1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
忠誠霊神
また会津観光史学がクソスレたてやがった
会津マンセーのスレッドたてると会津若松市から幾らもらえるの?
星からいくら小遣いもらえるんだ?
ちなみに松平容保wスレは重複だからてめえの手で削除依頼だしてこい
観光史学で美化されてるだけ。実は功名に駆られた無能な殿。
家臣の意見は聞かないし、民の事は無視するし
無駄にやる気満々で、戦地拡大。最後は領民に三行半突き付けられる。
終いにゃ明治政府に華族にしてもらって、日光で宮司。
安泰だな(笑)
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 10:43:28 ID:oZCkG5uP0
膨大な家臣を犠牲に戦争までしたのに、腹を斬らない武士道精神無き藩主
容保の養子になった喜徳こそ悲劇として扱われるべき
散々一蓮托生で苦労かけた挙句、実子が出来れば用済みでポイ捨て扱い
なんだかんだで天寿を全うした人。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 16:24:12 ID:YDCRqD0W0
>>6 会津観光史学黙れよw
こいつら臭えからすぐわかるんだよw
Jリーグへの道、Jリーグ準加盟申請〜JFLで4位以内に入る事。
今年もJリーグへの登竜門、JFL昇格へ向けた地域決勝が始まる!
中国リーグ:レノファ山口が優勝 → 地域決勝進出決定
九州リーグは残り2試合でボルカ鹿児島が2位
福島ユナイテッドはシーズン2位
ボルカ鹿児島と福島ユナイテッドは第46回全国社会人サッカー選手権に出場が決定
ここで1位・2位までが地域決勝に出場できる、福島と鹿児島は決勝まであたらない
この3クラブが同時にJFLに来る可能性は残されている!
来年3クラブまとめてJFLにくればJリーグより盛り上がる!
J2には水戸や佐賀(鳥栖)や小倉(北九州)や大垣(岐阜)もいるぞ!
>>7 ついでに京(京都)も来年はJ2だぞ!多分w
第46回全国社会人サッカー選手権決勝の会場と日時が判明!
10/20 下関陸上競技場(長州) 13:00キックオフ!
この決勝の舞台でボルカ鹿児島(薩摩)VS福島ユナイテッド(会津)を見てみたい!
薩長に会津の底力を見せてやれ!
絶対に負けられない戦いが、ここにはある!
スポーツも戊辰になる会津観光史学洗脳者は、中国人や韓国人と同じメンタルだな。
時代が交錯してるキチガイ。ビョーキだね。
●佐幕側
彦根
1963年花の生涯(井伊直弼)
江戸
1974年勝海舟(勝海舟)
1998年徳川慶喜(徳川慶喜)
2008年篤姫(天璋院)
会津
1980年獅子の時代(平沼銑次)
京都
2004年新選組!(近藤勇)
●新政府側
土佐
1968年竜馬がゆく(坂本龍馬)
2010年龍馬伝(坂本龍馬)
長州
1977年花神(大村益次郎)
薩摩
1980年獅子の時代(苅谷嘉顕)
1990年翔ぶが如く(西郷隆盛)
2008年篤姫(天璋院)
1963年彦根(佐幕)→1968年土佐(倒幕)→1974年江戸(佐幕)→1977年長州(倒幕)→1980年会津薩摩(佐幕)→1990年薩摩(倒幕)→
1998年江戸(佐幕)→2004年京都(佐幕)→2008年江戸薩摩(佐幕)→2010年土佐(倒幕)
次の幕末ものはどちらだろう?それにしても倒幕側というか薩摩と土佐が贔屓されすぎ
花神(高杉晋作・大村益次郎)が視聴率でこけたので、以後維新もの自体に疑問符が付いた。
篤姫→坂本龍馬・岩崎弥太郎で成功すれば、長州系作品を再挑戦することになるだろう。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 19:41:06 ID:XkX3kRu60
保守
>>13 長州の人はいいとこで死ぬ人と余りにも活動期間が長い人のどちらかだからな
ちょうど良さそうな木戸だと思いっきり地味になりそうだし
まあNHKは幕末、明治を跨ぐ人はセット、衣装の関係であまりやりたくなさそう
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 13:03:58 ID:kBst4lHPO
龍馬暗殺命令したのコイツ?
佐々木只三郎の兄がそれっぽいこと言い残してたけど
元会津藩公用人(藩の外交官、京都駐在)の手代木直衛門証言「手代木直衛門伝」で語られている事は、
・坂本龍馬暗殺実行犯は、私の実弟、佐々木只三郎(見廻組与頭(指揮官))である
・動機は、坂本が薩長連合を推進したこと、また坂本が土佐の藩論を公武合体から倒幕に転換させたこと
・命令は某諸侯が行った
・佐々木が二人を同行させ、坂本の隠れ家を襲撃して犯行に及んだ
・某諸侯とは会津藩主松平容保公、ではなくて桑名藩主松平定敬公のことである
定敬公は容保公の実弟なので、私は容保公のために今まで暗殺命令者を隠匿していたのだ
ついでに言うと、見廻組は京都守護職松平容保の配下にあり、京都所司代松平定敬の配下ではない。
元見廻組隊士の今井信郎の証言によると
・当日、先輩隊士の渡辺吉太郎に龍馬を斬りに行くといわれ、同行した
・佐々木只三郎、桂早之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎、土肥仲蔵、桜井大三郎、そして自分(今井信郎)が現場へ向かった
・動機は知らない。ただ御指図があった。御指図とは重職者からの命令であり、見廻組は京都守護職に属していたので松平容保公のことだと思う
今井信郎の妻の証言によると
・今井は龍馬暗殺の日に右手を怪我して帰ってきた。また暗殺の褒美として京都守護職松平容保公から書状を賜った
会津松平は、徳川が降伏しているのに
戦争に躍起になり、新政府が恭順を求めているのに
東北・北越で同盟を画策し、藩内で徹底交戦を通達した。
その為、板垣率いる薩摩・土佐の軍勢に討伐された。
その時、会津藩の圧政に苦しんだ領民が、新政府側に付き、藩に対し、一揆を起こした。
北越戦争に勝利した長州藩は、会津の戦う姿勢に感銘し
会津敗戦の後に、救済措置を敷いた。
しかし、会津領民の一揆が凄まじく、長州藩提案の猪苗代藩への移動を
会津側が蹴り、斗南藩へ逃げるように移動した。
斗南藩への封じは2年で終わった。
会津松平家は、東京にて謹慎。謹慎も2年で終わり
会津松平は明治政府により、華族となり
日光で宮司となった。子息は長州の女性と結婚した。
>>17 見廻組に定敬が指図ってのは変な話だな
会桑兄弟2人の意向じゃないのか?
手代木が元主君の名誉の為庇ってる印象を受ける
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/25(月) 23:46:58 ID:+VRIDFkdO
当時若干二十歳の定敬にそんな力も考えも無かったと思うが
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/26(火) 00:14:21 ID:DnvPWzE00
松平容保は、自分だけは生き残ってからに
武士道どころか、薩長に処刑されなくて感謝しないといけない。
家老は切腹して死んでいった…
無能将軍松平
>>17 >「手代木直衛門伝」
私家版で3冊しか出てない割に雑誌では割と引用されてるんだな
『手代木翁死に先たつこと数日、人に語りて曰く坂本を殺したるは実弟只三郎なり、
当時坂本は薩長の連合を謀り、又土佐の藩論を覆して討幕に一致せしめたるを以て、
深く幕府の嫌忌を買ひたり、此時只三郎見廻組頭として在京せしが、
某諸侯の命を受け、壮士二人を率い、蛸薬師なる坂本の隠家を襲ひ之を斬殺したりと。
蓋し某諸侯とは所司代桑名侯を指したるなり、桑名候は会津候の実弟なりしを以て、
手代木氏は之が累を及ぼすを憚り、終生此事を口にせざりしならん』
これか、しかし
>蓋し某諸侯とは所司代桑名侯を指したるなり
と本人が某諸侯とぼかしているのに指定してある根拠が不明だ
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 01:57:09 ID:7JjZyPYD0
★手代木直右衛門
佐々木只三郎の実兄。別姓だが、父の実兄手代木又吉勝富に子がなかったため養子に入る。
文政9年3月9日、会津藩士・佐々木源八泰通の長男として若松城下(福島県)に生まれる。
嘉永6年28歳のときから藩主松平容保の側近として仕え、
文久3年からは京都守護職となった藩主のもと京都会津藩公用人として所司代や町奉行を配下に収め、
見廻組や新撰組を指揮して京都の治安維持に当たる。
元治元年(1864年)6月には池田屋事件で取締りにあたる。
龍馬暗殺後に関与した上で維新後高知県の役人もしてたんだからふてぇ奴だ
清河八郎の暗殺を佐々木只三郎に命じたのもコイツだな
>>21 島津と毛利は徳川のおかげで生き残れたんだろw
それに、武士はお家の存続が至上であって、戦に負けたぐらいで主君が切腹してどうする?
>>25 それだと、会津松平は新政府のお陰で存続できたとも言えるのでは・・・・・・
まぁ切腹はなぁ。降伏だし。
暗殺大好きだな会津
龍馬って殺される前に容保にも会ってるんだろ?
新撰組に捕縛を辞めさせる約束をして油断させた訳だ
卑怯なり松平容保
>>25 それは違うぞ。
>島津と毛利は徳川のおかげで生き残れたんだろw
島津は関ヶ原後に全面戦争するつもりで待機していた。
家康の方が攻めずに政治決着に持ち込んだだけ。あの時、島津の領地は何も減らされていません。
毛利は家康から断絶を命じられたが、家康に味方した吉川が決死の説得で存続した。
毛利本領はすべて召し上げられている。吉川に与えられる土地に毛利が入り、吉川は毛利の家臣であり続けた。
だから、徳川のおかげではないね。
>武士はお家の存続が至上であって、戦に負けたぐらいで主君が切腹してどうする?
違いますw。
戦国時代を例に取れば解るが、主君の切腹と引き替えにお家存続(息子に継がせる)させるのが負けた側の常套手段です。
この伝統は幕末まで続いており、切腹こそしないが現当主隠居するかわりにお家存続を願います。
例:鳥羽伏見で負けた松平容保は隠居し、その養子が新藩主となって謝罪の態度を取る。
ただし、会津藩はその後も戦い続けているので隠居だけでは済まないのは明白ですね
>>28違うのはオマエさんだよ。
違う時代の話をしてるオマエさんだよ。
>>29 は?何をバカか事言っているのかな?
>違う時代の話をしてるオマエさんだよ
戦国と江戸時代は近世で同じ時代ですよw
しかも戦国の次の時代こそ江戸時代であり、江戸時代に合戦は無かった。
幕末に起こった戊辰戦争が、前例である戦国時代の合戦慣例を引きずっているのは当たり前ですw。
なにしろ日本人は前例が好きだからね。
例1:第二次長州征伐は関ヶ原合戦を真似たものである
幕府閣僚の記録にそうあるw。だから基本は外様大名に戦わせ、徳川直轄軍は出さなかったでしょw。
例2:武力倒幕の当初の基本方針は、鎌倉幕府討幕戦からのパクリ(最終的には採用されなかった)
岩倉具視が大久保利通と調整していた戦略。薩長が京都で挙兵し、幕府軍を迎え撃つ一方で、東国大名に江戸に攻め込んで貰う(アテにしてたのが仙台藩)。
仙台藩に江戸を攻めて貰うという案は、すでに文久年間に真木和泉守が論文にまとめて広く世間に訴えた。
薩長が楠木正成に、仙台が新田義貞に該当しているのは明白。
このように戊辰戦争は過去の先例からヒントを得たものが多く、当然戦争に関しては戦国時代の慣例の影響が大だよw。
>>30どうした、オマエ(笑)
違う時期の話をして笑われて狂ったか?(笑)
戦国時代と江戸時代は同じ時代ですっ キリッ
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 08:22:14 ID:fkl6rHC6O
明治以前は子供出来なくて明治になってから二人の側室(田代佐久、川村名賀)に続々と子供が出来た状況を見ると慶喜に似ているね
ただ子供のその後を見ると田代佐久が圧倒的に勝っていて川村名賀の子供は恒雄が孤立奮闘している
会津観光史学で美化されてるだけで
実際は全然なんだよな。だから観光史学で美化してんだろうがw
そこまでして美化して何がしたいのやら…。
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 20:23:27 ID:VDxARKEQ0
会津士魂とは、時代を超えた武士の魂ではない
ただのハッタリだな(失笑)
ただの保身のチキンよりもこの国の行く末を憂
えていた分まだ三島由紀夫のほうが個人的には
立派で理解出来る。
所詮、観光史学の連中は自分で自分を褒めてあ
げたい痛い人々なのだろう。
観光史学観光史学言ってる人間も痛々しいけどね。
山県有朋は赤根武人の追贈運動の時、ほぼ決まりかけてたのを強引にひっくり返した経歴があるが、
容保が孝明天皇から複数賜ったご宸翰の件でもかなり必死になってるよね…
「みんな勝手だし、お前を頼りにしてるお」というだけの内容だから人に見せなかったと思うんだが、
文久3年時点の「堂上以下暴論、不正の処置増長」とかいう一節に随分こだわったもんだね
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 22:55:03 ID:VDxARKEQ0
孝明天皇は、弱兵会津藩士に取り囲まれて
さぞかし心細い思いをなされたに違いない。
チキンじゃ何も守れないしお労しい限りで
ある。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 23:54:41 ID:f8MBnqryO
龍馬、中岡暗殺の真犯人というのは間違いない
>>31-32 時代の連続性を説明したつもりだったのだが…
バカには理解できなかったか…
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 21:24:34 ID:AOskn/1tO
軍事奉行として、この戦いに参加した神保修理は、敵に倍する兵力を持ちながら、圧倒的な銃火器の前に、為す術を知らぬ味方に、慄然となった
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 01:13:47 ID:KGucODZmO
容保も、政治の最高責任者である大統領は国民の入札で撰ばれるメリケンの例は亡き彦根侯から聞いて知っていた。
>>37実際に観光史学だし。言う奴が痛々しいんじゃなくて
言われた方が、痛い所衝かれて、痛いのでは?
で、何故、会津のスレで、例に長州を出すのかな?
君が、会津観光史学が作りあげた、対長州に洗脳されてるからでは?
会津観光史学洗脳者は、絶対に、対長州を例にするんだよ。
話の内容とか関係なくね。それは、会津系作家や商工会が、対長州を唱えるからだよ。
解り易いんだよ、会津観光史学洗脳者は。
>>40自分の馬鹿を他人になすり付けるの良くないと思うよ。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 11:22:23 ID:KGucODZmO
容保にとって、孝明天皇の崩御は、厚い信頼関係に支えられていた公武一和の柱を失うことであり、この瞬間、奈落の底に突き落とされる思いだったに違いない。
それは、正に時代の分岐点であった。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 16:42:11 ID:k4uEsZAQO
「会津観光史学批判派」とやらが歴史学の立場から中立的で多角的な視点から評価を下す性格なら支持したい。
けど、中には論調が単なる会津への誹謗中傷というレベルを抜け出せてないやつもいるしねぇ・・・。
互いに観光行政のあり方に対する議論をしてるのか会津史研究のあり方に対する議論をしてるのかかもあやふや。
学術書じゃなくトンデモ本からとってつけたような知識で、互いに言い争っても、そりゃ埒が明かないだろと。
当たり前だが、漫画じゃ無いんだから良い悪いで括れるわけ無いし、会津や薩長だけみても何も理解できやしない。
極端に解釈したがるこの風潮はどうにかならんものかと。
会津史学じだいが誹謗ありきだからなあ
49 :
松平容保:2010/11/12(金) 09:32:44 ID:saSNPBB4O
時の流れがあまりに早過ぎる。あまりにものう
>>47元々会津観光史学が恨み節に基づいてる村興しなんだが…。
2ちゃんねるでも論破されてファビょってるのは会津贔屓だよ?
会津贔屓が論破された会津観光史学を立て直そうと
正当性を唱えましたか?
オマエ、中立気取りの会津贔屓だろ?
松平容保の京都守護職時代の資料ってあんまり無いんか?
色々策謀があった筈だが
52 :
会津藩公用方・手代木直右衛門:2010/11/12(金) 17:19:41 ID:saSNPBB4O
ご家老梶原さまの命により、神保修理、野村左兵衛、秋月悌次郎らと一緒に焼き捨てました
>>50中立きどるよ。俯瞰して歴史を見ることは重要だし。会津藩に関心なきゃ反応しない。「贔屓」と見る見ないはご勝手に。
>>51学術論文などでよく引用される史料は『会津藩庁記録』『七年史』『京都守護職始末』などが有名だね。
他に大阪経済大の家近良樹博士が『稽徴録』を翻刻・解説してる。この人は『幕末政治と倒幕運動』という本で、
京坂を拠点とする「一会桑政権」の関わった熾烈な幕末政争と幕府崩壊メカニズムを的確に明している。
けど、観光史学だ長州が国賊だなんだというお国自慢的或いは単なる誹謗中傷的な「議論?」
で一喜一憂するよりかはそうした評価されてる論文をバンバン読んでったほうが有意義でしょ。
っていっても「会津観光史学」と何故か色分け・カテゴライズされるんだろうな〜「敵」じゃない、安心しろとwww
この調子じゃ「仕事で会津にいった」といっても罵られそうでビクビクしてる(というか別のスレで本当に罵られた)。
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 21:21:07 ID:j7yVbatQ0
幕府の手先会津は、朝廷の監視という任務も負っていたはずだ。
戊辰戦争前は、幕府のため、その後は、実は、孝明天皇のために
戦争を続けたという都合の良い解釈をする節操のない会津厨がい
た。
孝明天皇の本音は異人嫌いだったので攘夷だったはずだが会津
は、攘夷派の連中を弾圧して欧米諸国との不平等条約締結を推
進するのに一翼を担った。
たしかに、文献に残されている文言が第一級資料であることは、
間違いない。
しかし、当時は時代背景も動乱の時期であったのでどこからが本
音でどこまでが建前で書かれたものか解釈が分かれると思う。い
ずれにせよ位相というかそれぞれの立場から一方のみの解釈では
ご都合主義は、免れず俯瞰して歴史を見ることは大事であるが・・・
さすがに仕事で会津で行っただけで観光史学の回し者と思う奴は
いないだろうが、観光史学の連中(あえて言うが)は、今でも薩
長の対する敵愾心が日常生活に反映されいる節がネット上でも垣
間見れるぞ。
だから、会津は観光史学による美化なんだって。
しかも特定の地域を中傷してる。
だから叩かれるようになったんだよ。
韓国みたいだってね。会津を賛美してるのは
時代劇や小説や小説家が書いた自称研究本しか読んでない輩なの。
根本的原因が「差別」にあるってみんな気が付いているか?
江戸時代は士農工商という差別公認の時代。
武士は農民を、農民は職人、商人を見下す事で満足して自分の地位に納得していた。
実はそれ以外にも、東国人は西国人を、西国人は東国人を、近畿京都は東西地方を差別していた。ごく自然にね。
今だって、大阪と東京はなんとなく対立しているというのと同じ。
これが戊辰戦争や明治維新で顕著に表面化したに過ぎない。
元々の差別に加え、東国は賊軍だ、いや西国人こそ賊軍だと公然と差別する理由がくっついただけでしょ。
会津の観光史学は、これにくっついてるだけさw。
観光史学が厄介なのは、こうした差別を増長させている事にある。
曰く「西国人は天皇を蔑ろにして私腹を肥やした」とかね。
そりゃ西国人は怒るだろう。そして煽り返すのさ「東国人こそ賊ではないか」と。
現代でだぜw
現代人の何人が、天皇崇拝してるよ?w
官軍だの賊軍だのにこだわっている人には、天皇が死去した際に殉死する覚悟もないだろうw。
あったら昭和天皇の時に自殺者が続出してたはずだしなw。
これは、明治維新の問題ではなく現代の問題で歴史とは切り離すべき問題でもある。
結局のところ、東西の差別を「形を変える事で公然と行う」為の理由づけでしかないが、そうした差別を一般の人に蔓延させ増長させている。
薩長ら西国の方は、太平洋戦争の敗戦後、左翼系思想の蔓延で「軍国的だ」の一言で、薩長英雄史観が滅亡させられていったのに対し、
会津は、観光史学という形で残ったんだよ差別の公然と行う方法が。
そこが問題なんだよ。
星亮一みたいな輩のせいでまともな研究者も変な目で見られる
そもそも、星亮一って小説家だろ。
実際、
>>53の挙げてる文献って超重要文献だし、一般人でも何とか読める。
星亮一ですら家近さんたちの研究を読んで、会津藩の国元の頽廃、
外交や防備の拙劣さを指摘したりしてるんだよね。
それと郷土史家は郷土偏愛の傾向があるから、結論は眉唾だが、
狭いエリアで色んな記録を(お蔵や老人とかから)発掘してくるから意外と馬鹿にできないよ。
少なくとも
>>53的なの視点から議論を始められない人は、会津を論じても意味がない
>>55 前記の家近先生は、一会桑を「孝明天皇の攘夷意思の代弁者」と見てるんだけどね。
禁門の変の際の行動を見るに、孝明天皇は明らかに長州への強硬論、つまり会津的な立場を支持したと思える。
>>52みたいな噂があるけど
容保の京都守護職時の史料が妙に少ないんだっけ?
清河暗殺は手代木の指令でこれは容保じゃないよな
龍馬は怪しいが
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 16:06:57 ID:Qb+yXdfF0
一会桑が孝明天皇の攘夷意思の代弁者なの?
詭弁というかなんか後付けした言い訳がましいものを感じるね。
もし、そうであるならば攘夷を標榜していた尊王攘夷派である
長州やその他の脱藩浪士と対立することはなかったはず。
長州藩は幕府から攘夷の決行の許しを得て外国船を砲撃しており
反対に壊滅的な打撃を受けている。 それゆえ禁門の変の際は、
一会桑は、攘夷の意思はなくもちろん長州ももうなかった。
欧米列強の圧倒的な軍事力の前になす術がなかった点において
は双方同じだが、その後の欧米列強に対する対応に幕府側に非
があったように感じられる。つまり、長州を説得させることを
が出来なかったことである。すでに不平等条約を結んだ結果、
幕府の無力化が露呈していて治安や物価上昇などで世の中は混
乱して幕府に反発する人々は士族以外にも多数いた。
最終的には、幕府も攘夷であるならば、弾圧でなく幕府が富国
強兵のプロセスを明確に長州に示す必要があり、それで十分で
あったはずだ。
それと孝明天皇には、実際問題として軍事力はなく朝廷は常に
時代の勝者に利用されていた面は否定できないので意思決定の
最終責任者は幕府であると思うのだが。
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 16:12:43 ID:t1DpurFf0
この時期の一会桑と幕府は
だいぶ政治的に距離があったと
思われ。乙
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 16:48:39 ID:Qb+yXdfF0
だいぶ政治的に距離があったとは、具体的にどうで
あったのか説明してくれないか。
あくまでも幕府の方針が最優先であり、一会桑も最
終的には、これに従うのであり、孝明天皇の意を汲
むことはあっても政治的な代弁者といえるかは別問
題だと思うのだが。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 18:32:01 ID:t+NRir7/0
横浜鎖港問題・異国船討ち払い令についての孝明天皇・徳川家茂・一会桑の対応を考えてみよう。
元々将軍家茂は対外的な条約を優先し、一旦開国したものを再鎖国することへは消極的であった。
だが孝明天皇は家茂を京都に呼びつけた。
一会桑も孝明天皇を支持した。
異国船討ち払い令は家茂が抵抗したものの、徳川幕府の命令として裁可された。
鎖港問題では家茂は責任が取れないと反発し、将軍辞任を主張するに至った。
再鎖国の方向へ孝明天皇と一会桑が議論を進め、幕府の開国方針と対立していたというのが、
孝明天皇と徳川家茂が生存していた頃の政治状況であった。
(両名が相次いで突然死ぬと、一会桑は一転して幕府を背景に開国派に鞍替えする。
彼らの方針が一貫していたと考えていると政局を取り違えるので、気をつけよう。)
横浜鎖港問題での慶喜の態度のどこまでが水戸の遺伝子で、
どこからが薩摩との主導権争いなのか、いまいち判然としないね。
若かったから、イライラして酔っぱらっただけかも知れないしw
ただ、会津藩が第二次征長戦まで、
江戸の幕権派官僚の強硬派から煙たがられていたのは確か。
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/16(火) 06:13:41 ID:AUEYl14t0
左寄りの宮路君みたいな言論の自由を脅かす御用学者
と某観光史学の教祖様は、都合のいいときだけ天皇を
利用するんだよね
鳥羽伏見の戦い直前期は、慶喜公が将軍職にあったわ
けだし会津も本音はあわよくば権力を握ろうとしてた
だけじゃないの?公家社会ではなく武家社会なんだか
らなんで都合がいいときだけ天皇を持ち出してくるの
かな
禁門の変で薩摩の援軍が来るまでは、長州に対して劣
勢に立たさてれいたし、攘夷派の志士たちを弾圧しま
くったんで恭順の意を示したところで身の危険を感じ
るよね会津は?
長州は、もちろんのこと土佐はとくに板垣退助が会津
攻めを強硬に主張したように土佐の志士たちにかなり
の恨みをかっていたようだからね
武家社会なんだから戦争に負ければそれで終わり
因果関係のはっきりしないものを都合よく推論で穴埋
めするのは確実な証拠がない限り認められないよ
ましてや歴史的事実以外の当事者の本音なんかは知る由
もないだろう
小説じゃないいんだから主観的な思い入れだけで歴史家
が歴史を作るのにはいささか抵抗感がある
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/16(火) 08:46:56 ID:8Z2CmLbdO
同じ一橋を担ぐとしても、薩摩、土佐、越前、宇和島は一橋を議長とする公議政体を掲げた。
他方、会桑は幕府絶対主義を掲げ、外様大名を排除する態度をとりましたため、評判が悪く、
よって旧一橋派だった薩土に会桑が討伐される形になりまいた
会津は天皇から信任されていたことに感謝して
厳しい財政を工面して京都に赴任していた
と聞きましたがこれは創作なのでしょうか?
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/16(火) 11:31:31 ID:fNG95D8F0
会津の国許(西郷頼母ら)は最初から容保の守護職就任には大反対で
度々辞任を進言しては、容保から不興を買っていました。
容保自身、数度辞職願いを出していますが、その当時は孝明天皇と徳川慶喜の直属武力として
有用とされたため、この両名から激しく慰留され、守護職を続けています。
状況が変わったのが孝明天皇の死と大政奉還で、この時以降、それまでの強健姿勢で
土佐藩士などを中心に激しく嫌悪されていた会桑は、雄藩連合に支持基盤を移そうとしていた徳川慶喜にとっても
余計者として厄介扱いされるようになります。また、朝廷も明治天皇に代わり、会桑ではなく薩長を支持する人間が中心となります。
しかし、この頃から会桑は、逆に京都の職権に執着を見せるようになります。
尾張の徳川慶勝による辞任帰国勧告を無視したのが、結果的には命取りとなり
会桑は、薩長だけでなく京都の雄藩連合の共通の敵対者として、王政復古時には彼らによって朝廷から排除され、
鳥羽伏見の戦いでは、彼ら雄藩連合と交戦し、明確に交戦相手とされます。
会津は引くべきところを引かず、幕府を巻き込んで袋叩きにあった、そして幕府を崩壊させた。
あまり評価は出来ません。
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/16(火) 13:21:28 ID:7W+fQTpg0
天下の名君
>>69京都守護職の話ですね。京都守護職は、当初、会津ではなく
福井に話が来てたそうですよ。それを福井が辞退したので
会津に話が来たようです。才覚ある会津の家臣は反対したそうです。
つまり、会津観光史学が主張してる「天皇に信頼のある
勤勉な会津に白羽の矢が立った」というのは誇張ですね。
会津松平の京都赴任は、会津領民を圧迫し、会津戦争で
会津領民は、薩摩・土佐の軍勢に加担し、藩に一揆まで起こしました。
つまりあなたの質問は、話半分と考えていいです。
もはやNGワード「会津観光史学」だな…
旅行でよっぽど嫌な思いでもしたんだろうか
一会桑とも尊攘派と見なされた藩の中から選ばれたのは確か
おそらくそれまでの幕府の主流的な立場ではない
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/17(水) 07:41:11 ID:2bzpOeOL0
会津藩が捕縛殺害した尊王攘夷派が土佐藩出身者に多かったというのが、後の状況を悪くした。
徳川慶喜が土佐藩を公武合体論で取り込むに当たって、土佐藩にとっては
藩関係者の殺害を重ねた会津・桑名の存在は許せないものだった。
朝廷内で山内容堂が公武合体論と徳川慶喜擁護の論陣を張れば張るほど、
その土佐藩が主張する会津桑名排除論は公武合体派の中で動かしがたいものとなった。
京都の諸侯と会津・桑名は相容れないものと化してしまっていた。
徳川慶喜の立場を考えるなら、この時点で会津と桑名は身を引くべきだった。
>>73 > 旅行でよっぽど嫌な思いでもしたんだろうか
得意の妄想だね。
>>73 リアルでもネットでもあまりにデタラメな主張をするからです
確かに会津の観光関連はぼったくりばっかだけどさ
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/20(土) 12:34:31 ID:F+90F1rB0
会津藩,斗南へ
明治新政府から会津藩再興の沙汰があったのは前年(明治二年)の九月で、
陸奥の地に三万石を与える、というものだった。
現在の青森県の三戸、上北、下北の三郡と岩手県の金田一周辺である。
会津在住の藩士たちは、この知らせに仰天した。
地元では猪苗代を希望する人が多かったが、
陸奥移住は強制であり、会津側から希望を述べる状況ではなかった。
>>77会津観光史学乙。会津藩の斗南藩行きは、会津藩で決めた事だろ。
猪苗代藩行きを薦めてたのは長州藩じゃないか。
領民に一揆起こされて猪苗代藩にもいられないから
会津藩士の山川が斗南藩行きに決めたんだろ。
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/20(土) 14:32:08 ID:7XF6gQ2w0
山川の自伝には、旧会津藩首脳で協議を重ねた末に、山川らの決断で
猪苗代を廃し斗南立藩が決定されたという記述があります。
強制されたというのは、後の斗南での苦境を誇張するために伝説として作り上げ、
後に小説家が更に誇張して被害者デマとして仕立て上げたもので、原典には根拠が確認できません。
星亮一の主張に根拠がないのは、あなたも分かっているでしょうに。
>>79 > 星亮一の主張に根拠がないのは、あなたも分かっているでしょうに。
本当な。和解と敵対がコロコロ変わるのに、よく★なんかの会に入ったり
本を買ったりしてるよな。会津観光史学洗脳者って
やっぱ考える力とか無いのかね?普通オカシイと思うよな?
斗南藩にうつったものには苦しい中でも寛大な処置の為に奔走した長州の前原に感謝して
後の前原の萩の乱に同調した義士もいたからね。会津藩士がみんな頭でっかちだったわけではない。
残る選択肢もあったのに斗南に付いていくこと自体
義理堅い証拠だよなあ。
松平容保って維新後はずっと宮司として過ごしたと思われてるけど
割とすぐ都内の屋敷に移り住んで悠々自適な余生だよな
宮司は実質何年くらいしてたん?
しかも華族になって名誉回復。息子は長州の女と結婚だろ?
何なんだ?会津観光史学って?ホロン部の日本支部か?
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/04(土) 17:41:29 ID:miKM3xUn0
>>74 >徳川慶喜の立場を考えるなら、この時点で会津と桑名は身を引くべきだった。
慶喜は大政奉還した事で、幕府サイドの人間にとって「徳川将軍の権威のすべてを敵に売った罪人」以外の何者でもない
存在に成り下がったんだから、大政奉還以後は「慶喜に批判的に行動する事が、将軍家のため」という論理になる。
元々、大政奉還時、朝廷を握った討幕勢力が、幕府サイドに対して徳川の領土の半分を朝廷に差し出す事を要求した。
いきなり徳川の領土の半分を差し出したら、多くの幕臣がリストラされて家族ぐるみで放り出される事になるから、幕臣たちは
下層の兵士から老中まで揃って、慶喜と大政奉還の推進者達を激しく憎んだ。
江戸の町民も農民も、慶喜の事を「徳川を売った奴」と見なして、大政奉還に大反対だった。
容保は、幕府サイドの人間達の大政奉還推進者達に対する怒りに押されて、大政奉還に反対する立場を取っただけじゃん。
(定敬の方は、もともと勝気な性格だったから、黙って敵対者の言いなりになる事に耐えられなかった模様)
>>88 おーい、容保は大政奉還に反対なんてしてないお!
逆に「大政奉還は大英断だ!」と大歓迎しとるがなw
ソース:京都守護職始末
それと鳥羽伏見直前の時期は、まだ徳川も会津も朝敵じゃないからね。
慶応4年(1868年)2月27日、松平容保(34歳)は会津藩士に徹底抗戦を通告。
西郷頼母は恭順を勧めるが、容保はじめ藩士たちから猛反発され徹底抗戦へ。
慶応4年(1868年)5月1日、白河城陥落。西郷頼母は再び恭順を勧めるが
会津藩士の多くが聞き入れず徹底抗戦を主張。頼母は登城差し止めとなる。
慶応4年(1868年)8月26日、西郷頼母は西軍と砲火を交えている評議中
「この窮地に陥ったのは余の献策をいれないためだ」と厳しく批判。
そのため「西郷斬るべし」の声が起こり容保の命で伝令され
息子吉十郎と共に城を出る。その後は榎本武揚の軍に投じて函館で戦った。
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 22:03:47 ID:8eXeAP3n0
>>89 その本にそう書かれているのは知っている。
しかし、松平容保が大政奉還を歓迎したという記述は、他史料と整合性がない。
徳川慶喜公伝・復古記では、松平容保が大政奉還に反発し、再三撤回を求めた記事がある。
京都守護職始末のその部分は、後世の擁護目的の糊塗なのではないかと思われる。
会津の史料はそういうフィルターかかってるのが多いから嫌なんだよ
容保とか特に
龍馬暗殺指令について容保側近の手代木が晩年の口伝で
「某諸侯の指示だった」と言い残していたが(『手代木直右衛門伝』東大の図書館で閲覧可)
手代木が某とぼかしているにも関わらずこの本では何故か
「諸侯とは定敬のことである」と無根拠に指定している
「定本坂本龍馬」松岡司著ではこの件に加え、
手代木が龍馬暗殺犯についての話題を異様に避けていた事に触れ、
松平容保から暗殺指令が出た線が濃厚ではないかと推測している
★先生と戊辰研の人って「虐殺と殺戮と人肉食(の研究)」が好きだね−。
事あるごとに虐殺。一人殺しても虐殺、10人でも虐殺、100人でも虐殺w。
ホムペの自作小説とか見てみたけど、虐殺と殺戮の単語が踊っているw。
これからも戊辰戦争の”虐殺と殺戮”の研究だけをがんばって行くのだろうなー。
で、それを見たクルクルパーが鵜呑みにするわけか。
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 22:13:02 ID:fVKbikM+0
そして、そのクルクルバーは叫ぶのである
「薩長による会津大虐殺が起こったのだ!(根拠;★本か戊辰研究会発表)」とw
戊辰研は研究機関だから、嘘は言わないのだとw。
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 22:14:47 ID:fVKbikM+0
ある意味で、司馬遼太郎や早乙女貢(両者共に作家を名乗り、研究家とは名乗らなかった)よりタチ悪いw
>>88 辞官納地を薩摩派が主張してたのは確かだが、公議政体派の容堂と春嶽が粘り抜いて
結局とりあえず皆集まった後で考えようぜってとこまで行ってたやん。
まぁ幕権主義者には公議政体論自体が許し難いだろうが。
あとその町民農民の反応って何の資料?
98 :
88:2010/12/08(水) 13:17:14 ID:OP3+V7HV0
>>97 >あとその町民農民の反応って何の資料?
『幕末維新 消された歴史』(安藤優一郎/日本経済新聞出版社) p.257〜258
「 当時の江戸っ子には「徳川様のご治世」を謳歌するものさえまだ相当残っており、田舎者に天下をとられたのを
くやしがり、庶民の声をよく伝えるお湯屋などでは、女でもよく
「こんなばかくせえ世の中がいつまでもつづいてたまるもんけえ、どうせ徳川さまがいまにまたお帰りになるに
きまってらァな」
などといったもので、それをきくとあっちこっちで「そうよ、そうよ」とあいづちをうつ。
(山川菊栄『おんな二代の記』平凡社東洋文庫203、1972年)
〜 中略 〜
江戸は二百六十年余の長きにわたり、将軍のお膝元だった。その誇りを持ちつづけた江戸っ子にとってみれば、
江戸城が明治天皇の皇居となり、薩長出身者が徳川家に代わって政権の座に就いた事実を、そう簡単には受け入れ
られなかったのは、よくよく考えてみれば自然な感情だろう。この頃は、江戸城開城から十年も経過していなかった。
江戸っ子から東京市民に変身させられた鬱憤が、このような湯屋での会話につながった。徳川家の再登板を期待して
いるような、明治政府にとっては黙視できない会話も繰り広げられていた。」
大阪城で慶喜がトンズラした時の容保&定敬達の態度はどうだったの?
会津観光史学洗脳者はID出ない方で大暴れか。あいつ等弱くなったよな。
明治政府は「富国強兵」「殖産興業」という政策により、軍国主義の道を歩み始めた。
こうしてこの百年間で幾多の戦争を引き起こし、多くの犠牲者を出したことは多くの人々の知るところである。
日本の悲劇は、薩長を中心とする人らによって政府がつくられたときから、すでに始まっていたといってよい。
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/09(木) 17:31:51 ID:TVL7GqOe0
>>99 当時の出来事を時間軸を追って列挙するとこうなる。
1月6日(旧暦) 午前 京都南西、八幡の砲台付近に陣地を構築した旧幕府軍(旧幕府歩兵・会津・桑名・新撰組・見廻組ら)と、
淀方面から進出してきた新政府軍とが戦闘開始
昼 八幡の北西側対岸、大山崎の砲台に陣を張っていた津藩が旧幕府軍へ砲撃開始。旧幕府軍恐慌を来たす
1月6日 時間不明 大阪城内にて徳川慶喜、配下の軍勢へ演説。 「大阪城でも徹底抗戦を行う」
午後 八幡の旧幕府軍枚方へ撤退開始。枚方で軍勢は止まらず夜半には大阪城内へさらに撤退
夜 徳川慶喜、大阪城内へ撤退してきた松平容保、松平定敬へ激しく叱責。
再戦を望む容保へ「我が軍に西郷隆盛のような豪傑は居るのか(容保らはそうではなかったね)」と発言、容保沈黙。
深夜 徳川慶喜、松平容保らに同行を命じ大阪城を抜け出す。
1月7日 朝 徳川慶喜ら、軍艦で江戸へ帰還。旧幕府軍、徳川慶喜らが居ないことに気付く、旧幕府軍瓦解。
というわけで、帰還した時点で徳川慶喜に叱責を受け沈黙しているので、同行の際も松平容保らは何も言わなかったでしょう。
ところで明治政府の悲劇は、大正から昭和初期まで、会津武士道を信じる好戦主義者に乗っ取られたことでしょうね。
>>101なかなかのサヨクだ。当時の世界情勢を無視して薩長叩き。
明治は長州の時代だが、富国強兵で近代化し、戦争にも負けてない。
領土も広がった。明治が終わると藩閥もなくなっているよ。
過去の総理を見てご覧よサヨクちゃん。
明治から昭和20年までの総理の一覧を。
会津観光史学洗脳者ってサヨクなんだな。
長州の下級武士に扱き使われ利用された明治天皇
薩長は叩かれて当然だろ。
自分らが政権取りたいが為に無理矢理内乱に持ち込み日本中を荒らし、政権奪取後は自らの驕りを注意する事もせず私利私欲に走る連中を数多く生み出し、内政そっちのけで欧米使節にうつつをぬかした割に何の成果も得られなかった。
それどころか留守政府との対立から士族の反乱まで引き起こし、鎮圧に全精力を注いで政府の金を使い果たした。
今度は地租上げで百姓を圧迫して各地で一揆が起こったが強引に武力で鎮圧、武力で敵わないと考えた民権運動派を条令を発して弾圧した。
国内の悪政を逸らす為に東アジア進出を目論んで図に乗った結果ロシアと対立になり、大量の犠牲を払って何とか勝って講和に持ち込んだものの肝心の賠償金は得られなかった。
その癖に、大陸進出の利権を得て益々図に乗る結果となり、それが結局その後の日本の軍事力至上主義に繋げて戦争大国となる要因を作った。
日本を滅ぼしたのはこいつらだよ。
雑魚の貧乏下級武士共の作った政府なもんだから、後先考えずその場凌ぎの下品で浅薄な行動ばかり。
慶喜を議長においた新政府のほうが余程良い国作りが出来たに違いない。
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 19:42:27 ID:kmV/f1rO0
慶喜公を議長に据えた新政府の方が余程良い国作りが出来たに違いない根拠
はなんだ?(もちろん会津はその中に入っていないよなw)
そもそも幕府が欧米列強と結んだ不平等条約で国内は疲弊、長州征伐におい
ては幕府は敗戦を重ねたことによる幕府の権威失墜、さらに藩内で独自の富
国強兵を進めていた薩摩にもたらされた幕臣勝海舟による幕府の内情、大政
奉還に尽力した会津の見回組による坂本龍馬・中岡慎太郎両人の暗殺疑惑等
どれをとっても仮に新政府が樹立されたとしても一枚岩ではないことが明白
だ。
会津は、鳥羽伏見の戦いで薩長に負けたことにより慶喜公に捨てられたんだ
ぜw。まあ、江戸開城後、勝手に新政府軍と戦って完膚なきまで叩きのめさ
れたんだから本望じゃねぇの?会津は日本最強のお侍さんだったと勘違いし
なくてよかったじゃんw。それに幕府が本当に当てにしてたのは会津じゃな
くて福井だったんだろう?名君春嶽だったら後先考えずその場凌ぎの下品で
浅はかな行動は慎んでいただろう(笑)
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 20:01:48 ID:kmV/f1rO0
会津戦争によって会津の農民は封建制度から開放され、先の大戦(戊辰戦争
じゃねーぜw)でGHQによって農地解放で土地を手に入れ、元小作人から
自称会津藩士でっか?
会津武士道は、戦時中(戊辰戦争ではございませんw)に国威発揚として用
いられ日本は危うく総玉砕の危機に立たされたってさw
自称会津藩士の末裔は、ネットでよく沸いてるよな。
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/11(土) 07:47:04 ID:x2ePPNVq0
>>105 >自分らが政権取りたいが為に無理矢理内乱に持ち込み日本中を荒らし、政権奪取後は自らの驕りを注意する事もせず私利私欲に走る連中を数多く生み出し、内政そっちのけで欧米使節にうつつをぬかした割に何の成果も得られなかった
正に徳川幕府の行為ですよ。自分=徳川家康ら徳川家が政権を取りたいが為に、無理矢理内戦「大坂の陣」を起こして日本を荒らした。
政権奪取後は自らの奢りを注意もせず私利私欲に走り、日本の国力を食い潰している。
欧米使節の派遣で何の成果も得られなかったのは、幕府も同じw。
>留守政府との対立から士族の反乱まで引き起こし、鎮圧に全精力を注いで政府の金を使い果たした
徳川幕府の方が酷いよw。不平等条約で外国に金を国外に持ち出された上、軍艦や銃の購入で金を使い果たし、四境戦争で歩兵隊を派遣する金が無かったでしょw。
>地租上げで百姓を圧迫して各地で一揆が起こったが強引に武力で鎮圧、武力で敵わないと考えた民権運動派を条令を発して弾圧した
徳川時代は世直し一揆やええじゃないか多発。幕府は鎮静化も鎮圧も出来ず放置w。幕府の独裁を批判する運動家を探して、裁判も開かず大老の一言で弾圧したり、新選組が斬殺したりw。
>国内の悪政を逸らす為に東アジア進出を目論んで図に乗った結果ロシアと対立になり、大量の犠牲を払って何とか勝って講和に持ち込んだものの肝心の賠償金は得られなかった。
>大陸進出の利権を得て益々図に乗る結果となり、それが結局その後の日本の軍事力至上主義に繋げて戦争大国となる要因を作った
逆でしょw。日清戦争の時の三国干渉でブチ切れたのは民衆の方であり、政府は相手がロシアという事でビビりまくりでしたよ。
むしろ国民の鎮静化を図ったが効果なしだったでしょ。伊藤博文などロシアと同盟しようとしたぐらいだ。
この伊藤の日露協商条約は、満州をロシアに与え、朝鮮は日本が管轄するが日本のモノとはせず中立地帯にするというもので、
まったく大陸進出の利益など考えていないw。
また、当時は先進国=軍事至上主義の時代であり、それが外交力に直結する帝国主義時代だ。
軍事大国にならないとは、植民地となる事を受容する事ですが、植民地になる事を希望するので?w。
ついでに言えば、明治政府はこの再現の無い軍拡に疲れて軍事費抑制に走るが、国民の方から糾弾されてますw。
日露戦争後は、結局「軍縮条約」を締結してますよ。軍事費抑制の為にね。軍部には不評でしたが。
>日本を滅ぼしたのはこいつらだよ
日本が滅びた太平洋戦争時の日本政府は、バーテンバーテン密約によって薩長藩閥政治を消滅させた東条英機ら東北人達なんですがw。
会津松平家の墓所は車で近くまで乗り入れできないの?
ある程度は歩いて山を登ります。
あと、こちらは観光地化されていませんので墓地しかありませんよ。
(というか墓所で土産物屋が林立しラーメンを売るほうが異常)
謹んで、変なことはしないように
そもそも雄藩の大名による合議制の芽を安政の大獄で先に潰したのは幕府。
会津観光史学で日本洗脳
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/12(日) 19:16:42 ID:fmDWjBcz0
松平容保侯は孝明天皇の御信任も厚い幕末随一勤皇家だった。
薩長の謀略と挑発で朝敵に仕立て上げられてまことに気の毒だ。
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/12(日) 20:47:16 ID:MdmB35mP0
会津は、ただの孝明天皇のガードマンじゃんw
しかも、敵対勢力に利用されないように幕府の命令でしっかりと朝廷を
監視してたんだろ?
そりゃ孝明天皇も命を預けてるんだからリップサービスもするだろうw
それと幕府内の政権争いに乗じて孝明天皇をだしにしていろいろ目をつ
けられていただろうw
気の毒なのは孝明天皇であって出しゃばり会津じゃないぜw
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/12(日) 22:35:58 ID:8jLEGT/Y0
>松平容保侯は孝明天皇の御信任も厚い幕末随一勤皇家だった
幕末随一の勤皇家だったのですか!
