1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/18(金) 23:45:31 ID:2bbNGe2K0
じいちゃんの墓に林銑十郎の揮毫がある
じいちゃんは陸軍大尉
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/23(水) 00:16:15 ID:XkELRQEK0
うちは浄土真宗の寺だが、高祖父と曽祖父が2代続けて新しい物好きのハイカラ人間だったらしい
元治元年生まれの高祖父は
・純和風本堂の大屋根の上に札幌時計台みたいな洋風時計台を増築(雨漏りと時計の故障で昭和初年に撤去)
・村で役場の次に電灯と近所の公共用にガワーベル電話機を設置(おかげで今でも電話番号下4桁は0002)
・法衣に山高帽と革靴とステッキ、銀時計なんて微妙なスタイルでお駕籠に乗って檀家参り
(後に人力車→自転車→近所のハイヤー会社のダットサン自動車)
・トマトを栽培するが誰も気味悪がって食わず
・村で初めてビールを飲む(水で薄めたり砂糖を入れたり、処理に苦労したらしい)
明治17年生まれの曽祖父は
・予備役陸軍歩兵大尉として日露戦争に従軍、凱旋後うろ覚えの洋食らしきものを村に持ち込む
これら自称洋食を法事や報恩講のたびに自ら振舞いまくってうんざりされる
(衣が天ぷらでソースがポン酢のカツだの、スープのつもりの牛肉を使った味噌汁だの)
・本堂の時計台横に大アンテナを立ててラジオやテレビ導入、戦前も戦後も最新情報発信源に
・毎週蓄音機の演奏会をひらく
・電気式の呼び鈴導入、「御用の方はここを注意して押してください。出ない時は居りません」看板は未だに玄関にある
・エンジンを取り付けた自転車や、ラビットスクーターで檀家参り
未だに「昔の住職さんはえらいハイカラで、例えば(ry」と度々話題にのぼる
無論田舎の大きくも無い寺にそんな資金があるはずも無く、田畑を切り売りしてやってたみたいだが
どの道GHQの農地解放で全部パーになるはずの土地だったし、膨大な話題を残せた分よかったんだろう、と思いたい
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/23(水) 12:12:45 ID:0fMpCziCO
↑貴重なお話ありがとうです
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/23(水) 13:05:27 ID:71rahDYHO
なんという住職www
悪霊もとり憑かないだろうwww
良い話ありがとう
まだ祖父が生きてた頃、昭和30年代だが香川県の田舎で、
曽祖父があんまり先が長くないって事で、村で一番最初に
テレビを買ったとか。
オレが生まれた昭和45年には既にそのテレビもなかった。
金持ちでも貧乏でもなく、普通の暮らしだが、農家なんで、
戦後は羽振りも良かったのかな?
祖父は海軍でラッパ吹いてた。そのラッパはオレが通ってた
小学校で、昔の農具とか道具とかと一緒に保管されてる。
オレは趣味でギター弾き。新しい物も好き。
その辺受け継いでるのかなぁと思うな。名前の一部は祖父
からだし。
>>4 あんたの家、浄土真宗なのかい?
ひょっとして、我々のご先祖さん達の墓に
差別戒名をつけてないだろうね?
だとしたら、あんたのご先祖さんは
とんでもない極悪和尚だ。
戦時中、満州按山の鉄工所で働いてた親父
引き揚げ前に一時「共産匪賊」のパーロ軍にいたことを前スレで書いたけど
その後、国民党軍の募集にも応じたことがあったらしい。
結局相手が現れず、不審がられた近所の人に通報されて、仲間とともにムショ入りしたらしい。
容疑が晴れたのか1週間ほどで出られたけれど
その時心ある中国人が
「君たちは負けたけれど国に帰れるからいい。私たちはこれからが戦争だ」
と言っていたのが印象に残っていると語っていた。
やっと引き揚げ船に乗れると思ったら、若くて体力ありそうなのを見込まれたのか
手当てをはずむからしばらく居残ってくれと、係員に頼まれたのが死体処理。
故郷に帰れる引き揚げ船を目前にして亡くなった人たちを、穴に埋めては掘り埋めては堀り。
四つんばいで、目も口もカッと見開いたまま硬直していたじいさんの死体があったのが
一際忘れられないと言っていた。
当時持ち出せる金額千円(だったか?)が貯まったところで勘弁してもらい
無事引き揚げてきたそうだが、到着当時の親父の目には
内地の人は(精神的に)荒れているように映ったそうだ。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/27(日) 01:23:20 ID:JI/adKmx0
今年亡くなった俺の祖母(92)が子供の頃近所に住んでいた老婆は
打ち首になった自分の父親の首を風呂敷につつんで家まで持ち帰った
らしい。子供の頃よく聞かされた。
やはり浄土真宗住職は地主なのか。
今聞けば自然な話も、
実は明治より前は住職には家系が無いはずということをふと思い出させる。
真宗は妻帯可能なので「家」と財産が存在する。
他の寺では寺の知行地はどうゆう扱いだったのだろ。
住職は赴任しに来る管理人だし。
差別戒名・・・これも最悪のプロパガンダだな。
そんな存在誰の仕業か不明だし、
諸宗派は戒名どころか葬事自体を引き受けないだけだし。
イナカモンの同和教育は本当ムダだよな。バカに不要な知識を与えるだけ。
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/27(日) 15:32:54 ID:6nzPW+ch0
獣医将校だった祖父はシベリア抑留の際、他の兵科の将兵が強制労働でひどい目にあってるとき
獣医ってことで軍医と共に大分マシな扱いを受けたとのこと
ソ連軍でもまだ馬とかが重要だったから、その治療ができるってことで優遇されたらしい
当時収容所の近隣住民もひどい飢餓と貧しさで、金網越しに黒パンとタバコを交換したりしてたとか
そして祖父の前の奥さんと子供3人は、道行く人に逆の道を教えられ
帰国のため迎えに来てた知り合いと落ち合うことが出来ず、疫病で全員亡くなった
知り合いが慌てて1ヶ月かけてやっとのことで探し当てた時はもう既に全員手のうちようがなく、死ぬのを看取ることしかできなかったとのこと…
祖父は帰国してから知って泣いて悔やんだとのこと
まあ、だからこそ今の祖母と知り合って、俺が今いるわけなんだけれども…
道案内の誤り一つで死と生を分けてしまうこともある
そりゃ、あんた、わざと違う道を教えられたんだよ。
憎き日本人を生き倒れにしてやろうと思ってさ。
でも、なんで女、子供がシベリアにいるんだ?
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/27(日) 17:13:38 ID:6nzPW+ch0
>>13 言葉が足りなかった
元々祖父が満州国の家畜保健衛生あたり官吏で北京在住
↓
昭和20年7月に祖父だけ召集受けて出征→シベリア抑留
家族は満州に残ったままで終戦、引き揚げ時に上記のように亡くなった
いや十分意味はわかるよ。
わからない人がどうかしてる。
16 :
9:2009/09/27(日) 22:05:59 ID:gK9Ro0Lh0
>>14 そういやうちの親父は満州で8/13に赤紙招集されたらしい。
日にちが日にちだったもんで、2〜3日謎の行軍をして現地解散で
戦場行くことなく元の工場に戻ってこれたそうだ。
召集があと1月早かったら、あるいは14の祖父様の召集があと1月遅かったら
また色々変わってたんだろうな。ご家族の運命も。
親父は終戦直後の工場で、ソ連兵とともに1月くらい撤去作業を行っていたらしいが
「ロスケはとにかく「時計」と「女」には目がなかった」
と言っていたな。ソ連じゃ時計なんて超高級品・高嶺の花らしく
時計を巻いてるのを見れば欲しがる様子をまのあたりにして
「こんな(貧乏な)国の奴らに負けたのか」としみじみ思ったそうだ。
(ついでに「女」関係の精力については「日本男児の負け」と思ったそうだ)
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/27(日) 23:21:55 ID:AWlxVXxWO
フェラチオ喫茶があった。
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/28(月) 00:00:50 ID:KvglPX3R0
オカマバーもあった。
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/28(月) 12:06:42 ID:om7SLKFI0
スレ違い失礼します。
-------------------
鳥取市に知人がいらして
以下の不可解な出来事の事情が分かれば連絡お願いします。
http://tottori1.tripod.com/ 疑問:1993年、「僕が鳥取市のリコーマイクロエレクトロニクスに報復した」
という意味不明の噂でクビになった。これはどういう事情か?
