1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
佐幕系
2 :
名無しさん@├\├\廾□`/:2010/09/30(木) 19:02:57 ID:Ym+PNjfO0
うんこうんこうんこうんこ
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 21:00:59 ID:akny3QSX0
震度4位では大被害はないよ。
それよりも、嘘をつかなくなるよう、地域性の変化があることを望む。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 23:21:21 ID:dlQsPZcuO
>>4 【地理】福島は東北地方の太平洋側にある大きな島です。島全体でひとつの県「福島県」
を構成しています。
県庁所在地は会津市。県庁は旧・さざえ堂を改築して造られた建築史的にも大変ユニーク
な建物となっております。
【歴史】福島県の前身である会津藩は幕末にペリー提督率いるアメリカ海軍と戦いました。
これが「会津戦争」です。
その際白人に変装してアメリカ海軍の黒船に侵入、猛虎のような活躍をした忍者部隊は
のちに「白虎隊」と呼ばれることになります。(後略)
「うつくしま・ふくしま」福島県庁観光課HPより
新撰組
野蛮な浪人集団。1人を集団で襲う戦法。
会津藩や一橋と並んで、京の町で嫌われてた。
近藤派と芹沢派の内ゲバは会津藩が受理。
白虎隊
元服を終えた青年部隊。会津戦争では
約300人中、ほぼ全体が篭城していた。
戦死者は約20名。飯盛山の自刃は
老人1名の証言しかなく、確証はない。
飯盛山で自刃してる所を発見した者の証言はない。
遺体を埋葬しようとして咎められた庄屋の証言と
新政府から金銭を頂戴して、遺体を埋葬した
会津藩士・伴百悦の手記に食い違いがある。
見廻組
会津観光史学で新撰組がフューチャーされ過ぎて影が薄い。
彰義隊
徳川幕府が降伏したのに、追随せず大暴れ。
無駄な戦闘を開始させた。
おいおい見廻り組をこんな雑魚共と一緒くたにするなよ
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/07(木) 12:57:43 ID:K69RgAPM0
佐幕派諸隊を扱うなら新徴組・新整組が抜けて
るのはおかしいだろよ。
>>5 幕末、外国の艦隊と攘夷戦争をしたことがある薩長がよっぽどうらやましいんだなw
新撰組てえらい人気だけど、正直この人達って凄いのか?
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/10(日) 15:14:39 ID:65nf4OVL0
凄いの基準は何なんだ?
例:剣の腕が凄いのは千葉周作で、凄くないのは西郷隆盛。
政治が上手いのは大久保利通で、凄くないのは西郷隆盛。
では、西郷隆盛は愚人なのかといえば、そうじゃないだろう。
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/10(日) 15:51:27 ID:87/fasyhO
うーん…何て言うか。えらいメディアとかでちやほやされてるから、それにかなう実績とかあるのかなって
作家が創作で格好よく描いただけだよ。
壬生狼って本当は悪口だからね。
京で本当に人気があったのは長州藩。
徳川幕府や一橋、会津・新撰組は嫌われていたんだよ。
それをアンチ長州の会津系作家や司馬が
長州=過激と位置付けて、悪い奴みたいに描いたのさ。
司馬は人気作家だし、会津系作家は異常なまでに出版するし
わざわざ会まで作って活動してる。
幕末史に長けた人なら、長州を悪くは言わない。
会津を持ち上げ、長州を下げる人は、小説・ドラマ・作家の主観本を
史料だと鵜呑みしてるニワカだよ。
>>1 >政治が上手いのは大久保利通
?????
木戸と西郷が参議内閣から引っ込んだら、残るは大久保しかいないんだから、
政治が上手いとか言えない。
幕末の朝廷工作でも、
薩摩(最大の雄藩)と近衛家(公家筆頭)の後ろ盾がありながら、
上手く持っていけず、結局、薩長同盟なんだしさ。
>>13 だよね。激しく同意。
いくら小説と言っても、実在の人物使って、あんな名誉毀損的な歴史改竄は、
国賊指定された上、刑罰を科されるべきだと思う。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/10(日) 17:50:32 ID:7Xk7kAEm0
何が「凄い」のか何が「実績」なのか。テレビ・雑誌
などの知識をメインにする一般人と、専門的学術書・
論文の知識をメインにする学者・学生では大きく認識
が違うように、結局は取り上げられる環境次第でどう
とでも変わってくるし。
ま、メディアは「江戸を中心とした東日本の浪士・草
奔層に立身出世・政治参与の貴重な機会を提供し、そ
の活動を活性化させた画期的な有志結合組織」なんて
切り口でピックアップするより、「かっこいい若い兄
ちゃんの群像劇」みたいな切り口で一般大衆に売りこ
んだほうが金になるから、後者を重点的に喧伝するわ
な。
んで、そういうメディアに踊らされて新撰組を「時代
に殉じた英雄」か「時代遅れの人斬り集団」かで対立
してるような世間の議論は、正直的外れもいいところ
ってのが学問としての歴史に通じた人々の評価。学問
的にはもっと注目すべきところはあるだろうってこと
だろう。ただ、それが一般大衆の暇つぶしになるよう
な内容かといえば必ずしもそうではない。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/10(日) 23:21:01 ID:65nf4OVL0
>>14 だから比較する基準は何なんだよって言っているのw
>木戸と西郷が参議内閣から引っ込んだら、残るは大久保しかいないんだから政治が上手いとか言えない。
なんで木戸と西クが内閣から退くと大久保しか残らないのかわからんw。
板垣退助とかもいる。板垣の方が大久保より政治が上手かったのか?。
板垣でなくてもいいよw。判断基準示してくれw。
俺が求めているのは”判断する基準”たとえばこんな事も言える。
池にいるミジンコは、同種生物とは争わない。
大久保利通は、同種の人間である政敵達と政治的に争い、蹴落として実権を握った。
だから大久保とミジンコを比べた場合、ミジンコの方が優れているw。
とかなw。これは基準をミジンコにした無茶苦茶な一例だが、こういう基準を示さないと比べられないだろうw。
それと、君は一つ勘違いしている。俺は一例として「西クを基準に大久保を評価した」訳だが、この場合の比較対象はこの二人だけ。
政権から西クが退いたら大久保しか残らなかったと君は言うが、全然関係無い。
幕末の討幕運動における朝廷工作、王政復古、明治政府建設と西クと大久保の二人を比べた場合、
西クはカリスマであり決断力もあったが、政治的な調整、工作はダントツで大久保だろw。
この比較には、西クと大久保の二人の政治力のみを論じており、その他の要素は一切関係無いよw。
>>17 じゃ、
西郷隆盛=小沢一郎
大久保利通=藤井裕久
みたいだと言ってるわけだねw
民主党に取り入った自由党の手練手管は凄かったよ、ホント
民有合併時だけでさえ3億円だまし取ってるからね
そこからつい最近まで汚沢ファシズムの世界だったからね
゚(゚^▽^゚)゜。 ブヒャヒャヒャヒャヒャ
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 07:24:29 ID:0DQmpaYY0
>>18 お前バカだろ
比較基準を言えと言っているの
俺がいつ「西郷隆盛=小沢一郎 」とか「大久保利通=藤井裕久」と言ったんだよw
君がそう思っている厨房バカなら、それはそれでいいけどなw
>>10 もともと野蛮な連中だが、池田屋事件からまさに幕府の犬で百害あって一利なし。
ただ新選組だろうが薩長だろうが、志は高かったというのも忘れてはいかん。
現代人が見習うべきことがたくさんある。
新撰組の志って何?
勤王派は馬鹿の一つ覚えで「攘夷」と言いながら、
自分達が政権獲ったら手の平返して「開国」に早変わりして諸外国のご機嫌伺い。
社会党が「日米安保反対」「自衛隊反対」「消費税廃止」と馬鹿の一つ覚えを
言いながら、政権獲ったら全て自民党政治の踏襲したのとそっくり。
口先だけの卑怯な勤王派や社会党より、現実を見つめていた新撰組や自民党の方が
はるかに正しかったね。
>>22 薩長はもともと開国派。
日本の昭和戦後の歴史学者とNHKが低脳と歴史改竄キ●ガイばっかりなだけ。
薩摩橋まず斉彬の頃から露骨に開国派だし、長州は1853年から吉田松陰・桂小五郎・高杉晋作・井上馨・伊藤博文・・・と露骨に開国派。
薩長は、つまり、尊王攘夷開国派なわけ。
対する幕府は、屈服開港鎖国派なわけ(諸藩には鎖国の禁を科したまま)。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 23:06:05 ID:aGB1035x0
新撰組は嫌いじゃないけど・・・
現実を見つめていた新撰組ってのが何を指しているのかがわからん。
官軍の銃砲火を前に白刃だけで突撃を繰り返す姿って、飛んで火に入る夏の●じゃないか。
目先の現実しか認識できなかったって点では納得だがなw
>24
好きなほうがおかしいと思う。
「志」というよりは出世欲と快楽殺人衝動だろ
剣術をかじる
→オラたちでも武士やれるんじゃね?人を斬ってりゃいいんだろ?
→ペリー来航で江戸幕府の旗本・御家人の慌てぶり・臆病者ぶりを観察してますます自信をもつ
→浪士組→壬生浪士組→新撰組→旗本・御家人
・・・・人を斬れば斬るほど出世できるぜ!
と思ったらやっぱり長くはなかったぜ!
どうしてオラたちが出世できるのか内心おかしいと思ってたんだ。で終わり。(たぶん、揃って地獄逝きp)
清川八郎が暗殺されなかったら新撰組も180度違う立場だったのにね
新撰組で評価できるのは、土方歳三だけ
致命的なのは、教養がなく、国家的なビジョンを描けるのなんか一握り
一部のものは、長州藩や土佐浪士と仲良くなり行動した
このスレで清川八郎について知っている人いる?
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 00:11:00 ID:w16twxlF0
>>25 たしかに新撰組の連中は「志」というよりは、「夢」といった方がしっくりくる。
その辺りが現代人にもわかりやすく、人気にもつながっていると思う。
もちろん、実物がどんな連中だったかなんてのは、知るだけ興醒めするだけだが。
>>27 清川が生きてても立場は変わらんと思うが。。
本人たちが離脱して京都に残ったじゃん。
山南さんを消しちゃうような奴らだから、国家ビジョンなんて描けるはずがないw
>>27 知ってる。
水戸学の尊王攘夷をそのまま口にしてただけの夜郎自大な自信過剰男。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 00:17:55 ID:w16twxlF0
>>30 勘違いしてほしくないんだが、俺は新撰組ファンじゃないw
中学のときに司馬の小説にハマったが、半分はフィクションですね
色々な小説、史実の本を読むべきだと思った
司馬は、人たらしですなw
祖父とか嫌っている
親父の世代とかは好きなのが多い
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 00:34:18 ID:w16twxlF0
半分はフィクションですね。それ以上かも。
新撰組なんてほとんどがフィクションじゃないかね。
史料がほとんど残ってないから逆に小説にしやすいんだろうけど。
ま、それはそれと割り切って読めればいいんでね?って思う。
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 08:26:39 ID:dyRo/CEq0
馬鹿!!
99.99%創作だよ
土方のロマンスなんか笑うしかないからね(笑)
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 08:43:01 ID:w16twxlF0
朝一から元気いいなw
ほとんどがフィクションと言っているのだが、まあいいや。
司馬の上手いところは、まるで史実のようにフィクションを書くところだな。
新聞記者やってたらしいから、こんなのお手のもんだろうな。
>>28 山南よりも伊東だろう。
新選組にとっては最後の切り札だったんだよ。
御陵衛士の残党の証言で斬首なんて罰が当たったとしか思えない。
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 13:22:38 ID:ehPrXXoY0
>>36 あっそれは元陸援隊の谷の私恨だから
なにがなんでも断首にしたかったらしい
よっほど坂本を尊敬してたらしく、今井の自分がやっという証言に
「お前なんかに坂本さんを斬れるものか」と一喝してるし
>>37 ええぇ〜?
龍馬・慎太郎をやったのは、やっぱり新選組だろう?
見廻組の連中の証言は、各々食い違う上に、被害者の慎太郎の証言とも大きく食い違う。
京都守護職の会津藩が、新選組にやらして、新選組の評判が悪いもんだから、
表向きは見廻組の犯行ってことでお茶を濁そうとしたんだよ。
で、見廻組のほうも、別の暗殺事件をやっちゃってて、それをまぜこぜに話してるんだろ。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 14:59:57 ID:+PAFEnPi0
そりゃあこういう大掛かりな事ほど当事者らの記憶があやふやになりがちだし
まして時の経過とともに記憶が薄れていくし
人間の記憶力ってそんなによくないのよ
現に受験勉強であれだけ詰め込んでも、一年も経てばほとんど忘れてしまってるだろ
>>37 いや、残党が大久保=近藤だと証言して斬首に繋がったと言いたかったんだ。
誤解させてしまったようで申し訳ない。
>>39 事実を根本的に歪曲したくなるようなやましい事情のある人物ならいざ知らず、
ふつうは、大掛かりな事ほどそのまましっかり記憶に刻んでるよ。
人間の記憶力を舐めちゃいけない。。
詰め込みの受験勉強のような表面的知識だけの記憶とは、そもそも、記憶の質が違う。
あの当時、暗殺指令を下せるのは第一に新選組。
しかし、会津藩お抱えだった新選組が龍馬・慎太郎を殺した、ってことが公けになったら、
会津藩の立場が更に決定的に悪くなるだけだから、
新選組にも見廻組にもあらかじめ言い含めておいて、
内々に、龍馬・慎太郎を殺ったのは元々旗本・気家人集団の見廻組!ということにしておこうとしたんだろ。
それ以外、辻褄が合わんのよ。
>>41 そういういかにも小説家好みの何の根拠もない珍説をほざく奴が他人に事実を歪曲とかよく言えるな
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 16:38:36 ID:TqylKZ4I0
ID:fcDDgc8f0みたいなキチガイは放置しておけ
新撰組は、現在でいえば暴力団
低学歴チンピラ集団
新撰組と会津は、作家が美化してるだけ。
白虎隊なんか論外。崇める理由が解らない。
なんで新撰組って殺した不逞浪士より
粛清で殺した身内の数のが多いのん?
>>46 そうよん
しかも一旦入隊したら抜けられないのよん
幹部以外は地獄なのよん
>>47 現在の暴走族、ヤクザみたいじゃないですか?
入隊したら辞められないのは知らなかった。
>>46 京都で、レイプや悪さばっかしたから
新撰組の規則守らなかったり、他者に迷惑かけたからだよ。
手のつけられない不良ばかり
(笑)
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/13(水) 11:35:12 ID:qP9lQgoK0
近藤や土方も似たような事やってるんだけどね…
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/13(水) 13:10:27 ID:f9Q6eKTq0
規律は幹部も適用される。
所謂「局中法度」のような内容は海援隊や奇兵隊の規律にも見られる。
勿論内部抗争も。独自の規律を設け、違背者は厳罰に処すというのは、
あの時代に湧いて出た有志結合組織の特徴。現代ヤクザ組織・暴走族に
直結させるより、そうした当時の事情に即した知識を踏まえて考察する
のが妥当。
さらに、違背者が増加するのは元治元年後半以降。これが意味するとこ
ろは尊王攘夷路線から幕従・洋式軍備強化路線への変化で生じた組織矛
盾の顕在化。素行不良の隊士が増えた云々は勿論ある。だが、規律を犯
してでも組織を抜けなければいけないまでに追いつめられた、隊内尊攘
派の存在も大きい。
江戸新徴組では早期に幕府・庄内藩による清河一派捕殺、尊攘激派の水
戸天狗党大量移籍などで、そうした思想的対立問題が解消された。新撰
組は暫く多様な政治思想の持ち主に門戸を開き、またそうせざるを得な
いとかった事情から、それが少し遅れた。組織の方向性・周辺環境の変
化に注目しなければ事の本質には迫れない。
また、事情によっては条件付きで中途離脱は認められていた。助勤以下
になると平和裏に隊を去ったという事例も多い。慶応三年五月の茨城司
以下による脱局騒動でも、首謀者は切腹(自害説・新撰組暗殺説あり)し
たが、それに従った約10人は放逐されている。
>>45 白虎隊が実は少年部隊じゃないって話のソースはどれだっけ
白虎隊は、会津の家老が大反対したのだけどね。
なぜ美化されるのだろう
会津の家老はさすが優秀だったと思うよ。将軍は無能だけど。
>>53 会津なんかクソしかいねえだろうがww
会津観光史学、調子にのってんじゃねえ
最近の成りすまし君は会津観光史学という言葉を覚えたんだな
>>52ソースもなにも、侍は15で元服するんだから、17歳の白虎隊は成年だろ。
元服は今でいう成人式なんだから。
>>55なりすまし自体が、会津観光史学洗脳者だからな(笑)
ところで、「三品仲治」は山崎烝の隊内での変名だろ?
それ以外、辻褄が合わん。
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 02:18:14 ID:dVkgv0g/0
>>58 元治元年(1864)11月作成の「行軍録」に、
三品忠司(仲治)の名が松原忠司率いる七番
大砲組に見えるが、山崎烝の名も小荷駄雑
具(平時の勘定方)に確認できる。
完全に別人でしょう。
因みに同じ三品姓の三品一郎という隊士が
いるが(おそらく同一人物)、これも「英名
録」などの諸史料で山崎とは別人として確
認できるね。
よく知らんが、そんな噂とかあったっけ?
by『新選組組長列伝』新人物往来社・2002年
>>58>>59 密偵山崎烝に隊内での変名がないほうがおかしいし、
脱走した者からもバレないようにということで
色々別人であるかのような偽装工作が為されたんではないか?
むしろ、それが山崎のような密偵に対する当然の配慮なのではないか?
ということで、
山崎烝=三品仲司=三品仲治=三品忠司=三品一郎
が正解なんじゃね? とふと思った。
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 03:06:50 ID:7kgZfCVOO
>>60 山崎は密偵としての活躍でしられるが、むしろ公事訴訟の担当者として活躍してる。
>>60 そう。問題はそこから。
第1の問題は、山崎烝の隊内での変名に相当するものが「三品仲司」(および、それに類似する名前)しか見当たらないこと。
第2の問題は、その「三品仲司」が池田屋事変の功労者であるにもかかわらず不思議な行方不明者になっていること。
第3の問題は、「三品仲司」の行方不明と相前後するように山崎丞が新撰組の山崎丞として公に行動を始めていること。
これら三重の、余りにも見事すぎる符号の一致。
明らかに、山崎は、いつまでも薬屋に扮して京の旅宿に入り浸ってばかりいると
京の人たちから密偵ではないかと怪しまれるだろうとさすがに察して密偵をやめたと考えられる。
密偵のほうは新顔に交替すればいいだけの話だし。
そして、少なくとも近藤勇だけは「山崎丞」=「三品仲司」を知っていて
山崎が密偵をやっている間はそれがバレないように近藤勇が名前を使い分けていたんじゃないかと考えられる。
>>61 公事訴訟って何? 何やってたの?
>>62 あらためてWikipediaをみてみて
池田屋事件や山崎烝に関する今の推定記事は、
スパイもの・サスペンスものを一冊も読んだことがない低脳が書いてるなとおもた
おまけに島田魁日記と完全に矛盾させてしまってるし
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 18:22:03 ID:riqH8uYr0
>>59です。
>>62さん、
第1に、山崎烝の変名は史料上「山崎大二郎」しか確認できてないよ。
第2に、三品仲治(忠司)の名前は「行軍録」で消えるけど、直後の「山崎烝取
調日記」に五番隊平士として突如三品一郎の名前が出てくる。この名簿で平士以
下は序列を入局順で書かれている。三品は伊木八郎・宿院良蔵の間つまり池田屋
事件以来の古参者という扱い。「英名録」「幕臣取立者名簿」等の異なる人物・
時間に作成された何れの名簿でも扱いは同じ。つまり三品仲治と一郎は同一人物
と考えるのが妥当で彼は行方不明者ではない。勿論、山崎烝は何れの史料でも三
品姓の隊士と全くの別人として名が載る。
また、山崎の存在が確認できるのは池田屋事件直前だが、史料上、密偵としての
活躍が確認できるのはこの時と、慶応元年11月から翌年7月にかけての広島・
長州での「周防方」としての探索活動くらい。むしろ、隊士として存在が表向き
抹消されていたのでは?と思えるのは、浅野薫(藤太郎)かな。彼は慶応2年後
半までは確かに在隊していた筈なのに、その間の名簿に殆ど名前を遺していない
し謎多き存在。
山崎はむしろ優秀な事務・外交官僚タイプとして目立った存在。例えば、「禁門の
変」直後に小荷駄方(勘定方)として河合耆三郎と長州軍の遺した武器類を回収
し、その事務処理を担当。慶応三年四月の近江八幡仙台藩領内における訴訟事件に
も派遣され、代官を蔑ろにして独断で裁判調停を処理してしまったという同時代の
記録がある。他にも西本願寺屯所移転の交渉役とか、公卿中山忠能邸への効用とか
の活躍が挙げられる。経歴の詳細は『新撰組全隊士録』に掲載されているし、近代
史家の宮地正人氏が『新選組の論じ方』で恐らく従来の「新選組研究者」たちより
も正確に山崎の存在を考察している。
長々と失礼しました。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 03:01:35 ID:M38y6uQHO
>>65 >>64御指摘感謝です。確かに山崎丞自体変名ですね。詳しく調べると父方が林姓、母方が山崎姓とのこと。
大二郎という通称は少なくとも結婚して壬生村に住み始めたあたりから新撰組入隊直後まで使用し、その後で丞と名乗っている。
因みに林信太郎が従兄弟云々はデマで、実際に新撰組で従兄弟・義弟だったのは山崎新五郎(新次郎)という隊士なそうな。
賛否両論の新選組だが、仮に戦争があったら日本のために勇敢に戦ってくれるのは間違いない。近藤や土方は生まれてくるのが早すぎたのかもしれない。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 16:44:14 ID:/1wtlUCk0
元々外国と戦争したくてしょうがない攘夷浪士だしな。
で、攘夷できないのは長州が邪魔するせいだと考えて長
州と戦争した。長州も攘夷できないのは幕府のせいだと
して幕府に戦争しかけた。
結局、幕府が負けて、新政府はその遺産を活用しながら
日清・日露・第一次世界大戦と十年置きに「攘夷」戦争
に邁進し、何時しか守る側であったのが、かつて自身が
打ち払おうとした攻める側になっていたことにも気づか
ず始めたのが大東亜戦争。
めちゃくちゃ簡単にいえば日本の近代史こんな流れだろ
。幕藩体制や徳川主導の国家がそのまま続いたところで
、対外戦争の道は突き進んでいたべな。実際、最幕末期
に慶喜は朝鮮進出を計画してたくらいだし(大学時代に
その手が専門の教授から聞いた話で、出典がなんだった
かは忘れたが)。
会津wや新撰組wごときが中心になってもどこの国にも勝てやしねえよこのバカ
会津観光史学だまれ
>>68何が言いたいか不明。長文は否定しないが、駄文を並べてるだけ。しかも主観。
オマエの主観なんざどうでもいい。あとな、226以降は、東北系が主体だよ、日本は。
>>69 まあオマエみたいな引きこもりよりは役に立つだろ
>>70 単純にいえば、幕府が倒れても倒れなくても、日本の軍事的な海外進出路線は変わらなかっただろうなぁ。
という、ただそれだけの意見を伝えたかった。最近、幕末期の海外進出論とかに興味を持っててね。
細かい事情は抜きに、空き時間でバタバタ書いた乱文でして。批判とはいえ反応があるだけ有り難い。
日本が維新から大東亜戦争へ突き進んだ原動力・メカニズムみたいなものを、
幕府から薩長、薩長から東北というような単純な政権の異動論だけでなく、そういうレベルを超えた、
広範な時代把握で全国民的な動きから考えてみたい。が、仕事もあるから論文・史料探しが進まず、意見も纏まらず、
結局、たまたま覗いたスレに無駄に駄文をさらしてしまった。申し訳けないね。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/19(火) 21:45:10 ID:RQ+T4mzH0
薩長の凄いところは自己変革力。それも強烈な自己犠牲を伴いながらね。
会津や佐幕諸藩にマネできないのは、ここ尽きると思う。
明治維新は薩長の侍が中心となって成したが、自らの立ち位置であり存在意義である武士階級すらも否定し、速やかに実行に移した。
鹿児島や山口で今更にして武士道云々を言わないのは、そうした自己否定してきた葛藤と痛みの歴史を理解しているからだ。
会津は今更ながらに武士道的なものへの回帰というか、再評価を考察しているという点で進歩がないどころか、後退している。
明治維新を否定するなら、それに代わる「会津ならこうできた!」というビジョンをはっきり示すべきだろう。
できなければ、ただの駄々っ子と変わらない。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 06:05:38 ID:9rwOW/8jO
結局さ、会津だろうが薩長だろうが、この手のスレでどっちか一方が「凄い」「凄くない」ってな調子で議論してる連中って、
贔屓してる存在を小難しく理由つけて、どれだけ自慢できるかしか頭にないんだな。
と、会津観光史学w
会津に自慢できることって何があるんだ?
負の遺産しかないだろう
女、本来戦わなくてよい青年まで巻き込んで
最後の将軍は、なかなかやるなという場面や人格もあったけど
>>71 働かない無能より働く無能の方が遥かに質が悪い
と、日本のお荷物の言い訳w
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/21(木) 20:11:48 ID:oKog7Qjf0
新撰組関連スレッドはすべて監視下におかないとな
こいつら間違いなく観光史学洗脳者だわw
新撰組を肯定することは、暴力団を賛美することと同じだな
土方だけは敵ながらアッパレ
あと、新撰組の熱狂的ヲタは、低学歴が多い
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/21(木) 22:03:12 ID:wAUdSlkXO
新撰組を登用した会津藩公用方手代木傳右衛門と、坂本龍馬を暗殺した見回り組の佐々木只三郎は兄弟でござる
土方は別にあっぱれじゃないだろ。
榎本や会津と一緒に、北海道を襲い
戦局を拡大させた1人じゃん。
うーん、土方も無能だとすると新撰組でまともな隊員はいたのか?
新撰組に嫌気がさして、長州に仲間入りした隊員がいたと聞いたが。
榎本は、新政府軍に仲間入りして、新政府軍の方が正しいと方向転換した
から評価できる。
会津のお殿様が阿呆過ぎるw
ここも会津叩きのレスばかり。。。
普通に新撰組の話でできるとこないの?
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/22(金) 12:19:48 ID:2PLIiwIcO
新撰組をマンセーする奴なんてにわかと腐女子と似非武士道が大好きな連中ぐらいだろ
語る価値無し
>>85会津が叩かれるのは観光史学や恨文化が原因だろ。
普通に新撰組の話?普通って何?一般的に新撰組の話をするヤツは
ドラマや小説といった、作られた新撰組なんじゃないの?
君は史実で新撰組の話出来る?フィクションと史実の間でファビョーンしないか?
会津観光史学洗脳者みたいに。
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/23(土) 03:26:05 ID:V04NC37h0
>>88 そうやって「なんでも会津観光史学に関連づけるのはやめろ」ということでしょ。
気軽に語りたい人にとって、型にはめたがる人間ほどうざったい。
新撰組の名前を出せば「会津観光史学うぜー」「オタうぜー」「監視せねば」「語る価値無し」と鳴くが、
その時点で思考が停止してんだから、同じ穴の狢。
そもそも「作られた新撰組」ってなんだろう?それを語ることがなんで問題なんだろう?「観光史学」「恨文化」がなぜ需要をもったのだろう?
時代が新撰組を生み出し求めた背景は?総合的に勘案して何が学びとれるの?その知識をどのように活用していくべき?等々、学問としての「歴史」はそういう視点で語るべきだと思う。
事実関係を把握することは、誰でもできる基本手的な「材料集め」の作業。そのとっかかりをこういう場で行うこと自体も問題ではない。
ならば「君は史実で新撰組の話出来る?」「フィクションと史実の間でファビョーンしないか?」という問いかけに何の意味があろう。
曖昧な「会津観光史学洗脳者」という存在をほのめかして終わるより、自らが信をおく参考文献なり情報を提供するくらいしたほうがよっぽど有意義じゃないか。
この手のスレのあるべき姿は本来そういうものだと思うけど。
無知は恥ずかしくない。無知を隠して無知を辱めることのほうがよっぽど恥ずかしい。
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/23(土) 07:14:51 ID:lI4suyeG0
>>89 ここをどこだと思っている
ここは”学術板”だぞ
”学術的ではない”妄想や小説、漫画を元ネタに自由に書き込みできる場所では、本来ない。
1+1=2
なぜ2になるのか?
などという幼稚な質問をすべきではない。
まず、自分で勉強しなさい。
勉強した後、「コレコレを調べてみたが、ここの部分が解らない。教えてくれ」と言いなさい。
なお、「幼稚な質問をすれば、幼稚だとバカにされる」のは当然ですよ。
なんだかんだ言っても新撰組は現在の京都観光のコンテンツとして利用されてる
京都人が子孫に語るほど嫌っていたとは思えない
小説やドラマ、映画の影響であったとしても、ロマンの香りを持っているんだよ
判官贔屓も無視できない
好悪とか善悪とかの問題を超えたところに存在価値があるんだと思う
新撰組ってカッペが調子こいてたら引っ込みが付かなくなった
ってイメージしかないわ
政治的な理念があったわけでもないし
>>91 現代人の感覚なんざ、往時を推測する上では参考にもならないよ。
戊辰戦争のとき、会津松平が滅亡の危地に立ってもガン無視してた上にヤーヤー一揆まで起こした会津民の子孫が、
今では何故か会津松平贔屓じゃん。
判官贔屓はその通りだと思う。
>>90 時代劇板の新撰組スレにも会津観光学がどうだこうだと粘着してる奴がいるのだが。。
そこもスレ住人が悪いの?
会津を叩く人間が正しいの?
彰義隊が最も厄介な存在だったと思うね。
制圧した敵地首都のど真ん中に公然と武装勢力が集結してるんだから
上野戦争を強行するかどうかが鳥羽伏見以降の1つの分かれ目だったよ
伊東甲子太郎の大開国大強国は当時どういう評価だったんだろう?
薩長土芸・・・・・・新撰組の誰かが、どこかで聞いたようなことを言っているが
近藤とか言う馬鹿の建白書同様、羅卒がいっぱしの人間になったつもりらしい
近藤・土方・・・・・・裏切り者には死を
当時の知識人なら、いたって普通じゃないの?
もっとも倒幕勢力は狂信的攘夷派、保守派、近代国家樹立派の連合だったから、
前2者からは仇敵視されたかも知れないが
>>98 個人的には崇高な思想だと思うんだけど、やっぱり理想論に過ぎないということなのかな
結局旧幕府は武力で沈めなければならなかったし
あくまでも朝廷中心と言ってた伊東に実はどれだけの野心があったのかも気になる
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/23(土) 16:06:36 ID:zYCnPIVJ0
伊東とか坂本龍馬は基本的に徳川を武力でぶっ潰そうというタイプじゃないが、
身分制をもって人民を無駄なく編成し、管理運用してきた幕府にとって、その枠に当てはまらず活動を展開する連中は、
結局不気味な存在でしかなかっただろう。
特に「桜田門外の変」以降多発したテロ事件のトラウマも生々しく記憶されている。ほっといたら何するか解らない。
幕府が浪士組残党を新撰組・新徴組という形で再編して、徹底的に統制下に置こうとしたのも、そういう危機感からきてるとすれば頷ける。
そういった幕藩体制社会の根本的在り方・性格から考えていけば、坂本・伊東の暗殺事件についても薩長とかフリーメーソン云々説よりは現実的な答えに至ると思うが。
幕府「幕府に仕えさせてやろう。幕府への恩顧を一生忘れるでないぞ」
浪人・武士昇格希望者「やったぁ! これで一生人を斬って食っていけるぜ!」
そして案の定、幕府は更に無茶苦茶になり、致命的に評判を落としただけであったp
薩長土芸って何?薩長土肥なら知ってるが。
芸州浅野のことだろjk
>>103 それくらいわかるだろ
あえて芸州を入れた意図を>102は尋ねたかったんじゃないか?
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 12:09:13 ID:06lPWbshO
>>101 実情からして身分・立場によっては必ずしも武士になることと生活の安定はイコールの関係ではないからなぁ・・・。
百姓一揆なんか調べてると分かるが、農民・町人など武士以外の身分にもそうであることのメリットやプライドがあったわけだし。
新撰組構成員の半分以上が百姓(当時の社会の九割を構成した層)ではなく、下級武士やら浮浪者などなど、
都市に溜まった確固たる生業を持たない人物である事実から、むしろ、
構成員は主義主張で集まった連中以外となると、本当に自分の命を賭でもしない限り食えない貧民層だったんだろうよ。
そうい純粋な或いは悲壮な感情を利用して上手いこと正規武士に変わる使い捨ての新兵器として活用するのに成功したのが、
当時の幕府や薩長など雄藩。こういう視点から見ると日本社会の本質的な在り方は幕末と対して変わってない。
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 12:27:27 ID:J/SVKUKv0
ちなみに、鳥羽伏見の戦いやそれ以前に、京都政界に肥前の影はまるで存在しない。
この時点での言及に肥前を入れることは出来ない。
肥後の宮部ていちゃんは新撰組に殺されちゃった
肥前と肥後じゃ全然違う
>>104多分間違えたんだよwwwwwww
薩摩・長州・土佐・肥前を
薩摩・長州・土佐・安芸ってwwww
官軍の四大勢力は薩長土肥なのにwwwwwwww
なんすか?wwwwww薩長土芸てwwwwwwwww
なんのくくりっすか?wwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>109 藻前が無知なだけwwwwwwww
余りにも恥ずかしい無知wwwwwwwwwww
にわかにも程があるp
大政奉還時、薩長同盟に薩土芸同盟があった。あわせて薩長土芸。
鳥羽伏見んとき、肥前はまだ日和ってたよ。芸州は明確に新政府側。
第二次長州征伐んときも割と長州側で、幕府が先鋒やらせようと思ったのに断った。
だから井伊の赤備えが先鋒に繰り上がって御覧の有様だよになった。
彦根藩とは何だったのか
114 :
土佐藩・中岡慎太郎:2010/10/30(土) 17:29:38 ID:rhWWNbKaO
うるさい男じゃのう…。寒気がするの腹が減ったのと
彦根も可哀想だから仕方ない。後継問題と条約を片付けた直弼の暗殺後は冷や飯食うわ、
それでも幕府の心証よくしようと頑張ったら芸州戦線では恥かくわ
あれだけ痛い目を見たら、鳥羽伏見で慶喜と心中しようとは思わないでしょ
>>110肥前はどこいったの?
薩摩 土佐 安芸の同盟なのに
長州入れるの?なら、肥前もいれなきゃ。
つまり君は主観で話してるんだよ。
だからツッコまれるんだよ。
そもそも話の流れを無視して
別の話題を投入する時点でなあ…プッw
まあいいよ。頑張りなwww
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/01(月) 11:33:32 ID:CEHvqhJNO
薩摩、長州が倒幕反徳川で、芸州、肥前が日和見的西軍、土佐、越前は会津桑名が豚一を担ぐのに反対だった、という温度さがある
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/01(月) 17:43:29 ID:F3A8GZr10
>>116 肥前が維新に加わるのは小御所会議に呼ばれた時で、その時は旗幟は明らかにしなかった。
軍隊が官軍に加わるのも東征軍からの話で、
大政奉還から鳥羽伏見の戦いまでの間を論じる際に、薩長側に肥前を加えるのはおかしいんだよ。
土佐は、山内容堂一人を除いては藩内に討幕色が濃く、大政奉還時にも薩長同盟に範疇に加えておかしくない。
中村彰彦や星亮一あたりの「土佐は佐幕派、論理は出せないけど佐幕派」という戯言に騙されてはいけない。
王政復古時の主要各藩の姿勢だが、
薩摩:討幕
長州:討幕
安芸:討幕?(討幕軍の派遣までしたのに小御所で徳川慶喜の復帰は容認し、薩長に姿勢を疑問視される)
土佐:藩内は討幕・山内容堂は公武合体(徳川慶喜復帰)を主張
尾張:徳川慶喜の復帰容認、会津・桑名へ帰国引退要請
宇和島:徳川慶喜の復帰は容認、会津・桑名へは帰国引退要請
越前:徳川慶喜の復帰容認、会津・桑名へは帰国引退要請
鳥羽伏見の戦いの途中で朝廷が明確に薩長新政府軍を支持したため、
これらの藩は彦根・淀(国許のみ)・津も含めて薩長新政府軍に参加することになる。
徳川慶喜は前線での会桑の敗北が悪影響し、朝廷での多数派工作を薩長に崩されてしまった。
朝廷に弓を向けて占領できなければ、即朝敵にされるというわけだ。徳川慶喜は賭けに負けた。
公議政体、というか諸侯会議派が最も輝いた時期だな。
肥前はまだ中立。
ある意味では、高杉の言っていた大割拠を最も早い段階で実行していた藩とも言える。
何にせよ、新撰組・白虎隊・会津藩は美化。
にわか厨房以外なら知ってて当たり前の事実。
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 19:37:02 ID:PrOQ4HzzO
肥前の鍋島は割拠主義だったんじゃないのか
一橋から誘われた朝廷参与への参加も断り、かといって長州への武器供与も婉曲に拒否している
>>93 その後、会津藩士は会津の復興と発展に尽力している。
そもそもが、松平容保自身、別に悪意があったり贅沢をしたいが故に重税を課したわけではなく、
公務の為にやむなくした事だからな。
保科正之の頃は善政をしいていたし。
産業発展が見られたのが、江戸幕府300年間で一代のみ
しかも保科正之の統治はまいない政治の賄賂を投入したもので田中角栄型であり、善政とは言いがたい
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 07:06:47 ID:S5ILTE410
なんで新撰組のアニヲタ的なものを使うんだw菅直人嫌いだけど。
新撰組みたいなチンピラ教養なしの暴力団を美化するなw
田母神俊雄閣下は、福島生まれだけど会津ではないし、安倍晋三元総理と
凄い仲が良い。同じく、初代ダイガーマスクで有名な佐山聡とも親密。
ちなみに、佐山さんは、山口県出身(乃木将軍の生家の近く)で、防衛省、
学者とも交流がある。
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 19:51:51 ID:4Ss9JkyB0
>>126 田母神ってただの頭おかしいおっさんじゃん。
それこそ何が良いのか分からん。
>>127 防衛大学校卒の空軍トップだぜ。
タカ派だけど、いかに戦争しないで国益守るかを考えている。最悪の事態を
想定しながら行動するのが国防のプロ。
彼のすべての考えに賛同してはいないけど。違うなと思うところもある。
小沢比べれば、100倍まし。仙石なんか問題外
>>119 ただ、薩摩も在京指導者以外は反発が強かったんだよ。
だから封土の一部割譲と引き換えに慶喜を取り込もうとするのは常識的な落としどころ。
芸州が土壇場でひよったわけではない。むしろ慶喜を挑発する薩長のほうが追い込まれていたとも言える
実際、大坂落ちの後は朝廷はすぐ動揺して慶喜と交渉に入ってるからね。
鳥羽伏見は、慶喜が相手というより、放置すると自陣営から裏切りが続出するのを恐れた面も強いと思う
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 16:20:01 ID:dyTFrqh80
見廻り組の隊長は、会津の人間だし
会津藩が信頼して支持出せる組織
は見廻り組だけだよ!
