日本が先の戦争をあのまま共産主義中国軍とだらだらとやっていれば、中国軍は強大な旧ソ連軍を後ろ盾に、
日本国はまたたくまに占領されて、戦後の北朝鮮と同じように、地獄の共産主義化された。
もしそうなれば、今いる政治家などすべて粛清され、処刑されていただろう。
それこそ旧ソ連のシベリア送り、北朝鮮の大粛清、カンボジアの大虐殺、中国のチベット人大虐殺のとおりだ。
欧州の島国、英国と同じ、東洋の島国、日本は 『 自由の国 』 の強国米国と戦争して当然負けた。
そして戦後、アメリカの加護の元、日本民族には最大の 『 自由 』 が手に入った。
それが証拠に日本国は戦後またたくまに繁栄し、世界第二位の経済超大国を過去何十年間も維持している。
日本国は大東亜共栄圏戦争に米国を巻き込んだからこそ、現在の信頼され繁栄する日本国がある。
現代で言う 『 結果がすべて 』 からすれば、東条英機氏は日本国の偉大な 『 英雄 』 に違いはないのだ。
日本が先の戦争をあのまま共産主義中国軍とだらだらとやっていれば中国軍は強大な旧ソ連軍を後ろ盾に、
日本国はまたたくまに占領されて、戦後の北朝鮮と同じように、地獄の共産主義化された。
それこそ背筋がぞーっとするではないか。
現代で言う 『 結果論 』 からして、東条英機氏は戦後の日本国を自由と繁栄に導いた偉大な 『
やっぱラーメンばい!
茶漬けはしょぼか。
あん豚骨がよかっさ。
心に効くもんね〜。
よかや田舎者共。
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/21(火) 10:50:26 ID:QwjOpEcxO
東條英機は、植民地解放の英雄である。
インドやマレーシアでは、今でも東條英機は救国の英雄と崇められている
東條を嫌うのは朝鮮人とシナ人とバカサヨクのみ
>>3 ソースもってこいよ
自称旧帝大卒にして旧財閥系企業の管理職さん(独身)よお
>>3 >>1をよく読んでみな
東條英機をおちょくっているんだがな
そんなのもわかんないの?
バカなの?
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/21(火) 22:30:26 ID:QwjOpEcxO
東條英機は、聖徳太子や徳川家康にも匹敵する偉人である。
馬鹿には分からないようだが
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/21(火) 22:33:53 ID:QwjOpEcxO
ビルマのバーモウ博士も、東條英機の功績を認めている。
大東亜戦争によって、東南アジア植民地諸国が全て独立したのは紛れもない歴史的事実なのである。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/21(火) 22:53:27 ID:QwjOpEcxO
そして、植民地解放という偉業を成し遂げた東條英機は、
アジアのヒーローであって、靖国神社の御祭神に最も相応しい。
東條英機こそ護国の鬼であり、キリストを凌ぐ救世主なのだ
>植民地解放
大東亜戦争の主目的 ○資源確保 ×解放
日本&ナチスが万が一勝ってたら、アジアは今みたいに独立してないよ。
現地教育が敗戦後に役だった面はあるがな。結果論。
朝鮮、台湾・・・併合
満州国、中華民国(汪兆銘)・・・傀儡国家
インドネシア、マレーシア・・・直轄領として独立を認めず(サイパン陥落の負け確定後に容認も達成せず)
仏印地域(ベトナム・カンボジア・ラオス)・・・仏ヴィシー政権存命中(ナチの傀儡)は、その統治を認める。
フィリピン・・・独立を認めたが、アメリカ領だった時から独立の予定。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/22(水) 10:55:40 ID:c4Kyepku0
大日本帝国が自爆したので左翼ほど東条閣下の恩恵を受けている。
さあ、ここから中卒携帯コピペゴキブリ吉田による
名越嘘証言コピペのオンパレードが始まります
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/23(木) 06:07:34 ID:BgaibeEv0
わしは、靖国や行っても頭や下げんわ!手も合わさんわ!あんなもん木と瓦の造りもんでないか!墓やったら骨があるけど、あそこにはないじゃろ!
あのとき、日本が戦争せんかったら、今ごろ、日本は、もっとええ国になっとるわ!
日本は中国に悪いことした!おまえが中国人だったら日本が悪いと思うやろが!中国は国内で日本人に殺されたんぞ!
お前らはすぐに通州事件とかいうけど、そんなもん知らんわ!
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/23(木) 12:04:04 ID:KN5oiZPT0
強きに従えでさっさとアメリカの植民地になっておけばよかった
植民地=全権譲渡ではないしね
主権は日本にあり続けるってこともできるわけで
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/23(木) 12:07:32 ID:KN5oiZPT0
ただ、当時は命の価値が低かったというのもある
日本人は太平洋戦争で150万人死んでますが、スペイン風邪でも50万人死んでるんです
肺炎なども死の病気だった
だから、戦争で死ぬ確率と病気で死ぬ確率ってあんま変わらなかったんだよ当時
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/23(木) 12:46:46 ID:LqM2wBaqO
東条じゃなくてヒロヒトね。戦争に負けたら早速マッカーサーに「何でもおっしゃる通りに〜!」って戦争責任は東条以外の臣下に押し付け、土下座して命乞いした実績は評価されるべき。ついでに国民も国土も沖縄も好きにして〜!って言い放ったことも追記しとくね。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/23(木) 13:05:41 ID:XCRwIu/g0
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/23(木) 13:18:37 ID:7ApIFhjfO
まー同情もあるけど
東條さんのやらかしたことは
日本の破滅に拍車かけたな
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/23(木) 18:31:24 ID:olbZxAOnO
現代に目を移せば、中国は明らかに日本に不当な圧迫を加えている。
船長逮捕は当然だし、有罪なら収監してしかるべき。
この板で無条件に中国の肩を持つ連中の正体が良く分かる。
こいつらは日本人ではないか、ただの売国奴に過ぎない。
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/23(木) 18:34:18 ID:olbZxAOnO
戦争の原因を作っているのは、昔も今も中国だ。
日本は昔も今も正しいと、確信した。
Dosok-3先生、ウィキペディア追放裁判展開中。
早く弁明しないとブロックが永久ブロックになって
ウィキペディアから永久追放されちゃうよ。
まあ2ちゃんで妄言流すのは好きにすればw
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/24(金) 12:49:43 ID:zqNCKxrvO
レアメタル禁輸の次は、クボタ社員監禁。
今も昔も、中国のやり方はヤクザより酷い。
はっきり言って、中国に比べれば大日本帝国も東條英機も紳士だ。
満州事変もシナ事変も中国=ヤクザが売った喧嘩だ。
>中国に比べれば大日本帝国も東條英機も紳士
戦前日本は、今と違い紳士でも無かった訳で。
海の事件を出せば、密輸船を清に拿捕された日本は逆ギレし、
武力恫喝を行い、謝罪と賠償をさせたり(辰丸事件)
ヤクザが警察を脅して金を巻き上げる様なムチャ話。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/25(土) 10:58:25 ID:EI/p/YISO
そう思うなら、戦前日本を批判するのと同じくらい、現代中国を非難するべき
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/25(土) 11:22:54 ID:EI/p/YISO
因みに、辰丸は税関の正式な特別許可を得て武器弾薬を積載していたのだから、密輸ではない。
辰丸事件を引き合いに出す以上、中国をならず者、ヤクザ集団、と非難しないのはダブスタだな。
しかも、清は辰丸誤認拿捕を認めて謝罪・賠償した。清に非があったのは明らかだ。
お前らの御本尊である日本共産党ですら尖閣諸島は日本領土と明言している。
そんなに戦前日本が気に入らないなら、とっとと中国に移住しろ、クズ。
>>25 あとお前は、重ねて馬鹿だw
「中国の恫喝外交はヤクザ、比べて大日本帝国は紳士」とか言ってるが、
「武力で嚇せば対手は引き込むと考えるのは陸海軍の悪い癖」BY昭和天皇
とか知らないらしいなw
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/25(土) 12:27:40 ID:EI/p/YISO
信用出来ないサヨサイトか。
しかし、お前らは戦前日本を叩くのに実に熱心なようだが、
現代中国には何の文句も無いのか?
中国に主権を脅かされて何の文句も無い奴は売国奴だ。
そして、お前らが大好きな中国で反日の嵐が吹き荒れている事実。
お前らみたいなお人好しは中国へ行け
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/25(土) 13:10:08 ID:g96brI0iO
今も昔も
報道姿勢に問題がある
戦前日本のやり口は狡猾だった
それに関しては異論はない
それは当時の認識では選択肢だったのだろうから
ただ傾斜して日本を敗戦に導いた1人として
東條さんは重大責任がある
日本の敗戦が65年たった今現在も進行形で色んな形で子孫に降り掛かってる
国家百年の計を誤ったとしかいいようがないよ
そのことは指摘され非難されるべきだ
一部
太平洋戦争を評価しようという風潮がある
巨視的にみれば
戦後の戦争アレルギーの反動かと思えなくもないが
太平洋戦争は
国家百年の計を誤り
多くの災禍を招き
そして日本の国益を大きく後退させた
という歴史的事実は評価しようがない
イデオロギーの問題より
この事実を直視すべきだ
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/25(土) 13:14:11 ID:g96brI0iO
鬼畜米英 一億総特攻 満州経営は日本の生命線
バスに乗り遅れるな
敗戦後
一億総懺悔
この報道姿勢は非難されるべき
あれ
中卒無職携帯コピペゴキブリ吉田はもう来ないの?
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/27(月) 01:05:15 ID:yuUpOonGO
中国非難は1名
中国をスルーして日本の過去非難を繰り返すのが若干名
本物の日本人はどっちだ?
本物の日本人=戦前賛美
と勘違いしてる馬鹿が1名
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/27(月) 08:23:27 ID:yuUpOonGO
現代中国をスルーして自虐にふける馬鹿を発見した
>>33 中国人の愛国心の強さを見ると情けない限り。
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/27(月) 08:32:19 ID:yuUpOonGO
中国を非難せず、戦前日本罵倒のみを繰り返すダブスタ売国奴の本音↓
「中国様のためなら、靴の裏もなめますし、尖閣諸島も献上します。」
「なんなら日本列島ごと献上しますから、どうか中国様の奴隷にして下さい。」
>>34 現代中国を非難したければ、そのスレに行け。俺も批判してる。
ここは東條スレだから戦前の話。
「現代中国に比べて、戦前日本は紳士」
なんて余計な事を書くから、
>>27とかで突っ込まれる。
そのスレの内容と違う○○の話をして批判されると
その違う○○の内容について語らないほうが悪いとか言う
典型的な○○「厨」だなあ。
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/28(火) 12:53:15 ID:eTK91c8oO
東條は、基本的には紳士だったし、人情味のある男であった。
しかし、軍人であるから気の強い面、気性の荒い面も当然あった。
頭が良かったのも事実。昭和天皇にも忠実な愛国者であった。
現代の日本では、優秀な愛国者がスポイルされてしまう。
政治家連中は中国とまともに喧嘩出来ない腰抜けばかり。
これが民意なら、日本人も劣化したものだとつくづく思う。東條こそが今の日本の首相に最も相応しい。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/28(火) 13:40:11 ID:whwkzL/B0
>>38 >現代の日本では、優秀な愛国者がスポイルされてしまう。
スポイルするって、甘やかして駄目な奴にする という意味なんですが。
変な論文を書いた空将殿など将にそうか????
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/28(火) 18:10:37 ID:eTK91c8oO
スポイルではなくパージアウトというべきか
>>38 お前の言う「優秀な愛国者」って
世間ではネトウヨというんだよ
まあ今回の中国ははっちゃけすぎだがな
それでもネトウヨほどバカじゃない
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/28(火) 22:01:56 ID:OVylcz/S0
>>38 -39 厨房が背伸びして難しい言葉を使っただけだ。揚げ足取るなよ。
それにしても、今年は暑かったから夏厨がいつまでも出ているね。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/29(水) 09:13:58 ID:9kFA6kTl0
いや、
>>38 は正しいことを言っている。
>現代の日本では、優秀な愛国者がスポイルされてしまう。
親たちがスポイルした結果、国士様達はヒキコになって自宅警備と愛国広報に
従事するようになった。
アパグループとか言う企業が田母神空将をスポイルした結果、いい気になって
変な論文を書き、地位を失った。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/29(水) 10:51:49 ID:OH0qx2dZO
在日チョンが嫌う石原慎太郎都知事は立派な愛国者だ。
彼のどこがネトウヨのヒッキーなのか?
愛国者かどうかは、在日に嫌われているか、好かれているか、が一つのバロメーター。
在日に好かれている小沢一郎は売国奴ということだ。
>>44 弱いものイジメが大好きで
国家権力のために国民が死ぬことを奨励するような
男のどこが「立派」なんだかな
兵士には「生きて虜囚の辱めをうけず」といっておいて
自分は捕らえられてくびり殺された誰かさんとはお似合いだねw
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 21:12:58 ID:N+osfPyhO
東條英機は、東南アジア植民地諸国を解放した英雄である。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 21:15:35 ID:N+osfPyhO
大東亜戦争は紛れもない植民地解放戦争である
>>46-47 で 最も、閣下の恩恵を受けたのは毛沢東なんだけどね。
いまや、中共が戦前の大日本帝国の地位にいる。 戦後日本は戦前の中国と同じように
アメリカの保護を受けようと必死になっている。
>>47 解放ねえ……
仏印はヴィシーフランスのままだった
蘭印なんかは日本領にした
そもそも、『対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案』にしてからが、フィリピンはアメリカに対する取引材料としてそのままにするって書いてあった
ていうか、『腹案』で独立させるって書いてあったのはビルマだけ
……侵略者は、みんな解放と言うんだよ。中共の「人民解放軍」みたいにな
分かるか? 東條一人が悪いわけじゃないが、「あの馬鹿どものせいで、日本は中共と同レベルの存在に成り下がった」んだぞ。そんな奴らのどこが愛国者だ? 国賊じゃないのか?
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/01(金) 05:58:54 ID:e6CDPByE0
東條は開戦時の総理であるし、その後の戦争遂行責任もあるのでその責は免れ得ない。
しかしあの時期にダレが総理であっても開戦は避けえたとは思えないし、ある意味、
木戸内府あたりにはめられた被害者といえるかも。
ID:N+osfPyhO
よう、中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田
お得意の名越嘘コピペはやらないのか、バ〜カw
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/01(金) 21:45:12 ID:6zdnwY63O
戦争責任を東條以下の臣下になすりつけ、敗戦したら即マッカーサーに「私は生き長らえたい!アメリカ様は素晴らしい国、どうぞ日本をお好きなようにしてください〜!」と土下座したヒロヒトこそが最大最低最悪の売国奴、すなわちアメリカのイヌだろうが!
>>52 それは昔からの天皇家のデフォルト動作。 新しい実力者に取り入り昨日までの忠臣に
討伐の勅を平気で出してきた。天皇を守るために不本意な証言をしたのに東條なんて古草履のように
使い捨てにされた。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/02(土) 00:12:34 ID:P6AiB8pvO
>>53 ということは日本古来の美徳である「義」とは真反対にあるのがそもそも天皇と考えてよろしいか? 要は日本人の尊敬の対象の真反対の蔑まれるべき対象ということで。
>>54 「義」というのは臣下のための道徳であって帝王というものはそういうものから自由。
最大の任務は血筋を絶やさないようにすることと天皇という制度「つまり国体」を守ること。
そのためにはどんな卑劣に見えることもやる。しかしそれは大御心から出ているもので
臣であるわれわれが批判するべきものではない。
まあ「仁」についてはかなり持っていると思う。昭和天皇も平時には国際条約で「義」を
といたこともあるが、生きるか死ぬかの非常事態には本性が現れる。
西郷南州の詩に「たとえ光を巡らさざるも葵は天に向かう。」というのがある。曇りで
太陽が現れなくても向日葵は太陽をむいているということだ。義を尽くしたのに逆賊に
されて錦の御旗で討伐されようと昔の人は尊王の心を失わなかった。
>>54が求めているのは天皇でなくて「リーダーシップのある大統領」だよ。
まあ民主社会において、帝王とか臣下とか時代遅れなんだけど。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/02(土) 12:56:04 ID:P6AiB8pvO
>>55 血統を絶やさないのが天皇のつとめなら、敗戦時すでに子供はいたし、ヒロヒトがもし処刑されようが、血統には関係ないのだが。それと
>>55は自分のいう天皇の姿を認めてるの?だから素晴らしいんだとか思ってるの?
『義』というのは大陸発祥の概念なのだが……
ところで、大日本帝国憲法では天皇に拒否権がないのに、何故責任があると思うのか聞いていいか?
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 01:46:28 ID:4WSsIJYLO
>>58 まず誰に聞いてるのか知らないが、もし
>>57への返答なら答えになってないよ。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 21:46:19 ID:my6C6/NM0
大東亜戦争が植民地解放戦争だったかどうかは別として、大東亜戦争をきっかけにして
東南アジアの植民地がすべて独立したのは事実だし、アジア人の地位が白人と対等に
なったのも事実だろう。
大東亜戦争を機に、世界の秩序は大きく変化したのだ。
戦争目的を達成した日本が真の戦勝国だ、という「日本戦勝国論」なるものも一定の説得力がある。
そういう点では、大東亜戦争はそれなりに意義のある戦争であったし、東條英機が中国
韓国以外では嫌われるどころか好かれている、という事実も頷ける話だ。
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/04(月) 08:39:36 ID:1/WdDQjJO
>>58 責任のないヒロヒトがなぜマッカーサーに対し「私だけは助けて下さい〜!アメリカ様は素晴らしい国です〜 東条らや日本はどうぞお好きにしてください〜!」って発言するのさ?いいから答えてみな!!
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/04(月) 19:15:01 ID:nqwxdNsI0
>>61その発言はいつどこでしたのさ?
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/04(月) 19:18:29 ID:MR/S4zVBO
>>60 >戦争目的を達成した日本が真の戦勝国だ、という「日本戦勝国論」なるものも一定の説得力がある。
ぜんぜんね〜よ
本土焼け野原、海外領土全部没収、アメちゃんのおかげで復興して今でかいツラしてるだけ
負けも大負け、史上最大の敗戦だな
まあ、本土を全部占領されたドイツよりマシ、って程度かな
だいたい戦争目的とやらはどこに出てくるんだ?
>>60 戦争目的と言えば「開戦の詔書」には
「中国との戦争を長引かせる英米をぶっつぶす」ってあるんだぜ
これが戦争目的だったんじゃないのか?
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/04(月) 23:56:52 ID:lumxIl5k0
>>63 自己紹介乙www
結局まともに反論できないわけだなwww
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/04(月) 23:58:25 ID:7gO6vt6m0
>>65 戦争目的はこれだ。「宣戦の大詔」より
「速ニ禍根ヲ芟除(さんじょ)シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス 」
米英を東亜から駆逐して永遠の平和を確立し、帝国の光栄を保つこと。
これは米英の植民地主義打倒宣言に他ならない。
「米英をぶっ潰す」とはどこにも書いていない。
馬鹿には書いていない文字が見えるようだ。
Dosok-3先生、Wikipediaから追放決定。
以後は元通り日本近代史板で
電波飛ばして余生を全うしてくださいね。
>>65 その前段には「自存自衛」と明記されているな
軍民合わせて三百万とも言われる尊い命を失い、焼け野原にされ、米帝の属国に成り下がるのが、「自存自衛」で「帝国の光栄」というわけだ
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 13:18:21 ID:8J2ecj5JO
大東亜戦争は紛れもない植民地解放戦争である。
東條が後に宣誓供述書で語るとおり、東條は全ての東南アジア植民地諸国を独立させるつもりだった。
この強い意志は、大東亜共同宣言によって世界に発表された。
大東亜共同宣言が、植民地諸国解放という日本の戦争目的を世界に知らしめたのだ。
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 13:41:10 ID:b4WJo9gh0
>>70 バカを言うな!じゃあなぜ日本軍はアジアの民間人をバンバン殺したんだよ?
欧米列強だけと戦争してりゃいい話だろうが。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 16:02:22 ID:8J2ecj5JO
>>71 日本軍が殲滅したのは、反日華僑を中心とした抗日ゲリラのみ。
理由もなく、東南アジア現地人を殺したりなどしていない。
東南アジアで現地人を虐殺しまくったなど、大嘘。
>>72 中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田がまた嘘を吐いています
フィリピンで日本軍は9万人もの一般市民を「殺人」しております
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 18:33:58 ID:8J2ecj5JO
>>73 それも大嘘。馬鹿は息を吐くように嘘をつく。
フィリピンの民間人犠牲者は、戦闘に巻き込まれた人達。
しかも、それはアジア人を虫けら同然に見ていたアメ公による無差別殺戮の犠牲者だ。
日本軍は現地人虐殺などしていない。
アメ公の虐殺はサイパンの日本人捕虜と民間人にもおこなわれた。
馬鹿は日本軍を貶めるのに必死だな。
おそらく、朝鮮人か馬鹿サヨクの類であろう。
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 18:59:26 ID:5PIX7mt+0
まあ天皇の悪口も言いたい放題で、
そんな日本を残してくれたマッカーサーの悪口も
言いたい放題の世の中をマッカーサーが残してくれて、
本当に良かった。
中国人は日本の悪口でも言わなきゃ、
胸が詰まって仕方なかろう。
まあ、ほざいていなさい。
ウィキペディアからその主張は全削除させてもらうからw
>>74 >日本軍は現地人虐殺などしていない。
中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田
東南アジアのあちこちでやってるんだがなあ
お前だろ、呼吸するように嘘を吐くのは
「ネトウヨ」という自己愛性人格障害やサイコパスの類だものな
だいたい
>>1が東條をおちょくるために立てたスレで
東條マンセーやってる中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田は
東條のバター犬
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/06(水) 08:11:59 ID:TMo+OvcSO
>>77 嘘吐き馬鹿には何を言っても無駄だろうが、何度でも言う。
日本軍は、反日華僑を中心とした抗日ゲリラを掃討したに過ぎず、
理由のない現地人虐殺など全くしていない。
戦争目的が植民地解放なのだから当然だ。
馬鹿には分かるまいが。
御前会議 「重要地帯は帝国領編入の方針」
東條英機 「大東亜諸国は対等じゃない。我が国が指導するのみ」
佐藤賢了 「現地政府は、軍の下部機関と大差ない」
コピペウヨ 「日本の目的は正義の解放。ソースは名越氏による発言集だ」
(コピペウヨ)
戦前日本の目標を「アジア諸民族の独立」として粘着。
議論から逃げ&罵倒、都合良い賛辞や宣言だけコピペして自慰。
(現実の状況)
朝鮮台湾は併合。満州国は自主性も平等性も蔑ろな傀儡。
大東亜戦も、利用できる現地勢力へは良い顔しても、属国扱いか帝国領方針。
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/06(水) 12:51:03 ID:TMo+OvcSO
>>80 見飽きたコピペだ。
自虐的コピペ馬鹿とはお前のことだ。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/06(水) 15:00:05 ID:JSHA5VUtO
>>79 よその植民地解放のために自帝国の陸海軍文民の総力あげて取り組んだあげく
アメにふるぼっこにされて焦土になったら
ちょっと痛い話だと思わないか?
もしそうならそれはそれで東條を含む指導者群は
よその植民地解放のために自国を敗戦させた
重大責任があるだろう?
>>83 国民が望んだ戦争だろ。
政財界もマスコミも皆が支持した。
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/06(水) 16:13:24 ID:C2ZJGUM20
ホイットニー文書
日本の歴史上これ程卑劣な証言をした男がいただろうか?
ホイットニー文書
【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】
二、三週間前に占領が長く続くべきであるとの希望を述べた根拠を説明したい。
日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには
長い時間がかかるだろうと感じている。
日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、
そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。日本人の封建的特徴の一つは、
進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。
徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、
という論理のうえに築かれていた。かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの
障害に直面している。かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを
受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに
注意を集中し、本分と義務について考えていない。
この理由は、ある程度、長年の日本人の思考と態度における氏族性に求められる。
日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚は
その利益を追求すべき友人とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。
日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。それは儀式に過ぎず、
合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。しかし、たいていの神道信者は超保守的で、
彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持って
いるので、依然として危険な面がある。政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、
現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその
同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。
以上のようなことから、私は今は日本人のもつ美点を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考え
る時だと感じている。
私は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。
また、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝し、それが安定効果を持つと感じている。
しかし、私は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。日本の労働者は、物事を真似する事におい
て、義務を等閑にして自分の権利を利己的に追求しやすく、米国のストライキから有害な影響を受ける
ので、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。
自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、
自分はその名称を保持することを望み、真に「煌く平和」の治世となるのを確実にするまでは、
生き長らえたいと切に願っている。
私は鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう
私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも
失った。彼は侍従長を長く勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。彼の提督という階級と戦時の
首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも
現在停止されている。私は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解され
ず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を
募らせている。
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/06(水) 16:14:15 ID:C2ZJGUM20
85に続く
天皇ヒロヒトのこの言い草には唖然、呆然とするしかない。
それにしても、何という言い草か。
自国民310万人の命を奪い、2000万人以上に上るアジアの人たちを殺した侵略戦争の最高責任者
としての自覚がないばかりか、戦後に至って尚国民を売り渡し、形振りかまわぬ自己保身に終始してい
る余りにもおぞましい姿がこの文書から読み取れる。
このような男の影響下にあった者たちが、いまもあの戦争を侵略戦争ではないと言い張り、侵略殺人を
正当化する暴言を吐き続けている破廉恥行為は当然と言えばいえる。
家族を殺された者にとっては遣り切れない、許し難いことである。
>>83 ID:TMo+OvcSOは「コピペゴキブリ吉田」という携帯野郎で
自分は旧帝大卒だとか旧財閥系大企業の管理職で年収1千万だとか
女が俺のチンポに群がってしょうがないとかいう白昼夢ばかり見ている
無職のヒッキーなので「学問板一の池沼」と呼んでやってくれw
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/06(水) 22:21:53 ID:JSHA5VUtO
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/06(水) 22:37:25 ID:biUbET480
★アーノルド・J・トインビー(歴史学者)
「第二次大戦において日本人は日本の為というよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々の為に
偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは日本の掲げた短命な理想であった
大東亜共栄圏に含まれていた国々である。」
「日本人が歴史上に残した業績の意義は西洋人以外の人類の面前においてアジアとアフリカを
支配してきた西洋人が過去200年の間に考えられていたような不敗の半神でないことを明らかに
示した点にある。」
偉大な歴史学者・トインビーが語るとおり、大東亜戦争は、西欧植民地諸国に「独立」という
多大な利益をもたらした。大東亜戦争は植民地解放戦争だったのである。日本は戦闘では敗れた
が、負けて戦争目的を達成した。米英は失うばかりで何も得なかった。すなわち、
大東亜戦争の真の戦勝国は日本であり、米英は哀れな敗戦国に他ならない。
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/06(水) 22:57:41 ID:TMo+OvcSO
日本という国に誇りを持てず、いつまでも中国様・韓国様に土下座し続ける、哀れな自虐マゾヒスト達。
この薄汚れた負け犬共は、今日も日本軍という存在しない相手をぶっ叩き、暗い愉悦に浸る。
こいつらの自虐オナニーは死ぬまで続く。
誇りなきクソ豚は金にも女にも見放され、自虐オナニーにふけりながら社会の底辺で死んで行くのだ。
愉快、愉快。バーカ
ホイットニーは、憲法九条を押し付けた奴
もう一つ言うと、個人的コネがあったマッカーサーが失脚した途端に、いわゆる「赤狩り」の一環として軍をクビになった人間
……いやあ、実に信頼性の高い証人だねw
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/07(木) 10:18:51 ID:vmK/ej420
>>91 あなたはひょっとして裕仁がマッカーサーに会いに行ったとき
「自分はどうなってもいい。国民を助けてくれ。」といったという
いわゆる裕仁が学者に捏造させた「御聖徳」をいまだに信じているというか
騙され続けている多くの日本人の一人のようだね。
早く目覚めたほうがいいよ。
まあ他の多くの人たちと一緒で「平和天皇」とか「国民を思いやる天皇」
とかの虚像に洗脳されてるからなかなか難しいのかも知れないがね。
知れば知るほど反吐が出てくる世紀の売国奴ヒロヒトでございます。
尚、ホイットニー文書は上にも書いてありますが天皇が学者達に捏造させた
「御聖徳」と違って米極秘公式文書です。(78年に解除されてはいますが)
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/07(木) 10:55:35 ID:xJc/0WBOO
マッカーサーと昭和天皇の会見には、通訳だけしか立ち会っていなかったから、
この3人以外の人間が会見内容について何を語っても全く信用出来ない。
因みに、昭和天皇と通訳は何も語らず、マッカーサーも回顧録で少し触れたのみ
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/07(木) 11:00:49 ID:xJc/0WBOO
マッカーサーといえば、大東亜戦争が自衛戦争であることを認めたことで有名。
東條英機も宣誓供述書で、大東亜戦争は自衛戦争だ、と出張しており、
両者の意見が一致した以上、大東亜戦争は自衛戦争であると言うのが正しい歴史認識である。
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/07(木) 12:02:26 ID:FleBT7y9O
>93 >94 コピペゴキブリ吉田さん、お疲れさまです(^^;)
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/07(木) 12:52:04 ID:gjbWN9Wh0
>>96 ネトウヨはウヨ板へ
学問板ではネトウヨはゴミ以下の存在
>>92 >米極秘公式文書
極秘? 公式? テラワロス。米の公文書法について勉強しろ……と言いたいところだが、言っても無駄だろうから別のことを言おう
・戦争に負けて日本を焼け野原にした国賊を持ち上げ、左翼の中傷以外に根拠がないにも関わらず昭和天皇を貶めるということは、愛国心ある日本人ではありえない
・にも関わらずウヨのふりをする……というのは、実は似た前例がある。あのゾルゲがナチス外交官の側近を演じていたことや、トロツキー暗殺犯が反スターリンの同志のふりをして接近したなど、モスクワの手先がよくやったことだ
・『中国様・韓国様に土下座し続ける、哀れな自虐マゾヒスト達』と言うからには、他の国に土下座するのはいいと思っている。かつ、日本と中韓に対立して欲しがっている
・ホーチミンやポル・ポト、マルコスやスハルト、毛沢東や金日成の政治が証明した通り、「元々独立を保つ力を持たなかった民族が急に独立しても、植民地時代より不幸になる」
それを無視するということは、解放という名目だけは掲げるが人民の幸福はどうでもいいと思っている
・元々独立が決まっていたフィリピンとは比べ物にならない価値を持つ日本を属国にできた米帝に向かって「失うばかりで何も得なかった」と言えるのは、それ以上を得たということである
それは、「国でさえなかった」特定アジアか、「千島樺太を奪い、大勢をシベリアに拉致して奴隷労働させ、満州まで来ていた反共勢力を三十八度線まで押し戻した」あの国以外にあり得ない
・プロレタリアがどうこうほざくトインビーを、電波系ではなく『偉大な歴史学者』と定義するからには、あの思想を正しいと思っている
……その他多くの根拠から、導かれる結論は明白だ
君は、ロシア(平壌政府の可能性もあり)に仕えている。そのどちらかに操られていない限り、君の言動はありえないのだ
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/08(金) 09:18:11 ID:1WOMNz4b0
>>98 コピペゴキブリ吉田さん、お疲れさまです(^^;)
その吉田さんとやらはWikipediaを追放されたドキュソ3先生とは別人?
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/08(金) 17:03:16 ID:z/LjNAElO
真の愛国者は例外なく天皇陛下を敬愛している。
皇統125代が日本を支え続けてきたのだから、自然に頭が下がるのである。
強烈な愛国者だった東條英機も天皇陛下の忠臣として死ぬまで忠誠を貫いた。
我々日本人は、日本を日本たらしめる根源を理解しなければならない。
馬鹿には理解できないが
どうでもいいけどなんで改行するのだろうか
>>102 コピペゴキブリ吉田は、携帯での改行の仕方も知らないバカだからw
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/08(金) 22:30:23 ID:tog7ZJ/H0
★ブン・トモ インドネシア元情報相
「われわれアジア・アフリカの有色人種は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが
全部失敗した。インドネシアの場合は、350年間も失敗が続いた。それなのに日本軍が米・英・
蘭・仏をわれわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた」
「われわれは白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信を持ち、独立は近いと知った。
一度手にした自信は決して失われることはない。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々が
やらねばならなかった戦争だった。そして実は我々の力でやりたかった。」
「それなのに全てを日本に背負わせて、日本を滅亡寸前にまで追い込んで仕舞った。申し訳ない。」
(昭和32年の来日の際の発言)
大東亜戦争は、白人を叩きのめし、インドネシア人達に勇気と自信を与えた。これらの
精神的な強化が、インドネシア人たちを奮い立たせ、白人に決して屈しない強靭さを与えた
のである。大東亜戦争がもたらしたこの強靭な精神力によって、東南アジア諸国は戦後、
続々と独立して行く。大東亜戦争は神聖なる植民地解放戦争だったのである。
馬鹿は悔しがって必死で否定するが、歴史的事実に反する。無駄だ。
インドネシア
当初の方針 帝国領編入
サイパン陥落後 小磯が一部独立を容認するが終戦まで達成せず
終戦後 独立に協力した日本人義勇兵は脱走兵扱いで恩給なし
現地教育が役立った面はあるが、あまり自画自賛する流れじゃない。
106 :
宅間守ファンクラブ:2010/10/09(土) 12:35:08 ID:p+xP27rA0
>>104 有色人種vs白人っていう図式ってどうなの・
別に有色人種同士が連携してたわけでも、白人同士が連携してたわけでもないし・・・
有色人種が連携しようって言い出した日本に対するリップサービスなんじゃないの?
107 :
宅間守ファンクラブ:2010/10/09(土) 12:35:56 ID:p+xP27rA0
例えばベトナムやカンボジア、インドなんて周辺国を侵略しまくってたわけでしょう
>>104 コピペゴキブリ吉田は、公園の一角にブルーシートで囲っただけのテントに住んでいる
今日も一日携帯の画面を見ていたが、派遣の仕事は来なかった
「旧帝大卒のこの俺に仕事がないのは、バカサヨどもの陰謀に違いない」
とつぶやく携帯中卒無職のコピペゴキブリ吉田
気を取り直していつものズリネタ本をとりだした
名越二荒之助 「世界から見た大東亜戦争」 展転社
これが吉田のオカズである
今日も「ブン・トモ(トモ兄さん)」なる、インドネシアに未だ存在したことのない「情報大臣」の言葉を読みながら
萎びたナニをこすり始めた
「大東亜戦争は神聖なる植民地解放戦争だったのである〜〜〜〜」ドピュッ
「東條英機はアジアを解放した英雄である〜〜〜〜〜〜」ドピュッ
「名越二荒之助の書いていることはすべて真実である〜〜〜〜」ドピュッドピュッ
ブルーシートテントのなかで絶叫しながら絶頂するコピペゴキブリ吉田
今日も雨、頼みの日雇い仕事もなく
携帯で2chにアクセスしてオナニーに励む中卒無職のコピペゴキブリ吉田であった
>>104 と、思ったら今回は携帯じゃないじゃん
ようやくネットカフェに泊まれたんだね
よかったねゴキブリw
旧帝大卒なんて2chにはゴロゴロだからね。使う語彙が違うからすぐばれる。
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/10(日) 01:34:21 ID:7EDE7b3j0
>>104 でもインドネシアは熱心な反日国なのはどうして?
そもそも、東條は、いわゆる和平派とは交渉条件を巡って対立しただけで、対米英蘭開戦そのものには反対していたよな?
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/10(日) 14:06:43 ID:Hzinld7T0
1947年9月20日、天皇が、日本占領軍の指揮官ダグラス・マッカーサーと、マーシャル国務長官に送ったメモが、ワシントンの米国・国立公文書館に存在している。
そこには、
「沖縄に米軍の大部分を駐留させ、沖縄を米国領土とすることによって、日本本土を米軍支配から独立させる方法を取りたい」
と、記載されている。
つまり沖縄を「日本から切り捨て」、「沖縄だけに米軍を置き、犠牲にする事」を、天皇自身が米国に「提言」していた。
2008年現在、沖縄だけに米軍基地の大部分が集中し、米兵による少女強姦事件が沖縄で多発している、その真の原因は、天皇が「作っていた」。
天皇の、この「米軍との密約」には、「弱い者に犠牲を押し付け、弱い者を見殺しにし、自分だけは助かろう」と言う、卑怯者、「人間のクズ」の姿のみが、露骨に見えている。
ここには第二次世界大戦で、玉砕し自害した市民を多数出した、沖縄への憐れみの情など、全く無い。
これが天皇の「日本国民」に対する「扱い」の真実である。これが天皇の正体である。
「卑怯者、人間のクズ」が日本の代表で、伝統で無いのであれば、天皇と言う、この恥知らずな男は、日本とは何の関係もない売国奴である。
http://alternativereport1.seesaa.net/
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 01:10:36 ID:LskOHzmc0
>>112 インドネシアは親日的な国だが、若い知識層の中には反日的な人間が育ってきている。
その理由は、日本軍政がインドネシアに多大な苦痛を与えた、という負の側面ばかりが
歴史教科書で取り上げられているからである。
なぜか。インドネシアの教科書は、反日華僑が金を出して作っているからである。
いまや、インドネシア経済の8割強を華僑が握っており、政治への影響力も非常に強い。
憂うべきことだが、反日華僑はインドネシアを反日国家に作り変えようとしているのだ。
日本兵がインドネシア独立戦争に参加したという歴史的事実もいずれ葬られることだろう。
>114
コピペ乙w
つーか、まだこんな捏造を信じてるんだね。原文を読め……と言いたいが、英語だから理解できないだろう。秦郁彦の「昭和天皇五つの決断」を読んでみな
まず、あくまでも寺崎の提案であって、昭和天皇の意志がどこまで反映されているかは不明だよ。シーボルトが『(天皇の)見解だと信ずべき理由がある』と言ってるだけだ
そしてシーボルトは、『占領が長引いてもよいからアメリカが日本をソ連から守ってもらいたいという強い要請、更に隣国の中国が日本に強い立場をとれないような弱体のまま推移するのを望むという―が反映しているかもしれない』とも言っている
「日本本土を米軍支配から独立させる」なんてどこに書いてある?
『日本に主権を残す』『リース』『この方式は、アメリカが琉球列島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させるだろう』が何故、沖縄を米国領土にすることになるんだ?
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 01:25:24 ID:LskOHzmc0
名越二荒之助 「世界から見た大東亜戦争」 展転社
馬鹿はこの本の内容を決して認めないが、こいつらは、その内容を根拠もなく嘘と決めつけ、
この本の内容は全部捏造ニダ、大東亜戦争は侵略戦争ニダ、と声高に叫ぶ売国奴なのである。
その証拠に、「この本の内容が嘘だと言い張るなら証拠を出せ」と散々言ってきたのに、
何の証拠も提示できていない。
むしろ、こいつらが必死で捏造説のよりどころとしていたものが全部デタラメであること
が露呈し、名越の本の信憑性が高まる始末である。下に例を示せば、
@馬鹿「モハメッド・ナチールなる人物をネットで検索したがまったくヒットしなかった。
モハメッド・ナチールは存在しない。すべて名越の捏造」
→WIKIで「マシュミ」を検索すれば、Mohammad Natsir、1908-1992年の存在が確認される。
A馬鹿「インドネシアは大統領制だから、首相職など存在しない。だから名越の捏造」
→インドネシアには最初は首相職が存在し、その初代首相がモハメッド・ナチール
であることは、調べれば簡単にわかる。馬鹿には調べ切れなかったようだ。
B馬鹿「他にも確認できない人物がたくさん出てくるよ。なぜなら全部名越の捏造だから」
→単なる調査不足
というわけで、名越捏造説は完全に破綻しています。馬鹿は認めないがね。
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 01:36:33 ID:LskOHzmc0
ブン・トモにしても、昭和32年に来日したはずの人間が「存在しない」
と言い張るのが、名越捏造説を声高に言い募る低能児のひとつの特徴である。
「大東亜戦争がインドネシアを初めとした東南アジア植民地を独立に導いた事実」
「大東亜戦争の世界史的な意義=植民地主義・人種差別主義を終わらせた」
「大東亜戦争がもたらした独立への勇気と自信」
こういった、厳然たる歴史的事実を我々日本人はしっかり認識し、当時、東南アジア
で生きた現地高官たちの生の声に耳を傾けながら、先人たちの残した大きな足跡をたたえ、
誇りに思うべきなのである。それが、自虐の鎖を断ち切った真の日本人の姿である。
そして、これら大東亜戦争の高い意義は、偉大な歴史家トインビーや、コロラド大学
のレブラ教授らもとっくの昔に見抜いていたのである。
馬鹿と朝鮮人は必死で否定するが、これが歴史の真実である。
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 08:23:19 ID:2V90NF0lO
コピペゴキブリ吉田さん、お元気そうでなにより(^^;)
名越の捏造
「アインシュタインの予言」
「英国輸送船をかばって撃沈された日本駆逐艦」
「ニミッツの詩」
「モハマッド・ナシール、ラーダクリシュナン、ファン・ティヤンなど
重要な人物の名前を誤記」(つまり裏を取っていない)
「ブン・トモ(トモ兄さん)情報相」(実在が疑われている)
裏を取っていないのだから、いつ、どこでなされた発言か一切出てこないのが
名越の特徴である
そんなものを後生大事に信じている「旧帝大卒」が居ること自体信じられない
これもたぶん捏造だろう
枢密院の深井英五顧問官は「枢密院重要議事覚書」の中で東條英機の答弁と
それに対する自らの感想を、次のように記している。
「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、左様の事実
(外交の二元化)は大東亜地域内には成立せず、我国を指導者とするところの外交あるのみ」
(深井評、これ竹越顧問官の所謂大東亜圏諸国をデペンデンシー(従属国)として
取扱はんとする意図を頗る露骨に表示したるものなり。)
「外交の相手は必ず対等者として処遇せざるべからずとするが如きは古き観念なり」とし、
「此の如き観念は排斥す」とて、卓を叩きて叱咤す。
御前会議としては珍しき光景ならん。東條総理大臣は大東亜地域の諸国を従属的に取扱ふの
底意を此に暴露したり。東條総理大臣の興奮は益々激化し
「大東亜圏内には外交なし」と極言す。
アジア・太平洋戦争は
クーデターとテロにより日本の実権を握った軍部が
おのが力におごり高ぶり
東アジアを我がものにしようとして始めた戦争である
東條英機は首相になる前、ことある事に好戦論を口にしていた軍部の首魁である
>>117-118 少なくとも、学問板で名越二荒之助をまともに取り合う人間は一人もいない
そして、お前が「旧帝大卒」だと言っても信じる人間は一人もいない
コピペゴキブリ吉田が、近寄ることのできないスレが一つある
大物近代史家総合スレ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1285767567/ コピペゴキブリ吉田は、かつてここで
「名越二荒之助こそもっとも偉大なる近代史家である」と主張し、袋だたきにあった
そればかりか逆ギレして名越コピペで埋め尽くすという所行を行い、荒らし認定された
今、同スレで「存命中の人物に限る」というスレルールがあるのは、吉田を排除するためである
まさに中卒携帯無職コピペゴキブリにふさわしい所行であった
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 17:02:21 ID:IqKQBnjnO
>>122 俺は本当のことを言っているだけだが、馬鹿に信じて欲しいとは思わない。
旧帝大卒、旧財閥系企業勤務、管理職で年収1千万円、全部本当だ。
そもそも、こんな嘘をついたら自分が惨めになるだけだ。
だから、知性が乏しいお前が何も語らないのが良く分かる。
低学歴、無収入、親のすねかじりで正規就職も危ういお前は、彼女も無く、将来も暗い。実に哀れだ。
お前は、何から何まで俺より劣っているのだ。悔しいか?
ざまあみろ、バーカ
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 17:17:33 ID:IqKQBnjnO
>>120 全部、名越の捏造ではないという結論で終わっている。
名越は出典を元に紹介しただけ。
外国人の名前の日本語表記は難しく、大抵、3種類位可能。
どれが正しくどれが間違っている訳でもない。馬鹿には分かるまいが
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 18:14:55 ID:RJOpWjy90
>>123 なんか俺のこと言われてるみたいだ・・・
大学は田舎のFランだし
就職も変なとこにしかいけなかったし
給料も安いから多分一流企業の半分くらいの給料で暮らしていかなきゃならん
そのくせ労働だけは2倍3倍働かなきゃいけないし
この安月給じゃ女にももてないし
連休もすること何もない
なんかもう何やってもダメだなオレって。。
>>123 2ちゃんで名無しがそんなこと言ったって
まともに信じる奴なんかいやしないって
その程度のことも分からんのかね、このオナニー野郎はw
こんな嘘ついたら自分が惨めだろ
今日はネカフェに泊まれず野宿かい?
携帯無職コピペゴキブリ
>外国人の名前の日本語表記は難しく、大抵、3種類位可能。
>どれが正しくどれが間違っている訳でもない。
はい、それで本人に会ってないと言うことが丸わかりです
残念でした
で、第一次大戦で沈没した日本駆逐艦の名前は?
>>123 で、「結婚している」という嘘だけはつけないんだな
管理職やってて独身ですかw
35才過ぎてて独身だと人的資質を疑われて左遷だぞw
と、いうわけでこのスレは東條英機を皮肉るスレから
自称「旧帝大卒、旧財閥系企業勤務、管理職で年収1千万円」なのに何故か
名越二荒之助を信奉しているという信じられない男の
コピペオナニーをウォッチするスレになりました
>>123 香ばしいバカが現れたというのでやってきました
こいつ自己愛性人格障害じゃないの?
自分を偉く見せるためにはどんな途方もない嘘でも
平気でつけるっていうからな
>>123 バカバしくて返答するのも愚かしいが、一つ言っておく
本当に一流大学を出た人間は、本物のプライドと自信を持っているから
人前でチャラチャラひけらかしたりしない
2chに書き込むなんて、ましてありえない
不言実行がすべてだ
俺の周りにいる「一流大学出」は皆そういう人間だ
まして「俺は立派だ、お前は馬鹿だ」などという物言いは決してしない
それだけでもお前がニセモノだということがよくわかる
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 13:15:54 ID:m34X0ChG0
>>123,
>>130 リアルで旧帝大卒は2CHには一般社会以上に多いと思う。使う語彙が違うから
ニセモノはすぐばれるのだな。
「嘘を嘘と見抜けなければ(ネットでは)難しい」というのはひろゆきの台詞だが
>>123は程度が低すぎる
一流大学卒の知性の欠片もない
小学生の喧嘩レベル
これで騙されてくれというのは、虫が良すぎるんじゃないか?
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 18:32:40 ID:4+9I/qEj0
>>91 それ全部、おまえの妄想だろ。コートニー・ホイットニーは赤狩りになぞあってない。
主人のマッカーサーが失脚したんで退役しただけ。
九条にしてもマッカーサーあるいはアメリカの指示を受けて、ホイットニーがそれを基に
草案を作っただけの話。
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 23:13:47 ID:mF+RDmNSO
馬鹿の特徴
東條英機は今も戦犯だと思い込んでいる
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/13(水) 12:38:53 ID:YOkM6kKwO
馬鹿は「何から何まで名越の捏造」と言い張りながら、何一つ証拠を提示出来ない。
こういうモノ知らず歴史音痴の馬鹿共とは議論が成り立たない。
こいつらに出来るのは、揚げ足と罵倒のみ。相当知性の低いクソ豚だろうと容易に想像がつく。
だから、低能は近代史板に来るな、と散々言っているのだ。
名越は良く調べており、嘘をついている様子もない。極めて良心的である。
名越捏造論者は、ハッキリ言って頭がおかしい。
>>134 今でも「戦犯」だろ
やり直し裁判でもやって、無罪にでもなったのかね
そんな事実があるなら示してもらいたいものだw
>>135 じゃあ、地中海に沈んだ駆逐艦の艦名は?
これに答えてみろw
無駄無駄
>>137 ゴキブリはホラ吹きのくせに、チキンでよ
追い詰められると逃亡するから見てなよ
つまるところ
名越なんかでオナニーにふけってると
ああいう幼稚で甘ったれた社会性のない人格になるという
良い見本を地でいってるわけで
>低学歴、無収入、親のすねかじりで正規就職も危ういお前は、彼女も無く、将来も暗い。
これって自分のことだろw 自分のことだけに良く書けているw
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 00:50:59 ID:wc9iEoo20
「名越捏造説」を裏付ける証拠は何一つ出てこなかった。
名越の調査は正しく、「世界から見た大東亜戦争」(展転社)の内容も信用できる。
認めないのは馬鹿のみ。
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 01:05:00 ID:wc9iEoo20
「南京戦失われた記憶を求めて〜兵士101人の証言」という本が出版されたとき、
阿羅健一は、新資料に期待を膨らませて書を開いたが、数行読んで失望したという。
その理由は、証言内容に、日本軍の常識を著しく逸脱する部分が多々あって、
阿羅いわく「本書は軍隊経験のない人間が書いたとしか思えない」と論評している。
後に東中野らが本書をつぶさに検証して、千数百箇所の誤記誤謬を指摘し、本書の
欺瞞性が明確となった。因みに、本書に登場する証言者は全て仮名で、誰の証言か
分からない。部隊が記されているので、同じ部隊に所属していた複数の元兵士に尋ね
ても、誰もがその内容に首をかしげ、誰が書いたか見当もつかないという有様だった。
因みに、この本の編者は、南京虐殺記念館の建立に尽力して、後に中国政府から表彰
されたいわく付の人物である。ここまで来て、初めて本書は捏造ではないか、という疑念
が強まったわけである。
何が言いたいかというと、本の信憑性を疑うには、内容に関して、それなりの丁寧で精緻な
検証が必要ということ。名越の本の内容に関して精緻な検証を一切せず、「全て名越の捏造」
と決め付けるのは、極めて乱暴であり、非学問的な所業である。
馬鹿には、その程度の感情的な否定しかできない、というということだ。
名越捏造論者は低レベルな宣伝屋に過ぎないのである。
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 01:12:33 ID:wc9iEoo20
>>137-139 罵倒と人格攻撃しかできないチキン野郎。逃げ回ってないで、学問的なことを少しは語れ、低能。
罵倒と人格攻撃しかできないのは、馬鹿左翼と朝鮮人の特徴だ。こんな豚どもに生きる値打ちはない。
氏ね、クズw
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 04:01:20 ID:n/05BCncO
>>142 へえ。
地中海に沈んだ日本海軍駆逐艦の名前を聞くと
人格攻撃になるのか。
なるほどこういう人か。
>>142 お前がやったことなんて、名越のコピペと
それにくっつけた小学生の読書感想文みたいな文章書いたことだけじゃん
それが学問的か?
お前って自分が言われたことをそのままオウム返しするんだなw
名越なんか学問板で振り回すと「バカ」「学問板にくるな」と
手厳しくやっつけられるもんな
何百回言われたんだw
子供の喧嘩みたいなレスしかできないお前は、やっぱり偽物旧帝大卒だ
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 19:12:40 ID:ceGPK8f9O
クソ豚には所詮その程度の反論しかできないのか
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 19:21:20 ID:ceGPK8f9O
名越の本が捏造だと言うなら、今すぐ精読して誤記誤謬を千数百カ所指摘しろ、低能
>>144 言ったとおりになったろw
チキンゴキブリは逆ギレして逃亡した
「つくる会」の教科書は、最初名越の「英国輸送船をかばって沈没した日本駆逐艦」の話を載せ
これが全く事実無根だったため、大恥をかいて削除した
名越は厚顔にも「つくる会」教科書の執筆者になりたがったが、当然のように断られた
名越の収集したという各国の要人の発言が、全部名越の創作であったとしても私は驚かない
なにしろ「アインシュタインの予言」を創作したという前科があるからだ
>>147 お前が「世界から見た大東亜戦争」のすべての発言について
いつ、どこでなされたもので
原語文をもってきて
聞き取りを行ったのが誰か、を証明するべきなんだよ
それがすべてあやふやなんだからなw
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 23:33:56 ID:ceGPK8f9O
あやふやなのではなく、きちんと調べようとしていないだけだ。
馬鹿は、自分では何もせず、ネットでブーブー不満を垂れるだけ。
名越の友人知己で生きている奴は多いし、「世界から見た大東亜戦争」の執筆者も多くは存命だ。
貴様等ニートは暇人なんだから、ネットに頼らず、自分の足で名越捏造の証拠を探しなさい。
本当は、名越の調査の信憑性を裏打ちしてしまうのが恐いんだろ、腰抜け
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 23:38:56 ID:ceGPK8f9O
名越の本が名越の捏造だという証拠は全く無い。
「名越の捏造」と言い張るなら証拠を出しなさい。それが挙証責任というもの。
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 23:42:38 ID:ceGPK8f9O
証拠を出さずに「名越の捏造」呼ばわりするのは無責任な誹謗中傷に過ぎない。
馬鹿には分からないようだが。分からず屋で低レベルなクソ豚の相手は疲れるぜ
じゃあ地中海に沈んだ駆逐艦の名前を教えてくれ
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 09:03:31 ID:gkSNmijS0
>>153-154 つまり地中海部分の捏造はしぶしぶ認めるものの他の部分は全部真実だと
言いたいのではないかな?
ああ、地中海で駆逐艦が沈んだ件は名越の大嘘だとやっと認めるのね。
>>153 疲れるんだったら無理してこなくていいよ
こっちだって幼稚でチキンな嘘つきに
無理していて貰う必要なんかどこにもないからね
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 21:09:13 ID:cAUmTVRTO
大東亜共同宣言には、東條英機の偽らざる本音がしるされている。
東條は植民地解放の英雄なのである。
このような偉大な人物を戦犯扱いして蔑む馬鹿は、
日本人の誇りを失ったクソ豚に過ぎない。
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/16(土) 00:00:26 ID:mftLtC7P0
大東亜戦争が植民地解放戦争であったという学問的真理を理解出来ない低能児は
氏んで良い。
東南アジア植民地諸国を解放した東條英機は現代のヒーローである。
その功績は織田信長やネルソン・マンデラにも勝るものがある。
東南アジア諸国民の日本に対する好感度は今も非常に高い。
馬鹿は悔しがっ認めたがらないが。
そして、日本と東南アジア諸国にとっての共通の脅威が、東條英機を嫌う中国なのだ。
賢明な諸君には、この意味するところの重大さが理解できるだろう。
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/16(土) 00:43:43 ID:mftLtC7P0
あまり知られていないが、東條首相はアメリカ軍の日系人部隊に
以下のような内容のメッセージを送ったという。
「アメリカのためにしっかり戦いなさい」
慈悲深い言葉である。東條の人柄が表れているではないか。
東條こそ、真の侍だったのである。馬鹿は悔しがって認めないが。
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/16(土) 01:07:39 ID:vq3Zk1OPO
バカサヨが戦陣訓のトリミングをしそうな予感w
小学生でも分かる話だが。
日本の主目的が、現地民族の独立なら、
先に朝鮮・台湾を独立させたり、
満州国を関東軍下でなく、満州人主体の体制にしろって。
実際は、日本の都合のみが行動原理(他国もそうだが)
真の目的は資源確保。大義名分は目先の都合。
大東亜戦が、結果論で現地独立に影響を与えても、
結果論なら、植民地の宗主国に打撃を与えたナチスドイツの影響も多大。
1941年1月8日、東條英機陸相によって全陸軍に布達された「戦陣訓」は
明治の健軍以来、帝国軍人の思想的バックボーンとなっていた「軍人勅諭」の戦場版ともいうべきものであった。
「戦陣訓」のなかで特筆すべきことは
「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。」
「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」
といい、「以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。」として
天皇の名によって軍人に死を強制していたことであった。
たしかに「軍人勅諭」も死に臨む核頃情感に対する絶対服従を要求していたが
「戦陣訓」ほど軍人に対し露骨に死を強制したものはかつてなかった。
ここにみられるのは、国家と天皇と個人を一体のものとしてみる一元的な国家観であり、
天皇への絶対服従によって個人の尊厳を抹殺し、
天皇のために喜んで死ぬことを最高の名誉としてたたえる死の哲学であった
陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月7日に上奏、翌8日の陸軍始の観兵式において全軍に示達した。
同日に新聞などのメディアはこれを大きく報じた。
また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。
一般国民に対しては用紙統制が行われているなか、1941年だけでも少なくとも『戦陣訓述義』『戦陣訓話』など12種の解説書、
『たましひをきたへる少国民の戦陣訓』『少年愛国戦陣訓物語』など5種の教材が出版許可を受けて出版されており、
以後も敗戦まで種々のものが出ている。このほかに、「戦陣訓カルタ」なども作られた。
また、学校での教育にとりいれられ、暗記が推奨された。そのため、現在でも「暗誦できる」人もいる。
今日では太平洋戦争中で発生した日本軍の玉砕や全滅、民間人の自決を推奨し、降伏を禁止させる原因であると理解されている。
日本兵は、捕虜となったことが分かれば不名誉とされた。事実、捕虜となった当人はもとより親兄弟も非国民と罵られ、
心中に追い込まれた家族も少なくなかった。さらに、捕虜交換などによって捕虜が帰ってきた場合、
直後に自決が強要されたり、スパイ容疑や軍規違反を犯したなどの理由によって秘密裏に殺害された捕虜も相当な数に上っている。
さて、東條英機自身はどうであったか
「生きて虜囚の辱を受け」、敵であったものの手によって処刑されたのである
さぞかし靖国での居心地は悪いであろう。
このような東條英機を無責任に賛美するものはゴキブリである
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/16(土) 22:42:47 ID:mftLtC7P0
>>163-164 お前ら、知識が乏しすぎて論破されまくりではないか。
コピペを貼り付け、脳内の妄想を撒き散らすだけしか能がない愚かな宣伝屋。
例えば、
>>163だが、戦陣訓は兵士を精神的に強化し鼓舞するものであって、
死の哲学などではないし、取り返した捕虜や民間人に自決を強要した例など
まったくない。沖縄での集団自決は住民が望んだもので軍が強要したもので
はない。
何もかも、根拠のない嘘だらけだ。
なぜ、このような作り話をするのか理解できない。
馬鹿豚の頭の中を見てみたいものだ。知的障害があると極左に偏向するという
のは本当かもしれない。あるいは、反日外国人による嫌がらせの類か。
166 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/16(土) 22:57:26 ID:mftLtC7P0
★「ハーレムのヒトラー」と異名を取った黒人解放指導者ジョーダン
「我々、誇りある黒人は一致団結して日本を支援すべきである。何故なら日本は
彼等のためだけに戦っているのではなく世界の有色人種を代表して白人に立ち
向かっているからだ。
星条旗の為に入隊するような黒人はとんでもない愚か者でしかない。命を懸ける
べきは、東條将軍のためなのだ」(「日本から救世主が来た」より)
東條英機は、黒人を解放し、人種平等の世界を切り開いた偉人なのである。
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/16(土) 23:07:38 ID:JvRdJYMn0
ドイツはそれまでに植民地主義によって不当に蓄えたヨーロッパの富を霧散霧消させたし、
日本はアジアから白人の植民地支配を叩き潰した。
戦後両国の繁栄は神様からのご褒美。
それで得をしたのは米英だよね
>>165 知識が乏しいのはお前の方
戦陣訓の下りはウィキペディアその他にも書かれていること
「捕虜になるくらいなら死ね」ということのどこが
死の哲学じゃないというのかね
それにお前に論破された覚えは一度もないんだがな
中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田w
>>165 >沖縄での集団自決は住民が望んだもので
まさに戦陣訓によるマインドコントロールの結果だな
自分で墓穴掘って楽しいかw
>知的障害
自己紹介乙
自己愛性人格障害の持ち主は簡単にネトウヨになることを
お前自身が証明している
「戦陣訓の歌」という戦時歌謡もあった
これほどまでに戦陣訓は国民生活に浸透していたのである
多くの軍人、民間人に自決を強いておきながら
自身は「生きて虜囚の辱め」を受け
敵によってくびり殺された東條英機は
有言不実行のチキン野郎である
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 23:43:08 ID:smEFY+Ei0
多くの軍人、民間人に自決を強いておきながら
自身はマッカーサーに取り入りのうのうと生き恥をさらした
ヒロヒトは最低最悪の売国奴であると同時に姑息、卑劣なチキン野郎である
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 00:11:02 ID:U26kzSE50
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 00:18:20 ID:U26kzSE50
>>169 ああ、ウィキペディアね。「戦陣訓」の項目にはこういう但し書きがあるではないか。
「この記事の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。
出典を明記するためにご協力をお願いします。」
「この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため
偏った観点から記事が構成されているおそれがあります。詳しくはノートページを
参照してください。」
笑っちゃうね。こんな内容、全く信用できない。根拠もなく「名越の捏造」を
言い募りながら、情報源のない偏った記事を信じ込む馬鹿がこの世に存在するんだぜ。
こういう、頭の悪い偏向した低能児をダブスタ・バカブタと呼ぶ。
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 00:32:25 ID:U26kzSE50
戦陣訓には、皇軍の思想、行動規範、徳目といった広範にわたって素晴らしい文章が書かれている。
その一だけでもこれだけ書いてある↓その三に出てくる「生きて虜囚のうんたらかんたら」はごく一部。
第一 皇国
大日本は皇国なり。万世一系の天皇上に在しまし、肇国の皇謨を紹継して無窮に君臨し給ふ。(以下略)
第二 皇軍
軍は天皇統帥の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し皇運の扶翼に任ず。(以下略)
第三 皇紀
皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。(同)
第四 団結
軍は、畏くも大元帥陛下を頭首と仰ぎ奉る。渥き聖慮を体し、忠誠の至情に和し、挙軍一心一体の実を致さざるべからず。(同)
第五 協同
諸兵心を一にし、己の任務に邁進すると共に、全軍戦捷の為欣然として没我協力の精神を発揮すべし。(同)
第六 攻撃精神
凡そ戦闘は勇猛果敢、常に攻撃精神を以て一貫すべし。(同)
第七 必勝の信念
信は力なり。自ら信じ毅然として戦ふ者常に克く勝者たり。(同)
軍人への教えとしては実に素晴らしい内容である。「生きて虜囚のうんたら」ばかりを
顕微鏡で拡大し、重箱の隅をつつきながら狂ったように東條を叩く馬鹿の大半は、
戦陣訓の全文など興味ないだろうし、読んだこともあるまい。戦陣訓は素晴らしい。
これのどこが住民の集団自決に結びつくのか、正常な俺には全く理解できない。
>>175 「生きて虜囚のうんたら」以外もダメだな。
天皇に忠誠、精神論で行け、な内容で、
戦場での理性的な判断を勧める内容ではない。
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 01:12:02 ID:U26kzSE50
「戦陣訓の歌」を持ち出した馬鹿がいたから、その歌詞でも載せておくか。
1.夫れ戦陣のつはものは ただ勅諭を命とし 忠に魁け義に勇み 大日本の花と咲け
2.神武の精神厳かに 命令一下欣然と 生死を越ゆる団結は 我が皇軍の誉れなり
3.戦へば攻めこれを取り 妨げば敵を懼れしむ 勝たずば止まぬ我が武威を 青史に赫と輝かせ
4.天にも恥じぬ赤誠は 忠孝一に志し 強く正しく欲に勝ち 清節武人の名を惜しめ
5.ああ厳として大いなる 「戦陣訓」を胸に留め 大国民の誇り持て 皇威を外に範すべし
いやいや、格調高い「戦陣訓」から生まれた気高い歌ではないか。戦陣訓自体は軍人向けだから、
一般民衆にはあまり浸透していなかっただろうが、この歌自体は、戦時中に大日本帝国臣民を
鼓舞していただろうと思われる。これのどこが民衆に死を強要するのか。
馬鹿は必死で、「生きて虜囚の南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるようだが、そもそも戦陣訓は
軍人の心構えを説くもので、死を押し付けるものではない。東條を罵倒する理由は全くない。
なぜ、馬鹿が東條たたきに必死になるのか、正常な俺には全く理解できない。
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 01:20:58 ID:U26kzSE50
>>176 だから、「戦陣訓」は軍人の心構えを説くものだ、って言っているではないか。
よく読め、低能。
そもそも、戦場では、冷静に考えている間に敵の銃弾の餌食になってしまう。
平和ボケとは恐ろしい。ママに甘えて育ったクズの感想は浮世離れしていて値打ちがない。
ちなみに、個々の戦略や戦術は、末端兵士が決めることではなく作戦将校が決めることだから、
それは別途教育された。「戦陣訓」の意義が分からない馬鹿
>>176が多すぎて実に嘆かわしい。
>>178 >末端兵士が決めることではなく作戦将校が決めることだから
こんな戦陣訓があるから、末端兵士を精神論で使い捨てる作戦将校が普通に居たのかもなw
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 01:33:53 ID:U26kzSE50
「沖縄・渡嘉敷島での集団自決」なるものは、残虐なアメリカ軍の接近に対して、
恐怖のあまりパニックに陥った住民たちや、守備隊の足手まといになることを嫌った
村の有力者たちが、自ら進んで自決を選んだものである。軍命ではない。これが常識。
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 01:52:15 ID:U26kzSE50
>>179 揚げ足取り君には何を言っても無駄だろうが、当時の日本軍が世界でも
きわめて精強だったのは事実であり、その証拠に、東南アジアは短期間で
白人が降伏し、日本軍が席巻した。
要するに、戦陣訓はそういう強い軍隊を支えるバックボーンだったのである。
当時、戦争に臆病者を向かわせるわけにはいかなかった。鍛え上げて一流の
軍人にする必要があった。戦争が始まればなおのこと。だから、当時として
軍人精神を叩き込む「戦陣訓」の重要性は高かったのだ。
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 16:05:35 ID:fAhPAUmA0
同時代の毛沢東の爪の垢でもせんじて飲ませてやりたい人だね
開戦だなんて・・・
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 16:07:36 ID:fAhPAUmA0
どうあれ同時代の毛沢東と比較しても勝てまい
バカのオナニーもいい加減飽きた
きっと東條英機にケツ穴犯されながらねぶられる夢でも見て
夢精でもしてるんだろうさ、みっともない
>>176の言ってることは全くの正論じゃないか
よっぽど中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田にとっては
戦陣訓が日本軍の非人道性を証明するものとして致命的なんだな
出典が明らかなものだけでも引用してみるか?
