1 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :
2010/11/02(火) 15:52:22 ID:y8EJIbV70 エリート教育
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/11/12(金) 04:07:44 ID:yYzCFu66O
帝国壊滅しましたがなwwwwwwwwwwwwwww
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/11/12(金) 20:07:32 ID:UguGeLj60
海兵の五省は現代にも通ずる
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/11/18(木) 14:11:15 ID:DRwB90EB0
4様
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/11/20(土) 21:28:41 ID:a7e8D1T70
5様
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/11/21(日) 15:02:02 ID:8SDD2x0A0
6様
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/11/22(月) 16:04:50 ID:y/okq1l30
7様
今の東大レベルなんだろ?
軍的保守
軍的保守
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/04(土) 23:10:15 ID:g8tQmQ1V0
>>8 一高>三高=海兵>陸士だろうね。陸士は大正期まで、幼年学校出身者が
主流で中学卒はスペア的扱いだったと言われている。
海兵は採用数が少ないので、陸士より難しいと評価されたと思う。
質は同じじゃないかな。
で、陸軍省、海軍省の官僚になると、文官官庁の官僚より偉かった?
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/05(日) 07:01:40 ID:LufriOGF0
>>8 俺の亡くなった明治生まれの曾爺ちゃんから聞いた話だが、
単純に学力のみの平均値なら東大(一高)の方が上だったそうだが、
海兵合格には当然、屈強な肉体も必要で、勉強のみのモヤシ君では不合格になるから
海兵落ちの一高合格も珍しくなかったそうだよ。
勉強のみなら東大(一高)が上で文武両道のトータルバランスなら海兵が上だろうね。
まあ、国民から羨望(エリート扱い)されてたのは一高よりも圧倒的に海兵だったそうだが。
何でも海兵の生徒さんは女性にモテモテで地元の英雄扱いだから曾爺ちゃんは男ながらに嫉妬してたってさw
>>12 建前上は同格です。
ただ、原則的に官僚の世界では内務官僚が一番。
昭和前期の一時期は確かに軍の方が強い時期があったけど、それはむしろ例外期。
また、陸軍省や海軍省の中枢で仕事しようと思ったら、陸大や海大を出てるのが原則必須。
ところが、旧制高校はそのまま帝大に上がれるのに対して、陸大や海大は陸士や海兵を出た中のごく一部だけ。
一高に入れる実力があるなら、素直に一高に行っといた方が楽に官僚になれるでしょう。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/05(日) 18:21:56 ID:4oIrrFsl0
陸士、海兵の教育は天下の俊才を四年間で石頭にする教育だったと酷評された。 それに反し旧制高校の教育は自由自治が尊重された。 秋山真之が正岡子規に、兵学校の生活はイタチのように動きまわっていると ぼやいていたな(笑)。
坂の上の雲の再放送を見たけど、同意。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/05(日) 22:31:35 ID:EEt0sSa/0
>>3 井上成美は海兵校長時、せっかくの有望な人材を
画一的な軍官僚にしてしまうと五省唱和を禁止した
こんなもの誰が作ったんだと怒っていたそうだ
防衛大も石頭にする? 折口とかでてるが、、
つか、秋山真之の時は、 そもそも五省なんてもんなかったわな。
>>17 艦隊派の末次が作成に関わっていたらしく
末次が嫌いで五省を批判した可能性もあるのかな
と勝手に思ってる
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/06(月) 17:00:10 ID:+oNA2L780
>>18 防大が折口を石頭に出来てればなw
まあ、洗脳教育も催眠術と同じでかかりやすいのもいれば逆もいるから限度があるが。
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/06(月) 19:38:00 ID:9HSQvLMK0
>>14 >ただ、原則的に官僚の世界では内務官僚が一番。
内務省は、文官高等試験の上位合格者だけを採用したわけではない。
たとえば後藤田なんかは、真ん中あたりの合格。
文官高等試験の上位合格者が行ったのは大蔵省。
東条英機が、主計官の福田赳夫に最敬礼したなんていう逸話もある。
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/06(月) 22:39:30 ID:3nCrdnSQ0
五省の内容ではなく、一律に押し付けるやり方に井上は反対したのだろう。 海兵の記録映画「勝利の礎」では、一生徒の発声に他の生徒は黙想するのみで 唱和はしてなかった。ちなみに校長は草鹿任一で、平柳育郎生徒の恩賜の短剣を 拝受するシーンは印象深いものがあった。
>>22 >東条英機が、主計官の福田赳夫に最敬礼したなんていう逸話もある。
へぇー、そうなんですか。
自分が小学生の頃首相だった福田氏は、「ハーホー」しか答弁ができない
老いぼれキャラ(谷岡ヤスジの漫画)としか印象に残っていないので意外です。
いかに大蔵省の俊才とは言え、30歳代の一官僚に宰相・陸軍大将の東条が
最敬礼をしたというのは、にわかに信じ難いので、よろしければ逸話をもう少し
詳しく教えてください。
>>13 海兵は仮に今いても間違いなくイケてるメンズだな。
頭脳明晰で運動神経抜群であの制服に短剣姿だ。
その上、会話の中にユーモアを交える習慣があったそうだし。
女からモテる要素だらけの最強のイケメン集団だろ。
>>24 ありえないでしよ、
独裁東條が一高文に、
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/07(火) 20:57:10 ID:qZ9Qlxye0
>>24 東条が満州の関東軍にいた時のことだよ。飛行場まで出迎えに来た時のことだろう。
まあ、軍の予算を決めるのは主計官だからそのくらいのことはするだろう。
福田の自慢話だな。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/07(火) 21:30:09 ID:rDN5ybcQ0
>>24 そうそう。
東条が関東軍参謀長だったときの話だよ。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/12(日) 21:26:25 ID:9p6vspVO0
一高と海兵のどちらが難しかったかは、時期によるみたいだね 亡くなった祖父の話だと、海兵受かったっていったら、それこそ村の誇りだったと 田舎だったからかも知らんが
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/12(日) 21:43:46 ID:FZtAt25+0
旧制一高→東京帝国大学 のコースは、高い学費が必要。 陸士と海兵は授業料がいらない上に、給料までくれる。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/12(日) 22:26:07 ID:FZtAt25+0
>>31 戦前のある時期までは、国立の旧制高校→帝国大学のコースより、私立大学
のコースを進んだ方が、学費は安かったそうだ。
今より官尊民卑の傾向が強かったからかね。
>>30 衣食住保証+給料付。おまけに平時でも上手くいけば大臣や総長。
戦時に手柄を立てれば華族の仲間入りとくれば、貧乏人の希望の星だわな。
もっとも、海兵の食パン+味噌汁なんて朝食にあこがれた奴がいるかどうかは疑問だけどw
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/13(月) 22:28:22 ID:ddhDsJqc0
俺も海兵の食事にびっくりしたわ。あの量で武道、カッタ訓練、棒倒しを やったんだね。
付け合わせは微量の粗目砂糖だけ。 やっぱり、パン頬ばって、味噌汁で流し込んでたのかなあ…オエッ!
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/15(水) 22:59:31 ID:gR6fudTA0
日露戦争の勝利は、鳥羽伏見、西南の役を経験した司令官と陸士、海兵出身の参謀との 役割分担の成功にあった。太平洋戦争では陸大、海大の学校秀才が司令官として 指揮をした。司馬さんさんはその差を指摘していた。
その「金回り」の判断で ギリギリの勝利に持って行くことが出来るかどうかの違いだろう。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/17(金) 22:36:40 ID:BpWfED+M0
司馬史観は明治と海軍に寛容で、昭和と陸軍に厳しいからね。
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/17(金) 23:01:18 ID:stM6NUoa0
司馬遼太郎に限らず、戦後は海軍善玉陸軍悪玉史観が圧倒的に強い。 阿川弘之も米内光政、山本五十六、井上成美などを持ち上げてる。
司馬と阿川じゃあ、むしろ司馬の方が海軍マンセー度は高いよ。 隣の芝生は青く見える類だね。
>>36 エントロピーの法則だな。
旧時代の価値観が残り、新時代の価値観とぶつかる革命後30?年ぐらいが、
最も国力が充実する。旧時代の価値観が消滅すると国力は衰退に向かう。
満州事変を起こし日本が一気に軍国化するのが明治維新から62年目の1931年。
1945年敗戦で戦前戦中派が実権持っていた1975-1990年ぐらいが日本の最盛期。
戦前戦中派がどんどん引退した1990年頃から日本はひたすら衰退している。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/18(土) 21:57:35 ID:VO/m9fKU0
>>42 どんな組織でも肥大すれば、官僚化が進む。官僚制度の悪弊の最たるものが
誰も責任を負わないシステムの存在であろう。司馬さんは昭和の陸軍にそれを
みたのだろう。ノモンハンの辻、服部であり満州事変の板垣、石原の責任は
不問に等しい処分だった。
物理は苦手だったので、そうですか、としか言えません(笑)。
責任取らないという意味では海軍もひどかったんだけどねえ。 ま、陸厨みたいに海軍の方がひどかったという気も 海厨みたいに海軍はまだマシだったともいう気はないけど。
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/20(月) 19:08:22 ID:HVGaUETG0
アサヒビール名誉顧問の中條高徳さん(1944年に士官学校入学)の本では、 当時の陸士は現在の東大よりはるかに権威の高い学校だったと記載されている 受かっただけで「家門の誉れ」「郷土の栄誉」だったとさ
ヘタレな将校のせいで陸士のイメージが…
>>45 権威それ自体が鴻毛の軽さしかない
現在と当時を比較されてもなあ。
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/21(火) 23:26:01 ID:V7sbRdaG0
戦前の学校制度は八ケ岳型だった。東大はその中の官吏養成の最高峰。 実業界を目指すものは一ツ橋神戸高商に、教育界は東京高師に進学した。 東大卒がこの世界に入っても大きな顔はできなかった。 戦争中に赤紙がくれば、学歴無用の世界が待っていた。インテリの軍部嫌い(特に陸軍)は この体験にあると思うよ。
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/21(火) 23:42:25 ID:r43j8DwT0
>>48 海軍は、短現制度で、東大卒を上手く味方につけたね。
陸軍の赤紙だと2等兵だが、海軍の短現だと、いきなり主計中尉。
戦後、官界や財界の幹部に短現出身者が多かった。中曽根もそう。
これは、海軍善玉陸軍悪玉史観にも影響を与えているだろうね。
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/21(火) 23:44:22 ID:3bjlUITz0
そもそも東大内務省、富豪議会の失政の受け皿が陸軍だからな
つっても、陸軍だって結局は入営した大卒の二等兵をすぐに幹部候補生にして初級将校に当ててたんだから、 遠回りしてるだけで結局は学歴を優遇してるんだけどね。 何しろ、幹候の試験を白紙で出したのに合格した、て話もある位なんだから。 本音は陸士出身者の軍内特権意識と高学歴者へのやっかみ、さらに当時の社会主義的風潮から、 軍の平等性を建て前を崩すと下克上が下士官まで普及しかねないのを恐れたんじゃないの。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/23(木) 01:23:44 ID:Vxbe02J60
>>51 その幹部候補生選抜者がけっこう古兵サンに目をつけられて初年兵期間
虐められたのよ。
>>52 なまじ平等を建前にすると
かえって陰惨なことになるいい例ですな。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/23(木) 21:13:25 ID:ks/lMeYW0
板垣と石原のコンビは現地の満州では人気があったんだね。 満州産まれの小沢征爾は二人の名前の一字ずつをとって、親が付けたとか。
祖母の話だと、海軍の若い将校は、格好いいので女子学生の憧れの的だったが、 陸軍士官は野暮ったいので、そうでもなかったそうだ。
そういや海軍、特に士官の人は今で云うキムタクとかのジャニーズ系タレントみたいにモテモテだったらしいね。 陸は聞いたことないな。 でも航空隊は陸も海も関係なくモテモテだったみたいだ。
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/23(木) 22:21:48 ID:P/5phUEU0
モテモテといっても、江田島に隔離されていて、どこで女と出会うんだ
つか、隔離するために 築地から江田島へ移転したわけで。
海兵を卒業して、少尉に任官したらの話だろ。
それもねえ。 勤務地は海の上か横須賀、呉、佐世保、舞鶴… 海軍省や軍令部勤務もそんなに数はいないだろうし… 陸軍に比べると、そもそも見かける機会が限られるのよね。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/24(金) 22:02:37 ID:0KSCbdFs0
海兵生徒 スタイル〜七つボタンのジャケット、腰に短剣 世間の眼〜中間層の文武両道の青年 旧制高校生 スタイル〜弊衣破帽、腰に手ぬぐい 世間の眼〜富裕層の秀才の坊ちゃん 乙女の心をくすぐるのは前者だな。弊衣破帽がエリート意識の裏返しだと 言うことが透けて見えるからね。
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/25(土) 09:43:43 ID:Xu0WUypK0
今の東大と違うのは 将来が約束された超エリートだということ 小さい頃から塾通いの軟弱者ではなく、精神的にも体力的にも強靭 東大だとアスペとかコミュ力不足でも勉強さえできれば入れるが、そんな人は海兵にはまず入れない これでモテナイはずがない
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/25(土) 23:43:06 ID:DjBQp0zR0
海兵の入試には面接があったね。陸士はどうだったんだろう。 帝大には面接はなかったはず。学力オンリーだね。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/29(水) 06:37:15 ID:CzSJ2C/80
>>62 >スタイル〜七つボタンのジャケット ×
それは予科練。海兵生徒は今の防衛大学の制服と同じ。ただし明治時代は
ボタンスタイルだった。
当時一般的に文武両道だった。旧制三高が舞鶴の海軍期間学校とスポーツ交流を
していが引けをとらなかった。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/29(水) 06:43:01 ID:CzSJ2C/80
>>64 海兵は旧制高校と同格で、帝大と比較するなら海大が相当する。
帝大は今の大学院入試に似ていて旧制高校卒業者ならほぼ入れた。
学科を選ばなければナンバースクール以外からでも東大にほぼ無試験で入れた。
東大も文学部くらいならほぼ無試験で入れたけど、 その代わりこの時代は、たとえ東大であっても、文学部では就職先に困る時代だったので、 単に帝大というだけなら、無難に勤めれば名誉大佐くらいまではなれる軍人の方が安定している。 ただし、やはり東大法学部は別格。 ここを出て高文を受かれば、軍人に例えれば少将クラスまでは鉄板。 軍人の場合も陸大海大を出ればほぼ同格だが、働き盛りの少尉中尉時代にかなり受験勉強しなければならない。
>>65 制服は第一種と第二種と有ってだな、冬服は今の防衛大学校と同様の型だが、夏用の
第二種は上下白の七つボタンの短ジャケットだよ。
因みに、予科練は兵学校と同様の七つボタンになって以降(昭和17年近辺の記憶)が俄然
人気爆発だった(らしい)。勿論夫れ迄は普通に四等水兵扱いだから、甲飛も乙飛も訓練中
は事業服にお出かけや閲兵は水兵服。
兵学校との差異は、冬服の前立の処理の差で、冬も夏も七つボタン。
>>67 高文の行政も司法も、昔は私大結構受かった
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/29(水) 20:19:13 ID:QbGPPFHx0
東京帝大以外の帝大から高文受かって官僚になっても、あんまり出世 出来ないがな。旧制高校の寮生活をしていない私大はもっとダメ。 司法官僚は、戦前は二流官僚だから、東京帝大以外でも、そこそこ 出世できた(司法官僚二流論)。
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/30(木) 10:53:31 ID:IeKxljkR0
陸士の制服は地味だな。一兵卒のそれとほぼ同じ。 肩章は星のない赤タンで襟章は星一つ。違いはこれだけ。 将校生徒といえども兵卒から出発させる意図があったのかな?
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/30(木) 11:46:23 ID:ngM4BXRT0
○○の学校が良いってのは半分本当で半分デマだからな 単純に出世したい奴が集まってるだけって話で それを真に受けて子供を無理矢理入れたりするとオチこぼれ確定だし
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/30(木) 14:06:45 ID:ngM4BXRT0
出生したい人間が出世する奴の多い大学、学科に集まりやすいだけ 例えば就職率100%の学科があるとすると 前評判を聞いた就職を第一に考える学生が集まってくるから 結果的にその学生達が就職活動を努力して保たれるだけ
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/30(木) 20:12:59 ID:HMCGtfm+0
>>73 予科在学中は階級なしで、卒業時に上等兵。本科に入学後、隊付期間中に
伍長に昇進。隊付を終えると軍曹となって東京の本科に戻ってくる。
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/30(木) 23:20:59 ID:5JOIBztG0
文官高等試験受かっても、勅任官(少将以上)になれるのは、 半数以下。陸大出れば80%以上が勅任官。海軍は、海大卒 云々より、海兵卒業時の席次がものをいう。陸幼→陸士のま ま将校になれば陸士だけを出たものよりも進級は早い。大佐 で退役なら、文官高等試験組の大半より、位階勲等は上。
という制度が敗戦の悲劇をもたらした。
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2010/12/31(金) 07:54:22 ID:oNHvBnPL0
>>76-77 防衛大学卒は国家U種扱いだけど、陸大、海大相当の過程を経て
将官になる人は国家T種と同格になるよ。
今でも、勉強はそれほどでもないが、体力やリーダーシップとの総合値で優れている人は
自衛隊が公務員としての出世コースだ。
>>76 東大法学部を出てると同じ高文でも
最初から「本省組」と呼ばれて別扱いになるんだよ。
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/01(土) 22:51:16 ID:/3EstawK0
>>77 途中までは上手く行ってたシステムも時間と共に問題が出てくるからな。
今の日本と同じだw
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/01(土) 22:57:28 ID:xth/ITLP0
>>79 池田勇人は大蔵官僚だったけど、京大卒だし、病気で休んでたりしたから
エリート官僚ではなかったんだよね。だから公職追放を受けなかった。
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/02(日) 11:26:07 ID:EA5Ox7HZ0
今の東大を凌ぐエリート校があったのに、ほとんどの人は知らない 一般の人々の記憶から抹殺された幻の学校 教科書にも載ってないし、テレビでも一切やらない 未だに報道規制が続いてるのかね
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/02(日) 12:30:16 ID:L2LmKSWt0
どこだよ、それ。学校名を書いてみろ。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/02(日) 14:21:22 ID:C37Wpxbc0
>>45 の本が本屋にあった。
旧軍を全否定する気はないが、帝国陸海軍はどう考えても
大日本帝国を破滅に導いた元凶組織でしょ。
そりゃ今でも通用するいい教育もあっただろうが
基本的には「反面教師」として見るべき組織だと思う。陸士や海兵は。
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/02(日) 17:35:52 ID:pMF9YObN0
>>45 ,
>>84 1944入学なら戦時で定員が水増しされているのでそんなに権威じゃないよ。
大正時代は陸士海兵あわせても今の防大の定員にはるかに及ばなかった。
>>82 もしかして海兵のこと??? 1970年代は「海軍式経営」とかが大ブームで
ものすごく取り上げられていましたけど。
生き残りはコンサルタントとして講演などで稼いでいましたよ。新入社員研修のときの先生が
「五分前」とか「アイアンバーではいけないフレキシブルワイヤーたれ!」とか盛んにぶってました。
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/02(日) 17:39:55 ID:f0sJPiw50
どんな制度も完全無欠なものはありえないのであって、欠点はある。 要は組織を運用する人間にその欠点を最小限に押さえ込む力、能力が あるか否かが問題であって、組織自体を否定する考えはどうかと思う。 明治の日本が置かれた立場を考えれば、軍は必須の組織だろう。 政党の腐敗が軍部の独走を招いたことが破滅の原因である。
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/02(日) 23:27:22 ID:L2LmKSWt0
>>84 >大日本帝国を破滅に導いた元凶組織でしょ。
海兵の卒業席次がモノを言った海軍は海兵だろうけど、陸軍の場合は、陸士
というより陸大というイメージなんだな。
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/03(月) 11:13:54 ID:6UDQdWWU0
ここの人達には海兵・陸士は常識かも知らんけど 一般の人は、ほとんど知らないよ 特に最近の若い人
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/03(月) 11:32:47 ID:dTF5S5rl0
>>89 自分は1957年生まれで、陸士海兵出身者は教師や会社の上司などそこらじゅうにいた。
海兵出身者だけでもリアルに話した人で20人はあげられる。戦前の話は強制的に耳に入ってきていた。
自分の小学校も日教組の巣窟にみたいに言われていたが、それでも運動会は日の丸に敬礼して軍艦マーチで
行進していたものだ。若い人は今のような戦後社会が敗戦後ずっと続いてきたと思っているようだが、
「制度は戦後で年配者の意識は戦前」という時代がしばらく続いたんだ。年配者が「高等学校、高専」
というとき相手の年齢から旧制か新制か瞬時に判断して話をあわせる能力が要求された。
ところが、10歳下くらいの人くらいから戦前の話がまったく通じなくなった。「君のお祖母様は県立高女ですか?」
と40歳位の人に聞いたら「??????」だったのでこっちも吃驚した。
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/03(月) 22:41:18 ID:ytVDhFjp0
昭和16年以前の陸士や海兵が難関だったのはともかく、 それ以降も定員がそれほど増えず軍国主義の思潮の強い 後押しもあり俊秀が殺到したのは陸幼。陸幼出身者には たしかに優秀者が多かったが(作家の加賀乙彦やなだい なだもそう)、戦後、時流に乗れない者もまた多かった。 13〜14歳からどっぷりと一定の価値観に染められて しまったからねえ。
フロッピーディスクを知らないヒトも確実にふえている。
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/04(火) 18:54:50 ID:OX07J+p80
戦前50人編成の中学で成績1位2位ぐらいまでが 旧制高校に合格していた。
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/04(火) 21:50:49 ID:f48uM47e0
海兵の魅力のひとつに卒業後の遠洋航海が挙げられる。 時代によって訪問国は異なるけど、大正時代はパナマ経由で欧州、地中海 まで往っているね。当時の青年にとって欧州に往けるなんて夢のような 出来事だろう。
うちの爺さんは昭和13年に地元の中学を卒業。進路を卒業生名簿で見ると (大学卒は最終学歴になっていて高校名は不明。大学名も新制大学名になってる のもあり当時の名前のもあり、ややこしい)、学年180人中、陸士5名、 海兵1名、東大6名、他の旧帝大7名、東工大・一橋・東京外大など他の国立大11名、 私立大33名、師範学校7名、国立医大6名、医専11名、歯薬専2名、 高商・高工・高専32名、陸工・予科練など軍学校6名、実務学校19名、 芸術系大2名、高校4名、になってる。 この数は卒業者で、「陸幼に受かった奴は中学2年で行ったし、中学4年で 一高に受かった秀才は名簿に入ってない。卒業してないからOB会も入れず、 彼等のほとんどが音信不通で気の毒だ」と言っていた。 ちなみに戦死者22名。海兵や海軍関係の学校行った3名は全滅。 陸士は5名中戦死は1名。陸工など陸軍関係の学校行った4人中戦死は1名。 ちなみに爺さんも戦争で死にたくないから陸軍主計学校を受けたが落ちて、 仕方なく早稲田の予科に行った。5つ上の兄の世代は「一高突破」が 中学生の最大の目標だったが、軍国色が強まると軍学校の難易度が ぐっと上がったと言っていた。当時、二等兵で引っ張られる初年兵教育のエグさは 誰でも知ってたから、皆がなんとか軍学校に滑り込んで将校になりたかったらしい。 関東の田舎だがら陸士目指す者が圧倒的に多く、海兵は少なかったみたい。 ちなみに師範学校は全員地元。私大も2名を除き東京の大学。早慶・日大・中大が多い。 (東大除く)旧帝大や国立医大は当たり前だが全国に散ってる。台北大や満州医大のような 外地も多い。時節柄だろうが実務学校も満州が多い。満鉄付属学校や満州の外語学校とか。
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/10(月) 10:16:41 ID:h8QF5yP20
秀才ぞろいの中学のように思えるんだけど 普通の公立中学ではないよね
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/10(月) 14:45:11 ID:oN5EHyyk0
関東の田舎とあるから、群馬なら前橋高崎、栃木なら宇都宮、茨城なら水戸中学じゃないの。 昭和12年の日中戦争勃発により、13年の陸士の合格者は例年の500前後から1300と 一気に増加してる。
中学校にすすめるのは20%程度、 高等学校・帝大というコースを進めるのは1%未満、 というのを読んだ記憶がある。 そこそこ大きなマチの「イイ学校」でしょ。
>>97 >群馬なら前橋高崎、栃木なら宇都宮、茨城なら水戸中学じゃないの
95だけどそんな一流中学じゃないよ。半分は進学していないしね。
生徒も地元ばっかりの田舎町の小さな中学校。
ただ地元に強力な地場産業があるので旦那衆がいて、カネにモノ言わせて
優秀な教員を関東一円からかき集めて来たり、育英資金を作って貧家でも優秀な子は
進学させていたので、田舎の小さな中学なのに、県トップ高に続くくらいの
一高や陸士合格者を出していたらしい。東京や横浜から先生が来ているから
中学なのに珍しくリベラルで明るい雰囲気だったけど、学期ごとの成績が1位から最下位まで
学期末には廊下にズラリと張り出され、夏休みや冬休みはそれを町の人が見物に来て
キツかったと言ってた。親も通知簿など見ないで、学校に貼られた成績表を見に来るのが
恒例だったらしい。その成績表を見て娘の婿を決める親も多かったらしい。
旦那が娘の婿用に貧家の次男坊を婚約でキープして、進学費を払ってやって
一高在学中に学生結婚するケースも多かったと言ってた。
戦後は学区制や教育標準化でそういう事も出来なくなって
ただの田舎の県立高校になってるけど。
× 県トップ高に続くくらいの ○ 県トップ校に続くくらいの
>>99 了解。
しかし、ちょっと、いろいろと、「教育って何なんだろね」的なこと、
考えさせられる事例だよね。
元国税の人が書いた本を読んだんだけど、
「私立は金が掛かるけど、公立は」云々てのはうそで、
公立に注ぎ込まれてるゼニ(税金)は相当なものらしい。
うろおぼえで申し訳ないけど、とにかく小学校の教室ひとつに8桁のゼニが毎年流れ込んでる勘定だったはず。
年季の入った地方公務員の給食のオバサンだの、
天下りで教育委員会にいるわけわからん人たちだのに行っちゃってるという話だった。
スレの許容範囲を逸脱しかねないのは申し訳ないけど、
自分のレスが「読んだ記憶が」「だったはず」ばかりなので、
>>101 の金額をネタ元の本で確認。
公立中学ひとりあたり平均年間:親40万+税金100万=140万
私立中学ひとりあたり平均年間:親120万+税金20万=140万
公立
税金が一人あたり100万なら40人学級で年間4000万
登校日200日とするとひとりの生徒の教育に毎日5000円
(「悪税が日本を滅ぼす」大村大二郎 新潮文庫 P117あたり)
IDかわったけど101=102
自分でお金を用意できない家庭に生まれた人は教育を受けるな、ということか?>公立否定論
>>104 税金ごっちゃりぶちこんでるのに、私立の方がいろいろ充実してるっぽいのは、
つまらんとこに消えてるに違いないということ。
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/14(金) 18:20:30 ID:iGPwMEId0
海兵も きゅうちゅう卒以外に水兵から入学可能だったのが居た このように 豊田 譲の小説にあった
特務士官への教育も江田島がやってたからね。 「軍艦長門の生涯」にも出てきますな。
陸士海兵の実際の時間割って、どんなんだったんだろうな。
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/15(土) 02:04:57 ID:QRfCngvl0
私の曾祖父さんは海軍兵学校校長、中将でした。 日清戦争では吉野の艦長でした。 吉野を回航するときには、あの秋山真之を英国に連れていきました。 日清戦争中は、加藤友三郎も部下でした。 しかし、同期の山本権兵衛には、早くから大差をつけられていました。 ドイツへ留学していたときまでは同じ船に乗っていたのに・・・。
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/15(土) 03:12:54 ID:0Qq1yfyv0
俺の父親は太平洋戦争前夜に二流クラスの旧制高校に入学したけど その時点では海兵は相当の難関だったと言っていた。一方陸士については 「誰でも入れた」と言っていた。俺の父親がいた中学校は毎年旧制高校に 数十人の合格者を出していたこと、陸士は日中戦争勃発後採用人員を大幅 に増やしていたことも考えるべきだろうけど。
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/15(土) 13:28:37 ID:7iih/A9z0
>>109 河原要一中将でしょうか?
もしそうだとすれば、校長在職時に錚々たる人物が生徒として教えを
受けていますね。
永野修身、米内光政、山本五十六、吉田善吾、掘悌吉‥
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/15(土) 20:36:05 ID:CJa12Pd80
父親の受験時代に海兵がまだあったなんて ここって、定年過ぎてるおじさんが多いのか
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/15(土) 21:44:19 ID:1mDqM5L80
いろいろ調べてみたんだが戦前の日本の平時における偏差値とは 次のようなものだったらしい。 一高、三高>それ以外のナンバースクールおよび海兵>ナンバースクール 以外の旧制高校>陸士>一般の私立大学予科および専門学校 ただし相当成績がよいのに軍人を志望して陸士海兵に行く者が相当数いたのも 事実らしい。平時に陸士に入学した者の半数以上はどこかの旧制高校に入れる 程度の学力があったと指摘する教育史研究者がいる。 岸信介は三人兄弟の次男で東大をトップで出たが「海兵に行った兄の方が頭が 良かった」と自分で言っている(実際にこの兄は海兵を首席で卒業した)。
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/15(土) 23:39:32 ID:9Fgy7TrD0
陸士と海兵では一般的な人気にも差があったらしい。海兵は全国的に人気があったが 陸士は都市の中産階級の間では余り人気がなく敬遠する者もいたらしい。 ところが地方では封建的気風がつよいため「軍人になるのは名誉だ」というので 成績の良い者が陸士に行くという例がかなりあったらしい。いわば田舎中学の秀才 が行くのが陸士(平時の場合)。
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/16(日) 00:04:27 ID:qBEByOY00
>>112 53歳で父親が大正13年生まれ。父親が海兵受験した世代は50代までいるよ。旧制高校なんか戦後も存在したからその子供は40代までいる。
我々は旧制高校や海兵のことは 親、教師、会社の上司に聞かされて自然に知っている。君たちはやけに詳しいけどどうやって調べたの???
オヤジ 旧制工業専門学校卒 だから私大に進んだ私は、バカにされた
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/16(日) 02:02:13 ID:unWmdOhi0
陸大に行けるのは陸士卒業生の一割程度。
>>113 が言うように平時の陸士入校生のすくなくとも五割は旧制高校進学可能
な程度の学力があったとすれば陸大に入るのはやはり大変だったという事になるし
帝大から高文に合格した高等文官と比べてとくに見劣りはしなかったろうという
ことになる。
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/16(日) 12:51:52 ID:nHHrIsB+0
>>91 幼年学校出身者は優劣の差が大きかったといわれている。
陸士成績トップとビリは幼年学校出身者と相場が決まっていたそうだ。
永田鉄山を斬殺した相沢なんて中佐も幼年学校出身だが陸士の成績はパッと
しなかったし奇矯な言動で問題視されていたそうだ。
一応進学校として知られている中高一貫学校の出身だが、 うちは中学で180名、高校でさらに45名が入学する。 高校から入る45名はとにかく優秀で、ほぼ全員が東大・京大・東工大・ 国立医学部に行った。 中学から入った180人は天才肌とガリ勉肌に別れた。 人間的に面白いのは圧倒的に天才肌の連中。数学の天才は先生より出来た。 ただ、英語は全く出来ないとか、行動が奇矯で予測不能とか、社会生活が全く出来ない 奴が多数で、卒業後行方不明の奴も多い。日本は天才の居場所がない。 ガリ勉肌の奴は、東大出て官僚になったのが多い。あの暗記だけが得意の 融通も応用もが利かないつまらない連中が国を動かしていると思うと 日本が低迷するのも判るよ。
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/16(日) 17:07:43 ID:7lWOu1Ts0
今日のNHKスぺシャル(九時)は興味津々だな。
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/16(日) 21:31:09 ID:Sv8yqI6I0
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/17(月) 03:46:55 ID:jfeb23Pj0
陸大卒業者の出身校別(陸士15期ー24期) 陸士卒業者 陸大卒業者 百分比 幼年学校出身者 2200 185 8・4% 中学校出身者 4292 175 4・93%
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/17(月) 03:55:14 ID:XBrIPYzf0
>>123 修正
中学校出身の陸大卒業者 175→171
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/17(月) 11:39:49 ID:dPCOLqqF0
士官学校の卒業生の三分の一にすぎない幼年学校出身者が陸大出の過半数を 占めていたというわけだな。
自衛隊に2年いたが、少年工科学校出身の奴は根性入ってたよ。 防大出身の連中なんていつまでもシャバっ毛が抜けないガキで、 そのくせエリート意識だけは旺盛で、使い物にならないのが多かった。 国に学費生活費小遣いまで全て払ってもらって防大出て、民間に行く 辞退者が続出するんだぜ。一体何の為に防大に入るのやら。 防大に向いていないと思ったら、1年で辞めて、一般大学受け直したらいいだろう。 あいつらは、どうしようもない甘えん坊のガキだよ。
>>127 満期除隊は何も問題ない。定められた義務をきちんと果たしている。
防大出て自衛隊に入隊せず辞めるのは、税金ドロボーの腰掛けOLと言われて仕方ない
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/18(火) 13:42:24 ID:ILNetLa20
陸大出にも一流のコースと二流のコースがあった。二・二六事件から終戦までの 陸軍中枢部の人事を見るとこの間に陸軍次官に就任した8名中7名、軍務局長 11名中10名、軍務局軍事課長及び高級課員の全員、人事局長及び補任課長の 全員、参謀次長10名中7名、作戦課長の全員が幼年学校出身。 この世代では幼年学校出身者は陸士卒業生の三分の一程度で陸大出に限っても 中学校出身者が半分近くいたことを考えれば異常。
海兵53期みたいに採用数50人の時は超選鋭だったんだろうね。
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/19(水) 20:19:40 ID:hkFy7G7B0
>>130 逆に終戦時の在校生は1万5129名で、77年間の卒業生累計より
4000名も多くなった。
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/20(木) 17:23:22 ID:EXEm2Jkh0
同じ海兵っていっても、何期かで全然違うんだね 全入時代の今の大学も似たようなもんだけど
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/20(木) 22:46:30 ID:BmvshUeU0
>>132 昭和17年ごろまでは多少の変動があっても一貫して難関だったことは事実。
激変したのは昭和18年10月入校(本来なら19年4月入校だが戦時のため
六か月繰り上げ入校した)した75期生から。この期は一挙に前年度の3倍
以上も採用した。その前年度の74期(昭和17年12月入校)までは戦時
のため採用人員が増えた反面志願者も増えているのでやはりかなりの難関だった
らしい。ちなみに終戦前に海兵を卒業したのはこの74期(昭和20年4月卒業)
が最後だから戦争中すでに士官に任官していた者は一応秀才だったんだろうが終戦時
海兵に在学していた連中は玉石混淆だったんだろう。旧海軍士官だった人の中には
75期生以降の者について「あんな連中は本来の海兵生徒ではない」という人もいる
そうだ。
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/20(木) 23:03:18 ID:BmvshUeU0
>>133 の続き
しかも75期生の次はさらにその二倍も採用したので海兵の校舎に収容できない
というので合格者を年齢別に二分して年上の者を19年10月に入校させて76期
とし年下の者を20年4月に入校させて77期ということにした。さらに海兵予科
というのを作って20年4月の四千人を入校させて78期とした。滅茶苦茶だったん
だね。たしかに戦争中既に任官していたような人たちには「本来の海兵生徒」とは
思えなかったかも。
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/20(木) 23:23:08 ID:pTQYfjQa0
日本人って昔から学校秀才に期待しすぎると思うよ。 戦前の軍部官僚から戦後の行政官僚に対する過度の信頼感。。。 一昔前まで政治家は駄目でも、官僚がしっかりしてるから日本は大丈夫と 言われてたのを覚えている。今ではさすがにその声は聞こえないが。。。
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/21(金) 11:46:33 ID:axM5LpU30
私が新入社員だったころ('80年代初め)には部長や役員に海兵出は普通にいた。 また「海軍式経営」がもてはやされコンサルタント/講演ゴロツキが社外にも沸いていた。 「貴様ら五分前の精神でやれ!!」と威張るオヤジに「もしかして部長は78期ですか?」 と聞いたら沈黙した。我々若いものも親族や教師から聞いていたので事情をしっていたのだ。 反面、うんと年配の海兵出の人は紳士だった。むしろ舞鶴の海機出に尊敬できる上司は多かった。
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/21(金) 14:38:19 ID:cRVGW9Pz0
ある東大出の人から「海兵は難関だった」「俺の成績では無理だった」と 聞かされたことがある。その人は昭和18年に地方のあまり有名でない旧制高校 に進学した。ということは海兵74期と中学校が同期だということだ(海兵進学者 は戦時なので四か月繰り上げて昭和17年12月に入校した)。このエピソード からみても74期生までとその後とでは劇的な変化があったことが想像できる。
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/21(金) 19:36:41 ID:3EcpF7d50
東北大卒の人が、海兵は本当のエリートしか受からない難関だったと言ってたけど その人が受験する5年前に、既に海兵は終戦でなくなっていたとも言っていた だから自分には受験機会がなかったらしいが、この本当のエリートってのは、 74期までのことを言ってたのかな
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/21(金) 22:34:28 ID:Ar7idFdy0
海兵75期だった人の手記を読んだことがあるが入校当初 上級生から「ゴキブリクラス」と罵倒されたそうだ。 罵倒する奴にも感心できないけどね。
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/22(土) 22:10:09 ID:nYfcaSF80
スレ違いだけど今の防大は偏差値どれくらいなの? 軍人さんは程々の力量があれば充分だ。変なエリート意識を持たれると困る。 陸士、海兵は優秀な者が行き過ぎたな。
>>140 防大の偏差値は56だから、千葉大・筑波大のレベルかな
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/23(日) 01:37:31 ID:2qV942df0
秦郁彦が言ってたな。「軍というのは人材を集め過ぎるとかえって危険になる」。 将官クラスや参謀には秀才が必要だが艦長や大隊長が大秀才である必要はないね。 むしろ責任感とか実行力の方が大事かも。
>>113 戦前の日本は、外貨獲得が至上命題だったから、
船会社や貿易商社や、紡績や製鉄などの工場など外貨を稼ぐ業種に、
最優秀の人たちが、小学校から小僧奉公で入っていた。
外国語ペラペラなのもこの人たち。
そして、最優秀だが田舎の長男で地元に残る必要があるな人たちが、地元の師範学校に入った。
師範も陸士海兵と同じで学費免除だった。
上のは、学費が居る普通学校より競争が激しかった。
戦後も昭和30年代までは、
最優秀の人材は企業養成工として企業内学校、その次が学費免除の私立特待生で、
公立はその次だった。
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/23(日) 17:26:14 ID:p4Hs3nXJ0
>>141 そうですか。昔とあまり変わってないですね。
田母神みたいな人物が空幕長になれるのかと思うと、逆の意味で心配だ。
陸上の番匠幸一郎は若いけれども、しっかりしてるな。
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/23(日) 20:57:46 ID:GUFuTlZR0
バブルの頃は、理系は下位国立と似たような偏差値だったから、今は上がってるよ
>>143 昭和5年頃まで、日本の外貨の7割を稼いでいたのはシルク産業。
造船や鉄鋼で外貨を稼げるようになったのは戦後の話。
戦前の鉄鋼業なんて、米国からスクラップ輸入がなければ成り立たなかった。
紡績も原料の綿花は輸入だから、輸出分より輸入分の方が多くて
外貨を稼げなかった。こういうのを賃機(ちんばた)産業と言う。
一方、シルクや銅は、輸出額=外貨という外貨獲得率100%の有り難い商品。
それ以外に外貨を稼いでいたのは、海産物・茶・オモチャなど。
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/01/30(日) 18:36:38 ID:tiuAAiyM0
お前ら、まず吉村昭の『蚤と爆弾』に対して反論してみろよ
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/03(木) 20:53:09 ID:/RnExLb80
>99 もしかして、桐生中学ですかいな?