アンチと新撰組ヲタよ
もっと勉強しなさい!
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 18:19:03 ID:IHDwX6+T0
>>130 誤解しているようだが、幕府老中-京都見廻役-京都見廻組というのが正規の指揮系統だよ。京都守護職・京都所司代にも指揮権はあるが限定的なもの。
本来、見廻組を動かせるのは見廻役。もっとも、「与頭(隊長は誤り・定員四人)」の一人である佐々木只三郎は、確かに会津出身で個人的に信頼は厚かったみたいだが。
しかし、上司の京都見廻役・同並や部下の京都見廻組与頭勤方・同与頭並勤方・同肝煎・同伍長・京都見廻組・同並・同御雇・同並御雇など総勢400人以上の大半は会津藩と無関係。
不祥事で罷免された松平出雲守に代わって、京都見廻役に着任した堀井石見守が、佐々木只三郎の越権行為に不快を感じているなど、佐々木と会津藩の正規指揮系統の無視に対する内部告発的文書も現存する。
鳥羽伏見戦争以後、見廻組の大半が徳川宗家と行動を共にした事実、会津戦争末期に自藩士以外の大半を城外へ追い出した事実から、会津藩・見廻組の間に絶対的信頼関係があったとは言い難い。
幕府からなら理解できるが。
>>125何でそんな絵を使うんだ?まさか新撰組を美化した創作にやられてんのか?
政権を打倒する民衆なんだから「こっちが奇兵隊だ」くらい言わないと。
菅は山口生まれだから、奇兵隊内閣とか言ってるだけで
実際は幕府だろ。政権与党なんだから。
>>132 何にしても政治家が幕末維新期に活躍した人物や組織をやたら引き合いにだして使うの見ると不快だなぁ。
現実に直接国家を動かしてる人たちが、先人たちの名前を軽々しく使うなと。タレントが使うのと重さが違う。
平成の坂本龍馬だ奇兵隊だ新撰組だと、本来、後世の人々が評すべきでことを、
あの体たらくでよく言えたもんだよ。恥知らずにもほどがある。
>>133 激しく同意。
それだけ、売名行為しか考えていない信用不可のクズってことだからな。
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 04:37:56 ID:iV0MclYo0
>>135 またキ●ガイ低脳国賊が暴れてる
長州閥は山縣有朋が死んだ時点で終わり。
薩摩閥は山本権兵衛が死んだ時点で終わり。
>>135何で明治の派閥と現代の政党・団体・メディアとリンクするわけ?
時代交錯も甚だしいだろ。キチガイかオマエは。
いくら時給貰ってるのか知らないがな
菅は東京都民が送り出してる政治家だ。
山口生まれだから奇兵隊とか言ってるに過ぎない。
会津生まれが総理になったら白虎隊内閣とか言うに決まってんだよ(笑)
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 13:10:14 ID:saSNPBB4O
どうもいかんなあ学のある人は。
頭を二つも三つも持っている
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 16:22:19 ID:H7tUHR2wO
>>135 何でもかんでも「世襲」させちゃう日本社会全体の根本的性格に一つの大きな問題がある。
長州だ会津だというような個別的解釈で結論がでるような簡単な話しじゃないだろ。
ってか場違い。内容的に。
そもそも奇兵隊をプラスイメージでとらえてる所に問題の複雑さがある。
まあ団塊の世代の学生時代だと、史料的にもその程度だったのかも知れないが
別にマイナスでもなかろう。
長州を救った主力部隊だったんだから。
歴史の見方ってのは、立場によるんだよ。
プラスだのマイナスだの、正義だの悪だの、形式にあてはめると、わかりやすく感じるけど、
馬鹿らしいことなんだよね。
正義だ悪だやってるのは会津だけ。近隣国ではシナ・朝鮮だけ。
攘夷=植民地化拒否・屈辱外交拒否は人間の尊厳に基づく普遍的絶対的な正義
よって、奇兵隊含む尊王攘夷の志士たちは普遍的絶対的正義。
中川宮・九条・二条・近衛・一会桑・新撰組・奥羽越は低脳国賊丸出しの普遍的絶対的悪。
出自が旧幕側の人たちは、
自分たちの祖先が低脳国賊丸出しの普遍的絶対的悪であることを認めたくないために、
今なお低脳国賊丸出しの普遍的絶対的悪をはびこらせようとし続けている極めて悪質な低脳国賊丸出しの普遍的絶対的悪p
だからそういう価値観を持ち込むことは意味がないんだって。
かつてのマルクスをベースとした進歩史観と同じで
奇兵隊・諸隊に関しては、@藩上層部の意向で結成が予定されており、実態も義勇兵とは言い難いこと、
A上層部は対外戦争を奇禍として士分以外の動員を計画していたこと、
B諸隊内部でも身分差別は残存したこと、B内部で松下村塾系とそれ以外の出自で抗争があったこと、
C元治内戦のおりにも奇兵隊は当初高杉の挙兵呼びかけに賛同せず、藩政府に圧力をかけての組織生存路線(赤根路線)
を選択しており、独自の組織の論理で動く隊であったこと…
などなど、研究者の評価はだいぶクールなものになってると思う。
いまは義勇兵的な側面を強調することはしてないんじゃないかな。
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 12:16:44 ID:qIt10KyC0
奇兵隊のこまかいことに評価があったわけじゃなくって、
長州藩の庶民軍のシンボルみたいなもんだろ。
実際戦ってたのは事実なんだから。
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 12:19:26 ID:qIt10KyC0
いろんな部隊があってそのひとつなんだし、
武士じゃなくって戦い方がゲリラ的なとことか、そういうとこが面白がられてるんだろうし。
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 12:30:44 ID:qIt10KyC0
あら探しして羅列して、歴史に偏った評価を与えて
だから悪ですとか、幼稚な研究者がやりがちなこと。
>>146 だから「庶民軍」かどうかと言うところにいま、疑問符がついてるんだよ。
あと、奇兵隊は幕長戦争期の訓練・戦闘を見ると、ゲリラとは正反対。
幕府歩兵隊の出自が百姓町人でも、誰もこれを庶民軍とかゲリラとは呼ばないでしょ?
奇兵隊は藩上層部が危機意識を利用した「国民皆兵」ではあっても、「義勇兵」かどうかは疑問符がつく。
途中の抗争を通じて、正義党政府の藩屏となって内憂外患と戦う「軍事組織」に転化しているんだよ。
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 12:48:21 ID:qIt10KyC0
>>149 俺が言う意味は、あくまでも出自だよ。
農家の人が鉄砲担いで戦ったとかそういうの。
それに、義勇兵がどうだとか、形式よりも、
長州の郷里を守るために戦ったったって事実が重要だし。
じゃ幕府歩兵隊も「義勇兵」と呼ぶの?戦力の重要部分を占めた庄内藩の農兵とか。
そんな説は聞いたことがないが…
奇兵隊は、もちろん郷土愛も煽られただろうが、内部では藩秩序の枠を超える行為は処罰された。
実際は正義党政権と藩秩序を守るために戦ってるんだよ。両方の要素があったことを認めなきゃね。
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 13:09:04 ID:qIt10KyC0
いやだからさ、義勇兵とかどうでもいいんだって。
秩序乱した奴が処罰とかもどうでもいい。
面白いとこでは芥川龍之介の父親も農民兵として戦って、
維新後は東京に出て成功したらしい。
>>151いい加減で自分のキモさに気付いてくれ。オマエ、遜ってるが、ただのアンチだろ。
美化された白虎隊や新撰組を見て泣いてりゃいいじゃん。
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 14:44:15 ID:eyxoHCTU0
長州諸隊→庶民の方から藩に願い出て、独自に隊を結成→義勇兵だろ
幕府伝習歩兵→幕府の方から庶民を雇い入れて軍隊にした→義勇兵じゃないだろ
奇兵隊は高杉の肝煎りで作られた特殊ケースだが、諸隊で見るなら義勇軍的性質で出来ているよ。
だから諸隊によっては藩庁の命令を聞かないケースも目立つ。
それじゃ困るから、大村益次郎が藩正規軍に取り込んで諸隊を藩の命令に逆らえないようにした。
義勇兵じゃなくなるのは、この時からだね。
だから、諸隊は志願兵、幕府歩兵は傭兵と言うのが今までの通説的見解だったんだが、
諸隊は志願兵・傭兵・事実上の徴兵とさまざまな性格を持っていたという視点が提示されてるんだよ。
これはフランス革命研究でも指摘されてることなんだけどね。
全体としてみると、諸隊は新撰組と似てる。出発点は志士だが、結局は藩秩序維持のための道具になっている。
民衆軍ではないんだよ。
156 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 18:25:45 ID:qIt10KyC0
長州藩を守るために戦ったんだからあたりまえやよ。
武器だって藩が供給するだろう、戦い方だってそう。
157 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 18:36:20 ID:eyxoHCTU0
>>155 それは雑多軍の集合体である諸隊を”大雑把かつ無理矢理”に理解しようとしたに過ぎんよ。
傭兵のつもりで入った者、志願して入った者と色々な人々が入っている。
だが、初期の諸隊の中には藩に属していない部隊も多いんだってば。
藩や国に属さない部隊は、義勇軍と呼ぶべき性質のものだよ。民衆軍かどうかは知らんけど。
当然ながら、藩の命令を聞く必要は無い。藩からは要望が届くのみで、それを実行するか無視するかは隊幹部が合議で決めている。
大村益次郎が、それじゃ困るから藩正規軍に統合した。それ以後が君の言うような「藩秩序維持のための道具」的性質も持ったのさ。
新選組も初期には義勇軍的性質をもってただろうにw。
江戸に帰ってこいと命令を出したのに、京都残留を決めた彼らは幕府に建白書を差し出し「公武合体」を主張、その為には将軍が京都にいる事が望ましく、その警護をしたいと訴えている。
幕府の方が困って、会津藩に彼らの事を話し対処するようにと命じているよ会津にw。
で、会津藩が彼らのお預かりにした。義勇軍的性質で発足した新選組には、当初給金も禄も出されてないよ。
芹沢や近藤が、商人に押し借りしたのはその為でしょう。
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 18:41:02 ID:eyxoHCTU0
>>157 >武器だって藩が供給するだろう
初期の諸隊には供給してないwみんな、刀や槍、農具とかで武装w
藩正規軍になってから、藩が銃を渡してる。
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 23:54:45 ID:uhkIvc4Y0
>>157 幕府浪士組が関東を活動拠点にする尊攘派有志の秩序化組織化を意図した幕府の「御改革」であったのは周知の事実。が、壬生浪士組(新撰組)は違って義勇軍だった、というのは難しいものがあるな。
@分離行為自体は近藤・芹沢らのイデオロギーから発露したものだが、それをあっさりと許可し、態々追加で残留浪士を募り、浪士取扱鵜殿鳩翁を監督役にする計画まで練った幕府の積極的協力的対応。
A分離組を幕府から「御預かり」した京都守護職(会津藩)が抱える、京坂尊攘派有志の組織化・秩序化という課題と、その器としての分離組の利用価値。御預り間もなく同志募集命令を出した事実。
B分離後二ヵ月を経た1863年5月、近藤勇が手紙で「浪士取扱・取締(幕臣の就く浪士組の管理職)」設置が無いため、という前置きをした上で、「同志隊長(後の局長)」を設け自身と芹沢が就いたと郷里に報告した意図。
C江戸新徴組(浪士組本体)と京都新撰組の給与・身分(これは近藤勇が拒否)の授与決定は殆ど同じタイミングである事実。またその間の資金不足による借金騒ぎは新徴組でも起きている。
などなどから、彼らが幕府がドサクサで会津藩に押し付けたとか、初期は独立した組織だった(あろうとした)という解釈には無理を感じざるを得ないな。
まだやってんのか…
つか、何で会津スレで長州の話を持ち出すんだ?
会津観光史学洗脳者みたいじゃないか。
幕府陸軍系は有名な隊や士官が多いけど、徴募農兵もなかなか面白い
佐幕系で面白いと言ったら、庄内藩の農兵が結構面白いかな…
あれは庄内の主力部隊と言ってもいいでしょ
>>154 >藩正規軍に取り込んで
ここだけ↑ちがう。惜しい。他は正しいんだけどね。
長州藩は「武備恭順」の形で上下の反論を統一し、長幕戦争にも備えていた。
そこで諸隊が藩の指揮命令下に組み入れられたことは事実なんだが、
重要なことは、
諸隊のほうでも自発的に組み入れられていたということであって、
隊規作成や隊員募集や隊員管理は藩ではなく自分たちで自発的にやってるんだよね。
おまけに、戊辰戦争終了後、諸隊は療養と供養以外やることが急になくなるわけだが、
残念ながら、諸隊はあくまで義勇兵的な存在に過ぎず武士だけの藩正規軍ではなかったので、
藩庁に対し『自分たち諸隊を藩正規軍と同様に扱い、自分たちが命をかけて藩に貢献したことに対して正当に報いろ!』
と労働争議的な・民事訴訟的な反乱を起こす事態になってしまう。
そして、藩庁に対する軍事的反乱という性格も持っていたため、藩正規軍によって鎮圧されてしまう。
よって、長州藩のほとんどの諸隊は、義勇兵で始まり、維新後に御親兵や陸軍・海軍に入った者以外は極めて純粋に義勇兵で終わっている。
新撰組が会津藩お抱えとなり江戸幕府の旗本・御家人に全的に取り立てられたのとは全くの好対照。
曲がりなりにも尊王攘夷を唱えていた新選組の最大の矛盾(失敗?)は、
尊王攘夷とは真逆の屈辱外交を無理やり推し進めていた元凶が自分たちが擁護していた江戸幕府だったという点だな。
ここは佐幕側の諸隊が話題ではなく、
長州の諸隊が最後まで義勇兵だったか、途中からその性格を失ったか論じるスレですか。
だったら勝手にやっててくださいませな。
>尊王攘夷とは真逆の屈辱外交を無理やり推し進めていた元凶が自分たちが擁護していた江戸幕府だったという点だな。
馬関条約で事実上降伏して藩論を転換し、下関を勝手に自由港化したほうがよっぽど屈辱的だったと思うよ。
屈辱的だから秘密にしたんでしょ
孝明天皇の攘夷意思に最初に背いたのが長州藩だと言ってもいいだろう。
幕府は国内市場の保護こそポイントであることを最初から理解して、開港の際には条件闘争をやってるからね。
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 13:22:49 ID:ZQTyXU680
>>163 同意。
全国規模で有志結合組織を考える際に、長州諸隊の話が出るのは構わないし当然だと思う。
しかし、近世の統制社会的性質を完全無視で、長州諸隊が終始「己の思うままに活動していた」みたいな段階を何段も飛び越した答えに持ってくのは乱暴すぎる。
この手の問題は、江戸時代の都市・村落史に少しでも理解が無ければ理解が難しいところ。舞台が整った段階の「幕末」を上辺だけで見ても限界がある。
ここは下手に話を広げず、素直にスレタイ通り佐幕派諸隊の動向に話題を絞るのが無難だべな。
自分の好きなものを語るよりも自分の嫌いなものを叩く事に熱心になる人ってどこにでもいるんだな
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 10:53:26 ID:slGrpSiu0
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 17:47:32 ID:HJoKpUi10
長州と薩摩はやり方が汚いテロリスト集団
>>167 ん?日教組に洗脳されたの? 無知なの?
アルカイダとは違って、幕府勢力に勝利し、新国家の建設の中心になった
ことでまったく違うだろう。
会津戦争の方がタリバンだw
171 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 20:53:22 ID:hmgl9Go9O
簡単にテロリストだタリバンだなんだと簡単に例えてしまうから支離滅裂な議論になる。
先ず140年前の幕藩体制崩壊期における内憂外患を整理・把握して基本的時代像を掴めてたらそうは言い切れない。
会津がタリバンでなけりゃ薩長もタリバンじゃない。ことを無理に単純化するより深く考察するべきでは?
>>164 低脳国賊にしても悪意が過ぎるね。さっさと氏んだほうがいい。
薩長は遅くとも斉彬や松陰の頃から攘夷のための開国派。
肥前や高野長英はそれ以前から攘夷のための開国派。
彼らは攘夷のために海外との交流を必要不可欠と考えていた。
攘夷は「破約攘夷」・屈辱外交拒否・植民地化拒否という意味だけ。鎖港・鎖国までは意味していない。
鎖港・鎖国なんてしてたら、海外の文明・技術を輸入できず、攘夷もできなくなってしまうだけだから。
とにかく「鎖港」「鎖国」を「攘夷」と勘違いするのは低脳丸出しで無知にも程がある。歴史改竄の悪意が異常過ぎる。
例えば、屈服開港していた幕府を擁護しつつ「攘夷」を標榜していた新選組・会津藩の立場なんか全くなくなってしまう。
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/16(火) 01:31:45 ID:VtJo6BBOO
>>172 というか、近世の所謂「鎖国・鎖港」に対する通説的認識自体が、研究者の間では大きく見直されて来てるな。
幕府の西欧列強に対する外国姿勢を「弱腰・無策」と一蹴することが常だった風潮も90〜00年で変わった。
ま、話題の「龍馬伝」じゃ相変わらず右往左往する幕府と毅然とした薩長雄藩みたいなレトロな描写がされてるけどね。
あと、外圧問題だけがやたらクローズアップされる幕末史だが、これもここ変わりつつあるな。
考えてみれば何よりも先ず注目すべき18世紀後期〜19世紀前期にかけて徐々に顕在化していった内憂に
あまり重きがおかれていなかったこと自体不思議っちゃ不思議な話しだけど。幾つか史料を追ってみると
幕府・薩長問わず武家が武家としての責務を果たせないほど弱体化し、民衆の台頭が顕著になってる。
ってなことが良く見えてくる。新撰組の起源も外圧だけではなく内憂にも求めるればなかなか面白くなるかも。
外圧による開国とそれによる経済的混乱と騒擾はそんなに新しい見解だっけ
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/16(火) 02:22:01 ID:VtJo6BBOO
>>174 外圧によりもたらされた経済混乱ってのは割に古くからあるね。
最近盛んなのは近世社会の柱である武威・仁政の崩壊無力化ってな視点からのアプローチ。主に近世史家から盛んに行われてる。
都市とか村落関係の新しめの本を当たれば確か新撰組に触れた研究も幾つかあったと思う。
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/16(火) 03:48:25 ID:uhfYBPbI0
外国と組んで朝廷や幕府を壊す
テロ以外の何物でもないな
中国と組んで日本をぶっ壊す
民主党奇兵隊内閣と明治維新はそっくり
>>176 佐幕系の司馬遼太郎かぶれの菅直人がつくった内閣による屈服外交・経済失政はひどいだろ?
まさにそういう状態だった江戸幕府を倒してにほんこくを建て直したのが本物の奇兵隊であり薩長主体の明治政府。
これ、日本人の基本な。
どうやら、奥羽越・江戸などを出自とする佐幕系は、いまだに薩長に対する嫉妬と悪意と妄想に逃げ込みたくてしようがないらしいがp
明治政府のあと、原敬内閣以降、幕末の江戸幕府のようなファシズム状態に戻してしまったのが、これまた佐幕系の連中な。
田中角栄内閣以降、屈服外交と借金を山積し続けてきたのも、これまた佐幕系の連中な。
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/16(火) 13:56:14 ID:VtJo6BBOO
>>177 先ず佐幕対倒幕って構図自体が学問的に限界あり。明治政府が鼻から薩長主体って事も通俗的骨董品的学説。
佐幕派の系譜だ本物の奇兵隊だなんだと時代劇じゃなし、それで近世から現代まで説明できたら研究職は存在しない。
現政権批判なんだか佐幕派批判なんだかぶれ過ぎ雑過ぎの不毛な論争まがいしてないで
いい加減スレタイ通りの進行に戻れや。
小栗歩兵のように、幕府の大身の旗本の中には知行地から農兵を徴募した者もいたんだろうな。
手塚治虫の「陽だまりの樹」では、知行地ではないが、父が代官をしていた村で兵を募るシーンがあったが。
そういう私募もあったかも
実は、幕府歩兵は長州戦以前に天狗党とか、関東での治安出動が初陣だったんだよね
知行地は知らないが、鳥羽伏見で戦死した連隊長の窪田鎮章も大身旗本だな。
父は鳥羽伏見、子は上野で戦死してるから、バリバリの一家だろう
同じく戦死した佐久間信久は、禄高は不明だけど、佐久間信盛子孫とも言われてる
幕府の大身旗本がダメだったというのも、意外とあてにならない気がする
家督を継いでいるのは、小栗も含めて養子が多いし、窪田家なんて譜代の忠臣でないと
あそこまでやる気にならないでしょ…
なんかやる気のある下級指揮官から死にまくってる印象があるな。幕府軍。
上級指揮官は……大鳥頑張れ。
彰義隊に到っては、何がしたかったのか全く分からん。
寺を枕に討ち死にしたのなら、旗本の一分として理解できないでもないが。
まあ白虎隊は語る必要もないな。篭城してただけだし。
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/17(水) 18:10:34 ID:EzDl+QuD0
>>179 幕府の公的兵卒徴募制度としては、
旗本知行地から兵を徴発する「兵賦」、従者から徴発する「軍役銃卒」、江戸市中で徴募した「歩兵」などがあるね。
幕領の農兵隊だと、土方歳三義兄・日野宿名主の佐藤彦五郎が、代官江川太郎左衛門に願い出て編成した日野宿農兵隊が有名だな。
武州では19世紀に入って一揆・打ちこわしが先鋭化。混乱のなかで強盗・殺人を犯す無法者も増えていたし、彦五郎自身もそれで祖母を殺されてる。
が、従来型制度での武士の庇護は期待できない。幕府であろうと雄藩であろうと事情は同じ。
そこに、天然理心流のような武術や銃兵組織の需要があった。権力の影響だけでなく、民衆の「自らの手で郷土防衛をしてやる」って意識の高まりも、
農兵編成には大きく影響していたってわけだな。
とはいえ幕末期は兵農分離の原則云々が邪魔して幕府・藩といった個別的な軍制改革止まり。全国的統一軍創設と安定した体制確立には明治に入って
なお時間を有することになったが。
>>176明治政府は中国と戦争したんだがな。
オマエそろそろいい加減にしろよ。
明確な理由もないくせに、こじつけするな。
天狗党の乱とか、関東各地で頻発していた無宿の連中に立ち向かった自警団的な例とかあるのかね。
その日野宿農兵隊は結構面白そうだが。
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/25(木) 23:57:46 ID:3tnmJ4KlO
>>185 奇兵隊だけが目立ってるけど、調べると民兵はどこの藩でも多かれ少なかれ結構早い時期から採用してるな。
地元のそういう組織を調べたら面白いかも。古い家だと案外先祖が所属してたとかありそうだ。
大鳥も結構頑張ってるじゃん。ただ、負けるだけで。
土方と大鳥が逆の立場だったらうまくいかなかったんでは
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/27(土) 11:29:44 ID:1+OOBpBdO
>>187 現代風に言えば大鳥圭介はキャリア。土方歳三はノンキャリアって関係かな。
土方歳三は優秀な現場指揮官だけど、国外の情勢まで勘案できるほどの教養・経験はどう考えてもないし、
どうも強引というか高圧的な一面があって味方のなかにも毛嫌いする人がチラホラいたようだし。全軍束ねる大将の器ではないな。
大鳥はキャリアなのか?
むしろ譜代幕臣がキャリアで、一代限りで幕臣に取り立てられた大鳥もノンキャリだと思うけど
函館政権副総裁の松平太郎のポジションがいまいち分からない。
と言うか、旧幕軍の有名将星は基本的に幹部候補生ね…
>>190 軍制改革により蕃書調所・講武所などの士官学校が創設され、新たに幕軍を担う幹部候補生が育成された。
それらの機関で学び、出世街道をひた走っていたのが大鳥圭介とか佐久間。
土方歳三はそんな然るべき学歴を積んだ人間ではなく、現場レベルの指揮官としては優秀だったが、
本来的には新撰組の副長か隊長で終わってたであろう人間。その関係をキャリア・ノンキャリアと見ることはできなくもないかな。
>>187 大鳥は結構頑張ってるどころか、ボチボチ勝利を拾って幕府軍を支えていると思うが
大鳥のレベルで負けているなら土方はもっと負けてることになるんじゃね?
ところが、なぜか大鳥は低評価なんだよね。研究者も史家も、誰もよく言わないというか。
あれだけ転戦してめげずに図太くやれるってだけで、秀才型の幕府官僚の中では大したものだと思う。
ちなみに榎本と大鳥は後にともに公使をやるけど、榎本は穏健でそつのない解決を望み、
大鳥はわりとリスクを取るタイプなんだよね
明治以降新政府の役職に就いて、福沢諭吉あたりから手酷い難論を浴びせられているのは、
勝海舟も榎本武揚も大鳥圭介も同じなのだけど、
勝海舟は、静岡県開発支援、徳川慶喜の名誉回復に尽力した。
榎本武揚は、東京農大の創立が評価を高くしている。
東京農大に旧幕臣を多数雇用したので、彼等が榎本への悪口を言いにくくなった。
大鳥圭介は学習院とかの校長なので、旧幕臣にとっては明治新政府側に尻尾を振ってばかりの感じがするのだろう。
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 02:52:50 ID:2cjBpE0xO
>>194 大鳥に対する世間一般の低評価は司馬遼太郎作品の影響が大きいな。やっぱり。
加えて、史料批判のひの時も知らんような作家くずれの素人研究者がテレビでチンプンカンプンな歴史談義やらかすし。
勿論、世の中全部の人がそうではないけど、なかにはそういう出鱈目な情報を無条件に受け入れちゃうからなぁ。
俺は漫画自体は好きだが黒鉄ヒロシが朝の情報番組でどや顔でウザったく歴史語ってるの見ると何故だか萎えるわぁ・・・。
まぁ、まともな学者出すとその筋の人にしか面白みが伝わらないからテレビ的には妥当な配置なんだろうけどさ。
大鳥は蝦夷でも一番奮戦しているし、何度か官軍を押し返してる
最後まで戦い続けて、千代ヶ岱の味方を救う為に突撃したし
司馬の作品に出てくるような奴じゃないよねぇ司馬作品の中じゃ、大鳥というか伝習隊全員、土方に吸収されている感がある
本人が生きてこれを見ても笑って怒りはしないそうだけどw
陸軍出仕の話もあったみたいだね。
まあ大鳥みたいな逸材を軍人にするの勿体ないけど。工部省にいてくれてホントに良かった
工部大学校から日本を支えた人材を沢山輩出した
結論として、大鳥・榎本はじめ幕府海陸軍出身者や幕政の遺産が果たした役割は、幕末期・明治問わず大きかった、ということだな。
当然、政権トップは有力公卿や薩長土中心だったわけだが、土台の部分で引き続き多くの旧幕府系が活躍してたと。
元新選組なんかが警察畑でそこそこ出世してるのも、決して日蔭の人生を送ったとは言い難いというか、結果オーライな感じはしないでもない。
ところで幕府軍には統一的な階級とかは存在したのだろうか?あまり触れたものがなくて気になる。
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 22:11:29 ID:sM967O3C0
新撰組も京都見廻組も時代についていけないジャガイモみたいな頭の連中です。
今でいう既得権益を守りたい役人に使われた暴力集団です。
多分、近藤勇等は洗脳された哀れな人たちなんでしょう。
その輩を英雄扱いしている人たちがいるけど、どうなんでしょう?
先日、日経新聞でも新撰組らを英雄扱いすることに異議を唱えている
社説がありましたね。
202 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 22:41:15 ID:2cjBpE0xO
>>201 例によって歴史的経緯完全無視で、現代人視点の結果論的でおそまつな意見だなぁ。
まあ、一般の新撰組人気は龍馬やら戦国武将ブームと同じで漫画やゲームの人気の延長。社説ってのも歴オタ批判みたいな趣旨か。
歴史学的課題として興味のある人にとってはどうでもいいというか、あまり意味のある批判ではないな。
新撰組に歴史的意義あったのって池田屋事件くらいだろ
あとは悲劇の○○大好きな層への講談的な需要があるだけ
>>203 それは「歴史に影響を与えた事件」であって歴史的意義ではないぞw
>>203 毎回思うんだが、歴史的意義に触れるんだったら、最低限の研究史を把握してからもの言えよォ。
十年前よりも断然史的新撰組研究が進んでるし、探せば容易に好著も手に入れられるというに。
作家連中の書いた史料批判不徹底で上っ面しか見えてない本をなんぼ読んだって、
暇つぶしにはなっても学問的理解には繋がらないぞ。
>>201の言ってることは極めて重要。
新選組って昭和戦前の言論封殺・思想弾圧に狂ってた特高・警察みたいな存在だからな。
>>202は全く有害無益な意見。
>>206 その新選組が尊皇攘夷・朝幕融和を目指して幕府・諸侯に盛んに意見したり、政治運動展開してるのは無視しちゃうんか?
そもそも警察機能だけに特化してできた組織じゃなよね。治安組織の枠に括ってしまうと幕末史全体との整合性も欠いちゃうが・・・。
もっと多様な顔と歴史的意味のある組織だよ。その「多様な顔と歴史的意味」の研究が最近進んでるのは事実だし。
新撰組って
最近でこそ宮地正人や松浦玲といった研究者が新撰組関連の書籍を出し始めたが
それまで何故か取り上げられるのは土方や沖田ばっかで
近藤や伊東といった政治活動に熱心だった人らの研究が遅れてるって
松浦氏が嘆いてたな
剣豪集団的なとらえ方が多いから、教養系隊士と言われる人たちの位置づけや、
近藤の建白などが世間的に着目されず、徹底抗戦を貫いた土方がもてはやされる。
本来は志士の集団なんだから、そう言った研究はもっと進んでもいい。
210 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/30(火) 19:33:25 ID:h5TyeCpcO
>>208 土方・沖田人気にしても司馬遼太郎作品はじめとした時代小説や漫画・テレビ・映画などの影響だしね。
従来研究はその延長線。執筆陣も大概大学院も出てないアマ。当然、新撰組研究は近世史・近代史の学問的水準を軽視して進行した。
だから「悲劇の青年剣士」だ!!否「時代を読めない人斬り」だ!!ってな議論を本気でやらかす馬鹿が出てくる。
「おいおい、注目すべきはそこじゃないだろ」と漸く重い腰を上げたプロの研究者が宮地氏松浦氏そして新進気鋭の若手研究者たち。
ま、従来研究は従来研究で、ここまで膨大なデータ揃えて世間一般に公表した功績など、評価すべき点も多いし、
これからも見識あるアマチュア研究者が根底の部分を支えていくことには変わりないだろうしね。
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/30(火) 20:54:10 ID:q/KDc1dT0
新撰組の意義を唱えてもNHKの龍馬伝を見ている一般大衆は、
しょうもない新撰組のイメージが出来上がっているでしょうな。
松浦氏が嘆いてもしょうがない。
土佐研究で有名だった平尾道雄の新撰組史ではなく
娯楽重視の子母沢寛の著作だけが有名になってしまったのが痛かったな
平尾氏が新撰組本を出すきっかけになったのは宮川家に残っていた
近藤の建白草案を土佐出身の田中光顕が読んで
「立場が違うだけで彼も自分達と同じ同志だったはずだ」とびっくりした
と話していたのを聞いてたかららしい
これがもっと有名になってたらまた話は違ってただろうな
>>211 普通なら自然とドラマの描かれ方に影響を受けても無理は無いけどね。賢い人はドラマはドラマ、歴史学は歴史学と区別して物を考えられる。
ところが、一般大衆ならまだしも、歴史に対して責任のある歴史学徒のなかにすら、新撰組についてはその区別が徹底していない人がいる。
それが松浦・宮地が大問題としたこと。
「龍馬伝」にせよ「燃えよ剣」にせよ作品自体には何の咎もない。情報を受け取る側の問題。それははっきりしておきたいところだな。
でないと、
>>206みたいなアホが歪曲して懲りずにギャーギャー騒ぎかねないし。
真面目な研究者が頑張っていても
菊地明あたりの読者受けしか考えてない売文自称研究家がのさばってる時点で
まともな歴史認識など一般には浸透しないんだろうな
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 10:49:15 ID:Voht7aK5O
まあ、菊地明・釣洋一・伊東成郎等々諸先生が活発に研究したから、ここまで深い議論も可能なことは忘れちゃいかんけどね。
一般に対して「魅せる」力があるのはやはり彼らだし、彼らが松浦先生などの提言に耳を貸して研究を進めていけば良し。
そうやって少しずつプロアマの現在の温度差みたいなものが縮まっていけばベストだと思うな。
史料や学術書は読まないからな、歴史ファンて。
書店で気軽に買える「本」を読んでその気になってるだけ。
特に会津・新撰組ファン。ちゃんと史料や学術書を読んでたら
会津や新撰組なんかのファンにはならない。
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 12:52:40 ID:Voht7aK5O
「歴史ファン」から一歩進んで研究書・史料をある程度読み込めて独自の解釈できるやつもいるだろうに。
ここ見てる限りじゃそう思うが。巷でいう歴史女みたいに世間的に目立ってないだけではないかな?
というかそもそも最初っから研究書やら史料読みできるスキルがあるやつが世の中にどれだけいるかって問題もある。
研究者でも初めはかたっくるしい研究書や難解な古文書以外の部分から興味を持ってるし、小説や漫画が
とっかかりの一角にあってもそれ自体は問題ではないだろうね。
>>209 それと近藤の脳内は短絡的な単純攘夷
論ずるに値しない
>>219 え〜と・・・短絡的攘夷って何だ?
1863・10・10、会津・薩摩・土佐・肥後・久留米・他公武合体派諸藩が祇園一力で開催した会合に、
近藤勇も「報国有志代表」として出席し、会津・薩摩藩士たちから攘夷に対する意見を求められた。
その時、
熟愚行仕候処、只今迄薩長攘夷(四カ国艦隊砲撃事件・薩英戦争の意)有之候へども其国港(藩国家限定の意)攘夷にて、
海国(日本全国の意)攘夷とは被申間敷候。然上は第一公武合体専一致し、其上幕府におゐて断然攘夷被仰出候はば、
自然国内安全とも奉存候。素より外国事より如此天下囂然内乱を醸候哉と存候。乍恐政府を助け皇國一致致、
海岸防禦策略より外他有之間敷と相答候。(平尾道雄『定本新撰組史録』p74』)
ってな主張をしてる。平たく言えば、
現状としての足並みの揃わない個別的散発的な攘夷では何も解決しない。
先ずは朝幕融和を基礎にした国内情勢の安定化、その上での攘夷方針・海岸防御体制の構築が重要である。
と説いている。
これには参加者一同同意しているし、当時の世論にかなった堅実な将来設計の攘夷論であったことが分かる。
結果、会合では将軍家茂再上洛・幕府主導での纏まりある国政決定という基礎的路線が合意された。
近藤勇は翌年に至るまでその実現に向けて永井尚志などの要人の協力を得ながら活発に活動していく。
>>213 基本的には新選組は
>>206>>201のいう言論弾圧組織(異分子粛正組織)にならざるを得ないだろう。
なにしろ近藤勇自身が山南敬助や伊東甲子太郎を謀殺しちゃってるんだから。
そんなに歴史的には池田屋以外重要ではないかもしれんが
俺は大好きだ。男としてこうありたいといつも思う。
>>221 っちょ山南敬助・伊東甲子太郎殺したから「言論弾圧」はないない。
先ず山南敬助は脱走事情は現在不明だが、何れにせよ規律違反者でましてや規律作成者・執行者だったわけだから当然の処置が下されたまでのこと。
伊東甲子太郎は「立場上柔軟な対応がとりずらくなった近藤の協力・支持」を得て親長州派・在京諸勢力との交流を担当した秀才タイプの隊士。
ところが、長州征伐失敗・条約勅許問題などのなかで、なお諸藩の政治的介入を排除しながらを国家基盤を固めようという「一会桑勢力」を支持する近藤勇と、
いやいや「幕府孤立化回避」のためには薩長含めた外様諸藩も巻き込んだ、広い諸藩結集こそに必要だという伊東甲子太郎の間に溝ができてしまう。
これが御陵衛士分立に繋がる。
ただ、御陵衛士は全くの敵対関係ではなく、むしろ薩長ともパイプを持つ土佐藩陸援隊と新撰組の仲介役といった機関で双方とも連絡は緊密だった。
しかし、後の新撰組脱退者切腹事件や近江屋事件といった新撰組の関係が疑われた諸事件のなかで、その協力関係にも罅が入り互いに緊張感が一気に増す。
朝廷・幕府保護下の御陵の危機感は案外に薄いが、新撰組には御陵が博徒水野弥太郎配下数百を抱えているとの情報も入っていて武装蜂起も懸念される。
斎藤一から近藤暗殺計画なんて情報も入っている。先手を打たなければいけない要素は多分にあった。結果油小路となる。
これは「言論弾圧」を意図したものではなく、組織防衛を意図したものと考えた方が妥当な話題。
新選組の局中法度も、実態とかなりかけ離れて広がってしまってるね。
普通に脱退して留学した人もいたんじゃなかったか。
御陵衛士との分裂は慶応3年3月だが、この頃の幕薩関係ってどんな感じだっけ?
