【派閥】統制派vs皇道派・条約派vs艦隊派【抗争】
だからそこでも満州事変を否定しているわけじゃないでしょ?
>>725 >満州事変を否定しているわけじゃない
「満州における軍事行動が必要となる」という認識は、省部のトップから中堅層までの間で
幅広い合意ができていたよ。
けれども石原らのように、騙し討ちので事態を始めて全満州の軍事占領に至るなんてことは
想定していなかったろうと推定されている。
短絡的な頭脳の持ち主は、「満州で軍事行動をする」=「満州事変だ」とか考えてしまうのかも知れないが、
国内と諸外国の同意を取り付けたうえで合法的に国家意思として軍事行動を起こすことと、
謀略的な陰謀によって事を起こして国家意思に反する行動をとって他国を軍事占領することとは
根本的に違うことだ。
>>727 >>727 石原の成果を最大限に利用して満州事変を推進していたのが永田。
勃発する何年も前から穏健であったり慎重であっても永田が満州事変を推進していたことには違いがない。
それと徒党を組んでの権力奪取も計画実行していたよな。
>728
>石原の成果を最大限に利用して満州事変を推進していたのが永田。
満州事変を推進したのは南陸相が責任を取って辞任した後に陸相に就任した荒木貞夫だ。
永田はあくまで満州事変が穏当な結末を迎えるように、現地軍の統制と戦線の不拡大に奔走している。
>徒党を組んでの権力奪取も計画実行していたよな。
何の話だ?
永田がそのような計画を実行したことはなかったが?
730 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/21(土) 01:06:54.18 ID:0GoodXrI0
日本を大敗させたアホの山本五十六
■小室直樹 『硫黄島 栗林忠道大将の教訓』
「大東亜戦争の初め、東条首相は真珠湾攻撃を知らなかった。
これは東条のみでなく、陸軍全体が知らなかった。 誰もが驚くような話である。
何故かと言えば、日本軍の共同体の構造がそのようになっていたからだ。」
■佐藤晃 『太平洋に消えた勝機』
「だがこの時すでに、真珠湾作戦部隊はヒトカップ湾をハワイに向けて 出航している。
政府はこのことを知らされていない。 略
国家存亡の戦争を行う国の最高指導者が知らぬまに、
そして 共同作戦をとる陸軍が知らぬ間に、このような重大作戦が決行される事など、
最高指導者の下に統合幕僚組織のある普通の国では考えられないことである。」
■西村眞吾 『眞悟の時事通信 No.693』
「つまり連合艦隊司令長官は、この時既にハワイ真珠湾攻撃を決意していたのだ。
このことは海軍軍令部総長も知らない。
もちろん、首相である近衛も十月に首相になった東条も知らない。」 略
腹案は、よくできている。そして、現実には、第一段階(南方作戦)は一挙に達成され、第二段階(西亜作戦)の途中まで達成された。
しかし、この「戦争終末促進に関する腹案」の基本方針に反することを、最初から実施し、しかも順調に進んでいた第二段階を自ら放棄して、
結局、腹案全体の戦略と戦術、我が国家の基本戦略を崩壊せしめた人物がいた。
我が国から統合幕僚本部を喪失させた山本権兵衛に続く、海軍のもう一人の山本。山本五十六連合艦隊司令長官である。
■茂木弘道『史実を世界に発信する会』
その基本戦略に反する戦いを始めたのは、海軍の山本五十六連合艦隊司令長官であった。
略
山本提督一派によるパフォーマンスのようにしか見えない戦い方だが、最初の真珠湾攻撃で意見の対立が生じたとき、
山本提督を更迭するだけの力(それだけの人物)と覚悟が海軍上層部になかったということなのか。
結果、日米戦争での日本の戦いは相手(米国)のリングで戦うことになり、惨憺たる負け戦になったことは史実が示す通りである。
731 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/21(土) 13:35:12.43 ID:CVHGOAkB0
永田がかき回して陸軍を台無しにした。
バーデンバーデンの誓いや二葉会一夕会の活動を無かったことには出来ないと思う。
733 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/21(土) 16:54:20.60 ID:rJ9eSYRF0
梅津が回りまわって主流に就けなかっのも統制派の責任か。
宇垣路線のままの方が穏健さやコンセンサスの側面からは良かったのでは?