ならば徳川幕府に対する忠誠は嘘なのですね。
鳥羽伏見で負けて、幕府の足を引っ張った謀反人でOK?
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/13(月) 06:46:06 ID:RVrwFqkN0
会津は、孝明天皇に取り入って慶喜公より偉いと勘違いして内心は
まるで今の影の総理気取りだったんじゃない?(笑)
それまで天皇は、めったに自ら幕政に口を出すことはなかったのに
な〜。
慶喜公が将軍職に就いてからは、国家の存亡のため天皇に開国を容
認させるのに苦労したが、一方会津にとっては国の行く末、延いて
は自藩内の生命、財産など二の次でただひたすら国家の危機に乗じ
て天下取りをしようとして墓穴を掘ったんだろう(笑)
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/13(月) 07:57:39 ID:RVrwFqkN0
江戸を日本を救った慶喜公
自藩を破滅させた会津
さすが、多くの有能な志士や学者の命を奪い国家の人材喪失に
多大な貢献をした会津だなw
滅びの美学とは、自分だけは助かって、他者が滅びることだっ
たのですね(笑)
>>115君は立派な会津観光史学洗脳者だ。
でも会津は福井の二番煎じが史実だから。残念!
>>98 遅レスで申し訳ないが、それって江戸の庶民が慶喜まで非難してたってことのソースではないのでは?
大坂や江戸では、民衆による反幕府の打ち壊しがあった。
こいつが龍馬暗殺の黒幕。
佐々木の子孫が出版させた「佐々木只三郎伝」では容保から御指図があったと解説されている。
松平容保→手代木直右衛門→佐々木只三郎→京都見廻組のコースで暗殺命令があった。
そして会津系作家が、龍馬を殺したのは会津人だ!ウヒョーッと歓喜する(笑)
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 00:17:43 ID:XGTwvkN10
会津系作家のポリシーは「見猿・聞か猿・(真実を)言わ猿」です。
126 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 11:24:52 ID:+Y1iTwF00
>>123 容保の保は保身の保だったのかもな
ばれれば土佐の恨みを買うし、慶喜公の顔に泥を塗ることに
なる
そちは悪よの〜って感じだなw
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 16:37:49 ID:+Y1iTwF00
まったくせこいヒーローだぜ〜(笑)
会津は、一方的被害者だったとかいうふざけた与太話は
捨てるべきじゃないのか?w
観光目的なんだろうけど都合の悪い土佐のことは隠して
おいて薩長にばかり目を向けさせようという魂胆ではな
いかと穿った見方をされても仕方ないよなw
白虎隊の悲劇も戦前の少年特攻隊や沖縄の集団自決を隠
してことさら薩長を軍国主義的に仕立て上げ責任をなす
りつけているみたいにさえ思えてくるよw
百虎隊の生き残りは、もちろん死んだふりをして一人だ
け助かるようなせこいヒーローじゃないんだろうけどw
>>123 厳密には佐々木の兄の手代木の子孫な。
見廻組は上の命令に従っただけだから良いとしても、
慶喜の決意した大政奉還に猛反発し有力諸侯にもハブられて暴走した容保達は愚かであった。
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 23:22:47 ID:+Y1iTwF00
会津の場合、江戸幕府の存続のみに精力を注ぎその他の状況は見えてい
なかったか、もしくは対処出来なかったんだろうなw
幕府と独自の富国強兵を図っていた雄藩とのパワーバランスという国内
事情と、欧米列強が当時とっていた植民地政策という海外事情に対して
お家の家訓だけを優先するという会津の硬直した考えだけは対処のしよ
うがないのにな〜w
現実的な考えを持って事態に対処できた慶喜公とそうではない会津と言
ったところかもねw
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 23:33:58 ID:F3bx/ajR0
松平容保の場合、京都にやってきた時点では
帰国をほのめかしたり、他者への扱いも温和な面が見られる。
しかし草莽の志士や土佐勤皇党を捕縛殺害したあたりから、軌道を外れた残虐性が出てくる。
帰国をほのめかす場合も、翻意の代わりに政治的譲歩を勝ち取ろうとするなど、功利的になってくる。
徳川家茂の死の前後からは、京都での役職への執着と諸侯や家臣への高圧的な対応が目に付く。
その結果が諸侯からの会桑の総スカンであった。
>>130 井伊直弼と似たパターンだな。伊達に遠戚関係ではないということか。
会津と彦根にはどうも黒い繋がりがあったようだ。
>>123 メンバーの1人桂早之助の佩刀と
佐々木に宛てた手紙が霊山博物館にある
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/21(火) 08:39:41 ID:x+oXRp0+0
王政復古後の小御所会議で春嶽の懐刀で安政の大獄で処罰された橋本左内
に高く評価されていた土佐の山内容堂は、慶喜の辞官納地の反対する一方
で、藩内の勤皇にも一定の理解を示しており大政奉還後の会津側の身勝手
な行動が発覚していれば、慶喜公をますます窮地に追い込んだといえる。
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/22(水) 10:45:09 ID:EFglNDVr0
人を教唆して犯罪を実行させた者には、正犯の刑を科するw
新政府軍は、天皇を中心とした中央集権国家の確立を優先し
国内の内紛を最小限に食止めるため政治的判断で死罪までは
求めなかったのかも
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/24(金) 08:54:32 ID:rmHtGaeF0
見回組の暗殺行為は、幕府が大政奉還により事実上消滅した以上、
治安維持という警察的な公共サービスの限度を越えたただの凄惨のテロ活動だろうな
明治維新と欧米の近代市民革命とは、事実上階級闘争であった点は同じだが、
前者の下級武士・外様大名に対する幕府という支配(搾取)階級という構図は同じ武家社会内の闘争であり
後者の市民が自ら権利に目覚めて体制を倒した点で異なるが、明治維新によって欧米的な統治システムが確立
されたことにより日本の主権は維持され、倒幕に身を投じ国家の礎の一翼を担って志士たちは報われたんじゃないか
今井が龍馬殺害は捕縛のための公務ですぅ〜とか抜かしてたが
お前アレ下準備といい根回しといいどうみても暗殺だろうが。
容保から褒賞状まで貰ってるそうじゃねえか。
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/24(金) 23:36:23 ID:T6RKoCSOO
つうか、何でいつの間にか龍馬暗殺を確定させてんだ?
テレビ観て真に受ける影響バカはお前らだな
テレビを真に受けている人は、会津の方かと思われますが
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 01:29:28 ID:ot32dl9d0
会津藩は勤皇にして佐幕の雄藩だった。
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 02:18:57 ID:LDWDhyXJ0
明治天皇を軽視し、天皇の命令を聞き入れなかった時点で、会津は勤皇ではないと思われます。
孝明天皇を暗殺した時点で、薩長は勤皇ではないと思われます
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 13:04:05 ID:LDWDhyXJ0
ちなみに、孝明天皇の死は病死という説が一番有力で、
暗殺説でも、一会桑の犯行という説の方が現在有力です。
薩長説を唱えているのは、根拠を持たない小説家ばかり。
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 13:06:03 ID:LDWDhyXJ0
>>139が大嘘ということを誤魔化すために、話をずらそうとしても
会津が孝明天皇の死にも関係した大逆賊という史実は揺らぎませんよ、会津さん。
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 14:53:45 ID:pdmm4c9H0
会津御用達の小説家は、歴史の史料よりも自身の誇大妄想に広辞苑を
駆使して美辞麗句を並べているだけの連中やん
そんな連中の本を読み時代劇の台詞で頭一杯の勘違い会津厨は、テレ
ビ、小説以外で龍馬暗殺を会津が全く関与していない有力な証拠物件
を持っておるんかいな?
なほ、君(佐々木只三郎)の兄手代木直右衛門が明治三十六年逝去するとき、その死に先だつ數日前に、
ある人に坂本龍馬を殺したものは實弟只三郎であり、それは某諸侯であることを始めて語つたといふ。(大泉前掲傳)
某諸侯といふのは、のちに見廻組の屬した京都守護職松平容保即ち手代木の藩主を指すのであるが、
この事實を公にすると、累を藩主に及ぼす恐れがあるので、直右衛門はずつと後代まで沈默を守ってゐたのである。
『佐々木只三郎伝』
なほ、君(佐々木只三郎)の兄手代木直右衛門が明治三十六年逝去するとき、その死に先だつ數日前に、
ある人に坂本龍馬を殺したものは實弟只三郎であり、それは某諸侯の命によるものであることをであることを始めて語つたといふ。(大泉前掲傳)
某諸侯といふのは、のちに見廻組の屬した京都守護職松平容保即ち手代木の藩主を指すのであるが、
この事實を公にすると、累を藩主に及ぼす恐れがあるので、直右衛門はずつと後代まで沈默を守ってゐたのである。
『佐々木只三郎伝』
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 01:33:39 ID:OQA9ngkFO
田代佐久
川村名賀
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 02:47:05 ID:rb14p8ZzO
会津の心は美しい
149 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 07:40:02 ID:kvsjCUNx0
薩長への遺恨って美しいか?
会津と行動するなら協力できませんって直訴された米沢藩辺りからは、別の意見が聞けるだろうなw
米沢の史料から越後方面での会津藩兵の蛮行が散見されるが
そういったものからは目を逸らし、米沢で唯一士道を示したのは雲井龍雄だと思考停止
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 12:53:06 ID:GRTqOC4H0
会津は、京都でも散々威張りちらし、自分のためなら他者を犠牲にすることを厭わない愚劣さが散見される
鳥羽伏見戦の前なんて慶喜の新政府入りを望む諸侯、諸藩からも会桑は嫌われてたしなあ
穏健に事が運べば立場がないことに焦り、主戦派として出陣した挙句
負けた責任を慶喜一人に押し付けるのは、卑怯な振舞をしてはなりませぬに反していますね
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 16:54:04 ID:wVdF51bk0
一天万乗の天子様に弓引くつもりは御座らねども
拙者は義の為に戦をせねば成り申さん!
"o(`Д´)♂”お相手致〜す!
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 21:29:36 ID:WZWqpkYT0
ふと思ったけどこいつら(会桑兄弟)って尊攘派は言うまでも無いけど
佐幕派の中にもこいつら嫌ってる人っているのでは?
「こいつらの所為で幕府が潰れた」とか「慶喜がこいつらクビにしてたら勝ってた」とか
言いそうな人間いても不思議じゃない気が・・
156 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 23:26:38 ID:9wLSpd8Z0
>>155 鳥羽伏見の戦いで、平和的努力で慶喜の新政府入りまでこぎつけていた福井藩松平春嶽と中根雪江。
中根が徳川家恭順の条件として徳川家に要求したのは、徳川宗家と親藩で会津をクビリ殺すことだった。
そんな福井藩に、会津藩は恭順の仲介を頼み断られた。
以後、会津では「薩長が会津の恭順を許さなかったのだ。それで福井藩は尻込みしたんだ」と語られ、現在に至っている。
157 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 00:27:18 ID:nsLnhDb20
会津の人が徳川慶喜を中傷するときに使う、「彼(慶喜)なんて支持しなければ良かった」発言が
残っている老中板倉勝静も、その側近の書簡である魚水実録で、
鳥羽伏見の戦いを強硬に進めようとしている会桑の行為を、敵の術中に嵌るだけだと非難し制止している。
会津の人は、会津に都合の良いところしか引用しないから、鳥羽伏見の戦いでの準備もない猪突猛進、しかも
相手に戦いを挑みながら銃撃されるとは思っていない愚鈍さが、味方からも非難されているということを知らないし、
郷土史関係の人々は極力会津の悪しき部分を隠そうとする。
すると、夜郎自大な自尊心だけ旺盛な会津人が出来上がるという寸法。
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 00:57:13 ID:nhOxQvke0
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 08:25:41 ID:Lr4wN2wV0
>>157 最近の流行は「もしも」といったIF論だな。
会津贔屓の作家や研究家は”政局論だと会津が悪くなる””戦術論だと会津は稚拙”という結論になることを知っている。
だから、なんとしても敗因が慶喜の弱腰にあるという結論にする為に、
「もしも、慶喜が徹底抗戦していたら」とか「もしも慶喜が大阪城に籠城したら」という形で、旧幕府軍が勝てたと言い張る。
しかも近年は、”学術学会にも、この手法を用いなければいけない”などと叫び、運動している。
やり方がいやらしいよな。IFはどこまでいっても都合のよい妄想でしかない。事実じゃない。事実だと証明することもできない。
だから学術にはならん。
戦史雑誌の学研「歴史群像」までもが毒されて、会津戦争は正義だの正しい戦争だったなどと叫ぶ始末で泣けるぜ…
そもそもそういうifを言うやつは、大阪や江戸が戦場となった時の被害損失は考慮しないんだよな
負けるはずのない2連敗後の挽回で、失った権威を回復させるためにどのような行動が取られるかも
他所が戦場になって自分が助かればよかったって言いたいだけ
会津贔屓研究者の間で流行の決めゼリフ
「慶喜が大坂城で決戦していれば…或いは江戸で決戦していれば、会津はこんな酷い目に合わなかった」
意訳
「慶喜が大坂や江戸で決戦をすれば、火の海になるのは大坂、江戸だけ。会津は火の海にならず助かったはずだ」
身勝手にも程があるよな。まぁ、領民の平和な暮らしを考慮せず戦争を起こして、村々に火を付けて廻った武士階級らしい言いぐさではあるが。
武士は素晴らしい!なるほど!「華は桜木、人は武士」これが会津ですね。
武士は人だが、武士以外の人間は人ではない。虫けらのように踏みつぶしても痛みを感じない。そんな(祖先は農民wの)研究者が多いのだろう。
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 19:55:56 ID:IlJJJOus0
慶喜公の龍馬捕縛禁止令を無視どころか念入りに暗殺計画実行w
さすが会津士魂のテロテロ坊主
京都に血の雨を降らせただけあってやることがエグイすっねwww
バイバイ〜w
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/09(日) 09:56:16 ID:7TvAFP3l0
見回組の佐々木只三郎は薩摩の高崎正風らのいる歌会に出席していた。
薩摩との接触は政局が江戸から京都に移り、雄藩の動向を知るための
スパイ活動であった。
見回組は鳥羽伏見の戦いで多数の死者を出したが幕府、朝廷、雄藩の
板ばさみになることを予見していた家老西郷頼母を藩主が聞き入れて
いれば政局に巻き込まれず壊滅的打撃を受けず済んだかもしれない。
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/09(日) 18:57:14 ID:CHUDBRc70
馬鹿の松平、それに従った新撰組なんて大馬鹿の集まり。歴史から抹殺せよ。
松平だと一杯居すぎw
ぶっちゃけ、長州毛利も薩摩島津も公式の場では、徳川から貰った「松平性」を名乗りますからw。
松平ではなく、容保って言わなきゃ駄目よ
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 18:42:05 ID:rslNMbk90
<銃刀法違反>「はかま姿に必要と思った」 模造刀を所持、成人式会場で容疑少年逮捕
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110110-00000013-maiall-soci 成人式の会場周辺で模造刀を所持していたとして山口県警下関署は9日、同県下関市の土木作業アルバイトの少年(19)を
銃刀法違反(模造刀剣類の携帯禁止)容疑で現行犯逮捕した。少年は「友人との記念撮影用に持っていた」と話している。
逮捕容疑は9日午後0時35分ごろ、同市豊前田町3「海峡メッセ下関」1階で模造刀(刃渡り約70センチ)を所持していたとしている。
この日、同所4階で成人式が開かれ、少年は式典終了後に友人と記念撮影するため模造刀を抜いたが、
それを見た人が「日本刀を振り回している男がいる」と110番した。
少年は「自分ははかま姿だったので、撮影に模造刀が必要と思った」と話している。
容保か
コイツ大ッ嫌い
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/13(木) 08:29:42 ID:6l6edaAQ0
9月22日は、朝敵会津が「降参」と書かれた純白のハンカチを振った怨念記念日w
怨念でオマンマ食べるの…
1.鉄道・道路を通してもらえなかった
→実際は三島県令が当時日本でも稀な大規模道路整備を若松を中心に行い、
恩恵が少なかった会津以外の人々が一揆を起こした。
→鉄道が通らないのは当然。仙台へ伸ばすには会津は経由させるべきではない。
また、磐梯山噴火などがあり若松より北へ伸ばす路線は危険が多かった
2.産業育成を阻害した
→実際は産業博覧会で三島県令が盛んに会津漆器などの産物を販売し、陶器産業も復興させている
清酒も明治以降の導入で、江戸時代はどぶろくだった
3.県都を郡山に移さず会津を引き裂いた
→郡山は新政府が開拓した都市。そこに移すのは新政府偏重と言う福島市の意見が強かった
4.学校を作ってもらえなかった
→会津高校を作ったのは明治初期、しかも三島県令と明治新政府の重役たちによる寄付だった
5.賊軍の遺体埋葬を禁止された
→「彼我の戦死者一切に対して」遺体確認作業の為禁止されていたのを作家が捻じ曲げて解釈しただけ
かなり早い時期から遺体処理を指示する民政局の達し書が出てる
会津藩士の遺体もちゃんと埋葬された
6.「白河以北一山百文」と侮辱された
→言いだしっぺは東北、わざわざ新聞タイトルにしてスローガンにしたのも東北
つまり、会津人が涙ながらに叫ぶ「被差別」話は、どれもこれも根拠がない。
新政府の援助をたらふく食った末に、貰った先を罵って、恩義はないといって済ませようとするのが会津。
「会奸」って名言だな。
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 08:21:34 ID:Evea91Kk0
倒幕派寄りの兄徳川慶勝と殴りかからんばかりの議論はなかったんだろうか?
會津は自分らが「差別」されたなどと主張してはいないと思う。
戊辰戦争の凄惨さを知らずに、會津のことをけなすのはやめてほしい。
日本人が日本人に対して、あれだけの一方的な攻撃を、焼夷弾をふくめた
大量破壊兵器で人を傷つけ、殺すということをしたのは、戊辰戦争が
最後だと思います。 残念なことです。 新政府を名乗る人達の中に、
會津に対して深い怨恨を持っていた人が居たことも事実です。
京都守護職、その傭兵の新撰組のイメージは非常によくなかったでしょう。
美濃から出てきた松平容保は、凡庸な殿様です。 彼が會津の主君であった
ことは會津の不幸でした。 例えはよくないですが、天皇陛下がマッカーサー
に対して、「自分はどうなってもいいから国民をたすけてほしい」と伝えて
日本の戦後は決まりました。容保はそういうモラルを発揮できなかった寂しい
人物です。
容保が、忠君をはたしてくれた臣民への深い感謝とそれに報いようという
意思を自ら発して、薩摩長州にはたらきかける、自ら腹を斬ることを
含めて武士道を貫徹する、そのような気概がなかったことが、
會津のいたましい歴史につながったと思います。
とりあえずググって大量破壊兵器の定義を調べて来い、な?
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 18:06:27 ID:hEkw6Eey0
戦争をスポーツか何かと勘違いしてないか?
犠牲者が出ているのは新政府軍も同じ。
優秀な兵器を保持することは、攻撃のみならず防衛の観点からも重要だぜ。
新政府軍も負ければ過酷な運命を辿っていたかもしれないし、戦争とはそういうもんだろ。
西郷頼母は場合次第で悲劇の主人公にされたり、藩主に逆らった軍事無能馬鹿にされたり、評価が定まらない。
・京都守護職就任に田中と共に大反対
・京都まで出てきて、京都守護職を辞めるように主張、松平容保の侮蔑を浴び、更に謹慎処分
・鳥羽伏見の戦いでの会津藩の敗北の責任を追及するが、松平容保の回答は恭順派の神保への切腹
・白河城の戦いに送り出されるが、10倍の兵力を擁して大敗北、東北戦争の敗北決定
・破れかぶれに「もう戦争だ、逃れられない、全員(容保のせいで)死ぬのだ」と公言し城外追放
・若松追放の間に新政府軍が会津進撃、西郷の家族は全滅(後に立派な最期だったという伝説が残るが真偽は不明)
・一人外に出されていたのでそのまま箱館まで旧幕府軍に従軍(その間に会津藩は降伏し、筆頭家老がいなかったので別の一人が切腹)
・戦後会津に帰ったら家族が全滅していたことを知る
・東照宮で神官として従事、辞めて数年で死亡
東照宮で容保とどんな会話したんだろう。
>>174凄まじい主観擁護ですな。会津がありもしない差別を唱えてるのは事実ですよ。
会津観光史学洗脳者さん、もう会津の嘘はバレバレなんですよ。
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 21:28:55 ID:nU0cyZNa0
話もしない間柄で
西郷は霊山神社へ引越し
容保は東京の邸宅に引越して贅沢三昧、我に正義ありと元藩士と語りあう言動を続けて死去
少なくとも、松平容保に反省の弁は一切なかったようです
松平容保の親族が長州の人間と結婚したって本当ですか?
>>180 息子の容大だかが長州の女と結婚してたような
長州は会津を助け過ぎ。
北海道と日本海側の地域をドイツに売ろうとしてたのが会津だからな。
会津観光史学ではこの売国を「外交」として評価してる。
歴史をねじ曲げ、被害者ぶり、金を儲けてる会津は糞だ!
>>182 まじかよ?国土を売るほんとうの意味での売国行為があったのか?
>>183最近ドイツで会津が
北海道と日本海側の地域をあげるから助けてと
すり寄って来たと記録されてる史料が発見されました。
ちょっと質問
会津が同盟相手として何故プロイセンを選んだんだ?
普墺戦争後で幕府と協力関係にあった仏とは関係悪化し
英露とは協調関係をとってる
イギリスは薩長を援助し
ロシアと領土問題が生じる樺太を手に入れることは論外
何より海軍が貧弱で、ビスマルクは植民地に否定的
外交オンチすぎると思うのだが
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/07(月) 21:37:14 ID:m+l3T37+0
それは新潟開港と関連しています。
新潟港は旧暦慶応4年3月に開港が予定されていましたが、
1月に戊辰戦争が始まり新政府軍が勝ったので、新政府は自らの手の中にない新潟港の安全は保障できないので
開港を延期するよう諸外国へ要請しました。
しかしイタリアとプロイセンは無視し、新潟港では両国の商人が他国の商人のいない中で高値での武器の販売を始めました。
この中のプロイセン国籍の商人が、スネル兄弟であったというわけです。
この時点で、新潟港に来た国の中からしか、会津も庄内も選択肢がなかったわけです。
>>186 なるほど、そういう事情があったとは
イタリアも普墺戦争に参戦した関係で対仏関係が悪く
イタリア海軍は地中海中心
どっちかならば、より強国のプロイセンを選んだのか
ようやく得心が行った
だからといって会津の売国が許されるわけがない。
会津は現代でも会津観光史学で日本人を騙し
特定の地域を差別中傷している。
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/03(日) 20:58:37.20 ID:uwZ2hGUz0
え
191 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 16:47:04.26 ID:5fgG1FHt0
192 :
株価【E】 u:2011/04/20(水) 23:49:48.50 ID:MQeH/6/80
193 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/29(金) 10:46:16.00 ID:2DRpg2WC0
>>174 >日本人が日本人に対して、あれだけの一方的な攻撃を、焼夷弾をふくめた
大量破壊兵器で人を傷つけ、殺す
焼夷弾なんて発明されてませんよw
194 :
怨念:2011/05/01(日) 13:27:53.10 ID:eaGwCalz0
孝明天皇を瞞して、偽勅を出したのは誰か、天皇の怒りに触れて京都を追い出されたのが、その”勤皇の志士”たちだった事実。
京都御所に大砲を打ちこみ、幼かった後の明治天皇を失神させた者たちが、その”勤皇の志士”を標榜していたのだ。
真実の”勤皇の志士”は誰か。それは孝明天皇の御宸翰と御製が証明しているのだが、天下をとった薩長は、必死になってその証拠を抹殺しようとした。
松平家の山の上のでっかい墓石
どーやって、運んだのかしら?
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/04(水) 20:39:37.30 ID:s2JWUfy+0
裸の大将の任務は、天皇の監視と倒幕を防ぐことw
必死に美化するなよ会津ババア
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 17:32:51.42 ID:8FNFEYVf0
もっと言うと市街地の警備であり、天皇の身辺警護ではない。
戊辰戦争最大の首謀者は西郷隆盛
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 18:56:57.57 ID:ncnG0wgy0
は?戊辰戦争は、新政府との和平蹴った会津から仕掛けた戦争だぞ。
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/07(土) 22:47:51.64 ID:yAH/b7pk0
会津は交渉人を拉致したり殺害したりしました
容保公
202 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 22:10:30.37 ID:yEH10WlK0
203 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/19(木) 18:18:00.27 ID:CaiqLqj20
忠犬ハチ公>負け犬容保公
勝てば官軍
勝てば官軍ではなく官軍として会津を討伐した。
新政府との和平交渉を蹴って白河と今市に進攻したのは会津。
206 :
忍法帖【Lv=12,xxxPT】 :2011/06/04(土) 10:07:53.64 ID:mrTw4rOR0
test
208 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/14(火) 23:37:24.56 ID:UXxZ3rqD0
また女が主人公か!
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 09:22:35.70 ID:L4oMEFUr0
山本八重子が大河になるとは。
会津は武闘色が強すぎて忌避されるかと思ったんだが、武闘派中の武闘派を持ってきたな
新選組に続いて大河の佐幕化が頂点に達した感じ
もう2度と討幕側では作れないんじゃね?小松帯刀も武力倒幕否定派として描かれてたし
震災に便乗かよウゼエなNHKって。会津はドイツに売国企てたんだぞ。解ってんのか?
短期や歴史バラエティーならともかくとして、八重でホントに通年五十話
持たせることができるのか?
同志社内のいがみ合いを、一件一件時系列ごとに消化していけば
数年分の話題ストックはあるよ。どれもこれもつまらないけどね。
八重:薩摩人への恨みは消えません
教師:俺達の西郷さんに何を言う?
教師:だいたいきみの土地権利書だって、西郷さんから学校のために預かったものだろ
八重:再任を認めません
生徒:僕達の学園と先生になんてことをするんだ
教師:八重許すまじ
これがたび重なり、八重は学園内で年々孤立してゆく。
被災便乗ウゼエよNHK
214 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 18:36:50.88 ID:opc5lSqQ0
>>211 明治以降の後半生も逸話が非常に豊富な人なので充分に持つ
>>210 売国とか愛国とか喚いて幕末史スレ荒らしてるお前のほうがはるかにうざい
こういう徴収オタを発狂させるためにも、お八重さんにはぜひ活躍してほしいですw
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 23:51:23.42 ID:fb0GDfhc0
会津は被災地でもなんでもない。単に福島県の一部というだけなのにな……
被災便乗で”金儲け”って感じだ。
>>214 >こういう徴収オタを発狂させるためにも
お前みたいな会津厨がいるから会津が嫌われるという事を自覚してくれんかね。
薩摩の西ク・長州の高杉・土佐の坂本と幕末大河ドラマで男が選ばれているのに、
会津を舞台にした大河で女性が主人公という意味も理解すべきだよ。
会津白虎隊に娘子軍……女子供ばかりが戦い、大人の男が会津戦争で活躍していないという事を。
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 12:56:35.69 ID:ahS9cxCg0
>>214 新島八重の利己主義や傲慢さ、学校の人々から蛇蝎の如く嫌われていたことなどを話しに入れないと、
大河ドラマとしては成立しないと思うんだ。中村彰彦などが勝手に話を捏造して持上げているけど、
彼女は決して評価できる人間ではない。
それでも持上げたいのなら、樅の木は残ったのような逆転歴史観が必要だろう。
今のNHK周辺に、そのような手腕を持った作家がいるのか甚だ疑問だ。
舞台は会津でなく京都じゃない?同志社だし。
山元覚馬とか江戸時代には埋もれてた人だよね。
まぁ最近の大河ドラマで女主役じゃスイーツ(笑)になるだろうから会津の皆さんにとって喜ばしい作品にはならんだろうし薩長絡みだってお花畑的になぁなぁで終わるだろ
脚本が田淵or小松ならご愁傷様
ここ十年での大河ブランドの凋落っぷりは異常
>>215 山本八重子は会津藩守旧派とは対立関係にあった砲術家・公用人の山本覚馬の妹
新島襄の妻、クリスチャン、元会津藩士と色んな顔を持つキャラクタなので
「女だから」というだけの理由で排除するのは不適切。周囲の人物たちも描けるしね
山川捨松や津田梅子と並んで扱われておかしくない
>>216 そりゃお八重さんは会津時代からワガママな性格だものw
八重子の面白さはまさにその奔放さと頑固さ、行動力、多芸多才さにあるだろ
学生だけでなく、元会津藩士からも引かれていたからまったく問題なしw
そんだけ無茶苦茶な性格なのに、なぜか新島襄とはうまくいってたというのも面白い
よくも悪くも政宗の母ちゃんっぽくて面白いんだよ
皇族以外では初なんだな、女の叙勲ってw
夫の死後に日清日露戦争の看護婦に志願してるのも面白いわ
>>216 同志社は私立だから笑い話で済むけど、大阪控訴院長を務めた桑名藩出身の加太邦憲によれば、
司法省明法寮学校時代の薩長閥のいじめは凄まじかったらしい。朝敵呼ばわりは日常茶飯事、
学校に非薩長出身者が集まったもんだから、学校を潰すために「学生が学業不十分」とか
根も葉もない噂を立てられて潰す寸前まで行き、驚いた司法卿江藤新平(佐賀)が自ら高官連中を引き連れて視察
江藤は学校設立者で非薩長閥もどしどし入れたから、学生のレベルを熟知してる
そこで学生に任意にフランス語の書き取りをさせ、高官連中を黙らせてるんだよな
しかし逆に言えば江藤がその種の圧力を一蹴できず、実際に実力を見せなければならなかった所に薩長閥の圧力のすごさがある
鈴木貫太郎も海軍でかなり反発したらしいけど、そりゃ無理ないと思ったわ
まじで薩長の無能者はガンだよ
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 09:31:44.79 ID:wHWmMO4q0
日露戦争・・・海軍:東郷平八郎(薩摩) 陸軍:児玉源太郎(薩摩)
太平洋戦争・・・海軍:山本五十六(越後長岡) 陸軍:東条英機(南部)
無能なはずの薩長閥の方が戦争に勝ち
有能なはずの非薩長閥が戦争に負けた
薩長が無能だ、というのはほとんど非薩長閥の妄想だな
太平洋戦争を指導し、日本を敗戦に導き、多数の日本国民を
殺傷するに至ったのは100%非薩長閥の責任である
彼らは戊辰戦争に負けた恨みを晴らすため、薩長が作った
明治新政府を破壊するために、無謀な太平洋戦争を仕掛け、
無能な戦争指導で日本を敗戦に追い込んだのである
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 09:36:20.89 ID:cEHjOBQk0
>>223 陸軍:児島源太郎(長州)、大山巌(薩摩)
225 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 09:43:17.52 ID:wHWmMO4q0
>>224 訂正・補足ありがとう
それにしても、会津人の被害妄想というか、偏屈な郷土愛は
異常という他ないわ
431 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/09(月) 04:52:37.37 ID:u7/TFl9j0
>>430 A級戦犯絞首刑の7人の出身地内訳
板垣征四郎→岩手県
木村兵太郎→東京
土肥原賢二→岡山県
東條英機→東京で出生(本籍岩手県)
武藤章→熊本県
松井石根→愛知県
広田弘毅→福岡県
432 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/10(火) 08:29:20.41 ID:gZ1L/7lO0
石原は日中戦争不拡大派で反東条
226で殺害された重臣斎藤実は岩手県士族、天皇の信任厚い鈴木貫太郎も非薩長系
一方で決起将校の磯部浅一、文民では外相・松岡洋右、開戦時の商工相・岸信介は山口県
鈴木貞、大島、嶋田、梅津、佐藤賢、南など軍出身者のA級戦犯を見ても、
奥羽越列藩の末裔は東条・板垣(南部)、畑俊六(会津)の3人くらい
ちなみに昭和天皇は畑、阿部(金沢)、東条あたりがお気に入りだったのは有名w
こんな↑簡単な知識もなく偉そうなことほざいてんじゃねえよ
>>223>>225 つか聞きたいんだけど、太平洋戦争の政官財界や軍部の重鎮と、
幕末史とどういう関連があるわけよ?お前ら会津スレどころか佐幕派諸藩・諸隊スレも荒らしてんだろ
お前らみたいのは幕末史を楽しみたい人間にとってほんと迷惑なんだわ
特に維新史研究が佐幕派諸藩から無名幕臣にも広がってる現状ではアナクロニズムも甚だしい
228 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 10:30:44.29 ID:wHWmMO4q0
>>227 ところがどっこい関係があるのさ
例えば陸軍大学校の入校試験でな、薩長出身者に逆差別を行って
ことごとく不合格にして、あからさまな排除を行ったのは有名な話
当時、陸軍大学校の教官をつとめていた東条英機がその逆差別の主犯格だったりする
その結果、陸軍の高級幹部から長州閥が排除されてしまったのだが
能力によらない意図的な排除も幕末からの怨恨のなせる業
戦前の軍部や政財界は、昭和のはじめあたりまで幕末の怨念にしばられていたんだよ
229 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 11:57:26.41 ID:Gg3QKbsD0
会津人は未だに怨念にしばられてるけどな
会津が舞台なら保科正之やってくれよ。
231 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 13:03:10.97 ID:Ejn7l7b90
陸軍内部の長州閥排斥が成功するまで東条も石原も仲良かったよ。
仲が悪くなったのは、長州閥を倒した後だ。それぞれ自分の派閥拡大で対立し、仲が悪くなったんでしょうにw
丁度、自民党倒すまでは結束していた民主党が、政権取った途端に内部派閥抗争をやってんのと同じ同じw。
232 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 13:26:37.20 ID:wHWmMO4q0
石原は山形だが、満州事変を引き起こし太平洋戦争の一因を作った張本人
東条は岩手だが、いわずもがな
戦前の陸軍をおかしくして太平洋戦争に走らせたのはぶっちゃけ東北人
>>229 おまえはいつまで会津への怨念にしばられるの?
>>228 それがかりに真実だとしても、幕末スレではスレ違いと言うのは分かるよねボク
騙りたいなら太平洋戦争スレで語ってこい。実証的な史料も添えて
つうか松岡、岸、磯部浅一が山口県民なのは認めるんだよなw
>>232 読売の戦犯調査では三大戦犯が松岡、近衛、東条
松岡は起訴されたら重罪確実
A級戦犯を見ても畑、東条、板垣くらいしか奥羽越列藩の末裔はいない
さらに226で磯部らに殺された重臣斎藤実は岩手県水沢出身
出身県別でスタンスを語ることはできない
不起訴でも起訴相当のやつがいると言って石原を挙げるなら、
東条内閣の軍需を担当した岸、起訴前に死亡した松岡はなおさら外せない
薩長VS奥羽列藩同盟 じゃなくて 薩長VS非薩長 なのは周知の事実
そして天皇は鈴木貫太郎をはじめ非薩長系軍人を信頼していたのも事実
分かったらさっさと巣に帰れ長州厨、幕末史を語りたい奴のスレを荒らしてんじゃねえ
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 01:53:43.43 ID:hFjrnUCW0
必死になって東北人の戦争責任を否定したがる奴がいるのぅ
どうみても主犯格なのにね
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 04:29:56.04 ID:HJ5oVfar0
>>233 おまえ呼ばわりとかどないやねん。ほんま会津偏愛は下品やな。
239 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 09:09:47.10 ID:90IdXQrX0
岸や松岡は、東条ら軍部にしっぽを振って生き残った長州人でしょw
やつらはもはやそちらの派閥であって、長州閥ですらないよw
240 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 10:24:32.90 ID:n8VDB30O0
>>235 太平洋戦争は泥沼で敗戦
日露戦争は泥沼を回避
会津戦争もそうだが大局観の無い者が上に立つと悲惨だなw
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 11:40:46.66 ID:n8VDB30O0
>>235 岸信介先生は薩長VS非薩長のうちのどちら?
会津人ではあるまいしイチ日本人として行動していたんじゃないかな
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 11:59:52.79 ID:8k4GnCgA0
>>241 どちらでもないし、どちらでもある
曲りなりに帝大を出た官僚だという意味では藩閥色は薄いが
満州経営で「弐キ参スケ」の1人とされた意味では非薩長かな
しかし、生身の人間としては長州出身
岸が極東軍事裁判で戦犯になってしまったのは、「弐キ参スケ」の
1人であって、東条が関東軍にいたころから面識があったこととから
東条を経済政策から支えるブレーンの1人とみなされてしまったことが
最大の原因
戦犯扱いされたのは東条に近づきすぎたからで、そういう意味では非薩閥に
尻尾を振りすぎたということかもね
同じことは松岡にも言える
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 01:34:19.09 ID:GOfh/ufH0
見なされたも何も、岸は対米開戦時の商工相・軍需相だからね。
安保闘争の時にあれほど敵視されたのも、一般の日本人には戦争推進者と見なされていたからで
いち日本人いち官僚と言うことはとても出来ない
松岡に至っては擁護の余地がない
そもそも太平洋戦争期には薩長閥も奥羽閥もなかったんだから、戊辰戦争の延長で語るのは無意味
244 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 05:04:30.04 ID:AELhJK970
>>243 対米開戦時の閣僚全てが戦犯になったのなら
閣僚だったから、という説明は理解できるが
実際はそうではないでしょう
東条内閣やら、そのあとの小磯内閣やら
戦争中という意味では、閣僚は皆、多かれ少なかれ
戦争遂行に加担していることになるのだが
戦犯になるのもいれば、そうでないのもいる
第一、
>>242は満州経営での東条との距離を問題にしているから
説明としては成り立っている
245 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 10:57:48.03 ID:TjQG4e7L0
246 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 11:31:44.62 ID:WfFI9GOx0
>>244 しかし商工相と軍需相は総力戦遂行の上では不可欠な職責だからね
岸はやはり戦犯容疑者として逮捕されるに相応しい役割を果たしてるよ
東条と対立関係に陥ったのも、石原よりはるかに後だし、何よりあの権力欲
安保闘争は岸が首相でなければ盛り上がらなかったよ、それほど国民から蛇蝎のように嫌われた
石原もいいかげん見苦しいけどまだ反省の念があるし
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 11:35:31.42 ID:WfFI9GOx0
山川健次郎が岸の帝大卒業時に総長をやってたけど、
人格の陶冶には失敗したようだな
248 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 11:51:51.49 ID:73poyrYF0
>>246 石原は戦犯リストに乗りかかったらしいが、
病気だったために起訴を免れただけだ
予備役になっていなければどうなっていたかは分からん
なにせ、辻政信とか大川周明とかとつるんでいたから
要注意人物であったことは確実だろう
あと戦犯扱いが疑問なのは広田、戦犯扱いしなかったのが
疑問なのが鳩山(公職追放にはなっている)、極東軍事裁判の
戦犯認定は絶対ではないよ
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 21:43:54.56 ID:GYFlCnUT0
>>238 別に。
言葉遣いが下品なのと
すぐに恨みだの怨念だのと罵る態度を批判しただけや。
“批判=憎い”なんか?
別に会津人個々が嫌いなわけじゃなかったからホンマがっかりやで。
251 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/21(火) 08:49:56.20 ID:4TEU/HOG0
>>250 会津が好きなの?いろんな意味で健康のこと考えてエ クソ ダス(脱出)した方がよくね?
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/21(火) 12:49:34.64 ID:/n8gxFp60
会津盆地は放射線量は比較的少ない。
十分居住可能だろう。
253 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/21(火) 13:13:13.38 ID:/aYYpMqk0
ふつーに県外に逃げた方がもっと安全
盆地地形はたまりやすいから、会津も時間の問題だと思う
>>248 広田は日中戦争拡大に責任があるから充分起訴対象になり得る。城山三郎の影響強すぎ
鳩山は起訴まで行くかどうか微妙。岸は起訴されて当然のレベル
むしろ天皇免責との関係で陸軍の軍令方面に起訴対象が集中したから助かったと言っても過言じゃない
戦犯認定は絶対じゃないよ
255 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/21(火) 19:23:34.78 ID:7ty4G3xq0
>>250 言葉汚く他県人を罵ったりしてるのを目の当たりにしたり、
憎いか?嫌いか?とネチネチ言われると正直嫌いになりそうやわ。
会津人ってみんなこんなんか?と思うしな。
いつまでも恨み辛みばかりのマイナス思考王国に観光で行きたいとも思わへんしな。
『悪いのは全部お前等や』て相手を責めるのは簡単や、
自分は会津武士道て他人に恨み辛みをブチ撒けることちゃうと思てたんやけどな。
せやから残念に思うだけ。
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/21(火) 22:32:35.59 ID:Z983nl5Fi
【東京】新宿駅前反パチンコ街宣 & パチンカーへの呼びかけ
【日時】6月25日(土) 9:00集合
【場所】JR新宿駅東南口階段下
【活動予定】
9:00〜9:30東南口階段下にて反パチンコ街宣
9:30〜10:00駅近辺のパチンコホールに並ぶパチンカーへ直接呼びかけ
10:00〜11:00東南口階段下にて反パチンコ街宣
257 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 03:14:19.64 ID:ivQY8D6r0
>>254 広田の場合は減刑をもとめる嘆願書が出されたり、連合国側の検察官側
からも異論が出てきたりと、当時でも疑問が呈されているので、当然とは
思えない
鳩山は統帥権干犯問題を起こして、軍部暴走のきっかけを作った張本人
だから当然起訴相当だよ
陸軍に集中しているのは、実際に戦争中の総理大臣が陸軍出身(東条・小磯)で
あったことと、海軍があまり戦犯になっていない印象があるのは山本五十六や古賀峯一の
ように既に戦死していたり豊田副武のように病死したいたからだ
もっとも海軍でも永野のようにA級戦犯になったケースもあるし、BC級まで
みれば戦犯として処刑されたのもいるよ
他には大川周明のように戦争指導者でもなんでもない民間右翼がA級戦犯扱い
されたり(訴追免除)と、必ずしも軍関係だとか天皇の戦争責任回避とかいう
ものでもない
更に実際に起訴されるに至らなかったが「容疑者」として巣鴨に収監されたレヴェルでは、
児玉・笹川のようなヤクザの親玉とか、正力(読売新聞社長)のようにジャーナリストも
いたりする
つぶさに顔ぶれを見れば、当時の極東裁判は、陸軍の軍令関係だとか天皇の戦争責任とか、
後世の歴史家が考えているほど厳密に、一貫した方針で戦犯を認定しているのではないことが分かる
戦犯認定は絶対ではない
だから、戦犯リストから漏れてしまったが、公職追放になった者はいた(石原、鳩山)
>>220 そういう魅力を、今のNHKが引き出せるかと言うと……
悲観的かなぁ?w
>>230 それも面白そうだけど
主な舞台は江戸にならね?
