1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
もっと強いと思ってたのに
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 00:18:08 ID:wD5ER9vkO
62万石で実質100万石と言われてたのにね
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 00:21:33 ID:l6OTI9xxO
馬鹿殿どもの既得権益固守のために大義の無い戦争に駆り出されてんだから、そりゃ士気も低いわ。
もっと強かったら、会津にビビらずにまともに攻め込んでたんじゃないか?
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 05:30:29 ID:DHeF3y4P0
最初の決断の通りに会津進駐と松平容保捕縛、征東軍への引渡しをしていれば、維新後も大きい顔をしていられたのに。
決断を曲げて列藩同盟を作っても、以後軸足が定まらなかった。
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 20:40:35 ID:wD5ER9vkO
仙台藩が統率取れて一丸となって壮絶に大玉砕したら面白かったのに
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 20:51:59 ID:alx5oEsXO
謙信公と政宗公の子孫であるはずの上杉米沢藩と伊達仙台藩があんなに弱いとはな
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 20:59:45 ID:S+ZbiibP0
>>7 上杉の方はもう謙信の子孫じゃなかったろ。景勝からして200年前ぐらいに
分かれた分家の人だし、その100年ちょっと後からは吉良からの婿養子じゃん。
9 :
名無しさん@恐縮です:2010/10/17(日) 21:02:27 ID:a7c5q8QW0
ドンゴリの汚名は永劫晴れぬ
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 22:33:50 ID:SpSQMWDi0
兵の数はかなり多いはずなんだけどねぇ
兵力を考えれば徹底抗戦するなり、官軍につくなり、どう転んでも存在感を示せる存在だったのに、何もかも中途半端であっけなく終わってしまったのは残念
宇和島の殿様のほうが目立ってたし
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 22:45:09 ID:0HrRewgxO
伊達慶邦の顔、叱られていじけてる中年ニートみたい
四賢公の一人、伊達宗城の息子を嫡男にしていながら
伊達宗城から「徳川家はもうダメだ、天朝につけ」という
情報は来てなかったのかなあ。
伊達家なんてどうせ外様なんだから、秋田の佐竹みたいに
さっさと変心すりゃ良かったんだよ。なぜそれが出来なかったのかな?
伊達宗城の別の子の真田幸民の率いる松代藩は、何の迷いもなく西軍について
賞天禄でも薩摩・長州・土佐に継ぐ4位に輝いていて、仙台藩と対照的。
仙台も松代も、本来は外様だが、将軍との縁戚関係で親藩格と言う意味では同じ
次の仙台藩主は星野仙一か
星野仙一は山縣有朋の劣化版というイメージがある
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 21:30:56 ID:siiujKs2O
仙台藩の美しい二十代が、怒って泉谷しげるを殺害したから朝廷の御不興を買ったんですよ。
>>7 政宗自体過大評価だろ
対外戦や全国規模の合戦で功績があるわけでもないし
元からこんなもんだったんじゃないの?
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/23(土) 13:52:44 ID:90KggIOs0
庄内藩と合わせれば、丁度釣り合いが取れているのではないだろうか?
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/23(土) 20:46:59 ID:FdU7kq/vO
幕末の仙台藩は薩摩とは仲悪かったの?
いいえ。
庶民から一般武士は全然知らないし
藩主らは江戸で姻戚関係にどっぷりつかっていましたから、別に。
奥羽越列藩同盟結成の理由は、官軍としていきなりやってきて命令を下そうとした連中を、憎く思ったからでしょう。
お山の大将でしたから。
同時に米沢では戦国時代の旧領奪還として出兵の動きがありましたし、仙台が旧幕府の側で参戦すれば、
容易に薩長優位から逆転する、そして功績第一位は仙台となる、という考えがあったように思います。
お山の大将の上に、世間知らずだったんですよ。
>>17 元々乗り気じゃない加賀とノリノリで抗戦同盟作った挙句の仙台じゃ立場が違うからなあ
内心武装蜂起なんて嫌がっていた他藩を巻き込んで地方全体を反政府に立ち上がらせたにしては、仙台は弱すぎ
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/30(土) 01:14:03 ID:Vib+Q8NG0
仙台藩主は代を重ねると共にどんどん文系になっていたらしいよね。
そんなところって兵の指揮や能力にも影響あるのかな?
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/30(土) 11:04:53 ID:PaEl2ft70
藩主もそうだし有名な仙台藩士が一人もいないってことが終わってんだろう。
みんな飯食って糞して寝てただけw
但木土佐さんが怒りますよ。
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 15:26:28 ID:i9WNJ2uU0
但木土佐さんもそれほど有名という訳でも……
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 16:20:42 ID:unue783hO
独眼竜と謙信入道の子孫達が弱かった件について
但木土佐さんは、楢山佐渡をたぶらかした功績がありますな。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 21:14:00 ID:HQiVkh+sO
会津と一緒に徹底抗戦して玉砕すれば面白かったのに
もしくは単独で幕府に戦いを挑むとかw
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 00:53:05 ID:ByY6e+tPO
豪族の集まりでお頭の集合の合図で各自現地集合。戦国時代から何も変わってなかった。
中央集権化できてれば少しは役にたてたかもな。
軍制改革が進んでいたら、江戸無血開城程度の時期に会津と庄内を征服して、
北関東の旧幕府掃討までやった上で、明治新政府での主要な地位を要求しているよ。
明治新政府樹立の動きに乗り遅れたから、逆に反新政府陣営なら主要な地位を占められると思ったわけで。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 22:24:55 ID:EgUfkLopO
幕府は仙台藩の事はどう思ってたんだろ?
江戸無血開城後に旧幕臣が目指したのは会津・柏崎・鶴岡であって、仙台ではない。
仙台は金沢と同じで、決して動こうとしなかった。
幕府は、仙台を味方とは思っては居なかっただろう。
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 16:19:52 ID:TRxze6NEO
>>30 同じく藩内に豪族だらけな薩長に改革が出来て仙台にできなかったのは何故?
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 20:12:11 ID:Zzj5GBko0
>>34 結局反徳川だったかどうかってことだろうな。島津毛利は基本反徳川だろ。
それに比べて伊達はぬるま湯に浸かってたというか徳川時代が
別に居心地悪くなかったっぽい。そのため富国(藩)強兵を怠り続けたんだろうな。
伊達正宗が10年早く生まれていたら勢力図も変わっていたが、
その末裔は、たいしたことないなぁ
毛利家も豪族だらけだけど、友情と学問大切にしていたところと、
尊王思想が強かった(京都の公家と親密)
江戸〜幕末期の仙台藩は、思想は、どんな感じなのかな?
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 07:34:11 ID:7QhZHED1O
伊達騒動って要は中央集権化を目指す改革派とぬるま湯体質保守派の内紛
美談になってるが、改革派が勝ってればどちらについても幕末で大きな勢力になったか、薩長と結ぶ尊攘派が出てきたのでは?
四賢公の伊達宗城と協調していればかなり大きな存在だったろうにね
伊達宗城次男を伊達慶邦嫡男としてもらってるけど、それ以降の交流はどうだったんだろう
宇和島と仙台じゃあ遠すぎて、変化する情勢に追いつかなかったのか?
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 17:25:57 ID:gImQhkQ0P
分家した当初はともかくとして、3代目ぐらいのころから「どっちが格上か」での争が始まり、
江戸時代中期以降交流がほとんどなくなったらしいぞ。
どっちが悪いというわけではなく、どっちも権威を誇示した。
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 17:32:03 ID:gImQhkQ0P
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 16:40:30 ID:xsRIEMYx0
へたれ仙台藩。これに尽きる。
第二次大戦のイタリア軍みたいなもんか。
>>41 ヘタリアは別に、戦争をおっぱじめる口実を作るために
敵方勢力の使者を罠に嵌めて斬首してその生首を
糞壺漬けにするような真似はしてないだろ。
ヘタリアに失礼だぞ。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/09(火) 22:56:51 ID:AFtm1VJaO
イタリアは旧装備でフランスを極一部切り取った。アフリカに侵攻した。
仙台は全力で逃亡した。
いや仙台藩の場合、列藩同盟に参加せず新政府に投降しようとした桑折の代官黒田節兵衛を拉致し、
陣屋を焼き払ったりしているよ。軍を持たない所に対してはめっぽう強い。
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 00:34:57 ID:HLFFIu4OO
藤原家も頼朝にあっさり負けちゃうし東北の強い勢力は根性が足りないと思います!
46 :
但木土州:2010/11/10(水) 21:52:16 ID:AOskn/1tO
おのれ世羅め…弱國二藩とは何事ぞ。許せぬ。薩長がそのつもりならば、ドン五里の手並み見せてくれようか…
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 01:26:27 ID:SJ3FGvwr0
薩摩が琉球を支配してくれてたから今沖縄は日本領になっている。
北方の雄、仙台が積極的に北方に野心を見せていれば樺太は日本領になっていたかもしれない。
樺太をロシアに取られたのは仙台藩のせいだ。
あれは幕府の北方政策があって、
・田沼時代の積極的な調査
・初期の松平定信による徹底的な無視・放棄
・外交事件に端を発する松平定信の方針転換・調査再開(間宮林蔵の調査等)
・幕府の東北諸藩への蝦夷地警備分担命令
といった形で、江戸時代には開発・入植を積極的に実行しなかった(コストに合わず、東北諸藩の負担が大きかった)ので、
条約上共同統治になっていた樺太が、江戸時代に小数の現地人とロシア人しかいない入植地へ変貌してしまったんだよ。
そのため、明治以降に積極的な入植に転じた頃には、樺太は既にロシア化していた。
仙台藩というよりは幕府に責任があるし、
入植に要する資金を出せなかったという点では、江戸時代の幕府政権が中央集権国家でなかったことの限界があった。
でも、松平定信ら幕府の放置によって松前藩の干渉下でも限定的なアイヌ民族の自治が保たれていた、とも言うことができる。
明治以降は黒田清隆・榎本武揚によって徹底した資本投入による日本化が図られた。
開拓使事件がなかったら、北海道も東北ももっと社会資本が整備されたのだろうけど、
東北の人は黒田追い落としに熱意を燃やし、中途で開拓史が廃止されると、この資金は朝鮮半島政策へと使われてゆくこととなる。
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 12:44:31 ID:lOFQs757O
しかし知り合いの福島県民は琉球は薩摩に迫害を受けてきた会津藩と同じ境遇だと力説しておりました
どこが同じなのかよくわからない…
東北とは思えない温暖な気候が有利だね
もっと人材輩出していてもおかしくない土地柄
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 00:32:39 ID:HPpGUXjPO
いわゆる伊達騒動は、改革派が勝っていれば、門閥層の力を押さえ、能力を持った下級武士にも登用の機会を与えるものだったが…
高見恭子的ムードの、
熊沢幸子って主婦も参加されたの?
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/17(水) 19:26:05 ID:FmeTrSR+O
幕末の存在感なし
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/18(木) 12:27:43 ID:H/B8liQgO
>>36 下手にでかいとかえってボコボコにされて
城下とかの復興に時間がかかったかもよ
当時は統一か恭順しかないんだから
小田原でさえ力技でねじ伏せられたんだからな
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/18(木) 21:17:29 ID:q+aShZpQO
戊辰戦争時の仙台藩が、弱いというより、東北諸藩の足軽たちが、兵としての機能しなかっただけでは?
江戸時代後期の東北諸藩の大半は、足軽たちに耕作させていたし、東北諸藩の藩校のほとんどは、兵学を勉強できるのを、上級藩士に限定していたから、戊辰戦争時に真っ先に、最前線に送られた足軽たちなんて、まともな兵として役にたたなかったと思う。
仙台藩でも、それをわかっていた藩士もいたけど、そいつは上に干された。
少し時代が広くなるけど、
仙台は林子平、大槻玄沢
福島は安積艮斎
岩手は高野長英
などなど先見の明を持った優秀な学者はいたが、生まれてくる時代が悪かったような気がする。この人たちの影響下で、単純な攘夷思想など生まれるはずもないし。
そういう訳で、東北諸般は水戸から始まり京都で燃え広がった(尊皇)攘夷騒動を冷ややかに見ていて時流に乗り遅れたという説はどうでしょうか?