735 :
田中寛治:2014/06/23(月) 04:46:47.71 ID:v+Jcsf+H0
「松本零士」の「1000年女王」で「雨森始」の父親の経営する特殊な町工場が爆発する。
「始ーっ、来るなーっ。」
「B29」が焼夷弾で爆撃するのではなく「オカルト化学」「オカルト物理学」に手を染め
る「罰当たり」が増え始めた。
736 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/06/26(木) 06:58:36.98 ID:sSWU9HbL0
岡村はどっちに近かったんだろうね?
>731
>バーデンバーデンの誓いや二葉会一夕会の活動を無かったことには出来ないと思う。
バーデンバーデンで永田や小畑が同意したのは、軍の近代化が必要・無能な上官を
淘汰することが必要・そのための新進的な知識と思想を持った若手の選抜を要する、
といった事柄だろう?
無かったことに出来ないも何も、当時だったらそれが必要だというのは誰の目にも
明らかな事実だったんだから何の問題もないよ。
二葉会や一夕会の活動の中から過激な言動を取るような連中が出てきたのが
永田の責任だってのも論理が強引すぎるね。
あくまで責任は暴走した板垣や石原という個人に帰せられるべき問題であり、
現地で暴走した連中の責任を軽減するための繰り言でしかない。
>>734 >梅津が回りまわって主流に就けなかっのも統制派の責任か
梅津は陸軍次官になっているんだけど?
陸軍軍政のNo2が主流ではないって、いったいどういう理屈だよ。
>宇垣路線のままの方が穏健さやコンセンサスの側面からは良かった
同感だ。
永田はその宇垣路線の推進者だったんだけどね。
>736
岡村はこの時期の派閥闘争にはあんまりかかわってないみたいだ。
ちょうど永田・小畑の対立が悪化していった昭和7年から9年頃にかけては
中国にいたから。
その後も、一時的に国内に戻っても基本的には中国で軍司令官として働く期間が
長かったから、派閥抗争的な動きにはほとんど巻き込まれていない。
宇垣が陸軍内で干された理由がよくわからん。
出世した理由も分からんのだけどw
宇垣縮軍だっけ?
あれで人数じゃなく、装備を重視という方向に向けようとして士官達を敵に回した?
226の直前もこの人がクーデター仕掛けようとしていたか、担がれようとしてたって話もあったと思うんだが。
よー分からん人じゃ
>>738 永田派が結託して拒否ってたからね
権力闘争は怖いよね
石原も武藤も東条も一夕会で永田の影響下にあったからなー
741 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/16(水) 17:39:59.00 ID:ng3Z3LSz0
東条はバーデンバーデンにも参加しているし
永田は宇垣を追い払って宇垣と同じことをやろうとした。
陸軍下克上の親玉だな。
743 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/17(木) 20:45:21.87 ID:oi6dd+B/0
>>742 陸軍士官学校、陸大時代やバーデンバーデンの頃の永田と小畑の関係は
どうだったんだろう?
永田が参本2部長、小畑の参本4部長時代には完全に決裂していたが。
もともと永田と小畑は馬が合ったのだろうか?
海軍だと、米内光政と末次信正が犬猿の仲だったのが、東条内閣打倒で
和解しているけれど。
>>743 小畑や山下は有能さを証明しているよな。
大臣にして良し、大将にして良し。
>>738 >宇垣が陸軍内で干された理由がよくわからん。
宇垣は陸軍内にいた時には陸相として最高位を占めていたんだけど。
現役を引退した後に排斥されたのは間違いないけど、それを指して
「干された」とは言わないんじゃないかな?