四候会議の招集段階で、分裂が決定的になる前だよね。
でも兵庫開港問題で慶喜がリーダーシップをとりだした時期にもあたる…
225 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 23:04:12 ID:78MXUw0t0
四候会議当時の徳川慶喜
・孝明天皇崩御に伴い、孝明天皇の攘夷政策を幕府に強要し一会桑の存在感を誇示してきた姿勢を停止
・急死した徳川家茂の次の将軍就任は固辞していたが、急に受諾
・既に老中が諸外国と結んでいながら孝明天皇が拒否し、一会桑も拒絶していた兵庫開港を一転して次代将軍として推進開始
先の参預会議時に、開港堅持及び諸外国との条約遵守を主張していた松平春嶽・島津久光・伊達宗城・山内容堂らは、
再鎖国を主張していた孝明天皇及び一会桑の間で合意に至らず、参預会議は散会していた。
今回の四候会議で松平春嶽・島津久光・伊達宗城は、長幕戦争の決着としての長州への正式終戦手続き及び朝敵認定の解除、
(実はこの時に既に薩長同盟は成立しており、薩摩は長州への朝敵認定解除を含む名誉回復に努力する責任があった)
孝明天皇の遺志としての兵庫開港延期を求め、長州への戦闘状態解除には消極的な一会桑との間で、
兵庫開港の是非をめぐった応酬が続いた。(山内容堂は四候会議ではすぐ出席しなくなってしまった)
明治天皇の摂政である二条は、孝明天皇が明らかな攘夷論者であったことを鑑み、兵庫開港へは否定的な見解であったが
再三の徳川慶喜の請願が通り、兵庫開港が正式に承認される。
四候会議の結果
結果としては、幕府から離れたところで自らの権力を確立しつつあった一会桑は、徳川家茂及び孝明天皇の相次ぐ死によって、
幕府を支配する権限を有することになり、孝明天皇との共同で攘夷を推進してきた過去の姿勢からも自由になった。
(一会桑の佐幕化)
また、参預会議・四候会議で連続して徳川慶喜との政争に敗れた島津久光は、
自身の公武合体路線では久光が中央政治に参加することは不可能であり、
徳川慶喜を排除することでしか自らの政治参加はできないと考えるに至る。
既に西郷隆盛は薩長同盟を締結しており、久光自身の公武合体路線放棄によって薩摩藩上層部は討幕路線で統一される。
(薩摩内部での公武合体路線放棄・討幕への藩論統合)
伊東はよく薩摩の手下みたいな言い方されちゃってるけど
実際は薩長が討幕の準備をしていることを会津藩に報告したり
本当のところは薩長とも幕府とも距離を置いてたんじゃないかな
上の人が書いているように伊東の大政奉還後のプランは
かなり独自路線で薩長系の志士とはまた違うんだよな
伊東の建白書は結構面白いと思う
227 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 00:05:12 ID:ETqg4HMZO
>>224 慶喜の卓越した政治手腕で薩摩など雄藩との兵庫開港・長州処分勅許問題を巡る議論に勝利したまではよかった。
しかし、この場合、不幸にも慶喜が政治を直接執れるワンマン将軍だったのが仇となって、批判の矛先が従来の幕閣から将軍に向いた。
即ち諸侯から幕府・将軍権力そのものに対する批判が集まってしまいその後、幕府周辺情勢の悪化が進んでいく。
諸侯参加の公議体制確立を望む伊東がそうしたタイミングで幕臣化目前の新撰組から分離したことは無理無い話だね。
もっとも近藤勇にしてもまだまだ伊東甲子太郎に対する信頼感・互恵関係の見込みはあるわけで分立を支持してる。
因みに海外留学あるいは学問修行を理由に円満脱退したのは司馬良策・藤沢竹城だね。前者は維新後に官庁の役人、
後者は新政府軍の兵隊やってたはず。正当な理由があれば基本的に脱退できたのが現状で、首脳部と意見対立する人でも、
武田観柳斎みたいに京都退去を条件として許可だしてたようだし。少しでも脱退の気を表せば絶対粛清というわけではないね。
除隊も結構あったみたいだね
臆病だからいらないという理由で除隊されたり
病気で除隊になった尾関兄のようなのもいる
たぶん谷万太郎も除隊じゃないかな
229 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 00:20:00 ID:ETqg4HMZO
>>228 谷万太郎は除隊だろうね。少なくとも脱走とかではない。そのまま大阪で道場やってるし。弟は新撰組残留してるし。
ただ新撰組との密な関係は切れたみたい。何故だか御稜衛士とは関係が続いてるが此方も目立って関与はしてない。
元々町人や木っ端役人相手の町道場経営が本業で新撰組隊士はアルバイトみたいなもんだったのかも。
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 08:07:54 ID:h1kWfCs90
文字通り血の掟で縛られた新撰組が除隊みたいな甘い事を認めてくれるの?
>>220 近藤個人の思想とでも?
ありえね〜www
それだけ政治的な視野がある人物なら100万石の大名なんて話しを真に受けないだろwww
近藤は多摩出身って既成概念から成る佐幕
神の国云々って既成概念から成る攘夷
明確な思想は皆無だす
>>230 他の有志隊と同じく新撰組にも同志の誓いである所謂「局中法度(禁令)」・軍律である「軍中法度」といった厳しい掟がある。
この新撰組隊士に求められる根幹的モラルを逸脱することは大罪であり違背者には当然切腹・殺害が適用されることになっていた。
一会桑が京都警備体制を固めて脱走者追跡も容易になった元治年間以降は徐々にその厳正化も進んでいった。
一方「御暇」という除隊制度もあった。重病人や文武劣等で実務に耐えないと判断された人物、旧主家から帰参要請がきた人物、
家業従事・親の介護など家庭的な事情を抱えた人物、特に脱退に不都合な要素が無いと判断された人物など、
新撰組側が一方的に脱退を申し渡した隊士、都合上問題のない脱退申請者は所謂リストラ・依願退職者として「御暇」となった。
また、同じ掟違反者でも正規隊士で大人しく縛につけば屯営に連行して切腹となり同志として葬儀し墓を立てて貰えたが、
下手に抵抗すれば殺害され打ち捨てられた。処刑方法・死後の扱いの違いは罪を認めたか認めないかの問題だな。
未熟者の仮隊士は死による償いまで行かずに「追放処分」で済まされた。
>>223 近藤を長とした組織の維持な
自分達の地位を守る為に同志を暗殺してた
言論弾圧は外に対しての物だから山南云々は確かに関係ないね
>>224 薩摩藩士は取り締まり対象外
推してしるべし
毎度毎度新撰組スレはコピペ大杉
>>231 どんな本読んだらそういう説明になるのか不思議だな。
近藤勇が100万石につられて云々は多分に講談的要素が強いこと、近藤勇の政治活動の意義は既に多くの研究者が指摘しているよ。
後半部分の既成概念云々の下りは普通に理解不能。
>>236 > 近藤勇が100万石につられて云々は多分に講談的要素が強いこと、近藤勇の政治活動の意義は既に多くの研究者が指摘しているよ。
全く説得力が無い…
>>237 そもそも研究家ってwww
誰でも名乗れる肩書に振り回されたらアカンでぇ
久々に覗いたらこれかいな。KhWb/FWxO必死過ぎwww
暫くどこでも相手にされなったのに相手してもらったから嬉しいんだろうな。
>>232 そういや、松本良順が近藤勇の招きで新撰組屯所に健康診断しにいってみたら、重病人がちらほらいたらしいからな。
確か特に重いのが肺結核一人と心臓病が一人だか。そりゃ隊に置いててもしょうがないわな。
久々
必死
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電波が好んで使うキーワード満載\(^ー^)/
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 11:45:49 ID:ETqg4HMZO
>>237 その言葉そっくりお返ししますよっ。
ってか真っ昼間から2ちゃんやるより卒論書かなきゃアカンかったの忘れてたっ。現実逃避してますたぁ。
研究テーマ新撰組じゃないけど新撰組は好きなんでまた相手して下さいな。じゃあね〜。
正直ここで近藤の思想について語ってるKhWb/FWxOは
龍馬暗殺黒幕スレで暴れてる薩摩黒幕連呼厨の論破に行って欲しい
>>239 心臓病は尾関兄説が出てるな
確かその年に除隊してすぐに病死してる
見事なあしらわれっぷりだなっ!!KhWb/FWxO!!
>>242 勘定方の尾關彌四郎か。弟尾關雅次郎は旗役で函館まで戦った人。
旗といえば他の佐幕派諸隊の旗ってどんなデザインだったんだろうか。
そういうの網羅した本とかあるんだろうか。
新撰組も白虎隊も創作の美化だからな所詮。
まあどちらも歴史的意義のある存在ではないね
なんだか、盛り上がっちゃってる人いるみたいだけど、
大した興味もない場所にわざわざやってきて馬鹿にしたり否定したりすることでしか楽しめない残念な暇人よりも、
自分が興味あること分かってて、それを色々調べて熱く語ってる暇人のほうが断然周囲から支持をえるのはハッキリしてるよね。
そっちのほうが、お酒一緒に飲んでて楽しいタイプの子だし、世間様じゃ可愛がって貰えてるよ。
>>246 アニメ・小説・ドラマで美化された部分だけを語りたいなら他に行きなよ
( ̄・・ ̄)
宮地氏や家近氏や松浦氏の研究に沿って語りたいやつだっているだろう
後は会津出身の山本覚馬についてとか
山本覚馬は会津可哀想、会津こそ武士とか言ってるお馬鹿な層が
幅利かせてるせいであまり知られてないよな
山本覚馬は超有名人物。会津藩に興味を持つ人間で知らない人間はいない。
たとえドラマしか見ない層でも、嫌でも覚えることになる。
人気がある分野だし色々意見はあるだろうけど、
最低限、何かから情報引っ張ってきた個所には≪引用資料の情報≫(著者名・書名・出版社名・出版年・該当頁)ぐらいつけようよ・・・。
仮にも史実だとか歴史的意義だとか言ってるならなおさらのこと重要でしょ。
その作業を欠くと、どこからが独自の意見で、どこからが資料を参考にした部分なのかさっぱり分からない。
幾ら熱く語られても、歴史学に沿った批評も、意見の有効性も、建設的議論も全く成立しない。
正当な論文や研究書でその点に無配慮な場合、著作権違反で訴えられるくらい、些細だけど重要な問題だぞ。
論を組みたてる素材の「史料」があって、それを「史実」「創作」「どちらともつかない史料」にきっちり分析・区別して論を組み立てていく。
そういう「史料に基づく学問」って根幹部分は忘れちゃいけない。
これは新撰組がどうだとか会津がどうだとかじゃなく、歴史学の常識という話で、そのまま社会一般にも通用する内容。
会社の企画会議で論拠も明示せず「この商品を知らない人間はいない」「CM見なくても嫌でも覚える」なんぞといって新商品売り出そうなんて馬鹿社員がいたら邪魔なだけだろ。
>>250 ごもっとも
ただその歴史学の基本を実践すると
新撰組やら白虎隊やらの面白おかしい話はほぼ出来んだろう
何せまともな史料がほとんどないので「ハイそれ創作〜ハイそれ根拠がな〜い」
の総ツッコミ大会になってしまう
新撰組関連の著作はそんなのが多いね
まぎらわしいから本の前書きに史料批判についてワンコラム入れとけばいいのに
>>222 他人の妾をレイプするわ女を買う金の為に横領して罪を部下になすりつけ腹切らすわ
偽名で投降したら粛清しまくった隊員の身内が敵方にいて顔バレ→斬首になるわで
近藤はゲスくてあんまり好きになれん
>>251 確かに厳密な歴史学の実践は一般的な「面白おかしい話」を期待する人にはつまらないというか難解だろうな。
そこに研究書・史料タイプの人間と漫画・小説タイプの人間の温度差というか、埋めがたい溝があるのも事実。
一般的モラルとは違ったモラルが通用しているネットの世界で、その溝が原因で変な議論が変なテンションで展開してしまうのも、
避けては通れないことなのかも。水と油というか、馬の耳に念仏というか。
但し「何せまともな史料がほとんどない」とうのはどうだろう。この先入観を解きほぐすことこそが史料批判の役割といえるわけだし。
例えば、「錯誤が多い」として研究者から捏造書の如く扱われてきた永倉新八『新撰組顛末記』(新人物往来社・1998)にしても、
宮地正人が『歴史のなかの新選組』(岩波書店・2004年)で史料の性格を随所で再検証し、錯誤の原因を明らかにしたことで、再度利用価値を見出された。
やはり妙な先入観で顧みられてこなかった「近藤勇書簡」にしても、松浦玲が『新選組』(岩波新書・2003年)で一躍基礎史料としての価値を見出している。
さらには『新選組の論じ方-新選組史料フォーラムから』(宮地正人・伊藤克司・小林丈広他・マツノ書店・2009年)に寄せられた新進気鋭の研究者たちによる、
史料発掘・研究史更新の現状報告から、新撰組研究の深さ・広さが確認できる。
何にしても、「総ツッコミ大会(事実関係の確認)」は料理の下ごしらえのようなもの。肝要なのは「独自の問題意識・解釈をもって」巧みに新撰組なら新撰組という課題を調理していけるか否か。
とことん取り組んだ結果、満足いく一定の答えに至れたやつが本当に「歴史を理解」したことになるんだよなぁ・・・。新撰組に限らず色々と論文に目を通したり講演会参加してると、つくづくそう思うね。
因みに、近藤勇が女を買う金の為に云々の逸話については、1865年時点の諸士調役の雑記帳『取調日記』(現在は日野市市政図書館でコピー可)や、一京都町人の視点から綴られた1866年の史料「新選組金談一件」(『三井文庫論叢37号』・財団法人三井文庫・2003年)
でもって、否定できるので興味があったら目を通してほしい。あまり一般書籍では紹介されていないようなので、単純に新鮮というか興味深い内容だと思う。
流山での振る舞いについては詳しくないから何とも言えないが、確かに宮地氏や松浦氏もその頃の近藤の対応については京都時代とは一転したお粗末さというように書いていたと記憶するな。
>>246 ここはID出る。カテゴリ学問・文系の。日本近代史板なんだから、基本的には史料に沿って語る場所だし
例え酒が入っていても、史料に沿って喧々囂々語り合うのが楽しい連中の集まりであり、そういう奴らが可愛がって貰える空間です
>>1が創作込みでワイワイ語りたいってスレタイやレスで明記してない限りは
>>251 こうしてみると嫌い人も随分子母澤の小説や司馬の小説の情報
を信じきってるんだな
谷三十郎や武田も斎藤が惨殺したとか信じてる人多そう
>>248 確かに山本覚馬や広沢安任は会津好きより薩長好きの人の方が詳しく知ってそうだな
幕末から活躍してるのにな
>>254 子母澤の新撰組3部作ってあれ小説?
ここ詳しそうな人多いね〜
良ければお勧めの著者&これはやめとけって著者をリストアップして欲しい
ググッた範囲では菊地明がダメそうなのは分かった
>>255 本当は会津好きとか薩長好きとかの枠を超えた、幕末維新好き&歴史好きが「詳しい人」なんだ思うけどね。
>>226 幕末維新期の動向・研究史は、
・藤野保『江戸幕府崩壊論』(塙書房・2008年)
・家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書・2002年)
・坂野潤治・大野健一『明治維新1858-1881』(講談社現代新書・2010年)
新撰組の動向・研究史は、
・宮地正人『歴史のなかの新選組』(岩波書店・2004年)
・松浦玲『新選組』(岩波新書・2003年)
を読んでおけばいいんじゃないかな。新撰組を歴史的存在として再検討するのに欠かせない知識や視点が得られるしね。
少なくとも「幕末維新期は薩長(勤王)対幕府(佐幕)の戦いであり、その後も官軍・賊軍という関係が日本史に影響を与えている」
なんていう了見の狭い、使い物にならない意見を歴史に持ち込むことの、愚かしさ無意味さは分かると思う。
また近代史家に留まらず、民衆運動の視点からみた近世史家の研究も最近盛んになってきているね。
その点では平川新『開国への道-全集日本の歴史12-』(小学館・2008年)や深谷克己『江戸時代の身分願望』(吉川弘文館・2006年)もお薦め。
上記の諸書で得たポイントを踏まえておけば、賛否両論の菊池明氏はじめ従来の「新撰組研究者」の著作も深く読み込んで、彼らの研究成果も上手く活用できるはず。
巷で批判されているからといって、無視してしまうことほど勿体ないことはないし、何も本人が唱えるとおりに史料や解釈を活用する必要もない。
使える情報は使っていかなきゃね。
新撰組のデータベースとしては揃えておきたいのは、
・新人物往来社編『新選組大事典(コンパクト版)』(1995年)
・菊池明・伊東成郎・山村竜也『新選組日誌』(新人物往来社・1996年)
・新人物往来社編『新選組史料集』(正は1993年、続は2006年)
・古賀茂作・鈴木亨編『新撰組全隊士録』(講談社・2003年)
あたりかな。高いし絶版状態のものばかりだけど。
新人物往来社系で90年代の情報というのは色々賛否もあろうけど、普通にあれこれ調べる分には十分活躍するし重宝される。
誤植・誤訳は指摘されている通り間々あるので、記載史料の原籍が知りたいならば、巻末の参考資料一覧などを参考に辿っていけば、ある程度は書店・図書館で入手可能。
また、最近では『日野市新選組のふるさと歴史館叢書』既刊六刊(2006〜)として、宮地氏監修のもと新発見史料が翻刻・解説・写真つきで発表されていて、こちらも要確認。
中には最後の隊長相馬主計の日記なんてものもある。
将来的に「山崎烝取調日記」の一般販売や「近藤勇書簡集」などの刊行が実現すれば、申分ないんだけどね・・・。
あと、当り前だがネット情報はあくまで参考までに。今のところは直接細々と情報あつめて実際に本を読むしかまともな情報は得られないかと思う。
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/04(土) 22:20:20 ID:nbBu4bj70
新選組はともかく、日野市(の歴史関係者)の態度が気にくわねぇ
ちょっと前まで、菊池明らを「先生!」とヨイショしチヤホヤしてたのに、
宮地や松浦の著書が出た途端に、菊池らをエセ研究者と攻撃、大学の先生方こそ真の専業研究者(大学の先生だけがプロだ)とチヤホヤ。
結局、てめぇら”観光客や金儲け”だけじゃねーかと言いたいね。
宮地先生の正しさは誰しも認める所だが、これに乗り替えるならば、日野市はまず「間違った歴史を蔓延させた片棒を担いでいた事実」を認め謝罪してからだろうに。
まだ、間違った歴史を突き進み続ける会津若松市の方がマシだ。
まぁ、両方とも間違っているのは変わらんのだけれどw
>>258 どうだろうか。
「歴史のプロ」と世間で公言できるのは大学で史学を専攻して、
学部から大学院に進み、卒業後に国・都道府県・市町村・大学の各機関に就職し、
研究職としてちゃんと給料を貰ってる人たちだけ。
また、幾ら出版活動やサークル活動などで有名で、評価に値する一定の実績があるアマ研究者がいたとしても、
情報発信に責任のある行政関係の博物館・図書館としては、プロに指導を仰ごうというのが当然の心理でしょ。
チヤホヤしてるかどうかは個人の見方だけど、行政の対応としては当然の対応だな。
それに、アマ研究者や彼らと関係を深めていた(いる)観光行政側が我々に対して謝罪する道理は全く無いだろ。
というか、謝罪すれば何か進歩する話でもないし。そもそも誰が「犯人」なのか探し回り糾弾すりゃいいような問題じゃない。
2ちゃんの一部のように、問題を歪曲したり、大袈裟に吹聴したり、敵味方に区別して処理したって話が前進することは無い。
ましてや、何の目的や意味があるのか一切不明な会津や長州といった漠然とした対象に対する、漠然とした誹謗中傷などは現実では「批判」のうちには入らないし、
真面目な議論で通用するわけもない。ここの反応みててもそう思うが、精々うざったく思われる程度で、「両方間違ってる」なんて何の伸びしろも見いだせていない答えしか出せない。
ましてや「観光客や金儲け」目的で行政が動くのは至極現実的に妥当な話。国家・自治体・企業で観光が重要な産業の一つに数えられてるのに非難されるようなことじゃない。
我々に情報を発信する立場の人々が、各自納得のいく研究成果なりサービスを提供する、そういう態度で表してくれれば、よりよい方向性に向かっていく問題だよ。
>>259まあまあ。ここで現実社会で通用している一般常識や、本当に勉強してたら理解できるような史学の基礎を幾ら諭しても、
会津や長州の存在を借りた幼稚な喧嘩口論・討論ごっこに何がなんでももっていきたい愚者はどうやったって湧いてくるよ。
いうだけ無駄。連中にとって会津や長州なんて本当は関係ない。それにかこつけて何かに対して悪口いって心が落ちつくやつら。
そんな寂しい連中だから何かを話しあって新しい知識を得ようとかいうつもりの連中とは根本が違う。永遠に分かり合えない。
帰ってくる答えも所詮「〜は悪い」とか「〜は間違ってる」くらいじゃん。無視しとけや。面倒くさい。
261 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 08:19:44 ID:p+yqMOzT0
なるほどね。
大学の史学科を卒業し、政府研究施設に入って給料貰っている人だけがプロですかw
今時”学歴エリート”意識丸見えのご意見ですね。
学歴社会になる前は、プロアマ関係無く「実績と優れた研究」をする者が尊敬されたものですが、
今でも「結果ではなく学歴だ」なんて事を臆面も無く言う人がいるとは思わなかったよw
>>257 詳しくありがとう。
永倉新八の本は後年の自伝てことでそれ単品でソースにするのはどうだろうって本だね。
この手の本はどうしても正確性に不備があるから史料として採用しない研究者もいる。
>>261 エリート云々じゃなく
史料批判の概念と時代背景の体系的な知識があるかどうかが問題。
歴史ファンから入った自称研究者は自分の好きな人物だけに変に詳しくて
通史的な知識が無く面白おかしく無責任な事を書き立てる人が多い。
菊地明は根拠もなく土方&沖田親密説を打ち立てたり
沖田の俳句(動かねば 闇にへだつや花と水だっけ?)を創作したり
作家業と研究の分別が無いところが顰蹙買ってるんじゃない。
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 22:39:01 ID:1IYCQFBsO
>>261 学歴とかじゃなくて、そういう過程を経なけりゃ研究職即ちプロの学者にはなれないってことをいったまで。
いくら独学で勉強してサークルや執筆活動を熱心にやっても、作家としてはプロでも研究者としてはアマだよ。
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 22:44:17 ID:1IYCQFBsO
>>259 君もこんなところに固執せんと、どこか相応しい場所にいかれよ。馬鹿がうつるで。
難癖は会津観光史学だからな。
会津観光史学洗脳者が歴史の話が出来ないのは
様々なスレで証明されている。
変に波風たてることにしか機能しない『会津観光史学』という単語に意味なぞ無い。皮肉にもそれに対する数々の非難から、
それは明かされたね。勿論、科学としての歴史において捏造主義的態度は断固非難されて然るべき存在であるのは間違い無い。
それは会津好きであろうが会津嫌いであろうが関係なく糾弾されるべき。但し糾弾する側にまともな知恵が無いとどうなるか。
>>261のような書き込みから一目瞭然だが、非難する相手も分からず、自身がとんでもなく愚かなことをただ宣伝して歩く。
意見されりゃ駄々こねる。だったら最初っからそんな話題振るなよといいたいが、脳みそがたりないから、
猿のオナニーのように何度も繰り返す。ここ最近の流れをみると利口なやつらに踊らされてるようにしか見えない。
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/06(月) 12:12:01 ID:tRK7Xyqv0
イギリスと組んだ長州の暴走テロを肯定するような工作がされているから
史実が後世にきちんと伝わっていない
>>267 歴史を正しくみようと努める態度には賛同したいが「長州の暴走テロを肯定するような工作」とかいう表現は余計でしょ。
それだと長州藩は「悪」というニュアンスで受け取られるが、「暴走」を止められなかった幕府は可哀想な「善」だというのか。
問題はそんなとこには無いし、そういう研究史が厚い部分を短絡的な風で書くから『会津観光史学』なんぞという言葉を使いたい
基地外連中を呼び込む。まして、それを狙ってやってんならなおさらたちが悪い。何れにせよ普通に語りたいやつには迷惑な話し。
どっちが「正しい」「正しくない」なんてことに拘ってる限りそりゃ変な虫は湧いてきても文句はいえない。
ま、それが他ならぬ『会津観光史学』基地外の「擁護派」を装った自演ならば話も違ってくるけどな・・・。
>>267 マルチ乙
よそのスレで順次論破されては聞きかじりの知識?で
また別のスレにレスしてるのか。
この手のアホは極めて断片的な知識しかない様だが、薩長叩きのコピペを
貼る手間は惜しまない割に幕末通史の本一冊読むのも困難な人種らしい。
>>258 まあ菊地明はエセ研究者のステレオタイプだからなw
まともな研究者の本と読み比べたら史料検証も出典の引用も
極めていい加減だってちょっと考えれば気付きそうなもんだ、
日野市の人も恥ずかしくなったんだろ。
菊地氏は新選組研究が文学的性格から歴史学的性格へ移行期する時代に活躍したアマ研究者と評価するのが妥当ではなかろうか。
彼が活躍し始める1990年代より以前の「新選組研究」を振り返ってみると、殆ど時代小説のネタ探しでしかなかった観は否めない。
そもそも、求めているものが「自分好みの情報の入手」であり「史実の究明」に置かれていない。
実質文学的研究でしか需要がなく、細かい事実は二の次だった。
その弱点を菊地氏やその同志は『新選組史料集』『新選組大事典』『新選組日誌』などで克服して見せた。
彼らが史実重視のマニアックな研究を精力的に展開し、整理してみせたことで関心を抱く人間に「史実」を意識する気風が定着した。
そして、どうにか新選組研究は宮地正人氏や松浦玲氏など本職の研究者たちに関心を持ってもらえ、活用してもらえるだけの情報の蓄積を達成した。
ここで漸く歴史学的課題としての新選組研究が軌道に乗った。というか新カテゴリーとして誕生した。
無論、ここまで何一つ無駄な研究などなかった。むしろ小説的偶像の流布によって関心が高まり、
大量の文学的研究以上歴史学的研究未満の民間研究者が登場し、結果膨大な情報が蓄積されたことは幸運だったんじゃないかな。
そういう過程を考えると、菊地氏らをむやみやたらに嘘つき呼ばわりして非難するのも可哀想過ぎるし、見当違いの行為といえる。
よって新選組研究は文学的分野、歴史学的研究、両者の中間的分野という三つのカテゴリーが並立する。
>>269がいうように「ちょっと考えてみれば気付」けるし、
見抜ける違い。新選組にしても白虎隊にしても京都見廻組にしても彰義隊にしても、先ず自分がどの分野の立場から語っているのかはっきりしてくれないと、受け取る側の反応もスッキリしないチグハグなものになる。
史学の一事象に好きだ嫌いだと私的感情を挟むのもナンセンスだが
悪だ正義だの言いがかりはこのスレでは丸っきりお門違い。特に
>>268。
とりあえず歴史を正しくみたいという真っ当な意志の持ち主はここにもちゃんと存在していることは伝わってきた。
>>270のように、2ちゃんにありがちな極端な非難に陥らないでバランスよく見れてるやつもいるようだし。いいんじゃないか。
アホな荒らし相手ならともかく
>>268によせ
>>271にせよ態度としては完全に共通しているし、細かい表現の受け止め方の違いで、
変に諍いあう必要もないだろうよ。というか、いつの間にかアホ荒らしの入る隙間は無くなってる。
歴史学云々のことはこれ以上言い聞かせてやる必要もないと思うが。相手逃げ出しちゃうばっかだし。
たしかに菊地明は新撰組ファンの裾野を広げるのに貢献したんだろうけど
読者はこういうのに飛びつくだろうという書き方優先で
研究に対する真摯さが感じられないし
どうも時代背景の知識が足りないのか結論の出し方が妙で読んでてハァ?となる。
悪貨は良貨を駆逐するというけど、
誤った歴史認識を広めるのにも貢献してるし
それが改まる様子もないから怒りを感じる歴史ファンもいるんじゃないかな。
最近また龍馬暗殺の謎うんぬんを面白おかしく書いた記事を雑誌に書いてたし
大河便乗で岡田以蔵の本出してたけど、これまたいつも通りの低クオリティだった。
この人歴史研究界隈を胡散臭いものにしてる自覚はあるのかね。
>>273 流石に菊地さんの考えそのものは本人と直接対話するほか分からないべぇ。気持ちは凄い分かるが。
>>270の菊地さん評は間違ってはいないと思う。歴史学と文学の狭間にある第3の研究ジャンルと割り切るほかしょうがない。
仮に「中途半端なもの書かないでください」と菊地さんにいっても馬の耳に念仏だろうなぁ・・・。
菊地さん以外にもアマは沢山いるし、御稜衛士研究で有名な市居浩一さんのように歴史学タイプの堅実な研究する人も多い。
そういう人々は大いに支持したいというか、まぜてもらって色々情報を入手したいくらい好感が持てる。
今の様子からじゃ心配しなくてもアマ研究者のうち市居さん系統は生き残り菊地さん系統は自然と消滅していく運命だろうよ。
京都見廻組ファンとしては、菊地氏の本くらいしか纏まった研究本が出回ってないので重宝しとりやすよと。
最初は定員の400人にも満たなかったけど最後あたりには600人はいたらしいから、関係者の未発見記録はかなり多そう。
そりゃ近江屋事件や戊辰戦争で目立った佐々木只三郎と今井信雄くらいしか有名隊士がいないから地道だけどさ・・・。
ファンだなんだと言ってる時点で歴史を正しくみていなあwww
気がつけよwww
>>276 いや、別に「ファン」ってのは単純に関心があるって意味で使ったまでだが・・・。
ってか別に論文こうとか思ってるわけでもないし。そこまでギャーギャーいわれてもねぇ。
>>277 関心があるにしては無知だな。
今井信雄じゃなくて今井信郎だぞ。
興味ない俺でも知ってるのに知ったかぶりはよせ。
肩の力抜けよ
2chで誤字ごときに目くじら立てるのはバカらしいぞ
以蔵にしろ見廻組にしろ、幕末マニアの間にのみ知名度の高いマイナーな題材。
まともな研究者がこれらの題材をなぜ相手にしないかというと、
信頼度の高い史料が乏しく、このネタで本を一冊仕上げようとすると
出典の怪しい史料や憶測、講談をソースに引用する羽目になるから。
菊地はその手の無責任な本を大量に出版しといて
いっぱしの歴史研究者ヅラしてるのが気に食わない。
>>280 史料論的話は出尽くしたしもうその手の話は繰り返しでしかねーべよ。他に話題ないの?
>>280 信頼に乏しい史料しかないんじゃなくて、単に注目されるかたちで世間に出まわってないだけっしょ。
全国各地の博物館や大学の刊行物漁れば教授から学生レベルまで論文や史料紹介はかなり出てくる。
そもそも信頼に乏しい史料しかないのが現状なら、その発掘につとめるのが研究者の仕事だし、
手元にそれしかないならストレートに関係はしなくても、信頼に足る史料や研究成果で補完していくのが歴史じゃん。
ちゃんと調べりゃ見廻組も新撰組と同じく『続徳川実紀』のような公式記録から『藤岡屋日記』のような風説書の類まで沢山載ってんじゃんか。
むしろ公式的記録は断然多いし、その周縁を成す史料は新撰組の例からしても、まだまだ相当数眠ってると思うが。
偉そうにゴチャゴチャぬかしとるが研究者ヅラすなや。新手の嵐か?
>>282 素人目にも本の書き方に不審な点があるから指摘してるだけだが?
菊地に関してはまず参考文献として挙げてる本を読み込んでるのかすら
怪しい描写がしばしば出てくるのがいただけない。
ネットの孫引きで語ってんじゃないのかアレってレベル。
○○にはこう書いてました、○○にはこう書いてありますが自分はこう思います
という語りに終始し史料の信憑性に踏み込む知識がないから
同テーマの研究者に誤記が多いと評判の本を平気でメイン史料にしたりもする。
まともな研究者との刊行ペースの違いを見てみろ。いい加減な仕事しやがって。
大概菊地氏の如き研究者は新撰組に限らずともそういうものだ。そんなに何度もリピートする必要は無いし、何を今更感がある。
そこまで菊地氏個人への強い不満があるんだったら、こんな本人の見えないところでコソコソ愚痴言ってないで、
直接コンタクトをとり意見するぐらいして欲しい。俺なんかにしたら活用できる著作を多々残している菊地氏より、
非難すべきは『続新選組史料集』のような値ばかり張り内容が無い悪書を出版するようになった新人物往来社、
殆ど適当な仕事しかしてこずネットを徘徊して自分の批判探しにばかり必死な伊藤哲也氏のような連中だろ、と思う。
菊地氏・伊東成郎氏・山村竜也氏などの盛んな活動は率直な「歴史の楽しさ」や知的好奇心の刺激を与えてくれるが、
伊藤氏他にはそれが殆ど無く会津観光史学だなんだと非難されても仕方ない捏造根性が強く感じられるよ。
菊地明って漢文の文献は読めないんじゃないの
とか昔から突っ込まれてたからねえ。
>>275 絶版だけど「佐々木只三郎伝」があるね。
結構貴重な情報も書いてるみたいで面白そう、一度読んでみたい。
>>285 貴重な京都見廻組情報感謝!!現在手元にある関連図書といえば、
1『京都見廻組史録』(菊池明・新人物往来社・2007年)
2『坂本龍馬を斬った男ー幕臣今井信郎の証言―』(今井幸彦・新人物文庫・2009年)
くらいしかないから本当に助かる。取りあえず図書館などを当たってみるよ。
見廻組は新撰組みたいに下手に目立っていない分、ミステリアスで調べがいがあって面白い。
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/09(木) 21:07:18 ID:Cg0RY3jj0
庄内藩スレの旧住人はいない?あそこの農兵も面白そうなんだけど
288 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/09(木) 21:14:13 ID:6G1ifvti0
資料から出来るだけ事実に近い記述を探る流れに反して感覚的な書き込みで悪いが、
土方歳三と永倉新八の男が男に惚れるような色気はガチだ。
ちなみに性的な意味ではない。
>>287 旧住人ではないが幕末の庄内藩や付属の新徴組・新整組(大砲組)に興味あるなぁ。京都警衛の会津藩・江戸警衛の庄内藩!!
地味だといわれる東北諸藩も実は幕末史にかなり絡んでるんだよね。坂下門外で襲われた安藤信正も福島の大名だったり。
最新式兵器で武装した農兵組織も結構多いし戊辰で大活躍する。新徴組や新整組も単なる警察隊じゃなく、
近代的軍隊としての性格がある。但し廃藩に至るまでの明治以後の末路は新撰組とは違った意味で悲惨だけど。
292 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 16:01:43 ID:D/RzKlHmO
新撰組を結成して仙石幕府を守ろう!!
>>286 兄の手代木家の子孫の回顧譚と各種関係文書を史伝研究所の高橋一雄が編纂した本だな。
最近の佐幕派本のノリに比べるとフェアーな書き方で参考になった。
かなり古い本だが読みやすく、身内から見た人物像も載ってるのでぜひ読んでみて欲しい。
清河・龍馬暗殺の件もその手際良さをもって功績的な書かれ方をしている。
上野彰義隊って幾ら寄せ集めつっても3000〜5000人もいたんだし、
寺院こもってないで江戸城なり官軍の屯営なりに殴りこみかければ、
あんなヘボい終わり方しなかったんじゃないだろうか。
まあ、実際そうもいかない事情は多いだろうし、実現しても何より練磨された軍隊じゃないから、
圧勝とはいかないだろうけど。
そんな気概があったら、上野戦争でももっと善戦してたんじゃね?
