1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
思う所、語ってみませんか??
<龍馬暗殺犯 現在のオッズ>
薩摩黒幕 1.20倍
斎藤一 1.45倍
京都見廻組 3.45倍
紀州 6.00倍
原田左之助 12.00倍
土佐 24.00倍
自殺 40.00倍
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/11(土) 15:46:17 ID:sWCMV26J0
中川宮朝彦 1倍
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/11(土) 17:32:10 ID:z+2NkPii0
薩摩黒幕説はよく聞くけど、長州は?
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/11(土) 19:01:07 ID:sWCMV26J0
長州が中岡を殺すことは無謀
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/11(土) 21:55:01 ID:z+2NkPii0
大体、慎太郎と龍馬どっちが標的だったのでしょうか??
それによって、だいぶ暗殺犯変ってきませんか??
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/11(土) 22:27:59 ID:sWCMV26J0
近江屋は龍馬の定宿
だから龍馬が標的
中岡は止めを刺されていない
中岡が龍馬を訪れた後に誰か(新撰組の事情通)が来た
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 12:02:15 ID:tqMRf5000
ちなみに、現在の学会での見解は、松平容保、もしくは彼の直属の部下による命令。
実行犯は松平容保配下の京都見廻組。
動機は松平容保の大政奉還への敵意。
ということになっています。
薩長説は小説家の妄想。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 13:54:43 ID:T+L6CRkU0
薩摩は藩の威信は大事だが篤姫を庇わなければならなかった
だから紀州藩を直接攻撃しない形で幕府の権威を失墜させることを目論んだ
土佐は紀州藩とはいろは丸事件以前の昔からの険悪な間柄で
慶喜の名誉だけ守れればそれで良かった
長州藩は攘夷の急先鋒として各地から志士が集まり
長州藩だけの損得勘定で安易な行動は出来なかった
紀州藩は伏見宮と親密で中川宮の失墜は藩の存亡に関わる重大事
西郷さんは生き延びてベトナムに渡ったそうですよ。
その証拠にサイゴンって地名が残っているとか。
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 17:17:17 ID:T+L6CRkU0
西郷一人生き延びて彼に何の生き甲斐がある?
西郷とともに彼に従う有能な何人かの行方が不自然だとかの痕跡があれば別
「井伊直弼暗殺は影武者だった」とかと同類
そんじゃ、実は龍馬は3人いた。
でどう。
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 17:39:08 ID:T+L6CRkU0
御三家紀州の暗示
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 17:49:17 ID:T+L6CRkU0
三菱の「三」も御三家の暗示
慶喜実家の水戸家に敬意を払いながら
龍馬暗殺の裏に紀州家があることを示唆
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/13(月) 22:48:07 ID:wSwO1qDh0
紀伊徳川陰謀説 0.0003
越前徳川陰謀説 0.9
武蔵伊豆守説 3.6
宮中陰謀説 0.19
水戸脱藩志士説 0.00001 or not
土州脱藩志士説 皆無
薩州陰謀説 50
長門陰謀説 00
イゲレス周旋説 08
フランス周旋説 06
諸外国は証明できれば払います。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/14(火) 02:39:00 ID:Fzp3MIaB0
三浦休太郎独断関与説 1.9
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/14(火) 02:49:52 ID:Fzp3MIaB0
中川宮朝彦実行犯 1
グラバー説 13.0
会津藩士の記録に、それらしいのがあったとか?!
確かNHK(ラジオ)で聞いた。
会津藩京都駐在幹部(当時)、手代木の証言ですか
・見廻組の佐々木(手代木の実弟)が見廻組の部下と共に坂本龍馬暗殺を実行した
・坂本龍馬暗殺の命令をしたのは、一会桑の某諸侯である
・某諸侯といっても決して容保様のことじゃなくて・・・・・・桑名だ桑名だそういうことにしてね
という内容
やっぱ常識的に考えれば松平兄弟が一番怪しいな
討幕派云々は龍馬の立ち位置や思想から考えても意味が無いし有り得ない
傍証とされるものも裏が取れない&牽強付会な解釈が多すぎ
今井家に伝わる口伝だの佐々木多門の手紙なんかがまさにそう
それならなんで新撰組にやらせないの?
素朴な疑問。誰か教えてくれ
@刺客は何故坂本本人と分かったのか?無言で狙い打ち?
A事前に坂本確認の手配をした者がいたのか?
B坂本を売った裏切り者の存在は?
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 20:01:51 ID:PJ/nXGdK0
@無頼浪士でそれらしけりゃ何でも良かった、坂本なんてリストになかったのかも。
Aおりょう
Bいない、つうかそこまで重要人物か?
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 20:44:31 ID:Iah9LD6j0
@手配の似顔絵くらいはあったかも、着物の紋章で判断か
A中岡は致命傷だが生きているから、ヤツが坂本だと手引きがいたかも
Bミステリーとして未だに推測されているからなw
まあ、この時代は偶然や遭遇は多々あったかと
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 20:45:33 ID:rtyZMWFp0
>それならなんで新撰組にやらせないの
徳川慶喜が受け容れた大政奉還を理由に坂本龍馬を殺すのは、松平容保にとっては主君の命に逆らう行為となる。
手代木・佐々木という実の兄弟にやらせることで、情報が漏れるのを防ごうとしたのだろう。
>@刺客は何故坂本本人と分かったのか?無言で狙い打ち?
今井(見廻組隊士 実行犯の一人と証言)の証言によると、才谷(坂本)宛てのニセ紹介状を持ち、
部屋にいた2人に渡し、書状を呼んだ方を坂本龍馬と考えて狙い撃ちにした、ということになっている。
>A事前に坂本確認の手配をした者がいたのか?
証言によると、暗殺の数週間前に居場所を特定し、当日は通常の面会のように十津川藩士を名乗り、
坂本の世話をしていた力士一人が出てきたので一階で殺害、そのまま二階に上がって2人と面会し、殺害.。
場所を特定した手段については証言がない。
しかし、大政奉還時に京都の幕府首脳と何回も面談を重ねているので、居場所の特定は容易であったと思われる。
>B坂本を売った裏切り者の存在は?
強いて言えば裏切り者とは、上司である徳川慶喜が受け容れた大政奉還を憎み、坂本を殺した
松平容保のことなのだと思う。
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/15(水) 22:06:44 ID:6xZvBIpR0
お龍の実家楢崎家は元は長州藩士だったらしいが浪人となり
父将作は勤王家だったが中川宮朝彦の侍医となる
お龍と中川宮との接点は不明
龍馬がお龍を妻とした数ヶ月後ワイルウェフ号が沈没し池内蔵太ら12名死亡
海援隊内部でのお龍の評判の悪さは中川宮の手先とする見方があったから
女一人で沈められるほど船は脆くない
お龍の身近に長崎奉行所もしくは中川宮が忍びを放った可能性大
楢崎家は父将作を失ったあと没落し池田屋事件の後で家財の一切を会津藩に没収
女たらしで有名な中川宮は美人のお龍に目を付け態と楢崎家を狙い撃ちした
父将作も中川宮に毒を盛られた可能性がある
中川宮朝彦はお龍のストーカーで新撰組の近藤が中川宮の命でお龍のいる寺田屋に物見に来たのは事実
坂本はそれを承知でお龍を妻にしたのだ
坂本の実家との不和や千葉佐那とのいがみ合いの裏には中川宮を龍馬の仇としてみる証拠である
坂本暗殺時世は危機迫る暗雲の時代だから明日はわが身の緊張感
どこの馬の骨かは分からないが一端を担うってもんだ
だれもが命の労いをしながら然もや吾よと生きた時代ですねん
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/16(木) 05:00:08 ID:72iHvaOo0
明治後年に実行犯だと自白した今井信郎が2階に上がりざま機転を利かし「お久しぶりです坂本さん」
と呼びかけ「おー誰だったかいのう」と答えざま斬りつけたという話しが残っております。
>>22 大政奉還で京での地位や権力を失うのが会桑ってとこスルーしてるのが多いよな
穏健に徳川の新政府入りが実現した所でその後重用される可能性が低く
大政奉還自体に嫌悪感を強く示していたのに
幕末をロマンのない権力闘争って側面から見るのを嫌う人間が多いからなのか
西郷が今井を助命したとかいう話だけど、あれって今井家に伝わる家伝以外になんか根拠あるの?
俺は今井信郎の勘違いかもしくは子孫の拡大解釈だと思ってるけど事実という前提で話されるから歯痒いんだよね
龍馬って人気あるから気になる人なんだけど、
なんか興味わかないんだよな。
司馬さんの本読んでもピンと来なかったわー
好きになりたいのになんでだろか。
河井継之助と村田蔵六は好きになりましたが。
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/16(木) 16:34:11 ID:d+DatSNK0
未完だよなたしか
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/17(金) 00:00:28 ID:ejIYsaVuO
当時は龍馬より中岡の方が数段知名度が高かったし、どう考えても狙われたのは中岡
実際龍馬は当時は埋もれた存在で現在のヒーロー龍馬は全くの都市伝説
ほぅー、そんな見方があったか。
武田鉄也と間違えられて斬られたんだよ。
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/17(金) 02:33:53 ID:jfsd3Om+0
軍鶏を買いに行った僕はその後どうなった?
さすがにそこまでは誰も知らないだろ
やっとわかったー
武田鉄矢が好きじゃなかったから、龍馬も好きにならなかったんだわー、自分。
サーセン!
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/17(金) 04:36:44 ID:qvE3gmvz0
中川宮朝彦が坂本龍馬暗殺の実行犯であることは間違いない
中川宮にとって政敵であり恋敵でもある坂本を生かしておくことは
その節操のないシンボルが許さなかったのだ
龍馬の初恋は平井収二朗の妹加尾といわれるが
平井収二郎を策略で追い落とし切腹に仕向けたのが中川宮である
龍馬がお龍を選んだのは初恋の加尾の兄収二郎の弔いだったのかもしれない
安政の大獄で失脚し傷心の朝彦を同じく連座して投獄された侍医である楢崎将作が治癒し
お龍はそのとき体の弱った父を手伝って朝彦を親身に看護していたのだろう
朝彦はうら若く美人のお龍を慰み者にして憂さを晴らそうとしたが
勤王家の将作が邪魔になり毒殺もしくは嬲り殺しにした
それが一橋派から公武合体派への起点のようだ
池田屋事件の直後の会津藩による楢崎家の家財没収を目の当たりにした坂本は
中川宮の異常な性の執着に気付きお龍を薩摩藩の定宿寺田屋に預ける
寺田屋でお龍は薩摩藩士桐野利秋に寝込みを襲われるが
桐野はお龍が龍馬の女だと知ると驚愕して詫びる
この桐野利秋は家老小松帯刀に重用され文久2年(1862年)に中川宮附きの守衛列藩となり
その後藩命で脱藩し密偵探索をしていた
ワイルウェフ号事件はもしや桐野が?と思えてしまうがそれは気のせいだろう
そんな中で異常性欲ストーカー朝彦の命で新撰組隊長近藤勇がお龍の身辺の物見に来る
近藤としては薩摩の動向も気がかりだったろうが隊長自らの出向は芸がない
当然ながら上下関係上そうなったのだ
中川宮はこの上下関係を龍馬暗殺事件でも利用する
>>35 坂本先生と声をかけた理由が説明できないよ中岡狙い説は
二人がいっしょにいる時を狙ったと思うけどね
坂本龍馬ってさ、実際は志半ばに倒れたタダの「その他大勢」の一人でしかないよな
薩摩藩黒幕説を主張しているのが会津系作家と陰謀論系作家だらけな件
いえいえ、自称新撰組研究家の皆さんもいますよ。
講談社の週刊坂本龍馬は酷かった。
まともなものも含めて通説を全て切り捨てて、証拠もなく持論を展開して最新成果のうち佐幕に不利なものは省略する、という
全く不適当な文章だらけで、神経を疑いたくなりました。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/17(金) 20:40:03 ID:ejIYsaVuO
少なくとも事実の坂本は、今評価されてる半分にも満たないの人間なのは確かだ
歴史が造った人物像だろな
>>45 そうなの?菊地明や相川司は新選組畑だったような気がするけど最近の本では薩摩藩説には否定的だけど。
菊池なんか昔は薩摩が怪しいとか佐々木多門の密書がどうとか言ってたのに、龍馬暗殺最後の謎って本では薩摩は関わってないって断定しちゃってたよ。
それに引き換え☆だの反動だのはどうしようもない。西郷が黒幕だとか未だにやってるし。しかも「証拠はない」とか「推測」とか前置きする卑劣漢ぶり。
買いたくないから立ち読みで済ませた。
誰だって証拠は持ってないし、推測でしかないわけだけど
それを言うと卑劣漢になるのか
根拠もなく断定するよりマシなような気がするのだが
誰が殺したにせよ竜馬は死んだ
それ以上分かって何の意味があるんだ?
>>49 お前が死んだっていうのなら、それ以上知る意味はないけどな
坂本龍馬なら、ちょっとは意味がある
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/17(金) 22:58:59 ID:rvAMf6rU0
峰吉野望説だよ
「最近、中岡と坂本は競って俺をパシリにしやがる。ムカつく(怒)
もう一人ブタがいるんだから、アレを使えよ。ダイエットにもなるだろうが
まぁ、今日で連中も潮時だがな。ははは」
「思った通りに天パーが軍鶏を買ってこいとよ。どこまで上からなんだよ」
―佐々木様、今ですぜ!―
「あとは谷あたりにゴマすって取り入ってもらえれば・・・」
「ぎゃはっはっは、、、ワシも倒幕維新の歴史的人物。天才じゃあ」
と言う、証言はないな
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/18(土) 01:22:19 ID:AGRw6Wl/0
天満屋事件において殺害対象は三浦休太郎一人に絞られていた
三浦の身辺は紀州藩から会津藩への命で用意周到に新撰組が守衛に当たっていた
三浦は西条藩出身の紀州藩公用人でいろは丸の交渉で海援隊との折衝に当たっていたが
いろは丸の賠償金は8万3千両だが支払われたのは龍馬の死後で7万両である
近江屋事件の夜龍馬と中岡はいろは丸事件について三浦と会談していたと考えれば
この事件を解くのは容易である
当時紀州藩は十津川との間で銀に関わる問題を抱えていた
紀州藩は十津川の要求を受け入れる代わりにいろは丸の賠償金を減額しろと直談判してきた
三浦は「今宵は十津川から使者が来るから会ってほしい」と言い
軍鶏肉を買いに行かせるのを合図にしばらくして十津川郷士と名乗る者達が来た
「才谷先生しばらく」と挨拶して龍馬を判別し三浦の背を盾にして暗がりから襲い掛かる
そのとき刺客は「こなくそ!」と伊予訛りの掛け声で真剣を振るった
三浦はその「こなくそ」の意味に意表をつかれ動けなくなった
それは伊予西条藩の訛りだったからだが
刺客は三浦に分かるようにそして瀕死の中岡に証言させるためにコナクソ必殺剣を用意した
そして念を入れて原田の草履も用意した
その発想は武士に有るまじき幼稚さで剣術の指南は受けているが所詮公家
中川宮朝彦は自宅のある京都御苑もしくは境内の隅で阿呆になってコナクソ必殺剣を修行した
つまり「こなくそ」は三浦に対しての「麻呂が生きるも死ぬも紀州藩と一緒ぞ」という脅しである
孝明天皇の崩御によって再度失脚した中川宮は薩長同盟の立役者の自らの手による暗殺で
紀州藩を牛耳り佐幕派をコントロールし起死回生を狙ったのだ
尚且つ安政の大獄直後の一橋派から変貌の原因を恋敵に奪われた中川宮にとって
龍馬暗殺は慶喜に取り入るための絶対条件だったのだ
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/18(土) 01:26:27 ID:XC/JTFbP0
岩崎弥太郎だろ。
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/18(土) 03:01:03 ID:AGRw6Wl/0
文久2年(1862年)一橋派から公武合体派に変貌した中川宮に対し
島津久光は公武合体推進とその護衛のために上京する(4月16日京都着)
同年4月23日には寺田屋事件が発生
お龍の寝床を襲った桐野利秋もこのとき同行したが
討手側には加わらず中川宮護衛に専念していたようだ
お龍の父将作が息を引き取ったのが文久2年1月20日であるから
中川宮邸において将作死亡直後のお龍にも桐野は会っていない
だが密偵探索を得意とする桐野は
悶々とする中川宮のお龍への異常性欲に気付いたはずだ
当然ながら藩主島津も中川宮の下ネタには興味がある
脱藩後の桐野はその後も中川宮側にいたのだろう
だから中川宮はお龍を誘き出すために薩摩藩脱藩浪士桐野を寺田屋に送った
桐野はまず泥酔を装い力攻めに出た
だがそのお龍が坂本の女であることを知った桐野は
お龍に詫びて引き下がり中川宮にはお龍奪還の失敗を報告した
異常性欲を抑えられない中川宮は次の手として新撰組の近藤を使うがこれも失敗
武門一途で妻帯者の近藤に軟派な策を使う方が無理
満たされず悶々とした日々を送る中川宮の下に龍馬の寺田屋逗留が報告される
次の手として見廻組に龍馬の捕縛をさせるが
龍馬に応戦の末逃げられ愛しのお龍も奪われたことを知る
その後に起きたワイルウェフ号沈没はその腹癒せだ
池内蔵太ら12名は中川宮の腐りきった欲望の面当てにされ命を落とした
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 07:51:09 ID:hIV2Vm/tO
坂本龍馬って殺すほどの価値はなかったんじゃないの?
政策でじゃなく、ただの恨みで殺されたと言う説が最近では主流だろ
西郷や勝、高杉、桂らより遥かに格下の存在であったし
当時坂本龍馬の名は世にほとんど浸透してなく無名の輩だったしな
坂本暗殺の黒幕=松平容保・定敬兄弟
会津厨が話誤魔化そうとしてるけどこれが事実
>>58 それなら新撰組にやらせる方がずっといいじゃん
アホと違うか
>>59 見廻組は京都守護職の下部組織であり、「御指図」があったとしても何ら問題ありませんが?何か?
会津藩士手代木直右衛門は死の直前に「某諸侯の命を受けて自分の実弟佐々木只三郎がやった」と証言していますが?何か?
まあそんな基礎的なことも知らないから同じことしか言えんのだろうがここで語るにはちょっと知識不足過ぎだね┐(´ー`)┌
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 15:18:43 ID:vleSGvV90
>53
>そして念を入れて原田の草履も用意した
>そして念を入れて原田の鞘も用意した
に訂正
>60
東北の堅物が関西郷士を装って真に騙せるか疑問
藤吉は近江出身力士
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 15:27:50 ID:vleSGvV90
失敗し切腹し東北に残す親族を考えたら
失敗の危険性のあることはできない
見廻組はせいぜい近江屋までの護衛及び見張り役までだ
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 16:01:31 ID:vleSGvV90
見廻組の戊辰戦争後の自白は紀州藩と親密な伏見宮による必然的助命を考慮したもの
中川宮を処刑しなかったのは紀州藩及び薩摩藩に擁護された伏見宮の身勝手から
維新後西郷は征韓論で敗れ近衛家や伏見宮の専横を許す
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 16:42:26 ID:vleSGvV90
西郷の征韓論主張=広島に幽閉中の異常性欲ストーカー中川宮の処刑の要求
征韓論敗北=龍馬暗殺犯中川宮の自由放免
一番の謎は坂本龍馬のような雑魚が何故狙われたのかということだ
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 20:50:31 ID:vleSGvV90
何故坂本が美人達にもてたのかそれは謎だ
今日の大河ドラマを見て来ました。
薩摩は長州の危機に動かなかったけど
これでは薩長同盟って意味なくないか?
小説とマンガとテレビ番組しか見てないからそんな結論に到達するんだよ
中川宮がどうとか言ってるのも同様
こんな珍説このスレで初めて見たわ
いきなり決め付けで人格否定する頭のおかしい人ですか?
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 21:41:04 ID:vleSGvV90
男なら倒すべき相手に大して例え一人でも戦い抜くということだ
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/19(日) 21:42:46 ID:vleSGvV90
>対して
に訂正
>>67 大河は見てないから知らんが、薩長同盟の最初の取り決めは
@お互いに物資(米や武器、船)の融通
A長州の朝敵(天皇に背いた罪)の汚名を返上するのに薩摩が協力する
B薩摩は長州征伐に極力参加せず、戦闘が早く終結するよう幕府を揺さぶる
この三点のみ。
幕府を倒すどうこうという軍事同盟になるような内容はもう少し後になってから決められた。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/20(月) 18:10:23 ID:j00kCZrn0
異常性欲ストーカー中川宮に狙われたお龍を寺田屋に預けた龍馬は
薩長和解を画策し慶応元年5月1日鹿児島に着き西郷の家に寄宿した
西郷はこのとき岩山糸子と3度目の結婚をしていたが
西郷が自宅に居ないとき替えの褌が無かった龍馬は糸子に
「一番古い褌を下さらぬか」と頼んだ
糸子は言われるままに古い褌を龍馬に与えた
帰ってきてそのことを聞いた西郷は
「お国の為に命を捨てようという人だと知らないか!
さっそく一番新しいのと換えて差し上げろ!」
と糸子に怒鳴った
西郷は龍馬から異常性欲ストーカー中川宮による非道な行為を聞いていた
その節操のないシンボルしか守る物の無い中川宮から一人の女を救い
大敵と対峙する龍馬を男として誇りに思い尊敬すらしていた
篤姫を大奥に残す薩摩にとって龍馬の生き様は希望に見えたに違いない
もし征韓論において桐野利秋を重用する小松帯刀が生きていたら大久保は反対派に付かず
征韓そのものは別として坂本龍馬殺害犯中川宮朝彦は処刑されていただろう
だが放免され異常性欲の果てに生まれた梨本宮守正は
征韓論敗北の象徴として日朝ファシズムの長となる
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/20(月) 21:33:05 ID:41OLYJvi0
犢鼻褌の新旧つうのが昭和初期の貸本少年誌みたいでイカス。
坂本某の重要人物じゃなかったことには賛成だが、人物までボロクソする気はねぇし。
逸話みる限り面白そうなヤシじゃねえか、世間がサワギ杉なだけで。
みんな好きだねー
坂本某重大事件。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/22(水) 00:23:10 ID:v2T954x/0
あの時点で一番坂本を憎悪していたのは誰かって考えると、やはり幕府側の人間だろう。
幕府側の一部のボンクラが憎悪と失意のあまり暗殺に向かったと見るのが妥当。
薩長は大政奉還により武力討幕路線を一時的にせよ足元すくわれたように言われるが、
続く王政復古のクーデターを見ると、大政奉還は倒幕のための華麗なパスワークの一つにすぎないとも言われている。
大政奉還→王政復古→鳥羽伏見の勝利が必殺のスルーパスとなり→江戸城無血開城がシュート ってところだろう。
つまり薩長の武力討幕派にとって、大政奉還は倒幕計画の一部に過ぎないという見方だ。
この理屈だと薩摩藩陰謀説も動機の上から成り立ちにくい。
パスワーク云々は言葉を飾りすぎのような気がするが、
大政奉還運動は当初薩摩が推進していたということを、「討幕派は大政奉還で虚を付かれた」説の人は無視している。
幕府から、天皇を権威上の後ろ盾とした統一政府へと日本国の政体を移行するにあたり、
幕府の頂点である征夷大将軍徳川慶喜が、政府としての地位を天皇の朝廷に一旦返納する、
というのが大政奉還の要諦だが、
実際は将軍である徳川慶喜は、政権の座を一旦朝廷に預けて無役となる必要は全くなかった。
単に、全国から諸藩代表を集め諸侯会議を開催し、
その場で、「日本国政府の地位は、幕府及び征夷大将軍たる徳川慶喜から、諸侯会議及びその首班たる徳川慶喜に移行した」
と宣言すれば済む話で、一旦無役になる危険を冒すのは慶喜にとって有害無益でしかなかった。
にもかかわらず徳川慶喜が土佐藩の斡旋で大政奉還を行ったのは、将来の諸侯会議における土佐藩の協力を重視していたからに
他ならない。
一方、討幕派にとって大政奉還は、幕府を日本国の地位から外すという点で、
推進はするものの、慶喜にとってあまりに一方的に不利であるため、実現の可能性は低いと思っていた。
このため薩摩は、幕府を一方的に朝敵認定し討伐する、勅(天皇の命令書)を手に入れようとした。
しかし実際に手に入れたものは怪文書レベルの根拠の薄いもので、とてもこれを基に天下に討幕を宣言することはできなかった。
坂本龍馬は、土佐藩なら大政奉還を徳川慶喜に説得できる可能性があると考え、実行した。
政府としての地位から幕府が自主的に降りたことで、これを論拠として討幕運動は勢いを増すこととなった。
大政奉還は討幕の密勅の効力を奪うものではなく、むしろ討幕の密勅には足りない客観性と実効性をもって
幕府を日本国政府から引き摺り下ろす、討幕派にとって知らない親戚の莫大な遺産を相続したかのような夢のような出来事だった。
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/22(水) 01:52:10 ID:v2T954x/0
>>78 なるほどね。補足サンクス。
結局、大政奉還は土佐藩や慶喜の思惑とは違い、むしろ討幕派の勢いを加速させたってことだね。
幕府から見たら詐欺に近いが、その後すんなり王政復古のクーデターが成功しちゃうところを見ても、勢いは薩長にあったんだろうね。
>>78 慶喜が大政奉還した理由が土佐藩の協力を得るためっていうのが説得力に欠けると感じた。
土佐一国、容堂1人に何を期待できるんだ?って。
薩長が何らかの企みを持っている事は察知していた幕府、佐幕派が味方を増やしたいと考えていたのは間違いないと思うけど。
他には、徳川慶喜自身が徳川幕府を嫌っていた、としか言いようがないね。
京都で副総裁の地位を得、会津・桑名の軍を動かし、
家茂の死によって幕府自体を手に入れた後も、京都の自らの陣営に必要な人員を引き抜くだけで
江戸は放置され続けた。
慶喜はどこかの時点で江戸の幕府を潰すつもりだった。
朝廷に近すぎたせいか、自らの権威は幕府に立脚しているということに無頓着だった。
小沢一郎が、自民党内の闇将軍でありながら自民党を潰して自分の新党を作ろうとした、というのと似ているかもしれない。
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/22(水) 07:19:46 ID:v2T954x/0
大政奉還の運動時における会津・桑名の動きってどうだったんだろう?
幕府や佐幕派諸藩が勢力を増やしたいのであれば率先して賛同しただろうが、そのような話は聞いたことがない。
逆に妨害するような動きはなかったのだろうか?
慶喜が大政奉還を宣言した直後、薩藩の小松帯刀などは急いで朝廷に裁可を取り付けに行ったという話があるが、
この逸話を知る限り、大政奉還を待ち焦がれていたのは薩長土ら倒幕派であった気がする。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/22(水) 07:48:51 ID:DHKhkyB40
いろは丸の賠償金は慶応3年10月19日から長崎で行なわれ中島作太郎が交渉に当たった
龍馬はその頃福井で松平春嶽に謁見し11月3日に福井を立ち5日に帰京した
11月10日長崎でいろは丸の賠償金が7万両に減額で妥協したが
この妥協に隊長の龍馬や参政の後藤は同席していない
ここで三浦休太郎は10日まで長崎にいて正式に談判するために5日かけて京に入り
土佐にいる後藤の代わりに岡本健三郎が立会い岡本は談判が正式に成った
岡本帰宅後3人で談笑している間に談判の当事者として十津川郷士が挨拶に来る代わりに
中川宮とその家臣青侍達7人が十津川を装い
今井信朗の見張りの下襲撃しに来たとすれば辻褄が合う
そうでないと正式な談判とはいえず龍馬の死後の7万両はおかしい
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/22(水) 07:52:06 ID:DHKhkyB40
>土佐にいる後藤の代わりに岡本健三郎が立会い談判が正式に成った
に訂正
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/22(水) 07:58:18 ID:DHKhkyB40
つまりいろは丸賠償金は慶応三年5月29日の8万3千両の談判がそのまま効力を持つはずだ
>>81 13代就任を巡るいきさつからも感情面で折り合わないところはあったとは思うが…
政治の主軸を江戸に根差す親藩・一門の幕府から京都(二条城)に拠点を置く雄藩連合へ移す意図があったという解釈かな?
>>82 会桑は佐幕の筆頭のような扱いをされるが実態はちと違う
大政奉還の影響で京での地位権力を失い、倒幕派からだけでなく公儀政体派からも疎んじられている為
徳川が新政府の首班になれたとしても重用される見込みが薄く、土佐に対しても敵意を持って大政再委任を唱えていた
この辺りは都合が悪いのか、歴史の急展開に翻弄される会津みたいな書かれ方をして、うやむやにすることが多いのが問題
むしろ幕府方の中では特殊な部類と言ってもいいぐらい
というか幕末の研究が一部の藩に偏りすぎてて
数ある親藩、譜代の動向なんか(勿論外様もだが)がスルーされてるのが
幕末の最終局面を理解するのを妨げているんだよな
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/23(木) 01:57:55 ID:gV99C3nV0
龍馬が暗殺された慶応3年11月をもう一度顧みると
11月5日坂本帰京
同日福岡藤次と神山左多衛に会い松平春嶽の返書を渡す
10日長崎でいろは丸賠償金8万3千両が7万両に減額する妥協が成る(中島作太郎VS三浦休太郎)
15日龍馬が福岡を午後に2回訪ねるが福岡不在
同日夕刻中岡と岡本と峯吉が近江屋に来る
同日9時岡本近江屋を離れ峰吉が軍鶏を買いに行く
同日峯吉が離れた直後十津川郷士と名乗る刺客に襲われ龍馬は即死で中岡と藤吉は重症
16日藤吉死亡
17日中岡死亡
12月7日三浦休太郎が怪しいとして天満屋襲撃
ここで注目したいのが11月5日に帰京して福岡に会い5日後の10日に賠償金減額の妥協
その5日後の15日福岡日中不在でその夜襲撃に遭い三浦を犯人として絞るが
この5日の間隔での福岡と三浦の動きは京と長崎の旅程だと推測できる
つまり11月10日長崎に居たはずの三浦がその5日後京都に居たのだ
福岡は11月5日に京から長崎に向かい龍馬の承諾を中島に伝え
10日三浦は正式な談判をするため京に向かい15日日中に京都到着
福岡も10日長崎を離れ15日夜京都到着したが長旅の疲れと禁欲で堪らず女に逢いに行く
同日夕刻龍馬は中岡と岡本立会いのもと三浦と談判
同日9時すぎ岡本が帰った後坂本中岡三浦の3人と藤吉が居るなか
三浦と襲撃犯の示し合わせたの上で襲撃される
ところで紀州藩公用人の三浦は京都見廻組などのために徒労はしない
だから犯人は紀州藩と親密な伏見宮の一族中川宮朝彦とその家臣青侍達なのだ
>>82 >大政奉還の運動時における会津・桑名の動きってどうだったんだろう?
動きは知らんけど手代木は春嶽に謁見した際大政奉還を批判しているから他の会津藩関係者も同意見だろうな
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/24(金) 03:18:43 ID:YrbsfHQc0
土佐藩は古くからの鰹漁の問題で紀州藩を快く思っていなかった
紀州藩は大型船で遥々土佐湾まで鰹漁に来るが鰹節の生産は独占し
土佐の漁師は廃業に追い込まれ紀州藩の鰹節生産に低賃金で働かされていた
土佐にとって大政奉還は紀州藩に一泡吹かせる千載一遇のチャンスであり長年の悲願であった
紀州藩に長年の鬱憤があるが徳川に恩義のある土佐藩は慶喜の清廉潔白に期待し
海援隊に土佐から後藤象二郎を差し向け倒幕における紀州藩の処遇を検討する
薩摩藩は紀州藩に対してそれほど嫌悪感はなく篤姫が薩摩帰国を拒否して大奥を仕切る状況で
近衛家の思惑もあり幕府との戦いに紀州藩を巻き込むのは得策でなく他の打開策を模索した
だが将軍に慶喜が就任したこともあり慶喜の気質からいずれ対決は避けられない
薩摩の後押しの下で海援隊を率いる龍馬にとって薩摩の意向は無視できず
脱藩の許しが出ていたが故郷土佐と薩摩の狭間で対紀州対策を練っていた
龍馬の戦争回避はこのときの考察であり龍馬は決して平和主義者ではない
いろは丸事件の賠償問題はその対応次第で新政府の紀州藩の地位を決するものであり
これにより事実上紀州藩の地位を著しく下げることになり積年の恨みをはらすことができる
もし呑まなければ紀州を主戦場にして焼き野原にすることになるが
8万3千両が高いか安いかそれは紀州藩主が決めろというものだった
紀州藩有利になりつつあった裁定も海援隊による国力を以って争うという姿勢に屈し
慶応3年5月29日紀州藩が8万3千両を支払うことで談判した
だが実際には龍馬の死の5日前の慶応3年11月10日
龍馬の長崎不在中に7万両の減額に妥協し龍馬の死後に支払われた
長崎の五大友厚が7万両で裁定した以上慶応3年11月10日から龍馬の死の15日までの間に
海援隊隊長坂本龍馬と紀州藩公用人三浦休太郎とで正式な談判がなければならないが
三浦休太郎を陸奥宗光の単なる勘違いとして容疑者から外し人々の関心を逸らしている
現在の高収入な歴史研究家の学術は欺瞞である
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/24(金) 03:43:10 ID:5/yDxkHl0
一会桑は、孝明天皇の攘夷政策を幕府に押し付けて外交上の矛盾を発生させたこともあり、
一会桑を佐幕派として語るのには無理がある。
大政奉還時には徳川慶喜は、島津久光から主導権を奪っていた諸侯会議を拡張する形で、
二条城に諸藩代表を集め、彼らの合議制の上に自らが政府代表として乗っかる形を構想していた。
これに対し会津・桑名は、諸侯会議の人々と全く仲が良くなかった。
会津関係者が兄弟愛の存在を主張する尾張の徳川慶勝は、両者に隠居を求め政治から手を引くよう勧告していた。
徳川慶喜の弟である岡山の池田も、藩内は勤皇が多数で天皇に抗してまで徳川を支持する気はなかった。
松平春嶽は一会桑の他諸侯を抑えての独断専攻に警告を行っていた。
宇和島の伊達宗城は諸侯会議では一会桑よりも島津久光を支持していた。
広島の浅野は元より薩長支持だった。
この条件で、徳川慶喜の大政奉還が、「慶喜の主催する諸侯会議の政府化」という形に実を結べば、
徳川慶喜は盟主になったとしても、会津・桑名へは引退勧告が必至で、両者には受け容れられるものではなかった。
その為、会津・桑名は大政奉還に激怒し、大政奉還を主張した者へは敵意をむき出しにし、今すぐ大政を将軍に戻すように主張した。
新政府入りするまでは、政局を優位に進める為直属の武力を持たない一橋は会桑の武力を頼りにしてたが
入った後は有力諸侯との軋轢しかない会桑は厄介者でしかないしな
大政奉還を訴える勢力と大政再委任を訴える勢力は相当不和なんだが
この辺りは会津系の人が、徳川より自藩の権力を保持しようとしたことを隠したいのか、曖昧にされるんだよな
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/24(金) 21:54:44 ID:ejeoIPzD0
無名の一般脱北者がキム将軍の敵対する2組の組織に裏で武器を売りつけ力をつけさせ
他の組織に危機感を煽りキム将軍を政権から降ろさせた
そしてキム将軍側近の恨みから殺されたが後の岡田大臣クラスに称えられた
社会主義国家にいながら資本こそが武力という稀有な発想を持っていた無名な一般人
武力で改革を行えば儲けれたはずだがしなかった、りっぱな現代人
わかりやすく指摘お願いします
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/24(金) 22:21:22 ID:wAjo75Z9O
龍馬って西郷のパシリじゃん!!何を有り難がってんのさ〜!
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/26(日) 07:32:33 ID:0YHZnYUL0
薩摩と土佐が対立しているように見えるのは後世からの視点だからそう見えるだけ
当時は大政奉還の黒幕は土佐ではなく薩摩だと認識していたのが会桑や幕臣の多数派
彼らからは土佐は薩摩とつるんで幕府を潰そうとしているようにしか見えていない
大政奉還そのものに反対なのだからそれはそれで当然
大政奉還が幕府にとって有益で坂本龍馬が幕府の味方であるなどという認識は彼らには無い
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/26(日) 12:15:32 ID:inJ87xGe0
薩摩と土佐はライバルであったとは思うが、対立してるなんてはじめて聞いたw
幕末の薩摩と土佐は島津斉彬時代から幕府VS諸藩賢侯の図式で、仲間としてずっとやってきているイメージ。
強いて言えばクライマックスの小御所会議で、容堂が慶喜を擁護しようと薩摩に反発した一瞬だけじゃないか?