>>136 30年くらい前、雑誌プレジデントの表紙には
旧陸海軍の将官の肖像がよく載っていたね
その頃の読者には、アイキャッチ効果があったんだろうな
>>143 『最優秀』という言葉もどういう意味で使ってんのかよくわからないが、
小学校出て、製鉄工場につとめて、それで、外国語ペラペラ? わからんなあ。
戦前の文武官逆転は、武官が文官を上回る学識を持っていた事にも一因があるのでは みたいなことを秦郁彦が書いてたな 当時の軍人は、大佐までの経歴の半分を学校で過ごしていたような例も珍しくなかったようで 正規の養成学校を卒業した後も折に触れて勉強をさせていたらしい。結果、中堅クラスになる頃 には、当然に文官との教育量の格差が大きくなっていたということだ。 谷垣禎一の祖父影佐禎昭のように、中佐になるでの19年間のうち10年以上を東大、海外留学、その他の 教育機関の学生生活に費やしていた例もある。
>>152 > 武官が文官を上回る学識を持っていた
文官を上回る学識を持っていた武官もいた
てんなら、そういう例もそりゃあるだろう、
で、平均とりゃどうなんだ、って気がするなあ。
「天皇機関説」「統帥権干犯」
無理筋だと自覚はしつつ、勢力拡張の戦術として主張した連中もいただろうが、
226将校みたいな「天然さん」が多数派だったんじゃないの?
海兵陸士の教育ってそのあたり、どうなってたんだろうね。
法学関係の授業が全くないわけじゃなかったろう、とは思うんだけど。
その辺はなんともだが、結局知識の多寡に偏重して、真に知性ある人間を 育てられなかったということではあるんだろう。 「学校教育の重視は、優秀な指揮官を育てようとする努力の反映であろうが、 所詮、机上の点数と実践指揮の巧拙は別物である事を太平洋線は改めて立証した」 とも秦郁彦は書いてる。 昭和の軍人の発言のなかには、とても高等教育を受けてきたとは思えなような非知性的 なものもある。教育の過程で思考の柔軟性を失った石頭を造って、そこに大量の知識が 詰め込まれた始末の悪い人間を生み出していたということかもしれない。 もっとも、その点で文官は文官でどうだったか、というのもあるけど
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/13(日) 17:36:53 ID:6HGHJ2jc0
恩賜の軍刀組は作戦課に行くのが通例だったように、戦術重視の教育が主流。 戦略を重視していれば国際政治の流れを見誤ることはなかったと思う。 石原の主張の是非はともかく、あのクラスの軍人がもう少しいればと思うが。
>戦略を重視していれば国際政治の流れを見誤ることはなかったと思う。 判るんだが、組織の評価ってのは日々の勤怠や、個々の事案の処理能力(戦術)だからね 長期的な視野で、どてーっとすわって床屋政談している輩を 評価するってのは難しいと思う 石原だって、事変成功させなければ、そういう評価は付きまとったんじゃね やっぱ東條タイプのほうが評価しやすい
157 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/14(月) 23:56:05 ID:WeGz3qr70
永田鉄山はどうなの?陸軍の逸材と評価が高かったよね。 永田は中国一撃論者であったが、泥沼に入る前に処理したかもね。 東条の評価はこの言葉に尽きるな。 彼の性格と能力は師団長に最適なものである。それ以下でもそれ以上でもない。 石原の「東条上等兵」は流石に可哀相だわね。
>>156 その辺は人事システムを柔軟にすることで、ある程度解決されるんじゃないかな
米軍なんかは、平時では士官学校の学年と席次で順々にキャリアアップさせて行くが
戦時になると能力重視に切り替えて抜擢人事を積極的にやるそうだ。(ただし、戦時
が終わると階級をいくらか戻す)
25年勤務で中佐にしかなれなかったアイゼンハワーが、WWIIに入るや5年ほどで元帥にまで
なったり、海兵で成績不良だったため出世が望めない位置にいたハルゼーが太平洋戦争を経て
元帥にまでなっていたりする。
その点で旧軍は、人材の配置がイマイチだね。辻あたりは使い方を間違えなければ結構実績を
残せたんじゃないかと思うし、牟田口にしても師団長レベルであれば決して無能ではなかったと
いう人もいる。軍司令にふさわしい人材がどこかに埋もれてたんじゃないかな
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/19(土) 03:05:06 ID:K/zPMf+k0
>>158 確かアイゼンハウアーはww1の時准将になってなかったか?
平時編成に切り替えられ中佐からやり直しになったけど(将官の定員の関係か?)
旧軍はそういう思想が無く人事が硬直化してたのは事実だけど・・・
ちょっと調べてみた 1890年 生誕 1911年 陸軍士官学校入学 1915年 陸軍士官学校卒業 1917年 大尉 1920年 少佐 1936年 中佐 1941年 3月 大佐 9月 准将 12月 少将 1942年 1月 中将、同時に太平洋方面軍司令官 1944年 大将 11月 元帥、同時に極東総司令長官 1950年 国連軍最高司令官 1956年 アメリカ合衆国大統領 ※第1次大戦で大佐に戦時特進しているが、戦後は大尉に戻っている。 ※少佐時代には、マッカーサー陸軍参謀総長の主任補佐官を務めている。 戦時特進は、人材の抜擢という側面もあるが、戦時に軍の規模が急拡大するため、 中隊長クラスの士官に連隊を指揮させる必要が生じるなども理由のひとつ
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/19(土) 11:46:47 ID:0DnSpXx40
戦時には、階級の進級速度を上げて対応するか、部隊長の相当階級を下げて 対応するかの違いもあったと思う。
>>158 アメリカ軍の強さはそういう所にあるのかねぇ。
いざというときに真に優れた人材をトップに据えることができる柔軟さがあるというのは
良い組織だとは思う。
アメリカの平時に戻ったら階級を下げるって発想は、日本じゃ考えられない。
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/21(月) 01:51:28.21 ID:xKL8la/DO
イスラエルみたいに中将が師団長、少将が参謀総長や軍団長みたいな人事もどうかと思うけどね。 自国のみで完結するなら我慢させればいいけど、他国との連合作戦とかになるとカウンターパートの問題もあって難しい。
そういや日本も外国基準に合わせるために准将(星一つ)を作るという話があるね ついでに階級名も旧式にもどすとかなんとかいってたけど、政権交代で飛んじゃった?
>>165 エヴァンゲリオンの葛城一尉とか帆船冒険シリーズの海尉とか
エンターテイメントで自衛隊式の階級が定着してきているので外国軍隊を
自衛隊式に呼ぶようにすればよい。
歴史教科書は 東郷平八郎一等海佐(当時は大佐と呼称)と書く。
TV、映画、小説etcメディアの取り上げ方は依然、旧式のほうが多くない? 軍隊に何の関心も知識もないウチの母親ですら、中将、大佐、大尉etc がどの程度の階級かなんとなく知ってるみたいだし カダフィ一佐なんていったら、軍オタでもないかぎり「大佐だろ?」って言われそう
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/22(火) 20:07:07.35 ID:JayR5quk0
テレビで海軍兵学校とか、本当に流さないよね 少し関係するのは坂の上の雲ぐらいか NHK大河番組も民放も、いつまでも竜馬ばかりやってないで、 第二次大戦の将校とか軍神などを取り上げて欲しい
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/22(火) 21:40:06.38 ID:h53N77j20
大量の人骨出てきたね
>168 第二次大戦の場合、真珠湾攻撃をはじめとした初期の作戦を除いて、 かなりの部分が「負け戦が延々と続く」という展開にならざるをえないから、 TVで放送してもあんまり血湧き肉躍るみたいにはならないんじゃないかな。 まぁ、艦と共に沈む将兵の姿を見てその勇壮さを描くのも手なんだろうけど、 そのときの太平洋の島々では食糧補給が途絶えて疫病や餓死でバタバタと死んでいく 陸軍兵士の白骨の群れがあるわけで・・・
明治〜大正の兵学校、士官学校を舞台にした青春ドラマならやれるかも さりげなく後の昭和の有名軍人を登場させたりして どうせジャニタレ総出演で茶髪、ロン毛の兵学校生徒になっちゃうんだろうけど
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/23(水) 22:57:24.47 ID:8TM+uTMX0
>>171 山本権兵衛が築地の兵学校生徒だったときカッターを指揮して遊郭を襲撃し
お女郎さんを拉致した話とか面白いかも。のちに山本首相夫人となった。
江田島のストイックな昭和の海軍ではありえない話だ。
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/23(水) 23:20:27.25 ID:C3zljdhy0
夏の嵐で、長塚京三が演じた南部忠彦大尉はかっこよかった。
陸の長州 海の薩摩
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/24(木) 20:15:30.47 ID:XkyG6lYv0
海軍兵学校や将校のことなんて歴史の教科書でも取り上げない、テレビでもやらない タブーになっているのか、大衆受けが悪いのか その割には、第二次大戦関連や軍事ものの本は多い ごく一部のマニア向け
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/25(金) 18:20:04.98 ID:p7D8aeyx0
>> 143 [best] I do not understand what I mean by the word used, Out of school, is trying the steel factory, so a foreign language fluently? I wish I do not know.
>>129 中学出身で出世した人って誰がいるのかね?
ぱっと思いつくのが今村均とか小畑とかくらいで。
小畑もクビにならなきゃ山下みたいに方面軍司令官まではいけたんだろうか。。。
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/25(金) 22:52:37.94 ID:iQR/iGfP0
>>178 3長官を歴任して元帥になった杉山元が中学出身。
やたらと幼年学校出を優遇してるようだけど、そんなに違うもんなのかな 今村均といえば、ウチの父親が学生時代、今村大将の家の近所に住んでて よく見かけたっていってたな
幼年学校出身者が優遇されたというよりも、情実人事が行われたってのが近いんじゃないか。 中学出は卒業後に高校や帝大に進む道も選択できるけど、幼年学校に入ったらその後は 陸軍軍人になる以外の進路選択は難しいという事情があるから、どうしたって仲間意識や 身内感覚が強くなるだろう。
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/26(土) 11:55:12.43 ID:o7wNXBcz0
権門上に驕れども国を憂うる誠なし 財閥富を誇れども社稷を思う心なし ああ人栄え国滅ぶ盲(めしい)たる民世に踊る 治乱興亡夢にて世は一局の碁なりけり 三上卓作詞
>>180 祖母が牛込の児玉源太郎邸近所で育ち
よくみかけた、という。
203高地かよ
184 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/26(土) 13:53:51.24 ID:o7wNXBcz0
天の怒りか地の声かそもただならぬ響きあり 民永劫の眠りより醒めよ日本の朝ぼらけ ああうらぶれし天地の迷いの道を人は行く 栄華を誇る塵の世に誰が高楼の眺めぞや 功名何ぞ夢の跡消えざるものは唯誠 人生意気に感じては成否を誰かあげつらう
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/02/26(土) 20:22:46.78 ID:A9y0Nrm50
やめよ離騒の一悲曲悲歌慷慨の日は去りぬ 我等が剣今こそは廓清の血に躍るかな 故陸軍歩兵大尉安藤輝三(31才) 合掌 平成23年2月26日 伊達直人
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/03/01(火) 01:16:44.87 ID:+W7PpYit0
俺の曽祖父が士官学校出の職業軍人 少佐の時宇垣軍縮で整理対象になり郷里に帰り中学校(たぶん)の配属将校になった 軍事教練の他数学、物理も教えてたそうな 趣味は囲碁で田舎ではかなり強かったらしい
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/03/01(火) 13:02:05.49 ID:60Jkdfc50
日露戦役期の大量採用組の佐官進級時期がタイミング悪く軍縮時期になっちゃったのも 中学配属将校まで佐官になった理由だそうな。
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/03/03(木) 11:54:24.45 ID:nd5L7nLKO
>>178 長野出身の栗林忠通
佐渡出身の本間雅晴
幼年学校は中二で受験だから、幼年学校生にも出身中学があるとも言える。
>>189 なぜ尋常小学校卒で受験という完全中学校仕様にしなかったんだろね。
中学受験というフィルターである程度の社会階層から採りたかったのだろうか?
小学校卒業時点だとまだ12〜3才でしょ。 親も本人も、よっぽど陸軍を明確に指向していない限りはそこまで踏み切るのは 容易じゃなかったんじゃないかな。 まぁ、1〜2年入るのがずれるだけって考えもあるけど、十代前半での1〜2年は 他の年代の1〜2年よりも遙かに重みがある、ってのも事実だし。 幼年学校を受けて試験に合格するだけの知力と体力があれば、多少の親の資力があれば 中学校に行かせて他の選択肢も視野に入れながら勉強していって欲しい思うのが親心だろう。 出世できればともかく、陸軍の給料は他の省庁や大企業と比べればそれほど高いわけではないし、 全寮制で親元から引き離されて親子がお互いの顔を見ることすら難しくなるくらいに行動に自由を 制限される生活の中に息子を放り込むのは、やっぱりためらわれるものがあったんじゃないかと思う。
最初から陸軍内での栄達を考えてる人は中二で幼年学校へ進学し そこら辺がイマイチ無頓着なヒトは、中学全課程を履修してから 予科士官学校へ進んだのかも。
193 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/03/08(火) 10:15:13.21 ID:tjWzf4fGO
幼年学校は軍人の子息を入学させる為に出来たようなものなので 一般枠からの入学は枠が少なく熾烈を極めた 栗林忠通の弟も陸士を目指していたが、中学出身は傍流なので海兵受験を勧めていた(結果的には陸士に入ったが)
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/01(金) 00:50:44.27 ID:sIFwnUN20
陸大入学者の陸士での成績を見るとかならずしも大秀才ばかりでもないね。 陸士の成績は中位という人もかなりいたらしい。 逆に陸士での優等生が陸大に進学していない例もかなりある。どうなっていたのかな。
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/01(金) 14:57:10.14 ID:u4kQoP5c0
>>179 杉山については彼は陸士12期でまだ幼年学校が未整備な世代に属するという事
が指摘されている。二・二六事件後の陸軍次官八名中七名が幼年学校出身。
同じく軍務局長十一名中一〇名、軍務局軍事課長の全員、軍事課高級課員全員、
人事局長及び補任課長の全員、作戦課長の全員が幼年学校出身。
、
つまりですね、佐藤賢了ってのは大変な傑物だった訳ですよ!
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/02(土) 09:50:10.18 ID:T+2YbwhN0
柴山兼四郎の方がもっと凄い。輜重兵科の出身であそこまでいった。
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/03(日) 02:18:02.00 ID:IYPk0ppA0
>>196 ということは昭和に入ってから人事の硬直化が進んでいたという事か
硬直と言うか薩長に代わる派閥化かい?
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/03(日) 08:09:16.50 ID:NSWtpDhW0
>>199 硬直化というより日清戦争後に確立した幼年学校を出た連中が年齢的に
いよいよ陸軍の首脳部を形成するような時期になったということだろう。
幼年学校出身者を将校団の中核にするという事はすでに日清戦争後新制度
の幼年学校が発足した時点で陸軍の首脳部が明言していた。
旧軍人で中学校から陸士に入って陸大を出て軍務局に勤務したこともある人
が「我々は外様だった」と憤慨していた。
202 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/04(月) 04:05:12.04 ID:tG/xnR/20
杉山といえば秦真次(後に憲兵司令官、第二師団長にて予備役)と同郷同窓で 両者とも幼年学校を受験、秦は合格、杉山は落第 士官学校の合格者は幼年学校出身者が圧倒的に多い 比率を考えればそれほど中学出身者が冷遇されたわけでは無い
203 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/04(月) 10:03:08.68 ID:vsFQUg5l0
日清戦争後に発足した新制幼年学校の第一期生は陸士15期。
陸士15期から24期の陸大卒業者の出身校別
陸士卒業者 陸大卒業者
幼年学校 2200 185
中学校 4292 171
こうしてみると幼年学校出身者の陸大進学率は高いが絶対数
では大差はない。それにもかかわらず
>>196 のような現実が
あったのだから「幼年学校閥」の存在を考えざるを得ない。
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/04(月) 14:17:08.07 ID:ZeWlqhW70
そういえば永田鉄山は「中学校出身者は堅い操守がないから危険だ」と 言っていたそうだ.幼年学校出身者の中学校出身者を見る目がわかる。
205 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/07(木) 15:02:07.52 ID:0/1vdd6i0
山県有朋は自分に忠誠を誓う人間は最後まで面倒をみたそうだ。 岸信介も自分のところに来る者は「どんな人間にも一つぐらいは取り柄 があるものだ」と言って面倒をみたといわれる。 それにくらべて永田は狭量だね。第二の山県有朋は無理だったと思う。
206 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/12(火) 05:20:22.07 ID:+iC17gCe0
>>196 俺の持ってる資料では陸軍大将(西郷隆盛から牛島満(特進した4人を除く))の内
幼年学校出は130人中40人
永田の属する陸士16期以降は21人中16人
確かに昭和に入ってから幼年学校閥はあるな
なんで海軍士官学校って言わずに、兵学校っていうんだよ?
208 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/15(金) 20:49:14.13 ID:0vdAHgjZ0
>>207 「兵学」を教える学校という意味。
明治の初期には陸軍の将校を養成する学校を「兵学寮」といっていた時期もある。
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/15(金) 21:01:54.56 ID:0vdAHgjZ0
もう少し付け加えると明治元年に京都に兵学寮というのが出来て その後いろいろあったんだが「陸軍兵学寮」と「海軍兵学寮」が作られ その後陸軍兵学寮は士官学校と改称され(制度改革もあったが) 海軍兵学寮は海軍兵学校と改称したのさ。
210 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/15(金) 22:59:04.92 ID:4rvsnRlg0
兵科→海軍兵学校 機関科→海軍機関学校 主計科→海軍主計学校 各科ごとにそれぞれ学校があります。
小訂正 海軍主計学校→海軍経理学校
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/16(土) 00:26:41.67 ID:HsUIvHOe0
しかし一般的な「兵学」を教えるのはやはり海兵で、艦長になれるのは 海兵出身者だけ、大将になれるのも海兵出だけだった。 機関科や主計科はそもそも大将という階級がなく中将が最高位だった。 昭和19年に機関学校は海兵の分校ということになったけど、とにかく 正統派の「兵学」を教育するのは海軍兵学校という建前だった。
213 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/24(日) 10:10:51.49 ID:eaCxaxAR0
この前、最高裁で上告を棄却された梅×少佐ってのも陸士出なのかな? 三審制のすべての段階でNGを 言い渡されたんだよな。 終戦時(正確には敗戦か?)に少佐と云えば、戦時中に粗製濫造されたチンピラ 士官でもないだろうが、あまりにも人間性に欠けると云うか品性に欠けると云うべきか。 あんな人間でも 陸士に入れたのかと思うと、陸士そのものが怪しくと云うか、どんな教育をやってたんだと思えてしまうな。
>>213 陸士52期だよ。1939年9月卒業
共産党委員長志位さんの伯父さんと同期。
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/26(火) 02:24:06.29 ID:hkUfT1iX0
兵学校のスレなんてあったんだね。 俺の爺ちゃんは戦前の海兵卒で、父ちゃんは東京外大卒なのに 俺は日大すら落ちて、滑り止めだった拓殖大に入学するもほとんど出席せず中退し、 現在は実家に寄生しながらフリーターw ご先祖様ホントさーせん m(。・ε・。)mスイマソ-ン 近いうちに江田島へ旅行へ行って今後の人生を真剣に考えるよ。
>>215 世代間落差激しいなw
石原慎太郎は、海兵最後の受験者で、ココ落ちたから
一橋に行ったらしいから、相当な難易度なんだろうな。
>>216 慎太郎は新制高校卒(旧制中学入学)だよ。
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/27(水) 20:44:40.32 ID:rydVEpku0
>>215 教育参考館を見学すれば生き方の心構えを教えてくれるかも知れないよ。
>>216 慎太郎の母校は湘南高校。逗子に海軍士官が住んでたので、海兵に行く者が多かった。
彼は学校の詰め込み教育に批判的で、詰まらん学校だと言っていたな。
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/28(木) 18:48:22.03 ID:2LR5w8ty0
古い時代の兵法書を真面目に研究したり講義しいたりしたらしいな。 孫子とかならともかく、闘戦経とかの中国・孫子コンプレックスと神国史観丸出しの偽書臭いのまで真面目に教えてたのはどうかと思うが。
神国史観があるからこそ、かつての日本人は強固なる意志と、 不動なる精神を持ち得、勉学や仕事に没頭出来た、と考えれば むしろ、最も力を入れて教えるべきものでもある。
>>221 史実の結果は出ているわけだが……。
神国史観なんぞが出来る前から、真面目な人間は真面目だし。
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/28(木) 19:51:59.73 ID:MCRxofAb0
日本は神国だから何やってもいい! 勝てないはずの戦でも勝てる! みたいにほとんどオカルト入ってるから皇国史観って奴は。 現実に対処しなきゃならん軍人には有害でしかない。史実でもそうだし。 牟田口とか、負けが込むと打開策実施するより神頼みに走ったし。
江田島の海軍兵学校はイギリスを模範として・・・ ってよく聞くけれど、よく考えたらダートマス海軍兵学校って1905年設立 どっから出てきた話なんだろう
>>224 ダーマストってもっと前から出来てたはずだが。
東郷平八郎がイギリス留学時に入学希望して、年齢のために受け入れられなかった話もあるし。
>>225 1857年:練習艦による仕官教育開始
1903年:オズボーン校設立
1905年:ダートマス校設立
1907年:統合
1857年以前は少数精鋭の徒弟制時代
>>226 王立海軍学校の成立で士官教育が始まったのは1694年から。
ダートマスだけみても書類上の開講は遅いが、実際には1863年に施設が移設されて教育が行われている。
ここからいろいろと真似た。
(ただし貴族と平民の関係から発生した、兵科と機関科の差別的待遇まで真似してしまったり)
>>227 そう言えば旧海軍では士官と下士官兵との待遇の差が
激しかったらしいね。
当時の英国海軍は士官は貴族、下士官兵は平民というのが当たり前
の社会だったけど、その枠組みをそのまま日本の海軍にも当てはめたため、
後に禍根を残したようだ。
>>227 なるほど
そういえば、練習艦プリンス・オブ・ウェールズは1860年代に退役してた
1903年まで40年あるし、この間は陸上で教育してたのか
最初ポーツマスにあった海軍兵学校は、
貴族・ジェントリー・ターポリン・水兵と海軍の全方位から極めて評判が悪かった
出身仕官は干され、何の成果も上げられなかった
日本は割とすんなり受け入れられてるけど、やっぱ民族の違いなのかな
>>215 教育参考館に兵学校のOB名簿があるんだけど、出身中学マジパネェ人ばっかでびっくりだ。
現在凄い進学校で中にはその学校に入るための専用進学塾もあるくらいのところもある。
231 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/29(金) 12:22:55.18 ID:WDfUs50U0
>>230 >マジパネェ人
年配者にもわかるように翻訳お願いします。
今につながる県立名門校ばかりで私立の台頭は
戦後のことだね。
「階級が上になるほど馬鹿になる」と自嘲されるような駄目士官が大量生産されるようになったのはいつからなんだろう。 満州やらで違法暴走繰り返して、しかも追認されるとわかると模倣が続出する昭和一桁あたりの士官達と、それ以前の教育って何か違ったの?
>>230 海城とか巣鴨が元々海軍兵学校専用予備校だったような。
>>230 ,.-─ ─-、─-、
, イ)ィ -─ ──- 、ミヽ
ノ /,.-‐'"´ `ヾj ii / Λ
,イ// ^ヽj(二フ'"´ ̄`ヾ、ノイ{
ノ/,/ミ三ニヲ´ ゙、ノi!
{V /ミ三二,イ , -─ Yソ
レ'/三二彡イ .:ィこラ ;:こラ j{
V;;;::. ;ヲヾ!V ー '′ i ー ' ソ
Vニミ( 入 、 r j ,′
ヾミ、`ゝ ` ー--‐'ゞニ<‐-イ
ヽ ヽ -''ニニ‐ /
| `、 ⌒ ,/
| > ---- r‐'´
ヽ_ |
ヽ _ _ 」
ググレカス [ gugurecus ]
(西暦一世紀前半〜没年不明)
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/04/30(土) 16:26:36.75 ID:yJ4RXU7C0
井上成美が海軍兵学校校長の時、学生の提出物を上級生が検閲して書き換えさせるのをやめさせたことがある。 理由は「詐欺の訓練をさせているようなものだから」。 こういう悪癖が全盛だった時代の卒業生が、軍内はもちろん天皇や政府を文章上だけのつじつまあわせで騙して当たり前の士官になったんだろうか。
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/03(火) 08:32:55.75 ID:v5aYPvnm0
井上は海兵の生徒が陸士の生徒と交流するのも禁止したな。共に次代の日本軍を 担う者同士、生徒時代から信頼関係を築いておかないと下らない縄張りが続いて 国防が危うくなるのに。
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/05(木) 17:50:00.12 ID:RxwdybZg0
井上か、井上と同程度の見識を持った軍人がもっと早く海兵の校長になっていれば、 もう少しマシな海軍士官が育って、もう少しマシな戦争ができたのではと思う。 井上が江田島に赴任したとき、上級生が下級生を監視(指導でなく抑圧)したり殴り 殴られの校風を見て、水兵や下士官なら兎も角も将来の海軍士官がやることではないと 情けなく思ったと云う話しを、会社のリーダー研修か何かで聞いたことがある。
239 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/06(金) 01:06:47.95 ID:EyGs8lY90
私のお爺ちゃん海軍兵学校と陸軍士官学校と両方合格した超エリートだよ 結局、陸軍士官学校にいったけどね
で?
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/06(金) 07:07:37.45 ID:vtrgMe9F0
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/06(金) 21:30:26.94 ID:9b7C7mrh0
井上は戦下手で有名だったから海軍内の評価は低かった。 戦後の身の処し方や阿川司馬の海軍善玉論の象徴として過大評価されているな。
善玉とか悪玉とか以前に、英語いらんとかした陸士がアレすぎる……。 敵を知らずにどうするつもりだったんだろう。
244 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/06(金) 22:50:50.13 ID:9b7C7mrh0
陸軍はアメリカと戦争する気はなかった。仮想敵国はソ連。 海軍の仮想敵国はアメリカ。軍官僚の見事な縦割り主義だな。 これじゃ戦争に勝てんよ。
245 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/06(金) 22:55:43.41 ID:mOywDksk0
とくに石原莞爾の頭には、ソ連しかなかった。 一にも二にも、過ちの原因は江戸末期頃から生じた 日本の東アジア蔑視=根拠乏しき優越感。
246 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/07(土) 04:21:56.61 ID:cI4s2VlI0
井上は知性は抜群だけど対相手に完璧を求め過ぎる(自分にもそうだから) 結果として一人よがりだな でも欠点が長所と表裏一体の例だな
>>245 世界最終戦争論読んでから発言しろな?
そういうイタイこと言うのは。
74期は結局パイロットのチェックアウトが戦間期に間に合わなかった。 開戦後採用では、パイロット養成実績零と言うのは、ちと軍人養成機関としては 問題アリなんじゃないかと思う。
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/07(土) 11:44:18.79 ID:VncMq0eQ0
>>248 開戦後、採用の予備学生や予科練はぞくぞくとパイロットになっているというのに! 陸軍みたいに航空士官学校をつくるべきだった。
>>245 敗戦後には石原って自分が自演策謀してまで推進してきた最終戦争論捨てて、
平和憲法万歳、大東亜団結とまったく掌返すんだよな。
本当に陸士の教育ってどうなってたんだろ。
士官学校がクーデター予備軍の巣になった士官学校事件なんてのさえあるし。
>>244 陸軍が本格的に対英米戦について研究を始めたのが対英米戦に
突入して数年後だったと何かで読んだけど、もしそれが本当と
するなら、組織の硬直化も甚だしいということになるな。
ただ諜報戦に関しては、海軍よりはマシだったようだけど・・・。
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/10(火) 01:24:27.79 ID:pnpN0hLUO
昭和の陸軍の下克上=軍規の乱れっぷりを見ると、 長州閥一極支配の方が、よほど軍隊としてはマトモだな。 山縣さえ説得できれば陸軍は押さえられた。
うん、藩閥排除したら、もっととんでもないものができちゃった。
それは確かにそうなんだけど、その前段階として山縣を中心とした藩閥が自分の権力維持に 手前勝手なシステムを構築していたことにも原因の一つがある。 藩閥を壊した連中がそのシステムを悪用して日本を破滅に導いたのは確かだけど、 そういうシステムを作り上げていた長州閥の罪もまた無視するべきではないだろう。
255 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/11(水) 06:19:51.04 ID:/x8c/s4X0
>>254 藩閥が勝手に軍隊を運用しないよう今でいうシビリアンコントロールをやるための
便法として統帥権を天皇にあずけたのが、それが裏目に出てしまった。
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/11(水) 08:08:19.54 ID:WujKi7D60
満州生命線論と日本経済原発絶対必要論とは構図がよく似ている様な気がする。
>>256 原発はエネルギー問題と言うより潜在的核保有国でありたいという
国策が働いていると思う。各電力会社に原発があるのは変だ。
陸士海兵で政治・経済学はどのくらいやっていたんだろう? 明治の軍人達は軍人以前に政治家だったが、正規の軍人教育を受けた昭和の軍人達は 「国防は軍人の占有物にあらず」という見識が全く感じられない。武士の時代じゃあるまいし まるで軍人が国家の主役と思っているかのような振る舞いだった。
陸軍士官学校のある年、中国から受け入れた留学生に卒業生の成績トップ3を独占されてしまったので、 3位の中国人の順位を恣意的に落として5位にした。 この辺の半端さ(どうせ成績弄るのなら大胆に日本人をトップにすりゃいいのに)がなんともいえん。
>>258 全部見たけどさ、やっぱ海軍兵学校じゃないよな。
学生の顔つきが「就職にあぶれてきました」みたいな感じだし。
ガタイだって学生時代運動やってた奴の方がよっぽどいい。
何と言うか顔つきに秀才特有の凛々しさがないんだよな。
永遠の軍隊ごっこの組織なんだよな。自衛隊って。
教官の厳しさも厳しさを演じているような感じで逆に冷めた。 自衛隊劇場と言うか軍人を演技しているようだった。 幹部のおっさんみても旧海軍の軍人のような凛々しい顔つきして無いんだよな。
>>261-262 もし憲法を改正して正規の軍隊を持つとすれば、一から
軍を作るしかないと以前雑誌で書いている人がいた。
自衛隊は軍隊のように見えるが実は軍隊ではない、自衛官は軍人のように
見えるが実は軍人ではない、我々はとんでもない化け物を作り上げて
しまったのでは無いかとのことだった。
そのとおりだと思うよ。軍隊ごっこ、兵隊ごっこ。あれは軍人じゃない。 銃剣突撃みたいな演習があれば、それっぽく演じる事が求められるだけ。 教官も鬼教官を演じているだけ。あの突撃で敵陣を突破できるかよ。 自閉的な組織の中でマスターベイティブなトレーニングを繰り返している だけのような気がする。 あんなのより修羅場をくぐってきた企業人の方がよっぽど軍人のような 顔をしているよ。
265 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/12(木) 07:33:12.56 ID:uVnvru5j0
>>264 その中途半端さが災害派遣時に親切な対応で喜ばれている。
今後大国が四つに組む戦争はまずなから対テロに躊躇なく殺しができる
特殊部隊を養成しておけば済むと思う。
>>263-264 駐屯地の近くでは5時に退勤ラッシュになるよ。
それでも大災害の時は頼りになるからいいじゃないか。
江戸時代の公務員としての武士みたいなもんだ。武芸は鍛錬やスポーツ
としてやっていた。
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/12(木) 12:02:23.79 ID:eU0P4k1B0
外国語や法律特に国際法の講義はどれくらいやってたんだろうな?後者は戦時において 特に重要な事項だけど。
東京裁判で取り調べを受けた旧軍人達はけっこうな割合で「そんなもん勉強してない」とか 「習った気がするが忘れた」みたいなことを云ってるぞ。 軍事的に敵を制圧する方策とか、野戦演習とかがメインの教科で、法制とか国際関係に関する知識は 文系大学における数学や物理の一般教養くらいの位置付けしかされてなかったんじゃないか?
