大東亜戦争によって西欧植民地主義は終焉した。
2.大東亜戦争によって人種平等となりアジア人と欧米人は対等になった。
3.大東亜戦争によって自由貿易世界が築かれた。

バカサヨクの認めたくない歴史的事実を3つ並べてみた。
大東亜戦争は、世界的に見て極めて評価の高い誇るべき戦争なのである。



65名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/07(金) 03:13:52 ID:5zOQvQrc0
>>64
あまりにもお気楽すぎて話にならんw
ネトウヨの願望ってのがこういうものだってことだけはわかるが

例えば3の自由貿易云々は、1941年8月の大西洋憲章で既に提起されてる課題なんだがな
66名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/07(金) 11:20:26 ID:y6u0csv60
じゃあ公式に日本のおかげで独立できた、といってる国をひとつでもあげてみろよ。
国会答弁じゃゼロなんだが。
誇るべき? 今でも日本政府が謝罪しつづけているし、他国も(アホウヨが事実無根の美化をすれば)責めているぞ。
上で親日捏造されてたインドネシア含んでw
67名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/07(金) 11:48:00 ID:E+cz3UE5P
>>63
バカサヨクなどというものは存在しない
この板に隔離され追放された馬鹿右翼がいるだけだ
そんな馬鹿がこの板の住民を騙そうとしてもむだなことだ

ことにお前は
「コピペゴキブリ吉田」
「中卒携帯オヤジ」
という不名誉なあだ名を奉られている、この板の最悪馬鹿だ
いくら隔離板でも限度というものがある
さっさと学問板から出て行くがよい
あ、ついでだからポエマーも連れて行け
どうしようもない馬鹿同士、仲良くなれるだろう
68名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/07(金) 22:23:13 ID:AE2hQI3M0
>>67
バカサヨクが存在しないなら、同じ理屈で馬鹿右翼も存在しない、というのが正しい
論理的帰結なのだが、>>67は、バカサヨクは存在しないが馬鹿右翼は存在すると言い張っている。

理由は簡単。

ID:E+cz3UE5Pは、中卒のクソ馬鹿なのである。頭が悪い人間というのは、その文章に
頭の悪さがにじみ出て滑稽であり、哀れである。馬鹿丸出しのこいつの脳みそは、
旧帝大出身の俺様とは違って非常に出来が悪い。馬鹿は学問板から去れ。低能。

恨むなら、大日本帝国ではなく、お前の親を恨め、クズw

69名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 21:41:33 ID:eamBUjm2P
>>68
反論不能に陥って、火病を起こしやがった
あいかわらず「レッテル返し」するしか能がないのなw
「低能」「中卒」全部人に教わって使えるようになった

>頭が悪い人間というのは、その文章に
>頭の悪さがにじみ出て滑稽であり、哀れである。

自分がそうなっているってことに、全然気がついていないらしいな
お前は「裸の王様」だよ
70名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 21:56:39 ID:SHXFQb+u0
>>68
「旧帝大卒」っていうのは「クソ馬鹿」とか「クズ」とか
小学生の罵倒みたいな文章でなければ
批判の一つもできないのか

頭の悪さがにじみ出ているのは
お前の大好きな「名越感想文」の方だよ

来歴不明の人物の、何の権威もない発言をただ貼って
「大日本帝国は植民地の解放という良いことをしたのだ」と付け加えるだけ
小学生にもできる、なんて言ったら小学生に申し訳ないな

学問板から去るのは、君の方だよ、ゴキブリ君
いくら近代史板が、糞スレを立てまくる糞右翼を隔離するための板だと言っても
ものには限度というものがあるw
71名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/09(日) 22:51:34 ID:WOIaGhOl0
再掲・大東亜戦争の残した遺産

1.大東亜戦争によって西欧植民地主義は終焉した。これは東南アジアから、インド・アフリカまで波及した。
大東亜戦争が無ければ、東南アジア植民地の解放は30年遅れたといわれる。

2.大東亜戦争によって人種平等となりアジア人と欧米人は対等になった。アメリカでは公民権運動が
加速した。大日本帝国に憧れたネルソン・マンデラは、南アフリカの人種差別撤廃に命をかけた。

3.大東亜戦争によってブロック経済が終わり自由貿易世界が築かれた。

バカサヨと在チョンの認めない歴史的事実を3つ並べてみた。
大東亜戦争は、世界的に見て極めて評価の高い誇るべき戦争なのである。

我々日本人の先祖は侵略戦争を戦ったのではなく、植民地解放戦争を戦ったのだ。

72名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/09(日) 22:56:46 ID:WOIaGhOl0
>>70
>来歴不明の人物の、何の権威もない発言をただ貼って

「権威論証」と泣きながら言い張っていたのは、どこの嘘つき馬鹿豚だっけ?
お前は馬鹿だから、簡単にばれる嘘をついて得意満面だな、氏ね、カスw

しかも、「権威論証」の意味を理解できない低能ぶりには中学生もびっくりだろう。
お前の親もさぞかし馬鹿で嘘つきな人間のクズなんだろうなw

73名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/09(日) 23:06:58 ID:WOIaGhOl0

大東亜戦争に関する見解のまとめ方

1.大東亜戦争が終わった後、東南アジア植民地が全て独立したという事実の認識。
2.歴史家による「植民地解放に対して大東亜戦争が果たした役割と功罪」の分析。
3.当時、大東亜戦争を体験した植民地在住の現地人の認識、見解の聞き取り。

以上を総合すれば、大東亜戦争によって東南アジア植民地が解放されたのは疑いの無い事実である、
という正しい歴史認識に至る。大東亜戦争は植民地解放戦争だったのだ。


74名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 01:33:58 ID:MFF7Fv6B0

韓国に行くと独立記念館や西大門刑務所歴史館のような戦前の日本を断罪する教育施設があります。
そこでは蝋人形で生々しく当時の拷問が再現されており、その視覚的な描写は大人でさえもかなりショッキングです。

http://www.tanken.com/dokuritugomon.html
http://tabimaro.net/etcetra/3/11/photo/23.html
http://tabimaro.net/etcetra/3/11/photo/27.html

75名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 15:23:49 ID:Gg2yQnrC0
>>72
低能中卒ゴキブリは反論不能になって逃げました

いま、ゴキブリは、自分がやってきたことが「権威論証」という詭弁なのか
それとも素人門外漢の、何の権威もない頓珍漢な発言を元にした
デタラメな論証だったのか、どちらかを認めねばならない
窮地に追い込まれています

その証拠に(名越によるデタラメな)証言集を貼ろうとしません

中卒ゴキブリは、いまや完全に追い詰められております

>太平洋戦争によって西欧植民地主義は終焉した。
だから形を変えて「先進国による発展途上国への搾取」と
巧妙に形を変えただけだとw
そして、アフリカ独立が、太平洋戦争とは無関係に1960年代に起こったことを
指摘されるやいなや、因果関係を無視して書き加えるというセコさ、姑息さ

>東南アジア植民地の解放は30年遅れたといわれる
その証拠は当然あるんだろうな、出して見なよw
ベトナムの独立は日本の戦争とは無関係だし(仏印進駐)
フィリピンは1946年には独立できるという約定ができていた
インドネシア独立戦争は失敗し、アメリカの介入によってようやく独立できたんだよ。中卒

>アメリカでは公民権運動が加速した。
また因果関係の立証もなしにそういうことを言う
キング牧師やローザ・パークスが大日本帝国について何か言ったのか?

>大日本帝国に憧れたネルソン・マンデラ
「側近が」「言ったという」言葉だけな
しかも出典はあやしげなウヨサイト。信憑性は欠片もない
本人の台詞でももってこいよ。中卒

>ブロック経済が終わり自由貿易世界が築かれた
未だに築かれていないんだけどね
アメリカの「スーパー301条」も、英連邦ブロックも未だに健在なんだけどね
TPPで関税障壁をなくそうと言い出したら、日本でも「保護貿易を続けろ」と大騒ぎだ

中卒携帯無職コピペゴキブリの白日夢に過ぎないことは、これで立証された
言葉遊びだけでなんとかなるもんじゃないんだよ。中卒
76名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 15:27:07 ID:pMhRZnwo0
>>73
>1.大東亜戦争が終わった後、東南アジア植民地が全て独立したという事実の認識。

これって本当に東南アジアの人たちを愚弄する妄言だよな
大東亜共栄圏下でも酷い目にあった彼らが、戦後に旧宗主国に対して独立闘争を戦いぬいて
やっと獲得した独立だってのに、それをまったく考慮せずに、すべて日本の手柄だとは盗人もうもうしいにもほどがある
77名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 15:37:25 ID:Gg2yQnrC0
フィリピン、ビルマ、インドネシアなどでは戦争の末期に大規模な虐殺が相次いでおこなわれた。
フィリピンでは1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中にゲリラに襲撃された事件がきっかけで
7月から徹底的な粛清作戦が実施された。ゲリラ討伐の名目で実際には子どもから老人まで多数が殺された。
米軍が44年10月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してきてから、特にマニラと南部ルソンで大規模な虐殺が次々と起きた。
バタンガス州とラグナ州では歩兵第17連隊(通称藤兵団)が「対米戦に先立ちゲリラを粛清する」
「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」と命令を下した。
バタンガス州リパの虐殺に加わった兵士の証言によると、16から60歳の男子を通行証明書を渡すという名目で学校に集め、
証明書を渡したうえで10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連れて行き、銃剣で刺して谷底に突き落としていった。
そうして一日がかりで約800人の住民を虐殺した(友清高志『狂気―ルソン住民虐殺の真相』徳間書店)。
フィリピンにおける日本軍による虐殺の犠牲者は数十万人にのぼると見られ、中国に次いで多い。

ビルマでは、これまでわかっているかぎりで最大規模の虐殺は1945年7月のカラゴン事件である。
パラシュート降下したイギリス軍の工作員とゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、
女性子どもも含めて、10人くらいずつ井戸の側に連行し刺殺してから井戸に投げ込み、
合わせて600人以上を虐殺した。現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ死刑になるが、
裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、もし子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺したと弁明している
(英国国立公文書館所蔵英軍戦争裁判記録)。

ビルマではインドからイギリス軍の反攻が行われ、それに呼応してビルマ国軍も日本軍を攻撃した。
また各地の抗日ゲリラも協力して日本軍をビルマから追い出そうとした。
そうしたなかで日本軍は住民全体を敵視し、虐殺したのである。

侵略軍であった日本軍は住民から信頼されていなかったし、
また日本軍も住民をいつ連合軍に寝返るかもしれない存在として、あるいは密かに抗日ゲリラに通じている者と疑っていた。
そうした時には住民全体が「抗日分子」に見えてくる。これは中国での日本軍もそうだった。
日本軍の一連の住民虐殺は、戦争だからという一般論によって説明できるものではなく、侵略戦争のなかでおこなわれた残虐行為であった。
78名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 06:14:50 ID:i4gvGQVW0
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:MjqLaMxfg18J:tmp4.2ch.net/test/read.cgi/asia/1110014251/+&hl=ja&ct=clnk&cd=1
ココの邪馬台国侍氏が太平洋戦争が解放戦争であったと明快に解説しているな
79名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 06:25:11 ID:VyWdiuec0
>>73
広島長崎の原爆投下は戦争を早く終結させたって意見と一緒だね。
重要なのは結果ではなく、動機。
80名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 10:15:08 ID:HDtDJscO0
表向き解放をいって、内実は資源欲しさの侵略。
当時の日本の本音や内情すべてばれているから無意味。
81名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 11:03:08 ID:ifBxD8UzP
中卒携帯オヤジ(ID:WOIaGhOl0)の言うことは真に受けないように
貴台の嘘つき右翼、名越二荒之助の信奉者だし
こいつ自身都合の悪いレスはスルーするか
反論にならない難癖をつけて逃げる卑怯者だからな
82名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 19:23:47 ID:Yq5dqay+0
>>71
>大東亜戦争によって西欧植民地主義は終焉した。これは東南アジアから、インド・アフリカまで波及した。
>大東亜戦争が無ければ、東南アジア植民地の解放は30年遅れたといわれる。

大東亜戦争と植民地解放って時期ずれてるじゃないですか。そもそも植民地からの独立なんて簡単でしょう。
大きな独立戦争した国ってどれぐらいあります?植民地主義はとっくに終わっていたので、独立するのなんて簡単なんです。

>大東亜戦争によって人種平等となりアジア人と欧米人は対等になった。アメリカでは公民権運動が
>加速した。大日本帝国に憧れたネルソン・マンデラは、南アフリカの人種差別撤廃に命をかけた。
対等になっていない。黒人は有色人種差別している。

>大東亜戦争によってブロック経済が終わり自由貿易世界が築かれた。
アメリカのお陰。
83名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 19:26:03 ID:Yq5dqay+0
>>80
逆にそうじゃないと、国民は納得しなかったはず

他国の独立の為に200万人の日本人を死なせるとか、ないよ

84名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 19:30:09 ID:Yq5dqay+0
植民地支配からの独立なんて大したことじゃないのは、独立に際しての
戦死者を調べれば分かる
植民地支配されているような弱小国家と大国が本気でぶつかった死者じゃないのは分かるはず
85名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 19:51:01 ID:pjVIR8UCP
つか、アジア解放のために独立国に武力進駐って矛盾してねえか
86名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 19:54:23 ID:pjVIR8UCP
つか、アジア解放のために独立国に武力進駐って矛盾してねえか
87名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 19:56:06 ID:pjVIR8UCP
大事じゃないことなのに二回書いちゃいました
88日本@名無史さん:2011/01/11(火) 21:28:31 ID:+3oV9/Tg0
知らぬとは、悲しきことだと知る事だらう。
>>60
日本史を鑑みるに、天神様が今なお日本国民の支持を得ている。
 彼は、神でなく実在の人間です。金毘羅の神と成る崇徳院。
その歴史的背景とは、人悲しさしか伝えていない。
 私は、大東亜戦争を戦争目的を共通認識にしたい。だそれだけである。
 日本史の中流れる日本的な政治的配慮を知った上での、大東亜戦争。
 当時のシナの状況を明確に知った人の言葉での、大東亜戦争。
 当時の、英米の施策と、蘇の暗躍を明確にした上での、大東亜戦争。
 そして、自己を省みない先人の命がけの戦いの上に成り立つ、大東亜戦争。
 人は、何が大切で、何を信じて生きていくのでしょうか?
 温暖化という西洋の紛い物は、CO2削減と言う欺瞞の中で、商取引化していく。
 恰も、人のためとか、自然のためとか公然とのたまう輩には、多くの欺瞞を感じる。

>>65
1941年8月の大西洋憲章で既に提起されてる課題・・・
 歴史を知らなさ過ぎる。
 >>64の話は飛躍が有るかも知れぬが、 大西洋憲章って何のための協定ですか?
89名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 21:32:04 ID:YD76ubct0
>>88
WW2って1941年6月の独ソ戦開始で決着がついたってことを知らん低脳か
道理で、その後にノコノコ参戦した大日本帝国を無条件で賛美するわけだ
90日本@名無史さん:2011/01/11(火) 21:36:01 ID:+3oV9/Tg0
>>89
しりませんが。詳しく話してくれませんか?

こちらからの質問ですが、「恭倹己を持し」の意味を教えてください。
91名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 21:42:32 ID:YD76ubct0
>>90
教育勅語で調べれば一発じゃん
何で他人に聞くの?バカじゃね?(´・ω・`)

ってか、負け戦に後出しで加わって、何か意味あるん?
フランコやサラザールは、日本の阿保指導者よりは数段上だったな
92日本@名無史さん:2011/01/11(火) 21:44:44 ID:+3oV9/Tg0
やっとググッたようで。

独ソ戦開始で決着の話をしていないようで。
93日本@名無史さん:2011/01/11(火) 21:46:30 ID:+3oV9/Tg0
日本の阿呆の指導者がした戦線は当然知って見えるのだろう。

独ソ戦開始で決着・・・どんな結論をWW2でいうのだか・・
94日本@名無史さん:2011/01/11(火) 21:56:30 ID:+3oV9/Tg0
ググれば解る事を書いていますが、そうではない大東亜戦争の事実ある。

戦争とは、解決手段でいい手段とは思わないけど、大東亜戦争当時の時代背景は、「今」の日本国民こそ知るべきである。
シナ事変とは、どうでありどの国が支援したか。
当時の日本国の債務状況はどうであるのか。
当時の日本国民はどんな暮らしをしているのか。
当時の世界の風潮はどうであったのか。

今の世界情勢にも、言える事が浮き彫りになる。
歴史と言う風が刻むように。

知らない奴らは、辛亥革命後の袁世凱に近い。
95名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 21:58:21 ID:YD76ubct0
>>92-93
ドイツが二正面作戦して勝つ見込みがどれほどあったのか、それを挙げてくれよw
この時期の主要国は、どこも二正面作戦に陥ることを回避することが最優先課題だったわけなんだが
96名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 22:02:21 ID:YD76ubct0
>シナ事変とは、どうでありどの国が支援したか。
ナチスドイツでさえ国民党を支持してて、その軍事援助で日本兵が結構死にました
なぜかネトウヨはこの件をスルーするけど

>当時の日本国の債務状況はどうであるのか。
日満ブロックを作ってみたはいいけど、輸出はがた落ちなのに輸入は激増で、外貨が枯渇寸前で朝鮮で一生懸命金を掘ってました

>当時の日本国民はどんな暮らしをしているのか。
貧しさのツケを負わされて、スフとかいう一回きりしか着れない服を着させられてました><

>当時の世界の風潮はどうであったのか。
八紘一宇がうんたらかんたらw
97名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/12(水) 00:49:00 ID:7PFC/l4A0
>>96
中国を支援したのはドイツ国軍であってヒトラーは中国支援をやめさせている。
98名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/12(水) 09:37:58 ID:M4jvfYFvP
コピペゴキブリ吉田と日本@名無しは
近代史板の2大馬鹿ですw
99名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/12(水) 15:32:56 ID:USO2eVzi0



【台湾】馬英九総統「日本には謝罪責任がある」…従軍慰安婦問題で日本は自国の「恥部」を隠すべきではない [12/27]


台湾の馬英九総統は26日、台北市文化局や台湾婦女救援基金会が主催した、台湾の
元従軍慰安婦らの対日訴訟に関する特別展に出席し、「日本政府は歴史の過ちに対して
謝罪する責任を持つ」と発言。注目を集めている。環球網が台湾の報道を受けて伝えた。

主催者となる台湾の元従軍慰安婦らが対日訴訟を求めた2000年から、同基金会の活動
は今年で10周年を迎える。展示会では、元従軍慰安婦らによる日本への賠償要求や、
従軍慰安婦問題の教科書記載などを求める運動などが紹介された。

馬総統はこれまでも元慰安婦の名誉回復活動に積極的に参与しており、同基金会が制作
した台湾人元慰安婦に関する記録映画の撮影や、元慰安婦への補償活動などに関わった。
また、2008年には、元従軍慰安婦8人と会談し、同問題への関心の高さを示している。

馬総統は、特別展開会のあいさつで「日本は歴史で犯した過ちと向き合うべき」と述べ、
日本は自国の「恥部」を隠すべきでなく、また、謝罪責任を逃れるべきではないとの見解を
示した。

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1293436105/



100名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/12(水) 21:38:55 ID:5TOLQzkV0
しっかし、今も昔もドイツなんて遠くて遠い国でしかないのに、なんで同盟なんて結んだのかね?
日本人がドイツで知ってる事といえば、ソーセージとやたら格好良いネーミングセンスくらいだろ。

物資が乏しいって共通点はあるけど。
101名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/12(水) 22:03:35 ID:zZu7zkpf0
同床異夢ってやつだろうw
102名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/12(水) 22:17:22 ID:o5r5CpHv0
>>100
>なんで同盟なんて結んだのかね?
組んでくれるところが他にいなかったんだよ。選んだんじゃなく、選択肢がそれしかなかった。

>日本人がドイツで知ってる事
バームクーヘンと年末恒例の第九もあるな。あれは一次大戦のドイツ捕虜が始まりだ。
103名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/12(水) 22:31:51 ID:vJLgwIAu0
>>102
イギリスは満州事変以後も結構秋風を送ってくれてただろうに
104名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/13(木) 01:02:13 ID:cqynOWF60
NHKでやってたな。
満州問題での非難を誤魔化すために反共主義を唱えて世界各国と反共同盟を作ろうとしたが乗ってきたのがドイツだけだった。
105名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/13(木) 02:44:23 ID:1iHlo0UA0
>>103
だって、イギリスの秋波に応じるって事は、それ以上の拡大が出来なくなるってことだから。
軍部は出世と閥益拡大のチャンスを失う。
満州事変が軍部で支持されたのは、組織的にはポストと予算の増大のチャンス、個人的には出世のチャンスをくれる先例となるからだよ。
そんな個人的利益に群った連中の私益閥益追求を正当化している内に、大義名分や威勢のいい主戦論的雰囲気が一人歩きして止められなくなり、それに乗っかる連中がまた増えて、と悪循環の末に対米戦へ突入していったわけだ。
106名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/13(木) 15:02:28 ID:t6W4e8vK0
大東亜戦争が残したもの
@シナの共産化
A国民党台湾
B朝鮮分割
Cインド・東南アジアの独立(タイをのぞく)、ビルマの軍事政権
Dソ連のカラフト、千島不法占拠
107日本@名無史さん :2011/01/13(木) 16:23:14 ID:69pKsPOdP
兵隊さんよありがとう(昭和14年)
(皇軍将士に感謝の歌)


肩をならべて兄さんと
 今日も学校へ行けるのは
  兵隊さんのおかげです
   お国のために
    お国のために戦った
     兵隊さんのおかげです

夕べ楽しいご飯どき
 家内そろって語るのも
  兵隊さんのおかげです
   お国のために
    お国のために傷ついた
     兵隊さんのおかげです

淋しいけれど 母さまと
 今日もまどかに 眠るのも 
  兵隊さんのおかげです
   お国のために
    お国のために 戦死した
     兵隊さんのおかげです

明日から支那の 友達と
 仲良く暮らして ゆけるのも
  兵隊さんのおかげです
   お国のために
    お国のために 尽くされた
     兵隊さんのおかげです

    兵隊さんよ ありがとう
     兵隊さんよ ありがとう


108日本@名無史さん :2011/01/13(木) 16:33:34 ID:69pKsPOdP
戦陣訓の歌(1941年4月)

(梅木三郎作詞:須磨洋朔作曲)=(歌唱;徳山漣)



日本男児と 生まれ来て 

戦さの場(にわ)に 立つからは 

名をこそ惜しめ 武士(つわもの)よ 

散るべき時に 清く散り 

御(み)国に薫(かお)れ 桜花



情けに厚き 丈夫(ますらお)も 

正しき剣(つるぎ) とる時は 

千万人も 辞するなし 

信ずる者は 常に勝ち 

皇師(こうし)に向かう 敵あらじ



五条の訓(おしえ) かしこみて

戦野に屍(しかばね) さらすこそ 

武人(ぶじん)の覚悟 昔より

一髪(いっぱつ)土に 残さずも 

誉れに なんの悔(くい)やある



山ぬく威武(いぶゐ)も 騎(おご)るなく 

海をも出ずる 陣をもち 

つらぬく大義 三千年 

大和心の ひと筋は 

これこそ 軍の大精神

109名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 15:33:00 ID:7Q3z1+pz0
>>106
東南アジアの独立は戦後すぐ独立したのと10年20年後のグループがあるよ
110名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 17:06:54 ID:iGPwMEId0
インドネシアをみろ 作戦計画さえ描けない土人にそれを教えたのわ日本兵ダゾ
111名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 17:31:17 ID:om5V0Q+WP
>110
それを攻撃したのは日本軍だけどな
112名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 21:21:39 ID:4u6Z67Ys0
インドネシアの日本軍は降伏後、オランダに協力して独立運動の鎮圧に当たった
それを潔しとしない一部兵士は「脱走兵」となってインドネシア人として戦ったが
別に日本軍は、インドネシアを独立させてやっていないし
戦後はむしろ邪魔をしたのだ

そんな日本軍に、スカルノやハッタは面従腹背で臨んだ

日本軍はオランダ語の使用を禁止して日本語を使わせようとしたが
案に相違してインドネシア語の復活を招き寄せてしまう
日本人はインドネシア人に主人として相対しようとしたが
それはかえって、彼らのナショナリズムを高揚させることとなった

要するに独立の地ならし、というものは日本がやったことがすべて裏目に出て
そうなったものでしかない
現に、インドネシア人は、別に日本(大日本帝国)に感謝なんかしていない
戦後日本が賠償金とODAの大盤振る舞いをしていることと
文化、芸能でリードしていることへの、都会に対するあこがれがあるわけで
今、親日感情があるとすれば、それはすべて戦後日本に対するものである

そうでなきゃ、SF講和会議蹴飛ばしてまで、たんまり賠償金せしめたりしてないだろうさ
反日と言われる中国が賠償放棄しているのにだぜw
113名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 21:52:12 ID:5x0eqyZx0
インドネシア自体が、各地域を植民地にしてるからなぁ
あの辺は複雑だよ
国家としての意思統一、アイディンテティの確率は中々難しいのが現状

東ティモールの独立は最後まで防げなかったしな
あれを許しちゃったから、各地で独立運動が盛んになっていってる
114名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 21:55:47 ID:5x0eqyZx0
フィリピンなんかもそうで、フィリピンっていう国自体が宗主国によって作られた
ものだから
独立したら、じゃぁスペインに侵略される前のイスラム王国時代に戻すか?ってなると
バラバラになっちゃう

フィリピンの国土の4割ほどは、インドネシアのものだったのをアメリカがぶん取ってフィリピンにしたものだ・・・
115名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 21:56:26 ID:rr0ZLrpd0
>>113
>インドネシア自体が、各地域を植民地にしてるからなぁ

単純思考のネトウヨが、ますます理解しずらいことを言ってやるなよw
116名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 22:00:01 ID:5x0eqyZx0
そもそも植民地化される前の東南アジア、特にフィリピンやインドネシアは
日本で言うと弥生時代くらいといえば分かりやすいかな
土人土人いってるけど、本当に弥生時代くらいの水準だったわけで
国家としての体をなしていなかったわけで

独立だー独立だーといっても、中々いろんな思惑があったのだよ
日本人はその辺分かってないから、独立を簡単に考えてるけどね
117名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 22:08:17 ID:rr0ZLrpd0
>>116
>土人土人いってるけど、本当に弥生時代くらいの水準だったわけで

東南アジアを舐めすぎだろ
「冒険ダン吉シンドローム」そのままやんか(´・ω・`)
118名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 22:09:47 ID:4u6Z67Ys0
アニメーターがどんどん徴収されて、アニメが作れなくなったウォルト=ディズニーが
陸軍に掛け合ったら、兵隊の部隊を送りつけてきた
実は彼らはディズニースタジオから徴兵されたアニメーターたちで
ディズニーは、ミッキーマウスファンタジアやピノキオなどの傑作を
戦中も作り続けることができたという

アメちゃんって余裕があるんだね
どっかのぎちぎちの、名前だけ「大」帝国とは偉い違いだw
119名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 22:46:42 ID:SyCvlDFp0
それで作ったのがこういうのね

http://www.youtube.com/watch?v=_AyKVOsnOas

フルカラーでフルアニメ(24コマ)。
こんな国と戦争しちゃダメだよね
120名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 00:44:31 ID:H0N04+tz0
日本史板からキマシタ。

ここの>>1はかつて日本史板にも同名の、破綻した日本語でデムパを撒き散らすクソスレを立てていました。
今はこちらに移動しているようですね。
まともに話して通じる相手ではありません。
そのキチガイぶりを思いっきり嘲笑ってやってくださいね。
それでは失礼しました。
121日本@名無史さん :2011/01/15(土) 22:14:47 ID:1rU3BuBvP
あら、そうだったんですか

まあ、近代史板そのものが日本史板から無学なネトウヨを
隔離するための板だったとはいえ

ポエマーとコピペゴキブリだけは容量を超えている
極東板にでも押しつけたい
122名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 22:16:13 ID:u501ARgy0
と、ポエマーが自分自身で言ってます
さっさと消えて貰いましょうw
123名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 22:25:18 ID:ZxfrSCW+0

嘘つき朝鮮馬鹿豚=ID:4u6Z67Ys0は今日も元気だなw

124名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 22:33:44 ID:ZxfrSCW+0

1.時系列的に見れば、大東亜戦争後、すべての東南アジア植民地諸国が独立したのは事実。

インドネシアでは350年間オランダに挑み続けたが、巧妙なスパイ網に阻まれて独立運動は
ことごとく失敗した。しかし、大東亜戦争後、多大な被害を出しながらも独立戦争を戦い、
日本兵の応援、巧妙な外交政策も功を奏して、無事独立を勝ち取った。

マレー半島では、徹底した愚民化政策によって、民族意識も政治意識もまったく育って
いなかったが、日本軍政が教育を施し現地人を登用したことで、独立への萌芽が芽生えた。
日本軍が来なければ、マレーの独立はありえなかった。


125名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 22:39:34 ID:ZxfrSCW+0

2.大東亜戦争によってアジア人と白人が対等になり人種差別が終焉に向かったのも事実。

大東亜戦争前には、「植民地の住人は白人に貢ぐ劣等人種である」という白人の論理がまかり
通り、対等に扱われることはなかった。しかし大東亜戦争後、独立した旧植民地各国は「戦勝国」
として扱われ、欧米と対等な立場でサンフランシスコ講和条約を締結した。

大東亜戦争によって、アジア人と欧米人が対等な立場になったのは紛れもない事実。


126名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 22:41:59 ID:i2CSTX0U0
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
第二次世界大戦中の日本について、
− 「悪い面はあったが、今となっては気にしない」
インドネシア:44%

− 「悪い面を忘れることはできない」
インドネシア:25%
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
外務省HPより

四分の一の人がいまだに気にしてるわけだ
4割の人も「戦中の日本の悪行は忘れないが、今は許そう」ってだけでしょ



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
インドネシア占領時代、日本は西洋(ヨーロッパ)的な事柄を日本的な物へと変えていった。道路は新しい名前を与えられ、
"バタヴィア"市は"ジャカルタ"市へ変更された。
インドネシア民衆の共感を得るため、またそれを確実なものにするため日本が実施したプロパガンダ(ある特定の目的へ誘導すること)の一つは、
日本民族とインドネシア民族はアジアの新秩序を作り上げる大戦争の戦友であるというものだった。
しかしながら、そういったプロパガンダの試みは度々失敗の憂き目を見た。
なぜなら、強制労働、米の供出義務、軍警察(ケンペタイ)の恐怖、殴打、暴行、日本人に対するお辞儀の義務といった日本の占領下における苦い現実があったからだ。

他方、1944年2月アメリカ軍がマーシャル諸島を攻撃すると、アジア-太平洋の戦争(第二次世界大戦)での日本の状態はますます危機的なものとなった。
それと同時にジャワの民衆による日本への反乱が目立つようになりはじめた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
インドネシア中学校社会科教科書「独立準備の過程」より
127名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 22:47:44 ID:ZxfrSCW+0

3.大東亜戦争前は、世界は閉鎖的なブロック経済に分割され、自由貿易は妨げられていた。
しかし、大東亜戦争によって欧米は植民地を失い、ブロック経済は崩壊した。これによって、
自由貿易が確立していくこととなる。これは紛れもない事実である。

大東亜戦争がなければ、植民地解放もなく、自由貿易経済もありえなかった。


以上が、馬鹿サヨクと在日ちょんの隠したがる歴史の真実なのである。

こういうと、朝鮮馬鹿豚が「コピペゴキブリ」とわめき、涙目で否定し始める。
こいつ、最低の嘘つきなんだぜ。こいつは歴史を歪曲して日本人の先人を
貶めるのが趣味の哀れな無職のクズ野郎だ。氏ね、低能。


128名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 05:45:23 ID:7Cyx+4kV0
>>122
占領下のインドネシアで起こった事件

ポンティアナック事件(1943年10月) 西ボルネオ独立運動の容疑で逮捕処刑(犠牲者3000〜21000人)
シンガパルナ事件(1944年2月) 米や労務者の強制供出に反対した反日蜂起とその弾圧
インドラマユ事件(1944年春〜夏) 米の強制供出に対する反日蜂起
ブリタル蜂起(1945年2月15日)  日本が軍事教練を施した軍事組織が公然と反日蜂起

これらは戦後のインドネシア独立の先駆けとして理解・評価されている
129名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 05:50:59 ID:7Cyx+4kV0
>>127
>3.大東亜戦争前は、世界は閉鎖的なブロック経済に分割され、自由貿易は妨げられていた。

ブロック経済の元々の成立・強化は、高橋財政下での円安放置と、それを武器とした日本製品
の東南アジア市場など(インド・オーストラリアや蘭印など)への集中輸出から市場を守るための対処

その日本も日満ブロック(のち日満支ブロック)を形成していたが、そのブロック圏内で進めよう
とする重工業投資に必要な機械や原材料は、輸入に頼らなければならないという致命的欠陥を解消できぬままブロックを維持してみた
130名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 10:47:37 ID:yw0CuTJRP
>>124
よう、コピペゴキブリ吉田
自分がゴキブリだとようやく自覚したか

お前の言い分だと
「大日本帝国は人様の植民地解放のために自国を焼け野原にした馬鹿」
ってことでいいんだよな

実際はナチスドイツが宗主国のイギリス、フランス、オランダを痛めつけてくれたから
アジア、アフリカは独立できたんだよw日本は欧州の弱体化の原因など作ってはいない
それに、ホー・チ・ミンのベトミンは日本軍とも戦っているし
マレーでは日本軍に反逆する計画が立てられていたんだぜ
ビルマでは現地軍が裏切ってイギリス軍を招き入れたし
フィリピンは黙っていても1946年には独立できた
どこが日本軍のおかげなんだ

子供じみた罵倒、幼稚な論理構成
名越二荒之助なんか読んでネトウヨになったという馬鹿さかげん
「旧帝大卒」の知性も教養も感じられない恥ずかしいレス

やっぱりお前は中卒携帯無職コピペゴキブリと呼ばれて当然の馬鹿なんだよ
131名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 13:19:06 ID:gXpvyadu0
明治時代も今と同じように外国勢力に踊らされていたのではないんですか?
富国強兵、殖産興業をけしかけておいて、その技術や資本を高く売り、経済支配してしまう。
それを、拡大させんが為の日清日露戦争だったのではないでしょうか?
そして、とどめのWW2.、初めからスクラップアンドビルドとしてのおもちゃにされていたのではないでしょうか?・
今のイラクのイメージでk
132名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 14:22:43 ID:7Cyx+4kV0
>>131
>富国強兵、殖産興業をけしかけておいて、その技術や資本を高く売り、経済支配してしまう。

日本の産業革命は、外資排除の路線でなされた希有な事例っていう基礎知識もないのか
妄想電波書き込み乙
133名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 17:57:33 ID:qLS2VURK0
グーグルアースで日本軍の侵攻した地域に印付けてみ。北はアリューシャンから
東はハワイ南は珊瑚海に西はインド洋。ホント広い。
戦線広げすぎだろうwと思わずにはいられない。
戦争に負けたのは残念だし亡くなった方々は無念であったろうがしかしこんな
大戦争をやってくれたということに感謝せずにはいられない。
これは本当に民族の宝として永久に残る。この民族の栄華を一瞬でも味わえない
民族に比べたら戦争に勝った負けたとか大した問題ではないように思える。
これだけの大戦争をやってくれたということが誇らしい。
134名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 18:01:56 ID:6UoXSwTE0
>こんな大戦争をやってくれたということに感謝せずにはいられない。

バカじゃねえの
135名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 20:11:30 ID:7Cyx+4kV0
>>133
こばやしよしのりだかの言い草、そのまんまだな
そのまんま日本から遠く離れたとこで死んでこい
136名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 20:19:38 ID:gXpvyadu0
>>133
正直、君は今の日本にいて貰っては迷惑なお祭り人間です
137名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 20:30:27 ID:gH8ecANo0
>>134 欧米列強と戦う力がなければ朝鮮のように分割支配されるだけだった、というのが歴史の真実だ。

 日本がもっと弱かったら今頃、北海道・沖縄はロシア・米国の植民地だっただろうな。
138名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 20:34:58 ID:gXpvyadu0
>>137
>欧米列強と戦う力
そんなんあったのか?
アメリカとイギリスの本土に上陸でもしたのか?
片手でひねられちゃったじゃないかw
139名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 20:41:07 ID:7Cyx+4kV0
>>137
>欧米列強と戦う力がなければ朝鮮のように分割支配されるだけだった、というのが歴史の真実だ。

へ?1940年代の日本って「植民地化の危機」にさらされてたのか?
台湾朝鮮などの植民地や満州国や南京政府などの傀儡政府を傘下におさめてる国が、いきなり他国の植民地になるの?

まったく意味わからんなw
140日本@名無史さん:2011/01/16(日) 21:59:57 ID:IgaNFcaE0
戦争とは何の為にやる?

アメリカ本土に上陸するため、イギリス本土に上陸するため、
可笑しいだろ。大日本帝国にそんな力は無い事は、軍部も政府も解っていた。

けど、戦わねばならない状況はある。
戦う事を否定して、平和をいう奴は歴史に目を向けられなくなっている。

 汪兆銘は、どんな意思で重慶政権から逃れたのか知って見えるようで>>139
知らないのであれば、いい加減な事を言わないべきだ。

 だろ。
141名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 22:22:23 ID:7Cyx+4kV0
>>140
いやいや、おたくの妄想の
>欧米列強と戦う力がなければ朝鮮のように分割支配されるだけだった

の意味がわからんと言ってるだけなんだが
いつの時点で、どういう状況を指してそ言ってるのかが、まったく他人には判じがたい

他人にものを説明するなら、それなりの書き方というものを守れと初等教育で習っているはずだが
142日本@名無史さん:2011/01/16(日) 22:35:36 ID:IgaNFcaE0
 >>141
 だから〜。
 敢えて叩かれ易い汪兆銘を書いているのに其れを知らないから書けないのだろ。

 しかも私とは違う人の意見で論議してくる自体、君の資質には疑問を感じます。


 君への質問として、FSXとはどんな経緯をたどったか?ゼロ膳がヒントですが。


143名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 22:51:19 ID:7Cyx+4kV0
>>142
すまんが、全く言っている意味がわからん

>欧米列強と戦う力がなければ朝鮮のように分割支配されるだけだった
と書いたことを、もっと理解しやすい文にしてくださいと言ってるんだが、それさえも理解できないの?

日本が置かれた、いつ、どのような状況を指して「分割支配される」可能性云々と言ってるの?って尋ねてるんだが
144名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 00:24:04 ID:BB/DGpbj0
大東亜戦争が残したもの

1.乱暴で野蛮な在日朝鮮人(特別永住者を僭称する社会のダニ)の暗躍
2.大東亜戦争は侵略戦争だった、という大嘘の宣伝と日本を愛した先人たちの全否定
3.日露戦争以降の日本の歴史を否定する自虐史観の蔓延と、それを信じ込む馬鹿の量産
4.日本民族主義を敵視する反日マスコミの世論操作
5.左翼は良識ある市民団体、右翼は粗暴な暴力団まがいの連中という誤った世論操作。
6.戦後日本の平和を支えたのは世界に誇る平和憲法である、という大嘘の宣伝。
7.奇跡的な経済復興による物質文明の獲得と、武士道精神・大和魂という精神的遺産の喪失。
8.世界に誇る教育勅語の封印
9.日本の癌である日教組の跳梁跋扈

結論:現代の日本人は、誇り高く慈愛に満ちた戦前の日本人とは違った、異質な人種に成り下がった。
諸悪の根源は、戦後民主主義教育であり、日教組であり、憲法九条である。

戦争を知らずして平和を語ること勿れ。
戦争を忌み嫌って平和を語ること勿れ。

145名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 00:50:31 ID:vF9Q3Udq0
>>144
お前も違う方向に歪んでるけどな。

朝鮮人が事件を起こす問題は戦前からあった。
朝鮮併合に繋がった干渉は、日本の都合(対ロシア防衛)だがな。

侵略か解放かは人の立場によるが、一番の目的は南方資源地帯の確保。
インドネシアも当初は帝国領の方針だった。サイパン落ち後に独立容認。

任侠右翼は戦前から政府、または資本家らの手先となり、
民権運動や労働者の権利運動を弾圧してたのは事実。
左翼も謀略に絡む話が多いけどな。

戦後の平和も、憲法九条より自衛隊や米軍の抑止力が重要だが、
九条を看板とし、専守防衛の装備に徹してきた事は、周囲との軋轢を軽減する要因に。

武士道は、戦国期・江戸期・鍋島藩の葉隠、と皆異なり、明確な定義がない。
美化された武士道と、現実の武士の姿も一致してるとは言い難い。
明治後、国民皆兵で教育された武士道は、精神論盲目突撃武士道。一種の洗脳。

教育勅語は「親に孝、友を信じ、学を磨き・・・」と一般道徳を語ってるが、
「我が皇室の祖先が国を始めた(国の私物化)」「我が臣民(国民を家来扱い)」
など、現代に復活させるのは不要で、むしろ民主社会・国民主権において害にも。
146名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 01:12:53 ID:yuzaUnRs0
ここのキチガイ妄想電波ウヨが個人主義や基本的人権の尊重と言った法観念をどう理解してるのか知りたい。
(そういう単語を知っているかどうかすら怪しい知能レベルにも見えるけど。)
147名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 01:40:56 ID:T+s3Xe380
>個人主義や基本的人権の尊重
前mixiの右翼系コミュで右翼さんと議論したときは、
フランス革命以降の西洋価値観とGHQ以降の教育に毒された価値観で
本来の日本人にとって必要の無いモノだと言われました・・・(´・ω・`)
148名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 06:03:38 ID:hnOLLjCs0
>>143 >>日本が置かれた、いつ、どのような状況を指して「分割支配される」可能性云々と言ってるの?って尋ねてるんだが

・・・19世紀中頃、幕末がそうだっただろう。特にイギリス、フランスに。

 幕府の海防政策と明治維新がなければ、北海道はロシア領、沖縄・小笠原は米国領、日本本土も英仏の代理戦争で分割されるおそれもあった。

 シナが欧米列強に分割支配されていたのと同じことが日本で起きる可能性は大きかった。

 何しろ、アジアで独立を保っていたのは日本とタイだけだったからな。
 
149名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 06:26:03 ID:hnOLLjCs0
>>139 >>台湾朝鮮などの植民地や満州国や南京政府などの傀儡政府を傘下におさめてる国が、いきなり他国の植民地になるの

・・・米国は台湾・朝鮮は別として日本にシナから出て行け、と最後通牒を突きつけただろう。

 それに従っていたら、日本の代わりに米国がシナ進出しただけだし、次は台湾・朝鮮も独立させろと迫っただろう。

 つまり戦争してもしなくても米国・ロシアのアジア進出は既定路線で今もそうだ。

 大東亜戦争はそれを早めただけだったといえる。米国がシナ進出を早めるために日本を挑発して戦争におびき込んだということも分かっている。

 しかし、米国の意図は達成されず、シナは共産ロシアの工作により共産国になった。一応、ロシアが米国を出し抜いた形になった。

 その後、シナはロシアの思い通りにはならず、日本も復活してアジアは日米中露のせめぎ合いの場になったがな。
150名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 06:32:20 ID:VV0hQcIH0
>>148
あー、やっぱり頭のつくりが粗雑な人だったなw
基礎的な歴史的事実の認識自体できてない人がなんで学問板で一席ぶってやろうとか思うんだろ?

>幕府の海防政策と明治維新がなければ、北海道はロシア領、沖縄・小笠原は米国領、
>日本本土も英仏の代理戦争で分割されるおそれもあった。
19世紀頭からのロシアの千島列島南進は、千島アイヌに阻まれたりして、
南千島以南への進出は抑えられて訳でだけどな
で、幕末に維新の内乱で劣勢にたち戦費調達に窮した幕府側が蝦夷地を担保に
フランスから大規模借款を計画して、実現寸前のところで討幕がなされた訳だ


>シナが欧米列強に分割支配されていたのと同じことが日本で起きる可能性は大きかった。
中国大陸の分割に決定的な意味をもったのは日清戦争後の下関条約
開市開港地域の大幅拡大と、最恵国待遇による他国への自動適用とで、その後一気に
欧米列強が地域分割に乗り出した
逆に言えば、中国をいけにえにして帝国主義倶楽部へ参加することが出来たのが日本


粗雑な欧米侵略史観では当時の複雑な国際情勢とその中での日本ということは理解できんだろうな
151名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 06:37:41 ID:VV0hQcIH0
>>149
>次は台湾・朝鮮も独立させろと迫っただろう。

日本の使命として植民地解放をスローガンにして戦争起こすんだから、
むしろその路線の方が安上がりに日本の使命を達成できてたろ

アメリカは1936年時点でフィリピン独立のためのコモンウェルスに移行
して1946年の独立までカウントダウン状態だったわけだし

植民地独立を唱える日本は、自国の植民地の独立についてなんら着手してないのは
奇妙な話だよなw
152名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 06:42:45 ID:VV0hQcIH0
>>149
>米国は台湾・朝鮮は別として日本にシナから出て行け、と最後通牒を突きつけただろう。

満州事変終わったあと、日本は華北にいくつ傀儡政権作ったと思うんだ?
そして仕舞には汪兆銘の南京政府と

気づいてみれば、華北華中は日本の傀儡政権だらけって状況は、欧米の中国大陸分割と何が違うのかね?
153名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 11:11:47 ID:eN5ckZ72P
>>144
>乱暴で野蛮な在日朝鮮人
まったくのヘイトスピーチだから気をつけろ
そうでないというなら、史実で語れ

>日本を愛した先人たちの
本当に愛していたか?それにしては便所の落書きが多すぎるんだがw
味噌も糞も一緒くた

>日本の歴史を否定する自虐史観
何をさしてそう言ってるの?そんなもの見たことないんだけど
最近はやりの「自慰史観」ならよく知っている

>日本民族主義を敵視する
過剰な民族主義が、日本に何かいいことをもたらしたかい?
あったら挙げてくれ。単に「日本人は世界一の優秀民族」という
根拠のない増長をしていただけにしか思えんが

>右翼は粗暴な暴力団まがいの連中
まったくそのとおり、街宣車で乗り付けてゆすりたかりする
どうしようもない集団
右翼に殺された人間って、どれだけいるか知ってるの?

>戦後日本の平和を支えたのは世界に誇る平和憲法である、という大嘘の宣伝。
大嘘かどうかねえ、自分で「戦争をしない」と宣言している国家に
戦争をふっかけるには、どんな大義名分が必要かね
これが憲法改正して「明日から交戦権行使するぞ」と宣言したら
中共に核撃ってくれ、と言うようなものだな

>武士道精神・大和魂
太平洋戦争を通じて武士道精神なんて発揮されたのは本当にレアケース
大和魂なんて「精神力があるからアメリカに勝てる」というスローガンに使われ
科学的根拠のない民族優越論を惹起させるだけ有害

>世界に誇る教育勅語
国民を皇族の私物にする教育のどこが、主権在民が常識となっている
世界で誇れるのかね?

>日本の癌である日教組
ほう、君が引きこもりでネトウヨやってて自宅警備員なのは
日教組の偏向教育のたまものだと言うわけだ
右翼の屑が自分のだめさ加減のいいわけに使うのが、いつも日教組w

>現代の日本人は、誇り高く慈愛に満ちた戦前の日本人
世界中でそうとうダーティなことやらかしたことには目をつぶって美化ですか
誇り高く慈愛に満ちた人間が、自作自演で戦争を起こし、15年も絶賛大戦争を
繰り広げるものなのかねえ

>諸悪の根源は、戦後民主主義教育であり、日教組であり、憲法九条である。
だったら日本から出て行ったら。ミャンマーあたりに行ったら、戦前の日本が経験できるよ
じゃあねw
154名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 11:23:40 ID:VV0hQcIH0
>>153
>>>右翼は粗暴な暴力団まがいの連中
>右翼に殺された人間って、どれだけいるか知ってるの?

まったくだ
大正以降の戦前期に右翼に暗殺された有名人だけでも、大杉栄(アナーキスト)、安田善次郎(安田財閥)、
原敬首相、山本宣治(衆議院議員)、浜口雄幸首相、井上準之助前蔵相、団琢磨(三井財閥)、
犬養毅首相、武藤山治(衆議院議員)、高橋是清蔵相、齋藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監
とイパーイ
155名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 16:31:35 ID:D7VtrFxS0
>>154
>右翼に暗殺された
 右翼の個人テロと特高の拷問死と軍のクーデターをごちゃ混ぜにするな。
156名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 16:57:16 ID:eN5ckZ72P
彼ら全員の思想的バックボーンにあったものは、いわゆる右翼思想です
左翼は一人もいませんね
だから「右翼に殺された」と断言して間違いありません
157名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 17:07:31 ID:VV0hQcIH0
>>155
>特高の拷問死
って、どれ?それは挙げてないけど

あと、血盟団も515も226も右翼と軍とのつながりの中で発生してきたことは周知の事実だと思うけど
158名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 22:29:13 ID:SnTKDz2b0
>>156
尾崎秀実も知らんのか。こいつがコミンテルンのスパイとして
国民党との講和を徹底的に妨害し南進論を主張し対米開戦に導いた黒幕だぞ。
こいつは共産主義革命のために日本が対米開戦し滅ぶことを望み実現させた。
左翼に殺されたのが一人もいない?笑わせるな。300万もの日本人を殺したも同然だ。
159名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 23:43:01 ID:T+s3Xe380
田母神が居ると聞いてきますた
160名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/18(火) 00:29:11 ID:uPWHHBqI0
>>156
基本的に昔から右翼のテロは要人暗殺と相場が決まっている
理由は国賊権力者を除けば良くなるという考え方から
だから基本的に一般人には手出ししない

一方左翼のテロはその逆で一般人を標的にした無差別テロがほとんど
何の関係もないそこらを歩いている一般人を問答無用で虐殺する(テルアビブ空港乱射事件、三菱重工ビル爆破事件など)
なぜ左翼が要人を狙わないかというとたぶん怖いからだろうな
下手すれば返り討ちに遭う可能性が高いからね
だから何の反撃手段も持たない一般人を標的にしてオナニーしているわけで
161名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/18(火) 00:37:20 ID:uPWHHBqI0
もっと簡単に言えば右翼のメンタリティは幕末維新の頃の延長線上にあると言える
一方の左翼のメンタリティはオウムや加藤なんかと同じと言えるだろう
162名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/18(火) 01:00:56 ID:oS6cwVqx0
>もっと簡単に言えば右翼のメンタリティは幕末維新の頃の延長線上にあると言える

まったくだ
「憂国の士ってえ連中がいてね、こいつらが国を滅ぼすのさ」――勝海舟
163名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/18(火) 04:34:48 ID:Lk+pfzzV0
>>160
虎ノ門事件とか桜田門事件は?
164名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/18(火) 09:28:54 ID:iNyDpNZJP
>>160
さてさて、太平洋戦争で亡くなった軍民310万人の犠牲者は、右翼思想によって
殺されたと言っていいんじゃない?

元々ネットウヨ達はギャルゲーやエロゲーを嗜むシャイなオタク男性
(もしくはNEET)だった。
だが、ある日、小林よしのりのゴーマニズム宣言や山野車輪の嫌韓流、
2ちゃんねる等、中二病に苦しんでいた彼らにもわかりやすいメディアで
「在日コリアン、左翼・反日のプロ市民によって誇り高き日本の歴史が歪められている」
という「事実」を知り、同時期に集団的に愛国心(ナショナリズム)に覚醒するということが起こった。
彼等は後述するような「日本の真の歴史」を勉強して、「日本を蝕む左翼、不逞鮮人、
不逞支那人、反日活動家、国賊」を抹殺すべく立ち上がり、現在のように
「救国の志」を胸に秘め「聖戦を戦い抜く不屈の戦士」になったのである。
しかし初期のネット右翼は日本の歴史に疎い面があり、某国を批判する意味で
「大が付く国は馬鹿だ」というレスを立ち上げた者がおり、
「大日本帝国」を愚弄するものとして銃撃され爆死したものもいる。
ただし、「現在ではそのような輩は淘汰され、真に実力ある精鋭がそろっている」と喧伝されている。

近年、ネットウヨの言動に対し、『実は左翼勢力なのではないのか?』という批判が挙げられている。
その理由として、戦後右翼の主流である親米保守派がアメリカ様から授かった
自由主義と民主主義に猛烈に反発し、富国強兵や思想の検閲を熱望するなど、
政治的主張の内容が本質的には金正日の北朝鮮、中国共産党の反民主主義的イデオロギー、
ミャンマーを掌握中の軍事政権とほぼ同一の内容であるからである。
また、彼らは神聖なる皇族であられる雅子さまや愛子さまをやたらと馬鹿にしたり、
幼い眞子さまに興奮してエロ同人を作ったり、恐れ多くも天皇陛下や皇太子殿下の
アスキーアートを制作してその存在を揶揄するなど本来の尊王的な右翼とはかけ離れた行為を行っているためである。
165名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/18(火) 09:33:35 ID:iNyDpNZJP
ネットウヨたちは単に真実の歴史を「知っている」だけというわけではなく、
「支那・邪悪な韓国や邪悪な北朝鮮の実態、卑劣な韓国人の本性」も「知っている」。
この為、「残忍で冷酷な左翼、劣等民族でありながら日本を蝕む在日不逞鮮人、
反日運動家たちは前述したような不都合な真実が広く知れ渡ることを恐れ、
ネットウヨたちを弾圧し、搾取し続けて彼らネットウヨの社会的地位を低くしている」と主張している。

それ故、用心深いネットウヨ達は「左翼」、「在日不逞鮮人」、「反日運動家」によって
襲撃されることを強く警戒して殆ど外出しない。その結果、ネットウヨによる「祖国解放の聖戦」は
主としてインターネットの掲示板での啓蒙活動となっている。

「国賊」である朝日新聞を憎んでおり、2ちゃんねる等で「聖戦」の一環として
「卑劣な朝日新聞の本性」を暴き続けている。さらに毎日寝る間も惜しんで「朝日新聞や左翼メディアの記事や社説の論破」
に勤しんでおり、じつは非常に熱心な朝日新聞読者である(もちろん金は1銭たりとも出さず、
電子版を見るだけだが)。毎日新聞や日本経済新聞もひどく嫌っており、
「反日マスコミの撲滅と検閲制度の復活」を願ってやまない。

彼らは例え自国民相手であってもその政治的聖戦に妥協を見せず、
秋葉原のみを日本とみなし「売国奴集団の琉球・広島・大阪は日本から切り離せ」
と日本有数の工業地帯や戦略的要地を他国に割譲しようとするなど、
どちらが売国奴かよく分からない様な主張でも平気で行う検閲により削除である
(特に大阪は東京に最悪の事態が発生した場合のバックアップ地域として非常に重要である)。
なお、彼らはだいたい自分の住んでいる土地以外を売国奴集団の住んでいる土地と定義する傾向がある。

また愛国心故に日本の経済界(特に日本経済団体連合会)を信奉しており、
一部大企業による際限のない営利活動に至って協力的である。
具体的には派遣バイト等の安月給で経団連会員企業の営利活動に貢献している。
また定住せずにネットカフェ等で暮らすことで、夜間もサービス業に資金を投下し続けている。
「日本は唯一の経済大国であり永遠の輸出立国であり続けるべきである」という彼等の教えを忠実に信じ、
その主張を行きつけの掲示板や反対勢力のブログのコメント欄などに集中的に書き込み炎上させることで広めようと尽力している。
ただし具体的な経済理論や経済統計の検証などを自ら考え学習、
分析するようなことせず、産経・日本経団連・自民党(とネットの情報)に関しては盲信している
(彼らの大嫌いな朝日新聞や毎日新聞であっても「自民党支持率上昇」
「民主党政権批判」記事は無批判で盲信)。そのくせ「朝日新聞を信じるな」とか
「メディアリテラシーを身に付けろ」などと主張しているのだが。

結局ネットウヨが理想とするのは戦前の現人神を中心とする力強い神の国、
大日本帝国である。核兵器や弾道ミサイルなどの強大な軍事力を持ち、
全国民は盲目的な愛国心と自由民主党(とりわけ清和政策研究会所属議員)への
絶対の忠誠心を持つことが求められ、反政府運動家を根こそぎ逮捕して処刑するという
理想的な治安維持が行われる事を夢想している。実際、ネットウヨが管理しているBBSや
ブログでは愛国的意見のみが許され、それ以外の「反日」的意見は「荒らし」として扱って
排除されているが、これは彼らの理想国家建設運動の萌芽と言える。
どこかの国にそっくりであることに彼らは気付いていないが。
166名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/18(火) 09:37:58 ID:iNyDpNZJP
ネットウヨの理想とするマスコミ

ネットは真実[編集] 新聞
「あくまでも中立・事実のみを報道」
もちろんココで言う中立とは「自分」視線のものであり、
別に公平性や真の正確性を求めている訳ではない。要するに自分が気に入るもの
(自民党や保守派議員、保守派自治体首長に対する提灯記事や保守論客が書く記事)
が中立であり事実なのである。
日本だけでなくアメリカのような親日同盟国(とされる国家[1])を持ち上げる
民主党を徹底的に批判
自民党の中にハト派議員がいる場合は黙認または無視するが、
自分が嫌う政党(民主党)の中にタカ派議員がいる場合は反日レッテルを貼って批判する。
つまるところ、思想のどうのこうの以前に、単に「好きか嫌いか」と言う次元でしか無いのである。
特定アジアに対しては、これまで以上に厳しく批判する
日本の貿易の主要な相手国が中国と韓国であることは無視。
というか中国や韓国からの輸入が止まったり日本製品・日本観光ボイコットがされたりすれば、
間違いなく日本の経済が崩壊することに目を向けない。むしろ向けられない。
左派の市民運動や労働組合運動に対しては批判的に書く
ちなみに“右派の市民運動”というものは存在しない。
これは「官製」と同義だから。
創価学会や公明党、池田大作についても堂々と批判する
彼らの支持する現状の自由民主党は学会の信者票無しでは成り立たない訳だが、
その事を指摘されると言葉を濁すか、「自由民主党単独政権のために仕方なく公明党を利用してやってんだ」
とあたかも自民党幹部のように話す。

テレビ
基本的に新聞と同じだが、画像が有る分若干異なる。

ニュース番組における過剰演出禁止
反日番組であるNEWS23(終了し現在は「NEWS23クロス」に移行)、
報道ステーションを撲滅。長時間ニュースはニュースJAPANのみ、
討論番組は報道2001のみで十分。
日本文化チャンネル桜のようなマスコミを地上波に!
芸能事務所の不祥事も堂々と報道せよ!
アニメの表現規制阻止!
要するにネットウヨは、北朝鮮の「労働新聞」「平壌放送」、
サウジアラビアやイスラム原理主義国家などと同レベルの情報統制を望んでいるのである。

167名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/18(火) 09:48:54 ID:iNyDpNZJP
日本教職員組合(日教組)が大嫌いで、自分の成績不良の原因を
全て日教組参加教員に責任転嫁している。日教組の組織率は近年低下の一途をたどっており、
県によっては日教組が少数どころか極小組合でしかない所もあるが、
その事実を知る者は少ない。全日本教職員組合(全教、日本共産党系)を批判する者は少ないが、
民主党よりは日本共産党のほうがましと思っているわけではなく、
単にその存在を知らない者が多いためと思われる。
また、彼らの理想に比較的近いと思われる主張をしている全日本教職員連盟(全日教連)
や日本教師会の存在は、なぜか全教以上に知られていない。

彼らは、こんな理想の「教育論」を展開している。
ただし多くのネットウヨはすでに学生でない上、子供を持つ者もほとんどいない(理由はお察し下さい。)ので、
教育問題について無責任な立場である点に留意。

日教組は破壊活動防止法や組織犯罪防止を根拠に解散命令を! 
グランドプリンスホテル新高輪の主張を全面的に支持して東京高裁の不当判決を粉砕せよ!
明らかに「集会・結社の自由」を謳った憲法に反している。
ゆとり教育全廃、高度経済成長を支えてきた昭和30年代のように詰め込み教育と
「一当五落」の厳しい受験戦争復活!これにより日本がノーベル賞を取れるほどの勤勉国家が復活できる!
本来のゆとり教育は詰め込みよりも、「自ら考えて行動する力を養う」のが目的である。
価値観の分からない団塊世代のオッサンたちが良く口にする言葉であり、もう自分たちには関係ない世代だから無責任に言える。
道徳を修身に、愛国心教育復活!もちろん、朝のホームルーム時には皇居遥拝、始業時には君が代斉唱。
教室には日章旗を掲げる
個人的に唱ったり掲揚するのは構わないが、公立学校においては政教分離の原則に明らかに反する。
最近の日本人は軟弱である。「強い日本人」を育てるためにも徴兵制を復活せよ!
デカい声だけでやたら徴兵制度の復活を熱望するが、仮にこれが実現した後の事までは全くのノーコメントを貫いている。
もちろん、「軟弱な日本人」に自分は含めない。加えて、銃規制を緩和して誰もが銃を持てるようになった場合、
銃の取り扱いも分からない素人が武装したら、一発で日本の治安は悪化に向かってしまう事実も全くご存知でないようだ
168名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/18(火) 10:00:23 ID:iNyDpNZJP
著名人による使用例
辻大介(大阪大学准教授)は、「インターネット利用と政治的態度・行動、
とりわけナショナリズム等の右傾化傾向との関連を検証するためにおこなわれた」研究の中で、
「ブログや電子掲示板等で積極的に情報発信をおこなうネット利用者」における右傾的傾向を、
いわゆる「ネット右翼的」と一般に指摘されることの多い特徴をもとに操作的に定義した上で研究を行った。
その定義に当てはまる比率は、有効サンプル数の1.3%程度であり、
全体的な傾向としてこれらの層は、ネットの外でも署名・投書・集会出席などの活動に積極的な傾向がみられる。
このことからすれば、「ネット右翼」はネット特有の現象というよりも「リアル」と地続きの現象であり、
これまでは目につきにくかった「右翼」的な潜在層がネット上で可視化されたととらえるのが適当かもしれない、としている。

山口二郎(北海道大学教授)は、「小泉首相は、『心の問題』を持ち出して靖国参拝を正当化したが、
これは攻撃的引きこもりともいうべき状態である。ネット右翼たちは、これを見習って、
蛸壺に閉じこもりつつ、気にくわない言説への攻撃に精を出す。
政治家の跳ね上がりにお株を奪われた右翼は、より過激な闘いを求めて放火事件を起こす」と書いている。

城内実(衆議院議員)は自身のブログにおいて、そのネットマナーへの批判対象として、
「過去の私のブログの記事をろくに読みもしないで、上から目線で重箱のすみをつつくことに
自己満足を感じている絶滅危惧種の左翼全体主義ブロガーや、一部のとんちんかんなネット右翼にはもはやつける薬は
ないかもしれない」と述べている。

小田嶋隆(コラムニスト)は、2009年に第45回衆議院議員総選挙が行われた際、
選挙前の世論調査ではニコニコ動画やインターネット掲示板における麻生内閣の支持率が高かったことについて、
選挙の結果が判明する前に論評するなかで(『踊る阿呆の「祭り」のあとに』)、
「ネット右翼が大量発生しているのか、少数のネット右翼が、大量書き込みをしているのか、
本当のところはわからない。結局、ネットというのはそういう場所なのだ」
「違うのだよ麻生さん。ネトウヨは数が多いのではない。クリックの頻度が高いだけだ。
つまりただのパラノイアだ」と書いている。

宮台真司(社会学者)は、『日本の難点』の第一章と第二章内において、
ネット右翼を「自意識をこじらせた馬鹿保守」と定義しつつも、「コミュニケーションがフラット化した社会で発生した、
自己への尊厳を失った人」「“モンスタークレーマー”などと同様のラウドマイノリティー」という見方を示している。

加藤紘一(元自由民主党幹事長)は、ネット右翼について「従来の民族系右翼とは異なる」と述べている。

木村三浩(一水会代表)は、「右翼の品格にあらず」と発言しており、
既存の右翼とは異なる別種の右翼と見る。

堀江貴文(実業家)は、自民党が徴兵制の検討を示唆したことに対して自身のブログにて
「兵役の義務化など憲法9条を持つ国として普通にあり得ないことだと思うが、
意外にネット上もネトウヨが幅を利かせていて上記の投票結果も賛成過半数ではないものの、
意外に賛成派が多い。」とネット右翼がネット上で一定の影響力を持っていることに言及している。

河原博史(同血社会長)は、ネット右翼の排外主義・人種差別的な行動や発言に対して
「ある民族を自分たちより劣等とみなしたうえで、自らの国は素晴らしいというのは、
彼らが嫌いな中華思想に代表されるエスノセントリズムにほかならない。」と非難した
169名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/18(火) 15:52:12 ID:1EPqK/oa0
日本にとっての一番の成果は軍部解体だろうね
代償も半端なく大きかったけど

でも、こないだのNスペみて思ったけど
今も、当事も政治家がだらしなすぎ。
170名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/18(火) 20:38:09 ID:Lk+pfzzV0
軍人ってのも官僚・役人だってこと忘れるな
171名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/18(火) 20:49:51 ID:al4hYHrF0
で?
172名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/19(水) 00:32:31 ID:1SUiqX780
>>163
レアケースだな

>>164
>さてさて、太平洋戦争で亡くなった軍民310万人の犠牲者は、右翼思想によって
>殺されたと言っていいんじゃない?