結局、西郷に短刀一本で黙らされたのが史実かは知らんが、薩摩に対してはその程度の反動があったくらい。
ただ歴史が大転回した劇的シーンの一節であることから、さも薩摩と土佐が対立していたかのような印象になるのかも。
大政奉還については薩摩を納得させているのだから、薩摩と土佐が協調路線であるのは間違いない。
大政奉還が倒幕派の陰謀をくじき、幕府を守るための策であると勘違いされているのが、
いつのまにか坂本龍馬が幕府の味方であるという本末転倒な捏造につながっているのかもね。
「大政奉還は、坂本龍馬が平和的な政権作りのために武闘に走る薩摩に突き降ろした鉄槌、土俵際のうっちゃりなのだ」説は、
中村彰彦あたりが声高に唱えたが、
当時の坂本龍馬の言行からはとても考えられず、逆に坂本は討幕派を有利にするために
幕府を政府の座から引き摺り下ろそうとして、山内容堂と徳川慶喜を詐欺に掛けたのではないかと思う。
土佐藩の佐々木高行が薩土盟約締結時の経過を克明に記しているのだが、その中に次の文章がある。
此日才谷曰く 吾が藩は是迄幾度も藩論を変じたる故 薩藩も未だ疑念解けず (中略)
才谷、石川両人の考えにも大政返上等の事を吾が藩主張し 其主人と相成候はば
薩藩も必ず信用すべし
(ここでは才谷が坂本龍馬で、石川が中岡慎太郎の変名)
要するに、「土佐藩は大政奉還を推進し幕府を政府の座から引き摺り下ろし、この功績で薩摩藩に味方だと信じてもらおう」
と坂本龍馬は言っている。
もっとも、大政奉還には「徳川慶喜の目指した新政権への先鞭」という意味もあり、この場合も推進をしておけば損をすることはない。
土佐藩にとっては、薩摩に政権が転んだ場合でも徳川慶喜が維持した場合でも、大政奉還を主張していれば自分の立場は有利だった。
そのため、公武合体説をとっていた山内容堂も大政奉還を熱心に支持した。
しかし、坂本自身の考えは、討幕だったと思う。
政局の主導権をどこが取るかっていうつばぜり合いぐらいだろうな。
基本的には慶喜を13代に擁立しようとした時の勢力はそのまま小御所会議まで緩やかな連合だったし。
主導権争いと政策路線の対立は分けて考えないとな。
幕末ギリギリの段階で慶喜一派にしろ雄藩連合にしろ開国して富国強兵へ向かおうとしていたのは間違いない。
その時の日本のかじ取りをする政権に幕府・佐幕派や慶喜一派を含めるかどうかという部分で対立していた訳だ。
薩長は「慶喜いらね」と言い安芸や備前などにも「いらねーよな?」と呼びかける。
土佐や越前は「250年政権を担当した徳川氏を排除するのはおかしくね?」とそれに待ったをかける。
慶喜一派は「江戸では不評で心許ないから京都で仲間増やしつつ主導権を…」と多数派工作。
会津・桑名は「これまで尊王の本拠地京都を守ってきた俺達は爪弾きかよっ!」とヘソを曲げ始める。
諸勢力・人物が全く違う思惑と感情を持っていた。
この状況に対し「取りあえずこれで水入りにして様子を見ましょうよ」というアイデアが大政奉還だったと思う。
大政奉還実現後はどの勢力にも次の主導権を握れる可能性を匂わせるアイデアであったから実現できた。
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/26(日) 16:28:37 ID:HJKnLhGY0
だが、その中村あたりの説を採ると、
慶喜の大政奉還表明後、薩摩の小松と土佐の後藤が朝廷に日参してすぐ受理するよう
朝廷内を説得したという史実や、会津・桑名が激怒して大政奉還停止、後では即時再委任を
主張して回ったことへの説明がつかないんだよ。
大政奉還で得をするのは、
1.討幕に走る薩摩・長州・芸州
2.諸侯会議に属する有力諸侯の尾張・越前・岡山・宇和島・佐賀・土佐
3.新政権を夢見る徳川慶喜
あたりで、諸侯会議の構成員と全く不仲であった会津・桑名にとっては現状が最高であり
大政奉還では実権の全てを失う恐れがあった。
少なくとも、大政奉還は「取りあえずこれで水入りにして様子を見ましょうよ」などというものではない。
徳川慶喜が、せっかく既得権として持っていた政権の座を、政争の賞品に加えてしまったので、
俄かに政争が日本の将来を決定する重要極まりないものに転じてしまった。
菅直人が唐突に、「首相の座を尖閣諸島を実効支配している人に譲ります」と宣言したようなものだ。
海洋調査船どころじゃない、大軍が本気で来てしまう。
>>100 慶喜自身は一旦政権の座から退く事で薩長の武力蜂起は回避できると思っていたのでは?
薩長が大政奉還までした自分を武力討伐にまで走れば薩長と微妙な距離を置く土佐、伊予をはじめとする非薩長や譜代、親藩は自分につく。
そんな慶喜の予定を覆したのが「錦の御旗」。
ペリー来航以来、外交交渉で手詰まりになった幕府が時間稼ぎと責任転嫁で利用していた天皇。
10数年間の間にその天皇の政治的影響力と統治者としての正統性を幕府自体が認め、諸藩もそれに倣った。
鳥羽伏見に錦の御旗が登場し薩長が勝利した事で、慶喜の京都での足場はなくなった。
ところでみなさん大河ドラマの方は見てる?
自分は脱落。
103 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/26(日) 19:33:30 ID:HJKnLhGY0
.>慶喜自身は一旦政権の座から退く事で薩長の武力蜂起は回避できると思っていたのでは?
もしそう考えていたのなら、ものを見る目が全くない。
朝廷を手にした者に次の政権が与えられる、と徳川慶喜自身が宣言したのだから
次は朝廷争奪戦になる。
現に尾張の徳川慶勝・越前の松平春嶽らも大政復古には兵を出し、
薩摩・安芸等と共に会津桑名を朝廷から追い出してしまった。
朝廷を押さえることなしに主導権は得られない。主導権を得たものが次の政権を持つ。
その程度のことはこの時期の在京諸侯なら把握していた。
>>103 だからこそ錦の御旗を見て東帰したのでは?
105 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/26(日) 20:13:58 ID:HJKnLhGY0
>>104 それでは遅すぎるし、自らの手の内に朝廷がなければますます不利になる。
徳川慶喜の鳥羽伏見の戦いにおける逃亡は、朝廷重視というよりも、慶喜の過剰な自尊だろう。
「慶喜という人間には地位がなくとも天皇に近い価値がある」、と慶喜自身が思っていた。
実際は、天皇を絶対視した時には、将軍は僭称者・敵対者扱いされてもおかしくないのに。
まして徳川家は彼が継がなくても良い。家茂も別の人間を後継に指名していたし、その人間が明治維新後は跡を継いだ。
>>105 >朝廷を押さえることなしに主導権は得られない。主導権を得たものが次の政権を持つ。
>その程度のことはこの時期の在京諸侯なら把握していた。
に対しての
>>104だよ。
少し落ち着いて人の書き込みの意図を感じようよ。
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/26(日) 23:09:30 ID:HJKnLhGY0
それでは説明が足りない。
その上に説明まで間違っている。
その上質問自体に意味がない。
ゆえにもう一度答える。
回答は「それでは遅すぎる。慶喜ってますます馬鹿みたい。」
これでいいだろう。
>>107 意味がないと思うならわざわざ答えず他の人の意見を待ったら?
気持ち悪いわ
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/26(日) 23:41:27 ID:HJKnLhGY0
徳川慶喜自身の大政奉還によって、政権の座は朝廷に返上された。
朝廷を手にしたものが政権を手に入する状況が生まれた。
自らの手に朝廷がなければ、恭順したところでまな板の上の鯉だ。
そのことに鳥羽伏見の闘いにおける錦旗登場で気付いたのなら、慶喜はとんでもない間抜けということになる。
まして、その後江戸へ逃げ帰ってしまったのだから、大局というものを見ていない小人ということになってしまう。
また、王政復古の時点で直ちに朝廷奪還を行わなかったこと自体、危機管理としては落第だ。
天皇の身を案じたから直ちに朝廷を占領しなかったのだ、ということを理由にするにしても、
結局は鳥羽伏見の戦いを起こしてしまった。その間に薩摩も長州も軍を上陸させ、薩長に時間を与えてしまった。
私は、徳川慶喜が王政復古時に、朝廷で直ちに尊王攘夷派と戦わなかったのは、
朝廷尊重よりも、慶喜の自尊、つまり自惚れのせいではないかと思っている。
将軍でもない徳川慶喜個人に、天皇に近い価値があると慶喜自身は考えていた。
そのため、自分自身がいれば将軍つまり日本国政府代表者でなくても、朝廷に対抗できると思っていたように思う。
だから、朝廷を薩摩に取られても大阪に退き、闘いが不利だと江戸に退いた。
自分というものの価値を過剰に信じていたのだと思う。
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/26(日) 23:43:36 ID:HJKnLhGY0
他人の意見を待っていたら、この板は数ヶ月でも数年でも経過する。
それだけ過疎なのだ。君の論は正しくない。
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/26(日) 23:50:02 ID:HJKnLhGY0
正しくは「第三者がたまたまこのスレに注目するだなんて、この板ではほとんど考えられない。
なぜなら過疎だから。ゆえに相手の発言に返事をしなかったら、返答は全く期待できない。」ということになる。
ゆえに、反対意見や「なに世迷言を」的な苦言も、返答を期待する場合は書く。
キモっ(´Д`)
反論できなくなったら罵倒?
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/27(月) 22:39:00 ID:wDeniDl30
せっかく途中まで読んでて面白かったのにな。
「錦の御旗」が出たあたりからどうでも良くなってきたw
要は大政奉還が慶喜にとって夢をかけたものか、討幕派が描いた絵だったのかは、両方の要素があるわけだし。。
慶喜の現実認識の甘さを思い知らされるのが鳥羽伏見戦の錦の御旗出現か、江戸東帰後なのかなんて正直どっちでも良い。
ただ前説に対しては、個人的には旗くらいで動揺するのか?ってずっと半信半疑。 慶喜が過剰反応しすぎというか・・・
薩長はすでに京と朝廷を抑えているのだから、大義を示すために作り物の旗くらい出してくるのは当然だろうと思うのだが。
島津と毛利の連合軍ではなく、朝廷の軍であることをアピールしたのがよほど衝撃だったのかな?
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/28(火) 00:11:51 ID:XwpuC+Ql0
坂本龍馬は薩摩の武器商人なんですよ。
そして、大政奉還は薩摩にも徳川慶喜にも将来の利益を感じさせるものだった。
坂本龍馬は、どっちつかずの土佐藩の内部から大政奉還を推進し、
薩摩も慶喜も両者共に、土佐藩のことをを高く買うように仕向けた。
「坂本龍馬は武力に訴えようとする薩摩を懲罰し、平和裏の政権移行を行うべく、幕府のために大政奉還を推進した」
という一部の人々の見解は妄想に近く、むしろ坂本龍馬自身の発言を拾う限りでは、
薩摩への手土産として幕府を政権の座から蹴落とそうと狙って起こした活動であった、ということになるわけです。
徳川慶喜は錦旗に恐れおののいたのか、ということですが、
朝廷を重視していたのなら、王政復古を甘受することなどなかったと思います。
私は、徳川慶喜が自らを天皇に匹敵する権威と考えていたから簡単に撤退したのだと思っています。
いくら行動が惰弱でも、日本国を代表する権威として扱われたなら後醍醐天皇のように巻き返しは可能です。
むしろその場合、自らの死の方が危険要素です。ゆえに危ないことはしません。
もっとも、薩長新政府は旧幕府の武力が問題にならなくなるまでは徳川慶喜の権威を極力無視し、
後になれば謹慎中の地域領主として扱いました。徳川慶喜の自尊心は空回りし続けたわけです。
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/28(火) 00:42:27 ID:w7/7IhVY0
大政奉還が薩摩への手土産だった説は面白いね。
坂本の正体は薩摩の御用商人と言われても仕方ない面があるし、
その行動の根源には討幕思想が土台になっているという点は自分も同意見。
慶喜については自分が勉強不足なので、いまいち行動原理を理解してはいないが、
自尊心からくる江戸への撤退だったという説は新鮮で面白い。
たしかに後に徹底恭順した点などは、自分の命を大事にしている感じを受けるしね。
命をかけられない時点でやはり殿様だなとも思うし。
最後まで慶喜の自尊心が空回りし続けたのは、最後の将軍にふさわしいとも言えるし、
時代とともに消え去った人物を象徴しているように感ずる。
>>115 ありがとう御座いました。竜馬の実態がつかめずにおりましたが武器商人ですか。司馬遼その他の著作でも
さっぱり正体がつかめずにおりました。また慶喜の逃げ足が速かった原因も納得です。
慶喜が自分が天皇に匹敵する権威と思ってたってのは大げさじゃないか
薩長と徳川との私戦でなく、朝幕間での戦争となれば支持を失うことを
認識していなかったとは思えない。
慶喜は自尊心が高いというより、単に優柔不断だったように思う。
>>115 なんかめちゃめちゃww
そもそも薩長の手見上げって…
大政奉還は龍馬が成し遂げたとでも?
また保身の為の逃走って…
鳥羽・伏見だけを考えるなら圧倒的有利だったのは旧幕府軍
勝ち戦から逃げ出したのは朝敵になりたく無かった事は明白ですよ
元々慶喜の出身が水戸学に浸かってるから、朝敵嫌だは当然の思考だな
彼も幕府と水戸学の板挟みで苦しかったろうとは思う
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/28(火) 18:45:46 ID:XwpuC+Ql0
>>120 >なんかめちゃめちゃww
な ID:xH88VzjtO
>そもそも薩長の手見上げって…
>大政奉還は龍馬が成し遂げたとでも?
土佐藩で大政奉還を吹聴したのは坂本
>また保身の為の逃走って…
>鳥羽・伏見だけを考えるなら圧倒的有利だったのは旧幕府軍
圧倒的有利だったのは薩長軍
>勝ち戦から逃げ出したのは朝敵になりたく無かった事は明白ですよ
どこが明白なのか、わけが分からない。
ID:xH88VzjtOの発言には、どこにも根拠がない。
>>122 学が無いから根拠を見出だせないのだよww
大政奉還は慶喜の功績
鳥羽伏見は軍事力も地理的条件も旧幕府軍が圧倒的有利ですよ
薩長軍は京都で完全に孤立してますから
大阪を抑えられてる薩長は補給線を絶たれてます
補給船が絶たれてて長期戦が難しく陣地として不利だったのは薩長らしいな。
ただ火力に関しては薩長の方が優勢だったのと、
幕府側の諸藩が日和見を決め込んだり寝返ったりしたため繰り返し幕軍が後退し思いの外早く大阪まで引き上げた。
慶喜たちが大阪から消えたことで関西での戦闘は諦める事になった訳だし。
そういう意味では関ヶ原と同じような感じがする。
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/28(火) 23:09:53 ID:w7/7IhVY0
関ヶ原よりもはるかに見た目上の兵力には差がある。
それなのに幕軍には裏切りが出たりして負けたのが不思議なくらいだ。
つまり鳥羽伏見は純戦術論的なものではなく、きわめて政治色の強い戦いとして見るべきでしょう。
だから慶喜は長期戦に持ち込んで薩長軍の補給線を完全に絶てたのに、それをしなかった。
幕軍に足りなかったのは、時勢という波と味方内の結束力に尽きる気がする。
朝敵になりたくなかったのも含めて。
ただ、それだと何故に慶喜が王政復古のクーデター時にすごすごと二条城から大阪に引いたのか、いまいち理解できない。
やはり難しいな幕末は・・・
二条城から撤退する方が有利になると判断したんだろうが、なぜそう思ったのかだな重要なのは
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/28(火) 23:56:06 ID:XwpuC+Ql0
その意味では、ID:xH88VzjtOの意見には中傷だけで見るべきものがなくて嘆息する。
説すらまともな見解とは懸け離れている。敗北軍絶対勝利とはどういう意見なのか問いたい。
まるで会津史あたりの、「我々は各地で全面勝利して有利だったが全体では敗北した」という陳腐な文と変わらない。
敗北した側を「有利」とは呼べない。軍備が優れていようが指揮がおかしければ全体としては不利な弱軍だ。
二条城からの撤退に関しては、
・天皇の身柄の安全に配慮した
・平和裏の政権移行が可能だと認識していた
・徳川慶喜は惰弱だった
という説があるが、どれも決定的なものとは思えない。
天皇の身柄に配慮する場合、天皇を尊く思うなら却って皇居突入を行ったと思う。
平和裏の政権移行が可能と認識していた、というなら鳥羽伏見の戦いで進軍させてはいけない。
どんなに軍に怒りが充満していても、進軍はせず待つべき場面ということになる。
惰弱だった、にしては禁門の変における一橋慶喜は勇猛果敢であった。
要するに、どれも既存の説ではしっくり来ないように思える。
ゆえに私は、「将軍の地位を継いだ時、天皇と肩を並べた権威になったと思った」を挙げる。
天皇を担いでいたとしても慶喜本人の権威で対抗可能と思ったので、朝廷を簡単に手放したのだろう、と。
とんだ自惚れだったのだが。
>>127 すまんが全く意味が解らない…
てか貴方は敗軍って結果にこだわるみたいだし、結果論でしか物事を考えられないみたいだね
論外だよ
>>125 王政復古のクーデターを阻止する理由は無いでしょ
大政奉還時点で朝廷に政権を返上してるのだから
薩長が朝廷を取り込んだところで最後は徳川に泣きつくと踏んでいたのが本音では?
慶喜には朝廷が徳川討伐の決断をするとは夢にも思わないだろうし
実際に錦の美旗だって偽物
>>129 朝廷が徳川に泣きつくとしたら理由は何だろう?
外交の実務的な処理とか全国諸大名への政令を行き渡らせる行政面かな?
>>130 純粋に国力も軍事力も薩長より徳川が上
史実では鳥羽伏見で薩長が勝ち、徳川及びそれに見方する物が明確に朝敵とされたから諸藩の多くは薩長の新政府を官軍と見なし協力したが、その結果がなければ新政府は徳川を気にする他藩からの協力が得られず維持出来なかったと推測します
大阪に下坂するよう勧めたのは慶永、慶勝。慶喜が下坂することによって、
軍事上経済上重要な拠点の大阪を押さえることができた。
それは薩長にとっては不利なことであり、新政府内部では公議政体派が慶喜の議定職就任の
周旋がしやすくなった。
って考え方もあったよね。
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/29(水) 14:00:34 ID:VFCbxORq0
鳥羽伏見で薩長が勝てた理由は火力で上回ってただけ?
>>133 局地戦で勝利しただけで戦局は徳川が有利
徳川の敗因は大将が戦意喪失して敵前逃亡したから
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/29(水) 15:48:06 ID:VSnuL7Ej0
>>128,129,131
どうも、君の話の方が論外に思える。
徳川慶喜が大政奉還を阻止する理由は現実には大有りだ。
阻止しなかったせいで、政権を失った上に失った政権の座を敵対者に利用されてしまった。
>薩長が朝廷を取り込んだところで最後は徳川に泣きつくと踏んでいたのが本音では?
>慶喜には朝廷が徳川討伐の決断をするとは夢にも思わないだろうし
想像できなかったのなら、無能だ。
禁門の変でも、長州は天皇を連れ去る算段を行っていた、と変鎮圧後の幕府方が報告しているのに。
>実際に錦の美旗だって偽物
薩長方が一旦朝廷に献上し、本物として薩長方が使用する許可を得てから使用しているのだから、本物です。
>純粋に国力も軍事力も薩長より徳川が上
それをまるで生かせなかったから、不利な弱軍であったというのです。旧幕府軍は全然優位にたっていません。
>>133 1.戦略が正しくなかった
・薩長軍の方が兵力が小さいのに、旧幕府軍は鳥羽・伏見の二方向のみで進攻したので薩長軍に拠点防御が可能だった。
西国街道や近江方向からの軍を編成していれば薩長は全て防御が可能だったのか疑問
2.指揮が悪かった
・旧幕府陸軍の前線の指揮官は突撃だけを命令し、狙撃を受け撤退を繰り返した。
司令官は所在不明な上、拠点防御を前線が行った頃に撤退を命令した。
3.新撰組・会津軍は役立たずだった
・槍では銃撃を受けるだけで、近代戦では的になるだけだった
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/29(水) 16:13:53 ID:VSnuL7Ej0
>>131 >史実では鳥羽伏見で薩長が勝ち、徳川及びそれに見方する物が明確に朝敵とされたから諸藩の多くは薩長の新政府を官軍と見なし協力したが、
>その結果がなければ新政府は徳川を気にする他藩からの協力が得られず維持出来なかったと推測します
薩長の鳥羽伏見の戦いにおける当初プランでは、京で一戦を行い敗れても、天皇と共に広島に御所を立てて反幕府の号令を行う、
広島が維持できなくなれば山口へ、更に鹿児島へ、琉球へ、台湾へ、と国姓爺合戦のような話があったのだが
天皇を連れ去られたらどうするつもりだったのだ、と問いたい。
徳川慶喜が本当に天皇重視なら、王政復古の甘受なんてありえない。
どうも、中村彰彦あたりの床屋談義を真に受けて話をされても困る。
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/29(水) 17:16:32 ID:VSnuL7Ej0
>>135 おっと、「大政奉還」ではなく「大政復古」だな。訂正の必要がある。
どうも、鳥羽伏見の戦いの敗戦原因を、瀧川・竹中・会津候松平容保らに帰するべき部分まで
無理に徳川慶喜に押し付けようとする連中がいて、この戦いの解説は特に会津系に不正記述が多い。
>>135 なんかダラダラ結果論ばかり…
朝敵にされたのも全て結果
大政奉還時点では武力討幕の大義名分は失われてる為、徳川は朝敵になりえない
また禁門の変云々も意味不明
仮に長州が天皇奪還を成功させていたとしても、どこの藩が長州を官軍と見なしていたのかと…
いずれにせよ論外だよ
>>136 敗軍が幼帝を連れ去ってどんな大義名分を打ち出せるのかと…
徳川が「薩長は幼帝を連れ去った逆賊」と言えば諸藩は間違いなく徳川に付くだろうよ
勝てば官軍なのよ
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/29(水) 19:40:16 ID:VSnuL7Ej0
なんだか、ID:ThPHjwjkOの意見は反対したいという意思だけで、
何も中身がない。
>朝敵にされたのも全て結果
朝廷を手放したのが悪い
>大政奉還時点では武力討幕の大義名分は失われてる為、徳川は朝敵になりえない
天皇の意思が勅であり、朝敵か否かは天皇の意思次第
>また禁門の変云々も意味不明
目を瞑り思考を停止しているだけ。会津武士道並みに卑劣な行為
>敗軍が幼帝を連れ去ってどんな大義名分を打ち出せるのかと…
>徳川が「薩長は幼帝を連れ去った逆賊」と言えば諸藩は間違いなく徳川に付くだろうよ
南朝はそうならなかった
ID:ThPHjwjkOの意見は、全てが意味不明かつ論外な虚偽だと思われます。
天皇拉致って安徳天皇かよw
天皇拉致計画は幕府側の捏造。だいたいそのような計画をしている側に全く下準備の痕跡がないのは不自然じゃね?
>>141 備前、安芸の退路確保はできてたと記憶しているが
名前忘れたが、安芸藩家老の某とは入京前から兵士の輸送やら兵糧確保の話をまとめてあった
で、備前も入京に協力してその後天皇推戴に関しても薩長側につく書面を出してたかと
>>140 意味が解らないなら論外だからもういいよ
手取り足取り教えるつもりはないから
(・ω・)
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 13:17:52 ID:K0afy3Hc0
会津の偏見親父は
論証に勝てず撤退
いやあ見てて面白い
何が面白いかって?
知識の差
知識のある者は、議論できる
知識のない者は、文句しか言わない
当然なことなのだろうけど、
知識の大切さを改めて実感しました
ありがとう
概念と知識だけでは人と議論する事はできないよ(・ω・)
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 20:21:54 ID:K0afy3Hc0
今回の会津さんは、あちこち発言に初歩的な間違いがある上に、
鳥羽伏見の戦いの初期幕府軍劣勢まで徳川慶喜のせいにしようとしたので、全くお話にならなかった。
あの敗戦は現場、瀧川・竹中・松平容保・松平定敬や大多喜あたりの責任が大きい。
私はそれと、旧幕府陸軍で、フランス軍軍事顧問の教育が悪かったのではないかと言いたい。
ライフル銃普及後、歩兵の持つ銃の射程距離と破壊度は格段に向上していた。
なのに旧幕府陸軍は密集突撃だけを繰り返し、指揮官は狙撃死、部隊は四散するという惨憺たる状態に陥った。
旧幕府陸軍の戦術が前時代、ゲベール銃あたりのものだった。時代は散兵術、遮蔽物に隠れながらの射撃に移っていた。
中村彰彦あたりの駄文では、その後のフランス人顧問出身の将兵の立身出世を誇らしげに書いているが、
そんな実績があったのか疑問だ。盗人に追銭を与えるような文章であり、私はこのような卑怯な文を嫌う。
おっと、話が逸れまくったが、スレは「坂本龍馬と薩長」だ。
土佐勤王党の初期メンバーであった坂本は、久坂玄瑞の「藩の境を越えて尊王攘夷で決起せよ」という檄文に呼応し
脱藩を行い長州藩へ転がり込む。その後勝海舟との出会い、亀山社中設立と薩摩との関係が濃くなる坂本だが、
はじめは長州の尊王攘夷運動に傾倒していたことは忘れるべきではないだろう。
149 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 21:38:03 ID:2zcOFJlE0
>122
>>大政奉還は龍馬が成し遂げたとでも?
>土佐藩で大政奉還を吹聴したのは坂本
土佐藩と薩摩藩を取り持って後藤に大政奉還を進めたのが坂本だ
薩土密約及び薩土盟約が前提
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 21:56:27 ID:2zcOFJlE0
>100
>菅直人が唐突に、
>「首相の座を尖閣諸島を実効支配している人に譲ります」
>と宣言したようなものだ
ということは次期首相は沖縄県民からということだな
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 22:05:54 ID:2zcOFJlE0
慶応3年6月9日に坂本龍馬が後藤象二郎に示した船中八策に
「一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、
宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。」とあり
龍馬は大政奉還だけでなく新政府における不浄な公家の排除も検討していた
当然お龍一家をその異常性欲で陥れた中川宮朝彦がその排除対象の筆頭である
慶応三年6月22日に結ばれた薩土盟約では
「一、国体を匡正し、万世万国に亙りて恥じず、是れ第一義。」とあり
現状の国体に悪しき系統が有ることを両藩が指摘しそれを正さなければならないとし
これは系統が極めて怪しく世襲親王家として腹ボテ補完以外に役に立たない伏見宮一族を指し
中川宮の追放及び伏見宮の世襲親王家としての降格を意味する
この薩土盟約には薩摩から小松と西郷と大久保が出席し
土佐から後藤と福岡と寺村と真辺が出席それに坂本と中岡が同席した
将軍慶喜に大政奉還を迫る以上公家の汚点も指摘し排除しなければ新政府に憂いを残す
仏門で修行した身でありながら節操のないシンボルで国政を惑わす中川宮に対し
武士として毅然と挑む坂本龍馬は武士側ではすでに英雄であり
将軍慶喜への建白も自信をもって示すことができる
慶喜に恥を忍んで将軍を降りてもらい武士主導の政を終わらせる以上
前年の孝明天皇崩御ですでに明治天皇から遠ざけられた中川宮はそれ相応の処遇は必然だ
節操のないシンボルは新政府に不相応
これが家康公の名を汚すことなく徳川の世を終わらせる最低条件だったのだ
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 23:53:45 ID:iii4zlpk0
鳥羽伏見の頃の旧幕府軍の武器は火縄銃は使わなかったの?
>>152 幕府歩兵隊は最先端の銃器装備
会津、桑名は安い先込め式
その他佐幕派の緒藩は火縄銃、弓が多かった
当時、日本にあった銃を分類するとこうなる。
滑腔銃
・火縄銃(火縄式・滑腔・先込め)
・ゲベール銃(雷管式・滑腔・先込め) 東北戦争で列藩同盟が新潟などで購入 全くの無駄
ライフル銃
・ヤーゲル銃(雷管式・施条・先込め)・・・弾丸を押し込む操作が困難 東北戦争で会津軍が購入 使用困難で苦悶
ミニエー銃(ミニエー式弾丸を用いる。弾丸装填が容易になった)
・エンフィールド銃(雷管式・施条・先込め) 鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍・新政府軍の双方が使用
・スナイドル銃(雷管式・施条・元込め) エンフィールド改変型、東北戦争などで新政府軍が使用
・スペンサー銃(雷管式・施条・元込め・連発式) 薩摩軍が大量に所持
・シャスポー銃(雷管式・施条・薬莢式元込め) フランスから徳川慶喜への贈答品、使用記録に乏しい
この中で、滑腔銃はほとんど役に立たなかった。
鳥羽伏見の戦いでは、
旧幕府歩兵:大砲・エンフィールド (一部にシャスポーを使用していたという主張あり)
薩長兵:大砲・エンフィールド
会津・桑名兵:槍
となり、両者に武器の優劣はないか、もしくは旧幕府歩兵の方が有利であったということになる。
しかし鳥羽伏見の戦いで幕府軍は前進できなかった。これには、エンフィールド銃の銃弾装填時に筒を立てる必要があり、
遮蔽物がないと標的になりやすいという欠点が指摘されている。
>>148 > 今回の会津さんは、あちこち発言に初歩的な間違いがある上に、
会津さん?
脳内認定ってやつ?レッテル付けは2ちゃん脳末期
恐ろしいですね
はいはいワロスワロス
来たれ「正義は長州にあり」の熱血長州男児、来たれいざ 歴史難民版の 「何でも白馬青牛先生に聞いてみんさい」 へ
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 07:13:54 ID:Lr2u5F5+0
大河板で聞いたけど答えがないのでここで伺います。
『龍馬伝』公式サイトの大友ディレクターの最新インタビューにあるのですが、、
>徐々に龍馬は孤立し、対抗勢力による包囲網にじわじわと追い詰められていきます。
それは、当然と言えば当然ですよね。それまでの士農工商という、武士を頂点としたピラミッドを壊して、
「みんな同じでいいじゃない」という発想は、権力者たちにしてみれば危険思想そのものですから。
でも、龍馬のその発想がなければ、今の日本はきっとなかったはず。
ttp://www9.nhk.or.jp/ryomaden/topics/24_interview/index.html 龍馬が大政奉還や新政権のシステムの提案者の一人だというのはわかりますが、
四民平等を唱えて孤立したとは知りませんでした。これは本当でしょうか?
身分制度の全廃とかその手段を名言した資料とかそれに関して述べた論文や本は見たことがないな
神戸の訓練所にしろ海援隊、亀山社中にしろ出身地や身分がバラバラだったからある感覚として何か持っていたかも知れないけど臆測でしかない
むしろ幕府の歩兵や長州の諸隊の方が設立趣旨や運営、運用でハッキリした身分制解体への動きを見せている
NHK大河はあくまでエンターテイメント
ちゃんとした資料や証言、物証に裏打ちなしで作っている
162 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 18:00:57 ID:XnWZx2Bp0
んー、坂本龍馬は政治論をあまり著さず、この面では同僚の中岡慎太郎のものがよく引用される。
中岡の「時勢論」において討幕と身分解消による統一国家論が主張されている。
山内容堂らの公武合体論を否定し、その上で
>邑有る者は邑を投げ捨て 家財有る者は家財を投げ捨て
>勇有る者は勇を振るい 智謀有る者は智謀を尽し
>一技一芸有る者は其の技芸を尽し 愚なる者は愚を尽し
>公明正大おのおの一死をもって至誠を尽し 然るべき後政教立つべく、
>武備充実国威張るべく 信義は外国に及ぶべき成
と、身分の差を越えた国家体制を作るべきだと主張している。
これには西郷隆盛の永久革命論も関係していて、西郷は
革命と戦乱が身分制社会を吹き飛ばし、その中から日本人が生まれると主張している。
>>161には根拠がない。
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 18:14:59 ID:XnWZx2Bp0
孤立というよりは、当時の西郷や中岡らの、革命による身分制度破壊論は
時代としては過激で、この流れに坂本も乗っかっていたということなのでしょう。
木戸神社
坂本神社
大久保神社
南洲神社
いっぱいありますねー
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 19:23:14 ID:XnWZx2Bp0
議論に負けて、中傷を置いて逃げたか
>>160 四民平等をうたう坂本龍馬の海援隊には平民はどのくらい参加していたのでしょうか?
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 21:29:22 ID:XnWZx2Bp0
発言内容からすると、
>>161が資料を持っているのではないでしょうか。
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/04(月) 22:45:09 ID:cif5ZAOd0
お龍を異常性欲公卿中川宮の魔の手から救い出し節操の無い公家に対し
武士として毅然と挑む龍馬は幕臣攘夷派を問わず武士達の中では一目置く存在
だが他の攘夷派武士が公家とべったりなのに比べると公家との交流は少なく
公家の坂本に対する評価はそれほど高くはない
また小松帯刀や西郷隆盛らに比べると公卿寄りの大久保利通とは薩長同盟締結以外親交がない
大久保は岩倉具視ら公卿を意識して龍馬との親睦を避けたというべきだ
龍馬は横井小楠らが提唱する大政奉還論に自らの妻が被った不浄な公卿による体験談を踏まえ
節操のないシンボルが新政府の国政に及ぼす危険性を考慮し
その不浄な公家の粛清を加えて将軍慶喜を納得させ判断を仰ぎやすくしたのであって
決して公家の専制の為に大政奉還を主張した訳ではない
土佐山内容堂の将軍慶喜への大政奉還建白書に
「万世に亙りて不愧、万国に臨んで恥ざるの大根底を建てざるべからず」とあり
この大政奉還で徳川が後世に愧じることはないと断言し
諸外国との交流において恥じることのない国体を築かなければならないとし
恥ざるの大根底とは即ち御落胤を国体に含めない事を意味する
またその別紙では
「万国万世に不恥者を以て本旨とすべし、奸を除き良を挙げ寛恕の政を施行し・・・」とあり
不恥者とは正当な世襲による国体の存続であり御落胤を除くものである
奸とは異常性欲シンボル中川宮を指し
良は節操のないシンボルに狙われたお龍を救いその奸物に挑む龍馬のことで
寛恕には龍馬及び志の高い者への「寛恕」と奸物中川宮に対する「奸徐」の意味がある
国の恥たる御落胤とは紀州家と親密な伏見宮一族を指し水戸家出身の将軍慶喜もこれに納得した
つまり公武合体の終焉として徳川の世との引き換えに
国体の匡正を第一義として悪しき世襲親王家の降格及び不浄な公卿の粛清を実行するとしたのだ
土佐藩の建白を受けて慶喜が上奏した大政奉還に二条斉敬ら公卿は大反対し
京都御苑にまだ居座る中川宮はこのままでは粛清されると悟り恐怖した
これが大政奉還直後に引き起こされた中川宮朝彦の龍馬暗殺の直接的動機である
これまで幾度も失敗してきた大政奉還は両成敗に持ち込める龍馬がいたからこそ成就できたのだ
倒幕を公家の専制にしたのは龍馬亡き後の中川宮や伏見宮ら奸物が参加した王政復古後であり
実質的には岩倉使節団で公卿寄りの大久保が懐柔された西南戦争後だ
>士農工商という、武士を頂点としたピラミッドを壊して、
これは武力倒幕側、ひいては維新後の明治政府が取り組んでいった共通課題なんじゃ?
