爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話4

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1名無しさん@お腹いっぱい。
良スレだったので復活させました
2やや:2010/09/12(日) 23:25:33 ID:QgM+hyPU0
2げと?
3携帯からカキコ:2010/09/12(日) 23:36:13 ID:ehdVx1R3O
広島城の駐屯地に兵隊として勤務してたじいちゃんの話。

昭和20年6月下旬に山で炭を焼いてこいとの命令を受けて、
10名程の隊員と馬一頭で県北の吉田の山に行った。
着いた山の中は宿舎なんぞあるわけもなく、雨風をしのげるものもない。
まずは木を切り倒して、それを元に簡易宿舎を造ることから始めたそうな。
で8月6日の朝。ようやく炭ができて確認のため、
窯をフタをしていた土を取り除く作業中に遠くで爆発による雲が上がったそうだ。
その時は三次の飛行場の燃料タンクがやられたのだと思ったそうだ。
10時に広島城の本部と定例の無線通信を試みたが応答なし。
10時の次は15時だ。しかし応答がない。
なにかおかしいということで隊長が馬に乗って下山し、様子を見てくることになった。
2日後、隊長が戻って来た。
全員下山して本部に戻ることになった。鉄道は運行していたそうだ。
民間人は広島駅には降りられず、一駅前の矢賀で降ろされたらしい。
じいちゃんたちは軍属なので広島駅へ着いた。それが8月9日の晩のこと。
建物がなくなってるので駅から宇品の海が見える状態だったそうだ。
そこから徒歩で浅野庭園の脇を通り、本部に戻った。
その場には軍属がいたそうだ。原爆が落ちた時はたまたま出張中であり、九死に一生を得たようでした。
その日はそこに泊まることになったが建物は吹き飛んで仕舞っているので野宿したそうだ。
転がっていた便所の踏み板を枕にして寝たそうだ。
翌朝から片付け作業開始。辺りを歩いているとまだ建っている建物(鉄筋コンクリ?)があり、
中を覗くと部屋の中央に人骨の山ができていたそうだ。
それらは日光を浴びキラキラ光っていたらしい。
熱線を避けるため、窓から離れた部屋中央に人々が集まってきて亡くなったのではないかと
じいちゃんは推測している。
広島城の堀にも死体が浮かんでおり、回収して福屋の一階に運んだとのこと。
またある時は、アズキを見つけたこともあった。
上部は黒焦げになっていたが、すくってみると下の方は問題なさそうだったので
赤飯を作って食ったらしい(現在の感覚からすると考えられないことだが)。でそのおかげで下痢が治ったらしい。
そんなこんなで3週間程広島で勤務した後、命令で岡山に転勤になったとのこと。
その時に検査を受けたら白血球の数が通常の半分にまで減っていたそうだ。
じいちゃんは今も存命です。ガンにも白血病にもなったことがないです。
ただしかなりの数の同僚が体調を崩したり病気で早くに亡くなっているそうです。
直撃を避けられたこと、3週間程で転勤することができたのが大きいと言ってたおります。
4名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/13(月) 13:59:04 ID:6zJ8UNZqP
もうログは戻らないのか
5名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/14(火) 03:46:47 ID:PSuCQd5nO
豚骨ラーメンおいしかですよ。紅ショウガがうまか!!
おいは具は焼き豚と海苔とキクラゲが好きよ。
薬味はネギと紅ショウガね。
マジうまかさ。スープのたまらんもん。あんにおいがよかね!
ああ〜また食いたくなってきた〜。
明日も食うけん!!
6名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/14(火) 21:59:04 ID:jC6NDJko0
スレ違いかもしれませんが、ちくとお聞きしたいことがあるので、どなたかご存じならお教え下さい。

親戚の家で見た先祖の古写真の中に、椅子に座った人物が写っている写真があり(スタジオで撮影したもの)
その人が腹部のあたりで、床に立てた刀の柄しきものを握ってました。
明治31年に撮影したと書いてあったんですが、そのころ日本刀をこれ見よがしに持って撮影することは一般的だったんでしょうか。
もしくは、写真撮影用の椅子には、肘掛けの部分に取っ手みたいなものがついてたなんて話はないですよね。
7名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 01:06:13 ID:cW79LpMT0
軍人、特に将校なら軍刀を持って写真撮影するのは普通ですね。
あと退役軍人が刀を持って撮影するのも普通。それと警察官も帯刀してました。

廃刀令というのは、刀を腰に差して歩いたり、刀を戸外で抜くのを禁止したのであって
もちろん所有は禁止していません。写真撮影の時に先祖伝来の刀を持って
写っても別に違法じゃないし、ありえる事ですよ。
都会では余り一般的な習慣ではないですが、地方の士族なら十分あるでしょうね。
うちにも5振りの刀があったそうですが、戦争中の金属供出で出してしまいました
8名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 22:31:23 ID:UzNpaxdm0
>>7
ありがとうございます!
軍人や警官ではないですが、武士の次男坊が安政年間に商家に養子に入ったそうです。ただ、商人になったのに武家の長女を娶ったりと
何かしら士族に対する未練があったのかもしれません。さすがに刀は道中差しでしょうが。ちなみに群馬ですので、地方ですね。

ご回答ありがとうございました。
9名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/17(金) 03:02:54 ID:TAXw8qtIO
憲兵の文句はよく聞きました。
もう他界して15年になりますが、
私が幼い頃、おやつの時間にお菓子を食べ、残りをしまおうとすると、
「昔は憲兵に見つからないようにいろんなとこに隠したねぇ」
と話してました。
当時は何の事かよく解りませんでした。

今でもちと半信半疑な面はありますが、
それぐらい煙たい存在だったみたいです。
ちなみに風呂では軍歌を歌いまくってました(笑)
兵隊さんのおかげです〜♪
月月火水木金金〜♪
10名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/18(土) 09:07:35 ID:CCy44Ajn0
爺さんが「憲兵がいなくなっただけでも、日本は戦争に負けて良かった」と言ってたなあ。
道歩いている普通の人に、憲兵がインネン付けてボコボコにぶん殴っても
殴られた人も周囲も何も出来ない、魔王のような存在だったらしい。
戦後米軍がやって来て憲兵の悪行を訴えても、米軍は米軍の感覚で
「警察があるのに、MPがなぜそんな事するのか?」という感じでピンと来てなかったらしく、
国内の憲兵で罰せられた人はほぼ皆無だったってさ。
「戦場のメリークリスマス」みたいに国外にいた憲兵は戦犯でガンガン処刑されたのに
日本人を迫害した憲兵は無罪って、連合軍にすれば当然なんだろうけど、どうなんだろうね。
11名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/18(土) 10:33:19 ID:imV6PeeQO
馬鹿な質問で申し訳ないですが憲兵と警察、憲兵と普通の兵隊はどう違うんですか
憲兵といわれてもピンとこないもので…
12名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 11:31:41 ID:yUfSP3lH0
 憲兵ってのは軍隊の警察だ、ミリタリーポリスだ、軍事裁判所直轄だ。またその警察ん中にもお巡りどもを見張るやつらがいる。
閑話だが戦前の特高てのは特別高等警察とかなんとかいって国民の思想統制と規律維持に大活躍した。
とりわけ坂口安吾だの織田作之助だの無頼派などは相当怖かったろうと思う。拷問、詰問、えん罪ゴリ押しなんざヤツらの最も得意とするところだ。
 ちなみに明治のそのへんの普通の巡査だって「オイコラ」だの「貴様」だのと四民に声がけするのは茶飯事、問答無用の居丈高で所謂権力の犬ってやつだ。
「止まりなさい」「左に寄せてください」なんて現代のお巡りが丁寧になったのは至極最近の話しでそういう伝統は平成の未だに根強いと思うぞ。
13名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 11:45:02 ID:nW4L+UKO0
>>12
人を呼び止める「おい」、相手を指して言う「貴様」は別に見下して高圧的に言った言葉では無く、
現代で言う「ちょっと」や「すいません」、「あなた」や「おたく」に対応する言葉。
14名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 11:49:18 ID:yUfSP3lH0
 現代のお巡りが同様ならどう思うか?
15名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 11:53:21 ID:nW4L+UKO0
当時と同じく、日常的な男性言葉として使われてるならどうも思わないだろう。
16名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 12:04:53 ID:yUfSP3lH0
 警察傀儡さん、擁護よして。
17名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 12:17:49 ID:nW4L+UKO0
擁護もしないし、不当に貶めもしてない。
18名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 12:31:31 ID:yUfSP3lH0
 当時の普遍的な呼称だったって?まあおどれがそう言うならそうかもな。
明治に生きて、後世に伝える何かを持ってるなら認めますつか擁護します。
警察内の言い訳言い逃れ的な言説なら容赦はしません。
どうよ、お巡りさん。
19名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 13:48:54 ID:nW4L+UKO0
安易に○○認定するのはやめてもらえますか。
自分のレスに対して反論的なレスがあると「おどれ」とか.....
お国が知れますよ。
20名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 16:37:05 ID:AFEE+5pO0
てか昔の警官は元侍で町人に対する対応が抜けきらないのは仕方ないっちゃ仕方ないと思うけどね
21名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 17:57:15 ID:yUfSP3lH0
「オイコラ」と同様に呼んでみた多だけだが。
22名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 18:20:31 ID:vI9TQxPU0
>>21
一般的に使われてない現代では、それは失礼というもの。
貴様と言う言葉は「おどれ(おのれの訛り)」と同じく、昔は自分と対等かそれに近いと認めた相手に使われた。
現代の感覚で当時の言葉やその使い方をみるとおかしなことになる。
23名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 20:11:11 ID:DABW0DZC0
放棄
24名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 20:50:35 ID:AFEE+5pO0
自分と同等か目下に対して使う何々君の君は昔は丁寧語だったもんね。
国会でよく見られる「○○く〜ん」はその名残
25名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/20(月) 21:08:15 ID:9abiU3Na0
昭和20年の敗戦から、昭和25年の朝鮮戦争までの食料不足の酷さはよく聞いたなあ
食料事情は戦争中より戦後の方が悪化したって。

金があっても米が買えなくて、餓死者も出ていたんだから
今の北朝鮮みたいな感じなんだろうな
26名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/20(月) 21:30:14 ID:j8oJx77hO
餓死者が何十万〜何万人出ていたなんて二十代の自分には信じられない
戦前生まれの人から見ても戦前の日本と今の日本が同じ国とは思えないんじゃないかな
それに戦後しばらくは遊郭とかまだあったんだよなぁ
27名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/21(火) 17:13:40 ID:DMKpwppP0
戦前もそれなりに豊かだったのにな。あの戦争のせいで高度成長期が20年は遅れた。
28名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/22(水) 19:49:56 ID:jgc6ngoTO
戦前は飢饉の時とか大変みたいだったけど貧困家庭と金持ち家庭の格差は現在と変わらんし、今より戦前の方がゆったりした部分もあったと思う。
急激な人口増加は江戸以降だが戦前は今ほど人口が増えすぎでもなく、今でいう薬中の太宰みたいなハチャメチャな作家がいたりね。
時間の流れも今よりゆったりしていそうだ。

戦前暗黒論者は人権がどうこう言うけど、障害者差別とか差別はなくならず今もあるのに
表面だけ差別用語云々の言葉狩りとか、過剰に人権人権いっている現代の方が窮屈な部分がある
29名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/23(木) 21:27:35 ID:WP0klgP50
つい最近までレストランでもバスでも白人専用黒人専用と席が分かれてた国が
世界の盟主きどりだもんな
30名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/25(土) 11:49:16 ID:ZUU7i1On0
今回の中国人船長の釈放で、日本の外交はペリーの時代に逆戻りだな。
「恫喝されたら譲歩する」って、徳川幕府の末期じゃないか。

ペリーに恫喝されて屈した日本が、やっと外交的独立を果たすまで
日露戦争勝利まで50年以上掛かったけど、
これからの日本は堕ちていく一方だな。この国はもうダメだわ。
31名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/06(水) 14:47:02 ID:jgbyCRkH0
大叔父から「満州でシナ人の首を日本刀でばっさばっさと斬ってたんだぞ」と
自慢されたことがある。子供の頃なんであまり詳細は覚えていないのと
その話を大叔父が始めると他の大人がたしなめてたんでどういう状況だった
のかは分からない

特高だった祖父から父が聞いた祖父の同僚の話
経済学を学んでる学生がどうもアカらしい、とその学生の下宿に検挙に
向かった同僚は、本棚にマルサスの本があるのを見つけ
「マルクス読んでる貴様はやっぱりアカだろう!」と
その学生を引っ張ってきて取り調べ(という名の拷問)をしたそうだ
学生が「経済やってるなら誰でもマルサスは読む」といくら説明しても
まったく取り合わなかったとか
残念ながら自分が生まれる前に祖父は亡くなったので他に特高の話は知らん
32名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/07(木) 09:36:44 ID:QNQAyB+B0
うちの爺さんの終戦時は鹿児島の基地で特攻隊としてスタンバイ中
玉音放送聞いて、飛行停止命令が出たけど、命令無視して発進して
桜島に飛び込んだり、海に突っ込んだりするのが相次いだが、
隊長は止めなかったってさ。止めなかった隊長は後に激しく批判されたけど、
あの時の状況じゃ無理もなかった、後の価値観で判断するのは無理だ、
大勢の仲間が死んでいったのに、おめおめと生き残れるか、という気持で、
俺も自決したかった、と言ってた。
爺さんがようやく前向きな気持になって生きていく覚悟がついて
大学に復学したのは昭和21年4月だから、半年以上も悶々としてた事になる
33名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/07(木) 14:55:19 ID:lVN4ms70O
>>30ダメだからどうするの君は。幕末みたいに抵抗しますか?
いや、しないね。長いものに巻かれ、何気なく過ごすだろうよ。
34困窮:2010/10/08(金) 04:00:22 ID:EpinI3Rg0
あきれはてたやつばら、銃後のゲキ犬の孫31は特に。
特高警察の拷問はハンパネ。鉛筆、毛抜き、フフフモロモロ。
モマエのジジイはヤッテタンダヨ、ケツカル拷問アイアンMEIDEN。

32は陸軍航空隊か?
本土防衛というむだなあがきによくぞ挺身されたと思う。
陸軍省はたいへんなところなのでご苦労察します。

ちなみに支那機関銃予科の自転車屋のおじさんはあんまし好きじゃなかったが、大工のおじさんはとても好き。
35名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/08(金) 12:41:15 ID:kovpJIDR0
婆さんが初めて爺さんの顔を生で見たのは、結婚式の当日。
爺さん京城で教師していたからね。見合いも何もなし。京城に帰るのが新婚旅行。
でも当時田舎ではそれが普通で、親が決めた人と結婚するものだと思っていた。
覚悟はしていたが、結婚生活は嫌で嫌で仕方なかった、とこぼしていた。
爺さんは真面目で優しい人だったけど、見た目が悪かったから
新妻から嫌がられるのも仕方ない。婆ちゃんはすらっとした美人だったし。
36名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/08(金) 16:26:52 ID:X3kJAMsU0
うちの祖母は、祭の人混みを歩いていたら、祖父に見初められて、知らないうちに結婚が決まってたそうな。
若い頃は『○○小町』と云われたほど地元では美人で有名だったらしい。
私が生まれた時は、祖父は他所に女を囲い、家に来るのは盆と正月くらい。
二つの家庭を持ってたらしい。
小さい頃は、どの家もじいちゃんは他所に住んでるもんだと思ってた。
37名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/09(土) 04:21:04 ID:KDp2d7kL0
うちの爺さんは戦争末期に呉の海軍工厰にいて、原爆のピカとキノコ雲を見て
慌てて広島に駆けつけて、原爆投下当日の地獄絵を見ている。
だけど余りの悲惨さに「とても言葉で表現出来ない」と言ってたなあ。
あれだけ凄まじい被害だと、現実問題として救援に行っても手の付けようもないしね。

関東だから、被爆手帳持っている人間は珍しくて「原爆投下直後の話を聞かせてくれ」と
各種団体から講演の誘いがあったけど「あの状況は言葉で表せない」と全部断ってた。
投下時に広島市内にいて幸運にも助かった方は、状況を話せるみたいだけど
爺さんのように近くから駆けつけて、客観的に被爆現場を見てしまった人は
その後の人生で、ずっと負い目を感じて生きていたみたいです。
本人のせいじゃないけど、感情の整理はなかなかつかないでしょうね。
38名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/09(土) 14:14:44 ID:thq8vpsw0
>>37
見たことも想像したことも無いことを客観的に見てしまったら…
現実逃避したくもなるし、表現の仕様がないんでしょうね。
後世になって知識として教えられた自分たちには、その気持ちは永遠に解らないと思います。
原爆に限らず、遠い過去の日本であった行為も、その悲惨さから正しく伝えられなかったことはあったかもしれませんね。
39名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 01:52:38 ID:7ZDa8lh30
NHKの証言番組における、大村崑の話が秀逸だった。

戦地に赴く○○さんを、駅からみんなで送り出した後で、玉音放送が始まる。
戦争が終わった事より何より、○○さん、いったい、どこに戦争しにいったんだ!?
って話題で、ご近所は持ちきり。

「あまりにも暗い話だから」って、ことで口を噤む老人たちがいるように、
楽しかったことが、不敬だし、不謹慎で話せないって老人も多いと思う。
それがもったいない。
笑える話は、もっとっもっとあってもいいと思う。
40名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 01:53:03 ID:iDun9bGA0
>>34
うんだからね、2chでしか爺さんのことは話せない
爺さんが特高にいたのは一時期でその後は別の部署に配属されてたようだ
敗戦の頃には警視庁を辞職し東京市議会議員となっていたが
過去に特高にいたことのある人も含めみんな公職追放となったんで辞任
その後は何をやっても巧くいかず失意のうちに人生を終えた
特高の弾圧の犠牲になった人に較べれば温い挫折かもしれないけどね

これだけじゃ何なので友人から聞いた話を
東京近郊の某所で戦時中強制労働の朝鮮人を連行して働かせていたが
狭い貨車につめこめるだけつめこんで連行したせいで酸欠になり
某所に汽車がついた時には殆どの朝鮮人が死んでいたそうだ
発覚をおそれた某所の村人たちは死体を村はずれに埋めそこが小山になって
いたそうで、友人およびその学友達は爺さん世代からその話を聞いていた
で、学校の郷土史の自由研究課題でその事件を調べて取り上げようとしたら
話を聞きに行った地元の有力者の年寄りから「そんな地元の恥を広めるな」
と一喝され止めさせられたそうだよ
今でもその事件は、地元じゃ密やかに語り継がれてるけど
地域一丸となって隠匿してるため決して全国区で表には出てこないらしい
41名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 17:20:16 ID:u00FtXHK0
爺ちゃんも戦争が終わった時は、大日本帝国の終焉という感慨より
「今夜から空襲がなくなる」「戦地の兄が生きて帰って来る」
「家族が皆無事だった」みたいな安堵感の方が大きかったと言ってたなあ。

8月15日の晩は灯火管制がなくなって、どこの家も煌煌と明かりを点けた
久々の明るい夜で、戦争が終わった喜びを実感したと言ってた。
42名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 18:19:00 ID:dD4O8VGP0
じいちゃんばあちゃんじゃなく、両親のお話。
親父は62歳、お袋は65歳。
言うまでもなく親父は戦後生まれなんだが、お袋は終戦の年の1月生まれ。
ある晩、戦争の話になった時にお袋が「空襲は怖かった」と発言。
親父:「生まれて半年の赤ん坊が分かるわけあるか!」
お袋:「覚えてるもんはしょうがないでしょ!」
こういったやり取りが5分ほど続いた後に出た結論が『離婚』
バカじゃないの?って思いながら見てました。
43名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/13(水) 01:48:32 ID:51cgj/LX0
>41
そこらへんは、よく聞くね。

まず、三年八ヶ月続いた灯火管制が解除!(昭和二十年、都心部では毎日のように空襲警報)
お米がいよいよ腹一杯食べられる!(食料難は戦地の兵隊さんに送っていたというお題目だった)

お互いに目を光らせていた隣組の連中。
間借りの窮屈さに背を丸めていた空襲被災者。
日を追って少なく、まずくなっていた配給なんかも、
もう終わると思ったんじゃないかな?
44名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/26(火) 00:15:49 ID:en1DgFRO0
祖母は小学校時代飛行場で特攻隊の出撃を見送ったことがあるそうだ
笑顔だったり強ばってたり常人の普通の表情と大して変わらないんだけど
もうこの世の者じゃないような、なんとも言えない顔つきをしてたそうだ
告別式の棺桶の中の死人のほほえみみたいだったとも・・・・
彼らがこの世の地面と永遠に縁が切れる離陸の瞬間は、未だに夢に見るらしい
あと、飛行機のペンキが剥げかけてたりマダラだったりするのが可哀想で
せめて死に際なんだから真っさらな綺麗な飛行機で行かせてあげればいいのにと言ってた
45名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/30(土) 01:08:21 ID:Vib+Q8NG0
うちの爺さんは大正9年生まれ仙台に住んでたけど
長男だったため赤紙は最初来なかったッと言ってた。
その後長男でも徴兵されると聞いてずっと仮病をしてたって笑いながら言っていた。
ただ戦争中は爆弾がいつ落ちてくるか解らないけ怖さがあったらしいけど、
どこにいても爆弾が落ちてきたら終わりと半分開き直っていたらしい。
戦争が終わり仙台の町もひどいことになっていたらしいけど
みんなで集まって「地ならしに行くぞ」って大人数で道を固めに歩いてたらしい。
もう戦争が終わった喜びでみんな再興に必死になっていたと言っていた。
結構虚言癖がある爺さんでもう亡くなったから真偽はわからないんだけど
その話を聞いていた婆さんがいつも涙目になっていたので本当に辛い過去なんだと
子供心に思った、その後は仕事を始めてが忙しくなってからは県外に住むようになって
あんまり話が出来なかった、もっと話していればよかったと悔やまれる・・。
46名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/01(月) 22:03:08 ID:UULopYVMO
フンドシっていつ頃まで一般的な下着だったんだろう。

戦前でも昭和一桁生まれ以降は生まれた時からフンドシではなくパンツに近いものを履いてそうなイメージ。
大正生まれの爺様はとっくに死んでしまって聞く人がいないw
47名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/01(月) 22:46:40 ID:/Ai6CdiVO
スレチだけど、高3の時に観た神風特攻隊の演劇が
なんか忘れられない 何てタイトルだったか・・・
48名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 01:08:51 ID:D4SxQU900
>46
洋装が進んで次第に廃れたんだろう。
男の洋装は早かったから、都市部では大正の頃にはほとんど洋装だったんじゃねーかな。

女性の下着は、有名な白木屋の火事からスタート。
ちなみに、女が和装という時代は、戦後しばらくまで。
髪結いさんが絶滅して、銘仙もジエンド。
49名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/02(火) 08:32:04 ID:UXIFB4UBO
>>48
大正だと都市の勤め人は洋装が多そうだな
でも下着の洋装化は遅れていそう

ドラマなんかだと大正どころか戦時中の兵隊がフンドシをつけていたりするけど実際のところどうなのか気になる
50名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 00:41:26 ID:l+pC9yIM0
昭和十何年までうちの町では洋服と着物は折半ぐらいだったらしい
また家の作りが農家で、土間の横に五右衛門風呂があり
年頃の娘が入っていても、近所の人は土間で世間話を平気でしていて
娘も恥ずかしがる素振りも無かったそうな

自分が子供のころに当時80歳くらいの老婆に駄菓子屋で聞いた話
51名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 00:38:56 ID:3Gx2y1JL0
明治時代のフォルムとかだと、男は背広に帽子。
女はお召し物(よそ行きの着物)。なんてパターンが多い。
男が黒い日傘とかを差してる。

戦前、女性のあこがれの職だった、タイピスト、電話交換士、ガソリンガールも洋装だろう。
着物の芸者から、洋装のカフエー女給が人気を奪っていったのも時流だろうね。

戦後のトップモードは、アメリカンスタイルのパンパン・ガール。
国民服モンペばかりの中で、彼女たちのスタイル・ファッションは、
すごい目立ってたハズ。
52名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 13:19:48 ID:QnBhDeHj0
>>40
つっこみどころ満載

>>48
>白木屋の火事からスタート
正確ではない。そもそもあの有名な話は都市伝説みたいなもん
53名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 01:19:53 ID:6ei9pR7g0
>52
>正確ではない。そもそもあの有名な話は都市伝説みたいなもん

じゃあ、正確なことろをkwsk
54名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 02:18:20 ID:Ntu0V47KP
明治30年生まれの母方の祖父は典型的な大正のモボ

旧制中学校時代から横濱のダンスホールに通い詰め
卒業後は横濱のダンスホールの店長になっていた。

昭和に入って、時代がきな臭くなってきてからは
海軍や外務省のお偉いさんに取り入って営業し続けてたが
太平洋戦争が始まると爺さんも徴兵され、
本土で経理をやっていた。

終戦後、多少は英語が出来たのと、ダンスが上手かったので
進駐軍相手のダンスホールの支配人をやってた。
その後、ナイトクラブのオーナー→破産→ダンス教室の講師として
横濱では有名だった(らしいw)
55名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 03:06:01 ID:Ntu0V47KP
要するに、大正のモボ→昔のリア充なわけだがw

祖父は平成4年に95歳で死んだので、けっこう色んな話を聞けた。
ただ、基本的にはチャランポランで適当な人だったので
かなりイイカゲンなものの見方だったのは許してくれ。

祖父曰く「大正時代は最高に面白かった」と、よく大正時代の昔話をしてくれた。

「ハマ(横濱)は海軍の町で、陸軍の連中は小さくなって歩いてた」
「海軍はモノホンのブランデーを飲んでたが、陸軍は電気ブランが好きな奴が多かった」
「海軍の連中は牛肉が好きで、陸軍は豚や鶏が好き」
「海軍の連中はカードゲームが好きだが、陸軍は競馬が好き」
 ※以上、かなり祖父の偏見が入ってると思われw
 ※ちなみに祖父は陸軍軍人のことをタゴ(タゴサク)と呼んでたw

「大正の頃、ブラウニン(ブローニング?)のピストルが五十円ぐらいで買えた」
「あの頃の店の売上げは多い時は1日二百円あったんで、ギャングが怖くて一丁買った」
「1回も撃たないうちに、カードで巻き上げられたんで悔しかった」

「関東大震災の時は家で寝てたんで助かったが、店は完全に潰れてた」
「震災っていうと東京の被害ばかり言われるが、ハマも大変だった」
「銀行に行って再建資金を借りようとしたが、飲食店は後回しにされた」
「馴染みの海軍のお偉いさんが一本電話してくれたら、すぐに貸してくれた」
「震災の後は、えらい儲かったんで、すぐに借金を返せた」
「だが、電力戦争(?)のせいで荒っぽい連中が増えて、ハマが物騒になった」
「鶴見の喧嘩(?)は凄かった。ハマのヤクザ者はみんな行ったな」
 ※今も電力戦争と鶴見の喧嘩の意味がわからない。誰か教えてくれ。
56名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 10:58:16 ID:gRYEPiQ20
57名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 01:01:50 ID:wbhgH/XW0
おお、謎が解けるのは、外野から見てても気持ちいいな。
大正時代に出来事が、あれほど詳しく出てるってのは、そうとうデカイ事件だったてことだな。
58名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 03:00:14 ID:TDUZcCPMP
>>56
>>55です。おかげで長年の謎が解けました
いやぁ、こんな事件があったんですね
ありがとうございます

それにしても、祖父はいつも大正を懐かしんでましたね
死ぬちょっと前、戦争で昔の写真はみんな焼けてしまったのを悔やんでました
59名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 07:59:49 ID:Jh8+teE50
>>46
1970年頃、
「お風呂屋さんに、フンドシしたおじいさんがいたよ」
と母親にわざわざ報告していた覚えがあるので、
40年前には、もうかなり珍しいものだったはず
(漫画『いなかっぺ大将』のおかげで、フンドシ自体の存在は知っていた)
60名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 18:40:06 ID:NGH1JelF0
戦前までは日本の男性はフンドシが当たり前だった。
戦後まもなく非日本化の社会情勢の中でズロースの大ブームが来て、
老若男女がズロースを履くようになり、ズロース時代が60年代前半頃まで続く。
それから男はトランクスかブリーフ、女性はパンティを履くようになった。

今でも病院に行けばフンドシが残ってる。看護士がウンコ取ったりするのに
フンドシが一番便利。病院以外では水着のフンドシが最後まで残ってたな。
1980年代まで、下町のプールに逝けば古式泳法のフンドシ爺さんが
1人ぐらいいたもんだ。
61名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/08(月) 00:22:02 ID:nklQaOrS0
成人男性は徴兵により入隊した軍隊から越中褌が支給されて使用を義務付けられたことから成人男性の下着は越中褌となったが、入隊前の若者は猿股かランニングパンツのようなキャラコ地の下着を着用していた。
戦後もブリーフが登場するまでの間は猿股か紐からゴムに代わったトランクスが男性下着の中心となっていた。

とは、wikiのブリーフの項から。
いろいろ、面白い。
62名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 05:50:18 ID:zG/pXBbkO
うちの隣の家が小野葉一刀流の師範で、なんでも戦時中、介錯をやったことがあるらしい。
首を落とすとき、雑巾をはたいたみたいな「パンっ」って音がするそうだ
63名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 18:08:13 ID:wsTDF6cdP
>>62
同じ意味だと思うけれど、祖父は
「濡れた手ぬぐいを干す時、一気に伸ばした時の音」
といってた。
だから、母が洗濯後にパンッ!と伸ばすのを
すごく嫌がってたな
64名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/10(水) 19:50:37 ID:aIFkAC4f0
>>63
それは鉄砲の音だ。
65名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 00:39:46 ID:DprGFXXaO
もしくはマッハの空気の壁を破る音か
66名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 00:46:14 ID:Zays0T+40
>64
一言で、言い捨てる書き込みは、よして欲しい。
せっかく書いてくれたひとに失礼だ。
67名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 23:04:30 ID:BPjPPVKs0
>66
激しく同意。

>63の話はたまに聞くことがある、だから正しいとは言い切れ無いのは当たり前だが。
まあ、切る方も切られる方も心が定まっての稀なケースかもしれないとは思う。

ただ、否定したけりゃそれなりの伝聞くらい書けよナ。
68名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 19:40:02 ID:lzH1pz490
みんな長生きした爺さんに恵まれてるんだな。
三重県民である俺の父方の爺さんはそうじゃなかった。
祖父は大正15年生まれ。家はかつては地主だった。
しかし、大正後期〜昭和初期にほとんどの土地を手放してしまった。(理由ははっきりしない)
祖父の父と母は昭和10年代前半に病死。(30代だったと思う)
そして大東亜戦争が始まって間もないころ、祖父の祖父も70歳ぐらいで死去。
祖父は10代半ばだったので、親戚を頼って近くの村に引っ越した。
その後海軍に入り、呉に配属され、そこで敗戦を迎えた。
戦後はダンプカーの運転手をして、昭和22年に村の庄屋の家系の長女と結婚。
翌年には男子(俺の父)ができた。
しかし昭和26年に結核で25歳の若さで死去。家には写真すら残っていない。
祖母は今も存命です。
69名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 03:06:43 ID:GxHUrl9o0
婆ちゃんの実家は、婆ちゃんが嫁入りした昭和10年代としては
金持の方だったんだが、田舎だから恐ろしくケチで、
嫁入り道具を何も持たせてくれないのは、まあ我慢できるとして、
家から嫁ぎ先までのタクシー代までケチってタクシー呼んでくれなくて、
花嫁衣装でどうしたら良いのか途方に暮れたと言っていた。
婆ちゃんの親はバスと汽車でみんなで行くつもりだったらしい。
見かねた既に嫁いでる姉さんがタクシー呼んで金払ってくれて、
嫁ぎ先までやっと来れたけど、腹が立つより情けなかった、と言ってた。
「家や国のためには、娘や次男三男が犠牲になるのは当たり前」の時代だったから
次女なんてゴミ同然で、キツかったとしみじみ言ってたなあ。
70名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/14(日) 04:12:41 ID:ZGvFnGM30
親戚の叔母さん(80歳)が結婚した時も
あっさり「じゃ〜ね」って感じだったらしいよ。
戦後間もない頃。何も持たせてくれなかったって。
長女だから兄弟(8人)の面倒というか
下3人は自分が育てたみたいなもんだったのにぃ
って思ったそうな。

下にいくにつれ手厚くなったらしいが。
戦後、自転車屋家業が当たって羽振りが良くなった
という背景があるかららしいけど。
71名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/16(火) 03:41:59 ID:/R2NCAmG0
 将校は率先して慰安所へ行き、兵にも是をすすめ、慰安所は公用と定められた。
心ある兵は慰安所の内容を知って、軍当局を冷笑して居った位である。
然るに慰安所へ行けぬ位の兵は気違いだと罵った将校もあった。
 要之戦場生活は殺風景だから気が荒くなる、是を抑える為には兵に女を抱かせるより善い策はないとしたのは尤もである。
 然し、日本軍人が戦争に来て大きな顔をして慰安所へ暇さえあれば通う姿を見て、支那人は笑って居った。
上海へ上陸した其の日に、何処へ行ったら女が買えるかと在留日本人に聞くと言うので、
日本の兵隊さんは戦争に来たのじゃあないのかと反問しているのを聞いた。
72名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/16(火) 12:43:36 ID:6t93KQyF0
前のスレにも書いたが、うちの婆さんは群馬のど田舎の出身で
昭和19年頃から周囲の家々には疎開者がガンガン来るようになった。
東京からきた自分と同年代の女の子は垢抜けていて綺麗で、
山猿のような自分達とは余りに違うのでびっくりした。
そして彼女達は婆ちゃんが見た事もないゴム鞠を持っていて、初めてゴム鞠を
借りて遊んだ日は興奮してしまって、夜遅くまで遊んで親に酷く叱られた。
子供の目から見ると疎開者が多い他の家が楽しそうで羨ましくて
「なぜうちには人が来ねえだ?」と母親に聞いたら「うちは東京に親戚がねえからだ」と
言われたが、子供だからなぜ我が家だけ疎開者が来ないのかよく分からなかった。
戦争末期は疎開生徒で学校はパンパンで1クラス70人とかになっていたが
終戦から櫛抜けのようにどんどん友達がいなくなっていった。
東京に戻って行った子らはすぐに音信不通になってしまい、同級会にも呼べなくて悲しい。
子供の目から見ると東京から来た子らはカッコ良く見えたが、
彼女らにとっては慣れない田舎で辛い体験も多かったのかもしれない。
73名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/17(水) 02:27:57 ID:8d77mtey0
>72
都会の女の子たちは集団疎開じゃなくて、縁故疎開ってことっすね。
じゃあ、彼女たちも別々のことからきてるから、
華やかに見えても、友達がいなくて、寂しかったのかもな。
74名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/17(水) 12:26:30 ID:KicI1o7H0
爺さん新潟だけど食料事情が悪化するとリュックに食料積んで東京の親戚によく運んだと言ってた。
東京の叔父宅に行くと叔父さんが「よく来た」と言って、銀座の資生堂パーラーに連れて行ってくれて
そこで生まれて初めてのホットケーキを食べて「こんなうまい物が世の中にあるのか!」
「ほっぺたが落ちる!」と感激しまくった、という話を何度も聞いた。
75名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/17(水) 23:13:39 ID:joegF8XPO
爺さんや
婆さんや
爺さんや
婆さんや
爺さんや
婆さんや
76名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/18(木) 12:14:02 ID:vZfQOUsd0
>>73
当時の認識として、縁故疎開できる子は恵まれていた(勿論例外もある)。
親戚の家だからその家の人と同じ物が食えるし、縁のある土地というのは大きい。
「○○さんの親戚」なら、子供でもその土地にとけ込みやすい。
辛くても甘えられるおじさんやおばさんがいる。

集団疎開は辛い思いをした人が多い。食料は配給分だけでいつもひもじく、
辛くても甘える人もいないし、逃亡者が相次いで引率の先生の手を焼かせた。
77名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 17:07:27 ID:yqOJcjj+O
父方の祖父
「俺の周りで戦争に行きたくて行ったヤツなんぞ誰もいねえ。逆らうと上官にぶん殴られるから行っただけだ。」

母方の祖父
「戦争なんて嫌だからわざと脚に銃弾受けてわざと化膿させて帰ってきた」
78名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 17:20:29 ID:sRYsek830
祖父が、生前、
おれは、背が高くて乙種合格と言ってた
179センチ、、確かにデカかった
79名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 18:30:07 ID:4ksmNKE70
>>77

いろんな考えがあるんだからね
80名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/28(日) 20:18:17 ID:sRYsek830
兵隊検査前に醤油呑んで、心臓悪くして、、
81名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 02:19:07 ID:VQ5PxyCR0
>79
同意。

戦争楽しかったって話こそ、聞きたいんだけどな。
そういうひとが、口を噤んでいるのが、残念。
82名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 18:53:48 ID:/cbUBF+r0
うちにお爺さんの徴兵検査の時の記念写真があります。鮮明で人物が大きくて、とてもいい写真。
検査場だった小学校の前で、18人の若者と村長・在郷軍人会長・徴兵官が写っています。
この写真は村役場から貰ったらしく、結婚写真みたいに見開きになっていて、向き合う頁に
各人の名前と甲種、乙一、乙二が書かれている。丙種の人はいない。
丙種は全くいなかったのか、写真撮影から外されたのか判らない。
服装は学生服と背広がほとんど。和装が2人、職人姿が一人、軍服が一人。
私の目から見ると職人姿が一番カッコいい。軍人姿が何者か判らなかったけど、
年配の人が言うには、当時各大学に軍事サークルみたいのがあって、軍事教練を
部活のようにやってる軍国学生がいたから、それじゃないかとの事。
甲種は6人でやはり全員体格がいい。でも甲種の人はほとんど戦死したとの事。
爺ちゃんは唯一のメガネで乙二。晴れがましい顔しているのは偉いさんだけで、
若者の顔は軍服以外はみんな暗い。でも昔の写真にありがちな、無理矢理
しゃちほこばった顔じゃなくて、自然な表情をしている。
226事件の後、日中戦争が始まる直前だから、まだ少しは自由な雰囲気も
残っていたのかもしれない。髪型は7:3のサラリーマン風が多い。
みんな表情が渋いせいか、イケメン比率が高い。
83名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 17:54:27 ID:nFC4mFox0
戦争が楽しかった。日本刀で中国人きりまくった。中国人の幼女を強姦しまくった。楽しかった。

こんな話ききたいか?w
84名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 20:57:45 ID:S03s7DJS0
うちの爺ちゃんの部隊は戦争中台湾に駐屯。台湾は暖かいし、日本語通じるし
戦闘は全くないし、食料がとてお豊富で内地じゃ貴重品のバナナが食べ放題で、
女性は綺麗で(内地の女性はみんなモンペ姿で化粧も全くしていなかったけど、
南国はスカート姿でオシャレもしていて、まぶしいほど綺麗だったらしい)、
住民はみんな朗らかで、こんないいところはないから、戦争終わったら
台湾に移住するつもりだったらしい。でも、その願いはかなわなかった。
85名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 01:44:00 ID:3NTP8KV+0
>83
それは、普通に楽しくないだろw
86名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 03:09:09 ID:eS1WkrKs0
うちの親父は鹿児島のど田舎出身だが、
都会もんが集団疎開してきたから何やかんや巻き上げたとか言ってたな。
ゴム長靴持ってて珍しいからそれをよこせとか言って代わりに芋やるとかw
87名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/02(木) 14:32:39 ID:zfeWR6kc0
埼玉の農家だから、東京から「食べ物と交換して下さい」と大勢来たけど
都会の人は玄関前に土下座して、高級な着物をわずかの豆やイモと交換して可哀相で
見てられなくて、爺ちゃんの両親も困ってたと言っていた。

可哀相だからと気前よく交換すると、翌日から沢山来てさらに困るし、交換してあげないと相手が困る。
それで村から1kmほど離れた神社で交換していたら、闇屋まで来るようになって臨時交換所は閉鎖。
仕方なく、毎回場所を変えて交換するようにしたらしい。
相手の足元を見て都会の人に威張り腐って無茶な要求する農家もあって嫌だったって。

集まった着物や帯や時計は、昭和30年頃質屋さんに引き取ってもらったけど二束三文だったと言ってた。
時間も経ってるし、仕方ない。
88名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/10(金) 22:18:43 ID:FTqg9oDx0
爺さんは北支に行って無事に帰って来たけど、行く前に内地では
国民党軍は傭兵だから弱い、八路軍は百姓の集まりだから弱い、
と聞いて行ったけど実際に戦ったら両軍とも装備も日本軍より遥かに上で
神出鬼没で滅茶苦茶強かった、ってさ。
日本人があんな広い国に行って民衆を敵にして勝てる訳がない、
日露戦争は民衆を味方にしたから勝ったんだ、ってさ。
89名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/11(土) 11:17:40 ID:sv1xKhD5O
教師の蝙蝠ぶり、
戦後の北関東は疎開や農産物でそれほど大変ではなかった

90名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/12(日) 10:27:28 ID:NVSKs9UN0
戦中戦後はカボチャとイモばかり食ってて、肌が黄色くなったと言ってた
91名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/13(月) 01:27:46 ID:oJor3K5s0
大正11年生まれの祖母は東京生まれ東京育ちの根っからの東京もん
戦時中はうまや橋(?)という橋の近くの靴屋で住み込みで働いていた
同じようにして働く仲間たちとも仲良くやってたそうな
しかしどうしたことか、1945年3月9日の夜は仕事が早く終わり、その日は珍しく小岩の実家に帰った
同僚の者たちもなぜだかみんな仕事が早く終わりそれぞれ久しぶりに家に帰ったそうだ
そしてその日の夜、空襲があり、そこの靴屋周辺にはたくさんの爆弾が落とされた
そこの店主は亡くなられた
次の日、靴屋までの道のりは死体で埋め尽くされてたとのこと
92名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/13(月) 02:02:21 ID:yB1IpLHN0
>91
3/8(木)が、毎月恒例の大詔奉戴日。
翌9日(金)は平日だけど、3/10(土)は陸軍記念日で祝日。
だから、連休だったはず。

9日の仕事が早く上がったりして実家に帰ったのは、
そんな理由もあったんじゃないかな?
93名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/18(土) 08:51:02 ID:RIxo5NQU0
>>83
そうだわな。

というか>>79>>81は一体何と戦っているのか。
>>77は単純に自分の体験を書いただけなのに。
もしかすると、「戦争楽しかったって話を聞きたい」んじゃなくて
「戦争楽しかったって話」以外を禁止にしたいのかもな。
94名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/26(日) 03:48:25 ID:bGGQtl3a0
>>37
おお ウチのじいちゃんも広島の呉にいたんだよ。
しかも同じ海軍。ひょっとしたら会ってたかもね。
ちなみに敵軍(アメリカ)の無線を傍聴翻訳がメインの職務だったらしい
95名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/27(月) 21:48:11 ID:wE8vVafb0
戦争中の配属将校の恐ろしさはよく聞いた。
配属将校にぶん殴られると、中学生なんて意識を失って
K-1のKOシーンのように倒れるから危険きわまりなかったらしい。
96名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/28(火) 03:03:17 ID:FIW7Bcid0
おれの祖母からきいた祖母の祖母(江戸時代)の話
あるんだけど文才なくて書けない・・・
97名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 00:28:22 ID:BXRk2PB80
>>96
読みにくくてもいいから教えて。
98名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 18:21:02 ID:pRiBV23F0
戦争中は弾丸を製造する為に鍋の蓋まで取られたって言ってたな
99名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 18:57:38 ID:pRiBV23F0
海水浴をしていたら関東大震災が発生して
あたり一面の海水が一瞬にして消えてしまったらしい
近くにいた近所のおじいさんに津波がくるから早く山へ行きなさいって言われて
大焦りで避難したみたい
凄い勢いで潮が引いたというのになぜが津波は来なかったいう・・・
100名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 22:33:52 ID:7F5Wg9jM0
明治とか大正時代の人も(というかその時代にお爺さんなら江戸時代生まれ?)
「津波がくるから早く山へ行きなさい」なんて今と同じような言葉で話してたんだ
完全に別世界のイメージだったけど
101名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/29(水) 23:26:01 ID:kBioNLPE0
>>97
ああ ごめんね 文才ないの本当なんだ
しかもなんのオチもないただ当時のいち情景
なんか面白そうだとハードル自分で上げちゃったね ごめんね
あと 祖母の祖父は山賊に襲われたことがあります。
(ただしこれは明治初期)
102名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 01:57:20 ID:qUXylXal0
>>101
面白く無くてもオチがなくてもいいんじゃない?
スレ汚しと罵倒されるのが怖いのかな?スルー推奨。
無理強いっぽいので気が乗らなきゃこのレスもスルー推奨。
103名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 07:54:09 ID:vYklMFFc0
>>101
明治時代にはもう山賊なんていないイメージがあるな
マンガ日本昔話の世界の背景しか思い浮かばないw
104名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 11:45:34 ID:kEDzoS3h0
祖父は明治40年の生まれだが、小学校出て商家に丁稚奉公。
盆や年末の小僧さんの仕事に遠隔地のお得意さんの売掛金の回収がある。
田舎だから金を持っての峠越えには山賊が出ると言っていた。当時は姿形で
商家の小僧さんだと一目で分かるしね。山賊から自分の身と売掛金を守る方法として、
郵便局の局員さんと一緒に峠を越えると言っていた。
現金書留があるから郵便局員も山賊に襲わる可能性があるので、
郵便局員は特別に拳銃を携帯を許されていて、発砲訓練や護身訓練も受けていて
局員と一緒なら安全だったので、局員の移動時間を覚えておいて後ろをついて行ったそうだ。
局員さんの制服姿や拳銃が頼もしくて憧れだったそうで、
よく楽しそうに峠越えの話をしてくれたなあ。
場所にもよるが、大正期一杯ぐらいまで山岳地では山賊出たみたいだよ。
「ああ野麦峠」にも中山七里の山賊の話が出ている。あれは明治末頃の話だな。
105名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 12:15:01 ID:dr5A2y68O
【歴女】竜馬、晋作、吉之助…。我が子に幕末志士の名前を付ける歴女たち。 [12/22]★3
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/parksports/1217581664/
106名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 12:34:47 ID:vYklMFFc0
>>104
へ〜
自分が無知なだけなんだけど、普通に勉強になったわ
107名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 18:21:12 ID:959rDxJhO
>>100
明治大正の小説とか読むと別世界というほど変わらなかった気がする。

でも「〜ですのよ」「〜よくって」「ご機嫌よう」みたいな女学生言葉は今や死語。漫画や小説等創作物でしか見かけないw
108名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 23:36:43 ID:r8BNEWE80
>>97 >>102
わかった なんとかかいてみる
初期設定  祖母の祖母の家は当時のプチ財閥(海運業) 当時10歳くらい

当時の多分寺子屋だと思う そこでは男も女同じ部屋で習うんだけど
男女別に右側左側に分けられてて 真ん中にものさしみたいな物を縦に並べて
座ってたみたい
で 授業中になったら 先生の目を盗んでよく男の子たちが
その棒でつついてきたんだって
もちろん騒いだら先生にぶん殴られるので くすくす笑いながらね
そうゆうちょっかいをしてきて でも恥ずかしくて やめてとも言えなかった

で「やだな。やだな。自分も近所の友達みたいに家で弟妹の世話したたいな。」
て思いながら勉強してたみたい

(近所の子は経済的理由で弟妹の世話しながら働いていた)


とまこうゆう話 当時のいち風景 
109名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 23:48:57 ID:r8BNEWE80
>>103
自分も意外に思ったけどやっぱいたみたいだね

あと 祖母の祖父が襲われたところは大阪南部
110名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/31(金) 06:44:25 ID:P39uPRxF0
>>108
やっぱり昔の先生はぶん殴るのか。
男と女で教室一緒なんだ。
あるていどの家の子でないとやっぱり子守や手伝いで来られないだろうなあ。
111名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/31(金) 09:02:59 ID:q/4atm0K0
子供らしい可愛いイタズラじゃないか
子守りや手伝いで勉強する時間がなかったから
読み書きが出来ない人も多かったみたいだね
時代劇でも字が読めないからお坊さんに読んでもらってるシーンを何度か見た
112名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 23:07:57 ID:IRYktRFz0
山賊の話はあちこちでよく目にするね。
県境は警察の目をかいくぐりやすいとか、そういう事情もあったのかね?
サンカの話もどっかで関わってきそう。

車のない時代だから、舗装もされてない。
人通りもなくしかも外灯もない真っ暗な山道だから、
いまとはまったく状況が違うんだろうけどね。
113名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 18:38:38 ID:bFki7b+H0
山賊は、現在でもカツアゲやひったくりに形を変えて多発している。
ゴキブリと同じで、犯罪は環境が整えば多発するし、環境が消滅すれば犯罪もなくなる。
ちなみに戦前の日本の警察は全国組織で、都道府県警になったのは戦後の話だから県境は関係ない。

大正〜昭和初頭にかけて、
1.第三次鉄道建設ラッシュで鉄道網が充実し、鉄道黄金時代を迎える
2.乗合い馬車の普及
3.関東大震災をきっかけにフォード製バスが全国に普及
という交通革命が全国規模で起きて、現金持って危険な峠越をしなくても
交通機関を利用すれば良くなったから、山賊という仕事が全く儲からなくなって
山賊は消えてしまったんだろ。郵便配達夫は昭和23年まで拳銃保有してたみたいだな。

http://ja.wikipedia.org/wiki/拳銃
かつては日本の郵便配達夫も拳銃を携帯していた。これは郵便制度発足当初、配達途上の現金を狙って
配達夫を襲う事件が発生したことから、1873年に欧州の制度にならってフランス製の回転式拳銃を購入し、
配達夫の護身用に用いていたものであり、「郵便物保護銃」と呼ばれていた。 これは警察官がサーベルを
持つようになる4年前の事であり、1948年まで用いられていた。
114名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 23:38:28 ID:2uNv3SIp0
>>110
ああ〜 ぶん殴るって言ったもK-1みたいな あんな感じじゃないよ
まず「睨み」があって、それで大概静かになったんだって
115名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 00:56:08 ID:HtV9iM0h0
>ちなみに戦前の日本の警察は全国組織で、都道府県警になったのは戦後の話だから県境は関係ない。

あおりでなく、これ、ほんと?
wikiだと、県の下に、それぞれ警察部というのがあったようだが。
どっちが正しんかね?
116名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 10:24:46 ID:rEzRnp1T0
体罰死亡事件が起きた影響なのか
>>110の反応を見る限り>>114の言う殴る先生は絶滅してしまったのかね・・・
117名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 12:55:49 ID:khsgo7a+0
>>115
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の警察
第二次世界大戦後はGHQによりそれまでの中央集権的な警察組織は廃止され、1948年(昭和23年)に旧警察法が
定められる。旧警察法では、地方分権色の強い国家地方警察と自治体警察の二本立ての運営で行われるが、
1954年(昭和29年)には警察法が現行法に改正され、国家行政組織の警察庁と地方組織の警視庁・道府県警察に
統一されて今日に至っている。
118名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/03(月) 22:40:07 ID:jwDzR2Bc0
http://ja.wikipedia.org/wiki/府県警察部
府県警察部(ふけんけいさつぶ)は、1947年(昭和22年)まで存在した府県の警察を管轄する府県庁の部局である。
現在の都道府県警察の前身である。

どっちだよw
119名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 10:17:48 ID:W/XNws5p0
所詮wikiに書いてあることなんだからどっちも間違ってる可能性だってあるだろうよ
120名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/04(火) 12:43:15 ID:gCf+gudq0
県庁自体が内務省の出先機関。県知事は内務官僚で、選挙で選ばれる訳じゃない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/府県警察部
東京府では、内務省直属の警視庁を置いていたが、東京府以外の北海道及び樺太(共通法1条で内地と規定)を
含む府県は、府県庁(当時は内務省の監督下の官庁だった)の部局として「警察部」を置いていた。
121名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/05(水) 22:54:26 ID:buXMTS6J0
祖母の自分史、生前発言などから、どうやら幕末某志士と遠縁で、
曾祖母兄が志士子孫と同居していた過去がある。
でもどういう縁なのかが不明。

調べたが、その志士子孫の文献に曾祖母兄弟の名前が出て来ているので明らかにかかわりがある事がわかったが、
他に手を尽くせるだけ調べたがやはりどういう縁かはわからず限界に感じ、
ネット上でその志士の子孫を発見したので
思い切って失礼の無いようにメールしてみたが華麗にスルーされた。
やるだけの事はやったし、その人との縁がどうなのかちょっと興味なくなったし、ある意味吹っ切れたけどw
122名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 06:33:03 ID:N0ytiNNC0
ええと 祖母祖母の江戸時代の話書いた者だけどー
もいっこあったので投稿してみるね
ウチのじいちゃん(祖母の旦那)はいわゆる田舎の名家 豪農てとこ生まれ

今と違って新しいものとか 外国製のものとかそうそう手に入らないような時代だったらしいんだが
(大正〜昭和のかなり初期) まあそうゆう時代
で そんな時ウチの誰かががラジオを買ったんだって。 
もちろんそんときの 村では初めて ラジオは当時の最先端なのでまわりも誰も持ってない。みたいな状況で・・

んで ウチがそれを知った当時の市長?町長?がウチに税金をとろうとしたんだって。


「あそこの家はラジオを持ってる。」  

みたいな感じで。

結局は払わなくて済んだみたいだが もう少しで「ラジオ所持税」みたいなものを払わせられかけた。
て言ってた。 じいちゃんが。




いまじゃ考えられないけどね。
でも 当時は本気だったからね。


123名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 02:27:36 ID:MFF7Fv6B0

韓国に行くと独立記念館や西大門刑務所歴史館のような戦前の日本を断罪する教育施設があります。
そこでは蝋人形で生々しく当時の拷問が再現されており、その視覚的な描写は大人でさえもかなりショッキングです。

http://www.tanken.com/dokuritugomon.html
http://tabimaro.net/etcetra/3/11/photo/23.html
http://tabimaro.net/etcetra/3/11/photo/27.html

124名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 18:23:40 ID:nnKO2JMy0
うちのばあさんは大正末期うまれ。

女学校時代は、陸上部で走り幅跳びの選手だった。
戯曲、小説などを濫読したり、
学芸会?では、肉弾三勇士に扮して、そのあまりに勇猛果敢な
演じ方で、ファンレターがきたとかこなかったとか・・・。

卒業後は、大学教授の家に行儀見習いにだされ、
後に祖父と結婚。

祖父は、甲種合格後ある歩兵連隊の旗護兵として出征
徐州会戦→昭和15年除隊→昭和17年応集→バリ→ビルマ→サイゴンにて
終戦。

極貧の出で、小学校時代は一日2食。昼は水を飲んでがまんした。
軍隊は、衣食住がそろっていて天国だと思ったそうだ。

ばあさんとは、当時教官を務めていた青年学校でしりあった。
ばあさんの親戚は猛反対したそうだが、料亭で婚礼をとりおこなった。

ビルマでは軍曹だったが、上官が戦死するので急遽大尉の階級章を
授けられて食料確保などにあたり、辻参謀が部隊に現れたとき、
重機関銃の弾が6発しかなかったのをみて驚いたそうだ。

マラリアにかかったとき、部下が英軍の食糧倉庫を襲撃してコンデンス
ミルクを奪い、それをもらって飲んだら回復した。

たいめん鉄道を汽車で移動中爆撃にあって列車が横転し、多数の仲間が
死傷した。自分も下敷きになり足を負傷したが、奇跡的に軽症だった。

部下が戦死した際、小指をきりとり ひもにとおして運び、焼いて骨として
空き缶にいれて日本まで持ち帰った。

サイゴンから日本へ帰国するとき、航空母艦が引き上げ船で、
仲間とキャッチボールなどしてすごした。

祖父の慰問袋を空けたら、除隊証明書、92式重機関銃の操典、
支那事変従軍徽章、しらみだらけの「軍帽につけるひさし」なんかが
はいっていた(ほかにもいろいろ入っていた)。
125名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 19:12:52 ID:fUcfTNTY0
メジャーの松阪のじいさんが、兵隊の頃、手榴弾の遠投で部隊記録を出したそうだ、
126名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/12(水) 14:49:17 ID:5L9N1sv+0
戦争中の配属将校は現役バリバリの青年将校で指揮刀(写真↓)を持ってたそうだ。
http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_118.htm
指揮刀は片手で持つ日本刀で、本物の日本刀より小さく軽く作ってあり
柄の部分は日本刀よりサーベルに近くて、腰に鎖で下げている姿は警官の
サーベルと似ていたそうだ。