あとおまいら、俺が言うのもなんだが、ここ容保ちゃんのスレな
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/24(金) 00:10:49.75 ID:P2TAmzNP0
だってよ
容保って語るほどの人物じゃないし
260 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/25(土) 13:29:03.30 ID:M2DqjTYAO
不作や迷信から勃発した一揆は数多くあるだろうが
領民が圧政を理由に藩に一揆起こしたのは会津くらいだろう。
会津の領民は、白虎隊による民間徴兵すら断ったんだから。
そのお陰で白虎隊は白虎隊だけで薩摩兵10名と戦い敗走。
まあ、会津のキルレシオが無残だったのは事実だったしね。
しかも会津の前線に立っていたのは藩士直系部隊よりも佐幕諸藩や
旧幕府の残存部隊だったのも事実。
正規軍は一部の部隊を除き、前線を嫌がったとか。
>>261 領民が藩に抵抗したのは会津だけではない
奥羽諸藩は北辺警備の任も負わされてたし、仙台藩南部藩でも一揆が発生してる
もちろん長州でも同じ。薩摩だけは士族が異様に多かったこともあり徹底的に弾圧されていたが
と言うか世直し一揆も含めたら関東奥羽畿内は騒然たる政情
>>257 いや、天皇の不起訴と軍令関係への責任転嫁は必須だよ
対米和平を一貫して訴えた近衛が米側では対中戦争で主要戦犯と考えられており、
近衛が全くそれに気づいていなかったことを考えたら、広田は充分起訴対象になり得る
広田が死刑になったのは、法廷で弁解をまったくしなかったのも一因じゃないかな
外交官なので先が読めるから無駄だと思ったのかもしれないが、あれは英米法では法廷侮辱と受け取られても仕方ない
まあ広田の死刑は公判を見れば必然なんだが、日ごろの広田を見てる人からは意外だっただろうな
265 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 20:59:58.13 ID:snHpF2EU0
>>70 >しかし、この頃から会桑は、逆に京都の職権に執着を見せるようになります。
>尾張の徳川慶勝による辞任帰国勧告を無視したのが、結果的には命取りとなり
>会桑は、薩長だけでなく京都の雄藩連合の共通の敵対者として、王政復古時には
>彼らによって朝廷から排除され、鳥羽伏見の戦いでは、彼ら雄藩連合と交戦し、明確に交戦相手とされます。
会津藩が京都・大阪から撤兵しようとしなかったのは、長州を京都に入れたら、また長州が朝廷を動かして偽勅を出させて、
長州に反対する勢力を叩き潰す行動に出るのが目に見えてる状況だからだよ。
長州は、自分達の攘夷活動に協力しようとしない譜代藩の小倉藩に対して、朝廷を操作して討伐令まで出させた事もあるからさ。
『攘夷の幕末史』 町田明広/講談社現代新書
p.130 〜 p.149
「 政令二途による混乱は、西国諸藩にとって死活問題となっていた。とりわけ、勅命を重んじる即今破約攘夷派の長州藩と、
台命を重んじる譜代大名の小倉藩の鋭い確執は、西国諸藩のみならず、中央政局にとっても、最も注視される事態に発展した。
〜 中略 〜
小倉藩が(幕府に対して→)攘夷国是について打診中の五月十日、長州藩によるアメリカ商船ペンブローグ号への砲撃があり、
無二念打払が開始された。その際、小倉藩としては、台命はあくまでも襲来打払であるという判断から、長州藩の攘夷実行を静観した。
長州藩の攘夷は単なる通船の外国船砲撃だったことを小倉藩は確認しており、長州藩が台命に従っていないことを、当初より認識して
いたのだ。
〜 中略 〜
七月十五日に下関にいたり、諸台場を巡検している(正親町)公董に対して、奇兵隊激徒らは早々に小倉藩征伐の命を仰せ付けるよう、
執拗に求めていた。これは、諸藩の見せしめにもなると考えて、征伐を命じることを強引に迫ったのだ。
その強硬派の圧力によって藩要路も動き、七月十九日、高杉晋作・広沢真臣らは公董に対し、小倉藩の五罪を数えて征討を懇願した。
まとめると、@武備不足か内通かによる傍観、A攘夷実行への準備不足、B六月五日仏艦対応時の国辱的行為、C下関攘夷戦争を応援
しない隣国としての不義理さ、D違勅の幕府を糾さず因循姑息であること、の五罪である。換言すれば、長州藩を応援しない小倉藩への
言いがかりであって、報復のために列挙されたものだ。
〜 中略 〜
八月一日、徳田(←正親町公董の従者)は入京し、公董の伝言を朝廷にもたらした。早くも四日には国事寄人・錦小路頼徳を勅使と
して派遣し、かつ「小倉一条ハ当主遠慮、減禄三万五千石子息へ項載相続被仰付、若拝承時ハ任長州之所望、可被加誅罰御内定」
(『中山忠能日記』)した。朝廷が幕府を無視して、藩主の退隠や領地削減を沙汰しており、さらに勅命に背く場合は、長州藩の
好きなように誅罰させることを明言したのだ。
九日にいたると、中川宮が西国鎮撫大将軍に任じられたが、これを辞退したため、朝議は混乱して、なかなか公董に対して回答する
ことができなかった。越えて十二日、とうとう小倉藩の下関攘夷戦傍観の罪を責め、藩主小笠原忠幹の官位剥奪・所領没収の命があった。
鳥取藩主池田慶徳・岡山藩主池田茂政・米沢藩主上杉斉憲・徳島藩世子蜂須賀茂韶は連署して、所領没収については猶予することを奏請
したが、勅命は変えられなかった。
(八月十八日の)政変二日前の十六日には、有栖川宮熾仁親王が西国鎮撫大将軍に任命され、いよいよ小倉藩処分は実行に移される
ことになった。もしこれが実行されていれば、まさに内乱の勃発であった。このように、監察使派遣から派生した小倉藩処分問題は、
中央政局の中心的課題となり、西国鎮撫使や親征問題と絡み合いながら、八月十八日政変への導火線となっていったのだ。」
ちなみに、何故この朝廷の小倉藩への討伐令が偽勅なのかって言うと、孝明天皇に一番近い位置にいた中川宮が、この小倉藩の
討伐問題に関わろうとしなかったから。
あと、「小倉藩は長州の勝手な攘夷活動を静観していただけで、別に長州に敵対的な行動を取った事は全然無い」って所がポイントかな。
長州は、過去にこれだけの大事件を起こしてるんだから、松平容保が「京都に長州勢がいる状態のまま、帰国する事はできない。」
と判断しても当然でしょ。
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 23:13:30.70 ID:kPfmMLQt0
会津は明治天皇自身の意思は無視ですか。
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 23:28:13.11 ID:kPfmMLQt0
>>265 だいたい、王政復古及び朝廷の長州への赦免後も、小御所に置いて長州が姿を見せるのは後のことです。
朝廷は天皇の親政として、尾張・越前・薩摩・宇和島・安芸の諸藩の兵によって遂行されました。
長文をわざわざ書いたにしては、あなたは長州への個人的な憎悪が先走って、
この時期の朝廷小御所に長州勢力がいない事をご存知ない。あなたの文章は反論になっていない。
全く無意味なばかりか読者に誤解を与えようとする部分的な引用だけが見える。その本の著者もあなたを恥じるでしょう。
長州の参内は赦免後のもっと後、諸藩代表による諸侯会議を小御所において開催するという
朝廷布告に応じる形で行われました。
その限りにおいては、長州と肥後・加賀・仙台あたりはこの時点での公式での扱いは同列で、
両者に格差が付いたのは、鳥羽伏見で朝廷を守り官軍となったか否かに起因することとなります。
尊王派は長州といわれがちだけど
禁門の変の際など孝明天皇から信頼されていたのは松平容保公の方なんだよな。
だから反幕府勢=尊王という表現はおかしい。
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/30(木) 16:53:37.23 ID:cZPJ5RMD0
会津藩の場合、孝明天皇の話はしたがりますが、
明治天皇に会津がたてついて東北全域で天皇と日本へ全面戦争を仕掛け、敗北したことは語りません。
孝明天皇より明治天皇の方が後ですから、会津=朝敵という呼称が成立したのだと思います。
もういいかげんに「お上」の個人的な好き嫌いを至上の価値とする時代から抜け出したら?
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/30(木) 23:26:46.78 ID:qYwUmpaX0
火中の栗を拾って大火傷
藩主は自業自得だが、巻き添えを喰らったその他は大迷惑だな
山奥から出なければよかったのに
かたもりさんは明治時代は東京暮しなんだよね?
明治政府のおかげで華族にまでなってるしな。
長男は長州の人と結婚してるよ。会津観光史学って最低最悪だよな。
>>273 憎くて仕方ない松平容保の事をそこまで調べたんだ?
毎日会津の事考えてるの?
>>268至極簡単に説明します。
考明天皇が会津・松平容保を信頼してたというのは、会津観光史学による誇張です。
考明天皇は、京都守護職の任を労っただけです。それを会津観光史学で誇張してるだけです。
ちなみに、京都守護職の任命についてですが、会津観光史学では、天皇の信頼厚い会津に白羽の矢が立ったとしてますが
会津に京都守護職の任を回したのは福井です。天皇が直接任命したわけではありません。
尊皇派ですが、会津にしろ山口にしろ、当時はどこの領内も尊皇ですよ。
ただし、会津は攘夷ではありません。また、開国というわけでもありません。
山口は開国攘夷です。開国の前に攘夷という考えです。
会津は観光史学で、天皇や幕府の忠犬アピールしてますが
実際は、とんでもない売国奴です。会津は勝海舟が鹿児島の西郷と
無血開城に奔走してる最中、ドイツに国土売却をもちかけ
売却するかわりに、会津側に付くように打診して断られてす。
この時点で、幕府を見放してますし、天皇の土地である国土を売却しようとしてるので
天皇や幕府の忠犬アピールは嘘だと証明されてますし、会津が反戦だったという
アピールも嘘だとバレてるわけです。
会津って薩長が攻め込んで来たとか言ってるけど
戦争やる気満々だったのは会津なんだよな。
ドイツに国土売って味方にして戦争しようとしたし
ドイツに断られると今度は東北・北越で同盟組んで戦争しようとする。
新政府はちゃんと和平交渉してるんだよ。それに応じた
東北・北越の地域はたくさんある。会津や仙台以外は戦争する気ないんだから。
その交渉を蹴り、交渉人を拉致して、白河・今市に進攻したのは会津。
それが今じゃワレワレハヒガイシャニダだもんな。最悪だよ会津観光史学。
344 :名無しさん@お腹いっぱい。 :sage :2011/07/06(水) 14:39:42.85 ID:AO88yNAa0
>>343会津の事実を晒すと薄汚いってなるの?
違うんだったら明確に何が薄汚いのか言ってみなさいよ。
会津に義?それは会津観光史学による誇張です。
会津が長州に助けられたのバレてんだよ?
自分達を蹴落とした会津を助ける長州こそ義ですね。
幕府を見放して天領を外国に売却しようとした会津が義?
会津観光史学で韓国レベルな事をして義?笑えるよwww
で、342が薩長だという証拠は?直ぐに薩長だと思う
マジキチ会津観光史学洗脳者アウトーm9(´∇`)
>>278それはアンタだろwww反論出来なくてお決まりの台詞www
何年目だっけ?ソレ。おまけにコピペまで貼ってさwwwwww
会津の事を毎日考えてるのはアンタだよ。もう一度聞こう。ソレ何年目?
wwwwwwwwwwwwwww
会津って香ばしいな。支那朝鮮会津か。納得。
>>278 当たり前だろうがwwwwww
実社会じゃ怖くて会津叩きなんてできない。ましてや会津若松市に直接クレームいれる勇気なんてない。
だから2ちゃんねるで徹底的に会津を攻撃するんだよwwwwwwwwwwwww
悔しいか会津よ?んん?もう一度聞こう。悔しいか会津よ?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
うわー、マネっすか。さすが会津観光史学洗脳者さんすね。
困った時の直接言えですか?進歩ないっすね。
そんな事言ってたらネットの発言全部直接言えじゃないっすか?
会津観光史学洗脳者さんもネット利用者なのにwww
そうやっていつまでも空しい挑発続けて会津の情けない所晒してくださいね。
>>284あなたが言っても説得力ないでしょ。ソレしか出来ないんだから。
286 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/07(木) 14:50:16.16 ID:oWe50OQl0
>>285 会津若松の人の癖として、卑劣な事を仕掛けておいて
相手が嫌がると喜び、相手に反論されると、「会津の事を憎んでいるの?」と被害者を装う。
卑劣菅直人とは会津人の典型だろう。
会津の菅家がまた会津観光史学を持ち出してるみたいね。
萩も何でいちいち迎えるんだろ?まあ何にせよ会津市長は
戊辰戦争続行中なわけですね。この人、今度国会議員目指すらしいねw
288 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/07(木) 16:24:50.05 ID:zN49MpsjO
>>285 批判や反論という意見に対してすぐ憎むの憎まないのという感情論に持っていくからまた批判されるのよ
開き直りも美しくないしね
会津と朝鮮半島くらいだよな、こんなバカやってんの。
290 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/07(木) 16:44:00.62 ID:U/cX6+jG0
訪問は和解とは別でまだ戦闘モードw
国会議員は、全国民の代表ですよ
国民の生命や財産を奪うのではなく守るのが使命なのですよw
会津がここまで奇特な地域とは思わなかった。会津市長の言動はオカシイ。
次の衆院選に出るらしいが落選を希望する。こんな国会議員は要らない。
もし票集めを意識したパフォーマンスなら
これは韓国の政治家が反日を持ち出して票集めするのと同じである。
戦闘モードだって〜
会津藩はまだ江戸時代なんだってさ
だったらパソコンや携帯使っちゃ筋通らないんだけどねw
こんな人物を市長にしたのは会津人。この市長、次の衆院選に出るらしいが…
会津云々やってるけど薩摩も特殊だよ。
未だに士族が生き残ってる地域なんて薩摩くらいだろ。
西郷隆盛を崇拝しながら明治政府への人的貢献を誇ってるし
それでいながら自分らは江戸時代の社会秩序を維持しようとしてる。
実に複雑な精神構造だw
大隅は無視かい…。
297 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/08(金) 05:41:11.50 ID:wdeqMpLNO
>>292 会津が江戸時代なんて誰も言ってないぞ!お前だけだ!しかも
特定の地域だけが時間が止まって江戸時代のままな訳ないだろ
頭悪いにしてもヒドイ頭の悪さだな(笑)
会津観光史学洗脳者は歴史話が出来ないからスレタイ無視したり
悪口だけに一所懸命だよな。史料文献提示は一切しないし。
>>294 いまだに戦闘モードだというから、江戸時代が続いてるんじゃないかと思ったんじゃない?
それくらいのイヤミに気がつかない人もまたヒドい頭の悪さと言えるが。
300 :
299:2011/07/08(金) 20:47:44.23 ID:c9BBDMJT0
301 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/10(日) 17:37:36.78 ID:Kg3qmaMw0
てか、菅直人は長州人じゃんw
てか正式には岡山出身だったはずだが?
自称、奇兵隊内閣
だが、やっている事は鶴ヶ城籠城。
305 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/11(月) 07:56:48.79 ID:hoVq2bUl0
本籍は岡山
出生〜高校卒業までは長州
好きな人物高杉晋作
嫌いな物会津人
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/11(月) 10:35:36.70 ID:H4JDFQ2FO
>>305 菅直人は、会津は大好きと数年前渡部恒三に言っている。
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/11(月) 10:39:41.49 ID:hoVq2bUl0
>>306 恒三は会津出身の長老議員だからな
菅お得意のおべんちゃらだということだ
東北に行って「東北のことなんか知らんわ」などと放言した
松本龍みたいなバカでもない限り
とりあえずはヨイショするだろうに
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/11(月) 10:54:51.20 ID:hoVq2bUl0
鳩山が「会津は大好き、トラスト・ミー」と言って会津人は馬鹿正直に信じるのか?
菅が「会津は大好き、トラスト・ミー」と言って会津人は馬鹿正直に信じるのか?
会津人の理性のレヴェルが問われる問題だ
おべんちゃらだろうが、
>>305のような記述に根拠がない事は明らかだね。
菅は信用できない。
ゆえに、奴の好悪の感情で明らかなのは、
小沢でも原発でも何でも、とにかく「悪者を潰してオレは正義と自称したい」ということだ。
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/11(月) 12:03:06.45 ID:hoVq2bUl0
要するに自称正義の目立ちたがり屋か
目立てるのなら会津も潰しかねない危険な男だ
あいつを議員に選出し続けてるのは東京都だろう
何とかしてくれ
312 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/11(月) 14:07:08.99 ID:hoVq2bUl0
やだ
そのうち、ふぐすまを○さつしにくるだろうから
し○つしろ
がんばれ会津人
肛門を始めとする民主議員を大量に輩出させてる連中が偉そうに民主党を叩いてもねw
で、松平容保と何の関係が?
管が〜とか言うからだよw
しょーもな。
>>305 やっぱり長州人じゃないか。
松岡、磯部、岸、菅 偉大なる戦犯を排出し続ける長州
山口3区から管が出たとしても勝てないと思うけど
>>317 だから、菅を議員として選出してるのは東京
何で松平のスレで長州話が?しかも違う時代。会津観光史学洗脳者が必死なの?
白河城を落とされた会津がこの先生きのこるには
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/18(月) 10:04:39.59 ID:21DqtJ4u0
斗南に敗走
白河襲ったの会津だからな。
えーと、白河の幕末は
・安藤家白河藩が棚倉へ左遷移転(坂下門外の変)、幕府領
・江戸開城に伴い明治新政府領
・仙台藩及び会津藩、新政府に反旗を翻し占領
・新政府が奪回
・以後、列藩同盟は大軍で攻め寄せるも占領に至らず
・海岸部から上陸した新政府が二本松まで占領すると、列藩同盟軍は恐慌を来たして壊滅
会津藩と仙台藩が占領していたのは、たった10日程度?
ウィリアム・ウイリス『英国公使館員の維新戦争見聞記』中須賀哲朗訳より抜粋
「政治的なことがらについての私の知識は、はなはだ不充分であり、また矛盾だらけでもあるので、
ほとんどいかなる話を聞いても自信をもって判断することができないのである。これまで非常に
たくさんの相反する風評を聞いてきたから、一体どれを信頼して認めたらよいかわからないのだ
「残念ながら、会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。今後十年二十年に返済する
という契約で、会津の藩当局が人民に強制した借款についての話がたくさんあった。会津の国の貧しさは
極端なものである。家並は私が日本のどこで見たものよりもみすぼらしく、農民も身なりが悪く、小柄で、
虚弱な種族であった。この国で生産される米はみな年貢として収められねばならなかった。
戦争で破壊されるまえの若松とその近郊には、三万の戸数があり、そのうち二万
戸には武士が住んでいて、あらゆるものがこの特権階級の生活を維持するために充
当されたり税金をかけられたりしたということだ
私はしばしば負傷した捕虜がまったく見当たらないことに重大な意味を感ずることがあったので、機会があるたびに、
理由もなく人命を犠牲にすることの非人道性を指摘し、この戦闘で日本政府が敵の捕虜にたいする憐憫の情が
あることを立証しえない失望感を表明してきた。それにたいする弁明として、会津兵の捕虜は天皇の威光をきわめて
悪しざまに侮辱するので、負傷者といえどもその生命を許しておくわけにはいかない、といわれるのだ。
しかし総督の従者が、戦争における人道主義と他の国々で行われている負傷した敵兵にたいしての情深い行為に
かんして、私が話したことを、みな十分に主君につたえようと約束してくれた
会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか、彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。この話の確証として、
四日間も雪のなかに倒れていて両足の機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。その人夫は
もし会津兵につかまったならばむごい死に目にあわされていただろう、と私に語った。そのほか、私は若松で世にも悲惨な
光景を見た。たくさんの死体が堀から引き上げられたが、彼らの両手は背中にうしろ手に縛られ、腹が深く切り裂かれていたのだ。
私は会津の徒党のでたらめな残酷物語をいろいろと耳にした。長岡で、彼らは天皇側の病院にいる負傷兵や医師たちを
皆殺しにした、と聞いた。会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り、反抗する者を
みな殺害したのである。一方、会津の国では、天皇の軍隊は各地で略奪し、百姓の道具類までも盗んだという話を聞いた。
これらの話の事実がどうであれ、戦闘にともなう無残な人命の犠牲が、戦場が若松に近づくにつれてはげしさの度合いを
増していったことは疑いもない。
若松城の明け渡しののち、会津侯父子と家老たちが囚われの身として暮している寺は若松からちょっと離れた、住み心地のわるそうな
小さなあばら家であった。たまたま私がここを訪れた時、会津侯や息子や家老たちが、約三百名の備前藩士に守られて江戸に向かう
ところであった。あきらかに侯と息子は大きな駕籠を利用することが許されていた。しかし、一緒に行く家来たちは粗末きわまりない
駕籠があてがわれてはいたが、家老や従者らは徒歩であり、刀を奪われてまる腰のまま、まったくうらぶれて悄然たるありさまだった。
護衛隊の者をのぞけば、さきの領主である会津侯の出発を見送りに集った者は十数名もいなかった。
いたるところで、人々は冷淡な無関心さをよそおい、すぐそばの畠で働いている農夫たちでさえも、往年の誉れの高い会津侯が国を
出てゆくところを振り返って見ようともしないのである。武士階級の者のほかには、私は会津侯にたいしても行動を共にした家老たちに
対しても、憐憫の情をすこしも見出すことができなかった。一般的な世評としては、会津侯らが起こさずもがなの残忍な戦争を惹起した上、
敗北の際に切腹もしなかったために、尊敬を受けるべき資格はすべて喪失したというのである
un
ネットの普及で急速に会津の嘘がバレたよな
329 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/20(水) 07:06:09.23 ID:dM5EwwJ/0
当時の戦闘員に対する取り扱いの概念が欧米とは違っていたので英国人からしてみれば奇異に映ったのだろうな
戦国時代には徳川による落ち武者狩りやさらし首があり、戊辰戦争でも会津藩側による残虐行為が行われていたのならばそれからあまり進歩がなかったのでは
それに領民にとっては圧制を敷いた会津藩主は暴君でもあったのに観光史学で美化されすぎているきらいがある
大概の会津若松市民は、藩士の子孫よりその他の子孫の数のほうが多いはずだが
まぁ落ち武者狩りや敵の傷病兵を斬るのは少なくとも会津も薩摩もやってたし、
ぶっちゃけその辺は戦国時代から進歩する要因も無かったから
当時の常識だったんだろうな。
圧制については弁護の余地がないが。
アンチ薩長だった晩年の板垣は、会津藩に同情しつつもその圧制を非難してたね。
希代の暗君だよ
会津観光史学洗脳者ってだいぶ減ったよな。
ま、普通の頭なら解る事だからな。
昔の人は情報得る機会がないから簡単に騙されたんだね・・・・・
今もマスコミや会津観光史学に騙されてる奴はたくさんだ。
>>335 会津関連に限らず勘違いされてることはたくさんいるね
だいたい一方だけが「可哀相」という構図が出来上がっている話は胡散臭いんだよ
たくさんあるね
間違えた
日本人特有の偽善、歴史的無知が原因。
被害者の認識植え込めば、密航者でも被害者になるのが日本。
あと日本は、勝者や成功者に嫉妬し
負け組や未熟なものにシンパシーを感じる文化だからな。
会津観光史学が平気なツラして嘘つけるのも
こういった日本人の気質をついてるから。
339は会津観光史学洗脳者。こんな事を言うのは会津系作家しかいないからな。
バカを騙して金を儲ける会津観光史学。最低最悪。
>>12 33年ぶりに幕末会津に脚光が浴びるかとおもいきや山本八重子とか誰得だよな。
獅子の時代の平沼銑次といいなんでこう観光にならないマイナー路線になってしまうのかね?
松平容保がダメなら萱野権兵衛とか佐川官兵衛とか取り上げろよ
るせーよ、会津。盆地で黙ってろ。恥が。
343 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/06(土) 16:41:16.36 ID:ZYLQk0H+0
当時(大正末期〜大戦期)の日本軍は東北閥が牛耳っていた。
幕末の会津を見習った、現地調達に依存する作戦が賛美されていた。
昭和期に軍部で権力をもっていた連中はみなさん元賊軍藩の出身。
さらに東条はバーテンバーテン密約で薩長閥を駆逐した張本人。
いっぽう元官軍の薩長は見る影も無くなっていましたとさ。
陸の長州、海の薩摩 も昭和に入れば皆東北人に早変わり。
344 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/06(土) 16:41:56.33 ID:ZYLQk0H+0
戊辰戦争は、人材とか関ヶ原の恨みとかの話しになりがちで、
経済力のこと軽視しすぎ。
なんだかんだいって経済力だろ。
薩長もあの時期にしては異例に金があった。
どんなに兵が揃っていても動かす金が無きゃ意味がない。
逆に幕府側は貧すれば鈍するで、貧乏に負けた感すらある。
昭和陸軍に話しをもっていけば、
こいつらも経済力軽視しすぎだよな。
自分たちのルーツの薩長がなぜ幕府に勝てたのか?
なぜ西南戦争で政府軍が薩軍を壊滅させられたのか?
そういうこと考える奴いなかったのか・・・
345 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/06(土) 16:42:37.03 ID:ZYLQk0H+0
■陸軍
板垣征四郎(岩手・盛岡藩)陸軍大臣
東條英機(岩手・盛岡藩)総理大臣・陸軍大臣
畑 俊六(福島・会津藩)陸軍大臣
小磯國昭(山形・新庄藩)総理大臣
石原莞爾(山形・庄内藩)
■海軍
米内光政(岩手・盛岡藩)総理大臣・連合艦隊司令長官・海軍大臣
及川古志郎(岩手・盛岡藩)海軍大臣
山本五十六(新潟・長岡藩)連合艦隊司令長官
南雲忠一(山形・米沢藩)
嶋田繁太郎(東京・幕臣)海軍大臣
井上成美(東京・幕臣)
※児玉誉士夫(福島・二本松藩)
旧日本陸軍と似ているのは
戊辰戦争の賊軍の側。
正確には、賊軍の人材+薩摩の精神性=昭和初期の日本軍
会津精神の方が、玉砕特攻作戦を継承してると思うが?
民に見捨てられた会津
降伏直後になって会津藩の支配力が低下したとたんに一揆を起こす会津の民は最低だ。
溺れる犬は棒で叩けといわんばかりに藩の施設を襲撃している。
会津藩は贅沢をするために重税を課していたわけでもなく、国のための圧政だったのに
民は「借金を棒引きにしろ。金よこせ。年貢下げろ」など自分勝手な主張を藩に要求した。
まぁ当時は参政権もないし、日本と言ってピンと来るのは開明的な庄屋階級ぐらいまでで、
一般の農民や町人の意識っつったら、精々藩=国じゃないか?
建前では戦争が武士の存在意義だった時代だし、ある意味仕方ない。
何か愛されてた庄内藩や、農民町人にまで大義を公布して奮起を促した長州藩のが例外。
長州藩は寺小屋数が日本で二位?だったからこその芸当かもしれない。
教育は大事だね。
>>341 2回目だからいいじゃない。
土佐なんて2回とも坂本竜馬とかもうね……
せめて容堂公か中岡主人公にしろよと。
まぁ山本八重子な辺りには同情するけどw
幕末のジャンヌダルクって呼び方は会津観光史学だからな。
牝鶏司晨とはよくいったものだ
女がしゃしゃり出てくるようになると終わりだな
会津藩は大減封
同志社も薩摩系の教師・生徒が猛反発で大きく揺れた
大河ドラマもスイーツ路線でおかしくなった
>>12 1967年の三姉妹が抜けてる
詳しくは知らないが旗本の娘(オリジナルキャラ)が主人公らしい
復興を理由に福島出身、そしてスイーツ狙いで女性キャラに華々しい活躍させたいなら
捨松という格好の題材があるのになー
八重とか会津からも嫌われてるし、女性が一番嫌いなタイプじゃないか?
>>350 禁句かもしれないけど幕末の動乱は
孝明天皇が暗愚なくせに身の程をわきまえずにしゃしゃり出たのが原因だとおもう。
時勢を理解できずバカみたいな方針を打ちたてたり、三条実美らに宮中を壟断されたり
実力を伴わないのなら素直に幕府の傀儡になっているか
天皇の位を退位すればよかったものを。
日本は公家と女がでしゃばるとろくな事にならない。
会津は領民に棄てられた大名領
>>352 まぁ暗愚云々は置いとくとしても、孝明帝があっさり通商修好条約他を
追認してたらどうなったんだろうな。
紆余曲折はあるだろうが、諸侯会議あたりにでも落ち着いたんだろうか。
まぁ別に妄想についての持論を語りたかった訳ではないのだがw
>>352 日本は公家と女がでしゃばってなくても今日本はこんなだけどな
358 :
吉田松蔭とオーストラリア占領:2011/08/09(火) 23:36:23.97 ID:GUNZ1CpL0
吉田松蔭とオーストラリア占領
http://uro.sblog.jp/modules/tinyd4/content/index.php?id=18 吉田松陰は、昭和の日本軍でも、国力の限界として断念した、オーストラリア占領を
提案している。
吉田松陰は、戦前の日本軍よりも補給を軽視している。
P.180〜P.199『幽囚録』より
オーストラリアは、日本の南にあって、海を隔ててはいるが、それほど遠くはない。
その緯度はちょうど中ほどである。
だから、当然そこは草木が生い茂り、人民は富み栄え、諸外国が争っ円てこの地を得ようとするはずなのに、
イギリスがこの地で開墾しているところは、わずかにその十分の一にすぎないというのは、
僕のつねづね不思議に思っているところだ。
もしわが国がここを手に入れれば、きっと大きな利益があるだろう。
朝鮮と満洲とは相連なって日本の西北にあり、いずれも海を隔てているだけで近い。
そして、朝鮮のごときは古くはわが国に臣属していたが、いまはやや高ぶったところがある。
その現状を十分明らかにして、もとのようにもどす必要があろう。
松平容保だけは絶対に許せないな
>>359ナリスマシ乙。過去の人物を許さないなんて
会津観光史学洗脳者か反日コリアンくらいのもんだよ。ばーか。
会津と韓国は恨が文化だからな
362 :
265:2011/08/11(木) 18:03:03.10 ID:XvVSdrs70
>>267 >だいたい、王政復古及び朝廷の長州への赦免後も、小御所に置いて長州が姿を見せるのは後のことです。
>朝廷は天皇の親政として、尾張・越前・薩摩・宇和島・安芸の諸藩の兵によって遂行されました。
その薩摩らが、長州を京都に復帰させるつもりで行動してるんだから、いつか長州がこの諸藩を出し抜いて
再び京都で勢力を回復して、再び朝廷を操作し始める危険性は、ずっとあった。
実際、維新後、長州(と薩摩)が自分達以外の勢力を皆干して、明治政府の中枢を握ったんだからさ。
>長文をわざわざ書いたにしては、あなたは長州への個人的な憎悪が先走って、
>この時期の朝廷小御所に長州勢力がいない事をご存知ない。あなたの文章は反論になっていない。
>全く無意味なばかりか読者に誤解を与えようとする部分的な引用だけが見える。その本の著者もあなたを
>恥じるでしょう。
長文になりすぎたから、一部省略するしかなかっただけじゃん。
詳しい事は、この本を買うなり借りるなりして読めよ。
>>277 >会津って薩長が攻め込んで来たとか言ってるけど
>戦争やる気満々だったのは会津なんだよな。
元々は、長州の過激尊攘派の基地外どもが、下関で外国船を砲撃して日本の国際関係を悪化させたり、
朝廷を動かして小倉藩を討伐させようとした事が、原因じゃん。
自分達が元凶の癖に、会津が一方的に戦争したがってたみたいな風に、よく言えるな?
実際は加害者の癖に被害者ぶってるのは、長州の方だ。
363 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 20:26:35.13 ID:asidz2/h0
>>362 >元々は、長州の過激尊攘派の基地外どもが、下関で外国船を砲撃して日本の国際関係を悪化させたり、
朝廷を動かして小倉藩を討伐させようとした事が、原因じゃん。
それを言ったら、そもそも幕府が朝廷に十年以内に攘夷決行を行いますと約束し、
攘夷派が期限が来たといって攘夷決行した時に、小倉藩が協力してくれなかった訳でw。
しかも、幕府(正確には慶喜だけど)は「攘夷したい藩は勝手にどーぞ」と答えた為に、長州藩は勝手に攘夷決行しちゃった訳でw。
幕府が攘夷決行できません!。朝廷に嘘ついてました。メンゴと言えばこうならなかった訳で。
悪いの幕府じゃね?。
ちなみに会津藩は、公武合体の後に攘夷しましょうという方向なので、攘夷そのものは否定してないお。
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 21:13:04.68 ID:OmkvQobY0
>>362 全て説明が誤っている。
長州が悪事をやったと、あなたは先の書き込みで主張しているのに、反論されると「危険性があった」と言い換える。
これでは、あなたの説明の全体が虚偽だったと断定するしかない。
>長文になりすぎたから、一部省略するしかなかっただけじゃん。
>詳しい事は、この本を買うなり借りるなりして読めよ。
こう書いて、記述が嘘だったことを誤魔化している。
>>265は虚偽だらけなので、説明できないという意味しかあなたの抗弁には含まれていない。あなたは卑劣だ。
362は会津観光史学洗脳者。長州が被害者ぶってるとかイカれ過ぎだろ。
作家の本しか読んでないぞコイツwww
会津には御宸翰があるし
幕府・朝廷どちらの立場を考慮しても正当性があるのでは?
そもそも攘夷は公家、武士から民衆にまで浸透した思想だよ。
長州の攘夷は開国攘夷。負けたとはいえ、日本経済を混乱させた
外国に一太刀浴びせた長州には民衆の支持が集まったんだよ。
>>362のような会津観光史学洗脳者は会津贔屓な作家の本
つまりを会津賛美し薩長を悪とする内容しか読まないから
当時の時代背景を無視してる。だから攘夷を単なるキチガイ行為としか見れないんだよ。
文章見ても解るだろ。独善的な主観でしか発言してない。
この独善的な主観は会津贔屓な作家の影響によるもんだ。
>>366リアル売国会津に正当性はない。あるのは保身。
幕府を裏切り天領をドイツに売ろうとしたのが会津。
近代では会津名誉回復運動、現代では会津観光史学で
会津を正義の被害者として日本人を騙している。
ちょっとでも会津に都合が悪いと市長を先頭に猛抗議。
町全体が人権屋団体レベル。それが会津。
368 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 22:10:36.44 ID:OmkvQobY0
>>366 天皇の側から見ると、明治天皇に代わった時点で、明治天皇による松平容保への朝敵認定が優先します。
また、孝明天皇の御宸翰は薩摩も持っています。
旧幕府の側から見ると、江戸開城以降の新政府への武力抵抗は徳川への反逆行為です。
徳川慶喜から江戸開城以降の政務を委任された大久保一翁や勝海舟は、
新政府への恭順による、旧幕府の影響力温存を目標としましたが、
旧幕府歩兵及び会津藩兵の関東各地での戦闘によって、旧幕府の恭順が新政府に疑問視され、
旧幕府側権力の新政府への参入は、当初の旧幕府側の意図より不利且つ不十分なものとなりました。
会津の人は「武装恭順」なんて言いますが、関東各地で戦闘を起こし徳川慶喜の立場を窮地に追い込んでおり、
会津藩は恭順でもなんでもない、武装抵抗だったと思います。
会津藩は旧幕府から見ても謀反人でした。
朝敵の上に幕府の討伐を受けた長州と立場は同じ。
要は勝てば官軍負ければ賊軍。最終的に会津が賊軍になってしまっただけ。
370 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 22:41:15.04 ID:OmkvQobY0
>>369 「正当性がある」が「おまえもだろ」に後退ですか。
幕末の会津には正当性はないんですよ。小説家が各事物の時代をずらして継ぎ合わせて合成して、あたかもそれらしく見せるだけで。
岩手のバカどもが京都に迷惑をかけている。
東北のイメージダウンになるからやめてほしい。
伊達のバカ市長も余計なことに首を突っ込むな。
あと伊達は北海道と紛らわしいので名前変えろ。
市名が重複する場合「既存市から異議がなければ問題はない」ので北海道の伊達市に問い合わせた所、
鹿島市とか三好市のように泥沼化させないために北海道伊達市が配慮してくれただろうか?
伊達市が「異議を唱える立場ではない」と温情をみせてくれた。
しかし普通は完全重複名称は避けるだろ?まるっきり北海道と同じ
伊達郡の連中はどこまで厚かましいんだよ?
ちなみに公募の結果は
名称 件数
だて市 408
あぶくま市 208
阿武隈市 91
桃花市 42
北福島市 41
県北市 36
信達市 36
桃里市 34
新伊達市 32
>>369時代背景解ってないんだな。長州の汚名は薩長同盟以降
朝廷から許されてるぞ。朝敵のまま戊辰やってない。阿呆だなオマエw
そもそも長州の汚名は、自分達の正義を貫き着せられた汚名。
朝廷内にも長州の立場を理解する公家は蛤門の変前・当日にもいたんだぞ。
それに民衆は長州支持。一橋、会津、新撰組は京の嫌われ者だった。
それに対し会津は完全なる保身。保身の為に幕府を見放し
ドイツに新潟と北海道の天皇領を売ろうとした。
挙げ句、新政府との和平交渉を蹴り、白河と今市に進攻。
戊辰戦争勃発。
村興しで日本史をねじ曲げる会津観光史学に
洗脳されるオマエみたいな奴は阿呆なんだよ。
作家の本しか読んでないんだから時代背景なんか解るわけがない。
独善的な主観である作家の本を読んでる奴は
やっぱり独善的な主観を口にするんだよ。
そもそも容保のスレで長州の話題になる時点で会津観光史学だよな。
容保は息子を長州藩士の娘と結婚させたんでしょう?
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/16(火) 23:26:45.23 ID:L4qdmEAC0
やはりアッチの人間が会津やら新撰組を美化してんだな。
長州嫌いが多いはずだよ。オノレイトウヒロブミッだからなw
381 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/18(木) 08:40:07.66 ID:H/piIm+Q0
正確には権力者が嫌いなのさ。主義主張など関係無い。
権力を持たない庶民の僻み根性なだけ。
幕末時代庶民「お上(江戸幕府の事)のやるこたぁくだらねぇぜ!二本差しが怖くて商売ができっかよ」
明治時代庶民「政府の横暴な姿勢に対し、我々民権派は断固抗議するものである!」
現代「民主党も自民党もだめだぁ!」
382 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/18(木) 11:54:51.97 ID:KehwIQOk0
日米が今でも対等じゃない事を理解しろよ。
http://news.livedoor.com/article/detail/5771056/ msn産経ニュースは、日米首脳会談の日程調整を事実上拒否の理由について
「菅直人首相の退陣時期が不透明な上、仮にオバマ大統領が菅首相と会談しても議題や成果が乏しい」
と報じているが、確かに、これも大きな理由であろう。
しかし、本当の理由は、違う。「板垣英憲情報局」でも書いてきたように、菅直人首相が、「日本保有の米国債約100兆円(非公式保有の約1000兆円)分について債権放棄する文書にサインし、
全世界に記者発表してくれ」というオバマ大統領の強い要請に応じようとしないので、日米首脳会談の日程調整を拒否しているということである。
会津ってチョンと同じなんだな
うはwミスた
恨みを創作して商売
質問消して逃げてるね〜復興アドバイザーwww
391 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/23(火) 18:07:53.03 ID:ZZZpgldt0
【大長州】なぜ山口県人は優秀なのか【世界支配】
1 :大和魂:2011/02/28(月) 02:05:28.52
『日本の神 (人物神)』には多くの長州人が名を連ねる
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A5%9E_(%E4%BA%BA%E7%89%A9%E7%A5%9E)
804 :神に近い民族、長州人:2011/08/18(木) 23:22:42.98
長州人は近代日本の始祖でもあり、神の化身といわれる民族なので、他民族はそれを妬んでいる。
805 :日本@名無史さん:2011/08/18(木) 23:43:10.36
デザインパクるのに神の化身なのか
806 :日本@名無史さん:2011/08/19(金) 11:13:17.45
ぱくってるとは思わないが、
センスないし、作者のおっさんが他所出身なんじゃねえの。
宇部市なら、エヴァンゲリオンの庵野秀明にデザイン頼めばよかったのに。
それしか出来ないんだよ。会津観光史学洗脳者は。
もう会津発信が嘘だと解ってるんだが、未だ葛藤中なんだろうな。
俺も会津観光史学洗脳者だったから解るよ。冷静になれないんだよ。
引くに引けません
反日教育で反感の矛先を逸らし続けた中国政府が
バレバレでも「日本が悪い」といまだに嘘を貫き通すしかないみたいなもんです
つまりそれは
支那、朝鮮、会津という事ですね。
在、B、会という事ですね。
反日特亜、ネオナチ、会津観光史学という事ですね。
朴痢が国技になってる下朝鮮の連中は、盗むのに馴れて、出典を明示する
習慣や文化すらないらしいw
どこかの地域も出典を明示する習慣や文化がありませんね。
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 19:54:00.60 ID:CwWELXvT0
アンチ会津の人全員に告ぐ。
君らは学者や作家の書いた本を読んでいるだけであって、学者ではない。
会津がなぜ最後まで新政府軍に抗して戦ったのか、その真相は学者でも分らないだろう。
戦争に反対した重臣もいたにちがいないし、容保候の本当の心の内も分らない。
会津藩兵の残虐さとか農民の困窮は認めるとしても、そのすべてを容保候のせいにするのはいかがなものか。
名君ではなかったかもしれないが、君らが忌み嫌っているほどのひどい人物ではないだろう。
表面的な判断を下す前に、よく調べ、よく考えるべきである。
398 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 20:13:26.55 ID:BT/yVwvJ0
あなたの妄想は害悪です。
史料の提示があると、それは無視し、
「小説なんて読んだことはないが、史料より小説内の嘘を信じるべきである。」と主張してくる。
会津藩主松平容保は、表面的な名君譚とは裏腹に、行動の全てが悪徳卑劣の塊のような人間です。
それに対して反論を主張するのなら、
「一般社会は嘘を信じているのだから、君達も嘘を信じるべきである。」
といった陳腐な嘲りや、
「松平容保候は史料上は卑劣極まりない行動を重ね、これについては証拠もあるが、
している証拠は一つもない。しかしこの認定に証拠は提示できない。」
だなんて一つの文章の中で矛盾している文を撒くのは、見ていて腹が立ちます。
松平容保に対する表面的な愛護心は歴史をゆがめます。
399 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 21:01:31.85 ID:YBEsbGr40
>>397 >会津がなぜ最後まで新政府軍に抗して戦ったのか、その真相は学者でも分らないだろう。
真相を突き止める為に史学があり、専門家の学者がいる。
君のその意見は、史学という学問と専門家の学者の存在を否定しており、まったく馬鹿げた意見だ。
>戦争に反対した重臣もいたにちがいないし、容保候の本当の心の内も分らない。
戦争に反対した重臣がいたに違いない?。違いないって何だ?西ク頼母知らないのか。調べてから言え。
>表面的な判断を下す前に、よく調べ、よく考えるべきである。
貴方は馬鹿ですか。専門家の学者でも解らないと断言しておきながら調べて考えろってか?。
たった一つの書き込みにこれだけ矛盾した事を書く、あなたの思考回路の方がおかしいですよw。
西ク頼母は卑怯者呼ばわりされているからな。
どこかの地域では原発から疎開するだけで卑怯者として村八分にされるという。
そういった考え方が理解出来ない。
402 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 21:52:06.94 ID:B0ncss1C0
会津も好きで戦争したわけではない。新政府軍に恭順の意を伝えたが、新政府軍がどうしても認めなかった。
403 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 22:01:29.63 ID:YBEsbGr40
>>402 嘘つくなよ
『会津戊辰戦争』や『会津戊辰戦史』にも書いてある事だが、
奥羽鎮撫総督府が会津藩に寛大な処分もあるからと恭順を勧めた際、
会津藩主松平容保は「徳川家の処分を見届けるまでは、謝罪しない」と奥羽鎮撫総督府の薦めをキッパリ断ってるよ。
君の言っていることは逆だ。
世良修蔵は、「謝罪する気があるなら、なぜ鎮撫総督府に出向いてこない。仙台と影でこそこそと何を企んでいるんだ」と怒っているだけでしょ。
一人の使者も来ていないのに、恭順の意を伝えたなんて言うな。
仙台藩が恭順しろというから、形だけ仙台藩に恭順の意を伝えただけだ。
奥羽鎮撫総督府には逆に謝罪しないと松平容保の名で文書が届いてるんだから。
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 22:04:05.58 ID:B0ncss1C0
会津藩が戦争に踏み切り、それを続けた、あるいは続けざるを得なかった内情が完全に分っているならともかく、
完全には分かっていないのなら、会津派卑劣だとか容保候は卑劣だと断言すべきではない。
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 22:08:42.30 ID:B0ncss1C0
会津派卑劣→会津は卑劣、に訂正
長州は維新している。
しかしちょっと待って欲しい。維新するには早計に過ぎないか。
長州の真摯な姿勢が、今ひとつ伝わってこない。
例えば会津から売国するような声もある。
このような声に長州は謙虚に耳を傾けるべきではないか
思い出してほしい、過去に長州は会津に多大な犠牲を強いてきた。
確かに会津には自己保身という問題もある。だが、心配のしすぎではないか
長州の主張は一見一理あるように聞こえる。
しかし、だからといって本当に長州は維新できるのであろうか?
維新するのはいかがなものか。的はずれというほかない
事の本質はそうではではない。その前にすべきことがあるのではないか。
長州はアジアの一員として責任があることを忘れてはならない。
長州の主張には危険なにおいがする
長州はさまざまな声に耳を傾けてほしい。長州に疑問を抱くのは私達だけだろうか。
維新したことに対しては会津の反発が予想される。売国するような声も聞かれなくもない
長州もそれは望んでいないはず。しかも長州は自己犠牲である。
維新はあまりに乱暴だ。長州は維新を再考すべきだろう。
繰り返すが長州は自己犠牲である
長州の維新したことは波紋を広げそうだ。今こそ冷静な議論が求められる。
天声人語風メーカー・作
会津は売国している。
しかしちょっと待って欲しい。売国するには早計に過ぎないか。
会津の真摯な姿勢が、今ひとつ伝わってこない。
例えば長州から維新するような声もある。
このような声に会津は謙虚に耳を傾けるべきではないか
思い出してほしい、過去に会津は長州に多大な犠牲を強いてきた。
確かに長州には自己犠牲という問題もある。だが、心配のしすぎではないか
会津の主張は一見一理あるように聞こえる。
しかし、だからといって本当に会津は売国できるのであろうか?
売国するのはいかがなものか。的はずれというほかない
事の本質はそうではではない。その前にすべきことがあるのではないか。
会津はアジアの一員として責任があることを忘れてはならない。
会津の主張には危険なにおいがする
会津はさまざまな声に耳を傾けてほしい。会津に疑問を抱くのは私達だけだろうか。
売国したことに対しては長州の反発が予想される。維新するような声も聞かれなくもない
会津もそれは望んでいないはず。しかも会津は自己保身である。
売国はあまりに乱暴だ。会津は売国を再考すべきだろう。
繰り返すが会津は自己保身である
会津の売国したことは波紋を広げそうだ。今こそ冷静な議論が求められる。
天声人語風メーカー・作
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 22:36:50.50 ID:BT/yVwvJ0
無知に基づいた論証
・詭弁の一種
「ある事が今のところ説明されていないか、あるいは理解や説明が十分ではない。したがって、それは真ではない(に違いない)。」
松平容保の行動
>史料を読む限り、松平容保は大政奉還を心の底から憎み、
>大政を旧幕府の元に取り返すためなら、主君である徳川慶喜の命さえ違えることも厭いませんでした。
>これすら、会桑の場合、他の関係者達にあった幕府再興の意思というよりは、
>会桑から全国諸侯へ権力が移動することを憎んだだけと私は読んでいます。
>
>松平容保は孝明天皇に信頼された? しかし死の直後には孝明天皇の宿願であった鎖国攘夷を放棄し、
>幕府の従来からの主張で、孝明天皇及び一会桑が阻んでいた兵庫開港へ踏み出してしまいます。
>
>そして東北戦争でも、薩摩さえ持っている感謝状を盾に、会津は天皇の恩人なのだから我々を攻めるな、と主張しました。
>既に明治天皇に代は移っているのに、会津は明治天皇に戦いを挑み朝敵と宣告された事実があるのに、
>掲げた手紙の主である孝明天皇の目指した鎖国攘夷を捨てたのは、他ならぬ松平容保当人なのに。
>
>容保は国許の苦境と重税を省みることもなく、国家老の西郷頼母の帰還要請を全て跳ね除けて京都へ留まりました。
>孝明天皇が崩御した後、兄の尾張徳川慶勝が帰還引退勧告を行った時も居残って京都へ留まりました。
>諸侯の怒りが会津及び桑名へと収斂されている状況下で、もはや孝明天皇自身も居らぬのに孝明天皇の攘夷すら捨てて会津は居残りました。
>この時点で、松平容保は酷い権力欲に蝕まれていたと考えるしかありません。
>
>松平容保は天皇の遺志を踏みにじった。その上大政奉還では徳川慶喜の意思に猛然と逆らい、大政を徳川に返せと言い放ちました。
>松平容保は天皇も将軍も尊重しなかった。容保は諸侯の怨嗟を浴びながら京都での権力へしがみつきました。
>
>あなたの小説から拾ったような偏見偏愛とは裏腹に、史料上の松平容保は天皇へも将軍へも唾を吐いた人間です。
>その一例が、徳川慶喜の公儀政権樹立への夢を砕いた諸侯と会桑との対立先鋭化であり、坂本龍馬の暗殺事件もその一つなのでしょう。
>
>この世で、松平容保ほど卑劣な人間を私は歴史上知りません。どのような卑劣な虐殺者も権力者も、松平容保ほどは卑劣ではない。
つまり、松平容保の行動に、清い部分など一切ありませんでした。
409 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 23:08:20.30 ID:YBEsbGr40
容保は清いと思ってたんじゃないの?馬鹿だからw
410 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 23:17:25.55 ID:YBEsbGr40
>>404 >会津藩が戦争に踏み切り、それを続けた、あるいは続けざるを得なかった内情が完全に分っているならともかく、
史料を読んでいない貴方よりは解っているよ俺の方が。
>完全には分かっていないのなら、会津派卑劣だとか容保候は卑劣だと断言すべきではない。
基礎史料も読まず、何も調べていない癖に人に解っていないと言うな。
もう一度言う。
完全とな何をして完全というのか?