東京裁判の関係者が日本軍人の法律や条約への無知・鈍感さにあきれていたぐらいだたからな。 まぁ自己弁護のために知らん振りをした可能性もあるが。
>>269 石原莞爾に尋問があった坂田法廷の実情を知らんのか?
>>270 具体的にいってくれ。
責任逃れと、史実とかけ離れた日本軍の大本営発表繰り返しに石原が終始したのに、
なぜか「俺をどうして戦犯にしないのか」と啖呵きったという嘘が流布する謎の法廷だったのは確かだがw
陸軍は英語教育を廃止した云々の実情がいまいちよく分からん ネットで調べても出てくるのは井上成美の逸話ばっかりだし 陸軍幼年学校では終戦間際まで英語を含めた外国語教育をしていたとか 陸軍士官学校では英語科は廃したけど英語教育そのものは続けられたとか なんかよく分からん
>>272 元々陸軍学校では英語は必修じゃなくて選択制。
ドイツ語等の中のひとつ。入試から撤廃したり授業が縮小されたりしたけど、元々ウェイト自体が海軍と比べて小さかった。
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/12(木) 23:45:15.49 ID:5fZRw+520
とにかく促成で、小、中隊長要員を短期で養成するとなると相当のカルキュラム省略が必要。 実軍事学が優先されて語学が真っ先に削られたというのが実態だったのかも。
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/13(金) 00:47:18.64 ID:OajJ3IPm0
>>272 陸軍航空士官学校でも、校長の遠藤三郎の方針で英語教育は廃止されなかったな。
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/13(金) 01:26:58.37 ID:0ODQI61V0
>>273 陸軍は、幼年学校が独語と仏語の選択制で英語はなく、英語をとるのは
中学を卒業してから陸軍士官学校に入ってきた連中だから、英語組は陸軍
内部で傍流だったんじゃなかったっけ?
硫黄島の栗林とか英語組でアメリカ駐在武官帰り。
>>276 親戚のお爺さんだけど陸幼でロシア語を習った人がいるよ。
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/14(土) 16:49:56.81 ID:UtqTohok0
>>276 江利川春雄『近代日本の英語科教育史』によると、仙台と熊本の幼年学校でも、
それぞれ再設置された1938年と39年から終戦まで英語教育を実施していたとのこと。
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/14(土) 20:59:53.93 ID:e4Me92/M0
正規の教育が実施されたのは陸士では52期、海兵では68期までだろう。
それ以降は
>>274 の教育だった。
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/15(日) 21:08:47.42 ID:p0iQ9GmI0
>>280 海兵78期の人が言っていたけど、自分たちが野球をやって遊んでいるそばで
同世代の予科練が防空壕を掘ってくれていた。しかも予科練はその防空壕には
入れないんだって。粗製濫造といわれた78期でさえエリート臭ぷんぷんだったんだな。
>>42 >>119 >>135 >>142 このレス読むと日露戦争の頃の大山、黒木、奥、野津、立見、東郷、山本、上村等
軍学校での過剰な秀才教育を受けていないが、将器のある人物の育成について考えさせられる。
スタッフや軍官僚は士官学校(兵学校)で秀才が作れるだろうが、
エントロピーの法則云々もあるのだろうけど、決断力や器量は旧藩時代の教育に何か見るべき点がありそうだね。
旧藩時代の教育というより、戦場で的確な判断を下せる人間を上に立つという 人事上のダイナミズムを持っていないことが原因なんじゃね? 立見なんて賊軍出身なのに実力が認められて重要な地位につけられてる。 戦場で失敗をやらかしておいて、威勢の良い発言と軍内の遊泳術に長けているだけで 重要な地位に居続けた辻や服部のような人間がいたというのが昭和期の陸軍の問題点。
284 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/16(月) 00:53:25.32 ID:V9ynO1BE0
人事上のダイナミズムを持てないエリート教育
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/16(月) 02:19:08.81 ID:QsW+WZjZ0
日本軍では一番頭の悪いのが参謀やってるという 米英の評価がある。 こういうことを言われたことも、何故いわれるのかも 知らない人がほとんどだろう。
286 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/16(月) 22:56:11.61 ID:tUNaVFia0
世界最強の軍隊 兵士ー韓国 下士官ー日本 尉官ードイツ 佐官ーアメリカ 将官ーイギリス イギリスの軍人が言ってた(笑) 現場責任者の係長クラスの仕事に最適なのかな?日本人のDNAは。。。
陸大では明治時代から英語教育はやっていたとのこと。
ヨーロッパでは貴族の子弟を教育するのが幼年学校や士官学校だったのを官費だからと 日本では貧乏人の秀才が立身出世のため受験するようになってからおかしくなったと思う。
289 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/23(月) 19:26:24.68 ID:fPf2HDkG0
幼年学校は有料でしかも学費は一般の中学校よりも高かった。 陸軍の「幼年学校設立要旨」もはっきり「陸軍の将校は富者の子弟が望ましい」 と言っている。反面軍人の息子は学費半額免除という恩典制度を作っていわば軍人 の世襲化を図った。「貧乏人の息子でも軍人になれた」というのはかなりの程度まで 神話。ただし一旦軍人になれば出身階層による差別がなかったのも事実。
290 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/24(火) 11:54:25.75 ID:/unbBid50
素朴な疑問だけどなぜ陸士や海兵は戦争中あんなに採用人員を増やしたんだろう。 戦後軍隊が存続するという形で戦争が終わっていたら将校過剰で困っただろうね。 ウェストポイントやアナポリスは戦争中も採用人員を一定数に抑えていた。 日本の軍部には一般市民出身の予備役将校に対する不信感があって陸士や海兵で正規 の軍人教育を受けた現役将校でなければ信用できないという意識があったのかな。
>>290 大正時代以上の大リストラをやるつもりだったんだろ。
復員したとき軍学校生徒の方が勤労動員に明け暮れた一般の生徒より基礎学力が
高く結果オーライで復興に役立った。そこまで読んでいたとすればすごい。
292 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/24(火) 13:30:37.87 ID:/7M9JLvy0
戦争中の陸士や海兵は在学期間短縮で19歳で少尉任官なんてのが沢山いた。 19歳の若造が信頼出来るのかな。しかも大量採用で質は落ちてる。在学期間 短縮で十分な教育も受けていない。 そんな連中より偏差値の高い一般大学を出てまだ20歳代という人達を訓練 した方がよかったんじゃないかな。 やはり当時の日本の軍隊が一般社会から隔離された存在で生え抜きの職業軍人 でなければ信頼できないという意識があったんじゃないか。 イギリスの例だけどシンガポールの司令官だったパーシバルは一市民として出発 して第一次大戦勃発のとき27歳で初めて軍隊に入り研修教育を受けて あそこまで昇進したそうだ。
293 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/24(火) 14:24:27.12 ID:L4V+x/pT0
>>291 特に海兵では敗戦を見越していた校長の井上の方針で、周囲の反対を
押し切って普通学中心のカリキュラムだったからな。同じく敗戦を見越
していた鈴木貫太郎からも「いいか、兵学校の教育の成果が現れるのは、20年後だぞ」
と激励されたしな。
いや、単純にこの戦争では陸士・海兵出の将校がかなりの数で死ぬと思っていたから、 入り口の数を増やそうとか考えてたんじゃないの?
295 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/24(火) 19:16:41.39 ID:h6CWSOKD0
日本の軍隊は一般の社会や社会人を「娑婆」とか「地方人」と呼んで軽蔑 していた。「娑婆」で生活していた「地方人」など信用できないという意識 があったんだろう。
297 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/24(火) 21:43:14.74 ID:nBbnZUgG0
この場合の「娑婆」というのは「卑俗な世界」という意味で 軍隊が自らを「聖域」と意識していた事を示す。
>>297 アホか?
娑婆ってのは元々遊郭用語で、極楽浄土である遊郭に対して、遊郭の外の世界を表す言葉。
女郎さんにしてみれば、拘束されている浄土(遊郭)に対して、自由な世界を指している。
それが転じて、刑務所の受刑者や軍隊の兵士など拘束されて苦しい思いを余儀なく
されている下層の人が、外の自由な世界を憧れて言う言葉だよ。
つまり新兵さんとか、辛い立場の人が使う言葉。
感情自体が捻転していたんじゃないの? 「軍隊という拘束された世界の中にいる自分」という像を自己認識する際に、 天皇陛下にお仕えするという崇高な使命を授けられた高貴な存在とする考えと、 「懲役・兵役、一字の違い」と揶揄されるような不自由で理不尽な論理に支配された世界に 身を置いているという考えと。 もちろん、前者を自発的に軍人という職業を選んだ士官学校での将校の考え方、 後者を有無を言わさずに徴集された一般の兵士の考え方と分ける方が妥当だとも思うけど、 ある部分では混じり合っているところもあったんじゃないかね。 使命感を持っていても自由がないことを不満に思うこともあるだろうし、 辛いことが多かいからこそウソでも使命感でも持たないことにはやりきれないみたいな こともあったかもしれないし。
300 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/25(水) 10:09:17.75 ID:CGX05C5X0
兵営生活は苦痛を伴うがその苦痛に耐えながら崇高な任務を遂行している のであって外の世界で安穏に暮らしている呑気な連中とは違うんだという 一種のエリート意識だろう。修道院にいる人たちが戒律に縛られた生活を しながら庶民に対してエリート意識を持つのと同じじゃないかな。 海兵の生徒も海兵を「江田島監獄」と言っていたそうだがそこには自分たち はエリートたるべく厳しい修行をしているのだという意識が感じられる。 少なくとも職業軍人が言う「娑婆」とはそういう意味じゃないかな。
301 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/26(木) 23:01:04.42 ID:qrU3M4l30
市谷台のだらだらした坂を日曜日の朝は極楽坂と言って外出し、夕方は 地獄坂と言って帰校したと言われている。
>>300 >外の世界で安穏に暮らしている呑気な連中とは違うんだという 一種のエリート意識だろう。
アホか?
いきなり引っ張られて、安月給で毎日酷使されている上に、毎日ぶん殴られている兵隊達が、
どれだけ軍隊を憎んでいたか、満期節とかスーちゃん泣き別れとか知っておいた方がいいぞ。
兵士も人間だから、レジスタンスの気持が歌や言葉に反映されているんだよ。
303 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/28(土) 22:00:27.28 ID:w8Vtgwuf0
>>302 よく読め。「職業軍人が言う『娑婆』とはそういう意味」と言ってるぞ。
兵隊と将校とでは意識が違うのは当然だろう。
軍隊で将校が新兵に「ここは娑婆とは違う」と言うときはまさに
>>300 で言う
ような意味だったはず。
>>303 >職業軍人が言う『娑婆』とは
このヴァカは、ほんとうにズレているな
上官が兵隊に言う時は「地方っ毛」って言うんだよ。
「キサマ、地方っ毛がまだ抜けてないな!」とかな。外界を馬鹿にした言葉だよ。
娑婆ってのは、兵士が自分の境遇を嘆いて使う言葉だよ。
305 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/29(日) 13:14:13.87 ID:hEZktnty0
>>304 昔の海兵では上級生が下級生をシゴクのを「娑婆っ気を抜く」と言ったそうだ。
娑婆の雰囲気を捨てなければエリートたる海軍士官にはなれないという事だろうな。
高木惣吉の回顧録や豊田穣の小説に海兵での「娑婆っ気抜き」の話が出てくる。
念のため付け加えると高木惣吉は海兵から海大を出て終戦時海軍省の局長だった人物、
豊田穣は海兵出身の作家。
その時代やその人の立場によって「娑婆」って意味は変わってくるでしょ。 大正デモクラシー真っ只中と支那事変真っ最中で違うだろうし、 職業軍人と徴兵された人間でも言葉の捕らえ方はそれぞれ違うと思う。
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/29(日) 17:42:28.10 ID:yeSiwcud0
だから俺は「職業軍人が言う『娑婆』とは」と言っている。 高木惣吉は大正初期に海兵に入校し豊田穣は昭和12年に海兵に入校した。 時代が違う二人がいずれも「娑婆っ気抜き」を経験しているという事は 海軍士官の間で一貫して「娑婆」という言葉が侮蔑的な意味で使われていた事を示す。 陸軍でも同様だったと考えるべきだろう。
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/30(月) 16:38:34.18 ID:TWVekdQO0
>>305 海軍士官って本当にエリートなのか? 所詮は兵隊さんだろ、おれらの学校でも志(ちょっと
大袈裟かも?)のあるヤツは官僚や外交官、法曹を目指しているぞ。 防大(医大は別)や自衛隊を
狙ってるのはキモウヨか、頭かカネ(若しくは両方)の足りないヤツらだけみたいだが。
309 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/30(月) 18:40:34.94 ID:80/wBJX10
>>308 お前は当時の価値観を知らんよ。海軍士官は社会の憧れの的だったんだぞ。
海兵は語学教育を重視していたから海軍士官といえば英語が話せて遠洋航海
で何度か欧米に行ったこともあるのが普通。それだけでも当時はハイカラな
存在で多くの青年が海兵を目指した。またそうでなければ海兵がナンバー
スクール並みの難関になるはずがない。現代の日本でも偏差値の高い大学を
出ればそれだけでエリートと呼ばれるだろ。
>>308 戦後日本の世間的評価が特殊なだけで、
(左派マスコミによるところ、大きいんだろうけど)
海外に行けば、「士官」は相応の待遇うけるはず。
現行日本の制度上でも、あんまりおおっぴらにはなってないが、
一応そこそこの扱いになってるんじゃない?
たとえば、防衛駐在官とかエリートっぽくない?
「兵隊さん」と言う場合、普通は「下士官兵」でしょ?
今の役所ならノンキャリ未満じゃないのかな。
士官はキャリアなんだよ。
そもそも「官僚」と「外交官」を分けてる段階で、馬鹿丸出しだろ。
受験を控えた高校生ってとこかな?
>>310 >(左派マスコミによるところ、大きいんだろうけど)
左派と言っても、左派の総本山である旧ソ連では士官の待遇は
良かったらしいね。
>>311 外交官よりキャリアのほうが上だろ
ただアメリカ大使だけは、別格
>>310 中央官庁の事務系キャリアは全省庁合わせて百数十人。
一年に数百人誕生し、非坊大卒も入れたら全自衛官の2割を占める士官が
キャリア並とは到底思えないな。
316 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/31(火) 07:12:30.20 ID:LVQpa+dq0
>>315 防衛省の参事官の人から聞いたけど将になる制服組はキャリア扱いだと
言っていた。普通の士官は国家2種相当。
戦前は少尉が警視相当だからキャリアと言ってよいだろ。戦時中の大量養成
時代は名目だけ。
>>310 カナダに出張で行ったとき士官学校で食事をした。向こうの会社の
軍隊OBの人が招待してくれたんだ。自分はこういうことに関心があるので
最高の待遇として感謝したが一緒にいった上司はあとで肉が硬かったとか
文句を言っていた。
317 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/05/31(火) 11:17:18.70 ID:xNak42A80
制服組でキャリア(扱い?)なのは将だけなのか、連隊長辺りはキャリアになるのかと思ってた。 まぁ、防大や幹部学校へ入る連中の頭を見てたらそんなモンかなとも思える。 まぁ、鉄砲担いで 刀を振りまわすのが仕事の人たちがエリートの世の中は戦前のことだけであって欲しいよな。
>>317 警察署長はキャリアが研修で就く以外はノンキャリアだろ。
警察のキャリアは若い時からキャリアだから士官の中の士官みたいなもの。
連隊長クラスで将来の将になる人は選別済みだからキャリアであるとも言える。
>>318 研修でも、キャリア警察官僚が警察署長になることなんかないだろ。
キャリア警察官僚がつくポストは、都道府県警本部の捜査2課長とか警務部長
とかで、ほとんどは警察庁や管区警察局に配属されてるだろ。あと防衛省幹部
への出向とか。
戦前の陸軍だと、陸軍士官学校のみ卒業した将校はノンキャリアで、陸軍大学校
を卒業したのがキャリア組だろ。
>>316 戦前は少尉で位階も貰えた高等官だったけど、ほとんどが大尉・少佐止まり
だった事を考えれば、高文組とは全然違ってたと思うよ。
俺の感覚では省部課長の大佐や将官になって初めて高文組と並ぶくらい
だと思う。
321 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/01(水) 11:44:30.33 ID:x8sTqbm40
>>319 三〇才くらいの警察署長(階級は警視だったと思う)はキャリアじゃないのか?
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/01(水) 15:29:25.11 ID:WBjH+GgY0
>>321 そんな若い署長見たことない。実在するならキャリアだろうけど、どこの都道府県警?
>>320 陸軍は陸軍大学校を卒業すれば、少佐、大尉でも高文組と並ぶだろう。
海軍は分からん。クラスヘッドならキャリアだろうけど、米内光政みたいに
卒業成績中位のが連合艦隊司令長官、海軍大臣、総理大臣にまでなってるから。
>>322 警視庁本富士警察署は警察庁出身者の母校であることが多い東京大学が
ある警察署なので、30歳ぐらいの人が署長をしていると聞いたことがある。
無論、確認をとったことはない。
>>323 本富士は、登竜門だよ、
治安もいいから、キャリアに傷がつかないし
本富士警察署長なんて、キャリアに傷つきやすいんじゃない? 1960年代までは、東大が日本の学生運動の中心地で、1970年代までは、その 名残が残っていた。 オウム事件のときの、国松警察庁長官狙撃犯を出したのも本富士署でしょ?
>>321 バカ殿教育と言われて今は35過ぎになったけど、大蔵省スキャンダル前は
大蔵キャリアは20代で税務署長、警察キャリアは20代で警察署長、自治キャリア
は30過ぎで県の課長になってたよ。
>>322 陸大出ればかなりの確率で将官になれたから高文相当だろうね。
>>326 警察キャリアのバカ殿教育は、20代の警視で都道府県警の捜査2課長と聞いた
んだが。
「都道府県警の捜査2課長」→「都道府県警本部の捜査2課長」ね。
アメリカだとパウエルとかの傍流コースでも最高幹部になれるのに……。
ウエストポイントやアナポリスの本流エリートコースがある一方で傍流でもトップに なれる人事慣習は流石としか言いようがない。
第2次世界大戦中の陸軍参謀総長だったジョージ・マーシャルも、ウェストポイント 出身ではなく、ヴァージニア軍学校出身だったしな。 海軍作戦部長はアナポリス率が高いが、それでも水兵出身のジェレミー・ボーダ が作戦部長やってる。自殺しちゃったけど。
マッカーサーやニミッツみたいな超エリート君もいればアイゼンハワー みたいなのもいるもんな。 でも日本海軍も海大・海兵首席が必ずしも軍令部総長になってるわけじゃ ないからな。
>>329-332 そういう人事をできるのがアメリカ軍の強さの秘訣なのかねぇ。
独立戦争以来、ほとんど戦争に負けたことが無いんだもんね。
石原莞爾や永田鉄山のような自分の世界観を持っている人は、 陸大の教育に対して割りと批判的だった。 つまり、エリートとは言ってもいわゆる偏差値エリートに過ぎない。
でも日本軍の場合自分の世界観を持ってる奴はカルト的なんだよなw 世界の軍隊の中でここまで神秘的世界観を濃厚にもってる軍人が多いのって 日本だけだろ。
>>335 石原莞爾なんて、宮沢賢治ともども、今の感覚でいったら、カルトの日蓮宗国柱会
にかぶれたキチガイだろ?
永田鉄山は常識人だったそうだが。
>>330 平時は本流エリートでも有事には傍流が以外と役に立つことを
経験的に知っているからだろう。
>>330 日本の陸軍や海軍にはない発想だよな
特権階級の馴れ合いと保身、出世争いと権益の奪い合い
それで戦争してりゃ、そりゃ負けるわ
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/03(金) 21:38:43.59 ID:8LhUBmqn0
今の自衛隊でも重要ポストは防大出が独占していて一般大学出は 幹部候補生学校を卒業して任官してもなかなか出世できないらしい。
今の日本社会にも根強くある学閥とか派閥も 「自分達は相互扶助して保身と出世を確保し、他の毛色連中の進出を阻む」と言う意味で、 基本的には同じ考え方。 うちの会社にも派閥や学閥あるよ。 日本人の性みたいなもので、戦前の軍部に限った事じゃない。
自衛隊も米軍のROTCのような課程作って、人事の柔軟性を広げるべきだな。
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/03(金) 23:49:21.50 ID:nTXFn7GB0
>>290-294 戦中と戦間期の戦力を傭兵で調整した、欧州のノウハウからだと思う。
勝てば獲得域の運営に人員が必要だし。
大東亜共栄圏が成立してたら戦後も百万単位の軍維持が必要だっただろうしな。
345 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/04(土) 14:25:23.27 ID:j818lWrD0
当時の日本の人口は7千3百万。 平時に常備しておける兵は百万ぐらいが限度じゃないかな(財政的にはそれも 困難だがあえて度外視)。常備兵百万、将校が5万とし平均30年勤務すると すれば一年に養成すべき将校は1千数百、戦時中の陸士採用人員はやはり多すぎ。 ちなみに陸軍は日露戦争の時陸士の生徒(第19期)を大量採用してその後の 処理に困ったという事実がある。
346 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/04(土) 14:49:28.91 ID:j17s1hzd0
大部分の将校は四十代半ばか後半で予備役になるんだから勤務年数の平均は 三十年にはならない。陸士は明治三十年代から大正中期まで毎年七百人採用 しているから常備兵が百万なら毎年二千人採用してもなんとかなったかも。
国家として適性な軍備だったんだろうか。 戦艦一隻作れば数年不況決定、の基礎体力しかないのに。
348 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/04(土) 15:37:17.12 ID:3FemRJeC0
>>347 俺は
>>345 の者だが、だからこそ「財政的にはそれも困難だがあえて度外視する」
と書いている。要するに近視眼的な大量採用をしたということだ。
付け加えると一般の学校を出た幹部候補生出身者の中には下級指揮官として
非常に優秀な者がいたそうだ。これは配属将校制度によって既に中学校の段階で
基本的な軍事教育を受けていたからだと言われている。
宇垣一成には先見の明があったね。
349 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/04(土) 23:18:52.25 ID:emDHiKUb0
陸軍は陸士の採用人員をムヤミに増やすより下士官や幹部候補生出身者 の登用を考えるべきだった。日華事変以前は下士官出身者は将校に昇進 しても中隊長にはなれなかったそうだ。
>>349 >下士官や幹部候補生出身者の登用を考えるべきだった。
戦争中に幹候として引っ張られた大学卒のインテリの多くが「なぜ優秀な下士官を将校にしないで、
自分のようなドシロウトを将校にするのか、全くワカラン」と語っているが、答えは簡単で、
人数的に一番多い下士官特進の最終ランクを少尉か中尉ぐらいにして、シロウトの大卒を幹候で
2-4年満期で除隊させないと、軍人恩給で財政がパンクするから。
351 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/07(火) 09:58:27.50 ID:tfOMt0jw0
>>350 陸士は平時から採用人員が多すぎるといわれていた。
歩兵の中隊長は下士官出身で十分といわれている。陸士を出れば佐官までは昇進
させなければならないし給料や恩給も多くなる。下士官出身者は大尉止りでも一応
満足するし給料もそれほど多額ではない。貧農の息子が軍隊に入って大尉位にはなって
ある程度の恩給をもらって安定した生活ができるようになれば一応満足しただろうと
いわれている。その方が人件費も安く済んだんじゃないかな。
結局、国力に見合わない不相応に図体のデカい軍隊を養おうとしたのが一番の間違いだったのかな。 なまじっか「亜細亜においては日本以外にまともな軍隊はいない」というレベルまで膨張したおかげで、 より強大なアメリカやらソ連やらと正面切ってやり合うハメになっちまった。 中国あたりと拮抗するのが精一杯という程度のレベルの軍事力を持つのに止めておけば、 余計な野心を持たずにおとなしくしてられたんじゃないだろうか。
所詮、お役所なんだから予算権限拡大は本能みたいなもんだからな。
>>351 言っている意味が全く分からないんだが、陸士を廃止しろ、と言う事???
人数が一番多いのは下士官特進だから、その連中を大尉や少佐にしてしまうと
軍人恩給額がグンと増えるのが分らないかな?
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/07(火) 20:18:08.22 ID:1p5fouwN0
>>354 お前は短絡してるよ。俺は陸士の採用人員が多すぎたと言ってるだけだ。
また全ての下士官を将校に昇進させろとも言っていない。陸士の採用人員を
減らしてその分を下士官の中の優秀者で補充し階級は大尉どまりにしておけば
良かったと言ってるだけだ。陸士卒業生はどうしてもある程度の階級まで昇進
させざるをえない。永田鉄山を斬殺した相沢三郎なんてキチガイみたいな男でも
中佐だったんだぞ。しかも相沢の次の任地は台湾の学校の配属将校だったそうだ。
そんな職務は大尉クラスでもいいはず。中佐と大尉ではどちらが給料や恩給が多い
と思うか?
356 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/07(火) 20:31:49.34 ID:1p5fouwN0
>>355 の続き
具体的に言えば中隊長は陸士卒業生でなければならぬなどという慣例
(平時の場合)は廃止して全軍の中隊長の半分位は下士官出身者でも
良いと割り切ればそれだけでも陸士の採用人員を減らせたはず。
もちろん下士官出身でも非常に優秀な者はもっと昇進させても良い。
終戦当時は下士官出身で中佐で連隊長という人もいた。
平時からそれぐらいの配慮をしておくべきだった。
>>355 >俺は陸士の採用人員が多すぎたと言ってるだけだ
バカの観念論はどうでもいいから、陸士何人採用だったのを何人にすべきだったとか、
具体的に書いてくれ。話にならない。
巨大な陸軍の中で陸士卒業者なんて一握りだよ。それを僅かばかり削減したら
会計が向上するとでも思ってるのか??? バカは話にならんわwwww
陸軍ってのは巨大なピラミッド型組織だ。 だからこそ、その上部がほんの少し肥大化しただけで全体の体積がとんでもなく膨張する。 そうした危険性を指摘しただけのことなのに、いちいち具体的な人数云々を書けなんて 些末なことを言い出して相手の発言を否定しにかかるというのは、それこそ自説の根拠に 乏しいことを自覚していることの裏返しにしか思えん。
大正時代の平時編成を続けていればよかったんだが、昭和に入ってから 膨張してしまった。
昭和に入ってからのインフレ・物価上昇で、それまで相対的に恵まれた経済環境にあった 陸士出の将校達の生活が苦しくなった。特に中堅〜下級将校あたりの。 まぁ給料体系がさほど変わらず、物価が上がればそうもなるわな。 そして、景気が悪いんだから公務員の給料と数を減らせという大衆の意識が強まっていき 軍人への風当たりが強まって「おちおち制服で電車にも乗れない」という状況に追い込まれる。 明治期の帝国海軍の絶頂期に軍人への道を目指し、陸士卒業後の輝かしい未来と 恵まれた待遇を信じて陸軍幼年学校・陸軍士官学校という軍人への道一本に絞って 歩んできた中堅将校にとっては、そういう環境はどうにも我慢ならないものだったんだろうね。 一発逆転を狙ってテロやらクーデターやらを画策して、それが上手くいって発言権を増して 「省益」を拡大していった先があのていたらくだったわけだ。
>>360 >昭和に入ってからのインフレ・物価上昇で
昭和に入ったら金融危機でデフレ一色だ。
このノータリンは、世界恐慌とかも知らないのか???
バカを晒すのもいい加減にしろ、中卒か?
>軍人への風当たりが強まって「おちおち制服で電車にも乗れない」
デフレで公務員や軍人給与が相対的に高くなったから
公務員や軍人の給与を削減しろ、という運動になったんだろ。
インフレとデフレの区別のもつかないのか、この中卒はwwwww
テスト
>361 インフレと物価上昇ってのは間違いだったみたいだね、こりゃ失礼した。 ただ、「デフレで公務員や軍人給与が相対的に高くなったから」というのは必ずしもそうではないと思う。 そもそも公務員ってのは税金を払っている人間が養っている存在だから、経済的に苦しくなってくれば 公務員を減らせって話にすぐなるし、当時の軍人はシベリア出兵で何の利益も獲得せずに膨大な戦費を 無駄に使って帰ってきたという事情から、風当たりが寄り強かったんだよ。
その程度ならいいんだけどね。 シーメンス号に代表される汚職事件が大々的に暴かれたのも原因。 何しろ平時の軍縮時代ですら、軍備のための増税しないといけないほどの軍隊持ってたわけだから。 国民が怒り軽蔑して当たり前。
シーメンス号→シーメンス事件 ちなみに戦中も汚職(造兵絡みや徴兵忌避の口利き)は酷かったが、こちらは時代柄ほとんど報道もされなかった。 酷いのになると、大陸で違法阿片売った金や軍費を横領して国民が窮乏している時も料亭で連日ドンちゃん騒ぎした高級士官が何人もいた。
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/11(土) 21:57:38.83 ID:vNardxiZ0
下士官として有能であっても将校として通用するかは別の問題。 実戦でたたき上げた経験と知識だけでは近代戦の指揮官は務まらない。
>>366 防大の本科で教える知識なんて大した事ない
防大出の世間知らずの若手幹部より、叩き上げの曹長クラスの方がはるかに優秀。
もちろん陸士はそんな事は百も承知だから、防大出の若造幹部の言う事は受け流す。
防大出の若手幹部が叩き上げの陸曹に追いつくには、入隊してからかなりの
経験が必要とされる。
まあ、研究科まで行くとかなり専門的な技術が身に付くが。
368 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/12(日) 09:50:43.99 ID:iGqwgT320
>>367 ぽっと出の新人キャリアの部下に優秀なノンキャリを配置して指導育成するのが
官僚組織の伝統的手法だ。その局面で両者を比較しても?
でもその官僚組織でもノンキャリ局長がいたのだから、兵隊出身で将官に なるやつがいてもいいと思うんだな。
まあ今の自衛隊の、幹部でも一般大学や航空学生出身は将補どまりという 人事習慣はさすがに酷いなと思う。
一般大学出身で指揮幕僚課程を超好成績で卒業しても将になれないのかね。
>>367 海自とかだと初任幹部がベテランにいびられるらしいな。
372 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/13(月) 00:24:42.02 ID:mVd1fHZe0
>>370 防大卒でも将補まで行ったらいい方だろ。
航空学生出身はだいたい2佐どまりだと聞いたよ。
一方、防衛大を出ていれば陰謀論にハマってしまう程度の奴でも空幕長になれるトンデモだからなぁ……。 旧軍を笑えない。
bewaadが言ってたなあ。タモガミ問題の最もクリティカルな点はあの程度の 知力しかもたない人間が自衛隊最高幹部になれてしまう事が露見した事だって。 スターリンの大バカ野郎と言った奴に有罪判決が下った。 国家反逆罪で懲役5年、国家機密漏洩罪で懲役20年。
375 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/13(月) 22:51:41.95 ID:mVd1fHZe0
ご丁寧に英訳までつけて公開したからな、田母神論文。 世界中に恥をさらした。 あと大バカ野郎のネタは、スターリンでなくフルシチョフだよ。
376 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/13(月) 22:59:49.02 ID:UKj+0vqZ0
本来は大佐が最高位の軍人にジェネラルとかアドミラルとかの位を与えたのは占領地で 政治家の代わりをやらせるためだから県知事位の能力が求められる。 以前に失言でたたかれた来栖は帝大を出ていてすべてのリアクションを計算した上で あえて発言している。本来のジェネラルと言えよう。
将って、本来は指揮官や軍事指導者というレベルの視野ではなく、政治や外交を視野に入れた ジェネラリスト(Generalist)って位置付けだよな。 トヨタとかホンダみたいな会社で想像してみれば分かるけど、工場で製造ラインを指揮したり 開発室でエンジンや内装・外装のデザイン設計をしている人たちの仕事が、軍隊でいうところの 佐官や尉官の位置付け。 それ以上の常務だの専務だのの役職に就くためには、現場でのたたき上げの知識だけでなく 財務や法務に関する知識や経験、経営戦略や政府レベルの対外交渉を行いうるだけの器量が求められる。 軍隊においても本来はそうでなければならなかったのに、単なる年功序列で決まるものだったり 戦場で手柄を立てたヤツをその位置につけたのが、間違いの元だったとは言える。 ただ、工場長や開発室長といった経歴の持ち主でも経営幹部に引き立てられて、 相応の努力を重ねたならばその地位に見合う見識や度量を身につけられるものだし、 本来はそうした「地位が人を造る」みたいなことが当たり前に求められるだった。 旧軍の場合、陸士・陸大ではそうした「現場レベルの知識」と言っても良い戦術理論を 徹底的にたたき込んで、その上で陸軍省で「行政・政治」といった、「財務・法務・対外交渉」に 類する仕事を与えられ、それをこなしていって行政能力を認められた人間が軍中央に進み、 そこからはじき出されるか戦術能力を突き詰める方に資質を見いだされた人間が参謀本部の 要職に就くというキャリアパスがしっかりとあったから、明治・大正期を通じて陸軍省優位の 体制が盤石なものとしてあった。 昭和に入ってから双葉会・木曜会の流れを汲む一夕会系の陸軍将校が、省部にまたがる 横断的な同士体系を作ってなれ合いやもたれ合いのような関係を造ってしまい、参謀本部や出先軍の 部隊レベルの荒事(張作霖爆殺や満州事変)を容認、場合によっては称揚していって、 陸軍省で本来の意味での「ゼネラリスト(Generalist)」、つまり「将軍(General)」の 地位を手にすることを容易にしてしまったのが、統帥権を錦の御旗にして独走するようになった 参謀本部の力が増す原因となり、最終的には参謀本部の作戦課が国の政策を左右するような 状態にまでなってしまった過程の源流だと言っても良いだろう。 つまり、トヨタやホンダという大企業の経営が、一工場の工場長レベルの知識や見識の 持ち主の手に委ねられているような状態が、戦前の日本国家の末期の様相だったってとこだろうか。
378 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/14(火) 06:37:47.94 ID:Pj6Z2FIF0
>>377 たしかに日本を支えているのは
>>367 さんのような叩き上げなのだが
それだけでも行き詰まるんだな。若いころ大手自動車会社につとめていたが
労働組合が強くなりすぎて経営陣より権力を握ってしまって醜いことになった。
どの会社かわかってしまうか。
経営者側が、その置かれた立場が高いがゆえに持ちうる広い視点や先の見通しを見る力。 現場で実地に部隊を動かす側が持つ、真面目にかつ愚直に日々の仕事に取り組み、 強い団結力を持ちながら実際的な問題解決に当たっていく粘りや頑張り。 どちらも会社経営には欠かせない要素なんだけど、そのバランスが崩れてしまうと あまり良くないことになりがちだ。 同じ事が戦前の軍部にも言えることなんだよね。
>>377 旧軍の場合ある時期まで陸軍大臣の方が参謀総長よりポストが重かったのだっけ?