中学生はこの指揮刀で殴られる。さすがに峰打ちだったらしいけど
顔を殴られると頬がザクロのように割れて血が吹き出して、中学生なんて
痛さと衝撃で失神してしまって、怖いなんてもんじゃなかったと言ってた。
爺さんも教練で整列していると「指先まで伸ばせ」と手の甲を指揮刀で
殴られた事があって、手の甲が腐乱したように黒紫になって、痛さで
1週間以上手が動かなかったとさ。
127名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/12(水) 15:37:48 ID:USO2eVzi0



【台湾】馬英九総統「日本には謝罪責任がある」…従軍慰安婦問題で日本は自国の「恥部」を隠すべきではない [12/27]


台湾の馬英九総統は26日、台北市文化局や台湾婦女救援基金会が主催した、台湾の
元従軍慰安婦らの対日訴訟に関する特別展に出席し、「日本政府は歴史の過ちに対して
謝罪する責任を持つ」と発言。注目を集めている。環球網が台湾の報道を受けて伝えた。

主催者となる台湾の元従軍慰安婦らが対日訴訟を求めた2000年から、同基金会の活動
は今年で10周年を迎える。展示会では、元従軍慰安婦らによる日本への賠償要求や、
従軍慰安婦問題の教科書記載などを求める運動などが紹介された。

馬総統はこれまでも元慰安婦の名誉回復活動に積極的に参与しており、同基金会が制作
した台湾人元慰安婦に関する記録映画の撮影や、元慰安婦への補償活動などに関わった。
また、2008年には、元従軍慰安婦8人と会談し、同問題への関心の高さを示している。

馬総統は、特別展開会のあいさつで「日本は歴史で犯した過ちと向き合うべき」と述べ、
日本は自国の「恥部」を隠すべきでなく、また、謝罪責任を逃れるべきではないとの見解を
示した。

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1293436105/



128名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 01:04:54 ID:weGfSCsS0
>126
配属将校は、各中学に数名配置かな。
現役の兵隊もいれば予備役の兵隊もいたりだったもよう。
ここらへんは妹尾河童作「少年H」にも詳しい。

教練射撃部所属のHは実弾入りの三八式歩兵銃を持って、市電に乗っていたという記述がある。
校門前に、上級生が歩哨としてが立っていて、ここでも実銃を抱えていたそうだ。

旧制中学だから、今で言う中学1〜3に高校1〜2年なんだけど、
いまからじゃ、ちょっと、想像がつかないよな。
129名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/19(水) 19:26:53 ID:ohdTN6uw0
爺さんが言うには真珠湾前の配属将校は予備役や退役軍人の爺さんで
大した事もなかったが、日米戦が始まると士官学校出のバリバリの現役将校が来て
中学校は陸軍の内務班さながらになって、ボコボコにされたと言ってた。

フランスに行った時に自動小銃持って白いピケ帽かぶって完全武装した
十数人の兵士達がパリの路線バスに乗り込んで来て、何があったのかビックリしたが、
現地の人は見慣れた光景なのか誰も気にしない。ただの移動だったらしい。
130名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 01:18:25 ID:CcNzlCyY0
ドイツじゃレオパルド戦車が一般道を走ってるよ。
時速60kmぐらいでスムースに走っていて、ベンツやVWと並走していても
違和感はない、日本でもクレーン車やフィニッシャーとか大型特殊車両が
一般道を走ってるだろ、あれと同じ感覚。
ちなみにレオパルド戦車はキャタピラが道を痛めないように、
一般道走行中はキャタピラーにゴムを装着しているらしい。

戦車が道を走れないのは世界で日本ぐらいじゃないかな。
131名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 01:58:36 ID:49SHDMCX0
S15に、銀座通りで戦車大行進だったかな?(うろ覚えですまん)
いまじゃあ、考えられんけどねw
132名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 04:41:41 ID:228cZJz+O
会津の嘘がまたバレる。もはや会津は某国レベル。

1.鉄道・道路を通してもらえなかった
→実際は三島県令が当時日本でも稀な大規模道路整備を若松を中心に行い、
恩恵が少なかった会津以外の人々が一揆を起こした。
→鉄道が通らないのは当然。仙台へ伸ばすには会津は経由させるべきではない。
また、磐梯山噴火などがあり若松より北へ伸ばす路線は危険が多かった

2.産業育成を阻害した
→実際は産業博覧会で三島県令が盛んに会津漆器などの産物を販売し、陶器産業も復興させている
清酒も明治以降の導入で、江戸時代はどぶろくだった

3.県都を郡山に移さず会津を引き裂いた
→郡山は新政府が開拓した都市。そこに移すのは新政府偏重と言う福島市の意見が強かった

4.学校を作ってもらえなかった
→会津高校を作ったのは明治初期、しかも三島県令と明治新政府の重役たちによる寄付だった

5.賊軍の遺体埋葬を禁止された
→「彼我の戦死者一切に対して」遺体確認作業の為禁止されていたのを作家が捻じ曲げて解釈しただけ
かなり早い時期から遺体処理を指示する民政局の達し書が出てる
会津藩士の遺体もちゃんと埋葬された

6.「白河以北一山百文」と侮辱された
→言いだしっぺは東北、わざわざ新聞タイトルにしてスローガンにしたのも東北

つまり、会津人が涙ながらに叫ぶ「被差別」話は、どれもこれも根拠がない。
新政府の援助をたらふく食った末に、貰った先を罵って、恩義はないといって済ませようとするのが会津。
133名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/29(土) 01:18:52 ID:DWAX1Vr80
最近、本で読んで面白かったのはS19頃の東京の銭湯事情。
煙突から煙が上がってるがどうかを毎日チェック。煙が出てれば、みんな銭湯に向かう。
裸で湯船の周りに何重にもひとが取り巻いて順番待ち。前のひとの頭をじっとみてる。
湯船に浸かっても、足だけで座る場所なし。
国家総動員法から五年。長い戦争にみんな疲れ切ってたって。
134名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/29(土) 04:49:40 ID:rQ3tfx2w0
>>132
斗南はどう説明する?
135名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/06(日) 21:06:02 ID:gkMcw8iC0
どう説明?会津の下北行きは会津の山川が決定したんだよ。
どう説明するとか馬鹿かこいつ。まさか強制連行なんて小説鵜呑みにしてんのか?
会津は自分達で協議して青森は下北まで行ったんだよ。
しかも封じはたった二年。某国レベルの会津観光史学を鵜呑みにしたら笑われるよ。

話変わるけど、会津がドイツに北海道と日本海側の地域を売ろうとしてたのがバレました。
会津観光史学ではこの売国を「外交」として評価。会津観光史学はマジキチです。
136名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/08(火) 04:07:37 ID:/uzHKdi00
>>134キリリッとしたつもりだったか?あ?w w w
137名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/13(日) 03:13:36 ID:v5ekErzg0
会津、ドイツに北海道と日本海側の地域を売ろうとするの談
138名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 05:12:53 ID:/RYRze5e0
会津観光史学は史実ではなく独自研究に路線変更しました(笑)
139名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/14(月) 08:03:12 ID:TedHVJW2O
ネット右翼みたいなもんか。
140名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/15(火) 15:49:46 ID:4gExl//E0
ネット右翼じゃなくて人権屋だろ会津観光史学は。
弱い立場、被害者になる事でお金儲けしてんだから。
141名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/15(火) 17:58:04 ID:vjq6IqhO0
まるっきり朝鮮人の手法だよな。
142名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 22:22:17 ID:6C5RPvxr0
>>130
無知乙
61だろうが74だろうが90式だろうが履帯のゴムパッドぐらいあるし
一般道だって通れるが。ウインカー付きだしw
143名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 22:58:11 ID:LkdpnNQZ0
>>142
馬鹿乙
もちろん日本の一般道を自衛隊の戦車は通れるが、
通ったら地元や左翼団体の反対運動がハンパじゃないから、
移動のときはトレーラーに搭載して戦車に覆いをかけて運んでいる。
144名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 21:12:05 ID:AYKakAbv0
北海道じゃ普通に90式が自走している。

http://www.youtube.com/watch?v=m-8O8e_Ezcw
145名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/17(木) 21:20:02 ID:/HxfpLAz0
>>143
それは長距離輸送の時だね。戦車は高速道路を80km/hでクルーズできないし、燃料消費率はとんでもなく悪いからね。
146名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 02:15:24 ID:PvaM0/o00
戦車が一般道を走れるのは第7師団の周辺だけだろう
他では無理
147名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 09:37:05 ID:GNpPDWGp0
会津売国列伝
148名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/18(金) 10:22:00 ID:N1KS0O9/0
山犬に噛まれると水が怖い病気になると言ってた明治生まれの祖母。
ニホンオオカミ?
149名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/19(土) 09:40:25 ID:c1TZhME30
会津と朝鮮はやり口が似てるよな。被害者になる事が利益。
150名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/21(月) 04:51:55.11 ID:XfYM3sbgO
まあ、ヤカラがよくやる手口じゃね?
151名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 23:05:56.59 ID:Nsj8FtMy0
地球温暖化と言われてるが

ばあちゃんに聞いたら昔だって夏はやっぱ暑かったって

まだ子供の頃 
ある時 ばあちゃんの親父が夜中に突然「暑い!」つって
家の壁に水をぶっかけまくった、って言ってた。

時代は大将デモクラシー   
152名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 01:36:19.77 ID:gHXoqTQb0
>>148
それは、狂犬病の症状すね。
153名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 14:31:02.63 ID:FgeeOnvl0
マスター・キートンの凄く後味の悪い話を思い出したわw
あれでは、狂犬病が狼男の伝説になったって話だったな
154名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/02(水) 14:54:44.35 ID:kRdT/SJU0
>>151
こういう、なんでもない話もいいな。

大正だと、都市部では水道がすでに出来てたな。
ってことは、ゴムホース? ゴムホースってあったんだろうか?
家屋に水かけられるなら、三軒長屋ではないな。
あぁ、平屋か。瓦が熱もったら夜は暑つかろうに…。

こんな風に次々連想出来るのがいいんだよね。
もっとあったら、聞きたいです。
155名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 20:50:13.58 ID:7qI4VTqT0
婆さんが小学生の頃ラジオの生放送のど自慢にでたと話をしてくれた。自分の住む街に来ていて、当時は誰でも出られたのか?帰宅したらいつもは厳しい母親に「ラジオで聴いた。ちゃんと歌えたな」だとか褒めてもらえたのが嬉しかったと今でも話してくれる。もうすぐ90歳。
156名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 00:30:28.80 ID:qSjdvsiQ0
名古屋だが、戦争末期に地震があったと言ってた。立っていられなかったと。
あとは、空襲警報解除の呼びかけをやってたと言ってたな。
157名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 01:37:15.66 ID:pVlU35r70
>>156
1944年12月7日の東南海地震だな。それ。
尾鷲が津波で壊滅。
でも、情報管制下で、記録があまり残ってない。
158名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/20(日) 14:09:46.87 ID:YC22fpac0
日本人最古の録音(ニコニコ動画)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11707305

明治33年で現代の言葉と大して変わらないみたいだ
159名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/21(月) 00:11:30.18 ID:VN+Etc1yO
声を聞くと40歳は越えているだろうから、幕末生まれの人だろうね
160名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/21(月) 00:21:37.62 ID:ADlB78sH0
>>158
こういうの、もっとないかな。

以前、「ラク町お時」のインタビュー音声を、つべかかニコ動で聞いた記憶があるのだが、
それ以来、どうググってもたどり着けないんだよね。
誰か、知ってるひとがいたら、教えて欲しい。
161名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/21(月) 01:10:03.70 ID:L3gJSFBH0
いないとは思うけどさ、幕末生まれの爺さんとか祖母さん持っている人っていた?
江戸幕府が潰れた時ってどないだったんだろ?
162名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/21(月) 04:20:04.57 ID:VN+Etc1yO
仕事で接してる75歳の方の祖父が慶応生まれだったけど、仕事もせずに博打ばかりやって財産を食いつぶした悪党だと言ってた
俺は介護保険を扱う仕事してるから顔なじみの高齢者の方に祖父母はいつ生まれですか?ってたまに聞くことあるけど、その人以外はみんな明治だった
両親が明治後期〜大正で祖父母が明治10年前後〜中期ってパターンが多かったよ
163名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/22(火) 06:24:59.20 ID:L0ATK8qU0
>>157
いろいろ書くことあるけど、 今回は自分もそれについて書くね

俺のばあちゃんもそのとき経験したんだ

丁度俺の母親を身ごもってたときだった。

壁がゆらゆら揺れてきた、壁が斜めになって なんて言うか体に迫ってくるようだった、
て言ってた

とにかく 驚いて 腹を押さえながら 野外に飛び出したって言ってたよ

・・えともしかしたら東南海じゃなくて南海地震かも知れん、
ってここまできて思った 間違ってる可能性あるな ばあちゃんは大阪にいたし

スマン



164名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 01:02:20.15 ID:aqXdMZFg0
>>163
1944年12月7日 昭和東南海地震 M 7.9
1946年12月21日 昭和南海地震 M 8.0
戦中だったら、東南海だな。

165名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 04:04:34.39 ID:JtjBYPoW0
>>164

情報ありがとう

とゆうことはやっぱ南海地震のほうだった
166名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/24(木) 01:55:31.50 ID:XoTx12Xy0
ほんのちょっとした話

祖父母は戦時中神奈川県のどこかの港街で新婚生活を送っていた

ちなみにじいちゃんはそのとき軍人ね

で よく部下達がじいちゃんの家にきてみんなでメシ食ってたって

全体像はわからんけど すくなくとも部下の兵隊はみんなあまりメシ食えて
なくてつらかったみたい、あと 地元じゃなくて日本のいろんなとこから来てて
不安にしてたって

それでじいちゃんの家にみんな集まってたんだ (まあ じいちゃんも地元ではないが)

でも 家に来る人数が多くて 食器が足りなくて やむをえず ばあちゃんが
いろんな器に料理を載せて出したって言ってた ある部下には小皿で 別の部下
には茶碗で って様子で

そんときよく申し訳なさそうにおかわりを差し出してきたんだって。
なかには「○○(じいちゃんの名)殿ッ・・・」てなにかおもしろいことを
言っておかわりを催促してくる部下もいて それを聞いてまわりが笑ったりしながらね

当時は太平洋戦争暗黒時代の直前

まあじいちゃんも自分の給料からするとかなりやばい状況だったらしいけど
関係なしにみんなで一緒に集まってメシ喰いたかったっていってたなぁ
167名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 13:22:46.58 ID:VFO/gFN10
曾爺さんが昔気質の大風呂敷な人で、家の身上をほとんどなくしてしまって
爺さんは若い時から金策に駆け回っていて、本当に辛かったと言っていた。

昭和15年頃、曾爺さんがなくなった葬式の席で来客の一人から
「○○さん(爺さん)も色々大変でしたね」と言われて、ついほろりとなって
「これで不意の金策に駆け回らなくても良くなります」と言ったところ
他の来客から「△△さん(曾爺さん)は仏のような人だった、おまえに
親父さんのような器があるのか」と言われて、吊るし上げられたってさ。
無茶苦茶な金の使い方をする曾爺さんも村の人から見たら、
みんなに気前よく奢ってやったり金貸してやる、いい旦那さんだったんだ。

爺さんは父親を反面教師にして、亡くなるまで固い人だった。
168名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 21:10:52.94 ID:poI/l+jF0
>>167
昔気質の人って他所の人にそういう無神経な物言いをするキチガイが多いけど、つくづく嫌になるね。
169名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/26(土) 00:33:41.93 ID:CvMKPQ9V0
>>167
それはわかるなぁ

身内が実体験してることと まわりの人間が感じてることで
すごい差があるってこと あるよね
170名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/26(土) 01:41:18.74 ID:xdIDVGDv0
>>168
>>無神経な物言いをするキチガイが多いけど

スゲー文章だな。これw

>>169
普段はまるでダメなひと。でも、いざって時には誰よりも頼りになるひとって、たまにいるからね。
>>167のひいじいちゃんは、そんなひとだったんじゃないか?
171名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/26(土) 02:40:39.11 ID:CvMKPQ9V0
>>170

うん そうだね そう思う
172名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/26(土) 02:58:34.84 ID:CvMKPQ9V0
・・あと 実は 自分の先祖が167ととても似た状況があったわけで・・・

(俺のひいじいちゃんはすぐに他人の保証人になった)

だから まわりのひとの為 仲間の為に家財を消費した167のひいじいちゃんも

それを補うために必死になってたじいちゃんも
両方 愛すべき存在だなぁ

後170のいうとおり 日常時と非常時のことって、あると思う。
173名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/27(日) 00:47:32.12 ID:yJf6DoFF0
>>172
ここまで長かった平和は、久しぶりなんじゃないか?
生きる力を発揮できずに朽ちていったひとも多いだろうな。
団塊の世代の中には。
174名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/27(日) 01:18:15.19 ID:hNKd2KB90
自分の曽曽祖父はわりと人に知られた社会活動家で、明治時代に
キリスト教の洗礼を受けたクリスチャンだったが、妻子に対する
DVは凄まじい(女の長い髪を引きずりまわして殴り、蹴った)ものが
あった、と曽祖母から聞いた。昔から外面の良い男はいたんだな。
175名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/27(日) 09:58:13.42 ID:SlXbYbAB0
1944年の東南海地震の体験者から聞いた話だと
冬の寒い時期だったけど、ずっと縁側の窓を開けっ放しにしておいて
布団や毛布に包まって寒さに耐えながら、地震がきたらその都度すぐ外(庭)に飛び出して逃げたらしい
たぶん余震ってことなんだろうけど昭和初期の木造家屋なんて地震に弱いだろうしね
176名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/27(日) 15:25:43.69 ID:nkPE8G1zO
無理矢理連れてきた奴隷労働しているチョンやちゃんを、
見下し差別しまくり苛めまくっていたとは聞いたがな。良い時代だ。
177名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/27(日) 15:32:58.47 ID:JR6+lDbV0
>>174
昔の男のDVって凄惨なものがあるよね
178名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/28(月) 00:55:10.42 ID:2DLdse5j0
>>176
わざわざこんな過疎スレまで来て、書くようなことかい?

ちなみに、当時の在日の苦労は、伊集院静「海峡」三部作でもうかがい知れる。
日本人になめられないように踏ん張ってる彼らの姿にちょっとびびる。
実際、かなりかっこいいから、一度、読んでみ?
179名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/28(月) 02:25:59.33 ID:2DLdse5j0
>>175
その話、面白いな。
どっかの国の地震対策は、一刻も早く、家から出ること。
かつての日本で、それと同じことをしてたってわけだ。

俺らが習ってきた、机の下に入るって、
学校みたいに、物が少ない場所ではあんまり意味ないんだよな。
机の下にもぐるって指導は、いつから、始まったんだろうな。
180名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/28(月) 16:27:57.51 ID:ODrOnidB0
横浜で戦前、子ども時代を過ごしたばあちゃんが教えてくれた。中国人をからかう歌。差別云々はさておき、そういう時代だったんだな、と。子どもたちもいじめようとか深く考えずに歌を覚えちゃってたらしい。

シ、シ、シナポイ
シナポイのチャラリコパイの
????? シナポイポイ

と歌ってくれた。

あと、ネズミを捕まえると交番でお駄賃もらえたので、山下公園付近の川で捕まえたネズミを尻尾つまんで溺死させて遊んだとか。

改めて書くと残酷だ…。
181名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 01:34:32.70 ID:61Nf0IDN0
>>180
シナポイでググったら、たった七件。
だけどこんなんでてきたぞ。
以下

845 :名無しさん@一本勝ち:2006/09/13(水) 10:33:17 ID:hpJEjsoV0
シ、シ、シナポイ、ナンチクリンノ、パラッパパイボ・・・

って知ってる?

以上
ちゃんとばあちゃんに聞いておくことを奨める。
都々逸も、差別の歌も、絶滅間近の日本の文化なんだよな。
182名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 01:37:39.40 ID:61Nf0IDN0
追加でもこれも。
>>180の空白埋めてるかな?


887 :名無しさん@一本勝ち:2008/05/03(土) 14:01:22 ID:0BRAExep0
シ、シ、シナポイ
ナンチクリンのパラッパパイポ
いまじゃニッシンパイポ
シーナ、ポイ、ポイ
183名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 10:31:01.21 ID:VF7oqgzq0
俺の婆ちゃん、今は福岡に住んでるんだけど元々は東京生まれ。
小学生の頃、毎朝靖国神社で掃除させられてた。

ある日いつものように掃除してると1人の軍人さんがやってきて、
「偉いね。感心感心」って頭をなでられたんだと。

その軍人さん、東条英機だったらしい。
184名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 15:20:02.83 ID:t1LLwHyMO
愛知の尾張一宮は名古屋空襲の余波で一面更地になってたそうな
各地が在日外人に不法占拠されるって情報が流れてて
地元の腕っぷし強い人らがやらせるかってしかも皇家縁がある土地だから自警団みたいになってたって
行き過ぎて的屋だらけになったらしいがwお陰で在日外人は少ないなぁ日本人ヤクザは多いが
婆ちゃんが嫁入り挨拶来たとき曾祖父がチェーン片手にブイブイ言わせてて思わず一回逃げたとか言ってたw
185名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 18:08:42.15 ID:AVKZ49Kw0
>>183
東条英機とかすごいな
軍人って優しい人もいたんだな
186名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 18:40:15.55 ID:sXDgSLR10
東條英機は、民家のゴミ入れ(昔は各家の道に面した所に必ず設置してた)を
覗いて回っては、贅沢していないか等の民情視察をしてたという人だから、
良く言えば庶民的で腰の軽い人、悪く言えば秘密警察体質だったんだろうな。
187名無しさん@お腹いっぱい:2011/04/03(日) 01:21:41.00 ID:zQ4yWfY00
戦争中、じいさんは某半島にある軍事港に召集された。
そこで訓練を受けて東南アジアに出征する予定。
訓練中寝ずの番があり、ほとんどの兵隊はこっくりしてしまい上官に叱られた。
がじいさんはこっくりしてもタイミングよく上官が見回りにくる前に起きたので、
「お前はなかなかできる奴だな」と誉められて可愛がってもらったらしい。
いざ港に船がきた頃じいさんは病気になって家に帰らされた。
いわく「俺は要領がいいんだ」
じいさんが乗るはずだった船は出港してすぐに敵の攻撃を受けて沈没した。
こういう話を警察官だった娘婿に酒の席でよく話していた。
そういえば押入れに銃があったのだが、あれはどこへいったのだろう?


じいさんの弟は帝大生だったので、士官になってグアムに出征した。
現地の人にとてもよくしてあげたそうで、帰国時海に落としてしまった腕時計を
現地の人が一生懸命探して見つけてくれたそうだ。

昭和40年代、この大叔父の大学生だった長男が行方不明になった。
長男の下宿をじいさんが訪ねたら、身の回りの品も、貴重品(健康保険証や
通帳の類も)そのままで、住人は連絡が取れず行方も分からないまま。
当時北の国へ連れていかれることが多く、優秀な学生であった彼も
連れていかれたのだろうと語っていた。

ばあさんの体験談では、濃尾地震の折は出かけていて、ものすごい揺れがあって
自宅のほうを観たら土煙がもうもうとあがってなんだろうと思ったら、
自分の家の土塀が崩れていたんだと。
伊勢湾台風の時は、家がガタガタと揺れて皆で蔵に避難したが、ひいじいさんは
「誰かがおらんと家が壊れる」
と、1人で家に残ってたそうだ。
ひいじいさんがじいさんに買ってあげたグランドセイコーの腕時計は
自分が大事に持ってますが、いくらくらいの価値があるんだろう。
188名無しさん@お腹いっぱい:2011/04/03(日) 01:35:34.86 ID:zQ4yWfY00
「要領がいい」ってのは、こっくりしても叱られなかったことで、
病気になったことではないです。
この時の病気治療がもとで肝炎になったじいさんは、
肝炎が進行して肝細胞癌になった。

連投スマソ
189名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 15:07:28.69 ID:Hhbi5ePS0
近所の99歳のおじいさんいわく
「大砲の弾も飛行機の爆弾も怖かったが、いやー地震のが怖いな、予想つかねえんだもん」
だそうだ(うちのあたりは震度6強)
元陸軍少佐で南方に行ってたらしいから、正直な感想なんだろう
190名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/19(火) 04:24:46.89 ID:m2RaGrbAO
幕末の頃の言葉使いだと現代の人間は

何言ってるか殆ど理解できないのでは?
191名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/19(火) 04:48:43.98 ID:+5FZDZtJO
192名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/19(火) 05:12:19.13 ID:KfFD4WC2O
今じゃ有り得ないが、村の寄り合いや飲み会でマジでうんこ投げたりして悪ふざけしてたって。
何かそういう事をしていい飲み会が年一回あったみたい。
193名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/23(土) 15:08:07.87 ID:zvZgAIRu0
>>190
大隈重信の肉声を聞いたことがあるが、普通にわかったよ
194名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/24(日) 07:07:04.13 ID:NKqaROrm0
江戸や明治あたりまでの文学作品とか難しい口語体だし
人々が使ってる言葉も今と全然違う異空間、異次元なイメージで思ってたけど
安政2年生まれの犬養毅の昭和初期の録音インタビュー音声聴いても
意外なほど現代と変わらない言葉で話してて驚いた経験ある
195名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/26(火) 00:21:31.04 ID:hU1VxEfsO
徳川よしのぶの肉声テープもあるらしい
誰か聞いたことありますか?
196名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/26(火) 16:21:32.50 ID:AaayCLBuO
どこのスタジオでレコーディングしたんだ?
197名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/26(火) 16:52:28.61 ID:UX0zGiC80
>>196

実業家の渋沢栄一は一橋家当主時代に家臣である平岡円四郎の推挙によって登用した家臣で、明治維新後も親交があった。
渋沢は慶喜の晩年、慶喜の伝記の編纂を目指し、渋る慶喜を説得して直話を聞く「昔夢会」を開いた。これをまとめたのが『昔夢会筆記』である。
座談会形式で記録されている一部の章では、老齢の慶喜のいわば肉声に触れることができる。
「島津久光はあまり好きじゃなかった」「鍋島直正はずるい人だった」と本音を漏らすあたり、彼の性格と当時の心境が窺える。
慶喜の死後、こうした資料を基に『徳川慶喜公伝』が作られた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C
198名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/07(土) 23:34:35.62 ID:KUTqadR90
ほしゅう!
199名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/08(日) 01:02:18.21 ID:3UrwGMRi0
>>194
口語体じゃなくて文語体の間違いでは?
200名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/08(日) 16:05:33.09 ID:MsCuoudT0
1901年生まれで93年に死去した祖父は現在の埼玉県和光市出身。
青年時に2人の歴史上の人物に遭遇し、うち1人には話し掛けられたと言う。

1人は東条英機。場所は現在の板橋区成増1丁目。時は不詳だが、
昭和初期にあった大きな公園に東条と大勢の部下が来ていた。
当時宮大工で仕事帰りに見かけたと言う。
話し声を聞こうと近くまで寄ると、東条は近所の子供たちの頭を撫でながら、
「大きくなったら立派な軍人になれよ。お国に尽くせよ。」と言っていた。
但し、この当時の東条の役職が首相であったかどうかまでは聞いていない。

2人目は昭和天皇。場所は皇居。正確な時は不詳だが恐らく戦争直前か戦時中。
徴兵として軍人ではなく、力仕事をさせられていた祖父は皇居に連れて行かれ、
土嚢を運ぶ作業に従事していた。そこに後ろから「大変ですな」と声を掛けられた。
「当たり前だろ」と思って振り向いたらそこに天皇が立ってにこにこ笑っていたと言う。
祖父をはじめ傍にいた他の人たちも全員その場で固まってしまったとの事。

この一件があって以来、祖父は戦後一貫して天皇家に敬意を払い、皇室一家の写真だけ
飾った部屋を設けたり、天皇誕生日や皇室に関係した休日などには必ず家の前に日章旗
を掲げた。天皇崩御の昭和64年1月7日には半旗を掲げたのを俺も覚えている。

201名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/10(火) 11:08:22.27 ID:OkVcL4VC0
↑東条に遭遇は兎も角、昭和天皇に声をかけられ云々は作り話しにしても下劣過ぎる
のでは? そもそも人間宣言をされる前の陛下は一般人と口を利いたりモノを手渡し
するなんてことは絶対になかった(必ず、侍従とかの口や手を通した。また直接ご尊
顔を拝するなんてことは許されなかった。)はずだ。 カキコする人間の年齢が下が
ってくるとネタのレベルも下がってくるのは時代かなぁ。
202名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/10(火) 13:05:49.70 ID:f921u/5j0
母方の曾祖父は文久年間の生まれ。
母から聞いた話。
曾祖父の両親は甲州で結構大きな店舗を営む商人だった。
ある晩、夫婦(曾祖父の両親)が店を閉めて寝ようとしたら
いきなり戸を蹴破って、浪人数名が押し入ってきた。
浪人たちは全員、ぎらぎらする抜き身の刀を下げて寝室に入り
布団の上でがたがた震えている夫婦の目の前で無言のまま
行灯を横になぎはらった。
そして「佐幕運動の資金を徴発に来た、生命が惜しくばカネを出せ」
と言った。身一貫で叩きあげたがめつい夫(曾祖父の父)はとっさに
「嫌だ」と言ったとたん、抜き身が光り、夫は刺殺された。
妊娠中だった妻(腹の中にいたのが曾祖父)は一も二もなく、用箪笥からあり合わせの
カネを全部差し出して、お帰りいただいたそうだ。
その時妻も刺殺されていたら、私はいなかった。
「本物の佐幕浪人ではなく、ただの強盗だろう、本物の武士かどうかも
怪しい。甲州街道を通って江戸からそんな連中が大挙して来ていた」
と曾祖父は生前語ったとか。
本物の浪人だったかもしれないが、「御武家様」に対する尊敬があった
時代の人ゆえ、まがりなりにも武士が強盗まがいのことをするとは
信じたくなかったのだろう。
203名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/10(火) 13:09:18.07 ID:f921u/5j0
>>202訂正 ×と曾祖父は生前語ったとか 
○と曾祖父の母は生前語っていたとか
204名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/10(火) 13:09:43.07 ID:+2CIVgMc0
勝子吉の夢酔独言なんか読むと、江戸後期あたりの人間なら今と大して変わらん言葉を喋ってたと思うよ。
205名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/10(火) 13:11:10.85 ID:+2CIVgMc0
タイプミス、勝小吉な。
206名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/10(火) 13:31:12.07 ID:f921u/5j0
もうひとつ母から聞いた話。
母が少女時代、昭和天皇の皇女のひとりで今上天皇の姉にあたる人
(どの人かは忘れた)
は、母と同じくらいの年齢の少女だったが、「ものが言えない障害者だ」
という噂が流れていたそうだ。当時は週刊誌なんかなかったので
もっぱら口コミ。母の周囲ではたいていの人がそう信じていたとか。
戦後、その皇女が話す肉声がラジオで流れて、
「なんだ、あれは嘘だったんだ」と母は思ったとか。
後で別の人に聞いたところ、戦前戦中は未成年の皇族の肉声を
公共の電波に載せてはいけないという決まりがあったとか。
そのせいでそんな噂が流れたんだろうとのことだが、
それなら他の未成年皇族も全員そうなのに、なぜその人だけそんな噂に
なったのかはわからない。
207名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/11(水) 01:44:47.98 ID:LIcTosUs0
いまやってる、連続テレビ小説、時代考証がすげーよ。
一軒まるまる、戦前の生活を細部に至るまで再現している。
見落としてるヤツは、見とくと吉。

>>206
戦前、皇族は庶民のアイドル的な存在だったとどっかできいたな。
三島由紀夫の「豊饒の海 1」でも、そんな様子が描かれてた。

>公共の電波に載せてはいけないという決まりがあったとか。

玉音放送がいかに衝撃的だったかってことだな。
208名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/11(水) 12:39:29.04 ID:dbat0HIK0
>>207
>戦前、皇族は庶民のアイドル的な存在だったとどっかできいたな。

 そうだったらしい。昭和天皇とほぼ同年齢の祖母は高等女学校時代、
学校の寮のようなところにいたが、私物を入れる扉つき木製棚
(ロッカー)の中に、当時の皇太子(昭和天皇)の肖像写真を
貼っていたそうだ。同様のことをしている同級生が何人もいたとか。
大衆雑誌や女性雑誌に皇族や華族の肖像写真がよく載っていたので、
それらを切り抜いたのだろう。当時の昭和天皇はイケメンとの定評が
あったそうだ。
 昭和三年発行の『アサヒグラフ増刊 秩父宮殿下御慶事奉祝号』
ていう大判の古雑誌を持っているが、秩父宮と松平節子の婚約記念号で
写真がたくさん載っている。秩父宮はどの写真も華麗にポーズを決めて
いる。なにげないスナップ写真にもカメラを意識しているのがわかる。

209名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/11(水) 16:18:11.87 ID:4lAW8uQi0
もう亡くなって10年以上経つ爺さんから聞いた、
幼少時(戦前)自宅から出火し、兄弟10人中5人が焼死した。
当事爺さんの親父は、関西の某有名私大の学長選に出馬していた。
爺さんの親父は、対立候補側の仕業であると確信し、
警察に訴えたと言う。
だが、警察が対立候補に買収されており(あくまでも爺さんの主張)事件の
捜査も進まず、身の危険を感じた爺さんの親父は学長選を辞退したという。
戦後、放火犯とその依頼者が打ち合わせをしていたとの目撃証言が
新聞に載り、ようやく事実が日の目を見たという。
子供の頃、その墓参りに行ったが五児の悲劇を詠った俳句が彫られた
石碑が建てられていた。
210名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/14(土) 21:28:27.15 ID:aVgdoEtl0
東條英機の話題が出ているが、東京人でも理解出来たのか?
(岩手出身の首相で一番訛りが酷かった、本人も終生苦しんでいたそうだから)
211名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 13:26:21.32 ID:rFgsU1/a0
岩手出身は父親の東條英教
東條英機は東京出身で、甲高い明瞭な声。
212名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 18:42:10.93 ID:dxU4J2Sz0
うん、表向き(公式)は東京語を喋るよう努力していたそうだが、
プライベートでは酷いズーズー弁で、結婚当初は奥さんも苦労したそうだ。
(親戚の殆どがズーズー弁だからしかたがないが)

ちなみに斎藤實は国会答弁でも訛りを隠そうとはしなかった。
かつて江戸東京博物館に所信表明演説の録音が残っていたが(今は知らん)、
見事なズーズー弁だった。
213名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 22:23:41.52 ID:jpZeVHUTO
仕事で接した福島出身のじいさんが「ちんよう」って言ってるから意味が分からんかったけど、後で他の人に聞いたら「金曜」のことだった
あて「ちんこ」って言うから下ネタ好きなのかなって思ってたら他の人に聞いたら「金庫」のことだった
214名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 10:07:09.52 ID:FqbRblFB0
>>212
>プライベートでは酷いズーズー弁で

東京生まれて東京で育っているのに、ありえない。
ソース出してくれないか。

斎藤実は海兵入学まで岩手。
215名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 23:29:49.95 ID:XkSVLtKN0
>>214
戦中は軍神で、戦後になると切腹も出来ないってんで大バッシングだったから、
東条英機に関しては、いろんな噂があるんじゃないだろうか?

軍事スレ住民とか詳しそうだな。
216名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/17(火) 01:33:42.65 ID:cQja0iBk0
>>215
東京生まれで東京育ちの東條英機が酷いズーズー弁なんてありえない。
妄想もいい加減にしろ、キモい。
217名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/17(火) 06:40:03.25 ID:SP53rYU70
しかし、あの小沢一郎の訛り(そんなに酷くないけど)を聞いていると、
東條の噂もさもありなん。

田舎者にとっては方言も一種の礼節であるのだよ。
と、東北人の俺は弁護してみる。
(実際、東京弁喋る奴に田舎者は概して冷たい。地元だから良くわかる)
218名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/17(火) 10:04:30.96 ID:cQja0iBk0
意味不明。
小沢一郎は中二まで岩手だからナマリが残っていてもおかしくない。

東條英機がズーズー弁というのは、210の脳内妄想。
219名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/18(水) 10:27:36.63 ID:kUTNGoDw0
東條は訛りとは無縁だよ。カミソリと言われた程、頭脳明晰で評判だった
岩手は南部の殿様が身分が高かったんで訛りはマシだよ、むしろ福島がヒドい
220名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/20(金) 01:52:05.45 ID:pwwnNzy20
 子供の頃、庭で爺さんと歩いてたら、庭のバケツに雨水がたまっていた、
よく見ると水面に小さなボウフラがウネウネ動いていたんだが、それを見た爺さんが
バケツの側面をトントンと叩いた、そうするとボウフラは驚いて水中に隠れてしまった。
爺さんいわく「戦場ではこうやってボウフラが隠れてる間に水面の水を飲むんだ」
とか話してた、あと自転車にのって戦う部隊がいたなーとかも話してた。
221名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/21(土) 01:47:55.96 ID:ZBSlbdrc0
>>220
以前はそういった非常時の知恵を持つ老人が、身近にいたんだよな。
大火の経験者→震災経験者→戦争や空襲の経験者

これが65年途絶えて、この間の311。
それを経験した俺らは、いろいろ覚えておくと、
いつか役に立つ日が来るんじゃねぇかな…とか思ってる。
222名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/01(水) 01:19:38.64 ID:cY4umyDm0
ほしゅ☆
223名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/09(木) 18:03:24.23 ID:q9rtXazL0
聞いた話ではありませんが、このようなものが見つかりました
これは私の曽祖父が書いたもので(なので苗字を一時伏せさせて頂きました)親戚が大事に保管していたものです
この文章で始まり、其々婦人会や御家族の方々の写真が綴られていました
本当は縦書きだったのですか、綺麗に揃えられなかったので横書きのままですいません
昭和14年で2周年という事なので日中戦争ですかね?

     御挨拶
聖戰早クモニ周年ヲ迎ヘ此ノ間本村
出身ノ将兵諸君ニオカレテハ空ニ陸
ニ海ニ輝カシク叙勲ヲ樹テラレ吾ガ
郷土ノ武威ヲ發揮サレツヽアル事ハ
吾等村民ノ等シク感謝スル処デアリ
マス
銃後ノ村民ニオキマシテハ諸君後顧
ノ御心配ナキヤウ御家族ヘノ手傅慰
問其ノ他出来ル限リノ御世話ヲ致シ
ツヽアリマス   
硝煙弾雨ノ下アラユル困苦缺乏ニ耐
エ皇國ノ為ニ働イテヰラレル諸君ヲ
偲ビマス時何トカシテ御慰労申シ度
イト思ヒマスケレドモ届キ兼ネル事
ノミニテ相済マナイ次第デアリマス
ガ今回諸君ノ御家族其ノ他村ノ種々
相ヲ撮影シ諸君ニ御贈リスルコトニ
致シマシタ就キマシテハ少シデモ御
慰メノ役ヲ果スコトガ出来マスレバ
此ノ上モナイ幸ト存ジマス
最後ニ諸君ノ武運長久ト層一層ノ御
奮闘ヲ御祈リ致シマス

昭和十四年九月十三日 福田村銃後奉公會長
     上益城郡 福田村長 ●田 茂

福田村出身将兵殿


写真は、笑顔だったり、真面目そうだったり色んな表情をしていましたが
悲しそうな顔をしている方はほとんどいらっしゃいませんでした
出来れば写真もあげたかったのですが、スキャナーが無いもので

私の祖父も軍人として戦争へ行き多くの友人を亡くしたと言っていました
晩年は痴呆もあり、亡くなった友人の名前を叫んだりしていたものです
戦争当時の話はあまり聞けませんでしたが、しかし
その少ない機会の中で、楽しそうに悲しそうに誇らしそうに語る祖父の顔を今でも覚えております

このような古いだけの文言ですが、皆様の当時の事を考える上での一助となれば幸いでございます
224名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/10(金) 23:52:09.35 ID:AeHrBG6dO
>>223
貴重なものをありがとう!もう一度一生懸命読み返してみます。
225名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/15(水) 17:37:16.59 ID:L0qEJ56iO
幕末最高っす
226名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 18:24:48.39 ID:dkKlJcbg0
もうすぐ90になる婆さんの母親がお歯黒をしていたらしい。
塗り直しているのを覗き込もうとしたら、子どもは見たらいかんと追い払われたとか。
227名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 13:03:31.09 ID:v6HBPJD00
とっくに死んでいるけど明治37年生まれの祖母は、明治になっても
ちょんまげを結っていた老人を目撃している。
228名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 18:34:17.72 ID:iVonjK4NO
お歯黒は禁止令が出たが、ひっそりとお歯黒をしていた人も居たと聞く
貴重だ
229名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/23(木) 22:59:43.54 ID:KAZvWIzMO
若い頃のジャイアント馬場の動きが早かったと聞いた
230名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/25(土) 20:21:37.54 ID:SZcAl5W/0
3年前に亡くなった祖母は大正3年生まれ。
神田の生まれで〜小町と呼ばれるほどの美人だったが
子宝に恵まれず結婚後は苦労したらしい。

関東大震災〜東京大空襲を経験しているが、
よほどつらい経験だったようで、あまり話してくれなかった。
小学校の時の社会の時間に祖父母を呼んで、歴史の語り部を
してもらう授業があって、散々お願いしたが首を縦には
振ってくれなかったことがあった。
231名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/27(月) 18:23:30.83 ID:4I7/8JpIO
俺ガニの頃ひい爺ちゃんがガキの頃伊藤博文とFUCKしたて聞いたチンポ立った
232名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/27(月) 20:22:16.46 ID:yUAcw3Yf0
俺のじいさんは、太平洋戦争に行かず、さらに戦死した兄の嫁を寝取るというとんでもないやつだった
戦争が無かったら生まれてなかったと思うと複雑だな
233名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/27(月) 23:05:03.87 ID:4I7/8JpIO

ザーメンマン
234名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/28(火) 00:12:00.88 ID:xa2THGNgO
3年前に亡くなった大正生まれの祖母は19歳の時に許婚が登山の事故で亡くなったらしい
もしその許婚の人が亡くなっていなければ俺は生まれてこなかったということなのかな…
235名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/28(火) 08:20:24.11 ID:t9jC3acc0
兄が戦死して弟が兄嫁をめとり家を守るなんて事は
親族の打診あるなし抜きに当時のデフォだよ
236名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/28(火) 12:44:42.13 ID:MjnwQWkc0
戦死してなくても子供が中々出来なかったら義父や義兄弟が・・・っていう話も大婆様からよく聞いたよ
237名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 03:42:23.67 ID:DCIi2K1AO
確か島津久光は兄である島津斎彬の娘を次々に嫁に迎えてたよね?
238名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 05:30:20.10 ID:Xc4b5Vf/O
石打火打とかって祭があって、
村で広場に集まって、焚火をして料理を作って、皆で酒やら飯やらを飲み食いしながら、一家の次男以下が本家に戻って来ないように、
軽く血が出る程度に石で殴ったり、焚火の炭を押し付けたりしてたんだって。

もちろん今はそんな事できないし、無かった事になってる。
おばあちゃんが言ってた。
それが異常ではなく、普通に行われてたって。
信じられねぇ〜。
239名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 12:09:56.55 ID:8dIwMwmlO
うちの田舎は岩国市で
広島に原爆が落ちた時
祖母は茸雲を見たらしい

家が農家だったので
戦争も末期になる頃には
着物などを抱えた人が
芋と交換して欲しいと
訪ねて来ることも
あったそうだ。
240名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 12:21:50.14 ID:ypDALT8BO
私の祖父では無く、年上の知り合いの祖父の話なんだが・・・。
その人は子供の頃、上野の外れに住んでいたそうで、ある日、「急いで逃げるんだよ」と母親に急かされながら家から逃げ出した。
雨上がりの蒸し暑い中を、「今日は何でアブの羽音が五月蝿いんだろう?」と母親に手を引かれながら思ったそうです。
大人になって、その日は上野戦争が有った日で、アブの羽音だと思っていたのは小銃弾の飛翔音だったと判ってぞっとしたと同時に、流れ弾の中をずっと手を引いていてくれた母親に感謝したそうです。
241名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 14:24:51.17 ID:xWvfXnBN0
今日、こんな手紙貰いました。。

『○○先生へ 先生 お元気でいらっしゃいますでしょうか
おかしな書き出しでございますこと 深くお詫び申し上げます
実は 感染症から一命を取り留めたあと どうしても先生の名が思い出せず
先生方に確かめたところ 仁友堂には そのような先生などおいでにならず
ここは わたくし達がおこした治療所だと言われました
何かがおかしい そう思いながらも
わたくしもまた 次第にそのように思うようになりました
夢でも見ていたのであろうと
なれど ある日のこと 見たこともない 奇妙な銅の丸い板を見つけたのでございます
その板を見ているうちに わたくしは おぼろげに思い出しました
ここには 先生と呼ばれたお方がいたことを
そのお方は 揚げだし豆腐がお好きであったこと 涙もろいお方であったこと
神のごとき手を持ち なれど 決して神などではなく
迷い傷つき お心を砕かれ ひたすら懸命に治療に当たられる
仁をお持ちの人であったこと
わたくしはそのお方に
この世で 一番美しい夕日をいただきましたことを 思い出しました
もう名も お顔も 思い出せぬそのお方に 恋をしておりましたことを
なれど きっとこのままでは わたくしは いつか全てを忘れてしまう
この涙のわけまでも失ってしまう
なぜか耳に残っている 修正力という言葉
わたくしは この思い出を無きものとされてしまう気がいたしました
ならば と 筆をとった次第にございます
わたくしがこの出来事にあらがうすべはひとつ  この思いを記すことでございます
○○先生
改めて ここに書き留めさせていただきます
橘咲は 先生を お慕い申しておりました。 橘咲 』
242名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 20:45:16.50 ID:z+pGlf160
爺さんは奈良に住んでて、奈良には一発の爆弾も落ちてこなかったそうだが、
大阪大空襲の時は生駒山の向こうが真夜中だというのに真っ赤に光ってて夕焼けみたい
だったとか語ってたな。
あと日の丸弁当は見るのも嫌とか言ってた。
243名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/03(日) 09:11:11.51 ID:vFWpryXEO
拙者
244名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/03(日) 11:38:24.75 ID:Fq4MLUFTO
うちのばあちゃん明治38年生まれ
和裁の腕を買われて大正〜昭和初期くらいまでは男爵とか伯爵?の家に住み込みで仕えていたらしい。今で言う口コミみたいな感じで貴族に仕えてああいう人達はとても紳士的で庶民には味わえない場所に連れて行ってくれたりしたらしい。
大正浪漫を体験してて羨ましい
戦後は伯爵家とか無くなり貴族は苦労したみたい

その後、地元の醤油店に嫁入り(許嫁)爺さんは同級生でチャラ男で若い頃騎兵隊。理由は「やっべー騎兵隊マジかっこいい」
戦地から「遊ぶ金無くなったから送ってね☆」とマイペース
典型的なボンボン。愛人は何人もいたらしい。
爺さんの母は女ながらに醤油店を大きくして地元の雇用や教育に貢献したらしい。発想と感性が豊かで俺の母親が子供の頃、今で言うアロマオイルを使って夏とかはミントの飲み物を作ってくれたとか。
醤油店は身内のゴタゴタで廃業。
俺の母親も母親で洋裁で作った服がファッションショーに出たりしてたらしい
昭和四十年代
245名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/03(日) 11:54:28.03 ID:Fq4MLUFTO
続き
家は当時のままで今も実家の人は住んでるけど寅吉じいさんと言う人がどっかから家を持って来て組み立てたらしいが、元は賭場だったようで普通の家とは造りが違うみたい。確かに言われると賭場に適した造りに思える
震災で流石に少し傾いたが、まだ住んでるし次に地震来たら崩れるねと笑い話にしてる
246名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/04(月) 10:15:09.61 ID:PiVOWzK80
>>244 同世代乙。うちのばあちゃんより一つ下だな。さすがに102歳で死んだけど。
247名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 19:29:21.84 ID:kWykOoRnO
>>244
わしと同い年じゃな
248名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/09(土) 21:52:24.16 ID:k0XEXZ000
うちの爺さんは勤労動員で飛行場整備の勤労動員の最中にグラマンに襲われて機銃掃射された。
空襲警報も何もなしで突然だってさ。遮蔽物なんて何も無い飛行場の真ん中だから「伏せ!」の命令で
ひたすら伏せてたって。超低空飛行だから、敵機のパイロットの顔がよく見えたってさ。
執拗に何往復も機銃掃射するので、最後は首をぐるりと廻して敵機を眺めている奴もいれば、
ビビリながらひたすら地面にへばりついている奴もいて、同級生を観察するのが楽しかったって。
格納庫に2機入っていた日本の飛行機は、あっという間に格納庫ごと破壊されたけど、
地面に伏せている生徒達は全員無事で「弾って意外に当たらないモノだなあ」と思ったってさ。

戦争が終わって、予科練から友人が帰って来て、機銃掃射された話をしたら
「飛行機は立体物を撃ちぬくのは簡単だが、超低空で地面の目標に当てるのはとても難しい。
みんな伏せていたから無事だったんだよ」と教えてもらったってさ。
249名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/11(月) 00:16:04.30 ID:srv4rhg40
射的で的を狙うときに、立ててある空き缶に当てるのは簡単でも、寝かせてある本に当てるのは難しい、みたいなもんなのかな。
250名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/11(月) 21:55:28.09 ID:vIdTR4Iy0
学校のグラウンドで競馬をしていたらしい
今70代の人も知ってるから戦後もしていたのか?