昭和18年、中支の戦場において『戦陣訓』を受け取った、のちの戦記作家・伊藤桂一(当時・陸軍上等兵)は一読したあと
「腹が立ったので、これをこなごなに破り、足で踏みつけた。いうも愚かな督戦文書としか受けとれなかったからである。
「戦陣訓」は、きわめて内容空疎、概念的で、しかも悪文である。自分は高みの見物をしていて、
戦っている者をより以上戦わせてやろうとする意識だけが根幹にあり、それまで十年、あるいはそれ以上、
辛酸と出血を重ねてきた兵隊への正しい評価も同情も片末もない。同情までは不要として、理解がない。
それに同項目における大袈裟をきわめた表現は、少し心ある者だったら汗顔するほどである。
筆者が戦場で「戦陣訓」を抛(おほ)つたのは、実に激しい羞恥に堪えなかったからである。
このようなバカげた小冊子を、得々と兵員に配布する、そうした指導者の命令で戦っているのか、
という救いのない暗澹たる心情を覚えたからである。」と証言している。
平成20年新潮文庫 兵隊たちの陸軍史 伊藤桂一著
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ」
この一節が、中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田にとどめをさしたのであった
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 21:48:09 ID:Kh6q6H3/O
戦陣訓の意義を理解できないバカ共がウジ虫のように湧いてきた
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 21:57:12 ID:Kh6q6H3/O
>>185 伊藤某という無名の下士官の幼稚で粗暴な言動がそんなに有り難いか?
低レベルな馬鹿同士共鳴した訳だな。良かったな、クズ
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 22:00:28 ID:Kh6q6H3/O
>>184 バカサヨは下品だな。
上品な俺とは雲泥の差だ。
中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田が、断末魔の叫びを上げている
こいつは3レスも使ってナニをしているかわかっているのだろうか
少なくとも自己客観視のできる人間ならば、みっともなくて見返すこともできないだろう
大日本帝国の時代、とうとう主権の担い手である「国民(市民)」は生まれることはなかった
「お上、下部」の単純素朴な臣民感情につけ込んで強力なマインドコントロールを施し
十年に一度の割合で国運を賭して軍事的冒険に走った
まるで戦争がすべてを解決する万能薬であるかのように
その結果、大日本帝国は滅亡した
社会の中堅を支える層と前途有為な若者を大量に道連れにして
中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田は、その当時の奴隷根性のまだ抜けきっていないだけの物体である
だから戦陣訓など礼賛し、滅びの美学に酔っているのだろう
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/19(火) 22:18:15 ID:IRa3U87nO
東條英機は植民地解放の英雄であり、人種差別を終わらせたヒューマニストである。
忠君にして愛国者。東條英機こそ、現代の平和馬鹿が失った全てを持っていたのだ。
じゃあ何で死刑になったんだよ
192 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 04:42:11 ID:vn5KzJSe0
ヒロヒトこそが裁かれるべき。今からでも。
>>190 東條英機の肉便器、今日も元気に路上生活か?
東條英機には、自分で言ったことを実行できなかったチキン野郎だという評価しかありえない
>>190 中卒携帯無職(ついでに嘘つき)コピペゴキブリ吉田は
あいかわらず具体性のない小学生の作文みたいなレスだな〜
少しは事実に基づいて話をしろよ
あ、名越しか読んでないんじゃ無理かw
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/21(木) 12:34:48 ID:K9a6hdgXO
大東亜戦争中、東條は多くのユダヤ人を救った。
同盟国の反ユダヤ政策に背いて助けたのだ。
東條こそは、真の人種平等主義者であり、心暖かいヒューマニストなのだ。
馬鹿は必死で否定するが
樋口季一郎の功績を横取りしただけ
樋口を問責しようとさえしていた
だから事実に基づいて語れと言うのだ。ゴキブリが
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/21(木) 19:31:49 ID:kAyrqaEW0
憲兵を駆使した戦争指導がヒューマニスト!?
本当に東條英機の戦争指導について知ってるの?
別に私は東條大将について悪意はないですか、当時から東條幕府と言われて
いたように、独裁者の感はありますね。
1938年3月、ソ満国境で立ち往生し、凍死の危機にさらされていた
ユダヤ人数千人を助ける決断をしたのは
当時ハルピン特務機関長だった樋口季一郎だった。
当時関東軍参謀長だった東條英機は、外交ルートから加わったドイツの圧力により
樋口を問責したが、樋口はこれに対し「日独は同盟国であるが、日本はドイツの属国ではない」
と正論を展開、東條は結局おとがめなしとするほかなかった。
樋口は今、ユダヤ人に対する功績のあった者をたたえる
イスラエルの「ゴールデン・ブック」の第4位にその名が刻まれている
東條がユダヤ人を救ったというなら、
なぜ奴の名はゴールデン・ブックに載ってないのかねぇ〜w
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/22(金) 07:43:03 ID:c1p8LHYaO
そして、樋口をかばうために、東條はユダヤ人保護を自らの判断とし、ドイツの抗議をはねつけた。こうしなければ、樋口の問責・更迭は避けられなかった。
東條と言う男は、身を挺して手下を守る義侠心あふれるヒューマニストなのだ
という後付けの言い訳をしないと
夢の中で東條にお仕置きされる中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田であった
202 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/23(土) 11:46:40 ID:u9fgGw3m0
203 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 00:08:35 ID:q7SeHJgT0
大東亜政略指導大綱によれば、ジャワ、ボルネオ等は日本領土にするように書かれているが、
この部分は、何故か公表されず、前線の兵士や連隊長クラスでも知らされていなかった。
理由は東條英機が後に語る通りであって、彼は、この帝国領土化に強く反対であり、大東亜
共栄圏を作るなら、これらの国々の独立も必要と考え大東亜政略指導大綱のこの部分の改定
を考えていたのである。
大東亜会議には改定は間に合わなかったが、東條のあとを受けた小磯がインドネシア独立を
容認を声明し、インドネシアは歓喜の渦に巻き込まれた。
つまり、大東亜共栄圏構想に最も忠実だったのは東條英機自身であり、彼が声明した大東亜
宣言は、アジアのみならず、アフリカ諸国をも感動させるに足るものであった。大東亜宣言
の崇高な理念は、今もアジア諸国(特定アジアを除く)に息づいているのである。
馬鹿は狂ったように否定するが。
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 00:22:49 ID:q7SeHJgT0
★ジョイス・C・レブラ コロラド大学歴史学部教授
「大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、
組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。」
「日本の敗戦 それは勿論、東南アジア全域の独立運動には決定的な意味をもっていた。今や真の
独立が確固とした可能性となると同時に西洋の植民地支配の復活も許してはならないもう一つの可能性
として浮かび上がってきたのである。民族主義者は日本占領期間中に身につけた自信、軍事訓練、
政治能力を総動員して西洋の植民地支配復帰に対抗した。そして、日本による占領下で民族主義、
独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後に
なって思い知ることになるのである。」
(「東南アジアの解放と日本の遺産」)より
日本軍政は、東南アジア植民地諸国の人々に、強い自信と勇気と日本精神を叩き込んだ。これに
よって、東南アジア諸国の人々は独立への自信を深め、終戦後、宗主国が戻って来ても屈服せず、
独立戦争、あるいは話し合いによって独立を勝ち取ったのである。
大東亜戦争によって東南アジア植民地諸国が独立したのは紛れもない歴史的事実なのである。
馬鹿は必死で否定するが無駄だ。大東亜戦争は侵略戦争などではなく、植民地解放の聖戦なのだ。
205 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 00:31:08 ID:q7SeHJgT0
★元米国司法長官ロバート・ケネディ(ジョン・F・ケネディの実弟)
キューバ危機時の国家安全保障会議執行委員会において、ケネディ弟がケネディ兄(大統領)に渡したメモより
「真珠湾奇襲を決断した時の、東 条 首 相 の 気 持 ち が よ く 分 か る」
*キューバ危機勃発当初、米国首脳部では交渉決裂の際は、奇襲によるキューバ基地爆撃も
やむを得ないという意見が優勢だった。「兄が東条になってしまう」これもロバート・
ケネディの発言。
ケネディ大統領が秘密録音していた会議記録「ケネディ・テープ」によると、21回の会議
で「パールハーバー(真珠湾)」という言葉が13回、出席者の口から出ている。
当時の米国首脳部は、キューバ危機当時のアメリカの立場が、戦前の日本のそれに極めて
酷似していることを理解せざるを得なかったのである。
これが、何を意味するか?
大東亜戦争は侵略などではなく、まさに自存自衛のための戦争であり、侵略ではなかった、
ということになる。東條らは、自衛のために大東亜共栄圏構想を実行に移し、植民地を独立
させ、全ての国が他国の独立と伝統を尊重しあうパラダイスを建設しようとしたのだ。
馬鹿は認めないが。
キューバ危機と対日石油禁輸は同レベルで論じられた、というのが歴史の真実だ。
>全ての国が他国の独立と伝統を尊重しあうパラダイス
関東軍の下に置かれた満州国w
中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田が
狂ったように名越コピペを貼り付けて火病っています
しかし無駄だ
名越二荒之助の著作はすべて創作だからである
>植民地解放の聖戦なのだ。
はいはい負け惜しみ負け惜しみ
そのために310万人も犠牲にするなんて
国家として狂ってる
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 11:41:54 ID:rdSB4cGM0
だからー、自存自衛と東亜新秩序は意味合いが違うんだって!
終戦末期には戦争目的を自存自衛に訂正しています。
急いで戦争目的を考えたからそうなったわけで、
外国人のコメントを頼りにするのではなく、いい加減自分で
考えてください!
>>209 >外国人のコメントを頼りにするのではなく、いい加減自分で
>考えてください!
コピペゴキブリにそんなこと言っても理解できるだけの頭はない
外国人が大日本帝国を絶賛してる=大日本帝国はすべてにおいて正義だ
の一点張り
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 22:29:01 ID:mvAROrKCO
名越の調査は正しく、一部に誤記誤謬はあるが信用できるものである。
捏造だと言い張るなら、証拠を示して貰おうか
212 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 22:35:56 ID:mvAROrKCO
因みに、コロラド大学・レブラ教授の大東亜戦争評価は、名越が出典ではない。
馬鹿はそんなことも理解できず、「名越の捏造ニダ」とわめき散らして、鬼の首を取ったように大騒ぎだ
愚かな低能豚君は実にみっともないではないか。指差して笑ってやれ
213 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/25(月) 06:33:16 ID:oN05nXLxO
>>1 勉強不足だ!以下に参考資料を列挙するから読みたまえ!君の知力では辞書をひきまくらんと読めないだろうが…
1994年12月記(竹内)
参考文献
『証言する風景』刊行委編『証言する風景』風媒社1991
池田陸介「三ケ根山の慰霊碑群の慰霊の意味を問う」(付分布図)1993
服部勇次『三ケ根山慰霊碑群』1992/同『三ケ根山戦没者之碑』1994
荻野忠ハ編『比島観音建立20年史』比島観音奉賛会1991
塩田道夫『天皇と東条英機の苦悩』日本文芸社1988
ついに中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田は
名越が第一次大戦の日本駆逐艦の美談を捏造したことを認めた
名越は「ペリリュー島のニミッツの詩」についても杜撰きわまりない
取材をしている
名越の「名言集」はこのように杜撰な取材と創作によって編纂されたものと思われ
信憑性ははなはだ薄いものなのである
その上、コロラド大学・レブラ教授の発言については
その出典すら明示できないお粗末さ(信憑性皆無)
こんなゴキブリが「旧帝大卒」とは笑わせる
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/25(月) 19:35:22 ID:78Rw9C/EO
駆逐艦の話は、名越の捏造ではなく、誤記誤謬である。
捏造ニダ、と言い張るなら名越が捏造した証拠を示しなさい。
>>215 今更見苦しいぞ
被雷した駆逐艦と全然無関係な話をでっちあげているじゃないか
それを「誤記誤謬」と言い逃れるお前の神経の方がおかしい
今までだってこの板で「名越は信用するな」と何人に言われてきた?
名越の評価なんて、ここではそんなもんだ
お前が見苦しく粘着しているだけだw
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/26(火) 00:45:33 ID:zfViR8K90
ここも名越ネタか。
名越が編者になった「世界から見た大東亜戦争」という本は、執筆者が多数いて、
名越もその一人ではある。だから、他の執筆者の存在を無視して、全部を名越の
捏造と決め付けるのは明らかに無理がある。
それに、例えば、吉田清という人物が「済州島で日本軍が慰安婦狩りをした」
という暴露本を出したとき、その内容に疑問を持った多くの人物が済州島で実地
調査を行い、「慰安婦狩りを裏付ける証拠はなかった」という共通する結論に
達した。ここでようやく秦郁彦が吉田を直接電話で問い詰め「その程度のつくりは
誰でもやるだろ」的な自白を引き出し、この本の内容は捏造と断定された。
何を言いたいか、というと、本の個別の部分に多少の誤謬や脚色があっても、その本
全体の信憑性を否定することにはならない、ということだ。全体が捏造と決め付ける
には、全体を否定するほどの多数の誤記・誤謬があることを明らかにしなければならない。
その上で、編集者や執筆者に質し、彼らが「捏造である」と認めないことには、
その本が捏造であると断定することはできないのである。
だから、従軍慰安婦にしても南京大虐殺にしても、明らかに事実と異なった部分を
多く載せた本が一人歩きし、日本の歴史に不当な泥を塗っているのである。
だから、名越編集本が日本と大東亜戦争を賛美しているなら、対極にそういう本が
あってもいいと思う。内容に関して議論するなら大いに結構だ。だが、全部捏造、
というのは明らかに飛躍しすぎた暴論にすぎないと思う。
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/26(火) 01:19:48 ID:zfViR8K90
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/26(火) 12:39:44 ID:CZEoWnvdO
三文字正平弁護士
市川伊雄住職
飛田善美火葬場長
一部氏名の読み方わかりません。教えて下さいm(_ _)m
>>217 何が言いたいのかよく分からんが
要は名越を擁護したいだけだろ、ネトウヨ君
君は捏造を「多少の誤謬や脚色」という耳障りの良い言葉でごまかしているにすぎない
「名越だけは引用するな」と右翼の間でも言われていることを
知らないと見える
なにしろ君の大好きな「つくる会」の教科書に
大恥かかせたのが名越の駆逐艦ネタなんだからな
>>217 「誤謬や脚色」とはっきり分かっているものを
学問板で扱うのはどうかと思う
君と同じメンタリティーの持ち主が集う板は他にいくらでもあるのだから
ここでそういうご都合主義を展開しないでほしい
222 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 06:10:25 ID:8/VO0ErkO
靖国神社万歳o(^-^)o
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 08:14:35 ID:ioehPicsO
一部の誤記誤謬を根拠に、全体を否定するのは間違いだ。
名越の本に関してもそれはあてはまる。
つくる会が恥をかいたかどうかが問題なのではなく、
一部の誤記誤謬を根拠に名越の本の全てを捏造ニダと言い張るのが問題なのだ。
少なくとも、東南アジア要人の発言には根拠があるようだし、正しいと見なすべきだろ。
何度も繰り返すが、外国人の名前の日本語表記に正解はない。
日本語表記がちょっとおかしい、というのは、所詮日本語表記の問題に過ぎず、
発言内容云々とは無関係。発言内容が捏造ニダ、と言い張るなら証拠を示しなさい、低能豚君。
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 08:22:29 ID:ioehPicsO
これは大江裁判でバカサヨが用いた手法なのだが、
曾野綾子の取材は一部に誤謬があるから全部おかしい、
鉄の暴風は一部が正しいから全部が正しい、
という詐術を裁判で使用し、馬鹿な裁判官はまんまとだまされた。
馬鹿はこういう詐術に弱いんだ。俺はだまされないが。
で、名越のコピペはどうしたの
捏造するような人間だと満天下に知れ渡ってるので
怖くて使えないの?
「誤記誤謬」てんのは「モハマッド・ナシール」を「モハメッド・ナチール」と
書くというレベルの話
全く事実が存在しない「物語を創作」するのは「捏造」というのだよ
ゴキブリ
では、中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田の自作自演による
名越創作発言集コピペオナニーショーをご覧下さいw
227 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 22:03:52 ID:qkUMyVrc0
★アーノルド・J・トインビー 歴史学者(1956年10月28日/英紙「オブザーバー」より)
「第2次大戦において日本人は日本の為というよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々の為に偉大なる
歴史を残したといわねばならない。その国々とは日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれて
いた国々である。
日本人が歴史上に残した業績の意義は西洋人以外の人類の面前においてアジアとアフリカを支配してきた
西洋人が過去200年の間に考えられていたような不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。」
マレー半島やインドネシアで日本軍に蹴散らされて逃げ惑う白人の醜態を見て、東南アジアの人々は、
「アジア人でも白人に勝てるのだ」という強い自信を手に入れた。この自信こそが東南アジア諸国独立
の原動力となる。後に東南アジア諸国の高官となった人々の証言によれば、日本軍の到来によって祖国
の独立は近いと確信したという。日本軍は、植民地の独立を約束し、教育の充実、行政の整備、農業
工業技術の伝授、現地軍の組織と強化を行い、独立のために力を尽くした。これが大東亜戦争の真実
である。馬鹿は認めないが。
この記事の出典は、イギリスの新聞である。愚かな馬鹿豚君には名越の捏造に見えるようだ。
228 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 22:12:24 ID:qkUMyVrc0
★ドイツの歴史教科書 産経新聞「教科書が教えている歴史より」 歴史教科書=中等教育用
「日本のナショナリストや軍国主義者は、黄色人種を白人の支配から解放するために戦争を遂行した
と主張した。この中で自分たちの利害を包み隠しているが、真実をついた面もある。
ベトナムやインドネシア、インドなど、欧州諸国に支配されていた植民地諸国の国民に
よる独立運動は、日本(初戦)の勝利によって加速された。数年のうちにニッポンは
欧州の植民地支配層を追い出し、こうした支配層の特権が大きく損ねられたからだ。」
大東亜戦争によって西欧植民地諸国の独立が著しく早まった、というのは疑いのない
学問的・歴史的真実なのである。このドイツ教科書が最も鋭く大東亜戦争を分析している
かも知れない。確かに、日本は資源を求めていた。それは事実だ。しかし、同時に、
日本軍政は植民地諸国の独立も約束した。それも事実だ。結果として、西欧植民地主義
は終焉を迎えた。だから、大東亜戦争を植民地解放戦争と呼んで構わない。
馬鹿は死んでも認めないが。
これも名越本からの抜粋ではない。産経新聞だ。残念だったな、馬鹿豚君。
229 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/27(水) 22:54:27 ID:qkUMyVrc0
★イギリスの大歴史学者H・G・ウェルズ氏(終戦直後に早くも大東亜戦争を高く評価)
「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人種と有色人種の平等をもたらし、世界連邦の
礎石を築いた」
★P・Fドラッカー(経営学の泰斗)
「今次大戦で結局勝利したのは日本である」
以上のように世界の識者は大東亜戦争を高く評価している。馬鹿は大東亜戦争を侵略戦争と
卑下し、自虐の愉悦に浸る。こいつらは狂ったマゾヒストであり、負け犬根性が骨の髄まで
しみ込んだ人間のクズ、もしくは外国人なのだ。
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 01:19:34 ID:okyReSkCO
日本人の歴史教科書 日本人が知ってはならない歴史
個人的には
中西輝政教授の書籍を薦める
でも結局名越の本に載ってたんだろ
お前(ID:qkUMyVrc0)それしか読まないから
H・G・ウェルズを歴史学者だと言っている時点でお里が知れてる
ID:qkUMyVrc0=中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田
名越からの引用じゃないというなら、お前が原文に当たったのかな
じゃあトインビーは原文から引用して貰おうか
産経新聞(右翼御用達)の記事は何年何月何日付だ
>>229も前後含めて原文を引用して貰いたいものだな
できるわけないよな
全部名越の「脚色入り」怪しい本で読んだんだろw
233 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 22:09:46 ID:IJ23C8BpO
東條英機は、植民地を解放し人種差別主義を終わらせ、世界連邦の礎を築いた英雄なのだ
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 22:12:16 ID:IJ23C8BpO
H・Gウェルズは偉大な歴史学者だ。
馬鹿が知らないのは当然だろうが
235 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/29(金) 12:53:25 ID:olhBMOlGO
「世界から見た大東亜戦争」(展転社、名越二荒之助編)は、日本人必読の本。汚らしい自虐史観から抜け出し、日本人本来の清らかな魂を取り戻せます。
はいはい逃亡逃亡
逃亡の上に火病
捏造常習犯の名越二荒之助を持ち上げる
中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田の自称経歴も
当然のように捏造
ほれほれ、原文なり出典なりを持ってこいw
名越に頼らないでお前が探してきたんだろ
(でも結局出典は名越だと
>>235で白状してるわけだが)
「自虐史観」などという言いぐさを常用するのが
「自慰史観」患者特有の症状である
しかしそのオナニストたちからも見捨てられた破廉恥本
「世界から見た大東亜戦争」
誤記誤謬と脚色と創作とに満ちております
違うというなら原文持ってきなw
>>234 >H・Gウェルズは偉大な歴史学者だ。
司馬遼太郎は偉大な歴史学者だ。というのと同じ。
それにH・Gウェルズは歴史専従でもない
他の分野の文筆業で有名なのだ
司馬よりもっと遠いな
240 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/01(月) 00:58:09 ID:d4iQfRuw0
★オリヴァー・リトルトン(英保守党内閣・生産相、1944年)
「米国が戦争に追込まれたというのは、歴史を歪曲するも甚だしい。米国が余りひどく日本を
挑発したので日本は真珠湾攻撃の止むなきに至ったのだ。」
そういうことです。大東亜戦争が自存自衛のための戦争であったのは疑いのない事実です。そして、
日本は東南アジア植民地を解放し、大東亜共栄圏を作ろうとした。至極当然のことであり、実際、
大東亜戦争が終わった後、すべての東南アジア植民地は独立を果たしたのである。大東亜戦争が
無ければ、これらの植民地諸国の独立は30年以上遅れただろうといわれる。
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/01(月) 01:25:28 ID:d4iQfRuw0
★ノンチック(元マレーシア上院議員)
「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見た時に
今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかもマレーシアを占領した日本軍は日本の植民地としないで
将来のそれぞれの国の独立と発展の為に、それぞれの民族の国語を普及させ青少年の教育をおこなって
くれたのです。」
精強な日本軍の戦いぶりが、東南アジアの人々に勇気と自信を植え付け、これが後の独立運動の原動力
となっていく。そして、日本軍政が植民地諸国を独立国家として独り立ちできるよう、民族教育を施した
ことで、東南アジア諸国の独立は秒読みとなったのである。大東亜戦争の一つの側面が、植民地解放戦争
であったのは疑いの無い歴史的事実であり、真の日本人ならば、この点をしっかり理解したうえで、
世界に残る偉業を成し遂げた偉人たちを賛美する必要がある。日本人なら、靖国神社に参拝するべきだ。
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/01(月) 01:30:18 ID:d4iQfRuw0
H・Gウェルズは、小説家、文明批評家そして思想家でもあり、歴史への造詣も深かった。
彼の大東亜戦争評価は、思想家として至極まともであり正鵠を射ているといえよう。
>>241 植民地っていけないんですかね?
現在も日本は日本の植民地じゃないですか
その点についてはどーおもってんのかね
244 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/01(月) 12:45:39 ID:thJyY1HOO
チャンドラ・ポーズは、東條の声明した大東亜共同宣言を絶賛した。そしてインドは今でも日本の友好国。
全く同じコピペを何回繰り返せば気が済むんだろうね
ほんとにオナニーだなw
このバカは
>>244 今のインドはチャンドラ・ポーズと何の関係もないがなw
>>240-241 おい、自分で拾ってきた原文からの訳か?
どうせ名越の誤記誤謬、脚色、創作全開の
「世界から見た大東亜戦争」からの引用なんだろ
一個人の一見解(それもきちんと引用されているか怪しい)に過ぎないものを持ってきて
それがすべてであるような叙述トリックは、小学生の読書感想文並みだ
いや、立派な感想文にはとうてい及ばないだろう
哀れで無様なコピペゴキブリ吉田w
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 22:42:41 ID:JFZbgoa40
大東亜戦争は、半世紀経って振り返ると米はその目的を殆ど果たしていないのに、日本は開戦の目的、
一、アジア植民地解放、
二、経済的繁栄、
三、平和安定国家の建設
の三つを完全に果たしているのである。大東亜戦争の真の戦勝国は日本なのだ。
248 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 22:45:21 ID:JFZbgoa40
★大東亜戦争とオリンピック
「大東亜戦争以前では、白人国中心で、精々三〜四十カ国の参加で、黒人など奴隷と見なされ問題にされなかった。
日本が第一次大戦以来、一貫して叫んできた人種差別撤廃の提案は、大東亜戦争によって見事実現したのである。」
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 22:58:42 ID:JFZbgoa40
★ワインバーガー米国元国防長官
「マンデラ大統領の就任式には世界のトップリーダー多数が参列したが、
彼が希望の星と思い続けていた日本から、羽田首相の姿が見えなかった。
私は彼の歴史感覚を疑う」
★ネルソン・マンデラ南アフリカ大統領
「日本をモデルに私は南アに虹の国を作りたい。何故なら日本の奇蹟とも
言うべき成功は、私たちに大きな励みと力を与えてくれた」
大東亜戦争は植民地解放と人種差別主義の終焉をもたらした。その意義は
はかり知れない。最近の日本の政治家、特に「リベラル」を標榜する連中
や左翼は、大東亜戦争の本当の意義を理解せず世界中の顰蹙を買っている。
与党政治家、しかも首相までが自虐オナニーに励むようでは、日本の未来は暗い。
自虐オナニーに励むマゾヒストは、東京裁判大好きな馬鹿豚君だけで十分。
こいつの無意味な人生は死ぬまで真っ暗だろう。ざまあみろ、バーカ
>>247 >一、アジア植民地解放
だからできていないんだよ
降伏文書に調印したときにすべての占領地は宗主国に返還してるんだよ
>二、経済的繁栄
それは早く見積もっても1970年代からだ馬鹿、それまでは
戦災のもたらした惨禍にあえぎ、アメリカのお情けで潰れずに済んでいたんだよ
為替1ドル=360円という優遇制度をはじめとしてな
>三、平和安定国家の建設
それもアメちゃんが押しつけてくれた憲法9条と
ただで提供してくれた核の傘のおかげだよ、馬鹿
つまりすべて敗戦国日本を戦勝国アメリカが助けてくれたことによるものだ
その程度のことも知らないのか、馬鹿
戦後、植民地とされていた地方が独立していったのは
第一次大戦後からアメリカが唱えていた民族自決原則の浸透によるものだ
現にインドネシアの独立運動もオランダに潰される所を
アメリカを中心とした国連の介入によって救われたんだ
>>249 マンデラが希望の星といっているのは
焼け跡から復興した「戦後の」日本だ
それにマンデラの「日本びいき」には
お前が名前も聞きたくないある宗教指導者の影響が強いんだぜw
太平洋戦争と、南アのアパルトヘイト消滅との間にどんな関係もない
あるというなら、立証して見せろ
自らも政治犯として無実の罪で弾圧され
「アフリカの巌窟王」だったネルソン・マンデラが
政治犯、思想犯を大量生産し、弾圧を加え獄死までさせていた
大日本帝国を賛美するわけない
「日本」というのはあくまで「戦後の日本」だ
ゴキブリにはその程度のことをも分からないらしい
253 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 22:36:15 ID:aXoJIDoy0
★ASEANセンターの中島慎三郎代表がインドネシアのバンドンで体験した
南アのネルソン・マンデラ一行との大東亜戦争に関する対話
「マンデラ使節団のメンバーの華僑が、我々に「華僑か。」と聞くので「我々は日本人だ。」と
インドネシア語と英語で答えたら、使節団のインドネシア人とマレー人は非常に喜んで、
日露戦争と大東亜戦争を礼賛した」
「「日本軍がインド洋を越え、エジプトまで来てくれていたら、南アは10年早く1950年ごろには
独立していたに違いない。」と口々に言うので本当に驚いた。」
「また、「日本軍は大東亜戦争を途中で止めたから怪しからん。」と微笑を浮かべて力説する男がいた」
実際の体験者と脳内妄想主義者ID:a1uibWFOPとの決定的な違いが現れているのが、実に笑えるではないか。
脳内妄想主義者は、自分の殻の中で、自分に都合のよい妄想に浸って気分がよいだろうが、
そんな馬鹿げた妄想は、体験者の談話であっさり崩されるのだ。マンデラ使節団の人々は、
日本軍がアフリカまで来て、植民地主義者を粉砕することを望んでいたのだ。
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 22:42:30 ID:aXoJIDoy0
★ネルソン・マンデラの側近の言葉
「マンデラ氏も我々と同意見である。マンデラ氏は、『日露戦争の日本、大東亜戦争の日本、
援助する日本、工業の日本に感動した。日本に行きたい。天皇陛下にお会いしたい。』と、
毎日語っている。」
ネルソン・マンデラ元大統領が憧れていたのは、日露戦争以降の日本の全てである。
馬鹿にはわからないようだが。「マンデラが大日本帝国を賛美するわけない」とは、
何の根拠もない馬鹿豚の妄想に過ぎないのだ。
255 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 22:53:52 ID:aXoJIDoy0
★ナイジェリア史入門書(ナイジェリアでの大学入試受験のための必須教材)
「第二次世界大戦に連合国の一員として従軍したナイジェリアの多数の兵士は、新しい思想を持ち帰った。
まず第一に、多くの兵士は読み書きを教わり、あるいは仕事を教わった。第二に、白人が無敵ではないこと、
たとえば極東のイギリス帝国における日本軍の占領をみてしまった。第三に、インドで、兵士たちは強烈な
民族主義感情と接触した。インドでは、アフリカ人よりもひどい生活をしている人々、そして独立が与え
られる直前の人民を見た。それゆえに、多くの兵士たちが改革の思想をもってナイジェリアに帰ってきた
のは、驚くべきことではなかった。基本的に、戦争は植民地権力の本質を問題にし、そして、白人優越の
間違った思想を打ち壊してしまった。イギリスの敗北、特に日本軍による敗北は、植民地権力が無敵である
というイメージを弱めた。これらすべての諸要因が、植民地支配に対する民族主義的感情を昂揚させ、
イギリス植民地政府のナイジェリア支配を弱めた。」
これが、アフリカで西欧の植民地だった国からの、正当な大東亜戦争評価なのである。大東亜戦争で
欧米軍が敗走するのを見て、アフリカ植民地の人々も、白人不敗神話の崩壊を目の当たりにし、
植民地からの脱却、自主独立への道を歩むことになるのである。
大東亜戦争は、アフリカ植民地の独立を早めた。これは、ナイジェリア国史の語るところである。
馬鹿豚は必死で否定するだろうが、大東亜戦争が植民地解放戦争であったのは疑いない事実なのである。
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 23:02:04 ID:aXoJIDoy0
★南アフリカ共和国のソエトで朝日新聞記者の伊藤正孝氏の会った黒人男性が語った言葉
「日本軍は、なぜ南アフリカを攻めなかったのか。インド洋をあと3500マイル進めば南アフリカを
占領し、黒人を解放できたんだ。」
「いまからだって日本は南アフリカを攻略できるだろう。やる気はないのか。」
(伊藤正孝「南ア共和国の内幕」中公新書)
アフリカ諸国の人々にとって、日本軍は黒人を解放する白馬の騎士であり、
大東亜戦争は植民地解放の聖戦に他ならなかったのである。われわれの先祖は、
人種差別主義・植民地主義との対決という偉大な戦争を戦ったのだ。
ネルソン・マンデラが大東亜戦争に期待し、日本に憧れるのも当然といえる。
日本嫌いの馬鹿豚にとって、都合の悪い事実が噴出するのは実に愉快だ。
陸軍大学校に二浪して入学
指導者の器ではなかった
真面目だったけど、決断力なし
秀才、岸信介に対する劣等感
それが東條
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 01:29:26 ID:9sISyZLI0
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 11:58:42 ID:2VN3wSxj0
東條が子飼いにしてたのが辻参謀…
やっぱ擁護のしようがないだろw
>>253 捏造にしてもお粗末だな
何でマンデラの使節団に「華僑」と「インドネシア人」と「マレー人」がいるんだw
>>254 お前も名越に師事して作文が上手になったなあ
誰が、誰に対して、いつ、どこで語った言葉?
答えられないだろうw
お前にできるのは、大日本帝国の真実を知らないで
おべっかのつもりでいったことを真に受けて
オナニーすることだけだ
日本人と現地人(土人と呼び習わしていた)とのあいだには
厳然とした差別があった
コピペゴキブリは見て見ぬふりをするだけである
このネルソン・マンデラの側近の言葉ってやつは
ネトウヨサイトにしか出てこない怪文書だな
名越の信頼性が地に落ちたので
あちこちのサイトの、もっと信憑性のない「発言」に頼るようになったか
落ちる所まで落ちたな
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 22:34:55 ID:2ds0qASQO
バカサヨは、都合の悪い発言は無視するか、根拠もなく捏造と決め付ける。
頭悪いよな。馬鹿の一つ覚えとはこのことだ。少しは進歩したらどうだ?馬鹿豚君。
ネルソン・マンデラは、日露戦争戦争以降の日本に憧れていたのだ。
嘘だと言うなら証拠を示しなさい、馬鹿豚君。
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 22:44:13 ID:2ds0qASQO
>>260 お前、最低のアホだな。インドネシアのバンドンに華僑やマレー人がいる可能性はゼロなのか?
彼らはマンデラの通訳・案内役・護衛役なのだから、混じっていておかしくない。
マンデラは東南アジアの何カ国かを回っただろうから、使節団に
現地人が入っているのは当たり前。低能には理解出来ないようだが。
マンデラの側近の言葉が捏造だ、というなら、根拠を提示しなさい。
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 23:10:00 ID:2ds0qASQO
ナイジェリア国史
>>255が示すとおり、大東亜戦争は、アフリカ植民地にも、
民族主義を植え付け、日本軍に蹴散らされる白人の醜態を見せ付けた。
白人不敗神話崩壊を目の当たりにし、アフリカ植民地も独立していくのである。大東亜戦争が植民地解放戦争だった、と言われるのは至極当然なのである。
馬鹿豚は何の根拠もなく感情的に否定するが、説得力はゼロだ。
はっはっは、愉快愉快。氏ね、バーカ!
これが(2ちゃんの)ネトウヨの真実の姿です
「ネットde真実」ほど怖いものはありません
幼児性丸出しの「旧帝大卒、旧財閥系企業の管理職(でも独身)」を
つくりあげてしまうのです
こんな奴にメディアリテラシーなどあろうはずがありません
ウヨサイトに載っていることを、検分もせずに信じ込む
おめでたいとしか言いようがないでしょう
>ID:2ds0qASQO
お前、
>>250からは逃亡か
まあ、いつものことだが
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 22:20:37 ID:O5FCbVDu0
>>265 ウヨサイトと決め付けるようじゃレベルが低い。見るからに普通の中立サイトだ。
事実しか書いてない。馬鹿の認めたくない事実ばかりのようだが。
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 22:30:43 ID:O5FCbVDu0
元アメリカ人も呆れるバカサヨの腰抜け・負け犬ぶり
★ビル・トッテン アシスト社創業者(国会内の講演会で)
「大東亜戦争によってアジアのみならず、アフリカの諸国までようやく独立した。世界史の大転換であり、
いくら評価しても、し過ぎることはない。その中でまだ独立していない国が一つだけ残っている。その
未独立国は、外国製憲法を今も有難がっている。」
「隣国から教科書の書き直しを要求されたら、オタオタしながら従っている。日本人にとって最も神聖な
靖国神社だが、首相が参るべきかどうかをめぐって内輪ケンカをしている。第一、国家の総力をあげて
戦った自国の戦争に「侵略」のラベルをはり、それを首相談話に盛り込み、教科書にまで書き連ねている。
こんな国が世界のどこにあるか。愛すべきミスターニッポンよ、サッカーの時だけ「ニッポン、ニッポン」
と言わずに、歴史認識や国歌観の中にニッポンを盛り込まなければ、独立国とはいえない。」
バカサヨにとって耳の痛い正論が満ち溢れているではないか。
気骨ある帰化日本人(アメリカ生まれ)から見れば、今の平和ボケしたバカどもが先祖を
ないがしろにする、腑抜けに見えるだろう。
大東亜戦争を侵略と呼んで喜ぶバカ日本人は、誇りなき負け犬自虐マゾヒストだ。
こいつらは日本人の面汚しであり、生きる価値ゼロだ。
中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田は
「ネットde真実」だと、自分で言いふらすお馬鹿さん
ビル・トッテンは自分のコラムで
「もちろん必要な戦争などないと私も思っているし、その意味では、第1次、第2次大戦どちらも不要な戦争で、
各国指導者の外交政策によって避けられたはずの戦争だったと信じている。」
と言っている
>>268と偉く矛盾するなあ。おい
「(国会内の講演会で)」と言っているが
その会期と日時を言ってみな
できないだろう
ネトウヨサイトに頼っているからそうなるのだ
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 22:02:54 ID:Tn7LFIzt0
>>271 全然矛盾していないではないか。馬鹿じゃないか?日本語能力ゼロだな。
>>269 はいはい、負け惜しみ、負け惜しみ。馬鹿は死んでも直らないww
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 22:05:46 ID:Tn7LFIzt0
>>271 そういうお前らはしんぶん赤旗でも愛読していそうな愚劣ぶりだな。
>>269 お前らを生んだ母親の顔を見てみたい。
そんなに日本が憎いなら、お前らなんか要らないから、親子そろって中国に移住しな。
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 22:14:13 ID:Tn7LFIzt0
★ネール元インド首相
「彼等(日本)は、謝罪を必要とすることなど我々にはしていない。
それ故にインドはサンフランシスコ講和会議には参加しない。
講和条約にも調印しない。」
インドは、対日賠償請求権も放棄した。インドは正義の国である。
もし大東亜戦争が侵略戦争であったなら、イギリス植民地であった
インドが「植民地主義者」日本を許すはずがない。
インドが日本を一切とがめなかった、というのが、中立的な大東亜戦争
評価であり、大東亜戦争は侵略戦争などではなかったのである。
ネールはそれを非常によく知っていたのだ。
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 22:18:38 ID:Tn7LFIzt0
★ネール 元インド首相
「20世紀の初め、アジアの精神に大きな影響を及ぼした事件が起こった。
それは、ロシアが日本と戦って負ける事である。あのちっぽけな日本が、
ヨーロッパのうちでも最大の、最強の国の一つであるロシアを破ったという
事は、多くの人々を驚かせた。
アジア人にとって、これは、嬉しい驚きであった。私は、今でも日本の
勝利のニュースが伝えられる度ごとに、どんなに感激したかを、まざまざと
覚えている」
日露戦争こそが、アジアにおける民族解放運動の始まりなのであった。
そして、アジア民族解放運動の終着駅が大東亜戦争である。この戦争の
おかげで、すべてのアジア・アフリカ植民地は独立するのである。
大東亜戦争が植民地解放戦争であったのは、紛れもない歴史的事実である。
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 22:24:22 ID:Tn7LFIzt0
アーノルド・J・トインビーや、H・Gウェルズ等の洞察は正しいのだ。
「日本人が歴史上に残した業績の意義は西洋人以外の人類の面前においてアジアとアフリカを支配してきた
西洋人が過去200年の間に考えられていたような不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。」
「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人種と有色人種の平等をもたらし、世界連邦の
礎石を築いた」
大東亜戦争の白人植民地主義を粉砕し、人種平等の世界を作り上げたのである。
もし我々が日本人であるならば、世界のために戦った先祖を誇りに思ってよい。
>>272-273 はい、まず、ビル・トッテンの発言の日時、場所、国会ならその会期が言えなかったな
負け惜しみを言ってるのはお前の方
これでまず
>>268の信憑性が疑わしいものになった
俺はかつて存在した「大日本帝国」の独善性、侵略性、一部の人間のために多くの人間を犠牲にして
顧みないという歴史から、「大日本帝国」の復活、再評価をもくろむ者が嫌いなだけで
今の日本のことを嫌ってるわけでも何でもない
お前こそ「大日本帝国」の体制が大好きだというなら
ミャンマーにでも帰化するか、タイムマシンでも発明しろ
>>274-275 ジャワハルラル・ネルー(独立インド初代首相)
「日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかという
ことをわれわれは見た。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義グループに、もう一
国をつけ加えたというにすぎなかった。そのにがい結果をまずさいしょになめたのは朝鮮であった。
・・・・日本はその帝国政策を遂行するにあたって、まったく恥を知らなかった、日本はヴェール
でいつわる用意もせずに、大っぴらで漁りまわった。・・・・日本人による朝鮮人の抑圧は、歴史
の中でもまことにいたましい、暗黒な一章だ。・・・・」
(ジャワハルラル・ネルー『父が子に語る世界歴史』(みすず書房 1959)より)
ネルーがサンフランシスコ講和会議に不参加を表明した、とすれば
それは彼の師匠ガンジーの「非暴力主義」の実践に他ならない
>>275に至っては、上記資料とも矛盾する
おおかたどこかのネトウヨサイトが出典だろう
だいたいお前がアホだという事実を指摘しただけで、どうして日本から出て行かなければならないのかい?
それとここは「東條英機がどんだけお茶目なお調子者かを論じるスレ」だ
>>274-276のようなコピペは「大東亜戦争がなんとかどうとか」というようなスレでやったほうがいいのでは?
竹槍事件(たけやりじけん)とは、第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)2月23日付け
『毎日新聞』第一面に掲載された戦局解説記事が原因でおきた言論弾圧事件
問題となった戦局解説記事は同社政経部の新名丈夫記者が執筆した記事で、
「勝利か滅亡か 戦局は茲まで来た」という大見出しの下でまず「眦決して見よ 敵の鋏状侵寇」として
南方における防衛線の窮状を解説し続いて「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」として
海軍航空力を増強すべきだと説いている。
これは海軍航空力増強を渇望する海軍当局からは大いに歓迎されたが、時の東條陸相兼首相は怒り、
毎日新聞は大本営の報道部長から掲載紙の発禁および編集責任者と筆者の処分を命じられた。
毎日新聞社は編集責任者は処分したものの、筆者である新名記者の処分は行わなかったところ、
その後ほどなく新名記者が37歳にして召集された。
毎日新聞は、責任者は処分したが新名は退社させず、逆に編集局長が賞を与えるなどした。
記事執筆から8日後、この新名に召集令状が届き、新名も周囲も、この「指名召集」を東條首相による「懲罰召集だ」と受け止めた。
新名は郷里、高松に行き二等兵として丸亀の重機関銃中隊にひとりで入営する。
中央からは、激戦地となることが予想される硫黄島の「球」部隊へ転属させるよう指令が届いていた。
これに対し、新名が黒潮会(海軍省記者クラブ)の主任記者であったことから、海軍が召集に抗議した。
そのため、新名は海軍の庇護により連隊内で特別待遇を受けて3ヵ月で召集解除になった。
その後、陸軍が再召集しようとしたが、その前に海軍が海軍報道班員として外地、フィリピンに新名を送り、新名は再召集を逃れる。
新名が徴兵検査を受けたのは大正時代のことで、その世代は1人も召集されていなかった。
そのため、海軍は「大正の兵隊をたった1人取るのはどういうわけか」と陸軍を批判した。
それに対し陸軍は、新名と同世代で大正時代に徴兵検査を受けた人間を250人召集し、丸亀連隊に入営させて辻褄を合わせた。
その30代後半の老兵達は、全員が硫黄島の戦いで玉砕・戦死した。
しかし、東條の2人の息子は、決して徴兵されなかったというw
東條英機は強権をふるった。自分に批判的な記事を書いた毎日新聞の新名丈夫記者を37歳で二等兵召集。
新名記者が海軍従軍記者だったため海軍が抗議したところ、新名と同じく大正生まれの兵役免除者250人を召集し辻褄を合わまで行う。
新名記者は海軍によって3ヶ月で除隊となり再度の召集を防ぐため海軍の従軍記者となり難を逃れたが、
新名の巻き添えで召集された中年二等兵たち250人は硫黄島に送られ全員玉砕する。
逓信省工務局長松前重義は東条反対派の東久邇宮に接近したという理由で、43歳で召集され南方に送られる。
特高警察と東京憲兵隊も重用し、自分に批判的な人物を次々に排除した。このように憲兵を恣意的に使った恐怖政治を行った。
政治家および軍人としても東條英機の評価は低い。
ガダルカナル島戦について、高松宮海軍大佐から意見を求められた石原莞爾などは、「戦争の勝敗は初めからわかっております。
わが方の作戦はすべてに攻勢の終末点を越えています。戦力は根拠地と戦場との距離の二乗に反比例するのが原則です。
日本本土では百の力が、ガ島まで行けば十から五の力しかない、ところが敵は根拠地に近いから我が軍より力の大きいのは当然です。
持久戦争においては、攻勢の終末点をどこにするかが、最初から確立されていなければなりません。
しかるに支那事変も今次戦争も、全くこれを考えていない。東條のやっている戦争は何をやっているのかデタラメで、
まるで決戦戦争のやり方であります。攻勢の終末線を越えれば叩かれるのは当然であり、負けることが判っている所へ兵を送る馬鹿はありません。」と奉答した。
1941年、陸軍大臣東条英機の名で出された「戦陣訓」こそ東条英機の人としての器がどのようなものだのか如実に示している。
第8の『生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ』は、全将兵に死を強制する役割を果した。
これにより日本軍は無益な玉砕戦を繰り返す事になる。勝手に敵軍が自滅してくれるのだから米軍は有利に戦いを進めることが出来た。
日本軍は徹底的に抵抗するのでなく、負けそうになると、自ら大声を上げ自分の位置を敵軍に教えながら機関銃座の前に突撃した。
米軍は声がする方に銃弾をばら撒くだけで日本軍を全滅できたのである。
軍人なら可能性が少しでも残っている限りゲリラにでもなって戦い抜くのが本分である。
止むを得ず捕虜になった場合には、味方の情報を漏らすことはなく、出来る限り脱出の方策の練るのが軍人としての国家に対する義務である。
「戦陣訓」に対しても石原莞爾は徹底的にこきおろし、それが遠因となり罷免されて予備役にさせられてしまう。
石原莞爾は、極東軍事裁判で日本側証人と出廷した。
米国の検事が「証人は当時の東條首相と意見が対立していたと言われているがどうなのか?」と質問したときに、
石原は胸を張って「私は意見を持っていたが、東條には思想や意見などなかった。
意見のない者と私の見解が対立することはありえない。」と答えたそうである。
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 21:42:15 ID:NerkBnIK0
★ラダ・ピノート・パール氏(インド極東国際軍事裁判判事)
「要するに彼等(欧米諸国)は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、
自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の17年間(昭和3年〜20年、東京裁判の審理期間)の
一切を、罪悪と烙印することが目的であったに違いない。
私は1928年から1945年までの17年間の歴史を2年7ヶ月かかって調べた。この中には、おそらく日本人の
知らなかった問題もある。それを、私は判決文のなかに綴った。その私の歴史を読めば、欧米こそ憎む
べきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。
それなのに、あなたがたは自分等の子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ。」「日本は侵略の暴挙を敢えて
したのだ。」と教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を
通して十分研究していただきたい。」
大日本帝国の復活など誰も望んではいない。しかし、日本近代史は、日本人の手で正当に評価しなけれ
ばならない。しかし、今の日本人は大日本帝国を恐れるへタレ・腰抜けばかりになってしまい、挙句
の果てには、大東亜戦争を正しく再評価することさえ恐れている。馬鹿は臆病者なのだ。当時を生きた
外国人達の方が、余程大東亜戦争というものを評価している。これこそが客観的で正しい評価なのである。
282 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 21:46:31 ID:NerkBnIK0
日本人であるならば、彼らの声に耳を傾け、目を覚まさなければならない。
大日本帝国の時代は、弱肉強食の社会であり、闘志をむき出しにしなければ生きのこれなかった。
現代の企業も弱肉強食の世界レベルの競争に晒されており、闘志を失えばたちまち外国企業に負けてしまう。
企業の活力は闘志である。大東亜戦争の真実を知れば、日本人は歴史に誇りを持ち、闘志をみなぎらせて
世界の企業に負けることはない。韓国企業を見ろ。でたらめな歴史であっても、祖国の歴史に誇りを持ち、
今や世界を席巻する勢いではないか。自国の歴史に誇りを持てない日本企業は負けてばかりだ。
馬鹿には俺様の深遠な意図がまったく分っていないようだ。
>>281 少なくともお前は望んでいるよ、今までの言行からすればな
そして今の日本を「サヨク」と呼び習わして嫌っている
日本からサヨクは出て行けと、つい昨日言ったばかりではないか
東條の強権横暴と何の差があるのだ
今の「サヨクに牛耳られた日本」が嫌なら、お前こそ出て行く方がいいんじゃないの?
>>282 国家エゴによる陣取り合戦と、企業間競争をごっちゃにしている時点で
お里が知れてるよ
企業の繁栄する条件はただ一つ、どこまでも顧客を大事にすることだ
それを忘れて不動産や投資という陣取り合戦に励んだ結果
弾けたのがバブルじゃないのか
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 21:59:45 ID:NerkBnIK0
★ラダ・ピノート・パール氏(インド極東国際軍事裁判判事)
「日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って卑屈、荒廃に流されて行くのを、私は平然として、
見過ごすわけにはゆかない。あやまられた彼らの宣伝を払拭せよ。あやまられた歴史は、
書き換えなければならない。」
(昭和二十七年十一月五日、広島高等裁判所での講演)
ID:jB7Nl3FD0、ID:4A0lXnxiP。貴様らは、ゆがゆがめられた罪悪感を背負って卑屈、
荒廃に流されて行くクソ豚であって、生きる価値ゼロだ。いや、生きていること自体
罪悪だ。ゴミは中国へ移住しろ。
ただし、改心して日本人の誇りを取り戻したら、日本国内にとどまってよし。
286 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 22:06:49 ID:NerkBnIK0
>>284 甘いな。学生かニートの意見だ。顧客を満足させることは極めて重要だが、
会社は顧客の奴隷ではない。顧客が間違いを元に言いがかりをつけてくる
ことも良くあるのだ。そのときは己の正義をきちんと主張できないやつは
「馬鹿」
といわれて左遷される。顧客の誤りを正すことも顧客満足につながる。
馬鹿には難しすぎたかもしれないな。はっはっは。
嘘の日本近代史を信じ込んで、歴史を正当に評価しないのは、歴史の冒涜
であり、先祖に対する冒涜である。お前らに日本人を名乗る資格はない。
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 23:35:23 ID:xGVEgxg80
286
「おれの方が大人だけんね!」
と必死になっているよしりんに似てるね。。
どう見ても必死に大人を主張している方が子供に見えるのですが。。
文面だけではなく、歴史的主張も子供っぽいですが
みなさんどう思います?
288 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/09(火) 00:06:44 ID:B+Kzy8EU0
>>287 もう一度中学国語を勉強しなおしたらどうだ?ID:jB7Nl3FD0もID:4A0lXnxiPも、
歴史的主張など全くしてないぜw お前もだが。ほれ、何か歴史的主張をしてみろ。
ほれ、どーした?カスw
289 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/09(火) 00:21:07 ID:B+Kzy8EU0
★モハマッド・ナチール インドネシア共和国元首相
「大東亜戦争というものは、本来なら私達インドネシア人が独立のために戦うべき戦争だった
と思います。もしあのとき私達に軍事力があったなら、私達が植民地主義者と戦ったでしょう。
大東亜戦争とは、そうゆう戦いだったんです。」
大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗れたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った
欧米諸国であった。彼等はこの戦争で植民地を全て失ったではないか。『戦争に勝った、敗けたか
は、戦争目的を達成したかどうかによって決まる。』というのは、クラウゼビッツの戦争論である。
日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ「聖なる戦争」
であった。大東亜戦争は世界に誇る植民地解放戦争なのだ。
はいはい名越名越
会ってもいない人間の発言を、どうやって検証したんだろうね
あと、クラウゼヴィッツは「有利な講和条約を締結することが戦争目的」と
言ってるんだがねえ
それから言えばSf講和条約を蹴って、賠償付きの「有利な」平和条約を締結した
インドネシアが戦勝国で、日本はやっぱり敗戦国だ
お前の主張は「民族派右翼」のそれでしかないんだよ
>>286 お前が相手しているのは顧客ではない
クレーマーという確信犯だ
というよりお前の対応が下手すぎて
「顧客」を「クレーマー」にし続けてクビになるんだろ。派遣の仕事
>嘘の日本近代史
はい、名越二荒之助という人の本ですね
いまでは民族派右翼にも相手されてないそうじゃないですか
>>288 >歴史的主張
お前のやってるのは誰かの発言を貼り付けては逃走するピンポンダッシュ
それを称して「子供っぽい」と言われてると気付けw
293 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/09(火) 21:46:53 ID:5yzC9c9k0
>>291 これだから素人は困る。現場の苦労を知らないやつのたわ言には何の意味もないなw
顧客は顧客。勘違いでクレームをつける奴もいる。それだけのこと。
素人は何も知らないから想像だけでものをいう。頭悪いねぇ
名越捏造説も、所詮素人の妄想。何も知らないから想像だけで語る。
捏造だというなら、証拠を出しなさい。
名越がモハメッドナチールに会っていないというなら根拠を示しなさい。
>>286、
>>293 顧客からの苦情に対しては、当然誠意を持ち
正当なものと不当なものを切り分けて
実現可能な提案をして、納得していただくのが
苦情処理のイロハ
まして不具合があるから客は怒って抗議してくる
それをすべてクレーマーと決めつける
お前のような教育は、上場企業では断じて行わない
お前の書いていることを読んでいると、まともな社会人かどうか疑いたくなる
名越については、いままでさんざん証拠提示が行われている
民族派右翼の間さえ、名越は信頼されていない
お前が一人で「名越は無謬だ」と頑張っているだけ
歯牙にかけるにも値しない
>>293 客は不具合があったから、怒って連絡をしてくる
そこへ派遣とは言えお前のような「ネットde真実」を鵜呑みにするような
馬鹿が出てくれば会話にならない
するとお前はいきなり
「お前は日教組の偏向教育と東京裁判史観とGHQのWGIPに毒されている
真実の歴史を俺が教えてやるから良く聞け
大東亜戦争は大日本帝国が勝利したのだ」
とか始めるんじゃないのか
民族派右翼がみんな引きこもりになるのは当然だなw
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 21:30:39 ID:eGYopJRE0
>>295 わっはっは。笑わせてもらったよ。ひどい思い込みと妄想だな。お前は脳病院に行きなさい。
>>293 名越が民族派右翼に信頼されていないというのは、何を根拠に語っているのか?
因みに、つくる会は右翼ではない。馬鹿豚には右翼に見えるようだが。
297 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 21:35:38 ID:eGYopJRE0
★モハメッド・ナチール インドネシア共和国元首相
「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を
日本が代表して敢行したものです。」
「大東亜戦争というものは本来なら私達インドネシア人が、独立のために戦うべき
戦争だったと思います。もしあの時、私たちに軍事力があったなら、私たちが
植民地主義者と戦ったでしょう。大東亜戦争はそういう戦いだったんです。」
この発言内容のどこに嘘・捏造があるというのか?大東亜戦争中を生き、日本軍政
を体験した実在の人物の言葉には重みがある。これが名越の捏造だというなら、
証拠を示してもらおうか。何の証拠もないではないか。
298 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 22:03:47 ID:eGYopJRE0
ちなみに戦後世代の日本人にとって1941年の12月は“戦争を始めた日”として
陰鬱な印象を持たされているが、50年後の1991年12月、マレーシアの
コタバルを首都とするケランタン州政府は、『日本軍の上陸50周年を祝って』
特別式典を開催し、さらに戦争博物館を設立している。
マレーシアの人々は “祝って” いるのである。
圧政者のイギリスよりも強い、“アジアの日本軍”が来てくれた、と。
299 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 22:10:21 ID:eGYopJRE0
★マレーシア ラジャー・ダト・ノンチック 元上院議員
「この国に来られた日本のある学校の先生は、「日本軍はマレー人を虐殺したに
違いない。その事実を調べに来たのだ」と言っていました。私は驚きました。
「日本軍はマレー人を一人も殺していません。」
と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、
その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。」
賢い方々はそろそろお気づきかもしれないが、アジアの英雄であるはずの
日本人自身が持つ『自虐史観(悪いことをしたという思い込み)』は、
国際的にも不自然なのである。自虐史観とは、国際的には唾棄すべき
低レベルなマゾヒストの証に過ぎず、一種のカルト信仰なのだ。
それでも自虐史観にしがみつくのは馬鹿豚のみ。
300 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 22:41:23 ID:eGYopJRE0
大東亜戦争が植民地解放戦争であったという学問的真理を理解出来ない低能児は
氏んで良いよ。
東南アジア植民地諸国を解放した東條英機は英雄である。
東南アジア諸国民の日本に対する好感度は今も非常に高い。馬鹿は悔しがって認
めたがらないが。日本と東南アジア諸国にとっての共通の脅威が中国だ
>>296 図星指されて泣きわめいている
お前の姿が見えるようだ
ついでにいうと自分に自分でレスして楽しいか
アンカー間違ってるぞ
あと、インドネシアはサンフランシスコ講和会議の昔から
今現在に至るまで反日国家だがなwww
まだ名越なんて信奉してるのは自分一人だってことが
わかってないらしいな、このバカは
「つくる会」が右翼じゃないなら
日本に右翼はいないことになるな
「民族派」は自ら右翼と名乗っているぞ
「つくる会」にも民族派のお歴々がゴロゴロしてるし
第一お前が民族派の主張を毎日繰り返してるじゃないか
右翼としての自覚を持てw
モハメッド・ナチールと記載すること自体が
誤記誤謬であり
内容の信憑性を疑わしいものにしているということを
理解できずに、馬鹿の一つ覚えのように「ナチール」に固執する
中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田
スカルノやハッタの言葉は、どうして出てこないんだい
スカルノ自伝より
(パダンに進入した日本軍の兵士がインドネシア人を銃の柄で殴り倒すのを見たスカルノは、一緒にいた友人ワウォルントに言う)
私(スカルノ)は声を抑えて答えた。「彼らの残虐さについては全て知っている。
占領地域での日本人たちの行動を私は知っている−しかし、OKだ。この数年間十分準備をしてきた。
彼らが我が人民のためになし得る事を理性的に検討すべきだ。日本人に感謝しなければならない。われわれは彼らを利用できる。〜」
(今村将軍の招聘で、1942年7月スマトラからジャカルタへ移ったスカルノはハッタと再会する)
“ハッタと私はもう長い間やり取りがなかった。そしてお互いに言うべきこと、尋ねるべきことがたくさんありながら、お互いに問いを発しなかった。
ハッタが耳打ちした「この占領の結末について君の意見は?」
私は囁き返した。「日本人たちはここに長くは留まらないだろう。彼らは戦争に負けるし、我々は彼らを打ち破るだろう。
これはつまり、我々が公然とは彼らに刃向かわなければの話だが。」
そして私が尋ねた、「話してくれ、ブン・ハッタ、我らが人民のナショナリズム精神の様子を?」
「それは戦争のせいで損なわれてはいない。我らが人民はすでに‘解放’について不審に思い始めており、
ブン・カルノの帰還をはやる思いで待っている」”
(ハッタ、シャフリルとの闘争戦略についての打ち合わせ〜続き。以下スカルノの発言)
“「はじめに我らが人民は苦しみの中へ投げ込まれるに違いない。なぜなら、そうなった時にのみ彼らは目覚めるのだから。
我らの人民は、平和的であり、おおらかであり、競争を避けてしまう。7千万人近くが50万人に支配されていたというのに、
我ら大衆はオランダ人の支配下で闘おうとするほど苛つくこともなかったろう。オランダ人はまがい物の慈善で彼らの支配を上手く調整した。
しかし、ジャップたちはそうしない。」
「彼らは刀の一振りで人々の頭部を切り落とす。彼らは、計略をもって犠牲者たちにたらふく水を飲ませ、そして彼らの腹の上に飛び乗る。
深夜、ケンペイタイ*2の本部から聞こえてくる苦しみの悲鳴にも慣れた。
聞くところによれば、ケンペイタイの看守はわざと酔っ払った状態にされており、そうやって彼らの感受性を鈍らせているそうだ。
日本人は手強い。残酷だ。すぐに残虐行為にでる。彼らは、我らが人民を戦わせることになるだろう。」”
304 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 21:36:57 ID:OLxCsFbj0
インドネシア共和国初代首相は、Mohammad Natsir(1908-1992年)。この人物の名前を
モハメッド・ナチールとしてもモハメッド・ナシールとしてもモハマッド・ナシール
としても、どれも正しく、間違いといえない。
モハメッド・ナチールは間違いなく実在の人物なのである。
馬鹿は、重箱の隅をつつくような誤記誤謬にこだわるが、全く意味がない。
305 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 21:42:59 ID:OLxCsFbj0
日本軍がやってきた時、ナチールは33才、イスラム協会の会長として社会改革運動に
従事していた。日本軍はオランダ植民地政庁を倒してくれたが、単に支配者が交替した
だけかもしれない、と疑っていた。
しかし、日本軍はナチールの予想もしなかった事を次々と始めた。第一に幽閉されていた
独立運動の指導者スカルノ、ハッタを解放し、インドネシア側代表の位置につけた。
第二にイスラム教に対する制約を撤廃し、マシュミ(インドネシア回教連合会)を作って、
イスラム教の指導者達が初めて直接話ができるようにした。
日本軍政の行動は、モハメッド・ナチールにとっても驚くべきものだったのである。
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 21:51:26 ID:OLxCsFbj0
★モハメッド・ナチールインドネシア共和国初代首相
「日本軍のやったことで三番目に注目すべきことは、インドネシアの教育に力を入れた
ことでしょう。これもオランダの政策とまったく違っていました。オランダの植民地政庁は
長い間愚民政策を採ってきました。インドネシア人を教育すると、目覚めてオランダに
反抗するかもしれませんし、また、農業に従事するだけなら教育は必要ありません。
・・・学校に通うことのできるインドネシア人は全体の数%くらいではなかったでしょうか。・・・
ところが日本軍は、やって来ると、さっそく教育に力を入れ始めました。戦争でいったん
休校になった学校を再開し、すぐに3年間の初等国民学校と、その上にさらに3年間勉強
できる国民学校作りました。・・・日本軍がきてわずか1年あまりで、それまでの倍近くの
子供が学校に通うようになりました。」
日本軍政は、インドネシアの教育に非常に力を入れ、インドネシアの識字率を上げ、イン
ドネシア人に強い民族意識を植え付けた。この教育重視の姿勢は、終戦まで続き、インド
ネシア独立の原動力「勇気と自信と民族意識」につながって行くのである。
大東亜戦争が植民地解放戦争であったのは、紛れもない歴史的事実なのだ。
馬鹿豚は根拠もなく必死で否定するが。
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 22:02:16 ID:OLxCsFbj0
★ズルキフリ・ルビス (インドネシア独立義勇軍設立者の一人)
「土屋中隊長は、まだ20代半ばで、私たちとそれほど年齢は離れていませんが、常に私たちの
ことを考えていたと思います。訓練期間中、苦しくて倒れそうになると、いまはインドネシアが
独立したときの要人を育成しているのだとか、インドネシア国軍が創設されたとき中心になる軍人
を育成しているのだ、といって私たちを励ましてくれました。
同じ中隊にいたスハルトも土屋中隊長からは深い感銘を受け、大統領に就任してはじめて日本に
行ったとき、土屋中隊長にだけはぜひ会いたいといって探してもらい、20数年ぶりに会ってい
ます。」
日本軍政がインドネシア独立のために果たした役割は非常に大きかったのである。インドネシア人
は、日本軍人の侍魂を叩き込まれ、深い感銘を受け、そして、独立への強い意志を固めていくので
ある。PETAの軍人たちは、日本軍が鍛え上げた侍集団だったのである。土屋中隊長のような
模範的な人物は、インドネシア人から尊敬され、スハルトも会いにきた位である。
馬鹿豚はさぞかし悔しがっていることだろう。
tes
>>304-307 「え〜ん、名越がナシールと会ってないことがバレちゃったよー
スカルノの自伝はスルーするしかないよ〜
信憑性が皆無なのに「モハメッド・ナチール」にすがるしかないよ〜
独裁者のスハルトも持ち上げるしかないよ〜」
といって中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田が完全敗北のあげく泣きわめいています
「モハメッド・ナチールは実在の人物なんだ〜、え〜ん、え〜ん」
ああ愉快だ、さあ第一次大戦で沈没した日本駆逐艦の名前でも教えて貰おうかW
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 21:51:53 ID:Yagoh56z0
>>309 馬鹿豚は最初、どこかの胡散臭いサヨサイトを引用して、
@「モハメッド・ナチールをいくらネットで検索してもまったくヒットしない」
A「インドシアに首相職はない」
Bだから、モハメッド・ナチールなる人物は存在しません。なぜなら、全て名越の捏造だからです。
と言い張って、得意げだったではないか。え?どうした?
