私は基本的には西郷に対して同情的な心情を持っているけど、
西郷が先々の見通しを持った有能な政治家だったとか、自分の政見を実現するために
地道な折衝や粘り強い交渉をするタイプの人間だったとは毛頭思わない。
西郷の一番の凄みってのは、周囲の人間を推服させる度量なり器量なりの大きさにあったと思うし、
その器量に惹かれた集まった人間が有能だったかそうでないかで、その事績や業績への評価が
かなり変わってしまうという性質を持った政治指導者だったと思う。
維新の頃に西郷の元に集った人材はそれこそ大久保を筆頭にそうそうたる面々が居たけど、
戊辰戦争というある種の暴力革命(既存秩序の破壊行為)という極限状況が終わってからの、
新構想に基づく国家建設(新秩序の創造過程)という局面においては、
多用な人材を一つの目的に向かって糾合するだけの内的外的要因が薄れてしまって、
人望でもって集団をまとめ上げるという西郷の持つ「特異な力」の重要性が
相対的に低くなってしまった、逆に大久保や木戸らの実務家の活躍する局面が
相対的に大きくなっていった、というのが、この時期の西郷と彼を取り巻く環境の
もっとも大きな変化だったと思ってる。
>>813 ここしばらくの西郷についての説明のなかじゃいちばんわかりやすいね
このぐらいちゃんと述べてくれなきゃ議論にもなりゃしない
人望人望というけど、同郷人以外には通用しない人望って、本当の人望と言えるの?w
>815
征韓論政変時に西郷の側に付いたのは全員が全員同郷人って訳ではなかったでしょう。
佐賀の江藤や土佐の板垣などがいたわけで、西郷の存在が薩摩士族内部でしか意味を持つものでは
無かったとは言えないと思う。
西郷下野後の政局運営が難しかったのは、西郷と薩摩だけが問題だったのではなくて、
彼等に呼応して各地に潜在していた不穏な勢力が蜂起する可能性を秘めていたからだった。
段階的にそれらの反乱が、佐賀・熊本・萩と小規模なレベルで暴発してくれたおかげで
個別に対処できたし、その過程で鎮台兵の強化と軍事組織・兵站運用の整備を行えたのが
明治政府にとってプラスになったから、西南戦争での一方的勝利があったわけで。
歴史のイフの話になってしまうけど、征韓論政変での下野時に民選議会建白運動に名を連ねていたら、
西郷がその中心的存在として祭り上げられた可能性は高いし、大久保と岩倉を中心とした明治政府に
相当なプレッシャーを与えうる存在になっていたんじゃ無かろうか。
幕末の西郷は諸藩に名が知られた名士だったから、同郷人以外にも人望があったとは言えるんじゃないかね
>>813 のいうことに一理あると思うのは、国家建設が始まったとき台頭してきた大隈、伊藤、井上あたりは、
西郷的な「よく分からんが大きい! すごい!」的なものに惹かれるタイプではないよな
大久保や木戸的な、現実的な能力や識見、具体的なビジョンを持つ者に惹かれ、尊敬する連中だ
(そういう意味で、大久保が真に明治政府で人望を得たのは洋行後といえる気がする)
山県は、軍人の側面が強いためか西郷的人望に憧れがあったのかと思えるが
> 征韓論政変での下野時に民選議会建白運動に名を連ねていたら、
この時点での民選議院設立運動は、民権を考えていたというよりも
「薩長以外の俺たち士族にも権力よこせ運動」的な色が濃かったと思うから、
西郷がそこに名を連ねるのはまったく完全に有り得ないとはいえないかもね
このころは反政府勢力に含まれるさまざまな立場が混沌として未分化だから