たぶん金は賭けてないんじゃないだろうか 1着とかじゃなくて 横綱みたいな呼び方していたように思う
251名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 02:28:20.06 ID:JIKnotcYO
昭和30年代に既に70代だった曾祖父。
60歳前後が平均寿命だった時代、うちの小さな街では長老だったそうな。

いつも縁側に腕組みをして座り、悪さする奴がいたら下駄でシバキ回していたそうな。
そんな悪ガキには曾祖母が飴を渡し、我が家はカミナリ親父と優しい婆さんの構図が出来上がってたみたい。
孫のおもちゃにと自転車を買ったら当時は珍しく、町内のみんなが借りに来たとか。
252名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 02:44:05.51 ID:8cSsWwdj0
昭和のいい頃(たぶん金融恐慌から大恐慌の頃だとおもう)になると統制令だとか出て
近所の同業者が5つくらいあつまって同業組合みたいなの作ったってじいちゃん言ってたな。
ちょうど1900年生まれ。いま生きてたら111歳。写真も残ってるけど、あの頃って写真を
撮るのも記念行事だったみたいで仲の良かった弟と大正ファッションでめかした肖像写真が
残ってる。戦場に行かなきゃならない、とか、空襲で家財やら家族やらを失う、なんて悲惨さえ
なきゃ、あの時代っていまより幸福だったんじゃないのかな。
253名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 02:55:09.63 ID:8cSsWwdj0
そのじいちゃんは農業高校に行ったんだけど、ものすごいエリートだったらしい。
戦争の話しは、商売をやっていた関係で持ってた家の蔵に焼夷弾が落ちて財産が
ぜんぶ燃えたとか、被っていた頭巾に焼夷弾の油がかかってボーボー燃えてるのを
娘(おれの叔母)が見つけて消したけどやけどの痕が死ぬまでのこってたとか、
そういう感じの話しだなあ。じいちゃんの年齢的に、ちょうどというか具合よくというか
徴兵のギリのギリんところで免れた感じだったから兵隊に行ったとか徴兵検査とか
そういう話とは無縁だったよ(´Д`) こういうじいちゃんもいるってことで・・
254名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 03:20:41.68 ID:xKClKyu+O
寿司を喉に詰めて苦しんでたら、ドリンクフリーになったらしい。
それがドリンクバーの始まり。
故に梅昆布茶。
255名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 23:12:51.88 ID:eMcIimOdO
うちの曾祖父はチンコがデカい
256名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/13(水) 12:59:04.70 ID:ppPxcMs+0
うちの曾祖父は日露戦争に出征して第二軍として遼陽や奉天で戦っている。
あの世代は「俺達が体を張って日本を世界の一等国にしたんだ」という意識が強くて
第二次大戦中も「東條は国賊だ」と人前で平気で言い放ったり、
自由主義者や無政府主義者を家に匿ったりしてたから、警察署に呼び出されたが
「友人を家に泊めて何が悪い」と逆に署長に食って掛かったりしてたから
家の周囲には特高がいつもウロついていた。在郷軍人会長じゃなかったら逮捕されていた。
終戦後は、戦中に在郷軍人会長してたのでパージにあって、雨後のタケノコみたいに現れた
アカに集中攻撃を浴びて「せっかく戦争が終わったのに、特高の嫌がらせより
アカの嫌がらせの方が悪質だ」と嘆いていたそうです。
朝鮮戦争が始まると、今度はアカの連中がパージ食らって、曾爺さん達が復活して、
昭和30年頃まで町中が落ち着かなかったらしい。
257名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/13(水) 13:18:52.19 ID:7ujIHbzqO

祖母の話。
遠くの空が急に明るくなり、それはそれはキレイだったらしい。「花火みたい」と近所の人達みなで見学。
何かが分からず、近所の退役軍人のおじさんに聞いても「分からない…」とのこと。
だんだんその花火が近づいてきて…

三重県津市が初めて空襲された日の思い出話。

258名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 03:50:52.55 ID:vqAiFa/CO

【幕末】龍馬が妻"おりょう"に送った「エロスケッチ」が見つかる (画像有)
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/mitemite/1306046832/
259名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 10:44:53.01 ID:Md6KIQF1O
知人のばあちゃんの父が、当時結構えらい軍人さんだったらしく松代に大本営移す計画のときもその関係で何年か松代に行っていたらしい。
まだ小さかったばあちゃんも満州に住んでいた時期があったとか。
そのばあちゃんの話を聞くと、
戦争のときに食べ物に困ったことなんかなかった、逆に戦争が終わってからの方が父も職を失って大変だったと言ってた当時にしては稀なパターンの人
260名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 23:34:00.24 ID:1aRxi6oMO
俺の曾じいちゃんのそのまたオトッツァンは奇兵隊(到人隊)の兵士で戊辰戦争経験者(卒だけど)。五稜郭まで転戦した後上京して御親兵の下士官になった。
でもどういう経緯かいつの間にか熊本鎮台に移って台湾出兵を経験。日清戦争で戦死。農民が兵士になるというのは士族には我慢ならなかったらしく随分ボコッたらしい。(言い伝え)
これが陰湿な陸軍の営内イジメのはじまり
261名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/20(水) 02:28:35.55 ID:9LogM5AP0
88になる祖母が若い頃、神戸港でピストル拾ったとか話してたな
届けた先の警察に運び屋と疑われてエラい目にあったとか…祖父(旦那)が小さな荷役会社を経営していて、当時(50年くらい前)の神戸市民は日本一羽振りがよかった。
262名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/20(水) 05:34:31.14 ID:zCGjKpefO
うちの爺さんは戦争中、中国方面へ行ってたらしく、現地の料理を楽しんでたみたいだ。
特に鶏の唐揚げ?みたいなのが美味かったらしく、
ケンタッキーで、店員さんに、
「何でアメリカが元祖面してんだ!!」
って食ってかかってた。
んで食い終わると、骨で雑炊作れだの何だのと言い出すから恥ずかしくてよく放置して先に帰ってたなぁ。
263名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/21(木) 13:56:40.44 ID:4PgH092b0
戦争末期にパタパタと工場が疎開して来たから、幹線道路をトラックが通れる2車線に
大拡張しなければならなくなって、勤労動員でさんざん働かされた話はよく聞いた。
今でもその道路を通ると当時の記憶が戻るらしく
「ここに墓があったから移転した。墓を掘り起こす時は怖かった」
「昼になったが配属将校がいなかったので、勝手に作業中断してこの丘で皆で
弁当食べてたら、配属将校が戻って来て、”誰が中断しろと言った”とブン殴られた」
「(たぶん強制労働と思われる)朝鮮人も来ていた。友人が何気なくアリランを歌ったら
”朝鮮人、バカにするな”とキレられて驚いた。中学生にバカにされたと思ったんだろう」
「せっかく作っても完成した頃には燃料不足でトラックが走れなくて、牛車で運搬してた。
牛車で運ぶならあんな立派な道を作らなくても良かったのに、と恨めしかった。
ただ道路の拡張工事をした事は、戦後になって地域に大きく貢献した。
でも戦時中の軍事物資輸送道路工事という事もあって、実際にそれを無償で作った中学生の
貢献は全く記録が無くて悲しい。戦後に舗装道路化した時の県知事の立派な石碑は
あるのに、どうして汗水たらして工事した我々の貢献を残した記録さえないのか」
264名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/21(木) 20:35:10.22 ID:HikfVfku0
>>200
昭和天皇の話は終戦の年ならありえる
当時、吹上御苑に防空壕を作っていたが、天皇がお忍びで視察して兵士に話しかけたことが、読売新聞の連載「昭和史の天皇」に出ていた
連載は本になって大きい図書館にあり、それを読んで知った
265名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/23(土) 22:22:42.59 ID:5SEGRWJ+0
直接表題とは関係ないけど、先日実家へ帰ったとき先祖史料の一斉捜索をしたら
明治時代の軍人(陸軍将校)だったご先祖さんが叙勲の際に貰った賞状が出てきた。
明治18年当時の勲五等と明治28年当時の勲四等瑞宝章を授与されたときの物で
大きさはA2版位はあるんではないかな。結構な大きさにもびっくり。
勲章は以前から所在が判明していたんだけれど、当時の賞状の発見に改めて
驚嘆しました。

266名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/29(金) 02:45:27.45 ID:o7DKBZrgO
B29に突撃して果てた。
もちろん自己責任。
被災家屋には賠償責任あり。
267名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 14:10:02.35 ID:pNmk61qs0
戦後にGHQの憲兵が5人ほど家に来てピストル類は無いかと聞いていったという話し。
大きなクロンボがいて怖かったらしい。
268名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/04(木) 18:53:45.11 ID:xWu1N5nT0
戦前の警官は怖かったは戦後作られたイメージということ
戦前の警官で一般人に「おい、こら」などという奴は皆無で「もしもし、そこの背広の人」
女に対してなら「もしもし、そこのご婦人」だったとか
今なら軽犯罪や迷惑防止条例で捕まるようなこともその場や交番で軽く注意で放してくれたとか
ただ、共産主義者に対しては今の警察より厳しく取り締まったので戦後共産主義者が流したデマだと聞いた
269名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/05(金) 09:28:00.19 ID:CpHq4bmz0
私服警官の陰湿なイジメはよく聞いた。
爺さん野球の選手だったからバットとグローブかついで歩いてたら
「オイコラ」と呼び止められて「この非常時に、敵国の運動やるとは」と罵倒されたとか、
仲間と肩組んで放歌しながら歩いていたらすぐに私服が飛んで来て
「キサマらと同じ年頃の若者が戦場で戦っているのにお前らはなんだ」と怒鳴られたとか。
「私服が飛んで来る」と言う表現をよくしてた。相当うざい存在だったらしい。

共産主義に関しては新刊本は売ってなかったが、古本屋に行けば普通に売っていたし
インテリの家なら共産主義関係の本なんていくらでもあったし、戦前の学生なら小林多喜二や
徳永直ぐらい読んでいて当たり前で、活動家はともかく、一般学生が共産主義の本を読む事の
規制は事実上なかったと言ってた。
それと、当時は共産主義者より無政府主義者の方が危険視されていた、と言ってた。
270名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/05(金) 12:01:38.82 ID:qy1Q+hv90
戦前と戦中の違いじゃないか。
>>268は戦前 >>269は戦中の話だろう。
戦前なら俺も戦後言われているイメージより良かったと何度も聞かされた。
GHQ占領下より昭和初期の方がよほど言論・思想が自由だったとか。
271名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/05(金) 13:41:07.83 ID:CpHq4bmz0
>>270
>GHQ占領下より昭和初期の方がよほど言論・思想が自由だったとか。

うちの爺さんは、戦争中よりGHQ占領下の方が検閲や情報統制がキツかったと言ってた。
戦争中は「共産主義は危険思想だ」と言いながら、古本屋に行けば共産主義の本が売ってるように
抜け道があったが、占領下ではガチガチの統制が行われていて、GHQへの批判や
軍国主義の正当化は絶対に許されなかった、と言ってた。
272名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/06(土) 03:52:59.26 ID:GU5LllBmO
ちゃんぽんがまずいって言ったらボコられたwwwwwwwwwwwwwww
273名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/10(水) 13:42:38.18 ID:v/gXAZ5/0
うちの親戚にも、奥さんが2人目生んで産後の肥立ちが悪く亡くなって、
奥さんの妹が後添いになった家がある。戦中戦後の混乱期にはよくある話だったって。

後添いになった妹は娘を1人生んだけど、その娘がものすごい秀才で京大出て大学教授になった。
うちの親戚でそんなインテリは他にいないから不思議がられている。

戦後教育を受けた娘としては、姉婿の後添いになった母親が不憫で、母親を少しでも喜ばせようと
いつも猛勉強して、勉強は常に学年一番だったらしい。
274名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 04:24:41.93 ID:8trZUcy90
なんか、どっかの本で読んだことのあるような話しをさもありで書いてるやついるな。むりやり
あるような話し書かなくていいよ。共産主義がどうとか、どっかの本で読んだ話し書かなくていいよ。
つまんないことでもいいから、ほんとに爺さんばあさん、ひー爺ちゃん等々から聞いた
素朴で個別の話しで頼むよ。
275名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 04:30:47.67 ID:8trZUcy90
つって、今の20代のやつなら、じいちゃんばあちゃんでも大正・昭和生まれの世代だから
紹介しようがないのかねえ
276名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/12(金) 11:52:45.99 ID:Lrn9NXLz0
>>239
上海から長崎の閃光が見えたそうだ
277名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/14(日) 15:51:40.33 ID:HVyLWqI+O
俺の爺さんも警官だった
大正…近所に住んでた無名時代の金語楼と仲良しだった
昭和…226の時に警視庁にいて死を覚悟した
空襲でやはり死にかけた

戦後…長崎の原爆調査団に加わり愕然とする
定年前に退職し田舎で死ぬまで細々と暮らす

おわり
278名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/18(木) 00:53:10.00 ID:lpT+QsMF0
>>275
このスレって20代専用なの?
279名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/18(木) 18:28:31.01 ID:LD/RJzEw0
お袋
杉並だから、当時は郊外だったが、226の日、雪だるまを作っていて、警官に、家で遊べと言われたそうな
280名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/19(金) 09:07:35.07 ID:qvw99j3I0
伯母の話だが大阪の郊外でトンボ釣りながら「またも負けたか八連隊〜♪」とか歌って遊んでたらしい。
昭和10年代の話のはずなのに、ずいぶんピリピリしていないというか、子供にはおおらかなところがあったのか。
281名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/21(日) 00:11:52.76 ID:LkY3RWSJ0
>>279
昨年死んだ俺の父親(大正14年生まれ)は二二六当時満州に居た。
母親(俺の祖母)はクーデターおを起こした青年将校に肩入れしていたが
父親(俺の祖父)に窘められていたとのこと。

満州での暮らしはなかなかモダンで快適、他民族とも上手く行ってて、
「満州の権益を守って大人しくしてればよかったのに・・」とよく残念がっていたね。
ちなみに敗戦後シベリアに送られ、凍傷になって1年半くらいで帰ってこれたのは
ある意味幸運。
282名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/21(日) 03:29:24.16 ID:RT28aCyC0
ほんと。満州と朝鮮で満足してればいまは全然違ったのにね。
アメリカのメディアも議会も満州・朝鮮でとどまってるぶんには相当好意的だったのに。
283名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/23(火) 17:21:23.00 ID:yc2WGowT0
しかし、満州とったあたりで制御不能になってしまったからな。
284名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/25(木) 15:26:56.52 ID:qut4Px000
じいちゃんは足が悪くて、軍隊に入れなかったそうな。
友人はみんな徴兵されていくなか、自分は見送り。
悔しい気持ちに追い討ちをかけるように、周りからは非国民扱い。
死にたい気持ちを抑えながら懸命に生きた。

今でも、戦争に参加できなかった事を後悔しながらも、今俺が生まれてきたことを心から喜んでくれている。

葛藤と戦いながら生きてきた87年。
ひ孫が9月に生まれるので、少しでも心の安らぎに繋がればと思います。
285名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/25(木) 21:04:24.62 ID:czVQD8XD0
非国民のひ孫ですか。
286名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 01:00:14.65 ID:BnDOEzKQ0
>>285
おまえ、さいてーだな
287名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 02:37:52.39 ID:LfcHXVvv0
>>284
そう考えてくれる孫に恵まれただけで爺さんは幸せだろうよ。
あんたは爺さんが必死で生きてきた証だ。
288名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 13:43:31.08 ID:iT/5vktw0
>>286
そんなに褒めちゃいやん。
289名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 18:47:08.41 ID:MR9MsHGS0
戦後左翼の戦前真っ黒史観を真に受けたネトウヨさん。
290名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 09:04:29.16 ID:L8ZdsRrII
幕末と戦後、両方知る偉人って尾崎ゆきおくらいだよな?
291名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 16:23:24.82 ID:PuPdlF5j0
そんなことはないと思うけど
100歳まで生きれるとして
1850〜60年あたりに生まれて、1950〜60年に亡くなった人は
江戸時代〜高度成長までリアルタイムで見れて羨ましすぎる
292名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 20:50:34.56 ID:e7Oqtl3c0
去年亡くなった森繁久彌の父親は安政生まれだったけど
今の時代に親が江戸時代生まれって凄いよな…
293名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/29(月) 20:42:08.44 ID:PK18n3hk0
祖父 179
父 181
俺 184 49歳
父、祖父は兵隊検索乙種合格、
いなかで肩身が狭かったそうだ、
デカイ家系、、

294名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 06:55:01.43 ID:AgXYJAVCO
ケンタッキーおじさんに因縁ふっかけて殴ろうとしてたから止めた。
非国民めー!!って…。
モスバーガー大好きなくせに…。
295名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 13:12:44.64 ID:LGJlyJxh0
おまえんとこのじいさんはケンタッキーの骨で出汁取れとか
めんどくせーなw
296名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 13:14:28.14 ID:LGJlyJxh0
>>293 眼がわるいと仕方ないよ。日本人の近視は国民病の気すらある。
うちのじいちゃんも体格は一等だったけど死力0.4しかなくて乙種。
297名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/30(火) 13:15:33.25 ID:LGJlyJxh0
ちなみにおれは両眼とも0.1 orz...

むろん自衛隊の入隊基準を満たしていません
298名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 03:02:31.58 ID:dl7HhUv/O
肉と言えば鶏肉で、牛は高級品だったと。
だから牛缶なんかは夢。めったに食べられなかったらしい。
まあ田舎だからかね。
その反動で今は毎日吉野家さ。
299名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/02(金) 04:09:35.08 ID:aY7o2bIP0

明治維新で鹿児島を破壊した売国奴ども

http://2nd.geocities.jp/jmpx759/0203/38/257.html

天皇・徳川一族を含む「サムライ」どもの子孫らは、
インチキ明治維新で、邪魔者の残る薩摩の社会と一般人を、
徹底的に破壊した。今も、ある時は露骨に、ある時は密かに、
この社会・人民破壊・民族浄化は続く。
(仮説を含む)
( http://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p033.html )
300名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 15:29:48.71 ID:UBreTisBO
昭和天皇と同じ年に生まれた爺さんは
薩摩士族の出だったけど上京して警官になり
最初の仕事が徳川邸の門番(警備)だったそうな
301名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 10:32:54.58 ID:3sgD26BG0
へー大正昭和期でも徳川さまは徳川さまだったんやね。
貴族には官の守衛が付いてたりしたんだろうか。
302名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 10:57:50.98 ID:0Z0vKCFm0
>>291 終戦時の鈴木首相は江戸時代生まれだよ。
303名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/07(水) 12:03:45.59 ID:9OxwLnVp0
古今亭志ん生は明治23年生まれ。志ん生が語る江戸は、今年生まれた子が
昭和を語るようなものか。ちょっと微妙だね。
304名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/13(火) 09:40:07.40 ID:xYEe9ib10
"最近はデバートといって、一軒の呉服屋でいろんなもの売るんですな”
305名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 00:03:43.51 ID:4Y1fB+MI0
もう20年近く前に亡くなってしまった祖父が、私の母にだけ話してくれた話。
祖父は長崎に住んでいた。既に結婚していて妻も子供も居たけれど、みんな原爆
で家も無くなり家族も死んでしまったそうだ。この辺はうろ覚えなんだけど、祖父は
奇跡的に原爆投下時に、頑丈な建物の中にいたのか、無事だった。三菱の関連施設
だったかな?
家族が心配になり、自宅のあった場所へ急いで向かったが、家は跡形もなく
妻がいつも見につけていたロザリオだけが見つかったって。

その数年後に私の祖母(現在94歳)と再婚した。
306名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/04(火) 18:46:54.49 ID:kcPnNPWc0
私の母は、戦時中女学校に通っていました。
駅前で、たまに米軍戦闘機の機銃掃射に会ったそうです。
機銃掃射はまっすぐにしか来ないので、横によけると逃げる事ができる
といっていました。
また、米軍が日本軍のレーダかく乱のために大量に投下したアルミニウム
帯を拾いにいったそうです。アルマイトの弁当箱も供出したが、集められた
金属類は、予科練の校庭に山積みに放置されていたそうです。
307名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/05(水) 14:51:58.87 ID:cVrCeDXb0
朝日新聞の投書欄の語り継ぐ戦争 以前から掲載時には必ず読んでいるが、
最近は自分の実体験でなく父母やおじさんなどの伝聞が多くなったね。
308名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/05(水) 14:56:09.18 ID:cVrCeDXb0
機銃をよける話について昨日の日経の私の履歴書にも似たような話が載っていた。
その方は、敵機が来たらいきなり逃げると撃たれるので、まず身を伏せ、反転攻撃
してきたところをすれ違う方向に走って逃げるみたいなことが書いてあった。
309名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/07(金) 21:20:25.87 ID:sTgvJ8ew0
>>308
母によると戦闘機の進行方向に逃げたら絶対だめだそうです。友人がそれで
犠牲になったとか。飛行士の顔までわかった、という近接攻撃だったらしいです。
バケツリレーの訓練(焼夷弾には無意味)、竹槍訓練(米兵の銃器には無意味)
が始まったころ、「日本の敗戦」を覚悟したそうです。
310名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/09(日) 21:57:01.50 ID:Jk/HkCS50
私の母方の系統の親戚は、大洲藩の武士でした。殿様が江戸に参勤交代でいく
時に、江戸に引っ越して大洲にはかえってこなかったとのこと。今でも、
東京に遠縁の親戚がいます。
311名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 15:46:57.58 ID:gu0J7CFa0
自分の言葉で戦争体験を語れるのは10歳前後だろうから、1935年内外以降に
うまれた子供だとあいまいか、後から大人に聞かされた体験くらいしか語れないだろう。
親に聞かされた話をあたかも自分の体験談のように語るというのはフォークロアに
ありがち。
312名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 15:54:20.11 ID:gu0J7CFa0
聞いたというとちょっと違う話しになるんだけれども、きっかけがあって過去の戸籍をずっとたどった
ことがあったんだけれども、田舎の姻戚関係というのは今でかんがえると、びっくりするほど「ご近所さん」
同士で結婚したり、養子に出したりもらったりしてたんで驚いたことがある。百姓だと土地が本籍だから
男子がいないと養子をもらったり、逆に養子に出すなんてことがけっこうあったようで、また嫁さがしも
今なら車で10分も走れば届くような範囲からみな貰ったり嫁がせたりしていた。昔の世間は狭いんだなと
痛感しました。
313名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 20:26:54.53 ID:2L99lypzO
俺の母親も家の二階から飛んでる飛行機を零戦と勘違いして手を振ったら狙い撃ちされたと言ってたな
その家もそれからすぐ後の八王子空襲で焼かれたが
314名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 02:17:22.41 ID:AgrWwWBnO
戦時中、母の長兄(個人)が、大阪の都島工業高校(当時は中学かな)で級長をしていて、大阪に空襲があると、
その後、死体を集め、荼毘にふす手伝いをしていたそうです。
かなりの死体がいつもあり、火をつけると、叔父はリンだろうと言ってましたが、
人魂のような火がたくさん空に向かい飛んだそうです
まだ、十代の頃と思うと驚きます。
315名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 20:26:17.53 ID:DhM+ur2KO
泉重千代さんの生年月日が正しいのなら1986年までに生まれた人は江戸時代生まれの人と同じ時代を生きたことになる
316名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/22(土) 23:23:02.20 ID:Ybdl9Xh6O
俺らが爺さん婆さんから戦争体験を聞くような感覚で、今90歳くらいの人たちは幕末の話を聞いてたのかもな。
317名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 00:56:09.06 ID:GNsvvzLF0
江戸時代もうちらの祖父祖母世代にとっては繋がりのある時代だったんだな、と思うと不思議な感じだ。
318名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 01:56:52.64 ID:j1cGGLoaO
本物かどうかはわからんが、実家には大阪の陣でやぶれた武将を匿った際に貰った礼状というのがあるが、達筆すぎてはっきり読めない
319名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 12:37:45.46 ID:IYBqeJIr0
俺らの親の世代は、新撰組関係者に直接、当時の様子とか訊けたんだよな。

で、俺らは、二次大戦、戦後復興の話なんかがまだ訊けるんだけど、
べらべらしゃべってくれるのは、思想的に偏った、戦争大嫌いな人たちの声ばかり
その人や話自体に罪はないけど、はっきり言って食傷気味。
320名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 13:43:33.41 ID:FuUnkq2y0
そういう人たちの声が大きいのは、それほど戦時中が多くの人にとって悲惨きわまりないものだったという何よりの証左じゃないの。
321名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 15:53:59.74 ID:73RUBbiC0
>>319
食傷気味って、おまえの娯楽の為に話してくれてるわけじゃねーよ。
人としての質が低いな。
322名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 19:32:57.63 ID:JdWyDQGC0
319が正しいよ。自分の体験でもない「体験談」をベラベラしゃべる職業証言者はうんざりだわ。
だいたい、そもそも証言をあつめる側が、そういった証言をしてくれそうな人物だけを調査してる。
こんな手法を平気で採用するような調子だから歴史学は科学未満だと馬鹿にされるんだよ。
323名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 21:16:49.82 ID:xnjwKZzA0
幕末頃世界がどう動いていたかを本で読んで、
その字面に惑わされずに自分で事実を考えると、
欧米がアジアの中でも日本を重視し、悲惨な植民地化もせず
スマートに近代化を手伝い、育ててくれた事が解る。
だからこそ、その分日本は中韓北朝鮮や、
欧米で自らの地位を保ちたい人達に半ば人質のようにされて
巣食われたりミスリードされたりして
歴史的にずっと狙われ続けているのかとも少し思った。
あと、爺様の日記を読んだりすると当時の
一般人の感覚や考え方が何となくわかってそれも面白かった。
324名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 21:41:46.99 ID:yjbksTXTO
おまいらの家にある最古の写真っていつの写真よ?
うちはすでに昭和だわ…
325名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 21:57:01.36 ID:d879vRw/O
うちも昭和一桁かな
大正生まれの祖母の記念写真
326名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 21:58:18.97 ID:KycNQLq50
>>324
核家族世代だからやはり昭和だが、親父が腹巻に作業ズボンに下駄、グラサンかけて車の横に立ってるセピア色の写真が最古だわw
327名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 22:28:08.57 ID:JdWyDQGC0
1900年生まれのじいちゃんの成人前の写真だから大正1ケタかな?
328名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 22:37:30.51 ID:H6iggKe80
他にあるかも知れんが、俺の父親(大正14年生まれ)が生まれる前の写真がある。
大正中期か下手すると明治かも。父方のお爺さんが旧満州に渡って、満州か
あるいはロシア国境部かで軍服を着た白系ロシア人の連中と写った写真。
一人だけ着物w 
329名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 22:42:37.49 ID:xnjwKZzA0
>>323
自レスだが、説明不足だった。
×;欧米で自らの地位を保ちたい人達
○;欧米で相手にされていなくて、強引に自らの地位を保ちたい人達
  (多分油田矢人とかが有名か?)
330名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 23:16:19.51 ID:d879vRw/O
俺(昭和52)父(昭和21)祖父(明治37)ここまでしか分からない。たぶん、ひいじいちゃんが明治10年前後生まれだと思うから、その前の世代でやっと江戸時代に届くのかな。近いのか遠いのか不思議な感じ。
331名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 01:03:33.48 ID:2k6zZkU3O
昔、じい様の弟が、軍曹かなんかで写真係だったんだ
満州事変のころに戦死して、靖国にも祭られてる。
当時の写真には、戦闘の様子や行軍風景、町並みや現地の人、土塁での様子や塹壕とかいろいろあったんだか、
叔父が、売ってしまったからない
かなり高値だったらしい
ただ、死体とかなかったし、現地の人と仲良い写真や買物風景とかマニア向けの砲台とかあったな
今あれば、ウプるんだが
332名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 01:26:30.89 ID:ndpcW4no0
>>321
戦前のいわゆるリア充であれば、当然、戦争には反対してなかったはず。
戦後の食糧難で、生活力がある人なら、非合法の道も恐れず突き進んだはず。
そういった人のほとんどが口を噤んでる。常識を兼ね備えた人なら、なおのこと黙ってる。

じゃあ、いまべらべらしゃべってくれるのは、いったい当時、なにやってたひとなの?って話。
積極的な証言者の全部とは言わないけど、そのうちのかなりが、
日教組や共産党のプロパガンダに感化されて(しかも、自分では影響を受けたとは思っていない)人たちだと思うよ。
333名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 01:39:53.90 ID:O0b8nlg30
はず
334名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 03:05:30.66 ID:XDIGkANH0
うちのじいちゃんは戦争に積極的に加担してたな。だから戦時国債を
大量に買ってたし、田舎に残してた田んぼを戦後全部農地解放で奪われた。
貧乏人には同情するが、農地解放で得た土地を70年代に高値でうちの
おやじに買い戻させて、そのあとの80年代バブル期にまたぞろ買い戻した
貧乏人の小作のセガレどもにはいい目をみたよな!とおもってるw
335名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 03:17:07.30 ID:ndpcW4no0
>>334
じいちゃんも、小作人たちもしぶとくて、いいなw
336名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 14:42:56.73 ID:CdFviPum0
私は52歳、親父は82歳、その父方の祖父の話です。
私の祖父は、日本連合艦隊の旗艦三笠の砲兵をしていました。
祖父の遺品で勲章や、ものすごく長い計算尺が残っています。弾道計算の
ために使ったのだとか。日本海海戦は、北上してくるバルチック艦隊と
すれ違いで撃ち合うのではなく、敵前回頭をして、敵艦艇と併走して
弾を撃ち尽くして殲滅するという先方だったそうです。(書物にも書いてあります
が)。進んでくる敵艦隊の前に自分たちの艦艇が180度方向転換せねば
ならず、そのときは大砲を撃てないので、敵からの砲撃を一斉にくらった
そうです。どんどん命中して、艦内は大変だったそうです。敵の砲弾
が命中すると、船の鋼鉄がはじけ飛び、それが水兵たちの体を引き裂く
のだそうです。私は別に反戦論者ではないですが、その当時の戦闘は
そういったものだったということで。砲兵でよかった。二百三高地に
徴兵されていたらだめだったろう、とじいさんはいっておりました。
337名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/25(火) 09:25:34.07 ID:z7bg1x0h0
爺さんは戦後は汚職政治の歴史だってさ
そしたらこんなの見つけた
佐藤栄作と田中角栄の汚職事件の違い

リスクをとる政治家 佐藤栄作と田中角栄
http://shunminchawa.seesaa.net/article/230827017.html
338名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/25(火) 23:59:27.15 ID:QJ7APHa7O
うちの爺さんは南京で支那人を殺しまくった。
339名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 01:10:52.39 ID:rh4qhCf90
しらけた
340名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 01:18:50.28 ID:0imXKmiD0
爺さんはスマトラ島に行ってコックさんやってたって。
卵だけはたくさんあるからいつも茶碗蒸しばかりで兵隊さんうんざりしてたとか
ウミガメを敵兵の上陸だと勘違いして大騒ぎしたとか。
341名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 01:20:58.99 ID:0imXKmiD0
あと、召集された時の筆記試験でわざと白紙回答にしたとか。
へたにいい成績だと前線で指揮するはめになりそうだとのことで。
342名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 01:48:01.98 ID:rh4qhCf90
徴集兵が陸軍と海軍にどう振り分けられてたのかご存知のかたいらっしゃったら
教えてたもんせ。あと陸軍・海軍ともに航空隊に振り分けられるのも、「目がいいのを
選抜」みたいな感じだったんでしょうか。
343名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 03:21:34.51 ID:ZVUCyre10
テスト
344名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 08:40:31.64 ID:2iujwisKO
徴兵は確か陸軍が全て行ってたはず。
希望くらいは聞いてたと思うけど。
体格が良い奴は陸軍が独占してそれ以外は海軍にみたいな感じだったはず。
345名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 13:11:29.50 ID:oiDjolNW0
世評では、陸軍寄りか海軍の方がマシ、ともなってたな。
制服のかっこよさに関係してるのかもな。
346名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 14:50:12.00 ID:rh4qhCf90
歳費でいえばどっこいどっこいでも、兵員数でいえば海軍ってものすごく小さかったんですよね。
徴集は戸籍地の師団所属になる、とかいうのは聞いたことあるのですが、海軍の徴集兵はどう
やってあつめたのだろう。砲術とか航海とか大半は技官でもあるから、徴集兵をすぐ配属させる
なんてことはなかったのだろうけれども、特攻隊に学徒動員兵がまわされたなんて話しもある
くらいだから、一般徴集兵もそうとう高度な任務につかせていたのかしらん。

いまの自衛官だと視力と学力に明確な違いがあって、たしか航空は視力が1.2、海上は0.8、
陸上は0.2の裸眼視力がないとダメとか。
347名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 18:15:10.45 ID:2iujwisKO
去年の年末に亡くなった高校時代の担任は震洋特攻の生き残りだった。
今の熊本高校から九大法学部の時にGackt出陣。
戦後はGHQの通訳から高校の英語教師へ。
授業はよく脱線して海軍時代の話を聞かされた。
ナムナム
348名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 02:25:49.79 ID:HNiBsITFO
親戚のオッサンは南京にいたらしいが、当時は、皇族が、こられるといって、部屋の掃除ばかりさせられたそうだ
銃声はあまりなく、殺人なんかみたことないそうだ
後、南下し、ビルマあたりで終戦
当時の傷が生々しかった。
349名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 03:46:33.64 ID:dzNCWGu20
南京事件でおこなわれた可能性のある屠殺は、あったとしても敗残兵と便衣兵の
投降者の「処置」の部類で、国際法上合法だろうが不法だろうが、部隊内で処理
してたらしいんで、その規模がどの程度か、あったかなかったかはわからんが
基本的に南京城の外だったみたいよ。
350名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 05:51:26.75 ID:ttJ37kR6O
本当かどうか分からないけど、憲兵の文句はよく聞いた。
憲兵に見付からないように、家庭のお菓子や乾物は隠してたと祖母からよく聞かされた。
自分が思うに、おそらく憲兵ではなく、在郷軍人会やらではないかと思うが、
窮屈な時代だったと。
もちろん隠れては美味いもん食ったりしてたとさww
351名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 18:15:30.22 ID:0m0nEGJQ0
憲兵=親衛隊
特高=ゲシュタポ
を真似たということでOK?。
352名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 18:37:01.90 ID:zpkj2cOd0
ぜんぜんちがう(´Д`)
そもそもドイツは直前まで敵国だったんだぞw
353名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 23:32:30.47 ID:LJzN7R6Y0
戦争が終わった夜とか、次の日はどんな気持ちだったのかね??
354名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 14:06:40.25 ID:Igck8fKE0
池田さんエッセー出版 尾道ttp://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201110270181.html
 林芙美子の研究家、尾道市西御所町の池田康子さん(92)が自らの戦争体験をつづったエッセ-「夜明けの軍艦マーチ」
を自費出版した。ttp://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn20111027018101.jpg
 小学生時代は世界恐慌など「大変動の連続だった」という。その中で担任教員や遠足の楽しい思い出を取り上げる。
1941年は軍艦マーチが流れ、米国との開戦を知らせる臨時ニュースに万歳と叫んだ記憶を記す。
 44年からの1年間は教員。戦地に赴く兵士を描いた図画の授業を紹介し、「国難の中で子どもは明るくけなげだった」
と振り返る。
 戦後、内装会社を経営し、91年に芙美子をしのぶ「あじさいき」を始めた。2003年には芙美子の人生を描く「フミコと
芙美子」を出版した。
 今回は戦前の日本を知ってもらおうと書き残した。「若者に祖国について考えてほしい」と願っている。
 書籍販売の啓文社(尾道市)から発行。A4判、111ページ。1890円。
【写真説明】教員時代など戦前の思い出をつづったエッセーを読む池田さん
355名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 11:14:55.33 ID:1nn4rlaZ0
>>353
その質問もしてみたことがあります。祖母にも母にも。
「ああ、これで灯火管制などの制約もなくなって安心して生活できる」
という気持ちだったようです。すでに敗戦を覚悟していたらしいですから。
うちは田舎だったので、その後の食糧難ではたいしたダメージを受けません
でした。戦争中はすっごく威張っていた軍人たちが、しょぼんとしてしまった
のが印象に残っていると母は言っていました。
356名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 12:50:15.45 ID:NSCzt3Eei
返信ありがとうございました。
やっぱり、やっと終わったって感じだったんですね。
357名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 19:22:03.04 ID:ysMExa6DO
前の方で色々言われてるが、
右翼思想とか左翼思想とか関係なく戦争で嬉しかった人はいないんじゃないかな。
娯楽や食べ物も制限されて、自分も身内もいつ死ぬかわからない恐怖に晒されるのだから決していいものではないだろう。
そんな中戦時中の楽しかった体験や辛い体験といった昔の話を聞かせてくれる高齢者は有り難い。
358名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 21:32:01.21 ID:KE/CPM3VO
朝鮮人を殺して中国人のエサにした
359名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/05(土) 08:15:16.67 ID:5Atg+yTwO
華族令嬢たちの大正・昭和という本が面白かった。

本に出てくるのは大正初期から半ば生まれの華族令嬢たちが多かったけど今なおご健在の人もいるようだ。
360名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/05(土) 23:25:15.84 ID:D//Xdzjh0
他スレに書いた文だが、こちらのスレに合う内容なので貼っときます。

130 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/11/05(土) 21:05:17.02 ID:D//Xdzjh0
>>128
スレ違いになるが、俺の父が旧満州在住時に同じ旧制中学で同級の奴が、
実に配属将校にゴマすりべったりで、その配属将校がゲートルを解いて靴を脱ぐ時になると
毎度信長に対する秀吉の如く、甲斐甲斐しくゲートルを解いて靴を脱がせてやってたそうだ。
そんな感じの奴が時も過ぎ、そいつは某国営放送の編集委員となり、平成元年のN○Kスペシャルでの
ホストとなった憲法特集番組で「当事の日本の上層部がもっと勇気を持ってファシズムなどに対するべきだった」
てなことをのたまっていた。日々の暮らしでそういうことを垣間見ると本当に大いに笑えるね。
361名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/06(日) 00:54:23.25 ID:8bSDpg5T0
>>360
おもろいな。

マイクを向けられると、相手が求めている答えを口にしてしまうと言う性質もあるから、
一概には言えんけど、「戦争体験証言」も疑ってかからんとな。
362名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/06(日) 15:36:09.27 ID:1Qp1NGjG0
日本人は空気を読む訓練を日々させられてるから
肝心なところで科学になじまない。
363名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/12(土) 18:10:05.95 ID:UBl7hfPh0
>>357
自由経済から統制経済になって、軍事関連の企業以外の金持ちが損をしてるのみて、喜ぶ人や、
大企業の人間や高学歴者を戦場で部下にして、そういう人に威張る軍人はいたみたいだが。
364名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/12(土) 18:12:54.20 ID:UBl7hfPh0
>>360
こういう話本で読んだ。
軍での上官へのゴマすりで、
部下のほうから上官に靴を脱がさせてくださいとお願いしたとかいう話を読んだ。
365名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/14(月) 16:40:38.90 ID:Fy25sqY70
>>355
夜灯りを点けれる喜び、灯りが灯っている事に戦争が終わった事を強く感じた。
という人は多いみたいですね。
366名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/14(月) 23:24:16.56 ID:KfuJc8uC0
灯火管制解除と、終戦から一週間後の天気予報復活はよく言われるね。
367名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/15(火) 07:56:17.40 ID:a0Uc+sc8O
戦時中立命館の学生だった爺ちゃん
石原莞治の国防論の授業は笑い声が絶えない楽しい時間と言っていた。
368名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/17(木) 01:31:00.28 ID:0cKb072VO
戦後、うちのじいさんの姉が、闇市で、当時、大阪天六のやくざのマサ親分のめかけと親友でひともうけしたらしい
しかし、親分は朝鮮の方に暗殺され、所場をなくし、それまでだったそうな
369名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/18(金) 11:40:07.20 ID:EPUH9o780
天神橋筋はいまでこそ日本一長いアーケードとかで有名だけど、もともと扇町公園が
江戸時代の処刑場で、明治に大阪監獄になったという場末だったから、だいたい所得の
ひくい、ガラのわるい、大正期からは朝鮮人なんかも定住するような場所だった。
暴力団事務所が多いのもそのせいね。
370名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/18(金) 19:33:13.79 ID:+gk4bqtMO
広島原爆の日に、婆さんの弟って人が徴兵されて丁度広島駅にいて、
小学生の時色々話を聞いたんだけど
被爆者の人達はみんな熱線で服が焼け落ちて丸裸になっていたから
避難した郊外の川原なんかでセックスしている人達が大勢いたんだってさ。
371名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/18(金) 19:39:59.12 ID:+gk4bqtMO
これもその大おじさんから聞いたんだが
戦前は男手が足りなかったから朝鮮人を農作業なんかで
かなり酷使していたのは確かだと言ってた。

しかし、だからといって戦後の朝鮮進駐軍みたいな行為は許されるものではないけどな。
372名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/18(金) 20:13:35.30 ID:EPUH9o780
熱線で服が焼け落ちるほど被爆してセックスとかホンマかいなw
373名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/18(金) 20:19:38.12 ID:EPUH9o780
朝鮮人の小作労働は場所によってはあったろうね。基本的に朝鮮人は
都市周辺部に集住して単純労働に従事する傾向だったから、地方・山間部じゃ
あまり供給はなかったろうけど西日本じゃ比較的そういうのもあったかもしれんね。
パラオとかに集団移住した朝鮮人は2000人くらいいたらしい。また例のごとく
じぶんらで来たくせに強制連行されたとかほざいているけど。
374名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/18(金) 20:20:39.73 ID:EPUH9o780
朝鮮人に言わせれば、西成で手配師から仕事を斡旋されて福島の原発作業につれていかれたら
強制連行になるらしいw
375名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/19(土) 00:04:31.19 ID:n4tMpBvj0
「平成維新運動に火をつけかねない」として、公安が警戒する本『維新と興亜に駆けた日本人』。

「明治維新に至る討幕運動、大正維新、昭和維新と脈々と受け継がれ国体回復運動の意義を国民に
知らせていならない」と彼らは躍起になっているらしい。

封印したはずの西郷南洲、副島種臣、大井憲太郎、樽井藤吉、杉浦重剛、頭山満、岩崎行親、植木枝盛、福本日南、陸羯南、荒尾精、松村介石、来島恒喜、岡倉天心、近衛篤麿、今泉定助、杉山茂丸、権藤成卿、宮崎滔天、内田良平の維新思想の本質が蘇る。

376名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/20(日) 03:53:36.79 ID:VRv+L9Jx0
>>367
人物像からもなんとなく想像できるね。少し変人ぽい所とユーモラスな表現とか
こういう感じの当事者しかわからない興味深い話が聞けるのがこのスレのイイ所
377名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/20(日) 11:01:17.08 ID:VT8bTutT0
うちの爺様(90)奉天で武装解除そして3日間の待機を命じられ真面目に待機していたらそのまま抑留生活に突入 爺「あんとき逃げてれば・・・早く日本に帰れたかもな」 どうにか3年後に帰国。
378名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/20(日) 15:07:46.69 ID:Dtx2veUO0
太平洋戦争と、中国の内戦って、どんな感じで被ってるのか、ぜんぜんしらないわ。
379名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/21(月) 23:06:28.70 ID:Owp1QGg2O
戦後早々、隣りのオッサンと軍刀でやり合ったおじいちゃん。
相手が先に切ってきたらしく、怯まず右肩から左胸に切りつけたおじいちゃん。
その事件があってその場所で住みずらくなり、大阪城東区辺りの100坪の家を引き払って、住吉の文化住宅みたいな所に引っ越したと情けなそうに生前おばあちゃんが話してくれた。
その横でおじいちゃんが日本酒を飲みながら「へへっ」というのが口癖だった。

右頬の刀傷、格好良かったなぁ
380名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/22(火) 01:03:25.57 ID:xEaxEeEG0
聞いた話だと、米軍兵は良い奴が多くて、チョコや食べ物をくれたらしい!
381名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/22(火) 11:03:54.75 ID:Y5yz0tQr0
ttp://www.apa.co.jp/book_ronbun/vol4/yushu2011japan.html

ドクター中松氏の話。スレチだけど爺さんには変わりないから貼っておく
興味深い
382名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/23(水) 01:50:43.83 ID:5+vBW0D9O
前にNHKのプロジェクトXでやってたんだけど、戦後の南極探検隊に寄付金を募ったところ
子供達がたくさん寄附をしたらしい
戦後日本への未来を、夢を見るために、食べたいものも食べないで、寄附した子供かたくさんいたそうだ
今の日本は、頼りなくなったと思った
383名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/23(水) 11:08:35.99 ID:7O8Pg+GpO
そうでもないよ
震災の時に「これからどうしたらいいんだ…」と言った爺さんに男の子が「大丈夫。俺達が復興させる」と言ってた
涙出たわ
384名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/23(水) 16:27:50.81 ID:ckY52GaCO
婆ちゃんの戦後の話
北陸の糞田舎金沢に進駐軍の白人がやって来た。
ある日キャンプを覗いて見ると白人が質素な物を食っていたので、ひい婆ちゃんに報告。
するとひい婆ちゃんが「可哀相だから、これを持って行きなさい。」と言って鍋一杯の治部煮を渡して持って行った。
味見をした白人からは感謝され、大量のコーンビーフやココアなどをお返しにもらって帰宅した。
肝心の白人が食っていた質素な物はフライドポテトでした。
385名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/06(火) 16:37:14.40 ID:VlCSkrEP0
うちの祖母は明治31年生まれだったが
父親が大工の棟梁で「大工の娘に学問なんかいらねえ!」って言われて
高等小学校に行って途中で辞めさせられたて奉公に出されたのか
行かないで奉公に出されたのか定かではないが
死ぬまで「もっと勉強したかった」と言ってたのを覚えてる
そして俺の曾祖父母の中には慶応生まれもいた
父方の高祖父は天保生まれだったようだ
386名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/06(火) 16:47:50.23 ID:VlCSkrEP0
>>228
私の曾祖母は
鉄漿をするのを子供の頃の母に見せてあげた事があったそうですよ
387名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/07(水) 04:02:08.34 ID:LK3+Lj+/0
うちの婆さんも父親から「女に教育はいらねえ」と殴られながら
死ぬ気で説得して、師範学校へ行って教師になった。
当時、女が高等教育受けても、教師しか職業がなかったと言ってた。
でも現実は厳しくて、あこがれの教師になっても当時の教師は恐ろしく薄給で、
赴任先の下宿代が給料と同額で、下宿に給料袋ごと渡すしかなく、手元に1円も残らず、
親の言うことを聞いて、親元から郵便局にでも勤めた方が良かったと言ってた。
388名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/07(水) 04:31:50.80 ID:aHNorQyl0
教員の給与は明治初年は他の職業にくらべてかなり厚遇だったけど、インフレの進行で明治20年ころから
待遇が他の職業よりもわるくなり、どんどん離職者が出たということらしい。職業婦人というのがひろまったのは
大正期からで、それ以前は家業的な職業でもなければ女子が外に働きに出るというのは(野麦峠のような)
工場手作業員でもなければほとんど無かったんでしょうね。女子どころか男子でさえ過半が第一次産業に
従事していたわけで、旧武家の子女で高等教育をうけて、事務職などに就労するなどという方途そのものが
すくなかった。大正期までは「サラリーマン」というのは帝大卒のエリートがそう呼ばれるような高給職の
代名詞であり、いまでいうエリートビジネスマンの響きがあった。
389名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/07(水) 14:57:36.30 ID:dya5c5O80
385、386ですが
明治の頃の女性は10代で結婚して家庭に入るのが普通だったみたいですね
祖母は顔を合わせると「奉公に出されて勉強できなかった」「ちゃんと勉強するんだよ」と言っていた
余程悔しかったんだろう思うが
でも奉公先の辛い話などは全くしなかったですね
祖母と大相撲中継を見ていたら昔の相撲の話をしだして
明治の人気横綱だった梅ヶ谷がどこかで火事が起きた時にその場に居合わせて
消火活動を手伝ったんだけど物凄い腕力だったとか
奉公先で毎朝暗いうちから起きて仕事をしてたんだけど箒星を見るのを楽しみにしてたとか
その箒星というのが1910年のハレー彗星大接近の事だったようだ
これはずっと後の昭和初期の話だがツェッペリン伯号を見た話もしてくれたな
他にも数えきれないくらい色々な話をしてくれたんだが断片的にしか思い出せない
その頃は思いつかなかったが話を聞いた時に少しは録音でもメモでもしておけばよかったと思ってる
390名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/07(水) 22:41:39.09 ID:DxRqQ6bd0
女学校を出て、陸軍省で働いていた祖母は、あの東京裁判の舞台となった市谷記念館で
東條の演説を決まった時に聞いていたらしい(毎週、職員が集められる)。

3月10日の空襲で、てっきり陸軍省などが真っ先に攻撃されると思ったら
戦後、そこで裁判が開かれたもんだから、「アメリカは占領のことも考えていたのか」
って思ったらしい。

ウェップ裁判長が座るところで丁度演説していたから、「東條さんはまさか、
自分達職員を並ばせた位置で裁判を受けるとは思って居なかったんじゃないか」
とか言ってたな。
391名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/08(木) 20:26:55.85 ID:ApfsAjA4O
うちの爺さんは昭和20年代後半から、同僚に金玉が臭いと言われて銭湯に毎日通うようになったらしい。
それまでは毎日風呂につかる習慣はなかったんだと。
数日おきに風呂入るぐらいの感覚だったんだって。
その指摘以来、毎日風呂に通うようになり、仕事中は金玉はロッカーに預けてたらしい。
器用な爺さんだ。
392名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/09(金) 02:54:31.35 ID:/vWKKFaE0
ロッカーで思い出したが、むかしの銭湯は石鹸キープみたいな不思議な習慣があったな。
あれ何の意味があったんだろう。てぬぐい一本で風呂に行くみたいなひとが多かったのかね。
393名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/10(土) 01:02:50.30 ID:DwMkhv4cO
うちのばあちゃんは終戦の年に教員になったんだけど
卒業前に先生から来年広島に高等師範ができるからそっちに行ってみないか?と言われ
父親に相談したところ
とりあえず今は止めておけ、戦争が終わった後で機会があればまた勉強したらいいと言われて取り止めた
行ってたらと思うと…
ばあちゃんは終戦後結婚して教員やりながら通信の大学を卒業した


終戦後もしばらくは教員やめて別の仕事に就く人もいたってさ
それとは別に戦時中の臨時教員(女学校出て資格とった人)みたいな人たちも復員してきた人が来たらみんなクビになったみたいね
394名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/10(土) 01:42:08.95 ID:Z5ZiK2+F0
大叔母が代用教員だったなあ。
395名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/10(土) 20:41:15.28 ID:2q728W890
大大叔母(祖母の叔母)が女医さんだった。曽祖父に、祖母(三人姉妹の末っ子)を
養女にして、ゆくゆくは女医にして跡を継がせたいと頼んできたが、断ったそうだ。
その後、夫婦養子(男は医師)をとったが、関東大震災で一家全滅、祖母が養女に
いっていたら、自分は生まれることはなかった。
396名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/21(水) 22:38:24.77 ID:/kk/tquq0
このスレ読んで思ったけど、いわゆる「戦前」と「戦中」は区別されて考えるべきだな
配属将校や憲兵、警官の話を聞いてもそう思う
397名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 14:45:34.50 ID:xZeBiKMH0
曾祖母が会津の人だったんだが
1888年の大噴火で小磐梯が吹っ飛ぶ前の磐梯山を知ってると言ってたな
398名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 17:41:50.04 ID:XYooCZA5O
敗戦後の満州は怖かったとのこと。
祖父、祖母が満州で中国人と共に働いて信頼関係が出来ていたので、
そんな混乱のなか無事に日本に帰ってこれたという祖母の話を母から聞いたことがある。
祖父が大戦中、仕事の仲間だった中国人を庇ったことがあったことで、
信頼関係が出来ていたらしい
399名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/24(土) 10:34:24.68 ID:nzqF9eK60
人には優しくしておくもんだな。
体罰ばかりの上官は前線で味方から狙われたり、負傷しても治療は後回し、
敗戦後は引き上げ船でリンチ。
400名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/24(土) 16:47:11.49 ID:j53nnY1C0
400
401名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/24(土) 17:38:04.33 ID:zZleYo/10
幕末の時代にも暗躍していた彼ら
http://youtu.be/Ktr4SUe_-Xs
402名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/27(火) 06:26:51.79 ID:BEMoNl/k0
軍隊ったって、アカの他人ばかりだからね。どこの誰とも知らないやつに
いきなり殴られたら、ふつうは憎悪するわな。
403名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/31(土) 11:38:44.16 ID:1bUUpOBc0
明治生まれの祖父母が子供の頃には
狐憑きや狐に化かされた人が
普通に身の回りに沢山いたらしい
祖父も奉公を始めた頃に川岸で列を作って横切る狐火を
毎朝見ていたそうだ
勿論それが何だったのかは不明だ
404名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/02(月) 22:30:40.29 ID:K/z0oXMh0
東京出身の祖母は幼い頃には使用人に囲まれて不自由なく暮らしてたそうだが
戦争終了時には身寄りも使用人もいなくなってしまった。
農家に着物を持って、食料と交換しに行っても、足元を見られてまともに食料を分けてもらえなかったらしい。
なので、祖母は今でも田舎者や農家が大嫌いw
相手が田舎出身だったり農家出身だったりするとあからさまに嫌そうな顔をしてた。失礼極まりない。

高級な着物を献上しても僅かな野菜としか交換してくれない農家が、熱を出した子供のおでこに
きゅうりの薄切りを乗せて熱を覚まさせているのを見て、惨めな思いをしたと言ってた。
405名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/02(月) 23:26:17.50 ID:DKa2GikD0
戦中は身内に戦死者が出ても悲しんだ素振りを見せてはいけない、
というのが常識みたいになっているが、
我が家に伝わる話だと、祖父の弟が戦死した時、人が大勢いる前
でその報を聞いた曽祖父は人目も憚らず号泣したと言っていた。
406名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/03(火) 01:46:36.57 ID:z2yNKTRb0
親が子を泣き、子が親を泣くのは儒教的倫理観だからね。
そういうのは許容されていたと思われ。妻が夫を泣くのに厳しかった。
407名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/03(火) 18:21:09.32 ID:N+T55UKJ0
>>128
少年Hって戦後の後知恵で書いた小説だろ
408名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/04(水) 08:32:43.50 ID:WBQduwPZO
うちのお婆ちゃんは大正初期の九州生まれ。今では認知症ですっかりボケてしまったが、子供の頃いろいろ話してくれた。
明治六年生まれの父親は士族への俸禄カットで辛酸をなめつつ苦学して師範学校へ行った事。
文政元年生まれの祖父(明治初期に撮った写真も残ってる)は命懸けで倒幕運動に参加したとか、江戸に上る西郷さんを家に泊めたとか些末な事だけど今思えば貴重な証言かなと思う。
ありがたや〜ありがたや〜
409名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/05(木) 00:58:27.01 ID:Rl8+1H8lO
文政元年…1818年
明治6年…1873年
大正…1912年〜


年齢差すげぇ家系だなw
410名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/05(木) 12:18:16.60 ID:RKNg+GlO0
祖父・孫の年齢差ならうちの家系もかなりある方かも知れない
祖父が明治27年生まれ(日清戦争が始まった年)で末の叔父の次男は昭和59年生まれ
一番上の伯母は既に90超えてるがその伯母の長子と末の叔父の年齢は殆ど同じ
411名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/05(木) 21:11:21.77 ID:3C09sImg0
>>389

>>その箒星というのが1910年のハレー彗星大接近の事だったようだ

その1910年のハレー彗星は地球にぶつかると予想されていたらしく
もう亡くなった尋常小学生だった祖母は全校生徒が集められた校庭で
校長先生より明日は地球がなくなっているかもしれないと言われたそうだよ
この時代の一大事件だったんだな
まあ、明治・大正・昭和は日本にとって進歩と近代化が滅茶苦茶に急激だった
時代で現在のような進歩が止まった時代とは違い相当刺激的でエキサイティング
な時代だったみたいだよ
幕末の黒船ショックとちょんまげ時代から30年でバルチック艦隊の日本海海戦
それから30年で格兵器と広島・長崎さらに30年でアポロ有人月着陸
そして30年後の今は中国の超巨大化
しかしここ40年は進歩が止まったみたいだ
今の製品で過去にないものは携帯電話スマホとPCインターネットくらいだ
それ以外は車もTVもエアコンもウォークマンもすべて普及していた
この40年の日本は刺激的進歩が止まったね
412名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/06(金) 01:19:18.81 ID:HY9I0uHBO
>>409
408だけど婆ちゃんは十人兄弟の7女。曾祖父もそれなりの兄弟がいたみたいだか細部不明。彼は長生きして敗戦後1950年代まで生きてた。
敗戦間際、村の皆が「米兵、支那兵が来て男は殺され、女は皆襲われる」と言って山に逃げる中「僕は逃げない!この家で討ち死する」といって曾祖母と2人だけで残ったらしい。
考え方がお侍なんだね。
413名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/06(金) 15:53:06.40 ID:/JKV5QI70
>>411
私の祖母も明治生まれだったけど
1800年代に生まれて新幹線に乗って大阪万博に行ってたからな
その一例だけとっても信じ難いほどの劇的な変化だったんだと思うね
414名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/06(金) 21:08:04.75 ID:CXnFbUZN0
>>411
私の祖母(今年82歳の母の母親です)が生前言っていたことには、ハレー彗星
はものすごく大きく、天空に広がって見えたそうです。当時の田舎ですから、
邪魔な人口光はなかったので。別に、地球が滅ぶという話はなかったようでした。
415名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/07(土) 10:15:50.35 ID:Q49MAhz70
ハレー彗星は父方の祖母と母方の祖父が見た話を聞いたが
地球にぶつかるという話は知らなかったようなので
学校ではそう教えていたのかも知れませんね
二人とも1986年のハレー彗星の時も存命だったので
二度ハレー彗星の接近を経験した事になる
416名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/10(火) 01:08:34.63 ID:eR0uTSJE0
今日のたけしの番組で112年前の明治時代の女性が話してる音声が流れてた
パリ万博の時に録音されたものらしいけど
現代とほとんど変わらない言葉で話してて感動してしまった
あの時代の文学作品とか難読な文語体で書かれたものばかりだし(樋口一葉とか)
今とは全く異次元な世界という風に思ってたからビックリした
Youtubeとか、またどっかで聴けないかなぁ・・・
417名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/10(火) 16:03:31.03 ID:/Ru1Ha7B0
昭和に入ってからなら結構あったりするんだけどね。>録音
418名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/11(水) 00:24:53.35 ID:+UY1bRnf0
>>416
このスレの>158とは別?
419名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/11(水) 10:39:12.11 ID:4TUwrk4z0
私の祖母が生きてれば112歳以上になるけど
野菜なんかも今とは違う呼び方をしてた
トマトを気違いナスビとかカボチャをトーナスとか
明治にはそれが一般的だったのかな
420名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/11(水) 10:44:03.48 ID:KaobpkkU0
基地外ナスビは朝鮮アサガオの別名でもあるね。
421名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/11(水) 22:35:00.46 ID:vSTdG7P4O
>>416
よくあんな字幕だらけの番組を観ていられるな。
字幕字幕のオンパレードに違和感を感じない?
422名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/12(木) 10:18:53.29 ID:qQyKKkIq0
419を書いた後で思い出したが
ジャガイモの事はセイダイモとか言ってたな
423名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/14(土) 14:36:43.68 ID:wa+9VgnP0
私が幼い頃に住んでいた祖父母の家には
天井に焼夷弾が落ちた跡があった
義理の伯父の父母の墓には鉄の門扉が付いていたのだが
それも戦時中に没収された
父は終戦時に国民学校の生徒で玉音放送を聴いた記憶もはっきりしてるのだが
「ああ終わったんだな」と思っただけで
悔しいとかそういう感情は不思議と起こらなかったと言っている

424名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/18(水) 09:05:44.22 ID:TZ29UcNtO
義理の伯父なんて言葉あるか?
425名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/18(水) 10:52:55.73 ID:pm33TXyj0
>>424
父か母の姉の夫は義理の伯父でいいんじゃないの
426名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/18(水) 11:10:01.56 ID:pm33TXyj0
そういえば金属供出というのは家庭用品まで回収したらしいが
あまり逸話が残ってないね
427名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/20(金) 00:39:21.70 ID:uaWnFJpn0
>>426
そう?
お寺の鐘、二宮尊徳像。
家庭なら鍋や古銭など。
よく聞くぞ?
428名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 11:29:37.94 ID:gKAMAI1p0
2・26事件の時にまだ幼かった父親が風邪をこじらせて肺炎で入院してた
祖母によればその日は停電になって病院も大変だったらしい
429名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/01(水) 10:20:59.86 ID:5ShFJTA+0
>>426
近所の寺に大昔は立派な鐘があったけど戦争で回収されたって言われているし
ウチの先祖も鍋を持っていかれたって親が言ってた
市外の友達も同じようなエピソードを持っていたからよく聞く話だと思っていたけどね
430名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 14:52:49.94 ID:kZwAzTKj0
俺のひいばあちゃんの話だ。
今も御存命していて104歳、何個か聞いた話が有るので最近の話からしていく。

先祖は北條家に仕えていたらしいけど、詳しくは忘れた。
ひいばあちゃんは二十代目。

女性に参政権?選挙権が与えられた話はしっているよな?
ひいばあちゃんは初めての選挙の日、家紋の入った装束的な服を着てったらしい。
431名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 15:00:45.85 ID:kZwAzTKj0
戦時中の話。
俺のばあちゃんの弟の話。
弟さんは負傷者とか載せてる大型機のパイロットだったんだって。
そうゆう機体には目印が有って、攻撃してはいけないんだけど、米軍機に撃墜されて戦死。
正月にばあちゃんが泣きながら話してくれた。
432名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 15:07:31.20 ID:kZwAzTKj0
同じく戦時中、書き忘れてたけど第二次世界大戦ね
ひいばあちゃんは金持ちで、でかい寺に住んでた
寺って大きいから、空襲に来た米軍機が故障で投弾できなかった爆弾を捨てていく時、標的にされるんだって。
だから防空壕作ったらしいんだけど、近所の人たちも作ってたのは知ってたから、いざ空襲の時作った本人たちが入れなかったそうな。
それでもひぃばあちゃんが、自分たちは良いからせめて子供は入れてくださいってお願いしていれさせて貰ったらしい。
ひいばあちゃんとひいじいちゃんは寺でラジオ聞いてたって。
433名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 15:18:02.89 ID:kZwAzTKj0
空襲が酷くなって、ばあちゃんが疎開した時の話
場所は忘れたけど、海の直ぐ近くに疎開した
海が近くなので当然海に地元民と泳ぎに行く、当然ばあちゃんは水着を着るけど地元民は男女かまわず全裸
ぼんぼんで育ったばあちゃんからしたら衝撃だった、地元民に「おめえ何服きて海に入ってるんだ」と言われて水着を脱がされたと笑いながら話してくれたよ
最初は恥ずかしかったらしいけど直ぐに慣れて遊んだって。
予断だけど疎開してた場所に戻って、直ぐ又をおばさんに洗ってもらったらしい。(砂が入って痛かった)


ってか昔で小中高大を通うって凄い事なんだな。しかも女で。
434名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 15:19:35.39 ID:kZwAzTKj0
>>432
寺に住んでたって書いてあるけど、今も住んでます。
他にも色々話有るけど、要望が有れば書く

質問も受け付けます
435名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 18:57:37.86 ID:YYKm09Xm0
>>434
じゃんじゃん書いてもらっていいと思うよ
436名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 22:09:47.16 ID:epFTmjOl0
時代的に江戸あたりの話だがいいのかな、書いて

その上年号とか具体的なデータも無いんだが..
437名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 22:17:52.16 ID:MvNYLOgFO
坂の上の雲で思い出したんだけど
「♪すずめ〜メジロ〜ロシア〜野蛮国〜クロパトキン〜金ダルマ〜負けた〜タカジャッポ〜ポンヤーリ〜陸軍の〜乃木さんが〜凱旋す〜」
って歌歌ってたけど、タカジャッポとポンヤーリって何だろう?
438名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 22:31:17.71 ID:epFTmjOl0
いいや、書くww

ばーちゃんから聞いた話。


まず先祖が代々武士だったらしい。
家系図もあるようで(後で触れます)。
というのも、先祖が奥州の伊達家につかえてたそうです(家紋が前田慶次と同じなのでああ、マジなのかな、とも思う)。

幕府が終わって何代か変わるうち、
いつしか白虎隊(?)とかいうやつの隊員になった先祖がいた。
それがひいじいちゃん。
白虎隊だかは政府に潰されたかなんかして解散、
山形で団子屋を営んでたそうな。

で、ある時、突然北海道に来て「よだべんぞう」(?)らと土地を開拓。
子宝に恵まれ父となり、祖父となり、俺が産まれる前に亡くなったそうな。
俺は道産子4代目。
今日も楽しくやっております、
御先祖様。


上で述べた家系図ですが、
山形の家にあるそうで。

同じ血をわけた顔も知らない人が持ってんだろなぁ..。

この先祖がなんとかって話、
代々引き継がれて来た話だそうです。

親から子へ、親から子へ...
なんか不思議な気分ですね。


一応友人の爺さん2人の戦時中ショートエピソードも知ってますが、
需要ありますか?