まあ「龍馬」伝だから仕方ないのか。
それよりも新政府プランに自分の名前がなかったってのはフィクションだろ…大丈夫か制作
>>169 北海道開拓と通商行政を担当するつもりだったらしいな
維新後の再開発や貿易振興で巨額になるだろう部門を丸ごと手中にするつもりだったから巷説とは正反対w
171 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 01:16:53 ID:Ok0iou720
>寛恕には龍馬及び志の高い者への「寛恕」と奸物中川宮に対する「奸除」の意味がある
に訂正
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 06:03:34 ID:HEjsCeo80
龍馬伝、しかし後藤象次郎の描き方がひどすぎるんじゃないだろか?オレが色々
読んだ中ではもっとぜんぜん魅力的人物だと思われるが・・
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 11:09:23 ID:OISENfcP0
>>168 大久保と坂本は親交あるよ。
坂本が薩摩に滞在していた折には、大久保と議論して
「天下の事衰頽救ふべからず、感慨の話多し。
一人薩の大久保なるもの事を共にすべし」
と大久保を高評価してる(徳富一敬筆記) 。
さらに、坂本龍馬が着用していた衣服と刀は坂本
自身が大久保からもらったものだと発言してる(青山白雲)。
仲が悪かったら議論したり刀をもらったりしない。
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 18:45:24 ID:Ok0iou720
>173
事務的な親交はあっただろう
龍馬の大久保評はそれに近い挨拶
>薩長同盟締結以外親交がない
と記したが前にも記したが薩土盟約でも同席している
意見が噛み合わないとかいがみ合っていたという事象はないが事務的に仕事を熟していた
衣服や刀も大久保個人の好意というより事務的なものだろう
>公家の坂本に対する評価はそれほど高くはない
と記したがまったく無いわけではなく大宰府で東久世道禧は三条実美らと同席して論じ
「偉人なり。奇説家なり。」と評している
つまり奇説家が攘夷派公家の龍馬評である
龍馬と大久保がどれだけ意気投合していたかが不明
公家が龍馬の考えに心酔していたとも言い難い
それより大久保の龍馬評が知りたい
まあ大久保が贈った刀の銘も知りたくもあるが正直どうでもいい
尚大久保は龍馬暗殺には関わっていない
薩摩の勢力が二分していた訳ではなくこの段階での大久保単独(7人)は考えられない
近江屋襲撃について大久保は中岡のことは残念であり新撰組の仕業だとしている
だが龍馬暗殺犯中川宮朝彦を野放しにした件については限りなく黒だ
>>174 西郷が下関に赴く前に大久保は吉井友実とか黒田清隆と萩に行ってて、その時は確か坂本が橋渡し役になってる。
その後も大久保が鹿児島から京、京から長崎に行く時に坂本の船に二、三度乗っていたと思うが。
二人がどの程度の話をしていたかまでは分からないが顔見知り以上の関係であったのでは?
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 19:50:50 ID:2nKx++bM0
では坂本が死んだ時の日記はなぜないんだ?
桐野利秋日記はあるなあ
反面、当時の会津側からは記録が出てこない
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/10(日) 00:22:42 ID:Mlv1Ypak0
>>176 わしゃ、今殺されたぜよ
とか書くかな、もしあったら
大政奉還後の会津・桑名藩の動きが分る
お勧めの参考図書ってない?
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/10(日) 09:22:09 ID:YXDGOcZp0
>>180 個人的な推薦は、「幕末政治と薩摩藩」(佐々木 克 著)
君が佐幕派なら、「幕末維新 消された歴史」(安藤 優一郎 著)が手に入れやすいだろう。
AMAZONのブックレビューは「薩長が武器で勝っていたのは明らかなのにそう書いてない」と、
主張しているが、戦術は前近代的であったが武器は劣っていなかった、と私は考えている。
あと、星亮一の本はクズばっかりでため息が出る。
幕府直属の歩兵部隊は薩長と同様ミニエー銃を使ってたからね
>>182 武器と戦術が噛みあってないのは致命的な失敗だと思うんだが…
いかに最新の武器でも使い方を間違ってその性能を活かせない戦術って意味がないよな
持ってる武器が良いというだけではどうにもならん
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 15:38:22 ID:TP4LrvnQ0
黒鉄ヒロシの『京都見廻組』は酷すぎる
幕府軍は刀と鎗、薩長軍は銃の戦いで初めから戦にならなかったという内容
所詮マンガだけどな
会桑見廻組新選組辺りのことならあながち間違いでもない
あの人なら調べ直してまたなんか書きそうだけど
>>182 ありがとう
どちらかというと倒幕派だけど
政治的な動きは佐幕倒幕両方から俯瞰してみたいな
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/11(月) 22:17:40 ID:+rY1SuLY0
中川宮が残した「朝彦親王日記」は大政奉還上奏直前の慶応3年9月29日で終わっているが
朝彦が幽閉されるまでの続きは公家の専制下の新政府が接収した可能性がある
朝彦直筆の原書は焼失しているが原書が存在すれば続き部分を削除した痕跡が残っているはずだ
もしくは削除もせず写本の段階で除外したのだろう
征韓論敗北後の明治11年(1878年)2月14日の伊勢神宮豊宮崎文庫の失火で焼失したとすれば
明治8年7月(1875年)から中川宮が祭主となった当時の豊宮崎文庫の火災は証拠隠滅である
尚他の蔵書は都合よく移動され無事だった
つまり朝彦の思い出日記の原書を焼くためだけに伊勢神宮豊宮崎文庫を燃やしたのだ
大久保利通は西南戦争後の明治11年5月14日に暗殺された
龍馬は元治元年(1864年)8月お龍を寺田屋に預け青蓮院塔頭金蔵寺で内祝言をあげたが
朝彦の日記はその後の元治元年11月と12月が欠けている
この原書の2ヶ月に近藤勇と桐野利秋をお龍の元へ使わした形跡があったはずだ
近年お龍の写真が本人であることが確認され当時かなりの美人であることが実証された
中川宮(青蓮院宮)は仏門の身でありながら女犯によって児を生し天台座主を降ろされるが
蟄居させられた朝彦の精神的看護を侍医将作の美人の娘が生け花や茶道で癒していたとすれば
異常性欲の朝彦が悶々としない筈がない
中川宮の勢力圏青蓮院塔頭金蔵寺での内祝言は朝彦を誘き寄せる為の策略である
女犯の経歴の中川宮朝彦は欲求に耐えられず龍馬の策に填り近藤勇と桐野利秋を差し向け
私利私欲のために朝廷で実権を握る君側の奸であることが明白となった
これで大政奉還において奸物の粛清を大前提とすることができたのだ
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 01:48:26 ID:rV6JlPa20
歴史群像シリーズの幕末戦史というのが本屋にあったのでパラッと捲ってみたけど
会津戦争の項は参考文献が星亮一だったせいか、薩長土の罵倒に終始した酷い内容だったな
>>189 昔からあのシリーズは間違いのオンパレードだよ
歴史に興味持ち始めた人には地図とか相関図とか人物紹介が分かり易く感じるだけ。
何冊か他の本を読んだら「学研いい加減…」ってなって二度と読まないw
学研だったら腐れ犬の助だったかな、あいつの文章が一番酷い。
何でもかんでもこじつけをして、これは佐幕が正義、薩長が悪なることの証明なのであるー、ってさ。
馬鹿な文章もあそこまで行けば、便所紙にも使ってもらえなくなる。
193 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 22:12:49 ID:sopV2aDo0
安政6年(1859年)2月中川宮朝彦は安政の大獄によって謹慎処分とされ同年12月隠居永蟄居に処分される
謹慎は日中の外出禁止で期間は30日
隠居とは官職を退き家督を譲ることで
蟄居とは門を閉じ屋敷の一室に引き篭もるが封鎖されてはいないので本人以外の出入りは自由
当然医師の出入りは可能
美人のお龍も得意の花道や茶道や香道で引き篭もる朝彦を癒す
この時平井加尾も京で攘夷派公卿三条家に仕えていた
安政7年(1860年)3月3日桜田門外の変によって大獄による弾圧は収束し朝彦も気を緩める
美人のお龍の精神的看護で気を良くした朝彦は悶々とした性欲を抑えられずお龍を慰み者にしようとした
文久2年(1862年)1月お龍の父将作が異常性欲を抑えられない朝彦に嬲り殺しに遭い
お龍を狙う朝彦の魔の手から逃れるため楢崎家の家計はどん底になる
お龍の母がチンピラに騙され妹が女郎として大阪に売られると知ったお龍は大阪に行き
「殺し殺されに遥々大阪に下りてきたのよ。それはおもしろい殺せ殺せ。」と大立ち回りをして妹を奪還する
これは自身に付け狙う異常性欲ストーカー朝彦の野望を知っての虚勢である
公家は青侍と呼ばれる下男を従えていたが青侍とは今で言うならパチンコ屋で屯するチンピラだ
お龍の父将作の死は寺社奉行管轄下で朝彦とチンピラ青侍達によって大獄の後遺症として処理された
楢崎将作は勤王家だったため勤王家の仕返しを恐れこれと縁を切り以後朝彦は公武合体派となる
194 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 01:41:45 ID:ds3A+hvw0
竜馬よりも、日本人らしい会津士魂
http://one2010eight.iza.ne.jp/blog/entry/1839514/allcmt/ 今、竜馬が話題になっているが、それぞれの地方の贔屓目で自慢ですね。
現に、テレビの視聴率は、大したことがないらしい。
あまりにも、でたらめすぎるからかな?
当時、日本で自分たちだけが正義だと、決めつけて戦争を仕掛けた。
その西側勢力を集め、長州、薩摩が仕掛けたものでしょう。
旧体制保持の東側を無理やり、戊辰戦争とやら起こして巻き込んだ。
で、一連の国内戦争になった訳です。
長州などは、初め京で、殺人事件や放火未遂事件などを策略した。
そこで、戦争するには、相手を作らなければならず、
徳川をつぶすためにも、会津などが標的になってしまったのです。
その頃、侍魂の日本人の心を持った人が会津に多かったようです。
詳しくは、早乙女貢著「会津士魂」をどうぞ。
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 11:18:02 ID:Sw2R1VzZ0
会津士魂を否定するつもりはないが、突っ込み所が多い。
まず、幕府や会津は薩摩の決意をなめていた点は否めない。
大阪から京に上がる幕軍については、本当に戦争になる認識なんてなかった。
大軍で上京すれば一方的に薩摩が降伏すると踏んでいた。
ところが意に反して、薩長は徹底抗戦してきたので鳥羽伏見の激戦となってしまった。
慶喜は自分たち(幕府)から仕掛けては絶対ダメだと言っていた。
だが、江戸の薩摩藩邸焼き討ち以降は会津・桑名ら抗戦派の勢いが凄まじく、
とても抑えられるものではなかったと後年語っている。
だが、それも自己弁護が入っており、そうした薩摩討伐を慶喜が許可したのは間違いない事実だ。
また、上記の鳥羽伏見戦が起こった経緯を見ると、会津が標的にされたような被害者的発言は
全くおかしなわけで、むしろ戦犯と言われても仕方がない立場。
決して無理やり国内戦争に巻き込まれたわけではないのだ。むしろ巻き起こしたと言った方が適格。
もっとも薩長が初めから戦争するつもりで挑発を繰り返したのも事実。
薩長にしてみれば願ったりの思う壺だったが、これほど上手く勝てるとは思っていなかったようだ。
さらに日本人の心云々についても言わせてもらうと、これこそ島国根性丸出しw
早乙女は会津系作家だから会津寄りの発言を持つのは当然で、
西郷隆盛が明治期の代表的日本人と言われるように、侍魂を持った日本人というのは薩摩にも多かった。
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 12:50:52 ID:oPMxlzp70
鳥羽伏見は本当に紙一重の勝利だったと思う
幕府軍が火力でも兵力でも圧倒的だったのに勝てたのは
薩長軍が比叡おろしを予め計算してたらしい
それであの様な布陣をしたのかと
実際強烈な風で幕府軍の銃隊が狙いを上手く定める事が出来なかったらしい
>>196 ちなみに歴史上、戦陣で京都を守る側に立った者は、薩長以外に勝利した例はほとんどない。
木曽義仲に敗れた平氏も、源義経に敗れた木曽義仲も、北条政子に負けた後鳥羽上皇も
足利尊氏に負けた六波羅の北条も、朽木越えから帰還した織田信長に敗れた足利義政も、
山崎で豊臣秀吉を迎え撃った明智光秀も、みんなみんな敗れた。
京都は本来守りにくい場所。
それでも旧幕府軍は負けた。
>>198 確かに京都を守って勝った話は聞いた事がないね。
薩長以外が勝てなかった理由は地形的な守り難さより政治的な流れ、大勢が攻める側にあったような気もするけど。
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 21:02:12 ID:Sw2R1VzZ0
薩長のパワーは上の敗れた面々とはかけ離れてからな。
どちらかというと地理的な要因よりも、
新興勢力か既存勢力かで勝敗がわかれている気がする。
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 22:00:11 ID:Nsm89GSM0
士気云々言うが、薩摩の度重なる挑発に怒りに燃えた徳川軍の士気は相当な物だったらしい
だから関係ないと思う
202 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 23:44:40 ID:Sw2R1VzZ0
幕軍は怒りに燃えていたが、大軍で京に攻め上がれば、戦わずして薩摩は降伏すると観測していたようだ。
そのため戦争準備という点では薩長軍に大きく出遅れ、初戦で甚大な被害を出してしまった。
計画性の無さが敗戦の要因と言えるし、怒りにまかせた突出的挙兵は西郷・大久保あたりの思う壺でしかなかった。
着実に作戦を練ってから上京すべきであったのに、それすらもしなかった。
しょせんは既存勢力というのは、勃興した新興勢力をどこか見くびっているからな。
戦いに臨む本気度のところで大きく差が出て、鳥羽伏見のように大方の予想を覆す結果も起きるということさ。
聞くところによると幕軍は開戦するまで銃に弾丸を込めていなかったようだね
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/16(土) 00:00:30 ID:5jO/jVTK0
やはり、その程度だろう。
「やりたい放題の薩摩をこらしめてやる」程度のつもりで、開戦する気などなかったらしい。
まぁ兵力差三倍以上だから、油断したのも仕方ない。
しかし緒戦は兎も角、その後もたまに勝ちつつも結局ずるずると大阪まで追いやられたのは
どうよと思うが。
206 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 00:13:02 ID:M7x3sAzw0
立て直しもできない程、準備不足だったのだろう。
兵糧も行き渡っておらず、大阪への敗走時には飢え死に寸前の幕軍兵士が大勢いたそうだ。
京方の緒戦勝利によって大勢が傾き、錦旗が出たところで淀藩のような裏切りが続出したのだから、
幕府方にとっては踏んだり蹴ったりという表現がピッタリだろうな。
>>194 会津の人たちはいまだに非常に悪い意味でいさぎよくないって意味のブログだね。
>日本で自分たちだけが正義だと、決めつけて戦争を仕掛けた。
八月十八日の政変や池田屋事変や蛤御門の変や長州征伐のことだね。
>殺人事件や放火未遂事件などを策略した。
新選組や会津藩のことだね。
蛤御門の変ででは放火未遂どころじゃなくて実際に放火しまくって、
とっくに大阪へ敗走している長州にいまだに責任転嫁しまくりp
>徳川をつぶすためにも、会津などが標的になってしまったのです。
イミフw ひょっとして会津藩から将軍を出すつもりだったのか?w 諸藩が従うわけねえだろp
208 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 08:00:12 ID:lz+ttp4T0
>>192 >学研だったら腐れ犬の助だったかな、あいつの文章が一番酷い
あー、あれは酷いね。
片方の正義を讃美し片方の正義をけなす旧日本軍や、北朝鮮みたいだった。
事実認識も間違っている上で、そうした歪んだ歴史観を組み立てているので痛すぎる。
俺的には、犬以外のライターは良いと思うけどな。河井の中立論など嘘だと論説してみたりしてるし。
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 14:08:32 ID:iXqSPSsf0
龍馬の初恋とされる平井加尾は大獄下の安政6年(1859年)12月三条家に仕える為に京へ向う
加尾が仕える三条家では三条実美の甥の公恭の素行が悪かった
特に桜田門外の変による弾圧収束で気が緩んだ後は酷かった
その頃龍馬は井口村刃傷事件の収拾で頭角を現していた
加尾は龍馬に助けてほしかった
文久元年(1861年)9月龍馬の手紙で加尾に男装の用意をさせ三条公恭から加尾を遠ざけようとした
同年10月龍馬は長州に向うついでに京の加尾の元へ立寄り脱走を試みるが思うようにいかず
龍馬は風呂上りの公恭の虚を突き
「運の悪い奴はシンボルを失うこともあるぜよ」
とでも言ったのか三条公恭を脅すことで片を付けた
加尾は龍馬が京を離れた後に兄達が吉田東洋の暗殺を企んでいることを知る
文久2年(1862年)1月龍馬は長州を訪れ同年2月土佐に戻った
この時龍馬に思いを寄せ龍馬の身を案じたのは加尾だった
加尾は龍馬を暗殺に加担させないために再度龍馬を呼び寄せる
文久2年(1862年)3月24日龍馬は脱藩し先ず長州に向かい同年4月1日白石正一郎を訪れ
その足で京の佐那の元へ向かう
同年4月8日東洋は龍馬以外の者で暗殺される
先に脱藩していた吉村虎太郎はすでに京に向かっていた
吉村は加尾の男装の際にも龍馬と行動を連携させ長州に向かっている
寺田屋事件の騒動の京で龍馬は自分のことよりも加尾のことを優先した
加尾にとって龍馬は頼もしく愛しかった
だが兄を思う加尾は龍馬と結ばれることは出来ず龍馬は大坂から江戸に向かう
佐那の話だと龍馬は安政5年(1858年)にすでに佐那と婚約していた
龍馬は加尾に対する未練を少し残しながら江戸に向かい佐那のいる千葉道場を目指す
そして松平春嶽に拝謁して紹介状を請い横井小楠に謁見する
210 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 14:38:11 ID:iXqSPSsf0
>その足で京の佐那の元へ向かう
>その足で京の加尾の元へ向かう
に訂正
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 15:02:47 ID:qgtHaJtK0
武家権力は衰退すると
いかに大軍でも少数兵力に負けるジンクスがある
くりから峠の戦いで平家の大軍10万が木曽義仲に大敗
千早城の戦いで鎌倉幕府軍100万?が大苦戦の末に敗北
近江六角征伐で足利義尚軍2万はゲリラ戦法に苦しんで最後は和睦
そして第二次長州征伐
>>211 鎌倉軍100万ってw
同時の東日本に住んでた人全員幕府軍?www
213 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 17:36:05 ID:lz+ttp4T0
>>212 俺は
>>211ではないが、ぶっちゃけその時代の数字はわからんのだよw。
太平記などの軍記物を参考にするしかないが、物語なので”どう考えても変だろ”的数字が出て来る。
でも数字を示さなければ、「多い・少ない」だけの表記になって状況を表現し辛い。
結局、みんな”嘘と解っちゃいるけど”と思いつつ、物語で書かれた数字(ソースはあるからね)を書くしかないんだよね。
戦国でもあるでしょ
桶狭間の戦いで織田信長三千に対し、今川軍三万(最近は七千ぐらいが事実だろうと推測されている)とかねw。
長州、薩摩、そして坂本に共通してるのは金持ってたということだな。
長州はきわめて優良財政のうえ戦国毛利の莫大な遺産(1兆円以上?)があったといわれる。
薩摩は奄美砂糖の大規模搾取で、おそらく日本一の現金収入があった。
坂本は実家が富豪で、本人に金集めの才もあり、金の力をうまく使い、立ち回ったように思われる。
逆に幕府、会津、ひより見の諸藩には金が無い。
これらの勢力にも薩長と同等の人材はいたはずである。
徳川慶喜は「我が方に西郷、大久保のごとき人材がいない」と嘆いたとも伝えられている。
現代では、維新の原動力は薩長の人材力、それを結んだ坂本の人間的魅力であったかのごとく語られ、
とくに薩長については経済的側面から語られることがほとんど無い。
これは危険なことだと思われる。
日本は幕末も日露戦争も太平洋戦争敗戦後もうまく切り抜けてきた。
伝統的に教育国家であるから、その人材力、あるいは精神力や気概というものがあったからこそできたんだという発想は危険だと思う。
日露戦争では、日本国債を買ってくれたユダヤ富豪がいなかったら、ロシアの植民地になってたかもしれない。
太平洋戦後も、朝鮮特需が無ければ、粗悪な日本製品が売れることはなかったかもしれない。
長州藩の羽振りが良かったのは戦国毛利の莫大な遺産、とやらじゃなくて天保改革期の村田清風と坪井九右衛門の財政再建政策と切り札の撫育金があったから
>>214 『幕末の長州』『幕末の薩摩』『調所広郷』その他もろもろ。
30年近く前に出てて新書や吉川人物業書みたいな手に入りやすい本で散々既出。
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 00:13:12 ID:6ppGUflj0
精神論を口にするのは、むしろ文藝春秋等に陣取った東北武士道の連中。
彼らの物質軽視は救いがたい。
彼らは現在の社会に関しても口出しして、清貧論だか武士道の清真さだかを謳っているが、
経済抑圧で社会が良くなるわけがない。失業や自殺から社会が崩壊してゆくだけだろう。
>>217 こいつら未だに吉宗、定信マンセーで田沼はカスな考えなんだろうなぁ
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 09:50:15 ID:FEdtNRaB0
坂本龍馬が大政奉還を目指した理由は?
1.日本が内乱に陥り、そこに外国勢力の影響が入るのを恐れた
2.薩長に遅れをとっていた土佐の勢力挽回策
3.坂本龍馬が平和主義者だったから(笑)
4. 大政奉還は倒幕の段階的手段だと考えていた
5. 徳川家を主体とした諸侯合議体制、いわゆる公儀政体を目指した
どれでしょう?
3以外
1と3は可能性低いんじゃない?
大政奉還が行われれば内戦はもう起こらないという考えは現代人特有の甘っちょろい理想主義でしかない。会津・桑名の反発ぶりを見よ。
そういうのは坂本龍馬に自分の平和主義思想を投影しているだけ。
よって2と5を餌にした4と考える。
もし龍馬が暗殺されなかったら、新政府では中心人物になってた?
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/18(月) 20:53:50 ID:I83rghh60
いや一番肝心な鳥羽伏見で土佐が戦闘に参加せずあのザマだから
あの戦いで薩長政権が決まったような物
>>222 むしろ参与に名前を入れなければ暗殺されなかったかも?w
早くビデオで検証してみよう坂本竜馬を殺したのはだれか
226 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/19(火) 22:43:25 ID:GglYY75P0
土佐勤王党が上京した直後から京では暗殺剣が振るいだした
岡田以蔵が最初に殺害したのは大坂での土佐藩下横目の井上佐一郎だがこれは偶然性が高い
武市は龍馬による素行の悪い公恭に対するシンボルのつめ割り強襲の顛末を収二郎から聞いていた
加尾は日頃の鬱憤を晴らして気が高揚してしまい龍馬の武勇伝を収二郎に伝えていた
武市はこれを利用し公武合体派を粛清させるために岡田以蔵を刺客に仕立てる
三条公恭を震え上がらせた龍馬の急襲は京での尊皇攘夷の高揚に転換できると判断した
また土佐藩と親密な三条家に対する配慮でもある
平井家は下級上士ではあったが郷士の坂本家と懇意にしていた
坂本家は郷士だが龍馬の祖父山本覚右衛門は白札郷士であり
覚右衛門の次男で龍馬の父直足が坂本家に養子に入った
本質的には白札郷士の武市家と郷士の坂本家は格という点で近い
だが土佐藩に於いて上士は単なる武士ではなく山内家の名誉を守るための士であり
山内家の全てを背負う者でなければならない
御家は長い歴史に於いて輝かしい面もあれば負の遺産も背負っている
上士はその全てを自身とし事に当たらねばならず
白札郷士から上士になるのは無理ではないが相当の藩への貢献が必要であった
武市は上士になり山内容堂に認められるためにかなりの無理をすることになる
武市の吉田東洋暗殺は龍馬による公恭に対するのシンボルのつめ割り強襲に奮起されたものだろう
龍馬が長州に行っている間に加尾が兄収二郎に龍馬の武勇伝を知らせてしまった途端
土佐勤王党は吉田東洋暗殺に向かってしまったのだ
227 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 09:04:03 ID:fFPqyODb0
今なら、民主党売国奴政権の大臣は全員暗殺だな
国を必死で売る事しかしないカスどもばっかだからな
>>221 内戦は起きただろうが幕軍の圧勝だったろうね
>>219 当然5
徳川の国力・軍事力は薩長を圧倒していたのは紛れも無い事実
大政奉還で形式上政権を返上した所で勢力図に大した影響は無い
つまり大政奉還以前・直後の真っ当な考えでは、徳川無しで新政府設立は不可能
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 12:23:51 ID:qryL+cS/0
圧倒してたら第二次長州でも鳥羽伏見でも負けないだろw
それに諸大名も幕命に唯々諾々と従ってない情勢だ
231 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 12:39:56 ID:WcIypbc/0
大政奉還は、薩長以外の勢力にとってはいいことづくめだから、
フリーの龍馬がそれを推してもぜんぜん不思議ないだろ。
龍馬にとって(長州にとってもだが)、内実がブラック企業ばりの薩摩藩なんか必要悪でしかないわけだから。
>>231 何を言いたいのかさっぱり分からない(・ω・)
下手な例えは表現したい内容をかえって分かりにくくするよ
>>223 お前大河ドラマ板にも同じこと書いたろw
>>230 局地戦で負けただけ
第二次世界大戦もシンガポール攻略時点で連合国が撤退したような物
常識的に考えれば徳川の圧勝だから
235 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 18:47:35 ID:XLUq1Zh50
スレの上の方を読む限りでは、
大政奉還で得をする人
・土佐藩(徳川慶喜が勝てば彼の新政権、薩長が勝てば彼らの新政権の成立を応援したことになる)
・薩長(幕府が政権を手放せば、自らの薩長新政権成立の可能性が増す)
・朝廷(大政奉還によって自らの権威が増す)
・各藩諸侯(幕府を廃止し諸侯会議に政権が移行すれば、
徳川慶喜が首班だろうが薩長が主導権をとろうが自らの政権参加が可能)
大政奉還で損をする人
・江戸の幕府・旗本(一部の実務員を除くとリストラ対象)
・会津・桑名(諸侯の嫌われ者。尾張の慶勝や越前の春嶽あたりからも引退・自重を求められていた)
大政奉還とは、徳川慶喜が諸侯会議を政権とするにあたり、会津・桑名から諸諸侯に支持基盤を乗り換えようとした行為であった。
なんか日本語変になった…
長州征伐も鳥羽伏見も第二次世界大戦に例えるなら、日本がシンガポールを攻略した時点で連合国が撤退したような物
常識では考えられない敗戦であり、
>>230的発想は結果論だけの短絡的な考え
大政奉還って部分だけを取り上げるなら、損をした人間など皆無だし一番得をする筈だったのが徳川
じゃなかったら大政奉還なんかしないから
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 18:54:27 ID:bNv9uLJ90
例えが悪すぎる。
圧倒的な連合軍と、もはや死に体の幕府を同列に語るな。
239 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 19:12:27 ID:bNv9uLJ90
あたりまえだろ。
もし、政治も経済も軍事もきちんとしてたら、
長州なんか袋叩きできてただろうよ。
>>239 んじゃ貴方が言う圧倒的な連合国は日本の電撃作戦で撤退を繰り返したのかな?
表明的な部分しかみれない浅はかな考えは捨てた方が良いよ
結果だけを見て薩長のやり方を良しとした結果が第二次世界大戦の始まり
残念ながらルーズベルト君には、現人神の存在が何ら脅威では無かった
それが幕末と第二次世界大戦の違い
薩長が勝ったのは奇跡でしかないから
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 19:35:36 ID:bNv9uLJ90
第二次大戦前に暗躍したのは、東北閥だろ。
242 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 19:36:59 ID:bNv9uLJ90
例えるなら番長づらしてた奴が、
あいつ弱いんじゃねってちょっかいかけられて、
自分だけじゃ怖いから仲間よんで(仲間も番長が弱いんじゃねって疑いはじめてる)、
そいつをリンチしようとして、逆にぼこられた癖に、
この辺にしといてやらあって逃げ台詞はいて、引きこもりになったようなもん。
244 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 19:46:54 ID:bNv9uLJ90
あたまのおかしなばかでもわかるようにかいてあげたよ
大政奉還に話を戻して書きます
一番得をする筈なのが徳川と書きましたが、その理由を書きます
当時の幕府にとって国内情勢で頭を抱えていたのは内乱ばかりではありません
開国による物価高騰と言う問題も抱えてました
しかしながら諸外国の圧力に負け不平等条約を勝手に結んだのは徳川幕府
当然ながら打開策となるべき政策など皆無
そこで大政奉還なんです
中央政権から諸藩に成り下がれば、その問題からは逃げられますよね
また、その難問は新政府に丸投げされる訳です
薩長がいくら朝廷を抱えこんで新政府を騒いだ所でその問題を解決出来る訳も無く、庶民の怒りもまた新政府に向けられる訳です
246 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 20:05:36 ID:bNv9uLJ90
東北閥は狂信性一本槍。
悲惨な結果を生んだ。白虎隊にも通ずる。
長州は、暴走はするが現実的なところが強い。
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 20:15:19 ID:XLUq1Zh50
248 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 20:24:52 ID:XLUq1Zh50
不平等条約改正問題は、政権を背負ったなら必然的についてくる。
幕府は政権に留まろうとし、徳川慶喜は新政権で首班を手に入れることを当然のものとしていた。
徳川慶喜には政権を放棄するつもりが無かった。
不平等条約問題による政権投げ出し説は、この意味で全く不合理だ。
>>248 書き方が悪かったかな…
あくまでも一時的な策
大政奉還により物価高騰などの問題から抜け出せるって事
当然薩長で不平等条約を含む市民の不満を解決出来ず、最終的に徳川に泣き付いてくると踏んでいた
一時的でも同じこと。
政権担当能力は、徳川幕府より明治新政府の方が高かった。
>>250 それは結果論
大政奉還時点では徳川が無くなる事も予測出来なければ、慶喜自信が「新政府の方が自分達より優れてる」なんて思わないから
慶喜の思惑では市民の怒りは新政府に向けられ、薩長政権は朝廷からの信頼も失う
結果、徳川に泣き付いてくる
あくまでも大政奉還時点の話しでお願いいたしますよ…
>>252 噂の史料厨って奴ですか?
ここは学会でも無いし、私は自説を「史実である」と認めて貰うつもりすらありませんから
あくまでも自説を書いてるだけで、その自説の是非を皆さんに聞いてるだけです
勉強になりますからね
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 21:02:24 ID:XLUq1Zh50
>>251 大政奉還と王政復古を混同した話を展開されても困る。
大政奉還時、徳川慶喜は政権担当の継続を望み、王政復古へも撤回を求めた。
それが「政権を彼らに与えれば、担当能力のない彼らが投げ出すだろう」に変わるのは、
王政復古以後のことであり、大政奉還時に徳川慶喜は王政復古が起こることを必然と考えていたわけではない。
「条約問題による政権投げ出し」説は、根本からして不合理だ。
>>254 >
> 大政奉還時、徳川慶喜は政権担当の継続を望み
勉強不足ですいませんが、これは慶喜が誰に対し望んだのですか?
私の知識では大政奉還したにも関わらず「慶喜が政権担当を望んでいた」なんてのを知らなかったので…
その話しなら、大政奉還したのに政権を手放さないつもりだったて事ですよね?
マジっすか??
ようは慶喜が腰抜けなだけw
錦の御旗、朝廷にびびっちまったんだよ
決死の覚悟で大阪城に留まっていれば、こんな惨めな負け方はしなかった
つまり覚悟の違いだね
結果的に水戸学が仇となったな
257 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 21:19:42 ID:XLUq1Zh50
>>255 大政奉還時、政権は暫定的に旧幕府に継続されると朝廷と旧幕府は声明を出し
徳川慶喜は列強諸国領事にも、政権は依然として私にあると宣言しました。
これが変化したのが王政復古であり、朝廷内で二条摂政らを解任し明治天皇の親政を開始するための諸処置として、
旧幕府組織への全面否定が決定されました。
これに徳川慶喜は抵抗し、王政復古の撤回と旧幕府への政権委任の継続を要求しましたが、
これが容れられないと、慶喜は大阪へ旧幕府勢力を移転させました。
これが普通習う歴史なのですが、あなたは何を学習してきたのですか?
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 21:29:19 ID:XLUq1Zh50
要するに、徳川慶喜の求める大政奉還(及び朝廷の下での慶喜新政権樹立)とは、
旧政権である幕府の主たる徳川慶喜から、新政権である諸侯会議の長たる徳川慶喜への交代であって、
徳川慶喜には、政権を降りるつもりはこれっぽっちも無かったということです。
しかし、一回手放した政権は戻っては来ませんでした。
手放したこと事態が徳川慶喜にとっての大失策となりました。
>>257 それは暫定的でしょ…
大政奉還した直後に新政府が設立される訳も無く、朝廷が委任した物
大政奉還その物は徳川が政権を返上し、一諸藩に成り下がる事ですよ…
>>258 なんか結果論と史実を交えた書き方だからイマイチ意味がわからない…
大政奉還時点での根本的な情勢を書きますよ
第二次長州征伐の失敗により幕威は衰退していましたが、客観的な国力も軍事力も徳川が薩長を圧倒しています
それは大政奉還で政権を形式上返還しても何ら変わりはありません
貴方の論調は「武力による倒幕が成った」って結果論から成り立っているようで、イマイチ論点がズレてると思いますよ
261 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 21:52:31 ID:XLUq1Zh50
>>259 いいえ、徳川慶喜は大政奉還までの間に、諸侯会議の雛形となる参預会議及び四候会議において、
会議の創設者である島津久光を排除する形で会議の主導権を握ることに成功しています。
徳川慶喜は大政奉還後、各藩諸侯へ二条城へ集合し、諸侯の合議制会議を開始することを布告しました。
徳川慶喜はこの会議の長として、新政権の主となることを既定事項と考えていました。
大政奉還は政権放棄ではなく、自らの政権継続の手段と徳川慶喜は認識していました。
しかし、実際は諸藩は流動的な政局に尻込みし二条城に代表を送らず、慶喜の望む諸侯会議は成立せず、
また、この後の薩摩及び尊王攘夷派公家が起こした王政復古による朝廷内の小御所会議にも、集まった諸侯は少数でした。
この時薩摩が朝廷、つまり天皇を擁し、尾張や越前・彦根や土佐、淀(国許)まで小御所会議に取り込んでいたことが
彼らに有利に働くこととなります。
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 22:19:13 ID:XLUq1Zh50
>>260 どうもあなたは、徳川慶喜による二条城における諸侯会議開催通知と、
諸侯への二条城への召集布告を知らないのではないか、と疑問に思います。
徳川慶喜は、大政奉還において自らが政権を手放すとは全く考えていませんでした。
暫定的に旧幕府を維持し、諸侯会議成立と共に旧幕府の有用な官僚を連れて
自らが新政権の主となることを自明のこととしていました。
この徳川慶喜の望みを砕いたのが、王政復古による旧幕府否定でした。
>>262 召集布告までの暫定政権が旧幕府ですよね
そもそも貴方の意見に矛盾を感じます
慶喜は政権を手放す気がない。大政復古の大号令がそれを阻止した
これが貴方の主張です
では大政復古のクーデターに慶喜は何故抵抗しなかったのですか?
矛盾ですよね?
最終的に朝廷は徳川に泣き付き政権を取り戻せると踏んでいた。故に一時的に政権を手放す事は厭わなかったのでは?