化学実験のように目で確認せねば完全とは言わないというのであれば、歴史そのものすべてが不完全という詭弁も言えよう。
そういう認識ならば、貴方はそもそも歴史に携わるべきではないし、史学とは何かすらも理解していない証拠だ。
史学とは史料を元に過去を調べる事であり、その結果一歩でも真実に近づくための努力である。
不完全だからこそ、完全なものに近づけようと史料を検証しているのだ。
そうした努力もせず、ただ「完全と言えないならば何も言うな」という論はもはや史学を馬鹿にした詭弁でしかない。
君に歴史を論ずる資格はない。容保や会津藩を論ずる資格もその知識もない。
411 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/10(月) 15:21:06.79 ID:i2oXhqQl0
一番の誤算は秋田藩と津軽藩の裏切りだろう。
確かに寝返りは大誤算だっただろうが、庄内があと一歩って所まで押し込んでたから
誤算を挽回できる見込みはあったと思われ。
ただ北越と白河の戦線があっという間に崩れたので、庄内軍が秋田を下してから取って返す暇もなかった。
特に会津の急所を扼する白河口があっさり落ちたのが痛かった。
あそこが落ちないか奪還できていれば、会津の東に広がる各峠に部隊を分散させて守る必要はなかったし、
冬前に会津が落ちて米沢・仙台まで抗戦を諦めることもなく、庄内の大返しは間に合っていたと思われる。
もちろん、精強な庄内の援軍が予定通りに参戦していればまた違った展開もあったと考えられるので、
秋田・津軽藩の寝返りに並ぶ誤算として、白河口の早期崩壊を挙げたい。
庄内や長岡は会津より強いしな
414 :
412:2011/10/10(月) 21:04:30.17 ID:BOGVnnxi0
そういえば思わず北越戦線もあっという間と書いてしまったが、長岡の戦いは頑張ってたね。
河井が生きてたらもう少し粘れただろう。
しかし河井が死んだ後の無為無策っぷりは凄い。
生きてようが死んでようが会津が足引っ張るから勝てません。
あと庄内は会津と組んで天皇領をドイツに売ろうとした売国だから。
会津落城から26年後に
会津観光史学で美化してるだけ
会津恨人が反日コリアンみたいなだけ
それが会津!
当時の会津の人々からは尊敬されてたのかな?
朱子学だからそれはない。
会津戦争で領民は新政府についてるし。
護送中も無視されてる。
新政府が城を残そうとしたら領民が壊せと嘆願。
そもそも会津人ではないからな。
ちなみに京でも嫌われてたから。
421 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/28(月) 23:16:51.52 ID:pAAW8iUa0
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 11:41:06.52 ID:DjVPk6Cf0
423 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/07(土) 11:27:10.63 ID:2tImwbBK0
他のスレッド(龍馬暗殺の黒幕6)に出ていたのだけど、龍馬暗殺の新資料が
出るらしい。
それを、転写する。
料類の再検これですね。アマゾンに仮だけど出ているよ。
真面目なノンフィクションみたいだから、新聞社も動くかも。
題名は、
「龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた」 出版:彩流社
内容紹介(「彩流社」HPに出ている。)
・闇に葬られていた日記が語る衝撃的新事実!!
・暴かれた黒幕と新撰組の近藤勇らが複雑に絡み合った背後関係。
・巧みに仕組まれた暗殺の実行過程が詳らかに…。
「本書は、龍馬らの暗殺事件関係の資証を行ったものである。
そして、特にその中の『寺村左膳道成日記』の読み直しを通して、
そこに眠っていた、これまで語られることのなかった新事実を見つけ出し、
近江屋事件の真実や真相、真の黒幕を解き明かし、
事件の歴史的な評価をしたものである。
寺村左膳とは土佐藩の山内容堂の側用人で
大政奉還の建白書の草稿を執筆した人物である。」(「まえがき」より)
424 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/07(土) 11:58:21.21 ID:OXtLBysD0
東北を戦地にした糞大名だよ。コイツは。
しかも天皇領をドイツに売ろうとした売国奴。
会津観光史学で美化されてるだけ。
会津と新撰組は輩だから。
425 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/07(土) 12:03:15.38 ID:2tImwbBK0
他のスレッド(龍馬暗殺の黒幕6)に出ている。
確かに、アマゾンに仮だけど出ているよ。他のネット販売にも。
題名は、
「龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた」 出版:彩流社
内容紹介(「彩流社」HPに出ている。)
・闇に葬られていた日記が語る衝撃的新事実!!
・暴かれた黒幕と新撰組の近藤勇らが複雑に絡み合った背後関係。
・巧みに仕組まれた暗殺の実行過程が詳らかに…。
龍馬暗殺の新資料らしいぞ。
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 00:36:34.29 ID:FTBTKWAD0
うは!嘘くさw
427 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 13:15:00.20 ID:3GYxuYva0
>>326 >会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか、彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。この話の確証として、
>四日間も雪のなかに倒れていて両足の機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。その人夫は
>もし会津兵につかまったならばむごい死に目にあわされていただろう、と私に語った。
この話、本当かなぁ〜・・・?
本当に両足の機能を失って四日間も雪の中にいたら、とっくに死んでるんじゃないのかなぁ〜・・・?
428 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 17:54:02.23 ID:DcFFh71t0
だがこの著者は生麦事件のイギリス側医師で、当時薩摩に雇われていながら、激しい怨恨があった。
その人間が記載していると言うことは、証言者はそう語ったということなのだろう。
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 20:39:08.81 ID:3GYxuYva0
>>428 イギリスという国自体が秘かに薩長を支援する方針で動いている以上、ウィリス個人が薩摩に対する怨恨感情を持っていたとしても、
薩長を支援する言動を取るよ。
薩長を支援するとして、想定する相手はどこだよ
もうフランスが支援した幕府はこの時すでに降伏してるわけだが?
そもそも一個人の日記にどれほどの影響力があるのか
431 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/19(日) 10:13:35.28 ID:u6iXDr/U0
>>430 >薩長を支援するとして、想定する相手はどこだよ
>もうフランスが支援した幕府はこの時すでに降伏してるわけだが?
幕府の権威が今後も絶対復活しないという確証は、どこにも無いじゃん。
だから、今の内に幕府サイドのネガキャンを徹底的にしておこうって事では?
>そもそも一個人の日記にどれほどの影響力があるのか
東禅寺のイギリス公使館に勤めていたり、大阪副領事代理を務めていた人間が一個人ですかい?
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/19(日) 10:31:45.77 ID:i5nNWnrw0
西郷隆盛が西郷頼母と同族だからそれを活かして、
そそのかして容保を暗殺させていたら、おもしろかったですね。
433 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/19(日) 12:41:48.63 ID:uFPkVyGC0
西郷頼母は非戦派だったが、彼を支持する神保や山本は松平容保に切腹をさせられたり、
薩摩藩に逃亡して既に会津にはおらず、彼は手代木など主戦派の中で孤立していた。
そして、西郷頼母の家系は折り目正しく筑後菊池氏の一党西郷家であったが、会津松平家との婚姻が多く
養子で入った松平容保よりは会津の伝統を背負っているという自負もあった。
一方、西郷隆盛の筑後菊池氏の一党西郷家という伝承は証拠はなく、江戸時代に入ってから肥後の方から薩摩に入国した
ということが事実として知られている、家伝としてはそのような伝承があるというだけであった。下級武士だったし。
西郷隆盛が維新の元勲に登りつめることがなければ、この両名には家系の点では正統と自称程度の開きがある。
但し維新以降は、西郷頼母が便宜を要求し親交を結ぶ際に、西郷隆盛の家系が筑後菊池氏の一党西郷家であると認めるに至っている。
つまり、
1.西郷隆盛の家系主張には疑念があり、戊辰戦争期に正統である頼母が隆盛の家系主張に耳を傾けたか疑問
2.西郷頼母は戊辰戦争期には会津藩内で孤立しており、彼が騒いでも松平容保らを捕らえることが出来たか疑問
というわけで、無理筋と思うのですよ。
ウイリスに関しては、生麦事件以来の薩摩への嫌悪表明が同じ日記にあったりすることを考えると、
この会津の蛮行記述に関しては、彼が実際に見聞きしたことを書いていると思われる。
434 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/19(日) 14:39:57.50 ID:+Wa4z+AaO
>>433 戦争は敗者も勝者も、多かれ少なかれ、残虐なことをしていますよ。
>>431 徳川家がすでに恭順してる以上、その意に背いて抗戦してる会津は「幕府サイド」とはいえない。
つまり会津がどんな悪逆非道の振る舞いをしてたとしても幕府の復権の障害にはなりえない。
幕府が「あれは会津が勝手にやったこと。ウチは無関係です^^」といえば終わってしまう話。
たとえウィリスさんにそういう意図があったとして、読ませたい相手は誰なのか?
フランス国民なのか、日本国民なのか知らないが、
日記を編集して翻訳して出版して、そういう世論が醸成されるまでの時間や手間を考えると、すごく遠大な計画ですね。
200年くらいかかりそう。
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/20(月) 03:57:42.46 ID:et5ZlyIE0
>>434 ウイリスの場合、官軍側へ捕虜を丁重に扱うよう要求した記述も日記中にあるんですよ。
つまりあなたの意見を採用するなら、会津の蛮行はウイリスの見聞きした事例に関しては存在していたということです。
星亮一の妄想・・信用できる
ウイリスの日記・・信用出来ない
438 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/20(月) 15:18:39.45 ID:smBlvxtN0
>>433 >西郷頼母の家系は折り目正しく筑後菊池氏の一党西郷家であったが、会津松平家との婚姻が多く
>養子で入った松平容保よりは会津の伝統を背負っているという自負もあった。
でも、会津藩士たちって、事ある毎に頼母の主張より容保の方を選ぶんだよね。
「京都守護職を引き受けるか引き受けないか」という問題の時も、会津戦争の時も、西郷頼母の
方が容保より血筋が会津松平家に近くて筆頭家老の地位にあるにも関わらず、会津藩士たちは
頼母よりも、婿養子の容保の方を取った。
これは、「容保の方が、西郷頼母よりも、遥かに圧倒的な人望を得ていた」という事を表しているのでは?
439 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/20(月) 22:32:24.91 ID:xjkG55kEO
私は広島がルーツですが、原爆は会津攻めの報いだといわれました
440 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/14(土) 16:14:50.69 ID:RgDKLcIp0
>>62 >一会桑が孝明天皇の攘夷意思の代弁者なの?
>詭弁というかなんか後付けした言い訳がましいものを感じるね。
>もし、そうであるならば攘夷を標榜していた尊王攘夷派である
>長州やその他の脱藩浪士と対立することはなかったはず。
>長州藩は幕府から攘夷の決行の許しを得て外国船を砲撃しており
>反対に壊滅的な打撃を受けている。 それゆえ禁門の変の際は、
>一会桑は、攘夷の意思はなくもちろん長州ももうなかった。
長州は、手当たり次第に外国勢に攻撃しかけるバカな過激攘夷主義。
慶喜や容保たちが推進していたのは、「攘夷の対象をイギリス一国に絞って、フランス・オランダとは
一時的に妥協する」という限定的・現実的な攘夷案。
慶喜・容保たちは、欧米列強のすべての国を一度に敵に回して撃破するなんて到底不可能である
事を認識した上で、まず攘夷の対象を、開国以来、横暴な商取引によって日本の経済に最も損害を
与えていたイギリスにした。
しかし、欧米列強随一の強国イギリスに日本単独で抵抗するのは危険以外の何物でもないと判断した
慶喜・容保たちは、イギリスに対抗するためにフランスおよびオランダと組むことを決意。
オランダは徳川幕府とずっと交易関係にあったからいいとして、フランスに対しては、慶喜・容保はフランスの
協力を取り付けるために様々な外交交渉を行っているが、これはみんなイギリスに抵抗する必要上、仕方が
ないものだった。
そして、兵庫開港時には、日本と欧米の交易活動の中心からイギリスを締め出すところまでいっていた。
要するに、慶喜・容保たちは、徐々に段階を踏んだ攘夷プランを計画・実行しようとしていただけ。
売国相手を英国からフランスに変えただけだろ。
生糸を欧米の価格の半分以下で叩き売った。
蝦夷も叩き売ろうとしてたし
443 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/26(木) 19:03:48.14 ID:uuhvMujX0
>>412 白河城に庄内が参加していたら守りきれたかな?
444 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/27(金) 20:13:23.12 ID:FP73kLLB0
>>442 >蝦夷も叩き売ろうとしてたし
明治時代前までは一般的には、蝦夷の地は大和人の土地だとは考えられていなかったはず。
孝明天皇も、幕府に対して横浜や兵庫の開港問題には口うるさかったけど、函館については
それほど何かを言っていた訳ではない。
容保も(あと小栗忠順とかも)、大和人の土地だと思われてない土地を、ドイツ(あるいは
フランス)に売却しても別に問題にならないと考えていたのでは?
445 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/28(土) 00:10:40.86 ID:HQ780JxC0
寛政から文化期に入ると幕府は南下政策を強力に推し進めるロシアを警戒し、
1799年(寛政11年)に東蝦夷地を、1807年(文化4年)に西蝦夷地を天領として、
1809年、カラフト島の呼称を北蝦夷と正式に定めた上で東北諸藩に警備を目的とした出兵を命じた。
緊張が緩和したと思われた1821年(文政4年)には蝦夷地の大半を松前藩へと返却したが、
諸外国との緊張が再び高まった1855年(安政2年)には渡島半島の一部を除いて再び天領とした。
幕府は財政負担軽減のために仙台、盛岡、弘前、久保田、松前の東北の大藩に対して沿岸の警備義務を割り当てて、
会津と庄内の2藩もそれに続いた。
明治時代以前から、蝦夷は大和人の土地であり、れっきとした天領。
警備を任されてた天領を勝手に売り飛ばそうとして問題にならないと考えてたとしたら容保は相当頭が弱い。
それから売国会津は蝦夷だけでなく、日本海側の土地も叩き売ろうとしてたな。
446 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/28(土) 02:20:51.72 ID:5BUCHkry0
他人の土地を勝手に、しかも外国に売ろうとする時点で道義的にどうなのか?
>>446 言葉尻だけ捉えての誤魔化し乙
「天領」という言葉を「幕府直轄領」という言葉に変えたところで
会津が他人の土地を勝手に売りさばこうとしてた事実は変わらない
警備員の皮をかぶった盗人それが会津
449 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/28(土) 04:08:21.20 ID:5BUCHkry0
>>447 容保は最終的には幕府を救う事を念頭に置いてるから、”幕府の土地を、
幕府を救う為に売る”という事なら、別にいいんじゃないの。
元々は幕府自身がフランスという外国に売却するつもりの土地だったんだし。
売国するかわりに、会津に加勢しろとプロイセンに持ちかけたんだから
幕府を救う為じゃなくて自分達の保身の為に売ろうとしたんだろ。
だいたい会津売国の時点で徳川は既に恭順してるのに
その意に逆らって勝手に無駄な戦いを仕掛けて幕府に迷惑かけてる会津が幕府を救うも糞もない。
451 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/28(土) 10:27:16.08 ID:Am9ijtnW0
会津藩が天皇を中心とした国づくりの邪魔をするわけがない(多分)
当然、旧幕府の首脳陣や朝廷の許しを得ている(事後承諾でおk)
尊王攘夷派も大人しくなって国内がまとまるだろう(妄想)
慶喜が大政奉還して、統治権が幕府から朝廷へと返上されたのにw
幕府が外国勢力から国土を守るために警備を任せていたのにw
現在の北海道や新潟にお住まいの皆様方もきっと会津士魂を理解してくれるはず♪
会津と松平容保だけは絶対に許せないわ
こいつを擁護してる会津厨はもっと許せない
>>449 アフォか。山田さんが過去に自分の物を売ろうとしていたからといって
佐藤さんが山田さんの物を勝手に売り飛ばしてもいいことになるかボケ
しかも全然違う相手に
454 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/28(土) 23:02:07.47 ID:TdDPbC7y0
Q. 会津戦争で薩長が蛮行の限りを尽くしたそうですが?
A. 会津を攻めたのは板垣隊と伊地知隊であり、少なくとも長州が蛮行を尽くせるわけはありません。
土佐・薩摩にしても、会津系作家の小説に出てくるだけで、客観的な史料は何もありません。
一方、会津藩が領民に畳を持たせて弾除けにしたり、
落城後の逃亡中に、郡山など東北各地で略奪・放火したことは史料に残っています。
(2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号・英国公使館員ウィリアム=ウィリスの記述)
Q. 幕府軍の遺体の埋葬を禁じたとか?
A. 「明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来」が根拠とされているようですが、
この中には「両陣営の」遺体の処置を禁じる、とあります。
また、2008年福島県で、会津藩士伴百悦の手記が出土し、手記には新政府より金銭を頂戴し、
死体を埋葬したと記されています。
Q. 幕府と朝廷の忠臣だっただけなのに…恭順しようとしてたのに攻めるなんてひどい!
A. その幕府あるいは朝廷から賜った領土(新潟・北海道)を勝手にプロイセンに割譲しようとしましたね。
交換条件は、戊辰戦争で会津側の加勢をすること。
忠臣?恭順?
Q. 戦後、会津藩を環境劣悪な斗南に追いやったのでは?
A. 移封先として猪苗代と斗南が提示され、会津藩自らが斗南を選びました。
旧領地であった猪苗代には圧政に不満を抱いていた農民が多く、拒絶されたとのことです。
Q. 白河以北一山百文とか言って馬鹿にしたんでしょ?
A. 原敬の扇動演説の中で創作されたという説もあるくらいで、
実際に薩長出身者がこの言葉を使い、誰かを嘲笑したというような史料はありません。
「白河以北一山三文」と東北を軽視する言葉自体、江戸時代からあったそうです。
Q. 司馬遼太郎とか早乙女貢とか星亮一の小説にはこう書いてあったんだけど…
A. 小説はフィクションです。
楽しむのは自由ですが、全てが史実だと思わないようにしましょう。
会津観光史学 と検索してみてもいいかもしれません。
後藤新平が鉄道の改軌を推進していたのに
原敬は地元の票欲しさに山田線などローカル線着工費用捻出のために標準軌改軌を見送ったという。
このちっぽけな利益誘導のために将来的な国益が大きく損なわれてしまった。
原敬は盛岡の恥。
456 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/02(水) 11:10:21.95 ID:GE845hCE0
東北の人間は全員クズ、クソ以下だ。
絶対に許せない。
極端な賛同意見を書いて、上の書き込みに根拠がないように見せ掛ける。
東北擁護は悪質だ。
東北の奴らの古い価値観、腐りきった人間性はこの国の恥部だ。
東北擁護は徹底的に叩く。
459 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/06(日) 15:55:59.42 ID:FpmSE1zR0
長州って、尼子家の山中鹿之助をぶっ殺しておきながら、
鹿之助の子孫が、江戸時代に大阪で鴻池と言う金持ちになると、
大金貸してくれといって、何度も恐喝した恥知らずだよね。
鴻池は、長州がにくかったので、新撰組のほうに、だいぶ援助をした。
460 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/06(日) 16:01:18.15 ID:FpmSE1zR0
毛利家は薄汚いので、江戸時代に町人からも馬鹿にされていました。
赤穂浪士に切腹の沙汰がくだる前の事ですが・・・・・
幕府は赤穂浪士を、細川綱利、松平定直、毛利綱元、水野忠之の4大名家に預けさせた。
浪士たちの待遇は各大名家で異なったらしく、大石らを預かった細川家や水野家は浪士たちを厚遇したが、
松平家と毛利家では冷遇したようである。
細川家などは江戸の庶民から称賛を受けたようで
「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」と
の狂歌が残っている。
これは浪士たちを厚遇した細川家と水野家を称賛し、冷遇した毛利家と松平家を批判したものである
。もっとも、江戸の庶民の批判に閉口したか、毛利家や松平家でも浪士たちの待遇を改めたようである。
461 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/07(月) 11:13:45.04 ID:F48qmXeU0
京都で「この前の戦争」といえば、
「応仁の乱」(8男が左側の女のニュアンスをまとって’15男さ〜ん’と声をかけた、
由縁壊し・金盗みのタイトルの犯罪で、この戦争が始まった原因である)
会津若松で「この前の戦争」といえば、
「戌辰戦争」(大隈房吉の寝所において、士農工商の手習いに入っていた長男が、
背任罪に当たる行為を犯したことが原因で始まった戦争)
462 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/07(月) 19:57:13.74 ID:ERb4sPK/0
会津の悲劇は、ルーピーの悲劇だ。
会津は日本のチベットだ、南京だ、ウイグルだ、容保だ。
語り継ごう、会津大虐殺、会津ソースカツ丼。
463 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/11(金) 19:49:41.97 ID:hgsj9a+00
>>441 >生糸を欧米の価格の半分以下で叩き売った。
これはどこに書いてあるのさ。
参考として、書籍なりHPなり、ソースを挙げてよ。
>>463 ガタガタうるさいんだよ会津厨
潔く負けを認めろ
465 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/13(日) 20:11:46.82 ID:/3Ujt9g40
坂本龍馬薩長から入って
幕末明治維新にハマって龍馬薩長関係を一通り読んだら
やがて興味は幕府側に行くんだけど(今の自分がそう)
その時に邪魔をするのが、強烈な一部の人達の薩長叩き・・・
なんか少し異常な感じすら受けるし
結構(旧幕府側に)マイナスに働く気がします
今、星亮一って人の本を読んでるんだけど
行間から凄い伝わってくるw
467 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/16(水) 19:45:51.02 ID:2ghJynQj0
アンチって馬鹿しかいないよね。
馬鹿というか、嫌いなものを叩いてスッキリするよりも
好きなものを褒めてスッキリした方がいいと思います
こういう先見の明があったんだ
こんなに素晴らしい人物だったんだと
いつしか、叩く事、蔑む事が目的になってる人が多すぎる・・・
今だに薩長に恨み事言ってる福島県はキモすぎだろ?
地震と原発はまさに天罰だな
ザマアミロフグスマwwww
>>463 なんかの新書でみたな。題名までは覚えてないが、
欧米の相場の半分以下で間違いない。
471 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/24(木) 14:58:59.83 ID:w0Om3ytE0
>>470 >なんかの新書でみたな。題名までは覚えてないが、
>欧米の相場の半分以下で間違いない。
幕末当時の日本の物価全体が欧米に比べて格段に安かったんだから、慶喜・容保が
フランスに生糸だけを安く売りつけたみたいに主張するのは、会津アンチによるただの
叩き。
472 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/24(木) 15:10:08.65 ID:7h9rxkxE0
相場で売ればいいのに。
473 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/24(木) 15:23:55.98 ID:w0Om3ytE0
>>472 >相場で売ればいいのに。
そのためには、まず日本の交換レートの問題を正式に解決しておく必要が
あるけど、そんな大問題を慶喜・容保だけで勝手に出来るわけないじゃん。
474 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/24(木) 15:48:14.27 ID:7h9rxkxE0
>>473 それ大間違い。
単に向こうの相場で売ればよかった。
475 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/24(木) 18:53:32.47 ID:SNYXPDjB0
476 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/24(木) 19:42:17.47 ID:7h9rxkxE0
>>475 言い返せなくて他人の個人攻撃とは、「松平容保を擁護したいだけで嘘をついていました」と認めたと同じ。
477 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/24(木) 19:59:43.19 ID:SNYXPDjB0
>>476 別に擁護するつもりはないが、交換レートの違いとかある中で向こうの相場で物が売れたら何を売っても日本中大儲けじゃないか?
478 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/25(金) 15:37:22.57 ID:Meals6CwO
保容が足引っ張ってたようにしか思えない。
なんで切腹しなかったの?恥ずかしくなかったの?
479 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/25(金) 15:50:36.51 ID:HEWOgumU0
480 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/25(金) 19:18:54.52 ID:y4M7gs2M0
>>474 >単に向こうの相場で売ればよかった。
そんな事を欧米人たちがすんなり受け入れるようなら、幕末の開国にまつわる問題なんか
何もねーよ
481 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/25(金) 19:37:43.60 ID:k+XCSJcV0
>>480 病害虫が発生して日本以外に供給源も無い時期に、
向こうの言い値で売るとはなんて馬鹿な人
482 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/25(金) 20:05:41.78 ID:HEWOgumU0
>>481 誰も言い値で貿易してる事実はないが(^_^;)
483 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/25(金) 21:01:06.45 ID:k+XCSJcV0
>>482 ほら、言い換えて松平容保が半値以下で販売したという暴挙を誤魔化す。
484 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/25(金) 21:22:29.98 ID:HEWOgumU0
>>483 だから、物価の違いとか無視して単純に相場の半値って批判しても意味無いって。
485 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/25(金) 21:48:36.05 ID:k+XCSJcV0
>>484 更に言を曲げるとは、よほどスネル兄弟との癒着が後ろ暗いものであったかに見える。
相場の半額、つまり元々新潟での小銃販売価格は暴利であったのに、更にスネルに恩を売ったということになる。
486 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/25(金) 22:13:40.36 ID:HEWOgumU0
>>485 生糸の話は終わり?
相場の半値は分かったけど、物価の違いは考えないとダメでしょ。
あえて言ってるのか、知らないで言ってるのか知らないが周り見な。
487 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/26(土) 00:29:00.61 ID:bRwInT9i0
>>486 そう言ってまた誤魔化す。
周りを見ても、あなたの同類がそうだそうだといっているのは陳腐だし、
まして相場の半値で売って何かを期待していた、ということは言い繕う。
488 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/27(日) 11:07:29.01 ID:UQvH/aoW0
>>487 誤魔化してるのはどっちだろう?
生糸を相手の相場の半値で売ったことが問題だって言うから、物価の違い等ある中半値でも問題ないんじゃないのかって言ってるだけでしょ。
小銃の話にすり替えたり、何かに期待したとか話変えないで。
半値の取引というのに反応して、物価等は考えてなかったっていうならそれでもいいけど、誤魔化さずにそこは認めて次の話題に行こうな。
489 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/27(日) 13:59:33.05 ID:7nLQon6j0
松平容保を擁護するにしては、言うこと成すこと稚拙だね。
490 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/27(日) 14:34:19.74 ID:UQvH/aoW0
>>489 罵って話を反らすのではなく、論理的に説明して欲しいのだが。
491 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/27(日) 15:52:34.18 ID:7nLQon6j0
>>490 こう言って更に誤魔化す。
松平容保がスネル等の商人に相場の半額以下で生糸などを販売していたことは事実だ。
それに対し、いやわからない、それがどうしたなどと言い返しているが、事実が変わるわけではない。
松平容保を擁護したいだけで中身がない。
492 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/28(月) 07:34:42.26 ID:LHRSkT+Q0
>>491 だから、半値以下とかっていうソースが示されてないから事実かどうか知らないが、物価の違いがあるし、半値で売ってたとしても暴挙とまでは言えないんじゃないかっことをずっと聞いてるんだが。
半値売ってたって言葉のみに反応して批判したいみたいだか中身がない。
493 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/01(金) 20:34:33.73 ID:wJXHEFAK0
反対に反対を重ねるだけで、松平容保の罪を隠したつもりとは、やる内容が汚い。
会津と松平容保は俺が生きてる間は2chで叩き続けるから覚悟しとけよ
福島県は双葉町とか知事のせいでイメージが低下して気の毒だなあ
496 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/02(土) 19:51:49.61 ID:2LeWbVWD0
>>493 論理的な反論が出来ないなら494のようにアンチに徹する方が潔い。
497 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/02(土) 21:36:55.17 ID:0ZQW0RMz0
>>496 結局、松平容保の応援者は論理も出さず中傷に走るだけ?
498 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 21:13:13.33 ID:YHYNGRdC0
>>497 名君でも暴君でもなかったと思っているから無条件に応援するつもりはない。
[生糸を相場の半値で売ったのは暴挙]という点に対して、[貨幣価値や相場が違うなか暴挙というべきものではない]というのが自分の考え。
暴挙と言い切るのはどんな根拠があるの?
生糸の件にこだわって申し訳ないが、何らかの根拠、論理があって暴挙であると批判するなら教えて下さい。
499 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 22:39:22.46 ID:w1c2a0Iv0
名君でなかったなら、女子供まであんなにストイック戦わなかったのでは?
君主も家臣も国難に際し、懸命に闘ったのです。
ノーサイドで良いではないですか
悪く言えば洗脳が効いてた
教育って怖いなって思う
明治維新で活躍した人はいい教育者にめぐり合えてる
或いはいい教育を受けた素晴らしい人と出会ってる
よそ者が自己満足のために会津の民から絞りとって京都の活動に散財しただけ
そればかりか会津領民にはボロボロになるまで戦いを強いて
自分だけ命乞いして逃走した
会津領民は暴君の被害者
会津藩に討幕勢力が生まれてたら
江戸に近いだけにどうなったかな
503 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/04(月) 22:05:35.15 ID:Al/8MbJN0
>>500 教育が怖いのには同意。
戦後数十年で、故郷を守る為に戦った人を洗脳されてたって言い切るサヨク脳が出てくるなんて教育の怖さだと思う。
松平容保が批判されるべきなのは戦争に勝てなかったことのみ。
504 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/04(月) 22:09:53.88 ID:cHXbx5bP0
>>503 松平容保は、行ったことも無い名義上の領国に入っただけ。
>故郷を守る為に戦った人
大嘘。理由は上記
>松平容保が批判されるべきなのは戦争に勝てなかったことのみ。
大嘘。
松平容保は徳川慶喜が主君だったのに、命令に逆らい続けて味方を失い
東北に戦乱を持ち込んで犠牲だけを増大させた、史上稀に見る暗君。
505 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/04(月) 22:47:40.66 ID:Al/8MbJN0
>>504 何か突っ込むとこが多過ぎ。
とりあえず松平容保を批判したいのは伝わったが文章よく読んでくれ。
506 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/04(月) 22:59:05.08 ID:cHXbx5bP0
>>505 どこが悪いのか指摘してご覧なさい。
松平容保は、会津若松が故郷なんかではありませんよ。
そして、戦いの前に徳川慶喜らが降伏しているのも知りつつ、
逆に東北を巻き込んで戦乱を広げました。
松平容保は悪の限りを尽くした人間です。
507 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/04(月) 23:04:35.38 ID:cHXbx5bP0
忠君愛国なんて言いながら、松平容保は主君への裏切り行為が多すぎました。
そしてむやみに戦乱を広げ、自らの領地も多大な犠牲者を出した挙句灰燼に帰す羽目になりました。
松平容保は非難されるべき部分は数知れずありますが、逆に評価すべき部分などはほとんどありません。
508 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/04(月) 23:11:11.35 ID:cHXbx5bP0
なお、
>>500に対する返答の場合、
>>503の示す
洗脳=会津藩の教育
故郷=会津藩
となります。別の事物だと主張することは、返答では意図的に話題をずらした、ということです。
509 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/04(月) 23:17:25.69 ID:Al/8MbJN0
>>506 故郷を守る為に戦ったと言ったのは松平容保を指してのことではない。
目を真っ赤にして批判する前に落ち着きな。
そして、幕府とともに会津、桑名が朝敵とされてるなか鳥羽伏見以降の戦いは防衛戦でしょ?戦乱を広げた責任は一方のみにあるものではない。
松平容保は悪の限りとは具体的に何のことなんだ?
510 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/04(月) 23:29:08.06 ID:cHXbx5bP0
>>509 >目を真っ赤にして批判する前に落ち着きな。
今更あなたの個人的な惨状を吐露されても、私は自業自得だと言うだけです。
>戦乱を広げた責任は一方のみにあるものではない。
総大将の徳川慶喜が降伏しているのに、継戦を主張したなら責任は全て松平容保にあるわけです。
そして、意味のない戦闘に東北全体を巻き込んだ罪は松平容保のものです。
松平容保は史上稀に見る暗君、日本史上特筆すべき邪悪な人間未満と呼ぶしかありません。
511 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/04(月) 23:32:43.66 ID:cHXbx5bP0
それと、
>>508に対する回答はどうなのでしょう。
あなたは意図的に回答をずらした不公正な人間だったのか、
それとも配慮が足りませんでしたごめんなさいとこの場できちんと謝罪するのか、
そのあたりについても問い質したいと思います。
洗脳って悪い捕らえ方もされるけど
どんな教育にもその要素はあるからね
ただ、会津藩って良くも悪くも一つにまとまっている印象
それをまとめたのが会津武士道
いい面もあるけど、悪い面もあると思うよ
沖縄ひめゆり部隊で崖から飛び降りて自決する少女の映像を見て
もう少し別の価値観があれば飛び込まないのに・・・
って思ってしまった
西南戦争後に武士道を軍に持ち込んだのは失敗だった
会津松平の場合、初代の保科正之が朱子学と日本神道の大家と呼べる人だったものだから、
その影響が大きかったと思います。
(中村彰彦は、保科正之が神道の大家だったとは言うけれど、
むしろ朱子学で名を知られた硬直的な思想家であった点は一言も言いません。あの人は不公正です。)
会津藩における身分制度の固定化は保科正之の時代に確立します。
この教育が、悪い方向へ洗脳として発露してしまったように感じます。
514 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/05(火) 00:33:46.57 ID:l1pU9bmc0
>>511 あなたが何の回答を求めてるのか自分には理解出来ないし、あなたも私の文を理解出来ていない。
あなたの特徴的な物言いは生糸の件で一方的に消え去った人と同じようだが?
否定されればそれまでだが...
戊辰戦争については新政府軍は幕府とともに会津、桑名も朝敵としているから幕府が降伏しても戦争は終わらなかったんでしょ。
東北まで戦争が拡大したのが松平容保の責任というなら、北海道まで戦争を拡大させた榎本武揚は更に極悪人となるな。
戦争の責任を一方に押し付けるのはエゴでしかない。
本当に故郷のために尽力したのは京都から帰国を説いたり
郷土に戦火を及ぶのを回避しようとした西郷頼母だ
516 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/05(火) 00:55:56.39 ID:9tOBzdi40
>>514 あなたは逃げるだけ。
あなたは虚偽に走るだけ。
あなたは相手を意味もなく罵倒し、その罪すらも相手に着せようと試みるだけ。
>東北まで戦争が拡大したのが松平容保の責任というなら、北海道まで戦争を拡大させた榎本武揚は更に極悪人となるな。
なりません。
味方がいなければ蜂起などは普通の人間は考えませんから。
主君の求めすら裏切り、戦争を拡大し、罪を他人に着せようと試みる。
あなたの主張はエゴの塊ですね。
517 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/05(火) 00:58:13.78 ID:9tOBzdi40
>>514 人を裏切り人を殺し人に罪を着せる。
松平容保のこの言動と、あなたの行動はとてもよく似ております。
そして、生糸の件は松平容保が間違っていたとあなたは認めて決着しております。
518 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/05(火) 01:16:23.80 ID:9tOBzdi40
松平容保を支持する人の不正は、江戸開城以降の会津藩の行動を隠蔽して語る部分にも現れています。
会津びいきの人は、「会津は恭順していたのに一方的に攻められたのだ、薩長許すまじ」などと主張しますが、
実際は会津への新政府の軍事行動の前から、会津軍は旧幕府歩兵と共に関東各地を転戦し、
宇都宮の戦いなどでは砲兵が会津軍として参加しています。
会津藩は徳川慶喜の定めた江戸無血開城など、守る気がなかったわけです。
それでいて、恭順していたのに攻められた、何たる卑怯などと郷土史や小説で書き連ねます。
会津藩の方が数段卑怯なのですが、それについて自覚はあるのでしょうか。
519 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/05(火) 01:24:46.86 ID:9tOBzdi40
この件に関しては、会津びいきの方の罪は疑いようも無いので、
誤魔化したことを謝罪するか、意図的ではなかったが明らかに間違いだったと認めるかしか、
この人に道は残っておりません。
それをどちらとも認めず誤魔化したいから、
>あなたの特徴的な物言いは生糸の件で一方的に消え去った人と同じようだが?
>否定されればそれまでだが...
と関係の無い話を始めたのでしょう、哀れむべき人です。
520 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/05(火) 09:33:27.39 ID:l1pU9bmc0
>>517 あなたは多弁なだけで抽象的な罵倒と思い込みの羅列ばかりでなにも中身がない。
あなたは哀れな人です。
生糸の件は決着がついているというが、暴挙と言い張る側はこちらの質問に答えることなくフェードアウトしたのが現実でしよ。
まだ暴挙だと言うのであれば、質問の回答をお願いします。
暴挙と言わないのであれば放置でも構わないが・・・
521 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/05(火) 10:22:20.79 ID:l1pU9bmc0
>>518 >会津藩は徳川慶喜の定めた江戸無血開城など、守る気がなかったわけです。
江戸無血開城を守るのと、会津の防衛戦は違うでしょ。
意図したのが知らないがあなたも卑怯だと思うぞ。
522 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/06(水) 05:41:15.80 ID:Utnj2gbH0
蝦夷と日本海側の土地をプロイセンに売ろうとした売国奴会津の糞藩主か
523 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/06(水) 05:57:14.80 ID:YTs2f2FT0
>>520,521
あなたの書く文章に嘘しか書かれていないことに、本当に嘘つき以上の卑劣さを感じます。
生糸の件は松平容保の暴挙として認定され、
あなたは、それを事実と認めた上で、実は暴挙じゃなかったかもしれないと無限の可能性を小説として書き連ねるだけ。
全く論理がないので他の人は去ったわけです。つまりあなたは嘘つきと認定されただけのこと。
また、江戸無血開城後の北関東での会津藩の出兵と、それに伴う新政府軍との戦闘を
会津の防衛と主張するのには無理があります。
会津藩及び松平容保は、徳川慶喜による謹慎命令と新政府との停戦受諾を全く認めなかったわけです。
524 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/06(水) 05:59:22.16 ID:YTs2f2FT0
>>521 >意図したのが知らないがあなたも卑怯だと思うぞ。
あなたが一方的に卑劣なだけです。私は事実を書いているだけです。
あなたのような卑劣漢の位置に、他人を引きずり込もうと狙わないことです、この卑劣の塊さん。
525 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/06(水) 06:10:15.94 ID:YTs2f2FT0
会津藩初代保科正之を、嘘つき小説家の中村彰彦は日本神道の父・正義の象徴と褒め称えますが、
彼の会津に残した事績は、幕末の悲劇の原因となっています。
嘘を恥じず他人に罪を擦り付けようとする、朱子学的倫理観の浸透。
これは「ならぬものはならぬものです」という言葉にも表れておりまして、
罪を犯しても罪と認めない、罪を犯したものは人間ではないのだから自分の侵した罪は罪ではないという、
欺瞞と自己正当化が地域に浸透することになります。
また、自らの行ったことは全て善と規定しますので、藩内に物事を変革する空気が生まれない。
おかげで幕閣中枢にいた保科正之自身は新産業を誘致したものの、それ以降全く振るわず
会津は江戸初期以降、米のみに頼った飢餓常襲地帯に姿を変えてゆきます。
526 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/06(水) 13:52:30.64 ID:YQLELpP/0
>>523 自分の文章の嘘というのは具体的にどの部分を指すのだろう。
抽象的な罵倒でなく指摘して頂ければ是正もできるのですが。
生糸の件については、[ソースが示されてないから相場の半値での取引が事実かどうか知らないが、外国と物価価値が違うなかそれは暴挙といえるのだろうか]という疑問があり、暴挙と言い切るのであればその根拠を教えて下さいと質問しただけなのだが。
生糸の件は松平容保の暴挙として認定された記述も、それを事実と認めた記述もないと思うが。
あなたが暴挙と認定するのであれば、改めてその根拠を教えて下さい。
また、あなたの言う江戸無血開城に従わなかったというのはあなたの文章から幕府の降伏に従わなかったという意味なのだろうが、
新政府軍が会津討伐令を出し、周囲の藩にも会津を攻めなければ敵であり、中立も許さないというスタンスで、東征軍も編成されてる以上新政府と会津藩との停戦はされていません。
幕府軍対新政府軍との戦争から新政府軍による会津討伐に変遷されたのです。
527 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/06(水) 17:51:19.50 ID:Wu5EzDRdO
>>526 徳川慶喜の降伏に従うのが家臣の義務なのですが
528 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/06(水) 18:00:59.00 ID:Wu5EzDRdO
何だか、松平容保を良いとする意見以外の全てを脳内から抹殺しています
これでは会津でも変な人扱いされます
529 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/06(水) 18:29:19.31 ID:YTs2f2FT0
結局、
>>503で嘘を唱え、人に迷惑を掛け、それでいて自己正当化し謝罪の一言もない性分には全く変化なし。
会津の嘘つき癖がまた出たということですね。
嘘がばれると話を逸らして済ましたつもり、というのも会津精神。
530 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/06(水) 18:36:36.12 ID:YTs2f2FT0
生糸については、スネルに相場の半額で譲渡し何かしらの情実を期待したということには異議がなかったわけで、
これを実は正しいと主張するあなたの捻じ曲がった小説に、誰もが嘆息して席を立ってしまいました。
>また、あなたの言う江戸無血開城に従わなかったというのはあなたの文章から幕府の降伏に従わなかったという意味なのだろうが、
>新政府軍が会津討伐令を出し、周囲の藩にも会津を攻めなければ敵であり、中立も許さないというスタンスで、東征軍も編成されてる以上新政府と会津藩との停戦はされていません。
>幕府軍対新政府軍との戦争から新政府軍による会津討伐に変遷されたのです。
広義の陵辱?
徳川慶喜は降伏しており、臣下たる松平容保はこれに従う義務があった。
なのに松平容保及び会津藩は却って関東へ出兵し、新政府軍と戦闘を繰り広げた。
徳川慶喜の意思に反して松平容保は行動したわけです。
会津人の叫ぶ広義の討伐とは、事実がないのででっち上げる際によく使われる手法です。降伏すれば済んだ話。
531 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/06(水) 20:00:33.39 ID:YQLELpP/0
>>529 503にあるのは主観的な意見であり、事実関係が争われるような客観的な文言は何ひとつないと思うが。
あなたは自分に都合の悪い意見は嘘と決め付け、卑怯者と罵り、謝罪しろという。
それこそ自己正当化であり、独善的で偏狭的である。
532 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/06(水) 20:41:12.00 ID:YQLELpP/0
>>530 生糸についてだが、相場の半値での取引について暴挙といえる根拠が何ひとつ示さないまま[あなたの主張はねじ曲がった小説だから席を立った]ってチンピラの捨て台詞じゃないんだから。
あなたの主張の根拠を教えて下さいと言ってるだけなんだが。
会津討伐はでっち上げというのは意味が分からない。
周辺の藩に出された討伐令は何だったのか?
新政府軍は何のために軍を編成して東北まで来たのか?
無条件で降伏しないことに理があったから会津が孤立しなかったのではないか?
歴史を語る上で時代背景を一切考えず[降伏すれば良かった]と言い捨てるのは結果を知った上で当事者の判断を否定する卑怯なことであると思う。
533 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/07(木) 00:02:11.40 ID:Jv0mwRAE0
自らの過ちは口を噤み、相手に話を向けようと話を逸らし自己正当化。
松平容保を支持する人の精神とは、そういうものなのですか。
>あなたは自分に都合の悪い意見は嘘と決め付け、卑怯者と罵り、謝罪しろという。
>それこそ自己正当化であり、独善的で偏狭的である。
こういって嘘を正当化しようと画策しても、あなたは事実関係については既に松平容保の不正行為を認めており、
その上で不正は不正ではないに違いないと独自の妄想を書き散らすのみ。
あなたのこれまでの行動に、何一つ正しい記述がない。それすらすべて正義と唱える。
まるであなたの精神は「チンピラの捨て台詞」のように軽い。
そして、討伐令に反応しただけ?
全く意味がありません。会津藩は関東各地で新政府軍と戦闘を重ねています。
このような集団に討伐令が出ないと考えるほうがおかしい。
会津は防衛などではなく、単なる侵略者でしたよ。
534 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/07(木) 00:17:10.85 ID:Jv0mwRAE0
保科正之の朱子学傾倒が、会津藩の停滞及び独善化という
よくない結果を残したという点については以前触れましたが、
幕閣時代にも、彼は他藩へ干渉し陽明学抑圧などを実行しています。
徳川家光のあまりよくない評価、周辺各国との貿易縮小・
五街道整備費用の節約に名を借りた車両規制・船舶大型化禁止などの各種技術革新禁止も、
実は保科の意思も介在しているのかもしれません。
その意味で、幕府の寿命を縮めた人間ということになります。
535 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/07(木) 01:01:27.03 ID:fswr2lTJ0
>>533 生糸の取引については、何度も言うように、ソースが示されてないから半値での取引が事実かどうか知らないが、それが暴挙というのなら、物価価値が違うなかなぜ暴挙といえるのか教えて下さい。
わたしの記述に嘘があったのなら引用付で指摘してもらえないだろうか。
弁明なり、訂正なり、場合によっては謝罪なりさせて頂く。
関東各地の戦闘については、旧幕府軍が主体であり、会津軍が偶発的でない戦闘行動をしたのは今市の戦いからではないか?
あなたが侵略というのなら、根拠となるものを教えて下さい。
536 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/07(木) 01:12:51.85 ID:fswr2lTJ0
>>534 >会津藩の停滞及び独善化
保守的体質であるが殖産工業、地場産業等発展されており、停滞の事実はない。
独善化についてはあなたの主観
>実は保科の意思も介在しているのかもしれません。
あなたの主観
>その意味で、幕府の寿命を縮めた人間ということになります。
単なるあなたの主観に基づく個人の見解
松平容保だけは絶対に許す事はできない。
こいつの子孫はでてきて謝罪しろや。
会津嘘吐き道か
539 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/09(土) 23:37:59.41 ID:mkajj7PG0
>>535 宇都宮の戦いで会津藩は砲兵部隊を派遣してますよ。
540 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/09(土) 23:39:41.55 ID:mkajj7PG0
>>536 >保守的体質であるが殖産工業、地場産業等発展されており、停滞の事実はない。
ないない。餓死逃亡による人口減少と産業崩壊が、江戸時代初期を除く会津ですよ。
541 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/09(土) 23:43:07.36 ID:mkajj7PG0
どうして、会津を愛する人がこのように、全ての書き込みで明らかな嘘を毎回主張するのか全く分かりません。
そのように教育されているのなら、会津若松の人は全て嘘吐きということになります。
542 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/09(土) 23:46:11.97 ID:mkajj7PG0
>>535 >わたしの記述に嘘があったのなら引用付で指摘してもらえないだろうか。
>弁明なり、訂正なり、場合によっては謝罪なりさせて頂く。
あなたは、私に全面的な謝罪の必要があるようです。
あなたは毎回嘘をつき、他人に嘘吐きと罵っている。しかもその論拠も嘘ばかり。
このままでは、会津を愛する人は全員あなたのような嘘吐きということなのですけど。
旧幕府歩兵への軍事顧問として会津藩士が多数参加し会津藩と連絡を取っていたことや、
宇都宮城の戦いにおける、会津藩による会津砲兵部隊派遣と戦闘参加を隠蔽するのは、会津贔屓の常。
544 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 11:24:44.06 ID:pHJSYP5e0
>>542 私があなたを嘘吐き呼ばわりした記述は一切ないのだが。
それよりも、あなたが私に対して再三嘘吐き、卑劣漢と罵り、私と関係のない会津若松の人達まで中傷しているあなたの方が罵りが酷いのですが、それについて自覚はあるのですか?