ただ西郷は、一旦名を連ねたとしてもすぐに嫌になりそうな気がするw
なんかさあ、西郷個人に人望が皆無だったとは言わないけど、
薩摩士族の旗頭として畏れられたり、利用されたりということで、
西郷個人の度量や器量で官軍、新政府を束ねていたみたいな説明の仕方はどうかと思う
820 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 04:05:18.91 ID:zJctahHJO
>817
>国家建設が始まったとき台頭してきた大隈、伊藤、井上あたりは、
>西郷的な「よく分からんが大きい! すごい!」的なものに惹かれるタイプではないよな
明治政府内部で意識の分裂が起こったのは、この辺に起因する要素も大きい気がする。
対旧幕府・奥羽諸藩との戦闘を行う中で、トップに座っている人間があっちこっちからの
意見や発言に対してブレたり妥協したりせずに、どっかりと構えて全体を統率することで、
新政府軍が一個の有機体としてその意思を統一し、最後の函館五稜郭まで持って行くことが出来た。
そうした一連の軍事行動の過程において、西郷が見せた軍事組織の掌握と統率の手腕ってのは
けっして生やさしい代物じゃなかったし、京都で事務的な仕事や諸制度の設計に携わっていた
文官的な側面の強い大久保・木戸をはじめとした伊藤・大隈・井上といった面々に対する、
「あの大変なときに血を流してもいない連中が何を言うか」みたいな反発ってのも、
相応にあったんじゃなかろうかって気がしてる。
たとえとしてはあまり上品な例じゃないけど、こんなパターンを考えてみては如何だろうか。
ヤクザ同士の抗争の後に一方が勝ち、勝った側の組がその組織を拡充して行くにあたって、
実際に戦闘の矢面に立ち、その器量でもって武闘派集団を纏めた大親分に対して尊崇の念を
持つのはごく自然なことだと思うし、抗争終結後に組織を整備して各地から上がってくる
上納金やらみかじめ料やらを運用して利益を出すことに長けた知能派・経済ヤクザ的な
集団に対して、現場レベルの構成員からの感情的な反発を受けてしまうこともよくあること
という構図。
組織としての円滑な運用や合理的な金の配分といった「論理的」な面に対して表だった反発は
しにくいけど、明瞭な形で言語化しにくい「荒くれ者をまとめ上げるだけの器量」という部分を
評価したい・評価してほしいという感情もまた、伏流として存在したのではないかとも思うんだ。
うーん、政治家には政治家の戦場があると思うがな。
大久保は精忠組の地位を上げる為にそれこそ命がけで働いてるし、
木戸や伊藤は幕府や攘夷派の刺客にしょっちゅう狙われてたし、
井上がその刺客に滅多切りにされて九死に一生を得た話は別に隠してなかったろうから、
「血を流してもない連中」とは大西郷も思わなかったんじゃね?
その「西郷の人望」についてちょっと知りたいなあ 素朴な疑問として
自分のイメージでは、少なくとも戦争が始まる前の西郷の人望ってのは、
おもに志士間の、政治的な人望だよね? もちろん殿様ズにも面識あるけどメインは志士たち
で、戊辰の段階でも、西郷が軍事的な指導をしていたのは途中までであって、
途中からは大村が引き継いだし、むしろ西郷は勝との交渉とか政治面で動いたよね。
兵士間では薩長間の反発みたいなのがあったっていうのもあるから、
薩摩以外の軍人の象徴的な人望は、明治元年の段階ではさほどなさそうに思うんだけど。
西郷を、心理的なものも含めていいけど支持した層って、具体的にどんな推移してる?
