1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
勝てば官軍
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/28(火) 23:29:38 ID:w7/7IhVY0
負ければ族
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/29(水) 20:51:40 ID:toYaQGFs0
西郷さんこそ最後の最高の武士。清廉無私至誠の人。憂国の士。
アジア解放の先駆者。
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 20:59:51 ID:gOL0yXsz0
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/01(金) 21:26:56 ID:FbgzjSZs0
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/01(金) 21:30:48 ID:FbgzjSZs0
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/01(金) 21:32:21 ID:FbgzjSZs0
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/01(金) 21:35:15 ID:FbgzjSZs0
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/02(土) 03:09:23 ID:hn4q5saJ0
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 12:35:16 ID:mEgAQNFL0
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 13:38:58 ID:mEgAQNFL0
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 01:09:33 ID:rcMxfeDV0
西郷といえば
「もうここらでよか」
でしょ
何で切腹しなかったんだろう?
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 00:03:55 ID:295/rXqG0
意外に山縣有朋閣下と仲がよかった。
古今無双の英雄
明治維新成立までは、策士で豪傑で人を惹きつけた漢
久坂の死を悲しんだ男
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 20:10:18 ID:3eHBTwL90
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 22:15:13 ID:oIvwUIZkO
菊次郎とさき
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 22:50:36 ID:295/rXqG0
西郷どんとは小兵衛が一番似てるそうだから
>>9を太らせたらそうなるんだろ
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/13(水) 21:50:34 ID:huiA9Xpx0
江戸無血開城の際、西郷さんと山岡鉄舟の会談の一部始終は、
もっと多くの方に知れ渡って欲しい日本史エピソードだと思います。
(歴史ドラマや特集番組では、何故か山岡は全くと言って扱われない)
今の日本、身勝手で凄惨な事件、汚職も後を絶ちません。
今一度、西郷と山岡の人柄は、見直されるべきだと思います。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/23(土) 08:17:56 ID:bfFQFB1u0
西郷丼は神経質なのに茫洋さを装う天才。
島津斉彬の下に居た時は上から命令される前に全て自分で片付けてしまっていたが、倒幕になってからの
人心掌握術は最強。
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/29(金) 12:26:14 ID:A/sAPpa10
1万人もの家臣団から、西郷を見出した島津斉彬の眼力は本当にすごい、といつも思う。
斉彬が松平春嶽に語った言葉。
「私には多くの家臣がいますが誰も役に立ちません。ただ西郷だけ別で、彼は薩摩の大宝です。
しかし彼は自分の考えを堂々と押し通す人間なので、私では無くては使いこなせないでしょう」
実際、久光は”使いこなす”ことができず、2度島送りにしてしまいました。
西郷さんも好きだが大久保利通はもっと好き
鹿児島県は今では評価しているが、大久保の器のでかさ、国家ビジョンは
素晴らしい。
西郷さん、長州藩では、久坂玄随を尊敬しておったそうじゃ
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/01(月) 06:23:45 ID:H9Tngf//O
御用盗の首謀者。
焼き打ちされたのは、当たり前。
逆恨みするのは、おかしいです。
鶴岡市が今でも、敬っているのはおかしい。
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 06:10:37 ID:CK71bMzj0
西郷丼は坂本龍馬みたいに物事を割り切って進めるタイプではなく、徳之島などの島流し等
逆境を経験して屈折した陰がある分、思いやりや人間的魅力がある。
徹底して賄賂を受け取らない西郷丼みたいな人格者が今の日本の政治家になってくれれば・・・
>>26 真逆ですね。小沢は挫折しているけど(司法試験)
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 07:04:07 ID:GnvO/i9b0
>逆境を経験して屈折した陰がある分、思いやりや人間的魅力がある。
>徹底して賄賂を受け取らない西郷丼みたいな人格者
つまり小沢一郎先生だ。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 15:53:51 ID:2VN3wSxj0
>>25 だからといってかつぎ上げられて賊軍の汚名を一時背負ったのは悲劇だね。
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 12:12:10 ID:iuMjBMOX0
小沢一郎と原口前総務大臣は熱烈な西郷信奉者
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 22:49:10 ID:IiT2CJHyO
>30
長島昭久議員
小沢は、大久保利通だったはず。まったく似ていないが
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 15:52:57 ID:807arru30
渥美の女に酷いことをした西郷
以下、テンプレ
Q : 西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。
A :
西郷のことをよく知る人で、比較的手厳しいことを書いているのは
重野安繹(しげの・やすつぐ)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。
後世、「抹殺博士」の異名で有名ですが、西郷のことをよく知る人です。
『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、
「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。
豪傑肌に見えるけど、度量は大きくないと書いています。
重野も現地妻を娶り、二人の子供がいた。
放免になって鹿児島にもどった後、
当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。
当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で
迎えに来たためしはなかったので、
その女は、島の若者と再婚して妊娠中だった。
重野はしかたなく、持ってきた金を
全額、女に与えて帰っていったという。
この重野の誠実さに比べると
西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。)
Q : 西郷さんは民百姓のために戦ったんでしょ?
A :
確かに西郷どんは薩摩や大日本帝国の将来のために
粉骨砕身した偶像であり鑑であるかもしれない。
しかしながら、実は西郷は単に薩摩や士族たちの
象徴であったにすぎないのではないのか。
それどころか、彼はだれよりも奄美と縁が深かったのに、
「敬天愛人」どころか義理も人情もなく奄美を
踏みにじった薩摩士族の大親分としか映ってこないのだ。
西郷はかつて大島・徳之島・沖永良部島に流されたが、
薩摩へあてた手紙では道之島の人々のことを
「毛唐人」「エビス共」「ハブ性の人」などと書き散らしている。
そして島妻アイカナとの間にもうけた菊次郎・菊子を
薩摩で教育する際、奄美出身者ということを他言するなと厳しく禁じた。
島に残された母アイカナは非業の死をとげる。
これは西郷という人間像の一コマではあるが、
実は次に述べる彼の政策論とも表裏一体をなしているとしか思えない。
旧藩時代、薩摩は植民地奄美の黒糖収奪によって
財政を建て直し明治政権を樹立した。
奄美の黒糖地獄をだれよりも目のあたりにしてきたのが西郷だが、
彼は、禄支給廃止にあった士族の生活権にしか思いはなかったらしく、
桂久武に命じて不法な独占「大島商社」を維新後に設立させたのである。
これによって薩摩は再び収奪をほしいままにすることができ、
奄美は旧藩以上の窮状にあえぐことになった。
そこで明治十年、奄美から「大島商社解散」を要求する
五十五人の嘆願団が上鹿したが、いきなり全員投獄。
老人などを除いた三十五人は田原坂から敗戦中の
西郷軍に強制出陣させられた。
うち戦死した者六人、残りは官軍に投降。
許されて島へ帰還する途中、二人を除いて全員遭難し、
結局生存者はわずかに二十四人であった。
(前田長英著『黒糖騒動記』参照)
Q : 西郷さんが征韓論というのは間違いで、ほんとうは遣韓論なんですよね?
A :
鹿児島県が発行している『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、
広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」という文書が載っている。
これは高知県出身で板垣退助に近かった林有造の主張を記録したものである。
参議の西郷隆盛、副島種臣、板垣退助に加えて、
左院副議長伊地知正治が謀議に参加した征韓計画の謀議が載っている。
西郷は「先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀」を主張し、副島は賛成した。
しかし板垣は「先ツ其君主ヲ檎(とりこ)ニスルヲ主眼トスル」点では賛成しながらも、
北方からの包囲は難事とし、三分の一の兵を釜山に上陸させて、朝鮮軍の迎撃を待ち、
残り三分の二の兵力をもって江華湾方面に送って「突如京城ニ肉薄」し、その間に
釜山の兵力も海路平壌に送って敵の退路を断つという戦略を主張した。
伊地知正治は少し大規模の兵力派遣を主張したという。
西郷は板垣、伊地知を信頼して謀議を行なったようである。
「其進軍ノ戦略ニ就テハ板垣伊地知ノ二氏ニ委スヘシトノ事ニ門下中ノ領袖ニ漏洩シアリト云フ」
と記されていることも興味深い。
また当時司法省出仕だった有馬純雄(藤太)の回想『維新史の片鱗』によると、
有馬は西郷から朝鮮占領後の民政官任命を内示され、
当該地域の地図を探したという挿話を述べている。
西郷が征韓論を唱えた史実は、まったく揺るがないのである。
Q : 西南戦争は西郷さんと鹿児島士族にとって、
日本のために自ら滅び、武士の世に幕を引くのが目的だったいうのは本当なの?
A :
敗色が決定的になると西郷は桐野と口をきかなくなり、
桐野のほうでも西郷を避けるような気配を示すようになったといわれる。
むろん、西郷の性格として桐野を責めたりなじったりすることはなかった。
この男に乗せられ、賊として最期を迎えるはめになった自分に対する嫌悪が、
西郷の桐野に対する感情を重くしたのではないかと思える。
Q : 大河ドラマなどで描かれる西郷隆盛は虚像なの?
A :
虚像ってことはありませんが、
大河で西郷が好意的に描かれている
(逆に言えばネガティブな史実や描写がごっそり抜けている)
のは鹿児島人が抗議してくるからだそうです。
どんな大河でもNHKに抗議は来ますが、
西郷ネタ、薩摩ネタに対する鹿児島人の抗議が一番多いらしい。
史実と違う、という抗議ならよいのですが、
史実通り薩奸的な場面を入れると、「一方的で偏向的で悪意を感じる」という抗議が
執拗にくるらしいです。
反対に幕府方からの抗議はあまり無いらしい。
徳川子孫の方が「我らに後ろめたきことなど何も無し、抗議すること自体がナンセンス」
と語ったとか。
かの司馬遼太郎も、鹿児島人の抗議を憂慮して、
「跳ぶが如く」ではあえて筆を鈍らした、という話しを読んだことがあります。
「跳ぶが如く」の歯切れの悪い、奥歯にものがはさまったような書き方は
そんなところに理由があるのかもしれませんね。
*重野安繹が語った西郷の性格*
西郷が明治維新において、彼ほど存在価値が際立っていた者はいないのではなかろうか。
みんなに期待され、いつもその中心に存在していた。
だが彼はこれらの大事件の渦中にあって、どのような方針に基づき考え、
将来いかなる見通しを持っているのか理解するのは無理である。
なぜなら、彼はいつも中心に存在していたが、
みんな回りの期待はその場、その時により違った。
いずれもその期待に答えてくれるような西郷であったが、それはすばらしい人間性なるゆえでもない。
「すばらしい人間性なるゆえでもない」とは、
じつは「(西郷は、)世の中小人などをば、自分の度量内に入れてやる事は乏しく、敵を作って激しく憎む風があり、
参議連中が姑息じゃとか、富貴を貪って居るとかいって政府の人をば憎む。
政府の人を憎むところから、征韓論が起って・・・・大臣をはじめ皆富貴に慣れて、
御一新後僅かばかりの間に我儘をするということが腹に在って、遂に西南の乱となった。
どうも西郷は一生世の中に敵を持つ性質で、敵が居らぬとさびしいくてたまらいようであった」
と、彼の性格と新政府を主導する人々の態度への不満を西南戦争の原因だと、
同郷で同じ年の西郷をよく知る重野安繹のことばがある。
重野と西郷はペリーが来たころにともに江戸藩邸にあった。
重野が仔細なことから奄美大島にながされていたところへ、西郷が流された仲である。
事前にどのような場合が起こっても良いように想定しておくことは必要だが、
どうも西郷隆盛が嫌いな人は、征韓論は史実と言いたいあまりに
実行もしていない想定を持ち出して煽る。
西郷隆盛は征韓論者ではない。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 20:58:06 ID:k6G46Ym70
西郷さんは人格者。清廉、至誠、憂国の人。最高の武士。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 10:00:20 ID:mj6BvQk30
西郷さんの人望買い、という言葉が残ってるほどだから、
素の西郷は案外人望無かったのかも。
公平性ゼロなアンチテンプレだな
都合のいい記事だけ切り貼りしてるのが丸わかり
むしろ公平だと感じたが。
信者から見たら噴飯ものなのかもしれんがw
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 01:01:31 ID:qkGac8OW0
>>38は、万一の構想を無理に、これしか考えがなかったように主張しているので、客観性に乏しい。
まるで、アメリカはオレンジ作戦を立てていたから日本と必ず戦争をする気だった、と言っているのと同じだ。
大久保信者、木戸信者が優勢だったころの三傑スレですら無視された代物じゃんそれ
佐藤内閣で法相を務めた孫の西郷吉之助は、借金で首がまわらなくなりました
>>38のテンプレはけっこう有名で、
遣韓論キャンペーンみたいなことやってた南日本新聞(鹿児島)に送りつけられたものだったと思う。
もともと。
そして掲載されたのかな? それ以降、南日本新聞は遣韓論を引っ込めざるをえなくなった。
今どき遣韓論言ってるのは、鹿児島でもちょっと引かれてるタイプの自称郷土史家みたいな連中だけだ。
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 07:07:56 ID:t+NRir7/0
>>50 >そして掲載されたのかな? それ以降、南日本新聞は遣韓論を引っ込めざるをえなくなった。
>今どき遣韓論言ってるのは、鹿児島でもちょっと引かれてるタイプの自称郷土史家みたいな連中だけだ。
これは間違いで、確か征韓論を主張した人間の方が謝罪したと思うのだが。
文中でも西郷が征韓論を主張したことは一切書かれていないし、西郷を征韓論の輩と主張するのは無理だ。
実際
>>38みたいなのを学会で発表したらどうなる?
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 07:55:04 ID:t+NRir7/0
発表も何も、既知でかつ、西郷は征韓論を主張していないという文章なので、
>>50のような粘着は馬鹿にされている。
実際のところ、西郷が征韓論を主張したと語る研究者は、もう希少だし。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 10:19:05 ID:pgOJytCz0
>>51 >>52 >>53 信者おつw
鹿児島の恥おつw
そんな頭の悪い書き込み誰が信じるの?
大西郷丼があの世からお前に唾吐きかけてるよw
弱え弱えw
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 14:00:59 ID:t+NRir7/0
嘘つきが姿を現したか、
もう誰も、西郷が征韓論だとは認めなくなっているのに。
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 14:06:31 ID:t+NRir7/0
大体、
>>38のどこに、西郷が征韓論を主張したと書いてある?
征韓論を実行した場合はどうなるか、検討しているだけのことだ。
>西郷が征韓論を唱えた史実は、まったく揺るがないのである。
正しくは、「西郷が征韓論を唱えていない史実は、まったく揺るがないのである。 」だな。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 15:04:16 ID:pgOJytCz0
↑
もうその逃げパターン飽きたわw
「征韓論を実行した場合」ってロジックがそもそもおかしいwwww
「征韓を実行した場合」だろ。
そしてそれについて検討するのが「征韓論」。
鹿児島の芋虫君は何をやらせてもダメな奴だと思うw
まあ、一生分からないまま、永遠にループするんだろうなあ
永久ループのホラ吹き芋虫くんはw
>>38の質が悪いところは根も葉もない嘘をついてるわけじゃないこと
ただし結論へのもって行き方が強引すぎて結論ありきで
>>38の資料を利用してるようにしか見えない
信者が良い事にしか目が行ってないなら
>>38は悪い事にしか目が行ってない
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 15:13:18 ID:ozZGF3VM0
↑
こういう罵り方をしている限り、頭の悪さレベルの低さダメ度は変わらんな
60 :
59:2010/11/14(日) 15:14:16 ID:ozZGF3VM0
これ57に対してやで
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 15:21:48 ID:t+NRir7/0
結局、閣議で西郷隆盛が征韓論を主張したという話は一切存在しないわけで、
それを無理に、言ってたに違いない、と纏めている部分が嘘だというわけなのさ。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 15:25:51 ID:t+NRir7/0
大体、現在西郷隆盛が征韓論を主張したという説はほぼ否定されており、
まともな研究者とそんな話をしたら、笑われてしまう。
誰の悪評にせよ、根拠のないものは正しくないし、そういう主張のある文章がまともなものとは思えない。
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 15:37:32 ID:pgOJytCz0
信者くんの妄想永久ループ発動中wwwww
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 15:46:06 ID:t+NRir7/0
結局、ソース無しの中傷目的断定か。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 17:33:05 ID:pgOJytCz0
え、それでお終い?
ソース出して、38を論破してくれるんじゃないの?
>>61 閣議ってどの閣議?
話は一切存在しないと断定できるぐらいだから
どの時期のどの閣議か具体的に説明できるよね
>>62 38はソース付きでしっかりと根拠を示しているよ
信者くんもソース付きで根拠示さないと、まともな反論と思ってもらえないよ
征韓論はほぼ否定されているとのことだが、
信者くんもソース付きで否定できるんだよね
以上お願いします
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 18:01:26 ID:t+NRir7/0
>>65 どこにもソースはない。
あるのは、「万一征韓論が通った場合のその後の手順への協議」だけ。
どうも西郷征韓論を主張する人には、論理がないね。
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 18:04:28 ID:t+NRir7/0
西郷隆盛が征韓論を主張したというソースがどこにもないのに、
ソースを求めること自体、西郷と征韓論を絡める人間はうそつきということだね。
そんなに主張したいなら、閣議で西郷が征韓論を主張した言葉を捜せばいいのに。
実際はどこにもない。
つまり西郷は征韓論は主張していないのさ。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 18:09:13 ID:t+NRir7/0
それにしても、この中傷人間は、
「存在しないことの証明」を求めているということに気付こうともしない。
>>38は、万一の場合の手順検討でしかないし、実際の閣議にはどこにも、西郷が征韓論を主張した箇所はない。
君が閣議での西郷の征韓論発言を出せない限り、西郷征韓論説は完全に誤っていたということなのだよ。
こりゃ、鹿児島が没落するはずだわ
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 18:35:31 ID:t+NRir7/0
反論が出来ないと中傷ですか。
要するに西郷は征韓論を主張していたというソースはどこにもない。
虚勢と罵倒、虚偽と強制、こんなもので世の中を渡ってはいけないでしょうに。
あのさ、征韓論て何が悪いの?
大久保も征韓論自体は反対じゃなくてまだ時期じゃないという名目で対立した訳でしょ
すぐにひっこめたとはいえ、松陰の戦略を受け継いで真っ先に征韓論を唱えたのは木戸
明治6年政変に負けたことは西郷にとって汚点かもしれないが、
征韓論を唱えたことの何が悪いのかさっぱりわからん。
結局数年後に武力を背景に開国させてる訳だし。
征韓論=悪として西郷をおとしめようとしてるのは朝鮮の方だと思っていいのかな
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 19:39:49 ID:t+NRir7/0
西郷隆盛が政府内で征韓論を主張していた、というソースが出ませんね。
あれほど中傷交じりに他人に罵倒を繰り返しながら押し付けていたのに、
肝心の証明はどこにもない。
これでは、西郷征韓論説は成立しません。
今の日本に必要なのは、西郷のごとき真の武士である
きばれっ! かごんまんし!
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 20:13:59 ID:pgOJytCz0
アホらしw やっぱり鹿児島人が詭弁を弄してんのかw
鹿児島に生まれなくて良かったと心底思うわw
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 20:40:13 ID:t+NRir7/0
何度質問しても、ソースは出ずに中傷が出る。
西郷征韓論説を力説する人は、証拠を結局出せない。
挙句の果てに、どこかの地方を罵倒すれば相手が怒ると思っている。
会津という郷土は、そんなにいい所とも思えませんが。
あなたのような人間の住むところですし。
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 21:12:14 ID:/tSnEfaK0
写真を撮られたら魂抜かれると思っていた当時の平均的日本人
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 23:44:12 ID:NdliihvoO
西郷ってようは、公私混同の就職斡旋で得たエセ人望だけが頼りの裸の王様でしょ。
政治感覚ゼロ、人道配慮ゼロ、自己管理ゼロの肥満中年。
征韓論だろうが遣韓論だろうが、西郷本人は政府に難癖つけるために吠えただけで、
それが何を引き起こすかなんてちっとも考えてませんって。
西南の役の無意味な犬死にを考えれば分かるでしょ。
なんか西郷アンチって三国志における劉備アンチそっくり
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 23:52:29 ID:1QdMZF3T0
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【えのころ飯】
薩摩の代表的郷土料理。
仔犬の腹を裂き内臓と取り出した後に米を詰めて蒸し焼きにした料理。
薩摩藩では犬を好んで食べ江戸でも犬がいなくなると「薩摩藩士に食われた」と言われた。
・赤犬が紛失したと芝でいい (※芝には薩摩藩邸があった)
・大部屋に赤犬などのあらがあり
・酒盛りにきゃんと言わせる御国柄
↑江戸時代に薩摩藩を題材にした川柳
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 23:57:46 ID:gqIkize40
やれやれ、征韓論中傷が使えなくなったものだから、別の罵倒に走ったか
会津の習性だね
きばれっ! かごんまんし!
↑鹿児島必死だねぇw
今どき会津ってw
いつまで過去にしがみついてんの?
自分を下げてまで守る価値があるの?西郷とか
大久保に全面的に乗り換えた方が鹿児島の未来に繋がりませんか?
まあ、100年イジメぬいた人間を急に持ち上げたら、やはり鹿児島必死と叩かれるだろうがw
日本史板、近代史板、大河板は会津厨さえいなけりゃ平和だろ
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/18(木) 01:04:06 ID:ZwhA+uX+0
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【ひえもん】
薩摩の代表的胃腸薬。
戦死した者や刑死した者の胆嚢を取り出して陰干したもの。
材料が人間であるだけで他地域の「熊の胆」と同様なものである。
病人の治療や健康保全の為に服用された。
薩摩では人の胆が好まれ、近代に入っても戊辰戦争や西南戦争で胆取りが行われた話しが残る。
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/20(土) 09:53:09 ID:yM4A11mS0
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【ひえもんとり】
薩摩の代表的娯楽競技。
死刑囚の死体から胆嚢を数人で争って取り出す競技。
参加者は互いを殺傷しないよう刃物の所持を禁じられている。
先を争っては死体に群がり胆嚢などを取り出すのだが
参加者は刃物を所持していないため歯を使う。
死体にかぶりつき死肉を食い破り傷口から手を突っ込み胆を取り出す。
そして胆を取り出した者が栄誉とされる。
↑
これ、郷中教育の一環としてやっていたそうです。
今は無かったことにされていますが。
ほかに、生きた犬をメッタ斬りにさせるとか。
いざ戦で実戦となった場合、ビビらないように感覚を麻痺させておくんでしょうね。
アフリカで、少年兵を麻薬漬けにして突撃兵として使うのと同じ発想です。
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/22(月) 01:06:00 ID:q9DiJlXn0
鹿児島では、小学校の授業で「西郷隆盛」に関する独立した授業があるらしい。
しかも、そこで使われる教科書は「手が切れるほど鋭く」裁断された上質紙を使い
「西郷隆盛」の文字が太ゴシック体で目立つように書かれているとか。
鹿児島の小学生は、その教科書に書かれた「西郷隆盛の発言」を一字一句まで暗記させられるとか。
それに関する小テストも頻繁にあり、もし満点がとれなかったら「反逆者」扱いされるとか。
まるで「将軍様」を奉るどこかの国にそっくりですねwwwww
明治維新で活躍し、後に明治政府と対立して亡くなった西郷隆盛は鹿児島県民にとって永遠のヒーローです。
『サイゴウドン』という言葉が彼らの口から発せられた時には、直立不動か正座で対応してください。悪口を言おう
ものなら横浜で殺されたイギリス人と同じ目に遭う事は覚悟してください。
西郷さんや鹿児島が無くなったら虚無の毎日だな。
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 12:56:10 ID:3NR673C80
>>87 鹿児島県知事が教科書会社に、
西郷隆盛の「征韓論」を「遣韓論」に書き換えるようにという検閲まがいの要請をしたことがあるw
敬天愛人のはずの西郷が、武力を背景に他国を恫喝しようとした矛盾を隠蔽したかったんだろうな。
>>38はそのときに新聞に載った文章。
史実を無視した検閲を阻止するための反証。
文章だけ読むと、西郷を貶めるための証拠並べのように見えるかもしれないが、
そうではなくて、「遣韓論」がいかにデタラメで史実を無視しているかを、証拠をあげてるだけだよ。
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 14:08:41 ID:WHnZ0v1S0
>>89 また議論を無視して一方的に、証拠のない嘘を書く。
これだから会津は嫌われる。
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 14:26:52 ID:3NR673C80
>>90 しょせん「征韓か遣韓か」は、言葉遊びでしかないと思うね。
必死に遣韓を主張し、敬天愛人西郷を正義の偶像として崇拝したいなら勝手にやればいいと思うけど、
教科書まで検閲しようとするのはどうかな?
そういう異常な施政に疑問の声すらあげない鹿児島人は羊の集まりですか?
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 14:41:47 ID:WHnZ0v1S0
証拠がないことがばれると、
「そんな区別はどうでもよい」
それすら否定されると、
他人を罵倒したいとばかりに雑言、それもこれまた根拠がない。
嘘をついたときは謝罪するのが本筋、なのに会津の人はうそを重ねて自分たちが被害者だと重ねて言う
こういう不正義の輩、会津武士道の擁護者の精神構造は、一体どうなっているのかわけが分からない。
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 14:55:55 ID:3NR673C80
>>92 証拠にこだわるなら、
>>38が十分証拠たりえてるんじゃないかな?
西郷が武力行使を前提に使節派遣を考えていたとするソース付きの十分な証拠でしょ。
鹿児島県が発行している『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、
広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」という文書が載っている。
これは高知県出身で板垣退助に近かった林有造の主張を記録したものである。
参議の西郷隆盛、副島種臣、板垣退助に加えて、
左院副議長伊地知正治が謀議に参加した征韓計画の謀議が載っている。
西郷は「先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀」を主張し、副島は賛成した。
しかし板垣は「先ツ其君主ヲ檎(とりこ)ニスルヲ主眼トスル」点では賛成しながらも、
北方からの包囲は難事とし、三分の一の兵を釜山に上陸させて、朝鮮軍の迎撃を待ち、
残り三分の二の兵力をもって江華湾方面に送って「突如京城ニ肉薄」し、その間に
釜山の兵力も海路平壌に送って敵の退路を断つという戦略を主張した。
伊地知正治は少し大規模の兵力派遣を主張したという。
西郷は板垣、伊地知を信頼して謀議を行なったようである。
「其進軍ノ戦略ニ就テハ板垣伊地知ノ二氏ニ委スヘシトノ事ニ門下中ノ領袖ニ漏洩シアリト云フ」
と記されていることも興味深い。
また当時司法省出仕だった有馬純雄(藤太)の回想『維新史の片鱗』によると、
有馬は西郷から朝鮮占領後の民政官任命を内示され、
当該地域の地図を探したという挿話を述べている。
↑これを遣韓ととるのはあなたの勝手ですが、うそをついていると主張するなら、
うそである証拠をソース付きで、主張者であるあなたが提示するのが筋だと思います。
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 16:54:15 ID:WHnZ0v1S0
>>93 征韓論通過の場合の対処論検討が、意思があった証拠ですって?
それは偏見でしかない。
まともな証拠が一切ないのに中傷だけをばら撒く、これでは不正を好む意思があなたにある、と断定せざるを得ません。
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 16:58:53 ID:WHnZ0v1S0
もう一度言います。これを征韓論ととるのはあなたの勝手ですが、あなたが派遣論を嘘と主張するなら、
うそである証拠をソース付きで、主張者であるあなたが提示するのが筋だと思います。
存在しないことの証明は出来ません。あなたが実在を証明する必要があるのです。
それが出来ないのなら、西郷隆盛征韓論説は、真っ赤な嘘という事ですよ。
あなたが証明しなさい。
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 17:12:01 ID:WHnZ0v1S0
政治というものは、最悪の場合も想定し、対処方法を検討しておく必要があります。
それを放棄すれば、先の大戦のように方策も持たず、相手を短期間叩ければよいといった自暴自棄に陥るでしょう。
対処策の検討は、征韓論の意思表明にはなりえないのですよ。
閣議での発言を拾う必要があるし、この場合は板垣退助と後藤象二郎、江藤新平については征韓論への
賛成意見があるものの、西郷隆盛については、特使派遣しか見当たりません。
閣議での発言を拾う限り、西郷隆盛を征韓論者とするのは、無理なのですよ。
これを覆すには閣議における西郷の征韓論提言を見つける必要がありますが、
そのようなものはどこにもありません。
あなたの文章は、一見関係がありそうでその実は無関係な文章を並べて正当性を主張する、最も卑怯なものです。
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 17:43:01 ID:3NR673C80
>>96 うそをついていると主張するなら、
うそである証拠をソース付きで、主張者であるあなたが提示するのが筋だと思います。
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 19:47:30 ID:WHnZ0v1S0
>>97 ないという証明は出来ません。
実在を証明するのなら、実在する証明しか解決策はありません。
そしてあなたの提出したものは、もし征韓論が通過した場合の対処策検討です。
西郷が征韓論を主張したという証明とは懸け離れた、まがい物です。
つまり、あなたが証拠を持ってこないのなら、西郷征韓論説は真っ赤な嘘ということです。
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 19:57:19 ID:WHnZ0v1S0
すでにあなたの主張する、西郷が征韓論を主張したとする説には根拠がないと明らかになっているのに、
別の証拠も出さずに主張を変えないのは、因循姑息を通り越して禁治産者の意見としか思えません。
もう、星亮一の周辺しかそのような悪質な説を広める人は知りませんが、あなたもその類ですか?
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 21:47:07 ID:3NR673C80
では、
>>38の内容自体にはうそは無いと認めるのですね。
征韓論とは別の、対処策検討として西郷が行った史実であると。
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 22:26:58 ID:WHnZ0v1S0
>>100 あなたの主張する、征韓論西郷説の根拠足り得ないというだけのことです。
あなたは別の根拠を出せなければ、今まで行った全ての発言が根拠のない中傷と認めることになります。
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 22:30:24 ID:WHnZ0v1S0
ID:3NR673C80の、今まで主張してきた誹謗発言に全く根拠が欠けているということが問題なのに、
本人はその点については責任をとる気がないようです。
あなたは証拠を出せなければ、この場で継続的に嘘を撒いた極悪人として自らを処罰する必要があります。
洗脳教育?
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/24(水) 14:05:56 ID:+UY0emay0
会津教育って奴でしょ
自分の間違いを指摘されても認められないんだから
金玉がでかい人
西郷スレはキモい信者がいつも湧くね
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/25(木) 00:57:41 ID:tn44owaf0
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【ヤンチュ(黒糖奴隷)】
薩摩藩では奄美の島民を黒糖栽培の為に奴隷化していた。
島民達に人権なく安値で売り買いされ牛馬以下の扱いで酷使され続け
また、サトウキビ以外の生産は厳しく制限され飢餓に喘ぐ悲惨な状態であった。
そして驚く事に明治12年まで続く事になる。
島津は維新を謳いながら自領は江戸時代同様の支配を手放そうとせず
政府からの奴隷解放令や自由売買許可を握り潰し続け告布しなかったのである。
かの西郷隆盛でさえ奄美の人々を蛮族と蔑み奴隷政策に加担していた。
108 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/25(木) 21:25:30 ID:E4DVtl7w0
この会津若松大好きっ子さんは、中傷しか言えなくなったから、
それについて苦情が出ても、全て中傷で返してます。
まるで会津人みたい。
西郷は大使差遣を主張しただけだというのは、
明治6年の政変についての毛利敏彦あたりの説だと思うけど、
あの人の説もかなり怪しいんだよな…
毛利さんは江藤大好きだから、
明治六年政変は長州閥を追い詰めていた司法卿の江藤を追放するために仕組んだ
と言う解釈で、だから江藤が賛同した西郷の大使差遣によって、
日朝国交はきちんと開かれていたと主張するのだけど、板垣がこの仲間に入ってることから見ても、
結局は開戦になった可能性が圧倒的に高い。
自分も
>>93でよいと思うけどね。
明治六年政変は、征韓論もあるけれども、
より根本的には留守政府と大久保以下外遊組の対立だと思う。
ただしそれは単に政局の争いではなく、夢想的な留守政府の対外認識に対して、
より現実的な認識を持った大久保岩倉政権が誕生したということだろうね。
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 01:23:34 ID:7ZKtBKsM0
どうかなあ。
少なくとも、西郷隆盛が閣議で征韓論を主張した記述はないし、
この記述で西郷が征韓論を主張した、と結論を出すのは、誤りだと思う。
閣議ってなに?
>>93が史実なことは間違いないよ。
ほかに西郷は板垣宛の手紙でも「戦は二段」と明言している。
使節派遣→(決裂)→派兵 ということ。
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 03:06:12 ID:7ZKtBKsM0
政府見解をまとめる際、西郷からは征韓論の話など一言もないのだが。
なぜ、政府内で西郷が征韓論を主張した、ということになってしまうのだろう。
それでは史実ではないし、
>
>>93が史実なことは間違いないよ。
という見解自体が、間違いということになる。
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 03:15:43 ID:7ZKtBKsM0
政府閣議で西郷隆盛が征韓論を主張した形跡がないのに、
政府内で西郷が征韓論を主張した、とするのは無理だろう。
西郷が征韓論を避けたからこそ、当時の政府見解は使節派遣になったのだから。
閣議とは関係のない文書を提示して、閣議内の発言と誤認させようというのでは、真剣な議論にはならない。
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 03:29:32 ID:7ZKtBKsM0
使節派遣が行われれば必ず西郷が朝鮮側に殺されたのか、ということに
私は疑問を持っている。
会わなければ済む話であって、当時の朝鮮に外交使節を殺傷する必要は全く無い。
要するに、派兵の条件になる西郷殺害が、いくら征韓論と共に吹聴されていても成立しない。
無礼云々なら明治政府の外交文書の受け取りを拒否した時点で既に成立している。
西郷が朝鮮側との接触が出来ない場合も、派兵及び開戦の口実足り得ない。
要するに、使節派遣で西郷が犠牲になれば派兵だ、という話は征韓論者を抑える口実だったということになる。
朝鮮との外交を見る限り、使節派遣と征韓論を同一視する考えは論理的ではないと思う。
西郷との面会を拒否されて放置したら、日本の面目は丸つぶれになる。
自ら大使差遣を志願した時点で、西郷は既に交渉拒否の場合の開戦を考えにおいていたはず。
でなきゃただのボケ老人。
板垣じゃ急進的すぎてまとまるものもまとまらないからね。
西郷はあくまで事態の平和的打開しか考えていなかったという人間は、
だったら大久保がなぜ岩倉と誓い合ってまで反対したと考えるのよ?
それをちょっと聞いてみたいが。
まさか江藤排除のためだとか言わないでよ。毛利敏彦じゃあるまいし
そもそも、征韓論の何がいけないのかと思うけどね。
当時の感覚からすれば、征韓論は決して不名誉な政策論ではなかったはず。
対立した大久保らの主張も、征韓論の是非にあるのではなく、
その後に列強の干渉を招いた場合、軍事的外交的に勝算はあんのかよ西郷さん?
というものだったわけで。
真に不名誉なのは、まともな兵站すらできない(後日、西南戦争で証明)西郷や側近が、
海外戦争をやろうっていう厚顔無恥さだよ。
それは充分に西郷の夢想性を批判するものじゃん。
列強の干渉は、その後の対韓政策でも現実化した。
大久保の不安は当然で、西郷はこの段階になるともはや現実的視点を失っていたと言わざるを得ない。
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 22:25:10 ID:7ZKtBKsM0
政府内で西郷隆盛が征韓論を一切唱えていないのは明らかなのだから、
そのような、「広義の征韓論」とやらにしがみ付くのは、見苦しいよ。
いや「閣議で武力行使を言ってない」と言うことだけをタテに、
西郷遣韓論にしがみつく人間のほうが見苦しいよ。
西郷が言わなくたって他の参議が容れられざる時は武力行使やむなしと言ってて、
彼自身もそれを本気で止めようとした形跡がないんだから。
もし西郷が本気で遣韓により平和的な東アジア秩序を築けると考えていたなら、
それこそ従来の朝鮮側の態度から見て妄想もはなはだしい、南洲翁はボケてたと主張するようなもんだ。
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 22:35:12 ID:7ZKtBKsM0
妄想を提示するのは結構だが、留守政府の政治決定時に西郷隆盛は一切征韓論を唱えていない以上、
君の説は根拠のない中傷の域を抜けていない。
大体、西郷隆盛の閣議での征韓論発言記録は、得られたのかね。
それすら提示できない西郷征韓論説は、夢想に等しい。
>>123 じゃ明治六年の政変の真相は何だと?
大久保が国家瓦解の危機を憂うるほどの事態は何だったの?
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 22:50:55 ID:7ZKtBKsM0
西郷征韓説の真偽という話で論理的に敗北すると、話を変えてしまおうとする。
これだから、西郷征韓論説の人は議論をまともにする気がないということになってしまう。
閣議において西郷隆盛は使節派遣を主張し、征韓論を主張する他の閣僚の意見ではなく
使節派遣が閣議で決定された、それだけのことではないか。
126 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 23:15:32 ID:7ZKtBKsM0
ちなみに、明治六年の政変は、留守政府閣僚の政界からの放逐が本題であり、
征韓論論争は岩倉使節団側からすれば、口実であったと思っている。
なぜなら朝鮮との外交に関して、留守政府とその後の大久保らの政府になんら変わる点がないから。
128 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/27(土) 00:00:17 ID:7ZKtBKsM0
征韓論に関する限り、西郷隆盛が征韓論を閣議で唱えたという記録は一切ありませんし、
他の閣僚が征韓論を唱えたが、西郷が制し使節派遣になったという経緯説明なら当時の証言があります。
ないことの証明を求める時点で、西郷征韓論は夢想でしかないのですよ。
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/27(土) 08:48:48 ID:30VNKfpm0
↑
おなごんけっされ
>>118 もし使節失敗→戦争になったとしても
列強が日本に敵対するとは思えないんだけど。
どこらへんが列強の干渉を招く原因になるの?
あと西南戦争に関しては西郷が大将としての責務を放棄
してるから朝鮮と戦争になった場合とは比べられなくないか?