善戦でふと思ったが、鴉組の不遇さは半端ないなw
ああ、鴉組(衝撃隊)もあったなw 仙台藩て正規藩兵じゃなくて、変なので面白い隊が多い
細谷十太夫クラスなら、博徒との接点も分かるんだけど、
大身の旗本、上士や一橋家当主までが博徒と親しかったというのも面白い
衝撃隊のほかに、博徒を組織的に動員した例はあるんだろうか
>>296 旧仙台藩領出身だけに非常に気になる話だな。
博徒が動員された部隊といえば佐幕じゃないが赤報隊があるな。
美濃の大博徒水野弥太郎が旧新撰組御用達でその縁から赤報隊幹部になってた旧新撰組士が協力を要請し、
黒駒親分なんかも呼んできて数百人の博徒を抱えていたとか。各地での強盗・強姦が絶えない蛮軍だったからあの粛清に至った。
慶応4年(1868年)2月27日、松平容保(34歳)は会津藩士に徹底抗戦を通告。
西郷頼母は恭順を勧めるが、容保はじめ藩士たちから猛反発され徹底抗戦へ。
慶応4年(1868年)5月1日、白河城陥落。西郷頼母は再び恭順を勧めるが
会津藩士の多くが聞き入れず徹底抗戦を主張。頼母は登城差し止めとなる。
慶応4年(1868年)8月26日、西郷頼母は西軍と砲火を交えている評議中
「この窮地に陥ったのは余の献策をいれないためだ」と厳しく批判。
そのため「西郷斬るべし」の声が起こり容保の命で伝令され
息子吉十郎と共に城を出る。その後は榎本武揚の軍に投じて函館で戦った。
慶応四年に始まった戊辰戦争は塩原温泉をも巻き込んだ。
旧幕府軍の形勢が不利になると、会津藩や凌霜隊などが塩原を焼き払おうとした。
この時焼き払われた民家は149戸といわれる。
妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津に嘆願したため
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。
松楓楼松屋の歴史
そろそろシーズンだし史跡観光の帰りがてらに温泉でのんびりしたいな。
旧幕府軍の退路には有名な温泉町がけっこうあるのです。
温泉で怨念パワーを養うのかな?ワラ
いや、普通に考えて家族とか友人と疲れを癒やしに旅行にいくとかだろ・・・。
なんだよ怨念って・・・。・・・冗談にしては寒すぎだろ。
幕府陸軍は、巨大な兵力を運用できるだけの人材獲得ができなかったのが、敗因。
鳥羽伏見にしても、上野戦争にしても、例えば土方歳三のような戦術家が早く力を
発揮できていれば、歴史地図も大きく変わっていたはず。
函館で陸軍奉行になっていたが、おそすぎた。
305 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/14(火) 02:12:28 ID:GdTmZKCe0
土方さん(笑)
細谷がらすと16ささげですね。小倉藩も、棚倉藩も、
ゲリラ戦になると地元の地理を知ってるせいか意外と活躍してるのね
>>304 上野の彰義隊の場合、輪王寺宮を奉じているのが大きかったから、
強力な指導者が現れない限り、上野に居座って邪魔者になってるだけで充分だった
鳥羽伏見の次に重要な戦争は上野戦争だったと思ってるよ。
あれ以上放置はできなかったと思うが、逆にもっと早く仕掛けてたらどうなったかと言うifはあるけど。
>>304 土方歳三にしてもそうだが大鳥圭介・古屋佐久左衛門など新進気鋭の将校が大活躍し始めるのは江戸開城前後からなんだもんね。
やっと自由に戦争ができる機会を得たりと思ったら、既に守るべき徳川自体が戦争のやる気を失ってましたってのは悲劇だな。
土方は北関東戦争で急に参謀まで上りつめてるが、ありゃ小説じゃ新選組評判や経験値からってな単純な解釈されてるけど、
実際の就任理由はなんだったんだろう。なんでも京都時代から新選組の洋式軍隊化・幕府陸軍吸収は進んでたみたいだし、
その過程で築いた幕府軍内部のコネクションでもあったんだろうか。
>>307 その通り名前と経験じゃないの?
いざ火急のときはコネクション使えるようなのは引くんじゃないか?
なまじ頭が良いだけに。
まぁ、その時期は新撰組ブランドもあれば、コネクションも出来てるだろうけど
309 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/14(火) 05:02:22 ID:AWkfavEC0
明治維新で日本の庶民の生活レベルが著しく下がったのは紛れも無い事実
やっぱ新撰組や彰義隊には正義がある
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/14(火) 06:38:05 ID:8KkakrCr0
明治維新は日本を近代化した偉大な変革ではない。
半封建的絶対主義天皇制の下で国民を抑圧搾取し、
アジア侵略殖民支配する端緒となったクーデターに過ぎない。
>>304 鳥羽伏見は一人じゃどうにもならんだろう。
訓練受けた現場指揮官クラスがポンポン死んでくんだから。
しかも戦略級の話になると、仕切ってたのは陸軍奉行とか老中クラスだし。
>>309 正義とかいう話ではないだろ。庶民が時に権力による理不尽な圧力で苦しんだのは江戸時代も明治時代も一緒じゃんか。
明治以後の生活レベルは時間をかけながらも右肩上がりで良くなる。それが崩壊するのは大東亜戦争突入後から戦後の一時期。
現実には時代を教科書的に大政奉還〜戊辰戦争で区切れるものじゃないし、むしろ富国・強兵・憲法・議会といった近代化に
不可欠な壮大な課題に対し、19世紀から20世紀の日本人が如何に取り組んだかという視点から連続的時代観で把握すべきでしょ。
幕末維新期の事象は本来ならば正義か悪かとかいうレベルで矮小化したり偉大な改革だなんだと極端に賛美したり非難して
語れるほど軽いテーマではない。坂野潤治氏と大野健一氏が『明治維新1858-1881』で上手く歴史を解きほぐしているから
参考に一読を薦める。
君主制を打倒せず、地主制を廃止しなかった明治維新は
近代革命としては失格だな。明治維新を賛美するのは
"自由主義史観"に洗脳されたアホウだけだ。歴史をまともに
勉強した者は明治維新の封建制、不徹底さ、反動性を知ってる。
難しい話はおいといて、
上野にもう少し早く攻撃をかけるという選択肢は、あり得なかったんですか?
もしもう少し早く攻撃をかけていたらどうなっていたのかそのあたり詳しい人…
自由主義史観wwwww
>>314 大して変わらんと思うが……
大村益次郎が居なければ、事前の切り崩しやら追撃は史実よりは不徹底だったかもね。
>>313 洗脳搾取虎の巻ィ〜♪洗脳搾取虎の巻ィ〜♪
そりゃ現代人視点からすりゃ全部不徹底に見えるわ!!大体一口に明治維新つっても段階つーものがあるわけで。
「ハイ昨日までこうでしたが今日からこうです」と一昼夜ですんなり社会全体が変わるわけなかろうが。
「その時代に何ができて何ができなかったか」を段階毎にちゃんと把握しりゃ、そんな大雑把でぶっ飛んだ意見は出てこない。
戦争反対!!暴力反対!!
319 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/16(木) 04:07:41 ID:7Lo9zmDg0
暴力肯定の狂暴な連中を取り締まるのは相当大変だろうな
捕まるのが嫌で刀や拳銃で襲い掛かってくるんだろ
新撰組/京都見廻組/彰義隊は命が幾つあっても足り無そうだ
だからこそ常に大袈裟に見えるような厳重な装備と作戦を練って検挙に臨んだろうな。
それを「卑怯だ」なんて平気でいっちゃう連中は考えが甘過ぎる。
秋葉の事件みても分かるがショボイ刃物持った格闘の素人一人逮捕すんのでも難儀なこと。
覚悟を決めた刀やら槍もった武道の達人相手ならなおさら難しい。
実際、私的な決闘ならいざ知らず幕末の闘争劇で「正々堂々一対一で尋常に勝負」なんてケースは稀少だしね。
「新選組」は、慶応3年に正式に幕臣に取り立てられてからは「幕臣」でいいと思うんだけど、
会津藩お抱えだったそれまでは、身分的にはどう言えばいいの?
「会津藩お抱え」の浪人衆?
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/16(木) 18:09:51 ID:IOoWug5fO
>>321 会津藩が幕府から「御預かりした浪士」。「御」は幕府に対するものね。つまりは正規の管理者は幕府。
会津藩は京都守護職という役職上新撰組を指揮下に置いてるだけ。制度上は単なる監督役。
給金も幕府が出し会津藩を介して新撰組に渡った。兄弟分の新徴組・新整組は早い内に幕臣化され江戸警備責任者庄内藩付属から、
再編成で正式な庄内藩士になった。或いは新撰組も将来的に会津藩士ということになっていたかも知れない。
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/16(木) 18:16:13 ID:IOoWug5fO
ちなみに「浪士」は従来の社会組織に組み込まれている「浪人」とは別な意味で考えないといけないとか云々。
庄内と言えば、松平権十郎、菅秀実、あとは酒井玄蕃。
鳥羽・伏見の戦いで
新撰組はどの位損傷したの?
死者が約20人とされるな。
特に千両松付近での戦いで最も多くの死者を出した。
その他、村上清のように重傷を苦に自害するやつ、
山崎烝のように撤退はしたが戦傷により死んだやつもいた。
開戦直前で148人だったが江戸に帰還したのは約100人。
そこまでは分からんね。
永倉新八・島田魁・相馬主計等の日記を読むと初戦は銃撃戦だったが、
後半になるにつれて接近戦も増えたようなので、恐らくはあったかもしれない。
大坂力士との喧嘩で永倉が島田の振るった刀で傷ついたりしてるから、
混戦となれば間々そういうことはあったかもしれない。
合印といっても袖章くらいなものだったろうし。
>>328 実はさっき、新撰組のコスプレイベントに参加するための服を親に見られて
アニメ好きなのはかまわないけど、新撰組だけはやめてくれ
ってじいちゃんまででてきて止められたんだよ
理由が先祖に新撰組が居て、鳥羽・伏見の戦いで劣勢になった時に
仲間の隊士を7人斬り殺して逃げたから
っとか言われてさ、デマだよね?
当時の新撰組の名簿みたいな奴ってどこかでみれますか?
>>329 まじかっっ!確かに消息不明な人間も多いからもしかして・・・。
サイトでは幕末新選組とか壬生浪士新選組とかいうとこで見れたような、
原文というわけじゃないし内容端折ってるからあんまり参考にはらならなかった記憶がある。
本だと『新選組組長列伝』にあらかたの名簿が写真付きで掲載されてた。
今じゃ古書でしか手に入らないと思うけどAmazonあたりで簡単に購入できると思うよ。
>>331 新選組組長列伝、買ってみます。
ご相談にのっていただきありがとうございます。
どういたしまして。
>>329 まぁ戦場に脱走は付き物だが……
七人斬って逃げるって相当強いなw
335 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/16(木) 23:11:39 ID:IOoWug5fO
新撰組最強の男・・・だと?
336 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/16(木) 23:15:43 ID:IOoWug5fO
るろ剣の刃衛を思い出した。
寝る。
同僚7人に刀を振り回して逃げた、の誤りなんじゃないかな?
>>320 いやいや武士として考えれば卑怯だよ
>>319そもそも江戸時代に暴力否定集団なんかいるのかねwww
勝てば官軍負ければ賊軍
佐幕派は鳥羽伏見まで勝ち組だったから、新撰組やら見廻り組の行いが正当化されてるだけ
やってる事は暴力による政治的弾圧
現代の言葉を使うならテロリズムです
江戸時代の学者によって体系化されて大まかな形を成した「武士道」はあくまでも「平時における武士身分の理想的姿」を説いたものね。
戦争が無い時代でこそ意味を持つ倫理観で、それを物差しにして「非常之時」に生きた幕末の武士や志士を評価することに大した意味は無い。
桜田門外之変を契機に尊攘派浪士による各地でのテロが盛んになり時代はいよいよ「非常之時」に突入した。
京都でテロリズムが横行した頃、ちょうど新撰組も登場した。
政治的対立に起因する内乱である天狗党之乱、天誅組之乱、禁門之変、幕長戦争は勿論、
一揆・打壊にも農民だけでなく浪士などの参加が目立つようになり政治的武装蜂起に変貌した。
これを押さえる義務があるのは、当然ながら幕府や全国の藩だったが、
既に武士層の軍人としての資質は全体的に低下しており、軍制改革の流れで農兵銃隊が編成される。
「平民同士の戦争」の時代が到来する。
農兵銃隊の代表的存在の一つが新撰組結成の約2年前に編成された土方歳三義兄佐藤彦五郎率いる日野宿農兵隊。
日野宿のある多摩は一揆が過激化し始めた天保頃から自警意識が強まり剣術が隆盛。近藤・土方が剣の修練に励んだのもそこに由来する。
そういう意味では新撰組の活動を農兵隊のそれの延長線上とみて研究している学者もちらほら存在する。
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/18(土) 07:13:11 ID:MCGazvVl0
>>329 それ本当の話っぽいな。
仲間斬って逃亡だから、アナタの家の武勇伝にはならないし。
例えば会津戦争で薩長兵七人斬ったなら武勇伝になるから捏造の可能性もあるが。
嫌ならしなくてもいいが、ここは詳しい人もいるから詳細を教えてほしい
341 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/18(土) 08:55:27 ID:tM2OWtl20
新撰組最強はやっぱり斉藤だろ
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/18(土) 10:42:15 ID:3IOS20NeO
>>341 最年長隊士の斎藤一諾斎老人のことですか?
相変わらずダラダラと引用を張り付けるだけの輩が多いねwww
馬鹿な短文並べて荒らすことしか能がない糞人形よりも、
引用でもなんでも詳しく書いてる人間のほうが有益です。
345 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/18(土) 11:34:43 ID:GOyy86yX0
服部武雄だよ
服部武雄が武術の達人ってのは分かるが「新撰組随一の使い手」と言い出したのは旧御稜衛士だって部分は考慮しないとな。
戦士として史上に残る活躍といえば油小路事件くらいだけど、その一件だけで並々ならぬ使い手なのは分かるが。
>>344 > 馬鹿な短文並べて荒らすことしか能がない糞人形よりも、
自己紹介乙
>>343-344-347の流れからは昔ここの常連さんだった会津観光史学ネタ大好き連中の典型的テンションを感じるんだが・・・。
そもそも豊富な史料や学説引用することで歴史が成立するのにそれを否定的態度で扱って一体何求めてるんだ?
何でもいいから否定だけすりゃ形になるだろってな幼稚な根性で書き込みされても周囲は不快になるだけだし止めろって。
史料や学説なんて机上の空論で何の証拠にもならんよ
証明したきゃ直接見てこい
>>349 つまり何ら根拠のない妄想話だけしたいと?
昔の事なんだから、根拠があったところで確かめようもなかろう。
学会を見てみろ。学者が史料を持ち出してさも偉そうに学説唱えてるが、肝心の断定は出来ずに遠回しな見解を述べるだけ。
結局は奴等も史実の断定については自信が無いのよ。いくら調べたところで無駄じゃい。
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/20(月) 00:37:28 ID:qNqnWXViO
>>351 当前のことだが人間は過去に戻り各人が現在直面している課題の解決に必要とされる情報を確認することは不可能なんだね。
だから数多の先人が受け継いできた史料と各時代の学者が導き出してきた学説を基に自身の正しいと思う意見を構築し主張する。
その歴史学の研究成果がさらに各時代の多分野の学問や社会とリンクし、より広範で複雑な意味を持つことになり、
時に人間社会に進歩をもたらすこともあれば破滅をもたらすことにもなる。
次世代の学者はその前例の結果を受けてより進歩するための方策、或いは過ちの防止に必要な提言に繋がるような研究をする。
これ大学の史学部(科)でちゃんと勉強した連中なら基礎の基礎だが歴史学は事実関係の確認だけが目的ではないんだよ。
ってか本当に学会やら論文の意味を理解してるのか?そうとは思えない雰囲気だなぁ・・・もしかして学会って違う学会かね?
それとも学会・学者ときけば目を背け胡散臭いと一言で片付けたがる勉強アレルギーかテレビやら漫画の世界感で語っちゃう人?
学者嫌いとかは間々いるもんだけど、せめて歴史学というか科学全体についてもう少し理解してから色々言えよ。
そういう次元の話しは家の茶の間でするならまだしもわざわざ学問的話題を扱ってるここでする必要ないだろ。場違いだよ。
>>351 > 昔の事なんだから、根拠があったところで確かめようもなかろう。
>
君には史学を学ぶ資格ないよ
どんな史料でもそれを裏付ける根拠が示せないなら論外だから
史学を学ぶ資格はないか…
確かにそうかもな。
俺自身、子供の頃から人一倍日本史が好きで研究者目指して独学で色々と調べてきたが、大学に入ってみると授業で聞く事は自分の知ってる事ばかりで拍子抜けだったな。
色々と史料解読手伝ったりもしたが、教授が史料を元に語るんだが、自分が実際に見てきたかの如く偉そうに断定して語るんだよな。ああいうのを見てるうちに、歴史研究家ってのが嫌になったんだよ。
自分が歴史を学ぶ時期が早すぎた影響もあると思うが、素人に大して歴史家が得意げに語る姿を自分に置き換えたら虚しくなっちまってな…
それ以来、歴史家目指すのは辞めたな。今は某公共団体の職員だが、歴史は自分の趣味の世界で良いと思ってるよ。
、歴史を研究する事は悪いとは言わんが、趣味の範囲で良いと思ってる時点で俺は史学を学ぶ資格は無いと思えるな。
自分語りはチラシの裏にでも書いとけばいいのに
>>286 「龍馬暗殺の謎」木村幸比古
が半分くらい見廻組についての記述だった。
佐々木の悲惨な最後についてとか「佐々木只三郎伝」からの引用も何カ所かあったよ。
>>354 遠まわしにグダグダ書いてるがざらにいるボンクラ学生の言いわけにしか聞こえない。
通常、史学科を設けてる四年制大学・短期大学では史料解読の手伝い程度なら演習で学部一年のうちから実施する。
また前半の講義も素人でも分かるような単純明快な概説に大半の時間を割いて進行する。
高校の勉強ができてたり元々マニアックな学生ならこの時点では「なんだ簡単じゃん」と拍子抜けするやつも多いようだ。
但し段々講義内容が専門的で小難しくなってくると「あの教授うぜー」「あんな大人になりたくない」っというような、
学生お決まりというか、ガキ丸出しの言いわけで逃げに走る連中もまた多くなる。まあ大体そういうもんだけど。
とっつきにくい教授もなかには確かにいる。だが教授なんて本質が教育畑ではなく研究畑の人間なんだよ。
猛烈な熱弁を聞いて「お前が見てきたんかいっ」って突っ込みたくなるような瞬間もあるかも知れんが、
熱く自信満々に語るということはそれだけ自身の研究・知識に誇りがあるという証拠でもある。
逆に誇りのない教授なんか何処の大学でも必要とはされない。案外単なる自慢話のように聞こえても何気に凄いこと言ってることもある。
そもそも「人間的には合わないがあいつの言ってることはこの部分で一理ある」とか「絶対学者になってあいつを超えてやるっ」
ってくらいの気概と、徹夜でも集中力切らさず論文書いたり史料漁れるような体力・知力のあるやつしか本職の歴史家なんかにはなれない。
結局は教授の善し悪しじゃなくて本人の努力・資質の問題。歴史家になれなかったのは誰のせいでもなく自分のせい。
過去を後悔するのは勝手だが「俺がこんなことになったのはあいつが原因」なんて考えは絶対に駄目だろ。
そんなこと言ってたら歴史が好きだ嫌いだ云々以前に社会人としても信用得られないんじゃない?
例え大学いかんでも趣味の範囲で熱心に活動して本職の研究の大きな支えになってる人々も多くいるのに、
「趣味の範囲で良いと思ってる時点で俺は史学を学ぶ資格は無いと思えるな」ってのも失礼過ぎる主張だろ。
レベルが上がってきたから嫌になったとかそういう事は無いな。
日本史自体俺にはレベルが低すぎた。
入試の時も満点合格だったし、そもそも元々独学で勉強してたから入試対策は一週間前に始めただけだけどな。
家庭教師もやってたけど、日本史なんてのは人に教えてもらったから出来るようになるもんじゃない。
単に暗記すれば良い世界だから、暗記力さえあれば馬鹿でも高得点が取れる。そんな日本史に自信持ってても社会じゃ通用しないって思ったから目標を変えたまで。
日本史が社会でどれぐらい重要視されてるかは世間を見れば分かる通り、活用の場は殆ど無い。まさに趣味の世界で充分だ。
日本史研究したから自分は良く知ってるよなんてのはホント自己満に過ぎん。
>>322 サンクス
慶応3年までの新選組を「幕士見習い」と表現するのはOKってことですね。
ヴァカじゃないの
知識があれば日本史極めたことになるのかよ
あんたは大学は知識を学ぶところではなくみずから研究する方法を学ぶところだということに
気づきもせずに終わったというだけだろw
360 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/21(火) 01:04:28 ID:5ZNDZDfoO
>>357 真性の大馬鹿野郎だな。きいてもいないのに妙に学歴や職業晒すとことかも何か怪しいんだが、本当に歴史学勉強したのか?
そりゃ高校の「日本史科目」は予め教科書に載ってる情報を暗記して回答の穴を埋める単純な作業をすりゃいいだろうに。
そういう高校で「教えられる」歴史科目と大学で「学ぶ」歴史学は全くの別物なんだが・・・。そんなんでは歴史家にはなれんわな。
歴史的課題の解決のためには史料を精査し独自視点から理論を組み立てる必要がある。その専門的知識・技術を習得するのが大学。
その集大成が卒業論文。史学研究と歴史用語暗記は全くの別物。大袈裟な話、暗記なんか役に立たないし自慢の種にもならない。
一々暗記せんでも辞書を座右において確認すりゃいい。求められるのは独創的発想・理論的思考・情報処理能力など別の教養。
社会を見渡せば歴史学のスキルをフルに発揮できる環境は限られるが発想力・思考力・情報処理力等は他分野でも十分役立つ。
深い教養はコミュニケーションの鍵にもなる。というか歴史学も含め社会で不必要な学問などない。直接的に見えるか否か
それだけで無くてもいい存在と判断するほど幼稚でナンセンスなことはない。君のいう言説に従えば、
全ての学問は「趣味」として処理されかねないな。学問一本それだけで直接的に食っていける環境なんぞ世の中に殆どない。
それは分かりきった話。そもそも学問の価値をそういう物差しではかることに何の意味もない。そういう馬鹿晒すのやめろよ。
明らかに語るに落ちてるだけだぞ。ってかこんなこともわざわざ指摘されなきゃ分からんのか?
暗記力もない馬鹿は研究家にすらなれん
>>355 いやはや情報感謝する。見廻組をダイレクトに扱った図書は本当に貴重だから有り難いです。
>>358 そういうことでいいかと思う。因みに幕臣取立時の新撰組は形式上は京都見廻組に吸収合併された。
勿論実質的には別組織だけど見廻組が新遊撃隊を名乗ると同時に新撰組も新遊撃隊御雇を拝命したので、
今思えば会津藩士化よりも京都見廻組に完全合併→幕府陸軍編入?のほうが将来的流れとしては妥当かも知れないな。
>>361 歴史学で暗記は根幹的要素ではない。
結局、否が応でも山のような辞書やら文献を引くんだし自然と必要性の高い情報は覚える。
一々暗記してたら研究どころじゃないし言葉の意味を理解したのではなく言葉の名称を覚えただけでは何の意味もない。
ってことを大概の講義で懇切丁寧に教授が説明するんだが。それも理解できないから「日本史自体俺にはレベルが低すぎた」って、
恥知らずな発言を飛ばす。本当は「レベルが高すぎた」の間違いだろ・・・。入試で満点採った歴史検定で満点採った大いに結構。
でもそれと歴史学を極めたことを一緒にしてハシャぐなよみっともない。
>>362 見廻り組は旗本
新撰組が幕臣となったから形式上見廻り組に組み込まれただけ
新撰組の将来なんて皆無
成り上がっても幕府にとっては単なる使い捨ての有象無象集団に過ぎません
365 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/21(火) 16:18:44 ID:5ZNDZDfoO
>>364 見廻組は組頭数人意外の組士数百人は全て御家人か部屋住な。
注目すべきは時代劇じみた使いて云々の話じゃなき文久3年以来の全国的軍事体制再編成との関連じゃね?
>>365 見廻り組は旗本と御家人さん
てか使い捨て云々の何処が時代劇じみてるのかと…
新撰組って母体に未来なんか無いから
そもそも尊王攘夷の為に脱藩して新撰組隊士となった輩には徳川体制に組み込まれる事なんか望んでいないから
>>366 何がいいたいんだかはっきりしろ。
最終的に見廻組登用の事実関係の真否に結論を出したいのか。
それとも、
全共闘運動・内ゲバ騒ぎ真っただ中の時代に、戦後民主主義者たちが歴史学的考察は二の次で、
政治的意図を前面に押し出して盛んにやったような、
例えば永井路子が1974年に「維新史をにらむ」でやったような骨董品級の新撰組否定論を語りたいだけなのか。
「尊皇攘夷の為に脱藩して云々」というのも、主観的というか時代の段階的把握を完全に欠いているというか。
何故に「彼らは使い捨ての武士です」「可哀想。あっ晴れ最後の武士だな」「いや、詰らん人斬りだ」
ってな非歴史学的議論に終始した、子母澤や司馬が絶賛された70〜90年代の新選組観・研究レベルに後退する必要があるのか。
今読み返してみたが・・・昨日酷いことなってたんだな。
>>366みたいなのは精々新撰組関心ある連中にウザがられるだけで、場合によっては話の広げようもある。
ついつい反論したくなるが嫌いではない。
が、
>>354みたいなのは完全にうけつけないというか、人間的にいらつくレベルだな・・・。
会津観光史学がなんだかんだと荒らすやつより性質が悪い。
ここで挫折したおっさんの寒い自慢と独白を延々たれられてもね。ネットとはいえよく恥ずかしく無いもんだ。
ああいう連中は関心あるわけでもなしに否定することで快感を得てるようなアホやから無視しとけ。
370 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 09:56:25 ID:pgA/FEbb0 BE:884417235-2BP(10)
役に立たない、ただ人形が短い愚かな破壊を配置よりたわごと
私は詳細には何の恩恵をより多くの人々を書いています。
>>367 > ってな非歴史学的議論に終始した、子母澤や司馬が絶賛された70〜90年代の新選組観・研究レベルに後退する必要があるのか。
2ちゃんねるで最先端の議論をどうぞwww
学者気取りの新撰組ヲタwww
>>367 それと新撰組批判なんかする気は無いから
客観的に書くと新撰組を正義のヒーローと勘違いした輩がアンチ認定してくるだけ
新撰組は尊王攘夷の志しの下に集まった集団
その志しを利用し、自らの立身出世の為だけに動いたのが近藤であり土方
尊王攘夷を時代錯誤云々と言うが、新撰組隊士の多くが時代錯誤と認識していたとでも言うのかね…
新撰組は徳川幕府を守る為の部隊ではないから
あくまでも徳川幕府と朝廷が中心の攘夷
現に鳥羽伏見以前には脱走者が多数出ている
大政奉還後、鳥羽伏見戦前の新撰組って存在意義を失って当り散らし
水戸や土佐、薩摩に好き勝手喧嘩売るわ
デリケートな情勢を理解しない誰にも益がない厄介者っぷりが凄いよな
小説家の皆さんは上手いことスルーして一気に戦場で負けるとこに持っていくけど
いやいや、三条辻の土佐藩士狼藉事件では、
旧幕府に当面暫定的に政権続行の権利があった(これを失うのは、明治天皇による親政開始=王政復古の時)が、
新撰組は土佐藩士が相手だと判明すると、即座に釈放している。
この時点で一方的にけしかけていたのは主に会津・桑名の藩士だった。会津藩士が土佐藩士に言いがかりをつけて襲った記録も見られる。
両藩は大政奉還自体に反対していたので、徳川慶喜の考える、諸侯を取り込んだ公儀政権構想は潰したかったのだろう。
376 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 18:37:24 ID:tTqLunF4O
377 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 19:11:54 ID:nSuOgE0F0
>>373 新撰組そのものは近江屋龍馬暗殺事件直後に解散させられてたんだっけ。
>>374 会津藩士が土佐藩士に言いがかりをつけて襲った記録ってどれのことだ?
三条辻の制札事件は明保野亭事件と同じ種類の処分と考えていいんじゃないの?
土佐の行動に対して会津藩士が苛立つのも組織的行動とは思わないけどね
会津・桑名も、もともと江戸の幕権派からは疎まれていたはずだが、
なぜ大政奉還に反対したんだろう。会津も第二次長州戦争の前段階では帰国を考えていたしね
大政奉還それ自体と言うより、長州藩の復権で
主敵としてクローズアップされるのが分かってたからじゃないの
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 01:30:09 ID:Vdabq/7p0
新撰組=アインザッツグルッペン
白虎隊=ヒトラー・ユーゲント
京都見廻組=ゲシュタポ
彰義隊=武装親衛隊
会津=ナチ
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 03:57:37 ID:h3qCz6eHO
>>378 同じ幕府勢とはいえ江戸の将軍譜代結合派は大概あっさりと新政府を受け入れたのに対して、
最後の数年間、新たなかたちの一政権を成立させ威を振るった京都の旧一会桑派はかつての政敵長州復権は承服しかねたわな。
長州復権後速攻で立場逆転して糾弾されるなんてことは非現実的にせよ自分たちが築いてきた政権はおじゃんになるわけで、
動き辛くなるのは確実だ。折から藩の財政事情や藩士感情の問題て藩内部でも帰国を希望する意見は強い。
幕末になってから蝦夷地や江戸湾の警備に加え京都守護職なんぞという役目を負わされ恒常的赤字財政に苦しんでるし、
元々政治の表舞台にたつような藩じゃないし殿様はいざ知らず「面倒なことからは早く手を引きたい」ってのが藩士の本心。
さらに専制的権利を振るった京都の公用局連中と国本や江戸詰の連中の間でも温度差があって度々ゴタゴタしている。
機会を見つければここぞとばかりに「面倒ごとからは身を引いて通常運転に復帰しよう」って話しが持ち上がっても不思議
ではない状況は常に存在した。政治的理由もさることながら、先ず第一に経済的理由が行動の相当部分に影響を与えるな。
>>378 勤皇の名の下に幕権派と対立するのと、幕府が消滅するのは別問題だからじゃね?
幕藩体制の消滅までは望んでなかったんだろう。
土産物屋で新撰組の旗や羽織を売っているのを見るけど
これってドイツでかぎ十字の旗や親衛隊の制服レプリカ売っているのと一緒だよね
禁止して没収しよう
はいはいwww
>>381 んじゃなんで勝ち戦なのに敵前逃亡したのよ
浪士組・新撰組関連の主だったサイトを確認してみたんだが案外十年くらい前の情報でストップしてるのが多いね。
もうちょい年かさねて知識を蓄積して生活も楽になったらサイトでも開設して自己満に浸りながら、
のんびりダラダラ同好の士と語りあいたいものだが、サイト運営ってのは面倒くさいもんなのかねぇ。
掲載してる史料とかも学生が書く論文とかと違って著作権関係の扱いがややこしいものなのかな?
既に書いてる人もいるが歴史を語るなら意見の基になった出典(著者名、書名、出版社名、頁数は最低限必要)示さないと。
それもできないのに一生懸命に美化や非難を繰り返され俺の意見が正しいから信じろよとゴネられても信じられないって。それに、
最近の流れはサッパリ佐幕派の諸隊でもなんでもないのな。話題もブレまくりでどうでもよろしいことに突っかかるやつばっか。
まるで会津観光なんちゃらとかほざいてる連中の別荘みたいだな。
390 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/28(火) 17:45:44 ID:DyBdr2Rj0
司馬遼太郎の小説の書名、出版社名、頁数を出典として書いて笑われた、哀れな会津ファンもいました。
検証もない出典表示のみでは、会津ファンのような間違いを起こすこととなるでしょうね。
>>389 2チャンで正論吐いてもね・・・ここはひねくれ者の寄りどころだから真面目に反応してやるだけ無駄ってもんだ。
会津批判の連中は毎度会津・新撰組ときけば粘着してワンパターンな悪態つくだけつく特性があるが、
ワザとスレ立てしたりして逆に釣ってやると楽しい。これがよく引っかかるWWWWWW
>>391 一部同感
ソース厨はイタ杉
学会でも学者の集会でもね〜つ〜のwww
正しく後半の電波特有の認定はいただけないなwww
新撰組に虐殺された勤皇の志士たちの記念碑なんか作ったら
狂信的な会津ネオナチ宗団に汚損されるんだろうね
秋田戦争に関しては、郡義武の「秋田庄内戊辰戦争」と言うのがあったが、
この人は元桑名藩士の子孫?だから、中立性にやや難がある。
佐々木克も秋田出身じゃなかったっけ
郡義武は、星亮一の歴史観を受け継ぎ、会津観光史学を桑名に注入しようとしている人ね。
しかし、非常に残念な事に桑名本国は戦わずに恭順している為、桑名藩本国批判と柏崎の桑名藩主戦派讃美に走っている。
隣町の津藤堂藩や尾張藩などは、新政府支持史観なので孤軍奮闘で、ますます極論化している。
「会津観光史学」この言葉だけでNGだ。いくら言ってることがまともでも。
もっとも、まともじゃないからそんな意味不明の言葉を使うんだろうな
398 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/31(金) 13:15:34 ID:djjhIPOP0
新撰組の隊士たちを昆虫に例えるとどんな虫ですか?
399 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/31(金) 16:24:43 ID:z55xNqzk0
別の種類の蟻に巣を乗っ取られた蟻かな?
個々には尊王攘夷思想はあったっぽいが、浪士を殺害することに立身出世の夢を追った近藤のせいで、
目的とは正反対に突き進んで磨り減らされて消えた。
400 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/31(金) 17:43:01 ID:djjhIPOP0
>>396 いや「会津観光史学」批判ってのも
いわゆる悲劇の英雄的な評価をされてる人物の美化のベールを剥いで
その実像に迫るという点では有意義な視点だと思うぞ。
大体「会津観光史学」ってのは会津若松市観光課の職員が言い出した単語であって
別に変な言葉じゃない。
もちろん根拠のない主張を繰り返す荒らしに構う必要はないがな。
近藤勇=カメムシ・・・エラが張っているから
土方歳三=キリギリス・・・貴公子っぽいが、残虐なプレデター
沖田総司=カメムシ・・・エラ(略)
鳥羽伏見の2日目とか、幕府の工兵が活躍したんだな。
会津の白井隊を土佐藩が通しちゃってるんだな‥
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 08:44:09 ID:cNuQsvYN0
幕末時代の女性(主に大奥)を昆虫に例えるとどれに当てはまりますか?
サナダムシ
406 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 17:55:35 ID:/MfPMtSx0
パワーとか言う前にまず鎮めろよw
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 23:29:27 ID:9wLSpd8Z0
めでたい正月から、他者を呪詛するのか
暗い正月じゃのうw
佐久間、窪田の戦死状況から考えて、明らかに狙撃だね。
薩摩は西南戦争の時も篠原が緒戦、狙撃で討ち取られているけど。
普通、連隊長がそんな危ない所に出てくるとか考えにくいけど、
彼らが出ていかなければ前線が持たなかったのかも知れない
410 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 13:11:59 ID:9U/gyG9y0
幕末の会津藩の女性たちを昆虫に例えるとどれに当てはまりすか?
カマドウマ
狙撃恐ろしや。
当時幕府は勿論、各藩の兵隊中には猟師なんかもいたし、
基礎的技術の高いスナイパーは結構いたのかな。
つっても技術だけじゃなく当時の銃器の命中精度にもよる話だろうけど。
基本的に、漁師は武士じゃない。だから当然藩士じゃない。
身分制にこだわらなかった長州藩でさえ、猟師隊は義勇軍扱いで藩正規軍じゃない。
会津藩にも猟師隊があるが、あれも当然正規軍じゃない。
長州や会津以外で、漁師で部隊を作った藩は無い。漁師個人が勝手に参加した例も聞かないな。
漁師の使う銃は、基本的に火縄銃。会津藩が多く使ったミニェー銃とは比べものにならん。
長州にあっては、ミニェー銃かスナイドル銃。火縄銃の命中距離を考えると、大戦中のスナイパーのような戦い方は不可能だ。
では、漁師の皆さんはどう戦ったのか?。俺が知っている限り「熊を狩る」方法が取られたと考える。
10人前後がチームを組み、内半数が熊を追い立て、残りの半数が待ち構えるポイントまで誘導。
然る後に、半数の集中十字砲火によって仕留める。たぶん、これだろうね。
414 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 00:09:07 ID:cV37EPHQ0
火縄銃やゲベール銃の射程は50m、最大限でも100mまでで、これを越える距離では役に立たなかった。
ミニエーなどに代表されるライフル銃の射程が、500mから1000mとなるというのを判断すると、
猟師は隊に加わったとしても、火縄銃のままでは待ち伏せ程度の役にしか立たない。
待ち伏せだけの用途で、しかも火縄銃やゲベール銃には連発能力がないから、狙撃した人間はまず生きて返ってこない。
猟師に新式銃を与えずに隊に編成するのは、畳を持たせて自軍の前の弾除けにするのに近い暴挙だと思う。
猟師かどうかは知らんが、長州藩正規軍には狙撃に特化して選抜した連中が居たとか。
でも幕府海軍の水兵は塩飽の水夫とか鳶職を雇ったわけでしょ?
会津と長州以外、猟師に目をつけなかったのはなぜかな…
いちばん狙撃の伝統がありそうな薩摩が猟師隊を作らなかったというのは、
全藩挙げての抗戦を経験してないからか、それとも身分差別がやかましいからか
会津の主力がミニェーだというのは初めて知った。何かゲベールか、さもなくばスペンサーか
と言う印象だったけど
417 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 15:47:53 ID:OpyzDIWk0
(も一度)新撰組の隊士たちを昆虫に例えるとどれに当てはまりますか?
418 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 15:48:40 ID:OpyzDIWk0
(も一度)新撰組の隊士たちを昆虫に例えるとどれに当てはまりますか?
419 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 16:11:35 ID:cV37EPHQ0
>>416 なに文章を誤読してるんだい?
会津の戊辰戦争での銃は、最初火縄及びゲベール、後にヤーゲル銃で、どちらもミニエーではない。
ヤーゲルはライフル式ではあったがミニエー式の弾丸を用いないため、銃弾装填がとても難しく
連射機能もない。新潟で騙されて購入したものとのこと。
420 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 16:59:19 ID:cV37EPHQ0
ちなみに会津の銃(会津戦争期)
・ツンナール3000挺:注文したが使用不能(新政府に押収された、または弾丸がなかったの二説が文献にある)
・スネルに800挺購入依頼、新潟で荷揚げ:種類不明、一説にはゲベールもしくは前装填式ミニエー
・旧幕府軍から各種少量供与:この中にスペンサーがあったとのことだが、家宝クラスで白虎隊になど回らなかった
事実上、800と少し。
中村彰彦が会津は先端的、スペンサーも持っていた、との主張を執拗に掲げているが、
当時薩摩と佐賀がスペンサーは大量に所持していたのと比べると、とても先端的とはいえない。
>>416 >会津と長州以外、猟師に目をつけなかったのはなぜかな…
身分制度の時代だという事を念頭に置いておいた方が良い。
合戦で功績を挙げるという行為は、武士階級のみの特権だ。
武士階級以外に武功を立てられては、武士=藩士の立つ瀬がない。
だから、武士階級以外の部隊を作りたがらない。
会津と長州が作ったのは、武士の数が足りず兵力不足だったから。
双方とも、”負け戦なら藩が滅び、すべてを失う”為、背に腹は替えられなかった。
これに対し、他藩はそうではない。藩を潰されないように義理を立てればそれで良かった。
そんな訳で、藩兵だけで戦った訳だ。
会津と長州ってなんでここまでいがみあってるんだっけ?