>818
>このころは反政府勢力に含まれるさまざまな立場が混沌として未分化だから
じっさい、国としてまだまだ未整備だったし混沌としてたよね。
なまじっか、それまでの徳川を中心とした幕藩体制がそれなりに盤石だったから、
それを崩してしまった反動がものすごくって、組織なり制度なりがまとまってなかった。
これはあくまで個人的な感慨なんだけど、山田風太郎の一連の明治モノの小説を読んだとき
「兵部省」だの「内務省」だのの官僚達が事務を執る姿を、ちょんまげを結って袴をはいたまま
大名屋敷の畳の上で文机に向かって巻物に筆で書き物をする様子、として描いているのを見て
ちょっと衝撃を受けたんだ。
よくよく考えてみれば、明治の初年頃だったら大名屋敷が明治政府によって接収された、
断髪令がだされたのはけっこう後のことで、それに従わなかった人間もけっこう多かった、
洋紙にペンでものを書くという習慣が根付いたのもけっこう後のこと、という諸々の
知識は持っていたんだけど、「○○省での執務」という語感と、上記の大名屋敷での
光景とが上手く繋がらなかった。
だから上記の事柄を飲み込んだときには、それまで持っていた「明治政府」って
組織へのイメージに関してはかなりの変更を余儀なくされたよ。
少なくとも、明治の初年〜10年ころまでの文化や習慣も含めて江戸を引きずった東京の姿と、
明治の20〜30年代以降の、近代都市化が進んだ東京の姿とはかなり違ったものとして
イメージして捉えておく必要があるってのを。
>ただ西郷は、一旦名を連ねたとしてもすぐに嫌になりそうな気がするw
ここも同意(笑)
基本的には薩摩人特有の「議を言うなっ!」って気性を多分に持ってただろうから、
あのぐだぐだな集団にいつまでも付き合っていたとは思えんからな〜
「あの大変なときに血を流してもいない連中が何を言うか」ってのは、維新の動乱を
くぐってきた薩摩・長州・土佐の志士出身の連中が、このころの民選議会建白運動に
集まった連中に対して言いたかった言葉でもあったろうからね。
特に後藤・板垣なんかは土佐勤皇党を弾圧していた側の立場だし、坂本や中岡と親交が
あった西郷にしてみれば、思うところはいろいろあったんじゃないかって気がする。
「あの大変なときに血を流してもいない連中が何を言うか」っていうのは
単に自分が関わった戦乱だけが血の流れた大変な戦だとでも言いたいのかって感じで
そこから器の大きさなんか伺い知れないけどな
どこの陣営の人間だって、方向性は違えど命がけで大変な政治活動を行ってきただろうに
>822
>大久保は精忠組の地位を上げる為にそれこそ命がけで働いてるし、
>木戸や伊藤は幕府や攘夷派の刺客にしょっちゅう狙われてたし、
維新に至るまでの政治的な暗闘劇やテロ・暗殺の横行ってのはもちろん大きいんだけど、
それにあんまり関わらなかった人々にとっては「物騒な話だなぁ」というくらいの
感覚で捉えられていて、あんまり切実さはなかったんじゃないかな、とも思うんよ。
あの当時にそうした先鋭的な問題に首を突っ込んでいたのは、武士階層の中でも
ごく少数の突出した思想の持ち主達だったし、武士や大名の大多数は日和見的な
態度を取っていて煮え切らない姿勢だった人々の方が圧倒的多数だったから。
そういう煮え切らない人々を戦乱の渦の中にたたき込み、「幕府に付くか朝廷に付くか
旗幟を鮮明にしろ、もしも逆らおうものならぶっ潰すぞ」という睨みをきかせたのが
西郷だったわけで、その強烈なメッセージに震え上がった人々にとって見れば、
その存在感ってのは絶大なものが有ったと思うよ。
大久保もそうした局面で大きな力を発揮したけど、薩摩にとって対外的な「顔」だったのは
やっぱり西郷の方だったからね。
第一次・第二次長州討伐時の幕府もそうした軍事行動を行ったのには違いないけど、
「出兵に従わなかったヤツは潰す」みたいな強権的な態度は取れなかったし、
そもそも抵抗した長州を潰そうっていう征長戦争自体で敗北を喫したわけで、
多くの藩にとっては「どっちに付くか決めろ、ただし俺の側に付かなければ潰すぞ」
という強圧的なプレッシャーってのは、基本的にはこのときに初めて味わった体験
だったんじゃなかったかな。
>「血を流してもない連中」とは大西郷も思わなかったんじゃね?