上原勇作とか平の師団長からいきなり陸軍大臣になって参謀総長になったのは
大将になってからだけど。
明治期から通じて参謀総長の方が格上じゃない?
大臣と総長、両方やった人は先に大臣になってるケース殆どっぽいね。 山縣(陸軍卿)、大山、児玉、上原、杉山、梅津。 でもこの中だと、大臣やって総長やってまた大臣て人複数いる。 宮中席次はどうだったんだろ。
382 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/14(火) 22:01:05.61 ID:1lo0/AoC0
>>380 寺内が陸軍大臣の時、参謀本部の権限をバシバシ削って陸軍省に移した。
>>381 海軍は明白に総長より大臣が上。陸軍は分からない。
あと梅津は大臣やってない。
大山、閑院宮、杉山の総長は、お飾りみたいなものだったからな。
>>377 やや余談になるけど、
日本におけるゼネラリストは広く浅い経験・知識を有している人を
指すのに対し、欧米におけるゼネラリストは広く深い経験・知識を
有している人を指すと昔、本で読んだことがある。
そんな能力を持った人はホンの一握りな訳で、そういう能力を
持った人については企業や役所等が早い内に見出してその組織の
トップになれるように育て、それ以外の大多数の凡人については
それぞれが得意とする分野に精通するスペシャリスト(専門家)
として育てていくのが正しいとのことだった。
軍の人事って有名将官の軍歴見ても良くわかんないんだよな。 作戦課長経験者が総長の有力候補ってわけでもないし、どのポストを 通過すればどういうポストまでのぼるのか全然予想がつかない。 例えば井口・松川・佐藤と日露戦争の時に大活躍した参謀連中のその後を 見ても井口は師団長と司令官一回やって退役、松川は教育総監、佐藤は 司令長官一回やって終わり。日本最大の戦役の大功労者の割には微妙な 出世なんだよね。 しかも井口は軍事課長・参本総務部長、松川は第一部長、佐藤は第一班長 とそれぞれ少将まではほとんど同期トップをひた走っていたのにさ。 まあ佐官と将官で評価されるポイントが違うんだろうけど。
>>384 >例えば井口・松川・佐藤
井口と松川は、薩長閥でもないのに陸軍大将になってるから位を極めている。
元帥になってない、と言うかもしれないが、満州総軍は戦闘部隊である1-4軍と
大本営の板挟みになる事が多かったから、要するに憎まれ役。
陸軍全体から見て、いいイメージは無いだろうな。野津や奥のように戦闘で
華々しい戦果を挙げた方が、はるかに評価が高いのは仕方ない。
佐藤は当時非常に評判の悪かった第二艦隊の参謀長だからな。
藩閥ではないし、中将で終わってよしとしないとね。
明治以来の陸軍省・参謀本部の力関係や、どのポストが重視されていてトップに立つなら このポストとこのポストを経験しているのが必須、みたいなことが詳しく書かれている本に 森靖夫の『日本陸軍と日中戦争への道―軍事統制システムをめぐる攻防』がある。 戦場での軍功と、行政官僚としての手腕ってのは、根本的に別のものと認識されていて、 行政側のトップに立つ人間に求められるのは軍功よりも実務能力の方だったみたい。 少なくとも日清・日露の時代までは確実に参謀本部よりも陸軍省の方が格上だった。 参謀本部からの様々な要求を、陸軍省の方で制御していた。 その陸軍省優位が崩れたのは、一夕会系の軍人達の現場レベルでの下からの突き上げと、 三月事件・満州事変・十月事件と、陸軍の統制が乱れはじめた時期に大臣になった 荒木貞夫が昭和7年から8年にかけて行ったいわゆる「荒木人事」で、後に皇道派と 呼ばれる一連の集団を重用して省・部内での派閥抗争を激化させたことに原因がある。 軍隊ってのは本来的には、上意下達の命令系統がビシッとあって、上官の命を遵守する というのが当然のモラルだったのに、上と下からそのモラルを崩していってしまったせいで 「トップに立つ人間の権威」ってのがどんどん下落していってしまったんだよ。 いってみれば、大企業の社長室に、入社して2・3年くらいしか経っていないぺーぺーが 本部長や部長クラスの人間が上申するような意見を平気で述べ立てて、社長がそれを うんうんと頷きながら耳を傾けている、みたいな状態。 長年現場で仕事をして、その仕事の蓄積の上に評価を下されて今の地位まで昇ってきた 常務専務クラスの人間にとってはたまったもんじゃないし、ぺーぺーの社員にしても、 上司の主任・課長クラスの人間の言うことを聞きながら地道な仕事をこなしていくよりも、 直接社長に直談判してやれみたいな意識になってしまいがち(自分の未熟さなんて考えもせず)。 そうやって統制が乱れていく中で、参謀本部の側にあった「机上の事務ばかりに長けた 連中に何が分かる」みたいな気分が助長されて、陸軍省の権威を引きずり下ろして、 自分たちと同格にして発言力を増やそうとしていった、という流れだと理解してる。 長々と書いたが、あくまで個人的な理解の仕方なので、反論はバンバン寄せてくれ。
>>385 確かに後の参謀総長って第二軍参謀から出てたりしているもんな。
大将になっただけでもよしとすべきなのか。藤井なんか中将止まりだもんな。
>>386 >戦場での軍功と、行政官僚としての手腕ってのは、根本的に別のものと
>認識されていて、
まあ日本陸軍の母、寺内元帥のキャラを考えれば書類仕事に長けた官僚型が
昇進していったのは分かるな。秋山真之みたいに軍務局長・第一班長・
連合艦隊参謀長全部やった事がある絵にかいたようなエリートコース軍人は
むしろまれだし。
>どのポストが重視されていてトップに立つなら
>このポストとこのポストを経験しているのが必須
これ作戦部長・作戦課長・軍事課長・砲兵課長あたりかな?
でも将官の履歴見ても作戦部長・課長経験者が将官になったら師団長やって
おしまいってケースがあったりする一方、鈴木荘六みたいに部隊勤務が
長いのにいきなり参謀総長になったりするケースもある。今の財務省
みたいに主計局長・総括審議官・筆頭主計局次長・主計企画官やった
奴はほぼ確実にトップ近くになるっていう感じじゃないんだよな。
>387 >>どのポストが重視されていてトップに立つなら >これ作戦部長・作戦課長・軍事課長・砲兵課長あたりかな? 本が手元に無いから正確なところは思い出せないけど、、参謀本部系統でのポスト経歴は あまり重視されてなくて、陸軍省での軍務課長や軍事課長、その後に軍務局長を経由して、 みたいなことが書いてあった。 参謀本部、つまり統帥系統の仕事ってのは、言ってみれば陸士・陸大で勉強させたことの 延長上にあるもので、つまりは陸軍でエリートコースに乗ってる学歴の持ち主だったならば 大抵のことは「出来て当然」みたいな目で見られていたのさ。 対して陸軍省での仕事ってのは、陸士・陸大での教育ですっぽり抜け落ちてしまっている 総務・経理・人事・対外折衝・外部との利害調整といった、広い意味での「対外・対内政治」 みたいな側面が要求されるから、陸大でのエリートの中でもそうした仕事を的確にこなせるか どうかに関しては、「やらせてみなけりゃ分からない」みたいに見られてた。 また大ざっぱで感覚的な比喩をするなら、理系の知識や技術が必須として求められる会社があって、 理系の学卒や大学院卒の学生以外は取らないという方針があるんだけど、研究職や開発課 みたいな職場はそういう学生に好きなようにやらせることで業績を上げられるんだけど、 そういう人間達が人事や経理や法務や財務に長けているかどうかは未知数なわけさ。 研究職とは別に、営業や経理のスキルを持った人間を採りゃいいじゃんってのが合理的な 判断だと思うけど、陸軍ってのはそういう発想をしないで、陸士・陸大というコースを 取った人間以外を信用しないみたいなところがあった。 上記の会社の例で言えば、「理系の知識を持っていないやつにこの会社の何が分かる」みたいな 意識がかなり濃密だった。んじゃ、陸士や陸大でそういう方面の勉強をさせればいいじゃん というのが合理的な考え方だと思うんだけど、これまた「研究をおろそかにするような学生なんぞ、 ろくなもんじゃない」という硬直した考えがはびこっていた。 軍人たるもの、戦術理論や部隊運用に関する知識を持ち、実地に部下を統率して敵に当たる 人間こそが一番価値がある、みたいな考え方が強すぎて、それ以外の法律なり行政なりの勉強は 「邪道だ」みたいに考えてるところが学生側にも教官側にもあったみたいなんだよね。
上で書いた事柄とも関連するけど、陸軍が「軍部大臣現役武官制」に固執したのは こういう意識がベースになってのことなんだよね。 軍のことがよく分からないヤツにトップになられてたまるか、みたいな感情。 政党政治家や他省出身の官僚とかが大臣の椅子に座って、 自分たちの意志が無視されるような事態になるのは耐えられない、 みたいなとこだろう。 実際のところ、政党政治家でも軍事に理解を示しうる人間は居ただろうし、 そういう政治家を官僚が支えながら勉強してもらえば良いんだろうけど、 ころころと首相や内閣が替わるような日本の政治風土にはそぐわないし、 そもそも政党政治家もそんな勉強をすることを望んでも居なかった。 「軍部大臣現役武官制」は確かに制度的には問題が多かったし、それが国の進路を 誤らせたこともあったけど、一番根本的な問題は「シビリアンコントロール」という 考えに日本人がなじんでこなかったことにあったんだと思う。
>>388 永田鉄山が殺られたの、真崎の関係がそりゃ、主なんだろけど、
こういうことも影響してたのかなあと考えさせられた。
>>389 シビリアンコントロールをやるための方便として天皇の権威を
もちだして「統帥権の独立」ということにしたのだが裏目に出てしまった。
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/15(水) 18:02:42.80 ID:4MRrbJ/n0
寺内陸相の時代は、参謀本部の権限をどんどん陸軍省に移して、陸軍省優位
だったのが、大正政変、大正デモクラシーで陸相就任資格が予備役の中将大将
まで広がったことに危機感を持ち、今度は逆に陸軍省の権限をどんどん参謀本部
へ移したんじゃなかったか?
>>386-389 ID:eGH39lE10
どうやったらそんな長文投稿できるの? IE8じゃ「長すぎます」ってはじかれる。
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/15(水) 18:04:25.32 ID:4MRrbJ/n0
(393で「長すぎます」とはじかれた分) 大正政変で第3次桂内閣が倒れていなければ、軍部大臣文官制が通ってた わけだし。
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/16(木) 00:04:18.42 ID:YdfsTO/v0
>>386 陸軍省優位が崩れたのは一夕会系の軍人云々〜
一夕会のメンバーは天保銭組の佐官達だよ。無天組の現場とは違うな。
それと陸軍省と参謀本部の対立はあったの?
平時の軍政、有事の軍令重視の反映に過ぎないと思うよ。
一夕会の永田と小畑の対ソ戦略での対立が痛かったな。
これが統制派と皇道派の対立の遠因となった。
>393 >今度は逆に陸軍省の権限をどんどん参謀本部へ移したんじゃなかったか? その時期に陸軍省から参謀本部への権限委譲がある程度行われたのはその通りなんだけど、 もっぱら政党が「軍隊を政争のダシにすること」を防ぐための措置だったようなんだ。 政党政治家や予備役将官が大臣になったとき、自分の政策をアピールするために無駄に軍隊を 動かしたりしないように、「部隊の運用」に関しては参謀本部がある程度自由に出来るようにした。 でも、予算や人事に関してはあいかわらず陸軍省がガッチリ握っていたからあまり問題は起こらなかった。 つまり、軍政の側が首根っこだけは押さえておいて、あとは好きにやらせるという体制。 「ある程度は好きにしていいぞ、しかし何かあったらクビをすげ替える権利はこっちにあるからな」ってことかな。 三蔵法師と孫悟空の頭のわっかを思い起こしてすとイメージしやすいかもね。
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/16(木) 00:55:13.12 ID:FXrFS4IQO
軍隊のくせに肝心の戦に勝つ方法より、組織内で人間評価ごっこばかりに熱中してたんじゃね?
>395 >一夕会のメンバーは天保銭組の佐官達だよ。無天組の現場とは違うな。 「現場」っていうのは、連隊付きの配属将校っていう意味のことじゃなくて、 陸軍省や参謀本部での各課長や主任・補佐レベルの事務官達のつもりだったんだ。 大企業で言うところの、地方支店の店長や工場長がこの場合の「配属将校」で、 「現場」ってのは、本社勤務の営業課長や技術課長、みたいなのをイメージをしてくれ。 企業によって違いはあるだろうけど、本社の重要部署の課長の持ってる権限は、地方の数十人単位の 規模の支店長や工場長なんかよりもずっと強いし、社内ヒエラルキーでも上だったりする。 官庁の地方支庁のノンキャリアと、本省勤務のキャリア組、みたいなイメージの方が分かりやすいかな。 職階という意味では連隊長・大隊長(佐官)と同じかそれより下であっても、人事権や予算分配に 関われる本省勤務者の方が、軍内政治における発言権が強かったりするみたい。
>395 >一夕会の永田と小畑の対ソ戦略での対立が痛かったな。 >これが統制派と皇道派の対立の遠因となった。 これに関しては、森靖夫は「日本陸軍と〜」の中で(まだ研究途中の段階だからこの本の中では正確なところを 断定してないけど)、この小畑と永田の対立は、後世に伝聞によって形成されたもので統制派と皇道派の対立を 説明するための後付けで出てきた「ただの逸話」の可能性があると指摘してる。 というのも、この逸話を取り上げた研究者の引用文献や参考文献をさかのぼっていくと、1955年に刊行された 橘川学『嵐と戦ふ哲将荒木−「陸軍裏面史・将軍荒木の七十年」』よりもさかのぼった、当時の記録がほとんど 無いらしいんだ。 つまり、この荒木寄りの立場で書かれた伝記から生まれた架空の対立軸で、本当のところは永田と小畑の間に 明確な路線の対立というのはあまり無くて、「荒木に気に入られたか/そうでなかったか」によって生まれた 派閥対立が統制派と皇道派の成立起源で、深刻な路線の対立ではなかったのではないか、という指摘がなされている。 この6月に出た森靖夫の『永田鉄山』でこの辺が掘り下げられていれば、もう少し正確な話を出せるかもしれない。 今注文しているところなんで、読み終わってこの辺がもうちょっとハッキリしたらまた書き込ませてくれ。
思考や行動の視野が狭いよな、とかく。 アメリカ軍のバークみたいに、工学博士号とかを兵学校出たあととった、とかいう話ほとんどないし。
>>399 永田・小畑の対立がなかった、というのじゃなくて、
「対支一撃論」、「対ソ決戦論」の対立じゃなかったってことね?
あやうく誤解してレス投下するとこだったわ。
>>396 >でも、予算や人事に関してはあいかわらず陸軍省がガッチリ握っていたから
>あまり問題は起こらなかった。
陸大卒の人事は昔から参謀本部マターなんじゃなかったっけ。
>401 >「対支一撃論」、「対ソ決戦論」の対立じゃなかったってことね? そゆこと。 統制派にしろ皇道派にしろ、抗争中には特にきちんとした命名があったわけじゃない。 後に池田純久が語ったところによれば、「皇道派は天皇の「皇」の字を押し立てて、 皇軍とか皇道とかいいたてる、ちょっと神がかった考え方が混じり込んだ右翼的心情が強い集団。 対して統制派は、これまでに積み上げられてきた西欧合理主義的な組織の運営・維持を重視する集団」 という色分けをしているけど、やっぱり後付の話で、抗争の最中にそうした命名があった訳じゃない。 派閥対立の原因が「対支一撃」「ソ連決戦」という軍の行動指針といった重大な路線の違いにあるのなら、 派閥の命名もそれに沿ったものになったはず(少なくともその残滓くらいは残るはず)だけれども、 当事者達の回想談や当時の資料の中に、そういう気配はあまり見うけられないみたいなんだ。 だから、直接的には荒木大臣という個性によって「どちらに付くのか」が別れた集団、として 観る方が実態に近いところだ、という見解みたい。 この見解が正しいかどうかはまだ何とも言えないけど、多くの研究書が「皇道派」「統制派」の言葉は 両者ともに「自称」としては使っていないことを指摘している点からも、決してうがちすぎな見方では ないと思ってる。
>402 >陸大卒の人事は昔から参謀本部マターなんじゃなかったっけ。 人事の中でも重要なのと枝葉の部分とがあって、陸軍省が握っていたのは根幹の部分の方。 参謀本部の枢要な部分の人事はやっぱり陸軍省の方が権限も発言力も上だったよ。 イメージとしては、文部省の官僚と帝大の教授、みたいなところを想像すると類推が効くかも。 帝大という学問至上主義の集団の中では総長をトップとした学部長や主任教授が強い発言力や 人事権を持っていて、助手や助教授の承認昇格とかは自由に出来るけど、その帝大のトップの 人事を決める権限を持っているのはあくまでも文部省、みたいな感じ。 もちろん、総長クラスはそう簡単に替えが効く訳じゃないし、帝大側で相応の抵抗も出来るけど、 やっぱり所管の官庁である文部省の意向に逆らい切れるわけではない。 それがだんだんと文部省の中が混乱してきて、文部大臣の権威がないがしろにされて 組織がグズグズになっていっていくことで、逆に帝大総長の発言力が増していき、 しまいにはヒラ教授や助教授クラスの有象無象が教育行政を好き勝手に切り回して 自分の主義主張を混ぜ込んでいって訳が分からなくなっていった、みたいな構図が >386 のような図だと思ってくれて良い。
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/16(木) 22:47:16.80 ID:x+6r5pkf0
陸軍の将官人事は陸軍省人事局長が原案作って、3長官会議にかけるはず。 将官になれるのは事実上陸大卒だけだから、陸大卒の人事も陸軍省がやってた。 服部卓四郎も、東條のお気に入りだったから、何度失敗しても参謀本部の作戦課 にカムバックできた。 東條が失脚したら、即左遷されたけど。
>>399 >>403 『軍国太平記』 高宮太平 (中公文庫 初出版は1951)にも、
永田・小畑の対立は書いてあったが、
「対支一撃論」、「対ソ決戦論」はなかった気がする。
隅から隅まで読み直したわけじゃないが。
桂・児玉が「両雄並び立たず」の状況に陥った時は、
上に山縣も大山も居て、両者を軍政・軍令に分け、力を尽くさせたが、
永田・小畑の時、上に居たのは、荒木・真崎、
……役者が違い過ぎたよなあ、という論旨だったと記憶。
>406 やっぱり、明治期の指導者達の「維新の動乱をくぐったか/くぐってないか」の違いって、大きいよな。 戦後の、50〜60年代くらいまでの政治家達の手腕や業績と、今の二世・三世議員たちとの力量の違いみたいなものを感じるよ。
>>400 今の自衛隊は積極的に国内留学で工学博士をとらせているよ。
409 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/17(金) 21:35:58.03 ID:PlmhVeCq0
防衛大の大学院は修士までで博士がないよな。 しかも学位を与える権限がないから、学位授与機構で面接試験を受ける。
最近安全保障学研究科に出来たよ。>>博士課程
411 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/18(土) 22:05:17.10 ID:KdEAKE8N0
海軍兵学校と陸軍士官学校ってのは好学かつ男気の貧乏人のせがれの唯一の出世の道。 学費なく給料もらえて、理工や軍事、語学、その他の勉強もできて、留学のチャンスもある。 文官のキャリアは帝大法中心で、貧乏人には学費のハードルが高いからね。 民間は財閥や銀行以外たいしたとこないし。 そのかわりハードな訓練と、有事の際の命がけ。
>>407 硫黄島とか、激戦地に送られた将校って、
やっぱ派閥とか、人間関係とか、あったんだろうな、、
413 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/18(土) 22:30:37.11 ID:lSABASXj0
>>411 本来ヨーロッパでは貴族の子弟を教育する場だったんだが。
江戸幕府のもとで近代化してたらそうなっていただろ。
貧乏人の出世コースになったのが大戦で破滅をまねいた理由のひとつになっている。
414 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/18(土) 23:23:40.39 ID:hlyrvY7v0
>>412 硫黄島の戦死者として代表的な栗林忠道も西竹一も、派閥、人間関係面で
いろいろあったと言われているね。
>>413 ウェストポイント、アナポリスも連邦議会議員や大統領の推薦がないと
入れないから、そんなに貧乏人は行かない。
日本の陸士、海兵は貧乏人が行ったから、予備役になるとお先真っ暗な
ので、軍にしがみついたと言うね。
415 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/19(日) 00:03:25.49 ID:TqdlaebI0
幼年学校があえて高い学費を取ったのは陸軍の将校は上流階級の子弟が 望ましいという理由によるんだけどね。
>>411 陸士、海兵に進学する生徒に貧しい家庭の出身者が多かったのって
終戦まで通じての特徴だったのかな?
昭和の有名どころの軍人の出身をザッとみてみたけど、地主の息子
学校長の息子、病院長の息子、警察署長の息子etc、そんなに悪くもない
家庭の出身のようだけど
米内あたりは、典型的な苦学生だったみたいだね
417 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/19(日) 00:46:24.93 ID:uYB4MFM20
戦前はそもそもある程度の余裕のある家庭でなければ中等教育をうけられない。 「家が貧しくてヤリクリしてやっと中学校に入った」なんて言ってる人がいるけど ヤリクリすれば中学校に行けたということ自体が本当の貧乏人とは違う証拠。
金だけじゃないからなあ。 満州事変の責任取らせ、死刑にしていいやつを逆に華族にしてしまったのは、 「あわよくばオレも」的願望を平民出身士官に植え付け、よろしくなかった。
419 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/19(日) 09:32:32.22 ID:ocoFlagI0
それでも同時代のヨーロッパ諸国にくらべれば身分差別がすくなかったのは事実。 下層中産階級、つまりどうにか中学校ぐらいには行けるがそれ以上は無理という ような階層の息子にとっては軍人というのは魅力的なコースだった。
>>417 本当の貧乏人は小学校を出てそのまま働いたんでしょ。
ろくに小学校に通えなかった人もいたらしいけど・・・。
後、当時の師範学校は学費がタダだったんで、小学校・高等小学校を
出てそこに行った人もいると聞いたことがある。
421 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/19(日) 09:52:21.71 ID:u7Pci2au0
>>417 九州の田舎では
長男=田畑相続ー農業学校
次男以下=家庭の財力と本人の学力に応じて上級学校に進学。
長男は進学したくても断念せざるを得なかったケースが多い。
財産があっても進学させない家も当時はあったみたいだね 自分の祖父は地主の息子で師範学校出なんだけど、当初親は義務教育以上に 進学させるつもりはなく、学校の担任が成績優秀なのに勿体無いということで 師範学校を熱心に勧めた結果、進学できたという話だった
>>419 身分差別はない、
先行世代の維新の元勲連中も、大半は一世代前は大した身分じゃなかったのは周知のこと、
成り上がり志向の強い連中が集まっちゃたのか、
それを助長する雰囲気が内部に醸成されてしまったのかはわからんが、
「オレもこうやってこうなればあんなふうになれる」というゲス根性、
彼等になかったとは思わない。
そして、それが、日本を困った方向に引っ張って行ってしまったと思えて仕方がない。
>>406 自分は高宮太平の大ファンなんですが、
彼の著書を読んでると、皇道派と統制派の争いって、
戦略論闘争というよりは純粋な権力争いの感が強いですね。
特に皇道派の重鎮方は自身の権力を保持せんとしようがために、
若い衆(統制派)を押さえつけていたって感じ。
425 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/19(日) 10:47:49.07 ID:siJBMWEB0
>>420 >当時の師範学校は学費タダだったんで
師範学校は無料だったので貧乏人の息子でも行くことが出来た。
しかしカリキュラムが一般の中学校とは違っていて上級学校進学を前提
にしていなかったのでそこから陸士海兵への進学はかなり困難だった(絶無
ではないが)。
真の男は中学行かず専検通って陸士海兵ナンバースクール受かる奴だろうな。 専検→一高から東京帝大法→高文→大蔵省に進み防衛庁長官にまでなった 山下元利なんかは神がかってるな。
>>426 大検通って一流大学を出ている人を何人かしっているけど
高校生活を経験してない奴らには、話をしていてなんとなく違和感がある。
>>426 高木惣吉は小学校卒業後、通信3年+物理学校1年で旧制中学教育課程検定とって海兵進学だね
海兵は27番で卒業、海大は首席と苦学生の星みたいな人物だな
ちなみに曽祖父が、検定とって高文合格→内務官僚だった。二百三高地の塹壕の中で六法読んで
勉強していた偉い爺様にひきかえお前らときたら、とよく母親から小言いわれるw
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/21(火) 23:05:38.07 ID:bRHsIGX+0
>>428 二百三高地の塹壕の中で六法読んで〜
本当かよ?どんな心境で法律書のページをめくっていたのかな。
学徒出陣の時万葉集を背嚢に忍ばせた学生が多かったと言う話は知ってるけど。
430 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/22(水) 00:18:03.60 ID:96SoiOhCO
苦学したうちの爺さんは「風呂屋で風呂炊きしながら火明かりで六法読んで中大卒業して弁護士になった」だった。 もちろん本人から聞いた事はない。母親が言ってた。多分脚色も入ってると思う。 ただ、爺ちゃんが重労働の風呂屋で働きながら苦学して中大から司法試験通ったのは事実。 二宮金次郎の「薪背負って本を読む」や「蛍の光・窓の雪」じゃないけど 厳しい環境下で六法読んで立身出世を目指すが、昔の苦学生のお決まりだったのかも、と 428読んでちょっと思った。
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/26(日) 18:31:32.35 ID:fONcmQt80
爺ちゃんシリーズのなかで428が秀逸ですね。 431の風呂屋の苦学生の大先輩に秋山好古将軍がいますね。
433 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/26(日) 20:58:22.66 ID:OJyVpFmQO
俺のGちゃんは陰間茶屋でカマ掘られながら英語勉強して東京高商→高文合格!俺は二丁目に入り浸ってるSEXoffenderだが警察落ちの和光大七年生。
>>432 曾祖父が日露戦争従軍経験者だとすると428さん自身が年配者に
なるんだけどね。50歳代くらいだとぎりぎり可能かな。文章が若いですね。
434←勘違いが激しいみたいだが うちも曾爺さんが日露戦に行ってて、爺さんが第二次大戦に行ってるけどね。 俺は30代前半だが。年代的に至ってフツーだと思うけど、アホなのか?
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/27(月) 20:17:08.09 ID:gN1Bqa3p0
軍部=官僚組織には変わりないが、あの頃の時代背景をしっかり勉強した方がいい 陸士海兵は庶民の憧れで、庶民から非常に人気があった それに対して、旧制高校→帝国大学は金持ちが行く進路で庶民にはあまり人気がなかった 庶民は金持ちのボンボンが気に入らなかったんですよ 陸士海兵は庶民であっても学力さえあれば進学できた 陸士海兵出は帝大出に対して異常なほどの嫉妬を持っており、それが軍部の暴走に繋がったと考えられている
438 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/06/30(木) 22:21:50.01 ID:1Qq/UsD40
>>436 それは単純。石原莞爾も永田鉄山も東条英機も貧乏人の息子ではない。
むしろ当時の日本としては恵まれた階層の出身。二・二六事件をおこした
青年将校の多くも少将クラスの高級軍人の息子。
青年将校が貧しくなければ、2.26の動機が成立せんだろう。
>439 2・26事件の中心だった青年将校達も、けっして貧しい階級出身のものが多数派だったわけじゃないよ。 あくまで、彼等が率いていた兵士や下士官たちの出身階級である東北の貧農層や都市での下層労働者たちの苦境を 上官として目にし耳にしたことで、彼等に対する強い同情心を抱いたことが青年将校達を突き動かした動機だ。 特権を享受して国政を壟断していると考えた政治家や重臣や軍閥や官僚閥のトップを排除することを目的としたのであって、 彼等自身が赤貧洗うがごとしというような境遇から這い上がってきたというのとはちょっと違う。 決起将校が排除しようと考えていた軍のトップ、つまり永田鉄山を中心としていたいわゆる統制派に連なる面々が 彼等の標的となった人間達だ。 >438さんが挙げた石原完爾や武藤章、片倉衷や辻政信なんかが排除の対象とされた。 東條英機はこのときは左遷されてたんで標的にはされなかったけど、もし東京にいたら真っ先に狙われただろう。 永田鉄山の側近を任じていた1人だから。
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/07/01(金) 09:15:55.30 ID:a0ME1xGD0
>>439 退役少将閣下の息子を貧乏人なんて言えるか。
藤原彰はこんなことを書いている。「高級軍人の息子として生まれ
自らも軍隊内での昇進を目指していた彼らにとって最大の関心事は天皇制軍隊、
ひいては天皇制国家の存続であった。そのような彼らにとって昭和初期の不況
による社会主義思想の蔓延は憂慮すべきことと思われた。彼らの政治家や財閥
にたいする攻撃は支配階級の金権政治が赤化の温床となるというものであり
その根本的な動機は反革命にあったのである」。
藤原彰は共産党員で「朝鮮戦争はアメリカが起こした」なんて嘘を平気で書いた
人物だけど二・二六に関する解釈は正しいと思う。
有名な「姉は…」も、青年将校が自分の部隊の兵から聞き取りをしたときのもの。 幼年学校などは普通は貧しくてはいけないし、まして帝大への妬心に駆られていたなんて話はあまりない。 何事に付いてもそうだが、階層的要因を誇張しすぎてもアレではある 青年将校だって、結局陸軍内の抗争に利用されたともいえる
443 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/07/01(金) 11:19:30.63 ID:cdCcF4N70
出身階層によってその人物の思想を判断するのは一面的。 昭和初期にはマルクス主義が大流行して旧制高校生や帝大でそれに感染 する者が続出したけど旧制高校や帝大はそもそもある程度の余裕がなければ 進学できない。早い話が特権を与えられて優遇されていた帝国大学教授の中 にもマルクスかぶれは沢山いた。
2・26事件の本当の動機は軍事費削減や、軍内派閥で自分のボスが負けそうだったことだからな。 貧しい国民のためを思うのなら、軍費削減に同意している。
445 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/07/01(金) 12:30:46.57 ID:tcsEAIv70
よく当時の青年将校の言葉として「このままでは安心して戦争に行けない」というのが 引用されるよね。銃後で「赤」の思想が流行したり反戦運動が行われているんでは安心 して戦争には行けんなw そこで「赤」や反戦運動を根絶して全国民を戦争に動員できる一枚岩の体制を作ろうという のがいわゆる青年将校運動ということになる。そのためには多少の社会福祉も主張するが それは銃後の国民に不満を持たせないための宥和策にすぎない。 それがいわゆる青年将校運動でやはりファシズムの一形態というべきだろう。 ちなみにドイツでナチスが人民から一定の支持を得た理由の一つにヒトラーが 社会福祉にはかなり熱心だった事が指摘されている。 二・二六事件は美化されすぎ。
446 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/07/01(金) 15:34:11.96 ID:EJJdUrjy0
>>443 華族の子弟が共産主義者として多数検挙されたこともあったしな。
その中には、岩倉具視のひ孫もいたし。
>>440 天皇御新政はいいけど結局、実務はだれかが代行することになる。
こいつらは自分たちが代行すれば腐敗しないと本気で思っていたのかね。
この時代 厨房ばかりだね。
448 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/07/01(金) 16:59:46.06 ID:vNZDjEtN0
ロシア革命の指導者をみてもレーニンはかなり地位の高い役人の息子で トロツキーは地主の息子だった。貧乏人の息子はスターリンぐらいしかいなくて それが最大の権力亡者になった。毛沢東も周恩来もケ小平も地主や富農の息子。 当時の日本の高等文官も軍部のエリート層も社会的出自という点ではそれほど 大きな差はなかったんじゃないかな。学費免除の陸士海兵出身者の方が貧乏人 の息子が比較的多かったということはあったろうが貧乏人の息子が奨学金や篤志家 の援助を得て旧制高校へ行ったという例も絶無ではないんだし文官で積極的に軍部 に協力する者や思想統制に熱心な者もいた。終戦の時でも司法大臣や内務大臣は 「徹底抗戦」を唱えてるんだよね。文官と軍部の相違は誇張されているし ましてやそれを両者の社会的出自の違いによって説明しようとするのは 間違いだと思う。
陸大出と比較してずっと隊付の将校が不遇だったからといって 彼らもまた基本的にはエリートであったことも変わらないし。 文官の戦争責任てのは案外等閑視されてたかもね。 文官にもそれぞれ色んな動機があって軍部と結託したりもしていた。 陸海軍は一夜にして解体されたのに、官僚機構がそのまんま温存されたのは 確かに、不均衡かも。 外務省なんか吉田茂や芦田均が首相になったせいか、イメージ的にも ずいぶん戦後得をしたような気がするが、 三国同盟派も随分いた。「外務省革新派」なんて本を読むと、 そうした人たちが戦後親米派として復活してたりするから面白い
450 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/07/01(金) 19:03:35.88 ID:Ms+GMRxS0
終戦時に徹底抗戦を唱えた阿部という内相は特高部長時代政治犯に過酷な態度 を取ったことで有名で彼の特高部長時代には留置場で「死亡」する者が続出している。 小林多喜二が拷問で殺されたのも彼の時代だし野呂栄太郎が「死亡」したのも 拷問によるのではないかと言われている。こうなると大杉栄を虐殺した甘粕大尉と どう違うのかと言いたくなる。戦後も東久邇内閣の山崎という内相は「政治犯を釈放 する意志はない」「特高はいまだに活動中」と公言してGHQから罷免を要求されたし 大森という元内務官僚は防衛大の学長になったとき防大生に「軍人勅諭を指針にしろ」 という訓示をして物議を醸した。こうなると頭ゴチゴチの軍人と変わらないね。
451 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/07/02(土) 07:38:09.22 ID:w9r0MwG0O
士官学校におけるガチホモ率ってどんだけなの?
腐マンコに用はない
破れ菊
夏だな。
夏休みはまだ先だぜ。
WW2帝国海軍のそういう薄い本を妹が買っていて泣いた
えっ? 大和×長門とか、赤城×比叡、みたいな本?