439名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 22:34:37.60 ID:epFTmjOl0
まった、ひいじいちゃんじゃなくてひいひいじいちゃんな気が...
もういいや...
440名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 22:37:47.62 ID:AN8qurCY0
>>434
戦中戦後の食糧難の話
玉音放送の日のこと
女学校時代の話

ここらへんあったら頼む。
441名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 22:48:07.11 ID:QPkcJyuv0
夜這いの話
銃剣装着の話
牟田口の話が聞きたい
442名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 23:13:56.44 ID:3/+JdbhOO
俺の大正生まれの婆ちゃんから聞いた話なんだが、実家が大塚のあたりで菓子屋をやってたらしい。
それも下男とか女中さんが居る位大きいお店で皇室御用達で政治家にも贔屓にされてた店だったそうな。
ある時婆ちゃんが手伝っていてお菓子の鍋ひっくり返した時、頭からかぶっちゃって大やけどを負っちゃったらしい。
女の子なのに頭に醜い火傷の跡が残るのはかわいそうだってんで医者を探しまわったら、
20円くれたら綺麗サッパリ直してやるって医者がいたらしい。
当時なら家が立つくらいの大金だったから、非常に親も悩んだそうだが
常連の政治家が「それなら僕が立て替えましょう。」って立て替えてくれたそうだ。
それで綺麗サッパリ火傷も治ったそうだが、憲兵さんが よく治り具合を確認しにきたらしい。
その政治家はかの鳩山一郎氏だったとのこと。
もし跡が残ってたらなら詐欺で捕まえるつもりだったのかねぇとは婆ちゃんの談。
443名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 23:14:32.55 ID:kZwAzTKj0
要望が有ったので戦時中の食糧難の話し。
現在と比べると天と地の差だが、当時我が家は裕福で有る程度は食べていけてた。(当時の水準で見た場合の話)
満足に食事を食べれない中、せめて正月くらいはおいしい食べ物を食べさせてあげたいと言う、ひいばあちゃんの親心
無理して餅や食材を集めたは良いけど、お雑煮に使う調味料が無い
悩んだひいばあちゃんはスルメのダシを使って味をごまかしたんだ
その味実は凄く美味しくて、それ以来我が家定番のレシピになったと言う話し
食糧難って言えるのかなこれ?とりあえずこんな感じです。
444名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 23:29:25.59 ID:kZwAzTKj0
玉音放送の日の話を…
当時ラジオは高価で、金持ちが周りの人達に放送を聞かせてあげてたらしい。
玉音放送の日、ひいばあちゃんの家(寺)に人々が集まってくる
放送が進むにつれて、すすり泣くと言うか、鼻をすする音と共に声が聞こえてくる
その内容が、「負けるはずが無い」だとか「ふざけるな」だとかそんなのじゃなくて実際は
「やっぱりな」だとか「惨めだ」とか「悔しい」といった諦めとかそう言った感じのだったらしい。
中には竹やり五本くらい背負い、有志を集ってロシアに行こうとする人もいたらしい(漁師の方々)
そこでひぃじいちゃんが演説してまとめ戦後の混乱とかを収めていったと聞いた。
今でもその事に恩を感じてる人がたくさんいて毎年年賀状きます。
445名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 23:41:49.31 ID:3/+JdbhOO
それとこっちは大正生まれの祖父の話。祖父は惚けるのがうまい人で戦争中の話しはしてくれなかったので、祖母からの又聞きになってしまうから真偽のほどは定かじゃないんだが。

祖父が学生の頃戦争が始まったが、どうしても戦争に行きたくなかった祖父は必死に勉強して帝国大学の工学部に入ったらしい。
それで戦争が長期化して学徒動員が始まった頃に、なにやら委託学生なる形で陸軍に徴兵されたらしく戦車の設計などを行っていたらしい。
この委託学生、身分が将校扱いだったらしく秘書みたいな女子学生が一人つけられて、食事も三食米が食え、さらには羊羹がおまけでついてきたらしい。
この羊羹を女子学生にわけてたからモテモテだったと祖母に自慢してたらしいが。
それで戦争が終わったあと食料を手にいれるために化学メーカーに就職したんだと。化学肥料の生産をしてた関係で米の特別配当があったらしく、余った米と交換することで色んなものが手に入ったらしい。
446名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 11:06:40.65 ID:gUCO0fTT0
>>437
タカジャッポは山高帽子の事じゃないかな?
昔の人は帽子をシャッポと言ったりしてたからね
洒落男という戦前の流行歌があるが
その歌詞に「山高シャッポにロイド眼鏡」とある
山高シャッポが縮まってタカジャッポになったのでは?
>>440
食糧難と言えば戦時中は場所さえあれば芋畑にされてたそうだね
父が当時通ってた国民学校の校庭も芋畑だったらしい
447名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 12:23:56.10 ID:5UUdLHr80
昨日書きこんだものだ
戦後直ぐの話を書く
終戦後、アメリカ軍は国道五号線が有る海の方向から上陸して
千歳の基地にむかって行ったらしい、そこで意地の悪い軍人は空のキャラメルとかを投げて集まってくる子供を見てバカにしたりしてた
けれど投げてたのはそういった物だけじゃない
当時、日本人はしらみだらけで汚かった、髪には黒いしらみ、体にはしろいしらみ
そこでアメリカ軍は空中からDDTと言う薬を札幌全域に投下したり、ホースを使って直接人にかけたりしていた
448名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 12:57:22.39 ID:1VnKS0qH0
死ぬ前に祖父から聞いた後悔と懺悔の話しを
私の祖父は医療士官として、終戦間際に広島に着任していた
理由を聞いてみたが、祖父は原爆が落ちるのを知っていた上官と夜逃げしてしまっていたらしい
副官、司令官、司令官と懇意の士官を連れて異動と称して逃げ出してしまった
後にやはり広島に原爆が広島に投下された。
あの時、置いてきた人間の事がわすれられないらしく、毎年歩けなくなるまで平和公園に祈りに行っていたのを思い出す
449名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 15:09:10.52 ID:z/Jqc+Rb0
ウソみたいなウソの話しがまぎれこんでないか?ww
450名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 15:19:48.77 ID:1VnKS0qH0
まあそう言われても仕方ないかもね
傍目から見たらそう思うかも
451名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 15:33:27.43 ID:golDCuK30
死んだ爺さんから聞いた話だが
爺さんが5歳くらいの時に爺さんの爺さん(俺から言わせると曾祖父の親父か?)
が狐に騙されたらしい

酒を飲んだ帰りに綺麗な着物着た姐さんに話しかけられて(今で言う逆ナンパ)
意気投合し恐らくセクロス的な流れになったんだと思う

風呂を沸かしてあるので入れと言われwktkしながら入ったんだろうな
んでオチから言わせると肥溜めだったんだけど当然綺麗な姐さんはいないし
婆さんも近所の目もあるのでカンカンにキレていたらしい
爺さんも現場見たって言ってたわ
因みに湯加減最高ですげぇ気持ち良かったと言ってたそうだ
452名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 15:53:07.09 ID:5UUdLHr80
身内ネタならもう何個か有るけど需要ある?
お手伝いさんの話とかなんだけど…
後兵隊さん二十人くらいと同居してた話
453名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 15:58:20.30 ID:z/Jqc+Rb0
「たしかにじいさんばあさんからそういう話をきいた」というのは真実かもしれんが
そのじいさんばあさんの話が真実を反映してるかどうか別というのがオーラル
ヒストリーの難しさ。人はしばしば自分の見てきたものの説明をあとづけの知識で
補完しているものだ。
454名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 16:03:17.82 ID:z/Jqc+Rb0
「なんかイヤな予感がする」というのと「原爆投下を知っていた」というのは
ぜんぜん違うことだ。常識的に考えて、海軍の主要都市である広島と長崎が
それまでまったく空襲の対象になっていなかったことを常識的に考えられる
立場にいるひとなら、なにか恐ろしく悪い予感はしていたはず、とこれくらい
なら言える。
455名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 16:50:15.38 ID:gUCO0fTT0
>>46
俺の祖父は明治生まれ(しかも19世紀)で
平成まで生きたが
パンツを履く事もあったけど
一生越中褌を愛用してたよ
456名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 20:22:08.09 ID:S22RwJwU0
淡路島の洲本城には昭和の初めまでちょん髷姿のおっさんが城の門番をしていたらしい。
457名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 01:22:08.56 ID:0f4i0nE30
本からの知識で申し訳ない。
俺が面白いなぁと思った話。

・戦中の銭湯
資材不足で週に1、2回しか銭湯が開かない。もちろん各家庭にお風呂はない頃。
人々は銭湯の煙突をチェック。煙出てたら、みんなで殺到。
洗い場も順番待ちなら、湯船も行列。
前のひとの頭を目の前にするほどの、すし詰めの湯に入る。
足なんて伸ばせないから、肩まで浸かれなかったとのこと。

・切符の販売制限
ひと駅あたりの長距離切符の販売枚数は決まってるので、徹夜で並ぶ。
真冬とかは、学帽や外套に霜おりても並んでる。
買えなかったら、その列はそのまま翌日の行列に移行。
チッキでもそうだった。
458名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 06:01:05.11 ID:i5d+i6b3O
終戦間近か後かは、この時代について知識ないからわからないけど、祖父はグアムで戦ってどんな流れかで、最後沖縄で米軍の捕虜になったのか、なりそうだったのかわからないけど、
長崎の戦争時をまとめた写真集?みたいなのに沖縄で米軍に銃を突きつけられて手を上げている祖父が載っている。


もし、それっぽい本を持っている方いたら、ちらっと見てみてください。

ちなみに戦後、沖縄からやっとこさ自宅に帰ったら、自分の遺影があったみたい。
459名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 15:45:18.70 ID:gVRp/7UO0
>>438
依田勉三は、超メジャーな開拓者じゃないですか!
すごいね!
私、内地出身ですが、8年間北海道に住みました。
近くのおばさんが樺太からの引揚者で、ロシア人に子供の靴を盗まれて取りもどした!という話を聞きましたw
460名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 16:21:02.06 ID:GfTFlxvy0
祖父が大正時代に甲府連隊にいた
新兵訓練の一環だったんだと思うが
横浜から甲府まで行進した事があったそうだ

祖父は私が生まれるずっと前に亡くなってるが
その当時の写真が残ってる
461名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/06(月) 05:07:58.43 ID:XVQq8hIM0
昔勤めてた会社の会長さんが、零戦パイロットでした。大正生まれ。
大学在学中に学徒動員された組らしい。
腕は良かったんだけど、ちょっと反抗的だったから戦地に送るんじゃなくて
零戦パイロットの教官をやらされて、国内を転々としたらしい。
若い奴を教育してちょっと飛べる様になったら戦地に送られて帰ってこなかったのが
一番辛かったって、言ってた。ちょっと涙ぐみながら。
462名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/07(火) 23:05:44.03 ID:Cr9VtRB5O
戦前は田舎だと混浴が当たり前だったから
海水浴も当然みんな全裸だったんだろうな。
昔は本当におおらかだったんだな。
俺の婆さんも子供の頃昼間から縁側で裁縫なんかしてる主婦を夜這い?に行く若い男をよく見かけたって言ってたな。
お使いに行ったら、丁度縁側でエッチしてるところだったとかw
463名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/10(金) 13:11:59.81 ID:VVp3H2ETO
>>46>>455
俺の祖父は大正生まれだったけど昭和になってもふんどし締めてたよ。

ある日友達を連れて家に帰ってきたら、物干し台一面にふんどしが干してあってめためた恥ずかしかった思い出があるw
464名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/12(日) 00:59:38.97 ID:k9tJniSY0
89の婆さんが言うには、2・26事件の日に東京行ったら戦車だらけでビビったって
465名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/13(月) 02:27:36.50 ID:MAlY+9H0O
自分の祖父もずっと褌だった。
褌がシャキッとして一番気持ちいいと言ってたから、若い頃にパンツをはいたことはあるらしい。

明治42年生まれ。99まで生きた。
30だか40代だかで徴兵されて、中国へ。
自分が子供時代に、おじいちゃんは人を殺したんだ、と懺悔されて、わからないくせに、戦争だったんだからと慰めたこともあった。
中国では、敵地で、ぬかるみの湿原を順番に渡る時、隠れてる敵に機関銃で狙われ、
兵隊の中では若くもなかった祖父が遅れて撃たれそうになると
先に安全地帯に辿り着いた上官だか同僚だかが、○○(名字)!右だ!左だ!と誘導してくれたのが有り難かったと。
復員した後は画家として大成した戦友が、中国ではボール紙に祖父の似顔絵を描いてくれて写真代わりに家に送ったこと、
その人は上官の似顔絵も描いて、お礼に上官から貰ったタバコを、タバコ好きだった祖父に分けてくれ
中国では本物のタバコを補給できず、乾燥させた雑草を辞書の紙で巻いて紙巻きタバコ代わりにしていたから、大変有り難かったことなどを聞いた。

祖父の息子である父は昭和8年生まれ。
父にはすぐ下に弟がいたが、就学前にチフスで幼くして亡くなっている。
父や父の妹への感染を防ぐため、隔離病棟に祖父が泊まり込みで世話したらしい。
当時はろくな治療もしてやれず可哀想だったと、60年以上経っても忘れらなかったようだ。

優しい祖父で、幼い頃はよく遊んでくれたし、自分の両親が早く亡くなってからは
最後まで自分を気にかけてくれた(母が亡くなる間際、祖父に頼んだらしい)。

しかし、明治男だけに一本筋が通っており、だらしないことや曲がったことが大嫌いでもあった。
脳梗塞で倒れる前日まで規律正しい生活を崩さず、毎日散歩をし、携帯なんかにも興味津々だったな。
トーストにコーヒー、野菜に漬け物と桃が好物で
おじいちゃんは農家の出だから野菜をバリバリ馬のように食うのが好きなんだ、が口癖だった。
農家の出ではあったが、昭和のアマチャンの自分などからしたら、武士みたいにストイックだった。
商売は下手くそで、何度か事業を始めては失敗し、家族は苦労したらしいが
何故か周りに人が集まって、○○長と頼られることが多かった。
466名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/13(月) 05:32:55.55 ID:yZstDpbPO
うちの爺さんから聞いた話しだが、戦時中は防諜活動みたいなのが厳しくて、単なる一般人ですらその対象になっていたらしい。
それこそ憲兵やら警察やらが目を光らせ、高圧的に職質したりしてたとか。
かなり息苦しかったらしく、うちの爺さんはぶちギレてわざと憲兵の前で、友人に、
貴方スパイですか?
スパイだな。スパイさん、お腹空きましたwww
とかふざけてたら憲兵に見込まれて、憲兵の事務所に連れていかれたんだって。
それ以来、今でも俺は元憲兵だと豪語してる。
あげくの果てには、外人見る度に後をつけるし、
「あいつは怪しい奴だ」とか言いながら孫の後を追うし、しまいには晩飯作ってる婆さんに「国家反逆の嫌疑がある!」って…。
カーネルおじさんに天誅と書いた貼紙を貼った時は泣きたくなったよ…。
467名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 00:37:29.50 ID:jGTgkXgBO
>465続き

前述の祖父以外から聞いた断片的な話。

父は昭和8年生まれ。幼い頃は祖父の商売も上手く行っており、家には使用人も多く、苦労知らずでボン(関西の言葉でぼんぼんは、甘やかされた金持ち息子の意)と呼ばれていたらしい。
生前、父が50代の頃も、法事で会った年上の従姉妹にボンと呼ばれて苦笑いしていた。
昔の写真は確かに、写真館でめかして撮影したものばかりで
おかっぱで着飾って女の子のようだった。

家業が洋菓子屋だったので、戦前はよく家に友達を連れてきて、商売で作ったカステラの切れ端が食べ放題だったのを振る舞って喜ばれたらしい。
戦争が始まり、原料が手に入らなくなり、祖父も兵隊に取られ、ええとこのお嬢さんだった残された祖母は
数ある嫁入り道具や着物を売ったり、交換したりして二男一女を食わしたそうだ。
父は長男だったため、次男長女とは別格の待遇で、祖母すら、まだ子供の父を何かにつけ優先したらしい。
例えば、食事時に飯をよそう順番ひとつでも、一番が家長である祖父、次が長男である父
次男長女祖母はまとめて一緒くたのような扱いだったらしく
父の妹弟なども、長男の父に刃向かったり対等に喧嘩したりは一切なく、同じ兄弟ではないような扱いだったらしい。

父は父で子供時代から帝王学とまでは行かずとも、母親である祖母よりも上に立たされて、正直しんどかったようだ。
祖父不在中はもちろん、まだ小学生の父が家長。
子供ながらに家族の生活に責任を感じて、電車に乗って遠く離れた闇市に米を買い出しに行ったり、随分幼い頃から家長としての自覚があったらしい。
12歳で終戦を迎え、優等生の軍国少年だった父は、教師が一夜にして、昨日までの授業で教えた価値観を否定したことに
教師という人種は信用ならんとショックを受けたと言ってた。
戦後はアメリカ人の家庭で洗車のバイトをして家計を助けたが、勉強が好きで大学進学を希望し
受験して受かったのに、祖父に経済力がなかったため、ここでも家長として働き手にならねばならず、これは随分こたえたようだった。
軍国少年が抜けきらなかったのか、自衛隊に入営。
北海道の基地に駐屯しながら家族に仕送りを続けたが、体を壊して除隊。
しばらく家で療養した後、採用された大手アパレル企業で母と出会い結婚した。

468名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 01:08:27.72 ID:jGTgkXgBO
母は、子供時代から家が貧しく、口減らしに10歳の時に遠縁の尼寺へ養女に出された。
貰われていく時は、他の兄弟姉妹は同情したらしいが、いざ養女になってみれば
貧しい家に残った子供達より大切にされ、食事も豊かにあり、母の妹などはちょっと羨ましく思ったそうだ。
この妹、自分の叔母の下に弟が一人、上に、体が弱く神経質な姉がおり
父方の家庭と同じく、当時は全て男の子が大切で、体の弱い姉と一粒種の男の子に両親の愛情を奪われて
彼女は子供時代、随分寂しい思いをしたらしい。

この叔母は現在70代で存命だが、以下は最近になって初めて聞いた話。

姉と弟に両親がかかりきりで、彼女は朝晩も満足にご飯を与えられず、子供時代はガリガリで常に空腹だったらしい。
昼休みは弁当なんかもちろんないので、普段は水を飲んで我慢していたが
ある時に、何か提出する書類を忘れて昼休みに家に取りに帰ると
縁側に弟が腰掛けて、店屋物の天ぷらうどんを取って食べさせてもらっていたらしい。

自分は毎日水を飲んで時間を潰して我慢してたのに、と思うとあまりに悲しくて家に入れず
木戸で引き返し、泣きながら学校に戻ったそうだ。

彼女は中学一年生くらい、弟は小学生だったらしいが、あんまり傷ついたので、これまで誰にも話せなかったらしい。
自分も、幼かった飢えたひとりぼっちの叔母があまりに可哀想で、聞いて涙が出た。

尼寺に養女に行ったうちの母は、跡継ぎになる期待を裏切って就職して父と結婚してしまい、自分が子供の頃
当時はまだ珍しかった癌で、若くして亡くなった。

前述の気の毒な叔母は、すぐ上の母を慕い、母が結婚してもよく我が家に泊まり込んで子守をしてくれ
母が病を得てからは献身的看病をし、亡くなって後は母代わりになって、よくうちを助けてくれた。

自分が小さい時は『愉快な叔母さん』という印象で明るい面白い人だった。

まさか、その彼女がそんな悲しい子供時代を送ったとは、つい最近まで知らなかった。
もっとも、当時は戦後の貧しい時代で、叔母のような子供は珍しくなかったようだが。

彼女が、うちの家族の一人と子供が思うほど我が家に入り浸って、母を慕って
よくしてくれたのは何故なのか、若かった頃は今ひとつわからなかったんだが
そんな事情で、生家だというのに、叔父に嫁ぐまでは身の置き所がなかったためだったそうだ。
469名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 17:06:57.23 ID:0XdK/EsG0
本書いて小銭稼いで綺麗な墓建ててやれ
470名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 22:43:43.97 ID:9VPF+Eh+O
爺さんから聞いた話だけど、ほか弁のから揚げをフタをして残して、翌日開けたら臭かったらしいwwwwwwwwwwwwwww
部屋中から揚げwwwwwwwwwwwwwww
471名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/16(木) 00:52:11.23 ID:QmEOuB4t0
こんなスレあったんだね。

婆ちゃんの弟が五・一五事件で犬養毅のとこに乗り込んでった内の一人。
今ためしに検索してみたらwikiにも名前思いっきり出てる。びびった。
父は出所後の婆ちゃんの弟(父からしたら叔父か)に会ったことがあると言ってた。
どんな人だったのか今のうちに聞いておこう。
事件の是非はともかく暗殺なんてしちゃってるわけだから周囲にも言えないし
やっと吐き出せたわ。

婆ちゃんや爺ちゃんも獄中当選やら大学作ったりやら相当アグレッシブだったらしい。
自分が生まれる前に亡くなってるから直接話を聞けないのがすごい残念。
誰だったか忘れたけど教科書に出てくるような当時の有名人と知り合いだったとかで
「○○のおじちゃん」とか言ってたらしい。
父は話し始めるとクドいし長いしで面倒だけどもうちょい聞いておこう。
472名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/17(金) 10:11:44.52 ID:/2EvRlwT0
五一五の人たちって、結構その後も政治活動をしてたりするよね。
凄く興味があるなあ〜。どなただろう。
473名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 20:43:30.99 ID:sH9p4lhs0
中学の時、爺ちゃんに「何で日本は戦争に走ったの?」と聞いたら
「軍人がとんでもなく力持っていたからなあ。あいつら武力を持ってるから
軍人が暴走したら誰も止められない」と言ってた。

でも今の日本の公務員の暴走ぶりを見ていると、武力は関係ないように見える。
日本では、昔も今も強い立場にいる集団が、自分たちの既得権益を保持する為に、
日本が崩壊するまで暴走を止めないんだろうな。
474名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/20(月) 22:56:52.61 ID:gM9szrhu0
>>472
父に改めて聞いてみたけど、政治活動は殆どしてなかったんじゃないかと言ってた
名前は出せなくてすまんが、姉である婆ちゃんは戦後に平和運動してたらしいよ
婆ちゃんと結婚した爺ちゃんは典型的な左派活動家だけどそれで姉弟仲が悪くなることもなかったみたいだ
(五・一五が右派的な事件でなかったらすまん)
475名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/21(火) 22:21:25.19 ID:NeQtqsq80
>>474
興味本位のレスにわざわざありがとう。

戦前に政治活動に関わった人の家族から
憲兵に追われて大変だったみたいな話を聞いてたから
興味があったんだ。
476名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 07:22:42.51 ID:WvR/P8KL0
 今生きていれば百歳以上になる曾祖母が娘時代、山梨県の甲府近郊に
住んでいて、関東大震災に遭遇した。
 祖母の村の被害は大きくなく、その日の夕方、
村人総出で、壊れた家屋の片づけや怪我人の手当などで大わらわだった時、
東の空を見たら赤く染まっている。
「甲府が火事だ、避難しろ」となったが、
一向に火の手がこっちに来ない。
 みんなで見つめていると、空が暗くなるにつれてものすごい紅蓮の炎が
天高く上がるのが見えてきた、と。
「甲府の火事ではなさそうだ」「八王子だろうか」と言いあううち、
「あれは東京のど真ん中の火事だそうだ」という報がどこからともなく伝わって
きて、一同、びっくり仰天したそうだ。
 甲府の郊外の村から、浅草や本所の炎が見えるとは思わなかったと曾祖母の弁。
突風にあおられて炎が非常に高くなったせいだろう。
477名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 07:28:54.93 ID:WvR/P8KL0
476訂正 ×祖母の村の ○曾祖母の村の

当時は高層ビルなどはなかったけど、県境に山があるので、
話を聞いた時には本当かなあと思ったが、要は山越しに見えるほど
炎が高かったということかと。関東大震災の時の火災旋風は
ものすごかったというのを、後に知って納得した。
478名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 23:15:02.97 ID:CrV/uLX/0
>>476
小笠原諸島から、東京大空襲の火災は見えたそうだからな。
甲府だったら、見えたんじゃないか?
本所被服廠跡の火災旋風は、史上最大級だったろうし。
479名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/29(水) 20:38:52.39 ID:d79dJq9U0
>>473
今は財務省が日本が潰れるまで増税したがってるからね。
480名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/03(土) 00:19:28.19 ID:2UD+3yca0
祖父は昭和19年に大学を卒業して入隊、終戦時は関東軍の少尉。ソ連軍参戦の混乱の中で
師団本部へ物資受取に行った時に敗戦。原隊とはぐれたためにその後とても苦労した。
武装解除されると貨車に乗せられてシベリアの収容所に送られた。
チタは満州よりもさらに寒く、恐ろしいくらいの寒さだった。
大木を切る作業や整地作業、路線建設、坑夫などの重労働をやった。
食事は朝が黒パン一切れ、昼は臭いジャガイモ、夜はコーリャン飯で、
全員が栄養失調になり顔が黒ずんだ。冬は寒さと栄養不足で次々に仲間が死んでいった。
ロシア兵の食料庫に盗みに行ったり、死を賭して食料調達しないと死んだ。
夕食後、共産主義の勉強があるが聞いているフリをした。
自分だけいい思いをしたくてロシア人の犬になる奴もいた。
犬にチクられると北極近くの収容所に飛ばされて、まず帰って来れない。
3年で帰ってこれたが、あの状況で病気にならず生き残るためには強力な精神力と要領と
注意深さが必要。心が折れた者、真面目だけの者、注意散漫な者は戻れなかった。
481名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/03(土) 00:49:25.47 ID:yEnGB8sT0
親父は戦後、海軍兵学校から引き上げ、広島に戻り大久野島(毒ガス島)の
処理に駆り出されたそうだ

ガス弾や薬剤など海にバンバン捨てたそうです。
中には液漏れしているのもあったそうです。
近年何本か見つかり騒ぎになったが、当時捨てたのはあんな数ではないらしい。
482名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/03(土) 10:29:03.25 ID:TjWhsVNw0
◆コレを色々な所に広めてください 目が覚める日本人が出てくるはずです◆

戦後日本の警察は米国から武器の所持を禁止された。

そのドサクサでやってきた朝鮮人は、警察が何もできないのをいい事に

銃や刃物を持ち歩いて少女をレ●プしたり強盗や暴行を繰り返した。

その子孫は今も日本でパチンコ屋の経営などをやっている。

そしてそうやって日本人から巻き上げたお金は売国政治家を雇ったり

メディア工作に当てている。
483名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/06(火) 13:03:30.44 ID:6ytGU2Dp0
うちの一族総出で西南戦争に参加したらしいんだが
熊本城攻略にかなり手こずったあげく負けてしまったそうだ
それで鹿児島に逃げ帰ってきたんだと
うちは地元の地主だったんだが没落してしまった
うちの先祖は死の間際にも西郷さんに謝ってたらしい
484名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/07(水) 10:41:12.34 ID:j7tQU2J30
>>162
70代の父の祖母(私の曾祖母)も慶応生まれだったそうだよ
姉さん女房で私の曾祖父は明治2年生まれくらいだったらしい
私は30代だけど自分くらいの世代で
曾祖父母の代に幕末生まれがいる人も少ないんじゃないかな
485名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/07(水) 14:29:31.38 ID:8Psry2ml0
福江島の爺さんが島の高浜の横をバルチック艦隊が通って行ったと。すごくない?
486名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/08(木) 00:56:08.95 ID:VM2x81u20
すごいけど、もうチト詳しく聞いとけよ!
487名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/08(木) 02:16:41.81 ID:ivLIAk2lO
俺の祖父は大正生まれ、その祖父母は安政生まれだ。
うちの場合はどちらも祖父の誕生前に亡くなっているが、大正生まれの人は祖父母から幕末の生の記憶を聞いたってのは珍しくないのかもな。
488名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/08(木) 04:34:12.56 ID:G4MfqPxcO
うちの爺さんはマクドナルド一号店に発狂して喜んだ第一号らしい。
ピクルスは国民の血の一滴とかぬかしながらピクルス残してた。
気違いだよなwwwwwwwwwwwwwww
辞世の句は、
ハンバーガー 新し来き世ぞ 突撃ー!!!
489名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/09(金) 14:37:55.84 ID:8UhvCizw0
>>104>>113 へー物騒だったんだねぇ、場所にもよるだろうけど
>>204 江戸時代も初期と後期では、かなり言葉が変わってたのかもしれないね
490名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/18(日) 14:04:46.95 ID:ACBF1r7KO
婆さんに聞いた話
昭和18〜20年頃
川から緑の液体が流れてきたらしい。
流れをたどって行くと
米国の爆撃機が墜落していたらしい。
一人は座席で死亡
あとの二人は後日、里に野菜を盗みに来たところを捕縛されたらしい。
491名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/20(火) 11:33:03.36 ID:Clju0yRa0
>>490
へー!
緑って、川面に浮いた油かね。
492名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/20(火) 19:38:15.83 ID:lMf+DHAOO
>>466
ギャグ漫画みたいな爺さんだなw面白い人だったのか
493名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/22(木) 17:12:46.44 ID:T0VGMY9X0
介護職を目指している者なんだが先日施設に行った際に戦後の引き揚げで日本へ戻るために
満州から逃げて鴨緑江を1人で渡ったっていう婆さん(94歳になる)に話を伺ったのだけど
満州人は親切だったと話していたがロシア人は怖かったとか話してたよ。
494名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/02(月) 19:45:00.07 ID:M3GIQgyI0
>>446
うちのじいさんそれだ。
メガネの自慢してた。
横浜の中区に住んでたしおしゃれやったんやな。
明治39年生まれ。
495名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/03(火) 17:29:01.22 ID:uktJLg5e0
婆ちゃんの実家は山沿いの薬局やってたから
年に2回サンカの人が来て霊芝や熊の肝とか漢方薬の原料と
コメや豆等と交換して行ったと言ってた。
昭和19年を最後に来なくなった。
風の噂で、国の方針で定住させられたらしい。
熊の肝はいい値段で売れたそうだ
496名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/06(金) 02:05:19.83 ID:aYky4a3ZO
うちの爺さんは、中国方面に出征していたらしいが、大して戦闘もなく、適当に訓練して、飯作って食って寝ての毎日だったらしい。
地元民とも仲良くやってたんだってさ。
それが南方に転戦してからは毎日が地獄で、
ご飯こぼしたらしい。
居残りで牛乳なんて当たり前だったみたいだ。
今なら有り得ない措置だったそうな。
497名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/22(日) 18:57:20.89 ID:HeI53qZ80
泉重千代さんのギネス記録が2012年版で取り消されてしまいました
やはり105歳説が有力なのでしょうか?
残念です
498名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/26(木) 12:20:51.57 ID:LajJ7YiH0
このスレと時代的にはかぶるんじゃないか

奥様が語る70年前
ttp://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1328693297/
499名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/27(金) 06:12:28.52 ID:DKtKKmnD0
良スレだな。

もういないけど、祖父が1910年前後くらいの生まれ。
昔はよく狐火(墓場が近いなど証言的にリンだと思われる)を見たといい、
時には狐火に追い掛け回されたともいっていた。
ムジナもよくいたようようだが、これは祖父の話ではなく同年代のほかの話と
混ざって覚えてしまっているかも。

戦争では、日中戦争初期に満州かどこか大陸で歩哨かなにをやって戦場に立ち、
嫌いな上官に「カモシカの足のご馳走です」っていって、誰ともわからない
人間の死体の足を焼いたのを食わせたなんて冗談交じりにいってた。
今思うととんでもないが、話きいた子供のときはひでーいたずらwって楽しんで聞いてた。
戦地では砲弾の破片が肉に食い込み、それがずっと体に残ってたみたいで、
よく「このコブはなあ」みたいな感じで戦争の話がはじまった。

懲役の期間を満了して一度日本に帰還するも、戦争の激化が予想された
太平洋戦争の前後くらいにもう一度召集を受けた。
今の日本か、あるいは遠くても台湾の範囲くらいの南の離島に守備としておかれ
そのまま特に問題も起きずに再び帰ってこれたそうな。

一度目は戦闘こそあったものの、在任期間のほとんどは面白い旅行のような
ものだったと聞かされている。
さすがに三度目はなかったが、こうやって比較的初期に懲役に参加したことで
後の玉砕当然の戦場に立つことがなかったのは幸いだというし、
だからこそ気軽に語れていたのだと思う。

関係ないが、友人宅の床の間に飾ってあった写真が出兵して亡くなった人だというのを聞いて
戦争の話がでても直接戦死した親族がいないというのは幸運なのだろうと思う。


今もある祖父の代の自宅は戦前くらいに建てられ、上棟の際か親族の出兵の際か
わからないけれど、その時に撮られた写真が我が家にある最古の写真。
大工の手も借りたとは思うが、親族による建築が主らしく、柱や梁などは太いけれど
曲がった木材などが使われている。釘はほとんど使ってなく、よくも丁寧にくみ上げたものだと
今見ても感心するばかり。木材が噛み合う部分の計算がほんとにすごい。
500名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/27(金) 06:20:14.45 ID:DKtKKmnD0
ついでに現役である、友人の親父(70前後くらい)の子供の頃の話。

よく寺や墓場で遊んでいたそうだが、基本的に墓場に土葬という習慣のために
時々埋葬された棺桶(いわゆるヒツギではなく、桶のほう、ツボ型)の上部が
腐って落とし穴状態になっており、知らずに上に乗っかった時に勢いで落ちることがあったという。
そんな時は「○○のばあさんにひっぱられた!」と騒いだものらしい。
みんなやんちゃだったのか、墓石をベースに見立てて墓場全体で野球などやっていたそうなw


このスレ的には全然新しい時代の話だけれど、今はもう確実に存在しない光景だと思う。
土葬の話を聞くと福沢諭吉の死蝋の話を思い出す。
501名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/27(金) 07:47:00.35 ID:DKtKKmnD0
思い出したことがあったので連投失礼。

祖父は食料が万全とはいえなかった戦地ではヘビやカエルを食べたという。
ヘビはしらないが、カエルは実際に食用の大蛙をさばくのを見た。
何十年ぶりだろうに、いい手際で、普通に鳥をさばくみたいな感じだった。

あと、年末年始には地元で宝船というのうを作って、それを代表して東京の市場に
売りにいったそうな。今で言えば数十万から百万しないくらいで売れたんだとな。
(1個でなのか複数でなのかは不明)
そんで売り上げから自分の取り分を使って、東京見物を兼ねて一晩過ごしてから帰ってきたという。
これは戦後しばらくまで続いていたらしい。戦中はさすがに無いと思う。
502名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/01(火) 03:01:34.37 ID:yX3BeTMn0
義父の目撃談。
敗戦の日、北海道の軍都旭川にいた少年だった義父が、駅前に行ってみたら、
朝鮮、韓国、中国人たちが大暴れしていた。
「日本は負けた。俺たちの時代だ」と叫んで。
警察も放心状態で手がつけられず暴れ放題。
最後は消防自動車で放水して解散させたそう。
その後も暴動を起こしていたらしい。
中国人はまだわかるが、なぜ朝鮮、韓国人が「戦争に勝った」と言えたのか俺には理解できない。
503名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/01(火) 03:04:42.00 ID:yX3BeTMn0
明治43年生まれの曾祖母の話。
曾祖母は福島県の阿武隈山地の村の生まれ。
曾祖母が子供の頃(大正)でも「丑の刻まいり」ってのがあったらしく、
どこぞのばあさんが夜中に神社に行っていたとか、
神社の境内の木にわら人形が打ち付けられていたとかあったらしい。
それで、実際に死人も出たと言っていた。
真偽はわからんが怖い話だった
504名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/01(火) 03:18:36.65 ID:yX3BeTMn0
友人の祖父の話。
友人の祖父は医者だったが「トリカブト」の研究者だった。
いつの頃かわからないが、中国に行って満洲で軍に入り研究をしていたそうだ。
何をしていたのかは、日本へ帰ってきてから一切無言だったので、
誰もわからないそうだ。
なお石井部隊ではないことは確かだそうだ。
505名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/01(火) 03:24:31.55 ID:yX3BeTMn0
曽祖父は大正時代から横浜で手広く会社をやっていた。
関東大震災で被災した。
曾祖母の話を母から聞いたが、ものすごいゆれで、
工場の工員たちが畳をもって竹やぶに置いてくれ、そこに避難した。
竹やぶは根が張っているので、地割れが起こらないらしい。
服に火がついた人が川に飛び込んだら、川には重油などの油が流れ込んでいて、
そのまま焼け死んだ人も多かった。
曽祖父は「製氷工場」も経営していたので、怪我人のために氷を横浜市に提供して
ずいぶん感謝されたらしい。
ちなみに祖母は「お女中」付きで育てられたと聞いた。
そのひ孫の俺は出世どころかwww
506名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/01(火) 14:08:39.15 ID:YcJQ7iOy0
以前朝生に従軍経験者のじいちゃんが出てたが、
出征当初は遠足気分で行ってたそうだが、戦争が激化して南方に飛ばされてからは地獄だったと語ってたよ

やっぱ南方はそうとう酷かったんだな
507名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/02(水) 19:15:20.70 ID:+THdzebK0
>506
引揚者の祖父母と、父から聞いたことだが、朝鮮前羅南道では、日本人は韓国人と仲良くしており、
決して差別はしなかった。父は、釜山中学と、内地のネームスクールに通って、帝国大学を卒業した
が、韓国人の両班の金持ちも多くが帝大に行き、戦後は、韓国=南朝鮮の大学教授になっていたと言
う。思うに、彼らは、加害者意識は全くないし、被害者意識もなかったようで、戦後のドサクサで、
「天皇はモヤイだ。」を忘れて、被害者意識ばかりを教育の中に、入れ込んでしまった為に、現在
のような歪な感情になってしまった。

508名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/03(木) 07:45:19.73 ID:IMyDOOw40
俺の曾祖母は福島県三春町(一本桜で有名)の生まれだが、
戊辰戦争で三春藩は途中で会津藩を裏切って薩長についた。
だから今でも会津若松あたりじゃ「三春からは嫁をもらうな」といわれているらしい。
509名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/04(金) 00:03:42.90 ID:fZKSl34OO
明治生まれの爺さんや婆さん、修羅場を潜って生きてきたのに
何一つ語らずに逝ってしまったな
もっと色々話しとけば良かったね
510名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/04(金) 01:19:09.46 ID:GefVpk5Z0
オレの爺ちゃんは兵隊だった
と言っても内地で防空壕作ってたらしい

叔母さんは畑仕事してて上空に敵機が来るとあわてて伏せたって言ってた
511名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/04(金) 20:01:50.92 ID:pU0IRRXS0
我家の大正11年生まれによると、

http://www.youtube.com/watch?v=Y-2iT-dZfCk
http://www.youtube.com/watch?v=2UvYla-aZzc

こういう歌は学校で習うのでみんな歌えたらしい。
常識てのは時代でかわるもんだね。


>>488
おれは、ハーゲンダッツの一号店に当時のガールフレンドと行ったわwwww
512名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/09(水) 03:31:26.35 ID:D0D8sXBaO
うちの爺さんから聞いた話。
玉音放送後、やはり暴れたり騒いだりする輩が少なからずいたらしく、
爺さんもこれはチャンスだと、訳の分からん衣装着て、えっじゃないかやろうぜー!!
と喚きながら街を練り歩いたが、賛同者が現れず、何とか取り繕って家に帰ったらしい。
それ以来爺さんは、
「わしは街の衆にハブられた」
513名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/15(火) 22:05:54.86 ID:MRBgA3N30
>>512
作り話だろwww
ネタとしては秀逸だが老人が「ハブられた」とか使うかよw
514名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/16(水) 09:17:26.55 ID:y4+L9dvi0
>>513 はぶる は村八分からきた言葉で戦前からあるスラングです。
515名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/17(木) 18:19:01.37 ID:1ux9Wj3hi
明治生まれの祖父母とかが生きてて話せる状態の人は今のうちに色々きいておいたほうがいいよ
今年の7月で全ての明治生まれが100歳以上になる。
516名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/19(土) 11:52:14.03 ID:AxdOAQd30
老親の祖父母とも長命で、随分色々な話を聞きました
他愛も無い話から、驚くような話まで様々ありました
ボツボツ投稿させていただきます

*日曜の銀座・デパート
昭和初期の銀座は日曜ともなると大層な人出で、喫茶室2階の窓際に座っていると
皆の下駄で歩く音が「ゴ〜〜〜〜」と、地鳴りのような響きだったと・・・
デパートには「下足番」が居て、下駄にはカバーを被せてくれた
三越・高島屋は「高級」松屋・松坂屋は「中級」白木屋は「普通」だったと
白木屋は東京駅から「送迎バス」を出していたとも・・・
各デパートの呉服太物売り場には、所謂「二枚目店員」がずらりと並んでいたと・・・
でも「役者のような美男」は、お得意周りだけで成績が上がり、店頭には出ては
いなかったとも・・・当時の貧困家庭で「眉目秀麗な男子」が生まれると、呉服屋の
番頭さんに・・・と言うのが褒め言葉だったとも・・・
★以下エロ話
お得意周りの「美男呉服店員」と、得意先の夫人・令嬢間の醜聞は度々耳にしたと・・・
それも「○○様ご療養で○○温泉にご逗留らしい・・・」といったように伝わる事が
多かったとも・・・出産の為に身を隠した・・・と理解したようです
中には「大奥様・ご隠居様」といった方々の醜聞もあったと・・・
無駄話で失礼
517名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/20(日) 00:42:16.90 ID:uEXORg0k0
>>516
面白い! 次も頼むぜ。
518名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/20(日) 11:17:58.25 ID:mtUFSOr50
戦後67年だから戦時中のことを知ってる人ですらもう80歳以上になってしまう
昭和初期や、ましてや大正時代、さらに明治の記憶がある人、話が出来る人なんて
本当に少ないだろうから貴重だ
519名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/20(日) 12:18:19.20 ID:Hlvupi0C0
当時は黒澤の「七人の侍」なんて、話題作程度。
大ヒットしてたのは喜劇駅前シリーズ。みんなこっちみてた。

>>518
美談や、実録。それと残酷物語は、結構のこってんだけどな。
庶民で、普通のところが、ごっそり抜けてんだよな。
520名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/20(日) 12:33:15.90 ID:tlWMLx8u0
俺の若ぇころはなあ、っていわれて時代が違うんだからと一蹴などせず
しっかり耳をかたむけるべきだった、なんてことも多いんだろうな。

>>519
センショーナルなところ、メディアのメシのタネっていうものは
商売にしようという輩が引き出して加工・保存するからね。

あと、これは江戸以前の怪異譚なんかにも通じるものがあるけど
「自分が見た(と思った)もの、自分がやったこと」
そういったことをオチもなく淡々と語ったり綴ったりしたものってのは
メディア受けしないから一部の間でしか話にならないんだよな。
521名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/20(日) 14:44:54.70 ID:Hlvupi0C0
>>520
本にも映画にも取り上げられない、当時の常識や生活などが、特にヤバイね。
たとえば、両親の世代のこともすでにあやふやだ。
チッキのことやら、お米を買うのにチケットが必要だった(配給の名残?)とか、
ぐぐったところで、うまくイメージできないもんな。

ジジババもそうだが、父ちゃん母ちゃんにもちゃんと聞いとこうぜ。
522無駄話で失礼 :2012/05/20(日) 19:58:44.07 ID:q5DtDshf0
*戦前の衣類
昔は「馬子にも衣装髪形=まごにもいしょうかみかたち」と言ったそうですが
身形で身分が一目で判ったとも・・・男女を問わず「仕立て下ろし」を着られる
人は少なかったと・・・特に女性は「芝居見物や花見園遊会」で一度着た着物は
二度着るのは「恥ずかしい」と言って、女中や出入り職人の女房や娘に、節句に
下げ渡していたと・・・そんな方々は「輿入れ時には10年分の着物を持って行く」
というような人も居られたそうですが、流行もあり「化粧料」を持って行ったり
実家から節句に届けたりしたそうです
★以下エロ話
戦前は女性が髪を洗うのも大変で、女中さん達などは「月に一度」といった
間隔だったそうです。髪油や香油も使わないので、とても臭かったそうです
それが欲情をそそるのか、家の当主と女中の「不倫=姦通」が多かったとか・・・
逆に芸妓衆は週に一度は髪を洗い、週に二度は髪を結いなおし、耳の後ろまで
石鹸で洗い上げたそうで、髪油もたっぷり使って結い上げた、元結が緩んで
いない髪型が「清潔感を漂わせていた」と聞きました
523無駄話で失礼 :2012/05/20(日) 20:21:32.47 ID:q5DtDshf0
*明治の男
曾祖母の実家が木場で、祖母も度々遊びに出かけたそうです
昭和初期の話です
木場には筏師がおり、下町の娘たちには人気の職業だったそうです
深川彫り=刺青と、正座など不可能なほど体にピッタリした股引が特徴で
喧嘩っぱやくて酒には目が無い・・・といった「粋な兄さん」達だったそうです
そんな人たちも出征したり軍需工場に動員されたりで、戦後は全く様子が
変わってしまったそうです。祖母の初恋の相手もその一人だったそうですが
戦死してしまったそうです。総身の刺青のなかで右脇腹に「金魚」の刺青が
あったそうで「煮ても焼いても食えない男」と意気がっていたそうです
祖母の貞操に関しては、何も尋ねませんでした。しかし「熱い恋」を経験して
いてくれたのなら、それはそれで良い様に思いました
524無駄話で失礼 :2012/05/21(月) 21:35:37.22 ID:A20vGD9x0
*明治の男のその後
これは大叔父から聞いた話ですが、戦後曽祖父が疑獄事件に巻き込まれ
一時拘引されたそうなのですが、身の潔白は証明され、晴れて釈放された後
曽祖父が信頼していた方も同様に取調べを受ける事になったのだそうですが・・・
★以下は下品な話題です
「その方」が「のめり込んでしまった」のは、金でも女でもなかったそうなのです
それは「青々ショウ」という見世物だったそうです
青々ショウというのは、刺青を入れた男女の交合を見せるものだそうです
「見るだけ」で指一本触れられないショウだったそうなのですが、その出演者の
「刺青の男」が、木場の筏師崩れだったらしい・・・というのです
戦後間も無くの話ですから、皆が生きるのに精一杯の時代だった訳で、非難など
出来ようはずもありませんが、本当に木場の筏師の「中年以降の生業」であったと
するなら、時代とは言えお気の毒で可愛そうで、気持ちが沈みます。その後の人生が
幸せであったと信じるのみです
525名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/23(水) 16:16:36.27 ID:Zgk4Bu9d0
私のばあちゃん(大正15年生まれ)のお兄さんはニューギニアで戦死されました。
最近そのお兄さんの友人からの手紙が見つかったのですが半分程度しか解読できませんでした^^;
なんて書いているのか気になります。
昭和15年6月とあるので、大東亜戦争が開始される前のものかと思います。
526名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/23(水) 22:26:42.79 ID:oROBN8vt0
>>525
市の図書館とかで相談してみたら?
527名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/23(水) 23:03:21.71 ID:5twFVdxi0
>>526
ありがとう!田舎町なんで埼玉戻ったら図書館いきますw

あと明治時代の戸籍謄本も出てきたんだけど、先祖で
父と息子が同じ名前の人がいるんだけど昔はよくあったことなのだろうか・・・

詳しい方いたらおしえてください><
528野口(遠山) 日出弥(英世) 明治天皇の曾孫 慧詈野弛衛:2012/05/25(金) 10:54:21.74 ID:rLt8r5noO

AMラジオは695
TwitterはMitelettrica関連
必ず、アンダーバーはクリック! 
『鎌倉 徳川一族』『天皇家 樋口少将』…
ユダヤやロックフェラーの謎も解る!?

嘉藤浄將 太穫 天皇家 鐓钁 乃木内将軍の孫の遠田静治(蓙甌惺貮・瀞辭=伊達政宗の孫)の孫の弖十=TEN10(teto)=優多野手頭=野慈蚕=帝跿(徒)=衛鴉朧 哇狸野雉会
529名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/25(金) 11:08:53.61 ID:4VHf6LHd0
あとうちのばあちゃん(大正15年生まれ)は嘉永5年生まれの祖父(僕からすれば高祖父)の記憶が少しだけあるとのこと。
酒が好きで杖をついて腰に酒を入れる入れ物(?)をかけて毎日買いに行っていたらしい。
身内話な上これといって内容もなくごめん。
530名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/26(土) 08:13:39.40 ID:PD5WO/Ks0
>>527
名前が同じってのは、あとで名を変えた結果なんじゃなかろうか?
お互いが同時期に同じ名前はさすがに相当珍しい。
いわゆる襲名であったり、海外でいう○○sonやjr.、二世、みたいな感覚なら
無いともいえない。

でも謄本てことは両名存命のままで同じ名前だったのかなあ?
531名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/26(土) 08:19:28.93 ID:PD5WO/Ks0
>>529
>腰に酒を入れる入れ物(?)
徳利の、とくに大きめのものじゃないかな?
口の下の窪みに紐を結わえて、腰にぶら下げられるし
瓶が一般的になる前は、個人での運搬・保存は徳利を用いられた。
用途や分量でサイズが代わる。
532名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/26(土) 22:29:51.46 ID:keU+NboG0
>>530
ありがとう!亡父とあったので恐らく名前を継いだのかと思われる。
興味がある人いれば謄本の画像(名前は住所は伏せるけどwww)アップしたいけどさすがにいないかw
ちなみにコピーのスキャンだから多少汚い^^;
533名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/26(土) 22:31:46.30 ID:keU+NboG0
>>531
なるほど、そうかもしれないね。
ばあちゃんが江戸時代の人とリアルタイムで接していたと思うと胸熱www
534弖十=優多野手頭=野慈蚕=帝跿(徒)=江亞梁=衛鴉隴:2012/05/28(月) 13:36:21.23 ID:ytP7GkaAO

朝鮮総連は窩難と諛沱邪の裏切者

虎ノ門の自民党員殺害は
『朝鮮総連』横須賀の立て籠り犯で
クラッカーの蕷音(舁涅・夜子・ヨネ・無運申子・斎藤直子=97歳・元従軍慰安婦のユダヤ系窩難工作員)らしい。
『峙岷党のヒットマン(鉄砲玉)支那畜』
『妖魔・蟇鸚・幄魔』の実弟。『魔女』の従兄弟。

弖十=TEN10(teto)=優多野手頭=帝跿(徒)=江亞梁=衛鴉朧=得履野知獲=慧吏載地衛=哇狸野雉会=匯蛙労=野慈蚕
chocolat@湘南台 de' 闇将軍@藤沢市
Eleonora de' Medici.
天皇家 織田 繪璃奈(横濱・野島えり)
Freemasonrey & Microsoft USA co.tp.
モバゲーの八犬伝(☆葵雷恩☆・果音♪)
еёжЭЮЯабЧЦХЛθ γδεζηθ еопое νξδεζηθ
535名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/29(火) 00:43:21.99 ID:5UwZg2cdO
>>413 凄すぎ!
536名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/30(水) 00:18:46.84 ID:FULju0hoO
大叔母が生まれたとき、曾祖父が役所に向かう途中に名前を度忘れし、適当に書いて提出したらしい。
数年後に学齢期になって発覚。みんなで誰のことじゃと大笑いしたとか。
おおらかな時代だね。


安政に生まれた高祖母は昭和8年まで生きていたが、大正に生まれた大叔母も大叔父も、昭和初期に生まれた親戚も皆名前すら知らなかった。明治に亡くなった高祖父なんて勿論誰もわからない。
昔は祖父母なんて遠い存在だったのかな。
537名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/31(木) 01:39:10.72 ID:/0/CPa600
これじゃ、ここの人気もなくなるはずだね。

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/joke/1331190435/291
538名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/31(木) 22:28:41.78 ID:ljdK9V0zO
明治生まれのひいばあさんは何やるにしても姿勢が綺麗だった、品があるというか。
539名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/01(金) 03:38:22.72 ID:jBXl5igvO
うちの爺さんは明治生まれだったが、品が無かったぞwww
マクドナルドで暴れたり、ケンタッキーで雑炊注文したり大変だったwww
最終的にはピザハットを裏切り者呼ばわりしてwwwww
でも必ず最後は若い人にチップを渡してた。
これで雑炊でも食べなさいってwww
お前が食いたいだけだろwwww
その辺が俺が爺さんを尊敬する理由かなぁ。
540名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/01(金) 11:28:33.03 ID:DYawHtO60
>>539
高度成長以後は良くも悪くも店員の扱いなんてロボットだからなあ。
チップといわずとも心付けだって日本にはあったけれど、
いまはすっかりそういうのは欧米の習慣としてしか見られてないよね。
541名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/01(金) 16:46:19.23 ID:ZtyJzgG70
明治生まれの祖母が
電車に乗る時でも草履を脱いで座席に正座して
微動だにしなかったのを覚えてる
542名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/02(土) 12:28:15.62 ID:7UG9qFT/0
すばらしいおばあ様だな。
543名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/02(土) 23:56:12.95 ID:lmrEK6DuO
近所のじいさんも、よくこわばったまま震えとる。
544名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 10:23:01.47 ID:HkKh6k8T0
実家に帰った時に、押し入れあさってたら発見した写真が面白かった

http://myup.jp/p/NQQIn6qs

写真張った事ないがこれでうまくいくのかな…
545名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 11:43:08.49 ID:5SYMwnfS0
>>544
ザギンのサムネイルは「十字屋」かな? 
ググったら「銀座十字屋」が出て来た。
最初は本屋、いまは音楽教室だって。
和装に日傘だね。

写真一枚からいろいろわかっておもしろい!
546名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 12:14:05.05 ID:udaLWVFo0
>>544
ツェッペリン号?