疑問:1993年、鳥取最大の工場・鳥取三洋のラジオ体操が中断した。
中断は下請け工員僕のラジオ体操不参加の影響か?
----------------------------------------------------------
以来地元の人との人間関係が不自然になりました。
2つの大手企業が関わる問題のせいか、鳥取市の人は16年経っても
真相を僕には教えてくれません。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/29(火) 03:17:03 ID:ulDUnUo8O
幕末の話とは文字通りの孫引きならぬ孫聞きかw
明治35年生まれで平成15年に101歳で亡くなった曽祖父の話
小学校は最初、旧代官所の建物を流用したものだったそうだ。
見た目は立派だけど煤けて暗くて、畳の上に座って授業を受けた。
曽祖父の祖母は「ほんに開化の御代はえらいことじゃ、お代官所が学校になるとは」と感慨深げだったらしい。
それが在学中の明治43年に、洋風二階建てで、目が覚めるような桜色のペンキ塗りの美しい新校舎が出来て
町内一の巨大で立派な建物で、代官所の石垣の上に聳え立ってるさまは自慢の種だったとか
この校舎は俺も小学校の低学年の時に使ったが、ペンキは剥がれかけ、建物は歪んで雨漏りするし
地震や強風のときは揺れるし、夕方になると薄暗くてお化けが出そうな、ボロボロの校舎に成り果ててた
結局平成になる前の年に取り壊されたが、新築時の姿を知る曽祖父は感慨深げだった
大正時代は海軍の水兵で戦艦金剛に乗ってた
厳しくて無闇にぶん殴られたけど、こんな立派で頼もしい戦艦に乗ってるのが嬉しくてたまらなかったらしい
それに町に出るとそれはそれはモテてモテて困ったらしい
が、太平洋戦争になって、昭和19年に40過ぎて召集受けた時は
「こんな老兵を駆り出すとは、この戦争はもうあかんかも知れん」と思ったとか
実際海軍も現役当時のゆるさや伝統を失って陸軍みたいに荒みきってて幻滅
また駆逐艦に乗って実戦を体験してみたら
目の前で魚雷を受けた輸送船がヨロヨロとよろめいたと思ったらドドーンと大爆発
甲板の上の人やトラックや戦車までもが空中を舞ったりとか
漂流してる人間を潜水艦を攻撃するために見捨てたとか
昔おもちゃみたいだった筈の飛行機がスズメバチみたいにたかって激しく攻撃してきたりだとか
爆弾を受けた人間が血と肉片と化して飛び散ってて、掃除してたら血生臭さで吐いたとか
今の戦争の激しさに目をむいたとのこと
食事も貧相で昔の海軍じゃ考えられなかったと、他の老兵と嘆いたりもしたらしい
おかげで戦後は一貫して平和論者だった
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/04(日) 22:56:38 ID:8GnnOTlH0
>>22 貴重でリアルな話乙
よく話してくれたねーとくに後半
長文だが整然としていて読みやすかったです
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/05(月) 23:05:11 ID:LyDJlfYlO
祖父が満州の鉄道隊に所属していました。ムチが与えられており、怠けている労働者がいたら叩くという仕事内容。
ただ叩くようなことはほとんど無く、現地人はまじめだったそうです。
祖父の仕事は病気していたり体の弱い兵隊が多かったようです。
戦中の話だかその頃師範学校に通っていた祖母(現84)
その近くの軍の駐屯地にいた親戚の人に誘われて
何度かそこでご飯を食べさせてもらったり泊めてもらったりしたそうだ
そして、終戦から半年前くらいに召集された祖母の弟は
前戦にでることもなく終戦後に少し丸くなって帰宅
帰るときには「どうせアメリカにとられるんだから持っていけ」と言われ
倉庫にあった缶詰などの食料と馬1頭を連れてきたらしい
笑っていいのか悪いのか…
笑うところでしょ
それを喜んでもらえなかったら親切にした側は台無しだ
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/22(木) 00:42:38 ID:vLaKVO8h0
祖父母や親族や知り合いの老人から聞いた断片的な戦時中の話
1、校庭で農作業してたら零戦がやってきて頭上をぐるぐる回ってた。
皆で万歳してたら急に着陸態勢になって、学校の隣のS家に胴体着陸、大破。
近くで見ると零戦は蜂の巣でパイロットも重傷。救助して言うには
「不時着しようにも校庭に小学生が一杯いて大騒ぎしてて、仕方ないから隣の畑に降りた…」
2、戦場で何が怖いって、米軍の迫撃砲弾ほど危なっかしいものはなかった。
普通の砲弾なら着弾地点付近にいなけりゃいいが
迫撃砲弾は生い茂ってる木の枝や木の葉で炸裂して、下にいる俺らに降りかかる。
復員は駆逐艦雪風でしたが、船外に急ごしらえで突き出てる便所で用を足すのが怖かった。
3、農作業してたら急にB-29(!?)が降りてきて機銃掃射してきた。
あわてて用水路に飛び込んだから助かったが、近くで犬の散歩してた近所のおじさんは
犬ともども木っ端微塵になって葉っぱにへばりついてた。
4、裏山に大阪の砲兵隊が陣地を作っててトラックがよく走ってた。
学校帰りによくそれに飛び乗って帰ってたが、荷台にいるのが上等兵の時は怒られて下ろしてもらえなかった。
でも田舎道で道が悪いから、カーブでスピードが落ちた時に飛び降りてた。
5、終戦の時は谷田部海軍航空隊に皆で入って何から何まで貰ってきた。
食料や衣類布団とずいぶん助かったし、近くの○○寺の参道は滑走路のコンクリートだし。
飛行機の車輪はリヤカーになったし、よくわからない機械も高く売れた。
でも飛行機のガソリンは自動車に入れたらエンジンが焼けてだめになった。
6、疎開のガキが「新聞紙が便所紙なんて・・・なんてところなんだろう・・・」
と泣いていた。わざわざ疎開の連中のために遠くの魚屋にまでお願いして確保した紙なのに。
ふざけんな、どんな思いして世話してると思ってんだ、だからいじめられるんだボケが。
「立場が変われば見方も変わる」をこういう話から学んだ。
教科書に載るような話だけでは分からないこともあるよね。
終戦時に中学4年だった爺ちゃんの話
・疎開して来た生徒で生徒数が急増して、午前と午後の2部制になった。
中学生は勤労動員や軍事教練もあり超多忙で、都会っ子とケンカする暇もなかった。
俺(爺さん)は、その上に弟妹の世話や自宅の畑仕事もあったから、全く勉強する暇がなく
戦争中も家でコツコツ勉強してた同級生との学力差が、戦後に露骨に出て苦労した。
・勤労動員で飛行場建設やってたら、丸い翼のグラマンの編隊の空襲を受けた。
超低空飛行で敵のパイロットの顔まで見えた。「伏せ!」の命令でその場に伏せたが、
機銃掃射を受けた恐怖で、その後小便が丸1日出なかった。さんざん機銃掃射された
挙げ句に軽症1名で済んだが、弾って意外と当たらないモノだと思った。
・うちのような田舎町でも、終戦末期には軍需工場が沢山疎開して来たため
1度だけB29の空襲があったが、都会と違って目標が小さいから、誤爆しまくり。
工場群には一発も当たらず、工場周囲の民家や田んぼに着弾しまくった。
・配属将校の恐ろしさはハンパじゃなかった。太平洋戦争前の配属将校は退役軍人の
爺さんで大した事もなかったが、昭和18年から現役バリバリの青年将校が来て、
生徒全員がボコボコにされた。青年将校にやられるとマジでケガして学校を休まざるを
得なくなる同級生も多かったが、親が地域の有力者でも文句等言える時代じゃなかった。
・終戦後は、戦争中の反動で共産主義活動が爆発したような感じで広まり、同級生でも
共産主義に昏倒する者が多かった。よく日本は共産主義国家にならなかったと思う
・進駐軍がやって来ると、うちの周囲ではどの家の庭にも咲いているケシの花が
大問題になって、訳も判らず抜かされた。盆花には欠かせない花なので困った。
でもケシは強いから毎年生えて来る。仕方なく毎年抜いていたが、
進駐軍がいなくなったら、元の木阿弥。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/25(日) 02:48:04 ID:b7aUnnWV0
>>27,28
書き込み乙
時代の空気の匂いがするね
>>貴重な話ありがと
俺のうちは、様々な理由で先祖や親戚との縁が断絶しているので、
これは、母が母の父から聞いた話を、母から俺へと語って受け継いだ話だ。(ややこしい表現ですまん。)
長い話じゃあない、たった一言なんだ、 たった一言なんだが、 ものすごい言葉なんだ。
俺のじいさんは、母にたった一言、こう告げたそうだ。
「お父さんはな、ロシアで捕虜として捕まって、3年間生き延びて日本に帰ってきた。
その3年間な、、、生き延びるために、 何でも食べたよ。 ヘビでも虫でも、、、、、、、、、、何でも食べた。、、、、、、、、、、、、、」
それだけを、たった一度だけ、ポツンと言っただけで、 あとはもう二度と、戦時中のことについては何も語らなかったそうだ。
うちの婆ちゃん信州だから、遠足の時は、男の子はヘビ捕まえて、昼食時に焼いて
うまそうに食べてたそうだ。先生はマムシ酒用のマムシをせっせと捕まえてたそうだ。