実際は、しっかり存在したな。モハメッド・ナチールもシンドネシア首相も
マシュミ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9F に全て書いてある。論破されて悔しいか?バーカ。
今度は懲りずに「名越はモハメッド・ナチールに会っていない」と珍説を主張しはじめたな。
では、馬鹿豚君。名越がナチールに会っていないと言い張る証拠を示しなさい。
311 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 22:28:53 ID:Yagoh56z0
東京裁判については『世界が裁く東京裁判』と題する良書がある(青文社刊)。
世界の識者八十五名の東京裁判批判集であるが、一読もって東京裁判の真実を
知ることが出来る。ぜひ購読されることをお奨めするが、その一片を次に紹介
しよう。
(頁二四八)筆者はインド独立運動指導者の一人であったヘランボ・ラル・グブダ氏である。
312 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 22:33:25 ID:Yagoh56z0
★ヘランボ・ラル・グブダ インド独立指導者
「東京裁判は、二十一世紀に入れば必ず多くの亜細亜の国々によって見直されるであろう。そして
第二回東京裁判が実現する。その頃は亜細亜も世界も良識を取り戻して、総てが公正にして真理の
法の前に平等に裁かれる。その時こそ東亜積年の侵略者であった欧米列強の指導者達はこぞって
重刑に処せられ、かつて重罪をこうむった日本人就中A級戦犯の七柱は一転して全亜細亜の救世主
となり、神として祀られる日が来るであろう。またそのようになるべきである」。
良識をもって大東亜戦争を評価すれば、欧米こそが侵略者であって、日本は植民地解放の白馬の騎士
に他ならないのである。東條以下、いわゆるA級戦犯は、植民地解放の英雄であり「神」なのである。
馬鹿豚は泣きながらで否定するが。
313 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 22:45:11 ID:Yagoh56z0
★姉歯準平 インドネシア プリアンガン州の内政部長
「日本がインドネシアにやって来た目的は、インドネシアの独立を支援することで、日本人が
ここにいるのはあとわずかだろう。まずこれをしっかり頭に入れてほしい。次に、将来、
インドネシアが独立したなら、インドネシア人の中で首相が選ばれるだろうが、私は皆さんの
中から首相が出ることを期待している。」
そう述べた上で、朝7時から午後2時までの定時間を務めればすぐに帰ってしまうナチールらを
注意した。姉歯は6時頃まで仕事をし、さらに書類を家に持って帰って仕事を続けていたので
ある。ナチールは恥ずかしい思いをすると共に、姉歯の考え方に共鳴した。
314 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/13(土) 23:03:18 ID:Yagoh56z0
★インドネシア『歴史教科書』中学3年用
「結局のところ、日本占領期は、日本軍の残虐さ、経済的苦痛、そして常食となったタピオカなどの悪夢として
多くの人々に長く記憶されることだろう。しかし、それと同時に地域住民の中で、英国の威信を低下させること
ともなった。また日本は短期間のうちに地域住民、とくにマレー人の政治的自覚を促すことに成功した。
これは戦前には全くなかったことである。」
>>314 インドネシアの教科書は、華僑が書いているから信用できないんじゃなかったのか?
このダブスタ豚野郎め
★宮沢賢治『どんぐりと山猫』
「よろしい、しづかにしろ、申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、
ばかで、めちゃくちゃで、てんでなってゐなくて、あたまのつぶれたやうなやつが
いちばんえらいのだ。」
よかったなコピペゴキブリ、宮沢賢治によればお前がいちばんえらいんだってさw
名越の著作が信じるに値しないと言うことは、いまや立場の違いを超えて定説になっている
世間では「ああ、あの名越か」でおしまいになってしまうのさ
お前の方にこそ証明する必要があるのだよ
「モハマッド・ナシール」と名越は、いつ、どこで会ったのかね?
仲介したのは誰だね?
今度も証明してみたらどうだ?どうせ自力じゃできないだろうがな
それとスカルノやハッタのような大物の発言が出てこないねえ
ああ、この二人は日本に良い感情持ってないもんなw
317 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 21:55:57 ID:aXKS2oPA0
>>315 華僑であっても無視・歪曲できない厳然たる事実というものもあるのだ。
例えていえば、「1+1=2」は厳然たる事実であり、華僑が気に入らなくてもこの等式は変わらない。
それが教科書に書かれてあるのだ。
「結局のところ、日本占領期は、日本軍の残虐さ、経済的苦痛、そして常食となったタピオカなどの悪夢として
多くの人々に長く記憶されることだろう。しかし、それと同時に地域住民の中で、英国の威信を低下させること
ともなった。また日本は短期間のうちに地域住民、とくにマレー人の政治的自覚を促すことに成功した。
これは戦前には全くなかったことである。」
これは、華僑でも認めざるを得なかった歴史的真理なのだ。
馬鹿豚には、この辺の理屈がまったく理解できないようだ。
318 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 22:02:21 ID:aXKS2oPA0
>>316 そんな定説はない。あるというなら、証拠を示しなさい。
馬鹿が名越否定を声高に叫ぶから、何度も何度も「証拠を出せ」といい続けているんだが、
何一つ出せないではないか。名越の調査の信憑性が高いから、誤記誤謬程度の指摘しかで
きないということだ。名越否定論者は感情的に否定するだけで、「否定の根拠」などないのだ。
名越は誤記誤謬を除いて正しい。馬鹿豚が悔しがるさまが目に浮かんで実に愉快だな。
>>318 山ほど出した、お前がスルーしてるだけ
名越を信奉してるのも、世界で一人、お前だけ
馬鹿の上に卑怯者と来ては遇する道を知らんな
右翼ってのはみんなお前みたいな奴なのか
こりゃ国の一つや二つ滅ぼすわ
320 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 22:34:30 ID:aXKS2oPA0
★インドネシア独立宣言 (スカルノ大統領が昭和20年8月17日に公式宣言)
「われわれインドネシア人民は、ここにインドネシアの独立を宣言する。
権力の移譲その他の事柄は、秩序ある方法によって、可能な限り迅速に
執行されるものとする」
権力は日本軍政から「奪取した」のではなく「移譲された」のだった。
実に重要な点だ。この宣言文は独立記念式典でも毎年読み上げられる。
インドネシアが独立国家として国際社会から承認されたのは1950年だ。
そうであれば2007年は「独立57周年」となる筈だが、インドネシア人が
心に刻む独立の日は、あくまでスカルノが独立宣言した昭和20年の8月17日
(皇紀2605年)であり、2007年は公式に「独立62周年」として祝賀された。
ちなみに、インドネシアの教科書にかかれた独立宣言文はすべて、独立年を
「皇紀2605年」と表示し、日本に対する敬意を示している。
馬鹿豚は悔しがって無視するだろうが。
321 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 22:39:25 ID:aXKS2oPA0
>>319 いや、まったく出ていない。「アインシュタインの予言」とかは名越の紹介であって
創作ではない。護衛艦「榊」が大破して「沈没した」と誤謬しただけ。名越捏造の証拠は
何一つない。瑣末な誤記誤謬の指摘は、所詮、誤記誤謬の指摘に過ぎない。
馬鹿はどこまでも頭が悪いな。
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 22:43:55 ID:aXKS2oPA0
★モハメッド・ナチール インドネシア共和国元首相
「これまで植民地主義者が被植民地国の住民に武器をくれたり、訓練を施すなど前例がない。
オランダは350年間も統治しましたが、ピストル一丁くれませんでした」
現地人に武器を渡して訓練するという考え方は皇軍独特のものだ。日本軍政が本気で
インドネシア独立を目標としていたことを示す、端的なエピソードである。
即ち、大東亜戦争は植民地解放戦争に他ならない。
馬鹿豚は泣きながら否定するが。
・名越の捏造本に基づいてデマを流す
・自分も平気で嘘を吐く
・論破されるとスルーでループ
・さもなければ狂ったように火病を起こす
・自己中心的で嫌われ者
・都合の悪いことは見なかったことにする
と、コピペゴキブリ吉田の特徴を挙げていくと
こいつのいうところの中国人、韓国人の特徴そのままだな
わかったぞ、こいつ「日本の右翼はこんなに愚かだ」という
印象操作を目的とする中国人か韓国人の工作員だなw
324 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/18(木) 07:45:13 ID:kzDKoNIZ0
325 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/18(木) 16:13:45 ID:6IOz1YuoO
規制で書き込めず涙目なコピペゴキブリ見てる?
イェーイ
★吉田 茂 日本国首相
「日本が戦争に突入せず、第1次世界大戦における如く戦争において主役の地位を
避けえたならば、第1次世界大戦において得た国力の増進以上の結果を得たのみならず、
北は樺太、千島、満州、南は台湾は勿論、南洋一帯にその勢力を保存し、米英などとともに
世界最大の雄峰として厳存することになったことは疑う余地はない」
やはり、愛国者を名乗るならなおさら
太平洋戦争はやるべきではなかった、と言うべきだろう
コピペゴキブリ?ああ、あいつは愛国者面した非国民だからw
327 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/25(木) 11:23:50 ID:1DDYviDd0
>>326 幼児(特に男の子)はせっかく積み上げた積み木を破壊することがあるだろ。
明治からの先人が積み上げた帝国だが、閉塞感がつのりリセット願望があったんだろね。
東条さんとか専門家だから自爆戦争になることは当然判っていたと思う。
>>327 東條は「総力戦研究所」から「日米開戦は必敗」という答申を出されたとき
「戦というものは、計画どおりにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。
したがって、諸君の考えている事は机上の空論とまでは言わないとしても、
あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。」
と答えた
初めから必勝の信念で勝てると思い込んでいたようだぞ
この時点では自爆だなんて全然考えていないよ
大日本帝国はコミンテルンやルーズベルトに操られ騙されて戦争をさせられたおっちょこちょいなの?
それともアジアを開放する為に自らの国土を焼け野原にすることも辞さないお人よしなの?
はっきりして欲しいな,、コピペゴキブリ
大日本帝国を愛するあまり負け惜しみ論「イソップのすっぱい葡萄」を展開。
それはお前が愛している大日本帝国を貶めることになると指摘。
>>329 沈黙。<いまここ
日本軍加油!
打倒美國霸權主義
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/03(金) 12:53:19 ID:55uF9FFRO
日本人が読むべき名著
「世界から見た大東亜戦争」 展転社 名越二荒之助 編
大東亜戦争の実態に迫った日本人必読の書。我々の先祖は侵略者ではないのだ
その内容が気に入らず証拠もなく捏造ニダと決め付けるのは馬鹿豚と外国人のみ
日本人が窓から捨てるべき駄著
「世界から見た大東亜戦争」 展転社 名越二荒之助 編
「創作」と「脚色」と「誤記誤謬」(コピペゴキブリ:談)に満ちております
いまだにゴキブリは第1次大戦で撃沈された駆逐艦の名前を言えないでおります
俺は「筋肉マン」のほうが面白いと思ひます
>>334 たしかに
名越なんかで自慰の悦楽にふけるより
「キン肉マン」で「友情、努力、勝利」について学んだ方が
よほどいいだろう
336 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/05(日) 23:58:08 ID:xPn4oyDcO
★レイ 元インド下院議長
「日本が日露戦争に勝ったことによって、インド国民が勇気づけられ独立運動に立ち上がった」
ネール元インド大統領も、同じようなことを言った。
アジア植民地諸国にとっては、日露戦争がアジア民族解放運動の始まりであり、
大東亜戦争がその総仕上げだったのである。大東亜戦争が植民地解放戦争であったのは、疑いの無い歴史的事実なのだ。
馬鹿豚は涙目で否定するが。
「ネール」じゃなくて「ネルー」な
お前も名越並みに「誤記誤謬」が激しくなってきたな
★ジャワハルラル・ネルー(独立インド初代首相)
「日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかという
ことをわれわれは見た。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義グループに、もう一
国をつけ加えたというにすぎなかった。そのにがい結果をまずさいしょになめたのは朝鮮であった。
・・・・日本はその帝国政策を遂行するにあたって、まったく恥を知らなかった、日本はヴェール
でいつわる用意もせずに、大っぴらで漁りまわった。・・・・日本人による朝鮮人の抑圧は、歴史
の中でもまことにいたましい、暗黒な一章だ。・・・・」
(ジャワハルラル・ネルー『父が子に語る世界歴史』(みすず書房 1959)より)
ネルーは大日本帝国を全然賞賛してないようだがw
お前にとってのインド大統領は「ネール」だから別にいいのか?
え?コピペゴキブリさんよ
338 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 00:29:55 ID:3Cji1DGAO
★デサイ インド弁護士会会長
「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの
独立は日本のおかげで30年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、
ベトナムを始め、東南アジア諸民族すべて共通である。インド
4億の国民は深くこれを銘記している。」
大東亜戦争は東南アジア諸国のみならず、インドにも独立をもたらした白馬の騎士なのである。
大東亜戦争が植民地解放戦争であったのは、世界から見て疑いの無い真実なのだ。
馬鹿豚は悔しがって必死で否定するが。
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 00:33:50 ID:3Cji1DGAO
「戦前真っ暗」と言う嘘を宣伝する、東京裁判カルト信者=自虐大好きな負け犬
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 12:47:15 ID:3Cji1DGAO
★レーリンク 東京裁判オランダ代表判事
「日本は西洋諸国の植民地を解放した罪によって罰せられたが、四半世紀もたた
ないうちに、1960年に国連が植民地を保有することを不法行為であると宣言し、
その後、国連総会が植民地の保有を犯罪として規定すらした。
馬鹿豚はパールのみを敵視しているが、レーリンク判事は日本が植民地を解放したと明言した。
つまり、世界の有識者から見れば大東亜戦争が植民地を解放したのは歴史的事実なのである。
大東亜戦争は植民地解放戦争だったのだ。
馬鹿豚が悔しがってるぜ。ざまあみろ、低能!
はいはい、史実や事実に基づいて論を展開することができず
一個人の談話を持ってきて、それが何かを証明するものであるかのようにすり替える
低能コピペゴキブリの常套手段
お前、史学板からゴーマニズム板に引っ越したら?
やればやるほどここでは恥ずかしいことなんだけどw
>>340 マジレスすると、色んな意見をもつ人がいるのは当たり前。
自分の家族が侵攻してきた他国軍隊に殺されれば、その国に対して悪感情をいだくのも当然。
そうでなければ、また別の感情を抱くのもありうる。
つか、この板でそんなに騒いで何になる? 宣伝が目的なら、素人に対してやったほうが、より
効果的なんじゃね?
343 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/08(水) 20:07:35 ID:quoJPwx4O
では、大東亜戦争が侵略戦争であるという証拠を見せてもらおうか
344 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/08(水) 20:16:53 ID:quoJPwx4O
★ダグラス・マッカーサー
「東京裁判は誤りだった」
かつて、東京裁判の判事を務めた人々は、大半が後に東京裁判に関して否定的な見解を示している。レーリンクもまたその一人であり、日本断罪の不当性は誰もが考えるところだ。
何も考えず「東京裁判サイコー」と喚き散らすのは馬鹿豚のみ
345 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/08(水) 20:23:13 ID:ZsI7gLaJ0
正論を言うとだ…
数百万の軍隊全体の中で、乱れた無法者も居ただろうが
それを「全員悪」だと言う方も「偏向した歴史認識」だと思う。
沖縄戦の資料館でも、日本軍の住民虐待などをメインに展示している。
そりゃ〜あの追い詰められた状況下でヒステリックに成った一部が
住民虐待をした事も当然有っただろう。
でも「沖縄県民を守る為」に戦った日本兵を完全無視して
「日本軍=悪」の烙印を押すのも「偏向」しているとしか思えない。
基本的に「正しい歴史認識」なんて人間皆考えが千差万別だから
そんなもの自体が存在しないと思う。
物事の「プラス要素」と「マイナス要素」の双方を提示した上で
「貴方はどう考えますか?」と各々に問うのがフェアだと思う。
「沖縄県民を守る為に戦った日本兵」と「住民虐待に走った日本兵」
どっちが比率が多いか分からんが、大半は前者だと思う。
双方の事例をしっかりと提示して「どう考えるか?」を各々に問う事に
意味が有るのでは無いのかと。
>>344 >かつて、東京裁判の判事を務めた人々は、大半が後に東京裁判に関して否定的な見解を示している。
たった2人で{大半」か
馬鹿豚さんは君の方だね
347 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/09(木) 06:03:42 ID:OUQfYZVf0
>>345 「沖縄県民を守る為」なら首里司令部撤退時に降伏しろよ。
防衛陣地なんてもうないんだから。おかげで海軍司令部も即壊滅。
もうまともに戦う手立てなんてないのに、住民が逃げ込んでる
南部地域に雪崩れ込んで戦闘区域にして壕追い出しやら
軍民混在やらで犠牲者大幅UP。
安全区設定も手遅れになってから。しかも米側軍使を撃ち殺す。
ついでに現地自活方針や民間人に偽装して攻撃とかやった
せいで県民全部便衣兵みたいな状態になっちゃったじゃん。
戦後に沖縄を裏切りまくって本土の安寧と利益を追求したのが
どんどん明るみに出てるし、鉄血勤皇隊だった連中も言ってるよ。
マブニまで追い詰められ、もう逃げ場がない状況で日本軍は投稿しようとする
兵士を後ろから撃った、投稿したら斬り殺すって自分達を脅したって。
★フランクリン「良い戦争、悪い平和などあったためしがない」
第二次大戦の体験者は、昭和20(1945)年8月15日のことは忘れない。その直前の数々の
悲惨な体験も忘れない。しかし、昭和16(1941)年12月8日のことを憶えていない人は少なく
ない。だが、この日のことは忘れてはならないと思う。
昭和16(1941)年12月8日の朝早く、小学生だった私は、大人たちが囲んでいる大きな輪に
加わっていた。誰かが「戦争が始まった」と言った。みんな黙っていた。そして、仕事に出て行っ
た。当時は、口コミが主たる情報伝達手段だった。翌年になると、大人たちは次々と召集され
て戦場に赴いた。そして再び帰らなかった。この中には私の長兄もいた。昭和19年からは米軍
機の容赦のない空襲を受けるようになった。昭和20年4月から中学生となり、学徒動員を経
験した。何回か米軍機から爆弾を落とされたり、機銃掃射を受けた。広島と長崎には原爆が
投下された。その直前の6月末には沖縄で大悲劇が起こっていた。 300万人以上の日本国
民が犠牲になった。ほとんどの大都会地は焼け野原となった。ほとんどの国民が財産を失った。
絶対に戦争をしてはいけない。戦争はいったん始まったら止めることはほとんど不可能だ。エ
スカレートするのみである。どんなことがあっても戦争を起こしてはならない。
いま必要なのは話し合いによる紛争の解決だ。平和的に共存することだ。12月8日を忘れ
てはならぬ。日本旧軍部の大愚行を忘れてはならない。
ひととおり検証しましたが、1922年11月から1923年にかけての「改造」に「アインシュタインの予言」は見つかりませんでした。
その後「改造」は太平洋戦争中の1944年に廃刊となります。
しかし戦後、1946〜1955年にはいちおうの復刊を果たしています。
実は戦後の「改造」については、国会図書館の電子検索の対象となっています。
念のためここでアインシュタインについて検索すると、下記の3つの記事がヒットしました。
1948/08号 アインシュタイン訪問 / 山本 俊太
1950/02号 アインシュタイン会見記 / 末包 敏夫
1950/10号 プリンストンの碩学--アインシュタイン博士と私 / 湯川 秀樹
すべての記事についてチェックしましたが(当然とはいえ)やはり「アインシュタインの予言」は掲載されていませんでした。
そのなかで、1948年8月号の「アインシュタイン訪問」には興味深いアインシュタインの発言が載っていました。
これはアインシュタインの友人で日本に彼を招聘した改造社元社長(当時すでに亡くなっている)の息子が、博士を訪ねての会見記です。
彼は平和と宗教の関係についてこのように語っています。
「宗教は平和に貢献しうるものでしょうか」
「宗教という観念は非常に漠然たるものであるから、その宗教が平和問題にどういう影響をもつかということはハツキリとはいえない。
しかし、もし宗教が団体宗教の意味であれば、自分は非常に懐疑的である。
その理由は宗教団体それ自信が非宗教的社会によって支持されているからである。それ故に宗教はあまり平和に貢献することはないと思う」
天皇を中心とする神道も宗教ですが、
ここでアインシュタインははっきりと「宗教はあまり平和に貢献することはない」という考え方を提示しています。
「アインシュタインの予言」とは趣を異にするものです
つまり、名越二荒之助が紹介した「アインシュタインの予言」とやらは、名越の捏造だったのです
名越の予言はアインシュタインでなくて別のシュタイン氏のことを混同したものだよ。
351 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/11(土) 19:50:47 ID:OZQK/6kQ0
>>337 そんなの戦前と戦後の記述を見れば両方あるだろうが。
お前は古い本見たことないの?
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/11(土) 20:07:35 ID:KdZe2B6L0
>>350 混同っていうか意図的に間違えたんじゃないの。
名越のことだし。
>>351 そこまでいうならソース出せ
誰でも彼でも「古い本」読める立場にいるわけじゃない
なんだ、誤記誤謬の類かw
日本にはネールという記述もあればネルーという記述もある。
ウイキでもそれを前提としてるようだが。
それがなんなの?
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/13(月) 12:46:16 ID:IONNo1J6O
アインシュタインの予言を最初に紹介したのは、名越ではなく今村均元将軍。
あながちデタラメとも思えない。別冊とか付録の小冊子に 書いてあったんじゃないか?
GHQの検閲のがれの為に。
358 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/13(月) 17:23:06 ID:qAhrAlKTO
コピペゴキブリ,涙目で見苦しくい弁明WW
>>360 すごくつまらないんだが、それで何を言いたいの?
>>360 だからあんだけクソ
弱かったんですね。
納得。
>>360 山本提督はフリーメーソンの陰謀というより単に無能だっただけだとおもう。
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/14(火) 11:24:07 ID:+rEBwpu70
敗戦するや否やマッカーサーに取り入り必死に命乞い。
「悪いのは東条らです〜!私は何も悪くありません〜!」と
天皇家の財産目録をちらつかせながらマッカーサーのケツ舐め舐め土下座。
「お助けいただけるんでしたら沖縄は25年でも50年でもいやそれ以上でも
どうぞご自由にお使いください〜!」と文字通りの売国提案。
世紀のクズ、売国奴。
コピペゴキブリがよくやる「有名人(著名人)」の発言から結論を導く手法は
権威論証と言って、れっきとした詭弁である
権威論証(ad verecundiam)
A「人間はBを敬うべきだ。哲学者のCもそう言っているだろう」
Aの発言は「専門家(または著名人)も私と同意見だ。故に私の意見は正しい」というタイプの推論。
権威に訴える論証とも。『専門家』や『著名人』は『常に真理を述べる者』と論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、
権威ある者の引用は厳密な証明にならない。反論として対立する権威が引用され、
同じ権威論証で対抗されることもしばしばである。
367 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/15(水) 11:10:00 ID:TVa5tmsa0
>>357 今村将軍の記事がコピペなんだよ。この話自体ずいぶん前からあった。
最初のソースは海江田信義子爵が明治時代にウィーンでローレンツ・フォン・『シュタイン』博士
から聞いた話なんだ。それが伝言ゲームで内容もより国粋的になり意図的か無知によるかわからないが
『アインシュタイン』ということになった。
名越は本気で物理学者の『アインシュタイン』が予言したと思いこみ国会図書館にかよいつめ
来日時の記事とか探しに探したけど見つけられなかったんだ。それで次善の策として
今村将軍を引用したわけだ。
368 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/16(木) 12:19:26 ID:YTnVv+nBO
名越捏造説は証拠の無い言いがかりに過ぎない。
モハメッド・ナチールらの証言は捏造だ、
と言い張るなら証拠を示してもらおうか
369 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/16(木) 12:33:41 ID:YTnVv+nBO
★ノンチック 元マレーシア上院議員
「日本軍がもたらした『大和魂』のような考え方を持つことは、独立のためにどうしても
必要でした。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、英国人が戻ってきて植
民地時代よりも悪質な独裁的制度をマレーシアに課そうとしたとき、人々は立ち上が
ったのです」
日本軍政は、マレーシアを独立させるために、訓練を施し大和魂を叩き込んだ。
そして、マレーシアは大和魂を発揮してイギリスから独立を勝ち取るのである。
即ち、大東亜戦争が植民地解放戦争であったという真実には疑問の余地がない。
我々の先祖は、侵略戦争ではなく世界に誇れる植民地解放戦争を戦ったのだ。
自虐の愉悦に浸りたい馬鹿豚は涙目で否定するが
>>369 またやってるよ、「権威論証」という名の詭弁を
権威論証(ad verecundiam)
A「人間はBを敬うべきだ。哲学者のCもそう言っているだろう」
Aの発言は「専門家(または著名人)も私と同意見だ。故に私の意見は正しい」というタイプの推論。
権威に訴える論証とも。『専門家』や『著名人』は『常に真理を述べる者』と論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、
権威ある者の引用は厳密な証明にならない。反論として対立する権威が引用され、
同じ権威論証で対抗されることもしばしばである。
名越が捏造やってないというなら、以下に答えろ
「アインシュタインの予言」は、「改造」の何年何月号に載ったんだ?
第一次大戦で撃沈された日本駆逐艦の名前を家
假裝的大國·中國
372 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/23(木) 01:22:15 ID:SDs7Oj/R0
>第一次大戦で撃沈された日本駆逐艦の名前を家
潜水艦に対する警戒が未熟で、魚雷を喰らわされて大破した艦があるって
聞いたことあるが、撃沈された艦ってあったの?
>>369さんでもいいや、教えてくれ。
>>372 言えるわけがない、そんなもんないんだから
それなのに「輸送船団の護衛任務中に、英国輸送船に向かっていく魚雷を発見
急送前進し盾となって撃沈された日本駆逐艦がいる、ああ崇高なる日本軍人魂」
なんて話を捏造したのが、悪名高い名越二荒之助
374 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/24(金) 14:06:34 ID:szinOsxlO
「大東亜解放戦争」 岩間弘
「平成11年8月13日、私は、中島慎三郎氏が案内役で中村燦教授が代表というインドネシア独立記念日
に参加することを主目的とする旅に縁あって参加させていただいた」
「我々12名は正式に独立式典に招待されていて、全員の椅子がテントの中に用意されていたのであっ
た。これは大変光栄なことで、インドネシアの人々がいかに親日的であるか、何よりも大東亜戦争に
よって、日本がオランダ軍を追放したこと、また、その後の独立戦争のときに残留日本軍人2000人の
協力によって独立戦争に勝つことができたことを深く感謝している証拠であった。」
大東亜戦争によってインドネシアが独立した、という歴史的事実を正しく認識している日本人のみがインドネシア独立式典に招待されるのである。
大東亜戦争は侵略戦争ニダ、と思い込んでいる気違いは、インドネシア人から軽蔑されている。
だから、馬鹿サヨがインドネシア独立式典に招待されることはまずないだろうし、招待されても欠席する。
自虐史観=売国的俗説とよばれる所以である。
馬鹿豚は泣きながら否定するが。
375 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/24(金) 14:28:44 ID:szinOsxlO
★ライス (元第25軍直属貨物廠の人夫頭)
「日本軍がシンガポールを陥落させると、オランダ人は何百年も威張っていたのに、強風を食らった
木の葉のように飛び去った。オランダ人も驚いただろうが、我々も日本軍の物凄い威力に驚いた。」
「ジャワに上陸した日本軍は9日間でオランダ軍を粉砕した。我々は350年間に何度もオランダ人と戦っ
たが追放することはできなかった。日本軍が大東亜戦争を敢行しなかったらなら、インドネシアは今
でもオランダの植民地だったのは間違いない。」(大東亜解放戦争;岩間弘)
大東亜戦争が植民地解放戦争であった、という事実は、末端のインドネシア人軍属でも認識していた
周知の事実なのである。いわば、当時のインドネシア人全員の認識が、『大東亜戦争は植民地解放戦争』だったといって
過言ではないのだ。
馬鹿豚の悔しがるさまが目に浮かんで実に愉快だな。はっはっは。
ざまあみろ、低能!
376 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/24(金) 14:38:28 ID:szinOsxlO
何度も何度も言い続けているのだが、
モハメッド・ナチールらの証言が「名越の捏造ニダ」と言い張るなら、証拠を示してもらおうか
駆逐艦の話など、とるに足らない誤謬に過ぎない。
377 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/24(金) 14:42:24 ID:szinOsxlO
東南アジア高官や政治家の証言は権威論証ではない。
なぜなら彼等は大東亜戦争当時、何の権威もなかった。
馬鹿には理解不能だろうが
>>377 今はある
そしてお前はその権威を利用している
それをずっと繰り返してきた
大卒なら誰でも引用だけして「だからAはBである」という論証法は
「権威論証」という詭弁であることを知っている
おまえは中卒だから知らなかっただけだ
もっともっと厨房臭いところをみせてくれよ
ざまあみろ、低能
「モハメッド・ナチール」と言ってる時点で信憑性ゼロなの
中卒にはわかんないのかなあw
せっかくだから、権威論証で返して、権威論証のむなしさを教えてやるよ
★スカルノ(インドネシア大統領)
ハッタと私はもう長い間やり取りがなかった。そしてお互いに言うべきこと、尋ねるべきことがたくさんありながら、お互いに問いを発しなかった。
ハッタが耳打ちした「この占領の結末について君の意見は?」
私は囁き返した。「日本人たちはここに長くは留まらないだろう。彼らは戦争に負けるし、我々は彼らを打ち破るだろう。
これはつまり、我々が公然とは彼らに刃向かわなければの話だが。」
そして私が尋ねた、「話してくれ、ブン・ハッタ、我らが人民のナショナリズム精神の様子を?」
「それは戦争のせいで損なわれてはいない。我らが人民はすでに‘解放’について不審に思い始めており、
ブン・カルノの帰還をはやる思いで待っている」”
スカルノとハッタはこのように日本軍を解放軍などとは思っていなかったのだ
そして
「はじめに我らが人民は苦しみの中へ投げ込まれるに違いない。なぜなら、そうなった時にのみ彼らは目覚めるのだから。
我らの人民は、平和的であり、おおらかであり、競争を避けてしまう。7千万人近くが50万人に支配されていたというのに、
我ら大衆はオランダ人の支配下で闘おうとするほど苛つくこともなかったろう。オランダ人はまがい物の慈善で彼らの支配を上手く調整した。
しかし、ジャップ*1たちはそうしない。」
「彼らは刀の一振りで人々の頭部を切り落とす。彼らは、計略をもって犠牲者たちにたらふく水を飲ませ、
そして彼らの腹の上に飛び乗る。深夜、ケンペイタイ*2の本部から聞こえてくる苦しみの悲鳴にも慣れた。
聞くところによれば、ケンペイタイの看守はわざと酔っ払った状態にされており、そうやって彼らの感受性を鈍らせているそうだ。
日本人は手強い。残酷だ。すぐに残虐行為にでる。彼らは、我らが人民を戦わせることになるだろう。」
スカルノは日本人に対してこれっぽちの好意も持っていなかったのだ
それは日本がインドネシアを征服、利用するためだけに占領し、インドネシア人のことなど同じ人間だと思っていなかったことを表す
だからスカルノは言う「9回までは利用されてやる、最後の1回で取り返せばいいのだ」と
ざまあみろ低能ゴキブリ、スカルノは日本人を「ジャップ」と呼ぶほど嫌っていたぞ
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 09:40:29 ID:pgA/FEbb0 BE:2830133568-2BP(10)
『ジャカルタ夜明け前―インドネシア独立に賭けた人たち』
これ読んでから語ってね。
382 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/25(土) 17:32:03 ID:8DdUNAN20
>>1 李完用・安重根は朝鮮を日本植民地にした英雄。
>>373 それを検証もせずに教科書にまで載せちゃったのが新しい教科書をつくる会。
新しい教科書をつくる会には、漫画家はいても
歴史学者は一人もいないという不思議
コピペゴキブリ吉田が、何の論証にもならない
詭弁でしかない「権威論証」しかできないのは
まず、吉田自身が中卒で無知だということ
呼吸するように嘘をつく名越の同類だと言うこと
そして、大日本帝国が「いいこと」をしたという史実が全然ないと言うこと
これにつきるであろう
387 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/28(火) 12:44:26 ID:0a68cxeGO
★イソハック (マレーシア・ケランタン州副知事)
「1991年、私達は日本のコタバル上陸50周年を祝いました。これがケランタン、つま
り当時のマラヤにとって、意義ある出来事であったからです。ここコタバルは、日本
軍最初の上陸地です。私は、戦争博物館の館長として記念行事を担当しましたが、
多くの人がこの重要な出来事を、長く記憶に留めていただきたいと願っています」
マレーシアでは、日本軍上陸を、意義ある出来事として祝っているのだ。
なぜなら、日本軍はマレーシアを解放し、政治意識を植え付け独立への道を切り開いたからである。
大東亜戦争における日本軍の功績は計り知れないものがある。
即ち、大東亜戦争が植民地解放戦争であったのは歴史の真実なのだ。
ざまあみやがれ、馬鹿豚め
388 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/28(火) 13:01:05 ID:0a68cxeGO
★シャフィー (元マレーシア外務大臣)
「特に私が惜しいと思うのは、日本くらいアジアのために尽くした国は無いのに、
それを日本の政治家が否定することだ」
自虐史観に脳を侵されると、日本は侵略戦争をしたニダ、と言うデタラメを信じ込むようになり、
最後にはアジアから嫌われる誇り無き売国奴に成り下がってしまうのだ。
恐ろしいことではないか。世界に通用する常識人になりたければ、
自虐史観の洗脳を解き、日本人の誇りを取り戻さなければならない。
そのためには大東亜戦争は植民地を解放したと正しく認識すればよい。
自虐史観カルトの馬鹿豚が泣いて悔しがってるぜ。
みっともねー
氏ね、低能
権威論証(ad verecundiam)
A「人間はBを敬うべきだ。哲学者のCもそう言っているだろう」
Aの発言は「専門家(または著名人)も私と同意見だ。故に私の意見は正しい」というタイプの推論。
権威に訴える論証とも。『専門家』や『著名人』は『常に真理を述べる者』と論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、
権威ある者の引用は厳密な証明にならない。反論として対立する権威が引用され、同じ権威論証で対抗されることもしばしばである。
権威論証は詭弁の一類型である
コピペゴキブリ吉田は中卒なので
大卒なら皆知っているこのことを知らない
詭弁を回避したければ、それを証明する史実なり事実なりをもってくればいいのだが
吉田にはできない
大日本帝国が「いいことをした」という史実など存在しないからである
マレーシアに対して日本軍は何をしたのか検証してみよう
すでに開戦前に日本は急進的な青年らによる民族運動であるマレー青年連盟(代表イブラヒム・ヤコブ)と接触して反英宣伝のために資金を提供し、
開戦後はマレー進攻作戦のなかで、政治工作を担当した藤原機関がかれらと接触、マレー人に対する宣伝工作などをおこなわせて日本軍に協力させた。
こうしたなかで青年連盟の幹部らは「マラヤ共和国」の樹立を提案したが日本軍に拒否され、さらに民族運動を行なう政治結社として認めることを求めたが
日本軍は文化団体としてのみ認めた。日本軍のそうした姿勢にもかかわらずマレー青年連盟は各地で急速に勢力を伸ばし、戦前は200〜300人程度しかいなかったのが、
日本軍のマラヤ占領後二カ月で1万人を越えるに至った。ところが日本軍は1942年6月青年連盟を解散させた。
日本軍はマレー作戦を有利にするために青年連盟を利用したが民族運動としてさえも認めず、勢力が拡大するとそれを危険視して解散させてしまった。
ここに東南アジア支配の拠点であるマラヤでの民族運動に対する日本軍の姿勢がはっきり示されている。
その後、戦局が日本軍に不利になってきた1943年12月、日本軍を補うためにマレー人を組織して義勇軍と義勇隊を編成した。
この時、青年連盟の代表であったイブラヒムを義勇軍の指揮官に就任させた。
しかしイブラヒムなどの青年連盟の幹部たちは密かに各地の抗日ゲリラと連絡をとり、さらにイギリス軍がインドから送り込んできた136部隊とも連絡をとって、
連合軍がマラヤに進攻してきたときに内部から呼応して日本軍と戦う準備をおこなっていた。
かれらは裏切った日本軍をけっして信用しなかったのである。
ここからみても、コピペゴキブリ吉田が引っ張り出してきた発言など
「おべんちゃら」に過ぎないことが良く分かるであろう
吉田は中卒だから、このようなお粗末な引用しかできないのである
391 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 22:06:12 ID:Ku2Pt3PY0
★シャフィー(元マレーシア外務大臣)
「とくに私が惜しいと思うのは、日本くらいアジアのために尽くした国はないのに、それを日本の政治家が
否定することだ。責任感をもった政治家だったら、次のように言うだろう。『その頃、アジア諸国はほとん
ど欧米の植民地になっていて、独立国はないに等しかった。日本軍は、その欧米の勢力を追い払ったのだ。
それに対して、ゲリラやテロで歯向かってきたら、治安を守るために弾圧するのは当然でないか。諸君らは
何十年何百年にわたって彼らからどんなひどい仕打ちを受けたか忘れたのか?日本軍が進撃した時にはあん
なに歓呼して迎えながら、負けたら自分のことは棚に上げて責任をすべて日本にかぶせてしまう。そのアジ
ア人のことなかれ主義が、欧米の植民地から脱却できなかった原因ではないか。』」
シャフィーが言うには、日本軍が植民地支配者を追い出したのだから、独立は日本に
任せるのが当然であり、好き勝手に独立を求めたり、日本にテロで歯向かったら、日本
が治安維持のために弾圧するのは当然なのだ。
>>390で自慢げな馬鹿豚はどこまでも浅はかだ。
大東亜戦争が植民地解放戦争と呼ばれるゆえんである。そして、マレーシアは戦後
も今も、一貫して親日的である。馬鹿豚には理解できまいが
392 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 22:11:53 ID:Ku2Pt3PY0
そして、
>>387でイソハックが述べたとおり、マレーシアのケランタンでは、
日本上陸50周年を「祝って」いるのである。植民地主義者を追い出した
強い日本がきたことを心から祝ったのだ。
馬鹿豚は、「権威論証がどうの」と馬鹿の一つ覚えのように繰り返しているが、
ケランタン州の記念式典は単なる事実であって、権威とは何の関係もない。
馬鹿豚が馬鹿と呼ばれる所以である。
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 22:21:04 ID:Ku2Pt3PY0
★アジス(マレーシア・マラヤ大学副学長)
「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声を上げました。敗れて逃げて
ゆくイギリス軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。日本軍は
永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には
勝てないとあきらめていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えてくれました。」
日本は、大東亜解放戦争を戦い、東南アジア植民地諸国を解放するという
非常に良い事をした。これは疑う余地のない歴史的真実なのである。大東亜
戦争は、西欧植民地主義を打倒し、人種差別のない世界を築き、自由貿易
世界を樹立した。大東亜戦争は日本人の誇りである。
我々日本人が「世界で通用する常識人」になりたければ、大東亜戦争の意義に関して
最低限これくらいは語れなければ、世界で軽蔑される。
馬鹿豚は、世界で軽蔑される実にくだらない存在なのだ。
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 22:36:36 ID:Ku2Pt3PY0
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 22:39:30 ID:Ku2Pt3PY0
俺が権威論証していると言い張るなら、馬鹿豚も権威論証で対抗してみたらどうだ?
悔しいか?バーカ
396 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 23:33:45 ID:Ku2Pt3PY0
ついでに一言
★馬鹿豚による「権威論証」の歪曲・捏造
A「人間はBを敬うべきだ。哲学者のCもそう言っているだろう」
Aの発言は「専門家(または著名人)も私と同意見だ。故に私の意見は正しい」というタイプの推論。
「(または著名人)」は権威論証に含まれない。このカッコの部分は馬鹿豚の捏造である。
馬鹿豚が全く信用できない最低の嘘つきであることを示す「自爆」の例である。
大東亜戦争は侵略ニダ、と主張する馬鹿で低レベルな人間は、息を吐くように嘘をつくから気をつけろ。
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 23:50:59 ID:lA6bll3mO
388 アメリカが独立させてくれたやん
>>394 この大嘘つきが
お前の大好きなトインビーやH・G・ウェルズはなんなんだ?
マレーシアの現地人か?
自分のやってることが権威論証でないと回避したがって
いろいろと言い訳しているようだが
一生懸命自分が権威論証という詭弁に頼っていることを証明しているだけだ
中卒のお前が馬鹿ばかりするせいで
このスレに誰も価値を見いださなくなったから
こうしよう
このスレを「大日本帝国の悪を暴くスレ」にする
その前に一言二言
>権威論証とは「権威に訴える論証」である。
>従って、大東亜戦争に関して「大東亜戦争の権威の発言」を利用して何か
>を主張しようとすればそれは権威論証といえる。
>しかし、俺が引用しているのは、「大東亜戦争の権威の発言」ではなく、
>大東亜戦争を植民地の人間として実体験した後、政治家や学者になった者
>たちが、戦争当時に感じたこと、戦後に思ったことだけである。彼らは
>大東亜戦争研究に関しては全くの素人同然である。
幼稚な詭弁である
お前はこれらの人々の発言を「権威ある物」として扱い
他にそれを証明する史実なり事実なりを添えているわけではない
第一お前の教科書は名越二荒之助からの引用だろう
彼は「権威」じゃないのかね?
それに発言者が「素人」だというのなら、その発言の信憑性さえ疑わしいな
こうして中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田が自爆した
ああ愉快だ、もっと笑わせてくれ
では、スカルノに「悪魔」と言われた大日本帝国が
どれほど鬼畜であったか述べていこう
開戦以来、 次々と占領地域を広げていった日本軍は、1942年(昭和17)5月1日にビルマ北部の中心都市マンダレーを占領し、
これにより南方進攻作戦は一段落した。日本軍は、西はビルマ、インドのアンダマン諸島、南はインドネシア、ニューギニア北部からソロモン諸島、
東はギルバート諸島、北はアリューシャン列島のアッツ、キスカ島にいたる広大な地域を占領下においた。
また中国では農村部までは十分な支配をおこなえなかったものの要衝部を占領していた。
1942年8月にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸し反攻を開始してから太平洋の島々、
44年から45年にかけてフィリピンを、また西からは45年にイギリス軍がビルマを奪回したが、多くの地域は最後まで日本軍の占領下におかれた。
日本軍はこれらの占領地に軍政をしき、陸軍が香港、フィリピン、英領マラヤ、スマトラ、ジャワ、英領ボルネオ、ビルマを、
海軍がオランダ領ボルネオ、セレベス、モルッカ諸島、小スンダ諸島、ニューギニア、ビスマルク諸島、グアムなどを担当することとした
(「占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定」1941年11月26日)。
軍政については大本営政府連絡会議が基本方針を決めたが、
ここで日本・満州・中国と東経90度から180度まで、南緯10度以北の地域を「帝国指導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」と決定した
(「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」1942年2月28日)。
これらの地域がいわゆる「大東亜共栄圏」と呼ばれる地域である。
東条首相は42年2月の議会での演説の中で
「大東亜戦争ノ目標トスル所ハ我肇国ノ理想ニ淵源シ大東亜ノ各国家、
各民族ヲシテ各々其所ヲ得シメ皇国ヲ核心トシテ道義ニ基ク共存共栄ノ新秩序ヲ確立セントスルニ在ル」と所信を述べた。
しかし「南方占領地行政実施要領」にはっきりと見られるように、日本がこれらの地域を占領したのは
あくまで日本にとって必要な資源を獲得するためであって、
日本を中心とした秩序のなかで各地域の人々は、日本の必要に応じた役割を求められたにすぎなかった。
戦争時に占領地において占領軍が一般住民にたいして行政をおこなうことがあり、
これを占領地軍政、あるいは単に軍政という。ただ海軍の場合は民政と呼んだ。
1907年(明治40)に結ばれ、日本も批准していた「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(いわゆるハーグ条約)の付属書
「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」にはこうした占領地に関するいくつかの規定が含まれている。
そのなかには「占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、
成ルベク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為為シ得ベキ一切ノ手段ヲ尽スベシ」
「家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ、之ヲ尊重スベシ」
「掠奪ハ、之ヲ厳禁ス」などの内容が記されている。
占領軍といえどもその行動は戦時国際法によって制約されていた。
陸軍では軍政は陸軍省の管掌とされ、南方軍指揮下の各軍に軍政部がおかれた。
その後、初期の軍事作戦が一段落した1942年(昭和17)7月軍政組織の整備再編がおこなわれ、
南方軍総司令部(シンガポール)に軍政総監部(南方軍総参謀長が軍政総監を兼務)、
第14軍(担当地域フィリピン)・第15軍(ビルマ)・第16軍(ジャワ)・第25軍(マラヤ・スマトラ)
のそれぞれの軍司令部に軍政監部(各軍参謀長が軍政監を兼務)が設置された。
ボルネオ守備軍にのみ引き続き軍政部がおかれた。
海軍は海軍省に南方政務部が設置され、各地に民政部がおかれた。
軍政を施行するにあたっては「極力残存統治機構ヲ利用スル」(「南方占領地行政実施要領」)こととしたが、
主な部署には軍政要員が派遣された。軍人だけでなく各省から出向した官僚、金融機関や企業から派遣された者などからなっていた。
したがって軍政は軍のみでおこなわれたのではなく、警察・地方行政などを担当した内務官僚、
財政・経済施策を担当した大蔵・商工などの経済官僚が重要な役割をはたした。
軍人以外の軍政要員のために司政官という官職が設けられた。
司政長官、司政官、技師、警部などの軍政要員の定数は最終的に陸軍1万8465人、海軍7689人とされた。
ほかに軍政顧問が設けられ、各軍司令部に政財官の有力者が任命された。
行政の末端においては以前からの公務員など地元住民を使っていたことはいうまでもない。
軍政の最大の目的は重要資源の獲得のためであったが、
開戦直後の12月12日に関係大臣会議で決定された「南方経済対策要綱」では
「開発ノ重点ヲ石油ニ置」き、さらにニッケル、ボーキサイト、クロム、マンガン、雲母、燐鉱石、
その他の特殊鋼原鉱、非鉄金属などの開発を進めること、そのために「極力在来企業ヲ利導協力」させることとしている。
「一地点ノ資源開発ハ努メテ一企業者ノ専任トスルコト」などの原則のもとに担当企業が選定された。
これにより三井・三菱・住友などの財閥系企業や戦前からこれらの地域に進出していた石原産業などの企業が軍と結びついて進出していった。
日本が取得することを期待した資源は、大本営陸軍部が作成した「南方作戦ニ伴フ占領地統治要綱」(1941年11月25日)によると、
フィリピンからマンガン、クロム、銅、鉄鉱、マニラ麻、コプラ、
英領マラヤからボーキサイト、マンガン、鉄鉱、スズ、生ゴム、コプラ、タンニン材料、
英領ボルネオから石油、蘭印から石油、ニッケル、ボーキサイト、マンガン、スズ、生ゴム、キナ皮、キニーネ、ヒマシ、タンイン材料、
コプラ、パーム油、工業塩、とうもろこしとなっている。
最も重要視されていた石油について見ると、
北ボルネオのミリ、スマトラのパレンバンなどの油田を占領後ただちに復旧し、原油生産は1942年2594バレル、43年4963バレルと拡大した。
日本への輸送も42年167万キロリットル(生産量の40パーセント)、43年230万キロリットル(29パーセント)となった。
しかし43年になると米潜水艦による船舶の喪失が急増し、船舶不足が深刻になった。
そのため44年の内地還送量は約80万キロリットルに激減した。
また連合軍による空襲により生産にも支障をきたすようになった。
ほかの鉱物資源の開発も同様の状況であった。
日本軍は占領地に軍票を流通させた。
日本軍は開戦前から現地通貨表示の軍票(蘭印ではギルダー、マラヤではドル、フィリピンではペソなど)を準備し、
占領とともに現地通貨と等価で流通させた。当初の計画では、軍政が順調にいけば軍票を回収し現地通貨のみに戻す予定だったが、
実際には軍票の発行が急増していった。
1942年3月に占領地の資源開発、為替管理、敵産管理などを目的とする南方開発金庫が設立された。
1943年1月南方開発金庫に発券機能が付加され、4月より南方開発金庫券(南発券)を発行しはじめた。
これは軍票ではないが実際には軍票と同じようなものだったので、一般には軍票と思われていた。
外部との交易関係が断たれ、物が不足するなかで、物資を調達するために南発券が乱発された。
発行高は1942年12月に4億6326万円だったのが、44年末には106億2296万円、45年8月には194億6822万円と急増していった。
日本が中国で発券した儲備券の場合は1941年末の2.4億元から44年末には1397億元、45年8月には2兆6972億元にも達した。
この結果、すさまじいインフレが引き起こされた。
シンガポールの物価指数は開戦時の1941年12月を100とすると翌年12月には352、44年12月には1万0766、45年8月には3万5000と350倍になっている。
特に米は開戦時、60キロが5ドルだったのが、45年6月には5000ドルと一千倍にもなっている。
日本軍の軍政を財政的に支えた一つが阿片だった。
イギリスなど旧宗主国も阿片を植民地支配のために利用していたが、日本軍はそれを一層拡大した。
太平洋戦争の勃発によりインドからの阿片の輸入が途絶えたため、日本のかいらい政権のあった中国の蒙疆を阿片の生産地として「大東亜共栄圏」の阿片供給をはかった。
シンガポールは阿片の精製と包装をおこなって周辺地域に阿片を供給する役割をはたした。
日本軍は阿片の専売制をとり、第25軍の1942年度の第一、第二四半期の予算では全経常部歳入の50パーセント以上が阿片収入によることになっていた。
阿片は主に華僑の苦力(クーリー)によって使用されていたが、こうした阿片政策は「大東亜共栄圏」の一面を示していた
東南アジアの諸地域はイギリス、フランス、オランダなどの宗主国やアメリカとの間で世界的な貿易のネットワークを作っていた。
また1930年代になると中国や日本の軽工業製品も入ってきていた。
たとえば英領マラヤでは、輸出品としてはゴムとスズが中心だった。
開戦前、ゴムは世界総生産の約4割、スズは約三分の一を占める、マラヤの二大産業だった。
輸出先は圧倒的にアメリカだった。輸入品としては、シンガポールが中継・加工貿易の拠点であったことから、
石油(蘭印、英領ボルネオから)、ゴム(蘭印)、スズ(蘭印、タイ)、米(タイ)などを輸入していた。
要するにゴム、スズのマラヤの特産品と蘭印などから輸入した原材料を中継あるいは加工してアメリカに輸出し、
食糧はタイなど周辺地域から、工業製品はアメリカやイギリスから輸入するという構造になっていた。
蘭印の場合は、石油などの鉱産物やゴム、キナ皮、コショウ、コプラなどの農作物を輸出し、
工業製品を輸入するという構造であった。輸出先は、アメリカ、オランダ、イギリス、日本などである。
シンガポール向けも多いが、これはすでに述べたようにそこを経由して上記の国々に輸出されていた。
輸入はアメリカ、オランダ、日本などからである。
フィリピンの場合は、輸出入ともにほぼ全面的にアメリカに依存していた。
砂糖、ココナッツ製品、マニラ麻などをアメリカに輸出し、工業製品をアメリカから輸入するという構造で、
貿易に占めるアメリカの比重は1930年代には70%台にもなっていた。
フランス領インドシナはフランス本国と、ビルマはイギリス、インドと密接に結びついていた。
このように東南アジアはその域内ならびにアメリカ、イギリスなどの先進工業国と深い交易関係を結んでいた。
日本とこれらの地域との関係は、1930年代においてはフィリピンにとっては輸出入ともに日本はアメリカについで第2位、
タイと蘭印にとって輸入で第2位の位置をしめていた。 ただその比率は大きくても十数パーセントにすぎなかった。
日本からの輸出品は綿織物を中心とする繊維製品であり、ほかに雑貨類や加工飲食料品などを含めて、消費財の軽工業品が圧倒的な比重を占めていた。
日本の輸入品は生ゴム、石油、鉄鉱、マニラ麻などの燃料・原料が中心であった。
日本軍による占領によって、東南アジアと外部地域との交易関係は断たれ、また東南アジア内の交易関係も寸断された。
日本にはこれらの地域の産物をすべて引き受け、またこれらの地域で必要な工業製品を供給する力はなかった。
日本国内でも日中戦争開始以来、物資不足が深刻化し、食糧や衣類などの配給制、切符制が実施されるようになっていた。
軍需生産のために、国民にとって必要な物資さえも満足に供給できなくなっていたのであり、
広大な「大東亜共栄圏」に工業製品を供給することははじめから不可能であった。
ゴム、砂糖、コーヒーなどの輸出品は輸出先を失い、そこで働いていた労働者は職を失った。
必要な工業製品は入ってこなくなった。
そのうえ日本軍は「現地自活」方針をとって駐留する日本軍に必要な食糧や物資を現地調達したために物不足は深刻になり、
軍票の乱発とあわさってひどいインフレに陥った。
日本は1943年後半よりこの地域で必要な工業製品を地元で生産する方針に転換したがうまくいかなかった。
食糧を輸入に頼っていたマラヤ、フィリピンなどでは食糧自給のために商品作物から米やとうもろこしへの転換が図られたが、
日本軍に食糧を供出させられたこともあり、深刻な食糧不足に陥った。
食糧の多くを輸入に頼っていたマラヤでは人々はさつまいもやタピオカを作った。
タピオカはキャッサバから作ったでんぷんであり、マレーシアでは日本占領時代が食糧難の時代であったことから「タピオカ時代」と呼んでいる。
食糧問題で最も深刻だったのはベトナムだった。
ベトナム北部では1944年末から45年にかけて、100万とも200万人とも言われる多数の餓死者を出した。
タイビン省だけの調査でも人口100万人のうち約28万人が犠牲になった。
この原因としては、日本軍による強制的な食糧の徴発、水田を潰して軍事物資であるジュート(黄麻)への作付けの転換を強制したこと、
戦況の悪化などの理由により南部のデルタ地帯からの米の輸送が途絶えたことなどが指摘されている。
東南アジアには多様な民族が混在していた。それらの民族間の違いや矛盾を日本軍は利用しようとした。
英領マラヤ(マレー半島とシンガポール)はもともとはマレー人の地であったが、
彼らは主に米作などの農業に従事し人口も少なかった。
そこで19世紀以降、植民地化したイギリスが労働力不足をおぎなうために、スズ鉱山の労働者として中国人を、
ゴム園の労働者としてインド人を連れてきた。特に19世紀末から20世紀にかけて、缶詰の普及によるスズ消費の拡大、
自動車生産にともなうゴム消費の拡大はこうした移民に拍車をかけた。
移民してきた中国人はスズ鉱山にとどまらずゴム園や商業にも進出し、マラヤ経済に強い影響力をもつようになった。
そしてついに人口でもマレー人を追い越すにいたった。
インド人は少数派であったが商業や金融業にも進出していった。1941年6月末の推定によると、マラヤの総人口552万0275人、
うち中国人238万2529人、マレー人228万3930人、インド人74万4430人、欧州人・欧亜混血人5万0836人、その他5万8550人となっている。
宗教については、マレー人はイスラム教、中国人は仏教や道教、インド人はヒンズー教やシーク教というように民族ごとに異なっており、
住居も民族ごとに住み分けられていた。一般的に言えば、中国人はマレー人より自分たちの方が優れているという意識が強く、
一方、マレー人は自分たちの土地なのに後から来た中国人の経済力が強いことに反発を感じているという傾向がある。
ただ戦前までは職業的にも地域的にも住み分けがおこなわれていたこともあってその対立はあまり表面化していなかった。
中国人は中国を祖国と考え、インド人はインドを祖国と考えていた。
これらの地域に住む中国人を当時は華僑と呼んでいたが、その言葉には今住んでいるところはあくまでも仮の住まいであって、
いつの日か一旗あげて郷里に帰ろうという意識を持った人たちという意味が込められている。
ただ戦後は住んでいるところが祖国であるという意識に転換し、華人と呼ばれるようになっている。
マレー人は各地のサルタンを政治的宗教的に支配者として仰ぎ、マレー人としてのナショナリズムはまだ未成熟だった。
こうした事情からマラヤの民族運動は周辺地域に比べて未発達だった。
マラヤを植民地にしたイギリスもこれを利用して分断統治をおこなった。
1931年(昭和6)の満州事変、特に1937年(昭和12)の日中戦争の開始以来、東南アジア各地の華僑は抗日救国運動を展開、
中国への義援金募集・日貨排斥(日本製品のボイコット)・抗日宣伝などをくりひろげた。
この運動の中心になったのがマラヤ、特にシンガポールの華僑だった。
たとえば重慶政府が発表した海外華僑からの献金総額2億9400万円(1937年7月から40年10月)のうち1億2500万円(42.5%)が
マラヤの華僑からのものだった。こうしたことから日本軍はマラヤ華僑全体を「抗日的」と見なした。
マラヤの占領とその後の軍政を担当した第25軍が作成した「華僑工作実施要領」によると、
「占領直後ノ応急要領」として「服従ヲ誓ヒ協力ヲ惜シマザルノ動向ヲ取ル者ニ対シテハ其ノ生業ヲ奪ハズ権益ヲ認メ
然ラザル者ニ対シテハ断乎其ノ生存ヲ認メザルモノトス」とし、さらに「第一期作戦終了直後ニ於ケル対処要領」として
「協力ニ参加セザル者ニ対シテハ極メテ峻厳ナル処罰ヲ以テ処理ス 即チ財産ノ没収、一族ノ追放、再入国ノ禁止ヲ行フト共ニ反抗ノ徒ニ対シテハ極刑ヲ以テ之ニ答ヘ
華僑全体ニ対スル動向決定ニ資セシム」ときわめて厳しい姿勢を打ち出している。
また「華僑全体ニ対シ最低五千万円ノ資金調達ヲ命ズル」としている。
この政策の表れがシンガポールやマレー半島各地での華僑虐殺であり、
また5000万円(ドル)の献金の強制だった。1942年4月献納の予定で5000万円の目標額がマラヤの各州ごとに割り振られたが、
なかなか集まらず、2200万円を横浜正金銀行から借入れ、6月に献納式がおこなわれた。
第25軍軍政部の4〜6月期の経常部歳入(予算)が294万ドルであることと比較すると膨大な金額であることがわかる。
こうした残虐行為を含む華僑に対する強硬策は華僑の反発を強め、華僑主体の抗日運動を激化させ、
また経済的実力を持つ彼らの協力を調達することを困難にしてしまった。
一方、マレー人に対してはどうだったのか。
すでに開戦前に日本は急進的な青年らによる民族運動であるマレー青年連盟(代表イブラヒム・ヤコブ)と接触して反英宣伝のために資金を提供し、
開戦後はマレー進攻作戦のなかで、政治工作を担当した藤原機関がかれらと接触、マレー人に対する宣伝工作などをおこなわせて日本軍に協力させた。
こうしたなかで青年連盟の幹部らは「マラヤ共和国」の樹立を提案したが日本軍に拒否され、さらに民族運動を行なう政治結社として認めることを求めたが
日本軍は文化団体としてのみ認めた。日本軍のそうした姿勢にもかかわらずマレー青年連盟は各地で急速に勢力を伸ばし、戦前は200〜300人程度しかいなかったのが、
日本軍のマラヤ占領後二カ月で1万人を越えるに至った。ところが日本軍は1942年6月青年連盟を解散させた。
日本軍はマレー作戦を有利にするために青年連盟を利用したが民族運動としてさえも認めず、勢力が拡大するとそれを危険視して解散させてしまった。
ここに東南アジア支配の拠点であるマラヤでの民族運動に対する日本軍の姿勢がはっきり示されている。
その後、戦局が日本軍に不利になってきた1943年12月、日本軍を補うためにマレー人を組織して義勇軍と義勇隊を編成した。
この時、青年連盟の代表であったイブラヒムを義勇軍の指揮官に就任させた。
しかしイブラヒムなどの青年連盟の幹部たちは密かに各地の抗日ゲリラと連絡をとり、さらにイギリス軍がインドから送り込んできた136部隊とも連絡をとって、
連合軍がマラヤに進攻してきたときに内部から呼応して日本軍と戦う準備をおこなっていた。
かれらは裏切った日本軍をけっして信用しなかったのである。
こうしたことは東南アジア各地でも見られた。
ビルマでは、民族主義団体のタキン党(主人を意味する)が第二次世界大戦が始まるとイギリスへの協力を拒否して弾圧されていた。
日本軍の謀略機関だった南機関はタキン党の活動家30人を脱出させ海南島で軍事訓練をおこないビルマ独立義勇軍を編成させた。
南機関はビルマを独立させると約束してかれらを日本軍に協力させ、日本軍とともにビルマに進攻させた。
ところがビルマを担当した第15軍の「占領地統治要綱」(1942年3月15日)では、
「緬甸ニハ将来独立政権ノ樹立ヲ考慮セラルルモ之ガ実行ハ差シ当リ大東亜戦争終了後ト予想ス
従ヒテ将来ニ対スルノ処理ニ関シテ当分之ニ触レザルモノトス」というように「独立」問題を戦争終了後に先送りし、
差当りは独立の言質を与えないという方針をとった。こうしてビルマを占領した日本軍は独立を与える約束を反故にし、
軍政を開始するとともに、2万人以上になっていた独立義勇軍を解散させ、3千人ほどのビルマ防衛軍に縮小改編させた。
1943年8月日本はビルマに独立を与えたが、首相にはタキン党から登用せず、
タキンの指導者アウンサンは国防相になった。アウンサンは地下で抗日活動をおこなうグループと連絡をとり、
44年8月ビルマ国軍、共産党、人民革命党などとともにファシスト打倒連盟(のちに反ファシスト人民自由連盟パサパラ)を組織した。
そして翌45年3月連合軍がインドからビルマに進撃してくると、それを迎え撃つという名目でラングーンを出撃した後、
反転して連合軍とともに日本軍を攻撃、5月にはビルマ国軍の手で首都ラングーンを日本軍から奪い返した。
日本軍はビルマ進攻にあたって、民族主義運動を利用したが、勝利を得ると途端に約束を反故にした。
後に彼らに頼らざるをえなくなり再度登用するが、彼らはもはや日本軍を信用することはなかった。
日本軍が占領した地域を日本の領土にしてしまうのか、それとも独立させるのか、
それは日本の戦争目的に直接関わる、きわめて大きな問題であった。
シンガポール占領前日の1942年2月14日大本営政府連絡会議はシンガポールを昭南島に改称することを決定し17日に発表した。
これはシンガポールを日本の領土とすることの意思表示とも見なされうるものだが、
将来の帰属についてしばらくは公にはされなかった。
1943年1月14日大本営政府連絡会議は「占領地帰属腹案」を決定した。
このなかで「大東亜防衛ノ為帝国ニ於テ確保スルヲ要スルヲ必要トスル要衝並ニ
人口稀薄ナル地域及独立ノ能力乏シキ地域ニシテ帝国領土ト為スヲ適当ト認ムル地域ハ之ヲ帝国領土ト」すること、
「従来ノ政治的経緯等ニ鑑ミ之ヲ独立セシムルコトヲ許容スルヲ大東亜戦争遂行並ニ大東亜建設上得策ト認ムル地域ハ之を独立セシム」ことという「基準」を定めた。
そして後者の「基準」によりビルマとフィリピンに独立を与えることとし、その他の地域については「追テ定ム」と決定を留保した。
ビルマに関しては、すでに1937年にイギリスがビルマをインドから分離し、
ビルマ人の自治政府を組織させていたこと、日本軍のビルマ進攻にあたって、
民族運動家に独立の約束をしてビルマ独立義勇軍を組織させて日本軍に協力させたにもかかわらず、
占領後はその約束を反故にして軍政をしいたが、連合軍の反攻に備えて彼らの協力が再び必要になったことなどの事情が背景にあった。
フィリピンについては、1934年アメリカは10年間の準備期間をおいてフィリピンの独立を与えることを決定した。
これに基づいて憲法が制定され、総選挙を経て1935年フィリピン・コモンウェルス政府が発足し、1946年には独立することになっていた。
ここに日本軍が入ってきたので、建前上、独立を認めざるをえなかった。
しかしこの独立は実質的には「独立」の名に値しないものであった。
ビルマに対しては、 軍事的には「帝国トノ間ニ共同防衛ヲ約セシメ兵力ノ駐屯、軍事基地使用及設定等ヲ認メシメ特ニ軍事的結合ヲ鞏固ナラシム」、
「外交」では「緊密提携」、「経済」では「緊密協力」を「約セシム」ことを条件とし、
フィリピンに対してもほぼ同様の条件を規定している。この内容は言い換えると外交・経済は実質的に日本が掌握し、
軍事的にもフリーハンドを確保しようとするものであった。
1943年2月1日の衆議院秘密会において南方の軍政状況を説明した佐藤賢了陸軍少将は
「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、
率直ニ申シマストサウデアリマス」と述べている。要するに「独立」しても軍政下にあるのと変わらないということであり、
このような条件下ではとうてい「独立国」といえるようなものではなかった。
この方針に基づき1943年8月1日ビルマが、10月14日フィリピンが「独立」した。
その他の地域の扱いについては、1943年5月31日の御前会議で決定された。
ここで決定された「大東亜政略指導大綱」によると次のようになっている。
六 其ノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム 但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セズ
(イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム
(ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応ジ努メテ政治ニ参与セシム
(ハ)「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム
(ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス
つまり現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアにあたる地域は日本の領土にするということである。
さらにニューギニア(現在、西部はインドネシア、東部はパプア・ニューギニア)などについて、
ここでは決定していないが日本の領土にするという方向で考えていくことも決められている。
しかもそうしたことは秘密にされた。
このことは日本が東南アジア諸国を欧米帝国主義から解放し独立を与えようとしたのではなく、
石油などの重要資源があり戦略的にも重要な地域は日本の領土にし、
日本が欧米に代わって新たな支配者になろうとしていたことを明確に示している。
400 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 11:25:11 ID:B1qfg9tdP
この御前会議の決定のなかで同年10月下旬ころに大東亜会議を開催することが決定された。
1943年6月大本営政府連絡会議はマレー北部の4つの州、ペルリス、ケダ、ケランタン、トレンガヌをマラヤから取り上げ、タイに割譲することを決定した。
タイの日本に対する戦争協力を確保するためにとった処置であり、同年10月にこの4州はタイに移譲された。
しかし、これら4州はマレー人の多い地域であり、マラヤのマレー人にとっては日本への反発を与えることになった。
1943年11月5〜6日に東京で大東亜会議が開催された。
この会議には、日本から東条首相、国民政府の汪兆銘行政院長、満州国の張景恵国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバ・モー主席、
タイのワン・ワイタヤコン首相代理、自由インド仮政府のスバス・チャンドラ・ボース首班が出席した。
タイは首相を派遣せず、朝鮮、台湾、マラヤ、インドネシア、インドシナからの代表はいなかった。
会議では「大東亜共同宣言」を決議した。
この中には「大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放」「道義ニ基ク共存共栄」「自主独立ヲ尊重」などの言葉がもりこまれた。
これには連合国の理念として反ファシズム・民主主義を打ち出した大西洋憲章に対抗して
日本側の理念を出そうとする重光葵外相のねらいがあった。しかし日本の本音は必要な領土の拡張であり、
また日本軍による占領の実態はこうした美辞麗句とは正反対であった。
インドネシアに関しては、1944年9月小磯首相は議会で、将来独立を認める旨の演説を行なった。
すでにサイパンが陥落し、米軍のフィリピン攻撃が日程に上ってきていた段階であり、インドネシアからの資源の日本本土への輸送はほとんど分断され、
軍事的にも重要性を失っていた。その後、戦争最終盤の1945年7月17日になって最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議が改編されて設置された機関)が
「東印度」(インドネシア)に独立を与えることを認めた。しかし独立が実現する前に日本は降伏した。
インドネシアと同じく日本の領土と決定したマラヤについて、外務省内で独立問題について検討がなされたが、
結局、独立には困難があるとして見送っている。したがってマラヤに対しては最後まで独立を付与することはなかった。
すでに植民地であり日本の領土であった朝鮮や台湾ほどには徹底していなかったが、
それら植民地と同じような皇民化政策が東南アジア各地の占領地においてもおこなわれた。
シンガポールでは、日本軍占領時代(昭南時代)の祝祭日として2月11日紀元節、
2月15日マレー新生記念日(シンガポール陥落の日)、3月10日陸軍記念日、4月3日神武天皇祭、
4月10日靖国神社例祭、5月27日海軍記念日、11月3日明治節、12月8日大東亜聖戦記念日など、
天皇にちなんだ日本の祝日や戦争に関わる日が記念日として導入された。
学校での日の丸掲揚、君が代斉唱、宮城遥拝、教育勅語の奉読などもおこなわれた。
学校で日本語が教えられただけでなく、一般住民に対しても日本語が奨励された。
シンガポールの日本軍の宣伝班の発行した新聞『建設戦』(1942年4月29日)は「日本語普及運動宣言」と題して、
マラヤとスマトラの住民に対して、「軍司令官閣下の談話に示された通り、
両地区の住民は悉く、天皇陛下の赤子に加えられたのである。
大日本帝国の有り難き国体を彼等住民に理解させることは、新領土に駐屯する全皇軍兵士にとって尊き責務である。
そのためには、まず国民たるの資格として、彼等に日本語を学ばしめ日本語を使わせなければならない。
(中略)国旗のひらめく所、言葉もまた日本語に満ち溢れなければならなぬ。
かくして馬来もスマトラ島も真底から日本の一角となるのである」と呼びかけている(桜本富雄『シンガポールは陥落せり』青木書店)。
ここには人々の独自の文化や言語を尊重しようとする発想はまったくなかった。
ただ長年にわたって植民地支配を行なってきた朝鮮や台湾と違って、
日本語を公用語として強制することまではできなかった。
マラヤでは、1943年11月「敵性国語駆逐」を実行するとして、軍政組織が使う言葉を43年6月までに日本語のみにすることを決めた。
しかし住民が日本語の読み書きをほとんどできないのに日本語しか認めないと行政ができないとの声が軍政担当者からもあがり、結局うやむやになった。
現在でも戦時中に小学校教育をうけた人のなかには、唱歌を歌える人がよくいる。
日本語として覚えられている言葉は「バカヤロウ」や「ケンペイ」という言葉である。
大量の労務者が動員されたインドネシアでは「ロウムシャ」という言葉が今も残っている。
こうした言葉ばかりが残っているところに当時の日本軍と地元住民との関係が示されている。
日本軍は戦争遂行のために労働力の動員をはかった。
特に人口が多く、かつての輸出産業が衰退して仕事を失った労働者が多いジャワ島が労務者供出の重要なターゲットになった。
ジャワからはマラヤ、スマトラ、ボルネオ、タイなどに連行され、そのロウムシャの数は約30万人、うち7万人が犠牲になったと言われている。
ジャワ島内も含めるとロウムシャの数は400万にのぼるとも言われている。
407 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 21:51:10 ID:W+LK7eSs0
嘘吐き馬鹿豚が発狂したw
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 21:58:07 ID:W+LK7eSs0
(改定版再掲)
大日本帝国は、大東亜解放戦争を戦い、東南アジア植民地諸国を解放するという
非常に良い事をした。これは疑う余地のない歴史的真実なのである。大東亜
戦争は、西欧植民地主義を打倒し、人種差別のない世界を築き、自由貿易世界
を樹立した。大東亜戦争は我々日本人の誇りである。
我々日本人が「世界で通用する常識人」になりたければ、大東亜戦争の意義に関して
最低限この三つに関してはきちん語れなければ、世界で軽蔑される。
馬鹿豚は、世界中で軽蔑される人間のクズ、もしくは、くだらない反日外国人なのだ。
>>395 誤謬とされる「権威に訴える論証」は以下のような形式を基本とする。
1.Aさんが B と主張する。
2.Aさんに関して何らかのポジティブな面がある。
3.したがって、B という主張は真である。
一番目の主張は「事実の主張」であり、議論の中心となる。三番目は「推論による主張」であり、推論プロセスを表している。
「推論による主張」は明示的な場合と暗黙的な場合がある。
まさにお前のやっていることじゃないか
頻用する人物が歴史学の権威だったり
当時の政治家やそれに近しい者だったり
あるいは目撃者だったり、というポジティブな面があり
お前はそれを利用して「大日本帝国は植民地を解放した」という誘導を行っている
そういう詭弁しかできないと言うことが(しかも幼稚だし)
お前が中卒だといういい証明なわけ
>>408 またスルーしてループか
低能中卒携帯無職コピペゴキブリは進歩が一歩もない
もっとも大日本帝国が悪の帝国だったという事実を認めれば、発狂してしまうにちがいない
哀れな奴
>大日本帝国は、大東亜解放戦争を戦い、東南アジア植民地諸国を解放するという
>非常に良い事をした。
実際は佐藤賢了少将の衆議院秘密会答弁にあるように
名目だけ独立させ、実際には軍政を敷いていたというのが実情である
マレーシア、インドネシアは最後まで帝国領土だった
そして、日本の敗戦により、それらの領土はことごとく宗主国の元に戻った
どこが解放なのかね?あち「非常によいことをした」というのはお前の主観
書く植民地は、戦後、国連の庇護の元独立していったのだ
>人種差別のない世界を築き
日本人は現地人を「土人」と呼んで差別しておったよw
>自由貿易世界を樹立した
未だに樹立されておらんよ、TPPで大騒ぎしたのを忘れてるのか?