右翼と言ってもいろいろいたから一概にそうとは言えないと思うが?
笹川良一や赤尾敏なんかは対米戦に反対していたし
皇道派なんかも反共反ソの考えから基本的に対中対米宥和論だった
統制派と革新官僚および社会大衆党などが戦争を推進していったわけで
173名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/19(水) 01:07:52 ID:9Yi/qtSB0
とにかく右翼のせいで戦争になったことにしたいようだが、
日中戦争の発端になった盧溝橋事件を画策したのは左翼の中国共産党。
そして左翼スパイが国民党との講和を妨害し、アメリカでもソ連の左翼スパイが
ハルノートを作成し日米開戦となった。つまり日米は左翼に嵌められて開戦させられたわけ。
174名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/19(水) 01:10:52 ID:9Yi/qtSB0
それに気付いたからこそ戦後は西側諸国は結束し日独を急速に回復させ、
レーガンはソ連を悪の帝国とまで呼び冷戦を戦いソ連を倒した。
しかしこんな事実は学校では教えてくれない。
なぜなら、知れたことだが教師の多くも左翼だから。
日本が悪い、右翼が悪いってことにしておくのが一番都合がいいんだろう。
しかし戦争を起こしたのは左翼です。
175名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/19(水) 06:35:21 ID:6mbDjkPY0
>>172
>レアケースだな

ほう、それでは戦前の左翼のテロで
>左翼のテロはその逆で一般人を標的にした無差別テロがほとんど
に該当するものを挙げてみてくださいな
176名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/19(水) 09:56:45 ID:ZgEdZehAP
>>173
ふん、またネトウヨのコミンテルン陰謀論か
史実で実証されてないものを得意げに出すな

大日本帝国はコミンテルンの陰謀に踊らされて
国土を焼け野原にしたアホ国家、ってことにどうしてもしたいみたいだなw
177名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/19(水) 11:19:26 ID:yDPDmMTm0
>大日本帝国はコミンテルンの陰謀に踊らされて
>国土を焼け野原にしたアホ国家、ってことにどうしてもしたいみたいだなw
実際、コミンテルンの陰謀に踊らされてなった結果の方がマシなくらいだろ
178名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/19(水) 11:39:19 ID:ZgEdZehAP
陰謀とやらがあったとしても
主体的に乗っていったとしか思えんはっちゃけぶりだがな
日中戦争は政府の不拡大方針を無視してズンズン進撃
ハル・ノートには「英霊に申し訳ない」といって自縄自縛
統帥権が天皇直属だった時点で、この国は軍国主義超特急にならざるをえなかったのだ
元老が軍ににらみをきかせていた時代が終わったとたんにな
179日本@名無史さん:2011/01/19(水) 22:37:16 ID:cc3kPW1n0
 ここに蔓延る軍部への非難とは、大日本帝国軍への非難だと受け止めるのであれば、私は到底受け入れ得ない。
 軍部の何を批難しているのであらうか。戦争とは悪である。しかし戦力があるが上での交渉もしかり。

 国土を焼け野原にした大東亜戦争当時の国民は、玉音放送を国民鼓舞のために陛下が立ったと思われた方も多い。
 実は、国民に対する謝罪と米国に対する原爆投下の批難と、国民に対する今後の日本国民たる矜持を語っていただけた。

 帝国軍人は、領土の野心だけを目指し、南進していったのか?

 当時の時代背景を鑑みるに、領土的野心が何も無いとは言わないけど、国家の存亡を憂いていた事もそれ以上にある。

 対華21カ条の要求は、1915年提出された。この当時の中国とはどんな国状であったのか。
 1911〜12年に辛亥革命が終わり、清朝がたおれた直後です。袁世凱も生きていた時代(翌年なくなられています)です。

 国家の体をなしていない国家に対し、国家的要求は国家間には成り立ちようがない。
 之が、中国政府を刺激したみたいに言う輩がいるが、歴史を知らない奴の戯言でしかない。

 稜威道別(いつのちわけ)とは、神の鎮座する場所への道しるべである。
 奥都城(おくつき)とは、上代の墓のこと。またそこから神道式の墓のことである。
 大八州(おおやしま)とは、日本国のことであり、蛍の光に謳われた島のことである。
180名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 00:23:23 ID:k2UmezkT0
>>175
戦前限定なんて言ってないぞ?
というか戦前の左翼は徹底的に弾圧されていたからテロ自体が少ないし
それでも銀行強盗とかやっているけど
181名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 00:34:17 ID:/azEJIKn0
>>179
まともな日本語書けないなら来ないで、池沼
182名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 00:34:53 ID:k2UmezkT0
>>176
陰謀かどうかは知らないがソ連の望むような結果にはなったな
例えば陸軍の対ソ強硬派である皇道派が軒並みいなくなったりとか
荒木と真崎は予備役に小畑と山下は閑職に
そして対中一撃論を叫ぶ永田東条一派(統制派)が主導権を握ると
個人的には五・一五事件が起こらず犬養内閣がもう少し続いていれば歴史も多少変わったんじゃないかと思っている
183名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 00:38:12 ID:F7DpDWfa0
>>179
中国人のナショナリズムの矛先をイギリスから日本へ転換させる
一大転機だったのは間違いないよね。
184名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 01:19:57 ID:mj8fTz5D0
>179
> 帝国軍人は、領土の野心だけを目指し、南進していったのか?

いやいや

自分とこの職分を増やしたかっただけだろ
お役人はいつだってそうだからね
185名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 01:46:12 ID:FaGbemnP0
お前ら、まず吉村昭の『蚤と爆弾』に対して反論してみろ


186名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 04:19:39 ID:CcqxyFKR0
>>180
>戦前限定なんて言ってないぞ?
今は太平洋戦争開戦までの経緯を語る中で右翼のテロの話が出てきたわけなんだがな

>それでも銀行強盗とかやっているけど
特高のスパイが最高幹部になってやらかした事件だけどな、あれ
187名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 09:22:26 ID:lak/jMlEP
>>179
>実は、国民に対する謝罪と米国に対する原爆投下の批難と、国民に対する今後の日本国民たる矜持を語っていただけた。
まことにお上は得手勝手だな、開戦の詔勅と並べて読んでみるがいい
「ほしがりません勝つまでは」の果てにこんなことがあったのでは、当時の国民の虚脱感たるや
相当なものがあったろうな

>当時の時代背景を鑑みるに、領土的野心が何も無いとは言わないけど、国家の存亡を憂いていた事もそれ以上にある。
それが「領土的野心」として噴出したのがいわゆる「十五年戦争」だよ
憂えてようが何しようが、方向性が間違っていたのでは何にもならん
当時の日本のすべきは、ヨーロッパの争乱を横目で見ながら、世界第三位の海軍力をキーに
キャスティングボートを握り続け、戦後社会でおいしい目を見ることにあったのだ

>国家の体をなしていない国家に対し、国家的要求は国家間には成り立ちようがない。
>之が、中国政府を刺激したみたいに言う輩がいるが、歴史を知らない奴の戯言でしかない。
国家の体をなしていないと勝手に判断したら、切り取りご免でOKだと
欧米はともかく、東亜の開放を(口先だけにせよ)スローガンにしていた
大日本帝国がそれをやっちゃいかんね
それとも大日本帝国も他国同様死肉に群がるハイエナの一味だと認めるのかね?

「特攻」を発案したのは皇族の(つまり一族が絶対に特攻などに行かない)
伏見宮博泰王だったことが、最近の研究で明らかになっている
なんという欺瞞だろう。皇族は国民を使い捨ての道具だと思っていたのだ
大西瀧次郎は、そのことを隠蔽するために「自分が特攻を創始した」意味の遺書を残して
終戦の日に腹を十文字に切って死んだ
「百年たっても自分の真意を理解するものはいないだろう」と言い残している
百年ぐらいで真相が明らかになっては困るのだ。だから彼は死体にむち打たれるのを覚悟の上で
「特攻の創始者」という「汚名」をかぶって死んだのだ。
口先だけで体裁のいいことを言って悦に入っているお前に
それだけの覚悟があるのか?
188名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 13:39:35 ID:/b5LThcb0
>179
>ここに蔓延る軍部への非難とは、大日本帝国軍への非難だと受け止めるのであれば、私は到底受け入れ得ない。

大量の人命、その他、多大な損失を出しておいて
国の存亡へったくりもあったもんじゃない。
なんのために戦ったのかすら疑問だよ
>>179 の理論は海外向けの外交的話であって日本人相手にはとても通用する話じゃない

189名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 14:13:24 ID:k2UmezkT0
>>186
>今は太平洋戦争開戦までの経緯を語る中で右翼のテロの話が出てきたわけなんだがな

警察署や交番の襲撃とかもやってたな
いったい何の意味があったのかさっぱりわからんが

>特高のスパイが最高幹部になってやらかした事件だけどな、あれ

スパイMの事は信憑性に疑問符が付く
また仮にMがスパイだったとしても周りが同調した時点で終わっている
他にも一般人の家に強盗しようとか計画していたらしいし
190名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 14:18:40 ID:lak/jMlEP
ウヨの言っていることは、やっぱりどっかおかしいよ

国を挙げて国民に「都合のいい道具になれ」って教育(洗脳)をほどこしてきたことを
全く度外視しているからね

昭和になってからやたらめったら戦争を吹っ掛けまくった背景に
そういった国家主義教育が存在したことを見抜いた占領軍司令部は、卓見だった

だからウヨの説こうとする「真なる日本の近代史」には
どっか筋の通っていないところがある
はっきり言えば、「国は国民など愛してはいないのだ」ってことを無視するから
こじつけになる
191名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 14:51:46 ID:kVjyA2RY0
ある右翼曰く、GHQのWGIPと日教組の歴史における洗脳教育が酷いから、右過ぎる位の歴史観でおkとのこと。

馬鹿右翼の存在を以って「洗脳」なぞ有って無い様ななもんだと思うのだけどwww
192名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 15:03:06 ID:/b5LThcb0
戦後教育において誰が考え出したか知らんが
近代史の部分をやらないように(できないように)したのはオレは正解だと思ってる。

近代史はデリケートな問題な上、教師の思想で全く変わってしまうから、それくらいなら触れない方がいいって…。
もし、意図的ならたいしたもんだと思う。
たまたまなのかはよくわからないが、少なくともオレは近代史においてあまり学校の授業を受けたことが殆どない(30代)
193名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 15:41:48 ID:lak/jMlEP
>>191
>日教組の歴史における洗脳教育
いちおう文部科学省の指導要録に沿って授業をしているはずなのに
それで「洗脳」とは
右翼ってどれだけ俺様史観なのやら

文科省の指導通りやってないというなら
なんでみんな入試に受かるんだろうね?
194日本@名無史さん:2011/01/20(木) 20:14:49 ID:1k6xE7oa0
日本軍がアジア各地でおこなったことを考えると日本軍の特質が問題にならざるをえない。
太平洋戦争においてアジアの民衆に対して、日本軍ほど虐殺・暴行など各地で大規模な残虐行為をくりひろげた軍隊はほかにはなかった。
捕虜に対する扱いも日本軍とアメリカ軍とでは、経済力だけでは説明できないほど違いがあった。
沖縄戦で日本軍が沖縄の人々を虐殺、あるいは虐待したことも日本軍の特徴だろう。
いくつかの点から日本軍が残虐行為をおこなった特徴を考えてみよう。

第一に日清戦争・日露戦争以来培われてきた、アジア民衆に対する蔑視観がある。
中国人や朝鮮人に対する蔑視だけでなく、東南アジアの諸民族に対してはより一層見下していた。
たとえば、大本営参謀本部が作成し、マレー戦に参加した将兵に配られたリーフレット『これだけ読めば戦は勝てる』(辻政信が書いたといわれている)には、
東南アジアの民衆を「土人」と呼び、「土人は懶けものが多く、(中略)全く去勢された状態にあるから之をすぐ物にしようとしても余り大きな期待はかけられぬ」
と蔑視観が露骨に示されている。

第二に日本軍が占領地の一般住民を敵視したことである。
占領軍である日本軍に対する住民の抵抗はゲリラだけでなくさまざまな形でおこなわれた。
日本軍は住民全体を疑い、村を丸ごと抹殺することさえおこなった。
国際法はまったく無視された。相手が住民であろうと、「抗日ゲリラ」あるいは「抗日分子」という名目がつきさえすれば
「治安粛清」と称して堂々と住民虐殺がおこなわれた。

第三に日本軍の「現地調達」主義である。
日本軍は各地で作戦をおこなう部隊の食糧や馬の糧秣について「現地調達」するという政策をとった。
日本軍は補給そのものを軽視したが、とりわけ食糧については軽視どころか部隊に任せた。
そのため各部隊は戦闘をしながら食糧を確保しなければならなかった。本来は代価(軍票など)を払って購入しなければならないが、
実際には食糧略奪があたりまえのようにおこなわれた。戦地・占領地での略奪は戦時国際法に違反するだけでなく、
日本軍の陸軍刑法や海軍刑法でも「略奪ノ罪」にあたるが、それが取り締まられることはほとんどなかった。

略奪にあたって、住民の抵抗があれば、住民に対する残虐行為がおこなわれた。
女性に対する暴行もその一部だった。それが抗日勢力が強いと見なした村であれば、略奪、女性への暴行、
住民虐殺、放火がおこなわれた。中国ではこうしたなかで若い女性を拉致し慰安婦にさせるケースが報告されている。

中国など人が住んでいるところではこうした方法で食糧が調達できても(略奪された住民の苦しみがあることはいうまでもない)
人のあまりいないジャングルのなかでは、略奪しようにも略奪するものがなかった。
ガダルカナルやニューギニアで多数の日本兵が餓死したのはその結果である。
日本軍兵士の死者の半数以上が広い意味での餓死(飢えに起因する病気による死を含めて)によるものと推定されるが
(藤原彰「日本軍の餓死について」)、みずからの兵士の生命を軽視した「現地調達」主義は、
日本軍を残虐行為に駆り立てたとと同時に日本兵自体の生命をも奪ったのである。

第四に国際法を無視したことである。
第一次世界大戦までは、日本は参戦にあたって国際法を遵守する旨が開戦の詔書には含まれていた。
しかし太平洋戦争の開戦にあたっては、詔書の案の段階ではあった「国際法規の範囲内に於て」という文言が最終的には削られた。
日中戦争にあたっては、戦争ではなく「事変」であるとして戦時国際法を適用する考えはなかった。
日中戦争〜太平洋戦争において日本は、捕虜や占領地の住民の保護など戦争下におけるさまざまな人道的な措置を定めた戦時国際法を守る意思がなかったのである。

第五に日本軍内部の非人間性である。
日本軍でも「私的制裁」は禁止されていたが、実際にはビンタをはじめさまざまな暴力が日常的におこなわれていた。
「死は鴻毛(鳥の羽毛)よりも軽し」という軍人勅諭の言葉通りに兵士の生命は軽んじられ、特に下級兵ほどその抑圧はひどかった。
軍のなかで蓄積された抑圧とストレスは外部に対して、とりわけ弱者に対して向けられた。
占領地の住民はまさにその犠牲者であった。住民に対する兵士たちの残虐行為は軍隊内の秩序を維持するための安全弁として軍上層部は黙認したのである。

軍隊という組織そのものが持つ暴力性はこうした日本軍の特徴によって極度に増幅され、
アジア太平洋地域では他の国とは比較できないほどの残虐行為を引き起こしたのである。
195日本@名無史さん:2011/01/20(木) 20:46:38 ID:EBSNPj1y0
>>193
 文科省の指導要録ってどんな変遷をしている。一時期は南京大虐殺を認め、一時期は慰安婦強制連行を認め・・・

>>191
では、WGIPの政策と、その国独自の国家的流れを他国が干渉しても良いのか?
 イスラムでは、イスラムの習慣があり、ヒンズーでは其の国の慣わしがある。異国がくちだす事でなく、其の文化を受け入れる事ができるかだと思う。

 西洋の技術力を、受け入れた明治維新。受け入れざるを得なかった事が事実であり、西洋列強にこれ以外対峙する術はなかった。
 第二次世界大戦前、支那事変後の安定期に起こった、

1936年 日独防共協定
1937年 日独伊防共協定
1939年 3月 独逸のチェコスロバキア併合
1939年 5月 ノモンハン事件
1939年 8月 独ソ不可侵条約
 防共協定とは何であるのかと、1939年 8月23日に平沼内閣解散。
1939年 8月31日 ドイツ軍ポーランド進行。

 1936年とは、歴史的基点であり、この年日本では2・26事件が起きている。
 当時の日本には裕福な国民とはほんの一握りの人で、疲弊した国民を憂いて、軍部とは関係が無く立ち上がった国粋主義者の抗議です。
 その間の国際情勢とは、日々代わっていく。

 この情勢下の下、正確に状況を理解し、正確に日本国の立ち居地を示さねばならぬ。
 東亜の欧米からの圧迫が、欧州の緊張ゆえに、緩和されつつある時代です。

 時は移り、「今」の日本国の正確な立ち居地を示せる人はいるのであろうか?
196日本@名無史さん:2011/01/20(木) 21:02:25 ID:EBSNPj1y0
>>194
蒋介石が行った「南京事件」は君からぜひコメントいただきたい。
毛沢東の「文化大革命」で正式に、2千万人以上の中国の民衆が殺戮された事も、是非コメントください。

>第一に日清戦争・日露戦争以来培われてきた、アジア民衆に対する蔑視観がある
だとしら、日本国民として受け入れていない。南洋諸島では、予防接種初めて行ったのは我が日本国政府です。

>第二に日本軍が占領地の一般住民を敵視したことである。
一般住民の殺戮は、済南・通州どの軍閥が行ったことでしょうか。
日本軍に対し、農村で働く姿をし、過ぎ去った後、銃撃した民兵がどれだけ中国にいたでしょうか。
それは、国民党軍と共産党軍の戦い方を知らなければ解らぬ事です。

>第三に日本軍の「現地調達」主義である。
補給に関してはあったと思う。玉砕を旨としているから。

>第四に国際法を無視したことである。
当時の主たる国際法に対し、無視している国は何処でしょうか?

>第五に日本軍内部の非人間性である。
人間的な生き方とは、金をただ回し自己の利益を得る生き方ですか?
私は違うと思う。ささやかながらでも、生きるための作物を作り、ささやかながらでも人に分けえるだけの生活をすることが、人として生きる証であると思う。

 日本の先人の話を読むに当たり、先人のささやかな、人への思いやりと自己犠牲を省みない勇気しか感じ得ない。

 日本国には、立派な先人がいた証として、「今」がある。
197名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 21:41:08 ID:B8B87JQ80
>>194
他人に成りすまして嘘を撒き散らすのも、バカサヨや朝鮮人の特徴だな。
こいつらは、最低の卑怯者で、嘘はつくし言論は弾圧するし、最低なんだよな。

小林よしのりも「慰安婦問題」で徹底調査し正論を書いたら、左翼団体から
出版社に「ゴーマニズム宣言」の掲載中止圧力がかかり、小林には執筆活動の
中止を求める抗議文が来たそうだ。
左翼・朝鮮人とはこういう連中なんだよ。

ちなみに>>194の日本@名無史さんID:1k6xE7oa0と>>195-196の日本@名無史さんID:EBSNPj1y0
とは全くの別人。成りすまして大嘘を吐く>>194の言うことを信じるなよ。

確かな証拠を示ぬまま日本バッシングに必死になり、シナやアメリカの非道・野蛮行為に
一切触れようとしない>>194の言うことは信用できない、と考えるべきだ。

198名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 21:53:46 ID:B8B87JQ80
>>196
成りすまし嘘つき野郎に質問しても、まともな答えは何も返って来ないよ。
こいつの頭の中は妄想で満ちてるから、常識や史実は通用しない。

>沖縄戦で日本軍が沖縄の人々を虐殺、あるいは虐待したことも日本軍の特徴だろう。

こんなこと書いてる時点で、頭の弱いこいつの妄想が爆発してるのがよくわかる。
インチキ戦記「鉄の暴風」とかいうでたらめなプロパガンダ丸呑みじゃん。

沖縄戦で戦った日本軍守備隊11万6400人のうち、約2万人は沖縄人だったのだが。
守備隊が沖縄民間人を虐殺したり、自決を強要するなどありえないし、あったという
証拠もない。馬鹿につける薬はない。

199名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 22:00:54 ID:k2UmezkT0
>>193
授業についてはそうだがそれ以外では結構いろいろやってたよ
俺の経験では「ガラスのうさぎ」と「怒り地蔵」って映画を観させられたな
あとは図書室に「はだしのゲン」が置いてあったり
200日本@名無史さん :2011/01/21(金) 08:52:37 ID:Y1S30SDuP
>>197-198
はいはい中卒携帯親父さん
あなた相変わらず馬鹿ですね
糞スレ立てて、そのお詫びの気持ちから真実を書いたのに
ウソ呼ばわりするのなら、あなたの大好きな名越の発言引用
まあ、さんざん「権威論証」だと指摘されているあれじゃなく
史実を持って論じてくださいねw

時間によってIDがかわるなんてよくあることです
あなたは2ちゃんの初心者ですか
だから中卒なんて言われるんですよ

私、解離性人格障害と、境界性人格障害と
境界性人格障害を患ってて大変なんです
だから発言の整合性がとれてなかったり
日本語が変がったとしても勘弁してね

日本@名無史さん は、このスレには私一人しかおりません
あなたのような嘘つきと一緒にしないでくださいね
201名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/21(金) 10:05:11 ID:wNfHfdHV0
>>200
あんたの>>194で書いてある内容はもっともらしく書いてあるけど
根拠も証拠もなく出所さえはっきりしない内容。

二昔前のそういった思考をお持ちの方の主張そのもの。
挙句の果てに前二人の主張に対して人格攻撃が殆ど。
情けない。

もし、反論してくれるなら、>>194で書いた内容に一つ一つ具体的事例を出してみろ
というか本気で興味あるから是非教えて欲しい。
202日本@名無史さん :2011/01/21(金) 11:57:39 ID:Y1S30SDuP
>>201
私は具体的事象について論じたつもりです
疑義があるというなら、その立証責任はあなたにあります
「本当はどうだったのか」述べてください
「根拠も証拠もなく」とおっしゃったのだから
事実を踏まえてそう言っているのですね

はっきりいってあまりにも頭の悪いレスなので
答える気になりません
203日本@名無史さん :2011/01/21(金) 13:09:35 ID:Y1S30SDuP
さて、私は>>196で立派な先人がいたと申し上げました
その先人たちの言葉を、挙げたいと思います

岐阜・陶器画工・二四歳――「今度の支那との戦争は侵略的である。
支那と戦争して領土を占領しても我々無産者には何等の利益等ない。
結局戦争は資本家が金儲けするだけでこんな侵略的戦争は反対だ。
早く止めて貰いたい。仕事がなくなるから。」
(数回にわたり数名に宣伝、一九三八年二月、造言飛語罪で禁錮四ヵ月)

和歌山・農業・五二歳――「今年は百姓は悲惨なものだ。
連日の降雨のため麦や罌粟は皆腐ってしまった。
これは今度の戦争で死んだ兵隊さんの亡魂が空中に舞っているから、
その為に悪くなるのである。戦争の様なものはするものではない。
戦争は嫌いじゃ。」(理髪店で話す、同年五月警察犯処罰令で科料一〇円)

岐阜・畳職・五二歳――「こんなに働くばかりでは銭はなし
税金は政府から絞られるし全く困ってしまった。それに物価は高くなるし
仕事はなし、上からは貯金せよといって絞り上げる。
実際貧乏人は困っている。よいかげんに戦争なんか止めたがよい。
兵隊に行った人の話では全く体裁のよい監獄じゃそうな。
兵隊もえらいしええかげんに戦争は止めたがよい。
日本が敗けようと敗けまいと又どこの国になっても俺はへいへいと
いって従っていればよい。日本の歴史なんか汚れたとて何ともない。」
(或一人に話す、同年九月、陸軍刑法第九九条違反で禁錮六ヵ月)

福岡・理髪業・三一歳――「皇軍兵士が戦死する場合無意識の間に
天皇陛下万歳を叫んで死ぬ様に新聞紙に報道されているが、それは嘘だ。
ほとんど大部分の者は両親兄弟妻子恋人等親しい者の名前を叫ぶということだ。」
(数名に話す、同年一〇月、陸刑九九条で禁錮五ヵ月)

東京・飛鳥山公園便所に落書――「正義を愛する者は戦争に参加するな。」
(三八年九月、捜査中)

岐阜――四〇年四月、二名の家人を前に新聞掲載の皇太子の写真に、
「こんな良い服や靴を着て何じゃ、我々国民があって初めて
こんな良い服が着られるのだ、こんなもの何じゃ」といいつつ
該新聞紙をクシャクシャに丸め、これでストーブ上の油を拭き廻したのち
「こんな者は早く死んで了え」とストーヴの火中に投じた。
(七月、不敬罪で送局)

山梨・農業・三九歳――「先日自分の出した供出米が一俵不正だとかで
村の連中がとやかくいうが、あの位の事が悪いなら何の法律でもよい
罰してもらいたい。このように種々と窮屈になったのも戦争のためで
この戦争を誰が頼んだものではない。政府が勝手にやっておるので
こんな事が永く続けば銃後はやりきれぬ。」
(同年八月、某宅で雑談、科料五円)

いやまことに我らの先人は立派であられました
204名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/21(金) 18:14:22 ID:IAjMFTNy0
>>203 今のシナ・朝鮮でも同じようなことを言っている人間がいるが、そんな生易しい罰でなくて強制収容所送りが確実だな。

 少し前のソ連もそうだった。ソ連・東欧の反体制小話は有名だったな。

 南鮮の親日派追及もまだ続いているが、支配層権力者の地位を保持するためだしな。
205名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/21(金) 20:42:52 ID:x6TizXCB0
>>204
罰が生易しいなのか厳罰なのかとか、そんなのはハッキリ言ってどうでもいい話だよ
問題は、個人の思想信条の自由が国家権力によって平然と蹂躙されていたという歴史的事実
過去の日本の過ちから話逸らしたくて必死なんだね?
206名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/21(金) 20:51:25 ID:54xxasJ70
>>201

>>202-203 ID:Y1S30SDuP(IDがPで終わる近代史板の粘着馬鹿)

こいつも偽者。偽者は嘘しかつかないから、まともに相手にするな。
でなければ、徹底的に証拠提示を求めて、叩き潰しちゃいな。

207名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/21(金) 21:14:43 ID:2/33wFIh0
お前ら、まず吉村昭の『蚤と爆弾』に対して反論してみろ







208名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/21(金) 23:06:42 ID:fVlCNAVsP
>>204
そりゃそうだ
朝鮮半島には19世紀まで文明と呼ばれる程の物は無かったんだから
縄文時代の日本列島の方が遥かに進んでいた
まあ四大文明と肩を並べる縄文文明を韓国と較べるのもどうなんだって話だが
209名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 01:08:07 ID:mTblSvb40
>>208
四大文明と肩を並べるって、どこがだよww
210名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 05:50:13 ID:4OSSEoB80
さすがに旧石器人を持ち出すことは出来なくて無念そうだなw
211名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 17:19:58 ID:HdZYR9fa0
しかし左翼って誰も読みそうもないような長文をだらだら書くのが好きだね。
頭がおかしんだろうな。
212名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 20:26:32 ID:zZX5fxjY0
>>206
「権威論証」で徹底的にやりこめられて、「有名人発言」のコピペもできなくなった
中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田がよくいう
おまえも反証があげられなくて、歯ぎしりしてるだけなんだろう
大日本帝国が、国内、国外を問わず良いことをやったという史実はどこにもないからな

お前ほどの嘘つきはこの板にはいないってことは知れ渡ってるんだから
さっさと極東板にでも帰ったらどうだいw
213名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 21:52:47 ID:767cQiu10
>>212
有名人は権威じゃない、と何度いったら分かるんだ?低能!!
これだから嘘つき朝鮮豚は困る。
214名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 21:56:03 ID:767cQiu10
>>212
「日本@名無史さん」の名前を騙ってデタラメなデムパを垂れ流して見ろよ、低能!!

お前らは嘘つきのクズだから、存在自体が迷惑なんだよ。朝鮮半島へ帰れ、カスw

215名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 22:05:34 ID:767cQiu10

大東亜戦争は侵略戦争、大日本帝国は悪の帝国、憲法九条を守れ、反戦平和主義万歳
を唱える連中のグロテスクな正体↓↓↓

464 名前:< :2011/01/22(土) 02:11:08 ID:ktemdwDY0
>>462-463
●反日・反国家を標榜しながら、自分達の生活費は "日本国家頼み" の惨めなクサヨパラドックス・・・(笑

  【左翼系組織】革労協主流派の活動家7人を逮捕…障害者の生活保護費をだまし取った疑い
  http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/asia/1210691488/l50
  逮捕されたのはいずれも革労協主流派活動家の庄山功(52)、飯塚賢一(57)、平田天平(30)、
  八木康成(39)、福徳志郎(42)、富沢正樹(37)、佐藤順美(43)の7容疑者。

  【大阪】生活保護費だまし取る、中核派活動家で労組員を再逮捕 詐欺容疑で
  http://logsoku.com/thread/toki.2ch.net/dqnplus/1277219595/
  関西合同労働組合(本部・神戸市)の相談員、 沼田充広容疑者(55)=暴力行為法違反罪で起
  訴=を再逮捕した。

●そして、下記は "未来のナマポクサヨ" 候補者だ・・・(笑笑笑笑

  憲法活動家の9条信者がナイフで学生の腹部を刺す 大阪
  http://blog.livedoor.jp/booq/archives/882643.html
  男は、箕面市桜ケ丘1丁目、会社役員中井多賀宏(たかひろ)容疑者(36)。

  「2ちゃんねる」で落選候補中傷の北大生逮捕
  http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-723.html
  北海道大学理学部4年生 畠山育人容疑者(23)=札幌市北区北十三条西=を逮捕した。

  【社会】革マル派活動家 32歳の奈良女子大生を逮捕 通帳詐取の疑い
  http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1280128222/
  奈良女子大4年の革マル派活動家、藤井藍子容疑者(32) =奈良市内侍原町=を逮捕した。

●クサヨ活動家は "死んでも国の情け受けない!" ぐらいの気概を示せないの???♪ニヤニヤ・・・(・∀・)
  国から生活費を "御恵み" してもらう "自称革命戦士" ・・・プププププププププm9(^Д^)プギャーー


216名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 20:31:07 ID:iFr0xJWr0
>>213
じゃあお前のやっていることは
「何の権威もない素人門外漢の、頓珍漢な発言に基づいて、いい加減な結論を出した」
ということになるんだが、それでいいんだなw
217名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 22:01:43 ID:c9951du/0
>>216 くだらない揚げ足取りだな。レベル低すぎ。
218日本@名無史さん :2011/01/24(月) 10:03:46 ID:bxjJxHwmP
>>217
ではそれを証明する史実を持ってくるべきですが
彼はそれを怠っております

あなたが彼の持ち出す全発言の裏を責任もってとってくるとでも言うのですか
それができないというのでしたら、あなたにもそういうことを言う資格はありません

同じネトウヨ同士、正々堂々とした発言を望みたいものです
あなたも揚げ足取りです
219日本@名無史さん :2011/01/24(月) 14:07:07 ID:bxjJxHwmP
 「アメリカがよくあれまで我慢したものだと思う。
資金の凍結や油の禁輸などは窮余の策で、まだまだおとなしい方だ。
日本のやり方は傍若無人と云うの外はない」。
 井上成美は、戦前、日独伊三国同盟の締結や日米開戦への動きには
頑強な抵抗を示し、米内光政や山本五十六と並んで、
「海軍左派三羽烏」と称された。井上は、戦時中には海軍兵学校校長、
海軍次官を務め、帝国海軍最後の大将に昇任した。
井上が海軍兵学校校長に在任していた時、英語が敵性語として扱われた
時節にもかかわらず、兵学校での英語教育が続行された。
「英語ができない海軍士官など要らない」というのが、井上の意向であった。
 前に触れたのは、戦後、昭和三十年代後半に、井上が日米開戦に至る過程を
回顧して語った言葉の一節である。一九四〇年九月の北部仏印進駐から翌年七月の
南部仏印進駐を経て日米開戦に至る過程に関して、日本で頻繁に語られる解釈は、
米国が資産凍結、石油・屑鉄禁輸といった様々な対日圧力を加え、
それが日本を真珠湾攻撃に追い込んだというものである。
これは、日本人のメンタリティーからすれば受け入れやすい。
それは、自分が、『忠臣蔵』における浅野内匠頭のような立場だと主張できるからである。
だから。ローズヴェルト陰謀説などを採っている日本人も、そうした心理が反映されている。
「ボクは、何も悪くなかったもん」という幼児的な心理である。
 しかし、井上は、第二次世界大戦序盤、フランスがドイツに占領される状況に乗じて
日本が北部仏印進駐に踏み切ることには反対したし、南部仏印進駐に至っては、
それを「火事場泥棒」と評した。井上は、当時の米国が加えた様々な対日圧力を呼び込んだのは、
実は、そうした「国際慣例」にも違背した日本の「火事場泥棒」的対応に他ならなかったと指摘し、
それ故にこそ、その過程で「我慢をした」のは米国であったと認めたのである。
 因みに、井上は、主観的には「対等な日米関係」を目指して日独伊三国同盟を樹立しようとした
松岡洋右の構想を「痴人の夢」と評した。
220名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/24(月) 23:39:49 ID:cQvMpVq50
>>219
重慶爆撃を強行して日本を泥沼に引きずり込んだ井上がよく言えるな
221日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:52:33 ID:GQOqJBNC0
マジに下らない、引きこもり的な思想の・・・。
世界的大戦という史実を実に卑猥に、局所的な話にしているようで。
例えば、・・・・

当時の世界観とは・・。門戸開放を声高に主張し(支那に対してのみ。仏印・蘭印そしてマレー(英領)は黙殺)。
門戸は、仏印・蘭印・マレーでは東亜諸国でありながらアジアの自由貿易は制限されている。

 シンガポール進行を独逸が望んだ事実はあるが、東亜諸国の自由は一切合財、西欧の手の内にあった事実はある。

 之は正常な事なのでしょうか?

 遠き西欧が、力なき東亜の政治的支配を行う、行い続ける事実は。
 歴史とは、誰かが立ち誰かが改善し打開する、習いです。

 日本の歴史は、力なきものを守る風土である。
 枯れ行く紅葉を美しいと思い、潔く散っていく桜花の儚さのように。

 我が日本国の先人は、よく戦われた。苦境の中を、長きに渡り。
222名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/27(木) 04:22:38 ID:QL8KYssM0
>>221
>門戸開放を声高に主張し(支那に対してのみ。仏印・蘭印そしてマレー(英領)は黙殺)。

日本も日満ブロック作ってたけどなw
223名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/27(木) 07:57:46 ID:FkyehzGA0
>>221
>日本の歴史は、力なきものを守る風土である。

かつてアイヌに不公正な取引を強要し、生活の場を奪ったり。
薩摩藩も離島に対し、過酷な搾取を行ったり。
224名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/27(木) 12:10:05 ID:Pptdu4Kh0
>>221 >>日本の歴史は、力なきものを守る風土である。

・・・それは朝鮮を保護国にしたのが唯一の例外だったと思う。
225名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/27(木) 16:15:50 ID:QL8KYssM0
>>224
>保護国
って植民地化の1プロセスじゃんw
226名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/27(木) 17:54:23 ID:Ygp5ivnQ0
戦争が残した物は
日本が世界で唯一の被爆国ということ


結果核武装がタブーになり
英国では広島、長崎が笑いの種にまでされる始末
227真実を語るもの:2011/01/27(木) 19:23:25 ID:11ms0E5W0
むしろ、戦前の日本は理想論ばかり並べる平和主義だったから
つもりにつもって太平洋戦争のような悲惨な戦争に巻き込まれたんだと思いますよ
今の日本と戦前の日本は、平和主義という点では程度の差こそあれ、同じです

明治維新から太平洋戦争直前までの80年間で23万人しか戦没者がいない
これって諸外国と比べ、圧倒的に少ない
戦争を回避し回避し回避し、避けて避けて避けてきたわけです
それは金銭的にも人命的にも負担がかかる戦争は国内からの批判があるからです

独立国家としてやっていく以上、戦争は避けれませんし積極的にやっていくべきでした
なのに、馬鹿な平和主義の国民のせいで戦争ができず理想的な国防・貿易ルートを形成できなかった
そうこうしているうちに、ABCD包囲網を形成されてしまい太平洋戦争なんていう馬鹿な戦争に突入せざる得なくなった

日本人の平和主義メンタリティの形成要因は江戸時代にあると思う
平和が当たり前にあり、無駄な犠牲は避けるべきという時代が長すぎた
独立国家である以上、男は銃持って人殺してくるのが仕事であり、また人命の犠牲・金銭負担もしょうがないというのが
欧米国家のメンタリティであり世界の潮流だった

陸軍の暴走が批判されるが、こんな馬鹿な平和主義者の日本国民に付き合っていたら、国が滅びるのが分かっていたからです
英断だと思います
228名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/27(木) 23:27:17 ID:FkyehzGA0
>>227
>戦争を回避し回避し回避し、避けて避けて避けてきた

はぁ?
「朝鮮を日本の防波堤にするんだ」と、日清日露の戦争。
これは積極的防衛戦争だな。

日中戦で、講和機会を条件つり上げて潰し「国民政府を対手とせず」
平和第一の態度じゃないな。

対米戦の原因となった南進策も「対英米戦を辞せず」とかの方針だして実行。
229名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/28(金) 00:17:01 ID:rWgXfRh20
>>227
あなたの言うとおりだと思います。でも>>228みたいにすぐヒステリックに
反応しちゃう人がたくさんいるのが現状なんだよね。
230名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/28(金) 00:38:42 ID:41RWV1ORO
>>227
>明治維新から太平洋戦争直前までの80年間で23万人しか戦没者がいない
これって諸外国と比べ、圧倒的に少ない
諸外国ってどこのこと?
ヨーロッパか?
ヨーロッパは第一次世界大戦のせいとは違うの?
231名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/28(金) 00:48:09 ID:mMQ0vZUz0
>>230
例えば南北戦争では80万くらい死んでる
232名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/28(金) 01:35:54 ID:jot8gyCyO
まあ日露戦争とかだと脚気対策が出来ていれば犠牲者が大幅に減ったのは間違いない
兵士に銀シャリ食わせてやりたいという温情が裏目に出た
233名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/28(金) 05:15:27 ID:vxPXmm3r0
>>230
>明治維新から太平洋戦争直前までの80年間で23万人しか戦没者がいない

単に日本が長期戦を体験してこなかっただけの話だろ
シベリア出兵や日中戦争で日本は初めて長期泥沼戦を体験する前は、短期決戦式の戦争しか経験していない
234名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/28(金) 07:15:57 ID:UOja7lExO
テスト
235名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/28(金) 07:48:58 ID:5cKkf8di0
>>230
>明治維新から太平洋戦争直前までの80年間で23万人しか戦没者がいない

日本が平和主義だからと言うより、大陸と海を隔ててるからだろ。
それと第一次大戦期の欧州で大量の死者が出た一番の原因は、インフルエンザ。
日本も火事場泥棒的に参加して、ドイツの中国権益を奪ったり。平和主義の態度じゃないな。
236名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/28(金) 08:44:11 ID:0LLhmYhQO
>>231
内戦と比較してどうするよw
237名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/28(金) 15:26:26 ID:Grgq9J+eO
>>233
そう思う。
日本政府がそうしてきた面もあり、時代背景がそれを許した面もあると思う。
238名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/29(土) 00:42:30 ID:M6hvCMkZO
明治期の文学作品とか思い浮かべると平和主義ってのも特に違和感ないな
ロシアあたりでも当てはまるんだが
239名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/29(土) 01:01:10 ID:rNXiU9FJO
>>236
一年以上続いた日清戦争の死傷者数よりも
たったの一日だけだったボロジノの戦いの死傷者数の方が多い
240名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/29(土) 12:23:20 ID:7xIjPJ9I0
>>235
>日本も火事場泥棒的に参加して、

「日英同盟」が、いつ成立して、いつ破棄されたのか、年号をしっかり調べようネ。
241名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/29(土) 12:31:00 ID:7xIjPJ9I0
>>194
>太平洋戦争においてアジアの民衆に対して、
>日本軍ほど虐殺・暴行など各地で大規模な残虐行為をくりひろげた軍隊はほかにはなかった。

 九七式中戦車チハは、西暦197年、内乱と飢饉によって荒廃した中国で、
曹操という武将が配下の陳宮と潘遂に命じてチンピラゴロツキ殺戮マシーンと
して開発させた戦車である。名称の由来は西暦下2ケタと中国の中、さらに
開発者の頭文字(チンキュウ・ハンツイ)を取って付けられた。
チハは開発されたまもなく翌年には実戦に参加している。時の皇帝である献帝
を傀儡として擁護し、これに大義名分を得た曹操が、中国東北地方において
チンピラゴロツキどもの頭領である袁紹との戦いでチハを投入、見事これを
破って一気に勢力を拡大した。以降、チハは曹操軍にあって常に激戦地に投入され、
被害を受けながらも勝利に貢献した。曹操はそれにより、中国の主要な地域を支配下に収め、
216年には事実上の天下人となり魏を建国、初代皇帝となった。
238年、辺境の蛮族である倭人王の卑弥呼が魏に使者を送り恭順の意を示したため、
印綬とチハを与ることとなった。この際、馮タンが大使として倭国に渡り褒美
の授与を執り行ったため、「タンさんからもらったチハ」との意味で「チハタン」と呼ばれ、
戦車の無かった倭国ではその性能に驚き、以来1945年に至る1700年間
あまりにも渡って使い続けられたと言う。
242名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/29(土) 13:25:47 ID:rNXiU9FJO
日清日露の頃はちゃんと補給の概念があったから犠牲者もそれほど出なかったのだと思う
243名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/29(土) 13:57:02 ID:YzrTxEl70
>>1 大東亜戦争が遺した物

「平和で民主的な」ヘタレな戦後社会。
244名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/29(土) 18:27:39 ID:ho3npBw8O
山本元帥の思想
245名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/29(土) 22:44:14 ID:18NlOX+e0
大東亜戦争が残したもの

「世界から軽蔑される愚劣な自虐史観と、その自虐史観を信奉する狂った反日カルト信者たち」


246名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 10:02:06 ID:Fb0jR+3h0
日本のアメリカの属国化
アメリカとソ連と中国の台頭
西洋の覇権主義の後退
アジアアフリカの独立

まーこんな所か
世界史的に見れば衝撃的な出来事だ
247名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 13:20:47 ID:4165Dar40
昔から中国人はこの手の3K労働でやられてきたな。世界的に。
大陸横断鉄道じゃ「枕木は中国人の骨で出来てる」って言われる位
死ぬまで働かされるは、1ドル以下でやたら働くもんだから職奪われた白人労働者に
虐殺されたり、今とまったく同じ問題が起きている。
満州国での炭鉱での扱いも最悪だったそうだし。東アジア人にはそれを可能にさせる
メンタリティがあるんだろうな。

ほんと、欧米由来の平和主義や人権思想はありがたいもんだな。
それがあるからこそ現代じゃ批判が起きてるし、そういう問題も改善の兆しが出てきた。
欧米が日本の侵攻潰してくれたからこそ現代の中国があるようなもん。
とりあえず共産主義は南北問題を改善できず、むしろそれを悪化させたものもあった。
新自由主義は国家経済や国家ごとの貧富の差なら破壊できる事を証明した。
248名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 13:43:14 ID:48FIxtay0
>>247
>欧米が日本の侵攻潰してくれたからこそ現代の中国があるようなもん。

 毛沢東の主治医として永年毛の身辺を離れなかった李志綏博士が、毛沢東の死去後、
著した『毛沢東の私生活』(文藝春秋社発行一九九六年、上下巻)の中で、一九七二年
二月二十一日、アメリカのニクソン大統領と毛沢東との会談の中で、そのことが紹介
されています。「毛沢東の話によると……一九三〇年代に日本が中国に侵攻しなかったならば、
日本の侵略者に対し共産党と国民党が共闘をくむようなことはなかったろうし、また共産党
は脆弱(ぜいじゃく)すぎてとうてい権力の奪取などかなわなかっただろう。共産党からすれば、
日本の侵略は悪事が善事に変換したのであり、むしろ感謝しなければならない」と言ったと書かれてあります。
 次に同年九月にわが国の田中首相と毛沢東との会談のようすが紹介されています。
「毛沢東はニクソンよりも田中との会談のほうがずっと心強く、親しみ深かったと思った。
田中が日本の中国侵略を謝罪しようとしたとき、毛沢東は日本侵略の『助け』があったからこそ
共産党の勝利を可能ならしめ、共産中国と日本の両首脳があいまみえるようになったのだと請けあった。……」
http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2005/0509/hi-se.html

 日本側が「先の戦争では申し訳なかった」といった内容のことを述べると、ケ小平は発言を
さえぎるようにして「われわれは日本軍をそんなに悪く思っていませんよ」と切り出した。
あっけにとられた一行を前にしたケ小平の説明はこうだった。
 「あの戦争が始まる前、われわれは井崗山(せいこうざん)から、長征の途についた。延安に
たどりついたときは気息奄々、靴もちびはて、人数も2万人に減って、全滅寸前でした。ところが
日中戦争が始まり、われわれを包囲していた蒋介石軍は日本軍によって次第に南部に押されていく。
袋のネズミだったわれわれはそれで息を付くことになり、日本軍の後ろに回って、着々と工作を
していった。そして戦争終結時には数百万の正規軍を擁する軍事勢力にのし上がった」
http://www.yorozubp.com/9806/980606.htm
249日本@名無史さん :2011/01/30(日) 20:36:14 ID:4Txsz1cyP
大東亜戦争が残したもの

「世界から軽蔑される愚劣な自虐史観と、その自虐史観を信奉する狂った反日カルト信者たち」

と叫ぶねじの緩んだ自慰史観患者と、未だに大日本帝国の呪縛から逃れられない時代錯誤の評論家
250名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/31(月) 06:19:54 ID:1Of79Ews0
>>240
第一次大戦時の日英間の外交電文のやりとりを読み直せと言われて終わりだな
この程度の基本的な史料さえ読んでいない輩が、学問板で近現代史を語るとは笑止千万

世間知レベルの電波系歴史話は難民板に行ってやってくれ

歴史難民
http://toki.2ch.net/nanminhis/
251名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/31(月) 08:36:39 ID:wCYxYyb30
日英同盟に従って参戦しただけなのに、何が火事泥なの?
252名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/31(月) 09:29:03 ID:1Of79Ews0
>>251
>日英同盟に従って参戦した
やれやれ、低脳君は自分が低脳だってこと自覚できないから低脳なんだな

最初日英同盟を理由にイギリスから日本へ参戦協力の話があったが、日本はイギリスの要請する
地域よりも遙かに広い地域での軍事活動を行うとの返信を行い、それは日本が大戦中のアジア
での権益強化を図るためだとイギリスに看取され、じゃあ参戦しなくていいとイギリスから言われた
のにもかかわらず強引に日英同盟をたてに参戦

で、ドイツが植民地にしている山東半島を中国側に返還するためと称して青島に出兵し、
あっさり占領した後に、ドイツから取り戻してやったんだから山東半島を日本に寄越せと袁世凱
に要求し、ヴェルサイユ会議でドイツ利権の継承を一応認めさせる

また大戦中に袁世凱に21ヵ条突きつけ、中国政府への日本人官吏登用など、韓国保護国化
と同じプロセスを強要し、ロシアから継承した南満州利権(1989年から25年の租借権)を99ヶ年に延長するよう強要

さすがはアジア解放のヒーロー、日本って感じだよなw
253名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/31(月) 17:33:54 ID:OwO40dEkO
だつおのゴミはコピペする暇あるならハロワにいけよ
254名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 00:07:10 ID:OuEhpWDe0
火事場泥棒といえば、ソ連だ。
ソ連の満州侵攻は火事場泥棒以外の何物でもない。

対華21か条の要求など、所詮文書での要求に過ぎない。
袁世凱は呑める要求は呑み、呑めない要求は退けた。
それだけのこと。火事場泥棒呼ばわりは馬鹿の妄言に過ぎない。

これは、あくまで交渉だ。ソ連の蛮行とは次元が違う。

255名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 01:56:25 ID:YT4aVjmO0
露助なんぞ、元々そういう野蛮で品性下劣な人種だ。

だが、日露戦争後の日本は驕り高ぶりが過ぎたのも事実。
256名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 04:18:08 ID:74ckoms50
>>254
あくまで交渉って、最後通牒付きですけど。
257名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 05:49:54 ID:B65Xct9h0
>>254
ドイツの持ってた山東半島を寄越せ、ロシアから継承した満州利権を
期間延長しる、そして中国政府に日本人を雇え

ってのは、さすが欧米による侵略からアジアを解放する正義の味方らしい行動だよなw
258名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 06:20:11 ID:ClhbTjcz0
>>254
はあ?
連合国として参戦したソ連は中国の同盟国だぞ。
ソ連の満州侵攻は、満州の正当なる主権者である中華民国の了承の元、そこを不当に支配していた日本を追い出しただものだが。
その後、満州も中国に返還している。
これのどこが火事場泥棒だ?

せめて、千島樺太にしろや。
あちらも、ポツダム宣言の受諾により、ソ連に占領する権利が生じていたわけだが。

一次大戦の中立国である中国に対し、領土内の軍の通過を認めてもらいながら、ドイツ租借地だけでなく、中国領まで占領し、抗議した中国に対し、武力行使を前提とした最後通告を突きつけて、山東半島の支配権他もろもろを得ようとした日本と一緒にはできない。
しかも元々は青島の中国への返還を口実にドイツに宣戦していたんだから。
259日本@名無史さん :2011/02/01(火) 09:08:32 ID:oonRwaiIP
>>254
私はまた悲しいレスを見なければなりません
勉強不足の自称国粋主義者が
自虐史観を信奉するものたちによって袋だたきにされる姿を

あなたは正直言って、邪魔な存在です
名越ばかり読んでいないで、もっとたくさん読書してください
あなたは「旧帝大卒」を自称していますが
「旧帝大」もずいぶんレベルが落ちたものだと思います

自虐史観を払拭し、人々を正道に立ち戻らせる
力ある愛国者なら、私も及ばずながら応援いたしますが
あなたのようなひとには、いてもらっては困ります
260名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 15:53:40 ID:1NMSgegXO
>>257
ショッカーだって自分達が悪だとは思ってないもんなww
261名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 21:35:53 ID:OuEhpWDe0
>>258
お前が馬鹿であることは周知の事実だが、せめてWIKIPEDIAぐらい読んだらどうだ?
無知丸出しの、恥知らず低能児とはお前のことだ。氏ね、バーカ


日ソ中立条約
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%82%BD%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84

「1941年(昭和16年)に日本とソビエト連邦(ソ連)の間で締結された中立条約。相互不可侵および、
一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、及び、
満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を謳った声明書から成る。有効期間
は5年であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、
自動的に延長されるものとされた(第3条)。」

教えてやろうか。ソ連は、一方的に日ソ中立条約を破棄して、日本に宣戦布告してきたのだ。
日ソ中立条約を一方的に破棄する国際法的な裏付けがない以上、ソ連の行為は、非難に値するもの
であり、火事場泥棒に他ならないのだ。

お前は本当にレベルが低いな。日ソ中立条約に従えば、満州に侵攻するのも立派な条約違反なのだ。
人間のクズには何を言っても無駄だろうが。

ちなみに、ソ連は連合国の一員ではない。勘違いするな、低能!!



262名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 21:37:54 ID:OuEhpWDe0
>>259
はいはい、偽者は引っ込んでな
俺は最近出張が多くて疲れてるんだよ。偽者の相手をしてる暇はない
263名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 21:43:40 ID:B65Xct9h0
>>261
>日ソ中立条約を一方的に破棄する国際法的な裏付けがない以上、ソ連の行為は、非難に値するもの
>であり、火事場泥棒に他ならないのだ。

ははは、で、その「火事場泥棒」を公認したのは英米なんだけどな
対日参戦の見返りに北方領域をくれてやるから、早く参戦しろと

で、有効期間が残っていた条約を無視して参戦しても、世界中でどの国もソ連に抗議しなかったよな
264名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 22:00:40 ID:OuEhpWDe0
>>263
反日主義者や特別永住者からみれば、ソ連参戦ですら正しい行為に見えるだろうな。
しかし、我々日本人から見れば、ソ連の侵攻は条約違反であり法的にも道義的にも
断じて許せるものではない。

一般的に見て、日本人でソ連に好意を持っているやつは一人もいない。
「露助許すまじ」という連中が殆どだ。

お前は、日本に火事場泥棒を働いたならず者国家を擁護するのか?
ならば、お前は日本人ではない。

265名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 22:08:39 ID:jXfkKvoM0
>>252
>じゃあ参戦しなくていいとイギリスから言われた
>のにもかかわらず強引に日英同盟をたてに参戦

「陛下の偉大な国とイギリスとの間の同盟が最大の試練にかけられたのは
陛下の御治世中だったが、陛下と忠励な閣僚は全国民の支持のもとに同盟
の義務を忠実に履行した。逆境にあったわれわれが陛下の国の援助を必要
とした時、われわれの全資源が本国の海岸線や北海、大西洋に集中を余儀
なくされていた時、われわれが太平洋において通商をまもり自治領や同盟国
からの兵員の海上輸送をまもるのに十分な兵力を持たなかった時、陛下の国
は同盟の義務を忠実に解釈し、これらの兵員輸送を護衛し通商をまもってくれた。」

さらに1914年8月11日付けのチャーチルからグレイへの手紙
「貴兄は簡単に(日本人を)傷つけてしまうことはできる。だが(日本人は)
決して忘れない。まだ我々は安全ではないんだ。決してない。嵐はこれから来る。」
http://ww1.m78.com/honbun-2/japans%20participation%20to%20ww1.html 
266名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 22:16:34 ID:jXfkKvoM0
日本の参戦は大きな貢献を連合国とりわけロシアにもたらした。ロシアはトルコの中央同盟側参戦以降、
対外交易窓口を冬期はウラジオストック以外失ってしまった。またロシアは第2次大戦からみると信じがたいが、
1915年以降重砲はおろか小火器、弾薬に不足する事態となった。

日本のロシアへの小銃販売量はなんと98万丁といわれる。ただし輸出が陸軍と
関係のある名称不詳のコミッションブローカーを経ており、不透明さが残る。
小銃の大半は有坂式ボルトアクションライフル(30年式または38式歩兵銃)
で口径が65ミリと小さく、結果として弾薬携行量の増加し、また発射後弾丸
が低伸し命中率の向上がもたらされた。第1次大戦で使用された銃のなかで傑作と評されている。
267名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 22:36:08 ID:HnglqwgaO
>>1

朝鮮人(天皇)に利用され大量に死んだ日本の兵隊
268名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 07:12:40 ID:vuge2w2C0
>>261
満州はそもそも日本のものではないし、占領地域を自分のものにしようとせずに、本来の持ち主に返しているんだから、「泥棒」は成立しないと言ってるんだが。

>日ソ中立条約を一方的に破棄する国際法的な裏付け
君が引用しているウィキペディアに書いてあるだろうが。ちゃんと読めよ。

>ちなみに、ソ連は連合国の一員ではない。勘違いするな、低能!!
はあ? ソ連は連合国だよ。
1942年の連合国共同宣言にも調印している。
脊髄反射で罵倒する前に、ググレや。

論点は把握できない。自分の引用もろくに読まない。自分の思い込みが正しいか書き込む前にググってみようともしない。
そして、短絡的な罵倒・・・
思考回路が根本的に短絡的なんだな。見てて痛々しいよ。
269名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 11:28:17 ID:okK0+P9tP
要するにこのスレは、天皇は神だと信じている時代錯誤荒らしが立てたスレで
しかもそれをウソコピペを貼って荒らす確信犯荒らしが荒らしているだけのスレだな

じゃあ存在意義などどこにもないなw
270名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 17:57:59 ID:7VVhJIDX0
>>269
そんな低能連中が「諸君」とか「正論」とかを愛読し、ネット(の電波コピペ)で
初めて真実を知ったとかって息巻いてるんだよな

反知性主義ってのは情けないよな
271名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 18:22:00 ID:xAfhu8Hd0
>>363
>ははは、で、その「火事場泥棒」を公認したのは英米なんだけどな
>対日参戦の見返りに北方領域をくれてやるから、早く参戦しろと

he was not familiar with the Polish issue
(マーシャル元帥は)ポーランド問題には興味が無かった

they hoped for Soviet participation in the war against Japan at a time
(米軍は)その当時においてソ連の対日参戦を希望していた

GENERAL MARSHALL said he was not familiar with the Polish issue
and its political aspects. He said from the military point of view
the situation in Europe was secure but that they hoped for Soviet
participation in the war against Japan at a time when it would be
useful to us. The Russians had it within their, power to delay their
entry into the Far Eastern war until we had done all the dirty work.
He said the difficulties with the Russians such as in the case of
CROSSWORD usually straightened out. He was inclined to agree with
Mr. Stimson that possibility of a break with Russia was very serious.

Memorandum by Mr. Charles E. Bohlen,
Assistant to the Secretary of State, of a Meeting at the White House
April 23, 1945, 2:00pm
http://teachingamericanhistory.org/library/index.asp?document=909
272名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/03(木) 18:42:28 ID:CAnDXzJtO
でそのコピペに何の意味があるんだい? チンピラゴロツキだつおよお
273名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/03(木) 21:57:29 ID:qxR6Z1Y+0
怪しげな電波コピペに頼らないと、まともに主張もできないおヴァカだからです。
自分の言葉で語れないネトウヨ、哀れなり。
274名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 10:26:40 ID:B13fYWnLO
俺もネトウヨになりてえwwwwwwwwwwwwwww
ラーメン食いながら中国馬鹿にして日本の歴史語りてええええええwwwwwwwwwwwwwww
最後は日本は被害者wwwwwwwwwwwwwww
275名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 12:26:35 ID:Tn7+rRzIP
>>274
簡単だよ
名越の本手に入れて
「大東亜戦争はABCD包囲網に対する自衛戦争だ
アジアの植民地を解放する正義の戦争だ
大日本帝国の政治は民主主義だ
戦後民主主義はアメリカの押しつけた腐った偽物だ」
と、このくらい叫んでいれば、みんなネトウヨと認めてくれる
あとはWGIPとか東京裁判史観とかちりばめていればもう完璧
276名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 12:43:28 ID:jK9dsbd70
日米安保の元平和を享受しつつラーメン食いながら中韓製部品てんこ盛りのPCで
アメリカが構築したインターネットを使い愛国と独立を語る…
277名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 15:13:29 ID:Tn7+rRzIP
ああ、そういえば
ラーメンの起源は1910年日本東京浅草の来々軒
ということにラヲタの間ではなっているそうだ
278日本@名無史さん:2011/02/04(金) 19:54:45 ID:2tmf/uSG0
>>269
天皇陛下を神として崇める日本人はいないであらう。
陛下は、日本の歴史そのものであるという考えは、日本の歴史を鑑みたときには、思い知れる。

 天皇家の存続こそが、日本の歴史の象徴である。世界のどの革命を知ったときに、前政権は革命により、つぶされている。
フランスも然り、ロシアも然り。

 上記革命に対し、恐ろしいくらい古き日本に起きた革命は、鎌倉幕府です。なぜ、頼朝は朝廷の壊滅をしなかったのか?