その他にも、イナゴ、カミキリムシの幼虫、ザザムシ、蜂の子、蚕のサナギ等
信州では食べられる虫は何でも食べるよ。
イナゴ、カミキリムシの幼虫、蜂の子は、俺も食べるけど、マジでうまい。
信州って、ソ連の強制収容所並なのかな?w
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/27(火) 12:52:26 ID:ocB93SAm0
聞いたことを書く事も大切だが、まだ生きている人にきちんと聞くことが大切。
本に書かれていることより、リアルでありまた、こちらから聞き返すことができる。
先人のご苦労を知ることができる。とくに
>>31のような方の話は貴重だ。
私もいろいろと戦争に行った方の話を直に聞いた。
言い知れぬ気持ちになった。
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/27(火) 12:58:31 ID:ocB93SAm0
シベリア抑留は、関東軍高級将校が帰国するためにソ連と取引して、差し出した人身御供だと知っているか。
今、えらい顔をして、満州で苦労したような顔をしていても、下級兵士を売ったやつがいるんだ。
>>34 チョンか?証拠も根拠もなしによく言うな
255 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/21(水) 20:58:41 ID:gtCiojEg0
>>251 ペレストロイカから20年経ってるんだが、噂の密約に関する資料は全く出て来ないし、
エリツィンが来日した時に旧日本兵捕虜の扱いについて明確に謝罪している。
そんな密約があったなら、ロシアの大統領が謝罪しないだろ。
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/28(水) 22:54:33 ID:AMggOxXx0
>今、えらい顔をして、満州で苦労したような顔をしていても
30年前だったら通用した台詞だな
当時密約をどうこうできるクラスの高級将校なんかほぼ明治生まれ
今は老いさらばえて殆ど死に絶えてると思うが
ケシの花はうちも抜かされた
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/08(日) 10:46:49 ID:peddKZ50O
うちの死んだ曾々祖母さんが吉原のお職?さんだったそうだ
新・吉原で結構な美人と評判だったみたいだが、写真はどっか行った。小さい頃に見せて貰った記憶があるけど、ぼんやりとしか分からない。
源氏名は分っているから、そういうの調べられる所知らない?
>38
国会図書館に行ったら吉原細見があるが、時期によっては細見が
発行されなかった時代もあるから見つかるとは限らない。
古い本だから恐らく借り出しは不可だろう。
事情を言って司書に調べてもらえばいい。
うちのばあさん達は那須に集団疎開してたんだけど
運悪く東京大空襲の日に受験で東京に帰ってきて死ぬところだったとか
でも隅田川じゃなくて後楽園球場に避難したから助かったの
近所の教会に行ってみたら避難所になってて
そこで母親と再会できて水と食料ももらえたんだってさ
父親は入院してて無事だったし母親が駅で積極的に電車の荷物積みを手伝ったりして
電車にすぐ乗れたしばあさんは本当に運が良かった
年取ってから毎年、空襲の日辺りに東京で同窓会をしていた
今は駐車場になってる学校の跡地に行ってみたり
空襲の広場で集合写真撮影したり・・・
で、何年か前は空襲犠牲者の慰霊にいらっしゃってた
文仁親王様と紀子様のセレモニーと鉢合わせしたんだってさ
皇族のお姿を間近で拝見できてすごく運が良かったって
東京から帰ってきたばあさんはちとホクホク顔だったよ
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/10(木) 15:53:30 ID:stL+p/6GO
婆さんやひい婆さんが明治末期〜大正の女学生だった人はいないか。
えび茶袴にリボンの女学生話聞きたい
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/12(土) 23:19:28 ID:6gs83i/10
会津戦争のリアルな話しをしよう!
うちの婆さんが爺さんから聞いた話しだが、鶴ヶ城から約30キロ程離れた所に家があるのだが、Xジャパンのような赤いシャグマを付けた官軍の兵士がこっそりニワトリ小屋に侵入し
卵をパクっていったらしい…
これは本当に実話だ☆
卵かえせ〜w
>>41 祖母の最初に嫁に行った先の姑っていう、えらい遠い話だし
めぼしい話は何も聞いてないからアレだが
維新前は紙問屋、明治以後は県下一の図書・文房具店で、大変な財をなした大商店で
そこの長女だったその姑は、家へ毎朝馬車が迎えに来て、青山学院女学校へ通学してたとのこと
でも来客に畑作業のままの下着いっちょで出迎えるようなオバサンだったらしいから、
女学生時代の様子はあまり期待できないw
その大商店も、昭和はじめに次期当主が自殺して、今は継ぐ人もなく
倒壊寸前の廃墟と屋根が落ちて壁の崩れた土蔵が残るだけらしい
会津戦争のリアルな話をしたら会津観光史学洗脳者がファビョんぞ。
つか、141年前の話を克明に人間から聞くのは無理。
一次資料から抜粋するしかないだろ。
それに会津は観光史学が繁栄してるから
学会にも相手にされない創作と美化しかないぞ(笑)
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/23(水) 18:23:56 ID:KpkFz87A0
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/28(月) 21:22:12 ID:xGz5rlXaO
幕末の話なんて聞けるわけないだろw
祖父(明治40年生れ)が曾祖父(明治2年生れ)から
高祖父(弘化3年生れ)のことを聞いた話らしいけど。
戊辰戦争(明治元年)のこと
高祖父(当時22歳)は登城命令でお城に集合したあと船に乗って京都まで行った。
なんでも天皇の敵を討つのが目的だったらしいが京都へ到着したら、今度は長崎を
警護するようにを命じられ渋々引き返した。本隊は北陸まで遠征して行った。
佐賀の乱(明治7年)のこと
高祖父が29歳の時に佐賀の乱が起きたが高祖父は一味には加担しなかった。
しかしお城では大騒ぎとなり官軍が攻めて来るらしいとの噂が出た。
そのうちに誰が放火したのかお城が瞬く間に燃え上がった。
お城からの飛び火で自分達の家も燃えたので一家全員が親類の家に逃げ込んだ。
(そこの家の娘がのち曾祖父の妻となっている)
婆ちゃんはリクって名前だったけど曾爺ちゃんが赤穂浪士のファンだったらしい
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/29(金) 08:42:59 ID:WZD7MbtXO
明治か大正生まれの爺さん婆さんがいる人の最年少は何歳ぐらいだろう。
自分は24、16の兄弟がいるけど祖父母は大正生まれ。
小中学生で祖父母が大正生まれの人はまだいるかな
南方で病気になって小便が無意識に出てくるようになった爺さんは
開き直ってちんぽを露出してたらしい
上官に、おい○○!ちんこが出ている!隠せと怒られたが、事情を話すと笑って納得してくれたらしい
慰安婦はアイドル的存在で、皆で護衛しながら買い物に付き合った
お気に入りの慰安婦に喜ばれたい一心で、皆こぞって護衛依頼を引き受けていたらしい
捕虜となり、英国下の収容所にいたときは
皆でこっそり脱走して、食べ物を入手していた
インド人の守衛は見て見ぬふりをしてくれた
ある日、現地人が拾った日本の銃を見せびらかしにきた
「おまえら日本人には、こんな立派な銃は作れないだろう?」フフンと得意面
「きさん!これは日本の銃やろうがバカちんが!」っ言いうと
「違う違う!これは俺達が作った!」と、顔を真っ赤にしながらも認めなかった
他にも色々あって、マレーの人間は怠け者のくせに負けず嫌いが多いと言っていた
悪いことをしたと感じたのは
村の人々から、切らないでくれと懇願された木を切り倒したことらしい
上官の命令とはいえ、嫌な気分だったと言っていた
戦闘がない夜、恐ろしいのはトラだった
寝ていたら食い殺された同僚や、口を引き裂かれた同僚が出たため
小規模なトラ狩りを行ったらしい
乾いた泥で覆われたトラの毛は鎧のようで、銃弾がなかなか効かなかったと
タケノコが豊富にあったので、タケノコはよく食べたらしい
爺さんのマレーやビルマ戦線での話
親父からのまた聞きだけど・・・
昭和63年生まれの21歳
祖父は大正7年生まれ陸士52期
曾祖父は明治19年生まれの陸士19期
祖父とは70、親父とは40離れてる
まわりなんかと1世代くらいズレてる感じだな
親父は団塊世代なのに団塊ジュニアじゃなくバリバリゆとり世代
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/29(金) 21:27:33 ID:zNDYve+5O
漏れのGチャンKO生まれ南京で支那丸太100本切りチンポビンビン最高だZE!