>>447 日本改造法案大綱によると三年間憲法停止して独裁したあとは、男子普通選挙を実施するつもりだったもよう。
腐マンコお断り
女性に政治をさせるような仕組みがそもそも誤り。 他の国ならいざ知らず、日本の女性は男性に対する影となり、 縁の下の働きに徹するのが伝統となっている。
461 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/07/20(水) 05:13:16.83 ID:yZk60i060
>>356 戦死を見越して多めに取っただけでしょ。
中隊長、大隊長は陣頭突撃して真っ先に撃たれるって言うし。
463 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/07/21(木) 14:54:23.27 ID:2NENcSZD0
>>160 ドワイト・D・アイゼンハワー1890年〜1969年。
1890年 生誕
1911年 陸軍士官学校入学
1915年 陸軍士官学校卒業
1917年 大尉
1920年 少佐
1936年 中佐
1939年 9月 第2次世界大戦勃発
1940年 11月 第3師団参謀長
1941年 3月 大佐 第9軍団参謀長
6月 第3軍参謀長
9月 准将
12月 真珠湾攻撃
1942年 3月 少将 参謀本部情報部初代部長
6月 欧州派遣米軍最高司令官
11月 中将
1943年 12月「オーバーロード作戦」計画、実行の連合軍最高司令官
1944年 大将
6月6日 Dデイ連合軍最高司令官
12月 陸軍元帥
1945年 11月 陸軍参謀総長
1950年 12月 NATO軍最高司令官
1953年 アメリカ合衆国第34代大統領
1969年 3月28日 コロラド州デンバーで死去
米軍の人事って興味深いですね。 今はどうなのか知らないけど。
パウエルって士官学校出てないけど最高幹部になれたよね
現場叩きあげ? 秀吉も何も学校にもいかずに出世したからな。 次の選挙には勝てるかもな。
470 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/08/06(土) 08:32:25.02 ID:N4gK6WR90
勉強だけ出来ても現場じゃ本当に役立たずの者っているよね? 単に机上で勉強が出来る人と、現場で自然に頭角を表していく人では やっぱり何かが違うと思う。 維新の元老と呼ばれる人達も主席で学校を卒業した者など居ないし (単に学校制度が無かったからかもしれないが・・) まあ、勉強が出来る者と出来ない者では出来る者の方が頭角を表してくる割合も 高いのだろうけど。 そこには、理屈じゃ説明できない何かがあるのだろう・・・。
471 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/08/06(土) 13:13:26.44 ID:GrzrrE9S0
>>282 エントロピーの法則は芸能の世界にもいえるような気がするのだよね。
たとえば声優ははじめのころは俳優の副業でどういう演技をすればいいのか確立していないから
声優の個性が発揮されやすかったのだとおもう。しかし時代がたつにつれて演技法が確立されて
養成機関がととのえられるようになると、へたではないのだがかたにはまった演技しかできない声
優だらけになっていったのだよな。
かたやぶりな人材を評価できるようにならないと硬直化していくのだろうね。
472 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/08/06(土) 16:21:33.03 ID:N4gK6WR90
修羅場を掻い潜ってきた者はそれ相応の経験を積んでるし、何より強運の持ち主。 学業の成績では測れない何か特別な才能を持っている証拠。 運と言う才能もその一つだと思う。 昨今の官僚制度にも言えることだが学歴偏重の凝固まった人事にはやはり限界がある。
473 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/08/06(土) 21:58:11.30 ID:+lXJSwEMO
爺が士官学校の教授で、婆が田舎の地主だった。 爺は軍がなくなったあとは街の教師になったが、 農地改革で土地とられて心労で死んだ。 子供が15だったとさ。 バブルがはじけたってやつだな。
痴漢学校の生徒になって、女性教員から指導を受けたい。
475 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/08/09(火) 23:33:22.50 ID:Lc/HPcR50
大叔父は海軍兵学校37期卒業。 偶然、名前の漢字が俺と同じ。横チンで指令長官したことが あるみたい。先週、横須賀の海自開放に子供と行ったが なんか複雑な思いがした。大叔父の口癖は孤独だったらしい・・・ 人の命を背負って上とは嫌な仕事だね
477 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/08/10(水) 23:00:31.72 ID:Tvr9Do2W0
Wikipeに出てるね、Thanks 指令長官ではなかった、横須賀鎮守府出仕って何だ? 他で指令長官をやったみたいだね。多磨霊園に眠る大叔父の墓参り 行かなきゃな
無天の万年隊付き将校が作戦なんかやったら、 「帝国最大の戦術は夜戦による白兵突撃である」 とかなんとかいって、苦しくなったら死守玉砕命令だしまくる可能性が高いと思うけど。
無謀な突撃を強要し、負けると前線部隊のせいにしたのって、天保銭組なわけだが。 しかも失敗しても一時左遷程度で返り咲く、という……。
精神論や観念論に支配されて、無謀な作戦を考えたりそれを実行させたりする メンタリティを持った人間というのは、天保銭組にも無天組にも相応の比率で居たと思う。 問題は、そういう人間の考えの持ち主よりも、理性的・常識的な考えの持ち主が 冷遇されて「臆病者」「根性無し」みたいな視線で見られてしまい、重要な場所から 追われてしまいがちだったというところの方に問題があったんだろう。 声のでかいヤツの方が勝つ、とまで乱暴な話しではなかったとしても、 威勢の良いことを言ったり、敵を前にしてもひるまない姿勢を見せた方が 上官の覚えが良くて回りにも評価されやすいという環境があったならば、 そちらの方に基準を合わせるメンタリティの持ち主が登場してくるのも当然のこと。 もう少し落ち着いた、地道で地に足を付けた思考法や発想法を重視する空気が 陸軍の中にあれば良かったのに、と思うよ。
481 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/02(金) 20:55:26.68 ID:9ZiKNYEd0
日本人のDNAにすり込まれている特性みたいだから 現代の組織でも見られる。 自分の意見を組織内の空気を読んで貫徹できずに妥協してしまう。
>>479 返り咲きってそんなにいないと思う。
辻や服部くらい?
いや、牟田口や河辺正三、富永恭二なんかの閲歴を見てみれば分かるけど とんでもない大失敗をしたところで予備役編入や軍法会議にかけることもされなかったり ちゃんと最後まで軍籍に留まったりしたりと、かなりの優遇を受けてるよ。 戦争になって軍の規模が拡大して、佐官や将官の人数が大量に必要とされてために 陸士や陸大を出た人間はその欠員を埋めるためにも、なかなか処分され無くって、 前線で失敗して一度引っ込められても、また別の戦線に出されると言うことが多かった。 現場上がりのたたき上げの人間を佐官くらいにまで引き上げる制度があったらなぁ、と 今でも言われてしまうのはそうした「学歴偏重主義」が強かったがゆえ。
484 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/07(水) 11:23:19.08 ID:RuKOq9Do0
陸大出の全員が無条件で優遇されたわけではない。 インパール作戦で罷免された三名の師団長は全員陸大出だし ノモンハンの時も陸大出の連隊長が何人も前線で戦死したり予備役編入になっている。 陸大出だからというより派閥やコネがあって庇い合いをしていたんじゃないかな。
服部卓四郎は、東条英機のお気に入りだったから、何度失敗して一時的に 左遷されても、中央に復帰できたそうだ。 その代わり、東条が失脚したら左遷されたが。
>>483 なんというか、返り咲きっていうよりは
普通に左遷してるだけのように見えるけど。。。
>486 返り咲きというのを「中央復帰」と捉えれば単なる左遷とは言えるけど、 失敗をやらかして予備役編入→軍に呼び戻して軍籍復帰というのは 充分に返り咲きと言って良い待遇だと思うけど。 汚職に絡んでクビになった本社の人事部長が、数年後に子会社の社長に という程度には良い待遇を受けていると思う。
488 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/08(木) 17:26:29.76 ID:RshU+URW0
不思議なのは寺内寿一。 特にこれと言った能力もなく、師団長になる前から長州閥なんざ壊滅状態だったのに 出世街道驀進して遂には元帥に。 特に派閥に属したようにも、属する見識もなかったように思えるのだが…… こいつの大出世だけは分からんw
>>488 そういうことはあったけど、引用先がトンデモサイトなのは
逆効果になるから、ちゃんとしたソースを提示したほうがよい。
>489 >寺内寿一 2・26事件が終息したときに皇道派にシンパシーを示した陸軍首脳が一気に予備役に編入されて、 その時に生き残ったから。 東條英幾が陸軍大臣になれたのも、元はといえばこのときに軍内の序列が一気に上がったから (つっかえていた上の人間が大量にクビになったから)ってのと、地方の連隊や外地にいた 連隊長クラスの人間の中で、いち早く「断固討伐」の電報を打ったから。 2・26事件は、結果的に陸軍内での人事慣行や序列を根底から覆すことになった。 これと荒木陸相時代の皇道派優遇人事(荒木人事)の二つが原因で、明治の健軍以来、 一応は順調に進んできた陸軍内の人事序列が完全に狂った。 昭和10年代の陸軍の暴走は、この内部の人事のゴタゴタが強く影響してる。 寺内みたいな無能な人間が「派閥色がない(統制派でも皇道派でもない)」という 理由で出世したり生き残ったり、派閥色をちょっとでも出した人間が有能であっても 要職に就けなかったり。
492 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/09(金) 13:12:37.86 ID:l3WslYc20
永田鉄山が殺されてなきゃ、あのタイミングで東条英機が陸相になることは ありえなかったから、あんな悲惨な負け方はしなかったんじゃね?
493 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/09(金) 13:15:27.96 ID:l3WslYc20
>>寺内寿一 > >2・26事件が終息したときに皇道派にシンパシーを示した陸軍首脳が一気に予備役に編入されて、 >その時に生き残ったから。 皇道派も、反皇道派も、寺内以外の大将は、全員予備役になったんじゃなかったか?
2・26事件時の陸軍での席次上位は以下の通り。 元帥 閑院宮載仁親王 参謀総長 大将 南 次郎 6期 関東軍司令官 大将 渡辺錠太郎 8期 教育総監兼軍事参議官 大将 林銑十郎 8期 軍事参議官 大将 阿部信行 9期 軍事参議官 大将 真崎甚三郎 9期 軍事参議官 大将 本庄 繁 9期 侍従武官長 大将 荒木貞夫 9期 軍事参議官 大将 川島義之 10期 陸軍大臣 大将 西 義一 10期 軍事参議官 大将 植田謙吉 10期 軍事参議官 大将 寺内寿一 11期 軍事参議官 中将 岸本綾夫 11期 技術本部長 中将 杉山 元 12期 参謀次長兼陸軍大学校校長 中将 畑 俊六 12期 航空本部長 中将 小磯国昭 12期 朝鮮軍司令官 中将 香椎浩平 12期 東京警備司令官 中将 柳川平助 12期 台湾軍司令官 中将 岩越恒一 12期 第3師団長 このうち、2・26事件後予備役編入されたのは川島から上の面々( 閑院宮を除く)だから、 いかに寺内の元帥就任がタナボタ的なものかが分かると思う。 西も植田もこの後は病気だったり、ノモンハン事件の責任を取ったりで予備役に編入されてるるから、 寺内はホントに健康で長く無難に軍務をつとめたから元帥にまで出世できた。 2・26事件の時、昭和天皇の強い意志があったからこそクーデターが挫折したけど、 事態がクーデターを起こした青年将校に有利に運ぶ可能性が相応にあったから、 そうなったときに不利にならないようにと、かなりの数の陸軍首脳がどっちつかずの 態度を取った場面が多々あった。 それまでの派閥争いには中立的で、皇道派の系譜に連なってはいなくとも、事件勃発を機に 「出世する良い機会だ」とか考えて青年将校達に同情的に振る舞う輩も多かったから、 鎮圧とともにそういう連中が一掃されたというのが実情に近いね。
495 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/09(金) 17:21:25.58 ID:l3WslYc20
岸本綾夫はどうして元帥になれなかったん? 先任順位が下の杉山元、畑俊六が元帥になっているのに。
496 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/09(金) 17:55:11.40 ID:bNHnxGvi0
ちょっとききたいんですが、高木惣吉の「山本五十六と米内光政」 でIHYの三人が鼎談してますが、中座するH?のひとが日露戦争の 時には艦長も、司令官も日蓮主義者が多かったって言ってますが 日蓮主義者は軍人におおかったんですかね? 石原莞爾が田中智学の国柱会は知ってますが。
497 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/09(金) 18:26:50.10 ID:l3WslYc20
少なくとも鈴木貫太郎は日蓮宗だな。 秋山真之は大本教で、石原莞爾の国柱会以上に逝っちゃった人。
498 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/09(金) 23:59:16.68 ID:ZvQM4Bxm0
>>495 岸本は技術畑の人間で陸大に行かずに帝国大学派遣学生というコースを歩んだ
ので少し本流からズレていた。
499 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/10(土) 08:57:49.21 ID:2lcsmxLU0
永持源次なんて人も幼年学校、陸士を通じて優等で砲工学校では伝説的な秀才 だったがやはり技術畑を歩んだために(教育総監の命令でフランスに留学した) 中将止りだった。
派閥争いに巻き込まれたくない人は、 進んで技術畑を選んでたらしいですね。
501 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/13(火) 21:46:24.19 ID:h5I1HSji0
>>500 そういうコースの人たちを「員外」と言ったらしい。
砲工学校の高等科を優等で出たあと「砲工学校員外学生」という身分で
帝国大学の理工系学部に派遣されたり留学するんだよね。砲兵工兵ではトップクラス
の秀才がなるわけで彼らの能力は部内では高く評価されたらしい。
しかしどうしても本流からは外れた形になる。
502 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/13(火) 22:45:37.46 ID:tlMfFO8Q0
>>501 日本軍には現代で言うと「国内留学」の制度があったのか。
エリートなのに出鱈目な戦争計画…。 戦争する事自体が目的になり、無茶をやり続け破綻。 とんこつー。
結局、エリートなんて言ったって、偉くなって兵隊を盾にして、自分は死にたくないと 思ってる奴ばっかりだろ。日本国の為になろうと思っていたのかさえもあやしいよ。
陸海軍あるを知って、国あるを知らずってヤツですか。 国の存亡の危機が見えず、所属組織の利だけに目が行ってしまったのでしょう。 国の為に引く勇気があれば……。
今でも、旧社会保険庁の役人とか、保安員の役人とか、そういう例は結構ある。 自分たちの利益を確保するためならば、国家の全体最適性は多少犠牲にしてもかまわない、 みたいな感じの考え方。 外部からの干渉を受けにくい役人組織の通弊なのかもしれないね。 あと、これは直接には関係がないかもしれないけど、当時から「軍人は頭が硬い上に 世間智が無いから扱いに困る」みたいなところがあったみたい。 今で言うと、中高一貫の進学校(男子校)から理系の大学や大学院に進学して 企業の研究職に就職した、みたいな人物像に対して抱く、一般的なイメージを 想像すると類縁性があるような気がする。 自分の専門的なことには異様に詳しいし深い知識を持っているけど、世間的な常識や ごく当たり前の対人関係上必要とされる振る舞いが身についていない、みたいな感じ。 周囲を無視して突っ走って暴走して、どうにもならない事態を引き起こしたってのは こういう「自分たちの常識だけが正しくて、他のヤツの言うことなど気にする必要はない」 というメンタリティの存在も影響していたのかもしれない。
507 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/09/17(土) 16:22:44.60 ID:D3fMhIUG0
日本の陸海軍は、鹿児島の財産を収奪して
http://2nd.geocities.jp/jmpx759/0203/35/237.html 「廃仏毀釈」というわかりにくい明治維新の歴史があるが、
これこそ、薩摩藩破壊の総仕上げだった。
薩摩のくそ坊主らは、仏閣の国宝級の仏像などを徹底的に破壊し、
金属になる釣鐘などは、全て東京に運んだ。
事が終わると、この坊主らは、全員姿を消した。
そして、日本陸海軍の幹部になっていた。
つまり、江戸時代の200年余りで、鹿児島の僧侶は、
全て徳川幕府の隠密に変わっていた。
このような、裏切り者を送り込んで、地域を破壊する戦術は、
日本国内、国外で秘密裏に、大規模に行われている。
このような事を可能にしたのは、もちろん藩主島津家が、
天皇一族で、薩摩に派遣された指示項目を祖先代々忠実に守って、
鹿児島の一般大衆を裏切ってきたからだ。
(仮説を含む)
508 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/11/13(日) 00:35:35.45 ID:QEO5viVn0
みーんな大佐止まりの人ばっかしやったろうにねえ。
510 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/12/07(水) 19:09:53.02 ID:DxRqQ6bd0
>>22 福田赳夫が戦前、中国に行ったときに列車に乗った。
その際、川があり「釣りが趣味なんですよ」との趣旨の発言したら、
その後すぐに列車が止まり、釣りを勧められたってエピソードがあるね。
官・官接待に東條英機は関わっていたの?
陸士海兵って、学力は、いまの東大レベル?入試的には?
>>511 数学なら中学4年終了を前提にしているから微分積分は一から教える。
今の名門高校2~3年生から工専くらいのレベル。もちろん軍事学は別。
入試問題が以前Upされていたけど、今と違うのは制限時間の長さ。
タイムマシンで連れてきても東大入試はクリアできないと思う。
513 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/12/09(金) 15:15:12.18 ID:R1i+TR7a0
>>511 当時は旧制高校の入試問題も中学4年修了程度を基準にしていた。
現代の偏差値感覚にあてはめると海兵は東大並み、陸士は早慶よりは難しい
という程度だったらしい。
採用者数がワシントン軍縮直後の53期が五十人、最終の78期で四千人と変動 が大きいので入学時期による差も大きいと思う。
>>513 余談になるけど、海外の先進国の士官学校もそれぞれの国で
難関になってるのかな?
米国では連邦議会議員等の推薦が無いと受験させてもらえない
らしいから、事情が異なるのかもしれんけど・・・。
もともと士官学校ってのは貴族だけが入れるものだったからね… その点では陸軍士官学校はコネや家柄が無い貧乏人でも受かったから
517 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/12/11(日) 10:38:37.59 ID:bTwtYDJ30
陸軍の場合は幼年学校で軍人志望者を青田刈りしてたからね。 幼年学校が東京のみになった昭和初期では一高三高一ツ橋と同程度の 難関だったと言われている。 陸士海兵は軍人養成の学校だから平時と非常時では採用数に大きな幅が あるので比較は難しいだろうね。
518 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/12/11(日) 12:56:45.32 ID:8FWU8QXk0
採用人員が多い時期というのは軍国的風潮が強い時期で志願者も増加するし 他の時代なら旧制高校を受験したと思われる者でも陸士海兵を受験したりしている ので単純な比較はできない。ただし海兵も昭和18年12月に入校した75期 あたりから明らかに水膨れ現象が出ている。陸士の方は日華事変前は早慶よりは 難しかったが日華事変勃発後採用人員を急増させたので急速に易化して 太平洋戦争が始まる頃には中学校で普通の成績を取っていれば入れたそうだ。
519 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/12/17(土) 02:24:06.08 ID:QZtQoi7l0
520 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/12/17(土) 20:30:57.69 ID:jdtfHrPp0
成績は優秀だったかもしれないが、今ひとつ「何をした」ってのがはっきりしない人ではあるな>信介の兄貴 堀の場合は艦隊派に押されて条約派の有力者として予備役にされたけど、 その時の山本五十六の「堀の頭脳と巡洋艦隊とどちらが大事かわからんのか」という 恨み節の方が人口に膾炙しているし。
陸軍でも幼年、士官、大学校と全て首席の三冠王がいたらしいけど 特に業績は聞こえていないんだよね あんまり出来過ぎるとかえって浮世離れした人間になっちゃうのかな それにしても相沢事件や大角人事みたいなことが無ければ日本の将来も多少は変わったかな
523 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/12/18(日) 02:23:13.12 ID:Yw5RPPVk0
「諸君は昨日の専門家であるかもしれん。しかし、明日の専門家ではない」
524 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/12/18(日) 03:32:04.15 ID:KlsrUDLi0
525 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/12/18(日) 06:21:43.66 ID:t7w4pw8y0
>>22 亀スレだが、東條が最敬礼したのは福田ではなくて岸じゃないかと思うのですが?
福田が満州にいたって話しは聞いた事がない。帰しはお願いされて満州で、東條と並ぶ
切れ者だったらしいけど。
526 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/12/18(日) 08:55:32.01 ID:IL4vGuIG0
>>525 その話は福田だ。陸軍担当主計官だから。
527 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/12/18(日) 09:28:22.69 ID:6d3oE45i0
昭和期に陸軍大将になった人物は60名いるがその中で陸士で 優等賞を授与された者は数名しかいない。 山口宗之「陸軍と海軍」によれば海兵首席卒業生の約半数はそもそも 将官になっていない(当時のことだから早死にした人もいたかもしれんが)。
528 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/12/19(月) 21:34:00.60 ID:QakhE+eo0
>>526 教えてくれてトンクス。東條さんに関する本かなり読んだけど知らなかった。
何科東條さんのエピソードで氏らなそうなのあったら教えてくだされ。
かんぴょう巻の事や相撲観戦ぐらいのかなりマニアの知識を
529 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2011/12/20(火) 22:38:14.89 ID:vRgoZVsp0
>>528 福田の自慢話だよ。
二、三年前の読売新聞に掲載されていたよ。
この間、江田島で兵学校見学してきたんだけど観光客すごかった。 なんであんなに人気あるんだろ。。。
平日だと一人か二人って時もあるけどね。
532 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/01/07(土) 21:56:03.92 ID:/R5B6IJh0
坂の上の雲でロケ地だったからね。 赤レンガの校舎で秋山真之や山本五十六が勉強していたかと思うと 不思議な気分になったよ。
現役武官大臣出さないで内閣潰し、年功序列の糞組織で 敗戦の一因を作った糞学校
534 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/01/10(火) 00:08:52.91 ID:XznVV1xC0
>>501 歩兵戦術は三兵(陸軍の教育は基本三兵だけw)なら経済学の方が難しいくらいだけど
砲工は高度な微分積分や力学なんかがいるから
頭の程度なら陸軍でも上の方でないと務まらないはず
瀬島や辻 服部はみんな歩兵出身だよね
辻ーんはどう考えても連隊長よくて師団長向きの人間だからな…
海軍機関学校ってなんで出世遅いの?
おふねは航海士が表方で、機関士は裏方という意識があるから。
538 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/01/10(火) 13:53:29.17 ID:Bdjso60y0
>>534 >砲工は高度な微分積分や力学なんかがいるから
頭の程度なら陸軍でも頭の程度上の方でないと務まらないはず
砲工でも最も成績の良い者は「員外学生」という身分で技術専門家になった。
>辻ーんはどう考えても連隊長よくて師団長向きの人間だからな… 連隊長と師団長では求められる資質が全く違うんだけどね
つじーんや長さんは連隊長なら最強のキャラだよな。 牟田口だって名連隊長だったわけだし。
>539 師団長と連隊長ってどんな風に違うのかな? 個人的には「規模の違い」くらいにしか認識してなかったけど、 確かに師団と連隊とではいくらか位置付けが違うみたいで、 師団長に求められる資質と連隊長に求められる資質とに、 どんなふうに差違があるのかについては興味がある。
簡単に言えば独のロンメル将軍 「師団長が前線に出ていて連絡とれません」では戦争できないだろ 逆に連隊長が司令部に閉じこもって前線の実情が分かりませんっていうのも場合によりけり そのボーダーラインが師団長と連隊長 あと決定的に違うのが師団は独立して行動できるが連隊は師団に追従しないと連隊単体では戦争できない ロンメルは師団長としての教育を受けていないから「本国は十分な補給を送らない」とかいうトンチカンな愚痴がでてくる
>>542 ロンメル将軍は前線における部隊の指揮官としては極めて優秀だったけど、
軍全体を統括する司令官としては不向きだったということなのかな?
あぁ悪いTVみながら書いてたんで結文が抜けてるわソレ 連隊長までであるなら目前の敵のことを考えておけばすむが師団以上では戦争全体を視野に入れねばならない そのために師団は独立して行動できるように編成されている ロンメルのアフリカ軍団であれば独伊の補給能力内で可能な作戦を立てるべきであるのに 連隊長以下の判断能力しかないロンメルは補給可能なラインを超えて自滅した
北アフリカ戦線が佳境の1942年5-9月に、独伊本国が送った物資の3/4が 地中海で沈められちまったんだから、ロンメルに責任押し付けるのは無茶だろ。 独伊は北アフリカで闘う前に、全力でマルタを陥して制空制海権を得るべきだった。 ロンメルは補給が不足しても、敵から鹵獲した兵器や物資で闘い続けたんだから、 大したもんさ。チャーチルが称賛するだけの事はある。
話は戻るけど、<542>さんの考え方に拠れば、 師団は戦略単位の兵団で、連隊は戦術単位の兵団として考えればいいのかな? ただ、それって規模の大小の問題で発生するものであって、 中隊長・大隊長と連隊長という関係でも同じ理屈が成り立つような気がするし、 師団長とその上の軍司令官・方面軍司令官との間でも成り立つ理屈のような気がするんだけど、 その辺はどうなんだろう。
>師団長と連隊長ってどんな風に違うのかな? 連隊長までであるなら目前の敵のことを考えておけばすむが師団以上では戦争全体を視野に入れねばならない >規模の大小の問題で発生するものであって WWUの頃は師団以上・連隊以下には明確な線引きがあることを説明しているのであって 線引きの上位間・下位間の違いを説明しているわけじゃないよ 当初の話題ではロンメルの話が例えとして丁度良いと思ったんだけどなぁorz 尋ね方が丁寧でなければイチャモン付けたいだけの変な子かと勘違いするところだよ >546の上段はo.k.下段は何を言っているのか分からない横道に逸れていないかな 師団は戦略単位の最小であるから本来将校教育が必要なんだがドイツ陸軍の鬼子であるロンメルは 国家としてソ連と北アフリカの政治的価値の比較ができなかった 下世話な話に例えると、女と姦りたい盛りの中高生並みの性欲保持者がロンメル 大人になったら自制しなければいけないのに目前のイギリスを追いかけ回すことに血眼になっていた情けない子だからロンメルは「優秀な大隊指揮官」と言われる所以 この辺は牟田口も同じだね まぁ牟田口は陸大でてるけど…
>547 >WWUの頃は師団以上・連隊以下には明確な線引きがある その線引きがあまり明確なモノのようには思えないようなところがあるんですよ。 中隊・大隊・連隊・師団・軍・方面軍と、徐々に兵団としての規模が大きくはなっているけど、 このうちで連隊と師団のあいだにそれほど大きな位置付けの違いがあったようにも思いにくくて、 どちらも「単にその規模(抱えている人数)」に違いがあるだけで、陸軍という組織の中で この二つを「明確に違う方向性を持つモノ」として位置づけてはいないように感じてしまうんです。 師団を戦略単位で考え、連隊を戦術単位で考えるというのは、単にそうした指向性を持った 師団長や連隊長がいたらそのように考えるし、そうでない指向性を持った師団長や連隊長だったら 師団を戦術単位として作戦を考えたりすることもあったのではないのだろうかな、と。
師団の編成表と 連隊以下の編成表をみてね いい加減スレ違いだし軍板の質問スレででも続きをどうぞ
まぁ話題も無い様なので、横から上の議論を簡単に補足すると、 近代における師団と連隊の大きな差は、輜重兵が付属してるかどうかだ罠。 師団には輜重兵連隊が付属しているが、連隊単位では輜重兵は付属していない。 つまり連隊としては、独立して兵站を賄う必要性を放棄しているイコール 戦略単位としての運用は考えられてないってことだ罠。 師団以下の戦略単位としては独立混成旅団などがあるが、この場合にも 輜重兵中隊などが付属している。
戦前、陸軍は航空士官学校を作ったけど、将来的に 空軍の新設を見込んでいたんだろうか?
憲法を変えないと 空軍独立は無理だから、 それは無理っぽい。
>>552 明治憲法に陸海軍という文言を書き込んでしまったことが失敗だったのかねぇ。
陸海軍などと軍種を限定せずに素直に軍とだけ書いておけば、その後柔軟な
対応が可能だったのかもしれないな。
554 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/02/09(木) 00:53:44.74 ID:QRYrQ9N40
陸軍内部には空軍独立論もあったが海軍の強硬な反対にあったらしい。 そこで陸軍は陸軍の航空隊を準独立的なものにしようとして航空総監部や 航空士官学校を作ったといわれている。
555 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/02/09(木) 01:23:36.44 ID:q+vEkHpi0
ものすごい勉強して超エリートでも戦死したり処刑されたら意味ないと思うんだけど。 アメリカもイギリスも同じくらいの難関だったんでしょ?そんだけの頭あるなら、死なない 方へ就職するよ。
>>555 欧米の士官学校は入るのには、コネなんかが必要だったけど
日本の士官学校では、皇族以外の入学はテストの結果で決まったからな
結果として、上流層が集まり易い欧米と成り上がりが集まり易い日本
>>556 アメリカの士官学校は、受験する際に出身州選出の連邦上院議員からの推薦が必要らしいよ。
どの受験生を推薦するかは各連邦上院議員に任されているらしいが、
議員によっては受験希望者を公募して議員主催の公開試験の成績と
議員自身による面接結果とで推薦者を決めるらしい。
ただ、ここまで丁寧にやる議員は少ないらしく、露骨にコネで決める議員も珍しくないそうだ。
>>557 アメリカでは一般大学卒業者でも卒業後に軍に
入隊して将校になる人も多いんだっけ?
>>558 日本の自衛隊もそうだよ。防衛大学卒と同じくらいの
一般大学卒を幹部候補生として採用している。旧軍は戦時の臨時措置
としてしか考えていなかった。
560 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/02/09(木) 21:25:37.86 ID:q+vEkHpi0
金がなくて頭がよくて勉強するなら、俺なら防衛医大に行って医者になる。
>>560 一般国立大学医学部でもへき地勤務を約束すれば奨学金月二十万円くらい
もらえるよ。貧乏な秀才は医者を目指そう。
いっておくが、医者は手先の器用も要するという事をお忘れなく
戦になれば軍医かて最前線に行くがな
>>558 パウエルとかその典型じゃね?
大学に士官候補プログラムがあってそれ受けて単位取れると
卒業後士官になれる。
普通の授業と並行で士官学校みたいなことやるから地獄だと思うけどな
565 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/02/26(日) 16:55:34.11 ID:g2EbkfGA0
権門上に驕れども国を憂える誠なし 財閥富を誇れども社稷を思う心なし 嗚呼人栄え国滅ぶ盲たる民世に踊る 天の怒りか地の声かそもただならぬ響きあり 民永劫の眠りより醒めよ日本の朝ぼらけ 今の日本もこれと同じ状況なのが悲しいね
>>565 右翼の歌だけどなんか共産主義に似ているね。
569 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/02/28(火) 22:41:06.92 ID:SkZpw41X0
決起した青年将校の心情はこの歌詞に集約されているな。 功名何ぞ夢の跡消えざるものはただ誠。 人生意気に感じては成否を誰かあげつらう。
……WWU終盤、1945年8月、
ポツダム宣言受諾になんとか持っていって、
多くの人命を救ったのは、
>>565 の歌詞作ったやつとアタマん中おんなじの、
226の連中が殺し損ねた
鈴木貫太郎と岡田啓介だけどな。
571 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/02/28(火) 23:34:00.95 ID:rOvSTT0j0
>>560 しかし近代国家にとって必要とされるのは計画性と言うか合理性なんだよ。
青年将校ら皇道派と対立した石原莞爾らの統制派が勝ちを収めたのも必然とは言えば必然。
意外なことに、皇道派は中国への侵略には反対だったらしい。
572 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/02/28(火) 23:36:44.14 ID:rOvSTT0j0
573 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/02/29(水) 22:10:37.16 ID:6UIWe5h80
>>571 石原は徒党を組むのを好まず一匹狼だった。
統制派の中心人物ではないよ。
東京は雪だな。
雪と言えば二二六事件、桜田門の変、赤穂浪士討ち入りで都の雪が
血にそまった。これも天の演出だったのか。
574 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/03/01(木) 21:25:25.87 ID:jlUqgaRg0
>>573 中心人物は永田鉄山だが、惜しいことに226の前に暗殺された。
575 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/03/01(木) 22:00:38.50 ID:jMITAxEv0
石原は226事件の時単身首相官邸に乗り込んで栗原らを説得した。 それを伝え聞いた天皇が石原はわからん男だねとつぶやいたとさ。 皇道派と考えていたんだろうね。
576 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/03/02(金) 02:04:50.13 ID:d+a61Z9E0
陸軍統制派が作ったと思われる所謂「陸軍パンフ」。これがなかなか面白い。 近代戦に対応するために、国家の近代化と改革を説いている。当たり前といえば当たり前なことだが。
スパイを養成した中野学校は成果を残したんだろうか?