あなたのように謝罪しろーと言うつもりはないが、あなたが私を嘘吐き呼ばわりするのならその嘘を指摘して頂だい。
全部嘘とか子供みたいなことは言わずに。
(子供だったら申し訳ない)
545 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 11:31:20.70 ID:pHJSYP5e0
>>540 飢饉によって人口が減少した事実はあるが慢性的なものではなく、飢饉に対する施策もされている。
産業崩壊とは具体的に何のことを指しているのだろう?
それと、あなたがスルーしている生糸の件もまだ暴挙と言い張るのであれば根拠をお願いします。
546 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 11:41:18.91 ID:pHJSYP5e0
>>543 旧幕府軍の日光進軍の支援として宇都宮周辺に部隊が進行した事実はあるが、宇都宮の戦いに参加した事実はないでしよ。
会津藩の侵略という根拠にはなっていない。
547 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 13:19:55.37 ID:aA7QbJebO
>>543 546
宇都宮城攻略に関わったのは、会津とは関係ないと言えたのではないでしょうか。
ここよりも白河城に力を入れていたら、よかったのに・・・・・
548 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 13:27:53.79 ID:RPNsdCFO0
薩摩は、日本最大規模の内戦である西南戦争を起こして、
戊辰戦争よりも多くの人命と戦費を収奪した。
筋肉馬鹿が多い薩摩には、総理大臣は重荷なんだよな。
549 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 13:32:46.28 ID:RPNsdCFO0
●江戸時代の普通の農民を大量に小作農に転落させたのが、薩摩と長州の利権争いが絡む西南戦争だった。
西南戦争は、士族の特権確保という所期の目的を達成出来なかったばかりか、政府の財政危機を惹起させてインフレそしてデフレをもたらし、
当時の国民の多くを占める農民をも没落させ、プロレタリアートを増加させた。
その一方で、一部の大地主や財閥が資本を蓄積し、その中から初期資本家が現れる契機となった。
結果、資本集中により民間の大規模投資が可能になって日本の近代化を進めることになったが、貧富の格差は拡大した。
550 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 13:35:08.66 ID:RPNsdCFO0
西南戦争後に、薩長閥は、松方デフレで、多くの農民を収奪し、没落させた。
551 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 13:35:49.72 ID:aA7QbJebO
西郷頼母がクーデターを起こして容保を討ち取ったとしても、攻めたのだろうか?
552 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 13:42:37.35 ID:RPNsdCFO0
薩摩は、武力討伐ではなく、緩やかな幕府解体と言う選択肢も選べたのに、放棄した。
西南戦争の時に、西郷は、「慶喜公には、申しわけなかことをしたと、発言している。」
坂本龍馬の大政奉還推進後に、薩長が行った事が、日本を悪い方向に誘導した。
江戸時代の町民は、臨時税しか徴収されていない。
江戸時代の農民は、毎年年貢が重荷であったが・・・・・・・・・
領内に名君が現れると、その領地だけは農民は豊かであった。
江戸時代の薩摩は、ブラック企業並の酷い藩で、殺人、切腹、収奪、藩主の浪費が問題化した。
553 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 15:15:15.56 ID:pHJSYP5e0
>>547 白河城陥落が勝敗に大きく影響したのは間違いないと思う。
白河城がもう少しもてば、若松城陥落前に冬がきて、結果は違うものになったかも。
554 :
547:2012/06/10(日) 15:37:28.73 ID:aA7QbJebO
553さんありがとうございます
ちがったものになっていたと、思いますよ。陥落がずれるのでなくて、敗退させていればよかったです。
555 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 17:01:31.37 ID:wCm1jwFF0
>>544 >あなたが私を嘘吐き呼ばわりするのならその嘘を指摘して頂だい。
>>543とかですね。
あなたは発言するたびに嘘が増えてゆく。(
>>546とか)
556 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 17:03:52.01 ID:wCm1jwFF0
>>545 >飢饉によって人口が減少した事実はあるが慢性的なものではなく、飢饉に対する施策もされている。
ここでも嘘。
慢性的人口減少と、重税による生活悪化、一揆多発、江戸時代初期以降の会津藩は転落の歴史でした。
生糸の件も含め、会津藩のやり方はどれもこれも逆効果としか言いようがない。
557 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 17:37:48.96 ID:wCm1jwFF0
一人、会津贔屓の方に慢性的な嘘吐きがいらっしゃるようですが、
それについては、知識不足なのか
「宇都宮城の戦いでの会津藩砲兵部隊の参戦はなかった、あるいは隠蔽せよ」と無理なことをおっしゃる。
江戸城開城と徳川慶喜の降伏を無視し、
関東各地を転戦し、新政府軍に戦いを挑んでいた当時の会津藩の姿を直視せず、
「会津藩は恭順していたのに勝手に新政府が攻めた」と
小説家が広めようと画策するだけで歴史上は大間違いなことを前提にする。
会津藩は全く恭順などしておりません。攻められて当然の敵対振りだったのです。
嘘吐きな上に、自らの過ちを認めず他人のせいにするのはいけませんよ。
>>553 白河城は江戸城開城の時点で新政府側の物です。これを攻め取ったなら全面対決は避けられません。
時期として、史実より早ければ東北諸藩は一致した行動が取れませんので事態は混沌とします。
また、新政府の奥羽征討総督府が到着していませんので、総督府の薩長側係官を殺害した後に脅迫して形式上の長として据える、
九条ら京の貴族を確保できません。そのため列藩同盟を作り挙兵する大義名分がありません。
(奥羽越列藩同盟の存立の理屈は、「俺達も朝廷の貴族を持ってるぞ、薩長と同等で勤皇であり、朝廷に仕えているのだ」というものでした。
しかし当時の朝廷では摂関政も廃止され、小御所会議=薩長が実際の政務を行い朝廷貴族は形式上の上司となる形式に移行しており、
この奥羽列藩同盟成立の理屈は時代遅れのものでした。)
また、史実より遅かった場合、関東における新政府の掃討が進んでおり、東北地域が挙兵しても味方を期待できません。
白河城奪取は、時期としては史実の時点か、早期に東北諸藩をまとめられるならもっと早いほうが良かったでしょう。
遅くするのは愚策ですね。要するに史実のようにすぐ奪還され、しかも二度と奪えなかったなら敗北は決定的ということです。
558 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 18:46:55.75 ID:pHJSYP5e0
>>555 あなたは、人を嘘吐きと罵りながら、その嘘をまともに指摘することが出来ないんですね。
そして、それを指摘されても相変わらず根拠なくひとを嘘吐き呼ばわりする。
進歩が全く見られない。
559 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 18:51:30.02 ID:pHJSYP5e0
>>556 あなたの主観ばかりで根拠が何もない。
批判するならそれなりの根拠を持ってした方が良い。
560 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/10(日) 18:55:14.39 ID:pHJSYP5e0
>>557 脳内小説を書き連ねたみたいだが何を言いたいのか不明である。
561 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/11(月) 02:31:30.77 ID:YJU8e/VE0
このような嘘吐きが同胞を名乗ってもなあ
今回に限っては薩摩支持というか会津が馬鹿すぎ
562 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/11(月) 14:38:32.82 ID:RZHzcksLO
宇都宮城攻めは関係ないといって、西郷頼母が交渉すべきでしたね。
563 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/11(月) 18:05:26.37 ID:eyGumP+s0
そりゃあ、「完全に恭順していた会津を薩長が無理やり攻めたのです、会津は無罪です」という説が、
旧幕府陸軍内の会津軍事顧問団と、宇都宮城の戦いでの会津藩砲兵部隊参戦で崩壊してるんだから、
応答も支離滅裂になるだろうよ。
嘘を広めようとした星亮一・中村彰彦と、この嘘に乗っかった会津の郷土史研究者達が悪い。
564 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/11(月) 18:33:02.07 ID:eyGumP+s0
宇都宮城の戦いに関しては、会津軍・旧幕陸軍の戦略に誤りがあったと私は考える。
宇都宮城を占拠し、同時にそのことを会津藩が東北中に触れ回り、東北を会津の味方にする、という役は果たしたが、
執拗な攻撃で宇都宮城は炎上し、中の物資が全く使えなくなってしまったのだから。
そのため新政府の洋式歩兵が到着すると会津軍・旧幕陸軍は宇都宮城を維持できず、追い散らされてしまった。
江戸を逃れた旧幕陸軍には物資補給のあてがなかった。
会津藩は武装が旧態依然としたもので、旧幕陸軍の新式武装を補給することは出来なかった。
無駄な用途に浪費した結果が、次の今市の戦いにおける火力不足と敗退だったのだろう。
565 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/11(月) 18:44:09.78 ID:lFIt9oAD0
旧幕府軍の支援とはいえ、宇都宮周辺まで部隊を進出したりしてたら恭順とは思われないだろうな。
旧幕府軍を見捨ててたら停戦の可能性もあったのかも知れないが松平容保には出来ない選択だったんだろう。
566 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/12(火) 09:46:20.58 ID:0SkwJH7s0
567 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/12(火) 15:25:00.24 ID:EZtI7zGFO
旧幕府軍を攻撃すれば良かったのは、仙台藩と鶴岡藩程度まで。
会津は既に明治天皇から朝敵宣告を受けており、桑名のように降伏するしか和睦の手段が無い。
そして旧幕府陸軍の中を見ると会津関係者が多く、転戦にあたって会津藩と連絡を取っていた。
つまり会津藩は江戸開城の時点から新政府軍と交戦状態にあり、
西郷頼母が降伏を進言しても、今更止められなかったのだろう。
あと、白河は今市と違い、背後に日光東照宮を持たない。旧幕府陸軍の目標としては弱い。
568 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/12(火) 17:21:25.83 ID:AM8CDILEO
>>567 条件が容保の首ならば無理なことだし、それを承知で突き付けてきたのかもな。
西郷頼母がクーデターを起こして容保を、討ち取るのは無理だったか?
569 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/12(火) 18:58:09.83 ID:sdOCajo10
首? 現実として朝敵筆頭の徳川慶喜を斬首しないのに、他の藩主を新政府側が斬首出来るわけがない。
状況としては恭順の場合、松平容保本人が出頭するか、藩内の別の責任者が容保の首を持ってくるかだったので
松平容保に決断力がなかったとするしか、この場での回答は思いつかない。
本人が出頭すればよかったのだよ。
西郷頼母のクーデターは、状況的にはない。
既に関東周辺では、会津藩士は藩と連絡を取りつつ旧幕府歩兵を統合し各地で転戦しており、
会津藩は藩を挙げて交戦に突っ走っていた。この時点での降伏では関東の騒乱への関与責任まで問われる。
だから、降伏という西郷の主張を受け入れる者がいなかった。
つまり、江戸に帰った手代木などが、西郷の意図を離れて、既に会津藩と新政府との交戦状態を作っていた。
京都にいた恭順派は、山川は薩摩藩に逃げ込み、神保は敗戦責任を一方的に着せられて自害していた。
交戦派を止められる人材が残っていなかった。
570 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/12(火) 19:46:44.26 ID:aiDF9Qvt0
戦国時代ならともかく、あの時代、あの規模の戦争で終戦交渉に、総責任者が出向くのはありえることなのか?
会津側も新政府側も戦争の終わらせ方を知らなかったし、互いに引くべきところで引けなかったんだと思う。
571 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/12(火) 22:07:07.05 ID:AM8CDILEO
572 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/13(水) 19:44:56.66 ID:deZe1O1o0
徳川慶喜にしても、身柄は新政府の管制下で他藩預かり、交渉には別の人間を立てているのだから
直接交渉というのは正しくない。
出頭するのは本人であることが必要だが。
つーかそこまでしなくても、重役が何人か首差し出して容保は他藩預かりで済んだんじゃないか?
仙台藩の記録によると、重役に腹切らせるって話も最初は前向きだったようだが
そうだよな
普通、トップの首を出せ!って最初は言うても
だいたい家老を何人か切腹、領地を一部没収あたりで
折衷させるよね
575 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/13(水) 23:53:42.40 ID:deZe1O1o0
だが、仙台藩と会津藩との交渉で出てきた松平容保の蟄居謹慎及び削封案は、
一旦仙台藩に提示されたのにすぐ撤回されてしまう。
これはやはり、宇都宮城の戦いで会津軍が城を占領したという情報が入り、一気に強気になったということだろう。
実際は宇都宮城はすぐ新政府に奪い返された。
仙台藩を反新政府側に巻き込んだ上で共に陥落させた白河城も、
奥羽列藩同盟へと東北諸藩を巻き込む間もなく、新政府軍が奪回してしまう。
残ったのは、仙台藩が世良修三ら新政府軍係官を殺害し、九条・醍醐ら京の貴族を軟禁してしまったという事実だけ。
デマではないにせよ、仙台藩は流言に踊らされて越えてはならない境を越えてしまった。
会津藩にとっては共犯に巻き込めて嬉しかっただろうが、仙台藩は軽挙妄動で全てを失うことになった。
576 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 10:14:46.89 ID:mI4kXlIxO
>>575 米澤や仙台に新政府軍が、攻め込んでいたら時間稼ぎで十六橋を、陥落させたり出来たでしょう。
それをさせないためにも、会津を攻めたからね。
577 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 12:53:57.31 ID:CI44kY20O
十六橋一つのために、仙台と米沢を戦乱に巻き込んで市街戦をさせると?
酷い傲慢だ。
会津が市街地を焼き払ってから今でも会津の評判の悪い、長岡の悲劇を量産するのか。
それより会津がさっさと降伏したほうがマシだ。
578 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 13:25:44.85 ID:mI4kXlIxO
>>577 伊地知と板垣はどちらを攻めるかで、対立したそうですよ。
仙台は世良修蔵を殺害したから、攻める意味はあったでしょう。
長岡は中立を模索していましたが、まきこまれましたね。
場合によればガトリンク砲は、会津に向けていたでしょう。
西郷頼母が降伏論を唱えるも誰も耳を、貸さなかった。
冷静になれなかったのも、会津の悲劇ですね。
579 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 14:22:25.97 ID:H/dVx7K00
>>575 >だが、仙台藩と会津藩との交渉で出てきた松平容保の蟄居謹慎及び削封案は、
一旦仙台藩に提示されたのにすぐ撤回されてしまう。
提示された案でのめなかったのは、謀主の首を差し出すという点。
交渉時には容保は家督を養子に譲って隠居謹慎していたから他の条件はのめたんだろう。
>これはやはり、宇都宮城の戦いで会津軍が城を占領したという情報が入り、一気に強気になったということだろう。
仙台藩の案を撤回した時点で宇都宮の戦いは起きていなかった。
宇都宮城を落とし、占拠したのは旧幕府軍であり、会津軍は援軍として防衛にあたっていた。
>デマではないにせよ、仙台藩は流言に踊らされて越えてはならない境を越えてしまった。
会津藩にとっては共犯に巻き込めて嬉しかっただろうが、仙台藩は軽挙妄動で全てを失うことになった。
あなたの主観
580 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 14:27:25.41 ID:H/dVx7K00
>>577 >会津が市街地を焼き払ってから今でも会津の評判の悪い、長岡の悲劇を量産するのか。
長岡の悲劇とは、会津藩に降伏を説得し、戦争を回避し、中立を通そうとしたのに新政府軍に攻められたことを言うんじゃないか?
会津の評判が悪いのはあなたの思い込み。
581 :
諸橋 嘉久:2012/06/14(木) 15:48:56.81 ID:oO1yKrpD0
http://blogs.yahoo.co.jp/quasar2012q/874703.html 河井繼之助
http://www2.ocn.ne.jp/~raizing/2.htm 保科正之が私心で米澤の上杉家を取り潰しから救ったのが間違いなのです。
領地を15万石に減らされた米澤の上杉家は幕末まで残っていました。
米澤の上杉家は旧領である越後を狙っていました。
會津(奥州)と荘内(羽州)を救う奥羽列藩同盟を米澤は仙臺と共に結成して、主導しました。
戊辰北越戰爭に米澤は主力を送りました。
米澤の北越戰線の總督・千坂高雅が北越戰線の奥羽列藩同盟總督に成りました。
米澤の上杉家と新発田の溝口家は仲が悪かった。
米澤の上杉家の圧力に業を煮やした新発田の溝口家は、
奥羽列藩同盟を裏切りました。
溝口家は領内の海岸に西軍を手引きして上陸させました。
西軍が新潟港を占拠しました。
長岡城を奪還した河井繼之助は西軍の反撃に遭い銃創を負いました。
そして西軍が長岡城を奪いました。
新発田の溝口家が奥羽列藩同盟を裏切り西軍が新潟港を占拠しているので、
河井繼之助は荘内領で再起する事が叶わずに、
會津領に入るしかなかったのです。
會津領で河井繼之助は死亡しました。
5次元の存在に尋ねたところ、
慶應四年に米澤の上杉家が存在していなければ、
會津・荘内・長岡は戰爭で西軍に負けていなかったそうです。
河井繼之助と共和党に密約が存在したそうです。
翌年の雪解けの季節の頃に高田をアメリカが海軍と海兵隊で攻撃して、
高田を占拠して西軍と會津・荘内・長岡を調停していた筈だそうです。
河井繼之助が死亡しても、共和党との密約は機能して、
會津・長岡より北はアメリカの属国と成ります。
アメリカ海軍と海兵隊は高田に八年程占拠していた筈だそうです。
會津・荘内・長岡にアメリカ軍基地は建設されなかった筈だそうです。
慶應四年に米澤の上杉家が存在していなければ、
日本と會津・荘内・長岡はアメリカとの太平洋戰爭を経験せずに済んでいたのです。
廣島と長崎に原子爆弾は投下されずに済んだのです。
582 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 18:35:30.74 ID:rFor1n440
>>578 伊地知と板垣が揉めたのは、どの峠を通って会津盆地に達するかということであり、
会津を攻めるということでは二人は一致していた。
仙台攻めと会津攻めとの優先問題は、大村益次郎と伊地知・板垣連合との間の論争であり、ここでは伊地知と板垣の意見が通っている。
>>579,580
ゴミに返答の必要なし。嘘をついて謝らないのが会津の評価を落としている。
583 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 19:06:11.29 ID:rFor1n440
宇都宮の戦いで会津藩が砲兵部隊を派遣し、新政府軍に戦いを挑んでいたという点について、
まだ恥を晒しながら隠蔽を試みるとは、嘘吐きも甚だしい。会津は恭順などしていない。
それと、宇都宮の戦いで会津軍が宇都宮城を占拠したのと、
仙台藩が奥羽征討総督府の命令によって会津と一旦戦争を始めたのは、全く同一日。
このすぐ後に、会津藩が並行していた和睦交渉で譲歩し一旦停戦となる。
数日後、和睦交渉は突然会津の意向が反映された案に変わり、仙台藩の動向が突然会津に加担したものになる。
要するに、会津藩は仙台藩に攻められて和睦案を出し、
宇都宮城で薩長をやっつけたと思い急いで和睦案を撤回し、仙台を巻き込みつつ交戦姿勢に転じたというわけ。
仙台藩に宇都宮城の戦いにおける会津藩勝利の報が東北諸藩に伝わったのも、おそらくこの時期。
会津の甘言に騙された結果は、東北諸藩の悲惨となりました。
584 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 19:11:24.57 ID:rFor1n440
それと、長岡の旅館では会津同盟なんておべんちゃらを言っていますが、
長岡の会津への恨みは甚だしいものがあります。市街地のほとんどを放火し、会津藩兵は去っていったのですから。
585 :
諸橋 嘉久:2012/06/14(木) 19:41:54.48 ID:oO1yKrpD0
中央図書館に置いてある長岡郷土史の何十号まで読んだが、
放火は西軍と長岡軍が互いに行った。
会津軍は放火を行っていません。
西軍の放火まで長岡軍の仕業と嘘を書いた爺が他の郷土史家に完膚なきまでに反論を書かれた。
新発田の飛び地の今町を攻撃した時は、
長岡軍と会津軍は民家を放火しました。
586 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 19:52:18.76 ID:mI4kXlIxO
>>582 母成峠が攻めにくいからその裏をかいて攻めて、見事に的中しました。
大村の案が採用されても、あまりかわらなかったでしょうね
587 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 20:22:21.65 ID:rFor1n440
>>585 >会津軍は放火を行っていません。
はい史料提示を。
当時の庄屋の記録では放火者は会津なのですから。
588 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 20:29:27.75 ID:rFor1n440
時に越地の人民会津を悪みきらう甚深く恰も仇敵の如し。
依之所在の郷村御家を慕ふ心ありと雖会と相合するのを以て味方する者なし。
是を以て大面在陣以来、村民を雇て篝火を焼せ死傷を舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども、
家々の老若男女尽く逃散て一人も応ずる者なし。
其内衝鋒隊の歩兵乱妨せしより、大面村民自ら火を家々にかけて我が軍を追出し、
賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より忠信出、早く会兵とはなれて御一手にて御持なされずんば遖れ御大事なるべしと云う。
甘糟備後継成遺文より引用
589 :
諸橋 嘉久:2012/06/14(木) 21:16:52.93 ID:oO1yKrpD0
>はい史料提示を。
中央図書館に置いてある長岡郷土史だ。
>長岡の会津への恨みは甚だしいものがあります。市街地のほとんどを放火し、会津藩兵は去っていったのですから。
>当時の庄屋の記録では放火者は会津なのですから。
市街地に庄屋は居ない。
どこの庄屋で、庄屋の名を書いてみろ。
長岡城奪還作戦の時は、既に会津軍の主力は帰還命令を受けて会津に向かって長岡から撤退していた。
主力は長岡軍と米沢軍だけだった。
少数の手勢しか居ない佐川官兵衛は米沢軍に「城下に突入した長岡兵が皆殺しにされる。米沢に頑張って貰うしかないのだ」
檄を飛ばす事しか出来なかったのだ。
というか、史料って沢山あって
どれを取るかによって違ってくるんじゃね
それこそ南京小戦闘みたいに、あとから恨みつらみと
政策的なプロパガンダに使われたりするケースもあるし
591 :
諸橋 嘉久:2012/06/14(木) 22:32:46.92 ID:oO1yKrpD0
河井家の墓石は何者かによって、何度か破壊された。
長岡の隣の小千谷に奇兵隊の戦死者の墓と会津兵の戦死者の墓が在るが、
一度も破壊された事が無い。
長岡と小千谷では会津は憎悪されていない証拠だ。
592 :
諸橋 嘉久:2012/06/14(木) 22:58:04.00 ID:oO1yKrpD0
戦国時代なら撤退する際に放火も出来ただろうが、
撤退する際に放火をしたら敵に気付かれて、施条銃(ライフル銃)のエンフィールド銃やスナイドル銃で狙撃されて、死体に成るだけだ。
593 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 23:01:04.89 ID:mI4kXlIxO
そうですか?
594 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 23:20:06.09 ID:31kg+QNE0
595 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 23:22:30.21 ID:rFor1n440
>>591 あなたは
>>588に答えておりません。あなたは都合の良い部分だけを語る。
他にも色々ありますよ。
会津・長岡両藩、越地人民ノ心を取失候上
米沢藩戊辰文書から引用
会兵と御離れ、仕事を別申て、御兵は越地鎮撫醜類掃除之御本位をいつく迄も御示被遊、
御仁恤を御下し被為在候様無之候ては、危急此事ト奉存候
米沢藩戊辰文書から引用
会也庄也亡国ニ成リ候ヲ助ケ候事ニ候ヘハ大兵モ差出可申処、両国共に三百ツゝ、其外ハ歩兵・水戸勢ニ候
米沢藩戊辰文書から引用
当地へ出張以来会の将佐藤折之進等表裏の所業甚しく、
危険の場へは必我庄兵を差向け、己は後へ廻りて分捕等を掠むる工夫を事とし一向義を重んじ信を守るの志なき故、
我士卒いづれも不平を抱き元より越地出兵は会を援くる為なるに、
会人の作業如斯にては何ぞ尽力する栓あらんと云て、自然と勇戦の心なく数十日空く日を送れるなりと云う
甘糟備後継成遺文から引用
会津が恨まれていないなどという主張は、成立しておりません。
596 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 23:25:49.02 ID:31kg+QNE0
33 :諸橋嘉久:02/05/20 00:24
河井 継之助 NHK 大河ドラマ
何十年たっても河井 継之助は、大河ドラマの主人公にならない。
大村 益次郎が主人公で脇役が河井 継之助とは納得してたまるか。
河井 継之助の人気・評価が上がれば、主人公になるだろう。
河井 継之助の弟子の外山 修造は、阪神電鉄の創設者であるから
阪神タイガースのフアンがNHKに一つ頼んでくれれば間違いなし。
阪神電鉄と球団は、直接関係ないか。
阪神タイガース・フアンで俳優の渡辺 謙さんに
河井 継之助を演じて欲しい。
一年でも早く、河井 継之助(渡辺 謙)を観たいなぁ。
ちなみに渡辺 謙さんと俺は、新潟県人だ。
河井 継之助 るろうに剣心
「るろうに剣心」で巻町 操が魚沼 宇水に殺されそうになったとき立見 尚文が
助けに入ると予想したが、悠久山 安慈が助け、魚沼 宇水とのカラミで
「生殺与奪」を条件に十本刀の一員になったことが明らかになり、俺はシビレタ。
悠久山 安慈は、河井 継之助だったのだ。登場人物制作秘話其ノ二十八で
作者の和月 伸宏さんは、性格上のモチーフは、これといってないのですが、
何となく新撰組伍長で色色な意味で男っぷりのよい、島田 魁をイメージしてます。
と書いているが河井 継之助を隠している。弱者が間違っていても強者から
弱者を助けたと逸話がある河井 継之助をモチーフにしたはず。「るろうに剣心」
巻之十三P11の一コマ目を見ると<JET!>という表記があります。これこそ
河井 武士のフィニッシュ・ブローであったジェット・アッパーのおふざけを
和月 伸宏さんは描いています。動かぬ証拠です。巻町 操ですが彼女は、
ガットリン・ガンの購入を考えた。「河井 継之助 自らガットリン・ガンを操った。」と
よく本に出ていますが、操というネーミングは、「ガットリン・ガンを操る。」から取ったものではないか。
597 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 23:29:14.19 ID:rFor1n440
>>592 これも成立しません。
戊辰戦争は撤退時には略奪と放火、これが記録に再三出てくる戦争でした。
鳥羽伏見の戦いでも、淀を焼いたのは旧幕府軍、橋本を焼いて撤退したのも旧幕府軍、
おまけに大阪城まで受け取り交渉をしている間に出火、
(原因はとりあえず不明になっているが、旧幕臣の談話には火を点けた云々と記載)名城とやらは影も形もありません。
東北戦争でも撤退時には必ずといってよいほど放火が記録されているわけで、
つまり、旧幕府軍・列藩同盟軍の戦争はいつも放火で締めくくられております。
598 :
諸橋 嘉久:2012/06/14(木) 23:40:56.40 ID:oO1yKrpD0
>甘糟備後継成遺文から引用
彼が嘘を吐いていないと証明してみろ。
会津を救うと息巻いた米沢と仙台は会津よりも先に西軍に降参した。
つまり、米沢と仙台は嘘吐きの塵に過ぎない。
599 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 23:46:48.41 ID:mI4kXlIxO
米沢は会津攻めに、加わっていますからね。
そんな私のルーツは、広島です
600 :
諸橋 嘉久:2012/06/14(木) 23:47:30.94 ID:oO1yKrpD0
http://homepage1.nifty.com/aby/2001/septemberj.htm >芝居の中で、藩士伊東喜平太は北越戦争時の武功を語るが、
その戦時に、長岡城下は長岡藩士によって放火され、焦土と化した。
市民は、生活基盤を焼き尽くした北越戦争を、官軍兵士と長岡藩士の区別なく憎悪した。
軍事総督河井継之助の墓は、民衆の手によって何度も破壊の憂き目を見ている。
北越戦争を果敢に戦ったのは、長岡藩の士族たちで、勇ましかった武装中立を決めたのも武士であれば、
敗れて尚誇りあれと自戒するのも、武士の勝手ではなかったのか。
芝居とはいえ、会津軍は放火していないぞ。
嘘吐きめ
601 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 23:49:31.78 ID:rFor1n440
福島県浜通りの場合
6月16日(旧暦) 新政府軍、平潟に上陸
6月24日 列藩同盟、上陸を阻止しなかった罪で沿岸の二村へ放火
6月25日 新政府軍、棚倉藩占領
6月28日 新政府軍、泉藩占領
6月29日 新政府軍、湯長谷藩占領。列藩同盟は撤退時に湯本に放火
6月29日 新政府軍、仙台藩富田隊と遭遇戦、冨田隊潰滅
7月1日 新政府軍、平城に攻勢。列藩同盟防衛
7月13日 新政府軍、平城を占領。列藩同盟は城内に火を放つ
などというわけで、列藩同盟と撤退時の放火は切っても切れないものだということをご承知ください。
602 :
諸橋 嘉久:2012/06/14(木) 23:56:54.71 ID:oO1yKrpD0
会津と庄内は列藩同盟ではないからな
603 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 00:02:05.74 ID:mxV50TmNO
>>595 長岡が会津を嫌っていることにしたい様だけど、それは無いな。
家の家系は水戸兵に先祖を殺されたと伝わっているから水戸は嫌いだけど、
会津を嫌っているなんて聞いた事がないよ。
604 :
599:2012/06/15(金) 00:04:06.62 ID:JojPqJgvO
605 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 00:07:43.84 ID:vguekc+C0
長岡藩内に関しては、例えば長岡城を奪還したと河井信者が胸を張る八丁沖の戦いを見てみると、
長岡池田隊・会津佐川半小隊は稲葉村に放火し、同村の確保する
長岡篠原隊・長岡・千本木隊は荒屋・亀貝に放火し、浦瀬の官軍陣地を囲む
米沢二個小隊・大川隊は一軒家を焼き、大黒台場を横撃する
大黒口、福井寺裏より、三間市之進隊、長岡稲垣隊、長岡小島隊、会津半隊、米沢の鈴木隊が進軍する
援兵 森隊 一個
福井本道担当 二見隊(長岡)、本富隊(長岡)、米沢 砲一門
というわけで放火が最初の行動として挙げられております。
会津藩が放火をしなかった? いいえ。
長岡藩の戦闘参加前には嫌がらせとして、戦闘参加後は略奪が列藩同盟のためであるとして、
戦闘は他藩任せにして略奪に励んだという記載が残っています。
606 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 00:07:49.08 ID:/pLVupy20
>鳥羽伏見の戦いでも、淀を焼いたのは旧幕府軍、橋本を焼いて撤退したのも旧幕府軍、
其れは撤退戦とは、直接は関係が無いだろう。
淀城に入場して、戦うつもりの旧幕府軍を淀城の連中が入場を拒んだので腹癒せに放火したのだろう。
607 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 00:11:59.50 ID:vguekc+C0
>>598,600
嘘吐きが他人を嘘吐きと呼ぶとは、 諸橋嘉久という人間は始末に負えない馬鹿なのですね。
あなたは講談を語り、私は史料を語る。
会津は越後で嫌われておりました。それを否定することは天に唾を吐くも同じ。
608 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 00:12:52.48 ID:vguekc+C0
>>606 橋本の住民は津藩ではありませんよ。この嘘吐き。
609 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 00:13:31.69 ID:/pLVupy20
>長岡の会津への恨みは甚だしいものがあります。市街地のほとんどを放火し、会津藩兵は去っていったのですから。
上記は捏造だと証明されました。
610 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 00:15:15.98 ID:vguekc+C0
>>609 いいえ。
あなたの反論によって、会津藩の長岡での放火は疑いようもなくなりました。(
>>605)
会津藩が長岡藩と共に放火したわけです。
611 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 00:16:16.35 ID:/pLVupy20
>橋本の住民は津藩ではありませんよ。この嘘吐き。
ID:rFor1n440に言えよ。
612 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 00:17:05.41 ID:vguekc+C0
諸橋という人間の主張が嘘と証明された上で聞きますが、
諸橋とやら、あなたは何の目的で嘘をついたのですか?
613 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 00:19:07.73 ID:vguekc+C0
>>611 あなた以外の誰に嘘をついた責任があるものですか、この嘘吐き。
614 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 00:20:25.98 ID:/pLVupy20
>いいえ。
>あなたの反論によって、会津藩の長岡での放火は疑いようもなくなりました。(
>>605)
>会津藩が長岡藩と共に放火したわけです。
村は焼いたかもしれんが、市街地を焼いたのは西軍と長岡軍だ。
615 :
599:2012/06/15(金) 00:23:48.96 ID:JojPqJgvO
戦いは嫌
616 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 00:24:19.36 ID:vguekc+C0
諸橋という嘘吐きの主張は、どれもこれも講談、
または会津に正義があるに違いないというだけで、
史料上放火をした会津藩は、史料は無視した上で放火をしてない、と嘘をついたり、
鳥羽伏見の戦いにおける橋本・八幡の戦いで、旧幕府軍が市街地に火を放って撤退したのは
津藩の領土だったから腹癒せにやったのだと言ってみたり、会津可愛さに明らかな嘘をついています。
この嘘吐きに何がしてやれるでしょう?
617 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 00:24:26.49 ID:/pLVupy20
「住民は津藩」なんて我は書いていないぞ。
我に論破された基地外
618 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 00:28:11.03 ID:dj3s4sUo0
こういうキチガイがいるから会津はバカにされるんだろうな
619 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 00:32:41.09 ID:/pLVupy20
>諸橋という嘘吐きの主張は、どれもこれも講談、
>または会津に正義があるに違いないというだけで、
正義なんていう奴はフリーメーソンだ
>史料上放火をした会津藩は、史料は無視した上で放火をしてない、と嘘をついたり、
会津軍は長岡の市街地は放火していないぞ。
嘘吐きはお前だ。
>鳥羽伏見の戦いにおける橋本・八幡の戦いで、旧幕府軍が市街地に火を放って撤退したのは
>津藩の領土だったから腹癒せにやったのだと言ってみたり、会津可愛さに明らかな嘘をついています。
淀の放火しか我は反応していないぞ。
池沼
620 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 00:34:07.37 ID:vguekc+C0
>>617 >>606参照。諸橋嘉久は「橋本及び八幡は津藩の領土だったので、撤退時に旧幕府軍が腹癒せに焼いたのだ」と主張しています。
621 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 00:35:23.10 ID:/pLVupy20
>こういうキチガイがいるから会津はバカにされるんだろうな
キチガイとバカは全くの別物だ。
622 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 00:37:15.51 ID:/pLVupy20
>
>>606参照。諸橋嘉久は「橋本及び八幡は津藩の領土だったので、撤退時に旧幕府軍が腹癒せに焼いたのだ」と主張しています。
淀の放火しか我は反応していないぞ。
池沼
623 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 00:40:25.10 ID:vguekc+C0
諸橋よ、会津可愛さに会津に関する嘘を並べること、それは星亮一でもやっている。
だがフリーメイソンやイルミナティを掲げているから、お前は嘘吐きの星亮一からも更に嘘吐きのキチガイと思われているのだよ。
少しは現実に還れ、
会津藩は越後で乱暴略奪放火を繰り返していた、それは史料で明らかになっている。
米沢藩を信じるなとお前は言うが、奥羽列藩同盟結成のくだりでは
会津側の見解として同じ米沢の史料がふんだんに利用されていることを忘れてはいけない。
624 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 00:42:37.37 ID:vguekc+C0
>>622 それでは全く「旧幕府軍及び列藩同盟軍は、撤退時にお決まりのように放火を行い地域住民を殺した」の反論になっておりません。
625 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 00:47:50.88 ID:/pLVupy20
>嘘吐きが他人を嘘吐きと呼ぶとは、 諸橋嘉久という人間は始末に負えない馬鹿なのですね。
>あなたは講談を語り、私は史料を語る。
>会津は越後で嫌われておりました。それを否定することは天に唾を吐くも同じ。
会津を救うと息巻いた米沢と仙台は会津よりも先に西軍に降参した嘘吐きの塵に過ぎない。
嘘吐きの米沢の史料を書き続けた池沼を問題視しないお前は白痴
新発田では米沢が嫌われていて、
米沢の圧力に業を煮やした新発田は列藩同盟を裏切ったのです。
626 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 00:56:10.80 ID:/pLVupy20
>少しは現実に還れ、
>会津藩は越後で乱暴略奪放火を繰り返していた、それは史料で明らかになっている。
フリーメーソンは赤十字社を設立して、戦争と医療をセットで大儲けしているのだよ。
現実を逃避しているのはお前だ。
薩長のお抱え医師のウィリスだっけ?
奴は風聞を書いただけだ。
薩長の広報に過ぎない。
627 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 00:56:13.39 ID:vguekc+C0
星亮一でさえ、越後での会津藩の蛮行についてはスルーするのが精一杯なのに、
列藩同盟樹立の際は便利使いする米沢藩の史料を真っ向から否定するとは、オリジナリティだけは旺盛だね。
しかもこの文を書いた人は、越後に進軍するまでは会津どころか、あまり醜聞なんて書いていない。
米沢の慰撫政策をよそに会津藩は越後で略奪三昧、住民の支持も会津がいるだけで失せてしまうと嘆く文章となっている。
628 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 01:03:56.99 ID:/pLVupy20
>それでは全く「旧幕府軍及び列藩同盟軍は、撤退時にお決まりのように放火を行い地域住民を殺した」の反論になっておりません。
旧幕府軍なんて、他の奴が出してきただけ。
撤退戦の放火と淀城に入場して戦うつもりだった旧幕府軍は直接は関係が無いだろうと我は書いたのだ。
放火で必ずしも住民は死ぬわけでは無い。
具体的に書いてみろ。
629 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 01:07:57.06 ID:/pLVupy20
>列藩同盟樹立の際は便利使いする米沢藩の史料を真っ向から否定するとは、オリジナリティだけは旺盛だね。
我には創造主の代理が味方しているのだ。
>米沢の慰撫政策をよそに会津藩は越後で略奪三昧、住民の支持も会津がいるだけで失せてしまうと嘆く文章となっている。
新発田では米沢が嫌われていて、
米沢の圧力に業を煮やした新発田は列藩同盟を裏切ったのです。
630 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 01:17:39.62 ID:vguekc+C0
赤十字はいわゆる上流の人が中にいるだけで、余り儲けてもおりませんよ。
むしろ貴人の義務として彼らはやっており、必要だから黒字になるように社会も加減しているだけのこと。
このような団体は欧米には幾つもあります。
ウイリスについては、新政府軍が捕虜を取りたがらず殺してしまう傾向があると再三苦情を書いてますよ、東北戦争時に。
その上で、会津鶴ヶ城の堀から後ろ手に縛られ殺された新政府軍の遺体が幾つも上がった、私は見たと書いてあります。
会津若松でも捕虜は無用だったというわけです。
これのどこが薩長寄りなのでしょう。
だいたいウイリスは生麦事件の被害英国人の手当てをした人間で、この際は薩摩許すまじと糾弾を綴っています。
もっとも、戊辰戦争で新政府軍の医師として雇用され、明治維新後は独逸流に染まる日本医学会の中で
薩派と強調する形で別の流派を興して行くことになりますが。
「旧幕府軍及び列藩同盟軍の放火は、撤退時のお約束ではなく腹癒せなのだ」
そのような馬鹿なことを諸橋は語っておりますが、橋本の戦いでそんなに津藩と橋本の住民は同一視されていたのでしょうか。
淀藩に嫌われたのだから腹癒せに火をつけた? 淀藩なら通っても別の場所では決して成立しない説です。
また、君の創造主さんはきっと間違っていると思いますよ。別の存在でも探したほうがよい。
同じ史料を都合の良いときには引用し、都合が悪くなると捏造だと言って捨ててしまっては、何も理解できません。
631 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 01:36:46.83 ID:/pLVupy20
>赤十字はいわゆる上流の人が中にいるだけで、余り儲けてもおりませんよ。
>むしろ貴人の義務として彼らはやっており、必要だから黒字になるように社会も加減しているだけのこと。
>このような団体は欧米には幾つもあります。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/274454986.html >その上で、会津鶴ヶ城の堀から後ろ手に縛られ殺された新政府軍の遺体が幾つも上がった、私は見たと書いてあります。
鶴ヶ城は西軍に取り囲まれていたのです。
創作も大概にせい。
>「旧幕府軍及び列藩同盟軍の放火は、撤退時のお約束ではなく腹癒せなのだ」
>そのような馬鹿なことを諸橋は語っておりますが、橋本の戦いでそんなに津藩と橋本の住民は同一視されていたのでしょうか。
>淀藩に嫌われたのだから腹癒せに火をつけた? 淀藩なら通っても別の場所では決して成立しない説です。
我は淀城の事にしか反応して書いただけ。
橋本なんか池沼が書いただけ。
お前は文盲で池沼
>同じ史料を都合の良いときには引用し、都合が悪くなると捏造だと言って捨ててしまっては、何も理解できません。
会津を救うと息巻いた米沢と仙台は会津よりも先に西軍に降参した。
つまり、米沢と仙台は嘘吐きの塵に過ぎない。
632 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 03:44:13.57 ID:FruPSR3T0
放火略奪は一切無かったと主張するのもナンセンスだが、戦時中の放火略奪についてネガキャンするのも意味がないな。
現代までどこの軍隊まであることだし、新政府軍の火事場泥棒も酷かった。
歴史において戦争が悪だと批判するのと一緒で、どっちも馬鹿だ。
633 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 08:50:31.50 ID:c3lIrj3G0
634 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 08:52:43.38 ID:c3lIrj3G0
635 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 14:51:28.73 ID:vguekc+C0
今までの議論をまとめると、
誰?:会津は恭順していた
反証:宇都宮の戦いで戦ったのは会津藩。ちっとも恭順などしていない
諸橋:会津は悪いことをしていない
反証:米沢藩の証言による、会津軍の越後における略奪暴行放火、特に長岡藩を焼き払って撤退したことは事実
諸橋:会津は悪いことをしていない
反証:ウイリスの証言による、会津藩が捕虜を殺傷し掘りに投げ入れていたとされる証言は事実
諸橋:米沢が悪い
反証:根拠なし
(会津攻めに加わったから会津を良く書かないのだという意見は、奥羽列藩同盟設立に関しては米沢から引用をする会津の姿勢と相反する。)
というわけで、会津藩の正当性を主張する意見は全て不当と判断されております。
諸橋君、嘘をつくのはよくありませんよ。
636 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 14:55:10.88 ID:vguekc+C0
>>631 >鶴ヶ城は西軍に取り囲まれていたのです。
>創作も大概にせい。
これも欺瞞ですね。鶴ヶ城の堀から上がった遺体については、ウイリスの証言を挙げているだけのことで、
そしておそらく、会津藩が会津若松に連れ帰った捕虜の運命を記しているだけのこと。
会津藩の残虐性は疑いようもないわけです。
637 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 14:59:35.03 ID:vguekc+C0
>>631 >我は淀城の事にしか反応して書いただけ。
>橋本なんか池沼が書いただけ。
>お前は文盲で池沼
諸橋は、「橋本及び八幡は津藩領だったから、
旧幕府軍は敗北時に腹いせに火をつけたのだ、断じて撤退時のお約束ではない」と主張しています。
諸橋はどうしようもない嘘吐きです。橋本も八幡も、東北諸藩すら負けるたびに町に火を放って撤退しているという事実を無視しています。
諸橋は嘘について恥じるべきです。諸橋は星亮一より酷い嘘吐きです、人間未満です。
638 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 17:36:41.98 ID:VIiwtNNT0
お前の別IDは長岡の市街地を會津軍が焼き払ったと大嘘を書いた。
會津は奥羽列藩同盟の新発田の飛び地の今町を奪還する作戦の際に民家に放火した。
の趣旨を我は書いた。
>米沢藩の証言による、会津軍の越後における略奪暴行放火、特に長岡藩を焼き払って撤退したことは事実
会津を救うと息巻いた米沢と仙台は会津よりも先に西軍に降参した。
つまり、米沢と仙台は嘘吐きの塵に過ぎない。
破廉恥にも、会津攻めに加わった米澤
>ウイリスの証言による、会津藩が捕虜を殺傷し掘りに投げ入れていたとされる証言は事実
鶴ヶ城は西軍に取り囲まれていたのです。
創作も大概にせい。
>(会津攻めに加わったから会津を良く書かないのだという意見は、奥羽列藩同盟設立に関しては米沢から引用をする会津の姿勢と相反する。)
盟主の仙臺にも史料は在るぞ。
池沼
松平容保から大杯で一献を玉蟲左太夫は
「大杯(大敗)はお受けかねます。」「小杯(勝算)を賜りたい。」
苦しい親父ギャグ
>諸橋君、嘘をつくのはよくありませんよ。
嘘吐きはお前だ。
在日特権を保持したいお前は、
明治政府を正当化すれば、現代の官僚の覚えも目出度い訳だ。
639 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 17:42:57.26 ID:VIiwtNNT0
>これも欺瞞ですね。鶴ヶ城の堀から上がった遺体については、ウイリスの証言を挙げているだけのことで、
鶴ヶ城は西軍に取り囲まれていたのです。
創作も大概にせい。
>そしておそらく、会津藩が会津若松に連れ帰った捕虜の運命を記しているだけのこと。
>会津藩の残虐性は疑いようもないわけです。
會津軍は捕虜は現地で斬首した。
お前は、そんな事も知らない池沼
640 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 18:02:07.53 ID:VIiwtNNT0
>諸橋は、「橋本及び八幡は津藩領だったから、
淀城に入場を拒まれた旧幕府軍は淀の城下に放火したのだろ?