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/30(土) 18:19:55 ID:9xooWTEpO
他スレにも書いたが
大正2年生まれで今は亡きうちのじいちゃんと3コ下くらいの弟は栃木・足利市で震災を体験
地震は昼だが、夜になると南の空が真っ赤
まさか帝都の火災が栃木から見えてるとは思わないので「隣町が火事だ!」と思い、
若い衆が栃木県境のすぐ南の隣町・群馬県館林に消防団?みたいな感じで出発
明け方になってトボトボ消防団が帰って来て「館林は無事」てのがわかる
後日、列車での引き上げ者により東京の惨状が知らされた
夜に南の地平線上が真っ赤なので常識的に考えて
「南に7`離れた群馬県館林が地震で大火災だ」 と思ったらしい
1923年9月1日に北関東から帝都を写した写真とかないかなあ
うちのじいちゃんは
「とにかく南の空が真っ赤」と行ってたが
どんくらい明るかったんだろ
幕末とか、皆凄いな。
両親が天安門事件リアルタイムで見たって聞いて、深夜一時まで騒いでたのがばからしくなってきた。
戦車に轢かれた男の人がぺっしゃんこになってたらしい。
そんなマンガみたいになるものなのかな?
58 :
56:2010/02/08(月) 00:24:47 ID:3biLUA+b0
>>57 ありがとう!
ちょっと怖いけど見てみます。
大阪万博に行った話とか、聞いた事ある人いますか?
大阪万博ならこのスレにだって直接行った人間がいるだろw
さすがに趣旨とずれすぎ
56が単細胞な件
>>41 うちの祖母は広島・尾道高女に通っていた。1905年生まれなので大正時代の女学生さん。
林芙美子と同級生で、「林さんは体育をよくサボっていた」とか語っていた。
大金持ちの商家の娘である祖母と貧乏勤労学生の林さんとで話が合ったのかどうかわからんが、
私が話を聞くころには祖母はボケが始まっていたので、あまり詳しい話は聞けなくて残念であった。
祖母は女学校出た後、警視総監やってた叔父の紹介で内務省の役人と結婚。
林さんとはえらい違う人生だ。
終戦直前、集団学童疎開に行っていた母と伯母を祖母が訪ねて行った時、
先生が授業もせずにだらしなく寝そべっていたので、怒って抗議したら
「○○さん、これからも日本という国があると思っているんですか!」
と逆に凄い剣幕で怒鳴りかえされた。
よほど印象が強かったらしく、母や伯母は後々までその話を聞かされたという。
この頃になると、もう駄目だというのはみんな薄々分かっていたんだな…。
>>62 仕事で戦時中のことを色々な人から聞き取り調査したけど、
戦争も終盤は、日本はもうダメポってかなりの人が実感していたようだよ。
でも、誰もそんなことはっきりと口に出せる状況じゃなかったそうな。
変なこと言えば、民間じゃ非国民と呼ばれ、軍隊じゃぶん殴られると。
>>63 >誰もそんなことはっきりと口に出せる状況じゃなかったそうな
>変なこと言えば、民間じゃ非国民と呼ばれ
そうだったみたいですね。うちの母もよく「あの頃は、今みたいに『戦争は嫌だ』なんて言える雰囲気じゃなかったし、何かあると親(祖父母)から「そんな事を言っていると憲兵さんがくるよ」と脅かされた、と言っていました。
母に見送られながら列車に乗って出征した。
窓から母が見えなくなるまでずっと手を振った。
もう二度と会えないんだなと思いながら。
という夢を見て、泣きながら目を覚ました。
赤紙の来ない時代に生まれて本当に良かった… orz...
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/08(月) 16:44:46 ID:7hbhwF+K0
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/10(水) 21:03:11 ID:KKzPo0+P0
じいさんは(生きていれば89歳)蜂の子は食べていたそうだ。
>>65 赤紙が来ない変わりに、アメリカ・ロシア・韓国・北朝鮮・中国・オーストラリアなど
あちこちの国からナメられまくって、領土や領海を侵食され、日本の捕鯨船は
オーストラリア船の攻撃を受けているけどな。一体、どちらがいいのやら
大正2年生まれの婆ちゃんから聞いた話 もう死んだけど
昔は女も立ちションしてたそうです
一連の動作を云えば、
@立った状態で前屈みになる
A少し足を広げる
B着物の裾をめくる
C噴射を待つ
ズロースが流行したので出来なくなったそうです
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/04(日) 00:27:44 ID:ko71zwjb0
介護関係の仕事をしてるんだけど利用者さんの祖父が慶応生まれで一生仕事をしなかったそうな
賭博で家を滅茶苦茶にしたらしい
婆さんの婆さんが戊辰戦争を目撃したらしい。
兵隊がやってきて農民に鉄砲を向けたのだが、「無駄玉撃つな〜」とか言ってやり過ごしたとか。
史実を調べたら、敵が向かってくるので、戦おうと思った武士の指示もむなしく、鉄砲撃たれたら
農民兵は皆逃げ出したとか。向こうは洋式銃だしなあ。そりゃ怖いだろう。
>>72幕軍も官軍も洋式銃なんだが。
つか君のひいひい婆さんは戦場で何してたの?