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 22:49:41 ID:bNv9uLJ90
客観的な軍事力なんて、当時の幕府には把握できてなかっただろうな。
イギリスからの最新の武器を手にいれてた長州に、逆に圧倒されてびびったのが事実。
下手な例えの繰り返しで何を言いたいのか分からない書き込みばっかり(・ω・)
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 23:02:33 ID:XLUq1Zh50
>>263 全然矛盾ではありません。大政奉還時と王政復古以降の徳川慶喜の姿勢とは、また別なのですから。
それに、あなたは大政奉還時の徳川慶喜の姿勢として「政権を薩長に与えれば投げ出す」と主張していますが、
それは王政復古以後のことでしょう。
大政奉還後、王政復古まで徳川慶喜は朝廷と協調し、暫定的に旧幕府政権を維持していました。
政権は依然徳川慶喜の手にあり、諸侯会議開催によって再びこの長となる徳川慶喜に名実共に帰還するものと思われていました。
これが破れるのは王政復古、朝廷が旧幕府を否定し、朝廷内に別の諸侯会議・小御所会議を設立したときです。
王政復古に徳川慶喜は抵抗し撤回を求めますが、その時点では朝廷の譲歩を得られず、
配下の暴発を防ぐと称し徳川慶喜及び旧幕府勢力は大阪に移転します。
徳川慶喜の政権維持意欲をあなたは無視しています。
あなたの論理は根本的に矛盾しています。
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/20(水) 23:24:29 ID:XLUq1Zh50
徳川慶喜は大政奉還後も、旧幕府、そして二条城で開催されるはずだった諸侯会議の主という形で政権を維持しようとしました。
徳川慶喜側の大政奉還の理由として「政権を幕府が手放せば、朝廷は手に余り投げ出す」説を挙げる不合理さは、
ご理解いただけたのではないかと思います。
大政奉還後も徳川慶喜は政権を維持していたのですから、この間の政治課題は相変わらず徳川慶喜が処理するしかありません。
責任は相変わらず徳川慶喜が背負っていました。責任逃れには使えません。
幕府て第二次長州征伐で完敗したくせに
その後、その教訓が全然活かされてないよね
末期的組織てはそういうもんなんだろうけど
龍馬没後の徳川対薩長の話ばかりだな
スレ違いだから
>>266 相変わらず結果論ありきの論調ですね…
大政奉還時点では大政復古のクーデターを予測する事は不可能
つまり大政復古以降に政権を手放したのは、大政奉還時点から考えれば結果論ですよね
貴方がおっしゃる説ならば慶喜は大政復古のクーデターを断固阻止してなきゃおかしいのでは?
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/21(木) 12:07:51 ID:ctiniw1x0
>>270 >>266参照。
あなたの文章の三行目と四行目の論理が対立し断絶しています。
>つまり大政復古以降に政権を手放したのは、大政奉還時点から考えれば結果論ですよね
この行では、「大政奉還時点では大政復古のクーデターを予測する事は不可能である」ことをあなたは主張しています。
>貴方がおっしゃる説ならば慶喜は大政復古のクーデターを断固阻止してなきゃおかしいのでは?
この行では、「大政奉還時点では大政復古のクーデターを予測する事は可能である」ことをあなたは主張しています。
あなたはこのスレの上の部分で、大政奉還と王政復古を混同し、
「大政奉還で徳川慶喜は、政権を投げ出せば朝廷が手に余って手放すと慶喜は思った」と主張してきました。
しかし、その論理は実際は矛盾だらけで不整合なものであり、
逆に徳川慶喜が自らが政権を維持することに意欲を燃やしていたという事実は、既に説明されています。
徳川慶喜が京都から大阪に移転したのは王政復古の後、朝廷が旧幕府に与えていた暫定政権の座を否定し、
徳川慶喜が旧幕府に代わる自らの政権基盤として設立を急いでいた諸侯会議を朝廷が否定し、
代わりに朝廷内に別の諸侯会議・小御所会議を創設した時です。
大政奉還の徳川慶喜側の理由として「大政奉還で徳川慶喜は、政権を投げ出せば朝廷が手に余って手放すと慶喜は思った」
を挙げることは不合理極まりない虚偽でしょう。
大政奉還時には徳川慶喜は、これは暫定政権としての旧幕府と将来の政権基盤としての諸侯会議との移行手続きと考え、
大政奉還実行が自らが政権を手放すことになるとは思っていなかったのですから。
あなたの意見は、検討する限り成立する余地がないのです。
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/21(木) 19:10:12 ID:ctiniw1x0
あなたの言った「大政奉還時に慶喜公は政権を手放すことで、手に余る政権の座を朝廷は慶喜公へ戻すと考えた」
という説は、徳川慶喜の監修によって世に出た「徳川慶喜公伝」及び勝海舟の明治以降の多くの供述等で
何度も主張されています。半ば定説のように語る人もいます。しかし両人の明治以降の説明という点が問題です。
大政奉還後、徳川慶喜は朝廷から暫定的に政権として承認されていた旧幕府を維持する一方、
全国の各藩に二条城での諸侯会議開催を通知し、各藩代表を召集していました。
徳川慶喜の主催する諸侯会議が開催されたなら、徳川慶喜はこの諸侯会議の長として、
諸侯会議及び徳川慶喜の選抜した旧幕府官僚による組織を新政権として承認することを朝廷に要求したでしょう。
旧幕府から諸侯会議への政権移行が発生するだけで、どちらも首班は徳川慶喜です。
要するに、徳川慶喜は政権を手放すつもりは全くありませんでした。
しかし王政復古が起こり、朝廷によって旧幕府は政権としては否定され、
諸侯会議も徳川慶喜の主催ではなく朝廷内に小御所会議として設立されることが通知されました。
徳川慶喜の政権構想は明確に否定されました。
「慶喜公は政権を手放すことで、手に余る政権の座を朝廷は慶喜公へ戻すと考えた」はこの時期、
徳川慶喜及び旧幕府勢力が京都から退去し、大阪に移転した時点のものでしょう。
断じて大政奉還の時点の徳川慶喜の意見ではありえません。
なぜなら、大政奉還後も徳川慶喜は政権を維持し、さらに朝廷の承認の下での自らの政権の継続を望んでいたのですから。
「大政奉還時に慶喜公は政権を手放すことで、手に余る政権の座を朝廷は慶喜公へ戻すと考えた」
という見解が生まれた背景についてですが、明治以降の徳川慶喜・勝海舟両名の見解だということを念頭に入れましょう。
明治維新の結果として、明治以降の徳川慶喜の立場は明治新政府に逆らった元犯罪人、
国家元首としての天皇の下、名門であり顕職ではあるが実権のない廷臣の一人でした。
明治以降の徳川慶喜にとって大政奉還とは、天皇を国家元首とする新体制誕生への先駆けとしての
自らの決断として、明治の体制における徳川慶喜自身の立場を強化するものに変貌を遂げていました。
その同じ徳川慶喜が幕末には、大政奉還後も自らが首班となる政権を維持継続しようとした、
まして、彼自身のの構想した新政権で首班はおろか国家元首として想定されていた可能性すらある、などということは
明治天皇を国家元首と仰ぎ、明治新政府の治下にある両名にとって、最も隠蔽されなければならない事項でした。
そのためこの両名にとっては、大政奉還と王政復古を意図的に混同させることで
徳川慶喜が政権維持へ強い意欲を持っていたという事実への言及を避け、
明治新政府の元での廷臣としての自らの立場を守るという意味があったと思われます。
しかし、それは処世術であり欺瞞であり隠蔽です。
あなたは、あなたの記述で言うところの「結果論ありきの論調」としての徳川慶喜の明治以降の供述に踊らされています。
徳川慶喜は、大政奉還によっても政権を手放すことはありませんでしたし、政権維持に並々ならぬ意欲を示していました。
「大政奉還時に慶喜公は政権を手放すことで、手に余る政権の座を朝廷は慶喜公へ戻すと考えた」という論は成立しません。
要するに大政奉還とは、論理上所有していても徳川慶喜にとって親近感のない江戸の幕府は廃棄し、
京都で徳川慶喜自らが主宰する諸侯会議及び自らの京都における幕僚達による国家体制に移行する、
政権の移し換えを実行する手段として、当時の徳川慶喜は考えていた、ということです。
>>272 長いw
手短に言うと維新前後で発言の意図が変わるからそこは斟酌が必要って事だろ?
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/21(木) 22:29:35 ID:AGJwX7300
安政6年(1859年)12月7日中川宮は隠居永蟄居に処分される
同年同月平井加尾は三条家に仕えるために上京する
これは朝廷内で重い処分を受けた中川宮を癒す為及び中川宮の動向を探らせる為だろう
三条公恭の素行の悪さに悩む加尾は中川宮に個人的に相談しに行ったかもしれない
中川宮は桜田門外の変以後もまだ永蟄居のままだった
この頃中川宮は美人のお龍の精神的看護に悶々としていた
勤王家の楢崎将作の無残な死とその後のお龍に降りかかる苦難は平井加尾の帰郷に尾を引く
文久2年(1862年)4月土佐を脱藩した坂本龍馬は加尾を救うために長州から京に向かっていた
同じ頃中川宮は赦免され同年4月16日薩摩藩が護衛のために上京し
同年4月23日寺田屋事件が発生する
この時桐野利秋は中川宮の守衛列藩となる
龍馬より先に脱藩し寺田屋事件の翌日に京に入った吉村虎太郎は捕縛され土佐送りとなった
龍馬は寺田屋事件後の厳戒態勢を振り切って加尾の元に馳せ参じた
加尾は自分を助けるために危険を顧みずに駆けつけ脱藩の罪を背負ってしまった龍馬に
申し訳なく感じた
幼い頃から兄のように親しんでいた龍馬の死を覚悟した命がけの再訪に
生まれ育った故郷土佐を離れ京で三条公恭の素行の悪さに悩まされ続けた加尾は
最早込み上げる感情を抑える事は出来なかった
>>271 根本を書かせて頂きます
貴方は「結果論」の意味を理解されてないのでは?
また慶喜が大政復古のクーデターを阻止可能だったなんて書いてませんよ
貴方の設なら何故慶喜は大政復古のクーデターを静観したのかを疑問に思い質問してるのです
申し訳ありませんが全く纏まらない文が長文となってるので全ては読んでません
>>272 > 徳川慶喜の主催する諸侯会議が開催されたなら、徳川慶喜はこの諸侯会議の長として、
> 諸侯会議及び徳川慶喜の選抜した旧幕府官僚による組織を新政権として承認することを朝廷に要求したでしょう。
本当に長文ですね…
どっかのサイトのコピーですか?
その上記の部分が貴方と私が違う部分
なぜなら全く根拠が無いからですよ
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/22(金) 12:20:06 ID:1oB5mYPT0
>>275 詳しく結果論について、アホでもわかるように説明してください。
薩長政権が出来なければ徳川慶喜の政権が継続したわけですが、
結果に囚われて徳川慶喜の政権に将来が元々無かったことにしてしまう、そんな結果論で語る携帯の人
相手を罵倒するロジックに相手は嵌らず、自分が嵌っているだなんて、ばかみたい
どうせなら、慶喜ちゃんスレを盛り上げてくれw
>>278 > 薩長政権が出来なければ徳川慶喜の政権が継続したわけですが、
それが慶喜の狙いなら、何故大政復古のクーデターを慶喜は静観したのですか?
薩長政権が出来た所で政権維持は不可能と慶喜が考えていたと考えるのが妥当では?
内政・外交と問題は山積み
これらを解決出来なければ朝廷からの信頼を失い、朝廷は当然徳川に泣き付くでしょう
また名ばかりでは無い薩長政権を設立するには武力で徳川を倒さ無ければならない
じゃ無ければ諸藩は付いて来ないですから
大政奉還時点で徳川が武力で敗れるなど非現実的
故に慶喜は政権を一時的に放棄しても必ず戻ってくると踏んでいた
>>281 修正
大政復古では無く王政復古ですね…
283 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/22(金) 17:01:24 ID:S/cJ2VQe0
おお、結果論に乗っかって相手を結果論と罵る変態さん来訪
徳川慶喜の政権は結果として倒れたから、彼の将来政権構想は存在しないって言い出した人
大政奉還後は二条城に諸侯を集め、彼らのトップとして新政権樹立宣言をするつもりだったというのは、
徳川慶喜の政権構想としては順当だと思うけどね
現に徳川慶喜は諸侯に二条城への代表招集をかけてるし
これに対抗して薩摩らが朝廷内に作って諸侯に召集をかけたのが、小御所会議だし
>>278 > 結果に囚われて徳川慶喜の政権に将来が元々無かったことにしてしまう、そんな結果論で語る携帯の人
>
誰がそんな主張をしてるんですかね?
聞き手の粗相は言い手の粗相と言いますから、もし万が一私の主張がそう思えたのなら謝ります
大変申し訳ありません
現実的では私に限らず他の方も「徳川政権の未来について」など語ってません
>>283 > おお、結果論に乗っかって相手を結果論と罵る変態さん来訪
> 徳川慶喜の政権は結果として倒れたから、彼の将来政権構想は存在しないって言い出した人
>
そう思うレスのアンカーお願いいたします…
286 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/22(金) 17:06:28 ID:1oB5mYPT0
>>281 >大政奉還時点で徳川が武力で敗れるなど非現実的
なんで非現実的なの?
>>283 >
> 大政奉還後は二条城に諸侯を集め、彼らのトップとして新政権樹立宣言をするつもりだったというのは、
> 徳川慶喜の政権構想としては順当だと思うけどね
>
その根拠が全く無いので質問させて頂いてるんです
諸侯への召集をしたのは朝廷
その召集までの暫定政権を任命したのも朝廷ですよ
>>286 それが解らない方とは議論に為らないと思いますので、申し訳ありませんがスルーさせて頂きます
289 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/22(金) 17:14:22 ID:1oB5mYPT0
>>288 説明もできないのに、、
都合が悪くなると結果論だって口癖のように言ってるのは卑怯ですよ。
290 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/22(金) 17:14:40 ID:S/cJ2VQe0
どうも妄想に乗っかっていることに気付いていないらしい
かわいそうだと思う
てかそもそもですよ、慶喜は諸侯会議での徳川新政権を企ててたと言うならば、なんの為の大政奉還なのですか?
元も中央政権に君臨していた慶喜は、大政奉還したのか?教えてください
なんか煽りたいだけの方が多いようなので、他の場所で勉強させて頂きます
お騒がせさせてすいませんでした
なんだか、土俵から足が出ているのに負けていない、それは結果論だって言っているみっともなさ
294 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/22(金) 18:36:53 ID:S/cJ2VQe0
ああ、この人の言う「結果論」とは、史実上現実に起きた事物からその背景を類推思考することではなく、
それらの思考で得られた結論を「結果論」として無視し、別の妄想を模索することだったのか。
それは本来の用法とは違うよ。
龍馬ドコー?
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/22(金) 20:13:43 ID:S/cJ2VQe0
なーんか龍馬から大政奉還へ、
その中で「龍馬は佐幕派でー、薩長を懲らしめるために大政奉還をやったんだよ」(馬鹿かw)
と言いたげな人が変な煽りをやらかして、事後処理にかかりたいな、というところ。
297 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/22(金) 21:54:23 ID:Gdh6arkz0
中川宮は公武合体派の中心で自身もその節操のないシンボルで合体する邪心を抱く
お龍に逃げられた中川宮は次に公恭の素行の悪さに悩む武家の娘の美人の加尾に興味がわく
だが三条公恭から龍馬によるシンボルのつめ割り強襲の話を聞いていた中川宮は龍馬を警戒し
素行の悪い三条公恭の抱き込みによる攘夷派公卿三条家の分断を優先させた
中川宮は薩摩の後ろ盾と公恭の抱き込みによる三条家との板挟みなら
武家の娘の加尾でも陵辱できると判断し慎重に加尾に迫り苦境に耐える若い女心を弄んだ
平井収二郎は一橋派だった中川宮が楢崎将作の死後に公武合体派に心変わりした理由を
加尾の探索によってある程度知らされていた
中川宮は伏見宮の系統であるが伏見宮は土佐藩と険悪な紀州藩と親密であり尚且つ御落胤である
節操のないシンボルを持て余す奸臣で御落胤の朝彦を妹加尾を使った色仕掛けで丸め込み
積年の恨みのある紀州藩に一泡吹かせようと収二郎は考えた
加尾は京で脱藩した龍馬と再会した後は三条公恭による鬱憤も晴れ兄の言い成りになった
平井収二郎は土佐勤王党が入京した2ヵ月後取敢えず加尾を土佐に帰郷させた
収二郎は弄ばれた加尾を京に残さなくても中川宮はすでに美人の加尾の虜となっていると考え
1年の間を置いた後で再度加尾を上京させるつもりだった
だが中川宮の加尾に対する執着はお龍に対する執拗さに比べると小さかった
中川宮は陰惨に陵辱できる玩具としての淑女が欲しかったのであり
武家との難しい国政問題を抱えながらの悩ましさの薄れた娘との情事には興味を示さなかった
加尾が土佐に戻って3ヶ月後には収二郎を見限り中川宮は山内容堂に平井の件を告げる
キモい妄想ss垂れ流してる奴は何がしたいの?
299 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/23(土) 12:50:04 ID:WBg5sqoN0
加尾の兄収二郎を奸計で陥れた中川宮の真の狙いは
素行の悪い三条公恭の抱き込みによる攘夷派の分断及び
公恭の素行の悪さに悩む美人の加尾への自身の奸索を利用された腹癒せである
三条公恭の祖父三条実万が安政6年に他界し桜田門外の変で綱紀粛正が緩んだ後
中川宮は自分の家臣チンピラ青侍を使って三条公恭の素行を乱し
三条家に非難を向けさせることによって姦淫坊主の自分の永蟄居を解いた
中川宮が大獄で処分され家臣の有馬範顕と山田時章も連座し許された後も中川宮に従った
平井収二郎は加尾を弄んだ事を口実に色仕掛けで中川宮を操り
一橋派から勤王派楢崎将作の死後に公武合体派となった中川宮を再度尊皇攘夷派に変えさせ
土佐勤王党と親密な攘夷派公卿として藩政改革の令旨を請うつもりだった
だが文久3年1月22日池内大学を暗殺された中川宮は土佐勤王党を嫌悪した
お龍への陵辱を制止した勤王家楢崎将作を嬲り殺しにした後の中川宮に
侍講として公武合体派への転換を教示したのが池内である
中川宮は池内の教示で薩摩藩と渡り合い随従させるはずだったがその自信の糧を失った
中川宮にとって下級上士の娘の加尾との情事は飽くまで遊びであり
御落胤の系統ではあるが世間体には世襲親王家である自分の嫁としては藩主の娘以上を要求した
中川宮はこれを同年1月25日に上京した山内容堂に告げ容堂は激怒した
歴史上平井収二郎は中川宮に信任されていて中川宮の密告で容堂を激怒させた事になっているが
文久2年8月に上京してから容堂が上京する文久3年1月までの僅か半年間で
尊皇攘夷派武士と公武合体派公家が信頼関係を築けるとは考えられず
簡単に平井収二郎が中川宮に信任されていたとする現在の理論は出鱈目である
平井収二郎と中川宮朝彦との関係は山内容堂が激怒するくらい泥沼だったはずだ
大政奉還ばかりが話題になってるがもう少し遡って長州征伐ぐらいからの慶喜や薩摩、土佐、会津、尾張の動きを見た方が状況の変化とかそれぞれの思惑が見えるんじゃないの?
薩摩、土佐、伊予、越前との会議が決裂した時点で幕藩体制の維持も諸侯会議での政権運営もかなり難しいように思うんだが…
301 :
坂本龍馬の魅力:2010/10/23(土) 23:00:04 ID:pQo7enNv0
ウヨサヨはよそでやってくんないかな
坂本龍馬、土佐の豪商の息子として誕生
希望により武士の称号を得江戸で武術修行、黒船来航
親戚の武市半平太の尊王攘夷運動に共鳴、土佐勤王党設立時に名を連ねる
長州藩久坂玄瑞の藩を超えた尊王攘夷連帯に応じ脱藩、長州へ
武市は過激思想で京都で勢力拡大、土佐でも暗殺で実権を得る
しかし京都では島津久光の公武合体論へ主流が移動、土佐でも後藤象二郎が武市を捕縛、土佐勤王党壊滅
坂本、神戸で勝海舟が運営していた幕府海軍操練所へ入門
操練所が潰れると勝海舟の斡旋で小松帯刀や西郷隆盛の薩摩に引き取られ、長崎で亀山社中を設立
薩摩藩の資金で蒸気船を保有し貿易業(主に薩摩の武器購入)に従事
薩摩藩、徳川慶喜との関係悪化により倒幕へ転換、薩長同盟締結。亀山社中は長州へも武器納入
京都での尊王攘夷派巻き返しに伴って土佐藩後藤象二郎、坂本龍馬へ接近
土佐藩の資金投入で亀山社中は海援隊へ改組、土佐へも武器納入
坂本、薩土盟約締結を斡旋する一方で土佐へ大政奉還を推進するよう進言
徳川慶喜、後藤象二郎の大政奉還提案を受け容れる
坂本、京都にて京都主義職配下の見廻組によって暗殺される
304 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 16:01:43 ID:ya00STtA0
江戸時代の与力には毎朝湯屋の女湯に入れるという特権があり髪結に髷を結わせてから出仕した
庶民の家には大抵風呂はなく夫のいる女は夜旦那に抱かれた後の早朝は湯屋でその後処理をした
早朝湯屋に来る女は決まって旦那がいる女であり年頃の生娘が朝湯に入ることはまずない
もし未婚の娘が朝出仕する前に連日与力が女湯にいる朝湯に入っていたら与力は訝るだろう
ましてその娘が高揚した飛び切りの美女だったなら与力の下半身はとんでもない事になった
与力・力士・鳶の頭は江戸の三男と呼び伊達男として持て囃された
会津の民謡「会津磐梯山」に出てくる小原庄助は朝寝・朝酒・朝湯が大好きで財産を潰したという
当時の朝湯は贅沢だったのだ
この小原庄助は元禄時代の人とも戊辰戦争時代の人ともいう
倒幕の原因を元禄時代の放蕩に準えた物だろう
戊辰戦争の敗戦で混乱した会津では婦女に対する強姦も多発したらしい
岡田以蔵が関わったとされる暗殺に森孫六・大川原重蔵・渡辺金三郎・上田助之丞の4人の
京都奉行所与力の殺害がある
この4人の与力は安政の大獄で志士の弾圧に加担したということで攘夷派に狙われ
文久2年(1862年)9月23日この4人が江戸に逃げようと夜に江州石部宿に着いたところを
30人以上の志士で襲撃し殺害した
上田助之丞は逃走し打ち漏らしたが深手を負わせたため死亡
森孫六・大川原重蔵・渡辺金三郎の首は青蓮院のある京都粟田口に晒された
中川宮は大獄による隠居前は青蓮院宮または粟田宮と称し青蓮院はその勢力圏である
中川宮の合体の邪心に狙われた某美女は某勇者との抱擁の後で
連日早朝出仕前に好奇に満ちた4人の与力のみのいる女湯に入ってきた
305 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 17:00:18 ID:juG3N6+J0
龍馬がいなかったら、薩長同盟はなかったのだろうか
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 17:37:09 ID:ya00STtA0
>304
>連日早朝出仕前に湯屋の女湯で後処理をし
>ある日好奇に満ちた4人の与力のみのいる女湯に入ってきた
に訂正
湯屋の女湯を与力の手引きで密室にされ4人の屈強な与力に代わる代わる犯された某美女は
悲壮な面持ちで帰途に着いた
彼女は某勇者に真実を打ち明けられないまま以後某勇者との契りを拒んだ
もし打ち明ければ某勇者は間違いなく与力の元に単身乗り込み命を捨てることになる
某美女は某勇者を愛していた
某美女は自分が受けた屈辱に絶え某勇者を心配した
某美女は以前から兄にその某勇者と関わるなという指示をされていた
それを口実に某美女は某勇者を追い出した
某勇者は已む無く江戸に向かった
猿の文吉はその一部始終を見張っていた
307 :
坂本龍馬の魅力:2010/10/24(日) 19:45:00 ID:DT+N32Ff0
>>302スレ違いでしたか......。
どうもすいませんでした。
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 19:57:24 ID:J/SVKUKv0
妄想小説馬鹿も居るのだから、そんなに気にする必要はない。
だが、小説はソースにしない、これは鉄則。
歴史小説を書くのは誤った情報を蔓延させる犯罪にも近い行為だしな。
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 21:09:35 ID:ya00STtA0
>308
>309
お主は奸臣池内宏の手先か
電波小説はツイッターでやれ
そのためにあるんだろ?ああいうのは
312 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/25(月) 20:54:03 ID:2J6UURg50
龍馬が江戸に向かった後で一人京に残された加尾は寂しさと恐怖心に苛まれた
そんな加尾に追い討ちを掛けるように変態公卿中川宮の魔の手が伸びる
加尾はこれまでのことを収二郎に知らせたが収二郎は加尾にもう少し三条家で我慢するように伝えた
そして中川宮の件についてはこれまで以上に親身に接するよう指示した
その間に岡田以蔵を土佐勤王党の名簿から除外し京に先行して潜入させ
内々に加尾の身辺警護に向かわせる
以蔵が加尾の家を張っていると怪しい男が加尾に張り付いていた
調べてみると島田左近の手先で岡っ引きの猿の文吉だった
以蔵は土佐勤王党が上洛した後で清岡治之介と阿部多司馬の3人で猿の文吉を三条河原に連行し
刀の穢れとして斬殺ではなく河原にあった細引き網の縄を使い絞殺した
その死体を裸に引ん剥き三条河原の杭に縛り竹の棒を肛門から頭まで貫き高札には「いぬ」と書いた
その頃加尾はまだ三条家に仕えていた
問題はその飼い犬である
その後何故4人の与力がそろって京から逃げなければならなかったのか
それ以前に与力が天誅されたことはなく4人が示し合わせてそろって逃げるのはおかしい
誰か犠牲になってから逃げるのならまだ話は分かる
個人的なら一人ずつの方が動きやすいし伊達男の与力4人がそろって動くのはかなり目立つ
尚且つ江州近江まで追って殺害した与力の首を京都まで持ってきたのは分かるが
何故中川宮の勢力圏の粟田口に晒したのかだ
30人以上の志士で天誅をしその首を殺害した場所と離れた場所に晒した以上
その晒し首の場所の名には必ず意味がある
つまり粟田宮と名乗っていた中川宮に対する天誅である
これは勤王家楢崎将作を嬲り殺しにし奸臣池内大学に教示され公武合体派に変更して
合体に邪心を持つ性的異常者中川宮に対する脅しだ
単に武力討幕するのと大政奉還挟むのとではどう違う訳?
大義名分?
314 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/26(火) 21:55:13 ID:on8NYHy00
単なる口実
およそ飲めない事を拒絶する事で討伐の名目ができるからな
315 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/26(火) 22:26:17 ID:zGMRBuoG0
いや、大政奉還をしていない幕府と敵対した場合、日本国政府と敵対することになる。
大政奉還後は朝廷が政権を持っていたので、朝廷の命令に従っているほうが正しいと中間諸藩は考えた。
ってことは幕府は騙されたようなものでしょうか?
大政奉還しようとも領土と幕軍が健在なら
自動的に徳川家が今まで通り諸侯のトップの座に収まるからな
慶喜もこの時は保身のために受けた
んで王政復古の大号令
319 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 00:01:44 ID:0aReyhJU0
木戸と龍馬の手紙のやり取りで狂言とか大芝居の一件って言葉が出てくるけど
大政奉還のことなのだろうか
狂言=大政奉還
大芝居=倒幕
ってことでしょ?
>>303 >武市は過激思想で京都で勢力拡大
何、「過激思想」って?
攘夷思想は屈辱外交拒否・植民地化拒否って言う極めて真っ当な思想だし、
「過激派」にはなり得ない。
佐幕派全体が土佐勤皇党をつぶし龍馬・慎太郎を暗殺するほどに超ウルトラ過激派だっただけ。
司馬遼太郎の歴史改竄小説に騙されてちゃいかんな。
戦争で負けたわけですらないのに、
不平等条約を異勅で勝手に締結し、
函館、新潟、横浜、神戸、長崎を治外法権の実質割譲地として欧米列強に差し出そうとし、
逆らう者は徹底的に弾圧するという佐幕派全体が
自己保身に狂っているだけの低脳国賊かつ過激派であることは極めて明瞭だろ?
そういう低脳国賊かつ過激派がどういう形であれ処罰されるということは、社会として独立国として極めて健全である証。
>>316 大政奉還で先手打たれたor騙されたと臍を噛んだのは薩摩などの倒幕派&幕府in江戸や会桑の幕権派だろう。
倒幕派は討幕の密勅とか無駄になったんだし。
んで王政復古で倒幕派が巻き返したんだけど、小御所会議では容堂公や春嶽侯が頑張って
再びケーキちゃん(幕府は無くなったので徳川家)有利に傾いてた。
んだが、割と蚊帳の外だった江戸の幕権派が、乗ったのか乗せられたのか知らんが
会桑らの中に薩摩藩邸討伐って爆弾放り込んで鳥羽伏見が起きちゃった。
あわれ容堂公や春嶽侯の努力は水泡と消えましたとさ。
ただ大政奉還には薩摩の小松帯刀も尽力してたよね
結局大政奉還って何なの?
324 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/29(金) 14:58:33 ID:BaTvTuXT0
徳川排除による政治体制が究極の目的なら、大政奉還などアホ以下の物でしかなかった
大久保一蔵も日記で「慶喜は大政奉還したというのに未だに権力を
持っており、このまま真の大政奉還を実行しなければ、慶喜への疑いは
晴れない」みたいなこと書いてる。大久保も大政奉還に期待してたみたいだね。
>>322 ちゃうちゃう
倒幕方の最終要求ラインは幕府の辞官納地。
徹底して骨抜きしなきゃ、未だ強大な幕府軍がどうリベンジしてくるか分からない。
大政奉還如きで事が収まるなんて現代の平和ボケした論点だよ
>>326 その通り。
大政奉還は最もスムーズな倒幕のための一里塚に過ぎない。
龍馬自身、土佐藩に大量に武器を買わせて武力倒幕に土佐藩を備えさせている。
NHK龍馬伝が、またまたどういうデタラメを公共の電波で垂れ流すか?を監視してないといけない
328 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/29(金) 18:58:54 ID:2M0gbguY0
>>323 大政奉還とは、大奥や徒食旗本等を解雇するために、幕府を形式として消滅させる、ということ。
京都で徳川慶喜が新政府を諸藩と一緒に作れば、江戸の幕府連中の干渉は入りにくい。
ほら、星亮一(会津偏愛小説家)が、気に入らない自分のとこの会員を叩き出すために、
ファンクラブを解散して即お気に入りだけを選んで再建したじゃん。それと同じだよ。
但し、大政奉還の場合は日本国政府の地位を朝廷に返上することであり、
朝廷が新政府を認定する権利を保有することとなった。
そのため、一旦大政奉還を行ったら、徳川慶喜は朝廷を納得させない限り新政権を作れないし、
朝廷が他者に新政権の座を与えたら、そちらに新政権が移ってしまう。
徳川慶喜にとっては大政奉還は大失敗であり、討幕派にとっては大政奉還は望外の大成功だった。
>>328 >大政奉還とは、大奥や徒食旗本等を解雇するために、幕府を形式として消滅させる、ということ。
?????
イミフ
幕府が旗本解雇とかを考えていたのなら免職したり禄高を下げたりすればいいだけの話。
330 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/30(土) 00:37:40 ID:BuChfzY70
結果論だと倒幕側に有利に働いたよね。
しかし武力倒幕を見越しての大政奉還にしては小御所会議で難航し、戦いに持ち込むのも強引な感じ。
やっぱり政権を返上するとは思ってなかったんでは、四候会議の慶喜の態度を見ても。
木戸も狂言と言うくらいだし。
そもそも「王政復古=倒幕派」なのであって「討幕派」じゃないのがミソさ。
だからこそ王政復古に親徳川の土佐・福井そして尾張徳川家が協力し、薩長と共に兵を動かした。
そして、討幕派=薩長の2に対し、倒幕派=土佐福井尾張徳川の3。2:3で親徳川が有利だったんだよ王政復古w。
親薩長系の安芸と宇和島が抜けている。
王政復古で小御所会議の役に付いた諸侯は、
尾張越前も含め、会津と桑名に対しては排除する意向を示していた。
徳川慶喜は、小御所会議の諸侯か、会津桑名か、どちらを支持基盤にするかに迷った挙句、
薩摩の江戸襲撃によって起こった、会津桑名の暴発を押さえられずに、
朝廷と小御所の諸侯全体を敵にした形で戦いを始め、自滅する。
333 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/30(土) 05:19:57 ID:ZyuxxXcF0
薩長も大政奉還をある程度認めてた(どうせ無理だろうけど「実権」返上するなら)
でやっぱり政権返上しても慶喜が主導権、実権を握ろうとした。
な?やっぱ実力行使しか無いわw・・となった。
徳川宗家のフランス式近代陸海軍が揃ったら、鹿児島城下が焼き払われるのは目に見えていたから
薩摩としてはリスクはあっても、弱いうちに倒幕に向かわざるをえなかったと思う。
長州はもう戦略以前に感情的に倒幕だし。
>>329 まぁそれだけのことだが、難しいんではないかな。
実際に原市之進は、その旗本に暗殺された訳で。
徳川家中の問題でもある以上、幕府解体してどうなるもんでも無いとも思うが。
財政の問題が大政奉還の後押しをしたかは分からんな。
ただ旗本・御家人・大奥女中という無駄の多い徳川家の体制を切り替えようとする試みは歩兵隊や海軍を組織する中でも見られた。
大政奉還をするしないに関わらず家中のリストラは段階的に進めたんじゃないか?