ちがうと思う。
仙台はともかく、他は徳川幕府側だから
特に福島の会津
>>58 林子平は仙台藩や定信ちゃんに干され、高野長英や大槻玄沢の主な活躍の場は江戸で、
しかも長英はお尋ね者。
東北に影響と言える影響残したっつーと、一時期二本松の藩校で教鞭執った
安積艮斎ぐらいしか居ない様な……
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/21(日) 02:08:42 ID:jb84coshO
伊達政宗「俺が、この時代にいれば天下とれた…」
仙台藩の方針があまり明確じゃなかったんだよな。
>>61 仙薩長同盟で、明治維新の御三家だったかもね。仙台閥とかあったかもしれんのう。
陸奥宗光は紀州藩出身だけど、祖先は、伊達家なんだよね。
けっこう知っている人多いかな。
だから生麦事件の頃から薩摩も岩倉具視も仙台藩を何度も誘っているのに、
結局来なかった
ようやく立ったのが江戸無血開城後、しかも反薩長で一旗上げようだなんて
下手なナンピン素寒貧というか
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/21(日) 23:31:46 ID:jb84coshO
こんな事言ったら切り無いが、伊達政宗の頭脳を持ってる藩主だったらと思うと仙台藩は勿体ないね。
仙台藩が明治維新後、国政に顔きかせてたら日本は軍事政権や小泉みたいな悪党は生まれなかったかもね
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/22(月) 00:11:21 ID:pyJZGPHy0
むしろ戦前の軍国主義時代が仙台藩の子孫の時代だったわけで、
その点では、元仙台藩のあたりの人は軍国主義の罪を恥じるべきだと思うのですよ。
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/22(月) 00:30:13 ID:qXyyMp790
東北は逆賊→明治後冷遇される→貧しい農村続出→大陸に活路を見出す
→満州事変へって流れなので仙台藩がだらしなくて
東北が逆賊にされ冷遇されたのは後々まで尾を引いたんだよな。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/22(月) 00:38:19 ID:pyJZGPHy0
冷遇というよりは、江戸時代の社会資本の後退がすさまじく、
明治以降の新政府による整備では、東北の貧困を解消できなかったんですよね。
江戸時代に人口が減りすぎですよ。
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/22(月) 02:21:38 ID:pnLY3Gi/0
それを明治政府に冷遇されたと悪意に受け取るんだよな
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/22(月) 15:32:10 ID:pqV+tTF+0
山形というか酒田あたりなんかは江戸時代も安定的に栄えてたんじゃなかったの?
乱高下状態の仙台藩の経済や、無理な稲作で悲惨だった岩手や青森と違って。
総体として、米を投機に使って飢餓地獄というのはどうなのか……
たとえば長州藩なんかは、天保の改革辺りから専売品の解禁や北前船の中継点という地の利を生かした政策で
資本を蓄積していったようだが、東北諸藩にその辺の手で成功した所はあったんだろうか。
庄内は栄えてた様だが。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/25(木) 23:03:45 ID:6Qvy6bw50
官軍の使者を殺して晒し首にした仙台藩士について語ろう!
千石船と商品経済化というか、会津などではどぶろく作りが盛んだったようですよ。
清酒作りは、明治以降の政府による改良普及だったようですけど。
あそこも飢饉のたびに人口が減少して戻らなかった。窮乏期の備えが足りなかったのでしょうか。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 22:41:21 ID:I7oq1MaH0
お山の大将だったから駄目だったんでしょう…
>>71 庄内はやませが吹いて東北諸藩がのきなみ不作になっても、山脈にさえぎられてやませが吹かないもんだから、
それほど不作にはならないんだよな。だから、米値上がりする中ウハウハできる。そりゃ経済力もつくよ。
戦闘状態にない敵を一方的に襲うことにかけては最強クラス
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/31(金) 01:26:10 ID:byUF4QYRO
幕末時に会津藩と仙台藩がガチで戦ったからどっちが勝つ?
>>77 それ面白いそうだし、興味深いですね。
伊達政宗の頃は、畠山に勝ち、今の福島県の領土も仙台藩だったから。
東北だとは思えぬ温暖な気候、塩などでも儲けていたし。
兵器の性能や忠誠心、軍事においての作戦の上手さなど総合的に見るとどうだろう。
仙台というか東北は弱いイメージしかない。西日本の行動の速さがひきたつ。
白兵戦なら会津に分がありそうじゃね?
戦闘力は充分にあるだろ。
仙台一藩だと負けそうな感じが
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 11:41:35 ID:Bm0CJPL60
いや、しかし一対一のガチ勝負なら、攻め込むのは無理でも守るぐらいは……
>>79 桂太郎や大山格之助が指揮する、薩摩長州の連合軍+新庄軍と庄内軍の新庄藩での戦いでは、薩摩長州軍は
口ほどにもなくもろくも負けてしましましたが何か?しかも、薩摩長州の方が兵員は多いのにね。
可哀想に、新庄の殿様はこの後秋田藩内を延々逃げまくる羽目に…
薩長というが、秋田口の長州藩兵は旋条銃中間第四大隊の一部しかいなくね?
薩摩は十五十六番隊と外城三四番隊と遊撃四番隊か。あと佐賀藩兵が750ぐらい?
これと庄内藩軍を比べると、さすがに庄内のが多いんじゃね?
秋田藩入れると逆転するだろうけど、それなら仙台藩も数に入れてやれ。
敗走しかしてないような気もするがw
>>84 総兵力で比べるなよw 装備が違いすぎて比較できんしね。
新庄での戦いでは薩長兵の方が数が多かった。かつ、新政府側は桂太郎や大山格之助などがいた。
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/07(金) 23:44:45 ID:P8Jixymb0
自分の目の前の戦いに夢中になって列藩同盟の崩壊にも気付かない、
そんな戦略眼皆無の大馬鹿者はこちらですか?
庄内や会津は朝敵!簡単に打ち破ってみせるから、俺たちに協力して攻撃すべし!
なんて言ってたのに、肝心の戦闘になると庄内に負け続け、延々退却するありさま。
残りは庄内だけって状況になったから、庄内も降伏したけど、はっきり言って西軍の口車に乗らず
会津の負けが決定的になるまで、態度を曖昧にしていた方がマシだった。
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 00:04:57 ID:0GsxRFcL0
会津の口車に乗った仙台でも、同じ発言が聞こえるよ。
会津の口車に乗って参戦したが、白河一つ突破できずに敗戦、会津のせいで馬鹿を見たってね。
ある意味
>>79は出島が近いという当時の事情考えたらしょうがない気もする
たとえば阿片戦争を例にしても中国四国九州の諸藩は情報得て
「明日は我が身かも」で軍備増強とか出来るけど江戸以北の藩は
幕府が情報統制とかしちゃったら「阿片戦争?何それ」状態だろうし・・
あと技術革新するにもテキスト(洋物の医学書や工学書など)も流通コストの観点から
西側の藩のほうが安価に入手できた可能性も・・
はあ?何仙台は被害者面しているんだw
仙台が会津をなんとかしていたら、(できなかった可能性は高いが)これほど被害が広がることは無かった。
態度を曖昧にしたとこを責められ、勝手に逆切れして東北全土を巻き込んだ戦犯が仙台だしな
経緯はどうあれ、関東に進出して権征夷大将軍!とか夢見てた仙台藩は、余り被害者とは見られそうにないと思うw
白河口の担当は会津に任せたじゃんしっかりしろよ!と言うならまだ分かる。
>>87 そらー薩長は、兵力的にも練度的にも北越方面と白河方面が主力だもの。
越後方面に出張ってた庄内藩軍は、会津もちゃんと戦えよ!ってブチ切れてたなw
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 15:28:47 ID:tA0S4P8H0
>>92 新庄方面に展開した薩長兵は奥羽鎮撫隊の主力なんですけど。なんで練度的に主力じゃないのw
ああ。世羅みたいなヤツが指揮官にいたから、兵の程度も推して知るべしってかw
世良は第二次長州征伐や鳥羽伏見でも活躍してる
仙台は自らの野心の為反新政府行動を起こしたのを覆い隠し
耐え切れずにやむをえず立ち上がったと言いたいが為に世良を殊更悪人に仕立て上げた
仙台って反新政府で旧幕軍と一致していただけの癖に佐幕派ぶったり
野心をもって戦って負けたと堂々としてればいいのに言い繕い方がださい
自分が勝手に引き込んだ小藩の離反を声高に裏切りと叫んだりするのも
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/09(日) 17:11:21 ID:pOPkpYKP0
仙台藩をドラえもんで例えるとスネ夫みたいな奴?
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/09(日) 17:41:14 ID:uwEMz1/OP
世良が捕えられた宿は、藩公認の上宿なのに、
後世の郷土家は勝手に遊郭認定してしまう。
白石城で上演されていた映像でも、世良は遊女と一緒に寝ていたところに、
怒りに狂った侍が突入したことになっていたけど、
実際は一週間前から暗殺計画を立てており、
前日に宴会を催し、遊女もわざわざ用意しといて、
寝首を押さえたというのが真実。
>>93 司馬小説に毒された、かわいそうな教養の持ち主がここにもひとり・・・
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/09(日) 18:02:14 ID:wKJysOsp0
世羅が人を説得できない言動をしていたってのは事実なんじゃないの?
そりゃ、捏造に捏造を塗り重ねて斬首糞壺漬けを美化するような民族を
説得することはそう容易なことじゃないからな。
俺は仙台じゃないけどさ、説得するために薩長と兵隊と宮さんつれて仙台に乗り込んだんだろ?
きちんと仕事果たせよ。そんなに難しい仕事だったか?
近所の諸藩はえらい迷惑したんだけど。
会津は恭順したとわめくが、実際は抗戦姿勢を崩しておらず
まともな恭順を示してない以上助命嘆願が認められるわけがない
その場合、早期に奥羽方面に兵力を増強出来る情勢でないので、近隣諸藩の力を持ってして鎮撫に当たるのが目的
仕事を果たせなかったのは仙台がドンゴリだから
仙台が強国ならばいっちょ討伐引き受けて新政府内で大きな顔しようと出陣して終わり
ドンゴリだったらまして、新政府側についただろうにw
そんなもんなんで説得できんのだ?理屈に合わない。
奥羽鎮撫使の兵力が少ないから
本腰入れて送り込める戦力を甘く見たんだろ
遠くの薩長より近くの会津にビビッて、敵に回すべき方を誤った
はああ?会津の南には大兵力が迫ってただろうにw
いくらなんでも仙台がそこまでバカじゃあるまい。
結局、巷間世羅について言われているようなコトにも幾分真実が混じっているってこったろ。
いらぬ戦闘をしてエライ迷惑。
大兵力が迫ってたってwいつの時期の話してんだ
時系列まったく理解してないだろ
仙台って裏切りだとか寝返りだと三春なんかに対して言ってるが
そもそも新政府側から裏切ったのは自分自身で、新政府に恭順した藩は元の鞘に戻っただけ
新政府は列藩同盟側に転じた小藩の在京藩士等を拘束はしたが、言い分も聞いている
仙台は問答無用で仙台にいた藩士を殺しています
会津と話を付けて八百長戦をする際も、援軍諸藩には何も知らせず勝手に撤退し
残された兵士が会津兵に殺される等、最初から大藩エゴ丸出しの仙台に対して嫌悪感を持ってる藩は多かった
美化されて活躍が伝えられている鴉組も散々近隣地域で乱暴を働いている
仙台は人を悪く言う前にまず自分が謝らないと駄目だな。米沢と違って擁護すべき点もない
西軍の戦力の増強は上野戦争以降だよな。
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 11:44:26 ID:7NTvl/rZ0
>>104 ワロタw
奥羽列藩同盟成立は慶応4年5月3日。
まだ彰義隊も健在だし、大鳥の伝習隊も日光で板垣と一進一退の攻防してる時期だよ。
北越では長岡での死闘が始まる前。
ぶっちゃけ大軍とやらを奥羽に裂く余裕なんざないわな。
だから第二次白河城攻防戦の新政府軍はたったの250で、第三次ですら掻き集めて700にすぎん。
当時の盤面だけを見れば、そう無謀でもなかったんだよ。
まぁ彰義隊があっさり壊滅したり、戦略の要石である白河城を同盟軍の3分の一程度の新政府軍に奪還されて
連日攻め立ててんのに再奪還もならない様ではどうにもならないがw
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 21:23:47 ID:+fbw7KXd0
仙台藩の行動は、時期がどうしようもなく遅い。
(鳥羽伏見の戦い)
新政府に会津を占領するよう命令されるが無視
(大鳥圭介・土方歳三による宇都宮城占拠、すぐ新政府軍が奪還)
駐屯していた新政府軍を虐殺、白河城占領
(新政府の白河城奪還)
列藩同盟成立
(同時に彰義隊壊滅し、東京は新政府の管理下へ)
白河城の占拠を狙い攻勢をかけるが新政府が城を維持
(新政府軍、関東地域の掃討完了)
(新政府軍、茨城県沿岸から福島県沿岸・内陸部へ進軍)
仙台藩恐慌を来たして逃走
仙台藩降伏
きちんと情報を得ていれば、鳥羽伏見の戦い直後に会津藩へ軍を向けて官軍の仲間入りをしていたし、
大鳥圭介の宇都宮城占拠に惑わされず、ニュースを聞くと頭に血が上って新政府軍虐殺だなんて取り返しの付かない行動もしなかった。
白河城をあっという間に新政府軍に奪還され、軍を増やして再占拠を狙ったが却って撥ね返されるばかりだった。
まあそうだけどさ、実際白河取られるまでは戦力均衡してるどころか、
奥羽優勢って新聞も出てたし、色目も出るんじゃね?