578 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/03/03(土) 18:32:47.18 ID:P9gQnozI0
さあ、良くわからんけど。 情報工作活動は何処の国もやっている非常に重要な国際活動だが、戦後日本ではその重要性は軽視された。 もっとも戦前でも、その重要性の認識があったか疑わしいが。
佐藤優の本に、対露関係で中野OBの人がある程度役割はたしてるような記述があった気がする。 小渕恵三の叔父が中野出身だったとか。 戦前・戦中、参本作戦課が、参本二部(情報)のあげて来る情報軽視してたというのは聞くね。 堀栄三が台湾沖航空戦の戦果について情報あげたのに瀬島が握り潰したとか。
580 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/03/03(土) 21:17:17.96 ID:P9gQnozI0
情報工作活動の重要性を理解した個人が個人的にやっている感じだな。 国家として、重要なものと位置付けて組織的に情報収集・分析しているわけではなさそう。 独ソ開戦が迫っているのに松岡は日独伊ソの4国同盟を夢見て日ソ不可侵条約を結んだんだが、情報なかったのかと思う。 ま、あのスターリンでさえ予想してなかったのだから仕方ないか。
陸大出の優等生(いわゆる「軍刀組」)は、参謀本部の作戦部や陸軍省の軍務局などに配置されて、 情報部とかに回されるのは2流の人間、みたいな雰囲気だったみたいだね。 実際には情報担当の部署の人間にも有能な人間はいたんだろうけど、組織として 「作戦屋重視・情報屋軽視」という風潮が出来上がっていたのでは如何ともしがたいわな。
このあたりは情報重視のアングロサクソンとはまったく逆の人事政策だよね。 アメリカでは成績順に、情報将校>作戦将校>野戦将校という配属をしてたらしい。 士官学校時代成績最優秀だった情報将校たちが収集・分析した情報を、 作戦将校たちが信頼をおくという態度を作り出すという深慮遠謀だったらしい。 野戦将校からみると最優秀の情報部門それに次ぐ優等者の作戦部門が作り出した 大枠としての作戦計画に信頼を置き戦場の現場でそれらの意図を実現するべく頑張る。 こういう構図だったらしい。情報にIntelligenceという単語を当てているところに彼らの意識がうかがえるね。 ウエストポイントが開校にあたってフランスのエコール・ポリテクニックをモデルにしたのも面白い 教官候補者を多数留学させてその運営思想を取り入れたとか。 アメリカ陸軍の技術重視・兵站重視の姿勢はここに源流があると思える。 日本の陸軍士官学校が技術や兵站を軽視してきたのとは対照的だね。 アメリカの影響が強い防衛大学校が圧倒的な理工系重視の傾向を持っているのは興味深い。 高級士官の素養としては、理工系的なリアリズムが重要だと思う。 たとえ、人文・社会系の採用区分であっても、理工系的素養は欠かせないと思う。
>582 日本の場合、作戦重視・情報と兵站の軽視ってのは、日清・日露あたりの近代戦に 入るか入らないかくらいの頃の戦争の戦訓が金科玉条になってしまったところに不幸があったって気がする。 兵站力や技術力ではロシアの方が上回っているのを承知で戦争を始めたもんだから、 「作戦の優劣でもっていかに勝利を獲得するか」みたいな作戦重視の思想が強くなっちゃった。 戦争ってのは原則的に「敵の用意した火力に対して、それを凌駕する火力をぶつける」という 方法でしか勝ちを得られないもんなんだけど、「劣勢な火力でも、作戦さえ優れていれば(あと、兵士の士気さえ旺盛ならば)勝てる」みたいな 精神主義がハバを効かすようになっちゃった。 日本海海戦がそうした「作戦至上主義」に拍車をかける結果を出しちゃったからね。 実際には、日露戦争での個々の陸戦場では「相手を上回る火力を用意出来た場面でしか勝ちを得られなかった」というのを 軍の中枢ではちゃんと認識していたんだけど、その戦訓はあまり表面に出てくることが無くて、 「五分五分の火力を用意できた戦場では、士気の高い方が勝てた」というのを重視してしまったのが原因らしい。 敵方が崩れたときに追撃をしていれば相手を殲滅できたのに、 指揮官が怯んでしまって追撃をかけなかったという場面を重視して、 「戦意の旺盛な方が勝つ」という戦訓を導き出してしまった。 実際には「(五分五分の兵力ならば)戦意の旺盛な方が勝つ」というのが本当なのに。
>>582 > アメリカでは成績順に、情報将校>作戦将校>野戦将校という配属をしてたらしい。
今の自衛隊の人事ってどうなってんだろね。
>>582 英国では諜報活動というものに対する評価は高いというけど、
同じアングロサクソン系の米国では、一般社会の間においては
あまり好まれないらしい。
>>583 あとは江戸時代以来の武家社会にあった、素破・乱破に対する蔑視の影響もあったと思う。
帝国陸海軍の中核を構成する層は、士族出身の者が多かったせいか、
武士道的気風が組織文化として根付いていたと思う。
武士道的気風の価値観から見れば、素破・乱破というのは蔭でこそこそと卑怯なことをする奴に見えたと思う。
>>585 英国では諜報活動は知的エリートの仕事と考えられている。
パブリックスクールを経てオクスブリッヂで歴史や古典学を学んだというのが典型的な英国エリートの経歴。
サマセット・モームやグレアム・グリーンのような作家も諜報活動に従事していた。しかも、かなり有能だったらしい。
一般社会では好まれていないかもしれないが、米国でも諜報活動はエリートの仕事らしいよ。
知人が親しくしていた米軍関係者の息子(当時高校生)が
「親父がラテン語で話しかけないと応えてくれない」と嘆いていたという話を聴かせてくれた。
米国人でラテン語にこだわるというのは人文・社会系のかなりのインテリの姿。
私が「その父親はアイヴィーリーガーだったんじゃない?」と尋ねると、「イェール出身だだってさ」との応え。
それなら「その親父さんは軍の情報部門じゃないの?」と再度尋ねると、「そうらしいよ」との応えが返ってきた。
ああやっぱり米国は英国の末裔なんだなと得心がいった次第。
ちなみに、ペンタゴンで出世している職業軍人はドイツ系出身の人が多いらしい。
アメリカで最大勢力のエスニックグループが実はドイツ系だから当然かもしれないけどw
>>587 エリートと一般人との乖離が大きいのかもしれんね、アメリカという国は・・・。
アメリカの一般家庭で行われる教育で最も重視されるのは、「正直であれ」
ということらしい。
諜報活動は、「正直であれ」と云われることと正反対の活動だから、
一般人から嫌がれてもおかしくはない。
>>588 >諜報活動は、「正直であれ」と云われることと正反対の活動だから、
多分、このあたりの認識が、アングロサクソンのエリートたちの認識とは違うのだと思うよ。
Intelligenceは、実は公開情報の収集・分析の地道な活動が9割以上を占めていてこちらこそがメイン。
違法な情報収集や謀略・破壊工作活動は、実は補充的なものにすぎない。
公開情報の収集・分析がメインだから、Intelligenceは調査・研究活動の延長線上にあるものと考えられている。
Intelligenceを専門とする政府職員の大半は、地域研究、外国の言語・文化、開発経済その他諸々の研究者といってよい。
やっているいことは学者そのものだよ。こう考えれば確かに知的エリートの仕事なんだよね。
ちなみに、日本のアジ研なんかは、アメリカ流で言えば立派なIntelligence機関となるww
>589 >Intelligenceは、実は公開情報の収集・分析の地道な活動が9割以上 一般企業で言うなら、市場調査部とか基礎研究部門とかに相当するのかね。 新商品開発とか最新鋭の生産設備とかが耳目を集めやすいけど、 顧客が何を欲しているのかとか、新技術を生み出すための地道な研究とかが 蓄積されてないと何にもできない、みたいな。
>>590 そう考えても大きく外れないと思うよ。
そうそう、マイケル・ポーターの『競争の戦略』に、
業界分析や競争業者分析の手法が出てくるけど、
あれなんか企業行動のためのIntelligence活動と言ってもいいと思ったよ。
方法や対象が違うだけでやってることの本質はそんなに違いがないよね。
陸軍中野学校には二俣分校という分校が存在したけど、 ここも特異な教育を行う学校だったみたいだね。
百姓の子を学校に詰め込んでもエリートにはならないといういい見本だ 単なるテストで点を稼ぐアホ止まり 最後は国を亡ぼす 原発御用学者に通じるものがあるね〜w
>>593 それ本当に言えるかもね。
確かに勉強が出来ることに越したことはないけど、それが全ての絶対評価にはならないと思うよ。
出来るか出来ないかは百姓上がりの軍人仲間の内輪褒めなんだよね 所詮井の中の蛙 元百姓の貴族なんてのも居たから敗戦前もエリート層()は悲惨な状況だったのだが 日本にノブレスオブリージュが根付かなかったのも薩長の土百姓が貴族ごっこやったからだ 軍部も作戦失敗で部下を大量に殺しといて温情で左遷しないとかw 原発の過酷事故も敗戦で主権を失ったのも失政だろ 関係者は末裔ごと吊るされて当然の連中
陸軍士官学校53期生 難波敏明 万歳! あなたは、愛と優しさと教養と男らしさに満ちあふれた素敵な日本男子でした。 本当に、ありがとうございました。 平成24年4月27日 17時40分没
国を亡ぼして立派も糞もない 出自を恥じろ
記録画でたどる旧海軍の歴史
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/hiroshima/4004947161.html 旧日本海軍の歴史を、戦場の様子を記録するために描かれた「戦争記録画」でたどる展示会が、呉市の大和ミュージ
アムで開かれています。
大和ミュージアムには、旧日本海軍が画家に記録用に描かせた「戦争記録画」と呼ばれる油絵や版画など約60点が
展示されています。このうち、「三笠艦橋の図」は、日露戦争中の明治38年にあった日本海海戦を記録したもので、
ロシアのバルチック艦隊を破った連合艦隊の旗艦「三笠」の艦上が描かれています。
三笠には艦隊に奮戦を促した信号旗のZ旗が掲げられ戦いを目前に控えた連合艦隊司令長官の東郷平八郎や参謀の
秋山真之らの姿が描かれています。
また、「上海閘北の激戦」という作品は、昭和7年に日本軍が中国の上海で建物を砲撃する様子を描いたもので、
セーラー服を着た海軍の兵隊も戦いに参加しています。戦争記録画はこの頃から、記録を残すという目的だけでなく
国民の戦意高揚に利用され始めたということです。この展示会は5月21日まで開かれています。
陸軍士官学校って 寺内寿一みたいに親が軍人だと入りやすいイメージ。 華族や皇族等、ほぼ専用校みたいな学校だったの?
600 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/15(金) 23:35:46.26 ID:hdNtifXi0
>>599 幼年学校は授業料をとっていたけれども
軍人で戦死した遺族の子弟は減免されていた。
試験で優遇とかはない。
華族や皇族の子弟はお客様待遇で入学していた。
三笠宮は高松宮の海兵の軍服姿に憧れて海兵を希望したが
選択する自由はなく幼年学校に入った。
試験での優遇はないって言っても、実際問題として幼年学校を卒業していさえすれば かなり高い確率で士官学校に入ってたのをみても、やっぱり有利だったのは間違いないでしょ。 はじめから陸士に入れたいという希望を持っているのであれば、受験対策としても 幼年学校に入るのはかなり有利に働く場合が多かったんじゃないかな。
602 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/16(土) 10:52:46.89 ID:s1G08Mqi0
>>601 貴兄は誤解しているようだね。
幼年学校を卒業すれば自動的に陸士に入学するシステムになっていたんだよ。
陸士では幼年校出身が中卒出身を蔑視する傾向があった。
ようやく受かってきたかと言う気持ちがあったんだろうね。
603 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/16(土) 12:47:01.78 ID:8CxC7bveO
そうそう、どちらの方か存じおりませんが、本邦ではお国とは制度が違います
604 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/16(土) 17:36:50.40 ID:QPb6f//10
>>599 >寺内寿一みたいに親が軍人だと入りやすいイメージ。
幼年学校は高い学費をとったけど軍人の息子には半額免除という恩典があった。
それだけでもかなり入学しやすくなる。そして幼年学校を卒業すれば全員が自動的に
陸士に進学する。軍人の身分の世襲化を狙う目的もあったんじゃないか
昭和期の将官の経歴をみても親が高級軍人で自分は幼年学校出身というのが多い。
東条だって父親は中将で自分は幼年学校出身。
605 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/16(土) 19:31:33.67 ID:VpvQ5W5u0
軍制史家の松下芳夫が戦争中に筆写した教育総監部の資料によると (よく引用される文献だが)「陸軍の将校は上流家庭の息子が望ましい」 という意味の文章があるそうだ。野村理栄子「陸軍幼年学校体制の研究」 にも「明治の陸軍首脳は貧乏人の息子が将校になるのを望んでいなかった」 という意味の事が書いてある。結局将校の息子が将校になるのを望んでいたんじゃないか。
>>600 試験で優遇とかは無いのね
一般人は試験で選抜で、皇族や華族は推薦枠とかあると誤解してた。
>>604 陸士に入るより、幼年目指した方がいいのか・・・
>>605 それは薩長閥の独占を狙ったのかな? それとも、単純に上流家庭のほうが
育ちが良いって点で「望ましい」かな。
幼年学校の弊害として、純粋培養故に世間知らずと聞いたが、そうなんですか? 今村均とか栗ちゃんは普通に受験して陸士に入ったんだよね?
>>606 海軍には幼年学校がなく中学卒業生が海兵に入学することになっていたのに、
陸軍では中学卒業生のほかに幼年学校という別ルートを設けていた理由として
以下のようなことが表向きの説明とされていた。
海軍がモデルとすべき海軍国も仮想敵国も英米であり諜報活動もほぼ英語で足りる。
英語でよいのなら優秀な中学卒業者を教育すればその任に堪えられる。
これに対し、陸軍がモデルとすべき陸軍国も仮想敵国も多種多様。
英語以外にもドイツ語・フランス語・ロシア語・中国語など。
陸軍の諜報活動に必要な外国語教育を中学卒業後に始めるのはあまりにも遅すぎる。
幼年学校はこれら英語以外の外国語の教育のためには必要不可欠である。
でも本音は、代々陸軍の士官を務めるという階層をつくりたかったのではないかと思う。
欧米の士官は貴族あるいは上層の階級の出身者がほとんどだから。
>607 >幼年学校の弊害として、純粋培養故に世間知らずと聞いたが、そうなんですか? もともと陸士出の職業軍人という存在自体が世間知らずになる傾向があるけど、 幼年学校出身だとなおさらだったろうね。 公務員と同じで、収益を上げたり生産性を向上したりといった苦労をせずに、 組織内の論理で要求される仕事をこなしていればいいだけの環境にいると、 どうしたって世間の動きや感覚からは取り残される場合が多い。 >今村均とか栗ちゃんは普通に受験して陸士に入ったんだよね? たしか今村あたりの年代は、日露戦争の最中で陸士が定員を大幅に増やした頃だから 幼年学校出身者だけではとても定員を賄いきれなかったんだろうね。 結果的に中学校出身者に門戸が大幅に開かれたおかげで、比較的バランス感覚のある人材が 多めに出たのかも知れない。
610 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/16(土) 23:54:32.38 ID:EQDIkeQt0
>>606 皇族や華族にはノブレスオブリージユが要求されていたからね。
高貴者の義務として軍の学校に行ったのだろう。
ちなみに一般の生徒と寝食を共にすることはなく皇族舎で生活した。
陸軍は幼年学校出身者が軍の中核を担うべきものと考えられていたからね
611 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/17(日) 00:42:55.29 ID:/p5Tpy0o0
戦前「陸士は軍人の息子を優先的に入学させる」とか「幼年学校は軍人の息子 しか採用しない」という噂があったそうだ。あくまでも噂だし事実をしらべれば 必ずしもそうではないけれどそういう噂が流れるような雰囲気があったんだろう。
>>600 「母宮貞明皇后とその時代」のインタビューで三笠宮は兄達が陸軍、海軍で取り合いあったが自分の時はどっちでもいいよって雰囲気だったと言ってる
でなんとなく陸士行き
幼年学校には行っていない
613 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/17(日) 13:00:39.60 ID:AtjwpVTo0
実際問題として公立中学の4倍、私立中学の2倍という学費を払って息子を
幼年学校に入れようとする家庭はそんなに多くなかったんじゃないか。
結局学費半額免除の恩典がある軍人の息子が多くなったんじゃないか。、
そして軍部としてもそれが真の目的だったんじゃないか。
ただ
>>606 のように藩閥維持が目的だったというのはうがちすぎだと思う。
1897年に開校した6校の地方幼年学校の配置をみても一応全国に万遍無く
配置されている。
>>608 幼年学校を語学教育の必要性で正当化ですか。
欧米の士官も幼年学校に相当する教育機関はある?
>>610 ああ、逆に皇族の男性には軍人になれって、無言の圧力も当時ありそう・・・
615 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/18(月) 20:42:44.50 ID:iNjfmgBg0
>>613 そうなると幼年学校生徒のリクルート源が限られて来るよね。
それにしては陸士陸大の成績上位者に幼年学校出身者が多かったってどういう事?
616 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/18(月) 23:23:53.17 ID:rDjkCtNF0
>>615 それは定員50名の幼年校が6校あったからだろう。
中卒受験組で陸士の定員の増減を調整していた。
6校体制の下では中卒組は少数派だった。
ちなみに瀬島龍三が受験したときは軍縮によって東京の1校だけだったらしい。
617 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/18(月) 23:33:41.85 ID:QZav9m8g0
>>616 >6校体制の下では中卒組は少数派だった。
それはおかしい。陸士は明治三十年代から大正中期まで毎年700名前後を採用し
そのうち幼年学校出身者が300名、中学出身者が400名というのが普通だった。
618 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/18(月) 23:50:46.10 ID:/YQaSJVD0
>>610 陸軍では陸大卒と並んで幼年学校出身であるか否かが出世に重要だった。
シャバ気の多い軟弱な一般教育を受けてきた人間は軍としては厄介だという認識があった。
619 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/19(火) 00:27:36.27 ID:skXRtRXS0
>>617 資料をあらためて見るとあなたの指摘が正解ですね。
どうして間違った思い込みをしていたのか思案中です(笑)。
620 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/19(火) 00:46:10.09 ID:YHQgQ1Ck0
>>619 お前は自己の誤りを潔く認める実に好感の持てる奴だ。
お前こそ陸士予科に入校するに足る男だ。
世が世なら、陸軍をその双肩に担ったに違い無かろう。
>>614 >
>>608 > 幼年学校を語学教育の必要性で正当化ですか。
> 欧米の士官も幼年学校に相当する教育機関はある?
昔テレビで刑事コロンボを見ていたら、私学の幼年学校を
舞台にした話があった。
おっす、オラ児玉源太郎。 いっちょやってみっか! 乃木希典乃木希典乃木希典ちゃらら〜♪
私学の幼年学校・・・ 日本でいうと東京振武学校みたいなもんか
現在の成城高校(新宿)は明治時代は築地にあって陸軍の幼年学校の役割をしていたんだね
625 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/20(水) 22:39:46.90 ID:9Z+w5SRM0
>>612 戦死した大叔父(50期)の予科卒業記念写真帳に3人の人物が写っている。
三笠宮(48期)ー本科卒業なのに勲章を3個つけて予科にも載せている。
東条英機少将ー前幹事の肩書きで冷や飯を食っていた時期のようだ。
津野田知重生徒ー陸士生徒では珍しく眼鏡をかけている。親は乃木将軍の側近参謀。
東条暗殺計画の当事者が同じアルバムに写っているのがなんとも奇縁を感じる。
626 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/21(木) 06:42:10.72 ID:yTk6tOM/0
アナログ時代でも、写真屋さんは職人技で画像処理するから。
627 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/21(木) 20:20:20.94 ID:NAxGPUxg0
大江志乃夫なんかは「日露戦争の軍事史的研究」のなかで「陸軍幹部は幼年学校によって 自分達の地位の世襲化に乗り出した」と書いていたな。 ところで幼年学校って偏差値はどれ位だったんだろう。 中学1年修了の段階と中学4年または5年修了の段階とではまた違うかもしれんが。
やっぱ権力握りたいからだろうね。 能力より出身。 まあ能力が一番とは言えないが。
629 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/22(金) 13:28:00.57 ID:oNIdzA1g0
>>627 あのおヒトは自分の黒歴史を誤魔化すために他者に攻撃的なお方ですから。
630 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/22(金) 21:14:10.41 ID:gLURE+0v0
>>626 ウイキぺディアをみると
陸士在学中の1935年(昭和10年)に成年式に伴い三笠宮の宮号を賜り
同時に大勲位に叙せられるとある。
この時に勲章をもらったんだろうな。
文武両道のエリートが集まった割にはあんな自爆戦争をやらかして…。 組織としては欠陥があるし、視野の狭い判断が伺える…。 総合的な人間教育は教育課程にはなかったのだろうか? あと、明治と昭和で何故こんなに軍人の質に差ができたのだろう?
>>631 > あと、明治と昭和で何故こんなに軍人の質に差ができたのだろう?
士族と平民の差。
>>632 もともと士官は貴族階級(武士)だからなあ。
>>631 >あと、明治と昭和で何故こんなに軍人の質に差ができたのだろう?
「売家と唐様で書く三代目」だろ。
海軍兵学校で気になったのは 太田中将とかが海軍陸戦隊を代表する人物みたいだが それ専用の特殊な授業(訓練)を兵学校時代に受けていたのであろうか? それとも、卒業した後で独自研究?
>>631 > 文武両道のエリートが集まった割にはあんな自爆戦争をやらかして…。
> 組織としては欠陥があるし、視野の狭い判断が伺える…。
> 総合的な人間教育は教育課程にはなかったのだろうか?
> あと、明治と昭和で何故こんなに軍人の質に差ができたのだろう?
明治の指導者達が優れていたのは明治維新を経験したからと
本で読んだことがある。
637 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/27(水) 07:40:26.64 ID:1qHHsjUQ0
>>636 陸士海兵の成果が出たのは戦後企業戦士としての活躍だな。
敗戦が第二次の維新であるといえる。
638 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/27(水) 07:48:40.69 ID:U0S3z2bw0
>>635 海軍兵学校出の士官は大尉ぐらいて各専科学校に入学して畑を選ぶけど
海軍砲術学校には陸戦専科教育の課程もあった。
>>638 なるほど、海軍砲術学校が養成所か、どうも
640 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/27(水) 22:11:36.77 ID:1qHHsjUQ0
>>639 教員は陸軍で講習を受けていた。敬礼が肘を張る陸軍式になったそうだ。
>631 >総合的な人間教育は教育課程にはなかったのだろうか? 近代的な軍事組織というのはそれを適切にスムーズに動かすためには 膨大な軍事的知識と専門的な知見が必要とされる。 陸士も陸大も、そうした専門バカを育てることに特化した教育機関であって、 民政・経済・外交などの国家の全体的な舵取りを行うことの出来る人材を 育てることを目的とした場所ではない。 明治期の軍部出身の首相が、全体的な見通しをもった国家の舵取りを行い得たのも 陸士や陸大などの軍事的な専門バカを育てる場所で教育を受けたのではなく、 藩校などの正統的な教育機関で「士族」としての基礎的な教養を身につけていたり、 幕末〜明治の動乱というシビアな環境の中で実践的な知識や技能を身につけていたから。
642 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/28(木) 19:37:11.26 ID:1fwEHAyl0
>>641 専門知識以外に般教いれろよアホw
一般常識のない辻政信みたいのが大暴れするだろw
643 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/28(木) 20:50:20.38 ID:9JAreh5U0
我が国の軍隊は世々女郎屋の統率し給う所にぞある。 昔、天照大神、おおまらのつわものどもを率い、 中つ穴に入れ給わぬ者共を打ち平らげしより、 ここに二千五百数十回、 その間、体型の変化もしばしばなりき。
>642 一般的な教養を身につけさせようとすると、自由民権運動やら大正デモクラシーやらに かぶれてしまうことになるのを恐れて、あえてガチガチにカリキュラムを固めて全寮制にして 自由を奪い、余計な思考をさせないようにしていた、という説もある。 大正中期から昭和初期においては、共産主義・社会主義思想の勃興期だったこともあって、 そっち方面にかぶれてしまう若者も世間一般には多かった。 まだまだ共産主義の負の側面や本質的な醜悪さというのが外部に見えていなかった時期だし。 感覚的には高度成長期の製造業の企業が、集団就職で地方から上京してきた若者を 工場の寮に囲い込んで、板金やら旋盤加工の技術やらを叩き込むことにのみ集中させて、 労働運動や学生運動とかにはなるべく近づけない様にしていた、みたいな構図じゃないかな。 工場の経営者にとって、工員にとって必要なのは工場の機材を適切にかつ効率的に稼働させるために 必要な知識と技術を行員が身につけることであって、バランスの良い経営視点や会社の得た利益の 平等な分配などといった「余計な知識」を身につけて欲しくはないわけで。 同じように、国家指導者にとっても軍人に必要なのは近代的な軍事組織を適切に動かすための 専門知識と国家への忠誠心だけであって、外交やら政治やら経済やらの「余計な知識」を 身につけて欲しくはなかったんだと思う。 実際、昭和の初期までは軍人はその分を守って余計な策動をするようなことは無くって、 あくまで政府の忠実な手足として動いていたにすぎないんだけど、満州事変を契機に 「国家を強引する(by石原完爾)」手法を繰り返しながらどんどんと暴走を重ねていった。
>>631 です。
皆様ホントお詳しいですね。なるほどです。
初期は明治の猛者達がまだ残っていたので、専門バカでもよかったかもしれませんが、彼等が引退すると、専門バカだけになっちゃったんですね。
あと、実戦経験の無さも影響してくるのかな?
確かに共産主義や無政府主義にかぶれられるのも怖いですね。
しかしそれでも視野を広く持たせた方がよかったのかな?
結局純粋培養で、極端な国家主義や天皇親政に走った若者が多数現れたわけで…。
教育がキーみたいですね。
646 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/29(金) 07:40:20.21 ID:Xn62rWHM0
>>645 だから今の防大は一般教育を重視している。
>645 明治期は、軍の上の方に維新の動乱をくぐり抜けてきた経験を元に、腹が太く肝が据わっている 豪傑がでんと構えていて、実働部隊である佐官・尉官クラスの陸大・陸士で軍事教育を受けた 専門バカがその手足となって動いていたからいろんな事が上手くいった。 昭和に入ってからは、上の方に日露戦争の戦勝にあぐらをかいた専門バカのなれの果てが居座って、 下の人間は「あんなのより俺たちの方がマシだ」って考えて下克上をはじめたって図式かな。 明治期に薩長藩閥が隆盛を極めたのは、その2藩出身者に「動乱をくぐり抜けた豪傑」が揃っていたからで だからこそまともに各組織が動いていたし藩閥外の人間もその有能さというのをかなりの部分納得していた。 だけど、大正期になってくると薩長藩閥のなかにも豪傑と呼びうる重鎮がいなくなっていって、 それでも山縣の影響もって長州藩閥がかなりの強さで軍の上の方に根を張っていたから、 士官学校という学力重視の空間で上位を取ってきた将校達にとっては「藩閥」というのが 有効に働いているようには見えなかったんだろうね。
自衛隊の少年工科学校を幼年学校と言う人がいるがこれは膨大進学はむしろ 特例で下士官養成の学校で昔の兵科学校、戦車学校にあたる。
>>631 >あと、明治と昭和で何故こんなに軍人の質に差ができたのだろう?
海軍では昭和6〜7年くらいから兵学校でそれまでは存在しなかった五省をはじめたりして
大正までは厳しくもゆとりある気風だったのが
おかげで凝り固まった視野の狭いだけのロボット士官候補に育ち
三国同盟辺りで少尉〜少佐へと昇進した彼等が上や下を焚き付けた
そう考えると、やっぱり幕末生まれの軍人達(武士)は偉大なんだな・・・と思ってしまう今日この頃。
652 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/29(金) 22:28:09.59 ID:B0IaDBzZ0
逆に陸大、海大に相当するものが無いな。
>>644 > >642
> 一般的な教養を身につけさせようとすると、自由民権運動やら大正デモクラシーやらに
> かぶれてしまうことになるのを恐れて、あえてガチガチにカリキュラムを固めて全寮制にして
> 自由を奪い、余計な思考をさせないようにしていた、という説もある。
余談かもしれんけど、フランスのエコール・ポリテクニク(元々技術将校を育成する
ために設置された一種の士官学校)では数学・物理学や軍事学だけでなく、経済学や
歴史学も教えるらしい。軍人は人文科学や社会科学も知っておかないと占領地で
軍政を敷くことができないというのがその理由とのこと。
>>652 あるよ
指揮幕僚課程
「CGS何期ですか?はぁ?終了していない!?」
課程終了してないとあからさまに態度が変わると某幹部自衛官の証言がある
天保銭組かよって思ったね
655 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/06/30(土) 12:35:17.71 ID:e1aRa5/50
>>653 戦後 高専が大学に昇格したが企業から卒業生が生意気で使いにくとの強い要望が
あり即戦力を目的とした新制の高等専門学校ができた。
幕末の動乱、天地がひっくり返る程の世の中の荒波に揉まれた明治の将校達と、いい子いい子で育てられた昭和の将校達を比べる自体がそもそもナンセンス。
勉学・学業は確かに優秀な人間を見極める一つの指標ではあるが、極限状態を経験して現実の荒波を渡ってきた者達には遠く及ばないことの確証だな。 学業はあくまでも補完要因に過ぎない。
まぁ通常なら帝大に行くような人材が貧乏国家であるがゆえに士官養成の学校へ入るわけだからね 秀才とはいっても好き好んで軍隊に入ったヤツばかりではないだろ
「旧制高校は大日本帝国の贅沢品」と言った人がいたが 当時の高校や帝大を卒業してから、エリート軍人としてスタートできた? それとも、陸士と兵学校出てないと無理?
>>659 兵卒ではなくて優先的に将校にしてもらえる制度が
あったんじゃなかったっけ?
>>659 陸軍の幹部候補生、海軍の予備学生制度があった。
海軍の方が待遇がよく最初から士官に準じた扱いだった。
662 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/07/01(日) 10:11:53.30 ID:zMVwYYY00
>>659 軍医とか技術系は旧帝大系がむしろ主流だけど、兵学校や士官学校での
養成体制が確立したのちは大佐以上に進級した者はいない。
なるほど、一応大卒だからある程度の優遇はあったのね でも大佐以上はもう昭和に入ると不可能か(´・ω・`)
664 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/07/01(日) 22:55:15.19 ID:9JIRx7G70
明治の軍人は有能で昭和の軍人はどうしょうもなかった。 この司馬史観なるものに反論する説は無いの?
>>664 だって、昭和の軍人は負けちゃったからねえ。
昭和の軍人には「能吏」は多かったけど、英雄はいなかったって感じだ。 逆に明治の軍人たちは「能吏」ではなかったろうけど雄々しい人が多かったように感じる。
>>663 戦後も含めると 例えば栗栖統合幕僚長は東大>海軍予備学生出身で
3自衛隊のトップになった。
>>667 失礼 栗栖弘臣さんは予備学生でなく短期現役(主計)だった。
670 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/07/02(月) 14:06:53.96 ID:Xzt7QVrE0
>>663 士官養成制度が完成した大正昭和期の高卒&大卒が軍隊に入るなんて
今でいうなら東大での連中が高卒警察官を受けるイメージだぜ
士官学校、兵学校ともに学力的には旧高等学校クラスだが
海軍兵学校は都市部田舎部に問わず、一定以上の人気があったけど、
陸軍士官学校は都市部の中流層には不人気でどちらとかいうと
地方都市の中流層や田舎の連中達には大人気
いろいろな説があるけど、当時から陸軍は泥臭くて、頭でっかち連中なイメージが強かったらしい
海軍はスマートでイケメンなイメージ&船乗りだから海外に出るチャンスも多い
もちろん、旧日本軍にも幹部候補生や予備士官制度もあったけど
もともとは、徴兵で引っかかった高学歴者が
再動員時に士官と動員されるから受けとくか、っていう位置づけ
>>670 訂正 再動員時に士官と動員される
↓
再動員時に士官待遇で動員される
672 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/07/02(月) 16:40:03.23 ID:hTrl70LY0
>>664 まあ、明治の軍人サンでもどうしようもないヒトはいっぱいたけどね。
栗栖さんは「日本国防軍を創設せよ」って本を読んで知ったが
戦後も戦地で戦犯のために弁護活動を行っていたんだね。
元々、東大から海軍短期現役(よく分からないが)て形で軍人か。
ただ、戦前戦中では大佐以上は無かったんだね。
>>670 >今でいうなら東大での連中が高卒警察官を受けるイメージだぜ
あ、そんな感じになっちゃうのか・・・w
海軍がスマートってうちの婆ちゃんも言ってたな。
候補生や予備士官制度
高学歴者が士官として取られても、上官にぶん殴られずにすむ制度かな
674 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/07/02(月) 22:59:43.34 ID:pyi1PmzT0
664だけど司馬さんは政党の腐敗が軍部の政治介入を招いたことを力説せず 軽く流している。まあ統帥権を盾にした軍部の横暴を強調したいのだろうが。 政友会の鳩山一郎が統帥権干犯で浜口内閣を攻撃したのが間違いだった。 鳩山家は国益を損なうことばかりするな(笑)
>>673 陸軍は今の自衛隊と違って安定雇用&職業斡旋じゃないから
いざ軍縮期にあたれば、普通に予備役でバイバイ
クビ対象者が運良く残ったとしても、中学校の配属将校で白い目がおち
上にもあるように士官学校自体は高等学校レベルだが、陸大に入らなければ、よくて大佐、実際には大尉止まり
昭和一桁の中流層の平均月収が100円の時代に少尉は70円、中尉で94円、大尉で140円台
物価が今と二千倍違うから、今のイメージなら大尉でも28万円+勤続手当だけの生活
なので、高校以上にいける学力&金があるなら、高校&帝大に進学して
高等官をを目指すか、民間の大手商社に入ったほうがまだマシ
海軍がスマートだったって言うエピソードとしては
中学校には配属将校が置かれていたと、さっきで述べていたけど
陸軍は上にあった通り、左遷先か出世コースから外れたおっさんが多いけど
海軍の場合は、出来るだけ若手の将校を配属してしてイメージアップを図っていた
それも出来るだけ、優男な連中を率先して配属させていたみたい
>>675 爺様たちが生きていた頃、聞いた話では「海軍配属将校」という例は
聞いたことがないが、詳しければ教えてください。兵学校予備校みたいに
なっていた中学校には来ていたのかな。
>>676 確認してみたら海軍の配属将校は海軍の影響が強い中学だけだな
>>641 明治までは家庭教育や藩校の教育が軍人の教養のベースになっていたんだね。
乃木希典は詩人(漢詩)として高名で、平安時代からも含めて日本人が作った漢詩の
最高峰であると中国人も認めている。
元海上幕僚長の中村悌二氏の著作を読んだが(海兵卒)今の防大生のトップクラスは 海兵時代の上位と比較しても遜色ないそうだ。 下は比べるべくもないんだろうが。
藩校に通えるのは上級武士の息子だけで、 しかもそういった連中はアホで、行動力が鈍いのが多かったから 佐賀藩以外は、藩校出身者はほとんど活躍していない。 下級武家の息子でも通っていた漢学塾が、明治軍人の教養のベースだろうな
なるほど だから吉田松陰の松下村塾や西郷の影響を強く受けた郷中グループ等 個性の強い教育者の言わば私塾的な出身者が活躍したのかな
682 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/07/07(土) 11:36:45.97 ID:ijf+gHyD0
>>679 偏差値だけの基準で比較すると京大(工)と明治(理工)ぐらいかな。
しかし軍人の評価は有事の対応能力で決まるからね。
秀才軍人は平時の軍務は見事に処理するが、有事では駄目の例が多い。
震災時の自衛隊の活躍で防大の人気度がアップしているらしい。
藩校教育がいいなら 明治以降も学制下の小学校以外に 各藩の藩校だけは存続させれば良かったのに・・・
>>683 藩校教育が良いと言うよりは、士族の子供教育(しつけ)自体に何かしら要因がありそうな気がするな。
やっぱり一般庶民と士族では家庭教育の仕方もかなり違っていたのではないか?
>>684 つづき
明治以降、士族と平民の垣根が取り払われて身分間の婚姻も自由になったことで子供に対する家庭教育も変化したであろう事は容易に想像出来るよ。
686 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/07/07(土) 14:40:55.17 ID:MQq9JwLU0
海軍予備学生の零戦空戦記読んだけど 海軍兵学校出糞やろうばっかし
藩校に通えるのは上級子弟のみだったかもしれないが、藩校での教育をその藩での 「最高度の教育」とする風潮はあったろうし、それは下級士族の子弟たちの教育にも なにがしかの反映をしていたのではないだろうか。 江戸期における「士族階級」というのは全人口のうち10%前後だったそうで、 「士族」という存在自体は当時の日本における「エリート」という位置付けだったから ヨーロッパにおける「ノブレス・オブリージュ」みたいな意識を持たされていたってところは あったんじゃないかな。 明治期までは、四民平等と言いつつも士族が平民に対して持つ意識、平民が士族に持つ意識ってのは やっぱり独特のものがあったという記録もあるみたいだし。
>>687 江戸時代に於ける士族の割合は多少のばらつき有ろうが4%前後だよ。
それには当然家族の人数も含まれる。
明治5年の壬申戸籍で全国初の統計が取られた事によって明らか。
その後、世襲の足軽や同心などの下級家臣だった者達も士族に編入したりして8%辺りまで増えているが。
本来の武士(上士)は思いの外少ない。
戸主である筆頭者に限れば30万人〜40万人位ではないだろうか?
明治期の軍人が比較的教養があり、昭和期の軍人が専門馬鹿なのは同意するけど 昭和期の士官教育制度を作り上げたのって、明治期の連中が作り上げたわけだけど 自分たちは身につけていたであろう一般教養を叩き込むことを何故しなかったんだろう
690 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/07/07(土) 21:34:44.57 ID:jNLwYlcD0
>>689 明治政府は兵隊は徴兵令で幹部は有能な人材を試験選抜して養成したからね。
陸軍はドイツの海軍はイギリスの制度を模倣したにすぎない。
当時の士族は軍事よりも統治者たる知識教養が求められた。
その彼らが幕末の戊辰戦争、西南戦争で鍛えられたのが大きい。
いきなりの日清、日露戦争では負けてただろうね。
>>690 そうだね、戊辰・西南の両戦役を経験した意義は大きいね。
やっぱり人間は修羅場を通り抜ける事によって何かしらの神通力を身に付けるものなのか?
>>691 もう少し遡ると、薩長が激しい時代の波に揉まれた事も一因としてあるな。
長州などは外国や幕府からズタボロに叩かれて磨かれ強くなった象徴だろ。
>>685 家庭教育にミソがあるのか。
そういう人たちが士官学校等を経て
軍隊にいるときは安泰だね
>>689 そういえば、乃木将軍みたいに漢詩を作れるほどの教養人って
昭和期の将官では聞いたことが無いな・・・
支那大陸の古典とかで人間性を養ったんだろうか、昔の人は。
>>693 乃木大将までの世代は漢文が教養の一つだったんでしょ?