337 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/30(土) 13:17:14 ID:6Qqu2kleO
王政復古のクーデターは
大政奉還で幕府が無くなりただの徳川家になったから上手くいったのである。
幕府でない徳川家には薩摩のクーデターを強行策で止める大義名分が無かった。
338 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/31(日) 15:42:52 ID:OGxwlEL+O
大政奉還がワンクッションになったからこそ王政復古がスムーズにいったわけか
サツマイモと鰹のタタキと河豚かぁ。
サツマイモ・鰹のタタキ・河豚VS朝鮮人参
萩名物は夏みかんだろ。
大政奉還に武力倒幕を目論む薩長が焦ったとかよく言われてるけどこれ根拠ないよね
343 :
坂本弁証人・でんじろう:2010/11/01(月) 21:54:23 ID:pGVeKMNE0
加尾に追い出され京を出た龍馬は文久2年(1862年)6月11日に大坂で沢村惣之丞と会い
同年7月23日大坂で桶口真吉に会って1両の金を借りているがこの金は江戸への船代だろう
この頃の龍馬は主に大坂に潜伏していたと思われる
楢崎将作の死を文久2年(1862年)6月20日とするのはお龍の「反魂香」からの引用であるが
文久2年(1862年)1月20日に死んだ将作の命日を
お龍が龍馬を偲んで同年6月20日に言い換えたもので
「父も此れくらいは許してくれる」という気持ちで偽ったものだ
六角獄舎や武信稲荷での龍馬の話はそれを口実に中川宮の淫行を粉飾している
ただしこれは加尾に追い出された龍馬が文久2年6月20日以降に一旦京に戻ったことを暗示している
中川宮に狙われたお龍が龍馬という武者を失い維新後に釈放された中川宮の影響力を恐れての偽装と
龍馬の真の婚約者である千葉佐那に対して対抗するお龍の詭弁を奸物が利用しているのだ
お龍の云う文久2年6月20日は大坂に売られた14歳になった光枝を取り返しに行って暴れた日で
加尾に追い出され大坂で希望を失いかけていた龍馬が悪党との間に入りお龍に助太刀した日である
龍馬の手紙ではこの日のお龍の状況をかなり詳しく書いてあるので龍馬自身が見た儘を書いたものだ
慶応元年(1865年)9月9日の乙女への龍馬の手紙で京の嶋原遊郭に売られた起美については
「としもゆかねバさしつまりしきづかいなし」
(幼かったので差し当たり気遣い無し)
としているが当時の遊郭では12歳以上だと「としもゆかねバ」とはならず
この記述から起美が10歳(数えで11歳)の文久2年に於ける事件であることが分かる
大坂の女郎に売られた光枝については気遣いについての記述が無く
盗賊に家財道具を奪われ当座の資金も無く片道の船代の着物を売るのに手間が掛かり
京から女のお龍が一人で追い大坂で光枝達を探す事を考えると恐らく間に合わず
美人のお龍や起美に似た年頃の14歳の娘はすでに散散弄ばれた後だった筈だ
お龍は光枝の様子を見るや悪党を召集した中川宮に聞こえるように命を張って大立ち回りをし
そこへ偶然居合わせた龍馬が現れて光枝の貞操を奪ったことを理由に悪党から光枝を奪い返した
この時はまだ龍馬とお龍の間に愛は芽生えていないが
龍馬はお龍から執拗な奸物中川宮の非道を知り楢崎家の置かれた切実な状況を目の当たりにした
中川宮ら悪党はお龍が着物を売っても船代片道分にしかならないと分かっていたから
この時大坂からの女二人の夜道を襲うつもりで待ち伏せしていた筈だ
だが龍馬はお龍と光枝を船で京まで送り嶋原遊郭の起美を龍馬の脱藩資金で救出した
お龍が一人で大坂に乗り込んできたということは将作死後は勤王家の志士との縁が無い事が分かる
龍馬は京に居る長州藩士を探し元長州藩士楢崎家で起こっている惨状を訴えた
この時龍馬は淀川の船宿寺田屋のお登勢と知り合い
お登勢は悪党から3人の女達を救った龍馬に感服した
そしてお龍は亡くなった勤王家の父の再来のように龍馬を思慕した
これが「反魂香」に於ける楢崎将作の命日の文久2年6月20日の真実である
異常性欲を満たす為なら幼い子供さえも陥れる卑劣極まりない奸物中川宮の誘拐教唆の犯行に
龍馬はこの国を根本から正さねばならないと決意した
この事があって坂本龍馬は横井小楠に師事することになる
文久2年(1862年)7月大坂に戻った龍馬は脱藩時に持参した金を起美の奪還に使い切り文無しになり
桶口真吉に借りた1両の金でやっと千葉重太郎のいる江戸に向かった
只管美女二人を待っていた中川宮達悪党一行は落胆した面持ちで大坂から京の船着場に着いた
それを見てお登勢は「為て遣ったり」と喜んだ
龍馬は加尾の置かれた状況をまだ知らない
344 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/02(火) 02:10:43 ID:Xki3dP3K0
でんじろう先生と被るので改名します
345 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/02(火) 21:54:24 ID:Xki3dP3K0
龍馬が楢崎家の為に長州藩士を探して奔走している間に
土佐から岡田以蔵が京にいる加尾の警護の為に土佐勤王党を除名されてやってきた
龍馬は以蔵を見たかもしれないが脱藩の身であるため会うことは出来ない
以蔵は在京の長州藩士や攘夷派志士から龍馬が勤王家楢崎家の娘達を救ったことを聞いた
寺田屋のお登勢の話から攘夷派志士ではすでに龍馬は伝説になっていて
この話は薩摩の田中新兵衛にも届いていた
この時岡田以蔵は田中新兵衛と知り合う
以蔵が加尾の家を見張っていると猿の文吉が張り付いていた
以蔵が文吉を追跡調査すると文吉は養女を青侍島田左近の妾にしてその手先となっていた
紀州藩と親密で女癖の悪い九条尚忠に仕える諸大夫の宇郷重国と青侍の島田左近は
安政の大獄で攘夷派志士を弾圧していた
文久2年(1862年)7月20日島田左近は田中新兵衛らによって暗殺される
田中はこの時はまだ岡田の真意を知らず勤王家楢崎家の復讐として九条の青侍を殺害した
武家の未婚の絶世の美女は密室にした女湯で代わる代わる強姦しては湯で洗い流しまた強姦し
4人の与力達が飽きるまで絶え間なく強姦するという残酷なやり方で弄ばれた
与力達は絶世の美女との又と無い好機に夕刻の帰宅時間まで寄って集って美人の娘を陵辱した
もともと与力は不振な女の監視及び子宝に恵まれない女に女湯で種付けする伊達男である
女湯が種付けと称して封鎖されるのは珍しいことではない
覚えの無い旦那はその子を人にやるか売るか捨てるかして悪党に落ちぶれる者も中にはいた
男が女湯に堂々と入れるのは種付け与力と三助だけであるから強姦与力はすでに判明している
この4人の与力も安政の大獄下で攘夷派志士の弾圧に加担していた
問題は髪型を見て武家の未婚の娘であることが判っていながら集団暴行事件を起こした背景である
346 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/02(火) 22:19:58 ID:Xki3dP3K0
>もともと与力は不振な女の監視及び子宝に恵まれない女に女湯で種付けする伊達男である
>もともと与力は不審な女の監視及び子宝に恵まれない女に女湯で種付けする伊達男である
に訂正
そもそも
幕府、見回組説だったら暗殺する必要ないよね
堂々と捕まえればいいだけ
350 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 19:10:28 ID:SuBiEdim0
>>348 三条辻の事件
(三条辻にあった旧幕府掲示物が破壊されたので、新撰組が犯人を捕縛尋問したら、
そいつは土佐藩士だったので、土佐藩を味方に付けたい京都の旧幕府上層部が慌てて釈放し、
逆に新撰組が処分された)
これを考えると、旧幕府側は当時土佐藩の庇護下にあった坂本龍馬を
正規に捕縛は出来ない。君の説には根拠がない。
351 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 21:10:52 ID:ZWFgavod0
いや龍馬暗殺後は、土佐藩はけんもほろろという突き放した態度だったが
>>342 薩長内部でも意見が統一されていたわけじゃないからね。
リスクの大きい武力討伐はやりたくない人間が大勢いるのは当たり前。
逆を言えば武力討伐をやりたい側の一部の人間が暴走する可能性は
無きにしもあらずだが、それ以上の事は分からないだろうな。
353 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 21:19:14 ID:SuBiEdim0
>>351 暗殺直後に、新撰組犯行説が一般に信じられたからね。
これも結局は会津藩傘下だから、幕府上層部が暗殺について発言を避けても
土佐藩は、山内容堂一人を置いて一層討幕に走ることとなった。
会津は、坂本龍馬暗殺が土佐藩を討幕に向かわせるということを、考慮すべきであった。
>>352 大政奉還があったお陰で武力倒幕のリスクはぐんと下がったと思うのだが
355 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/03(水) 21:54:24 ID:zpOSY7Ld0
岡田以蔵は龍馬の楢崎家救済の縁で長州藩士と交流し新たな情報を得た
国学者長野主膳は井伊直弼の懐刀として安政の大獄を推進し島田左近らを使い朝廷工作をしていた
女癖の悪い九条尚忠に仕える青侍島田左近が集めた金は一万両にもなり
その金は九条尚忠や長野主膳に回りその遊興費となった
楢崎家の二人の娘を誑かしたのは嶋原遊郭の近くに住む長野主膳の愛人の村山加寿江とその息子で
息子の多田帯刀は長野主膳が打首されると遊ぶ金に困り起美を嶋原遊郭に売った金で遊んでいた
公卿方の人入れ稼業の平野屋重三郎と煎餅屋半兵衛は中川宮の手の者に懐柔され悪党を雇い
将作没後の楢崎家から家財道具を盗ませそれを横流しして楢崎家の資金繰りを悪化させ
寺田屋事件に於ける急進的攘夷派粛清後の大原重徳の勅使の際には青侍として随行し
各地の役人に近々品のいい美人の未通娘を買い入れると吹聴してその「旦那」の呼び込みとなり
「交尾合体派」を集め起美の水揚げの手付金を徴収していた
平野屋重三郎と煎餅屋半兵衛は中川宮の手先の言う「公武合体」を「交尾合体」だと信じて疑わなかった
寺田屋事件で一旦は急進派を粛清させた薩摩藩は文久2年(1862年)8月21日帰京中に生麦事件が起き
同年閏8月6日勅使一行が上洛すると薩摩藩は攘夷の先鋒として期待され閏8月23日京を出て帰藩する
この時すでに起美は龍馬が談判して嶋原遊郭から救出されていて
大原の勅使に随行しながら「旦那」を呼び込んだ平野屋と煎餅屋は役人達から吊し上げを食う
以蔵は大坂で足止めされている山内豊範の参勤交代一行にこれまでの報告をした
すると文久2年8月2日土佐藩下横目の井上佐一郎が探索していた
井上は岩崎弥太郎と共に行動していたが岩崎は極秘情報を得て先に帰藩していた
以蔵らは井上を酩酊させて首を絞め脇差で刺し殺した
文久2年5月21日に薩摩藩一行が京から江戸に向かった後での京の風紀の乱れの原因は
京に潜入させ中川宮に女心を弄ばれた加尾の犠牲によって
勤王家楢崎将作を嬲り殺し大坂に住居を移した奸臣池内大学の教示で公武合体派となり
合体に邪心を抱く奸物中川宮であることが断定した
文久2年閏8月20日中川宮と山内容堂との間での攘夷督促勅使の問題で攘夷派を装いながら
「公武合体派」中川宮の側で合体の実用性を説く本間精一郎を平井収二郎らは天誅として殺害した
以蔵はこの殺害に田中新兵衛を同行させ真実を話した
文久2年閏8月30日猿の文吉の屍骸の高札には「いぬ」と書かれていた
356 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/03(水) 22:44:01 ID:zpOSY7Ld0
>息子の多田帯刀は長野主膳が打首されると遊ぶ金に困り起美を嶋原遊郭に売った金で遊んでいた
>息子の多田帯刀は長野主膳が文久の改革で糾弾されると遊ぶ金に困り
>起美を嶋原遊郭に売った金で遊んでいた
に訂正
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/03(水) 23:36:59 ID:m1da2IyfO
薩長同盟も大成奉還も龍馬ではないと言う説が根強い9割は創られた群像坂本龍馬が正しいのでは
徳川光圀同様であろう、但し、坂本龍馬は当時は全く無名で何故司馬は龍馬を題材にしたのだろう?
無名ということはない。戦前の坂本龍馬は征韓論の先駆者、大陸浪人の鑑とされていた。
(これは明治維新後に後藤象二郎が、彼の持論の征韓論の補強に、
征韓論を坂本龍馬と西郷隆盛の遺志扱いして触れ回ったためであり、
この両人共に、後藤の考えた征韓論は実際は口にはしていない。)
司馬は元々は、時代小説家ではあったけれど、特権主義旺盛な武士が嫌いだったんだよ。
坂本龍馬は豪商の分家(本人は郷士)
大村益次郎は村医者
土方歳三は商家の次男
高杉晋作すら、特権意識旺盛な上級武士という実像は隠して、奇兵隊と平等主義を中心に描いた
西郷隆盛と大久保利通は、作品途中で「武士」とは何かという設問でわけが分からなくなって放り投げた
それを後になって、武士の品格だか品位だか持ち出して、特権意識を振りかざせば社会が良くなる、と考えた人間が
盛んに司馬の文章をつまみ食いしてひけらかした。本来の趣旨が否定された。
359 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/04(木) 00:41:42 ID:eXSCP5CJ0
龍馬を無名と抜かす奴は龍馬の手紙も読まないでこのスレに常駐する低脳
慶応3年6月24日の龍馬の乙女への手紙より
御病気がよくなりたれバ、おまへさんもたこく(他国)に出かけ候御つもりのよし。
右ハ私が論があります。
今出てこられてハ実ニ龍馬の名と云うものハ、もはや諸国の人々しらぬものもなし
コジキに近い生活をしながら朝廷工作をやってた陸奥の親父でさえ坂本を知っていたらしいからな。
神戸の海軍学校の生徒総務、越前公の茶飲み友達、高級幕府官僚大久保一翁の書生
色んな側面がある
361 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/04(木) 03:28:14 ID:eXSCP5CJ0
色んな側面は大切だ
362 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 09:46:06 ID:WTpSU6ck0
大政奉還後の坂本の構想は、慶喜を初代大統領にして、慶喜死後に、
大統領選挙をするというもの。
>>362 木戸とか西郷とかは名前がちゃんとあるのに、
慶喜って名前すら入ってなかったような・・・・
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/04(木) 17:43:27 ID:tnjYuQKO0
しかも坂本龍馬・中岡慎太郎が同時に手がけていた薩土盟約では、
坂本龍馬本人が、「大政奉還で討幕の功績をあげ、薩摩に土佐のことを信じてもらおう」
と言った記録が土佐藩側に残っている。
大政奉還の折衝中、坂本は京都の幕府閣僚には、慶喜が首長となる政府案を提示しただろうけど、
本心はどこにあったのかというと、むしろ自らが先頭に立って進めてきた、薩長に土佐を加えた討幕運動なのではないか、
海援隊の、薩長側武器商社や討幕側の私設海軍としての活動を考えると、
大政奉還促進は、和平ではなく戦争へ向けた、幕府の弱体化を狙った活動ではなかったかと思われる。
365 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/04(木) 21:54:28 ID:eXSCP5CJ0
文久2年(1862年)安政の大獄で攘夷派志士の弾圧をしていた4人の与力達は
連日早朝の湯屋で武家の未婚の美人の娘がまるで旦那に抱かれた後のように後処理をするのを
女湯に入り羨ましく見ていた
与力達はそれを安政の大獄で南紀派を支持した女癖の悪い九条尚忠に仕え
攘夷派志士の弾圧をしていた諸大夫宇郷重国と青侍島田左近に知らせた
楢崎将作を嬲り殺した後で公武合体派となり女癖の悪い九条と連携する中川宮はその話を聞き
女癖の悪い九条尚忠の飼い犬の4人の与力達にその武家の未婚の美女を湯屋で犯すよう指示した
武家の未婚の絶世の美女を密室の湯屋の女湯で与力達に絶え間なく犯させ抵抗心を失わせると
中川宮はその武家の美人の娘を自分の屋敷に呼び寄せた
二人きりの部屋で湯屋の件を切り出すと武家の娘はよろめき抱き寄せても抵抗は無かった
それから連日のように中川宮邸に呼び出しては若い武家の美女の身体を散散弄んで陵辱した
武家の美人の娘は中川宮の子を宿すように兄から指示され言い成りだった
盛りのついた狐の中川宮は陰惨に陵辱できる玩具としての淑女だけが欲しかった
悲壮感の無い女に飽きた中川宮は出入りする本間精一郎を弟分として可愛がり
武家の美人の娘を無抵抗にさせて犯させ眺めて楽しんだ
中川宮に似て女に溺れる越後の商人出の本間精一郎は
夢にまで見た身分不相応の上級武家の絶世の美女との本格的合体に歓喜して精を放った
犬猫同然の猿の文吉はそれを羨ましそうに眺めていた
平井加尾はもう耐えられなかった
文久2年(1862年)閏8月20日本間精一郎は中川宮から貰った金で嶋原遊郭を豪遊した帰りに
平井収二郎及び岡田以蔵ら土佐藩士と田中新兵衛によって天誅として殺害された
九条家諸大夫宇郷重国は九条家河原町御殿に潜伏していたが
同年閏8月22日の宇郷の殺害犯を岡田以蔵らとする根拠の「官武通記」は会津寄りで虚偽である
実際は中川宮が攘夷派による天誅の矛先を九条家に向ける為に側近の有馬範顕にやらせたのだ
同年閏8月30日猿の文吉の屍骸の肛門には竹が刺さり頭まで突き抜けていた
以蔵は込み上げる悔しさを竹に籠めながら「いぬ」の「頭」まで突き刺した
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 06:22:21 ID:yH3cR6hp0
>>363 坂本の政権構想のトップは、空欄になっていた。
夜に坂本と中岡が襲撃された時、土佐藩邸から100mも離れていない近江屋
での騒ぎでありながら、朝までの数時間も放置状態だったらしいね。
近江屋の隣に居を構えていた土佐藩重役の福岡藤次なんて襲撃時騒ぎを聞いて
いたのにもかかわらず、事件後も近江屋に行こうともしなかった。
なんで土佐藩はこんなにも坂本や中岡に冷たかったんだろうか。
それだけ嫌われてたって事なんだよボケ!!
その程度の事すら分らんのか?
369 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/05(金) 21:54:24 ID:/oh5gVXM0
本間精一郎は越後寺泊の豪商の家系の士で金には然程困らなかったが酒と女に溺れやすく
商売柄か特に女は金と浅知恵次第でどうにでもできるという自信過剰な性分であり
武士ではないため芯が弱く頼るものは自分が得た知識だけだった
そんな本間を士として支えるものは知識人との交流から得た情報のみである
本間は安積艮斎に師事し幕臣川路聖謨に仕えて京都に随行し
攘夷派の頼三樹三郎や松本奎堂らと交流する
だが安政の大獄で入獄すると商人出の故に伏見獄舎の獄内で悪党と交流し悪知恵を身につける
出獄すると伏見稲荷の悪党の伝で大獄でまだ永蟄居の姦淫坊主中川宮に出入りする
その後大坂で塾を開く松本奎堂と松林飯山に会い交友を深めるが
これが本間の拠点を京と大坂に置く口実となった(又松岡学舎・文久元年12月〜文久2年5月)
岩崎弥太郎は松林飯山が教鞭をとる五教館で学んでいたことがあるが
岩崎は文久2年(1862年)4月8日の吉田東洋暗殺事件を松林に相談しそれが縁で本間を知る
大坂の酒場で本間の内輪話を聞いて驚愕した岩崎はそれを同僚の井上佐一郎に話した
岩崎が帰藩した後の文久2年8月2日井上は岡田以蔵らに酔った勢いでその驚愕の話をした
以蔵は井上の口を塞がなければならなかった
中川宮の侍講の奸臣池内大学は安政の大獄で軽い処分で中追放され京から大坂に寓居を移した
本間は商人出の池内と好を結び池内の指示で土佐や薩摩の探索に赴き
節操のない中川宮を教示する大坂の奸臣池内大学にそれを報告し指示を仰ぎ
京に戻り蟄居中の中川宮にそれを伝え奸臣池内大学と姦淫坊主中川宮との重要な情報網となっていた
本間は文久2年(1862年)1月20日勤王家楢崎将作を嬲り殺しにした中川宮に公武合体派へ転向と
お龍を盛りのついた中川宮の異常性欲から守る為に嬲り殺しにされた将作の死は
寺社奉行管轄内の病死扱いにするという奸臣池内大学の教示を伝えた
本間は攘夷派と称して勤王家楢崎将作没後の楢崎家を監視し
商人出の好で平野屋重三郎と煎餅屋半兵衛を懐柔して楢崎家に盗賊を入れさせ資金繰りを悪化させ
嶋原遊郭街の悪党多田帯刀と共謀して楢崎将作の娘達を勾引し
獄舎で知り合った大坂の悪党の伝でお龍の妹光枝を女郎に売る手筈を整え大坂で14歳の光枝を犯した
中川宮はお龍に逃げられると三条家に出入りする武家の娘を異常性欲で散散陵辱してそれに飽きると
無抵抗にされた武家の未婚の絶世の美人の娘を商人出の本間に犯させ本間の本懐を遂げさせた
本間は一旦手中に収めた光枝を失い落胆していたが中川宮がその意を酌み
武家の美人の娘を本間に宛がう代わりにお龍を再度勾引して中川宮の前に引き立てるよう催促した
本間は嶋原遊郭で悪党多田帯刀と豪遊しながら再度楢崎家を狙いお龍を陥れる策を練っていた
文久3年(1863年)1月22日奸物中川宮を教示する奸臣池内大学は本間を失っても中川宮を援護したが
大坂に立ち寄った山内容堂の酒席の帰りに岡田以蔵らによって天誅として殺害された
晒された池内の首級は耳を削がれていた
この電波いつまで居座るつもりなのか
>>367 佐幕の土佐藩には龍馬中岡みたいな輩は不穏分子だから?
脱藩した前科者だから?
龍馬や慎太郎のほうが、上下意識の強い上士たちと距離を置いてたんだろ。
下手に土佐藩邸に入居して、会話などしたら最後、
「下士のくせに上士に講釈を垂れるのか!?無礼者!」
と上士に斬られる危険性が常時あっただろうからな
373 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/08(月) 21:54:24 ID:sf7H5C4+0
龍馬は加尾のために脱藩した後は江戸の千葉重太郎を頼った
龍馬は京で起こった勤王家楢崎家での度重なる不幸の話を重太郎に聞かせ
この国を根本から変えるのはどうすべきかを重太郎に尋ねた
重太郎は切れ者と噂される横井小楠の面会と開国派の勝海舟の真意を探る為に
龍馬と岡本健三郎に松平春嶽の許へ紹介状を受け取りに行かせる
千葉周作は福井藩で剣術指南をしていたこともあり千葉道場は福井藩と懇意であった
「春嶽手記」には「老生政事総裁職の命を受くるは六月也。」と前置きし
文久の改革で薩摩藩と勅使が江戸に入った後
松平春嶽が登城する或る日の朝に龍馬ら二人が面会を求めて来たとある
これは京都福井藩邸から6月に於ける楢崎家救済の坂本龍馬の活躍を聞いていたことを暗示する
重太郎は春嶽に前もってこの二人が来ることを伝えていた
紹介状を手に重太郎はまず横井小楠の許へ龍馬と連立って面会する
重太郎はすでに横井にも話を付けていた
横井は寺田屋事件後の京都に於ける勾引し事件に公武合体派が暗躍していることを察知した
横井は龍馬を気に入り「船中八策」の基になる考えを龍馬に伝えた
龍馬は横井の日本の将来を危惧する想いに共鳴し以後横井小楠を師と仰ぐ
龍馬が暗殺される直前までの松平春嶽との交流は佐那の婿という立場があってのものである
横井小楠に面会した後で龍馬と千葉重太郎は松平春嶽の紹介状を手に勝海舟に面会する
この頃千葉定吉は鳥取藩の剣術師範となり重太郎も鳥取藩に仕官していた
鳥取藩は水戸思想で尊皇攘夷派であり公武合体派の佐久間象山の開国論を疑問視する者もいた
重太郎は岡本健三郎として龍馬に供する
重太郎は公武合体派の佐久間象山に影響を受けた勝の真意によっては勝を斬るつもりだった
勝は直心影流の免許皆伝である
だが北辰一刀流桶町千葉道場師範代の重太郎とその直弟子で元塾頭の龍馬なら
直心陰流の勝に間違いなく勝てる
佐那と夫婦にさせ千葉道場を継がせる婿殿を開国派の剣客にむざむざ斬らせる訳にはいかない
勝にもそれは分かっていた
勝は有りの儘を龍馬と重太郎に話す
龍馬は一時期佐久間象山に師事していたこともあり勝海舟に興味があった
龍馬は勝の先見の明に驚き勝海舟の門弟となった
374 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/09(火) 21:54:24 ID:ACAi507L0
安政5年(1858年)1月坂本龍馬は桶町千葉道場で北辰一刀流長刀兵法目録を授かる
通常北辰一刀流の証書には千葉周作の名前のみ記され
桶町千葉道場では周作と定吉と重太郎の3人の名が記される
だが龍馬が授かった目録にはその3人の他に
定吉の3人の娘の長女里幾・次女佐那・三女幾久の名が記されている
佐那の話では龍馬とは安政5年(1858年)に婚約していたが
この時龍馬と婚約していたのは3人の娘の内一人と結ばれるというものだったのだろう
3人の娘は共に龍馬に興味を示し千葉家ではまだ龍馬と結ばせる娘を決めかねていた
目録に定吉の娘の名を記すよう催促したのは龍馬だが定吉も満更ではなかったらしい
この時点で龍馬はすでに免許皆伝に値する腕前で龍馬がこの3人の娘の誰かと結婚したら
正式に北辰一刀流を免許皆伝するものとして特別に3人の娘の名を記したのだ
皆伝とは皆全て伝えたという意味だが
龍馬の長刀目録には特別措置として3人の娘の名を免許として記したのである
その5ヶ月後には長女の里幾が労咳で他界し佐那が長女になる
千葉家は喪に服さなければならなくなり龍馬とすぐに結婚することは出来なかった
龍馬はその間に徳弘孝蔵から砲術を学び小栗流日根野道場で師範代を務め腕を磨く
佐那は嘉永4年(1851年)に北辰一刀流免許皆伝している
坂本龍馬の北辰一刀流免許皆伝の証書は佐那自身である
375 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/10(水) 21:54:23 ID:/WAduD4s0
龍馬の兄権平に嫡男は無く若い龍馬は坂本家に於いて掛け替えの無い跡取りである
千葉家に於いても重太郎に嫡男が無く跡取り問題は深刻であり龍馬に嫡男が生まれた場合
坂本家と千葉家のどちらを優先するかは大問題である
上士平井家でも収二郎以外に跡取りはいないがこの時点で収二郎はまだ若いので問題外とする
また楢崎家には男子が二人もいるので文久2年6月20日頃に龍馬がお龍と恋愛する意味が無い
よって六角獄舎や武信稲荷に於ける龍馬とお龍の男女関係の馴れ初めは虚偽である
ただ楢崎家姉妹を悪党中川宮から救った龍馬の正義感に対しお龍が亡き父の様に思慕しただけである
龍馬は大坂を出て江戸に着くと千葉重太郎を頼る
維新後の佐那は「龍馬は安政5年に土佐に戻ってから千葉道場には来ていない」と証言している
加尾に少しだけ未練を残す龍馬は婚約者の佐那には脱藩の身である為合わせる顔が無かった
その後脱藩の罪は許されたが正式に帰藩せずに奸物中川宮に暗殺されてしまった為
結局龍馬が道場で汗を流すことは無かった
だが江戸に戻った龍馬は佐那の兄の重太郎を頼り脱藩後の身の処し方について相談する
当然ながら脱藩の理由として加尾の件で脱藩したことを重太郎に話さなくてはならない
重太郎も龍馬と加尾の関係については察しがついたが飽くまでも龍馬は佐那の婚約者だ
妹佐那の婿として千葉道場を継がせる為に重太郎は龍馬の仕官の引き受け先を探す
また佐那は龍馬が道場に足を運ばなくても婚約者の自分と会っていないとは言っていない
それとも龍馬は佐那に見つからないように遠くから見詰めていただけなのだろうか
だとしても佐那には龍馬が近くに居ることは分かっていたのだろう
佐那は近くに居ながら自分に逢いに来ない龍馬の真意は分からないが
龍馬が自分を見詰める気持ちに偽りはないと悟った
376 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/11(木) 01:54:49 ID:o6wh62u30
明治維新は外国と組んで日本を破壊した売国テロ
今の民主党とそっくり テロリスト最低
377 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/11(木) 21:54:23 ID:i2FFl3AX0
岡田以蔵が暗殺したように思われている岡田星之助は鳥取藩士で千葉重太郎の道場の門下だった
安政5年(1858年)に龍馬が江戸を去った後の万延元年(1860年)千葉重太郎は鳥取藩に仕官する
岡田星之助が千葉道場に入門したのは千葉重太郎が鳥取藩に仕官した前後だろう
だとすれば岡田星之助は龍馬と千葉家の娘達との馴れ初めを知らない
江戸で小千葉小町として有名な佐那ほどの美女が何年も男日照で
しかも婚約者とされる坂本龍馬が京にいる別の娘の為に脱藩したという情報を得た岡田星之助は
重太郎が龍馬の脱藩罪の赦免や仕官先探しに奔走している間に
道場での美女の佐那との手合わせにムラムラしてしまった
鳥取藩士岡田星之助は鳥取藩に仕官した重太郎に勝海舟は奸臣だと焚き付けた
勝が以前師事していた佐久間象山は公武合体派で攘夷派志士にとって汚らわしい存在だった
岡田星之助は直心影流免許皆伝の勝と北辰一刀流千葉道場師範代の重太郎を共倒れにさせ
それを他人事として面白がり美人の佐那を奪い桶町千葉道場の乗っ取りを謀る
だが桶町千葉道場師範代の重太郎が勝海舟の殺害に失敗し懐柔されたのを機として
星之助は重太郎が勝と連携するなら佐那と交尾合体してやろうと思い立つ
岡田星之助は辺りに人が居ない時に佐那に襲い掛かった(反魂香の佐那評から)
だが佐那を力尽くで組み敷くと佐那は舌を切ると覚悟を示し断固拒んだ
それを鳥取藩に知られると困る星之助は道場を抜け出し江戸を離れ帰藩も出来ず京に逃げ込んだ
重太郎と龍馬は文久3年(1863年)元日兵庫から大坂に向かい9日は大坂にいたが
その後江戸に帰ると佐那が岡田星之助に襲われたことを知る
文久3年(1863年)1月20日重太郎は江戸にいる勝を訪ね「偽浪の事を話す」とある(海舟日記)
ニセ浪人とは岡田星之助のことである
鳥取藩士の岡田の仲間は岡田星之助に清河八郎の浪士組に京都で加わるよう誘導した
重太郎は岡田星之助が京に潜伏している情報を得て江戸鳥取藩邸の命で1月24日京に向かう
重太郎は龍馬に死を覚悟して貞操を守った佐那のために岡田星之助を斬れと指示した
桶町千葉道場師範代千葉重太郎は介添人となり坂本龍馬と岡田星之助の決闘に立ち合った
文久3年(1863年)2月5日の岡田星之助殺害は北辰一刀流坂本龍馬による唯一の斬殺である
龍馬は海援隊の時水夫の三吉も姦通罪で切って捨てちゅうぜよ
>>376 低脳国賊の糖質はさっさと入院しろ!