優勢っつっても侵攻を止めて割拠できるかもってレベルで逆に統一勢力となれるような力はないぞ
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 16:28:27 ID:OEk6UPz60
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 18:50:23 ID:68ZbEOL10
茨城が強すぎる
将門が関東を制覇
佐竹、伊達北条と戦い領土拡大
水戸藩、西南戦争で薩摩土人を殺しまくる
そういえば天狗党も強かったね
おかげでみんな壊滅しちゃったけど
福沢諭吉曰く
仙台藩士は弱武者の意気地のない癖に酷いことをする奴ばら
星先生は仙台藩士の血を引いてるんだっけ?血は争えんのう
伊達政宗が嘆いている
星ちゃんは、島流しだなw
>>114 強いですね。桜田門の変は、水戸天狗党出身の浪士が多かった。
会津小説家の中村彰彦に乗せられて、
「世良修蔵を殺したのは正義なのだ」と宣言を出しちゃった河北新報や
仙台一高人脈の連中も、かなり問題あり。
>>93 超が付くほど遅レスだが、奥羽鎮撫軍自体が大した数いないじゃん。
だが、戦闘になった庄内藩の部隊よりは人数が多かった。
かつ、新兵器で武装して訓練してたんだろ?
>>116 むしろ幕末の仙台は昔っからの姑息なお家流が出ただけでしょ
政宗の時代からもアレだし
>>119 庄内藩軍は、第一大隊1000名、第二大隊500名から始まって第四大隊+αまであったじゃん。
>>84の連中よりは、確実に多いと思うぞ。
だがまぁ東北諸藩から掻き集めたのを合わせれば、庄内藩より多いかもな。
でもそれらが庄内藩より新式の軍隊だったとはとても思えん。
その辺詳しい資料あったら挙げてくれ。
つーか、別に庄内藩弱かったとか言うつもりはないっての。むしろ強かったじゃん。
>>121 だからなんで全体数で比較するんだよ。庄内軍は、海沿いと内陸と2手に別れるしな。
初っぱなの内陸の新庄での戦闘では、庄内よりも薩長新政府軍の方が多かった。
それで、大口叩いた割にいとも簡単に負ける薩長…。
>>122 何の全体数だよw
つか、新庄の戦いの新政府軍ってどんだけいたの?
あと、庄内藩が弱かったなんて言うつもりは毛頭ないっつってんだろーがw
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/27(木) 11:03:03 ID:aLr3hBXjO
西軍は雑魚
庄内軍は最強
別に矛盾してない
雑魚の西軍に負けちゃった人たちもいるんですよ!
ハーフマラソンなら勝ったよ
まあ、仙台の声の大きさは、薩長よりもさらに大きかったからな。
南部では斬り殺された人もいるし。
雑魚の言うこと信じてエライ目にあったヤツのことも忘れないでw
助命が叶わないのは会津の態度が不明瞭であって我、ら奥羽諸藩の手でその態度を正すのが先
いきなり話が飛躍して新政府と対立とかありえないと真っ当な意見を言ったら
恫喝して従わせたのが仙台の主戦派。
自分が新政府を裏切ったことを正当化する為に捏造を繰り返し
元の所属に戻っただけの藩を同盟を裏切ったと罵倒する厚顔無恥
wikipediaの戊辰戦争のノートワロタ
仙台・・・
最初だけは威勢が良かったよね
今では何故か政宗マンセーで幕末の仙台藩の事なんて知る人は少ない
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 20:30:22 ID:R4Fd4wyo0
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 21:04:29 ID:kxXzVgyoO
数年前に連日ワイドショーを賑わせていた某捏造事件の主犯の人物は、
世羅修蔵斬首の実行犯のものと同じ、仙台に集中的に分布する超稀少姓だったね。
いや、だから別に何が言いたいというわけでもないが。
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 23:17:21 ID:JPVYsdY6O
あの人は今は何してるんだろ?
あの事件は海外にも報道されたし特に韓国のマスコミが騒いでたっけ
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 09:29:17 ID:jAQJpuCx0
>>134 まぁ、見せ場が奥羽越列藩同盟結成した辺り?ぐらいしかないしなぁ
仙台は維新のバスに乗り遅れて、我ら大藩の意見は無視できまいとやった会津の嘆願も軽くあしらわれてファビョン
彼我の戦力分析もろくに行わず、一発逆転狙って東北全土を巻き込んでるからなあ
まあひたすら横暴に耐えかねてやむを得ず立ち上がったと悪人を仕立て上げることばかりに躍起
だが、会津藩はその頃関東で大暴れ(宇都宮城の戦いに主力参加)しているから
新政府が会津は恭順だと考えるわけがないわけで、仙台藩は読みが浅すぎた。
宇都宮戦争の主力って伝習第二大隊じゃねーの?
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/20(日) 17:04:51.70 ID:9T/5csTqO
会津藩砲兵隊川野隊が主力ですが
そうなんだー
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/20(日) 23:33:34.30 ID:Q6PMzK2t0
正しく言うと、旧幕府陸軍伝習隊と会津藩砲兵隊の合同部隊ということになる。
会津藩兵集団は江戸開城以来、関東各地で旧幕府軍脱走兵と共に確認されており、
会津藩が資金を投入して、旧幕府脱走兵の組織化と反新政府軍事行動を実行していた。
東北諸藩は蝦夷地警備の幕命出てたので、赤字状態。
開港されたのが新潟ではなく仙台なら少しは持久できたと思うけど戦意が低い
仙台はあくまでも内陸の城下町で、塩竃や石巻が仙台藩の外港。
開港するということは、幕府に湊を召し上げられることが前提だし、
開港の候補が新潟になるのは仕方ない。
あと、戊辰戦争の時点でそもそも新潟は開港の準備中で、
明治に入ってからも近代港としての整備が終わっておらず、
戊辰戦争の時には大型船は停泊できなかった。
塩竃にせよ石巻にせよ、西洋の近代船が入港するためには工事が必要で、直ぐには使えない。
実際に塩竃が近代港として整備されたのが明治末だし、
石巻港や仙台港は昭和になってから。
なお良港であった箱館港はもっと早い段階で開港していたけど、その貿易量は、
長崎や同時に開港した横浜に比べて圧倒的に少なかったというのが当時の状況。
仙台藩唯一の勤王家は白石真田家の真田喜平太のみ。
薩長とは違い門閥が強固だったため、若手の登場がなかった。
有名人は藩校校長大槻盤渓くらい。
桑名は国許が新政府に恭順し、旧幕府側についた藩士を投獄処刑し、
旧幕府歩兵についていった藩主の松平定敬の代わりに別の代表を立てているから、
藩でくくることはできない。
会津は藩主だけでなく、あそこの藩ぐるみなので悪質。
しかも会津軍を関東で騒乱行為に参加させる一方で、手紙の上では恭順を表明したりして、やっていることが卑怯そのもの。
その上、会津の仕掛けた関東における騒乱行為は無視して、会津は武装恭順の姿勢を示したのに新政府が侵略したのだ、
なんて根拠のない断定をする作家やその賛同者もいる。
中村彰彦は会津藩の関東動乱への参加を意図的に無視して、会津藩武装恭順説を出している。
大嘘つきとしか表現のしようがない。
前軍
伝習第一大隊:約700人
桑名藩隊:約200人
回天分隊:約100人
新選組:約30人
伝習砲兵:約100名
中軍
伝習第二大隊:約600人
後軍
歩兵第七連隊:約350人
会藩別伝習隊:約80人
土工兵:約200人
会津主力じゃねーじゃんw
落城後の援軍も日向の砲兵一中隊で壬生戦も不参戦。
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 04:55:11.82 ID:AMNkq1H5O
仙台潘は戦争じゃ役に立てないんだから、北方領土を抑えて統治してくれたらよかったのに
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 10:12:13.90 ID:fd4juhwI0
>>150 その史料は、会津擁護の人はひた隠しにしているものです。なぜなら会津の謳い文句
「会津はひたすら恭順していたのに薩長新政府軍が無理やり戦いを仕掛けました」が
大嘘とばれるから。
江戸開城直後から、会津藩は藩の命令で兵を関東各地で活動させていました。
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 11:07:57.11 ID:3fL3fmid0
>>151 いやまぁ、本人たちはそう思ってなかったから、ああなった訳で……
外国と一戦、とまではいかんでも、せめて第2次長州征伐か鳥羽伏見に参加できていれば
あんな醜態を晒さずに済んだのかなぁ……?
仙台藩は露に攘夷してれば、薩長のように近代化・・・できないかw
当時の露は強かったの?
仙台藩はなんで林四平の策を受け入れて農政改革に乗り出さなかったの?
あれやってれば日本近代史は絶対に変わってた
伊達宗村は暗愚って感じでもなかったようだがねぇ
保守派に握りつぶされたんだっけ?
>>155 当時の欧州でも5指に入る
つまり世界的にもトップクラス
そんなに強いんじゃ仙台藩には荷が重いか
仙台藩は空気だったけど支藩の宇和島から名君だしたからそれだけで十分だろw
たしか宇和島が本家、仙台が分家で格下だったと思う
村医者と提灯屋を雇って、日本人だくの手で黒船作らせる発想が面白いな宇和島
高野長英も匿われてて、藩主とも話したことあるんだよな
薩摩や土佐の世継ぎ問題にも絡んでたり、あんな小さな藩なのに凄い人だ
しかしその開明性が災いして、安政の大獄では隠居謹慎という
宇和島藩は高野長英、二宮敬作、村田蔵六を雇ったりセンスはあったんだが
10万石という少ない石高が足を引っ張った
加賀(能登・越中)はアフォみたいに米取れるのに
影薄い、というか空気だよね
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/21(月) 06:52:39.65 ID:mIkHNdJV0
だらしないよね
幕末の仙台藩は、大政奉還のときは「金がないから外交官も派遣しない」で、
江戸開城の後は「急に威張り出した薩長が憎いから引き倒してやれ」なので、
積極関与するなら情報は必要だし、無関心ならあぶく銭で成功者が出ても指をくわえてろ、といいたい。
仙台藩の行動は中途半端なんだ。
仙台藩が本気だすのは蝦夷地開拓時期からです!
北海道には今も伊達家の功績が残ってる
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/24(木) 00:56:17.93 ID:U97TpRFLO
世良さんが仙台藩に一言
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 10:12:52.41 ID:rZOuhdco0
>>164 加賀藩は何か大割拠を考えていたとどっかで読んだが本当だろうか?