と我は返信したのだ。
橋本及び八幡は津藩領だったからはお前が書いたのだ。
他人の文章を改竄したお前は名誉毀損で、裁判で有罪に成るぞ。
>諸橋はどうしようもない嘘吐きです。橋本も八幡も、東北諸藩すら負けるたびに町に火を放って撤退しているという事実を無視しています。
長岡軍と會津軍は奥羽列藩同盟の新発田の飛び地の今町を奪還する作戦の際に民家に放火した。
お前は其の史実を無視する池沼
作戦と風向き次第では放火は有効な戦法で、
西軍も長岡軍も長岡城奪取作戦と長岡城奪還作戦で放火を用いた。
>諸橋は嘘について恥じるべきです。諸橋は星亮一より酷い嘘吐きです、人間未満です。
在日のお前に恥の観念は無い。
酷い嘘吐き、人間未満はお前だ。
幕末ごっこの星亮一にお前は嫉妬しているのか?
641 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/15(金) 18:14:01.63 ID:jHC+oI9i0
なんか恒例のアンチvsヲタが始まっちまったな。
どっちも事実と妄想が織り交ぜてあり、歴史を客観的に見る視点がないから収拾が着かない予感。
642 :
諸橋 嘉久:2012/06/15(金) 18:19:54.98 ID:VIiwtNNT0
會津軍が長岡の市街地を焼き払ったと池沼は書いたが、
郊外の民家を放火したのとは違い、
長岡の市街地を焼き払われた報復に長岡軍は會津軍に報復攻撃する筈だ。
その様な事実は無い。
會津軍が長岡の市街地を焼き払っていない証拠だ。
長岡城奪還作戦の時は既に帰還命令を受けて會津軍の主力は會津に向けて長岡を去っていた。
643 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 01:54:07.02 ID:RiCEReZGO
史料では会津諸恥の完全敗北
恥の上塗り中
644 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 02:00:12.19 ID:RiCEReZGO
>>641 ところが、アンチとあなたが呼ぶ人はうそを吐いていません。
うそつきは諸恥だけ
645 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 10:01:40.27 ID:IRALFKQYO
越後で略奪暴行放火を行ったのは水戸兵ですね。
646 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 10:09:09.74 ID:fXzDEBQi0
641に対する双方の対応はヲタ側の方が論理的だな。
647 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 13:03:37.42 ID:RiCEReZGO
感情論だけで中身の無い諸恥が論理的?
アンチは史料で返している。
648 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 13:15:54.66 ID:RiCEReZGO
>>645 越後で略奪暴行放火を行ったのは、会津藩兵及び水戸藩緒生派(佐幕派・当時会津軍の一部)です。
(
>>505三つ目の史料参照)
649 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 13:20:09.82 ID:RiCEReZGO
おっと、
>>645に訂正します。
水戸藩緒生派は会津兵です。新政府軍のように偽装して語るのは良くありません。
650 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 13:26:23.78 ID:RiCEReZGO
また間違えた。
>>595三つ目の史料となります。
会津軍が暴行略奪放火を重ねる史料は数多くありますが、
それを水戸だから新政府軍のように偽装して語るとは、感心しません。
651 :
諸橋 嘉久:2012/06/16(土) 14:13:12.64 ID:18VmnCvP0
652 :
諸橋 嘉久:2012/06/16(土) 14:18:22.90 ID:18VmnCvP0
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-648.html 780 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/17(日) 14:57:34 ID:KkN8aK1K
宇佐美家の系譜2
宇佐美定満の孫「勝興」が水戸への就職が決まりかけた時。
米沢藩主の上杉景勝が「宇佐美といえば我が旧臣。ぜひわが藩に」と申し出た、
ところが、かつて謙信にも仕えていた畠山義春に宇佐美家について問い合わせてみた所
「宇佐美定満には息子がいなかった」と答えた。
そのせいで米沢への就職はかなわず水戸を追い出されてしまった。
では「勝興」とは一体何者?そしてなぜ徳川頼宣は軍学の師匠として仕えさせたのか?
じつは、この「勝興」元は越後の稲垣家に仕える料理人の息子、
若い頃から軍学が好きで甲州流軍学などを学んでいた。
そして「宇佐美定満」の子孫と嘘をつき尾張などに仕える事になるのだが、
畠山義春に嘘を見破られ尾張を出奔するはめになる。
そして、高野山にいた所で徳川頼宣と出会い紀州に就職するのだが、
すぐには、紀州に行かず十一年もの間大阪住まいを命ぜられる。
さて、「勝興」大阪で十一年もの間何をしていたのか?
それは「歴史の偽造」である。
653 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 14:22:35.28 ID:RiCEReZGO
反論の余地がないからといって、米沢叩きを始めるのは、
他の事物では米沢から引用を繰り返す会津の姿勢と矛盾している。
つまり、諸恥は嘘つきということ。
654 :
諸橋 嘉久:2012/06/16(土) 14:25:47.81 ID:18VmnCvP0
>他の事物では米沢から引用を繰り返す会津の姿勢と矛盾している。
>つまり、諸恥は嘘つきということ。
我は会津の味方ではない。
嘘吐きはお前だ。
655 :
諸橋 嘉久:2012/06/16(土) 14:34:10.58 ID:18VmnCvP0
656 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 14:38:12.31 ID:RiCEReZGO
新発田藩は新政府軍に恭順しており、新政府軍と米沢藩は越後では敵対を続ける。
諸恥は新発田と敵対する米沢がうそを吐いていると主張する。
しかし新政府側の史料で略奪暴行放火の記事をあたると、会津ばかりなのさ。米沢は戦闘時の放火のみ。
新政府側の記録は信用しないと言われるので米沢の史料を出すのだが、
それすら否認する会津贔屓には笑ってしまう。
657 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 14:48:30.38 ID:RiCEReZGO
ちなみに会津軍は南会津でも略奪暴行放火を繰り返しており、
ここでも指揮官だった佐川の評判はすこぶる悪い。
658 :
諸橋 嘉久:2012/06/16(土) 14:51:15.95 ID:18VmnCvP0
>しかし新政府側の史料で略奪暴行放火の記事をあたると、会津ばかりなのさ。米沢は戦闘時の放火のみ。
司馬遼太郎『花神』
浜田を攻撃している大村益次郎は部下を放ち、
浜田城下の民家を放火させた。
浜田と戦闘中の部隊から火消し部隊を編成して、
民家の延焼を喰い止めた。
大村益次郎の謀略・犯罪に騙された浜田の町人は、
長州軍に感謝して、長州軍に進んで協力するように成った。
659 :
諸橋 嘉久:2012/06/16(土) 14:58:08.88 ID:18VmnCvP0
司馬遼太郎は小説家である
彼の書いたものは史料でも記録でもなく小説
作り話である
司馬遼太郎を持ち出すのはウルトラマンを持ち出して
「昭和時代、ゴモラが大阪城をぶっ壊した」と昭和を語るのに等しい
661 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 15:04:00.26 ID:RiCEReZGO
諸恥の史料は司馬遼太郎?
お笑いです。
なら新潟の記事をもう一つ書きますか。
会津勢、妙法寺山中に籠もり居り、度々村里へ出、百姓共へ無心申し付け、或いは乱暴等致し候
「新潟県の百年と民衆」より引用
662 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 15:15:28.88 ID:RiCEReZGO
この時の「会津勢」とは、会津藩・衝鋒隊・水戸藩諸生派(佐幕派)の集団で、
当時どれも会津藩の配下にありました。
水戸だから新政府軍という主張はおかしい。
663 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 15:43:09.46 ID:IRALFKQYO
>>649 うちの先祖が恨んでいたのは先祖に直接、略奪暴行をはたらいた水戸兵であって会津兵ではありません。
664 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 15:47:42.84 ID:RiCEReZGO
>>663 はっきり言います。
それは会津軍です。
665 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 16:08:59.52 ID:RiCEReZGO
古田ら旧幕府歩兵の衝鋒隊にせよ、
佐幕派ゆえに水戸を脱出して会津軍に入った諸生派にせよ、
会津藩本隊にせよ、
どれも当時は会津軍の一部なのに
略奪暴行放火等都合が悪くなると、他藩に罪をかぶせて本隊は雲隠れを企む。
会津は越後で蛇蝎の如く嫌われておりました。
666 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 16:12:08.20 ID:IRALFKQYO
>>664 あなたの正体が見えますね。
しかも新潟県人の振りをして会津を貶めている。それがあなたの人間性ですね。
667 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 16:19:00.57 ID:RiCEReZGO
事実に反論出来ないと他人の人格を貶める、
そのような人間しか会津側にはいないのでしょうか。
668 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 16:19:05.96 ID:fXzDEBQi0
アンチの出した資料で会津軍の略奪放火があった村があったのは分かったが、「長岡の市街地のほとんどを放火した」根拠にはなってないな。
それと、長岡の旅館の件で今も恨みがあるようなニュアンスだったが、言い過ぎたのかな?
669 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 17:02:31.99 ID:RiCEReZGO
そんなことを言っても、長岡での終戦時に市街地の9割以上は灰燼と帰していたし、
撤退は会津藩と長岡藩が入り交じったものであった。
会津藩と長岡藩が焼き払ったとしか表現のしようがない。
670 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 17:49:26.84 ID:fXzDEBQi0
>>669 新政府軍と長岡軍、会津軍、同盟軍の戦闘の結果市街地が焼けたのを、「会津軍の放火によって市街地のほとんどが焼かれた」というような表現にするのはおかしいよな。
だから長岡の人が今でも恨みがあるという話も嘘になる。
末端の兵隊や他藩から会津軍の管理下に入った有志の兵隊の放火略奪はあったのだろうが、会津軍全てを悪の軍団と思い込むから無理が出るんじゃないか。
671 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 18:09:43.35 ID:IRALFKQYO
越後の人が恨んでいたのは会津藩兵ではなく略奪暴行放火をした水戸兵です。
672 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 18:21:37.41 ID:RiCEReZGO
ところが、越後での会津藩の行動に目を皿のようにしても褒める部分はありません。
最初は会津藩領における重税。
これは京都守護職及びその後の鳥羽伏見開戦、関東各地での会津軍転戦によるもので、
一揆が多発した会津本領と同等の負担が地域にあったわけです。
次に、鳥羽伏見の敗戦に伴う旧幕府領の会津藩預り通知です。
旧幕府は防衛困難な領土を会津藩に預けたわけですが、会津藩領の重税を知っている領民は激しく抵抗し、
会津藩は軍事威圧で進駐します。そして重税が始まります。
それと同じ頃には新政府の進軍も始まり戦争です。会津が水谷村を無差別砲撃炎上させたのは書いてありますね。
673 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 18:24:13.60 ID:RiCEReZGO
>>671 それは会津軍です。うそをついてはいけません。
自分たちは正しい、他は悪いっていう
どうしてそんなに二者択一の思考なんだろう・・・
どの集団にも悪い人もいい人もいる
「会津はすべて善」「悪いのは会津以外だ!」って思考を見るにつけ
この思考が幕末に判断を鈍らせたんだなって納得した
もっと広い視点で考えられないものだろうか
誰が火を付けようが「日本人」であり、日本という観点でものを考えたら
何々藩なんてどーでもいい、狭い
原発の問題も福島の問題じゃなくて、日本全体の問題だ
675 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 18:30:59.40 ID:RiCEReZGO
両成敗を狙っても、今まで挙がっているのは会津軍の蛮行ばかりなのですが。
676 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 18:38:21.71 ID:RiCEReZGO
戦闘ですから放火はありなんですよ。現に旧幕府軍や列藩同盟の敗戦史料には、焼き払って逃走というものが多い。
それを多数やらかした会津藩が、やっていないと主張するのは無理があると思います。
677 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 19:55:52.72 ID:fXzDEBQi0
>>676 やってないとは言ってないでしょ。
ただ、新政府軍、長岡軍、会津軍、同盟軍の戦闘で、しかも会津軍は主力がほとんどいない中、戦闘結果の焼かれた状態を「会津軍が市街地のほとんどを放火した」と言うのは無理があるよ。
あなたがアンチたる由縁なのかも知れないが。
また、「長岡では今でも恨みがある」というニュアンスの発言もあったが、あなたの妄想みたいだから訂正なり、撤回なりした方が良い。
会津を擁護してた者を嘘吐きとか卑怯とか言ってたから、自分も同じになりたくないならね。
678 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 20:05:54.73 ID:fXzDEBQi0
>>675 新潟県史とか見てみれば。
会津藩の統治を嫌がってた記述も、旧幕府軍や会津兵に戦費等の供出を強要された記述もある。
でも、新政府軍が来てからも兵隊に略奪されたり、一揆や打ち壊しがあるからね。
民衆から見れば会津軍の犠牲っていうより、自分たちの関係ないところで起きた戦争の犠牲って言う意識だと思う。
679 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 20:18:28.63 ID:IRALFKQYO
>>673 嘘ではありません、それはわたしに対する侮辱ですね。
うちの先祖が恨んでいたのは先祖に直接、略奪暴行をはたらいた水戸兵であって会津藩兵ではありません。
680 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 20:44:03.38 ID:RiCEReZGO
嘘つきには嘘つきと言います。
会津の犯行を他藩のように誤魔化す人は、間違いなく嘘つきです。
681 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 20:53:08.90 ID:RiCEReZGO
会津藩の越後における行動に、弁護の余地があるならともかく、
略奪暴行放火位しか列藩同盟の記録にも見当たらないのに、今更両成敗とはおかしい。
脅迫しか出来ないなら、あなたの主張が筋が通らないということです。
682 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 21:03:53.54 ID:RiCEReZGO
時々いるんですよ、衝鋒隊は会津じゃないとか、会津藩水戸諸生隊は会津じゃないとか言い張る人が。
そんな人は越後に会津軍はいなかった、すぐ撤退していたと言う。
笑いますね、このどちらも会津本隊の管轄下にあったのだから。
683 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 21:36:06.97 ID:fXzDEBQi0
>>680 679の先祖が何を思おうが、あなたがそれを嘘かどうか判断するのはおかしいだろ。
あなたがアンチなのは構わないが、それを周りに押し付けるようなものでしょ。
684 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 21:42:25.72 ID:fXzDEBQi0
>>681 あなたは、何を言いたいんだ?
歴史の中から会津の否定材料を日々発掘して、「これだけ悪いことを探したから自分は良い存在だ」と自己満足したいのか。
歴史や資料を客観的に見られないのであれば、星某とやっていることは変わりない。
685 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 22:00:28.84 ID:RiCEReZGO
越後にこの時期いた水戸を名乗る集団は、会津藩水戸諸生隊です。西軍扱いは嘘つきのやることです。
会津藩に有利な史料が出ないからと言って、相手も同様に残虐だったに違いないと勝手に結論を下せば、欺瞞も甚だしい。
米沢藩は手前味噌ですが、会津の蛮行と比して自藩が慕われていたと記しています。
686 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 22:07:39.42 ID:fXzDEBQi0
>>682 会津藩と行動を共にする部隊を全て会津藩と見なすのは当時の見方と異なるでしょ。
だから679の先祖が水戸を恨んでるんだし、あなたが引用した米沢藩戊辰文書にも、(北越戦線において)会津軍本体は少数で旧幕府軍と水戸兵ばかりだ、と書かれているんでしょ。
つまり、当時はあの部隊はどこの兵隊どだって区別されて認識されてるってこと。
あなたの会津と行動を共にした部隊の悪行は会津の悪行だっていう主張はあなただけの認識だってこと。
687 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 22:17:54.45 ID:fXzDEBQi0
>>685 あなたが会津藩を嫌うからと言って、会津藩の行動は全て残虐だった、全て悪に違いないと勝手に結論を下せば、欺瞞も甚だしい。
米沢藩は確かに越後で領民に炊き出しをしたり、上杉公が帰ってきたと歓迎されたみたいどな。
越後に帰るっていう野心がそうさせたみたいだが。
688 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 22:23:38.49 ID:RiCEReZGO
それについては
>>661と
>>672参照ですね。
これらの諸隊は会津本隊の管轄下にあり、旧幕府領を会津藩が接収する目的で送り込んだ会津の占領軍でした。
そのため当時の越後の記録でも、 会津の自史である会津戌辰戦史でも、会津軍扱いなんですよ。
689 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 22:46:41.84 ID:RiCEReZGO
トカゲの尻尾扱いして、この諸隊が旧幕府領から重税を取り立てて会津藩が使ったことを隠蔽するとは欺瞞も甚だしい。
まして越後の地元でも会津戌辰戦史でも会津扱いなんですから。
ちなみにこの進駐時、新政府側に会津が占領軍を出す理由を送りつけています。
國情騰憂藩士越後地方に捕逃するをもって兵を発し鎮撫するを告げる
つまり正真正銘の会津軍なわけです。
690 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 22:51:21.22 ID:fXzDEBQi0
>>688 会津軍だという事実は否定しない。
ただ当時の見方は686の通りでしょ。
新潟港については、幕府直轄地だったが、会津藩等3藩による共同管理になっている。
占領軍というより、防衛軍だね。
691 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 23:02:55.31 ID:RiCEReZGO
>>686は成立しません。
どれも会津藩預りになった旧幕府領を征服しに来た会津軍なのですから。
692 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 23:31:27.29 ID:IRALFKQYO
>>680 あなたは少し言葉に気を付けたほうがいい、それではこう言いましょう。
うちの先祖が恨んでいたのは先祖に直接、略奪暴行をはたらいた水戸諸生党の兵であって会津兵ではありません。
693 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 23:56:11.08 ID:RiCEReZGO
>>692 それは会津軍です。誤魔化してはいけません。
694 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/17(日) 06:20:04.07 ID:2Jmav6jN0
695 :
諸橋 嘉久:2012/06/17(日) 06:49:55.84 ID:fY0HHqBW0
696 :
諸橋 嘉久:2012/06/17(日) 07:09:05.55 ID:fY0HHqBW0
新発田の武士(新発田の史料)の嘘「新発田藩は主従共に代々、勤王だった」
尊王なら話は分かるが、幕末に歴史の殆どない勤王を代々なんて大嘘だ。
江戸時代に国替えで溝口家が新発田入りした。
其の時に揚北衆の子孫の地侍を少しは召抱えた筈だ。
新発田は上杉謙信に逆らい、恨みを持った連中の子孫が多かったのだ。
上杉家に対する恨みは、幕末まで続いた。
会津落城から26年後に容保公は死にました。
698 :
諸橋 嘉久:2012/06/17(日) 07:46:06.62 ID:fY0HHqBW0
我が数日前に書いた長岡郷土史の西軍の放火まで「長岡軍の仕業」と嘘を書いた爺
爺は刀鍛冶の子孫だと称していた。
會津の侍の遺品の刀を観て、「流石は會津中将様の御家来の刀だ」
我の記憶に一部間違いが有るかも知れないが、
爺は長岡軍を不当に貶めても、會津松平家の主従を誉めて居るのだ。
長岡では河井繼之助の悪口を言う奴は、少なからず居ても、
會津の悪口を言う奴は居ない。
584 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/14(木) 19:11:24.57 ID:rFor1n440
それと、長岡の旅館では会津同盟なんておべんちゃらを言っていますが、
長岡の会津への恨みは甚だしいものがあります。市街地のほとんどを放火し、会津藩兵は去っていったのですから。
ID:rFor1n440よ、
お前の意図的な嘘で、「著しく長岡と会津の名誉と心を傷付けられました。」と
民事訴訟を起こせば、お前は間違いなく有罪だ。
699 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/17(日) 09:34:35.26 ID:+YOOmaWUO
>>696 どのような形でうらみを、晴らしたのでしょうか。
700 :
諸橋 嘉久:2012/06/17(日) 10:01:54.69 ID:fY0HHqBW0
戊辰の怨み
いつかは晴らすべし!
藩とか県とかを越えて国家という見地でものを考えたら
相対的にあらゆる思想と思考が変わる
会津藩は優秀な人が沢山いただろうに
当時の教育が悪かったのだろうか・・・
立ち位置はいろいろ変わったほうがいい
そのぶんいろんな後景が見えるから
ある意味、ブレなかった会津は一つの景色に固執してしまったんだと思う
703 :
諸橋 嘉久:2012/06/17(日) 16:05:27.93 ID:fY0HHqBW0
667 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 16:19:00.57 ID:RiCEReZGO
事実に反論出来ないと他人の人格を貶める、
そのような人間しか会津側にはいないのでしょうか。
661 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/16(土) 15:04:00.26 ID:RiCEReZGO
諸恥の史料は司馬遼太郎?
お笑いです。
なら新潟の記事をもう一つ書きますか。
会津勢、妙法寺山中に籠もり居り、度々村里へ出、百姓共へ無心申し付け、或いは乱暴等致し候
「新潟県の百年と民衆」より引用
「諸恥」と表記する奴こそ、
事実に反論出来ないと他人の人格を貶めて居るのです。
そのような人間しか在日特権を保持したい、明治政府マンセー側にはいないのでしょうか。
704 :
諸橋 嘉久:2012/06/17(日) 16:37:17.77 ID:fY0HHqBW0
705 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/17(日) 20:23:41.25 ID:azHLA6rFO
越後の人が恨んでいたのは会津兵ではなく略奪、暴行、村民殺害、放火
をした水戸脱藩兵です。
706 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/17(日) 22:46:12.58 ID:pg8PdZ2LO
今日はゴミ出し日
707 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 00:00:16.99 ID:1GqZBEeeO
>>705 その兵が実は会津兵であることについて、心の整理は出来ましたか?
佐川官兵衛指揮下の衝鋒隊と会津藩水戸諸生隊について、会津でないという夢想は不可能です。
708 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 06:43:44.96 ID:J1cXA9IA0
衝鋒隊が新潟の町で乱暴狼藉を働いたので、
駆け付けた河井繼之助が古屋佐久左衛門に「信州に行って戦って死ね。」
越後から追い出したが、戦いに敗れて戻って来た。
河井繼之助が怖いのか、それからの衝鋒隊は乱暴狼藉を働いた隊士を斬首する様に成った。
水戸から逃げて来た諸生派は、會津の軍に入ってからは、
乱暴狼藉を働いた隊士は、斬首された。
709 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 07:03:37.62 ID:J1cXA9IA0
710 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 07:26:13.32 ID:J1cXA9IA0
18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 15:53:21 ID:+pplTDOhO
会津松平は、徳川が降伏しているのに
徳川慶喜は「予に策が有るから、供をせい」と會津候と桑名候に命じ、
大坂城を抜け出して軍艦に乗船して、江戸に逃げた。
徳川慶喜は會津候と桑名候に「自分が寺で謹慎するので、江戸から出て行け」と命じた。
徳川慶喜に騙されて、良い様に利用された會津候と桑名候は江戸から追い出された。
徳川慶喜が「予と一緒に寺で謹慎せよ」と命じれば、會津候と桑名候は命に従った筈だ。
711 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 07:44:53.82 ID:J1cXA9IA0
28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 21:35:14 ID:82eesi7W0
>>25 それは違うぞ。
>島津と毛利は徳川のおかげで生き残れたんだろw
島津は関ヶ原後に全面戦争するつもりで待機していた。
家康の方が攻めずに政治決着に持ち込んだだけ。あの時、島津の領地は何も減らされていません。
毛利は家康から断絶を命じられたが、家康に味方した吉川が決死の説得で存続した。
毛利本領はすべて召し上げられている。吉川に与えられる土地に毛利が入り、吉川は毛利の家臣であり続けた。
だから、徳川のおかげではないね。
>武士はお家の存続が至上であって、戦に負けたぐらいで主君が切腹してどうする?
違いますw。
戦国時代を例に取れば解るが、主君の切腹と引き替えにお家存続(息子に継がせる)させるのが負けた側の常套手段です。
この伝統は幕末まで続いており、切腹こそしないが現当主隠居するかわりにお家存続を願います。
例:鳥羽伏見で負けた松平容保は隠居し、その養子が新藩主となって謝罪の態度を取る。
ただし、会津藩はその後も戦い続けているので隠居だけでは済まないのは明白ですね
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552018762&tid=a1zbg2oa5ia5ia5de2s8dcobfa1z&sid=552018762&mid=5095#under-deli >仮に野心が二流なのであれば、そもそも家康と密約などかわす必要はなく、「領国を守る自衛戦」に終始すればいいだけの話です。ところが如水は九州北部を制圧するところまで積極的に「勝ち」に行きました。
九州南部の島津義久を真っ先に黒田如水が攻撃しないのは、
徳川家康と島津義久の間に密約が有った事を物語っていますね。
712 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 07:52:47.02 ID:J1cXA9IA0
713 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 12:18:22.69 ID:J1cXA9IA0
62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 16:06:57 ID:Qb+yXdfF0
一会桑が孝明天皇の攘夷意思の代弁者なの?
詭弁というかなんか後付けした言い訳がましいものを感じるね。
もし、そうであるならば攘夷を標榜していた尊王攘夷派である
長州やその他の脱藩浪士と対立することはなかったはず。
長州藩は幕府から攘夷の決行の許しを得て外国船を砲撃しており
反対に壊滅的な打撃を受けている。 それゆえ禁門の変の際は、
一会桑は、攘夷の意思はなくもちろん長州ももうなかった。
欧米列強の圧倒的な軍事力の前になす術がなかった点において
は双方同じだが、その後の欧米列強に対する対応に幕府側に非
があったように感じられる。つまり、長州を説得させることを
が出来なかったことである。すでに不平等条約を結んだ結果、
幕府の無力化が露呈していて治安や物価上昇などで世の中は混
乱して幕府に反発する人々は士族以外にも多数いた。
小栗上野介忠順の炯眼−Cシナリオ
http://blog.goo.ne.jp/hardsix/e/8e10978bd9eee421b44d0cbea6d47a27
714 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 12:31:30.88 ID:J1cXA9IA0
715 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 12:54:20.77 ID:J1cXA9IA0
716 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 13:04:16.19 ID:AmvgZmIk0
アンチ会津が湧いた原因って、★とか史実を誇張したり、創作した反動だと思うんだ。
史実と違うところがある小説だっていうのを受け止められない信者がいるのは事実だが、アンチ自身も歴史を客観的に見れてないって自覚するべきだと思う。
717 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 13:11:17.09 ID:J1cXA9IA0
96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 22:14:47 ID:fVKbikM+0
ある意味で、司馬遼太郎や早乙女貢(両者共に作家を名乗り、研究家とは名乗らなかった)よりタチ悪いw
司馬遼太郎は一流の作家 早乙女貢は二流の作家 星亮一は四流の作家
性質が悪いのも当然です。
彼の正体は、東北・東日本を道州制にする先兵だった。
718 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 15:18:41.16 ID:J1cXA9IA0
106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 19:42:27 ID:kmV/f1rO0
慶喜公を議長に据えた新政府の方が余程良い国作りが出来たに違いない根拠
はなんだ?(もちろん会津はその中に入っていないよなw)
そもそも幕府が欧米列強と結んだ不平等条約で国内は疲弊、長州征伐におい
ては幕府は敗戦を重ねたことによる幕府の権威失墜、さらに藩内で独自の富
国強兵を進めていた薩摩にもたらされた幕臣勝海舟による幕府の内情、大政
奉還に尽力した会津の見回組による坂本龍馬・中岡慎太郎両人の暗殺疑惑等
どれをとっても仮に新政府が樹立されたとしても一枚岩ではないことが明白
だ。
会津は、鳥羽伏見の戦いで薩長に負けたことにより慶喜公に捨てられたんだ
ぜw。まあ、江戸開城後、勝手に新政府軍と戦って完膚なきまで叩きのめさ
れたんだから本望じゃねぇの?会津は日本最強のお侍さんだったと勘違いし
なくてよかったじゃんw。それに幕府が本当に当てにしてたのは会津じゃな
くて福井だったんだろう?名君春嶽だったら後先考えずその場凌ぎの下品で
浅はかな行動は慎んでいただろう(笑)
松平容保が辞退しているのに松平春嶽が強引に京都守護職に任命させたのです。
名君春嶽じゃなくて、池沼春嶽
719 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 15:30:30.84 ID:J1cXA9IA0
×松平容保が辞退しているのに松平春嶽が強引に京都守護職に任命させたのです。
○松平容保が辞退しているのに松平春嶽が強引に京都守護職に任命したのです。
創造主と共に歩む5次元の存在に尋ねたところ、
当時の日本最強の軍隊は、熊本だったそうです。
槍や刀での戦いは最強で、銃と砲の装備も良かった。
720 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 15:48:04.20 ID:J1cXA9IA0
721 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 16:07:45.11 ID:J1cXA9IA0
174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 00:59:24 ID:9vf9D/ta0
會津は自分らが「差別」されたなどと主張してはいないと思う。
戊辰戦争の凄惨さを知らずに、會津のことをけなすのはやめてほしい。
日本人が日本人に対して、あれだけの一方的な攻撃を、焼夷弾をふくめた
大量破壊兵器で人を傷つけ、殺すということをしたのは、戊辰戦争が
最後だと思います。 残念なことです。 新政府を名乗る人達の中に、
會津に対して深い怨恨を持っていた人が居たことも事実です。
京都守護職、その傭兵の新撰組のイメージは非常によくなかったでしょう。
美濃から出てきた松平容保は、凡庸な殿様です。 彼が會津の主君であった
ことは會津の不幸でした。 例えはよくないですが、天皇陛下がマッカーサー
に対して、「自分はどうなってもいいから国民をたすけてほしい」と伝えて
日本の戦後は決まりました。容保はそういうモラルを発揮できなかった寂しい
人物です。
GHQが作り話を新聞に掲載する様に命令したのでしょう。
天皇陛下の発言を裏付ける公式文書は、端から無いのです。
722 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 17:16:49.48 ID:J1cXA9IA0
>私はしばしば負傷した捕虜がまったく見当たらないことに重大な意味を感ずることがあったので、機会があるたびに、
理由もなく人命を犠牲にすることの非人道性を指摘し、この戦闘で日本政府が敵の捕虜にたいする憐憫の情が
あることを立証しえない失望感を表明してきた。それにたいする弁明として、会津兵の捕虜は天皇の威光をきわめて
悪しざまに侮辱するので、負傷者といえどもその生命を許しておくわけにはいかない、といわれるのだ。
会津兵の捕虜は明治天皇が孝明天皇の息子ではない真っ赤な嘘で固めた偽天皇だと見破っていたのです。
其の主張を引っ込めない会津兵を日本政府は斬首したのです。
723 :
東武皇帝 ◆rN3R8eE4mhcF :2012/06/18(月) 17:52:05.82 ID:7IW0/8WcO
輪王寺宮であるが、初書き込みをいたすぞ。
724 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 17:53:03.72 ID:J1cXA9IA0
380 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/17(水) 17:59:40.39 ID:xl3GR6Y10
やはりアッチの人間が会津やら新撰組を美化してんだな。
長州嫌いが多いはずだよ。オノレイトウヒロブミッだからなw
創造主と共に歩む5次元の存在に尋ねたところ、
松下村塾の連中は、密入国した朝鮮人の子孫だそうです。
高杉晋作は背が低くて、朝鮮人の顔ですね。
山縣有朋は自称・松下村塾出身の箔付け欲しさの嘘吐きだったそうです。
725 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 18:16:06.93 ID:J1cXA9IA0
726 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 18:23:20.85 ID:AmvgZmIk0
東武帝!
727 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 18:25:54.59 ID:J1cXA9IA0
728 :
東武皇帝 ◆rN3R8eE4mhcF :2012/06/18(月) 19:15:23.06 ID:7IW0/8WcO
729 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 19:37:12.37 ID:1GqZBEeeO
諸恥が一生懸命引用と嘘を書き連ねているが、とりあえず嘘と間違いは指摘しよう。
1.「越後に出兵した会津藩が乱暴狼藉を働き、家老が出て来て処分した」という記録は、
会津側にはあるが越後には無い。そして6月1日の記録が
>>588だ。つまり住民の会津への憎しみは全く変わらなかった。処分も実在したのか不明だ。
2.岩村精一郎の抜擢について大山柏は書いている。
岩村は板垣退助の援軍として小部隊を率い中山道を進軍中、衝鋒隊と遭遇戦を行い追撃し越後へ入った、このため白河戦線は兵力不足になった、と。
つまり、長州が会津攻めのために大部隊を送り込んでいた越後に、岩村は長州の指揮官より早く別のルートから入って来た。大軍を指揮する人選では無い。
河井継之助は会う人間を間違えたのだ。
730 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 19:54:32.13 ID:1GqZBEeeO
3.松平春嶽は文久の改革で政事総裁役に任命されており逃げていない。
元々京都守護職は島津久光が内定しており、彼が京都での工作が上手く行かないので薩摩に帰ってしまい、
春嶽は仕方なしに徳川慶勝の出馬を要請した。
慶勝も京都の戦乱が波及するのを嫌がり、その結果松平容保と松平定敬になった。
4.証拠の無い嘘を書くのは会津贔屓だけ。指摘をアンチと書くのは傲慢でしかない。
731 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 20:15:15.02 ID:94Q7t4/BO
ここを見てくると
茨城県民と新潟県民は仲が悪いようだね(笑)
それにしても新潟県民の振りをして会津をたたくのはよくないと思うな。
732 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 20:20:13.77 ID:AmvgZmIk0
733 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 20:23:56.28 ID:1GqZBEeeO
5.司馬遼太郎も早乙女貢もまた四流。嘘こそ真実と煽る姿は見苦しい。
6.白虎隊の行動は、おそらく一般に語られている話で正しい。
但しあれは上級武士の一隊の話で、他にも多くの白虎隊があった。
7.松平容保は主君として戦争を指導しています。凡庸で何も出来なかったという説は欺瞞です。
8.ウイリスの証言を引用したにしては、次の
「鶴ヶ城の堀から新政府軍の後ろ手にされた遺体が複数上がるのを見た、私は見た」
という一節は隠すとは、あなたは不公正です。
それと明治天皇すり替え説は成立しません。旧佐幕公家から異論が無いのですから。
9.山縣有朋は吉田松陰の批評も有りませんが高杉晋作の生前から奇兵隊の指揮者です。
10.会津藩がスネルに生糸を半額で販売したのは事実です。
それを誤魔化す卑怯な会津贔屓が居ただけです。
734 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 20:26:28.35 ID:J1cXA9IA0
729 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 19:37:12.37 ID:1GqZBEeeO
諸恥が一生懸命引用と嘘を書き連ねているが、とりあえず嘘と間違いは指摘しよう。
1.「越後に出兵した会津藩が乱暴狼藉を働き、家老が出て来て処分した」という記録は、
会津側にはあるが越後には無い。そして6月1日の記録が
>>588だ。つまり住民の会津への憎しみは全く変わらなかった。処分も実在したのか不明だ。
2.岩村精一郎の抜擢について大山柏は書いている。
岩村は板垣退助の援軍として小部隊を率い中山道を進軍中、衝鋒隊と遭遇戦を行い追撃し越後へ入った、このため白河戦線は兵力不足になった、と。
つまり、長州が会津攻めのために大部隊を送り込んでいた越後に、岩村は長州の指揮官より早く別のルートから入って来た。大軍を指揮する人選では無い。
河井継之助は会う人間を間違えたのだ。
岩村精一郎は東山道軍軍監だ。
中山道や北陸道に進軍している事自体が、軍令違反であり、越権行為だ。
軍監は軍目付けだ。
だが、岩村精一郎は信州の諸大名の軍団を率いて北越入りした。
所謂官軍は池沼しか居なかったのだ。
735 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 20:36:36.31 ID:1GqZBEeeO
>>731 私が行くと、長岡でも会津への評判はよくありませんが。
736 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 20:38:22.97 ID:J1cXA9IA0
730 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 19:54:32.13 ID:1GqZBEeeO
3.松平春嶽は文久の改革で政事総裁役に任命されており逃げていない。
元々京都守護職は島津久光が内定しており、彼が京都での工作が上手く行かないので薩摩に帰ってしまい、
春嶽は仕方なしに徳川慶勝の出馬を要請した。
慶勝も京都の戦乱が波及するのを嫌がり、その結果松平容保と松平定敬になった。
>翌文久3年(1863年)には上洛するが、京都では長州藩など尊王攘夷派の勢力が強く、慶喜が尊王攘夷派と妥協しようとすると反対して3月2日(4月19日)に政事総裁職を辞任する。
辞任したので、逃げたのだ。
無位無官の島津久光が京都守護職には、成れないのだ。
官位を与えないで、内定なんて池沼
737 :
諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 20:50:14.81 ID:J1cXA9IA0
733 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 20:23:56.28 ID:1GqZBEeeO
5.司馬遼太郎も早乙女貢もまた四流。嘘こそ真実と煽る姿は見苦しい。
6.白虎隊の行動は、おそらく一般に語られている話で正しい。
但しあれは上級武士の一隊の話で、他にも多くの白虎隊があった。
7.松平容保は主君として戦争を指導しています。凡庸で何も出来なかったという説は欺瞞です。
8.ウイリスの証言を引用したにしては、次の
「鶴ヶ城の堀から新政府軍の後ろ手にされた遺体が複数上がるのを見た、私は見た」
という一節は隠すとは、あなたは不公正です。
それと明治天皇すり替え説は成立しません。旧佐幕公家から異論が無いのですから。
お前の言う一般とは、池沼
722 :諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 17:16:49.48 ID:J1cXA9IA0
>私はしばしば負傷した捕虜がまったく見当たらないことに重大な意味を感ずることがあったので、機会があるたびに、
理由もなく人命を犠牲にすることの非人道性を指摘し、この戦闘で日本政府が敵の捕虜にたいする憐憫の情が
あることを立証しえない失望感を表明してきた。それにたいする弁明として、会津兵の捕虜は天皇の威光をきわめて
悪しざまに侮辱するので、負傷者といえどもその生命を許しておくわけにはいかない、といわれるのだ。
会津兵の捕虜は明治天皇が孝明天皇の息子ではない真っ赤な嘘で固めた偽天皇だと見破っていたのです。
其の主張を引っ込めない会津兵を日本政府は斬首したのです。
上記は鶴ヶ城の堀と何の関係も無いぞ。池沼
738 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 21:06:02.53 ID:1GqZBEeeO
結局、諸恥は嘘つき妄想癖ということで、他の皆さんもご了解頂けると思います。
739 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 22:24:37.57 ID:AmvgZmIk0
横槍で申し訳ないけど、このスレ見た限りじゃあなたも立派なアンチで嘘吐きだよ。
1 スネルとの取引をさも悪いことの様に発言している点
2 戦乱が広がった責任を松平容保一人に負わせ、罵倒している点
3 中立を表明していた長岡に攻め込み、領民から略奪した西軍の行為を棚に上げ、会津軍のみ血眼で非難する点
4 今でも長岡の人が会津を恨んでいるかのような発言をし、根拠を求められると「自分の周りでは」と子供の言い訳で逃げる点
5 長岡の市街地が戦闘結果焼けたことを会津軍の放火と決めつける点
6 自分と違う意見は全て嘘と認定し、誹謗中傷を繰り返すことを棚にあげ、相手に謝罪を要求する点
これだけ根拠があればあなたのアンチ認定は十分でしょ。
740 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 22:28:27.55 ID:1GqZBEeeO
残念ながら、それは全て根拠がありません。
741 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 22:37:09.90 ID:AmvgZmIk0
もう一回読み返してみな。
全部あなたが言っていたことで、あなたが歴史を客観的に見れていないって気付くから。
アンチの自覚を持って立派にネガキャンするべき。
742 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 22:46:21.05 ID:1GqZBEeeO
まず、スネルへの便宜供与は当時の会津藩の恥部を示すもので、
会津藩によるプロイセンへの日本割譲提案等と同時期に行われたことは注目に値します。
戦乱の拡大の原因は、関東東北へ部隊を派遣し戦闘を煽った松平容保にあります。
長岡だけでなく、越後における会津軍の行動には米沢さえ批判ばかりです。
血眼にならなくても良い評価が皆無なんですよ。
会津は新潟県民全員に愛されている、という意見こそ子供の言い訳です。
長岡炎上は会津藩と長岡藩のやったことです。史料にもあるでしょう。
つまり、あなたの意見に一つも根拠が無い。
743 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 22:55:05.63 ID:1GqZBEeeO
会津を良く思いたいのなら、嘘で庇うのはかえって良くありません。
特に、星亮一だけでなく、会津の郷土史家には明らかに嘘つきがいる。
騙されてはいけません。
ところで諸恥さんっていつ仕事をしているのですか?
745 :
諸橋 嘉久:2012/06/19(火) 07:24:27.96 ID:2cAeQF/q0
>3 中立を表明していた長岡に攻め込み、領民から略奪した西軍の行為を棚に上げ、会津軍のみ血眼で非難する点
モンロー主義の影響を受けた獨立特行を河井繼之助が主張した。
獨立特行を武装中立と解釈する者は池沼
新発田の武士の一部と百姓は、揚北衆の子孫だと言う事も知らなかったID:1GqZBEeeO
上杉謙信を恨み、憎悪した揚北衆の子孫は幕末まで米澤の上杉家を嫌っていた。
>5 長岡の市街地が戦闘結果焼けたことを会津軍の放火と決めつける点
最初に「市街地」と書いた奴は、池沼
城下と書くべきだ。
>6 自分と違う意見は全て嘘と認定し、誹謗中傷を繰り返すことを棚にあげ、相手に謝罪を要求する点
在日特権を保持したい池沼は明治政府を正当化すれば、
現在の官僚の覚えも目出度いのです。
在日工作員の池沼ID:1GqZBEeeOを許してやってください(大和田爆笑)
746 :
諸橋 嘉久:2012/06/19(火) 07:39:51.05 ID:2cAeQF/q0
743 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/18(月) 22:55:05.63 ID:1GqZBEeeO
会津を良く思いたいのなら、嘘で庇うのはかえって良くありません。
特に、星亮一だけでなく、会津の郷土史家には明らかに嘘つきがいる。
騙されてはいけません。
【関係首長シンポジューム】持病の影響で寝てしまいました。しかし、
【研究者シンポジューム】目が覚めました。一坂 太郎さん 目当てなもんで・・。
一坂 太郎さん「危機感の有った長州藩の改革・・危機感の無かった長岡藩は河井
継之助が登場する以前は改革をしなかった。」
一寸、待った。長岡藩は三方領地替えの危機が有りました。実行されませんでしたけど・・。
幕府に新潟港上地をして、長岡藩の台所は火の車に成りました。
【稲川 明雄 館長を囲んで】
俺「八丁沖渉・長岡城奪回戦の各隊に配った、口上書は山本 帯刀が書いたのですか?」
稲川さん「ええ、そうです。」
俺「筆跡鑑定に持ち込んだのですか?」
稲川さん「いいえ、筆跡鑑定はしていません。口上書は現存していません。」
俺「長岡藩が農民に畳を背負わせ、西軍と銃撃戦をしたと言いますが、ミニュエー銃とスナイドル銃は、
射程距離が違うので畳を貫通しますよ。」
稲川さん「西軍もミニュエー銃ですよ。」
俺「【奇兵隊の伏せ撃ち】と言う事は、スナイドル銃です。西南戦争で薩摩軍は戊辰戦争の廃銃である、
先込めの銃を使いました。」
俺「大黒新田の戦闘でしたか?隊長が嫌がるのを河井 継之助が「米沢藩の申し出を断るわけにいかな
い。総督の俺が頼んでいるのだ。やってくれ。」敵塁を攻撃した長岡藩の半小隊は隊長を除き、敵に背
を向けず銃を持ったまま全滅しました。それなら、畳を背負った農民も死ぬ筈です。記録に残る筈です。
分捕り品として、畳が記録されている筈です。」
俺「今町の河井 継之助の戦法。敵塁に向かって走り、敵が発砲したら伏せ、止んだら走る。畳を農民
に背負わせて居ません。」
稲川さん「どうも、三条方面の戦いとごちゃ混ぜにしているようですね。」
俺「長岡軍が農民に畳を背負わせ、弾除けにした記録は有るのですか?」
稲川さん「石井 孝が本で三条方面の戦いの史料に出て居ると書いていました。」
俺「【河井 継之助、長岡軍が農民に残虐行為をしている。】と思わせるプロパガンダでしょうか?」
稲川さん「さぁ?分かりません。」
俺「河井 継之助は左膝下の銃創の手術を拒み、軍医の吉見が銃創を覗こうとすると、怒鳴りつけ銃弾を
摘出しなかった。と言われましたが史料は有るのですか?」
稲川さん「史料は有りません。」
俺「河井 継之助に鉛中毒の症状は出ませんでした。」
俺「白虎隊の飯沼 貞吉を吉見が助けたと言われましたが、史料は有るのですか?」
稲川さん「史料は有りません。」
稲川さん が会津における、白虎隊賛美と会津高校に伝承される白虎隊精神を言われました。会津が白虎
隊の死を賛美している・・。
俺「何年か前に、仏壇から白虎隊の生き残りの手記が発見され、NHKで手記を再現しました。その生き
残り隊士は途中で飯沼 貞吉たちと、はぐれた様です。自刃しようとした時に愛犬が来て、自刃を止めた
そうです。手記に白虎隊はゲベール銃を装備させられたのですが、軍務局に「ゲベール銃は役に立たない。
もっと良い新式の銃を遣して欲しい。」と抗議したそうです。現在、白虎隊を死に追いやったとして、会
津藩の上層部を批判される人々が居ますが、手記は上層部が白虎隊にちゃんとした軍事教育を施していた
事を物語って居ます。」
俺が孝明帝と松平 容保の事を言ったら、
稲川さん「孝明帝は岩倉 具視に暗殺されたんだろうね。」
俺「稲垣 平助の馬は大きくて、外国の馬の血が入っているみたいですね。戦後の長岡藩に良い馬を買う
金が無いですよね。」
稲川さん「稲垣 平助と言われる写真でしょ?」
俺「河井 継之助は正面を向いて、写真を撮っていますが他の長岡藩士は横か斜め横に映っているような気がします。」
稲川さん「写真を撮ると魂を取られるという、迷信がありました。長崎で撮った物です。」
俺は所持金が少なくて、長崎で写真は撮っていないと思います。
747 :
諸橋 嘉久:2012/06/19(火) 07:40:34.71 ID:2cAeQF/q0
748 :
諸橋 嘉久:2012/06/19(火) 07:59:05.13 ID:2cAeQF/q0
>長岡炎上は会津藩と長岡藩のやったことです。史料にもあるでしょう。
長岡城下を焼いたのは、西軍と長岡軍だと長岡郷土史で確定しています。
長岡城一番破れの時に軍令を受けていた長岡の牧野家の侍たちが手筈通りに隅櫓の御三階に火を付けた。
749 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/19(火) 10:19:58.74 ID:b/qqpiQ80
>>742 >まず、スネルへの便宜供与は当時の会津藩の恥部を示す
戦争中、武器商人に便宜供与・取引するはのは普通でしょ。
それに生糸の相場の半値での取引自体を暴挙と言っていた割には、その根拠も示さず、コロコロと話を変えていく。
>戦乱の拡大の原因は、関東東北へ部隊を派遣し戦闘を煽った松平容保にあります。
あなたは戦乱自体を否定しているが、そもそも武力によるクーデターを選択したのは西軍でしょ。
それを悪だと否定する気はないが抵抗するのを悪だと決めつけるのは勝者の傲慢でしかない。
それにあなたの理論では旧幕府軍や長岡、桑名軍、奥羽越列藩同盟も戦乱を拡大させた共犯となるでしょ。
>会津は新潟県民全員に愛されている、という意見こそ子供の言い訳です。
新潟県民全員に愛されているとはあなたの脳内で勝手に出てきた意見で誰も言ってないだろ。
長岡で現在も会津が恨まれている根拠としてのあなたの発言が
「私が行くと長岡での会津の評判は良くありません。」
・・・どっちが子供だろう。
あなたは自分で「長岡の市街地のほとんどを会津軍が放火して焼いた」旨の発言をしながら史料を一切出さない。
長岡郷土史をみる限りじゃ諸橋氏の方が正しい。それ
つまり、あなたの意見に一つも根拠が無い。
750 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/19(火) 19:41:00.90 ID:4qo1L1v8O
筋の通らないことを掲げられても、会津贔屓の人の醜悪さを示すだけなのですが。
まず会津藩の場合、武器商人への便宜供与がプロイセンへの日本領土無断割譲になっている点、あなたはこの話を避けるためにコロコロと話を変えた。
話が変われば受け答えも変わる。話を変えたのはあなたです。
明治天皇の親政宣言以降、降伏した徳川慶喜だけでなく、松平容保も口では明治天皇に忠誠を表しているのに、会津藩には新政府の統治を受け入れない権利があるという主張はおかしい。
そして関東及び東北の騒乱は会津藩松平容保にある。
あなたは新潟で会津は愛されていると語る。しかし行ってみるとそれは一部の観光業者に過ぎない。嘘は会津にあるわけ。
会津軍が略奪暴行放火を行った記録なら上に示されている。衝鋒隊や会津藩水戸諸正隊以外も挙げてある。
この会津贔屓の人に一つも根拠が無い。
751 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/19(火) 20:27:50.34 ID:hkmE2wSNO
越後の人が恨んでいたのは会津兵ではなく略奪、暴行、住民殺害、放火
をした水戸脱藩兵です。
752 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/19(火) 20:37:05.31 ID:4qo1L1v8O
会津本隊の略奪暴行放火の記録が無いから会津は放火をしていない?