明治維新は日本人が世界に誇れる市民革命。
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 11:52:48 ID:SVdiw7y50
明治維新がなければ今もちょん髷で着物だろ
しかも徳川家による独裁政治体制で
381 :
エビちゃん親衛隊:2010/11/12(金) 14:14:54 ID:hYrawRTo0
>>380 >明治維新がなければ今もちょん髷で着物だろ
>しかも徳川家による独裁政治体制で
それはないわ。
幕末からすでに文明開化、軍の近代化の一部は始まっていたから。
ただ徳川による独裁政治体制維持は考えるだろう。
表面的には近代化し、渋々議会なり選挙なり憲法なりを制定しても、
新撰組・見廻組は内務省・特別高等警察として徳川への反対派暗殺を続行する。
薩長出身者が「天皇陛下の御為」と言って徳川に反対しても、
徳川もまた「天皇陛下の御為に内務省は存在する」と言って譲らんのだ。
保安条例により鹿児島・山口出身者の東京・京都への立ち入りは禁止されるかも知れん。
また反徳川派候補への露骨な選挙干渉もやるカモナー
382 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/12(金) 14:21:40 ID:t+53s/Hm0
世界的にみても真の民主国家なんかホンの一握り
だが、日本の民主党政権は数々の情報を隠蔽し、民主党本部へのデモも禁止にした
これからはネット規制や人権擁護とやらで徳川並みの独裁国家へまっしぐらだ
幕藩体制じゃ日本守れないだろ
徳川に日本全体の安全保障に責任を負うという意識はなかったようだし
384 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/12(金) 21:54:24 ID:fCtnLfQh0
龍馬が勝の弟子になった後に勝をまだ信頼していない千葉重太郎は
文久2年(1862年)の年末に近藤長次郎らを供に勝海舟を訪ねる
勝海舟は重太郎を安心させる為に文久3年(1863年)1月16日伊豆下田に滞在する山内容堂を訪問し
龍馬の脱藩の赦免を要請する
同年1月20日重太郎は勝を訪ねニセ浪人岡田星之助の事を話す
同年1月23日江戸鳥取藩邸から了解を得て翌日京に向かう
龍馬は重太郎の計らいで同年1月25日大久保一翁を訪ねる
この間に岡田以蔵らが京で岡田星之助を探し出す
同年2月5日北辰一刀流坂本龍馬は勝の了解と重太郎の指示で鳥取藩士岡田星之助を斬殺する
同年2月龍馬は京都土佐藩邸において7日間謹慎し同年2月25日脱藩罪が赦免された
この7日間の謹慎で土佐藩は吉田東洋の暗殺が龍馬によるものではないと断定した
当然その断定理由が龍馬による三条家におけるシンボルの詰割り強襲後に
加尾が再度呼び寄せたからであり容堂もその話は三条家と平井から聞いていたのだ
本間精一郎の驚愕の話も岩崎弥太郎の情報から聞いている
勝は重太郎から初めて人を斬った龍馬の様子を聞きそれを土佐藩に伝えた
またその後の平井収二郎の切腹は東洋暗殺とは関係なく中川宮と平井の関係にある
よって坂本龍馬暗殺犯として後藤象二郎による東洋暗殺弔い説に根拠は無い
龍馬は岡田以蔵から加尾の置かれた現状を知った
本間精一郎が中川宮の見ている前で武家の未婚の娘を陵辱したことも聞いた
以蔵が幼い頃から加尾に惚れている事を知っていた龍馬は以蔵を
加尾の将来を任せられるような偉丈夫にする為に同年3月7日勝海舟の警護を岡田以蔵に任せ
龍馬は龍馬への思いを貫いた佐那が待つ江戸に向かった
だが鳥取藩士岡田星之助を決闘で殺害しているので
他に何人も鳥取藩士のいる桶町千葉道場に龍馬は行っていない
龍馬が道場に行かず江戸に逗留する目的は佐那だけである
加尾の為に死ぬ気で脱藩した龍馬は佐那の為に又生きねばならん事になった
海援隊は土佐藩の出資を受けて成り立ち、土佐藩から人材の出向も行われていた
いつの時代も資本を握る者が一番強い
少なくともこの時点で龍馬は土佐藩の指揮下にいた
龍馬の功績とされる薩長同盟の本当の立役者は薩摩藩家老の小松帯刀
両藩の人物で龍馬が一番親しかったのは小松だった
大政奉還については、大政奉還と徳川の領地返上は別問題
慶喜は大政奉還はしても領地は手放さなかった。大勢の行政官を抱えているから当たり前だが、
圧倒的な領地の大きさと軍事力で大政奉還後の会議でも慶喜が優勢だったし、
明治政府が結局は徳川の役人を多数官僚に採用したことからも、徳川の行政が優れていたことが分かる
この大政奉還を支持した中心人物に山内容堂、小松帯刀、坂本龍馬がいる
大政奉還したら慶喜は内乱を回避した上で政権を維持できることは当時明らかになっていた
大政奉還を勧めた時点でもう龍馬は、薩長の味方ではなかったことになる
さらに鳥羽伏見の戦いは、国許で療養中だった小松帯刀の命令を待たずに、西郷たちが勝手に始めた戦だった
島津久光と毛利敬親が明治時代に記者の取材に答えてそれぞれが「私に討幕の意志はなかった。家臣が勝手にやったこと」
と答えていることからも、西郷たちの独断であることは明白
龍馬はその時々の庇護者の歓心を買うために様々な立場からコメントを残しているが、
(企業家としては当たり前)
少なくとも最後は内乱の回避を目指して奔走していたのは事実
386 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 06:58:56 ID:gqIkize40
坂本龍馬を和平派と主張する人は、
土佐藩を討幕軍に参加させようとしていた中岡慎太郎という存在を、意図的に無視していますなあ。
しかも発言内容に事実とか付けるわりに、その実は根拠がない。
坂本龍馬は当時薩長や土佐へ武器を供給していた。内乱回避を望んでいたなどとんでもない。
おいおい、龍馬と中岡は親友だけど二人が全く同じ思想を抱いてたなんて証拠もないぞ
中岡はガチの倒幕派だけど龍馬は商人の強かさで幕府方との繋がりも持っていたし
それに龍馬の最大の庇護者だった容堂の動きも無視するな
容堂はクーデターを企てた武市を粛清はしたけど、土佐藩の役に立つと見込んだ脱藩浪士を
支援することもしている。その人物が倒幕派でも
本人は佐幕派だけど土佐藩自体はどちらに転んでも生き残れるように計算してたわけだ
このことは容堂が家茂や慶喜を支持する一方で、薩長への支援もしていたことから分かる
妄想乙と言うかもしれないが、容堂が両派を利用するための人事を行っていたことは紛れもない事実
また幕末の諸藩はほとんどが日和見や倒幕・佐幕双方との繋がりを保ったりしていた
佐賀の鍋島直正がその典型例
だけど佐賀藩は最後は勝ち馬に乗った。土佐藩も同じことをしている
土佐藩が一枚岩ではなかったことを利用して容堂は生き残りを図っていた
このことは土佐藩の人事で倒幕派・佐幕派の勢力がコントロールされていたことからも分かる
けど容堂自身の心情は佐幕派だった。これは容堂の手紙や明治時代の取材で明らか
なので容堂は徳川家を最大勢力とする雄藩連合を構想し、各藩への根回しや
脱藩浪人への指示を行っていた
何で分かりきってる容堂のこと書いたかと言うと、龍馬は実家の坂本家を通じて容堂と繋がりを持っていたから
龍馬は悲運の脱藩者から成功したわけではなく、脱藩したすぐ後から実家の援助を受けている
実家の坂本家は武士であると同時に土佐屈指の豪商。山内家の普代でもなかった坂本家が豪商として成長したのは
土佐藩の商いに携わっていたから。土佐藩と坂本家の深い繋がりは商いや手紙からはっきりしている
最大の取引相手の意向を尊重するのは現代でも同じ
中国に進出した日本企業が中国政府の意向を気にするのと同じ
龍馬―坂本家―土佐藩―容堂の繋がりははっきり証明されているし、龍馬が佐幕派の大物とも
親交を結んでいた事実からも、龍馬が単純に倒幕の志士ではなかったことが分かる
少なくとも容堂はその気になれば龍馬の力の源で人脈維持に必要な
海援隊と坂本家を潰せる力を持っていた
土佐藩の発言力を高めるために薩長を利用する。けど徳川家を潰すことはさせない
それが容堂の指針で実際の行動もその指針に沿っていた
389 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/15(月) 10:02:59 ID:aCmuIQxHO
俺が龍馬ならさなこを妻にする
>>385 小松帯刀も龍馬と同じく大政奉還に尽力していたんだが…
大政奉還の件、龍馬は木戸や西郷にもちゃんと相談してたし
実現は難しいだろうと思われてはいたが反対はされてないぞ
あと小松帯刀が病気で出兵に加われず悔しがっている手紙も残されてる
391 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/15(月) 21:54:27 ID:clu0N16A0
慶応2年12月4日(1867年1月9日)の権平への手紙に於いて
「黒木半兵衛とて千葉十太郎の門人にて、真剣勝負之時平日之稽古と違ハず、人是をおどろく。」とあり黒木半兵衛とは鳥取藩士黒木小太郎の事で岡田星之助と共に千葉重太郎の門下であるが
龍馬と星之助の一対一の真剣勝負に於いて岡田の同郷の士でありながら冷静に勝負を見届けた
龍馬は自分の死を覚悟して岡田星之助に対し決闘というチャンスを与えた
場合によっては佐那は岡田に奪われ桶町千葉道場は岡田が継ぐ事になっただろう
だが重太郎は師範代として龍馬と星之助ではどちらが勝るか分かっていた
福井藩士山本龍二の晩年の話では
「同志中に、人の妻を犯したものがあれば、必ず割腹させる。水夫頭の三吉なるものが、
暴行を働いた時など、彼らは直ちに斬って捨てた。」
とあるが剣術の師を侮辱しその妹を強引に犯そうとした事は士道に反し万死に値する
だが岡田星之助は本来切腹すべきところ死を恐れ師を侮辱し京に逃げた
「偽浪の事を話す」のニセは福井藩士でありながら勝手に浪士組に加わろうとしたという意味と
「士にあらず」という意味である
「必ず割腹させる」には「させた」ではなく「必ずさせる」にある決意が籠められている
「水夫頭の三吉」の水夫頭とは湯屋の女湯で武家の未婚の美人の娘を強姦した4人の与力達の事で
「三吉」とは三助と同格の産キチ(ガイ)与力という意味である
会津民謡「会津磐梯山」の「小原庄助」とは「汚胎娼好け」又は「悪腹産助」という意味が籠められ
いろは丸事件の談判で劣勢の海援隊の起死回生策として紀州を皮肉る歌を流行らせたのと同じである
4人の強姦与力も逃げずに切腹していれば後の会津の悲劇は起こらなかっただろう
文久3年(1863年)6月29日のせんたくの手紙において福井藩から2度の仕官の誘いがあったが
龍馬は2度とも仕官を求めなかったとしている
文久3年(1863年)2月25日龍馬は脱藩罪を赦免され
同年3月7日勝海舟の警護を岡田以蔵に任せ佐那のいる江戸で過ごすが
江戸を出て大坂に帰着するのが同年4月9日だから3週間は江戸にいた
江戸にいた同年4月2日の大久保一翁への挨拶は松平春嶽への書状の依頼であるが
脱藩罪赦免の力添えのお礼なのだろう
千葉重太郎の計らいだと思われる
大久保一翁は松平春嶽と交友があるので
2度の福井藩の仕官の返答はこの時と同年1月25日の大久保一翁を訪問した時の筈だ
重太郎が仕える鳥取藩には岡田星之助を決闘で斬っているので龍馬は仕官できない
龍馬は手紙で「然に龍馬少しも仕えを求めず」として仕官は求めなかったが断った訳ではない
横井小楠は松平春嶽に願い福井藩から2度龍馬を藩に召抱える使者を出す
重太郎の思惑もあっただろうが横井はまるで親族のように龍馬を心配した
>>381みたいな佐幕系は、内乱罪で、東京・京都への立ち入りを禁止どころか強制収容所送りだなwwwww
393 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/16(火) 21:54:23 ID:ugVePP8D0
文久3年(1863年)岡田以蔵が勝海舟を護衛していると
龍馬に代わって勝海舟の警護についた岡田以蔵を新参と侮った者か以蔵の仲間かは定かでないが
3人の刺客が襲い掛り以蔵は一人を撃退し2人は逃げていった
そんな以蔵を直心影流免許皆伝の勝は「無益な殺生は控えたほうがよい」と窘めた
「海舟日記」の文久3年3月8日に「この夜、三条の旅舎にて、千屋虎之助の義兄切腹。」とある
千屋虎之助はこれ以前からすでに勝の門人となっているが武市はそれを妬んだのだろうか
それとも水戸思想かぶれ岡田星之助の仇討ちか
だが以蔵はかわいい平井加尾に幼い頃から恋焦がれていた
以蔵は京に加尾がいる文久2年(1862年)8月から10月の間に特に集中的に暗殺剣を振るっている
本間精一郎が暴露した驚愕の話を酒場でうっかり吐露した岩崎弥太郎の同僚井上佐一郎
武家の未婚の美人の娘を妖狐中川宮の見ている前で歓喜して陵辱した商人出の本間精一郎
武家の未婚の美人の娘が本間に陵辱されるのを犬猫同然に眺め加尾の家に張り付いていた猿の文吉
密室にされた湯屋の女湯で武家の未婚の美人の娘を絶え間なく陵辱した4人の与力達
以蔵は加尾を救った龍馬のように自分も加尾にとっての勇士になりたいと思っていた
龍馬もそんな以蔵の本心を見抜きそうなればいいと思った
だが山内容堂を公武合体派へ誘導する中川宮の侍講の奸臣池内大学を暗殺した事が
薩摩藩を随従させたい女狂いの中川宮を追い詰め平井収二郎を捕縛に向かわせた
結果的に以蔵の剣は加尾を悲しませる事になった
姉小路公知を中川宮の側近有馬範顕と山田時章と新参の3人に暗殺されたことが三条実美を震撼させ
公家の領分に入り過ぎ禍根を残した収二郎にけじめを付けさせた
平井は介錯無しの十文字の切腹で加尾の女心を散散弄んだ姦物中川宮への復讐を託し
武家の未婚の娘を湯屋の女湯で屈強な4人掛りで襲い掛かり陵辱し尽した卑劣な産キチ与力を見下し
最後に武士としてのけじめを示した
394 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/17(水) 21:54:23 ID:z31XK8Gz0
龍馬が江戸に向かい勝海舟の警護を岡田以蔵に任せた後
文久3年(1863年)3月8日の「海舟日記」には「三条の旅舎にて、千屋虎之助の義兄切腹。」とあった
千屋は龍馬が勝の弟子になるとすぐ勝の門下となり海援隊士となり
龍馬の死後に遺言としてお龍の妹の起美を妻とした
千屋虎之助といえば密航を試みて失敗した近藤長次郎を責め切腹に追い込んだともお龍は伝えるが
龍馬を慕う者達の間では龍馬の婚約者の佐那を襲い剣術の師である千葉重太郎に詫びず切腹もせずに
浪士組を頼り京に逃げた岡田星之助を士道に反する行為として糾弾する傾向が強くなり
薩長同盟直前の大切な時期に龍馬に迷惑を掛けたくないという思いから
近藤自身の判断で切腹したもので隊士の非難はなくはないが特定の者が追い込んだ訳ではない
近藤長次郎も龍馬と星之助の真剣勝負の決闘に立ち会っている
切腹には通常介錯が必要であり町人出の長次郎に十文字の切腹や田中新兵衛の様なやり方は出来ない
また切腹は単なる自殺ではなく介錯は上手な者にやらせないと大変辛い事になる
三島由紀夫の切腹の最初の介錯人は2度失敗し刃が折れ三島は腸を出しながら舌を噛み切っている
近藤長次郎の切腹は近藤が無理を言って天誅に加わった千屋に介錯を頼んだのだ
「反魂香」の大藤太郎が誰を示すかは分からないが龍馬に佐那への愛を貫けと諭したのだろう
この事件から寺田屋事件の直前まで龍馬の思いはずっと佐那にあったと海援隊士が証明している
千屋虎之助を乱暴者とするのはお龍の「反魂香」からだが
龍馬に甘やかされた女のお龍が龍馬と千屋を比較した見識であって
志の高い海援隊士の中で千屋虎之助は当たり前の士である
士道に反し切腹せずに逃げた水戸思想かぶれの岡田星之助を佐那への対抗心から優男と表現し
志の高い海援隊士で義姉のお龍の面倒も看た千屋虎之助を「乱暴者、無鉄砲」と表現する事実から
寧ろお龍は志士である坂本龍馬の妻としての役目を果たしていない
お龍は海援隊の精神的支柱である坂本龍馬と岡田星之助による真剣勝負の決闘の話を知らない
龍馬は佐那を懸けた1対1の男同士の命がけの戦いの話をお龍には話していない
龍馬の死後にお龍に親切だったのは西郷隆盛と勝海舟とお登勢だけだったと嘆く原因は
志の高い海援隊士が皆お龍のヒロイズムに愛想が尽き心の拠り所としての価値を失ったからだ
お龍はただの女である
>>385 朝敵に貶められている長州に対して、
圧倒的に優位な立場にいる薩摩側からは誰も薩長同盟を言い出さなかったわけだから
(薩摩が、長州のほうが幕末の主導権を握っていると判断していた可能性もあるぐらいで)
薩長同盟の功績が第一に小松帯刀にあるなどという主張は、残念ながら無理。
ボク的には、中岡慎太郎による薩摩説得工作が薩長同盟についても大政奉還についても第一の功績。
これがなかったら、後が続いてないから。
>>387 >龍馬は商人の強かさで幕府方との繋がりも持っていたし
????? ソース!
>龍馬の最大の庇護者だった容堂
?????
龍馬の最大の庇護者は薩長。
薩摩には命を救ってもらい新婚旅行までさせてもらっているし、長州には護衛を付けてもらって妻を避難させていたりする。
>容堂が家茂や慶喜を支持する一方で、薩長への支援もしていた
?????
最終的には薩長に付くが、それまでは様子見。
容堂が江戸幕府に「破約攘夷」を飲まなければ「攘将軍」になると迫り、幕府に「破約攘夷」路線を飲ませたものの、
党の幕府が破約攘夷とは真逆なことをやり続けているわけだから様子見せざるを得なかった。
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/18(木) 08:09:58 ID:Gbzw5Hqz0
>>387 どちらかというと、三条辻高札事件・後藤象二郎の討幕軍京都派遣命令(容堂の命令で沙汰止み)等を考える限り、
土佐藩は、容堂一人だけが公武合体で、他の藩士は武装討幕に傾いていたように思います。
土佐藩を公武合体・佐幕派だと主張しているのは、中村彰彦・星亮一といった如何わしい小説家しか知りません。
398 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/18(木) 21:54:22 ID:QovmgoBy0
お龍の妹の起美はお龍に似て非常に美人で父の楢崎将作が中川宮に嬲り殺しになった後で
お龍の母が悪者中川宮の招集した悪党に狙われ数えで11歳で京の嶋原の舞妓として売られた
だが文久2年(1862年)6月20日光枝を奪還したお龍と龍馬は一旦京に戻り
龍馬が脱藩時の有り金全てを叩いて嶋原遊郭から起美を奪還した
龍馬は楢崎家の惨状を憂い長州藩士に楢崎家の救済を求める
楢崎将作の祖父源八郎は元長州藩士で将作の父は大造といい
源八郎はまだ幼い大造を知人の老夫婦に預け京に残したまま長州へ帰藩したとお龍は云う
文久2年(1862年)11月14日岡田以蔵や千屋寅之助や長州の楢崎八十槌ら20名が
奸臣中川宮によって嬲り殺しにされた勤王家楢崎将作を憂い
その遺児を嶋原遊郭に売り飛ばした京の嶋原の遊郭の近くに住む悪党多田帯刀を天誅として襲撃し
その母の村山加寿江を三条大橋に生晒しにし翌日その息子の悪党多田帯刀を蹴上刑場で斬殺した
悪党多田帯刀の首は奸物中川宮の勢力圏の粟田口に晒された
起美はその後龍馬によって弟太一郎とともに勝海舟の許へ預けられた
龍馬の手紙では起美はまだ幼かったので嶋原の遊郭での事は気遣い無しとのことだった
岡田以蔵はこの天誅に楢崎家を救済する為に奔走した坂本龍馬の代理として参加した
「公武合体」を「交尾合体」だと信じて疑わずに嶋原遊郭に売られた起美の
「旦那」の呼び込みをしていた平野屋重三郎及び煎餅屋半兵衛は
楢崎家の盗賊及び嶋原遊郭の起美の件には関与していたが
将作の死には関与せず嶋原遊郭に売られた起美もまだ幼く無事だったので殺すことはしなかった
399 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/19(金) 21:54:24 ID:EycDoicp0
攘夷派公卿姉小路公知の暗殺犯は田中新兵衛ではない
文久3年(1863年)5月20日姉小路公知を暗殺し遺留物を残す方法は坂本龍馬の暗殺と酷似する
犯人は覆面犯であるため目撃証言に信用性は無く坂本龍馬暗殺に於ける十津川郷士の件にも酷似する
また奸物中川宮と奸臣池内大学のパイプ役の本間精一郎を天誅として殺害された直後の天誅の矛先を
女癖の悪い九条尚忠に向ける為にその諸大夫宇郷重国を中川宮の側近が殺害したのと同じである
そもそも三条公恭の素行の悪さの原因は攘夷派公卿三条家に仕える美人の平井加尾に目を付け
加尾の陵辱と攘夷派公卿三条家の失墜を目論んだ女癖の悪い九条尚忠による姦策である
姉小路公知も宇郷重国も京都御苑内で殺害され宇郷の子息まで目撃者として殺された
公家が闊歩する御苑内で田舎侍が堂々と斬殺するのはかなり目立ち無理がある
反面公家や青侍及びその守衛にとって京都御苑内は庭であり身を隠すのは容易である
宇郷殺害を岡田以蔵とするのは仙台藩士の玉虫左太夫の著書「官武通記」からだが
玉虫は佐幕派でありこれは会津寄りの虚偽であり中川宮家臣の犯行を隠匿する為のものである
佐幕派の虚構「官武通紀」で玉虫が宇郷を殺害したとしている岡田以蔵は捕縛され土佐で処刑され
岡本八之助と村田忠三郎も慶応元年(1865年)閏5月11日に井上佐一郎殺害容疑で処刑されている
士道忘却事件で横井小楠を襲撃した肥後藩士堤松左衛門もすでに文久3年3月28日に自刀しているので
攘夷派の分断を画策した節操のないシンボルで国事を惑わす女狂いの中川宮を擁護するために
会津側に付く二本差しの玉虫が玉虫色に脚色し死者の魂を悪用したのは明白である
岡田以蔵や肥後勤王党の堤松左衛門が意味無く宇郷の息子を殺すのは筋が通らない
この時点でまだ天誅は継続しているので自責の念に駆られるような禍根を残している筈が無い
犯人とされている田中新兵衛は自白しないまま同年5月26日介錯無しで切腹した
武士の魂の刀は中川宮の守衛として潜り込む桐野利秋と酒場で飲み交わし盗まれたのだ
桐野利秋と田中新兵衛は同じ薩摩の士で同じ示現流である
桐野は中川宮に信用させ中川宮の闇行を探る為に同じ薩摩藩士の田中を犠牲にした
姉小路公知暗殺犯は中川宮側近伊勢新刀流師範有馬範顕と中川宮家臣で古参の山田時章と
まだ新参で中川宮にとって海の物とも山の物ともつかない中川宮守衛の示現流桐野利秋の3人である
目撃者に示現流の太刀筋を見せ態と逃がし田中新兵衛の刀を残した
文久3年のこの時点ではまだ薩摩藩は中川宮と敵対出来ず田中新兵衛は桐野を信じて自決したのだ
田中新兵衛は節操のないシンボルを討つべく桐野利秋に天誅を託した
>>387は、日本近代史スレや長州関連スレで暴れ回っているキ●ガイ低脳国賊p
401 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/22(月) 21:54:46 ID:jnJKwPh00
お龍の「反魂香」の佐那についての話で「辺りに人の居ない時は、年の若い優男を捉へて口説いたり」
とあるがこれは死を覚悟して信じた龍馬を偲ぶ女同志の嫉妬で
岡田星之助による剣術の師の妹佐那への暴行を逆に言って佐那を讒言したのは明白である
もしそんな事が実際にあったら「千葉の鬼小町」の噂は江戸中に広まる
だがそんな話をしているのは「反魂香」でのお龍だけだ
「反魂香」のこの話は文久3年(1863年)2月5日坂本龍馬との決闘で斬られた岡田星之助の事である
岡田が佐那を襲った時期は文久2年(1862年)年末から翌年正月上旬の間だろう
清河八郎が浪士組を招集していた時期だから京に行くだろうとは考えられ
実際岡田はそれを当てにして京に逃げてきたことは間違いない
だが佐那が舌を切ると覚悟を示した後で岡田が必ずしも紀伊以外の関西方面に逃げるとは限らない
実際文久3(1863年)年6月2日の広井磐之助の仇討ちに於いて
勝海舟と坂本龍馬が援助した広井磐之助の父の仇の棚橋三郎は紀州に逃げていた
鳥取藩に帰藩するのは無理だが一旦別の場所に逃げて時間稼ぎをすることは考えられる訳だから
佐那が脱藩した龍馬を赦免させる為に重太郎が居ない時に態と岡田を誘惑したとは考えられない
これは個人的問題だから浪士組に加わった後だと星之助を処分するのは難しくなる
まして星之助がそれでも強引に佐那を犯していたら免許皆伝の佐那は自ら命を絶った
本来士であるなら剣術の師に謝罪し切腹しなければならず水戸思想の攘夷派志士としては恥である
当初重太郎は龍馬の脱藩罪が赦免されれば自分と同じ鳥取藩に仕官させたいと考え奔走していたが
真剣勝負の決闘で鳥取藩士岡田星之助を斬る必要が生じた為に急遽福井藩に龍馬の仕官をお願いした
お龍は自分が中川宮から受けた姦謀とそれに対する覚悟に比べれば岡田など優男だと言っているのだ
つまり楢崎家の目も当てられない惨状は将作が仕えていた中川宮による謀略である証拠である
402 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 00:10:17 ID:UVryQzgC0
売国テロリスト
>>397 藩論はどこも一つじゃねーわな
だが土佐藩は容堂がシメてるし政変で勤王党弾圧後は
吉田東洋配下だった後藤・新おこぜ組が藩政を担当してるのでやはり佐幕
上層部の武力討幕派は板垣ぐらい
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 01:55:47 ID:WHnZ0v1S0
>>403 少なくとも、新おこぜ組(保守派)の人間も大政奉還の時期には武装討幕発言ばかりが見える。
陸援隊の中岡慎太郎はこの時期、乾(板垣)退助の土佐藩歩兵部隊との関係を強化していたようで、
乾退助自身、後には討幕のために土佐藩の命令を待たずに薩長軍に参加している。
公武合体論を唱えるものは、土佐藩から容堂一人を除いて一掃されていた。
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 01:59:20 ID:WHnZ0v1S0
大体、後藤象二郎自体が土佐討幕挙兵を薩長に約束し、挙兵直前に山内容堂に止められているのだから、
新おこぜ組が佐幕派という説は成立しないのだが、分かっているのだろうか?
406 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 02:07:12 ID:WHnZ0v1S0
土佐藩の藩論は、第二次長州征伐における幕府の失敗を契機に急速に尊王攘夷に傾斜してゆく。
その過程で、薩長討幕派に身を寄せていた坂本龍馬・中岡慎太郎と
土佐藩で指導的な役割を果たしていた後藤象二郎との和解が行われた。
坂本と後藤の和解の時点で、既に新おこぜ組は佐幕派ではないんだよ。
むしろ山内容堂一人を置き去りに、土佐藩は急進討幕へと向かう。
407 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 04:27:54 ID:yH51MWmA0
薩長土の浪士は断じて英雄ではない
徳川様から力ずくで天下をもぎ取った謀反人である
将軍家はすすんで大政を奉還し、自ら議長国となって緒大名による合議制の国をつくりあげることを望んだ
これによって一滴の血も流さず新しい国が生まれるはずであった
然るに薩長土はあくまで武力による討幕を画策し暗躍
妙な合戦をしかけ、宮廷内の岩倉具視と組んで、新徳川派の孝明天皇を毒殺し新たに睦仁親王を立てて錦の御旗を手に入れたものである
これを謀反と言わずして、なんと言う!
まぁ第二次長伐を起こして血を流した挙句負けたのは幕府だったけどね。
やらない方が良かったね。
あとあのタイミングで孝明帝が死んで一番得をしたのは慶喜ちゃん。
>>405 藩上層部の武力討幕勢も徐々に増えてはいたが藩論は割れてた
討幕派と保守派が睨み合って後藤も板挟みだったんだよ
曖昧表現で板垣達をごまかしつつ容堂への話は建白案の方を優先させた
結局後藤が容堂に逆らえるわけもなく出兵出来ず西郷にキレられとるし
>>406 岩倉具視の考明帝暗殺は俗説だよw
岩倉が出世できた理由と考明帝死亡当時どこで何してたか調べてみるといい
大体天下統一したって理由で武家のトップ張ってた徳川家が
松平定信ん時に統治理由を説明できないからって大政委任論持ち出し
有用な人材を弾圧するわグダグダな弱腰外交するわで
そりゃ臣下に政権よこせって言われもするわ
410 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/23(火) 21:54:43 ID:lDZJgQsS0
龍馬は文久3年(1863年)6月29日の手紙で平井収二郎の十文字の切腹に対し
「誠にむごい。加尾の嘆きはいかばかりか。まだに少しは気遣いもする。」と加尾の様子を伺う
だが同年8月14日に龍馬が姉の乙女に宛てた手紙では
千葉佐那について「顔かたちは加尾より少し良し」とし今は佐那に夢中であることを仄めかす
この手紙は故郷の親族を安心させる為のものではあるが
幼い頃から妹のように可愛がっていた加尾を完全に諦める為に態と書いたものである
もし龍馬と加尾の婚姻を土佐藩が認めたら山内家と三条家との関係が険悪になることは確実だ
たとえ龍馬が白札郷士になり上士になったとしても御家のため二人が結ばれることは無い
龍馬は加尾の事は以蔵が守ってくれればいいと考えた
慶応2年(1866年)に龍馬がお龍を妻とすると加尾はすぐに郷士の婿養子を迎えたが
文久2年(1862年)10月に土佐に帰藩してからの3年以上結婚せずにいた事は
当時の適齢期を考えると美人の未婚女性の28歳(数えで29歳)の年齢は遅すぎる
文久3年には加尾は25歳で例えは悪いが12歳で水揚げする遊女ならすでにお婆さんである
遊女の発祥は巫女にあるようだが攘夷派の収二郎にとって美人の妹は都合が良かった
坂本龍馬や岡田以蔵は幼い頃から加尾に好意を寄せ加尾は今風でいうアイドル的存在だった
加尾は裕福で恰幅のよい龍馬が好きだったが安政5年(1858年)龍馬は千葉家の娘と婚約する
翌年12月加尾が20歳の時に三条家に仕えさせる為に上京させた目的は公家との婚姻である
上士である収二郎は美人の妹を勿体振り巫女の様に男達を加尾の下に平れ伏すよう画策した
京の公家達は突然土佐の田舎から20歳になった飛び切りの美女が現れ気後れした
下級上士の収二郎は御落胤の伏見宮系に加尾を嫁がせ南紀派を傅かせるつもりだった
だから素行の悪い三条公恭に悩む加尾を京から江戸に退避させる龍馬の策を収二郎は斥けた
収二郎は加尾を政争の道具に使ったが崇拝対象以外に加尾を嫁がせるつもりは無かった
もし収二郎が妹のために親身に考えていたら十文字の切腹をする事はなかっただろう
下級上士平井収二郎は武士としての本道を忘れ青侍に近いものに堕ちていた
文久2年(1862年)9月下旬天誅が京を震撼させる中で加尾は吐き気がするくらい気分が悪かった
中川宮は武家の未婚の美女を連日呼び出して陵辱しその美女の体調まで知り尽くしていた
仏門に身を置きながら女を身篭らせた姦淫坊主は土佐の上級田舎侍より知恵比べで上手だった
文久2年閏8月から8月へと遡りそして7月中旬頃に本間は大坂の酒場で破廉恥な武勇伝を豪語し
それを聞いた岩崎弥太郎は驚愕し帰藩した直後の8月2日に井上佐一郎は殺害される
本間が精を放った武家の未婚の美人の娘は悪阻が酷くなり故郷に帰り赤子を産んだ
その赤子は攘夷督促勅使問題で中川宮に付いた本間精一郎にそっくりだった
文久3年(1863年)6月8日山内容堂は上士平井収二郎に介錯無しで切腹を命じる
加尾は龍馬とお龍の婚姻が御公儀の為
兄収二郎の弔いの為
そして不浄な奸臣に弄ばれた自身の清めの為にそれも良しとしたのだ
明治になってから龍馬からの男装準備の手紙を開示した加尾は
日本を変えた龍馬が自分の為に命がけで動いてくれた事を嬉しく想った
411 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/24(水) 05:40:59 ID:VCr8wnfm0
そんなに小説を他人に披露したいならまずは同じ病棟の患者さんに見せたらどうか
相変わらずレベル低いねww
413 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/24(水) 21:54:24 ID:jBWdPCsE0
安政4年(1857年)土佐藩士広井大六は同じく土佐藩士の棚橋三郎に斬り殺された
文久3年(1863年)大六の子の広井磐之助は江戸で勝海舟や坂本龍馬の尽力で仇討ち免許状を与えられ
父の仇の棚橋三郎が紀州に逃げ込んでいることを突き止め
文久3年(1863年)6月2日紀州と和泉の境で仇討ちをした
仇討ちには公的な認可が必要だが広井磐之助は勝海舟の門下に入り
江戸にいる勝海舟と坂本龍馬の尽力で仇討ち免許状を得ることができた
これは龍馬にとって中川宮に対する収二郎と加尾の仇討ちへの始まりとなる
仇討ちには女敵討というものがある
これは妻帯者が妻を寝取られたときその相手を即座に無礼討ちできるというものだが
その代償として妻も斬らねばならない
坂本龍馬は元治元年(1864年)8月1日中川宮の勢力圏の青蓮院塔頭金蔵寺でお龍と内祝言を挙げるが
これにより中川宮が龍馬の居ない隙にお龍を寝取れば即座に無礼討ちができる
中川宮の勢力圏で態々挙げるのだから知らなかったでは済まされない
その場合お龍を代償として斬らねばならないがお龍もその母の貞も将作の仇を討つ決心を決め
女敵討による中川宮殲滅作戦を了承した
光枝の女郎屋からの救出を手助けし起美の嶋原遊郭からの救出を自腹で談判した龍馬に
お龍は命を捧げると覚悟した
尚且つ青蓮院塔頭金蔵寺に人質にされている弟太一郎も救出できれば悔いはない
元治元年8月からお龍はお登勢の居る寺田屋に囮として入り龍馬は別室に待機した
維新後もし坂本龍馬が暗殺されていなければ最後の仇討ちは
勤王家楢崎将作の仇で婦女陵辱魔の中川宮朝彦に対する最後の天誅だったのだ
414 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/25(木) 21:54:25 ID:zjjF9z530
陸奥宗光は紀州藩の攘夷派志士で南紀派の中枢で異端になり脱藩する
陸奥にとって水戸思想の岡田星之助を斬殺した坂本龍馬は敵と映ったに違いない
岡田星之助の軽率な行動は剣術の師である千葉重太郎を侮辱し裏切るもので士道に反するものである
佐那は岡田に犯されず貞操を守っているので龍馬の婚約者の佐那を襲った件では不問にできるが
剣術の師を欺き侮辱しその妹を陵辱しようとしたことは慙死に値し本来岡田は切腹すべきである
よって鳥取藩に於いては桶町道場師範代の重太郎が岡田の遺族による龍馬に対する仇討ちを制御した
文久3年(1863年)6月上旬剣術を不得手とする陸奥は水戸浪士の兜惣助及び大和の乾十郎と謀り
乾十郎を生贄にして龍馬を誘き寄せ決闘で龍馬の殺害を目論む
千葉周作は水戸藩士であるため兜は玄武館の水戸藩士らと交友があったのだろう
もし龍馬が兜を斬れば清河八郎の浪士組から離脱した壬生浪士組を敵に回しかねない
また兜と行動を共にしていたのが神道無念流免許皆伝で浪士組局長の新見錦とも云われ
近藤勇と芹沢鴨も大坂に急行していたがこれを察知した沢村惣之丞は
大坂西町奉行の内山彦次郎に知らせ途中で力士に足止めさせ大坂角刀事件が起きる
沢村はその間に勝海舟に知らせ小笠原長行の調停で兜らと和解した
それは士道に反して切腹せずに逃亡した星之助に一分の望みを与え龍馬に僅かでも非があるかを
検証するために龍馬は星之助と一対一の真剣勝負の決闘に臨んだのであり
この真剣勝負には星之助と同郷の黒木小太郎が立会い正々堂々と行われた
もしこの検証が間違っているというなら北辰一刀流を侮辱するものとなり水戸思想に禍根を残す
そして先の天誅に於いて元凶の公武合体派の悪党から娘達を救った好漢こそ龍馬であり
悪党中川宮に女心を弄ばれながらも平井加尾が心を寄せ愛した男が龍馬だからだ
もし龍馬を殺害すれば水戸思想に泥を塗り京の攘夷派は水戸浪士に天誅の矛先を向けるが
それよりも真の敵は公武合体派の中心で不浄な交尾合体で国を惑わす妖狐の姦臣だと諭したのだ
この調停の後で小笠原は水戸思想派から糾弾され同年6月老中職を罷免された
新見はこの後局長から副長に降格され後に切腹させられ芹沢は近藤の意を受けた者に暗殺される
生粋の水戸思想の芹沢鴨にとって中川宮の様な者こそ汚らわしい存在だと映ったに違いない
翌年の池田屋事件では中川宮を幽閉することを画策中に中川宮の意を受けた新撰組に襲撃される
毎日同じ時間に投稿したがる人は放っといてスレ立て直したら?
気持ち悪いぐらい毎回21:54に投稿してるな。誰も読んでないのにご苦労なことだ
417 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/26(金) 18:22:00 ID:Q4MQj1xi0
418 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/26(金) 21:54:34 ID:+EqmRzje0
陸奥宗光の策による兜惣助らによる乾十郎を囮にした坂本龍馬殺害計画は失敗した
新撰組の人気取りや裏切りの粛清等は士道に反しながら切腹せずに逃げた岡田星之助を
1対1の真剣勝負で斬り佐那の心を守ったなかなか隅に置けない色男の龍馬を模倣したものである
近藤ら新撰組は坂本龍馬を斬ることによって水戸思想に禍根を残すことに躊躇した
兜の事件以後新撰組が直接龍馬と対峙する事は無く間接的折衝に終始する
後に伊東甲子太郎も同門の好で龍馬と交友する
陸奥はその後龍馬に兄事するがどうやら最大の関心事はあっちの方だったようだ
陸奥は兄事する龍馬の妻としてお龍を認めていない
陸奥は外交術では勝海舟に及ばないが陸奥の思想は恐らく古代中国の縦横家蘇秦を理想とするものだ
龍馬が薩長同盟を導いたのはこの時の弱者の陸奥の立ち回りが起因している
また佐幕交尾合体派の奥羽列藩同盟もまた陸奥の縦横を無意味に真似たものだ
桂の女好きは別として高杉晋作の芸妓遊びに影響を与えたのも龍馬である
乾十郎は天誅組の挙兵に加わり敗れて処刑され兜惣助は天狗党の乱で処刑された
近藤らを力士に足止めさせた内山彦次郎は元治元年(1864年)5月20日芹沢鴨粛清後の新撰組若しくは
前年同日に姉小路公知宇を暗殺した桐野利秋と中川宮の家臣団に暗殺された
その半月後に攘夷派志士が中川宮幽閉を画策中に池田屋事件が起きる
龍馬は岡田星之助の仇討ちにはいつでも応じるつもりでいたようだ
高杉が龍馬に贈ったピストルやブーツは龍馬の身を案じたものである
仇討ちには免許が必要で許可無く実行すれば処罰される
もし岡田星之助の仇討ちをする場合正々堂々とやらねば恥の上塗りとなり水戸思想に泥を塗る
よって鳥取藩士及び攘夷派志士による坂本龍馬暗殺説を否定する
結果的に公武合体派で素行の悪い佐久間象山は勝海舟に売られた形で後に鳥取藩士に暗殺された
沢村惣之丞は龍馬が暗殺された翌年の慶応4年1月14日長崎を警備中に薩摩藩士を誤射してしまい
同年1月25日志の高い海援隊士として士道に反する行為を嫌い切腹した
後に龍馬とお龍が夫婦だった時期に龍馬にお元という芸妓の女がいたと証言したのは後藤象二郎だが
後藤は一体誰を庇おうとしていたのか
419 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/29(月) 21:54:24 ID:LVu394VV0
文久4年(1864年)2月勝海舟は四国艦隊との調停のために坂本龍馬を連立って長崎へ赴く
横井小楠は文久2年12月19日肥後藩江戸留守居役吉田吉之助の別邸での宴会中に
肥後勤王党の堤松左衛門と黒瀬市郎助と安田喜助の3人に襲撃された
横井は大小を差しておらずその場から逃走し吉田は死んだ
肥後藩は横井を士道忘却として士籍剥奪及び知行召し上げの処分を下し
横井は熊本郊外の沼山津村の四時軒に蟄居していた
勝は厳しい処分によって生活に困窮していた横井のもとへ龍馬に金品を持たせ時勢を伝えさせた
横井小楠の理想は佐幕でも攘夷でもなく共和制である
だがどういう過程で日本が共和制になるのかは不可思議だ
恐らくは禅譲なのだろう
その禅譲において龍馬のような純真な志士はなくてはならないと横井は考えた
当時の世襲親王家は桂宮に男系はなく閑院宮は当主を欠き伏見宮は御落胤であるため
天皇家以外に真に正当な世襲親王家といえるのは有栖川宮だけである
もし有栖川宮が禅譲を容認した後で坂本龍馬が生きていたら
好漢龍馬は日本国大統領になっていたかもしれない
禅譲によって日本をアメリカのように共和制にし
初代日本国大統領に徳川慶喜を就任させるのが横井小楠の本当の狙いである
当時かなり斬新なこの思想は急進的尊皇攘夷派の理解を得られず
結局横井は維新後に十津川郷士によって暗殺されてしまう
勝海舟もこの世で最も恐ろしい人物は横井小楠と西郷隆盛だとしている
勝自身も横井の思いが叶ったら慶喜の次の座を狙っていた筈だ
大日本帝国は百年にも満たない邪道である
大政奉還=帝政ではない
坂本龍馬の船中八策に有名無実の貴族の専制などという考えは微塵もない
西欧列強に対抗する為に国体を勝手に帝政に変え不浄な排泄公卿の専制にした岩倉使節の俗臭に
勤労を奨励し近親相姦や乱暴狼藉を嫌悪して否定したアマテラスは嘆いただろう
徳川に於いて家康を入り口として考えると紀州藩が交尾合体のシンボルなら
水戸思想を受け継ぐ慶喜は徳川家に於ける「コウモン様」である
慶喜は幕府の終焉と同時に不浄な公卿の粛清を実行する為のきっかけになる筈だった
当然伏見宮系は反対するが異様な悪臭を放つ排泄公卿は奸臣として全て粛清されただろう
つまり大政奉還後の慶喜の復権は肥溜めシンボルの浄化の後の予定であったのだ
龍馬が暗殺される前に京都土佐藩邸にも京都福井藩邸にも入れなかったのは
慶喜の待遇が決まっていなかったからだが龍馬の死は結果的に慶喜を不利にさせた
第2次長州征伐に於いて幕府軍唯一の優勢であった赤坂の戦いでは
肥後藩が近代装備で奮闘し長州軍を圧倒していたが小笠原長行と不調になり突然撤退した
小笠原長行といえば龍馬が壬生浪士組に狙われた時に調停した人物である
龍馬の海援隊が参加していることを知った横井小楠が小笠原長行と計らい撤退させたのだ
大政奉還がまずかったんだって!
犯人は大久保や西郷だって!
>>420 薩摩も大政奉還推進してたけど?