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 10:25:07.38 ID:HzXDGJEs0
伊達巻 伊達男 伊達珍
171 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 14:34:30.52 ID:oxKW3MTJO
誰だって西国の風下に立ちたくないだろ。
その心意気は素晴らしいが、いかんせん実力が付いてこなかったな。庄内藩以外は。
庄内だけで秋田戦線は元より北越戦線白河戦線まで支えるのは、さすがに無理があった。
むしろ、秋田こそ仙台とか会津に任せて白河に兵を裂いた方が……秋田に佐賀軍が来るから駄目かw
タバコ出荷停止!
皆さん大丈夫ですか?
近所のコンビニにもタバコがありません
でも、ご安心を!
タバコは個人輸入すれば問題なし
なんせ海外のタバコは激安
送料込みで1箱60円とかもアリ
コンビニで買うのがバカらしく思える
日本語の個人輸入代行業者は沢山あります
「タバコ 輸入代行」とかで検索して
良さそうな業者を選べばOK
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/02(土) 19:23:33.43 ID:ijZkuXzL0
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/12(火) 18:43:32.73 ID:pjwSowJJ0
いかんせん武器の差がありすぎた
孝明天皇や明治天皇との仙台藩の関係は悪くなかったの?
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/17(日) 11:01:54.78 ID:u8ChBg7y0
幕末の鳥羽伏見の戦いくらいまでは、評判は悪くはなかった。
しかしいくら上京を要請しても全然出てこない引きこもりという印象があった。
だから徳川慶喜の江戸逃亡直後に、新政府は仙台藩に会津藩討伐令を出している。
しかしやっぱり動かなかった。
仙台藩は当時の情勢を読み違っていたというよりは、知らなかったのだと思う。
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/17(日) 11:13:22.64 ID:Bd+/77C30
御所九門警備もしてたし京都に藩邸まで持っていた仙台藩が情勢を知らないというのは変だよ。
在京仙台藩士と国元の仙台藩士で意識の違いがあったか、国元だけで決定したかだね
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/17(日) 15:55:33.95 ID:u8ChBg7y0
鳥羽伏見の戦いの時点での仙台藩内の意識として、
京都の情勢を知らないという言葉が悪いのなら、
京都の情勢を理解しようとしなかったと言い換えてもいい。
当時仙台藩の京都詰めや仙台藩内の一部の重役は、
京都に軍勢を送り、仙台軍が天皇の軍・官軍の一員となることを求めていた。
しかし国許では出兵の余裕がないという意見が強く、何もしないまま江戸城が開城し、
さらに何もしないでいると、仙台藩は新政府軍の会津攻めの尖兵、奥州総督府の管轄下に置かれることになった。
仙台藩の考えでは薩長と肩を並べるつもりだったのに、
何もしないでいるうちに、気が付いてみると確立した薩長新政府の下僕、下働きとして認定されていた。
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 03:58:38.09 ID:845MCjSiO
政宗だったらどういう行動しただろう?
会津に攻撃?
官軍に攻撃?
天皇に土下座?
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 09:37:59.48 ID:pQs519fK0
双方に通じる書状をしたためた上で様子見、
後に優勢になったほうに付くってのが、彼の戦国の生き方だとは思うがな
つまり、外から見れば
>>179のような状況に・・・w
ただ自分を高く売り込める政宗なら、実際は戦いもしないくせに、
事前に薩長に対し、自分を「奥州総督に」という確約を取り付けると思うw
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 21:39:19.35 ID:ARLZC1AsO
同じ東北であれだけ幕府や朝廷に尽くした会津を難癖つけて討つのは忍びないだろ。
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/19(火) 00:36:47.59 ID:Ym6aV3AL0
そこを襲うのが政宗w
政宗ならそんなん全く気にしないなw
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/19(火) 10:09:05.69 ID:68jEzipw0
葦名攻めを考えれば、温情なんてありえないのが政宗
天下が薩長に定まったと考えたなら、総力を挙げて会津を攻め
松平容保の首を取って新政府の一角に食い込んだだろう
政宗なら薩長のように密留学生を欧州に送りこんだり、伊達宗城のように蒸気船を自作したり、
いちはやく軍の近代化を成し遂げてそうだがな
その時に薩長に付くか、烏合の衆ではない強固な列藩同盟を組むか
仙台藩は京師の情勢を知らなかったのではないが、
長州を囲む諸藩が長州征伐に消極的だったのと同様、
会津も長州同様、出兵せずに事を収めたかったのだろう
全体的に奥州諸藩は天保飢饉のダメージが大きく、戦争には後ろ向きだったと思う
でも東北某藩は、白河から出撃して権征夷大将軍とか言ってなかったか。
当時の関東情勢から言えば、全くの見込み違いという訳でもない。
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/30(土) 09:43:31.93 ID:l0afNSRu0
>>187 奥羽諸藩はそう思うけど、仙台藩は世良を切って嘆願同盟を攻守同盟にした
当事者なわけだから消極的とはいい難いと思う。
>>190 仙台ってどんな銃を持っていたの?
仙台藩って指導者はやたら意欲はあるけど、いざ戦闘となると弱かったんだよな。
これって、銃の性能のため?
銃の性能もあるだろうが、それ以上に兵の練度が低いのと指揮官が無能だったのが大きいんじゃね?
白河攻防戦の悲惨な状況を鑑みるに。
仙台は藩内の門閥闘争で統一行動取れなかったからな。
今の原発問題で党内ゴタゴタしてる政府みたいに。
195 :
【東電 70.7 %】 :2011/05/08(日) 12:22:59.03 ID:lVe02uTh0
仙台藩洋式部隊の額兵隊は、イギリス式
スペンサー騎銃やシャープス騎銃を装備していたのが庄内藩
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/13(金) 20:55:36.22 ID:NLdJf25QO
天皇と仙台藩の関係は悪くなかったですか?
庄内藩は薩長に負けてないな
仙台藩は大消費地江戸の発展に伴い、米を売ってるだけであっという間に百万石超えしたが、
享保以降はまるで頭打ちになった。しかも天明・天保飢饉が直撃なんてものじゃなかったから
とっくに破産状態になっていた
あと知行地制が逆に藩としての統一的な軍事編成を妨げたと指摘されている
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/21(土) 20:44:30.00 ID:oL3RMMY50
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/21(土) 20:45:00.09 ID:oL3RMMY50
66 : 日本@名無史さん : 02/05/06 12:34
ネット上の記事や持ってる本とか見ても今一よく分からないんですが、
玉虫や若生が自害に追いやられたのは見国隊の脱走が原因で
危機感を募らせた勤王派が旧佐幕(つーか旧主戦派)を粛清したって事で良いのでしょうか?
それと旧主戦派で自害に追いやられた七人って
玉虫、若生、安田の三人の他に誰がいるのでしょうか?
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/21(土) 20:45:14.96 ID:oL3RMMY50
69 : 伊達遠江守家中 : 02/05/06 13:18
>>66 それも関連するが、主に仙台藩内部の主道権争い。
奉行(家老)和田織部・出入司(勘定奉行)大童信太夫・郡奉行若生文十郎
らのいわゆる「敗戦処理内閣」が作られたわけだが、早くから「勤皇!勤皇
!」と叫び続けていた桜田良佐らは自分たちが登用されるものと思っていた。
しかし、意に反して出番がないため「仙台藩は依然新政府に反感を持ってお
りますぞ」と密告。
すかさず新政府軍が再進駐。和田・遠藤主税・玉虫・若生・安田ら七人が捕
らえられ切腹・家禄没収となった。
また、大槻磐渓・松本要人(元奉行、主戦派)・松倉恂・大童らは家禄没収
となった。
これには、当時東京にいた勤皇派の遠藤允信(宿老、いわゆる家柄家老)で
すら処置の過酷さに嘆息したと伝えられている。
>>197 庄内は強かったが、後ろを任せる藩を間違えたなぁ。
まぁ相手は薩長っつーより、佐賀藩主体だったけど。あと頑張れ秋田藩w
庄内が強かったのか、西軍主力が投入されてなかったのか。
関東に近く海に面して外交の仕事をしてた磐城安藤家が早期に薩長とつながりを持ってたら安藤さんお失脚もなく明治になってから炭鉱利権で関東の支店にならずとも商工業都市として成長できたかな
棚倉藩も追随してたかな
>>203 そりゃ人数が無茶多いなら最終的には新政府側が勝つだろうが…
薩摩:大山綱良(格之助)+長州:桂太郎 の現場指揮官で庄内軍よりも兵員が多い状態で衝突してボロ負けなんだぞw
>>205 開戦初期の部隊的には、旧式装備の秋田藩兵が主力だったってことでしょ。
特に長州藩兵なんかは小隊に毛が生えたような申し訳程度の兵力だし。
しかしまぁ、佐賀と薩摩の援軍が到着した雄物川の戦いからでも
庄内藩兵はかなりの激闘を演じたり勝利したりしてる訳で、日本有数の強さだったと言っていいと思う。
出来れば薩長土も歴戦の部隊が揃ってた白河攻防戦でどんな活躍するか
見たかったもんだが、その場合最大の敵は味方ってことになってた可能性もあるなw
>>206 違う。奥羽鎮撫隊の主力薩長兵と新庄で戦っているぞ。
秋田藩は戦っていない。
208 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/05(日) 03:08:27.68 ID:aUbjEZxa0
東京発で転勤しまくった俺の経験による各都市の運転マナー。
札幌
おまえら運転が荒いんじゃあぁぁぁクソが! …でも冬場の凍結路のコントロールは絶妙だった。
名古屋
黄色で止まると後ろからクラクション。最初は気違いに煽られてるだけかと思ったら全員そうだった。
車線変更もノーマナーで割り込んでからウインカーとかザラ。
こんなにひどい土地はないと思った。
大阪
噂には聞いていたが名古屋を経験したので甘く見ていた。名古屋に輪をかけて滅茶苦茶だった。
クラクションはもちろん平気で口汚く罵る奴だらけ。
車線変更どころか右左折でウインカー出さないバカとかハイビームのDQNとか。
名古屋のトップエリートがここでは一般兵。
福岡
マジで無理。大阪より酷い。酔払い運転が事件になるのは偶然じゃない。
飲んでそのまま帰るとか当たり前。ドリンクホルダーに酒のDQNを見たのは複数回。
運転も荒いし交通ルールは守らない。何かあるとどんなに自分が悪くても威嚇してくる。
大阪も似たような感じだったが慣れてこっちも下品に言い返すと意外と素直に謝ってきたり。
福岡はどいつもこいつもすぐ逆切れ。もう無理。修羅の国。
食い物は旨かったが二度と住みたくない。
>>207 その奥羽鎮撫府の中の薩長の兵力が大したこと無いと思うぞ。
長州兵は最初っから最後まで一個中隊程度、
薩摩兵で最初っから奥羽鎮撫使についてったのは遊撃四番隊ぐらいで、
秋田戦線に移ってから増援で来たのは、新設の小銃十五、十六番隊や
郷士三、四番隊とかの末番に近い部隊。
鳥羽伏見以来の精鋭は、殆どが越後か白河-会津に投入されてる。
まぁ援軍の新設部隊が何時ごろ到着したのかまでは知らないんだけどw
庄内初戦の清川口は討庄軍300前後だな。
鶴岡の中央軍と、支藩・庄内松山の来援で薩長は撤退してる。
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/07(火) 08:18:49.79 ID:NHJsc1Gh0
清河は庄内の策士清河八郎の故郷で清河記念館がある!