>出世した理由も分からんのだけどw
仕事ができたし、その仕事の手腕に期待しての人望もあった。
当時、第一次大戦を経た欧州の陸軍に対して3流以下に成り下がっていた
日本軍の装備や編成の近代化が必要だったことは衆目の一致するところだった。
その一方、政党政治の定着して民意を重視する政治が行われる中で、
税負担を軽減するためにも軍備縮小を要求する声が非常に強かった。
その逆風の中で、人員削減という政党や国民に対する説得材料を用意することで
軍の近代化を推し進めるという政治的手腕を見せつけた宇垣に対して
近代化が必要だということを理解している軍の中堅層の佐官や尉官あたりは
相応の支持を与えたんだよ。
対して、頭が固くて軍事技術の進歩についてゆけず、日露戦争の勝利という過去の幻想に
囚われたまま「三八式歩兵銃を持ち、よく訓練された兵士が居さえすれば日本軍は無敵だ」
とかいうアホな思い込みを持ったままの将官級の連中は、自分のクビを切られた恨み節を
抱え込んでしまったので、宇垣排撃へと動いて行った。
>226の直前もこの人がクーデター仕掛けようとしていたか、担がれようとしてたって話もあったと思うんだが。
3月事件のことかな?
事件そのものが闇に葬られたうえに関係者が自分に都合のいいことしか喋ってないから
何が正確なところなのかが今一つ判らないけど、事件の主犯というべきなのは
宇垣よりもむしろ小磯国昭の方だろうね。
>742
>永田は宇垣を追い払って宇垣と同じことをやろうとした。
は?
宇垣が陸相を退いたのは浜口内閣退陣の時だよ?
永田がどうやって宇垣を追っ払ったっていうんだい?
>陸軍下克上の親玉だな。
ほう。
「下剋上」というのであれば、上司の言葉に逆らって勝手な行動をとっているという
事実があったはずなんだが、その事例を挙げてもらえないかな?
>743
>陸軍士官学校、陸大時代やバーデンバーデンの頃の永田と小畑の関係は
>どうだったんだろう?
基本的には仲の良い親友同士だったようだよ。
でなければ、岡村と並んで十六期三羽烏なんて形容はされないだろ。
>744
>小畑や山下は有能さを証明しているよな。
>大臣にして良し、大将にして良し。
大臣や大将になったことが有能さの証明なら、荒木貞夫や林銑十郎も有能だったことになるねw
747 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/20(日) 23:37:52.20 ID:G7QeIQ840
>>746 永田と小畑が決裂したのは、厳密に言っていつ頃?
>>746 永田は荒木や真崎をもり立てて宇垣系を排除してるが?
あのままま宇垣の影響力を残して穏健な南・金谷路線を維持するのが正解だった。
バーデンバーデンで結託したり二葉会や一夕会の派閥を作って下克上。
>>747 >永田と小畑が決裂したのは、厳密に言っていつ頃?
昭和7年に満州事変が一段落した5月ごろから順次行われた、
いわゆる「荒木人事」の頃から徐々に関係が悪化していったようだ。
まぁ、この時期は永田と小畑が仲違いをしたというよりも、
荒木を主軸とする皇道派勢力の派閥専横っぷりを見てそれに反発した
陸軍の大多数が反感を募らせていったという方が近いが。
完全にこの両者が決裂したのは、昭和8年の6月ごろに省部の主だった
メンバーを集めた会議が行われた際に、対ソ政策や対支政策を巡っての
意見対立が下で完全に喧嘩別れに至った時だろうね。
この時は小畑が対ソ戦争を念頭に置いていたのに対して、永田その反対に
平和を維持して戦争には反対するというもので、ほぼ全面的な対立だった
といっていいようだ。
>>748 >永田は荒木や真崎をもり立てて宇垣系を排除してるが?
荒木や真崎の擁立に動いたのは確かだが、宇垣系の排斥は荒木ら皇道派が
行ったことであって、永田がそれを主導したわけでもなんでもないんだが。
というか、永田はこの皇道派の専横人事を見て愛想を尽かして反皇道派の
立場をとるようになったんだけどね。
>あのまま宇垣の影響力を残して穏健な南・金谷路線を維持するのが正解だった。
まぁ、その通りだろうね。
要するに、満州事変によって下剋上をやらかして南路線を葬り去った石原の暴走と、
その石原らと気脈を通じて十月事件を起こした桜会のクーデター未遂騒動とが
宇垣が主導した軍の近代化と穏健な大陸政策を葬り去ったわけだ。
>>749 >バーデンバーデンで結託したり
3〜4人の中堅どころの陸軍軍人がヨーロッパのどこだかで集まって
気焔をあげてたのがどうかしたのかい?