このスレじゃなかったら、「なにこのプラモのミサイル」
としか思わないところだったぞw
547名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 12:32:00.25 ID:HkKh6k8T0
>>545
ほんとだよく見ると蔵書って書いてあった、まだあるとか凄いわ

>>546
ショボい写真だよねwよく見ると今のやつより細長いから、結構大きそうなかんじ

ばあ様の遠足写真もあったw
http://imepic.jp/20120603/387970

先輩に伊勢ではないかと言われた
548名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 13:22:52.63 ID:udaLWVFo0
>>547
専ブラで見たらツェッペリン号しかみえてなかったが、
リンク先にはいろんな写真があるのね。
堪能させてもらいました。
写真からデータを読み取るだけでワクワクします。


「戦勝記念」
『明治38年1月16日 (上野)不忍池に於いて』
とあるので、これはかの有名な旅順入城を記念してのことだね。


「画像6」
横浜の根岸競馬場を連想したが確固たる根拠なし。
画像の雰囲気、他の写真の地域、年代から連想。
ただの工廠や軍事施設かもしれない。

「わからないどこか」
『日新(?)上町(丘町?)小学校屋上より東方を望む』
と書いてあるから、おそらくは他の写真などからも考えると府中市日新ではないかと思うが
自分にはそのへんの地理歴史がわからないので特定できず。
現行では上町という地名も小学校もなく、日新小学校は昭和50年代に新規に作られているので
そこに記された旧小学校が東京府中市にあったのかが不明。
もしかしたら東京ではない府中ということもあるしね。

もしスレタイどおりにばーさんがまだ存命で話を聞けるなら、
簡単に特定に至れると思うから聞いてみて欲しい。
549名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 13:26:19.39 ID:udaLWVFo0
言っておいてなんだが、写真の年代を考えるとばーさんが生きてても
そのばーさんにとっても昔の写真なんだね。世代こえすぎw

ただ、「わからないどこか」の小学校の歴史なんかは
親族が継続して地元で暮らしているなら、親御さんや親戚の人でもわかるかもね。
550名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 14:12:06.70 ID:5nfFRf310
>>547
子孫がまた戸惑うといけない。
判明した分には、メモ添付しくべし。

それはそうと、絵はがきも何枚かまざってそう。
風景とか戦勝記念の絵はがきって、かなり出てて、
神田にいくと、段ボールに突っ込まれて一枚50〜200円だったりするよ。
551名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 15:13:37.18 ID:udaLWVFo0
画像を見る限りだと、ペラい写真を別の台紙に貼り付けてあるから
絵葉書とはまた違うようには見える。
絵葉書は結構厚いのと、写真のふちに段差とかないはずだからね。
他からの切り抜きの判別まではわからなないけども。
552名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/05(火) 03:55:03.74 ID:Hz132p0m0
>>548
>>550
ばあ様どころか両親も既に他界

とうじ一族は上野動物園の裏あたりの台東区池ノ端三丁目に住んでました
その頃は清水町と言ってたそうです

クシかんざしなどを扱った上州屋という小間物屋をやっていたそうです

なので小学校から撮った写真はそのあたりかも

ほとんどの写真は引き延ばしてなくてベタ焼きのような小さいのばかりで、携帯で撮ったときにピンボケになってしまいます

じい様(ニート。人生で、ただの一円すら稼いだことがないという伝説をもつ)
http://myup.jp/DKticaOO

ばあ様(ニートと結婚してしまうほど世間知らず、自分の貧乏も理解してなかったもよう)
http://myup.jp/X3oXZjPL

じい様の妹(生涯独身、人形作家となる)
http://myup.jp/TugCJqkJ

じい様の妹(惚れた!!残念ながら二十歳で死亡らしい(;つД`))
http://myup.jp/cy2rFkAu

553名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/05(火) 22:53:38.52 ID:LpGe3K0z0
>>552
人形作家、流行ってたんだよな。
谷崎の細雪にもあったし、中原淳一もイラスト以前はたしか人形作家だったような気が。

いちばん下のかた、ぴんぼけのせいかもしれんが、ほんと絶世の美女!
554名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/06(水) 03:41:13.90 ID:JhNIMHt30
綺麗な花ほどはかないのか、はかないからこそ美しく見えるのか。

にしても、じーさまもそうだけど今でも十分通る顔立ち。
80年代の太眉女性とか、化粧や描き眉が必須な最近の女性とは素が違いそう。
555名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/06(水) 09:37:02.68 ID:5Jw2PJs90
555
556名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/07(木) 23:03:24.01 ID:rsspHJak0
人形作るのはやってたんだ…知らなかった

ばあ様
http://myup.jp/gszlBeav

妹は水棹さんといいました
http://myup.jp/WEWF0tAJ

母似で物静かだけど独自な姉、父親似でいつも明るいミサちゃん
http://myup.jp/pXNdO52X

ミサちゃんの結婚相手…許さん!!
http://myup.jp/nBTrKYlz

多分結婚ごまもなく病気になったと思われる、そして実家にかえされて療養ののち…(;つД`)くそ旦那許さん!

そして今も家の墓に眠ってます
557名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/08(金) 01:50:07.11 ID:+RD5tLEO0
水の棹でみさおかな?
漢字も読み(音)も日本的で綺麗だね。

時期的には大正〜戦前くらいなのかな?
そのころにそんなに日常的な写真を残したんだから
けっこうな家なんだなと思いながらもじーさまの事考えると
どうなってんだと思うw
558名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/27(水) 02:09:27.83 ID:YpjU5k0rO
何かうちの爺さんが恥ずかしくなってくるようなレスだなwww
559名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/30(土) 18:03:25.21 ID:LoChjuQq0
>>544
上から2つ目の「兵庫製薬工場」は、アース製薬の赤穂工場だな。
560名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/05(木) 00:08:08.09 ID:Y02beHrp0
「分列行進曲」(抜刀隊の歌)の替え歌を婆さん(明治前半生まれ)に
教わった事がある。日英同盟を皮肉ったもの。

西にイギリス 北ロシア
<2行目を忘れてしまった>
うわべに結んだ 条約の
心の底は 解らねど…

で、元歌の作曲者がお雇いフランス人(ルルー)というのも面白い。
561名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/07(土) 01:31:05.30 ID:Br9kiy0EO
昔(戦前)は精神的におかしい人がいたら、平気でのけ者にして近寄ってきたら棒きれでぶん殴ってたってうちの爺さんが言ってた。
そしたら婆さんがいきなり棒きれで爺さん殴りだしてビビった。
爺さんは暴力反対!!と叫んでいた。
562名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/16(月) 20:06:52.34 ID:QYU1MxXl0
母方の祖父
遊び人で釣りばかりして婆ちゃんが働いて家計支えていた。
爺さんが誰かから「これからは洗濯屋が儲かる」って聞いて爺ちゃんが洗濯屋開業したけど、本人は釣りばかりしてたんで
結局婆ちゃんが職人の手配だとか全部やったらしい。昭和15年くらい。それまで婆ちゃん看護婦だったのに。
戦争行きたくねえからってんで、友達の八百屋かなんかのセガレと刑務所の看守になるために試験を受けたらしい。
試験の時に隣り合わせになった二人はそれぞれ問題見せ合っていわゆるカンニングしてたらしい。
答案全く同じだったけど、人手不足だったのか二人とも受かった。
看守になって夜の見回りに行って、囚人の格子の前でタバコ吸ってすぐに落としてタバコ吸わせてやったりしてたんだって。
囚人が出所した後に慕って家に訪ねてきたら、泊まっていけって言ったはいいけど、爺さんは夜釣りに出かけて、婆ちゃんと元囚人で二人で寝たんだって。
空襲の時は婆ちゃんが自転車乗って赤ん坊の俺の母をカゴに入れて、次女を後ろに乗せて、長女を走らせて逃げたんだって。爺さんは釣り行ってた。
酒飲みすぎて脳溢血で昭和26年に爺さんは死んだ。友人と称する人が沢山来て、釣竿を全部持っていかれたって言ってた。なかなかいい人生だったと思う。
563名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/17(火) 04:57:50.64 ID:DLoribXV0
>>562
爺さん徹底しすぎだろw
564名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/21(土) 00:37:25.52 ID:KFHyYm94O
今80〜90歳くらいの人の祖父母って言うと江戸時代の生まれで、俺らが戦争体験を聞くような感じで幕末の話を聞いてるのかと期待したが、親戚の年寄り誰に聞いても聞いたこと無いと言う。
本家の年寄りでも自分の祖父母の名前すら聞いたこと無いとか。
昔の方が今よりも先祖供養やら親族間の結び付きが強いイメージだったので拍子抜けした。
どこもこんなもんなのかなぁ…
565名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/21(土) 01:51:42.46 ID:arseAdOw0
>>564
そのくらいだと江戸じゃなくて明治中〜初頭くらいだぞ。
566名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/21(土) 13:43:09.11 ID:KFHyYm94O
俺の爺さん91歳だがその祖父母はどちらも安政生まれだよ。
戸籍によると高祖父は明治に亡くなってるが高祖母は昭和初期までは本家で生きていたみたい。
でも爺さんに聞いてみたら「そんな人名前も初耳や」との事。
昔は孫なんて他人みたいなもんだったのかな
567名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 09:45:19.15 ID:UoM8cDTi0
>>564
つか、そもそも戦前までの時代は平均寿命が現在より極端に短い。
現在の80歳〜90歳の年寄り達が物心ついた時には爺さんも婆さんも居ないのが普通だよ。
568名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 11:33:51.35 ID:GKGIa+AY0
>>567
幼児死亡率と、結核による若年死亡率が異常に高かったから
統計的に平均寿命が50才とか短かかっただけ。

昭和22年の0才の男子平均余命は50才、平成21年の0才の男子平均余命は79才
昭和22年の60才の男子平均余命は12年、平成21年の60才の男子平均余命は22年
平均寿命は29才も伸びているのに、60才の平均余命は10年しか延びていない。

危険な幼児期・青年期をクリアしたら、平均で70才ぐらいまでは
生きられたという事。
569名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 13:28:53.74 ID:UoM8cDTi0
>>568
昔も確かに一定数の老人は居たが、戦前と現在の高齢者人口割合を比べても差が歴然と有るのは事実。
絶対数が少ない以上、今の老人達が祖父母から昔話しを聞けた例も限られてくるのは容易に想像できるがね。
570名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 13:38:58.26 ID:+WHdV6DG0
出生率の問題もあるから、現代だとどうしても老人過多っていうのもあるしね。
昔は年齢によるピラミッドの構造が正位置だった。
姥捨てや間引き、座敷牢などあるから、多少ズレが生じてくると修正されたしね。
人道的にはともかく、システムとしては今より自然でスムーズではあった。
571名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 15:16:01.21 ID:fU/KyqvO0
子供の頃に明治生まれの父方の祖母が
天保生まれの高祖父の話をした事があったな
名前も知ってたよ
父方の祖父の親は江戸時代の記憶は無かったかもしれないが
幕末生まれだったらしく
77歳になった俺の父が子供の頃はまだ生きていて話をした事もあったそうだ
572名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 16:36:30.14 ID:GKGIa+AY0
>>569
>戦前と現在の高齢者人口割合

幼児死亡率が高いから平均寿命を押し下げているだけなのに、
「戦前は老人が少ない」というのは、統計学が全く判っていない
無茶苦茶な意見だな。ちゃんと各年代の平均余命で見ないとダメだよ。

平均余命が70才から80才に10年伸びると言う事は、単純計算して
65才以上の人口が3倍になるという事だからそりゃ老齢人口は増えるさ。
でも、それは昔の老人が長生きしなかったと言う事ではない。
60才の平均余命が12年なら、当時から日本は長寿国だな。
573名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 18:18:54.60 ID:UoM8cDTi0
>>572
戦前は全人口に占める老人の割合が少ないのは事実なのに、何を突っかかってくるんだ、この人は?
現在の逆三角形人口構成をどう説明するの?
574名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 19:04:12.71 ID:M3YjJ0AvP
>>572
> 「戦前は老人が少ない」というのは、統計学が全く判っていない
> 無茶苦茶な意見だな。ちゃんと各年代の平均余命で見ないとダメだよ。


つか、あんたのほうが無茶苦茶(笑)
575名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 23:52:14.83 ID:nZraLX5/0
>>572>>573の議論が噛み合ってないだけでしょ。

前者は平均余命の点から、長生きしてる老人は昔もある程度いた事を論点とし、
後者は、老人の絶対数自体について、戦前は昔話を聞ける機会が
今と比べて相対的に少ない事を論点としてる。


確かに、>>567での

>つか、そもそも戦前までの時代は平均寿命が現在より極端に短い。

に対する、>>568のレスは全く以て正しいけど、そこは論点ではなく
趣旨に沿ってなかったのかと。
576名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/22(日) 23:59:22.62 ID:nZraLX5/0
連投失礼

つまり、一連のスレの流れ的に
後者の言ってる事が、少なくとも趣旨には沿ってるんじゃないか
と言いたかった。
577名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/23(月) 22:11:32.56 ID:tsNUPXPoO
議論なら他でやれよ。そんなスレじゃないんだよ
578名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/24(火) 01:34:35.71 ID:Xt4nNdNl0
俺の親父は日中戦争の始まった年に九州で生まれたが、嘉永三年に一家が興ったと言っていたな。
幕末の頃の貧しい家計や、侍が威張っていたことなんかも聞かされたらしい。
明治になって時計など輸入小物の商売を始めて比較的裕福になったそうだが、昭和に入り不況と戦争で再び没落。
太平洋戦争では父親(祖父)と兄一人を亡くした。

戦後親父は農業で生計を立てる母(祖母)や兄弟を手伝いながら苦学して大学まで通い、三男だったこともあってか、
卒業すると田舎を捨てて東京に出てきてしまったw
こうしてみると、我が父の事ながら波乱に富んだ人生を歩んできたのだなと、密かに尊敬してしまう。
579578:2012/07/24(火) 23:06:53.82 ID:Xt4nNdNl0
またまた親父の話で申し訳ない。
肉親の話だけにリアルなので、親父が死ぬ前に記録として載せておく。

終戦後の数年間、一家は貧困を窮めており、
親父は靴さえなく裸足で小学校に通っていたそうだ。
食える物は何でも食った、というのは少々大げさだが、
細々と畑をやるのが精一杯なので食料事情も悪い。
野の花などを摘んできて天ぷらで揚げたおやつなど、
大好きな御馳走だったらしい。

またある日の事、兄弟と近くの浜辺でチャンバラをして遊んでいた所、
砂浜の中から陽光に反射して光る物体が目に入った。
ガキの親父は、持っていた棒キレでその光る物体めがけて打ち込もうとしたが、
その瞬間、後ろの姉に大声で止められた。
注意して見てみると、それは地雷の一部が砂浜から顔を出したものだったのだ。
580578:2012/07/24(火) 23:11:16.56 ID:Xt4nNdNl0
もちろん旧日本軍が米軍上陸戦に備えて海岸線に埋めた地雷なのだが、
終戦後の撤去作業は行われている。
当然ながら撤去漏れ地雷が発見されたことで住民は騒然となったそうだ。

推測するに波の力で移動したために発見できなかった物かと思われるが、
それ以上の事は聞いても知らなかった。
何より、この時親父が地雷を叩き割っていたら、この書き込みも存在しないだろうし、
とっさの判断で親父を呼び止めた姉に対して、畏敬と感謝の念に堪えない。
砂浜に埋まるガラス瓶と地雷を判別できる少女は、そんじょそこらにはいないからだ。

こうして貧しく危険な環境で育ってきた親父だが、それは親父の精神を鍛えたと思う。
高等経済成長期が始まった頃、青年となった親父は上京してきた。
それから足かけ50年、慎ましいながらも東京に根を下ろして生きている。
581名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/26(木) 07:19:37.59 ID:VG7MMzcwO
このスレ見てると大正〜昭和初期では東京人と田舎の人間とでは、かなりのギャップを感じるね

東京がいかに華やかな所だったのかが分かる

俺は群馬の人間だけど、大正生まれの祖母からは
とにかく昔は食糧難で貧乏人で肉と言えば、いつもモツ煮だったそうな

良い肉の部分は東京へ流れてしまって田舎者はホルモン

だからウチの祖母は食糧が豊富になった今では
生協で頼んだ食糧を大量に買い込んでは冷蔵庫ギチギチにして
結局食べきれずに賞味期限を切らせては捨てて・・・・
と言うのを繰返してしまってる

と言うよりも、その時代の人からしてみたら食糧自体が有難いわけで
賞味期限など無いに等しいから
さすがに賞味期限から1年も過ぎた食材を俺が強制的に捨ててるだけなんだけどね
582名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/26(木) 07:23:19.40 ID:VG7MMzcwO
あとウチは農家の小作人だったわけだが
マッカーサーのおかげで小作人にも農地が手に入ったのだけど
祖母は本当に戦争が終わって良かったと言ってて
本当にマッカーサーにも感謝してると未だに言ってる
583名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/26(木) 23:19:56.98 ID:FviwdCxO0
>>582
何かで読んだけど、燈火管制が終わって夜のまちの灯がともったときは感動的だったらしいね
戦争が終わったことをはじめて実感出来たとか書いてあった
584名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/27(金) 20:19:52.04 ID:tngbbYme0
俺の祖父(昭和5年生まれ・故人)は熊本県阿蘇郡高森町出身で
1945年5月5日、阿蘇にB−29が墜落したそうで
その様子を見たそうだ。
585名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/28(土) 14:42:16.01 ID:Y3VItSRI0
>>582
婆ちゃんの家は農地を取り上げられた方。自作すれば1haは残ると聞いて、
農業やったことのないひい爺さんが「うちも農業やる!」と宣言したんだけど、
家業は問屋で家族で誰も農業やった事がなく、農具さえロクになかったから
最初の頃は大変だったと言っていた。農家出身の従業員に作男をやらせると
周囲の元小作人が農地委員会に「小作やらしてる、自作じゃない」と
直ぐに通報されて、1haの農地も取り上げられそうになった事が
何度もあったってさ。ひい爺さんは本業に忙しいから、農業はひい婆さんと
子供たちの肩にのし掛かって、毎日遅くまで農作業で辛かったと言っていた。
当時は元小作人は全部アカに汚染されており、元地主一家を敵視していて
農業を教えてくれるどころか監視していて、まるで村八分みたいだったとのこと。
ちなみに農地は家から1.5kmぐらい離れた入間川沿いにあります。
数年に一回川が氾濫したので、家は離れた高台にあります。
婆ちゃんが泣きながら米を作った田んぼも、90年代に住宅地になってしまいました。
元小作人達とはその後も関係修復できなかったそうなので
住宅地になってよかった、と婆ちゃんは言ってます。
586名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/28(土) 19:22:13.67 ID:ZKwTlfh+O
今の日本があるのもマッカーサーの尽力のおかげと言っても過言ではないね

当時のGHQは日本を農業と軽工業を中心とした今のブラジルみたいな国にするつもりだったらしいけど

1950年に起きた朝鮮戦争でアメリカ軍が苦戦して多数の死者をだしたわけだけど
マッカーサーは、そこで初めて日本がなぜ戦時中に満州や朝鮮の領土にこだわったのかを理解したらしい
満州や朝鮮はソ連共産軍から日本を守る最後の防波堤だと

マッカーサーは日本の立場から物を考え、日本に自衛権を与えて再武装するべきなど大統領に色々進言した結果

日本にも重工業が許されて先進国になれ、今日まで至るわけだけど

あのまま日本が農業国になってたら日本人が中国に出稼ぎに行くとか貧困の国になってたのは間違いない
587名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/28(土) 21:06:04.92 ID:tuxU4S8l0
>>586
釣りか?

>満州や朝鮮はソ連共産軍から

朝鮮戦争にソ連共産軍は参加していない。

>マッカーサーは日本の立場から物を考え

日本駐在米軍が大挙して朝鮮に行き、日本がガラ空きになるから、
日本ぐらいは日本人に防衛させようとした

>日本にも重工業が許されて

軍需産業と間違えてないか? 
鉄や造船など重工業は禁止されていない。
588名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/01(水) 08:30:37.60 ID:MuEqxnzx0
俺の母方のじいちゃんもう10年前に死んじゃったけど
空襲から逃げる途中に目の前で機関銃で撃ち殺された人見たらしい。
http://youtu.be/yltpj4kfn_8
589名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/03(金) 02:53:15.38 ID:OSSeE5ci0
586(正)587(誤)
当時ソビエトは参戦そのものを秘匿していた。が現在ではもう解明され常識。
朝鮮戦争のソ連ミグ・パイロットエース:ニコライ・シュチャーギン(21機)、
イェフゲニー・ペペリャエフ(19機)、レブ・シュチューキン(17機)、
セルゲイ・カラマレンコ(13機)、ミハイル・パノマリェフ(11機)、
ディミトリー・サモーリョフ(10機)これマメな。

GHQ占領政策の重点的施策の一つは工業生産力の破壊(Deindustrialization)。
武装解除(Disarmament)軍国主義の排除(Demilitarization)だけでない。
教えられた歴史が全部正しいわけでない。英語で自分で嫁。
590名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/03(金) 10:56:18.00 ID:WX1vpBYc0
>>586
>マッカーサーは、そこで初めて日本がなぜ戦時中に満州や朝鮮の領土にこだわったのかを理解したらしい
マッカーサーはそんな事一言も言ってないけどね。
それ以前に、地続きの半島南部を守ることと、海を隔てた日本本土を守ることは全然条件が違うんだが。
それを混同してしまったとしたら、マッカーサーは純軍事的には無能だったと言うことになる。
トルーマンの解任の判断は正しかったのだろう。
この人の業績って大半が政治的パフォーマンスの部類だしなあ。
一次大戦のレインボー師団なんかもろにそうだし。
フィリピンで日本に負けた時は、日本人にまともに飛行機を操縦できるはずがない、あれはドイツ人パイロットが操縦してるんだと思ったそうだし。
朝鮮戦争では仁川上陸は成功したが、自分で1/5000ギャンブルだと言ってるし。
38度線を越えて進撃しても中共が参戦してくることは無いと思ってたし。
591名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/04(土) 19:15:06.08 ID:XJeBNTCRO
>>581
端から見れば破れかぶれで破滅に突き進んだようにしか見えない太平洋戦争だが、
抑圧・迫害された地方民(特に東北の百姓)による
東京人に対する計画的な自爆テロだったと考えれば合点がいくね。
592名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/08(水) 19:38:29.17 ID:jFyUbuNV0
日本の国土で自給可能な人口は5000万人程度だと云う。
明治維新以前の人口は4000万人だった。

富国強兵による歪(いびつ)な人口増は、
現代で適正な水準に戻すのが国益に適うと思われる。
593名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/08(水) 20:12:46.27 ID:qNle7Rk40
人口増加は富国強兵よりも
明治以降の医療水準の向上による乳幼児死亡率の低下が大きい。
幕末で3000〜3200万人(推定)、明治末期で4300万人。
1870年代後半には朝鮮から米穀を輸入し、貿易紛争にもなった。
当時より生産性は上がってるから自給率100%で養えるのは大体5000万人だろう。

現在、東京都民の1%が中国人。これから比率が高まっていくのは間違いない。
東南アジアみたいに人口の5〜20%が華僑というのは避けたいので
8000万ぐらい(2050年はそうなるとされている)は維持しておきたい。
594名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/08(水) 21:09:13.47 ID:LK1/Olvf0
>日本の国土で自給可能な人口は5000万人程度

この手の今の日本の人口は多すぎる話ってよく聞くけど、何から算出してんだろうね
595名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/08(水) 22:08:27.78 ID:Y5ncTJqz0
単に狭かったりするからじゃね?
ただ、狭くなくても時間に追われる生活になるのはかわらなそう。
596名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/10(金) 19:11:36.92 ID:Uu0bV2Fu0
スレ違いが多いな。ジジババになんか聞けよ。お盆なんだから
597名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/12(日) 12:28:44.24 ID:rc5Iw7z00
幕末・明治・大正・昭和初期に興味あるから
正直、戦時中あたりの話はそこまで大昔でもないし興味ないって思ってたけど
終戦から67年だと当時の記憶がしっかりある人は80歳以上となると
その時代の話ですらもう直接知ってる人が貴重で少なくなってるんだな
598名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/12(日) 14:53:03.63 ID:6hzqmdXg0
>>597 >>終戦から67年だと当時の記憶がしっかりある人は80歳以上

・・・80歳以上ならかなりの人数が痴呆症になっているから記憶がしっかりしている人数はますます少ないだろう。
599名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/12(日) 21:48:27.08 ID:vfPkJGXM0
すくないから貴重な訳、それが良スレのゆえん。。。
爺さん婆さんから聞いてない書き込みはツマラン。

 
600名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/12(日) 23:03:58.61 ID:pgigz2DI0
 うちの爺さんはその数少ない一人、終戦の時に中学4年生

・昭和20年になると勤労動員ばかり。同級生に少年飛行兵で戦死した奴もいたから
文句は言えない。満蒙開拓団に行って帰ってこれなかった奴もいた。
・ただ、中学生はまだ「日本の将来を担う人材」みたいな感覚があって、
近場での土木作業や農作業や運送作業が中心だったが、女学生になると
学校ぐるみで遠い名古屋の飛行機工場に行ったり、本格的な動員だった。
飛行機工場は米軍空襲のターゲットになり、亡くなった女学生も多かった。
・3人いた兄が次々と戦地に行くので、家の田畑は俺一人の肩に負わされて
本当に辛かった。勤労動員で疲れて帰ってきても、引き続き家の百姓仕事が
待っている。田んぼにカンテラを吊るして夜やるしかなかった。
でもあれで鍛えられたのか、子供の頃はひ弱だったのに、今でも健康だ。
・田舎なので本格的な空襲はなかったが、田んぼの中に急造された飛行場に置かれた
3機の練習機は、ヒラリと飛んできたグラマンの編隊に格納庫ごと破壊された。
・終戦後、小作や労働者はみんなアカになった。なにしろ人数が圧倒的なので
村長も村議もみんなアカになり、日本は共産国になると思った。
・進駐軍がやって来て県庁横の建物がどんどん接収され米軍施設になっていったが
その中に米軍の図書館があり学生は入館可能で、膨大な原書を自由に読む事が出来て
新しい時代が来たと思った。
・じつは父親(俺にとってはひい爺さん)は英語学校卒業していて、田舎では珍しく
英語が出来た。進駐軍の通訳させられたが「通訳は嫌だ、板挟みになる」と嫌がって
呼ばれても行かなかった。すると県の役人が車で来て「頼むから通訳してくれ」と
土下座して頼むから、それから通訳の時は自動車のお迎えが来るようになった上に
日本側からも手当がついた。それでも父親は最後まで通訳を嫌がっていた。
進駐軍にも日系二世の通訳がいたらしいが、彼の日本語が酷くて、
日本側にすれば何を言ってるのかわからなかくて困ったらしい。
・その父親から聞いた話だが、米軍は兵と下士官はみんな帰国してしまって
将校と憲兵ばかりで戦力的にはゼロに近いので、日本人が蜂起したら簡単に
進駐軍など追い出せたとのこと。もちろん進駐軍はそれをよく知っていて、
かなりビビっていたが、ビビっているのを悟られないように虚勢を張る連中も
多くて嫌だったとのこと。
601名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/13(月) 00:48:47.54 ID:hAmE5B6a0
亡父の飲み友達が聾唖のかたでしたが、そのかたは徴兵検査で落とされて、手先が器用ということで軍需工場で働かされたそうです。
工場には、同じ障害を持った仲間がいたそうです。
上官のいじめは半端なかったそうです。
敗戦を知った日、仲間数人で上官をフルボッコにしたそうです。
その上官は失禁し、泣きながらボコられてたそうだww
602名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/13(月) 09:56:32.42 ID:/Ldyvn/KO
戦前までは旧民法が施行されてた訳で、族称なんかもあった訳だけど、親戚の大正生まれに聞いてみてもそんなもん知らんと言う。
昔でも「ワシは士族だ」とか「ワシは平民だ」みたいなのは皆あまり気にせず過ごしていたもんなの?
603名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/14(火) 07:37:50.62 ID:jJUhsW000
>>602
>親戚の大正生まれに聞いてみてもそんなもん知らんと言う。

人口の95%以上が平民だからな。平民にとってはどーでもいい話。
でも士族にとっては、やはり色々と関係してくる話。明治どころか
80年代ぐらいまで、旧士族の家では「それでも士族の子か!」と
厳しく躾ける家はいくらでもあった。松田聖子や石川梨華がそう。
ただ厳しくしすぎて、グレる子供も多かった。
うちの親戚にもあるんだよ。伯母が嫁いだ家が旧士族で
子供(俺の従兄弟)が家出しちまった。震災で10数年ぶりに
電話があったと言ってた。ちなみにうちは百姓だけど。
通婚は明治早々から庶民レベルではうるさく言わなかったみたい。
明治になって士族の大半は没落したからね。
604名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/14(火) 20:21:35.30 ID:fpBIQwfl0
婆さんは西日本で大きい飛行場で働いていた。
無線などで、飛行機が海に落ちて機体の残骸やパイロットが浮いてると
無線で聞いた事を以前泣きながら話していた。
どうでも良い事で部下はいつも殴られていたとも言っていた。
あとそこで働いていた事はあまり言いたくないらしい。
605名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/15(水) 00:02:01.66 ID:ZhcV0fjuO
大正13年生まれの父の話。戦車で操縦士の肩に乗って脚で右左を指示してたそうです。飛行機には遊ばれていた感じで遅い戦車で回り込もうとしても向こうは少しずらして戻ってきたりして撃ち落とせたことはなかったみたい。
606名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/15(水) 00:10:27.90 ID:ZhcV0fjuO
終戦近くは千葉の九十九里浜で大砲に見えるはりぼてを作ってアメリカ軍を待ってたらしい。終戦になって上の人は自害するから自分も死のうと思ったけどお前達は残れと言われたと。その後数年自暴自棄になり?家に帰らず東京で悪さをしていたらしい…
607名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/15(水) 00:17:48.77 ID:ZhcV0fjuO
「戦争に負けて全部ひっくり返った。何もかもめちゃくちゃ。何も信じられなくなった」とよく言ってました。テレビで皇室ご一家の番組などを見ていると何かいいたげに苦笑いしていたのを今更思い出します。
608名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/15(水) 18:01:16.06 ID:VpnpNUEv0
私の母も、戦争中に女学校時代を過ごして、青春をフイにした一人です。
学科でほとんど授業はなく(英語などもってのほか)、毎日、勤労動員の日々だったそうです。
学校(工場w)に通うための駅前では、グラマンに機銃掃射を食らってました。
天皇に対しても、複雑な気持ちを持っていますね。
609名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/21(火) 10:03:52.18 ID:/5cGobF40
母親、昭和3年生まれ。なんとミッション女学校1年のときまだアメリカ人教師が
いて、ネイティブに英語を習っている。16年12月に交換船で帰国したそうだ。
610名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/05(水) 18:43:58.50 ID:BygnJa/q0
戦争中の爆撃の資料映像が、B29から爆弾落とすシーンに集中しているから
空襲=B29の絨毯爆撃と思っている人が多いけど、経験者に聞くと
海軍機による機銃掃射や急降下爆撃が怖かった、という人が多いですね。

陸軍機なら空襲警報があってしばらくしてから爆撃が始まるけど
海軍機は空襲警報なしで機銃掃射が始まったり、空襲警報が鳴ってすぐに
攻撃されたり、隠れている所を何度も攻撃されたり、恐怖体験が多い。

ベトナム戦争時のベトコンが「F4戦闘機やB52D爆撃機は怖くないけど
米軍ヘリが怖い」と言ってたのと同じかな。
611名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/05(水) 20:55:43.39 ID:wjur1x8h0
スレ内に狐火について書かれてる人がいたので俺もひとつ。
少々オカルトチックな話になるが、戦後の貧困から逃れるために俺の婆さんは北海道に新天地を求め移住をしたんだ。
んである時銭湯から帰るために友人と農道を5キロくらい歩いていたそうなんだが、友人が突然あーーー!と奇声を上げて空を指さしたらしい。
なんだなんだと婆さんがそこを見ると、防風林の上の方にゆらゆらと揺れるオレンジ色の発光体があったそうな。
なんでも尾を引く光り方をしてたとかで、しばらくすると森の奥に消えて言ったそうだ。

北海道の防風林て相当高さあると思うんだけど、狐火ってそんな高いとこにも出んのかな…?

それを見たのはその一度きりだとさ。
612名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/06(木) 04:19:08.17 ID:Szst1RapO
大正時代の話。
当時ひい祖父さんのいた村では、年に一回、大規模な飲み会があったそうな。
その飲み会は男女で完全に別れてやるそうで、男子は村の寄り合い所で。
女子は近くの名主?の家でやってたそうな。
んで、男子は寄り合い所の付近で用をたすのだが、女子もそこを利用していたそうで、
それを口実に野原でセックスしてたんだってwww
そんで生まれたのが俺だって言ってたwww
孫なのにwwww
何かいけない秘密でもあるのかよwwwww
今から考えるととんでもねえ時代だな…。
バコバコやりてえwwwwwwwwwwwwwww
613名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/12(水) 04:48:04.59 ID:svhpurcnO
田舎の方では戦時中も実感なくテレンパレンしてたんだってwww
そしたら終戦でアメリカ来て食い物増えて大喜びで仕事も増えて、いいことづくめで負けてよかったってさwww
非国民な爺さんだなwwwwwwwwwwwwwww
614名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/13(木) 08:58:32.83 ID:bq5DMdcJ0
自慰ちゃん罵阿ちゃん達の話しは気をつけろよ。
ぼけてて、戦後に見た映画やテレビの影響があるんだよ。
夜中に見た夢をいつの間にか事実だったと思い込んだりしてるんだよ。
何十年も前のことなど正確に覚えてる部分もあるが、そうでない部分も
相等にあるということを認識しておいてね。
615名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/18(火) 02:58:02.21 ID:ShMILRP5I
つい先月亡くなった俺のジイさんは大正末期生まれだったな
その上の兄弟達は関東大震災にあってたらしい。
戦争の話とか貴重な体験談を色々聞かせてもらったなぁ
もっと一緒に居たかったけど、天国でばあさんと仲良くやってね?
ジイさん。
616名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/18(火) 04:05:43.92 ID:GaOFXcvhO
セックスはもういいだろうwwwwwwwwww
617名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/18(火) 23:05:51.34 ID:QmCI4/SJ0
愛した事も愛された事もないだね可哀相に
618名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/30(日) 17:33:31.78 ID:1oYp0+6h0
中学の先生から聞いた話
戦闘機の機銃掃射で狙われたと言っていた
周りにいた人たちと走って逃げたけど逃げ切れずに皆、その場に伏せたらしい
戦闘機が去って、皆起き上がったところ
一人だけ起上がらない、肩を叩いて起こしてみると死んでいたそうだ。
背中はほんの少し血が滲んでいるくらいだったけど、腹は大きな穴があいて
内臓が無くなっていたと。

伏せる時は口開けて耳を両手でおさえるんだ、
そうしないと爆風の圧力でやられるって言ってた。
619名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/09(火) 19:11:20.35 ID:Q6BIMBy+0
>>560 何歳?明治前半生まれの祖母ってすごいな
620名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/09(火) 19:53:57.16 ID:loK/zc300
>>619
俺の祖父は明治23年生まれだが、その上が居たのか。
621名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/09(火) 20:37:56.69 ID:Q6BIMBy+0
祖父母が大正生まれの26歳
ここは書いている人の年代が幅広そう

70代ぐらいの人なら明治前半生まれの祖父母も
あり得るかな
622名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/09(火) 21:10:45.68 ID:bSMegvT40
>>621
親父が60代で、祖父は明治40年前後の生まれだな。
昔は結婚とか早かったから世代間が狭いと思われるが
地域によっては案外と遅いところもあったりする。
623名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/10(水) 16:43:43.99 ID:eK+pPLng0
>>621
うちの親父は70代で
祖父母(俺にとっては曾祖父母)は幕末生まれ
624名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/12(金) 12:23:55.99 ID:PmSWtA3CO
宮崎
婆ちゃんから聞いた婆ちゃんの婆ちゃんの話
西南戦争を目撃、兵隊が振りかざす刀が太陽の光でキラキラ光って綺麗だったそうだ
薩摩の落人の若者が食べ物を分けて欲しいと家に訪ねて来て可哀想でならなかったが、お上から一切構うなの
おふれがあったので何もあげられなかったらしい
西南戦争では日向諸藩は薩摩についたが民間も薩摩びいきだったのかな?
625名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/12(金) 12:29:41.90 ID:PmSWtA3CO
その後、一家は延岡に移り住み、婆ちゃんが若いときに延岡大空襲があった
婆ちゃんは婆ちゃんの婆ちゃんを背負って逃げ山の麓の防空壕の入り口近くに滑りこんだらしい
奥のほうでは子供が酸欠を起こして、親が出口近くまで連れて来て処置したりさたらしい
その夜、山の上で白い旗を振っている者があったと後日噂が流れてそれは○○○であろうとされたらしい
626名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/12(金) 12:34:14.61 ID:PmSWtA3CO
後、B29が山奥に落ちたときに山狩りで捕らえられたパイロットが旧国道10号線の脇で正座さそられ憲兵にボコボコにされてたらしい
その近所の辻では小学生がグラマンに撃たれて死んだりしてたから皆凄く怒ってたらしい
空襲の後か先かは聞いたかも知れないが覚えてない
627名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/12(金) 20:19:09.77 ID:avonRzb20
行きつけのカフェで知り合ったハイカラな婆さんから聞いた戦後の話。

疎開中に終戦を迎えたが、人の移動が制限され、東京に帰ったのは終戦後1年たった頃だった。
配給制だったので、商売をする人はみな朝鮮人。高くてとても買えなかった。
昭和25年頃に就職したが、まだ配給制で着る物もなく、お兄さんのズボンをはいて出勤した。
昭和28年頃にやっと配給制が終わったが、それ以降もしばらく物はなかった。特に米。
新婚旅行では自分で米を持って行かないと駄目。旅館はおかずしか出せなかった。
628名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/12(金) 20:31:52.40 ID:avonRzb20
つづき

戦後の闇市で話が咲いて、駅前に現在も残る某横町は朝鮮人が不法占拠するなどで地権者がごちゃごちゃになっているから
今も再開発できないとか、朝鮮人は威張っていて怖かったとか。
でも、朝鮮人が悪いことをしたのは日本人がいじめたからと言い始めたので、
いじめたって、何があったの?って聞いたら、
関東大震災で日本人が朝鮮人をいじめて可哀想だったって言い始めた。
まるで見たように話していたが、婆さん、生まれてないだろ!って思っていっきに醒めた。
629名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/14(日) 04:03:53.05 ID:laYIvOYW0
おもしれえなこのスレ 俺も投下
ばあさんから聞いた話
 祖先は、加賀藩で下級武士であったが明治維新で俸禄がなくなり、
盛岡まで一族でやってきてそこで別れた。なので親戚は岩手県南に多い。
(ただし大叔父が地方公務員だったのでたぶんそれと似たレベルだったのだろう。)
 岩手の内陸。祖母が幼少のころは豚肉、牛肉は食べる人が居なかった。
猟師が猪狩りはしたが例外。食べた肉はほぼ鶏肉のみ。(今も牛肉は苦手)
 昭和初期、満州国建国後、祖母の叔母が奉天に行こうとしたが朝鮮で
列車を乗り間違えて、北京に到着してしまい、相当あせったらしい。
 田舎のため、戦争被害はなかったが祖母女学校出て読み書きそろばんができたので駅で仕事していた。
戦後祖父と結婚したが、ものがなかったので祖父は軍服を背広に仕立て直してきていた(実物見た。たぶん98式軍衣)
630名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/14(日) 04:38:40.43 ID:laYIvOYW0
つづき
母方の祖父のはなし
兵隊で、満州で終戦。シベリア抑留されたが、(農家のためトラクター動かすためか)
当時1%の人しか持ってなかった特殊技能の「自動車運転免許」を持っていた。
そこでシベリアでもトラクターの運転等の肉体負荷の軽い労働ですんだらしい。
体強くなかったからそうでなければたぶん死んでただろうと本人。
回りもばたばたと死んでいったようでそのことはあまり言わなかった。

父方の祖父の話
大正生まれ。岩手育ち。肉体は頑健。旧制中学卒業のため
 太平洋戦争では士官候補生になって少尉で北支に出征。ここで少尉のまま終戦迎える。
あと2年早くうまれてたら南方で死んでいただろうと本人。
(実際、第八師団はフィリピンで96%の損害を受けて壊滅。オソロシス)
 軍刀の話はしなかったが、拳銃は正式な軍用拳銃のほかに
万が一の自決用のコルト・ポケットも絶えず持ってたとのこと。
 大きな会戦はなく、部下が手榴弾を大きな池に投げてそれで魚捕って部隊で食ったことがあった。
しかし部下の戦死はあったようで部隊で部下が泣いた事もあったよう。
 終戦時当然武装解除されたが、階級章捕られるのは屈辱だから
わざと右の襟章外して隠してもって帰ってきた。
(右の襟章の実物は実家で見たことある。一部虫食いだが綺麗だった。)

631名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/14(日) 04:56:24.63 ID:laYIvOYW0
つづき
東北の片田舎の集落のためか 朝鮮人が徒党組んで大暴れはなかったよう。
その朝鮮人は堅気の仕事してたので差別まではされなかったらしい。
が、やはり朝鮮人は村民からの「区別」はされていたよう。

 戦後まもなく村に復員したら、なんと村内の2つの派閥が利権をめぐって大喧嘩になっていた。
収拾付かず、なんとじい様が二十代後半なのに村長に担ぎ出された(実話)。
村の衆に仕事を持ってくるのが仕事だったので葉タバコの増産や
今で言う公共事業もいくつかやったが、蓄財どころか選挙目当てのタカリが
多くて只酒、ただ飯くいに来る衆が後をたたなくて苦労したよう。
ばあ様は今でもこれを愚痴る。
(当時のど田舎では選挙違反だの、供応だのうるさい事言う奴は誰も居なかったとのこと。
 対立陣営もまけず盛んだったよう。今ならどっちも真っ黒なのは言うまででもない。)
もっときいとけばよかったなぁ。小学校のころ聞いた話だからこれくらいしか覚えてない。
632名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/14(日) 05:31:30.41 ID:laYIvOYW0
>>602
629の父方の祖母、漏れの叔父の嫁(義理叔母)が元士族だが
東北のど田舎では40年前くらいまでは「士族の家風」とか家内では言ってたよう。
この2人歩いてきた人生はだいぶ違うんだが士族話になると盛り上がるw
「義理叔母もノリノリでそういうのありましたねぇと盛り上がる」
士族は名士的な要素が強く、税金が平民より高かったらしく(これ真偽不詳)
さっさと平民にかえた人も多かったといってた。
(それだけに敗戦まで士族で通した人は一目置かれたよう。)

でお家自慢に父方のじい様(中級農家)と漏れの親父は無論カチンと来る。
面白みがなく、小市民的な公務員だった大叔父をさして
アレが士族の末裔だ。融通きかん木っ端役人と変わらんのだ武士も。
戦国じゃないんだ。実戦を戦ったこともないだろwと語気を強めて嘲笑した。

昔は刀は箪笥に収まらないくらいあったと言うが、やれ錆びて捨てただの
包丁にした、よく切れただの戦中の金属回収で出しただの言って1本もなかった
たぶん明治以降金がなくて仕方なく売ったのだろう、名刀はまずなかったと推測。
あと、元刀鍛冶が打った包丁は切れが違ったとしきりに言ってた。

職場の元上司は長州の中級武家の子女で良家の60台の人だったが、
婦女子の自決の作法は、きちんと叔母から聞いたとマジで言ってたぞ。
633名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/14(日) 05:45:38.29 ID:laYIvOYW0
と30の俺が今書いてるんだから
20年前までは士族が!百姓がという話題があったわけだ。

60台の元上司も広義の没落士族の類なので、
ふと漏れが歴史話で士族と分かると
士族の話題や家紋、何藩出身か?など話ふられた。
634名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/15(月) 04:47:04.43 ID:2oC5skPvO
昔の人や年配者ってそういうの好きだよね。
うちの祖父さんもよくそんな話してた。
しまいにはその辺歩いてる小学生にまで
「君は何藩かな?」
ってwww
あげく孫の俺に
「ご先祖様はお侍さん?」ってwwwお前の方が詳しいだろwwww
「侍の心は決して忘れてはならん」
って言った三秒後には年金が少ないとかぼやきやがってwwww
635名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/15(月) 19:50:03.43 ID:ihbCX/CL0
昭和20年わての年齢8才。親父は神戸で艀の船頭だった。船尾の居住区
には50×70位の窓があった。積荷があった時、窓を開け、コムギ,砂糖、
とうもろこしの滓(うる覚えだが油を絞った滓で芯を抜いたパイナップルの
輪切り状)、クジラの髭などをちょろまかし疎開先まで持って来てくれた。
コムギは、空荷の時、船底の木の隙間に詰まったのを拾えば相当あった。
コムギを持っていけば、パンにしてくれる所があった。
疎開先を抜け出し、電車を無賃乗車し、船会社に行き、停泊先を聞き、市電を
無賃乗車し、親父に会いに行った事がある。船にはムール貝?が多くあった。
茹でて食っった。
636名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/15(月) 20:06:23.73 ID:xU9hLic80
このスレタイにおける、聞かせる側の人が聞いた話とはこれはびっくり。
ぜひまたなにかあればお話を!
637名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/16(火) 12:57:52.36 ID:s3ZTnP330
いいねえ
638名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/17(水) 01:08:29.50 ID:IOConjbPO
たまたま戸籍見て知ったんだが、俺の高祖母は1854年に生まれて1933年まで生きてる。
爺さんが1921年生まれだから、幕末の話とか聞いたことあるのかと期待して聞いてみたら、「ワシの婆さんこんな名前か。初めて聞いたわ。」だって。
爺さんの兄弟もみんな知らなかった。
里を離れた分家だと孫でもこの程度の繋がりなのが普通…?
それとも何か繋がりを持たない理由があったと考えるべき?
639名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/17(水) 14:25:31.19 ID:4wweqSMw0
>>638
家庭内での呼び名が「じいさん」「ばあさん」「おまえ」だったりすれば
名前で聞くことがないからなあ。
今みたいにお役所からいちいちいろんな葉書がきたり、
病院の待合で呼ばれるとかもないだろうし。
まして分家だとそんなの顕著では?
あと家族も多いから、気にする人しない人が分かれてそう。
640名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/17(水) 15:07:48.60 ID:IOConjbPO
存在する知らなかったそう。本家が四国で爺さんは本州の分家で生まれたから、関わりが薄いのは間違い無さそう。
しかし遠方とは言え、生まれた子どもを母親に一度も会わせないなんてことあり得るだろうか…?
641名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/17(水) 15:46:43.60 ID:4wweqSMw0
幕末は微妙なところだけど、江戸時代なら丁稚とかで
外にでたっきりの人とかもいそうな気はするけどね。
今と違って移動するだけでも大変だし、よけいなコストがかかるし。
まあ、それが一般的とはいえないけど。
642名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/18(木) 07:34:49.94 ID:bGR05or9O
>>40
長い日本の歴史の中でその市町村に残るタブーな話ってのはあちこちにありそうだね。
濡れ衣で処刑されたり、あり得ない殺人や私刑、拷問やらなんやらで…
この世には不憫な死に方をした被害者というのは想像以上に多いものかもしれないよね。
それを隠蔽し、時間に任せて絶対に風化させたくなる町の名誉に関わるタブーなお話なんてのはあったのかもなぁ。

【極秘】その市町村にまつわる歴史上のタブー【隠蔽】

こんな感じのスレあったら伸びそうだけどね。
私からは立てられません。どなた様かヨロシクどうか。
m(__)m

643名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/18(木) 08:27:09.09 ID:YyShiTLlO
何故わざわざ2年前の書き込みにレスをwww
644名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/18(木) 21:55:47.45 ID:NpPPxz5n0
>>585
うちの本家は取り上げられる前に
事業に成功したからみんなで都会に来たが
戦争で焼け野原になったので貧乏になったそーだ
とはいっても、本家筋はみんな金持ちでうらやましい
顔もい良し、背も高し、品もある人が多いしな
うちはマジ貧乏
645名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/19(金) 05:22:45.08 ID:ppfq29nfO
スレタイとちとずれるが、今も本家分家ってあるからなぁ。
友人宅が分家なんだが、本家が寂れたうちに、分家が土地経営やらでデカくなって、何か親戚の集まりを分家でやるようになって、関係がおかしくなったって。

こういうのも歴史として繋がってるから起こるんだろうな…。
646名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/19(金) 10:11:36.44 ID:inwWuQ8t0
>>642
対馬の民謡で男女の逃避行と心中ものですが、捕まると処刑されることが暗示されています。
江戸時代ではなく明治初めのころの実話です。
ttp://www.tsushimanews.com/index.php?%BA%A3%CE%A4%A4%B3%A4%F3%A4%BF%A4%F3
647名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/21(日) 09:50:16.26 ID:T9glSypTO
あげあげ
648名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/21(日) 13:14:16.00 ID:KaEbzz0J0
マンガ家の黒鉄ヒロシはばーさんから、坂本龍馬がいた幕末の土佐の話を
聞かされたと書いていたな。
話が盛られてる可能性もあるとしながらも、ばーさんが子供の時代には
「悪いことをすると龍馬さんがくる」みたいな鬼とかみたいな扱いで
躾のいい材料にされてたみたい。
そのばーさんは一度だけ龍馬に声かけられたとか。

司馬遼太郎だかの話で有名になるまでは、龍馬なんて脱藩者&変わり者程度で
地元や一部階級の間でしか話になってなかっただろうね。
649名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/21(日) 15:33:07.92 ID:T9glSypTO
あげあげ
650名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/22(月) 16:00:43.30 ID:UKJTCjqb0
親父に聞いたら
俺はそれを見た事が無いのだが
俺の曾祖父が子供の頃の天然痘の予防接種の証明書が残っていて
そこに明治7年に9歳と書かれてるそうだから数え年だとすると慶応2年生まれだと思うが
さすがに江戸時代の記憶は無かっただろうな
でも曾祖父が幕末に既にこの世に存在してたと思うと
何だか感動する

651名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/23(火) 19:44:02.50 ID:3GqoJv85O
うちの爺さんはジョイフルのドリンクバーが大好き。
652名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/26(金) 02:22:17.40 ID:3dKNQQNfO
あげ
653名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/04(日) 05:10:57.32 ID:vFMYJGfKO
多くの人が語り聞いているとは思うが、
昔は食料事情が今とは格段に違ったらしい。
ひい祖父さんいわく、肉と言えば鶏肉を意味し、高級の部類に入るのはもちろんの事、かなりの美味として扱われてたんだと…。
正月や慶事に鶏を絞めて皆で食べたそうな。
だから今みたいに数百円で鶏のタタキが売ってたり、ファミレスなんかの安いランチに鶏が出てくると、
いつも「へ〜〜。」
と語りだす。
貧しい経験をしてきてるから、ブロイラーみたいな大量飼育を否定しない。
文句があるなら自分で育てろ!!
ってさ…。
そういう観点からすると俺達庶民って大量生産の恩恵受けてるんだよね…。
なのにそれを否定して…。
だけど祖父さんアメリカ嫌いだからケンタッキー見ると、国賊とか喚きながら乗り込むから最高wwwwwwwwwwwwwww
654名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/04(日) 09:43:21.74 ID:qCRDgF7D0
たまに贅沢というとき、焼き鳥と牛鍋が同じステータス、同じコストがかかったそうだよ
昭和初期の話
655名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/05(月) 03:11:15.73 ID:8kOLeGL0O
うちの爺さんはうしなべとかぎゅうなべって言ってたな。
すき焼きって言葉自体は昭和からなのかな?
656名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/05(月) 12:41:59.94 ID:rbyEDgAz0
関西はすき焼きで関東は牛鍋とすきやきっていうんじゃ
657名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/09(金) 13:11:53.31 ID:vSgAT3pQ0
婆さんは、8月15日の早朝7時に空襲を受けたと言っていた。
B29の編隊が飛んで来たが、農村だからまさか爆弾落とさないだろうと
思っていたら、ヒューという音がして爆弾が遠くから次々に落ちて来て、
家族みんなで裏山に猛ダッシュで逃げたが、もの凄い爆風と爆音が襲って来た。
近所の家の庭に爆弾が落ちて、その一家は全滅。東京から疎開して来ている
親戚もいたから8名が無惨な姿になった。
爆風のせいで遺体の損傷がすごくて男か女なのかも判らない。
遺体には髪の毛もなかったそうです。周囲の家も大きな被害を受けて
どの家も窓ガラスが粉々になって大勢が怪我をしたそうです。
658名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/10(土) 01:22:13.18 ID:T0UViAIR0
>>657
熊谷?
あれは前夜だったかな。
659名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/06(木) 16:35:54.95 ID:GSKFjIHb0
祖母は明治生まれだったが
いつも草履だった
靴を履いてるのを一度も見た事が無かったな
スリッパは履いていたが
洋服を着てるのもあまり見た記憶が無い
660名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/09(日) 08:46:35.65 ID:bEtyqLLt0
うちのじいちゃんは子供のころ喧嘩した相手にナイフで足を刺されたんだけど、親に見つかったら怒られるから。ってメンタム塗って自力で治したらしい
661名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/24(月) 02:05:54.36 ID:8B4qKGFsO
大正生まれの祖母は、1970年代になっても銀行に行けなかった。
郵便局と農協にはホイホイ行ける。貯金もそこで。
銀行は緊張してダメなんだそうだ。
「アタシなんかが行くところじゃないよ」と。
どうしても行く用事がある時は、前の晩から髪をカーラーでセットし、着物を着て出掛けていた。
農家で、郵便局や農協には顔見知りがいるし、野良着で行けるから良いんだそうだ。
662名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/26(水) 18:14:13.45 ID:BX1r9vPN0
うちの爺さんは長男で乙二だったせいか赤紙来るのが割と遅かった。
昭和19年に赤紙が来ると家業を整理して、町内会の盛大な見送りによって、
めでたく出征して、師団に出頭した。
同期が約200人いたが身体検査したらなんと爺さんは「不合格」と言われてしまう。
爺さんはチビでド近眼だったからなあ、、足手まといと思われたんでしょうね。
爺さん含め4人の不合格者がいたそうで、こういうのを即日帰郷要員と呼ぶらしい。
盛大に見送られて故郷を出てきた手前、営門を出てもどうしたらいいか判らず
4人で師団前の旅館に泊まってぼう然としていたが、5日で金が尽きたので
仕方なく故郷に帰った。当時としてはかなり不名誉な事だったそうで、
戦争が終わるまで、恥ずかしくて知り合いに会うのが辛かった。
家業は人に譲っていたから故郷に帰っても仕事はないし、たちまち困窮したが、
不名誉な即日帰郷なので、就職活動もうまくいかず本当に困ったと言ってました。
爺さんが入隊する予定だった部隊はフィリピンで全滅したから、
即日帰郷じゃなかったら爺さんは多分戦死して、父親も俺も生まれてないんだけど
爺さんは「俺も米軍と戦いたかった」と死ぬまで言っていました。
663名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/27(木) 01:11:10.82 ID:CE6t295f0
>>662
当事はどれだけ不名誉だろうと、どれだけ困窮しようと
いまそうしてあなたが生きているほどの暮らしにもっていけ、
そしてあなたにそれを伝えられたことは十分な成果だね。