戦場はその裏手。看板あるので見学にどぞ。
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/07(火) 14:00:12.00 ID:FkPHfpFQ0
若干23歳で衝撃隊を率いて官軍相手に連戦連勝した細谷十太夫や
仙台藩の洋式部隊を編成し箱館まで戦った27歳の星恂太郎
26歳にして藩の代表として降伏調印を行った後、蝦夷地開拓に赴き
賊軍の身から男爵の勲位を賜った伊達邦成等々
明治期まで活躍した若くて魅力的な人物も居るよ〜
だから戦国板で戊辰戦争を持ち出してしょぼいとか言わないで・゜・(ノД`)・゜・。
仙台藩といえば林子平もそうだが、そういうのが才能に相応しい立場で
活躍できない辺りが……ということにもなるわけでw
第何次かの白河攻防戦の時なんか、仙台藩正規軍が作戦計画とかぶっちぎりで大遅刻するもんで
細谷がキレて独断専行してたよなw
まぁ人事の硬直化は仙台藩だけの病弊じゃないけどね。
陸軍奉行とかの幕府の現場最高指揮官になるのに必要な家格も相当だったし。
214 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/07(火) 21:41:23.88 ID:oEHr9JSgO
庄内は菅の馬鹿は何を考えているのでしょうね
細谷みたいな地元で暴れて嫌われまくりのDQNを美化して持ち上げないといけない時点で仙台は終わってる
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 13:58:50.27 ID:2jktded70
ゲリラ戦術で戦う非正規軍だから仕方ない
会津はもっと派手にやってたではないか
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/30(木) 20:49:17.01 ID:9xnUm67zO
AthlonIIX4 630
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 19:32:15.10 ID:kWykOoRnO
政宗なら会津に攻めて官軍にそれなりのポストを要求しそう
攻めたところで会津に勝てるかは分からんけど
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/06(水) 18:12:16.52 ID:Wafnp1/c0
兵器のレベルも丁度いい感じだろうし
峠の上と下で睨みあうぐらいは出来るんじゃね?
伊達政宗なら、平和な村に襲いかかって人質を作り、
村人を兵士に動員する程度の事はやるだろう。
占領したら城内には一人も生き残りを作らず生首を並べる。
伊達政宗の戦記を見ると、そのようなことが誇らしげに出てくる。
221 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/07(木) 21:42:15.73 ID:7cj1otSO0
大昔のご先祖の名前を出さないとどうしようもない感じが
当時の仙台藩の駄目っぷりを如実に現している気がする
222 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/08(金) 05:22:23.43 ID:EFQrzDEFO
戦争に負けた東北諸藩を北方領土に強制追放しまくって繁栄させとけばロシアから領土守れたかな?
仙台藩なぞ薩長の部隊を使うまでもない。館林だの高崎だの土浦藩だののどれか一手を当てておけば楽勝なのだ。
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 21:19:36.26 ID:OOQGbPzPO
政宗も過大評価
225 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/15(金) 14:59:42.14 ID:q3HP/Q2G0
政宗なら会津に侵攻しても、出兵だけで手柄得そう。
事実、各方面に出動してた会津は本城ががら空き状態だったからなw
226 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/15(金) 16:13:48.05 ID:DhM+ur2KO
それはありえますな
出兵だけして戦をしないとか小競り合いだけするとか一揆を扇動するとかやりそうだな
今の伊達家当主ってすごいチビだよね
言っちゃ悪いけど。
顔はダンディーで良いんだけどさ
228 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/18(木) 22:05:21.49 ID:MKpkeF6r0
特に仙台藩では、当時の諸藩で一番多くの家臣数
を誇っていたため、一度活動すれば、大いに時勢が
動くと知識人は見ていた。
”奥州の眠れる獅子”と呼ばれた仙台藩は、公武合体
を成すに当たって、重用な筆頭となるべき藩だったので
ある。
しかし、奥州の奥まった位置から京都に出て、政局
を取り仕切ることは困難であったため、時勢に乗り遅れ
ることとなる。
1868年(慶応4年)に仙台藩に到着した官軍の奥羽
鎮撫総督・九条道孝とその参謀・大山綱良と世良修蔵
は、仙台藩の消極的な政策に批判的態度を示し、仙台
藩を苦しめた。
特に会津藩が徹底抗戦を成すと仙台藩は、出兵を
強請され、いざ出陣を成しても会津藩と戦う気持ちに
なれずにダラダラと行動していた。
それに激怒する官軍参謀の世良は、大いに仙台藩
を非難して、仙台藩の処遇を厳しく罰する意向を示し
た。これに激怒した仙台藩士たちは、新政府が薩長の
横暴によって、取り仕切られていることに不満を一挙
に爆発させ、世良を斬殺してしまう。
こうして、新政府高官を斬殺してしまったため、後に
引けなくなった仙台藩は、米沢藩とともに奥羽越列藩
同盟の盟主となり、奥州・北陸の諸藩を抱き込んで、
官軍に対して徹底抗戦の姿勢を取ったのであった。
しかし、官軍の西洋兵器を駆使した猛攻には耐え切
れずに列藩同盟軍は敗退を続け、ついに米沢藩が
降伏すると仙台藩も降伏に踏み切っている。
この時、仙台湾に入港していた旧幕府艦隊を率いる
榎本武揚たちは、徹底抗戦を主張していたが、仙台藩
はこれを聞き入れず、時勢に従い、官軍に降伏した。
http://jpco.sakura.ne.jp/shishitati1/kakuhan-page1/13.htm
仙台藩に脅されて、藩士を殺され列藩同盟に参加してしまった南部の立場は…いったい。
南部藩参戦は、仙台藩に脅されたというよりは、南部藩家老楢山佐渡が、
先の一揆鎮圧時に恩のある仙台藩家老但木土佐に、いいところを見せようとしたために起きたと判断しています。
しかし既に白河まで陥落しているのに、仙台藩が敗北に次ぐ敗北で北に逃亡しているのに、
今更奥羽越列藩同盟側で参戦する意味があったとは思いません。
仙台藩参戦で一気に形勢逆転、と考えていた但木土佐同様、楢山佐渡も自らの力を過信していたように思います。
眠れる猫、仙台
南部家は津軽家の反対陣営になるのが家訓ですので・・・。
233 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 21:28:33.43 ID:9euggayl0
密出国を繰り返して武器貿易をしていた薩摩・長州に勝とうとすることにまず無理がある。
兵器の購入って意味なら、長岡や庄内は元より、仙台藩だって
額兵隊がスナイドル銃を装備してたことを考えると、その気になれば
バンバン輸入できたと思うのだが……
>>232 南部藩は秋田藩に攻め入り、大館城攻略後に津軽藩の家老に連絡を取り、
和平工作を頼んだとさ。ところが、津軽藩の家老はそれを無視。
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 13:39:00.98 ID:MkFZThNR0
>>159 宇和島とは分家か別家かで大喧嘩している。結論としては支藩じゃなく別の藩。
また宇和島は宇和島自身の分家の吉田藩とも同じことをしている。
ちなみに吉田藩も仙台について宇和島と戦ったがすぐに敗退。
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/19(月) 19:18:31.20 ID:GW8tRpoAO
新発田の裏切りを語らず何とする。
新発田の内通が仙台の弱さを露呈する元凶だよ。
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 10:59:37.46 ID:rpzM6Zow0
しかしまぁ、新発田っつーか越後方面は基本的に会津+米沢の担当じゃね?
特に会津は、酒屋会談とかで早々に越後諸藩や旧幕府領への影響力強化を図ってるし。
なのに何で白河の担当も会津だったのかが良く分からないがw
会津への期待過多だったのか、それとも貧乏くじだったのか。
もしくは京都経験で他の藩が信用ならなかったのか。
会津軍が一定以上の軍を派遣した戦線
・会津西街道(日光市〜鬼怒川温泉〜田島・南会津〜会津若松)
・奥州街道(江戸〜宇都宮〜大田原〜白河〜福島〜仙台)
・越後(新潟・新発田〜長岡〜会津若松、または新潟・新発田〜鶴岡〜山形)
その他に
・磐城(茨城県平潟〜平〜相馬〜仙台)
・久保田=秋田戦線
があるが、5つの戦線中の3つに一つの藩が出張ってきたわけで、会津藩は明らかに欲張りすぎ。
越後なんて鶴岡と米沢に任せれば良かった。会津の新潟港への領土的野心が兵力配分を狂わせた。
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/09(日) 15:07:11.42 ID:XaqtsM9NO
へたれ糞仙台は戦に掛ける情熱を会津から学べ。
会津に学んでどうする?
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/18(火) 12:24:52.87 ID:Ew7CC9ngO
>>241 情熱はあるが、その方向性が完全に斜め上。
会津武士道を奉じた昭和初期の日本軍がいい例。
庄内藩に学んだ方が……
245 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 00:05:45.81 ID:SfGGwoL80
>>244 秋田の角間川での戦いで庄内藩と共同作戦取ったとき、あの庄内藩の鬼玄蕃に
「今度の戦いは仙台藩が先導するから、お前たちはひっこんでろ!」と大見得
切ったんだよな。
で、庄内藩の鬼玄蕃は「まあ仙台藩は大藩だし仕方ないか」と引っ込んだわけだ。
ところが実際の戦闘になると…
とにかく仙台藩の弱さは異常。会津も弱いから恥じることはないけどw
何で弱いのかと言ったら、戦う以前にまず組織の統一が出来てないのね。
米沢も長岡も軍事総督の河井や千坂が政府から離れて権限を行使するシステムを作ってたが、
それでも米沢は千坂がいないと宥和派と強硬派がすぐ意見対立する状態だった。
長岡は河井が藩主支持の下で反対派を徹底的に弾圧して全権を握ってたから、
反発する人間は官軍に投降するか、参戦しないかと言う選択肢しかなかった
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 19:17:01.64 ID:1dAIMIpqO
会津藩VS仙台藩
どっちが勝つ?
>>246 >>会津も弱いから
でも家近良樹さんは、『孝明天皇と一会桑』で会津の軍事力を
高く評価してんだよな。長州戦争に会津兵が参戦していたら、
戦争の行方はどうなっていたか分からないと。
そりゃ会津だろ。会津の敗因は貧弱な装備、守備兵力の分散、稚拙な戦況判断で、
闘志だけはあったわけだから。指揮官のよろしきを得ればそれなりに戦っている
仙台の敗因は…不思議だなほんとに…ここまで見事に各地で負ける藩もちょっと珍しい
>>248 うんそれ読んだ。でも会津防御戦になったら良い所があんまりなかったな
白河の西郷頼母も、母成峠の守備固めも、籠城の時の佐川と山川の対立も
信じられないようなことやってるでしょ
国許と京で人間関係が色々あったんだろうか?
北越戦線でも会津軍本体はいい所なかったような。
>>247 それは流石に士気の差で会津藩。
ここで仙台藩士会に実家が参加の俺が登場。
仙台藩の秘蔵っ子、星が率いる額兵隊。ギリギリまで調練と銃弾作りしてたけど
東北戦争に間に合わず、脱走した隊士と函館戦争で活躍してる。
藩内に尊王思想は少なく著名なのが、白石片倉家の真田喜平太くらい。
代々門閥政治のため優秀な人材は玉虫くらいだった。のが事実。
長州のように改革の気風すらないからどうしようもない。
あと幕府寄りだったのは、伊達騒動や御用商人の破産や貨幣鋳造申請など
幕府に便宜図ってもらったのが有力。
仙台は江戸へコメを輸出することで17世紀に高度経済成長を遂げたから、
18世紀以降は産業構造改革が課題になった上、天明天保の両飢饉で壊滅的打撃を受けた
佐幕それ自体は藩論としてそう怪しむに足りない
やる気じたいはあるが、知行地制が改革の妨害になった感じ
それと奥羽諸藩の中で会津の倍以上の石高を誇った盟主で、戦線が浜通り、白河、秋田に分散してる
途中で対政府方針を変えて政権中枢が但木に転換してるから準備が不十分だった
米沢が和戦いずれにせよ、慶応3年段階から千坂体制を築いたようなことが起きなかった
門閥政治じたいは珍しいことではないんじゃないかな。米沢の千坂も南部の楢山も門閥だし
門閥の弊害は、有能無能に関わらず重職を担うことになる辺りだろう。
そして、そういう理由で引き立てを受ける奴は無能の方が悪目立ちするという。
うーん仙台は会津に乗せられた感がするよねー
米沢・仙台が救済工作してるときに、着々と武装準備してた会津。
土湯会談でも曖昧。結論は中央の政争を地方に持ち帰ってきた会津が悪い
戦後小藩裏切りや佐竹問題で仲悪かったし
ただ会津説得が失敗することは充分予想できた
庄内は朝敵認定を受けた後は会津と戦略的提携を行ってるし
旧桑名藩も(恐らく長岡藩の保証で)柏崎に来ている
これに幕府脱走歩兵の戦力を考えたら会津が強気にならないほうがおかしい
仙台藩の場合、最初は会津説得のためのシフトを引きながら、
途中で説得が失敗すると今度は佐幕派が盛り返してきた
米沢は和戦どっちになってもいいように人事を充てていたが、
仙台はそこで指導部が変わったでしょ。これが直接的に戦争指導に響いたんでは
千坂の場合、父の高明が能吏だったので宮島、甘粕、雲井とか懸命に支えたんだよね
首謀者差出の時も千坂を周囲が庇ったし、新政府への出仕も宮島あたりが必死に世話を焼いた。
門閥の良さを生かして無投票当選した世襲エリートみたいなもの
仙台は門閥が支え合う構図ではなく、意見対立になっちゃったね
真田幸歓の献策を容れていたら、仙台藩の運命はだいぶ違ったものになったかな?