禁門の変以前から険悪な仲だったよね。
>>423 大元を探れば「公武合体が先か尊王攘夷が先か」という争い
会津藩や新選組は「公武合体し、挙国一致体制で攘夷すべきだ」という主張。
公武合体する為には、朝廷と幕府の信頼関係が重要で、その信頼を崩すような「幕府の悪口を朝廷や公家に言っている」尊攘浪士を嫌い、弾圧した。
長州藩や尊攘派は、「公武合体も糞も、将軍職は天皇から与えられたものであり、天皇の家臣たる徳川将軍家が天皇の攘夷の意志を無視するとは何事か」と怒り、
この幕府に本来の姿”天皇の家臣として軍事と政治を総括する者”に戻すべく、朝廷権力に働きかけ、幕府批判を行っていた。
この考え方の違い。
>>423 幕末政局は大きく三つのグループ分けができる。
@長州藩含む朝廷・諸候直接結合政権志向のグループ。
A黒船騒動以前、政権の担い手であった譜代を諸藩中心とする江戸を根城にした将軍・譜代結合政権志向のグループ。
B一橋慶喜・会津藩・桑名を中心とした京都・大坂を根城にする朝幕融和志向のグループ。
文久年間以降、特に激しく対立したのが@とB。
直接的な原因は禁門の変というよりは8月18日政変でしょうな。この政変によって長州藩勢力が暫く政治中枢から追放され、
変わって会津が政治的に力を増し一橋家・桑名と結んで所謂一会桑政権ができる一因となった。これ以降、両者が本格的対立関係に突入する。
ま、家近良樹という偉い先生がその辺を詳しく説明した評価の高い本を出しているので、そっち読んだ方が2ちゃんよりは理解を深められると思うです。
値段も手ごろやし。
>>423 長州は徹頭徹尾、天皇>>>将軍
これは航海遠略策の頃から「天朝への忠誠、幕府への信義」と明確に分けてる。
まぁ上手くいく訳が無い罠。
余り関係ないが、第二次長伐の前交渉が決裂した時の吉川監物の「では信義もこれまでだ」はここに掛かってる。
あんまり話題にならないが長州は長州で一枚岩ってわけでもないし藩論も一貫して尊皇攘夷ってわけでもないんだよな。
無理して小難しい本を読んでると実際は教科書や一般書で全く触れられないような形で政局が動いてるし事実はそう単純ではないのね。
やはり歴史は奥が深い。長州のような有名藩の話題もいいが小藩の幕末維新史も大いに気になるぞな。
まあ、一万石くらいの大名なら兵器の質は兎も角、兵数は昭和陸軍の歩兵1個大隊弱位で軍隊というほどの数でもないだろうけど。
428 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 18:53:30 ID:FHuUOyQz0
>>424 何を言ってるんだ? すごい低脳国賊史観(´,_ゝ`)プッ
8.18クーデター以降は、誰がどう考えても、
会津藩や新選組は「公武分断を継続し、佐幕派だけで鎖国攘夷すべきだ」という主張であることは明らかだろ。
たぶん間違いなく、義信から見てさえ、邪魔で馬鹿な勢力でしかなかったと思われる。
とにかく、そのため、公武合体派・幕政改革派・開国攘夷派だった薩摩は、倒幕派に転じ、
覇権争いしていた長州(公武合体派・倒幕派・開国攘夷派)と手を結ぶわけだ。
>>424 何を言ってるんだ? すごい低脳国賊史観(´,_ゝ`)プッ
8.18クーデター以降は、誰がどう考えても、
会津藩や新選組は「公武分断を継続し、佐幕派だけで鎖国攘夷すべきだ」という主張であることは明らかだろ。
たぶん間違いなく、慶喜や永井尚志から見てさえ、とんでもなく馬鹿で邪魔な勢力でしかなかったと思われる。
まとめて「君側の奸」どもと言われるゆえんだ。゚(゚^▽^゚)゜。 ブヒャヒャヒャヒャヒャ
とにかく、そのため、公武合体派・幕政改革派・開国攘夷派だった薩摩は、
幕府・佐幕派と距離を取り、倒幕派に転じ、
覇権争いしていたかつてのライバル長州(公武合体派・倒幕派・開国攘夷派)と手を結ぶわけだ。
結局、会津藩や新撰組の余りの馬鹿さ加減が
江戸幕府にとってはどうしようもない致命傷になってしまったわけだ。
近藤勇の実父・宮川久次郎が何年まで生きてたか知ってる人いない?
ぐぐったが分からなかった
すまん自己解決
明治19年、88歳で亡くなられていた
長生きだなぁ。
壬生屯所の家主だった八木源之丞も日露戦争期くらいまで生きてたんだっけ。
没年は90歳くらいだったような。
江戸〜明治時代は短命なイメージだが長生きする人は長生きするんだよな。
白虎隊って観光の為の神輿だよな…
歴史上高名な人物や組織の世間一般での扱いなんて大概そんなもんだ。
現代ではね。
学問の世界を離れたところでは漫画のキャラかアイドルみたいな扱い。
>>434 白虎隊賛美って
特攻隊賛美や一億総玉砕に通じるメンタリティだよね
誰も突っ込まないのかな
ちなみに飯沼貞吉は生き残ってしまい故郷に居づらいので
しばらく長州藩に世話になってたという話もあるようだが本当かな?
>>436 そういう見方に全く触れてないわけでもないけどな。
むしろ「悲劇の英雄観」と同じく、そういう観念も
これまで白虎隊観のかなりのスペースを占めてきたし
歴史的考察の妨げになってきたという経緯が実はある。
逆に、そういう白虎隊は「悲劇の英雄だった」とか、
「軍国主義に通じる存在だった」とか先ず答えをもってきて
その答えの立証に適当な史料を引っ張てきて物を書く
作家的研究手法によって生み出された
歴史的に深いようで実は浅い白虎隊を取り巻く研究の視点や議論から
如何にして脱却し、また歴史的課題として再検討していけるかが、
当面の課題じゃなかろうか、とは思う。
そういう感じで近年では新撰組研究が急速にレベルアップしてるし。
ま、学問の世界を離れた世間一般の人々に歴史学的に妥当な見方を
いくら説いたところでどれだけ理解してもらえるか、
どれだけ浸透させることができるかは歴史学とはまた別の課題だけどね。
白虎隊って自殺じゃなくて戦死している部隊もあるけどスルーされてるのは何で?
本来なら戦って死んだほうこそ讃えられるべきだろ
自殺したのは士族の子供で、戦死したのは足軽の子だから?
スルーされてることはないべ。少なくとも手堅い研究書とかではね。
単純に「少年武士たちの大量切腹」って事実がインパクトに勝って、
そこが白虎隊ストーリーの見せ場的扱いだからなぁ・・・。確かに、
世間的にはそれ以外の戦死者や生き残った隊士たちには目が行かない
風潮はあるっちゃあるよね。
佐々木克は30年前の「敗者の明治維新」で二本松少年隊を取り上げてたけどね。
意外と古屋作左衛門が忘れられてる気がするな。
あと、一昔前だと遊撃隊の人見勝太郎とか
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 02:23:35 ID:p6ayt+jl0
長州のサムライもどきが暴力で長州藩の士族を排除し長州の実権を握った
これが会津か…
1.鉄道・道路を通してもらえなかった
→実際は三島県令が当時日本でも稀な大規模道路整備を若松を中心に行い、
恩恵が少なかった会津以外の人々が一揆を起こした。
→鉄道が通らないのは当然。仙台へ伸ばすには会津は経由させるべきではない。
また、磐梯山噴火などがあり若松より北へ伸ばす路線は危険が多かった
2.産業育成を阻害した
→実際は産業博覧会で三島県令が盛んに会津漆器などの産物を販売し、陶器産業も復興させている
清酒も明治以降の導入で、江戸時代はどぶろくだった
3.県都を郡山に移さず会津を引き裂いた
→郡山は新政府が開拓した都市。そこに移すのは新政府偏重と言う福島市の意見が強かった
4.学校を作ってもらえなかった
→会津高校を作ったのは明治初期、しかも三島県令と明治新政府の重役たちによる寄付だった
5.賊軍の遺体埋葬を禁止された
→「彼我の戦死者一切に対して」遺体確認作業の為禁止されていたのを作家が捻じ曲げて解釈しただけ
かなり早い時期から遺体処理を指示する民政局の達し書が出てる
会津藩士の遺体もちゃんと埋葬された
6.「白河以北一山百文」と侮辱された
→言いだしっぺは東北、わざわざ新聞タイトルにしてスローガンにしたのも東北
つまり、会津人が涙ながらに叫ぶ「被差別」話は、どれもこれも根拠がない。
新政府の援助をたらふく食った末に、貰った先を罵って、恩義はないといって済ませようとするのが会津。
なにも「サムライもどき」が武力や学識の実力でもっ
て時代の表舞台に積極的にでていったのは長州藩だけ
という話でもないね。それが良い悪いというレベルで
議論されるほど小さな問題としても扱われてはいない
だろ。
というか当時も今も何処までの身分を「武士」に含め
るかは意見が定まらない。足軽や郷士などを含める人
もいれば含めない人もいる。
よく聞く「サムライもどき」って表現も多分に不安定
なものだなぁ・・・。
>>442 「会奸」は現代にも通じる稀代の名言だなw
>>442 毎回思うが、会津批判にしても長州批判にしても、
結局「それらしい歴史的事象を引っ張ってきて批判
してお終い」なんだよな・・・。
幕末・明治・大正・昭和・平成を段階的・重層的に
捉え得てその先にある歴史的課題に触れることをさ
っぱりしていないというか。
週刊誌の下世話な芸能人や政治家叩きと変わらん。
そんなのは歴史の理解でもなんでもない。
>>445 そんなことはないよ。
会津批判なんて時間の無駄だから誰もやってないし、少なくともアフォくさくてやりたがらない。
これに対して、
命を賭けて日本国民の尊厳を守ろうとした志士たちに対する正当な評価を妄想や曲解で妨害しまくってるのが、
国賊司馬遼太郎以降の反木戸史観・反長州史観・反薩長史観。
結局、国賊司馬遼太郎以降の反木戸史観・反長州史観・反薩長史観が、
自己保身ばっかりのダメな国賊政治家・国賊公務員・その他あらゆる劣化国民を作り続けている。
>>439 > 単純に「少年武士たちの大量切腹」って事実がインパクトに勝って、
まず白虎隊は少年部隊じゃないから。
元服を終えた青年部隊。
次に、飯盛山での切腹だけど
証言者が1名しかいないんだから
事実だと断定はできないし、されてないよ。
事実確認が出来ないんだから。
会津観光史学があたかも事実のように発信してるだけ。
ちなみに死体発見者の証言はないし
死体を埋葬しようとした庄屋の証言も
「死体埋葬を禁止された!」という
会津観光史学の嘘が垣間見えるから信用出来ない。
会津戦争の死体は、会津藩士・伴百悦が
新政府に金を貰って埋葬したと記した
手記が出土している。更に歴史家の大山氏も
死体埋葬禁止を論破してるし、会津若松も
そのような禁止命令はなかったとしてる。
>>439 「少年」って表現は現代人から見てってことで使ったまでなので悪しからず。
あくまで現代においてなんで白虎隊を語る際に切腹ばかり注目されるかについて書いたつもりだし。
当時として青年だったか少年だったかとかの話題に繋げるつもりもない。
話の流れや文脈的にそんな雰囲気でもないと思うが?
「当時は〜」を先ずは念頭におく歴史に心得えのある人ならいざ知らず、
特に予備知識ない普通の人なら年齢だけ見て細かいこと抜きに少年だと感じるでしょうし。
数度、家族・友人・同僚とかと会津の温泉に入りがてら観光したことあるけど、
ガイドさんやお詳しい人が「当時としては大人として扱われる年齢ですが〜」
などと説明したところで「あら、まだ子供じゃないの」という反応がよく返ってくる。
多くの人がドラマや小説或いは簡単なパンフレットでちらっと見聞きした簡単な知識で、
しかも現代人的視点を拘りもなく絡めて白虎隊を眺めている以上、
白虎隊=「少年の切腹」という認識は歴史的事実関係や専門的議論とは別枠で、
一般的には極々普通にまかり通るし、
あたかもそれ以外の事象はスルーされてるように見えてしまうでしょうね。
まあ「赤穂浪士=討ち入り」とか「信長=本能寺」といったのと似たような感覚かと。
>>446 けっこういるぞ>会津批判
古くは牧野登とか
畑敬之助とか
あと会津藩士と薩摩藩士の子孫の大山格とか
要するに
・根拠の無い話で余所様を中傷するな
・何でもかんでも責任転嫁するな
ってだけの話だろ
>>449 詰まる話はそうだろうな。むきになって喧嘩する前に
吉川弘文館あたりの研究書を何冊か読んでくれろと。
どうも学説批判と対象の事物や学者個人の誹謗中傷を
ごちゃまぜにしてる連中が多い。
まあ、一般的に2ちゃんは暇つぶしなわけだし、そも
そも粘着してむきになって喧嘩やりあってるやつ全体
がはたからみたら白ける存在やわ。
ガキの頃は、白虎隊は全員切腹したもんだとばかり思っていたなぁ
意外に多いよな白虎隊士。全部で150人くらいか。
腹切ったのは士中隊の一部だが他に寄合・足軽隊とかあったし。
修学旅行で買った白虎刀は壊れやすかったなぁ。
453 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/27(木) 13:19:00 ID:Thr/y9100
斎藤一は新政府に仕えた無節操きわまりない恥知らずな変節漢なのに、
後世の人間から立派な人間扱いされてるのはなぜですか?
それは会津観光史学の人に訊いてください
斎藤一が人気の理由は大概テレビや漫画の影響でしょう。
新選組血風録とかるろうに剣心とかが火付け役かな?
個人的には単なるオタ女とかが「斎藤さんは優しくて〜」
みたいなコメントをテレビとかで見ると「散々人殺しとい
てそりゃねーだろ」とは思うが、特に立派とも変節漢とも
思わんな。オタやアンチが騒ぐほど特別な人間だったとも
思えない。
まあ、斎藤は会津藩に対して義理は通したほうじゃないか?
旧幕出脱走軍から離脱して壊滅直前の会津城下に残留したり
苦しい生活覚悟で藩士となって廃藩置県で藩が消滅するまで
仕えその最期を見届けたりしてるし。そこまでやったら藩も
武家社会自体もさっぱり消えた新時代で斎藤が何やって家族
を養っていこうと勝手自由だな。
第一、新政府に仕えたか否かのたった一事で、実際に接触し
たわけでもない現代人が目の前にいる人間に対してすら時に
分かりかねる人間性まで言及できるほど世の中単純じゃない
しね。
警視庁奉職は別に薩長土肥閥と主従関係を結ぶという話でもな
く、天皇・国家への奉仕ということで、もとより尊皇思想に強
く影響を受けた世代であり現にそうした活動に身を投じてきた
斎藤なら特に抵抗もなかったろうし、周囲から非難されるよう
なことでもない。
>>453 西南戦争で新政府の走狗になった会津の連中にも言えるね
ある会津人を優遇したらそいつを裏切り者呼ばわりする
会津を放っておいたら(本人たちがそう思い込んでただけだが)会津は新政府から冷遇されてる…
どうすりゃいいんだよ
というか、歴史の極々一時期の会津藩と長州藩の関係性を歴史的に探るの
は大いに結構だがそれを無理やり人間性批判みたいに繋げて五月蠅く騒ぐ
連中のほうが分からんよなぁ・・・。何の有益性も見いだせない。単純に
悪口言う対象が欲しいだけだろ。
幕末維新期のたかだが10〜30年で「お話」を完結させちゃってる連中
とかもそう。「幕末で幕府方なのに新政府につくなんて卑劣だ」なんて当
時の事情完全無視した後世の人間による物差も歴史的というか現実的に有
効な代物じゃないし。時間的にもそうだが藩単位とか武士社会という空間
的にも限定された世界に閉じこもってるのは大いに問題あり。昭和戦前期
じゃないんだから・・・。
つまるところ歴史研究の最前線では相手にもされないような話に2ちゃん
の一部は一生懸命になってる。非難されるべきは会津人でも長州人でもな
くて明らかに偏った先入観で意見し見るべきところを見ない人間でしょ。
第一、会津人だ長州人だっつったってどんだけの人間がいると思ってんだ
か。一人の人間が右むいたら全員同じ方向むくわけでもなし。本来、史料
を紐解かないでも周囲にありふれてる人間社会の多様性も複雑さも無視し
てその存在に対してがっちりイメージ固めちゃえば、そりゃ
>>456みたいな
余計な戸惑いを抱く人間も出るわな。
まあ、ね
でも実際一生を新政府と距離を置いて過した島田魁のような人物もいるし、どうしても比べちゃうよね
まあ現実は思想とかそんなものじゃなしに自分が食っていけて家族を養うためには
手段を選んでいられなかったということなんだろうけど、それ自体を責めるつもりはないよ
斎藤が手記の類を残していないのもやはりどこか自ら恥じる所があったからじゃないかとも思うし
しかし、後世の創作物の中では大抵斜に構えて慶喜や新政府を批判するキャラになっているのはおかしい
これは斎藤ではなく作家がおかしい
まあそういうこと
>これは斎藤ではなく作家がおかしい
そうかなぁ?作家というより小説と史書の区別がつかないで
歴史学の場に小説の話もちこんだりまたはその逆をやったり
しちゃう見当違いの読み手の問題でしょうな。
歴史に責任を負ってる学者ならまだしも、作家先生だったら
史的要素に拘らず描こうとそれも表現の一手法何だろうから
別にかまわない立場でしょう。
新撰組研究にもの申した宮地正人とか松浦玲も「新撰組物語」
を形成してきた作家やその作品自体は批判してなくて、それを
無批判にうけいれてきた史家や読み手に対して警鐘を鳴らして
るし。
>自ら恥じる所があったからじゃないかとも思うし
これは概ね同意。同じ新撰組の相馬主計や近藤芳助も手記のな
かで新撰組時代を聊か後悔気味に振り返っている。勿論、それ
だけとういわけではないし、抗いようのない時代の一変に対す
る複雑な心境の一端にそういう心理があったということなんだ
ろうけどね。
ちなみに斎藤は纏まった手記こそ残していないが、
永倉新八の「浪士文久報国記事」にその情報が反映されてるというし
雑誌記者や近しい人間などには過去の話を求められれば幾らか話して
るな。
斎藤の幕末の一時代に対するけじめのつけ方は旧会津藩につき従うこ
とであり、それは廃藩置県で一つの区切りがついた。
島田魁のけじめのつけかたは新政府への参加を一切断りひっそりと生
涯を送ることだった。
永倉のように旧同志の鎮魂のために働きまわるやりかたもある。
或いは士族反乱や民権運動など新たな「戦場」を求めるものも。
「けじめ」のつけかたは十人十色だったしどれが正しいとか間違ってる
って話でもないね。
460 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/31(月) 04:43:33 ID:P36zGVHzO
阿呆が…。
豚骨ラーメンおいしかですよか…。
461 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/31(月) 08:47:32 ID:rYr+VlDHO
愛しき日々
昔NHK教育で飛べイサミとかいうアニメあったなぁ。
幼稚園くらいに見てた記憶があるっさ。
大河以前もなんだかんだで新撰組ネタはよく見かけたよね。
るろ剣もそうだし宇宙戦艦ヤマトのキャラ名の一部もそう。
新撰組と龍馬は大河の影響による知名度じゃないだろ
新撰組は日本赤軍でゆうめ
どっちも司馬遼太郎様々
>>458 そこで真っ先に出すべき人物は、山岡鉄舟とか高橋泥舟とかだろう、島田魁jなくて。
「武士は二君に仕えず」
という武士道精神の影響が色濃く残っている明治期までは
>>456の考え方のほうが
>>457よりも妥当だと思う。
「二君」も何も既に将軍も大名もいないのにねぇ・・・・。
それに山岡鐵太郎は普通に明治政府の役人やってんじゃん。
ムック本とかだけ見てると旧幕方の最も尊ばれる身の処し方は、
殆ど公に出ないことみたいな印象うけるけど、実際はどうだか。
「その他」の武士連中の足跡を細かく追ってみると殆どそういう
生き方した人は居ないなけどなぁ。新政府役人とか薩長藩士の奉
公人・食客ならまだしも「君主」なんて貴人じゃない、田舎金持
ちの用心棒やら奉公人になってるやつもいるし。
中年以降の武士で廃藩置県を区切りにリタイアって高橋泥舟とかの
隠居組とか、金に余裕あって若いうちに世捨て人的生活に入る上級
武士とか、島田魁みたいに新たに仕官するにしても既に年だしかつ
ての敵の部下になるのも癪だからって理由で一庶民として生きた人
とかが、「最後の武士」だとか「武士の鑑」みたいに、強引に一緒
くたされて、大袈裟に喧伝され、それを後の人が正道だと思い込ん
でるだけかと・・・。
それに色んな意味で近世武士社会は現代人が思うほど型にきっちり
はまったもんでは無いことが分かるし。
勿論、守るべき「武士道」は大切にされてるわけだけど、実態とし
ての精神も生き方もかなり多様というか柔軟なもの。藩主もある意
味でお飾りというか、思い通りにならなきゃ家老クラスは結構あっ
さり交代させたりしてるし。酷いとこだと座敷牢に閉じ込めて実質
的に殺しちゃったり・・・。
上杉鷹山の時代あたりからは武士なのに諸藩をめぐって財政再建請
け負ったりなんて人も。特に高度な技能を持った武士は結構藩を渡
り歩いたりしとるね。
468 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/06(日) 07:54:18 ID:irfZXtyM0
江戸時代の武士道ってのは、朱子学に元づく政治論を主としたもの。
しかし、学問として研鑽されるような事は無かった。
つまり、戦国時代の武士の姿と朱子学を強引に合わせて作られた英雄主義的なものだ。
もっと言えば哲学なのであり、100人の武士がいたら100の武士道がある。
だから、君らの言う「武士道ってのは、こういうものだ」的定義が変だ。
>>467>>468 内通していると疑った(疑われた)だけで惨殺した(惨殺された)人たちを全く無視してしまっている妄想p
スパイ行為なんて今でも重罪p
誰もスパイ行為が重罪じゃ重罪じゃないかなんて話してないじゃんか。
いきなりどうした?
会津がドイツに北海道と日本海側の地域を売ろうとしてたのがバレました。
お前はずいぶん狭い世界で生きてるんだな。
うん。
分かっとるさあああああああああ!!!
言うなああああああああああああ!!!
やっぱり会津=ドイツ(ナチ)だったんだね
今後は会津=ナチを連想させるもの
新賎組の羽織や旗、会津藩の旗の掲出を禁止しよう
>>474 国賊佐幕派厳罰法をつくって、片っ端から死刑でいいよ。
476 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/07(月) 21:24:39 ID:m+l3T37+0
それはちょっと。
徳川だって勤皇だったし、日本を考えて行動した面もあるのだろう。
(会津の自称勤皇は、明治天皇以降の天皇を足蹴にし続けている時点で論外だし、
特に王政復古以降の会津藩の行動は私利私欲に満ちており、会津が国を思っていただなんて論外だけど。)
国賊佐幕派=自己保身を考えて行動した面ばっかり
だが。
典型例は、安政の不平等条約、安政の大獄、長幕戦争。
話をややこしくするなよ
会津は佐幕にとっても勤皇にとっても厄介者ということでいいじゃん
会津=醤油豚骨
リアル売国会津
楽しく話してる輪に無理やり入ってきては空気読めない
発言を意図的にちょいちょい挟む同僚の姿が被るのう。
捻くれてる自分に酔いしれてるのかなんだか知らんけど。
ネットでハブられてどうするwww
言葉の意味はよくわからんが会津は凄い売国た
483 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/15(火) 09:53:20 ID:4gExl//E0
会津観光史学サイド、Wikipediaの会津観光史学を削除出来ず。
白虎隊の2番隊だっけ?自決したの。
あれ全員死んでたら、美談だったけど勘違い切腹って武士道でも恥辱の類じゃないの?
あれから1月篭城してたから・・・うん。未熟って怖いな
太平洋戦争ですら勘違いで無謀な突撃や自決に及んだ人とか勘違いで戦後何十年間も戦い続け戦死した人が多数存在する。
現実の戦争はそんなもんだしろくなもんでないがその様に亡くなった先人たちを恥ずかしい人間だとか罵るほど堕ちたくはない。
不真面目な態度で特定の歴史的存在を貶めること自体問題だがここまで冒涜するのは会津藩好きとか関係無しに憤りを感じる。
現代と地続きの時代の同じ日本人たちが現実に経験した歴史だって簡単なことすら理解できないとはね。
会津だ長州だという対立構図で思考を硬直化させ安易に武士道なんてタームを振り回してる限りそりゃ小説的論調に終始するわな。
会津観光史学だなんだとふざけて叩いてる連中は結局叩いてる対象と同根の存在。傍目からみたら至極滑稽な連中だな。
486 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 11:04:47.85 ID:GjJLe20T0
>>485 >382 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 投稿日: 2011/02/21(月) 06:04:37.14 ID:E8tSPETc0
>世良は腕と度胸だけでのしあがったならず者。
>妓楼を宿舎にして白昼から酒食の接待を強要し、
>横柄驕慢粗暴、あまりの振る舞いに耐え切れなくなった
>仙台藩士と福島藩士に斬られた。戦争挑発の任務を
>命を捨ててみごとに遂行したんだからりっぱだねw
.>でも、本人は遊女を盾にしたり、命乞いしたりで、
>ちっとも命がけじゃなかったんだね。薩長の戦争挑発謀略の
>手駒の一つにすぎなかったあわれな男だね。
これは君が今朝書いた文章なのだけど、事実を一行も含んでいない。
「たとえ事実だって、言われたくない部分があることを知れ」と主張をするのなら、
まず、全くの嘘偽りで他人を罵る癖を辞めるべきではないだろうか。
君は人間未満の精神の持ち主だと思うよ。
会津観光史学、Wikipediaの削除に失敗してファビョンファビョン(笑)
白虎隊のアレはまぁ……
武家の出で元服迎えてるとしても
若い子たちがいきなりマジモンのドンパチ
殺しあいの最中に取り残されちゃったから大変だよなとは思うよ
指揮官ともはぐれて寒いは、雨は降るは、腹減るは、周りは敵だらけでさ
なまじいざという時には死ぬ覚悟があったから
集団心理で突っ走ってしまったのかな?
篭城戦初っ端だったのを後で知って
正直なところナニソレ!と思ったが
>>486 俺はこれまで2ちゃんで歴史がらみのこと書きこんだことないし
そんなことは一回も書いていないんだが・・・。勘違いかな?
どう読んだか知らんが
「たとえ事実だって、言われたくない部分があることを知れ」
ってなことを言いたかったわけでもないし。
或いは一々「俺は君の敵じゃないからね」「会津藩は凄い悪い藩だよね」
と自分の子供なだめすかすみたいに手前の心偽ってあんたのご機嫌伺わなきゃ、
反論代わりに人間未満の精神だなんだとヒステリックに汚く罵られなきゃならないのか?
面と向かって会話する必要のないネットの世界だからってそりゃあんまり不道徳に過ぎる態度だろ。
会津だ長州だと夢中になるのは結構だがそれ以前にそういった人に向き合う姿勢は改めるべきだと思うが。
喧嘩相手ばっかつくって建設的な議論もなにも始まらないでしょうに。
うさバラシのため罵倒したいだけの人間が多いのがネット
>>485 会津観光史学という言葉自体は会津若松の郷土史家兼観光課職員宮崎十三八が
自らの姿勢を「私の立場は会津観光史学である」と宣言したのが起源なんだけどなあ…。
以下説明↓
長州と会津が対立してると世間に誤解されるようになったのは
昭和60年代に行われた新人物往来社・歴史読本のキャンペーン
そして、司馬遼太郎が会津で行ったシンポジウムが原因です。
更に、当時会津観光部長だった宮崎十三八と
白虎隊記念館の早川喜代治が観光の目玉に会津VS長州のような
キャンペーンを行うようになった事が原因です。
ですから長州山口への因縁のふっかけは、観光イベントか
商工会絡みのキャンペーンが多いんです。
これに加え、会津びいきな作家連中によって
会津の悲劇が創作され、歴史を知らない人が多い日本国民は
イベント、キャンペーン、出版物を通して薩長=悪という
印象が刷り込まれ、特に長州は悪いとされ、現代の山口まで批判する
歴史的無知・偽善者が増えていき、定着してしまったのです。
しかし会津にも会津の史実を伝えようとする研究者・作家はいます。
野口信一氏・畑敬之助・牧野登氏達です。
会津の観光史学を批判し、指摘されてる出版物を出してらっしゃいます。
しかし会津では早乙女貢や星亮一といった会津に対し独善的な
小説家が支持され、現在の観光にも生かされてるのが実情です。
ウィキなどでもこういった星達の小説が参考文献となり
牧野氏達の書物は参考文献に使われてませんし、会津観光にも適用されていません。
畑氏は戦前から会津史の美化・悲劇化を指摘していたそうですが
会津の市民達から非難されていたそうです。
つまり、会津には戦前から会津史を美化・悲劇化する思考があったんですね。
また、最近は田中 悟氏の「会津という神話」という学術論文で考証の対象ともなり、史学の世界で「会津観光史学」という言葉は定着の域にあります。
という事だそうな。
ちなみに牧野登氏は西郷頼母の研究者ね。
西郷頼母と松平容保のやり取りを調べるだけでも、会津藩が義に殉じた悲劇の藩だったという
単純で美しいイメージ通りの存在ではなかった事が分かる。
「京都守護職始末」に始まる山川浩・健次郎兄弟の思想を論理的骨格とする会津士族たちの主張は
「会津は 朝敵にあらず」の一点に徹底集中した雪冤論だった。(勿論これは事実と異なる)
この願いは、1928年に会津松平家の勢津子と秩父宮雍仁の縁組が実現することで果たされる。
更に30年代後半、徳富蘇峰が各地で行った講演で、「会津は逆賊ではない」と強調、
その「尊王の大精神」を称揚したことによって達成された。
そして会津の「勤皇精神」は大東亜戦争中に国民が見習うべき規範という地位を確立し、絶頂期を迎える。
会津が皇国史観に全力で寄り添おうとする中で、会津武士道、とくに国に命を捧げるという所が美化され、
(城門から女子供や老人締めだして取り残された者達が自殺的な特攻してたんだけどな)
国民皆兵政策の重要なモデルケースとして大日本帝国政府及び国民に受け入れられた。
会津の精神こそ日本国民の精神であり、日本人は全員会津藩士を見習うべしという運動が行われた。
ヒトラーが来日時に白虎隊を称賛したり、ムッソリニが白虎隊へ記念碑を送っているが、
要するに会津の暴走はそういう全体主義的な国家観に利用しやすい危うい側面を秘めていたわけだ。
しかし大東亜戦争の敗戦によって、会津の人々はこの物語をリセットし、司馬遼太郎による「悲劇の会津」という新たな物語に飛びついた。
会津人は「軍国主義の寵児」という側面を忘却の淵に沈め、好都合な「司馬史観」に乗り換えたのである。
その過程で白虎隊の「非業」や「純粋さ」が神話として再設定され、会津の観光化の中で利用されていった…
藩内の恭順派を弾圧した事、未熟で若年な新兵を放置した事の責任の所在は放棄して。
こうして会津の過去の汚点は全てよそに責任転嫁した会津観光史学が作られていった。
現在の会津観光史学は「歴史上の失敗から学ぶ」という、歴史学の意義と全くの逆ベクトルを行ってるので
プロ・アマチュアの双方から批判されている。
なぜ「悲劇」が起こったのか、その背景を無視してはいけない。
なんだか変なのがまた沸いてきたと思ったらやっぱりここで一悶着あったか。誰か早く適当に宥めろよ。
494 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/22(火) 01:58:20.08 ID:MjW06FnC0
まったく、会津藩が好きという人間にはろくな奴がいないな。
少しは史料を基に話せばよいのに、いつも小説を振りかざしては他の地域への中傷を繰り返す。
しかも本人は正しいつもり。
ここで揉めるちょっと前から一部スレにわいてたぞ
みんな相手したくないのか
同時期にいくつかのスレが進行ストップしてた
ようするに会津観光史学は
薩長が悪い!慶喜が悪い!坂本龍馬暗殺犯は薩摩! ←黒幕最有力は松平容保です
俺達は悪くない!かわいそうな被害者!薩長は鬼畜!
みたいな姿勢が白い目で見られてるんだべ?
会津藩が悲惨な目に遭ったのは徹底徹尾自業自得なんだが。
白虎隊もなあ…自刃話はそもそも出典からして怪しいし、少し前子孫の方が調査して、どうも貞吉は
会津の大嫌いな長州にしばらく世話になっていたようだと突き止めていたがね。
薩長に温情裁きを受けた事は無視して叩いて回るんだもんなあ。
497 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/22(火) 14:38:21.47 ID:XxLZowGD0
要するに、明治以降、政治経済において主導権を握った長州への嫉妬、やっかみが
怨念とごちゃ混ぜになって、「悲劇のヒーロー」という美談に仕立て上げただけだろw
判官びいきの感情に訴えかけて、「勝てば官軍」と涙目で同情乞食に徹するw
無能な恨民族がやりそうなことだわなw
支那 朝鮮 会津って言うくらいだからな
佐藤賢一の「新徴組」
庄内藩士が全然金の心配をしてなくて笑った。金はぜんぶ本間家が出してくれると
実際、奥羽旅行者には、会津や仙台に比べても酒田(鶴岡)は別格の豊かさに見えたらしい
500 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/22(火) 20:53:30.35 ID:YdlZJ7yd0
会津旅行(笑)
あんな山奥の盆地なんか、奇特な会津信者しか行っても楽しくないって(笑)
そんな場所に吉田松陰は行ったのだが(しかも洗脳的な武士道一直線の姿をベタ誉めしている)。
しかしその後が悪かった。
悪質な藩主のせいで戦場と化し、戦後も罪は盆地の外にあることにして自己正当化。
挙句の果てに無実の人間を罵っては観光の具にする悪質武士道が広まった。
吉田松陰も叔父からかなり洗脳的な教育を受けて育ったもんよ。
何か合通ずるものがあったんだろう。
ところで白虎隊の集団自殺って結局どれくらい信憑性のある話なの?
会津史談会では追跡調査されてるみたいだけど。
飯沼の証言しかないし、部隊が果ててる所を発見した人の証言もない。
飯沼がそこにいた証拠もない。死体埋葬禁止が論破された今じゃ
死体埋葬を咎められた庄屋の談話も胡散臭い。
もちろん吉田松蔭が叔父に洗脳された証拠もない。
>>489それ、会津の所を薩長に変えて会津人に言ってやんな。
会津はリアルで子供や親戚にあんたかわ言ってるような事してんだから。
残念な歴史を美化したり悲劇化したり
無理矢理外に敵をつくり叩きまくる。
会津って完全に半島気質だな。
>>502 集団と言っても、墓碑が建ってる全員が一斉に自決したわけではなく、
数人単位で連れ立って来るうちに負傷がひどくて死んだり、止めを刺したり、
それを見て自決したり…
そんな感じじゃないかな。
逆に証拠がないからやりたい放題なんだな。
>>505 朝鮮人が対馬海流に乗って日本列島に漂着すると奥羽越。
渡来朝鮮人の本拠地が会津なんだろうなぁ
道理で昔から蝦夷などと言われてるわけだw
●白虎隊のツッコミ所
全体の8割は生存。士中2番隊の自刃は出典がかなり不確かでフィクション性が強い。
あと元服済みで当時としては少年ではない。
一方規模にして会津の1/2以下の二本松は、15歳はすでに正規軍。
13歳〜14歳の少年隊も編成され、そのすべてが、戦死または負傷して終戦をむかえた。
戦後、若者8割以上が生き残った会津と違って、二本松藩は、
若者が戦闘の中で殆ど戦死又は負傷者になっていて復興どころじゃなかった。
それなのに援軍要請を断り二本松藩を見殺しにした会津人達は、都合の悪い事はスルーし
「会津と二本松は最後まで戦いぬいた」と高らかに叫ぶ。
510 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/24(木) 17:12:04.14 ID:i75CSlZAP
朝廷贔屓の水戸の天狗である芹沢鴨が
なんで清河についていかず幕府側についたのかが分からない
512 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 16:29:04.72 ID:bKrXhZ/20
スレタイに白虎隊は要らない
513 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 03:52:44.09 ID:dbwk6bf40
「日本のフクシマ・ニュークレア・クライシス(原発危機)」の最中に、
日本の外相の松本剛明(伊藤博文の曾孫だそうだ)とヒラリー・クリントンが、
穏やかそうに会談をしていた事実だ。ヒラリーは、それまで、あれほど怒って、
「日本政府は、(原発事故のことで)本当のことを(私たちに)伝えていない」と苛立っていたのに、
15日には、すでに密約の交渉を始めている。この事実が私には気になる。
長州閥松本剛明という若い政治家の裏に黒い人脈(ネットワーク)がある。
討つべし 長州閥
>>513 へぇ〜松本剛明って長州閥だったのか。
それは信頼できるな( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
この現代に長州閥www
516 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/04(月) 16:01:32.80 ID:VN4vQbAt0
伝習隊ってシャスポー銃持ってた持ってない論争は今のとこどうなってんの?