個人的には西郷は戦争も見越してたと思う。
ただ、大義名分もないのに征韓はまずいし先ず使節が行って
それからの朝鮮の行動次第と考えてたんじゃないかな。
>>127 もう20年前に家近、原口に批判されているのか…
佐々木にももっと詳しく説明しろと言われてたんだな
>>130 江華島以来韓国併合までの過程で、英国の利権に日本はすごく気を使ってるよ
伊藤が併合に消極的だった一因として、これが挙げられている
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/27(土) 14:35:35 ID:45hOeWZa0
>>129 西郷征韓論説の人は説明を放棄したようですね。
閣議で西郷隆盛が征韓論を主張したという説は、論理的には成立しないんですよ。
後藤・江藤・板垣が征韓論を主張したのに、政府決定は使節派遣だったのですから。
それはおかしいね。だったら閣議は征韓派の3名と大久保の対決になり、
西郷は征韓派参議とは立場を異にするとして静観するはずだし、大木たちも態度を変えた以上、
大久保が圧倒的に有利だから、1回は閣議決定を経るということもない。
西郷が閣議をすっぽかしたり、大久保が辞表を出したりと言う異常な行動は、
明らかにその両者が何らかの重大な対立を抱えていないと成立しないよ。
それと、そもそも残っていない閣議に記録に記述がないから西郷が征韓論与党でない、
と言うのでは、歴史学では改ざんされない史料が残っていない限りその人間の行動を推測することもできなくなる。
そんな良質な史料がどれだけ残ってるというんだよ。
日本史の教科書が真っ白になってしまう。方法論としてそもそも無茶苦茶だわ。
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/27(土) 23:20:51 ID:45hOeWZa0
なんだか、自分に不利な史料は全て無視して、閣議で西郷隆盛が征韓論を主張したかのように主張する。
実際は閣議で決定されたのは大使派遣なのに。
それでは小説と変わらないし、そもそも滅茶苦茶だろう。
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/27(土) 23:30:54 ID:45hOeWZa0
>>133 一度留守政府の閣議で外交使節派遣で決した以上、西郷が大使派遣側で議論をするのは当然です。
あなたの意見は、一度外交使節派遣で決着した討議と、その政府決定を変えるという大久保の提案に対する討議を
意図的に混同させています。
あなたの文章は事実誤認にしかならないし、あなたの意見はそのような、議論事項の意図的な挿げ替えが多い。
まともに議論をする気がない、または意図的な誤認を誘うような文章を貼るのは止めていただきたい。
>>127を読めば分かるが、あくまで征韓ではなく遣韓なりというのは毛利説なんだが、
錚々たる研究者に批判食らってるし、毛利説にも根拠らしき根拠がないんだよ。
いくら信じろと言ってもそりゃ無理だし、第一なんで西郷スレでそんなことにこだわってんの?
もっと語ることがたくさんあるじゃん。西郷は対ロシアの国防だって考えてたんだし。
そりゃ閣議で対朝戦争の決定なんか露骨に持ち出せやしないさ。大義名分だってないしね。
でも大使の接遇を従来通り拒否される確率は高いし、その場合は大義名分が立つから、
それは日本にとって重大な決定を迫るものなんだよ。
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 00:28:53 ID:BpIC7TyM0
>>137 証拠のないことをいくら主張しても、相手を有罪には出来ませんよ。
そして、使節派遣と全ての取りやめの二つの閣議を意図的に混同させて、
西郷が征韓論派だったと誤認させようとした、あなたのレトリックについて言及がありませんが?
議論で文中に意図的に不正を混入させたことについて、あなたは議論を滅茶苦茶にしようとしたという自覚が足りない。
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 02:06:41 ID:2m0k3zmB0
>>138 >>93と、西郷が板垣に送った手紙の「戦は二段」を見れば、西郷が征韓の構想を持ち、かつ主張したのは明白な史実。
閣議で西郷は征韓を主張していないのだから征韓の構想を持っていない、なんて論理として破綻してるよ。
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 02:30:39 ID:BpIC7TyM0
>>139 あなたの論理が破綻しています。
なぜなら、留守政府の閣議では後藤・江藤・板垣が征韓論を主張し、西郷の意見によって外交使節派遣で決しましたし、
その中で、西郷が征韓論を唱えたなど全く記載もありませんし、
事実関係からも、西郷が外交使節派遣で取りまとめたということでしょう。
閣議で西郷が征韓論を唱えたのなら、使節派遣になるわけがないではありませんか。
史実でないことを閣議での史実として語ろうとすることは、これまた不正行為ですよ。
それと、あなたは
>>138で私が言及した、意図的な議論の混乱を狙った不正発言について、あなたの見解を明らかにしていません。
議論を出したいのなら、不正行為とそのことで議論を混乱させようとしたことについて、何か言及がほしいものです。
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 03:16:43 ID:2m0k3zmB0
>>140 >>93と、西郷が板垣に送った手紙の「戦は二段」を見れば、西郷が征韓の構想を持ち、かつ主張したのは明白な史実。
閣議で西郷は征韓を主張していないのだから征韓の構想を持っていない、なんて論理として破綻してるよ。
西郷が征韓論に反対したという記述を以前何かの本で読んだことあるが…
そういう記録ってあるのかな。
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 05:25:43 ID:BpIC7TyM0
西郷征韓論説の人は、嘘をついて議論をごまかそうとした点を追求されると、二の句が継げなくなったみたい。
記録では、後藤・江藤・板垣が征韓論を唱えたが、西郷隆盛の裁定で留守政府の決定は外交使節派遣で決したということと、
その時期に朝鮮出兵を行う場合の戦略について論じられたということと、
征韓論を唱える板垣への説得書簡として、今回は外交使節派遣でまとめたいと西郷が書いている、ということです。
これらの事からは、当時西郷隆盛は征韓論へは当面慎重姿勢だったということになります。
>>141 オルゴールは要りませんよ。
西郷征韓論説の人は、外交特使派遣を決定した留守政府の閣議と、大久保らの帰国後の全てを無効とした閣議とを混同させ、
あたかも西郷隆盛が閣議で征韓論を主張したかのように、
>>133で不正な主張をやらかしてしまっている。
しかもその点に付いて全く反省せず、外交使節派遣で決した会議で西郷が征韓論を主張したと誤認させるような記述を続けている。
不正行為もここに極まれり、という感じです。
BpIC7TyMOが西郷信者だとはわかった
つまり話をきく価値がない
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 10:12:28 ID:oD8S0S9E0
叩いてるのはチョンJK
そもそも記録が残ってないのに、どうやって西郷の立場を立証しろというのか。
せいぜい「真偽不明」だろう。真偽不明なものは全部西郷の有利に解釈するのか?
真偽不明の中で史料批判を行い、説得力の高い説を組み立てるのが研究だろ
毛利氏の仮説は仮説としてそれでいい。
だが、維新史の一線級研究者に直接間接にこれだけ批判を受けながらなぜ答えられていないんだよ?
2ちゃん以外じゃとてもじゃないが通用しない異説
それと、西郷が征韓論を支持していたとしても、それの何が問題なんだ?
躍起になって遣韓論にこだわる人間は、前提として征韓論を愚策と考えてるわけだが、
征韓論は征韓論で時代的必然性があった議論で、西郷がなぜそれに乗ったかを考えるほうが有益だろ。
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 17:56:14 ID:BpIC7TyM0
証拠はないけど権威がある人が言っているので有罪確定?
そんな馬鹿な話はない。
証拠を出さなければ人を有罪には出来ない。
有罪だと決めて掛かっているだけで、その権威とやらも何一つ証明をしない。
要するに、信じるに足りないということ。
証拠が権威からも出ないので、無理に有罪前提で話を進めようと画策するようなことでは、
その権威とやらも泣きますよ。
大体、西郷征韓論説をここで唱えている人は、
>>133で卑怯にも、外交使節派遣決議と全てを無効にする二つの閣議を混同させ
あたかも西郷が征韓論を唱えたかのように主張をした。
これは不正行為以外の何物でもない。
しかも嘘をつき議論を歪めようと画策し、、そのことに付いて徹底的に話題から避けようとする。
これでは西郷征韓論説自体が疑わしいということですよ。
板垣と後藤と江藤が征韓論者だったってことは、はっきりしてるんでしょ。
西郷の場合は、それほど征韓論者かどうかはっきりしてないと。
まあ、西郷が征韓論だったとして、板垣、後藤、江藤ほど「強硬な」
征韓論者ではなかったとはいえるんだろう。
板垣は居留民保護の名目で派兵し、それと同時に実力で以て朝鮮を開国させるべき、という
主張なんだっけ?
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 18:42:09 ID:BpIC7TyM0
それが、このスレで西郷征韓論説を唱える人は、
後藤・江藤・板垣が唱えた征韓論が、西郷も交えた留守政府の閣議で使節派遣に決定したことに付いて、
西郷が征韓論を唱えたと主張するのですよ。論理外れも甚だしい。
しかも、全てを無効に戻した大久保利通を交えた閣議と、上記の閣議を混同した話を始め、
大久保と西郷が対決したから西郷が征韓論を主張したのだ、と言い放ち、
(留守政府の決定した外交使節派遣を無効化することに西郷は反対している。征韓論は唱えていない。)
論理の矛盾を指摘されると、閣議を意図的に混同させたことは話題から徹底的に避け、
権威が言うから正しいと言い換える。その権威とやらも全く証拠は提示していない。
この人の唱える西郷征韓論説は、矛盾だらけなんですよ。
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 18:49:44 ID:2m0k3zmB0
>>150 証拠にこだわるなら、
>>38が十分証拠たりえてるんじゃないかな?
西郷が武力行使を前提に使節派遣を考えていたとするソース付きの十分な証拠でしょ。
鹿児島県が発行している『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、
広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」という文書が載っている。
これは高知県出身で板垣退助に近かった林有造の主張を記録したものである。
参議の西郷隆盛、副島種臣、板垣退助に加えて、
左院副議長伊地知正治が謀議に参加した征韓計画の謀議が載っている。
西郷は「先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀」を主張し、副島は賛成した。
しかし板垣は「先ツ其君主ヲ檎(とりこ)ニスルヲ主眼トスル」点では賛成しながらも、
北方からの包囲は難事とし、三分の一の兵を釜山に上陸させて、朝鮮軍の迎撃を待ち、
残り三分の二の兵力をもって江華湾方面に送って「突如京城ニ肉薄」し、その間に
釜山の兵力も海路平壌に送って敵の退路を断つという戦略を主張した。
伊地知正治は少し大規模の兵力派遣を主張したという。
西郷は板垣、伊地知を信頼して謀議を行なったようである。
「其進軍ノ戦略ニ就テハ板垣伊地知ノ二氏ニ委スヘシトノ事ニ門下中ノ領袖ニ漏洩シアリト云フ」
と記されていることも興味深い。
また当時司法省出仕だった有馬純雄(藤太)の回想『維新史の片鱗』によると、
有馬は西郷から朝鮮占領後の民政官任命を内示され、
当該地域の地図を探したという挿話を述べている。
↑これを遣韓ととるのはあなたの勝手ですが、うそをついていると主張するなら、
うそである証拠をソース付きで、主張者であるあなたが提示するのが筋だと思います。
>>150 まあ、大久保からすると、西郷を使節として朝鮮に派遣した日には、なにがおきるか
わからないから、あまりにリスクが大きすぎると考えたわけだろう。
西郷と板垣が征韓について議論したというのは、ありそうなことであるが
その場で密約文書つくって、計画の実行を誓ったわけでもなさそうだし
一種のシミュレーションじゃないの?
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 19:12:56 ID:BpIC7TyM0
>>151 話が出来ないのなら、コピペで話題を循環させようなどと思わないように。
あなたは敗北しました。
>>152 いわゆる「征韓論」論争は、外交特使派遣問題というよりは、留守政府と岩倉使節団との
政府の席争いではないかと思っています。
大久保の率いた政府でも、朝鮮半島への外交姿勢は結局変わるところはなかったのですから。
江藤新平の薩長閥排除志向は甚だしいものがありました。
逆に彼を排除することでしか、岩倉使節団参加者は政府内で主要な地位を占めることは出来なかったでしょう。
板垣が朝鮮への派兵を主張して、西郷はこれに反対したとあるが、西郷は一貫して
板垣などと共同で征韓のための計画実行に邁進していたとするならば、西郷と
板垣らの征韓派は密接に通じていて、板垣の派兵すべきという意見に西郷が
反対したというのは、ふたりで共謀したお芝居ということになるわけだw
でもどうなんだろうね、そこまで征韓派と西郷の間で事前に話が通じていて
シナリオができていたとも思えないが。
>>153 まあ、あれだ。使節団のほうは、列強の実力をよくわかってるから、その列強の干渉を
招きかねないリスクを伴う行為は絶対やめるべきと、そう考えていたわけだろうなぁ。
といっても、その後の朝鮮開国にいたる手続きは、征韓派とあまり変わらないやりかたで
あったわけで、西郷にしてみりゃ、俺を使節にしていれば、朝鮮通交にいたる名目も十分に
たったはずという気持ちがあったんじゃないかなぁ。
156 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 19:28:18 ID:BpIC7TyM0
外征なんて冒険は即決で出来るものではないでしょう。
少なくともあらかじめ外交努力を尽くし、並行して作戦を立案し、そのための軍備を整える必要があります。
留守政府内での閣議が特使派遣で決したというのは、外交努力を尽くすということです。
和平でも外征でも、どちらとも取れる第一歩です。
ここで留守政府が征韓論で決したとする意見は、誤認も甚だしい。
ただ、当時は岩倉使節団の帰国という政府内の重大事項があった。
そして江藤新平は使節団組に政権を明け渡すつもりが全くなかった。
政争はここから始まるわけです。
でもまあ、留守政府の代表者では、征韓派、派兵派が多数だったわけなんでしょ?
使節派遣決定というのは、征韓派主体の妥協案とはいえるかもね。
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 20:01:48 ID:BpIC7TyM0
外交特使派遣で決した留守政府の閣議決議は、和戦どちらにしても手続き上順当なものと言えるだろう。
しかし、これは岩倉使節団帰国時に政争になった。
政争になった理由は、決議内容自体ではなく、政府内に岩倉使節団参加者の居場所がないということであったと
私は考えている。だから何か理由をつけて、使節団組の復帰を阻害している江藤を標的とした弾劾が必要になった。
この時に、「外交使節派遣は外征と他ならない」という飛躍した論理が、大久保達の側から出てきた。
西郷は、外交使節派遣は外征とは違うと言って抵抗し、後藤・江藤・板垣を巻き込んだ形で総辞職に至る。
大久保による留守政府弾劾と使節団組の政府実権確保は、西郷の外交使節派遣決議を反故にした形で貫徹された。
話は簡単だよ。
ここで西郷が征韓派でなく、あくまで「遣韓」であり交渉自体を拒絶された場合、
にこやかに帰ってくるだけで、世論がどんなに憤激しても絶対に二次的行動を起こさない…
そう信じてる奴は小論なり、大学の卒論でそう主張してみな。必ず20数年前の毛利説に浴びせられた批判をまた食らう。
このスレはネタスレか?明治六年政変の主要因が征韓論だけではなかったというのは同意だけどね。
でも征韓論抜きで、しかも西郷と大久保が立場を大きく異にしていなければあれだけの変事にはならなかった。
>江藤新平の薩長閥排除志向は甚だしいものがありました。
>逆に彼を排除することでしか、岩倉使節団参加者は政府内で主要な地位を占めることは出来なかったでしょう。
だから毛利敏彦の、江藤対長州閥を軸にした政争の想定は
>>127で反論されてるでしょ?
もうこの時期は藩閥云々だけでは動いてないの。そうでなきゃ大隈や大木の行動をどう説明すんの。
ましてや尾去沢銅山事件なんか完全に時系列から外れてるんだから。
でも、西郷は自分ならこの朝鮮半島問題における行き詰まりを打開できると
考えてたわけだろうなぁ。どうやるつもりだったのかは知らないけれど。
西郷が使節として派遣され、武力行使なしで行き詰まりを解決できた可能性も
極微小ながら想定できないわけではない。
もちろん、その他にも、西郷が朝鮮半島で殺されて、憤激した日本側が
武力行使をおこなう可能性もあるわけだけどさ。
162 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 22:34:02 ID:BpIC7TyM0
なんだか君は論理をずらすだけで、散々嘘を並べて迷惑をかけたことはスルーする。
ここで西郷征韓論説を唱える人は、ここまで矮小であったかと情けなく思えます。
後藤・江藤・板垣が征韓論を唱え、西郷も交えた留守政府の閣議では外交使節派遣で決着する。
どこに西郷隆盛が閣議で征韓論を主張した形跡があるのでしょう。
あなたの、閣議で西郷が征韓論を主張したとする西郷征韓論説は、あなたの挙げる権威も含めて誰も支持しないでしょうね。
論理がありませんから。
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 22:53:23 ID:BpIC7TyM0
>>159 >でも征韓論抜きで、しかも西郷と大久保が立場を大きく異にしていなければあれだけの変事にはならなかった。
またあなたは、外交特使派遣で決着した留守政府の閣議と、全てを無効にした大久保利通も交えた閣議とを混同し、
西郷が閣議で征韓論を唱えたと誤認させようとする。
二回目の会談では、留守政府で特使派遣で合意がなされたことを、廃案とするかどうかなのですから、
討議内容は特使を派遣するか否かです。征韓論の是非ではありません。
あなたの文章は、意図的な話のずらしが多い。
まともな議論を提示しているのではなく、嘘を交えて相手を間違った方向へ導こうとする。
あなたのそのような不正を好む嗜好が改まらないようなら、あなたの文章には全く価値がないということです。
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 23:09:09 ID:2m0k3zmB0
>>162 あの〜、西郷が閣議で征韓論を主張したなどとは誰も言ってませんよw
西郷の真意がどこにあったかという話しをしてるだけで。
あなたが独りで閣議の話しにすりかえてるだけでしょw
卑怯というか、滑稽ですね。
議事録も残ってないような閣議の話しのみにこだわっても、当時の政府の実像は見えてこないと思いますが?
あるいは、西郷の外交オンチぶりを粉飾するには、閣議の話しに執着する以外ないのかな?
といより、あなたの議論オンチぶりを粉飾するには、閣議の話しに執着する以外ないのだろうねw
鹿児島に縁のある人なんでしょうけど、正直ゾッとします・・・
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 23:43:21 ID:BpIC7TyM0
つまり、西郷征韓論説の人は自説を全面放棄しました。哀れですね。
この人の意見は嘘だけだったということです。
論理のないことを主張し、論理から外れていることを言われたなら嘘で返す、
このようなあなたの人生で、何が楽しいのでしょう?
西郷が征韓論を閣議で通そうとしたという説について、誰もそういっていないと西郷征韓論説を唱える人が主張するなら、
西郷征韓論説自体が成立しません。
あなたは議論で自殺しました。
166 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 01:54:01 ID:ZvdIlO7k0
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【超高税の農民虐め】
薩摩では百姓の本田畠に対しては79.6%と言う常軌を逸した高税が課されていた。
(自ら田畠を耕す自作郷士も大勢いたが郷士の自作地については僅か18.4%の課税)
更に食料や収入になりそうな樹木にも附籾と言われる課税がされていた。
(例えば、柿や漆は1本あたり籾1升に換算されて課税される)
そして15〜60歳の男子に用夫役や狩夫役などの労役が課せられ
公役は「月三十五日」と言われる過酷なものであった。
薩摩には独特の門割制度と言うものがあり
要するに耕作者の均一を図る為に
人口の少ない所には多い所から人を強制移住させるものである
選抜は「くじ」で行われ家族もばらばらに引き裂かれた。
明治期に至っても士族至上主義の農民虐めは続き
地租改正後も土地は士族が大半を独占し農民は小作になり士族支配の形は変わらなかった。
当初、選挙権・被選挙権共に地租の所有量により与えられた為
薩摩では議員も殆どが士族であり※後述
薩摩は太平洋戦争後まで封建制度が継続する事になった。
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 01:57:25 ID:ZvdIlO7k0
明治20年代の県議会議員
士族 平民
神奈川 1 56
埼玉 1 38
千葉 3 50
群馬 4 56
新潟 4 60
栃木 5 32
長野 6 32
岩手 7 60
宮城 8 56
山形 8 23
秋田 9 21
茨城 10 48
福島 10 50
青森 12 18
鹿児島 27 3 ←
いかに時代遅れでお山の大将気取りの田舎侍が多かったか分かります
薩摩は北朝鮮ばりの収容所国家だったというわけか。
平壌(ピョンヤン)の特権階級を食わすために、収容所の強制労働者が徹底的に搾取されてる図式と同じだな。
明治20年頃と言うと、出所した河野主一郎たちの士風維持運動が
鹿児島県のほうからも目をつけられていびられてた時期だと思うんだが、
それでも県議会議員は士族が圧倒的に多いのね。
士族の比率が高い鹿児島県ならではの現象なのかも知れないが
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/04(土) 01:55:36 ID:0Fz6kgAz0
>>169 維新後も形を変えて奄美の黒糖専売制を維持し、
黒糖価格の下落が進行して旨味がなくなった
途端に奄美群島は独立採算行政にする恥知らずの鬼畜どもだからな。
島津一門、重臣達、在番、政商に由来する資産はすべて没収すべき。
171 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 13:47:37 ID:M+T3opaY0
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【衆道(ホモ)】
江戸時代末期には既に廃れつつあった衆道だが、薩摩では近代まで盛んであり
とりわけ稚児(少年)を好み、客人に「お茶にしますか?稚児にしますか?」と勧めるほどであった。
薩摩では郷中制度という青少年の集まりがあったが
要するにケツを掘り合って結束を固めるものである
美少年は羨望の的であり常に強姦の危機に曝されていた為
特定の年長者にケツを捧げて保護して貰う必要があった
年長者は美少年を稚児様と呼び、きらびやかな着物を着せ歩くときは傍らで傘を差し掛け
夜は他の者に拉致されないように寝ずの番をした。
薩摩ではこういった風習が常識であり
「父ちゃん、伊東さんちの美少年とホモダチになったよ」
「ほー、おまえもやるねー」
的な話題が家族の食卓で成り立つのである。
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 07:22:53 ID:SEHj4qHc0
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【衆に強くして寡に弱き】
薩摩人は多勢でいると強いが一人になると弱い特徴がある。
例えば一人でいる時に辱めを受けても大人しく帰ってしまう
そして仲間に言って多勢を引き連れて仕返しをすると言う具合である。
他国では卑怯な振る舞いであるが薩摩人にとっては当然の事であるようだ。
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 02:31:46 ID:zo0iL8su0
↑ なんか必死ねえ〜
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 16:24:07 ID:6z1NVgJXO
大阪のスターライト工業って西郷家の末裔
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 21:01:36 ID:qF0e8U4N0
西郷の子孫もけっこういろいろ活躍してるが、
直系の子孫はたしか詐欺師になって捕まったんだよなw
たしか大臣になったが資産がなく、資金援助を行ったいかがわしい連中、特に中国の走狗となったとは聞いています。
それゆえ、私は西郷隆盛の「子に美田を買わず」という意見には大反対なのです。
彼も、十分な資産があればよき振る舞いで一生を過ごした可能性があるからです。
血の気の多い連中が心酔する西郷のカリスマ性、ハンパない
このスレでは西郷が征韓論を唱えていないという説が
主張されていますが、ならば西南戦争の原因は何だった
のでしょうか?
関係のない事を、さも関係があるように語って持論の補強に使おうとする人間は、世の中に多い。
西郷征韓論説も、その一つなのだろうね。
>>179 ?すみません何が言いたいのかさっぱりです。
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 02:18:47 ID:7zhiArGx0
西南戦争の原因が征韓論てw
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 02:38:34 ID:4i+dvTk60
>>178 西南戦争の原因は西郷暗殺計画に私学校の青年が暴発したこと。
>>182 それは知ってますけど、西郷が鹿児島に引きこもったのは
征韓論が原因でしょ?
184 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 11:25:48 ID:YvhPsNbC0
征韓論というか、征韓論は西郷にとって政府に難癖付けるための付け焼刃の政策論でしかなかったわけで。
それが通らなかった=権力闘争に負けた → 帰郷
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 11:45:00 ID:jjGbqSxxO
>>183 征韓論は元々静岡士族が新聞に投稿した物ですよ。
>>184 つまり征韓論が通らなかったから鹿児島に引きこもった。
で、地元士族に担がれて西南戦争を起こした。
一般の認識どおりでしょ?
>>186 > つまり征韓論が通らなかったから鹿児島に引きこもった。
征韓論(遣韓論)が下野のきっかけ。
> で、地元士族に担がれて西南戦争を起こした。
> 一般の認識どおりでしょ?
そう、一般の認識どおり征韓論(遣韓論)とは関係なく、西郷暗殺計画に憤慨した地元士族に担がれて暴発。
>>187 征韓論の事で鹿児島に引き篭もらなかったら、暗殺云々もなく
西南戦争のキッカケもなかった。つまり征韓論で西郷が下野した
ことが西南戦争の原因になった。
間違ってる?
西郷は征韓論でひきこもったけど、ひきこもり以後おこったいくつかの士族反乱に
西郷はコミットしなかった。 つまり西南戦争に西郷がコミットしたのは、下野したこと
以外にも原因を求めねばならない。
>>188 下野だけなら戦争にはならん。
問題は軍のトップが故郷に帰り中央政府から独立した軍事組織(私学校)を持ったこと。
今で言えば自衛隊とは別に元防衛省のトップが故郷に戻って私設軍を作り軍事訓練を続けてたようなもの。
この状況を放置することはできんでしょ?w
>>188 >>188 明治6年の政変で同時に下野した江藤が佐賀の乱で担がれたことを見ても、
薩摩以外に住んだら西郷本人は地元の不平士族に身を預けないで済んだろうね。
(極端な話、不平士族のいない地域、このへんは塩野七生も「男の肖像」で言及してたと思う。)
ただ神風連、秋月、萩の乱、佐賀の乱が起こったように、
西郷が下野して帰郷せずとも私学校は他の適当な人物を担いで蜂起して(政府の挑発に乗って)
西南地域に規模の違いはあれど内戦は起こったかもしれない。
>>190 >問題は軍のトップが故郷に帰り中央政府から独立した軍事組織(私学校)を持ったこと。
西郷が鹿児島に引き篭もった原因は征韓論を蹴られたことだから
やっぱり西南戦争の原因は「西郷が征韓論を蹴られて鹿児島に帰ったこと」でしょ?
西郷は征韓論を主張していた、ってことですよね。
>>189 >>191 自分の政策ボツにされて故郷に帰ったら反乱の神輿にされちゃった
ということですね。そうだったんだろうなと思います。
そこに異論は全く無いです。
自分が
>>178 で言っていたのは「西郷が征韓論を唱えていない」という説が
このスレであったので、じゃあ西郷が征韓論唱えてないなら何で西南戦争が
起こったの?ということです。
西郷が鹿児島に帰ってからの経緯は自分も理解しています。
193 :
192:2011/01/02(日) 01:17:12 ID:hwGAsBVK0
性感論はあくまで政争の一部分。
新しい政府の主導権争いに勝つか負けるか。
留守政府組が負けた。
だから性感論もぽしゃったし、江藤も西郷も死んだ。
それだけ
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 04:53:11 ID:nsLnhDb20
当時の史料とこのスレを読む限り、西郷隆盛は征韓論を主張していないと思われる。
しかし、彼が主張したということにすると、都合の良い人がいるんだろうね。
例えば、戦前に西郷や坂本龍馬を朝鮮進出の先駆者扱いした、東北出身者集団・関東軍の周辺。
そして戦後に一転して中国への侵略を西南日本のせいにしようと執拗に主張する、星亮一の周辺。
>>194 そういうことだな。
征韓論を遣韓論にすりかえようと必死になってる奴がいるけど、
西郷にとってはそんなもんどっちでもいいわけで。
西南戦争にしても、政府が挑発したとか、私学校が武装していたとか、
それも政争の延長なわけで。
政争というか派閥争い。
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 07:16:38 ID:ajINvNkT0
西郷さんがナポレオンに影響をうけていたのも、
西南戦争の決断に関係があると思うよ
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 09:17:56 ID:/WNl/M5+0
西南戦争は第二維新
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 14:51:24 ID:SwF8JbJ10
西南戦争時の鹿児島士族って身の程知らずでほんと滑稽すぎる
せめて後世に悪例としての教訓でも残してくれればよかったのに、
なんか滅びの美学みたいな美談に仕立てて、大勢の若者の死を無駄にしやがった
日本人の嫌な部分が凝縮された土地だよ、鹿児島は
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 15:37:55 ID:g9TfexMl0
西郷関連の美談は、江戸っ子連中が作ったのを、戦後の会津関連洗脳者が必死に中傷で潰しにかかっている感じ。
まあ実像とは遠かったが、会津の嘘も軍国主義の元凶となり、現在の日本経済破綻の元になっているので、
あちらも誉められない。
嘘つきが美談をひけらかすと、日本は駄目になるということなのだろう。
会津が最悪、次が仙台、その次あたりに西郷美談が来るのだろう。
西郷隆盛の功績って何なの?
薩長同盟って坂本龍馬が尽力した結果でしょ?
戊辰戦争って大村益次郎の戦略の結果でしょ?
明治維新以後は大久保利通が手動した。
西郷隆盛の功績ってせいぜい前線指揮官レベルの
ものじゃないの?それが維新三傑に数えられて
増長した結果、西南戦争起して自滅した。
それだけじゃないの?
202 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 23:56:35 ID:g9TfexMl0
彼が決断しなければ、何も動かなかった。
西郷隆盛はその意味で、明治維新第一の功労者であることは間違いない。
個々の事物に関しては、それぞれ推進した人間がいた。
しかし西郷が認めた事物は実現し、西郷が拒絶した事物は消えた。
西郷隆盛は明治維新を作った張本人なんだよ。
203 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 00:24:28 ID:W5iDPzoP0
そうそう
薩長同盟だの戦略だの
そういう単純明快で簡単な言葉で説明できることだけが功績とちゃうからな〜
>>202 >彼が決断しなければ、何も動かなかった。
西郷がいなければ別の人が「これで行こう」って
判断して同じ様に歴史は進んでいったんじゃない?
西郷でなければ、って場面は実はなかったんじゃないの?
斉彬に寵愛された西郷が存在したことで、西郷が薩摩城下士を糾合するような形になってしまった。
そして、薩兵を動かすには西郷を通さなきゃならないという一種の軍閥ができてしまったわけで、
もし西郷がいなかったら、より合理的に兵を活用することができたはずだ。
そうすれば薩摩の戦果も大きくなり、新政府内の薩摩利権も拡大してたはず。
西郷がいなかったら、西郷下野&士族下野もなかったわけで、
あのような形での西南戦争も起きなかった可能性が高い。
鹿児島も今のような悲惨なお荷物県になり果ててないだろうな。
西郷こそ鹿児島没落の張本人と言ってもいいのに、
これをいまだに崇拝してる鹿児島人の頭はどうかしてるよ。
西南戦争は維新政府の保守化官僚化に挑戦した第二次革命戦争
207 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 17:16:02 ID:cV37EPHQ0
>>205 なんだか、あなたの都合の良い妄想を連ねても困るのですが。
西郷隆盛の死後、薩摩閥は統一性を失って崩壊します。
要するに、リーダーが必要な集団だったというわけ。
それを彼が死ねば統一性が保てたと書き、
後段では彼の死で崩壊したと言って鹿児島をあざける。
あなたは彼が生きていようが死のうが、鹿児島を中傷することにしか目が向いていない。
>>207 >それを彼が死ねば統一性が保てたと書き、
>後段では彼の死で崩壊したと言って鹿児島をあざける。
そういうことはまったく書いてないですけど。
脳内変換するのもいい加減にしてください。
>西郷隆盛の死後、薩摩閥は統一性を失って崩壊します。
>要するに、リーダーが必要な集団だったというわけ。
それはちょっと違うでしょ。
西郷が死んで統一性を失ったわけではなくて、
西郷派と大久保派に分裂したことで、結果的に西郷の戦死が引き起こったということでしょ?
たいていの集団はリーダーが必要だと思うが、べつに西郷じゃなくてもよかったんじゃないの?ということ。
西郷を唯一無二のものとして、西南戦争(死者1万以上)まで美化しようとする鹿児島人の頭はやはりどうかしてると思いますよ。
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 21:00:45 ID:W5iDPzoP0
『もし』の妄想w
でしょ の人か
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 21:23:48 ID:cV37EPHQ0
嘘を連ねれば会津が浮かばれるという感情があるのでしょう。
同一口調で松平容保を執拗に庇ったり、かわいそうな人だと思います。
前言に根拠がない点を指摘すると、そんなことは言っていないと言ってごまかすのもいつものパターン。
西郷批判をするなら根拠が必要です。実在しない征韓論を振りかざしても西郷への評価は崩せないでしょう。
西郷隆盛は欠点も多く、死後の哲人神聖化には反吐が出ますが、
維新期に薩摩を一手に纏め分裂を許さなかったこと、
陰謀の京都の政界で主導権を手放さず、勝利者となったこと、
この二点は賞賛に値します。
>>211 > 維新期に薩摩を一手に纏め分裂を許さなかったこと、
> 陰謀の京都の政界で主導権を手放さず、勝利者となったこと、
> この二点は賞賛に値します。
わかった。田中角栄なんだな。
213 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 23:21:39 ID:W5iDPzoP0
あらら
214 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 11:15:21 ID:CRIiAoXI0
いつぞやの遣韓バカがまた妄言吐いてますなぁwwww
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 16:45:25 ID:KBEF+rl60
会津の征韓論支持者は、抗弁も出来ずに罵倒へ移行か。
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 20:02:13 ID:yM884ZjZ0
罵倒するしかないんやろーw
同時代の人に彼を高く評価していた人がいたのは事実(たとえば勝麟太郎)なので、
信者さんには、そのへんおしえてほしいな。
おれにはさっぱりなんだ。
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/07(金) 23:39:24 ID:36zKMFcQ0
当時、評価してた人や信奉者は相当おったやろけど
当然ながら西郷嫌い、憎んでいた人もおったやろ
史料や小説を読んでもさっぱりなんやったら
無理に理解しようとせんでもさっぱりのままでもええんとちゃう
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 04:40:44 ID:0GsxRFcL0
信者になる必要はない。
ただ、幕末明治期の薩摩では西郷隆盛は神に近い存在だったし、
幕末明治の日本では、西郷の名は雷名として轟いていた。明治以降も庶民を中心に世直しの神のように拝んだ。
生前から彼はすっかり周囲によって神格化し、ほとんど誰一人彼に逆らえるものはいなかった。
彼が推進したもので実現しないものはなかったし、彼が否定したもので世に出たものはなかった、最後の西南戦争を除いては。
そのため幕末から明治まで誰もが西郷を頼った。西郷無しでは明治維新は推進できなかった。
それゆえ、明治維新第一の功労者の席は西郷隆盛にある。
西郷を嫌ってたのは島津久光、大村益次郎。木戸も西郷が苦手だったようだ。
221 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 08:38:09 ID:QYtKV3VE0
きもいよ信者w
そんな嘘を並べてまで西郷を、そして薩摩出身者を持ち上げたいかね
激きもいわ、鹿児島の西郷信者w
222 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 16:23:52 ID:9FxnZmA60
きもいんやったら来んかったらええんとちゃうw
それもきもいでw
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 18:30:02 ID:QYtKV3VE0
わざわざ関西弁使って、第三者を偽装でおまっか〜?wwww
ほんまあわれやわw ここの鹿児島人はwwww
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/09(日) 02:45:53 ID:JeJ6KCny0
えっ 関西人は西郷贔屓になったらあかんのんw
せやし大阪ではイマドキ芸人以外“おまっか〜”なんて言わへんしなあw
あらら〜、ほんまの関西人まで鹿児島人と思て、どっちが哀れや フフw
実際の西郷隆盛は
>>35〜のテンプレどおりの姑息な策士だ。
薩摩自体が、幕末も風見鶏のように幕府についたり長州についたりとどこが薩摩隼人だと失笑される存在。
琉球を侵略した点など見ても、薩摩は日本人の最も醜い部分が集約した藩だ
勝てば官軍とはよく言ったもので、明治以降は豪傑として歪曲されてる人物の一人
226 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 17:56:30 ID:849Ss/950
西郷隆盛批判は、
>>225のような論理を全く欠いた罵倒でしかないものが多い。
政治で直情径行でないことは良いことであり、状況に応じた対応をとらない「○○道」は政治では馬鹿でしかない。
しかも、西郷を貶すのに、彼の生まれる数百年前の琉球侵略しか持ち出せないとは
西郷隆盛が無謬だといっているようなものだ。(実際はそうではない)
227 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 20:48:56 ID:6R5f09/i0
日和見してた藩がいちばん姑息
228 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 20:49:54 ID:6R5f09/i0
↑ 政治行動をせずにという意味ね
いいとこ付きの薩摩w
西南ボロ負け以降は、長州人に媚びへつらって体面保つしかなかった薩摩人w
山県死後は一転、東北人の走狗となり、保身に汲々としていた薩摩人w
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/12(水) 08:20:00 ID:NLNHe/Kb0
いいとこ付きって、薩摩人のお家芸みたいなものでしょうね。
地理的に攻められにくい土地なんで、その時その時の中央主流派に頭下げておけばなんとかなりもそ、みたいな。
それは意識してやっていたと思います。幕末の時も。
西郷個人が卑怯だったわけではない。
今の鹿児島人のメンタリティも、延長にある感じ。
役所や大企業という「いいとこ」に属している人間がいちばん偉い、みたいな土地柄。
個人の能力とかあまり問われなくて。
それは日本人全般に言えるけど、鹿児島は極度にひどい。
ほかの土地なら、地方公務員=競争を避ける弱い人間、という見方もけっこうあるが、
鹿児島はそれがまったくない。
231 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/12(水) 22:09:14 ID:G40pmVXb0
まあ他国もいいとこあり悪いとこありっしょ
そんなこと言い出したらどこぞの国なんてひがみっぽいし執念深いしw
それにしても229みたいな「お前の母ちゃんデベソ」レベルの子供じみた罵りはどうよ〜
232 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/13(木) 00:30:39 ID:IiEiWaSm0
229は関西人を偽装鹿児島人と罵った哀れなヤツな〜
233 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/13(木) 01:02:03 ID:BRSdCfJ40
その哀れな煽りに必死に反応してるおまえって何なの?
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/13(木) 18:24:55 ID:NXiVTcrj0
おやおや
235 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 13:42:53 ID:fRt6FAgR0
薩摩郷中教育
嘘を言うな
負けるな
弱いものをいじめるな
で、奄美に謝罪したの?
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/14(金) 23:08:02 ID:lVGi8dKP0
お疲れさま
弟・従道にも、従弟・大山巌にも同調して貰えなかった理由を誰か説明して欲しい。
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 22:28:43 ID:Axhy4WMX0
従道にも巌にも会って話を聞いたわけじゃないんで断定はできないけど
この二人は西洋を見てきてるんで、
少なくともその一点だけでも
兄弟・親戚と言えども考え方は違ってきたのではないかと思ったりしとるんですが。
239 :
664:2011/01/15(土) 23:08:57 ID:dsGfgRbE0
>>235 謝罪なんてしてないよ
劣等な島民族を高等な鹿児島人に教育をしてあげたんだから、むしろお礼が欲しいくらい
そんな劣性民族の住む島だけどまともな施設を鹿児島人は作ってあげた
奄美パークというHA☆KO☆MO☆NO
沖縄人に戦で敗れ蹂躙される奄美人が鹿児島人に助けられ、そのお礼として薩摩のために砂糖をたくさん作ってくれたという正史を紹介
さらに島民とふれあい(女を買う)、島を良くしようとした(植民地的な意味で)、至誠の人(薩摩士族に対してだけ)西郷隆盛のコーナーも充実
この施設は遠足・校外学習で訪れる児童・生徒の教育に使われ、その島猿の調教にとても役立っているという
>>237 同調って西南戦争のこと?それとも征韓論のこと?