策だけじゃダメじゃね?土佐藩参政吉田東洋みたく権力もたいないと
仙台藩の英断は京都守護職辞退と功績は維新後、蝦夷地開拓で道内に記念館あるらしいね。
位も授任されたような。
幸歓はあの信繁の子孫なんだよな。先祖同様献策を退けられるとは。
真田の言ってることは正論だけど、実現可能性から言えばちょっとね
政治家である以上は、セカンドベストを模索することも必要
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 14:47:18.44 ID:fTg45bpY0
>>75 福島第一原発事故や 青森の 核燃施設を みて おもったけど 東北の 太平洋がわは
まずしいのだよね。
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/28(水) 09:41:43.24 ID:L1HtRdJB0
内ゲバで自滅
太平洋側の東回り航路は極めて危険だったけど、見返りがあった。
危険な航路を海岸線に平行に作られた運河で物資を江戸まで送った仙台藩。
仙台藩はこの運河で裕福になった。
戊辰戦争のとき相馬とか戦地になったんすかね
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/11(水) 16:57:33.26 ID:siq2l5BJ0
>>255 あれ?会津は恭順の準備を進めていたけど、千台藩がそれを押しとどめたんじゃ
なかったっけ?
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 17:46:39.47 ID:fdbAyy8y0
仙台藩って藩士多すぎやろ
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 21:42:11.74 ID:KBx2BQjL0
鹿児島藩は他の藩じゃ卒族にもなれない層に卒族格を与えまくった
幕府に勝った筈の鹿児島住民に対する恩賞というか懐柔政策
それ抜きにしても多い方だけど
>>268 それは明治維新後の士卒族の戸数をグラフで表しているだけだ。
例えば人口の方の具体的な数字は以下の通りで、戊辰戦争の処分により仙台藩は大幅縮小してしまっている。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/府藩県三治制下の日本の人口統計 幕末の仙台藩の武家人口は女子供などを含めて約3万4000家17万人。
ところが戦争に負けたらから領地・領民・石高も減らされて養っていけなくなり、
約2万7000家12万人以上が帰農し、最終的に士卒族になれたのは7000家4万5000人程度
江戸時代の武家人口は鹿児島藩に次いで二番目に多い。
陪臣を含めた広い意味での武家人口が多い藩を比較すると以下の通り
人口は女子供老人を含むので、実際の兵力は武家人口の1/5程度
薩摩藩 1852年の総人口62万5365人(琉球・奄美を除く)
内、直士17万0694人、諸子家来7万3634人、合計24万4328人(総人口の39%)
明治維新後は、総人口77万2363人(琉球・奄美を除く)
内、華族9人、士族19万2949人(琉球士族を除く)、卒族9万5569人
合計28万8527人(総人口の37%)
仙台藩 1825年の総人口68万7802人(一関藩を含む)
内、一門・諸士・諸組・諸職人14万6352人(総人口の21%)
1867年頃の推定総人口79万人
内、士分17万2239人(1869年、総人口の22%、但し12万5736人は帰農)
佐賀藩 1854年の総人口40万2769人(支藩を含む、出稼ぎ人を除く)
内、武家15万5487人(総人口の39%)
熊本藩 1869年の総人口71万6817人
内、華族10人、士族1万6050人、卒族7万1733人、諸陪臣1万9221人
合計10万7014人(総人口の15%)
長州藩 1869年の総人口79万9553人(支藩を含む)
内、華族26人、士族2万0710人、卒族2万2575人、陪臣2万5487人(平民扱い)
合計6万8798人(総人口の8.6%)
加賀藩 1870年の総人口108万6159人
内、華族11人、士族2万8683人、卒族2万7038人、中間小者5938人(平民扱い)
合計6万1670人(総人口の5.7%)
尾張藩 1870年の総人口99万0428人(支藩を含む)
内、華族19人、士族1万9327人、卒族3万6518人、合計5万5864人(総人口の5.6%)
土佐藩 1870年の総人口51万6545人
内、華族8人、士族3万0506人、卒族1万8908人、合計4万9422人(総人口の9.6%)
紀州藩 1870年の総人口72万6766人(支藩を含む)
内、華族13人、士族2万6267人、卒族2万1519人、合計4万7799人(総人口の6.6%)
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/25(土) 15:16:40.13 ID:v01jM/fW0
なるほど、そういう事だったのか。
にしても、鹿児島の士族数は異常に多いな。
士族を人口比率順でみると
鹿児島=佐賀>仙台 ってことか。
加賀なんて少ないな。
武家の立場は藩によって大分違うから一概には言えないけど、
蔵米知行へ移行し、武士のサラリーマン化したところほど、武家人口の割合が減る。
余計な人材はリストラ整理できるし。
加賀藩の場合、筆頭家老が領地を持っていたけど、江戸時代初期の段階で
百姓一揆を理由にぶっ潰されたりしている。
細川藩の場合は、江戸時代初期の段階で大幅リストラして武家人口を減らしてたけど、
天草の乱の時に幕府から命じられた兵員を揃えることができず、慌てて浪人を雇った。
熊本に移った後も、少しずつ武家人口が増え、幕末になって大幅に足軽を増員。
仙台藩の場合は、領内に独立大名と言えるほどの万石以上の家臣が5家も存在し、
それぞれが仙台へ参勤交代していた。
そんな地方知行制が幕末で続いた結果、複雑な指揮系統が維持され、
戊辰戦争の時に軍事力も発揮できなかったのかも知れない。
ちなみに明治維新で士族・卒族を設定した時、陪臣は原則平民扱いとなっため、
淡路島の稲田騒動みたいなことも起こった。
もっとも薩摩藩とかは、陪臣も全部士卒族に抱えている。
江戸時代、使用人クラスまで含めた武家人口は正確には不明だが、
多分平均すると総人口の10%を超えるぐらい。
明治維新後に士卒族になれたのは総人口の6%。
その後卒族は廃止されるけど、一代卒族(幕末に急遽足軽として雇われたような立場の人)がリストラ対象で、
卒族の90%は士族に移行できた。
結局士族の俸禄も廃止されて名誉だけしか残らなかったが。
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/16(金) 11:49:18.00 ID:jvpdhwSH0
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/17(土) 13:26:50.42 ID:Kd9QVqST0
明治20年代の県議会議員
士族 平民
神奈川 1 56
埼玉 1 38
千葉 3 50
群馬 4 56
新潟 4 60
栃木 5 32
長野 6 32
岩手 7 60
宮城 8 56
山形 8 23
秋田 9 21
茨城 10 48
福島 10 50
青森 12 18
鹿児島 27 3 ←
プッw いかに時代遅れでお山の大将気取りの田舎侍が多かったか分かります
でも正直士族出身者は資質高かったからなあ
>>275 昔からあるコピペのようだけど、数字が正確でない。
中身は明治24年11月15日調の府県会議員の統計で、鹿児島県の士族議員は27名よりも多い37名。
45府県の府県会議員の士族率を少ない順に並べると、下位・上位10府県は以下の通り
士族 平民
*0 30 山梨県
*0 21 富山県
*1 56 神奈川県
*1 41 静岡県
*1 38 埼玉県
*2 34 香川県
*3 50 千葉県
*2 32 奈良県
*3 46 岡山県
----中略----
12 18 青森県
20 28 山口県
13 18 大分県
33 43 福岡県
20 10 高知県
24 10 佐賀県
18 *7 宮崎県
31 *6 長崎県
38 *6 熊本県
37 *3 鹿児島県
当時府県会議会に被選挙権を有する者は、地租10円以上を納め、
その府県に本籍を有し、満3年以上居住する満25歳以上の男子に限られていた。
明治23年11月15日調の統計では、府県会議員の被選挙権を有する者は、
日本全国で75万5412人(華族151人、士族3万0704人、平民72万4557人)に対し、
府県会議員は2230人(華族1人、士族462人、平民1767人)。
全国平均では、被選挙権を有する士族の66人に1人が、平民の410人に1人が府県会議員に選挙で選ばれた。
とりわけ大阪府の場合、被選挙権を有する士族110人中11人が議員に当選している(10人に1人)。
一方鹿児島県では被選挙権を有する士族4425人中、37人しか議員になれたかったわけで(120人に1人)、
士族にとっての府県会議員になり難さでは、下から10番目。
士族の人口の割合が20%を越えていた鹿児島県よりも、
士族の割合が9%の熊本県の方が、平民が議員になりにくかった。
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/14(土) 16:48:22.42 ID:e194Qvr70
もう過去ログに入っているから突っ込めないけど、この196万石やら240万石やら、
どっから持ってきた数字なんだ?単に内高を倍にしただけ?