では大日本帝国の悪を暴いていく作業を続けよう
太平洋戦争の開始前から日本軍は占領地での慰安所設置を計画していた。
すでに1941年7月陸軍省内の会議で蘭印調査から帰ってきた深田軍医少佐が
「村長に割当て厳重なる検梅の下に慰安所を設くる要あり」と報告し、
しかも村長に事実上、強制的に集めさせることを提案している。
42年9月の陸軍省の会議では、慰安所について、
「北支100ケ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ケ所」を作ったと報告されている
(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。
マレー進攻作戦においては、その作戦中から慰安所の設置がおこなわれた。
占領後、42年夏ころまでにはマレー半島の日本軍が駐留していた主な町に慰安所が設置された。
その町の数は30以上にのぼると見られる。
東南アジアでは朝鮮や台湾、日本本土から連れてこられた女性もたくさんおり、
また中国本土の女性もビルマなどに連れてこられている。しかし東南アジア地域の日本軍慰安婦の多くは
現地の女性であったと推定されている。東南アジア各地での日本軍慰安婦の徴集方法の特徴は次のように整理できる。
第一にマラヤでは残っていた元からゆきさんに慰安婦集めを委託したケースである。
クアラルンプールでは日本軍の兵站の担当者が市内に残っていた元からゆきさんたちを集めて慰安婦集めと慰安所の管理を任せた。
第二に新聞などで募集したケースがある。
シンガポール占領直後に日本軍の宣伝班のもとで刊行された新聞『昭南日報』には「接待婦」(慰安婦)を募集する宣伝が掲載されている。
この場合、応募してきた女性は仕事の内容を承知していたと見られるが、その場合でも想像を越える過酷な扱いを強要されたケースもある。
たとえば、シンガポールのある慰安所では、応募してきた女性が「予想が狂って悲鳴をあげ」拒否したのに対して、その女性の手足をベットに縛り付けて、
「慰安」を強制したことを当時の将校が証言している(総山孝雄『南海のあけぼの』叢文社)。
第三に日本軍が駐留する地元の住民組織の幹部に慰安婦集めを命じたケースである。
マレー半島の町クアラピラーではそうして女性18人を集めさせて将校用と兵士用の慰安所を設けている。
この方法はインドネシア、フィリピンなど各地でおこなわれている。
第四に詐欺による募集である。いい仕事があるから、事務員やタイピスト、看護婦にするからというような口実で集めて、
結局は強姦してから慰安婦にするというケースである。第一〜第三の場合もこの詐欺による場合が多かったのではないかとみられる。
第五に暴力的な拉致によるケースである。
日本兵が家に押し入り、暴力的に若い女性を拉致し、兵士たちが輪姦した後に慰安婦にした例はフィリピンで数多く報告されているが
インドネシアやマラヤでもそうした事例が報告されている。
徴集にあたって、物理的な暴力が使われていない場合でも連れてきた女性を慰安婦にさせる時に強姦がおこなわれ、
彼女たちの自由が奪われるケースが一般的であった。
また東南アジア地域での徴集の特徴としては、占領地の住民に対する一連の残虐行為の中で、
あるいは並行して慰安婦集めがおこなわれたことである。植民地朝鮮や台湾では、
日本が植民地支配のもとで育てた人身売買のシステムを利用して女性を集めることができたが、
東南アジアのような占領地では、中国での占領地と同じように、軍による暴力・強制力がむき出しになる傾向が強かった。
中国での事例としては、山西省盂県で、日本軍が女性たちを拉致して連行し、
監禁してくりかえし強姦をおこなったことが知られている。
その部隊は独立混成第四旅団傘下の部隊であった。独立混成第四旅団はのちに第六二師団歩兵第六三旅団となり沖縄に派遣され、
ほとんどが戦死している。沖縄戦における日本軍の沖縄県民に対する行動は、こうした日本軍占領地における行動と密接に結びついている。
また戦争末期の1944年以降、ジャワの女性がマラヤやボルネオなどに慰安婦として連れて行かれている。
地元の女性ではないが、インドネシアで日本軍に抑留されていたオランダ人女性200〜300人が慰安婦にさせられている。
慰安婦にさせられた女性は、日本の公文書、日本側と地元の証言・回想録などから判明しているかぎりでは、
日本人、朝鮮人、台湾人、中国人のほかにマレー人、華僑、タイ人、フィリピン人、インドネシア人、ビルマ人、ベトナム人、インド人、
ユーラシアン(欧亜混血)、オランダ人、その他太平洋諸島の島民があげられる。
まだ資料的には確認されていないが、ラオス人、カンボジア人も慰安婦にされていた可能性は大きい。
慰安所における状況は、軍の上級機関が管理し、業者に経営をさせていたケース(大都市に多い)、
警備隊が直轄しているケース(小都市に多い)などによって異なるが、総じて自由を拘束され、
軍人に対する性的「慰安」の提供を強要された。
日本軍兵士による地元女性に対する強姦事件も多かった。
被害者やその目撃者の証言も多いが、陸軍中央でもそのことは問題になっていた。
陸軍省の会議ではとくにフィリピンで日本兵による強姦が多いことが問題にされていた。
1942年8月になっても「南方の犯罪610件。強姦罪多し。シナよりの転用部隊に多し」と報告されている。
こうした事態に対して、軍中央は慰安所の開設・増設によって対処しようとしたのであるが、
1943年2月の会議でも、これは東南アジアだけのことではないが、「強姦逃亡等増加せる外将校の犯罪増加せることに注意を要す」
と報告されている(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。
占領地の女性に対する強姦は慰安所の設置によってもなくならなかった。
慰安所という性暴力のシステムと強姦という性暴力は並行して占領地の女性に向けられたのである。
日中戦争の開始以来、強化されていた皇民化政策は太平洋戦争開始後もさらに推し進められ、
そのうえにたって軍事動員が推進された。朝鮮ではすでに1938年(昭和13)に陸軍特別志願兵制度が導入されていたが、
1943年には海軍にも同じ制度が導入された。同年には朝鮮青年特別練成令が公布され、青年の軍事訓練が義務づけられた。
さらに日本の兵力不足を補うために43年8月朝鮮にも兵役法が施行された。翌年4月から徴兵検査が開始され、
敗戦までに20万9000人が徴兵され、うち復員したのは9万7000人だけであった。
労働力不足を補うための朝鮮人強制連行は1939年の「募集」形式から、
42年には、朝鮮総督府と朝鮮労務協会が各地方行政機関に人数を割り当てて労働者を集め、
日本企業に引き渡す方式である「官斡旋」方式、44年国民徴用令の適用による「徴用」と強制の度合いが強められた。
徴用令によって軍属として徴用された者も多く、一部は捕虜収容所の監視員として南方に送られた。
彼らは捕虜と直接接する機会が多かったために戦後、捕虜虐待の責任を問われ戦争裁判で罰せられた者が多い。
あるいは軍夫(軍のための雑役夫)として各地に送られ、戦闘に巻き込まれて戦死したり、沖縄ではスパイ容疑で日本軍によって殺されたケースも多かった。
日本本土をはじめ南方、沖縄、サハリンなどに強制連行された朝鮮人の数は100万人を越えると見られている。
それ以外に日本軍の慰安婦として連行された女性も多い。
台湾でも、日本語の使用と神社参拝の強要、改姓名という日本式の氏名への変更の強要、
志願兵制から徴兵制の導入など朝鮮と同じような政策がおこなわれた。動員された軍人・軍属は約20万人余りに上り、
うち約3万が戦死した。日本軍慰安婦も徴集されボルネオなど南方に連れて行かれた。
満州では日本の兵站基地として石炭や鉄など重要物資の生産が図られた。
すでに満州では軍部主導の産業開発が進められていたが、太平洋戦争が始まると鉄鉱、石炭、液体燃料、軽金属、
農産物などの軍事物資の日本への供給の増大する方針をとった。炭坑や鉱山などでは中国人労働者が酷使され多くの犠牲を出した。
満州を代表する炭坑である撫順炭坑では強制連行した中国人の使用を含めて、労働強化がはかられ、
1942年だけで1万人以上と推定される死亡者がでた(上羽修「撫順炭坑中国人労働者の大量死」)。
408 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 13:13:11 ID:B1qfg9tdP
日本軍がアジア各地でおこなったことを考えると日本軍の特質が問題にならざるをえない。
太平洋戦争においてアジアの民衆に対して、日本軍ほど虐殺・暴行など各地で大規模な残虐行為をくりひろげた軍隊はほかにはなかった。
捕虜に対する扱いも日本軍とアメリカ軍とでは、経済力だけでは説明できないほど違いがあった。
沖縄戦で日本軍が沖縄の人々を虐殺、あるいは虐待したことも日本軍の特徴だろう。
いくつかの点から日本軍が残虐行為をおこなった特徴を考えてみよう。
第一に日清戦争・日露戦争以来培われてきた、アジア民衆に対する蔑視観がある。
中国人や朝鮮人に対する蔑視だけでなく、東南アジアの諸民族に対してはより一層見下していた。
たとえば、大本営参謀本部が作成し、マレー戦に参加した将兵に配られたリーフレット『これだけ読めば戦は勝てる』(辻政信が書いたといわれている)には、
東南アジアの民衆を「土人」と呼び、「土人は懶けものが多く、(中略)全く去勢された状態にあるから之をすぐ物にしようとしても余り大きな期待はかけられぬ」
と蔑視観が露骨に示されている。
第二に日本軍が占領地の一般住民を敵視したことである。
占領軍である日本軍に対する住民の抵抗はゲリラだけでなくさまざまな形でおこなわれた。
日本軍は住民全体を疑い、村を丸ごと抹殺することさえおこなった。
国際法はまったく無視された。相手が住民であろうと、「抗日ゲリラ」あるいは「抗日分子」という名目がつきさえすれば
「治安粛清」と称して堂々と住民虐殺がおこなわれた。
第三に日本軍の「現地調達」主義である。
日本軍は各地で作戦をおこなう部隊の食糧や馬の糧秣について「現地調達」するという政策をとった。
日本軍は補給そのものを軽視したが、とりわけ食糧については軽視どころか部隊に任せた。
そのため各部隊は戦闘をしながら食糧を確保しなければならなかった。本来は代価(軍票など)を払って購入しなければならないが、
実際には食糧略奪があたりまえのようにおこなわれた。戦地・占領地での略奪は戦時国際法に違反するだけでなく、
日本軍の陸軍刑法や海軍刑法でも「略奪ノ罪」にあたるが、それが取り締まられることはほとんどなかった。
略奪にあたって、住民の抵抗があれば、住民に対する残虐行為がおこなわれた。
女性に対する暴行もその一部だった。それが抗日勢力が強いと見なした村であれば、略奪、女性への暴行、
住民虐殺、放火がおこなわれた。中国ではこうしたなかで若い女性を拉致し慰安婦にさせるケースが報告されている。
中国など人が住んでいるところではこうした方法で食糧が調達できても(略奪された住民の苦しみがあることはいうまでもない)
人のあまりいないジャングルのなかでは、略奪しようにも略奪するものがなかった。
ガダルカナルやニューギニアで多数の日本兵が餓死したのはその結果である。
日本軍兵士の死者の半数以上が広い意味での餓死(飢えに起因する病気による死を含めて)によるものと推定されるが
(藤原彰「日本軍の餓死について」)、みずからの兵士の生命を軽視した「現地調達」主義は、
日本軍を残虐行為に駆り立てたとと同時に日本兵自体の生命をも奪ったのである。
第四に国際法を無視したことである。
第一次世界大戦までは、日本は参戦にあたって国際法を遵守する旨が開戦の詔書には含まれていた。
しかし太平洋戦争の開戦にあたっては、詔書の案の段階ではあった「国際法規の範囲内に於て」という文言が最終的には削られた。
日中戦争にあたっては、戦争ではなく「事変」であるとして戦時国際法を適用する考えはなかった。
日中戦争〜太平洋戦争において日本は、捕虜や占領地の住民の保護など戦争下におけるさまざまな人道的な措置を定めた戦時国際法を守る意思がなかったのである。
第五に日本軍内部の非人間性である。
日本軍でも「私的制裁」は禁止されていたが、実際にはビンタをはじめさまざまな暴力が日常的におこなわれていた。
「死は鴻毛(鳥の羽毛)よりも軽し」という軍人勅諭の言葉通りに兵士の生命は軽んじられ、特に下級兵ほどその抑圧はひどかった。
軍のなかで蓄積された抑圧とストレスは外部に対して、とりわけ弱者に対して向けられた。
占領地の住民はまさにその犠牲者であった。住民に対する兵士たちの残虐行為は軍隊内の秩序を維持するための安全弁として軍上層部は黙認したのである。
軍隊という組織そのものが持つ暴力性はこうした日本軍の特徴によって極度に増幅された
日本軍による過酷な占領に対して、各地で抗日闘争が繰り広げられた。そのあり方は地域ごとに多様であった。
フィリピンではさまざまなゲリラ組織が作られたが、その中心になったのはユサッフェゲリラとフクバラハップだった。
ユサッフェとはアメリカ極東軍のことで、同軍は1942年5月に日本軍に降伏したが、各地に残されていたフィリピン人兵士たちは
ユサッフェゲリラを組織し知識人・政治家・宗教者らと協力し抗日ゲリラ活動をおこなった。
彼らはアメリカに忠誠心を持ったゲリラだった。一方、社会党・共産党系の農民運動を基盤に42年3月中部ルソンで結成されたのがフクバラハップ(抗日人民軍)だった。
彼らは日本軍追放と地主打倒を目標にしていた。両者は対立しながらも抗日活動をおこなった。
マラヤでも多様なゲリラ組織が生まれた。最も強力だったのはマラヤ共産党によって組織されたマラヤ人民抗日軍だった。
華僑が主体のマラヤ共産党はイギリスの植民地支配のもとで非合法化されていたが、
日本軍のマレー侵攻が始まると共産党は英軍に協力を申し出、共産党の選抜した青年たちに英軍がゲリラ用の訓練を与え、
日本軍の後方に送り込むことで合意がなされた。他方、多くの共産党員や国民党員らがシンガポール華僑義勇軍に参加して
シンガポール防衛戦で勇敢に戦い、多くが戦死した。
英軍からゲリラ用の訓練を受けた計165人は4つのグループに分けられて、
マレー半島の南部に送られた。彼らが中心になってマラヤ人民抗日軍が作られた。
北部でも共産党員らが独自にゲリラ活動を組織し、後に人民抗日軍に統合された。
中国国民党系の華僑は華僑抗日軍を組織、主に中北部で活動した。
またマレー人主体の地下抗日組織ワタニアも作られた。
インドからのマレー半島反攻を計画していたイギリス軍は136部隊を編成して潜水艦やパラシュートによってマレー半島に潜入し、
これら各地の抗日ゲリラと連絡を取り、彼らに武器弾薬を提供した。
インドシナでは日本とフランスに反対するベトナム独立同盟会(ベトミン)が結成され、
北部山岳地帯に解放区を設けた。1944年から45年の大飢饉のなかで「敵のモミの倉庫を破壊して人民を救おう」と呼びかけて全土で抗日闘争を活発化させ、
45年9月2日ベトナム民主共和国の独立を宣言した。
タイは当時、東南アジアでは唯一の独立国であったが、実質的に日本軍の占領状態におかれていた。
タイ政府は表面上は日本に協力する振りをしたが、政府や軍・警察関係者らは密かに「自由タイ」という抗日組織を結成した。
抗日的として日本軍に逮捕されタイ警察に引き渡されたタイ人は警察内の自由タイによって密かに釈放された。
また海外にいた外交官や留学生たちは自由タイの国外組織を作って国内とも連絡を取り、連合国からの支援をうけてゲリラを組織しようとした。
日本軍はこの自由タイの動きを察知していたが、手を出すことができなかった。
ビルマではすでに見たように、ビルマでは日本軍によって育てられたビルマ国軍がイギリス軍とともに日本軍をビルマから追い出し、
その後はイギリスの植民地支配の復活を許さず、独立を勝ち取った。
インドネシアでは、オランダによって投獄されていたスカルノやハッタなどの民族運動の指導者たちは、
日本軍に協力することによって独立を得ようと考えた。しかし日本軍の過酷な占領に対し、
1944年2月に西部ジャワで農民の反乱がおき、さらに45年2月東部ジャワでペタのブリタル大団が即時独立を求めて反乱を起こした。
このことは日本軍に対して、インドネシアへの独立付与を促したがその動きは遅く、
日本降伏後の8月17日青年らの突き上げをうけてスカルノらは独立を宣言した
日中戦争〜太平洋戦争下におけるアジア各国の被害は甚大なものだった。
死者の正確な数ははっきりしないところが多いが、主に各国政府の公式の発表を基に紹介すると、
中国1000万人以上(調査の進展により最近では2000万人以上と言われ始めている)、
フィリピン111万人、インドネシア400万人、ベトナム200万人、マレーシアとシンガポールで10万人以上、ビルマ15万人、インド150万人、
韓国・朝鮮20万人、台湾3万人などである。このほとんどは民間人である。
ほかに連合軍捕虜4万2千人あまり、民間抑留者1万数千人、オーストラリア1万7744人(捕虜約8000人を含む)などである。
アジアの死者は全体として2000万人という場合が多いが、中国の死者の数によっては大きく増える可能性もある
(『世界』1994年2月、特集白書・日本の戦争責任)。
なお日本の死者が約310万人、うち軍人軍属230万人、民間人80万人である。
日本の場合、沖縄を除くと、軍人の外地での死者が多数を占めているが、アジア諸国の場合には圧倒的に民間人が犠牲になっている。
日本の侵略戦争であったことがここにも現れている。
戦争被害は死者のみに限られない。家を焼かれたり破壊された件数などの物的な被害、難民になった人数は想像がつかない。
人的物的被害とは異なるさまざまな傷痕も残している。
マレー半島では、日本軍は華僑を抑えるためにマレー人を利用した。
華僑粛清という名の虐殺のためにマレー人を道案内に使ったり、マレー人警官を同行させて日本軍の手伝いをさせた。
そのため華僑から見ればマレー人が日本軍の手先となって同胞を殺していることになり、華僑が主体の抗日ゲリラは日本軍に協力しているマレー人を襲撃し、
あるいは豚肉を無理強いするなどイスラム教徒であるマレー人を侮辱する行動にでた。
このためマレー人が華僑の村を襲って村人を惨殺し、それに対して華僑が報復するという事態が戦争末期から戦後にかけて頻発した。
このマレー人と中国系との対立はその後も尾を引き、現在でも大きな問題となっている。
日本軍の残虐行為がその後何十年にもわたって深刻な影響を与えているのである。
ビルマでは、多数派のビルマ族のほかにカレン族やカチン族などの少数民族がいる。
カレン族にはイギリスの影響でキリスト教徒が多く、そのためイギリスが植民地支配のためにカレン族を登用しビルマ族を抑えるために利用した。
日本軍は逆にビルマ族を使い、カレン族に対しては親英的とみなして抑圧した。そのためカレン族が日本軍の残虐行為の対象になったケースが多い。
このためビルマ族とカレン族の対立は一段と増幅された。
戦後、ビルマ族主体のビルマ政府に対してカレン族は武装闘争をおこない、ビルマの不安定要因となっている。
植民地支配は通常、民族を分断し統治するという方法を取るが、日本軍の支配はそれが虐殺などの残虐行為と結びついていたために
民族間の対立を一層増幅させることになった。
日本軍は戦争後期になると日本軍を補うために現地の住民を使って義勇軍などを作った。
ビルマ国軍やインドネシアの郷土防衛義勇軍(ペタ)などはその代表的なものである。
これらの軍隊は戦後の独立にあたって大きな役割を果たした。特に植民地の再建をねらうオランダと独立戦争を戦ったインドネシアの場合は特にそうである。
もちろんこのことは日本軍が日本の覇権のために作った軍隊を、民族運動の組織者が独立のために活用したのであって、
ヨーロッパと日本の二つの帝国主義国の間で両者を利用して独立を勝ち取ったことはいうまでもない。
しかし独立後の軍隊の土台が日本軍によって作られたことは否定できない。問題はそこにある。
インドネシアで1966年にクーデターを契機に政権を握りその後1997年に至っても依然として独裁政権を続けているスハルト大統領はペタの軍人であった。
ビルマで1962年に軍事クーデターで政権を握り、議会を解散し憲法を停止、後に表舞台からは姿を消すが今日に至るまで軍事政権の黒幕と見られている
ネ・ウィンは日本軍の訓練を受けたビルマ独立義勇軍の幹部の一人だった。独立後、長期軍事独裁政権が生まれたインドネシアとビルマではともに
日本軍に育てられた軍隊がそこでも大きな役割を果たし、また日本軍に訓練された将校がその独裁者になっている。
独立後の問題の原因の一つが日本占領時代に起因しているのである。
インドネシアで日本が感謝されているとしたんなら
SF講和条約で賠償放棄したインドネシアの国民投票で条約締結拒否が決定されたことを
どう解釈したらいいのですか
独立の祝い金とかいうおもろ見解もかまわないですが
祝い金をゆすり取ろうというのが感謝の気持ちならいらんと思いますが。
もう少し詳しく書くとインドネシアはSF講和会議に出席し、
賠償放棄を条文に持つSF講和条約に署名、締結した。
ただし、財産があった場合の差し押さえなどはできるのだが
WW2開戦後の占領地であるインドネシアにはたいしたものは存在せず、
せいぜい未払いの兵補の給料程度のものしか請求できない。
が、このことの是非を問う国民投票で
日本に賠償を請求しないなんてふざけんなという意見が通り批准されずに条約は無効となった。
*この時点で国交回復条項のあったSF条約は無効でインドネシアとの国交は断絶状態継続
んで、国交回復交渉の時に、インドネシア代表が述べたのが日本を恨んでない、”独立祝い金”として金をくれって言葉。
個々だけ取り出してインドネシアは日本に感謝してるニダとウヨさん大喜びなんだが、
感謝しているならそもそもSF講和条約批准してたわけで、
それ+賠償というより厳しい条約を結んだというのになにをいっておるんだという次第。
では、名越のデタラメさ加減を検証しよう
ちなみにコピペゴキブリ吉田が引用する人物の台詞は
ほとんど名越の著書の引用である
ゴキブリがどう泣きわめこうが、奴の論証は権威論証に他ならず、詭弁である
>ニミッツの詩とやらも、自衛隊幹部が渡米して、ニミッツの詩で間違い無い、という確証を
>得たから、ベリリュー神社の碑文にしたのだ。
ああ、それも間違いないってのがそもそも嘘ですから。
その自衛隊幹部からの又聞きであり、誰がこれがニミッツの詩ですといったのかすらはっきりしていない。
ほんとに知らなかったんですか?
簡単に経緯を説明すると日本のスーパーソルジャー船坂弘の著作に見られるのが初出で
産経新聞記者の住田良能記者が1978年に同紙の茨城県版で企画連載した「ペリリュー島78」を収録した部分に
公刊戦史に載っていると記載されている。
その後名越が主張するところではこの詩がペリュリュー神社で見つかったので
元ネタを知りたいと思い資料を探していたところ、公刊戦史などには全く見つからず
自衛官浦氏がアナポリスでニミッツの詩だと教官から教えられたと又聞きであることを明言している。
なぜか名越はこの教官の名前も聞こうとせず、これはニミッツの詩だって大喜び、
元ネタがそもそも掲載されているという公刊戦史に載っていないのに
軽率にも「世界に生きる日本の心」にニミッツの詩だと掲載する始末。
アメリカ側資料にはそのようなものが見られないことはガン無視です。
これが名越における”確証を得た”というなら、
彼の著作は全て眉につばして見なければならないでしょうね。
上述のように名越の調査とは学問的審査に耐えうるものではありません。
又聞きが多すぎる上に、浦氏の例をみても誰が伝えたのかすらはっきりしないものを
確証とかきちんと調査とか呼びませんからw
そもそもニミッツの詩がいつどこでどのように作られたのかが不明な以上、
確証だの調査だのの入る余地がないんですがね。
しかもナシールにいたってはいつどこでだれががまったく明らかにされてません。
まあ、やたらと元○○という無責任な立場の人間だけが
日本人に対してリップサービスできるってあたりが
現地の人間がどう思っているかをはっきり示しているような気がしますがねえw
では引き続いて、大日本帝国の占領行政の実態について
「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ
―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、率直ニ申シマストサウデアリマス」
(佐藤賢了陸軍少将 1943年2月1日衆議院秘密会にて)
これがアジア独立の本音。
ちなみにこの佐藤とか、戦後になって敗戦した後に自分達のいった事さえ忘れたように、戦争美化に走って反省さえしてない。
国を滅ぼし多くの人命を死なせながら、反省もしない恥知らず軍人の自己正当化の嘘に騙されているんだろうなぁ。
さすが自慰史観患者は痛いw
日本による植民地支配
日本がはじめ、インドネシアの民衆にたいして親切でやさしい態度をとっていたのは確かである。
しかし、時がたつにつれ、日本のインドネシア民衆に対する態度は、変わっていった。日本の行動は残酷なものになっていった。
一般に植民者の態度はどこも同じである。つまり、残虐で、搾取的で、非情である。私たち民族の運命は、トラの口からのがれ、ワニの口に入るということわざにたとえることができる。これは、どういう意味だろうか。
それが意味するところは、日本がやってきたことにより、オランダ植民地時代に受けた犠牲はなくなるどころか、むしろ、事態は悪化したということである。
(「社会科・インドネシア国史2・小学校5年生用」)
太平洋戦争は資源地帯ほしさの侵略戦争であり
日本軍占領下では過酷な軍政が行われた
美化の余地のない歴史的事実である
とても「解放」などと言えたものではない
中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田には、解放に見えるようだがw
インドネシアでの教育とやらの実態
教育機関と宣伝機関を握ることによって、民衆との接触は可能になった。
ジャワ島やビルマなど民衆の間に親日的気運が比較的強かったところでは、
一部の現地住民が日本軍の進駐を歓迎し、軍政が順調に実施されるかに見えた
日本の将兵や民間人の中には、善意で現地住民と接触し交際した人たちも多かった。
しかし、善意の押し売りほど始末の悪いものはない。
天皇絶対、忠君愛国という日本にしか通用しない独善的な考え方と日本語を、
善意でいくら教えてみても、それはしょせん軍政という軍事独裁体制を背景にしてしか
通用しないものであった。かなりの地域では、日の丸に対する敬礼、
君が代斉唱、宮城遙拝などの儀式が強制されたが、現地住民は面従腹背の態度を取らざるを得なかった。
まして母国語の使用制限と日本語の押しつけは、現地住民にとっては我慢できない
屈辱であった。
インドネシア初代大統領のスカルノの言葉
「インドネシア独立のためには悪魔の助けもかりる」
「日本軍は私を利用しようとしている。私はこれに応じるつもりだ。9回まで耐え忍んでいく。
最後の1回で取り返せばよいではないか」
太平洋戦争は資源地帯ほしさの侵略戦争であり
日本軍占領下では過酷な軍政が行われた
これを「大東亜戦争」と呼び、解放戦争と美化する輩は
ケダモノ以下のゴキブリである
ケンペイタイは、常軌を逸するほど、乱暴で残酷でした。・・・・日本人はどうしてこんなことを
するのか、本当に理解に苦しみました。
(H・B・ヤシンさん)
私が覚えていることは、おそらく、ケンペイタイがあまりに乱暴だったからでしょう、人びとが日
本に協力することを怖れていたことです。それで、自分から進んで日本のために仕事をしようとする
人はいませんでした。当時は、怖がる人のほうが多かったのです。ですから、みんなは日本に協力し
て利を追うよりも、自分の命を大切にしようとしていました。なぜなら、何か間違いを犯したら、日
本の罰則では死刑になると思っていたからです。日本軍が入ってきたときにすでに役所で働いていた
人たちは、そこから移ることができませんでした。ちょっとした過ちでも平手打ちでしたので、みん
なは、とくに体罰を怖れていました。バゲロー[馬鹿野郎]と言って頭を叩くのです。ところが、イ
ンドネシア人にとって、頭は神聖で敬うべきものなのです[それゆえ、頭を手で撫ぜたり、叩いたり
することは慎むべきことである]。私がケンペイタイと聞くと震えあがってしまうのは、私の親友が
彼らの暴力を受けてけがをして、障害者になってしまって以来のことです。
(バルカ・アルガニス・バスウェダンさん)
電気・ガス局でも、日本人達は乱暴で、下品で、したい放題で、そして、私たちインドネシア人を
見下していました。女性職員に対しても同様でした。
(リリー・ガマル・スタンティオさん)
「しばしば、その時代のケンペイタイの調査官たちの乱暴さは、オランダ時代のPID(諜報局)の同
様の取り調べ方をはるかに越えたものであったと指摘されている。裕福な人びとの住宅地でも、貧
民街でも、さらには役所でも、多くの場所で人びとは日本に対して憎悪の念を示すようになっていた
・・・・」
(インドネシア国立文書館 編著
『ふたつの紅白旗 インドネシア人が語る日本占領時代』(木犀社 1996)より)
1941年1月8日、東條英機陸相によって全陸軍に布達された「戦陣訓」は
明治の健軍以来、帝国軍人の思想的バックボーンとなっていた「軍人勅諭」の戦場版ともいうべきものであった。
「戦陣訓」のなかで特筆すべきことは
「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。」
「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」
といい、「以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。」として
天皇の名によって軍人に死を強制していたことであった。
たしかに「軍人勅諭」も死に臨む核頃情感に対する絶対服従を要求していたが
「戦陣訓」ほど軍人に対し露骨に死を強制したものはかつてなかった。
ここにみられるのは、国家と天皇と個人を一体のものとしてみる一元的な国家観であり、
天皇への絶対服従によって個人の尊厳を抹殺し、
天皇のために喜んで死ぬことを最高の名誉としてたたえる死の哲学であった
陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月7日に上奏、翌8日の陸軍始の観兵式において全軍に示達した。
同日に新聞などのメディアはこれを大きく報じた。
また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。
一般国民に対しては用紙統制が行われているなか、1941年だけでも少なくとも『戦陣訓述義』『戦陣訓話』など12種の解説書、
『たましひをきたへる少国民の戦陣訓』『少年愛国戦陣訓物語』など5種の教材が出版許可を受けて出版されており、
以後も敗戦まで種々のものが出ている。このほかに、「戦陣訓カルタ」なども作られた。
また、学校での教育にとりいれられ、暗記が推奨された。そのため、現在でも「暗誦できる」人もいる。
今日では太平洋戦争中で発生した日本軍の玉砕や全滅、民間人の自決を推奨し、降伏を禁止させる原因であると理解されている。
日本兵は、捕虜となったことが分かれば不名誉とされた。事実、捕虜となった当人はもとより親兄弟も非国民と罵られ、
心中に追い込まれた家族も少なくなかった。さらに、捕虜交換などによって捕虜が帰ってきた場合、
直後に自決が強要されたり、スパイ容疑や軍規違反を犯したなどの理由によって秘密裏に殺害された捕虜も相当な数に上っている。
さて、東條英機自身はどうであったか
「生きて虜囚の辱を受け」、敵であったものの手によって処刑されたのである
さぞかし靖国での居心地は悪いであろう。
このような東條英機を無責任に賛美するものはゴキブリである
>>420 天チャン(戦前からの呼び方)もそこは忸怩たるものが最初はあったが、
いつのまにか脳内で「軍部にだまされた平和を愛好した天皇」像をつくりあげるようになった。
平安の昔から昨日までの忠臣に平気で討伐の勅を出すのが天皇家デフォルト動作。
それだからこそ「国体」が守られたわけだが。
>>416 土人国がそれくらいのしたたかさを示すのは非難できないと思う。
戦後日本だって資源が欲しいわけだから飲むしかない。
423 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 01:25:20 ID:HsqygeYm0
アメリカってどこまで日本を守ってくれんだ?
たぶん、日本が核攻撃受けても「強い抗議」はしてくれんだろうが
「日本の代わりに核で報復」なんて絶対やらねーだろ。
424 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 01:34:06 ID:1VB3qjOQ0
大東亜戦争は、日本が欧米列強をアジアから追い出して、代わりに日本が支配統治してやろうという構想だったが、
米国の反撃を食らって失敗したというだけの話だ。日本は大義名分としてアジア植民地解放という一応の理屈をもって現地人を味方につけようとした。
米国は日本を降伏させることはできたが、植民地解放は認めざるを得なかった。
(英仏蘭は戦後、植民地奪還のためにまた軍を派遣して、現地の独立軍と戦争している)
日本がアジアを解放したのではなくて現地人が自ら独立戦争により解放した面が大きいだろう。
(独立軍編成、武器供与、独立義勇軍などで日本軍も一定の寄与はした)
結局、欧米対日本の戦争で漁夫の利を得た(独立戦争という犠牲も払っているが)のがアジア植民地だったということだ。
日本敗戦の結果、朝鮮も独立という漁夫の利を得たが、米ソによる分割・朝鮮戦争という犠牲も払った。
台湾は独立の代わりに国民党中華民国による支配という宗主国の交代があっただけ。
各国がそれぞれの国益を争って衝突しただけの話だな。
425 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 01:44:43 ID:1VB3qjOQ0
ベトナムはフランス支配、日本軍侵攻、対仏独立戦争、南北分裂、
ベトナム戦争、中越戦争を経てようやくここ数十年、戦争がなくなった。
その間にカンボジア侵攻などもやっている。これも国益のために戦争を続けた国だ。
426 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 01:57:53 ID:1VB3qjOQ0
結論・・・日本、欧米双方とも大東亜戦争は聖戦などではなく、利権争いであった。
シナは国内で国共が利権争いをやっていた。勝ったのは連合国側の中華民国でなくてシナ共産軍だった。
シナでは大東亜戦争の最中に資本主義(中華民国)対共産主義(中華人民共和国)の熱戦をやっていたことになる。
これが現在も続いている。
427 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 11:54:02 ID:rGWqMCMK0
>>416 毛沢東や蒋介石も同じようなことを言っていたな。
シナは満州、国民党は台湾を日本から奪ったので賠償など言える義理ではなかったがな。
恩着せがましく、恨みに報いるに恩をもってす、と格好をつけやがった。
本音は日本のおかげで満州、台湾をゲットできた、ということだ。
428 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 18:57:23 ID:aV2mWIV00
訂正
×恨みに報いるに恩をもってす、と格好をつけやがった。
○恨みに報いるに徳をもってす、と格好をつけやがった。
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 21:39:13 ID:k+kEPqLS0
★インドネシア中学3年用歴史教科書
「日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、
インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展をとげ
た。第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい規律を教え
込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。第三に、職場からオランダ人がすべていなくなり、日本は
インドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事をまかせた。…」
日本軍政は、インドネシア独立を前提として、広く教育を施し、行政官や民族軍隊を鍛え、インドネシア語
を普及させた。これが、インドネシア人に強い民族意識を植え付けることとなり、終戦後に宗主国が帰って
きても、インドネシア人は植民地に戻ることを拒み、壮絶な独立戦争を初めることとなった。
インドネシア独立戦争には、日本兵2000人余りも義勇軍として参戦し、先頭に立って戦い、半数が戦死する
という被害を出したが、最後まで戦い抜いた。インドネシアに残留した日本兵は、英雄と
して勲章をもらい、後に、残留日本兵の世話役だった人間は日本政府からも勲章をもらった。
これらの事実からわかることは、大東亜戦争は民地解放戦争に他ならなかったという
疑いの真実である。馬鹿豚は泣きながらスレを埋め立てるしか能がないが。
430 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 21:49:43 ID:k+kEPqLS0
>>409 馬鹿豚は、俺がせっかく教えてあげたWIKIPEDIAすら読んでいないのか。
こいつ、最低のアホだな。代わりに妄想を進化させるだけとは、この
低能児のオツムの弱さが表れていて笑えるぜ。馬鹿豚の低能ぶり↓
>誤謬とされる「権威に訴える論証」は以下のような形式を基本とする。
>1.Aさんが B と主張する。
>2.Aさんに関して何らかのポジティブな面がある。
>3.したがって、B という主張は真である。
>一番目の主張は「事実の主張」であり、議論の中心となる。三番目は「推論による主張」であり、推論プロセスを表している。
>「推論による主張」は明示的な場合と暗黙的な場合がある。
全部妄想だ。2.の「ポジティブな面」というのは馬鹿豚の捏造。実際は、AさんがBに関する
専門家や権威と呼べる人間であることが、権威による論証の前提となる。ポジティブな面が
どうかはあるかないか、まったく関係ない、どうでもいいことだ。
馬鹿豚が、名越など足元にも及ばない最低の嘘つきであることが証明された。
氏ね、カスw
431 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 21:58:05 ID:k+kEPqLS0
★アリフィン・ベイ(インドネシア・政治学博士)
「日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進
という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。
日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本
の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジア
の民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。
日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されている
のである。」
東南アジア諸国では、日本軍政に対する評価は高く、インドでは東条英機は英雄である。
大日本帝国は、東南アジアに偉大な精神的遺産を残し、これが各国を独立に導くのである。
大東亜戦争が植民地解放戦争であったのは紛れもない真実なのだ。
嘘つき馬鹿豚だけが、権威論証がどうの、と涙目で訴えるが。
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 22:02:52 ID:k+kEPqLS0
モハメッド・ナチールも、ブン・トモも、大東亜戦争の権威じゃない、ただの政治家だ。
はっはっは。ざまあみろ、嘘つき馬鹿豚め。
氏ね、低能
433 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 23:57:27 ID:aV2mWIV00
>>431 >>東南アジア諸国では、日本軍政に対する評価は高く、インドでは東条英機は英雄である。
大日本帝国は、東南アジアに偉大な精神的遺産を残し、これが各国を独立に導くのである。
・・・まあ、それが行きすぎるとビルマの軍事独裁政権やインドネシアのマレーシア侵攻とか、南北朝鮮の軍事独裁国家になったんだがな。
ベトナムの徹底抗戦もそうかも知れん。
★昭和天皇
「原子爆弾が投下されたことに対して遺憾には思っておりますが、こういう戦争中であることですから、
どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。」
★米内光政
「原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。
私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。
一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。
従って今日その国内情勢を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。」
435 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 02:30:13 ID:0Z9t1LhGO
>>433 米内光政って、東北閥だから妄想狂の馬鹿だとばかり思ってたんだが、
意外とリアリストだったんだな。
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 07:40:53 ID:vsnz5sYr0
>>434 >>一に国内情勢の憂慮すべき事態
・・・軍事独裁政権と共産革命(天皇制廃止)を恐れていたんだな。
437 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 21:18:56 ID:Mvl8cuzUO
誰も読まない長文コピペを連投する馬鹿豚を、誰かなんとかしろよ
こいつは俺達の邪魔をする最低のガンだぜ
誰も読まない名越の愛国オナニーコピペを何年も
垂れ流してるコピペゴキブリ吉田のことですね、わかります
440 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 22:14:16 ID:w4HOX+jX0
ここで問題です
「我々日本人が「世界で通用する常識人」になりたければ、大東亜戦争の意義に関して
最低限この三つに関してはきちん語れなければ、世界で軽蔑される。」
日本人が世界に出たとき、外国人相手に主張するべき大東亜戦争の三つの意義とは何か?
解答例と解説
「大東亜戦争は侵略戦争です」といって土下座したら、「こいつ最低。日本人じゃない」
と軽蔑されることうけあいです。在日ちょんなら、こういう解答もありかもしれませんが
>>430 お前が言ってること全体が詭弁なんで
まともに返す気も起きんが
「権威論証」がなぜ詭弁なのか
それはある人物の発言のみを根拠として、自分の言い分を正当化することにある
『専門家』や『著名人』は『常に真理を述べる者』と
論理的に同値でもなければ包含関係にもないので、何の論証をしたことにもならない
お前の引用する人物の中にはトインビーを初め、歴史学者もいた
また「政治家」というのは当然、その時期に起きた政治的事象に関する権威者である
あと、お前が捏造と決めつけている「部分」はすべてウイキペディアからの引用である
コピペゴキブリ吉田は中卒だから、自分で自分の首を絞めていることもわからないらしい
自分が権威論証をしていないと言い張りたいのなら、「人の発言」ではなく
「史実」や「歴史的事実」を持ってこい
まあ、「ネットで真実」などと今時言っているような馬鹿には無理な相談だろうがな
>日本軍政は、インドネシア独立を前提として、
全然前提としていない、開戦当初は帝国領とする方針
終戦まで名目上の独立さえ与えてやらなかった
>広く教育を施し、
皇国史観と神社遙拝を教えただけ
>インドネシア語を普及させた。
本当は日本語を普及させたかったのだが、覚えてくれなかっただけ
>行政官を鍛え
そんな史実はあったのかなあ?
あったのなら、いつ、どこで、どんな方法で?