帰国後は、桐野ら薩摩士族まるだしの連中とは袂を分かつことになって、
同じ渡欧組の山県らと親しくするようになったようだ。
桐野タイプの薩摩出身者ばかりで身辺を固める西郷には呆れていたようだね。
そのあたりから西南戦争の伏線は始まっている。
従道や大山が西郷に従わなかったのは当然と言えば当然。
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 15:12:55 ID:r7rxOTk00
東郷は日本にいたら薩摩軍として戦ったって言ってたけどね
謝罪しろとか謝罪してないとかは後進国の小韓民族だけがすることや
日本の民度に適してはいない
対朝賊軍事総裁 高田信弘 ◆2I5hlJuq8sNH
↑
こいつって、鹿児島人だったのかw
245 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 19:24:15 ID:r7rxOTk00
えっ、まだ全員鹿児島人って思ってるんですか!?ビックリ!!
ということはアンチ西郷アンチ薩摩は全員朝鮮人ってことなんですかね!???
>>238 大久保が自分の後継者として見ていた村田新八は帰国後に、
下野した西郷を追っかけて鹿児島に行っちゃったから、
外遊=新政府側とは限らないんだよな
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 00:16:33 ID:E+IM+2CH0
そういう人もいたろうが、基本、外遊=新政府側といっていいんじゃないの?
村田は西南戦争の最中に「薩摩には個が無い」と、全体主義的な風土を嘆いたそうじゃないか。
それでも西郷に付き従ったのは、就職など個人的な恩にむくいるのが筋と考えたのだろう。
248 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 00:24:34 ID:bvxyEd4R0
238です。
外遊=新政府側とまでは言い切りませんが。
ただ帰朝した中では村田新八くらいではないでしょうか。
彼も苦悩葛藤はあったようですけどね。
ただ西郷への義を選んだ彼を自分は好きですけど。
あ、因に自分は鹿児島人ではないですよ。
西郷は人気と言うか、一種の天皇だよ、鹿児島では。
西郷批判はタブー。
日本のために幕府を倒し、新政府を樹立した大立役者。
やがて、腐敗した新政府と袂を分かち、維新をやり直すために、
鹿児島士族とともに挙兵した正義の人。
こんな感じ。
250 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 15:52:11 ID:FIqRoy5m0
西郷は本当に維新をやり直そうと、そこまで考えていたのでしょうか
維新の矛盾を一身に引き受けて死んで行ったようにも思えるのですが
それはあまりにも美談過ぎるのかしら
251 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 15:54:47 ID:FIqRoy5m0
↑ 自分も鹿児島人ではないです
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 11:16:55 ID:m1EuIc6h0
>>250 一身に引き受けて死んだw
薄っぺらいねぇ、あんた
253 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 18:11:05 ID:anrkx7A50
252も相当薄っぺらい返しやん 失笑
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 18:15:55 ID:anrkx7A50
あ〜 252は例の鹿児島県人にしたがり病の輩やな さらに失笑
>>250 岩倉=大久保政権が行き詰まって、自分の出番が来るとは考えていたのは確かなんでは?
維新のやり直しと言う発想があったかは知らないが、
北辺防備や士族救済による国防国家的な志向は持ってたと思う。
大久保は、西郷は絶対に起たないと楽観して鹿児島県士族の特権はく奪にかかったのは確かだが、
西郷はその時点ですでに大久保に不信感を抱いていたらしい。大久保が自分の暗殺を謀ったという情報も信じたようだね。
一方の大久保は、「会って話せば分かるんだよ」と呑気そのものだった。
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/24(月) 08:24:57 ID:Vn+1Gz+NO
失敗しても成功してもそのあとの世の中の流れを考えていたとは思われる
いや、たぶん挙兵は成功すると考えてた。西郷自身の言動から考えて。
だから、目論見が失敗したらしいと分かってから、主戦派の桐野と不仲になった。
西郷は本心から勝とうなんて思ってなかったと思うけどね。
日本のためにも、郷土のためにも、
士族という亡霊とともに退場するつもりだった。
この決断が無ければ、日本の近代化は20年遅れていた。
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/27(木) 13:40:15 ID:8j7T1frv0
鹿児島に生まれるって、どんな罰ゲームやねん
260 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/28(金) 01:17:07 ID:UVzczIMm0
罰ゲームと思ってる人ばかりやないから別にええやん
素敵やん
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/29(土) 07:12:25 ID:S16gkbMi0
258とか、鹿児島人がバカにされるのも無理ないなと
西郷がシモタと言ったのは、挙兵の大義名分や時機のことであって、
鹿児島県士族の実力を過大評価していたことには何ら変わりはない。
作戦会議で桐野以下に委ねたのは自暴自棄になったためではない。
少なくとも熊本城は落とせると考えていたから陸路東上に賛成して場を収めた。
東京でも勝は熊本城落城の報を信じていたし、新政府の動揺を織り込んだ節もある
西郷が正論を受け入れるなら、永山・野村案に沿って単身上京を選択したはず。
それでこそ鹿児島士族の特権的地位が保たれる余地がある。
西南の役で敗走中、西郷は極度の肥満と睾丸肥大で歩くことができずカゴに乗って山中をさまよったそうだ。
屈強な若者がそのカゴをかつがされ、号泣しながら山崖を上げたらしい。
今では美談として伝わっているが、その時の若者の真の心中はいかなるものだったか・・・
265 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 15:56:50 ID:0MRbVJ1P0
262とか、だから何で鹿児島人と決めつけてるの?
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 16:04:34 ID:0MRbVJ1P0
>その時の若者の真の心中はいかなるものだったか・・・
そんなものは当人にしかわからない。涙の中にも一言で言い表せる感情ばかりではない。
少なくともこの若者は政府軍に投降せず、薩軍と共に行動したことだけは事実。
西郷隆盛のココントコがエラかった!
というのをあげてくれ。
>>267 子孫に美田を残さず、と語ったそうだが、
兄弟や親せき、同じ郷中の若者たちを高給で政府に就職させていた。
自分の金は残さず、人の金(税金)で美田を残すのが西郷流らしい。
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 19:25:38 ID:0MRbVJ1P0
因に税金でどんな美田を残したん?
270 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 19:31:33 ID:0MRbVJ1P0
ああ、薩長閥が政府を占めてたことが美田だって言うわけね、ハハ。
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/31(月) 01:38:06 ID:h743W2oc0
>>268 黒糖専売制も継続させて、廃止嘆願に来た奄美の住民は城山の監獄にぶち込み、
あまつさえ西南戦争に無理矢理に従軍させた外道だからな。敬天愛人とか欺瞞そのもの。
まさに欺瞞。
西郷個人の欺瞞を指摘してるのに、
>>270とか薩長全体のことにスリ替えようとしてて笑えるわ。
長州人で、敬天愛人とか美田を残さずとかほざいてた奴はいないのにね。
あ、乃木は西郷タイプかも。数万の兵を無駄死にさせたわりには歌詠んだり人格者ぶってたな。
言行不一致ぶりが西郷そっくり。
西郷個人の欺瞞を指摘してるのに、
>>270とか薩長全体のことにスリ替えようとしてて笑えるわ。
↑
いつものことだよ
鹿児島人の常套手段
都合が悪くなると論点すりかえる
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/31(月) 19:37:01 ID:wyGgyjbX0
鹿児島人じゃないんだけど?
で?
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 08:02:42 ID:R8b5KS3M0
273は会津wwwwwwwwwwwwww
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 08:48:16 ID:74ckoms50
しかし鹿児島って、大阪や京都からも奄美からも沖縄からも
宮古からも八重山からも恨みを買い捲ってることを自覚してないのか?
会津会津って馬鹿の一つ覚えみたいに。
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 10:08:24 ID:j2jZdtBm0
会津は、京都で『かいづ』って呼ばれて小馬鹿にされていたんだろ
尊王攘夷派の志士達から恨みを買い捲って全国規模で嫌われていた会津
278 :
愛のエメラルド:2011/02/01(火) 12:59:00 ID:I+OweGzZ0
268>>
子孫に美田を残さず、と語ったそうだが、
兄弟や親せき、同じ郷中の若者たちを高給で政府に就職させていた。
自分の金は残さず、人の金(税金)で美田を残すのが西郷流らしい。
お答えします。事実です。
西郷隆盛は洋行帰りの弟の従道を中将に抜擢しています。
日本軍隊を創ったのは大村益次郎と山田顕義の2トップです。
大村の死後、人事権を握った西郷隆盛は
西郷お気に入りの山縣有朋と弟の従道を中将に抜擢しています。
鳥羽伏見、北越の戦い、五稜郭と戦い抜き
日本軍隊の基礎を創った山田顕義を窓際に差し置いてです。
この西郷大将の身びいきな人事は木戸孝允、顕義の怒りを買い
西南戦争、熊本城の攻防戦、人吉の戦いなどで
西郷軍が山田旅団に完敗すると云う結果になります。
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 13:23:10 ID:9BCrqNfL0
西郷さんの人望買いw
当時からバカにされていたのが分かる
皆でさつま揚げパーティーやろうぜwwwwwwwwwwwwwww
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 18:28:30 ID:h+Amaf1T0
西郷従道に関しては、薩摩の首領としてのもので抜擢ではないと思うが。
山田本人以外長州からも異論はなかった。
というより、山田顕義は人望がなく、長州閥からも遠ざけられていた。
西郷さんは人格者だよ。
283 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 19:01:06 ID:h+Amaf1T0
そんなことは知らない。
むしろ行動から見ると、機会主義者であったように思える。
しかし、貶める目的の明らかな嘘の流布は良くない。
兄弟は出世したと少し上で誰かが言うが、彼らには戊辰戦争期の功績がある。
功績のなかった人間は抜擢はしていないし、子供には財産は残していない。
その意味で、
>>278は虚偽に満ちている。
284 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/01(火) 20:56:22 ID:Wg7OxFIm0
>しかし鹿児島って、大阪や京都からも奄美からも沖縄からも
宮古からも八重山からも恨みを買い捲ってることを自覚してないのか?
大阪人やけど別に鹿児島恨んでへんけどな。
ここで西郷寄りの意見書き込むとなんで鹿児島人と決めつけられるん?
どんなにご立派な批判してもその時点でアホ丸出しやん。
>>284 おまえは恨んでなくても、島津に借金踏み倒されたり、
新政府に損なだけの東京奠都の巨額経費を供出させられた
商人達の子孫はよく思ってないよ。
借金を踏み倒したり島津一門や、費用を拠出させた薩摩の
連中は、借りを返しもせずにその上に胡坐をかいて今に続く
地位と富を築いたんだからな。
幕末に限らず、藩や武士が借金踏み倒して知らんふりなんてままあったし、
藩どころか幕府にしても、結構な金を商人に供出させたりしてるから
時代を越えてまで恨んでるかというと……
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 00:08:10 ID:K+zoh58x0
恨んでへん人間もおるんやから大雑把に「大阪」と言うな。
会津や新選組も大阪小人の借金踏み倒したやんけ。アホか。
288 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 00:10:13 ID:K+zoh58x0
おおっと、大阪商人の誤りやな。鴻池さんらに怒られるわ。
289 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 00:14:48 ID:K+zoh58x0
会津のことを特に悪く思てへんかったけど
285のような輩が会津人かと思うと同情もできへんな。
290 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 00:17:07 ID:K+zoh58x0
それとも朝鮮人?
おれ鹿児島人だけど、鹿児島に生まれてほんとうに感謝してる。
カイヅとか、生まれながらに負け組ってどんな気分なのかな?
292 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 14:13:56 ID:jrJDGKsq0
>>291 常に沖縄より圧倒的に有利な条件下にあったのに、
というかいつも沖縄と奄美を踏ん付けて利益を貪ってきたのに、
今でも沖縄の特産品開発にコバンザメしたり漁場荒らししたり、
奄振予算に寄生して甘い汁を吸ってるのに、財政でも経済でも
沖縄に肉薄するレベルの鹿児島って信じられない。
一体、何をどうしたらそうなるの?
293 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 15:25:26 ID:xOZp0/8P0
時々、会津の人がこのようなことを言って貶すけど、
今の沖縄でポークと言ったら、デンマークのランチョンポークなので
黒豚が鹿児島とされるのは当然だと思う。
どうも文章の上の資料だけで、実際に沖縄に行ったことのない人が
沖縄を名乗って他の地域を貶すのは、沖縄にとってもいやなことだし。
会津人は嘘をつく癖をやめるべきだと思う。
294 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 16:04:02 ID:jrJDGKsq0
>>293 確かにチューリップのランチョンミートは豚肉でできてる。
しかし、おまえの家は盆正月も含めてスパム缶で豚肉料理作るのか?
バカじゃねーの。
ゴーヤーにしろ、マンゴーにしろ、PRして市場開拓した後で
輸送コストと輸送期間の圧倒的優位性を生かして乗り込んでくるのが
鹿児島や宮崎。
295 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 16:19:22 ID:xOZp0/8P0
この会津人は出身地を偽る上に反省しないなあ
沖縄にとっては、このような嘘をついて他人を罵り、沖縄と自称する会津のような人は大嫌いですよ
ゴーヤーは南九州に現にあるので、出荷されても無理はない
マンゴーは南九州にあるが、広めたのは東国原のタレント性
この部分で沖縄は劣っていた
他人を罵るときに沖縄の名を使うのは、沖縄を冒涜する行為ですよ、特産物のない会津さん
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 16:23:34 ID:jrJDGKsq0
>>295 そう。元々あった。ただし、市場は地元限定で。
それをPRしまくって全国に市場を広げたのが沖縄。
コバンザメの如く便乗してきたのが鹿児島と宮崎。
出身地を偽って自己弁護に汲々とする鹿児島人は見苦しい。
297 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 16:26:28 ID:xOZp0/8P0
出身地を偽るという会津人の行為が見苦しいと私は言っているのです。
それに、話す内容は言いがかりに近く、沖縄でもこのような減らず口は聞いたことがありません。
会津人のあなた、沖縄を騙って他人を叩こうと望むのは、沖縄を叩くにも等しい行為なのですよ。
298 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 16:30:46 ID:xOZp0/8P0
会津の人は自らに全く良い部分がないので、敵と看做した地域の周辺を騙って会津の欲望を満たそうとします。
しかし、そのような加害者の片棒は担ぎたくはない。
言う事は言いたいが、会津の味方は御免です。
会津人よ、あなたは嘘つきです。
299 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 16:31:13 ID:jrJDGKsq0
つうか2007年以前にマンゴーが全国に流通してなかったとでも言うのかこのアホは。
東国原は宮崎産マンゴーの拡販に貢献したが、それ以前から宮崎産マンゴーは流通してる。
沖縄の後追い便乗商法で勢力を広げ、次第にブランド力を付けてな。
300 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 16:37:25 ID:xOZp0/8P0
会津の特産物のなさが、このような偽装他県人になりたがるという会津の習性を生んだのでしょう。
栽培は物真似だけでは出来ません。
生産品は販売するのが当然です。
沖縄でも、他者に負けないものを作るために努力しています。
それを他人が作ったのは全て物真似だ、ですって?
そんな言葉は聞いたことがありません、少なくとも沖縄では。
301 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 16:43:07 ID:xOZp0/8P0
会津人は、昨日は大阪の人を騙っていたようですが、
大阪の人も気を悪くしていたようですね。
会津人の他県人を騙るという行為には腹が立って仕方がありません。
会津人は、他人に誹謗中傷をぶつけるのなら会津と名乗るべきでしょう。
決して他県人を装うべきではありません。
会津の品位は他県人と名乗って中傷をぶつけるところにある、そういうことになってしまいますから。
302 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/02(水) 22:51:00 ID:K+zoh58x0
昨日の大阪人やけど、とにかく大阪商人=大阪みたいな雑な感覚&無知なんやろか、会津の人間て。
これまで会津には会津の歴史や立場、想いもあるんや思ってそれなりに理解してきたつもりやけど
僻み根性もここまでくると閉口するなあ。
もう少し会津なりの美学があると思ってたんやけど。
ほんまにこれじゃ他県人に対する単なる八つ当たりやん。
こいつら戊辰から今だに、会津の幻影と戦っているんだなあw
304 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 14:37:41 ID:nU0cyZNa0
おお、また一旦逃げた会津人が
先の誹謗中傷に根拠がなかったのを隠蔽するために舞い戻ってきた。
会津よ、他人を嘘で中傷しても、嘘がばれたとき星亮一のように人間未満に扱われるだけだよ。
305 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 18:37:44 ID:vn2WmCw00
303はいつもここにストレス解消に来てるだけのお猪口
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 18:42:16 ID:vn2WmCw00
てか、なんだかんだ言って303はここが気になってるw
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 23:15:15 ID:kOinf3610
鹿児島名物は沖縄のパクリばっか。
現にわざわざネーミングで頭に『薩摩』と付ける狡賢さ。
泡盛→焼酎
甘藷→サツマイモ
沖縄かまぼこ→さつま揚げ
他にも屋久杉→薩摩杉として江戸に献上してたらしいし
韓国人並みの泥棒民族鹿児島人
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 23:16:12 ID:kOinf3610
↓起源詐称も鹿児島人の得意技
英国ボーイスカウトは薩摩郷中教育を手本にした
醤油の英語名soyは、醤油の鹿児島弁「そい」が、そのまま英語になった
滑稽にも鹿児島人はみな信じてるみたいです
309 :
大阪人:2011/02/06(日) 03:17:20 ID:gdcYyICb0
>滑稽にも鹿児島人はみな信じてるみたいです
そんなん放っといたらええやん。
どこの県にもなにかしらあるで。ケンミンショーか。
何をそんなに目の敵にしとるん?
308自身は鹿児島に何をされたん?
僻み?
会津人てホンマにこんなんばっかなん?
因に泡盛と焼酎は明らかに味がちゃうけどね。
味覚まで雑なんか?
310 :
大阪人:2011/02/06(日) 03:35:32 ID:gdcYyICb0
>現にわざわざネーミングで頭に『薩摩』と付ける狡賢さ。
そういや大阪に会津ラーメンの店があったけどこれは狡猾やないの?
つーことは広島焼も奈良漬も大阪プリンも東京バナナもぜーんぶ狡猾ゆうこと!?
大久保スレは機能してるのに、西郷スレはほとんど壊滅状態やな
鹿児島ラーメンてのもあったな。
鹿児島に行ったおりに、現地人が誇らしげに天文館の名店に連れて行ってくれた。
正直、どこが美味いのか分からなかった。
現地の人が、これが有名な鹿児島ラーメンです、って言っていたけど、有名??
314 :
大阪人:2011/02/06(日) 15:14:47 ID:gdcYyICb0
で 会津ラーメンは狡猾やないのか答えろや会津人
自分達は棚に上げて相手だけを罵るのが会津人なんか?
315 :
大阪人:2011/02/06(日) 15:17:26 ID:gdcYyICb0
でも大阪の会津ラーメンこないだ潰れたけどな。
商才の無さで他県人を妬んでるのか?
316 :
大阪人:2011/02/06(日) 15:22:30 ID:gdcYyICb0
大阪では少なくとも会津ラーメンよりは薩摩の黒豚ラーメンの方が知られてるな。
チェーン店もあるし。
317 :
大阪人:2011/02/06(日) 15:26:56 ID:gdcYyICb0
ほんま会津人は罵るにしてもしょーもないレベルで罵るなあ。
西郷さんは戊申のとき、日本中を戦火で焼き尽くして、
そこから新しい国家をつくらねば、と言ったとか言わなかったとか。
これは旧体質である武士階級を徹底的に破壊しなければ、
列強に伍する日本はつくれないという深謀遠慮かと思います。
しかし西郷さんはまず地元鹿児島の武士階級を解体すべきでしたね。
自分に甘く他人に厳しい、にもほどがありますよ。
320 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/07(月) 23:18:23 ID:E1HBbi8o0
>言ったとか言わなかったとか。
このレベルで
>自分に甘く他人に厳しい、にもほどがありますよ。
という結論に至るってねえ。
321 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/07(月) 23:22:11 ID:E1HBbi8o0
現在では、被害者ヅラして他県人を罵ってばかりいる会津人なども
十分 自分に甘く他人に厳しいと言えますけどねえ。
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/08(火) 02:43:11 ID:pG8ztygIO
ラーメン食べるなら与次郎ケ浜のざぼんらーめん、そばなら吹上庵、堅焼きそばなら山形屋だな。
豚骨ラーメンおいしかですよ。紅ショウガがうまか!!
おいは具は焼き豚と海苔とキクラゲが好きよ。
薬味はネギと紅ショウガね。
マジうまかさ。スープのたまらんもん。あんにおいがよかね!
ああ〜また食いたくなってきた〜。
明日も食うけん!!
>>323 このコピペも長いなぁ
何で近代史板でこれ貼られるの?
325 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/09(水) 21:57:54 ID:uhU0jecP0
アンチの粘着チャチャの所為です。
まあ会津に豚骨は馴染まないだろ。
327 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 10:03:29 ID:Ita0ODyF0
2ちゃんのおかげで、西郷と薩摩の化けの皮が剥がれたねw
しかも信者は反論もできず、バカの一つ覚えの会津話しでゴマかすしかない低脳ぶりw
328 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 14:07:27 ID:s1LHWoqK0
↑ 出たよ、またお猪口が。
329 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 14:09:35 ID:s1LHWoqK0
>化けの皮が剥がれたねw
>低脳ぶりw
これで自分はちゃんと反論できてるつもりなのね。
330 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 14:10:33 ID:s1LHWoqK0
ねえねえ、素朴な疑問なんだけど
いつもストレス発散にきてる327は西郷や薩摩に何されたの?
331 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 20:01:35 ID:Ita0ODyF0
最近の大河ドラマでの西郷のあつかいを見ると、
西郷株が右肩下がりなのがよく分かる。
篤姫の西郷はキョドってるだけだったし、
昨年の龍馬伝の高橋克己はただの疲れた中年オヤジで迫力まったく無しw
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 20:02:55 ID:Ita0ODyF0
昔なら西郷役は大御所俳優が重厚に演じるのが常識だったのにね。
最近のドラマ製作者は2ちゃんの影響か、西郷の実態をよく勉強してるようだw
333 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 20:56:02 ID:s1LHWoqK0
で、何されたの332さん
それには答えられないの?
334 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 21:01:40 ID:s1LHWoqK0
小学生か中学生か知らないけどドラマで判断するって!!!
てか大御所俳優が演じていれば立派な人なの!????
うわー!!!!
335 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 21:04:26 ID:s1LHWoqK0
ストレス解消にやってくる332さんは最近のスイーツ大河レベルの人間ということがわかりました!!
336 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 21:07:40 ID:s1LHWoqK0
因に自分は鹿児島人ではないですよ、332さん!
337 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/11(金) 21:15:10 ID:s1LHWoqK0
あ、そうそう鹿児島人に比べたら信者でもないですしね、332さん!
338 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/12(土) 07:11:16 ID:2SZEBwp90
西郷をけなすと鹿児島人でないと自称する人物が必ず出てきて、
必ず多数のレスを残していくんだなww
339 :
大阪人:2011/02/12(土) 18:37:05 ID:akGE9DNH0
338毎度毎度ストレス解消&ageごくろーさんやな
相変わらずここを見とるんが鹿児島人だけや思とるんやのう
ほんで西郷と鹿児島に何されたんか答えたれや
答えられへんのか
340 :
大阪人:2011/02/12(土) 18:39:36 ID:akGE9DNH0
ほな期待に応えて自分も多数のレスつけたるわ
>西郷をけなすと鹿児島人でないと自称する人物が必ず出てきて、
必ず多数のレスを残していくんだなww
それが何やねん
それも答えろや
なんやかんや言うてお前がいちばんここを気にしとるやんけ
341 :
大阪人:2011/02/12(土) 18:46:11 ID:akGE9DNH0
鹿児島人決めつけ病か?
大阪人と鹿児島人の見分けもつかんとはアホ過ぎるやろ
342 :
大阪人:2011/02/12(土) 18:54:46 ID:akGE9DNH0
んでスイーツ大河の次は何持ち出して因縁つけてくるんやろな
もうちょいレベルの高いネタで頼むわ
343 :
大阪人:2011/02/12(土) 18:57:16 ID:akGE9DNH0
“ww”大好きっ子やん
344 :
大阪人:2011/02/12(土) 18:59:02 ID:akGE9DNH0
ここも大好きっ子やん
>>342 レベルの高いネタかあ?
西郷さんの場合、レベルの高い活動があまり無いからなあ・・・
西郷さんのよく知られた実績といえば・・・
奄美の人々に対する強烈な差別
江戸市中放火
自分は情実人事まるだしなのに、井上馨を三井の番頭さん呼ばわり
海外組の留守中に約束破って征韓を強行決定
西南の役で逃亡中、こんなはずじゃなかったと桐野と口を利かなくなる
ほかにある?
346 :
大阪人:2011/02/12(土) 23:16:06 ID:akGE9DNH0
アンチ西郷のお決まり偏見パターンやな
347 :
大阪人:2011/02/12(土) 23:20:06 ID:akGE9DNH0
好き嫌いは個人の自由やけどアンチはアンチスレでも立ててそこで吠えときゃええやん
別に信者というわけでもなく、単に興味を持ってるだけの他県人を
鹿児島人といっしょくたにするアンチのレベルて完全にアホ丸出しやろ
348 :
大阪人:2011/02/12(土) 23:27:23 ID:akGE9DNH0
345の意見がすべて真実とは思えんけど
(物事は見る角度によってなんぼでも解釈変わるからな)
まあそうやったとして
ほな聞くけど
キレイ事だけで時勢を動かし得た人間ておるんか?
349 :
大阪人:2011/02/12(土) 23:32:03 ID:akGE9DNH0
まあでもだいたいこういうことをつついてくること自体
負け組の証やな
350 :
大阪人:2011/02/12(土) 23:35:37 ID:akGE9DNH0
と 今回も多数レスをつけてみたで
もっとつけよか?
我々は、この鹿児島蛮族が何故このようなスレを立てたのか?という
疑問を解決するため、1の故郷である鹿児島のとある寒村に向かった。
持参したドコモの携帯をみる、そこには「圏外」の2文字・・
さらに、もう一台持参したauの携帯も「圏外」の2文字・・・
「ここは、本当に日本なんだろうか?…」 「もしかしてここは北朝鮮なのか?」
思わず口に出てしまった言葉を同行した上司に「こんなことを言ったら殺されるぞ」と咎められた。
小人が住むような小さな家、ツギハギだらけの服を着る農夫や漁夫たち、
それら農夫や漁夫を監視している小役人やオイコラ警官、海上保安官たちの傲岸不遜な姿・・・・。
(注:警官や海上保安官等「公安系公務員」は、鹿児島人が異常に多いらしい)
それらとは対照的に立派な「鹿児島の偉人」西郷隆盛の銅像・・・
「まるで北朝鮮の金日成の銅像みたいじゃないか・・・・・藁」と小声で言ったところ
前出の小役人、それにオイコラ警官が私たちのもとに脱兎の勢いですっ飛んできて
「そこのヨソモン!西郷南洲翁をバカにする奴は俺が死刑にしてやる!!」と大声で
私たちに食ってかかるではないか(注:このときは鹿児島語訛りの標準語で罵倒された)
どうやらこの地では、西郷隆盛をバカにすると、役人や警察官が自己の判断で死刑に
していいらしい。なんという野蛮な土地だ、鹿児島は・・・・。
そして彼らは余所者で身なりのいい我々を監視する様に見詰めている。
そして、意味不明の「鹿児島語」と呼ばれる暗号のような言語でなにやらひそひそと
語り合っている・・・。多分、我々のことを鹿児島語で嘲り笑っているに違いない。
IT革命だの、ヤフーBBだの、ブロードバンドだの、聖域なき構造改革だので浮かれていた我々は
改めて鹿児島という「閉じられた人権抑圧戦闘国家」の現状を噛み締めていた。
ボロ屑のような家(この家も西郷隆盛の肖像画が鎮座していた)に居たのは老いた母親一人
我々を見るなり事態の全てを悟ったのか、涙ながらに
「息子がクソスレ立てて申し訳ありません」と我々に何度も土下座して詫びた。
(↑注:鹿児島語を解せないので、鹿児島語←→日本語の通訳官を介しての会話)
我々はこの時初めて「鹿児島犬人すべてをジェノサイドしてやりたい」と思った。
誰が悪い訳ではない、鹿児島の全てが「日本の害悪=日本のエボラウィルス」なのだ。
我々は1の母親から貰った鹿児島特産(藁 のかるかんと辛島美登里のCD
小西真奈美の写真集?、山田孝之のブロマイドを手に憤りの余り「鹿児島逝ってよし!」
と叫びながら東京へと帰路についた。
>>312 あっちはあっちで木戸厨、江藤厨の巣じゃね?
最近大久保sageしか見ない
大久保なんて政治家としてもプギャー
なんてのが極少数派な分、かなり良い状態じゃね?
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 19:58:43 ID:76vH2KzK0
>351〜354
はい、お疲れさん。
凄いわぁ、いっつもそうゆうことばっか考えてるのかしらん。
せっかくなので次は是非とももっと有意義なことにそのエネルギー使ってねん。
>>354 「いい子だったんです。昔は…。いつの頃からか、食事中にテレビを観ると、こいつ在日だよ。等と言うようになりまして…。」
「すみませんでした。」
>>355 少なくとも、このスレのように目を覆うばかりの状態ではない
大久保スレはここと違って信者が湧かねえから
361 :
大阪人:2011/02/15(火) 22:53:00 ID:QSQMm4/A0
>351〜354
力作やな〜。
こんなセっコい場所やったら勿体無いから
堂々と実名でもっと広くみなさんに発表したらええのに。
362 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/15(火) 23:03:34 ID:HwfFdDHm0
鹿児島は日本でもトップクラスの閉鎖的な地域だよ。
農村部にいくと最悪。
談合や選挙の賄賂は当たり前。
親族意識が強いんだな、多分。
363 :
大阪人:2011/02/15(火) 23:04:51 ID:QSQMm4/A0
東北もな。
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/15(火) 23:40:01 ID:HwfFdDHm0
大阪人さんは会津嫌いなんだな。
ID見ると、会津スレでも卑劣な書き込みしてるね。
鹿児島人はべつに会津どうでもいいですよ。
西郷さんは清廉潔白、私利私欲というものが微塵もなくてひたすら世のため人
のため国のため命を捧げ尽くした人格者だよ。
366 :
大坂人:2011/02/16(水) 11:39:46 ID:ZA95QmdR0
そんな西郷さんを生んだ鹿児島て素敵ちゃう?
367 :
大坂人:2011/02/16(水) 11:40:37 ID:ZA95QmdR0
東京人や東北土人は土下座して鹿児島に感謝すべきやわ
368 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 22:56:33 ID:z0+cBpdV0
>>364 つうか鹿児島人としちゃ『会津? それどこ? 何県?』ってな感じだよなぁ。
先方さんは鹿児島へのライバル意識無しにはやっていけないようだが、鹿児島人にとっては会津ってもネ・・・数多く蹴散らした敵の一つに過ぎんし。
『会津と戦いました、勝ちました ワッショイ』って程度の相手なんだよなぁ。
369 :
大阪人:2011/02/16(水) 22:58:38 ID:OBJqdV2c0
大阪の人間が増殖しとんな
>364
別に会津嫌いやなかったよ
それに東北=会津なんか?
決めつけてるのはそっちやろ
それほど雑な感覚やないで
ただ最近会津人のヒステリックな罵りを見てると
すまんけど嫌いになりそうな時があるわ
まあ卑劣な書き込みが卑劣な書き込みを呼ぶんとちゃうか
ID見て回ってヒマやのー
370 :
大阪人:2011/02/16(水) 23:09:09 ID:OBJqdV2c0
ここは西郷や西南の役について
他県人にまともに受け答えしてくれる鹿児島人はおらへんの?
盲目信者とアンチのただの罵り合いのスレか
期待してアンチを追っ払ってた自分がアホやったわ
ほな、さいなら
371 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 23:22:46 ID:z0+cBpdV0
>>370 いやね・・・単なる受け答えならご期待に沿えるよう努力はするが・・・
薩摩vs会津って流れで、そこに鹿児島人に介入しろって言われると困るわけよ。
正直言って会津っても、薩摩にとっては幕末激動期のその他大勢の一つに過ぎないんだよねぇ。
会津人にとってはvs薩摩ってのは郷土歴史のメインみたいだけどなぁ。
幕末史のほんの半頁って程度の存在なのよ、ホントに。
罵り合うってほど熱を感じる相手じゃないし・・・
372 :
大阪人:2011/02/16(水) 23:32:54 ID:OBJqdV2c0
せやけどね、ここ来たとき会津人か朝鮮人か知らんけど
とてもやないけど、まともに質問できるような空気なかったやろ
アンチとやり合ってる間に鹿児島人が大らかに流れ変えてくれるか期待した
自分がアホやったというわけや
何回か自分も鹿児島行かせてもろたけど
鹿児島人は豪快で清々しく
また他県人にも親切で礼儀正しい印象があって好きやったんやけどな
会津を小馬鹿にするような鹿児島人ももう見たないし
373 :
大阪人:2011/02/16(水) 23:34:23 ID:OBJqdV2c0
薩摩隼人に幻想を抱き過ぎたわ
ほな、さいなら
374 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 23:48:09 ID:z0+cBpdV0
>>372 う〜ん・・・鹿児島人が会津人を小馬鹿にってのに違和感がなぁ・・・・
戊辰戦争に関して言うなら、会津戦争を重く認識してる鹿児島人って少ないと思うよ。
少し歴史に詳しい鹿児島人なら、会津戦争よか上野の彰義隊や白河戦線の方に注目するだろうし。
そちらの方が薩摩にとってはずっと難敵だったし、帰趨を決するって意味でも会津戦争は影が薄いしなぁ。
他県者からの薩摩擁護は鹿児島人としてとても嬉しいけど、会津戦争って倒幕では片手間の枝葉って程度なのだわ。
多くの鹿児島人はこのスレ見てポカンとしてると思うよ。
375 :
大阪人:2011/02/17(木) 00:05:25 ID:leUuuH/d0
>会津戦争って倒幕では片手間の枝葉って程度なのだわ
へえ〜鹿児島人にとってはそういうもんなんか
当事者らにとってはそういうもんなんかもしれんな
他県人から見たらその言い方はちょい奢りに見えへんこともないけどな
会津人が見たらそらヒステリーになるやろな
まあそんな程度の話題なんやったら
余計に会vs薩やら会津戦争絡みの流れなんて軽く変えて欲しかったわ
まあ今日は久々に鹿児島人の声が聞けてよかったけどな
因みに長岡戦争に対しての認識はどうなんやろ
376 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 00:40:08 ID:/Fie0bl00
>>375 驕りって言われると困るな、あくまで会津戦は戊辰戦争の掃討戦ってレベルに過ぎんわけだから。
正面に立った長州はまた別の感情もあるかもだが、薩摩にとって会津戦はもはや戦局を左右する戦場じゃなかったしね。
勝っても負けても大勢は変わらないし、結果はどのみち明らかだったしなぁ・・・
むしろ予想以上に会津側の瓦解が早かったって感じでないかい?
長岡戦争に関しちゃ予想以上の抵抗を受けてアタフタしてるね。
海路補給の要衝である越後の雌雄を決する戦いだったわけだが、油断してあまりにも安易にかかりすぎてるわ。
勝てると舐めてかかって、事前の外交戦や駆け引きが杜撰。
長岡で負けてたら、戊辰戦争の終結は2年は遅れたかもしれない。
これもまぁ事後だから言える事ではあるけどね。
長岡戦争はどうしても勝たなきゃならない戦いで、ココでの勝利が戊辰戦争の趨勢を決定付けたといってもいい。
明治維新の関ケ原だね、越後を取ったことでもはや幕府残党は勝つ芽がなくなった。
377 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 01:02:11 ID:m53N8n/30
どちらかというと、鹿児島人を名乗る会津若松市民が跋扈しているので、
自称○○県人は、会津人の名乗る嘘だと思ったほうが良い。
会津さんに私怨でもあるの?
会津スレでやりなよ
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 18:23:19 ID:3FmB1ZKmO
ここまで来て根拠のないざん言を撒いてゆくのが会津関係者
>>377 そういや最近ソフトクリーム君と他県人を名乗って短レスして上げる会津人を見かけなくなったな
Wikipedia[[戊辰戦争]]・[[奥羽越列藩同盟]]・[[伊達慶邦]]・[[白石市]]で仙台妄想を批判されてから、
日本史板と趣味板でwikipediaスレに常駐しているみたいだけど
382 :
大阪人:2011/02/19(土) 14:19:08 ID:ofHSgGnQ0
>>375 長岡戦争レスありがとな
まあ奢りって言ったのは
戦争中の非常時は別として
例え片手間の枝葉の戦やったとしても
敢えてそれは口にせず、戦後は相手をきちんと称え、
慈悲深い感情を持つんが薩摩隼人なんかと思とったとこがあったからやねんな
まあ自分の妄想がちょい大き過ぎたんやな
それにしても前はアンチに鹿児島人の大阪人なりすましと言われ
今度は会津人の大阪人なりすましと言われ
ここは鹿児島人と会津人しか存在したらあかんスレなん?