悪いけど説明不足な点だらけだし
口伝はあてにならんよ。
>>73 田舎の戦線だ。ちなみに、敵方が「賊軍」で新式銃を持っていて、こちら側が官軍だが準備不足で
火縄銃があるだけ。一応、猟師が火縄銃持っていたようだ。
どこかを書くと、2chでは危険なのでそいつは勘弁。
戦争が始めると、女は直ぐに逃げていたはず。戦闘の経緯は男から話を聞いているだろうな。
悪いけど幕末の口伝は信用しないから。
歴史は史料じゃなきゃね。裏付けされた史料。
君を嘘つき呼ばわりするつもりは無いけど
信憑性に欠け過ぎなんだよ。
「男達に聞いた」って君の予想の範疇だし。
突っ込みどこが満載なんだよね。
裏付けできなきゃ駄目だよ歴史は。
スレを否定するつもりはないが
幕末や明治の話は無理があり過ぎるよ。
大正もギリギリ無理と思う。
戦後生まれが60代な時代だし。
142年前口伝は信用できないな。
嘘の可能性だってあるわけだしね。
ゴメンね。
俺の爺さんは、足柄にのってジョージ五世の戴冠式に行った。
スエズ運河とパナマ運河両方を通ったらしい。
その時、エジプトとアメリカとドイツに立ち寄ったらしい、
家には、エジプトの古ぼけたレリーフとドイツの水兵が帽子に巻くリボン?と
戦前のドイツの町の写真集と、戴冠式参加記念の花瓶が残っている。
コンタックスのカメラも買ったらしいが、終戦時に進駐兵に高値で売り飛ばしたらしい、
パナマ運河を通った話は、子供のころ随分たくさん聞いた。
アメリカに立ち寄ったとき、八百屋でスイカを買い、皆で食べた話も聞いた。
エジプトのピラミッドを見た話も聞いた。
後はマレー沖海戦にも参加している。
終戦間際は鹿屋にいたが、その時の話はやはりあまりしたくなかったらしく、
きいていない。
前のスレにも書いたが、俺の爺ちゃんは赤紙が来たので、もう生きて帰れないと思って
家業を他人に売却して師団本部に出頭したんだが、最初に身体検査をしたら「お前は帰れ」。
こういうのを即日帰郷要員と呼ぶらしい。チビでど近眼だったから戦力外になったんだろう。
その時は即日帰郷要員は5人いた。故郷で盛大な壮行会で送られた手前、帰るに帰れなくて
師団本部前の旅館で5人で呆然と過ごしていたら、数日で金も尽きて、仕方なく帰ったが
もう仕事もなく失業状態で、「戦力外」のレッテル付きだから就職活動もやりにくく、
終戦まで、ものすごく肩身が狭かったそうだ。ちなみに爺ちゃんが入る筈だった師団は
フィリピンで壊滅したから、帰されなければ爺ちゃんはフィリピンで死んでいただろうけど、
爺ちゃんは米軍と戦いたかったらしく、平成10年に亡くなるまで帰されたのを悔しがっていた。
じいちゃんはフィリピンのどっかの島に送られ敗走。
猿、蛇、虫などを食って生き延びたらしい。
銃はもはや狩りの道具であり戦う意志はなかったらしい。
どうやって日本に帰ってきたかは分からない。
あとそのじいちゃんは沖縄人でドル使ってたと言ってた。
大したことない話でスマソ。
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/15(木) 00:01:49 ID:mxf5wBOL0
うちは父方の爺さんに婆さん 母方の婆さんが健在
爺さん 職業軍人(志願)一家離散して12歳から米奉公(俵担ぎ)軍人になって出征するときに
全貯金を先祖供養のため、墓と永代供養料を払って出征
日中戦争で徐州方面 太平洋戦争で南方へ(インパール)
自分が所属していた部隊200余名のうち生き残ったのが6名。
じいさんはアラカン山脈を越え英軍と交戦 丘陵の下から高段にある英軍陣地を攻め上がったそうな
爺さん曰く「坂道だからな。向こうは手榴弾を転がすだけでいいんだ。こっちは必死に投げ返すんだけど、また コロコロと戻ってくるんだよ」と笑って今でも言う
手榴弾の爆発により左肩と左ほほに重傷を負う。「血が水道の蛇口めい一杯開いたみたいにジャージャー出るんだよ。しばらくしてタバコを吸うと全く吸えない。ホッペタに大穴が空いていたんだな」
今でこそその傷はふさがっているが、痛々しく残っている。
今でも遠い目で言うのが「中隊長だった○○さんが「お前は長男だろう。お前が死ねばお前の家が絶える。ここは(前線陣地)もういいから後方に状況を伝えに走れ」と言われ生き残る。
その隊長さんは直後に突撃して玉砕。戦後の戦史にてその後を知る。漏れの小さい時もよく戦史を読んでいた爺さんの背中が寂しげだったのを覚えている
白骨街道を超え退却。この時の事は多く語らない。ただ一つ聞いたエピソード
「味方と合流して退却していると友軍の死体が大量にある地に着いた。なんとかお国に帰してやろうということになり、足だの手だのを切り取って持ち帰ったよ」
結局 戦後捕虜となり 無事復員
戦中のエピソード
「従軍慰安婦ってのはな。ある時突然小屋を作って商売を始めるんだ。コンドームが支給されて皆行くんだけどもすごい行列になるんだ。でも兵隊なんかタマッてるからな
10秒もかからんで出ちまうんだよ。小屋の前まで行ったがなんだか気持が変わって結局やらんかったわ」
「軍隊のいじめは酷いもんだった。「自転車こぎ」ってのがあってな。机二つに手をついて自転車を漕いでるように空中で足を回転させるんだ
そうするといじめ屋が「上官がいらっしゃったぞ!敬礼をしろ!」って言うんだ。敬礼したらすっ転んじまう。そうすると「誰が辞めていいといった!」
といって往復ビンタ。敬礼しないと「貴様!無礼だろう!」といって軍靴で往復ビンタ。歯がな 折れちまうんだよ。
なんかおもいつくだけ書いてみたよ 主旨違いならスマソ なんかノスタルジックな気持ちのまま勢いで書いてもうた
母方の婆さんは沖縄。沖縄戦の渦中で生き残ったツワモノ。また今度書いてみるさ
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/15(木) 03:35:34 ID:IYftjgM60
私が中学生のころ、祖父(明治40年〜平成5年)がその祖父(嘉永2年〜大正12年)から聞いたという話をしてくれた。
祖父の祖父・D吉がある日、田の草取りに行ったら、畦道のはさ木(縄をはって刈った稲を架けて乾燥するための並木)の根元に眠りこけている侍がいた。
侍は、D吉の足音で目をさまし
「雪峠で戦があったが、会津はもう負ける。鉄砲うちあいの戦はおっかねえ。俺はあんまりおっかねくて、逃げてきた」
「クニにはもう帰れねえから、行けるとこまで逃げる。なんでもいいから山着(やまぎ=野良着)をくれ。お前がいま着てるがん(もの)でもいいから」
と、半分恫喝半分哀願だったという。
82 :
81:2010/04/17(土) 19:05:55 ID:lBlbWFxiO
続き
D吉は半分恐怖半分哀れに思い、持参していた水入れの筒とふかし芋をやり、家から古い山着とワラジを持ってきてくれてやった。
侍は着ていた装束と刀2ふりをくれると言ったが、百姓が刀を隠し持っていれば咎められるので、ムシロでくるんで、侍に無理矢理持たせた。
装束は蔵にしまっておいたが、よくみるとあちこちに血がついていて、そこからネズミにかじられたり朽ちたりしていって
「汚いし邪魔くさい」という家人に、いつのまにか棄てられたようだ。
北越戦争の雪峠の戦いだったのだ。
あれからすぐ維新になったから、後から思えば刀ももらっとけばよかった。
ちなみにウチは、新潟県魚沼地方。おしまい。
ほほう、侍の話が聞けるとは思ってもなかったぜ。
84 :
81:2010/04/17(土) 22:38:07 ID:lBlbWFxiO
>>83 又聞きですから、誇張や省略、聞き違いもあるかもですよ。
祖父が直に見た話をひとつ。
祖父が青年のころ、近所に日露戦争帰りの廃兵さんがいた。
この人は出征するまでは心身壮健で快活な好男子だったのに、戦地で悲惨な死体や重傷者を目の当たりにしたため、
「シンケイ(神経)になって帰ってきた」と言われていたそうだ。
※シンケイとは、このへんの年寄りが鬱病やノイローゼといった意味で使うことがある。今でいう、PTSDなのだろう。