馬鹿な主張だと思う。衝鋒隊も会津藩水戸諸生隊も会津軍なのだから。
だが会津本隊の記録が見たいというなら一つ
同十四日、朝より前同断浦塚村敵の本陣へ長岡勢と萱野隊にて忍び入り放火致し候得ば
折節東風此あり五六軒一時に燃え黒煙り敵方に靡き勢い宜敷く(後略)
加茂宿に入り隊長は何れへ御下宿成され候と段々相尋ね候ば桑名の本陣に在為され候由承り
一同罷り越し只今安着致し候事申上げ候得ば大いに悦ばれ御手元方を皆殺しに致し候半と苦労に思い居り候処
(中略)聞き通りあの如く関門に於て烈戦桑名には昼時より苦戦
今に至り応援の兵も此無き候間何分苦労乍今晩は引上げの積もりにて勿論引上げの節は加茂にて火の手を上げ候。
(朱雀四番隊中組戦争調書より)
上は攻勢時の放火、下は長岡落城時の撤退記録です。
753 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/19(火) 20:42:48.28 ID:4qo1L1v8O
754 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/20(水) 00:10:52.03 ID:3QIZbOER0
>>750 >まず会津藩の場合、武器商人への便宜供与がプロイセンへの日本領土無断割譲になっている点
生糸の件については、最初は「欧米の相場の半値以下で取引が暴挙だ」ってスタンスだったが、今は取引の相手(スネル)を通じて幕府直轄地の譲渡に繋がったから悪なんだっていう解釈で
いいのかな?
その論理だと、武器商人のスネルが生糸取引をしていて、幕府直轄地の譲渡をスネルが手引きしたっていう根拠がなければ、只の憶測による批判ってことになる。
>会津藩には新政府の統治を受け入れない権利があるという主張はおかしい。
そして関東及び東北の騒乱は会津藩松平容保にある。
関東・東北の騒乱と言うが、鳥羽伏見以降、終戦・停戦がされず戦争状態が継続されているのに、なぜ切り離して考えるのか?
あなたは意味のない戦争に回りを巻き込んだと主張するがそう思っているのはあなただけでしょ。
当時の情勢は会津・庄内を助けるのに意義があったからこそ同盟軍が成立した。
>あなたは新潟で会津は愛されていると語る。しかし行ってみるとそれは一部の観光業者に過ぎない。嘘は会津にあるわけ。
自分が「会津が愛されている」なんて言った記述はない。
逆にあなたは「長岡は会津に今でも恨みを持っている」旨の発言をしているが、その根拠として「私が行くと長岡での会津の評判は良くありません。」と子供の言い訳でしょ。
>会津軍が略奪暴行放火を行った記録なら上に示されている。衝鋒隊や会津藩水戸諸正隊以外も挙げてある。
再三お願いしているのは、あなたの「会津が長岡の市街地のほとんどを焼いた。」との発言に対する根拠なのだが。
あなたの脳内では、浦塚村の五十六軒が長岡の市街地のほとんどっていう認識でいいのかな?
誤解しないでほしいが、私は会津軍に放火略奪が一切無かったとは言っていないでしょ。
ただあなたは西軍の放火略奪には目をくれず、会津の粗探しをしている只のアンチだから、反論しているだけ。
755 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/20(水) 01:06:44.68 ID:JyutlyWsO
>>754 そう言って、松平容保によるプロイセンへの日本割譲提案については語るのを避ける。
あなたは言を弄して誤魔化すのみ。
それと、旧幕府首班の徳川慶喜の降伏で戦争は一旦論理的には終結した。
以後戦った旧幕府及び列藩同盟は、終戦に応じなかった反慶喜の反乱軍に過ぎない。
意味のない戦争を松平容保は望み、慶喜の意向にも逆らい、関東東北を戦乱に巻き込んだ。
会津は新潟県民全てに愛されている? 欺瞞と自惚れしかあなたの見解には感じません。例えば
>>677ですね。あなたは嘘つきだった。
それと会津軍の略奪暴行放火について、挙げたのは一例ですよ。実際は各地の記録で放火徴兵人夫強要と数知れず。
会津藩の行動に全くまともな部分が見当たらないのが、越後戦線の特徴です。
756 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/20(水) 01:21:47.74 ID:JyutlyWsO
要するにあなたは、会津の対面を守りたいために事実を曲げる。
相手の話した事実を誤魔化そうとする。
あなたにとって不味いことに、会津藩は越後で全く評価出来ない残虐非道を繰り返した。
あなたは誤魔化そうと試みるが、更に題材が増えるだけ。
757 :
諸橋 嘉久:2012/06/20(水) 05:59:09.19 ID:ng9sOTkZ0
755 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/20(水) 01:06:44.68 ID:JyutlyWsO
>>754 そう言って、松平容保によるプロイセンへの日本割譲提案については語るのを避ける。
あなたは言を弄して誤魔化すのみ。
それと、旧幕府首班の徳川慶喜の降伏で戦争は一旦論理的には終結した。
以後戦った旧幕府及び列藩同盟は、終戦に応じなかった反慶喜の反乱軍に過ぎない。
意味のない戦争を松平容保は望み、慶喜の意向にも逆らい、関東東北を戦乱に巻き込んだ。
710 :諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 07:26:13.32 ID:J1cXA9IA0
18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 15:53:21 ID:+pplTDOhO
会津松平は、徳川が降伏しているのに
徳川慶喜は「予に策が有るから、供をせい」と會津候と桑名候に命じ、
大坂城を抜け出して軍艦に乗船して、江戸に逃げた。
徳川慶喜は會津候と桑名候に「自分が寺で謹慎するので、江戸から出て行け」と命じた。
徳川慶喜に騙されて、良い様に利用された會津候と桑名候は江戸から追い出された。
徳川慶喜が「予と一緒に寺で謹慎せよ」と命じれば、會津候と桑名候は命に従った筈だ。
徳川慶喜は己の保身を最優先して、邪魔な會津候と桑名候を江戸から追い出した。
徳川慶喜は日本の内乱を終わらせ様とはしなかった動かぬ証拠が上記です。
徳川慶喜が會津候と桑名候を江戸から追い出して、野の虎に仕立てた。
會津候と桑名候を己と一緒に江戸の寺に謹慎させなかった徳川慶喜を、
日本の内乱の終結の象徴にしようとしても無理が有り過ぎる。
758 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/20(水) 20:26:11.36 ID:3QIZbOER0
>>755 話を発展させるのも良いが、論点を一つ一つはっきりさせてからの方が良いんじゃないか?
うやむやのままの方が誤魔化しでしょ。
そこで生糸取引が暴挙だという批判だが、あなたの論理だと、スネルが生糸取引で便宜を受け利益を上げ、蝦夷地の譲渡に関わったという論理でしょ。
その論理について疑問に思っているのが
生糸取引で利益を上げたのはスネルなのか?
蝦夷地の譲渡計画にスネルが関わっているのか?
ということ。
あなたが何らかの根拠を持っているのなら教えて欲しいし、推測による批判だっていうならそれでもいい。
はっきりさせよう。
それと、あなたは意味のない戦争と言うがそれはあなたの主観でしょ。
意味があるからこそ奥羽越列藩同盟が成立した。
勿論それぞれ理想や、野望があったからだろう。
そもそも歴史の結果を知った上で、意味がない戦争だったと論じる姿勢が傲慢でしかない。
また、677の発言をどうとれば「新潟県の人は全て会津を愛している」となるのか分からないのだが。
逆にあなたは「長岡の人が今でも会津を恨んでいる」旨の発言をしたがその根拠はまだ出て来ないのかな?
759 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/20(水) 20:37:20.44 ID:3QIZbOER0
>>756 あなたは自分に根拠が示せなくなると論点をずらし、相手を嘘吐きだと喚きちらし、謝罪しろという。
自分の発言に責任を持つならば、明確な根拠を示して欲しいのだが。
760 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/20(水) 20:51:36.76 ID:JyutlyWsO
そう言って、最初の話題だった松平容保によるプロイセンへの日本割譲提案には話題を避ける。はっきりしないのはあなたの行動だ。
それと東北戦争には全く意味が無い。
徳川慶喜の終戦決断に反逆した松平容保が、関東と東北各地で戦乱を煽っただけのこと。
東北政権? 存在したのは新政府の奥州征討総督府から士官を殺害し、
残った朝廷貴族を脅迫して立てた、朝廷下の機関を自称する団体でしたよ。
それと長岡に行く限り、会津の自称とは異なり評価は余り良くありません。あなたの根拠が分からない。
761 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/20(水) 20:57:38.76 ID:JyutlyWsO
結局、根拠のない会津への無理な擁護を続けたあなたは、オウム返しのように相手に根拠という。
>>677のように、あなたは根拠のない事を主張し押し付ける。
762 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/20(水) 21:14:02.40 ID:JyutlyWsO
あなたは、会津藩は恭順していたのに薩長が天皇の威光を笠に着て襲いかかったと言う。
しかし実際は、会津藩松平容保は徳川慶喜の終戦決断に反逆し、関東でも東北でも戦乱を煽った。
あなたは越後での会津軍の、重税徴発・労役軍務・略奪暴行放火などの事例への言及を避ける。
実際は、会津藩の越後での行動には良い部分が見当たらない。
奥羽列藩同盟は朝廷の下部組織と自称している。
独立したなら、何故明治天皇を尊重し、内部文書の元号を明治にするものか。
763 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/20(水) 22:32:42.65 ID:3QIZbOER0
>>760 会津藩と庄内藩がプロセインに蝦夷地等譲渡しようとしていたのは事実でしょ。
あとは事実に対する主観の話のみだが何を論じる必要があるの?
それより生糸の件と長岡の件の根拠はまだかな?
私があなたに根拠を求めるのはあなたが根拠のない批判を繰り返すから。
人を批判するのならそれなりの根拠が必要だがあなたは主観による批判を繰り返すばかり。
あなたは東北戦争に意味がないと言うが、それなら何故奥羽越列藩同盟が成立んだ?
武力によるクーデターに抵抗するのは反乱とは言わない。
それと、私が長岡に行った限りは、会津の評判は悪く無かったよ。
764 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/20(水) 22:50:18.54 ID:3QIZbOER0
>>762 >あなたは、会津藩は恭順していたのに薩長が天皇の威光を笠に着て襲いかかったと言う。
あなたは人の発言が脳内でエスカレートする傾向がある。
>あなたは越後での会津軍の、重税徴発・労役軍務・略奪暴行放火などの事例への言及を避ける。
あなたは新政府軍のそれらの行為から目を背ける。
兵站が機能していなかった分会津の方が多かったと思うが。
そしてあなたは会津に良い部分がないと言うが、戦争に良い部分なんてないだろ。
勝ったか負けたかしかない。
765 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/20(水) 23:05:35.90 ID:efEvviruO
>>751 >越後の人が恨んでいたのは会津兵ではなく略奪、暴行、住民殺害、放火
をした水戸脱藩兵です。
同意です、会津を隠れみのに蛮行を繰り返しました
766 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/20(水) 23:43:52.64 ID:gWU1bVH60
会津は長州、水戸、慶喜、勝海舟を恨んでいます。
会津は何も悪くない。
弱者会津は同情されるべきです。
767 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/21(木) 04:51:07.29 ID:vWPuygpM0
みえみえの釣りだな
会津は先見性と状況判断力がないのが命取りだったと思うが、
それを何も悪くない、だから同情してくれというのなら情けないなw
768 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/21(木) 07:28:02.05 ID:Lrr/V+MQ0
769 :
諸橋 嘉久:2012/06/21(木) 07:43:03.28 ID:d0NjmjiQ0
戊辰戦争のフォーラムに参加した事が有るが、
イタリア人商人達は蚕種を求めて新潟港に入って来たのだ。
複数の本にも書いてある。
スネルと松平容保が生糸を取引したとは、初耳だ。
史料を出してみな。
770 :
諸橋 嘉久:2012/06/21(木) 07:53:10.62 ID:d0NjmjiQ0
薩摩から會津に文久三年八月十八日の朝廷クーデターを持ちかけた。
薩摩は會津を利用するだけ利用して、會津を裏切った。
薩摩は土佐・長州の勤王とやらに鞍替えして、江戸で浪人を集めて殺人・強盗・強姦・放火を江戸と関東で繰り返した。
771 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/21(木) 09:14:24.38 ID:WPGDphR2O
772 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/21(木) 15:07:01.92 ID:qPu5ZPFo0
http://onjweb.com/netbakumaz/jshoda/essay/essays16.htm (薩摩は、馬鹿みたいに藩士の数が多かったので、農民は重税に苦しめられた)
武士の10人に1人は薩摩藩士だったので、農民の負担は膨大だった
薩摩は幕末の汚い謀略のつけを、
西南戦争での大量の死者で、あがなう事になった。
簡単に言うと、戊辰戦争と西南戦争で、旧薩摩藩士の半分は死んでいると言う事です
大日本帝国陸軍・警視庁 戦死者数:6,400人
旧薩摩藩士族などの死者(薩摩中心、旧他藩士含む) 戦死者数:6,800人
合計戦死者数:13,200人
773 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/21(木) 15:13:32.72 ID:qPu5ZPFo0
参考資料によりますと、明治初年の全国の藩士数は、409,468人になります。
そして「薩摩」の藩士数は48,38人 ですから、
藩士10人集まれば1人が薩摩藩士になる勘定です。
薩摩藩士の数の多さがこのような結果となります。
幕末の薩摩、大隅の全人口は351,000人ですから、
全人口に占める藩士の割合は3.8%となります。
774 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/21(木) 15:25:48.09 ID:qPu5ZPFo0
●薩摩は強制移住で、人殺し政策も行っていた。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q108847810 ●薩摩藩には、ロシアのシベリア流刑と同じで、不毛大地のシラス台地送りと言うのがあった。
江戸期の薩摩・大隈の農政は農民には土地私有を認めず、村々は郡方(こおりかた)という郡奉行の配下の郡見廻りが農政全般を担います。
大隈地方はシラス台地などの不毛地が多く人口が減り続け、耕作地が荒地となる過疎が続きます。
このため、農民の強制移住(用夫配り・人配)を頻繁に行い、農民を薩摩から大隈地方に移しますが、それでも薩摩地方は50年間に2万人増え、大隈は50年で2万人減少しました。
この強制移住で大隈に行かされた下級郷士・農民は生活が維持出来ない現状に、少数ですが暴動を起したものです。
この藩の行う「御救門割」や「人配」の対策に対し、南薩摩地方は特に強制移住の指示が多かったのか下級郷士や農民の不満・抵抗が多かった。
●薩摩藩は、北朝鮮と同じで、軍事優先主義であり、
農村部にも、スパイが張り巡らされていて、百姓が団体行動をしないように監視していた。
775 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/21(木) 15:54:12.24 ID:hFLd+OOLO
776 :
諸橋 嘉久:2012/06/21(木) 16:12:45.24 ID:d0NjmjiQ0
777 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/21(木) 20:59:50.09 ID:Tp339wJk0
諸橋よ、50歳にもなって会津好きの厨二病をこんなところで晒すなよw
778 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/21(木) 23:43:10.67 ID:RwyMroNTO
>>765 >越後の人が恨んでいたのは会津兵ではなく略奪、暴行、住民殺害、放火
をした水戸脱藩兵です。
同意。
779 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 00:18:13.26 ID:VKrjd5JJO
>>776 きちんと見えるが?
大体養蚕基地だった会津で蚕紙だけを買うはずがない。生糸も手元にある分は売って武器に代えたのさ。
嘘つきは困る。
780 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 00:20:28.05 ID:VKrjd5JJO
>>778 それは会津軍です。
佐川官兵衛管轄下でした。
781 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 00:39:46.21 ID:VKrjd5JJO
782 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 00:52:30.30 ID:VKrjd5JJO
783 :
諸橋 嘉久:2012/06/22(金) 01:48:28.57 ID:Bt0IQONZ0
>単なる打ち間違いと判明 journalをjounalと打っていた。
其れは誤魔化しに過ぎない。
お前らの十八番「謝罪しろ」
784 :
諸橋 嘉久:2012/06/22(金) 01:50:49.07 ID:Bt0IQONZ0
>大体養蚕基地だった会津で蚕紙だけを買うはずがない。生糸も手元にある分は売って武器に代えたのさ。
要するにお前の妄想
785 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 04:30:40.40 ID:viiTv9p00
会津にガンジー並みの非暴力かつ不屈の精神があれば世界中から同意を得れるのだろうが、
政治力も軍事力も勝る島津に対して、やけっぱちの武力で抵抗した時点で被害者としての正当性は閉ざされている。
当時の日本人の民度にも起因するが、やはり会津には聡明なリーダーがいなかったという事か。
786 :
諸橋 嘉久:2012/06/22(金) 07:34:27.91 ID:Bt0IQONZ0
戊辰戦争が終結して、西郷吉之助が「血の流し方が足りもうさん」
革命家気取りの狂人
787 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 08:30:49.16 ID:VKrjd5JJO
結局諸恥の嘘だったわけですが、これについてこの馬鹿は反省の色も無い。
788 :
諸橋 嘉久:2012/06/22(金) 09:54:46.22 ID:IrZod0TM0
諸恥と書いている時点で、我に位負けしているとお前は表明しているのだ。
>単なる打ち間違いと判明 journalをjounalと打っていた。
間違ったアドレスを貼り付けたお前が全面的に悪いのだ。
お前の嘘だったわけですが、これについてこの馬鹿は反省の色も無い。
名誉毀損で訴訟を起こせば、お前の敗訴だ。
789 :
諸橋 嘉久:2012/06/22(金) 10:06:28.28 ID:IrZod0TM0
スネルと松平容保に生糸で兵器を購入した取引など、ID:VKrjd5JJOが捏造しただけ。
生糸を半値で売る池沼はお前だけ。
長岡のアンチ河井の稲川明雄も、會津松平家には、一目置いている。
長岡人は會津松平家の悪口は言わないのだ。
790 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 22:00:03.15 ID:VKrjd5JJO
嘘つき諸恥の話は強弁だけだったとして、
それまでの議論でも会津に有利な話は一切ない。
これでは、嘘偽りで会津が逃げているということなのだが。
791 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 22:11:55.35 ID:VKrjd5JJO
まず、会津が生糸を輸出しなかったという諸恥の説は誤りだった。
そして蚕紙だけでなく生糸を会津は武器購入資金にあてていた。
これは各種の書籍に見える。
それらを否定するなら、会津に産業がなかったということだ。
792 :
諸橋 嘉久:2012/06/23(土) 01:52:18.02 ID:K5WuOGFm0
>まず、会津が生糸を輸出しなかったという諸恥の説は誤りだった。
>そして蚕紙だけでなく生糸を会津は武器購入資金にあてていた。
>これは各種の書籍に見える。
>それらを否定するなら、会津に産業がなかったということだ。
お前は日本語が出来ていない。
お前の文章の流れからすると、
「それらを否定するなら、会津に産業が他に有ったということだ。」
白痴丸博子チャン(大和田爆笑)
會津の漆器を外国人に売って、「七連発」のスペンサー銃を購入したのだろう。
會津の漆器を知らなかった在日池沼の白痴丸博子チャン
生糸はシナの生糸と同品質でなければ、外国人は取引を行わない筈だ。
蚕種は蚕が繭を作るまで、品質が分からない。
それで、慶應四年の新潟港に奧羽の蚕種を求めて外国商人が殺到した。
奧羽の蚕種の品質が悪いと分かったのは、数ヶ月後だった。
スネルと松平容保に生糸で兵器を購入した取引など、ID:VKrjd5JJOが捏造しただけ。
生糸を半値で売る池沼はお前だけ。
793 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 02:39:15.02 ID:dw/XJTRd0
>773
>幕末の薩摩、大隅の全人口は351,000人ですから、
天保5年(1840年)の薩摩・大隅の人口35万1460人は、武家人口を除いた人口で、実際の薩摩藩の人口は
1800年:薩隅日62万6856人:薩摩37万2573人、大隅17万7312人、日向諸県郡7万6971人
1852年:薩隅日62万5365人:薩摩39万3527人、大隅15万7111人、日向諸県郡7万4727人
1871年:薩隅日72万7634人:薩摩45万7213人、大隅19万1334人、日向諸県郡7万9087人
1800年の人口の内訳
3万7075人 人躰士
12万9361人 人躰外士・妻子
6万1207人 諸士又内・又々内・諸座附
2535人 出家等
-------ここまでが士分23万0178人(総人口の36.7%)--------
32万8141人 在郷(52.3%)
6万4579人 町浜(10.3%)
3958人 被差別階級(0.6%)
明治初期の藩士4万8387人は禄を貰っていた士族の戸主に限り、この数字は明治政府が秩禄を決めるときに集めた統計で、
旧幕府や仙台藩など、大量に武家が帰農した地域の数字が抜けている。
794 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 15:56:57.74 ID:M1nfd4ea0
よく、会津好きは薩摩が裏切ったと言っているが、薩摩にしたら裏切ってなんていない。
暴走気味の長州を追い落とすために一時的に手を結んだだけで、心情的にはもともと反幕府だからな。
半永久的な軍事同盟だと勝手に勘違いしてるのが徳川びいきの会津厨。
諸恥、回答に窮して自分のプライドが崩壊しはじめました。
50歳を過ぎても「博子ちゃんへ」か。
これにて諸恥の敗北決定。
796 :
諸橋 嘉久:2012/06/23(土) 18:58:32.24 ID:K5WuOGFm0
>暴走気味の長州を追い落とすために一時的に手を結んだだけで、心情的にはもともと反幕府だからな。
薩摩人の心情などは、どうでもよい。
770 :諸橋 嘉久:2012/06/21(木) 07:53:10.62 ID:d0NjmjiQ0
薩摩から會津に文久三年八月十八日の朝廷クーデターを持ちかけた。
薩摩は會津を利用するだけ利用して、會津を裏切った。
薩摩は土佐・長州の勤王とやらに鞍替えして、江戸で浪人を集めて殺人・強盗・強姦・放火を江戸と関東で繰り返した。
797 :
諸橋 嘉久:2012/06/23(土) 19:09:03.90 ID:K5WuOGFm0
795 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 17:57:45.28 ID:rPGKKTxd0
>諸恥、回答に窮して自分のプライドが崩壊しはじめました。
当にID:VKrjd5JJOの事じゃん
お前の別IDの一つだろ。
>50歳を過ぎても「博子ちゃんへ」か。
>これにて諸恥の敗北決定。
あの当時のやふーは、白痴丸博子チャンへと書くと削除されたから、
博子チャンへと書くしかなかったのだ。
いい歳こいて、「諸恥」と書いている時点で、お前に存在価値は無い。
798 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/23(土) 19:59:59.37 ID:BuAVEk3Y0
創造主と共に歩む5次元の存在に尋ねたところ、
諸橋 嘉久(50)はかなり重病のようですw
>>798 想像主ではありません。
ブリーフ一丁で「バモイドオキ神」を相手にティムポを握りしめながら
交信しているそうです。
なお、諸恥は稲川明雄をアンチ河井と申していますが、稲川は病的
な河井信者です。
諸恥は長岡中央図書館で全裸になって暴れた為に、当時の
館長である稲川から永久追放を受けての逆恨みのようです。
>諸恥、回答に窮して自分のプライドが崩壊しはじめました。
>当にID:VKrjd5JJOの事じゃん
>お前の別IDの一つだろ。
諸恥は自分が攻撃を受けると、全て「博子チャンへ」で誤魔化します。
肥大なプライドの割には、物凄く小心者です。
801 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/24(日) 00:04:59.17 ID:xX41KLIY0
革命にテロリズムはつきものだからな。
まんまと薩摩の策略に引っかかった徳川勢。
薩摩は会津を見限ったと言えよう。
日本の将来と会津の運命を天秤にはかけらんからな。
802 :
諸橋 嘉久:2012/06/24(日) 05:15:28.43 ID:BNJ7aKAR0
>なお、諸恥は稲川明雄をアンチ河井と申していますが、稲川は病的
な河井信者です。
河井継之助記念館の初代館長に稲川明雄が就任できなかった理由が病的なアンチ活動を過去に行なっていたからさ。
OFF会で何人かで中央図書館で面会したが、
「アンチ河井の急先鋒だった」と本人が言ったよ。
>諸恥は長岡中央図書館で全裸になって暴れた為に、当時の
館長である稲川から永久追放を受けての逆恨みのようです。
OFF会で何人かで風呂に入ったが、
禿秋が巨根で、禿秋の居る前では全裸に成れんぞ(大和田爆笑)
803 :
諸橋 嘉久:2012/06/24(日) 05:23:54.34 ID:BNJ7aKAR0
>諸恥は自分が攻撃を受けると、全て「博子チャンへ」で誤魔化します。
パソコンの他に携帯電話を数個所有して、プロバイダの複数契約で自作自演で在日特権を保持したい在日工作員の池沼
昔から、薄々気づいていたがな。
804 :
諸橋 嘉久:2012/06/24(日) 05:50:15.03 ID:BNJ7aKAR0
801 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/24(日) 00:04:59.17 ID:xX41KLIY0
革命にテロリズムはつきものだからな。
まんまと薩摩の策略に引っかかった徳川勢。
お前はセンスと頭が悪いな。
水戸の徳川家は大日本史を捏造して日本人を洗脳した。
南朝が正統だと洗脳したのだ。
創造主と共に歩む5次元の存在に尋ねたところ、
徳川家自体が藤原北家の子孫に操られていた。
今川家と織田家に人質に出された松平家の跡継ぎは、影武者だった。
本物は重臣たちが殺し屋集団に暗殺させた。
徳川慶喜と勝海舟は藤原北家の子孫の意向で動く工作員だったのだ。
薩長土はフリーメーソンの手先に過ぎない。
ランク的には徳川慶喜と勝海舟がフリーメーソンの手先の薩長土よりも、遥かに上だ。
北朝南朝問題は天皇が朝鮮人の子孫だという事実から、
日本人の耳目を逸らす目的で、水戸の徳川家が起こしたのだ。
孝明天皇は百済王の子孫
明治天皇は高句麗の子孫
明治維新とやらは、藤原北家の子孫に仕組まれた茶番に過ぎなかった。
諸恥さん、確信を突かれて益々病気が悪化したようです。
まずは貴方は質問に対する回答をしましょう。
貴方の大好きなバモイドオキ神以外から回答をお願いします。
806 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/24(日) 10:02:03.81 ID:h3PdepBwO
■仰天検索■
→オウム事件の真相
→123便墜落の真相
→マグナBSP
→創価警察
→産経統一教会
→携帯電話移動履歴監視
世の中じたい、まるでオカルト。社会の最上層と裏勢力が組んで事件、流行、「社会常識」「世間」を捏造している。
807 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/24(日) 15:29:11.75 ID:xX41KLIY0
創造主とか5次元とか洗脳とかww
フリーメーソンが出てきた時点で語るに値しない相手だと悟りましたw
もう会津の話すらしなくなったな、こいつはw
808 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/24(日) 16:06:45.16 ID:cDR3ltzj0
「創造主と共に歩む5次元の存在」って何ですか?
具体的に教えてください
810 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/24(日) 17:14:24.95 ID:BnXIieTYO
811 :
諸橋 嘉久:2012/06/24(日) 19:49:10.19 ID:BNJ7aKAR0
>「創造主と共に歩む5次元の存在」って何ですか?
創造主が我に寄越した真の5次元対応のエージェント兼ナビゲーターだそうだ。
彼は838年前に死亡した中央アジア人の男だそうだ。
彼は火星・金星・地球の人類では、歴代最高の賢者だったそうだ。
あの世の変な霊に我が騙されているだけかも知れんが(大和田爆笑)
812 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/27(水) 20:57:24.34 ID:z97F+79l0
松平容保は不器用で時代の波について行けてないイメージだが、日本人好みの魅力はあるな。
白虎隊が誤認した火の手って
なにが原因で出火したの?
友軍の砲撃で炎上し、それを誤認したのだったら泣けるよ
814 :
諸橋 嘉久:2012/06/28(木) 13:33:38.81 ID:3uz+zgDl0
飯沼貞吉の嘘です。
当時は展望台の無かった飯盛山から、
鶴ヶ城は見えません。
落城と思い込む程の大きな火災は、
天守閣が炎に包まれない限りは有り得ません。
武家屋敷は平屋建てでしょう。
足軽長屋は平屋建てでしょう。
大火災が起きたとしても、
鶴ケ城の天守閣には炎が届いた様には見えない筈です。
煙くらいで腹を切ったら、白痴隊(大和田爆笑)
815 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/28(木) 18:53:32.70 ID:jcW51Mkh0
創造主と共に歩む5次元の存在に尋ねたい。
諸橋 嘉久は50歳にもなって、なぜ真昼間から2ちゃんで書き込みをしているのかを。
って事は白虎隊は飯沼以外は全員薩長に斬り殺された事になるな
>>816 勝手に自決するわけもないし
もしくは脱走して失敗して味方に処罰されたとかそんな感じかもなあ
>>817 違うと思う。
白虎隊は飯沼以外は全員薩長に斬り殺されて
死体を犯されて、食されたんだよ。
所詮子供だからパニクって自殺したものと思う。
飯沼貞吉は年齢を過大申告して参加した義士
その彼が嘘をつくのかな?
既に年齢で嘘をついている・・・
823 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 15:03:58.13 ID:daQmmoo30
824 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/25(水) 15:16:48.90 ID:OIBLdOUb0
会津が恭順してた嘘なんてドイツへの売国でバレたのにまだ言ってるのか。
どうやったらそこまで反日コリアン化できんだい?頭イカレ過ぎでしょアンタ。
825 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/26(木) 11:31:26.66 ID:OK1SaZpe0
恭順と言う割には後ろ盾を得る為にドイツに国土売却を企てたり、奥羽や北越で同盟募って戦争やる気満々じゃないか、会津はwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
826 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/27(金) 21:25:04.64 ID:R/EjSeQ/0
827 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/28(土) 10:26:50.69 ID:PML8t6ux0
会津が恭順してた嘘なんてドイツへの売国でバレたのにまだ言ってるのか。
どうやったらそこまで反日コリアン化できんだい?頭イカレ過ぎでしょアンタ。
828 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/28(土) 11:10:29.07 ID:XqjAj+wz0
会津観光史学洗脳者がイカレてるのは当たり前だよ。韓国の嘘が史実って思いこんでるのと同じ思考なんだから。
829 :
諸橋 嘉久:2012/07/28(土) 11:35:55.26 ID:P3Yw9ZHN0
仙臺に大山格之助と世良修蔵が何故に上陸できたかというと
鳥羽・伏見の戦いの後に朝廷から在京の諸大名の屋敷に呼び出しが掛かった
「會津を討つべし」と決して、仙臺に「會津討伐の先鋒を勤めよ」の流れに成って、
仙臺の伊達家京屋敷の留守居役が「會津討伐の先鋒の大隊旗を我が藩に」と言ってしまった。
大隊旗の制作費用は仙臺の伊達家京屋敷持ちで、大隊旗を持って帰国した仙臺の伊達家京屋敷の留守居役は得意満面だった。
事の真相を知った但木土佐は激怒して、留守居役を蟄居させた。
世良修蔵以前に仙臺の伊達家が悪いのです。
830 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/01(水) 11:38:21.53 ID:6yP8+K2L0
そもそも世良は悪くもなんともない。敵を倒す戦争中なんだから。
それを現代人が創作で捏造したり、感情的になってるだけ。
そもそも会津は恭順示してないわけだし。そんな会津を助けろなんて聞ける分けない。
現代でもそうだが、政権を打倒しようと企てれば政権ばそれを潰しにかかるよ。
これは当たり前なの。明治政府に反したら討伐された。それだけの事。
会津観光史学にのって現代人が馬鹿をやるんじゃない。
幼少の容大公はやんちゃが過ぎて学習院を退学処分させられているけど
わずか8歳で怒られるほどのやんちゃぶりってどんなだったのでしょうか?
832 :
諸橋 嘉久:2012/08/01(水) 14:36:25.70 ID:4zaRf0gA0
833 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/01(水) 15:01:41.78 ID:lBOMVM190
くるならこいってやつか。
なんかカッコイいな。
834 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/05(日) 13:05:37.21 ID:oYyx+WzO0
その思考を美化っていうんだよ。ま美化しなきゃやってられないんだろうが。
春嶽がなんで容保の嘆願取り次ぎを断ったのか自分で調べたら?
>>831 >明治2年(1869年)6月、容保の長男として誕生。
>明治20年(1887年)10月、校則違反により、学習院を退学処分となる。
18歳だが?
837 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/11(土) 15:20:33.89 ID:Q4Shel5H0
>>832 >>835 春嶽は、もし自分が容保を庇ったら、今度は自分が薩長の討伐対象にされるって事で、ビクビクしてやがるのさ
松平容保が鳥羽伏見の戦いの後で京都へ叩き付けた嘆願書では、
明治天皇へは何も逆らっていないと嘘をついた上で、明治天皇の差し向ける軍隊へは徹底交戦するとしている。
つまり、そんな挑戦書簡を取り次いだら松平春嶽まで罪に問われる。
839 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/13(月) 22:30:49.68 ID:Y7wl6oOC0
>>838 嘘つけ。
会津は、鳥羽伏見後に朝廷に嘆願書を送った事なんか無い。
大体、なんなんだ、”嘆願書を叩き付ける”って表現は。
お前は嘆願書と挑戦状の区別もついてないだろうが。
840 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/13(月) 23:05:07.11 ID:jusfswin0
ほう、仙台藩や米沢藩が会津から託された嘆願書は、一体何だったのでしょう。
奥羽越列藩同盟が成立する経緯と根拠をあなたは否定した。
841 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/13(月) 23:16:33.39 ID:jusfswin0
会津藩の嘆願書は、中身は挑戦状でした。
・天皇は偉い、それは認めてやる
・その天皇に逆らってボクが戦争をやったなんてボク知らない
・天皇の名をかたるやつが軍隊を差し向けてきたら徹底抗戦するぞ
これのどこが挑戦状でないのでしょう。
3月初旬には徳川慶喜が松平春嶽の取り次ぎで嘆願書を提出し、無条件絶対恭順を書簡内で宣言しています。
これが江戸無血開城のたたき台となり、一方江戸での決戦を無理と判断した会津・桑名ら交戦派の
北関東・東北移動を誘発することとなります。
それに引き替え会津藩嘆願書簡のこの好戦性、ひどいものです。
嘆願書を受け取る場合、和平へ向け見るべきものがあると見込めることが必要です。中身が単なる挑戦状では意味がありません。
松平春嶽も会津藩の書簡は読んだだけですぐ突き返さざるを得なかったことでしょう、これは無理だ、と。
会津戦争で50万人殺されたのは当然の報いだ。
ザマアミロ会津め!!!!!
wwww
議論で負けたら、相手を装って暴言を吐く。これが会津を愛する者の行動。
現実には幕末明治期に会津若松に50万人もの人間はいない。
明治以降人口増が日本を覆うが、現在でも会津若松市の人口は約10万人。
そして、地域の記録を見ても会津士族が住民を虐殺したという記述ばかりなのに。
844 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/14(火) 16:37:20.76 ID:1j0JeE7r0
>>843 思いっきり釣られてるだけだと思うが(^_^;)
ところで会津士族が住民を虐殺した記録ってのはどの記録のことなんだ?
845 :
諸橋 嘉久:2012/08/14(火) 16:40:26.66 ID:trdWJ/pA0
841 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/13(月) 23:16:33.39 ID:jusfswin0
会津藩の嘆願書は、中身は挑戦状でした。
・天皇は偉い、それは認めてやる
・その天皇に逆らってボクが戦争をやったなんてボク知らない
・天皇の名をかたるやつが軍隊を差し向けてきたら徹底抗戦するぞ
722 :諸橋 嘉久:2012/06/18(月) 17:16:49.48 ID:J1cXA9IA0
>私はしばしば負傷した捕虜がまったく見当たらないことに重大な意味を感ずることがあったので、機会があるたびに、
理由もなく人命を犠牲にすることの非人道性を指摘し、この戦闘で日本政府が敵の捕虜にたいする憐憫の情が
あることを立証しえない失望感を表明してきた。それにたいする弁明として、会津兵の捕虜は天皇の威光をきわめて
悪しざまに侮辱するので、負傷者といえどもその生命を許しておくわけにはいかない、といわれるのだ。
会津兵の捕虜は明治天皇が孝明天皇の息子ではない真っ赤な嘘で固めた偽天皇だと見破っていたのです。
其の主張を引っ込めない会津兵を日本政府は斬首したのです。
846 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/14(火) 17:52:11.91 ID:mm452oIL0
結局、会津若松を支持する人は市長から市民まで、証拠も認めず嘘を貼る連中か。
誰とも相手にされない会津郷土史家の生態を考えるに、周辺の人は気苦労が絶えないのだろう。
847 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/14(火) 18:14:37.04 ID:1j0JeE7r0
>>846 変なレッテル貼りはいいから、会津士族による住民虐殺の記録ってのを教えて欲しいのだが。
どこの地域の記録なの?
848 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/14(火) 18:54:47.40 ID:mm452oIL0
こう言って、松平春嶽が会津藩を助けようと試みたのに
会津からは挑発状しか送ってこなかったという話題からは遠ざけようと狙うのだから、全く会津の人は卑劣だ。
誹謗中傷を書いておいて、大嘘だとばれると別の話題を持ち出し迫ってくる。
韓国の人は不正がばれると日本が悪いとするそうですが、あなたは韓国人と同じことしか書かない。
849 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/14(火) 18:59:41.66 ID:mm452oIL0
コラムに会津の人が書いています。
「松平春嶽は容保公が何度も嘆願書を書いているのに取り次がなかった裏切り者だ」と。
しかし仙台藩や米沢藩を経由して新政府に渡った書簡でも、会津藩の嘆願書は挑戦状そのもの。
これを取り次いでしまったなら、取り次いでしまった側の責任問題となります。会津藩は姿勢自体が間違っていた。
850 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/14(火) 19:13:02.28 ID:1j0JeE7r0
>>848 自分の「思いっきり釣られてる」っていう発言があなたの言う誹謗中傷なら謝ります。ゴメンナサイ。
そして自分は会津藩が良いとか、あなたが悪いとか言ったことはないでしょ。
勝手に韓国認定するのは構わないが、あなたの発言である、会津士族による住民虐殺の記録ってのは何の記録だか教えて下さい。
851 :
839:2012/08/14(火) 21:28:17.29 ID:rkBbGa3H0
>>840 >>839の内容は、「鳥羽伏見の戦の直後(←注)に、会津藩が朝廷に嘆願書を出したことは
無い」という事と、「嘆願書なら、”嘆願書を差し出す”とか”嘆願書を提出する”という表現を使う
べきだ」という意味だったんだけど。
会津観光史学は、会津観光局長にして会津郷土史の重鎮宮崎十三八が自らの姿勢を
「私の立場は会津観光史学である」と宣言した所からはじまる。
同じく会津の郷土史家・牧野登は、こうした観光重視の姿勢を批判する立場から、この観光史学を非難した。
彼は現在会津史談会の会長だか相談役になっているはず。
また、最近は田中悟「会津という神話:<二つの戦後>をめぐる<死者の政治学>」という学術書で
考証の対象ともなり、史学の世界で「会津観光史学」という言葉は定着の域にある。
長州と会津が対立してると世間に誤解されるようになったのは
昭和60年代に行われた新人物往来社・歴史読本のキャンペーン
そして、司馬遼太郎が会津で行ったシンポジウムが原因です。
更に、当時会津観光部長だった宮崎十三八と
白虎隊記念館の早川喜代治が観光の目玉に会津VS長州のような
キャンペーンを行うようになった事が原因です。
ですから長州山口への因縁のふっかけは、観光イベントか
商工会絡みのキャンペーンが多いんです。
これに加え、会津びいきな作家連中によって
会津の悲劇が創作され、歴史を知らない人が多い日本国民は
イベント、キャンペーン、出版物を通して薩長=悪という
印象が刷り込まれ、特に長州は悪いとされ、現代の山口まで批判する
歴史的無知・偽善者が増えていき、定着してしまったのです。
しかし会津にも会津の史実を伝えようとする研究者・作家はいます。
野口信一氏・畑敬之助・牧野登氏達です。
会津の観光史学を批判し、指摘されてる出版物を出してらっしゃいます。
しかし会津では早乙女貢や星亮一といった会津に対し独善的な
小説家が支持され、現在の観光にも生かされてるのが実情です。
ウィキなどでもこういった星達の小説が参考文献となり
牧野氏達の書物は参考文献に使われてませんし、会津観光にも適用されていません。
畑氏は戦前から会津史の美化・悲劇化を指摘していたそうですが
会津の市民達から非難されていたそうです。
つまり、会津には戦前から会津史を美化・悲劇化する思考があったんですね。
854 :
諸橋 嘉久:2012/08/15(水) 14:04:08.41 ID:QgTQpzVn0
848 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/14(火) 18:54:47.40 ID:mm452oIL0
こう言って、松平春嶽が会津藩を助けようと試みたのに
会津からは挑発状しか送ってこなかったという話題からは遠ざけようと狙うのだから、全く会津の人は卑劣だ。
誹謗中傷を書いておいて、大嘘だとばれると別の話題を持ち出し迫ってくる。
韓国の人は不正がばれると日本が悪いとするそうですが、あなたは韓国人と同じことしか書かない。
松平春嶽が会津藩を助けようと試みたなど、
我が読んだ幕末の本や小説には書いていなかった。
史料を提示してみな。
855 :
諸橋 嘉久:2012/08/15(水) 14:19:05.77 ID:QgTQpzVn0
849 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/14(火) 18:59:41.66 ID:mm452oIL0
コラムに会津の人が書いています。
「松平春嶽は容保公が何度も嘆願書を書いているのに取り次がなかった裏切り者だ」と。
しかし仙台藩や米沢藩を経由して新政府に渡った書簡でも、会津藩の嘆願書は挑戦状そのもの。
これを取り次いでしまったなら、取り次いでしまった側の責任問題となります。会津藩は姿勢自体が間違っていた。
出た!嘘吐き
仙台藩と米沢藩が会津藩を説得して、
領地削減と第一次長州征伐に倣って複数名の家老の切腹を会津藩に呑ませた。
其の条件を世良修蔵が突っぱねて、
あくまでも、松平容保の首級を差し出せと要求した。
「奥羽皆敵」と報告書を世良修蔵が大総督府に送ったが、
仙台藩の手中に報告書が落ちた。
856 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/15(水) 18:31:58.33 ID:9f2iF3w50
新撰組や白虎隊は、この無能で間抜けな藩主のために命を投げ出したんだな。
松平容保は幕末の英雄
858 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/15(水) 19:58:22.81 ID:9f2iF3w50
何が英雄じゃ。このまぬけ藩主が一体何をした?部下をほったらかして逃げ出したアホ藩主だぜ?
859 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/15(水) 20:25:23.50 ID:qGf/OWNK0
860 :
839:2012/08/15(水) 20:28:00.18 ID:HWnDlbB80
>>858 >何が英雄じゃ。このまぬけ藩主が一体何をした?部下をほったらかして逃げ出したアホ藩主だぜ?
「馬鹿な過激攘夷派を押さえる」という、幕末で最も厄介な問題をこなした。
大阪城脱出は、容保にその意思は無いのに騙して連れ出した慶喜が悪いんだし。
861 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/15(水) 20:34:36.28 ID:9f2iF3w50
百歩譲っても英雄とは言い難い。アホ慶喜と同じレベルだろ。時代を読めない藩主に英雄なんぞいるはずがない、
本当に会津のことを考えて行動していた西郷頼母が後世で中傷されるとは
世の中わからないねえ
863 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/17(金) 00:45:30.73 ID:irKtvvNO0
>>862 西郷頼母は、幕府の事も日本全体が置かれていた状況の事も、何も考えてないよ。
過激攘夷主義者達が暴れまわって、下手に欧米列強に攻撃しかけて日本を植民地化の
危機に晒している問題については何も考えず、何も見て見ぬ振りをして、ただ会津一藩
だけが無事ならそれでいいと考えてる人間さ。
容保は、当時の日本が、欧米列強との一触即発の危機的関係にある事をよく分かってて、
過激攘夷派たちを押さえ込む任務に打ち込んでいたんだ。
864 :
諸橋 嘉久:2012/08/17(金) 06:47:36.79 ID:tk2tgCx90
>>863 京都の活動費用を捻出するために会津の領民に重税を課さなければならない。
そんな役回りがわかっているのだから藩主を諌めるのは当然のこと。
なんで当然の諫言をした西郷が必要以上に矮小化されなきゃならない?