383 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 19:49:44.62 ID:7gcjzQOv0
元々会津若松の人が暴論を口にするときに、決まって別の県の人を名乗ったので、
この板ではボクは他県人だけど、と言うと会津だろうと思われる。
そのためその会津若松の人間が、周辺の人に食って掛かっては長州人扱いするようになった。
会津若松の人間の自業自得なんだよ、別の人が付き合うことではない。
384 :
大阪人:2011/02/20(日) 19:09:53.27 ID:5oX6hgC+0
自分は最初、大阪人と名乗ってへんかったけどな
なりすましと言われたから一応大阪人と名乗っとるだけや
元々、なんて今さらもう水掛け論やし
自分には判断できへん
とりあえず会津人と思われる人間には鹿児島人と言われ
鹿児島人と思われる人間にも同じように会津人と言われたんは事実
好んで付き合うてるつもりはないけど
単に興味持って来とる他県人にとってはほんまええとばっちりやで
例え元々は会津人が言い始めたことやったとしても
鹿児島人も大阪人を捕まえて会津人と罵ったんやからそれは同じことなんちゃうか
385 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/20(日) 20:05:32.23 ID:YCA/4im50
>>384 つまらないことをグズグズ引っ張り過ぎ。
386 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/20(日) 23:19:25.31 ID:Q6PMzK2t0
現実には、色々社会で生きていると、むやみやたらに
会津は正義だ、殺人は正義だ、俺達は正義だからお前らはみんな死ね、とか言い始める
自称正義の東国武士さんやそのシンパの人たちは確かに実在するわけで、
彼らと関わり自体を持ちたくない、話題にもしたくないという考えの人もいる。
そのような人が、この少し上の自称鹿児島県人さんなのだと思うけど、
彼らに嘘を永遠にまくし立てられて良いのか、と私は思う。
史料の上からも、現実に会津若松で暮らした経験からも、会津は歴史に関しては嘘つきだ。
嘘は放置すべきではない。
会津がどうたらこうたら言ってる人と
以前西郷遣韓論をグチャグチャ言ってた人は同一人物だな。
388 :
大阪人:2011/02/21(月) 21:24:27.13 ID:+WVuDQOc0
389 :
大阪人:2011/02/21(月) 21:31:26.82 ID:+WVuDQOc0
薩摩と薩摩隼人に好感を持ち興味を持っとったのに
まさか会津人呼ばわりされるとはな
残念や
さいなら
会津はこんなところにも出張して迷惑をかけているのか
391 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/22(火) 00:08:21.70 ID:tMuDdCqR0
また会津の話か
392 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/23(水) 20:57:43.16 ID:3B6Gh+ZT0
>>385 これってイタいところを突かれたり、返答に窮したときの常套句ですね。
“つまらないこと”で一蹴してしまおうという、卑怯者の手段。
また絡みたがり屋が来たか
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/23(水) 22:45:26.15 ID:3B6Gh+ZT0
絡みたがり屋と言いつつ絡んできているのは誰でしょう?
http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/seikanronnisshi.htm >一体、今般西郷ノ朝鮮ヘ自身立越シ、談判ヲ遂ゲ、時宜ニヨリ征討スルコトヲ主張セルハ、
>其深意ハ不相分候得共、御一新後ノ景況兎角軽薄ニナリ行キ、日本ノ英気ヲ失ハセテ、
>士風モ年月ニ奢侈ニ流レ、悪風俗ニ及ブコトナレバ、爰ニテ外国等ト兵端ヲ開キ、
>士風ヲ鼓舞シテ、風俗ヲ取直スノ真意ナルベシ、可惜ハ、自分ノ英気ニノミ偏シテ、
>政体ノ大体ニ著目セズ、何モ武断トカ武勇トカニテ天下ヲ率ヰルノ趣意ヨリ、遂ニ如此策略ニ出タルベシ
リアルタイマーの佐々木高行にもこのように認識されていたんだから、弁解のしようがない
大久保に対して薩人第一の臆病者だとか、岩倉を今弁慶呼ばわりするとか、もはや異常
396 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 17:37:12.75 ID:9L8YqXkX0
征韓論説の人はだめだなあ、
リアルタイマーということにしておいて、実際の中身は
後藤象二郎や板垣退助らが征韓論を西郷の持論としてひけらかした時点のものだ。
更に、山県有朋らが朝鮮半島進出を主張し黒田清隆の開拓史を潰すにあたり、
山県らは朝鮮半島は西郷や坂本龍馬の持論とする説を新聞雑誌に流布させた。
リアルタイマーと呼び、中身は明治後期という
錯誤を誘発させる意図的な書き方に終始している。
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 17:41:10.43 ID:9L8YqXkX0
>>395 何故、明治終わりの板垣退助や山県有朋の朝鮮半島進出論に迎合した記事が、
西郷隆盛のリアルタイムとやらになるのかが意味不明。
不正確な記述で読む者を誤認させようと試みるのはおかしい。
は?これ佐々木高行の日記の明治6年10月条からの引用だよ?
>家近良樹氏の「「明治六年政変」と大久保利通の意図――毛利敏彦説に対する疑問――」
(『日本史研究』二三二号 一九八一年十二月)の詳細な毛利説批判があるが、毛利氏は今日まで反論されていない。
>毛利氏は佐々木克氏の書評(『日本史研究』二一四号 一九八〇年六月)に対して答えられた文(2)のなかで
>「拙著への学問的批判の続出を期待するものである。私も真剣に応答することをお約束」すると述べられていたのであるが、
>氏は原口氏やわたくしの批判に答えられなかっただけでなく、家近氏への反批判もされなかった。
>こうしたこともあって、わたくしは毛利氏は自説を撤回され、「征韓論」政変問題については筆を折られたものと思っていたのである。
結局どうなったの?批判にこたえると約束したまま、何にも自説を改めずに新書書いてるみたいだけど
家近、原口、佐々木への反論は?
江藤厨の毛利なんてどうでもいい
401 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/26(土) 01:56:10.63 ID:MQcwF24/0
西郷は侵略するつもりなのだろう、と主張する文章だけで
一向に西郷の見解が書き込まれないのだが。
それで征韓論説が事実とするのは不合理に思う。
まず前提として、閣議の議事録は存在しないから、内容を知る手掛かりはすべて文書か伝聞になる
その上で
板垣宛の書簡と、佐々木高行の伝聞だけで十分に西郷の立場は推し量れる。
とくに大久保の辞表に対して「薩人第一の腰抜け」の辞表なんぞ即座に受理しろ、
と、当時の薩摩士族では最大級の罵倒の表現を使っているあたりは驚きですらある。
西郷があくまで和平的解決を模索しており、たとえば汚職問題などの政局で大久保と対立しただけであるなら、
「腰抜け」もしくは臆病、惰弱など「戦い」に類する罵倒語は使用する蓋然性がない。
かりに「腰抜け」云々が佐々木の聞き間違いだとしても、
これほど西郷が大久保に敵意をむき出したのは、何か重大な問題で抜き差しならぬ対立に陥ったと容易に想定できる。
重大な問題…1つしか考え付きません
403 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/26(土) 20:18:14.20 ID:MQcwF24/0
>>402 まず前提として、いわゆる「征韓論」論争とされる二回の閣議で議決された内容は、
1回目:両国外交問題の解決のために、西郷隆盛を長とする外交使節を朝鮮に派遣する
2回目:西郷の外交派遣は否定する。両国の外交問題は別の場での解決を行う
というものであって、一回目は大久保利通は閣議に加わっていない。
西郷隆盛が征韓論を主張したのなら、一回目の閣議で板垣退助らが征韓論を主張したのに
結局は西郷による外交使節派遣で決着した経緯が説明できない。
さらに、西郷と大久保が対立した二回目の会談は、外交使節の是非をもって争われたものである。
これで両者が対立したから西郷が征韓論を主張した、とする
>>402の意見は、論理的におかしい。
論理的におかしくないよ。詳細に見ていけば充分説明できるよ。
>>395参照
>板垣宛の西郷書簡は、七月末から九月初にかけて八通ある。
>とりわけ八月三日付の書簡は使節派遣・交渉決裂(使節「暴殺」)・開戦という
>「戦は二段」という戦術を開陳したものである。
8月17日の閣議で板垣が納得した経緯はこれで充分だろう。
そして、10月14日〜の閣議が、「使節が殺害、もしくは拒絶された場合の開戦の絶対的な否定を前提とする」
平和的な使節派遣に過ぎないのであれば、西郷が大久保に対して「薩人第一の腰抜け」と罵る理由がない。
なぜなら、その場合、大久保は自分が使節に立つわけじゃないから朝鮮側に危害を加えられることはない。
「腰抜け」呼ばわりされる理由がないし、そもそも友好的な使節派遣なら大久保に反対する理由がない
そもそも、この時期に朝鮮に使節派遣を行っても拒絶される確率がきわめて高く、
西郷と言う筆頭クラスの参議を派遣して外交関係樹立に失敗した日本は面目を失するわけだから、
リアクションを起こさないという選択肢は考えられない。逆に言えば、そこまで読んでの両者の攻防だったわけで。
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/26(土) 21:39:04.77 ID:MQcwF24/0
板垣が納得したからと言って、西郷の真意が征韓論にあったとする意見は成立しない。
板垣退助は当時もその後も征韓論を堅持していた。彼が納得し、閣議では外交使節派遣で一致したのなら
西郷の閣議における手腕は評価されるべきだろう。
残りは、君の仮定と想像を披露しているだけで、その中には根拠というものがない。
西郷隆盛は外交使節派遣で閣議をまとめている。
406 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/26(土) 21:47:50.35 ID:MQcwF24/0
一部の人間が声高に語る、いわゆる西郷征韓論実在説は、
>>404に見られるような
実質的には・・・こうなるはず、事実上は・・・なったはずという意見によって組み立てられており、
論理構成では成立しない部分が多々ある。
この際の閣議で討議されたのは外交使節派遣なのだ。
にもかかわらず、世俗歴史雑誌などで西郷と征韓論をリンクさせるのには、
その後の自由民権運動家や山県有朋らが、征韓論を主張する人間として坂本龍馬や西郷隆盛の名を挙げ、
彼らの朝鮮半島へ進出への口実としたという面があるのだろう。
西郷は死後彼らの看板とされたのだよ。
407 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 08:05:06.91 ID:+JXARcOv0
Q : 西郷さんが征韓論というのは間違いで、ほんとうは遣韓論なんですよね?
A :
鹿児島県が発行している『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、
広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」という文書が載っている。
これは高知県出身で板垣退助に近かった林有造の主張を記録したものである。
参議の西郷隆盛、副島種臣、板垣退助に加えて、
左院副議長伊地知正治が謀議に参加した征韓計画の謀議が載っている。
西郷は「先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀」を主張し、副島は賛成した。
しかし板垣は「先ツ其君主ヲ檎(とりこ)ニスルヲ主眼トスル」点では賛成しながらも、
北方からの包囲は難事とし、三分の一の兵を釜山に上陸させて、朝鮮軍の迎撃を待ち、
残り三分の二の兵力をもって江華湾方面に送って「突如京城ニ肉薄」し、その間に
釜山の兵力も海路平壌に送って敵の退路を断つという戦略を主張した。
伊地知正治は少し大規模の兵力派遣を主張したという。
西郷は板垣、伊地知を信頼して謀議を行なったようである。
「其進軍ノ戦略ニ就テハ板垣伊地知ノ二氏ニ委スヘシトノ事ニ門下中ノ領袖ニ漏洩シアリト云フ」
と記されていることも興味深い。
また当時司法省出仕だった有馬純雄(藤太)の回想『維新史の片鱗』によると、
有馬は西郷から朝鮮占領後の民政官任命を内示され、
当該地域の地図を探したという挿話を述べている。
西郷が征韓論を唱えた史実は、まったく揺るがないのである。
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 08:07:37.76 ID:+JXARcOv0
上のテンプレで、論理的におかしいところはない
409 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 08:13:02.62 ID:+JXARcOv0
論理的におかしいのは西郷信者
閣議の議事録が存在しないにもかかわらず、
「閣議で討議されたのは外交使節派遣なのだ。」などと論理破綻したことを平気でのたまわっている
410 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 08:51:30.25 ID:Y2qc0n820
なんだか、未だにずっと前から論破されっぱなしの征韓論実在説を吹いている人間がいるが、
また先の議論を繰り返すつもりなのだろうか?
411 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 08:57:09.91 ID:Y2qc0n820
大体、それはもし朝鮮半島を侵略する場合は手順はこうする、という立案でしかない。
これを侵略の証拠とするなら、アメリカはオリンピック作戦を立案した時点で日本を侵略していたことになる。
征韓論実在説の人は論理を欠いている。
412 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/27(日) 09:01:27.91 ID:Y2qc0n820
オリンピック作戦ではなくオレンジ作戦だね。
国家が緊急事態について立案もせず、考えもしないことが正義であると思っているようでは、
実際に起きた地震をなかったことにした村山富市あたりと変わらない。
閣議で決定したのは一回目は外交使節の派遣であり、二回目はこの否定であった。
どこにも征韓論を討議する余地がない。
じゃ西郷の板垣宛書簡をどう説明するの?
西郷は「征韓推進論者」ではなくとも「征韓容認論者」であったことは確実で、
しかも征韓を実行するとしたらどういう筋書きになるかまで板垣に伝えている。
それに対して大久保は極力反対に回った。だからこそ西郷が「薩人第一の腰抜け」と罵倒したわけ。
大久保が武力衝突に発展する事態を憂慮したことは、西郷の目から見たら「腰抜け」なんだよ。
どうしてこんな30年前の珍説毛利説にしがみつくのかね。学界じゃ誰も毛利説なんて相手にしない
西郷が遣韓論であり征韓論者ではなかったと強弁する人間は、
征韓論と言う概念を極めて狭くとらえることで、西郷を何とか免責しようとしてるんだよ。
完全な言葉の遊び。
「使節派遣もなしに朝鮮との戦争を主張する立場」だけが征韓論であると強弁することで。
×閣議で決定したのは一回目は外交使節の派遣であり、二回目はこの否定であった。
どこにも征韓論を討議する余地がない。
○閣議で決定したのは1回目は拒絶された場合は開戦も容認する外交使節の派遣であり、
二回目はこの否定であった。征韓論は充分議題になっている。
>>405 当時の朝鮮は、徳川将軍家との交流と言う体裁を破り近代国家関係を押し付けようとする日本を、
ヨーロッパ列強と同類と見ており、米仏に対する鎖国攘夷にも成功しており、この国是は揺らがない。
日本の平和的な使節派遣による国交樹立など成功するわけがない。
そんなことは西郷も分かっていた。
西郷の手腕は確かにすさまじい。なぜなら板垣の征韓論を「使節派遣」と言うオブラートに包むことで
拒絶されるのがほぼ確実な使節派遣の体裁を繕い、その拒絶を大義名分としての出兵を想定している。
これが板垣宛書簡で示唆されている内容。
征韓論っていっても、この頃の征韓論というのは、朝鮮に軍隊派遣して
国交を武力を背景に結ばせるというのが主流だったんじゃないかなあ。
まあ、当時にも朝鮮を武力で征服すべきという論はいくつかあったが
そこまでやるのは現実的に無理があったろう。
西郷も征韓論には理解を示していただろうが、一番重要なのは朝鮮に
軍隊送るための大義名分で、自分が使節としていく以外では、征韓の
ための大義名分がたたない、と考えていたわけだろうな。
征韓論が敗れた後、結局、日本は江華島事件において、武力により韓国と
国交を結ぶことになるので、これは西郷からすると、なんの大義名分も
ないやりかたであったわけだ。結局、西郷案よりひどい最悪のやりかたで
韓国を開国させた、と政府を非難するわけだな西郷は。
池上四郎、別府晋介も文武の違いこそあれ政変の前年、朝鮮に偵察に潜入してるね。
別府と行動を共にした土佐の北村重頼も明治六年政変で軍を辞めている。
伊地知の動向まで考えると、西郷は人脈的に征韓派に非常に近い位置にいたと言える。
西郷抜きで板垣や江藤が征韓論唱えてたとしても、あそこまで外遊組とやり合えてたとは思えんけどな
結局西郷が征韓論派の頭目として陣取ってると周辺が看做していたから、政府を二分する大論争になったわけで
このスレで批判されているのは、べつに西郷が征韓論的なポジションをとったことに対してではない。
気持ちの悪い詭弁を弄してまで、
西郷を遣韓論にしたい信者が蔑まされてるだけで。
そもそも、西郷がなぜ征韓論ではいけないのか?
まったく意味不明。
>>38のテンプレも、西郷批判ではなく、信者に対し事実を述べたものであろう。
421 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 22:56:26.79 ID:Y3Cq+nUm0
それは逆だと思う。
これまでのスレの記述を見る限り、西郷が征韓論を主張した形跡はない。
なのに執拗に、気持ちの悪い詭弁を弄してまで、
西郷を遣韓論にしたい悪質なアンチが存在する。
事実を述べているのは
>>412であり、それに対して反論にもなっていない
感想で対抗しようとしているのが、このアンチの悪いところ。
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 22:58:48.95 ID:Y3Cq+nUm0
あ、アンチが主張しているのは征韓論だね。
それにしても、なんら論証をせず感想だけで西郷が征韓論なのは間違いないのである、と
主張する精神にあきれる。
↑
新手のアンチとしか思えないな。
西郷という存在がどんどん醜悪で惨めなものになっていく。
西郷にもいいところはあるはずなのに。
424 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 23:28:29.24 ID:Y3Cq+nUm0
ほら、アンチは中傷だけで論証から逃げる。
そしてまた、信用できないという結論の出た
>>38を貼って、議論のループを狙う。
425 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/28(月) 23:35:14.25 ID:Y3Cq+nUm0
征韓論説を主張する人は、他人を誹謗中傷することに熱意を傾けるだけで、
一切それまでの議論を無視し、既に信用できないと結論の出たコピペを執拗に貼る。
その上、先の議論について言及が出ると、その個人や西郷を中傷して悦に入る。
しかもこの人間が議論に負けた時間帯には、桂小五郎や大久保利通スレで見るに耐えない誹謗中傷が連続して書き込まれる。
征韓論説の人は、議論をすべきだろう。
とある本によれば、西郷は征韓論争の前に、二回ほど韓国への軍隊派遣に
まっこう反対したことがあったというが… そういう資料って実在するのか。
どうなんだろうね。
もし軍隊派遣に賛成したことと、反対したことと両方資料があるなら、西郷の
真意が那辺にあるか、これは片側の資料だけみて結論をくだすのは、より
難しくなるだろうが。
とある本って研究者の本?いつごろの誰の本?
学界の通説は西郷は征韓容認で固まってると思うけど
>>425 具体的にどこが誹謗中傷?毛利説は純粋におかしい点を指摘されてるんだけど
だいたいそれまでの議論を無視も何も
「証拠がないから西郷は征韓論者ではない」とひたすら繰り返し言ってるだけじゃん
でも閣議の議事録は存在しないからそんな断定はできっこないし、極めて有力な間接証拠はあるんだって
428 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 23:41:13.55 ID:ebcg+Y7U0
その「極めて有力な間接証拠」とやらの中身が、
征韓論が持論だった人間が、西郷さんは我々の味方だと言って小躍りする記述ではね。
そんな認識が認められるなら、勝海舟も明治維新成立後に徳川慶喜の不興を買うことはなかったろうに。
閣議の前から板垣退助や後藤象二郎は盛んに征韓論を主張していたが、
留守政府の決定は、征韓は排除し外交官を派遣することであった。
>>427 アイヴァン・モリスという翻訳家による西郷の評伝にそう書いてあった。
ちぇー!!!!
>>428 佐々木高行日記はどう説明する?
さらに板垣や後藤が征韓論者であり、西郷は平和的解決論者であり、
なおかつ8月17日に閣議が西郷の意向通り決定されたならば、
板垣と後藤は西郷とその時点で反対しているはずだが、8月閣議でも10月閣議でも西郷と同意見
こっちのほうがよっぽど矛盾してる
だいいち、「西郷=平和的解決論者」派は、それを証明する間接証拠すら提出できていないだろ。
よく自分の強弁を棚に上げて人のことが言えるな。
433 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 06:21:05.83 ID:O4bZeG6P0
>>431 >>428が回答になっているじゃないか。
まったく、征韓論説の人は回答を聞いてから同じことを質問してくる。
その上、征韓論を西郷が主張した証明についても一つも例示できず、それでも実在したと強弁を繰り返す。
実在が証明できないことを、それでも存在すると言い張るほうがよっぽど強弁であり、
証明できないことについて粘着し、疑われる事象を無視して同じコピペを貼り続ける。
征韓論説の人は、不正行為をしているとしか表現のしようがない。
434 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 06:32:58.35 ID:O4bZeG6P0
存在証明は、存在しないことを証明することが不可能だから、
実在を証明する必要があるのですよ。
それを
>それを証明する間接証拠すら提出できていないだろ
と言って、存在しないことの証明を求めてくる。
これは議論のやり方自体は不公正ですし、だいたい征韓論を主張したという証明を一つも例示できない。
議論手法が不正(存在しない証明を求める)
主張内容が不正(議論で退けられた内容を、時間がたつとまた持ち出す)
主張のやり方が不正(大久保利通スレや桂小五郎スレなどで同時間に誹謗中傷書き込みが行われる)
あなたには、人間性にすら疑問を持たざるを得ません。
頭の悪すぎる遣韓論者 = 会津に私怨持ってる自称大阪人
かならずレスを連投するし、他スレで同じIDが会津を陰湿に叩いているしw
こいつの脳内では、西郷批判者=会津人、という妄想に憑りつかれているようだ。
実生活でリアル基地外認定されて、休職させられている教員かなんかだろうなw
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 12:39:41.04 ID:O4bZeG6P0
ほら、征韓論説の人は、議論不能に陥ると誹謗中傷を始める。
その上に持論への証明を一切行わず、相手には存在しない証明を求めて不正に物事を進めようとする。
あなたの征韓論説には論理がない。
>>436 遠慮しないでレス連投しなよw
馬鹿にされたままフェードアウトするのかい?
きみの超次元論理で、会津人による征韓論説の論理のなさを論破してくれw
>>428 解答になってないだろ。8月17日の閣議で西郷があくまで出兵絶対反対の平和外交論者なら、
板垣宛書簡も、板垣の賛成すらも出てこないんだよ。しかも大久保との対決も出てこない
あと大久保スレを荒らすのやめれ。
何が「佐賀戦争」だよ
と言うかこの時期の朝鮮が外交で開国政策に転換することは万が一にもない。
日本が将軍家〜王家の交流と言う形式を中止し、「皇」の文字を使用したり、
従来の慣例から著しくかけ離れた近代的国家関係への転換を迫ったことは、
明の冊封体制下での近世国家関係を維持しようとする朝鮮にとって許容不可能
しかも対フランス、対アメリカには武力攘夷で一応撃退しており、鎖国攘夷路線を堅持している。
交流停止の発端となったのが日本側の政策変更なのに、政策変更を前提とする国交を飲むわけがない
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 17:20:30.46 ID:O4bZeG6P0
相変わらず非論理的、しかも罵倒のみという征韓論説の愚かさを示す展開。
>>438 相手が納得したから相手の要求を満たした、と思っているようでは政治について理解していない。
派兵ではなく大使派遣で閣議が決したのなら、西郷は軍隊派遣を抑止したことになる。
どうせ向こうが受け入れるはずがない、というのは君の想像。
しかも、交渉決裂を開戦の理由にすればいい、というのは政府の決定事項には含まれない。
しかも、これらのことについて、君は想像と過去に否定された見解を持ち出すだけで、
西郷が征韓論を主張した証拠となる史料を提示していない。
罵倒だけでことを済ませたつもりになるのは、会津若松関係者の悪い癖ですよ。
>あと大久保スレを荒らすのやめれ。
>何が「佐賀戦争」だよ
それはあなたの書き込みでしょう。自作自演はおやめなさい。
ならねーって。軍隊派遣を抑止したのなら板垣は離反してるって
田村が紹介した書簡のうち、8月3日の三条実美内大臣宛書簡
朝鮮の一条、御一新涯より御手を被付、最早五六年も相立候はん。
然処最初親睦を求められ候義にては有之間敷、定て御方略為有之事と奉存候。
今日彼が驕誇侮慢の時に至り、始を変じ、因循の論に渉り候ては、天下の嘲を蒙り、
誰あつてか、国家を隆興する事を得んや。
只今私共事を好み猥りに主張する論には決ては無之、是迄の行懸りにて如此場合に行当り候故、
最初の御趣意不被為貫候ては後世迄の汚辱に御座候間、
斯に至り、一涯人事の限り被為尽候処に御座候間、断然使節被召立、
彼の曲、分明に公普すべき時に御座候。
是迄御辛抱被為在候も、是非此日を被相待候事と奉存候付、
誠に奉恐入候へ共、何卒私を被差遣被下度、
決て御国辱を醸出し候義は、万々無之候付、至急御評決被成下度義と奉存候
つまり西郷は朝鮮の態度を「驕慢」と断じ、今さら交渉方針を変えてはならんと言ってる。
もし平和的解決の意図があるなら、今までの交渉方針を当然変えるはずだが、
他の書簡に見るように彼はまったくその意図がない。
事を起こすつもりはないと弁明しているものの、
実質は交渉を決裂させに行くようなものだ。そして実際、西郷は交渉決裂を想定して板垣に書簡を送ってる
それをはっきり示すのが「戦は二段…」と言う8月17日の書簡だよ
444 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 20:34:36.68 ID:O4bZeG6P0
その書簡では、軍隊派遣を抑止すると宣言しているのですが
君は何を読み違っているのかな?
・・・のようなものだ、・・・にちがいない、と憶測だらけの仮定で説明にならない文章を書いても、
どこにも証明が見えません。西郷征韓論説の悪いところは、証拠を出さずに断定しているところです。
それと、嘘をついて他人を誹謗するのはもう止めたほうが良いですよ。
>>444 その箇所を示してもらいたい。弁解してる所でしょ?
446 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 20:39:44.93 ID:O4bZeG6P0
>>442 ところが、そういう論は成立しないんですよ。
板垣が信じたことと西郷の実行したことが同じ意味を持つとは限らないわけですから。
閣議で決定されたことは外交官の派遣です。派兵ではありません。
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 20:43:51.38 ID:O4bZeG6P0
>>445 論が成立していないのに、君が証拠とする箇所の明示など出来ませんよ。
どこにも派兵を意味する文言がなく、実行するという決意だけが示された文章ですが?
だからこれは派兵抑止でしょう。
448 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 20:51:34.95 ID:O4bZeG6P0
派兵をするか否かは外交の重大問題です。
文言に書かれてもいないことを軽々しく文外の意味で実行するつもりだった、と断定すること自体不思議でなりません。
それと、あなたが
>>437,438等で明らかな嘘や誹謗で話を逃げようとした件について、私はあなたの精神を疑っています。
誰を相手に戦ってるんだよ。
>>437は別人だよ。
は〜、徒労感を覚える…
>>448 437はおれだよw
おまえ(448)、大久保スレ含めてあちこち荒らしてるじゃねえか、卑怯者
これからは同一IDで悪さして証拠残すの気をつけようねw
それにしてもおまえ、いったい会津の人になにされたの? 東北の人になにされたの?
おまえが精神破綻して頭おかしくなった原因が会津なのかなあ?
451 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 22:19:47.52 ID:O4bZeG6P0
このように、人を誹謗し他人に罪を着せる、
典型的な会津若松関係者ですよ、あなたは。
それにしても、根拠のないことを喋った末に、証拠を出さずに断定しようとする。
征韓論説を掲げるにしても、不公正にも程があるでしょう。
証拠は出ない、出さないけど存在すると言い張る、
その上中傷を並べて、会津若松出身者としか思えない蛮行に走る。
これで何を立証出来ているというのですか?あなたの征韓論説には証明がありません。
452 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 22:21:32.52 ID:O4bZeG6P0
>おまえ(448)、大久保スレ含めてあちこち荒らしてるじゃねえか、卑怯者
挙げて御覧なさい、嘘つきの会津さん。
自分で認めるんだw
自称大阪人w ほんとは何人なの?
憎いんだねえ、会津がw
454 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 22:35:39.19 ID:O4bZeG6P0
挙げられないか
こいつもまた論証をせずに罵るだけ
>>454 じゃあ、おまえはおれが会津人な証拠を挙げてみw
挙げられたらおれはここに二度と来ない
挙げられなかったらおまえが二度と来るな
証拠、論証っておまえが言いだしたことだぜw
456 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 22:56:13.85 ID:O4bZeG6P0
私は約束していませんよ。
あなたは嘘をつき居座ろうとする。
それが会津若松出身者の所業なのだということなのでしょう。
なにその頭の悪いレスw
うだうだ言ってないで証拠挙げて論証お願いしますw
できないなら二度と来ないでねw 会津嫌いで自称大阪人の連投大好きさんw
458 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 23:15:15.08 ID:O4bZeG6P0
要するに、君は証拠を出せないというわけですね。
ここまでの会津若松市民の発言は、全て嘘でたらめであり、
それを隠すために、指摘した人間をたたき出したいと願う、と。
笑わせないでください。あなたが証明できないことをいくらでも喋り、
征韓論が実在するというのなら、その証明が必要でしょう。
>>458 要するに、君は証拠を出せないというわけですね。
ここまでの自称大阪人の発言は、全て嘘でたらめであり、
それを隠すために、指摘した人間をたたき出したいと願う、と。
笑わせないでください。あなたが証明できないことをいくらでも喋り、
会津人が実在するというのなら、その証明が必要でしょう。
盛り上がってるところスマンが、少なくとも義務教育の教科書で、
「西郷隆盛は征韓論を主張したが受け入れられず、下野した」
という趣旨の記述は、単純すぎてやはり不適当かな。
461 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 23:19:18.85 ID:O4bZeG6P0
そういえばこの会津人、私があちこちで荒らしをしていると主張するけれど、
一向にその証明が出ない。
不公正の極みですな。
嘘をつき、出てゆく羽目になるのはあなたでしょう。
462 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 23:24:49.19 ID:O4bZeG6P0
>>460 西郷隆盛に征韓論の主張をした証明がないのです。
あるのは、
一回目閣議
・板垣退助は閣議前から征韓論を主張
・後藤象二郎も板垣に同調
・江藤新平も出兵に賛成
結果は派兵ではなく西郷隆盛の大使としての派遣
二回目閣議
・西郷は大使派遣の堅持を主張
・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平も同様
・大久保利通、天皇の勅令で廃案
結果は留守政府下野
ということ。
>>461 で、会津人論証はまだですか?w
人に証拠を求めて自分は出さないとは、不公正の極みですなw
このままじゃ、おまえの西郷遣韓論も、誰も相手にしてもらえなくなっちゃうよw
>>462 閣議の議事録が無い以上、
閣議で西郷が征韓論の主張をした証明がない、という証明がない。
そんな簡単なことも分からないのかい? 自称大阪人w
よっておまえの書いてることは、すべて推測w
おれは公正だから、おまえみたいに嘘、デタラメなどと誹謗はしないけどねw
もいっぺん言うぞ。
閣議の議事録が無い以上、
閣議で西郷が征韓論の主張をした証明がない、という証明がない。
465 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 00:07:51.16 ID:RYdGNjxx0
結局、誰も西郷が征韓論を主張したという証明ができない。
これでは西郷征韓論説は出せないということですな。
466 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 00:20:27.36 ID:WzkNkPbs0
ぶた切りでレスも読まずにすまんが西郷は征韓論唱えたのが偉いんだろ。
まさか、西郷さんは征韓論なんか唱えてないそんな人じゃない
なんて流れにはなってないよな?
>>465 たしかにその通りだなw
西郷が板垣その他に征韓的な主張をしている手紙等が残っているだけで
しかし、そのような「証拠」がともなった「事実」を世間がなんと呼称しようがおまえが口はさむ問題じゃねえよw
たとえそれが征韓論と呼ばれていようとも
468 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 00:27:34.18 ID:RYdGNjxx0
>>467 >西郷が板垣その他に征韓的な主張をしている手紙等が残っているだけで
これすら板垣を納得させるための会話でしかないわけで、西郷が閣議で征韓論を唱えたという主張は困難です。
>>468 まだ女の腐ったみたいにうだうだ言ってんの?
手紙の内容の話しで、閣議の話しではない
閣議で征韓論を唱えたなどと、おれは主張してないw
閣議の話しは、
>閣議の議事録が無い以上、
>閣議で西郷が征韓論の主張をした証明がない、という証明がない
これでなんか問題ある?
閣議の話しをいくらしたところで、なんの証明も得られないということ
西郷が板垣などに征韓的な主張をし、具体的なプランまで開陳してるのは事実
征韓論という言葉が嫌いなら、朝鮮イジメでも日本生き残り計画でも何でもいいよw
ただ世間が征韓論と呼称するのは勝手であり、
それが嫌なら文科省でも行って掛け合えよ
二度と来んな馬鹿w
470 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/03(木) 01:20:19.24 ID:RYdGNjxx0
>>469 結局、征韓論を西郷が主張したという証明はあなたの説の中にもどこにもなく、
あなたの今まで続けてきた征韓論説は、論拠のないゆめまぼろしというわけです。
471 :
大阪人:2011/03/05(土) 00:57:01.18 ID:7VcKKYRP0
>>457 456、458と大阪人は別やで、残念やな。
久しぶりに覗いてみたらこれや。
因に今日もマイドーム前の五代の銅像前を通って通勤したわ。
田舎モンには何のこっちゃわからんと思うけどな。
大阪人は結構薩摩人に親近感持っとんや。
会津人と思いたけりゃ勝手に思とけ思とけ。
もうここの邪魔するつもりはなかったんやけど、悪かったな。
まあ遣韓/征韓の話続けてや。
472 :
大阪人:2011/03/05(土) 01:23:54.94 ID:7VcKKYRP0
ああ、せっかくやからご期待に添うよう連投しとくわな。
薩摩人と思いたけりゃそれも勝手に思とけ思とけ〜。
薩摩藩、連日九州新幹線キャンペーン大阪出張ご苦労さん。
配布しとった販促物「かごしま一直線」てやつもろたわ。
邪魔して悪かったな。
ほな遣韓/征韓の話続けてや。
「此節は戦を直様相始め候訳にては決て無之、戦は二段に相成居申候。
只今の行掛りにても、公法上より押詰候へば、可討の道理は可有之事に候へ共、
是は全言訳の有之迄にて、天下の人は更に存知無之候へば、
今日に至り候ては、全戦の意を不持候て、隣交を薄する儀を責、且是迄の不遜を相正し、
往先隣交を厚する厚意を被示候賦を以、使節被差向候へば、
必彼が軽蔑の振舞相顕候のみならず、使節を暴殺に及候儀は、決て相違無之事候間、
其節は天下の人、皆挙て可討の罪を知り可申候間、是非此処迄に不持参候ては不相済場合に候段、
内乱を冀ふ心を外に移して、国を興すの遠略は勿論、旧政府の機会を失し無事を計て、
終に天下を失ふ所以の確証を取て論じ候処、能々腹に入候間、
然らば使節を被差立候儀は、先度花房被差遣候同様の訳に御座候間、
今日に被相決候ては如何に御座候哉御迫り申上候処、至極尤に被思食候間、
今日は参議中え御談の上、何分返答可致旨承知仕候付、何卒今日御出仕被成下候て、
少弟被差遣候処御決し被下度、左候へば彌戦いに持込可申候付、
此末の処は先生に御譲り可申候間夫迄の手順は御任し被下度奉合掌候」
8月17日の板垣宛書簡。これを読めば一目瞭然だと思うが、中でも有名な
>内乱を冀ふ心を外に移して、国を興すの遠略
これをどう考えたら西郷の真意は平和的解決と解釈できるのか全く分からんね。
内乱をこいねがう心を外に移すには、平和的に事態が解決されたら話にならないんだよ
何ば言いよっとかチェストー!!!!
475 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 04:38:27.00 ID:UzWtPlvR0
また征韓論説の人は、議論の末に退けられた論を貼る。
話題が外交に移るのと、外征を実行するのが全く同じという発想がわからない。
476 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/05(土) 11:44:15.60 ID:0ElpqDb00
>>474 ニセ九州人がいるな。
何ば言いよっとか=熊本あたり
チェスト=鹿児島
方言の使い方ですぐわかるぞ。
遣韓論は「戦は二段」を無視するんだから話にならん
外交の決裂を大義名分として兵を起こすという遠略が分からないとは、
南洲翁も不肖の弟子を地下で嘆いているこったろう
とにかく原口佐々木家近と言った大家の本を読んでみろよ、毛利本だけじゃなく
478 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/06(日) 07:57:35.82 ID:8mqE83Af0
また根拠のない征韓論断定かい
不肖の弟子とは、根拠もなしに断定する素人というものでしょうな
’西郷さんの人望買い’というギャグが当時流行ったぐらいだから、
現実の西郷は人望無くて、自分の派閥を維持するのに右往左往してたんだろうな。
「戦は二段」うんぬんも深謀遠慮があってのことではなくて、
板垣のご機嫌とるためのブラフだったと思われる。
そういう意味ではこの人、征韓論とは言えないと思う。
無論、遣韓論でもないけど。
テンプレの
>>41あたりが西郷の実像だったんだと思うね。
> *重野安繹が語った西郷の性格*
> 西郷が明治維新において、彼ほど存在価値が際立っていた者はいないのではなかろうか。
> みんなに期待され、いつもその中心に存在していた。
> だが彼はこれらの大事件の渦中にあって、どのような方針に基づき考え、
> 将来いかなる見通しを持っているのか理解するのは無理である。
> なぜなら、彼はいつも中心に存在していたが、
> みんな回りの期待はその場、その時により違った。
> いずれもその期待に答えてくれるような西郷であったが、それはすばらしい人間性なるゆえでもない。
> 「すばらしい人間性なるゆえでもない」とは、
> じつは「(西郷は、)世の中小人などをば、自分の度量内に入れてやる事は乏しく、敵を作って激しく憎む風があり、
> 参議連中が姑息じゃとか、富貴を貪って居るとかいって政府の人をば憎む。
> 政府の人を憎むところから、征韓論が起って・・・・大臣をはじめ皆富貴に慣れて、
> 御一新後僅かばかりの間に我儘をするということが腹に在って、遂に西南の乱となった。
> どうも西郷は一生世の中に敵を持つ性質で、敵が居らぬとさびしいくてたまらいようであった」
> と、彼の性格と新政府を主導する人々の態度への不満を西南戦争の原因だと、
> 同郷で同じ年の西郷をよく知る重野安繹のことばがある。
> 重野と西郷はペリーが来たころにともに江戸藩邸にあった。
> 重野が仔細なことから奄美大島にながされていたところへ、西郷が流された仲である。
>>479 板垣のご機嫌を取るにしては、早く自分を派遣しろと三条にせっついてるんだよ
そして対朝鮮外交のやり方は変える気はない、変えるべきではないと言明している
日本はこの閣議の前年まで交渉を続けていたが、一切朝鮮側の要望に耳を貸してないんだ
交渉決裂が分かりきって、スパイまで朝鮮に潜入させてるのに…
>>479 重野安繹の西郷観に関しちゃ、奄美のあたりは少し差っぴいて考えた方がいいだろうね。
些細とはいえ罪を負って奄美に流された重野と、地元有力者の庇護を得て蟄居していただけの西郷とは立場も扱いも違いすぎるし。
しかし最近の流れである、策謀の中に暗躍していた陰の部分の西郷をあぶりだすのは好ましいとは思う。
『ゴワス、ゴワス』で祭り上げられてきただけではない、策謀家としての西郷はあまりにも隠れてきたからなぁ。
大河の篤姫や龍馬伝での西郷のように、時に謀略をめぐらし時に手段を選ばずってのが、より西郷の実像に近いだろ。
人格や人望だけでのし上がられるほど、幕末維新の人物達は馬鹿でもないし単純でもないわな。
そしてそういう人物に丸め込まれるほどお人好しでもなかったろ。
重野は西郷と同輩意識が強そうですね。
五代は聡明な風貌と見識が魅力的で
学生の頃教官と大阪の維新時の話の中で、ちょくちょく名前が出ていたなあ。
まあ、朝鮮がいくら鎖国をのぞんでも、その後の世界情勢や流れをみれば
いつまでも鎖国をつづけられないのはわかりきった話であって、朝鮮が外交を
拒否しつづけていたというのは、その流れがみえなかったというのが、最大の
原因だろうよ。 だから鎖国を拒否するほうに大義があるわけではなかった
むしろその逆だったわけだ。
西郷と大久保は、朝鮮政策をめぐって対立したが、朝鮮開国は時代の流れに
おいて必然という立場からすると、そんなに違いはないともいえる。ただどういう
やりかたがいいかについて、見解の相違はあったわけだがな。
そういうことですね。
征韓論とは、征韓か遣韓かということではなくて、
征韓が可能かどうか、タイミングを間違ったら日本の存亡に関わるではないか、
という議論であったはずで、
信者の遣韓論とか、大久保だって後日征韓政策をとったのだから、西郷は間違っていなかったみたいな主張は
ナンセンスもいいところだと思います。
しかし西郷本人の考えがどうあれ、彼ほどの地位も名誉もある人物がわざわざ朝鮮まで出向いておいて
交渉決裂したらどうする積りだったんだろうか。
西郷は駄目だったが俺なら大丈夫なんて言える人材は居ないわけで、
通常の外交が行き詰ったら征韓論がヒートアップすると思うんだが。
486 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 12:44:19.65 ID:fd4juhwI0
そんなことを言い出したら琉球処分も不可能でしょうに。
大久保利通の直接交渉が決裂したら中国との開戦論がヒートアップするから、大久保利通の派遣は不当、ってことになる。
大久保が行ったのは出兵した後でしょ?
