長嶺秀雄『戦場 学んだこと、伝えたいこと』(並木書房・1997)、p.199 ll.6-9
http://www.amazon.co.jp/dp/4890630805 >何と言っても銃後の中心は、政治の中枢に立つ人である。日露戦争では、
>元老の伊藤博文でさえ「戦いが不利となれば、兵卒となって銃をとり海岸で
>ロシア軍を防ぎ、砲火の中で死ぬつもりだ」と、その覚悟を示した。また
>第一次大戦では、フランス首相クレマンソーは、前線の状況を知るため
>第一線から300メートルのところに進出している。
伊藤博文と言えば、朝鮮で暗殺されたハト派という印象が強いが、国難に
対しては断固として立ち向かっている。それもその筈、彼は幕末に吉田松陰
門下で倒幕を心に抱いて文武両道共に磨き、当時の権力者に歯向かう程の
男である。どこの馬の骨ともしれぬ少年だったのだが、一代で有力者に成り
上がった。この点、二世三世の政治家とは全く異なる。
「政治家」という言葉の重みの違いを思い知らされる、というものだ。もっとも、
政治家の存在が軽い社会は、幸せな社会ではある。その幸せがそのまま
保たれ続けるかどうかは別にして……。