ttp://logsoku.com/thread/hayabusa3.2ch.net/morningcoffee/1330858865/ 89 : 名無し募集中。。。 : 2012/03/04(日) 21:15:15.15 0
仙台 196万石(但し、仙台伊達宗家の石高は50万石程度、分国支配なので近代化が遅れた)
秋田 120万石(上に同じ、幕末の列強と戦える力がなかった。佐竹宗家も実質は30万石程度らしい)
萩 100万石(実質最強の石高を誇った。)
尾張 87万石(財政が悪化してたらしい。)
加賀 80万石(仙台と同じ、実質の石高よりも低かった。)
紀州 53万石(財政が悪化してたらしい。)
土佐 50万石(藩政改革により裕福な藩になる。)
薩摩 45万石(実質の石高よりも低かった。その分密貿易で潤った。)
会津 40万石(幕府より財源を捻出してもらう事により雄藩と対抗できた。)
水戸 30万石(幕府より財源を捻出してもらう事により雄藩と対抗できた。)
庄内 20万石(新田開発で半の財政強化を図った。)
仙台・秋田は藩内に小さな藩を沢山持ち、石高が30万石など財政的に宗家よりも力がある家臣や分家が出来き
身動きができない状態であった。加賀・尾張も同様だった。
萩や薩摩、土佐は領地を家臣にやるのではなく俸禄を渡す方法で、支配体制を固めた。
数値は推定である。
96 : 名無し募集中。。。 : 2012/03/04(日) 21:21:32.18 0
>>94 実際の石高は100万弱程度
それは、幕末に藩のすべての経済力を石高に換算したもの160万石という数値はそこからくるもの
その時の仙台藩が240万石、対馬藩が35万石というデータが出ている。
なのでデタラメとは言えないが実質は違うよ。
仙台・秋田はその当時から石高が高い。
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/14(土) 16:53:57.99 ID:e194Qvr70
って、良く見たら
>数値は推定である。
要は脳内数字か
別に明治維新後の地租や米収穫高から真面目に計算しているわけでもなし
>>278 仙台とか秋田とかは収穫量にかなりの変動があるんだよ。
200万石取れるときもあれば50万石もとれないこともある。
やませがふせばほぼ全滅する事もあるしな。
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 04:06:55.79 ID:nwBmLeuL0
旧高旧領取調帳によると、
旧仙台・一関藩領:101万8817石9斗6升6合
内訳:
701,507.120石 陸前国全域
198,586.590石 陸中国内
*93,576.727石 磐城国内
*13,377.702石 近江国内
*11,474.537石 常陸国内
***,295.990石 下総国内
旧久保田(秋田)・岩崎藩領:41万3103石6斗8升3合
内訳
408,773.340石 羽後国内
**4,330.343石 下野国内
東北各国の石高は
600,036.140石 磐城
126,244.940石 岩代
701,507.120石 陸前
465,451.120石 陸中
340,866.250石 陸奥
945,416.860石 羽前
560,914.620石 羽後
一方明治9年〜明治12年の全国農産表による各年の米の収穫高は
陸前
633,868.035石 明治9年
611,247.896石 明治10年
529,364.656石 明治11年
593,553.278石 明治12年
592,008.466石 4ヶ年平均
羽後
*.902,225.764石 明治9年
*.714,444.773石 明治10年
*.804,987.331石 明治11年
1,052,682.559石 明治12年
*.868,585.107石 4ヶ年平均
282 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 04:32:41.06 ID:nwBmLeuL0
久保田藩(秋田藩)の場合、表高20万石に対して
幕末の公称内高は41万6325石3斗6升(天保郷帳による、出羽領内のみ)
明治10年前後の羽後国の年平均米収穫高から推定される
旧秋田藩領内の米実収穫高は約64万石(4ヶ年の変動は53万〜77万石)で、
米だけで表高の3倍以上、公称内高の2倍近くとなる。
仙台藩の場合、表高62万石に対して幕末の公称内高は99万2057石2斗6升(天保郷帳による、陸奥領内のみ)
明治10年前後の陸前国の年平均米収穫高から推定される
旧仙台藩の米の実収穫高は約86万石(4ヶ年の変動は77〜92万石)となり、
表高を上回っているものの、江戸時代の公称内高約100万石を若干下回る。
もっとも本来石高は、他の農作物も含んだ収穫高なので、この辺は誤差範囲。
米以外の農作物も含めた米換算石高(明治10年〜12年、中村哲氏の計算による)は、
722,412石 磐城
852,925石 岩代
870,890石 陸前
687,770石 陸中
605,865石 陸奥
1,065,878石 羽前
1,010,170石 羽後
こちらの数字で計算すると、旧秋田藩領は約78万5千石、旧仙台藩領は約126万5000石
この場合は大豆のウェイトが高く、例えば明治9年の陸前は大豆14万4532石8斗1升4合の収穫があるが、
米1石が3.40円なのに対し大豆1石は3.00円で、米換算で12万7500石と計算される。
ちなみに金沢藩領の明治維新時の公称内高は、金沢藩133万8084石、富山藩15万9298石、大聖寺藩8万3772石で、
合計すると158万1154石
明治9年〜明治12年の全国農産表から加賀・能登・越中の4ヶ年平均石高を計算すると
米だけで136万8546石(4ヶ年の変動は122万〜144万石)。
いずれにせよ江戸時代の仙台藩で196万石やら240万石という数字は、
明治時代に政府が把握した数字から逆算しても、他の農作物を加えたとしてもありえないし、
>>278は仙台藩・秋田藩の実力を目立つように、他藩の石高を必要以上に引き下げている。
283 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 05:15:11.72 ID:nwBmLeuL0
ちなみに日向・大隅・薩摩では、薩摩藩が独立国家状態を保ったため、
明治10年まで地租改正は完了しなかった。
明治11年、明治12年の米の収穫、農作物米換算石高を見ると(小数点以下四捨五入)
明治11年 明治12年 米石高平均 農作物米換算石高
日向 157,266 217,459 187,362 423,041
大隅 *87,880 103,546 *95,713 234,079
薩摩 134,124 134,611 134,368 446,977
日向の1/3程度が薩摩藩領として、旧薩摩藩領での米の収穫高はわずか30万石しかないことになる。
確かに薩摩藩に関しては、幕末になっても表高に見合う米の収穫高はなかった。
ところが他の農作物を加えると合計82万石となり、70万人程度の人口を支えるだけの収穫はあったことが判る。
その他の農作物で重要なのはサツマイモ、麦類、粟、蕎麦などで、例えば明治12年の薩摩国では、
米13万4611石312に対し、サツマイモ1億8144万0930斤(米換算で9万5954石491)、
ハダカムギ2万0363石376(米換算で5万3315石126)、粟4万5761石751(米換算で5万2904石227)、
蕎麦1万4106石433(米換算で4万2340石510)、大麦1万3702石165(米換算で3万6727石871)など
特にサツマイモは、米よりも貨幣価値以上にカロリー源が十分だったと言えるかもしれない。
鋼鉄の時代に石高なんてカビ臭い基準に固執してたから取り残されちゃったんだな
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 20:03:42.01 ID:nwBmLeuL0
>>283 薩摩の農作物米換算石高の計算を間違えていた。
麦の価値はこれよりも低い。
明治11年の薩摩の農産物収穫の数値を使うと
サツマイモ 1億4380万4652斤 (米換算で20万8488石)
米 13万4123石6斗9升7合
粟 4万9586石0斗4升2合 (米換算で2万2546石)
もち米 1万3538万9斗6升1合 (米換算で1万4786石)
ハダカムギ 2万3466石3斗6升6合 (米換算で1万1444石)
大麦 2万4509石0斗7升5合 (米換算で9114石)
小麦 9823石7斗6升9合 (米換算で5781石)
大豆 5488石5斗6升4合 (米換算で5625石)
蕎麦 8909石4斗9升9合 (米換算で4293石)
で、サツマイモの米換算石高(21万石)が米(13万4千石)を上回っている。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1305980577/88-89 明治維新の頃の諸藩の人口
124万7061人 加賀(金沢)藩 (富山・大聖寺藩を含む)
98万9963人 尾張(名古屋)藩 (高須・犬山・今尾藩を含む)
92万3228人 薩摩(鹿児島)藩 (佐土原藩を含む)
91万4157人 芸州(広島)藩 (広島分地藩を含む)
(81万3886人 静岡藩 (明治維新後に成立))
78万2390人 長州(萩/山口)藩 (徳山・岩国・豊浦・清末藩を含む)
約78万人 仙台藩 (一関藩を含む)
71万9990人 肥後(熊本)藩 (宇土・高瀬藩を含む)
71万4022人 阿波(徳島)藩
69万6346人 紀州(和歌山)藩 (西條・田辺・新宮藩を含む)
51万6866人 土佐(高知)藩 (高知分地藩を含む)
51万2096人 肥前(佐賀)藩 (蓮池・小城・鹿島藩を含む)
45万3736人 久保田/秋田藩 (岩崎藩を含む)
約42万人 南部(盛岡)藩 (八戸・七戸藩を含む)
42万1493人 筑前(福岡)藩 (秋月藩を含む)
39万4905人 備前(岡山)藩 (鴨方・生坂藩を含む)
37万8734人 鳥取藩 (鹿奴・若桜藩を含む)
33万1325人 松江藩 (広瀬・母里藩を含む)
31万3705人 水戸藩 (松川・石岡・宍戸・松岡藩を含む)
30万4774人 弘前藩 (黒石藩を含む)
29万9223人 高松藩
28万3094人 津藩 (久居藩を含む)
26万2085人 久留米藩
22万5774人 会津藩(1854年)
22万3425人 宇和島藩 (吉田藩を含む)
22万2661人 姫路藩
21万1882人 伊予松山藩
約21万人 庄内(鶴岡/大泉)藩 (松峰藩を含む)
20万2511人 越前(福井)藩
20万2511人 越前(福井)藩
19万2591人 新発田藩
18万7300人 福山藩
17万6149人 前橋藩
17万5044人 島原藩
17万2545人 彦根藩
17万1056人 高田藩
約17万人 小倉(豊津)藩 (千束藩を含む)
15万8307人 丸亀藩 (多度津藩を含む)
14万9143人 平戸藩 (植松藩を含む)
14万8589人 松代藩
14万4153人 米沢藩 (米沢新田藩を含む)(1867年)
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/20(金) 19:29:54.94 ID:eS3OsKVqO
宮城県は責任を取って北方領土を買い取ってください
288 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/29(日) 21:43:27.62 ID:FkX2jvEQO
浅田舞 可愛い
289 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/04(金) 15:13:26.34 ID:IwRT0mBa0
もち米や陸米等の数字を加えた米の年平均収穫高で、石高を再計算し直してみた。
東北地方の各地の水陸稲の収穫高(明治9年〜明治15年の7ヶ年平均、括弧内は標準偏差)は以下の通り
磐城 50万2205石(2万5917石)
岩代 51万9855石(3万2465石)
陸前 69万1365石(5万0124石)
陸中 40万4865石(2万6899石)
陸奥 50万3917石(6万9005石)
羽前 78万0058石(6万9918石)
羽後 99万8895石(14万3046石)
東北全体 440万1160石(31万0677石)
>281と同様に、旧高旧領取調帳の石高比から東北地方の主だった藩領の
明治時代初期の米収穫高等を計算すると:
仙台藩領 (支藩を含む;近江・常陸・下総国内の2万5148石を除く)
平均米収穫高 86万4102石 [明治9年〜明治15年平均]
豊作時米収穫高 92万7827石 [明治15年]
凶作時米収穫高 76万1946石 [明治11年]
農作物米換算石高 116万4330石 [明治10年〜明治12年平均]
久保田(秋田)藩領 (支藩を含む;下野国内の4330石を除く)
平均米収穫高 83万2029石 [明治9年〜明治15年平均]
豊作時米収穫高 96万8357石 [明治15年]
凶作時米収穫高 65万1343石 [明治10年]
農作物米換算石高 88万7823石 [明治10年〜明治12年平均]
弘前(津軽)藩領 (支藩を含む)
平均米収穫高 41万6731石 [明治9年〜明治15年平均]
豊作時米収穫高 49万9653石 [明治12年]
凶作時米収穫高 32万7292石 [明治11年]
農作物米換算石高 50万1041石 [明治10年〜明治12年平均]
290 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/04(金) 15:16:07.81 ID:IwRT0mBa0
鶴岡(庄内)藩領 (支藩を含む)
平均米収穫高 31万9800石 [明治9年〜明治15年平均]
豊作時米収穫高 36万2890石 [明治15年]
凶作時米収穫高 27万4234石 [明治11年]
農作物米換算石高 37万9608石 [明治10年〜明治12年平均]
盛岡(南部)藩領 (支藩を含む)
平均米収穫高 28万3796石 [明治9年〜明治15年平均]
豊作時米収穫高 31万7240石 [明治12年]
凶作時米収穫高 25万3663石 [明治9年]
農作物米換算石高 44万7875石 [明治10年〜明治12年平均]
若松(会津)藩領 (岩代国内の領地・預地のみで計算;越後国内11万0195石(預地を含む)・下野国内952石を除く)
平均米収穫高 24万0313石 [明治9年〜明治15年平均]
豊作時米収穫高 25万9967石 [明治15年]
凶作時米収穫高 21万0201石 [明治11年]
農作物米換算石高 39万4282石 [明治10年〜明治12年平均]
米沢藩領 (支藩を含む、越後国内の1万5085石を除く)
平均米収穫高 20万9576石 [明治9年〜明治15年平均]
豊作時米収穫高 23万2323石 [明治15年]
凶作時米収穫高 17万8443石 [明治11年]
農作物米換算石高 27万1399石 [明治10年〜明治12年平均]
291 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/04(金) 15:21:55.87 ID:IwRT0mBa0
仙台藩は間違っても200万石や250万石の収穫があったことはない。
但し公称内高100万石は、他の農産物(大豆等)を加えれば嘘ではない。
南部藩も、20万石への嵩上げを非難されることが多いが、明治初期の収穫高を見る限り、
米だけでも20万石以上は米が収穫されている。
そして久保田藩、津軽藩、荘内藩など、日本海側の諸藩は表高以上に米が収穫されている。
292 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 12:45:46.72 ID:Sqzgbcly0
293 :
諸橋 嘉久:2012/06/20(水) 06:16:56.95 ID:ng9sOTkZ0
>>281-285,289-290
こんだけ収入あっても膨大な財政赤字抱えてたんだよなぁ……
特に薩摩
295 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 04:07:33.35 ID:pyK4n25sI
私の高祖父は200石の会津藩士(中級です)の家で、
戊辰戦争当時6歳。
戦火が広がる中、仙台藩の保護の元、富山に集団疎開して生き残ったと伝え聞いてます。
男子は幼子といえど処刑されえる可能性があったからと。
つまり戦時下は、仙台藩は会津中の幼児を引き連れて、
富山に移動してたんですよ。
自分はそんな仙台藩が好きです。
こんなストーリー、他の戦争でもなかなか無いと思います。
大河で描いて欲しいです。
会津藩で200石なら十分中級だろうけど、
>>295には突っ込みどころが多すぎる
加賀藩は、鳥羽伏見の戦いまでは「徳川殿を助ける」とか言っていたのに、
征東軍が来ると参加を申し出るという、その程度は惰弱な人たちでした。
なので、仙台藩関係者を受け入れたりはしないと思います。
そして仙台藩の新政府との敵対と列藩同盟設立は、新政府の江戸入城以後のことであり、
それまでの間は仙台藩と会津藩はむしろ戦火を交わしておりました。
また、越後での戦役等の日程を考えると、仙台藩が同盟に加わった日から、会津から富山への疎開は非現実的だと思います。
主戦場の向うなのですから。
>>297-298 いやー、ありうる話だよ
政治的に奥羽越列藩同盟を離脱したとしても、東北諸藩士の同情は
圧倒的に会津藩に向いていたから、これから滅びゆく会津藩士に何かしてやりたい、
とは強烈に思っていた。
当時は家督を残す事が武家の最大の務めだったから、仙台藩とか加賀藩とかの
ビッグブランドを利用して、会津藩士の幼い子弟を疎開させてやる、なんて
当時の武家が如何にもやりそうな企画だな。もちろん表向きには出来ない話なので
歴史の本には残ってないと思うけど。
こうやって新しい秘話がコリエイト・・・
列藩同盟結成前の段階では、仙台藩と会津藩は戦火を交えてたし、
列藩同盟結成後の段階では、北陸の方がむしろ戦闘の最中で、
いったい国外へ疎開ってどういうルートだよ?