866 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/19(日) 12:20:42.82 ID:ODp26cTz0
諸橋とやらは嘘が多いね。
無視するとして、松平容保の行動に弁護の余地はあるだろうか。
余地云々以前にその漢字読めない。
868 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/19(日) 17:01:09.46 ID:LfnNJBigI
京都の奴は左翼と部落と在日の集まり
869 :
諸橋 嘉久:2012/08/19(日) 19:43:04.70 ID:rCBns7BP0
866 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/19(日) 12:20:42.82 ID:ODp26cTz0
諸橋とやらは嘘が多いね。
無視するとして、松平容保の行動に弁護の余地はあるだろうか。
嘘吐きは御前だ。
霊から過去の出来事の真相を教えて貰っている我を論破できない訳だ。
汚らわしい在日の御前に松平容保の事を語る資格はない。
ネトウヨを演じようとして失敗してるあたりが
871 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/02(日) 16:11:50.94 ID:eXFGr9zy0
会津観光史学によって美化されてるだけ。実際は国土を外国に売ろうと企てた殿さまだよ。
872 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/07(日) 13:08:36.93 ID:uZc9fx7F0
高幡不動の境内でまんじゅうを売っている「松盛堂」のオーナーは
東京都日野市の公明党の市議会議員 みねぎし弘行である。
http://www.syoseido.co.jp/ ■ 日蓮正宗「C作戦」発動から20年 2010年12月29日(水)
日蓮正宗の前法主・阿部日顕が創価学会を切り捨てるためのC作戦
(=創価学会分離作戦)なるものを謀議し、実行に移してから20年がすぎた。
1990年、日蓮正宗は宗門の規約を一方的に変更し、同年12月27日、
池田名誉会長を法華講総講頭から一方的に罷免。翌91年には解散勧告書を
送りつけ、11月28日には破門通告書を送付し、学会を破門するに至った。
その結果、日蓮正宗は“弱小教団”へと転落し、現在にいたる。
自業自得といえばそれまでだが、明年11月28日は、その破門通告から
20年の節目となる。
これが政教分離を求められる政治家のHPとは、呆れてものも言えない。
違憲政治結社・公明党の面目躍如とはこのことだ。
http://www.komei.or.jp/km/hino-minegishi-hiroyuki/
873 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/11(木) 13:53:12.06 ID:Vj+t7f460
朝鮮は国をロシアに売りました。
会津は国をドイツに売ろうとしました。
現代では会津も朝鮮も捏造史でお金を儲けてます。
いい加減で気づきましょう。会津は日本の特亜です。
「;:丶、:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:_;:}
ト、;:;:;:丶、:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:_;:;: --―;:''"´;:_」
{::ト、:;:;:;:;:;:` '' ー―――;:;: '' "´;:;:;:;:;:;:;:;:;:;_ ,.ィ彡!
l::l 丶、:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:_,. -r==ニ二三三 }
',:i _ ` ' ―――― '' " ´ .,ィ彡三三三三三/、
||ミ \ ___ `丶三三三三三ん',
lj⌒\} /r───ミミ′ ヾ三三三ミ/ )} 薩長と戦争するから
リ r=-、 __ 三三三ツ ) /
|´人(::ヽ /て:::)> 三三シ,rく / ドイツに北海道と新潟を売って
`ー- :::::: ⌒ ̄´ 三シ r'‐' /
| ::::  ̄ 三! ,' / 味方につけるっぺ
. , ミツ/ー'
, ノ lヽ jソ,ト
. \ ー _r=, ノ : ,ハ l、
,.ゝ、ト=、ェェェェ=テアヽ } ,/ l l:.:(丶、
_r/ /:.`i ヽヾェェシ/ ゙' / ,' ,':.:.:`ヾヽ
_,,. -‐ '' " ´l. { {:.:.:.:', `.':==:'." / / /:.:.:.:.:.:.} ト―-- ,,_
一 '' "´ ',ヽ丶:.:.:ヽ、 ⌒ ,r'" / /:.:.:.:.:.:.:ノ,ノ | ``丶、
ヽ丶丶、:.:.ゝ、 ___,. イ / /:.:..:.:.:.,ィシ′ |
`丶、 ``"二ユ、_,.,____/__,/;: -‐ '" /
875 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/31(水) 03:16:32.56 ID:ehG9bHVf0
>>874 容保は江戸生まれの江戸育ちだから、東北弁では喋ってなかっただろうよ
876 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/01(木) 16:09:02.50 ID:/B1LPsaJ0
京の藩邸で伊達家の家老は錦旗もらって会津打てと命令されたけど
国許に帰ると、東北全体が誰得だよの雰囲気。
結論、大阪で勝負着けなかった容保が悪い。重臣に詰め腹切らせて沈黙だもんなー
敗戦の責任で隠居しようよ。
どうも史料を見る限りでは、会津若松入府後に東北諸藩へ頻繁に使節を送り、
東北連合による武力江戸奪回を主張していたように思える。
状況を読めていなかった東北諸藩の国許がこれに従ってしまった結果、戦乱が拡大し、
徳川慶喜の恭順による地位保全回復策は消え、旧徳川将軍家と東北諸藩がまとめて戦犯になってしまった。
たしかに慶喜の立場を悪化させた
まぁ脱走軍とかが関東で蠢動してた時期なら勝ち目もあったかな?
最大の誤算は、白河城を奪回できないぐらい連合軍がアレだったことだろうけど
白河方面の主力は会津軍ですよ
連合軍と言いながら、自分が主力のところで負けてばかりじゃないですか
881 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/25(日) 13:37:48.20 ID:/BVXDNfj0
そもそも諸藩とかないから。大名領だろ。それに東北のほとんどが新政府についてるんだぞ。
どうも作家の創作を鵜呑みしてるバカが未だにいるようだな。
藩ってのは元々は明の皇帝が配下の王を藩と呼んでたのが起源。
これを元禄時代の儒教学者が勝手に徳川配下の大名の領地に当てはめてただけ。
しかもそんなに文献が残ってるわけでもない。藩を制度にしたのは明治政府だぞ。
庄内藩を除いて武器でも制度でも旧式軍だったからな
つーか東北の過半数は列藩同盟側でしょ
早々に裏切って新政府側で参戦したのは秋田+4藩程度
弘前は両方にいい顔して、新政府側での参戦は盛岡が降伏した後
884 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/11(火) 20:14:41.04 ID:rz8CGjrm0
だから、その時期に藩とかないから。
東北はほとんどが明治政府側ですよ。
会津と仙台が戦争に躍起でついていけずにね。
この時点で反政府側が戦争に躍起だった証拠なのに
会津はチョンみたいに被害者だと高らかに叫んでる。
まさに日本の特亜だよ。無くなれよ会津は。
公職者が率先してやってるから気持ち悪い。
885 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/11(火) 23:55:57.62 ID:l5otsmpr0
アンチなのは分かるが東北のほとんどが明治政府側だってのは無理があるな。
批判したいならまともな根拠出さないと。
周辺が列藩同盟に参加しているのでやむなく参加したものの
本心では日和見的な中立立場を貫きたいとおもった所が多いと思います。
秋田みたいに孤立上等で政府よりになるのは相当な覚悟が必要だったかと。
887 :
諸橋 嘉久:2012/12/12(水) 14:14:25.34 ID:kyfH0uBw0
888 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/12(水) 19:37:51.59 ID:jGFYse/P0
>>885アンチと決めつけるオマエがキチガイ。
会津を討伐した東北の地域がどんだけあったか知らないのかよ。
主力は鹿児島と高知だがほとんどが東北の地域なんだぞ。
それを「アンチなのはわかるが〜」とか気持ち悪いわ。
889 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/12(水) 20:31:26.51 ID:uOPOsK3b0
会津、仙台、南部、米沢、庄内以外は明治政府側だぞwww
ちなみに米沢は会津が卑怯過ぎてぶちギレ。
890 :
諸橋 嘉久:2012/12/13(木) 06:33:16.49 ID:iJubw7Gl0
891 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/13(木) 15:41:14.68 ID:94Qynoud0
米沢の甘粕なんか会津にダメ出しした日記書いてるからなw
村興しで創作された会津は歴史にはない。会津は今も昔も最低。
892 :
諸橋 嘉久:2012/12/13(木) 17:01:28.91 ID:iJubw7Gl0
893 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/13(木) 23:27:09.00 ID:RITZ5j0+0
>>888 先ずは落ち着いて日本語を理解しような。
>主力は鹿児島と高知だがほとんどが東北の地域なんだぞ
ってどういう意味なんだ?
894 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/14(金) 10:49:35.02 ID:dxxbdV2v0
会津討伐の主力になったのは鹿児島・高知だが
東北の地域も会津討伐に参加してたって意味だろ。
確か会津討伐に参加した東北の地域は32地域くらいだったはず。
あれこれ言われたら反論に困るから濁したいの丸出しですぜw
その程度の文が読解できないわけない。
完全に論点から逃げようとしてるよね。
東北は会津、仙台、南部、米沢、庄内以外は
新政府側だったって論点から逃げようとしてるよね。
でも、ただ逃げるのはシャクだから何か衝いてやろうとしてるよね。
いるんだよ、おまえみたいな奴w
895 :
諸橋 嘉久:2012/12/14(金) 11:19:34.57 ID:kt4h+0e30
896 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/14(金) 17:05:13.78 ID:t2ePRw030
895が言ってるのは同盟の数じゃん。
894が言ってるのは会津討伐に参加した東北の地域でしょ。
それにその時代に藩なんてないから。
日本史は個人の解釈が介入しまくりでめちゃくちゃだよな。
897 :
諸橋 嘉久:2012/12/14(金) 20:02:34.54 ID:kt4h+0e30
>894が言ってるのは会津討伐に参加した東北の地域でしょ。
大名家は複数の地域から年貢を徴収する。
拠って、東北に32地域など存在しないのである。
898 :
諸橋 嘉久:2012/12/14(金) 20:11:33.85 ID:kt4h+0e30
899 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/15(土) 09:44:03.28 ID:81ipDUSq0
何にせよ希代の暗君ですよ。政府との交渉をはぐらかしておきながら
裏では国土売却を企てていたんだからwww会津観光史学は終わりの始まりですw
900 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/15(土) 09:46:52.90 ID:3wyLvKb90
あとさ、Wikipediaや史料提示されてないHP、blogはソースとしての価値はありませんからね。
あと著作物の提示もソースにはなりません。著作物は創作、個人的な主観が混ざるのでw
901 :
諸橋 嘉久:2012/12/15(土) 11:40:36.11 ID:WnuSpA8G0
>>874、
>>899 アンチ会津は、「会津がプロイセンに領地を売却しようとした」という話を「会津がプロイセンに
領地を”割譲”しようとした」という感じに言い触らしたがってるけど、朝日新聞のサイトの記事では、
「会津がプロイセンに領地を”割譲”しようとした」なんて書いてないよ。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201102070075.html 「会津がプロイセンに領地を売った」というのは、条約による国土の割譲とは違って、代価を
支払った者が土地の利用権を得るという、通常の一般的な商取引としての土地売買なんだろう。
現代日本でも、適切な代価を支払えば、外国人が日本の土地を買い取って自由に利用できると
いう事と同じなんじゃないのか。
大体、容保や庄内藩主のような地方の一領主達に、外国と条約を結んで土地の”割譲”を
決定するような力は無い。
903 :
諸橋 嘉久:2012/12/15(土) 11:47:17.81 ID:WnuSpA8G0
900 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/15(土) 09:46:52.90 ID:3wyLvKb90
あとさ、Wikipediaや史料提示されてないHP、blogはソースとしての価値はありませんからね。
あと著作物の提示もソースにはなりません。著作物は創作、個人的な主観が混ざるのでw
国家や地方自治体の史料は、自分たちの存続や活動に有利な様に編纂している場合が多いだろう。
904 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/15(土) 14:01:51.92 ID:rEzM/05Q0
Wikipediaとか決定的な根拠だとは思わないが、論点に対する根拠をあげないで[確か○○だったはず!]って言い張るのよりは説得力あると思うな。
905 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/16(日) 13:53:33.58 ID:BcQYO8ET0
降伏後の旧会津藩が、せっかく旧領内で猪苗代3万石を与えられたのに、
それを蹴って不毛の下北半島に自ら立藩したのは狂気の沙汰としか思えないのですが・・・
百姓一揆云々だって、官軍とあれだけ戦った旧藩士軍なら簡単に制圧できるでしょ。
ロクな武器も持ってないドン百姓の烏合の衆なんだから。
3万石で旧藩士全部を面倒みれないのは同じなんだから、地元に残ってた方がいいだろうに。
やっぱり、山川だか誰だかしらんけど、当時の首脳陣が狂ってたとしか思えない。
906 :
諸橋 嘉久:2012/12/16(日) 15:03:57.11 ID:TaTvHnf90
907 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/16(日) 17:35:40.36 ID:OB6WEUFj0
一揆の多発は取り潰しに繋がる
旧領内で再統治しても直ちに全領民を挙げての一揆が起こるほどだったんじゃないの?
実質0万石より恐山でも貰った方がマシ
領民からも周辺諸藩からもどんだけ嫌われてたんだろうな
908 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/18(火) 09:44:34.93 ID:J5eQmsej0
藩の規模、立地には不相応な湾岸警備とか京都守護職とかやれば領民の負担は大きくなるだろうな。
斗南を選んだ理由は猪苗代を治める財力が残ってなく、領民に更に負担をかけるから、新しい土地で一からのスタートを選んだみたい。
周辺諸藩から嫌われてた事実は無いみたいだよ。
遠くに引っ越すより隣に引っ越すほうが安く済むんじゃないの?
>>909 一度の引越しにかかる費用より、元の領地をずっと管理し続ける為に必要な費用の方が、
長期的には莫大な負担になるという事だろう。
911 :
910:2012/12/18(火) 19:45:40.70 ID:upMEnSSy0
???
猪苗代は会津の隣でしょ?
913 :
910:2012/12/18(火) 22:27:03.35 ID:upMEnSSy0
>>912 あれ?猪苗代って、会津の隣じゃなくて、会津の領地の中に含まれてる土地なのではなかったのですか?
>>905で、「せっかく旧領内で猪苗代3万石を与えられたのに、」と書かれてあるから、そう思ってたんだけど。
猪苗代は旧来の会津藩の本領の一部です。
従来の説では
・斗南行きを薩長に強制されたのだ(星亮一など)
・「猪苗代と上北半島の提示があり、港を見込んで上北半島にした」(山川浩)
・会津藩士は地元を荒らしたから領民一揆に怯えて逃げたのだよ(家永三郎など)
一揆は当時の記録にもあり、客観性は十分あると思われるので、感情論でしかない星亮一以外の後者二説を正解とすべきと思われます。
あと、国替えは多額の費用を伴います。十分採算が見込め当人も乗り気だった松平定信の白河から桑名への移封も
実際は明治維新になっても桑名藩はこの際の移動経費を全く返済できていません。
本来、自領内への縮小移動なら庄屋などに無理が効くはずで、庄屋屋敷や地域の陣屋などを活用できたはずです。
猪苗代への移転なら、経費は全く遠隔地であった斗南よりは低廉だったはずです。しかし一揆がこれを許さなかった。
>>914 >あと、国替えは多額の費用を伴います。十分採算が見込め当人も乗り気だった松平定信の白河から桑名への移封も
>実際は明治維新になっても桑名藩はこの際の移動経費を全く返済できていません。
国替えに多額の費用が伴うというのは、新しい引越し先にも元の場所と同じか、それより
もっと立派な屋敷や街を作ったりする場合の話でしょ。
斗南藩を元の会津と同じような規模の街にしようとしないで、小藩らしく慎ましい町として
作れば、別にそれほどの費用はかからないんじゃないのか?
>本来、自領内への縮小移動なら庄屋などに無理が効くはずで、庄屋屋敷や地域の陣屋などを活用できたはずです。
会津藩内の庄屋の屋敷とかは、戦乱でみんな焼けてるんじゃないの?
>>915に追記
>>914 そもそも桑名藩の財政難は、松平定信の白河から桑名への移封の時に掛かった移動経費が原因じゃなくて、
白河藩の桑名への移封後、桑名藩領地で天災が相次いで桑名藩の財政難が続いた事とか、幕末時に京都
所司代として京都に桑名軍を置くための経費が掛かったとかが原因なんじゃないのか?
917 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/19(水) 18:41:01.54 ID:FNvJibI60
>>915,916
桑名が洪水に悩まされる地域であったことは、江戸時代初期の旧領への帰還であったことから松平定信も承知のこと。
これを承知で松平定信は白河から桑名への移封を求め、許可を受けたわけです。
そして京都所司代経費は、この地位に留まることを望んだ松平定敬の自業自得であり、考慮に値しません。
あなたの論は出鱈目も甚だしい。
要するに、旧会津藩が猪苗代立藩を拒否し下北半島で斗南藩を立ち上げた際は、猪苗代での立藩と比較し多額の費用を要したということです。
なぜ余計な費用を払って遠隔地に赴いたのかという理由となると、山川浩自身の「港が欲しかった」という説明と、
家永三郎の「農民一揆が怖かったのだ」という二説が示せるわけです。
拝見させていただいております。
市井で入れた知識、と過小評価のつもりで思っていて実は知識ですらなかったものが多々あり、その落差に愕然としたものです。
何処誰と言う話でなく一般論として歴史に対する姿勢があまりにも誠意を欠いているとがあります。
ここはドラマや観光でなく学問の掲示板ですからそのような態度は徹底的に批判されて然るべきです。
維新前後における倒幕派による売国事例
慶応4年 神戸事件。討幕派、攘夷を行った備前藩士を外国人が見物する前で切腹させる。
慶応4年 討幕派、幕府締結の条約の絶対遵守を各国に誓約する。
慶応4年 堺事件。討幕派、土佐藩士20名を外国人の前で公開処刑。うち9名はフランスの助命で命拾い。
慶応4年 パークス襲撃事件。十津川郷士2名が攘夷を試みるも失敗。討幕派の手で攘夷志士は惨殺及び梟首。
明治1年 明治政府、スウェーデン・ノルウェー・スペインと不平等条約を調印。
明治2年 明治政府、北ドイツ連邦との不平等条約に調印。
明治2年 ロシア兵、樺太函泊を占領、明治政府が抗議せず容認したため兵営陣地を構築。
明治4年 イギリス公使パークス、樺太放棄を勧告。
明治4年 明治政府の主要メンバーが国事を放棄して海外漫遊に出かける。
明治5年 岩倉漫遊使節団、条約改正を試みるもすぐさま断念。以降明治政府は半世紀近く不平等を放置。
明治8年 明治政府、樺太をロシアに二束三文で売り渡す。日本は北海道とほぼ同じ面積の領土を失う。
論に敗れて根拠のない一方的な表を貼る、卑怯な会津
921 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/20(木) 07:11:22.24 ID:Cimk8r7u0
>>920 あなたの書き込みこそ何の論理もないと思います。
ここは学術版です。論点を示さずただ相手を挑発するような書き込みは止めましょう。
922 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/21(金) 01:52:15.70 ID:Y7TRE5Cb0
>>921 論理に敗れたからといって、全く関係のない文を貼って誤魔化して逃げる、
それがあなたのような人間の行為とするなら、会津の武士道とは所詮卑怯の塊ということでしょう。
923 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/21(金) 01:55:04.29 ID:Y7TRE5Cb0
>>919及び
>>921は完全に否定されるべきです。
会津の人は論理に敗れ、代わりに別の話をしようと横車を押し通そうとします。
しかしそれは虚偽の塊でしかない。
924 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/21(金) 05:01:09.30 ID:Y7TRE5Cb0
嘘がばれると相手の罪状とやらを一方的に書き殴った文章をひたすらに貼って誤魔化す会津主義者。
しかも同様の事例が自らにあることは全く触れず、ただ相手を貶し正当化を諮る会津主義者。
私は会津若松を愛する人の、そのような部分を激しく憎んでいます。
>>921よ、他のスレをご覧なさい。嘘がばれると会津人は
>>919のような行為を行い、場を誤魔化します。
嘘をつき、他人を貶めます。
私は、あなたがそのような行為を正しいと勘違いしたことも許せません。
925 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/21(金) 08:16:49.93 ID:K+1BVdv90
日本を開かんとするに、之を妨げたる者は長州なり、之を妨げたる者は薩州なり、之を妨げたる者は薩長の同類なり。
今薩長の族類を以て外国人の良友と為すべきとは、大いに其の説を変じたる後のことなるべし。
薩州は最初開国を妨げたる説を変じて、近来は頻に外国の貿易を勉め、自国の諸港を尽く開きて貿易を為さんと欲せり。
斯く開国の説ならば、大阪兵庫の開港を妨げたるは何故なる哉。
是他なし、日本全国の為め筋を思はずして、自己一家の私利を謀て躬から盛大たらんことを欲するのみ。
福沢諭吉
926 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/21(金) 18:45:45.84 ID:bp9NzVcy0
なんか会津の武士とやらと脳内でケンカしてるみたいだけど多分会津の武士が書き込んだ訳じゃないと思うぞ。
会津藩を過剰に擁護する書き込みのなかには論理が破綻してるのもあるが、あきらさまなアンチの書き込みも酷いのがあるよ。
お互いに論理的に議論が成り立ってるときもあったし。
あなたが以前どんな書き込みをしていたのかは知らないが、この数レスを見るとあなたも随分論理もない独善的な書き込みだと思う。
919の書き込みについては倒幕側の正当性を疑う事件という意味で羅列したのだろうが、925の書き込みと合わせて、当初攘夷を成すために倒幕を進め、小攘夷から大攘夷に報告転換した後も暴力で革命を推し進める必要性があったのかは自分も疑問に思う。
927 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/21(金) 19:01:53.54 ID:Wwx7gdkf0
↑922〜924へのレスです。
すいません。
928 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/22(土) 15:23:34.57 ID:GkyRToJOO
北斗以南皆帝州
929 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/23(日) 09:23:44.32 ID:+zjKaXnT0
幕府が政権維持のため、無辜の人達を含む反体制派を暴力で粛清しまくった歴史的事実はなしとするのが会津観光史学かw
戦無しの無血革命(クーデター)で成立し、選挙制度を確立しておけば暴力は必要なかったかもな
形成が不利になってから場当たり的に譲歩しても時すでに遅しだろ
どこでも家訓ぐらいはあっただろうが、徳川マンセーならぬこと云々の旧弊は会津以外では関係ねーし、
徳川の消滅と会津戦争の敗北で会津に正当性がないことだけは確かだなw
桑名みたいに藩内領民を巻き込まず、なおかつ抵抗する配慮が欲しかった。
あらかじめ旧幕臣と蝦夷に移動し、会津藩とは無関係ということにすれば領民・家臣は苦労せずに済んだ。
931 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/23(日) 11:12:10.36 ID:EMMQKY9h0
>幕府が政権維持のため、無辜の人達を含む反体制派を暴力で粛清しまくった歴史
このスレタイで考えると松平容保による京都守護職としての治安維持活動のことだろうが、尊王攘夷を名目としたテロの取締りで、孝明天皇にも評価されているから[暴力で粛清]には当たらないと思う。
他のことを言ってるんなら会津観光史学っていうのは関係ないと思うが。
選挙制度の確立までは必要ない。
倒幕勢力によって大政奉還まで進んで、政争では勝ってるんだからその時点で全国の有力者による合議体制まで持って行けるんじゃないか?
あくまで長州薩摩+α主導で強権的に体制を変えたから急速な近代化が成ったのだと思うが、一長一短あったでしょ。
あと、負けたから正当性が無いっていうのは、勝った方が正しいって意味で、歴史を語る上では全く意味が無い。
932 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/23(日) 16:22:53.18 ID:FlzbzQCs0
>>902 当時の日本は外国人の活動を居留地に制限していた。
だから会津庄内による領地売却よりは
ずっと規模が小さいガルトネルの開墾地でも新政府は問題視している。
プロイセン公使マックス・フォン・ブラントが北海道の植民地化を狙っていたことは
すでに日本語訳も出ている日記からもわかっているし、
十数隻の艦隊と五千人の上陸兵で北海道を占領する計画をビスマルクに送ったこともわかっている。
ビスマルクが軍港の候補になると言っているところからしても
ブラントは会津庄内から買った土地を占領計画の根拠地にするつもりだったんだろう。
陸から攻めやすい横浜を開港地にするよう佐久間象山や藤田東湖が提言していたように
外国に海軍の基地を作らせちゃいけないという発想は当時からちゃんとあったし
ましてや北海道の領地は海防のために幕府から任されたものだ。
外国にやっちゃいけないというのは会津庄内も充分わかっていたはず。
それを売ろうとしたのは北海道くらい外国に渡していいと思ってたんだろう。
933 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/23(日) 17:35:54.79 ID:9zXovfR30
薩長は実際に樺太をロシアに売り渡したからな…
面積が北海道と同じと書いてるけど実際は九州と四国を併せた面積に匹敵する。
しかも東アジア最大の資源の宝庫で石油、天然ガス、鉄、木材、海産物などが採れる。
幕府主導で近代化してれば今も日本領だったはず。
明治政府は樺太を放棄する一方、朝鮮半島には異常に執着して、
日本の国土開発を後回しにして、巨額の資金と人材を朝鮮の近代化のために投じ、
朝鮮人に日本国籍を与え日本をチョンだらけにした。
>明治2年 ロシア兵、樺太函泊を占領、明治政府が抗議せず容認したため兵営陣地を構築。
>明治4年 イギリス公使パークス、樺太放棄を勧告。
>明治4年 明治政府の主要メンバーが国事を放棄して海外漫遊に出かける。
>明治5年 岩倉漫遊使節団、条約改正を試みるもすぐさま断念。以降明治政府は半世紀近く不平等を放置。
>明治8年 明治政府、樺太をロシアに二束三文で売り渡す。日本は北海道とほぼ同じ面積の領土を失う。
幕府主導w
つうか第二次大戦で負けたのが問題じゃね?
936 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/23(日) 18:55:19.79 ID:+zjKaXnT0
松平容保って安政の大獄で有名な井伊直弼の腰巾着だった奴だろw
米国にビビッて不平等条約を結ばされ、国内を政情不安に陥れた中心人物の一人だ
清国のように日本本土が、なし崩し的に諸外国に侵食される前に、ぶっ潰されてよかったんじゃね
そもそも江戸幕府自体が無血革命で成立した訳ではないし、幕末には長州に敗れて権威が失墜していた
そんな国内の戦にも勝てない賞味期限切れの幕府に不平等条約の改正を期待するのかw
正当性云々は幕府自らが新政府と合意の上で、既得特権を全て放棄したことにある
937 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/23(日) 19:05:34.57 ID:7VFWlYEo0
「明治政府の近代化政策は、すべて小栗忠順の模倣にすぎない」大隈重信
日本を開国に導き近代国家の礎を築いたのは基本的に徳川幕府の功績
薩長は馬鹿げた攘夷を煽りその後はイギリスの手先となって内乱を始めた売国奴
938 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/23(日) 19:14:18.78 ID:9zXovfR30
>>936 中国は天津条約で内地通行権をイギリスに与えた結果、
国内に外国資本が浸透し、自国産業が壊滅してしまう。
さらにそれに伴い行政機構も乗っ取られ関税管理権までもイギリスに奪われてる。
幕府はこの惨状を分析し、外国人を居留地に閉じ込めることを重視してた。
結果として、この幕府の政策が揺籃期の日本の産業や行政機構を守ったと言える。
しかし明治政府はオーストリアなどと日本史上最悪の不平等条約を新たに結び、
幕府が拒否した沿岸貿易権を与えるなど外国に譲歩しまくる。
また、樺太千島交換条約も極端な不平等条約で、これにより日本は広大な国土を失った。
もしも倒幕が数十年早く起き、薩長が沿岸貿易権や内地通行権を外国に売り渡してたら、
日本は中国同様の植民地になってたはず。
939 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/23(日) 19:53:20.66 ID:+zjKaXnT0
何でも手柄を独り占めにして自分で自分を褒めたい心理?w
幕府の政策を参考にすることはあっても、お手本は産業革命を経た本場の欧米諸国だから‘全て’は×だろ
頑なに鎖国していたのを脅されて開国したのは確かに功績だがw
会津観光史学では、国家の主権を放棄して不平等条約を結ぶのは売国奴ではないらしい
940 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/23(日) 20:39:16.06 ID:+zjKaXnT0
もしも・・・なら何でもアリじゃねw
もしも幕府が列強と肩を並べるくらい強かったら、国民の生命(治外法権)と財産(関税自主権)を守ることが出来たとも言える
でも実際は、外国様のために国民を粛清したんだよなw
バイバイ
明治政府の富国強兵って欧米の技術を買い入れた殖産興業が有名だけど
特に主力だった日本の生糸輸出は1880年頃から1929年世界恐慌や1935年のナイロン発明で
生糸の価値が暴落するまでずっと主力を続けていた。
それを考慮すると内戦が長期化して殖産興業の立ち上げが遅れていれば
日本が欧米に追いつけるチャンスを失っていたかもしれないね。
942 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/23(日) 20:58:20.11 ID:9zXovfR30
幕末期、横浜や長崎の外商は内地での直接通商を禁止され、
開港場での日本人商人との取引に活動が限定されてた。
このような関係は欧米にとっては非効率で不合理なものだった。
外商は日本人商人へ資金融資をおこなって生糸を買い付ており、
この資金が日本の産業資本確立の基礎となった。
圧倒的な資金力をもつ外国資本に産地への直接投資を認めてたら、
日本人売込商は壊滅し、今頃三菱も三井も存在しなかったはず。
幕府の居留地制が防壁となり揺籃期の日本の産業を保護したんだよ。
明治政府の殖産興業は幕府が育てた基礎の上に成り立ってる。
しかも明治以降の近代化を担ったのは幕府が育てた知識人だ。
幕末の金銀大量流出させた幕府の政策は
大きく国益を損なった擁護のしようもない大失政かと。
944 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/23(日) 21:28:52.77 ID:9zXovfR30
日米修好通商条約では、内外通貨の交換比率は同種同量交換規定があり、
形式的には為替取引は平等な関係。
ただし日本国内の金銀交換レートが国際水準と乖離してたため、
開国直後は裁定益を狙う外商により金貨の流出が進んだ。
幕府はすぐさま金銀比価を国際レートに引き上げるんだけど、
今度はそれが原因で通貨インフレが起きる。
要するに閉鎖的な経済体系を開放した際に不可避的に起きた混乱であって、
幕府の失策には当たらない。
しかも幕府は小栗上野介を遣米使節団としてアメリカに派遣し、
為替問題を速やかに解決してるんだから、極めて有能だ。
これに対し明治政府は、岩倉使節団が条約改正を投げ出し、
鹿鳴館で外国人に媚を売ることしかできなかった。あまりに無能すぎる。
というか、どっちにしても幕府は終わらせないと駄目だったんじゃね
徳川という家の家督支配
「幕府」っていうと聞こえがいいが
金王朝と何も変わらない
946 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/23(日) 22:50:31.83 ID:2bYrcH4C0
幕藩体制を終わらせて日本を中央集権的な近代国家にしようとしてたのが幕府
それに敵対し藩の割拠を宣言して一藩の利権を守ろうとしたのが薩長
この基本構図を理解してないバカが多いね
947 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/23(日) 23:01:20.24 ID:FlzbzQCs0
幕府が、と言っている時点で何もわかっていない。
幕府が幕藩体制を終わらせようとしてた?
具体的には?
949 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/23(日) 23:19:45.59 ID:pOtdevUB0
>>936 井伊直弼の腰巾着とはどんな根拠があるのだろうか?
松平容保が歴史の表舞台に登場するのは京都守護職になってからであり、それまで政治を左右する立場にはない。
つまり、アメリカに対する条約批准から政情不安に陥れた中心人物にはなり得ない。
幕府がアメリカの対応に後手後手になり権威が失墜したのは事実だが、長州薩摩も外国相手に無謀な戦争を引き起こし、幕府に莫大は賠償金を肩替わりさせる等、日本の国益を大きく損なわせている。
条約の改正についても、幕府の特使が改正に成功した事実もあるし、新政府が首脳クラスの使節団を送って数ヶ国回っても全く成果を出せなかった事実もある。
幕府の全てが無能で、新政府がすべて素晴らしいというような指摘は全く的外れだ。
950 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/24(月) 00:04:45.58 ID:gG5jN5Ym0
>>948 幕府は直轄地からの収入だけで事実上の中央政府としての機能を担ってた。
安定した鎖国時代ならいいけど、幕末期に対外的な外交問題が生じ、
国内の治安問題も噴出すると幕府財政では担いきれなくなった。
だから幕府は公武合体のもとで郡県制などの近代国家に移行させようとしてた。
幕藩体制は終わらせるかどうかという問題ではなくで、
基本的な財政レベルですでに終わってたんだよ。
幕府側はそれを正しく認識してたけど、
幕府に成り代わろうとしてた薩長は何も理解してなかった。
明治初期の経済・財政の大混乱は薩長の無知蒙昧に起因してる。
951 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/24(月) 00:09:27.66 ID:gG5jN5Ym0
>>949 井伊直弼などのアメリカに対する対応は極めて適切だよ。
問題があるとすれば開国するに当たって、愚かな外様大名や公家に意見を聞いたこと。
外交は幕府の権限なんだから勝手に開国すれば何の問題も起きなかった。
優柔不断で決断力の無い安倍正弘が悪い。
幕府の目指す中央政権化は内戦を起こさずにやれるの?
953 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/24(月) 00:20:54.19 ID:DjsqOHCG0
井伊が幕閣でほぼ唯一勅許なしの開国に反対していたことや
結局岩瀬忠震に言質取られて押し切られたことや
結局開国を後悔していたこととか知ってる?
954 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/24(月) 03:32:04.81 ID:0KJSsZxg0
>>949 そいつが井伊直弼が天皇に無断でペリーからの国書を受理することに賛成したのは歴史的事実じゃねーか
妄想で全て云々を勝手に付け加えといて指摘ってなんだよw
日本にとって著しく不利な条約でなら不平等条約ではない
だが、実際は一方的に最恵国待遇の強要や関税自主権の放棄などによる貿易の不均衡で国内の経済が疲弊した
蛇足ながら明治以後も旧幕臣である榎本武揚の条約改正事業は失敗したがなw
多少の改正はあったにせよ、交渉術以前に幕府であろうとそれが当時としては小国だった日本の限界だろ
列強の仲間入りしてやっと本格的な交渉の入り口に立つことが出来たんだからな
955 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/24(月) 04:17:27.97 ID:mMfBRP/I0
>>950 根拠なし。
明治新政府の実行したことを幕府の功績とし、逆に幕府が実行したことを明治新政府のせいにするだけの嘘つき論ですな。
長州一藩に大敗して逃げ帰る幕府じゃ中央政権化なんて到底無理
外国にいいように利用されてムガル帝国みたいな有様化
当時の世論って完全に徳川を見限ってたよね
その空気感があの幕末の空気感を生んだ
幕府が何を考えていようと、民主党と一緒で駄目だよw
今まで糞支配を続けてきてたくせに
いざ政権があぶなくなると「我々もやってます」ってw
倒されて当然いや必然
その必然が歴史
958 :
諸橋 嘉久:2012/12/24(月) 10:14:12.29 ID:AmvBoAei0
幕末のプロイセン公使は空想家だ。
蝦夷地を占領したら、イギリスやロシアと戦争に成って、
確実に戦争に負ける。
ビスマルクも其処まで馬鹿じゃない。
959 :
諸橋 嘉久:2012/12/24(月) 10:24:57.97 ID:AmvBoAei0
幕府と水戸が戦争に成らないように調停したのが、松平容保だ。
この時に松平容保の名は全国に轟いた。
俄は知らないだろうが、松平容保は尊王・佐幕・攘夷
新選組も尊王・佐幕・攘夷
共に幕府の命令で、攘夷を行わなかった。
960 :
諸橋 嘉久:2012/12/24(月) 11:05:36.97 ID:AmvBoAei0
938 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/23(日) 19:14:18.78 ID:9zXovfR30
>>936 中国は天津条約で内地通行権をイギリスに与えた結果、
国内に外国資本が浸透し、自国産業が壊滅してしまう。
さらにそれに伴い行政機構も乗っ取られ関税管理権までもイギリスに奪われてる。
幕府はこの惨状を分析し、外国人を居留地に閉じ込めることを重視してた。
結果として、この幕府の政策が揺籃期の日本の産業や行政機構を守ったと言える。
しかし明治政府はオーストリアなどと日本史上最悪の不平等条約を新たに結び、
幕府が拒否した沿岸貿易権を与えるなど外国に譲歩しまくる。
また、樺太千島交換条約も極端な不平等条約で、これにより日本は広大な国土を失った。
もしも倒幕が数十年早く起き、薩長が沿岸貿易権や内地通行権を外国に売り渡してたら、
日本は中国同様の植民地になってたはず。
>しかし明治政府はオーストリアなどと日本史上最悪の不平等条約を新たに結び、
幕府が拒否した沿岸貿易権を与えるなど外国に譲歩しまくる。
明治に成っても薩長土肥の明治政府は条約の不平等に気付いていない証拠ですね。
早乙女貢によると、伊藤博文は明治政府のお抱え外国人から条約の不平等を説明されて、
初めて不平等条約だと知った。
幕末の当時で不平等条約だと気付いていたのは、小栗上野介ら数名の幕臣だけだった。
何年も前に一坂太郎が松蔭神社での講演で、
「幕府が締結した不平等条約に吉田松陰は怒った」
「吉田松陰は日米修好通商条約の不平等に怒った」
一坂太郎クン、其の史料を開示し給え。
吉田松陰は朝廷に伺いを立てずに幕府が日米修好通商条約を締結した事に怒ったのだ。
『龍馬伝』の脚本家は一坂太郎の嘘に騙されて、
『龍馬伝』で久坂玄瑞が坂本龍馬に日米修好通商条約の不平等を説明していた。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/hagisinotakasugisiryomotidasi.htm http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/144116/128116/6701323 小栗上野介
http://blog.goo.ne.jp/hardsix/e/8e10978bd9eee421b44d0cbea6d47a27
961 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/24(月) 23:43:25.23 ID:+oahFC8j0
たしかに松陰などは、勅許がなかった点に反対してたのであり、
条約の不平等性についてはまったく問題にもしていないね。
討幕派は戊辰戦争の最中に旧幕府の条約を遵守することを欧米に誓い、
明治以降も条約の破棄・改定は全く行なっていないから、
むしろ積極的に不平等条約を受け入れてる。
条約の不平等性は、維新後30年近く経ってからやっと、
その一部が改正されるんだけど、それをやったのは紀伊藩の陸奥。
日英同盟も幕臣の林のおかげ。
薩長による「維新」で、日本の外交が30年近く停滞したことになる。
その一方で、岩倉使節団は条約改正に失敗したと責められる
何がなんだかry
963 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/25(火) 22:06:00.44 ID:RfH8zopD0
キメー妄想お披露目会で日本の歴史を勝手に捏造すんなよゴミw
恐喝外交に屈した江戸幕府がカス過ぎたせいで明治政府が尻拭いをさせられたのが歴史的事実だろw
改正のためには近代立憲主義憲法を制定した上で、それなりの国力がなければお話にならん
日英同盟は、英国とはもともとコネクションがあったし、当時の国際情勢の中で利害関係が一致したからだ
陸奥君は土佐の志士達と大変親しかった間柄じゃねーか、ボケ
会津によるプロイセンとの外交が成立してたら他国との軋轢が生じ、日本はさぞかし立派な国になっていたんだろうなw
はやく日本から消えろよ、ジイさん
964 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/25(火) 23:21:37.11 ID:7ftYTSJK0
「書記官は旧幕人多数なれば、使節初め理事官等、維新の仇返しを食わされたる景況なり」
岩倉具視@岩倉使節団
岩倉使節団は案内役である福地や田辺といった旧幕臣に頼りきっており、
岩倉や木戸は旧幕臣たちにバカ扱いされてた。
政府首脳が雁首そろえて出かけたわけだけど、
さっきまで博打打ちや百姓だった連中に外交ができるわけもなく、
交渉では欧米にまともに相手にされず、
岩倉使節団の大失敗後は何十年も条約改正そのものを封印してしまった。
不平等条約を結んだのは幕府じゃんw
966 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/26(水) 00:08:08.45 ID:8ZJWZ31g0
それなりの国力がないと話にならないらしいから、ある程度の不平等は仕方がないってことでしょ。
ただ外交についてのノウハウは幕臣の方がもってるから使節団じゃ話にならなかった。
武力での政権奪取の弊害だね。
武家政権が武力で負けた時点で正当性無いけどね
968 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/26(水) 02:25:00.87 ID:P13SswWy0
ずっと鎖国してきた政権の外交能力なんて、たかが知れてるよ
969 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/26(水) 09:24:42.79 ID:8ZJWZ31g0
>>967 何の正当性のことだか分からんが、勝ち負けで正当性の有無が決まらないと何度言えば…
970 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/26(水) 09:35:12.39 ID:8ZJWZ31g0
>>968 たかがしれてる幕臣のノウハウを使節団はあてにした。
幕府の不平等条約を批判して、自分たちは使節団では何も変えることが出来なかったやるやる詐欺の言うだけ番長が岩倉具視だと思う。
971 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/26(水) 23:36:26.69 ID:P13SswWy0
鎖国を強いていた前の政権の長い歴史の後に明治政府があるんだから、
幕臣とか外様とか問わず、能力のある人間なら活用するだろうよ。で、それがどうした?
972 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/27(木) 05:21:14.18 ID:JyKlM/Vr0
>>970 倒幕派が条約の不平等性を批判したことなんて一度も無いよ。
単に勅許がないことを責めてただけ。
だから徳川家が結んだ条約を破棄しようともせず丸呑みし、
さらに幕府以上に不平等な内容の条約を各国と結び、
樺太をロシアに献上した。
攘夷を叫んでた薩長が欧米に対してはとことん卑屈なんだから呆れる。
>>971 能力のある人間のほとんどは幕府側の人間で
外様はバカだらけだったという話をしてるのだが
974 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/27(木) 07:49:16.91 ID:kF4cSt1ZT
このスレですら容保が空気で笑えるw
975 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/27(木) 14:05:52.22 ID:GeLGwjC20
読みましょう!『「会津の悲劇」に意義あり』を。
とうとう会津の嘘を指摘する著作物が登場しましたねwwwwwww
会津観光史学を創作してるお爺さん方とは経歴からして違いますよw
八幡和郎(やわた・かずお)
1951年、滋賀県大津市生まれ。
東京大学法学部卒業後、フランスの国立行政学院(ENA)に留学。
通商産業省大臣官房情報管理課長などを歴任後、現在、徳島文理大学
大学院教授をつとめるほか、作家、評論家としてテレビでも活躍中。
976 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/28(金) 20:05:16.79 ID:z9CzAt300
>>966 武力で政権を奪取し、長年国家権力を独占してきたが、所詮井の中の蛙だった江戸幕府
政権担当能力の欠如が露呈し政権交代
帝国主義全盛期の外交(不平等条約)は軍事力を背景に有利に進められてきた側面あり
軍事力を背景に国際的地位を手にし不平等条約を改正
イチャモンの対象は列強ではなく国家の主権を回復させた明治政府の方かマヌケ?w
977 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/28(金) 20:44:01.16 ID:+B0NxGm1O
宿敵薩賊を征伐した西南戦争で会津は官軍として雪辱を晴らしせて良かったね。
978 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/28(金) 21:39:30.65 ID:z9CzAt300
会津はご主人様が幕府から新政府軍(薩摩+長州)に変わってよかったねw
979 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/28(金) 22:54:37.65 ID:Y1yjeCrE0
てか、西南戦争では西郷軍に参加した会津士族もいたらしいな。
そういう全国の士族が西郷に寄せた期待とか、会津史観の捏造によって無視される傾向があるな。
こてんぱにやられてボロボロの状態で、10年前の戊辰の報復戦とかアホかっつーの。
843前後の会津側の暴虐はあったらしい。
戦費調達のため、会津戦争時に隣藩への侵略があったとどこかで見た。
それは越後における会津軍の他藩領への侵入略奪、戦費要求のことだろうけど、
会津の人は「それは水戸諸生党(水戸藩佐幕派)がやったことだ」と言って正当化しています。当時会津軍の一部なんだけどね。
あと、佐川官兵衛の南会津における略奪放火をしながらの進軍も挙げられる。
佐川の場合、鶴ヶ城と郊外との連絡を保つための遊撃軍として出撃したのに、
関東に侵入しようとひたすら南下を試み、鶴ヶ城の防衛に何ら寄与しなかった大馬鹿者なのだけど。
983 :
諸橋 嘉久:2012/12/29(土) 07:53:28.27 ID:3UB9HzK60
979 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2012/12/28(金) 22:54:37.65 ID:Y1yjeCrE0
てか、西南戦争では西郷軍に参加した会津士族もいたらしいな。
そういう全国の士族が西郷に寄せた期待とか、会津史観の捏造によって無視される傾向があるな。
こてんぱにやられてボロボロの状態で、10年前の戊辰の報復戦とかアホかっつーの。
会津士族じゃなくて、斗南士族でしょうが。
其の会津士族の姓名を記さない貴公は、嘘吐きと言う事に成ります。
会津史観の捏造じゃなくて、貴公による捏造だ。
墓所の説明板によると
「庄内藩士、伴兼之、明治10年3月20日、肥後植木で戦死、20歳。榊原政治、肥後御船で負傷、延岡病院で戦死、18歳」
西郷吉之助を神として崇拝した荘内士族ですら、
私学校に留学していた少年二人が西郷軍(実態は桐野軍)に参加しただけです。
私学校が暴走する前に既に明治政府は士族を九州に渡らせない様に港を陸軍と警察が見張っていた筈だ。
二本差しだった士族は廃刀令が施行されても歩き方で士族だと分かったのだ。
私学校に留学していない荘内士族の西郷軍(実態は桐野軍)に参加者が0だった事が、
士族を九州に渡らせない様に港を陸軍と警察が見張っていた事を立証して居る。
http://www.city.yame.fukuoka.jp/kouhou_yame/arekore/a16.html http://sivato.blogzine.jp/999/2010/03/9_01ef.html
八重の桜のCMが流れまくってるけど
あの容保は好評なん?
むしろ、西郷隆盛の体型に注目したい
986 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/29(土) 21:41:11.93 ID:ojyKomE+0
獅童の佐川官兵衛がカコイイな
容保さん好評よ