宇都宮城の戦いはシャスポーを使っていた可能性がある。
しかし今市の戦いでは可能性が下がる。
会津から補給したが会津藩は新式装備を所持していない。
鳥羽・伏見の戦いと両毛戦争初期については可能性がある。
しかし江戸無血開城以降はフランスからの装備が補給不能であり、他藩の持たない装備を保持できたとは思えない。
519 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 16:47:38.20 ID:5fgG1FHt0
>>519 いろんな所にコピペしすぎだろ。ご本人かw
521 :
株価【E】 u:2011/04/20(水) 23:51:07.76 ID:MQeH/6/80
しかし、彰義隊がわずか数日しか持たなかったとは・・・・
佐賀藩の軍事技術と海軍技術はやっぱり凄いわ。
522 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/29(金) 09:45:46.15 ID:0dUpPhqT0
彰義隊は1日も持たなかった。
523 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 22:11:53.72 ID:yEH10WlK0
524 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 09:57:49.63 ID:kYUeMdXj0
525 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 09:58:36.99 ID:kYUeMdXj0
10 日本@名無史さん age 2008/12/13(土) 10:35:53
小栗は官軍に4月の始めにさっさと始末されてる。
江戸に官軍を引き込んで、退路を立って勝利する心算だったようだけど
罷免されると、すぐに江戸を離れてる。身勝手な奴だ。
しかし、官軍側は小栗が強硬派だと知ってたのかな?
526 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 09:59:10.16 ID:kYUeMdXj0
12 日本@名無史さん 2008/12/19(金) 15:55:58
最低だったのは徳川慶喜、家臣を見捨てて大阪城から逃げ出して
江戸へ帰ってからも主戦論をとらず、恭順恭順
情けない徳川宗家当主、結局自分の命が惜しかったのだろう。
恭順なら切腹して、家達に譲るべきだな。
家臣見殺しの上野。
527 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/28(土) 12:32:55.43 ID:UXjbmuDL0
慶喜は政治工作によって逆転を狙っていた。
事実、徳川家の官位も領地も大幅に譲歩され、小御所会義は骨抜きになっている。
戦う必要など全くない。
無いのに、家臣達は「戦えば勝てる」と叫び、戦いたがった。
慶喜は彼らを抑えようとしたが、ついには「戦わぬなら、上様を刺し殺す」とまで叫ぶ。
主君を殺すという家臣達を前に、慶喜は為す術もなかった。
それでも、勝ちさえすればまだいい。
負けたのである。
幕府軍一万三千に対し、薩長はわずか三千。
負けたのである。
そして、賊軍とされ、徳川家は存続さえもままならなくなる。
慶喜は家臣達に失望した。これ以上ないほどの失望だった。
彼らは忠義を叫ぶ癖に、ついに主家に賊軍の汚名をもたらしたのだ。
江戸に帰り、恭順の姿勢を取る慶喜。その慶喜を弱腰と言う家臣達もいたが、
慶喜はもう彼ら「不忠の家臣たち」に耳を貸そうとはしなかった。
慶喜が弱腰なのではなく、家臣達が馬鹿で弱かった。弱気というのではない。事実弱かったのだ。
なぜなら、強ければ三千足らずの敵に負けるはずはないのだから。
528 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/03(金) 20:14:23.22 ID:8Mn2uDYdO
幕末は長州薩摩は戦しまくりだったからな。
自然、兵も強くなるし技術も工夫される。
529 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/04(土) 00:26:02.01 ID:vy6na+nP0
会津藩だって禁門の変、鳥羽伏見と戦ってます
幕府だって天狗党の乱、禁門の変、大和天誅組の乱、第一次第二次長州征伐と戦歴なら薩長と引けはとらんよw
装備の話でも思うけど幕軍は劣っていなかったんだとどや顔で主張する奴を見るたびにそれであんなに早く負けるんじゃどんだけ弱いんだよとしか思わないんだが
天狗党相手に腰を抜かして逃げまくってた幕府歩兵隊。
禁門の変においてまったく使い物にならず薩摩藩頼みだった幕府軍。
圧倒的兵力を擁しながら見事に返り討ちにされた幕府・譜代軍
532 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/11(土) 08:30:41.39 ID:0J5shqnu0
な?強さの秘密は装備や技術にあるのではなく、敗北から何を学ぶか、自己反省できたか否かでしょw
533 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/12(日) 17:08:02.71 ID:D4P8sou6O
敗北から学ぶゆえに装備も技術も向上すんだろ
鳥羽伏見で負けて何の学習もしなかった人たちもいるからなぁ
535 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/12(日) 22:59:16.78 ID:af1eXqXJO
いとしき日々
536 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/14(火) 00:55:55.14 ID:V5w8cm8NO
>>534 言い方がいちいちイヤミったらしいな
キミは
先のことはわからないから仕方ない
突っ走るしかなかった
がむしゃらだけど素敵
539 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/14(火) 17:05:02.83 ID:w7exTnH/O
学習能力がない
540 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/15(水) 20:37:19.23 ID:Qn+svi1M0
ドラマの新撰組は正規の武士と同じく刀を二本差しにしてるけど実際もそうだったの?
ケースバイケース
軽装なら脇差しだけって時もある
543 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/21(火) 22:55:54.77 ID:B78kfSGSO
槍だけや薙刀だけの人もいた
中間や足軽出身の人は刀差せたのかな?
545 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 23:55:10.48 ID:pSJ7Abor0
>>544 以前の身分がどうあれ、1度入隊したからには武士として扱われるので
帯刀出来たと推測される。
しかし、1度武士の身分になった以上はそれ相応の振舞いが求められる。
これに背くと例の「士道不覚悟」と言う非常に曖昧な隊規で否応なく切腹を
命じられた。
田内知、橋本皆助などが良い例だ。
547 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/23(木) 13:55:36.29 ID:uKJjMn720
近藤が捕縛された流山は原発事故で放射性物質のホットスポットになっちまった。
どうも東京(江戸)から鬼門の方位になるところはいいことないね。
549 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/24(金) 23:56:00.89 ID:dQlocz4xO
「ながらく厄介に相成った」
近藤最期の言葉
切ない…(涙)
>>529 >会津藩だって禁門の変、鳥羽伏見と戦ってます
禁門の変のときは自分たちだけで御所守れます!って
大口叩いておいて長州に粉砕されかけたやんw
553 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 10:42:07.55 ID:d4B4MvaPO
尽忠報国の士 芹沢鴨
554 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/03(日) 07:47:38.84 ID:TThh0WoK0
芹沢が残念だったのは、生来の剛毅な性格は別として、梅毒とその不安を
紛らわすために多量の飲酒によるアル中。それで凶暴な振る舞いが多く、
結局はそれが為に命を落とした。
>>554 芹沢さん梅毒だったのか…天狗党の時にやっちゃったのだろうかw
芹沢について詳しく書いてある本ってある?
酒好きとか乱暴とか、良く言われてる話の出典は何だろう
>>556 黒鉄ヒロシ『新撰組』では隊旗や芹沢さんの風貌については
名古屋市蓬左文庫収蔵の尾張潘士の『見聞録』
芹沢さん暗殺は
「浪士文久報国記事」に書かれてるそうだ
あと、自分はまだ読んだ事が無いが
永倉さんの作品に書かれてるかもな
558 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/03(日) 11:21:29.77 ID:XHVSnCekO
だいたいは子母沢寛が昭和初期に八木邸の息子さんから聞いた話しに出てくる
芹沢暗殺の現場にもいて弟さんが巻き添えで足を切られてる
子母澤発信の話ってアテにならないよな
自分は子母澤&司馬発信ネタのほとんどは半信半疑
560 :
556:2011/07/03(日) 19:56:18.73 ID:ytPCvUel0
レスありがとう
うーん、やっぱり史料は少ないのか・・・
本人の手紙でも残ってれば、人柄が掴みやすいのだが
561 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/06(水) 10:33:24.04 ID:oCksvTZBO
菜っ葉隊
>>549 「あの時ばかりは近藤も青ざめていた」
伊東の元部下二人が近藤の顔を改めるのに連れてこられて
ここまで見事に因果応報が決まったケースはなかなかないだろうな
563 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/07(木) 12:08:39.10 ID:324unlkM0
>>555 天狗党時代はすでにアル中だった。些細な理由で3人の部下を惨殺して
投獄された。しかし、芹沢は獄中で自分の小指を噛み切り、血文字で
死を覚悟した内容の詩を書いたから、正気か狂気か分からない人だね。
564 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/15(金) 19:24:15.87 ID:AVvmePA0O
新選組の隊士や佐幕派の武士たちが靖国に祀られないのは理不尽である
靖国神社の歴史を知った上で言ってるのか?
567 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/21(木) 15:35:07.81 ID:FXzqfcsw0
>>565 地下の人々は敵のつくった神社に平身低頭して「祀ってください」なんて頼もうとは思わんべ。
理解あるひとが各々の墓所なり慰霊碑を参ってやることが肝心。それが本来的な死者への慰め。
靖国神社に合祀したから慰霊になる。逆に入れなきゃ慰霊にならんなんてことは無い。
純粋な慰霊とは違う意図が絡むより現状のままのほうが断然良いべな。
なるほど。相わかり申した
>>565 佐幕派の武士を一括りにして貶す気は無いが
新撰組みたいな汚いマネばかりしてた内ゲバ集団の何を顕彰しろと?
コイツらは美化されすぎ。
また芹沢や伊東の非を叩けば新撰組の卑怯な身内殺しが正当化されるかの様なノリが嫌だね。
自分らの暗殺は綺麗な暗殺とでもいいたげでなあ。
都合の良い時だけ士道振りかざすなっつの。
なんじゃと?
烏合の衆であった新選組をまとめるには、悲しいがああいうやり方しかなかった。
別にそれで何を言われようがいいよ。
まあ靖国神社云々はどうでもいい。
新選組の名誉回復がなされれば。
現在の段階で充分評価されてると思うが。
池田屋とか情報源は拷問だろ?むしろ評価されすぎ。
そうか、それならいいんだ。
新選組ファンとしてはそれで嬉しいね。
誉められてないだろw
池田屋事件て新撰組の自作自演じゃないか?
拷問で得た自白以外に放火の証拠ってあったのかね?
576 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/24(日) 02:29:20.39 ID:c77F7giB0
そもそも新撰組大好き&大嫌いが池田屋騒動の放火説だとか自作自演説だとかに拘ることに何か意味あんのか?
んな話題は新人物往来社系とかじゃなく吉川とか東大系の学術論文読んでても微塵も話題に上らんのだが。
それどころか同時代史料ですらそんなことは何ら問題とはしていない。
新撰組はよく知らんが聞いてると史料の成立経緯とか時代背景とか気にしてる人そんないないし、何なんだ?
明らかに賛美と批判の泥沼から抜け出せなくなってるでしょ。
8・18政変以後、京都政界を牛耳った一会桑政権は長州藩勢力との緊張関係を高めていく。
長州勢力は復権を狙ってどんどん京都に入り込んできては古高俊太郎やら池田屋惣兵衛みたいに関係者は自宅に武器をため込む。
さらには幕府批判の張り紙やらテロ事件など物騒な行動を起こす。
それを発見次第速やかに逮捕して拷問による自白強要および証拠物の押収、さらに関係人物の強襲・鎮圧って流れが何でそこまで不思議かね。
なんでそこまで理由が放火事件でなきゃならんのか。そんなもんなくても池田屋事件が起こりうる状況は幾らでもあるのに。変なの。
快楽殺人犯の集団が新選組。それでいいじゃないか。
578 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/24(日) 06:01:49.36 ID:yv7PvdUrO
新撰組を悪く言うな
>>575 いろいろ動きはあったみたいだし、古高俊太郎の家から大量の武器弾薬があったらしいじゃないか。
それで十分証拠になるだろ。
580 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/25(月) 14:02:51.22 ID:tJueRlmx0
>>577 >>578 あんたらは時代劇について語りたいのね。
少なくともその発言は歴史を語る人のものではないな。
>>579 武器弾薬があった、というのは新撰組の報告でだけで、
その後には確認出来ず消えてるらしい
作り話の可能性あり
582 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/29(金) 23:27:27.54 ID:3cxdJXeH0
>>581 確認してみたがけっこう残ってるな。
例えば中津川市苗木遠山史料館所蔵の「第三拾壱号見聞雑書」には、
元治元年四日の記録として、
古高俊太郎〈桝谷喜右衛門なり〉(中略)此方ニ甲冑調達之分八十程有之所、
更奪取帰り候由〈是ハ捕手之所業ニてあるへし、会か壬生か〉。
とある。また同史料館所蔵の「宮古の土産」には、
新撰組が古高邸を探索したら刀や鍔が散乱していたので不審に思って尋問し、
調べてみると古高は隣家の具足師から鎧甲冑の製作技術を習得して自作していたこと、
また「火薬等は所々より預りの具足櫃の内ニ少々」隠しもっていたこと、
などが記録されている。
第三者的立場の武士や町人の記録のなかには古高が武器類を製作・保管していたことを記したものは多い。
新撰組側記録しかないと平然といってのける研究者がいるとすれば史料調査が甘いとしかいいようがない。
どうも新撰組だの坂本龍馬だのは美化する側も批判する側も無理やり話をつくりたがるから困る。
わざわざ敵の目の前の危険な場所で時代遅れで役に立たない旧式装備を隠し持つのかねえ?
584 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 11:40:13.73 ID:bOQbMAJ00
天保以来軍事改革は幕府・諸藩で進むけど、
幕府も長州も全戦闘員の銃士・銃卒化や施条銃段階の訓練ってのは
慶応年間、特に幕長戦争を境にして本格化しはじめたことだしね。
池田屋事件の段階ではいまだ旧来の甲冑・刀槍の需要は高かった。
まして軍事改革の本拠地から遠く離れた京都という地理的環境や、
武器の入手経路が限られた古高らの活動環境を考えればなおさら。
現に古高が頑張って揃えられた火器は木砲五門や短筒三挺くらい。
それらの武器は時代遅れには違いないが凶器としての威力は健在。
ゲリラ的活動家が主兵器として頼りにしてもなんら不自然ではない。
護衛の多い孝明天皇への作戦を決行にはあまりに心もとない装備だねえ。
何らかの作戦のための準備というよりは
取締をうけた際に最低限武装して脱出するための武装と考えるべきでは?
586 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 14:34:28.84 ID:bOQbMAJ00
自衛のためだったら各人の大小刀や短筒でことたりるんじゃないか?
まして木砲・長弓なんかは緊急事態には効力を発揮しない武器だし。
当時は自衛や農業のための刀剣・鉄砲の所持は農商でも認められてた。
しかし、古高は自衛なんて可愛いレベルではない武器類を保管してて、
聴取されても弁解できなかったので組織的テロ容疑で即日逮捕された。
作家たちがゴリ押しする勧善懲悪ストーリーは「は?」って思うけど、
池田屋事件は冤罪だったみたいなとこまで話をもっていくのも危険だ。
ところが学実的見地にたった研究ってのが少ないから龍馬暗殺みたいに
どんどん話が歴史から離れてあらぬ方向に膨らんでいっちゃってる。
炭薪商の枡屋から武器が発見されたことは潜伏志士一味を疑う根拠になっても
京都市中で噂されている天皇誘拐計画の裏付けにはならない。
だからこそ尋常ならざる拷問による自白というでっちあげが必要だったわけで。
北九州で手榴弾が大量に発見されたからといって
それが九州のヤクザたちがやらせメールの九州電力の社長を誘拐する計画をたてている裏付けになるかい?
すまん。北九州の武器大量発見記事を思い出して例に書いたつもりが
すでに九州電力会長宅が工藤会組員によって手榴弾で襲撃されていたようだ。
このご時世で武器を持って襲撃するとは修羅の国は本当に恐ろしい。
なにはともあれ池田屋に関しては武器の備蓄・浪人が集まるなど不穏な点はあっても
由比正雪の乱のような内通者がいないので黒と断定できる確固たる証拠に乏しいんだよな。
589 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 20:02:50.93 ID:bOQbMAJ00
でっちげもなにも長州藩は一会桑にとって排除すべき敵なわけで・・・
不穏な点があれば逮捕・尋問・同調者の襲撃・補殺は治安当局の責務。
何故新撰組が不審者を発見して弾圧することがそんなに不自然なのか?
良いとか悪いとかいう次元の問題ではないし計画の大小の問題でもない。
当局に許可もなく大量の武器を所持してる時点で検挙の理由になるし、
彼の逮捕のタイミングで情報筋が活動家の動きをキャッチしたとなれば
否が応でも緊張感は高まる。
よく古高の突然の自白で池田屋事件が勃発したように書く本は多いけども
8・18以来の政局の動きを理解しておけば「自白」がもつ意味が大した
ものでもないことが分かる。
武器大量所持の古高逮捕→浪士の集会情報キャッチって事実そのものが、
あの凄惨な闘争劇の発端になってる。
古高拷問は時代劇の演出装置として事実以上の役割を負わされてる印象。
その点では明治政府は戊辰戦争だけでなく、旧士族反乱の逮捕・処断に関して
徳川政権よりもさらにエグイことをやっているからなあ。
証拠がなくても関与の疑いってだけで都合が悪い人物を処刑しまくっているし。
591 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 21:10:03.90 ID:bOQbMAJ00
幕末も明治も弱者が虐げられた結果激化する仕組みは変わらないな。
今は「平和」な日本もこの先20年30年でどう変わるか分からん。
新撰組と志士みたいに弱者同志が殺し合う時代がくるかも知れない。
大袈裟かもしれないが最近の風潮からどうもそんな気がして怖いな。
政治家・大企業・マスコミら力ある者に国民が不満・欲求を利用されて
うまいこと仲たがいさせられてる気がする。
>>589 ちょっとヤバい奴らとつるんでる一般人の敷地内に
ありとあらゆる武器一式が勢揃いしてるのを発見して「武器じゃないもんオブジェだもん」のバックレ発言を信じる警察官がいるか?って話だよ
あれって、松平の容保ちゃんだか新撰組屯所を襲う計画だったという説も
聞いたことがあるような
それ単独じゃなくて複合の説だよ
長州の外道どもは全部やろうとしてたと思うね。
正義の新選組が悪を倒した!
これでいい。
長州が倒幕したがった理由には(一応)理解出来るが
だからってやって良い事と悪い事の区別は付けろよ
イイ大人なんだからって言いたいやね
薩摩は野心を隠して表向き正義を語り
自分達のやりたい様に国を動かし上司を操り
明治政府に目ぇ付けられてボカスカジャンされましたってヲチに抱腹絶倒
むしろ徳川幕府のままでもよかったんじゃないか。
小栗上野介が徳川体制での近代化を構想していたように、徳川時代=悪というわけではないと思う。
それを薩長が悪だと決めつけ不幸な戦争を開始し旧幕府軍を賊軍に追いやった。
薩長こそ悪だと思う
薩摩は言い掛かり、長州は私怨で幕府を潰したかった幕府が今の国会並に腐ってたのは否定出来ないが
だからといって徹底的に潰すのはおかしいだろ
侵略したのは薩長
勝てば官軍とは良く出来た言葉だ
大奥を潰す
旗本をリストラする
将軍職の世襲を廃止する
どれひとつできなさそうだけど
それはやってみなきゃわからんだろ
まあ実際旗本をリストラしようとして幕臣の誰かが旗本に暗殺されてるけどな。
やっぱりそれでも内乱が多少起きてもおかしくないわな
>>599 原市之進のように改革を試みた優れた人材が利権を守ろうとする連中に殺されてしまったのは大きな損失
いや、やろうとして出来なかったんだからあの体たらくだろうが
旗本をお茶栽培で使うって今考えると凄い発想
勝さんゴイス
残念だが近代化を完遂できなかったからああなったのが幕府な訳で。
もし軍制改革だけでも徹底してたら、そもそも鳥羽伏見で負けなかっただろう。
幕府陸軍だけでも薩長より多かったんだし。
村田蔵六のようなとは言わんが、せめて実力で司令官級を登用できる
体制が出来ていればな。
鳥羽伏見って、どう考えても勝てる戦いだったよな
単に使った武器の違いなんて理由じゃないと思う
幕府ってここまでヘタレてたのかって感じ
605 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 17:07:57.23 ID:3IZ725zk0
>>603 組織・物資の面では幕府も薩長も軍事改革の程度は変わらない。
というか幕府陸海軍は規模だけみれば日本最大級の軍隊だった。
幕府の軍制改革が大日本帝国軍の基礎を固めたといってもいい。
慶応2年には番方組織は完全解体されて全部洋式銃隊になった。
ところが田舎諸藩の連合に負ける。
直接的理由としては政治的要因・地理的要因がでてくるけども、
戦場に赴いた兵隊の意識・経験の差ってのがやっぱりでかいか。
幕長戦争を戦った歩兵隊以下の連中は戦争の実際を知ってるが、
長いこと江戸や京都に詰めてた連中は戦争の経験値が殆どない。
それでも士気が高く突撃兵を担ったのが剣客あがりの遊撃隊とか
新選組とか見廻組だった。
彼らは火砲戦に馴染むことができず結局せっかくの銃器を捨てて
白刃突撃に持ち込もうとしていたずらに死者を増やしていった。
近世から近代への過渡期にある戊辰戦争において間々白刃突撃も
役立つことはあったが彼らはタイミングを上手く掴めなかった。
漸く全軍のなかで士気が高く軍馴れした連中の割合が増えたのは
既に旧幕府軍ではなく旧幕府脱走軍となった時代のことだった。
当然ながら局地的に善戦するが大局を動かすまでには至らない。
幕府軍は腐っても中央政権だけにウツワを整えることはできても
そのでかさに見合うナカミを用意するのには結果的に失敗した。
西南の諸藩は小規模ながらもウツワとナカミのバランスがとれた
精度の高い軍隊をつくりあげることに成功し、かつ各軍を上手く
組み合わせて大規模な戦力を創出することの成功し勝利を獲得。
軍隊のウツワとナカミのギャップを埋められたかどうかって結構
重要なことじゃなかろうか。
606 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 20:47:51.90 ID:XZs7LGL50
>>605 実戦経験は勿論大切だが、一応幕府陸軍も天狗党の乱や第二次長州征伐で
一応実戦経験積んだ連中は居た訳で。
鳥羽伏見でも、初陣の連中も居たにせよ、大崩れはせずに粘り強く戦ってると思う。
ただ、軍制改革とは部隊の装備や戦術機動だけの話ではなく、部隊の手配や指揮命令系統、
それらを運用できる人材やその育成まで含む制度自体の改革な訳で。
例えば部隊の運用となると、部隊長が合議して即動く薩長の機敏さに比べてどうしても見劣りがする。
伏見奉行所からの撤退後、どうするか決められずに中洲で一晩明かしたのちバラバラに撤退とか、
後に薩長が敗戦した時もまずなかった。
これはさっさと逃げ出した司令官も悪いんだけど。
また、伊地知や大村や高杉がやってた、戦略目標を定めて軍を手配し運用するってことが
どうにも出来てない。
これは幕府に人なしってことではなく、例えば大鳥なんかは上手くやってたと思う。
つまり、それらの人材を評価し上に取り立てる体制が出来なかった。
当時の幕府陸軍の指揮官クラスを見ると、キャリアと家格については煌びやかな面子。。
しかし戦争をどこまで理解してたかについては、鳥羽伏見を見る限り疑問に思わざるを得ない。
陸軍奉行は若年寄格とか、その辺の制約が明らかに邪魔してると思われ。
250年溜まりに溜まった澱を慶喜一代でどうにかしろっつー方が無茶振りだとも思うが、
それを徹底できなかったのが当時の幕府の限界であり、鳥羽伏見敗戦の根源ではないかと思う。
そこで蝦夷共和国陸軍総裁並、土方歳三さんの登場ですよ。
蝦夷共和国(笑)
国民がいない共和制国家w
609 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 01:18:14.15 ID:ShF0GB8a0
>>606 要するに俺がいいたかったのは、
軍隊のなかでの組織と経験値とのギャップの問題が勝敗を分けた一因になっているってことでして
薩長は人数的地理的に限られた改革で内外紛争の機会も多くギャップ埋めのスピードは速かった。
幕府も天狗党・禁門戦争・幕長戦争など経験はあるが、全国的規模で改革を進めなければならず、
組織規模と比較して火力戦を理解した熟練兵の割合が不足している印象が強いという印象が強い。
単純な実戦経験の問題というではなく軍事改革の規模の違いってのを戊辰戦争の勝敗を考えるなら
考慮せにゃならんだろうなぁ、ってことがいいたかった。
実際に人材取立という点では薩長に遅れるところがあるがそれも幕府の組織規模が関係しているな。
現代の国がそうであるように都道府県・市町村の条例改正と違い一つの制度を変えるのには余りにも
幕府と藩ではクリアすべき課題が違いすぎる。
そんでも安政〜慶応までに段階的に登用体制を整備していってその流れで大鳥や古屋が登場すると。
陸軍奉行にするには身分違いの人間を陸軍奉行並として同様の職務につけたりとかはその好例だな。
保谷徹が指摘しているが兵農分離・村請制など旧来の原理と改革のおりあいをつける努力はあった。
つきつめればそうした社会原則が幕府や諸藩の運命を左右した本質的な最大の課題の正体だった。
自分としては、
幕末期では旧来の澱を解決できなかったとするよりか解消の始まりで、それが大政奉還から憲法制定
の流れで完全解消されて近代日本が完成し、大日本帝国軍が登場するという段階的過程で理解したい
ところだな。というよりかは江戸時代そのものに対する一般的な後進的評価にもちょっと無理がある。
「鎖国」の実態にしかり、人材登用の実態にしかり。むしろ時代を前進させていた感のほうが強い。
610 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/03(水) 07:05:29.48 ID:Cyg3Sh84O
大鳥スレにも遊びに来てください
過疎ってます
大鳥と板垣の日光戦は戊辰の見所の一つだと思うんだが
なんで人気ないんだろうな。
>>609 鳥羽伏見に出征した陸軍奉行並の高力主計頭にしろ大久保主膳にしろ、
長崎奉行勤めてたり京都町奉行勤めてたり、他も勘定奉行とか奏者番とか譜代とかなわけで
役職の格はここにも影響していたと思われ。
合原猪三郎は色んな意味で異色だがw
歩兵奉行並からは鳥羽伏見以前の経歴が分からないので、この辺は
実力主義なのかなと思うが、俺が不勉強なだけかも知れない。
歩兵頭は大鳥がなってたぐらいだから、旗本縛りはあっても実力主義だと思うけど。
人事という点での改革で困難を齎したのは、改革範囲や規模の広大さというよりも、
既得権益層の膨大さだろう。
それらを背負いながらも兵賦令施策まで漕ぎ着けた幕府の努力は評価する。
旧幕府陸軍と会津軍が協同して起こした、宇都宮城の戦いと今市の戦いは、
会津軍が江戸開城以後、東北戦争以前から
関東や越後で新政府と戦っていたことを示す事例なので、
「会津は恭順していたのに、卑怯な薩長が恭順する会津に無理に戦いを仕掛けたのだ、あぁ卑怯なり薩長」という
中村彰彦や星亮一、会津若松関係の小説や論説、地元の歴史解説おばさんの主張を粉砕してしまう。
だから彼らはスルーする。絶対に語らない。
語る人が少ないから、話題にならない。
まあ食うための嘘だからな。
山口県側が訴訟をするまでは嘘を辞めないでしょう。
>>600 > 利権を守ろうとする連中に殺されて
いや、同じ水戸藩内の攘夷派だろ?
>>612 そもそも会桑が阿呆じゃなければ、
慶喜は新政府で力を発揮していただろう。
松田の心筋梗塞も会津のせい
>>614 慶喜は開明派の側近が三人連続して殺されたからな。
生きてりゃ、もっとうまくいっていたはずだけどな。
水戸の尊攘派は、気に入らない奴は排除しといて、
列侯会議では何の役にもたたないしな。
>>612 白虎隊の再放送を見て
日光戦とか板垣との戦いとか、サックリ場面でやってたが
会津はお世辞にも恭順じゃなかったぞ
でも薩長は卑怯だ
>>619 もまえみたいな低脳国賊がいるから、天がお怒りになって、天変地異続きになるんだよ
今後は、
「私が今日あるのは薩長の志士様たちのおかげです。
私たちを搾取と保身しか脳のないエセ武士どもから解放していただいて誠にありがとうございます。
このご恩は一生忘れません」
と毎日感謝の祈りを捧げて感謝の心を持って生きろ!
さすれば、少しは天変地異も収まるであろう。
>>614,618
原市之進殺した鈴木豊太郎・依田雄太郎ってググっても
幕臣とか同僚としか出て来ないんだが、水戸藩士なん?
原を暗殺する時、水戸藩士と名乗って面会を求めたってのはあった。
>>621 水戸本陣のあった本圀寺駐屯遊撃隊士と名乗ったのだったか。
二人共、微禄の幕臣だな。
625 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/16(火) 23:30:42.17 ID:L4qdmEAC0
626 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/17(水) 21:34:46.25 ID:5SCqVatB0
幕臣の平岡を殺したのは水戸藩士
水戸藩士の原を殺したのは幕臣
慶喜の人脈の複雑さがわかる。
628 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 19:47:11.64 ID:o1GhPpO+0
清河八郎を無くした新撰組などもはやただのゴロツキ
>>609 天保改革の幕府と諸般の違いは確かに組織の大小に求められると思うけれど
文久、慶応の差は思想の差だと思う。幕府は徳川、譜代、家格と前提にしなければ
いけないものが多すぎる。翻って討幕派は現状を否定して天皇以外に関しては
フリーにできる。これだと改革のスピードに差が出るのは必然だ。
その天皇を御輿にしたのが後の禍根となるんだよなあ。
成功した改革がクローズアップされる陰で、失敗した藩政改革も山のようにある訳で。
一概に図体のせいだけとも言い切れない。
天保の改革の時も、譜代旗本が大反発した上知令が
水野失脚の原因ですしおすし。
反発する守旧派や利害が対立する関係者、それにそれを利用する政敵を
如何にして押さえられるか或いは排除できるかが、改革の成否の普遍的な鍵。
まぁ組織の図体がでかくなるにつれて、それらの反改革派の総量も増える訳だがw
結局新政府も武士階級の特権なくすには、
最初に幕府倒して、次に西南の役その他、
武力で抑えるしかなかったしな。
二回に分けられたのが新政府としては良かった。
まず敵で次に身内という順序も良かった。
幕府は長州征伐で長州やっつけられていたらよかったが、
身内の旗本が不甲斐なくて無理だった。
633 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 06:01:56.59 ID:2SG/DBtP0
>>632 武士の特権というよりも既存の身分制度そのものが消滅する過程で、
討幕運動から西南戦争までの動きが意味を成したっていうのならわからんでもない。
というか江戸時代そのものが常に身分を大きく変化させていた時代だったし。
単に身分絡みの政策っていうなら幕藩体制が200年でやってきた仕事の方が、
明治維新という歴史的画期に与えた影響は明治新政府と比較して大きなものがあるし、
後々の時代に対する影響力も良い意味でも悪い意味でも根深いものがあるね。
634 :
井戸魔神F ◆Tny1JrNujM :2011/09/07(水) 06:21:05.01 ID:07D12CJl0
リストラストサムライ
635 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 21:31:04.44 ID:Rw17wDZZ0
権力者が世襲で政権交代の方法が無い(江戸時代)<<<<<<合法的に政権交代が可能になる(明治時代)
>>633 松平春嶽まで複雑化の一途じゃないか。
幕末までに身分制度をなくす方向の大きな政策ってなんだよ。
武家官位とかもうアホかと。
637 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 12:32:53.71 ID:bD8909PO0
>>63 江戸時代は身分がガチガチに固定されてた印象が強いけど案外そうでもなかったりする。
庶民が様々な手段で士分に「身上り」することや、その逆という現象が盛んに起きた。
具体的方法として試験、養子入り、身分売買なんかがある。
武士社会でも特定の人物や血筋が特定の役職にいつまでも居座ることはそう多くない。
江戸時代には江戸時代なりの能力主義社会があった。
そして幕府や藩は時代が進むにつれて身分間移動について政策として整備していった。
そうした政策が士農工商の垂直化ではなく横列化の身分意識を逞しくさせた。
軍事改革で庶民を大量に士分や武家奉公人として取り立てるようになった幕末はその極みだった。
まさしく武士の特権だった軍事すらも実質そうではなくなった。
そういうプロセスがあって明治時代の新たな統治組織と族籍編入という身分制度の確立がある。
江戸時代を完全否定して明治時代が成立したというより江戸時代の延長線上に明治時代がある、
って認識のほうが妥当だろうし、近代以降も身分制度は存続する。
638 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 12:40:46.16 ID:bD8909PO0
すまん
>>63は
>>636の誤り
まあ身分にしても明治時代と江戸時代の比較議論は色々あるけど
何故江戸時代が終焉を迎えたかについて語るのもいいけど、
何故江戸時代が260年以上も存続しえたかについて語るのもいいんじゃないかと、
その原因には江戸時代の柔軟な政策や身分意識があったんじゃないかと、
そう思うわけです。
政治制度は兎も角、社会慣習や風習はそうポンポン変わるもんじゃないわな。
そういう意味では、江戸も明治も昭和も確かに継続してる。
まーそれはそれとして、身分移動は武士株とかあったし、功によって取り立てられることも
無かった訳ではないが、身分意識はそれこそ幕末も末期にならないと、横列化の兆候すら見出せないのでは。
たとえば板垣なんかは、伝習兵の死者が刺青者ばかりで、士族中心のこちらと比べて
割に合わないと思ったとか吐露してるし、幕府内で重役に就くには、慶応の改革を経て尚
家格が付いて回った。
その武士階級の凋落が、幕末から徴兵制に到るまでの軍制改革にある点には同意。
将軍の顔を見ることが出来た人って何人いるか知ってる?
慶喜の側用人を勤めた原市之進は譜代でも旗本でもないが重職を担った。
大奥の歳費削減をして旗本のリストラやろうとして殺されたが。
慶喜の時代は異常だからな。
何しろ将軍が能力主義で選ばれたんだから。
こんな徳川幕府否定はないだろ。
京都見廻組って何で全然史料残ってないの?
すげー興味あるんだけど、ネットや図書館で調べた程度じゃ組員数十人の名前くらいしかわからん
結成から鳥羽伏見まで何をしてたか何が起こったか知りたいんだけどなぁ
644 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/21(水) 14:51:18.26 ID:g7cgmFyQ0
>>643 見廻組だけを調べるような人は殆どいないからなぁ・・・・。
存在自体は武装警察でそれ以上でもそれ以下でもないからか、
特別に単体で調べようっていう研究者は少ないのが現状だし。
それだけに関係史料が注目されたりすることはないようだね。
とりあえずだが『続徳川実紀』にあたってみたらどうよ?
京都見廻組にどれだけ記述を割いているかは知らないけど
江戸幕府の公式記録だし先ず調べるならこれでいいだろう。
超分厚いが索引から探せばそんなに手間はかから無いしね。
大きなところでの組織や隊士個人の動きは把握できそうだ。
見廻組ってそんなに資料ないの?
有志が集まっただけの戦闘部隊じゃなくて
京都守護職配下の治安部隊なんだから公式記録ぐらい残っていそうだが。
647 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 00:15:09.26 ID:aWoS7jBW0
>>644が書いてくれてるけど、関連の史料自体は探せば見つかるけども、
研究が少なくて全体的に多いか少ないかも把握されてないのが現状だな。
例えばあの新選組にしたって学者から郷土史家や歴史作家まで動員して
今じゃかなりのことが分かってるけど時代劇で人気になる数十年前まで
今の見廻組を取り巻く状況と似たようなもんだったって印象があるし。
史料ないっていうより史料を見つける人がいないというのが正確かもね。
648 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 00:28:58.88 ID:aWoS7jBW0
確認したら菊地明って人がニ、三冊見廻組で本を書いてるね。
新選組スレ覗くとどうやら評判は悪い人みたいだけんど(笑)
650 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 14:42:08.90 ID:k8cY/REe0
>>694 やっぱり大抵の本では新選組のおまけみたいな扱いなんだなぁ
新選組はトップが死んだからある程度決着ついてるけど、
見廻組は明治に入っても隠遁生活の人が結構多いんじゃないの?