いや、>821での発言は、あくまで西郷の周囲に集まっていた薩長以外の出身者たちの
発言を要約していったつもりなんよ。
薩長の出身者にしてみれば、木戸・伊藤・井上らがくぐってきた修羅場の数や
切り抜けてきた危難の重さってのはよく分かっていたと思うけど、鳥羽伏見以後に
この戦争に参加した人間達にとっては、今ひとつ「実感を持っては」理解されなかったん
じゃないかなってね。
逆に、鳥羽伏見以後に東征〜上野戦争〜奥羽戦役〜五稜郭といった軍事行動に携わった
人々が感じていた苦労や、前線で死と向き合う日々を過ごす恐怖、気性が荒くなって
暴虐を働くようになる兵士達をまとめ上げる大変さってのが、京都にいて事務を取ったり
対外的な折衝を纏めたりしていた人々には、こちらも「実感を持っては」理解され
なかったんじゃないかなってね。
九州・中国・四国・近畿の平定はそれほど大変ではなかったし、東征ほどの大規模な
軍事衝突ってのも無かったようだから。
なーんか見てて思ったけれど、
・各藩のいわゆる士族
・薩長のいわゆる士族
・薩長の下級士族・兵士
ってのは、分けて考える必要がありそうだなあ…まとめると余計こんがらがる
もちろんもっと細分化することもできるわけだが
各藩の〜 ってとこは、西軍東軍の別も当然あるしね
>「兵部省」だの「内務省」だのの官僚達が事務を執る姿を、ちょんまげを結って袴をはいたまま
>大名屋敷の畳の上で文机に向かって巻物に筆で書き物をする様子、として描いているのを見て
>ちょっと衝撃を受けたんだ。
それ、自分も史料を読んでてときどき引っかかるものがあったんだけど、
『武士の家計簿』の映画版で、大きな座敷で加賀藩士がずらりと教室式に並んで、
文机に向かって算盤はじいてるのを見て、「これだ!」と思ったんだわ。
そうか、明治初年の政務の様子もこれだわ、と。
内閣の各省管理強化のための集合庁舎建設が大蔵省より建議されたのは確か明治三年だったか。
スムーズにできたとは思えないから、実際作られていったのは明治五年ごろからかな?
それまでは大名旗本屋敷とか江戸城とかで執務だよね。
>>826 あんたさっきから突っ込まれた部分を西郷に都合のいいように解釈してるだけじゃね?
あんだけ他藩の動向にピリピリしてた時代に「物騒な話だなあ」ってそんな感想ないでしょ
>823
>少なくとも戦争が始まる前の西郷の人望ってのは、おもに志士間の、政治的な人望だよね?
>で、戊辰の段階でも、西郷が軍事的な指導をしていたのは途中までであって、
>途中からは大村が引き継いだし、むしろ西郷は勝との交渉とか政治面で動いたよね。
個人的な見方かもしれないけど、戊辰戦争でのメインの戦闘は、鳥羽伏見から東征を経ての
上野戦争までだったんじゃないかなって思ってる。
その後の奥羽戦役に関しては、個々の戦場での戦闘の激烈さってのはあったにしても、
政略・戦略にまたがっての「のるかそるか」みたいなシビアな結果が求められる戦闘は
無かったように思うんだ。
既に静岡から福井あたりまでを結ぶ線から西の藩は完全に新政府に恭順の意を示していて、
越後から奥羽以北、ぎりぎり北関東あたりから上のラインの諸国が討伐対象の相手だし、
その東北諸藩ですら「朝廷」に対して逆らうという大義名分は掲げられず、せいぜい
「薩長が政府を壟断している」という形での非難しか投げかけられなかったから、
全体としての帰趨は既に決していたといっても良いんじゃないかな。
上野戦争が官軍方の完全勝利で終わるまでは、まだまだ関東近辺は不穏な空気に満ちていたし、
幕府海軍の動静も測りかねるものがあったから、あそこで官軍がこけていたら新政府から
離反しかねない連中がかなりいた。
大村が上野戦争の総指揮を執って彰義隊を壊滅させた功績は、実際の処かなり大きいと思う。
戦闘での勝利以上に、新政府の武力による威信を見せつけたことによる政治的な波及効果が
とんでもなく大きかったから。
軍事面に関しては、上野戦争まで持って行ったあたりで西郷の仕事は終わっていたとも
言えなくもないかな。その後の功績は大村の知識と頭脳に拠るところが大きかったのは
間違いないだろうね。
>兵士間では薩長間の反発みたいなのがあったっていうのもあるから、
薩長間での反発はあったにしても、それよりもむしろ「共通の目的に向かう戦友」的な