欧州でいうラテン語とかの教育と一緒
>>694 乃木世代まで常識なら、士官学校や兵学校でやってくれれば良かったのに。
入試で漱石や鴎外みたいな人とかを入れていれば・・・
現在も漢文軽視だもんね
奈良〜明治の教養人は5歳で四書五経を暗記させられたり。 蔵書がとにかく半端無くてその半分が漢書だったり。 田舎の爺さんの蔵とかみると本当に昔の人は本を読んだんだなとつくづく思う。 西郷隆盛・大久保利通・大山巌・東郷平八郎・山本権兵衛・村田新八・西郷従道が おんなじ町内で生まれ育ったって知ってました? 「郷中」てのは今の時代にはないよね。これは凄く大きい。
698 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/07/11(水) 23:09:33.46 ID:GJ25cQ6Z0
まあどんな制度にも良い面と悪い面があるからね。 薩摩の芋蔓と言って能力に関係なく同郷というだけで高位高官につけた。 藩閥政治の温床となったのが後者の例だろう。 薩摩にとって西南戦争で有為な若者を失ったのが痛かったね。
699 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/07/14(土) 09:58:39.25 ID:OJz4/euN0
「海軍反省会」を読んだけどひどいね。中澤中将を始め、上のやつらほど反省していない。 それに対して現場の指揮官レベルの大佐などが切り込んでいるが 階級意識が戦後もあったようで舌鋒が鈍い!
700 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/07/14(土) 21:30:54.09 ID:Zto7TVFl0
>>697 たらればの話だけど
小松帯刀と大久保利通そして村田新八
この三人が生きていたら井上馨や山県有朋等の出番はなかっただろう。
伊藤博文は巧みに立ちまわっただろうけれど。。。
>>697 >西郷隆盛・大久保利通・大山巌・東郷平八郎・山本権兵衛・村田新八・西郷従道が
同じ町内だったのか!
知らんかった。
ところで、士官学校や兵学校って同性愛者って入学できたの?
明治の頃には、まだ「薩摩趣味」ってのがあったと聞く
同性愛云々はゴシップレベル
>>701 その頃の男色文化はまだ根強かったろう
第二次大戦の頃もあったはずだ
寛政の改革で松平定信が禁止してから急速に廃れて、 幕末の時点でほとんどなくなっている。 明治後キリスト教の価値観が入ってくると はっきり異端と認識され、表面的にはなくなる
>>703 いずみたくさんが幼年学校出身だけど、お風呂場で生えいる子と
まだ白いのがいて、ツルツルの少年が上級生にもてたと書いていた。
具体的な行為はなくプラトニックホモだったそうだ。
陸軍士官学校に蒋介石が入学したって思っていたが アレは?だった
海軍大学校ではどんな教育が行われていたんだろう? 陸軍大学校をテーマにした書籍は書店で見かけたことがあるけど 海軍大学校をテーマにした書籍については書店で見た記憶がない。
709 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/08/24(金) 23:57:57.00 ID:vInjSl+j0
いきなり横から済まぬが…… 少々調べたい事があって、久しぶりに 「サクラタロウの軍人データベース」を見ようとしたら無くなっていた。 タロウさん、どちらへお隠れになったか、ご存知の方はおるぢゃろうかのう?
昔、秦郁彦の「昭和史の謎を追う」って本を読んでいたら 海軍兵学校に入学したものの陸軍士官学校に再入学した将校が出てきた (確かノモンハンのあたりで) 病気のために兵学校を辞めたか、もしくは長期療養の果てに放校処分になったか 知らないが、陸軍士官学校に入れるってことは相当優秀だったのかな? こういう変わった履歴を持っている人って、手前勝手に優秀な軍人に 成りそうって期待を寄せてしまうw
711 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/08/27(月) 17:31:40.76 ID:6hpW1ySd0
陰謀論スレがあるのって世界史板だけだったっけ?
陸士海兵は、いまだと、京大くらいのレベルか?
714 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/10/17(水) 11:01:46.26 ID:LBJ5CSl/0
>>713 上位は同レベルだろうが
大量合格の時代の下位層は劣るだろうね。
陸士の場合幼年学校があるから単純比較できない。
それにしても今の防大はレベル低すぎだろう。
低いんかいwww
>>714 もうあらかた死んでしまったがこの世代の海兵出、リアルで何人も
知っているが糞爺ばかりだった。むしろ陸幼出の方に紳士が多かったな。
最後まで、ヨーロッパの貴族教育の香りがあった。
717 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/10/18(木) 21:06:10.23 ID:I9aMVDa90
良く言えば少数精鋭の全人教育の面もあったかもしれないが 偏狭なエリート意識の集団だったんじゃないのかな。 真の慶応ボーイは幼稚舎から入学した者に限られるとの考えと 相通じるものがあるね。
海兵75期以降の質が悪いのは有名だな。 エリート意識だけは旺盛だが、実戦経験も中学卒業資格もなく、戦後社会では 厄介者扱いされて、昭和20年9月から中学5年に編入された。 だが年代的に、彼らが「海兵出身者」の代表だった時期が長いし、絶対数が多かった。
>>718 明治からの累計より多いんだからな。リアル海兵出は
5分前とか アイアンバーではだめだ フレキシブルワイアたれと
受け売りをほざく糞爺ばかりだった。ねとうよが憧れているような
もんじゃない。
720 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/01/14(月) 16:08:46.56 ID:XQHlKGj50
ほしゅ
人材は多様性が大事、欧米各国もWW1から士官学校出身は少数派になってる。 日本軍はその点でも遅れていた。
それ思い込み? それとも、とんでも本か仮想戦記にでも書いてあったの? ソースヨロ
723 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/02/10(日) 01:57:54.65 ID:09pmPniq0
>>718 超難関だった頃の卒業生の多くは戦争で死んじゃったからね。
俺の祖父は67期で戦争でやっぱ死んじゃった。
でも、祖父と同期で首席卒業だった中村悌次さんは数年前まで生きてたからな・・・
「どんなに俺が頑張っても中村には絶対にかなわない」
「奴は生まれながらの天才でしかも人格者だ」と祖父がよく言ってたと祖母から聞かされたわ。
>>722 第一次大戦では戦死者が多過ぎて、正規の士官学校だけでは養成数が足
りなくなり、一般の大学まで養成課程を置いて数を補った。
725 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/02/10(日) 11:03:47.91 ID:dCgbu5cJ0
終戦の前年になって、海軍も「幼年学校」を設置することになった。
最初の一期生の入校は昭和20年4月である。
8月の終戦まで、わずか4か月のはかない命だった。
学校名は海軍幼年学校ではなく「海軍兵学校予科」だった。
http://blog.oitablog.jp/takaakira/archives/2008/06/post_481.html 教授がこの「海軍兵学校予科」なるものを受けて落ちたと言ってた。
体の器官の性能にイチャモンがついたらしい。
後に東大現役合格(理系)。
とにかく海軍の方がスマートで格好良かった、
受験に行くときは「海軍公用」の腕章をつけて
空いてるかぎりは最上級の座席だった、
弁当も届いた。「海軍」の文字が書いてた。
数学と理科は神童といわれるほど出来た自分が不合格でショックだった。
ワンワン泣いた。
と言ってた。
726 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/02/10(日) 11:17:39.61 ID:dCgbu5cJ0
因みに陸軍幼年学校の年額費は1944年で年間20円だったそうだ。 随分高いね。
>>726 それは安すぎる! 月に20円の間違いだろう。
帝国陸軍には士官は富裕層から採るのがよいというヨーロッパ的な
考え方があった。
>>725 4千人も大量採用する時代に堕ちたろしたらショックだろうね。
この人たちは勝手に海兵78期を名乗っている。
729 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/02/12(火) 18:23:03.85 ID:BVIQm2yE0
727 私の間違いでした。 ご指摘の通りでございます。
月に20円ということは、年間で240円。今の物価で言えば50万円くらいかな。 中産階級くらいになれば払えるだろうけど、この時代はまだ中産階級が少なかったからねえ。 一般的に海軍の方がブルジュワジーで、陸軍の方が共産主義と親和性が高いとか言われるけど、 高級将校に限って言えば、陸軍も幼年学校出身者の方が一般中学卒よりも優遇されてたから、 あんま海軍士官の浮世離れぶりを笑えない気がする。
陸士、海兵は帝大よりムズかったって真実で有りますか?
>>731 帝大は制度上、上位の学歴なので陸士海兵とは比較できません。
帝大と比較できるのは陸大、海大ですがこれは内部選抜なので入試の
難易度度は比較できません。
陸士海兵と同格なのは旧制高校です。ムズカッタ時期もありますし
大量採用の為、易しかった時期もあります。
>>731 帝大は現代とは違って、
旧制高校を卒業さえすれば、どこかの帝大には99%入れるものだったので
帝大入試自体は決して難しくありません。
倍率が1.1程度だったり、場合によっては定員割れで無試験なんてこともあったくらいです。
ただし、東大法学部や医学部など、人気学部に入るには流石に倍率は高かったので、
旧制高校内でも、一高や三高などの進学希望学部への合格率が良い学校は、
ただでさえ難関な旧制高校の中でも、さらに難しかったようです。
年代にもよりますが、まあ大体のイメージ的には
一高≧三高≧海兵≧その他のナンバースクール≧陸士≧一般旧制高校
といった感じではないかと思います。
>>733 亡くなったうちの爺様は明治末生まれ大阪出身だが、
「陸士は中学で年1人しか受からんかった、海兵は3年に1人ぐらいしか受からんで
受かったら地元のスターで祝いの提灯行列やった。一高は毎年3人ぐらい受かった」
と言っておったよ。
大阪という土地柄もあると思うが、高校出ても帝大進むだけじゃなくて
商大や神戸高商も人気があったそうだ。ビジネス界に進むなら、帝大より大阪の
商大の方がはるかに有利だったと言ってた。当時日本最大の企業の鐘紡なら
慶応に行かないとダメとか、鈴木商店は神戸高商とか、昔は学閥が色々あったらしい。
>>734 大阪では息子を大学に行かせずに、
商業学校を卒業させて家業を継がせる
事例も多かったと本で読んだことがある。
役人や軍人、会社員のような勤め人になるより
自分で商売して食っている人の方が尊敬されて
いたらしい。
つーか昔の旧制高校は現代の高校とは違って、現在の大学教養課程を学ばせるためにあったんだが…
遅レスすまんです。
>>734 そもそも陸士やまして海兵は採用人数自体が少ないこともありますし、
建前はともかく、本音では大事な息子を危険な仕事につかせたくないのが親心ですから、
進学を前提としてる中学生にとって、金銭的な問題さえなければ、基本はやはり高校がメインで、
そういう意味ではおっしゃってる数は当を得てるなあと思いますね。
うちの爺様も大阪ですが、海兵に落ちて神戸の高等商船に行きましたけどw
受験期の時点で父親(つまり私のひい爺様)が亡くなって、
その時点で行先は授業料がタダのところしかなかった、てなこと言ってたらしいです。
東大は流石に言いすぎな様な気がするけれど頭が抜きん出て良かったのは確実だろうね。なんと言ってもフランス行った時に軍幹部の方と食事をした事があるのだが入店してウェイトレスが階級章を見た瞬間奥のいい席に案内した時は驚いた。 日本は流石に自衛隊というか軍隊の社会的地位の抑制が行きすぎている気もするよ。もっと名誉職にすれば上の方が言ってる様に防衛大の低学力が改善されるよね。陸大レベルなんかさらさら求めないが。 低学力と言っても代ゼミで見たら今年は中央法や早稲田の中位と並ぶ程度なんだけどさ。
740 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/04/14(日) 01:49:24.04 ID:JNkgCnty0
>>739 数年前に亡くなったが、俺の地元選出の元国会議員の人は海兵に落ちて東大(法学部)へ行ったそうだ。
年齢的に超難関だった60期台後半の受験と思われる。
その人が「中学で僕よりも勉強が出来た人が何人も海兵へ行き戦死した」と話してたから
難関だった頃は学力も東大並みに必要だったんじゃないかな?
741 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/04/14(日) 12:05:00.07 ID:jHs9TrYx0
採用数が五十人だった海兵五十三期の合格者なんかはホントに秀才ぞろいだったんだろうなあ。
742 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/04/14(日) 13:07:20.67 ID:pg/8kphw0
今でも国立大の医学部みたいに東大並の難関というのはあるからね。 海兵は東大なみ、陸士は早慶よりは上というところだったんじゃないかな。
エリートすぎるな。 しかしドンパチやるのにそこまで学力いるか? 勿論必要だが、今で言う早稲田青山ぐらいでよくね?
近代戦になるに従って、兵器や部隊の運用に関しては高度な専門性が要求されるようになったし、 優秀な人材が確保出来るに越したことはないから、入学が難関化するのは軍の側としても ありがたかったんじゃないかな。 あと、陸士と海兵は「学費がかからない」というセールスポイントがあったから、 家計がそこそこ裕福で、ナンバースクールや帝大にまで進学させられるだけの 余裕がある家庭の子弟でないと、大学進学を選ぶか、陸士・海兵を選ぶかは 金銭的にもけっこうシビアな問題だったろう。 それに、陸士と海兵の倍率はその当時の世相にも左右されるところがあったから 一概に平均化出来ない。 日清日露の戦勝の勢いが有った明治中期から大正初め頃までは、軍の人気は高く、 入学志願者も増えたし倍率も凄かった。 第一次大戦後の急激な不景気やシベリア出兵の失敗、大正デモクラシーの高潮による 軍縮機運や、ワシントン条約による建艦制限なども手伝って、大正〜昭和初期は 人気も下がっていったし入学者の定員も減った。 満州事変以降はまた潮目が変わって、人気があがって定員も増えたし志願者も増えた。 支那事変が始まって大東亜戦争へとなだれ込む頃には国家自体が軍事中心主義に なっていったから、そうした空気の元で育った青年達はかなりの割合で陸士や海兵に 惹かれて行ったんだと思う。
745 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/04/16(火) 20:52:35.58 ID:+MvarkrS0
海兵は割に一貫して人気があったが陸士の方はその時々の人気に左右 されるという面があったらしい。
ペーパーテストの成績と指揮能力に相関関係は無い。
マジ!?
実際、戦場で兵卒の指揮を取る中では陸士や陸大での成績優秀者よりも、 成績は振るわなくとも、部下から信頼されてその集団を統率することの出来る 人間の方が良い結果を残すという事例が掃いて捨てるほどある。 東大を出て国家公務員上級試験にパスして警察庁に入ったキャリア官僚と、 ヒラ刑事からたたき上げで実績を積んで捜査一課の係長に就任したノンキャリアの どちらが捜査現場で指揮を取るのに向いているか、というのを想定すれば良い。
入学試験は風雲たけし城
750 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/04/18(木) 01:20:25.29 ID:7GsB4hdX0
>>734 今でこそ、財界でも東大は社長とかになれるけど、戦前は財界の社長含め
大会社の役員はほぼ慶応卒ばかりだったからな。
戦前は、今と違って、誰もが同じ道を目指してるわけじゃなくて、
自分が住む世界によって進路をきめてたってことだ。
たとえば大学に行こうと思うような階層は、軍人学校なんて貧困階層の
行くところはいくら成績がよかったって行かないし。
751 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/04/18(木) 02:20:39.84 ID:7GsB4hdX0
>>49 それは間違っている。陸軍でも、徴兵時には大卒は「少尉」になる。
新兵訓練の時の違いだよ。陸軍は「二等兵」扱いだったので、DQN先輩兵卒による
イジメや暴行を受けたが、海軍は「軍曹」扱いだったので、兵卒はいじめることが
できなかった。
皇軍ダセェwwwwwwwwwwww
ベトナム戦争ごろの米軍のカッコも相当ダサかったがここ二十年でホントに改善した。 やっぱCI戦略も大事なのね。
>>751 幹部候補生試験に受からないと2等兵のままだよ。
755 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/05/03(金) 23:38:29.66 ID:vGIBXTi90
陸士の新入生の階級は二等兵で下士官や上等兵に対して敬礼しなければならない、 海兵の新入生の階級は兵曹長の下で一等兵曹よりは上。 海軍の方がむしろ身分差別的なところがあった。
756 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/05/04(土) 13:31:13.60 ID:BEyJtta60
海軍は同じ正規の士官でも兵学校出身者と機関学校出身者でまた差別があった。 兵学校出身者は機関学校出身者を「釜たき」と呼んで軽蔑していたそうだ。
757 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/05/04(土) 14:29:06.48 ID:457u624zO
チンカス学校やんけ。
>>756 しかし、帝大出の技術士官たちは一目置かれていた。
兵站系幹部も帝大や経済専門学校から採用するしとけばむしろよかったカモ。
>>758 えっ 短期現役で主計士官、帝大から大量採用していますが。
中曽根元首相とか。
760 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/05/21(火) 03:29:01.65 ID:vocCjvsn0
陸軍幼年学校の受験科目って何と何?
ロリコンU
>>754 白紙の答案出しても合格したっていうけどね。
>>755 陸士も入った時から一等兵や上等兵で、二等兵ではないよ。
それも半年後には上等兵や伍長に昇進する。
隊付を経験させるところは確かに海軍とは違うけどね。でも実態はママゴトみたいなもの。
鉄道会社に就職した旧帝大卒のエリートに、新人研修で駅業務をさせるのと変わらんレベル。
海軍よりも陸軍の方が一般社会の身分差を排し、階級のみで区別した平等主義を強調してたけど、
といっても現実に下級士官を大量に補充するには、高等教育を受けた人間をスライドさせるしかないので、
結局のところは海軍同様、陸軍も大学旧制高校入学者を優遇せざるを得なかったのね。
そういう意味では陸軍の平等イデオロギーも建前的でまどろっこしく、
海軍式の方がストレートだったという言い方もできると思う。
>>759 それに海軍経理学校は歴史が浅いから、
短現が始まった時点でまだ海経一期よりも上に
帝大卒の主計士官がごろごろいてたし
764 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/06/19(水) 21:33:50.55 ID:ysOoDvy/0
士官学校って本当に必要があったのかなあ。 二・二六事件に興味があっていろいろ本を読んでみたら 叛乱側と鎮圧側に1人ずつ下士官出身の将校がいたんだけど 2人とも優秀だったらしい。 苦手分野を単元ごと取得する位で良かったのでは。
欧米では第一次大戦での経験から、士官候補課程を一般大学に開放して おり、その修了者も同等の扱いだった。
766 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/06/24(月) 23:25:49.89 ID:8BZKNXV70
日本は第一次大戦を経験しなかったからね。 いろんな意味で第一次大戦のような感覚で第二次大戦を戦ったんじゃないかな。
767 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/06/25(火) 06:31:50.01 ID:IIYO7IilO
第一次以前の感覚の間違い? 馬や徒歩、リヤカーが移動や運搬の主な方法。 重機なしの手作業。
768 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:hS+B4o6c0
ところで陸士、海兵を最年少で卒業した場合、何歳で卒業可能だったの。
769 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:Mc3D7/SOO
4歳
770 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/07/18(木) NY:AN:NY.AN ID:YW92uYz10
小学校を5年で中学校を4年で卒業して陸士海兵に入学し 戦争中の在学期間短縮期に卒業したとすれば17〜18歳での 卒業も可能。実際にそんな人がいたかは知らない。
771 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN ID:S5QzsHjD0
防大の頃じいさんが長門に乗ってた、インパールで戦死したみたいな奴がゴロゴロいた。 鎌倉から軍人の家系だ、みたいな。 百姓の伜である俺はホントかよって感じ。 こいつら物語の中で生きてるんだなと思った。 俺はその後除隊したけど偏差値で計れない優秀な奴は確かにいたよ。 こいつには絶対に敵わないと思わされた何人かがその物語の中で生きる奴だった。 そいつの母親と接したとき武士道とか何とかなんて本読んで分かったつもりになるけど本物は日々の生活のなかで今でも静かに実存させようとしている家系があるんだとショックを受けた。
772 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:kU6SOmbY0
>>740 現在も存命の超有名政治学者は、昭和20年の海兵におちて東大法楽勝だったそうな。
だいたい閉校時在籍の陸士・海兵の生徒は、無条件で東大に転学できた。
そのルートでの海兵→東大法の一人が俳優の平田昭彦。
平田昭彦は陸士⇒旧制一高⇒新制東大法ではないの?
774 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:mRxTY3jN0
昭和20年の海兵一高の試験なんて時代を考えれば想像つくね。 身体検査で不合格じゃないの。
おいは変態検査でひっかかって落ちたさw
>>772 祖父が昭和20年に陸士海兵ダブル合格してるけれど無条件転学できたのは初耳です。
戦後は地方にある曾祖母の実家を頼って、そこから最寄りのナンバースクールに入学→最寄りの地帝へ進学。
>>774 昭和20年の陸士海兵の難易度については諸説ありますが、倍率自体は40倍越えと言われ最も高かったそうです。
まあ猫も杓子も受けにきてただけかもしれないけど…。
>>738 よく陸士海兵は経済的に恵まれていない家庭の子が多かったと言われますが、意外にそうでもないと思います。
名簿を見ると、地方の中学より都内のお坊ちゃま私立出身者が結構目立ってます。
また都会には陸士海兵専門塾や、それなりの規模の模試なんてのもあって、
結局きちんと専用の対策をしていた都心在住のお金持ち家庭の子供が有利だったのかもしれません。
777 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/09/01(日) 21:42:16.67 ID:BFpaaTXw0
>>776 正規の将校教育が行われたのは52期までだろうね。
52期は500人で日中戦争勃発で53期は一気に1300人に増加。
60期は1800人。ピンとキリの落差はあっただろう。
人事と言えば下は内務班の班長とか小隊長、中隊長を決める人事はイメージできるんだけど、雲の上の階級の、例えば陸軍の三長官を決める人事って誰が決めるの?
陸士海兵一高は、今で言うと灘や筑駒、開成に高校受験で受かったくらいのエリート感覚だと思う。 陸士海兵の末期だと、中学受験で灘や筑駒や御三家に受かったくらいのエリート感覚ではないかな? 陸大、海大、砲工学校高等科、一高からの東京帝大、くらいが戦前の真のエリートかな。 ただ、陸士海兵は被差別部落出身者や芸能や水商売関係者(料亭とかも)は入学資格なかったし、 体格体力はもちろん視力低いのもアウトだから、やはり現代の学校とは一概に比較できないか。
>>779 うちは祖父(戦死)が難関期の海兵で、その弟が東大医学部卒で大学教授をやってた人だけど、
大叔父曰く「兄貴の方が俺よりも勉強が出来た」
「俺が医者になりたいと言ってたから、学費のことで気を使い兄貴は海兵へ行ったのだろう」と言ってた。
当時のエリート校同士は今の大学みたいにはっきりとした序列は付けられないよね。
781 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/09/08(日) 23:32:18.36 ID:m54Wym3X0
>>779 現代のこといっても仕方ないのだが
灘、筑駒、開成に受かる方が東大(理Vを除く)に受かるより遥かに難しいのだが
灘、筑駒、開成に中学で入るのも高校で入るのも難易度はそう変わらんだろうし
こういった最難関中学・高校に受かるのが今の日本では本当のエリートという気がする
東大とは入学者の定員数が違いすぎる
田舎の公立進学校から5教科真面目に勉強して東大受かった人でも
灘や開成中学に受かるかといったら普通に受からない
もちろん、こういった高校出てても東大受からないのが、いくらでも出てくるから一概に言えないけど
難関校の中学受験・高校受験を経験してきた人なら実感できるはず
ちなみに自分の学校に定年退職後に非常勤講師としてたまに教えに来ていた京大卒のおじいちゃんは
自分が受験する2、3年前ぐらいに戦争が終わって海兵は受験できなかったけど
海兵は本当のエリートしか受からないところだったって言ってた
782 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/09/10(火) 19:03:07.32 ID:rlV7tdkE0
何十年前だったか、TBSが 裁判中の田中角栄のインタビューを 数回に分けて放送したことがあった。 そのとき難しさは海軍兵学校、 陸軍士官学校、一高、海軍経理学校、 陸軍経理学校の順だったって言ってたなあ。
783 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/09/12(木) 17:38:59.76 ID:x7nKby4/0
>>781 灘>筑駒>開成≒東大
という気がする。
開成は灘・筑駒に比べて定員も多いしね。
784 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/09/19(木) 02:31:46.58 ID:r8b7tFMJ0
>>776 貧乏人の子供って言ったって、大体旧制中学には行っているわけだから、
大学や専門学校に行くほど裕福ではない程度だろ。
尋常小学校6年の義務教育だけの奴がいっぱいいた時代だ。
まあ渡辺錠太郎みたいな例もなくはないけど。
>>779 同和、水商売、芸能関係が入学できなかったってマジ?
ソース教えてくれ。陸士は朝鮮人でさえ入れたんだが。
旧制の学制では旧制中学にいっている時点 親が裕福である可能性が高いんだよな
786 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/09/26(木) 15:03:22.96 ID:ObWWr7ey0
旭日旗(きょくじつき)は、日章と旭光を意匠化した日本の旗。光線(光条)が22.5 度で開く16条のもの(十六条旭日旗)がよく知られている。 建軍まもない当時の帝国陸軍の軍旗として、1870年(明治3年)5月15日の明治3年 太政官布告第355号で「陸軍御國旗」として制定されたものである。 1870=16=7+5+(15=6)=18 355=13 十六=8 西へ22.5はバビロンの聖方位 注意すべきは、「七」を和に分解して「四三」(ヨミ)に読むということは、 「八」を和に分解して「四四」(ヨヨ乃至シシ)に読むということ。つまりは、 「八」〜「四+四」〜「四×四」〜「十六」、という連鎖を考える必要がある。 実際【十YMNA】(南、632)のアナグラムを成す【十MNYA】(八、632)は、(※【畢】=【Z】=「八」に注意) 「艮の金神」とも呼ばれており、「八」(四+四)は「十六」(四×四)でもある。(※【DHBA】(金、16)に注意) (朽ち果てた館引用) 熊本市西原で白骨になった女の子は16歳、近くに建軍自衛隊基地がある、 16は閻魔大王の縁日
787 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/09/26(木) 15:04:21.94 ID:ObWWr7ey0
旭日旗の図柄は、なつめやしを上から見た図に似てる。
Phoenix(フェニックス)は、 ギリシャ語で 「なつめやし」の意味。
「フェニックス=不死鳥」でもありますね。ココ椰子(ココナッツ)の実)
Cocos(ココス)は、ポルトガル語の 「coco(猿)」が語源。
実の内側の方にある「内果皮」と呼ばれる部分が 猿の顔に似ているところから
http://www.hana300.com/yasi00.html 葉を束ねて戦勝などの祝賀に用いるので、戦捷木(せんしょうぼく)ともよぶ。
ツロやシドンを含む地をフェニキアphoeniciaという が、なつめやしのある土地という、
なつめやしの宗教的意味はキリストまた聖書の生命の樹の意味するとも。
ヨーロッパでキリスト画を修復したら 猿の顔になったのは そういう意味だったのでは?
788 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/09/27(金) 09:22:54.58 ID:y38UYnxH0
旭日旗の図象について。 太陽から伸びる光線は 幅があり、中心の太陽の比率から 考えられるのは 古代エジプトのアテン信仰(太陽神の一神教、それまでは多神教の太陽信仰、 ミタンニ王国出身の王妃の影響だと言われている。ミタンニ王国はミトラ教信仰)。 アテン神は上部に太陽。太陽から幅のある光線が、下にいる人物近くまで伸び 末端に、手首から先の掌の形が描かれている。 旭日旗には、掌の形は描かれていないが、明治以降、上位の公人が式典で 白い手袋を着装する習慣が 見られるようになった。あの白い手袋は 「我々公人は、アテン神=湯田屋教の神の末端である」と暗示しているのでは? アテン神が湯田屋教に発展したと、言われている。
789 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/09/29(日) 15:35:27.59 ID:X6k+/1f20
今度、世界遺産になる三重津海軍所が日本海軍発祥の地であると、ユネスコのスミス卿がお墨付き。
はぁ?