生きる、命をつむぐ、ってのは生きていてこそだ。
664名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/27(木) 03:59:30.66 ID:A+ps6+w7O
昔は集会所や祠で飲み会やってたんだって。
今の花見みたいな感じで。
665名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/27(木) 23:06:03.29 ID:vPa93rJZO
662さんとは逆な感じの父の体験。父が年取りの時の子なんで、勘弁を。
昭和19年冬に海軍に徴用された。目的地はサイパンだが、潜水艦が多いので、命令に反してフィリピンセブ島へ。乗ってきた輸送船は現地へ着いて物資等を降ろし、出港直後に米軍機により撃沈。上陸後父は途中で爆弾の破片で脚を負傷し、隊からはぐれた。
666名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/27(木) 23:20:32.53 ID:vPa93rJZO
続き。
はぐれた後、ジャングルで3ヶ月ほど動けず、雨水と体についたシラミを食っていた。ある時上空から日本が降伏した紙が落ちてきて、這いつくばって海側へ向かい、フィリピンゲリラに見つけられ捕虜になって帰ってきた。
母(俺の祖母)には、戦死したと伝わっていたらしいし、同じ部隊の者で帰還した者もいなかったみたい。
その数十年後、地下鉄サリン事件で、サリンを撒かれた電車の2本後だかに乗り合わせた。
そういう運命の人なのかもしれない。
667名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/15(火) 00:38:26.11 ID:A+lFylpO0
面白いスレみつけたw
うちのひいばあちゃんがそのお母さんから聞いた、戊辰戦争の話。
幕府側の藩だった地方で、やってきた官軍(西軍と言ってた)と出会ってしまって
やばい、斬られる!とおもったら話しかけてきた
「なんで幕府側についたんだ?」
「だって、幕府軍が先に村にきたから…」
彼女の間の抜けた回答に
「そうか…」と言って官軍はなにもなったかのように行ってしまったらしい。
今、当時の資料なんかをみると、官軍は案外地元民にひどい仕打ちをしてたなんて記録がでてくるから
なにもなくてよかったと思うよ…
ひいひいばあちゃんいなかったら、今頃自分存在してないからなぁ
668名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/20(日) 13:45:13.50 ID:qdUoVk/u0
祖母は昭和18年頃に結婚した。
祖父がマザコンだったので、曾祖母に似た大柄の祖母を曾祖父が見かけたのが縁談になったらしい
田舎の小金持ちだからかしらんか、3日間も式があったらしく
地毛でつくった高島田で寝るのがすごい大変だったらしい
そういえば昼寝に時代劇でみる高い枕を使っていたなぁ
669名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/20(日) 23:41:20.36 ID:qdUoVk/u0
需要ないかもしれないが、祖母の出産の話。
父(長男)は戦争末期生まれ。
芋ばっかりの食事な上、大家族の嫁なためしっかり栄養が採れず
産婆さんに「おなかが小さいから、発育してない可能性がある。早めに里帰りしなさい」
と、言われ実家に返されゴロゴロしてたら大きな赤ちゃんを生んでしまったらしい
母乳が足りないのかよく泣くのでヤギの乳を匙やお猪口で与えたり
近所の赤ちゃんのいる人に母乳を与えてもらったりしてるうちに
健康優良児で表彰されるほどまるまると太ってしまったそうな
お産自体は産婆さんを呼んでしたみたいだけど
その後熱がでて腎盂炎になって、うちの嫁に何かあっては困るとお舅さんが口添えして
産科の病院に入院したらしい
あの時代で産科入院なんて珍しかったのよと、自慢してたなぁ
670名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/20(日) 23:57:31.44 ID:qdUoVk/u0
一方、母方の祖母の出産の話。
祖母は病院のある街まで徒歩2〜3時間(もちろん車なんてない)
末っ子で自分の親は出産のころには亡くなっており、里帰りも不可能
長女(母)のときは初産のため、産婆さんを呼んだがくるのに時間がかなりかかり一人で耐えたと言っていた。
二番目は産婆さんを呼ばず、ひとりでうんだらしい。手伝いに義理姉がきただけとか。
胎盤がなかなか出なくて、自分でおなかを押したとか
母子手帳はもうあったのだけど、出産の記録は自分でてきとうに書いたとか
今の時代だと考えられない出産で話を聞いて面白かった。
人に頼らず命がけで産んだからこそ、子供がすごく可愛かったしいとおしかったよ
今は人に丸投げのお産だから、虐待が増えるんじゃないかと話してた。
今の若者と覚悟が違うんだろうね
671名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/21(月) 01:28:24.85 ID:YgP1yWus0
>>670
生まれるも死ぬも我が家を一番とする考え自体も
今はもうほとんどないしね。
現代医療の発達は素晴らしいけど、医療というよりは
工業的な感じがするね。
672名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/17(日) 23:27:06.53 ID:w9+5iYql0
>>670
強烈に命を感じたんだろうね
貴重な話をありがとん
673名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/17(日) 23:41:13.74 ID:w9+5iYql0
>>635
生活力あるというか逞しい。
情景を空想しております。
また書いてください。
674名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/18(月) 11:31:03.23 ID:jSbIpEe90
祖父戦時中、徴兵されて佐世保を守っていた。
朝6時半起床から夜12時就寝まで、とにかく自分の時間が持てず、
人数分の設備がなかった為に朝の顔洗いや歯磨きも競争で、要領の悪い祖父はできず困り、
他人よりこっそり早く起きて顔を洗って、また戻って時間が来るまで布団をかぶって待つことで解決していた。
が、ある日とうとう一人の上官に見つかり、ギロリと睨まれ、脅されて肝が冷えたらしい。
当時の上官の命令は絶対で、罰を恐れていたが、不思議と特にお咎めなく終わった。

そうしているうちに、戦況は刻々と悪くなり、沖縄決戦にも佐世保から派兵されることになり、
誰が行くかはどうやって選ばれるのか知らないが、当人達には運次第、
名簿に載っている人が必ず船に乗り、沖縄に行くことになっていた。
祖父は運良く免れた後、実は自分もその名簿に載っていたことを上官から聞く。
気に入ってくれていた上官が誰かは言わなかったらしいが、他の人とこっそり書き換えたらしかった。
母が言うには、もう日本が負けるとわかっていた上官は、祖父は朴訥として生真面目だった為に、
戦後の復興者として日本に必要な人材だと感じて残したのではないかと。
私には戦時中の仕事の話しか話したことがなかったが、母には昔話したことがあるらしい。
もう亡くなってしまったが、祖父がもし沖縄に行っていたら、確実に死んで自分が生まれなかったことを考えると、
それだけでも真面目だった祖父に感謝しなければいけないなあと思う。
あと、祖父は長崎のキノコ雲を佐世保港から見たということだけど、本当に見たんだろうか。
地図で確認したら、遠くてちょっと謎。
675名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/20(水) 18:22:09.86 ID:59R9uX1t0
広島のきのこ雲は呉から見えたそうだ
広島型はウラン爆弾で長崎のより規模が小さい

長崎のプルトニウム爆弾の方が被害が小さかったのは曇りで視界が悪く爆心地が市街地から若干それたため
676名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/20(水) 18:35:13.47 ID:gUvLgY2s0
>>675
海軍兵学校にいた俺の爺さんもキノコ雲を見たって言ってたらしい。
俺が小さい頃に死んじまったから戦争のことは何も聞けずじまいだ。
何枚か兵学校時の写真が残ってるけど。
677名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/21(木) 16:34:34.78 ID:OerET9k60
>>674
天草の東海岸からもキノコ雲が見えた(俺の婆さん談)らしいから、
お前さんのお祖父さんが佐世保から見たというのもあながち嘘じゃないと思う。
地図で確認すると佐世保の方がちょっと近め。
678名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/23(土) 00:29:35.62 ID:20ITVVEq0
>>677
天草から見えたのなら、佐世保でも見えそうですね。
映像でしか見たこと無いから全く規模が想像できなかったんですが・・・やっぱり想像できないですね。


別の思い出。
まだ戦争というものがどういうものか全くわからない小学校1年生の時の担任が戦争体験者だった。
しかも南方のガチ経験者。
その時の体験談とかを何回か話してくれたことがあったが、残念ながら内容は殆ど覚えていない。
だけど、平和な80年代の小1にはかなり衝撃的で話を聞いてるクラス内がめっちゃ静かだったことを覚えている。
先生はひょうきんで話が上手く、たまに身振りで笑わせてくれるんだけど、先生の体験は現実としてはなかなか考えられなかった。

其の先生がもちろん初めての先生で他にもインパクトが凄かった。
80年代の小1と書いたが、当時は教育の転換期で古い教育は結構廃止されていた。
しかし、うちの担任だけ厳しくて、集会や給食の前は必ず黙祷して待たせられ、微動だにしてもいけなかった。
もし少しでも話したり、動くと係の生徒が見張っていてプチ体罰。
でも、其の後で必ず皆を褒めてくれるので、他のクラスよりも出来がよくなった感じがして誇らしく感じた。
係の仕事も大変で、宿題係になった私は、朝早く登校して廊下で来た順に教科書暗唱チェックが終わったら、
ノートやプリントを集め、休み時間を使って提出の有無のチェック。最初はキツくて涙目で登校してた。
寒風摩擦も当時とっくに廃止されていたが、普通にウチのクラスだけ
男は上半身ハダカ、女子は体操服着ててよいという明らかな差別の元w、先生も一緒にやってた。
こういう教育が続けば、今のモンペ騒動もなかったんじゃないかなとテレビを見ていてたまに思う。
先生は母親達にさえ厳しく、子供の良さを殺すのは親だと、家庭での躾が一番大事だと口を酸っぱくしていつも言っていたようだった。
私達が先生にとって最後の生徒だったので、当時としても稀な例だけど、先生のことは話ではなく、体の中で覚えている。
これは昭和最後らへんの話ってことでw
679678:2013/02/23(土) 01:16:41.25 ID:20ITVVEq0
寒風摩擦ではなく、乾布摩擦でした。訂正します。
680名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/26(火) 02:31:28.57 ID:/VSMKe9R0
俺の祖父さん。職業軍人だった。俺がその話に興味持った頃にはボケてはいないが耳遠くてあんまり話聞けなかった。10年前に亡くなった。確か90歳くらい。
親父も昔聞き出したりしたらしいけど、あんまり戦争中のことは語りたがらなかったらしい。嫌な目にもあったんだろうと。
海軍軍人で上海にもいたとか、上海で買ったのかかっぱらったのか知らんが掛け軸があったとか。
軍刀を買うために祖父の親父、つまり曾祖父さんにねだって買ってもらったとか。
ばあちゃんにも聞いたけど、老人だから話がその都度違ってて、少尉だったり、軍曹だったり階級もなんだかいい加減。

赤城に乗ってて(なんか眉唾くさい巡洋艦だとかの話もあった)、怪我して下船してる時にミッドウェーが起こったとか、
その後は茨城か千葉かで軍関係の学校だかの教官やって終戦迎えたとか。
数年前にばあちゃん家行ったら勲章とか賞状?みたいなの見せてもらったから、
ここの人はいろいろ詳しいと思うので何か推察できることがあればと。
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org3988633.jpg.html
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org3988640.jpg.html

祖父さんの軍歴とかってどうやって調べたらいいんだろうなあ。はっきりしたこと知りたいな。
681名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/26(火) 02:33:11.13 ID:/VSMKe9R0
682名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/26(火) 11:53:52.86 ID:sv6xEigW0
>>681
とりあえず、1枚目開いたら手が4つあってびびった
誰かに手伝ってもらったのかな、貴重なもの拝ませてくれてサンクス
683名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/27(水) 08:04:34.09 ID:wOGAPr690
前者は位階ってやつだな
律令制度上の身分のランキングだ

後者は勲等
軍功に対して与えられるもの
つまりよくやったごくろうさんっていうやつ
684名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/27(水) 08:12:03.78 ID:wOGAPr690
今は勲章に何等とかいうクラス分けはなくなった
芸能人が勲章もらったとかいうニュースがよくあるけど、あれでたしか勲4等とか5等クラスだったと思う
かなりの大物で3等クラスなんてのもあったかなよく分からんけど
文化勲章はまた別ね(これは戦後出来たもの)
685名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/27(水) 08:17:44.32 ID:wOGAPr690
調べたら勲六等以上に勲章が付くようだ
つまり7等の時は賞状だけだったということだと思う
686名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/27(水) 11:04:16.18 ID:WR+0CoH90
 
公安調査庁とシーボルト

http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0202/1/110.html
http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/C/jre021/0721.html

シーボルトは単なる幕末の医者ではなかった。
公安調査庁がシーボルトを記念するように、
シーボルトと日本の関係は、まさに、その陰謀の極致にあった。
( http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0103/31/203.html )
687名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/27(水) 20:02:58.32 ID:idiz9U3R0
ペリーは最初に日本語で、「国を開けなさい」と言ったとか。
奉行所に勤めてた先祖からウチには伝えられている。
688名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/28(木) 15:34:00.41 ID:bao7P3pt0
>>680
海軍軍人なら厚生労働省に電話で「祖父の軍歴を知りたい」と問い合わせればいい
情報の開示請求者が一族であれば可能、孫では駄目と言われたら親父かお袋どっちか実子の人に
開示請求してもらえ
軍歴が分かったら防衛省管轄の図書館?あたりで本を閲覧して作戦など詳しいことを詳しく調べればいい
爺様の恩給の書類とか残ってない?
689名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/04(月) 05:50:57.09 ID:y24bnvHT0
>>55
新参者でパーと拝見しましたが
「電力戦争」は当時、電力会社がいろいろと出来ては集合離散を繰り返していた
時期だからじゃないでしょうか
利権が絡んでトラブルも多かったのではと推察しています
690名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/07(木) 00:08:40.53 ID:vsKIs9qQ0
婆さん(明治人)は、「○○さんは特許局に、××さんは三井に、△△さんは安田に
『出ていた』」という言い方を最後までしていた。
上級武士(家老)の家なので、幕府や藩に「出仕」する感覚が残っていたのだと思う。
691名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/08(金) 19:08:57.25 ID:N2khwjCf0
>>268
ウチのじいさんは戦前の警官は威張ってたと言ってるぞ。
692名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/09(土) 01:46:21.64 ID:lB+auJAP0
>>268
君の言っている警官は何県の警官かな?
地域によって警官の性質はずいぶんと違うと思う
693名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/10(日) 04:18:26.80 ID:k6Y0jK1C0
明治生まれの亡くなった祖母は空襲より関東大震災のほうが怖かったって言ってた
まあ、場所にもよるだろうが
694名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/10(日) 05:05:49.43 ID:KLGhh5KoO
そもそも近藤勇を処刑する必要なんかあったのか?土方とコンビで薩長の好き勝手にはせずに日本の為に尽力を尽くしたのに。
695名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/10(日) 05:24:08.13 ID:KLGhh5KoO
曾祖父は千葉の道場で龍馬さんに、かなり良い太刀筋だぎゃー!沖田もおまんには負けるだぎゃーと言われたらしい…
696名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/10(日) 05:32:03.55 ID:KLGhh5KoO
曾祖父の話しだと、龍馬さんも試衞館道場には相当ビビってたらしい…
697名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/10(日) 05:48:58.72 ID:KLGhh5KoO
あと龍馬さん暗殺したのは、伊藤一派なんだけど仕掛けたのは岩倉具視らしい…
698名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/13(水) 12:37:29.86 ID:zi5C9JjS0
爺さん 日本郵船のボーイ
婆さん 婦人公論の記者
知り合ったきっかけは、婆さんが「浮かぶホテル氷川丸」という特集の取材でした。
お互いの第一印象は最悪で、爺さんはお客様が使う高価なグラスを勝手に触ったりマナーのなっていない食い方
をする下品な女。
婆さんはポマードを塗って口やかましいきざな男でした。
699名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/13(水) 13:09:00.30 ID:V0wBsBmz0
>>698
悪印象でもお互いにとってインパクトがある存在だったんだな。
日本郵船時代ってことは、現役で航海に出てたころなのかな?
700名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/13(水) 14:49:33.05 ID:zi5C9JjS0
698です。
爺さんはマルセイユやサンフランシスコに何度も行き、自分こそが欧米文化の伝道者のモボ。
婆さんは自分こそが最先端の流行を作り出す、モガとの自負を持っていました。
結局付き合ったきっかけは、婆さんがロスオリンピックの取材で客として爺さんのサービスを受けたことでした。
感銘を受けた婆さんが最初に告ったんだが、爺さんは「お客様に対して当たり前のことをしただけです。」
と固辞しました。
しかし帰路にも告白されて根負けしました。
701名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/13(水) 16:24:52.47 ID:V0wBsBmz0
モボ モガ ってモダンボーイ モダンガールの略?
702名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/14(木) 21:00:52.74 ID:rjr7p2AR0
いいはなしだなー
703名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/16(土) 01:22:50.09 ID:VPXWN5+cO
うちの爺さんはゼロ戦乗りで今ではF15に乗ってるwww
毎回ゲロるらしいwwwwwwwwwwwwwww
もう乗るなよwwwwwwwwwwwwwww
704名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/16(土) 19:52:28.81 ID:B6lfg9HY0
>>703
今何歳だよ!
705名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/16(土) 22:42:08.90 ID:RgWebOeX0
初音ミクProject DIVA fが海外で販売中止!? 「千本桜」が日本の愛国心、軍事主義を煽っているのが問題?
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1363426183/l50

■【旭日旗】+【軍国主義】問題のゲームPV
【PS3】 初音ミク -Project DIVA- F PV鑑賞 「千本桜」
http://www.youtube.com/watch?v=BE6Wjx7FnsA

本家PV『初音ミク』千本桜『オリジナル曲PV』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15630734

■中国オタク「ボカロ曲の千本桜が軍国主義的だと批判されてる件について」
http://blog.livedoor.jp/kashikou/archives/51845716.html
>日本の軍国主義の教化的な歌が出てきたらそりゃ怒るヤツ出る。
>第二次世界大戦の英霊を記念した歌だろ。この色調や雰囲気はまさにそれ。
>日本人の過去の帝国の栄光を懐かしんだ歌以外のなにものでもない。
>こんな歌が作られて人気になるんだからあの戦争は終わってないし、日本のヤツラはきっとまた攻めてくる。

■音ゲー至上最速(20日)の削除曲。
jubeatで2012/09/25付けで千本桜収録→2012/10/15付けで千本桜が削除。
ちなみにjubeatは韓国と香港でも稼動している。
後は言わなくても分かるよな。
706名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/16(土) 22:46:59.67 ID:RgWebOeX0
初音ミクProject DIVA fが海外で販売中止!? 「千本桜」が日本の愛国心、軍事主義を煽っているのが問題?
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1363426183/l50

■【旭日旗】+【軍国主義】問題のゲームPV
【PS3】 初音ミク -Project DIVA- F PV鑑賞 「千本桜」
http://www.youtube.com/watch?v=BE6Wjx7FnsA

本家PV『初音ミク』千本桜『オリジナル曲PV』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15630734

■中国オタク「ボカロ曲の千本桜が軍国主義的だと批判されてる件について」
http://blog.livedoor.jp/kashikou/archives/51845716.html
>日本の軍国主義の教化的な歌が出てきたらそりゃ怒るヤツ出る。
>第二次世界大戦の英霊を記念した歌だろ。この色調や雰囲気はまさにそれ。
>日本人の過去の帝国の栄光を懐かしんだ歌以外のなにものでもない。
>こんな歌が作られて人気になるんだからあの戦争は終わってないし、日本のヤツラはきっとまた攻めてくる。

■音ゲー至上最速(20日)の削除曲。
jubeatで2012/09/25付けで千本桜収録→2012/10/15付けで千本桜が削除。
ちなみにjubeatは韓国と香港でも稼動している。
後は言わなくても分かるよな。
707名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/23(土) 15:33:29.98 ID:6Wt/0lNm0
子供の頃、俺を育ててくれた婆ちゃんは馬の話ばかりしていたなあ
馬は可愛い、とかそう言う話じゃなくて、どれだけ農家になくてはならないものなのかを
孫に向かってトウトウと話していた。
話を総合すると、軽トラック(米俵とか荷物を運ぶ)・肥料製造装置(冬の間に堆肥を作る)・
トラクター(鋤を引っ張って田を耕す)・現金収入源(子供を産むから)を兼ねる
優れものだったらしい。近くで馬市が年に一度開かれて、沢山の馬が近在から集まって、
色々な出店も出て、賑やかだったそうだ。子馬が良い根で売れると婆ちゃんの父親が喜んで、
婆ちゃんも嬉しかったとか、いい牝馬がいる家は毎年子馬が良い値段で売れるけど
ダメな牝馬の家は毎年安い値でしか売れないとか、婆ちゃんの兄は毎朝飼い葉のワラを
大きなワラ切りで二抱えも切ってから学校に行っていたとか、そう言う話。
馬を飼ってる農家は、今でも北海道や九州にはあるだろうけど、堆肥の話は、
今では全くないだろうな。冬の間に寝ワラをどんどん足して行って、春先には
ワラが2mぐらいの高さになるそうだ。馬は天井に付きそうになる。馬房は冬でも暖かい。
ワラと馬糞が馬に踏まれて撹拌され、最高の堆肥が出来て、これがないと米作りが
出来ないそうだ。
婆ちゃんは「子馬が売られて悲しい」みたいな話は一切しなかったし、高い値で売れると
うれしい、と言っていた。本当に動物が身近にいて生活している人の感覚なんだろうな。
「子馬が売られて悲しい」と言うのはペットを飼ってる人の感覚なのかも知れない。
708名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/29(金) 01:18:47.72 ID:L93Wzp160
旧制尾山台中学(現在の金沢の尾山台高校 馬鹿学校)を卒業した俺の爺さん。
国内でも帝国大卒の無職がいる中見つけた就職先は三越ソウル店外商部第2課。
しかし課長は韓国の女学校を卒業した美人だが怖い独身女で、なにも売れずに帰ると
「あなたの仕事は何ですか??お客様のご自宅や事務所に訪問して商品を売ることでしょ?
売れるまで帰ってくるな!!!」と怒鳴られたそうです。
またなにも売れずに、仕方なく行きつけの食堂で爪楊枝を頼みこんで売ったら、
「おめでとう。爪楊枝が売れたのね。みんな拍手www」と苛められたそうです。
しかし当時の社内規定では女性社員が結婚すると退職する規定があったそうで、
終業後、後輩の朝鮮人ダメ社員と飲みに行って
「お前、課長と結婚しろよ。いい女だぞ。」
「いえいえ。内鮮一体の時代ですので、先輩が課長と結婚してくださいよ。」
などと愚痴をこぼし合っていたそうです。
709名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/01(月) 21:51:46.36 ID:Ty18VJY40
大正の話?
日本人と朝鮮人、仲いいじゃねえか。
710名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/07(日) 17:48:30.90 ID:LMN3H3an0
昔はプールがなかったから、今でいうプールの授業は海でやってたらしい
水泳大会では数百メートル先の小島を往復
ビニールの浮輪はなかったけど、布で作った浮輪?を使っていて、
布だから直ぐにプシューと空気が抜けてたから不便だったとか

80代の祖母から聞いた話
711名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/12(金) 12:59:22.49 ID:Twj5jvcoO
昔は水泳なんて家庭で教育するもんだったしな。何でも学校に任せるから質が低くなる。
712名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/12(金) 22:22:08.65 ID:cb/fYwWH0
これは祖父母の話ではなく、自分の話だが
1970年ごろの地方の水泳教室の教官は、大抵が海軍上がりのおっさんでさ。
教え方がめちゃくちゃだった。
泳げない者は、幼稚園児でも容赦なく深い飛び込み用プールに放り込まれる。
まだ幼稚園児だから泳ぐどころか水に顔もつけられないのに、首根っこを
捕まれて、凄まじい力で水の中に沈められる。
もちろん子供は恐怖しかない。パニック状態になる。
幼稚園の夏休みに市の水泳教室に行ったお陰で、19までカナヅチだった。
大学生になって始めて「泳がなければいけない」という強迫観念から開放されて
泳げるようになった。水泳教室でトラウマ植え付けられて泳げなくなるって
もうありえない話だ。今なら訴訟沙汰かもしれん。
1970年ごろと言えば終戦から25年しか経ってないから、軍医上がりの医者とか
元陸軍伍長の教師とか普通にいたな。今の大人しい日本人とは別人種だった。
何の疑問も持たずに鉄のような意志を持って殴ったり怒鳴ってくるから、
抵抗なんてできなかったよ。
713名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/16(火) 00:20:22.76 ID:iQCENqofO
昔っつうか今も一部そうだが、爺さん達の時代は女は買うって感覚がかなり強かったそうだ。
結婚や恋愛はそれはそれ。
女は買って満足するものみたいな。
出張なんかすると上司からお小遣みたいな感じで少し貰ってて、それで遊んでたんだって。
だから今は遊びにくかろうって。

誰にも言うなよが口癖で、ソープランド経営してたなぁ。
714名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/16(火) 01:44:59.26 ID:iQCENqofO
うちの爺さんは新しいもの好きでノートPC使って、iPodシャッフル使ったりする変わり者なんだけど、(もう90だぞ笑)
昔からそうだったらしく、ラジオやら自転車やらとにかく気に入ると、とことん使って身につけてたらしい。
軍隊生活でもその癖が治らず、銃をやたら触りまくったり、重砲?なんかも触りたがってはかなり周囲に迷惑かけてたみたいww
南方での戦地では、生き死により敵の装備が気になり、触らせてもらいに行ったがダメったらしい。
頭おかしくね?
715名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/17(水) 00:32:40.22 ID:FsFQgKtpO
軽度のアスペルガーかな?
716名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/17(水) 00:43:22.39 ID:A8Equ8nUO
戦争行った爺さんは配属地で英米か米兵に意外にもやさしくされたって言ってたぞ
お菓子をもらったらしい
717名無しさん@お腹いっぱい。:2013/04/17(水) 00:58:12.44 ID:+1HcGNwEO
重度のキチガイだろwwwwwwwwwwwwwww
718名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/04(土) 15:25:54.86 ID:457u624zO
気狂うちょい手前〜wwwwwwwwwwwww
719名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/01(土) 18:01:44.47 ID:/SQTOQgJ0
祖父と父の家は家族一同で、
新しく買ったテレビに現両陛下の御成婚パレードを見ながら、
ラジオの高校野球を聴いていたそうな
720名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/02(日) 18:30:09.11 ID:Sk2UVBl50
>>719
現中日監督が、その試合に出場してた
721名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/04(火) 12:03:32.73 ID:ob6/mFIZ0
仕事先のお婆さんに聞いた話
戦時中病院で看護婦しててそこに入院してきた軍人さんのお世話係になった
陸軍大佐で参謀で優しい人だったって
二三日に一回軍人さん達が大勢来て彼の指示を仰いだりなにやら話し合い
してたんだけど、悪いと思って彼女が病室から出ると「いてもいいよ」って
笑って言ってくれたって
陸軍病院の看護婦はいろいろ命令してきて怖いからこの病院に入れてもらった
ってことだったらしい
722名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/07(金) 23:05:02.46 ID:HWMn5jY20
>>712
分け隔て無く殴ったり怒鳴ったりする教師とか羨ましいね。
自分はその10年後位の1980年前後に小学生だったけど
クラスの人気者にはやたら優しくて
友達が少ない生徒には厳しく当たる教師が多かった記憶ある。
特に戦時を生きてきたと思われる年寄り教師に多かった。
自分はその中間で特に被害とか無かったけど
子供心に何でこの先生はこんなに人によって差を付けるんだろうと思ってた。
多分戦時中戦争にも行かず国内で逃げてるだけの人たちは
自然とこういう処世術を身に付けてたんだと思う。
723名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/08(土) 06:55:52.28 ID:atII+BcS0
>>712
学校の部活が実力をつけることや楽しむことや以上に精神面を強調され、
理不尽な特訓や上下関係など軍隊の悪い面を教育会に持ち込んだのは元軍人の教師たちなの?
724名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/08(土) 23:16:22.00 ID:1y7wltSEO
学校なんてそもそも軍隊由来のシステムばっかりだろ。
725名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/09(日) 22:14:04.15 ID:++rackz10
江戸時代の日本では、大人が子供を殴る習慣は全くなく
幕末明治初期に日本に来た外国人は「日本の子供は、なんと自由なんだ。
我々は子供をムチで殴って躾けるのが当たり前なのに」と驚いている。
名誉心を非常に重視する武士教育の影響だろうな。

武士教育が人々の記憶からなくなった大正時代から、軍隊や学校での
鉄拳制裁が一般化したらしい。鉄拳制裁や理不尽な精神論は、やる側が、
やられる子供側から決して反撃されない、というのが前提だからな。

武士気質が残っていて、殴られた側が「名誉を傷つけられた」と言って
教師に刀で反撃してくる社会では、鉄拳制裁は成立しない。
726名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/10(月) 00:48:55.20 ID:v/oBBGbP0
>>725
武士では鉄拳制裁はなかったとのことだけど、町人や農民はどうだったのかな。
727名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/13(木) 01:31:37.16 ID:YDCxIshj0
>>712
1960年代に小中学生を過ごした者だが、当時は、軍隊帰りの教員は必ず居たな。
小学校に2人。運動会の練習となると、やたら張り切って軍隊顔負けの全体行進を
1ヶ月以上毎日練習させられた。

中学には、特攻隊の元訓練教官がいて、軍隊生活やシベリヤ抑留の話を面白おかしく話してくれた。
もう一人の美術の教師は、辛い思い出しかないようで、決して「天皇」と言わず、
「天ころ」「天コロ」と呪言のように言っていたのが印象的だった。
728名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/13(木) 02:58:01.65 ID:oeQcJiWeP
>>727
リアル体験貴重っす。
他にもあればどうぞよろしく
729名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/14(金) 13:16:30.80 ID:SyETrVqbO
昭和40年生まれの自分の体験

まだ幼い頃 繁華街には傷夷軍人がいた ムシロの上で義手や義足の老人が募金箱を置き 募金してくれた人に深々と頭を下げていたっけ…

小学校低学年くらいまで 記念撮影ってやたら時間がかかってた 単に撮影者の腕だろうか!?
創成期の写真は撮影にやたら時間がかかっていたというが…

街には普通にオート三輪が走っていて 線路はSLが走ってた
730名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/14(金) 22:11:29.00 ID:vWEnlXJi0
1919年生まれの祖母が元気だった頃の話。
祖母の通うミッション系の女学校では女同士の恋愛が盛んで、
「女」の取り合いで殴り合いの喧嘩もあったとの事…。
トイレでキスする事や授業中にラブレターを回す事は日常茶飯事だったらしい。

「制服の処女」というドイツ映画が大好きだったとよく聞かせれてたんだけど、
筋を調べたら、美少女が美貌の女教師からもらった下着に大興奮したりする映画だった…。
731名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/15(土) 01:41:06.14 ID:2ftDFjxY0
Sって奴だね。
吉屋 信子が少女小説で煽ってたからね
732名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/15(土) 08:40:00.29 ID:Btgp0/W80
大正2年生まれの爺さんによると
高校生の頃は毎晩酒飲んで暴れたり繁華街を裸で走り回ったりしていたらしい。
先生にも注意されないでそのまま帝大に進学したとの事。
先生に暴力を振っても1度では退学にならなかったらしい。

今の子は真面目だなあとよく言ってたw
733名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/15(土) 20:13:44.09 ID:sow1BcDS0
>>732
大きな勘違いしてないか?
旧制高校生は今の大学1〜2年だから、酒飲んで暴れるのは今も昔も変わらない
734名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/16(日) 00:15:48.58 ID:uyPGE0TH0
帝大に進めるなんてエリートだな。
735名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/16(日) 01:04:39.83 ID:nXFIuOtRO
酒飲んで暴れたら軍人に殴られた。
後の山田泰蔵である。
736名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/16(日) 08:18:16.47 ID:pOkiKhKf0
メジロパーマーの主戦でもある
737名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/16(日) 12:02:09.59 ID:+f9ouLcCO
大正10年生まれの祖父

山口の部隊から移動中、原爆が投下されて広島入り。
大きい河の水が赤く染まってたらしい。
それでも他に水がないので飯盒で掬ってその水を飲んだらしい。
戦前、戦時中の写真はしかめっ面ばかりなのに
戦後の写真は陽気な表情なのが印象的。
738名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/16(日) 23:18:03.52 ID:D+Bcc7Ja0
昭和6年生まれの祖父は、終戦の年に両親を亡くして幼い妹と二人きり…という
まんま「火垂るの墓」の境遇だったんだけど
当時既に働いていたからそれ程悲壮感がなかったらしい。
「清太みたいなお坊ちゃまだったら辛かっただろうな」と言ってた。
739名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/17(月) 00:38:51.92 ID:IAL2AcBc0
その祖父が後の山田泰蔵である
740名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/18(火) 18:58:57.28 ID:TjrT5owV0
祖父は仲間たちと女漁りに広島に行ってたら
原爆の爆風で転んだって母が言ってた
741名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/19(水) 02:19:41.38 ID:NWPnltG8O
朝からか?
爺さん頭大丈夫か?ww
742名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN ID:3mcPZvHA0
保守しとく
743名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN ID:Y0e5R3zz0
1960年代リアル小学生。日教組が強い学校のはずだが
毎日軍艦マーチで行進して朝礼、国旗に向かって敬礼を強制されていた。

若い日教組の教師も一皮むけば軍国少年だからな。もっと年配の
教師はがちで人殺したことがあるので怖かった。

制度は戦後だけど大人の意識は戦前な状態が70年代の全般くらいまで
続いていた。左翼と右翼が入り混じった不思議な空間だった。

若い皆さんが思っているように、へたれな戦後社会がいきなりできたわけではない。
744名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN ID:kivn32Pl0
>>743
私は20代ですが祖父母から戦前戦中の話は聞きました。
木炭バスも実際にあったらしく感動しましたね。
昔の車両はよくオーバーヒートしたらしく勉強になりますよ。
結構有名な話ですが昭和3、40年代は戦前の派閥と
戦後の派閥の抗争がひどかったなんて話もありますよね。
今の若い世代は戦前の家系の者とは限らないので
旧家と公家の違いがわからなくて、私の勤めている店舗に
嫌がらせに来るものが多くて困りものですな。
745名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/04(木) NY:AN:NY.AN ID:Xb3PdtrZO
よくワカラン文章…
746名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/04(木) NY:AN:NY.AN ID:AtL8JQPGO
とりあえず困ったら突撃するように習いました。
それはさすがにおかしいので引きこもるようにしたばい。
よかや?
747名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN ID:73OKtXIf0
このスレでソープが以前トルコと言われていた事を話題にしたヤツいるのかな?
これも立派な昭和の話だけどね。
748名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN ID:eSAiUGJa0
トルコなんて言い方、20年くらいまで使われていたからな〜
平成初頭まで使われているし、最近すぎてネタにならんのだろ
国名をアングラな業種名につけるなと苦情があって名前を変えたとか何とか…
749名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN ID:TTMhUBOE0
>>748

それではあなたはどっちの呼び方が好きですか?
750名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN ID:zD2LJ6AP0
今でしょ
751名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN ID:TTMhUBOE0
うーん、残念だな。俺はトルコという呼び方の方が好きだよ。
752名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN ID:zD2LJ6AP0
へー
753名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/08(月) NY:AN:NY.AN ID:zD2LJ6AP0
何これ?
754名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN ID:inJF7E82O
ど田舎の話、炭鉱で活気があった昔と変わり、数件ある飲み屋に来る客人は60以上…たぶん
当然、トルコにモーテル。ソープランドにラブホテルという言葉は伝わってなく知る者はいない。
755名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN ID:TyjmuOOyO
石炭需要が無くなってからの炭鉱地の寂れっぷりは想像を絶するよな…

今後国内であれだけ短期間に特定の業界がぶっ潰れる事はあるだろうか?
756名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/09(火) NY:AN:NY.AN ID:4oawsr9d0
写真屋業界の爆死ぶりも中々のもんだったな
757名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:3kmQWbFfO
もう時間の問題だろうね…。
758名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:IB2xo/vk0
家の下士官だった祖父さんの話。昭和二十年八月にロシア軍が
侵攻してきた満州で砲兵聯隊所属だったんだが、後退中、
埋められた予備の銃弾を堀出して試し撃ちをしていたら将校から
「誰の許可でやっとるんじゃ!」と言われ、祖父さんブチ切れて、
「うるせぇ、弾がねぇからしょうがねぇだろ。文句有るならぶっ殺す」
と言って、銃を将校の身体に押し付けたら、将校が「すみません」
と言って謝ったとか。ホラ話とは思うけど、営巣に二回入ってます。
759名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN ID:PONCyC/y0
東北某所では爺婆捨てたり、食人があったらしい
760名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN ID:O6vo+qhe0
うちの爺さんは硫黄島の生き残り
兵隊当時の写真をいろいろ見せてくれたけどみんな戦死だと言う
最後に200人ぐらいの集合写真を見せてくれたが生き残りは赤丸で囲んでた
爺さん含めて3人しかいなかったよ
761名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN ID:+xAmQ9w20
今利用してるクリーニング屋のばあちゃんが南樺太の出身で
小6の頃にソ連が侵攻してきて血相抱えて内地に逃げてきたそうな
762名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/13(土) NY:AN:NY.AN ID:BsvMABTL0
最近は戦時中の話ばかりだね。
それはそれで興味深いけど
明治以前の話を聞いたご高齢の方はもういないのかな・・
763名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:0LZYwnqW0
じゃ、家の先祖の情けない話。
田舎大名の中老クラスだったのだが、廃藩後生活能力が無く、
倅は東京に出てしまい、出入りの商人に家重代の刀剣類などを質入れして
生活していたが、金が切れると、その商人宅に上り込んで勝手に質物を
取り返し、又金を借りる日々であった。

その被害に遭った商人の子孫は、現在骨董商をしている。
764名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:5AGvcbTp0
>>762
父方の祖母が木村次郎右衛門さんの後に世界最長寿になった大川ミサヲさんと同い年だったんだが
その俺の祖母の祖母(自分にとっては高祖母)の事は聞いたことがある
高祖母は確か天保生まれとかそのくらいだった
明治初期の事だと思うが俺の高祖父という人が商売で成功して遊郭で遊び呆けるようになって
高祖母は愛想を尽かして逃げてしまったらしい
しばらくしてどこかの後妻に入っていたのを曾祖母が見つけて
孫の顔を見せると言う事で俺の祖母が曾祖母に連れられて会いに行ったり
後妻に入った家の人がこちらに遊びに来たり色々交流してたなんて話を聞いたな

そういえば俺の曾祖父が幕末生まれだったようで俺の親父が小さい頃はまだ元気だったそうだが
まあ親父もまだ子供だったから色んな昔の話は聞けなかったようだね
765名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/14(日) NY:AN:NY.AN ID:/WYL0IgF0
戦時中の話は、よく聞いたけど、戦前の話となると、あまり話してくれなかったなあ。
766名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN ID:Mc3D7/SOO
トランプで遊んでたって。
767名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/21(日) NY:AN:NY.AN ID:1N2XS3Ro0
爺さん婆さんが初めて会ったのは結婚式当日だって
768名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/22(月) NY:AN:NY.AN ID:d8AyR2e8O
戦後だけど、カレーを初めて食べて本当に感動したと言ってた。
都会ならまだしも、田舎じゃそうそう食えるもんじゃなく、貴重な経験だったと。
タンドリーチキン食ってカレー味の鶏がいるのかと騒いで、骨で雑炊つくれってうるさい爺さんだった。
769名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/23(火) NY:AN:NY.AN ID:CCSEJzy50
昭和二年生まれの祖父は、戦争に行きたくないばかりに徴兵猶予があった
医学部へ行こうとしたが叶わず、結局薬学へ行った。戦後若い男が少ない時代
軍需工場で儲けた成金の家へ養子に来た。そこへ生まれたのが自分の母親だ
ところが昭和40年頃、母が高校から帰宅すると父親の姿が無く、家の誰に
尋ねても教えてくれず、祖母からは「二度と父のことは口にするな」と厳しく
言い渡されたらしい
結局大叔父が、事の次第を母に話したのは祖母の死後で、母は随分ショックを
受けたようで、幼かった自分にも、母の情緒不安定がひしひしと伝わってきた

若い頃から遊びが激しかった祖父が、赤線廃止後に梅毒に罹患し、それが祖母にも
感染していたのが原因だった。感染後数年が経ており、抗生物質での治療にも
限界があったようだ。祖母は母の将来を考え、梅毒持ちの夫を田舎に隔離し、家出を
装ったらしい。祖父は田舎で晴耕雨読に明け暮れ、村外へもめったに出なかったらしい
、祖母の死後は大叔父が経済的支援を続けたらしいが、祖父がいつ死んだか
墓が何処か、大叔父は最後まで話さなかったから、誰にも判らない
戸籍を調べたら失踪宣告(死亡)扱いになっていた
770名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:Q51Rkn6rO
昭和の始め、栃木の塩谷郡の地主だった祖父母の話。大不況で、東北から労働力として、少年が売られてきたそうだ。マジで人身売買!だがほとんどは逃げたってさ。今彼らはどうしてるんだろうとしみじみ思う。
771名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:hcvP/+Xs0
実家の近くに、庭を潰して貸駐車場にしている家がある
敷地も広く、家は古いが立派な家で、金持ちの家・・・と感じていた
祖母から聞いた話では、戦前からの地主さんで、昭和30年頃までは
商店街に幾つも店を持ち、映画館も経営していたと
躓きのきっかけは、戦後間も無くから雇っていた「三国人の、映画館清掃係」
だったそうだ。映画館は忘れ物や落し物が多く、大概はその清掃係が着服し
映画の割引券や招待券を持ち出し換金し、タバコも吸殻を集めて巻き直した
物を安く売り、ケチの上にもケチを重ね小金を貯めていたそうだ
ある時年末年始の書き入れ時に「釣銭用の小銭」の準備を忘れた経営者が
その三国人から金を借りたそうだ。壷に入っていた小銭だが、数えるのも
面倒だからと「ざっと1万円」と判断し、借用証も作り一ヵ月後に1割の
利子を付けて返す琴にしたらしい
そんな事が何度か重なり、ある日配給会社の集金担当者が来た時に、20万円
借りたそうだ。昭和30年頃の話らしいから、現在の200万円程度だと思う
その際も借用書を作成し、冗談で「この映画館を担保にしようか?」という
話になり、冗談の心算で担保=映画館敷地建物什器備品一式 と書いたそうだ
その返済期限の日、三国人は映画館に来ず、映画館の所有者が家を訪ねても
三国人は留守で、翌日に返済すれば良かろうとそのままにしたらしい

翌日、弁護士を連れた清掃係が館主の家を訪ね、担保の映画館を要求した
らしい。結果その映画館は三国人の所有となり、今でもパチンコ屋として
繁盛している。その後は同様の手法で手に入れた土地で賃貸マンションを
建て、一階はクリニックと院外薬局・二階は無認可保育所とエステサロン
三階以上はマンションで、水商売の女性を主に居住させている
噂では廃棄物処理業も経営し、経営も順調らしい

戦後帰国できない三国人を可愛そうにと雇い入れた善人が、結局映画館を掠め取られ
シャッター商店街に、収益を上げない何軒かの空き店を持つだけの、税金に
四苦八苦する家になってしまった・・・という結末だ
772名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/24(水) NY:AN:NY.AN ID:1QOp7WiHO
>>771
経営者がバカじゃん。一度ならともかく何度も書き入れ時に釣り銭忘れるなんて経営の才能無いでしょ。
口約束ならともかく、借用書に担保書くなんてバカすぎるだろ。
自業自得だ。憐れみの気持ちなんて全くわかないわ。
773名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/25(木) NY:AN:NY.AN ID:ovdkLmre0
返済のあてがあるからこその冗談・うっかりだったんでしょ。
それを返済当日になって意図的に姿を隠しておきながら
翌日いけしゃあしゃあと現れるなんて、シャイロックですら敵わない強欲だ。
774名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/25(木) NY:AN:NY.AN ID:GZjcpHh40
これは大叔父から聞いた話だ
昭和の初めに産まれた大叔父は、子守さん夫婦に溺愛されて育ったらしい
子供を亡くした女性が、子守で働くというのは辛い事ではあろうが、当時は
極普通の事だったらしい。随分甘やかされたようで、今でも「逃げの○○」という
あだ名があるぐらいだ。その癖マセた子で、男女の事は10歳くらいから経験
していたと言う。相手は女中さんで、実際には「ハモニカ・尺八」といった愛撫を
受けたり、女性の性器に拳を入れてみたり、乳房や乳首を弄ってみたりといった事
らしかったが、子供ながら「秘密の遊び」と認識し、事ある毎に「秘密の遊び」に
耽っていたらしい。それが12〜3才の頃精通し、女中さんに導かれ初体験を済ませた
らしい。それから後は父親が経営する工場の女工さんや、近所の「だらしない女性」達を
相手に経験を重ねたらしい
親戚の医者に診断書の偽造を頼み徴兵を回避し、父親の経営する工場が軍需工場に指定
された事をきっかけに、工場の監督官に収まって終戦を迎えたらしい

戦時中は工場に動員された女子学生を誘惑し、戦後は食料を餌に戦争未亡人を玩具にし
好き放題の生活を送ってきた。80を過ぎた今でも、昔の自慢話をしている
口癖は「金髪は何人もこなしたが、黒人はしていないな〜」だ
お国を護る為に、命を賭して闘われたであろう同世代の方々に、本当に申し訳無く思う
775名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN ID:LI5/iY6Z0
これも大叔父から聞いた話だ
戦後日本が占領されていた頃、占領軍兵士による乱暴狼藉は数限り無く
老若男女を問わず、経済・精神・肉体面の被害を蒙った事例は、実は
とてつもなく多いらしい。占領軍兵士を取り締まる事ができるのはMPのみで
そのMPは「日本人の利益」を守る為に活動をしていた訳では無い

女性が被害に遭う事は想像できるが、実は男性が被害に遭う事例も多かった
らしい
有名な事例としては・・・
☆占領軍女性将校による「日本人男優に対する、キスの指導会」その後気に入られた
男優はパーティーに誘われ、女性兵士の「夜のお相手」を仰せつかった。酒・煙草といった
土産物を持たされて帰された
☆横山ノック氏が働いていた甲子園ホテル(占領軍接収中)での、女性兵士による
強チン=横山氏童貞喪失 氏は度々これを「武勇伝」として話していた

当時の「良家の子弟」は、食糧事情もあり疎開先から都市圏への帰還を
見合わせる事例が多かった。それは占領軍兵士による「同性間強姦」が
噂された為でもあった
大叔父が見聞した事例では、占領軍物資の横流しを依頼していた兵士に
闇屋が倉庫へ連れ込まれ、輪姦された事件があったらしい。被害者は
何とか帰され医療機関に担ぎ込まれたらしいが、裂肛からの感染症で
もがき苦しみながら死んで行ったそうだ
これは自分の想像だが、闇物資を得る為に闇屋は「何を提供」していたの
だろうか・・・各地に慰安所もあり「検診を受けた女性」には困らなかった
であろう・・・日本の美術品や工芸品だろうか・・・当時の日本にどんな
資源があったのだろうか・・・

人間の性癖は、ローマの昔からさして変化はしていないと思う
占領軍兵士にサディストが居たら・・・当時の日本なら老若男女、どんな
人間でも自由にできたのではなかろうか・・・男児を、少年を、青年を
軍人崩れのヤクザを、様々な方法で餌食にしたのではなかろうか・・・

まんざら大叔父の話も、嘘では無いと思う。人知れず殺された人々が多数
居られるような気がする・・・想像するだに涙が出る・・・
776名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN ID:bRq0KUTqO
775
今から10年位前に横浜にいた頃、行きつけたスナックのママの最初の旦那は米兵に殴り殺されたそうだ
もうかなり高齢だったが
777名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN ID:cRNUe42C0
777
778名無しさん@お腹いっぱい。:2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN ID:jdr4lTiZ0
大叔母との他愛ない会話から・・・
戦前の関東の学生は、卒業旅行には関西旅行が定番だったらしい
三都 大阪・京都・奈良が主なコースだったと
神戸は?と尋ねたら、昭和40年代頃までは「神戸は怖い街」という
イメージがあって、旅行先にはなり得なかったと・・・

かつては日本女性を「香港へ売り飛ばす」などという品の無い冗談が
あったらしく、神戸がその「本拠地」などと冗談が重ねられていたらしい

神戸が観光の対象となってきたのは「大阪万博の頃」かららしい
各組織団体の努力が結実したものと思う
779名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/01(木) NY:AN:NY.AN ID:r9VwiEzKO
その後山田泰蔵と運命の出会いを果たすのである。
780名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/07(水) NY:AN:NY.AN ID:cbHN2xtHO
空腹に耐え兼ねてお皿舐めたりしてたら頭ひっぱたかれたって話なら聞いた。
児童相談所に行くように勧めた。
781名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/08(木) NY:AN:NY.AN ID:hEJrJnlA0
戦前はニコライ堂が目立ってた
782名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/08(木) NY:AN:NY.AN ID:2bepEBxN0
中卒で働くのが当然だった。なかなか高校、ましてや大学なんて行かせてもらえなかった。
昔の人で、大卒は、そうとうなブルジョアや。
783名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/10(土) NY:AN:NY.AN ID:Q7Vqt7dM0
いつの話をしてるのかわからんが、戦前の中学は今で言う高校
たいていは高等小学校どまりだ
784名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:SwGWa+/f0
戦前の帝大医学部は、卒業するだけで医師として認められ、国家試験は
無かった
大叔父は国内の帝大医学部を卒業したが、その母方の従兄弟は台北帝大の
医学部を卒業した。しかし戦後日本の厚生省は「外地大学医学部出身者は
医師とは認めない」という政策を取った。それで戦後苦労した人は多く
大半は製薬会社や看護学校の教師になったらしいが、モグリの医者となった
人も多く、健康保険制度が充実した昭和30年代中盤までは「堕胎」や
「怪我を負った犯罪者」の治療を専門としていたらしい
中には「人助け」を目的にした人も居た。特に堕胎は「正式には認められない」
訳で、三業地には、そういった複数の医師が控えていたらしい

それと大叔父の話では、戦前の「外科の手術」は、タイル張りの手術室で
「高足駄=高下駄履き」で行ったと。帽子・マスク・ゴム前掛けは当たり前だが、ズボンは
自前だったとかで、体操用の綿のズボンを古着屋で買い、それを使ったと
言っていた。盛夏の手術は、患者だけではなく医師にも辛く、窓を開放して
(???)ゴム前掛けの下は「褌一本」だった事もあったと・・・万が一に
備え(各種感染症予防?)性器には「突撃一番=コンドーム」を被せた事も
あったと・・・思うに梅毒を想定した事なのだろうが、三船敏郎主演の「静かなる
決闘」は、まんざら創作ではないものと思う

美容整形外科・精神神経科のDr意外には、畏敬の念を禁じえない
785名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN ID:SwGWa+/f0
医師だった大叔父は、家が決めた女性とは結婚せず、妹の同級生だった
深川・木場の娘さんを嫁にもらった。自分は祖父とは縁が薄く、大叔父夫婦には
可愛がられ、子供の頃は大叔母の実家へも遊びに連れて行ってもらった

夏祭りに行くと若い衆と銭湯に行く事があり、彼らの刺青が珍しく
隅々まで観察し、小学校の夏休みの研究課題にしようとさえした
(母に止められ、実現はしなかった)

何人か目立たないところに「小さな金魚」を彫っている人間がいた
不思議でならなかったが、成長してからやっと「煮ても焼いても食えない男」
という意味だと知らされた

昭和30年代初頭「マンボズボン」が流行った頃大叔母が「不思議だ
流行は繰り返すんだわ」と言った。後で聞けば大叔母が子供の頃、木場の
若い衆達は「股引=ももひき」を穿いていたが、足に張り付くように
仕立てさせたそうで、脱ぎ穿きにも苦労するほど窮屈なものだったらしい

特に「廓」へ行く際は床屋と銭湯へ行き、体の隅々まで洗い。切りたての
晒木綿の下帯を身につけ、店の法被・細身の股引・小さめの雪駄に小さめの
紺足袋で行くのが決まりのスタイルだったらしい。木場の若い衆は女郎衆に
大層モテたようで、廓の人達に渡す祝儀等は、女郎衆が挙って「身銭を切って」
くれたらしい

そんな人たちも、大半は兵士として戦場で亡くなったらしい。自分が逢った
「若い衆」達も、事故で亡くなったり女性に刺されたり、借金が重なり
蒸発したりと、誰一人残ってはいない

お盆に「迎える人も居ない・帰る家も無い」霊は、どうされるのだろうか・・・
786名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/12(月) NY:AN:NY.AN ID:CHTHRfE/0
俺の曽祖父は播磨の田舎にいたが
旗振り通信による米相場にはまって没落した。
787名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/12(月) NY:AN:NY.AN ID:+7CPFQKT0
>>785
今のような家が個別で供養をするのは江戸か明治か、比較的新しい風習。
昔だと合同葬や無縁仏のような共同墓地とかも多かったしさほど気にされてないだろ。
まして、転生の概念もあるからいつまでも霊を弔ったところで肝心の当人は
すでにそこにはいないかもしれないしな。

このスレの範囲であろう、江戸末期から昭和中期くらいであれば
ほんとに単純な無縁仏や弔いさえない不明者だろうね。
788名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/13(火) NY:AN:NY.AN ID:bLudG6Kn0
大叔父は車好きで、子供の頃は自宅近くを走る車の車種を当てるのが
自慢だったらしい
戦前の東京で最も高額だったのは、天皇家の御料車ロールスロイスだった
そうだが、その次に高額だったのは、アルゼンチン大使館のイスパノ・スイザ
だったらしい。英仏独米何れでもなくアルゼンチンというのが意外だったが
何かの本で読んだが、1930年頃の大西洋航路の客船で最も良い部屋を使い
金庫室を借り切る程のビジューを持ち込んでいたのは、アルゼンチン人だったと
そうだ
789名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/16(金) NY:AN:NY.AN ID:VZ4nwNHQ0
今では想像しにくいが、アルゼンチンは第一次大戦で欧州への穀物輸出で
ボロ儲けして、1920年代は1人当たりGNPで世界トップグループだった
当時の金持国家

ブエノスアイレスに行くと、コロン劇場とか
20世紀初頭の穀物バブルの名残の豪華な建物が所に残っている。

スペインの旧植民地で、本国との繋がりが強い國だから、
やっぱりイスパノ・スイザだろうな
790名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/16(金) NY:AN:NY.AN ID:UZPqTENdO
戦時中も田舎は食うには困らなかった。
しかし都市部から疎開してきた子達はいつも腹を空かせていたようで
学校ではしょっちゅう地元っこの弁当が盗まれていた。
@昭和11年生まれの親父談
791名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN ID:VXgH4qVX0
お盆に集まった親戚達から、様々な話をを聞いた
@昭和20年代末の、JAL近距離国際線機内で提供された機内食は
コールドミートが主で、チキン・ハム・サーモン・シュリンプ等に
パン類が付いていただけだった。当時スチュワーデスだった大叔母は
「バットが4つくらいあって、それぞれ何種類かの料理が載っていて
一々長方形の皿に、お箸で盛り付けて配膳していた。面倒だった
太平洋線はホットミールだったが、オーブンの性能が悪く、生暖かい
中途半端な食事だった」と言っている
A同じく大叔母曰く「戦前は写真の修正などは当たり前だった。特に肌や黒子を
修正するのは必須だった。ネガに一々細かな筆で修正を加えていたらしい
戦死した兄の写真などは、眼まで修正されて凛々しい顔に修正された。評判が
良い写真屋さんは、修正が上手い技師さんがいるお店だった」
B同じく大叔母曰く「昭和30年代中盤、大阪市内から伊丹空港への交通が不便で
阪急電車に乗らない身分の人たちは自家用車を使っていたが、結構時間が
かかるので、一時中之島から伊丹空港へヘリコプターの定期便がが飛んでいた
一日何便かあったように思う。所要時間は15分か20分程度だったと思う
乗った事は無いが、お客様が「揺れて怖い」と仰っていたのを覚えている
高額だったせいもあり、1年程度で運行停止した。ヘリポートは、確かビルの
屋上にあったはず」と言っている
C大叔父曰く「初めて車を買った昭和30年当時は、国産車の新車は工場渡し価格での
契約で、運送費が別に掛かった。時計・ラジオ・ヒーターが付いていればOKだった
スペアタイアや工具も別料金だったと思う」と言っている
792名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN ID:Sv/EEF1o0
閑話休題
* 現在は大学卒業者を「学士」というが、戦前は「帝国大学卒業者」のみを
  学士と称した
* 昭和40年頃までは、見合い結婚に際しては「お互いの健康診断書」の
  交換が「普通の事」だったらしい。それに加え女性は「純潔証明書」という
  文書を用意するのが「最高の準備」だったらしい
  純潔証明書が準備できないという理由で、破談になるケースも多かった
  らしい。これは戦前性病が蔓延し、徴兵に際しては必ず検査をされ
  入隊後に罹患した場合は治療はうけられるものの「不名誉除隊」となるのが
  通常で、そうなると「まともな結婚」は望めなかったらしい
  それが戦後派「野放し」となり、本当に性病が蔓延し、上記のような風習が
  できたらしい
* 女性の着物は、今でも「帯の絞め位置」で年齢の見当がつくが、昭和の初め
  頃の未婚の女性は「胸の膨らみを抑える」位置で帯を結ぶのが基本だったらしい
  大叔母曰く「昔の着方だと、着物を着てから足袋を履く事ができた。今は
  帯が位置的に下だし、足袋を履いてからでないと着物は着られない」という
* 大叔父曰く、昭和10年頃昼間の銀座を歩くと「物凄く五月蝿かった」と
  理由は「歩く人間の下駄の音がゴーッと地響きのような騒音だった」らしい
  草履を履く人もいただろうから、そんな事もなかろう・・・と思っていたら
  兵庫県城崎温泉で、夕食後の外湯巡りに出かけたら、各旅館から出てくる
  宿泊客の下駄のカラコロという音が本当に五月蝿く、大路の話は本当だと
  認識した  
793名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN ID:vqLAS/Hx0
>>792 帯の位置は江戸時代はもっともっと低かった。
胸高に着つけるようになったのは昭和初期からの習慣。

明治の写真でも帯の位置は低い。
794名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/23(金) NY:AN:NY.AN ID:hmWFSHiA0
大叔父の話・・・
大阪万博の頃までは、遠方・長期間の旅行には「郵便局の通帳と印鑑」を
持参する事が多かったらしい。都市圏では、やっとクレジットカードを
使える飲食店等がチラホラ見え始めた頃だとかで、その発行も基準が
ハードな為、とても一般人が持てるものではなかったらしい上、県庁所在地を
出たら「ただの樹脂製カード」になってしまうという「無用の長物」だった
らしい
その「郵便通帳」は、全国津々浦々での出金が可能で、上記の通り「旅行には
必需品」だったらしいが・・・オンラインが普及していない時代、通帳の印字が
何よりの証拠と考えられ、印影が合致すれば余程の高額・口座解約でもなければ
郵便局は払い出しに応じたらしい(ルール上は、基幹局に問い合わせる必要が
あったらしいが、残高に見合った引き出し額と判断されれば、そのままスルー
だったらしい)

そこで以下のような犯罪が大量に発生したとの事だ
*通帳の印字を、ボールペンで再現できるように訓練した人間が、偽名で
作った郵便局の通帳に、数回分の「入金」をボールペンで記載し、残高を
「数百万単位」に偽造した上で、田舎の郵便局で「その一部数十万から百万
程度」の払い出しを依頼する

払い出し依頼の記入用紙が「照合」されるまでには一週間程度はかかったようで
防犯カメラも無い時代、犯人のモンタージュも不完全なものになり、ほとんどは
逮捕されなかったらしい。その口座番号が「通達」で各郵便局に届くまでに
また数日必要で、届いた所で窓口で一々チエックはできなかったらしく、二度
三度と同じ口座番号が使われたらしい

あまりの詳しい話に大叔父が実行犯ではないか?と疑い問い質した所
幼馴染の家が開設していた特定局で「通達を見落とした出金」をしてしまい
その幼馴染が「自殺」してしまった事があったと・・・
どうも「賠償」が必要だったらしく、その債務と責任感に押し潰されたのでは
ないか?との事だ

ほんの50年程前の話らしい
795名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/23(金) NY:AN:NY.AN ID:hmWFSHiA0
大叔母の話
大叔母は「安物だけどお気に入り」を「グリコのおまけ」と表現する
昭和の初め木場の問屋に生まれた大叔母は、今でも「衣装道楽」で
先日も秘蔵の宮古上布を地味に着ていた

そんな大叔母の新婚時代、昭和30年頃の話だそうだが、新妻の嬉しさから
若奥様然とした衣装でデパートに出かけた時、エレベーターを降りて呉服売り場へ
行きかけた時、店員が驚いた顔で「奥様・・・帯が・・・」と素っ頓狂な声で
声をかけてきたと。大叔母は俯いて帯を見たら・・・

有るべき筈の「帯留」が無く、帯締めが2箇所切られ粘着テープのようなもので
止められていたらしい。想像するに「帯留」を押さえ両側を切り、それをテープで
止め、落ちる帯留を盗み去ったのではないかと思う

ところがその「帯留」は、大叔母が言う所の「グリコのおまけ」で、帯が大層気に入りの
昭和の初めの「本物の通風織」の帯とかで、戦後は技術が廃れた品物らしく
切られた補修に「江戸褄一枚分」かかったと言う
大叔母曰く「今でも悔しい。欲しいと言えばあげたのに!!!」と怖い顔をする
自分がつい「昔は、そんな名人級のスリが居たんだ・・・」と余計な事を言った為
貰える筈の物が貰えなくなってしまった。口は災いの元とは良く言ったものと
反省している
796名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/24(土) NY:AN:NY.AN ID:9rur1zQp0
どうでも良いが・・・
年寄りの話はどうも「想像・願望・誇張」が入りやすいように感じる

耳にした例としては・・・
*自分の家は昔は資産家だったが、戦後の農地解放と放蕩で破産した
→ 集落の旦那寺の「檀家総代」になった過去も無く、墓地も水捌けの
  悪い場所を宛がわれている。昔から「普通の家」だったと思われる
*自分の祖母は戦後物の無い時代に、羊羹を作って売り出したら評判が
 良く、一流の料亭さんが競って買ってくれた
→ 小麦粉とサッカリンを沢山使った丁稚羊羹を、人の家の勝手口を回って
  泣き落としで買ってもらっていたと、別の人から聞いた
*自分の先祖は、人から頼まれると嫌とは言えなかった事が原因で破産した
→ 昔の資産家なら「優秀な子供に学費を援助する」とか「学校に寄付する」
  とか「橋を作る」とか、何らかの形・話が残っていそうに思う
*明治時代に嫁いできた先祖は、長刀と朱塗りの風呂桶を持って来た
→ 直火の風呂が制限された江戸ならいざ知らず、朱塗りの風呂桶など
  何の役に立ったのだろうか?長刀まで持って来た女性が、その後は
  何の逸話も残さず、そのまま大人しく平々凡々の人生を送ったのか?