まぁ実際、あそこで拗れたら清との全面戦争になる可能性もあった訳で、
かなり危ない橋渡ったな〜と思うけど。
>>485 まさにそこが良いポイントで、閣議決定による参議筆頭クラスの使節派遣で交渉を拒絶するというのは、
国内的には大きな世論喚起効果を持つ
西郷は板垣宛書簡で、交渉決裂→大義名分の獲得による世論沸騰→征韓
と言う流れによるプランを何度も描いている
そして恐らく前年までの交渉過程で「使節暴殺」と言う可能性が少ないのも知っている
しかも西郷は単なる狂人とも言い難いのは、
国内の「内乱をこいねがふ心」を外に移すという狙いを征韓論に込めていたこと。
西郷にとっては単に板垣を説得する材料として以上に、征韓には積極的意義があった
489 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/09(水) 02:51:27.97 ID:rBhc30cj0
490 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/13(日) 15:17:06.90 ID:00n4QXyR0
東北人に天罰が下ったようですね
491 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/13(日) 18:50:27.38 ID:76BH0dge0
↑ こういう書き込みってアンチの陰謀なんですか?
>>491 そんなちんけな書き込みするぐらいなら寄付でもしてくださいな、鹿児島人さん。
493 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 01:01:04.68 ID:Z+1xtdVc0
お前もね!
495 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 14:11:32.23 ID:Z+1xtdVc0
というか492に言われるまでもなくすでに義援金送っているのだが何か?
496 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 21:28:29.77 ID:v8RV+9zL0
言うだけなら何でも書けるわなw
497 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 22:45:02.67 ID:Z+1xtdVc0
そういう風にしか思えないなら別にそう思っておけばいいですよ。
貴様に真実を知ってもらう必要はないので。
498 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 23:02:16.19 ID:v8RV+9zL0
じゃあいちいち書き込まなきゃいいのにw
偽善まる出し
チン太郎が言ってたのは日本全体に対する天罰だよ
501 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/16(水) 09:43:07.63 ID:G/SxOOCi0
敬天愛人が信条の西郷信者のみなさん、
みなさんが大好きな「実行力」が生かせる時が来ましたよ!
今すぐ原発作業員に志願して、この国難を救ってください!
日本の隅っこで、議を言ってる場合じゃありませんよ!
502 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/16(水) 11:51:49.57 ID:OdSXqMRN0
>>501 お前自身何か貢献しているのか
ただ煽っているだけだろ
503 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/16(水) 13:18:46.33 ID:G/SxOOCi0
>>502 いや、なにも貢献できてないやっせんぼです!
しかし平時、気概を持てとか、理屈より実行とか、その手の偉そうなことを言ったこともありませんがね!
504 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/17(木) 00:01:40.78 ID:oYTmC0kz0
>>498 >じゃあいちいち書き込まなきゃいいのにw
そっくりそのままお返しします。
西郷さんて味噌汁が似合いそう
西郷さんは人格者。清廉、高潔、至誠の人。
そのような人格者は知らん
西郷隆盛はなるべく他人に大人物だと思われようと行動した
そのため薩摩武士は彼を神のように慕い、西郷の意見は主君の命令よりも強かった
西郷隆盛は政治家だった
誰も彼が何を考えているのかわからなかったが、彼の実行することは必ず成就した
だから誰もが西郷に自らの意見を採用させてもらおうと引き込みを図った
だが、彼の中身はだれも知らない
>>507 そういう神がかった存在になったのは西郷が死んでからだよ
生きてるころは、薩摩内にもアンチ西郷はいっぱいいた
西南戦争の私学校残党たちが自分らの行った愚挙を正当化するために、
鹿児島県内で西郷を神格化する洗脳をやり出したと思われる
509 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/18(金) 13:42:15.82 ID:7dNE+OCK0
違うな。
西郷隆盛の人気は、生前は薩摩と尊王攘夷派や京都政界に限定されていたが、
西南戦争後は新政府に対抗する存在として、板垣退助によって民権派、榎本武揚らによって旧佐幕派へ広まった。
ちなみに私学校の連中にはそこまで力はない。
西郷は鹿児島を革命根拠地にして第二維新を構想したんだ。
士族独裁だの西郷王国だのは全くのデマ。
その革命って何をするのが目的だったんだ?
513 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/19(土) 08:28:51.26 ID:R7ps86340
西郷の無為無策のため西南戦争がおきて、
多数の将来ある若者の命が奪われた。
その罪は限りなく重い。
西郷自体はべつにいいよ
しかしそのような人物を崇めることを子供らに強制する体質はなんとかならんか、鹿児島
西南戦争で勝ったとして、その後の西郷の国家プランがようわからんのよね
士族階級を軍事専任集団として残したかったのか、その割には鎮台制をあっさり認めてたり
そうそう、徴兵始めた時点で士族は存在しえない
幕臣のように官僚になろうにも事務経験が少なかったであろう諸藩の下級武士では難しい
となると陸海軍や技術系に転身しかないんだが、そこを辞めて薩摩に帰ったからな…
徴兵止める、士族継続となるとまた家に基づく社会に大きく揺り戻すことになる。
そうなると近代化に必要な大規模産業やマス消費、マス雇用が実現できん。
518 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/20(日) 11:48:19.05 ID:ocvZQGND0
敬天愛人が信条の西郷信者のみなさん、
みなさんが大好きな「実行力」が生かせる時が来ましたよ!
今すぐ原発作業員に志願して、この国難を救ってください!
日本の隅っこで、議を言ってる場合じゃありませんよ!
1人当たり県民所得が福島に遠く及ばない、日本最貧困クラスの鹿児島にとって、
それはあまりに酷な要求と言うものだ
おれの鹿児島の親戚たちは結構いい暮らししてるぞ
士族の家系で地元の放送局、新聞社、銀行で働いてる奴が多い
ひょっとして今でも、元士族とそれ以外ではけっこうな社会差別、収入格差があんのか?
>>521 うちは郷士だよ
親戚たちは素行は良いが凡庸な奴しかいない
人生、コネで全部決まるみたいだ
523 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/24(木) 08:47:59.94 ID:2CcxmOeh0
掛け声ばっかりで、結局何も実行しないのが今の鹿児島人
524 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/24(木) 10:42:01.90 ID:bB/PfFYD0
うちも戦国時代から続く士族。鹿児島にいる親戚はだいたい関東関西の大学卒で
教員(大学含)や公務員、九電がいるがコネではないらしい。素行がよく地道な感じ。
先祖は第二次大戦の鹿児島市大空襲で焼け野原になったとき
商人階級の土地泥棒に遭い、戦後はゼロからのスタートだったらしい。
その土地泥棒は現在、中規模の会社経営者らしいが
今でも近所の年配者から「土地泥棒」と陰口叩かれているらしい。
鹿児島の財閥的会社経営者や、政治と病院経営を兼ねる人も離島出身者だし
社会的差別や収入格差ってあまりないんじゃね?鹿児島市中心部の話だが。
西南戦争で専横を極めた城下士グループは根こそぎ排除されたわけか
西郷どんも泉下で喜んでいるだろうよw
戊辰戦争当時の薩摩藩は藩財政が裕福とか言われるが、結局は収奪でしょ。
百姓は異常に貧しかった。
天領の百姓は権利も財産も世界でもぶっちぎりの豊かさだった。
要は収奪しても軍事国家を作ったほうが良いと言うことね
>>526 調所の改革は、流通インフラの整備・藩が直接取引することによる中間搾取の削減など
収奪なんて単純な物じゃないよ
いや調所の改革は巨額の債務踏み倒しからすべてがスタートしてるよ。
皺寄せが収奪に行ったことは事実だよ。
村田清風よりはるかにあくどい。
>>523 仕方がないよ。
旧藩時代のもっとも実行力のあった層は、新政府の軍人・警察官になって脱薩しましたし、
反政府でテンション高い層は、西南で戦死しました。
今の鹿児島人の先祖は、西南で弾にあたらないよう後ろで隠れていた人たち&農奴だった人たちです。
武士もどき1割、農奴9割です。
彼らの子孫たちに実行力を期待するのが無理な話しです。
正統な薩摩武士の子孫は東京人の中にいます。
鹿児島人が東京人(中央の人)を嫌うのは、リアル武士に対するコンプの裏返しなんでしょうね。
>>527 インフラ整備と中間搾取排除だけでできるコストカットは知れてる
更にいうなら中間搾取していた奴らの取り分を手前の財布に入れるだけなんで実際は何も変わらない
本読んで分かった気になってるみたいだけど人と金の話は自分が体験しないと見えない部分が大きよ。
本はしばらく置いといて、もそっと社会に揉まれて下さい
>>528 払えないんだもの
調所
大量の借金を事実上払わない(債務放棄)して毎年のフロー計算だけに全てを集約させるヤクザ手法。
これができてなかったらそこから先の話は全くできんからね。
まぁ江戸時代は、多かれ少なかれどこの武家も借金踏み倒しかそれに近い手法使ってるよね。
ただ、その後商人が金を貸してくれなくなる諸刃の剣。
それでもやっていける財政基盤を確立できた所が雄藩だな。
ただ、土佐藩だけは何をどう改革したのか今一分からんw
533 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 02:04:54.63 ID:K7KcG2Jz0
>>529 西南戦争で、後ろで隠れていた人達ってゆーが、
あの手の戦争で後方に隠れる事とかできたんだろうか
よく知らんが、
後半戦は偉い人も最前線でバタバタ死んでるし、
名前ド忘れしたが、なんとか坂とかでは上官クラスの人までが刀振りまして突撃したわけじゃん
後方とかにいたら、
お前さー、マジでヤル気あんの?!、とか、テンション高い仲間の薩摩兵に言われそうなんだが
>>533 最前線で指揮を取る将校が多かったみたいだな
さすがに桐野や篠原は全体の状況把握しないといけないからいつも前線にはいなかっただろうけど。
535 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 10:36:09.90 ID:d8Lp6sRg0
薩兵の半分以上は降伏や敵前逃亡で、五体満足のうちに帰還してるんですけどねw
536 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 10:38:29.39 ID:d8Lp6sRg0
薩兵の半分以上は投降や敵前逃亡で、五体満足のうちに帰還してるんですけどねw
意地悪なので二回書きました
538 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 15:56:00.85 ID:DUjCpbiDO
元祖チン毛ファイヤー
悪いのは桐野や村田、篠原や別府や辺見達。
あのバカどもが戦略なしに開戦した。
サイゴーさんは悪くない
それはどうだか。
暴発はしないだろうと大久保利通らは考えていた。
しかし私学校決起は起こった。
541 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/07(木) 07:37:45.74 ID:/1+m5V4d0
>>539 そいつらを要職に就けたのはサイゴーじゃねえかバカ
しかもあのデブは陸軍大将の制服着て、首領として正式決起にゴーサイン出してる
>>539 西郷は大久保に不信感を持っていたし、決起すれば政府軍は戦わずして道を開けると考えていたよ
543 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/07(木) 21:00:12.50 ID:QUILFRXc0
>>539 村田を桐野や篠原と一緒にしちゃいかんよ
西郷さんは全然悪くない。担がれただけだから。
陸から行く
いや、西郷の主体的意思が入ってなければ薩軍の決起は不可能だって。
もし西郷が明確に止戦意思を持っていたら、永山弥一郎案を採用していたはず
あと、村田は既に警官帰郷問題で鹿児島県下で対政府不信が高まっている状況で
西郷首班説を池辺・佐々に開陳しており、明らかに大久保政権が持たないと見ていた
しかし政府の挑発が判明した大評定でも永山のように真っ向から反対しなかった
これは西郷の意思が既に固まっているから仕方ないと責任を放棄したようなもので、
永山とともに反対論を唱えていれば、西郷らと穏健派の対立が鮮明になるのを恐れたと思われる
547 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 01:13:21.36 ID:UNolUtEq0
桐野や篠原ら基地外&私学校の偏差値ゼロのバカどもが勝手に暴発→
サイゴーさんは、やむ得ず了解。
これが真実
村田新八は・・・・・、この人はよく分からん。
頭は良い人だったろうし、戦争しても負ける事は分かってたような気がする
理性と義理の間で義理を取った
それだけ
そしてそれだけの事を普通の人が貫くのは無理
村田に限らず敗戦や武士の時代の終わりを予見してた人達の断末魔が西南戦争の銃砲だったのだろう
村田は、おそらく永山・野村・村田ら現実派と桐野・篠原の衝突の中で、
自分が永山の側に付いたらバランスが崩れ、現実派と西郷との正面衝突になるのを懸念したのだろう。
そのくらい大物だからな。
西郷の内意は最初から桐野・篠原の側にあったのは間違いない。
私学校の暴発に関して西郷がしもたと言ったのも、大久保政権との対決に関して言ったわけではない。
550 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 11:30:34.20 ID:6eX4dke10
なんだよ、蜂起したのが罪でその罪は西郷のせいじゃないて考えてんのか?鹿児島人はw
蜂起自体はなんら問題ないじゃない?
倒幕だって最初は蜂起だったわけだし
問題なのは、というか注目すべきはそのプランが日本史上まれに見るほどの粗雑、滑稽、誰得なものだったということだろう?
薩摩脳
西郷陸軍大将に政府軍は銃を向けることはない
熊本城は自ら開城
道々の士族、政府鎮台軍が武器弾薬持参で合流
道々の県庁、商人、百姓たちが食糧、軍資金を献納
無傷で東京入り→大久保逃亡
現実
西郷陸軍大将→即日クビw
熊本城→孤軍で徹底抗戦、西郷軍は総攻撃するも一兵も城内に入ることできずw
一部の熊本士族などを除き、ほぼ完全に世間から相手にされずw
熊本、宮崎あたりをウロウロ→金が無くなりニセ札発行w 商人、百姓から食糧をだまし盗る
士族が糞鎮とバカにしていた百姓兵に追いまわされ、満身創痍で鹿児島へ
西郷→責任を桐野になすりつけ自決
551 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 11:37:39.14 ID:pbHTvJiA0
>>550 >一部の熊本士族などを除き、ほぼ完全に世間から相手にされずw
これはウソ。
実際のところは、肥後熊本藩は右も左も挙って西郷軍に全面的に参加し、
薩摩出身者より熊本出身者の方が多かった。
が、負けたら即座に元々新政府軍についていたことにして投降してしまった。
そういう土地柄なんだよ。
552 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 11:45:28.32 ID:6eX4dke10
ウソと言われてもw
一部の熊本士族などを除きと、いちおう事実を書きましたし。
というか薩摩出身者より熊本出身者の方が多かったなんて初耳ですがw
553 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 11:50:50.71 ID:pbHTvJiA0
現地の博物館に行ってごらん、
熊本の民主主義を示す、薩摩というよりは熊本人による抵抗戦争だったと高く掲げてあるよ。
554 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 11:58:59.87 ID:pbHTvJiA0
まあ、それにしては新政府熊本城解放以後肥後勢の寝返りは
本当にやる気だったのかと疑うものがありますが。
そのため、熊本に残る西郷隆盛伝説としては
西郷軍に加入することになった熊本勢の決起と勇壮さをひたすら謳うものと
西郷軍は乱暴だったとひたすら罵るものと、それだけで、
西郷軍が熊本で負けて南へ向かった際の話は僅かです。
555 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 11:59:02.00 ID:6eX4dke10
宮崎八郎一派の脳内ではそういうつもりの参戦だったかも知れないが、
熊本人による抵抗戦争ってw
熊本人も案外あなどれんなw
556 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 12:04:27.11 ID:pbHTvJiA0
WIKIPEDIAでの熊本県の歴史も、人吉の相良義陽が島津に敗北してから
次の行では豊臣が勝利し佐々が入城してますので、その間の島津氏の治世は全省略なのですが。
そういう意図的な省略をやってのける地域です。
西南戦争って、薩摩藩の武士より熊本の士族が多かったのか・・・・・・
これは衝撃の新事実だ。日本近代史の定説を覆す大ニュース
558 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/11(月) 04:52:44.80 ID:fkgg+sZf0
熊本城攻略の時期に限ってみれば、熊本出身者の方がかなり多い。
ただし新政府軍が熊本城をを開放すると、彼らは即座に解散してしまう。
たしか薩軍は最初1万ぐらいで出発したんだったけか?(後で増員されるが)
熊本士族も1万以上参加したとなると、
元熊本藩士が全部参加したぐらいの規模にならねえか?
560 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/11(月) 15:41:19.66 ID:4SffivQY0
テスト
西南の役は熊本士族が多かったとか、、、
何のSF小説だよww
西南戦争は、薩摩による薩摩の為の、薩摩の戦争だ
563 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/13(水) 03:52:55.56 ID:E0r9BtIa0
>>562 こういう根拠のない説で語ってくる人間がいるということが、
西南戦争が明治政府の覇権確立という面で語られない理由なんだろう。
西南戦争って鹿児島人的には郷土の誇りってことになってるの?
孔明がいれば楽勝の戦争だったけど、
側に居たのが桐野とか篠原とか別府とか、おサルさんだらけだったのが西郷さんの不幸
566 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/14(木) 06:12:12.93 ID:rgwIQhGL0
西郷さんは人格者。無私無欲清廉高潔至誠の人。
真の憂国の士。最高の侍。
篠原のどこがまとも?!
篠原サンは、勇があり寡黙で、指揮官としてもそれなりに優秀。
でも、それだけの人物で、戦略とかそーゆーのとは無縁な人だし
幹部としては無能過ぎる
いちばん無能は西郷さん
いつも総司令官みたいな偉そうな役もらってるけど、
実態は戦のド素人
本来は篤姫の嫁入り道具係りとかが適役の人
戊辰戦争の仕切りが大村じゃなくて西郷だったら、幕府残党に負けてたかも
司馬も、何度も戦略がなかったと言ってるね。
ただ、司馬の「翔ぶがごとく」を読んだんだけどさ、
西郷は勝つつもりはなかったのかもってちょっとだけ思った。
でも、戦局がどうしようもなくなってから、
桐野を遠ざけてるし、あれはやっぱり最初は勝つつもりだったのかねぇ。
それにしても、村田が鎮台兵をみて「(政府軍がこれだけ戦えるなら)
日本は大丈夫だ」といって喜んでいたと言う話、せつないねぇ。
>それにしても、村田が鎮台兵をみて「(政府軍がこれだけ戦えるなら)
>日本は大丈夫だ」といって喜んでいたと言う話、せつないねぇ。
その部分は物語によっては、西郷や桐野の発言だったりするんで、
たぶん実話では無いでしょう。
>>571 司馬本を読めば分かるが、作中の西郷は「3月には大坂表に付くだろう」と語っており、
熊本攻めの前の川尻では勝利を確信してるでしょ(戦闘の勝利と言うより、熊本鎮台の降伏だが)
西郷の認識なんてその程度だったんだよ。もちろん勝つと思ってた。
そして村田たちにしても、熊本すら抜けないと思ってた人間はいなかっただろう
574 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 08:26:30.08 ID:AqQ6TXAa0
一種の狂信集団だな
575 :
571:2011/04/20(水) 21:10:41.09 ID:GC6+45rM0
うわあ。いろいろショックだ。
村田発言は事実じゃないのか。
西郷は狩猟に出かけてた姿ばかり印象に残ってる。
村田は負けると思ってたけど、義理人情で参加って感じだったような。
司馬も、西郷を担いだ薩摩人たちについて「一種の宗教的感情」って言ってたかな。
篤姫お輿入れの頃からしばらく、西郷はいわば情報将校的役割を担ってた。
その西郷が海老原みたいな偏った情報のみを元にしてたって言うのがなあ。
西郷が情報将校って言いすぎだろ
見た目が立派じゃなかったら、出世してないタイプじゃないの
永山とか野村とか、あの辺の、
一般的にはマイナーな武将だが、戦略&政略&東京政府の実情が分かってる
幹部がメインだったら西南戦争は全く違う結果になってたね。
そこに村田が加われば、最強じゃん
偏差値ゼロの、桐野篠原別府辺見は史ね
村田は過大評価だと思うけどな。
むしろ東京政府の実情が分かってるから、決起に対して甘い見通しを持ったんではと。
永山にしても日露交渉で怒って帰郷するとか、エキセントリックな所はある
鹿児島の学者や郷土史家は薩軍に甘いから、彼らの残した資料は鵜呑みにしちゃダメ
桐野は戦略眼はほとんどない人だったが、
資料とか読むと、西南の役が負け戦になる事は、当初から薄々感じてたフシはある
ただ、戦争が始まった以上は、イケイケ大将として景気の良い事を言わにゃならんし、
色々難しいね
そうなのかなあ・・・
当初は戦にもならないと思っていたんじゃ?
幕末に数千の薩摩藩士が大砲と久光を擁して江戸に上り、幕府に改革を迫ったことがあったけど、
あんなつもりをイメージしていたと思うがな。
とても負け戦を想定してる行動じゃないよ。
佐賀の乱の直後、別府晋介や辺見に煽られても、
「鎮台兵ト東京政府、侮リガタシ。今ハ自重セヨ」、と言った資料はあるし(本当に本人が言ったかどうかは不明だが)
桐野はアホではないかもな
よく分からんが
いや、政府軍の過小評価は薩軍幹部みんながやってるから桐野が敗戦予想してたとはとても…
桐野は敗戦を予想してると言う史料が不明だけど、あれは何にも考えてないんだよ
佐賀の乱に関しては止めるための口実でしょ。西郷は佐賀に同調する気ないし
議をゆうな。実行せよ・・・のお国柄だからね。
戦略とか考えること自体が女々しいと見なされてしまう土地。
倒幕にはその行動力が役に立ったが、西南戦争では早くも時代遅れの集団になってしまった。
現在は・・・議をゆうなと言ってるだけで、何も実行しない集団ですかね。
585 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/04(水) 01:17:42.73 ID:MGNEI7+30
自分は薩摩の“議をゆうな”の真髄はわからんが
でも現在はと言うなら、口であーだこーだ言うわりに何も実行できてない日本人が圧倒的に多いと思うんだけどね。
特にこういうとこに書き込みしてる人間は。もちろん自分も含めてだけど。
586 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/04(水) 01:33:38.07 ID:llHegYQ30
良い儲け話があるんだけど、投資してみない。
587 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/04(水) 16:24:52.68 ID:MGNEI7+30
元手がない。はい、おしまい。
明治維新までの薩摩見ると超戦略的だと思うが
西南戦争までの政府リーダーも薩摩の大久保だし
幕末の薩摩藩の政治・戦略は、頭良すぎだろ。
ノリと勢いの、行き当たりバッタリ方式の長州と比べると雲泥の差。
長州では、大村益次郎だけが戦略眼あっただけ
でも西南戦争になると、これが同じ藩かと思えるくらいマヌケな集団になるんだよなあ。
東京政府に人材が集まりすぎたのかもしれん
590 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/09(月) 10:17:28.43 ID:mUhH6V1ZO
今の小沢一郎と西南戦争前の西郷隆盛って立場が似てね?
本人は政府批判以上の事は基本望んでないんだが、
部下が反乱したがっているという状況。
西郷隆盛=小沢一郎
桐野利明=森ゆう子
士官学校生=小沢チルドレン
>>589 というより薩摩藩は一貫して藩益中心で動いていた
幕府についた方が有利なら幕府に同調したり長州に同調したり会津とも組んだり
逆に邪魔になると追い落としてきた
長州は最初から藩幕府一本だから苦労した
>>590 西郷と一緒にするなよ西郷に失礼だろw
薩摩も在京の指導者が突出し、国元の慎重派が難色を示すと言うのは、
会津と結構似てるんだけどね。会津も国元・江戸詰めは京の公用方に猛反発していた
西南戦争の間抜けぶりは当たり前、下野した人間は空気読めない馬鹿だから
西郷が征韓論者でなにが不都合なの?
「敬天愛人」の商品イメージがこわれるから?
では、戦前は征韓論者でOKだったの?
征韓論と西郷を結びつけるものが無い。
あるのは大の征韓論者だった板垣退助の、西郷さんも私と同じ意見だったという主張だけ。
596 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/14(土) 09:44:35.58 ID:fZbH98MG0
板垣も別に征韓論ではない西郷の遣韓論に意見に同意してる
征韓論だったのは木戸
本質は留守政府と洋行組の主導権争いに過ぎない
洋行組が政権取ってから遣韓大使も送らず武力開国させてる
597 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/14(土) 10:09:41.16 ID:fZbH98MG0
>>592 というより政府側は
薩摩を潰すという方針で着々準備していったが
西郷には政府を潰すとはそこまで考えてなかった
だから戦略も何も無かった
598 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/14(土) 11:17:38.50 ID:GZMUDqYs0
遣韓厨がまた必死だねw
599 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/14(土) 11:45:11.80 ID:g/NqFqJY0
征韓論を西郷が確かに主張したという主張の人は、ここに至っても全く証拠を挙げられませんが。
出てくるのは、その後征韓論に身をささげた人の、西郷隆盛も私の支持者だという説だけ。
征韓論西郷説は論証は無理ということになります。
一連の士族反乱の集大成だな、西南戦争は。 西南戦争やってようやく国内の士族の
不満がベントされたといっていいんじゃないの。
福沢が丁丑公論で西郷を弁護したのは有名な話だよね。西郷を弁護するために、反乱にいたった
原因は新政府側にもあるといっている。その考えが正しければ、西郷の責任は軽減されるだろうな。
福沢の時代ではそういう風な評価もありだったろうが、現代から西南戦争をみると、太平洋戦争の
原型めいたものが、よく目につくね。司馬遼太郎もそんなことほのめかしていたし、そういう見方の
ひとはかなり多いのではないか。現代で西南戦争を評価するときは、西南戦争以後の後世の
戦争への影響というのも、考慮しなくてはならんわけだ。
602 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/14(土) 16:53:14.81 ID:SUIzVYcT0
司馬遼太郎は勝った日露戦争なんかと比較して、負けた大東亜戦争は信じられない位無能で悪だったとあの敗戦を過大評価してるからなw
そりゃ勝った戦争と比べ、負けた戦争なんてどれも悲惨で似た様な現象が起きるのは当たり前
それを大東亜戦争の敗戦の原型とし、精神論が原因とか阿呆な事言う始末だからw
初めから国力でも物量でも圧倒的に負けてて、原油の兵糧攻めを食らい戦略的に開戦に追い詰められてんだから
せめて兵の士気を鼓舞し精神論だけでは負けないように戦うしかなかっただけの話でしょってw
司馬遼太郎の戦争理想論通り行くなら、そもそもどの国も初めから敗戦はしないし負けないってのw
603 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/14(土) 18:14:05.43 ID:SUIzVYcT0
板垣が最初から武力で開国させようとしたのを
それは正道でない、今までの開国交渉は地方の小役人ばかりだから、全権持遣韓大使として自分を送って欲しいと言ったのが西郷
三条がその大使は兵と海軍を持ってくべきではと提案したのを、使者たる者は丸腰で行くべきとしたのも西郷
板垣も三条もこの西郷案に納得し賛同してる
西郷らが去った後に政府は国内の反政府世論そらす為に台湾問題で清国と揉め
遣韓大使の反対理由に列強の介入を挙げてたくせに介入を食らい
イギリスに日本はむしろ朝鮮を武力で開国させろ援助するからといわれる始末
政府はその後朝鮮を外交交渉も無しにいきなり武力開国させてる
どう見ても西郷らの方がまともな手順と主張をしてたん分けで
ID:SUIzVYcT0
木戸は明治初年には対朝鮮強硬論だったが、その後は柔軟路線に転換してるな
板垣は西郷の書簡で最終的には「戦は二段」になるから俺に任せろ
と言われて同意したと言うのが真相だろう
西郷が朝鮮に行った所で、朝鮮が鎖国攘夷路線を改める保証は万に一つもない
>>395、
>>407、
>>440、
>>473などを見れば大体の流れは分かる
台湾出兵は大久保がデロングらの入れ知恵に乗って木戸に下野されると言う政治的失態だったが、
江華島事件は東莱府と森山茂の政府間交渉が行き詰まったため、
威嚇(攻撃ではない)の意味を込めて軍艦を派遣したが、交渉は一時中断
雲揚はその後再び朝鮮沿岸を測量した所、江華島で(最近の研究では恐らく雲揚から)挑発行為があり、
戦闘となった。日本は森山を再び釜山に派遣して事態収拾に当たらせ、朝鮮側との交渉をついでに妥結させた
と言うあたりが真相なので、内治派政権は朝鮮に侵攻しようとしたわけではない
せいぜい出先の発砲事件を奇貨として交渉の打開を図った程度で、事態についてはむしろ静観
606 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 12:06:21.30 ID:rnfw+Jn90
鹿児島人にとって史実が遣韓か征韓かなんてどうでもいいんだよw
鹿児島人の自尊心を満たすっていうニーズに合致してるのが遣韓なんで、これを広めようとしてるだけでw
遣韓なら、西郷は尊い自己犠牲精神の持ち主ということにできる。
西郷>板垣、西郷>大久保 になるし。
ひいては、下野や西南戦争も正当化できる。
ようは鹿児島出身者>その他の日本人 って言いたいわけよw
鹿児島>中央 って言いたいわけよw
冗談ぬきで、遣韓論の背景ってそういうことだと思うよ。
607 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 13:10:06.41 ID:Ybpq5nRc0
議論上は西郷が征韓論を主張したという証拠が出ないので、
この説を疑問視する人は全て地域差別主義者、だから鹿児島県人を差別する人は正義、と勝手に主張を始めました。
この人の文章は、論理体が矛盾しているように思えます。
608 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 15:26:26.14 ID:PS1bgujt0
同感。
遣韓論寄りの意見を言う人=鹿児島人と決めつけていること自体、思考が幼稚だとも思いますしね。
609 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 18:07:41.90 ID:rnfw+Jn90
>>608 現実的に、新聞やら学会やらで遣韓論を採り上げてる土地って鹿児島以外にどこかあるの?w
あるなら教えてほしいわ
このスレは鹿児島人だけではなく、会津憎しの粘着クンや頑張ってるのは認めるがw
610 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 20:51:05.16 ID:PS1bgujt0
いやだからこのスレで話してるわけだから。
少なくとも粘着かどうかはともかく、鹿児島人以外の人間がここを見たり発言してるのも確かな訳だし。
その鹿児島人以外の人間を単純に“会津憎しの輩”と全員ひとからげにして決めつけてしまうのはいかがかね。
そういう思考でゆくならば君は鹿児島県憎しの粘着クンということになってしまうと思うが。
611 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 23:57:13.30 ID:rnfw+Jn90
いやだからw遣韓論をぶつ人間のほとんどが鹿児島人であり、
それは鹿児島人の自尊心から来るものであろうって言ってるだけで、
例外があるからそれはおかしいと言われてもねえw
それに鹿児島人以外の人間を全員ひとかげらに決めつけてると言うけど、
全員というほと数いないと思いますがw
確実に言えるのは会津憎しの粘着クンが1名いるというだけでw
あげあし取りして人を腐すくらいなら、なぜ鹿児島人は遣韓論を支持するのか、
合理的な説明でもしてくれよw
612 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 02:36:22.55 ID:eq+QQ8uWO
相変わらず会津関係者の鹿児島県人差別は正しいという意味不明な抗弁が続きます。
粘着してるね、会津関係者は
西郷は韓国に使者として派遣されれば、自分は必ず殺されるだろうと明言していたので
自己犠牲的征韓論者といえるのだろうな。 こういう風に解釈すれば、征韓論者と遣韓論者
どちらの顔もたつというもの。
614 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 21:27:06.35 ID:i3fm5UjK0
>>613 遣韓論者はいても征韓論者なんていないけどね。
遣韓論ってデタラメすぎない?と言ってるだけで。
615 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 23:34:51.53 ID:XifvFe2a0
>>611 薩長が好きだ嫌いだ、会津が憎いだ憎くないだ、そういうことだけの人間ばっかりじゃないんだよ。
単に歴史の事象に対して興味を持ってロムったり発言してる人間もいるのだから
全員鹿児島人と勝手に決めつけないでくれ。気分が悪いんだよ。
中には会津憎しの人間もいるのかもしれんが、それこそそれに粘着することないだろうが。
“会津憎しの粘着クン”を連呼してる君も確実に粘着クンだよ。
>>614 西郷は自分が韓国に赴いて殺された後に、日本から韓国に軍隊を派兵することに
なると見越してたわけで、韓国に薩摩士族を送り込むことになることも想定済み
だったってわけでしょ。 それが西郷的征韓の備えだったわけだわな。
617 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/17(火) 01:12:08.97 ID:1PB4zzqV0
>>615 おいおい、粘着してるのはおまえだろw
全員鹿児島人なんて誰も言ってないし
おまえのケチな自尊心のために嘘まで言って人に粘着するのはやめてくれ
618 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/17(火) 09:13:05.90 ID:BYuBATef0
この“会津憎しの粘着クン”を連呼してる人は、完全に自分の言ったことを忘れているし、
根拠のないことを喋ったことについては、嘘と思っていないらしい。
この人は、腐った自尊心の塊と妙な地域主義に凝り固まってひたすらに粘着を続けている。
俺が驚いているのは、西郷が朝鮮半島への具体的な侵攻計画(どこから兵を入れるとか)まで考えていたことなんだよな。
西郷のイメージって、そういうことは人にまる投げして何も考えてない人かと思ってた。
当時の海軍卿だった勝は
厳本善治「海舟座談」や
安部正人編「武士道(山岡鉄舟口述、海舟泥舟評論)」の中で
西郷が征韓論だったという風聞を否定してるよな
勝は西郷を持ち上げる事によって同時に江戸城無血開城をやった自分の評価を高めようとする姿勢が露骨過ぎるんで、
こと西郷評論については眉に唾付けて読んだ方がいい。
西南の役見てれば、西郷が鹿児島の下級士族にどれだけ声望があったか分かる
幕末は下級武士や農民による市民革命だった側面があるんで、過大評価ではないと思う
身分制度の限界が来てたんだね
大西郷があまりに偉大すぎたのは事実
朝鮮行かせとけば良かったものを
岩倉もずっと後年にあの時西郷さんを行かせとけば良かったと漏らしたらしいなw
624 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/18(水) 23:14:21.72 ID:5nEKuTP10
>>622 私学校が鹿児島士族に恐怖政治を敷いていただけ。
西郷軍に参加しなければ、士族の資格を剥奪されるぞとか言われてね。
スターリンが恐怖支配する赤軍が強かったのと同じ。
>>621 それって司馬遼太郎の受け売りだろ
まぁ海舟読みは内容を考慮しながら取捨してるよ
「武士道」では
明治六年一月に西郷が山岡鉄舟宅にやってきて酒を飲みながら
禅問答のような一聴脈絡のないような会話をした
その断片を鉄舟妻で泥舟実妹の英子が覚えており口述筆記し文章にまとめた
鉄舟も泥舟も馬鹿がつく正直だから、彼女の生まれ育った環境的にいい加減なことを言う人ではないだろう
それを編者の安部が海舟に見せた上で
証言、評論を要求したもの
だから、他人の証言と海舟の海軍卿時代の記憶を統合した内容だから
単に自分を大きくみせるとかだけではないよな
尤も当時の朝鮮征伐(日清戦争)に反対だったから
その辺の政治意図は込められてる可能性は否定できないけど
>>625 そして鹿児島士族の殺し文句「議をゆな」で無理矢理従軍
それでも従わない奴は公開リンチした
勝海舟って、日清戦争に反対してたの? 初耳だ。
勝は朝鮮問題の処理でも、日本側が干渉するより、朝鮮内部からいずれ
「西郷隆盛がごときもの」があらわれるだろうから、それと手をくめばいい、と
述べていたそうだが、日清戦争に反対したのはそういう理由なんだろうかな。
質問失礼します。
知人が以下のようなことを言っているのですが、このような史実はあるのでしょうか。
・自分の先祖は「宮崎藩」に仕える武家。
武家は表向きの姿であり実際は盗賊。
・西郷隆盛に土地を譲ってほしいと依頼されたため立ち退き、その為落ちぶれた。
土地とは現在の宮崎空港。
該当スレがわからないのでこちらに書き込ませていただきました。
そもそも宮崎藩って名前の藩なんてあるのか・・・?
宮崎県の宮崎城(宮崎市)は、高鍋藩秋月家の所領で独自の藩ではありません。
他の現在の宮崎市周辺の領土分布も、薩摩藩島津家や飫肥藩伊東家、佐土原藩島津家、高鍋藩秋月家、天領など入り乱れており、
江戸時代の宮崎市周辺は統一された行政すらありませんでした。
そのため、宮崎藩がどの藩のことなのか判りません。
宮崎空港周辺は現在の地域名では「赤江」(あかえ)「恒久」(つねひさ)「本郷北方」(ほんごうきたかた)「本郷南方」(ほんごうみなみかた)で、
本郷は西の「加納」(かのう)と併せて古代の国富荘(くどみのしょう)があった地域です。
江戸時代には、宮崎空港北側の池となっているあたりが赤江港として使われており、飫肥藩の支配の下で活気があったそうです。
商人なら盗賊と自称してもそれほど違いがない場合もあります。
つまり、明治初期に大淀川河口の赤江港(元は飫肥藩伊東家の所領)に基盤を持つ商人兼地域の代表者だったと考えるのが、最も条件に適合するでしょう。
さて、西郷隆盛がここにどのように関係するか、ということになります。
宮崎県の成立は紆余曲折があって、日向市美々津と都城市に県庁が置かれたり、それらが消えて代わりに今の場所近くに県庁が出来たり、
鹿児島県に併合されたり、また現在地に県庁が出来たりしたのですが、西郷隆盛が関係するのは最初の宮崎県の設置から鹿児島県へ併合された
時期です。その後西南戦争が発生し、戦後復興で明治政府が鹿児島市を優先したため再分離運動が起こって宮崎県が再分離したのですが、
それは西郷隆盛の死後のことです。
この頃の鹿児島県は西郷隆盛の私学校党が完全に支配しており、鹿児島県の一部になっていた現在の宮崎県及び県庁も西郷の支配地と言えるでしょう。
この時期なら赤江港も機能していました。(大淀川の土砂による赤江閉塞は大正時代、大淀川河口開削と旧河口の宮崎港としての整備は昭和に入ってから。)
土地を提供しなくても大正時代には赤江は港としての機能を失い、街も単なる田舎へと墜落します。提供が無くても資産の維持は出来なかったでしょう。
むしろ、西南戦争でこの地域の士族は飫肥・高鍋を問わず西郷軍に参加しましたので、西南戦争後はこの地域は一種の政治的な真空状態になります。
没落があったとすれば、土地提供よりは西南戦争における西郷軍への肩入れが原因だった可能性があります。
というわけで、ありえないわけではありません。
明治初期に大淀川河口にあった赤江港の大商人兼地域の顔役で、西郷軍に肩入れして没落したというのであれば、とりあえず筋は通っています。
>>631 大変ご丁寧にありがとうございます。
その知人は表向き武家で実際は盗賊だったと言っています。
それはあり得るのでしょうか?