 其れが我が日本国だからです。

大東亜戦争の本質に言及できるだけの知識は備えていませんが、大東亜戦争は、多くの心を失えし・・結果として。
今読む「昭和の動乱」 重光葵 著 では軍部と政府は別物のように書かれている。ミズーリ号で、「降伏文書」とは知らされず署名した(抵抗する術もなく)日本国代表です。

 私は、あの当時の日本国の総裁は、抱える問題の大きさから、相当の気苦労があると思える。
 自分ができるかと言えば、私はできない。正しいか正しくないかは、結果負けたことが全てであり、当時の先人が間違っていたとは私は決して思わない。

 戦火が広がり多くの戦線で、戦われた先人は、我が日本国の敬うべき方たちです。
 彼らの、日本国を思う気持ちの上で、「今」の日本は存在しうる。

 どんなに時が流れたとしても。

279名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 22:33:08 ID:HqE1iOUM0
>>278
おお、本物の「日本@名無史さん」じゃないか!!久しぶりだな。

今まで、馬鹿な偽者がバレバレの成りすましで、とんだ道化師になっていたが、
やはり、本物は言うことが違うね。

>>268
満州は元々日本の領土でないし、満州国という独立国だ。ソ連は満州国を国家
として承認しており、日ソ中立条約で満州国の領土保全と相互不可侵も約束し
ていた。それが、日本がポツダム宣言を受諾する寸前に、条約を一方的に破棄
して満州国に侵攻した。これはまさしく火事場泥棒だ。

280名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 22:45:29 ID:HqE1iOUM0
他のスレを見てもわかるのだが、馬鹿の特徴を把握した。

馬鹿の特徴1.労働者は虐げられていると、とんでもない勘違いしている。
馬鹿の特徴2.大日本帝国は大嫌いだが、ソ連やシナは大好きで、どんな悪行も徹底的に擁護する。
馬鹿の特徴3.自虐史観に脳を侵された平和ボケ。戦争を知らないのに得意げに平和を語る。
馬鹿の特徴4.保守や自民党が大嫌い
馬鹿の特徴5.気に入らない書き込みをする奴に、例外なく「ネトウヨ」のレッテルを貼る。
馬鹿の特徴6.自由主義史観やナショナリズム、愛国心を敵視している。
馬鹿の特徴7.知識も乏しく、能力も低いのに、得意げに歴史を語り、無知を突っ込まれて滅びる。
馬鹿の特徴8.アジア植民地解放において、大東亜戦争の果たした役割を正しく評価することを死ぬほど恐れる。
馬鹿の特徴9.満州事変も大東亜戦争も侵略戦争ニダと、洗脳されて根拠もなく思い込み、日夜自虐オナニーに励む。
馬鹿の特徴10.日本人としての誇りやプライドが全くない。ただの負け犬。

これらを総合すると、「馬鹿」の正体は愚劣で低能なバカサヨクなんだねw


281名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 22:52:15 ID:HqE1iOUM0
>>280の続き

馬鹿の特徴11.全共闘運動を賛美している。
馬鹿の特徴12.平和憲法を俺たちが守ったから日本は平和なんだ、というとんでもない勘違いをしている。
馬鹿の特徴13.平和憲法、平和憲法と騒ぐが、それを中国や韓国に売り込もうとしない。
馬鹿の特徴14.平和憲法が世界的に見ても、奇異で異常な憲法であることに気づかない。
馬鹿の特徴15.アメリカが与えてくれた平和憲法を愛していて、日本人の手で憲法改正することを死ぬほど嫌う。
馬鹿の特徴16.世間知らず。井の中の蛙。安全保障に関して極端に無知
馬鹿の特徴17.すぐに感情論に走り、現実を見失う。



282名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 22:55:09 ID:6OWVrLGF0
日本だけが特筆すべき悪辣な侵略国家・・・自虐史観 低脳サヨ
常に平和・平等を志す日本が、悪辣な欧米中と崇高な戦を決意・・・自慰史観 低脳ウヨ
国益(資源・経済圏・軍事拠点)を求め、稚拙な行動範囲拡大で窮地に・・・○ 客観的な歴史判断
283名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 22:59:58 ID:HqE1iOUM0
>>282 お前も視野が狭いなw
284名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 23:09:59 ID:6OWVrLGF0
満州国
建前・・・「満州人の独立支援、五族共和」
実態・・・「多くの面で日本人優遇、関東軍の意向に背けない体制」

大東亜戦争
建前・・・「アジア民族を解放し、共に発展」
本音・・・御前会議 「重要地帯は帝国領編入の方針」
     東條英機 「大東亜諸国は対等じゃない。我が国が指導するのみ」
     佐藤賢了 「現地政府は、軍の下部機関と大差ない」
285名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/04(金) 23:52:35 ID:i+NIabjW0
見えないバカサヨクと延々シャドーボクシングを繰り広げる
中卒コピペゴキブリ吉田ww
286名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/07(月) 12:42:59 ID:GUkALiu8P
>>278-279

馬鹿と馬鹿の野合
>>269の言うとおり
このスレには学問的な深みもないし
人格破綻したネトウヨが荒らしているだけ
存在意義など全くない
287名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/07(月) 13:17:06 ID:hI/+b9kC0
>>284
が正しいのよね
288名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/07(月) 16:54:31 ID:GUkALiu8P
>>279
豚が豚と交わって豚になってうれしいか

日本@名無史は単なる道化師
言ってることに内容がない
あるというなら出してみな
それにお前のことを何とも思わず、手もつないでくれないようだが

お前の言う「偽物」の方が、よほどまともなことを言っていたぜw
お前は無礼で低劣で話の通じない馬鹿だと切って捨てていたからな
お前みたいな奴がいる限り、よほどの馬鹿でもなければ
どんな右翼もお前のいるところに書き込みはできない
足を引っ張られるからな「無能な味方」に

>条約を一方的に破棄して満州国に侵攻した。これはまさしく火事場泥棒だ。
1945年(昭和20年)4月5日、翌年期限切れとなる同条約をソ連は延長しないことを日本に通達した。
この時点で「いつ攻め込まれてもおかしくない」と判断できない日本がお人好しなんだよ
それどころか、ソ連に連合国との仲介を依頼しようとまでしている。あきれたもんだ
延長しないのはなぜか、攻め込みたくなったからさ
当時の大日本帝国には、お前レベルの馬鹿しかいなかったから
在留邦人の避難とかいった対策は一切とらず、武器もない「かかしの軍隊」関東軍も
手をこまねいているばかりで、幹部連中だけが、ソ連が攻めてきたら財産もって
逃げる準備をしていたんだよw
ああ、お前の大好きな名越二荒之助も、民間人見捨てて朝鮮半島まで逃げた口だったなあw

それに「火事場泥棒」と言いたいのなら、千島、樺太の方にしとけ
満州は返しちまったんだからなw
289名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/07(月) 18:02:12 ID:/21zVnQs0
>>279
おいおい、日本@名無史からも無視かよ、哀れな奴
普通なら「仲間同士一緒にがんばりましょうね」とか
「力を合わせて自虐史観に打ち勝ちましょうね」とか
挨拶があってしかるべきなのに、友達とも思ってもらえないわけだ

お前は二言目には「日本人の誇り」を口にするが
その実態が何もない
アメリカとガチンコで勝負すると、あっさりひねり潰される日本
資源も、食料生産力もなく、実は貧しい国日本
独創性に欠け、外国からの技術流入がなくなるととたんに進歩の止まる日本
誇りなどと言う言葉がむなしくなる、拝金主義、俗物主義の横行する日本

お前の言う「日本人の誇り」とは何なのか、分かるように説明してみろよ
そんな物ありはしないんだよ
日本人もまた、他の民族と飛び抜けて凄い所なんかない
ホモサピエンスの一種族でしかないんだよ
290日本@名無史さん:2011/02/07(月) 22:02:51 ID:egi2Kh/x0
>>288-289
君たちの日本史の理解は、ほぼ零に近い。

この話に、菅原道真(天神)を取り上げたい。君たちが主張している事の本質は何も見えないが、マスコミ・学校の先生に言われた不毛な意見しかない。
天神は、当時は中央集権を主張し、それに藤原家は反対した。

 中央集権の良し悪しはある。良き悪きは、結果でしか示せない。ただ結果論は正義ではない。
 江戸期に培われた、歴史的日本国の姿が明治維新の力となり、明治期の開放が日本の解脱となり、日露戦争が、中東の勇気となる。

>>289
日本は、アメリカの戦争で、あっさりひねられたわけではない。
どちらが、卑怯だったかは、「今」明らかになっている。

291名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/08(火) 04:10:38 ID:9G4WAHAEO
>>288
え?豚骨?
292名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/08(火) 13:11:35 ID:sevgp3aeP
>>290
あっさりひねられてるじゃないか
敵の空襲で本土は焼け野原
世界第三位を誇った海軍は壊滅し
数千隻の敵艦隊は日本近海を我が物顔で荒らし回り
シーレーンは大量生産されたガトー級にいいように食い破られ
あのまま戦争が続いていれば、児童や女学生が布団爆弾かかえて
敵戦車に突撃していたんだぜ
事実を認めないで、夢に浸っているから右翼は害虫なんだよ

卑怯?
卑怯という言葉は東条英機のような人間に対して使う言葉だぜ
阿南 惟幾は、自分が始めたわけじゃない戦争の敗戦の責任をとって自決した
大西瀧二郎は、自分が始めたわけじゃない特攻を自分のせいだと背負い込んで死んだ
東條は逮捕されるまで生き延びて、数時間放置されても死なない程度の「自殺」を演じた
近衛文麿なんか、文民なのに確実に死ねるように青酸カリを使ったんだぞ
ピストルで確実に死にたければ、銃口を口にくわえて発砲すればいい
延髄を破壊されて、確実に即死だ
そして「生きて虜囚の辱め」を受けた上、敵であったものの手によってくびり殺されている
どこに武人の誇りがあるのだ
東京裁判が茶番劇なら、そこで殺されたもののうち軍人の6人は、まさにピエロだ

アメリカが卑怯だというのはお前の勝手だが
日本はその卑怯者に敗れ去り、侵略者の汚名をすすぐことなく
いまやそのアメリカの子分に成り下がって守ってもらっている
自分をおとしめることになるから、そんなこと言うのは止めた方がいいぜ
「アメリカはまさに雄敵であった」というほうがずっとましだ

俺は菅原道真の話も摂政関白家の話もしていないのに
そんな板違いの話をなぜ持ち出すのか理解できん
お前の知的衰弱のせいだというなら、お前もまた有害な存在だ
これからお前のことは「日本@名無しダニ」と呼ぶことにしよう
ゴキブリとダニで、いいコンビだな

日本史板の連中は、こういう馬鹿どもを隔離できて、ほくそ笑んでるんだろうなw
293日本史板民:2011/02/08(火) 13:51:58 ID:pzF0gPAtO
気違いを徹底的に叩きのめす>>292さんカッコヨス。
でもあまりやり過ぎると、こっちを撤退して日本史板に逃げてくるおそれがあるからほどほどにw
294名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/08(火) 15:38:19 ID:sevgp3aeP
>>290
>君たちの日本史の理解は、ほぼ零に近い。
お前は「最後の海軍大将 井上成美」と
大井 篤の「海上護衛戦」をよく読んでから来い
お前の「太平洋戦争」に対する理解が、ほぼ零に近い。ということが良くわかるはずだ
295日本@名無史さん:2011/02/08(火) 19:36:39 ID:z5lJs20x0
>>292
君は書けば書くほど、無知を暴露していく事となる・・だらう。

結果論としては認めていますよ。君の言い分は。

■東条英機さんについて
卑怯とは、君の歴史感の無さに対しても言えるわけで。
東条英機元首相の卑怯さは、私は言う術はない。苦難の境地にたった先人が決断した事です。
われわれを思い。

■阿南さん・大西さんの自害
 私は阿南さんを由とは思えないけど、大西瀧二郎中将の死と考え方には共感を得る。
君は、自害した事が全ての様に言って見えますが、歴史を知らなさ過ぎます。
 大西瀧二郎中将は、どうして特攻を行うに至りましたか。

 過程こそ大切なのです。そしてその目的こそが。知っているのでしたら書いてください。

>東京裁判が茶番劇なら、そこで殺されたもののうち軍人の6人は、まさにピエロだ
当時の苦難の中戦われた、先人を其処まで批難しなくとも。

 批難するには、当時の国際状況を正確に掴んでいるようで。

 第一次大戦が終わり、国際連盟ができた当時。
 日本が満州事変を起こした当時。
 独逸が、チェコを併合した当時。
 当時の政治状況を解らないのであれば、君たちは同じ道を歩む事となる。

>>294
井上成美の本は読んでいるけど・・・例えば珊瑚海開戦とか・・

太平洋戦争など、我が先人は戦ってはいないけど、太平洋戦争と言われる戦いが、マレー半島・ジャワ島も含まれるのですか?
セイロン島は?

 君が説明できるようなので、ご教授お願いいたします。


 
296日本@名無史さん:2011/02/08(火) 20:16:50 ID:z5lJs20x0
 この国に於ける左の方たちに対し不思議な思いがある。
日本国に対し、有りもしない南京大虐殺や、従軍慰安婦成る主張をする人たちは、
一方アメリカの、イラク・アフガンの人権侵害には口を閉ざす。アメリカの歴史を知っているのでしょうか。

 第二次大戦前、陸軍は欧州への留学後は、アメリカへ行く通例と成っていた。之を推奨したのは、A級戦犯である武藤章さんで、彼は、

 「アメリカは全て新しい」と言った。
 全てが新しい・・・とは。

 自由主義であるアメリカと言う国は、自由をどんな形で成し得たか。
 我が、日本国では自由とはわがままと翻訳できる。私の私訳ですが。
 人とは、誰一人自由でなく、其の国のルールの中生きているものだと思う。

 人には自由は無く、人には規律かある事が日本人の心にあると思う。

 規律とは、個人の中に芽生えてこそ、規律たる根幹を成す。
 日本人の規律とは・・・
297名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/08(火) 21:38:32 ID:Zp3R9J5d0
>>295
海軍は「太平洋戦争」と呼ぶことを主張したし
今現在通用する呼称も「太平洋戦争」だ
それにこの戦争の激戦は、ほとんど太平洋で行われた
インド洋での戦いなど例外的な物に過ぎない

>君は書けば書くほど、無知を暴露していく事となる・・だらう。
そっくりそのまま、お前に返してやる
「海上護衛戦」「連合艦隊の最後」ぐらいは読んでおけ
そのぶんだと「戦艦大和の最期」も読んでないだろう

あいかわらず言葉が通じない奴だな
当時の人間の肩を持っているのか?
「同じ道を歩む事となる。」と批判しているのか?
はっきりしろ

お前は「特攻」というものを、誰が始めたのか知らないようだな
それでは大西瀧治郎の遺書や辞世の句の意味など、真に理解できないはずだ
それだけで史学板にいる資格はないぞ
何度でも言うが、情緒だけで物を語るな
そういうことがしたいのなら、極東板にお行きなさい
298名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/08(火) 21:55:19 ID:sevgp3aeP
>>296
>有りもしない南京大虐殺や、従軍慰安婦
ありもしないかどうかを検証するのが学問板だ
断定するな、ココは右翼板ではない

>我が、日本国では自由とはわがままと翻訳できる。私の私訳ですが。
とんでもない誤訳だな。頭大丈夫か
それこそものすごい数の先人の努力の末、獲得されたものなんだがな
「戦争に反対する自由のなかった国」と「戦争に反対する自由のあった国」
「人命を使い捨てにした国」と「人命を可能な限り救おうとした国」
「死んで帰ることが名誉だった国」と「生きて帰ることが名誉だった国」
勝ったのはどっちだ?
299日本@名無史さん:2011/02/08(火) 21:57:49 ID:z5lJs20x0
>>297
 海軍?は解らないが政府一部も太平洋戦争と称している。
そんな事はどうでも良い。

>ほとんど太平洋で行われた
ではどんな戦いが行われた。知っていないようなので・・

君には、「戦艦大和の最期」の結論を語ってください。
「戦艦大和の最後」は有名ですが、当時の搭乗員を全て記載した書物があります。君は知らないことでしょう。

>>297
解らないのか?君たちのような人が、同じような道を進むと言っているのですよ。
先人の功績を認めず、批難だけに明け暮れ歴史の本質を知らない輩が、平和と言えば平和がくると信じていく危険を指摘しているだけ。

特攻と言うのは始めは諸説あることは知っているのでしょう。大西瀧次郎が始めた事ではない。

中将の辞世の句の意味は、混乱たる日本の若者に対する自省の書である。
中将の特攻の意思は、天皇と日本国民と将来への願いである。

 君はどう思う。何なら、全文載せてどちらが意図を深く理解しているか説いてみようか?

300日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:03:42 ID:z5lJs20x0
>>298
だから〜。
有った事を証明してください。>>298
右翼とか、左翼とかでなく、事実を語るべきでは。

事実かどうか解らない事を、声高に主張したのなら、事実である事を証明すべきだろ。

>勝ったのはどっちだ?
だから〜結果論での話に私は、疑問を抱いているのですよ。其れと自由に対する考え方は違う話では?
自由とは何なのですか。目的のために人が目指す事は、生きていくうえの糧です。

301名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/08(火) 22:21:09 ID:rJSrmjXp0
ID:z5lJs20x0


この人の日本語ムチャクチャ過ぎて何が言いたいのかさっぱり分かんない。
軽い池沼?
302日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:22:26 ID:z5lJs20x0
 結局、左翼とは、人の批難で終わるいい例です。
303名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/08(火) 22:24:21 ID:rDyngYmC0

大東亜戦争を嫌い、大日本帝国を嫌う連中は、概してアメリカやイギリスの
事情に非常に疎い。日本だけが幼稚でお粗末、アメリカは父なる大国という、
とんでもない勘違いをしている馬鹿が多すぎるのだ。実際には、お互いが
国益をかけて熾烈な外交交渉を続けていた。

日本にも主張があったのは当然であり、だが、アメリカにも欧州大戦参戦という
大目標があった。日本はアメリカに利用され、アメリカはソ連に踊らされた。

そのソ連も今崩壊して跡形もない。シナも共産主義を捨てた。歴史の流れを見渡せば
誰が勝者、誰が敗者というわけでもなく、誰が善、誰が悪、というわけでもない。

ましてや、誰が幼稚、誰が狡猾という訳でもない。

ただ、ひとつだけ世界共通の真実がある。それは、先祖を大切にし、伝統を大切にし、
歴史を大切にする。これが、世界標準。日本の自虐史観は世界標準からかけ離れた
蛸壺史観であって、世界から馬鹿にされているのである。

歴史や先人を大事にしない自虐史観論者は、世界中の笑いものなのだ。


304日本@名無史さん:2011/02/08(火) 22:37:27 ID:z5lJs20x0
 >>303
>歴史や先人を大事にしない自虐史観論者は、世界中の笑いものなのだ。
 歴史伝統は、各国家の独自の物であり、他国に侵されざるべき事である。君の様な思いが、広く「今」の日本人に・・・遠くない事だと思いたい。

 一つだけ、シナは共産主義では?経済は資本主義(自由貿易)だけど。
305名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/08(火) 22:59:18 ID:6YPZn9WM0
戦前批判者も、別に欧米列強が善とは言ってないがな。
日本の戦前が、自国を危める肯定しがたい行動を取ったので、批判されて当然なだけ。

まず、満州事変の当事者は厳罰に処するべきだった。
それをしないから、「ルール破っても結果良ければOK」な意識を生じさせる。
調子に乗った関東軍は、華北などにもちょっかい出す様になり、軋轢から泥沼の抗争に向かう。
306名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/09(水) 00:51:46 ID:0ZwP4aAH0
つまり満州事変のときに陸軍大臣だった南次郎が悪いって事か?
あと首相の若槻と
307名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/09(水) 10:22:44 ID:v6iNInuGP
>>299
お前が特攻の真相について何も知らないのはわかった
すでに歴史家の間では明らかになっていることだ
それに関する記事はちまたにあふれているので、自分で読め

なんでもかんでも左に見えるのは、お前が右の端っこに立っているからだ。自覚しろ

あと、お前とは正常な対話が成り立たないことも良くわかった
学問板ではゴキブリとトントンのダニ野郎だ、消えろ

>>303
やあ、ゴキブリ野郎、お前も害虫だ
今の国際関係が、サンフランシスコ講和条約を基盤にしていることを無視して
>日本の自虐史観は世界標準からかけ離れた
>蛸壺史観であって、世界から馬鹿にされているのである。
なら「世界から馬鹿にされた」事実を示してもらおうか
いつ、世界が大日本帝国の残虐性と好戦性を賛嘆したのかねw
やはりお前も害虫だ、消えろゴキブリ
308名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/09(水) 10:29:59 ID:v6iNInuGP
>>300
今議論中の事象に対して、一方の結論で断定するなと言ったんだ
日本語の語意もくめないで、何が伝統だ

>>304
>歴史伝統は、各国家の独自の物であり、他国に侵されざるべき事である
そんなことはない、現に日本においても稲作文化に始まり
外国から流入されて伝統的になったものなどいくらでもある
お前はチョンマゲでも結って、和服で生活してるとでも言うのか
見てみたいものだ
309名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/10(木) 21:44:33 ID:2xNpRnGT0
よう、日本@名無ダニ
明日はお前にとって特別な避難だろ
ちゃんとちょんまげ結って、裃紋付き袴を着て
カラオケ行って「きげんぶし」でも歌ってこいよ
あ、カラオケにはない?そりゃ残念w

天照大神だかファイブスターストーリーのアマテラスの命だかの孫の
カレンじゃなくてニニギノミコトが天から落ちて降臨して
高千穂の頂に頭から落ちて逆さに突き刺さった記念の日だろ
そりゃお前にとっては重大な日だな、せいぜい古式ゆかしく祝うが良い

俺はそんな与太話、頭から信じてないから大人の対応をさせて貰うがな
こういうことを言っても不敬罪に問われないとは良い世の中だ
戦後民主主義万歳、ってところだな
310名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 02:59:38 ID:dkLPKxz5O
ばんざ〜いwwwwwwwwwwwwwww
311名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 15:44:00 ID:yRU8INfHO
祝日だから、ちゃんと国旗も掲揚しなきゃね。
ぁ、大雪でムリか。残念w
312名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/13(日) 21:52:58 ID:PftX2xvX0

★馬鹿の主張

大日本帝国は大嫌い。どんな小さな悪行も許せない。
満州事変から大東亜戦争にいたるまで、すべて大日本帝国が悪い。

ソ連は大好き。日ソ中立条約の一方的破棄は間違ってない、
満州侵攻も、ソ連の侵略に備えなかった大日本帝国が悪い。
ソ連は火事場泥棒ではない。シベリア強制連行も正しい。


売国奴、もしくは特別永住豚の狂った妄想ですなw


313名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 07:39:42 ID:TedHVJW2O
んな奴おらんやろwwwwwwwwwwwwwww
314名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 11:58:26 ID:Qkh6q1rXO
好きとか嫌いとか正しいとか悪とか、単純な二元論でしか物事を考えられない、馬鹿というより池沼=>>312
315名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 14:54:31 ID:dkQdQvGDP
皆様にお願い

このスレは
大東亜戦争はだいたいこんな感じでいいの?6
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1295184568/
の重複スレです

しかし今削除整理板に、日本近代史板スレッド削除がありません
仕方がありませんので、これ以後は「埋め」とだけレスして
このスレを終了させてください
よろしくおねがいします
316名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 09:28:51 ID:G/nvTvagP
埋め
317日本@名無史さん:2011/02/16(水) 20:52:13 ID:btJNZ2CZ0
 このスレは、大東亜戦争の戦線を主眼としたスレである。

 趣旨が違う別スレから干渉される・・・ある意味歴史を語っているような。

 大東亜戦争の歴史的背景と、当時の戦線を時の会談・戦線を照らしあわさないと明確にできない。
 其れにもまし、大東亜戦争開戦にいたる決意は重大なる事実である。

 あっちのスレとこことは趣旨がまったく違う。

 
318名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 21:06:50 ID:EJ5OA9RR0
趣旨は全く同じなので、重複スレと見なし、埋める

埋め
319日本@名無史さん:2011/02/16(水) 21:09:17 ID:btJNZ2CZ0
 例えば、以前に書いたように真珠湾攻撃の飯田さんの自爆がある。
戦争を憂い自爆・・自らの命を亡き者にしている。

 哨戒をした兵士が、哨戒した地区に隊員を導くために燃料もなくまま、その後自爆する。

 自分のできる事の限界まで見極め、自分のためではなく、公のために死を選ばれた先人がいるわが国は、せめて日本国民が、心の底から感謝すべきでは。
 餓島と呼ばれたガダルカナル・・・多くの先人が遠き南の島で飢え死にしている。
 悲しきかな、「今」そんな先人は、時の流れの中埋もれていく。

 彼らは、間違いなく後世に生きている「今」の我々を守る事は思い下さった方たちであったはずなのに。

 大東亜戦争の、当時の意識を知った上で、意見を求めている。
 当時の世界情勢を正当に判断できる状況に成ってきている。

  創始改名が悪なのか?その歴史背景はどうなのか。
 歴史とは、いつしか真実を伝えるものだと信じたい。

 彩帆香取神社でいつしかまた、提灯行列の仄かの明かで祝う祭りのように。

  
320名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 21:10:38 ID:EJ5OA9RR0
埋め
321名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 21:16:50 ID:EJ5OA9RR0
右翼は滅びるのみ、時計の針は逆転しない。埋め
322名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 21:24:14 ID:EJ5OA9RR0
埋め
323名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 21:25:54 ID:EJ5OA9RR0
埋め
324名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 22:24:14 ID:tgFgYYUY0
大東亜戦争とは「今」何を残したと思う?

答え「自虐にもだえ喜ぶ変質バカサヨク」「自虐オナニーにふける狂った負け犬」
  「日本人になりすます税金泥棒・社会のダニ=特別永住者」 
325名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 22:39:34 ID:tgFgYYUY0
ID:G/nvTvagP
ID:EJ5OA9RR0

こいつらは、議論で完全に論破され、泣きながらスレを埋める惨めなバカサヨクなのだ。
やーい、負け犬。ざまあみろ。無知な馬鹿は歴史板から消えろ、低能!

おっと、頭の悪い特別永住者かもしれないね。



326名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 10:10:45 ID:eUzPmgHuP
>>325
名越の捏造コピペを貼るだけが能の、権威論証荒らしがよく言う
満州スレで100回も論破されて、逃げ回っていたゴキブリ哀れ
根拠のない罵倒を繰り返しても「中卒携帯オヤジ」とこの板で
呼ばれている負け豚はお前の方だ

ざまあみろ。埋め
327名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 11:25:49 ID:eUzPmgHuP
報告
このたび中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田が
中卒携帯無職コピペゴキブリ金沢に改名いたしましたので、お知らせします

埋め

328名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 11:30:15 ID:eUzPmgHuP
埋め
329名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 12:24:52 ID:gRLgO6w8O
池沼コピペ魔の巣埋め立て
330名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 16:02:36 ID:eUzPmgHuP
埋め
331名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 17:19:22 ID:v/9GlWZg0
332名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 21:17:26 ID:GIPIXX4c0
埋め
333名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 22:33:57 ID:gRLgO6w8O
宇女
334名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 11:12:08 ID:hr26lWDqP
埋め
335名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 15:55:58 ID:hr26lWDqP
>>317
>このスレは、大東亜戦争の戦線を主眼としたスレである。
君自身がそういうレスや話題ふりをしてないし
そういう話題は下記のスレでも可能なので却下
このスレが別になければならないという理由はどこにもない

皆様にお願い

このスレは
大東亜戦争はだいたいこんな感じでいいの?6
(p)http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1295184568/
の重複スレです

しかし今削除整理板に、日本近代史板スレッド削除がありません
仕方がありませんので、これ以後は「埋め」とだけレスして
このスレを終了させてください
よろしくおねがいします
336名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 15:57:55 ID:hr26lWDqP
埋め
337名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 16:45:28 ID:i+iMSySn0
埋め
338名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 17:03:34 ID:hr26lWDqP
埋め
339日本@名無史さん:2011/02/18(金) 20:08:32 ID:/5WJ00Oa0
ここまでいやがらせをするのかな〜。
戦線の話と、大東亜戦争は、少なからずアジアの地域には影響を与えている。
其れは、祖国日本を思い戦ってくださった先人の功績だと思う。

 日本は、大東亜戦争時の方が、尊敬されていると思う。
 今の日本国は尊敬される国家で有るとは思わない。
 先人に対し、私は情けない思いです。

 物資も無い供給も無く、南洋の島々でなくならわれた先人と、物資は豊富でしかし、其の物資は海外からの供給で。

 餓死する日本人は今は少ないけど、餓島と言われたガダルカナルでは多くの先人は餓死している。
 彼らは餓死するために戦ったわけでなく、日本国民を守り給えるために戦ったに過ぎない。

 多くの日本人が眠る南太平洋には、今なお。
 
340名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 20:22:04 ID:iSfHaszf0
>>339
だから「戦線の話」をきちんとしてみろよ
ココはお前の日記帳じゃないんだよ
「歴史的事実を学問的に追究」してみろよな
お前のやってることは寝言でしかないんだよ

今の日本人が情けない?じゃあお前はどう生きるんだよ
どういう人生が立派なんだよ
もっともそういうことをやるのは、完全に板違いなんだがな

だからお前は嫌われてるの、しっかり自分の姿を鏡で見て見ろ
そして受け入れられるよう努力しろ、完全にお前が悪い。反省しろ

埋め
341名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 20:25:32 ID:i+iMSySn0
日本語もまともに書けない池沼爺の巣埋め立て
342名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 20:31:45 ID:hr26lWDqP
>>339
お前、仕事場でも邪魔者扱いだろ
要求されることがきちんとできないんだからな

焼け野原になった日本から、何も持たずに立ち上がった人たちが
どれだけの汗を流し、涙を流して今の日本を作ったと思ってるんだ
壮絶な戦いは、戦後にもあるんだ
今の日本人だって、経済がこれだけ厳しい中
必死になって働いているんだぞ

それを「情けない」と平気で言えるお前はニートか?自宅警備員か?引きこもりか?

寝言は寝てから言え。此所は何をする板だかよく考えろ
嫌がらせをしているのはお前の方だ
343日本@名無史さん:2011/02/18(金) 20:32:50 ID:/5WJ00Oa0
>>340
あのな〜
大東亜戦争の知っていること書けない君と何を議論しろと言うのか?

当時の話で書いてください。あっちにも書きましたから。
344日本@名無史さん:2011/02/18(金) 20:35:54 ID:/5WJ00Oa0
>>342
だから〜。
戦後の話はまだしていないでしょうが。

戦時中の日本の有り方と戦時中の軍人はあり方は大きくは間違いじゃない話をしている。私は何度も事象を沿えて。
君たちが、意味不明な茶々を入れている。

あっちにした質問に答えてくださいな。
345名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 20:36:26 ID:iSfHaszf0
>>343
いいから逃げるな、俺の聞いたことにきちんと答えろ

埋め
346日本@名無史さん:2011/02/18(金) 20:37:20 ID:/5WJ00Oa0
>>345
ごめん。君の質問もう一度書いてくれ。
347名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 20:41:18 ID:hr26lWDqP
>>344
>何度も事象を沿えて
日本語になってないから認否不能だが
「事象」とやらは、お前は一度も示していない

それに戦後について言及したのはお前が先だ
「(今の日本人は)情けないと思う」と言ったじゃないか

>意味不明な茶々
それはそっくりそのままお前のことだ。失せろ

埋め
348名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 20:43:34 ID:iSfHaszf0
>>346
今の日本人が情けない?じゃあお前はどう生きるんだよ
どういう人生が立派なんだよ

ほら、ちゃんと答えろ
飢えから目線で立派なことを言ったんだから
さぞかし立派な人生を、お前は生きているんだろう
きちんと示せ

埋め
349日本@名無史さん:2011/02/18(金) 20:44:35 ID:/5WJ00Oa0
ごめん、君の言っている事とこのスレの趣旨と外れていないか?

君に失せろとは私は言いませんが、書いていることは支離滅裂です。

こんな事を書くために来ているわけでない。

カイロ会談とか、カサブランカ会談とか、C号作戦とか貴方か知っている戦線を書いてくださるほうが有意義です。
350名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 20:44:56 ID:iSfHaszf0
×飢えから
○上から

埋め
351日本@名無史さん:2011/02/18(金) 20:48:26 ID:/5WJ00Oa0
インドとEPAをついこの間結んだ。
管政権のささやかな功績かも知れない。

インドの国会では、中央にある人の写真が掲げられていると言う。
岡倉天心ゆかりの人といえばわかると思いますが。

歴史の話に戻したい。
352名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 20:49:05 ID:iSfHaszf0
>>349
とことん認否不能な男だな
俺が支離滅裂ならばお前が正常化しろよ

カイロ会談、カサブランカ会談、それは「戦線」じゃないじゃないか
C号作戦? お前が知っていることをお前が語ればいいことだろう

とにかく、今の日本人を「情けない」と言った責任はとれよ
お前の考える立派な生き方を説明しろ
353名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 20:49:58 ID:iSfHaszf0
ああ、逃げたんだな
じゃあそのまま出てくるな

埋め
354日本@名無史さん:2011/02/18(金) 20:56:18 ID:/5WJ00Oa0
 情けないと思わないのか?

 管政権は立派だと思うのであれば立派だと言うこと証明してください。

 私は立派な人間ではありません。ただ、日本史の勉強はしています。
 どんな古代を歩み、どんな中世を歩み、どんな近代を歩み、どんな現世を歩み。

 この歴史を見たときに、情けないと思う気持ちは私にはある。

 今の日本人は情けない。もちろん私も含んでいる。

 人を攻めるだけせめて、自分と日本国の歩みを知らない輩が多すぎる事が情けないのであらう。

 君に自戒の念を説いているのです。
355日本@名無史さん:2011/02/18(金) 21:14:33 ID:/5WJ00Oa0
>>352
外交と戦争は、共に戦線です。外交の武器は国力です。
大東亜戦争開始前、外交交渉は日本国政府は行っている。ただその方法に若干の問題があったかもしれない。

大東亜戦争は、雌雄を決する戦いです。ただ其の方法に若干の問題があったかもしれない。
ただ、戦われた先人に何の罪があるのだろうか?靖国に眠られる先人の魂を誰がお祈り捧げる事ができるのであろうか。

わが日本国に残された、私だけである。
私が生きていることは、先人が生きた証であり、私が生きながらえている事は、大東亜戦争を戦われた先人がいたからこそであります。

 日出る国の天子は、遠き昔「平安時代」に武力を放棄したにも関わらず、「今」の日本国の元首であられる。
 それは、日本と言う歴史が奏でた結果である。

 日本とは尊き伝統を持ち備えた、尊い国である。
356日本@名無史さん:2011/02/18(金) 21:26:29 ID:/5WJ00Oa0
すいません。
私の独りよがりな言い方で、すいません。

わが日本国に残された、私たちだけである。
私たちが生きていることは、先人が生きた証であり、私たちが生きながらえている事は、大東亜戦争を戦われた先人がいたからこそであり
哨戒に行った兵士は、哨戒の任務真っ当の為に、攻撃機を引きつれ、その後燃料なきまま自爆する。

日本人とはそういうものです。自分の責務を全うし、自分のできうるだけで全力で、できる事を全うする。

美しきかな儚し国民性が、日本人であらう。
357名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 21:38:18 ID:UsH+c1pN0
>>355
確かにそうだな。結果的に大東亜戦争という重大局面になったが、これも、
世界史的に見れば極めて意義のある戦いではあった。戦争をしないに越した
ことは無かったが、植民地解放、西欧植民地主義の破壊という偉大な成果も
収めており、戦勝国は日本だったと言っても過言ではない。

大日本帝国を忌み嫌い、大東亜戦争を否定するのは、植民地主義を肯定し、
人種差別主義を肯定するに等しい。我々の先祖は、そういう戦争を戦ったのだ。

358日本@名無史さん:2011/02/18(金) 21:45:58 ID:/5WJ00Oa0
>>355
 君の意見はもっともだと思う。

 我が大日本国帝国は、第一次大戦後のパリ講和条約で人種差別撤廃を主張した最初の国家である。
 何ゆえ、侵略国家とされなけ成らないのか。

 我が先人は勇気ある世界の英雄であるべき存在である。

 歴史的見地から証明されるべき事実である。

359名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 21:50:49 ID:i+iMSySn0
>>358
自分にレスして自作自演しちゃって、頭おかしいの?
360名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 23:53:40 ID:OSGhO6r70
>>359
いや本人は大真面目。脳みそに複数人格が発生する病気があるんだよ。
361名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 00:56:54 ID:Z0HBa9GfO
自演失敗したバカウヨ顔面ブルーレィWWW
362名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 05:10:51 ID:hxb3A6ge0
>339
> 日本は、大東亜戦争時の方が、尊敬されていると思う。

バカなの?
363名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 15:22:48 ID:uSTq6JGo0
皆様にお願い

このスレは
大東亜戦争はだいたいこんな感じでいいの?6
(p)http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1295184568/
の重複スレです

しかし今削除整理板に、日本近代史板スレッド削除がありません
仕方がありませんので、これ以後は「埋め」とだけレスして
このスレを終了させてください
よろしくおねがいします
364名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 15:23:32 ID:uSTq6JGo0
埋め
365名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 15:24:15 ID:uSTq6JGo0
埋め
366名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 15:25:44 ID:uSTq6JGo0
埋め
367名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 15:37:05 ID:hH2SE/4W0
埋め
368名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 15:48:20 ID:LPeROl3UP
埋め
369名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 16:44:30 ID:M1NpTOqE0
埋め
370名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 17:14:42 ID:hH2SE/4W0
埋め
371日本@名無史さん:2011/02/19(土) 20:10:06.29 ID:viVewrob0
 相変わらず・・・。まあどうでも良い。
 大東亜戦争の結果今生きている日本人である事の意義を話したい。

 日本史という稀なる歴史を持った国に生まれ、日本国の為に立ち上がった戦いが過去にあった。
時代が変わり、戦争と言う概念が日本人の意識から離れ、いつしか過去の戦争は悪だと罵る。

 先人がしたことを、冷静に分析し、先人の思いを感じ得ないのであれば、国家の根幹を揺るがしかねない。

 これからは、国家と言う感覚は、人にはなくなり、グローバルな世界政府見たいな事を、ホリエモンは言っていたが、間違いなく違うと私は思う。
 彼は、自分が思う理想は全てだと勘違いして見える。

 アジアにはアジアの風土と歴史があり、欧州には欧州の歴史がある。バルト海には其の歴史があり、東南アジアにも歴史がある。
 人の幸せとは、誰かが決め付けるとでなく、各民族の権利である。権利を剥奪した時代があった事実がある。
 日本は、委任統治領となった南洋諸島で、当時感染症の予防接種を行っている。併合した諸国に大学を作り、インフラ整備をし。
 仏印事では、原住民を取り締まるための留置所を作りまくった。

 我が日本国が、創始改名(朝鮮人からの要望・中国人に間違われると、中国人の軍閥に殺されろ当時の中国情勢から)
 併合(朝鮮人からの要望・国内治安を維持できない)

 当時の正確な証言とは、近隣諸国から出る事は間違いなくない。

 ただ、我が日本国先人は、真摯に彼らを保護した事実もある。
 
372名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 20:57:12.07 ID:hH2SE/4W0
埋め
373名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 21:00:27.59 ID:uSTq6JGo0
埋め
374名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 21:03:21.86 ID:nPsVPB3VO
埋め
375名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 21:23:21.88 ID:uSTq6JGo0
埋め
376名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 21:30:19.30 ID:uSTq6JGo0
埋め
377名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 21:34:52.98 ID:hH2SE/4W0
埋め
378名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/20(日) 12:11:23.68 ID:clcpET5aP
埋め
379名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/20(日) 12:25:54.09 ID:clOGR6De0
埋め
380名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/20(日) 12:53:28.88 ID:clOGR6De0
埋め
381名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/20(日) 15:58:58.87 ID:clOGR6De0
埋め
382日本@名無史さん:2011/02/20(日) 21:17:29.52 ID:5s9npzvV0
我が日本国の先人は、間違いなく、国家を少なからず意識し、国家が有り得る現実を見据えている。

 個人とは、何か?
 自由とは、何か?

 人とは、何らかの心の支えがなければならない。

 自由とは何か。私の自由とは。古き日本ではわがままと言う。
 古き日本では、既に自由がなかったのか?
 そうではなく、頼るべき君主が居たから。
 アフリカ・中東で起こっている、マスメディアが言う民主化運動。

 本当に、民主化か?日本のマスメディアは民主化の根本を知らないのであらう。

 大東亜戦争は、民を主とすべき。
 結果、民が主となる。

 日本には、敗者を尊む伝統があったが、敗者を憎む悪しき考えが刷り込まれた。

 敗者を敬う、日本国の伝統は何処にも受け入れられない・・・事はないと信じたい。

383名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/20(日) 21:30:32.40 ID:2Xb+f2F10
埋め
384名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/20(日) 22:07:21.90 ID:clOGR6De0
皆様にお願い

このスレは
大東亜戦争はだいたいこんな感じでいいの?6
(p)http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1295184568/
の重複スレです

しかし今削除整理板に、日本近代史板スレッド削除がありません
仕方がありませんので、これ以後は「埋め」とだけレスして
このスレを終了させてください
よろしくおねがいします
385名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/20(日) 22:08:10.68 ID:clOGR6De0
埋め
386名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/20(日) 22:09:48.92 ID:clOGR6De0
埋め
387名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 00:30:35.62 ID:ynk0smMW0
@「大東亜戦争はだいたいこんな感じでいいの?6」
A「大東亜戦争とは「今」何を残したと思う。 弐号」

この二つのスレタイトルを見ると、全く重複していない。@は大東亜戦争は何かと問いかけ、
Aは大東亜戦争が後世に残したものを問いかけている。

ま、小学生レベルの国語力さえ無いの低能児ID:clOGR6De0には全く同じにみえるだろうが。

こいつ、満州事変スレでも暴れてたな。
論破されたのがそんなに悔しいのか?ざまあみろ。
そして貴様はこれからも論破され続ける運命なのだ。

泣きながら埋めるとは惨めなものだ、はっはっは、バーカ

388名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 01:58:27.84 ID:/abN82M40
>>371
>併合 朝鮮人からの要望

併合前から、外交権や内政権を剥奪したり、抗日運動を押さえたりしてたし。
向こうの併合嘆願の前から、こちらで併合方針も決めてたし。

>>382
>日本には、敗者を尊む伝統があったが、敗者を憎む悪しき考えが刷り込まれた。

ウヨが大好きな靖国神社か。
幕府に殉じた会津を、未だに賊軍扱いで区別してるな。
幕末に尊皇の先駆者となった水戸藩でも、敗者に対し凄惨な報復合戦。

まあ低レベルな歴史認識とポエムのスレ主に、何を言っても無駄だが。
このスレも無駄。
389名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 10:27:57.41 ID:5jlb4keaP
埋め
390駆楚洲連梅子:2011/02/21(月) 10:30:47.75 ID:JM6Y9IJhO
391名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 10:45:52.29 ID:5jlb4keaP
ここでできる話題は、向こうのスレでも十分できる
よってここは重複

埋め
392名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 11:49:42.64 ID:5jlb4keaP
埋め
393名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 16:40:04.23 ID:5jlb4keaP
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394日本@名無史さん:2011/02/21(月) 20:53:43.09 ID:o3TQPU0m0
来ないでくれと言っても来るわけで。
あっちに、いくつもりは無いけど・・

 ここは、大東亜戦争が成し得た意義と、結果として残した物を語りたい。

 以前にも書いて重複ですが、NHKが放映した「映像の世紀」で見た特攻の映像を見たときに、なんとも言いがたい悔しさを感じた。
 我が日本国の先人が対空砲火の嵐の中を突き進んでくるその映像は、紳士たる彼の意思を感じえた。

 知らなければならない気持ちは、今に至るのだけれども、大東亜戦争は、日本人がなすべき宿命であった。時の世界情勢や時の国内情勢や。

 人は、何の為に生きている。人は何故生きている。私は、日本国の歴史と生い立ちの中生きている。

今、北阿で内乱が盛んになっている。其れを民主化とのたまうマスメディア。
北阿とは第二次世界大戦で、どんな状況だったのかを、彼らは知らない。
395日本@名無史さん:2011/02/21(月) 21:16:41.75 ID:o3TQPU0m0
 例えば、世界政府の様な世界的寛容さが世界の幸せなのか?

 株の取引が悪だとは言わないけど、日本人の心の奥底には欺瞞を感じていると思う。
 金を儲ける事と、信義を尽くす事と。江戸時代は忠義が最高の価値観である。
 価値とは人が生きる指針である。

 経済大国とは、国家として大した問題でなく、人の志こそが国家の宝である。

 大東亜戦争とは、そんな気持ちを私に残してくれた。東条閣下の凛とした態度を見るに当たり。
396名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 21:38:50.17 ID:937WO9gZ0
要するにお前は戦争キチガイだと自分で言ったわけだ

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397名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 21:40:17.87 ID:937WO9gZ0
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398名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 21:42:37.54 ID:937WO9gZ0
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399名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 21:48:26.70 ID:0GpSSkZk0
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400名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/22(火) 01:49:51.06 ID:ERWT5Ol50
> 大東亜戦争とは、そんな気持ちを私に残してくれた。東条閣下の凛とした態度を見るに当たり。

部下には「捕虜になる前に死ね」って言っておきながら
自分は怖くて狂言自殺

ヒデキでーす!
401体育教師:2011/02/22(火) 04:59:36.20 ID:BV8dYOGVO
茶化すな菊池ー!!!
402名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/22(火) 10:10:11.12 ID:7Oyo/m0kP
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403名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/23(水) 12:43:19.05 ID:p9y91C99P
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404名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/23(水) 12:58:07.41 ID:p9y91C99P
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405名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/23(水) 12:59:57.87 ID:p9y91C99P
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406日本@名無史さん:2011/02/23(水) 21:10:20.69 ID:vBZDjOGo0
例えば、占領時、マッカーサーが言った言葉に、日本に、自由と正義と寛容を与えたい。
其の裏でやった事は、ご存知の方が多いと思う。この言葉をどう思うかが「今」の日本国民に問いたい。

>>400
東条閣下は、立派な方です。日本国の当時状況下での真摯なる決断をした方です。
彼の灰が海に捨てられた事実は、私はいき道理を覚えます。

 日本国のために散った、特攻隊員の気持ちと、其れを主催したと言われる大西中将の死は、私は大切にしたいし、日本民族の誇りとしたい。

 まあ、下らない、輩に・・・妨害されようとも。l

 先人は立派である。
407名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/23(水) 23:51:32.46 ID:iARIrdyO0
死ぬのが怖いので撃ったフリだけしてなんちゃって自決!
部下は自殺させても自分は死にませ〜〜〜ん!
ヒデキでーす!
408名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 00:47:31.91 ID:kYIPRN7R0
先人は本当に立派であると思います。
我々も未来の日本人の為にこの身を尽くさねばならないと思います。
409名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 00:51:29.01 ID:GQ8OTul40

自虐オナニーに励む、グロテスクな変質者を大量生産した。

こいつらには日本人の誇りは皆無。大東亜戦争の真実を語ると脊髄反射で
「侵略戦争を賛美するな!!」という大嘘を大合唱するキチガイなのである。

それでも大東亜戦争の真実を語り続けると、目を閉じ耳を塞ぎながら、大声
で喚き散らし、時には殴りかかって実力で言論を弾圧する。バカサヨとは、
非常に気味の悪いカルトなのである。

410名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 01:00:37.30 ID:GQ8OTul40

自虐史観の経典は「東京裁判」であり、自虐オナニストは頭のおかしい東京裁判カルトなのである。

自虐史観は世界中で軽蔑されている。だから、バカサヨは台湾に旅行に行くと決して日本語を使わず、
必死で英語のみを使って自慢げである。こいつらは「日本人であることがばれると恥ずかしい」。
馬鹿のくせに、プライドだけは高いから、自虐オナニーしているところを見られたくないのだ。

日本人の誇り・アイデンティティーを失うと、ただの間抜けな道化師に成り下がる、という典型だ。
バカサヨを指差して笑ってやれ!!


我々「真の日本人」は、台湾人の古老と日本語で談笑して実に楽しかった。
我々は日本人の誇りを持っており、堂々と世界と渡り合える国際人なのだから。

411名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 03:26:28.15 ID:3O4fZlTbO
愛国コピペオナニ−をかれこれ4年以上やってるゴキブリがなに言ってるんだか



埋め
412名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 09:41:29.78 ID:gmzbNxVH0
キチガイが何を喚いても世間はうるさい雑音としかとらない

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413名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 21:06:39.65 ID:TUlkavi30
おい、ゴキブリ
お前何大学の何学部の出身だ?
いや、他のスレの大卒連中(言わなくとも分かる)と比べると
あまりにもお前のレスは幼稚なんでな

幼稚な上に嘘つき捏造男の名越貼りまくるだけが能ではどうしようもないから
名誉挽回の機会をやるよ

お前の出身大学、学部、卒論のテーマ、表題、要旨、指導教官の名前を言ってみな

まあ、なんだかんだ言って逃げるんだろうがな

埋め
414名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 21:07:48.85 ID:TUlkavi30
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415名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 21:08:31.19 ID:TUlkavi30
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416名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 21:09:13.16 ID:TUlkavi30
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417名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 21:17:12.73 ID:ERU2x9lcP
>>406
特攻の創始者が大西瀧治郎だと思ってる時点で
お前はこの板にいる資格ないよ
特攻兵器「回天」「桜花」の設計は
大西が特攻作戦を決断する以前から始まっているんだよ

特攻はふざけたことに、菊のカーテンの向こう側にいた人間(いや、神の一族か)が
言い出したことなんだよ。大西はそれを隠蔽するためにあそこまで芝居がかった死に方をしたんだ

少し調べれば分かることを、これだからネトウヨは救いようがない
一つだけはっきりしていることは菊のカーテンの内側では
臣民は人間じゃない、使い捨ての道具に過ぎなかったということだ
戦艦大和の乗員もふくめてな

おっと埋め
418名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 21:20:48.84 ID:ERU2x9lcP
日本人の誇り、ってなんなんだ?
特別に違う所でもあるのか、レイシスト

埋め
419日本@名無史さん:2011/02/24(木) 21:22:31.07 ID:yZgcxYys0
もし、この身を尽くせるのだとしたら・・>>408
君の思いには共感いたします。

国家とは私の物でなく、国民の物です。
時、大東亜戦争時の国家は、今の韓国・台湾・南洋諸島も日本国です。同じ日本人として同じ権益を受けていた。

日本の歴史を振り返るに当たり、日本国とは政治的敗者は神となる。天神様がいい例で、彼の不運を憂い悲しむ。

大東亜戦争は決して日本国はアジアの一等国として負けたとは思わない。先人の誇り高き戦いと、事実としてのアジア諸国の独立と。

 日本人が持ちえる思いやりの気持ちは、必ずや世界の価値観となる。
 何度でも裏切られているが、先人の命をとした戦いが、「今」我々を守ってくださっている。

 彼らの勇気の元に我々は守り賜いし、「今」を生きている。
420名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 21:23:00.10 ID:ERU2x9lcP
ゴキブリとダニは、日本の伝統「ちょんまげ」でも結ってればいいと思うよ

埋め
421名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 21:24:11.49 ID:ERU2x9lcP
>>419
だからお前には、この板にいる資格がないの、無知すぎて

埋め
422日本@名無史さん:2011/02/24(木) 21:24:52.31 ID:yZgcxYys0
>>417
くだらない、じゃあ誰ですか?私は、一部不明な情報も知っていますが。Oですよね。
君は何も知らないようで。
423日本@名無史さん:2011/02/24(木) 21:28:12.38 ID:yZgcxYys0
>>417
>特攻はふざけたことに、菊のカーテンの向こう側にいた人間(いや、神の一族か)が
>言い出したことなんだよ。大西はそれを隠蔽するためにあそこまで芝居がかった死に方をしたんだ

証拠は?便所の書き込みですが、不敬な輩は、感化できない。
424名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 21:29:28.11 ID:TUlkavi30
>>422
伏見元帥宮博恭王ですが、何か?
その程度のことも知らないで、史学板に出入りしないで貰いたい

繰り返して言う
皇族にとっては、臣民は単なる道具でしかなかった
それはたぶん今でも変わらないんだろうよw

埋め
425名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 21:31:30.12 ID:TUlkavi30
皆様にお願い

このスレは
大東亜戦争はだいたいこんな感じでいいの?6
(p)http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1295184568/
の重複スレです

しかし今削除整理板に、日本近代史板スレッド削除がありません
仕方がありませんので、これ以後は「埋め」とだけレスして
このスレを終了させてください
よろしくおねがいします

埋め
426日本@名無史さん:2011/02/24(木) 21:33:28.15 ID:yZgcxYys0
>>424
すいません。伏見元帥宮博恭王が何を言ったか書いていませんので。

皇族の歴史を知って見えない方が何を書くのかが・・

ご教授ください。
427名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 21:33:41.02 ID:gmzbNxVH0
とってもオツムのよろしいID:yZgcxYys0の「出身大学、学部、卒論のテーマ、表題、要旨、指導教官の名前」はどこなんでしょうね!!

埋め埋め埋め
428日本@名無史さん:2011/02/24(木) 21:45:32.58 ID:yZgcxYys0
 いえないのだろね。大西瀧次郎が考案したと言う事実はなく、一兵足が考案したとも言われているし、軍部での考案もあったと言われる。
大西瀧次郎はその全てを背負った立派な方で有ったと私は言いたかっただけである。責任を背負うことは、心の重荷となる。

 彼の、特攻の意思との声明はご存知ですか?
 彼の特攻隊に対する思いと責任と、天皇に対する彼なりの気持ちは、私は共感する。

 日本には、苦しい状況に至れば、必ず私心なき人が出てくる。それは、大儀であり、おおみ心であらう。

 それは、長きに渡る、日本国を統治され給う元首が鎮座される事実である。

 
429名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 09:26:57.20 ID:VlxR0bR6P
タイトル:大東亜戦争とは「今」何を残したと思う。 弐号
【糞スレランク:SS】
犯行予告?:0/428 (0.00%)
直接的な誹謗中傷:20/428 (4.67%)
間接的な誹謗中傷:70/428 (16.36%)
卑猥な表現:64/428 (14.95%)
差別的表現:157/428 (36.68%)
無駄な改行:1/428 (0.23%)
巨大なAAなど:3/428 (0.70%)
同一文章の反復:26/428 (6.07%)
by 糞スレチェッカー Ver1.27 http://kabu.tm.land.to/kuso/kuso.cgi?ver=127

SSランクキタ━━━━━━(★∀★)━━━━━━!!!!
430名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 09:40:53.53 ID:VlxR0bR6P
>>428
伏見宮博恭王は、昭和19年(1944年)6月25日、サイパン島の放棄を決定した天皇臨席の元帥会議において、
「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。
そしてこの対策は、急がなければならない。戦局がこのように困難となった以上、
航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言した

もっとも艦隊派の大物にして黒幕の伏見宮だから
提督連中に「さっさと特攻をやれ」とせき立てていたのは言うまでもあるまい
最近の「歴史研究」でも「言い出したのは伏見宮」が定着している

そう考えるとトップダウン組織の日本海軍で
「桜花」「回天」の発案上申が名もない下級士官であったことも納得がいく
上に責任が回らず「下からのやむにやまれぬ愛国心」ということにしたいのだろう
真の責任者は皇族なんだからな

まあ昭和天皇も「飛行機ばかりに特攻やらせず、軍艦にもやらせろ」といって
菊水作戦の大和出撃になったわけだが

やっぱり皇族にとっては民は人間じゃなく、使い捨ての道具だな

俺はこの事実を知って激怒した
この事実を知って初めて大西の辞世の句
「これでよし 百万年の 仮寝かな」の意味がよくわかった
敗戦の混乱の中で、特攻を命じたものが皇族であることがわかれば
日本は大混乱に陥るだろう
だったら自分が悪者になって、この秘密を百万年の未来まで墓場に持って行こう
そう決意したのだ
お前にはそれが全然わかっていなかった
だから、ここに来るなと言うんだ
必要なのは知識だ、情緒や偉い奴らへのへつらいではない

埋め
431名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 09:47:57.30 ID:VlxR0bR6P
超糞スレを立てたアホダニ
うれしいか、SS認定されて

埋め
432名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 12:29:25.27 ID:VlxR0bR6P
>>410
>自虐史観は世界中で軽蔑されている。
お前の妄想の世界だけでな
「先の大戦ではご迷惑をおかけしました。」と軽蔑された人間をあげてみろよ
自分が軽蔑にしか値しない人間だからって、他人まで巻き込むなよな

>我々「真の日本人」は、台湾人の古老と日本語で談笑して実に楽しかった。
自分が英語をしゃべれないことをついに暴露しやがった
「旧帝大卒」ってのは、母国語の他に外国語の一つも操れなくてはいけないんだぜ

違うというなら、しばらく英語でレスしてみろよ

糞スレ埋め
433名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 12:30:40.52 ID:VlxR0bR6P
×軽蔑にしか値しない人間
○軽蔑にしか値しないゴキブリ

糞スレ埋め
434名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 12:42:57.69 ID:VlxR0bR6P
「誰でも自分なりの意見を持つ権利がある。 だが自分なりの事実があってはならない」

ニクソン政権の大統領補佐官 ダニエル・パトリック・モイニハン

ダニとゴキブリにはよくよく心してほしい台詞である
435名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 14:36:49.70 ID:VlxR0bR6P
>>410
自虐史観なるものは存在しない、またはネトウヨの脳内のみに存在する

しかし、自慰史観ネトウヨは、一般のネットユーザーからも嫌われる
(p)http://hato.2ch.net/test/read.cgi/operatex/1284192660/

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436名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 20:15:31.46 ID:5HIE3W5G0
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437名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 20:16:57.17 ID:5HIE3W5G0
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438名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 20:18:37.02 ID:5HIE3W5G0
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439名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 20:58:08.43 ID:wulyp16g0
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440日本@名無史さん:2011/02/25(金) 21:10:24.22 ID:0xKu5SC10
相変わらず下らない。
せめてもの思いで、紹介した書物も読んでくださっていないようで。

 大東亜戦争とは、日本国の・・大日本国帝国の・・大日本国帝国憲法の・・
 急速に西洋化する当時の国家を憂い、教育勅語を制定する事に。

 西洋化とは何であるのか?日本と言う国家は何にで有るのか?
 歴史を顧みるしか其の答えはない。

 日本とは伝統ある古き国家である。方や中国は王朝変遷の歴史です。

 歴史とはどの国にもある国家の成り立ちです。

 便利と堕落とは私は紙一重だと思う。人は、国の長きに渡る歴史の上で生きている。
 古き伝統とは、少なからず人の心の支えと成る事であらう。

 伝統深き我が日本国には、個人の心の中に。
 若き日本人の心にも、あると思える。
 例えば、人に対する心使いや。他を敬う心使いや。

 四方(よも)の国は、皆戦いをしたくはなかった。けど、日本国は立たなければ成らなかった。
 其れが、大東亜戦争です。アジアの肩身のちっさな国家が、アジアを代表して戦った事実と、我が先人が命をとして、国家を守った戦いである。

 彼らが眠る靖国は、私たちが彼らの為にお祈りして・・彼らの冥福を心より感謝すべき、日本国にある感謝の場所である。
 日本国民たる、わたくしの思いである。
441日本@名無史さん:2011/02/25(金) 21:22:56.17 ID:0xKu5SC10
>>430
マリアナ諸島の開戦とは、其の前段階がある。
どんな話を持ってきて、支離滅裂な話をごり押ししているかわからないのだが、マリアナ開戦の戦局と、サイパン島玉砕ととは、書けば一冊の本になる。
サイパン島と特攻を結び付けている事自体君の話には無理がある。

特攻とは、1944年10月25日レイテ湾とされている。私は特攻と言わなくとも、自己犠牲の戦線は多く行われていた事実があったと思います。

「これでよし 百万年の 仮寝かな」?
大西瀧次郎の辞世の句?なにやら勘違いをして見える。

 わたくしが敢えて書く必要もないとは思います。
 
442名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 23:29:40.34 ID:K5LROFu/0
>>441
>サイパン島と特攻を結び付けている事自体君の話には無理がある。

どうして日本語を理解できない人間が、日本無謬論に執着しているのか、意味判らん
他国の工作員である可能性が高いのかもな
443名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/26(土) 14:39:19.02 ID:WdoAsXezP
>>441
ダニポエマーは逃亡したな

埋め
444名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/26(土) 14:40:34.97 ID:WdoAsXezP
ダニと話するだけ無駄だ

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445日本@名無史さん:2011/02/26(土) 20:23:11.16 ID:xGndiRBs0
今、北阿では内乱が続いている。之をどう感じるかは、各個人が考えるべき事であるが、之を民主化とか言うマスメディア。
どうかしている。内乱は内乱であり国内の不満が発動した事である。
 馬鹿の一つ覚えで民主化という奇麗事で事を成す、マスメディアの浅はかさは、今に始まったことではない。

 私は、帝国軍人として大東亜戦争を戦われた先人に対し、篤く敬意を持っています。
 之は、日本人たる歴史の重みと日本国家の礎(いしずえ)に他ならない。

 親日たるトルコ人・インドネシア人と世界にも親日的な国家がある、インドも然りであろう。

 何故、我が日本国は、国土を焦土化してまでも戦わなければならなかったのか。
 其れは既に多くの書物があるので・・・

 我が日本国は、世界的歴史の上でも、文明国たる意義を成し得た。
 東条英機元首相は、東亜の諸国民の民族たる権利を主張できたかも知れぬ・・負けたからここまでしか言えないが、
 現実の物となった。

 東条英機閣下に罪があるとすれば、閣下が言ったように負けたことが罪である。
 勝った事は正義ではない。

 日本の歴史を見れば解ることです。敗者が神となる国柄です。
446名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/26(土) 21:28:57.59 ID:QDGxnwX10
不満を持たせた者には、何の責任もないような言い方だな
お前のような奴を「事大主義者」というんだよ、ダニポエマー

俺はリビアの民衆にはカダフィを是非倒して貰いたいと思っている
心底応援している
それは日本人になしえなかったことだからだ
皇族が国民を使い捨ての体当たり爆弾扱いしても、立ち上がって
自分たちの生存権さえ守れなかったんだからな
昔の日本人は情けない、羊の群れでしかない

埋め
447名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/26(土) 21:29:44.83 ID:QDGxnwX10
埋め
448名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/26(土) 21:30:29.38 ID:QDGxnwX10
埋め
449名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/26(土) 21:32:51.65 ID:QDGxnwX10
皆様にお願い

このスレは
大東亜戦争はだいたいこんな感じでいいの?6
(p)http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1295184568/
の重複スレです

しかし今削除整理板に、日本近代史板スレッド削除がありません
仕方がありませんので、これ以後は「埋め」とだけレスして
このスレを終了させてください
よろしくおねがいします

埋め

追伸:「自分も情けない」というのなら、立派になってからここにこい
それまで来るな>ダニポエマー
450名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/26(土) 22:08:21.26 ID:hm1Y7kcH0
埋め
451名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 13:31:53.56 ID:bav7He/n0
やあ!今や日本で最下層に位置するキモヲタ無職=ネトウヨのおまえら。
また今日も一人で便所の壁に向かって、憂国とかぶつぶつ呟いてんの?←ウケケ
たまには電源消してモニターに映る自分の顔見てみなよ、かっこいいKARA(プ

でもね、今さら遅いんだよね。もう日本はとっくに支配されてんだし。既に。
テレビも新聞も雑誌も>全部、そもそもその中枢にいる電つぅが支配済みw
いくらおまえら無職ネトウヨが騒いだって、もう日本は侵されてんのw全部wwwww
おまえらが長い年月かけて築いた日本って国は、もう在日様のものなのなの

諦めの悪い底辺ネトウヨが何もできんくせに騒いでるだけなんだって(嘲笑
もうすぐネットの監視もきつくなって、その臭い呟きも呟けなくなるけどな〜
あ、最近の雇用情勢が可笑しなことになってるのにもナゼ気づかない?
もうどこの企業も日本人なんて雇わないのw無能だから。だからおまえ無職なの!
在日様&帰化人が中枢にいるから、おまえら何も手出しできん死wwwww

こういうのなんて言うか知ってるか?グローバル化っつうの
やっと日本も世界の波に追いついたって感じ?自らが奴隷になって(名言
で、その社畜(=奴隷)にもなれずに無職でネトウヨやっている諸君。
生活保護も受けれないおまえらに代わって、おれらは毎日豪遊してっぞ
おまえら月1くらいで回転寿司か、やっすい焼肉食ってるみたいだけど
カウンターで食う寿司とか本物の日本の味は、もう在日様のもんだっつうの

そもそも日本のトップ共が在日様の奴隷だから、もう何もできんけどな〜なうw
それにしても最近のテレビは在日様仕様になってて楽しいZE

おまえらが情弱ってバカにしてる普通の人はもう韓国大好きで受け入れてるし
同じアホなら踊らな孫だぜwwwwオラッ!こっちにケツ向けて振れやキモヲタ無職が
ちゃんとKARAの尻の動きをよく見て腰振る練習しとけよw日本滅亡ダンスをw
ちゃんと在日様に尻尾振れるやつだけが使用人として採用されるのよ昨今わ

でも心配しなくてもいっかw沈みかけてる日本を操縦してんのももうおれらだっしぃいいぇい
452名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 17:33:21.08 ID:j9CjBWIx0
すごい力作だね(棒)

埋め
453名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 22:40:11.73 ID:cFy/tYOx0
特別永住者を多く雇ったマスゴミ

1.朝日新聞
2.毎日新聞
3.T豚S
4.テレ朝

共通点:極端な業績不振。朝日新聞とT豚Sは、赤字決算または赤字すれすれで
倒産してもおかしくない状況になりつつある。

はやく賃下げしてしろよ。

低賃金労働者を食い物にして高給を稼ぐなんて、虫が良すぎるんだよ。
お前らも低賃金で苦しめ!!