小松帯刀知らんのかw
坂本信者って坂本が特別だと思わせたいがため
坂本と薩長を殊更対立関係にあったように思わせたがるよね。
暗殺時期の龍馬の行動は大胆過ぎる
お登勢には「松平容保にも会ったから心配するな」
永井に危ないから昼に来るなと言われるまでは
白昼堂々と佐々木や見廻組の住む地域に現れ
近江屋に尋ねてきた土佐の仲間に2階から「上がってこいや」と
声高々に叫んだり自分が幕府側の人間から狙われているという自覚ゼロな行動
会津と桑名は大政奉還反対派で、事実手代木の残した手記見る限り
危険人物と見なしていたのにそこまで考えられなかったのか…
424 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/11/30(火) 21:54:25 ID:2ctDydhu0
勝海舟はお龍のもとへ奸物中川宮を誘き寄せ女敵討として無礼討ちする策を龍馬に伝授した
文久2年(1862年)6月20日大坂で希望を見出せない龍馬はお龍の大立ち回りの場に出くわし事を収めた
そのお龍を龍馬と結びつけたのは勝と中岡慎太郎だろう
中川宮に狙われた勤王家楢崎家の惨状を憂う龍馬が長州藩士を動かし中岡も加わった
直心影流免許皆伝の勝は自身が奸物中川宮に狙われることが分かっていてもそれを恐れず
龍馬や中岡達に思うようにやらせた
奸臣池内大学の教示で合体に邪心を持つ中川宮は悪党を招集しお龍一家を狙わせた
中川宮の性欲の執拗さは尋常ではない
奸臣池内大学を殺害され薩摩藩を懐柔する為の自信の糧を失った中川宮は
会津藩を実質的支配下に置き勢力の拡大を図り
八月十八日の政変で京から攘夷派を一掃する
異常な勢いで勢力を拡大する奸物中川宮に対抗するには急所を攻めるしかない
勝は素行の悪い三条公恭に対し詰腹の代わりにシンボルを詰割ると脅して片を付けた話を
龍馬から聞いていた
勝自身も幼少の頃に狂犬に睾丸を噛まれ生死を彷徨っていると龍馬に話す
この件に関して龍馬はかなり得意になってエヘン顔の手紙を乙女に送っている
平井収二郎が合体狂の中川宮の奸計で十文字の切腹で命を落としたことも知っている
その中川宮が執拗にお龍を狙っていることも龍馬から聞いて知っていた
現状で公武合体派の中枢中川宮を追い落とすには正攻法では無理だ
だが父将作を手に掛けた中川宮を仇としその異常性欲に狙われるお龍と
素行の悪い三条公恭をシンボルの詰割り強襲で片を付けた龍馬が手を携えて事に当たれば
必ず希代の姦淫坊主を打ち滅ぼせると勝海舟は確信した
たとえ龍馬の身に危険が及び自分の現在の地位が脅かされても
旗本としての勝が奸物に脅かされることはない
勝海舟にとって龍馬は君側の奸を静粛するための駒の一つに過ぎない
親身に龍馬を心配していたのは実家と千葉道場以外では横井小楠だけだ
425 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/12/01(水) 21:54:25 ID:anNlnyWl0
元治元年(1864年)4月6日熊本の四時軒で蟄居する横井小楠は
加尾を弄ばれ収二郎を切腹に追い込んだ中川宮を仇として討ちたいと相談しに来た龍馬に
「乱臣賊子となるなかれ」と警告する
お龍という勤王家の娘が中川宮に執拗に狙われている為その女と龍馬が中川宮の勢力圏で
形式上の夫婦となりお龍が一人になっている処へ中川宮を誘き寄せ
女敵討として中川宮を誰からも文句を言わせずに始末するというものである
龍馬は以前に岡田星之助を婚約者佐那を犯した罪で斬殺している
だが勝によるお龍の元へ中川宮を誘き寄せる桶狭間のようなやり方は危険性が大きい
もし失敗すれば奸物側にとっては賊子と映り
やり方次第でその奸物と変わらないことになってしまう
女敵討は仇討ちとしては品が無く尚且つ代わりに妻を斬らねばならない
奸物といえども長きに渉って日本で泡銭を貪ってきた連中だ
そう簡単に引き下がる輩ではなく乱臣にされては元も子もない
土佐勤王党武市瑞山もすでに逮捕されている
まして龍馬はすでに千葉佐那と婚約している
そもそも横井と龍馬を結びつけた縁は千葉道場である
横井は勝に対する見張りとして甥の左平太と大平の2人と門弟の岩男内蔵允を同行させる
もしかしたら「筑前の大藤太郎」はこの3人の内の誰かかもしれない
この3人は神戸海軍操練所で修行し操練所の閉鎖で熊本へ帰り
左平太と大平は慶応2年(1866年)4月にアメリカに留学する
その後の海援隊には福井藩陪臣山本龍二以下6名の福井藩出身者がいて
操練所廃止以後もお龍を妻として勝の策略で動く龍馬を佐那の元へ戻すべく従っていた
横井としては龍馬は千葉佐那と結ばれるべきだと考えていた
「お前さんを失いたくはない。呉々も奸物には用心しろよ。」という意味で龍馬に促した
横井小楠にとっては坂本龍馬を危険に晒す勝海舟も奸物であったかもしれない
426 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/12/02(木) 21:54:23 ID:9ieVynHo0
池田屋事件の直前の元治元年(1864年)6月2日龍馬は黒龍丸で江戸に向かう
千葉重太郎は龍馬の行く末を危惧する横井小楠から
龍馬が勝海舟に誑かされ奸物との危険な戦いに手を染めようとしている事を知らされていた
そして龍馬から奸物中川宮に執拗に狙われているお龍という女に罠を張り
開国後の国政から公武合体派の奸臣を一掃し退けるという考えを聞かされる
その罠の任に素行の悪い公恭をシンボルの詰割り強襲で震え上がらせた龍馬自らが当たり
龍馬が青蓮院でそのお龍とやらと内祝言を挙げて中川宮を誘き寄せると聞かされ重太郎は憤慨した
これは勝海舟にとって自分を斬りに来た千葉重太郎との鍔迫り合いみたいなものだろう
重太郎は美人だけが取柄の楢崎龍と危険な道を歩むより
才色兼備の妹佐那が好漢坂本龍馬の嫁であるべきだと考えた
だが龍馬は加尾の兄収二郎の弔いと勤王家楢崎家の不幸を繰り返させない為に勝の策に従った
龍馬は佐那が自決を覚悟してでも龍馬への思いを貫いた事は受け止めたが
幼い頃から好きだった加尾を異常性欲を満たす為だけに弄んだ挙句に
仲の良かった収二郎を切腹に陥れた中川宮朝彦を討たねばならなかった
龍馬は中川宮朝彦を殲滅し平井家の無念を晴らさない限り
佐那との幸せな結婚生活に甘んじる事は考えられなかった
その頃京の池田屋では攘夷派志士が奸物中川宮を襲撃するために会合していた
龍馬は奸物中川宮との直接対決に挑もうとしていた
427 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/12/03(金) 21:54:23 ID:FpIiqN5g0
龍馬は文久3年(1863年)8月の1ヶ月と文久3年11月から12月までの2ヶ月を江戸で過ごす
龍馬は江戸で千葉重太郎を頼ったが鳥取藩士が在籍する桶町千葉道場で汗を流すことは無かった
文久3年8月14日の乙女への手紙で佐那を褒めちぎり「今の平井、平井」と記し
「以前から好きだった加尾と同じくらい今は佐那のことを好いている」としている
「今」でない「平井」が龍馬にとって何かはこの手紙だけでは分からない
加尾と親交のある乙女への脱藩して最初の手紙ではある者を「詰腹」の代わりに男性器を詰割りさせた
「つめわり」は岡田星之助ではないが詰腹を決闘に変更して死んだのは星之助である
男性器の詰割りの対象は武士でなく商人農民でもなく公家である
加尾を幼い頃から好きだったのかそれともそれ以上の関係か
男装指示の手紙を開示した加尾の心情を推察する以外にない
だがこの時期婚約していた龍馬と佐那の二人の間に男女の関係があったとしても不思議ではなく
龍馬の女はお龍だけで佐那とは男女関係は無いとする研究学会は明らかにおかしい
文久3年2月5日道場に一人残る佐那を強引に犯そうとした岡田星之助を見つけ出し
重太郎の指示で決闘で斬殺した龍馬は同年2月25日勝海舟や重太郎の働き掛けで脱藩罪を赦免される
同年3月7日勝海舟の護衛を岡田以蔵に任せ約1ヶ月江戸に滞在した
脱藩して佐那に合わせる顔が無かった龍馬は
舌を切り自決する覚悟で岡田星之助を拒んだ佐那の思いに気付き二人は愛し合った
文久4年(1864年)の正月元旦の龍馬は千葉家が仕立てた紋付を着て
佐那と仲睦まじく新年を迎えるつもりだったが龍馬は土佐帰国命令を拒絶し再度脱藩する
元治元年(1864年)6月8日の平井収二郎の一周忌に龍馬は中川宮との対決を決心する
龍馬は奸物と戦い幽霊となる覚悟で紋付の片袖を佐那に渡した
着物の袖は破かずとも糸を解けばきれいに外れるので家門の付いた片袖を佐那が預かり
片袖を外した紋付は龍馬がお龍に分からないように仕舞った筈だ
無事平井の弔い合戦が終わった後で分かれた紋付を元に戻し
龍馬と佐那は正式に夫婦になる筈だった
この弔い合戦は楢崎将作の弔い及びお龍とその家族への仕打ちに対する復讐でもあるので
たとえその後に自分と別れる事になっても本懐を遂げたお龍は満足に違いないと龍馬は考えた
龍馬は6月8日にすぐに江戸を出るつもりだったが龍馬が下田に着いたのは6月17日になってしまった
佐那は龍馬を離そうとはしなかった
428 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/12/06(月) 22:27:51 ID:SS3cmOIj0
龍馬の乙女宛の元治元年(1864年)6月28日の手紙
かの小野小町が名歌読みても、
(妻の小千葉小町の月の日を推察し)
よく日照りの順の良き時は請け合い、
(佐那の機嫌のいい日は愛し合い)
雨が降り不申。
(佐那の機嫌が悪く生理の日は何もしない)
亜れは北の山が曇りてきた所を、内々よく知りて読みたりし也。
(佐那とのアレは妻の小町の体を気遣っての事である)
にったただつねの太刀収めて潮の引きしも、
(新田義貞?仁田忠常?=拙者、只管日常的にシンボルを佐那の中に収めて愛し合う時も)
潮時を知りての事なり。
(好機を見計らっての情事である)
天下に事を成す者はねぶともよくよくはれずては、
(大願成就を成すためには母体もがんばって妊娠してくれなくては)
針へはうみをつけてもふさず候。
(龍馬のあれは生ませようとしても羽化させることは出来ない)
おやべ殿は早、子ができたなどと申人あり、
(おやべちゃんがせっかちに「龍馬さんに子ができた」などと申す人がいる)
いかが私しがいいよるというておやり、かしこ。
(どうだ私がこの手紙で宣言しているぞと言っておやりなさい、かしこ)
おとめさまへ
此手がみ人にはけして々見せられんぞよ、かしこ。
(この手紙は人には決して決して見せられないぞ、かしこ)
429 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/12/06(月) 22:31:28 ID:SS3cmOIj0
龍馬の乙女宛の元治元年(1864年)6月28日の手紙
かの小野小町が名歌読みても、
(妻の小千葉小町の月の日を推察し)
よく日照りの順の良き時は請け合い、
(佐那の機嫌のいい日は愛し合い)
雨が降り不申。
(佐那の機嫌が悪く生理の日は何もしない)
あれは北の山が曇りてきた所を、内々よく知りて読みたりし也。
(佐那とのアレは妻の小町の体を気遣っての事である)
にったただつねの太刀収めて潮の引きしも、
(新田義貞?仁田忠常?=拙者、只管日常的にシンボルを佐那の中に収めて愛し合う時も)
潮時を知りての事なり。
(好機を見計らっての情事である)
天下に事を成す者はねぶともよくよくはれずては、
(大願成就を成すためには母体もがんばって妊娠してくれなくては)
針へはうみをつけてもふさず候。
(龍馬のあれは生ませようとしても羽化させることは出来ない)
おやべ殿は早、子ができたなどと申人あり、
(おやべちゃんがせっかちに「龍馬さんに子ができた」などと申す人がいる)
いかが私しがいいよるというておやり、かしこ。
(どうだ私がこの手紙で宣言しているぞと言っておやりなさい、かしこ)
おとめさまへ
此手がみ人にはけして々見せられんぞよ、かしこ。
(この手紙は人には決して決して見せられないぞ、かしこ)
に訂正
430 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/12/07(火) 21:54:31 ID:/o70qRQL0
6月28日の手紙は元治元年(1864年)6月8日の中川宮に陥れられ切腹した平井収二郎の一周忌に
坂本家の家門の付いた片袖を佐那に残して収二郎の弔いを決意した後に
千葉家での心遣いを想い龍馬が佐那との愛の情事の証を乙女に告げた手紙であって
文久3年(1863年)6月29日の手紙の前日では龍馬がここまで赤裸々に乙女に報告する意味が無い
そもそも同年8月14日の手紙が最初の佐那の紹介なのだからそれ以前の赤裸々な手紙はありえない
文久3年の収二郎が切腹した直後にこんな手紙を出したら故郷の坂本家は佐那を白眼視してしまう
だが実際に坂本家で白眼視されたのはお龍であって
その事実もこの手紙が元治元年6月28日のものである証拠である
文久3年(1863年)8月14日の手紙については暗示であり千葉家との両家の証にはなっていない
恐らく龍馬の初恋の女性は佐那の姉の里幾だったのだろう
里幾は優しく亡き母の様に一人江戸で剣術修行する龍馬を支えていたはずだ
土佐の実家には里幾の話ばかりしていて自分より剣術に優れた佐那に臆するところがあった
だが龍馬が江戸を離れた半年後に初恋の女性里幾は労咳でこの世を去った
加尾は幼馴染で龍馬にとって妹のような存在で龍馬の初恋というより加尾の初恋である
加尾の為に脱藩し大坂を出て江戸の千葉家を頼ると龍馬は佐那にどう接していいか分からなかった
だが佐那は姉の里幾が他界すると自分が龍馬の妻になると決心し
岡田星之助の悪意の有る強引な求愛を舌を噛み切る覚悟で拒んだ
文久3年(1863年)2月5日龍馬が星之助との真剣勝負の決闘に勝つと江戸で二人は結ばれた
だが平井収二郎が土佐に送還されると雲行きが怪しくなり
即正式結婚即土佐へ帰藩という訳にはいかなかったと思われる
文久3年(1863年)3月から文久4年(1864年)6月まで龍馬が江戸にいる時は二人は愛し合った
だが残念ながら佐那との間に子は出来なかった
龍馬としては道場に鳥取藩士がいて重太郎も鳥取藩に仕えている状況で心が休まる事は無かった
佐那は物静かな女で龍馬に抱かれるときも受身だったのだろう
男性経験の乏しい佐那はそれでいいのだと思っていた
だが龍馬は一方的な愛し方よりもっと女性に癒されながら相互に愛し合う方を望んだ
元治元年(1864年)6月28日の手紙には男にしか分からない性に対する切実な欲求が感じられる
二人の間には時間と精神的余裕が足りなかった
見事奸物中川宮を討ち果たせれば二人は幸せに暮らせただろう
6月28日の手紙は「ねぶと論」などではなく真実は「妻の小町の手紙」である
維新後佐那が針灸を営んだのはもっと龍馬を癒してあげればよかったという想いがあったのだろう
千葉佐那の墓石には坂本龍馬室と刻まれている
431 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/09(木) 18:13:08 ID:pg21mH3C0
龍馬を考えるとき、いつも複雑な思いに駆られるのは、龍馬暗殺である。
京都見廻組の幹部だった今井信郎の証言で、長い間、同じ見廻組の佐々木只三郎が実行犯にされてきた。
佐々木は会津藩重臣の手代木直右衛門(勝任)の実弟である。
会津悪人説が出てくるゆえんである。
『佐々木只三郎』(史伝研究所)に、
「実兄の手代木が息を引き取る数日前に、坂本龍馬を殺したものは実弟只三郎であり、それは某諸侯の命に
よるものであることをはじめて語ったという。某諸侯というのは、のちに見廻組が属した京都守護職松平容保
すなわち手代木の藩主を指すのであるが、この事実を公にすると、累を藩主に及ぼす恐れがあるので、
直右衛門はずっと後代まで沈黙を守っていたのである」
とある。
しかし、これには首をかしげる部分が多い。会津藩の重臣たるものが、主君である松平容保にとって不利な
証言をするだろうか。しかも手代木の証言の時期が死ぬ数日前というのも、作り話の印象がある。容保の実弟、
京都所司代であり桑名藩主でもあった松平定敬の指示という文書もある。
この時期、龍馬は幕府若年寄の永井尚志と再三、会っており、ハト派の政策を進めていた。戦争ではなく平和裏に、
新生日本を作ろうということだった。
その人物を、幕閣の松平容保や定敬が暗殺せよと言うはずはない。つじつまが合わない。
しかも手代木自身にも不可思議なことがあった。
戦犯として幽閉されていた手代木は明治五年、明治政府から特赦を受けた。戊辰戦争で敗れた会津藩の同僚が
青森県に流され、塗炭の苦しみにあえいでいたときのことである。手代木は明治政府に出仕し、香川、高知の
権参事(副知事)を経て、岡山県下の各郡長、区長を務め、正六位勲六等に叙せられた。
明治政府の要人のだれかが龍馬暗殺の犯人として、只三郎を作り上げ、只三郎が無実であることを知っていた
兄の手代木を処遇し、口封じをはかったのではないかとも考えられる。
何かが隠されている。そんな気がしてならない。
土佐では薩摩黒幕説、あるいは土佐藩内部の抗争説、さまざまな説が語られていた。
天衣無縫に生きた龍馬の輝ける生涯のなかで、最期の部分は依然、闇の中である。
星 亮一
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/09(木) 19:09:56 ID:TVL7GqOe0
「生前に恩恵を与えて懐柔したのではないか」
「死ぬ数日前の告白というのが奇妙だ」
「坂本龍馬の大政奉還は、戦争ではなく平和裏に新生日本を作ろうということだった」
「その人物を、幕閣の松平容保や定敬が暗殺せよと言うはずはない。つじつまが合わない。」
星亮一の文章は間違いだらけで溜息が出ます。
明治政府出仕者のなかで手代木の処遇は厚遇というほどでもありません。
元旗本でも遥かに出世した場合があります。
坂本龍馬の大政奉還に対する意図は、土佐藩の記述によると
幕府を政権の座から引き摺り下ろし、薩摩への手土産とする、です。彼は討幕派ですね。
また、松平容保や松平定敬は大政奉還に強硬に反対し、政権の再委任を要求したという記述が
各種史料に存在しています。両人は大政奉還に敵対していました。
433 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/12/17(金) 21:54:26 ID:Ad/d0pd/0
文久2年(1862年)京の加尾の元を離れ
元治元年(1864年)6月8日の収二郎一周忌に於ける片袖の決意まで龍馬の女は佐那一人だ
佐那が預かった坂本家の紋付はこの時はまだ片袖ではなく
文久3年(1863年)2月5日悪意で佐那を犯そうとした岡田星之助を真剣勝負の決闘で斬った龍馬が
同年2月25日京都土佐藩邸で脱藩罪を赦免され佐那と結婚する意志を固め
婚礼用に新調してもらうために坂本家の家紋の付いた古着を見本として千葉重太郎に渡したものだ
千葉重太郎は同日京都福井藩邸で福井藩重臣村田巳三郎を訪れている
六角獄舎の近くにある武信稲荷の榎木に彫ったとされる龍の字はお龍の龍であり
龍馬が木に登ったとされるのは龍馬が起美を嶋原遊郭から救出した後で楢崎家の苦境を憂い
獄舎に投獄されている攘夷派志士から楢崎将作を知る勤王家を探す為とも推測できるが
まだこの時点で龍馬とお龍に恋愛感情は無い
お龍の父楢崎将作は女狂いの中川宮が異常性欲を抑えられずにお龍を陵辱しようとした時に
身を犠牲にしてお龍を守り姦物中川宮に嬲り殺しにされた
龍馬の慶応2年12月4日(1867年1月9日)の乙女への手紙には女狂い中川宮の姦謀を怒りお龍を助け
異常性欲の中川宮を刺し殺さんとしたのが宮中に奉公の経歴がある学識のある中路某の老母とある
梁川星厳の妻の紅蘭のことか
坂本龍馬は慶応2年12月4日の乙女への手紙で因縁の宿敵が中川宮だと認めている
これは紛れも無いdying messageである
勤王家の侍医楢崎将作を嬲り殺しにした中川宮に一橋派から公武合体派への転換を教示したのは
中川宮の侍講である池内大学であり池内は中川宮の侍医でもある
慶応元年(1865年)9月9日に龍馬が乙女に宛てたお龍を紹介する手紙には
頼三樹三郎・梅田源二郎(雲浜)・梁川星厳・春日(潜庵)を名の聞こえし諸生太夫としているが
池内大学の名は朝廷に蔓延る奸臣であるから書かれていない
その池内大学の孫の池内宏は東京大学文学部東洋史専攻の名誉教授である
現在の坂本龍馬暗殺を間違った方向に誘導しているのは天下の東京大学と池内家ということだ
「万国万世に亙りて愧じ有名無実の赤門は潰さんといかんき!
然もなくば何時迄待っちょってもニッポンの夜明けは来んがぜよ!」
現代に龍馬がいればそう申すだろう
>>431 犯人は見廻組の桂早之助だろ?
物的証拠と書状が霊山博物館にあるだろ?
佐々木只三郎は暗殺時の見廻組メンバーのリーダー
直接手は下していない
436 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/12/20(月) 21:55:15 ID:T03+Rq850
楢崎家長男の太一郎は安政4年(1857年)に生まれた
文久2年(1862年)1月20日中川宮の侍医の将作が悪者中川宮に嬲り殺しにされ
その後奸臣池内大学の教示で悪者中川宮は公武合体派となり
その勢力下の青蓮院に置かれた太一郎は楢崎家及び勤王家に対する人質となっていた
悪者中川宮は大獄による隠居前の名を青蓮院宮といい粟田宮ともいう
慶応元年(1865年)9月9日の龍馬の手紙には文久3年(1863年)に数えで7歳になる太一郎の記述が無く
慶応2年12月4日(1867年1月9日)の乙女宛ての手紙では起美を12歳と基点にし「男の子一人」としている
龍馬の手紙によって起美が数えで12歳の文久3年(1863年)は
太一郎が楢崎家の親権の及ばない場所に拉致されていたことが判る
慶応元年(1865年)9月9日の乙女への手紙に
「五歳の男子ハ粟田口の寺へつかハせしなり。」とあるが「つかハせた」のは
光枝と起美を勾引させた「悪者」中川宮である
この「五歳の男子」は同じ手紙での
「此女私し故ありて十三のいもふと、五歳になる男子引きとりて人にあづけおきすくい候。」
の「五歳になる男子」の事で
慶応2年12月4日の乙女への手紙での
「十二歳の妹名きみへ、男子太一郎ハ摂州神戸海軍所の勝安房に頼ミたり。」の太一郎のことである
太一郎が数えで5歳の時の文久元年(1861年)の末に美人のお龍の精神的介護に悶々とする中川宮が
お龍を陵辱するために将作を唆して勤王家に対する人質として勢力圏に置いたのだ
文久3年の龍馬にとっての最大の出来事は悪意で佐那を襲った岡田星之助との真剣勝負の決闘であり
姦謀で次々と若い女達を陥れる中川宮との対決を決意していることを示している
龍馬は元治元年(1864年)8月に中川宮の勢力圏の青蓮院塔頭金蔵寺でのお龍との内祝言において
平井収二郎の仇である異常性欲奸臣中川宮に対する宣戦布告をして
神戸海軍塾の仲間を引き連れ悪者中川宮の勢力圏から太一郎を奪還した
だが奪還した太一郎は少々普通の子とは違っていた
美人の姉達に似て美形の太一郎は悪者中川宮の勢力圏の青蓮院で人質にされ
2年半もの長期に亘って天台宗青蓮院の男色坊主達に散散おもちゃにされていた
地獄を見た幼い太一郎は救出されたとき最早この世に絶望していた
太一郎は勝海舟の許で再教育し姉の起美の助力でなんとか立ち直っただろう
お龍は「反魂香」で男色坊主達に「さしきれ」にさせられた楢崎家長男太一郎を次男扱いにしている
437 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/12/21(火) 21:54:25 ID:Fk41r7+w0
姉小路公知の暗殺で三条実美は震撼し同年6月8日に平井収二郎を介錯無しで十文字の切腹をさせる
美人のお龍を陵辱しようとした異常性欲の中川宮を制止したお龍の父の勤王家楢崎将作を嬲り殺して
それを寺社奉行管轄の病死扱いにして中川宮を公武合体派への転向を教示したのは奸臣池内大学で
加尾の陵辱を目論み三条公恭の素行を悪くさせ攘夷派公卿三条家の失墜を謀ったのは九条尚忠だが
武家の未婚の美女を陵辱するために飼い犬の4人の屈強な与力に襲わせて悲壮感を楽しみ
言い成りで無抵抗にされた武家の未婚の美女を商人出の男に犯させ眺めて楽しみ
武家の娘にその商人出の男の子供を妊娠させて屈辱感を味合わせて優越感に浸り
楢崎家の幼い娘達を親元から引き離してその恐怖心を弄び
楢崎太一郎を勢力圏の天台宗男色坊主に弄ばせて喜び
お龍のいる寺田屋に近藤勇と桐野利秋の猛者を送り込んで力攻めでお龍の服従を迫る
これらは全て他人がやった事として責任逃れをして己の異常性欲を隠す点で共通している
この思考は当時でも特異であり他に類を見ず尚且つ
これら全てに関与し指示できる異常性欲のド変態御落胤は中川宮朝彦1人だけだ
余談だが九条尚忠は昭和天皇の母親の祖父であり昭和天皇の妻の香淳は中川宮の孫である
昭和天皇の母方の祖父は女癖の悪い交尾合体の重鎮で(所詮交尾の狐)
昭和天皇を太平洋戦争に導いた妻香淳は女狂いのド変態御落胤の孫である(所詮伏見宮系は御落胤)
また奸臣池内大学の孫の池内宏は東京大学文学部東洋史専攻の名誉教授である
つまりド変態ファシストの国史歪曲プロパガンダの長が東京大学だということだ
姉小路公知暗殺団指揮官はド変態中川宮朝彦に命令された側近の伊勢新刀流師範の有馬範顕である
そしてこの有馬範顕が中川宮朝彦の坂本龍馬暗殺団を統括し
暗殺後桐野利秋を懐柔し薩摩藩を追従させる為に桐野の真似をして態とらしい遺留物を残した
「官武通紀」は女狂いの中川宮を擁護する為の虚構である
中川宮は御落胤兄弟の北白川宮を手懐け異常性欲を満喫する為にニセ天皇になり
御落胤ハーレムを築こうとした
明治6年西郷らが征韓論敗北で下野し国政が岩倉らによって公家の専制になると
中川宮家臣で坂本龍馬暗殺団の一人である山田時章も明治政府で要職に就いた
西南戦争で田中新兵衛の遺志を果たせずに戦死した桐野は無念だっただろう
東武天皇の構想は後に関東軍を従えた満州での御落胤帝國へと引き継がれる
満州黒龍江省には太平洋戦争終結の後に発見された中国最大の油田があるが
関東軍は戦前からその地に油田があることを某中国人(某台湾人)から聞いていた
つまり大日本帝国の太平洋戦争開戦の目的は資源枯渇によるものではなく
天皇と日本国民の玉砕を礎とした満州に於ける御落胤ハーレム帝國の建国である
1941年4月成立(期限5年)の日ソ中立条約は御落胤穴熊帝國の為の囲いである
つまり御落胤宮家は日本を1946年4月までに玉砕させるつもりだったということだ
これが太平洋戦争に於ける伏見宮一族の真実である
438 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/12/22(水) 21:54:23 ID:Fjhlo38V0
元治元年(1864年)8月1日京に戻った龍馬はお龍を寺田屋に待避させ
中川宮の勢力圏の青蓮院塔頭金蔵寺で内祝言をあげ青蓮院姦淫坊主朝彦に宣戦布告する
これに憤慨した中川宮朝彦はまず龍馬の師である勝に狙いを定め
元治元年(1864年)9月神戸海軍操練所に対して過激派の巣窟という嫌疑を掛けさせ
同年11月軍艦奉行を罷免された勝は塾頭龍馬に薩摩を頼るよう指示する
勝は君側の奸の中川宮と真っ向から対決する以上すでに覚悟は出来ていた
「坂本龍馬の空白の4ヶ月」は君側の奸中川宮粛清のための薩摩との共同作戦である
龍馬は中川宮の勢力圏の青蓮院塔頭金蔵寺での内祝言で朝彦を誘き寄せ朝彦を斬るつもりだった
奸物中川宮は勝の罷免の直後の11月及び12月に
奸物らしき近藤勇と奸物の守衛として就いている桐野利秋をお龍の元に差し向けた
北辰一刀流の龍馬は朝彦自身が痺れを切らしてお龍のもとへ乗り込んでくるのを待ち構えたが
中川宮が公武合体における君側の奸である確証は得ることができた
第一次長州征伐で西郷が穏便に収拾したのは日本の真の憂いは君側の奸にあると勝が諭したからだ
八月十八日の政変から孝明天皇崩御まで君側の奸として朝廷で君臨していたのが中川宮朝彦であり
この間朝彦は保身の為及び異常性欲を満たす為に佐幕派を意のままに動かすことができた
だが五卿の処分は西郷に従い中岡慎太郎の奔走で福岡預かりとなり長州征伐は決着する
龍馬は三条家でシンボルの詰割り強襲で脅した時と同じように
お龍に忍び寄る中川宮を斬るために寺田屋の片隅に潜んでいた
お龍の話では寺田屋には家内の者でも知らない秘密の部屋や階段があったそうだ
その間に新撰組が寺田屋を新撰組の定宿したいと言ってきたがお登勢は従わず
お登勢が新撰組に縛れれていた時も龍馬は隠し部屋に潜み寺田屋は新撰組に休息だけ了承し
龍馬が潜む寺田屋に新撰組がウロウロする状況が続いた
だが公恭からシンボルの詰割りの話を聞いていた朝彦は結局龍馬を恐れ自ら忍び寄ることは無く
佐幕派を動かし元治2年(1865年)3月18日勝の神戸海軍操練所を廃止させる
慶応元年(1865年)4月22日龍馬は西郷とともに薩摩へ向かう
続きは>74
439 :
坂本弁証人・でん次郎:2010/12/23(木) 22:15:19 ID:xLscci7o0
お龍と加尾が美人でなかったなら明治維新は成す事が出来なかったといえる
文久3年(1863年)6月29日の龍馬の乙女へのせんたくの手紙に於いて
「美人を連れて行ってはいけない」と忠告している
これは素行の悪い奸物の中に加尾のような若くて美人の女を行かせなければ
加尾が酷い目に遭わず平井収二郎が無駄に命を落とすことは無かったという意味だ
もし加尾の代わりに強情で強い婆さんが三条家に行っていたら
公恭の素行が悪くなってもそれを窘め姦淫坊主中川宮に対し付け入る隙を与えなかった
そして龍馬は顔かたちは加尾より上という千葉佐那と普通に夫婦になり
平井収二郎は美人の妹加尾の嫁ぎ先探しに懸命だっただろう
だが武市瑞山率いる土佐勤王党を以ってしても奸物共を打ち破ることは出来ない
長州は久坂も高杉も桂も幕府との戦いで憤死し
薩摩は幕府による圧制のなか孤立し西郷は篤姫奪還を試みるが失敗し小松は無念のうちに息絶え
大久保は君側の奸の御用聞きとなり唐行き達を海外に売り飛ばす手筈で身を削る
姦淫坊主中川宮朝彦は朝廷と佐幕派を牛耳り性欲発散人生を満喫する
美人のお龍は中川宮に強引に陵辱され亡父の跡を追う
国体は「いぬ」に占有され神話とは完全に「別物」になり日本人は誇りを全て失い
志を立てる者はいなくなると以蔵は言う
天台宗青蓮院を勢力下に置く奸物の殲滅は一人ではできない
「一人でやればそれはそれは恐ろしい目を見るぞよ。
これをやろうと思えばよく人の心を見定めなくてはいかん。」
奸物共は今でも節操のないシンボルの矛先を獲物に向けようとしている
あなたは奸物のシンボルを信じますか
それとも英雄たちの志を信じますか
龍馬伝総集編やってるね
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 21:24:18 ID:4G2qCQxz0
大河終わったらスレ終了か
底が浅いな
坂本龍馬と薩長同盟真実
1864年10月頃、福岡藩の早川養敬と月形洗蔵によって立案される
同年11月、早川中岡慎太郎と面会、同盟の重要性を説く
同年12月、早川月形の斡旋で西郷隆盛、高杉晋作の会談が実現
その後、早川月形は藩政が急転し失脚し脱落、活動は中岡土方へ受け継がれる
1865年1月、中岡は高杉山縣と会談、二月、中岡は長州藩勇士に対する薩長和解の必要性を説き
京の薩摩藩邸に出入り、4月下関大村益次郎・伊藤博文、桂小五郎らと面談しさらに強く薩長和解の必要性を説いた
同時に土方に坂本龍馬を説得し協力させる
龍馬参戦は1865年の3月辺りに桂小五郎と会談、亀山社中発足と同時進行
5月、西郷に下関で桂と会談することを了解させる
以下、ドラマ小説への世界へ
翌年1866年一月に薩長同盟成立
結論、中岡土方のおかげでした
444 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/08(火) 23:41:11 ID:yuurn5GT0
薩長同盟を成立させるためには、薩摩から長州に武器を輸送する
ことが必要条件だった。結局それを実行できたのが竜馬だったんだよ。
薩長両方に顔が利き、船を操れる人間が不可欠だった。
理論ができても実行できなければ絵に描いた餅になってしまう。
長州はグラバーと関係を持っていたので
わざわざボッタクリ価格で薩摩から買わずとも
自力でも調達できたんじゃね?
下関で堂々と外国商船から購入してたら、それを長州攻めの口実にされそうだったとか?
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/10(木) 16:12:55 ID:kBcTVcyYO
何たる知識の低さよ。
長崎での正規の武器貿易は幕府の長崎奉行を経由することが条約で定められている。
長州藩には絶対無理だ。
つまり薩摩藩が横流しするしかない。
密貿易をするにも過去に異国船に無差別砲撃をしたので長州の港に来る異国船は少ない。
黒船で直接上海辺りまで出向いて購入しようにも、黒船の購入自体薩摩の横流し頼みだし
結局この時期の長州藩は薩摩藩に依存していた。
>>447が正解
貿易は幕府が独占していた為に幕府の許可無く仕入れるのは不可能
この時点で負け組は長州だから異国が長州に加担するメリットは無い
449 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/10(木) 23:16:23 ID:zKnLt1lG0
>>434 暗殺したのは今井信郎じゃないの? 違うの??
長州藩は薩摩や坂本の仲介を得る以前から、単独で兵器購入に動いてた筈だが……
梅屋七兵衛とか。
ただ出向いてみたら偽情報だったとかもあったりして、
薩摩の仲介を得ることにより大量の兵器調達が可能になった。
>>450 元々薩摩とか長州は密貿易で利益挙げているからなあ
452 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/12(土) 20:45:26 ID:WJmRFzZLP
利益っうたって、借用書を全部商人どもの前で燃やしちゃってるのよ
調所広郷最強伝説
凄いなぁ。
455 :
sage:2011/03/27(日) 21:54:18.49 ID:DeinHuja0
難しい話ばかりだなぁ
龍馬は、浪人という立場を一番活かしたポジションで
数々の仕事をしたことには異論はないよね?
でん治郎は、何処へ行った?
458 :
【東電 64.5 %】 :2011/04/10(日) 15:34:51.69 ID:cXeGXjxM0
>>458 >武器の運び屋とブローカー業くらいかな
では、薩長盟約を周旋したことは、浪人のポジションでないと
出来なかったという研究者のほぼ定説は無視なわけね。
460 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/12(火) 15:04:39.63 ID:KtN9W44dO
盟約締結に関しての龍馬は潤滑剤的効果であり、それ以上ではないと思うが
居た方がベターではあるがメインではない
龍馬って狂言回しとしては面白いけど、主役として話を作るのは無茶だと龍馬伝で判った
なにをしたのかわかりづらい人
463 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/17(日) 18:39:48.85 ID:GNwRz7iw0
たいした働きもないのに、過大評価され過ぎ
464 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/17(日) 20:49:56.28 ID:Apk3iks50
龍馬暗殺は皆語るが中岡暗殺は語らないのな。犯人は坂本、中岡の両名
の隙をうかがっていたのだ。両者の動向を絶えず把握し両名が2人きりに
なるときを狙った。それがもっとも容易なのは身内の土佐だ。
俺は土佐説を採る。
465 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/17(日) 21:10:48.33 ID:0lgveIkgP
なんで中岡なんか殺す必要あるん?