633 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/22(日) 08:58:25.48 ID:PsWF/qWC0
鹿児島=北朝鮮
私学校=朝鮮労働党
郷中教育=思想改造
西郷=金正日
朝鮮がつひに日本の英雄・南州翁と同一視される事まで望み始めたか
韓国の朴正煕大統領は、西郷隆盛を尊敬してるって公言してたそうだし
金泳三大統領の執務室には、「敬天愛人」の額がかかってたそうだし
西郷は朝鮮でも、それなりに人気あるようだね。
やはり、西郷が最後には大日本帝国に反逆、反抗したというところに
感情移入するんだろうか。安重根を英雄視するのと、似たようなメンタリティの
なせるわざかも。
636 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/22(日) 18:15:14.39 ID:GAKxHPJa0
敬天愛人もキリスト教も朝鮮の手にかかるとウリストと都合よく改変します
>>632 切り取り強盗は武士の習い、なんて言葉がある。戦国時代の話ではあるが。
ただ、
104 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 11:45:34 ID:kEDzoS3h0
祖父は明治40年の生まれだが、小学校出て商家に丁稚奉公。
盆や年末の小僧さんの仕事に遠隔地のお得意さんの売掛金の回収がある。
田舎だから金を持っての峠越えには山賊が出ると言っていた。当時は姿形で
商家の小僧さんだと一目で分かるしね。山賊から自分の身と売掛金を守る方法として、
郵便局の局員さんと一緒に峠を越えると言っていた。
現金書留があるから郵便局員も山賊に襲わる可能性があるので、
郵便局員は特別に拳銃を携帯を許されていて、発砲訓練や護身訓練も受けていて
局員と一緒なら安全だったので、局員の移動時間を覚えておいて後ろをついて行ったそうだ。
局員さんの制服姿や拳銃が頼もしくて憧れだったそうで、
よく楽しそうに峠越えの話をしてくれたなあ。
場所にもよるが、大正期一杯ぐらいまで山岳地では山賊出たみたいだよ。
「ああ野麦峠」にも中山七里の山賊の話が出ている。あれは明治末頃の話だな。
↑なんて話もあるし、実際大正初めくらいまで山賊がいたらしいから、
君のご先祖様が副業で山賊まがいの事をやってた可能性は無くもない。
638 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/08(水) 16:14:14.72 ID:ZE8r73QZ0
西郷は何故、斉彬の片腕になれたのか。
政局の中心にいる人物の今で言えば第一秘書のような立場に。
藩主に謁見する資格すらなかった下級武士なのに。
斉彬の眼識が尋常でなかったんだろう
西郷は若年の頃特に何かに秀でてたわけでない
藩の農政に対し苦言してたくらいか
よく西郷を素質あると見抜いたなぁ
640 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/09(木) 16:20:29.13 ID:jIwu1ybJ0
体がでかかったき、目立った部分もあるたい。
そげんことば言いよったらキリがなかとばい。
斉彬は能力より西郷の人より大きな激情
その感受性や感情量と一途な性格を見抜いたんだろうなあ
西郷は大略を見る目は優れていたが、能力的に何か才芸に卓抜してたわけじゃないし
学問はそこそこある程度で当時の水準で高くなく、武勇や武芸も若年時に怪我で出来てない
西郷が政治を志向したのは赤松の血染めの肌着を見せられてかららしいが
それ以来藩内でのおゆら騒動と斉彬の死、一度は絶望し川に身を投げて自殺で自分だけ息を吹き返し、二度も島流しにあい
最期は政府に反乱と波乱万丈ですな
西郷は郷中頭だったわけで、
斉彬は西郷を抜擢して城下士層を味方につけたいって政治的思惑はあったと思う。
それと640さんの言うように西郷の見た目のオーラでしょうね。
幕末の志士や維新で出世した人たちはイケメンや大男が非常に多い。
この時代、見た目が相当重要だったということ。
西郷は容貌からして非凡だったらしいが
伊藤とかどうなるんだ?
大久保も大男だったらしいがそういう人気見たいのはなかったし
伊藤が西郷の外見ならやはり出世していただろうが、
西郷が伊藤の外見なら出世は絶対無いだろうなw
西郷は大略を見る目があったと思えない
西郷のしたことが正しかったのは鳥羽伏見の後、強引に江戸進軍しただけだろ
それも勝に嵌められて身動きできなくなかったところ、新政府を救ったのが大村益次郎
西郷は薩摩士族のある部分の人格的統帥者であったのは確かだが
それ以上のものであったのか?
具体的になんかしたの?
646 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/11(土) 01:00:13.33 ID:jaGGKavv0
これといってしてないだろ
司馬によれば、倒幕までの薩摩外交のしたたかさは西郷の手腕である、
みたいなことになってるけど、具体例ゼロだしな
薩長同盟、鳥羽伏見、江戸城無血開城、廃藩置県は西郷の判断と決断のおかげ
鳥羽伏見なんてそもそも負けておかしくなかった
あの賭けに勝ったから倒幕派が勝利
江戸開城もできなかったら関東に反政府勢力が割拠してただろう
大村は江戸の残りの残党刈っただけ
上野戦争の重要性は、戊辰戦争の中では鳥羽伏見に次ぐんだが…
維新で決定的に重要なのは鳥羽伏見の戦いしょ
軍事的に見えれば圧倒的不利な戦いで、軍事判断より大略的判断で決行して勝利した西郷こそ維新成功の要因だね
あれで薩長勢力が官軍になり新政府の主役になれた
初日を日和見した土佐藩は薩長の後塵を拝み、戦わなかった諸藩は明治の主役になる事ができなかった
徳川側もなだれの様に薩長側に寝返り、慶喜自体が朝敵になるのを恐れ関東に逃げ返り完全服従の路線を取った
もともと軍事的には徳川慶喜側は薩長を上回る戦力(特に海軍力)持ってたし
鳥羽伏見後も大阪城で篭城して戦う事も、箱根の天嶮で待ち伏せし海軍力を使って官軍兵力を艦砲射撃で前後分断孤立させ陸軍で挟み撃ちにし全滅させる事もできた
地盤が強い関東に割拠して力を養う事も出来た
さらに江戸城開城のおかげで主要な反政府勢力の幕府海軍や陸軍や会津といった主要勢力は江戸から去ってたし
上野の戦争は服従路線に不満な残党が集まり彰義隊になり、兵力の数の多さを頼んで勝手気ままに暴れてただけ
彰義隊壊滅は多くは大村の功績だけど、西郷の大略的判断である鳥羽伏見や江戸開城より重くないだろう
鳥羽伏見で西郷は勝ためになんもしてない
西郷がしたのは強引に戦争にもっていっただけだ
江戸無血開城は勝の空城の計略
新政府の方針無視して敵中に頭突っ込んで身動きできなくなっちゃった
海に榎本艦隊、陸には彰義隊と幕府歩兵、江戸の治安は勝に握られ、江戸城で孤立し逼塞する新政府軍
その打開をし戊辰戦争終結までもっていったのが大村の手腕
大村がいなければ維新はどうなったかわからない
無血開城は勝の空城の計略ってwww
空城の計なんて軍事的に弱い側が弱いと見せないよう城を空け、実は十分戦えると思わせる虚勢の計略だよw
軍事的に優位な側の勝がする必要ないでしょw
西郷が身動き取れないなら直さらw
勝に治安を握られたんじゃなく、新政府の軍事力じゃ治安まで手が届かないから勝を信頼する代わり全責任負わせ任せただけ
652 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/11(土) 14:09:51.29 ID:0J5shqnu0
>江戸城空城の計
そりゃ学研の佐幕贔屓ライターの妄想だとおもうが、勝が”戦争に勝つ為の戦術”として仕掛けてコケたという論は馬鹿げている。
>>651の言う通り、あの時点で空城計を仕掛けても戦術上に何の利点も効果もない。
ただし、戦争に勝つ為…ではなく、より政治的な目的を達する為の手段と考えて始めて勝の真意が見えてくる。
表面上の戦争その勝敗に囚われている内は、勝の真意はかからんだろうな。
653 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/11(土) 14:55:14.95 ID:jaGGKavv0
>>647 >薩長同盟、鳥羽伏見、江戸城無血開城、廃藩置県は西郷の判断と決断のおかげ
それって全部西郷の手柄なのか?
西郷が具体的に何したのかちゃんとソース付きで説明しないと誰にも相手にされないよ
日本海海戦の勝利が東郷平八郎の判断と決断のおかげと言ってるようなもんで
西郷は深慮の智慧で大勢を判断し、機を逃さず決断できる胆力を持ち、尚且つ実行する不屈の気力の持ち主である大政治家
小器用で小賢しい小人才子でないからね
そういう策士タイプは清川や本間の様、幕末に仲間からも信頼されず結局非業に倒れたし
結局人を動かすのはペンペンたる智謀や才覚でなく人格であると幕末大仕事をした連中は肌身で知ってた分けだ
>>653 そりゃそうだろ東郷の功が第一等
むしろ東郷以外なんて意見の方がありえんだろ
655 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/11(土) 18:36:09.11 ID:0J5shqnu0
あ−……議論中申し訳ないのだけれど
決断できる胆力と不屈の気力だけでは物事は動かない
小器用で小賢しい能力が無ければ大きな仕事はできない
両方持っていてはじめて大仕事ができる訳で、片方しかないなら駄目野郎でしょw
>>649 鳥羽伏見は戦略的勝利と言うより、追い詰められた在京薩摩藩指導者のギャンブルだけどね。
軍事的貢献から見ると
・上野戦争をスムーズな勝利に導いた大村
・会津戦争で強硬突入を決断した板垣・伊地知
も西郷と同じかそれ以上に貢献してると思うけどね。
それ以前に、長州藩の幕長戦争勝利がなかったら何も始まらないでしょ。
幕長戦争も含めたトータルで見ると、大村の功績は大きい
幕末の連中の教養からすれば器用で小賢しい能力は小人ほどある
世の中の大半はそういう小人ばかりで、役人や官僚や専門技術者向き
そういう人間ほど器用で小ざかしいから、大いに小さな事に活用せねばならないって考えだし
しかしそういうの連中を大きな大役や判断者責任ある職につけるのは非常に危険、得意方面に拘りその方面からしか物事を見て判断できず細事に拘り本質を見失うから
必ず大過を招き誤るって考えだから
武士的教養である朱子学の君子は器ならず、君子は義に喩り小人は利に喩るって所から来てるんだろうけど
薩摩型の大将である西郷にしろ大久保にしろ実務家じゃなくあくまで判断者だし
専門性に没頭し総合的判断が偏るのを恐れてる
明治の政治家である黒田や西郷弟、軍人の大山や東郷もそういう判断者の立場で一貫した大将だった
鳥羽伏見は戦略よりも上位の高等政略的勝利だよ
西郷は政略家である大政治家であって、参議である政治職に加え軍事職である陸軍大将と近衛都督についてたけど
軍事専門技術者でないし
なんかキモイな
西郷や薩摩の連中褒めるのはいいが何か全体にキモイ
661 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/11(土) 20:28:27.53 ID:6VfboHaf0
あほらし
日本型総合職至上主義者が西郷を持ち上げてるだけでしたかw
たしかに西郷は専門性など何も無くて、日本型村社会特有の調整型リーダーだな
仕事を部下に丸投げして、責任はおれが取るみたいなカッコいいこと言って、
失敗した場合は土壇場で責任を部下に押し付ける(西南戦争を暗に桐野のせいにした
ように)
廃藩置県の時も、細かい事はお前らに任せるから不平士族が反発したら俺がどうにかする!
みたいなこと格好良く言ったものの、
結局不平士族をどうにかしたのは大久保や山県で、西郷は決起する側だったなw
つーか、俺が責任とるから細かいことは任せるという、
薩摩人に多いということになってるリーダー像って、
長州藩主の毛利敬親が一番近いと思う
>>659 ただ、鳥羽伏見の直前には大坂の慶喜の復権工作が京で進み、対慶喜過激派が浮き上がってたこと
幕軍を不用意に前進させた慶喜側の準備不足にかなり左右されてるのは事実でしょ。
西郷は薩摩藩内の主戦派を纏める役割は果たしたけど、策謀や政治工作と言う面では大久保、
その後ろ盾と言う面では小松の功績が大きく、軍事的功績は必ずしも大きくない
西郷の軍事的功績は、禁門の政変と第1次幕長戦争での戦後処理とかその辺だね。
実際、藩主は責任は負わないから
毛利敬親を薩摩型のリーダーに近いとするのは無理がある。
>>657 大村の役割はもっと大きい
新政府軍が江戸城で孤立逼塞してるところから五稜郭開城までの政略戦略を緻密な計算で指導し成功させた
大村の手腕は単なる軍事指揮官にとどまらない
暗殺がなければ木戸、大久保に勝って明治政府の首班になったかもしれない
藩主って責任負わないの?
そら知らんかったw
西南戦争なんて政府の挑発が原因
西郷自体しまったと言ってるし桐野すら同じ事を言ってる
西郷刺殺の使者まで送り込んで政府が戦争目論んだんだよ
不平士族をギリギリ抑えられたのは西郷だからこそ、西郷が野に去ってからそれまで抑えられてた士族の反乱が各地で相次いだ
神風連の小規模の反乱で熊本城占領された新政府が実力養えたのも西郷が薩摩士族を統率してたおかげ
>>662 君臨すれど統治せずは暗君が出たり主君に政治上の失敗での被害が出ないよう
江戸期の一般の知恵だし別に毛利が特別じゃない
>>665 大村は政略の才0だろ
だからいざこざで暗殺されたんだよw
鳥羽伏見の戦いも勝ち目がないと見てたし
鳥羽伏見の戦い前の意見ならこんな感じだろう
大久保「ほんとに勝てるのか考えると夜も眠れない」
岩倉「徳川をあまりに挑発するのはどうだろう」
大村「軍事的にはとても勝ち目がない」
諸藩「どっちについたらいいんだー」
公卿「薩長と徳川の死闘で朝廷は関係ない」
西郷「必ず打ち破って見せます」
大村が「とても勝ち目が無い」と言ったのは、箱根で幕府艦隊から艦砲射撃を受けていたら「自分たちの首は無かった」
と後日語ったというエピのことじゃないの?
大村は鳥羽伏見の時は国もとにいた。
>>667 毛利が違ったのは、人を見る目と反対に揺るがずに改革を押し通した所だな。
薩摩もそうっつか、改革に成功するには藩主かそれ以上の有力者の後援が必須だけど。
君臨すれども統治せずっつーのは違うと思う。
>>665 大村は木戸を追い落とすとは思えないし大久保に対しては江藤と同じように議論では勝っても…って感じになると思うわ
西郷好きの人ってなんでこう西郷がすべてみたいな主張しかしないのかね
西郷の功だけ誇ってりゃいいのに
ほかの人の功もみんなつまるところ西郷の功だとして誇るからむちゃくちゃ気持ち悪い
西郷と○○の連係プレーだった、程度のことさえ言えないんかと思う
これはあきらかに西郷の功だと言えるものが無いからだろ。
薩軍の大将のポジションに居たってだけで。
しかし鹿児島文化的には、具体的に何をやったかより、ポジションとか肩書きみたいなものこそ何より尊いのかもね。
具体的に何をやったか功がはっきりしてる調所広郷や大久保が人間性まで貶められる一方、
西郷や東郷みたいな曖昧な象徴型リーダーが神のごとく崇められる不思議な土地だな、鹿児島は。
>>669 全員「は〜、西郷どんの戦争好きがまた出たか」
西南戦争でもまた打ち破ってみせますと言って鹿児島県士族を地獄に道連れにしただろ?
西郷の主な功績
幕末
諸藩連合、薩長同盟、薩土盟約と密約、大政奉還、王政復古、鳥羽伏見、江戸城無血開城、戊辰戦争、廃藩置県 、徴兵制
功績多すぎて
>>674 日露戦争で海軍が勝ったのは東郷の統率力、判断力、決断力、実行力のおかげだろw
何があいまいなのか
廃藩置県は一応功績あるからまだましだけど、
徴兵制を西郷の功績にするあたりがあまりに強引だよな はー
>>675 西郷が道連れにされたんだろw
西南戦争自体西郷が望んだわけでない
政府の挑発と仕掛けに若い士族が乗って突発的に始まった事に過ぎん
西郷が政府を打ち破る気あるんなら大規模な戦争なんてせずとも、遺韓論の時に近衛軍使って大久保らの首を胴から飛ばせばよいだけ
西郷はそれを恐れ遺韓論に敗れた後は身をくらましてる
現に西郷は王政復古の時は、それをやって倒幕に持って行った
下野した時板垣が今後世がどうなろうと生死を共にしたいというのも、江藤が共に反乱に立ち上がってくれというのも拒否してるくらいだし
廃藩置県も実際やったのは後藤・江藤・大木あたりで西郷は置物でしょ
鶴岡市はおかしい。
>>677 山県の汚職を庇った、という大きな功績があるじゃないかw
大政奉還は小松、戊辰戦争全体は大村、王政復古は岩倉や大久保、廃藩置県は大久保や木戸、
徴兵令は大村や山県の方が西郷よりも果たした役目は大きいだろ
薩長、薩土同盟や鳥羽伏見や無血開城あたりは西郷がMVPで異論は無いけどさ
>681
西南戦争では自決を薦めたね。
大政奉還も西郷が承諾したから出来たんだろ
約束破って兵を率いてこなかった後藤が中村に斬られかけた所も西郷が救った
戊辰戦争も西郷の統率あってこそ薩摩兵が動いたんで大村の為ではない
むしろ大村は統率が下手で憎まれ暗殺された
王政復古も西郷が容堂がだだこねて壊れかけた所を短刀一つあれば足りると黙らせた
廃藩置県も西郷が薩摩兵を率い上洛し親兵にし四方に睨み効かせたから出来た
大久保や木戸の政治力じゃせいぜい版籍奉還とまりだった
徴兵制も然り
アンチ西郷はゲーム脳だなw
統率よりも作戦の方が上と思ってる時点で
実現した政治力より先に考えただの奴が一番偉いみたいな考えだよな
リアルに実行実現するのが難しいんで、学者や評論家が一番偉くなるw
>>683 つまり大村は元帥、将師で
西郷は大隊長か連隊長ってことか
>>668 鳥羽伏見はラッキーだし
仲良くやれるかは政略と関係ないし
>>672 木戸が大村を西郷大久保に対抗できる人物として立てたと思うな
大村の凄さはゼネラリストとしてあらゆる要素を緻密に計算して実現までものを運ぶ能力だよ
単なる軍略家じゃない
日本人では稀な存在だと思うな
大体大村はゼネラリストじゃなくスペシャリストだろw
大村が得意なのは軍事行政だしwww
ゼネラリストとは西郷の事だよwww
西郷はゼネラリストと言ってもいいけど、なんというか贔屓が露骨過ぎて調整役としては微妙
軍隊でも将軍の事をジェネラルと言うな
ジェネラルは統合者の事であって専門者ではない
西郷は薩摩の軍閥を握っていただけで、新政府全体を掌握する統率力なんて持ってないしゼネラリストでもないな。
派閥の領袖ってだけ。
実際、木戸、大村、大隈あたりからはバカにされていたし、薩摩内でも大久保や従道から疑問視されていた。
新政府内の多数派ゲームで、無視できない票を西郷が握っていたから、
西郷におうかがいを立てざるをえなかっただけで、
西郷発の政策なんて何もないに等しい。
>>691 禿同。人数の多すぎた薩摩軍の力をちらつかせて威圧してたわけで。
信者も、まさか徴兵制や廃藩置県が西郷の思惑だったなんて思ってるわけじゃないだろ?
それ以前の言動はもちろん、その後の行動も、
そんなこと欠片も考えてなかったことを証明してるじゃないかw
たまたま流れで了承した程度のことを手柄扱いせんでほしいわ馬鹿馬鹿しい。
693 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/13(月) 01:47:05.89 ID:UfgzOEKS0
組織が功績をあげていれば、その組織のリーダーは功績がある。
ないないと叫ぶ理由がわからない。
↑
組織論のスレがどっか行ったら?
西郷が薩摩士族兵の利益代表者だったのは疑問の余地は無いが、
政府全体のリーダーだったことなんて名実ともに無いしね。
695 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/13(月) 04:19:11.97 ID:9zXiZHGn0
>>693 んじゃあ明治維新は慶喜と明治天皇の功績だね
そして薩摩の功績は島津忠義のもの。西郷は組織の一部でしかない。
相変わらず過大評価する奴と過小評価する奴の両極端しかいないスレだなぁ
西郷は東洋風の隠士で、功績という下司な概念だけでは、その人間性をはかれないんだよw
まあ、実績という面ではどのくらいあるのかはっきりしないが、無暗に人望はあった。
これが維新における重要人物としての、もっとも有力な要素だな。
島津久光によって島流しにされたあとに、大久保らの有志が西郷の赦免を求めたんでしょ。
ずっと島流しにされてのんびりやってたほうが、西郷にしてみりゃ幸せだったろうにw
留守政府の功績は、明治帝と三条さんのもんだなw
行きすぎの面があるが既定路線に沿った改革案は通ってるけど、
遣韓だかの正式決定だけは先送りになった。
めったに政治に口出さなかった天皇が
このときに限って「岩倉の帰国を待て」といったのは、
よほど三条さんが弱り果ててたからだろw
700 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/13(月) 08:20:32.01 ID:WsZdbj+h0
>>698 それってほとんど天皇論ですよね
薩摩士族の天皇だったのはその通りだろうけど、
なぜそれを盲目的に是として、しかも維新の天皇であるかのように拡大解釈するのか意味不明
一般的には「西郷さんの人望買い」と失笑されてましたよ
功績が下司な概念などと言うこと自体がゲスというものですよ
天皇制ならぬ西郷教に洗脳されている人なんでしょうね
>>700 人望というのは把握しにくいものだから、「人望買い」と西郷を貶すものも
いたろうし、西郷を盲目的に崇拝するのもいたろうな。
しかしまあ、全体的にみるなら、西郷以上の大衆的人気をもっていた
維新の指導者はいなかったのではないか? という話をしてるわけ。
「西郷の人望買い」というのが、どこまで一般的な意見だったかは
議論の余地があるね。 それが大衆的に流布していた一般的な
見方なのか、それとも一部の人間の評価なのか。
西郷が大衆的人気をあつめていたとすると、それに対するやっかみも当然あるよね。
西郷が広い土地を購入した時、「西郷もやはり出世して贅沢したくなったか」という
声があがったとか。人気者はまた妬まれたりするのも世の道理w
確かに薩摩では今でも西郷は神なんだろうが、その他の地域ではそれほどでも
ないわけだろうな。だからといって、維新当時、薩摩以外で西郷の人望はまるで
なかった、無名だった、不人気だったという話にはならんだろう。
まあ、薩摩での西郷崇拝に反発するあまり、逆に西郷の評価を低めたくなるというのは
心理的に理解可能だよw 一般的な西郷崇拝者が、崇拝者が余所からどう見られるかに
あまりに無頓着な場合、「キモイ」とかなんとか、生理的反発をよびおこすんだな。
生理的な反発が強すぎて、「西郷の人望買い」は一般的な意見だと
いってしまったのは、勇み足じゃないかねえw
さあ、「西郷の人望買い」が当時の大衆の一般的な意見であったという
論証をどうぞw できなければ、「一般的」という意見は、取り消し、もしくは
留保でもいいですよw
706 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/13(月) 09:51:35.45 ID:STrAarnk0
お前がいちばんキモいんだよ、連投鹿児島人クン
お、鹿児島人認定されたぜ。生まれてこのかた、一度も鹿児島に足を
踏み入れたことはないんだがなあ。
悔し紛れに、でたらめな罵倒をなげつけてきましたか。バッカじゃなかろうかw
さてさて、モニタのむこうの顔はいったいどんな顔なんだろう。
さぞかし面白い顔に今頃なっているんだろうなぁと想像すると
楽しいねえ〜w
>>678 西南戦争当時の西郷は、大久保に不信感を持ってたよ。
大評定でも永山が挙兵に強く反対したのに、桐野たちを抑えようとしていない
萩、秋月、神風連の乱を聞いて上機嫌になってるし。
大久保のほうが「会って話せば分かる」とかのんきなことを言ってた。
そりゃ大久保が暗殺の使者送って来たと思い
しかも鹿児島士族を挑発し士族が弾薬を奪った以上
もう止められないと悟ったんだろう
西郷が挙兵に加わってるはずが無いと信じてた大久保がのんきだっただけで
名分のない戦いには西郷は参加しないだろうと読んでたんでしょ、大久保は。
それまで佐賀の乱や神風連の乱がおきたときも、西郷は乱に加わらなかったんで
西南戦争のときも、同様だろうと考えていたわけだな。
だから、西郷が乱の首魁ときいて、大久保は驚いたというね。
西郷に、多大な死傷を出した戦争責任があるかどうかってこと?
陸軍大将の軍服までひっぱり出して首魁の座に就いてるんだぜ。
これで責任が無ければ、幕末、維新の功績(参謀や大将、参議として)も認める必要無いってことになるな。
>>710 士族反乱の報を聞いて満足げにしてるんだよ、西郷は
大久保への不信感は一朝一夕のものじゃないの
>>713 満足げにってw
ソースは司馬とか言い出すんじゃないだろうな?
西郷が下野する前に唯一会いに行ったのは政敵の大久保だけでごわす
もうね、西郷が西南戦争に懐疑的だったとかデタラメもいいとこ
士族が反乱を起こしたと西郷が反乱を起こしたじゃ大久保にとってはえらい違いだけどね
西南戦争について
福沢諭吉「西郷あわれむべし、西郷を死地へおとし入れたのは政府である 」
勝海舟「西郷は、自ら育てた子弟と情死をしたのさ」
中津藩の義勇隊を率いていた増田栄太郎「一日先生に接すれば一日の愛を生ず、三日先生に接すれば三日の愛を生ず。親愛日に加わり、去るべくもあらず、今 は善も悪も死生を共にせんのみ」
大久保「必ずや桐野らの暴発、西郷は暴徒に殺されても加わるはずない」「自分ほど西郷を知ってるものは居ない伝記を書いてくれ」
暗殺の使者送っといて大久保は知らなかったのか良く分からんが
西郷とすれば西南戦争の形は望んでなかった
10年薩摩に引きこもりその間政府はますます腐敗し完全に人心が離れ政府は持たなくなる
その時に乗り込んで貪官汚吏を追放し改革しようって考えだったろう
鹿児島の特別扱いをゴリ押ししといて政府の腐敗を改革も糞もないような
722 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 21:32:30.27 ID:OT5Wl9me0
特別扱いはむしろ久光の影響のが強いだろう
県令の大山は久光の腹心だし
私学校出の藩官僚たちが地租改正だってまともにやらなかったんだろうが
彼らに強い影響力を持つ西郷の責任は大きい
自分の足元は放っておいて政府の改革とか言ってる場合かっての
西郷にとって、征韓論だの、政府の腐敗だのは後付けの理由だろう。
鎮台軍が整備されるにしたがい、薩摩と西郷自身の影響力が
相対的に低下していくのが気に食わないというのが本当の理由でしょう。
政府の官僚が腐敗してるなら、私学校薩摩は北朝鮮と同じ収容所国家。
そういや、私学校を抜けた連中への白眼視、暴力
東京へ出ることを拘束して阻止するなどの横暴
私学校絶対主義的な風潮が蔓延していたという証言もあったなあ
私学校を退校した川上親晴の
西郷は陸軍大将の上近衛都督だったんだから
影響力欲しいならクーデターすりゃ良かっただけだよね
征夷大将軍みたいな物だったし
留学してた東郷も薩摩に居たら私学校側に加わってたと言ってたし
山本も帰郷したがってたのを西郷が引きとめた
薩摩人が大量下野したのも西郷が誘ったわけでもない
まぁ村田以外不良債権みたいな連中ばっかだけどな
んなこと分かるはずない
軍神東郷も日本に居たら死んでたし
山本も西郷が止めずに薩摩に戻ってたら死んでる
後の日露戦争の海軍の勝利は無かったろうな
小村寿太郎なんかも西南戦争で里の逸材は全て失ったと嘆いたくらいだし
729 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 01:23:05.44 ID:gI8SCQYe0
西郷は大名でも領主でもなんでもないんだから
影響力欲しくないなら政府の駒に徹してれば良かっただけだよね
給料貰ってる雇われの身だったし
同郷の者たちの話しも後からなんとでも修飾できるわな
西郷がらみのエピソードって怪しい美談ばっかりじゃんw
政府の駒ってその政府筆頭が西郷なんだが?
当時の認識じゃ政府は私的な存在で西郷軍と同じレベルの存在に過ぎない
敵に回った政府側の乃木すら政府側の方が正等な存在なのか認識があやふや
西郷はまず参議で政治上の最高職だし
さらに陸軍大将で陸軍最高職の上に近衛都督も都内軍の最高職
職の駒に徹したから遺韓論が通らなかったら下野した
むしろ既に決まってた遺韓大使を裏工作使って覆したのは大久保らの方で
731 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 02:05:27.89 ID:gI8SCQYe0
結局、西郷こそが最も影響力を持つべきだって話しになってるじゃねえかw
それが通らねえからキレて田舎帰ったって話しw
>>730 >既に決まってた遺韓大使を裏工作使って覆したのは大久保らの方で
木戸大久保らが外遊中は、重要事項は留守組で勝手に採決しない
という取り決めがあったにもかかわらず、それを覆したのが西郷だろ。
一種のクーデターだよ。
外遊組に巻き返されて、居場所を失い帰郷はよいが、
陸軍大将の制服は手放さないとか、どんだけ女々しいんだ、このデブは。
だいたい政府筆頭だとかいうけどさあ
留守番まかされた時期だけだろ?
その前に参議になったのは、
木戸が一人参議に立つはずだったのが
木戸本人が独裁キライで薩摩を引っ張り込んだだけで
西郷が筆頭ってわけじゃない
でもって、洋行組(特に大久保)の期待を裏切って留守番もしきれなかったわけだ
あと、政府が気にしてたのは西郷単体ってより鹿児島という勢力だろ?
だから鹿児島の実力者西郷を利用せにゃならなかった
そういうことすべて西郷中心に論をすりかえてる
もうちょっと理性的にものを考えれば?
>重要事項は留守組で勝手に採決しない、という取り決めがあったにもかかわらず、それを覆したのが西郷だろ。
え?西郷がそんな約束したの?
>陸軍大将の制服は手放さないとか、どんだけ女々しいんだ、このデブは。
西郷は下野しても職は陸軍大将のままだが
>木戸本人が独裁キライで薩摩を引っ張り込んだだけで
木戸は人の欠点に文句をつけるけど自分が責任とってやろうとしなかっただけです
明治維新の賞典禄で格はちゃんと決まってる
西郷2000石
大久保、木戸1800石
板垣1000石
下野の意味わかっとんのかいな
つか重要事項の採決はしないっていうのは政府としての取り決めなのに
西郷は約束してないってなんじゃそら
>明治維新の賞典禄で格はちゃんと決まってる
いやそれ、それまでの功に対する評価だから
明治政府での功の評価じゃないから
いろんなところの継ぎはぎにつなぎ合わせて全体評価を高めないように
留守政府が勝手に採決しちゃいけないなんて西郷が約束した訳じゃないなんて言う奴に
責任とりたくなかっただけだろなんて言われたくないだろうな、木戸も
上でも出てるけど何でここのスレって両極端なんだろう
無理矢理貶すか無理矢理褒めるかどっちかしかないのか
大久保スレや木戸スレだと、
こういうとこはすごい、これはイマイチだった、
て話が一応はできるんだけど、
西郷スレってなぜか、大人物かアホか、みたいな話にしかならんな。
もうちっと具体的で冷静な話を詳しい人から聞きたいんだがなあ
しかし、大人物かアホかって核心ついてるんじゃない?
西郷を「天皇」と見るかどうかでしょう。
鹿児島では完全に「天皇」だね。
「天皇」と考えれば実に適任者。
キャラといい、中身からっぽな感じといい、かつぎやすい。
西郷は中身空っぽじゃなく、むしろ複雑で大きな基準線が一本あって好き嫌いもあったタイプだろう
西郷の好みは命も金も地位も名誉もいらずってタイプで、内心は功利主義者を嫌った
例えば維新に先駆け藩政改革を成功させた津田出を参議筆頭にし自分は従いたいと言ったが
津田が汚職だか起こして冷めた
西郷は担がれにくい、江藤も西郷を担ごうとしたが失敗した
斉彬も西郷を統御できるのは自分のみといってた
まあ斉彬死後、本気で担げる人物を持てず、維新後はしぼんじゃったんだろうね
西郷は自分がずいぶんと担がれたり担がれそうになったりしたが、実際には心服できる指導者が必要な人で
彼にとって斉彬があまりに輝かしくて代わりを見つけられなかったために自分も輝けなくなってしまった
斉彬が早死にしたんで理想化しちゃった面もあったろうし
明治維新で唯一英雄とされたのは西郷だけだから
政治力は一人でもって初期の明治政府よりも上と言ってよいほど突出していた
天才的政治力を持つ西郷と天才的な政治手腕をもつ大久保の対立が明治政府を割る事となった
対立の契機となったのは留守派と洋行派であり、2年も政治を留守にしてれば必然そうなる
留守政府が決定するななんてこれほど馬鹿で非現実的話もないわけで
だから英雄視されてたことと政治やったかどうかってこと混同しないでね
なんかもうこの西郷ageは釣りに思えてきた
まあ大久保の剛腕は認めるけどさ
明治初期の目立つ政策って、
たいてい木戸案で決着してるじゃん
政治は力だから
政治は人事と軍事が全てそれを握っていたのが西郷
その政治力を得る為に用いたのが人望と人格
西郷が承諾しない限り薩長同盟も鳥羽伏見も江戸城開城も廃藩置県も徴兵制もできない
木戸は典型的な調整型の政治家で、長州の勤王派で生き残ったから長州閥の長になったが
ほとんど評論家化してた
747 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/19(日) 21:59:35.18 ID:+hZdFjz2O
JINに出演しています
>>746 木戸への評価が低くて笑えるわ
明治初年の政治についての知識全然ないんじゃね?
え?木戸が何かやったっけ?w
うん、キミの世界では何もやってないってことはよくわかるよ
だってキミの論は「西郷が一番格が上だった。だからすべての功績は西郷のもの」
これだけだから議論のしようもない ある意味幸せな人だw
西郷が一番格が上だった。←現にそう評価されてたしその役目をこなした
だからすべての功績は西郷のもの。←誰も全ての功績が西郷といってないけど?西郷が一番功績あったのは事実だけど
ごめん、ぜんぜんわかんないや
だれか代わりに説明してくんない?
幕末じゃなくて明治の西郷の評価と役割について
明治政府といっても薩長土肥の連立政権です
その内の主力の薩長で最も力があった薩摩を統御統率をしてたのが西郷
さらに世間的にも名望高く英雄とされた
廃藩置県や留守政府の首班を務め明治維新といえる数々の改革を行ってるね
逆に木戸がなにやったか説明してもらいたいねw
廃藩置県で西郷が何をしたか詳しく
>>753 貴方の説明はまったく具体性と説得力に欠けるので、
ほかの詳しい人に西郷のことを説明してほしいわけだが
その前に木戸さんが具体的に明治で何をやったかの説明わ
木戸のやったことを説明することはできるが、
キミが「西郷がいなければできなかった」とかいう強引さで
すべて否定してかかることが読めてるから徒労感がな〜
地道な仕事を評価しない人でしょ
そういう平行線になることが目に見えてるから、
ほかの人に西郷のことを説明してほしいんだが
マジで西郷の功績は知りたいんだよ自分は
くぐればいいやん
ぐぐっても西郷マンセーばっかで信用できないだろ
ところで研究者は誰もが木戸が主導したと述べているが
西郷びいきは「西郷あってこそ」と主張する廃藩置県の件だが、
木戸は版籍奉還の頃から殿様たちに廃藩や郡県制の必然を説いて回っていたし、
明治四年の頭に「新聞雑誌」を創刊させ各藩府県の実例を紹介して世論作りに努めていた
廃藩置県実行の前後には、長三洲に「新封建論」を執筆させて掲載、
毛利元徳の辞表を廃藩直前に出されるようはからったりし(元徳はもっと早く出そうとした)
各藩が廃藩の意義を認め抵抗を少なくするよう努めている
この元徳の辞表を見た西郷が、在薩摩の桂久武に廃藩置県を知らせるため送った書簡で、
「版籍奉還を上表した四藩が実績をあげなくては国体が成り立たない」と、
長藩に遅れを取るわけには行かないことを匂わせつつ説得しようとした
自分自身の論をもってではなく、な
それはもちろん西郷好きの人なら知ってるよな?
西郷マンセーくんは逃げたの?