454名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 22:46:26.41 ID:cFy/tYOx0

「大東亜戦争は侵略戦争だった」という大嘘を信じ込む馬鹿は氏んで良い。
自分で少し調べれば、クソ日教組が教えたことが全部うそだと嫌でも気づく。

真実は「大東亜戦争は自衛戦争、植民地解放戦争だった」である。

殆どの人間は薄々感じているのだが、東京裁判を信奉するカルト信者が
戦勝国の犬となって狂ったように邪魔するので、真実の歴史は長く隠され続けてきた。

455名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 22:53:36.23 ID:cFy/tYOx0

東京裁判カルトとは、バカサヨのことである。バカサヨは必死で大東亜戦争の
真実を隠し、我々を洗脳し続けてきたが、インターネットの普及で、隠されて
きた「不都合な真実」が全て白日の下にさらされた。

今、インターネットには、大東亜戦争の真実が溢れている。侵略戦争と教えられた
者たちも、自分でネットを調べ、大東亜戦争は自衛戦争であることに気づき、洗脳
を自ら解いた。かくしてバカサヨの言論空間は完全に崩壊した。

今、ネットの真実が日本を正しい方向に導いているのだ。
正しい愛国心、正しい歴史観はネットの世界から確実に育っている。
我々の祖先は侵略戦争を戦ったのではなく、聖なる自衛戦争・植民地解放戦争を戦ったのだ。

大東亜戦争は我々子孫にとって誇りであり、いくら賛美しても賛美し足りないほどだ。

バカサヨ涙目


456名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 00:16:12.59 ID:itz3RW1T0
世界から無視される平和憲法。憲法九条は日本国家の恥。
457名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 06:06:48.60 ID:VD1H+GxI0
>>455
>バカサヨは必死で大東亜戦争の真実を隠し、我々を洗脳し続けてきた

東京裁判が茶番劇というのは賛成だ
アメリカは占領政策のために天皇を残して、それを利用した統治を考えていた
だからオーストラリアやソ連の要求通りに、天皇が戦犯訴追されることだけは避ける必要があり、この点で日本側と合意できた

その結果が、平和愛好者昭和天皇の意思を無視して、軍閥が独走した、という例の東京裁判史観

ただ、最近は一次史料の公開が進んで、昭和天皇自身戦争にノリノリで、
戦争指導にも深く関与していたことが明確になっている

今こそ東京裁判史観から脱却して、昭和天皇の戦争責任を追及すべき時が来てると思うよ
458名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 10:12:59.12 ID:WgGTDW1SP
>>453-455
おい、嘘つきコピペゴキブリ
名越の捏造本ばかり読んでいるうちに「嘘も方便」になってしまって
「旧帝大卒、旧財閥系企業の管理職で年収1000万」という嘘を平気でつけるようになった
「歴史的事実を統合的に分析」なんて言っていても、やってることは名越の丸写し
そんな「旧帝大卒」がどこにいるのやら
この板には名乗らなくても大卒とわかるレスはゴロゴロしてるから
余計にお前の程度の低さが際立って見える
それに「年収1000万」も嘘だな
俺にはサラ金に勤めてる友達がいるが、そいつに言わせれば
「ホンダみたいに完全能力主義、下克上上等な会社ならともかく
ある意味役所並みにお堅い旧財閥系で、今のご時世で年収1000万になるには
平取ぐらいでなきゃならない」ってことだ
役付の客はいくらでも来たが、年収1000万というのには
よっぽど売れてるタクシーの運ちゃんぐらいしかお目にかかったことはないそうだ

つまりお前は心底嘘つきだとこの板の人間には思われている、ついでに馬鹿だとな

お前に名誉挽回のチャンスをやろう
お前の卒業した大学はどこで、学部は何で、卒論のテーマと表題と要約
指導教官の名前を言ってみな
まあお前は「ニセ旧帝大卒」だから何も答えられずに逃亡するんだろうがな
得意の「スルー」で

459名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 10:14:01.29 ID:WgGTDW1SP
皆様にお願い

このスレは
大東亜戦争はだいたいこんな感じでいいの?6
(p)(p)http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1295184568/
の重複スレです

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460名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 10:18:26.17 ID:lpqc7tTAP
>454
>大東亜戦争は侵略戦争だった

そりゃそうだ。
ただの失敗した侵略戦争だよ。
なにか問題でも?
461名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 19:11:36.36 ID:4SqzqMjZ0
>>460
日本の国際的立場を悪くし、外交上の不利益を生じ、国益を損ないますが、それが問題でないとでも?
462名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 21:00:55.15 ID:lJsIMywj0
ああ、大問題だな

しかしコピペゴキブリにとっては、すべて善行に移るらしい

埋め
463名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 21:01:48.31 ID:lJsIMywj0
埋め
464名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 21:03:41.11 ID:lJsIMywj0
埋め
465名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 21:11:41.57 ID:lJsIMywj0
埋め
466名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 21:14:38.55 ID:lJsIMywj0
埋め
467名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 21:17:16.92 ID:lJsIMywj0
生きた人間爆弾でしかない昔の日本人は
今のリビア人の足下にも及ばない

埋め
468名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 21:18:25.14 ID:lJsIMywj0
埋め
469日本@名無史さん:2011/02/28(月) 21:54:30.29 ID:OnJFxu7F0
 こちらに来るのでしたら、そういう妨害でスレを荒らさないで頂きたい。
 大東亜戦争は、大日本国帝国がやらねばならない戦いだと、歴史を知る上で信じています。
 その論拠は書いています。君(ID:lJsIMywj0)が答えてくれないか?何故このスレが気に食わない?

 ここは、大東亜戦争の戦線を振り返り、多くにわたる南洋諸島・ソロモン・ギルバート・マーシャル・マリアナ・・・
 多くの先人が私達の為に命を投げた戦いがあることは事実である。

 彼らを、敬いその命に対し静かに祭り、敬う気持ちにどんな間違いがあるというのだ。

 答えてくださいね。
 答えられないのでしたら、ここで成しえたい、目的に干渉しないでください。
470名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 22:10:13.06 ID:VD1H+GxI0
>>469
>多くにわたる南洋諸島・ソロモン・ギルバート・マーシャル・マリアナ・・・

手前勝手な妄想に浸るのは勝手だけど、マーシャル諸島もマリアナ諸島も日本の委任統治領だった南洋諸島を構成する諸島だよ

なんで重複させて列記させてるんだかw
471日本@名無史さん:2011/02/28(月) 22:23:49.58 ID:OnJFxu7F0
大東亜戦争時、一文官の心持を紹介したい。これば軍人勅諭を旨とした軍人の方が規律は高いと思う。
 「戦争による敵対行為と、捕虜及び敵国人の人道問題とは全然別問題である。如何なる場合においても、日本人は人道上に欠くるところがあってはならない。
 この精神に欠くるところがあっては、日本人は伝統に反し、祖先に顔向けはならぬ。これは戦争の勝敗以上の問題である。たとえ戦争がどうなっても、必ずや後に残るべき日本精神の上に、国際関係はまた・・・」

岡倉天心が描いた理想、東条英機が描いた理想、共に同じであった様な気がしてならない。

 彼らの理想とは。TPPが私は理想とは思わない。

472日本@名無史さん:2011/02/28(月) 22:25:00.55 ID:OnJFxu7F0
 >>470
だから?質問に答えてくださいね。
473名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 22:37:35.11 ID:TUXNJF6h0
間違い指摘されて逆ぎれすんなよ
子供かオマエは
474名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 22:47:02.10 ID:Db3GtQn50
a
475名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 22:48:54.12 ID:VD1H+GxI0
>>471
>日本人は人道上に欠くるところがあってはならない。

ネトウヨが神様仏様のように崇めるパルは↓と有名な判決文の中で言及してるけどな

「" バターン死の行進"は実に極悪な残虐である。灼熱の太陽下、120キロメートルに
わたる9日間の行軍の全期中、約6万5000名の米国人、およびフィリピン人俘虜(捕
虜)は、その警備員によって蹴られ殴打された。病気あるいは疲労のために行進から落後
したものは射殺され、あるいは銃剣で刺されたのであった。」

(南京事件について)「宣伝と誇張をできるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は日本軍が
その占領したある地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜(捕虜)に対し、犯したものである
という証拠は圧倒的である。」

(太平洋戦争中の日本軍の行為について)「それらは戦争の全期間を通じて、異なった地
域において、日本軍により非戦闘員に対して行われた残虐行為の事例である。主張された
残虐行為の鬼畜のような性格は否定し得ない。」
476日本@名無史さん:2011/02/28(月) 22:59:17.09 ID:OnJFxu7F0
 と、言うわけで、答えられないと彼は書いて、ここには来ないと言っているので。
 ここからは、このスレの主題に。

 「いっさいに夢にござ候」で書かれている、第14軍司令官本間雅晴中将は、インドのパール判事も批難したバターン死の行進等に罪で裁かれる事に。
 本当にそうであるのか。

 人が成し得た罪と言う贖罪は、何処まで正当な根拠を突き詰められていたのであろうか?

 文化大革命を、歴史的大虐殺との認識は多分ない。
 スターリン批判により明らかとなった虐殺も、日本人の多くは知らない。

 歴史は、繰り返されるし、国民性は変わらない。

 アメリカの戦前の日本人の意識のほうが正しいかもしれない。他国に干渉する姿勢は、今も昔も変わりなく、自分が正しいように主張している。
 民衆の怒り=民主主義か?

 その国の民族の幸せたる、方針は民衆の暴動であるのであれば、民衆に任せるべき。
 たとえ、武力的制圧を民衆が与えられたとしても。

 他国が干渉すべき事ではない。アメリカと言う国は、正義と言う心地よい強風で、民族意識という根っこを剥ぎ取る手法を知っている。
中国は、華僑による民族浄化により、体制を覆す手腕を行ってきている。

 大東亜戦争とは、国家として戦争と言う当時の正当な抗議の方法で立ち向かった。
 結果負けて、日本国は焦土と化したけど、日本が残した歴史的事実は、少なからず間違いなくある。
477名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 23:02:15.69 ID:VD1H+GxI0
>>476
>その国の民族の幸せたる、方針は民衆の暴動であるのであれば、民衆に任せるべき。
>他国が干渉すべき事ではない。

シベリア出兵って知ってるか?w
478日本@名無史さん:2011/02/28(月) 23:06:45.36 ID:OnJFxu7F0
1918年から1922年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。
だろ。当時と今との判断が大切なのですよ。当時の世界状況と、今とでは間違いなく世界的価値観が違うのですよ。

其れをわかった上で書かれていることでしょう。
479第2次世界大戦:2011/02/28(月) 23:10:38.92 ID:Db3GtQn50
日、独、仏、満州、台湾、タイ、ベトナム、ビルマ、インドネシア、インド
VS
英、米、欄、豪、中、ソ
であってるかな?日本にこんなについてきてくれたよー♪
480名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 23:10:52.91 ID:sa9jGBws0
 ここで私の見解を披露するなら、一技術者の体験から見た限り先大戦は、「+の方が、
−に比べて比較にならないほど大きい」というのが、現時点での見解だ。
 誤解して欲しくはないのだけれども、あの時代を懸命に生きた人達の献身と勇敢さを
決して否定することも、無視する事もしないし、またそのつもりも無い。

 こんな逸話がある。私の先輩達に東條首相おん自ら「燃料の不要な戦闘機を作れ」と
要求されたと言う事だ。本来科学者に言うべきであって、技術者に要求する事ではない。
私はその逸話を知った瞬間に、東條英機と言う人の事が嫌いになった。
確かに彼にも立場があり、東大を卒業し宰相になるからには優秀なのかも知れない。
しかし、それとこれとは話が全く違うのではないか?

精神力で燃料不要の戦闘機ができるのならば、誰も苦労はしない。
先輩も嘆いておられるが、「代替燃料を使え。」とか、「素材を安価な物資で置き換えろ。」というなら、代替燃料なら化学屋、材質ならば材料力学屋ないしは金属材料屋だ。
それならば十二分に納得が行くし、物資欠乏を頭脳で補うのは、ある意味技術者の本分。
そうでなければ「何の為にお前達は技術者の看板を掲げているのか?」という事になる。

満足に家も作れない大工、患者を救えない医師に存在が認め難いというのと同じ事である。相手が戦前軍人ならば、即刻罵声とビンタを頂戴しても文句は言えまい。
但し・・・「無理な物は無理です。恐縮ですが、そういう事は科学者に言ってください。」
例え相手が総理大臣であろうと、子供のように地面に寝っ転がって駄々をこね、じたばたしていようと、それは科学者の領域である。技術者の領域ではないと、断言できる。

太平洋戦争敗戦で日本が失った物は確かに多い。その代わりに科学技術力は、桁違いの
進展を期待できるようになった。専門教育課程への入り口である、世界標準的な前記中等
教育(中学)と後期中等教育(同じく高校)への進学率は、ほぼ100%となった。

従来専門教育課程にたどり着く以前で挫折することが多かったのが、専門課程に大量の
人材を送る体制が整ったのである。質は量に転化しにくいが、量は質に転化しやすい。
皮肉にも、太平洋戦争での敗因の一つが、根本的に除去されることとなった。
ノーベル賞、メイド・イン・ジャパン製品の評価は、先人達の努力の賜である。
このような観点から先大戦を捉えた場合、日本の敗戦は必ずしも悪い事ばかりではない。
というのが現時点での私の結論である。異論反論は、私の望むところである。

私は一介の技術者である。それゆえ、反論資料検証には手間と時間がかかる事を、予め
お知らせしておきたい。
481名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 23:21:30.54 ID:VD1H+GxI0
>>478
>当時と今との判断が大切なのですよ。当時の世界状況と、今とでは間違いなく世界的価値観が違うのですよ。

で、
>その国の民族の幸せたる、方針は民衆の暴動であるのであれば、民衆に任せるべき。
>他国が干渉すべき事ではない。
は 「当時と今との判断」のどっちなんだ?

そもそもが変な日本語なんだけど、オリジナルを尊重しておいてやるよw
482名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 09:51:18.47 ID:yVxEO5TBP
>>469
答えてやる
すべて否認する
埋めているのは、ここが重複スレだからであり
お前自身が、お前の立てたスレの趣旨に沿わないレスしかしないからだ

つぎに「太平洋戦争」は、しなくてもよい、というより避けるべき戦いだった
軍のメンツと、利権に群がる財閥による私利私欲丸出しの戦争だったからだ

>ここは、大東亜戦争の戦線を振り返り
お前は全くやっていない、やっているのは追悼ポエムだけである
だったらスレタイを「戦没者を悼むスレ」とすべきである
そうでなければ重複である

>多くの先人が私達の為に命を投げた
別にお前のためではない、「大君のためにぞ死なむ」である
建前上「天皇陛下のために」死んだのだ

>彼らを、敬いその命に対し静かに祭り、敬う気持ちにどんな間違いがあるというのだ。
そもそもスレ違い(前掲)の上に板違いだ。それは「歴史を学問として研究する」という
この板の趣旨になじまないものである

>ここで成しえたい、目的に干渉しないでください。
お前の目的がこの板の目的にとって荒らしなのに、よくいう
荒らしは自分だと自覚してもらいたい
お前はどんなレスをされても文句を言えた義理ではない
483名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 10:02:27.20 ID:yVxEO5TBP
とにかく、太平洋戦争期の戦史研究であれば別にスレがあるのだから重複であり
追悼ポエムがやりたいのなら、板違いである
すくなくとも複数のスレ住民の承認を得てからやるのがマナーというものだろう

よって抗議する

埋め
484名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 10:03:37.86 ID:yVxEO5TBP
×スレ住人
○板住民

埋め
485名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 11:47:55.72 ID:yVxEO5TBP
重複スレ埋め
486日本@名無史さん:2011/03/01(火) 20:49:48.44 ID:YffaeQbr0
大東亜戦争とは、国家の戦である。
それは、軍人も、民間も戦時体制(民間には感じ得ないかもしれないが)国家の決死を帰した決断です。

それには多くの人が、尽くしている。例えば、ゼロ戦とは十二試艦戦が初めとなる。其の前に七試・九試と前段はある。
技術力が世界水準とはいえない当時の技術陣の苦労は秤知れない。どれだけの苦悩を味わった事でしょうか。
 十二艦戦の要求を一言で言うと、「世界最強の戦闘機を作れ!」

 アメリカと日本では思惑は違えども戦闘機に対する主眼はある。

 方や同時期の昭和十二年ころから、世界屈指の巨艦の建造が始まる。之に携わる技術者は秘密裏に調査を受けている。

 日本海海戦の劇的なる圧勝が、日本国民にもいわぬもがな海軍にも強く残る時代です。
 海軍の巨艦は、支那事変が進行していく最中、国内で秘密裏に進行していった。
 各地で不穏な空気は作っている。例えば棕櫚の欠乏は、1936年九州地区を覆っていた。
 憲兵が中国人を拷問の末、一人殺した事実もある。
 しかし、通州では比較にならぬほどの惨殺が行われる。

 過去の歴史ではある。しかし、起こりうる歴史の事実と、根底に流れたる、根拠は分析せねばならない。

 通州事件はなぜ起こったのか?
 盧溝橋の首班は支那に有る事は証明されているが、何故拡大したか。日本にも不備がある。

 ただ、シナとは当時どんな情勢下に在るかをわからなければ話にならない。

 先人が、人知れず南の島に眠られている。
 誰の為に戦ったのであろう。

 靖国で、先人の冥福を願う。
 私にできる、せめてもの感謝です。

 民族とは、必ず歴史の上に立つ。民族が成し得た歴史的事実とは、極めて重い。と思う。平成の「今」の価値観が全てだとは思わない。
 ISOとか、二酸化炭素取引とか、西洋の自分が主体だというエゴの匂いを感じる。

 国際標準化(ISO)とは、民族独特の個性の否定であり、二酸化炭素排出規制の裏で行われる取引は、日本を金ずるとした浅ましい輩の陰謀であり。

 我が、日本国は孤立しながらも自己の技術を高め、大東亜戦争を戦った。後方支援と配給には難があったことは事実であるが、アジア諸国に対し切欠は作った。

 独立した、アジア諸国は、彼らの努力である事は間違いない。
 日本人は、微力ながら少し手助けしただけにすぎない。
487名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 21:22:36.86 ID:FSrT/L/H0
>>486
史学板はお前の日記帳じゃないんだよ
零式艦上戦闘機は初戦こそベテランパイロットによって戦果を上げられたが
その実態は、単葉機の戦術である三次元空戦のできない
防弾すらろくにない、「味方殺し」の欠陥機だ

リビア人は立派だ
自分たちを道具として扱う権力者を追い落とそうとしている
ひるがえって、我が日本人はどうであろうか
生きた人間爆弾としてあつかわれ、それに唯々諾々として、あるいは喜んで従ったのだ
何という奴隷根性であろうか
その奴隷根性の象徴が靖国神社である
あれほど醜い宗教施設は、見たことがない

相変わらず、板違いを展開しているな
史実じゃなくて思想を吹聴したいのなら、極東板に行け
電波追悼ポエムがやりたいのなら、電波お花畑板に行け

埋め
488名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 21:25:11.30 ID:FSrT/L/H0
>>486
>>482を読め

埋め
489名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 21:25:52.91 ID:FSrT/L/H0
埋め
490名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 21:26:36.26 ID:FSrT/L/H0
埋め
491名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 21:33:16.95 ID:FSrT/L/H0
埋め
492名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 21:40:46.20 ID:ZMFaG6PH0
【糞スレランク:SS】
犯行予告?:0/491 (0.00%)
直接的な誹謗中傷:21/491 (4.28%)
間接的な誹謗中傷:82/491 (16.70%)
卑猥な表現:79/491 (16.09%)
差別的表現:165/491 (33.60%)
無駄な改行:1/491 (0.20%)
巨大なAAなど:4/491 (0.81%)
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SSランクキタ━━━━━━(★∀★)━━━━━━!!!!
493名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 22:00:37.18 ID:qsQBl/OL0
>>487
ベテランパイロットのおかげだけではない
零戦にしろ一式戦にしろ太平洋戦線では極めて有効な兵器だったのは間違いなかろ
あの長大な航続力があったればこそ初期の快進撃が成功したと言っても過言ではない
欧州のBF109やスピットのようなバッタ戦闘機では全く役に立たなかったろう
実際日本初の重戦である二式単戦はその航続力の短さ(欧州のバッタ戦闘機よりははるかにマシだが)によって戦局に何ら寄与しなかった
さらに言うならその欧州の戦局を決定的に変えたのは零戦以上の長大な航続力を誇るP51である
494名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 09:39:40.96 ID:nOKhuoSlP
何に重きを置くかで評価は逆転する
一式戦隼は、中島が適切に単葉機として設計していたおかげで
垂直機動にも十分耐えられ、戦争末期まで有力な機体だった
中島は単葉機の戦いと複葉機の戦いの違いをきちんと把握していた
四式戦疾風に至って、欧米戦闘機並みの急降下、急上昇性能を実現し、恐れられた

零戦に関して言えば、敵機は急降下さえすれば容易に振り切れる
エンジンが非力(これはしょうがない)なため、三次元空戦に持ち込まれると
「七面鳥」になる
航続力の長大さは、低い巡航速度(ひいては低い戦闘速度)と引き替えであり
また低防御力と引き替えの諸刃の剣
P-51は重防御、高速、航続力を兼ね備えているので、欠陥機零戦と比較するのは間違っている
結局零戦が戦争初期に活躍できたのは、零戦の欠陥が問題にならないほど海軍搭乗員が優秀で
連合国パイロットがひよこでアンポンタンの集団だったから
(そうでなければいくら足が長くても、行った先でバタバタ落とされただろう
待ち構えていたのがルフトバッフェやRAF本国精鋭部隊だったら、ああうまくはいっていない)
しかも2機で連携をとる戦法が一般的になると、超優秀な日本海軍パイロットも
零戦の足の遅さと、急降下できない欠陥に足を引っ張られて
思うようにスコアを伸ばせなくなる
ベテランパイロットが消耗すると「新人殺し」に変貌した
何よりも零戦の欠陥は、改良を重ねていくうちに旋回能力、航続力を捨てて
急降下能力、防弾能力を重視する方向に変化したことに如実に表れている
(でも、もとの強度が不足しているのだから、焼け石に水だったが)


埋め
495名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 15:24:13.79 ID:nOKhuoSlP
埋め
496名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 16:32:16.91 ID:nOKhuoSlP
あと、零戦の戦果が水平面での格闘戦闘によるものとは思わん方がいい

坂井三郎も証言しているが、大半は「後ろに忍び寄って気づかれないように墜とす」
一撃離脱戦法によるものだし、空戦機動による戦果はわずかなものにすぎない
よく言われる「左捻り込み」も三次元機動で、バレルロールアタックの一種のようだ
当然だが高度な技量の持ち主にしかできない技だ

つまり、零戦でなければならないという必然性はどこにもない

あと、航続力に対する過信は、無謀な作戦の強行につながった
ガタルカナル戦役など、そのいい例であろう

埋め
497日本@名無史さん:2011/03/02(水) 20:09:27.14 ID:8UqMT0os0
 零戦の戦果が水平面での格闘戦闘によるものと思っている人がいるのですか?
何を根拠に。角田和男さんの修羅の翼ではよく書かれている、旋回方向で癖があることと、後方につかれた後の前方宙返りの旋回性能での撃墜を書かれていたと思います。

 歴史的に見て、開戦当初のゼロ戦の機動性は・・ゼロ戦だけでなくマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズ・レパレスを撃沈したのは、後に一式ライターと呼ばれた。一式陸攻だし。

 ガダルカナルと、空戦を結び付けようとする根拠は、説明してもほしいものです。
498名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 20:43:09.03 ID:DDlNCYl30
>>497
ラバウルからガタルカナルまで飛べてしまうから
あんなむちゃくちゃ遠いところに飛行基地つくってしまったんだよ
それを米軍海兵隊師団にぶんどられて
そこから日本軍の戦力逐次投入というアホな展開になっていくわけだろうが

お前って本当に何も知らないのな

零戦の要求仕様に二次元での旋回性能が要求されていることも知らない

お前、何しに来てるの?


埋め
499名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 20:43:50.66 ID:DDlNCYl30
埋め
500名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 20:44:32.66 ID:DDlNCYl30
やっと半分だ

埋め
501日本@名無史さん:2011/03/03(木) 20:22:23.47 ID:bs8VVNGt0
世界史を正当に話そうとしているだけ。
日本国は侵略戦争をしていないと思う私は、欧米に対しても其れは言わない。
ただ、歴史的事実として、欧米の植民地・独逸の併合はよく知りませんが、日本の併合とは違うと言う事実を言っている。

戦争とは邪悪なものです。国同士の喧嘩であるわけで。片方にも言い分があり、片方にも言い分があり。
だから、東京裁判事、極東軍事裁判は不当である事実もあるし、桑港条約で独立した日本は、東京裁判を受諾している旨がかかれていたこと自体不当な事で。

 アメリカは太平洋戦争の資料を今後100年?出さないと言っている。出せないのであろう。

独逸の資料は全て開示している。之をどう判断するかは、日本国民の意思だと思う。

>>498
 ごめんな。君はラバウルから逐次投入?戦線をご存知なのかがかなり不透明でってか知らないようで書いていませんか?


502日本@名無史さん:2011/03/03(木) 20:42:32.43 ID:bs8VVNGt0
 大東亜戦争の責任がもしA級戦犯という有りもしない罪を認めるのであれば、歴史の真実に向き合っていないと思う。
 大日本国帝国は、大戦で負けたことは事実である。私は幼き事学校の先生に大きな地図で、日本国とアメリカと教わった。

 こんなに大きなアメリカには資源もあり、技術もあり、戦う事自体馬鹿なことだ!と。

 後世の人間が、私は当時はそう思いましたが、人とは意味なく戦う事はしない筈です。

 大日本国帝国は、国家の存亡を賭け、国民の存続を憂い、アジアの独立を考えていた事実は、何時しか世界史の標準となると信じている。
 大東亜戦争で、違法な行為をした軍人もいるやもしれない。
 ただ、其れにもまして凛として戦われた方の方が多いと思うが、「今」その市民権は得ていない。

 そういえば、ソロモン海戦では、哨戒機が自爆している。ご存知の方は、みえますか?
503名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 22:44:35.44 ID:ZNQCYEZH0
>>502
あなたの言うことは間違っていない。
あら捜しをして間違いを指摘すること自体ナンセンスだろう。

>人とは意味なく戦う事はしない筈です

大東亜戦争とは追い込まれてナイフを喉元に突きつけられて、
やむを得ず開戦したものだと思う。戦わねば、死しかない。

平和ボケした低能児、プライド無き馬鹿豚には決して理解できないだろうが


504名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 22:50:51.70 ID:ZNQCYEZH0
>>502
だから、馬鹿はあなたの言論を弾圧するために、このスレを必死で埋め立てる。
こいつら、笑えるくらい必死。常識的な人間なら決してこんなことはしない。

暇で低学歴な卑怯者は、あなたの発言に不愉快な事実が多く含まれるから、
あなたを黙らせたくて仕方ない。東京裁判カルトはキチガイだから、こういう
非常識な愚行を平気で行って得意満面。指差して笑ってやれ!!

505名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 22:52:21.30 ID:ZNQCYEZH0

東京裁判は、国際法を無視した違法な茶番であり、歴史に汚点を残した。

506日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:01:13.86 ID:bs8VVNGt0
>>505
東京裁判の正当性のなき事実は明らかにすべきだ。

私たち・・・君の意見も多いに参考にしたい。
507日本@名無史さん:2011/03/03(木) 23:28:44.40 ID:bs8VVNGt0
 と、ここで、冷静に状況を判断すると、明らかなる・・・
解ってみえるだろうけど。

 苦しき日本の戦闘機は、数多く作られている。若き日本人と若き技術者と、熟練者の下で。

 大東亜戦争の戦局悪化の元行なわれた特攻は、この時始まったとは私は思っていない。
 戦果を上げるために仲間を導きそれゆえに散っていった先人もいる。自己の功績の前に大切にしている物が日本人にはあるのです。

 自己の功績など問題でないと言う価値観はい「今」はなくなってしまったのかもしれない。

 公とは、忠誠という価値観であり。
 謙遜とは、自己を省みる価値観であり。
 質素とは、自己規律の価値観である・。

 とわたくしは思っている。

 価値観とは人それぞれ違うのだが、戦前の価値観とは、上記の様に感じています。
508名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 03:04:13.22 ID:3sayLaWH0
>>501
>欧米の植民地・独逸の併合はよく知りませんが、日本の併合とは違うと言う事実を言っている。

ぷ、ネトウヨって欧米とは違うんだって叫ぶ割に、肝心の欧米のこと知らないんだよな
併合は植民地とは違うんです!と、言うけど、ベルギーの植民地であるコンゴも併合の手段で植民地化されてるんだよな

ネトウヨのご本尊・ナベショー自体からして馬鹿だから、欧米のことを実は何も知らないんだよな
ああいう、反知性主義者が「有識者」扱いされてきたこと自体が、何かの冗談んだろうな
509名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 08:39:37.14 ID:s9kARFuJP
馬鹿と馬鹿が野合して、より一層馬鹿になっていく
昼間から寝言を言ってる人間を「立派」と褒め称えるゴキブリ


皆様にお願い

このスレは
大東亜戦争はだいたいこんな感じでいいの?6
(p)http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1295184568/
の重複スレです

しかし今削除整理板に、日本近代史板スレッド削除がありません
仕方がありませんので、これ以後は「埋め」とだけレスして
このスレを終了させてください
よろしくおねがいします


埋め
510名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 14:10:47.88 ID:s9kARFuJP
埋めが不服なら、レスで埋めてやろうか
それでも趣旨には沿っているからな

埋め
511名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 14:44:29.64 ID:3sayLaWH0
>>505-506
まあそれはともかくとして、東京裁判史観を否定するのもどうかと思うよ
だって、あの時にオーストラリアやソ連から出ていた昭和天皇の戦犯指定を却下
して、アメリカの単独占領に役立つ道具として天皇を利用するという方針が
アメリカの占領政策の神髄だったわけで、それを日米共同で演出したのが東京裁判。

曰く、平和主義者の昭和天皇の意向に背いて、軍部が独走して軍部専制
のあげくに戦争に突入した、と。
これこそ東京裁判で日米が共同してしたてあげたストーリーだが、ウヨ連中は
これに反対するんだよなw

実は、この見直しは歴史的事実に照らしても結構だと思うんだ
何しろ、近年の研究で昭和天皇自身が戦争指導の最前線に立って、作戦
立案にも大きな影響を与えていた事実が次々と判明してるからね。

だから東京裁判史観を見直して、昭和天皇の戦争責任を問うことは、今歴史学に要請されてる課題だと思うんだ。

なんか気があって嬉しいよ
512名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 14:56:44.71 ID:s9kARFuJP
立場が正反対の相手にしゃべってる、ってことに気がついてる?
それとも皮肉?>>511
513名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 17:20:53.27 ID:N4/RhDMTO
そりゃもちろん例の日本語のおかしい池沼をおちょくってるんだろうよw
514日本@名無史さん:2011/03/04(金) 20:06:29.47 ID:jvhgwmPU0
ここで、整理したい。
まず併合と植民地との違い、大日本国帝国で植民地なるものが存在したのか?
その事実を証明していただきたい。
植民地支配は、オランダのインドネシアと、イギリスのインドと、フランスのカンボジア・ベトナムを例にしよう。
併合と称し大日本国帝国が行なった、韓国について行なおう。
 其の前に、委任統治領として、戦勝の権利として、台湾・南洋諸国・南樺太・千島(北方領土は以前から日本領)。の状況と。

 ベルギーのコンゴ領有を、併合と言う君の感覚については、疑問を持ちます。
 ベルギーは、コンゴを君の言うように併合したとしたら、何を行なった?

 併合と植民地の違いは当然している事と思います。

 答えられない輩は、大日本国帝国に対する先生の教えの浅はかさで、歴史的事実を語れない事でしょう。
515名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 20:17:50.66 ID:3sayLaWH0
>>514
> ベルギーのコンゴ領有を、併合と言う君の感覚については、疑問を持ちます。
> ベルギーは、コンゴを君の言うように併合したとしたら、何を行なった?
基本的なことぐらい調べてからカキコしろよ、低脳が
お前にはwiki程度で十分だろ


コンゴはベルギー議会が1907年11月28日に、国王が次の年の9月に調印した条約によりベル
ギーに併合された。コンゴはボマに駐在する総督と何人かの副総督によって統治されることに
なった。ブリュッセルには植民地大臣を議長とする植民地評議会がおかれコンゴに対する支配
を監督した。植民地評議会は14名の委員で構成され、うち3名は上院によって、8名は下院
によって、3名は国王によって任命された。コンゴは15の行政区画に分割され、予算は毎年ベ
ルギー議会によって審議された。
516日本@名無史さん:2011/03/04(金) 20:22:31.00 ID:jvhgwmPU0
あのな〜。wiki程度の話と、歴史とは違うのですよ。
その後のコンゴとアフリカはどうなっている。之を語れなかれ場、欧米の犬としか思えない。
コンゴは正当に支配した。「今」通じるか?
訳のわからない、しかも当時の状況に即さない、空虚な考えが当時の主だと言うのか!結果アフリカは独立している。
其れはベルギーがしたことではない。

間違っていますか?
517名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 20:33:28.75 ID:3sayLaWH0
>>516
ごちゃごちゃ、何を言ってるのかさっぱりわからんな

>ベルギーのコンゴ領有を、併合と言う君の感覚については、疑問を持ちます。
というから、
1907年のベルギー・コンゴ条約でベルギーはコンゴを併合しました、って教えてやったまでのこと

こんな簡単なことが理解できないのか?
518日本@名無史さん:2011/03/04(金) 20:40:21.26 ID:jvhgwmPU0
もう一言おう。
民族には、其処に住まわれている人の生活があるのですよ。
其れを認め、其れを理解し、不備なる所は補う事が人と言うものです。
 コンゴで行なうベルギーの統治では自己主張しか感じ得ない。その後アフリカはどうなった。
 1900年代は欧州のアフリカ分捕り合戦です。領有を先に主張したの国の勝ち。

 既に之に罪を感じていたスペインの方が、現代社会では評価されてしかるべし。

 その昔、スペインとポルトガルの世界二分化を模索された時代も有った。

 ベルギーが近代史に与えた・・アフリカに与えた罪は少なからずある。
519日本@名無史さん:2011/03/04(金) 20:42:20.51 ID:jvhgwmPU0
 だとしたら、日韓併合は当然の認めていることでしょう。

 日韓併合は、日本が言い出したことでなく、韓国側からの要請です。
 コンゴからの要請があったと言う事実は私は知らないのだけれど。

 
520名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 20:46:32.24 ID:3sayLaWH0
>>518
ごちゃごちゃ何を言ってるのかはよくわからんけどw
1907年にベルギーは条約によってコンゴを併合したって史実は変わらんことなんだけどな

>1900年代は欧州のアフリカ分捕り合戦です。領有を先に主張したの国の勝ち。
勉強不足すぎるな
事はそう単純ではなかったことは、19世紀国際政治史の勉強をすればわかること

その文脈から、コンゴ自由国のベルギーへの併合という話も出てくる

君、「新書 アフリカ史」(講談社現代新書)くらいは読んでから、この件に口挟んだ方がいいと思うよ
悪いが基礎知識が学部生レベルにも達していない
521日本@名無史さん:2011/03/04(金) 20:49:53.87 ID:jvhgwmPU0
でしたら、君の主張を正確に書いていただけませんか?

 歴史的事実とかなりかけ離れている。

 コンゴの方たちは、ベルギー人に感謝しているというはなしですかね?

 できない事は明白ですが。
522日本@名無史さん:2011/03/04(金) 20:54:02.41 ID:jvhgwmPU0
 まさか、今のコンゴクラブチームのトヨタカップ準優勝の話を持ち出すのでは?
 >>520さんくらいの方ではありえそうな・・・

 てか、彼は其れも知らないかもしれない。
523名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 20:54:31.90 ID:Re6oCj/30
大日本帝国政府は開戦直後に朝鮮半島内における軍事行動の制約をなくすため、
中立を宣言していた大韓帝国に軍による威圧をかけた上で1904年2月23日に日韓議定書を締結させた。
また、李氏朝鮮による独自の改革を諦め韓日合邦を目指そうとした進歩会は、鉄道敷設工事などに
5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本側への協力を惜しまなかった。
8月には第一次日韓協約を締結し、財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問にアメリカ人のドーハム・スティーブンスを推薦して、
大韓帝国政府内への影響力を強めたり、閔妃によって帝政ロシアに売り払われた関税権を買い戻すなどして、
大日本帝国による保護国化を進めていった。一方で、高宗は大日本帝国側の影響力をあくまでも大韓帝国から排除しようと試み、
日露戦争中においても帝政ロシアに密書を送るなどの密使外交を展開していたという説もある。

日露戦争の勝利により朝鮮半島における影響力をさらに増大させた大日本帝国政府は1905年11月、
第二次日韓協約(大韓帝国では乙巳保護条約と呼ぶ)を大韓帝国に締結させ、12月には韓国統監府を設置して
大韓帝国の外交権を支配下に置いた。高宗は「条約締結は強制であり無効である」と訴えるため、
1907年第2回万国平和会議に密使を派遣した(ハーグ密使事件)。しかし第二次日韓協約自体は
当時の帝国主義国間で認められていた国際協約であったためこの訴えは第2回万国平和会議から拒絶された。
この事件に対して朝鮮統監であった伊藤博文をはじめとした大日本帝国政府首脳は高宗を排除すべく活動し、
李完用らの協力を得て、7月20日には半強制的に高宗を退位に追い込み、純宗が第2代の大韓帝国皇帝として即位した。
7月24日には第三次日韓協約を結んで内政権を掌握し、直後の8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させるにまで至った

これを不満とした元兵士などを中心として抗日目的の反乱が起きたが、兵のほとんどが旧式の装備しか持たず、
兵としての練度もなかったためにほどなく鎮圧された。武力抵抗の排除を目的とする軍隊の解散でもあったが、
残存兵力はその後の抗日義兵闘争に加わったともされる。この抗日義兵闘争は大韓帝国全土に広がり、
朝鮮駐箚軍司令部編『朝鮮暴徒討伐誌』(1913年)という日本側の公式統計だけでも1907〜1909年の期間で
朝鮮人に16,700人もの死者が出る大規模なものだった。抗日闘争はこの後も幾度も鎮圧されるが、1945年の大日本帝国崩壊まで存続した。

韓国統監府を辞して帰国していた伊藤は併合自体は将来的な課題として、早期併合に慎重であったが、
1909年には併合容認へと転じた。また同年3月30日には小村寿太郎外相が桂太郎首相に
「適当な時期に於て韓国の併合を断行すること」を方針とする対韓大方針案を提出し、
これは7月6日に閣議決定され、同日明治天皇の裁可を得た。10月26日、伊藤がハルピンにおいて義兵闘争の指導者安重根により
暗殺されたが韓国併合はそれ以前に既定の方針だった。伊藤が元勲の1人だったことも相まって、日本国内の世論は併合へ大きく傾いた。

12月4日には大韓帝国の一進会が「韓日合邦を要求する声明書」を上奏。この上奏文は大韓帝国内で反感を呼び、
国民大演説会などが開かれるなど一進会糾弾と排日機運が高まり、在朝鮮日本人新聞記者団も一進会の行為を非難した。
日本側では併合は日本政府が決定することで「寸毫モ韓国民ノ容喙ヲ許サス」という方針であり韓国側の意思を受け入れるものではなかった。
「韓日合邦を要求する声明書」は大韓帝国と大日本帝国が対等な立場で新たに一つの政府を作り、
一つの大帝国を作るという、大日本帝国にとって到底受け入れられない提案であり、また大韓帝国の世論を硬化させる結果を招いたことで、
統監府からは集会および演説の禁止命令が下された。

何が「韓国側からの要請」だ。ふざけてろ
524名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 20:54:39.54 ID:3sayLaWH0
>>521
> 歴史的事実とかなりかけ離れている。
意味不明

>ベルギーのコンゴ領有を、併合と言う君の感覚については、疑問を持ちます。
というから、ベルギーとコンゴの間の1907年の条約でコンゴが併合されたということを指摘したまでのこと
この点について、何が「歴史的事実とかなりかけ離れている」のか、むしろ説明してみてくれ
525日本@名無史さん:2011/03/04(金) 20:56:15.55 ID:jvhgwmPU0
>>523
ついでに言うなら、創始改名も韓国人の要請です。

 
526名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 20:57:05.77 ID:Re6oCj/30
開戦以来、 次々と占領地域を広げていった日本軍は、1942年(昭和17)5月1日にビルマ北部の中心都市マンダレーを占領し、
これにより南方進攻作戦は一段落した。日本軍は、西はビルマ、インドのアンダマン諸島、南はインドネシア、ニューギニア北部からソロモン諸島、
東はギルバート諸島、北はアリューシャン列島のアッツ、キスカ島にいたる広大な地域を占領下においた。
また中国では農村部までは十分な支配をおこなえなかったものの要衝部を占領していた。
1942年8月にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸し反攻を開始してから太平洋の島々、
44年から45年にかけてフィリピンを、また西からは45年にイギリス軍がビルマを奪回したが、多くの地域は最後まで日本軍の占領下におかれた。

日本軍はこれらの占領地に軍政をしき、陸軍が香港、フィリピン、英領マラヤ、スマトラ、ジャワ、英領ボルネオ、ビルマを、
海軍がオランダ領ボルネオ、セレベス、モルッカ諸島、小スンダ諸島、ニューギニア、ビスマルク諸島、グアムなどを担当することとした
(「占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定」1941年11月26日)。

軍政については大本営政府連絡会議が基本方針を決めたが、
ここで日本・満州・中国と東経90度から180度まで、南緯10度以北の地域を「帝国指導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」と決定した
(「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」1942年2月28日)。
これらの地域がいわゆる「大東亜共栄圏」と呼ばれる地域である。
東条首相は42年2月の議会での演説の中で
「大東亜戦争ノ目標トスル所ハ我肇国ノ理想ニ淵源シ大東亜ノ各国家、
各民族ヲシテ各々其所ヲ得シメ皇国ヲ核心トシテ道義ニ基ク共存共栄ノ新秩序ヲ確立セントスルニ在ル」と所信を述べた。
しかし「南方占領地行政実施要領」にはっきりと見られるように、日本がこれらの地域を占領したのは
あくまで日本にとって必要な資源を獲得するためであって、
日本を中心とした秩序のなかで各地域の人々は、日本の必要に応じた役割を求められたにすぎなかった。

戦争時に占領地において占領軍が一般住民にたいして行政をおこなうことがあり、
これを占領地軍政、あるいは単に軍政という。ただ海軍の場合は民政と呼んだ。
1907年(明治40)に結ばれ、日本も批准していた「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(いわゆるハーグ条約)の付属書
「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」にはこうした占領地に関するいくつかの規定が含まれている。
そのなかには「占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、
成ルベク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為為シ得ベキ一切ノ手段ヲ尽スベシ」
「家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ、之ヲ尊重スベシ」
「掠奪ハ、之ヲ厳禁ス」などの内容が記されている。
占領軍といえどもその行動は戦時国際法によって制約されていた。

陸軍では軍政は陸軍省の管掌とされ、南方軍指揮下の各軍に軍政部がおかれた。
その後、初期の軍事作戦が一段落した1942年(昭和17)7月軍政組織の整備再編がおこなわれ、
南方軍総司令部(シンガポール)に軍政総監部(南方軍総参謀長が軍政総監を兼務)、
第14軍(担当地域フィリピン)・第15軍(ビルマ)・第16軍(ジャワ)・第25軍(マラヤ・スマトラ)
のそれぞれの軍司令部に軍政監部(各軍参謀長が軍政監を兼務)が設置された。
ボルネオ守備軍にのみ引き続き軍政部がおかれた。
海軍は海軍省に南方政務部が設置され、各地に民政部がおかれた。

軍政を施行するにあたっては「極力残存統治機構ヲ利用スル」(「南方占領地行政実施要領」)こととしたが、
主な部署には軍政要員が派遣された。軍人だけでなく各省から出向した官僚、金融機関や企業から派遣された者などからなっていた。
したがって軍政は軍のみでおこなわれたのではなく、警察・地方行政などを担当した内務官僚、
財政・経済施策を担当した大蔵・商工などの経済官僚が重要な役割をはたした。

軍人以外の軍政要員のために司政官という官職が設けられた。
司政長官、司政官、技師、警部などの軍政要員の定数は最終的に陸軍1万8465人、海軍7689人とされた。
ほかに軍政顧問が設けられ、各軍司令部に政財官の有力者が任命された。
行政の末端においては以前からの公務員など地元住民を使っていたことはいうまでもない。
527名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 20:57:53.57 ID:Re6oCj/30
軍政の最大の目的は重要資源の獲得のためであったが、
開戦直後の12月12日に関係大臣会議で決定された「南方経済対策要綱」では
「開発ノ重点ヲ石油ニ置」き、さらにニッケル、ボーキサイト、クロム、マンガン、雲母、燐鉱石、
その他の特殊鋼原鉱、非鉄金属などの開発を進めること、そのために「極力在来企業ヲ利導協力」させることとしている。
「一地点ノ資源開発ハ努メテ一企業者ノ専任トスルコト」などの原則のもとに担当企業が選定された。
これにより三井・三菱・住友などの財閥系企業や戦前からこれらの地域に進出していた石原産業などの企業が軍と結びついて進出していった。

日本が取得することを期待した資源は、大本営陸軍部が作成した「南方作戦ニ伴フ占領地統治要綱」(1941年11月25日)によると、
フィリピンからマンガン、クロム、銅、鉄鉱、マニラ麻、コプラ、
英領マラヤからボーキサイト、マンガン、鉄鉱、スズ、生ゴム、コプラ、タンニン材料、
英領ボルネオから石油、蘭印から石油、ニッケル、ボーキサイト、マンガン、スズ、生ゴム、キナ皮、キニーネ、ヒマシ、タンイン材料、
コプラ、パーム油、工業塩、とうもろこしとなっている。

最も重要視されていた石油について見ると、
北ボルネオのミリ、スマトラのパレンバンなどの油田を占領後ただちに復旧し、原油生産は1942年2594バレル、43年4963バレルと拡大した。
日本への輸送も42年167万キロリットル(生産量の40パーセント)、43年230万キロリットル(29パーセント)となった。
しかし43年になると米潜水艦による船舶の喪失が急増し、船舶不足が深刻になった。
そのため44年の内地還送量は約80万キロリットルに激減した。
また連合軍による空襲により生産にも支障をきたすようになった。
ほかの鉱物資源の開発も同様の状況であった。

日本軍は占領地に軍票を流通させた。
日本軍は開戦前から現地通貨表示の軍票(蘭印ではギルダー、マラヤではドル、フィリピンではペソなど)を準備し、
占領とともに現地通貨と等価で流通させた。当初の計画では、軍政が順調にいけば軍票を回収し現地通貨のみに戻す予定だったが、
実際には軍票の発行が急増していった。

1942年3月に占領地の資源開発、為替管理、敵産管理などを目的とする南方開発金庫が設立された。
1943年1月南方開発金庫に発券機能が付加され、4月より南方開発金庫券(南発券)を発行しはじめた。
これは軍票ではないが実際には軍票と同じようなものだったので、一般には軍票と思われていた。
外部との交易関係が断たれ、物が不足するなかで、物資を調達するために南発券が乱発された。
発行高は1942年12月に4億6326万円だったのが、44年末には106億2296万円、45年8月には194億6822万円と急増していった。
日本が中国で発券した儲備券の場合は1941年末の2.4億元から44年末には1397億元、45年8月には2兆6972億元にも達した。
この結果、すさまじいインフレが引き起こされた。
シンガポールの物価指数は開戦時の1941年12月を100とすると翌年12月には352、44年12月には1万0766、45年8月には3万5000と350倍になっている。
特に米は開戦時、60キロが5ドルだったのが、45年6月には5000ドルと一千倍にもなっている。

日本軍の軍政を財政的に支えた一つが阿片だった。
イギリスなど旧宗主国も阿片を植民地支配のために利用していたが、日本軍はそれを一層拡大した。
太平洋戦争の勃発によりインドからの阿片の輸入が途絶えたため、日本のかいらい政権のあった中国の蒙疆を阿片の生産地として「大東亜共栄圏」の阿片供給をはかった。
シンガポールは阿片の精製と包装をおこなって周辺地域に阿片を供給する役割をはたした。
日本軍は阿片の専売制をとり、第25軍の1942年度の第一、第二四半期の予算では全経常部歳入の50パーセント以上が阿片収入によることになっていた。
阿片は主に華僑の苦力(クーリー)によって使用されていたが、こうした阿片政策は「大東亜共栄圏」の一面を示していた
528名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 20:59:52.48 ID:Re6oCj/30
東南アジアの諸地域はイギリス、フランス、オランダなどの宗主国やアメリカとの間で世界的な貿易のネットワークを作っていた。
また1930年代になると中国や日本の軽工業製品も入ってきていた。
たとえば英領マラヤでは、輸出品としてはゴムとスズが中心だった。
開戦前、ゴムは世界総生産の約4割、スズは約三分の一を占める、マラヤの二大産業だった。
輸出先は圧倒的にアメリカだった。輸入品としては、シンガポールが中継・加工貿易の拠点であったことから、
石油(蘭印、英領ボルネオから)、ゴム(蘭印)、スズ(蘭印、タイ)、米(タイ)などを輸入していた。
要するにゴム、スズのマラヤの特産品と蘭印などから輸入した原材料を中継あるいは加工してアメリカに輸出し、
食糧はタイなど周辺地域から、工業製品はアメリカやイギリスから輸入するという構造になっていた。

蘭印の場合は、石油などの鉱産物やゴム、キナ皮、コショウ、コプラなどの農作物を輸出し、
工業製品を輸入するという構造であった。輸出先は、アメリカ、オランダ、イギリス、日本などである。
シンガポール向けも多いが、これはすでに述べたようにそこを経由して上記の国々に輸出されていた。
輸入はアメリカ、オランダ、日本などからである。

フィリピンの場合は、輸出入ともにほぼ全面的にアメリカに依存していた。
砂糖、ココナッツ製品、マニラ麻などをアメリカに輸出し、工業製品をアメリカから輸入するという構造で、
貿易に占めるアメリカの比重は1930年代には70%台にもなっていた。
フランス領インドシナはフランス本国と、ビルマはイギリス、インドと密接に結びついていた。

このように東南アジアはその域内ならびにアメリカ、イギリスなどの先進工業国と深い交易関係を結んでいた。

日本とこれらの地域との関係は、1930年代においてはフィリピンにとっては輸出入ともに日本はアメリカについで第2位、
タイと蘭印にとって輸入で第2位の位置をしめていた。 ただその比率は大きくても十数パーセントにすぎなかった。
日本からの輸出品は綿織物を中心とする繊維製品であり、ほかに雑貨類や加工飲食料品などを含めて、消費財の軽工業品が圧倒的な比重を占めていた。
日本の輸入品は生ゴム、石油、鉄鉱、マニラ麻などの燃料・原料が中心であった。

日本軍による占領によって、東南アジアと外部地域との交易関係は断たれ、また東南アジア内の交易関係も寸断された。
日本にはこれらの地域の産物をすべて引き受け、またこれらの地域で必要な工業製品を供給する力はなかった。
日本国内でも日中戦争開始以来、物資不足が深刻化し、食糧や衣類などの配給制、切符制が実施されるようになっていた。
軍需生産のために、国民にとって必要な物資さえも満足に供給できなくなっていたのであり、
広大な「大東亜共栄圏」に工業製品を供給することははじめから不可能であった。

ゴム、砂糖、コーヒーなどの輸出品は輸出先を失い、そこで働いていた労働者は職を失った。
必要な工業製品は入ってこなくなった。
そのうえ日本軍は「現地自活」方針をとって駐留する日本軍に必要な食糧や物資を現地調達したために物不足は深刻になり、
軍票の乱発とあわさってひどいインフレに陥った。

日本は1943年後半よりこの地域で必要な工業製品を地元で生産する方針に転換したがうまくいかなかった。
食糧を輸入に頼っていたマラヤ、フィリピンなどでは食糧自給のために商品作物から米やとうもろこしへの転換が図られたが、
日本軍に食糧を供出させられたこともあり、深刻な食糧不足に陥った。
食糧の多くを輸入に頼っていたマラヤでは人々はさつまいもやタピオカを作った。
タピオカはキャッサバから作ったでんぷんであり、マレーシアでは日本占領時代が食糧難の時代であったことから「タピオカ時代」と呼んでいる。

食糧問題で最も深刻だったのはベトナムだった。
ベトナム北部では1944年末から45年にかけて、100万とも200万人とも言われる多数の餓死者を出した。
タイビン省だけの調査でも人口100万人のうち約28万人が犠牲になった。
この原因としては、日本軍による強制的な食糧の徴発、水田を潰して軍事物資であるジュート(黄麻)への作付けの転換を強制したこと、
戦況の悪化などの理由により南部のデルタ地帯からの米の輸送が途絶えたことなどが指摘されている。
529名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 21:00:35.86 ID:Re6oCj/30
東南アジアには多様な民族が混在していた。それらの民族間の違いや矛盾を日本軍は利用しようとした。

英領マラヤ(マレー半島とシンガポール)はもともとはマレー人の地であったが、
彼らは主に米作などの農業に従事し人口も少なかった。
そこで19世紀以降、植民地化したイギリスが労働力不足をおぎなうために、スズ鉱山の労働者として中国人を、
ゴム園の労働者としてインド人を連れてきた。特に19世紀末から20世紀にかけて、缶詰の普及によるスズ消費の拡大、
自動車生産にともなうゴム消費の拡大はこうした移民に拍車をかけた。
移民してきた中国人はスズ鉱山にとどまらずゴム園や商業にも進出し、マラヤ経済に強い影響力をもつようになった。
そしてついに人口でもマレー人を追い越すにいたった。
インド人は少数派であったが商業や金融業にも進出していった。1941年6月末の推定によると、マラヤの総人口552万0275人、
うち中国人238万2529人、マレー人228万3930人、インド人74万4430人、欧州人・欧亜混血人5万0836人、その他5万8550人となっている。

宗教については、マレー人はイスラム教、中国人は仏教や道教、インド人はヒンズー教やシーク教というように民族ごとに異なっており、
住居も民族ごとに住み分けられていた。一般的に言えば、中国人はマレー人より自分たちの方が優れているという意識が強く、
一方、マレー人は自分たちの土地なのに後から来た中国人の経済力が強いことに反発を感じているという傾向がある。
ただ戦前までは職業的にも地域的にも住み分けがおこなわれていたこともあってその対立はあまり表面化していなかった。

中国人は中国を祖国と考え、インド人はインドを祖国と考えていた。
これらの地域に住む中国人を当時は華僑と呼んでいたが、その言葉には今住んでいるところはあくまでも仮の住まいであって、
いつの日か一旗あげて郷里に帰ろうという意識を持った人たちという意味が込められている。
ただ戦後は住んでいるところが祖国であるという意識に転換し、華人と呼ばれるようになっている。

マレー人は各地のサルタンを政治的宗教的に支配者として仰ぎ、マレー人としてのナショナリズムはまだ未成熟だった。
こうした事情からマラヤの民族運動は周辺地域に比べて未発達だった。
マラヤを植民地にしたイギリスもこれを利用して分断統治をおこなった。

1931年(昭和6)の満州事変、特に1937年(昭和12)の日中戦争の開始以来、東南アジア各地の華僑は抗日救国運動を展開、
中国への義援金募集・日貨排斥(日本製品のボイコット)・抗日宣伝などをくりひろげた。
この運動の中心になったのがマラヤ、特にシンガポールの華僑だった。
たとえば重慶政府が発表した海外華僑からの献金総額2億9400万円(1937年7月から40年10月)のうち1億2500万円(42.5%)が
マラヤの華僑からのものだった。こうしたことから日本軍はマラヤ華僑全体を「抗日的」と見なした。
マラヤの占領とその後の軍政を担当した第25軍が作成した「華僑工作実施要領」によると、
「占領直後ノ応急要領」として「服従ヲ誓ヒ協力ヲ惜シマザルノ動向ヲ取ル者ニ対シテハ其ノ生業ヲ奪ハズ権益ヲ認メ
然ラザル者ニ対シテハ断乎其ノ生存ヲ認メザルモノトス」とし、さらに「第一期作戦終了直後ニ於ケル対処要領」として
「協力ニ参加セザル者ニ対シテハ極メテ峻厳ナル処罰ヲ以テ処理ス 即チ財産ノ没収、一族ノ追放、再入国ノ禁止ヲ行フト共ニ反抗ノ徒ニ対シテハ極刑ヲ以テ之ニ答ヘ
華僑全体ニ対スル動向決定ニ資セシム」ときわめて厳しい姿勢を打ち出している。
また「華僑全体ニ対シ最低五千万円ノ資金調達ヲ命ズル」としている。

この政策の表れがシンガポールやマレー半島各地での華僑虐殺であり、
また5000万円(ドル)の献金の強制だった。1942年4月献納の予定で5000万円の目標額がマラヤの各州ごとに割り振られたが、
なかなか集まらず、2200万円を横浜正金銀行から借入れ、6月に献納式がおこなわれた。
第25軍軍政部の4〜6月期の経常部歳入(予算)が294万ドルであることと比較すると膨大な金額であることがわかる。

こうした残虐行為を含む華僑に対する強硬策は華僑の反発を強め、華僑主体の抗日運動を激化させ、
また経済的実力を持つ彼らの協力を調達することを困難にしてしまった。
530名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 21:01:31.98 ID:Re6oCj/30
一方、マレー人に対してはどうだったのか。
すでに開戦前に日本は急進的な青年らによる民族運動であるマレー青年連盟(代表イブラヒム・ヤコブ)と接触して反英宣伝のために資金を提供し、
開戦後はマレー進攻作戦のなかで、政治工作を担当した藤原機関がかれらと接触、マレー人に対する宣伝工作などをおこなわせて日本軍に協力させた。
こうしたなかで青年連盟の幹部らは「マラヤ共和国」の樹立を提案したが日本軍に拒否され、さらに民族運動を行なう政治結社として認めることを求めたが
日本軍は文化団体としてのみ認めた。日本軍のそうした姿勢にもかかわらずマレー青年連盟は各地で急速に勢力を伸ばし、戦前は200〜300人程度しかいなかったのが、
日本軍のマラヤ占領後二カ月で1万人を越えるに至った。ところが日本軍は1942年6月青年連盟を解散させた。
日本軍はマレー作戦を有利にするために青年連盟を利用したが民族運動としてさえも認めず、勢力が拡大するとそれを危険視して解散させてしまった。
ここに東南アジア支配の拠点であるマラヤでの民族運動に対する日本軍の姿勢がはっきり示されている。

その後、戦局が日本軍に不利になってきた1943年12月、日本軍を補うためにマレー人を組織して義勇軍と義勇隊を編成した。
この時、青年連盟の代表であったイブラヒムを義勇軍の指揮官に就任させた。
しかしイブラヒムなどの青年連盟の幹部たちは密かに各地の抗日ゲリラと連絡をとり、さらにイギリス軍がインドから送り込んできた136部隊とも連絡をとって、
連合軍がマラヤに進攻してきたときに内部から呼応して日本軍と戦う準備をおこなっていた。
かれらは裏切った日本軍をけっして信用しなかったのである。

こうしたことは東南アジア各地でも見られた。

ビルマでは、民族主義団体のタキン党(主人を意味する)が第二次世界大戦が始まるとイギリスへの協力を拒否して弾圧されていた。
日本軍の謀略機関だった南機関はタキン党の活動家30人を脱出させ海南島で軍事訓練をおこないビルマ独立義勇軍を編成させた。
南機関はビルマを独立させると約束してかれらを日本軍に協力させ、日本軍とともにビルマに進攻させた。
ところがビルマを担当した第15軍の「占領地統治要綱」(1942年3月15日)では、
「緬甸ニハ将来独立政権ノ樹立ヲ考慮セラルルモ之ガ実行ハ差シ当リ大東亜戦争終了後ト予想ス
従ヒテ将来ニ対スルノ処理ニ関シテ当分之ニ触レザルモノトス」というように「独立」問題を戦争終了後に先送りし、
差当りは独立の言質を与えないという方針をとった。こうしてビルマを占領した日本軍は独立を与える約束を反故にし、
軍政を開始するとともに、2万人以上になっていた独立義勇軍を解散させ、3千人ほどのビルマ防衛軍に縮小改編させた。

1943年8月日本はビルマに独立を与えたが、首相にはタキン党から登用せず、
タキンの指導者アウンサンは国防相になった。アウンサンは地下で抗日活動をおこなうグループと連絡をとり、
44年8月ビルマ国軍、共産党、人民革命党などとともにファシスト打倒連盟(のちに反ファシスト人民自由連盟パサパラ)を組織した。
そして翌45年3月連合軍がインドからビルマに進撃してくると、それを迎え撃つという名目でラングーンを出撃した後、
反転して連合軍とともに日本軍を攻撃、5月にはビルマ国軍の手で首都ラングーンを日本軍から奪い返した。

日本軍はビルマ進攻にあたって、民族主義運動を利用したが、勝利を得ると途端に約束を反故にした。
後に彼らに頼らざるをえなくなり再度登用するが、彼らはもはや日本軍を信用することはなかった。
531名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 21:02:14.57 ID:Re6oCj/30
日本軍が占領した地域を日本の領土にしてしまうのか、それとも独立させるのか、
それは日本の戦争目的に直接関わる、きわめて大きな問題であった。

シンガポール占領前日の1942年2月14日大本営政府連絡会議はシンガポールを昭南島に改称することを決定し17日に発表した。
これはシンガポールを日本の領土とすることの意思表示とも見なされうるものだが、
将来の帰属についてしばらくは公にはされなかった。

1943年1月14日大本営政府連絡会議は「占領地帰属腹案」を決定した。
このなかで「大東亜防衛ノ為帝国ニ於テ確保スルヲ要スルヲ必要トスル要衝並ニ
人口稀薄ナル地域及独立ノ能力乏シキ地域ニシテ帝国領土ト為スヲ適当ト認ムル地域ハ之ヲ帝国領土ト」すること、
「従来ノ政治的経緯等ニ鑑ミ之ヲ独立セシムルコトヲ許容スルヲ大東亜戦争遂行並ニ大東亜建設上得策ト認ムル地域ハ之を独立セシム」ことという「基準」を定めた。
そして後者の「基準」によりビルマとフィリピンに独立を与えることとし、その他の地域については「追テ定ム」と決定を留保した。

ビルマに関しては、すでに1937年にイギリスがビルマをインドから分離し、
ビルマ人の自治政府を組織させていたこと、日本軍のビルマ進攻にあたって、
民族運動家に独立の約束をしてビルマ独立義勇軍を組織させて日本軍に協力させたにもかかわらず、
占領後はその約束を反故にして軍政をしいたが、連合軍の反攻に備えて彼らの協力が再び必要になったことなどの事情が背景にあった。
フィリピンについては、1934年アメリカは10年間の準備期間をおいてフィリピンの独立を与えることを決定した。
これに基づいて憲法が制定され、総選挙を経て1935年フィリピン・コモンウェルス政府が発足し、1946年には独立することになっていた。
ここに日本軍が入ってきたので、建前上、独立を認めざるをえなかった。