難癖付けられて罪に問われかねないからね。
確か、慶応4年正月以前の件は不問の達しがあったはずだから公的には問題なかったと
只、斎藤・永倉あたりの「メジャー」な隊士は変名して様子を伺いながらの生活だったと
「マイナー」以下はねw・・・
要は、そいつが「隊士」だったどうか「知っている」人物如何だったと
653 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 01:13:33.17 ID:CFAUFDq10
>>652 政府方針としては幕末のことは不問にする方向でいきますよってだけだけどな。
法務は当然ながら日本全国の封建領主任せだった。
廃藩置県までは藩単位で幕末当時の政敵へのしっぺ返しは盛んに行われていたし、
以後も明治十年前後まで個人レベルでの殺傷や圧力といった復讐事件は相次いだ。
単純に元見廻組だとか元新撰組って理由で罰せられることは殆どないだろうけど、
役職や知名度の高低によらずとも生きづらさ感じるひとの割合は見廻組や新撰組に
かつて在籍してた人間には多かっただろうな。仕事が仕事だけに。
その辺、一番陰惨だったのはおそらく水戸藩だろうなぁw
旧土佐藩士の山本旗郎が故水戸藩士の住谷寅之助の遺児達に
斬殺される事件があだ討ち禁止令が出るきっかけになったとか
656 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/24(土) 21:59:58.25 ID:j7xk4o3g0
仙台藩でも戊辰戦争後に優秀な佐幕派の人材が斬られたからな。
あの藩は倒幕派よりも佐幕派の諸士のほうが断然実力あるのに。
よく戊辰戦争中の対応が諸藩の維新後の存在感を決めたというが
本当に重要なのは戊辰戦争後にどれだけ上手いこと人材を温存し
機をみて活用できたかってことだろうなぁ。
鹿児島県や山口県なんかは中央へ人材を送り込んで逆に寂れたよな
>>656 長州藩は禁門の変と内乱で多く喪失したけど、ぽこぽこ出てきていたから
単純に仙台藩の人材が少なかっただけじゃないの。
土佐藩でも藩内粛清で多くの人材を失っているし。
659 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/25(日) 21:53:33.88 ID:GdiYQlBU0
西郷隆盛や木戸孝允みたいな人材はどこの藩にもいたとは言い難いけど
各郷土史を確認する限り全国諸藩に各々人材は存在したことが分かるし
特に薩長土に人材が偏っていたということは無かったんじゃないかな。
歴史作家はよく西日本のしかも一部の雄藩を主人公にドンパチを書いて
読者もそっちのほうが読んでて面白いもんだからそれすなわち幕末史と
考えがちだけど実際は藩の数だけ人材がいれば歴史もあったわけだし。
地元の大学教授や郷土史家さんが頑張って研究したとしても掲載されるのは
多く入手方法が限定的な雑誌に限られるし現状は無理もないとは思うけど。
実態はともかく「その他」の藩の掘り下げた研究が少ない印象は受けるね。
適塾の塾生の出身地も山口県が一番多いから、
長州藩には特に人材を生み出す背景があったと思うよ。
元々有力大名だった毛利家に使える人達が
関ヶ原で西軍が負け、毛利領が減らされてしまって
あの田舎の一角にギュギュギュと押し込められてたってのもあるよ
江の実況スレでも話題になってたけど、徳川側から見たら
家康が天下を取った後、もっと懐柔するなり潰すなり
毛利家の処遇によっては違った結果になったかもしれない
懐柔はしていたつもりだったと思うよw吉川家でさ
大名にしたはいいけど、毛利側からはずっと分家・支藩扱い
で、毛利家宗家・分家で「仲が悪かった」
毛利家「内部」にて身内参勤交代とかねwww
結局、幕末宗家が「相次いで」亡くなったったため
等々本流血筋がなくなってしまったとか(元就長男系)
支藩からの刺客に狙われたとかなんとかwww
薩長に人材が偏っていたなどと言う事実は断じてない
慶喜が政争に勝利していたら原が今ごろ大河ドラマになっていたはずw
西郷も諸藩の貢士クラスに惚れ込んでいるし、
大久保の幕臣不信が直った後は幕臣の大量採用。西南戦争からは軍人登用
江藤の司法省は比較的軽視されていたから、明法寮の学校に朝敵諸藩が大量に入ってる
佐賀も大隈、江藤、副島、大木など優秀な人材を輩出している
実務家レベルでは薩長以外のほうがはるかに多い
鳥羽伏見に関しても決定的な敗因は緒戦。
大山柏が現場指揮官の優劣を挙げているが、それ以前の問題として
慶喜は平和的上洛を予定していたため戦闘に移れる態勢で行軍していなかった
さらに戦闘開始後は混乱して散開が上手くできなかったようだ
劣勢なった所へ翌日、窪田鎮章、佐久間信久のような忠実勇猛な連隊長クラスが前線で督戦し、
薩長側の(おそらくは)狙撃対象になって指揮官を失ったことが大きい。
彼らが前線で督戦せざるを得なかった状況を考えると、初日の戦闘になるまいと言う楽観が大きい
まー一口に人材っつっても、色んなのがいる訳で。
単に人材って括りで多い少ないを論じるのは不毛だと思うが。
>>664 その点については大山柏も、京側の作戦書と大坂側の軍配書を比較して、
軍配書には戦術的な着眼点しかなく視野が狭いとか批判してたような。
現場指揮官ってか司令部クラスの問題だな。
色んなのがいるけど薩長は藩力?に見合った程度の人材しかないよ
あとは政治化するか。ずば抜けてたのは旧天領・幕臣系、それと肥前かな
>>666 ? 意味がよくわからん
人材ってのは実務家っていう意味か?
そのずば抜けていた人材をもってしても、たいした人材のいない薩長に負けちゃうんですね
やはり幕府は滅びてよかった、続いていたら更なる人材の飼い殺しが発生していた
一口に人材っつっても、政治家もいりゃ軍人もいるし行政家もいれば思想家に科学者に実業家もいる。
属した組織によって世に出る機会も違うし質も違う、志半ばで横死した人は高く評価される傾向もある。
どこが多いよー少ないよーなんて評論は無意味だろ。
もし吉田稔麿が生きて明治維新を迎え、本当に日本国初代総理大臣に就任していたら、大日本帝国はもっといい国になっていましたか?
人材うんぬんで言えば幕臣や天領出身者が優秀だったのは当たり前
留守政府や西郷下野の前後からは奥羽諸藩出身者や旧幕臣の大量採用が続いている
>>668 鳥羽伏見の戦闘初日までは慶喜が優位だったんだが…
家近良樹は鳥羽伏見の戦いを「一か八かの大博打」
「9回裏の逆転満塁ホームラン」とさえ評している
幕臣に優秀な奴がいても幕藩体制じゃ能力発揮できないんだから意味なし
>>669 ただ幕末に関して言えば万能型が多いのも事実だよ。
>>672 いや、幕末にはかなり流動性が高くなっている。薩摩はどうか知らないが
675 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 07:38:31.06 ID:e/bp7+Fc0
江戸社会は柔軟な人事登用のシステムが存在したようだね。
あれだけ長く政権を維持できた理由や明治社会の前提としての
江戸時代に対する理解も必要だろうな。
>>672 幕府はおろか諸藩も残らず幕藩体制を形成する一部である件
仮に幕藩体制が秀才の能力が発揮できない仕組みだったとすると
日本全国どこも同じになるな。
幕臣が特別能力を発揮できない状況にあったなんてことはない。
新選組は尊攘派のテロから御所と京都市民を守った功労者。
断じて朝敵ではない。
新撰組はテロ計画をでっちあげて浪士だけでない正規の藩士も虐殺し、
長州人をいぶり出すために火をつけて京都の町を火の海にした。
朝敵ではないが京都の民の敵。
幕藩体制化では基本的に幕臣も藩士もお役目は世襲だろ。
ただし体制を維持するために、算用方などの実務・技術職は
能力が高い者を他のお役目の家から養子にとったり、
他の身分から登用したりということが多くなっていった。
それは幕府でも、諸藩でも同じことかと。
その程度は藩によって差があったろうし、
そこから上へいけるかはまた別の問題だったろうが。
特に幕府は、全国規模で大掛かりな事務を行う必要もあったから
そういう人材は常に求められていただろうね。
そこから一歩踏み出して、真の実力主義に行かねばとなったとき、
図体が大きい幕府よりも、諸藩のほうがいくらか小回りがきいて
登用を進めやすかったってのはあるんだろうな。
もっとも、薩摩にしろ長州にしろ、本当に改革が進むのは
薩英戦争やら攘夷戦やらを経たのちなんじゃね?
それ以前は、身分意識が邪魔をして兵制改革もままならなかった。
武士が足軽みたいに鉄砲なんざ持てるか!ってぐあい。
加賀藩なんかは、算用者優遇という実力主義の萌芽はあったのに、
結局それどまりだったって感じだし。
要は、組織内でどこまで危機感が共有できるかってことなのかな。
トップが危機感持ってても、それだけじゃ案外うまく進まない。
>>676 京都を守るどころか逆に京都のどんどん焼けの犯人じゃないか
新撰組は日本史板の新撰組スレで佐藤彦五郎や多摩農兵隊との関わりが論じられてるが、
もし多摩の郷村指導層の後援を重視するなら新撰組の位置づけは「志士集団」と言うだけでなく、
結果的に体制側についた民衆の武装として理解されるのかも知れない
武州一揆は面白いね。個人的には沖田林太郎が義弟の総司を置いて江戸に帰ったことから、
やはり京に残るのは邪道で、試衛館一派が新撰組中核を形成するのは必然だったように思えてきた
>>678 幕臣は新規召し抱えから中堅に上り詰めるルートが広い。渋沢兄弟、大鳥、福沢、古屋などは一代。
勝、榎本も御家人株を買った新参者。天領は藩領に比べて搾取が少なく、百姓町人層の意識も高かった
図体が大きいというより、今でも京浜・阪神と言った都市圏やその周辺部のほうが
就学機会や就労機会が多いし、海外情報にも敏感でしょ?それと同じ
諸藩のほうが壁が大きかったのは確か。長州は対外・対内戦争を経験したから軽輩からもじゃんじゃん上に行ったが、
それは長州の先進性と言うより、危機に直面して階級間の移動制限が打ち破られたことが大きいと思う
それでも長州はまだ百姓と、村塾系の連中の間に一線を画してる感じなんだけど…
武州一揆の起きたエリアも横浜と水運で繋がってるから養蚕農家は情報が素早く入手できたし、
投機的な取引も行ってる。結構驚いたのが、レフ・メチニコフが来日ほどない時期に春日部?の大きい民家を訪れた際、
ピョートル大帝とエカチェリーナ女帝の肖像画が飾られていて、女将がそれを説明してみせたと言う部分。
いかに幕末維新期の天領住民が、海外に関心が高かったかうかがわせる。
>>674 流動性高いっつっても、たとえば軍制なんかを見ると、やっぱ役職の家格が定められてるのがな。
部隊長クラスの歩兵頭並辺りでは、大鳥とかいるんだけれども。
これでもトップをお飾りにして、周りは能力主義って形ならとりあえず上手く回ったかもしれないが、
実際は第二次征長や鳥羽伏見なんかの通り、家格だけで権力握った様な連中が軍司令官クラスを
独占してたのが致命的だった。
新しい将軍様が家来ごっそり連れてきたとかは吉宗の時にもやってるが、
まー時節が悪かったな。原市之進は勿体無い。
>>678 長州藩については、毛利敬親に村田清風が抜擢された天保期の頃には、
下の若い藩士が藩の行政を任されるようなシステムになってた。この辺詳しい論文があった筈。
山内容堂が逆さ瓢箪の絵を描いて、長州はこれだ、とからかったってのはこれが背景にある。
このエピソードは、勅使を奉じて毛利定広が江戸に下った頃の話だったかな。
薩摩藩は精忠組の地位上昇とかあるが、これは大久保の手腕という気もするw
城下士と外城士の区別は厳しくて、鳥羽伏見の会議だかで城下士の部隊長と平等に扱われたと
外城士の部隊長が感激してる手紙があったと思う。野口武彦の本だったかな?
京都を焼き払って天皇を長州に拉致する計画を実現一歩手前で
阻止した新選組の功績は大きい。逆恨みして御所に大砲を
ぶちこんだ長州はクズ。
>>683 でっちあげの証言以外に証拠がない。古高の準備した武装は会津藩兵を相手にするには微妙すぎる。
一部の幕臣がクローズアップされるが
大多数の幕臣は経済的に疲弊して軍事的には役立たず
財政的には穀潰しだったからなー
結局こいつらをリストラできたのは明治になってから
686 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/29(木) 09:40:41.16 ID:uvEFayYx0
蘭医坪井信良は黒船来航直後に書いた手紙のなかで
西洋銃砲の操作テストを番方(武官)に課したら殆ど使える人間いなかったとか
危機感は幕臣より田舎の諸藩のほうが高いって状況を伝えてるが、
実際のところ知識人にとってはなんとなく幕府軍団の限界が見えてたんだろうな。
結局、幕府は既存の軍事力を近世軍団から近代軍団へ再編成せざるを得なくなり
都市で集めた歩兵、幕領の農兵、浪士の新選組ら武士以外の連中に多くを頼りだす。
しかし、これって幕府のみならずそのまま他の諸藩にも当てはまる現象だよな。
全国の封建領主が軍事的財政的に抱えた根本的問題は同質だった。
幕臣は幕臣、諸藩士は諸藩士と個別に考えちゃうと何だが分かり辛いが
武士自体の解体への動きとして幕末維新史を眺めるとかなりクリアな理解が得られる。
いや幕臣と一括りにしてしまうから分からないのであって…
それと天領では搾取率が低く、百姓の権利意識も高く、「出来れば天領に代わりたいものだ」
などと百姓が放言しているのを聞いて渡辺崋山が呆れているから、
旗本御家人の困窮は甚だしいものがあった。日々の暮らしに追われたら軍事どころじゃないよ
>>682 ただそれでも諸隊結成の際は百姓と、士分との間に厳然とした区別があったよ
689 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 00:44:49.78 ID:QLpvYxfO0
新撰組と見廻組とは、仲は悪かったのでしょうか??
実際、京都の町や店などで平隊士同士が、遭遇した時とかは
どんな感じだったのでしょうか。
>>688 んや、俺が書いたのは士分の中で若手や軽輩の有能なのに行政の仕切りを任せる
システムがあったってことで、士分の農民の区別がなかったってことではないよ。
そういう意味では余り関係ないレスだったかw
医者とか商人とかの教養層が養子縁組なんかで士分になったりするのは、全国的に珍しくなかっただろうし。
あの薩摩ですら、精忠組とかにそういう人がいたしなw
諸隊結成の際がどのタイミングか分からんが、禁門の変で奮戦した遊撃隊の軍監
所郁太郎は医者じゃなかったかな。
奇兵隊も、高杉が教法寺事件の責任とって失脚したあと、赤根武人や山縣有朋が
隊士を全員士分格にするよう活動してそうなったんじゃなかったっけ。
ただ藩全体で見ると身分意識も当然残ってて、教法寺事件なんかそれだね。
その辺の意識が抜本的に覆された要因としては、下関戦争と並んで、正義党のクーデターで
撰鋒組が見事に敗退した辺りの影響も大きいと思われ。
干城隊結成の時なんか、後者を意識しまくってる。
あと藩校の明倫館も元々は身分に厳しかったんだが、あの世良修蔵が17の頃には
豪農の子のままでも入学できたらしい。
>>689 上役同志は仲が良かった・・・かまでは解らないが、それなりに交流はあった模様
がしかし、それ以外の平隊士レベルでは仲が悪かったとの事
理由としては、見廻連中は殆どが「幕臣」であったから等々
見廻隊士の一人が薩摩に通じているとの事で、時の見廻役、蒔田と組隊士
それと新選組から土方と数人が捕縛に加わった
後に役を降りた蒔田は土方と手紙のやりとり等あって親睦を高めたとか
692 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 18:42:20.53 ID:QLpvYxfO0
なるほど。
新撰組の全盛期、池田屋事件の前後さすがに見廻組も後塵を
拝したことでしょうね。
ある本には、佐々木只三郎は全盛期の新撰組を羨望の眼差しで
みてたと書いてましたよ。
佐々木「ほど」のモノであれば「上」に役ってのがいる事が厄介だったに思うね
でしかも周りが幕臣なやつらが殆ど
変にプライドが高いであろう輩には、実力よりは「格」で言い聞かせる他はなかったに思う
故に、最初は役というのが目障りであろうが「必要」ではあった
が、そうこうしている内にその役とやらも入れ替わり立ち替わり
一方で新選組という「格下」が成果を上げている
佐々木はこの状況を喜んだに思う
・・・さて俺の出番だと
694 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 22:15:26.89 ID:QLpvYxfO0
見廻組とは読んで字のごとく、市中見廻ることが
日課だったと本で読んだことがある。
新撰組とは、まるで中身が違うようなことを書いてたような。
途中まではそれなりの地域が担当だったらしいが
ヘマしでかして新選組となんら変わらない担当エリアになってもうたという話
んでもって、今度は幕府系の別組織とイザコザ起して
更に「地に落ちた」とも言われるww
696 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 23:02:18.65 ID:QLpvYxfO0
勤皇派の浪士や、京の民衆からは、当然新撰組のほうが
段違いに恐れられていたことは事実だったんですね。
ただ、最後は、坂本、中岡をやってるから凄いと思う。
どうだろねw本当に「やっていれば」の話ですがねw
別段、他の隊にも言える事だけれども
こういう所業ってのは「自ら」唱えても意味が無い
「周り」に唱えられて初めて「評価」が下る
故に、京都時代の新選組は「恐れられていた」と、それくらい「活躍」していたと言える
な、意味で見廻組っていう組織は評価が定まらない
殆どが新選組の「良いどころ取り」状態
江戸に戻り「狙撃隊」と名を変えたはいいが「時既に遅し」状態w
わかります?一歩間違えれば「死一等」が下っても可笑しくない状況で
今井さん、晩年に於ける渡辺さんが「ゲロッ」たわけですよww
「俺らが殺ったんだよ!」と
698 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 07:35:44.50 ID:yScmYbLn0
一会桑政権の京都幕閣が好き勝手に色々とやり始めたことに警戒して
江戸幕閣が治安面での介入を意図して送り込んだ組織が京都見廻組。
余剰幕臣を戦力化して軍事・治安に活用する一環というだけでなく、
東西幕閣のパワーバランス調整の役割も負わされてたと考えられる。
そういう意味で新撰組は京都幕閣側の武装警察隊という立場だから、
江戸幕閣側の武装警察隊である京都見廻組とは当然温度差があるし、
加えて片や有志としての自負、片や幕臣のメンツでつっぱりあって、
現場レベルで衝突する状況も容易に想定される。
もっとも実質的に見廻組を仕切っていた佐々木只三郎という旗本は、
元々は会津の人間であるからその辺の調整にはベストな人材だった。
新選組との関係でいえば近藤勇らがかつての浪士組における部下で、
彼らの分立を助けた関係もあるから親密でやっぱり都合が良かった。
見廻組と新選組のどっちが優秀だったかって類の話には興味ないけど
両者は政治的出自的には間違いなくライバル関係と呼べるだろうね。
ただ、だからといって犬猿の仲ではなく両者にパイプのある佐々木が
クッションの役割を担って上手いこと良好な関係性が保たれていた、
っというのが実態で仕事の内容や実績もそこまで大きな違いは無い。
新徴組と庄内藩はどうだったんだろうな。前は庄内藩スレもあったのになあ
清河八郎を生んだ土地柄ではあるが酒井家は会津松平家みたいな筋金入りの尊攘ではないでしょ
逆に立場・身分の違いで実質的なライバルの構図になりにくかったような気もするけど・・
新撰組の平に関してはどことも仲悪そうなイメージw
701 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/03(月) 06:17:02.74 ID:BM7mVHTG0
>>699 浪士組司令部は元来清河一派と親しい尊攘派幕臣で固められていた。
江戸帰還後の新たな浪士組司令部になった庄内藩はその監察が仕事。
清河らが庄内出身者だったことは当然その配置理由の一つだろうし、
何より江戸幕閣に忠実な尊攘派とは距離がある譜代大名の家だった。
が、突然に庄内藩一任というわけではなく未だ多い尊攘派の配慮から
尊攘派幕臣による司令部も松平主税介以下新徴組支配として残った。
つまり発足当初の新徴組は「幕府+庄内藩−新徴組」という指揮系統。
二重支配のかたちだった。これが庄内藩一任になって新徴組士たちが、
伊賀者次席つまり下級の幕臣から庄内藩の足軽格へ編入される時期は、
京都で起きた8月18日政変をきっかけに尊攘運動が一応落ち着いた
元治元年になってから。
新徴組は地理的にも政治的にも新撰組より江戸幕閣の統御が厳重で
そのために厳粛な警察隊として活躍した代わりに政治活動は無いが
薩摩藩邸焼討事件で活躍し、戊辰戦争の導火線をきったのは彼らで
その立場は池田屋事件で禁門の変の導火線をきった新撰組に重なる。
702 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/04(火) 01:51:56.48 ID:KA1zsubK0
池田屋事件まで起こした新撰組も
薩摩藩だけには、一切手出しはしなかったんだよね。
703 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/04(火) 03:14:43.25 ID:/NeXDAWC0
流石に鳥羽伏見戦争直前には小競り合いがしょっちゅうだったけどな。
井上源三郎の隊が小銃で薩摩藩の一隊を撃ち殺したりしてるし。
衝撃隊(からす組)が面白いわ。関東では博徒は新政府軍に付く事例が目立つけど、
奥羽列藩に付いた博徒ってどういう動機だったんだろうな。あっという間に纏まったようだが
705 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/05(水) 05:34:26.85 ID:woKfRY5w0
>>704 仙台藩の諸隊の一つだよね?
仙台藩は開戦前から庶民を含む「総力戦」の準備を開始しているし
博徒部隊の編制計画もその一環として考えられた可能性が高いね。
各隊員にも郷土防衛やお金と身分の向上など目的があるだろうけど
全国どの諸隊も基本的には軍制改革のなかで編制したものであって
自然発生ではなくて幕府や諸藩の政策あってはじめて形成された。
『仙台市史』に領民を銃卒部隊に編制することを命ずる史料があるが
戦争前夜のタイミングだし衝撃隊もそのなかで編制されんでしょう。
アウトロー相手だし兵卒集めは農商の場合とやや勝手は違ったかも。
親分に直接交渉とかだろうけどコンタクトをとれた人物はだれかとか
色々気になることはあるね。
諸隊と言っても額兵隊なんかとは全く違う性格じゃないかなあ
須賀川で参加したのは細谷個人に呼応した仙台藩領外の博徒衆だよ。
知行地の百姓を武装させたり、藩が農兵を徴募した例もあるけど、
彼らはやがて準正規軍的な編成になっていくでしょ。
衝撃隊は最初から正規軍と行動を共にしようとせず、ゲリラ戦に特化してる
もちろん農兵なら一通りやるような戦闘訓練も一切やってない
707 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/05(水) 20:24:26.96 ID:Hg8kdVkP0
>>706 なるほど。衝撃隊は仙台藩政とは一線を画するルートからの徴募で成立した部隊、
ってことか。あくまでもウィキ情報だがどうやらそのような書かれ方をしてるな。
細谷なる人は歴とした仙台藩士だが長期的な軍制改革のなかでの成立じゃなくて、
まさしく臨時編制、即席的な雇兵部隊なわけだな。それで勝つとは凄いなwww
自分は奇兵隊とか新撰組は有志隊には違いないが(実際は強制入隊もあったそうだが)
明らかに幕府や諸藩の軍事改革の範囲で編制・運用された存在と考えているものだから
義勇軍とか非正規軍って用語を出されて自然発生的に成立していたように書かれても、
正直ピンとこないほうなんだが衝撃隊は義勇軍といっても差支えない存在のようだね。
708 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/05(水) 20:57:47.53 ID:vwR8FHdV0
倒幕の先駆ともいわれる、水戸の天狗党はどうでしょうか?
初代局長の芹沢鴨は、天狗党あがりだと聞きましたが。
709 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/05(水) 22:11:43.55 ID:Hg8kdVkP0
>>708 誰に聞いてるのかはっきり知らんけど勝手に書かせてもらうよ。
水戸天狗党は倒幕を目的にはしていないよ。よく倒幕勢力のように語られるけど。
また芹沢は新しい研究では大津彦太郎が率いる水戸尊攘激派の集団の一員であり、
佐原騒動なる事件を起こしたが自首し投獄されたということが明らかになってる。
出獄後仲間たちの何人かは藩主に従い上京できたが芹沢はどうしたわけかできず、
そのために浪士組に参加して上京したようだ。新見錦も芹沢と同じ大津の元同志で
佐原騒動時点では新家(にいのみ)久米太郎と名乗っていたが浪士組参加と同時に
改名したようだね。
近藤勇は当時の関東浪士らしく当初水戸尊攘派の影響をかなり強くうけたようだし
生死をかけた活動実績のある芹沢や新見に対する志士としての個人的な羨望もあり
京都に残りたいという一点で行動を共にしグループの有力者に立てたんだろうか。
東西紀聞という史料に水戸浪士約20人が云々という浪士組上洛時の様子があるけど
近藤・芹沢派を合わせて大体そのくらいだし既に上洛前から一団を形成していたかも。
710 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/05(水) 23:59:04.49 ID:TfV2SLJ90
新徴組に関する本って出てる?
711 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/06(木) 09:47:50.92 ID:VjrDqkZJ0
特にどれが良書?小説は除いて。
歴史研究家の本を買って読んでみたら
正式な学者じゃなくてただの歴史好きな作家が
研究家を名乗っていただけだった時は落胆した
佐幕派諸藩に関しては、使い分けしたほうがいいと思う。
例えば現地に足を運んだり、史料読み込むのは圧倒的に地縁血縁持ってる人が多いわけで。
どうしても同情的になるのは否めない(いま高杉晋作の研究やってる一坂太郎もそうでしょ。
「見殺」=殺さる を みごろしとか読んじゃうような読解能力なんだから。漢文に興味のある高校生でも分かる)
学術論文があればそれでいいんだが、↑みたいな在野のレポートもどきで知識を一応仕入れたほうが早いよ。
新徴組は自分も文献知りたいな。
>>713 奥羽列藩同盟研究をメジャーにした佐々木克さんとかも
「孝明天皇は毒殺だった」とか当時言っていて、あとで改説してるんだけど…
あれ?孝明天皇毒殺説ってトンデモ説なの?
718 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/07(金) 05:34:13.31 ID:IHMHUjBqO
はいそうです。
孝明天皇暗殺の黒幕は岩倉具視、これ常識な。
720 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/07(金) 11:53:33.79 ID:+bA9TDMx0
>>712 >>714 どこか別のところでも紹介されていたが新徴組&新整組については、
小山松勝一郎という先生が書いた一連の著作が数少ない研究書だね。
既に30〜40年前の書籍ではあるが内容的にはかなり充実してる。
近年の歴史作家が量産してるニワカ研究書より質は何倍も上だろう。
既に絶版だから図書館で借りるのが薦め。
自分はかつて下手に購入しようと頑張ったが結局は無理だった・・・。
近年マツノ書店という本屋から復刻された『戊辰庄内戦争録』などの
庄内藩関係の史料にもチョコチョコ新徴組の存在を沢山確認できる。
基本的に歴史の勉強とはそういうものなのだろうけど関心のある人は
地道に史料探していって自分なりの考えをまとめる他ないのだろね。
>>719 だとしたら敵に塩送ってるじゃん、岩倉。
>>717 70年代には伊良子光順の子孫が日記類を示して毒殺説を書いていたから、
佐々木氏も原口論文が出るまで病死説を支持しにくかったかも知れない。
岩倉は孝明天皇崩御の段階では討幕論者ではないし
それは初めて知ったぞ!
ワッパ一揆
725 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/08(土) 02:58:42.48 ID:1UVVR95O0
山形県では新徴組って有名なんだろうか?
隣の宮城県だが全然聞いたことないけど。
新徴組は江戸が一番有名なんじゃないの
山形県でも米沢とか山形あたりは知らないでしょ
新庄は多少は知ってるか?秋田庄内戦争の跡地だから
727 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/09(日) 19:14:03.40 ID:WXXO9x380
孝明天皇って、昔からアレだって噂があるよね。
大行天皇と同じだっていう・・・
近藤の書簡集はいつになったら刊行されるんだろうな?土方と沖田のはとっくに
出てるのに。
天狗党はいくら示しを付けるにしてもあれだけ残虐な処刑って逆効果だったんじゃ?
ちなみに幕府歩兵隊の実質初出動が天狗党討伐だよね。
天狗党の大量処刑を目の当たりにした長州藩が恭順したら
虐殺されると分かったので徹底抗戦に踏み切った。
幕府歩兵が天狗党に腰を抜かしてまともに戦わなかったということもあり、
一か八かやってみようという気になったらしい。
降伏した相手は虐殺できても徹底抗戦する相手を押しつぶす力はもう幕府には無かった。
だよな
その上で長州征伐で松山藩兵が大島住民を虐殺して
長州の非武士層まで危機感を持たせたのが致命傷になった
ただあそこで天狗党の嘆願書を受けて寛大処置にしてしまうと、
内応を疑われて慶喜が処分されてしまう可能性もあるからなあ
つくづく幕府の癌だよな大奥って
処刑は首謀者にとどめておき大量処刑をしないのが常識的な判断で、
慶喜は後に幕府に逆らっても自分が処断すれば良かったと後悔の念をこぼしている。
この時期までは幕府歩兵より、
知行地から徴募したり、自主的に組織した農兵のほうが士気はずっと高いね。
735 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/16(日) 00:34:41.13 ID:Tn1saVN10
>>734 農兵には地域防衛の問題や士分取立の願望が深く関係しているし
実態は在地組織の延長線上みたいなものだしな
主に日雇い労働者的な事情から就職を斡旋された歩兵に比べれば
確かに編制当初から士気は高くて統率もとれてただろうなぁ
幕府と諸藩が企画してつくられた点じゃどちらも変わらないし
個人レベルでみても強い意志や高い士気をもった人間がいれば
やる気のない人間もそれぞれ存在しただろうけど
組織レベルでみた士気というか自立性は農兵隊のほうが高くて
自然とそうなるような背景をもっているな
いわゆる有志隊とか草奔隊とよばれる兵隊に近い気質を感じる
恩賞をダシに臨時動員された農兵は士気は高くても
装備は貧弱で訓練もされていないので実戦ではあまり戦えなかったようだが。
農兵の戦いに比べるぐらいならば寧ろ敗れたものの、高崎藩が真っ向勝負を掛けて善戦したと言える。
訓練しなきゃ畳持ってつったってるくらいしか役に立たないからなあ。
738 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/17(月) 01:12:07.78 ID:c7kdGHfL0
>>735を書いたものだが農兵の「強さ」は地域でばらつきが多いそうだ
外部から影響を受けやすい街道沿いなどに住む農兵は危機感が強く頼もしかったそうだが
そうでもないところは反対運動があったり訓練も疎かになりがちだったとか
結局は農兵取立計画は中絶したなんて話も多い
また例え戦争に動員されても必ず農兵が戦える環境があったわけでもないそうだ
武家奉公人の扱いだった歩兵はいざしらず農民のまま兵隊になった農兵は
武士は戦闘員で農民は非戦闘員って従来の線引き意識が武農互いに強かったためか
戦場での役割はもっぱら小荷駄の夫役担当だったようだ
甲陽鎮撫隊に日野農兵が加わったが優れた装備と充実した訓練をしておきながら
やはり小荷駄だったし畳もって突っ立ってる状況があっても実際不思議ではないな
もっとも戦争の影響で藩政が機能しなくなり無法状態になった村を自衛するために
全面に出て戦う農兵も知られてるがよっぽど非常時じゃなきゃ予備の兵隊扱いか
庄内藩の農兵は主力と言ってもいいくらいだったんでは?
740 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/17(月) 11:12:17.74 ID:6o6JRT0n0
>>739 それこそ非常時の総動員で前線に出ざるを得ない状況だったしな
現実に自分らの村の目前に得体の知れない敵が迫ってきたわけで
農兵らの必死さも違ったろうね
鎮撫隊の農兵もそうだど農兵取立者は藩や国家っていうより
もっと身近な空間を守るために考えて行動していた人が多いよね
その点では坂本龍馬とか新撰組なんかの志士より共感もてる
農兵の必死さ?
たぶん、そういう農兵の必死さは、旧幕府側の武士どもから間違った情報でだまされていたため。
年貢で搾取され続け、その上、体で武力まで提供させられるとは。
か わ い そ う に
庄内藩の農兵に関しては、自領防衛どころか久保田城を陥落させる所まで行ってるので
明らかに藩への帰属意識の高さだと思うんだよなあ。三方領地替えの件もそうだし
この時期の領民としては異常なくらい忠誠心が強い(恐らく攘夷戦争を戦った長州よりも)
>>742 東北くんだりまで戦いに行って、
地の不利にもかかわらず最終的には勝利しまくっている
長州諸隊の兵士たちよりも忠誠心が強い?
それ、もう完全にあり得ない妄想ですからw
ID:7wh+DIIB0 例の佐幕派スレ荒らし
>>744 自信満々だった「農兵の必死さ」「忠誠心」妄想を粉砕されると、
今度は「佐幕派スレ荒らし」妄想かw
よく生きていて恥ずかしくないなぁwwwww
つか長州の農兵は、攘夷戦争後に「自分たちが守らねば」という意識が芽生える訳だよな
(正規兵のヘタレっぷりを見て)
比べるなら四境戦争の時の農兵じゃないか?
庄内藩の場合は農兵2000名で、しかも秋田戦線が戦闘初参加でしょ。
(前線に出たのはその半分くらいだったと思うが)
確か庄内軍は武士とほぼ半々程度で、それで秋田戦線で諸藩を押しまくったのは異常な強さだよ
数的には終始圧倒的劣勢じゃない?最後は補給路が伸びきったのと、佐賀藩の援軍で反撃を受けたが
まず2000名も徴募できたと言うのが凄い。どんだけ本間家に財力があるのかと
それと久保田藩農兵も意外と善戦してるんだな。こっちはまさに侵略軍を守るために必死なんだけどさ
こうしてみると農兵を活用しなかったのは、会津と薩摩くらいか。
もっとも北越戦争が片付くまでは実質的に戦力になったのは佐賀藩兵1000足らずだけど
薩摩藩や九州諸藩2000の増援が来た8月下旬にも、主力の薩摩藩兵に夜襲をかけて破ってる
9月16日の椿台会戦で諸藩が指揮系統纏めて、庄内のほうは海道口の合流が遅れるまで敗北らしい敗北がないんだなあ
米沢藩の降伏でやっと撤兵に決したらしいが、前線の酒井以下がよほど指揮が巧かったのか、
増援が来ても士気が下がらず勝ち進んでるのが凄い
庄内戦争の全貌の研究って、誰かやってないんだろうか?
秋田戦線に出兵した薩摩兵は、部隊番号が大きい新編の部隊だから
あっさり崩れてもそう不思議はないと思われ。
盛岡兵を鎧袖一触で斥けた佐賀兵を押し捲ってる庄内兵はやはり強いが。
秋田兵も、新式の銃?が届いてからは頑張ったみたいね。雄物川の戦いの最後の方。
あと庄内藩は、北越戦線にも多少出兵してなかったっけ?
石原倉右衛門だね
751 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/18(火) 04:51:02.48 ID:l0S1rGDr0
>>741 だまされるもなにも江戸幕藩体制のシステムは成立当初から
戦争がおきりゃ農民は陣夫として徴発されるし
平時においても奉公人として武家に出仕する人間が存在する
士民混成で軍団が編制されるスタイルだったぞー。
軍団に動員されること自体は農民にとって義務であり宿命だった。
それをかわいそうと考えるかどうかはその人次第だろうけどな。
実際自分が当時のお百姓さんだったら戦争なんか行きたくないね。
そんでも逃げたところでやっぱり野垂れ死にか処刑だから
戦うしか無くって140年後の2ちゃんスレで忠誠心が強かった
って勝手に美談化されてそうwww
幕末の農兵は動員されれば労賃が貰えた。
あまりにも戦えない農兵は解雇されることもあった
>>751 新潟の幕府領は幕末に分割されて会津藩その他に預けられたんだが、
そこで会津藩に徴用された農兵は速攻で逃げ散ったりしてるよ。
中には、そのまま米沢藩に従軍を志願して許されて、函館まで戦い抜いた
兵もいるとかw
あと、徴用された農民でも兵と軍夫は別だな。敵でも軍夫なら許されて解放された例もある。
軍夫まで皆殺しになった例もあるが。
庄内藩の下士は本間家の奉公人になったりしてたんでしょ。
本間様がスポンサーについてるんだから農民もやる気が出て当然じゃんw
あそこは全員、日本有数の大企業の社員みたいなもんだからな
庄内藩は強いが結局最後は恭順している。
長州藩は降伏するどころか討伐軍を返り討ちにしているからその差は大きい。
8月28日に米沢藩が降伏した時点で国許では恭順論なんだが
前線部隊がそれを蹴るようにして戦闘を続け進撃した
最後にとうとう米沢から説得され上から怒られて引き揚げ。
幕長戦争と異なり日本最精鋭の佐賀藩兵、薩摩藩兵をはじめ九州諸藩の兵と戦い
1回も決定的敗北を喫していない。まあ、北越と会津方面に敵主力が来ていたから、
相手に恵まれた感はあるが…
同盟軍側では、桑名、長岡と並んでどれが最強かってとこじゃない?
北越や白河の薩長歴戦部隊との戦闘は見てみたかった。
両戦線へ援軍に出てれば、戊辰戦争はもっと長引いたかな。
秋田戦線の久保田、庄内両農兵を見てると、銃撃戦には武士より強いが、包囲されると凄い被害出してるな
佐々木克は秋田出身だが「銃撃戦になると突っ立ってる武士より百姓のほうが適応が早い」みたいなこと言ってた
759 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 05:52:01.97 ID:Q94fPWW80
>>758 確かに農民は武士よりも西欧軍事に適応できたかもな
勿論みんがみんなではないだろうが武士や脱藩浪士は
一端の武術家としての矜持や尊皇攘夷思想が邪魔して
そういった西欧の兵器や戦術を嫌悪する傾向が強いし
やはり肝心要の修羅場では洋式鉄砲での砲戦よりかは
幼い時代から学校で日々習ってきた刀や槍で戦いたい
ってのが人情であろうし安心するだろうし自信もある
幕府も藩も一生懸命軍事的西欧化を推し進めた時代で
新政府軍も銃砲隊以外は無用と参加諸藩に命じてるし
あの新撰組ですら鉄砲をドシドシ使ってたそうだけど
人の心の問題というかなかなか難しいところがあって
それで色んな衝突や戦場での問題も多かったようだね
近代における画一的で機械的で公開的な戦争の訓練には
近世の人間関係重視で思想的秘密的な訓練で鍛えられた
武士やその技術はいまいち合わないことも軍事的点での
「武士」の淘汰を進めることになったのかも知れないな
武士の適応が遅れたのは、「鉄砲は足軽の使うもの」って意識があったのもあるんでね。
ただ、農兵は火力に対しての適応力は強かったが、白兵戦になると崩れやすかった
そこは武士や、武士の指揮官がカバー。西南戦争と同じだね
762 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 22:37:15.17 ID:OS/rDYUO0
>>760 かなりエライ武士を師範や門弟にしてる流派砲術が沢山あったし
特に鉄砲は足軽が使うものって考えではなかった模様です。
ただ江戸時代の砲術は思想的で秘密的な流派砲術にされちゃってて
やっぱり何かと名誉とか形式を重んじていた。
そういう、ある意味職人的世界で育ってきたオサムライさんたちには
鉄砲自体は嫌いじゃないが親しみがなく均質さがよしとされる機械的内容で
教官に足蹴にされたり罵倒される洋式の銃隊訓練が大っきらいって人は
どうもかなりの数がいた様子。
例えば幕府講武所でも洋式調練の教官と流派砲術の教官で対立したりとか
学校や上司は生徒たる旗本を調練に出席させるため毎回飲食を用意したりとか
汚らわしい!うちの息子には剣術弓術しか勉強しませんザマス!って親もいた
とにかく文化的軋轢で西洋調練を嫌う武士は多かったようです。
文久前後で流石に武士と足軽でつくった軍団ではらちがあかんとなって諸々改革を重ね
武士は士官として軍官僚化が進み実力要員は兵卒たる庶民がドシドシつかわれだす。
ゆえに軍隊内で火砲戦に長ける人間が農商階層のなかで目立っていくのも当然かもな。
したがって砲戦では兵卒(庶民)主体の部隊、白兵戦では士官(武士)主体の部隊って
使いわけもあるいはあったのかもしれない。
函館では土方は逃げる兵を斬殺して戦わせたという。
764 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 18:19:30.83 ID:zeSwB8+D0
現在の栃木県での話じゃなかったけ?