木戸は小野組転籍事件でも司法の中央集権化を志した江藤を理解して槇村説得に当たったが、
西郷は山県の汚職をかばったもんねえ。視野が狭いと言われても仕方ない
そう煽るようなことをわざわざ書かんでも
政治が力であるという一面はもちろんあるがそれだけじゃない
木戸は状況しだいで力を使うことも否定しないが討議や周旋をより重視する
自分の力の基盤になる可能性もある長州の軍事力を自ら解体する
木戸と西郷では政治家としてのタイプがまったく違うんだから
どちらかだけを正しいとしていたのではいつまでたっても平行線
そういや、河出の大久保小説新刊ちょいネタばれだが、
西郷は抜擢され、引き立てられてはきたが権力を掴み取ってはいない
だから権力への視線が批判的で、それを使って何かを成し遂げようとしない、
てなことを大久保が思うシーンがあるんだが
それって木戸もある意味同じじゃん、とふと思った
権力に対する粘りのなさとその原因という、対照的な両者の共通点w
西郷厨って何もかも西郷のおかげにしたい奴ばっかなんだな
西郷以外の事も勉強しろ
後、木戸厨はどこででもやかましいなぁ
巣に帰れ
確かに西郷も桂も若いうちから上に気に入られ取り立てられた故に権力を握ることに淡泊だな。
一旦引っ込んだら回りから急かされないと自分からは動かないし、
駄目だと思ったら粘らずに放り投げるし。そこらへん政治家に向いてない気が。
努力して久光に取り入って、権力を握ることを第一にした大久保とは対称的だ
大久保は明治六年政変の過程で西郷との衝突はぎりぎりまで避けようとした。
それでも衝突に至ったのは、西郷が大久保との対決を望んだからだと思うな…
果たしてそれが単に政見の相違から出たものなのか、
それとも留守政府と使節団の二重権力の代表者として引くに引けなかったのか、
もっと大きく、大久保個人への不信感か。そのすべてだと思うんだけどね。
大久保個人への不信感って具体的にどんなもの?
富国は殖産などで国を富ます国内拡充政策
強兵は海外派兵などで国を疲弊させる国外拡大政策で
実はもともとの理念から相反してる。
(強兵化政策を取らなかった幕府の兵劣化は戊辰戦争で露呈する)
前者は木戸(伊藤)と大久保が、後者は主に西郷が唱えてたんで
否が応にも西郷と大久保はぶつかってたと思うんだよね。それが明治6年におきた。
で”富国”の方が優先されたんで西郷は”練兵なら山縣でも出来る”って
郷里に帰って旧薩兵の尖兵化に勤しんだ。つうか黙認してた。
結果鹿児島という外国相手に政府軍は進歩しまくって、結果実践訓練にしたのが西南戦争ってオチかな。
西郷が熊本で言った「これなら日本の軍も世界を相手に戦えるだろう」
みたいな意味の呟きがそれを物語ってると思う。
↑
こういう美談まがいの西郷解釈はいい加減にしようや
板野氏の本は判りやすく面白いが、図式を単純化しすぎだろ
特にその本は一般向け入門書としてわかりやすくするためわざと単純化してるんじゃね?
『日本憲政史』も学生向け入門書のせいか似たようなとこあったが
大久保や木戸が強兵化を考えていなかったわけではないし
強兵化=外征ってわけでもない
だいたい、西郷より前に木戸は朝鮮への使節派遣&出兵を言い出していて、
後にそれどこじゃないとひっこめた
板野→坂野
スマソ
>>772 まあ、富国強兵の四字熟語が実は富国と強兵は分けて考える必要があるよ、
強兵のために徴兵すれば現役の働き手が取られるから富国殖産なんか遅れるだけなんだよって
気づかせてるのは評価に値するよ。
気づかされるときは単純な方が良い。小学生でも理解できるものw
>強兵化=外征ってわけでもない
強兵化による外征政策は概ね領土問題解決や条約締結に繋がる。
琉球の帰属先と千島樺太交換条約のウラね。
その逆の外征が偏った強兵化先鋭化を促すってのもある。
台湾出兵がそうだし、江華島事件もそうだ。
長州閥の徴兵練兵を生温いと刺激するように薩摩閥と土佐閥の外征になってるし。
西郷は死に場所とられたって残念がってただろなw
長州閥の”内征”は木戸の「どうする鹿児島問題」で常にあって、
火薬運び出しや反応した川路の工作による挑発行為に繋がってる。
やったことは江華島とほとんど同レベルwだから「尋問の筋之有り」になった。
>だいたい、西郷より前に木戸は朝鮮への使節派遣&出兵を言い出していて、
そりゃ木戸の親分吉田松陰の対外思想がもともとソレだからなー
木戸の場合海外視察して時期的に今じゃないって考え方を改めたとこだろう。
裁判所の件で金も無ぇって江藤にさんざん文句つけてたしなぁwww江藤可哀相すぎる。
坂野説は、閥でまとめがちなのも分かりやすいがイマイチだな
> 富国は殖産などで国を富ます国内拡充政策
> 強兵は海外派兵などで国を疲弊させる国外拡大政策で
> 実はもともとの理念から相反してる。
強兵=海外派兵とは限らない 攘夷の基本は防衛だった
海外派兵だって、市場や資源開拓=富国のため、という考えもあるわけだし
開化期における富国(経済発展政策)と強兵(軍備増強)は、
理念として相反するというより、資金の問題で両立しづらいだけだ
両方できればそれに越したこたないが、どちらをより優先するかとか、
明治初年の明治政府にとって、どちらがより現実的かという問題は当然あるが
>>774 >長州閥の徴兵練兵を生温いと刺激するように薩摩閥と土佐閥の外征になってるし。
>西郷は死に場所とられたって残念がってただろなw
薩摩閥の中には西郷を呼び戻すために台湾出兵を実行した、
川村純義や西郷弟がいたりする。
「対外政策で国難に陥れば、きっと西郷が戻ってくる」と
半分本気で思ってたようだ。
そのアテは外れてしまうわけだが。
征韓や台湾征伐は、維新を経て変化した攘夷運動の帰結と見る向きもあるな。
まー富国と強兵が対立するのは、リソースをどう割り振るかって点でしょ。
両方必要なのは自明だから、1セットにされてるんだし。
徴兵による若年労働者の機会損失もそうだが、より大きいのは財政の問題。
有司専制による急速な近代化は、西南戦争によるインフレで頓挫したし。
>>757 西郷最大の功績は、人を集める力だろ
政治で一番大事なことは、同士の頭数を揃えること
あとは、過激派にも顔が利くとか云々
そこいらを、人望のない権力病の大久保ちゃんに利用されたわけだ。
あと、仁者が政治に向いてないのは当たり前
なんだそりゃ 最初の1行から変じゃん
最初っから洋行組と留守番組が対立してたみたいな前提が臭ってる
一時の状況を広い範囲に、とくに遡った時期にまで当てはめて論じるのは
さすがにもう時代遅れな考え方じゃないか?
留守政府の成果
・断髪・廃刀の許可
・国民皆兵制
・地租改正
・学制公布
・鉄道・郵便・電信・太陽暦の導入
・戸籍制度
・法治主義
+西郷どんの人望
ときたら、嫉妬してもおかしくないわいw
もう突っ込むのも徒労だからこれ限りにしとくけどさ
それぜんぶ、ずっと前から西郷以外の政治家や官僚が下準備してきたことな
少なくとも西郷の頭から出たこと一つもないし
おいしいとこ取りが西郷の最大の政治力ってことでおK?
法治主義っておま
そこは司法制度の整備ぐらいにしといた方がよくないかw
あと地租改正と徴兵制辺りは廃藩置県の実を収穫するものだから、
予定通りだったんじゃね。
もう突っ込むのも徒労だからこれ限りにしとくけどさ
準備ができることと実行できることは全く別問題だぞ
「あの人が言ったから黙って言うこと聞きます」効果が西郷にはある。
それと、暇だったらリーダー論の本とか一杯読んでみ
リーダーは優秀である必要は無いって書いてあるから。
頭がいいだけの人間は、末端で仕事させてりゃいいの
西郷は留守政府の実質総理役、音頭取り役だったとは思うけど
やってたことは水鏡先生のように「好好」言って
味噌塗りのおにぎり喰ってただけだw
>>781 そういったことを、当時の政府中枢に居た政治家あるいは官僚、またはそれに準ずる人物の、
「これは西郷の功績である」という証言って、どんなものがあるのかな。
「人望買い」って西郷が生きてるときから言われてたの?
有能なのは、大久保・木戸だけど
政治に最も必要なことは人心の掌握だから
西郷あっての大久保だと思う
調子にのって西郷どんを血祭りにあげちゃったのが
大久保最大の汚点
>>787 > 「人望買い」って西郷が生きてるときから言われてたの?
はい。生きてるときが一番言われていました。
>>768 あくまで推測だけど、@大久保が島津久光との関係を重視したこと、
A維新政府ができてからのポジションの違い
Bさらに洋行で発想が完全に行き違ったこと
Bで@Aで溜まってたしこりが噴出したんだと思う
西郷の「薩人第一の腰抜け」が事実だとすれば、当時から個人的関係にもかなりひびが入ってた可能性がある
大久保も政局の最終局面では岩倉に対して悲壮な決意を披露してるが、西郷個人に向けられたものではない
>>788 確かに大久保は西郷の心情に対して鈍感だったとは思う
「西郷なら分かってくれる」「自分は西郷のことをいちばんよく分かってる」
しかし血祭りに挙げようとは全く思ってなかったんだよ
千坂高雅が大久保に「戦争は玉石ともに砕いてしまうから、西郷は確実に巻き込まれてる」
と言った時に大久保の顔色が尋常ではなくなったと言う逸話を考えたら、大久保は最後まで楽観的だった
西郷参加を知って、千坂に謝ったらしいけどね。
×戦争は玉石ともに砕いていしまう
○戦争はそんなものではない。玉石ともに砕かねばならぬ。
そういえば、大久保が征韓論に反対したのも「西郷はやれない」っていう理由だったな。忘れてたw
となると、征韓論争の結果がどう転んでも、西郷は死ぬ運命だったのか...セツナス
江藤を派遣(ry
リアルで人望買いしてる奴って、下心を見透かされて逆に人望失ってるけどな
それに、目上に反抗する人ほど、部下思いのいい人だし
やはり西郷は、人望があることを嫉妬されてただけだと思う
>>794 >リアルで人望買いしてる奴って、下心を見透かされて逆に人望失ってるけどな
それってまさに西郷どんのことだな
大久保、西郷従道、川路、大山巌、
まともな薩摩人はみんな西郷どんから離れていった
洋行組が遺韓大使に反対したのは確かに外征所じゃないってのも確かに表上あったんだろうが
その後の台湾出兵と朝鮮武力開国で同じだからなw
留守組と洋行組の主導権争いの面が強い
三傑スレの時から思ってたけど、
なんで西郷好きの人って木戸を必死にサゲるん?
いやホント素朴な疑問なんだけど
木戸サゲなくたって西郷アゲるぐらいできるだろうに
確かに木戸は、西郷どんや、大久保さぁの偉大さに比べあまりに小さすぎだろうけど
木戸では大久保さぁの様に明治政府の宰相・リーダーになれないし、西郷どんの様に反乱起こした所でせいぜい前原一誠規模がやっとですかな
勝先生が言うように木戸には大きな事は向かないが、小さな事には向いていもそ
木戸君には木戸君の良さがあるので、偉大すぎた二人と比べるのは可哀想でごわす
西郷好きってこんな人しかいないの?
まともな西郷好きはこんなスレには来ないの?
>>1から読めば、どういう人の為のスレか分かるだろw
>>798 政治的に誇れる唯一の功績である留守政府の改革案の殆どが木戸絡みなので
とにかく木戸を否定して西郷どんのおかげってことにしないといけないのです
木戸は困難なときは逃げまわるだけで何の役にも立たなかった。
久坂や周布や高杉や大村が先に死んだので藩閥均衡人事で
長州閥のトップに押し上げられただけだ。西郷どんの人望と
太っ腹がなければ維新の大改革は何一つ出来なかった。
804 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 20:28:09.19 ID:v0f1lf5v0
といって、犬死する馬鹿が(ry
廃藩置県の如きも西郷なくして出来なかったと福沢諭吉も言ってるからな
三傑なんて言われてるが西郷が突出して圧倒的衆望を集め、その力でもって大改革がなされたと言ってる
西郷の立場からすれば、廃藩置県なんてのは理において必要性を認識しても武士や仲間を裏切る行為
まして維新最大の功績にしてその武士を最も重んずる薩摩、西郷はそういう武士連中の衆望を集めて維新を成した
結局理において大改革をしたが、その後士族側を見捨てられず賊軍になってしまった
西郷さんの太っ腹があれば、事実はどうでもいいっていうことですね
よく分かりました。ところで
>>760 についての見解知りたいです
西郷がいないとできなかったというのと、全て西郷のおかげというのは全然違うと思うんだが
このスレの人は西郷の領域でない部分まで欲しがってるように見える
それより西郷の政治的な思想とかの方が知りたいんだが
壊れたテープレコーダーのように人望人望人望人望
西郷ってそんなに単純でわかりやすい人間じゃないと思うんだけどなぁ
>>805 拡大解釈が激しいなあ…
福沢の丁丑公論は、むしろ大久保政権への批判だろ
もちろん、士族を擁護する福沢が西郷に同情し抵抗精神を善しとしていたのは確かだが
一方で西南戦争の起兵理由については理がないとも言っている
大体西郷とは一面識もなく、イメージで語っている感じなんだよなあ
福沢は、西郷とか後藤とか、おおざっぱなイメージの政治家が好きなんだよね
そのくせ実際に政見が近く頼みに思って話し合ったりしていたのは木戸や大隈だけど
意見を言う人間よりも黙って実行する人間のほうが上に決まってるじゃないか。
少なくとも日本ではそうだ。
西郷は意見をいう人がいないと何も実行することがない人だもんなw
福沢の西郷擁護論は別に大久保政権批判ではない
福沢は政府側に近い人間で、西郷と近くなく個人的に擁護しなければならない立場でもない
むしろ書かれたずっと後に世間に出たもので政府側に配慮してる
政府も転覆扇動でなく穏健路線の福沢をむしろ推奨してた
福沢は政府が専制に陥ったのはある面でこれは仕方ないとしながらも
しかしこれを認めれば際限なくなるとし、抵抗精神もまた大事であると西郷側も客観的視点で擁護してるだけ
なにより西郷の功績と人物を称えてる
福沢が大久保に批判的だったのは事実だよ
別に政府に「配慮」して発表を控えたわけでもないし
政治家で期待してたのは大隈
一時期伊藤井上とも近いけど十四年決裂
しかし西郷厨の人ってご都合主義だな
西郷とは違う才能を持つ連中を
実行力ないとか意見だけとかいうのも
西郷厨に都合のいい捏造に過ぎないよな
そもそも西郷がいきなり廃藩置県に同意したのだって
よし政府改革するぜと意気ごんで率兵上京してみたものの
政府改革どころか人事刷新さえ西郷の思うようにはいかなくて
さじをなげたとこにこの話が降ってきたからだろうに
西郷は自分のカリスマだけでは動かせない
中央政治への認識不足を晒した挙げ句に尻馬に乗った
まあ薩摩の兵力を気持の上で当てに出来たから
バックアップの功績はたしかにあったよ
私は基本的には西郷に対して同情的な心情を持っているけど、
西郷が先々の見通しを持った有能な政治家だったとか、自分の政見を実現するために
地道な折衝や粘り強い交渉をするタイプの人間だったとは毛頭思わない。
西郷の一番の凄みってのは、周囲の人間を推服させる度量なり器量なりの大きさにあったと思うし、
その器量に惹かれた集まった人間が有能だったかそうでないかで、その事績や業績への評価が
かなり変わってしまうという性質を持った政治指導者だったと思う。
維新の頃に西郷の元に集った人材はそれこそ大久保を筆頭にそうそうたる面々が居たけど、
戊辰戦争というある種の暴力革命(既存秩序の破壊行為)という極限状況が終わってからの、
新構想に基づく国家建設(新秩序の創造過程)という局面においては、
多用な人材を一つの目的に向かって糾合するだけの内的外的要因が薄れてしまって、
人望でもって集団をまとめ上げるという西郷の持つ「特異な力」の重要性が
相対的に低くなってしまった、逆に大久保や木戸らの実務家の活躍する局面が
相対的に大きくなっていった、というのが、この時期の西郷と彼を取り巻く環境の
もっとも大きな変化だったと思ってる。
>>813 ここしばらくの西郷についての説明のなかじゃいちばんわかりやすいね
このぐらいちゃんと述べてくれなきゃ議論にもなりゃしない
人望人望というけど、同郷人以外には通用しない人望って、本当の人望と言えるの?w
>815
征韓論政変時に西郷の側に付いたのは全員が全員同郷人って訳ではなかったでしょう。
佐賀の江藤や土佐の板垣などがいたわけで、西郷の存在が薩摩士族内部でしか意味を持つものでは
無かったとは言えないと思う。
西郷下野後の政局運営が難しかったのは、西郷と薩摩だけが問題だったのではなくて、
彼等に呼応して各地に潜在していた不穏な勢力が蜂起する可能性を秘めていたからだった。
段階的にそれらの反乱が、佐賀・熊本・萩と小規模なレベルで暴発してくれたおかげで
個別に対処できたし、その過程で鎮台兵の強化と軍事組織・兵站運用の整備を行えたのが
明治政府にとってプラスになったから、西南戦争での一方的勝利があったわけで。
歴史のイフの話になってしまうけど、征韓論政変での下野時に民選議会建白運動に名を連ねていたら、
西郷がその中心的存在として祭り上げられた可能性は高いし、大久保と岩倉を中心とした明治政府に
相当なプレッシャーを与えうる存在になっていたんじゃ無かろうか。
幕末の西郷は諸藩に名が知られた名士だったから、同郷人以外にも人望があったとは言えるんじゃないかね
>>813 のいうことに一理あると思うのは、国家建設が始まったとき台頭してきた大隈、伊藤、井上あたりは、
西郷的な「よく分からんが大きい! すごい!」的なものに惹かれるタイプではないよな
大久保や木戸的な、現実的な能力や識見、具体的なビジョンを持つ者に惹かれ、尊敬する連中だ
(そういう意味で、大久保が真に明治政府で人望を得たのは洋行後といえる気がする)
山県は、軍人の側面が強いためか西郷的人望に憧れがあったのかと思えるが
> 征韓論政変での下野時に民選議会建白運動に名を連ねていたら、
この時点での民選議院設立運動は、民権を考えていたというよりも
「薩長以外の俺たち士族にも権力よこせ運動」的な色が濃かったと思うから、
西郷がそこに名を連ねるのはまったく完全に有り得ないとはいえないかもね
このころは反政府勢力に含まれるさまざまな立場が混沌として未分化だから
ただ西郷は、一旦名を連ねたとしてもすぐに嫌になりそうな気がするw
なんかさあ、西郷個人に人望が皆無だったとは言わないけど、
薩摩士族の旗頭として畏れられたり、利用されたりということで、
西郷個人の度量や器量で官軍、新政府を束ねていたみたいな説明の仕方はどうかと思う
820 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/02(土) 04:05:18.91 ID:zJctahHJO
>817
>国家建設が始まったとき台頭してきた大隈、伊藤、井上あたりは、
>西郷的な「よく分からんが大きい! すごい!」的なものに惹かれるタイプではないよな
明治政府内部で意識の分裂が起こったのは、この辺に起因する要素も大きい気がする。
対旧幕府・奥羽諸藩との戦闘を行う中で、トップに座っている人間があっちこっちからの
意見や発言に対してブレたり妥協したりせずに、どっかりと構えて全体を統率することで、
新政府軍が一個の有機体としてその意思を統一し、最後の函館五稜郭まで持って行くことが出来た。
そうした一連の軍事行動の過程において、西郷が見せた軍事組織の掌握と統率の手腕ってのは
けっして生やさしい代物じゃなかったし、京都で事務的な仕事や諸制度の設計に携わっていた
文官的な側面の強い大久保・木戸をはじめとした伊藤・大隈・井上といった面々に対する、
「あの大変なときに血を流してもいない連中が何を言うか」みたいな反発ってのも、
相応にあったんじゃなかろうかって気がしてる。
たとえとしてはあまり上品な例じゃないけど、こんなパターンを考えてみては如何だろうか。
ヤクザ同士の抗争の後に一方が勝ち、勝った側の組がその組織を拡充して行くにあたって、
実際に戦闘の矢面に立ち、その器量でもって武闘派集団を纏めた大親分に対して尊崇の念を
持つのはごく自然なことだと思うし、抗争終結後に組織を整備して各地から上がってくる
上納金やらみかじめ料やらを運用して利益を出すことに長けた知能派・経済ヤクザ的な
集団に対して、現場レベルの構成員からの感情的な反発を受けてしまうこともよくあること
という構図。
組織としての円滑な運用や合理的な金の配分といった「論理的」な面に対して表だった反発は
しにくいけど、明瞭な形で言語化しにくい「荒くれ者をまとめ上げるだけの器量」という部分を
評価したい・評価してほしいという感情もまた、伏流として存在したのではないかとも思うんだ。
うーん、政治家には政治家の戦場があると思うがな。
大久保は精忠組の地位を上げる為にそれこそ命がけで働いてるし、
木戸や伊藤は幕府や攘夷派の刺客にしょっちゅう狙われてたし、
井上がその刺客に滅多切りにされて九死に一生を得た話は別に隠してなかったろうから、
「血を流してもない連中」とは大西郷も思わなかったんじゃね?
その「西郷の人望」についてちょっと知りたいなあ 素朴な疑問として
自分のイメージでは、少なくとも戦争が始まる前の西郷の人望ってのは、
おもに志士間の、政治的な人望だよね? もちろん殿様ズにも面識あるけどメインは志士たち
で、戊辰の段階でも、西郷が軍事的な指導をしていたのは途中までであって、
途中からは大村が引き継いだし、むしろ西郷は勝との交渉とか政治面で動いたよね。
兵士間では薩長間の反発みたいなのがあったっていうのもあるから、
薩摩以外の軍人の象徴的な人望は、明治元年の段階ではさほどなさそうに思うんだけど。
西郷を、心理的なものも含めていいけど支持した層って、具体的にどんな推移してる?
>818
>このころは反政府勢力に含まれるさまざまな立場が混沌として未分化だから
じっさい、国としてまだまだ未整備だったし混沌としてたよね。
なまじっか、それまでの徳川を中心とした幕藩体制がそれなりに盤石だったから、
それを崩してしまった反動がものすごくって、組織なり制度なりがまとまってなかった。
これはあくまで個人的な感慨なんだけど、山田風太郎の一連の明治モノの小説を読んだとき
「兵部省」だの「内務省」だのの官僚達が事務を執る姿を、ちょんまげを結って袴をはいたまま
大名屋敷の畳の上で文机に向かって巻物に筆で書き物をする様子、として描いているのを見て
ちょっと衝撃を受けたんだ。
よくよく考えてみれば、明治の初年頃だったら大名屋敷が明治政府によって接収された、
断髪令がだされたのはけっこう後のことで、それに従わなかった人間もけっこう多かった、
洋紙にペンでものを書くという習慣が根付いたのもけっこう後のこと、という諸々の
知識は持っていたんだけど、「○○省での執務」という語感と、上記の大名屋敷での
光景とが上手く繋がらなかった。
だから上記の事柄を飲み込んだときには、それまで持っていた「明治政府」って
組織へのイメージに関してはかなりの変更を余儀なくされたよ。
少なくとも、明治の初年〜10年ころまでの文化や習慣も含めて江戸を引きずった東京の姿と、
明治の20〜30年代以降の、近代都市化が進んだ東京の姿とはかなり違ったものとして
イメージして捉えておく必要があるってのを。
>ただ西郷は、一旦名を連ねたとしてもすぐに嫌になりそうな気がするw
ここも同意(笑)
基本的には薩摩人特有の「議を言うなっ!」って気性を多分に持ってただろうから、
あのぐだぐだな集団にいつまでも付き合っていたとは思えんからな〜
「あの大変なときに血を流してもいない連中が何を言うか」ってのは、維新の動乱を
くぐってきた薩摩・長州・土佐の志士出身の連中が、このころの民選議会建白運動に
集まった連中に対して言いたかった言葉でもあったろうからね。
特に後藤・板垣なんかは土佐勤皇党を弾圧していた側の立場だし、坂本や中岡と親交が
あった西郷にしてみれば、思うところはいろいろあったんじゃないかって気がする。
「あの大変なときに血を流してもいない連中が何を言うか」っていうのは
単に自分が関わった戦乱だけが血の流れた大変な戦だとでも言いたいのかって感じで
そこから器の大きさなんか伺い知れないけどな
どこの陣営の人間だって、方向性は違えど命がけで大変な政治活動を行ってきただろうに
>822
>大久保は精忠組の地位を上げる為にそれこそ命がけで働いてるし、
>木戸や伊藤は幕府や攘夷派の刺客にしょっちゅう狙われてたし、
維新に至るまでの政治的な暗闘劇やテロ・暗殺の横行ってのはもちろん大きいんだけど、
それにあんまり関わらなかった人々にとっては「物騒な話だなぁ」というくらいの
感覚で捉えられていて、あんまり切実さはなかったんじゃないかな、とも思うんよ。
あの当時にそうした先鋭的な問題に首を突っ込んでいたのは、武士階層の中でも
ごく少数の突出した思想の持ち主達だったし、武士や大名の大多数は日和見的な
態度を取っていて煮え切らない姿勢だった人々の方が圧倒的多数だったから。
そういう煮え切らない人々を戦乱の渦の中にたたき込み、「幕府に付くか朝廷に付くか
旗幟を鮮明にしろ、もしも逆らおうものならぶっ潰すぞ」という睨みをきかせたのが
西郷だったわけで、その強烈なメッセージに震え上がった人々にとって見れば、
その存在感ってのは絶大なものが有ったと思うよ。
大久保もそうした局面で大きな力を発揮したけど、薩摩にとって対外的な「顔」だったのは
やっぱり西郷の方だったからね。
第一次・第二次長州討伐時の幕府もそうした軍事行動を行ったのには違いないけど、
「出兵に従わなかったヤツは潰す」みたいな強権的な態度は取れなかったし、
そもそも抵抗した長州を潰そうっていう征長戦争自体で敗北を喫したわけで、
多くの藩にとっては「どっちに付くか決めろ、ただし俺の側に付かなければ潰すぞ」
という強圧的なプレッシャーってのは、基本的にはこのときに初めて味わった体験
だったんじゃなかったかな。
>「血を流してもない連中」とは大西郷も思わなかったんじゃね?
いや、>821での発言は、あくまで西郷の周囲に集まっていた薩長以外の出身者たちの
発言を要約していったつもりなんよ。
薩長の出身者にしてみれば、木戸・伊藤・井上らがくぐってきた修羅場の数や
切り抜けてきた危難の重さってのはよく分かっていたと思うけど、鳥羽伏見以後に
この戦争に参加した人間達にとっては、今ひとつ「実感を持っては」理解されなかったん
じゃないかなってね。
逆に、鳥羽伏見以後に東征〜上野戦争〜奥羽戦役〜五稜郭といった軍事行動に携わった
人々が感じていた苦労や、前線で死と向き合う日々を過ごす恐怖、気性が荒くなって
暴虐を働くようになる兵士達をまとめ上げる大変さってのが、京都にいて事務を取ったり
対外的な折衝を纏めたりしていた人々には、こちらも「実感を持っては」理解され
なかったんじゃないかなってね。
九州・中国・四国・近畿の平定はそれほど大変ではなかったし、東征ほどの大規模な
軍事衝突ってのも無かったようだから。
なーんか見てて思ったけれど、
・各藩のいわゆる士族
・薩長のいわゆる士族
・薩長の下級士族・兵士
ってのは、分けて考える必要がありそうだなあ…まとめると余計こんがらがる
もちろんもっと細分化することもできるわけだが
各藩の〜 ってとこは、西軍東軍の別も当然あるしね
>「兵部省」だの「内務省」だのの官僚達が事務を執る姿を、ちょんまげを結って袴をはいたまま
>大名屋敷の畳の上で文机に向かって巻物に筆で書き物をする様子、として描いているのを見て
>ちょっと衝撃を受けたんだ。
それ、自分も史料を読んでてときどき引っかかるものがあったんだけど、
『武士の家計簿』の映画版で、大きな座敷で加賀藩士がずらりと教室式に並んで、
文机に向かって算盤はじいてるのを見て、「これだ!」と思ったんだわ。
そうか、明治初年の政務の様子もこれだわ、と。
内閣の各省管理強化のための集合庁舎建設が大蔵省より建議されたのは確か明治三年だったか。
スムーズにできたとは思えないから、実際作られていったのは明治五年ごろからかな?
それまでは大名旗本屋敷とか江戸城とかで執務だよね。
>>826 あんたさっきから突っ込まれた部分を西郷に都合のいいように解釈してるだけじゃね?
あんだけ他藩の動向にピリピリしてた時代に「物騒な話だなあ」ってそんな感想ないでしょ
>823
>少なくとも戦争が始まる前の西郷の人望ってのは、おもに志士間の、政治的な人望だよね?
>で、戊辰の段階でも、西郷が軍事的な指導をしていたのは途中までであって、
>途中からは大村が引き継いだし、むしろ西郷は勝との交渉とか政治面で動いたよね。
個人的な見方かもしれないけど、戊辰戦争でのメインの戦闘は、鳥羽伏見から東征を経ての
上野戦争までだったんじゃないかなって思ってる。
その後の奥羽戦役に関しては、個々の戦場での戦闘の激烈さってのはあったにしても、
政略・戦略にまたがっての「のるかそるか」みたいなシビアな結果が求められる戦闘は
無かったように思うんだ。
既に静岡から福井あたりまでを結ぶ線から西の藩は完全に新政府に恭順の意を示していて、
越後から奥羽以北、ぎりぎり北関東あたりから上のラインの諸国が討伐対象の相手だし、
その東北諸藩ですら「朝廷」に対して逆らうという大義名分は掲げられず、せいぜい
「薩長が政府を壟断している」という形での非難しか投げかけられなかったから、
全体としての帰趨は既に決していたといっても良いんじゃないかな。
上野戦争が官軍方の完全勝利で終わるまでは、まだまだ関東近辺は不穏な空気に満ちていたし、
幕府海軍の動静も測りかねるものがあったから、あそこで官軍がこけていたら新政府から
離反しかねない連中がかなりいた。
大村が上野戦争の総指揮を執って彰義隊を壊滅させた功績は、実際の処かなり大きいと思う。
戦闘での勝利以上に、新政府の武力による威信を見せつけたことによる政治的な波及効果が
とんでもなく大きかったから。
軍事面に関しては、上野戦争まで持って行ったあたりで西郷の仕事は終わっていたとも
言えなくもないかな。その後の功績は大村の知識と頭脳に拠るところが大きかったのは
間違いないだろうね。
>兵士間では薩長間の反発みたいなのがあったっていうのもあるから、
薩長間での反発はあったにしても、それよりもむしろ「共通の目的に向かう戦友」的な
意識の方もけっこう強かったように思える。
西郷が大久保に宛てた書簡の中で、諸藩の寄せ集めの軍勢はあんまりやる気もないし
訓練もされてないから「戦力として頼りになるのは長州兵のみ」みたいなことを
書き送っていたはず。
実際、戦闘の過程で常にメインの位置にいたのは薩摩と長州、あと土佐の兵士達だったし、
他の藩の連中は「枯れ木も山のにぎわい」じゃないけど、戦闘の正面には立ってはいない
ような感じだったっぽい。この辺はかなり印象で語ってるんで、実際の戦史や戦闘の状況を
詳細に調べてるわけじゃないからあんまり自信はないけど。
>825
>単に自分が関わった戦乱だけが血の流れた大変な戦だとでも言いたいのかって感じで
>そこから器の大きさなんか伺い知れないけどな
うん。
もちろん、そういう短絡的な見方をしていた人間もいただろうってのを含んでの話しさ。
上記の「あの大変な時に〜」って言葉は、西郷の心情では無くって、西郷を取り巻いていた
連中の発言のつもり。
ざっくり大ざっぱな話しだけど、幕末期に大変な思いをして大政奉還−王政復古まで
持って行った政治的な活動をしていた「志士グループ」と、鳥羽伏見以後に軍勢を率いて
攻め上っていった「従軍グループ」とに色分けするとしてみよう。
この場合「志士グループ」に入るのが薩摩なら大久保・小松、長州なら木戸・伊藤・井上
といった面々で、後者の「従軍グループ」に入るのが薩摩なら黒田清隆・大山巌・桐野利秋、
長州なら大村益次郎・山縣有朋・山田顕義(生きていたなら高杉晋作も)といった面々。
もちろん、こういう具合にすっぱりと色分けできるもんでもないとは承知してるけど、
大ざっぱにこういう「元勲クラスの人々の中での肌合いの違い」といったものは窺えるし、
西郷はこのどちらのグループにも入りうる活動を行ったという意味で、けっこう希少な
存在だったろうと思う。
だから、志士グループの立場から「あの大変な時に〜」って台詞を吐く資格を持つ一方で、
従軍グループの立場からも「あの大変な時に〜」という台詞を吐きうる位置にいたから、
双方のグループの人々から一目置かれる存在になり得た、という見方はできるんじゃなかろうか。
>828
>あんだけ他藩の動向にピリピリしてた時代に「物騒な話だなあ」ってそんな感想ないでしょ
『幕末下級武士の絵日記―その暮らしと住まいの風景を読む』大岡敏昭
『幕末単身赴任 下級武士の食日記』青木直己
こういった本を読んでみると、けっこう呑気に暮らしていた武士達もそれなりにいた
みたいなんだけど。
野口武彦の『幕末気分』『幕末の毒舌家』『幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団』といった
一連の著作を読んでみても、やっぱりあまり緊張感のない武士達の姿が当時の史料から
浮かび上がってくる。
考えてもみてほしい。
当時の社会にはリアルタイムで情報を伝えるラジオもテレビも存在していないし、
瓦版や都市で出回りはじめた新聞なんてものは地方都市にはなかなか廻っては来ない。
様々な情報は人づて口づてで伝えられる伝言ゲームのような形態で知る場合が多くって、
四条河原に晒された生首だとか、寺田屋事件・池田屋事件の凄惨な現場の様子なんてのも
時日が経ってから当事者意識もなく聞かされただけでは「講談の世界の出来事」みたいに
捉えられていたって不思議じゃないでしょ。
9・11のテロやアフガン・イラク戦争はもとより、3・11の大震災ですら、
自分の生活に直接の影響が及ばない限りは最終的には人ごとでしょう。
自分の家族や親戚がその被害にあったり勤め先が倒産するとかの具体的な影響が無ければ
そうそう当事者意識なんて持ち得るものじゃないし、その限りでは「普段の日常をそのまま
続けていければそれでいいや」という人々が大勢いることはそう非難するべき話しじゃない。
幕末という未曾有の転換期に、それでもわりかし呑気に過ごしていた人々がいたってのは
それほど無理のある推定ではないような気がするんだ。
そういう人々が本当に「これは大変な事態だ」という気持ちを持って状況を認識したのは、
幕府に付くか朝廷に付くかを決めなきゃならない瀬戸際に立たされたときだったろうし、
その後の版籍奉還−廃藩置県で安定した生活から放り出された時、だったんだろうと思う。
832 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/03(日) 13:14:07.09 ID:A4O6blU10
西郷どんを主人公にしたエロマンガを書きたいんだが
西郷が南へ島流しされた時期を題材にして、島の娘としっぽり濡れるって
いうそういうマンガ?エロマンガにするなら、そのあたりの場面が一番適当
じゃないかなあ。
>>834 やおいかよ。薩摩の美少年と衆道にはげむわけね。
男の娘モノ?
さすがに大久保のメイド服姿やセーラー服姿を想像するのはちょっときついものがあるんだが。
いっそのこと西郷どんを美少女にしてしまえばよろし
そしたら大久保やら桐野やら斉彬やらと何しようが無問題
松陰が女性になってる漫画もあるくらいだし
西郷の女体化はちょっときついなぁ。
それだったら、いっそ全員女体化させて、百合風味のキャッキャッウフフにしてくれた方が…
元々衆道といっても薩摩のそれは若衆というか、
体育会系青年団を連想させるタイプなので、男の娘系は想像しにくい。
コーラか佐川急便の兄ちゃん集団を連想すれば判りよいだろうか。
体力勝負だし。
>839
>体育会系青年団を連想させるタイプ
そういう暑苦しいモノは見たくないから、女体化を希望しているんだが。
歴史上の人物をネタにして妄想するのなら、中途半端に現実に準拠するより思いっきりかっとんだ設定にした方がいっそすっきりするよ。
恋姫無双とか行殺新撰組みたいな事例だってあるんだから、もっと空想の羽を広げようぜ。
個人的には西郷×左内の純愛カップルに横恋慕するヤンデレ大久保が見たいかな。
841 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 18:41:17.97 ID:2yxCrIS60
842 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 19:51:08.06 ID:F9xnGDOf0
薩摩武士として月照一人で行かせたのは生き恥以外何者でもない
彼の心の中では自分は死人との思いが強かったと思う。
843 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/18(月) 01:43:48.35 ID:qO4AHFbm0
原発廃止しろってヒステリーおこすのが西郷厨
原発は今は必要だとするのが西郷厨じゃない人
大衆扇動やその場の流れで多数を得ても、その後まともな方向に運営すれば勝ち。
西郷は流れを知っていた。また、状況に応じて修正も行った。
アンチ西郷厨は分けの分からない陰謀論信じたり
原発だの持ち出しヒステリーおこしたり大変ですな
846 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/18(月) 20:34:07.16 ID:8mMBoCCX0
西郷信奉者=東電社員 だろ
久々に来てみたら西郷信者が東電社員になっててビックリ!!
いつの間にそんなことに…!!(゜ロ゜ノ)ノ
848 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/19(火) 00:42:17.10 ID:gRRjS8iW0
西郷信奉者=九電やらせメール社員 だよ
会津若松関係者はヘンなごまかしばかり
マジレスすると松本龍は西郷信奉者だよ
851 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/19(火) 18:15:45.45 ID:m7ud1GUY0
>>850 マジレスすると、松本龍は有名な加藤司書の信者だ。
書いた社は終わりで〜す。
自分が終わりました〜。
853 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/21(木) 19:59:30.62 ID:Ik8gfoYn0
大西郷をまったく信用せず評価してなかったのは、陰険怜悧な木戸と長州人くらいだよな。
木戸は生涯禁門の恨みを忘れなかった。
大西郷の圧倒的な名声、徳望、英雄としてのオーラに圧倒され猜疑嫉妬しその政治力を恐れた。
長州人の品川さえも、薩長同盟の席での木戸の言い分は一方的過ぎてどうかと思ったと回想してる。
大村も木戸には嫉妬心がある、伊藤も後年木戸さんには困ったと洩らしたほど。
大久保利通「大西郷を知るのは自分以外無い。伝記を書いてくれ。」
坂本龍馬「ワシが死んだら大西郷さえ線香上げてくれたら未練なく成仏します。」
中岡慎太郎「洛西第一の人物。寡黙で思慮深く勇断に冨その誠実武市に似る。」
勝海舟「今まで天下で恐ろしいまでの物を見た大西郷である。」
福沢「三傑と唱える人あれど、大西郷が圧倒的だった。大西郷が首班をした政府は民も不平を言わず自由開花を謳歌した。」
板垣「例え今後世がどうなろうと大西郷と運命を共にしたい。」
江藤「長人は怜悧陰険で共に仕事が出来ない。薩人は馬鹿だが共に仕事が出来る」
木戸「西郷はただの人望買い!足利尊氏じゃ!」
855 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/21(木) 22:15:57.28 ID:jd5jriWn0
つうか薩摩人の中にアンチ西郷が大量にいたw
木戸ってそんなこと言ったん? ソース教えてくり。
857 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/22(金) 09:39:53.32 ID:O1i/5anU0
鹿児島発の伝承や美談にソースがあったためしが無い
さつま揚げ食いながら焼酎飲んだら頭バグッてキャバクラで踊ってた。
んで抜刀隊歌ってた。
はいはい
860 :
kotaro:2011/07/24(日) 07:40:48.34 ID:3GUBgjuN0
何時も疑問に思っている事がある。
それは西南の役で、西郷隆盛が「新政府に問いただしたい事がある」
としていた。その問いたい事とは何だったのか。
また聞きたいだけなら新政府は阻止せずに、
東京に招き入れて言い分を聞いていたら、戦にまでならなかったのでは?