しかしこの独立は実質的には「独立」の名に値しないものであった。
ビルマに対しては、 軍事的には「帝国トノ間ニ共同防衛ヲ約セシメ兵力ノ駐屯、軍事基地使用及設定等ヲ認メシメ特ニ軍事的結合ヲ鞏固ナラシム」、
「外交」では「緊密提携」、「経済」では「緊密協力」を「約セシム」ことを条件とし、
フィリピンに対してもほぼ同様の条件を規定している。この内容は言い換えると外交・経済は実質的に日本が掌握し、
軍事的にもフリーハンドを確保しようとするものであった。

1943年2月1日の衆議院秘密会において南方の軍政状況を説明した佐藤賢了陸軍少将は
「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、
率直ニ申シマストサウデアリマス」と述べている。要するに「独立」しても軍政下にあるのと変わらないということであり、
このような条件下ではとうてい「独立国」といえるようなものではなかった。

この方針に基づき1943年8月1日ビルマが、10月14日フィリピンが「独立」した。

その他の地域の扱いについては、1943年5月31日の御前会議で決定された。
ここで決定された「大東亜政略指導大綱」によると次のようになっている。

六 其ノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム 但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セズ

(イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム

(ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応ジ努メテ政治ニ参与セシム

(ハ)「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム

(ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス

つまり現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアにあたる地域は日本の領土にするということである。
さらにニューギニア(現在、西部はインドネシア、東部はパプア・ニューギニア)などについて、
ここでは決定していないが日本の領土にするという方向で考えていくことも決められている。
しかもそうしたことは秘密にされた。

このことは日本が東南アジア諸国を欧米帝国主義から解放し独立を与えようとしたのではなく、
石油などの重要資源があり戦略的にも重要な地域は日本の領土にし、
日本が欧米に代わって新たな支配者になろうとしていたことを明確に示している。
532名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 21:02:58.92 ID:Re6oCj/30
この御前会議の決定のなかで同年10月下旬ころに大東亜会議を開催することが決定された。

1943年6月大本営政府連絡会議はマレー北部の4つの州、ペルリス、ケダ、ケランタン、トレンガヌをマラヤから取り上げ、タイに割譲することを決定した。
タイの日本に対する戦争協力を確保するためにとった処置であり、同年10月にこの4州はタイに移譲された。
しかし、これら4州はマレー人の多い地域であり、マラヤのマレー人にとっては日本への反発を与えることになった。

1943年11月5〜6日に東京で大東亜会議が開催された。
この会議には、日本から東条首相、国民政府の汪兆銘行政院長、満州国の張景恵国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバ・モー主席、
タイのワン・ワイタヤコン首相代理、自由インド仮政府のスバス・チャンドラ・ボース首班が出席した。
タイは首相を派遣せず、朝鮮、台湾、マラヤ、インドネシア、インドシナからの代表はいなかった。

会議では「大東亜共同宣言」を決議した。
この中には「大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放」「道義ニ基ク共存共栄」「自主独立ヲ尊重」などの言葉がもりこまれた。
これには連合国の理念として反ファシズム・民主主義を打ち出した大西洋憲章に対抗して
日本側の理念を出そうとする重光葵外相のねらいがあった。しかし日本の本音は必要な領土の拡張であり、
また日本軍による占領の実態はこうした美辞麗句とは正反対であった。

インドネシアに関しては、1944年9月小磯首相は議会で、将来独立を認める旨の演説を行なった。
すでにサイパンが陥落し、米軍のフィリピン攻撃が日程に上ってきていた段階であり、インドネシアからの資源の日本本土への輸送はほとんど分断され、
軍事的にも重要性を失っていた。その後、戦争最終盤の1945年7月17日になって最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議が改編されて設置された機関)が
「東印度」(インドネシア)に独立を与えることを認めた。しかし独立が実現する前に日本は降伏した。

インドネシアと同じく日本の領土と決定したマラヤについて、外務省内で独立問題について検討がなされたが、
結局、独立には困難があるとして見送っている。したがってマラヤに対しては最後まで独立を付与することはなかった。
533名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 21:03:42.28 ID:Re6oCj/30
すでに植民地であり日本の領土であった朝鮮や台湾ほどには徹底していなかったが、
それら植民地と同じような皇民化政策が東南アジア各地の占領地においてもおこなわれた。
シンガポールでは、日本軍占領時代(昭南時代)の祝祭日として2月11日紀元節、
2月15日マレー新生記念日(シンガポール陥落の日)、3月10日陸軍記念日、4月3日神武天皇祭、
4月10日靖国神社例祭、5月27日海軍記念日、11月3日明治節、12月8日大東亜聖戦記念日など、
天皇にちなんだ日本の祝日や戦争に関わる日が記念日として導入された。
学校での日の丸掲揚、君が代斉唱、宮城遥拝、教育勅語の奉読などもおこなわれた。
学校で日本語が教えられただけでなく、一般住民に対しても日本語が奨励された。
シンガポールの日本軍の宣伝班の発行した新聞『建設戦』(1942年4月29日)は「日本語普及運動宣言」と題して、
マラヤとスマトラの住民に対して、「軍司令官閣下の談話に示された通り、
両地区の住民は悉く、天皇陛下の赤子に加えられたのである。
大日本帝国の有り難き国体を彼等住民に理解させることは、新領土に駐屯する全皇軍兵士にとって尊き責務である。
そのためには、まず国民たるの資格として、彼等に日本語を学ばしめ日本語を使わせなければならない。
(中略)国旗のひらめく所、言葉もまた日本語に満ち溢れなければならなぬ。
かくして馬来もスマトラ島も真底から日本の一角となるのである」と呼びかけている(桜本富雄『シンガポールは陥落せり』青木書店)。
ここには人々の独自の文化や言語を尊重しようとする発想はまったくなかった。

ただ長年にわたって植民地支配を行なってきた朝鮮や台湾と違って、
日本語を公用語として強制することまではできなかった。
マラヤでは、1943年11月「敵性国語駆逐」を実行するとして、軍政組織が使う言葉を43年6月までに日本語のみにすることを決めた。
しかし住民が日本語の読み書きをほとんどできないのに日本語しか認めないと行政ができないとの声が軍政担当者からもあがり、結局うやむやになった。

現在でも戦時中に小学校教育をうけた人のなかには、唱歌を歌える人がよくいる。
日本語として覚えられている言葉は「バカヤロウ」や「ケンペイ」という言葉である。
大量の労務者が動員されたインドネシアでは「ロウムシャ」という言葉が今も残っている。
こうした言葉ばかりが残っているところに当時の日本軍と地元住民との関係が示されている。

日本軍は戦争遂行のために労働力の動員をはかった。
特に人口が多く、かつての輸出産業が衰退して仕事を失った労働者が多いジャワ島が労務者供出の重要なターゲットになった。
ジャワからはマラヤ、スマトラ、ボルネオ、タイなどに連行され、そのロウムシャの数は約30万人、うち7万人が犠牲になったと言われている。
ジャワ島内も含めるとロウムシャの数は400万にのぼるとも言われている。
534日本@名無史さん:2011/03/04(金) 21:03:50.97 ID:jvhgwmPU0
>>523
韓国人と日本人は、戦前は同じ民族であったのですよ。同じ相手と戦った戦友です。
韓国の方に理解してほしいのは、日本と韓国とは戦争をしたことはない。

 戦争をしていないのに戦後保障とは、理解できない。
 同じ戦線を歩んだ仲間であるから。

 当時の大日本帝国軍には韓国人に高級将官もおられた。
 かれは、なんと言ったのか。韓国人だから厳罰すると言われ、
 「我は大日本帝国軍人である、日本軍人に変わりない」と

 誰かは、調べれば解る事です。
535名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 21:04:25.98 ID:Re6oCj/30
泰緬鉄道の建設にあたっては捕虜だけではなく、民間のロウムシャも大量に使用された。
ここにはビルマ、タイ、マラヤ、ジャワなどから20万人以上が投入され、
少なく見積もっても4万2千人、イギリスの資料では約7万4千人が死亡した。
ビルマでは、ビルマ軍政監部がビルマ民政府にロウムシャの供出を命じた。
勤労奉仕隊として17万7300人が各地方に割り当てられてロウムシャとして狩り出されたが、
その半数は途中で逃げ出したと見られている。マラヤでも地方ごとに割り当てられたが、
建設現場のひどい状況がうわさで広がってくるとなかなか集められなくなった。
すると強引なロウムシャ狩りや騙して集める方法もとられた。

泰緬鉄道の建設現場では、厳しいジャングルのなかでの激しい労働と栄養失調、医薬品の欠乏によって多くが犠牲になった。
死んだものは大きな穴を掘って、そこに捨てられわずかに土がかぶせられただけだった。
あまりのひどさにビルマ政府は日本軍に待遇改善を求めたが効果はなかった。

当時、シンガポールの昭南博物館で働いていたコーナー氏はジャワからシンガポール経由で連行されてきた
インドネシアのロウムシャの模様を次のように書いている(E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館』中央公論社)。

「彼らはタイへ船で輸送されたが、その船は途中シンガポールに立ち寄った。
航海は二週間であったが、それに耐えられないような年寄り、障害者、病気のジャワ人たちは船から吐き出された。
それで、博物館と私たちの住んでいた旧セント・アンドリュー・スクールのあいだの空地に、彼らを収容するためのバラックが建てられた。
彼らはよたよたと生気のない足どりで歩きながら、そのバラックにはいっていった。
航海中に死んだ者も少なくなかった。そういうときには、死体を米袋に入れ、生き残った仲間が海に捨てた。
米袋は穴だらけであったから、穴から手や足が突き出ていた。
バラックのなかでもたくさん死んだが、やはり死体を米袋に入れて、海へ投げ捨てていた。
(中略)女性については、若くてきれいだと、カトンの近くにある兵営に売春婦として送られた。
そこで、彼女たちが『助けて、助けて』(マレー語)と助けを求めて泣き叫ぶ声は、通行人の心を引き裂いた。」

カトンには日本軍の慰安所があり、ロウムシャとともに女性が慰安婦として連行されてきたことを示している。

東南アジアの住民とは言えないが、英軍兵士としてシンガポールで日本軍の捕虜となったインド人が約6万7千人いた。
これは捕虜になった英軍の約半数にあたる。かれらの一部は日本軍が組織させたインド国民軍に加わるが、
一部は日本軍の労働力として東南アジアや太平洋諸島に連れて行かれ、日本軍の飛行場や陣地の建設に使われた。
連合軍の反撃のなかで犠牲になっただけでなく、連合軍の上陸が迫るとスパイをしたり寝返ったりするのではないかと疑いをかけられ、
日本軍によって処刑されたケースを多かった。

香港では強制移住政策がとられ、占領当初の人口約150万人は45年には50〜60万人にまで減少した。
その一部は海南島での日本窒素による鉄鉱石の開発にために連行され、多くの犠牲を出した。
536名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 21:05:17.79 ID:Re6oCj/30
太平洋戦争の開始前から日本軍は占領地での慰安所設置を計画していた。
すでに1941年7月陸軍省内の会議で蘭印調査から帰ってきた深田軍医少佐が
「村長に割当て厳重なる検梅の下に慰安所を設くる要あり」と報告し、
しかも村長に事実上、強制的に集めさせることを提案している。
42年9月の陸軍省の会議では、慰安所について、
「北支100ケ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ケ所」を作ったと報告されている
(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。

マレー進攻作戦においては、その作戦中から慰安所の設置がおこなわれた。
占領後、42年夏ころまでにはマレー半島の日本軍が駐留していた主な町に慰安所が設置された。
その町の数は30以上にのぼると見られる。

東南アジアでは朝鮮や台湾、日本本土から連れてこられた女性もたくさんおり、
また中国本土の女性もビルマなどに連れてこられている。しかし東南アジア地域の日本軍慰安婦の多くは
現地の女性であったと推定されている。東南アジア各地での日本軍慰安婦の徴集方法の特徴は次のように整理できる。

第一にマラヤでは残っていた元からゆきさんに慰安婦集めを委託したケースである。
クアラルンプールでは日本軍の兵站の担当者が市内に残っていた元からゆきさんたちを集めて慰安婦集めと慰安所の管理を任せた。

第二に新聞などで募集したケースがある。
シンガポール占領直後に日本軍の宣伝班のもとで刊行された新聞『昭南日報』には「接待婦」(慰安婦)を募集する宣伝が掲載されている。
この場合、応募してきた女性は仕事の内容を承知していたと見られるが、その場合でも想像を越える過酷な扱いを強要されたケースもある。
たとえば、シンガポールのある慰安所では、応募してきた女性が「予想が狂って悲鳴をあげ」拒否したのに対して、その女性の手足をベットに縛り付けて、
「慰安」を強制したことを当時の将校が証言している(総山孝雄『南海のあけぼの』叢文社)。

第三に日本軍が駐留する地元の住民組織の幹部に慰安婦集めを命じたケースである。
マレー半島の町クアラピラーではそうして女性18人を集めさせて将校用と兵士用の慰安所を設けている。
この方法はインドネシア、フィリピンなど各地でおこなわれている。

第四に詐欺による募集である。いい仕事があるから、事務員やタイピスト、看護婦にするからというような口実で集めて、
結局は強姦してから慰安婦にするというケースである。第一〜第三の場合もこの詐欺による場合が多かったのではないかとみられる。

第五に暴力的な拉致によるケースである。
日本兵が家に押し入り、暴力的に若い女性を拉致し、兵士たちが輪姦した後に慰安婦にした例はフィリピンで数多く報告されているが
インドネシアやマラヤでもそうした事例が報告されている。
537名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 21:05:30.41 ID:3sayLaWH0
ID:jvhgwmPU0 さんよ

>ベルギーのコンゴ領有を、併合と言う君の感覚については、疑問を持ちます。
というから、ベルギーとコンゴの間の1907年の条約でコンゴが併合されたということを指摘したまでのこと
この点について、何が「歴史的事実とかなりかけ離れている」のか、むしろ説明してみてくれ

の回答はまだ?
538日本@名無史さん:2011/03/04(金) 21:10:09.61 ID:jvhgwmPU0
 インドネシアの独立記念碑には、日本軍人が脇を固めていますよ。
インドネシアの独立は、スカルトを初め多くのインドネシア人が成し得た功績で、日本軍人は切欠を与えたに過ぎない。
インドの独立記念の碑にも少なからず使われている。

 民族には民族の歴史を認めなければならない。

 其れを認めない国が今もあることは事実なわけで。

 Re6oCj/30さん。歴史の教訓を見据えてください。
539日本@名無史さん:2011/03/04(金) 21:11:51.48 ID:jvhgwmPU0
 >>537
君の理解力はどうかしている。既に書いていますよ。
その条約後に、アフリカがどうなっていますか?と
540名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 21:11:58.03 ID:3sayLaWH0
>>538
ID:jvhgwmPU0 は話拡散させるなよ
早く答えろよ

で、おまいのこの行動パターンって、糞コテのチロ●リアンに似てるなあw
541名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 21:14:10.66 ID:3sayLaWH0
>>539
ははあ、つまり

>>515で言った
> ベルギーのコンゴ領有を、併合と言う君の感覚については、疑問を持ちます。
は、君のただの勉強不足に基づく間違いのカキコだったってことでよろしいわけだな

コンゴはベルギーに1907年の条約で併合された
世界史年表にも書いてある基本的事実だしな
542名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 11:36:18.51 ID:j2Ml4Jgh0
徴集にあたって、物理的な暴力が使われていない場合でも連れてきた女性を慰安婦にさせる時に強姦がおこなわれ、
彼女たちの自由が奪われるケースが一般的であった。
また東南アジア地域での徴集の特徴としては、占領地の住民に対する一連の残虐行為の中で、
あるいは並行して慰安婦集めがおこなわれたことである。植民地朝鮮や台湾では、
日本が植民地支配のもとで育てた人身売買のシステムを利用して女性を集めることができたが、
東南アジアのような占領地では、中国での占領地と同じように、軍による暴力・強制力がむき出しになる傾向が強かった。

中国での事例としては、山西省盂県で、日本軍が女性たちを拉致して連行し、
監禁してくりかえし強姦をおこなったことが知られている。
その部隊は独立混成第四旅団傘下の部隊であった。独立混成第四旅団はのちに第六二師団歩兵第六三旅団となり沖縄に派遣され、
ほとんどが戦死している。沖縄戦における日本軍の沖縄県民に対する行動は、こうした日本軍占領地における行動と密接に結びついている。

また戦争末期の1944年以降、ジャワの女性がマラヤやボルネオなどに慰安婦として連れて行かれている。

地元の女性ではないが、インドネシアで日本軍に抑留されていたオランダ人女性200〜300人が慰安婦にさせられている。
慰安婦にさせられた女性は、日本の公文書、日本側と地元の証言・回想録などから判明しているかぎりでは、
日本人、朝鮮人、台湾人、中国人のほかにマレー人、華僑、タイ人、フィリピン人、インドネシア人、ビルマ人、ベトナム人、インド人、
ユーラシアン(欧亜混血)、オランダ人、その他太平洋諸島の島民があげられる。
まだ資料的には確認されていないが、ラオス人、カンボジア人も慰安婦にされていた可能性は大きい。

慰安所における状況は、軍の上級機関が管理し、業者に経営をさせていたケース(大都市に多い)、
警備隊が直轄しているケース(小都市に多い)などによって異なるが、総じて自由を拘束され、
軍人に対する性的「慰安」の提供を強要された。

日本軍兵士による地元女性に対する強姦事件も多かった。
被害者やその目撃者の証言も多いが、陸軍中央でもそのことは問題になっていた。
陸軍省の会議ではとくにフィリピンで日本兵による強姦が多いことが問題にされていた。
1942年8月になっても「南方の犯罪610件。強姦罪多し。シナよりの転用部隊に多し」と報告されている。
こうした事態に対して、軍中央は慰安所の開設・増設によって対処しようとしたのであるが、
1943年2月の会議でも、これは東南アジアだけのことではないが、「強姦逃亡等増加せる外将校の犯罪増加せることに注意を要す」
と報告されている(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。

占領地の女性に対する強姦は慰安所の設置によってもなくならなかった。
慰安所という性暴力のシステムと強姦という性暴力は並行して占領地の女性に向けられたのである。
543名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 11:37:02.27 ID:j2Ml4Jgh0
日中戦争の開始以来、強化されていた皇民化政策は太平洋戦争開始後もさらに推し進められ、
そのうえにたって軍事動員が推進された。朝鮮ではすでに1938年(昭和13)に陸軍特別志願兵制度が導入されていたが、
1943年には海軍にも同じ制度が導入された。同年には朝鮮青年特別練成令が公布され、青年の軍事訓練が義務づけられた。
さらに日本の兵力不足を補うために43年8月朝鮮にも兵役法が施行された。翌年4月から徴兵検査が開始され、
敗戦までに20万9000人が徴兵され、うち復員したのは9万7000人だけであった。

労働力不足を補うための朝鮮人強制連行は1939年の「募集」形式から、
42年には、朝鮮総督府と朝鮮労務協会が各地方行政機関に人数を割り当てて労働者を集め、
日本企業に引き渡す方式である「官斡旋」方式、44年国民徴用令の適用による「徴用」と強制の度合いが強められた。

徴用令によって軍属として徴用された者も多く、一部は捕虜収容所の監視員として南方に送られた。
彼らは捕虜と直接接する機会が多かったために戦後、捕虜虐待の責任を問われ戦争裁判で罰せられた者が多い。
あるいは軍夫(軍のための雑役夫)として各地に送られ、戦闘に巻き込まれて戦死したり、沖縄ではスパイ容疑で日本軍によって殺されたケースも多かった。

日本本土をはじめ南方、沖縄、サハリンなどに強制連行された朝鮮人の数は100万人を越えると見られている。
それ以外に日本軍の慰安婦として連行された女性も多い。

台湾でも、日本語の使用と神社参拝の強要、改姓名という日本式の氏名への変更の強要、
志願兵制から徴兵制の導入など朝鮮と同じような政策がおこなわれた。動員された軍人・軍属は約20万人余りに上り、
うち約3万が戦死した。日本軍慰安婦も徴集されボルネオなど南方に連れて行かれた。

満州では日本の兵站基地として石炭や鉄など重要物資の生産が図られた。
すでに満州では軍部主導の産業開発が進められていたが、太平洋戦争が始まると鉄鉱、石炭、液体燃料、軽金属、
農産物などの軍事物資の日本への供給の増大する方針をとった。炭坑や鉱山などでは中国人労働者が酷使され多くの犠牲を出した。
満州を代表する炭坑である撫順炭坑では強制連行した中国人の使用を含めて、労働強化がはかられ、
1942年だけで1万人以上と推定される死亡者がでた(上羽修「撫順炭坑中国人労働者の大量死」)。
544名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 11:37:46.95 ID:j2Ml4Jgh0
日本軍がアジア各地でおこなったことを考えると日本軍の特質が問題にならざるをえない。
太平洋戦争においてアジアの民衆に対して、日本軍ほど虐殺・暴行など各地で大規模な残虐行為をくりひろげた軍隊はほかにはなかった。
捕虜に対する扱いも日本軍とアメリカ軍とでは、経済力だけでは説明できないほど違いがあった。
沖縄戦で日本軍が沖縄の人々を虐殺、あるいは虐待したことも日本軍の特徴だろう。
いくつかの点から日本軍が残虐行為をおこなった特徴を考えてみよう。

第一に日清戦争・日露戦争以来培われてきた、アジア民衆に対する蔑視観がある。
中国人や朝鮮人に対する蔑視だけでなく、東南アジアの諸民族に対してはより一層見下していた。
たとえば、大本営参謀本部が作成し、マレー戦に参加した将兵に配られたリーフレット『これだけ読めば戦は勝てる』(辻政信が書いたといわれている)には、
東南アジアの民衆を「土人」と呼び、「土人は懶けものが多く、(中略)全く去勢された状態にあるから之をすぐ物にしようとしても余り大きな期待はかけられぬ」
と蔑視観が露骨に示されている。

第二に日本軍が占領地の一般住民を敵視したことである。
占領軍である日本軍に対する住民の抵抗はゲリラだけでなくさまざまな形でおこなわれた。
日本軍は住民全体を疑い、村を丸ごと抹殺することさえおこなった。
国際法はまったく無視された。相手が住民であろうと、「抗日ゲリラ」あるいは「抗日分子」という名目がつきさえすれば
「治安粛清」と称して堂々と住民虐殺がおこなわれた。

第三に日本軍の「現地調達」主義である。
日本軍は各地で作戦をおこなう部隊の食糧や馬の糧秣について「現地調達」するという政策をとった。
日本軍は補給そのものを軽視したが、とりわけ食糧については軽視どころか部隊に任せた。
そのため各部隊は戦闘をしながら食糧を確保しなければならなかった。本来は代価(軍票など)を払って購入しなければならないが、
実際には食糧略奪があたりまえのようにおこなわれた。戦地・占領地での略奪は戦時国際法に違反するだけでなく、
日本軍の陸軍刑法や海軍刑法でも「略奪ノ罪」にあたるが、それが取り締まられることはほとんどなかった。

略奪にあたって、住民の抵抗があれば、住民に対する残虐行為がおこなわれた。
女性に対する暴行もその一部だった。それが抗日勢力が強いと見なした村であれば、略奪、女性への暴行、
住民虐殺、放火がおこなわれた。中国ではこうしたなかで若い女性を拉致し慰安婦にさせるケースが報告されている。

中国など人が住んでいるところではこうした方法で食糧が調達できても(略奪された住民の苦しみがあることはいうまでもない)
人のあまりいないジャングルのなかでは、略奪しようにも略奪するものがなかった。
ガダルカナルやニューギニアで多数の日本兵が餓死したのはその結果である。
日本軍兵士の死者の半数以上が広い意味での餓死(飢えに起因する病気による死を含めて)によるものと推定されるが
(藤原彰「日本軍の餓死について」)、みずからの兵士の生命を軽視した「現地調達」主義は、
日本軍を残虐行為に駆り立てたとと同時に日本兵自体の生命をも奪ったのである。

第四に国際法を無視したことである。
第一次世界大戦までは、日本は参戦にあたって国際法を遵守する旨が開戦の詔書には含まれていた。
しかし太平洋戦争の開戦にあたっては、詔書の案の段階ではあった「国際法規の範囲内に於て」という文言が最終的には削られた。
日中戦争にあたっては、戦争ではなく「事変」であるとして戦時国際法を適用する考えはなかった。
日中戦争〜太平洋戦争において日本は、捕虜や占領地の住民の保護など戦争下におけるさまざまな人道的な措置を定めた戦時国際法を守る意思がなかったのである。

第五に日本軍内部の非人間性である。
日本軍でも「私的制裁」は禁止されていたが、実際にはビンタをはじめさまざまな暴力が日常的におこなわれていた。
「死は鴻毛(鳥の羽毛)よりも軽し」という軍人勅諭の言葉通りに兵士の生命は軽んじられ、特に下級兵ほどその抑圧はひどかった。
軍のなかで蓄積された抑圧とストレスは外部に対して、とりわけ弱者に対して向けられた。
占領地の住民はまさにその犠牲者であった。住民に対する兵士たちの残虐行為は軍隊内の秩序を維持するための安全弁として軍上層部は黙認したのである。

軍隊という組織そのものが持つ暴力性はこうした日本軍の特徴によって極度に増幅され、
アジア太平洋地域では他の国とは比較できないほどの残虐行為を引き起こしたのである。
545名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 11:38:32.46 ID:j2Ml4Jgh0
日本軍による過酷な占領に対して、各地で抗日闘争が繰り広げられた。そのあり方は地域ごとに多様であった。

フィリピンではさまざまなゲリラ組織が作られたが、その中心になったのはユサッフェゲリラとフクバラハップだった。
ユサッフェとはアメリカ極東軍のことで、同軍は1942年5月に日本軍に降伏したが、各地に残されていたフィリピン人兵士たちは
ユサッフェゲリラを組織し知識人・政治家・宗教者らと協力し抗日ゲリラ活動をおこなった。
彼らはアメリカに忠誠心を持ったゲリラだった。一方、社会党・共産党系の農民運動を基盤に42年3月中部ルソンで結成されたのがフクバラハップ(抗日人民軍)だった。
彼らは日本軍追放と地主打倒を目標にしていた。両者は対立しながらも抗日活動をおこなった。

マラヤでも多様なゲリラ組織が生まれた。最も強力だったのはマラヤ共産党によって組織されたマラヤ人民抗日軍だった。
華僑が主体のマラヤ共産党はイギリスの植民地支配のもとで非合法化されていたが、
日本軍のマレー侵攻が始まると共産党は英軍に協力を申し出、共産党の選抜した青年たちに英軍がゲリラ用の訓練を与え、
日本軍の後方に送り込むことで合意がなされた。他方、多くの共産党員や国民党員らがシンガポール華僑義勇軍に参加して
シンガポール防衛戦で勇敢に戦い、多くが戦死した。

英軍からゲリラ用の訓練を受けた計165人は4つのグループに分けられて、
マレー半島の南部に送られた。彼らが中心になってマラヤ人民抗日軍が作られた。
北部でも共産党員らが独自にゲリラ活動を組織し、後に人民抗日軍に統合された。

中国国民党系の華僑は華僑抗日軍を組織、主に中北部で活動した。
またマレー人主体の地下抗日組織ワタニアも作られた。

インドからのマレー半島反攻を計画していたイギリス軍は136部隊を編成して潜水艦やパラシュートによってマレー半島に潜入し、
これら各地の抗日ゲリラと連絡を取り、彼らに武器弾薬を提供した。

インドシナでは日本とフランスに反対するベトナム独立同盟会(ベトミン)が結成され、
北部山岳地帯に解放区を設けた。1944年から45年の大飢饉のなかで「敵のモミの倉庫を破壊して人民を救おう」と呼びかけて全土で抗日闘争を活発化させ、
45年9月2日ベトナム民主共和国の独立を宣言した。

タイは当時、東南アジアでは唯一の独立国であったが、実質的に日本軍の占領状態におかれていた。
タイ政府は表面上は日本に協力する振りをしたが、政府や軍・警察関係者らは密かに「自由タイ」という抗日組織を結成した。
抗日的として日本軍に逮捕されタイ警察に引き渡されたタイ人は警察内の自由タイによって密かに釈放された。
また海外にいた外交官や留学生たちは自由タイの国外組織を作って国内とも連絡を取り、連合国からの支援をうけてゲリラを組織しようとした。
日本軍はこの自由タイの動きを察知していたが、手を出すことができなかった。

ビルマではすでに見たように、ビルマでは日本軍によって育てられたビルマ国軍がイギリス軍とともに日本軍をビルマから追い出し、
その後はイギリスの植民地支配の復活を許さず、独立を勝ち取った。

インドネシアでは、オランダによって投獄されていたスカルノやハッタなどの民族運動の指導者たちは、
日本軍に協力することによって独立を得ようと考えた。しかし日本軍の過酷な占領に対し、
1944年2月に西部ジャワで農民の反乱がおき、さらに45年2月東部ジャワでペタのブリタル大団が即時独立を求めて反乱を起こした。
このことは日本軍に対して、インドネシアへの独立付与を促したがその動きは遅く、
日本降伏後の8月17日青年らの突き上げをうけてスカルノらは独立を宣言した
546名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 11:39:16.68 ID:j2Ml4Jgh0
日中戦争〜太平洋戦争下におけるアジア各国の被害は甚大なものだった。
死者の正確な数ははっきりしないところが多いが、主に各国政府の公式の発表を基に紹介すると、
中国1000万人以上(調査の進展により最近では2000万人以上と言われ始めている)、
フィリピン111万人、インドネシア400万人、ベトナム200万人、マレーシアとシンガポールで10万人以上、ビルマ15万人、インド150万人、
韓国・朝鮮20万人、台湾3万人などである。このほとんどは民間人である。
ほかに連合軍捕虜4万2千人あまり、民間抑留者1万数千人、オーストラリア1万7744人(捕虜約8000人を含む)などである。
アジアの死者は全体として2000万人という場合が多いが、中国の死者の数によっては大きく増える可能性もある
(『世界』1994年2月、特集白書・日本の戦争責任)。

なお日本の死者が約310万人、うち軍人軍属230万人、民間人80万人である。
日本の場合、沖縄を除くと、軍人の外地での死者が多数を占めているが、アジア諸国の場合には圧倒的に民間人が犠牲になっている。
日本の侵略戦争であったことがここにも現れている。

戦争被害は死者のみに限られない。家を焼かれたり破壊された件数などの物的な被害、難民になった人数は想像がつかない。

人的物的被害とは異なるさまざまな傷痕も残している。
マレー半島では、日本軍は華僑を抑えるためにマレー人を利用した。
華僑粛清という名の虐殺のためにマレー人を道案内に使ったり、マレー人警官を同行させて日本軍の手伝いをさせた。
そのため華僑から見ればマレー人が日本軍の手先となって同胞を殺していることになり、華僑が主体の抗日ゲリラは日本軍に協力しているマレー人を襲撃し、
あるいは豚肉を無理強いするなどイスラム教徒であるマレー人を侮辱する行動にでた。
このためマレー人が華僑の村を襲って村人を惨殺し、それに対して華僑が報復するという事態が戦争末期から戦後にかけて頻発した。
このマレー人と中国系との対立はその後も尾を引き、現在でも大きな問題となっている。
日本軍の残虐行為がその後何十年にもわたって深刻な影響を与えているのである。

ビルマでは、多数派のビルマ族のほかにカレン族やカチン族などの少数民族がいる。
カレン族にはイギリスの影響でキリスト教徒が多く、そのためイギリスが植民地支配のためにカレン族を登用しビルマ族を抑えるために利用した。
日本軍は逆にビルマ族を使い、カレン族に対しては親英的とみなして抑圧した。そのためカレン族が日本軍の残虐行為の対象になったケースが多い。
このためビルマ族とカレン族の対立は一段と増幅された。
戦後、ビルマ族主体のビルマ政府に対してカレン族は武装闘争をおこない、ビルマの不安定要因となっている。

植民地支配は通常、民族を分断し統治するという方法を取るが、日本軍の支配はそれが虐殺などの残虐行為と結びついていたために
民族間の対立を一層増幅させることになった。

日本軍は戦争後期になると日本軍を補うために現地の住民を使って義勇軍などを作った。
ビルマ国軍やインドネシアの郷土防衛義勇軍(ペタ)などはその代表的なものである。
これらの軍隊は戦後の独立にあたって大きな役割を果たした。特に植民地の再建をねらうオランダと独立戦争を戦ったインドネシアの場合は特にそうである。
もちろんこのことは日本軍が日本の覇権のために作った軍隊を、民族運動の組織者が独立のために活用したのであって、
ヨーロッパと日本の二つの帝国主義国の間で両者を利用して独立を勝ち取ったことはいうまでもない。
しかし独立後の軍隊の土台が日本軍によって作られたことは否定できない。問題はそこにある。
インドネシアで1966年にクーデターを契機に政権を握りその後1997年に至っても依然として独裁政権を続けているスハルト大統領はペタの軍人であった。
ビルマで1962年に軍事クーデターで政権を握り、議会を解散し憲法を停止、後に表舞台からは姿を消すが今日に至るまで軍事政権の黒幕と見られている
ネ・ウィンは日本軍の訓練を受けたビルマ独立義勇軍の幹部の一人だった。独立後、長期軍事独裁政権が生まれたインドネシアとビルマではともに
日本軍に育てられた軍隊がそこでも大きな役割を果たし、また日本軍に訓練された将校がその独裁者になっている。
独立後の問題の原因の一つが日本占領時代に起因しているのである。
547名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 11:40:51.20 ID:j2Ml4Jgh0
「日本が中国を荒らしまわるのは日本の勝手であるが、日本への原料や工作機械の輸入を止めるのは反則行為だという主張があります。
国際社会のルールを無視し、自国のことしか考えないで他国の市場までも荒らそうとする国家に、自国の石油や援助を与えるかどうかなんてそれこそアメリカの勝手だというのに。」
「あまつさえ、国際社会に台頭してきた日本が目障りになってきた同国は、日本をつぶそうと画策したなどという陰謀論を主張する人たちまで現れる始末です。
日本をつぶしたかった?
そんなのやろうと思えば、アキレス腱をすべて握っていたわけですから
いつでも赤子の手をひねるごとく簡単にできたのですよ。」
「思うに日本は反抗期だったのではないかと思うくらいです。
万能感だけが強く、自分の実力や真実の姿を一切理解しておらずに、
ただ大人の言うことに反発したかっただけのようです。」
「マッカーサーはこのような日本人の稚拙さや幼児性を評してこのようにいいました。
『日本人の精神年齢は12歳である』と。
まさに反抗期真っ盛りの子供であるというわけです。」
「しかし、まさかさしものアメリカも、すこし自分の立場を日本にわきまえさせようとしたら、突然キレて、後援者である自分を
背後から金属バットで殴りつけるとは予想してはいなかったようですね。」
「少年の心の闇は随分と深いものだったようです。」
「あまつさえ、苦し紛れにこれは聖戦だなどと嘯く始末ですよ。
自分のことは棚に上げて、社会が悪いというわけです。
挙句、若さに酔い、自己陶酔の果てにやらかしたのは特攻と称する体を張った体当たりです。
しかしその改造バイクは保護者の援助で作ったものでした。」
「それが、60年の歳月がたってみると、
彼らはアジア解放のために立ち上がった栄光の軍隊だとかいう人たちが現れるのですよ?
歴史の流れって面白いですわね(笑)」

インドネシアで日本が感謝されているとしたんなら
SF講和条約で賠償放棄したインドネシアの国民投票で条約締結拒否が決定されたことを
どう解釈したらいいのですか
独立の祝い金とかいうおもろ見解もかまわないですが
祝い金をゆすり取ろうというのが感謝の気持ちならいらんと思いますが。
もう少し詳しく書くとインドネシアはSF講和会議に出席し、
賠償放棄を条文に持つSF講和条約に署名、締結した。
ただし、財産があった場合の差し押さえなどはできるのだが
WW2開戦後の占領地であるインドネシアにはたいしたものは存在せず、
せいぜい未払いの兵補の給料程度のものしか請求できない。
が、このことの是非を問う国民投票で
日本に賠償を請求しないなんてふざけんなという意見が通り批准されずに条約は無効となった。
*この時点で国交回復条項のあったSF条約は無効でインドネシアとの国交は断絶状態継続
んで、国交回復交渉の時に、インドネシア代表が述べたのが日本を恨んでない、”独立祝い金”として金をくれって言葉。
個々だけ取り出してインドネシアは日本に感謝してるニダとウヨさん大喜びなんだが、
感謝しているならそもそもSF講和条約批准してたわけで、
それ+賠償というより厳しい条約を結んだというのになにをいっておるんだという次第。
548名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 11:42:05.77 ID:j2Ml4Jgh0
「それがどん底の社会状況の中であれば、なおさらそういった誇りを求めようとします。
忘れてはならないのが、ゼロ戦の神話というのは、すべて戦後に作られたということなのですよ。
戦時中、ゼロ戦の存在は国民には秘匿され続けました。
新聞などでは、ゼロ戦はただ海軍の『新型戦闘機』などという風に呼称され、
国民によく知られていた戦闘機というのはむしろ陸軍の隼だったのです。」
「日本の敗戦によって、国民は大きなショックをうけました。
それまで自分たちが信じてきた価値観というものが、すべて否定されてしまったのですから当然ですよね。
プライドはずたずたにされてしまいました。
あんなにがんばったのにもかかわらず、跡に残されたのは焼け野原だけ。
とても惨めです。」
「そこへ一筋の光明のごとく現れたのが、
無敵のゼロ戦神話だったのです。」
「自分たちは確かにまちがっていたのかもしれない・・・・
しかしかつて栄光はあったのだと。
完膚なきまで負けはしたが、一時的ながら連合軍をコテンパンにやっつけてやれたんだってね。
この妄想は盛んにマンガ、アニメや映画になって広く流布されます。」
「ところでちょっと思い出してもみてください。最近にもこれと似たような現象って起こりませんでしたっけ?
それというのは第二の敗戦とも形容された平成のバブル崩壊とそれに続く長期の不況です。」
「戦後は国の方向性を180度変えて、経済一筋でやってきたのに、
強大な経済大国としての国際的名声を得たはずなのに、すっかりその権威は失墜してしまいました。
軍事のみならず経済でまで敗北の辛酸を舐めてしまったことに、国民の自信は再び大いに失墜してしまいます。
そういった社会的状況に便乗して、
日本はアジアを解放したとかなんとかいう骨子の『歴史修正主義』などというおよそ怪しげな潮流が台頭したりもしましたよね。」
「戦前の日本人はさながらピエロか何かでしょうか。
日本人はこれからも何か困難にぶつかるたびに、この時代の日本をダシにして、
惨めな自尊心を回復しようとし続けるのでしょうか?」
「ゼロ戦神話のほうは、多分に高度経済成長の原動力の一部になったという利点があるように思えますが、
解放神話は全くといっていいほど日本に益をなしませんでした。
あえていうなら、インターネット上にネオナチネトウヨを量産したということぐらいでしょうか?」

そもそも太平洋戦争は
「日中戦争をどうしたら継続できるか?」ということで
昭和15年1月・・・あたりかな?

陸軍省整備局戦備課が、たとえば満州や、南部仏印や、ジャワスマトラ、タイを
第一経済圏、第二経済圏、第3経済圏と設定して
そこからどうやったら物資を調達できるか

できないばあい、北方作戦、南方作戦で事態を打開できるかという
作戦課の検討からはじまった★資★源★戦★争★なんだが

この時点でできないという結論が出て(S15.01)陸相東条英機も、中国からの自主撤退を検討し始めた
でもS15.06のパリ陥落のドイツ快進撃で
S15.09.15バトルオブブリテン「鷲の日」敗退直後に三国軍事同盟結んだり
もうドイツに目が眩んで、米英戦も辞せずの雰囲気ができちゃった

1943年5月31日御前会議『大東亜政略指導大綱』六項
マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セベレスは
“大日本帝国の領土とし”重要資源の供給源としてその開発と民心の把握に努める
これら地域では当分軍政を継続する
なお、これらの地域を帝国領土とする方針は当分公表しない

資源地帯がなければ、もともと東南アジアに侵攻する予定すらなかったんだよ
日本軍にはな。
植民地解放などお飾りのお題目にすぎない。現にインドネシアは最後まで独立させなかった
549名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 11:43:21.75 ID:j2Ml4Jgh0
>ニミッツの詩とやらも、自衛隊幹部が渡米して、ニミッツの詩で間違い無い、という確証を
>得たから、ベリリュー神社の碑文にしたのだ。
ああ、それも間違いないってのがそもそも嘘ですから。
その自衛隊幹部からの又聞きであり、誰がこれがニミッツの詩ですといったのかすらはっきりしていない。
ほんとに知らなかったんですか?
簡単に経緯を説明すると日本のスーパーソルジャー船坂弘の著作に見られるのが初出で
産経新聞記者の住田良能記者が1978年に同紙の茨城県版で企画連載した「ペリリュー島78」を収録した部分に
公刊戦史に載っていると記載されている。
その後名越が主張するところではこの詩がペリュリュー神社で見つかったので
元ネタを知りたいと思い資料を探していたところ、公刊戦史などには全く見つからず
自衛官浦氏がアナポリスでニミッツの詩だと教官から教えられたと又聞きであることを明言している。
なぜか名越はこの教官の名前も聞こうとせず、これはニミッツの詩だって大喜び、
元ネタがそもそも掲載されているという公刊戦史に載っていないのに
軽率にも「世界に生きる日本の心」にニミッツの詩だと掲載する始末。
アメリカ側資料にはそのようなものが見られないことはガン無視です。
これが名越における”確証を得た”というなら、
彼の著作は全て眉につばして見なければならないでしょうね。

上述のように名越の調査とは学問的審査に耐えうるものではありません。
又聞きが多すぎる上に、浦氏の例をみても誰が伝えたのかすらはっきりしないものを
確証とかきちんと調査とか呼びませんからw
そもそもニミッツの詩がいつどこでどのように作られたのかが不明な以上、
確証だの調査だのの入る余地がないんですがね。

しかもナシールにいたってはいつどこでだれががまったく明らかにされてません。
まあ、やたらと元○○という無責任な立場の人間だけが
日本人に対してリップサービスできるってあたりが
現地の人間がどう思っているかをはっきり示しているような気がしますがねえw

「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ
―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、率直ニ申シマストサウデアリマス」
(佐藤賢了陸軍少将 1943年2月1日衆議院秘密会にて)

これがアジア独立の本音。
ちなみにこの佐藤とか、戦後になって敗戦した後に自分達のいった事さえ忘れたように、戦争美化に走って反省さえしてない。
国を滅ぼし多くの人命を死なせながら、反省もしない恥知らず軍人の自己正当化の嘘に騙されているんだろうなぁ。
さすが自慰史観患者は痛いw

日本による植民地支配

 日本がはじめ、インドネシアの民衆にたいして親切でやさしい態度をとっていたのは確かである。
しかし、時がたつにつれ、日本のインドネシア民衆に対する態度は、変わっていった。日本の行動は残酷なものになっていった。

 一般に植民者の態度はどこも同じである。つまり、残虐で、搾取的で、非情である。私たち民族の運命は、トラの口からのがれ、ワニの口に入るということわざにたとえることができる。これは、どういう意味だろうか。
それが意味するところは、日本がやってきたことにより、オランダ植民地時代に受けた犠牲はなくなるどころか、むしろ、事態は悪化したということである。

(「社会科・インドネシア国史2・小学校5年生用」)

太平洋戦争は資源地帯ほしさの侵略戦争であり
日本軍占領下では過酷な軍政が行われた
美化の余地のない歴史的事実である
550名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 11:44:24.33 ID:j2Ml4Jgh0
インドネシアでの教育とやらの実態
教育機関と宣伝機関を握ることによって、民衆との接触は可能になった。
ジャワ島やビルマなど民衆の間に親日的気運が比較的強かったところでは、
一部の現地住民が日本軍の進駐を歓迎し、軍政が順調に実施されるかに見えた
日本の将兵や民間人の中には、善意で現地住民と接触し交際した人たちも多かった。
しかし、善意の押し売りほど始末の悪いものはない。
天皇絶対、忠君愛国という日本にしか通用しない独善的な考え方と日本語を、
善意でいくら教えてみても、それはしょせん軍政という軍事独裁体制を背景にしてしか
通用しないものであった。かなりの地域では、日の丸に対する敬礼、
君が代斉唱、宮城遙拝などの儀式が強制されたが、現地住民は面従腹背の態度を取らざるを得なかった。
まして母国語の使用制限と日本語の押しつけは、現地住民にとっては我慢できない
屈辱であった。

インドネシア初代大統領のスカルノの言葉
「インドネシア独立のためには悪魔の助けもかりる」
「日本軍は私を利用しようとしている。私はこれに応じるつもりだ。9回まで耐え忍んでいく。
 最後の1回で取り返せばよいではないか」

太平洋戦争は資源地帯ほしさの侵略戦争であり
日本軍占領下では過酷な軍政が行われた
これを「大東亜戦争」と呼び、解放戦争と美化する輩は
ケダモノ以下のゴキブリである

 ケンペイタイは、常軌を逸するほど、乱暴で残酷でした。・・・・日本人はどうしてこんなことを
するのか、本当に理解に苦しみました。
(H・B・ヤシンさん)

 私が覚えていることは、おそらく、ケンペイタイがあまりに乱暴だったからでしょう、人びとが日
本に協力することを怖れていたことです。それで、自分から進んで日本のために仕事をしようとする
人はいませんでした。当時は、怖がる人のほうが多かったのです。ですから、みんなは日本に協力し
て利を追うよりも、自分の命を大切にしようとしていました。なぜなら、何か間違いを犯したら、日
本の罰則では死刑になると思っていたからです。日本軍が入ってきたときにすでに役所で働いていた
人たちは、そこから移ることができませんでした。ちょっとした過ちでも平手打ちでしたので、みん
なは、とくに体罰を怖れていました。バゲロー[馬鹿野郎]と言って頭を叩くのです。ところが、イ
ンドネシア人にとって、頭は神聖で敬うべきものなのです[それゆえ、頭を手で撫ぜたり、叩いたり
することは慎むべきことである]。私がケンペイタイと聞くと震えあがってしまうのは、私の親友が
彼らの暴力を受けてけがをして、障害者になってしまって以来のことです。
(バルカ・アルガニス・バスウェダンさん)

 電気・ガス局でも、日本人達は乱暴で、下品で、したい放題で、そして、私たちインドネシア人を
見下していました。女性職員に対しても同様でした。
(リリー・ガマル・スタンティオさん)

「しばしば、その時代のケンペイタイの調査官たちの乱暴さは、オランダ時代のPID(諜報局)の同
様の取り調べ方をはるかに越えたものであったと指摘されている。裕福な人びとの住宅地でも、貧
民街でも、さらには役所でも、多くの場所で人びとは日本に対して憎悪の念を示すようになっていた
・・・・」

(インドネシア国立文書館 編著
  『ふたつの紅白旗 インドネシア人が語る日本占領時代』(木犀社 1996)より)

551名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 11:46:29.51 ID:j2Ml4Jgh0
おめでたい君に斉藤隆夫の遺稿を再度紹介しよう
ttp://blechmusik.xrea.jp/d/saito/s36/#p05
仮に大体に於て我が軍の勝利に終結を告げるものとして、此の共同宣言が文字通りに運用せらるるかを考うるに、是れ亦頗る困難のことにして、
理想と実際の間には一大懸隔を生ずることを予想せねばならぬ。言うまでもなく大東亜戦争は我が日本独自の立場に余儀なくせられ、
人的、物的其の他有ゆる国力を傾倒して敢行すべきものであるから、
是が完遂の暁に至らば日本は如何なる手段を尽しても先ず第一に国力の回復に向って邁進せねばならぬ。
然らざれば仮に戦争に勝つことありとするも国家を維持することは出来ないこととなる。
古人は戦い勝って国滅ぶと言うて居るが、全く其の通りであるから、是が為には大東亜圏内の他の諸国諸民族の利害等を顧慮する遑はない。
仮令彼等の利益を犠牲に供することあるも、
日本は敢然として国力回復の為に独自の国策を遂行せねはならぬ時が必ず到来するに相違なく、
而して是は戦勝国たる日本の権利であるから他の何者の容喙をも許すべきものではない。
それ故に東亜共栄圏は我が日本の利害と全然一致する場合に於てのみ想像せらるるベきものであって、
利害の一致せざる場合には断乎之を蹂躙するに於て決して躊躇すべきものではなく、同時に此の道理を弁え、
此の覚悟を抱くものにあらざれば将来日本の国政を托することは出来ない。
斯くの如くにして東亜共栄圏殊に道義に基づく共栄圏などと其の文句は立派であるが、
其の実は道義も何もあったものではなく、実際は日本中心の独栄圏となるべく、現に今日戦争中とは言いながら、
東亜諸国、諸民族は戦争目的の名に依って至る所我が国の為に有ゆる犠牲を強要されつつあるは蔽うべからざる事実であって、
是等の犠牲は戦後に至りても益々拡大せらるることあることを覚悟せねばならぬ。
而して事茲に至らば彼等は始めて共栄圏の何ものたるかを挙るに至るべく、
同時に欧米列国の乗ずべき隙も亦此間に生ずると共に、共栄圏崩壊の端を開かるるに相違ない。
固より将来此の東亜の天地に於て如何なる風雲の起ることありとするも、
我が日本に之を凌駕するに足るべき万全の備えあれば何等意に介すべきものではないが、凡そ此等のことは遠き将来に属することであるから、
今日種々の場合を予想して之を論ずべきものではないが、要するに共栄圏の前途には多種多様なる難問題の横たわることを覚悟せねばならぬ。

1941年1月8日、東條英機陸相によって全陸軍に布達された「戦陣訓」は
明治の健軍以来、帝国軍人の思想的バックボーンとなっていた「軍人勅諭」の戦場版ともいうべきものであった。
「戦陣訓」のなかで特筆すべきことは
「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。」
「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」
といい、「以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。」として
天皇の名によって軍人に死を強制していたことであった。
たしかに「軍人勅諭」も死に臨む核頃情感に対する絶対服従を要求していたが
「戦陣訓」ほど軍人に対し露骨に死を強制したものはかつてなかった。
ここにみられるのは、国家と天皇と個人を一体のものとしてみる一元的な国家観であり、
天皇への絶対服従によって個人の尊厳を抹殺し、
天皇のために喜んで死ぬことを最高の名誉としてたたえる死の哲学であった

新聞などのメディアはこれを大きく報じた。
また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。
一般国民に対しては用紙統制が行われているなか、1941年だけでも少なくとも『戦陣訓述義』『戦陣訓話』など12種の解説書、
『たましひをきたへる少国民の戦陣訓』『少年愛国戦陣訓物語』など5種の教材が出版許可を受けて出版されており、
以後も敗戦まで種々のものが出ている。このほかに、「戦陣訓カルタ」なども作られた。
また、学校での教育にとりいれられ、暗記が推奨された。そのため、現在でも「暗誦できる」人もいる。

今日では太平洋戦争中で発生した日本軍の玉砕や全滅、民間人の自決を推奨し、降伏を禁止させる原因であると理解されている。
日本兵は、捕虜となったことが分かれば不名誉とされた。事実、捕虜となった当人はもとより親兄弟も非国民と罵られ、
心中に追い込まれた家族も少なくなかった。さらに、捕虜交換などによって捕虜が帰ってきた場合、
直後に自決が強要されたり、スパイ容疑や軍規違反を犯したなどの理由によって秘密裏に殺害された捕虜も相当な数に上っている。
552名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 16:55:06.62 ID:j2Ml4Jgh0
昭和18年末、ニューブリテン島のココボで丸山二等兵は、今度行くところは「天国のような場所」と戦友の赤崎から聞く。
彼らは出発前にピー屋に行くが、何十人も兵士が行列を作っているので目的を達せず「女郎の唄」を歌って帰って来た。
そして彼らは若き田所少佐のもと、500名でバイエンに無血上陸する。
丸山は古兵や上官にいびられ、また時には親切にされ、何とかバイエンでの時間を過ごして行く。
だがそこは「天国のような場所」ではなく「天国に行く場所」であった。
敵の攻撃で戦死する者のほかに、陣地構築中の事故で死ぬ者、伝染病で死ぬ者、ワニに食われて死ぬ者、
手榴弾でとった魚を飲み込み窒息死する者・・・。
やがて近辺のワランゴエ河口に連合軍が上陸、橋頭堡を築き攻撃を開始してきた。
徐々に包囲してくる敵に対して、田所は中隊長の「高地にこもり持久戦をすべきだ」という意見を退け、玉砕覚悟の切り込み作戦を敢行する。
その結果、田所は戦死、生き残った者は聖ジョージ岬に撤退するが、負傷した中隊長はその途中で自決する。
そのころラバウル司令部ではバイエン支隊から玉砕の電信を受け、既に彼らは全員死んだものとされていた。
ところが聖ジョージ岬警備隊から、バイエン支隊の生存者数十名が現在ここにいるとの知らせを受ける。
この「敵前逃亡」は「ラバウル全軍の面汚し」とされ、事件処理のために木戸参謀が聖ジョージ岬に派遣されることになる。
木戸の出発の前夜、バイエンの生き残りの軍医がラバウルを訪れて部下の命乞いをするが、談判決裂となり軍医は抗議の自決をした。
軍医の遺骨とともに聖ジョージ岬に来た木戸はバイエン支隊将兵の尋問を行い、その結果、山岸と北崎の2人の小隊長は責任を取って自決、
残りの81名は再突入を行うことになった。
昭和20年6月、聖ジョージ岬に敵の有力部隊が上陸、バイエンの生き残り達は切り込みを敢行する。
その突撃直前に木戸は「玉砕を見届け報告する冷たい義務がある」と退こうとするが流れ弾に当たり戦死。
そして丸山達は「私はなんでこのような つらいつとめをせにゃならぬ」と「女郎の唄」を歌って切り込み、全員玉砕した。
隣の陣地を守っていた連隊長は、後にこの玉砕を聞いて「なぜそこまでして、あそこを守らねばならなかったのか」と述べたという。

太平洋戦争は、悲惨な戦争であった。「大東亜戦争」と読み替えて聖戦であったと賛美するものはゴキブリである
553名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 16:55:48.81 ID:j2Ml4Jgh0
東條内閣は、開戦直後に国家総動員法にもtづく新聞事業令を公布し
一府県一紙制を原則に新聞の統合を推し進めた。
1942年2月には、各新聞社の自主的統制機関であった日本新聞連盟が
官製の統制機関である日本新聞会に改組された。
さらに各新聞社には新しく検閲課が置かれ、内務省や内閣情報局などによる
検閲は、一段と厳しいものになっていった。
出版についても、政府は1943年2月に出版事業令を公布し、日本出版文化協会を
官製の統制機関である日本出版会に改組させた。
日本出版会は、すべての出版書籍に対して審査制をとり、
従来約6%であった不承認件数を30%に引き上げ、ひたすら政府に迎合する態度を取った。
雑誌の統廃合が強行され、1941年末に18,022あった新聞と雑誌が44年末には2,548に減少した。
企業整理も実施され、整理がほぼ終わった44年5月には
書籍のみ発効するものが2,241社から203社に、雑誌2,017社が996社にそれぞれ減ってしまった。
なかには中央公論社と改造社のように、内閣情報局から「営業方針において戦時下国民の
思想指導上許し難い事実がある」として「自主的廃業」を申し渡されたものもあったが、
その背後の黒幕は陸軍省報道部であった。
戦争目的に合致しないと当局が判断した出版物は、どのような立場のものであれ
削除・改訂・発売禁止の処分を受けた。
そのうえ新聞と出版の関係者は、割当制になっている用紙を確保するため、
関係当局の軍人や官僚にとりいることに狂奔せざるを得なかった。
このように言論と出版の統制は完璧であった。
554名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 16:56:54.26 ID:j2Ml4Jgh0
フィリピン、ビルマ、インドネシアなどでは戦争の末期に大規模な虐殺が相次いでおこなわれた。
フィリピンでは1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中にゲリラに襲撃された事件がきっかけで
7月から徹底的な粛清作戦が実施された。ゲリラ討伐の名目で実際には子どもから老人まで多数が殺された。
米軍が44年10月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してきてから、特にマニラと南部ルソンで大規模な虐殺が次々と起きた。
バタンガス州とラグナ州では歩兵第17連隊(通称藤兵団)が「対米戦に先立ちゲリラを粛清する」
「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」と命令を下した。
バタンガス州リパの虐殺に加わった兵士の証言によると、16から60歳の男子を通行証明書を渡すという名目で学校に集め、
証明書を渡したうえで10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連れて行き、銃剣で刺して谷底に突き落としていった。
そうして一日がかりで約800人の住民を虐殺した(友清高志『狂気―ルソン住民虐殺の真相』徳間書店)。
フィリピンにおける日本軍による虐殺の犠牲者は数十万人にのぼると見られ、中国に次いで多い。

ビルマでは、これまでわかっているかぎりで最大規模の虐殺は1945年7月のカラゴン事件である。
パラシュート降下したイギリス軍の工作員とゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、
女性子どもも含めて、10人くらいずつ井戸の側に連行し刺殺してから井戸に投げ込み、
合わせて600人以上を虐殺した。現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ死刑になるが、
裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、もし子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺したと弁明している
(英国国立公文書館所蔵英軍戦争裁判記録)。

ビルマではインドからイギリス軍の反攻が行われ、それに呼応してビルマ国軍も日本軍を攻撃した。
また各地の抗日ゲリラも協力して日本軍をビルマから追い出そうとした。
そうしたなかで日本軍は住民全体を敵視し、虐殺したのである。

侵略軍であった日本軍は住民から信頼されていなかったし、
また日本軍も住民をいつ連合軍に寝返るかもしれない存在として、あるいは密かに抗日ゲリラに通じている者と疑っていた。
そうした時には住民全体が「抗日分子」に見えてくる。これは中国での日本軍もそうだった。
日本軍の一連の住民虐殺は、戦争だからという一般論によって説明できるものではなく、侵略戦争のなかでおこなわれた残虐行為であった。

555名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 16:57:49.00 ID:j2Ml4Jgh0
マレーシア各地でも日本軍による虐殺記念碑がいくつも残ってるらしい。

<ネグリセンビラン州では40か所以上で虐殺がおこなわれた>
パリッティンギ村では約600 人の村民が子どもまで抹殺された。
当時8 歳だった孫建成氏は両親や兄弟など一家9 人を殺され、
祖母と2 人だけがかろうじて生き残った。
それからまもなくの1942年7 月日本軍はタイとビルマをつなぐ
泰緬鉄道の建設に着工、マレーシアからもロームシャを狩り集めた。
8 月ネグリセンビラン州のセレンバンにいた宋日開氏は町中で日本兵
に呼びとめられた。「軍補」を募集していて、期間は1 か月から長くても
4 か月という話で、今の仕事よりいいと思ったのでそれに応じた。
しかし実際にはビルマ国境に近いテーモンタで過酷な労働につかされ、
一緒に行ったロームシャたちは次々に死んでいった。
セレンバンを出る時には780 人(ほとんどが中国人とインド人で、
マレー人は若干名だけ)だったのに46年7 月に帰ってきた時はわずか
49人になっていた。

<パリッティンギ( カンウェイ) 村の虐殺>                      
マレー半島南西部のネグリセンビラン州の粛清は第 5師団第11連隊( 広島)
が担 当し、42年3 月に6 次にわたって粛清がおこなわれた。
その中で3 月16日におきたのが、この事件である。山中にあるこの村に
「敵性分子」が「相当潜在」しているとして粛清を計画、
日本軍は老幼男女を問わず村民を村の広場に集め、
20〜30人ずつのグループにわけて周辺の山や畑の中に連れていき、
膝まずかせて順番に背後から銃剣で刺し殺していった。
その後、村を焼き払った。ここでの犠牲者は675 人と言われている

枢密院の深井英五顧問官は「枢密院重要議事覚書」の中で東條英機の答弁と
それに対する自らの感想を、次のように記している。

「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、左様の事実
(外交の二元化)は大東亜地域内には成立せず、我国を指導者とするところの外交あるのみ」
(深井評、これ竹越顧問官の所謂大東亜圏諸国をデペンデンシー(従属国)として
取扱はんとする意図を頗る露骨に表示したるものなり。)
「外交の相手は必ず対等者として処遇せざるべからずとするが如きは古き観念なり」とし、
「此の如き観念は排斥す」とて、卓を叩きて叱咤す。
御前会議としては珍しき光景ならん。東條総理大臣は大東亜地域の諸国を従属的に取扱ふの
底意を此に暴露したり。東條総理大臣の興奮は益々激化し
「大東亜圏内には外交なし」と極言す。

アジア・太平洋戦争は
クーデターとテロにより日本の実権を握った軍部が
おのが力におごり高ぶり
東アジアを我がものにしようとして始めた戦争である
東條英機は首相になる前、ことある事に好戦論を口にしていた軍部の首魁である
556名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 16:58:46.14 ID:j2Ml4Jgh0
ボ・ミンガウン(三十人志士メンバー・アウンサン将軍副官・独立後、内相、運輸相等歴任)
 「ビルマの情勢を検討していた東條首相は、そのスローガンである「大東亜共栄圏」建設をめざし、
 同時にビルマ国民の感情をなだめるために、飯田司令官の下に傀儡政府を組織して、名目的な独立
 を供与する準備を進めた。まもなく飯田司令官は、バモオ博士を長とするバホー(中央)行政委員
 会を設置し、一九四二年六月四日に全国に向けて発表した。(中略)この委員会は一九四二年八月
 一日に、「ビルマ行政府」とその名前を変更した。しかし、「ビルマ行政府」とはいっても、飯田
 中将の命ずる範囲の行政事務を担当したにすぎなかった。
                     (中略)
  一九四三年八月一日には「独立」が宣言され、アディパティ(総統)バモオ博士の率いる政府が
 出現した。この政府は、独立した政府とはいうものの、実際には総統にせよ、大臣たちにせよ、日
 本軍指導部の認めた範囲内の権能しか持たなかった。アウンサン将軍は、日本の与えた「独立」が
 本物ではなく、「メッキ」にすぎないことを見抜いていた。将軍はまた日本軍のやり口を熟知して
 いた。さらに、連日のようにビルマ各地で起こっているファシスト日本軍の残虐行為についても将
 軍は目配りを絶やさなかった。そして、もともと胸の内に秘めていた、日本軍に対して反乱を起こ
 すという決意を、さらに固くするのであった。
  日本の与えたビルマ人による行政が、名ばかりでお粗末なものにすぎず、また残虐行為の数々を
 目の当たりにしていたビルマ国軍、人民革命党それに共産党の指導者たちは、一九四四年八月に秘
 密の話し合いを持ち、討議の末に「反ファシスト人民自由連盟」を結成し、対日反乱についてこま
 かい検討を行った」
  (ボ・ミンガウン『アウンサン将軍と三十人の志士』(中公新書 1990)より)