ある日この廃兵さんの家が提灯の不始末から火事をだした。
祖父たちが駆け付け、布団や家財を運び出そうと苦労している中でも、廃兵さんはふぬけた表情で座ったまま。
自分の着物に火の粉がとんでくすぶりはじめても、消そうともしないので、祖父たちが叩き消し、この人を担いで逃げたそうだ。
途中で送信してしまった
この廃兵さんはその後、風邪がもとであっけなく亡くなったらしい。
祖父いわく
「昔話の『三年寝太郎』ってのは、あれはたぶん廃兵さんみたいな奴かもしれない」
「大昔のいくさに足軽に駆り出された農民が、白兵戦で悲惨で残虐な人馬の死体をみて、腑抜けになってしまったこともあったろう」
祖父自身は甲種合格で初年兵教育にいったものの、前線にいくことはなかったそうだ。
ついでに
>>85の、祖父が初年兵教育について語ったこと。
※聞いた当時の私が中学生で、知識不足で理解しきれなかったり、聞き間違えたこともあるかもしれないがお許しを。
祖父は農家出身だが、同じ班(正確にはなんと呼ぶのか聞き忘れた)に海沿いの村の青年がいた。
彼は半農半漁の貧しい家の出身で、満足に学校へ通うことができなかったそうだ。
農業だけの山村では、田植えや稲刈りといった農繁期には学校そのものが数日ずつ休みとなるし、それ以外の時期は
「子供は学校に行かせないと」ということで、よほどの事情がない限り、尋常小学校へはきちんと通学させてもらえた。
しかし当時の漁村では、漁業の売り上げだけでは生活がなりたたないので、自給自足のため米や野菜もつくらないと食べていけず。
しかたなく、学校を休んで漁や田畑の手伝いをしなくてはならなかった。
それでその青年は読み書きや算数が不得手で、上等兵の指示や戦術などの学課を理解しきれなかったため、毎日のように鉄拳制裁を受けていた。
連帯責任で、同じ班の自分達もたびたび罰をかせられることもあり、そうすると彼が切なそうに皆に謝るのが、気の毒でたまらなかった。
自分は先祖代々、山の棚田や畑で泥まみれになり生きている百姓だが、人並みの学業はおさめさせてもらえた。
なのに同じ時代に生まれながら、小学校にも通えない者がまだたくさんいる…このことが、いちばんショックだった。
以上。
>>86 なんつうかね、昔は何が大切な事かって事がはっきりしてるよね
爺さんはいい人そうだね
GWにちなんで婆ちゃんに聞いた話。
戦前戦中は二毛作が当たり前だったから、田植えは7月の蒸し暑い時期で、
稲刈りは11月の寒い時期で、真冬に麦踏みとかあって、辛かった。
戦後農地解放になって、裏作止めて、5月初旬の気候がいい時期に田植えして稲刈りは10月になったら、
米の収穫量が2割もアップした。裏作は小作料が取られないから仕方なくやってたが、表作だけにしたら楽だし、
労力減って副業も可能だし、収入は増えたし、生活がウソのように楽になった。
農地解放は農民に取って本当に大きかった、とのこと。
>>86 それをみると、大正時代に高等小学校の義務教育化をやっておくべきだったような気がする。
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/07(金) 00:50:38 ID:UIhphyg40
どうも明治40年代〜大正生まれが一番ひどい目に遭ってきたように思えてならない
青少年期に関東大震災や昭和大恐慌、軍国教育の学校教練でシゴキ倒され
戦争が起きてみりゃ片っ端から捨て駒の最前線送り
地獄から死ぬ思いで復員してみりゃ世情一変の焼け野原
飢えても貧しくても、文化人にも若者にも古物扱いされて馬鹿にされて
それでも必死で働いて日本を立ち直らせて
やっと世界に恥じぬ経済大国になったと思ったら、団塊が旨みを全部吸った挙句、一挙に全部パー
詐欺には騙され子供には疎まれ、後期高齢者扱いされて施設で死んだり孤独死
今の独居や施設ぐらしの8〜90代の人の現状見てると泣けてくる
>>90 >軍国教育の学校教練でシゴキ倒され
そりゃ昭和ヒト桁だな。
「大正世代は軍国教育とかなかった。我々は大学から営門へ直接行ったから
ある意味隔離されていて、酷い軍国教育があった事も戦後まで知らなかった」
と、大正12年生まれの司馬遼太郎が言ってる。
>>91 俺の父親は大正14年生まれで存命中。旧満州生まれ。
某ナンバースクールに合格した、と思われたが最後の春休みに
軍事教練をさぼり、配属将校に睨まれ不合格となってしまった。
その後戦局の悪化により身長が足りないにも関らず徴兵され、敗戦。
シベリア抑留1年程度。
確かに教育としては意外にシゴキは無かったみたいだが、軍事教練では
上記のような目に合っている。その後もっと酷くなったのだろうね。
この時の2〜3年の違いは大変な違いなのだろう。
>>92 >軍事教練では上記のような目に合っている
意味不明。サボったんだろ。
軍事教練サボるのが、「軍事教練でシゴキ倒され」なのか?
>>93 意味不明。「軍事教練でシゴキ倒され」なんてどこに書いてありますか?
「教育としては意外にシゴキは無かったみたいだが、軍事教練では
上記のような目に合っている。」
とは書いてありますが。
大正6年生まれの伊藤桂一氏が、
中学の軍事教練でシゴキ抜かれたと「秘めたる戦記」で書いてた
元々日蓮宗系の気の荒い学校、おまけに伊藤氏は文弱の徒とみなされて
殴られ放題に殴られた挙句転校するはめになったとのこと
あと、伊藤氏の別の学校の知り合いは80数発殴られて失神したとか
学校や地域によって違うのかもしれん
>>95 ウチの親の場合は旧満州だった故にゆるかった、ということもあったのかも。
天然なのにこの程度で済んで実に運が良かったと言うべきでしょうか。
そういえば天然エピソードがもう一つ。徴兵された後、上官に
「中学出ているんだったら、勉強しだいで軍で出世することも可能だぞ?」
と言われ、「私は職業軍人になる気はありません」・・・w
そう言って相手は当然「何ぃ〜〜!?」と身を乗り出したが、
もう一人の上官が「まあまあ・・」と取り成したと。
ボコボコにされてもしょうがないが無事だった・・。なんにせよ運が良かった。
古参兵は例によって新入りをいびっていたようで、これは良く聞く話ですね。
>>94 >「軍事教練でシゴキ倒され」なんてどこに書いてありますか?
書いてあるじゃん。日本語が不自由か?www
>>90 >軍国教育の学校教練でシゴキ倒され
>>97 あのさ、俺は自分の文章の「上記」と書いているのだよ。
>>90のような目に会っているならきちんと「
>>90のような目に」
て書くわ。他人に判りやすいようにね。勝手に誤読してろ。
>>98 軍事教練サボったら、配属将校に睨まれるのが当たり前だろ。
お前はアホか?wwww
>>99 ああわかった。わたしがどう書いたかなんてどうでもいいんだね。
サボったら配属将校に睨まれるのはそりゃ当たり前w しかしながら
それでも某ナンバースクール側との面接や周りの中学の先生・生徒の間では
受験成功という認識だったと。それがひっくり返ったもんだから回りも本人も愕然。
他の地域・学校や後年がどうであったかは知らんよ。俺の父親の時はそうだったってこと。
ということはそれ以前だったらもっと緩い認識だったであろうと言えるよね。
>>92でも
>>91の内容を受けて書いてるじゃない。「その後もっと酷くなったのだろうね。」と。
俺は父親から聞いた昭和の一時期を伝えているだけだよ。
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/11(火) 01:19:22 ID:Lrh8wVwQ0
>>90だけど、頼むから俺の出まかせの所感めぐって喧嘩すんのはやめてくれw
軍事教練のくだりに関しては、俺は伊藤氏の著書を元に書いただけだ
ある意味、戦後左翼の戦前真っ黒史観を真に受けた被害者だな。
>>100 日中戦争が始まっている戦時下で軍事教練サボるなんてバカにも程がある。
お前がバカなのは親父似か?