土方はガンダムのランバラルを若くしたみたいなイメージだ。
765 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 21:25:38.95 ID:HfYd2+ldO
新発田の裏切りで新潟港が官軍に。同盟軍の敗北はこの時点で決定的になった。
農兵は基本的に背後に白刃を持った督戦隊を置かないと逃走する。
近代でもロシアや中国は百姓を動員して碌に訓練もせず前線に投じ銃殺部隊を背後に置いて戦わせている。
農兵はそこまで臆病じゃない。ただ戦況判断に優れた指揮官は必要だったが
前に出てる衝撃隊なんて切り込み部隊だよ
庄内藩にわりと批判的な人が書いてたが、天明天保飢饉で土地の集約が進み、
本間家が大地主になり事実上藩財政の生命線を握るようになったのが逆に幸いしたと言う見方もある
藩と財閥、その傘下の農民が利害共同体になったと言う解釈らしい
あと三方領地替えの件で余所者が藩を乗っ取ることへの領民の警戒心が生々しかったとか
どこまで信じていいか分からないが
769 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 03:36:30.50 ID:BA+yMqIZ0
>>766 殺す殺されるの極限で逃げ出すのに身分も糞も関係ないべ
武士だろうと農民だろうと逃げるやつは逃げてる
武士を特別に強い存在と考えるのはサムライとか武士道って
キーワードを強さの象徴としてやたらと使ってきた
後の日本人の思い込みですやん
770 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 03:46:24.88 ID:e7b8XtyH0
幕府の陸軍奉行て陸軍奉行並ってどんな関係?
長官と副長官?
771 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 08:02:57.57 ID:S2BacBll0
>>764 それは違うぞ。ランバラルは近藤勇だろ。
ランバラルには人望があったが、土方は過去に部下を粛清した経歴から人望なく、
永倉らの古参兵は、土方と対立する事激しかった。最後には分離したしな。
>>771 永倉さん達の衝突って
土方さんよりかは近藤さんじゃない?
近藤さんの件で嘆願書を松平公に持って行ったり
離隊したのも近藤さんの
暴言が原因だし
嘆願書事件も、土方さんは仲裁してたよ
奉行と奉行並は、複数責任者制で序列に差があるようなイメージでしょ
774 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 01:33:21.77 ID:dcQ60URQ0
局長の近藤勇は内外両面で「組織の顔」って立場だからね。
評価されるにせよ批判されるにせよ先ず矢面に立たされる。
それに他より報奨金の金額にせよ身分処遇にせよ格段に上で
隊士の生殺与奪権を本来的に握っていたのも彼だったわけで
間違いなく「同志集団」的方向性とは矛盾を抱えてる人間。
そういう上司部下の意思疎通の問題を上手く調整してたのが
副長である土方歳三だったんじゃないかと思うなァ・・・。
上司と部下に対する態度は一貫である必要性はないというか
土方は近藤に対して粛清話を提案することはあっただろうし
その点では間違いなく恐ろしい「鬼の副長」だったろうな。
その一方で部下と日常的にコミュニケーションをとることで
双方の妥協点を探ったり幹部の信頼の維持に努めたりする。
そういう柔軟な対応の方が両長揃って弾圧に乗り出すよりも
組織を円滑に動かすためにはいい選択だと考えられるしな。
実際同時代人の評価は近藤勇よりも土方歳三のほうが良い。
そういう土方でも対応しきれない組織の問題を抱えた時に
新しい受け皿として用意されたのが参謀って大幹部であり
伊東甲子太郎っていう毛色の違った秀才君だったのかもな。
大村藩の渡辺清、昇の兄弟は弟の昇が神道無念流を学んでいて近藤と知り合い。
兄の清が大村藩の新精組を率いて戊辰戦争を戦った人なんだな、兄のほうは知ってるわ
渡辺兄が上野戦争で新式銃を持ってるのに退却する官軍を「なぜ後退するか」と叱咤したら
「向こうは刀を持ってるから敵わない」と兵が言い返したと言う笑える逸話がある
官軍って、武器は最新式のエエ奴使ってるのに
使う人間が…ってノリに思えて仕方がないんだけど
777 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 14:03:27.88 ID:ZyKXoi2aO
777
これこそバ官軍といわれる所以也
>>776 それは幕府兵もじゃないか?
薩長よりも新しく性能の良い装備で倍の兵力なのに鳥羽伏見で負けてるし
>>779 全くだよなぁ(´Д`)
負ける訳ないだろ的な鳥羽伏見の戦いでボロ負けだもんなぁ…
自分は新撰組指示派だから鳥羽伏見での新撰組も
全て悪く言う気なんて無いけどさ
幕府側も擁護って事は無いなぁぁ…
渡辺清のその談話は2通り読み方があって
@官軍が彰義隊の突出に手を焼いた言い訳を渡辺が嘆いた
A手元に切り込まれると結局、白刃のほうが強い
Aじゃないかと指摘する人が結構いるんだよな
ここは佐幕派諸隊スレだが、戊辰戦争通すと大村藩て佐賀藩を超える最強レベルだな。
ただ藩兵は100名程度しか出せないんだけど
あと北越戦線での信州松代藩とか、隠れた強藩もいるね
783 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/25(火) 13:14:00.27 ID:6PckwQ1Z0
>>776 そこは近世・近代移行期ですからなぁ。
公衆電話から携帯電話に移行しはじまった時代みたいなもんで。
知識・技術的進歩とそれに対する人間の理解・上達は必ずしも同時進行じゃないし。
その新しい知識や技術の本格的普及はそれに依存した社会をつくらないとなかなか難しい。
幕府・諸藩の高級官僚が行った軍事改革からは一種の西欧至上主義的方向性が分かるけど、
実際的に何から何まで西欧式の戦術・兵器でカバーされた仕組みの戦争だったかといえば、
そういうわけではなかった。
当時の兵隊さんが西欧軍事を使いこなせなかったという状況も確かにあったわけだが、
敢えて使わなかった、それで問題なかったという状況も確かにあった。
・・・って視点があっても良さそうだが、歴史作家が書いた一般向けの本なんかだと
便利なのに使わなかった連中は馬鹿か固物かってなザックリした理解になっているな。
個人的にはそういう理解は結果論的でなんか好かん。
しかし近藤も道場人脈で西国諸藩に知人がいたんだな。
渡辺昇と付き合ってたなら、普通に黒船とか一緒に見に行きそうだな。
何となく京に行ってからの付き合いしかイメージできなかった
785 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 03:45:24.12 ID:PxmJNCjt0
江戸は全国諸藩の藩邸があるし道場や学塾への留学生も集まってたからなぁ。
近藤も土方も黒船見学自体はやってそうだ。
>>784 試衛館に道場やぶりが来た時に、錬兵館から助っ人に来たのが渡辺
試衛館も錬兵館も江川太郎左衛門の影響で黒船見学はやってそうだな
そこらへんを創作したのが三谷大河の一話なんだろう
>>786 年齢的にも、近藤さんと
土方さんは黒船見学してそうだと思った
大河のシーンは、あながち創作とは言えないって事か
>>781 鳥羽伏見では会津藩も槍隊を伏せて奇襲とかやって成果上げてるが、
官軍が対処してからは普通に狩られてるしな。
薩摩は砲兵隊に白刃で突っ込まれても対処できてるし、やっぱ後者じゃないかと思う。
>>787 ・佐久間象山と弟子の吉田松陰が浦賀に黒船見学(ちなみに短期間だが坂本も佐久間の弟子)
・弁当持ちに変装した桂小五郎が江川の従者として品川砲台建設を見学
・江川は多摩の代官でもあり、土方義兄の佐藤彦五郎に農兵政策を勧めることで天然理心流が更に広がった
・練兵館は江川が出資して作られた道場で、試衛館とは門人同士の交流があった
・二度目のペリー来航時に、吉田松陰が小船に乗って黒船に乗り込もうとする
ここらへんのエピソードを合わせた創作だと思われる
放送当時は史実云々と非難轟々だったが、ありえない話ではないんだよな
790 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 06:53:25.21 ID:k6nEjFlP0
>>789 ・練兵館は江川が出資して作られた道場で、試衛館とは門人同士の交流があった
近藤勇と神道無念流の永倉新八の邂逅の前提もそういうところにあるのかもなぁ
もっというと芹沢鴨も浪士組入る前からそういう人脈で紹介されてそう
791 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/06(日) 00:18:25.89 ID:rq5zsZAT0
>>781,788
>手元に斬り込まれると
手元に斬り込れて白刃揮われなくても良くなった時代の我々からすると、
そのへんはどうにもイメージし辛い所だね。今の時代の最低限の距離は何メートルだっけ?
まぁ、俺もAの意見に同意するけど。
>>791 ところがぎっちょん、21世紀の今でも白兵戦は戦術や状況によって有効な時もある。
イギリス軍が、今世紀に入って少なくとも12回ほど銃剣突撃してるから間違いない。
当然ながら失敗した事例も含まれているが、案外成功率高い。
銃剣突撃する状況としては、迂回攻撃とか夜襲が主体のようだが。
やらかすのは特にハイランダーズが多い気がする。スコットランド人じゃ仕方ないね。
でもアメリカ陸軍は銃剣術を……
なぁに、アメリカにはまだ海兵隊がいるさ
795 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/11(金) 01:34:59.81 ID:l6kmWg3d0
明治初期に日本にも海兵隊があったという事実は世間一般で有名?
あちこちの観光地で木刀が売られてるのは白虎隊記念の木刀がウケたから……
ってのは、本当なんですかね?
797 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/12(土) 14:37:52.82 ID:f2YvA8iI0
元々木刀を供えるといえば源義朝。
そこから鶴岡八幡(鎌倉)での土産物の販売に移行し、全国に流布した。
白虎隊は俗説
>>791 5メートル以内なら銃より剣の方が有効ってのを聞いたことはあるな
点であわせなきゃいけない銃(狙う→撃つ)よりも
線であわせれる(狙いながら斬れる)剣の方がアドバンテージがあるって理屈
800 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/17(木) 23:55:49.80 ID:BU9jFCjt0
801 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/20(日) 13:28:32.83 ID:3u23gX040
>>797,799
其の辺は完全に会津捏造・誇張扱いにするのはどうなんだろうね?
鶴岡八幡宮に倣った流れと会津白虎刀の好評からの流れとの二つが
全国あちこちで混在してるって事じゃないのかと思うんだが。
ネトウヨの臭いがしますなぁ〜
803 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/28(月) 12:06:44.25 ID:NkfpF1/j0
そりゃ鶴岡八幡宮のほうが遥かに先行している。
805 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/28(月) 19:19:11.25 ID:KOcq+zZc0
>>801 こういうものは木刀に限らず気がついたら自然にあっちゃこっちゃで出まわっとるよなぁ
新選組の法被とかも東京名物だっていうから買って暫くして京都いったら京都名物になってて
挙句に函館いったら函館名物って売り文句ついてたwww
806 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/28(月) 23:17:50.90 ID:pAAW8iUa0
原口清名城大学名誉教授は(「禁門の変の一考察」『原口清著作集第2巻 王政復古への道』2007年9月刊)において
新選組らによって浪士による京都放火計画がでっちあげられた可能性が高いと述べている。
この人は作家ではなくちゃんとした日本近代史の歴史学者だけど
この説はどれだけ支持されているんだろう?
808 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/21(水) 08:09:22.52 ID:unH6XHeP0
>>807 当時の京都は新撰組も長州激派も化かし合いの状況だったってことは
幕末の勉強してる先生たちなら知ってることだけどね
まあ原口さんみたいなじっちゃん先生はともかくとして(失礼)
若手の学者さんを中心に新撰組を歴史のなかでどう理解するかってことで
頑張ってる人も多いようなので
そういう最前線のひとたちの論文から色々池田屋事件のことを
掘り下げて考えたら案外面白い意見の一つもでてきそうではあるね
自分としては世間でいうほど
新撰組が池田屋のことをどうこうできたとは思わないけどね
彼らの義挙だとか陰謀ってすんのはちと表面しかみてないかなって気はする
要するにコマのやったことなわけだし
新撰組だけつかまえて色々いったところで大したことは分からない
池田屋のときの放火計画云々は、まぁ新撰組の裁量でどうにでもできる自白だし
真相は永遠に藪の中じゃないかな。
新撰組としては、むしろ攘夷を柱とした政治的集団になろうとしてたって論の方が興味あるな。
長州征伐を優先したことで立ち消えたとか、誰の論だったっけ。
>>809 松浦玲さんの「新選組」かな?
こないだ出た中村武生さんの「池田屋事件の研究」を今読んでるけど、
結構細かく掘り下げてて面白い
811 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 19:32:07.61 ID:DjVPk6Cf0
新撰組じゃなくて「浪士組」のメンバーがそのまま拡大していたら、天下を取っただろうね。
まあ結局は内ゲバだけだった。
天下を・・・取る?
813 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 22:58:59.08 ID:5Sf8WnFW0
清河八郎は朝廷との直結を意識したことから在野の活動に徹して
幕府が攘夷しなきゃいけないような状況を無理矢理でもつくろうってした人だけど
そういうやり方はあんまし長続きしてないね
そのまま拡大したところで天誅組だとか天狗党のような末路になってしまう
現に多くの清河系新徴組士が天狗党に身を投じた
814 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/07(土) 11:29:31.97 ID:2tImwbBK0
他のスレッド(龍馬暗殺の黒幕6)に出ていたのだけど、龍馬暗殺の新資料が
出るらしい。
それを、転写する。
料類の再検これですね。アマゾンに仮だけど出ているよ。
真面目なノンフィクションみたいだから、新聞社も動くかも。
題名は、
「龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた」 出版:彩流社
内容紹介(「彩流社」HPに出ている。)
・闇に葬られていた日記が語る衝撃的新事実!!
・暴かれた黒幕と新撰組の近藤勇らが複雑に絡み合った背後関係。
・巧みに仕組まれた暗殺の実行過程が詳らかに…。
「本書は、龍馬らの暗殺事件関係の資証を行ったものである。
そして、特にその中の『寺村左膳道成日記』の読み直しを通して、
そこに眠っていた、これまで語られることのなかった新事実を見つけ出し、
近江屋事件の真実や真相、真の黒幕を解き明かし、
事件の歴史的な評価をしたものである。
寺村左膳とは土佐藩の山内容堂の側用人で
大政奉還の建白書の草稿を執筆した人物である。」(「まえがき」より)
古高俊太郎の供述調書の全文が載ってる本ってある?
817 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/08(水) 01:13:01.98 ID:IPdDWivC0
NHK-BS時代劇ドラマ『新選組血風録』
[ 2011年4月〜6月 NHK BSプレミアム放送 ]
幕末という変革の時代。その大きな流れに逆らって、「武士」であることに異様ともいえる情熱を傾けた男たちがいた。
剣の腕ひとつでひとかどの武士に成り上がった男たちは、新選組として日本の行く末を左右する苛烈な戦いの最前線に身を投じたのである―――。
司馬遼太郎原作「新選組血風録」は、混乱の時代を懸命に生きた新選組隊士たちの激しく切ない人生を、毎回読み切りの形式で描く<新選組外伝>。
時代劇初主演の永井大が、新鮮かつダイナミックなヒーロー土方歳三を演じる!
DVD-BOX好評発売中
http://www.toei-video.co.jp/DVD/sp21/shinsengumi.html
NHK-BSはNH犬の中でもとびきり歴史捏造ぶりがひどい
● ▲ ★ ● ▲
2月29日
サッカー日本フル代表
2014年ワールドカップ アジア3次予選 第6戦
日本×ウズベキスタン (愛知 豊田スタジアム)
● ★ ▲ ★ ●
燃えよ剣じゃなくて
燃えよ京だよな
821 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/06(金) 10:51:14.48 ID:P2RCSl9/0
司馬から歴史入ると近藤に偏見ができる
822 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/16(月) 00:34:22.59 ID:Ljd3bRTK0
斎藤一って新撰組より会津藩に尽くした人ってイメージがある。
警官になって政府側に行った後も会津藩とは親しかったんだっけ?
823 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/18(水) 18:13:52.33 ID:aP7mMZxP0
>>822 斎藤一は旧幕府脱走軍(新撰組)と決別してからあとは
会津(斗南)藩士の身分を与えられて廃藩置県をむかえているね
たしか会津の殿様や重臣たちの世話で就職や結婚もしている
そんでるろうに剣心と戦うのか…。
825 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/23(月) 01:03:04.66 ID:UsptwBOS0
>>823 政府側である警察への就職も会津が協力したの?
…漫画だったら会津側から新政府へのスパイを頼まれて…とかなりそう。
826 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/23(月) 03:20:27.13 ID:bpdYzao20
>>825 ごめん就職については正直詳しくは知らないんだけど
斎藤一が警察に奉職した西南戦争の時代には
旧会津藩士も何人か軍隊や警察で偉くなっていたこと
いきなり下級ながら幹部になってること
士族は大抵旧藩の世話で就学や就職する時代だったこと
などの理由から会津の人脈で職業を得たって可能性は高いかな
っと勝手に考えた
>>826 ああ、そういうことか。就職の経緯については詳しく分かってないみたいだからね。
しかし殿様や家老の仲介で結婚なんてすごいよね。
斎藤って男は謎の多い人物だけど信頼出来る人だったんだな、と勝手に想像してしまう。
ガキかなんかに、戸口から出る際は
「足から」
と言った言わない話は斉藤さんだっけか?
829 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/30(月) 08:25:07.34 ID:CqSyuhZX0
砲煙天に渦巻きて
ああ鶴ヶ城落ちたるか
心は千々に逸れども
折れたる剣をいかにせん
死をもて守るこの砦
ああ破れたる哀しさよ
主君に殉ず他無しと
覚悟を定む十六士
飯盛山の頂を
ああ血に染めて散りたれど
忠烈永く香を止めて
誉れを残す白虎隊
830 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/14(月) 23:56:40.56 ID:KsX+Qp2t0
831 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/15(火) 21:14:36.00 ID:riAvQz9a0
832 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/29(火) 16:58:32.15 ID:4UELASye0
斎藤一について卒論書こうと思って色々調べてるんだけどやっぱり御陵衛士へスパイにいったってエピソードすら信憑性が無いの?
それとお勧めの資料があったら教えて欲しい…斎藤一についての資料はどの本が一番いいのかわからなくて…
834 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/30(水) 10:14:18.16 ID:oCzuHGS+0
新撰組に攘夷の志があったなら、薩長と同志になるはずだが。。
やったことは長州系攘夷派浪士の弾圧。
そもそも会津の傘下に入った時点で間違っとる。志と行動が始めから矛盾しておるからな。
つまり近藤・土方らには功名の野心があるだけで、政治思想などハナからなかったという事になる。
山南さんの末路を見ればわかるだろう。
835 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/31(木) 19:34:53.70 ID:K+fCOPJu0
治安維持を目的とした特殊部隊に政治思想なんて要らないだろw
>>832 もしスパイじゃなかったら生きていないと思うが?
837 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 13:55:59.33 ID:k1wDvzIc0
>>832 新撰組で卒論書けるのかが疑問
史料が乏しいから無理だよ。教授に散々に叩かれて終わりw
自分も836に同意。
斎藤は新選組の中でも特に難しいと思うな。
まず資料自体がほぼ無いし、不確定事項が多すぎて諸説の域を出ない。
結論の持って行き方も相当難しいと思うよ。
ごめん837に同意の間違い。
840 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 21:16:34.73 ID:2Go7fJBe0
>>832 自分の担当教授曰く新撰組や戦国武将で書きたいってヒトには好きな気持ちだけ先走り
>>838が指摘しているように結論にもっていけずに諦めてしまうヒトが多いんだそうだ
だから最後まで書いて単位をとって欲しい教授はお薦めしない
ようするに研究素材としての新撰組が特に扱いづらいといのではなくて
余計な仕事や気苦労を増やしたくない大学側の事情で新撰組のテーマは嫌煙されている
そもそもはっきりと分からないとこや史料が少ないとこから調べるのが学問なわけだし
他人の意見は気にせず大学生活にしかできないことなんだし好きに書いたらいいと思う
自分も卒論書いて思ったが結局は書き手の着眼点と根気強さの問題だな
斎藤一といっても具体的にどういうテーマなのか分からないからあれだけど
宮地正人さんや平化新さん三野行徳さん辺りの論文は基礎として読んでいて損はないかも
あと作家さんだけど相川司さんの『新選組隊士録』という本が役立つかも知れないよ
新撰組関連って重要な資料がほとんど明治政府に焼かれてるから
実際の姿が大筋しか分からないんだよな
だから作家が想像働かせてフィクション書きまくりでこんなに人気出たんだろうが
近藤はともかく、土方の権限や思想もよく分かってないと知った時はビックリしたwww
同時に司馬を始めとする作家の想像力のたくましさには恐れ入ったよ
斎藤一がほとんど過去を残さなかったのって、やっぱり賊軍にいたのを公にすると色々不都合があるからだったんだろうか?
永倉、よく板橋に近藤の碑なんて建てられたな…
単に深く考えてなかったのかもしれないが、あんだけあの時世で記録残してのは凄い
会津落城のどさくさ、会津藩家老らが記録や書類を殆んど焼却処分したので
会津側の史料はあまり残ってないって、磯田道史が言ってたけど
その時燃やした中に新撰組関連の史料も含まれていたかも
843 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/05(火) 00:06:24.74 ID:gfTgGfoK0
>>841 明治7年8月18日付の太政官達第108号で「賊軍」戦死者の祭祀が許可されたこと
そして新撰組と親しかった陸軍軍医総監松本順はじめ政府高官の後援を得られたことで
どうにか永倉新八は板橋の碑を建立できたそうだ
永倉以外の旧新撰組関係者もこの前後から名誉回復に奔走しはじめていて
斎藤一なども自ら筆を執らなくても永倉や島田魁に情報提供するかたちで
間接的に自らと新撰組の軌跡を伝えたようだよ
明治政府の記録に新撰組屯所および残されていた物品を押収したってある
記録が失われたとすればこのときなんだろうなぁ・・・
まだまだ発見&翻訳されてない史料はあるから今後に期待というところか
意外と新撰組に関しては史実発見されない方が夢があっていいんじゃないかと最近思うようになった
もちろん知りたいことはいっぱいあるが…
板橋は今でこそ周り建物だらけだけど
当時は草ボーボーの何もないとこだったんだよね
そんな中にポツリと建つ碑を想像すると泣ける
しかし、わざわざ近藤と土方の名前を正面に並べて書いてあるってことは永倉から見ても仲良かったんだろうな
いろいろ創作があるからこそ、実像を知りたいな
近藤の書簡集とか出してくれないものか・・・
846 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/06(水) 01:12:22.20 ID:te2xTINX0
新撰組は2ちゃんじゃ俗っぽい勧善懲悪みたいなハナシや陰謀論のネタにされてばっかだけど
それでも最近ではリアルの世界じゃ十分アカデミックな議論が可能になってきているわけだし
新撰組関係史料の再整理や発掘作業が進んで真の意味での『新撰組史料集』を刊行して欲しいな
勝海舟研究で知られる松浦玲先生の「新選組」
東大史料編纂所の宮地正人先生の「歴史のなかの新選組」
の2冊を読んでみた。
定番の創作で飾られていない新選組の実情が感じ取れる読み応えのある内容だった。
でも愛好家の創作が引用されてさらなる創作を生み出して、
いわば誇張が定説化してしまっている現在では
こういった学術面からのアプローチの書籍は物足りないと信者に批判されてしまうんだろうな。
坂本龍馬好き的に見廻組は日本の将来に
大いにマイナスになることした酷い集団でしかないなあ
でも人気者殺した割にあまり悪く描かれる事ねえのが不思議
明智光秀なんて一時期は酷いもんだったのになあ
849 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/21(土) 22:00:01.38 ID:fQxGzBLP0
仏敵のはずの高幡不動尊の境内で饅頭を売る高幡まんじゅうのオーナーは
池田大作のことばを自分のプログで紹介する創価・公明党の日野市議!
http://www.komei.or.jp/km/hino-minegishi-hiroyuki/ 東京都日野市の市議会議員 みねぎし弘行 「ことばの道しるべ」
新しい仕事は自分の枠を破ることから始まる 2011.4.9
青春の失敗とは、失敗を恐れて挑戦しないこと。2011.2.23
人間として、確かな目的をもって、生き抜く人こそ、偉大であり、幸福です 2011.2.16
挑戦なくところに青春はない。あくなき挑戦の気概にこそ、青春は脈動する 2011.2.5
みんな「恩師」の言葉だそうだが、検索してみれば一発でわかる。
全部 池田大作先生のお言葉だ。政教一致の違憲政治結社、
公明党の市議が高幡まんじゅう「松盛堂」の オーナーなのだ。
http://www.syoseido.co.jp/
>>834 京都政治から長州が失脚して一会桑になってからは、慶喜も腹の中はいざ知らず公的には攘夷を主張してるべ
つか孝明帝を奉じるならそうなるしかない罠
もちろん功名の野心は否定しないがw
>>843 その押収資料を元に残党を追及するとかそんなことも無かったようだし、多分うっちゃって置かれたんだろうなぁ
どっかからひょいと出てきたりしないかな
851 :
森公平:2012/09/22(土) 04:11:05.69 ID:Vrjtq1ciI
新撰組って今でいうAKBだよな
近藤勇 大島優子
沖田総司 前田敦子
土方歳三 高橋みなみ
ってとこかな
akbだと分からんから
WWUの戦艦に例えてくれ
谷田川惣 ?@yatagawaosamu
http://twitter.com/yatagawaosamu 歴史分野で私の師匠にあたる八幡和郎先生の新刊がまたまた出ました。『本当は謎がない「幕末維新史」』760円+税。
案外知られていない歴史の真実がたくさん記されています。新撰組は会津藩が雇った用心棒、会津藩士は会津人ではなく信州人で地元民から嫌われていた、
龍馬はバリバリの倒幕派、等々。
坂本龍馬を勝手に穏健派にするから暗殺に謎が出てくる。龍馬は最後まで尊皇攘夷派で倒幕派。池田屋事件は無茶苦茶で京都人は新撰組が嫌い。
土佐の郷士が悲惨な差別を受けていたのはウソ。等々。
854 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/13(日) 23:51:36.01 ID:Rf7gF9m70
元新撰組の中島登が戦友を描いた絵を見て「まるで歌舞伎役者の錦絵じゃん」と思った。
要するに自分たちをヒーローに見立てて描いているわけで。
855 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/14(月) 02:11:41.43 ID:z4RTaysR0
竜馬が討幕派なんて当たり前の話だよ。
大政奉還を徳川延命のための運動と捉えるから竜馬観を見誤る。
大政奉還は王政復古と新政府樹立を宣言するための重要な布石であった。
竜馬は殺されなかったら海援隊を解散して土佐閥の重鎮になっていたであろうし、
後世でこれほど取り沙汰されることもなかった。
856 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/27(日) 06:32:36.95 ID:B5yUY2U30
>>854 中島登は赤穂浪士の錦絵である「誠忠義士伝」を参考に「戦友絵姿」を書いたとは言われてるね
新撰組を中心に戦死した戦友たち(誤解されがちだけど「絵姿」は新撰組だけを描いたものではない)の雄姿を
君主に忠節を尽くした武士の鑑と評される赤穂義士を重ね合わせて描くことが
彼なりの死んだ戦友の弔い方であって国家からの賊軍という評価に対する精一杯の抵抗の意思表示だったのかも
文章や石碑ではなく絵に生きた証を残すっていう方法はけっこう珍しくて貴重な史料だね
中島は無骨な剣客というか、周囲よりも近代的というか、新しいもの好きの洒落たセンスの人だったようだ
維新後も開墾事業、質屋、葉蘭栽培、鉄砲販売など色んなことに挑戦して、それなりに成功したり
857 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/30(水) 16:59:18.81 ID:M3daunu80
白虎隊二十士をそれぞれ、昆虫に例えるとどんな虫になりますか?
また、蝶系は誰で、甲虫系は誰で、トンボ系は誰で、バッタ・キリギリス・コオロギ系は誰で、
蜂・蟻系は誰で、セミ・カメムシ・アメンボ系、蝿・蚊系はそれぞれどの隊士に当てはまりますか?
答えてください。
858 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/01(金) 22:30:07.28 ID:xLWwCGev0
>>857 蝶系は伊藤俊彦(アオスジアゲハ)、間瀬源七郎(オオムラサキ)、簗瀬武治(モンキチョウ)かな。色白の美少年だからね。
甲虫系なら篠田儀三郎はホタル(幼少時代のエピソードの印象が強くて)。
あと津川喜代美も。優しげで儚げなイメージがあるから。カミキリムシなら野村駒四郎。熱血漢だから。
伊東悌次郎と井深茂太郎はミツバチ。可愛いから。飯沼貞吉はコオロギかな。安達藤三郎は
クツワムシ。大柄だから。有賀織之助はカナブン。津田捨蔵はウマオイ。永瀬雄次はキリギリス緑だから。
林八十治は鈴虫。黒っぽいから。後は皆トンボ系。
859 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/02(土) 16:59:04.85 ID:sTIxUslE0
>>398 >>400 >>402 近藤勇=クワガタ…強そう、エラが張ってるから
土方歳三=カラスアゲハ…黒を基調としていて尚且つ綺麗
沖田総司=シオヤトンボ…細身だから
まあ、こんなもんでしょう
池田屋最高〜♪
862 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/10(日) 21:09:56.72 ID:v3ZZve0K0
アホがおる
新撰組を雇ったばかりに、会津は辛酸なめ子という話だったのに
新撰組最高〜♪
864 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/10(日) 23:17:36.61 ID:v3ZZve0K0
アホ
白虎隊が対峙した薩摩軍の指揮官は18歳って本当ですか?
866 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/02(日) 09:44:15.38 ID:LdMu353M0
いそっぷw
867 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/03(月) 14:16:35.94 ID:YlJopilf0
ペギー葉山の祖父は元白虎隊
868 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/04(火) 08:37:08.81 ID:aas2eSRUO
おれは現ニート隊
869 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/10(月) 12:11:11.71 ID:gNei6TBP0
870 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/15(日) 11:14:04.37 ID:v47IJ/hf0
ビールうまい
ドライブ
暑いお前らとっととバイト
871 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/26(土) 22:10:30.88 ID:At62i5fr0
白虎隊の自決方法が
顔を汚さない割腹という武士の作法ではなく
喉を突く女の作法だったのはなぜでしょうか?
872 :
諸橋 嘉久:2013/10/29(火) 09:21:02.30 ID:eaxkoX5J0
飯沼貞吉は年齢を詐称して、白虎隊に入隊した嘘吐きです。
酒井峰治の手記が正しい。
介錯人が居なければ、切腹で数時間は生き地獄を味わいます。
>>872 一部では集団自決ではなく、仲間割れ説も耳にします。
背中の傷というのは薩軍との戦闘中に負ったものではなく
仲間割れの際に負ったといいますが。
どちらだと思いますか?
874 :
諸橋 嘉久:2013/11/01(金) 07:03:56.63 ID:m8LKS/mY0
逃げる白虎隊士の背中に薩摩の示現流剣士の一撃が掠っただけでも示現流剣士は調子に乗り、
白虎隊士に更に斬撃を浴びせるでしょう。
白虎隊士は戦死するので、飯盛山に辿り着けません。
酒井峰治は飯盛山に辿り着いて居ません。
白虎隊は飯盛山で解隊状態に陥り、集団自決ではなくて、
多くても三名のグループで脱落して自決したのでしょう。
背中の刀傷は年長者の気が変わり、年下の白虎隊士に「薩摩の隊長と刺し違えに一緒に行くべ」と強要して、
飯盛山から薩摩の隊長と刺し違えに向かう年長者の白虎隊士を背後から斬り付けた死にたくない気の弱い年下の白虎隊士
深手を負って激怒した年長者の白虎隊士が裏切った年下の白虎隊士に斬り付けた。
上記の事が起きて居たのならば、仲間割れも有ったのでしょう。
875 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/04(月) 12:01:52.22 ID:5aTJ4fwy0
>>874 やっぱり味方にやられた傷っぽいのですね。ありがとうございました。
白兵戦なんてほとんど起きてねーんだけど。小説脳が。
879 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/20(水) 00:03:50.81 ID:4O5CYKKH0
薩摩の中村半次郎と沖田総司の対決見たかったな
殺し合いの途中でやはり沖田が吐血したため、半次郎がこれでは意味がないと延期にしたとか
その後、半次郎は明治になってからも幕末の決着をつけようと、密かに沖田の所在を配下に探させたそうだが、
ついに西郷の下野までに見つからず、心残りながら鹿児島に帰ったそうだ
さらにその後、西南戦争では上京して決着をつけるのを楽しみにしていたのだが、最期を城山で迎えたため、
ついに沖田が生きていると思い込んだまま、この世に未練を残して死んで行ったそうだ
880 :
諸橋 嘉久:2013/11/20(水) 15:07:51.09 ID:w+TW2iQU0
881 :
諸橋 嘉久:2013/11/20(水) 15:20:25.58 ID:w+TW2iQU0
>>880 刀槍で銃隊に立ち向かって37564。
新政府軍が刀をふるったのは突撃や追撃の際、それも一部。
第一刀槍戦はしないように通達されており、後半戦になると刀が邪魔で背に背負っている。
>>881 示現流が初太刀のみというのも作り話だけどな。
884 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 01:48:38.07 ID:5tVz7U8r0
当時の侍であれば島津家の示現流は知っていても、多摩の百姓由来の天然理心流って何?ってバカにしてたと思う
885 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 20:21:50.42 ID:Zv8tRu0X0
講武実用流 江戸幕臣(東京都)
中西派一刀流 江戸の浪人(東京都)
天真一刀流 江戸高崎藩士(東京都)
天真白井流 江戸岡山藩士(東京都)
一刀流高柳派 江戸幕臣(東京都)
北辰一刀流 陸奥の富農(宮城県) →明治大正最強流派(下江=栃木、門奈=茨城)
浅利派一刀流 下総松戸の町人(東京都)
一刀正伝無刀流 江戸幕臣(東京都)
直心影流男谷派 江戸幕臣(東京都) →剣聖(男谷=東京)、三剣士(島田=大分)
直心影流長沼派 江戸沼田藩士(東京都)
神道無念流・戸賀崎流 武蔵埼玉郡の富農(埼玉県)
神道無念流・岡田派 武蔵埼玉郡の富農(埼玉県)
神道無念流・斎藤派 越中仏生寺の百姓(富山県)
鈴木派無念流 江戸尾張藩士(東京都)
扶桑念流 武蔵熊谷の町人(埼玉県)
不二心流 肥前島原藩士(長崎県)
鏡心明智流 駿河沼津藩士(静岡県)
心形刀流 江戸幕臣(東京都)
馬庭念流 上野馬庭の富農(群馬県)
本間念流 上野赤堀の富農(群馬県)
神道一心流 上野利根郡の富農(群馬県)
柳剛流 武蔵葛飾郡の富農(埼玉県)
天然理心流 武蔵多摩郡の富農(東京都)
甲源一刀流 武蔵秩父郡の富農(埼玉県) →三剣士(比留間=埼玉)
法神流 上野勢多郡の富農(群馬県) →昭和最強流派(持田=群馬)
気楽流 上野緑野郡の富農(群馬県)
立身流 下総佐倉藩士(千葉県)
大石神影流 筑後柳川藩士(福岡県) →三剣士(大石=福岡)
加藤田神蔭流 筑後久留米藩士(福岡県)
示現流 薩摩藩士(鹿児島県)
薬丸示現流 薩摩藩士(鹿児島県)
886 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/14(月) 18:07:55.27 ID:yHrS7jcd0
>第一刀槍戦はしないように通達されており、後半戦になると刀が邪魔で背に背負っている。
具体的にはいつ、どういう通達があったの?
手代木直右衛門の私兵ばかり
>>886 www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/military/military2.htm
>>91 新選組がロマン(笑)
ネトウヨもロマンですな(笑)
890 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2015/02/03(火) 22:51:47.53 ID:mjILh1tz0
先週末に長崎に行ったのは、長崎歴史文化博物館で開催された
シンポジュウムに出席するためだった。元はといえば、私が所属
していた「戊辰戦争研究会」が企画したものだった。
『龍馬の望まなかった戊辰戦争』というテーマで作家の星 亮一氏
が講演をするはずだった。しかし、戊辰戦争研究会が解散してしま
った。(実は主宰者の星亮一氏が偽装解散して、路線の違う役員
を閉め出してしまった。その後、同じ名称で新たに?再出発してい
るのだが、会費の大半を着服するという詐欺まがいの問題を起こしている)
http://qlove-1947.at.webry.info/201010/article_17. 星亮一は会津や新撰組を美化して
薩摩、長州を絶対悪に仕立てあげてる
会津プロパガンダ制作者の中心です。
坂本龍馬暗殺首謀者は甲賀組棟梁 楯岡道雪
野口武彦 のぐち-たけひこ
1937−昭和後期-平成時代の国文学者,文芸評論家。
昭和12年6月28日生まれ。早大在学中,学生運動のリーダーとして六○年安保闘争に参加。
星亮一の捏造を評価してるドサヨクwww