アフマッド・スバルジョ(独立インドネシア初代外相)
 「毎年八月十七日には、共和国記念日を祝して式典が催されてきた。しかし、新聞は、いつもグレ
 ゴリー暦の年月日を用い、紀元二六〇五年の略称である〇五年という、独立宣言の手書きの原文
 に使われていた年号を再現してはいない。原文の写真が新聞に転載される場合ですら、日本の年号
 についてふれてはいず、〇五年は四五年を意味するのだと、当然のことのように考えられている。
 革命的な性格をもつ新たな独立政府にとって、日本の年号をうけいれられないということは、議論
 の余地のないところである。また、従来の植民地政権が使っていた年号に対して、異議を唱えるも
 のもいないのである。
  八月十七日の共和国記念日の式典では、例年、建国以来の式典年数があげられる。たとえば、一
 九七二年の八月十七日には、インドネシア人民は、共和国の二七回めの記念日、あるいは建国二八
 年めを祝ったことになる。その日は、まさに、偉大な“ナショナル・デー”である。一九七二年十
 二月二七日は、オランダ王国がインドネシア共和国を法的に承認してから二三年になるのだが、イ
 ンドネシア人民は、この一九四九年十二月二七日に行われたオランダのインドネシアに対する主権
 委譲の日を、祝ったりはしない。彼らは、八月十七日を、独力で宣言した自分たち自身の独立つま
 り、日本帝国のおかげをこうむらない、まさに、自分たち自身の闘争が成功したが故の、さらには
 一貫した努力のたまものとして勝ちとった独立の日として、その日を祝うのである。日本人がその
 際果たした役割は、単に偶然にすぎなかったわけである」
  (スバルジョ『インドネシアの独立と革命』(龍渓書房 1973)より)
557名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 17:00:39.34 ID:j2Ml4Jgh0
名越二荒之助の捏造
「地中海での作戦中、ドイツ潜水艦から魚雷が発射された。その魚雷の発見が
一瞬遅れたときに、日本駆逐艦は連合国船舶の前に全速で突入して盾になり、
撃沈されて責務を果たした。犠牲になった日本海軍将校の霊は、今もマルタ島
の墓地に眠っている」

この部分にも多くのウソがねつ造されています。まず、「作戦中」ではなかったのです。
1917年駆逐艦「榊」「松」はマルタ島に帰還途中ドイツ潜水艦と遭遇し、
艦首に被雷して、大破し59名死亡したというのが事実です。
連合国船舶の護衛任務などではありませんでした。したがって連合国船舶の護衛
のために「盾」となったという、今はやりの国際貢献の美談として書いているが、
全く根拠のないフィクションです。
また地中海で日本駆逐艦が撃沈されたことになっていますが、司令官の報告を
見ても、「撃沈」ではなく艦首の「大破」であり、沈没した事実はどこにもありません。
高嶋伸欣さんが「こっそり訂正していた歴史教科書」というタイトルで、
「ねつ造だった日本海軍手がら話」について書かれています。
扶桑社は採択後の供給本で、この部分も含めて約50カ所もの訂正を内密裏に行っていたのでした。
供給本では次のように書き換えられています。「日本の駆逐艦が、ドイツ潜水艦
によって撃沈された連合国船舶の救助活動で、大きな功績を挙げたが別の任務
の帰路、潜水艦の魚雷攻撃を受け、60名近い戦死者がでた。」
では魚雷攻撃を受けた日本の駆逐艦「榊」はだれが助けたのだろう?
近くにいた「松」は二次攻撃を恐れて手をこまねいていたのだが、急を聞いて
駆けつけた英国艦が迷うことなく接舷して港まで曳航したのだそうです。
称賛されるべきは英国艦であり、日本艦は怯えていたというのが事実。

重要登場人物の名前さえまともに書けない名越の著作に
歴史的学問的価値など微塵もありません
そこにあるのは捏造与太話でしかないのです

【インドネシア】
 ●労働者の搾取
 主に田舎の住民である「労務者」は、日本に強制的に働かされた。
特に軍の施設や防衛のための防壁や、列車の線路などをつくった。
多くの「労務者」は現場で死んだ。
その悲しい状況は結局、口からロヘ伝えられ、村の人々全員の知るところとなった。

 ●インドネシアが独立した背景

 抗日運動は、インドネシアの独立の実現につながっていった。
対日闘争を実施するのに、インドネシアのリーダーたちは非常に慎重だった。
日本の占領がとても冷酷だと知られていたからだ。
もし、はっきり抵抗すれば、日本占領政府はすぐに誰でも殺すだろう。
このため闘争の方法は、その時々の状況に合わせていた。

(「中学校2年生歴史教科書」=エルランガ出版社)

インドネシア 中学校用「社会科学・歴史科 第五分冊」
「当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。
インドネシア民族は、長く切望した独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。
 どうしてインドネシア民族は、このような期待を持ったのだろうか。
それは日本がやってきてまもなく、つぎのような宣伝を展開したからである。
−日本民族はインドネシア民族の「兄」である。
日本がきた目的は、インドネシア民族を西洋の植民地支配から解放することである。
−日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。

 その実体はどうであったか。
日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。
日本は結局独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。
その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。
資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。」
558名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 17:02:01.58 ID:j2Ml4Jgh0
開戦以来、 次々と占領地域を広げていった日本軍は、1942年(昭和17)5月1日にビルマ北部の中心都市マンダレーを占領し、
これにより南方進攻作戦は一段落した。日本軍は、西はビルマ、インドのアンダマン諸島、南はインドネシア、ニューギニア北部からソロモン諸島、
東はギルバート諸島、北はアリューシャン列島のアッツ、キスカ島にいたる広大な地域を占領下においた。
また中国では農村部までは十分な支配をおこなえなかったものの要衝部を占領していた。
1942年8月にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸し反攻を開始してから太平洋の島々、
44年から45年にかけてフィリピンを、また西からは45年にイギリス軍がビルマを奪回したが、多くの地域は最後まで日本軍の占領下におかれた。

日本軍はこれらの占領地に軍政をしき、陸軍が香港、フィリピン、英領マラヤ、スマトラ、ジャワ、英領ボルネオ、ビルマを、
海軍がオランダ領ボルネオ、セレベス、モルッカ諸島、小スンダ諸島、ニューギニア、ビスマルク諸島、グアムなどを担当することとした
(「占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定」1941年11月26日)。

軍政については大本営政府連絡会議が基本方針を決めたが、
ここで日本・満州・中国と東経90度から180度まで、南緯10度以北の地域を「帝国指導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」と決定した
(「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」1942年2月28日)。
これらの地域がいわゆる「大東亜共栄圏」と呼ばれる地域である。
東条首相は42年2月の議会での演説の中で
「大東亜戦争ノ目標トスル所ハ我肇国ノ理想ニ淵源シ大東亜ノ各国家、
各民族ヲシテ各々其所ヲ得シメ皇国ヲ核心トシテ道義ニ基ク共存共栄ノ新秩序ヲ確立セントスルニ在ル」と所信を述べた。
しかし「南方占領地行政実施要領」にはっきりと見られるように、日本がこれらの地域を占領したのは
あくまで日本にとって必要な資源を獲得するためであって、
日本を中心とした秩序のなかで各地域の人々は、日本の必要に応じた役割を求められたにすぎなかった。

戦争時に占領地において占領軍が一般住民にたいして行政をおこなうことがあり、
これを占領地軍政、あるいは単に軍政という。ただ海軍の場合は民政と呼んだ。
1907年(明治40)に結ばれ、日本も批准していた「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(いわゆるハーグ条約)の付属書
「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」にはこうした占領地に関するいくつかの規定が含まれている。
そのなかには「占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、
成ルベク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為為シ得ベキ一切ノ手段ヲ尽スベシ」
「家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ、之ヲ尊重スベシ」
「掠奪ハ、之ヲ厳禁ス」などの内容が記されている。
占領軍といえどもその行動は戦時国際法によって制約されていた。

陸軍では軍政は陸軍省の管掌とされ、南方軍指揮下の各軍に軍政部がおかれた。
その後、初期の軍事作戦が一段落した1942年(昭和17)7月軍政組織の整備再編がおこなわれ、
南方軍総司令部(シンガポール)に軍政総監部(南方軍総参謀長が軍政総監を兼務)、
第14軍(担当地域フィリピン)・第15軍(ビルマ)・第16軍(ジャワ)・第25軍(マラヤ・スマトラ)
のそれぞれの軍司令部に軍政監部(各軍参謀長が軍政監を兼務)が設置された。
ボルネオ守備軍にのみ引き続き軍政部がおかれた。
海軍は海軍省に南方政務部が設置され、各地に民政部がおかれた。

軍政を施行するにあたっては「極力残存統治機構ヲ利用スル」(「南方占領地行政実施要領」)こととしたが、
主な部署には軍政要員が派遣された。軍人だけでなく各省から出向した官僚、金融機関や企業から派遣された者などからなっていた。
したがって軍政は軍のみでおこなわれたのではなく、警察・地方行政などを担当した内務官僚、
財政・経済施策を担当した大蔵・商工などの経済官僚が重要な役割をはたした。
559名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 17:02:47.22 ID:j2Ml4Jgh0
軍政の最大の目的は重要資源の獲得のためであったが、
開戦直後の12月12日に関係大臣会議で決定された「南方経済対策要綱」では
「開発ノ重点ヲ石油ニ置」き、さらにニッケル、ボーキサイト、クロム、マンガン、雲母、燐鉱石、
その他の特殊鋼原鉱、非鉄金属などの開発を進めること、そのために「極力在来企業ヲ利導協力」させることとしている。
「一地点ノ資源開発ハ努メテ一企業者ノ専任トスルコト」などの原則のもとに担当企業が選定された。
これにより三井・三菱・住友などの財閥系企業や戦前からこれらの地域に進出していた石原産業などの企業が軍と結びついて進出していった。

日本が取得することを期待した資源は、大本営陸軍部が作成した「南方作戦ニ伴フ占領地統治要綱」(1941年11月25日)によると、
フィリピンからマンガン、クロム、銅、鉄鉱、マニラ麻、コプラ、
英領マラヤからボーキサイト、マンガン、鉄鉱、スズ、生ゴム、コプラ、タンニン材料、
英領ボルネオから石油、蘭印から石油、ニッケル、ボーキサイト、マンガン、スズ、生ゴム、キナ皮、キニーネ、ヒマシ、タンイン材料、
コプラ、パーム油、工業塩、とうもろこしとなっている。

最も重要視されていた石油について見ると、
北ボルネオのミリ、スマトラのパレンバンなどの油田を占領後ただちに復旧し、原油生産は1942年2594バレル、43年4963バレルと拡大した。
日本への輸送も42年167万キロリットル(生産量の40パーセント)、43年230万キロリットル(29パーセント)となった。
しかし43年になると米潜水艦による船舶の喪失が急増し、船舶不足が深刻になった。
そのため44年の内地還送量は約80万キロリットルに激減した。
また連合軍による空襲により生産にも支障をきたすようになった。
ほかの鉱物資源の開発も同様の状況であった。

日本軍は占領地に軍票を流通させた。
日本軍は開戦前から現地通貨表示の軍票(蘭印ではギルダー、マラヤではドル、フィリピンではペソなど)を準備し、
占領とともに現地通貨と等価で流通させた。当初の計画では、軍政が順調にいけば軍票を回収し現地通貨のみに戻す予定だったが、
実際には軍票の発行が急増していった。

1942年3月に占領地の資源開発、為替管理、敵産管理などを目的とする南方開発金庫が設立された。
1943年1月南方開発金庫に発券機能が付加され、4月より南方開発金庫券(南発券)を発行しはじめた。
これは軍票ではないが実際には軍票と同じようなものだったので、一般には軍票と思われていた。
外部との交易関係が断たれ、物が不足するなかで、物資を調達するために南発券が乱発された。
発行高は1942年12月に4億6326万円だったのが、44年末には106億2296万円、45年8月には194億6822万円と急増していった。
日本が中国で発券した儲備券の場合は1941年末の2.4億元から44年末には1397億元、45年8月には2兆6972億元にも達した。
この結果、すさまじいインフレが引き起こされた。
シンガポールの物価指数は開戦時の1941年12月を100とすると翌年12月には352、44年12月には1万0766、45年8月には3万5000と350倍になっている。
特に米は開戦時、60キロが5ドルだったのが、45年6月には5000ドルと一千倍にもなっている。

日本軍の軍政を財政的に支えた一つが阿片だった。
イギリスなど旧宗主国も阿片を植民地支配のために利用していたが、日本軍はそれを一層拡大した。
太平洋戦争の勃発によりインドからの阿片の輸入が途絶えたため、日本のかいらい政権のあった中国の蒙疆を阿片の生産地として「大東亜共栄圏」の阿片供給をはかった。
シンガポールは阿片の精製と包装をおこなって周辺地域に阿片を供給する役割をはたした。
日本軍は阿片の専売制をとり、第25軍の1942年度の第一、第二四半期の予算では全経常部歳入の50パーセント以上が阿片収入によることになっていた。
阿片は主に華僑の苦力(クーリー)によって使用されていたが、こうした阿片政策は「大東亜共栄圏」の一面を示していた
560名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 17:03:33.78 ID:j2Ml4Jgh0
東南アジアの諸地域はイギリス、フランス、オランダなどの宗主国やアメリカとの間で世界的な貿易のネットワークを作っていた。
また1930年代になると中国や日本の軽工業製品も入ってきていた。
たとえば英領マラヤでは、輸出品としてはゴムとスズが中心だった。
開戦前、ゴムは世界総生産の約4割、スズは約三分の一を占める、マラヤの二大産業だった。
輸出先は圧倒的にアメリカだった。輸入品としては、シンガポールが中継・加工貿易の拠点であったことから、
石油(蘭印、英領ボルネオから)、ゴム(蘭印)、スズ(蘭印、タイ)、米(タイ)などを輸入していた。
要するにゴム、スズのマラヤの特産品と蘭印などから輸入した原材料を中継あるいは加工してアメリカに輸出し、
食糧はタイなど周辺地域から、工業製品はアメリカやイギリスから輸入するという構造になっていた。

蘭印の場合は、石油などの鉱産物やゴム、キナ皮、コショウ、コプラなどの農作物を輸出し、
工業製品を輸入するという構造であった。輸出先は、アメリカ、オランダ、イギリス、日本などである。
シンガポール向けも多いが、これはすでに述べたようにそこを経由して上記の国々に輸出されていた。
輸入はアメリカ、オランダ、日本などからである。

フィリピンの場合は、輸出入ともにほぼ全面的にアメリカに依存していた。
砂糖、ココナッツ製品、マニラ麻などをアメリカに輸出し、工業製品をアメリカから輸入するという構造で、
貿易に占めるアメリカの比重は1930年代には70%台にもなっていた。
フランス領インドシナはフランス本国と、ビルマはイギリス、インドと密接に結びついていた。

このように東南アジアはその域内ならびにアメリカ、イギリスなどの先進工業国と深い交易関係を結んでいた。

日本とこれらの地域との関係は、1930年代においてはフィリピンにとっては輸出入ともに日本はアメリカについで第2位、
タイと蘭印にとって輸入で第2位の位置をしめていた。 ただその比率は大きくても十数パーセントにすぎなかった。
日本からの輸出品は綿織物を中心とする繊維製品であり、ほかに雑貨類や加工飲食料品などを含めて、消費財の軽工業品が圧倒的な比重を占めていた。
日本の輸入品は生ゴム、石油、鉄鉱、マニラ麻などの燃料・原料が中心であった。

日本軍による占領によって、東南アジアと外部地域との交易関係は断たれ、また東南アジア内の交易関係も寸断された。
日本にはこれらの地域の産物をすべて引き受け、またこれらの地域で必要な工業製品を供給する力はなかった。
日本国内でも日中戦争開始以来、物資不足が深刻化し、食糧や衣類などの配給制、切符制が実施されるようになっていた。
軍需生産のために、国民にとって必要な物資さえも満足に供給できなくなっていたのであり、
広大な「大東亜共栄圏」に工業製品を供給することははじめから不可能であった。

ゴム、砂糖、コーヒーなどの輸出品は輸出先を失い、そこで働いていた労働者は職を失った。
必要な工業製品は入ってこなくなった。
そのうえ日本軍は「現地自活」方針をとって駐留する日本軍に必要な食糧や物資を現地調達したために物不足は深刻になり、
軍票の乱発とあわさってひどいインフレに陥った。

日本は1943年後半よりこの地域で必要な工業製品を地元で生産する方針に転換したがうまくいかなかった。
食糧を輸入に頼っていたマラヤ、フィリピンなどでは食糧自給のために商品作物から米やとうもろこしへの転換が図られたが、
日本軍に食糧を供出させられたこともあり、深刻な食糧不足に陥った。
食糧の多くを輸入に頼っていたマラヤでは人々はさつまいもやタピオカを作った。
タピオカはキャッサバから作ったでんぷんであり、マレーシアでは日本占領時代が食糧難の時代であったことから「タピオカ時代」と呼んでいる。

食糧問題で最も深刻だったのはベトナムだった。
ベトナム北部では1944年末から45年にかけて、100万とも200万人とも言われる多数の餓死者を出した。
タイビン省だけの調査でも人口100万人のうち約28万人が犠牲になった。
この原因としては、日本軍による強制的な食糧の徴発、水田を潰して軍事物資であるジュート(黄麻)への作付けの転換を強制したこと、
戦況の悪化などの理由により南部のデルタ地帯からの米の輸送が途絶えたことなどが指摘されている。

561名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 17:04:17.83 ID:j2Ml4Jgh0
東南アジアには多様な民族が混在していた。それらの民族間の違いや矛盾を日本軍は利用しようとした。

英領マラヤ(マレー半島とシンガポール)はもともとはマレー人の地であったが、
彼らは主に米作などの農業に従事し人口も少なかった。
そこで19世紀以降、植民地化したイギリスが労働力不足をおぎなうために、スズ鉱山の労働者として中国人を、
ゴム園の労働者としてインド人を連れてきた。特に19世紀末から20世紀にかけて、缶詰の普及によるスズ消費の拡大、
自動車生産にともなうゴム消費の拡大はこうした移民に拍車をかけた。
移民してきた中国人はスズ鉱山にとどまらずゴム園や商業にも進出し、マラヤ経済に強い影響力をもつようになった。
そしてついに人口でもマレー人を追い越すにいたった。
インド人は少数派であったが商業や金融業にも進出していった。1941年6月末の推定によると、マラヤの総人口552万0275人、
うち中国人238万2529人、マレー人228万3930人、インド人74万4430人、欧州人・欧亜混血人5万0836人、その他5万8550人となっている。

宗教については、マレー人はイスラム教、中国人は仏教や道教、インド人はヒンズー教やシーク教というように民族ごとに異なっており、
住居も民族ごとに住み分けられていた。一般的に言えば、中国人はマレー人より自分たちの方が優れているという意識が強く、
一方、マレー人は自分たちの土地なのに後から来た中国人の経済力が強いことに反発を感じているという傾向がある。
ただ戦前までは職業的にも地域的にも住み分けがおこなわれていたこともあってその対立はあまり表面化していなかった。

中国人は中国を祖国と考え、インド人はインドを祖国と考えていた。
これらの地域に住む中国人を当時は華僑と呼んでいたが、その言葉には今住んでいるところはあくまでも仮の住まいであって、
いつの日か一旗あげて郷里に帰ろうという意識を持った人たちという意味が込められている。
ただ戦後は住んでいるところが祖国であるという意識に転換し、華人と呼ばれるようになっている。

マレー人は各地のサルタンを政治的宗教的に支配者として仰ぎ、マレー人としてのナショナリズムはまだ未成熟だった。
こうした事情からマラヤの民族運動は周辺地域に比べて未発達だった。
マラヤを植民地にしたイギリスもこれを利用して分断統治をおこなった。

1931年(昭和6)の満州事変、特に1937年(昭和12)の日中戦争の開始以来、東南アジア各地の華僑は抗日救国運動を展開、
中国への義援金募集・日貨排斥(日本製品のボイコット)・抗日宣伝などをくりひろげた。
この運動の中心になったのがマラヤ、特にシンガポールの華僑だった。
たとえば重慶政府が発表した海外華僑からの献金総額2億9400万円(1937年7月から40年10月)のうち1億2500万円(42.5%)が
マラヤの華僑からのものだった。こうしたことから日本軍はマラヤ華僑全体を「抗日的」と見なした。
マラヤの占領とその後の軍政を担当した第25軍が作成した「華僑工作実施要領」によると、
「占領直後ノ応急要領」として「服従ヲ誓ヒ協力ヲ惜シマザルノ動向ヲ取ル者ニ対シテハ其ノ生業ヲ奪ハズ権益ヲ認メ
然ラザル者ニ対シテハ断乎其ノ生存ヲ認メザルモノトス」とし、さらに「第一期作戦終了直後ニ於ケル対処要領」として
「協力ニ参加セザル者ニ対シテハ極メテ峻厳ナル処罰ヲ以テ処理ス 即チ財産ノ没収、一族ノ追放、再入国ノ禁止ヲ行フト共ニ反抗ノ徒ニ対シテハ極刑ヲ以テ之ニ答ヘ
華僑全体ニ対スル動向決定ニ資セシム」ときわめて厳しい姿勢を打ち出している。
また「華僑全体ニ対シ最低五千万円ノ資金調達ヲ命ズル」としている。

この政策の表れがシンガポールやマレー半島各地での華僑虐殺であり、
また5000万円(ドル)の献金の強制だった。1942年4月献納の予定で5000万円の目標額がマラヤの各州ごとに割り振られたが、
なかなか集まらず、2200万円を横浜正金銀行から借入れ、6月に献納式がおこなわれた。
第25軍軍政部の4〜6月期の経常部歳入(予算)が294万ドルであることと比較すると膨大な金額であることがわかる。

こうした残虐行為を含む華僑に対する強硬策は華僑の反発を強め、華僑主体の抗日運動を激化させ、
また経済的実力を持つ彼らの協力を調達することを困難にしてしまった。


562名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 17:05:00.00 ID:j2Ml4Jgh0
一方、マレー人に対してはどうだったのか。
すでに開戦前に日本は急進的な青年らによる民族運動であるマレー青年連盟(代表イブラヒム・ヤコブ)と接触して反英宣伝のために資金を提供し、
開戦後はマレー進攻作戦のなかで、政治工作を担当した藤原機関がかれらと接触、マレー人に対する宣伝工作などをおこなわせて日本軍に協力させた。
こうしたなかで青年連盟の幹部らは「マラヤ共和国」の樹立を提案したが日本軍に拒否され、さらに民族運動を行なう政治結社として認めることを求めたが
日本軍は文化団体としてのみ認めた。日本軍のそうした姿勢にもかかわらずマレー青年連盟は各地で急速に勢力を伸ばし、戦前は200〜300人程度しかいなかったのが、
日本軍のマラヤ占領後二カ月で1万人を越えるに至った。ところが日本軍は1942年6月青年連盟を解散させた。
日本軍はマレー作戦を有利にするために青年連盟を利用したが民族運動としてさえも認めず、勢力が拡大するとそれを危険視して解散させてしまった。
ここに東南アジア支配の拠点であるマラヤでの民族運動に対する日本軍の姿勢がはっきり示されている。

その後、戦局が日本軍に不利になってきた1943年12月、日本軍を補うためにマレー人を組織して義勇軍と義勇隊を編成した。
この時、青年連盟の代表であったイブラヒムを義勇軍の指揮官に就任させた。
しかしイブラヒムなどの青年連盟の幹部たちは密かに各地の抗日ゲリラと連絡をとり、さらにイギリス軍がインドから送り込んできた136部隊とも連絡をとって、
連合軍がマラヤに進攻してきたときに内部から呼応して日本軍と戦う準備をおこなっていた。
かれらは裏切った日本軍をけっして信用しなかったのである。

こうしたことは東南アジア各地でも見られた。

ビルマでは、民族主義団体のタキン党(主人を意味する)が第二次世界大戦が始まるとイギリスへの協力を拒否して弾圧されていた。
日本軍の謀略機関だった南機関はタキン党の活動家30人を脱出させ海南島で軍事訓練をおこないビルマ独立義勇軍を編成させた。
南機関はビルマを独立させると約束してかれらを日本軍に協力させ、日本軍とともにビルマに進攻させた。
ところがビルマを担当した第15軍の「占領地統治要綱」(1942年3月15日)では、
「緬甸ニハ将来独立政権ノ樹立ヲ考慮セラルルモ之ガ実行ハ差シ当リ大東亜戦争終了後ト予想ス
従ヒテ将来ニ対スルノ処理ニ関シテ当分之ニ触レザルモノトス」というように「独立」問題を戦争終了後に先送りし、
差当りは独立の言質を与えないという方針をとった。こうしてビルマを占領した日本軍は独立を与える約束を反故にし、
軍政を開始するとともに、2万人以上になっていた独立義勇軍を解散させ、3千人ほどのビルマ防衛軍に縮小改編させた。

1943年8月日本はビルマに独立を与えたが、首相にはタキン党から登用せず、
タキンの指導者アウンサンは国防相になった。アウンサンは地下で抗日活動をおこなうグループと連絡をとり、
44年8月ビルマ国軍、共産党、人民革命党などとともにファシスト打倒連盟(のちに反ファシスト人民自由連盟パサパラ)を組織した。
そして翌45年3月連合軍がインドからビルマに進撃してくると、それを迎え撃つという名目でラングーンを出撃した後、
反転して連合軍とともに日本軍を攻撃、5月にはビルマ国軍の手で首都ラングーンを日本軍から奪い返した。

日本軍はビルマ進攻にあたって、民族主義運動を利用したが、勝利を得ると途端に約束を反故にした。
後に彼らに頼らざるをえなくなり再度登用するが、彼らはもはや日本軍を信用することはなかった。
563名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 17:05:42.73 ID:j2Ml4Jgh0
日本軍が占領した地域を日本の領土にしてしまうのか、それとも独立させるのか、
それは日本の戦争目的に直接関わる、きわめて大きな問題であった。

シンガポール占領前日の1942年2月14日大本営政府連絡会議はシンガポールを昭南島に改称することを決定し17日に発表した。
これはシンガポールを日本の領土とすることの意思表示とも見なされうるものだが、
将来の帰属についてしばらくは公にはされなかった。

1943年1月14日大本営政府連絡会議は「占領地帰属腹案」を決定した。
このなかで「大東亜防衛ノ為帝国ニ於テ確保スルヲ要スルヲ必要トスル要衝並ニ
人口稀薄ナル地域及独立ノ能力乏シキ地域ニシテ帝国領土ト為スヲ適当ト認ムル地域ハ之ヲ帝国領土ト」すること、
「従来ノ政治的経緯等ニ鑑ミ之ヲ独立セシムルコトヲ許容スルヲ大東亜戦争遂行並ニ大東亜建設上得策ト認ムル地域ハ之を独立セシム」ことという「基準」を定めた。
そして後者の「基準」によりビルマとフィリピンに独立を与えることとし、その他の地域については「追テ定ム」と決定を留保した。

ビルマに関しては、すでに1937年にイギリスがビルマをインドから分離し、
ビルマ人の自治政府を組織させていたこと、日本軍のビルマ進攻にあたって、
民族運動家に独立の約束をしてビルマ独立義勇軍を組織させて日本軍に協力させたにもかかわらず、
占領後はその約束を反故にして軍政をしいたが、連合軍の反攻に備えて彼らの協力が再び必要になったことなどの事情が背景にあった。
フィリピンについては、1934年アメリカは10年間の準備期間をおいてフィリピンの独立を与えることを決定した。
これに基づいて憲法が制定され、総選挙を経て1935年フィリピン・コモンウェルス政府が発足し、1946年には独立することになっていた。
ここに日本軍が入ってきたので、建前上、独立を認めざるをえなかった。

しかしこの独立は実質的には「独立」の名に値しないものであった。
ビルマに対しては、 軍事的には「帝国トノ間ニ共同防衛ヲ約セシメ兵力ノ駐屯、軍事基地使用及設定等ヲ認メシメ特ニ軍事的結合ヲ鞏固ナラシム」、
「外交」では「緊密提携」、「経済」では「緊密協力」を「約セシム」ことを条件とし、
フィリピンに対してもほぼ同様の条件を規定している。この内容は言い換えると外交・経済は実質的に日本が掌握し、
軍事的にもフリーハンドを確保しようとするものであった。

1943年2月1日の衆議院秘密会において南方の軍政状況を説明した佐藤賢了陸軍少将は
「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、
率直ニ申シマストサウデアリマス」と述べている。要するに「独立」しても軍政下にあるのと変わらないということであり、
このような条件下ではとうてい「独立国」といえるようなものではなかった。

この方針に基づき1943年8月1日ビルマが、10月14日フィリピンが「独立」した。

その他の地域の扱いについては、1943年5月31日の御前会議で決定された。
ここで決定された「大東亜政略指導大綱」によると次のようになっている。

六 其ノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム 但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セズ

(イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム

(ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応ジ努メテ政治ニ参与セシム

(ハ)「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム

(ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス

つまり現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアにあたる地域は日本の領土にするということである。
さらにニューギニア(現在、西部はインドネシア、東部はパプア・ニューギニア)などについて、
ここでは決定していないが日本の領土にするという方向で考えていくことも決められている。
しかもそうしたことは秘密にされた。

このことは日本が東南アジア諸国を欧米帝国主義から解放し独立を与えようとしたのではなく、
石油などの重要資源があり戦略的にも重要な地域は日本の領土にし、
日本が欧米に代わって新たな支配者になろうとしていたことを明確に示している。
564名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 20:12:57.75 ID:j2Ml4Jgh0
この御前会議の決定のなかで同年10月下旬ころに大東亜会議を開催することが決定された。

1943年6月大本営政府連絡会議はマレー北部の4つの州、ペルリス、ケダ、ケランタン、トレンガヌをマラヤから取り上げ、タイに割譲することを決定した。
タイの日本に対する戦争協力を確保するためにとった処置であり、同年10月にこの4州はタイに移譲された。
しかし、これら4州はマレー人の多い地域であり、マラヤのマレー人にとっては日本への反発を与えることになった。

1943年11月5〜6日に東京で大東亜会議が開催された。
この会議には、日本から東条首相、国民政府の汪兆銘行政院長、満州国の張景恵国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバ・モー主席、
タイのワン・ワイタヤコン首相代理、自由インド仮政府のスバス・チャンドラ・ボース首班が出席した。
タイは首相を派遣せず、朝鮮、台湾、マラヤ、インドネシア、インドシナからの代表はいなかった。

会議では「大東亜共同宣言」を決議した。
この中には「大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放」「道義ニ基ク共存共栄」「自主独立ヲ尊重」などの言葉がもりこまれた。
これには連合国の理念として反ファシズム・民主主義を打ち出した大西洋憲章に対抗して
日本側の理念を出そうとする重光葵外相のねらいがあった。しかし日本の本音は必要な領土の拡張であり、
また日本軍による占領の実態はこうした美辞麗句とは正反対であった。

インドネシアに関しては、1944年9月小磯首相は議会で、将来独立を認める旨の演説を行なった。
すでにサイパンが陥落し、米軍のフィリピン攻撃が日程に上ってきていた段階であり、インドネシアからの資源の日本本土への輸送はほとんど分断され、
軍事的にも重要性を失っていた。その後、戦争最終盤の1945年7月17日になって最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議が改編されて設置された機関)が
「東印度」(インドネシア)に独立を与えることを認めた。しかし独立が実現する前に日本は降伏した。

インドネシアと同じく日本の領土と決定したマラヤについて、外務省内で独立問題について検討がなされたが、
結局、独立には困難があるとして見送っている。したがってマラヤに対しては最後まで独立を付与することはなかった。

すでに植民地であり日本の領土であった朝鮮や台湾ほどには徹底していなかったが、
それら植民地と同じような皇民化政策が東南アジア各地の占領地においてもおこなわれた。
シンガポールでは、日本軍占領時代(昭南時代)の祝祭日として2月11日紀元節、
2月15日マレー新生記念日(シンガポール陥落の日)、3月10日陸軍記念日、4月3日神武天皇祭、
4月10日靖国神社例祭、5月27日海軍記念日、11月3日明治節、12月8日大東亜聖戦記念日など、
天皇にちなんだ日本の祝日や戦争に関わる日が記念日として導入された。
学校での日の丸掲揚、君が代斉唱、宮城遥拝、教育勅語の奉読などもおこなわれた。
学校で日本語が教えられただけでなく、一般住民に対しても日本語が奨励された。
シンガポールの日本軍の宣伝班の発行した新聞『建設戦』(1942年4月29日)は「日本語普及運動宣言」と題して、
マラヤとスマトラの住民に対して、「軍司令官閣下の談話に示された通り、
両地区の住民は悉く、天皇陛下の赤子に加えられたのである。
大日本帝国の有り難き国体を彼等住民に理解させることは、新領土に駐屯する全皇軍兵士にとって尊き責務である。
そのためには、まず国民たるの資格として、彼等に日本語を学ばしめ日本語を使わせなければならない。
(中略)国旗のひらめく所、言葉もまた日本語に満ち溢れなければならなぬ。
かくして馬来もスマトラ島も真底から日本の一角となるのである」と呼びかけている(桜本富雄『シンガポールは陥落せり』青木書店)。
ここには人々の独自の文化や言語を尊重しようとする発想はまったくなかった。

ただ長年にわたって植民地支配を行なってきた朝鮮や台湾と違って、
日本語を公用語として強制することまではできなかった。
マラヤでは、1943年11月「敵性国語駆逐」を実行するとして、軍政組織が使う言葉を43年6月までに日本語のみにすることを決めた。
しかし住民が日本語の読み書きをほとんどできないのに日本語しか認めないと行政ができないとの声が軍政担当者からもあがり、結局うやむやになった。

565名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 20:13:41.72 ID:j2Ml4Jgh0
現在でも戦時中に小学校教育をうけた人のなかには、唱歌を歌える人がよくいる。
日本語として覚えられている言葉は「バカヤロウ」や「ケンペイ」という言葉である。
大量の労務者が動員されたインドネシアでは「ロウムシャ」という言葉が今も残っている。
こうした言葉ばかりが残っているところに当時の日本軍と地元住民との関係が示されている。

日本軍は戦争遂行のために労働力の動員をはかった。
特に人口が多く、かつての輸出産業が衰退して仕事を失った労働者が多いジャワ島が労務者供出の重要なターゲットになった。
ジャワからはマラヤ、スマトラ、ボルネオ、タイなどに連行され、そのロウムシャの数は約30万人、うち7万人が犠牲になったと言われている。
ジャワ島内も含めるとロウムシャの数は400万にのぼるとも言われている。

泰緬鉄道の建設にあたっては捕虜だけではなく、民間のロウムシャも大量に使用された。
ここにはビルマ、タイ、マラヤ、ジャワなどから20万人以上が投入され、
少なく見積もっても4万2千人、イギリスの資料では約7万4千人が死亡した。
ビルマでは、ビルマ軍政監部がビルマ民政府にロウムシャの供出を命じた。
勤労奉仕隊として17万7300人が各地方に割り当てられてロウムシャとして狩り出されたが、
その半数は途中で逃げ出したと見られている。マラヤでも地方ごとに割り当てられたが、
建設現場のひどい状況がうわさで広がってくるとなかなか集められなくなった。
すると強引なロウムシャ狩りや騙して集める方法もとられた。

泰緬鉄道の建設現場では、厳しいジャングルのなかでの激しい労働と栄養失調、医薬品の欠乏によって多くが犠牲になった。
死んだものは大きな穴を掘って、そこに捨てられわずかに土がかぶせられただけだった。
あまりのひどさにビルマ政府は日本軍に待遇改善を求めたが効果はなかった。

当時、シンガポールの昭南博物館で働いていたコーナー氏はジャワからシンガポール経由で連行されてきた
インドネシアのロウムシャの模様を次のように書いている(E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館』中央公論社)。

「彼らはタイへ船で輸送されたが、その船は途中シンガポールに立ち寄った。
航海は二週間であったが、それに耐えられないような年寄り、障害者、病気のジャワ人たちは船から吐き出された。
それで、博物館と私たちの住んでいた旧セント・アンドリュー・スクールのあいだの空地に、彼らを収容するためのバラックが建てられた。
彼らはよたよたと生気のない足どりで歩きながら、そのバラックにはいっていった。
航海中に死んだ者も少なくなかった。そういうときには、死体を米袋に入れ、生き残った仲間が海に捨てた。
米袋は穴だらけであったから、穴から手や足が突き出ていた。
バラックのなかでもたくさん死んだが、やはり死体を米袋に入れて、海へ投げ捨てていた。
(中略)女性については、若くてきれいだと、カトンの近くにある兵営に売春婦として送られた。
そこで、彼女たちが『助けて、助けて』(マレー語)と助けを求めて泣き叫ぶ声は、通行人の心を引き裂いた。」

カトンには日本軍の慰安所があり、ロウムシャとともに女性が慰安婦として連行されてきたことを示している。

東南アジアの住民とは言えないが、英軍兵士としてシンガポールで日本軍の捕虜となったインド人が約6万7千人いた。
これは捕虜になった英軍の約半数にあたる。かれらの一部は日本軍が組織させたインド国民軍に加わるが、
一部は日本軍の労働力として東南アジアや太平洋諸島に連れて行かれ、日本軍の飛行場や陣地の建設に使われた。
連合軍の反撃のなかで犠牲になっただけでなく、連合軍の上陸が迫るとスパイをしたり寝返ったりするのではないかと疑いをかけられ、
日本軍によって処刑されたケースを多かった。

香港では強制移住政策がとられ、占領当初の人口約150万人は45年には50〜60万人にまで減少した。
その一部は海南島での日本窒素による鉄鉱石の開発にために連行され、多くの犠牲を出した。
566名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 20:14:49.34 ID:j2Ml4Jgh0
太平洋戦争の開始前から日本軍は占領地での慰安所設置を計画していた。
すでに1941年7月陸軍省内の会議で蘭印調査から帰ってきた深田軍医少佐が
「村長に割当て厳重なる検梅の下に慰安所を設くる要あり」と報告し、
しかも村長に事実上、強制的に集めさせることを提案している。
42年9月の陸軍省の会議では、慰安所について、
「北支100ケ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ケ所」を作ったと報告されている
(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。

マレー進攻作戦においては、その作戦中から慰安所の設置がおこなわれた。
占領後、42年夏ころまでにはマレー半島の日本軍が駐留していた主な町に慰安所が設置された。
その町の数は30以上にのぼると見られる。

東南アジアでは朝鮮や台湾、日本本土から連れてこられた女性もたくさんおり、
また中国本土の女性もビルマなどに連れてこられている。しかし東南アジア地域の日本軍慰安婦の多くは
現地の女性であったと推定されている。東南アジア各地での日本軍慰安婦の徴集方法の特徴は次のように整理できる。

第一にマラヤでは残っていた元からゆきさんに慰安婦集めを委託したケースである。
クアラルンプールでは日本軍の兵站の担当者が市内に残っていた元からゆきさんたちを集めて慰安婦集めと慰安所の管理を任せた。

第二に新聞などで募集したケースがある。
シンガポール占領直後に日本軍の宣伝班のもとで刊行された新聞『昭南日報』には「接待婦」(慰安婦)を募集する宣伝が掲載されている。
この場合、応募してきた女性は仕事の内容を承知していたと見られるが、その場合でも想像を越える過酷な扱いを強要されたケースもある。
たとえば、シンガポールのある慰安所では、応募してきた女性が「予想が狂って悲鳴をあげ」拒否したのに対して、その女性の手足をベットに縛り付けて、
「慰安」を強制したことを当時の将校が証言している(総山孝雄『南海のあけぼの』叢文社)。

第三に日本軍が駐留する地元の住民組織の幹部に慰安婦集めを命じたケースである。
マレー半島の町クアラピラーではそうして女性18人を集めさせて将校用と兵士用の慰安所を設けている。
この方法はインドネシア、フィリピンなど各地でおこなわれている。

第四に詐欺による募集である。いい仕事があるから、事務員やタイピスト、看護婦にするからというような口実で集めて、
結局は強姦してから慰安婦にするというケースである。第一〜第三の場合もこの詐欺による場合が多かったのではないかとみられる。

第五に暴力的な拉致によるケースである。
日本兵が家に押し入り、暴力的に若い女性を拉致し、兵士たちが輪姦した後に慰安婦にした例はフィリピンで数多く報告されているが
インドネシアやマラヤでもそうした事例が報告されている。

567名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 20:15:32.40 ID:j2Ml4Jgh0
徴集にあたって、物理的な暴力が使われていない場合でも連れてきた女性を慰安婦にさせる時に強姦がおこなわれ、
彼女たちの自由が奪われるケースが一般的であった。
また東南アジア地域での徴集の特徴としては、占領地の住民に対する一連の残虐行為の中で、
あるいは並行して慰安婦集めがおこなわれたことである。植民地朝鮮や台湾では、
日本が植民地支配のもとで育てた人身売買のシステムを利用して女性を集めることができたが、
東南アジアのような占領地では、中国での占領地と同じように、軍による暴力・強制力がむき出しになる傾向が強かった。

中国での事例としては、山西省盂県で、日本軍が女性たちを拉致して連行し、
監禁してくりかえし強姦をおこなったことが知られている。
その部隊は独立混成第四旅団傘下の部隊であった。独立混成第四旅団はのちに第六二師団歩兵第六三旅団となり沖縄に派遣され、
ほとんどが戦死している。沖縄戦における日本軍の沖縄県民に対する行動は、こうした日本軍占領地における行動と密接に結びついている。

また戦争末期の1944年以降、ジャワの女性がマラヤやボルネオなどに慰安婦として連れて行かれている。

地元の女性ではないが、インドネシアで日本軍に抑留されていたオランダ人女性200〜300人が慰安婦にさせられている。
慰安婦にさせられた女性は、日本の公文書、日本側と地元の証言・回想録などから判明しているかぎりでは、
日本人、朝鮮人、台湾人、中国人のほかにマレー人、華僑、タイ人、フィリピン人、インドネシア人、ビルマ人、ベトナム人、インド人、
ユーラシアン(欧亜混血)、オランダ人、その他太平洋諸島の島民があげられる。
まだ資料的には確認されていないが、ラオス人、カンボジア人も慰安婦にされていた可能性は大きい。

慰安所における状況は、軍の上級機関が管理し、業者に経営をさせていたケース(大都市に多い)、
警備隊が直轄しているケース(小都市に多い)などによって異なるが、総じて自由を拘束され、
軍人に対する性的「慰安」の提供を強要された。

日本軍兵士による地元女性に対する強姦事件も多かった。
被害者やその目撃者の証言も多いが、陸軍中央でもそのことは問題になっていた。
陸軍省の会議ではとくにフィリピンで日本兵による強姦が多いことが問題にされていた。
1942年8月になっても「南方の犯罪610件。強姦罪多し。シナよりの転用部隊に多し」と報告されている。
こうした事態に対して、軍中央は慰安所の開設・増設によって対処しようとしたのであるが、
1943年2月の会議でも、これは東南アジアだけのことではないが、「強姦逃亡等増加せる外将校の犯罪増加せることに注意を要す」
と報告されている(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。

占領地の女性に対する強姦は慰安所の設置によってもなくならなかった。
慰安所という性暴力のシステムと強姦という性暴力は並行して占領地の女性に向けられたのである。

568名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 20:16:19.87 ID:j2Ml4Jgh0
日中戦争の開始以来、強化されていた皇民化政策は太平洋戦争開始後もさらに推し進められ、
そのうえにたって軍事動員が推進された。朝鮮ではすでに1938年(昭和13)に陸軍特別志願兵制度が導入されていたが、
1943年には海軍にも同じ制度が導入された。同年には朝鮮青年特別練成令が公布され、青年の軍事訓練が義務づけられた。
さらに日本の兵力不足を補うために43年8月朝鮮にも兵役法が施行された。翌年4月から徴兵検査が開始され、
敗戦までに20万9000人が徴兵され、うち復員したのは9万7000人だけであった。

労働力不足を補うための朝鮮人強制連行は1939年の「募集」形式から、
42年には、朝鮮総督府と朝鮮労務協会が各地方行政機関に人数を割り当てて労働者を集め、
日本企業に引き渡す方式である「官斡旋」方式、44年国民徴用令の適用による「徴用」と強制の度合いが強められた。

徴用令によって軍属として徴用された者も多く、一部は捕虜収容所の監視員として南方に送られた。
彼らは捕虜と直接接する機会が多かったために戦後、捕虜虐待の責任を問われ戦争裁判で罰せられた者が多い。
あるいは軍夫(軍のための雑役夫)として各地に送られ、戦闘に巻き込まれて戦死したり、沖縄ではスパイ容疑で日本軍によって殺されたケースも多かった。

日本本土をはじめ南方、沖縄、サハリンなどに強制連行された朝鮮人の数は100万人を越えると見られている。
それ以外に日本軍の慰安婦として連行された女性も多い。

台湾でも、日本語の使用と神社参拝の強要、改姓名という日本式の氏名への変更の強要、
志願兵制から徴兵制の導入など朝鮮と同じような政策がおこなわれた。動員された軍人・軍属は約20万人余りに上り、
うち約3万が戦死した。日本軍慰安婦も徴集されボルネオなど南方に連れて行かれた。

満州では日本の兵站基地として石炭や鉄など重要物資の生産が図られた。
すでに満州では軍部主導の産業開発が進められていたが、太平洋戦争が始まると鉄鉱、石炭、液体燃料、軽金属、
農産物などの軍事物資の日本への供給の増大する方針をとった。炭坑や鉱山などでは中国人労働者が酷使され多くの犠牲を出した。
満州を代表する炭坑である撫順炭坑では強制連行した中国人の使用を含めて、労働強化がはかられ、
1942年だけで1万人以上と推定される死亡者がでた(上羽修「撫順炭坑中国人労働者の大量死」)。

569名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 20:17:07.64 ID:j2Ml4Jgh0
日本軍がアジア各地でおこなったことを考えると日本軍の特質が問題にならざるをえない。
太平洋戦争においてアジアの民衆に対して、日本軍ほど虐殺・暴行など各地で大規模な残虐行為をくりひろげた軍隊はほかにはなかった。
捕虜に対する扱いも日本軍とアメリカ軍とでは、経済力だけでは説明できないほど違いがあった。
沖縄戦で日本軍が沖縄の人々を虐殺、あるいは虐待したことも日本軍の特徴だろう。
いくつかの点から日本軍が残虐行為をおこなった特徴を考えてみよう。

第一に日清戦争・日露戦争以来培われてきた、アジア民衆に対する蔑視観がある。
中国人や朝鮮人に対する蔑視だけでなく、東南アジアの諸民族に対してはより一層見下していた。
たとえば、大本営参謀本部が作成し、マレー戦に参加した将兵に配られたリーフレット『これだけ読めば戦は勝てる』(辻政信が書いたといわれている)には、
東南アジアの民衆を「土人」と呼び、「土人は懶けものが多く、(中略)全く去勢された状態にあるから之をすぐ物にしようとしても余り大きな期待はかけられぬ」
と蔑視観が露骨に示されている。

第二に日本軍が占領地の一般住民を敵視したことである。
占領軍である日本軍に対する住民の抵抗はゲリラだけでなくさまざまな形でおこなわれた。
日本軍は住民全体を疑い、村を丸ごと抹殺することさえおこなった。
国際法はまったく無視された。相手が住民であろうと、「抗日ゲリラ」あるいは「抗日分子」という名目がつきさえすれば
「治安粛清」と称して堂々と住民虐殺がおこなわれた。

第三に日本軍の「現地調達」主義である。
日本軍は各地で作戦をおこなう部隊の食糧や馬の糧秣について「現地調達」するという政策をとった。
日本軍は補給そのものを軽視したが、とりわけ食糧については軽視どころか部隊に任せた。
そのため各部隊は戦闘をしながら食糧を確保しなければならなかった。本来は代価(軍票など)を払って購入しなければならないが、
実際には食糧略奪があたりまえのようにおこなわれた。戦地・占領地での略奪は戦時国際法に違反するだけでなく、
日本軍の陸軍刑法や海軍刑法でも「略奪ノ罪」にあたるが、それが取り締まられることはほとんどなかった。

略奪にあたって、住民の抵抗があれば、住民に対する残虐行為がおこなわれた。
女性に対する暴行もその一部だった。それが抗日勢力が強いと見なした村であれば、略奪、女性への暴行、
住民虐殺、放火がおこなわれた。中国ではこうしたなかで若い女性を拉致し慰安婦にさせるケースが報告されている。

中国など人が住んでいるところではこうした方法で食糧が調達できても(略奪された住民の苦しみがあることはいうまでもない)
人のあまりいないジャングルのなかでは、略奪しようにも略奪するものがなかった。
ガダルカナルやニューギニアで多数の日本兵が餓死したのはその結果である。
日本軍兵士の死者の半数以上が広い意味での餓死(飢えに起因する病気による死を含めて)によるものと推定されるが
(藤原彰「日本軍の餓死について」)、みずからの兵士の生命を軽視した「現地調達」主義は、
日本軍を残虐行為に駆り立てたとと同時に日本兵自体の生命をも奪ったのである。

第四に国際法を無視したことである。
第一次世界大戦までは、日本は参戦にあたって国際法を遵守する旨が開戦の詔書には含まれていた。
しかし太平洋戦争の開戦にあたっては、詔書の案の段階ではあった「国際法規の範囲内に於て」という文言が最終的には削られた。
日中戦争にあたっては、戦争ではなく「事変」であるとして戦時国際法を適用する考えはなかった。
日中戦争〜太平洋戦争において日本は、捕虜や占領地の住民の保護など戦争下におけるさまざまな人道的な措置を定めた戦時国際法を守る意思がなかったのである。

第五に日本軍内部の非人間性である。
日本軍でも「私的制裁」は禁止されていたが、実際にはビンタをはじめさまざまな暴力が日常的におこなわれていた。
「死は鴻毛(鳥の羽毛)よりも軽し」という軍人勅諭の言葉通りに兵士の生命は軽んじられ、特に下級兵ほどその抑圧はひどかった。
軍のなかで蓄積された抑圧とストレスは外部に対して、とりわけ弱者に対して向けられた。
占領地の住民はまさにその犠牲者であった。住民に対する兵士たちの残虐行為は軍隊内の秩序を維持するための安全弁として軍上層部は黙認したのである。

軍隊という組織そのものが持つ暴力性はこうした日本軍の特徴によって極度に増幅され、
アジア太平洋地域では他の国とは比較できないほどの残虐行為を引き起こしたのである。
570名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 20:17:51.57 ID:j2Ml4Jgh0
日本軍による過酷な占領に対して、各地で抗日闘争が繰り広げられた。そのあり方は地域ごとに多様であった。

フィリピンではさまざまなゲリラ組織が作られたが、その中心になったのはユサッフェゲリラとフクバラハップだった。
ユサッフェとはアメリカ極東軍のことで、同軍は1942年5月に日本軍に降伏したが、各地に残されていたフィリピン人兵士たちは
ユサッフェゲリラを組織し知識人・政治家・宗教者らと協力し抗日ゲリラ活動をおこなった。
彼らはアメリカに忠誠心を持ったゲリラだった。一方、社会党・共産党系の農民運動を基盤に42年3月中部ルソンで結成されたのがフクバラハップ(抗日人民軍)だった。
彼らは日本軍追放と地主打倒を目標にしていた。両者は対立しながらも抗日活動をおこなった。

マラヤでも多様なゲリラ組織が生まれた。最も強力だったのはマラヤ共産党によって組織されたマラヤ人民抗日軍だった。
華僑が主体のマラヤ共産党はイギリスの植民地支配のもとで非合法化されていたが、
日本軍のマレー侵攻が始まると共産党は英軍に協力を申し出、共産党の選抜した青年たちに英軍がゲリラ用の訓練を与え、
日本軍の後方に送り込むことで合意がなされた。他方、多くの共産党員や国民党員らがシンガポール華僑義勇軍に参加して
シンガポール防衛戦で勇敢に戦い、多くが戦死した。

英軍からゲリラ用の訓練を受けた計165人は4つのグループに分けられて、
マレー半島の南部に送られた。彼らが中心になってマラヤ人民抗日軍が作られた。
北部でも共産党員らが独自にゲリラ活動を組織し、後に人民抗日軍に統合された。

中国国民党系の華僑は華僑抗日軍を組織、主に中北部で活動した。
またマレー人主体の地下抗日組織ワタニアも作られた。

インドからのマレー半島反攻を計画していたイギリス軍は136部隊を編成して潜水艦やパラシュートによってマレー半島に潜入し、
これら各地の抗日ゲリラと連絡を取り、彼らに武器弾薬を提供した。

インドシナでは日本とフランスに反対するベトナム独立同盟会(ベトミン)が結成され、
北部山岳地帯に解放区を設けた。1944年から45年の大飢饉のなかで「敵のモミの倉庫を破壊して人民を救おう」と呼びかけて全土で抗日闘争を活発化させ、
45年9月2日ベトナム民主共和国の独立を宣言した。

タイは当時、東南アジアでは唯一の独立国であったが、実質的に日本軍の占領状態におかれていた。
タイ政府は表面上は日本に協力する振りをしたが、政府や軍・警察関係者らは密かに「自由タイ」という抗日組織を結成した。
抗日的として日本軍に逮捕されタイ警察に引き渡されたタイ人は警察内の自由タイによって密かに釈放された。
また海外にいた外交官や留学生たちは自由タイの国外組織を作って国内とも連絡を取り、連合国からの支援をうけてゲリラを組織しようとした。
日本軍はこの自由タイの動きを察知していたが、手を出すことができなかった。

ビルマではすでに見たように、ビルマでは日本軍によって育てられたビルマ国軍がイギリス軍とともに日本軍をビルマから追い出し、
その後はイギリスの植民地支配の復活を許さず、独立を勝ち取った。

インドネシアでは、オランダによって投獄されていたスカルノやハッタなどの民族運動の指導者たちは、
日本軍に協力することによって独立を得ようと考えた。しかし日本軍の過酷な占領に対し、
1944年2月に西部ジャワで農民の反乱がおき、さらに45年2月東部ジャワでペタのブリタル大団が即時独立を求めて反乱を起こした。
このことは日本軍に対して、インドネシアへの独立付与を促したがその動きは遅く、
日本降伏後の8月17日青年らの突き上げをうけてスカルノらは独立を宣言した。
571名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 20:18:43.82 ID:j2Ml4Jgh0
日中戦争〜太平洋戦争下におけるアジア各国の被害は甚大なものだった。
死者の正確な数ははっきりしないところが多いが、主に各国政府の公式の発表を基に紹介すると、
中国1000万人以上(調査の進展により最近では2000万人以上と言われ始めている)、
フィリピン111万人、インドネシア400万人、ベトナム200万人、マレーシアとシンガポールで10万人以上、ビルマ15万人、インド150万人、
韓国・朝鮮20万人、台湾3万人などである。このほとんどは民間人である。
ほかに連合軍捕虜4万2千人あまり、民間抑留者1万数千人、オーストラリア1万7744人(捕虜約8000人を含む)などである。
アジアの死者は全体として2000万人という場合が多いが、中国の死者の数によっては大きく増える可能性もある
(『世界』1994年2月、特集白書・日本の戦争責任)。

なお日本の死者が約310万人、うち軍人軍属230万人、民間人80万人である。
日本の場合、沖縄を除くと、軍人の外地での死者が多数を占めているが、アジア諸国の場合には圧倒的に民間人が犠牲になっている。
日本の侵略戦争であったことがここにも現れている。

戦争被害は死者のみに限られない。家を焼かれたり破壊された件数などの物的な被害、難民になった人数は想像がつかない。

人的物的被害とは異なるさまざまな傷痕も残している。
マレー半島では、日本軍は華僑を抑えるためにマレー人を利用した。
華僑粛清という名の虐殺のためにマレー人を道案内に使ったり、マレー人警官を同行させて日本軍の手伝いをさせた。
そのため華僑から見ればマレー人が日本軍の手先となって同胞を殺していることになり、華僑が主体の抗日ゲリラは日本軍に協力しているマレー人を襲撃し、
あるいは豚肉を無理強いするなどイスラム教徒であるマレー人を侮辱する行動にでた。
このためマレー人が華僑の村を襲って村人を惨殺し、それに対して華僑が報復するという事態が戦争末期から戦後にかけて頻発した。
このマレー人と中国系との対立はその後も尾を引き、現在でも大きな問題となっている。
日本軍の残虐行為がその後何十年にもわたって深刻な影響を与えているのである。

ビルマでは、多数派のビルマ族のほかにカレン族やカチン族などの少数民族がいる。
カレン族にはイギリスの影響でキリスト教徒が多く、そのためイギリスが植民地支配のためにカレン族を登用しビルマ族を抑えるために利用した。
日本軍は逆にビルマ族を使い、カレン族に対しては親英的とみなして抑圧した。そのためカレン族が日本軍の残虐行為の対象になったケースが多い。
このためビルマ族とカレン族の対立は一段と増幅された。
戦後、ビルマ族主体のビルマ政府に対してカレン族は武装闘争をおこない、ビルマの不安定要因となっている。

植民地支配は通常、民族を分断し統治するという方法を取るが、日本軍の支配はそれが虐殺などの残虐行為と結びついていたために
民族間の対立を一層増幅させることになった。

日本軍は戦争後期になると日本軍を補うために現地の住民を使って義勇軍などを作った。
ビルマ国軍やインドネシアの郷土防衛義勇軍(ペタ)などはその代表的なものである。
これらの軍隊は戦後の独立にあたって大きな役割を果たした。特に植民地の再建をねらうオランダと独立戦争を戦ったインドネシアの場合は特にそうである。
もちろんこのことは日本軍が日本の覇権のために作った軍隊を、民族運動の組織者が独立のために活用したのであって、
ヨーロッパと日本の二つの帝国主義国の間で両者を利用して独立を勝ち取ったことはいうまでもない。
しかし独立後の軍隊の土台が日本軍によって作られたことは否定できない。問題はそこにある。
インドネシアで1966年にクーデターを契機に政権を握りその後1997年に至っても依然として独裁政権を続けているスハルト大統領はペタの軍人であった。
ビルマで1962年に軍事クーデターで政権を握り、議会を解散し憲法を停止、後に表舞台からは姿を消すが今日に至るまで軍事政権の黒幕と見られている
ネ・ウィンは日本軍の訓練を受けたビルマ独立義勇軍の幹部の一人だった。独立後、長期軍事独裁政権が生まれたインドネシアとビルマではともに
日本軍に育てられた軍隊がそこでも大きな役割を果たし、また日本軍に訓練された将校がその独裁者になっている。
独立後の問題の原因の一つが日本占領時代に起因しているのである。

572名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 20:26:39.22 ID:j2Ml4Jgh0
 治安維持法は、本来、日本共産党をはじめとする政治結社の運動を弾圧することを目的としたものであったが、
戦局の進展につれて、国民のあいだに戦争にたいする嫌悪感が増大し、厭戦から反戦の気分がつのり、
天皇制にたいする反感が強まるにつれて、政治的支配権力の側では、集団的な政治活動のみでなく個別的な「不穏言動」や「造言飛語」
――反戦・反軍・不敬・不穏の言辞・策動・投書・落書・演説・文書掲出・放歌等々――に深刻な脅威を感じて神経をとがらした。
内務省警保局が「今後人の集るところ必ず共産主義運動あり」と感ずるようになったこと
(内務省警保局編「社会運動の状況」昭和一六年版、八ページ)は、かれらの危機感をよくあらわすものであった。

 内務省警保局や憲兵隊が反戦・反軍・不敬・不穏事件として、やっきになって探索し、弾圧した事件の数は、
戦争が進むにつれて急激に増大し、警保局によってキャッチされた事件の数のみでも、
月平均件数で日中戦争開始ころの一二〜三件が年を逐って二三件、二六件、三四件、五一件と増大する一方であった。
一九四〇年版の警保局「社会運動の状況」には、「最近は落書投書言辞等いずれを問わず、悪戯的なものは全く影を潜め、
内容すこぶる不逞悪質のもの多きに上るの状況」と記しているように、「不逞悪質」の言動が目立ってきた。
以下に官憲の目にとまった言動のうちいくつかを年代順にあげておこう。

 岐阜・陶器画工・二四歳――「今度の支那との戦争は侵略的である。支那と戦争して領土を占領しても我々無産者には何等の利益等ない。
結局戦争は資本家が金儲けするだけでこんな侵略的戦争は反対だ。早く止めて貰いたい。仕事がなくなるから。」
(数回にわたり数名に宣伝、一九三八年二月、造言飛語罪で禁錮四ヵ月)

 和歌山・農業・五二歳――「今年は百姓は悲惨なものだ。連日の降雨のため麦や罌粟は皆腐ってしまった。
これは今度の戦争で死んだ兵隊さんの亡魂が空中に舞っているから、その為に悪くなるのである。
戦争の様なものはするものではない。戦争は嫌いじゃ。」(理髪店で話す、同年五月警察犯処罰令で科料一〇円)

 岐阜・畳職・五二歳――「こんなに働くばかりでは銭はなし税金は政府から絞られるし全く困ってしまった。
それに物価は高くなるし仕事はなし、上からは貯金せよといって絞り上げる。実際貧乏人は困っている。
よいかげんに戦争なんか止めたがよい。兵隊に行った人の話では全く体裁のよい監獄じゃそうな。
兵隊もえらいしええかげんに戦争は止めたがよい。日本が敗けようと敗けまいと又どこの国になっても俺はへいへいといって従っていればよい。
日本の歴史なんか汚れたとて何ともない。」(或一人に話す、同年九月、陸軍刑法第九九条違反で禁錮六ヵ月)

 福岡・理髪業・三一歳――「皇軍兵士が戦死する場合無意識の間に天皇陛下万歳を叫んで死ぬ様に新聞紙に報道されているが、
それは嘘だ。ほとんど大部分の者は両親兄弟妻子恋人等親しい者の名前を叫ぶということだ。」
(数名に話す、同年一〇月、陸刑九九条で禁錮五ヵ月)

 東京・飛鳥山公園便所に落書――「正義を愛する者は戦争に参加するな。」(三八年九月、捜査中)
 山形・応召軍人妻・三三歳――「兵たいさん父さんおかいしてくださいおねがいです。母さん病きでねています。
私はまいにつないでいます。ごはんないのでばはいやにいもおもらった父っやんおかいしください。
兵たいさんめくんでください母っやんぜにかないています。」(同年一〇月、歩兵三十三連隊本部へ投書、説諭処分)

 北海道・農業(区長)六五歳――「農家ではこの忙しい時に兵隊には取られるし頼りとする馬も徴発され仕事をするに大支障がある。
とにかく戦争等は早く終って貰いたいと念願している。もう戦争は嫌になった。」(三九年二月、産組事務所で数名に話す、戒飭)

 福島・農業女性・三八歳――「国家なんて虫の良い事ばかりするものだ。足袋もなくて働け働けといわれても仕方がない。
それに増税だ何だと是では百姓がやりきれない。是も戦争がある為だから戦争なんて敗けてもよいから早くやめて貰いたいものだ。」
(一九四〇年、厳諭)

 岐阜――四〇年四月、二名の家人を前に新聞掲載の皇太子の写真に、「こんな良い服や靴を着て何じゃ、
我々国民があって初めてこんな良い服が着られるのだ、こんなもの何じゃ」といいつつ該新聞紙をクシャクシャに丸め、
これでストーブ上の油を拭き廻したのち「こんな者は早く死んで了え」とストーヴの火中に投じた。(七月、不敬罪で送局)
573名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 20:27:20.86 ID:j2Ml4Jgh0
 山梨・芸能人(石田一松)、三九歳――同年五月甲府の劇場において、「稼いでも稼いでも喰えないに、物価はだんだん高くなる、
物価は高いのに子はできる、できた子供が栄養不良、いやにしなびて青白く、あごがつんでて目がくぼみ、だんだん細くやせてゆく、
日本米は高いからパイノパイノパイ、南京米や朝鮮米でヒョロリヒョロリヒョロリ」なる歌詞の時事小唄を演奏した。(演奏中止、厳重戒飭)