上原勇作や武藤信義といった連中の家に集まっていた後の皇道派メンバーが
打倒長州閥を誓い合っていたのと比べたってたいした違いはないんだがね。
>二葉会や一夕会の派閥を作って下克上。
荒木や真崎、小畑・山岡・松浦・山下といった連中も派閥を作っているんだが。
2・26事件を起こすことになる尉官クラスの青年将校を含めた皇道派こそが
下剋上の代表例だよ。
>>750 小畑も元々永田の同士だろうが。なぜ永田だけ免罪する。
永田は下克上派閥活動の首謀者じゃない?
>>751 >小畑も元々永田の同士だろうが。なぜ永田だけ免罪する。
小畑は派閥的専横の代名詞ともいうべき皇道派の重鎮で、永田は統制派と呼ばれはするけど
そうした派閥的な動はほとんど行っていないからね。
>永田は下克上派閥活動の首謀者じゃない?
永田は下剋上を行ったことなどないよ?
石原らが起こした満州事変と橋本らが起こしかけた十月事件の両方とも、
永田は火消し役に回って奔走している。
また、派閥の力を利用して人事を捻じ曲げて出世しようともしていない。
そんなことをしなくとも出世できるだけの力を持ち、周囲にも認められていたからね。
実際、「永田に派閥的配慮をしてもらったおかげで出世した」といっている人間もいなければ、
周囲からそのように見られている人間もほとんどいない。
永田の周りに集まってきた東条や武藤、片倉衷や池田純久といった連中は、
どいつも自分の才覚で頭角を伸ばしてきたやつばかりで、永田による庇護を得て
派閥的な恩恵を被っているなんてのはほとんどいない。
>>752 はあ?バーデンバーデンも二葉会も一夕会も永田が中心なわけだが?
>>753 >はあ?バーデンバーデンも
バーデンバーデンで集まるように声をかけたのは岡村だよ?
>二葉会も一夕会も永田が中心なわけだが?
単に集まったメンバーの中で実力人望ともに抜きんでていたのが永田だっただけで、
永田が派閥的な言動をとって「俺の言うことを聞け」的な親分・子分的な関係を
強いたことは資料からは窺えないのだが?
>>754 その後も組織を指導していたのは永田だが?小畑や岡村が不在の間もだ。
>>755 組織を指導?
具体的にどういった行動を指すのかな?
基本的には二葉会も木曜会も一夕会も、名目上は単なる陸軍の中堅軍人同士が
寄り集まって軍事的な研究をするというただの勉強会だよ?
いったい永田が一夕会員たちをどのように「指導」していたんだか、具体的な根拠を
資料を基に提示してくれないかな?
>>756 っ木曜会記事
最近でた川田本にも記載されているが?
新閥を作って政治指導。
山口県出身者の陸大からの排除。
中国資源の確保。
政治かと結託して陸軍上層部の操作。
>>757 >っ木曜会記事
木曜会記事のいったいどこに永田が「指導」したという記載があるんだい?
ちゃんと該当する箇所を抜き出してみなよ。
>新閥を作って政治指導。
永田がいつ政治指導などを行ったんだ?
まさか木戸や原田から陸軍の意向を聞かれたときに個人的な考えを述べたのを
「政治指導」などと思っているんじゃなかろうね?