動機は逆恨みに近いかも知れんな。
>>461 >盟約締結に関しての龍馬は潤滑剤的効果であり、それ以上ではないと思う
あのさ、当時藩という自らの所属を捨てた草莽は潤滑剤的効果などという
ものではなく、長州・薩摩藩を周旋する重要なポジションを担う存在で
あったのではないの?
>居た方がベターではあるがメインではない
それだから、↑のようなことになるんじゃないの?
つまり、メインでない存在であるから重要な役割を果たしたという。
>>467 うーん、言い方が悪かったかな
薩長は龍馬がいなくても、遅かれ早かれ提携してたろうと思ったからそう言ったんだけど
龍馬という存在がいることによって、スムーズに進んだのは確かだと
周旋の役割を担う草奔の役割の重要性は認識してるつもりだよ
まあ確かに自分は薩長側の視点に偏ってる部分はあると思うw
>>468 龍馬、英雄史観はもたないというかもてないことは
この20年の幕末史の研究が進み常識になっているけど
薩長盟約までは、間違いなく所属がない浪人のエージェントしての
位置づけが、薩摩にも長州にも利用価値があったわけで、
それから先は歴史を読めば、両藩にとって用無しとまでは
いわないが、龍馬抜きで歴史は進んでいる。
470 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/29(金) 09:45:06.10 ID:0dUpPhqT0
薩長のパシリを難なくこなした龍馬。
471 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 17:47:34.44 ID:RmGnS369O
>>468 > 薩長は龍馬がいなくても、遅かれ早かれ提携してたろうと思ったからそう言ったんだけど
第2次長州征伐直前のタイミングしかあり得ないから
『遅かれ』なんて戯言はアホとしか言えない
>>471 >第2次長州征伐直前のタイミングしかあり得ないから
『遅かれ』なんて戯言はアホとしか言えない
それは誤り。佐々木先生の薩摩研究文献と高橋先生の文献を読めば
それは、アホなのはあなたであることは明白。
>>471 追伸です、
>>472で書いた佐々木・高橋さんの文献は以下の通り
佐々木克先生の文献は、
「幕末政治と薩摩藩」
吉川弘文館 2004/10
高橋秀直先生の文献は
「幕末維新の政治と天皇」
吉川弘文館 2007/01
読んでからレスして下さい。
>>473 読むのは面倒くさいから
薩長連合無しに第2次長州征伐に長州が勝つ見込みは皆無
薩長連合あっても勝ったのは奇跡なんだから
>>474 そんな簡単な解釈はできないように思うよ。
最近の幕末史の研究は、悪く言えば重箱の隅をつっいているのかも
しれないが、単純な先進の薩長史観と旧弊な公儀史観でない歴史を
実証している。とても細かい上にそれを理解するための先行研究も
読まないといけないから、めんどくさいのは違いない。
概略をお願いします
>>476 だから、
佐々木克先生の文献は、
「幕末政治と薩摩藩」
吉川弘文館 2004/10
高橋秀直先生の文献は
「幕末維新の政治と天皇」
吉川弘文館 2007/01
それと、原口清
「王政復古への道」
岩田書店 2007/9
を、読んで下さい。
嫁嫁じゃここで語る意味がないの
そろそろすっこんでなさい
>>478 はいそうします。
こんなところで概略なんて書けないから仕方ないです。
480 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/14(土) 20:37:13.39 ID:kRP06OWmO
・・虚し
>>477 自分の言葉で語れないなら論外だよ
君はテストでも『教科書読め』って解答するのかな?
482 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 19:12:37.13 ID:DghG0El2O
本の宣伝だったりしてw
>>477 >自分の言葉で語れないなら論外だよ
あのね、自分の言葉って何?
知識がないようだから、最新の研究を紹介した。
ためしに、あなたが自分の言葉とやらで、幕末維新史を書いてみなよ。
>君はテストでも『教科書読め』って解答するのかな?
2chがいつからテストになったんですか?史学で教科書に解答が
あるというのなら、厨房のレベルの話でしょうね。
>>482 はっきりいえば、あなたのような方が読んでも面白くない文献だと
思います。
484 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 19:53:42.28 ID:DghG0El2O
>>483 お前、まわりから嫌な奴って言われてると思うぞ、陰でなw
>>484 だからね、あなたが日本史の学術論文をまとめた本を
読んだ経験がほとんどないことは分かったから、まわり云々はイラネ。
>>483 屁理屈ばかりだね
テスト云々は例えだから
まぁ〜知識自慢したいだけのアンポンタンなのは解ったよ
ただ人の意見に反論レス付ける場合『〇〇〇を読め』で片付けるのが知識人なの?
>>486 >まぁ〜知識自慢したいだけのアンポンタンなのは解ったよ
まぁ〜知識0なのを平気でいるアンポンタンなのは、よ〜く解ったよ
ものすごく複雑な歴史を語るために、必要な文献を紹介し、その上で
議論をする方が間違いなく、歴史の理解が深まる。
あなたのような読みもしないで、屁理屈ばかりなんていうアンポンタンに、
ああだこうだ云われる筋合いはない。
>>487 馬鹿はほっとこうぜ、こういう議論は前提となる知識が必要不可欠で
異論があるならその上で論理を展開しなくちゃってのも解らないクレクレ厨のアンポンタン野郎は構うだけ無駄だよ…
親切なのが裏目に出たな
489 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/17(火) 23:48:03.14 ID:QzgvJ+Hh0
福島の悲劇は私に戊辰戦争の会津の悲劇を想い起こさせる。会津を含む東北の悲劇と言ってもいい。
現首相の菅直人は自らを長州人としている。高杉晋作が好きというのも同郷だからという要素が大きい。
小泉純一郎は父親が薩摩の出身であり、やはり長州人を自負する安倍晋三を加えれば、
薩長がいまだにこの国の政治を動かしているとも言える。
福島を含む東北は「白河以北一山百文」として、その政治から切り捨てられてきたのである。
「薩長軍は官軍にあらず、官賊だ」とする会津の人たちがいまも薩長に怨みを深くしているのは、
彼らが戦いで死んだ者の埋葬を許さなかったからである。
賊軍すなわち犯罪者という理由で、官軍は会津藩士の遺体の埋葬を禁じた。そのため、
放置された遺体は狐や狸や野犬に食いちぎられ、烏につつかれたりして惨憺たる有様となった。
一部は白骨化し、一帯は死臭ただよう地獄と化したという。そこを通る者は鼻をふさがなければ歩けなかったといわれる。
かの白虎隊士の遺体も同じだった。
ある村の肝煎があまりにかわいそうだと哀れんで、ひそかに埋葬したが、密告によって肝煎は捕えられただけでなく、
遺体は掘り起こされて、ふたたび放置されてしまった。
一方、官軍という名の薩長軍は会津城下の寺に墓地を設けて埋葬している。
あるいは、こじつけと言われるかもしれないが、震災に対する復興援助の遅れや、
原発に対する信じ難い無為無策を見ていると、第二の東北処分ではないかとさえ思われる。
東北出身の私としては、てめぇら、本気で助ける気があるのかと怒鳴りつけたくさえなるのである。
(佐高 信)
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/data/fusokukei/data_fusokukei_kiji.php?no=1937
>>487 頭が良くて良かったね!(b^ー°)
文献のタイトル書いただけで知識人気取り
学がある方は違いますなぁ〜
話を
>>471に戻す
自分の言葉で語ってくだちゃい(>_<)
学のない可哀想な子なんだよ
粘着さんは、携帯から書き込んでいる厨房?
引き篭りは携帯に敵対心あるんだよね(^w^)
知識人さまはアホなど相手にしないのがいいね
話のわかる親密なお友達とだけ語ってたらいいんじゃないかな
497 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 19:19:22.84 ID:2VRO/A2T0
どのスレも会津を持ち上げ長州を下げてるが
会津観光史学洗脳者は会津観光史学を肯定出来ないし
アンチ会津は史料で会津観光史学を叩いてるから
会津が下がるのは当たり前。会津のコリアン気質も明るみになったしな。
498 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/27(金) 00:24:46.02 ID:tP/n/EHzO
はいはい
499 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/01(水) 08:28:30.17 ID:jKrbUYOp0
まだ同じような妄言をねちねち繰り返しているのかな?さすが二枚舌の会津人だね
会津武士道とは、女々しくて残尿感の残る恥ずかしいものだとわかったよ
日本人を洗脳して玉砕させたわけだ
同じ悲劇を繰り返さないようアジアの皆さんやユダヤの人々に全体主義の鏡だったことを知ってもれえば?
戦後の教育改革で、欧米諸国は黒船来航(植民地政策)が明治維新のきっかけになったことに不快感をもっていたようだね
会津観光史学は、御用学者に便乗してプロパガンダ活動か?
俺は、ノンポリで政治的ことには一切関わりたくないからバイバイ
会津人よパンパースをきちんとはけよ。漏れているぞwww
500 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/01(水) 12:48:31.27 ID:4CrQLjfmO
へー
誤爆だろ?
502 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/08(水) 15:41:59.54 ID:ZE8r73QZ0
「竜馬がゆく」がよくもわるくも長く日本人の竜馬観ひいては幕末観
に影響与えてきたからな。
志をもった青年達が革命を起こしました、みたいな。
いやいや、脱藩浪士にあれだけの活躍ができるわけなくて。
奇跡でも魔法でもない。種や仕掛けがあるんだ。
坂本の海援隊が土佐商会の外郭団体だったのはなぜか?
後藤と坂本が仇怨を越えて提携した?ないない。
>>502 >いやいや、脱藩浪士にあれだけの活躍ができるわけなくて。
奇跡でも魔法でもない。種や仕掛けがあるんだ。
ああそうかね、じゃあ種や仕掛けは何だったんだ?
種や仕掛けは亀山社中だったり海援隊だったり三菱だったりだろうね。
ただ、薩長同盟の言いだしっぺは龍馬でなく饅頭屋長次郎だろうな。
長崎で伊藤と井上を小松帯刀に紹介して匿ってるし、
グラバーら外国人商人から船や銃器を薩摩名義で代理購入したあと
長州の窮状を井上の口から薩摩でしゃべらせる段取りなどは全部この大泉洋がやってる。
毛利親子は島津親子に饅頭屋のおかげで助かった、使える奴だと手紙で褒めてるくらい。
薩長同盟に必要だった潤滑剤というかクッションは商利・商業主義で
商人出身の大泉洋がこの能力に長けてて、才谷屋の端くれがそれを理解したんだろ。
まあ小松帯刀あっての饅頭屋と才谷屋、長州の総和が薩長同盟だと思うが。
505 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/24(金) 23:05:02.76 ID:cqWrazK20
NHK、2013年の大河は福島が舞台 新島襄の妻が主人公
>>504 こういうことを平気で書く人がいるのが幕末史の特徴。
中身については、種や仕掛けについて答えになってない。
けど、本人は分からない。はぁーあ…
507 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/26(日) 13:21:14.87 ID:p4wLkwRDO
×幕末史の特徴
○2chの特徴
反証や反論なしに
てめーの思い込みだけで「答えになってない」って書いて捨てるのも
2chの特徴だわなwww
天才たちの会話
511 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/27(月) 09:30:02.10 ID:QDgcR/H60
>> あるいは、こじつけと言われるかもしれないが、震災に対する復興援助の遅れや、
原発に対する信じ難い無為無策を見ていると、第二の東北処分ではないかとさえ思われる。
東北出身の私としては、てめぇら、本気で助ける気があるのかと怒鳴りつけたくさえなるのである。
(佐高 信)
・・・このオッサンの芸風も変わらんな。
512 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/27(月) 10:38:45.90 ID:do9D8gMGO
このおっさん著述家、評論家だろ
芸風って何だよw
>>504 内容は、幕末史の専門書を読めば思いつきであることはすぐ分る。
特に、
>商利・商業主義で
商人出身の大泉洋がこの能力に長けてて、才谷屋の端くれが
それを理解したんだろ。
近藤長次郎が商利・商業主義であったことを示す史料は
何でしょうか?お知らせください。そもそも江戸時代末期の
商業主義のとはどのような形態なのでしょう?
>>508の
>てめーの思い込みだけで「答えになってない」って書いて捨てるのも
上記に少し書きましたが、私は別に思い込みでもなんでもないですよ。
小説が創り出した坂本龍馬を持ち上げて観光に利用するのが
「龍馬観光史学」と呼ぶらしい。
日本史板荒らしの「アンチ会津」が小説をネタに観光で稼ぐ高知県のような地域を叩け!とわめいていた。
515 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 00:20:57.67 ID:q/W/2iIN0
嘘も百回唱えれば本当になるとも言いたげな会津市民は、所詮捏造犯に過ぎない。
歴史をどう見ても、彼らの主張する会津の正義などどこにもない。
化けの皮がはがれて、もうNHKでも会津大好きっ子さんたちは怒鳴り散らすしかする事がない。
>>515 このスレでも会津が〜会津が〜を始めるの?
スレタイと関係ないだろうが
517 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 08:19:59.29 ID:wwW42siZO
会津関係者がそこら中にウソコピペを貼って苦情へは脅迫とは。
518 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 10:28:01.74 ID:lD6vns5QO
そんなに笑うなよ
坂本龍馬と薩長スレなのに
会津の話題ばっかりですね
520 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/06(水) 18:01:43.26 ID:Yfu4vRRQ0
会津はすげー人気だなw
武器商人坂本竜馬
ところで武器と麻薬は必ずセットで侵入してくるそうで、どちらか片方だけというのは在り得ないとか
522 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 21:47:25.16 ID:7AWnUSL5O
武器と梅毒じゃねえか?
磯田氏や鷲田氏の語る龍馬が本物ですね。
グラバーはマセソン商会の人間だからアヘンも用意してたんだろう。
先ず侵略目標の国に軍隊が介入してその国の政府が取り締まれない状況でアヘンを撒く。
林子平の本が焚き付けた尊王攘夷運動が、麻薬を受け入れると考えているとしたら、
当時の国難という危機感から生まれた運動を見損なっている。
527 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 04:16:45.99 ID:eIPDiz0g0
創作板過疎りすぎだろ
>>514 それも一理あるだろwww
そもそも高知は龍馬英雄化以前に、実際には堕落した志士崩れで裏切り者の便乗DQNに過ぎなかった岡田以蔵を
実際にはこいつの女も耐えていた拷問による自白で、次々と死地に送られた武市含む他の勤王党員達を
岡田を使い捨てにしたゴミクズなどと、不必要に貶めるような大嘘極まりない創作を鵜呑みにして悲劇のヒーローとして観光利用してる辺りが頂けない
530 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/19(火) 23:12:59.95 ID:YrZegd2sP
それは何も高知に限った事ではなく観光資源に乏しい田舎ならどこでもやってる
531 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/20(水) 04:58:54.65 ID:Wk5DVmZWO
龍馬観光史学ここに極まれり。
会津観光史学の被害者は山口だが
龍馬観光史学の被害者は誰よ?中岡?
>>352 龍馬観光史学の被害者は武市じゃないかな
性格的に正反対だったせいか、明らかに龍馬の引き立て役として小物のゴミクズ扱いされとるし
あとは後藤辺りかね
中岡はそこまで被害被ってないと思う
高知でも顕彰されてるし尊敬されてるし
大きな記念館も有る
あ、レス番間違えた
>>533 本当なら中岡暗殺事件、おまけで殺された竜馬なのに
中岡のほうがオマケ扱い。
中岡中心で考えないといけない事件なのに小説家が龍馬を狙った暗殺にしちゃった。
当時の薩摩から見た重要性は中岡にあったが、それと暗殺の標的とは関係ない。
中岡は三条や岩倉とも繋がりがあったんだっけ
朝廷工作の面でも中々の影響力
538 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/21(日) 18:55:22.31 ID:NuXIC+zn0
会津まつり「藩公行列」の配役決まる
http://www.minpo.jp/pub/topics/odekake/2010/08/post_2386.html 会津の秋を彩る「会津まつり」は9月22日から3日間、会津若松市の鶴ケ城などで催される。
メーン行事となる会津藩公行列の主な配役が25日、発表された。
城代家老田中土佐役として俳優の岸浩太郎さんが登場する。
岸さんは20年以上前のテレビドラマ「白虎隊」で白虎隊士を演じたことがあり、一般公募枠で参加する。
このほか、幕末の藩主松平容保役は会津松平家14代松平保久さん、会津松平家初代藩主保科正之役は菅家一郎市長が担当する。
新潟県長岡市などゆかりの自治体からも多く参加する。
提灯(ちょうちん)行列や会津磐梯山踊り、日新館童子行列、鼓笛隊パレードなども行われる。
539 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 05:43:59.19 ID:jHgWBT7K0
龍馬=ヒーローという
いっぺんとうの像も
そろそろ解体の時期じゃねの
徳川260年平和なのに
明治維新以降戦争ばっかだったし
坂本だけにとどまらず高知市観光協会は
出身の偉人を実績以上にプロモーションするのが上手いと思う。
自由民権記念館で板垣が美化されすぎてて噴いた。
541 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/17(土) 16:03:54.21 ID:gqzruS/QO
戦前までは武市先生が土佐の英雄だったのに
いつの間にか龍馬観光史学が蔓延り武市先生が脇役に
嘆かわしい。
>>539 悪賢しこく狡猾なる邪な西洋が攻めて来たから仕方ない
維新志士や幕閣の側が国内の勢力争いにおいて狡猾ではなかったかというと
そうではないのでして。
544 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 20:43:17.40 ID:1qcomxGJO
へ―
545 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/01(土) 23:41:06.04 ID:ezWsDOMLO
>>539 戦争がなけりゃいいってもんじゃないだろ。
江戸時代の日本は、戦争をしなくても、
戦時中以上に人が苦しみ悶え惨めに死んでいく欠陥社会の貧困国家だった。
北朝鮮みたいなもんだ。
北朝鮮ほど酷くはなかったんじゃね?
まー飢饉のときも行政が放置したりして、一揆や国内難民が生じてるから
ユートピアだったって意見にも到底賛同できないが。
547 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 00:51:27.67 ID:wWeARmqi0
日本の時効制度の起源は坂本龍馬暗殺
明治政府は龍馬暗殺犯を逮捕したくなかった
というより帝政の公卿中心主義によって逮捕させるわけにいかなくなった
つまり維新後に明治政府側になった親幕派中心公卿が犯人一味
よって伏見宮一族の急進的親幕派中川宮が坂本龍馬暗殺犯として断定された
江藤がそんなんに配慮するかな。
549 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 02:29:25.71 ID:wWeARmqi0
公訴時効の起源とされる治罪法は1880年制定
江藤新平の死後(1874年)
広島預かりの中川宮の伏見宮復籍が1872年
江藤も伏見宮一族にとって邪魔だったことが判る
550 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 02:54:27.06 ID:wWeARmqi0
本来生首を晒すべき罪人は中川宮朝彦ということだ
>>550 激しく同意。
国賊中川宮家だけでなく国賊輪王寺宮家・国賊近衛家・国賊二条家・国賊松平家も揃って斬首されるべきだったな。
彼らは恥知らずだから、自裁せず、あべこべに恩を徒(あだ)で返し続け、
国賊近衛文麿内閣までつくりやがって、
結局、日本を滅ぼしやがった(´・ω・`)
552 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/05(土) 09:29:00.78 ID:h23WoPJW0
武田の演じた坂本は福山の演じた坂本より
百倍かっこ悪かったが百倍情熱的だった。
>>547 見廻り組の今井が暗殺時の見張り役として刑に服してるんだが?
ただ今井があれは公務だったと言い張るので規定により軽い罰で済んだ
>>553 ( ゚Д゚)ハァ? 公務と言い張った? 軽い罰? 何を言ってるんだかp
今井信郎は、刑部省に、あわれにも妄想患者(精神障害者)になってしまった元御家人として扱われたから、刑罰なしで、静岡藩お預け。
>>554 『坂本龍馬関係文書』の『兵部省・刑部省口書』に今井信郎の禁錮刑の裁判記録が載ってるよアホ。
其方儀、京都見廻組在勤中、与頭佐々木唯三郎差図ヲ受、同組のものと共二、高知藩坂本龍馬捕縛ニ罷越討果候節、
手ヲ下サズド雖モ、右事件二関係致し、加之其後及脱走、屡々官軍ニ抗撃遂降伏いたし候とは乍申、
右始末不届ニ付屹度可処厳科処、先般被仰出之御趣意ニ基キ、寛典ヲ以、禁錮申付ル。
但、静岡藩え引渡遣ス。
右申渡趣受書申付ル。
静岡藩士族
高倉清太郎
右之通申渡、信郎引渡候間得其意。
庚午九月廿日
精神病がどうたらは何がソースなんだかw
>555
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
> 右始末不届ニ付屹度可処厳科処、先般被仰出之御趣意ニ基キ、寛典ヲ以、禁錮申付ル。
つまり、
とんでもないテロリストかつ重罪人の賊徒として「厳科」に処すべきところ、
先般元勲たちが仰せ出された、かわいそうな元御家人の妄想患者どもにはそれなりに汲んでやれという「御趣意」に基づき、
軽犯罪者程度に扱って「禁固」を申し付けた、とあるんだが
>>556 禁錮刑を申し付けられてるのだから当然刑罰無しではない。
間違いを認めようなー
どうせ『兵部省・刑部省口書』のことも知らなかったんだろw
558 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/08(火) 00:14:47.18 ID:9cw8HXDb0
>553
京都見廻組の公務は公家社会の警備及び警護
つまり今井の自供は親幕派中心公卿が坂本龍馬を暗殺したことを自白したものだ
559 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/08(火) 00:26:04.69 ID:9cw8HXDb0
坂本龍馬暗殺犯は7人ともそれ以上いたともいわれる
つまり坂本龍馬暗殺犯は姉小路公知暗殺後に八月十八日の政変で攘夷派公卿を京から追い出し
蛤御門の変の標的となった親幕派中心公卿中川宮朝彦とその側近及び青侍だ
560 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/08(火) 00:27:18.94 ID:9cw8HXDb0
今井は「それ以上」の中ということ
561 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/08(火) 01:24:14.95 ID:9cw8HXDb0
刑に服したが処刑されなかったということは
京都見廻組今井は公務の親幕派公卿の警護中に坂本暗殺に加担はしたが
実行犯ではないということを証明している
今井を処刑しなかったのは真犯人が親幕派中心公卿であることは判明していることを残すため
つまり広島幽閉を解かれても中川宮朝彦は常に処刑されることに怯え
伊勢で身を潜め色欲に没頭した
だが帝政の公卿中心主義によって太平洋戦争後の現在まで
赤門の大馬鹿共によって坂本龍馬殺害犯の真相は有耶無耶にされていた
562 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/08(火) 02:35:55.46 ID:9cw8HXDb0
赤門と色欲公卿の共通点はナルシズムということ
563 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/08(火) 03:12:52.77 ID:9cw8HXDb0
まるで放射能汚染
>>557 とことんアフォだね
拘置所も精神病院もない時代だから、暗殺犯の一味であることを自慢しながら(切腹)斬首ではなく禁固刑ってのは、
コイツは気のふれた病人だ、しばらく禁固しておけばよい
ってことなんだよp
>刑罰無し
566 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/14(月) 17:09:37.50 ID:RNGui8AN0
明治二年七月の法令で
「私利私怨によらない旧幕時代の行為」(テロ・暗殺・武力蜂起)は
いちりつで不問あつかいになっているんだから
今井信郎は龍馬暗殺については刑罰に問われていない
てゆーか、そもそも問われたらおかしい。
禁固刑は函館政府軍に参加して、維新政府に反抗したからで
龍馬暗殺は無関係だよ。
それから2年で釈放されたのは
西郷隆盛・黒田清隆の運動で
明治五年正月に函館政府関係者の特赦出獄が認められたからだよ。
榎本武陽も大鳥圭介もこの時に釈放されている。
>>566 坂本中岡暗殺は余りにも明らかに「私利私怨」だろ。
坂本中岡暗殺が一体どういう公務だったのかを
京都守護職の会津藩や京都所司代の桑名藩や大目付・目付が直後に全く明らかにしていない以上!
568 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/30(金) 09:34:05.67 ID:ZZjg18V00
は?
569 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/30(金) 14:25:41.61 ID:BAJsDjSN0
暗殺犯が未だにははっきり特定されないなんてミステリーだな
やはり知り過ぎた者がそれとなく消された…じゃないのか?
グラバーのエージェント龍馬は闇に葬られた
570 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/30(金) 19:06:32.55 ID:NwvaGBWGO
はいはい
571 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/30(金) 19:10:43.79 ID:3jupY1dS0
しかし、郷士が殿様よりも格上に扱われている現在の状況って
龍馬本人はどう想うのだろうか。
高知では空港の名前まで坂本龍馬だが…。
長宗我部家や山内家をそっちのけってのもね。
572 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/01(日) 14:57:00.29 ID:YOJ1OI7hO
長曽我部空港とか山内空港じゃ、一般の人は何の事だか分からんだろw
>暗殺犯が未だにははっきり特定されないなんてミステリーだな
特定されているじゃないか。
京都見廻組。
てゆーか、
維新前後の暗殺事件は暗殺犯が特定されている方が珍しいんだけれど。
>>574 龍馬・慎太郎暗殺犯は、名前を出されたくない新選組と佐々木只三郎
576 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/05(日) 12:47:05.95 ID:x9k7KbqH0
龍馬が煙たくなった薩摩が見回り組に密告したんだろうな
577 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/05(日) 15:22:14.67 ID:zRDjGmBWP
ではなんで命を狙われてるから、ずっと薩摩藩邸におれなどと言ったわけ?
578 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/06(月) 23:30:47.16 ID:Q/pCVp9/0
佐々木只三郎 ・・・このオッサンは清河も暗殺しているな。
真相なんてわかるわけないだろ
タイムマシーンでも開発しない限り。
幕末なんて資料が残ってるほうだよ
それ以前の歴史なんてもっとあいまいすぎるわ
>>556 その内容で面白いwのは、では何故同時期に捕縛された元新撰組隊士・大石が処刑されたのかwて話
しかも、罪状が「伊東ら」殺害容疑だったかな?
まさしく、黒田の居ぬまのってやつなんだろうがw
坂本龍馬をテーマにした箱庭
ttp://www.ebc.co.jp/i/snews/kiji.asp?SN=41744 坂本龍馬をテーマにした大型の箱庭が大洲市の民家に完成し一般に公開しています。この箱庭は、大洲市平野町野田
の久保田悦史さん(74)と妻の幸子さん(72)が坂本龍馬の脱藩150周年を記念して製作したものです。「日本の夜明け」
と名付けられた箱庭は幅4m、奥行き2mという大きさで久保田さんの自宅の植物を栽培するハウスでお披露目されてい
ます。布や木材などを材料に日の出の太平洋に浮かぶ蒸気船や熱い視線を注ぐ龍馬や妻のおりょう西郷隆盛らの
人形が、激動の幕末を表現豊かに再現されています。久保田さんの自宅では来月5日まで一般に公開し多くの人に
楽しんでもらうことにしています。
坂本龍馬の手紙や写真を展示
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014540752.html 坂本龍馬の写真や直筆の手紙など、戦国から幕末までの貴重な品を集めた展示会が高知県南国市で開かれています。
この展示会は、高知県南国市の県立歴史民俗資料館が平成22年度と平成23年度に寄贈や寄託を受けた貴重な品を
多くの人に見てもらおうと開いているものです。
会場には、戦国時代のよろいかぶとや幕末の志士の資料などあわせておよそ40点が展示されています。
このうち、慶応2年の春に書かれたとみられる坂本龍馬直筆の手紙は、土佐に戻る人に龍馬の乳母などへの伝言を
頼んだことなどが記されています。
この手紙に記された「此度の事」という文字は京都の旅館、寺田屋で幕府の役人に襲われ、負傷しながら逃げ延びた
事件を指しているとも言われています。
また、龍馬の写真は、長崎で撮影されたもので、高知市の桂浜にある銅像などでも有名な羽二重ノ紋付を着ています。
これらの写真は、年月が経って黄色く変色していることなどから資料館では、今後、保存処理を行う予定で展示会の
終了後はしばらくの間、公開できなくなるということです。この展示会は、5月20日まで開かれています。
585 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/10(木) 16:04:07.65 ID:vOOiJ+FO0
龍馬脱藩150年を記念する絵画展(
ttp://k.rnb.co.jp/news/detail.php?recid=12621732 幕末の英雄、坂本龍馬が土佐藩を脱藩してから今年で150年になるのを記念して、龍馬が訪れたとされる大洲市で
龍馬を描いた絵画展が開かれています。大洲城で開かれている龍馬の絵画展は、龍馬脱藩から今年で150年になる
のを記念して開かれています。会場には、松山市出身の墨絵アーティスト、茂本ヒデキチさんが今年3月に市内の
イベントで描いた畳一枚分の大きさがある龍馬の絵が展示されています。また、龍馬の一生をイメージした作品には、
龍馬が夢と希望を抱きながら船で颯爽と旅立つ姿などが墨の特徴を生かしたダイナミックなタッチで描かれています。
この絵画展は、今年いっぱい大洲城やおおず赤煉瓦館などで開かれます。
現代龍馬学会の発表会開催
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kochi/8016765221.html 幕末の志士、坂本龍馬の功績や考え方などを学ぶ「現代龍馬学会」の研究発表会が高知市で開かれています。
この学会は龍馬の思想や行動を現代に生かそうと高知県立坂本龍馬記念館が3年前から開いているもので、ことしは
龍馬について研究している大学教授や学芸員など7人が日頃の研究の成果を披露しています。
このうち、徳島大学の渋谷雅之名誉教授は龍馬に外国の事情を教えたとされる高知県出身の樋口真吉と龍馬との関
わりについて講演しました。
この中で渋谷名誉教授は樋口真吉が残した日記に龍馬が登場することについて触れ、龍馬が1861年頃に土佐藩を
脱藩したきっかけになった事情やその後の経過などを紹介し、全国から集まった龍馬ファンなどおよそ70人が熱心に
発表を聞いていました。
また12日は、このほか連載小説『竜馬がゆく』を担当した元新聞記者などが講演することになっています。
墨絵の龍馬像 大洲城に展示
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003707621.html 幕末の志士、坂本龍馬が土佐藩を脱藩してからことしで150年になったのを記念して、松山市のイラストレーターが
描いた墨絵の龍馬像が大洲城に展示されています。展示されているのは、墨絵のデザインで知られる松山市のイラスト
レーター茂本ヒデキチさんが描いた3枚の龍馬像です。
茂本さんはことし3月、龍馬が脱藩の際に通ったとされる大洲市河辺町で開かれた催しで、3枚の和紙に3種類の等身
大の龍馬像を描きました。
その後、大洲市が、これらの絵を多くの人に鑑賞してもらおうと、大洲城の天守閣で展示することにしました。
絵はいずれも、腕組みをするなどして遠くを見つめる龍馬の姿を勢いのある筆遣いと墨の濃淡を生かして描いています。
横浜市から来た女性は「激動の時代を生きた龍馬の力強さが伝わってきます」と話していました。
この墨絵は、ことしいっぱい展示されます。
新たなラジオドラマ制作へ
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013266501.html 坂本龍馬や武市半平太など幕末の志士を近未来の高知に登場させるユニークなラジオドラマが作られることになり
4日、高知市で制作発表が行われました。
このラジオドラマは、アニメや漫画のファンを高知に呼び込もうと高知市の印刷会社が企画したもので4日、記者会見
して概要を説明しました。
それによりますとドラマはいん石が衝突して壊滅的な被害を受けた2025年の高知を舞台に江戸時代からタイム
スリップしてきた武市半平太と岡田以蔵を音楽プロデューサーの坂本龍馬がアイドルとして売り出し高知を盛り上げる
という内容です。
ドラマはラジオだけでなくインターネットでも配信しスマートフォンなどでも聞くことが出来ます。ドラマを制作する印刷
会社の西村啓専務は、「スマートフォンでラジオドラマを聞く若者が最近、増えているのでドラマを聞きながら高知の
観光を楽しんで欲しい」と話していました。
このドラマは7月10日から毎週一話ずつインターネットで配信されるということです。
戦争と平和を考える資料展
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013285921.html 高知県に関係する戦争の資料、およそ400点を集めた展示会が高知市で開かれています。
この展示会は平和について考えるきっかけにしてもらおうと高知市にある民間の平和資料館「草の家」が毎年開いて
いて、高知市の「自由民権記念館」には高知県に関係する戦争資料、およそ400点が展示されています。
このうち、太平洋戦争末期に室戸市の20代の男性が現在のミャンマーに出征する時につくられたという出征旗は
縦1メートル40センチ横2メートル70センチもある巨大なものです。
漁業が盛んな室戸市にちなんで、地元の婦人会が大漁旗に似せて作り男性を送り出したということですが、男性は
現地で病死し故郷に戻ることはなかったということです。
このほか会場には高知市出身で反戦詩人として知られる槇村浩の生誕100年を記念して、槇村直筆の詩の原稿の
コピーなども展示されています。この展示会は、高知市の「自由民権記念館」で8日まで開かれています。
児童たちが坂本龍馬の衣装体験
ttp://www.ebc.co.jp/i/snews/kiji.asp?SN=42359 児童たちが坂本龍馬の衣装を着て幕末の英雄になりきるイベントが、23日大洲城で行われました。
このイベントは龍馬脱藩150年事業の一環で開かれたもので、喜多児童クラブの子供たち38人が参加。
龍馬が脱藩の際肱川を下る船からあおぎ見た大洲城の天守閣を見学しました。
そして児童の代表が龍馬と同じ衣装を着用。刀を抜いたり拳銃をにぎったりして龍馬になりきりお馴染みのポーズを
とってカメラに収まっていました。
また、全員で大洲城の絵葉書作りにも挑戦し児童たちは龍馬の志を感じながら夏休みの思い出作りを楽しんでいました。
龍馬生まれたまち記念館50万人
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kochi/8014489861.html 高知市の龍馬の生まれたまち記念館の入館者が28日、50万人を超え50万人目となった茨城県の夫婦に記念品
が贈られました。
50万人目の入館者になったのは茨城県下妻市の公務員、塙利男さん(51歳)と妻の節子さん(50歳)です。
塙さん夫婦には花束と土産物を詰め合わせた記念品が贈られました。塙さんは「突然でびっくりしています。龍馬
ファンなので生まれ育ったところを見ようと初めて来ました。これから桂浜に行ってみたい」と話していました。
龍馬の生まれたまち記念館は、幕末の志士、坂本龍馬が生まれ育った高知市上町に8年前の平成16年に開館しました。
記念館によりますと平成22年度には龍馬ブームの影響でおよそ15万人が訪れたこともあって予想よりも2年ほど
早く50万人を達成したということです。
記念館では今後2020年までに100万人の入館者達成を目指すことにしています。
西郷と龍馬の仲を嫉妬した大久保利通が黒幕で、利害一致した岩倉具視が仕切って殺されたと思う。
その後征韓論の騒ぎのときに、岩倉具視と西郷隆盛が口論、岩倉具視がポロっと龍馬暗殺の真実を言って
傷心の西郷どん鹿児島に帰る…
という腐女子むけの話書こうと思います
「竜馬がゆく」なんか読んでるヒマがあったら
ラノベのほうがマシ。
アンチ龍馬は竜馬がゆくにとらわれすぎ
展示・幕末維新期の志士たちの交流02/26 yab
県立博物館で吉田松陰や木戸孝允直筆の書状の展示が始まりました。
展示されているのは、ふだんは、所蔵庫に保管してある幕末志士たちの、貴重な書状や絵など11点です。
木戸孝允が、お酒が大好きだった先輩の周布政之助に送った戯画で、君子の目なら天地もよく見えるが
、酔った小人の目では天地もわからない。すなわち飲みすぎないようにとユーモアを交えて送ったものです。
他にも、吉田松陰が僧侶、月性に宛てた手紙など書状からは、当時の世の中の動きを感じとることができます。
資料は、4月7日まで展示されています。
597 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2014/08/08(金) 10:35:45.93 ID:IyiXXrgp0
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名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/19(金) 01:01:20.55 ID:4ehPwci+0
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最初に無があった
無から有が生まれた
これが全ての真理
>>593 公用方に監視されてた岩倉がどうやって殺し屋を手配出来たのか?
出来ないから龍馬をみんなで雇ったんだろ?