791 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/10/11(金) 00:27:05.90 ID:k7zYS8Np0
>>785 基本的には同意だが、村の名士に中学校までの学費を出してもらって、
その後軍学校に進学する例も多かったらしい、
うちの亡くなった祖父が、結核をきっかけに旧制五高中退。
次男だったが家を継ぐ事に。弟が、途中経過は知らんが東大教授。
子供時代の自分から見れば冴えない祖父だったが、当時から地元の
名士扱いされていたのが不思議だった。五高の権威を大人になって知る。
792 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/10/23(水) 00:47:47.06 ID:/vGz6uMy0
5・15事件(一海軍士官の青春)
大正十四年、海軍兵学校に数え年二十歳にして入学した。
兵学校は古武士の如き人達の行くところであり、またそのような学校であると、
非常な期待を持って勇躍して兵学校の門をくぐった。
数ヶ月後に発見したものはほとんど吾が期待を裏切ったことである。
それは、同僚の中には実業学校に行くより兵学校が良い、中佐か大佐になれは恩給はどの位になり、
少尉になれは月給はイクラであるなどと考えている人間が多く、
上級生及び教員が看視している時は他人のやるべきことでも進んで自分がやるが、
その看視の目の届かないところでは自分のやるべきこともやらぬことが往々にしてある。
学期試験となっては一生懸命に試験勉強をやり、一つ問題を間違えては青菜に塩かけたようになる。
東京その他の都会から来ている連中は、まるでニヤケた気障っぽい人種が多く、ことごとに反撥を感じた。
http://tenti.digi2.jp/page033.html
793 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/10/23(水) 12:49:30.77 ID:/vGz6uMy0
とにかく海軍兵学校は学科優秀、身体剛健、品行方正とあらゆる面で非の打ち所がないようでなければ合格しなかったという。 逆に言えば、そういう”超一流”の人材を全国からゴッソリ引き抜いてしまったことも、 戦前の日本の科学や産業の立ち遅れの原因の一つではなかったか。 そういう若者たちを必ずしも戦死させてしまったという意味ばかりではない。 せっかくのエリートを日本軍という世界でも有数の不条理な価値観が支配した環境でガチガチに固め上げてしまったということである。 戦前に江田島で英語を教えたイギリス人 Cecil Bullock氏が書いたEtajimaという本の中にあったエピソードだが、 江田島に親善寄港したイギリス巡洋艦の乗員がフェンシングの試合を披露したところ、 生徒たちは自分たちの剣道の方が優れていると主張したという。 フェンシングは前へ進むと同時に後ろへ下がる動きも常に含まれていて臆病だというのだそうだ。 自分たちなら必殺の気合で敵を一撃するという。先ず負けないようにと心を配る西洋人の戦い方を小馬鹿にしていたわけだが、 せっかくの人材もそういう日本軍人の悪い考え方で洗脳教育されてしまっては、まさに宝の持ち腐れだったということであろう。
794 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/10/23(水) 23:56:20.71 ID:zdFKEIkU0
795 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/10/23(水) 23:58:01.35 ID:zdFKEIkU0
海軍兵学校では、生徒たちは詳細なスケジュールによって管理されていました。以下は昭和初期の平日の日課です。 05:30 起床(冬は6時) 07:00 朝食 08:10〜12:00 授業 12:10 昼食 13:10〜14:00 授業 14:10〜15:20 自選時間 15:30〜16:30 運動および教練 17:30 夕食 18:30〜21:00 自習(冬は21:30まで) 21:15 巡検準備(冬は21:45) 21:30 巡検および消灯(冬は22:00) 兵学校でのモットーには「確実、静粛、迅速」と言うのがありました。これを一日の始まりである起床動作から、厳しく仕込まれます。 例えば生徒の一日は起床ラッパと共に始まります。同時に全校生徒は一斉に床をけってはね起き、 カーテンを引く、窓を開ける、毛布をたたむ、服を着替えると言った動作を3分以内で行わなければいけません。 速いだけが能ではなく、いくら毛布を速く積み上げても、ちょっと触ると倒れるようでは実践の役に立たず、確実にしなければなりません。 この後は洗面所に駆けて行って、顔を洗い、起床15分後には練兵場に整列して体操を行います。だから手際よくやらなければ間に合いません。 またモットーの「静粛」ということは、無駄口をきくなということです。無駄口をきけば、動作は遅くなるし、雑音が多いと事故が起こりやすくなります。 午後の自選時間(14:10〜15:20)というのは、生徒が各自興味を感じていることを何にもかかわらず探求する時間で、これが生徒たちの唯一の自由時間です。 このねらいは自分自身の時間を有効活用する選択力を養成し、また幅広い読書で一般的な教養を身につけることにあります。 この時間に確かに図書館で読書をしている生徒もいましたが、大抵居眠りをしている人が多かったそうです。 大半の生徒は自由時間を利用して、靴を磨いたり、手紙を書いたり小銃の手入れをしたりしていました。 また、生活全般にわたって、何事も5分前には次にする行動の準備を終わらせておくという「5分前の待機」がありました。 これによってまず船乗りとしての心構えや生活感覚を叩きこまれます。生徒たちは起床から就寝まで「5分前!」の号令とともに行動することに明け暮れました。 「5分前の待機」がなぜ徹底されていたかと言うと、臨戦態勢においては、5分どころか数十秒の行動の遅れが、文字通り「死」を招くことになるからです。 これは単なる精神教育ではなく、艦の安全を保ち、仲間や自分の身を守るための生活技術でもあったと言えます。
796 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/11/08(金) 08:02:38.33 ID:/2lczBVD0
797 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/11/13(水) 22:49:28.38 ID:9ZyKmWAl0
祖父は陸幼、陸士、陸大と出て終戦時中佐。 英語も話せたようだが全然そんなそぶりも見せなかった。 ただ剣道はめちゃめちゃ強かったようで高校で三段取った父が敵わなかったと言っていた。 型が違うらしい。
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799 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2013/11/22(金) 23:40:34.19 ID:J3bD7Yt00
>>797 幼年出で英語話せるはないんじゃないのか。
三国干渉で明治天皇が幼年生徒は独仏露
からやる外国語選べって決めたはず。
米英の駐在武官は中学出から選んでたそうだし。
父親の爺さんが、陸軍士官だったが名簿調べられる?国会図書館行けばあるかな。 おふくろに聞いたら、近衛師団と言う皇宮護衛隊だったそーな。
最近読んだ本に「一高、三高より海軍経理学校の方が難しかった」 と書かれていた。
>31 旧制の中学や高校は公立の学校でも学費が高くて 一定以上裕福な家庭の子供でないと進学は難しかった。 だから戦前の大学生は金持ちの子供ばっかりだったらしい
804 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/01/18(土) 14:07:19.84 ID:pbzVhTZY0
805 :
風老児 ◆ZPG/GcTAlw :2014/01/22(水) 04:29:01.81 ID:8DKsAI080
陸士19期 今村均さんたち この期は、オール一般中学卒者のみ入学した 幼年学校卒者はゼロ
806 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/01/22(水) 14:25:02.18 ID:PHzNkiqg0
陸士、海兵、官連が戦前まずしく優秀な子供たちが目指す学校だった。 陸軍省→陸軍士官学校、海軍省→海軍兵学校、逓信省→逓信官吏練習所 いずれも給料をもらいながら勉強できた。優秀な人材の宝庫だった。 特に戦争末期海兵では盛んに英語教育がされた。井上成美校長の決断だった。 「この戦争は負ける。敗戦後の人材を育てる」のが井上の方針だった。 終戦時の総理鈴木貫太郎が江田島を訪れた時、「井上君、人というのは育てるのに 30年かかるな」と言ったそうだ。重みのある言葉だ。
ずいぶん前に亡くなった義父は兵学校で間もなく卒業だったから8月に終戦にならなければ戦地に行っていたと聞いたが、何期だったんだろうか 生きてる間によく話を聞けばよかったな
808 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/01/30(木) 00:50:00.37 ID:IC+elVMS0
>>806 貧乏で優秀な子が目指すっていっても、渡辺錠太郎みたいな無学歴
で入る一部例外を除いて大半は旧制中学には行っているわけで、
特別裕福でないってだけで明らかに貧乏ってレベルじゃないよ
陸軍幼年学校だって終戦の少し前に学費タダになっただけで
それ以前は旧制中学より学費が高かったんだから貧乏じゃ入れない
旧制中学いっている子の家庭の多くは 平均より裕福な家庭だったというからな 貧乏な家庭では子供はできるだけ早く働いて 家計を助けなさいとなったいたのだろう
810 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/01/30(木) 12:38:38.21 ID:hJh4TyU00
>>808 つくずく思うんだが辻正信の幼年学校の学費は誰が出したんだろう
>>808 旧制中学出身が一定以上占めるから士官学校はいうほど成り上がりの場所ないと聞くけど
昭和初期には小作農出身の奴でも陸軍士官学校に1割以上はいたらしいし
よくわからないんだよなぁ
自作農はともかく小作農が中流並の稼ぎとは思えんし
812 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/01/31(金) 00:30:14.11 ID:JjWuz46J0
>>808 辻は住んでいた村では結構裕福だったそうな
炭焼きで儲かっていたから自前で出せたんじゃないの
>>811 親が戦死していたら学費は免除という規定があったので、
日露戦争とかシベリア出兵で親が戦死していたら
貧農の子でも幼年に入れないことはない
あと幼年出、中学出以外にも兵隊出身というのもあったそうだ
徴兵で二等兵で入営した奴でも陸士を受験できた
この場合年齢制限はかなり緩和されていたそうだ
ほんと少数ながらそれで合格する奴もいたそうだ
貧乏だが成績優秀な少年のために陸幼も学費免除に
してあげるべきだったと思う
金光恵次郎なんか成績優秀で二宮尊徳みたいだと
いわれていたほどの秀才なのに貧乏で進学できなかった
兵隊から下士官、少尉候補者を経て士官になり
目覚しい活躍の後戦死して大佐に特進したけど
幼年から陸士卒で正規士官になれていたらと思うと
本当にもったいない
813 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/03(月) 09:58:41.33 ID:4B2zPBcy0
>>812 野邑理栄子「陸軍幼年学校体制の研究」によると
陸軍上層部には陸軍の幹部は上流家庭の出身者が望ましいという
意識があったらしい。
そこで日清戦争後新制の幼年学校が発足するにあたって全部
有料という事にしたらしい。
貧富の差の大きい時代だと いわゆる育ちの悪い人はリーダーにふさわしくないという考えが強くあったのだろうな
>>808 二・二六事件で殺害された渡辺錠太郎は陸軍内で浮いた存在で、
教育総監に就任した時「自分は近々殺されるだろう」と娘に語ったらしい。
血の気の多い青年将校に支持されていた真崎甚三郎がクビになって、その後に指名されたんだよね。
貧しい家庭に育った人が嫌な事を押し付けられていたのかなと思う。
816 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/07(金) 18:05:34.43 ID:ltNauYNK0
永山鉄山、石原莞爾、辻政信。。。みんな陸軍大学校で次席とか
>>813 ,814
余談だけど、
欧州では、士官は貴族など高貴な層の子弟がなるものという
時代が長かったし、身分制を否定している米国でも
士官学校の受験には、連邦議会議員などの推薦がいるらしいね。
818 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/11(火) 17:56:12.89 ID:KsDzNvxI0
帝政ドイツでも将校の適性として「知的水準か品格か」という 議論があったそうだ。それといくらか似てるね。
昔は採用選考で親の職業調べたり 当たり前に行われていたからなあ
820 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/13(木) 19:55:27.33 ID:YNKG7wXJ0
野村理栄子「陸軍幼年学校体制の研究」によると 山県有朋はこれまで陸軍将校の採用は専ら力試験によって決され 「縦い下層社会の出身者と雖も、苟も試験に高点を僥倖すれば一躍して」 将校になることができる。 だが人の内面的な「志操品行」は学力試験では判断できない。 「決して貧賤の僥倖者をして、貴重の位置を汚さしむ可らず」 と言ったそうだ。それが幼年学校を作った理由らしい。 山県は同時代のヨーロッパの貴族主義的な将校団を理想にしていた のではないか。
>>820 山縣自身は、貴族出身でも何でもないのにね。
貴族に劣等感を抱いていたのかねぇ。
822 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/14(金) 01:15:36.11 ID:fW2BihQu0
>>820 なら幼年だけでなく陸士でも法外な授業料取ればいいのにって思う
幼年は中学より高い学費を取るのに、陸士だと学費がいらないどころか
逆に小遣いをあげているってやってることが矛盾しすぎ
823 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/14(金) 17:51:33.52 ID:ANZfsYjf0
>>822 海兵は無料だしそういう訳にもいかなかったんだろう
幼年学校が生徒から金を取ったといっても授業料ではなく
幼年学校は全寮制の学校なのでそのために必要な衣食住の
費用という名目になっていたそうだ。
要するに陸士への前段階である幼年学校で貧乏人の息子
を締め出しておけばよかったんだろう。
824 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/14(金) 21:48:43.13 ID:bNtiVoFxI
山縣とか名誉欲強そう
共産主義社会主義革命への警戒心はあっただろうし そこまでいかなくても政治的に不安定になることを危惧していたのだろう。
826 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/15(土) 00:19:25.50 ID:h0vGxSA80
そのくせ恩典制度で軍人の息子は幼年学校の学費の 半額免除なんてことしてたんだよね。 一種の士族階級をつくろうとしたのかな。
永田鉄山も幼年学校出身者の優遇には賛成だったみたいね
幼い頃の育ってきた環境を重視していたのだろう
829 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/15(土) 16:14:53.14 ID:fz7wNR0Q0
尋常小学校→旧制中学→幼年学校じゃなくて、 尋常小学校→高等小学校→幼年学校の奴って 何で旧制中学に行かなかったんだろうね 幼年の方が中学校より授業料高いんだから、 貧乏で旧制中学に行く金がなかったわけじゃない まさか旧制中学に落ちたから高等小学校に行ったとか 永田鉄山とか辻政信がこのパターンなんだけど
830 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/15(土) 18:23:47.46 ID:2Kh5/lsO0
永田鉄山の時代は教育制度が尋常小学校4年、高等小学校4年 だつたのだから納得できる。辻正信の場合は確かに不思議だよね。 ちなみに永田鉄山は「中学校出身者は豹変するから危険である」 なんて言っていたそうだ。こういう男が陸軍を握ったとしても 日本がそんなによい国になったかどうか疑問。
>>830 高等小学校を出た後働こうと思っていたんだけど、地元の名士の援助により幼年学校に進学したケースもあるよ。
二・二六事件の磯部浅一がそう。
二・二六事件の実行犯達は貧者救済を名目にしてたけど、
エリート意識に凝り固まった連中に
小学校にさえ通えなかった程の貧乏人を救えるわけないだろと思った。
832 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/16(日) 00:03:31.41 ID:pZC2QdTg0
戦時中の統制経済のなかでホワイトカラーとブルーカラーの待遇格差の是正などが 行われて、それが戦後の雇用形態につながったらしい。 そういう意味では軍部の目標は達成されたのかもしれない。
833 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/16(日) 13:15:19.17 ID:fW0d982x0
>>830 永田の場合、1884年1月生まれで1898年9月に幼年に入学してる
当時の小学校は尋常4年高等4年だったけど満14歳8ヶ月で幼年
に入っているから高等小学校を卒業している計算になる。
同期の小畑や岡村は中学から幼年に入っているのと比べると
この時代でもちょっと違和感がある。それに生年月日を見ると
小畑敏四郎が1885年2月19日生まれ、岡村寧次1884年5月15日生まれ、
板垣征四郎が1885年1月21日生まれだから、永田は彼らよりも
1学年上ってことになる。
永田は陸軍の俊英と持て囃されたが、幼年受験に1回失敗したのか。
834 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/16(日) 13:26:39.41 ID:fW0d982x0
>>830 確かバーデンバーデン以後、二葉会かなんかを作るときに、
長州もんや中学出を入れるか入れないかで話し合った時に、
東条が「長州もんを入れるなんか言語道断」って言ったのに
永田が「まあまあ長州もんはともかく中学出は駄目だ」
って言った時のことじゃなかったかな。
ちなみにその豹変する信用ならない中学出の奴って、
背広を着た軍人こと鈴木貞一のことだそうだ。
狡猾な寝業師のイメージの鈴木貞一だけど若い頃の写真見ると
意外にイケメンなんだよね。
中学出を警戒していた永田だけど、結局は幼年学校出の相沢三郎に殺されちゃったな…。 相沢って典型的な「世間知らずの軍人」で、永田殺害以前にも非常識な行動を繰り返して問題児扱いされていたようだし。
>2・26事件の実行犯 俺は彼らの貧民救済策が結局は大陸侵略なのと 神懸り思想統制の徹底だったのに幻滅した。 それと、一番がっかりしたのは、安藤までが 「大赦がいずれ下る。必ず釈放される」って夢見てたこと。 磯部手記をよく読んだら確かに書いてる。 あれだけ人を殺しておいて自分たちは命が助かると夢想してたのか、って。 「暗黒裁判への悲憤」なんてのは、 「日本一の尊皇家・国士の俺たちを処刑するのかよ!」って甘え、わがままに過ぎなかったって事実。 磯部が「近代的民主国」とか手記に書いてたけど 神懸り思想統制でがんじがらめの民主国ってなんだろうね。
>それと、一番がっかりしたのは、安藤までが >「大赦がいずれ下る。必ず釈放される」って夢見てたこと。 まあこういうこと思わせたのは、 5.15事件での判決が甘すぎたツケだね
尊皇愛国以前に、大勢の部下を引き連れて民家に押し入って無抵抗の老人を殺傷したらどんな罰を受けるか考えろよと思った。 二・二六事件に影響を与えた相沢三郎も、取り調べの憲兵に 「何で逮捕するんだ」とか「伊勢の大神が俺に乗り移った」とか言ったというし、 幼年学校や士官学校は非常識人間製造工場かよと思った。
839 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/18(火) 11:14:35.65 ID:G2eUy9gd0
まぁ、2・26事件をやらかした連中がそう考えるようになっても無理はあるまい。 5・15事件の時に陸軍大臣だったヤツが事件後に出した声明がこれだぜ? 「しかし、われわれにとって、五・一五事件の経緯よりもさらに重要なのは、 事件に対する軍部および民間指導者の反応である。 総じて、陸軍当局は事件に関連した青年将校に対し同情的であった。 暗殺直後談話の形式で発表された声明において荒木陸相は、「犯行は飽くまで国法を 破ったのであるから寸毫も仮借する所なく遵法の精神により処断せねばならぬ」、 としながらも、青年将校の動機の純粋さを強調し、「これら純真なる青年がかくの如き 挙措に出でたその心情について考えてみれば涙なきを得ない。名誉のためとか利欲の ためとか又は売国的行為ではない。真にこれが皇国のためになると信じてやったこと である。故に本件を処理する上に単に小乗的な観念を以て事務的に片づけるやうなことを してはならない」と述べた。同時に発表された海軍大臣の談話も険悪な世相に刺戟されて 青年将校がこのような行為へ走ったことを考え、軍人も国民も反省し、二度と不祥事の 起らないように努めねばならないという趣旨のものであった。 軍部指導者、なかんずく荒木らが青年将校に同情的であったことは、翌年に行われた 五・一五事件の軍法会議のやり方に影響を与えることになった。法廷において、被告達は 政党、資本家、ならびに宮中関係者に対する非難を自由に表明し、あたかも彼らの信条を 宣伝する機会を与えられたかのごとくであった。海軍側検察官は、いわゆる被告達の動機の 純粋性なるものを公然と非難したが、陸軍側検察官は被告らの「愛国の赤誠」に敬意を表し、 今日のような国家の内外ともに行き詰まった情勢のもとでは、「国民をして真に其の使命を 覚醒せしめんとする被告人等窮極の目的は寧ろ時世に適切なるものと謂はざるべからず」とすら 結論した。法廷は被告に対し有罪を宣言したが、その判決はきわめて寛大なものであった。 首謀と見なされた古賀清志と実際に犬養を射殺した三上卓の二人には最高刑である禁錮十五年が 言い渡された。また陸軍側は行動に加わった士官学校生徒十一名に対しわずか禁錮四年の判決が 下ったのみであった。判決後間もなく、当時引き続き陸相であった荒木は、受刑者に恩赦または 大赦の措置をとるよう首相やその他の要人に働きかけた。」 緒方貞子『満州事変 政策の形成過程』岩波現代新書(p285-287) 時の首相を大勢で襲撃して殺害したテロリストを自分の部下達から出した当の責任者が、 その暗殺行為が「これが皇国のためになると信じてやったことである」って主張して 恩赦や大赦を下すように働きかけてるってんだから、そりゃ2・26事件で要人を何人か 殺したところで荒木や真崎が重要な地位に就けば大赦で助けて貰えるって判断しても そりゃ不思議じゃなかろうて。
二・二六事件では犯人達の上官にあたる渡辺錠太郎大将も殺されているし、 上官に対して従順になれと士官学校で散々教育されたはずなのに全然身についていないなと思った。 渡辺大将も当時タブー視されていた天皇機関説を堂々と擁護したフリーダムな人だったけど。
841 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/18(火) 23:12:58.42 ID:4d+Io9yl0
渡辺錠太郎のような経歴、思想傾向の人物がよく大将になれたと思う
山縣にひいきにされていたらしい。 付属武官としてヨーロッパに赴任する中で、日本の国力の弱さを実感したというから 精神論の皇道派連中とはソリが合わないよな。
>840 >上官に対して従順になれと士官学校で散々教育されたはずなのに それが2・26を起こした連中が「一部将校」と呼び称された由縁です。 軍務をないがしろにして政治的策動を行う自身の行動を上官から注意されると 「真崎教育総監はこういっています!」とか面と向かって反駁したあげく、 その注意されたことを真崎に告げ口に行ってその上官を左遷させたりとやりたい放題。 上官に対して逆らって、自分を可愛がってくれる軍のお偉いさんの庇護の元に 軍の規律を乱す行動を取ることを「正しいこと」とか思っていたからこそ、 心ある軍人たちからは「問題児」として白眼視されていた。 それで教育総監が真崎から渡辺に替わったら今度は「渡辺を殺せ!」だもの。 もはやキチガイとしか呼べん。
渡辺大将の末の娘さんが、今もノートルダムで理事長務めてるカトリック修道女の渡辺和子さん。 襲撃の時、父に押入れに入れられて「絶対に出るな」と命じられた。 でも布団の間から父が惨殺されるのを目撃してしまったんだよね・・・。
渡辺さん本人が書いてたけど、両親ともにだいぶ高齢になってから自分が生まれて 母親は「恥ずかしい」と言ったらしい。でも父は「夫婦の間の子だ。何が恥ずかしい」と言ってたとか。
ちなみに渡辺さんは「思えば父があの時死んだのは良かった」と母が語ったのを聞いてる。 「生きていれば戦争犯罪人に問われたかもしれない」って。本人もそう思うこともあるらしい。 渡辺大将はそんなことにはならんかったと思うけど。
A級は確かに考えにくいけど、本間中将の例があるからねえ。 B,C級は運が悪ければありえたかも。
848 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/22(土) 03:17:31.39 ID:SVJZAknR0
B級はともかくC級はないだろ 下士官じゃあるまいし、陸軍大将なんだから
日本の国力では戦争できないと訴えていたというから 二・二六事件が起きなくても太平洋戦争前にリストラされていたと思う。機関説擁護の件もあるし。 娘さんの本によると、もう少しで退職しようと思っていた時に教育総監就任の話が来たとのこと。 熱狂的な支持者がいる真崎がクビになってその後指名されたんだから、「死んでくれ」と言ってるようなもんだな。 しかも就任早々真崎を恫喝したんだから(原因は真崎らしいが)、半ばヤケクソだったと思う。
850 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/02/22(土) 14:56:30.00 ID:ZbKIJg210
渡辺は1874年生まれだから対米戦争開始以前に 退役になっていたはず。戦犯という事はありえない。 しかも二・二六事件後には「大将総退陣」という ことが行われている。
しかしなあ、二・二六事件の連中は陳情という手段は考えなかったのかな。 気に入らないから殺すというのは短絡的だよ。 大蔵大臣を殺害した将校は住み込みの少年にピストルを突き付けながら寝室を案内させたというし 内大臣を殺害した将校は夫人にまで重傷を負わせて血まみれの刀を振りかざしながら「国賊の血を見よ!」と叫んだというし 士官学校はどんな教育をしている所だよという批判はなかったのかな。 女や子供や老人を傷つける事を何とも思わないなんて恐ろしい。
右からの革命を指向した人たちだからな
>851 >二・二六事件の連中は陳情という手段は考えなかったのかな。 それをやると敵対している相手である統制派の「陸相中心主義」を肯定することになっちゃうから、 やりたくても出来なかったんだろう。 穏当な手段を取りながら現状を改革していこうという考えの持ち主達を相手に「そんな呑気なことを 言っている時勢ではない!」ってのを主張してきた経緯があるわけだから。 3月事件で日和った陸軍上層部を「ダラ幹だ!」って言って非難したのが桜会の佐官級将校。 んで、その年の10月に計画した10月事件を途中で日和って中止した桜会の佐官級将校を 「ダラ幹だ!」っつって非難したのが尉官級の青年将校。 その後、クーデター的な行動に対して容認的な言動を見せることで衆望を集めて陸軍内の権力を 手にした荒木大臣を担ぐことで、皇道派という派閥にこれらの青年将校が組み込まれていったけど、 当然のことながら陸相という立場にいる以上はそうそうクーデター的なことを容認するような連中を 擁護し続ける事も出来ないんで、そういった企図を持った人間を取り締まる姿勢を荒木が見せたら、 今度は荒木に対して「ダラ幹だ!」って非難して真崎を担ぐようになっていった。 非合法的なクーデターを企図して途中で断念した人間を「ダラ幹だ!」って言って批判することを 延々と続ける事で集団としてのまとまりを持ち続けるという経緯で推移してきたもんだから、 どこまで行っても「過激な言動を取ったヤツの方が偉い」みたいなチキンレースを仲間内で やり続けることになってしまって、最終的に追い詰められて暴発するハメになっちゃった。 「英米と戦争するなんて、国力から言っても無理」っていう当たり前で常識的な判断をする人間を 「この腰抜けが!」って非難することで封殺し続けて、最終的に壊滅に到った帝国陸海軍の ある意味で縮図みたいな感じがするな。
二・二六事件に興味を持って本を読んでみたけど、 士官学校出の若手将校って今のゆとり社員以上にひどいわ。 国家改造運動に興味を持ったきっかけは遊郭に入り浸る同級生に憤ったからだとか 荒木大臣に対して敬語を使わず呼び捨てだったとか。 嫌いな上官を一人残らず侮辱してやったと自伝で自慢してる人もいたな。
>854 >士官学校出の若手将校って今のゆとり社員以上にひどい 勘違いしない方が良いのは、全ての士官学校出の軍人が一様にこんな連中だったって訳じゃなくて、 あくまで一握りの「一部将校」って言われた過激思想を吹き込まれた連中の行動が目立っていたから そいつらに関しての詳細な記録が残されたって言うこと。 大多数のごく真面目な陸士卒の軍人たちは、そういう無軌道な言動を取る連中に対して 批判的な目を向けながら地道に毎日の仕事に励んでいたよ。
まあ当時の貧富の格差がひどかったのはたしかなんだろうけどな
今日は陸軍記念日だった日か
859 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/03/11(火) 20:16:18.06 ID:iEGEoXMu0
二・二六で、殺されかけた岡田啓介海軍大将が、東條更迭に尽力し、 さらには、鈴木貫太郎海軍大将擁立をプッシュし、 そうして、二・二六で、殺されかけた鈴木貫太郎がいくさを終わらせた。 二・二六を阻止できてたら、どうなってたんだろう、つい思ってしまう。
東條がやたら規則に厳しかったのも 「二・二六事件みたいな事はもう起きて欲しくない」と思っていたからかな。 あの人は日本の政治家の中でも特にワンマンだったけど 「自分を皆が嫌う事で、一致団結できるかも」とか思っていたりして。
>859 2・26事件が起こった原因の大きな一つに、相沢事件がある。 この事件の裁判が進む中で「相沢精神に続け!」とかいって過激な言動を取るように なっていった青年将校たちの中の過激な連中が、大量の兵力を動員した蹶起の原動力だったから、 この事件の公判の中で、「上官を殺害することは許されない犯罪である」という単純な事実を 軍上層部がきちんとアナウンスしておけば、2・26事件も阻止できていたかもしれない。
862 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/03/13(木) 22:15:27.37 ID:w0rlbtRv0
三大国賊特務士官 <頭も悪けりゃ品位も欠けるノンキャリアのクズ> ■坂井三郎 矛盾だらけホラだらけの自画自賛大作「大空のサムライ」の著者 戦時中からホラを吹くばかりで自分は前線に出ずに、実際に戦っている若者に暴力をふるう。 「遅いか早いかだ!ガタガタ抜かすな!」と言って若者を特攻へ追いやった。 早期に前線を退いたくせに戦後は、さも戦いきったような本を出して、前線に最後までいた 士官下士官兵を罵倒していた。原爆賛美、ねずみ講など悪名高い。 ■大田正一 BAKA BOMB(バカ・ボム)こと特攻兵器「桜花」の発案者 自分が乗っていくと言って航空本部を説得。署名を集めて軍令部を説得。新聞では 兵の命など考える必要なしと発言。桜花が使われなくなると中央に抗議して回る。 終戦時に特攻へ行くふりをして行方をくらます。海軍の上官から妻子の元へ帰るように 説得されるが、家族を省みず、愛人との間に子供まで作り、別人の名前で生活を送った。 ■鹿山正 久米島虐殺事件を引き起こした隊長 守備隊長として島に着くなりわがもの顔をして、隊長命令で島の16歳の娘を強制的に現地妻 にして奉仕させる。島の住人をスパイ容疑で勝手に処刑する。戦後はしばらく行方をくらまして 責任追及を逃れる。現れたかと思えば「軍人として当然のことをやった。良心の呵責などない。 日本軍人としての誇りを持っている」と語った。
863 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/03/24(月) 13:27:54.17 ID:6jg6dPSi0
>>1 そういえばコンピュータの基礎理論のような本を読んで著者の経歴を見ると陸軍士官学校卒とか書いてあった。
864 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/03/24(月) 19:38:06.24 ID:4ZgdH/qj0
>坂井三郎
>>862 は本当なの?
俺は高潔なイメージだけしか知らない。
逆にいえばまだ「著作」すら読んでない、宣伝から「立派な人だったらしい」との印象しかないので
さほど深い入れ込みがなく突き放して見ることもできる。
俺が「あれ、この人戦時下を生きたにしては事実認識おかしいな」と思ったのは
対米英蘭開戦が「議会の承認を経て」行われたと大昔の朝まで生テレビで言ってたこと。
開戦詔書が渙発前に帝国議会の審議、可決を経るなんてありえないよね。
著書を読んで思うところはあるし、昭和の雑誌にちょこちょこ書かれていることもあるけど >862のようにコピペしかできないクズに餌をやるのは嫌だから俺は絶対に書かない 空が晴れているか曇りかは各各の主観で意見が割れることもあるだろ? >862はその類だね、ちなみに気象庁の晴・曇りの基準は大概の人が納得しなかったりするw とりあえず >早期に前線を退いたくせに戦後は、さも戦いきった 前線で戦い続けることが兵の本文だという>862の主張は結果的に軍全体のレベルを落とすだけで何の益もない その意味で、こんなところでコピペのみによる>862は真のクズと言えよう 862は(おそらく)馬鹿にしているであろう戦前・戦中の軍人と同じレベルでしか物事を捉えられないオオバカ
>>865 坂井三郎は戦後の自衛隊が自分を下士官扱いするのが不満で
むしろ英雄として処遇してくれる米軍の方に共感をもっていた。
867 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/04/02(水) 12:21:07.50 ID:0cxPIM0b0
映画の兵学校ではサイダーっぽいものがしきりに飲まれてたけどあれはサイダーなの?
>>869 サイダーもしくはラムネだろうな
ふつうに酒保で売ってた
872 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/09/01(月) 08:53:37.96 ID:nDdg57zI0
>>853 まるでネトウヨか紅衛兵みたいだよな。
戦略もなく、行き当たりばったりでも強気の発言をしてる奴が偉くて、
侮るべきではないと批判する人間を弱いと見ている。
873 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/09/09(火) 08:06:06.84 ID:XaMw5A4z0
>>872 奉ってる相手が毛沢東じゃなくてゲリゾーだから肛衛兵だろ
875 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2014/09/10(水) 17:03:00.15 ID:xxJyiMdWO
海軍兵学校と陸軍士官学校卒業名簿あります。
876 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2015/01/23(金) 13:06:06.72 ID:pSBMl+bD0
>>52 昭和時代に軍隊経験を持つ人達の兵隊よもやま話シリーズ本が出ていて結構人気があったけど
一兵卒だった人の本で軍隊でインテリが下士官や古兵にいじめられたというのは神話だと言ってたな。
社会で底辺だった人達は軍隊でも底辺だったし、大学出は軍隊でも雲の上の人だった。
インテリがいじめられたというのはインテリたちの被害者意識で、本当に苛められてた底辺には発言力が無かっただけと。
>>876 らくだ二等兵なんかおもしろい本ですな
まぁあくまで一例ですぎませんが兵舎の雰囲気なんか興味深いね
イジメがあっても何故か助けてくれる人物が
登場するのはそのあたりかもしれません
戦後慶応医に入り直して学会会長になられる
ほどの人物ですから
相当魅力ある方だったんでしょう
しかし数年前までご存命とは知らなかった
878 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2015/01/23(金) 20:12:44.71 ID:gLeL/6880
料理研究家の土井勝は海軍経理学校出身の主計科将校で海軍で調理を覚えた
らくだ二等兵も軍曹となっても士官学校出なんて 接するのっきりするのは一度だけだね 上官として話すのは小隊長と中隊長くらい 中隊長くらいになると士官学校出てるんかな
>>878 土井さんは将校だったのですか…
関西人なのにスマートだったのは海軍だからかな
しかし笑顔に陰りがあったのはなんか理由があったのかな
公には戦争のことは語らない方でしたね
>>864 大体あってるよ。悪評をあげればきりがない人
零の会とかいう坂井の手下が擁護のためにいいイメージを作ろうとしてるけど
【ホラ武勇伝】
・坂井「僚機を失ったことがない」←死なせた僚機たちをもみ消し(横須賀海軍航空隊硫黄島派遣隊戦闘機隊戦闘詳報)
・坂井「B17の初撃墜に参加」←参加してない(大空のサムライ研究読本)
・坂井「下士官で組まれた小隊の隊長に唯一人選ばれた」←他にもいくつもある(大空のサムライ研究読本)
・坂井「敵に追われる同期の乗る攻撃機を果敢に守った」←そんな戦闘なし(大空のサムライ研究読本)
・坂井「B17の部隊を全て撃墜」←架空の戦闘を虚偽報告(米第5空軍戦時日誌)
・坂井「輸送機を逃してあげ戦後乗っていたオランダ人と再会」←そんな戦闘記録なし、再会もただの自称(台南空飛行機隊戦闘行動調書)
・坂井「8月7日空戦で負傷しリタイア」←戦闘の負傷じゃない(台南空飛行機隊戦闘行動調書)
・坂井「西澤、太田と敵基地上空で宙返り」←そんな出撃なし(大空のサムライ研究読本)
・坂井「64機撃墜」←売名のための創作(祖父たちの零戦)
・坂井「ラバウルで鴛淵を育てた」←面識なし(台南海軍航空隊第1巻)
・坂井「横空で紫電改のテストパイロットでした」←本当は宮崎の飛行隊で紫電の整備(海軍戦闘機列伝)
・坂井「笹井中尉の手紙で撃墜五十機以上、神の如き眼、海軍の至宝と絶賛されている」←本当はそんなこと書かれていない(大空のサムライ完結編)
【無責任な言動】
・坂井「日本は寄生虫」→寄生虫はねずみ講で搾取した坂井(歴史通)
・坂井「日本人は歴史を知らない」→坂井「韓国のおかげで日本があるから金を渡せ。ベトナムでも韓国軍が一番勇敢だった」歴史を知らない坂井(歴史通)
・坂井「私の勤務地には慰安婦なんていなかった」←いたのに頑なに否定して自己保身に走る坂井(修羅の翼)
・坂井「特攻に行かせるなんてひどい」←さんざん行かせた坂井が全て他人事(零戦の秘術)
・坂井「今の若者は向上心がない」(爺言)←若者の前では言えない(朝まで生テレビ)
・坂井「終戦後の攻撃は松田司令の命令」(爺言)←本当は攻撃禁止命令を無視して勝手に攻撃、司令の死後に全て責任転嫁(大空のサムライ)
・坂井「天皇たちに騙されたから戦った」←終戦後に命令無視の攻撃までしておいて全て人のせい(爺言)
J・B・ハリス先生の「ぼくは日本兵だった」を読んだ時も 学徒出陣の少尉は雲の上の人的な描写があった記憶がある
らくた本読んでも、将校、下士官、兵隊には 歴然たる境目があって この間では「○○少尉殿、〜であります」であるのに らくださんは軍曹だけど 伍長と軍曹なんかは普通の会話で話してますね あと士官学校出はやはり特別なようで 卒業すぐの見習い士官でも 学徒上がりには「○○少尉」と殿付けなくて 士官学校出は「本職」で特別な扱いみたいですね
うちの町はかつては海軍の町で今でも海軍が作った浄水場がいまでもで使われていて 戦後民間に払い下げられた官舎街は独特の雰囲気があった。 そんな町では海軍さんは女性たちに人気があり、女学生は将校に、看護婦は下士官に 女工は兵隊さんに憧れたそうだ。 悲しいけど、昔の人は自分の分というものをわきまえていたんだね
>>882-883 見習い将校は曹長待遇だから仕官じゃない
見習い期間が終わって少尉任官されたら、もう堂々たる士官で小隊長だから
歩兵一等兵にとって部隊内では神のような存在だろうな
一等兵が将校と話す機会なんて、声をかけられない限りないだろうけど
ただ、戦闘でもあると経験のない新米将校ではどうにもならなくて
古参下士官の指示に従って命令を出すという事になる
これは新米士官へのイジメではなく、部隊が生き残る為に必要な事
>>885 「総員玉砕せよ」の水本少尉と本田軍曹みたいな関係だね
野戦部隊だと荒れた雰囲気の中で古兵の制裁も厳しかっただろうと思われがちだが 実際はそんなことはなかった、そんなことをしたら恨まれて戦闘時のどさくさに 後ろから撃たれしまうという話も兵隊よもやま話に書いてあった。
>880 関西人はスマートじゃないというのは 戦後になってテレビなどのマスコミが、勝手に作り上げた偏狭なイメージだろ 基本的に上流層の関西人はおしゃれでスマートでセンスが高かった 戦前の建築や文化を調べればよくわかる
戦前は「またも負けたか八連隊」と言われて 大阪の兵隊は弱いというイメージを持たれていた
>>889 西南戦争時の鎮台兵なんか、どの部隊も西郷軍を相手に逃げてばかりいた。
後に日本最強を謳われる小倉連隊も西郷軍に襲われて、みんなで我先に逃げ出し、
連隊旗を奪われたのは有名な話。8連隊が弱かったというのはマスコミが作った
勝手な創作。今の韓国同様に、昔の日本もマスコミの影響が異常に強かった
海軍の主計科って経理だけをやると思ってたけど調理や被服も守備範囲なんだね 飯炊きも海軍主計兵だったとは
>>891 海軍主計課に関しては「海軍めしたき物語」という
徴兵検査で海軍主計課を志望し、主計兵になり戦艦霧島で勤務した
高橋孟さんの不朽の名著があるので、図書館で借りて読みましょう。
残念ながら絶版なので本屋にはありませんが、大抵の図書館にはあります
大勲位様にメールで聞いてみるとかw
894 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2015/02/05(木) 22:04:21.65 ID:+nXREN+A0
>>892 海軍機関兵だった人の「海軍かまたき物語」という本もありましたね。
船が傾いていよいよ危なくなって時は機関室に注水して機関兵が真っ先に
溺死する運命にあったとか。
895 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2015/02/15(日) 17:09:19.74 ID:zZCPH9I80
>>876 山本七平の「私の中の日本軍」にも、同じようなことが書いてあったな。
山本が学徒兵として召集されたとき、ひどいイジメをやってたのは無学歴者ではなく、
高等師範出の見習士官(戦後、大学教授になった)と旧制中学卒の男だったそうで、
本当の底辺層出身の無学歴な兵隊は、軍隊の中でもやっぱり底辺層だったとのこと。
>>888 まあそのイメージなんかは
戦後に多くの地方から移住してきた
工場勤務の人たちがメインの話ですわね
>>895 俳優の丹波さんも旧制中出なんかの
上官少尉のイジメに言及されてたそうですね
>>895 細かい事を言って悪いが、山本七平は青学大を繰上げ卒業して入営しているから、
学徒兵ではない。大卒の士官候補生として入営
まあ、どこまでをインテリと呼ぶかだろうな。
俺が中学に入った40年前は教師の体罰は公然だったが、
体育教師とかド田舎出身のおよそインテリとはかけ離れたような知性のカケラも
ないような教師が意味もなく生徒をぶん殴っては快感に酔っていた。
いつもスーツ着ている知的な教師はまず体罰なんかしなかった。
知性のカケラもないような教師と言っても、大学出の教員免許保持者だからな。
インテリと言えばインテリなんだが、顔には知性のカケラもなかった。
外見はヤクザや労務者にしか見えない教師が、狂ったように生徒をブン殴っていた
>>898 確かに殴る教師はいたけど当時はそれが
当たり前の時代だったしな
殴ることが良いとは思いませんか
授業中に大声出したりフラフラ歩き回るような授業妨害する子供への
指導方法がないのも
現実ですしね
>>899 そのレベルの子は障害児なんで殴っても無意味ですよ
座って静止して何かをするということに向かないんで学校に置いとくこと自体が間違い
901 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2015/02/27(金) 03:38:28.23 ID:D+cqZ3kJ0
まっさんにに出てくる海軍の軍人も主計課将校かな? でも軍人たちって民間人と話すとき、本当にあんな命令口調で話してたの?
>>898 50代で2ちゃんとかやってて恥ずかしくない?
904 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2015/03/03(火) 15:47:01.78 ID:BWAw1pBV0
唐突ですが、戦艦武蔵がついに発見されました! 艦首部分の鮮明な写真からすると、あたりの海水は綺麗なのでしょう。 今後の調査が楽しみです。
>>903 横レスだけどおっさんだから2ちゃんでは?
ヤングwはつぶやきだろ
>901 強制連行ではなく、求人に応募した女性でやっているから、全く問題ない。
>>898 昔はそんな先生が多かったら
軍人上がりだったのかもしれない