意識の方もけっこう強かったように思える。
西郷が大久保に宛てた書簡の中で、諸藩の寄せ集めの軍勢はあんまりやる気もないし
訓練もされてないから「戦力として頼りになるのは長州兵のみ」みたいなことを
書き送っていたはず。
実際、戦闘の過程で常にメインの位置にいたのは薩摩と長州、あと土佐の兵士達だったし、
他の藩の連中は「枯れ木も山のにぎわい」じゃないけど、戦闘の正面には立ってはいない
ような感じだったっぽい。この辺はかなり印象で語ってるんで、実際の戦史や戦闘の状況を
詳細に調べてるわけじゃないからあんまり自信はないけど。
>825
>単に自分が関わった戦乱だけが血の流れた大変な戦だとでも言いたいのかって感じで
>そこから器の大きさなんか伺い知れないけどな
うん。
もちろん、そういう短絡的な見方をしていた人間もいただろうってのを含んでの話しさ。
上記の「あの大変な時に〜」って言葉は、西郷の心情では無くって、西郷を取り巻いていた
連中の発言のつもり。
ざっくり大ざっぱな話しだけど、幕末期に大変な思いをして大政奉還−王政復古まで
持って行った政治的な活動をしていた「志士グループ」と、鳥羽伏見以後に軍勢を率いて
攻め上っていった「従軍グループ」とに色分けするとしてみよう。
この場合「志士グループ」に入るのが薩摩なら大久保・小松、長州なら木戸・伊藤・井上
といった面々で、後者の「従軍グループ」に入るのが薩摩なら黒田清隆・大山巌・桐野利秋、
長州なら大村益次郎・山縣有朋・山田顕義(生きていたなら高杉晋作も)といった面々。
もちろん、こういう具合にすっぱりと色分けできるもんでもないとは承知してるけど、
大ざっぱにこういう「元勲クラスの人々の中での肌合いの違い」といったものは窺えるし、
西郷はこのどちらのグループにも入りうる活動を行ったという意味で、けっこう希少な
存在だったろうと思う。
だから、志士グループの立場から「あの大変な時に〜」って台詞を吐く資格を持つ一方で、
従軍グループの立場からも「あの大変な時に〜」という台詞を吐きうる位置にいたから、
双方のグループの人々から一目置かれる存在になり得た、という見方はできるんじゃなかろうか。
>828
>あんだけ他藩の動向にピリピリしてた時代に「物騒な話だなあ」ってそんな感想ないでしょ
『幕末下級武士の絵日記―その暮らしと住まいの風景を読む』大岡敏昭
『幕末単身赴任 下級武士の食日記』青木直己
こういった本を読んでみると、けっこう呑気に暮らしていた武士達もそれなりにいた
みたいなんだけど。
野口武彦の『幕末気分』『幕末の毒舌家』『幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団』といった
一連の著作を読んでみても、やっぱりあまり緊張感のない武士達の姿が当時の史料から
浮かび上がってくる。
考えてもみてほしい。
当時の社会にはリアルタイムで情報を伝えるラジオもテレビも存在していないし、
瓦版や都市で出回りはじめた新聞なんてものは地方都市にはなかなか廻っては来ない。
様々な情報は人づて口づてで伝えられる伝言ゲームのような形態で知る場合が多くって、
四条河原に晒された生首だとか、寺田屋事件・池田屋事件の凄惨な現場の様子なんてのも
時日が経ってから当事者意識もなく聞かされただけでは「講談の世界の出来事」みたいに
捉えられていたって不思議じゃないでしょ。
9・11のテロやアフガン・イラク戦争はもとより、3・11の大震災ですら、
自分の生活に直接の影響が及ばない限りは最終的には人ごとでしょう。
自分の家族や親戚がその被害にあったり勤め先が倒産するとかの具体的な影響が無ければ
そうそう当事者意識なんて持ち得るものじゃないし、その限りでは「普段の日常をそのまま
続けていければそれでいいや」という人々が大勢いることはそう非難するべき話しじゃない。
幕末という未曾有の転換期に、それでもわりかし呑気に過ごしていた人々がいたってのは
それほど無理のある推定ではないような気がするんだ。
そういう人々が本当に「これは大変な事態だ」という気持ちを持って状況を認識したのは、
幕府に付くか朝廷に付くかを決めなきゃならない瀬戸際に立たされたときだったろうし、
その後の版籍奉還−廃藩置県で安定した生活から放り出された時、だったんだろうと思う。