>>103 全く懲りてないね。軍事j教練をサボったことに対する批判は
それはそれでやればよろしい。
>>93から読み返してみろ。
訳の分からん言いがかりばかりだろw 君はまず
>>1をまず読みたまえ。
>リアルな実体験話を
>皆に聞かせるためのスレッド。
だ。おれの場合は爺さん婆さんじゃなく親父だけどなw
父親のリアルな実体験を皆に聞かせただけですよw
>>101 いやいや、別にあなたのせいじゃないですよ。伊藤桂一氏も
別にウソを言っているわけじゃないでしょう。
>>104 >軍事j教練をサボったことに対する批判は
要するにバカだからサボったんだろ
で、バカがお前に遺伝したwwwww
>>105 いやーなんでこんなに時間がかかるんだ。感想なら感想だと最初から言ってくれ。
それでいい。
今後は、書いても無いことを書いたと言って他人にからむんじゃないぞw
>>106 自分が暇なニートだからって、他人もそうだと思うなよwww
>>107 無駄に時間をかけてるのは君だろう。全く意味不明。
君がニートかどうかなんて関心も無いが、俺は薄給ながらも普通のサラリーマンですんでw
軍事教練サボって罰受けて、社会のせいにしているバカもいるんだな
かなり新しい話で恐縮だが、母方の祖父の姉になるおばあさんついての話だ
昔(昭和30年代?)は殺虫剤を噴霧器でシュッシュッやってたそうで、殺虫液を買ってきて置いていたら、
ある時寿司を作っている時に酢と間違えてつかってしまったそうだ
こりゃ食べれんで、ということで豚に食わせたらしい
食の安全は地域、時代を問わないということだな
婆ちゃんからDDT散布の話を聞いたよ。
駅の改札を通ると、頭と服の袂にDDTをシュッシュと吹きかけられて
全身真っ白になったそうだ。今じゃ考えられない話だな。
残留性を指摘されて、70年代にDDTは使用中止になったけど
「DDTはパウダーみたいで気持良かった。DDTをかけられて病気になった人なんて
聞いた事がない。あれで日本からシラミが一掃された」と婆ちゃんは
懐かしそうに言ってた。
114 :
自分が爺さんです:2010/06/15(火) 10:00:55 ID:zXqyqro30
>>110 T型のヤツですね。
みんな一升瓶に入っていました。
牛乳と間違えて農薬を飲んで死んだ子がいました。
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/15(火) 14:07:54 ID:8i0Jh8ms0
明治生まれの父方の祖父は、真珠湾のニュースが流れたときは、もうすでに企業の第一線で
働くビジネスマンでした。
祖父が存命の頃、聞いてみたことがあります。「真珠湾の第一報を聞いた瞬間どう思った?」
祖父の答えはこれでした。
「なんてばかなことを!こんなもの勝てるはずかない!!」
あの当時はよほど田舎で情報遮断の状態に置かれていた地域の人ならともかく、地方でも県庁所在地の
都市生活者は、仕事上いろいろなところで情報を得ているので、最初から日本とアメリカが戦争なんか
やっても勝てないとわかっていました。
ちなみに母方の祖父も「勝てるわけない」と思ったと祖父が亡くなってからですが、祖母から聞きました。
父方の祖父は仕事でよく軽工業製品を見ていました。「軽工業製品ですら彼我の技術差は歴然としている。いわんや重工業をや」と
いつも思っていました。母方の祖父は機械製造会社に技術者として勤務していたので、アメリカ製の
機械がいかにすぐれているかをいやというほど知っていました。
私が祖父たちのこの話から得た教訓は「情報は命」ということです。
学徒出陣の映像をみているとわかりますが、あの子たちみんな憮然とした表情ですよね。半ばやけくそみたいな。
「だからこんな馬鹿げた戦争なんかおっぱじめるんじゃねえっての!あほくさ。犬死だろ俺たち。ちくしょー、
やってらんねえよお」ってむすっとした顔しています。
全員わかっていたんですよね。二年前の時点で「こんなもん勝てるはずねーだろ」と。
もちろん彼らの親が地方在住でも都市生活者で、開戦時点で「なんてバカなことを!」と思った人たちだったと思います。
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/15(火) 14:35:56 ID:8i0Jh8ms0
学生時代の恩師も学徒出陣世代です。理科系だったので兵隊にはいきませんでしたが。
恩師も「最初から勝てないって庶民は口にこそ出さなかったものの、みんなわかっていたんですよ。
僕は真珠湾の時は学生でしたが、勝てもしないのにバカだよなあなんて、友だちとこっそり軍部の悪口いいながら
呆れていましたよ」と言っていました。
戦争中のこと。母方の家は祖父の仕事の都合で東京にいましたが、戦争がひどくなり金沢に疎開しました。
祖母が町内会長の家に挨拶にいき、今まで東京で暮らしていたと言ったところ、
会長は「東京なら味噌の配給はたぶん多かったと思いますが、ここでは東京みたいに味噌はたくさん配給されません。
金沢は朝は味噌汁を飲まないからです。」と告げられ、大変な土地に来てしまったと一瞬ショックで放心状態になってしまったそうです。
田舎だから大豆の生産地に近いし味噌は東京と同じくらい配給されるものと思っていた祖母はあてがはずれまくり、着物をコメや味噌や芋と交換して
食糧難の時代をやりくりしました。
母方の祖母は明治生まれですが、大正時代は富山の県立高女に通っていました。
女学校は入学したときは着物+袴です。髪は団子髷を結うのですが、高い位置で結うとハイカラになりすぎ、
女学生がとかく華美に走ると教育上よろしくないと、低い位置で結うように厳しく指導されました。
校門で毎朝教師がものさしを持って立っていて、襟から何寸と髷の位置が校則で決まっていたので、
髷が校則通りの位置で結われているかをチェックされました。
でも女学校が着物+袴だったのは二年までで、三年からは洋装になりました。
白いブラウスにこげ茶色のジャンパースカートで白ソックスと黒革靴。髪型は華美ではなく学生らしいもので
あればOKとなり、みつあみにしたり、みつあみを耳のところで輪にしたマーガレットという髪形にしていました。
リボンの巾は一寸と決まっており、教師は毎朝校門でものさしでリボンの巾を計ってチェックしていました。
祖母は関東大震災を知っています。富山にいても大揺れに大地が揺れたそうです。祖母は友達と明日の授業で使う
フランス刺繍の糸を手芸店で選んでいました。とつぜん世界がゆれまくり、友達とキャーッと叫んで座り込んだといいます。
関東大震災は大正生まれの私のお茶の先生も金沢で体験しています。先生の父親は内科医として市内の病院に勤めていたので、
病院の近くにある医師住宅に就学前の先生は住んでいたのですが、小さな庭の片隅にあるつくばいの水が震災のゆれで、
じゃばじゃばこぼれていくのを、この年齢になってもありありと思い浮かべることができると言っていました。
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/16(水) 17:47:46 ID:Wv3JJz+X0
テレビなんかでいう昔の生活って首都圏のことを言ってる。
たとえば日本髪の島田髷。これは若い娘の髪型であるとよくいわれ、昭和天皇の長女や酒井美意子さんなんかは
娘時代に結ったという(18かそこらの頃)。
しかし北陸では島田は少なくとも昭和に入ってからは主婦の髪型だった。祖母は昭和2年に結婚したが、
近所に髪結いがあったので日本髪にしたことがある。髪結いでは「主婦ですか?なら丸髷か島田になります」と
いわれ、最初は丸髷にしたが帰宅した祖父が「かぼちゃに藁かけたみたいだ。お前に丸髷は似合わん。
まだ島田のほうが見てくれもいい」と言ったので、翌日島田に結いなおしてもらったことがある。
また伯母の友人は田舎の小さな村の出身だった。その村では女性が正月に日本髪を結う習慣が戦後しばらく
残っていた。村で髪結いの技術を持っている人に頼んで結ってもらうのだが、その村では
女学校に通う年齢は桃割れ、卒業して結婚前までは結いわた、結婚すると島田か丸髷と決まっていた。
江戸では島田は娘の髪型とされて昭和に入っても若い娘が結うものとされたが、それはあくまで江戸の話。
日本全国どこでも島田=若い娘だったわけではなく、島田が主婦の髪型だった地方もあるのである。