 千葉・五九歳――同年八月、小学校の時艱克服聖戦完遂村民総動員大会の席上で、
「我々は今子供を二人も戦争にやっているが、もう戦争も大概に止めて貰いたいものだ」と発言。(厳重戒飭)

 和歌山・警察署長あて投書(新聞の皇族写真同封)――「署長以下署員皆様この御写真を見て如何に思うか。
新体制が叫ばれている折今日この二方の服装はどうだ。上等の高価の毛皮の襟巻を着て堂々と新聞紙上に出すではないか。
下人民の手本となるべき人はこの様な派手なことをするとは陛下の赤子として立腹の至りだ。
現下の国民はいかなる苦難を忍びつつあるか。我々の生活の有様を推察せられ前記御二方へ厳重御意見を直接宮中へ出されよ。
なお新聞紙に反答せられたし。一市民より。」(同年一一月、捜査中)

 大阪・五一歳――「天皇陛下も人間なら我々も人間だ。天皇陛下が米を食べられるのに我々国民が米を食べられないはずはない。
天皇陛下が米を食べられないのなら、自分も食わずに辛棒する。我々は銃後の産業戦士だ。このような事で銃後の治安もくそもあるか。」
(一九四一年二月、米穀共同販売所で発言、不敬罪としで送局)

 山梨・農業・三九歳――「先日自分の出した供出米が一俵不正だとかで村の連中がとやかくいうが、
あの位の事が悪いなら何の法律でもよい罰してもらいたい。このように種々と窮屈になったのも戦争のためで
この戦争を誰が頼んだものではない。政府が勝手にやっておるのでこんな事が永く続けば銃後はやりきれぬ。」
(同年八月、某宅で雑談、科料五円)

 新潟・教諭・三七歳――同年九月、農林学校三年生四二名にたいし作文授業中、
与謝野晶子作「君死にたまふことなかれ」の歌を板書し、生徒に筆記させ、
「天皇は身自ら戦の庭に立たぬのだから我々も戦死する必要はない」との趣旨で説明を加えた。(厳重戒飭)

 兵庫・工場寄宿舎舎監・四一歳――事変に応召して召集解除となったが、戦地より支那軍捕虜殺戮現場写真等を持ち帰り、
一九四一年九月以降一〇月、職工にたいし継続して、前記写真を提示しつつ、皇軍を誹謗し反戦反軍言辞を弄す。
(四二年一月、神戸区裁で禁錮六ヵ月)

 群馬・農業・四五才――「日本もハアどうすることもできなくなってしまっただからね、皇族だっても我々と同じ国民ではないか、
宮様の御祝儀だなんてあってこともない騒ぎをして一体皇族なんてものは何をして食っているんだべ。」
(同一〇月、区長宅の常会席上、二二名の前で発言、一一月不敬罪で送局)

 大分・日稼・四四才――一九四二年三月、常会席上班長から国債購入の勧誘を受けたのに対し、
「自分達はその日稼の苦しい生活をしているものだ。こんな事は下の者に無理にいうより戦争を止めるのが一番良い。
そうすれば国債を売付ける必要がない。無理に戦争に勝とうとするからこのような国債売までするのだ。早く戦争をやめてもらいたい。」(検挙)

 大阪・鉄工仕上工・二○才――六月中旬工場において八―九名にたいし、「こんな戦争は勝っても決して我々労働者には何の得にもならぬ。
お上の人は闇をしてはならぬと強調しているが、その人達が何をしているのか判ったものではない。」
「天皇陛下がなければこんな戦争をやる必要はない。」
(一〇月、言論出版集会結社等臨時取締法一八条違反として略式命令により罰金五〇円)

 神奈川・農業・四九才――四一年六月、国民学校における故陸軍兵長の村葬に参列し、埋葬に行く途中、村長にたいし、
「国家のため戦死された英霊を何故国民学校の裏門より出発せしむるか」と質したのに対し、
村長が「正門には御真影奉安せられあり、恐れ多いから臣下として御遠慮中し上げる」と答えたのに対し。
「恐れ多い恐れ多いといったって天皇は我々が食わせておくのではないか、遠慮なら仕方がない。」と不敬の言辞を弄した。
(四二年一二月、不敬罪として送致)

庶民は誰も戦争など望んでいなかった
戦後の後知恵で「聖戦だった」「植民地の解放だった」とのたまうゴキブリは
戦時下の人々の気持ちなど理解していない鬼畜である
574日本@名無史さん:2011/03/05(土) 21:12:02.91 ID:585NFVY80
日本の歴史を知らないようで。
戦前と戦後とは、明らかに違いがある。

長々と書き綴っている事に、私は心打つものは何もない。
其れは、誰かのせいにしている人の意見でしかない。

我が日本民族は、誰かの所為にする前にわたくしの不備を憂う国民性です。

 答えれますか? >>j2Ml4Jgh0さん
575名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 21:21:09.59 ID:j2Ml4Jgh0
治安維持法と特高警察について
これこそ「カミソリ」といわれた冷酷非情の東條英機の忠実な道具であった

 戦時下日本のいっさいの政治的諸運動抑圧の法的中核となったのは治安維持法であった。
同法によって一九二八年以来検挙されたもの六万人、起訴されたもの六〇〇〇人(その九五%以上は左翼関係)と戦争直後発表されたが、
「同法の近来の運用は赤化の防止という本来の目的から離れ、民衆の思想に対する強権的圧迫と人権蹂躙に悪用された傾向が極めて濃い」
(朝日新聞、一九四五・一〇・一四)といわれたように、治維法はもともと天皇制と資本主義制度に反対する共産党の弾圧を直接の目的とする
法律であったが、後には社会民主主義・自由主義・一切の反政府運動、さらにそれらの思想そのものに適用されていった。
一九二五年に公布され、一九二八年に緊急勅令で改正された治安維持法(旧法)は、「国体を変革することを目的として
結社を組織したる者または結社の役員その他指導者たる任務に従事したる者」は死刑または無期ないし
五年以上の懲役ないし禁錮(以前は最高一〇年)、
「情を知りて結社に加入したる者または結社の目的遂行の為にする行為をなしたる者」は二年以上の懲役または禁錮とした。
同法の解釈は「最大限度に拡張して」(一九四〇・五月の全国思想実務家合同における控訴院検事の発言)使われ、
「取締の対象が自から思想そのものに向けられるに至」(ジュリスト、一九五二・七・一五、伊達最高裁調査官)り、
目的遂行行為と認められる範囲は勝手に拡張され、共産党の中央部が破壊されたのちには、
コミンテルンの目的遂行行為として取り扱われ「国体を変革することを目的とする結社」も、最大限に類推・拡張解釈されて、
朝鮮民族独立運動や「類似宗教団体」(大本教・天理本道・燈台社等)もこれによって処罰された。
治維法が画期的に拡張解釈して適用されるにいたった重要な契機は、一九三五年のコミンテルン第七回大会およびそれに関連する
人民戦線方針関係文書の海外からの大量流入と全面的な日中戦争の開始であった。

 この治安維持法を補充するものとして、一九三六年に思想犯保護観察法が公布施行された。
保護観察とは、治安維持法の罪を犯した者に刑の執行猶予の言渡のあった場合、または訴追を必要としないため公訴を提起しない場合、
さらに刑の執行を終わりまた仮出獄を許された場合、などに保護観察審査会の決議によって、
「本人を保護して更に罪を犯すの危険を防止するため、その思想および行動を観察する」もので、
担当者は保護観察所の保護司その他であり、本人にたいしては居住・交友・通信の制限、
その他「適当な条件の遵守」を命ずることができたのである。

 その後治安維持法の改正案は、再三にわたり政府によって議会に提出されたまま実現にいたらなかったが、
ついに一九四一年三月に根本的に改悪して公布され(実施は五月)るにいたった。改正治維法(新法)は実体規定としては、
(1)外郭団体を直接取締りの対象とする支援結社に関する処罰規定、(2)直接に国体変革の実行を担当せず、
党再建の気運醸成を主要目的とする準備結社に関する処罰規定、(3)結社の程度にいたらない集団(グループ)に関する処罰規定、
(4)類似宗教団体に関する処罰規定、(5)人民戦線方策採用の結果あらわれた、結社と関係のない国体変革の目的遂行に資する
一切の個人的行為を処罰する包括的規定等を設け、その刑をさらに重くし、旧法になかった特別刑事手続に関する規定および
詳細な予防拘禁に関する規定を新たに設け、全部で六五条(旧法はわずか七条)の法律となった

 治維法の発動にあたっては、逮捕・捜査・取調・留置・取締・スパイ工作・右翼の利用等において、
非条理きわまる濫用や無恥な拷問がもちいられた。逮捕する場合には、身柄の保護処分としての行政検束
(「泥酔者、瘋癲者、自殺を企てる者その他救護を要すと認むる者」を「翌日の日没」まで検束する制度、
一九〇〇年制定の行政執行法第一条)を利用し、その時限がすぎると書類上だけで釈放して再検束し、
あるいは違警罪即決処分(「一定の住居または生業なくして諸方に徘徊する者」を三〇日未満拘留。
一九〇八年制度の警察犯処罰令、第一条)にあてはめて二九日間の拘留処分にし、
期限がすぎると警察署を転々とタライ廻しにして留置をつづけた。

(つづく)
576名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 21:23:08.75 ID:j2Ml4Jgh0
>>574
お前が認めようとしないだけだ
お前が認めるまで、俺の「説得」は続く

 警察官の自由認定は、治維法による取締りの実施にあたっても大幅に認められていた。
そして長期間の拘束の上で、手記を書かせ、それを根拠にして、治維法を適用することが行なわれた。
治維法の「目的遂行」にあてはめるために、たとえば、いわゆる企画院事件で検挙されたある被疑者の場合には、
彼が某大学で経済原論の講義をした際、参考書の一つとしてあげた中に共産主義的経済学者の著書があったのをとらえて、
「国体を変革することを目的とした結社の目的遂行の為にする行為」としていた
(海野普吉「治安維持法運用の跡を顧みて」、ジュリスト前出)。
また、「私の一友人は治安維持法違反として、懲役二年、執行猶予五年の判決を受けた。
判決文中で最も主要な証拠に援用されたのは、彼が他の友人達と協同で買い込んでいた本に、
『ELM会』という判こうがおされていた事実であった。ELM会とは、北海道からきた仲間の一人が、故郷のにれをしのんでつけた名前である。
ところが検事および裁判所にいわせると、それはマルクス、エンゲルス、レーニンの略字だとばかり、他にこれという証拠もなかったのに、
共産党の一グループ活動と認定されたわけであった」(戒能通孝「暴力――日本社会のファシズム機構」)。
さらに、いわゆる新興俳句事件で検挙された人たちは治維法によるデッチアゲについて左のような思い出を語っている(雑誌「俳句研究」、
一九五四年一月号)。

 ――治安維持法に抵触しそうな架空の犯罪の型を捏造しておいて、被疑者を無理やりにこれにあてはめるんですね。
だから自句自解を書かせる場合でも、新興俳句作者は全部共産主義の信奉者であって、俳句を通じてマルクシズムを大衆に浸透させ、
他日プロレタリア革命によって共産主義社会を打樹てようとするものだということが結論にならなければパスしないんですよ。
――書いてゆくとどうしても共産主義は正しいという結論になる。またそうしなければむこうが承知しない。
その上で俳句がそれとどう結びついているかということでね。ところがこっちはそんなこと常識以上に知りァせんしね。
留置場へぶち込まれて参考書がないでしょう。あったところで、俳句雑誌以外は参考書を見て書いてはいけないというんだ。
しかしそれがなければコミンテルンだの資本主義の発達史だのなんて書けないしね。
そこでぼくはこっそり自宅から改造社の「社会科学辞典」をとりよせて、それを見ながら書いたね
――手記を書いていると、おや、じぶんは共産主義者になったかな、という気がした。しかしどうも旨く書けないので、
手記の見本をみせてもらったら、なかなか見事なものだった。それでわたしは共産主義者としでの自覚と認識を、そっくりそのまま借用したら、
「お前はそんな偉いことをいう部類にはいらぬぞ」といわれた。ともあれ、わたしは手記の上では完全な共産主義者になり、
そして結論で転向を誓った。……

 治維法は、一九四五年一〇月四日、日本帝国政府にたいする連合国最高司令官の覚書
「政治、信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃」によって、思想犯保護観察法、同施行令、保護観察所官制、予防拘禁手続令、
同処遇令等と一緒に、一切の条項を撤廃し、かつ即時その効力を停止すること、
同時にこれらの法令などにより拘留・投獄ないし自由を制限されてる人びとを即時(一〇月一〇日までに)釈放することが指令された。
一○月一二日の定例閣議は治維法の廃止を決定し、同法により刑に処せられた者は、
「将来に向ってその刑の言渡を受けざりしものとみなす」こととなった(勅令七三〇号)。

(つづく)
577名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 21:23:51.61 ID:j2Ml4Jgh0
その他の戦時弾圧法規
 四一年三月に公布され五月から施行された「国防保安法」は、戦時下の国防上、
外国にたいして秘匿することを要する軍事・外交・財政・経済などに関する重要な国家機密を保護するために制定された
国防保安に関する一般法であり、政治的・思想的弾圧の手段として利用された。
同法によって、刑法に定められた以外に特別に重い刑罰が課され、またそのために刑事訴訟法に規定する以外の特別の刑事手続が規定された。

 四一年一二月の開戦直後に制定された「言論出版集会結社等臨時取締法」は戦時特別立法の一つとして、
集会・集団運動・結社・出版等を行政官庁の許可制とし、それぞれの違反行為に厳罰をもって臨み、
また時局に関する「造言飛語」「人心惑乱」行為を処罰するものであり、政府は各部面で自由に取り締まる権限をにぎることになった。
同法の審議にあたって、一議員から「むしろ戒厳令を奏請し、これを適用する方が適当ではないか」と質問がでるほど苛酷な内容のものであり、
たとえば「造言飛語」「人心惑乱」の事項を流布したものは懲役刑にされたが、
その内容がたとえ事実で、確実な根拠にもとづくものであっても処罰されることになっていた。

 四二年二月に公布された「戦時刑事特別法」は、戦時下の治安犯罪などにたいしきわめて重い罪を課するとともに、
戦時下の刑事手続について特別の取扱い(同第二九条よって後述のとおりゾルゲ事件は上告棄却となった)を定めた特別立法であり、
「戦時に際し燈火管制中または敵襲の危険その他人心に動揺を生ぜしむべき状態ある場合」の放火罪、
「戦時に際し国政を変乱することを目的と」する殺人罪、戦時下の騒擾罪・公共防空妨害罪・公共通信妨害罪・
ガス電気利用妨害罪・重要生産事業遂行妨害罪・生活必需品買占罪・往来妨害罪・住居等侵入罪・飲料水に関する罪などが、
最高死刑・無期以下の懲役となった。つづいて同法の改正案が四三年一月から三月にかけて第八一回議会で激しい論議の対象となり、
貴族院では委員会八回・小委員会二回のあと法相の特別言明があって可決され、衆議院では委員会一二回、懇談会四回のすえ、
東条首相みずから委員会と本会議で濫用せぬよう万全を期する趣旨の特別声明があってようやく可決となり(反東条派約三〇名反対)、
三月から施行された。改正は四ヵ条の追加であり、国政変乱目的の傷害・逮捕・監禁・暴行・脅迫罪を死刑・無期以下の懲役・禁錮に、
騒擾その他治安を害すべき罪の実行についての協議・煽動を七年以下の懲役・禁錮としたが、
とくに問題となったのは同法第七条の四の「戦時に際し国政を変乱しその他安寧秩序をびん乱することを目的として
著しく治安を害すべき事項を宣伝したる者」を同じく七年以下の実刑に処するという「宣伝」行為処罰の規定であった。
私有財産制度の否認もこの「安寧秩序びん乱」になることとされ(四一・一〇・二三、東京控訴院の河合事件判決)、
「治安を害すべき事項」とは「国家社会公共の法的安全を害するおそれある事項」で、
出版法規における「朝憲びん乱」「政体変壊」「安寧秩序びん乱」なども含まれるものとされた(四〇・一一・一四、大審院判例)。

特高警察
 特高の歴史は、鮮血にまみれた人権じゅうりんの罪悪史であったが、「治安維持」の取締りにあたった特高警察は、
いわゆる大逆事件の翌年、一九一一年に内務省がそれまで高等警察事務の一部であった危険思想取締りのため枢要地に
とくに専任警部を配置することを勅令で決定し、大阪府に警察部長直属の高等課別室(翌年特高課に昇格)を、
また警視庁の官房内の高等課を分課して社会運動の取締りだけを担当する「特別高等課」を設けたことに始まるものであり、
一九一三年の警視庁官制の改正によって、特別高等警察・外事警察・労働争議調停の三部門を担当する課として明確な地位を獲得した
(武野武治・赤枝清「特別高等警察史」、潮流、一九四六年四月号)。
その後、日本共産党創立の翌年、一九二三年には主要九府県に特高課が創設され、つづいて一九二八年の三・一五事件のあと、
残りの全府県に特高課が設けられ、また主な警察署に特高係が配置され、ここに全国的な特高組織網が確立し、
思想警察を全国的に統轄する内務省警保局保安課は拡充強化された。
府県の特高課長は警察部長とは別に直接に中央の保安課長と結びつき、府県特高課長の任免だけは内務省の保安課長
(保安課長のみは勅任官)の人事に一任され、内務省の機密費も保安課長から直接に特高課長に工作費として送られていた
(杉本守義「特高警察の組織と運用」、ジュリスト、一九五二・七・一五および八・一号)。

(つづく)
578名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 21:25:13.32 ID:j2Ml4Jgh0
 警視庁特高課の人員は、三・一五事件のころは、特高係・労働係に内鮮係・検閲係を加えて七〇人くらいであったが、
その年の八月の増員で一挙に三八〇名となり、一九三二年六月には「特別高等警察部」に昇格して機構を拡充し、
従来の係は課に昇格して、特高課(二・二六事件のあと、左翼担当の特高一課と右翼担当の特高二課に分かれた)・
労働課・検閲課・外事課・内鮮課・調停課の六課となった。人員のいちばん多い時には約六〇〇名であった。
特高一課の主任警部は八名、特高二課は六名(はじめは二名)で、主任警部はそれぞれ五名の部下
(警部補一名、巡査部長一名、巡査二名)を使って活動した。特高係官には「検挙取調」をする係官と「視察」する係官とがあり、
要視察人一人ひとりについて指紋・写真・記事をカード化して絶えず整備しており、甲種要視察人(現に運動をやっている者)は本庁で、
乙種要視察人(転向していた者)はそれぞれの住所の所轄署の特高係が視察した。
そのほか、メーデーその他状況に応じて予備検束する要注意人をきめてあった。また、大阪府特高課ははじめ約五〇名、
のち一五〇名に増員された(大阪府では一九四三年に警察部を警察局に昇格させ、その下に治安部を設けて特高課を包含した)。
各府県も、それぞれ数十名の係員を擁し、また下部の各警察署は、大きい署で七〜八名、小さい署では二〜三名の特高係員をもち、
各署の特高主任は警部補がこれにあたっていた(小林五郎「特高警察秘録」)。特高警察官は治維法の実施にあたる第一線の部隊として、
豊富な機密費を使って、常時調査・視察・取締りを担当し、尾行・逮捕・拷問の技術を習練し、国民のあいだにスパイ網をはりめぐらし、
治維法・治安警察法・行政執行法などによって苛酷な弾圧をおこない、共産主義者はもちろん、
のちにはいっさいの民主主義運動をも徹底的に取り締まり労農運動内部の攪乱工作にまでのりだした。
(注)岩田義道や小林多喜二をはじめ残虐な拷問によって殺害された者も多い。

(注)一例として、静岡県特別高等課編の「特高教範」(一九四三年六月)の中の「視察内偵入門」と題された章の一部を抜萃して紹介すれば
左のとおりである(雑誌「みすず」、一九六一年四月号による)。
第五視察内偵の方法
一、機構及運用
(一)外勤情報警察機能発揮
(二)民間情報網の設定
 (イ)各界に責任ある有力者を獲得すること
(三)特殊内偵線の設定
(イ)人または物に対し適格なる情報を入手するために設ける。特殊の工作と工夫を要する。
(四)尾行内偵
(五)張込内偵
(六)関係方面との連絡
 (イ)憲兵隊 (ロ)鉄道、郵便局その他官署 (ハ)印刷所(謄写印刷所)常に連絡し、一部の余分を作ってもらう 
(ニ)書籍店(古本屋)各社書籍の売行状況 (ホ)各種団体等、なかんずく郵便局とはどうしても連絡が付かねば駄目である。

二、具体的方法
 1 対象者の肩書や門構に恐れてはならない。(自分は陛下の特高警察官である)
 2 対象人物の真意が何辺にあるかを引出すこと。(反って反対の主張をして見ることもよい)
 3 視察眼を敏感、緻密にすること。(表面は見ざるが如く、或は特に注意せざる如き態度をとり、またとぼけることもよし)

 4 人の前ですぐ手帳を出して記録せざること(関心あるが如く記録することも可なる場合あり、すなわち我に訴えるが如き場合)

 5 大胆にして細心
 6 左翼に対しては隠語または通称語を覚える
 7 人情の機微を掴むこと
 8 視察内偵は計画的継続的系統的になすこと
(一)右翼関係者(略)
(二)左翼関係者
 彼等は物をいわぬ。従っていわしめて情報をとることは困難である。どうしても裏面内偵に重点が置かれねばならない。
左翼人物は確信犯である関係で容易に転向するものではない。従って表面視察では駄目である。
しかし、特に留意されたいことは、表面視察の状況を刻明に記録してもらいたい。何時誰が居たとか、何処で会ったとか、
何処へ行っていたか等のことでよい。以下視察要領を掲げて見ると、(イ)熱意を持つこと、(ロ)内偵線を持つこと、
(ハ)常時証拠品の蒐集に心掛けること、(ニ)証拠品及取調べに当りては、(1)証拠品第一主義で行くこと、
(2)証拠品の湮滅を防止すること、(3)あせらぬこと、(4)証拠品は特高的に分析すること

(つづく)
579名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 21:26:24.46 ID:j2Ml4Jgh0
 また、大審院・控訴院・地方裁判所の検察局には、それぞれ専門の「思想係検事」(「思想実務家」)が配属されていたことは
先に図示したとおりであるが、司法省ではさらに、一九三八年六月には「思想研究会」を設けて将来の思想事件に関する対策を講じ、
判検事六名を選定し、三九年八月には全国控訴院別に思想ブロック会議を開いて対策をねり、
四二年一月には大審院検事局思想部の機構を拡大した。司法省の思想関係執務参考調査資料として、
刑事局「思想部報」「思想調査」「思想研究資料」(通巻六三冊、特集九九冊、一九二七〜一九四三年)、
「思想資料パンフレット」(通巻一五冊、特集三九冊、一九三八〜一九四三年)、「思想月報」(一〇九冊、一九三四年〜一九四四年)、
「思想特報」(一九四一年)、「思想内報」(一九四四年)など確認できるだけでも尨大な量が作られていた
(小森恵「帝国憲法下における社会・思想関係資料」、みすず、一九六〇・一一〜六一・四月号)。

 終戦後、全国の特高警察(前出の「陛下の特高警察官」)は廃止されたが、
連合軍の指令にもとづいて日本政府が罷免した特高警察官の数は四、九五八名であり、
同じく保護観察関係の官吏は九七七名であった(連合軍最高司令部、一九四五・一一・七発表)。
一九四六年一月四日には、総司令部の命令にもとづいて公職追放に関する勅令が発布され、
八年間以上または一九四一年三月以降四年間以上にわたって特高警察に従事した者でその期間中に警部以上の職を占めたことのある者、
また特高警察または思想検挙に従事したあいだに、重要思想刑事事件(一九三七年の労農グループ事件、日本共産党事件、
日本労評事件、一九三八年の教授グループ事件、日本共産主義者団事件、一九四一年の国際共産党事件、燈台社事件、
一九四二年の日本聖公会事件、きよめ教会事件、東洋宣教会きよめ教会事件、一九四三年の第七日基督再臨団事件)の処理にあたって
主要な役割を演じた者(実際の処分は警部以上)が、公職から追放されることになった。

検挙数
 治安維持法による被検挙者総数は八万人に近いと思われるが、一九四三年までに検事局の受理した被疑者数は、
「満州事変」以降一七、九二〇人、日中戦争以後六、四一七名(起訴一、六八六名)である(司法省「刑事統計年報」による。
一九四四年以降は全国統計がない。また検事局受理人員には、検挙されながら検事の拘留状が発せられずに釈放されたもの、
あるいは検察側と無関係に憲兵などによって検挙されたもの――救世軍の弾圧、沢田行政裁判所判事の検挙等――などを含まない。
別に内務省警保局編「社会運動の状況」各年版によれば、治維法違犯事件検挙者数(および起訴者数)は一九三七年一三八六(二一〇)、
一九三八年五五二(二一二)、一九三九年三二三(一五二)、一九四〇年六三二(一〇一)、一九四一年九三四(一五九)、
一九四二年三二九(一四五)であり、また小林五郎「特高警察秘録」によれば、検挙者(および起訴者)は、一九三七年一、二九一(二一〇)、
一九三八年五五三(二二一、一九三九年三八九(一五一)、一九四〇年七一九(一〇一)、一九四一年九〇一(一六一)、
一九四二年三一七、一九四三年二八四、一九四四年二二〇、一九四五年九月末七九、となっている)。
終戦後、連合軍最高司令部の指令にもとづいて一九四五年一〇月二二日までに釈放された政治犯は五〇七名
(連合国人・中立国人・白系ロシア人三九名をふくむ)、政治犯であって別に殺人罪、窃盗罪等により釈放されないままのもの三七名、
司法省による保護観察を解かれたもの二、〇二六名であった(同年一一月七日、総司令部渉外局発表)。
もちろん、取調中にあるいは獄中において死亡した犠牲者もたいへんな数にのぼった
(その一部は、解放運動犠牲者合葬追悼会世話入会「解放のいしずえ」に掲載されている)。

 なお、一九四一年一二月九日には、対米英宣戦布告にともなう非常措置として、
「内偵中の被疑事件」の検挙二一六名(令状執行一五四)、要視察人の予防検束一五〇名、
予防拘禁を予定するもの三〇名(令状執行一三)、計三九六名の非常検束がおこなわれた。
580名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 21:29:18.84 ID:j2Ml4Jgh0
さて、「聖戦」とやらの正体についても述べていこう

 一九三七年一一月、当時華北に出征中であった一兵士(歩兵一等兵)から、
秋田県の本籍地役場と小学校あてに、つぎのような内容の通信が送られきて、特高警察をあわてさせた。
――「第一線部隊では気がスサンで、少しでもシャクにさわると突き殺すという現況です。東洋平和がどうとか、
支那民国を緩和せんとか、そんな理論的な行動を主眼としては自分等の命が危い、戦争で死ぬのが名誉ではないのだ、
勝って生きて帰るのが本領なのだ、敵の中には日本人、ロシア人等混って居った。同じような事例はめずらしいことではなかった。
一九三八年になると、華中に出征中の一兵士から、熊本県の友人あてに「最新流行軍歌集」と題する印刷物が送られてきたが、
その中には、「ああそれなのに」や「旅笠道中」などの流行歌のほか、「赤旗の歌」、「メーデー歌」などが掲載され、
所々に、「日本軍閥打倒せ」、「即時撤兵」、「国民の苦痛を解放せよ」、「無意義な犠牲をするな」、「国内革命へ」などの
共産主義的反戦スローガンがやや太字で挿入してあった。

 中国戦場の日本軍部隊の中には、自傷・自殺・逃亡・行方不明・反抗・叛乱などがふえていった。
たとえば、一九三九年二月、湖北省長台関に駐屯していた第三師団野砲三連隊十二中隊では、
長期の戦地生活に激しい不安と不満を抱いていた三人の三年兵は、内地から転任してきた見習士官が内地での軍隊規律を
強要することに反感をもち、見習士官に殴打を加えた。上部では三名を処罰しようとしたが、
部隊内の三名にたいする声援の空気が強いので、不安な情勢を起こす気配を憂慮し、
始末書だけで片付けざるをえなかった(鹿地亘編「反戦資料」二二一ページ)。

――「一線ではとても不平が多い。皆が集まりゃ不平ばかり並べるが、そんな折に俺は発起人になって
『それは今制度が悪い。戦争で一生懸命やって戦死しても天皇陛下へ忠義になりあせん。靖国神社へ祀られても、
金鵄勲章を貰っても、何にもなるもんじゃない。天皇陛下はあってもなうても同じことじゃ。
国家の為という名目のお蔭で良いことをする者も居る』といって兵隊等を煽ててやった。
お前達が親分の為には命を投げ出すというが、まだその方がましだよ。戦死する前に天皇陛下万才というて唱えるちゅうが、
そんなこという暇はない。あれは皆嘘じゃ」(同上一九四一年版)。

 敗戦の色が濃くなるにつれて、軍隊の士気もくずれていった。国内で兵士が兵営に放火して全焼させる事件も起こった。
戦線においても、銃殺の危険をおかす抵抗の事例がいくつもあらわれた。例えば、一九四三年はじめには、中国の山東省の日本軍守備隊で、
日頃の不満を爆発させた兵士たちが暴動をおこし、隊長以下将校たちが隣県の本部まで逃げ出した事件があった。
一九四四年六月のビルマにおけるインパール作戦では、軍司令官が後方の司令部から攻撃を命令しているのに、
前線部隊はこれにそむいて退却をはじめ、このため作戦は中止された(歴史学研究会編「太平洋戦争史」W)。
陸軍省兵務局の一課員が発表した講話筆記には、戦争末期における陸軍将兵の「軍紀」について左のように書かれていた
(「偕行社記事」一九四五年三月号――鈴木健一「崩壊期の陸軍内部軍紀」、歴史学研究、一九五四年八月号による)。

「昭和十八年度犯罪中特に注意を要しまする点は、奔敵逃亡等、将兵の志気沮喪を表徴して居ります
犯罪の急増せる事実であります。即ち奔敵二〇名、逃亡一〇二三名でありまして、陸軍総犯罪数の四分の一に達して居ります。
而して昭和十四年の六六九名に比較します時、三倍に達して居ります。特に昭和十七年度に比して奔敵が六倍以上にも
増加致して居るのであります。又昭和十九年度一月より七月迄の状況を見ますると、奔敵四〇名、逃亡一〇八五名でありまして、
前年度一年間の犯罪数を既に超過して居りまする事実は、将兵の志気昂揚せざることを如実に表現して居りますもので、
極めて注目を要する次第であります。………内地部隊に於て長期服務並に激烈なる戦場に勇戦奮闘することを忌ひ、
幹部候補生志願者の減少して居ります部隊がありますことや、老年召集将校の服務、消極に堕して居りますのがありますこと等は、
現在の軍隊に流れて居ります一部の空気とも見らるる所でありまして、誠に遺憾に存ずるのであります。………」
581名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 21:30:52.79 ID:j2Ml4Jgh0
スカルノ自伝
スカルノは「日本軍政への協力者」であったはずなんですが、「日本を上手く利用してやった」式の記述が目立つ。
さらに「Jap」という表現まで登場している。やはり一筋縄では理解できない政治家でしたね。

(パダンに進入した日本軍の兵士がインドネシア人を銃の柄で殴り倒すのを見たスカルノは、一緒にいた友人ワウォルントに言う)
私(スカルノ)は声を抑えて答えた。「彼らの残虐さについては全て知っている。占領地域での日本人たちの行動を私は知っている
−しかし、OKだ。この数年間十分準備をしてきた。彼らが我が人民のためになし得る事を理性的に検討すべきだ。日本人に感謝しなければならない。われわれは彼らを利用できる。〜」
(今村将軍の招聘で、1942年7月スマトラからジャカルタへ移ったスカルノはハッタと再会する)
“ハッタと私はもう長い間やり取りがなかった。そしてお互いに言うべきこと、尋ねるべきことがたくさんありながら、お互いに問いを発しなかった。
ハッタが耳打ちした「この占領の結末について君の意見は?」
私は囁き返した。「日本人たちはここに長くは留まらないだろう。彼らは戦争に負けるし、我々は彼らを打ち破るだろう。
これはつまり、我々が公然とは彼らに刃向かわなければの話だが。」
そして私が尋ねた、「話してくれ、ブン・ハッタ、我らが人民のナショナリズム精神の様子を?」
「それは戦争のせいで損なわれてはいない。我らが人民はすでに‘解放’について不審に思い始めており、
ブン・カルノの帰還をはやる思いで待っている」”
“シャフリルを交え、これからの作戦計画が迅速に纏められた。我々は2つのレベルで役割を果たすことが合意された。
それは、表の公然的なものとアンダーグラウンドで秘密裏なものだった。一方が他方の果たせない役割を行うということだ。
「我らが人民に対する軍事訓練や行政職務についての政治的な譲歩を引き出すため、我々は協力しているよう見せかけねばならない。」
と私が話した。
「明らかに、君の力は大衆と共にある」とハッタが要約した「それゆえ君は表で活動すべきだ」
「その通り。君(ハッタ)は地下活動を行うにはナショナリストとして有名すぎるから私(スカルノ)の補佐を。」
「そして私に残るのは」シャフリルが示唆した「地下活動であり、ラジオ放送傍受や他の秘密活動だ」
一時間という我々の手短な議論は、このように簡潔な公式を導き出した。
それは20年後に再検討してみると、実に先を見越したものだった。これ以外に選択肢はなかった。
「これこそが我々の待っていたチャンスである。」私は歓喜した。
「私は確信する。この占領は、我らが人民への教育と準備の大いなる機会となるだろう。オランダ人職員たちは全て投獄された。
全群島を管理するに日本人の数は十分ではないから、彼らは我々を必ず必要とするだろう。〜」”
“「はじめに我らが人民は苦しみの中へ投げ込まれるに違いない。なぜなら、そうなった時にのみ彼らは目覚めるのだから。
我らの人民は、平和的であり、おおらかであり、競争を避けてしまう。7千万人近くが50万人に支配されていたというのに、
我ら大衆はオランダ人の支配下で闘おうとするほど苛つくこともなかったろう。オランダ人はまがい物の慈善で彼らの支配を上手く調整した。
しかし、ジャップ*1たちはそうしない。」
「彼らは刀の一振りで人々の頭部を切り落とす。彼らは、計略をもって犠牲者たちにたらふく水を飲ませ、そして彼らの腹の上に飛び乗る。
深夜、ケンペイタイ*2の本部から聞こえてくる苦しみの悲鳴にも慣れた。
聞くところによれば、ケンペイタイの看守はわざと酔っ払った状態にされており、そうやって彼らの感受性を鈍らせているそうだ。
日本人は手強い。残酷だ。すぐに残虐行為にでる。彼らは、我らが人民を戦わせることになるだろう。」”
582日本@名無史さん:2011/03/05(土) 21:43:59.41 ID:585NFVY80
 之を書いたところで、誰に何を訴えたいのか?
 否定的な意見を書けば、山ほど集まる。
 ここでしなくとも、あっちでなされば言いことのように思う。

 日本国の当時の技術が世界的高みにあったかというと、不確かで・・・

 武蔵を作った長崎造船所・零戦を作った三菱重工共に、些細な事から、技術的に窮極なる困難を克服し、完成したわが国の誇りである。
 一職員が軍秘のもと拷問を受け病む人さえいた。今の会社の機密性と比べたら・・

 多くの人は、各持分を全うし、職務を遂行し、何時しか大きなものと結果として成し得た成果に喜びを感じた。
 戦前の日本人の心持を私は全て理解はできませんが、今とは違い、一本の道は有ったと思う。
 自由主義という個人の主張は、果たして大切な事なのであろうか?

 長きに渡る国家の礎の元に、何千年にも渡る先人の営みの下にわたくしがいる。
 成文法なき時代でも、多分変わらぬ思いがあると私は思います。

 野を吹く風のように自然に日本国を統治された方がいる国です。
 偉大なる奇跡は、我が日本国でしかありえない事実である。
 大君は、いつでも太陽の様な暖かさで、国民の下にいて下さる。
583名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 22:43:55.89 ID:ERMLdq/fO
全く反論できず、言うに事欠いた知的障害者ID:585NFVY80が
いつもの支離滅裂なデムパ語による攪乱モードに入りました。
ホントみじめww


埋め
584名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 22:49:31.62 ID:KIACplBu0
>>574
馬鹿左翼の「デタラメネット論文」のコピペ爆撃だよ。
これは、こいつが書き込んでるんじゃなく、スレッド埋め立て目的の
コピペさ。誰かに読んでもらうのが目的じゃない。

馬鹿左翼は、議論に負けると悔し紛れにバカサヨ系の長文コピペを
連投してスレッドを埋め立てる。俺は何度もやられた。

言論封殺もバカサヨの得意技だと覚えておいたほうがいい。

512kを超えれば書き込めなくなる。
まあ、埋まったら次のスレッドを立てればいいのさ。

馬鹿=ID:j2Ml4Jgh0に問いかけても答えはないから、やめたほうがいい。


585名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 02:45:30.96 ID:77ZgY7mT0
>>574
>長々と書き綴っている事に、私は心打つものは何もない。

低脳だから長文読む能力ないだけじゃね?
実存ネトウヨ系とも接するチャンスがあるんだけど、やはりワンフレーズじゃないと飲み込めない印象がある

要は低学歴が国粋主義的な方向に走りやすいのは洋の東西を問わない定則だし、2chではそれがネトウヨを構成している
586名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 12:49:52.85 ID:NqgLIBY70
あほ
587名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 12:54:41.07 ID:NqgLIBY70
>>584
お〜、くやしいのう、くやしいのう。満州国スレで百回撃墜された墜落王がよく言う

「デタラメ」?全部真実にしか思えんがな

なにがどう「デタラメ」なのか、「論破」してみろよ

名越コピペを貼り付けるだけしかできない低能には、無理に決まっているがなw
588名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 14:14:21.68 ID:NqgLIBY70
圧倒的事実の前に、お前たちは
「デタラメだ」と泣き叫びながら逃げるしかないのだ
歴史は必ず修正主義者たちを罰するのだ

撫順炭鉱で死に、万人坑に葬られた者の霊が
労務者としてかり出され、重労働の末死んだ者の霊が
だまされ、かどわかされ、慰安婦にされた者の霊が
「無念を晴らせ」と言うのがきこえる

お前たちはこの国を糖尿病にしようとしている
そして再び滅ぼそうとしている害虫だ
お前はゴミでクズで最低の虫けらだ

スマラン事件(Pertempuran Lima Hari)
第二次大戦終結後の1945年10月14日から18日にかけて、インドネシア スマラン(Semarang)で日本軍とインドネシア民衆の間に衝突があり、
数千人が犠牲となる事件がありました。日本側では「スマラン事件」と呼ばれ、
インドネシア側では「Pertempuran Lima Hari」(“5日間戦争”の意味)と呼ばれています。

手元の書籍「30 YEARS OF INDONESIA'S INDEPENDENCE」(STATE SECRETARIAT)」(英文)に掲載されている事件の概要をご紹介します。

スマランの5日間戦争
この事件は、1945年10月14日に始まった。日本海軍の軍人約400人が反乱を起こしたのだ。
彼らは、以前ソロモン諸島で戦っていたが、スマランのチピリン(Cepiring:スマランの30km西方)砂糖工場を
軍需工場へ改造する作業に従事するためスマランへ移って来きていたのだった。
彼らは、彼らの保護・監視を行っていたインドネシア人の警官たちを襲撃した。

逃げ出したこれら日本軍人たちは、ジャティガレ(Jatigaleh)の城戸部隊(城戸大佐に率いられた大隊)に合流した。
彼らは、拘留された日本人を探し、助け出すという口実を使い、各地を移動・抵抗しようとした。

この緊張した情勢は、チャンディ(Candi:*1)の飲用貯水池に毒が入れられたという噂が広まると、更にその緊張を高めた。
貯水池の水を汚染したと疑われていた日本人達が、飲料水の汚染を防ぐと言う口実で、
そこを警備していたインドネシア人警官8人の武装を解除したため、状況を更に悪化させたのだ。

スマラン中央人民病院研究所のカルジャディ医師が、この5日間戦争の最初の犠牲者となった。

1945年10月15日の夜明けに戦闘が勃発した。城戸部隊約2,000人が、
スマランに偶然駐留していた他の良く装備された大隊の助力を得て、TKR及び青年団と相対したのだった。
現在“Tugu Muda”(*3)が建てられている五叉路で、激しい戦闘が行われ多くの犠牲者が出た。
戦いは5日間続き、双方の指導者たちの交渉によって終結した。
そして、1945年10月20日、連合国軍のイギリス軍がスマランに上陸し、日本軍の拘留・武装解除を行うと、
すぐに町は平静さを取り戻した。この戦いでインドネシア人2,000人と日本人100人が犠牲になったと推定される。

589名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 14:16:28.61 ID:NqgLIBY70
インドネシア歴史教科書より

日本は戦時下にインドネシアを占領した。経済諸資源は、戦争が必要とするものを支援するために動員された。
そして、その行政管理の担い手は軍人たちだった。それゆえ、日本による占領期間は短かったとはいえ、
長期にわたったオランダ時代に受けたよりも遥かに重い苦しみをインドネシア国民は体験することとなった。

東南アジア(日本は南方地域と呼んだ)に対する支配計画の中で、日本はインドネシアを戦争及び産業で必要となる諸資源の
重要な供給地域と見なしていた。その計画を実現するために、極めて異常な搾取と動員が用いられた。
日本の占領政府は経済活動の全ての面とその管理を引き継ごうと企てた。その管理を規定する法令が施行された。

経済面での日本の主要な目的は次のようなものだった。

(a) 日本の戦争を支援する枠組みの中で、インドネシアの経済活動を再編成し、動員する。そして;
(b) 東アジア及び東南アジアにおいて長期間の経済支配を行うための諸計画作成。

a. 物資の流通に対する管理
実施された法令は管理的な性質のものだった。戦時という条件に一致する様々な新法令を日本占領政府は打ち出した。
鉱業、電力、電信電話、運輸といった重要企業のいくつかは直ちに占領政府が管理するところとなった。
在庫されている物資の流通及び利用は厳重に管理された。物価の上昇を防ぐため、価格管理法令が施行された。
法令違反に対しては重い罰則が適用された。

重要なものを含め物資に対しては、政府による管理が行われた。つまり、次の2種類の物資を含めて、その使用と分配は監督下におかれたのだ。

1) 戦争遂行のため、直接的に利用される物資。自動車、自動二輪、発電装置、鉄及びアルミニウム製品といったもの。
2) 民衆の生活必需品。
上記2種類の物品に対しては、居住地域(syu[*1])外への持ち出しが禁止された。

b. 農業とプランテーション
連合国側が所有していた農園などの企業とその財産は接収された。
紅茶、コーヒー、キニーネ、ゴムを栽培する農園は管理下におかれ、それらは専売となった。
荒廃していた農園全てが復旧されたわけではなく、戦争遂行のため特に関連している特定の農園だけが復旧されたのだった。
紅茶、コーヒー、タバコの農園については、嗜好品に分類されたため制限が設けられた。
また、食料を生産する農地へ改造される場合もあった。他方、ゴムとキニーネを栽培する農園は、
戦争遂行を支える物資と評価されたため注意を払われていた。このような状況ではあったが、生産は恒常的に下落していった。
西カリマンタンでのゴム生産は、停止さえした。

破壊されていた砂糖工場のいくつかが修理された。
1943年には、オランダ植民地時代の遺産であった精糖会社のいくつかが日本の支配下に置かれ、
その経営者たちは逮捕・拘束された。1944年の第31オサム・セイレイにより、国民は砂糖黍の栽培と砂糖の製造を禁止された。
この政令は、製糖工場を兵器工場へ改造するため、もしくは解体して戦争遂行のため他の場所へ移設するために施行された。
精糖会社のうちのいくつかは、日本の私企業によって運営された。例えば、メイジ・セイトウ・カイシャ、オキナワ・セイトウ・カイシャ、
タイワン・セイトウ・カイシャ、ダイニッポン・セイトウ・カイシャである。
砂糖の配給・販売はジャワ・ハンバイ・レンゴウ・クミアイ(ジャワ砂糖販売本部組合)によって行われた。
この結果、日本と台湾(当時は日本に支配されていた)は、大東亜における主要な砂糖供給者となったのだ。

特に重要な資源である油田の管理はミツイ・カブシキ・カイシャによって行われた。原油は戦争遂行のための戦略的資源であった。

事実、インドネシア経済は戦争経済の型に変更・適合されたのだった。
地域毎に自給自足を実現せねばならなかった。つまり、自らの需要を満たせる(自給する)ようにすべきとされた。
日本は行政地区、つまり自給自足地区を設定した。それは、ジャワで17地域、スマトラで3地域、その他は3地域となった。
自給自足地域の主要な任務は;

1) 地域防衛のため自給自足を達成すること、及び
2) 日本の戦争遂行のために必要となる原料を生産すること。インドネシア人民とその富は日本の戦争利害のための犠牲となった。
590名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 15:24:14.57 ID:Q5H4OvjH0
このスレ頭のおかしな痛いやつしかいないな
591名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 16:27:38.95 ID:NqgLIBY70
食料需要を満たすため、日本は様々な方法で生産を高めるべく努力した。
例えば、森林を新しい農地として開拓した。ゴム・コーヒー・タバコ農園を米作地等へ変えていった。
しかしながら、よく見てみれば、日本の方針は反生産的(つまり、目的と結果でお互いに矛盾している)であるように見える。
つまり、食料増産のための努力は、次のような原因のため失敗した;

a) 新たに水田を作り出すため森林を開いたことは、森林に損害を与え洪水を引き起こした;
b) 労務者として若者や農民を動員したことは、農作業従事者の不足を引き起こし、その結果食糧生産は下落した;
c) 農家の家畜を屠殺したことは、家畜の減少となり、耕作を行う上で農民を補助する力を減らしてしまった;
d) 農民に対し稲を政府へ譲渡するよう義務付けたが、それは稲を栽培する意欲を低下させた。Pohon jarak、木綿、カポック、rosela
といった植物の栽培の義務化、そして農民達の時間と労力を浪費させる様々な他の義務によって
彼らの一連の苦しみはますます長引くこととなった。

戦争が激しさを増すにつれて、必需品や食料に対する収奪はエスカレートしていった。
1944年には、いたるところで日本の状態は危機的なものだった。
日本は、ジャワ奉公会・農業組合(農業の協力組織)・その他政府諸機関を通じて、
物資と食料の動員キャンペーンを大規模に促進させた。
食料の動員・収集は、稲もしくは他の産物を政府へ代償とすることで行われた。
その結果、生産物の利用は、40%が農民に、30%が精米組合を通じて予め決められた価格で政府へ引き渡され、
残りの30%は稲の準備在庫として生産地の村へ納められた。漁民に対してもまた同様の支払い義務が定められた。
彼らも漁業組合を通じて政府へその漁獲量の一部を渡さねばならなかった。

こういった食料の供出義務は完全に行われたわけではなかったが、この方針はジャワでの食糧不足の状態をますます悪化させた。
多くの地域で飢饉が発生した。人々はありあわせの食料で生き延びた。
例えば、バナナの木のこぶ、カタツムリ、栄養価の低い芋類を食べた。国民の体力は急激に低下し、
その結果、脚気やペストなどの伝染病にかかりやすくなった。国民の苦しみはますます酷くなり、死亡率は急上昇した。
プルウォルジョでは死亡率が24.7%に達し、ウォノソボでは53.7%にも達した。人口の増加数もまた減少したのだ

民衆の生活にかかわる別の大きな問題は衣料であった。
戦争前は、オランダからの輸入によって衣料在庫があったが、日本の占領下では、欧州諸国との交易は途絶してしまい、
衣類の輸入は停止してしまった。

この問題を克服するため、様々な方策が採られた。例えば;

1) クディリ、ブスキ、パレンバン、バリ、ロンボック、南スラヴェシなどの地域で綿を栽培する;
2) 民間の紡績事業を立ち上げる、そして紡績の訓練をさせる;
3) 綿の代用品を探し求める。例えば、パイナップルの葉の繊維、等。
しかし、これらの努力は失敗に帰した。人々の多くが、ズタ袋や椰子の葉から編んだ粗末な衣類を着用することとなった。
さらに、身体を覆うため、ゴム糸を使った物まであった。ズタ袋の衣類は痒みを引き起こした。
多くの人々が皮膚病、蚤、等に苦しんだ。また、死者の遺体を覆う布もほとんどない状態となり、
ムシロで包まれた。たとえ遺体が布で包まれたとしても、その墓は布が盗まれないように見張る必要があった。

d. 財政と金融業
農業生産物の販売や税の徴収が困難であったため、財政面での政府の収入は制限を受けた。
しかしながら、戦費や破壊されたインフラ復旧のため、政府の支出は大きかった。
占領政府はグルデン(蘭領インドの通貨)の価値を維持すべく努めた。その目的は、物価の水準を戦前の状態に維持すること、
そして資本・信用の流通・流れを監視することだった。

1943年以降、日本占領政府が発行する通貨の価値は下落した。
なぜなら通貨の保証もない上に流通総額があまりに多く、また物資の在庫を増やすこともなかったからである。
その結果インフレとなり、通貨の価値は名目上のものから約2.5%下落した。

赤字を補填するため新たな通貨発行が行われた。
そして流通している通貨はますます巨額となり、それは15億に達した。また銀行に蓄えられた準備額は25億になった。
流通している通貨額を支弁するため、日本は貯蓄キャンペーンを実施した。1944年2月終わりには127,000万ギルダーもの貯蓄が集められた。

592名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 17:41:22.74 ID:NqgLIBY70
インドネシアでの日本による搾取は天然資源に対してだけではなく、人的資源に対しても行われた。
飛行場、港、仮設道路、兵器庫、地下避難通路、防御陣地などの国防施設や社会基盤を建設するための労力が必要とされた。
そのような作業を行うために動員された労働者達は労務者と呼ばれた。

労働者たちは人口密集地域であるジャワの村々から調達された。最初のうち、その採用は自発的に行われたが、
労務者の運命について恐ろしい噂が広まると、強制的なものに変わった。各村々に対して一定数の労務者を供給するよう義務付けられた。
各地域にはロームキョウカイ[*2](動員委員会)が設置された。
若者を引きつけるため、労務者は経済戦士または労働者の英雄とされた。
そして通常は農民達が労務者にされた結果、村々の経済に対し大きな影響を与え、食糧生産が低下することとなった。

労務者の動員はしばしば非人間的なものだった。労働環境は劣悪だった。
重労働であり、食料は十分に与えられず、衛生状態も不適切だった。
そして厳重な監視下の元、休息時間は短く、ミスは重く罰せられた。多くの労務者たちが、
ビルマ、マラヤ、サラワク、ベトナム、ソロモン諸島などの海外へ送られていった。その多くが、送られた先で死亡した。
また、武器庫など軍設備といった機密設備の建設任務についた場合、機密保持のため完成後殺される危険に曝された。
推定では、300,000の労務者がジャワ島外へ送られ、70,000が悲惨な状態にあった。

1944年1月、日本はトナリグミ(rukun tetangga:隣組)システムを導入した。
隣組とは10〜20の家庭で構成されるグループである。そしていくつかの隣組からク(村、もしくは町の一部)が構成された。
隣組の目的は、住民活動の監視であり、住民に対する指導管理であり、住民に課せられた義務遂行を円滑化することだった。
戦況が日本にとってますます不利になると、隣組は防空訓練、火災予防訓練の実施、地域内での敵国スパイの監視・予防任務を与えられた。

経済諸資源及び労働力に対して日本が行った管理・動員システムは、社会生活の広い範囲に渡って影響を与えた。
その一つとして、食糧を戦争の為に徴用したことから食糧不足が発生した。青年や農民を労務者として動員したため、
それら村落地域では農業労働力が減少し、その結果、農産物生産が下落した。
稲栽培のため新たに農地を拡張する試みは森林に損害を与え洪水を引き起こした。
多くの農園、特にタバコとコーヒーを生産する農園が放置された。これらの要因からついに飢餓が住民を襲う事態となった。

日本占領時代には、住民に行うことを強制した事柄がいくつかあった。
例えば、最敬礼を義務付けている儀式。つまり、神であるとされた日本の天皇へ敬意を表すること。
それは東京の方向へ向けて身体を深く屈めて行われた。このことはイスラムの教義と著しく矛盾することだった。
なぜなら、多神教徒のように感じられるからだった。確かにそのとおりであって、この強制はインドネシアのイスラム教徒の気分を害した。
K.H. Zaenal 他、何人かの有力なイスラム学者たちがこれに反対を唱えた

否定的な影響としては次のようなものがあった;

1) 失われた人命は膨大なものだった。日本の占領方針による結果、死者の数は数十万に達した。特に労務者の犠牲が多かった。
2) 人々が受けた苦しみ。それは、食糧不足(飢餓の危険)、衣料の欠乏、医療サービスの不足、女性に対する性的な嫌がらせなどであった。
3) インドネシア民族の精神が損なわれた。なぜなら、残虐行為、汚職など日本人のネガティブな行為・態度を真似てしまったからである。
4) 無計画な森林伐採による環境破壊。
5) インドネシア国民の財産の消失。それらは日本の戦争遂行を支えるため動員・徴用された。
593名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 17:43:41.72 ID:NqgLIBY70
第二次世界大戦は1939年9月3日に勃発した。1940年にはデンマーク・オランダ・ベルギーそしてフランスがつぎつぎにドイツ軍によって蹂躙された。

 オランダ政府はイギリスの首都ロンドンへ亡命した。オランダとインドネシアとの間の連絡が途絶した。蘭印政庁は孤立した。

 ドイツはイタリア及び日本と同盟条約で結ばれていた。

 いつか日本がインドネシアに進攻してくるであろうことは当時だれの目にもはっきりしていた。
しかしオランダ人が余りにも尊大であったのでわが民族は当時一般にわれ関せずの態度をとり,
オランダ人と一緒に祖国を防衛する義務はまったく感じなかった。

 1940年にイタリアが参戦し,1941年の末に日本がこれに続いた。1941年12月8日に日本軍は攻撃を開始した。
ハワイ諸島の真珠湾にあったアメリカ合衆国艦隊と空軍は麻痺状態となった。
短期間の間にガム・ウェイク・香港・シンガポール・インドネシアそしてフィリピンがつぎつぎに陥落した。
蘭印海軍と空軍を粉砕したのち,1942年3月1日に日本軍はジャワに上陸した。
1942年3月8日に蘭印政庁は全面的に無条件降伏した。わが国は占領地となった。

 当時のオランダ人は女性と子供を含めて捕らえられ捕虜収容所に入れられた。
日本はアジアの光・アジアの保護者・アジアの指導者であると自己宣伝した。
彼らは共栄圏を創造することを願望しているといい,東アジアと東南アジアのすべての民族に
大日本の指導のもとに協力するよう呼び掛けた。協力への日本の提言は概してわれわれの指導者の歓迎を受けた。
スカルノ・ハッタを含むほとんどすべてのわが指導者は日本を支援した。

 日本の占領期間中わが国は互いに連絡のないいくつかの《スマトラとジャワが陸軍軍政地区,
その他が海軍民政地区》地域に分離された。日本軍政府は厳しく残酷に統治した。
彼らはすべての種類の情報に対して厳しい検閲を行った。手紙・演説・新聞記事とラジオ報道文が事前に審査された。
占領期間中わが国と外国との連絡は全面的に途絶した。その当時われらが見聞したのはまったく日本の宣伝にほかならなかった。

 数百万《一説に30万》人のわが青年が捕らえられて,タイ・ビルマといった外国で労務者(苦力)としてこき使われた。
わが青年の大部分《一説に23万人》は再び祖国を見ることがなかった《後日,これらの人的被害は賠償請求の算定基準となる》。

さて、各地域の軍政府を指導したのは軍政監と呼ばれる陸軍もしくは海軍の幕僚長だった。
日本は官僚機構を運営するための十分な人的リソースを持っていなかったので、インドネシア人をそこへ登用した。
これはそれ以前の状況とは全く異なっていた。
オランダは、現地住民たちを高級職員の地位に座らせるほど彼らを容易に信じてはいなかった。
とはいえ、日本は実用的な方法を求めただけだった。

社会の広範囲から共感・支持を得るための事業として、日本は3A運動をプロパガンダとした。つまり;

日本*1はアジアの光
日本はアジアの保護者
日本はアジアの指導者
Nipponとは、日本の意味である。この運動の指導者は、あまり著名ではない民族主義者Samsudin(大インドネシア党*2の若い指導者)だった。

結局のところ、3A運動は人気を集めることが出来なかった。その結果、日本は著名な民族主義指導者たちに接近した。
その目的は彼らを日本側へ引き込むことだった。その後、日本はプートラ、ジャワ奉公会、MIAIを設立した。
いずれの組織も日本を援助し、連合国に対抗する力を動員することが目的だった。

プートラ[Putera]とは、民衆総力結集[Pusat Tenaga Rakyat]の略称である。
この団体は日本によって組織され、スカルノ、ハッタ、Ki Hajar Dewantara、Abikusno Cokrosuyono、
K.H. Mas Mansyur、Sutarjo、Supomoといった活動家たちが協力した。
プートラの指導を任された人物はスカルノ、ハッタ、Ki Hajar Dewantara、K.H. Mas Mansyurだった。
日本[占領]政府の願望は、この組織がとりわけ活動力(労働力)と資金を動員する上で、日本占領政府の存在を援助するということだった。
その組織は、日本の権益のためよりも、民族運動グループやコミュニケーション・メディアによって利用される傾向があり、
メディアは独立準備のため統一精神や民族の統一感を強化していることが明らかとなった。
そのため、日本はプートラの影響と世間の目をそらせようと試みた。
その組織[プートラ]は、その後解散となり、ジャワ奉公会という献身団体を意味する名前の新しい組織が設立された。
この組織は日本人職員によって直接指導され、インドネシア人はその監督のもと働いた。
594日本@名無史さん:2011/03/06(日) 19:06:47.96 ID:bP8+Ob1l0
君が言う圧倒的現実のの中にある偏見を、正して頂きたいと思います。
日本が大東亜共栄権を掲げた事は事実であるけど、大東亜戦争と戦われた先人がどれだけ其れを知っていたかは疑問である。
 インドネシアは大東亜会議に入っていいのだが、其れは其のときの国情を考えた結果だけである。
 インドネシアの歴史を書きなぐってどん主張をしようと言うのだろうか。
 私が以前した、インドネシアの古文書の方が私は理解できる。

 戦争とは、国家の威信と主張を賭けた戦いである。

  
595名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 21:04:00.41 ID:NqgLIBY70
 国家総動員法の公布(一九三八年四月)は言論統制の上でも画期的な意味をもつものであった。
同法は「総動員業務」を入れ、勅令によって新聞紙その他の出版物の掲載を制限禁止する権限を政府に与えること(第二〇条)とした。
同条は、新聞紙法および出版法の特別規定として、従来の「軍事・外交」のみでなく,
「一般治安」や「財政金融」に関しても、事前に言論統制しうるものとした。
軍事上の秘密については、同じ頃、軍機保護法の改正(三七年八月)と軍用資源秘密保護法の公布(三九年三月)がおこなわれた。

 一九四〇年二月、議会における衆議院議員斎藤隆夫の質問演説中に軍を侮辱した点があったとして攻撃を受け、
三月に議員を除名されるにいたったことは、明治憲法に保証されている議場内での言論の自由すら奪われたことを示していた。

 四一年に入ると、新聞・出版関係においては、先の国家総動員法第二〇条にもとづいて勅令で
新聞紙等掲載制限令(一月)が公布された。同令は、総動員業務に関する官庁の機密や、
軍機保護法・軍用資源秘密保護法の規定による軍事上の秘密を掲載することを禁止し、
また外交に関し重大な支障を生ずるおそれある事項・外国にたいし秘匿することを要する事項・
財政経済政策その他国策の遂行に重大な支障を生ずるおそれある事項などを掲載制限または禁止する権限を首相に与えた。
つづいて国家総動員法が改正され、これにもとづいて、記事のみでなく事業全体の動員を可能にする
新聞事業令(四一年一二月公布)が施行され、さらに一年あまりおくれて出版事業令(四三年二月公布)ができた。
またこれらの全面的な背景として、治安維持法の改正(前出)、国防保安法(四一年三月)、
言論出版集会結社等臨時取締法(四一年一二月)、戦時刑事特別法(四二年二月)等がつぎつぎと整備されていった。
一二・八開戦直後の臨時議会で制定された「言論集会結社等臨時取締法」は、言論も結社も集会もすべて許可制にし、
新聞紙法による出版物の発行も許可事項とされた。そして出版物の発売・頒布が禁止された場合は、
同一人または同一社発行の他の出版物の発行停止もできるという乱暴な規定がつくられた。
そして、うっかり敗戦の事実や戦局の見通しをしゃべると「時局に関し造言飛語をなしたる者」として
二年以下の罰金に処せられたり(第一七条)「時局に関し人心を惑乱すべき事項を流布したる者」として
一年以下の懲役もしくは禁錮または一○○○円以下の罰金に処せられる(第一八条)のである。

 書籍・雑誌その他の出版にたいする統制は、(1)検閲当局の編集者との「懇談」・協力の要請からはじまり、
編集方針への指示、編集内容への警告、事前検閲、官製原稿の掲載や特定テーマの採択強要、
掲載差し止、執筆禁止、発行許可制、編集陣への容喙、編集者から執筆者の検挙にまでおよんだ編集過程への干渉、
(2)発行されたものの検閲、記事削除、発売禁止、編集者・執筆者の起訴、
さらに(3)用紙割当権を握ることによっての物的条件からの圧迫、
そしてついには、(4)戦時企業整備の名による出版社そのものの統合整理・解体、
雑誌の改廃・統合、直接政治力の発動による出版社の廃業強要、など各種の方面から狡猾かつ強力に実施され、
言論の弾圧から圧殺にまで進んでいった。そしてその全過程を通じて、情報局は「思想戦の参謀本部」として、
出版文化協会(のちの日本出版会)は「現地軍の司令部」(いずれも奥村情報局次長のことば)として働いたのである。


596名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 21:06:20.60 ID:NqgLIBY70