ちなみに会津で200石の知行取りなら、
上から数えて160〜250人目ぐらいに相当し、中士どころか上士の家柄
301 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/14(月) 01:26:37.48 ID:VWo4zS/a0
西郷四郎も新潟に疎開してるけどね。
302 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/14(月) 01:40:06.43 ID:VWo4zS/a0
ちなみにドンゴリさん2人が家に迎えに来たと聞いてるから、
白河の後だね。
>>301 西郷四郎の疎開先の津川はよその領地じゃなくて、
現在の新潟県内にある、会津藩の所領だろ?
「新潟」と略すと意味が変わるぞ
あと
>>302=
>>295 ?
>自分はそんな仙台藩が好きです。
と書いておきながらドンゴリ呼ばわりだし、
>会津中の幼児を引き連れて、
って、上士の出なら、対象は会津中の幼児のわけないし、
そもそも事実関係も十分まとまめられてないのに、
>こんなストーリー、他の戦争でもなかなか無いと思います。
>大河で描いて欲しいです。
なんてしゃあしゃあと書く気が知れない。
304 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/14(月) 03:20:35.26 ID:VWo4zS/aI
ドンゴリさん呼ばわりは当時の記録まんま。
当時既にそうよんでたみたいです。
すまんね。
会津中の幼児は言い過ぎたね。
ただギリギリ日新館に入れなかった位置と聞いてるよ
305 :
諸橋 嘉久:2013/01/14(月) 11:09:39.88 ID:TMbuonl30
白河で大勢の戦死者を出したからな。
だが、意外な事に仙臺は、アームストロング砲を保有して居た。
大砲の威力を一番良く知っていたからこそのドンゴリ兵とも言える。
宇和島藩って最初に大村益次郎を登用した藩だよね
しかもまだ実績すらない蘭学者を破格の高待遇で
その辺のセンスはダテじゃないなと
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/14(月) 19:05:03.58 ID:z4hX67W30
たっと探ししに探して昨日の深夜から日テレ白虎隊観た。
リアルタイムで観たときはあんまりよくわかんなかったけど、
今回はマジで泣いた。
ちなみにあの戦争は、容保がバカだったんだな。
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/15(火) 21:34:14.87 ID:3nLPUIJo0
>>305 仙台の一般兵がそれを知っているのかよw
309 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/21(月) 21:47:53.82 ID:m5MWEVfg0
勝利者は肥前鍋島と仙台伊達です。何故ならデウスの国であり。ヨシノブと裏で共謀していた。会津松平と鍋島は戦争後仲良くやってる。
310 :
戸浦六宏:2013/01/23(水) 00:22:43.22 ID:QyiTa9bTO
真の勝利者は勤皇砂漠の大藩たる土佐藩
仙台藩はまとまりが無かった
312 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/12(金) 21:45:32.44 ID:DEEtezxy0
313 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/12(金) 21:59:36.09 ID:mJDn+C980
大` 山の篭り夫婦の妻:48歳
ほんと仙台藩はだらしなかった
仙台は居心地が良すぎてダメなんだよわ。根性とか言う暇あったらずんだ餅食ってお茶飲みたいのさ。
きっと戦地の藩士も「もう仙台さ帰りでぇ。つーか帰るっぺちゃ。」と、なったんだべ。
今も仙台に来たっきり永住してしまう転勤族はいぎなり多いし、まぁ日本の北欧みたいな場所だー
なるへそ
【ことば】:仙台時間
集合時間に出発する事を仙台時間と言う。たとえば19時から忘年会の場合、19時に職場を出発する。
なお、仮に19時に到着しようとしても自然と10分は遅れてしまうのが仙台人。
戊辰で戦略的に後手後手になったのは仙台時間のせい。
戦術においても仙台時間発動で毎回作戦崩壊。
>>315 そんな居心地のいい所なのか。。。フーン、仙台も悪くないな。
庄内とか長岡はどうなの?常在戦場とか言ってピリピリしてたりすんの?
320 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/07(水) NY:AN:NY.AN ID:czW7BZLO0
最近でた「仙台ルール」って本
読んだらなんとなく弱かった理由がわかった。
あまり競争向きじゃないな、仙台人は。
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/04(金) 00:15:39.78 ID:1Ic8DROh0
>>319 庄内は身内とか部落間での結束がやたら強いって感じがする
町内運動会とかみんな対抗心バリバリだし
誰か倒れたりしたら近所の人が勝手に助けてくれたり・・・って感じで
他県から嫁いできた俺の母親は馴れ合ってるみたいで気持ち悪いとか言ってるけど
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/05(土) 13:50:30.76 ID:cIze7ROz0
鴉組と額兵隊…
因みに、秋田で下級の仙台藩士が質屋にボロい掛布団を5両で買わせたのを庄内藩に見咎められ、仙台藩の上士にたれ込まれて晒し首となっている
>>323 検索したら本当にあったw 横手での話か。
この後の戦闘でも、仙台藩はやらかしちゃうんだよなあ。
まことに不思議なことだが、あの戊辰での振る舞いが現在の地方の興廃と奇しくもリンクしている。
秋田県や青森(津軽)県はもうダメだ。
326 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/16(水) 23:52:49.05 ID:1nUEtueTO
★奥州雄藩★
伊達仙台藩
上杉米沢藩
松平会津藩
南部盛岡藩
秋田や青森は官軍(に寝返った)なのにな。
仙台が緒戦から挙藩体制で全力投入してたら・・・
329 :
諸橋 嘉久:2013/10/25(金) 11:06:02.36 ID:DkTOr1hr0
330 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/25(金) 11:24:47.32 ID:BCJ9mOne0
■詐欺容疑で男逮捕
仙台東署は17日、詐欺の疑い、仙台市若林区大和町2丁目、会社員 伊藤康一郎 容疑者(35)を逮捕した。
逮捕容疑は2011年12月28日、当時経営していた若林区の出版物販売会社で、同区の印刷会社に偽造した銀行の振込明細書を
ファックスで送って代金を支払ったように見せ掛け、月刊求人情報誌1万部(計約68万円相当)をだまし取った疑い。
同署によると情報誌は販売されていたという。
ソース:河北新報
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/08(金) 22:54:40.63 ID:DD3xrHeW0
そんな仙台が好き
仙台市、盛岡市、鶴岡市(庄内)、会津若松市は、歴史や文化が残っいて良い街だね。
秋田市、青森市(津軽)の街並は酷い。
青森市って…江戸時代には単なる港町だったんだけど。
明治になってから造られた都市だよなw
青森県だったら弘前市がそれにあたる
平泉のように今は廃れたけど昔繁栄していた町の趣深さは好きだ。
気位が高く口ばかりで言い訳が多く意気地がないのが今も昔も仙台人の気質。
今週の県民ショー、あの転勤族夫婦がいよいよ仙台に。
隣県の郡部出身者にとって仙台は嫉妬の対象ってのはある
だから見栄はって東京へ行く。そして苦しむw
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/02/02(日) 12:42:43.22 ID:QeUo9UAB0
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/15(土) 00:16:44.10 ID:bDwpN5Px0
南部藩は仙台藩と戦闘になるのを恐れて秋田に攻め込んだけれど、
南部vs仙台だとどっちが勝ったのかな?
>>342 さすがに仙台なんでね?南部はとても好きだけど。
列藩同盟の中だと庄内藩あたりには仙台が勝てる気がしないw
一部平民扱いにされたとはいえ仙台藩の士卒の数は全国で圧倒的に多い。
眠れる獅子のまま終わったとしか思えない。
兵力凄いのにここまで弱いのは偉い人が無能だったとしか
秋田が裏切らず、白河に最初からガチで兵力投入していれば官軍を撃退できた
あと関係ないが戊辰戦争で一番キモい振る舞いをしたのは弘前藩だと思うw
【野辺地戦争】
津軽・弘前藩は、奥羽越列藩同盟脱退に加え、その後も旧幕府軍ともつかない日和見主義的政策をとり続け、
戊辰戦争の終局の場面で、盛岡藩が降伏した翌日、新政府軍にいいところを見せるために野辺地を攻めた。
津軽・弘前藩の兵が野辺地の民家に火を放つなどして多数の死傷者を出したが、盛岡藩に撃退され、一日で戦争は終了した。
>>347 ×その後も旧幕府軍とも
○その後も新政府軍とも旧幕府軍とも
仙台の伊達と宇和島の伊達がガチで戦ったらどっちが強い?
>>346 数々の仙台の何だこりゃってエピソードを見ていると、それは無理w
まあ、大山格之助と桂太郎の奥羽鎮撫隊の第二隊の入藩を弘前藩が拒絶せず、受け入れてそれなりに
なあなあで態度を曖昧にしていれば、秋田藩に全ての奥羽鎮撫隊の部隊が揃うことはなくなるので、
藩主に対する勤皇派の圧力はすくなくなり、最後までなあなあで戦局を見るって態度になっていたかもな。
351 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/09(水) 11:33:16.49 ID:+n2NTlFB0
>>346 弘前は戦国時代から酷い土地柄だね。盛岡が怒るのも当然。
秋田は国学が盛んな土地柄で尊王側に立つのは予想できた。
津軽vs南部 伝統の一戦が始まろうとしております
>>346 仙台藩は最初からガチで投入してると思うんですけど(指摘)
会津も殆どの戦力を北越に注ぎ込んだあとだから全力と言っていいんでは
まぁ庄内が抜けたのが致命傷だったな
大砲が
ドンと響けば
五里逃げる
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/18(木) 20:21:16.07 ID:9OO1gEVl0
秋田って庄内藩にほんろうされっぱなし。
ゲリラ部隊みたいに獣道を進軍〜意表を突く行動に緒戦からしてオロオロ
やっと椿台っう決戦場で撃破、これから徹底的に打ちのめして・・・と
思ったら逃げ足の超はやいこと、あっという間に領内帰還。
そして本間様の歪露かな?〜西郷らの計らいで異例の厚遇に浴すす。
本間様と中将様では貢献度が違いすぎるしな
あっちこっちでも
椿台の決戦と言っても、藩内情勢からして、最初から一発かまして逃げるための
決戦だからな。
世羅暗殺の翌日に
会津軍の白河侵攻
完全に連携してますね