年寄りは「疾患・医師の身分・最先端の手術・孫・嫁・息子」何でも
自慢の種にしたがる。自分は「特別」と思いたい。「特別」として扱って
欲しい。はいはいと話を聞いていると、あまりの自己顕示欲に呆れる事がある
797名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/24(土) NY:AN:NY.AN ID:9rur1zQp0
高齢の皮膚科Drから聞いた話・・・
梅毒は皮膚科でも診察するが、江戸の昔は「瘡=かさ」と呼び
「瘡持ち=遊び人=瘡が怖くて遊べるか!!!」という状況だったらしい
梅毒はキスだけでも移る感染力が強い疾患だそうで、性交以外で罹患する
機会はそこそこあったらしい
「でも免疫があるのか、梅毒に罹患しない人間が居る」と
そうでなければ人類は「とうの昔に絶滅している」と言っていた

それと「淋病」を花柳界では「浜千鳥」と言ったと。それは「海見て鳴く
=膿見て泣く」の掛け言葉だそうだ

そのDrが初めて「バイリンギャル」という言葉を聞いたときには
「梅毒・淋病両方を罹患した女性」だと思ったと・・・

Drには是非長生きして欲しい
798名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/25(日) NY:AN:NY.AN ID:uqTsjimE0
799名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/25(日) NY:AN:NY.AN ID:BZfBOHG20
>>798
二・二六事件の時、父親は満州在住で10歳だったがその婆さんは
二・二六事件起こした青年将校に肩入れして応援していたが、
爺さんはそんな婆さんを窘めていた、と言っていた事を思い出した。
800名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/25(日) NY:AN:NY.AN ID:BZfBOHG20
>>799
あ、間違ってるスマンorz

× 父親は満州在住で10歳だったがその婆さんは
○ 父親は満州在住で10歳だったがその母親(俺の祖母)は

爺さんはそのままワタクシの祖父です。
801名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN ID:JgaTQBNMO
信じられないけど、今でいう部落差別が普通にあった。
虐げるとかいう発想じゃなくて、そういうものとしてまかり通ってたって聞いてビビった。
だからひいばあちゃんは普通に「エッ○さんこんにちは〜」と挨拶してたり、貧しいからと食べ物を分けたりしてたんだって。
もちろん言われる側、貰う側がどう捉えてたから分からないが、今じゃ狂気の沙汰。
802名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN ID:gxh730KN0
>>801
>虐げるとかいう発想じゃなくて、そういうものとしてまかり通ってた
いわゆるエタ・ヒニンとかの系譜だろうね
彼らは彼らで専用の仕事があったし、社会にとって要る存在でありつつも
身分制度としては下として扱われるっていう
803名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN ID:ib6Ez6Gs0
祖母が早死して曾祖母に育てられた父が聞いた話。
代々京都の職人家系のだったので当時も京都在住で、昭和天皇の即位の時、裁縫の上手い曾祖母は晴れ着を新作を多くの人に頼まれて即位直前はずっと徹夜だったそうだ。
そういや私の子供の頃も正月に新しい服をおろす習慣はまだあったな。と、ちと思い出した
804名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN ID:Q3lKSwhI0
何が驚いたって>>802のレスに一番驚いた
誰もが知っている話を平気で解説できる神経は普通じゃない
>>801
ウチのじいさんは今でも「おう、四つ」とか「ようチョン公」と古い友人を呼んでるよ
その友人達は傷痍軍人のウチのじいさんを「かたわ」と呼んでる
感覚的には屋号で呼び合うのに近いのかもしれない
805名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:Tnm71Wcm0
>>791
当時の写真はいまでいうゴーストとかゴミや光の加減で変な影や点が多いので修正しないと
「本当の姿」にならない
サービスとしてその修正技術をつかって美男にしあげるんだがw
それはもう写真業成立時からの常識
806名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:iPDdGpvv0
有名な例では中原中也の帽子の写真は目がかなり大きくなってるらしいね
本人はあんなに美少年ではないそうだ
807名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:BL1WWsnw0
車好きの大叔父の話
昭和30年頃道路交通法が変わったと。何が不便といって、駐車違反と
「反対車線への停車禁止」だと。現在ならUターンしなければならないが
当時は「反対車線を横断する形で車を進め、右側通行のように車を停める」
事が可能だったと。右ハンドルだから降車しやすいなあと答えたら・・・
ベンチシートのコラムシフトだから、左右どちらにも降りられたから
関係無いだと

それと当時の車はシートがビニールで、縫い目から破れる事が多く
内装修理専門の業者がいたと。外がツートンなら、内装もタータンと
ホワイトとか、同系色でオーダーするのがお洒落だったと
ドア内張りも「熱でテレテレになって、ブカブカ浮いてみっともなかった」から
同時にオーダーする人が多かったと。それとBピラーには花瓶を付けたり
フロントグリルに馬蹄を飾るのも流行ったと
「あの時、車なんか買わずに家でも買っていたら・・・」と大叔父は後悔しているが
車で散々悪さをした人間が、何を抜かすかと思った
808名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:F6mXhB5b0
友人のお婆さんが、関東大震災の時に
朝鮮人が悪さをしたとの情報と実際に
暴れていたため、警官が鎮圧していたとかね!
809名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/30(金) NY:AN:NY.AN ID:/N5DTMuyO
昔から朝鮮叩きが好きな奴が頭すっかすかでよく燃えたんだってw
810味噌:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:HpXclTrW0
うーん朝鮮関係はあれるなぁ

じゃあ我が家の話
爺さんは当時の大卒で朝鮮人工夫のまとめ役をやってたんだが出稼ぎ労働者は給料をばくちや酒に使ってしまう
その原因の一つが「銀行口座をもてない」こと
日本語ができないから口座が開けなかったそうな
そういうわけで日本語で口座開いてやって爺さんが故郷に送金してやったそうな

また使用人に元ヤンバンの夫婦を雇ってたんだが俺の親父が悪がき連中と一緒に
「柿を盗みにいこう」とヤンバンの息子誘ったら拒否して
「さすがヤンバン」と思ったそうな
我が家も普通に武家の家柄なんだけどねw

その使用人の奥さんが戦時中妊娠してて毎日お腹に米を隠して持ち帰るという横領してたが
黙認してたそうな

その関係で親父の「お袋の味」は使用人の朝鮮人の味で
いわゆる「水キムチ」という朝鮮宮廷料理がすきだった

具ぐるとわかるが唐辛子を少ししか使わない
そういうわけで30代の俺もあまり辛くない宮廷料理のキムチが「お袋の味」

内の家では朝鮮が過剰に民族的なのはしょうがないという風潮が主流だった
朝鮮は圧倒的下位の存在であって日本人が朝鮮を反日感情含め「許す」のは上位の国として当然と思ってた

最近の所謂「ネトウヨ」層はそういう風潮があったことを理解してほしい
811名無しさん@お腹いっぱい。:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:6QtlFBLpO
そういう肌感覚はネットでは味わえないからね。
自分も知り合いに在日の人いるけど、とっくに帰化して普通の日本人になってて反日も在日も全く感じないんだよなあ。
ビビンバと盛岡冷麺は大好きだ。
812名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/01(日) 17:04:47.36 ID:vO3U4cdC0
先日機嫌を損ねてしまった大叔母に、好物持参でご機嫌伺いに出向いた
そこで聞き出した話・・・

*チップ・心付け
今日本では「チップ不要」が当然で、外人が感動する事頻りだが、実はつい最近まで
日本も「心付け必須」の国だったと・・・

@戦前の映画館(日比谷・有楽町辺りの映画館の事で、浅草・新宿等は除く)には
一等席二等席があり、座席指定の前売り券があったそうで、当日「座席の変更」が
可能だったと。それを「お直り」と称したそうで、入場後にカウンターがあり
美人係員が対応していたと。その際も「心付け」を紙に包んで渡すと、良い席を
宛がってくれたと。顔馴染みになると「お得意様用パンフレット」も提供して
くれたと

A戦前の寝台券・特急券は「二重売り」が発生したそうで、必ず「予備席」を
準備していて、列車ボーイがその差配をしていたと。事情通は寝台料金未満の
チップをボーイに渡して、無料で寝台を使っていたと
列車ボーイは寝台の設営・湯茶のサービス・電報の仲介・朝刊販売・弁当の
代理購入等、様々なサービスをしてくれたそうで、チップの有無でサービスに
差があったと。チップ無しだと、いい加減な寝台設営・ぬるいお茶・弁当売り切れ
読み古しの新聞等が宛がわれたと

B東京の主要デパートには必ず「貴賓室」があり、皇華族が来店の際に応接をしていたと
それも何室かあり、上下の等級があったと。最も低い貴賓室は子爵男爵クラス用とされていたが
そこへ入れば「お買い上げ」が必要となり、実際には低い子男爵用貴賓室を使う華族は
ほとんどいなかったらしく、一般平民の上得意用になっていたと。ただその際は「熨斗袋」を
ばら撒く必要があったとかで、茶菓を運ぶ女性に熨斗袋・クローク係に熨斗袋・その階の
エレベーター係に熨斗袋・・・田舎から出てきた知人を連れた富裕層とか、華族の縁続きを
装う見合いの席などに使われたと

思うに昔は「給与」が安く「役得」がなければ生活できなかったのかもしれない
富裕層は「それなりの経済的負担が必要」とされたのだろう
813味噌:2013/09/01(日) 19:29:45.75 ID:qU2fBBmv0
今でも歌舞伎や相撲観戦には5千から1万近い「ご祝儀」を渡す場合があるね
そういうわいろというか挨拶料は昔は必須だったんだろう
814名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/02(月) 02:48:57.74 ID:ujSCq5Ku0
木場から嫁いだ大叔母と、亡くなった祖母の法事の話をしていた際に聞いた話

あまり気持ちの良い話ではないので、ご了解願いたい
大叔母の実家は葛西に小作さんが居て、小作料とは別に野菜や米を届けてくれたと
その際毎に様々な話をしていたそうで、店の若い衆との猥談などもこっそり聞いて
嫁入り前には一通りの知識はあったそうだ

その中で葛西の海岸に流れ着く「水死体」に関しての話題があったと
江戸の昔からのしきたりで、女の場合は何もせず、男の場合には下帯を確認し
練絹・羽二重であれば筵を敷いた上に寝かせ、顔を隠すように筵を掛けたそうだ
木綿物の下帯や刺青者は、女と同様なにもせずそのままにし、警察に通報した
そうだ
それが漁師のしきたりになると、そのような風習は無く、海上で見つけた水死体は
必ず港まで連れ帰ったそうだ

大叔母曰く、どうも農家は漁師を見下していた?ような感じで、漁師は素っ裸で
漁をしている・・・などと話していたと。大叔母の妄想・勘違いかと思っていたら
何と事実らしく、九十九里方面では漁師を「舟方=ふながた」と呼び、ほぼ全裸で
あったらしい。それが戦後まで続いていたというから驚く

古い話を聞いてやると、大叔母は大層喜ぶ。時に上記のような「はしたない」話も
出てくるが、それそれで面白い。これからも色々聞いてやりたい
815名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/02(月) 03:45:36.78 ID:ujSCq5Ku0
思い出した・・・
正月に大叔母から聞いた話だ
昭和15年に「贅沢品禁止令=奢侈品等製造販売制限規則」が発令された際
大叔母の祖母が「石鹸・蜂蜜・藍染木綿」を買い溜めたと。元は衛戍病院の看護婦だった
人らしく、衛生面の観念がシビアな人だったらしい。一般の奥様方は「反物・帯地
綸子白絹・足袋」を買い溜めたらしいが、大叔母の祖母は、石鹸・蜂蜜・藍染綿布を
買い溜めたらしい

砂糖とかの方が良かったのでは?と尋ねたところ「砂糖は湿気に弱い」とかで「蜂蜜は
腐らないし薬になる」という理由で、一斗缶を80も買ったと。洗濯石鹸は1000個も
買い溜めたと
若い衆の面倒を見なければならない事から、衛生面=洗濯石鹸を連想したらしい

それが戦中戦後大層役に立ったらしい。葛西の小作さん宅も男手を取られた上
米の供出も厳しく、小作料も免除させられた為、世間一般と同じく「買出し」に
出かけなければならなかったが、その際「洗濯石鹸一個」が米一升になったと
蜂蜜も、三合徳利一個で米一升になったと。若い衆用に買い溜めた藍染木綿も
とても役に立ったらしい
その他の例では、電球なども民間用には供給が途絶え勝ちで、切れた電球を持参する
「交換販売」になり、その内全く供給されなくなり、一個の電球を「台所から風呂場
風呂場から居間」と付け替えるような状況だったと
戦時中を舞台にした映画などで、各部屋に電球が付いているのは「有り得ない話」だと
大叔母は言う。そんな電球の入手にも「石鹸」が威力を発揮したらしい

大叔母の祖母は戦争を生き抜き、昭和23年に亡くなった
洋装で颯爽と衛戍病院に通勤していた事が、自慢だったらしい
2047年に、100年の法事を行う事ができるのか・・・多分無理だと思う
816名無す@西蒲原:2013/09/02(月) 13:52:58.25 ID:wu1H9gwu0
九十九里の漁師の話が有りましたが、海人たちは、女は褌だけ、男は縄で珍棒を縛ってたそうです。その格好で一緒に浜辺の焚火に当たって、エロ話をしていたそうです。それを見て東京あたりでは、千葉の女はスケベだと言われていたそうです。
この話自体は、大昔の新婚さんいらっしゃいで見ましたし、昔あったアサヒグラフみたいのでも、そんな焚火に当たる写真を見たことがあります。
817名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/02(月) 20:34:52.73 ID:yt05licW0
>>814
九十九里では漁師だけじゃなく浜で荷揚げを手伝う嫁や母も全裸だった
記録を見る限り少なくとも昭和30年代までは裸
818名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/02(月) 20:35:56.94 ID:yt05licW0
>>816
被ったゴメン
819名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/02(月) 23:37:52.98 ID:iUqY8rlY0
820名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/02(月) 23:54:45.06 ID:sIpM1cKw0
大叔母との話
昭和の中頃までは、大きな銭湯には必ず「三助」がいたと。落語などにも
登場するし、職業としては認識していたが・・・

大叔母の実家の木場では、若い衆の数も多く「内風呂」は家族のみで
家と店の使用人は、銭湯に行かせていたと。それが息抜きにもなり
買い食いなどしなければ、多少帰宅が遅くなっても文句は言わなかったそうだ
注)買い食いは、店での食事が不足していると噂が立つのを嫌った事と
  衛生面の用心だったそうだ
銭湯で三助を頼むのは、既婚者(男女共)が主だったらしいが、女湯の三助は
女性に人気が出るように「清潔感のある役者のような男」を配置する事が多かった
らしい。そんな三助が「不恰好を仕出かす」と、直ぐ様「お暇=解雇」になったと
不恰好とは「男性の下半身の変化」を指す言葉だったそうだ。それを嫌って、ゴム製の
下着を身に着けた三助も居たらしい
お客に欲情するなど、とんでもない事という論法らしい
大叔母の家の近くに「良い男」と評判の三助が居たそうで、大層人気があって
贔屓にする人も多かったらしい。不始末を仕出かす事も無くしばらくは真面目に
勤めていたらしいが、ある時大叔母の店の若い衆と、亀戸の宿で心中を図ったと
同性愛であったらしいが、外聞を憚って、それぞれの田舎にこっそり帰したらしい
女性に刺されたり博打に狂ったり、色々な人間が居たらしいが、流石に同性間の
心中は「トップシークレット」だったらしい

大叔母曰く昔は「役者のような良い男」は呉服屋へ奉公に出すのが一般的だったと
それが戦後は「デパートの外商・外車のセールスマン」に替わったと言っている
821名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/03(火) 05:13:23.96 ID:3cfBzuy4O
母方祖父が戦前の高等学校を卒業していると自称してて
当時としては高学歴なんだぞと自慢していた。
農家の田舎の爺さんだと思ってたけど賢いんだなぁと思って
よくよく話を聞くと「高等小学校」を高等学校と称しているのに気づいた。
822味噌:2013/09/03(火) 09:31:34.76 ID:2n8O9crD0
女学校が女性の高学歴かなぁ
女学校でたら代用教員といって小学校の先生になれたな

デパートの外商は確かに美男美女だね
というかデパートは全部そうかな
823名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/03(火) 14:34:21.08 ID:NcPRS8yj0
昭和の初め、新聞は連日こんな広告で賑わった。
「男児至急差し上げたし。生後一カ月。体健。血統保証」
「女児譲りたし。生後二週間。健全。極美。両親共高等教育有り。慈愛深き方に」
堕胎が禁じられていたこの時代、登場したのがもらい子商売であった。

昭和8年、ある男が殺人罪で捕まった。
彼は一年間に25人の乳児をもらいうけ、その25人をことごとく絞め殺し、養育料を稼いだ。
養育料は一人につき120円〜200円。

昭和5年4月、東京・板橋で、子殺し団が捕まった。
彼らは紡績工場の女工が産んだ子を50円から100円の安値で引き取り、次々と殺した。
その数は一年間で30人。死骸は私立医大に解剖用として売っていた。

ある神戸の三味線師匠の女は、もらった子を自分の変態趣味の犠牲にした。
4つの子を170円でもらいうけ、芸者に売るつもりで三味線を教えた。
子どもが間違えると針や火箸で折檻したが、それが病みつきになり、この子が保護されたとき、
陰部周辺に27カ所、背中に30カ所の傷がつけられていた。
824名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/03(火) 22:02:13.09 ID:s8v0TQ8Z0
大叔母から電話があり、他愛無い会話の中で・・・
最近の着付けには、色々お道具が必要なようで
見た目はスッキリしているけれど、着心地は悪そうだという話から・・・

実は昔も「お尻に布団を巻いて」着物を着る人は存在していたと・・・
着物は臀部が大きくないと「後姿が美しくない」とかで、襦袢の下に
「尻を強調するような」空豆型の小さな布団を巻いていたと・・・
昭和10年代初頭には、ごく普通の事=常識的工夫 だったらしい
「ほら、あたくし腰下が長くて、スラッとした洋装が似合う体形だから・・・」だと
背が低い人用には「足袋の中=踵部分に入れるゴム製のヒール」などもあったと
「あたくしには必要なかったけど・・・」だと。その頃はまだ子供だったはずが
女の見栄張りには驚くばかりだ
825名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/03(火) 22:19:51.82 ID:s8v0TQ8Z0
大叔母が尋常小学校低学年の頃だから、昭和の初めの事らしい
ただこれは大叔母の勘違い?ではないかと思うが・・・

祖父母(私からすれば、義理の「高祖父母」)に連れられ、堀切へ菖蒲を観に行った帰途
馬鹿でかい茅葺の家に立ち寄ったらしい。お子様の居られないお宅だったらしく
歓談の邪魔にならないように、中年の女性が遊び相手となってくれたと。その際大叔母が
尿意を催し、お手洗いを拝借したそうだ。畳の廊下が続き、手水鉢がある土間が付随した
二畳程の小部屋の奥に「香を焚いた畳敷きの個室」が二つあり、大小用に分かれていたいたらしい
用を済ませ小部屋に戻ると、壁に木製の突起が二個並んでいたと
何かと思って見上げていたら中年女性が「あれは、お刀掛けですよ」と教えてくれたと
「昔、お侍さんが来られた際に、あそこへお刀を掛けてから、入られたんですよ」と教えてくれたと
チャンバラが大好きだった大叔母としては、刀・お侍の言葉だけで興奮してしまい、近くで観たいと
中年女性に抱っこをせがんだそうだ。中年女性が疲れたと言うまで、その突起を弄繰り回していたと

自宅に帰ってから、自分の木刀(???)を壺に入れるのが嫌になり、雑用をしてくれていた御爺さんに
「刀掛けを作って!!!」とねだったそうだ。そんな願いが叶う訳も無く、しばらくは泣いたり拗ねたり
部屋に閉じ籠ってみたりしたらしい

大叔母に「香を焚いた畳敷きの個室」に驚くのではないか?と尋ねたが、それには特に驚かなかったと・・・
後で祖父母に「上の厠=かみのかわや を使わせていただいた」と聞かされたらしい

注)関東大震災以後の事で、廃刀令以前の茅葺家屋が無事に残っていたとは考え難い
  倒壊した家屋と同様に「建て替えた」というのも奇妙に思う
  多分これは大叔母の「勘違い」だと思う
  
826名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/03(火) 22:26:40.49 ID:s8v0TQ8Z0
この「馬鹿でかい茅葺の家」には、もう一つ思い出があるらしい
大叔母が中年女性と「かくれんぼ」をして遊んでいたら、来客用の座敷近くの和室に「ど〜ん」と大きな箪笥が
二棹並んでいたらしい。それがピカピカに磨き上げられており、とても良い香りがするので、大叔母はその前で
動けなくなってしまったらしい。直ぐに中年女性に見つかり「これは下され箪笥ですよ」と教えられたと
それは「進物をいただいた際、その額に応じた答礼の品=引き出物を準備しておく箪笥」だと教えられたと
それでも香りが気になり、その場を動かない大叔母に、中年女性は箪笥の下の段を開けてくれたらしい
そこには反物や白生地が沢山入っていたらしい。しかし大叔母の身長では二段目は覗けず、またもや抱っこを要求し
中を覗かせてもらったらしい。そこには、包装された小さな箱が沢山入っていて、良い香りの「元」だという事が解ったらしい
中年女性が引き出しから「箱入りの千代紙」を出して、大叔母にくれたと。それにも良い香りが移っており
大叔母は喜び勇んで祖父母の元に駆け戻り、その余りの無作法を祖父母に叱られたらしい

その後しばらく大叔母は「刀掛けと、下され箪笥のあるお家へ行きたい」と駄々を捏ねたらしいが
その後に行った覚えは無いと言っている

注)御隠居所のようなお宅をお訪ねしたようで、来客が多いとも考え難く、これも大叔母の「勘違い
  混同」のように思う。
827名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/05(木) 08:58:09.51 ID:gVK3MMUmO
ヤクザが街にヤクザとして普通に住んでいた。
着流しやらいかにもといった作業着で歩いていたそうだ。
それで何となく住み分けは出来てたから特に困らなかったと。
ヤクザ あつう 根性焼き でググれ
828名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/05(木) 19:38:16.08 ID:FdQye1Wu0
暴力団と任侠は違うんだが、戦後になって任侠が廃れてしまったのと入れ違いに
在日が暴力団としてやくざ家業の主役となっていった
829名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/05(木) 22:55:59.55 ID:OkS7ihSz0
ヤクザには博徒とテキヤなどがいたがそれにマフィア化した愚連隊などが混じったのが戦後ヤクザ
830名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/12(木) 09:24:52.20 ID:FdxKs62mi
>>826
なんで勘違い勘違い言うの?
831名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/13(金) 17:56:08.82 ID:1Hh0YyVTO
博打関係者が縄張りを設定してやってたのが、博打以外にも手を出して今に至ると聞いた。
832名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/14(土) 01:47:46.01 ID:T+lmUvxy0
>>830
その他の話も、時系列が混乱した内容が多いからです

大叔父の話です
最近はラブホテルがありますが、昭和40年頃までは「連れ込み宿」は
あったものの「手軽に済ませる」場所は無く、屋外で済ませる事も多かったと
しかし「連れ込み宿」より手軽な場所として「鮨屋の2階」というものが
あったそうです。本来は「会食用小座敷」なのですが、鮨代と部屋代を払うと
1時間ほど部屋を使えたそうです。形ばかりの不味い鮨とビール、座布団を並べて
行為に及んだそうです。お好み焼き屋の奥座敷・・・というのもあったそうです
お好み焼き屋に屯する「女性」が「相手をしてくれる」というシステムもあったそうです
833名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/14(土) 18:33:43.64 ID:enCZOyFJ0
江戸の風俗みるとソバや、うなぎ屋、茶屋などが今のラブホ兼ねてたな
834名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/14(土) 20:10:00.49 ID:T+lmUvxy0
大叔母の話です
体を露出するファッションが多い昨今ですが、昭和30年頃には「ナイロンブラウス」が
流行し、ブラジャーの上に「半透明のブラウス」を着ていたそうです。とは言えそれは
あくまで「休日の外出着」で、通勤には「そんなものは着なかった」と言います
ブラジャーは丸見えだったそうですが、当時は「ブラジャーそのものがお洒落」なもの
だったそうで、下着という感覚は希薄だったようです。必然的に「腋毛の処理」も必要となり
「お洒落にお金を掛けられる人」にしかできないファッションだったそうです

大叔父は昭和30年頃から「ナイロンブリーフ」を使用していたそうで、女性の前で脱ぐのを
意識した為だそうです。その頃は下着は「自宅で作る」のが普通で、下着にまでお金を
掛けられる人は「そこそこの収入がある人」だったそうです。銀座の東京温泉や錦糸町の
楽天地プールなどは、入場料が高かった事もあり、下着や靴にお金を掛けた人ばかりだったと
言います
835名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/15(日) 20:04:47.97 ID:ASHigrPB0
東京温泉で思い出した
大叔母の実家は年寄りが温泉好きで、昔から店の人間が怪我をしたりすると
「大旦那の湯治お供」を口実に、怪我人を療養に連れて行ったらしい
江戸の昔から湯治は「6泊」と決まっていたそうで、ゆっくり滞在するのが
大叔母の実家の慣わしだったらしい
大叔母やその兄は、それに着いてゆくのが楽しみで、女中さんも連れて
熱海や箱根へ行ったらしい
熱海は、帰京時や上京時の帰途に利用する人が多く、慌しい街で
ゆっくりもできず、箱根の方が多かったらしい
湯治に行っても編み物をしたり、浴衣を縫ったり、習字の練習をしたりで
ぼ〜っとしている事は無かったらしい
それでも夜更かしが許されたり、温泉場の華やかな雰囲気が好きだったようだ
836名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/15(日) 20:45:21.56 ID:ASHigrPB0
835の続き
温泉宿では他のお部屋をお訪ねしたり、夕食をご一緒したりといった
事から、色々な方とお知り合いになったと
大叔母は女中さんと、その兄は店の人間と一緒の部屋だったらしいが
夜になると、その女中さんや店員さんが部屋から居なくなる事があり
子供ながらに「逢引だな!!!」と理解していたらしい
そんな大叔母の兄は、12〜3才頃に宿の女中さんから「お持ち搗き」を
教わったらしい。戦後に初体験が話題になった際、大叔母の兄は「箱根の
女中さんに教わった」事が判明したと。きっと一所懸命搗いたのだと思う
837名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/15(日) 21:01:05.73 ID:ASHigrPB0
836
誤 お持ち搗き
正 お餅搗き
838名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/16(月) 00:15:34.66 ID:UhHPdf4o0
婆ちゃんが大阪の都島でカネボウの女工さんをやっていたんだが、給料日の週の休日は
同じ宿舎の女工さんと市電に乗って梅田や難波に遊びに行っていたらしい。
しかし心斎橋は女工さんごときが来るな、というオーラがあり行っていないそうです。
またカネボウの社員食堂はご飯とみそ汁は共通だが、おかずは大衆食堂のように好きなものを選んで
食うスタイルだったそうです。
839名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/18(水) 22:58:31.47 ID:a4C0n1GA0
下品な話題が多いな
それはそれで貴重ではあるが
840名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/19(木) 00:33:25.95 ID:87jvb5Nw0
家の倉には先祖代々の物が入っているんだが、祖母が女学生時代に愛読していた雑誌「少女画報」と吉屋信子の小説が出てきた。
こんな本
http://ec2.images-amazon.com/images/I/51lyE51ybpL._SL500_AA300_.jpg
旧字体で読みにくかったが、内容は、ミッション系の女学校の寄宿舎の女学生が、自らの過去の恋愛や性体験を告白しあい、最後は「キャハハウフフフ。駄目お姉さま」になるガチ百合の小説でした。
私の体には、変態の血が流れています。
ちなみに祖父は、日本共産党武闘派の戦士。
赤色ギャング団事件で服役。
日本共産党とレズが、どうやって知り合ったのかは、我が一族最大の謎です。
841名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/19(木) 04:48:24.88 ID:G9ZY2wDQO
悪さをすると爺さんから
「また爆弾が降るぞ!!ふみまろ!!」
と怒られてた。
ふみまろ!!が意味不明で、何かの語呂合わせだと思ってた。
842名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/20(金) 12:01:10.12 ID:8vtV1YSg0
大叔母様の話、もっと投下してけろw
843名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/21(土) 20:12:29.83 ID:Q2KDsAv50
>>840
変態の血ってwあなたも百合オタだったりするんですか?w
古い蔵がある家なんていいなあ
844名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/21(土) 23:05:02.00 ID:mtMm/USm0
終戦の頃の話を。
東京にいた俺の祖母と、岡山にいた妻の祖母では、終戦についての捉え方が真逆だった。

俺祖母(東京在住 終戦当時24歳)
昭和20年当時、今の北区に住み、勤労動員で工場で働いてた。(そのときの怪我で指が1本短い)
終戦までの半年は連夜の空襲警報。工場も中破、死者も出た。
「明日は死ぬんじゃないか」「もう負けだろう」「米兵が上陸したら山の中に逃げようか」と、憲兵の目を逃れながら同僚と休憩時間中にコソコソ話してたそうだ。

で、終戦となっても驚きはなく、「やっと終わったか」と「もう空襲はないんだ!」とほっとしたらしい。
負けて悔しいとかは全くなかったって。
あとは戦後の食糧難がとにかくつらかったと。
「長生きしたおかげでこんなにおいしいものが食べられる。あの頃は本当にひもじかった。」と、92の今でもビールがんがん飲んで食べまくってます。

妻の祖母(岡山在住 終戦当時19歳 女学校出で大地主のお嬢様)
農村に住んでいたので空襲の経験なし。
岡山市街は空襲があったそうだが、とのこと。
広島の隣県のため、知り合いの知り合いレベルでは、「広島でピカにやられた人がいた」と言ってた。

どういうわけか、勤労動員もなかったそうだ。
まあ近所に工場もないし、男手が出征してしまった農家の働き手、という建前なのか。
お嬢様なので農作業などしなかったそうだが。

そんな環境からか、最後まで日本は勝っているという報道を信じていた。
玉音放送を聴き、日本が負けたと知ったときは本当に驚いた、と言っていた。
農家で地主でもあるため、食糧事情は戦中戦後とも無双。
だからなのか、今でも好き嫌いがめちゃめちゃ多いのには驚いた。
お年寄りはひもじい思いをしてるから、何でも食べるものと思ってたので。

「国民は敗戦に涙し、打ちひしがれた」とか教科書には書いてあったが、場所や立場などによってそれぞれなんだな、と思いました。

教科書や一般的な書物にはない、生の人の声は貴重ですね。
皆様のカキコ、興味深く読んでます。
845名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/23(月) 00:30:27.19 ID:Oqdk3IhP0
ほう
846名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/23(月) 06:35:08.82 ID:u7WS8TtuO
ガストで食事してたら憲兵に捕まった。
そのままジョイフルに連れて行かれてボコられたらしい。
847名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/23(月) 07:41:15.68 ID:KbYfPrWn0
つまんね
848名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/25(水) 09:27:19.50 ID:tSxqOITL0
靖国に真珠湾攻撃の日に参拝したら会った元憲兵の話
自分もそうだが敗戦の日という負けた日に参拝するのはどうかしてるという意見だったw

憲兵ってのは巡査千人にあたる(盛りすぎだw)
巡査が解決できない騒動も憲兵はすぐ解決できる。解決できないと巡査が憲兵に助け求めた
憲兵は尉官が佐官なみ(これは他の人もいっていた捜査上三階級上の権限があったとのこと)
兵卒も圧倒的エリートで試験がとても難しかった

自分たちは特別に重要な仕事してる意識があったとのこと
849名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/25(水) 20:07:34.11 ID:Vi6n+kP80
うちの祖母は島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」で有名な信州の小諸市の
出身です。終戦時は高等女学校の4年生

小諸には高等女学校がなく、良家の娘達は小諸から汽車で約20分の
上田高等女学校か軽井沢高等女学校のどちらかに進んだそうですが、
そのどちらを選ぶかで、運命の分かれ道になりました。

祖母は父親の友人の奨めで上田高女を選んだが、昭和19年になると連日勤労動員。
上田は工業都市なので、市内の工場で毎日慣れない肉体労働をさせられて、
体はとても辛かったが、少なくとも毎日実家に帰れたし、御飯も十分に食べられたし、
田舎だから空襲もほとんどなく、終戦時も全員が無事だった。

しかし軽井沢は観光地のため工場がなく、軽井沢女学校を選んでしまった友人達は、
動員で名古屋の飛行機工場に学年ごと送られ、食事はイモしか出ない状況で、
頻繁に凄まじい空襲を受け、さらには東南海地震では工場が倒壊して大勢が死亡、
戦後になんとか生還した同級生も栄養失調と空襲の恐怖で幽鬼のようになっており、
信州に帰ってきてから死んだ人も多かったそうです。

半死半生で帰ってきた友人に聞くと、飛行機工場に空襲があると学生が逃げないよう
守衛が門のカギを掛けてしまって、外に出れないようにしてしまうので、
逃げ場を失った同級生が大勢焼け死んだり爆死したり機銃掃射を浴びたそうです。

祖母は「要領の悪い私が軽井沢高女に行ってたら、間違いなく名古屋で死んでいた。
最も仲がいい友人が軽井沢高女を選んだので、本当は私も軽井沢に行きたかったが
父の友人の奨めで上田高女に行って今も生きている。頭が良くても、美人でも、
大きな商家のお嬢様でも、軽井沢に行った同級生はみんな死んでしまった。
全ては運命なのかなあ」と言っています。
850名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/26(木) 02:03:28.27 ID:Bt8Yb2DEO
>>844
なるほど、それほど戦争で困窮しなかった人はあえてそう言わないので、マスコミに話が載ってこないということか
たしかに都市部と農村部で状況が違うのは当然といえば当然だな
851名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/26(木) 19:50:48.19 ID:TOnWGhZt0
せやな
852名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/27(金) 22:12:35.49 ID:Q7YTOWE30
大叔母の話

昭和17年春には「マックスファクターのマーナ化粧料が、どこで手に入るか???」が
母親達の話題だったらしいが、それが昭和18年には「お米をどうするか???」になり
昭和19年春には「疎開には何処が良いか?食糧事情が良くて、冬の寒さが厳しくない所・・・」
と変化していったらしい

大叔母の父親=木場の旦那 の友人連中が戦時中も続けていた俳句の会で
昭和18年頃、たまたま参加した老婦人の一句で、そのお宅は「非国民」と
判定されてしまい、在郷軍人が度々「説諭」に訪れ、その度に酒肴での
もてなしを強要され、泣くに泣けない辛い生活を送ったらしい
その一句が・・・
「モンペには できぬ御召を 土用干し」といった句だったらしい
廃物利用や不要物交換会が盛んだった時代に「浅ましい」と評価されたらしい
853名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/28(土) 13:26:59.18 ID:xfv/5f9L0
大叔母の話

季節外れの話題で失礼
節分の豆撒きについて、豆そのものを盛大に撒き散らすなんて事は
戦前には無かったと思うと・・・映画や芝居だけのものだと思うとも・・・
木場の実家では、煎った大豆を2個・3個と半紙に包んで、それを撒いたと・・・
撒き終わった後、家人や店の人間はそれを集め、2個・3個は手触りで判断できる為
それぞれの年齢に見合った数の半紙包みを別けあったと・それからは「体の不調がある部分」を
その半紙包みで撫でてから有りがたく食したと・・・
体の何処を撫でるかを、主人家族はさり気無く観察し、店の人間の健康状態を判断したらしい
854名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/29(日) 14:09:48.63 ID:VcOCc3zK0
明治御一新は水戸学による南朝革命であり。ボシン戦争は狂言であった。見事なクーデターであった。
855名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/01(火) 00:07:34.75 ID:pdZOOxbJ0
大叔母の話

戦前には一般の商店が「休む」というのは「珍しい事」で、年に二度の
薮入り・年賀の為の三が日を除いて、大概は営業していたと
ただ営業時間は短く、18時を過ぎて開いている店は「馬力のあるお店」と
判断されたらしい。それでも段々と「五の付く日は休業仕り候」などという
店が増えたらしい。これは昔から、店員の「お菜」に鶏肉か魚が付く日を
そのように設定していたようで、その流れで決まったのではないか?と言う
そのうち統制が厳しくなり、店員が徴兵されたりで、どちらのお店も開店休業
状態が続いたと
856名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/01(火) 00:32:16.25 ID:pdZOOxbJ0
大叔母の話

大叔母は紅茶が好きで、子供の頃から飲んでいたらしいが、疎開をした
昭和19年春頃にも「喫茶店」は営業していたと言う
ただ提供されるのは「薄い日本茶」程度で、食物の提供はされなかった
らしい。大叔母が勤務していた工場近所の喫茶店は、隣組等からの嫌がらせがあり
「隠れ営業」に近かったらしい
表向きは「時局柄を弁えた、会合等への場所提供」として、場所代をいただく
代わりに「日本茶・麦湯」を提供したそうだ。一時は買い置きしたコーヒー等も
提供したらしいが、香りが漏れた為警官が飛んできて「説諭」をされたらしい
ただ穏やかな老齢の警官だったらしく、コーヒーを飲みながらの世間話で許された
らしい。その後は「麦湯に少量のお砂糖」に切り替えたらしいが、お馴染みには
こっそり「薄く切った羊羹」なども提供したらしい。大叔母は自宅で「蜂蜜湯」を
飲む事ができた為、麦湯のみをいただき、砂糖は紙に包んで持ち帰ったらしい

本当に美味しい紅茶を飲めるようになったのは、昭和25年以降らしい
857名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/01(火) 00:55:55.12 ID:pdZOOxbJ0
大叔母の話

戦時中には数多くの不自由があったが、最も切なかったのは「靴」だったらしい
闇で手に入れる事はできても「履いて歩くには憚られた」為、故意に汚し中古を
装い履かなければならなかったと。配給は「工場に何足・学校に何足」という形式で
その他には「誉の家」と呼ばれた「名誉の戦死者の遺家族宅」の男子に「特別配給」が
有った程度らしい。それらは無料では無かったと。権利を得れば、誰もが無理をしてでも
購入し、食料に交換したと
それでも神戸在住の親類が「靖国神社参拝」に上京した際に「キッドのローヒール」を
履いていたのを見た時には、羨ましくてならなかったらしい。兵庫には皮革の生産地があり
皮革製の靴は、比較的手に入り易かったらしい

大叔母の下駄箱を見ると、もう手に入らない「鰐・蜥蜴・亀」の草履が何足も入っている
昭和40年代、勧められるままに購入し、さほど履かない内にすっかり流行遅れに
なっしまったといっている

蛇足
大叔父曰く「靴の数は女の数」だそうだ。靴を沢山持つ人間は「交際相手を
変えたがる」らしい。一足を履き潰す人間は「一穴主義の人間だ」と言う
大叔父を見ていると、まんざら嘘では無い様に思う
858名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/01(火) 12:48:55.64 ID:JTGnt9ZZ0
姫路あたりに皮の生産地で有名なのあるな
ちなみに田舎庶民は戦時中戦後もわらじを普通にはいてたそうな
ソースは親戚

都会だから靴はいてたのかのう
859名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/01(火) 17:52:18.61 ID:X6LqNMJ3O
田舎の子供ははだしだったらしいぞ
860名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/01(火) 19:59:56.50 ID:psQ/oxpT0
そうですか
861名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/01(火) 20:48:27.60 ID:zIapNVDk0
京の着倒れ大阪の喰い倒れ神戸の履き倒れ・・・という言葉を聞いた事がある
多分「潤沢にあった」訳では無く、無理をすれば入手が可能だった・・・という程度の
話だと思う

以前大叔母から聞いた話で意外だったのは、戦時中には「針と糸」が不足していたと
針は品質が良くない物しか流通しておらず、糸も「スフ=ステープルファイバー?」の
物しか無く、繕い物は中途半端にしかできず、古着を解して糸を作ったと
針は製造に繊細な技術が必要だそうで、その昔は京都の土産に「みすや針」が定番だったらしく
嵩張らず軽い土産として、江戸の昔から「何よりの土産」という位置付けだったらしい
そんな貴重な針が折れようものなら、折れた先を探し出すのは当然の事として、そんな針でも
無理をして使ったらしい。それも難しくなってから、初めて「供出」に出したらしいが
糸穴が割れたものでも「欲しい」という人が居れば、差し上げて役立ててもらったらしい
862名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/01(火) 21:15:56.77 ID:zIapNVDk0
大叔母の話

昭和19年に疎開をして最も嬉しかったのは、食料事情の改善も然る事乍
入浴の回数を増やすことが出来た事らしい。火力は弱いながら、落ち葉や
枯れ草を拾い集め、風呂を立てたらしい。薪類は調理優先だったと
863名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/02(水) 03:47:52.30 ID:snnGWITq0
スフはビスコースのほうでしょう
864名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/02(水) 11:35:51.26 ID:bNgbEsl40
化学的にはスフというのはビスコースレーヨンの事なんだが
慣習的に短繊維の事をスフと呼んでいるよ
縫い糸やミシン糸はフィラ(長繊維)じゃないとうまくいかない
865名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/02(水) 19:55:58.06 ID:oUGK26He0
>>834
昭和30年代の映画では、「イケてる男子」はブリーフ穿いてたなあ。
(ちなみに、撮影日当日に偶然着てた下着だそうな)
866名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/02(水) 22:12:57.07 ID:fqsrods3O
又聞きで当事者が不明な話です。
昔祖母さんの親戚が幼少の頃、外で遊んでたら近所の男の子達が一人の子をからかって泣かしていたらしい。
それを見た通り掛かりの老人がこっぴどく叱り付けたそうな。
祖母さんの親戚はあまりの恐さに物陰に隠れて見ていたそうです。
すると老人は祖母さんの親戚やその子達を集めて、
「友達とも、そうでない子とも仲良くしなさい、よく話しなさい」
と言って昆布のお菓子?(酢昆布?)を手渡して行ったんだって。
謎の老人とはそれっきり。
その老人の正体が分かったのは1932年に起こった五・一五事件の後。
その老人が殺されて、新聞で大々的に報じられた時気付いたんだと。
勘違いやら盛込みやらがあると思うけど興味深く聞いたのを思い出した。
867名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/02(水) 23:49:25.49 ID:si3T4WF00
大叔母の話
昭和初期、年寄りに度々つれていかれた湯治で、定宿ではあったものの
いつも「晒木綿を封筒状に縫った物」に入ってから、布団に入ったと
夏はそれだけで寝たらしいが、どうも「虫除け」だったらしい
考えればシーツも掛けカバーも無い時代な上、寝間着は浴衣で布団と素肌が
接触するわけで、不衛生だったからだと思う。特に衛戍病院の看護婦だった
年寄りが、うるさかったらしい。度々利用する定宿の事だし、多分安宿では
なかろうから。その辺りは十分に配慮してくれていたとは思うが、やはり子供の事は
心配で、上記のような対策を講じたのかもしれない

大叔父大叔母の話
昭和40年頃までは「ダスターコート」と「レインコート」は必需品だったと
染みと埃を避ける事が「盛装・正装時の最大の注意点」だったらしい
当然雨靴は必需品で、少雨の際はゴムのオーバーシューズ・それ以上の際は長靴を
履いたと。ダスターコートは、車での外出でも着用したと。ビニールシートで
服地が痛む事も避けたかったと言う。髪油・香油を付けたりすると「あっという
間に埃まみれになった」という。戦前は馬糞が乾燥した埃を嫌い、戦後は排気ガスの
油じみた埃を嫌ったと
昭和40年頃「白い訪問着=白地に大きな色柄を配したもの」が流行した時には
十分な手入れをせずに仕舞う人が多く、再度出せば「染みだらけ・・・」という
話を耳にした事があると。それを安直に「染め替え」して失敗する人が多かったと
染みを落としてから染め替えすれば問題無いが、染みの上から染めて隠そうとしても
駄目らしい
大叔母の江戸褄・喪服は、柄・紋の部分を除いて「真紅」に染めて、それから
黒で何回か染めさせるらしい。仕上がりが明らかに違うと言う
確かに男の礼服でも、黒がズラリ並ぶと深みのある黒・そうでも無い物が
明らかに判るから、まんざら嘘ではないと思う

大叔母・大叔父の話は時系列がバラバラで、話が左右上下に飛びまくるので
少々聞き難い
868名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/03(木) 00:47:40.84 ID:2jHqSnpG0
大叔母の話
*此の話の最中大叔母は「有名な話」と何度も言ったので、周知の事実かも
 しれない

疎開の際、伝手を頼ってトラックを手配したらしい。そのトラックの運転室(?)が
鉄骨にベニヤを貼ったようなもので、椅子も木製だったと
疎開の荷物を運び出し、そのトラックの事はすっかり忘れ去った戦後の事、大叔母が
耳にした噂では、そのトラックを運転していた方は、大叔母が疎開でお世話になった直ぐ後
王子・飛鳥山辺りの下り坂で、積んでいた荷物に押し潰されて亡くなったと・・・
傷痍軍人さんで、嫁取りをしたばかり等の話をした記憶があると・・・
「自分たちは恵まれていると思った」と大叔母は言うが、それは後の事で、当時は自分たちに
与えられた「特権=そのレベルは別として」を、当然の事と思っていたのではないかと思う

大叔母は「トラックの運転室が木製だった」点を「有名な話」と表現したのだと思うが
その運転手さんを思うと、わが親戚為ればこそ、驕り昂ぶりにイラッとする
869名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/03(木) 01:06:40.26 ID:2jHqSnpG0
大叔母の話

これも呆れた話だが・・・
疎開先で小麦粉が手に入った際、手元の蜂蜜を使えば「洋菓子」が
できるのではないか???と妄想したらしい
牛乳は山羊の乳で代用できたらしいが、卵やバターは手に入らず
天火(てんぴ)が有る訳でもなく、洋菓子が作れる筈も無いのは明白にも
係わらず、母親の留守に妹と「作業」をしたらしい。練り合わせた材料を
アルマイトの弁当箱に入れ、朝食後の竈の灰の中に半日入れておいたと・・・
結局ショートブレットの出来損ないに似た物しかできず、母親には厳しく
叱られたらしい
90歳を過ぎた今でも「和菓子より洋菓子」「日本茶より紅茶」を好む
手土産には日持ちする「カステラ」を歓迎するとも言う
幸せな人だと思う
870名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/03(木) 19:22:57.74 ID:mge0mCUg0
>>866
フム
護衛の警察官か
871名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/03(木) 20:50:26.68 ID:F64RyyGxO
老いた警察官が子供どやして手切れ金代わりに昆布渡して行くって無茶苦茶な社会だな。
そりゃ無謀な戦争に突入するわけだ。
872名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/06(日) 01:59:15.06 ID:A9/yVjFr0
オーブンを天火って本当に古い本でしかよんだことないなw
実際に使う人はきいたことない
873名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/06(日) 18:07:05.43 ID:0l8LtJIQ0
戦時中を女学生として過ごした母は、米軍機が日本軍のレーダーをかく乱するために大量に投下した金属製の長い帯状の物体を拾いに
いったそうです。
広島の爆撃の後、住む町も空襲されましたが、さっさと避難していて無事でした。母いわく「焼夷弾はバケツリレーで消火は無理」
874名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/08(火) 01:06:56.48 ID:rgfv+E+T0
大叔母の話

戦争は、死なずに済んだはずの人が死ぬ と言う
話を聞いていたら・・・
*栄養状態が良くないのに、無理に妊娠した女性
*慣れない草鞋で、畑仕事をして「蜂窩織炎」に感染し、高熱が出た老人
*建物強制排除で家を失い、舅姑に責められ精神の平衡を失った中年女性
目の前で上記3人の方が亡くなったと。大叔母の祖母が衛戍病院の看護婦だった為
伝手を辿って様々な人が訪ねて来たらしい。入院の便宜を図って貰えるのでは
ないか・・・と期待しての事だったらしい

食料・空襲・健康・近所の目・心配の種は尽きなかった時代で、ストレスも多く
「発狂」する人も多かったと。特に空襲後には多く発生し、家族が家に押し込め
他人の目に触れないようにする事が多かったと・・・
空襲で大怪我を負った人、障害が残った人・・・昭和20年の春先には、町は
「何らかの事情で健康を損なった人」ばかりであったと・・・
在郷軍人会の高齢の会長も、今にすれば「半狂人」だったとも言う

社会的・経済的に恵まれた人達は、とうの昔に疎開していたと・・・
ただ誰も「将来に光明」は見ておらず、絶望を必死で隠し空元気で
ただただ生きているだけだったと・・・

疎開をしていた大叔母は、東京大空襲を経験していない
祖母も一緒に疎開していた
多分「戦後の話・伝聞・噂話」が混ぜこぜになっての話しだと思う
それにしても「ほぼ事実」なのだと思う
875名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/08(火) 08:35:51.64 ID:zvIc9gb+0
>>21
「オイコラ」は薩摩の方言とか聞かなかったか。
維新時、薩摩の下級武士が警視庁に大量に就職したためとか。
876名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/08(火) 20:22:39.55 ID:QAvXEwAk0
母の話ですが、
終戦近くになって資源が乏しくなってくると、寺の梵鐘やアルマイト弁当箱などの金属の供出が義務付けられた
というのは有名な話ですが、集められたこれら金属類は、予科練の教練場の隅に山積みに放置されていたことが
明らかになったそうです。終戦後に。無駄な奉仕だったわけですね。
松の樹の根っこから燃料を採る:とかというもの行われたそうです。
877名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/08(火) 22:35:57.81 ID:xU0Z0Xj50
これは有名な話だが・・・
戦時中「交易営団」が買い上げた貴金属・ダイヤ・ルビーなどは
ほとんど活用されず、日銀の地下に保管されたままになっていた
もく星号墜落事故の際に、ダイヤの保管量が減っていることが判明したらしいが・・・
毎週どこかのデパートで、買い上げ会があった。金時計は当然の事ながら
金ペン先まで買い上げたと
878名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/08(火) 23:44:56.13 ID:xU0Z0Xj50
大叔母の話

大叔母の母は「食道楽」な人だったそうで、戦時中にも「食材探し」に
余念が無かったと
昭和18年の暮れ、年明けには疎開する事が決まっていた頃、実家近くの鮨屋の
子供の頃から知っていた女中さんが訪ねて来たと。夜分薄暗い勝手口での面談となり
「ちょっと珍しい物が手に入ったので・・・」と、竹皮に包んだ鮪の短冊を3枚ほど
見せたらしい。疎開前、東京での最後の正月になるかもしれず、女中さんの「是非お嬢様に
(独身時代のままに呼んだらしい)召し上がっていただきたくて・・・」の言葉に狂喜乱舞し
お米・蜂蜜・毛糸を10玉ほど渡したらしい