編集への干渉
 一九三七年七月、警視庁は「時局に関する記事取扱方に関する件」として新聞雑誌等に通牒を発し
「反戦または反軍的言説をなしあるいは軍民離間を招来せしむるがごとき事項」の掲載を禁止し、
つづいて内務省警保局は警視庁特高部長および各府県警察部長あてに「時局に関する出版物取締に関する件」を通達したが、
その中には特に取締りを要するものとして「北支事変に関する一般安寧禁止標準」(一一項目)が規定されていた
(その内容については新聞統制の項参照)。一〇月には出版関係五四社と検閲当局の「出版懇話会」が発足し、
これが戦時下出版統制の強化される端緒となった。同会は内務省図書課長を名誉理事長に推戴し、
毎月一回内務省で懇談をおこなったが、そこでは毎回内務省警保局図書課から具体的な「内示」があり、
検閲の際発売禁止にふれる恐れのある事項がそのつど提示・説明された。
他方、軍報道部は四大総合雑誌の編集者を集めて、「四社会」(のち「六社会」)をつくり、
懇談の形式で軍の方針の説明や情報の交換をおこなうようになった。同年一一月には「世界文化」グループ、
一二月には「労農派グループ」、翌年二月には「教授グループ」の検挙がおこなわれ、
「人民戦線」事件の直後には内務省から各雑誌社にたいして、被検挙者の原稿は内容の如何を問わず
雑誌その他への掲載を禁止するむねの通牒が出され、「中央公論」一二月号に掲載された大森義太郎の映画批評などが削除を受けた。
またこれを機会に、問題になった筆者の著書は、新刊と再刊を問わず、今後原則的に発行を許さぬこととし、
都下の約三〇の代表的出版社の編集関係者を集めた「出版懇話会」の席上、
主催者の警保局図書課は〃具体的に〃岡邦雄・戸坂潤・林要・宮本百合子・中野重治・鈴木安蔵・堀真琴の七名をあげて、
雑誌への原稿掲載を見合わせるよう内示した。他方、「出版懇話会」を通じて出版業者に時局教育をおこない、
発行前の著書の出版相談すなわち内検閲の制度を開くこととした。
三八年八月、内務省図書課は子供雑誌の浄化が不十分であるとして雑誌社代表に厳重警告を発し、
九月には、総合・婦人・大衆娯楽雑誌社代表約三〇名を招いて検閲当局の根本方針を指示し、
同じく一〇月には少年少女・幼年雑誌三〇余社の代表に、(1)国体の本義に則り敬神・忠孝の精神昂揚に努める、
(2)奉仕・勇気・親切・質素・謙譲・愛情の美風を強調、(3)指導を子供の実際生活に即しておこなう、
(4)艱難困苦に堪える美風を涵養、(5)新東亜建設のため日満支提携融合をとくに強調する、など、具体的な方針を指示した。

 三九年四月、文部省は各校から申請中の教科書のうち二四種を却下することに決定したが、
その中には、ゴールズワージー・ビアーズ・ハーディ・クライスト等が含まれていた。
同五月には、警視庁検閲課が、たとえ事変前に検閲をへて合法的に出版されたものでも、
現下の国情と相いれぬものは今後適当に処分する方針を決定した。
一一月、文部省は、小学校の国史教科書について、(1)皇室中心の記述態度を一そう徹底して国体明徴の完全をはかること、
(2)敬神崇祖の教材を増補すること、(3)日本文化の自主性と抱擁性を強調し外国文化への追随的傾向を訂正する、
(4)英雄偉人の伝記・逸話を興味本位や枝葉末節主義に基いて取扱うのをやめ全体の動向を把握させる、
などの点に修正改訂を加えることに決定した。
四〇年からは小学校が国民学校と改称されるにともなって教科書は一新されることとなり、
その編集方針もきめられた。なお同年一月には図書館協会が、早大教授津田左右吉著「支那思想と日本」の推薦を取り消した。

四〇年八月、内閣情報部の情報局への昇格がきまるとともに、内務省警保局図書課の事務は大部分情報局に移管されることになった。
情報局は、さらに「出版事業新体制」確立のため東京出版協会と日本雑誌協会を解散させ、
さらに両協会のほか中等教科書協会・青年学校教科書協会・全国書籍商組合・「家の光」(産組)や
「青年」(大日本青年団)などを含む公益団体雑誌協会の六団体を統合して社団法人「日本出版文化協会」を結成し、
これを出版界再編成の中心とすることになった。
一二月に創立された同協会の目的は、「日本文化建設並に国防国家確立に関する出版文化事業の使命を遂行し、
斯業の適応なる運営を図り、以て出版報国の実を挙ぐること」とされ、業務・文化の二局をおき、
業務局は事業統制・用紙配給・書籍配給など六課を設けた。同協会は出版企画の事前審査をするため企画届制をとったが、
これは用紙の割当制と結合して事実上、出版の全面的な許可制を意図するものであった。
597名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 21:08:28.92 ID:NqgLIBY70
>>594
間違っているのはお前
歴史をゆがめているのもお前
それがわかるまで、俺の「説得」は続く

同じ一二月に、総動員審議会は新聞紙等の掲載制限に関する勅令要綱等を決定し、
言論出版の統制は一そう強化されることになった。
従来の掲載禁止処分は専ら新聞紙法第二三条および出版法第一九条によって内務大臣がおこなってきたが、
情報局の成立を機会に、総動員法第二〇条を発動して掲載禁止・制限の範囲を明確にすることになったのである。

 一九四一年二月には、情報局は水野広徳・馬場恒吾・清沢冽をふくむ総合雑誌の「執筆禁止リスト」を内示し、
「中央公論」二月号の座談会における発言を理由に馬場恒吾は以後執筆の自由を奪われ、
つづいて三月には、非協力とみられた出版者にたいしては購読者カードの提出を通達し、五月には総合雑誌にたいし、
来月から毎月一〇日までに編集プランと予定執筆者リストの事前提出を通達した。
六月には雑誌と書籍の全編集者を包括する統一組織として「日本編集者協会」が設立された(一二月発足)。
会員は二〇〇名を越え、内部対立をもちながらも編集者の戦争協力団体としての性格を明確にしていった。
一〇月、情報局は経済雑誌編集長懇談会において、(1)国防国家の経済体制を作るのだという新しい経済理念を確立して書くこと、
(2)東亜共栄圏はできるとの信念の下に書くこと、(3)政府にまかせるという気持を国民に持たせること、
(4)日本の食糧問題について不安を与えぬこと、などの指示をおこなった。
一一月には、各雑誌の毎月の発売日が情報局によって勝手に決定された。
四一年一二月、「太平洋戦争開始の日に全国的に検挙がおこなわれて宮本百合子をはじめ多くの執筆陣が逮捕され、
その翌日に情報局二課は各雑誌社代表を非常召集して「記事差止事項」を指示し、
一般世論の指導方針として、「まことにやむをえず起ち上った戦争であることを強調すること」などを発表した。
同じ月内に、「言論出版集会結社等臨時取締法」(前述)が議会を通過し、施行された。

 四二年一月に警視庁特高第二課長は、高倉テル・今中次麿・横田喜三郎・田中耕太郎などをふくむ
二〇余名の執筆さし止めを総合雑誌に伝え、これ以後総合雑誌の常連執筆者は誌上から姿を消し
顔ぶれは一新した。同年秋の細川嘉六論文をきっかけにして、「改造」編集部は全員更迭、編集方針は一八〇度転換をよぎなくされた。

 四二年春、日本出版文化協会が「事前審査に対する態度」として出版業者に通知したものの要点は左の通りであった。


 助成するもの――(1)時局下、特に政治性の豊かなもの。(2)すなわち国民の資質を健全強靭明朗ならしめるもの。
             (3)各出版部門別に見て水準以上の価値を持つと認められるもの。
 抑制するもの――(1)イデオロギーの誤れるもの。(2)有閑低徊趣味。(3)俗悪便乗主義。
             (4)類書関係から見て特殊性なきもの。(5)初版古きため今日の情勢に適応せざるもの。

 抑制の方法――(1)不承認。(イ)訂正すれば改めて審査可能のもの(ロ)発禁あるいはこれに類するものは出版中止の勧奨。(2)部数制限

 四三年に入ると、英米語の雑誌名が禁止となり、二月から「サンデー毎日」は「週刊毎日」に、「エコノミスト」は「経済毎日」に
「ユーモアクラブ」は「明朗」に、そして翌月「キング」は「富士」と改題された。

 四三年三月には、「大日本言論報国会」が徳富蘇峰を会長として創立され、
つづいて「日本出版文化協会」が転化した「日本出版会」の創立総会がおこなわれたが、
これは国家総動員法にもとづく出版事業令による統制団体であり、その主な事業として決定したのは、
(1)出版企画その他出版事業の運営に関する統制指導、(2)出版事業の整備に関する指導、
(3)出版物用紙その他の資材の配給機関の統制指導、等であった。
出版文化協会の時代にはまだ会員出版社の自主性を尊重する建て前であったが、
出版令になると出版社や編集者の自主性などは全くみられなくなった。
五月には雑誌「教育」編集部が弾圧され、「中央公論」七月号はすでに刷り上がっていたのが陸軍報道部の強迫によって
休刊を余儀なくされ、報道部への出入りを禁止され、編集部を更迭せざるをえなくなった。
七月「大日本出版報国団」結成、九月には日本出版会がすべての出版書籍にたいして審査制をとり、
従来六%ていどであった不承認件数を三〇%に引き上げ、今後出版の企画届出に原稿またはゲラ刷の事前提出を強化し、
同時に良書でも不急とみなせば不承認とする方針を決定した
598名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 21:10:47.75 ID:NqgLIBY70
 先の「改造」に掲載された細川論文と結びつけて特高の手で捏造されたいわゆる「横浜事件」によって、
四三年五月から雑誌編集者の逮捕がはじまっていたが、四四年一月には、改造社(七名)、中央公論社(八名)、
日本評論社(五名)、岩波書店(二名)などの編集者多数が検挙された(人数は、それ以前および以後の検挙者をふくむ)。
この事件は五月に入るといっそう拡大し、中央公論社へは神奈川県特高課主任以下数名の特高係が
二回にわたって編集室に押し入り無断で重要書類を運び去り、暴言をもって威嚇し、
そのあと社長以下幹部たちは警察に召喚されて三日から五日にわたって拷問に等しい取調べを受けた。
検挙された人たちは野蛮極まる拷問をうけ、四名が獄死し、二名は釈放後まもなく病死した。
つづいて七月には情報局第二部長は中央公論社と改造社の代表を招致し、
「営業方針において戦時下国民の思想指導上許し難い事実がある」として「自発的廃業」を申し渡した。
一方、一月から各雑誌の表紙に「撃ちてし止まむ」と刷りこむことを命ぜられ、三月に日本出版会は企画審査方針を強化し、
従来の発行承認・不承認のほか発行一時停止の取扱いをおこなうこととした。
五月には日本出版会に「企画編集者資格選衡委員会」が設置され、
新聞記者の登録制に対応して「編集者の公的性格を明らかにするため」、編集者資格ができ、
敗戦までに二二〇〇名余が承認登録された。
内務省警保局は、新聞紙法にもとづく新聞雑誌のこの一年間を通じての創刊、廃刊数は、創刊三六四種、
廃刊一三七八種(前年度は創刊二二三種、廃刊八〇九種)と発表した。

 一九四五年六月、「出版非常措置要綱」が公布されたが、これによって用紙割当制の徹底的改革とともに、
「現行の査定手続はこれを中止し、会員をして毎期企画予定表を提出せしめ」、「指導調査をおこないたる上、発行承認」されることになった。
 (和泉あき編「年表・戦争下の文化・文学関係統制とその反応」文学、一九五八年四月号。
小田切進編「昭和一〇年代の文学・芸術年表」、文学、一九六一年五月号。布川角左衛門「戦時の出版統制」文学、
同上号。日本ジャーナリスト連盟編「言論弾圧史」。黒田秀俊「血ぬられた言論」。
美作太郎・藤田親昌・渡辺潔「言論の敗北」。「中央公論社七十年史」。「岩波書店五十年」。などによる)。

検閲・削除・発禁
 従来から「革命」とか「共産党」「天皇制」などの字句は検閲によって伏字(××印)にされる慣行になっていたが、
一九三六年九月の全国特高課長会議において伏字の逆効果が論議され、伏字一掃の方針が決定された。
すなわち、今後は伏字になるような字句を使用する文章自体が許されなくなり、
そのような場合には〃該当ページあるいは論文全体の削除か〃単行本あるいは雑誌自体の発禁
(発売禁止)の処分を受けることとなったのである。発禁は安寧禁止と風俗禁止に分かれており、
出版法および新聞紙法による発禁処分の検閲には一般的標準と特殊的標準があった。
前者は記事そのものについての標準であり、後者は出版の目的や頒布先等の条件をいうものであった。
また、発禁という言葉には、文字通り発売頒布を禁ずるということのほかに、
出版物の掲載記事にたいして何らかの行政処分がとられる場合も含めて使われることがある。
後者の場合としては、取締当局の規定では、新聞記事の掲載差止(後述)のほか、
削除処分・注意処分・分割還付などの処置に分類されていた。削除処分は不良個所を削除して発行を許可するもの、
注意処分は地方庁を通じて発行者を厳重戒飭するもの、分割還付とは不良個所を切除して禁止差押の処分を解き還付するという処置であった。

 三七年九月号の「中央公論」は、矢内原忠雄の巻頭論文「国家の理想」が国情を無視する不穏思想
(キリスト教的反戦人道主義)であるとの理由その他で削除処分を受け、同じく「改造」の大森義太郎「飢ゆる日本」が禁止、
「中央公論」の大森義太郎「映画時評」も削除されたことは前にも述べた。
翌年一月から二月にかけて、矢内原忠雄の講演パンフレット「民族と国家」および「民族と平和」が
安寧秩序をみだすという理由で発禁処分となり、大内兵衛「財政学大綱」は著者起訴の理由で休刊を命ぜられた。
この一月にはまた、雑誌「唯物論研究」が「学芸」と改題して新発足することを余儀なくされ、まもなく発禁、廃刊され、
文芸雑誌「人民文庫」は連続発禁処分を受けたため廃刊となった。
599名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 21:13:46.67 ID:NqgLIBY70
 三八年二月に岩波書店は「岩波文庫」の白帯物(社会科学部門)、とくにマルクス主義のものを
「自発的に」絶版にせよとの命令を受けた。そのうち、「今後の増刷を見合わせる分」としては、
マルクスの「猶太人問題を論ず」「資本論初版抄」「賃銀・価格および利潤」「賃労働と資本」「哲学の貧困」、
エンゲルスの「住宅問題」「自然辯証法」「反デューリング論」「原始基督教」、両者共著の「フォイエルバツハ論」
「芸術論」「ドイッチェ・イデオロギー」、レーニンの「唯物論と経験批判論」「ロシアに於ける資本主義の発展」、
カウツキーの「基督教の成立」「資本論解説」、ルイゼ・カウツキーの「ローザ・ルクセンブルグの手紙」、
ローザ・ルクセンブルグの「経済学入門」「資本蓄積論」、リヤザノフの「マルクス・エンゲルス伝」等があり、
また刷本があっても増製本を見合わせる分としては、マルクスの「フランスに於ける内乱」、
エンゲルスの「家族・私有財産及び国家の起源」「空想より科学へ」、レーニンの「帝国主義」
「何を為すべきか」「カール・マルクス」「ゴオリキーヘの手紙」等があった。この時はまだ発売禁止処分ではなかったが、
四〇年九月には発禁を命ぜられ、紙型も押収されて正式に処分を執行された。なお文学ものについては、
前年秋にジイドの「ソヴエト旅行記」が削除を、三八年二月には田山花袋の「蒲団・一兵卒」が軍人侮辱の理由で、
つづいて「アミエルの日記(六)」が「日本のミカドの勅書」の字句で次版から削除を命ぜられた。
同二月号の婦人公論にのった川上幸子「遺児を抱いて飢餓と貞操の嵐に立つ私」も禁止となった。
三月には天野貞祐の著書「道理の感覚」が、軍事教練にたいする批判の点について憲兵隊からの干渉があり、
絶版処置がとられた。八月には、「中央公論」三月号掲載の石川達三の小説「生きてゐる兵隊」は
「虚構の事実をあたかも事実のごとく空想して執筆したのは安寧秩序をみだすもの」との理由で発禁となった上、
新聞紙法違反として作者・発行人・編集人・印刷人が起訴され、作者と編集人は禁錮四ヵ月(執行猶予四年)、
発行人と印刷人は罰金の判決をうけた。

 三八年一〇月、河合栄治郎の著書、「社会政策原理」、「ファシズム批判」、「時局と自由主義」、
「第二学生生活」の四著が「安寧秩序をみだすもの」として発売禁止処分となり、
河合は四著者の発行人である日本評論社鈴木利貞とともに、翌年二月、出版法第二七条の安寧秩序びん乱の
条項に該当するものとして起訴に決定した。三九年四月には、武者小路実篤の著作「その妹」が
廃兵の問題で一部削除を命ぜられた。さらに芥川竜之介の「侏儒の言葉」が軍人侮辱のかどで次版改訂、
徳富蘆花の「自然と人生」も「国家と個人」の篇が削除、フロベールの「ボヴァリー夫人」が削除および次版改訂となった。

 四〇年一月に津田左右吉の著書の件で岩波書店主岩波茂雄は検事局に呼び出されて尋問され、
二月には津田の著書「古事記及日本書紀の研究」「神代史の研究」「日本上代史研究」「上代日本の社会及び思想」の四著が
発禁処分をうけ、つづいて三月に津田と岩波とは出版法第二〇条に該当するものとして正式に起訴に決定した。
この事件は四一年に二一回の公判があり、四二年五月に津田禁錮三ヵ月、岩波禁錮二ヵ月、
いずれも執行猶予二年間の第一審判決があり四四年一一月の控訴審は時効により免訴となった。

 四〇年七月には、内務省は左翼関係出版物をすべて一掃する方針をきめ、三〇余社の出版物一
三〇余種を発禁処分に附し、同時に出版元および新古書店を一斉検索し、発禁書の押収をおこなった。
四一年三月には右の大禁止処分にもれたものを追加処分し、たとえば岩波文庫では、ローザ・ルクセンブルグの「資本蓄積再論」、
ソレルの「暴力論」、が発禁処分となった。文芸作品についても発禁処分が続出し、
丹羽文雄「中年」、徳田秋声「西の旅」、里見ク「愛と智と」、織田作之助「青春の逆説」、林芙美子「初旅」、
長田幹彦「悲しき結婚」等が相ついで「風俗壊乱」に問われ、また「モーパッサン選集」が時局下有害無用とみなされて
続刊中止を勧告された(九月発禁)。横光利一「婦徳」、徳田秋声「一基の花」は巻末に禁止本の広告を記載した理由で発禁となった。
都新聞に連載中の徳田秋声「縮図」も九月に禁止となって中断された。「中央公論」三月号の巻頭論文の予定であった
高木八尺の「アメリカ極東政策史」は親米的態度の理由で撤回を命ぜられ、同五月号の前商工大臣小林一三の随筆「大臣落第記」は、
不謹慎極まる文章として全文削除を受けた。

600名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 21:15:53.04 ID:NqgLIBY70

 内務省警保局長の署名となっている発売禁止通達書によって、一九四三年中に、「安寧秩序維持」に触れるものとされて
処分された単行本のリストを抜萃すれば以下の通りである。一月、黒岩一郎「野戦風呂」(皇軍の威信を害うおそれあり次版改訂)、
尾崎慎治「駐軍戦記」(戦死者の火葬場面の描写および統帥部の命令を論議する記述は不穏当につき次版改訂)、
高須芳次郎「物語大日本史・本紀、列伝」(皇室の尊厳を害うごとき記事本版改訂)、
安岡正篤「世界の旅」(ヒトラーとムッソリーニの感情の衝突を表示し、英国側の宣伝文句を引用せる点不穏当につき次版改訂)、
「ベルツの日記・第二部上」(大阪の第四師団を劣悪なる札付となすは軍を冒涜し威信を失墜せしむるおそれあり、
ロシヤの旅順占有記事は対独国交上支障あり、また韓国併合は日本が軍事上の目的によってなしたと記すは安寧上不良、次版改訂)。
二月、伊藤猷典「鮮満の興亜教育」(朝鮮民族独立云々の記事は朝鮮統冶上有害と認められ、
また満州国は行政面のみ独立性を有すとなす記事は日満国交上不良)、
保利清「義肢に血の通うまで」(負傷状態を記述せるも厭戦思想醸成のおそれあり次版改訂)、
「戦争製造者を語る・ル大統領とチャーチル」(「汪政権が参戦するも戦に大影響するとも思われず」となすは
汪政権の軍事力を過少評価し対重慶関係に悪影響あり)、三島助治「悲憤十年」(昭和五、六年頃の行動者の激情を
煽情的筆致をもって紹介しまた非合法的方法に非ざれば憂国の誠心は達せられずとなし
また司法権の神聖を冒涜するがごとき記述あるにより)、南方熊楠「南方随筆」(エタの南北朝の字句、次版改訂)」
「軍神加藤少将正伝」(ハワイ空襲に関する開戦前の準備行動を記せるも程度軽微につき次版改訂)。
三月、友枝宗達「戦う独逸」(日独伊三国同盟は利害関係により成立せりとなすは国交上支障あり次版改訂)、
井上克己「百姓道場」(過去の農村の窮乏を露骨に記し内容悲惨にして時局下不適当)、
室戸漁業協組「高知県室戸町の漁業」(わが漁船の季節別哨戒地点を推知せしむるおそれあるにより)、
白鳥省吾「満支戦・詩と随筆」(わが国策を誹謗しいたずらに抗日を叫ぶ支那人の詩を紹介しあるにより)。
四月、吉田絃二郎「孤島」内田百間「王様の背中」(反戦的反社会的記述多く小国民向図書としては支障あり、本版改訂)、
栗井家男「兵隊物語」(兵士の応召前の生活を描けるも筆致如実にしてかえって悪影響を及ぼすおそれあり次版改訂)。
五月、山口清人「もし東京が爆撃されたら」(必勝態勢を阻害するやのおそれある記述および対ソ外交上支障ある記述、次版改訂)。
六月、野口米次郎「伝統について」、(民主主義を日本に適用せんとする記述、次版改訂)、
根本円通「今すぐ役に立つ幸運姓名の付け方」(両陛下の御称号を姓名学的に解釈し天皇陛下大正天皇の御いみなを
使用することにより凶運に見舞わる等の記事を掲げ不謹慎極まるもの)、
橘孝三郎「大東亜戦の本質」(わが政治不信および大東亜戦の前途に対する悲観論、次版改訂)、
津久井竜雄「日支国交史論」(日支事変は日本の帝国主義的侵略なりとなす記述)。
七月、西村貞次「万葉集伝説歌謡の研究」(天智天皇の妻争いに言及せるは不敬、南北朝の字句、次版改訂)、
馬場秀夫「ソ連の底力」(工業社会主義化の成功を賞揚的筆致にて記述、次版改訂)。
八月、林信一「我々傷つくとも」(傷痍軍人の暗い気持を描写、次版改訂)。
九月、アーネスト・サトー「幕末維新回想記」(当時の英国外交が明治維新の大業成就に特に寄与せるがごとき筆致あるにつき)。
601名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 21:18:47.81 ID:NqgLIBY70
 満州への侵略が開始されるとともに、民主的・自由主義的な学者とその学説にたいする迫害が強まり、
一九三三年に滝川事件――京大滝川幸辰教授の講演「復活に現われたるトルストイの刑罰思想」と発禁になった著書
「刑法読本」「刑法講義」が、右翼から攻撃されて議会で問題となり、大学側の抗議にかかわらず閣議決定で休職となり、
法学部の教授、助教授、講師、助手、副手三九名が連袂辞表提出、八教授免官、学生委員検挙等――、
一九三五年には美濃部事件――貴族院議員美濃部達吉博士の天皇機関説が、軍部と右翼の強迫を受け、
「憲法撮要」等三著書が発売禁止、二著改訂命令、不敬罪・出版法違反で取調、貴族院議員・学士院会員辞任、
ピストル狙撃で負傷、政府声明でこの学説の講義禁止宣言――がおこった。
一九三六年には、さきの「日本資本主義発達史講座」につづいて「日本封建制講座」を企画中の
平野義太郎・山田盛太郎・小林良正ら五名の研究者が、他の「文芸街」・「文芸評論」・「社会評論」・「時局新聞」などの
メンバー二九名といっしょに戒厳令下に検挙された(いわゆる「コム・アカデミー事件」)。

 日中戦争勃発以後、学問と大学にたいする干渉はいっそう強化された。
東京帝大教授矢内原忠雄の特別講義「満州問題」(のち刊行)にたいして軍事教官は聴講しないよう学生に伝えていたが、
一九三七年九月号の「中央公論」に執筆した論文「国家の理想」などが右翼学者によって攻撃されて削除を受け、
同教授は一二月に大学を追われた。(翌年、著書「民族と平和」および「民族と国家」発禁)。
この月「人民戦線事件」の一環として検挙された「労農派」同人との関連で、一九三八年二月には、「教授グループ」として、
東大教授大内兵衛・同助教授有沢広己・脇村義太郎ら一一名が治安維持法違反で検挙された(「人民戦線事件」第二次検挙)。
大学の現職教員がこれほど大量に検挙されたのは初めてのことであった。
起訴された帝大教授たちは休職処分を受けたが、多くは六年にわたる長い裁判闘争ののち、
一九四四年八月の第二審で無罪の判決が下った。しかし東大内田総長の辞表勧告を拒否すると、大学は罷免を強行した。
内務省警保局はこれら人民戦線派検挙者の執筆原稿の雑誌その他への掲載を禁じ、大内兵衛著「財政学大綱」は休版を命ぜられた。
なお「人民戦線事件」第一次検挙に「労農派」として検挙された中には、向坂逸郎、大森義太郎、猪俣津南雄らが含まれていた。
四一年の第一審で、山川均(五年)・荒畑寒村(三年)・向坂逸郎(三年)・青野季吉(三年)・高橋正雄(執行猶予)の判決を受け、
猪俣・大森は第一審の審理中に、「教授グループ」の南謹二は第二審の審理中に病死した。

 東大教授河合栄治郎はもともとマルクス主義反対の学者であり、かつては文部省の「学生思想善導」の仕事をした自由主義者であったが、
五・一五事件や国家主義運動にたいして勇敢な批評を加え、一九三八年一〇月に「ファシズム批判」「時局と自由主義」
「改訂社会政策原理」「第二学生生活」の四著書が発売禁止処分となり、翌年初め警察署の取調べを受けた。
大学は休職処分となり、二月には出版法違反で起訴された。第一審は無罪、第二審では「我が国民の道義心を壊乱するの虞ありて
安寧秩序を妨害する文書」四種を発行させたことにより、出版法第二七条によって、罰金三〇〇円
(前二著につき各一〇〇円、後二著につき各五〇円)の判決を受け、大審院では上告棄却となって罰金刑が確定した(四三年六月)。
602名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 21:23:09.57 ID:NqgLIBY70
 一九四〇年には、日本古代史の碩学・早大教授津田左右吉に矢が向けられた。
これより先、東大法学部の「赤化帝大教授」たちが右翼からの攻撃を受けていたところに
津田博士が新設の東洋政治思想史の特別講師に迎えられて同学部の講壇に立ったことをきっかけにして攻撃の的となった。
一月、同博士が前年「中央公論」に発表した論文「日本に於ける支那学の使命」が「帝大粛正期成同盟」なる団体から
一三個所の不穏字句を指摘され、ついに大学を辞任せざるをえなくなった。つづいて二月に、「神代史の研究」
「古事記及日本書紀の研究」(いずれも一九二四年出版)「日本上代史の研究」(一九三〇年出版)
「上代日本の社会及び思想」(一九三三年出版)の四著書は発売禁止となり、翌日、出版者とともに出版法違反で起訴された。
公判は傍聴禁止となって四一年から四二年にかけて開かれ、結果は「古事記及日本書紀の研究」のみが有罪となり、
「神武天皇より仲哀天皇に至る御歴代天皇の御存在に付疑惑を抱かしむるの虞ある講説を敢てし奉り、
以て皇室の尊厳を冒涜する文書を著作し」たとの理由で、出版法第二六条によって、禁錮三ヵ月執行猶予二年
(罰金は刑法施行法の改正で廃止)の判決を受けた。その後控訴がおこなわれ、放置されたまま時期を経過し、
一九四四年一一月、時効によって免訴となった。なお、これより先、決戦教学刷新の方針から閉鎖された文化学院前校長西村伊作は、
不敬罪および言論出版集会結社等臨時取締法第一八条(人心惑乱の罪)違反で四三年九月に起訴されている。

 これら大学教授にたいする迫害・追放と表裏をなして、大学の自治にたいする干渉も進められた。
一九三三年の東大配属将校増員問題などが端緒となり、一九三八年から三九年にかけて、
陸軍大将荒木文部大臣をはじめ、しばしば各帝大総長を招致して大学自治にたいする監督権を強化しようとし、
(朝日新聞社「大学の自治」)、あるいは総長・学部長の選挙や教授の任免方式の改革を要請し、
あるいは問題になった教授たちの処分の促進をせまり、さらに大学に軍事教練を必修化させ、
大学の学生自治運動を弾圧した(三八年二月、東大セツルメント閉鎖、四〇年四月、東京学生消費組合解散)。
検挙された東北大学助教授宇野弘蔵は、裁判所で無罪となり、四一年一月の教授会は復職を議決し、復職の辞令が発せられたが、
その直後「依願免官」となった。学生の自治・民主化の運動、研究会活動の弾圧として規模の大きかったのは、
一九四〇年の天皇東大行幸問題に関連しての東大事件(学生約一二〇名検挙)と一九四三年の大阪商大事件
(教授学生約一〇〇名検挙)であった。後者の商大事件では、追放教職員一一名(うち検挙四名)、起訴者三三名がでた。
なお司法省の調査によれば、三七年から三九年までの学校教員の思想犯による処罰は、大学二一名(うち起訴九名。以下同じ)、
高校一名(一名)専門学校五名(二名)、中学校一六名(五名)であり、三七年より四〇年までの左翼学生検挙者は五二五名、
起訴者六七名、その一九二五年以来の合計数は検挙五三七七名、起訴四五四名であった
(司法省刑事局「最近に於ける左翼学生運動」、思想研究資料特集第八五号、四一年五月発行)。


 (この項は前掲の諸資料のほか、田中耕太郎・末川博・我妻栄・大内兵衛・宮沢俊義「大学の自治」、一九六三年刊。
大内兵衛・有沢広己・脇村義太郎・美濃部亮吉・高橋正雄「二十年前」、世界、一九五八年四月号。
家永三郎「大学の自由の歴史」、一九六二年刊、などによる)
 大学の枠外の研究者集団にたいする弾圧の代表的なものは、一九三九年の`「唯物論研究会」の弾圧であり、
その他、一九三七年の、「世界文化」、一九四一年の「教育科学研究会」などの関係者の検挙事件などがあった。
603名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 21:27:53.78 ID:NqgLIBY70
 唯物論研究会は、一九三二年一〇月、岡邦雄・三枝博音・戸坂潤らを中心に、
「唯物論の研究に重大な意義をみとめる研究家の研究団体」として成立した。
発起人の中には長谷川如是閑・小泉丹・小倉金之助などがあり、会員の中でも自然科学者が多かった。
初めは哲学・自然科学が中心で、政治的色彩のない大衆団体として、機関紙も新聞紙法によらず
社会問題の時事的扱いをさけたが、しだいに社会科学・芸術論・文化問題に拡がり、マルクス主義の哲学的理論的研究と
その普及化をおこなう唯物論者の研究団体の役割を演じ、唯物論哲学の発展にとって中心的な役割を果したのみならず、
とくに「歴史科学」(三二・五〜三六・一二)と「経済評論」(三四・九〜三七・一〇)が姿を消したあと、
社会科学の諸分野でのユニークな水準の高い業績を生み出し、反動的風潮の進む中で、
非科学的精神・日本主義イデオロギイとのたたかいや、唯物論・マルクス主義理論の普及、あらゆる文化・思想現象の
科学的解明の上で大きな役割を演じた。開いた研究会数四七一回、機関誌七三冊、刊行した「唯物論全書」
(「三笠全書」をふくむ)六六冊に上った。一九三七年末の「人民戦線事件」のあと、主力会員に執筆禁止令が出されたことから、
三八年一月には、定期的研究集会の中止、機関誌編集方針の改革、幹事長(岡)と事務長(戸坂)の辞任を決定したが、
「教授グループ」の検挙のあと、幹事会は会の解散にふみ切り、雑誌、「学芸」の出版所に形を変えた。
しかし同誌も一二月号は禁止となり、一一月に幹部二四名が検挙され、うち一四名が起訴された
(つづいて翌年地方支部など一二名、翌々年一五名、検挙)。終りころの会員数約二〇〇(最盛時二五〇)、
機関誌発行部数約一五〇〇(最盛時四〇〇〇)であった。
特高警察は、唯研自体をコミンテルンおよび日本共産党の目的遂行の結社と決定し、治維法第一条第一項後段を適用した。
なお唯研は若干の幹事の個人的接触を通じて都内各大学の研究会その他の多くの学生グループと関係をもち、
さらに関西地方の諸大学などにもつながりをもっていたが、唯研幹事の総検挙と同時に、
東大・慶大・早大・農大・美校・外語などの学生六三名が検挙された(座談会「唯物論研究会の足跡」おょび
社会経済労働研究所「唯物論研究会、その意義と歴史と成果」、唯物論研究(1)、四七年一〇月)など。

 これより先、京都においては、同志社大学予科教授新村猛・真下信一・大阪相愛女専講師中井正一らを中心に、
従来からあった「美批評」を改組して雑誌「世界文化」を創刊し、その後さらに週刊紙「土曜日」(最高発行部数七〇〇〇)を発行し、
これらを通じてフランスその他の反ファシズム・人民戦線文化運動などの紹介や、京都地方での音楽・映画等の文化運動をおこなった。
一九三五年から三七年にかけて「世界文化」は第三四号まで(毎号一〇〇〇ないし一五〇〇部)、
「土曜日」は二一号まで(毎号二〇〇〇ないし七〇〇○部)発行された。
このグループは、三七年一一月から翌年にかけて検挙され、数名の起訴者を出した。
またこれとほぼ同じ時期に、このグループとの若干の関連をもちつつ、京大の学生たちを中心に「学生評論」が発行され、
二次にわたって検挙を受けている。

 四二年三月には、日本評論社発行の三木清編「現代哲学辞典」や河合栄治郎「学生と哲学」等にたいして
情報局は絶版を「勧告」した。雑誌「改造」八・九月号連載の細川嘉六「世界史の動向と日本」は情報局長によって激しく論難され、
雑誌は発禁処分を受け、筆者は検挙された(これがキッカケでデッチあげられたいわゆる横浜事件については前出)。
一一月には「改造」に掲載された丹羽文雄の「報道班員の手記」が発禁、
四三年一月の「東大陸」にのった中野正剛の「天下一人を以て興る」も禁止。同三月には「中央公論」に連載中の谷崎潤一郎「細雪」が
「時局の重大性を弁えざるもので、国民の士気を沮喪せしめる」との理由で以後連載禁止(これ以後谷崎は敗戦まで作品発表断念)、
また同誌六月号掲載の岸田国士の戯曲「かへらじと」にたいして陸軍が硬化、公文書で「軍人精神を攪乱し、
軍の士気に影響を与えるところ甚大」として厳重抗議しついに全文削除となり、同誌編集部の陸軍報道部への出入りが禁止された。
「中央公論」七月号は発禁を予想して休刊した。
604名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 21:28:22.43 ID:Xxk45MYY0
埋め立て完了か?
605名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 21:30:12.85 ID:NqgLIBY70
 教育科学研究会は、雑誌「教育」を通じて、城戸幡太郎・留岡清男を中心とする同誌の編集者たちと
全国の読者たちとの接触が生まれ、これが「生活学校」や生活綴方運動などに参加した現場の教師と研究者との結集に進み、
一つの教育運動(「教育の現実への肉迫」とそれにもとづく「ヒューマニスティツクな教育の建設」)として発展したものである。
一九三七年春に会として発足して以来、機関誌「教育科学研究」をもち、三九年から全国研究集会を開くなど、
少壮児童心理学者の児童学研究会や、保母を中心とする保育問題研究会を姉妹団体としつつ、活発な活動を展開した
(菅忠道・海老原治善「戦時下の教育運動」)。しかし戦争下の反動化の中で近衛新体制への協力方向が打ち出されるなどの動揺の中で、
一九四〇年二月の山形での村山俊太郎の検挙からはじまった「北日本国語教育連盟」(北方性教育運動)関係者三一名の検挙(九名起訴)、
「北海道綴方教育連盟」(生活綴方運動)関係者五五名の検挙(一二名起訴)、
「生活学校」グループ三名の検挙(全員起訴)、さらに四一年から四二年にかけて「生活図画」グループ二六名(起訴一八名)、
新潟地方一六名(起訴八名)、水戸地方九名(起訴五名)、静岡地方一二名と検挙が拡大する中で、
四一年八月以降「教育科学研究会」、「綴方生活」、「生活学校」などの関係者が全国一斉に検挙され(約三〇〇名)、
四三年には、自ら保育報国隊の結成をくわだてながら解散した「保育問題研究会」の関係者たちにも検挙の手が及んだ。
雑誌「教育」も文部省や警視庁の干渉を受け、用紙割当を停止されたため四四年三月をもって強制的に休刊させられた。
このころ城戸幡太郎、留岡清男らの自由主義者も弾圧を受け、翌四五年一月ころには幼稚園や託児所の保母たちも検挙された

 言語運動としては、山形で斎藤秀一(雑誌「文学と言語」の発行「国際ローマ字クラブ」結成、
海外エスペランチストとの交流、等)が一九三八年、東京でマルタロンド(三月会、エスペラントの定期研究会)が一九四〇年に検挙された。

 このほか個人的研究者にたいする弾圧としては、三七年九月に講演内容に反軍的言動があったとして
東京憲兵隊の取調べを受けた後藤朝太郎や、「企画院事件」(一九四〇年および四一年検挙)や
「ゾルゲ事件」(四二年検挙・前述)で捕えられた研究者たち、「横浜事件」(四二〜四五年検挙。前述)に関連して
投獄された細川嘉六をはじめ、満鉄調査部・世界経済調査会等の研究者たちなどがある。
満鉄調査部については、四一年八月に「満州国」の治安維持法が制定され、その直後の「合作社事件」、
「満州評論」グループ、ゾルゲ事件関連者の検挙などにつづき、四二年九月に第一次(二九名)、
四三年六月に第二次(一〇名)の憲兵隊による調査部関係検挙がおこなわれ、逮捕はされなかったが調べられたり、
調査部から鉄道の現場へ追放された者を加えると、関係者は約八〇名に上った。
うち二一名が起訴され、一九四五年五月の判決によって、二名が懲役五年(執行猶予五年)、二名が三年(執行猶予四年)、
その他は一年(執行猶予三年)となり、その間に、劣悪極まる満州監獄の中で西雅雄・大上末広・発智善次郎・佐藤晴生・守随一の
五名が獄死し、渡辺雄次は出獄後病死した(伊藤武雄著「満鉄に生きて」、一九六四年刊。
児玉大三「秘録・満鉄調査部」、中央公論、一九六〇年一二月号)。

教育労働者運動の概況
 日本教育労働者組合(教労)は一九三〇年一一月東京、神奈川の現職教員二〇数名を組合員として
非合法のうちに結成されたが、翌年五月日本一般使用人組合(官公庁、デパート、市場等の下級使用人の組合)、
日本映画従業員組合、日本医務労働者組合と合同し、日本労働組合全国協議会(全協)の一般使用人組合教育労働部として再組織された。
606名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 21:30:29.56 ID:Xxk45MYY0
アメリカ軍のWGIPに洗脳され、戦後民主主義教育に洗脳されると、
こういうバカサヨクが製造されます、っていう典型だな。
607名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 21:34:08.01 ID:Xxk45MYY0

有能な理論派左翼は、マルクスの資本論を擦り切れるまで読み、無知な若造を洗脳して、
こき使う。洗脳された若造はただのバカで、資本論など読んだこともない。

このスレッドを必死で埋め立てているバカは、理論派左翼にあごでこき使われる
バカサヨであろう。ヤクザの世界でいえば、電話番のチンピラと同じ。

608名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 17:52:27.19 ID:vYgyXabp0
右翼に洗脳されると、自分のことを「旧帝大卒、旧財閥系企業の管理職で、年収1000万、女にもてまくり」
という子供じみた妄想の虜になるという見本が>>606-607

 そのころには組合員は十数倍になり、全国各地に支部が設けられその組織拡大に、
新教の機関誌「新興教育」は大きな役割をはたした。しかし、一九三三年二月四日から数次にわたる
長野県の教員一三八名にのぼる検挙、同年七月から八月にかけての全国的な三三二名検挙など、
相次ぐ弾圧によって教労運動もついに壊滅した。
この間、新興教育研究所は、その機関誌「新興教育」で教労運動の方向を明らかにし、
活動の指針となるような論文を掲載したり、国際的な運動の経験、各地の経験の交流、新興教育の理論的問題の啓蒙、
反動的教育政策の暴露などを展開する一方、現場の教師の先進的な教育実践「教育内容の自由化」、
「教育の実際生活化」、「教育と社会の結合」の記録を集録、交流し多くのすぐれた教材研究や、
全協教労長野支部編「各科教授方針批判」、同支部編「修身科無産者教授教程」、
新教同盟準備会編「小学校における各科教授方針」などを生みだすなかだちとなり、
さらに、教授方法・教材の取り扱いだけではなく、教育方法においても、分団教授法、グループ研究法のすぐれた要素を発展させ、
あるいは作業主義教育、労働教育、郷土教育、生産教育などのもつ進歩的な内容をとり出すことにも努力していた。

 教労運動の壊滅のあと、教育の面でのファシズムに対する最後の抵抗となったのは、
生活綴方運動に代表される良心的な教師の教育実践であった。「全国各地ではファシズムの嵐の中で、
地道な教育実践が続けられ、文集の交換や研究雑誌の交流、討論によって、教師たちは手を結びあおうと努力した。
教員組合運動はもちろん労働運動全体が沈黙し、屈服させられていたとき、その良心的な意図と必死の努力にもかかわらず、
その運動はファシズムに対する抵抗の力を失いがちであった。そして一九四〇年二月に始まる『北方教育』、
『生活学校』同人の検挙、一九四三(昭和一八)年から翌年にかけての教育科学研究会のメンバーの検挙によって、
日本の教育の中に残されていた先進的な教員の運動は圧殺されてしまい、
良心の灯は一人一人の教師の心の中でともされなければならなかったのである」。
 たとえば「生活学校」誌上では次のような問題提起がおこなわれた。「現行カリキュラムに対する良心的な教師たちの不満が、
綴方を全教育を統括する王座にまで祭りあげてしまった。その気持はよくわかる。僕もやはりその経験をもつ。
……子どものことを思えば、そうしてくれる教師に頭が下がる。しかしそれに没頭して、良心的な教師がそれによって良心を満足させ、
もっと本質的な解決方決のため力を尽すことを忘れてしまったら、それは反動的な意味をもつようにさえなるだろう。
では本質的なことは何か。それは政治的な解決への努力だ」(戸塚廉「旅の感想」、「生活学校」誌一九三七年一二号新収)と。

教育者グループの活動組織と活動家の検挙
 教労運動壊滅以後における教育者グループの活動組織と活動家の検挙状況については、
次のごとく述べられている(司法省刑事局「生活主義教育運動について、思想研究資料特輯第九七号」、一九四三年八月による)。


北日本国語教育聯盟
(一)結成経過 東北地方は縷々冷害凶作に襲われ、農村の窮乏甚しく、従って文化の程度低く、
児童の生活環境も悪かった為児童の生活指導という問題が教師の前に現実的な必要を以て迫っていた。
斯様な事情から東北地方に於ては、早くから各県に、左翼的傾向を持った綴方教師によって綴方を中心とする
生活教育研究のグループが結成せられ、「北方教育」(秋田)、「実践綴方地帯」(宮城)、「綴方文化」(福島)、
「綴方環状線」(岩手)等の機関紙を発行し、又教室に於ける実践の結果たる児童文集を交換して、
相互に研究並に実践の刺激を図って来た。斯くの如き状態に在った時、昭和九年の大凶作が起り、
之に刺激せられて、右の生活教育研究グループの指導的地位にあった鈴木銀一、国分一太郎等の左翼分子が主となり、
東北社会のマルクス主義的分析の基礎の上に、教育理論を形成して「北方性教育」と称し、
之を指導理論として同年二月宮城、福島、秋田、山形四県の綴方教師を糾合し「北日本国語教育連盟」を結成して、
其の理論の啓蒙普及に乗り出した。翌昭和一〇年六月には青森、岩手二県の綴方教師も之に加入し、
茲に於て東北地方に於ける生活教育研究の小グループは全部此の連盟に統一せられたのである。
609名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 17:54:29.21 ID:vYgyXabp0
北海道綴方教育連盟
(一)結成経過、北海道においても一部左翼的教員は、昭和八年頃より個々に綴方を中心とする生活教育を実践して来たが、
東北地方を始めとし綴方集団簇生の全国的傾向に刺激せられ、綴方教師中の左翼分子、
 坂本亀松、小坂佐久馬、小鮒寛、小笠原文次郎
等が主唱者となり、昭和一〇年八月札幌市に於て広く道内の左翼的傾向の綴方教師を糾合して「北海道綴方教育連盟」を結成した。
連盟の目的は同人相互に生活主義綴方の実践を刺激し且之が普及を図るに在る。

(二)活動
(1)研究会、講習会、座談会の開催、(2)機関誌「綴方林」及「同人通信」の発行、(3)児童文集「北見文選」の発行、

(三)検挙状況
(1)検挙年月、昭和一五年一一月。昭和一六年一、四月。(2)検挙人員 五五名 (3)起訴人員 一二名。
生活図画関係グループ
(一)結成経過、生活図画教育は、旭川師範学校図画教師熊田満佐吾が、昭和八年半ば頃より同校美術部員に対し
所謂「発展的リアリズム」に基く絵画の創作を指導し、其の創作指導の過程を通じて部員を共産主義的に啓蒙したるに始まり、
後に熊田の啓蒙を受けた部員が教壇に於ける図画の授業に其の指導方法を実践し、且熊田を中心とするグループを結成して、
相互に研究及実践を刺激し又其の教育方法の宣伝普及を図るに至ったものである。

(二)組織及活動
(1)「ロンド」昭和一一年三月結成、メンバーは本間勝四郎外五名、
(2)「シアル」昭和一二年三月結成、メンバーは片岡静夫外三名
(3)「うずまき」昭和一三年八月結成、メンバーは木元幸吉外三名、
(4)「新ロンド」昭和一五年一月右の三グループを解消し其の全員を以て新に結成したるものである。
 右のグループはいずれも生活図画及生活主義綴方の研究並に其の実践を刺激することを目的としたもので、
其の活動も、(イ)研究発表、(ロ)実践の結果たる児童作品の相互批評、(ハ)機関紙の発行等に止まる。
尚昭和一六年一月生活図画理論の啓蒙普及の目的を以て「新ロンド」を母胎とし広く道内の図画教育に熱意ある教員に呼びかけて、
「北海道図画教育連盟」を結成することを企てたが、熊田検挙の為実行するに至らなかった。

(三)検挙状況
(1)検挙年月、昭和一六年一、九月。昭和一七年二月。(2)検挙人員二六名(内プロレタリア絵画関係四名)、
(3)起訴人員一八名(内プロレタリア絵画関係四名)。

「生活学校」グループ
(一)結成経過 雑誌「生活学校」は野村芳兵衛を中心とする東京市所在「池袋児童の村学校」内「児童の村生活教育研究会」の
機関紙として昭和一〇年一月創刊せられ、昭和一一年八月「池袋児童の村学校」閉鎖後は扶桑閣の営利雑誌として引継がれ、
昭和一三年八月迄刊行せられた月刊雑誌である。発行部数は二五〇部乃至八○○部で、
読者の三分の二以上が東北及北海道の小学校教員である。

 当初は野村芳兵衛が主幹、戸塚廉(元「新教」メンバー)が編輯主任で、主として野村の意見に基き編輯されたのであるが、
昭和一一年初頃より戸塚が編輯の実権を握り、殊に同年八月扶桑閣の営利雑誌となって以後は専ら戸塚が、
松永健哉(元「新教」メンバー)、黒滝雷助(元「教労」メンバー)、増田貫一(元「教労」メンバー)、
石田宇三郎(元「教労」メンバー)等の左翼分子と編輯グループを結成して編輯方針を協議し、
執筆者も右の外北村孫盛、浦部史、槙本楠郎、増渕穣、大矢輝昭、大矢恒子、高倉輝、村山俊太郎、国分一太郎等
元「新教」、「教労」メンバーたる左翼分子が大半を占むるに至った。

 其の編集方針は総合的な生活主義教育論の建設、宣伝普及であった。彼等は「新教」、「教労」の運動を反省批判した結果、
其の左翼的政治偏向の誤謬を排し、文化運動の独自性、合法性、大衆性、左翼運動に於けるインテリの役割等を考慮し、
殊に人民戦線方策の採択を知るに及んで益々自己の運動方針の正当なることを確信し、生活主義運動に乗り出したのである。

(二)活動 彼等の活動は雑誌「生活学校」の編輯、執筆による啓蒙活動を主とするもので、
其の外に昭和一一年八月及昭和一二年七、八月の二回に至り北海道及東北地方に開催せられたる講習会、
座談会に講師として出席して小学校教員に生活主義教育理論を啓蒙したことがあるに止まる。

(三)検挙状況
(1)検挙年月、昭和一五年一二月。(2)検挙人員、三名。(3)起訴人員、三名。


610名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 20:02:35.45 ID:vYgyXabp0
戦時体制下の教育
 一九三七年八月には「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、九月には文部・内務両次官あて
「国民精神総動員実践要綱」がだされて、国民精神総動員週間とか、防火週間とか、あるいは農村商工産業週間とかいう
「週間」が毎月おこなわれ、そのなかで「部落町会隣組」などの国民精神総動員の下部単位の組織化がおこなわれた。
一方、学校教育の場では「国民精神総動員と学校教育」(一九三八年一月)という文部省の指導パンフレットによって、
勅語奉読をともなう行事の強化と時局教育の導入とともに各教科ごとに総動員教育が強調されることになった。

 こうした国民精神総動員による国民教化と教育の軍国主義化をはかりながら、他方では軍需工業側からの生産力拡充要求、
また軍部側からの軍事能力近代化にともなう教育内容および制度改革の要請が切実なものとなった。
木戸文相は、「上論を拝して」総裁以下六五名の委員からなる教育審議会を発足させたが、
その第二回総会では「今月の一一日の閣議におきまして男子に対して青年学校を義務制といたす方針を決定」(同上)したことが
報告され、今後はその内容についてこの審議会で検討してほしいという申し入れが行なわれた。
一年六ヵ月の在営年限では「今日の兵器の非常に改善されている所の時代の兵の訓練としてはどうしても不足」
(「教育審議会諮問第一号特別委員会整理委員会会議録」)なので、といって「二年を超える期間を設けるということは
却って国民の国防観念、兵役に対する観念上面白くないというような点も考えられて」(同上)、
そのかわりに勤労青年の教育の画期的拡充の名のもとに兵士養成の義務化がきまった。
一九三七年一二月から四一年一〇月までの四年間審議がつづけられ七つの答申がだされたが、
三八年一二月答申の「国民学校、師範学校及幼稚園に関する件」による国民学校の出現と、
青年学校の義務化以外はさしたる制度上の改革をうみださなかった。

 一九三八年三月に成立した国家総動員法は、その第一条で「国家総動員とは戦時に際し国防目的達成のため
国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的物的資源を統制運用するを謂う」と規定し、教育もまた精神の総動員とともに、
その人的資源培養の役割をになわされることになった。そして、軍需工業を核とする重化学工業の発展と、
戦線の拡大化にともなう軍要員の増大は、次のようなさまざまな矛盾を教育の上にももたらすことになった
(「日本近代教育史」、「岩波講座、現代教育学5」所収二九一〜二頁)。

 第一の矛盾は熟練工不足問題からおこった。このため一九三七年には機械工養成所が単独設立され、
翌年にはそれでも不足して、全国各府県の工業学校に機械工養成所が付設され、商工省には技能者養成所、
逓信省では航空技術者養成所という具合に、そのときどきの緊急の要求に応じてこの種の教育機関が
正規の学校教育の体系外に続々と発生しはじめたのであった。

 第二に、この熟練工不足問題の深刻化につれ、他方では未成年労働者の増加が重化学工業において
非常な勢いですすむことになった。女子未成年労働者の増加もいちじるしくなった。このことから支配階級を悩ます問題が発生してきた。
そのひとつは、かれらの労働時間が一日男女とも一〇時間から一四時間をこえ、当然のことながら、
これは青年労働者の体位の低下をひきおこした。

 それだけでなく、身体の発育をかたよらせ、結核患者を急増させていった。
当時「過労を防げ」という結核予防のポスターがはられたことも典型的矛盾の露呈した姿であろう。
また他面では軍需景気による未成年者の収入増加となり、これが「浪費」と結合し、
また家族の労務動員による家庭環境の悪化によって、青少年の不良化、犯罪の増加がめだっていき、
いわゆる青少年問題が発生した。補導の強化、そのための協会の設置、あるいは児童読物の浄化がその対策として
内務省からだされたが、戦争体制の根元がなくならないかぎり、これらの問題は、拡大再生産にむかっていった。
611名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 20:04:37.65 ID:vYgyXabp0
 第三に、こうして大量の青年が軍隊や工場に労働者化していく現実は、昭和初期の農村問題とはちがった仕方で
新たな問題を農村になげかけることになって、独占資本とりわけ軍部をいらだたせる現象がめだってきた。
「農村の子弟は小学校卒業と同時にその七割までは職を求めて都会に出て、適令になって帰村するので
壮丁の体格および風紀は思ったより悪いようである。これをこのまま放置する時は由々しき問題となるので
政府としては今後とも農村に仕事を与えてその子弟が都会に走らないようにするのが肝要である」(杉山陸相「由々しき問題」、
「大毎新聞」一九三六年四月二二日付)という意見もでてきた。だがこれも戦時経済がつづくかぎり不可能なことであった。
また「本年度は結核が多いことは寒心すべきことだ。それに無学無知の青年の多いのには驚いた。
これは農奴制の結果ではないかと思われる」(山形県「渡辺聯隊司令官徴兵検査について」、
「東京朝日新聞」地方版、一九三七年八月一日付)という半封建的寄生地主制への批判さえうまれたのである。
そしてこのことの打開のために、上からの農村機械化、共同経営化の問題などが提起されたが、
そのみちは、軍需工業第一主義の政策の下では、農業機械の供給は不可能であるし、共同化も資金面でゆきづまるし、
寄生地主制の解体を指向する政策は天皇制軍隊の基礎をくずすことも意味するから、事実上手のうちようがなかった

 在来の陸軍幼年学校だけでなく、少年航空兵、戦車兵、通信兵学校などの軍関係少年兵士の養成機関が
独自の教育要求からうまれ、生徒たちを引き抜くことによって中等教育体系に変質を与えていくことになった。
さらに植民地満州の安定をめざす武装農民兵としての青少年義員軍を尖端とする拓植教育の進展もめだった。
また各種学校における大陸科、支那語科の新・増設がみられ、青年学校義務制と工場事業場技能者養成における
産業と軍事の問題、体力向上のための管理策など新しい教育問題を生みだしていった。

 学校教育は次第にたんなる兵員養成や労働力供給の予備的存在から、直接的なそれへと転化しはじめた。
一九三八、三九年の近衛・平沼内閣のもとでの荒木文相時代にこの傾向が一層濃厚となった。
その第一が勤労動員の強化であった。一九三八年は、応召農家の援農作業を中心とする開墾と植林が主なものであったが、
三九年には木炭不足解消のための木炭増産勤労報国運動が展開された。この年を契機に「夏休み」の呼称が廃止され、
「業を休むの観念を棄てて心身鍛錬の本義に則」るという理由で、「夏季及冬季心身鍛錬」の期間とされることになった。
そして、「青少年学徒に賜りたる勅語」にこたえるという理由もかねて「学徒隊」が結成されることになった。
さらに一九四〇年になると、飼料開発、空閑地利用の食糧増産などが加わった。この段階では
主として農業における食糧増産が主であったが、四一年の「国民勤労報国協力令」が公布されてから
軍需工業への動員がはじまった。その第二は、一九三九年五月以降のノモンハン事件の軍部の反省をへて、
精神訓練だけでなく「機械化等物質的戦備」をこなしうる軍事能力の向上がいちだんと要求され、
それにしたがって強化とともに総合化がめざされるようになった。つまり中等学校から大学にいたる教練もその範囲をひろげ、
航空、海洋、機甲、馬術、通信にいたるまでになった。さらに防空訓練も加わり女子には救護作業が必須となった。
これらのいわば基礎として、体育が重視され、一九三九年には体力章検定がおこなわれるようになった。
またこの年永年の懸案であった中等学校入学選抜としての学科試験が廃止され、これにかわって
「体位、口答、内申」によることになったが、これも受験勉強が体位を低下させるという理由のためであった。

612名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 20:06:48.33 ID:vYgyXabp0
 教育審議会は一九四一年一〇月をもって審議が完了し、新たな戦争完遂のための戦時教育の展望をふくめて、
大東亜建設審議会がその任にあたることになった。四二年五月その第二部会が「大東亜建設に処する文教政策」を発表した。
それによると「皇国民の教育錬成方策」としては「教育に関する勅語を奉戴し、大東亜建設の道義的使命を体得せしめ、
大東亜における指導国民たる資質を錬成」することがめざされていた。
一九四三年九月、政府は「現状勢下における国政運営要綱」を閣議決定し、国内態勢強化方策については
(1)航空戦力増強、(2)2食糧自給国内防衛を目標とし、「1徴兵猶予の停止、2理工系学徒の入学延期、3理工系学校の拡充、
4法文系大学高度の統合整備、5義務教育八年制の延期、6徴用の強化、7女子動員の強化等を決定し、
軍要員、軍需生産要員の給源の造成を期待した」(文部省「学制八十年史」、三九四頁)。
そして、この基本方針のもとに次のような措置がとられることになった。すなわち、中学校四年修了での上級進学制、
一九四五年からの中学四年制、中学の入学定員据え置き、増設・増科は工業、農業、女子商業に限定、
男子商業学校の転換措置がなされた(「国民教育に関する戦時非常措置に就て」一〇月二五日)。
また、青年学校の授業は「可成縮減し一層生産増強に資すること」(「青年学校教育の臨時措置に関する件」一一月六日)。
高校、大学、高専の入営延期は取り止めとなり、文科入学定員は「三分の一」に削減、入学制限をはかることになった
(「教育に関する戦時非常措置に基く学校整備要項」一二月二一日)。また、教員確保のため「就職義務」が強化され、
学徒動員も「在学期間中一年に付き概ね三分の一相当期間」がこれにあてられることになった。
一方、一九四四年秋から「学徒出陣」が始められ、「校門即営門」といわれるようになった。
また他方では、国内の労働力不足は決定的となり、「学徒動員」によるほか軍需生産さえ困難となってきた。
ために一九四四年一月「緊急学徒勤労動員方策要綱」が実施され、さらに二月の「決戦非常措置要綱」の閣議決定では
年間を通ずる常時動員および学校工場方式もだされた。七月には動員学徒の一日一〇時間勤務の原則が一二時間まで延長され、
深夜業が中学三年以上の男女にも課せられることになった。

 一九四五年、戦局は最後の局面を迎え、東京大空襲による被害もいちじるしくなった。
三月「決戦教育措置要綱」が決定し、「国民学校初等科を除き、学校に於ける授業は昭和二〇年四月一日より
昭和二一年三月三一日に至る間、原則として之を停止すること」となった。三月現在七割に及ぶ学徒が動員された。
五月には「戦時教育令」がだされ、「我が国学制頒布以来茲に七十有余年今や戦局の危急に際し
教育史上未曽有の転換を敵前に断行せんとす」る文部大臣訓令がだされた。
児童・生徒をそのまま「国土防衛」の名において学校報国隊の組織がめざされた。アメリカは広島に原爆を投下した。
この地に動員されていた教員および学徒九五二〇名がその生命を失い、三九九四名が傷病を背負わされた。
「なかでも建物強制疎開作業に出動するため、大田河畔に集合朝礼中の広島市内学校の学徒は原爆により全滅したと伝えられ」
(前掲「学制八十年史」四〇三頁)た。

戦時体制下の教育運動
 一九三九年八月、法政大学に教育科学研究全国協議会がもたれたが、「今日の国民教育の実践者たちは、
最早教育学者に理論の貧困は訴えてはいない。彼等は国民教育の最小必要量を測定し、
それを充足することを彼等みずから実践の中に求めている。したがって彼等の衷心より求めているものは、
各地方に分散する教育実践家たちの連絡であり、協同であってしかもこのことが最も今日欠如することを痛感しているのである」と報告され、
横へのつながりを求める教師のエネルギーが感ぜられた。このことは翌年になって一そう明白になった。
第二回全国協議会では、「その後、東京の本部の外に、地方に支部が続々と増設されて、
一年をまたぬうちに会員はざっと一〇〇〇名ばかりになった」と報告された。
613名無しさん@お腹いっぱい。
 教育科学研究会は一九三三年に創刊された雑誌「教育」が契機となり、
城戸幡太郎、留岡清男を中心とする編集者側と読者側との間に接触が生じ、
これが生活学校・生活綴方運動などの現場の教育実践家を結集しながら、一つの教育運動として生長したものであった。
教科研には多数の研究者、現場の教師が参加したが、その共通の地盤となったものは「教育の現実への肉迫、
真実の追求、リアリティーヘ」ということ、それにもとづく「ヒューマニステックな教育の建設」の意欲であった。
留岡は教育研究について「研究は社会問題的認識――それは教育を支え、
あるいは阻害する社会的経済的条件との関連で教育問題を把握すること――を欠いてはならず、
その発展は教育運動化の方向をたどるべきであり、その教育運動の性格は
それ自身政治活動(教育政革の政策化)とならなければならない」と考えていた。
教科研の運動は教育内容・方法の問題関心と教育・政策への志向を基本的性格としてすすめられた。
その綱領は、(1)教育の科学的企画化、(2)教育刷新の指標確立、(3)教育研究の協同化、(4)地方教育文化の交流、
(5)教育者の教養の向上であり、運動の重点は教育事実の科学的把握におかれ、
これまでの教育学の観念的傾向と教育実践の技術的偏向とを排し、さらに教育計画の樹立による政策的改革を意図した。
このように教科研運動は、「研究と現場の教育実践の結合を運動の基礎においた点に、教育から政治へ、
政治から教育へというサイクルを運動化し、運動がその全過程において主導性をもつという構想を民間教育運動にもたらした」
(日本教育運動史」3、二二八ページ)点において、意義があった、会は一九三七年頃から四〇年にかけて活溌な活動を展開したが、
相次ぐ弾圧により多数の会員が拘引され、四一年にはその組織を解散せざるをえなかった。

 当時、教科研運動にみられたような、潜在的な教師のエネルギーを反体制的な闘いの集団に組織するには、
指導的な中核体が欠けていたし、多くの教師たちは、体制に順応するか、もしくは手さぐりでバラバラの形で、
職場の教育課題にとりくまねばならないという苦境のなかにたたされていたのである。

 他方で、教育科学研究会と同時期に発足した日本青年教師団は、東亜協同体理論にうらづけられながら、
さしあたりの仕事として、青年教師の待遇問題を手がかりに複雑な性格をはらんだまま出発した。
かれらは「顧みて国民教育現状は如何であるか、教育系統の学校志望者は激減し、殊に師範学校の入学志望者は
地方によっては殆んど絶無に近い情勢にありと報ぜられ、また教育界内部においては、転出続出して全国的に教員の不足を来たし、
ために教員の労務は著しく過重となり、その上これに伴って、二学級一教員、学級人員の増大、
無資格者の採用等教育力の驚くべき低下を予想せしむる現象が各方面に現れつつある」とし、
ここから「教師の物心両方面における生活条件改善向上の問題を、一般与論に反映さすべく、
一大運動を展開せしむ」とした。しかし、この組織も一九四一年一二月末に解散を言い渡された。
「大東亜戦争に突入して一億一心を必要とする今日、教員の待遇問題などを口にし筆にする教育団体の存在は許さないという理由」からであった。