>大東亜戦争は民地解放戦争に他ならなかったという
>疑いの真実である
たしかに「疑いの真実」であるな
実際は軍政を敷いて資源を搾取しただけだからな
>名越など足元にも及ばない最低の嘘つき
なるほど、名越を嘘つきと認めるわけだ
じゃあお前のレスも全部ウソだw
>>431 おいおい、アリフィン・ベイは政治学の権威だぜ
その政治学者が戦争そのものを政治的に評価したんだろ
そしてお前は「アリフィン・ベイがこう言ったから、日本軍政に対する評価は高い
植民地解放戦争だ」と言ってるんだろ
どこをどう見ても権威論証で詭弁です
残念でした、コピペゴキブリ吉田君
吉田は「太平洋戦争史の権威ではない」と主張して権威論証ではないと
逃れようとするが、権威論証の詭弁性は「人の発言のみを根拠として
その論理的検証をすることなく丸呑みにして論証」することにあり
それを『常に真理を述べる者』と論理的に同値でもなければ包含関係にもないと
表現されることにある
よってコピペゴキブリ吉田の主張は採用することはできない
すべて詭弁(もし元ネタが名越だったら信憑性も疑うべき)である
>>437 お前がウソコピペを連投する馬鹿豚なのだと自覚したまえ
中卒w
>>432 つまりお前は、ズブの素人の門外漢がした、頓珍漢な発言に基づいて
太平洋戦争は殖民地解放戦争だの、太平洋戦争の勝者は日本だのと
デタラメを吹いていたというわけだな
さすが中卒、レベルが低いぜ
あと、お前はこの板では嫌われ者だということは自覚しておいた方が良いと思うぜ
右翼で馬鹿(つまり二重に馬鹿)だから、誰も相手する価値なし、と思われているだけだがw
445 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 21:27:10 ID:GTC54s5E0
大東亜戦争の肯定的側面である「東南アジア植民地の解放」という歴史的真実
をまったく認めない人間は、レベルが低く、生きる値打ちのない馬鹿豚である。
446 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 21:33:56 ID:GTC54s5E0
★サイデマン (インドネシア外務省上級大使)
「第2次大戦中、あるいはその直後、植民地の独立のために、外国の人々が力を貸してくれる
ということが見られました。 私の国インドネシアの場合、多くの日本の青年たちがインドネ
シアを自由にするために独立の闘士たちと肩を並べて戦ってくれました。そして多くの日本
の青年がそのために命を捧げてくれました。今日このアジア共生の祭典において、私たちの
独立のために命を捧げてくれたこれらすべての若者たちを偲びたいと思います。」
我々の祖先は、侵略戦争を戦ったのではなく、植民地解放戦争を戦ったのである。多くの
日本兵が自ら進んでインドネシア独立戦争に身を投じたのは、彼ら自身「俺たちはインド
ネシアを独立させるために戦ってきたのだ」という強い自負があったからである。
義に殉じた、我等の先祖に深い哀悼と畏敬の念を捧げたい。黙祷。
嘘つき馬鹿豚はこういう事実を無視して、我等の先祖につばを吐く。氏ね、カス。
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 21:43:51 ID:GTC54s5E0
嘘つき馬鹿豚は無知だから教えてあげるが、「権威による論証」は詭弁ではない。
しかも、馬鹿豚は一方的にやられ放題で、まともに反論すらできないではないか。
感情的な罵詈雑言と、根拠のないきめ付けを絶叫するのが関の山。嘘つき馬鹿豚は本当に惨めだな。
良い方法を教えてあげよう。権威論証には権威論証で対抗したらどうだ?嘘つき馬鹿豚君。
448 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 21:46:25 ID:GTC54s5E0
そして、我々が取り上げている発言は、大東亜戦争研究の専門家や権威の発言集ではなく、
権威論証とは無関係である。
だから「権威論証ニダ!」という批判は全くの的外れである。馬鹿には理解できないようだが。
449 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 21:55:31 ID:GTC54s5E0
★キーナン(極東国際軍事裁判首席検事)
「東京裁判はいくつかの重大な誤判を含むのみならず、全体として、
復讐の感情に駆られた、公正ならざる裁判だった。」
東京裁判を公正で学問的に価値の高い裁判だと思い込んでいる
馬鹿はまずいない。東京裁判を経典のごとく信奉している一部の
お馬鹿なカルト信者だけが、世界中で恥を晒しているのである。
嘘つき馬鹿豚もその一人。
450 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 21:59:09 ID:GTC54s5E0
★サンパス(インドネシア元復員軍人省長官)
「特にインドネシアが感謝することは戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、
インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の
戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。」
大東亜戦争が植民地解放戦争であったのは、疑いのない真実である。
では、東條英機が、憲兵と特高をつかって
どれだけ無辜の国民をいじめたか見てみよう
治安維持法は、本来、日本共産党をはじめとする政治結社の運動を弾圧することを目的としたものであったが、
戦局の進展につれて、国民のあいだに戦争にたいする嫌悪感が増大し、厭戦から反戦の気分がつのり、
天皇制にたいする反感が強まるにつれて、政治的支配権力の側では、集団的な政治活動のみでなく個別的な「不穏言動」や「造言飛語」
――反戦・反軍・不敬・不穏の言辞・策動・投書・落書・演説・文書掲出・放歌等々――に深刻な脅威を感じて神経をとがらした。
内務省警保局が「今後人の集るところ必ず共産主義運動あり」と感ずるようになったこと
(内務省警保局編「社会運動の状況」昭和一六年版、八ページ)は、かれらの危機感をよくあらわすものであった。
内務省警保局や憲兵隊が反戦・反軍・不敬・不穏事件として、やっきになって探索し、弾圧した事件の数は、
戦争が進むにつれて急激に増大し、警保局によってキャッチされた事件の数のみでも、
月平均件数で日中戦争開始ころの一二〜三件が年を逐って二三件、二六件、三四件、五一件と増大する一方であった。
一九四〇年版の警保局「社会運動の状況」には、「最近は落書投書言辞等いずれを問わず、悪戯的なものは全く影を潜め、
内容すこぶる不逞悪質のもの多きに上るの状況」と記しているように、「不逞悪質」の言動が目立ってきた。
以下に官憲の目にとまった言動のうちいくつかを年代順にあげておこう。
岐阜・陶器画工・二四歳――「今度の支那との戦争は侵略的である。支那と戦争して領土を占領しても我々無産者には何等の利益等ない。
結局戦争は資本家が金儲けするだけでこんな侵略的戦争は反対だ。早く止めて貰いたい。仕事がなくなるから。」
(数回にわたり数名に宣伝、一九三八年二月、造言飛語罪で禁錮四ヵ月)
和歌山・農業・五二歳――「今年は百姓は悲惨なものだ。連日の降雨のため麦や罌粟は皆腐ってしまった。
これは今度の戦争で死んだ兵隊さんの亡魂が空中に舞っているから、その為に悪くなるのである。
戦争の様なものはするものではない。戦争は嫌いじゃ。」(理髪店で話す、同年五月警察犯処罰令で科料一〇円)
岐阜・畳職・五二歳――「こんなに働くばかりでは銭はなし税金は政府から絞られるし全く困ってしまった。
それに物価は高くなるし仕事はなし、上からは貯金せよといって絞り上げる。実際貧乏人は困っている。
よいかげんに戦争なんか止めたがよい。兵隊に行った人の話では全く体裁のよい監獄じゃそうな。
兵隊もえらいしええかげんに戦争は止めたがよい。日本が敗けようと敗けまいと又どこの国になっても俺はへいへいといって従っていればよい。
日本の歴史なんか汚れたとて何ともない。」(或一人に話す、同年九月、陸軍刑法第九九条違反で禁錮六ヵ月)
福岡・理髪業・三一歳――「皇軍兵士が戦死する場合無意識の間に天皇陛下万歳を叫んで死ぬ様に新聞紙に報道されているが、
それは嘘だ。ほとんど大部分の者は両親兄弟妻子恋人等親しい者の名前を叫ぶということだ。」
(数名に話す、同年一〇月、陸刑九九条で禁錮五ヵ月)
東京・飛鳥山公園便所に落書――「正義を愛する者は戦争に参加するな。」(三八年九月、捜査中)
山形・応召軍人妻・三三歳――「兵たいさん父さんおかいしてくださいおねがいです。母さん病きでねています。
私はまいにつないでいます。ごはんないのでばはいやにいもおもらった父っやんおかいしください。
兵たいさんめくんでください母っやんぜにかないています。」(同年一〇月、歩兵三十三連隊本部へ投書、説諭処分)
北海道・農業(区長)六五歳――「農家ではこの忙しい時に兵隊には取られるし頼りとする馬も徴発され仕事をするに大支障がある。
とにかく戦争等は早く終って貰いたいと念願している。もう戦争は嫌になった。」(三九年二月、産組事務所で数名に話す、戒飭)
福島・農業女性・三八歳――「国家なんて虫の良い事ばかりするものだ。足袋もなくて働け働けといわれても仕方がない。
それに増税だ何だと是では百姓がやりきれない。是も戦争がある為だから戦争なんて敗けてもよいから早くやめて貰いたいものだ。」
(一九四〇年、厳諭)
岐阜――四〇年四月、二名の家人を前に新聞掲載の皇太子の写真に、「こんな良い服や靴を着て何じゃ、
我々国民があって初めてこんな良い服が着られるのだ、こんなもの何じゃ」といいつつ該新聞紙をクシャクシャに丸め、
これでストーブ上の油を拭き廻したのち「こんな者は早く死んで了え」とストーヴの火中に投じた。(七月、不敬罪で送局)
山梨・芸能人(石田一松)、三九歳――同年五月甲府の劇場において、「稼いでも稼いでも喰えないに、物価はだんだん高くなる、
物価は高いのに子はできる、できた子供が栄養不良、いやにしなびて青白く、あごがつんでて目がくぼみ、だんだん細くやせてゆく、
日本米は高いからパイノパイノパイ、南京米や朝鮮米でヒョロリヒョロリヒョロリ」なる歌詞の時事小唄を演奏した。(演奏中止、厳重戒飭)
千葉・五九歳――同年八月、小学校の時艱克服聖戦完遂村民総動員大会の席上で、
「我々は今子供を二人も戦争にやっているが、もう戦争も大概に止めて貰いたいものだ」と発言。(厳重戒飭)
和歌山・警察署長あて投書(新聞の皇族写真同封)――「署長以下署員皆様この御写真を見て如何に思うか。
新体制が叫ばれている折今日この二方の服装はどうだ。上等の高価の毛皮の襟巻を着て堂々と新聞紙上に出すではないか。
下人民の手本となるべき人はこの様な派手なことをするとは陛下の赤子として立腹の至りだ。
現下の国民はいかなる苦難を忍びつつあるか。我々の生活の有様を推察せられ前記御二方へ厳重御意見を直接宮中へ出されよ。
なお新聞紙に反答せられたし。一市民より。」(同年一一月、捜査中)
大阪・五一歳――「天皇陛下も人間なら我々も人間だ。天皇陛下が米を食べられるのに我々国民が米を食べられないはずはない。
天皇陛下が米を食べられないのなら、自分も食わずに辛棒する。我々は銃後の産業戦士だ。このような事で銃後の治安もくそもあるか。」
(一九四一年二月、米穀共同販売所で発言、不敬罪としで送局)
山梨・農業・三九歳――「先日自分の出した供出米が一俵不正だとかで村の連中がとやかくいうが、
あの位の事が悪いなら何の法律でもよい罰してもらいたい。このように種々と窮屈になったのも戦争のためで
この戦争を誰が頼んだものではない。政府が勝手にやっておるのでこんな事が永く続けば銃後はやりきれぬ。」
(同年八月、某宅で雑談、科料五円)
新潟・教諭・三七歳――同年九月、農林学校三年生四二名にたいし作文授業中、
与謝野晶子作「君死にたまふことなかれ」の歌を板書し、生徒に筆記させ、
「天皇は身自ら戦の庭に立たぬのだから我々も戦死する必要はない」との趣旨で説明を加えた。(厳重戒飭)
兵庫・工場寄宿舎舎監・四一歳――事変に応召して召集解除となったが、戦地より支那軍捕虜殺戮現場写真等を持ち帰り、
一九四一年九月以降一〇月、職工にたいし継続して、前記写真を提示しつつ、皇軍を誹謗し反戦反軍言辞を弄す。
(四二年一月、神戸区裁で禁錮六ヵ月)
群馬・農業・四五才――「日本もハアどうすることもできなくなってしまっただからね、皇族だっても我々と同じ国民ではないか、
宮様の御祝儀だなんてあってこともない騒ぎをして一体皇族なんてものは何をして食っているんだべ。」
(同一〇月、区長宅の常会席上、二二名の前で発言、一一月不敬罪で送局)
大分・日稼・四四才――一九四二年三月、常会席上班長から国債購入の勧誘を受けたのに対し、
「自分達はその日稼の苦しい生活をしているものだ。こんな事は下の者に無理にいうより戦争を止めるのが一番良い。
そうすれば国債を売付ける必要がない。無理に戦争に勝とうとするからこのような国債売までするのだ。早く戦争をやめてもらいたい。」(検挙)
大阪・鉄工仕上工・二○才――六月中旬工場において八―九名にたいし、「こんな戦争は勝っても決して我々労働者には何の得にもならぬ。
お上の人は闇をしてはならぬと強調しているが、その人達が何をしているのか判ったものではない。」
「天皇陛下がなければこんな戦争をやる必要はない。」
(一〇月、言論出版集会結社等臨時取締法一八条違反として略式命令により罰金五〇円)
神奈川・農業・四九才――四一年六月、国民学校における故陸軍兵長の村葬に参列し、埋葬に行く途中、村長にたいし、
「国家のため戦死された英霊を何故国民学校の裏門より出発せしむるか」と質したのに対し、
村長が「正門には御真影奉安せられあり、恐れ多いから臣下として御遠慮中し上げる」と答えたのに対し。
「恐れ多い恐れ多いといったって天皇は我々が食わせておくのではないか、遠慮なら仕方がない。」と不敬の言辞を弄した。
(四二年一二月、不敬罪として送致)
庶民は誰も戦争など望んでいなかった
戦後の後知恵で「聖戦だった」「植民地の解放だった」とのたまうゴキブリは
戦時下の人々の気持ちなど理解していない鬼畜である
454 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 22:36:39 ID:GTC54s5E0
455 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 22:39:22 ID:GTC54s5E0
嘘つき馬鹿豚=ID:cgO0ISI30の、コピペ埋め立て作業が始まった。こいつ本当に馬鹿だな。
こいつを生んだ母親も相当なクズなんだろう
嘘つき馬鹿豚の「2chに対する迷惑行為」を糾弾した方が良さそうだな。
治安維持法と特高警察について
これこそ「カミソリ」といわれた冷酷非情の東條英機の忠実な道具であった
戦時下日本のいっさいの政治的諸運動抑圧の法的中核となったのは治安維持法であった。
同法によって一九二八年以来検挙されたもの六万人、起訴されたもの六〇〇〇人(その九五%以上は左翼関係)と戦争直後発表されたが、
「同法の近来の運用は赤化の防止という本来の目的から離れ、民衆の思想に対する強権的圧迫と人権蹂躙に悪用された傾向が極めて濃い」
(朝日新聞、一九四五・一〇・一四)といわれたように、治維法はもともと天皇制と資本主義制度に反対する共産党の弾圧を直接の目的とする
法律であったが、後には社会民主主義・自由主義・一切の反政府運動、さらにそれらの思想そのものに適用されていった。
一九二五年に公布され、一九二八年に緊急勅令で改正された治安維持法(旧法)は、「国体を変革することを目的として
結社を組織したる者または結社の役員その他指導者たる任務に従事したる者」は死刑または無期ないし
五年以上の懲役ないし禁錮(以前は最高一〇年)、
「情を知りて結社に加入したる者または結社の目的遂行の為にする行為をなしたる者」は二年以上の懲役または禁錮とした。
同法の解釈は「最大限度に拡張して」(一九四〇・五月の全国思想実務家合同における控訴院検事の発言)使われ、
「取締の対象が自から思想そのものに向けられるに至」(ジュリスト、一九五二・七・一五、伊達最高裁調査官)り、
目的遂行行為と認められる範囲は勝手に拡張され、共産党の中央部が破壊されたのちには、
コミンテルンの目的遂行行為として取り扱われ「国体を変革することを目的とする結社」も、最大限に類推・拡張解釈されて、
朝鮮民族独立運動や「類似宗教団体」(大本教・天理本道・燈台社等)もこれによって処罰された。
治維法が画期的に拡張解釈して適用されるにいたった重要な契機は、一九三五年のコミンテルン第七回大会およびそれに関連する
人民戦線方針関係文書の海外からの大量流入と全面的な日中戦争の開始であった。
この治安維持法を補充するものとして、一九三六年に思想犯保護観察法が公布施行された。
保護観察とは、治安維持法の罪を犯した者に刑の執行猶予の言渡のあった場合、または訴追を必要としないため公訴を提起しない場合、
さらに刑の執行を終わりまた仮出獄を許された場合、などに保護観察審査会の決議によって、
「本人を保護して更に罪を犯すの危険を防止するため、その思想および行動を観察する」もので、
担当者は保護観察所の保護司その他であり、本人にたいしては居住・交友・通信の制限、
その他「適当な条件の遵守」を命ずることができたのである。
その後治安維持法の改正案は、再三にわたり政府によって議会に提出されたまま実現にいたらなかったが、
ついに一九四一年三月に根本的に改悪して公布され(実施は五月)るにいたった。改正治維法(新法)は実体規定としては、
(1)外郭団体を直接取締りの対象とする支援結社に関する処罰規定、(2)直接に国体変革の実行を担当せず、
党再建の気運醸成を主要目的とする準備結社に関する処罰規定、(3)結社の程度にいたらない集団(グループ)に関する処罰規定、
(4)類似宗教団体に関する処罰規定、(5)人民戦線方策採用の結果あらわれた、結社と関係のない国体変革の目的遂行に資する
一切の個人的行為を処罰する包括的規定等を設け、その刑をさらに重くし、旧法になかった特別刑事手続に関する規定および
詳細な予防拘禁に関する規定を新たに設け、全部で六五条(旧法はわずか七条)の法律となった
治維法の発動にあたっては、逮捕・捜査・取調・留置・取締・スパイ工作・右翼の利用等において、
非条理きわまる濫用や無恥な拷問がもちいられた。逮捕する場合には、身柄の保護処分としての行政検束
(「泥酔者、瘋癲者、自殺を企てる者その他救護を要すと認むる者」を「翌日の日没」まで検束する制度、
一九〇〇年制定の行政執行法第一条)を利用し、その時限がすぎると書類上だけで釈放して再検束し、
あるいは違警罪即決処分(「一定の住居または生業なくして諸方に徘徊する者」を三〇日未満拘留。
一九〇八年制度の警察犯処罰令、第一条)にあてはめて二九日間の拘留処分にし、
期限がすぎると警察署を転々とタライ廻しにして留置をつづけた。
(つづく)
警察官の自由認定は、治維法による取締りの実施にあたっても大幅に認められていた。
そして長期間の拘束の上で、手記を書かせ、それを根拠にして、治維法を適用することが行なわれた。
治維法の「目的遂行」にあてはめるために、たとえば、いわゆる企画院事件で検挙されたある被疑者の場合には、
彼が某大学で経済原論の講義をした際、参考書の一つとしてあげた中に共産主義的経済学者の著書があったのをとらえて、
「国体を変革することを目的とした結社の目的遂行の為にする行為」としていた
(海野普吉「治安維持法運用の跡を顧みて」、ジュリスト前出)。
また、「私の一友人は治安維持法違反として、懲役二年、執行猶予五年の判決を受けた。
判決文中で最も主要な証拠に援用されたのは、彼が他の友人達と協同で買い込んでいた本に、
『ELM会』という判こうがおされていた事実であった。ELM会とは、北海道からきた仲間の一人が、故郷のにれをしのんでつけた名前である。
ところが検事および裁判所にいわせると、それはマルクス、エンゲルス、レーニンの略字だとばかり、他にこれという証拠もなかったのに、
共産党の一グループ活動と認定されたわけであった」(戒能通孝「暴力――日本社会のファシズム機構」)。
さらに、いわゆる新興俳句事件で検挙された人たちは治維法によるデッチアゲについて左のような思い出を語っている(雑誌「俳句研究」、
一九五四年一月号)。
――治安維持法に抵触しそうな架空の犯罪の型を捏造しておいて、被疑者を無理やりにこれにあてはめるんですね。
だから自句自解を書かせる場合でも、新興俳句作者は全部共産主義の信奉者であって、俳句を通じてマルクシズムを大衆に浸透させ、
他日プロレタリア革命によって共産主義社会を打樹てようとするものだということが結論にならなければパスしないんですよ。
――書いてゆくとどうしても共産主義は正しいという結論になる。またそうしなければむこうが承知しない。
その上で俳句がそれとどう結びついているかということでね。ところがこっちはそんなこと常識以上に知りァせんしね。
留置場へぶち込まれて参考書がないでしょう。あったところで、俳句雑誌以外は参考書を見て書いてはいけないというんだ。
しかしそれがなければコミンテルンだの資本主義の発達史だのなんて書けないしね。
そこでぼくはこっそり自宅から改造社の「社会科学辞典」をとりよせて、それを見ながら書いたね
――手記を書いていると、おや、じぶんは共産主義者になったかな、という気がした。しかしどうも旨く書けないので、
手記の見本をみせてもらったら、なかなか見事なものだった。それでわたしは共産主義者としでの自覚と認識を、そっくりそのまま借用したら、
「お前はそんな偉いことをいう部類にはいらぬぞ」といわれた。ともあれ、わたしは手記の上では完全な共産主義者になり、
そして結論で転向を誓った。……
治維法は、一九四五年一〇月四日、日本帝国政府にたいする連合国最高司令官の覚書
「政治、信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃」によって、思想犯保護観察法、同施行令、保護観察所官制、予防拘禁手続令、
同処遇令等と一緒に、一切の条項を撤廃し、かつ即時その効力を停止すること、
同時にこれらの法令などにより拘留・投獄ないし自由を制限されてる人びとを即時(一〇月一〇日までに)釈放することが指令された。
一○月一二日の定例閣議は治維法の廃止を決定し、同法により刑に処せられた者は、
「将来に向ってその刑の言渡を受けざりしものとみなす」こととなった(勅令七三〇号)。
(つづく)
458 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 22:50:17 ID:GTC54s5E0
437 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 21:18:56 ID:Mvl8cuzUO
誰も読まない長文コピペを連投する馬鹿豚を、誰かなんとかしろよ
こいつは俺達の邪魔をする最低のガンだぜ
459 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 22:52:40 ID:GTC54s5E0
論 破 さ れ た 嘘 つ き 馬 鹿 豚 が 発 狂 し た ぜ
その他の戦時弾圧法規
四一年三月に公布され五月から施行された「国防保安法」は、戦時下の国防上、
外国にたいして秘匿することを要する軍事・外交・財政・経済などに関する重要な国家機密を保護するために制定された
国防保安に関する一般法であり、政治的・思想的弾圧の手段として利用された。
同法によって、刑法に定められた以外に特別に重い刑罰が課され、またそのために刑事訴訟法に規定する以外の特別の刑事手続が規定された。
四一年一二月の開戦直後に制定された「言論出版集会結社等臨時取締法」は戦時特別立法の一つとして、
集会・集団運動・結社・出版等を行政官庁の許可制とし、それぞれの違反行為に厳罰をもって臨み、
また時局に関する「造言飛語」「人心惑乱」行為を処罰するものであり、政府は各部面で自由に取り締まる権限をにぎることになった。
同法の審議にあたって、一議員から「むしろ戒厳令を奏請し、これを適用する方が適当ではないか」と質問がでるほど苛酷な内容のものであり、
たとえば「造言飛語」「人心惑乱」の事項を流布したものは懲役刑にされたが、
その内容がたとえ事実で、確実な根拠にもとづくものであっても処罰されることになっていた。
四二年二月に公布された「戦時刑事特別法」は、戦時下の治安犯罪などにたいしきわめて重い罪を課するとともに、
戦時下の刑事手続について特別の取扱い(同第二九条よって後述のとおりゾルゲ事件は上告棄却となった)を定めた特別立法であり、
「戦時に際し燈火管制中または敵襲の危険その他人心に動揺を生ぜしむべき状態ある場合」の放火罪、
「戦時に際し国政を変乱することを目的と」する殺人罪、戦時下の騒擾罪・公共防空妨害罪・公共通信妨害罪・
ガス電気利用妨害罪・重要生産事業遂行妨害罪・生活必需品買占罪・往来妨害罪・住居等侵入罪・飲料水に関する罪などが、
最高死刑・無期以下の懲役となった。つづいて同法の改正案が四三年一月から三月にかけて第八一回議会で激しい論議の対象となり、
貴族院では委員会八回・小委員会二回のあと法相の特別言明があって可決され、衆議院では委員会一二回、懇談会四回のすえ、
東条首相みずから委員会と本会議で濫用せぬよう万全を期する趣旨の特別声明があってようやく可決となり(反東条派約三〇名反対)、
三月から施行された。改正は四ヵ条の追加であり、国政変乱目的の傷害・逮捕・監禁・暴行・脅迫罪を死刑・無期以下の懲役・禁錮に、
騒擾その他治安を害すべき罪の実行についての協議・煽動を七年以下の懲役・禁錮としたが、
とくに問題となったのは同法第七条の四の「戦時に際し国政を変乱しその他安寧秩序をびん乱することを目的として
著しく治安を害すべき事項を宣伝したる者」を同じく七年以下の実刑に処するという「宣伝」行為処罰の規定であった。
私有財産制度の否認もこの「安寧秩序びん乱」になることとされ(四一・一〇・二三、東京控訴院の河合事件判決)、
「治安を害すべき事項」とは「国家社会公共の法的安全を害するおそれある事項」で、
出版法規における「朝憲びん乱」「政体変壊」「安寧秩序びん乱」なども含まれるものとされた(四〇・一一・一四、大審院判例)。
特高警察
特高の歴史は、鮮血にまみれた人権じゅうりんの罪悪史であったが、「治安維持」の取締りにあたった特高警察は、
いわゆる大逆事件の翌年、一九一一年に内務省がそれまで高等警察事務の一部であった危険思想取締りのため枢要地に
とくに専任警部を配置することを勅令で決定し、大阪府に警察部長直属の高等課別室(翌年特高課に昇格)を、
また警視庁の官房内の高等課を分課して社会運動の取締りだけを担当する「特別高等課」を設けたことに始まるものであり、
一九一三年の警視庁官制の改正によって、特別高等警察・外事警察・労働争議調停の三部門を担当する課として明確な地位を獲得した
(武野武治・赤枝清「特別高等警察史」、潮流、一九四六年四月号)。
その後、日本共産党創立の翌年、一九二三年には主要九府県に特高課が創設され、つづいて一九二八年の三・一五事件のあと、
残りの全府県に特高課が設けられ、また主な警察署に特高係が配置され、ここに全国的な特高組織網が確立し、
思想警察を全国的に統轄する内務省警保局保安課は拡充強化された。
府県の特高課長は警察部長とは別に直接に中央の保安課長と結びつき、府県特高課長の任免だけは内務省の保安課長
(保安課長のみは勅任官)の人事に一任され、内務省の機密費も保安課長から直接に特高課長に工作費として送られていた
(杉本守義「特高警察の組織と運用」、ジュリスト、一九五二・七・一五および八・一号)。
(つづく)
警視庁特高課の人員は、三・一五事件のころは、特高係・労働係に内鮮係・検閲係を加えて七〇人くらいであったが、
その年の八月の増員で一挙に三八〇名となり、一九三二年六月には「特別高等警察部」に昇格して機構を拡充し、
従来の係は課に昇格して、特高課(二・二六事件のあと、左翼担当の特高一課と右翼担当の特高二課に分かれた)・
労働課・検閲課・外事課・内鮮課・調停課の六課となった。人員のいちばん多い時には約六〇〇名であった。
特高一課の主任警部は八名、特高二課は六名(はじめは二名)で、主任警部はそれぞれ五名の部下
(警部補一名、巡査部長一名、巡査二名)を使って活動した。特高係官には「検挙取調」をする係官と「視察」する係官とがあり、
要視察人一人ひとりについて指紋・写真・記事をカード化して絶えず整備しており、甲種要視察人(現に運動をやっている者)は本庁で、
乙種要視察人(転向していた者)はそれぞれの住所の所轄署の特高係が視察した。
そのほか、メーデーその他状況に応じて予備検束する要注意人をきめてあった。また、大阪府特高課ははじめ約五〇名、
のち一五〇名に増員された(大阪府では一九四三年に警察部を警察局に昇格させ、その下に治安部を設けて特高課を包含した)。
各府県も、それぞれ数十名の係員を擁し、また下部の各警察署は、大きい署で七〜八名、小さい署では二〜三名の特高係員をもち、
各署の特高主任は警部補がこれにあたっていた(小林五郎「特高警察秘録」)。特高警察官は治維法の実施にあたる第一線の部隊として、
豊富な機密費を使って、常時調査・視察・取締りを担当し、尾行・逮捕・拷問の技術を習練し、国民のあいだにスパイ網をはりめぐらし、
治維法・治安警察法・行政執行法などによって苛酷な弾圧をおこない、共産主義者はもちろん、
のちにはいっさいの民主主義運動をも徹底的に取り締まり労農運動内部の攪乱工作にまでのりだした。
(注)岩田義道や小林多喜二をはじめ残虐な拷問によって殺害された者も多い。
(注)一例として、静岡県特別高等課編の「特高教範」(一九四三年六月)の中の「視察内偵入門」と題された章の一部を抜萃して紹介すれば
左のとおりである(雑誌「みすず」、一九六一年四月号による)。
第五視察内偵の方法
一、機構及運用
(一)外勤情報警察機能発揮
(二)民間情報網の設定
(イ)各界に責任ある有力者を獲得すること
(三)特殊内偵線の設定
(イ)人または物に対し適格なる情報を入手するために設ける。特殊の工作と工夫を要する。
(四)尾行内偵
(五)張込内偵
(六)関係方面との連絡
(イ)憲兵隊 (ロ)鉄道、郵便局その他官署 (ハ)印刷所(謄写印刷所)常に連絡し、一部の余分を作ってもらう
(ニ)書籍店(古本屋)各社書籍の売行状況 (ホ)各種団体等、なかんずく郵便局とはどうしても連絡が付かねば駄目である。
二、具体的方法
1 対象者の肩書や門構に恐れてはならない。(自分は陛下の特高警察官である)
2 対象人物の真意が何辺にあるかを引出すこと。(反って反対の主張をして見ることもよい)
3 視察眼を敏感、緻密にすること。(表面は見ざるが如く、或は特に注意せざる如き態度をとり、またとぼけることもよし)
4 人の前ですぐ手帳を出して記録せざること(関心あるが如く記録することも可なる場合あり、すなわち我に訴えるが如き場合)
5 大胆にして細心
6 左翼に対しては隠語または通称語を覚える
7 人情の機微を掴むこと
8 視察内偵は計画的継続的系統的になすこと
(一)右翼関係者(略)
(二)左翼関係者
彼等は物をいわぬ。従っていわしめて情報をとることは困難である。どうしても裏面内偵に重点が置かれねばならない。
左翼人物は確信犯である関係で容易に転向するものではない。従って表面視察では駄目である。
しかし、特に留意されたいことは、表面視察の状況を刻明に記録してもらいたい。何時誰が居たとか、何処で会ったとか、
何処へ行っていたか等のことでよい。以下視察要領を掲げて見ると、(イ)熱意を持つこと、(ロ)内偵線を持つこと、
(ハ)常時証拠品の蒐集に心掛けること、(ニ)証拠品及取調べに当りては、(1)証拠品第一主義で行くこと、
(2)証拠品の湮滅を防止すること、(3)あせらぬこと、(4)証拠品は特高的に分析すること
(つづく)
また、大審院・控訴院・地方裁判所の検察局には、それぞれ専門の「思想係検事」(「思想実務家」)が配属されていたことは
先に図示したとおりであるが、司法省ではさらに、一九三八年六月には「思想研究会」を設けて将来の思想事件に関する対策を講じ、
判検事六名を選定し、三九年八月には全国控訴院別に思想ブロック会議を開いて対策をねり、
四二年一月には大審院検事局思想部の機構を拡大した。司法省の思想関係執務参考調査資料として、
刑事局「思想部報」「思想調査」「思想研究資料」(通巻六三冊、特集九九冊、一九二七〜一九四三年)、
「思想資料パンフレット」(通巻一五冊、特集三九冊、一九三八〜一九四三年)、「思想月報」(一〇九冊、一九三四年〜一九四四年)、
「思想特報」(一九四一年)、「思想内報」(一九四四年)など確認できるだけでも尨大な量が作られていた
(小森恵「帝国憲法下における社会・思想関係資料」、みすず、一九六〇・一一〜六一・四月号)。
終戦後、全国の特高警察(前出の「陛下の特高警察官」)は廃止されたが、
連合軍の指令にもとづいて日本政府が罷免した特高警察官の数は四、九五八名であり、
同じく保護観察関係の官吏は九七七名であった(連合軍最高司令部、一九四五・一一・七発表)。
一九四六年一月四日には、総司令部の命令にもとづいて公職追放に関する勅令が発布され、
八年間以上または一九四一年三月以降四年間以上にわたって特高警察に従事した者でその期間中に警部以上の職を占めたことのある者、
また特高警察または思想検挙に従事したあいだに、重要思想刑事事件(一九三七年の労農グループ事件、日本共産党事件、
日本労評事件、一九三八年の教授グループ事件、日本共産主義者団事件、一九四一年の国際共産党事件、燈台社事件、
一九四二年の日本聖公会事件、きよめ教会事件、東洋宣教会きよめ教会事件、一九四三年の第七日基督再臨団事件)の処理にあたって
主要な役割を演じた者(実際の処分は警部以上)が、公職から追放されることになった。
検挙数
治安維持法による被検挙者総数は八万人に近いと思われるが、一九四三年までに検事局の受理した被疑者数は、
「満州事変」以降一七、九二〇人、日中戦争以後六、四一七名(起訴一、六八六名)である(司法省「刑事統計年報」による。
一九四四年以降は全国統計がない。また検事局受理人員には、検挙されながら検事の拘留状が発せられずに釈放されたもの、
あるいは検察側と無関係に憲兵などによって検挙されたもの――救世軍の弾圧、沢田行政裁判所判事の検挙等――などを含まない。
別に内務省警保局編「社会運動の状況」各年版によれば、治維法違犯事件検挙者数(および起訴者数)は一九三七年一三八六(二一〇)、
一九三八年五五二(二一二)、一九三九年三二三(一五二)、一九四〇年六三二(一〇一)、一九四一年九三四(一五九)、
一九四二年三二九(一四五)であり、また小林五郎「特高警察秘録」によれば、検挙者(および起訴者)は、一九三七年一、二九一(二一〇)、
一九三八年五五三(二二一、一九三九年三八九(一五一)、一九四〇年七一九(一〇一)、一九四一年九〇一(一六一)、
一九四二年三一七、一九四三年二八四、一九四四年二二〇、一九四五年九月末七九、となっている)。
終戦後、連合軍最高司令部の指令にもとづいて一九四五年一〇月二二日までに釈放された政治犯は五〇七名
(連合国人・中立国人・白系ロシア人三九名をふくむ)、政治犯であって別に殺人罪、窃盗罪等により釈放されないままのもの三七名、
司法省による保護観察を解かれたもの二、〇二六名であった(同年一一月七日、総司令部渉外局発表)。
もちろん、取調中にあるいは獄中において死亡した犠牲者もたいへんな数にのぼった
(その一部は、解放運動犠牲者合葬追悼会世話入会「解放のいしずえ」に掲載されている)。
なお、一九四一年一二月九日には、対米英宣戦布告にともなう非常措置として、
「内偵中の被疑事件」の検挙二一六名(令状執行一五四)、要視察人の予防検束一五〇名、
予防拘禁を予定するもの三〇名(令状執行一三)、計三九六名の非常検束がおこなわれた。
>>454 >専門家の意見ではなく
>感想である
つまり、お前のレスは
専門家でもない門外漢による、頓珍漢な思いつきで言った寝言をもとにした
捏造と脚色と誤記誤謬に満ちた戯言だというわけだ
あと、この板でお前の味方を募るのは、無駄だからやめておけ
お前の馬鹿なレスに汚染されたり、ましてや支持したりする人間は、この板にはいないw
さて、「聖戦」とやらの正体についても述べていこう
一九三七年一一月、当時華北に出征中であった一兵士(歩兵一等兵)から、
秋田県の本籍地役場と小学校あてに、つぎのような内容の通信が送られきて、特高警察をあわてさせた。
――「第一線部隊では気がスサンで、少しでもシャクにさわると突き殺すという現況です。東洋平和がどうとか、
支那民国を緩和せんとか、そんな理論的な行動を主眼としては自分等の命が危い、戦争で死ぬのが名誉ではないのだ、
勝って生きて帰るのが本領なのだ、敵の中には日本人、ロシア人等混って居った。同じような事例はめずらしいことではなかった。
一九三八年になると、華中に出征中の一兵士から、熊本県の友人あてに「最新流行軍歌集」と題する印刷物が送られてきたが、
その中には、「ああそれなのに」や「旅笠道中」などの流行歌のほか、「赤旗の歌」、「メーデー歌」などが掲載され、
所々に、「日本軍閥打倒せ」、「即時撤兵」、「国民の苦痛を解放せよ」、「無意義な犠牲をするな」、「国内革命へ」などの
共産主義的反戦スローガンがやや太字で挿入してあった。
中国戦場の日本軍部隊の中には、自傷・自殺・逃亡・行方不明・反抗・叛乱などがふえていった。
たとえば、一九三九年二月、湖北省長台関に駐屯していた第三師団野砲三連隊十二中隊では、
長期の戦地生活に激しい不安と不満を抱いていた三人の三年兵は、内地から転任してきた見習士官が内地での軍隊規律を
強要することに反感をもち、見習士官に殴打を加えた。上部では三名を処罰しようとしたが、
部隊内の三名にたいする声援の空気が強いので、不安な情勢を起こす気配を憂慮し、
始末書だけで片付けざるをえなかった(鹿地亘編「反戦資料」二二一ページ)。
――「一線ではとても不平が多い。皆が集まりゃ不平ばかり並べるが、そんな折に俺は発起人になって
『それは今制度が悪い。戦争で一生懸命やって戦死しても天皇陛下へ忠義になりあせん。靖国神社へ祀られても、
金鵄勲章を貰っても、何にもなるもんじゃない。天皇陛下はあってもなうても同じことじゃ。
国家の為という名目のお蔭で良いことをする者も居る』といって兵隊等を煽ててやった。
お前達が親分の為には命を投げ出すというが、まだその方がましだよ。戦死する前に天皇陛下万才というて唱えるちゅうが、
そんなこという暇はない。あれは皆嘘じゃ」(同上一九四一年版)。
敗戦の色が濃くなるにつれて、軍隊の士気もくずれていった。国内で兵士が兵営に放火して全焼させる事件も起こった。
戦線においても、銃殺の危険をおかす抵抗の事例がいくつもあらわれた。例えば、一九四三年はじめには、中国の山東省の日本軍守備隊で、
日頃の不満を爆発させた兵士たちが暴動をおこし、隊長以下将校たちが隣県の本部まで逃げ出した事件があった。
一九四四年六月のビルマにおけるインパール作戦では、軍司令官が後方の司令部から攻撃を命令しているのに、
前線部隊はこれにそむいて退却をはじめ、このため作戦は中止された(歴史学研究会編「太平洋戦争史」W)。
陸軍省兵務局の一課員が発表した講話筆記には、戦争末期における陸軍将兵の「軍紀」について左のように書かれていた
(「偕行社記事」一九四五年三月号――鈴木健一「崩壊期の陸軍内部軍紀」、歴史学研究、一九五四年八月号による)。
「昭和十八年度犯罪中特に注意を要しまする点は、奔敵逃亡等、将兵の志気沮喪を表徴して居ります
犯罪の急増せる事実であります。即ち奔敵二〇名、逃亡一〇二三名でありまして、陸軍総犯罪数の四分の一に達して居ります。
而して昭和十四年の六六九名に比較します時、三倍に達して居ります。特に昭和十七年度に比して奔敵が六倍以上にも
増加致して居るのであります。又昭和十九年度一月より七月迄の状況を見ますると、奔敵四〇名、逃亡一〇八五名でありまして、
前年度一年間の犯罪数を既に超過して居りまする事実は、将兵の志気昂揚せざることを如実に表現して居りますもので、
極めて注目を要する次第であります。………内地部隊に於て長期服務並に激烈なる戦場に勇戦奮闘することを忌ひ、
幹部候補生志願者の減少して居ります部隊がありますことや、老年召集将校の服務、消極に堕して居りますのがありますこと等は、
現在の軍隊に流れて居ります一部の空気とも見らるる所でありまして、誠に遺憾に存ずるのであります。………」
465 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 00:11:24 ID:aBI1ma200
★ハミルトン・フイッシュ(米上院議員)
「日本は、フイリピンおよびその他のいかなる米国の領土に対しても、野心を有していなかった。
しかしながら、ひとつの国家として、日本はその工業、商業航行および海軍のための石油なしに
存立できなかった。非常な平和愛好家である首相の近衛公爵は、ワシントンかホノルルに来ても
よいからルーズベルト大統領と会談したいと、繰り返し要望していた。彼は、戦争を避けるため
には、米国側の条件に暫定協定の形で同意する意思があったが、ルーズベルトは、すでに対日戦、
およびその帰結としての対独戦を行なうことを決意していたという理由で、日本首相との話し合
いを拒否した。」
これもまた、大東亜戦争の引き金の一側面である。近衛首相はあくまで対米戦争を回避しようと
していたが、ルーズベルトは日本を戦争におい込むため、会談を拒否し、石油禁輸へと動いていく。
これに対して、国家の存亡に立たされた日本が対米戦争を開始したとしても、それは侵略などで
はなく、完全なる自衛戦争である。そして、日本は植民地を次々と解放していった。
これが大東亜戦争の真実である。
嘘つき馬鹿豚は必死で否定するが、こいつは完全に論破された。
466 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 00:16:51 ID:aBI1ma200
★フランクリン・ルーズベルト 元米国大統領
「如何にしたら日本が先に、米国に攻撃を仕掛けるかを検討中である。」
(英国王立公文書館の資料にあるチャーチル首相が大西洋上の軍艦で
ルーズベルト大統領と昭和16年8月10日と11日におこなった大西洋憲章制定
に関する秘密会談の一部より)
日本はアメリカの挑発を受けてたったに過ぎない。そして、欧米の植民地諸国を
解放し、東南アジア諸国からは今でも感謝されている。
大東亜戦争に自衛戦争という側面があるのは事実だが、その本質は植民地解放戦争
である。
論破された嘘つき馬鹿豚は涙目で否定するが。
467 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 00:22:08 ID:aBI1ma200
★ジョージ・S・カナへレ(政治学博士)
「日本占領軍がインドネシア民族主義の為に行った種々の仕事の中で最も重要なものの一つは
正規軍及び準軍事組織を創設して、それに訓練を与えたことである。このような機会がなか
ったならば戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。」
日本軍政がPETAを組織し、日本式の軍事教練で厳しく鍛え、侍魂を植えつけたことは、
インドネシア独立のための大きな精神的遺産となった。日本軍政は、インドネシア人に民族
自治の喜びを与え、教育を施し、独立への道筋を敷いた。
大東亜戦争が植民地解放戦争であったのは紛れもない真実なのである。
嘘つき馬鹿豚が、泣きながらスレッドを埋めてるぜ。馬鹿な奴。
はっはっは。実に愉快だ
468 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 00:31:24 ID:aBI1ma200
★アラムシャ(インドネシア陸軍中将)
「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアに
まだ残っている。そんな時に行った村山演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。
村山さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、アジア・アフリカの悲願を代表して、まだ残る
植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、
汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは
遺憾である。」
たった一度の敗戦で、「日本は侵略戦争をしたニダ」という嘘を得意顔でわめき散らす売国奴が増殖
したのは、誠に残念なことである。こういう自虐史観に脳を侵された病人は、今すぐに自分の力で
本当の歴史を調べ、自虐の鎖を解き放つべきである。そのための処方箋は
「大東亜戦争は植民地解放戦争である」という真実をきちんと理解することだ。
権威論証すら理解できない嘘つき馬鹿豚が泣いて悔しがってるぜ。
愉快、愉快。
ざまあみろ、低能!!
ID:aBI1ma200(コピペゴキブリ吉田)
お前の言い分は
>>463ですでに論破されている
一人で勝手に勝利宣言をしてもむなしいだけだ
哀れな奴
>権威論証すら理解できない嘘つき馬鹿豚
これもお前のこと
人の発言のみに頼っているお前がやっていることが権威論証でないとしたら
なにが権威論証なんだね、ゴキブリ君
やっぱり中卒だな、お前は
くやしかったら人の発言ではなく、大日本帝国がよいことをやった
という事実を持ってくるんだな
まあ、そんなものは全くないのだが
470 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 22:22:14 ID:aBI1ma200
★アラムシャ (元第3副首相)
「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に
亘り幾度か屍山血河の闘争を試みたが、オランダの狡知なスパイ網と強靱な武力
と苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。
それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。
インドネシア人が歓喜雀躍し感謝感激したのは当然である。」
大東亜戦争は、インドネシア人に勇気と自信と感動を与えた。
そして、日本軍政の努力によって、インドネシアは不屈の闘志を手に入れ、独立への
道を歩き始める。大東亜戦争が植民地解放戦争だったのは疑いのない事実なのである。
大日本帝国は、植民地解放という非常によいことをした。
嘘つき馬鹿豚だけは、ブーブー喚きがら必死で認めないが。
471 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 22:24:46 ID:aBI1ma200
★ジョイス・C・レブラ コロラド大学歴史学部教授(「東南アジアの解放と日本の遺産」)より
「大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、
組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。」
日本精神が、東南アジア諸国を独立に導いた。
472 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 22:27:59 ID:aBI1ma200
>>469 馬鹿が百年考えても、権威論証の意味は分からない。
残念だったな、嘘つき馬鹿豚君。お前には死ぬまで分からない。
>>471 ほら、歴史学教授という「権威」の引用をした
そしてその発言を立証する事実の提示を怠っている
よってこれは権威論証で詭弁
お前が理解できてないだけ
そうでないというのなら
門外漢の何の権威もない頓珍漢な発言に基づいて
的外れな結論を導き出してると言うだけの話だ
ここの住民は、お前が頭の不自由な低学歴だということを
よく理解しているから馬鹿にして黙殺してるだけだ
現にお前は、他のスレでは話に加わることもできず
大日本帝国が良いことをしたという史実の一つも挙げられない
生きている価値のない糞豚野郎というのは
お前のような奴のことを言うんだぜ、ゴキブリ
474 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 20:55:52 ID:oVO9GOB90
>>424 いや。アメリカには外国の植民地なんて必要なかったよ。
アメリカならば植民地と言う形態など取らなくても利潤を
得ることが可能だったから。圧倒的な資本、工業生産力、
輸送能力、科学技術があったのだから。
そんなものは全く必要ない。むしろ独立させて市場を
開放させる方が望ましかったし、実際にそうしてきた。
それを左右したのは共産化の懸念ぐらいのもの。
だから日本降伏の二日後にレンドリースをいきなり打ち切って
イギリスを破綻状態に追い込み、緊急融資の代価として、
スターリングブロックの解体、つまりは帝国の解体を飲ませた。
独立軍を殲滅する勢いだったオランダに援助停止を通告し、
インドネシアからの撤兵を強要した。
475 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 21:12:30 ID:daBAKTZu0
>>1 rekisi niwa [if] wa nai'n da yo.
sempan dai 2 goo wo eiyuu nado kakikomu na yo.@@@
>>472 >馬鹿が百年考えても、権威論証の意味は分からない。
自己紹介乙だな、中卒w
こっちは粛々と、事実を述べていくだけだ
スカルノ自伝
スカルノは「日本軍政への協力者」であったはずなんですが、「日本を上手く利用してやった」式の記述が目立つ。
さらに「Jap」という表現まで登場している。やはり一筋縄では理解できない政治家でしたね。
(パダンに進入した日本軍の兵士がインドネシア人を銃の柄で殴り倒すのを見たスカルノは、一緒にいた友人ワウォルントに言う)
私(スカルノ)は声を抑えて答えた。「彼らの残虐さについては全て知っている。占領地域での日本人たちの行動を私は知っている
−しかし、OKだ。この数年間十分準備をしてきた。彼らが我が人民のためになし得る事を理性的に検討すべきだ。日本人に感謝しなければならない。われわれは彼らを利用できる。〜」
(今村将軍の招聘で、1942年7月スマトラからジャカルタへ移ったスカルノはハッタと再会する)
“ハッタと私はもう長い間やり取りがなかった。そしてお互いに言うべきこと、尋ねるべきことがたくさんありながら、お互いに問いを発しなかった。
ハッタが耳打ちした「この占領の結末について君の意見は?」
私は囁き返した。「日本人たちはここに長くは留まらないだろう。彼らは戦争に負けるし、我々は彼らを打ち破るだろう。
これはつまり、我々が公然とは彼らに刃向かわなければの話だが。」
そして私が尋ねた、「話してくれ、ブン・ハッタ、我らが人民のナショナリズム精神の様子を?」
「それは戦争のせいで損なわれてはいない。我らが人民はすでに‘解放’について不審に思い始めており、
ブン・カルノの帰還をはやる思いで待っている」”
“シャフリルを交え、これからの作戦計画が迅速に纏められた。我々は2つのレベルで役割を果たすことが合意された。
それは、表の公然的なものとアンダーグラウンドで秘密裏なものだった。一方が他方の果たせない役割を行うということだ。
「我らが人民に対する軍事訓練や行政職務についての政治的な譲歩を引き出すため、我々は協力しているよう見せかけねばならない。」
と私が話した。
「明らかに、君の力は大衆と共にある」とハッタが要約した「それゆえ君は表で活動すべきだ」
「その通り。君(ハッタ)は地下活動を行うにはナショナリストとして有名すぎるから私(スカルノ)の補佐を。」
「そして私に残るのは」シャフリルが示唆した「地下活動であり、ラジオ放送傍受や他の秘密活動だ」
一時間という我々の手短な議論は、このように簡潔な公式を導き出した。
それは20年後に再検討してみると、実に先を見越したものだった。これ以外に選択肢はなかった。
「これこそが我々の待っていたチャンスである。」私は歓喜した。
「私は確信する。この占領は、我らが人民への教育と準備の大いなる機会となるだろう。オランダ人職員たちは全て投獄された。
全群島を管理するに日本人の数は十分ではないから、彼らは我々を必ず必要とするだろう。〜」”
“「はじめに我らが人民は苦しみの中へ投げ込まれるに違いない。なぜなら、そうなった時にのみ彼らは目覚めるのだから。
我らの人民は、平和的であり、おおらかであり、競争を避けてしまう。7千万人近くが50万人に支配されていたというのに、
我ら大衆はオランダ人の支配下で闘おうとするほど苛つくこともなかったろう。オランダ人はまがい物の慈善で彼らの支配を上手く調整した。
しかし、ジャップ*1たちはそうしない。」
「彼らは刀の一振りで人々の頭部を切り落とす。彼らは、計略をもって犠牲者たちにたらふく水を飲ませ、そして彼らの腹の上に飛び乗る。
深夜、ケンペイタイ*2の本部から聞こえてくる苦しみの悲鳴にも慣れた。
聞くところによれば、ケンペイタイの看守はわざと酔っ払った状態にされており、そうやって彼らの感受性を鈍らせているそうだ。
日本人は手強い。残酷だ。すぐに残虐行為にでる。彼らは、我らが人民を戦わせることになるだろう。」”
477 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 21:22:43 ID:daBAKTZu0
>>1 rekisi niwa [if] wa nai'n da yo.
sempan dai 2 goo wo eiyuu nado kakikomu na yo.@@@
スマラン事件(Pertempuran Lima Hari)
第二次大戦終結後の1945年10月14日から18日にかけて、インドネシア スマラン(Semarang)で日本軍とインドネシア民衆の間に衝突があり、
数千人が犠牲となる事件がありました。日本側では「スマラン事件」と呼ばれ、
インドネシア側では「Pertempuran Lima Hari」(“5日間戦争”の意味)と呼ばれています。
手元の書籍「30 YEARS OF INDONESIA'S INDEPENDENCE」(STATE SECRETARIAT)」(英文)に掲載されている事件の概要をご紹介します。
スマランの5日間戦争
この事件は、1945年10月14日に始まった。日本海軍の軍人約400人が反乱を起こしたのだ。
彼らは、以前ソロモン諸島で戦っていたが、スマランのチピリン(Cepiring:スマランの30km西方)砂糖工場を
軍需工場へ改造する作業に従事するためスマランへ移って来きていたのだった。
彼らは、彼らの保護・監視を行っていたインドネシア人の警官たちを襲撃した。
逃げ出したこれら日本軍人たちは、ジャティガレ(Jatigaleh)の城戸部隊(城戸大佐に率いられた大隊)に合流した。
彼らは、拘留された日本人を探し、助け出すという口実を使い、各地を移動・抵抗しようとした。
この緊張した情勢は、チャンディ(Candi:*1)の飲用貯水池に毒が入れられたという噂が広まると、更にその緊張を高めた。
貯水池の水を汚染したと疑われていた日本人達が、飲料水の汚染を防ぐと言う口実で、
そこを警備していたインドネシア人警官8人の武装を解除したため、状況を更に悪化させたのだ。
スマラン中央人民病院研究所のカルジャディ医師が、この5日間戦争の最初の犠牲者となった。
1945年10月15日の夜明けに戦闘が勃発した。城戸部隊約2,000人が、
スマランに偶然駐留していた他の良く装備された大隊の助力を得て、TKR及び青年団と相対したのだった。
現在“Tugu Muda”(*3)が建てられている五叉路で、激しい戦闘が行われ多くの犠牲者が出た。
戦いは5日間続き、双方の指導者たちの交渉によって終結した。
そして、1945年10月20日、連合国軍のイギリス軍がスマランに上陸し、日本軍の拘留・武装解除を行うと、
すぐに町は平静さを取り戻した。この戦いでインドネシア人2,000人と日本人100人が犠牲になったと推定される。
インドネシア歴史教科書より
日本は戦時下にインドネシアを占領した。経済諸資源は、戦争が必要とするものを支援するために動員された。
そして、その行政管理の担い手は軍人たちだった。それゆえ、日本による占領期間は短かったとはいえ、
長期にわたったオランダ時代に受けたよりも遥かに重い苦しみをインドネシア国民は体験することとなった。
東南アジア(日本は南方地域と呼んだ)に対する支配計画の中で、日本はインドネシアを戦争及び産業で必要となる諸資源の
重要な供給地域と見なしていた。その計画を実現するために、極めて異常な搾取と動員が用いられた。
日本の占領政府は経済活動の全ての面とその管理を引き継ごうと企てた。その管理を規定する法令が施行された。
経済面での日本の主要な目的は次のようなものだった。
(a) 日本の戦争を支援する枠組みの中で、インドネシアの経済活動を再編成し、動員する。そして;
(b) 東アジア及び東南アジアにおいて長期間の経済支配を行うための諸計画作成。
a. 物資の流通に対する管理
実施された法令は管理的な性質のものだった。戦時という条件に一致する様々な新法令を日本占領政府は打ち出した。
鉱業、電力、電信電話、運輸といった重要企業のいくつかは直ちに占領政府が管理するところとなった。
在庫されている物資の流通及び利用は厳重に管理された。物価の上昇を防ぐため、価格管理法令が施行された。
法令違反に対しては重い罰則が適用された。
重要なものを含め物資に対しては、政府による管理が行われた。つまり、次の2種類の物資を含めて、その使用と分配は監督下におかれたのだ。
1) 戦争遂行のため、直接的に利用される物資。自動車、自動二輪、発電装置、鉄及びアルミニウム製品といったもの。
2) 民衆の生活必需品。
上記2種類の物品に対しては、居住地域(syu[*1])外への持ち出しが禁止された。
b. 農業とプランテーション
連合国側が所有していた農園などの企業とその財産は接収された。
紅茶、コーヒー、キニーネ、ゴムを栽培する農園は管理下におかれ、それらは専売となった。
荒廃していた農園全てが復旧されたわけではなく、戦争遂行のため特に関連している特定の農園だけが復旧されたのだった。
紅茶、コーヒー、タバコの農園については、嗜好品に分類されたため制限が設けられた。
また、食料を生産する農地へ改造される場合もあった。他方、ゴムとキニーネを栽培する農園は、
戦争遂行を支える物資と評価されたため注意を払われていた。このような状況ではあったが、生産は恒常的に下落していった。
西カリマンタンでのゴム生産は、停止さえした。
破壊されていた砂糖工場のいくつかが修理された。
1943年には、オランダ植民地時代の遺産であった精糖会社のいくつかが日本の支配下に置かれ、
その経営者たちは逮捕・拘束された。1944年の第31オサム・セイレイにより、国民は砂糖黍の栽培と砂糖の製造を禁止された。
この政令は、製糖工場を兵器工場へ改造するため、もしくは解体して戦争遂行のため他の場所へ移設するために施行された。
精糖会社のうちのいくつかは、日本の私企業によって運営された。例えば、メイジ・セイトウ・カイシャ、オキナワ・セイトウ・カイシャ、
タイワン・セイトウ・カイシャ、ダイニッポン・セイトウ・カイシャである。
砂糖の配給・販売はジャワ・ハンバイ・レンゴウ・クミアイ(ジャワ砂糖販売本部組合)によって行われた。
この結果、日本と台湾(当時は日本に支配されていた)は、大東亜における主要な砂糖供給者となったのだ。
特に重要な資源である油田の管理はミツイ・カブシキ・カイシャによって行われた。原油は戦争遂行のための戦略的資源であった。
事実、インドネシア経済は戦争経済の型に変更・適合されたのだった。
地域毎に自給自足を実現せねばならなかった。つまり、自らの需要を満たせる(自給する)ようにすべきとされた。
日本は行政地区、つまり自給自足地区を設定した。それは、ジャワで17地域、スマトラで3地域、その他は3地域となった。
自給自足地域の主要な任務は;
1) 地域防衛のため自給自足を達成すること、及び
2) 日本の戦争遂行のために必要となる原料を生産すること。インドネシア人民とその富は日本の戦争利害のための犠牲となった。
食料需要を満たすため、日本は様々な方法で生産を高めるべく努力した。
例えば、森林を新しい農地として開拓した。ゴム・コーヒー・タバコ農園を米作地等へ変えていった。
しかしながら、よく見てみれば、日本の方針は反生産的(つまり、目的と結果でお互いに矛盾している)であるように見える。
つまり、食料増産のための努力は、次のような原因のため失敗した;
a) 新たに水田を作り出すため森林を開いたことは、森林に損害を与え洪水を引き起こした;
b) 労務者として若者や農民を動員したことは、農作業従事者の不足を引き起こし、その結果食糧生産は下落した;
c) 農家の家畜を屠殺したことは、家畜の減少となり、耕作を行う上で農民を補助する力を減らしてしまった;
d) 農民に対し稲を政府へ譲渡するよう義務付けたが、それは稲を栽培する意欲を低下させた。Pohon jarak、木綿、カポック、rosela
といった植物の栽培の義務化、そして農民達の時間と労力を浪費させる様々な他の義務によって
彼らの一連の苦しみはますます長引くこととなった。
戦争が激しさを増すにつれて、必需品や食料に対する収奪はエスカレートしていった。
1944年には、いたるところで日本の状態は危機的なものだった。
日本は、ジャワ奉公会・農業組合(農業の協力組織)・その他政府諸機関を通じて、
物資と食料の動員キャンペーンを大規模に促進させた。
食料の動員・収集は、稲もしくは他の産物を政府へ代償とすることで行われた。
その結果、生産物の利用は、40%が農民に、30%が精米組合を通じて予め決められた価格で政府へ引き渡され、
残りの30%は稲の準備在庫として生産地の村へ納められた。漁民に対してもまた同様の支払い義務が定められた。
彼らも漁業組合を通じて政府へその漁獲量の一部を渡さねばならなかった。
こういった食料の供出義務は完全に行われたわけではなかったが、この方針はジャワでの食糧不足の状態をますます悪化させた。
多くの地域で飢饉が発生した。人々はありあわせの食料で生き延びた。
例えば、バナナの木のこぶ、カタツムリ、栄養価の低い芋類を食べた。国民の体力は急激に低下し、
その結果、脚気やペストなどの伝染病にかかりやすくなった。国民の苦しみはますます酷くなり、死亡率は急上昇した。
プルウォルジョでは死亡率が24.7%に達し、ウォノソボでは53.7%にも達した。人口の増加数もまた減少したのだ
民衆の生活にかかわる別の大きな問題は衣料であった。
戦争前は、オランダからの輸入によって衣料在庫があったが、日本の占領下では、欧州諸国との交易は途絶してしまい、
衣類の輸入は停止してしまった。
この問題を克服するため、様々な方策が採られた。例えば;
1) クディリ、ブスキ、パレンバン、バリ、ロンボック、南スラヴェシなどの地域で綿を栽培する;
2) 民間の紡績事業を立ち上げる、そして紡績の訓練をさせる;
3) 綿の代用品を探し求める。例えば、パイナップルの葉の繊維、等。
しかし、これらの努力は失敗に帰した。人々の多くが、ズタ袋や椰子の葉から編んだ粗末な衣類を着用することとなった。
さらに、身体を覆うため、ゴム糸を使った物まであった。ズタ袋の衣類は痒みを引き起こした。
多くの人々が皮膚病、蚤、等に苦しんだ。また、死者の遺体を覆う布もほとんどない状態となり、
ムシロで包まれた。たとえ遺体が布で包まれたとしても、その墓は布が盗まれないように見張る必要があった。
d. 財政と金融業
農業生産物の販売や税の徴収が困難であったため、財政面での政府の収入は制限を受けた。
しかしながら、戦費や破壊されたインフラ復旧のため、政府の支出は大きかった。
占領政府はグルデン(蘭領インドの通貨)の価値を維持すべく努めた。その目的は、物価の水準を戦前の状態に維持すること、
そして資本・信用の流通・流れを監視することだった。
1943年以降、日本占領政府が発行する通貨の価値は下落した。
なぜなら通貨の保証もない上に流通総額があまりに多く、また物資の在庫を増やすこともなかったからである。
その結果インフレとなり、通貨の価値は名目上のものから約2.5%下落した。
赤字を補填するため新たな通貨発行が行われた。
そして流通している通貨はますます巨額となり、それは15億に達した。また銀行に蓄えられた準備額は25億になった。
流通している通貨額を支弁するため、日本は貯蓄キャンペーンを実施した。1944年2月終わりには127,000万ギルダーもの貯蓄が集められた。
インドネシアでの日本による搾取は天然資源に対してだけではなく、人的資源に対しても行われた。
飛行場、港、仮設道路、兵器庫、地下避難通路、防御陣地などの国防施設や社会基盤を建設するための労力が必要とされた。
そのような作業を行うために動員された労働者達は労務者と呼ばれた。
労働者たちは人口密集地域であるジャワの村々から調達された。最初のうち、その採用は自発的に行われたが、
労務者の運命について恐ろしい噂が広まると、強制的なものに変わった。各村々に対して一定数の労務者を供給するよう義務付けられた。
各地域にはロームキョウカイ[*2](動員委員会)が設置された。
若者を引きつけるため、労務者は経済戦士または労働者の英雄とされた。
そして通常は農民達が労務者にされた結果、村々の経済に対し大きな影響を与え、食糧生産が低下することとなった。
労務者の動員はしばしば非人間的なものだった。労働環境は劣悪だった。
重労働であり、食料は十分に与えられず、衛生状態も不適切だった。
そして厳重な監視下の元、休息時間は短く、ミスは重く罰せられた。多くの労務者たちが、
ビルマ、マラヤ、サラワク、ベトナム、ソロモン諸島などの海外へ送られていった。その多くが、送られた先で死亡した。
また、武器庫など軍設備といった機密設備の建設任務についた場合、機密保持のため完成後殺される危険に曝された。
推定では、300,000の労務者がジャワ島外へ送られ、70,000が悲惨な状態にあった。
1944年1月、日本はトナリグミ(rukun tetangga:隣組)システムを導入した。
隣組とは10〜20の家庭で構成されるグループである。そしていくつかの隣組からク(村、もしくは町の一部)が構成された。
隣組の目的は、住民活動の監視であり、住民に対する指導管理であり、住民に課せられた義務遂行を円滑化することだった。
戦況が日本にとってますます不利になると、隣組は防空訓練、火災予防訓練の実施、地域内での敵国スパイの監視・予防任務を与えられた。
経済諸資源及び労働力に対して日本が行った管理・動員システムは、社会生活の広い範囲に渡って影響を与えた。
その一つとして、食糧を戦争の為に徴用したことから食糧不足が発生した。青年や農民を労務者として動員したため、
それら村落地域では農業労働力が減少し、その結果、農産物生産が下落した。
稲栽培のため新たに農地を拡張する試みは森林に損害を与え洪水を引き起こした。
多くの農園、特にタバコとコーヒーを生産する農園が放置された。これらの要因からついに飢餓が住民を襲う事態となった。
日本占領時代には、住民に行うことを強制した事柄がいくつかあった。
例えば、最敬礼を義務付けている儀式。つまり、神であるとされた日本の天皇へ敬意を表すること。
それは東京の方向へ向けて身体を深く屈めて行われた。このことはイスラムの教義と著しく矛盾することだった。
なぜなら、多神教徒のように感じられるからだった。確かにそのとおりであって、この強制はインドネシアのイスラム教徒の気分を害した。
K.H. Zaenal 他、何人かの有力なイスラム学者たちがこれに反対を唱えた
否定的な影響としては次のようなものがあった;
1) 失われた人命は膨大なものだった。日本の占領方針による結果、死者の数は数十万に達した。特に労務者の犠牲が多かった。
2) 人々が受けた苦しみ。それは、食糧不足(飢餓の危険)、衣料の欠乏、医療サービスの不足、女性に対する性的な嫌がらせなどであった。
3) インドネシア民族の精神が損なわれた。なぜなら、残虐行為、汚職など日本人のネガティブな行為・態度を真似てしまったからである。
4) 無計画な森林伐採による環境破壊。
5) インドネシア国民の財産の消失。それらは日本の戦争遂行を支えるため動員・徴用された。
482 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 21:50:43 ID:7j1NQ2tm0
>>473 お前は単純な低能児だから、そう言って突っかかってくるであろうことは、賢い俺様の読み筋どおりだ。
コロラド大学のレブラ教授の研究を裏づける証言なら、今まで山のように既出だ。
これが何を意味するか分かるか?
お前はバカだから字が読めないし、日本語も理解できないようだから、こんな質問は
無意味かもしれないが。
結局、間抜けなお前には、最後まで権威論証の意味が理解できなかった。
氏ね、低能め!
第二次世界大戦は1939年9月3日に勃発した。1940年にはデンマーク・オランダ・ベルギーそしてフランスがつぎつぎにドイツ軍によって蹂躙された。
オランダ政府はイギリスの首都ロンドンへ亡命した。オランダとインドネシアとの間の連絡が途絶した。蘭印政庁は孤立した。
ドイツはイタリア及び日本と同盟条約で結ばれていた。
いつか日本がインドネシアに進攻してくるであろうことは当時だれの目にもはっきりしていた。
しかしオランダ人が余りにも尊大であったのでわが民族は当時一般にわれ関せずの態度をとり,
オランダ人と一緒に祖国を防衛する義務はまったく感じなかった。
1940年にイタリアが参戦し,1941年の末に日本がこれに続いた。1941年12月8日に日本軍は攻撃を開始した。
ハワイ諸島の真珠湾にあったアメリカ合衆国艦隊と空軍は麻痺状態となった。
短期間の間にガム・ウェイク・香港・シンガポール・インドネシアそしてフィリピンがつぎつぎに陥落した。
蘭印海軍と空軍を粉砕したのち,1942年3月1日に日本軍はジャワに上陸した。
1942年3月8日に蘭印政庁は全面的に無条件降伏した。わが国は占領地となった。
当時のオランダ人は女性と子供を含めて捕らえられ捕虜収容所に入れられた。
日本はアジアの光・アジアの保護者・アジアの指導者であると自己宣伝した。
彼らは共栄圏を創造することを願望しているといい,東アジアと東南アジアのすべての民族に
大日本の指導のもとに協力するよう呼び掛けた。協力への日本の提言は概してわれわれの指導者の歓迎を受けた。
スカルノ・ハッタを含むほとんどすべてのわが指導者は日本を支援した。
日本の占領期間中わが国は互いに連絡のないいくつかの《スマトラとジャワが陸軍軍政地区,
その他が海軍民政地区》地域に分離された。日本軍政府は厳しく残酷に統治した。
彼らはすべての種類の情報に対して厳しい検閲を行った。手紙・演説・新聞記事とラジオ報道文が事前に審査された。
占領期間中わが国と外国との連絡は全面的に途絶した。その当時われらが見聞したのはまったく日本の宣伝にほかならなかった。
数百万《一説に30万》人のわが青年が捕らえられて,タイ・ビルマといった外国で労務者(苦力)としてこき使われた。
わが青年の大部分《一説に23万人》は再び祖国を見ることがなかった《後日,これらの人的被害は賠償請求の算定基準となる》。
さて、各地域の軍政府を指導したのは軍政監と呼ばれる陸軍もしくは海軍の幕僚長だった。
日本は官僚機構を運営するための十分な人的リソースを持っていなかったので、インドネシア人をそこへ登用した。
これはそれ以前の状況とは全く異なっていた。
オランダは、現地住民たちを高級職員の地位に座らせるほど彼らを容易に信じてはいなかった。
とはいえ、日本は実用的な方法を求めただけだった。
社会の広範囲から共感・支持を得るための事業として、日本は3A運動をプロパガンダとした。つまり;
日本*1はアジアの光
日本はアジアの保護者
日本はアジアの指導者
Nipponとは、日本の意味である。この運動の指導者は、あまり著名ではない民族主義者Samsudin(大インドネシア党*2の若い指導者)だった。
結局のところ、3A運動は人気を集めることが出来なかった。その結果、日本は著名な民族主義指導者たちに接近した。
その目的は彼らを日本側へ引き込むことだった。その後、日本はプートラ、ジャワ奉公会、MIAIを設立した。
いずれの組織も日本を援助し、連合国に対抗する力を動員することが目的だった。
プートラ[Putera]とは、民衆総力結集[Pusat Tenaga Rakyat]の略称である。
この団体は日本によって組織され、スカルノ、ハッタ、Ki Hajar Dewantara、Abikusno Cokrosuyono、
K.H. Mas Mansyur、Sutarjo、Supomoといった活動家たちが協力した。
プートラの指導を任された人物はスカルノ、ハッタ、Ki Hajar Dewantara、K.H. Mas Mansyurだった。
日本[占領]政府の願望は、この組織がとりわけ活動力(労働力)と資金を動員する上で、日本占領政府の存在を援助するということだった。
その組織は、日本の権益のためよりも、民族運動グループやコミュニケーション・メディアによって利用される傾向があり、
メディアは独立準備のため統一精神や民族の統一感を強化していることが明らかとなった。
そのため、日本はプートラの影響と世間の目をそらせようと試みた。
その組織[プートラ]は、その後解散となり、ジャワ奉公会という献身団体を意味する名前の新しい組織が設立された。
この組織は日本人職員によって直接指導され、インドネシア人はその監督のもと働いた。
484 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 21:58:38 ID:7j1NQ2tm0
>>476-481 馬鹿豚= ID:K3QAagPU0が、貴重な時間と労力を一生懸命費やして、
スレッド埋め立てという無意味な行為に必死になっている。そんな暇があったら、
本の一冊でも読め。少しは世間の役に立つ人間になりなさい。
馬鹿豚の貼り付けた長文コピペなど、読むだけ時間の無駄。誰も読まない。
無意味な自慰行為に喜々として励む馬鹿豚は哀れで滑稽だぜ。
お前はみんなから笑われてるんだぜ、カス
気づけよ、低能!