>山口県出身者の陸大からの排除。
これは当時陸大の教官だった人間に等しく可能性のある作業であって、永田個人がどうこう
という話ではまったくないね。
そもそも陸大の入学者数は一期につき50人前後。
都道府県が47ある以上、情実を排した公正な試験によって選抜が行われていたのなら、
何年間かどこかの県の出身者が入らない程度の偏りが生じるのは統計的にいっても
全く不思議ではないが。
>中国資源の確保。
君が持ってきた木曜会記事には、こんな永田の発言も載っているんだが。
「戦争は必ずしもする必要はない。戦争をしなくても満蒙を取る必要があるのか」
筒井清忠『昭和期日本の構造 二・二六事件とその時代』講談社学術文庫(p194)
> 政治かと結託して陸軍上層部の操作。
クーデターを起こして権力を奪取しようとする連中の策動を抑え込んだり、満州で暴走を
続けている関東軍を抑制するために、それを制御しうる可能性を持った人間を陸相に持って
こないとどうにもならんという判断をし、その意見を伝えることはあくまで個人の裁量だろ。
実際に若槻内閣での南陸相・金谷参謀総長は上記の混乱の末に内閣総辞職にまで
事態を持って行ってしまったんだから、宇垣・南系を推すことは難しかったろうよ。
森 靖夫『永田鉄山』(ミネルヴァ日本評伝選)で再評価されたと永田信者が喜んでみても
川田 稔『昭和陸軍全史 1 満州事変』 (講談社現代新書)やその他の本でも幻想が上書き否定
>>759 逆じゃね?
川田稔が主張してるのって、森や小林道彦、北岡伸一らが掘り起こした「永田は満州事変において現地の抑制に動いていた」という
事実をまったく無視して、従来の自分の持論に延々としがみついているだけの内容でしょ。
>>760 断片的な材料から森や小林が再評価した永田評についてモロに否定されているね。
五課長会議や七課長会議が満州事変の地均しをしていたとか、事変勃発後も南・金谷の妨害をした事実とか。
このスレで触れられていた点も多々検証されている。
一巻が永田派対宇垣派が主だけど、永田派対皇道派、石原対武藤、武藤対田中の対立にスポットが当たる続刊も楽しみ。
永田は謂わば和製ルーデンドルフ。
一周遅れなんだよ。
永田信者は川田稔や筒井清忠が嫌いで大好きなのは森靖夫と小林道彦なのか?
しかし永田が軍閥化を進めた評価をしている史料や学者は前から多いからな。
永田主犯で小幡、岡村と東條が従犯。
764 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/06(水) 13:59:25.99 ID:Q2HqOR0r0
『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想篇』
(二) 慰安婦問題を考える。昔の戦役時代には慰安婦などは無かったものである。
斯く申す私は恥かしながら慰安婦案の創設者である。
昭和七年の上海事変のとき二、三の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、
同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。
現在の各兵団は、殆んどみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様である。
第六師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である。
(「岡村寧次大将資料」(上) P302〜P303)
慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様←ココ注目
岡村寧次大将回想記「私は恥かしながら慰安婦案の創設者である」
岡村寧次
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9D%91%E5%AF%A7%E6%AC%A1 岡村 寧次(おかむら やすじ、1884年(明治17年)5月15日 - 1966年(昭和41年)9月2日)は、
日本の陸軍軍人。支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官、第11軍司令官等を歴任し、
官位は陸軍大将勲一等功一級に昇る。
父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。元妻の星野理枝と死別した後、貴族院議員・加藤宇兵衛
の娘と再婚する。陸軍三羽烏の一人。
『岡村寧次大将資料(上) 戦場回想篇』(稲葉正夫編、原書房 なお、(下)は刊行されていない)
慰安婦(『資料(上)』によれば、慰安婦制度を最初に考案したのは岡村。
第一次上海事変当時のことで、強姦事件が起きたために長崎県知事に依頼して慰問団を
送ってもらったと述べている)
永田派の策動で荒木を擁立したのが道を踏み外した大きな一歩になった。
長閥だ宇垣派だとのレッテル貼りの批判に負けないで阿部信行のまままで行っていれば政治優先で良かったのでは?
陸相人事も阿部を拒否って荒木を擁立した永田の間違い。
下剋上をやって
成り上がったら
下僚に刺されるとは
相沢三郎
岡村のスタンスが正解だったのかな?
永田さえおとなしくしていれば。
これらの派閥を全部ポル・ポトみたいに大粛清していれば戦争は起きなかったと思う。
宇垣路線で陸軍が統制されていたらどうなっていたろ?
陸軍刑法により林将軍は死刑
本庄、板垣、石原も処刑
民政内閣が続き、その後も政党内閣制が定着。
>>773 まあ確実に内戦に突入だな。天皇も退位か殺されるんじゃないの。