結果・・・鮪と見えたものは、どうも鮫だったらしく、それを食紅で染めた代物だったらしい
短冊を切りかければ妙な弾力があり水っぽく、切れ端を口に含もうとして、匂いが違う事が
判ったらしい
とは言え当時の闇物資にはそのような事は珍しくも無く、陶器製徳利入り日本酒を買えば
中に「水が入ったコンドーム」が入っていて、酒はほんの少ししか入っていなかったり
缶詰などは「ほとんどが詐欺」だったらしい
それでも「ミルク」の筈が「トマトケチャップ」だった事があったそうで
仕舞い込んでいたマカロニに和えて食したそうだ。今ならとても食べられた物では
なかろうが、当時は珍しい味で、家中が皿まで舐めたらしい
879名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/09(水) 01:12:33.15 ID:yaOywIlY0
缶詰めの肉が表示の牛でなく鯨という今の日本ではありえない詐欺もあったしね
また石詰めてる場合も
100円缶詰めなら缶の値段が内容原価より高い今のにほんでは(ry
880名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/09(水) 09:37:55.63 ID:nDHWM4U70
>石詰
石詰め缶詰というのは一次大戦の時の日本の輸出品の話じゃないの?
以後、日本製品には粗悪品のレッテルが張られ、苦労したという話。
881名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/09(水) 19:18:19.08 ID:/x7YA+B+0
日清戦争だよ
大倉財閥が石ころを詰めた缶詰を軍部に納めたと
毎日新聞が根も葉もないデマを流した
882名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/10(木) 00:31:44.22 ID:y4d1sDhj0
大叔父の話

テレビや映画で戦後の闇市が再現され「りんごの唄」が流れるが・・・
あれは嘘だ・・・実際には手巻き式蓄音機で、浪曲やら歌謡曲やら
有り合せのレコードを掛けていたと。それもレコード針が貴重な為
10軒の内1軒程度だったと
*パンパンガールは、昼間からウロウロしない
*浮浪児がものすごく多かった
*軍服用の生地が大量に出回り、価格は安価だった。ミシンが無ければ
 縫えない剛直な生地で、普通の家庭では持て余した
*新品の純綿肌着や靴下と、中古の背広が同程度の価格だった
*ミンクのコートや狐の襟巻き、長さ30センチのゴムホースから
 下駄の替え歯まで、あらゆる物を売っていたが、水菓子=果物は
 珍しかった=高価だった
等々の話があった
883名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/10(木) 20:17:11.49 ID:N7Kl045lO
長年疑問なんだが、浮浪児や戦災孤児はどうやって生きて成人したの?施設も公的なのはなかったよね。病死した孤児も多かっただろうし。戸籍はどうしたんだろう。
884名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/10(木) 20:48:14.56 ID:X+0oJEab0
>浮浪児
上野公園の浮浪児のその後については新潮45が何か月か前、連載でシリーズを組んでたよ。


何割くらいが生き延びたのかな?
885名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/10(木) 21:11:25.09 ID:RNvh4Rp40
893になるの者が多かったと元893(戦災孤児)が言ってるのをyoutubeで見たことある
886名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/11(金) 00:24:08.17 ID:y9oiFyZ00
大叔父の話

戦災孤児に限らず、昭和24年頃までは、路上での行き倒れを見かける事が
度々あったと。見かける回数が少なくなったのは、処理が速やかになった
為だと言っている

実は戦災孤児の内ごく少数は、子供を亡くした夫婦に引き取られたりもしたらしいが
その多くは犯罪者集団に取り込まれ、置き引きやかっぱらい、万引きやスリを
させられたらしい。それでも健気に、行列並びの代行や荷車押し、買出しの
手伝いや、トラックの助手などで自活していった子供たちも居り、その後自動車の
修理工場まで経営するようになった人も居た。実は従兄弟が車の点検整備を
任せていた工場は、そんな社長が経営していた会社だった。酒も煙草ものまず
他の工場が休む深夜早朝、盆暮れ正月も「お電話一本直ぐ参上」の営業方針で
工場を大きくしていった。保護司から紹介された青少年も預かり、皆に仕事を
仕込んでいた。世間では「業突く張り」と陰口を叩かれていたが、職工さんの
結婚にも親身だったし、仕事に間違いは無かった。デイーラーの工場でも?と
言われた不具合をたちどころに言い当て、修理してくれた事もあったと、従兄弟から
聞いた
887名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/11(金) 01:00:14.46 ID:y9oiFyZ00
大叔父の話

戦災孤児の女の子たちは、残念ながら悲惨だったらしい
子供だけではなく、20代前半までの「身寄りの無い独身女性」は
収入を得る手段は「最後の手段」のみだったらしい

大叔父が昭和20年代後半「赤線」に通っていた頃には、そういった女性が
沢山居り、色々話を聞いたと。それでも各自が部屋を持ち、アパート暮らしの若妻
といった印象だったと。茶箪笥があり火鉢があり、ラジオがあって鏡台があって・・・
馴染みになった女性の部屋へ上がると、浴衣・丹前が用意してあり、風呂から上がれば
冷たいビールと小鉢があって、夜が更ければ夜鳴きそばを取ったり、本当にリラックス
できたと・・・世間一般は「性交渉のみが目的」と考えていたらしいが、実際には
そんな「安らぎと心の結びつき」があってこそ、初めて満足が得られたと大叔父は懐かしむ
顔の美醜や床上手がどうかも大切だが「一夜妻としての健気さ」に何より愛情を感じたと・・・

思えば銀座のホステスなんかも同様だ・・・女らしさ、労りの心がある女性は、良い成績を
残しているし、年齢が進んでも立派に仕事をしている。最近は若いだけが値打ちのホステスが
多くて、居心地の悪い思いをする事がある
888名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/11(金) 10:26:56.75 ID:DAEwJIeB0
なるほど
889名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/11(金) 18:24:17.38 ID:VfzM26xj0
でも売春もできない年齢はもっと大変なような。。
890名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/12(土) 15:18:22.75 ID:MFB0FYy40
俺が社会人になった昭和60年ごろは、会社には昭和一桁生まれの人が
沢山現役でおられて、当時の話は飲みながら色々聞いた

・昭和30年ごろ大卒初任給は18000円、赤線で1回500円、泊まりで1500円だったから
若くても気軽に行けた。
・当時、スーツは上下の新品で5万円ぐらいし、やはり3着ぐらいはないと
仕事にならないので、スーツ揃えるのが大変だった。既製服がまだない時代で
古着は売っていたがオーダーの古着は着心地が悪く、やはり新品が欲しかった。
・昭和33年に廃娼令が出て、売春宿は地下に潜るか、旅館組合みたいな形に変形したが
非合法だから警察に踏み込まれる可能性もあり、法施行前は優雅だった女郎さんも
1度や2度はブタ箱にブチ込まれるのが当たり前になり、荒んだ感じになってしまい
行為もせわしない感じなって、自然に足が遠のいた。
・廃娼令でキャバレーが大繁盛になった。こちらは自由恋愛という建前なので
連れ出しても法的に全く問題がない。赤線の女郎からキャバレーの嬢に転身する
人も多かった。福富太郎が一躍時の人になった。
・キャバレーの流行で大企業の部長クラスなら、キャバレーに愛人がいるのが
普通になった。赤線時代は女郎さんを落籍すのは非常に大金が掛かったが、
キャバレーで余り売れてない嬢を、偉いさんが専属にするのは簡単だったし
別に身請金を払う必要もなく辞めさせられるし、廃娼令でむしろ愛人は増えた。
「やっぱり女はアサハカだ(主婦連が中心になって廃娼運動やってた)」
が流行語になった。
・会社に電話番やお茶汲みの女性が進出するようになっていたが、当時のOLは
身元の固い家からコネで入社のエリートで、新入社員にとって高嶺の花で、
自由恋愛するような雰囲気はなかった。もちろん上司との不倫なんてあり得ない話で、
オフィス恋愛だけはやたら厳しかったが、工場ではもちろんそんな事はなかった
・当時の電子部品工業は、若い女性の繊細な手先に頼る部分が大きく、田舎から
集団就職で大量に人集めをやっていた。工場勤務は昔の「女工哀歌」そのままで、
労働環境は劣悪で、問題が発生した時に、会社側に立つか、女工側に立つかで
悩む事が多かった。心理的には女工側に立ちたいが、それをするとクビになる。
女工のボスに気に入られて、会社側の要求を女工さん達に飲んでもらうしか生き残る
方法がなかった。女工のボスは権力者で、若い男性社員なんて全く頭が上がらなかった。
やはり二枚目が気に入られるので、二枚目が労務担当になる事が多かったが
女工のボスと結婚して、皆から「あいつは女工に犯された」と笑われる奴もいたし
ちゃっかりと一番かわいい娘と結婚する羨ましい奴もいた。
891名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/13(日) 12:18:13.18 ID:/mkFUxGa0
>>883
同じくそう思ってた
本もあまり出てないしネットで調べてもごく一部の体験談しか出てこない
語っているのは一般の仕事に就けた人が多い

過酷、悲惨過ぎて語りたがらない人が多いようだけど、
貴重な歴史の一部として生存者がいるうちに研究されて欲しい
何とか生き延びて一般の仕事に就けた人以外だと、餓死や病死、
ヤクザなど非合法な世界に入った人が多そうだ
ヤクザの中でも幹部になった人もかなりいると思われるんだけど
そういった人の話も聞いてみたい

漫画だとはだしのゲンの後半が戦災孤児を描いていた
アニメにもなったRAINBOW〜二舎六房の七人〜も戦災孤児のキャラがいた
その2作品は戦災孤児その後をよく描けていると思う
892名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/13(日) 13:33:53.41 ID:eKVgbryi0
上野で浮浪児をしてたという人の話を間接的にだけど聞いた事がある
その人は少年院を出たり入ったりしてた事もあったそうだが
10代の後半の頃に出所した後は再犯も無く
真っ当な仕事にも就けて家庭も持って人生を過ごしたようだね
そんな少年時代を送ったとは信じられないような
本当に真面目で正義感が強い人だったそうだよ
893名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/13(日) 15:50:43.66 ID:/mkFUxGa0
>>892
少年院を出たり入ったりは食うために仕方なくの部分もあっただろうね
ヤクザ、犯罪者などそっちの方向に進んだ人の体験談も聞きたいけど
早死してしまってたり、語りたくないのかな
昔の芸能人にも元戦災孤児はいそうだけどどうなんだろう

現代でも事情があって施設に預けられる人は高校以上の進学が難しく、
仕事や結婚するにも親がいないのが不利で困ると聞く
多少は支援団体などがある現代ですらそうなんだから
どんな道に進んだにしろ戦災孤児だった人の苦労は計り知れない

そういえば原作梶原一騎の上村一夫「昭和一代女」も戦災孤児たちの施設が出てきた
梶原一騎は戦後間もない頃の不良少年のための施設(感化院)にいたようだからリアルだった

はだしのゲンの作者中沢啓治は被爆者で父や兄弟を亡くしていて、
RAINBOWの原作者安部譲二は昭和20年代後半の愚連隊にいて少年院にも入っていたらしいから
その3作品は戦災孤児その後を語るにはとても参考になる
894名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/14(月) 21:42:49.65 ID:IssmW2PcO
戦災孤児の質問した者ですが、興味深い話をありがとうございます。戦後の芸能界には、米兵との間のハーフタレントが結構いましたよね。アイノコと蔑視されたとうちの親は言ってましたが…。
895名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/15(火) 21:26:30.46 ID:d7KHvj290
愛の子
896名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/18(金) 00:06:04.11 ID:K07u7RaA0
エリザベス・サンダースホーム
こちらから社会へ出られた方には、立派な方が多いと聞いている
掻爬・吸引され、陽の目を見ずに死んでいった子供が幸せなのか・・・
生誕後に殺された子供が不幸なのか・・・
ただ間違い無いのは「産んでやりたい。でも育てられない」という母性は
認めてあげなければならない。それは「児殺し」という選択肢を取らなかった
それだけの理由だ。命を守った事は、その他の罪を許すに値すると思う

戦後進駐軍兵士が帰国する際、日本人女性を連れて帰国する事は原則許されな
かった。しかし「同性」の場合は、特に問題にはならなかった。優秀な青年に
アメリカの教育を受けさせたい・・・という表向きの理由で、眉目秀麗な青少年達が
多数太平洋を渡った。昼間はボーイ・バトラーとして働き、夜は・・・
そんな話は1970年代まで、上海・日本・韓国・フィリピン・ベトナム・・・
その時代毎に土地が変わるだけで、度々あったらしい。同性が同棲するのは
許されないが、使用人としてなら名分が立ったらしい

大叔母の実家に勤めていた女性の子供が、朝鮮戦争の頃17・8才で渡米した
らしい。数年で「帰国させられた」らしいが、福生辺りで男娼をしている・・・
という噂を最後に、消息不明になったと・・・
帰国できず、そのままになった人間も沢山いたものと思う
897名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/18(金) 12:51:34.04 ID:i0M5bwFgO
へぇ〜同性ならって話、知らなかった!すごいね。
サンダースホームは澤田美喜さんでしょ。美談に思われるけど、あの屋敷も男性秘書も、訳ありの秘密の場所だったと柴田氏の下山事件の本にあって、詳しく知りたいと思う。
898名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/19(土) 01:09:03.43 ID:njEi4/qM0
先日の連休、大叔母。大叔父を訪ねた。色々な話を聞いたが整理すると・・・

実は日本軍人も戦時中「中国人孤児を従僕として使った」という事実があったと
大叔父は軍役には就いていないが、当時の新聞・雑誌には度々そのような記事が
出たと。可愛い少年が大きなやかんで、湯飲みに湯茶を注いでいる隣に、軍人が
座っているような写真を何度も見たと言う。軍人が「民間人には親切」という
イメージを植えつけたかったのかもしれないが、大叔父には「お稚児さん」と
写ったらしい。将校には従卒が付き、掃除洗濯事務補助までした筈だから
わざわざ少年を傍に置く必要は無かったはずだ・・・と言う
戦後、ある旧皇族が夫人から「同性愛」を理由に離婚を迫られたと。その相手が
戦時中からの従卒で「夜も同衾する仲だった」という事件があったらしい
従軍慰安婦云々が話題になる事もあるが、戦争・戦場という異常な場所では
「もっと異常な事」が色々あったのかもしれない
899名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/19(土) 16:05:35.92 ID:njEi4/qM0
異常な事と言えば・・・
戦前は、劇場・映画館・レストラン・ミルクホール・ダンスホール等々のトイレは
「男女の区別が無くても、不思議ではなかった」と言う。デパート・乗降客の
多い駅などは早くから男女別にしていたらしいが、それでも「前室の洗面台・鏡は
共用」になっていた場所が多かったと
今から考えると「とんでもない」と感じるが、当時は「水洗だわ!!!」とか
「鏡が大きいわ!!!」といいた方に感動したらしい
900名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/19(土) 22:28:16.96 ID:njEi4/qM0
此の夏、高齢の親類が身罷った。暑い通夜の席に氷柱が運び込まれた
10貫目はありそうな物が10本程、盥に入れられ座敷のそこここに置かれた
冷房を嫌う高齢者への配慮だった。ゆるく扇風機を回し、冷気が広がるように
していた
大叔父夫婦も来ていたが、氷柱にハンカチを当て、それで額や首筋を冷やしていた
通夜では昔話に花が咲いたが、氷柱=花氷 が話題になった
昭和30年代、まだ冷房が普及する前は、夏の結婚式場には花氷が「付き物」だったと
披露宴の会場では、テーブルの盛り花に代えて花氷が幾つも置かれていたとも
夏の式服・礼服を持つ人も少なく、貸衣装も「オールシーズン」という触れ込みだったが
つまり「合い物」で、汗だくになったと。式場や控え室には小型のクーラーが
設置してあったが、音ばかり五月蝿く、さほど冷えなかったと。GE製が圧倒的に多く
高価な物だったらしい
そのうち冷房は喫茶店・パチンコ店などに広がり「冷房完備」がステータス
だったと。しかしタバコ・黴臭く、気分が悪くなる事が多かったと

その通夜の主人公の結婚式にも、花氷が飾ってあったと。花氷で華燭の典を寿ぎ
氷柱で通夜を迎えた・・・と、高齢者一堂は感慨に耽っていた

*画像検索したら、今でも花氷という商品がある事が判った。大叔父夫婦には
来年の「中元に贈る」と約束した
901名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/19(土) 22:49:05.57 ID:njEi4/qM0
先日大叔父の家を訪ねたら、大叔母と二人で縁側に二人の帽子をズラリと並べて眺めていた
庭から入ってその光景を目にした時「ついに来たか・・・」と、二人の痴呆を疑った

結局「もう必要が無い物は処分しよう」と、その選択をしていただけだった
大叔母は喪服用の「ベールの付いた帽子」のみを残し、大叔父は全て処分する事になった
昭和の終わり頃までは「帽子のクリーニング」をしてくれる業者が方々にあったが
今は見かけなくなったと。ネットで検索して「今でもある」と説明はしたが
流行遅れになった帽子を、もう被る事はなかろうという事になった

大叔父の本パナマやハリスツイードの帽子などは、捨てるには惜しいと思ったが
厳暑厳冬の際に外出する事は無いからと、処分する事になった
最も古いもので昭和30年頃、結婚前の物らしいが、新しい物でも昭和の終り頃の
物らしい

大叔父夫婦は「こうやって、色々な物を少しづつ片付けている・・・」という
思い出話をしながら、色々処分しているらしい
902名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/20(日) 09:30:08.81 ID:kupZpuc20
帽子をかぶるという風習自体がなくなったな
903名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/20(日) 19:13:27.10 ID:3zTGGwnE0
結婚式といえば・・・
最近は「円卓」ばかりで、正式な「コの字型」はほとんど見かけなくなった
時に宮中晩餐会の様子がテレビに映ると、正式な晩餐会はこうだ・・・と感じる
高砂が一段高くなっていたり、昔の感覚からすると奇妙に思うこともある
最近
904名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/21(月) 11:06:21.52 ID:3dSUAX7GO
いつも大叔父・叔母からの話書いてくれる人、ありがとう!楽しみにしてるよ。貴方は50代くらい?
905名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/21(月) 21:00:42.90 ID:9g9NhaC00
はだしのゲンと戦災孤児で思い出した。
中沢氏の中学のクラスメイトで、ホステスやってる姉のアパートから通ってたのがいたそうだが、
この二人、全くの赤の他人。
クラスメイト、実は原爆で天涯孤独だった。
恐らく相原のモデルじゃないかと思うんだけど、こういう風に助け合う孤児たちもいたみたい。
906名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/23(水) 20:53:24.36 ID:zdFKEIkU0
>>161
「幕末百話」って本がおすすめ
907名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/23(水) 22:11:46.78 ID:8usfHQU70
>>904
ご期待頂き、畏れ入るばかりです
私の年齢は、ご想像にお任せ致します

閑話休題
大叔父の話
スラックスの「社会の窓」がファスナー(チャック)になったのは、昭和25年頃からだと
お洒落な大叔父は、スラックスの前ボタンがプレスすればする程、汚れれば汚れる程
嫌らしく目立つのが嫌で仕方が無かったと。オーダーの際「タロン社製ファスナー」と
オーダーできるのが嬉しかったらしい
確かに自分がボーイスカウトに所属していた頃は、ショーツのフロントはボタン留めだった

昔は男でもソックスガーターが必需品だったが、大叔父は脛が細くて膝下で留めるガーターでは
ゴムをきつくしなければならず、擦れて痛かったと。その代わりに使ったのが、シャツの裾と
ソックスを繋ぐガーターだと。駐留軍の将校から貰ったらしいが、シャツも捲れ上がらず重宝したと
その後欧米出張時に随分探したが、結局見つけられなかったと

大叔父と鮓を食べに行った時・・・
煮穴子を炙ってくれと言い出した。何故かと問えば、煮汁に漬けたままの穴子はデレッとし過ぎている
煮汁から出してあった物は、固くなっている。丁度ふっくらというのは難しいが、軽く炙ると
ふっくらするから好きだと言う
トロをアブと呼ぶ。大アブ・中アブという。理由は解らないと。ただ昔からそう
呼んでいたと
鮓をヤスケと呼ぶ。ヤスケを抓む・・・と言う。これも「昔からそうだから」と言う
面白いのは醤油で、家内では「おしたじ」料理屋では「むらさき」鮓屋では「たれ」と
呼ぶ。蛸や蝦蛄に付けるタレは「つめ」と呼ぶ
鮓は「昔はお菓子代わりで虫養いにもならない。あんまりバカスカ喰うもんじゃない」と言う
908名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/24(木) 00:16:58.11 ID:zMXh0wue0
コンドームはいつ頃から普及したの?
女郎屋とか避妊はどうしてたのか教えてくれ
909名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/24(木) 07:44:52.08 ID:RPsNjFRw0
パンパンは戦中戦前以前はどう呼ばれていたのかな?
910名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/24(木) 20:48:44.83 ID:JxQdSq7L0
186 名無しさん@13周年 New! 2013/10/24(木) 19:33:54.84 ID:xg/e/a8q0
戦後まもないころ、僻地の山村部に赴任した駐在さんは
戦争未亡人や戦争から夫がまだ帰ってこない来ない婦人が多く
また戦争で男性も少なくなったため女学生とか年頃の村の娘さんとか
夜は、「女性が」入れ替わり立ち代り夜這いに来てたそうだw

曰く「いやー、あの頃は、沢山いい思いさせてもらいましたw」
911名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/25(金) 07:05:39.43 ID:RwLtzYTqO
全く歴史や社会と関係無いが、
婆さんから聞いた話だが、
リヤカーやら平らな長方形の板に車輪をつけた車?に数人が乗り合わせて、
日露戦争がどうたらとか喚きながら街中を走り回るバカがいたそうだ。
もちろん街の人はガン無視w
走り回るのが迷惑でスネを箒で叩いて退治してたとかw
昔からこういう変なヤツはいるからお前も頑張れって言われたから明日から先生の椅子に座って喚きながら街中走り回るわwww
912名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/25(金) 12:33:58.79 ID:zjeIk9yw0
>>908
コンドームは海軍が大正時代から配ってたから
その辺りからあるんじゃないかな
913名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/27(日) 02:38:47.96 ID:r75jcz3qO
昔は良かった、昔は貧しかったが精神的には豊かだったと言うが、
実際に貧しかった人達は決してそんな事は言わない…。
914名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/28(月) 18:23:37.39 ID:ZE5WZX9mO
爺さんから聞いた話だが、昔は食料事情が悪く、農業も未熟で大変だったんだと。
んで他にやる事がないので土器を作ったり墓をつくったりして無駄に忙しかったそうだ。
よっぽど嫌だったらしく、町内の集会では墓作り反対派を組織して派閥争いを繰り替えしている。
休みには土器教室を開いて、電子レンジに耐えるものを作り輸出するのが目標だと喚き散らしてる。
915名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/29(火) 00:14:39.81 ID:9j0KtI3S0
>>912
回答ありがとう
下ねたですまんが、避妊は人類普遍のテーマであるだけに聞いてみた
しかし俺の親の世代なんか貧しいのに子供が5人、6人いる家庭が普通だったというし、
昭和前半までは一般的に使われていなかったんじゃないかな?
916名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/29(火) 01:09:20.79 ID:cCK3F03i0
大叔父の話
トヨタが国産乗用車として初めて製作したAA型を「子供の頃見た」という
運転席後ろには「ガラスの間仕切り」があり、一部が市松にカットしてあったと
冷房も装備していたと。それは無かろうと確認すると「ドライアイスを後ろに積んで
小さな扇風機で冷風を送っていた」と言う
車好きな大叔父の言う事だし、本当の事だと思う

大叔母の話
結婚してしばらく後、三菱銀行の担当者に勧められ「クレジットカード」を作ったと言う
大叔父は言下に否定するが、昭和36年の北海道旅行に持参し、使える場所が無く
戻ってから解約したと。その際初めて「会計処理方法」を聞いたらしい
*銀行と契約した販売店が、顧客が持参したカードに記載の、銀行支店に電話する
*カード記載の氏名と銀行口座番号を告げる
*銀行の了解が得られれば、専用の伝票に署名を貰う
*販売店が伝票を、同銀行の支店の何れかに持参する
*現金化できる
樹脂製のカードだったと。そのカードで預金を引き出す事もできたと
そこまで詳細な記憶なら、多分間違い無いだろうと思う
実際に使った事はなかったようで「デパートは節季払いだったし・・・」と
一々銀行に電話する手間と、銀行の営業時間中にしか使えないようでは
どうしようもなかったと思う。通帳と印鑑を持参しなくても、預金を引き出す
事ができる・・・というのも危険な話に思うが、大叔母曰く「銀行に口座があると
いう方は、さほど多くなかったと思う。郵便局を利用する方が多かったと思う」と
確かに間違い無く「クレジットカード」だったと

大叔父の話
昭和30年代に「マネービル=財産形成」という言葉が流行ったが
ボデイービルからの言葉かな?と思ったと
奇妙に思ったのは「ホームビル」という言葉もあったと。当時は当然の「分割払い」で
品物を購入し、家庭生活を「豊かにする」という意味だったらしい
借金をして「豊かになる」というのも妙な話だ・・・と思ったと

大叔母の話
結婚当初、実家にも家族にも内緒で「輸出用の絹製女性下着が安く手に入る」と
大手町勤務の友人から勧められ、ダース買いをしたと。肌触りも良く光沢も絹に
見えたと。結果・・・アセテートの粗悪品だったと
暗い喫茶店で綺麗な箱に入った品物を見せられ、心が躍ったらしい。女性下着を広げる事など
できよう筈も無く、チラリと見てチョッと触っただけで決めたらしい
あまりに簡単な詐欺に引っ掛かった事を誰にも言えず、泣き明かしたと
ダース買い?今で言う大人買いか?と問えば、昔は下着・ハンカチ・靴下などは
ダースとか半ダースで買ったものだと
大手町勤務の友人は既に退職した後で、そのような詐欺を色々犯していたらしい
美人局のような事もしたらしいと、後に噂が耳に入ったらしい
当時はそのような話は多かったと

今話題の「フレッシュジュース」に関しては「果汁が一滴でも入っていれば
ジュースと言って良い時代だったから・・・」と
「ホテルは食材を納品させるから、昔から信用できなかった。外国人観光客用に
安価な牛肉の配給があった頃(昭和30年代から40年代?)でも、横流し的な
話を聞いた事がある」と

大叔父の話
戦後間も無く、麹町に「天麩羅御殿」とか言うものがあったらしいと
闇で一か月分の食料が買える程の料金で、海老や竹麦魚を食べさせていたらしいと
行きたいと考えている内、段々方々に似た様な店が出来て、質の良し悪しさえ
問わなければ、まあまあの物が食べられるようになったと
大叔父は「天麩羅は魚類のみ」と言う。野菜は「精進揚げ」と言う
天麩羅のコースに「芋だの南瓜だのは要らん」と言う。生姜と搔き揚げ以外は
全て魚類の天麩羅のみを食べる。それも頑強に「天つゆと大根下ろし」で食べる
本人曰く「適度な油と蛋白質は、寿命を延ばす」だそうだ
917名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/29(火) 14:33:53.94 ID:SKbdG+To0
天麩羅は魚類ってのは雑学の本にあるね
確かに正しいが
まさか現役の用法だとは
918名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/29(火) 17:38:09.60 ID:JbQUTgdD0
自分の話

大叔母の実家(木場)へは、小学校高学年頃まで度々出かけた
その頃木場に「かみの叔母さん」という人が居た。随分な高齢で、台所の
板の間で味噌を擂ったり、和え物を作っていた印象がある。その頃の味噌は溶け難く
擂鉢に味噌を入れ、出し汁を入れながら擂粉木で溶き解し、それから味噌汁の鍋に
投入していた。当時は「ぬた」や「なます」が多かったように思う。それを摘み食い
させてくれたりした、優しい叔母さんだった
そんな話を大叔母にしたら・・・「かみの叔母さん」では無く「髪結いの叔母さん」だと
明治の生まれで修行の後髪結いになって、知り合った木場の若い衆と結婚したものの
関東大震災で夫を失い、女手一つで育てた子供は戦死し、寄る辺も無く大叔母の実家に
棲みついたと。髪結いの技術で生活できそうに思うが・・・と問えば「もう誰も、日本髪
なんて結う余裕が無くなっていた」と言う。それでも大叔母が結婚する頃までは
祭礼・正月・見合いには日本髪を結う人も居たらしいが、段々鬘が増えて自毛で
結う人は居なくなったと。大叔母の結婚式は、生意気に洋装だったらしく、その叔母さんの
手を煩わせる事はなかったと。大叔母が「最後に見た、自毛で結った日本髪の一般女性」は
羽子板市の店にいた女将さんだと。昭和の終りの頃だと
髪結いの叔母さんは、大阪万博への社員旅行の後、老衰で亡くなったと
大叔母曰く・・・「幸せな人は少なかった・・・皆それぞれ色々な荷物を
背負っていた・・・そんな時代だった・・・」と
919名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/29(火) 20:06:39.30 ID:A5PH/u48O
大叔父叔母さんは、相当な資産家という感じだね。三越のお帳場とか外商とかの世界?
920熟れの果て:2013/10/29(火) 22:33:22.22 ID:cCK3F03i0
今後は「熟れの果て」と称します

大叔父夫婦は「資産家」では無いと思う。当然「富裕層」でも無いと思う
暮らし向きは昔から「質素」だったと思う
自分が木場へ連れられて行く際も、都電で出かけたし、タクシーに乗せられた
記憶は無い。朧気な記憶を辿ると、当時大叔父夫婦が住んでいた市ヶ谷から
須田町か九段坂下かで乗り換え、日本橋へ行き、そこで又乗り換えたような
気がする。時に錦糸町(錦糸掘)経由で帰った記憶もある
これは私の勘違いかと思うが、昭和30年代の錦糸町は、楽天地や映画館
飲食店は多かったものの、場末間が漂っていた。それより両国駅のほうが
旅館や土産物店等があり、賑やかだったような気がする

木場への土産も「袋菓子」で、それをいくつか風呂敷で包み、それを持つのが自分の
役目だった
食事の後は必ず、飯碗に茶を入れ飯碗を洗うようにして飲んでいた
家の勝手口脇には、大概何かの野菜が植えてあり、軒下には玉葱や柿がぶら下がっていた
ハンドバッグには必ず「懐紙・懐中重箱・風呂敷」を入れており、食べ残しは必ず持ち帰っていた
とは言え大叔父の「車道楽」と「夜遊び」は派手で、勤務医の給与での生活は苦しかったと
思う。一時期大叔母が書道教室を開いていたのも、そんな理由だと思う

今の自分が受け継いでいるのは「沢庵を食べない」といった事くらいだと思う
今でも大叔父夫婦は「香の物=糠漬け」を欠かさず、毎食膳に上げている
921名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/29(火) 23:48:40.90 ID:lU2S5uKc0
沢庵を食べない?
なぜ
922名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/30(水) 10:12:06.73 ID:ozhgszwQ0
余計な事を書きました

自分が嫌いな言葉に「如何物」という言葉がある
大叔父夫婦は同音異義語の「以下物」という言葉を使う
自分は「以下物」という表現を理解できない
大叔父夫婦は、沢庵を「以下物」だと言って食べない

醤油は醤油であって「おしたじ」だの「むらさき」だの言われると
何だか自分が、馬鹿にされているような気がする

「殿方・ご婦人」まではご愛嬌だと思うが「お子供衆」などと言われると
もう何が何だか理解できない。大叔父夫婦は「お子様方」という言葉が
理解できないと言う
干物に「お」を付けて「お干物」だの、礼服を「ご紋服」だの
茶寮などでお薄と菓子を頼めば、わざわざ懐紙を出して菓子を食べたり
時にイライラする事がある

ただ気が付くと、自分も似たような事をしていて苦笑いする事がある
鞄にはポリエステルの風呂敷が入っているし、車の座席(位置)も妙に拘る

段々自分も、年寄りになって行くんだなあと寂しく感じる
923名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/03(日) 20:31:26.45 ID:Ur0htstWO
近所の70代の人から聞いた話

戦中・戦後の数年は我が家は勿論、地域全体が食糧難だったとのこと。
当時、小学生だったその人や他の子供の家庭も食べる物に事欠いてて
我が家の畑から芋や木の実を何度もとっていってたらしい。
俺の亡き祖父(当時30手前)は彼らの「現場」を見かけても
全く怒ることなく、見てみぬフリをしてたらしい。
祖父の性格は軍人上がりでは珍しく
とても温和だったと教えてもらった。

数年前、この話をさらっと教えてくれたその人も今では大らかな性格で、
恰幅のいいじいさんになっている。
924名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/03(日) 20:35:08.06 ID:aKBi87ncO
うちの爺さんは昔は半裸で買い物してた。
スーパーの人に注意されても宗教上の理由という事でOKもらってた。
家族としても安心だ。
冬は完全に着込んでたけどな。
925名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/03(日) 23:58:56.39 ID:r+4B6APu0
ジャイナ教ですか?
926名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/04(月) 10:54:51.57 ID:+RYs1A7/0
>>924
宗教上の理由なら冬でも半裸でしろよヘタレと思うわww
927名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/04(月) 12:09:20.90 ID:EBF78sYf0
但し冬は別!

まあ裸はそもそも宗教理由てのが怪しいが
イスラムなんかでは但し〜別って多いよ
豚肉とか断食も逃げ道がある
928名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/04(月) 23:45:48.25 ID:Xdpg/DbvO
>>925
いえ、半裸教です。
長閑な時代でした。
929熟れの果て:2013/11/05(火) 00:06:28.22 ID:RyJQCNAg0
連休に親類縁者が集まり、昔話に花が咲いた

冷 房 昭和29年に国産冷房機が発売されたという、家電メーカーのCMがあるが
    戦前にも銀座の喫茶店に、冷房は有ったと大叔母の兄嫁が言う
    ただ「ひんやり」する程度で、さほどの感動は無かったと
    女学校の友人宅が持つ「軽井沢の別荘」に、何年か夏は寄せていただいたので
    冷房は「偽物」のイメージがあったらしい
調味料 現在はインド料理店ぐらいでしか目にしない「チャツネ」が洋食屋のテーブルには
    常備されていたと思うと。昭和15年頃には「普通」の事だったらしい
    ウースターソースは「辛味」で、チャツネは「甘酸っぱさ」の調味料だったと
    オムレツにサラダとライスを添えて、サラダにはチャツネを付けるのが好き
    だったと。ライスにウースターソースやチャツネだけを掛けて(付けて)
    食べる人も居たらしいが、流石にライスだけでは注文が通らず、スープを
    併せて頼んでいたと、サラダと言っても「ハムサラダ」が多く、グリーン
    サラダは「無かったような・・・」と言う
百貨店 大叔母が疎開する前、昭和19年秋口にも百貨店は営業していたと
    エレベーターやエスカレーターは動いておらず、売り場も窓際の
    明るい場所が主で、節電を意識しているのが解ったと
    売り物はあまり無かったらしいが、木工品や自由販売の品(オキアミの
    塩辛?海水漬?)などを販売していたと
    食堂も「代用食の普及・研究」の名目で、量も品数も少なかったものの
    外食券持参なら飲食が可能だったと

     
930名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/05(火) 05:18:20.12 ID:VEMSGy/H0
新宿中村やではチャツネらしきものまだでるぞ
931名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/05(火) 11:37:23.69 ID:MWgAMAn20
面白いですね。
もっと聞きたい。
932名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/05(火) 18:58:48.62 ID:GcFw6XEzO
このスレ特に興味深い、いい話多いよね。もったいないから、誰か保管庫作ってほしい!
933熟れの果て:2013/11/05(火) 21:34:02.92 ID:RyJQCNAg0
すにあかし
 大叔父夫婦は時々「すにあかし」という言葉を遣う
 これまで特に気にも留めていなかったが、今回初めて意味を尋ねてみた
 「すにあかし」は「素に明石」と書き「素肌に明石織の着物を着たような・・・」
 という意味らしい
 「明石織」に関しては、Wiki等を参照願いたい

 実際昔は(明らかに戦前を称している物と思う)襦袢や長襦袢は「高級品」で
 明石のように涼しく着る物は、麻の襦袢を合せたらしいが・・・
 明石が絹だったので、絹の下に麻では「味気が無い=あじきがない=つまらない
 =しゃれてない」が、絹の襦袢では「勿体無い」ので、素肌に明石を着る人が居たと
 ただあくまで「男限定」の話で、それも素人では無く、とは言え極道でもなく・・・
  ヒモと言われるような立場の「苦み走った良い男の遊び人」が、刺青や下帯と腹巻を
 「見せる為=アピールする為」に着ていたように思うが・・・?と

 大叔父曰く、素に明石で街を歩くには「ちょっとやそっとの男では無理
 しかし似合えば女性にはモテて、小遣いにも困らず、遊んで暮らせたんじゃないか?」と
 「裾を捲れば、直ぐに実践体制だし・・・」とも・・・何の事だか・・・
 「下帯を外さなけりゃ無理だろう」と問えば「あれは前を寄せるのでは無く、後ろを
 ズラすんだ」と言う
 想像するに、Tバックの縦の線を、臀部を超えてズラしたらしい「そうすると前も緩む」
 らしい

 大叔父には、まだ何か「秘密にしている事」があるような気がする

 結果=すにあかし 「体の線を露わにしていたり、異性の欲情をそそる様な
    品の無い様子」を指すらしい
934名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/05(火) 22:12:15.78 ID:MWgAMAn20
こうの史代 の「この世界の片隅に」も庶民の生活が描かれてて面白かったな。
935名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/05(火) 22:58:01.57 ID:6nX7fLcmO
大叔父から聞いた戦時中の朝鮮人の話

戸数20くらいの大叔父の山奥の村にも朝鮮人が数人いたらしい。
当時小学生の大叔父のクラスにいたある朝鮮人は
20歳くらいなのに小学生に混じって勉強してたらしい。
運動会のかけっこは小学生vs20歳だから
当然、その朝鮮人がぶっちぎりのトップ。
名前は「チン・ギリー」(大叔父の発音そのまま)といって戦後は他の朝鮮人たちと半島へ帰ったらしい。
936名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/05(火) 23:02:11.98 ID:6nX7fLcmO
>>935の大叔父は母方のね。
937熟れの果て:2013/11/06(水) 00:11:58.97 ID:1RUkKuOz0
スーツのオーダー
 大叔父は60代まで、スーツをオーダーしていた
 大柄で肩が張っていて、後ろに反っているため既製服では無理だったらしい

とは言え、実際に満足の行く品質のオーダーができるようになったのは
  昭和25年頃らしい。それまでは中国人の仕立て屋さんにお願いしていた
  らしいが、古いシャンハイスタイルで、最新のアメリカスタイルは「無理」と
  言われていたらしい
  靴や帽子まで、満足の行く品質のものが手に入るようになったのは、昭和
  30年代に入ってからだと

  昔はスラックスの採寸の際には必ず陰部の収納方向を「右ですね」とか
 確認されたと。別に不思議にも思わず「そういうものだと思っていた」と
そんなに度々採寸する必要があるのか?と尋ねたら、やはり戦後は徐々に
  太り、その上評判が良いと聞けば、横浜辺りまでなら出かけからだと
 
 スラックスの裾のダブル部分にはペニーを縫い付けていたと
自分たち世代は、ローファーの前部分にダイムを入れていたが、スーツの
サイドベンツの裾に鎖を縫いこんでいた
結局似たような事は昔からあったのかと感心した

 しかし大叔父の父親の世代は、毎夏に6着のリネンスーツをオーダーし
 週に一回着て6着を着まわし洗濯に出し、4ヶ月ほどで「処分」していたと
 大叔父はそれで半ズボンを作ってもらったり、枕カバーを作ってもらったり
 したらしい。子供ながらに大叔父は「夏にはリネンスーツ」と決めていた
 らしいが、戦前戦後のどさくさで出来なかったと。とは言え今でも夏には
 ブラックリネンのジャケットを愛用している
938名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/06(水) 18:07:22.73 ID:XjQ4VvrV0
2日に祖母が96歳で亡くなった。
通夜や葬儀の準備の傍ら遺品を整理してると、14年前に先立った祖父の遺品がいくつか大事にしまってあった。
戦時中の物も多く、満州から祖母へ宛てた、関東軍の検閲の判入りの軍事郵便ハガキなんかもあり、

「満州南部から北部へ移動になった。2月になるこの時期、零下40度近くまで下がる寒さでは
ちょっと油断しただけで水分のある物はみな凍ってしまいます。しかし凍りかけのリンゴはとても美味です。
雪の積もった草原で青いものと言えば節減を歩くキジの頭くらいのもの〜」
などなど、中々面白かった。
939名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/06(水) 21:48:12.76 ID:M+gpXdnr0
キジはまだ冬仕様の進化がなされてないんだな
940名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/07(木) 20:17:59.40 ID:w/MzpROCO
家の押し入れあさってたら網みたいのが絡んだガラス製の水筒が出て来た。
戦時中に使ってたらしいがガラスだしな…。
どうなんだろ?
他にも練習用の銃剣や日露戦争の時、政府からもらった感謝状や東條英機の名前入りの戦陣訓やら出て来て面白かった。
探せば意外と色々あるもんだな。
941名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/07(木) 21:20:30.07 ID:IWUwejBN0
うちにもそういうものがあるね。
曽祖父が日露戦争の騎兵隊だったせいか、日露戦争の宣戦詔勅の巻物とか、当時使用した木刀とかがある。

春ごろに写真に撮ってたんでうp
掛け軸(多分何かの記念品)
http://a-draw.com/src/a-draw.com_2236.jpg
http://a-draw.com/src/a-draw.com_2237.jpg
http://a-draw.com/src/a-draw.com_2238.jpg
曽祖父
http://a-draw.com/src/a-draw.com_2239.jpg
木刀
http://a-draw.com/src/a-draw.com_2240.jpg
942名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/07(木) 22:47:06.36 ID:sBcYW2UA0
こりゃあ貴重だねえ
943名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/08(金) 00:36:02.13 ID:hNVsTf5E0
父の実家(江戸時代から同じ場所)の庭を
工事で掘り返していたら、マリア観音が出土した
実物をみたがあまりキリスト教の偶像っぽくもなく
赤ん坊を抱いた単なる仏像に見えた
944名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/08(金) 20:23:26.88 ID:h+vQDuRH0
>>941
制服が「きせられてる」感があるw
まだ若いんだろうなぁ

掛け軸保存状態いいな
945名無しさん@お腹いっぱい:2013/11/15(金) 14:30:20.75 ID:kfdsh9py0
 918で、味噌を擦る、というのを読み、疑問に思って調べたら、地元でこんな話を知ったので、
書いてみます。

ここらでは擦り鉢の事を金鉢と呼びます。色々と尋ねて回りましたが、なぜ金鉢と呼ぶのかは
分かりませんでした。
そんな中、擂り粉木の事を味噌擦り棒と呼ぶ事を知りました。何で味噌を擦るのだろう、と思っ
て色々と聞いて回りました。
そもそも、味噌を作る為に大豆を煮て、味噌玉を作り、軒先に干して乾かします。その固い味
噌玉を、味噌押し桶の中(その桶を持っていない貧乏人は 田圃から稲を運ぶ稲押し船)の中
に水を入れて、その中で味噌玉をで包丁で細かく切り刻み、塩と麹と汁(大豆を煮た時の煮汁
に塩を大量にぶち込んで 保存してお
いた)を入れ、足で踏んでグチョグチョにした物を、味噌桶に入れて発酵させます。
これを食べるのですが、今の味噌と違って固いので、擂り鉢で出汁を加えながら擦って、調理
したそうです。
故に、擂り粉木を味噌擦り棒と呼んだそうです。
で、ここからは余談ですが、味噌と違って素人には作れない醤油ですが、商人から買わなくて
はいけない贅沢品であった為、その代用品が使用されてい ました。
たまり醤油(これは味噌桶の真ん中にザルを入れておいて、染み出た液体を醤油代わりに使
った)。
もろみ醤油(炒った大豆、麹、炒った麦、水を桶に入れて発酵させたもの)。
すまし汁(これが凄い。先ず味噌汁を作り、置いておくと、味噌が沈殿して色の薄い味付きの上
澄みが出来ますが、それをすまし汁と呼んで、正月の短冊汁(大根ばっかりの雑煮)などを、作
ったそうです)。
 
946名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/16(土) 09:39:06.18 ID:3indSH/7O
へ〜味噌が固まりだとはびっくりだよ。その話初めて知った!貴重な話をありがとう。
947名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/17(日) 11:47:11.11 ID:sZ2BBpdI0
1 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/11/16(土) 20:25:04.76 ID:79nZ3DJX0
祖父は明治末の生まれで、だいぶ前に亡くなった
先日祖母が他界し、その遺品の中に祖父の満州出征時代のものがいくつかあったんだが
支那語会話辞典と人体解剖学?の本があったんで少しだがうp

外観
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org4670604.jpg
これはいいんだが、例文が中々にヤバいというか興味深い

http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org4670609.jpg
お前が本当の事を言うなら、私はお前を殺さない

http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org4670614.jpg
お前は四、五軒家を融通して我らを住ませろ

http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org4670626.jpg
私は眠るからお前は門をかけておけ 
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org4670631.jpg
お前はあちらのスパイではないか?

最後の発行ページうpっとくわ
http://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org4670737.jpg
この人体系の本については親父も知ってて、
このせいで祖父は731部隊の人間だったんじゃないかと割と本気で疑っているみたいだ
一応、階級は衛生上等兵ってことになってるしそんなエリート部隊ではないと思うってのと
仮に731だったとしても、あれはただの防疫部隊だから、と説明はしておいた
納得したかどうかは分からんけど

ソース先に大量に画像あり
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1384601104/1
948名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/18(月) 01:04:46.39 ID:XZn5KUdJ0
そのvipの方の元スレ、あちこちのまとめで入れ食い状態だなw
そのリンクはすぐに消えるだろうが、
満州 会話辞典で検索すればすぐ出てくるからそっちで確認してみるのも良いだろう。
949名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/20(水) 09:28:31.29 ID:qS2gSE9kO
祖母さんいわく、弾丸所や弾丸塾といった砲術塾が戦前はあった。
砲術を通して基礎教育や女の仕事を教えていた。
そこに通っていたせいか、祖母さんは遠距離戦が得意で、短気を起こして銃剣突撃してくる祖父さんをいつも撃退していた。
祖母さんいわく、
「いかに突撃させるかが勝負の肝」
だそうです。
950名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/20(水) 12:53:53.10 ID:9WkRLVkHO
戦前、戦中にラジオがある家は田舎では10件に1件だったらしい。
それと爺さんは原爆絡みで麦茶と犬が大嫌いだった。
951名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/20(水) 12:55:48.04 ID:9WkRLVkHO
変換ミス
件→軒
952名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/20(水) 15:08:31.50 ID:BEGGfmaGO
知識なくてスマソ。
なぜ、麦茶と犬なんですか?
953名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/20(水) 18:45:27.10 ID:9WkRLVkHO
>>952
麦茶は血が浮いてた川の水を仕方なく飲んだこと、
犬は被爆者の遺体を食い荒らしてたからこの2つが大嫌いだったそうです。
954名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/21(木) 00:01:43.42 ID:db034kK+O
ありがとうございます。当時を体験された方ならではのお話しなのですね。想像を絶する内容だったのでビビりました…。
955名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/21(木) 04:28:20.82 ID:/3OtCc9z0
同じ疑問で同じ感想だったわ。。
成るほど麦茶か
956名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/21(木) 19:44:54.73 ID:8aG5Nb28O
戦時中は田舎では、お寺や教師くらいしか新聞も取ってなかったと祖母が言ってた。都会と田舎の格差はものすごかったそう。
957名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/21(木) 20:12:44.90 ID:JGcowUzK0
蒋介石の画像がテレビに出ると、祖母(明治生まれ)は悪い奴だと言ってた。
当然だけど。
958名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/22(金) 20:38:02.27 ID:P+ie5jkt0
団塊だけど、子供のころは、オート3輪のトラックが多かった。
ミゼットなんかより、大きい奴。
959名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/23(土) 16:57:03.08 ID:uA1vto7k0
マツダはもともとオート三輪で大きくなった会社。
960名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/23(土) 19:38:48.64 ID:mB6RN64WO
>>957
現在の中国共産党より、蒋介石の方がマシな気がするが
961イタクァを作らないか?:2013/11/29(金) 23:10:21.70 ID:+v8R9UXO0
このスレの感想を唄にしてどうぞ
962名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/30(土) 10:59:18.90 ID:DKc2jDHO0
戦前の邦画見ると、会社員で女性のタイピストってよく出てくるんだけれど、何をしてたの?
当時、英語が普及していたとは信じられないから
会社の日本語の文書をローマ字で打ってたのだろうか?
963名無しさん@お腹いっぱい。:2013/11/30(土) 23:24:02.36 ID:YFBcIHxX0
和文タイプライターのことでしょう
馬鹿でかい機械で操作も難しく結構な資格
専門学校もあった
ワープロによってそういう職はなくなったな
資格持ちは会社員だから他の仕事すればよかったが
先生は失業した
964名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/01(日) 11:02:26.95 ID:evZvGEdk0
>>963
映画では
バチバチバチと高速で打ってるよ。
したがって、英文タイプです。
自分が、高校生のときは英文タイプクラブもあった。

和文タイプなら、熟練しても1秒に1打未満です。
1文字づつ漢字を探して打ちますので。
これは、体験です。
大きさも机一杯占領する代物です。
965名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/01(日) 13:32:04.52 ID:24s33gev0
>>960
戦前に人格を形成した人の感覚では、蒋介石、ルーズベルトは悪の権化。
966名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/01(日) 17:30:57.62 ID:7LlxqlGj0
【国際】韓国、慰安婦問題で暴挙 アングレーム国際漫画フェス(フランス)に慰安婦漫画50作出品へ 日本側“倍返し”の構え
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/moeplus/1383263284/

【大分】「自衛隊がどこで何をしているかが秘密になれば、憲法9条は絵に描いた餅になる」 社民党ら300人が反秘密保護法案集会
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1385867929/

【中国・人民日報】 日本の歴史教科書政策を批判 「池田大作氏の名言を忘れるべきでない」
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1385367395/
967名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/02(月) 00:17:00.53 ID:b+i3gFqv0
>>963
>>964
戦前でも三井、三菱、横浜正金銀行などの貿易部門では英文タイプは必須。
輸入信用状を作成したり、海上保険証券を国際規格に従ってタイプするのは当然。
上司が手書きで起案した英文書類を物凄い速さでタイプする技術は、高給で遇された。
横浜でも神戸でも上海でも同じ。
968名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/02(月) 19:14:11.80 ID:3Aa094QM0
90年代後半まで英文タイプは現役だったよ
普通の営業だったけど輸出書類を作成してた
win95が普及してから一気に消えたかな
スピード勝負はTELEX。こちらは接続時間で料金が変わったから
英文略語の打ち込みの早い専門の人がいた
969名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/03(火) 00:41:07.66 ID:/6HqaAwB0
テレックスで時間がかかると損だから、
最初に紙の鑽孔テープを作っておいて、それを流した。

PLS TLX RPLY UGTLY なんて・・・
970名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/03(火) 19:15:08.51 ID:+UTpzpKI0
コンピュータのためのキーパンチャーというのもありましたね。
いまでは、1クリックですむ作業ですが・・・
971名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/04(水) 12:04:12.27 ID:FwDPjtCuO
聞いた関東大震災の話。自警団の検問所近くへ地元の所謂地方文化人が通りかかった。当時珍しいフロックコートを来ていただけで朝鮮人と間違われ拘束、幸い地元民と確認がとれたため事なきを得たとか。
972名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/04(水) 12:14:57.91 ID:FwDPjtCuO
連投スマソ。S2年生まれの祖母から戦時中の話。村の上空でB29を日本軍機が撃墜。乗員の一部は存命で今でも交流があるが即死した人の大腿部が農家の茅葺き屋根を突き抜け部屋に落下してきたそうな。
973名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/04(水) 12:23:33.13 ID:FwDPjtCuO
また、隣町の話。グラマンの搭乗員が生け捕りにされ、校庭の木に縛られ町民からフルボッコ。気を失った所でカンフル注射され、またフルボッコ。さすがに二回目の注射は効かず亡くなったそうな。以上、千葉県北東部の話。
974名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/04(水) 14:11:19.22 ID:FwDPjtCuO
<<973の後日談。戦後米軍が来て犯人探し。町内は責任逃れの密告合戦で今では黒歴史。
975名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/04(水) 19:03:23.00 ID:PL2H45k3O
日本の対空砲火がお粗末だったのか、B29は高高度からかなりの低空にまで侵入して来て地上からでも飛行するB29搭乗員の顔が見えたそうだ
976名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/04(水) 20:08:34.61 ID:2OsZJEbq0
>>971
朝鮮人に発音できない音があったらしいから、それを発音させたらしい。
語頭のラ行音とか。
977名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/05(木) 12:04:40.60 ID:ZuU98Cyq0
久しぶりにきたが草生やすのが好きな携帯厨浮いてるな
最近は見かけなくなったようで
978名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/09(月) 01:01:36.73 ID:9i/LyVkO0
そろそろ次スレですね。980さんか990さんあたりおねがいします。



祖父の話。といっても父からの又聞きですが。

日中戦争の前後〜パールハーバー前と思われる期間、埼玉北部にて。
当時、農耕馬や牛も戸籍のように家の情報としての届出か記録があったようで、
そういった家畜の有無などが役所に知れていたそうな。
そして、実戦用か訓練用かはわからないけれど、騎馬兵用にと馬の徴用があったという。
まだ余裕がある頃だったためか、徴用といってもただ取り上げるのではなく、買い上げの形。

一度東松山まで馬を集められることになり、そこまで該当の自宅の馬に乗っていき、
馬の代金をもらうと今度は下馬をして代々木まで連れていったそうな。
なんでも、東松山までは自分の家の馬だということなので好きに扱えたが
そこをもって官用の馬となったことで、勝手に乗馬してはならないということだったらしい。
それで徒歩で馬を連れていき、代々木まで付いたあとには鉄道を使って、高崎線で帰ってきた。
東松山では、今生の別れとなる馬のために馬頭観音にお参りをしたらしい。


この馬も満州なりに送られたのかな、と考えてみたりもしたところで
wikipediaのウマの項目をみたら、日中戦争にまつわる話が掲載されていました。
979名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/19(木) 03:43:05.95 ID:6f1f3L4N0
明治25年生まれの曾祖母と大正6年生まれの祖父は犬の肉が大好きだったらしいが、
どこで味を覚えたのかはよく分からない。もともと江戸時代から日本でも食べる習慣があったのかもしれないし、
第二次世界大戦で中国へ出征していた祖父が大陸で食べたことがあるのかもしれない。
ちなみに祖母は肉が大嫌いだったから、夫と姑が犬肉やウサギ肉を食べるのを見るのは嫌だったろうな...
980名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/16(日) 13:18:52.73 ID:5HbHb8d40
古代からあったらしいね
981名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/25(火) 03:44:10.45 ID:94vucD3S0
今は亡き、明治生まれのひいひい爺ちゃんの話。
豪農の長男だった爺ちゃんは農家も手伝わず
戊辰戦争で有名な城下にある遊郭までいそいそと通い、
山一つ分のお金を遊郭につぎ込んでいたらしい。
と、まぁここまでは…
ふ〜ん。爺ちゃんはお盛んだったんだね…
で、終わっていたんだけど、最近叔父さんから
実は、じい様が通った遊郭の楼主の子孫と実は知り合いで
遊郭には地下牢があり、病気などでお客を取れなくなった
女郎さんたちをそこに閉じ込めて亡くなるまで置いておき
その後、お寺に置いてきていた…
とか、その他書きたくないような遊郭の事情を
楼主の子孫話と聞かされて、ちょっぴり気分が悪くなった。

実は、その遊郭の建物…現存してるんだよね…。
歴女の私は叔父の話を聞く前に見に行ってしまったよ…。
982名無しさん@お腹いっぱい。
>>975
誰だったか名前忘れたけど(作家か俳優だったと思う)搭乗員と思いっきり目が合ったりしたってね