>>482 自分で権威論証をやっておいて
自分こそが権威論証の意味を理解できてないことを晒して
あまつさえ自分のことを「賢い」という
中卒は面白いことを言う
お笑いだ
この板には、お前の幼稚な嘘に騙されるような者は一人もいない
>コロラド大学のレブラ教授の研究を裏づける証言なら
そう、証言、証言、証言
お前は何一つ事実を持ってくることはできない
素人の、門外漢の、そして名越による捏造や脚色や誤記誤謬にみちた
頓珍漢な「証言」だけだ
そりゃ東南アジアの政治家はリップサービスくらいしてくれるだろう
たんまりゼニを貰っているからな
そんなのに引っかかって喜んでいるのは
中卒のお前ぐらいの者だ
誰もまともにとりあってくれないだろ
それは、大日本帝国が良いことをしたという歴史的事実など
どこにもないからだ
くやしかったら「歴史的事実」をもってこい
お馬鹿さん
>>484 ほう、「誰も読まない」のに俺のことを笑ってるのか
面白いことを言うよな、お前
お前に付けられたあだ名ならよく知っているぞ
「コピペゴキブリ吉田」
「中卒携帯オヤジ」
俺にどんなあだ名が付いているんだい
あるならもってこいよw
まあ、俺は事実を粛々と検証していくだけだがな
戦時下における言論・出版・文化の統制と抑圧の中央機関でありマスコミ政策の決定機構であったのは
情報局(一九四〇年発足、その前身は内閣情報委員会から発展した内閣情報部)である。
一九三六年七月、二・二六事件による戒厳令下に、最初の国家的中央情報機関たる内閣情報委員会が設立された。
同委員会は、情報に関する重要事務の「連絡調整」を具体的任務とするものであったが、
従来のような内務省による出版警察権や逓信省による通信警察権を通じてのいわば消極的な公安保持に止まらず、
より積極的な統制をねらいとしていた。それは形式としては、内閣書記官長を委員長とし、
内務省警保局長・陸軍省軍務局長(新聞班の直属上部機関)・海軍省軍事普及部委員長をふくむ七人の常任委員と、
各省次官級の委員で構成される委員会であるが、それにはまた、三名の軍人をふくむ一〇名の常勤事務官が
配属されて実務を担当していた。日中戦争勃発後、三七年九月にこの内閣情報委員会は改組し強化されて内閣情報部となった。
その職務も、[官制」化され、従来の「連絡調整」のほか、「各庁に属せざる情報蒐集、報道及啓発宣伝の実施」が加わった。
内部組織においても情報部長(勅任官)以下の事務局(専任職員二三名)の比重が高まり、
新たに情報官が設けられて活動の中心となった。そして一二名の常勤情報官のうち五名は軍人によって占められ、
軍部の指導力の増大を示していた。三九年の官制改正では、さらに「国民精神総動員に関する一般事項」が職務に加えられるとともに
職員数も約二倍に増加した。
第二次近衛内閣は内閣情報部を一段と整備強化して、四〇年一二月に情報局を正式に発足させた。
この機構改革にあたって、はじめは、「総力戦態勢を整備する」ため「挙国的世論の形成を図る」目的で、
従来の外務省および陸軍省の情報部・海軍省軍事普及部・内務省警保局図書課・逓信省電務局無線課の事務を
すべて新情報局に統合する方針であったが、この一元化」は失敗に終わり、軍関係は大本営報道部として残り、
内務省も新聞紙法・出版法にもとづく取締りおよび処分権はついにゆずらず、総動員法第二〇条による取締り権
(その発動が新聞紙等掲載制限令)も情報局と内務省警保局とのあいだに兼官制度をおくことですまされた。
それにしても、新しくスタートした情報局は左のような広範な職務を担当し(官制第一条)、総裁以下一官房五部一七課に
計一六〇余名の職員を擁する統制機関となった。
1 国策遂行の基礎たる事項に関する情報蒐集、報道および啓発宣伝
2 新聞紙その他の出版物に関する国家総動員法第二〇条に規定する処分(掲載の制限または禁止)
3 無線電話による放送事項に関する指導取締
4 映画・蓄音機レコード・演劇・演芸の国策遂行の基礎たる事項に関する啓発宣伝上必要なる指導および取締
情報局の下部組織として半民間的な日本新聞会や日本出版会(その前身日本出版文化協会)があり、
また外郭団体として大政翼賛会文化部・大日本言論報国会・日本編集者協会・出版報国団・文学報国会など
各文化部門の多数の組織を擁していた(情報局官制の廃止は一九四五年一二月)。
統制法規については、日中戦争勃発までは伝統的な出版法(一八九三年公布、一九三四年改正)と
新聞紙法(一九〇九年公布)による納本・届出義務と「安寧秩序」に関する発売頒布禁止・差押の規定が主たるものであり、
二・二六事件の厳戒令下に公布された不穏文書臨時取締法(三六年六月公布)によって、
「治安を妨害すべき事項を掲載したる文書図画」の発行責任者明記と納本義務違反を処罰することになったていどであった
(この法律の政府原案は右の文書を出版した者に実刑を課すものであったが、議会の猛反対に会って結局骨抜きになった)が、
実際には大幅な拡張解釈がおこなわれた。
国家総動員法の公布(一九三八年四月)は言論統制の上でも画期的な意味をもつものであった。
同法は「総動員業務」を入れ、勅令によって新聞紙その他の出版物の掲載を制限禁止する権限を政府に与えること(第二〇条)とした。
同条は、新聞紙法および出版法の特別規定として、従来の「軍事・外交」のみでなく,
「一般治安」や「財政金融」に関しても、事前に言論統制しうるものとした。
軍事上の秘密については、同じ頃、軍機保護法の改正(三七年八月)と軍用資源秘密保護法の公布(三九年三月)がおこなわれた。
一九四〇年二月、議会における衆議院議員斎藤隆夫の質問演説中に軍を侮辱した点があったとして攻撃を受け、
三月に議員を除名されるにいたったことは、明治憲法に保証されている議場内での言論の自由すら奪われたことを示していた。
四一年に入ると、新聞・出版関係においては、先の国家総動員法第二〇条にもとづいて勅令で
新聞紙等掲載制限令(一月)が公布された。同令は、総動員業務に関する官庁の機密や、
軍機保護法・軍用資源秘密保護法の規定による軍事上の秘密を掲載することを禁止し、
また外交に関し重大な支障を生ずるおそれある事項・外国にたいし秘匿することを要する事項・
財政経済政策その他国策の遂行に重大な支障を生ずるおそれある事項などを掲載制限または禁止する権限を首相に与えた。
つづいて国家総動員法が改正され、これにもとづいて、記事のみでなく事業全体の動員を可能にする
新聞事業令(四一年一二月公布)が施行され、さらに一年あまりおくれて出版事業令(四三年二月公布)ができた。
またこれらの全面的な背景として、治安維持法の改正(前出)、国防保安法(四一年三月)、
言論出版集会結社等臨時取締法(四一年一二月)、戦時刑事特別法(四二年二月)等がつぎつぎと整備されていった。
一二・八開戦直後の臨時議会で制定された「言論集会結社等臨時取締法」は、言論も結社も集会もすべて許可制にし、
新聞紙法による出版物の発行も許可事項とされた。そして出版物の発売・頒布が禁止された場合は、
同一人または同一社発行の他の出版物の発行停止もできるという乱暴な規定がつくられた。
そして、うっかり敗戦の事実や戦局の見通しをしゃべると「時局に関し造言飛語をなしたる者」として
二年以下の罰金に処せられたり(第一七条)「時局に関し人心を惑乱すべき事項を流布したる者」として
一年以下の懲役もしくは禁錮または一○○○円以下の罰金に処せられる(第一八条)のである。
書籍・雑誌その他の出版にたいする統制は、(1)検閲当局の編集者との「懇談」・協力の要請からはじまり、
編集方針への指示、編集内容への警告、事前検閲、官製原稿の掲載や特定テーマの採択強要、
掲載差し止、執筆禁止、発行許可制、編集陣への容喙、編集者から執筆者の検挙にまでおよんだ編集過程への干渉、
(2)発行されたものの検閲、記事削除、発売禁止、編集者・執筆者の起訴、
さらに(3)用紙割当権を握ることによっての物的条件からの圧迫、
そしてついには、(4)戦時企業整備の名による出版社そのものの統合整理・解体、
雑誌の改廃・統合、直接政治力の発動による出版社の廃業強要、など各種の方面から狡猾かつ強力に実施され、
言論の弾圧から圧殺にまで進んでいった。そしてその全過程を通じて、情報局は「思想戦の参謀本部」として、
出版文化協会(のちの日本出版会)は「現地軍の司令部」(いずれも奥村情報局次長のことば)として働いたのである。
489 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 22:25:16 ID:7j1NQ2tm0
ID:9Th3CoiwP
ID:K3QAagPU0
こいつら必死だぜ。バッカジャネーノ
>>485 疑いのない歴史的事実とは、大東亜戦争によって東南アジア植民地諸国は
すべて独立した、ということだ。この動きはアフリカまで波及した。
これが歴史の真実だ。バカには理解できないようだが。
490 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 22:26:54 ID:7j1NQ2tm0
結論
大 東 亜 戦 争 は 植 民 地 解 放 戦 争 で あ る
でFA
編集への干渉
一九三七年七月、警視庁は「時局に関する記事取扱方に関する件」として新聞雑誌等に通牒を発し
「反戦または反軍的言説をなしあるいは軍民離間を招来せしむるがごとき事項」の掲載を禁止し、
つづいて内務省警保局は警視庁特高部長および各府県警察部長あてに「時局に関する出版物取締に関する件」を通達したが、
その中には特に取締りを要するものとして「北支事変に関する一般安寧禁止標準」(一一項目)が規定されていた
(その内容については新聞統制の項参照)。一〇月には出版関係五四社と検閲当局の「出版懇話会」が発足し、
これが戦時下出版統制の強化される端緒となった。同会は内務省図書課長を名誉理事長に推戴し、
毎月一回内務省で懇談をおこなったが、そこでは毎回内務省警保局図書課から具体的な「内示」があり、
検閲の際発売禁止にふれる恐れのある事項がそのつど提示・説明された。
他方、軍報道部は四大総合雑誌の編集者を集めて、「四社会」(のち「六社会」)をつくり、
懇談の形式で軍の方針の説明や情報の交換をおこなうようになった。同年一一月には「世界文化」グループ、
一二月には「労農派グループ」、翌年二月には「教授グループ」の検挙がおこなわれ、
「人民戦線」事件の直後には内務省から各雑誌社にたいして、被検挙者の原稿は内容の如何を問わず
雑誌その他への掲載を禁止するむねの通牒が出され、「中央公論」一二月号に掲載された大森義太郎の映画批評などが削除を受けた。
またこれを機会に、問題になった筆者の著書は、新刊と再刊を問わず、今後原則的に発行を許さぬこととし、
都下の約三〇の代表的出版社の編集関係者を集めた「出版懇話会」の席上、
主催者の警保局図書課は〃具体的に〃岡邦雄・戸坂潤・林要・宮本百合子・中野重治・鈴木安蔵・堀真琴の七名をあげて、
雑誌への原稿掲載を見合わせるよう内示した。他方、「出版懇話会」を通じて出版業者に時局教育をおこない、
発行前の著書の出版相談すなわち内検閲の制度を開くこととした。
三八年八月、内務省図書課は子供雑誌の浄化が不十分であるとして雑誌社代表に厳重警告を発し、
九月には、総合・婦人・大衆娯楽雑誌社代表約三〇名を招いて検閲当局の根本方針を指示し、
同じく一〇月には少年少女・幼年雑誌三〇余社の代表に、(1)国体の本義に則り敬神・忠孝の精神昂揚に努める、
(2)奉仕・勇気・親切・質素・謙譲・愛情の美風を強調、(3)指導を子供の実際生活に即しておこなう、
(4)艱難困苦に堪える美風を涵養、(5)新東亜建設のため日満支提携融合をとくに強調する、など、具体的な方針を指示した。
三九年四月、文部省は各校から申請中の教科書のうち二四種を却下することに決定したが、
その中には、ゴールズワージー・ビアーズ・ハーディ・クライスト等が含まれていた。
同五月には、警視庁検閲課が、たとえ事変前に検閲をへて合法的に出版されたものでも、
現下の国情と相いれぬものは今後適当に処分する方針を決定した。
一一月、文部省は、小学校の国史教科書について、(1)皇室中心の記述態度を一そう徹底して国体明徴の完全をはかること、
(2)敬神崇祖の教材を増補すること、(3)日本文化の自主性と抱擁性を強調し外国文化への追随的傾向を訂正する、
(4)英雄偉人の伝記・逸話を興味本位や枝葉末節主義に基いて取扱うのをやめ全体の動向を把握させる、
などの点に修正改訂を加えることに決定した。
四〇年からは小学校が国民学校と改称されるにともなって教科書は一新されることとなり、
その編集方針もきめられた。なお同年一月には図書館協会が、早大教授津田左右吉著「支那思想と日本」の推薦を取り消した。
四〇年八月、内閣情報部の情報局への昇格がきまるとともに、内務省警保局図書課の事務は大部分情報局に移管されることになった。
情報局は、さらに「出版事業新体制」確立のため東京出版協会と日本雑誌協会を解散させ、
さらに両協会のほか中等教科書協会・青年学校教科書協会・全国書籍商組合・「家の光」(産組)や
「青年」(大日本青年団)などを含む公益団体雑誌協会の六団体を統合して社団法人「日本出版文化協会」を結成し、
これを出版界再編成の中心とすることになった。
一二月に創立された同協会の目的は、「日本文化建設並に国防国家確立に関する出版文化事業の使命を遂行し、
斯業の適応なる運営を図り、以て出版報国の実を挙ぐること」とされ、業務・文化の二局をおき、
業務局は事業統制・用紙配給・書籍配給など六課を設けた。同協会は出版企画の事前審査をするため企画届制をとったが、
これは用紙の割当制と結合して事実上、出版の全面的な許可制を意図するものであった。
同じ一二月に、総動員審議会は新聞紙等の掲載制限に関する勅令要綱等を決定し、
言論出版の統制は一そう強化されることになった。
従来の掲載禁止処分は専ら新聞紙法第二三条および出版法第一九条によって内務大臣がおこなってきたが、
情報局の成立を機会に、総動員法第二〇条を発動して掲載禁止・制限の範囲を明確にすることになったのである。
一九四一年二月には、情報局は水野広徳・馬場恒吾・清沢冽をふくむ総合雑誌の「執筆禁止リスト」を内示し、
「中央公論」二月号の座談会における発言を理由に馬場恒吾は以後執筆の自由を奪われ、
つづいて三月には、非協力とみられた出版者にたいしては購読者カードの提出を通達し、五月には総合雑誌にたいし、
来月から毎月一〇日までに編集プランと予定執筆者リストの事前提出を通達した。
六月には雑誌と書籍の全編集者を包括する統一組織として「日本編集者協会」が設立された(一二月発足)。
会員は二〇〇名を越え、内部対立をもちながらも編集者の戦争協力団体としての性格を明確にしていった。
一〇月、情報局は経済雑誌編集長懇談会において、(1)国防国家の経済体制を作るのだという新しい経済理念を確立して書くこと、
(2)東亜共栄圏はできるとの信念の下に書くこと、(3)政府にまかせるという気持を国民に持たせること、
(4)日本の食糧問題について不安を与えぬこと、などの指示をおこなった。
一一月には、各雑誌の毎月の発売日が情報局によって勝手に決定された。
四一年一二月、「太平洋戦争開始の日に全国的に検挙がおこなわれて宮本百合子をはじめ多くの執筆陣が逮捕され、
その翌日に情報局二課は各雑誌社代表を非常召集して「記事差止事項」を指示し、
一般世論の指導方針として、「まことにやむをえず起ち上った戦争であることを強調すること」などを発表した。
同じ月内に、「言論出版集会結社等臨時取締法」(前述)が議会を通過し、施行された。
四二年一月に警視庁特高第二課長は、高倉テル・今中次麿・横田喜三郎・田中耕太郎などをふくむ
二〇余名の執筆さし止めを総合雑誌に伝え、これ以後総合雑誌の常連執筆者は誌上から姿を消し
顔ぶれは一新した。同年秋の細川嘉六論文をきっかけにして、「改造」編集部は全員更迭、編集方針は一八〇度転換をよぎなくされた。
四二年春、日本出版文化協会が「事前審査に対する態度」として出版業者に通知したものの要点は左の通りであった。
助成するもの――(1)時局下、特に政治性の豊かなもの。(2)すなわち国民の資質を健全強靭明朗ならしめるもの。
(3)各出版部門別に見て水準以上の価値を持つと認められるもの。
抑制するもの――(1)イデオロギーの誤れるもの。(2)有閑低徊趣味。(3)俗悪便乗主義。
(4)類書関係から見て特殊性なきもの。(5)初版古きため今日の情勢に適応せざるもの。
抑制の方法――(1)不承認。(イ)訂正すれば改めて審査可能のもの(ロ)発禁あるいはこれに類するものは出版中止の勧奨。(2)部数制限
四三年に入ると、英米語の雑誌名が禁止となり、二月から「サンデー毎日」は「週刊毎日」に、「エコノミスト」は「経済毎日」に
「ユーモアクラブ」は「明朗」に、そして翌月「キング」は「富士」と改題された。
四三年三月には、「大日本言論報国会」が徳富蘇峰を会長として創立され、
つづいて「日本出版文化協会」が転化した「日本出版会」の創立総会がおこなわれたが、
これは国家総動員法にもとづく出版事業令による統制団体であり、その主な事業として決定したのは、
(1)出版企画その他出版事業の運営に関する統制指導、(2)出版事業の整備に関する指導、
(3)出版物用紙その他の資材の配給機関の統制指導、等であった。
出版文化協会の時代にはまだ会員出版社の自主性を尊重する建て前であったが、
出版令になると出版社や編集者の自主性などは全くみられなくなった。
五月には雑誌「教育」編集部が弾圧され、「中央公論」七月号はすでに刷り上がっていたのが陸軍報道部の強迫によって
休刊を余儀なくされ、報道部への出入りを禁止され、編集部を更迭せざるをえなくなった。
七月「大日本出版報国団」結成、九月には日本出版会がすべての出版書籍にたいして審査制をとり、
従来六%ていどであった不承認件数を三〇%に引き上げ、今後出版の企画届出に原稿またはゲラ刷の事前提出を強化し、
同時に良書でも不急とみなせば不承認とする方針を決定した。
493 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 22:34:37 ID:7j1NQ2tm0
さらに付け加えるならば
1.大東亜戦争によって西欧植民地主義は終焉した。
2.大東亜戦争によって人種平等となりアジア人と欧米人は対等になった。
3.大東亜戦争によって自由貿易世界が築かれた。
馬鹿豚の認めたくない歴史的事実を3つ並べてみた。
大東亜戦争は世界的に見て、極めて評価の高い誇るべき戦争なのである。
先の「改造」に掲載された細川論文と結びつけて特高の手で捏造されたいわゆる「横浜事件」によって、
四三年五月から雑誌編集者の逮捕がはじまっていたが、四四年一月には、改造社(七名)、中央公論社(八名)、
日本評論社(五名)、岩波書店(二名)などの編集者多数が検挙された(人数は、それ以前および以後の検挙者をふくむ)。
この事件は五月に入るといっそう拡大し、中央公論社へは神奈川県特高課主任以下数名の特高係が
二回にわたって編集室に押し入り無断で重要書類を運び去り、暴言をもって威嚇し、
そのあと社長以下幹部たちは警察に召喚されて三日から五日にわたって拷問に等しい取調べを受けた。
検挙された人たちは野蛮極まる拷問をうけ、四名が獄死し、二名は釈放後まもなく病死した。
つづいて七月には情報局第二部長は中央公論社と改造社の代表を招致し、
「営業方針において戦時下国民の思想指導上許し難い事実がある」として「自発的廃業」を申し渡した。
一方、一月から各雑誌の表紙に「撃ちてし止まむ」と刷りこむことを命ぜられ、三月に日本出版会は企画審査方針を強化し、
従来の発行承認・不承認のほか発行一時停止の取扱いをおこなうこととした。
五月には日本出版会に「企画編集者資格選衡委員会」が設置され、
新聞記者の登録制に対応して「編集者の公的性格を明らかにするため」、編集者資格ができ、
敗戦までに二二〇〇名余が承認登録された。
内務省警保局は、新聞紙法にもとづく新聞雑誌のこの一年間を通じての創刊、廃刊数は、創刊三六四種、
廃刊一三七八種(前年度は創刊二二三種、廃刊八〇九種)と発表した。
一九四五年六月、「出版非常措置要綱」が公布されたが、これによって用紙割当制の徹底的改革とともに、
「現行の査定手続はこれを中止し、会員をして毎期企画予定表を提出せしめ」、「指導調査をおこないたる上、発行承認」されることになった。
(和泉あき編「年表・戦争下の文化・文学関係統制とその反応」文学、一九五八年四月号。
小田切進編「昭和一〇年代の文学・芸術年表」、文学、一九六一年五月号。布川角左衛門「戦時の出版統制」文学、
同上号。日本ジャーナリスト連盟編「言論弾圧史」。黒田秀俊「血ぬられた言論」。
美作太郎・藤田親昌・渡辺潔「言論の敗北」。「中央公論社七十年史」。「岩波書店五十年」。などによる)。
検閲・削除・発禁
従来から「革命」とか「共産党」「天皇制」などの字句は検閲によって伏字(××印)にされる慣行になっていたが、
一九三六年九月の全国特高課長会議において伏字の逆効果が論議され、伏字一掃の方針が決定された。
すなわち、今後は伏字になるような字句を使用する文章自体が許されなくなり、
そのような場合には〃該当ページあるいは論文全体の削除か〃単行本あるいは雑誌自体の発禁
(発売禁止)の処分を受けることとなったのである。発禁は安寧禁止と風俗禁止に分かれており、
出版法および新聞紙法による発禁処分の検閲には一般的標準と特殊的標準があった。
前者は記事そのものについての標準であり、後者は出版の目的や頒布先等の条件をいうものであった。
また、発禁という言葉には、文字通り発売頒布を禁ずるということのほかに、
出版物の掲載記事にたいして何らかの行政処分がとられる場合も含めて使われることがある。
後者の場合としては、取締当局の規定では、新聞記事の掲載差止(後述)のほか、
削除処分・注意処分・分割還付などの処置に分類されていた。削除処分は不良個所を削除して発行を許可するもの、
注意処分は地方庁を通じて発行者を厳重戒飭するもの、分割還付とは不良個所を切除して禁止差押の処分を解き還付するという処置であった。
三七年九月号の「中央公論」は、矢内原忠雄の巻頭論文「国家の理想」が国情を無視する不穏思想
(キリスト教的反戦人道主義)であるとの理由その他で削除処分を受け、同じく「改造」の大森義太郎「飢ゆる日本」が禁止、
「中央公論」の大森義太郎「映画時評」も削除されたことは前にも述べた。
翌年一月から二月にかけて、矢内原忠雄の講演パンフレット「民族と国家」および「民族と平和」が
安寧秩序をみだすという理由で発禁処分となり、大内兵衛「財政学大綱」は著者起訴の理由で休刊を命ぜられた。
この一月にはまた、雑誌「唯物論研究」が「学芸」と改題して新発足することを余儀なくされ、まもなく発禁、廃刊され、
文芸雑誌「人民文庫」は連続発禁処分を受けたため廃刊となった。
495 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/06(木) 22:40:48 ID:7j1NQ2tm0
馬 鹿 豚 必 死 だ な w
>>493 やあ、馬鹿なお前がいちいち茶々入れてくれるおかげで
連投規制にかからなくて済むわ
お前って本当に馬鹿だねえ
>1.太平洋戦争によって西欧植民地主義は終焉した。
全然終演してないよ、アメリカ主導のグローバリズムに宗旨替えしただけさ
発展途上国を搾取してることに変わりはない、むしろ巧妙になっただけだ
日本もそのおこぼれに預かっているがな
植民地主義とか言う思想があったとはな、中卒の考えることは理解不能だw
まあ「金のかからない植民地主義」というところかな。現状は
>2.太平洋戦争によって人種平等となりアジア人と欧米人は対等になった。
人種差別主義は今に至るも片付いていないよ。お前はKKKを知らないのかい
日本においてさえ人種差別は行われているさ。お前も知ってるだろ
外国人参政権問題や就職の問題とかな
ヨーロッパの国具機なんか、みんな民族主義国粋主義になっちまった
アメリカの公民権運動について持ち出すまでもないだろう
お前、本当に馬鹿なの?
アパルトヘイトって、いつなくなったんだっけ?
>3.大東亜戦争によって自由貿易世界が築かれた。
これも未だにペケだな
ヨーロッパはヨーロッパでこじんまりとまとまっているし
アメリカは関税で脅しを書けてくるし
TPPで大騒ぎになっているのは今現在の話だろ
馬鹿が馬鹿晒してるのを見るのは楽しいが、新聞ぐらい読めよな。中卒
三八年二月に岩波書店は「岩波文庫」の白帯物(社会科学部門)、とくにマルクス主義のものを
「自発的に」絶版にせよとの命令を受けた。そのうち、「今後の増刷を見合わせる分」としては、
マルクスの「猶太人問題を論ず」「資本論初版抄」「賃銀・価格および利潤」「賃労働と資本」「哲学の貧困」、
エンゲルスの「住宅問題」「自然辯証法」「反デューリング論」「原始基督教」、両者共著の「フォイエルバツハ論」
「芸術論」「ドイッチェ・イデオロギー」、レーニンの「唯物論と経験批判論」「ロシアに於ける資本主義の発展」、
カウツキーの「基督教の成立」「資本論解説」、ルイゼ・カウツキーの「ローザ・ルクセンブルグの手紙」、
ローザ・ルクセンブルグの「経済学入門」「資本蓄積論」、リヤザノフの「マルクス・エンゲルス伝」等があり、
また刷本があっても増製本を見合わせる分としては、マルクスの「フランスに於ける内乱」、
エンゲルスの「家族・私有財産及び国家の起源」「空想より科学へ」、レーニンの「帝国主義」
「何を為すべきか」「カール・マルクス」「ゴオリキーヘの手紙」等があった。この時はまだ発売禁止処分ではなかったが、
四〇年九月には発禁を命ぜられ、紙型も押収されて正式に処分を執行された。なお文学ものについては、
前年秋にジイドの「ソヴエト旅行記」が削除を、三八年二月には田山花袋の「蒲団・一兵卒」が軍人侮辱の理由で、
つづいて「アミエルの日記(六)」が「日本のミカドの勅書」の字句で次版から削除を命ぜられた。
同二月号の婦人公論にのった川上幸子「遺児を抱いて飢餓と貞操の嵐に立つ私」も禁止となった。
三月には天野貞祐の著書「道理の感覚」が、軍事教練にたいする批判の点について憲兵隊からの干渉があり、
絶版処置がとられた。八月には、「中央公論」三月号掲載の石川達三の小説「生きてゐる兵隊」は
「虚構の事実をあたかも事実のごとく空想して執筆したのは安寧秩序をみだすもの」との理由で発禁となった上、
新聞紙法違反として作者・発行人・編集人・印刷人が起訴され、作者と編集人は禁錮四ヵ月(執行猶予四年)、
発行人と印刷人は罰金の判決をうけた。
三八年一〇月、河合栄治郎の著書、「社会政策原理」、「ファシズム批判」、「時局と自由主義」、
「第二学生生活」の四著が「安寧秩序をみだすもの」として発売禁止処分となり、
河合は四著者の発行人である日本評論社鈴木利貞とともに、翌年二月、出版法第二七条の安寧秩序びん乱の
条項に該当するものとして起訴に決定した。三九年四月には、武者小路実篤の著作「その妹」が
廃兵の問題で一部削除を命ぜられた。さらに芥川竜之介の「侏儒の言葉」が軍人侮辱のかどで次版改訂、
徳富蘆花の「自然と人生」も「国家と個人」の篇が削除、フロベールの「ボヴァリー夫人」が削除および次版改訂となった。
四〇年一月に津田左右吉の著書の件で岩波書店主岩波茂雄は検事局に呼び出されて尋問され、
二月には津田の著書「古事記及日本書紀の研究」「神代史の研究」「日本上代史研究」「上代日本の社会及び思想」の四著が
発禁処分をうけ、つづいて三月に津田と岩波とは出版法第二〇条に該当するものとして正式に起訴に決定した。
この事件は四一年に二一回の公判があり、四二年五月に津田禁錮三ヵ月、岩波禁錮二ヵ月、
いずれも執行猶予二年間の第一審判決があり四四年一一月の控訴審は時効により免訴となった。
四〇年七月には、内務省は左翼関係出版物をすべて一掃する方針をきめ、三〇余社の出版物一
三〇余種を発禁処分に附し、同時に出版元および新古書店を一斉検索し、発禁書の押収をおこなった。
四一年三月には右の大禁止処分にもれたものを追加処分し、たとえば岩波文庫では、ローザ・ルクセンブルグの「資本蓄積再論」、
ソレルの「暴力論」、が発禁処分となった。文芸作品についても発禁処分が続出し、
丹羽文雄「中年」、徳田秋声「西の旅」、里見ク「愛と智と」、織田作之助「青春の逆説」、林芙美子「初旅」、
長田幹彦「悲しき結婚」等が相ついで「風俗壊乱」に問われ、また「モーパッサン選集」が時局下有害無用とみなされて
続刊中止を勧告された(九月発禁)。横光利一「婦徳」、徳田秋声「一基の花」は巻末に禁止本の広告を記載した理由で発禁となった。
都新聞に連載中の徳田秋声「縮図」も九月に禁止となって中断された。「中央公論」三月号の巻頭論文の予定であった
高木八尺の「アメリカ極東政策史」は親米的態度の理由で撤回を命ぜられ、同五月号の前商工大臣小林一三の随筆「大臣落第記」は、
不謹慎極まる文章として全文削除を受けた。
四二年三月には、日本評論社発行の三木清編「現代哲学辞典」や河合栄治郎「学生と哲学」等にたいして
情報局は絶版を「勧告」した。雑誌「改造」八・九月号連載の細川嘉六「世界史の動向と日本」は情報局長によって激しく論難され、
雑誌は発禁処分を受け、筆者は検挙された(これがキッカケでデッチあげられたいわゆる横浜事件については前出)。
一一月には「改造」に掲載された丹羽文雄の「報道班員の手記」が発禁、
四三年一月の「東大陸」にのった中野正剛の「天下一人を以て興る」も禁止。同三月には「中央公論」に連載中の谷崎潤一郎「細雪」が
「時局の重大性を弁えざるもので、国民の士気を沮喪せしめる」との理由で以後連載禁止(これ以後谷崎は敗戦まで作品発表断念)、
また同誌六月号掲載の岸田国士の戯曲「かへらじと」にたいして陸軍が硬化、公文書で「軍人精神を攪乱し、
軍の士気に影響を与えるところ甚大」として厳重抗議しついに全文削除となり、同誌編集部の陸軍報道部への出入りが禁止された。
「中央公論」七月号は発禁を予想して休刊した。「婦人公論」一〇月号において、戦争未亡人の問題を扱い、
再婚できる事情にあるものは再婚するのがよいと述べた商大教授金子鷹之助の文章は、
すでに検閲も無事通過したものであるにかかわらず、出征兵士の志気をくじき靖国の英霊を辱かしめるものとして陸軍の怒りを買い、
編集部は責任を追及されて情報局に始末書を提出し、謝罪文を掲載させられ、またそれを理由に用紙割当を削除された。
四四年に入ると雑誌「教育」が廃刊を要請され、「改造」は六月号、「中央公論」は七月号が印刷を完了したところを公刊がさしとめられ、
以後強制廃刊となった。
内務省警保局長の署名となっている発売禁止通達書によって、一九四三年中に、「安寧秩序維持」に触れるものとされて
処分された単行本のリストを抜萃すれば以下の通りである。一月、黒岩一郎「野戦風呂」(皇軍の威信を害うおそれあり次版改訂)、
尾崎慎治「駐軍戦記」(戦死者の火葬場面の描写および統帥部の命令を論議する記述は不穏当につき次版改訂)、
高須芳次郎「物語大日本史・本紀、列伝」(皇室の尊厳を害うごとき記事本版改訂)、
安岡正篤「世界の旅」(ヒトラーとムッソリーニの感情の衝突を表示し、英国側の宣伝文句を引用せる点不穏当につき次版改訂)、
「ベルツの日記・第二部上」(大阪の第四師団を劣悪なる札付となすは軍を冒涜し威信を失墜せしむるおそれあり、
ロシヤの旅順占有記事は対独国交上支障あり、また韓国併合は日本が軍事上の目的によってなしたと記すは安寧上不良、次版改訂)。
二月、伊藤猷典「鮮満の興亜教育」(朝鮮民族独立云々の記事は朝鮮統冶上有害と認められ、
また満州国は行政面のみ独立性を有すとなす記事は日満国交上不良)、
保利清「義肢に血の通うまで」(負傷状態を記述せるも厭戦思想醸成のおそれあり次版改訂)、
「戦争製造者を語る・ル大統領とチャーチル」(「汪政権が参戦するも戦に大影響するとも思われず」となすは
汪政権の軍事力を過少評価し対重慶関係に悪影響あり)、三島助治「悲憤十年」(昭和五、六年頃の行動者の激情を
煽情的筆致をもって紹介しまた非合法的方法に非ざれば憂国の誠心は達せられずとなし
また司法権の神聖を冒涜するがごとき記述あるにより)、南方熊楠「南方随筆」(エタの南北朝の字句、次版改訂)」
「軍神加藤少将正伝」(ハワイ空襲に関する開戦前の準備行動を記せるも程度軽微につき次版改訂)。
三月、友枝宗達「戦う独逸」(日独伊三国同盟は利害関係により成立せりとなすは国交上支障あり次版改訂)、
井上克己「百姓道場」(過去の農村の窮乏を露骨に記し内容悲惨にして時局下不適当)、
室戸漁業協組「高知県室戸町の漁業」(わが漁船の季節別哨戒地点を推知せしむるおそれあるにより)、
白鳥省吾「満支戦・詩と随筆」(わが国策を誹謗しいたずらに抗日を叫ぶ支那人の詩を紹介しあるにより)。
四月、吉田絃二郎「孤島」内田百間「王様の背中」(反戦的反社会的記述多く小国民向図書としては支障あり、本版改訂)、
栗井家男「兵隊物語」(兵士の応召前の生活を描けるも筆致如実にしてかえって悪影響を及ぼすおそれあり次版改訂)。
五月、山口清人「もし東京が爆撃されたら」(必勝態勢を阻害するやのおそれある記述および対ソ外交上支障ある記述、次版改訂)。
六月、野口米次郎「伝統について」、(民主主義を日本に適用せんとする記述、次版改訂)、
根本円通「今すぐ役に立つ幸運姓名の付け方」(両陛下の御称号を姓名学的に解釈し天皇陛下大正天皇の御いみなを
使用することにより凶運に見舞わる等の記事を掲げ不謹慎極まるもの)、
橘孝三郎「大東亜戦の本質」(わが政治不信および大東亜戦の前途に対する悲観論、次版改訂)、
津久井竜雄「日支国交史論」(日支事変は日本の帝国主義的侵略なりとなす記述)。
七月、西村貞次「万葉集伝説歌謡の研究」(天智天皇の妻争いに言及せるは不敬、南北朝の字句、次版改訂)、
馬場秀夫「ソ連の底力」(工業社会主義化の成功を賞揚的筆致にて記述、次版改訂)。
八月、林信一「我々傷つくとも」(傷痍軍人の暗い気持を描写、次版改訂)。
九月、アーネスト・サトー「幕末維新回想記」(当時の英国外交が明治維新の大業成就に特に寄与せるがごとき筆致あるにつき)。
では、今日も真実を追究していこう
満州への侵略が開始されるとともに、民主的・自由主義的な学者とその学説にたいする迫害が強まり、
一九三三年に滝川事件――京大滝川幸辰教授の講演「復活に現われたるトルストイの刑罰思想」と発禁になった著書
「刑法読本」「刑法講義」が、右翼から攻撃されて議会で問題となり、大学側の抗議にかかわらず閣議決定で休職となり、
法学部の教授、助教授、講師、助手、副手三九名が連袂辞表提出、八教授免官、学生委員検挙等――、
一九三五年には美濃部事件――貴族院議員美濃部達吉博士の天皇機関説が、軍部と右翼の強迫を受け、
「憲法撮要」等三著書が発売禁止、二著改訂命令、不敬罪・出版法違反で取調、貴族院議員・学士院会員辞任、
ピストル狙撃で負傷、政府声明でこの学説の講義禁止宣言――がおこった。
一九三六年には、さきの「日本資本主義発達史講座」につづいて「日本封建制講座」を企画中の
平野義太郎・山田盛太郎・小林良正ら五名の研究者が、他の「文芸街」・「文芸評論」・「社会評論」・「時局新聞」などの
メンバー二九名といっしょに戒厳令下に検挙された(いわゆる「コム・アカデミー事件」)。
日中戦争勃発以後、学問と大学にたいする干渉はいっそう強化された。
東京帝大教授矢内原忠雄の特別講義「満州問題」(のち刊行)にたいして軍事教官は聴講しないよう学生に伝えていたが、
一九三七年九月号の「中央公論」に執筆した論文「国家の理想」などが右翼学者によって攻撃されて削除を受け、
同教授は一二月に大学を追われた。(翌年、著書「民族と平和」および「民族と国家」発禁)。
この月「人民戦線事件」の一環として検挙された「労農派」同人との関連で、一九三八年二月には、「教授グループ」として、
東大教授大内兵衛・同助教授有沢広己・脇村義太郎ら一一名が治安維持法違反で検挙された(「人民戦線事件」第二次検挙)。
大学の現職教員がこれほど大量に検挙されたのは初めてのことであった。
起訴された帝大教授たちは休職処分を受けたが、多くは六年にわたる長い裁判闘争ののち、
一九四四年八月の第二審で無罪の判決が下った。しかし東大内田総長の辞表勧告を拒否すると、大学は罷免を強行した。
内務省警保局はこれら人民戦線派検挙者の執筆原稿の雑誌その他への掲載を禁じ、大内兵衛著「財政学大綱」は休版を命ぜられた。
なお「人民戦線事件」第一次検挙に「労農派」として検挙された中には、向坂逸郎、大森義太郎、猪俣津南雄らが含まれていた。
四一年の第一審で、山川均(五年)・荒畑寒村(三年)・向坂逸郎(三年)・青野季吉(三年)・高橋正雄(執行猶予)の判決を受け、
猪俣・大森は第一審の審理中に、「教授グループ」の南謹二は第二審の審理中に病死した。
東大教授河合栄治郎はもともとマルクス主義反対の学者であり、かつては文部省の「学生思想善導」の仕事をした自由主義者であったが、
五・一五事件や国家主義運動にたいして勇敢な批評を加え、一九三八年一〇月に「ファシズム批判」「時局と自由主義」
「改訂社会政策原理」「第二学生生活」の四著書が発売禁止処分となり、翌年初め警察署の取調べを受けた。
大学は休職処分となり、二月には出版法違反で起訴された。第一審は無罪、第二審では「我が国民の道義心を壊乱するの虞ありて
安寧秩序を妨害する文書」四種を発行させたことにより、出版法第二七条によって、罰金三〇〇円
(前二著につき各一〇〇円、後二著につき各五〇円)の判決を受け、大審院では上告棄却となって罰金刑が確定した(四三年六月)。
一九四〇年には、日本古代史の碩学・早大教授津田左右吉に矢が向けられた。
これより先、東大法学部の「赤化帝大教授」たちが右翼からの攻撃を受けていたところに
津田博士が新設の東洋政治思想史の特別講師に迎えられて同学部の講壇に立ったことをきっかけにして攻撃の的となった。
一月、同博士が前年「中央公論」に発表した論文「日本に於ける支那学の使命」が「帝大粛正期成同盟」なる団体から
一三個所の不穏字句を指摘され、ついに大学を辞任せざるをえなくなった。つづいて二月に、「神代史の研究」
「古事記及日本書紀の研究」(いずれも一九二四年出版)「日本上代史の研究」(一九三〇年出版)
「上代日本の社会及び思想」(一九三三年出版)の四著書は発売禁止となり、翌日、出版者とともに出版法違反で起訴された。
公判は傍聴禁止となって四一年から四二年にかけて開かれ、結果は「古事記及日本書紀の研究」のみが有罪となり、
「神武天皇より仲哀天皇に至る御歴代天皇の御存在に付疑惑を抱かしむるの虞ある講説を敢てし奉り、
以て皇室の尊厳を冒涜する文書を著作し」たとの理由で、出版法第二六条によって、禁錮三ヵ月執行猶予二年
(罰金は刑法施行法の改正で廃止)の判決を受けた。その後控訴がおこなわれ、放置されたまま時期を経過し、
一九四四年一一月、時効によって免訴となった。なお、これより先、決戦教学刷新の方針から閉鎖された文化学院前校長西村伊作は、
不敬罪および言論出版集会結社等臨時取締法第一八条(人心惑乱の罪)違反で四三年九月に起訴されている。
これら大学教授にたいする迫害・追放と表裏をなして、大学の自治にたいする干渉も進められた。
一九三三年の東大配属将校増員問題などが端緒となり、一九三八年から三九年にかけて、
陸軍大将荒木文部大臣をはじめ、しばしば各帝大総長を招致して大学自治にたいする監督権を強化しようとし、
(朝日新聞社「大学の自治」)、あるいは総長・学部長の選挙や教授の任免方式の改革を要請し、
あるいは問題になった教授たちの処分の促進をせまり、さらに大学に軍事教練を必修化させ、
大学の学生自治運動を弾圧した(三八年二月、東大セツルメント閉鎖、四〇年四月、東京学生消費組合解散)。
検挙された東北大学助教授宇野弘蔵は、裁判所で無罪となり、四一年一月の教授会は復職を議決し、復職の辞令が発せられたが、
その直後「依願免官」となった。学生の自治・民主化の運動、研究会活動の弾圧として規模の大きかったのは、
一九四〇年の天皇東大行幸問題に関連しての東大事件(学生約一二〇名検挙)と一九四三年の大阪商大事件
(教授学生約一〇〇名検挙)であった。後者の商大事件では、追放教職員一一名(うち検挙四名)、起訴者三三名がでた。
なお司法省の調査によれば、三七年から三九年までの学校教員の思想犯による処罰は、大学二一名(うち起訴九名。以下同じ)、
高校一名(一名)専門学校五名(二名)、中学校一六名(五名)であり、三七年より四〇年までの左翼学生検挙者は五二五名、
起訴者六七名、その一九二五年以来の合計数は検挙五三七七名、起訴四五四名であった
(司法省刑事局「最近に於ける左翼学生運動」、思想研究資料特集第八五号、四一年五月発行)。
(この項は前掲の諸資料のほか、田中耕太郎・末川博・我妻栄・大内兵衛・宮沢俊義「大学の自治」、一九六三年刊。
大内兵衛・有沢広己・脇村義太郎・美濃部亮吉・高橋正雄「二十年前」、世界、一九五八年四月号。
家永三郎「大学の自由の歴史」、一九六二年刊、などによる)
大学の枠外の研究者集団にたいする弾圧の代表的なものは、一九三九年の`「唯物論研究会」の弾圧であり、
その他、一九三七年の、「世界文化」、一九四一年の「教育科学研究会」などの関係者の検挙事件などがあった。
唯物論研究会は、一九三二年一〇月、岡邦雄・三枝博音・戸坂潤らを中心に、
「唯物論の研究に重大な意義をみとめる研究家の研究団体」として成立した。
発起人の中には長谷川如是閑・小泉丹・小倉金之助などがあり、会員の中でも自然科学者が多かった。
初めは哲学・自然科学が中心で、政治的色彩のない大衆団体として、機関紙も新聞紙法によらず
社会問題の時事的扱いをさけたが、しだいに社会科学・芸術論・文化問題に拡がり、マルクス主義の哲学的理論的研究と
その普及化をおこなう唯物論者の研究団体の役割を演じ、唯物論哲学の発展にとって中心的な役割を果したのみならず、
とくに「歴史科学」(三二・五〜三六・一二)と「経済評論」(三四・九〜三七・一〇)が姿を消したあと、
社会科学の諸分野でのユニークな水準の高い業績を生み出し、反動的風潮の進む中で、
非科学的精神・日本主義イデオロギイとのたたかいや、唯物論・マルクス主義理論の普及、あらゆる文化・思想現象の
科学的解明の上で大きな役割を演じた。開いた研究会数四七一回、機関誌七三冊、刊行した「唯物論全書」
(「三笠全書」をふくむ)六六冊に上った。一九三七年末の「人民戦線事件」のあと、主力会員に執筆禁止令が出されたことから、
三八年一月には、定期的研究集会の中止、機関誌編集方針の改革、幹事長(岡)と事務長(戸坂)の辞任を決定したが、
「教授グループ」の検挙のあと、幹事会は会の解散にふみ切り、雑誌、「学芸」の出版所に形を変えた。
しかし同誌も一二月号は禁止となり、一一月に幹部二四名が検挙され、うち一四名が起訴された
(つづいて翌年地方支部など一二名、翌々年一五名、検挙)。終りころの会員数約二〇〇(最盛時二五〇)、
機関誌発行部数約一五〇〇(最盛時四〇〇〇)であった。
特高警察は、唯研自体をコミンテルンおよび日本共産党の目的遂行の結社と決定し、治維法第一条第一項後段を適用した。
なお唯研は若干の幹事の個人的接触を通じて都内各大学の研究会その他の多くの学生グループと関係をもち、
さらに関西地方の諸大学などにもつながりをもっていたが、唯研幹事の総検挙と同時に、
東大・慶大・早大・農大・美校・外語などの学生六三名が検挙された(座談会「唯物論研究会の足跡」おょび
社会経済労働研究所「唯物論研究会、その意義と歴史と成果」、唯物論研究(1)、四七年一〇月)など。
これより先、京都においては、同志社大学予科教授新村猛・真下信一・大阪相愛女専講師中井正一らを中心に、
従来からあった「美批評」を改組して雑誌「世界文化」を創刊し、その後さらに週刊紙「土曜日」(最高発行部数七〇〇〇)を発行し、
これらを通じてフランスその他の反ファシズム・人民戦線文化運動などの紹介や、京都地方での音楽・映画等の文化運動をおこなった。
一九三五年から三七年にかけて「世界文化」は第三四号まで(毎号一〇〇〇ないし一五〇〇部)、
「土曜日」は二一号まで(毎号二〇〇〇ないし七〇〇○部)発行された。
このグループは、三七年一一月から翌年にかけて検挙され、数名の起訴者を出した。
またこれとほぼ同じ時期に、このグループとの若干の関連をもちつつ、京大の学生たちを中心に「学生評論」が発行され、
二次にわたって検挙を受けている。
教育科学研究会は、雑誌「教育」を通じて、城戸幡太郎・留岡清男を中心とする同誌の編集者たちと
全国の読者たちとの接触が生まれ、これが「生活学校」や生活綴方運動などに参加した現場の教師と研究者との結集に進み、
一つの教育運動(「教育の現実への肉迫」とそれにもとづく「ヒューマニスティツクな教育の建設」)として発展したものである。
一九三七年春に会として発足して以来、機関誌「教育科学研究」をもち、三九年から全国研究集会を開くなど、
少壮児童心理学者の児童学研究会や、保母を中心とする保育問題研究会を姉妹団体としつつ、活発な活動を展開した
(菅忠道・海老原治善「戦時下の教育運動」)。しかし戦争下の反動化の中で近衛新体制への協力方向が打ち出されるなどの動揺の中で、
一九四〇年二月の山形での村山俊太郎の検挙からはじまった「北日本国語教育連盟」(北方性教育運動)関係者三一名の検挙(九名起訴)、
「北海道綴方教育連盟」(生活綴方運動)関係者五五名の検挙(一二名起訴)、
「生活学校」グループ三名の検挙(全員起訴)、さらに四一年から四二年にかけて「生活図画」グループ二六名(起訴一八名)、
新潟地方一六名(起訴八名)、水戸地方九名(起訴五名)、静岡地方一二名と検挙が拡大する中で、
四一年八月以降「教育科学研究会」、「綴方生活」、「生活学校」などの関係者が全国一斉に検挙され(約三〇〇名)、
四三年には、自ら保育報国隊の結成をくわだてながら解散した「保育問題研究会」の関係者たちにも検挙の手が及んだ。
雑誌「教育」も文部省や警視庁の干渉を受け、用紙割当を停止されたため四四年三月をもって強制的に休刊させられた。
このころ城戸幡太郎、留岡清男らの自由主義者も弾圧を受け、翌四五年一月ころには幼稚園や託児所の保母たちも検挙された
言語運動としては、山形で斎藤秀一(雑誌「文学と言語」の発行「国際ローマ字クラブ」結成、
海外エスペランチストとの交流、等)が一九三八年、東京でマルタロンド(三月会、エスペラントの定期研究会)が一九四〇年に検挙された。
このほか個人的研究者にたいする弾圧としては、三七年九月に講演内容に反軍的言動があったとして
東京憲兵隊の取調べを受けた後藤朝太郎や、「企画院事件」(一九四〇年および四一年検挙)や
「ゾルゲ事件」(四二年検挙・前述)で捕えられた研究者たち、「横浜事件」(四二〜四五年検挙。前述)に関連して
投獄された細川嘉六をはじめ、満鉄調査部・世界経済調査会等の研究者たちなどがある。
満鉄調査部については、四一年八月に「満州国」の治安維持法が制定され、その直後の「合作社事件」、
「満州評論」グループ、ゾルゲ事件関連者の検挙などにつづき、四二年九月に第一次(二九名)、
四三年六月に第二次(一〇名)の憲兵隊による調査部関係検挙がおこなわれ、逮捕はされなかったが調べられたり、
調査部から鉄道の現場へ追放された者を加えると、関係者は約八〇名に上った。
うち二一名が起訴され、一九四五年五月の判決によって、二名が懲役五年(執行猶予五年)、二名が三年(執行猶予四年)、
その他は一年(執行猶予三年)となり、その間に、劣悪極まる満州監獄の中で西雅雄・大上末広・発智善次郎・佐藤晴生・守随一の
五名が獄死し、渡辺雄次は出獄後病死した(伊藤武雄著「満鉄に生きて」、一九六四年刊。
児玉大三「秘録・満鉄調査部」、中央公論、一九六〇年一二月号)。
教育労働者運動の概況
日本教育労働者組合(教労)は一九三〇年一一月東京、神奈川の現職教員二〇数名を組合員として
非合法のうちに結成されたが、翌年五月日本一般使用人組合(官公庁、デパート、市場等の下級使用人の組合)、
日本映画従業員組合、日本医務労働者組合と合同し、日本労働組合全国協議会(全協)の一般使用人組合教育労働部として再組織された。
そのころには組合員は十数倍になり、全国各地に支部が設けられその組織拡大に、
新教の機関誌「新興教育」は大きな役割をはたした。しかし、一九三三年二月四日から数次にわたる
長野県の教員一三八名にのぼる検挙、同年七月から八月にかけての全国的な三三二名検挙など、
相次ぐ弾圧によって教労運動もついに壊滅した。
この間、新興教育研究所は、その機関誌「新興教育」で教労運動の方向を明らかにし、
活動の指針となるような論文を掲載したり、国際的な運動の経験、各地の経験の交流、新興教育の理論的問題の啓蒙、
反動的教育政策の暴露などを展開する一方、現場の教師の先進的な教育実践「教育内容の自由化」、
「教育の実際生活化」、「教育と社会の結合」の記録を集録、交流し多くのすぐれた教材研究や、
全協教労長野支部編「各科教授方針批判」、同支部編「修身科無産者教授教程」、
新教同盟準備会編「小学校における各科教授方針」などを生みだすなかだちとなり、
さらに、教授方法・教材の取り扱いだけではなく、教育方法においても、分団教授法、グループ研究法のすぐれた要素を発展させ、
あるいは作業主義教育、労働教育、郷土教育、生産教育などのもつ進歩的な内容をとり出すことにも努力していた。
教労運動の壊滅のあと、教育の面でのファシズムに対する最後の抵抗となったのは、
生活綴方運動に代表される良心的な教師の教育実践であった。「全国各地ではファシズムの嵐の中で、
地道な教育実践が続けられ、文集の交換や研究雑誌の交流、討論によって、教師たちは手を結びあおうと努力した。
教員組合運動はもちろん労働運動全体が沈黙し、屈服させられていたとき、その良心的な意図と必死の努力にもかかわらず、
その運動はファシズムに対する抵抗の力を失いがちであった。そして一九四〇年二月に始まる『北方教育』、
『生活学校』同人の検挙、一九四三(昭和一八)年から翌年にかけての教育科学研究会のメンバーの検挙によって、
日本の教育の中に残されていた先進的な教員の運動は圧殺されてしまい、
良心の灯は一人一人の教師の心の中でともされなければならなかったのである」。
たとえば「生活学校」誌上では次のような問題提起がおこなわれた。「現行カリキュラムに対する良心的な教師たちの不満が、
綴方を全教育を統括する王座にまで祭りあげてしまった。その気持はよくわかる。僕もやはりその経験をもつ。
……子どものことを思えば、そうしてくれる教師に頭が下がる。しかしそれに没頭して、良心的な教師がそれによって良心を満足させ、
もっと本質的な解決方決のため力を尽すことを忘れてしまったら、それは反動的な意味をもつようにさえなるだろう。
では本質的なことは何か。それは政治的な解決への努力だ」(戸塚廉「旅の感想」、「生活学校」誌一九三七年一二号新収)と。
教育者グループの活動組織と活動家の検挙
教労運動壊滅以後における教育者グループの活動組織と活動家の検挙状況については、
次のごとく述べられている(司法省刑事局「生活主義教育運動について、思想研究資料特輯第九七号」、一九四三年八月による)。
北日本国語教育聯盟
(一)結成経過 東北地方は縷々冷害凶作に襲われ、農村の窮乏甚しく、従って文化の程度低く、
児童の生活環境も悪かった為児童の生活指導という問題が教師の前に現実的な必要を以て迫っていた。
斯様な事情から東北地方に於ては、早くから各県に、左翼的傾向を持った綴方教師によって綴方を中心とする
生活教育研究のグループが結成せられ、「北方教育」(秋田)、「実践綴方地帯」(宮城)、「綴方文化」(福島)、
「綴方環状線」(岩手)等の機関紙を発行し、又教室に於ける実践の結果たる児童文集を交換して、
相互に研究並に実践の刺激を図って来た。斯くの如き状態に在った時、昭和九年の大凶作が起り、
之に刺激せられて、右の生活教育研究グループの指導的地位にあった鈴木銀一、国分一太郎等の左翼分子が主となり、
東北社会のマルクス主義的分析の基礎の上に、教育理論を形成して「北方性教育」と称し、
之を指導理論として同年二月宮城、福島、秋田、山形四県の綴方教師を糾合し「北日本国語教育連盟」を結成して、
其の理論の啓蒙普及に乗り出した。翌昭和一〇年六月には青森、岩手二県の綴方教師も之に加入し、
茲に於て東北地方に於ける生活教育研究の小グループは全部此の連盟に統一せられたのである。当時の連盟の委員は、
鈴木銀一(宮城)、佐々木正(宮城)、木下竜二(福島)、佐々木太一郎(秋田)、加藤周四郎(秋田)、国分一太郎(山形)、
土崎兼房(青森)、三上斉太郎(青森)、高橋啓吾(岩手)、永沢一明(岩手)、
北海道綴方教育連盟
(一)結成経過、北海道においても一部左翼的教員は、昭和八年頃より個々に綴方を中心とする生活教育を実践して来たが、
東北地方を始めとし綴方集団簇生の全国的傾向に刺激せられ、綴方教師中の左翼分子、
坂本亀松、小坂佐久馬、小鮒寛、小笠原文次郎
等が主唱者となり、昭和一〇年八月札幌市に於て広く道内の左翼的傾向の綴方教師を糾合して「北海道綴方教育連盟」を結成した。
連盟の目的は同人相互に生活主義綴方の実践を刺激し且之が普及を図るに在る。
(二)活動
(1)研究会、講習会、座談会の開催、(2)機関誌「綴方林」及「同人通信」の発行、(3)児童文集「北見文選」の発行、
(三)検挙状況
(1)検挙年月、昭和一五年一一月。昭和一六年一、四月。(2)検挙人員 五五名 (3)起訴人員 一二名。
生活図画関係グループ
(一)結成経過、生活図画教育は、旭川師範学校図画教師熊田満佐吾が、昭和八年半ば頃より同校美術部員に対し
所謂「発展的リアリズム」に基く絵画の創作を指導し、其の創作指導の過程を通じて部員を共産主義的に啓蒙したるに始まり、
後に熊田の啓蒙を受けた部員が教壇に於ける図画の授業に其の指導方法を実践し、且熊田を中心とするグループを結成して、
相互に研究及実践を刺激し又其の教育方法の宣伝普及を図るに至ったものである。
(二)組織及活動
(1)「ロンド」昭和一一年三月結成、メンバーは本間勝四郎外五名、
(2)「シアル」昭和一二年三月結成、メンバーは片岡静夫外三名
(3)「うずまき」昭和一三年八月結成、メンバーは木元幸吉外三名、
(4)「新ロンド」昭和一五年一月右の三グループを解消し其の全員を以て新に結成したるものである。
右のグループはいずれも生活図画及生活主義綴方の研究並に其の実践を刺激することを目的としたもので、
其の活動も、(イ)研究発表、(ロ)実践の結果たる児童作品の相互批評、(ハ)機関紙の発行等に止まる。
尚昭和一六年一月生活図画理論の啓蒙普及の目的を以て「新ロンド」を母胎とし広く道内の図画教育に熱意ある教員に呼びかけて、
「北海道図画教育連盟」を結成することを企てたが、熊田検挙の為実行するに至らなかった。
(三)検挙状況
(1)検挙年月、昭和一六年一、九月。昭和一七年二月。(2)検挙人員二六名(内プロレタリア絵画関係四名)、
(3)起訴人員一八名(内プロレタリア絵画関係四名)。
「生活学校」グループ
(一)結成経過 雑誌「生活学校」は野村芳兵衛を中心とする東京市所在「池袋児童の村学校」内「児童の村生活教育研究会」の
機関紙として昭和一〇年一月創刊せられ、昭和一一年八月「池袋児童の村学校」閉鎖後は扶桑閣の営利雑誌として引継がれ、
昭和一三年八月迄刊行せられた月刊雑誌である。発行部数は二五〇部乃至八○○部で、
読者の三分の二以上が東北及北海道の小学校教員である。
当初は野村芳兵衛が主幹、戸塚廉(元「新教」メンバー)が編輯主任で、主として野村の意見に基き編輯されたのであるが、
昭和一一年初頃より戸塚が編輯の実権を握り、殊に同年八月扶桑閣の営利雑誌となって以後は専ら戸塚が、
松永健哉(元「新教」メンバー)、黒滝雷助(元「教労」メンバー)、増田貫一(元「教労」メンバー)、
石田宇三郎(元「教労」メンバー)等の左翼分子と編輯グループを結成して編輯方針を協議し、
執筆者も右の外北村孫盛、浦部史、槙本楠郎、増渕穣、大矢輝昭、大矢恒子、高倉輝、村山俊太郎、国分一太郎等
元「新教」、「教労」メンバーたる左翼分子が大半を占むるに至った。
其の編集方針は総合的な生活主義教育論の建設、宣伝普及であった。彼等は「新教」、「教労」の運動を反省批判した結果、
其の左翼的政治偏向の誤謬を排し、文化運動の独自性、合法性、大衆性、左翼運動に於けるインテリの役割等を考慮し、
殊に人民戦線方策の採択を知るに及んで益々自己の運動方針の正当なることを確信し、生活主義運動に乗り出したのである。
(二)活動 彼等の活動は雑誌「生活学校」の編輯、執筆による啓蒙活動を主とするもので、
其の外に昭和一一年八月及昭和一二年七、八月の二回に至り北海道及東北地方に開催せられたる講習会、
座談会に講師として出席して小学校教員に生活主義教育理論を啓蒙したことがあるに止まる。
(三)検挙状況
(1)検挙年月、昭和一五年一二月。(2)検挙人員、三名。(3)起訴人員、三名。
戦時体制下の教育
一九三七年八月には「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、九月には文部・内務両次官あて
「国民精神総動員実践要綱」がだされて、国民精神総動員週間とか、防火週間とか、あるいは農村商工産業週間とかいう
「週間」が毎月おこなわれ、そのなかで「部落町会隣組」などの国民精神総動員の下部単位の組織化がおこなわれた。
一方、学校教育の場では「国民精神総動員と学校教育」(一九三八年一月)という文部省の指導パンフレットによって、
勅語奉読をともなう行事の強化と時局教育の導入とともに各教科ごとに総動員教育が強調されることになった。
こうした国民精神総動員による国民教化と教育の軍国主義化をはかりながら、他方では軍需工業側からの生産力拡充要求、
また軍部側からの軍事能力近代化にともなう教育内容および制度改革の要請が切実なものとなった。
木戸文相は、「上論を拝して」総裁以下六五名の委員からなる教育審議会を発足させたが、
その第二回総会では「今月の一一日の閣議におきまして男子に対して青年学校を義務制といたす方針を決定」(同上)したことが
報告され、今後はその内容についてこの審議会で検討してほしいという申し入れが行なわれた。
一年六ヵ月の在営年限では「今日の兵器の非常に改善されている所の時代の兵の訓練としてはどうしても不足」
(「教育審議会諮問第一号特別委員会整理委員会会議録」)なので、といって「二年を超える期間を設けるということは
却って国民の国防観念、兵役に対する観念上面白くないというような点も考えられて」(同上)、
そのかわりに勤労青年の教育の画期的拡充の名のもとに兵士養成の義務化がきまった。
一九三七年一二月から四一年一〇月までの四年間審議がつづけられ七つの答申がだされたが、
三八年一二月答申の「国民学校、師範学校及幼稚園に関する件」による国民学校の出現と、
青年学校の義務化以外はさしたる制度上の改革をうみださなかった。
一九三八年三月に成立した国家総動員法は、その第一条で「国家総動員とは戦時に際し国防目的達成のため
国の全力を最も有効に発揮せしむる様、人的物的資源を統制運用するを謂う」と規定し、教育もまた精神の総動員とともに、
その人的資源培養の役割をになわされることになった。そして、軍需工業を核とする重化学工業の発展と、
戦線の拡大化にともなう軍要員の増大は、次のようなさまざまな矛盾を教育の上にももたらすことになった
(「日本近代教育史」、「岩波講座、現代教育学5」所収二九一〜二頁)。
第一の矛盾は熟練工不足問題からおこった。このため一九三七年には機械工養成所が単独設立され、
翌年にはそれでも不足して、全国各府県の工業学校に機械工養成所が付設され、商工省には技能者養成所、
逓信省では航空技術者養成所という具合に、そのときどきの緊急の要求に応じてこの種の教育機関が
正規の学校教育の体系外に続々と発生しはじめたのであった。
第二に、この熟練工不足問題の深刻化につれ、他方では未成年労働者の増加が重化学工業において
非常な勢いですすむことになった。女子未成年労働者の増加もいちじるしくなった。このことから支配階級を悩ます問題が発生してきた。
そのひとつは、かれらの労働時間が一日男女とも一〇時間から一四時間をこえ、当然のことながら、
これは青年労働者の体位の低下をひきおこした。
それだけでなく、身体の発育をかたよらせ、結核患者を急増させていった。
当時「過労を防げ」という結核予防のポスターがはられたことも典型的矛盾の露呈した姿であろう。
また他面では軍需景気による未成年者の収入増加となり、これが「浪費」と結合し、
また家族の労務動員による家庭環境の悪化によって、青少年の不良化、犯罪の増加がめだっていき、
いわゆる青少年問題が発生した。補導の強化、そのための協会の設置、あるいは児童読物の浄化がその対策として
内務省からだされたが、戦争体制の根元がなくならないかぎり、これらの問題は、拡大再生産にむかっていった。
第三に、こうして大量の青年が軍隊や工場に労働者化していく現実は、昭和初期の農村問題とはちがった仕方で
新たな問題を農村になげかけることになって、独占資本とりわけ軍部をいらだたせる現象がめだってきた。
「農村の子弟は小学校卒業と同時にその七割までは職を求めて都会に出て、適令になって帰村するので
壮丁の体格および風紀は思ったより悪いようである。これをこのまま放置する時は由々しき問題となるので
政府としては今後とも農村に仕事を与えてその子弟が都会に走らないようにするのが肝要である」(杉山陸相「由々しき問題」、
「大毎新聞」一九三六年四月二二日付)という意見もでてきた。だがこれも戦時経済がつづくかぎり不可能なことであった。
また「本年度は結核が多いことは寒心すべきことだ。それに無学無知の青年の多いのには驚いた。
これは農奴制の結果ではないかと思われる」(山形県「渡辺聯隊司令官徴兵検査について」、
「東京朝日新聞」地方版、一九三七年八月一日付)という半封建的寄生地主制への批判さえうまれたのである。
そしてこのことの打開のために、上からの農村機械化、共同経営化の問題などが提起されたが、
そのみちは、軍需工業第一主義の政策の下では、農業機械の供給は不可能であるし、共同化も資金面でゆきづまるし、
寄生地主制の解体を指向する政策は天皇制軍隊の基礎をくずすことも意味するから、事実上手のうちようがなかった
在来の陸軍幼年学校だけでなく、少年航空兵、戦車兵、通信兵学校などの軍関係少年兵士の養成機関が
独自の教育要求からうまれ、生徒たちを引き抜くことによって中等教育体系に変質を与えていくことになった。
さらに植民地満州の安定をめざす武装農民兵としての青少年義員軍を尖端とする拓植教育の進展もめだった。
また各種学校における大陸科、支那語科の新・増設がみられ、青年学校義務制と工場事業場技能者養成における
産業と軍事の問題、体力向上のための管理策など新しい教育問題を生みだしていった。
学校教育は次第にたんなる兵員養成や労働力供給の予備的存在から、直接的なそれへと転化しはじめた。
一九三八、三九年の近衛・平沼内閣のもとでの荒木文相時代にこの傾向が一層濃厚となった。
その第一が勤労動員の強化であった。一九三八年は、応召農家の援農作業を中心とする開墾と植林が主なものであったが、
三九年には木炭不足解消のための木炭増産勤労報国運動が展開された。この年を契機に「夏休み」の呼称が廃止され、
「業を休むの観念を棄てて心身鍛錬の本義に則」るという理由で、「夏季及冬季心身鍛錬」の期間とされることになった。
そして、「青少年学徒に賜りたる勅語」にこたえるという理由もかねて「学徒隊」が結成されることになった。
さらに一九四〇年になると、飼料開発、空閑地利用の食糧増産などが加わった。この段階では
主として農業における食糧増産が主であったが、四一年の「国民勤労報国協力令」が公布されてから
軍需工業への動員がはじまった。その第二は、一九三九年五月以降のノモンハン事件の軍部の反省をへて、
精神訓練だけでなく「機械化等物質的戦備」をこなしうる軍事能力の向上がいちだんと要求され、
それにしたがって強化とともに総合化がめざされるようになった。つまり中等学校から大学にいたる教練もその範囲をひろげ、
航空、海洋、機甲、馬術、通信にいたるまでになった。さらに防空訓練も加わり女子には救護作業が必須となった。
これらのいわば基礎として、体育が重視され、一九三九年には体力章検定がおこなわれるようになった。
またこの年永年の懸案であった中等学校入学選抜としての学科試験が廃止され、これにかわって
「体位、口答、内申」によることになったが、これも受験勉強が体位を低下させるという理由のためであった。
教育審議会は一九四一年一〇月をもって審議が完了し、新たな戦争完遂のための戦時教育の展望をふくめて、
大東亜建設審議会がその任にあたることになった。四二年五月その第二部会が「大東亜建設に処する文教政策」を発表した。
それによると「皇国民の教育錬成方策」としては「教育に関する勅語を奉戴し、大東亜建設の道義的使命を体得せしめ、
大東亜における指導国民たる資質を錬成」することがめざされていた。
一九四三年九月、政府は「現状勢下における国政運営要綱」を閣議決定し、国内態勢強化方策については
(1)航空戦力増強、(2)2食糧自給国内防衛を目標とし、「1徴兵猶予の停止、2理工系学徒の入学延期、3理工系学校の拡充、
4法文系大学高度の統合整備、5義務教育八年制の延期、6徴用の強化、7女子動員の強化等を決定し、
軍要員、軍需生産要員の給源の造成を期待した」(文部省「学制八十年史」、三九四頁)。
そして、この基本方針のもとに次のような措置がとられることになった。すなわち、中学校四年修了での上級進学制、
一九四五年からの中学四年制、中学の入学定員据え置き、増設・増科は工業、農業、女子商業に限定、
男子商業学校の転換措置がなされた(「国民教育に関する戦時非常措置に就て」一〇月二五日)。
また、青年学校の授業は「可成縮減し一層生産増強に資すること」(「青年学校教育の臨時措置に関する件」一一月六日)。
高校、大学、高専の入営延期は取り止めとなり、文科入学定員は「三分の一」に削減、入学制限をはかることになった
(「教育に関する戦時非常措置に基く学校整備要項」一二月二一日)。また、教員確保のため「就職義務」が強化され、
学徒動員も「在学期間中一年に付き概ね三分の一相当期間」がこれにあてられることになった。
一方、一九四四年秋から「学徒出陣」が始められ、「校門即営門」といわれるようになった。
また他方では、国内の労働力不足は決定的となり、「学徒動員」によるほか軍需生産さえ困難となってきた。
ために一九四四年一月「緊急学徒勤労動員方策要綱」が実施され、さらに二月の「決戦非常措置要綱」の閣議決定では
年間を通ずる常時動員および学校工場方式もだされた。七月には動員学徒の一日一〇時間勤務の原則が一二時間まで延長され、
深夜業が中学三年以上の男女にも課せられることになった。
一九四五年、戦局は最後の局面を迎え、東京大空襲による被害もいちじるしくなった。
三月「決戦教育措置要綱」が決定し、「国民学校初等科を除き、学校に於ける授業は昭和二〇年四月一日より
昭和二一年三月三一日に至る間、原則として之を停止すること」となった。三月現在七割に及ぶ学徒が動員された。
五月には「戦時教育令」がだされ、「我が国学制頒布以来茲に七十有余年今や戦局の危急に際し
教育史上未曽有の転換を敵前に断行せんとす」る文部大臣訓令がだされた。
児童・生徒をそのまま「国土防衛」の名において学校報国隊の組織がめざされた。アメリカは広島に原爆を投下した。
この地に動員されていた教員および学徒九五二〇名がその生命を失い、三九九四名が傷病を背負わされた。
「なかでも建物強制疎開作業に出動するため、大田河畔に集合朝礼中の広島市内学校の学徒は原爆により全滅したと伝えられ」
(前掲「学制八十年史」四〇三頁)た。
戦時体制下の教育運動
一九三九年八月、法政大学に教育科学研究全国協議会がもたれたが、「今日の国民教育の実践者たちは、
最早教育学者に理論の貧困は訴えてはいない。彼等は国民教育の最小必要量を測定し、
それを充足することを彼等みずから実践の中に求めている。したがって彼等の衷心より求めているものは、
各地方に分散する教育実践家たちの連絡であり、協同であってしかもこのことが最も今日欠如することを痛感しているのである」と報告され、
横へのつながりを求める教師のエネルギーが感ぜられた。このことは翌年になって一そう明白になった。
第二回全国協議会では、「その後、東京の本部の外に、地方に支部が続々と増設されて、
一年をまたぬうちに会員はざっと一〇〇〇名ばかりになった」と報告された。
教育科学研究会は一九三三年に創刊された雑誌「教育」が契機となり、
城戸幡太郎、留岡清男を中心とする編集者側と読者側との間に接触が生じ、
これが生活学校・生活綴方運動などの現場の教育実践家を結集しながら、一つの教育運動として生長したものであった。
教科研には多数の研究者、現場の教師が参加したが、その共通の地盤となったものは「教育の現実への肉迫、
真実の追求、リアリティーヘ」ということ、それにもとづく「ヒューマニステックな教育の建設」の意欲であった。
留岡は教育研究について「研究は社会問題的認識――それは教育を支え、
あるいは阻害する社会的経済的条件との関連で教育問題を把握すること――を欠いてはならず、
その発展は教育運動化の方向をたどるべきであり、その教育運動の性格は
それ自身政治活動(教育政革の政策化)とならなければならない」と考えていた。
教科研の運動は教育内容・方法の問題関心と教育・政策への志向を基本的性格としてすすめられた。
その綱領は、(1)教育の科学的企画化、(2)教育刷新の指標確立、(3)教育研究の協同化、(4)地方教育文化の交流、
(5)教育者の教養の向上であり、運動の重点は教育事実の科学的把握におかれ、
これまでの教育学の観念的傾向と教育実践の技術的偏向とを排し、さらに教育計画の樹立による政策的改革を意図した。
このように教科研運動は、「研究と現場の教育実践の結合を運動の基礎においた点に、教育から政治へ、
政治から教育へというサイクルを運動化し、運動がその全過程において主導性をもつという構想を民間教育運動にもたらした」
(日本教育運動史」3、二二八ページ)点において、意義があった、会は一九三七年頃から四〇年にかけて活溌な活動を展開したが、
相次ぐ弾圧により多数の会員が拘引され、四一年にはその組織を解散せざるをえなかった。
当時、教科研運動にみられたような、潜在的な教師のエネルギーを反体制的な闘いの集団に組織するには、
指導的な中核体が欠けていたし、多くの教師たちは、体制に順応するか、もしくは手さぐりでバラバラの形で、
職場の教育課題にとりくまねばならないという苦境のなかにたたされていたのである。
他方で、教育科学研究会と同時期に発足した日本青年教師団は、東亜協同体理論にうらづけられながら、
さしあたりの仕事として、青年教師の待遇問題を手がかりに複雑な性格をはらんだまま出発した。
かれらは「顧みて国民教育現状は如何であるか、教育系統の学校志望者は激減し、殊に師範学校の入学志望者は
地方によっては殆んど絶無に近い情勢にありと報ぜられ、また教育界内部においては、転出続出して全国的に教員の不足を来たし、
ために教員の労務は著しく過重となり、その上これに伴って、二学級一教員、学級人員の増大、
無資格者の採用等教育力の驚くべき低下を予想せしむる現象が各方面に現れつつある」とし、
ここから「教師の物心両方面における生活条件改善向上の問題を、一般与論に反映さすべく、
一大運動を展開せしむ」とした。しかし、この組織も一九四一年一二月末に解散を言い渡された。
「大東亜戦争に突入して一億一心を必要とする今日、教員の待遇問題などを口にし筆にする教育団体の存在は許さないという理由」からであった。
510 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/07(金) 21:53:19 ID:AE2hQI3M0
馬 鹿 豚 と は 日 本 の 歴 史 を 汚 す 朝 鮮 人 で あ る 。
511 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/07(金) 21:55:27 ID:AE2hQI3M0
嘘 吐 き 馬 鹿 豚 は 朝 鮮 へ 帰 れ !