西郷が単身上京すれば戦にはならなかったかもね
しかし、西郷は征韓論の時も単身朝鮮に行くとか言っていたけど、
現実でこの人が単身で何かやったことなんて何一つ無いからね
西南の時も、西郷と少数の幹部のみ上京するという案があったけど、否定された
西郷本人に単身行く気があれば、それで通ってたと思うが
やはりこの人の本質って圧力団体の利益を代表する政治家であって、
革命家でもなんでもないよ
アンチ西郷は相変わらずアホでごわすw
遺韓論だし、単身朝鮮って軍を率いず使節団だけで行くって意味だろ?w
望まずに突発で起きた西南戦争と全然違うし、アンチ西郷厨では本質なんかわからんごわす。
明治天皇「大西郷を殺せなど言ってない!」
薩摩
斉彬「我が藩に一人だけ天下雄用な人物がおります大西郷です。」
大久保利通「大西郷を知るのは自分以外無い。伝記を書いてくれ。」
黒田清隆「仁者大西郷を失った。」
西郷弟「大西郷が死んだから今日で官をやめる。」
村田新八「大西郷を首相の座につけるのが役目だ。」
土佐
坂本龍馬「ワシが死んだら大西郷さえ線香上げてくれたら未練なく成仏します。」
中岡慎太郎「大西郷は洛西第一の人物。寡黙で思慮深く勇断に冨その誠実武市に似る。」
板垣退助「例え今後世がどうなろうと大西郷と運命を共にしたい。」
後藤像次郎「大西郷と議論するといつも我輩が勝つが帰ってみるとまったく勝った気がしない。」
幕府
将軍慶喜「我が幕府に大西郷に匹敵する人物がいるか?」
勝海舟「今まで天下で恐ろしいまでの物を見た大西郷である。」
福沢諭吉「三傑と唱える人あれど、大西郷が圧倒的だった。大西郷が首班をした政府は民も不平を言わず自由開花を謳歌した。」
佐賀
江藤新平「長人は怜悧陰険で共に仕事が出来ない。大西郷とは共に仕事が出来る」
長州
山縣有朋「大西郷は素晴らしい。」
木戸孝吉「西郷はただの人望買い!足利尊氏じゃ!」
大西郷「木戸は自分を殺そうとしてる。」
863 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/24(日) 17:29:29.54 ID:uYftBPNc0
前々から疑問だったんだけどほんとに江戸無血開城って西郷の功績なの?
864 :
kotaro:2011/07/24(日) 19:59:07.12 ID:3GUBgjuN0
>>861 名前:名無しさん@お腹いっぱい。さんへ
>西南の時も、西郷と少数の幹部のみ上京するという案があったけど、
>否定された 西郷本人に単身行く気があれば、それで通ってたと思うが
新政府のお役人が薩摩に潜入していた位だから、
単身で行けば、途中で暗殺されると周囲が思ったのかもしれない。
それでも熊本城に向かう時点で新政府と宣戦布告する積もりならば、
問いただしたい事があるとは書かないと思う。
こう言う理由で、新政府と戦するとなっていたと思う。
中学の社会の授業で、その問いただしたい事が
何なのか結局聞かなかった。
いわゆる「東京獅子」の件だろ
西郷が単身で東京に赴く以外にも挙兵よりは穏便な案は出たけど、
結局西郷はそれらを取り上げなかったし、挙兵は西郷自身の意志が濃厚に反映されてたと思う
>>856 明らかに叩くために(誤)引用してハッスルしている人がいるので突っ込むのも躊躇われるが
足利尊氏発言はますじ
867 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/24(日) 21:10:41.89 ID:xAAo2stz0
もう挙兵決まってるのにあの時点で適当な案だされてもさ
西郷だから明治10年まで薩摩を抑えられた
西郷でさえ意図せず暴発し抑えられなくなった
政府の挑発が原因だろう
その前に薩摩が立ってればまず明治政府自体倒れてる
明治維新をやったのは西郷であって、大久保はそれを基礎強化して守った
明治維新とは西郷・大久保の英雄傑物2傑の物語である
>>862 木戸の発言が一番正しいじゃないか
大村でもどちらでも良いが、むしろ評価できる発言
869 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/24(日) 22:35:50.40 ID:xAAo2stz0
正しいって?
木戸自体が後に西郷は尊氏のような野心あるものではないと逝ってるけどなw
870 :
kotaro:2011/07/25(月) 00:32:14.53 ID:debAOS930
>>865 名前:名無しさん@お腹いっぱい。さんへ
>挙兵は西郷自身の意志が濃厚に反映されてたと思う
中学の教科書では「問いただしたき事がある」
と西郷軍は言っていただけで、戦の意思ありとは習わなかった。
だって、明治新政府を倒して、どうしたかったのだろう。
確かにフランス革命では、革命が終わった後、
革命派どうして争いが起きた。
銀行強盗の山分け争いだった?
871 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/25(月) 01:34:24.40 ID:R9cwsU3e0
>>821 西郷は江戸に進軍してから手詰まりでにっちもさっちもいかなくなってしまった
それを打開し五稜郭開城までもっていったのは大村益次郎
その間、西郷は無能であった
招魂社からはじまる靖国神社に大村益次郎像が立っているのはそういうわけ
手詰まりというより
徳川の人間に任せており
山岡が説得にあたって速度が遅いが進展もあった
そうしている間にも単独で歩いていた西軍兵が殺されたりしたので
西郷のやり方が気にくわない勢力が背後で権力を奪い強硬策を推し進めた
彰義隊攻撃が列藩同盟の引き金になっているし
大村が正しいとも言い切れないんだがな
江戸の治安と引き替えに奥越蝦の討伐軍派兵となったんだから
873 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/26(火) 00:54:26.14 ID:/pAYdCaJ0
薩摩へあてた手紙では道之島の人々のことを
「毛唐人」「エビス共」「ハブ性の人」などと書き散らしている。
そして島妻アイカナとの間にもうけた菊次郎・菊子を
薩摩で教育する際、奄美出身者ということを他言するなと厳しく禁じた。
↑
西郷がどういう人格だったかを端的に表している
874 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/26(火) 06:45:23.05 ID:CA99BcnAO
他国人の免疫がない上に、
諸藩のなかでも厳しい身分制度の薩摩だと
植民地の土人の子は激しいイジメに遭うのは必至
その辺も考慮しないとな
それに本当に冷酷な人なら島に子供を捨て置くだろ
シーボルトが娘をどうともしなかったように
873の挙げている呼称は確かによろしくないな
>>875 西郷さんの敬天愛人てそんな程度のものなんだ
そこらは、もう良いんだよ。国家には文明史なルーツ血統が在る。歴史は消しゴムで消せん。
>>862 ×木戸孝吉→○木戸孝允
漢字を間違えてるよ。
一から日本史の勉強をやりなおしたら?
>>875 さすがにシーボルトは娘をどうにかとかする余裕なかったんじゃないか?
発覚後に当局の目を盗んで……なんてまず無理だろうし、
結局執念で日本に戻ってきて再会してるし
西郷と森元総理ってキャラかぶるわ
>>875 黒糖専売制の継続を主張して(薩摩士族の軍備や権益の維持の為な)、
廃止嘆願に来た奄美の住民は城山の監獄にぶち込み、あまつさえ
監獄にぶち込んだ奄美人を西南戦争に無理矢理従軍させて死なせた、
いいや殺したド外道。それが西郷さん。
883 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/27(水) 23:17:51.27 ID:KtP/2hr30
西郷さんを敬愛した庄内藩士が西郷さん聞いた言葉。
敬天愛人
「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。」
西郷さんの思想の一つである敬天愛人を都合よく矮小化し、文句つけるアンチのキムチさには参るね。
西郷さんの根本基礎思想は武士思想で、単なる敬天愛人の愚人にあらず。
西郷さんは雨漏りで苦情言った妻に、日本中が雨漏りなのに文句言うなと言い。
坂本竜馬も感心した。
死ぬ前も軍資金を少し家族に残したらと下僕が言ったら、それは公金でないかと激した人物。
>>882 専売制継続を主張した張本人が知らなかった、ね。
都合のいい話だな。
それと、島妻には手紙の一通も出すことはなかった。
板垣伯が、ある時こういう話をされた。
西郷という男は、面白い男だ。会津戦争が済んで、賞典禄を賜るという朝廷の思し召しがあって、私等二人はまいった。
ところが宮内省の役人が出て来ていうのには、「今日は重々しい儀式であるから、二人ともに烏帽子・直垂を、お召しにならなければならぬ」とのことであった。
その時西郷が、「板垣さん、わたくしは烏帽子・直垂などというものは、着たことがありません。そんなことをいわれては困る。
わたくしは理屈が下手だから、あなた一つ弁じて見て下さい」といった。
その時板垣伯は、まだ三十二三でしょう、血気盛んの頃で、「宜しい」というので、大いに理屈を述べ立てた。ところが、「それでは」ということにはならない。
一層盛んに述べ立てると、とうとう、「それでは違勅になります」といわれた。違勅とあっては、一も二もない。
板垣の鋒先も、その一言に鈍った。
そうしたら西郷が、「板垣さんもう帰りましょう」といって立つ。宮内省の役人もそれには困って、「まあまあ少しお待ち下さい」といって引っ込んで、「御詮議の結果、本日は特別のお許しによって、略式で差し支えありません」ということで、無事に済んだ。
ある時何かの外交問題が起こって、寺島外務卿(宗則)では事が運ばない。
イギリスの公使ハークスに、しばし遣っつけられる。そこで西郷さんにあって、「どうもハークスは、問題が起こる度に、それはフランスの公使と相談をした上で、お答え申しましょう、と逃げを張る。
どうかしてこれを破らなければならない、何か工夫はないものだろうか」と相談した。
「宜しゅうございます。それならわたくしが行って、談判して見ましょう」と引き受けて、出かけて行った。
そして通弁のサトーに、「サトーさん、こういうことを一つハークス公使に、問うて見て下さい。わたくしは軍人で、外国の事情などは、一向に知りませんが、イギリスはフランスの属国でありますか、その点を聞いて見て下さい」といった。
仕方がないので、それをハークスに伝えたところ、ハークスは真赤になって、机を叩いて怒った。
「陸軍大将ともあるあなたが、それくらいのことを御存知ない筈がない。わが国を軽蔑するもはなはだしい」という。
そうしたら西郷が笑って、そう怒らんでも宜しい。寺島から聞きますと、あなたはいつも、フランスの公使に相談してお答えする、といわれるそうですが、して見ると、イギリスはあるいはフランスの属国ででもあるのかと思った次第です」という。
これを聞いてハークスは言葉に詰まって、以後はフランスに相談を口にしなくなった。
>>884 実務に疎い西郷さんは騙されてたんだよ。
>>884 性処理の一部だから、愛かなも期待しとらんだろ。w
888 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/30(土) 12:52:02.66 ID:vU0yJ0el0
889 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 17:55:24.99 ID:zfgs16w70
>>873 手紙を書いた頃は西郷も若いし、考えも典型的な薩摩武士だったからね。
若い頃から開眼していたわけじゃあるまいし・・・そういう手紙ばかりを取り上げても仕方あるまい。
まして失意のうちに奄美に飛ばされちまってる上に、文化も風習も違う土地で孤独な生活。
ストレスも溜まるし不満にあふれる生活で荒れまくってただろうからな。
愛加那と結婚した頃からは、奄美島民に対しての気持ちもだいぶ変わってきている。
手紙も奄美島民に同情的な内容になってきてるしな・・・まぁ、女の影響ってのは大してもんだ。
890 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 19:13:29.58 ID:GXD58gl90
>>889 残念ながら西郷さんは死ぬまで開眼しなかったようだw
奄美の黒糖地獄をだれよりも目のあたりにしてきたのが西郷だが、
彼は、禄支給廃止にあった士族の生活権にしか思いはなかったらしく、
桂久武に命じて不法な独占「大島商社」を維新後に設立させたのである。
これによって薩摩は再び収奪をほしいままにすることができ、
奄美は旧藩以上の窮状にあえぐことになった。
そこで明治十年、奄美から「大島商社解散」を要求する
五十五人の嘆願団が上鹿したが、いきなり全員投獄。
老人などを除いた三十五人は田原坂から敗戦中の
西郷軍に強制出陣させられた。
うち戦死した者六人、残りは官軍に投降。
許されて島へ帰還する途中、二人を除いて全員遭難し、
結局生存者はわずかに二十四人であった。
(前田長英著『黒糖騒動記』参照)
列島に文明史的に歴史刻んだDNAと想うなら奄美ネタはもう良いよ。歴史に皮肉は付きものだ仕方無い。震災、原発は余計だが、シャレに成らん時代に入ってる。
892 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 19:54:27.81 ID:zfgs16w70
>>890 大島商社の設立に西郷が強く関わってたのは事実だが、いきなり薩摩の財政の半分を頼ってた黒糖自由販売化ってのはね・・・
現実的な問題として、ただちに鹿児島の財政破綻に直結だよ。
しかも本来なら5ヵ年限定の専売化だったが、これを延長無効化させたのは大山県令だしなぁ。
沖永良部の土持正照からの来鹿嘆願を受け、西郷は松方正義に大島商社による奄美の負担を軽減するよう陳情したりもしてる。
大島商社による奄美群島民の債務免除も、これを陳情したのは西郷だぜ。
まぁ最初の見通しが甘く、2年後に実情を知ってあわてて負担軽減を言い出すあたり、失策のそしりは受けるべきだろうがなぁ。
それに奄美からの嘆願団を投獄&強制徴用に西郷が関わってたかも疑わしい。
だいたい陳情の第一陣が鹿児島に来た明治10年1月ってのは、士族暴発直前で西郷は根占の山に篭ってる最中。
簡単に連絡が付けられるわけがない。
しかも彼らが陳情に行った先は西郷の元ではなく鹿児島県庁。
その後は薩摩士族の火薬庫襲撃やら、西郷暗殺騒動やらで周囲を決起士族に固められ、西郷自身も自由に動ける状態じゃない。
西郷に直接陳情なんて無理な情勢だよ・・・陳情団が来ていた事を知らされていたかすら怪しいわな。
893 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/31(日) 23:57:52.32 ID:glywGMbj0
龍馬死後のお龍さんは西郷隆盛さんと会い今までの有様を落ちもなく話し実情を物語りました。
西郷さんは同情を表して金子二十円をお龍さんに渡し、
こう言いました。
私もこのたびの遺韓論の事で大久保利通と意見が合わず、
よってひとまず薩摩に帰って百姓をするから、
再び上京した時には、きっと腕にかけても「お世話」は
しますから、それまで待ちなさい。これは当分の小遣いです。
しかし、お前さんも、いかい苦労をしましたのおと、
涙を流して帰られました。
しかしこれが最後の西郷隆盛さんとの出会いでした。
薩摩に帰った西郷さんは城山で討ち死にしたと
聞き、お龍さんは泣き崩れたそうです。
我が夫坂本龍馬の朋友や同僚も沢山いましたが
腹の底から龍馬を思い、親切であったのは
西郷隆盛さんと勝海舟さんと寺田屋のお登勢さんの三人でした。
>>892 >>893 その手の美談って信用に値するソースがあるのかね?
現代では、西郷がらみの美談は99%でっちあげであったと考えられている。
鹿児島県以外ではw
895 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 23:26:37.79 ID:is0Dh09O0
西郷は,食事について,塩加減の良し悪しなど一切触れず,
料理してくれた人を責めることはなかった。
ある日,仕事の都合で,夜明け前に朝食を済ませ,出かけなければならなかった。
後で起きた弟が朝食を食べると,みそ汁が「だし汁」だけで,
中に味噌(みそ)も塩気(しおけ)もない。
まかないのおばあさんを責めると,
「あれ,これはすみません。今朝はだんなさんが早くお出かけで,
暗くて,ついお味噌を入れるのを忘れてしまいました。」
「兄さんはどうしてた。」
「はい,だんな様は,これはうまいとおっしゃって,二杯も召し上がりました。」
明治六年(1873)に、大久保さん(利通)が欧州から帰朝した時に、西郷さんは高島鞆之助子爵を連れて、土産話を聞きに行った。
ところが出るのは世間話で、外国の外の字も出ない。二人は横になって、肱枕で話していたが、その内に大久保さんが、「君も時々は内閣へ出て、下知でもしてくればいいのよ」と切り出した。
話は軽く切り出されたのだったが、これを聞くなり西郷さんはむっくと起き直って端座して、大きな目玉を皿のように見張った。
その権幕の恐ろしさに、どんな事件が持ち上がるかと思ったが、そのまま何もいわずに立ち上って、「高島、もう帰るぞ」というなり、大久保さんには口も聞かずに去った。
仕方がないので、高島子爵も、あたふたと跡を追うと、西郷は玄関で履物を履きながら、「あのカステラを持って来ぬか」といった。高島もこれには困ったが、よんどころなしに、座敷へ戻ったら、大久保は依然として、横になったままだった。
あわただしくカステラをさらって来て、西郷に見せたら、西郷は顔を崩して笑った。子爵は予(山口正一郎)にこの話をして、「こんなところは、まるで子供だったね」といわれた。
>>889 愛加那には文の一通すら寄越さなかったがね。
くだらない擁護はもういいよ。
897 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 05:28:06.27 ID:bI/Kh+y90
悲惨だな、鹿児島人は。
ほかに何にも無いからって、美談捏造してまで西郷推しかよ。
痛々しいわ。
898 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 13:06:18.77 ID:xxboohjC0
>>896 だって愛加那は文盲だったからなぁ・・・
たいていの手紙は代わりに菊次郎が送ってる。
西郷家からの手紙もイトさん名義(おそらく川口雪蓬代筆か?)で残ってる。
一部は奄美龍郷の西郷住居に展示してあるがなぁ。
そもそも送ったところで他人の代読になるし、本妻のイトさんの手前、自分では直接送らなかったんだろ。
西郷って愛カナどころか、本妻の糸夫人にだってほとんど手紙を書いてないだろ。
この二人だけじゃなく、西郷が女性宛てに書いた手紙ってまだ聞いた事が無いな。
女性には手紙を出さない主義だったのか?
900 :
898=899:2011/08/02(火) 23:04:28.32 ID:xxboohjC0
色々と探してみたが、やはり西郷の糸夫人宛ての手紙ってのは見つけられんわ。
家庭に関することは弟や菊次郎、それと川口雪蓬を経由してるものばかりだな・・・
糸夫人の実家の岩山家あたりにはあるかも知れんが、私信はおそらく公開しないだろうし。
そもそも愛加那に関する事って、ほとんど龍家に保管されてる物か、龍家子孫の口伝くらいしか無いなぁ。
>>894 >現代では、西郷がらみの美談は99%でっちあげであったと考えられている。
この手の中傷って信用に値するソースがあるのかね?
幕末の西郷さんはきわめて開明的なリーダーだった。
>>902 そこまでは斉彬の薫陶が生きていたんだなと思う
その先のビジョンは斉彬の薫陶からだけでは持てなかったんだなとも
904 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 20:55:16.74 ID:1Gs1LYdV0
斉彬はともかく、幕末の西郷に開明的な功績ってあるか?
下級武士層のリーダー役以外の功績って、厚姫の嫁入り道具担当ぐらいしか思い浮かばないが
開明的じゃなかったら佐幕派につくだろ
906 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 21:36:11.05 ID:1Gs1LYdV0
開明と反幕府を混同するってなんなんだ・・・
斉彬は開明的だったが一種の佐幕だったわな
開明的だとなんとなくイメージ良いので、西郷が開明的だったとか言いたいだけなんだろ
>>904 一応西郷の功績といえば、斉彬の手足役・連絡役として、のちの雄藩諸侯のネットワークの力となってはいたな・・・
しかしこれも天才と呼んでいい斉彬あってのことだし。
つうか幕末の西郷自身、斉彬の家臣であり手足の役目に徹していたけどね。
それは斉彬死後どころか、久光の下についてからも続いていたと思うよ。
結局のところ、西郷も久光も・・・久光に取り立てられた大久保も含めて、斉彬の延長線上にいるんだよね。
その延長線上から外れた時、三者三様に違う道を進んでいったってわけだわな。
それはともかくとして・・・西郷が大人物である事は認めるし、西郷信者が盲目的に賞賛するのも眼をつぶる。
しかし西郷信仰の反動として、久光を貶める風潮はやめたほうがいいと思う。
真の意味で斉彬の遺産を引き継ぎ、その薫陶を形ある物にしたのは西郷よりも久光じゃないかな。
幕末の混乱する薩摩をまとめ、薩摩藩に重要な役目を果たさせたのは、間違いなく久光のリーダーの力量あっての事。
西郷恋しさのあまり久光を過小評価してるのは不満だわ。
斉彬
「家来多数あれども、誰も間に合うもの無し。西郷一人は薩国の大宝なり。然しながら、彼は独立の気象あるが故に、彼を使うもの私ならではあるまじく候」
久光上洛について
西郷
「久光様は斉彬様の遺された策を実行されるとの事ですが、当時と今日とでは状況が異なっておりもす。当時の策が今日においてもそのまま通用するか疑わしく思いもす。
斉彬様であればこのような状況に適応できる策を巡らせることも出来ましょうが、それでも朝廷や幕府へ手蔓を作り、諸藩とも連携し、用意周到に準備をした上で動かれたことでしょう。
然るに御前は無位無官、諸大名との交際も無い、恐れながら申し上げればジゴロ(田舎者)でごわす。準備も整っておらず、とても公武周旋など出来るものではごわはん」
容堂が暴れ小御所会議の紛糾に対し
西郷「そいは、短刀一本で用は足りもす」
廃藩置県で議論が分かれて一言
「貴殿らの間で廃藩実施についての事務的な手順がついているのなら、その後のことは、おいが引き受けもす。もし、暴動など起これば、おいが全て鎮圧しもす。貴殿らはご懸念なくやって下され」
どう見ても独立した大政治家
西郷南州翁は、小利口な開明家如きでなく。
西洋文明が何かまで見抜いた人物だから。
まあ、久光と西郷といえば、みんな銀のキセルの話しか知らないでしょ。
西郷は士族特権の擁護者。封建主義の権化。日本全土に士族独裁の軍国主義支配を
敷こうとして反乱に敗れた。
まあ鹿児島は、江戸時代の日本で唯一、
支配層である武士と知行地が直接的に結びついている本来の封建制に近い状態だったから
駐日公使らが拍子抜けする程度には抵抗少なく集権化が進んだ維新期に
あそこだけちっとも変われなかったのも無理ないかもしれない
西郷や大久保、精忠組らの連中はともかく、その下で活動していた下級藩士なんかは
どの程度維新というものの革新性を理解してたのかようわからん部分がある。
なかには単なる天下取りぐらいにしか思ってなかったのもいるかもな。
そのくせ川路利良みたいな郷士出身なのに近代的中央集権主義思想の権化みたいなのもいるし、
近代化に鮮やかに対応して見せた連中も多いというね。
薩摩の風土性はようわからん。
薩摩の風土性といっても本質的には他地域と変わらんよ
革新的なやつもいれば、固陋なやつもいる
長州も同じ
薩摩、長州は殿様不在みたいな状態だったから、革新勢力が藩を主導できたけど、
中途半端に力のある殿様がいたら、加賀や仙台のようにどっちつかずになっていたかもしれないし
加賀や仙台にも大久保や木戸のような人はいたはず
なるほど、殿様の存在か。維新後期は青年革命みたいな印象が強いせいか存在を忘れがちになるな。
薩摩が反乱起こしたのは単なる貪官汚吏政府に対する反乱だがね
大体江藤や陸奥宗光、民権派の板垣、林有造、宮崎八郎らも大西郷派
そもそも野に去った留守政権が首班勤め明治維新はなされてる
反乱続発するのは大西郷が野に去って庶民も反政府
918 :
てってandセシル:2011/08/14(日) 02:48:15.05 ID:bPlBJiwX0
偉大なる天才は西郷や岡田以蔵なんかより中村半次郎こそラストサムライであると
説いている。すべての歴史学者の誰より優れた考えだ。
蜻蛉のかまえというもっとも大和魂のこもったサムライの構えだ。詩人様も
この構えで正義を貫き戦うとのこと。傍観者には愚かにしか見えない戦い
だが、詩人様は生き抜いて屑共を叩き斬るであろう。映画ラストサムライで
描かれたのは半次郎であり詩人様自身なのだ。今こそ詩人様を中心とした
いわゆる幕府統治のような国を作らんと日本が駄目になる。世界はそう見ているし
日本でも長いものに巻かれぬ偉大な歴史学者はその偉大さをわかってきている。
詩人・井上政樹 人呼んで「星くず小僧」 BIG SOMEBODY!
偉大なる詩人様に栄光を!敬礼!
http://ameblo.jp/ghost0120/entry-10985242775.html
919 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/24(水) 13:29:41.79 ID:xi1lSx4N0
ネットの普及で誰でも真実知ることできるんで、
鹿児島県も西郷まんせー洗脳教育やりづらくなるね
子供らにとってはいいことさ
西郷さんは清廉高潔無私至誠の人。武士の中の武士。
西郷さんが現代に再来したら日本は救われる。
今の複雑怪奇な世の中見たら即刻隠遁しそうな気もするが
922 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 01:47:22.89 ID:A3p8+G9n0
信者も馬鹿だよな。遣韓(笑)とか言い出さなきゃ、西郷再ブレイクもあったかもしれないのに。
遣韓は遣韓だからな
ありもしないことを捏造すると朝鮮中国アメリカみたいになるし
924 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 01:30:01.94 ID:n5JXWkb10
まぁ板垣が言ったように鮮人なんざ武力で完膚なきまでに叩き潰せば良かったのさ
ここ学問板だよ?
ねえ?
926 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 13:35:54.26 ID:rjsQuzQ/O
征韓説の人が論戦で負けてから、変な論証なしの単発叩きが続く
927 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 03:23:53.67 ID:eEdr75wM0
西郷はやくざの親分と同じ発想の人物
こんな戦争屋は尊敬もされない
政治はやくざみたいな面もあるけどなw
戦争という抑止あって安定した政治もできる
戦争屋ですらないけどな
能力的には田舎の青年団のレベルの人
930 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/11(日) 01:12:18.45 ID:404UQUQp0
仕事で鹿児島行って、天文館で鹿児島ラーメン食べた
大久保や西郷弟が鹿児島捨てた気持ちが分かったような気がした
自分が鹿児島に行った時に食べた鹿児島黒豚チャーシューメンは美味しかったな。
ハズレの店だったんだろうね、御愁傷様。
ラーメン屋で大根の漬け物がツボででてくるのがうれしい( ´ ▽ ` )ノ
あれは食べ放題なんだよ⊂((・x・))⊃
出ない店も有るけど。
>>795 維新のメンバーが日本的なものを軽んじて西洋の学問を重んじ、西洋風にヒゲを生やしたり馬車で移動して洋酒をありがたがるのをみて疑問を感じたから鹿児島に帰った。
なんか違うって思ったんだろうな。
>>933 そんな理由で帰郷したり、反乱起こしたりしたのかよ
えらい陳腐な人物なんだな
留守政府と外遊組の感情の行き違いも大きな対立原因だろう。
留守政府は廃藩置県後に留守を預かり改革を推し進めた自負心がある。
さらに不満で反政府世論が渦巻いてるのを、皮膚感覚で知ってた。
一方外遊組は抱負持って帰ってきたら、どんどん改革が進んでて無視された。
しかも武力行使になるかも知れない、大使派遣まで決まってる。
頭に来たし常識論でも反対したが、政権担当してみたら似た様な事をやらざるえなかった。
936 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 04:19:17.03 ID:9NyWDEJf0
937 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 20:17:51.09 ID:k0gmyvb30
統一教会じゃねえか。
カルト信者かえ。
938 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 04:09:11.35 ID:VkCwnSci0
ヾ( ゚д゚)ノ゛ 釣られ隊
939 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 03:52:25.43 ID:MHGp5X7mO
>>933 欧米文明にどっぷりと浸かってお腹いっぱいになってこそ初めて陥れる、
典型的な中二病の意見だな。
特アでも、物心ついた時には既に社会がある程度豊かで安定していた若い世代ほど
近代化前の自国の暗黒史を美化して反日に走ったりするけど、それと似たようなもんだ。
940 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 08:46:11.26 ID:90qTGMkS0
人は印象に左右され易い。
天地自然の法は、
維新回転の為に大西郷の外見を
衆望を引き付ける様に創りたもうた。
大西郷にそっくりな従道にも左右されたっけ?
西郷さんは清廉高潔無私至誠の人、武士の中の武士。
>>939 、、、
933は「西郷は西洋的近代に疑問を持った」と言ってるのであって、933自身がそう思ってるわけではないと思うが
西郷さんはアジア解放の先駆者
945 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/15(火) 03:47:13.08 ID:iR4iVfeh0
946 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/16(水) 21:47:17.50 ID:Jnzux3c90
西郷は海外に出たことがなかったから、視野が狭かったんだな
富国強兵という本質を理解できなかった
947 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/17(木) 11:34:58.28 ID:E0gejx8d0
無記無記名 New! 2011/11/17(木) 11:30:13.93 ID:D3DYo8CC (2)
ざまあみろ〜w
ざまあみろ〜w
ざまあみろ〜w
お前がコツコツ働いてためてきた将来のための貯蓄はみんな紙切れ確定w
一生懸命就職して頭下げて築き上げてきた会社内の地位も会社ごと崩壊w
年金も破綻w
消費税は増税ww
韓国には5兆円www
独島韓国の実効支配ww
将来の日本は中国人や朝鮮人だらけw
日本人は劣等小民族となりはて、こじき同然に落ちぶれるんだわw
お前らの子供の未来も真っ暗〜!!
一生懸命育てたのに残念だったねw
お前らの老後も真っ暗〜!!!
その上外国人参政権に、人権保護法案w
二重国籍も来るよw
どうすんだお前らw
948 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/20(日) 12:30:32.32 ID:iMY2WX3V0
無能の代名詞、西郷さん
949 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/27(日) 17:09:36.00 ID:r53Q29ohO
西郷隆盛じゃなくて西郷隆永が本名だったなんて
おまえらなんで教えてくれなかったんだ!?
950 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 11:39:43.43 ID:DjVPk6Cf0
記念すべき950 get
951 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 15:07:13.36 ID:iqVt/d4Q0
西郷さんと月照さんは掘り合う仲だったというのは本当なの?
952 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/05(日) 17:00:26.77 ID:+RSOWhvk0
いい加減、バラエティー番組のキヨソネの肖像画が似てないキャンペーンは止めてほしい。
長男菊次郎氏が似てると証言してるのを知らんのか。
まあ、イトさんに言わせると佐藤均の肖像画が一番似ているらしいが。
家近氏の「西郷隆盛と幕末維新の政局」は良書だ。
体調不良問題から読み解いてるってだけでなく、
人間・西郷が生々しく存在してる感じがした。
954 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/11(日) 07:49:32.61 ID:wtO+yXhJ0
西郷隆盛の孫、侯爵・西郷吉之助が「両性愛の人物」とウィキペディアにありますが、
その根拠となる記録ないし証言にはどんなものがあるんですか?
活字になってる作品があったら、その書名も教えて下さい。
よろしく。
955 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/11(日) 10:10:19.89 ID:xc8E6CAB0
鹿児島県人(薩摩人)は全員ホモと著書に書いて広めている星亮一という人もいるからねぇ
957 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/11(日) 12:16:37.99 ID:PFt5UibG0
鹿児島人がキモいのは、鹿児島人(係累含む)とそれ以外を別人種のように分けて考えるところだろうな。
他府県に住んでても、結婚は鹿児島人どおしが非常に多いし。
在日挑戦人のメンタリティとそっくりだ。
958 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/11(日) 14:27:17.16 ID:xc8E6CAB0
>>957 いや、それはむしろ東北人の気質でしょw
東北の閉鎖的感覚は今でも有名だしさ。
959 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/11(日) 19:35:59.44 ID:c7ltMY5g0
>>954 ウィキペディアで出典を書いてない場合は疑わしい。
960 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/12(月) 11:30:04.45 ID:W8WVcHrU0
>>957 そら地理的には今でも八代以南は陸の孤島のイメージあるし独自の文化があってもおかしくない
>>957 カゴンマの女にでも振られたか?
で、そのオナゴは鹿児島県人同士でその後結婚したとか
何だかんだ理屈こねても私怨が多い社会
鹿児島人は熊襲
963 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/12(月) 20:24:41.11 ID:McPSdPRd0
元々近畿以外は異民族だろ
東北人は蝦夷
965 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/13(火) 21:02:03.53 ID:5BqVdsMk0
島津氏はじめ薩隅の支配者層は関東武士団だよ。
被支配者層はもともと隼人と呼ばれていた人々。
隼人は古代、大和民族や南西諸島民族とも習俗を異にし、
九州南端に独自の政権を持っていた。
では隼人とはいったいどこから来たのか?
最新の研究では、朝鮮半島からの難民であったという説が支持されている。
九州南端部は桜島の火山灰が堆積し農耕地としての魅力に乏しかった。
大和の中央政権も管掌していなかったこの地に、
朝鮮半島から何らかの理由で一団の部族が移動、
土着したのが隼人の始まりであったと推定されている。
なお現在鹿児島県はこの学説を完全に黙殺しており、
隼人のルーツを科学的に求めること自体がタブーとなっている。
>>965 知ってた。
霧島市をまわれば色んなところに半島の痕跡が見られる。
967 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/13(火) 23:00:23.71 ID:kMoSgNZZO
ウンコ
968 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/13(火) 23:05:21.19 ID:kMoSgNZZO
西郷はホモの中のホモ!『大ホモ』
969 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/16(金) 09:40:17.24 ID:r5hKdINJ0
示現流とかいう剣法も半島由来だろ
試合で相手が準備する前に打ちかかって、はい一本とかw
大和武士のメンタリティーじゃないw
970 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/17(土) 01:04:36.39 ID:Pmx0NDCB0
たしかに薩摩は日本の中の外国みたいなところはあったけど…
てか、おめぇら単に薩摩が嫌いなだけだろ?
おめぇらというか一人だろ
現代日本人換算だと西郷は身長190、坂本龍馬は185の突出した存在
こいつらは一見白人の肉体に遜色なかったかのようにも思える
しかし所詮モンゴロイド。首も肩も細く、バルクは小さい。
日本人の中では突出したこいつらでさえ平均的なコーカソイドよりも女性的、少年的な体型だったといえよう。
同じ物を食っても貧相な筋肉しかつかずテストステロン分泌も少ない。
弱く小さい運命、それが黄色モンゴロイド、それが幕末志士であり貴様らだ。
黄色モンゴロイドが白人様に逆らうことなど考えるなってことだ。
肉体だけならもちろんニグロにも全く敵わない。
西郷は平均的な奴隷黒人と殴り合ったら先に失神したことだろう。
肉体の耐久性も筋力も違うからだ。
日本人は特有の命を簡単に捨てる性質、
遺伝子を残すべき生物としては劣等的ともいえる性質のおかげで
奇跡的に白人に多少逆らうことができたが、平時の個々の能力であれば
突出した西郷ですら白人や黒人の厚く太く頑丈な肉体には敵わない。
逞しく成熟した成人男子と思春期の少年との闘いのようなものだ。
973 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/26(月) 14:48:39.50 ID:+w5K+04P0
西郷のエピソードで
自分の財布取ったやつ見逃して西郷がそのお金
その泥ぼうにあげたって聞いたけどマジ
それおまえ、「池田大作先生がおいでになったら、雨もやんで虹が出た」レベルの話しだよ
筋力で行ったら白人は黒人よりしょぼいだろ
白人は身体能力は高くないだ敏捷性が無いから剣や銃で戦うのは不向き
素手で戦う土人じゃあるまいし
976 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/28(水) 01:23:12.02 ID:vUwMjJSV0
ネアンデルタール人は凄まじく身体能力高かったらしいがな。
素手で虎や熊と格闘できる腕力をもち、カール・ルイスより早く走れた。
残念ながら今の人類の祖先は、黒人も白人も黄色人種も脆弱なホモ・サピエンス。
ネアンデルタール人は個々の能力は高いが、群れなかったために絶滅したと言われている。
幕末の薩摩隼人は、ホモ・サピエンスながらネアンデルタール人並に身体能力が高かったと神話上いわれている。
歩兵ながら騎馬武者なみに早く走り、静止状態からでも一飛び3メートル、防御不能な会心の一撃で敵を倒してきた。
西南戦争では、近代兵器で武装し圧倒的な物量を誇る政府軍に対して、専ら白刃突撃のみを繰り返した彼らが、
政府軍と死者数でほぼ同数であったのは、圧倒的な身体能力で物量や兵器の差を補っていたからと云われるが、真相は不明。
薩摩隼人は朝鮮人だから日本人よりはガタイもでかいし性格も攻撃的だろうな
朝鮮人に日本人的な簡単に命を捨てる教育を施したのが薩摩隼人
しかししょせんアジアンモンゴロイド、テストステロン分泌不足は一目瞭然
細くて薄くて柔らかい
長期的な集団での殺し合いになれば燃費の良さや命令への従順さ、
苦痛への耐性といった日本人の特徴が生きるので戦争には強いが
人間社会において戦争はイレギュラーな事態
人間の生活のほとんどを占める平時においては巨大で厚くて広くて強く
尊大で攻撃的で積極的で自己主張の強い白人の特徴が生きる
978 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/28(水) 19:56:48.38 ID:JfzOQKwh0
薩摩隼人><カコイイ
979 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/28(水) 20:22:17.57 ID:e5E0MEtj0
あほか
鹿児島行ってみい
猫ひろしみたいなのばっか
980 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/28(水) 23:11:42.22 ID:PZe6FIIe0
朝鮮人とは間逆の性質だから強いだろう
死を恐れず、顔が濃く、身体能力高い
ツングーフは顔薄く身体能力が低くあそこが小さい
981 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/29(木) 18:37:12.71 ID:RYTuF9JT0
982 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
まあ、担がれて始めた戦争とはいえ、戦況が絶望的になっても
降伏せずに死ぬまで戦い続けるのが薩摩隼人らしいな。
鹿児島人にとっては今でも西郷は英雄だよ。