512 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/07(金) 22:26:29 ID:AE2hQI3M0
ほれ、馬鹿豚君。さぼってないで、しっかりスレを埋め立てなさい。
名越の捏造信じるほど頭がスカスカだから
無駄に空白使うの?
事実を突きつけられて反論不能に陥っている
中卒携帯無職コピペゴキブリ吉田(ID:AE2hQI3M0)
いいからもうゴーマニズム板とか極東板とかにいって
中学師でも騙していたら?
中卒馬鹿が泣きわめいている、だが恨むなら自分の程度の低さと
何も良いことをしなかった大日本帝国を恨むんだな
では、今日も真実の検証を行おう
わが国における青少年労働者の訓練養成は、もっぱら徒弟制度に依存していた。
もしそれを一般に考えられていた「教育」の概念からすれば、中小工業にはほとんど教育といえるものが
行なわれていなかったということができる。たとえば一九三八年一〇月一日に実施された東京市青年調査によれば、
一般男子青年層(一二〜一九才)は六一万五二七四人で、そのうち青年学校入学該当者三六万九七〇二人
(総数の六〇・一%)、そしてその青年学校入学該当者中在学者は僅に三万三一四〇人、八・九%にしかすぎなかった。
しかも、青年学校入学該当者の従事する職業のうち、圧倒的多数を占めるものは工業(約二二万人、五八・四%)で、
次位以下の職業を大きく引きはなしていた。したがって、前記青年学校在学者三万三〇〇〇人中の六割約二万人位が
工業少年であったと推定されるが、そのうちには大工場の青少年工も含まれているから、
中小工業徒弟であって青年学校を利用していたものは、ほとんどいうに足りないという現状であった。
しかも、そのいうに足りない中小工業徒弟を収容教育していた公立青年学校の教育内容がまたはなはだしく不徹底を極めたもので、
その原因、理由については、(1)学校施設の不備、(2)教師に兼任者多く青少年教育にたいする熱意研究心の欠除、
ことに職業科教師に人をえなかったこと、(3)教科の中心をなし、かつ生徒の最も有用と認める職業科に人をえなかったため、
その授業に生徒が殆んど興味をもちえなかったこと等が指摘されていた(藤井次郎「勤労青年に対する教育施設の実情について」、
労働科学研究、第一六巻八号)。
かくして、公立青年学校に通学する青少年徒弟の多くは業主との諒解なく、自ら困難を忍び学費を自弁し、
非常な期待をもって登校したのであるが、そこで行なわれている教育が、まったくかれらの予期に反したものなので、
長時間労働による疲労と、通学に好意を示さない環境の圧迫が加わって、教育効果はとぼしく、
したがってそれが出席率に影響し、また中途に学を断念するものも甚だ多いという実情であった。
ただ僅に彼らの通学の希望をつなぐ一つの教科があった。「それは教練科である。この教練科に対しては、
彼ら自身非常に有用なものとは思っていないのであるが、而もなお最も多く興味を持ちつづけているのである。
その理由としては、教練科の授業が非常に熱心に行なわれていることにもあるが、そのことよりもこの教科の魅力が
レクリエーションの代用をなすことにある。何等の慰安娯楽施設をもたぬ中小工業徒弟を長時間にわたる
朔漠極まる工場生活から解放し、心機一転英気を養わせるものは、同年輩の青年が揃って喇叭にあわせて行進したり、
思い切って声高らかに軍歌を合唱したりすることのできる教練である。
教練を慰安娯楽の代用とみなすことは問題であるが、最も強くレクリエーションを求めてえざる徒弟が、
その欲望の一端を教練の中に充さんとする気持にたいしては満腔の同情を表せざるをえない」。
(大内経雄「中小工業の徒弟教育」、社会政策時報、第二八三号、一九四〇年七月号)とのべられている。
公立青年学校の教育はかくのごとくであった。
かくして、東京市で約三〇万、全国においてはおそらく二〇〇万をこえる中小工業徒弟が、
教育的には全く放任の状態にあった。一九三七年七月に創立された日本技術教育協会は、一時的な熟練工養成でなしに、
重化学工業の発展に照応するよう国民教育全体の制度・内容を綜合技術教育の理念にそってかえようとする運動を展開した。
かつての教労、新興教育運動などに参加した人達によって組織されたこの日本技術教育協会が、
太平洋戦争下にのこした主な業績は、次の三つであったといえる(「日本教育運動史3」、三一書房一六七頁以下)。
その第一は、日本技術教育協会が設立後、最初に手がけた、高等小学校における「職業実習の教育的組織化の運動である。
この運動が当時の高等小学校の「職業実習」の実践に与えた影響は、川崎市および東京のわずかな高等小学校に
かぎられていたといえるが当時、職業指導運動の一環としておこなわれていた「職業実習」のありかたについて、
一つの新しい方向をしめしたものである。
第二には、日本技術教育協会の指導による大森機械工業徒弟学校の運営である。
これは東京市大森区内にある中小の機械工場が共同して、見習工養成施設としてもうけたものであり、
その設立および教育は、日本技術教育協会の指導のもとにおこなわれた。
当時(一九三九年)国家総動員法第二二条の規定によって工場事業場技能者養成令が公布され、
技能者の養成が事業主に義務づけられ、中小企業者が技能者の養成を実施しなくてはならなくなったとき、
この大森機械工業徒弟学校の実践は、中小企業の共同養成方式に代表的なモデルを提供したものといわれている。
第三に、「技能者養成テキスト」の編集である。
これは、さきの高等小学校の職業実習の経験および大森機械工業徒弟学校の実践を基礎として編集されたものであり、
日本技術教育協会のしごととして、当時の工場内技術教育に与えた影響はもっとも大きなものであった。
というのは、当時、工場事業技能者養成令の公布をみながら、適当な技能者養成用テキストは皆無といってよい状態で
あったからである。さらに、敗戦を間近にひかえた一九四五年三月には、海軍航空本部の教本の編集をひきうけ、出版するにいたっている。
高等小学校生徒の職業実習
職業実習を「技術教育」の一環として位置づけようとしたのは、日本技術教育協会である。
一九三七年(昭和一二年)に、日本技術協会の北村孫盛が中心となって、川崎の高等小学校の職業実習を調査分析し、
職業実習を「技術教育」の一貫として理論づけた。それによると、
(1)生産力拡充政策の根幹をなす熟練工および技術者養成問題を、国民教育の面において研究対策すべき重要問題の一つとして
職業実習を認識する、
(2)職業実習は、見習工教育の有力な基礎として、またその初歩的段階であり、見習工教育を全面的に促進せしめる戦略地点である、
(3)職業実習は、国民教育改革の、とくに内容の改造および八年延長案の教育のありかたをしめすものである、
との観点にたって、当時、増加してきていた工場実習を意義づけた。
こうした意義づけは、職業紹介法の制定によって、転換をせまられている学校職業指導にとって、
理論としてはうけいれられる素地をもっていた。というのは、職業紹介法の制定によって、
学校職業指導のうけもつ領域が、(1)職業の基礎的陶冶と、(2)個性環境の調査と国家の要求する産業への選職指導とに
ワクずけされ「職業実習」も「職業的技能の基礎的陶冶」の一方法として位置づける考えかたが芽ばえていたからである。
もちろん、日本技術教育協会の理論構成者たちの頭の中は、「生産的労働と教育の結合」による人間形成という、
ソビェトの教育のありかたが去来していたであろう。というのは、前にかかげた文献にも、それをにおわせる文章がみられるし、
同協会編の雑誌「技術と教育」にも「綜合技術教育」という言葉がしばしば使われている。……
〔だがしかし〕日本技術教育協会のイデオローグたちの主観的な意図はどうあったにせよ、
職業実習の実際は、生産力拡充という国策遂行によって左右されざるをえなかった。というのは、
高等小学校生徒をひきうける大多数の中小企業では、相かわらず、単純作業に実習生を配置して、
生産をあげることを意図したし、学校側では、そうした単純作業の技能を身につけることを、
国策遂行の立場から当然のこととし、それをもって「職業的技能の基礎陶冶」の役わりをになうものとした。
大森機械工業徒弟学校
東京都大森区内の中小の機械工場は、かねて大森機械工業同志会という同業組合を結成し、
業者間の協力と懇親をはかっていたが、労働力不足がいちじるしくなってきた一九三八(昭和一三)年一二月に、
大森機械工業徒弟委員会を設立するにいたった。そして、見習工の募集とその共同養成、共同寄宿舎、
栄養食共同炊事所および病院の経営をおこなうことになった。この委員会の運営に日本技術教育協会が積極的に参加し、
とくに見習工の教育を意図する大森機械工徒弟学校は、日本技術教育協会のイニシアチブのもとに経営された。
この徒弟学校の養成期間は、五ヵ年で、これを本科三ヵ年(技術者養成令に準拠)、高等科二ヵ年(青年学校令に準拠)にわけている。
本科は一学年定員四五〇名であり、生徒は委員会に加わっている中小工場で働く少年工をもって構成されている。
その工場数は一九三九(昭和一四)年末で六五工場におよび、そのうち、技能者養成令に定める指定工場数九であり、
使用職工数三〇名以下の部品下請の個人経営工場が多くをしめている。かかげられた目標をみると本科においては
「熟練工としての基礎的一般的な知識技能の修練ならびに社会人としての生活指導」をするとあり、
これにつづく高等科は「本科において獲得せる基礎の上に、技術的には工作機械、内燃機関、化学工業機械、
兵器等特殊機械の機能、構造、工作法等に精通せしめ、工場技術者としてその資質を向上せしめ、
同時に工場指導員としての資格を得せしむる」にあるとしている。ここにかかげられた目標は、
当時の中小の機械工場に必至とされる「多能工」養成を目ざしたものであり、大森機械工業徒弟学校が大森地区の
中小工場に籍をおく少年工を対象としたかぎり、当然のことであった。しかし当時の「多能工」養成を主張する山口貫一、
大内経雄、富塚清などが、欧米における技術教育の熱心な紹介者であったのにたいし、
日本技術教育協会のイデオローグたちは、ソビエトの「総合多能工教育」の日本版として、
徒弟学校による「多能工」養成を考えていたといえる。(中略)はっきりいえることは、意図のいかんにかかわらず、
徒弟学校の教育は、客観的には中小工業向きの使いやすい「多能工」養成にすぎなかったといえる。
宗教統制
「満州事変」以降、多数の新興宗教結社(いわゆる「類似宗教団体」)がにわかにその勢力を拡大したが、
一九三五年から三九年にかけて、「大本教」(皇道大本教団、起訴六一名)をはじめとして、
「ひとのみち教」(起訴七名)、「天津教」(検挙一五名、起訴一名)、「天理本道」(検挙三七四名、起訴二三七名)、
「天理神之口明場所」(検挙一四名、起訴六名)、「天理三輪講」(検挙一三名、起訴九名)、
「三理三腹元」(検挙一八名、起訴一〇名)、と、それぞれ不敬事件(大本教と天理教系四派は、
治安維持法違反ならびに不敬事件・結社禁止)として検挙された。
一方、宗教諸団体、とくにキリスト教、仏教等において、その教理・宗義等における反国体的言説・思想が
厳密な調査検討を受けるものが少なくなく、それらの団体の内外から排撃・刷新を呼ぶ声も強まり、
その「自由主義」「国際主義」「現状維持的平和主義」などが攻撃を受けた。
とくにプロテスタント派の多くのクリスチャンをはじめ多くの宗教者が、反戦・非戦や不敬
(神社不参拝・神棚不祀・宮城遙拝拒否・その他)の言動について「要注意」となり、
それらのことに関連して教団内の内紛や「棄教」・「キリスト教の日本化」
(「世界に比類のない日本精神を樹立せしむるものは、基督教でなくてはならない」藤原藤男)や教会の自給独立
(外国からの経済的支援離脱)などの動きも起こり、キリスト教報国会なるものも姫路に出現した。
仏教においてもたとえば三九年八月には日蓮正宗関係の一雑誌が神祇の尊厳を冒涜する記事のため発禁処分を受け、
同一二月に宮崎県の浄土宗の一住職が「世に善き戦争なく、悪しき平和なし」
「無謀の戦は一年に於て数年の事業を毀つ」等の聖句を寺前に掲出して警察に抹消させられた。
これより先、三八年三月には大阪憲兵隊の特高課長が、大阪のキリスト教牧師たちに、
天皇とキリスト教の神との関係、勅語とバイブル、神社参拝などについて一三項目の質問状を発して回答を求めており、
四月には憲兵隊から教会にたいして、「キリスト者がわが国体に対して忠良であるなら、教会に大麻を奉斎してもらいたい」
と申し入れた。立教大学では、配属将校が、礼拝堂の十字架を破壊する事件もあった。
三九年三月に成立し四〇年四月から施行された「宗教団体法」は、
「宗教団体または教師のおこなう宗教の教義の宣布もしくは儀式の執行または宗教上の行事が安寧秩序を妨げ、
または臣民たるの義務に背くときは主務大臣〔文部大臣〕はこれを制限しもしくは禁止し、
教師の業務を停止しまたは宗教団体の設立の認可を取り消すことを得」(第一六条)ときびしく規定し、
また司法省の執務資料によれば「法律の定むる各種の規定に拠るべきことはもちろんであるが
その根本理念はあくまでも民族的信念たる皇道精神に基礎を求めねばならぬと確信する。
右の皇道精神とは国家皇室を中心とする臣民道を指すのであって、これと相容れない宗教は
必ずや皇国において発展することは出来ないであろう」とされ、事実上信教の自由は著しく拘束されるにいたった。
さらに当時の通俗小説や映画などには、宣教師や日本人牧師などを悪意的にスパイとして扱ったものすら
しばしばあらわれるようになったが、四〇年七月末には救世軍本営がスパイ容疑で憲兵隊の取り調べを受けた。
救世軍はロンドンに万国本営を置いており、たまたま天津問題で国内の対英感情の悪化があふられていたことが背景になった。
東京憲兵隊は救世軍司令官植村益造以下四名(うち一名イギリス人)を防諜上の容疑で引致し、
一週間拘束して取り調べた上釈放し、陸軍省発表をおこなった。その後も数名の士官を不拘束のまま取り調べたが、
確証なく、憲兵隊当局は文部省を通じて、自発的に万国本営から離脱し、軍隊模倣の称呼を廃止し、
防諜上危険のおそれある組織を変更することなどを救世軍司令官等に誓約させた。救世軍日本本営では、
二名のイギリス人幹部を帰英させ、イギリスの本営との一切の関係を絶ち、名称も「救世団」と変更して再発足することになった。
同じ年九月、賀川豊彦は日本基督教会宣教師小川清澄とともに、反戦平和的講演・評論のため東京憲兵隊に検挙されたが、
疑い晴れて釈放された。
宗教団体法の施行にともなって、プロテスタント各教派は同法にもとづく教団としての認可をうる準備を進めたが、
文部省側では、教会数五〇、信徒数五〇〇〇以上をもたない教派は正式に認可できないとの意向を表明し、
またプロテスタント全教派の合同が「新体制」に即応するゆえんであるとの見解が政府から伝えられた。
救世軍事件はこの動きを促進させた。自発的合同のためには時期尚早との内部の意見もあったが、
四一年六月には三三のプロテスタント諸教派の合同体として日本基督教団が成立し、当局の公認を受けた。
これは日本聖公会(アングロ・カソリック)とセヴンスデー・アドヴェンチスト教会の二派だけを除いた大合同であった。
教団に加わらなかった右二派は、以後宗教団体としてもちうる庇護の特権をもちえず、
地方警察の直接監視下におかれることになったばかりでなく、「信条を有せざる基督教団との無条件合同は
聖公会の拠って立つ所と相もとる事明白なり。教会にしてキリストの啓示を基とするにおいては
之が信条を無視する事能はざればなり」として合同に反対した佐々木鎮次ら六人の監督は内部一信徒総代から
「思想謀略戦の観点より」「敵国たる米英に対し軍事上の利益を与うるものとして」告発せられるに至った。
教派の大合同は政府にとって統制を容易にし、戦争目的遂行の上意下達に役立つものであったが、
信仰の自由はこれによって大きく束縛されざるをえなかった。
各教会には「決戦態勢下基督教会実践要綱」「戦時布教方針」「決戦態勢宣言」等がつぎつぎと伝達され、
太平洋戦争開戦にあたっては「基督者は祖国のため結束して祈祷に努むべし」の檄文が送られた。
キリスト教団体にたいする直接的組織的弾圧は燈台社からはじまった。在日本燈台社(Watch Tower)は在米燈台社総本部の
日本支部として一九二七年に結成されたキリスト教系の宗教結社であり信者二七〇余名、
機関紙「黄金時代」の継続購読者約三〇〇〇であった。同社は一九三三年に幹部数名が不敬罪容疑で検挙され、
機関紙・単行本も大量に発禁処分を受けたことがある。三九年一月、社員三名が徴兵または召集されて入営したが、
かれらは上官に対し、「ヱホバ以外の被造物に礼拝することは神ヱホバの厳に禁ずる所なれば、
今後宮城遙拝、御真影奉拝等の偶像礼拝は絶対に為し能わざる」むね、また、「天皇は元来宇宙の創造主ヱホバに依り
造られたる被造物にして、現在は悪魔の邪導下にある地上の一機関に過ぎざるが故に、天皇を尊崇し、
天皇に忠誠を誓う等の意思は毛頭なき」むね等を公言し、さらに馬術訓練は神意に反する流血行為の演練なりとして
その出場命令を抗拒し、ついには、兵営生活が神ヱホバの神意に反すとの理由で脱営し、また自己の支給兵器を
神意に反する殺人器なりとして返納を申し出るなど、「不敬不遜の言辞を弄し」また軍事教練不応等の行動を重ねたものとして、
それぞれ所轄憲兵隊により不敬罪ならびに軍刑違反として検挙された。これにたいし同社幹部は、
ヱホバの忠信者が当然とるべき標準的態度であり、右行為は軍部に対する徹底証言となった等と賞揚し、
そのむねを宣伝吹聴してとくに宣明運動の積極的展開方を指令し、各地方証者等もこれを契機とし運動はいちじるしく活発さを加え、
東京・兵庫・朝鮮・台湾の各地をはじめ、全面的に顕著な教勢伸長をみた。これにあわてた内務省および警視庁当局は、
司法省および憲兵隊当局とも連絡協議の上、検挙方策を考究して調査をおえ、治維法違反ならびに不敬罪をもって三九年六月下旬、
北海道ほか一八府県において主幹者明石順三以下九一名、朝鮮総督府で三〇名、台湾総督府で九名、
総計一三〇名を一斉検挙するに至った。押収証拠品は、単行本三〇余種・小冊子三五種・機関紙二五五点・秘密機関紙二二〇点・
聖書研究一〇〇点・英独朝鮮文出版物二八〇余種・その他の物件一〇〇〇余点に上った。検察当局は同社を、
「燈台社教理による世界支配体制変革の一環として我国体を変革し、いわゆる地上『神の国』を建設することを究極の目的とし、
同教理に基く証言宣明行為によりて我国民の国体観念を腐蝕せしむると共に現存秩序の混乱動揺を誘発することを
当面主要の任務とする結社なり」と定義して治維法違反に問うこととし、五三名が起訴され、死亡、応召各一名を除き
五一名にたいして四一〜四二年に第一審判決(明石順三は懲役一二年)が下り、うち二九名が控訴した。
治安警察法第八条第二項により同社は内務大臣から結社禁止を命ぜられた。また一斉検挙後、燈台社再建運動として、
熊本県で五名、(うち三名起訴、一名病死)、新潟県で一名(起訴)が検挙されている。
キリスト教信者の葬儀にたいする干渉もおこなわれた。四〇年五月から七月ころ、
佐賀県では戦病死したカトリック信者の一歩兵上等兵の遺族はキリスト教合同村葬を懇請したが、
村当局は時局がら仏式を妥当であるとして承認せず、仏式で執行したため遺族は別にキリスト教葬をおこない、
福岡県でも、戦病死したカトリック信者の一砲兵一等兵の公葬につき遺族は村当局の決定した神式に反対して
キリスト教葬を希望して紛議を生じたが、警察署の調停により神式の村葬執行前に親族間のキリスト教式私葬がおこなわれた。
日米開戦から一ヵ月あまりたった四二年一月、聖教会系で当時日本基督教団(前述)の看板を掲げていた
北海道函館の教会の牧師補小山宗祐の自決事件がおこった。同氏は、隣組が輪番制で毎朝ゆくことにしていた
護国神社参拝を拒否したとして訴えられ、憲兵隊と警察の取調べを受けて起訴され、判決が出る前に未決監房で自殺してしまった。
絞殺されたのではないかと疑う者もあったが、当局の発表では自決であった。
四二年四月、名古屋の聖ペテロ教会(聖公会系)の一牧師は隣組常会において事変公債の購入割当が協議された際、
「購入割当ということは町内や隣組の平和をみだす因である。われわれは公債の割当は御免こうむりたい。
この公債は金のある人や事業で金をもうける人が購入するのが当然だ」と述べて割当を拒否しまた防空作業に出動せず、
銃後奉公会費の拠出を拒んだ。
右の小山牧師補の所属した旧聖教会は一九三六年まではホーリネス教会といわれており、
同教会はその年末から「日本聖教会」と、「きよめ教会」(および東洋宣教会きよめ教会」=旧きよめ教会正統派)
の二団体に分裂したのであるが、前者(教会一九七、宣教者二五三、信徒一万六三五〇。一九四二年七月現在内務省調)
が日本基督教団第六部として、後者(教会一○七、宣教者一四○、信徒七三六一。同上)が同第九部として合同したのは
四一年六月のことであった。これら元ホーリネス系の教会の牧師(信徒二万五〇〇〇人、日曜学校会徒三万人、
教会一六四、巡回伝道所三〇〇、牧師・伝道師二五〇人)に対する大規模な検挙が二六府県にわたって四二年六月におこなわれた。
日本基督教団第六部では会長車田秋次(神田教会)聖書学校長米田豊・財務部長小原十三司(淀橋教会)・
総務部長安部豊造(杉並教会)をはじめ「聖教会」系の五六名、日本基督教団第九部では会長斉藤源八・
海外伝道部長森五郎(上海教会)・大阪教会工藤玖三等の幹部をはじめ「きよめ教会」系の五五名、
および「きよめ教会」の分派(尾崎派)の一二名、が全国各地で検挙された。検挙とその後の裁判の法的根拠となったのは、
治安維持法第七条・治安警察法第八条・宗教団体法第一六条等であった。取調べにあたっては、
「伊勢大神宮を偶像として見るか」「天皇はさばかれるか」等の質問が使われた。結局、聖教会関係では四四年一二月の公判において、
禁錮二年(未決通算)二名、体刑三年(執行猶予五年)六名、同二年(執行猶予三年)四名、同一年(執行猶予二年)一名
(求刑は体刑七年一名、同六年三名、同五年四名、同三年四名、同二年一名)、「きよめ教会」系では体刑三年六ヵ月(名古屋)一名、
執行猶予一六名の判決があり、上告すればかえって実刑になるから損だとの意見を拒否して上告したまま終戦となり、生存者は解放された。
地裁の判決は東京より重く、外地はいっそうひどかった(朝鮮では終身刑)。その間に五名が獄死し、
二名は死の直前釈放されて直ぐ死亡した。小出明治は上告も却下され、病中服役延期願も許されずに実刑に処されたまま、
遺族は突然死亡を知らされ、「獄衣はくれられないから全裸で死体を渡す」と告げられて裏口から引き取ったが、
脳天に二ヵ所ナタでなぐりつけられたらしい傷跡があったという。また「きよめ教会」の工藤玖三は八○才をこえて牢死した。
また元ホーリネス教会は、いずれも四三年四月、内務省の命令によって教会結社許可取消しの通達書が発せられ、
教会は解散させられ、集会所は閉鎖された。
日本セブンスデー・アドベンチスト教団(キリスト再臨団。内務省調によれば、教会一八、宣教者三二名(外国人四)、
信徒一一〇〇名)は、四三年九月に全教師および信徒の有力者が検挙され、四四年六月に解散処分をうけた。
また四一年から四二年にかけて、「耶蘇基督之新約教会」関係で、東京、愛知、高知、兵庫、静岡の各地で
計四三名が治維法違反として検挙された(起訴二二名)。
無教会派クリスチャンでは、「プレマス・プラズレン」のグループが、四一年九月に大阪で八名、
四二年三月に東京関係者六名が検挙され、それぞれ起訴された。
無教会派の東大教授矢内原忠雄は、三七年におこなわれた藤井武第七周年記念講演において、
「日本の理想を生かす為めに、一先づ此の国を葬って下さい」と述べたことをとがめられて東大を辞任したあと、
各地で広く研究会・講演会をひらくとともに個人雑誌「嘉信」に力をそそいで不屈な信念を守った。
三九年一一月の「基督教徒大会」へ松井陸軍大将が出席して挨拶したことについては、
「その陸軍大将は南京事件当時の最高指揮官であった。南京陥落の時に、アメリカのミッションで建ててゐる基督戦の女学校に対して、
一つの大きな間違が犯された。若しもさういふ事実を基督教徒大会の主催者が知らなかったとするならば、
之は甚しき怠慢である。知ってゐたとするならば、何という厚顔無恥であるか。その事件の責任者たる者は、
手をついて基督教会の前に謝らなければならない。基督教徒大会は、日本の基督教徒の名に於いて
謝罪を要求すべきではないであろうか。それを全民衆が起立して迎へるとは、之ほど逆さまの事がありますか」
(「嘉信」、四〇年一月号)と述べ、また、「歴史を辿ってみれば、欧米諸国だけが支那を半植民地化する政策をとったと
いふやうな事は言へません。西洋だけが間違を犯したのであると考へるのは、学問的にも歴史的にも
成り立たない勝手な議論であります」(同六月号)と断言し、「風はいつ迄も吹くにあらず、火はいつ迄も拡がるのではない。
焼跡に残って、燦然として輝くものは基督者の信仰である。神の審判は行われ、神の経綸は遂行せられる。
我らは信仰によって之を見、之に一身を托して平静である。義は必ず不義に勝ち、建設は必ず破壊に勝ち、
神の国は必ず世に勝ち、キリストの栄光は必ず顕揚せられるであらう」(同四一年八月号)とした。
「嘉信」にたいしては何回となく発禁・削除・注意等の処分が加えられ、四二年一二月には用紙の割当を全廃されたが、
圧迫にひるまず、用紙を他から入手して刊行をつづけた。四四年六月、警視庁は「嘉信」の廃刊を命じたが、
これにたいし矢内原は、名前だけ「嘉信会報」と改め、「雑誌は廃刊になっても伝道は廃すべからず。
印刷の出来る間は印刷により、印刷が出来なくなれば謄写版により、謄写版も出来なくなれば筆写回覧の方法によりても、
キリストの福音は宣べ伝へられねばならないのである」との決然たる態度をとり、
謄写版をもって敗戦に至るまでついに一月も欠くことなしに刊行を継続した。敗戦直前の七月の「嘉信会報」には、
「余が己の為めに願ふところは三つある。第一は、余の名の天に在る生命の書に録されてあらんこと之である。
第二は、天に召される日まで余の信仰の純粋に保たれんこと、之である。第三は、余の言の保存せられて後世に証とならんこと、
之である」としていた。
また、矢内原忠雄が「私の最も敬愛する福音の証者」と呼んだ浅見仙作は、
一八六八年新潟の農家に生まれ、単身北海道に渡って開墾に従事し、五年後に五〇町歩の墾成地地主となり
村会議員や郵便局長になったが、石狩川の氾濫で無一物となって洗礼を受けてキリスト者になった。
そのごカリフォルニアに出稼ぎに行って日雇や人夫となり、帰国後は浴場業を営んだりして、主に農民や床屋や郵便集配人など
を対象に各地に伝道したが、かれの発行していた伝道紙「喜の音(よろこびのおとずれ)」は日中戦争にかんする筆禍事件で
一九三七年一〇月に廃刊せざるをえなくなった。そのご七五才になった浅見は反戦思想の疑いで四三年七月に札幌警察に検挙され、
翌年二月まで二〇〇余日のあいだ零下一五度の地下コンクリート監房に留置された。
札幌地裁の公判では、「天皇統治が千年王国の建設に際して廃止せらるべきものとなす国体を否定すべき内容のものなることを
知悉しながら該教理の宣布を目的とする集団を結成」といわれ、「平素反戦思想を抱き、且つ我国の国体に反するキリスト教を信じ、
幾度説諭しても翻意することなく、亦自分が信ずるのみならず、集会を開き同思想を鼓吹し、
剰え日本全国から満鮮地方まで巡歴して同思想を宣伝し、尚月刊雑誌や印刷物を頒布して益々その思想を昂揚せんとするものであって、
治安維持法第七条及び第八条に抵触するもの」として四年を求刑され、懲役三年の判決を受けたが、
直ちに大審院に上告した。(控訴は治維法第三三条で許されなかった)。
大審院では三宅正太郎裁判長係りで四五年三月事実審理に附すとの言渡しがあり、その結果、第一審を誤判とし、
無罪の判決が六月に下された。この裁判は「旧憲法下におけるわが国の裁判官の名誉を保持し得たものとして特筆すべきもの」
(斉藤秀夫「裁判官論」)といわれ稀有の例であった。
わが国における新劇運動のメッカともいうべき築地小劇場は、一九三三年の改築後は「新協」「新築地」両劇団をはじめとする
新劇公演によって経営され、両劇団の中心メンバーによる管理委員会が管理してきたが、建築物の大改装を要するようになったのを機会に、
土地建物の所有者であった土方家から買収し、資本金八万円の株式会社築地小劇場を創立して改築にあたることになり、
三九年一一月工事完了して開場した。戦争下において、わが国新劇の代表的二大劇団であった「新協劇団」と「新築地劇団」は、
他の進歩的文化団体がそれぞれ弾圧を受けて活動の衰微した中にあって、
本拠である築地小劇場の舞台を中心に活発な公演活動を展開し、関西をはじめ朝鮮などへも巡業し、
またしばしば都市大劇場へも進出し、さらに映画会社と提携して映画を製作したほか、
各地に後援会を設けて観客組織を強化してしばしば座談会・講演会等を開催し、
また地方の新劇団体にたいしても指導的な影響力をもった。この両劇団にたいして、一九四〇年八月、大規模な弾圧がおこなわれ、
両劇団とも即刻解散することを強要されるとともに、劇団員・後援会員をふくめて全国的な検挙を受けた。
検挙されたのは、東京では、新協劇団関係の村山知義・久保栄・滝沢修ら二六名、
新築地劇団関係の八田元夫・千田是也・岡倉士朗ら一四名、大阪で新協劇団関西後援会の四名、
新築地劇団大阪後援会の四名、大阪協同劇団の馬渕薫ら二名、広島で新協劇団広島後援会の九名、
静岡で新協・新築地両劇団後援会の八名、島根で山陰新協後援会の一〇名、京都で新協、新築地両劇団後援会関係の三名、
総計八○名(まもなく釈放されたものを除く)であった。劇団関係者(テアトロ社をふくむ)のうち起訴されたのは一四名
(四二年七月の判決では、それぞれ二〜八年の刑、執行猶予三〜四年)である。
新協劇団は、日本プロレタリア演劇同盟(プロット)加盟の左翼劇場(プロット解散後は中央劇場)を母体とし、
村山知義の「新劇大同団結の提唱」にもとづいて一九三四年に結成されたものであり、長田秀雄、秋田雨雀、村山知義からなる
幹事会と滝沢修らの総務課(四〇年六月改組)を中心として組織され、全国に二一の後援会(約一二〇〇名)をもっていた。
三七年の「事変」以後の主要な公演としては、トルストイ「アンナ・カレニナ」(杉本良吉演出)久板栄二郎「北東の風」
(村山知義演出)、島崎藤村「夜明け前」第一・二部(久保栄演出)、張赫宙「春香伝」(村山演出)、
久保栄「火山灰地」前・後篇(久保演出)、キングスレー「デッド・エンド」(村山演出)、オニール「初恋」(同上)、
久板栄二郎「千万人と雖も我行かん」(同上)、ゲーテ「ファウスト」第一部(久保演出)、久板栄二郎「神聖家族」(村山演出)、
本庄陸男「石狩川」(同上)、長田秀雄「大仏開眼」(伊藤道郎演出)、ヴェデキント「出発前半時間」、(松尾哲次演出)、
真船豊「遁走譜」(千田是也演出)などがあり、公演延日数三六九日、三九年一年間だけで八一日、約七万人の観客を動員した。
その他、映画会社と提携して、「初恋」(東宝)、「空想部落」(南旺映画)、「多甚古村」(東宝)、「煉瓦女工」
「奥村五百子」(東京発声映画)などの映画に出演し、また講演会・座談会等を三一回おこなっている。
新築地劇団は、土方与志のあとを追って築地小劇場を脱退した薄田研二・丸山定夫・山本安英らにより
一九二九年に結成された劇団で、のちには同じくプロツトに加盟して活動し、その解散後、新劇の大同団結には
劇団としては加わらず、薄田幹事長以下石川尚・和田勝一・八田元夫ら(岡倉士朗・山川幸世らは解散直前に、
千田是也らはその前に脱退)の幹事会を中心として組織され、全国に一二の後援会(約二〇〇〇名)をもっていた。
三七年の「事変」以後の主要な公演としては、山本有三「女人哀詞」(山川幸世演出)、藤森成吉「渡辺華山」(岡倉士朗演出)、
八木隆一郎「嗤ふ手紙」(千田是也演出)、長塚節「土」(岡倉演出)、三好十郎「彦六大いに笑ふ」(山川演出)、
ゴーリキー「どん底」(同上)、アーサー「ジャーナリスト」(千田演出)、イプセン「幽霊」(青山杉作演出)、
豊田正子「綴方教室」(岡倉演出)、藤森成吉「江戸城明渡」(山川演出)、高倉テル「子もり良寛」(千田演出)、
真船豊「黴」(久保田万太郎演出)、シェークスピア「ハムレツト」(山川・岡倉演出)、伊藤貞助「金銭」(岡倉演出)、
梅本重信「武蔵野」(同上)、豊田正子「喧嘩」(石川尚演出)、上泉秀信「ふるさと紀行」(八田元夫演出)和田勝一「海援隊」(同上)、
水木洋子「早春」(石川演出)、中本たか子「建設の明暗」(岡倉演出)、三好十郎「浮標」(八田演出)、
真山青果「坂本竜馬」(岡倉演出)などがあり、公演延日数三七三日、三九年一年間だけで九九日、約七万人の観客を動員した。
その他、松竹と提携して随時映画出演をしていたが、三九年からは南旺映画と団体契約して「空想部落」に、
また日活映画と契約して「海援隊」に出演し、講演会・座談会等を七回おこなった。
前述したように、四〇年八月の一斉検挙と同時に、両劇団の即時解散が強制されたが、
当時の新聞には、両劇団代表者二名を警視庁に招致「自発的解散をしょうようしたところ両氏とも快諾し
それぞれ劇団員にはかった結果、新協劇団は二二日、新築地劇団は二三日いずれも解散を決議」
という虚偽の報道が強制掲載された。事実は、この弾圧にたいして予想される全国的反対運動を起こさせないよう、
みずから前非を悔悟反省したという声明書き発表させるために両劇団の首脳者である長田秀雄・薄田研二の
二人を検挙しなかったのであり、それぞれ劇団の緊急総会を開いてみずから解体した形をとったが、
そのころ右二名を除く劇団員は警察署に逮捕されていて総会など開けるはずはなかったのである。
つづいて各地の後援会も、それぞれ「当局のしょうよう」によって解散した。
地方劇団についても同様であり、両劇団につづき「大阪協同劇団」、「劇団制作派」(大阪)、[劇団ドウゲキ」(大阪)、
「大阪人形座」、「岡山演劇集団」、「北陸新劇協会」(金沢)、「エランヴィタール小劇場」(京都)等も警察の「しょうよう」によって
「自発的」に解散した。演劇雑誌「テアトロ」も発行停止となり(一二月同社解散)、その編集責任者は起訴され、
人形劇団プークには解散命令が出された。新劇後援会関係者の検挙はその後もつづいた
(たとえば四一年に聖路加病院看護婦グループ二名、旧東交巣鴨グループ四名等)。
築地小劇場も四○年一一月には国民新劇場と時局向きに改名したが、
依然としてそこを根城とする新劇小劇団の活動はつづけられた。保釈で出てきた劇団員たちの多くは
営業停止の令状を渡され、活動不可能となってていたが(「興業取締規則第九七条によりその業務を停止す、
右相達す、警視総監」、「映画法第六条により演技の業務に従事することを停止す、右相達す、内務大臣」)
それにふれない人たちも加わって、四二年二月には、「瑞穂劇団」(宇野重吉・信欣三・北林谷栄ほか。
はじめ農山漁村文化協会直属、のち日本移動演劇連盟専属)、「文化座」(井上演劇道場から分立、山村聡・鈴木光枝ほか)、
「苦楽座」(薄田研二・丸山定夫・徳川夢声ほか)などが活動をはじめた。鑑札をもらえず「営業停止」になった人たちも、
新劇以外には出演を許された者もおり、他人の名義にかくれて仕事をした人たちもあった(村山知義・千田是也など)。
国民新劇場においても、それが四五年三月にアメリカ空軍の爆撃で焼失するまでの間に、
約二〇の新劇劇団が九〇余の戯曲を上演し、その他歌舞伎・新派・児童劇団を含めて月平均二五〜三三回の公演が
空襲警報に中断されながらつづけられた。四四年には「俳優座」(千田是也・青山杉作・東野英治郎ほか)が発足し、
つづいて「芸文座」(東宝劇団部、滝沢修・宇野重吉ほか)が旗上げ公演をもった。文学座は情報局からその指令下の劇団に
なるよう「しょうよう」されたが、それを拒否した。苦難な条件の中においても、いくつかの芸術性をもつ舞台が上演された。
文学座は岩下俊作「富島松五郎伝」(里見ク演出)、真船豊「鶉」(久保田万太郎演出)、飯沢匡「北京の幽霊」(長岡輝子演出)、
真船豊「田園」(千田是也演出、名義上は真船)、森本薫「怒涛」(久保田演出)を、瑞穂劇団は知切光才「左義長まつり」(久保田演出)、
「北斗星」(千田演出、名義は真船)、伊藤貞助「高原農業」(千田演出、名義は里見)、文化座は三好十郎作、
佐々木隆演出の諸作品や和田勝一 「牛飼の唄」、苦楽座は真船豊「見知らぬ人」(真船演出)、
三好十郎「夢の巣」(里見演出)、松竹国民移動劇団は真山青果「平将門」(鈴木英輔演出)をそれぞれ上演した。
「移動演劇」運動は、もともと戦力増強のために内務省の「演劇の浄化と統制」方針にそい、大政翼賛会文化部の提唱を受け、
情報局の指導と援助の下におこなわれたものであったが、全国の農村・漁村・鉱山・工場・学校など広い範囲にわたって
尨大な観客層を集めて展開され、戦争の後期には演劇界の主流になっていた。「日本移動演劇連盟」は四一年五月に結成され、
はじめは松竹・東宝などの七団体であったが、四二年から「瑞穂劇団」などが加盟し、
その後、「文学座」「文化座」「前進座」「井上演劇道場」なども参加し、四三年三月には社団法人に組織化された。
観客動員数も、四二年は二二二万、四三年は二九八万、四四年四五八万に上った。
苦楽座は「桜隊」、俳優座は「芙蓉隊」としてそれぞれ移動演劇隊に編成替えされ、文化座、文学座、芸文座なども
移動演劇に移っていった。「桜隊」は広島で原爆を受け、丸山定夫ら全員が爆死したことは、
「上海事変」での呉淞クリークにおける友田恭助の戦死とともに、日本の新劇に加えられたいたましい戦争の爪跡であった。
なお地方では、新劇後援会を中心として演劇活動その他広範な文化運動を展開した名古屋の「映壇社」グループ関係で
三九年から四〇年にかけて計四二名が検挙され、「劇団新潟」関係では四〇年五月と九月に計一〇名が検挙されている。
東京では日大・慶大の学生たちによる劇団「青麦座」関係で三九年一一月四名が検挙された。
525 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/09(日) 00:58:23 ID:Z4rf1an10
ここは長文テストスレですかそうですか。
「詔書」第一案の分析(3)大東亜会議の虚実
他國主權ノ毀損ト領土ノ侵略トハ 固(もと)ヨリ朕カ素志ニアラス
1943年
2月1日 ダルカナル島撤退
4月18日 連合艦隊司令長官・山本五十六戦死
5月29日 アッツ島玉砕
9月 イタリア、連合国に降伏
枢軸国はイタリアが脱落し、ドイツ軍の敗退もこの年から始まっている。日本の敗色もいよいよ濃い。
この状況のもとで、日本軍政はビルマ(8月)とフィリピン(10月)に独立をあたえる。
そして、日本は11 月5、6日に「大東亜会議」なるものを東京で開催した。招請されたのは中国、タイ、満洲国、フィリピン、ビルマであった。
中国とはもちろん南京の汪精衛(=汪兆銘)傀儡政府の方である。タイ国首相ピブンは病気を理由に欠席している。
また、当時在京中の「自由インド仮政府」首班チャンドラ・ボースが陪席した。日本側は東条英機首相が出席した。
各国の国会議事堂における演説はいずれも真の独立への期待と願望を強く訴えといる。
また、会議は「共存共栄」「独立親和」「文化昂揚」「経済繁栄」「世界進運貢献」の五原則を採択したが、
大東亜共栄圏の実態はどうだったのだろうか。
1943年2月1日の衆議院秘密会において佐藤賢了陸軍少将は、南方の軍政状況を説明して次のように述べている。
行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、
実際ニ於テ大シタ変リハナイ―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、率直ニ申シマストサウデアリマス
ビルマとフィリッピンの独立とは、独立といっても日本軍の軍政下にあるのと変わらないという質のものでであった。
いまだ独立していないその他の地域の扱いはどうなっていたのか。
大東亜会議の半年ほど前の 1943年5月31日の御前会議で次のように決定されていた。(「大東亜政略指導大綱」)
其ノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム 但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セズ
(イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム
(ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応ジ努メテ政治ニ参与セシム
(ハ)「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム
(ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス
「其ノ他ノ占領地域」とは具体的には、現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアにあたる。
そこは日本の領土にするとしている。そして、ニューギニアなどについては、日本の領土にする方向で「追テ定」めようと言う。
しかもこのことは「当分発表セズ」、つまり秘密にしておこうと言っている。なによりの重要なことは、
これは天皇も承知していたということだ。これらのことは「固ヨリ朕カ素志」であったのだ。
以上のように、開戦時に設定した大義名分「大東亜共栄圏の建設」は、東南アジア諸国を
欧米の植民地主義から解放し独立を与えようというものであったが、
実態は、石油などの重要資源や戦略的拠点の確保のために占領地域を日本の領土にし、
日本が欧米に代わって新たな支配者になろうとしていたのだった。
ところで、大東亜会議に招請された各国のその後はどうなったのか。
まず、タイの大東亜会議不参加はタイ独自の絶妙の外交戦術であった。
米英との間に一定の和平路線をも保っていたのだ。日本敗戦時の危機にも巧妙に対応した。
当時のアパイオン内閣は舞台裏で「日本軍を一網打尽にする凄い筋書」を作っていたと言う。
ビルマについてはビルマ大使だった石射猪太郎の『外交官の一生』が日本が独立せしめた「独立」ビルマの最期を伝えている。
1945年3月のオン・サンの反乱、ラングーンの大空襲、軍司令部の混乱、そしてバー・モウ総理らのラングーン脱出で「独立」ビルマは崩壊した。
ちなみに、ビルマ共和国が成立したのは1948年 1月のことだった。
フィリピンは太平洋戦争での最後の戦場となった。日本敗戦後、日本の傀儡政権(ラウレル)に代わりロハスが大統領となって、
1946年7月に二度目の「独立」を獲得した。
満州国は日本敗戦とともに崩壊、傀儡皇帝薄儀は一市民にかえった。南京政府ももちろん消滅
(汪兆銘は1944年11月に死亡している)し、中国は国共内戦の場となった。
太平洋戦争
第二次世界大戦に突入前の日本が敵意を持つ国に包囲されている閉塞(へいそく)状況を
ABCD包囲網といった。Aはアメリカ、Bはブリティッシュ(イギリス)、Cはチャイナ(中国)、Dは
ダッチ(オランダ)である。オランダとはオランダ植民地の蘭印政庁のことである。
日本が中国との戦争打開のために行った仏印侵入が、かえってアメリカの反発を招き、1941
年8月のアメリカの対日石油輸出禁止宣言にBCDが従った。
石油がなくなれば軍艦、飛行機は動かすことは出来ない。日本は、@アメリカの脅しに屈し
て中国から撤退する、or Aアメリカと戦争する、の選択肢しか残されなかった。
日本が行った選択はAである。出来るだけ速やかに南方を占領して資源を獲得しアメリカと
の長期持久戦に備えることとした。日本にとって南方の豊かな資源は垂涎(すいぜん)の的であ
った。インドネシアに最も期待したのは石油と飛行機製造の原料であるボーキサイト(→552)で
ある。
大陸政策を優先していた日本が東南アジア地域に目を向け、"南進論"を国策として明確に
したのは1936(昭和11)年である。東南アジアを日本の利益圏として進出を図った。日本は戦
争に訴える前に平和的手段による資源確保の努力はした。
1940年9月、日本政府は小林一三商工大臣を代表とした使節団を蘭印政庁のバタビアに派
遣した。日中戦争継続中の日本は石油、ボーキサイト、錫、ゴムの南方の資源が不可欠であ
り、その確保を目指すものであった。⇒小林一三
日蘭会商といわれる外交交渉で72万トン石油輸入について合意したものの日本の欲しい数量
と差がありすぎた。石油開発に日本企業の参入を求める交渉も受け付けられなかった。日蘭
会商は外交ゼスチャーであって始めからダメモト交渉であった。
艦船と航空機の燃料のジリ貧を図るABCD包囲網の中で日本が打った起死回生の、結果的
には「やけくそ」の手が1941年12月8日の真珠湾攻撃であった。連合軍に宣戦布告を行い真珠
湾の攻撃と同時にマレー半島に上陸し、破竹の勢いで南下し、1942年2月15日、シンガポール
を攻略した。⇒日本占領軍の枢軸国歓迎
第二次世界大戦の開始とともにオランダはドイツに破れ、オランダ領東インドはロンドンの亡
命政府下にあったが、現地の植民地政庁が日本に刃向かうには弱体であった。連合軍として
米英の支援はあったが、実際の援軍はアンボンなど東インドネシアに配置されたオーストラリ
ア軍だけであった。
日本が本当に占領したかったのは蘭印であり、蘭印の資源、特に石油であった。1942年1月
24日バリックパパン(→193)、2月15日パレンバン(→102)を占領し、渇望していた石油基地を手
に入れた。
ジョヨボヨ王の予言
1941年12月8日、太平洋戦争開始に続く日本の蘭印侵攻は落下傘の降下に始まった。翌年
1月11日、海軍がスラウェシ島のマナド(→208)に、2月14日、陸軍がスマトラ島のパレンバン(→
102)を落下傘部隊が占領した。ジャワ島の攻略は1942年3月1日に始まり9日には全島を占領
した。⇒「空の神兵」降下 ⇒「空の神兵」降下
鮮やかな日本の進攻はインドネシアの住民からジョヨボヨ王(注)の予言の実現として歓迎さ
れた。ジョヨボヨとはクディリ朝(→245)の国王であり、王の編纂したパラダユダ(→947)の深遠
なる言辞が予言としてジャワ人に銘記されてきた。
「わが王国はどこからか現れる"白い水牛"の人に乗っ取られるであろう、彼らは魔法の杖を
持ち、離れた距離から人を殺すことができる」の予言通り、ジャワは魔法の杖(=鉄砲)を持っ
た白い肌の人(=オランダ人)に支配された。
その予言の続きは「白い人の支配は長く続くが、やがて北からの"黄色の猿"の人が白い人
を追い出し、とうもろこしの寿命の間、この地を支配した後に"ラトゥ・アディル(正義の神)"の支
配する祝福される治世がくる」という。「天から白い布をまとって降りてくる」という落下傘部隊の
予言もあるらしい。
日露戦争で日本が勝って以来、インドネシアをオランダの軛(くびき)から解放してくれる黄色い
人とは日本人であろう、とジョヨボヨの予言が密かにささやかれはじめた。日本(NIPPON)には
「Nanti Indonesia Perang Pula Orang Nederland(インドネシアはオランダ人と戦うだろう)」という
シンカタン(→964)が流布(るふ)されていた。
このような願望と期待の中で日本の戦勝は見事であり、それまでの絶対支配者であったオラ
ンダ人が黄色い人の日本軍に敗れて捕虜になる有様は植民地でそれまで信じられてきた白
人優位の神話を目の前で根底から覆すものであった。
日本軍は進攻に際し、後に国歌となったインドネシア・ラヤを放送した。オランダに政治犯とし
て捕えられていたスカルノ、ハッタ、シャフリル等の民族主義者は日本軍によって釈放された。
ちなみにジョヨボヨ王の予言は日本軍によるオランダ撃退の予言が的中したばかりではな
い。ジョヨボヨ王の予言は今日も信じられている。予言の内容は「黒い蟻が清めた灰に卵を産
む」とか「孔雀が鰐を淫する」というような比喩(ひゆ)である。含蓄に富む比喩であるので色々な
解釈が成り立つ。⇒日本の軍票
ジャワの救世王ラトゥ・アディル信仰(→339)もジョヨボヨ王の予言に基づく。ちなみにジョヨボヨ
はインドネシア独立に続く指導者の名前を【NO-TO-NE-GO-RO】と予言しているという。
SukarnoとSuhartoと的中しているが、しかしそれに続く3代目ハビビ大統領、ワヒド大統領も
NEではなく、ジャワ人にとって暫定大統領でしかなかった。次に選出されたメガワティ大統領の
MEはNEに近かったが、2004年の選挙で破れた。
ジャワ占領
1942年3月1日、日本軍はジャワ海海戦を潜り抜け、西部ジャワのバンテン湾(→115)、中部ジ
ャワのエレタン、東部ジャワのクラガン岬(注)の3方面からジャワ島に上陸した。日本軍の進
撃を止めるものはなく、3日ボゴール、6日バタビア、7日スラバヤ、レンバン、チラチャップを
占領した。
8日に包囲されたバンドゥンのオランダ軍はカリジャティで停戦を申し出、9日にボールテン最
高司令官から無条件降伏の命令がラジオで全オランダ(蘭印)軍に伝えられた。
ジャワ島にはオランダ軍に加えて豪州、英国、米国の連合軍は合計約10万人がいた。バンド
ゥンには5万人の兵を集結しており、これに対してジャワ島へ攻め入った日本軍は4万人であ
る。
日本軍の進軍が目覚ましかったにしろ海際の戦いではかなり抵抗したオランダ軍が、一旦、
日本軍に上陸を許すと何故このように脆(もろ)かったのか。オランダは日本軍の兵力を20万人
と誤認していたといわれる。ボールテン軍司令官の上位になる英国の連合軍総司令官は既に
インドへ逃げていた。⇒日本軍 ⇒スラバヤの日本軍
オランダが降伏を申し出た最大の理由はジャワの人民がこぞって日本軍を歓迎するのを目
の当たりにしてオランダ人は孤島に取り残されたことが分かったからである。彼らは数万人に
すぎない日本軍の背後に何千万人のインドネシア人を見た。
オランダ軍が進軍の妨害のために道路へ切り倒した街路樹をどこからか現われた住民が取
り除いた。ご飯や果物の食料を手にした住民が沿道に集まり日本兵を迎えた。
日本軍は解放軍のように振る舞い、インドネシア・ラヤ(→297)の音楽とともに進駐してきた
が、間もなく日本の正体は明らかになった。蘭印を占領したのはインドネシア独立を実現する
ためではなく、南方の資源確保、特に石油の入手のためであった。
一旦、占領を完遂した日本は蘭印を軍政下におき、独立はもとより【インドネシア】という用語
(→290)にさえ慎重になった。⇒オランダ人捕虜
日本は蘭印を直轄占領領土として軍政がしかれることになった。蘭印占領地の日本の軍政
支配は陸軍と海軍の間で地域別分担を行い、ジャワ島とスマトラ島は陸軍、それ以外のボル
ネオ島から東は海軍と縄張りを決めた。しかも陸軍はジャワ島を第16軍に、スマトラ島とマレ
ー半島を第25軍の管轄にしたことは、いわばインドネシアの三極分割であった。
このような分断統治は日本軍部の縄張り意識の結果であったが、民族主義者が主張するイ
ンドネシア統合に水をさすものであった。民族主義運動はジャワ島を中心に進められ、蘭領全
地域を一括してインドネシア国の独立という高い理想は堅持された。
ジャワ島司令官である陸軍の今村中将は融和政策でもって占領地に臨んだ。その意図はジ
ャワ島に対しては物資の確保が目的であり、このためには民族主義者を味方にする方がよい
という現実的判断があったのであろう。
3A運動
1939年ヨーロッパで勃発した第二次世界大戦の大波はアジアにも押し寄せ、南方進出を意
図した日本の工作が活発になった。日本がナチス・ドイツと同盟国であること、満州国という傀
儡(かいらい)国の実体が知られるにつれインドネシアの民族主義者の中には日本への警戒の
声もあった。しかし日本はヨーロッパの植民地帝国に対抗するアジアの国としてのインドネシア
人の思い入れは強かった。
太平洋戦争勃発(1941/12月)とともにインドネシア・ラヤ(→297)の歌声も高らかに鳴らし、メ
ラ・プティ(→296)を旗めかせて、かのオランダを1週間あまりで下した日本軍に住民は熱狂し
た。⇒日本の技術指導 ⇒日本のポスター
占領後の日本軍政下の宣伝部(→353)の主導のもとに清水斉によって進められた運動が3A
運動(Pergerakan Tiga A)である。【アジアの光=日本・アジアの守護者=日本・アジアの指導
者=日本】というスローガンである。この大袈裟(おおげさ)なスローガンに悪乗して精神主義を
説く日本には奢(おご)りがあった。
解放者という触れ込みにもかかわらず一旦、蘭印(インドネシア)を占領するやインドネシア・
ラヤもメラ・プティも禁じ、日本への住民の期待は裏切られた。資源の接収、ロームシャの徴用
など帝国主義者の馬脚を現わしてきた。
日本人の粗野な言動はすべてのインドネシア人が感じる苦痛であった。日本兵はすぐに「バ
カヤロー」とどなり、わずかのことでビンタをくらわした。これらの行為には日本的習慣をこえ原
住民への見下しを伴っていた。
特に礼儀作法の厳しいジャワ人にとって日本人から受けた不当な侮辱は永久に消えないトラ
ウマとして残っている。人間としても日本人はオランダ人より程度が悪いと密かに軽蔑されてい
た。⇒日本軍と民族主義者
日本軍は集会の機会に住民を整列させて日本の天皇陛下のいる東京の方角に遥湃(ようは
い)させた。いわゆる“皇居遥湃”である。イスラム教徒にとって神は唯一のアッラーであり、日
本の天皇陛下を神として認めることはできない。頭を下げてお祈りをするのはメッカの方角だ
けである。皇居遥湃の強制は熱心なイスラム教徒の反乱の原因となった。
「日本占領時とは総括すればインドネシア人にとって次のような時代であった。
青年達はニッポンゴを教えこまれ、トーキョに向かって遥拜し、ケイボウダン(警防団)、セイ
ネンダン(青年団)、スイシンタイ(推進隊)、ヘイホ(→306)、ペタ(→309)であった。娘たちは女
中に仕上げられた。インドネシア民族全体が"バカヤロー・ゲンジュウミン"と見なされたのであ
る」(タン・マラカ(→295)自伝Iより)
しかし、日本軍政が必ずしも意図しなかったものであるが、結果として評価できるものもある
ことも事実である。@インドネシア語(→958)の普及、A青年団・婦人会などインドネシア人の組
織化、 Bインドネシア人の公職への登用、Cペタによるインドネシア人の軍事訓練である。
大東亜会議
第二次世界大戦最中の1943年1月28日、日本帝国議会において東条英機首相は戦争で占
領したビルマとフィリッピンの独立承認を明らかにした。インドネシア独立についての言及はな
く、インドネシア人を失望させた。5月31日の御前会議で旧蘭領とマラヤは日本帝国の永久確
保地域とされたが、極秘扱いであり公表は差し控えられた。
同年11月5日、東京で大東亜会議が開催された。日本の東条英機首相が主宰し、満州国の
張景恵総理、中華民国南京政府の汪精衛院長(注)、フィリッピンのホセ・ペ・ラウレル大統
領、ビルマのウー・バー・モウ首相、自由印度仮政府首班チャンドラ・ボースが一堂に揃った。
タイ国のワンワイタヤコーン殿下は代理出席である。⇒大東亜会議 ⇒大東亜共栄圏
太平洋戦争を引き起こした日本を盟主とする大東亜会議に出席したメンバーは後に日本の
傀儡(かいらい)であったと断罪され、苛酷な運命を背負うことになる。しかし参加した当時は日
本とともにアジア解放の実現に誇りを持ったことも事実である。
独立が認められていないインドネシアはこの会議に招かれなかった。本来は当然大東亜会
議のメンバーであるべきはずと思うインドネシアを慰撫(いぶ)するために、インドネシア代表者を
東京へ招待した。
大東亜会議が終了し出席者が帰国した後の11月13日にスカルノはジャワ(インドネシアでは
ないことに注意)中央参議院議長として羽田に到着した。同行者はハッタとイスラム教徒代表
ハディクスモ(Hadikusumo)である。大東亜会議と日を数日ずらせたのは日本側の苦慮の策で
あった。インドネシアに対して忸怩(じくじ)たる日本は接待漬けで問題をあいまいにした。
インドネシアの期待にもかかわらず、日本側は慎重な言いまわしで独立への言及を避け、イ
ンドネシアという用語さえタブー扱いであった。スカルノが独立要求を言いださないように根回し
をした。ジャワ代表としての日本側の扱いに同行者のハッタ(→443)はスマトラ島出身であるだ
けに面白くなかった。⇒日本語普及
滞日17日間は連日の歓迎行事があり、昭和天皇との握手に青年スカルノは感激した。歓迎
行事の中には各地の工場見学も含まれていた。牢獄と流刑を繰り返してきたスカルノには日
本は生まれて初めての外国である。日本というアジアの国が備えた近代装備に驚いた。しかし
同行のハッタはオランダ留学の経験があり、日本の工場もそれほどないと見ており興奮するス
カルノをひややかに眺めていたであろう。
日本が第二次世界大戦に参加し南方に進出した動機は石油への渇望であり、インドネシア
の油田を占領することであった。フィリッピンやビルマとは異なり、インドネシア占領は戦争その
ものの目的であった。
仮に日本が民族主義者の願望である独立を認めても民族主義の盛んなジャワ島に限定し、
油田のあるスマトラ島やボルネオ島(→186)は日本領土に留めおくというのが日本の本心であ
った。
プートラとジャワ奉公会
一旦占領すると日本はインドネシアの渇望する独立の問題を故意に回避した。インドネシア・
ラヤ(→297)を歌うこともメラ・プティ旗(→296)を掲げることも禁止した。
3A運動は宣伝運動を超えて民族主義運動に利用され始めたため軍当局から批判が出て尻
すぼみになった。3A運動は占領当初で華僑やインド系、アラビア人などの献金によって賄わ
れたもので、財政的基盤もなかった。
1943年3月、心機一転を計るためにプートラが3A運動にとってかわった。「プートラ(PUTERA
=Pusat Tenaga Rakjat)」とは民衆総力結集運動である。プートラは民衆総力結集運動の略
語であるが、「putra=青年」という意味もある。
民衆を戦争に協力させるのが日本側の意図であり、民族主義者として著名人であったスカル
ノ、ハッタを担ぎ出した。 日本の意図とは別にスカルノ、ハッタの方ではインドネシアの民族意
識高揚のためこの運動を利用しようとし、インドネシア人だけの組織として発足した。
スカルノ、ハッタの指導で民族主義傾向が強くなりすぎたことを日本側は恐れてプートラは1
年で解散し、発展的解消を装い1944年3月に「ジャワ奉公会(Himpunan Kebatian Rakjat)」が
設立された。⇒日本軍の軍票 ⇒日本軍兵士
ジャワ奉公会によって村落の末端にいたるまでの華僑や日本の民間人をも含むすべての組
織が一元化された。日本の隣組組織(→597)が導入され、当時の日本の大政翼賛会を模した
戦争協力のための組織である。スカルノを総裁とすることで民族主義者を宥(なだ)めた。
これらの組織はインドネシア人に政治参加の機会を与え、民族主義者の活躍の場の提供に
なった。オランダ植民地支配ではインドネシア人は統治組織の実権から外されており、貴族階
級に与えられたポストは名誉職であった。日本の占領下において民族主義者は初めて知事以
下の実務を伴う主要ポストに就任した。結果としてインドネシア独立後の国家の実務運営を行
う人材の養成の場になった。
スカルノはプートラにおいてもジャワ奉公会においても米英オランダの植民地帝国と戦う日本
軍への協力を住民に呼び掛けた。そして日本のために資源は集められ、食料が供出され、ロ
ームシャ(次項)が募集された。
当時の心境をスカルノは後に「インドネシア独立のためには悪魔の助けもかりる」という立場
であり、「日本軍は私を利用しようとしている。私はこれに応じるつもりだ。9回まで耐え忍んで
いく。最後の1回で取り返せばよいではないか」と自伝で弁明している。
オランダ時代にほとんど牢獄で過ごしたスカルノは有名であってもその知名度は一部の層に
限られていた。そのスカルノが大衆の前に姿を現わし熱弁を奮った。直接に接しえなくても映
画によってインドネシア各地にスカルノの存在は知られるようになった。このようにしてスカルノ
は自他とも認めるインドネシアの指導者となった。
ロームシャ/労務者
日本軍のジャワ島占領の目的である資源の確保には戦争継続のための労働力の確保が含
まれていた。モナス(→158)の独立記念博物館の歴史パノラマの展示において酷使されて痩せ
衰えたロームシャによって日本軍占領時代が象徴されている。
インドネシア語でロームシャという時は「日本軍による強制労働」という意味で日本語の"労務
者"の意味とは異なっている。ロームシャは怨みの言葉、呪われた言葉としてインドネシア語に
なり辞典に記載され、インドネシアの教科書にも載せられている。
当初、日本軍がロームシャを徴募した際には日当を支払われる勤労戦士と称揚され、ゴト
ン・ロヨン(→593)の慣行からそれほど抵抗なく受け入れられた。しかしロームシャの実態はオ
ランダ植民地時代の苦力の日当にすぎず待遇は苦力以下であった。
スマトラ島ではジャワからのロームシャを動員してオリンビン炭鉱の石炭をプカンバル搬出の
ための鉄道建設が行われた。ジャワ島ではバヤ炭坑開坑のためロームシャが動員されたが、
食料不足と酷使のため多くが死亡した。炭坑に潜伏していたタン・マラカ(→295)はスカルノの
日本軍協力を非難している。⇒romusha ⇒スマトラ島のromushas
ロームシャの実態が知られるにつれ応募者はいなくなったが、日本軍は公権力を行使してロ
ームシャの供出数を地域毎に割り当てた。この結果、ジャワ農村から成人男子の労働力は払
底し農産物は不作になった。その少なくなった農産物に対しても供出の割当が厳しかったため
ジャワ農村の疲弊は極に達した。
ロームシャ徴用を厳しく実施した村長や官吏に対して日本の敗戦後、糾弾(きゅうだん)が行
われ、プカロンガン地方では何人かの村長が殺害された。
日本の戦争においてジャワ島は食料、労働力の補給基地と位置づけられていた。ロームシ
ャは労働力の不足するスマトラ島(注)やタイ、ビルマに移送された。『クワイ河マーチ』で知ら
れる映画『戦場に架ける橋』は泰緬(タイとビルマ)間に鉄道を建設しようとするものである。映
画では連合軍の捕虜ばかりが前面にでてくるが、捕虜の数をはるかに上回る多くのロームシ
ャがジャワ島からも動員されていた。
これらのロームシャの多くは戦争が終わっても帰ってこなかった。今日もクワイ河近辺にジャ
ワ人ロームシャが棄民さながらに生存していると伝えられる。
⇒スマトラ島の日本兵
戦後の日本とインドネシアの戦時賠償交渉(→362)のロームシャ問題にインドネシアは日本
に補償を求めた。インドネシア側の400万人という主張に対して日本側14〜16万人と反論し
た。22万8千人という数字もある。その間の数字の差の解明はしないまま交渉妥結が急がれ、
1958年締結の賠償協定でロームシャ問題は解決されたことになっている。
1973年インドネシア映画『ロームシャ』が製作されたが、上映は一方的に中止された。日本側
のなんらかの圧力に屈したことは公然の秘密である。
農民の反乱
ジャワ占領の当初、日本軍は解放軍として歓迎された。まさに「北から黄色い人がやってきて
白人を追い出すという」ところまではジョヨボヨ王の予言(→299)の実現であった。しかしジョヨボ
ヨの予言には「とうもろこしの花が咲く頃には黄色の人も引き上げる」という期限があった。
日本軍は1年たっても2年たってもインドネシアに居座ったままであった。のみならず占領支
配は次第に苛酷さをましてきた。特に怨嗟(えんさ)の原因となったのはロームシャの徴用(→
305)と食料の強制供出である。
「シンガパルナ(Singaparna)事件」といわれるのは1944年2月に西部ジャワのタシクマラヤ
(Tasikimalaya)県シンガパルナ村で農民大衆が日本軍政に対して蜂起した事件である。
反乱の謀議をかぎつけて潜入した日本憲兵を捕らえて人質にして立ち向かった。しかし正規
軍に対して手製の竹槍の武装では敵うはずもなく1時間半の戦闘で多数の死亡者を出して敗
退した。日本側にも3名の犠牲者を出した。
指導者はキアイ・ザイナル・ムストファ(Zainal Mustofa)というスカマナ(Sukamanah)イスラム
塾の教師であり、塾生が蜂起に参加した。スカマナ塾はプリアンガンで著名なイスラム教育の
中心地であり、900名の塾生を集めていた。
日本軍は捕えた扇動者23名を処刑し、狂信者にまどわされた反乱として他所への波及を食
い止めた。この地域は後にダルル・イスラムの反乱(→332)があったように狂信的なイスラム教
徒の多い所である。
当初の日本の占領政策はオランダ植民地政庁が故意に無視してきたイスラム教勢力の顔を
立てた。オランダ時代に不遇であったイスラム教関係者は日本軍政の下では体制側に組み入
れられ、宗教関係者を通して人心の把握に成果はあった。
しかし天皇陛下を現人神(あらひとがみ)と認めることの強制、皇居遥拝(こうきょようはい)は
イスラム教の教義に反し真摯なイスラム教徒の怒りをかうようになった。シンガパナル事件を
農民の反乱と総括されるが、その背後の宗教上の動機を無視しえない。
⇒戦時中の紙幣
1944年4〜8月に西部ジャワ州インドラマユ(Indramayu)県で起きた農民蜂起のいわゆるイン
ドラマユ事件は食料供出の強制によるものである。ジャワ海沿岸のジャワ移民からなる同県は
穀倉地帯であるが、割当供出の不足を補うため籾(もみ)の供出まで求められた。
日本の割当は米生産の7〜10%であっても州⇒県⇒郡に下達されると順次、上乗せされ最終
の農民には過大な要求になった。供出を促す村長と警官に投石することから始まった農民の
蜂起は次々に連鎖反応を起こした。
農民の憎しみは体制側のジャワ人に向けられ日本の起用した村長が殺された。インドネシア
独立戦争の持つ政治革命的要素に繋がる事件として注目される。
ポンティアナック事件
(ポンティアナ)
太平洋戦争開始の当初、石油の出る東カリマンタンではタラカン(→193)などで局部的な戦闘
もあった。しかしカリマンタン島のその他では蘭印政庁所在のジャワ島の大勢の帰趨からオラ
ンダ側は抵抗を止めて、植民地軍は無傷のまま捕虜となった。これに対して進駐してきた日本
軍は兵の数は少なく劣勢であった。
このような状況の中でカリマンタン島を統轄していた元総督のオランダ人ハガがバンジャル
マシン(→192)で反日の陰謀を画策した。しかし陰謀は事前に発覚しオランダ人や旧支配階級
が捕えられ処刑された。⇒当時のスルタン
たまたまハガの取調べでポンティアナックの地名が出たことから、過敏になっていたポンティ
アナックの海軍特別警察隊(陸軍の憲兵隊に相当する)は疑わしそうな人物を逮捕した。いき
りたつ取調べで自白によって逮捕されたのはオランダ人はもとより華僑、インドネシア人のス
ルタン一族、医師、教師などの有識層であり、さらに拷問にかけて次々と逮捕者を拡大した。
その容疑は西ボルネオ独立運動であり、日本人を一斉に毒殺しようとする反日謀議をフレー
ムアップし47名を死刑(1943/10月)にした。
裁判以外にも逮捕された者の多くは拷問で殺され、さらには密かに毎晩40〜50名を日本力
で斬刑にした。その犠牲者は1〜3千名と言われるが、インドネシア側では21,037人と碑に明記
し、処刑の様をレリーフにしている。⇒記念レリーフ
ポンティアナック事件は戦闘時ではなく占領期間中の出来事である。事件の真相は海軍特
別警察隊の脅迫被害の誇大妄想らしい。普通の日本人も特殊な条件で絶大の権力を持つと
支配階級を皆殺しにまで突き進むポルポト派的発想になるという例である。
日本の敗戦後、戻ってきたオランダによる裁判で日本側の関係者は処刑された。インドネシ
アにとっては独立戦争にたち紛れて首都から遠い地方の事件として等閑視される傾向にあっ
た。しかし独立戦争終了後のインドネシアでは残酷な日本軍政への抵抗運動として犠牲者を
評価しているのはインドネシアの歴史創造の政治的意図であろう。仮にこのようなすり替えを
認めるとしても海軍特別警察隊の罪が軽くなるというものではない。
海軍の管轄する東カリマンタンのロアクール(Loakulu)でもポンティアナック事件と類似の事
件があった。日本の圧政に反発はスパイ事件とされ、虐殺された住民の死体が炭坑に捨てら
れた。
その他にマルク州南部のババル島(→233)の住民虐殺事件がある。オーストラリアに近い僻
地のババル島は住民1万人程度の大阪府の半分ほどの小さな島である。敵地のオーストラリ
アに近かったため日本軍は神経過敏になっていた。煙草の売買をめぐるトラブルからエンプラ
ワス村で日本兵が殺された報復に500人以上の村民が虐殺された。わずかの生き残り者によ
って事件の起きた10月5日にちなみ「1944年10月5日」という歌が歌いつがれている。
536 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/09(日) 22:37:04 ID:WOIaGhOl0
嘘つき馬鹿豚のスレッド埋め立ては、今日はここまで。全文読んだ奴は暇なアホです。
537 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/09(日) 22:40:52 ID:WOIaGhOl0
嘘つき馬鹿豚の正体は、大日本帝国の栄光を貶めたい「朝鮮人」です。
朝鮮は薄汚い土人の国で、日本が近代化してあげたのに、いまだに逆恨みしている恩知らずです。
馬鹿豚は、今も日本を逆恨みし、外国人参政権問題を「差別」と呼んではばからない低能児です
から、石をぶつけてやりましょう。
>>1 どうなんだろ?当時のロシアや中国が日本に勝てたとは思えないが?
ロシアはドイツと交戦して陥落寸前まで行ったし、中国なんて逃げ回ってた
だけだしな。
日本が負けたのはアメリカと言う当時も今も世界最大最強の軍が相手だったから。
当時の戦力比だと日本の工業力や資源を含めると戦力は80〜100倍。
ロシアで10倍程度(でも日本は勝った)からまさに桁違いなんだよ。
アメリカがいなければ中共などとっくに壊滅していた可能性が高い。
真実を突きつけられてのたうち回る、中卒携帯無職コピペゴキブリ
このような小物は悠然と見下ろしつつ、さらに真実の検証を続けようと思う
兵補
「ヘイホ(兵補)」とはインドネシア人青年から採用した日本軍の補助兵である。ジャワ占領後
も戦線拡大により日本のジャワ占領軍はニューギニア戦線(→237)などに転戦し、兵力は占領
当初の5万人から1/3に減少し兵員の不足が生じた。
彼らは3〜4月の日本語教育と2月の軍事訓練を受け、試験に合格した優秀な人材であり、郷
土防衛義勇軍ペタ(→309)が発足するまでの間に募集された。後に独立戦争を戦ったインドネ
シア共和国軍の主流はペタであるが、ヘイホも武器を扱えるという実務経験から重宝された。
ジャワ駐屯の日本軍においてヘイホは運転手のような補助的職務従事が原則であったが、
大砲の操作をもヘイホに任せざるをえない部隊もあった。ヘイホは日本の各部隊にほぼ均等
に配属され約1割にもなっていた。⇒heiho ⇒heiho兵補
部隊の配転によりニューギニア戦線やビルマ戦線にも従軍させられたヘイホもいる。戦闘に
捲きこまれたヘイホは多くの犠牲者を出した。モロタイ島では戦後訪れた日本の遺骨収集団
が日本兵の遺骨に紛れヘイホの遺骨も持って帰った。
1989年に元ヘイホは連絡協議会を結成して日本への補償を求めた。ヘイホの提起した補償
問題とは死者への補償とか年金などではなく貯金の払い戻しである。彼等は従軍中に給料の
支払を受けたが、給料の2/3を強制的に貯金させられ、日本の敗戦によってそのまま没収さ
れた。日本政府に貯金の払戻しを要求し、1991年の平成天皇のインドネシア訪問を機会にデ
モを行い、内外の新聞記者団に実情を訴えた。その後もジャカルタの日本大使館へデモをか
けている。⇒ペタの対空砲の訓練
彼等は日本の軍歌を口ずさむなど日本へのノスタルジアを持つ親日家であるが、かくも長く
ほったらかしにされたことへの怨念の入り混じった複雑な心境である。
日本政府は1958年のインドネシアとの賠償協定(→362)でヘイホなどの個人の請求権も放棄
されおり、補償問題は存在しないとしている。また、日本はODAによりインドネシアの民生に協
力している、とヘイホの要求を突っぱねている。
日本側には払い戻さない理屈はあろうが、日本の軍人恩給の法外な高さと比べ余りにも均
衡を失しているのでなかろうか。ちなみにオランダは植民地時代のインドネシア人ニカ兵(→
318)にいまだに年金を払っているとのことである。
インドネシアにも慰安婦問題がある。呼びかけに応じて含羞(がんしゅう)の民族からもおずお
ずと名乗り出た。NGOの招きで日本へ来た慰安婦が戦時中の体験を証言している。
日本政府は慰安婦問題についても政府間で解決済みとの立場を固持している。といいつつ
も被害者への現実的対応として高齢者福祉施設を作るという名目で10年間に3億8千万円の
支出を決めた。インドネシアの慰安婦問題にはオランダ人女性を慰安婦にしたという別の問題
もかかえている
ブリタルの反乱
ペタ(郷土防衛義勇軍)は日本軍の不足を補うものとして組織化されたジャワ人の軍組織で
あるが、5万人の規模に達し駐留する日本兵の数を上回るようになった。訓練を受け武器を持
ったジャワ人の軍隊が日本に叛旗をひるがえさないという保証はなく日本にとってペタは"獅子
身中の虫"になりかねない存在であった。
日本の講じた予防処置はペタを州毎に設立して連携させないように分断し中央の統一組織
は設けていない。このため募集した兵士はその地域のペタに所属し地域をこえる人事交流を
避けた。スカルノなどの民族主義者はペタの指揮命令系統には関与できなかった。
しかしジャワ人自らの軍としての自覚が高まるにつれ、日本軍への従属に問題意識を持つよ
うになるのは時間の問題であった。終戦時のレンガスデンクロック事件(→316)は日本が制御
しえないペタが存在していたことの証明であった。また日本軍が敗戦とともに慌(あわ)ててペタ
の解散を命じたのはペタに対する潜在恐怖である。
時は少し遡り終戦半年前の1945年2月14日未明、クディリ州(現在の東部ジャワ州)のブリタ
ル大団のスプリアディ(Supriyadi 1923-45)小団長の率いる小隊(100余名)が兵営を出て日本
人を襲い数名を殺害した。日本軍は慌てて人望のあるインドネシア人の大団長を担ぎ出し処
罰はしないと説得した結果、反乱した兵士は兵舎に戻った。反乱軍は一両日で瓦解(がかい)し
首謀者のスプリアディは逃亡し行方不明になった。⇒ブリタル大団 ⇒スプリアディ
ブリタルのペタの蜂起は日本軍にとって衝撃であった。"飼い犬に手を噛まれた"というのが
日本軍の実感であった。ブリタルの反乱の直接の原因はペタの幹部に対する日本人指導官
の傲慢(ごうまん)がいわれている。日本兵が階級が上のペタの幹部に敬礼しないことはジャワ
人の誇りを著しく傷つけた。
相次ぐ食料の供出、ロームシャの徴用にジャワ島では次第に反日感情が醸(かも)し出されて
いた。もし反乱者がこれらの大義名分を明らかにし、他のペタと連携していたならば、反乱は
飛び火しジャワ全島に拡大したかもしれない。たまたまブリタルの反乱は発覚を恐れた首謀者
が準備不足のまま突入した暴発であったため容易に鎮圧された。
独立後のインドネシアでは日本の圧政に対する蜂起としてブリタルの反乱を高く評価してい
る。反乱の首謀者のスプリアディは生死不明のままインドネシア共和国初代のインドネシア軍
司令官に指名される名誉を得た。⇒スプリアディ記念館?
ブリタルはスカルノ大統領の故郷である。大統領は後に自叙伝で「ブリタルの反乱は自分の
黙認の下に行われたが、当時の状況では大の虫(ジャワ全島のペタ組織)を活かすためには
そ知らぬ振りをしなければならなかった」とその苦悩を述べている。
反乱者がスカルノと示し合わせていた思われる形跡(注)はある。スカルノ大統領の例の自
己顕示だけではなさそうだ。
遅すぎた独立承認
【1943(昭和18)年2月】東条首相はジャワ島を訪問し歓迎を受け、戦争遂行への現地住民の
協力を求めた。独立については何もふれずにインドネシア人を失望させた。資源の豊富なイン
ドネシアはできるだけ長く日本の領土にとどめておきたいというのが日本の本心であった。
【43年8月】東条内閣はフィリッピンの独立を認めた。
【43年9月】インドネシア人の政治参与のため諮問機関としてジャワに中央参議院を設け、ス
カルノが議長に就任した。議員の半数に民族主義者が登用された。
【43年10月】東条内閣はビルマの独立を認めた。
【43年11月】東京で大東亜会議が開催され、日本傘下の大東亜共栄圏の諸国が出席し
た。独立国でないインドネシアは外された。併せてフィリッピンとビルマの独立承認のセレモニ
ーが東京で開催された。
大東亜会議後、インドネシア懐柔のため日本政府はスカルノ議長、ハディスクモ・イスラム教徒
代表、ハッタ中央参議院議員を日本に招いた。しかし独立の話は故意に回避された。
【44年9月】戦局不利の中でインドネシア人の民心をつなぎ止めるため小磯内閣は「将来、
東インド(インドネシア)に独立を与える」という小磯声明を発表した。この際にもインドネシアと
いう用語の使用を用心深く避け、時期も明確にしなかった。その心はあわよくばジャワ島の独
立だけを認め、資源の豊富なスマトラ島など外島は切り離して日本の直轄領土にとどめること
が本心であった。
【45年3月】日本は独立準備調査会の設置を発表する。すでに南方と日本の補給線は断た
れていた。独立の要望を無視して戦争への協力の継続は限界があった。⇒独立調査会?
【同年4月29日】独立準備調査会が正式に設立され、委員70名が発表された。国旗・メラ・プ
ティ、国歌・インドネシア・ラヤの使用が許可された。
【6月1日】5月28日から始まった独立準備調査会においてスカルノが国体としてパンチャシラ
を提唱し、インドネシア国家の骨格が示された。
【6月22日】ジャカルタ憲章によりインドネシア現行憲法の骨格が固まった。
【7月10日】独立準備調査会第2回会議が開催された。
【7月17日】日本は最高戦争指導会議においてできるだけ早い時期にインドネシアの独立を
認めることを決定した。⇒ペタ・ジャワ義勇軍
【7月21日】日本の南方軍は独立地域にマレー半島を除くことを確認する。
【8月7日】インドネシア独立準備委員会が設立された。独立はカウント・ダウンに入った。独
立は小磯声明の1周年にあたる9月7日を予定していた。
【8月9日】インドネシアからスカルノ、ハッタ、ラジマンの3名が南方軍総司令部のあったサイ
ゴンに発った。
独立準備委員会
インドネシア独立宣言の経緯で日本の影響を過大視することは問題である。しかし日本の同
意の下で進められていたインドネシアの独立準備がすべて無駄になったわけではない。1945
年4月末に独立調査会(後に独立準備調査会に改名)のメンバー70名が発表された。ジャワ島
のみならずインドネシア全地域からの代表が網羅されていた。
第1回独立準備調査会は5月末に5日間開催され、6月1日に委員長スカルノによってパンチャ
シラ(→365)が発表された。
第2回独立準備調査会は7月10日から開催され国家の領域、形態、政治機構、市民権、イス
ラムとの関係を討議し、16日に憲法草案が作成された。
日本軍政の下でインドネシアの独立は人民の強い意志によってそれなりに進められていたと
ころへ、1945年8月15日、日本の敗戦の報が伝えられた。その第二次世界大戦直後の大混乱
の中でインドネシアの独立宣言が発せられた。15、16、17日の3日間はまさに疾風(しっぷう)怒
涛(どとう)の日としてインドネシア歴史に銘記されている。
無条件降伏の受入によってそれ以降、日本は連合軍に現状維持を命じられた。従って直前
の8月11日に日本の南方軍総司令部がスカルノを招いてインドネシアに与えた独立承認は日
本の敗戦によって反古(ほご)になった。
しかしインドネシアでは9月の独立を目指して独立準備調査会は独立準備委員会へと進み、
8月18日の予定で召集されていた。8月15日には交通事情の悪い当時は遠方の者はすでにジ
ャカルタに到着していた。
16日深夜の独立宣言の起草の場には独立準備委員会のメンバーも関与していた。また17日
10時からの独立宣言は独立準備委員会のメンバーを前にしていた。何もかにもが用意されて
いたからこそ臨機応変に対応できた。
翌18日、独立宣言発布により独立準備委員会は新しく独立委員会として(注)でスカルノ大統
領とハッタ副大統領が選出し、引き続き憲法を制定した。《イスラム国家》or《世俗国家》という
国体を巡る論議はすでに尽くされており、5原則のパンチャシラとして憲法の前文に折り込まれ
た。⇒マカッサルの日本菓子店
独立宣言後に相次いでこれらの処置が容易に実施されたのは独立準備委員会ですでにイン
ドネシアの国体は論議され、ジャカルタ憲章(→418)としてアウトラインは出来上がっていたから
である。8月19日、独立委員会は中央政府12省、地方行政8州の設置を決定し、8月29日に閣
僚、知事が任命された。
慌ただしい中で一気呵成に独立宣言は発せられた。その後のすばやい対応がインドネシア
独立を既成事実にした。インドネシアの独立は太平洋戦争直後のどさくさまぎれではない。予
め準備されていたことの必然の履行であった。
その数日間は戦勝国である連合国側からの指示もないという権力の空白期であったことも幸
いした。
日本の敗戦
【1945年8月11日】インドネシアを代表するスカルノとハッタはサイゴンの郊外のダラトにあっ
た日本軍の南方軍総司令部から招かれた。
独立承認は伏せられたまま旅立ったが、そこで思いかけず南方軍総司令官寺内寿一元帥か
ら独立を認めるセレモニーが行われた。制空権、制海権も奪われ東京への交通が確保できな
い状況で日本は南方軍総司令部が代わってインドネシア独立承認を告げた。1カ月後の9月7
日が独立日に予定された。
日本の好意により独立を与えるという恩着せがましい形態であったが、ようやく念願のインドネ
シア独立を手にしてスカルノ一行は充たされた思いであった。シンガポール経由で帰路につ
き、シンガポールでマレーの民族主義者などと接した情報から戦争は日本の敗色が濃いという
感触は得た。しかしそれが目前であるとは思わなかった。
【8月14日】スカルノ一行は意気揚々とジャカルタに到着した。空港で出迎える人を前にイン
ドネシア独立は「今やとうもろこしの花の咲く前である(→299)」と独立承認を慶ぶ報告が行なわ
れた。しかし一行を迎えるインドネシア人に白けたものがあった。原爆の投下、ソ連の参戦に
よって日本の敗戦がせまっていることは知る人には知られていた。
【8月15日午後】日本敗戦の噂がインドネシア人の間に流れた。不安になったスカルノは事
実を確かめるため陸軍の軍政監部を訪れたが、幹部は面会を避け「独立への援助ができなく
なった」と伝えられた。⇒スカルノ
異様な雰囲気を感じたスカルノは海軍武官府の前田少将(→355)を訪ねた。前田は正式な通
知を受けていないので受取次第知らせると約束した。しかしその苦悩に満ちた表情は日本の
敗戦を窺わせるに十分であった。
【8月15日夜】帰宅したスカルノを待ち構えていたのはハエルル・サレー、スカルニ、アダム・
マリクという青年グループであった。かねてから青年グループはスカルノとハッタが進めていた
日本との話し合いによる独立は与えられた独立であるとして批判していた。彼らは日本の敗戦
という事態の転換においては即刻の独立を迫り、日本との武力衝突も辞すべきでなく、ジャカ
ルタのペタに対する武装蜂起の指示を求めた。
しかしスカルノは独立直前までこぎつけた既成事実を無視する青年グループに対して断固と
して拒否した。負けたとはいえジャワの日本軍は無傷である以上、兵力のないインドネシアは
対抗しえない。日本から正規の通知のない段階での行動にスカルノは慎重であった。青年グ
ループに対する感情的反発もあった。最後は「やれるものならやってみろ」とさえ言いはなっ
た。ハッタも同様であった。
【8月16日未明】青年グループは就寝中のスカルノ一家を起こし、日本軍が行動をおこしス
カルノの身体に及ぶ危険が迫っており、対策会議に参加してほしいとして家族もろとも車で連
れ去った。
青年グループの台頭
経済的自立もなく政治的自立だけを求める独立についてはインドネシア人の中にも時期尚
早という意見もあった。これに対してスカルノは「鍋釜がなくても結婚できる。結婚してから鍋釜
を揃えればよい」と振り切った。
スカルノなどの民族主義者は日本の戦争遂行に協力する見返りとして独立を迫り、願望どお
りオランダ領東インド(蘭印)を一丸としたインドネシアの独立が現実のものとなってきた。スカ
ルノは指導者としてイスラム教との国体をめぐる関係、ジャワ島と外島(→019)のギャップの調
整など大きな問題を独立準備調査会で一気呵成に解決した。
しかしプムダ(Pemuda=青年)といわれる若い世代は、より性急に独立を求め反日的な言動
を行うようになった。スカルニ(Sukarni)、アダム・マリク(→447)、ハエルル・サレ(Chaerul
Saleh)、ウィカナ等の青年がグループ(注)を形成していた。バンドゥンでは別のグループもあっ
た。
独立準備調査会は青年代表をも取り込もうとしたが、出席していた青年のメンバーは日本が
政体について意見を述べたことに日本の干渉であると怒り退場した。青年グループにとっては
40歳台のスカルノ、ハッタも年老いた保守主義者であった。これら長老の支配する独立準備調
査会も日本によるお仕着せにしか見えなかった。⇒スカルノ・ハッタ像
青年グループにとって独立とはアメリカの独立がそうであったように、独立とは与えられるもの
ではなく奪い取るものである。彼らは"革命"を求めた。
スカルノやハッタは日本の敗戦という思いがけない事態に直面したが、予定どおり独立準備
委員会の手続きを経て独立する以外のことを考えられなかった。しかしそれまで出番を封じら
れていた青年グループは日本の敗戦を知るや直ちに立ち上がろうとした。
青年グループは今こそ天祐(てんゆう)の時と考え、ジャカルタ地区のペタ(→309)のカスマン
大団長に武装蜂起を迫ったが、カスマンはスカルノの命令を要求した。青年達はスカルノの自
宅に押し掛けて直ちに武力蜂起の指示を迫った。
スカルノは青年グループの主張を拒否した。「敗れたとはいえ日本軍は武力を保持したまま
現に存在している、インドネシア側に武力はなく素手同様であり、歯向かえば壊滅されるだけで
ある、寺内南方軍総司令官は既に独立を認めているのに今あえて武力蜂起する意味はない。
何故、数日が待てないのか」というのがスカルノの言い分である。ハッタも同意見であった。
レンガスデンクロック事件
「レンガスデンクロック(Rengasdengklok)」はジャカルタから東80qにある。外見はどこにでも
あるインドネシアの普通の町である。今日ではレンガスデンクロックの名はインドネシア独立に
深く係わった土地として銘記されている。
8月16日未明、青年グループは独立を強行するためスカルノとハッタを家族(注1)ごと車で拉
致して連れてきたのがレンガスデンクロックのペタ(→309)の兵舎である。
民族主義者の影響を受けたスチプト中団長がペタを指揮していたレンガスデンクロックは、
急進派青年グループの巣窟となっており、共和国の最初の解放区となる準備が密かに進めら
れていた。 ⇒レンガスデンクロックの記念館
青年グループは日本軍の影響の及ばない所でスカルノとハッタに即時独立を強要する意図
であった。事件のもう一人の主役はスバルジョである。海軍の前田武官(→355)からスカルノ、
ハッタの両者が行方不明であることを告げられたスバルジョは二人の居所を探し出し、青年グ
ループの監禁から救出するためレンガスデンクロックに向った。
スバルジョが到着した頃、青年グループとスカルノ・ハッタとの激論の対立が続いている最中
であった。スバルジョは始めは青年グループを説得しようとしたが、放置すれば青年グループ
による武装蜂起がもはや止められず、即時に独立宣言を行うという動きは防止できないと判
断した。
両者の調停をスバルジョが行った。16日に予定されていた独立準備委員会に出席のためジ
ャカルタに集合している各地域代表の支持と日本軍部の承認を得て、17日に独立宣言を行う
ことになった。後にスカルノはこの判断を是認しているが、ハッタは強要されたこの事件を不愉
快としていた。
一行がジャカルタに戻ったのは16日の深夜であった。連合軍より現状維持を厳命されてい
た日本陸軍の幹部はインドネシア独立宣言の動きとの係わりあいを避けた。当時の幹部は知
らぬふりが陸軍の誠意であったと述べている(注2)。スバルジョの口利きで海軍武官府の前
田少将は独立宣言起草の場所として自らの官邸を提供した。
⇒独立宣言起草記念館
レンガスデンクロックで行われた長老派(スカルノとハッタ)と青年派の間の激論にはいろい
ろな評価がある。もし長老派の主張が容れられておれば、後にオランダがそうでなくても執拗
に繰り返した「インドネシアの独立は日本のお手盛りだ」という主張に対抗することは困難であ
ったろう。
またもし青年グループの主張どおり即時独立を宣言し権力奪取のため武力行使を行えば治
安に責任を負わされた日本軍との間の流血は避けられなかったであろう。
結果的には17日の独立宣言は日本の関与しないインドネシア人の意志によるものであっ
た。日本の武力干渉もなく整然とした秩序のもとに独立宣言は発せられた。置かれた困難な
状況の中で最善の選択であったろう。
独立宣言の起草
独立宣言。 私達インドネシア人民はここにインドネシアの独立を宣言する。
権力委譲その他に関することは十分な配慮をもって迅速に行う。
ジャカルタにおいて。
05年8月17日。 インドネシア民族の名において。 スカルノ・ハッタ
独立宣言はわずか数行の文書である。皺だらけの一枚の紙は国宝の中の国宝として首都ジ
ャカルタのモナス(→158)の独立記念博物館に鎮座している。独立宣言を読み上げるテープの
故スカルノ大統領の声を聞くインドネシア人はいつもとは異なる真剣な表情である。
レンガスデンクロックから戻った16日夜、スカルノとハッタは軍政監部総務部長の西村少将
を訪れ独立宣言の承認を迫ったが、連合軍の指示を盾に拒否した。かくなる上は日本の承認
なしに独立宣言を行う以外に道はなかった。
起草には海軍武官府の前田武官邸が提供された。ありうるかもしれない日本陸軍の妨害を
排除できる場所である。スカルノ、ハッタ、スバルジョという長老派に青年派も加わった。その
中で問題は権力の"委譲"という言葉である。スカルノの筆跡と推測されている原稿には権力
の「奪取」と「委譲」という言葉が添削されている。奪取はクーデターを主張する青年グループで
ある。最終的にはスカルノが委譲で押し切ったという。
スカルノとハッタが署名しているが、その署名者の資格はこれまでの独立準備委員会の名を
使用することは日本の与えた独立に繋がる。青年グループにはこれまでの日本軍政下の既成
事実をご破算にして当日の会議の出席者全員の署名という主張もあった。そのへんの議論の
収斂が『インドネシア民族の名において』である。
日付の"05年"は日本の【皇紀2605年】である。この事実がインドネシアの独立における日
本の影響力の証拠として云々する見方があるが、真相は疲労困憊のどさくさの中で年号まで
の熟慮する余裕はなく時間ぎれとなったらしい。西暦はオランダの遺物として拒否されていた。
インドネシア暦元年とすべきであったというのが起草に参加した有識者の反省である。
日本では忌まわしい記憶とともに忘れ去られた皇紀の年号(注)が、インドネシアではレリー
フになり公開(→161)されている。インドネシアの国のある限り保存されるであろう。歴史とは皮
肉な結果を残すものである。⇒独立宣言のオリジナル ⇒独立宣言文草稿
モナス(→158)に展示してある独立宣言の文書はコピーであって本物は金庫の奥深くにしま
われているらしい。9月30日事件(→384)で権力構造から遠ざけられたスカルノ大統領はこの独
立宣言書を自宅に持ち帰り隠した。
自分が署名した文書であってもインドネシアにとって“国宝”である。この文書を"質"にして時
のスハルト政権をゆすったというエピソードが伝えられている。政府は取り戻すのに苦労し、そ
の機会にレプリカが作られた。
東條内閣は、開戦直後に国家総動員法にもtづく新聞事業令を公布し
一府県一紙制を原則に新聞の統合を推し進めた。
1942年2月には、各新聞社の自主的統制機関であった日本新聞連盟が
官製の統制機関である日本新聞会に改組された。
さらに各新聞社には新しく検閲課が置かれ、内務省や内閣情報局などによる
検閲は、一段と厳しいものになっていった。
出版についても、政府は1943年2月に出版事業令を公布し、日本出版文化協会を
官製の統制機関である日本出版会に改組させた。
日本出版会は、すべての出版書籍に対して審査制をとり、
従来約6%であった不承認件数を30%に引き上げ、ひたすら政府に迎合する態度を取った。
雑誌の統廃合が強行され、1941年末に18,022あった新聞と雑誌が44年末には2,548に減少した。
企業整理も実施され、整理がほぼ終わった44年5月には
書籍のみ発効するものが2,241社から203社に、雑誌2,017社が996社にそれぞれ減ってしまった。
なかには中央公論社と改造社のように、内閣情報局から「営業方針において戦時下国民の
思想指導上許し難い事実がある」として「自主的廃業」を申し渡されたものもあったが、
その背後の黒幕は陸軍省報道部であった。
戦争目的に合致しないと当局が判断した出版物は、どのような立場のものであれ
削除・改訂・発売禁止の処分を受けた。
そのうえ新聞と出版の関係者は、割当制になっている用紙を確保するため、
関係当局の軍人や官僚にとりいることに狂奔せざるを得なかった。
このように言論と出版の統制は完璧であった。
フィリピン、ビルマ、インドネシアなどでは戦争の末期に大規模な虐殺が相次いでおこなわれた。
フィリピンでは1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中にゲリラに襲撃された事件がきっかけで
7月から徹底的な粛清作戦が実施された。ゲリラ討伐の名目で実際には子どもから老人まで多数が殺された。
米軍が44年10月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してきてから、特にマニラと南部ルソンで大規模な虐殺が次々と起きた。
バタンガス州とラグナ州では歩兵第17連隊(通称藤兵団)が「対米戦に先立ちゲリラを粛清する」
「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」と命令を下した。
バタンガス州リパの虐殺に加わった兵士の証言によると、16から60歳の男子を通行証明書を渡すという名目で学校に集め、
証明書を渡したうえで10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連れて行き、銃剣で刺して谷底に突き落としていった。
そうして一日がかりで約800人の住民を虐殺した(友清高志『狂気―ルソン住民虐殺の真相』徳間書店)。
フィリピンにおける日本軍による虐殺の犠牲者は数十万人にのぼると見られ、中国に次いで多い。
ビルマでは、これまでわかっているかぎりで最大規模の虐殺は1945年7月のカラゴン事件である。
パラシュート降下したイギリス軍の工作員とゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、
女性子どもも含めて、10人くらいずつ井戸の側に連行し刺殺してから井戸に投げ込み、
合わせて600人以上を虐殺した。現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ死刑になるが、
裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、もし子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺したと弁明している
(英国国立公文書館所蔵英軍戦争裁判記録)。
ビルマではインドからイギリス軍の反攻が行われ、それに呼応してビルマ国軍も日本軍を攻撃した。
また各地の抗日ゲリラも協力して日本軍をビルマから追い出そうとした。
そうしたなかで日本軍は住民全体を敵視し、虐殺したのである。
侵略軍であった日本軍は住民から信頼されていなかったし、
また日本軍も住民をいつ連合軍に寝返るかもしれない存在として、あるいは密かに抗日ゲリラに通じている者と疑っていた。
そうした時には住民全体が「抗日分子」に見えてくる。これは中国での日本軍もそうだった。
日本軍の一連の住民虐殺は、戦争だからという一般論によって説明できるものではなく、侵略戦争のなかでおこなわれた残虐行為であった。
マレーシア各地でも日本軍による虐殺記念碑がいくつも残ってるらしい。
<ネグリセンビラン州では40か所以上で虐殺がおこなわれた>
パリッティンギ村では約600 人の村民が子どもまで抹殺された。
当時8 歳だった孫建成氏は両親や兄弟など一家9 人を殺され、
祖母と2 人だけがかろうじて生き残った。
それからまもなくの1942年7 月日本軍はタイとビルマをつなぐ
泰緬鉄道の建設に着工、マレーシアからもロームシャを狩り集めた。
8 月ネグリセンビラン州のセレンバンにいた宋日開氏は町中で日本兵
に呼びとめられた。「軍補」を募集していて、期間は1 か月から長くても
4 か月という話で、今の仕事よりいいと思ったのでそれに応じた。
しかし実際にはビルマ国境に近いテーモンタで過酷な労働につかされ、
一緒に行ったロームシャたちは次々に死んでいった。
セレンバンを出る時には780 人(ほとんどが中国人とインド人で、
マレー人は若干名だけ)だったのに46年7 月に帰ってきた時はわずか
49人になっていた。
<パリッティンギ( カンウェイ) 村の虐殺>
マレー半島南西部のネグリセンビラン州の粛清は第 5師団第11連隊( 広島)
が担 当し、42年3 月に6 次にわたって粛清がおこなわれた。
その中で3 月16日におきたのが、この事件である。山中にあるこの村に
「敵性分子」が「相当潜在」しているとして粛清を計画、
日本軍は老幼男女を問わず村民を村の広場に集め、
20〜30人ずつのグループにわけて周辺の山や畑の中に連れていき、
膝まずかせて順番に背後から銃剣で刺し殺していった。
その後、村を焼き払った。ここでの犠牲者は675 人と言われている
枢密院の深井英五顧問官は「枢密院重要議事覚書」の中で東條英機の答弁と
それに対する自らの感想を、次のように記している。
「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、左様の事実
(外交の二元化)は大東亜地域内には成立せず、我国を指導者とするところの外交あるのみ」
(深井評、これ竹越顧問官の所謂大東亜圏諸国をデペンデンシー(従属国)として
取扱はんとする意図を頗る露骨に表示したるものなり。)
「外交の相手は必ず対等者として処遇せざるべからずとするが如きは古き観念なり」とし、
「此の如き観念は排斥す」とて、卓を叩きて叱咤す。
御前会議としては珍しき光景ならん。東條総理大臣は大東亜地域の諸国を従属的に取扱ふの
底意を此に暴露したり。東條総理大臣の興奮は益々激化し
「大東亜圏内には外交なし」と極言す。
アジア・太平洋戦争は
クーデターとテロにより日本の実権を握った軍部が
おのが力におごり高ぶり
東アジアを我がものにしようとして始めた戦争である
東條英機は首相になる前、ことある事に好戦論を口にしていた軍部の首魁である
ボ・ミンガウン(三十人志士メンバー・アウンサン将軍副官・独立後、内相、運輸相等歴任)
「ビルマの情勢を検討していた東條首相は、そのスローガンである「大東亜共栄圏」建設をめざし、
同時にビルマ国民の感情をなだめるために、飯田司令官の下に傀儡政府を組織して、名目的な独立
を供与する準備を進めた。まもなく飯田司令官は、バモオ博士を長とするバホー(中央)行政委員
会を設置し、一九四二年六月四日に全国に向けて発表した。(中略)この委員会は一九四二年八月
一日に、「ビルマ行政府」とその名前を変更した。しかし、「ビルマ行政府」とはいっても、飯田
中将の命ずる範囲の行政事務を担当したにすぎなかった。
(中略)
一九四三年八月一日には「独立」が宣言され、アディパティ(総統)バモオ博士の率いる政府が
出現した。この政府は、独立した政府とはいうものの、実際には総統にせよ、大臣たちにせよ、日
本軍指導部の認めた範囲内の権能しか持たなかった。アウンサン将軍は、日本の与えた「独立」が
本物ではなく、「メッキ」にすぎないことを見抜いていた。将軍はまた日本軍のやり口を熟知して
いた。さらに、連日のようにビルマ各地で起こっているファシスト日本軍の残虐行為についても将
軍は目配りを絶やさなかった。そして、もともと胸の内に秘めていた、日本軍に対して反乱を起こ
すという決意を、さらに固くするのであった。
日本の与えたビルマ人による行政が、名ばかりでお粗末なものにすぎず、また残虐行為の数々を
目の当たりにしていたビルマ国軍、人民革命党それに共産党の指導者たちは、一九四四年八月に秘
密の話し合いを持ち、討議の末に「反ファシスト人民自由連盟」を結成し、対日反乱についてこま
かい検討を行った」
(ボ・ミンガウン『アウンサン将軍と三十人の志士』(中公新書 1990)より)
アフマッド・スバルジョ(独立インドネシア初代外相)
「毎年八月十七日には、共和国記念日を祝して式典が催されてきた。しかし、新聞は、いつもグレ
ゴリー暦の年月日を用い、紀元二六〇五年の略称である〇五年という、独立宣言の手書きの原文
に使われていた年号を再現してはいない。原文の写真が新聞に転載される場合ですら、日本の年号
についてふれてはいず、〇五年は四五年を意味するのだと、当然のことのように考えられている。
革命的な性格をもつ新たな独立政府にとって、日本の年号をうけいれられないということは、議論
の余地のないところである。また、従来の植民地政権が使っていた年号に対して、異議を唱えるも
のもいないのである。
八月十七日の共和国記念日の式典では、例年、建国以来の式典年数があげられる。たとえば、一
九七二年の八月十七日には、インドネシア人民は、共和国の二七回めの記念日、あるいは建国二八
年めを祝ったことになる。その日は、まさに、偉大な“ナショナル・デー”である。一九七二年十
二月二七日は、オランダ王国がインドネシア共和国を法的に承認してから二三年になるのだが、イ
ンドネシア人民は、この一九四九年十二月二七日に行われたオランダのインドネシアに対する主権
委譲の日を、祝ったりはしない。彼らは、八月十七日を、独力で宣言した自分たち自身の独立つま
り、日本帝国のおかげをこうむらない、まさに、自分たち自身の闘争が成功したが故の、さらには
一貫した努力のたまものとして勝ちとった独立の日として、その日を祝うのである。日本人がその
際果たした役割は、単に偶然にすぎなかったわけである」
(スバルジョ『インドネシアの独立と革命』(龍渓書房 1973)より)
名越二荒之助の捏造
「地中海での作戦中、ドイツ潜水艦から魚雷が発射された。その魚雷の発見が
一瞬遅れたときに、日本駆逐艦は連合国船舶の前に全速で突入して盾になり、
撃沈されて責務を果たした。犠牲になった日本海軍将校の霊は、今もマルタ島
の墓地に眠っている」
↓
この部分にも多くのウソがねつ造されています。まず、「作戦中」ではなかったのです。
1917年駆逐艦「榊」「松」はマルタ島に帰還途中ドイツ潜水艦と遭遇し、
艦首に被雷して、大破し59名死亡したというのが事実です。
連合国船舶の護衛任務などではありませんでした。したがって連合国船舶の護衛
のために「盾」となったという、今はやりの国際貢献の美談として書いているが、
全く根拠のないフィクションです。
また地中海で日本駆逐艦が撃沈されたことになっていますが、司令官の報告を
見ても、「撃沈」ではなく艦首の「大破」であり、沈没した事実はどこにもありません。
高嶋伸欣さんが「こっそり訂正していた歴史教科書」というタイトルで、
「ねつ造だった日本海軍手がら話」について書かれています。
扶桑社は採択後の供給本で、この部分も含めて約50カ所もの訂正を内密裏に行っていたのでした。
供給本では次のように書き換えられています。「日本の駆逐艦が、ドイツ潜水艦
によって撃沈された連合国船舶の救助活動で、大きな功績を挙げたが別の任務
の帰路、潜水艦の魚雷攻撃を受け、60名近い戦死者がでた。」
では魚雷攻撃を受けた日本の駆逐艦「榊」はだれが助けたのだろう?
近くにいた「松」は二次攻撃を恐れて手をこまねいていたのだが、急を聞いて
駆けつけた英国艦が迷うことなく接舷して港まで曳航したのだそうです。
称賛されるべきは英国艦であり、日本艦は怯えていたというのが事実。
重要登場人物の名前さえまともに書けない名越の著作に
歴史的学問的価値など微塵もありません
そこにあるのは捏造与太話でしかないのです
>ニミッツの詩とやらも、自衛隊幹部が渡米して、ニミッツの詩で間違い無い、という確証を
>得たから、ベリリュー神社の碑文にしたのだ。
ああ、それも間違いないってのがそもそも嘘ですから。
その自衛隊幹部からの又聞きであり、誰がこれがニミッツの詩ですといったのかすらはっきりしていない。
ほんとに知らなかったんですか?
簡単に経緯を説明すると日本のスーパーソルジャー船坂弘の著作に見られるのが初出で
産経新聞記者の住田良能記者が1978年に同紙の茨城県版で企画連載した「ペリリュー島78」を収録した部分に
公刊戦史に載っていると記載されている。
その後名越が主張するところではこの詩がペリュリュー神社で見つかったので
元ネタを知りたいと思い資料を探していたところ、公刊戦史などには全く見つからず
自衛官浦氏がアナポリスでニミッツの詩だと教官から教えられたと又聞きであることを明言している。
なぜか名越はこの教官の名前も聞こうとせず、これはニミッツの詩だって大喜び、
元ネタがそもそも掲載されているという公刊戦史に載っていないのに
軽率にも「世界に生きる日本の心」にニミッツの詩だと掲載する始末。
アメリカ側資料にはそのようなものが見られないことはガン無視です。
これが名越における”確証を得た”というなら、
彼の著作は全て眉につばして見なければならないでしょうね。
上述のように名越の調査とは学問的審査に耐えうるものではありません。
又聞きが多すぎる上に、浦氏の例をみても誰が伝えたのかすらはっきりしないものを
確証とかきちんと調査とか呼びませんからw
そもそもニミッツの詩がいつどこでどのように作られたのかが不明な以上、
確証だの調査だのの入る余地がないんですがね。
しかもナシールにいたってはいつどこでだれががまったく明らかにされてません。
まあ、やたらと元○○という無責任な立場の人間だけが
日本人に対してリップサービスできるってあたりが
現地の人間がどう思っているかをはっきり示しているような気がしますがねえw
日中戦争〜太平洋戦争下におけるアジア各国の被害は甚大なものだった。
死者の正確な数ははっきりしないところが多いが、主に各国政府の公式の発表を基に紹介すると、
中国1000万人以上(調査の進展により最近では2000万人以上と言われ始めている)、
フィリピン111万人、インドネシア400万人、ベトナム200万人、マレーシアとシンガポールで10万人以上、ビルマ15万人、インド150万人、
韓国・朝鮮20万人、台湾3万人などである。このほとんどは民間人である。
ほかに連合軍捕虜4万2千人あまり、民間抑留者1万数千人、オーストラリア1万7744人(捕虜約8000人を含む)などである。
アジアの死者は全体として2000万人という場合が多いが、中国の死者の数によっては大きく増える可能性もある
(『世界』1994年2月、特集白書・日本の戦争責任)。
なお日本の死者が約310万人、うち軍人軍属230万人、民間人80万人である。
日本の場合、沖縄を除くと、軍人の外地での死者が多数を占めているが、アジア諸国の場合には圧倒的に民間人が犠牲になっている。
日本の侵略戦争であったことがここにも現れている。
戦争被害は死者のみに限られない。家を焼かれたり破壊された件数などの物的な被害、難民になった人数は想像がつかない。
人的物的被害とは異なるさまざまな傷痕も残している。
マレー半島では、日本軍は華僑を抑えるためにマレー人を利用した。
華僑粛清という名の虐殺のためにマレー人を道案内に使ったり、マレー人警官を同行させて日本軍の手伝いをさせた。
そのため華僑から見ればマレー人が日本軍の手先となって同胞を殺していることになり、華僑が主体の抗日ゲリラは日本軍に協力しているマレー人を襲撃し、
あるいは豚肉を無理強いするなどイスラム教徒であるマレー人を侮辱する行動にでた。
このためマレー人が華僑の村を襲って村人を惨殺し、それに対して華僑が報復するという事態が戦争末期から戦後にかけて頻発した。
このマレー人と中国系との対立はその後も尾を引き、現在でも大きな問題となっている。
日本軍の残虐行為がその後何十年にもわたって深刻な影響を与えているのである。
ビルマでは、多数派のビルマ族のほかにカレン族やカチン族などの少数民族がいる。
カレン族にはイギリスの影響でキリスト教徒が多く、そのためイギリスが植民地支配のためにカレン族を登用しビルマ族を抑えるために利用した。
日本軍は逆にビルマ族を使い、カレン族に対しては親英的とみなして抑圧した。そのためカレン族が日本軍の残虐行為の対象になったケースが多い。
このためビルマ族とカレン族の対立は一段と増幅された。
戦後、ビルマ族主体のビルマ政府に対してカレン族は武装闘争をおこない、ビルマの不安定要因となっている。
植民地支配は通常、民族を分断し統治するという方法を取るが、日本軍の支配はそれが虐殺などの残虐行為と結びついていたために
民族間の対立を一層増幅させることになった。
日本軍は戦争後期になると日本軍を補うために現地の住民を使って義勇軍などを作った。
ビルマ国軍やインドネシアの郷土防衛義勇軍(ペタ)などはその代表的なものである。
これらの軍隊は戦後の独立にあたって大きな役割を果たした。特に植民地の再建をねらうオランダと独立戦争を戦ったインドネシアの場合は特にそうである。
もちろんこのことは日本軍が日本の覇権のために作った軍隊を、民族運動の組織者が独立のために活用したのであって、
ヨーロッパと日本の二つの帝国主義国の間で両者を利用して独立を勝ち取ったことはいうまでもない。
しかし独立後の軍隊の土台が日本軍によって作られたことは否定できない。問題はそこにある。
インドネシアで1966年にクーデターを契機に政権を握りその後1997年に至っても依然として独裁政権を続けているスハルト大統領はペタの軍人であった。
ビルマで1962年に軍事クーデターで政権を握り、議会を解散し憲法を停止、後に表舞台からは姿を消すが今日に至るまで軍事政権の黒幕と見られている
ネ・ウィンは日本軍の訓練を受けたビルマ独立義勇軍の幹部の一人だった。独立後、長期軍事独裁政権が生まれたインドネシアとビルマではともに
日本軍に育てられた軍隊がそこでも大きな役割を果たし、また日本軍に訓練された将校がその独裁者になっている。
独立後の問題の原因の一つが日本占領時代に起因しているのである。
日本軍による過酷な占領に対して、各地で抗日闘争が繰り広げられた。そのあり方は地域ごとに多様であった。
フィリピンではさまざまなゲリラ組織が作られたが、その中心になったのはユサッフェゲリラとフクバラハップだった。
ユサッフェとはアメリカ極東軍のことで、同軍は1942年5月に日本軍に降伏したが、各地に残されていたフィリピン人兵士たちは
ユサッフェゲリラを組織し知識人・政治家・宗教者らと協力し抗日ゲリラ活動をおこなった。
彼らはアメリカに忠誠心を持ったゲリラだった。一方、社会党・共産党系の農民運動を基盤に42年3月中部ルソンで結成されたのがフクバラハップ(抗日人民軍)だった。
彼らは日本軍追放と地主打倒を目標にしていた。両者は対立しながらも抗日活動をおこなった。
マラヤでも多様なゲリラ組織が生まれた。最も強力だったのはマラヤ共産党によって組織されたマラヤ人民抗日軍だった。
華僑が主体のマラヤ共産党はイギリスの植民地支配のもとで非合法化されていたが、
日本軍のマレー侵攻が始まると共産党は英軍に協力を申し出、共産党の選抜した青年たちに英軍がゲリラ用の訓練を与え、
日本軍の後方に送り込むことで合意がなされた。他方、多くの共産党員や国民党員らがシンガポール華僑義勇軍に参加して
シンガポール防衛戦で勇敢に戦い、多くが戦死した。
英軍からゲリラ用の訓練を受けた計165人は4つのグループに分けられて、
マレー半島の南部に送られた。彼らが中心になってマラヤ人民抗日軍が作られた。
北部でも共産党員らが独自にゲリラ活動を組織し、後に人民抗日軍に統合された。
中国国民党系の華僑は華僑抗日軍を組織、主に中北部で活動した。
またマレー人主体の地下抗日組織ワタニアも作られた。
インドからのマレー半島反攻を計画していたイギリス軍は136部隊を編成して潜水艦やパラシュートによってマレー半島に潜入し、
これら各地の抗日ゲリラと連絡を取り、彼らに武器弾薬を提供した。
インドシナでは日本とフランスに反対するベトナム独立同盟会(ベトミン)が結成され、
北部山岳地帯に解放区を設けた。1944年から45年の大飢饉のなかで「敵のモミの倉庫を破壊して人民を救おう」と呼びかけて全土で抗日闘争を活発化させ、
45年9月2日ベトナム民主共和国の独立を宣言した。
タイは当時、東南アジアでは唯一の独立国であったが、実質的に日本軍の占領状態におかれていた。
タイ政府は表面上は日本に協力する振りをしたが、政府や軍・警察関係者らは密かに「自由タイ」という抗日組織を結成した。
抗日的として日本軍に逮捕されタイ警察に引き渡されたタイ人は警察内の自由タイによって密かに釈放された。
また海外にいた外交官や留学生たちは自由タイの国外組織を作って国内とも連絡を取り、連合国からの支援をうけてゲリラを組織しようとした。
日本軍はこの自由タイの動きを察知していたが、手を出すことができなかった。
ビルマではすでに見たように、ビルマでは日本軍によって育てられたビルマ国軍がイギリス軍とともに日本軍をビルマから追い出し、
その後はイギリスの植民地支配の復活を許さず、独立を勝ち取った。
インドネシアでは、オランダによって投獄されていたスカルノやハッタなどの民族運動の指導者たちは、
日本軍に協力することによって独立を得ようと考えた。しかし日本軍の過酷な占領に対し、
1944年2月に西部ジャワで農民の反乱がおき、さらに45年2月東部ジャワでペタのブリタル大団が即時独立を求めて反乱を起こした。
このことは日本軍に対して、インドネシアへの独立付与を促したがその動きは遅く、
日本降伏後の8月17日青年らの突き上げをうけてスカルノらは独立を宣言した
日本軍がアジア各地でおこなったことを考えると日本軍の特質が問題にならざるをえない。
太平洋戦争においてアジアの民衆に対して、日本軍ほど虐殺・暴行など各地で大規模な残虐行為をくりひろげた軍隊はほかにはなかった。
捕虜に対する扱いも日本軍とアメリカ軍とでは、経済力だけでは説明できないほど違いがあった。
沖縄戦で日本軍が沖縄の人々を虐殺、あるいは虐待したことも日本軍の特徴だろう。
いくつかの点から日本軍が残虐行為をおこなった特徴を考えてみよう。
第一に日清戦争・日露戦争以来培われてきた、アジア民衆に対する蔑視観がある。
中国人や朝鮮人に対する蔑視だけでなく、東南アジアの諸民族に対してはより一層見下していた。
たとえば、大本営参謀本部が作成し、マレー戦に参加した将兵に配られたリーフレット『これだけ読めば戦は勝てる』(辻政信が書いたといわれている)には、
東南アジアの民衆を「土人」と呼び、「土人は懶けものが多く、(中略)全く去勢された状態にあるから之をすぐ物にしようとしても余り大きな期待はかけられぬ」
と蔑視観が露骨に示されている。
第二に日本軍が占領地の一般住民を敵視したことである。
占領軍である日本軍に対する住民の抵抗はゲリラだけでなくさまざまな形でおこなわれた。
日本軍は住民全体を疑い、村を丸ごと抹殺することさえおこなった。
国際法はまったく無視された。相手が住民であろうと、「抗日ゲリラ」あるいは「抗日分子」という名目がつきさえすれば
「治安粛清」と称して堂々と住民虐殺がおこなわれた。
第三に日本軍の「現地調達」主義である。
日本軍は各地で作戦をおこなう部隊の食糧や馬の糧秣について「現地調達」するという政策をとった。
日本軍は補給そのものを軽視したが、とりわけ食糧については軽視どころか部隊に任せた。
そのため各部隊は戦闘をしながら食糧を確保しなければならなかった。本来は代価(軍票など)を払って購入しなければならないが、
実際には食糧略奪があたりまえのようにおこなわれた。戦地・占領地での略奪は戦時国際法に違反するだけでなく、
日本軍の陸軍刑法や海軍刑法でも「略奪ノ罪」にあたるが、それが取り締まられることはほとんどなかった。
略奪にあたって、住民の抵抗があれば、住民に対する残虐行為がおこなわれた。
女性に対する暴行もその一部だった。それが抗日勢力が強いと見なした村であれば、略奪、女性への暴行、
住民虐殺、放火がおこなわれた。中国ではこうしたなかで若い女性を拉致し慰安婦にさせるケースが報告されている。
中国など人が住んでいるところではこうした方法で食糧が調達できても(略奪された住民の苦しみがあることはいうまでもない)
人のあまりいないジャングルのなかでは、略奪しようにも略奪するものがなかった。
ガダルカナルやニューギニアで多数の日本兵が餓死したのはその結果である。
日本軍兵士の死者の半数以上が広い意味での餓死(飢えに起因する病気による死を含めて)によるものと推定されるが
(藤原彰「日本軍の餓死について」)、みずからの兵士の生命を軽視した「現地調達」主義は、
日本軍を残虐行為に駆り立てたとと同時に日本兵自体の生命をも奪ったのである。
第四に国際法を無視したことである。
第一次世界大戦までは、日本は参戦にあたって国際法を遵守する旨が開戦の詔書には含まれていた。
しかし太平洋戦争の開戦にあたっては、詔書の案の段階ではあった「国際法規の範囲内に於て」という文言が最終的には削られた。
日中戦争にあたっては、戦争ではなく「事変」であるとして戦時国際法を適用する考えはなかった。
日中戦争〜太平洋戦争において日本は、捕虜や占領地の住民の保護など戦争下におけるさまざまな人道的な措置を定めた戦時国際法を守る意思がなかったのである。
第五に日本軍内部の非人間性である。
日本軍でも「私的制裁」は禁止されていたが、実際にはビンタをはじめさまざまな暴力が日常的におこなわれていた。
「死は鴻毛(鳥の羽毛)よりも軽し」という軍人勅諭の言葉通りに兵士の生命は軽んじられ、特に下級兵ほどその抑圧はひどかった。
軍のなかで蓄積された抑圧とストレスは外部に対して、とりわけ弱者に対して向けられた。
占領地の住民はまさにその犠牲者であった。住民に対する兵士たちの残虐行為は軍隊内の秩序を維持するための安全弁として軍上層部は黙認したのである。
軍隊という組織そのものが持つ暴力性はこうした日本軍の特徴によって極度に増幅され、
アジア太平洋地域では他の国とは比較できないほどの残虐行為を引き起こしたのである。