日本全国津々浦々しょうゆが台所で当たり前に日常使いされるようになったのは、せいぜい昭和30年以降。
味噌は簡単に作れるが醤油はそうではないので、農家は大豆を自給していても、調味料は味噌であり
醤油は大事な客があったときに出す料理にのみ使うぜいたく品だった。いつも台所の奥底にビンが鎮座
ましましており、年に何度かしか出番はなかった。
普段は野菜でもなんでも味噌で煮たものか、せいぜい味噌の上にたまる味噌だまりを醤油がわりに使う程度。
味噌だまりは味噌を手作りしている人ならみんな知っていると思うが、見た目は醤油そっくりである。
ただし風味は味噌w。魚などはこの味噌だまりでよく煮たという。
海苔も昔はぜいたく品で、富山県ではごはんにのせるのはとろろ昆布。富山で一般の人が
当たり前に海苔を食べるようになったのは戦後である。
納豆も北陸では戦後になってようやく流通するようになった。大正時代に創業された
納豆屋もあることはあるが、昔は大量に作って広く流通させることはないので、
せいぜいその店の周辺地域でしか消費されない。その土地でとれた大豆を
その土地で加工し、その土地の人が食べるのだから、ごく狭いエリアで全て
が完結してしまう究極の地産地消である。
よって明治生まれの北陸の人は納豆を知ってはいるが食べたことがないという人が大半だった。
自分の家の近くに納豆屋がある人ならともかく、大半の人は東京に働きに出たり進学したりして、
ようやっと「あーこれが納豆売りか。東京では朝になると納豆売りが来ると聞いたけど本当なんだなあ」と
一種の感慨にふける。そして噂の納豆をやらを食べてみよう・・・くぁwせdrftgyふじこlp;
最初は強烈だったが、そのうちやみつきになり「納豆最高!」となるのであった。
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/16(水) 17:55:08 ID:Wv3JJz+X0
日本全国津々浦々現金が流通するようになったのはせいぜい昭和40年以降。
離島や開拓村や山奥のような僻地では現金がほとんど流通していなかったので、
戦前はもちろん戦後もかなり長い間行商人とは物々交換であった。
東北の山中にお茶を担いで入ってゼンマイと交換する、繊維製品のような軽工業製品を
芋と交換する、といった具合だった。
僻地医療も現代人からは想像を絶するもので、戦後になっても大根や芋や乾燥・塩蔵山菜を
治療費や薬代がわりとしたとか、僻地の診療所の仕事は患者の診察ではなく死亡届を書くことだったとかいう話である。
歴史なんてのは半分妄想ですから。
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/20(日) 07:05:49 ID:n2dKzgNz0
117にちょっと一言
北陸で納豆が広く流通したのは戦後というより高度経済成長のころからくらいじゃないか?
安孫子素夫は藤本とともに勤めをやめて昭和29年に富山県高岡市から上京したが、
トキワ荘に入る前はまかないつきの下宿にいた。
そこでは朝は納豆にご飯と決まっていて、家にいたときは二人とも納豆なんて見たこともなかったので、
上京してはじめて納豆を口の中にいれた時はカルチャーショックなんてもんじゃなく、朝食の納豆には
かなり閉口したらしい。
昭和29年といえば朝鮮戦争のおかげで景気がよくなって、一億総貧乏のどん底からなんとか
脱した感じだったのではないかと思うが、納豆が北陸に広く普及するまでには、まだかなりの
道のりだったということになるなあ。
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/20(日) 07:10:43 ID:n2dKzgNz0
確かに歴史というのは大都市圏の話が中心になるので、地方でもそうだったのだと
つい考えがちになる。でも日本列島は南北に長いので決して大都市の話が地方にもそのまま
通用するものではない。
ベーゴマなんかも大都市の子はよく遊んでいたが、地方ではそんなものは知らないという子も多い。
七草粥も正月に雪のない地方の風習で、雪国では七草粥の風習はない。雪の下に植物が
埋もれているので採取しようがないからだ。
土用のうなぎもそう。うなぎのとれないところでは土用にはどじょうのかばやきを食べていた。
>>120発想が中学生だね。
歴史は文献検証の連続だよ。
ここは実体験を聞いたことを書くスレでしょ。推測なり検証は別スレでやれば。
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/28(月) 15:09:03 ID:UhO5d+Ax0
日経新聞の私の履歴書に出ていた話。
学徒出陣で繰り上げ卒業世代の経済人の回想によると、東大の卒業式に東条英機が
メッセージしに来た。東大生は全員「なんで戦争なんかにいかなきゃなんねーんだよ。」と
口をへの字にまげてしかめ顔をしていたそうで、卒業式といっても寿ぐ雰囲気ではなく、
お通夜みたいな空気だったとか。
東条は壇上に立って「あの、みなさん、繰上げ卒業でとても腹を立てていると思いますが、実はね、
私も繰り上げ卒業だったんですよ。私の学生時代はちょうど日露戦争の頃で、学生がのんびり勉強しているような
ご時世じゃないなんていわれましてね。私だってもっと学生生活続けていたかったんですよ。でも
それは許されなくて、繰上げ卒業で戦場に出されたんです。でも今こうして東大の卒業式に出て、みなさんの前で
お話しているんですからね。人間の運命って本当にわからないものなんですよ。だからそう腐らずに・・・」と
大変気を使っていたという・・・・w
戦争中は学校に将校が配属されていて、キャンパスを軍人が我が物顔で闊歩し、軍事教練とかを課していた。
ある日、キャンパスを歩いていた東大生に将校がいきなり「貴様、軍人勅諭をいってみろ!」と
つっかかってきた。周囲にいた子はみんな「あー、こいつ運悪いなあ」と思った。何も言えずに口ごもっているとビンタが飛んできて
何人も殴られていたからだった。
するとつかまった子は大声で「ひとつ、軍人は政治に関与せず!」と怒鳴り返した。
軍人はばつが悪そうな顔で舌打ちして立ち去った。みんな拍手喝さいした。
126 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/28(月) 15:27:10 ID:UhO5d+Ax0
学徒出陣のニュース映画の映像だけをみているとわからないことが多いが、
インターネットのおかげであの裏がわかるようにはなっていると思う。
実はあの式典の終了後にゲートから出て行こうとしたとき、いきなり女の子が立ち上がって、
いっせいに出入り口に走りよって、男の子に向かって「生きて帰ってきてください!」と叫んた。
(中にはがんばってくださいと叫んだ子もいたらしいが)
出陣学徒壮行式典は昭和18年の秋だけだった。翌年には開催されなかった。
これはなぜかと考えるに、たぶん女の子の「生きて帰ってきてください!」が
原因だったんじゃないかと思う。
士気を高めるために女の子を大量にあそこに動員したのですが、その女の子がまさかいっせいに
「生きて帰ってきてください!」と叫びだすとは夢にも思わなかったのだろうね軍部は。
もちろん予算も逼迫していたこともあるだろうけど。これは士気が低下すると思ったのだろう。
でも女の子の「生きて帰ってきてください!」という声が耳に入った瞬間、「彼女たちを守らなくてはと決意した」と回想
している人もいるので、女の子の「生きて帰ってきてください!」は必ずしも士気の低下を招かなかったのではないかとも思いますが。
このエピソードを聞くと、戦争中の日本のほうがまだ北朝鮮よりましだということ。
北だったら、ピョンヤンの金日成スタジアムで出陣学徒壮行式典をやったら、
集められた女の子がいっせいに「生きて帰ってきてください!」と叫ぶ自由はあるかな?
たぶんないと思う。出陣する男の子に向かって「生きて帰ってきてください!」なんて
一人でも叫んだら最後、全員連帯責任で逮捕されて収容所送りになるw。
>>126 >出陣学徒壮行式典は昭和18年の秋だけだった。翌年には開催されなかった。
>これはなぜかと考えるに、たぶん女の子の「生きて帰ってきてください!」が
>原因だったんじゃないかと思う。
日本が戦時色が一気に濃くなって、
国民生活の隅々まで縛るようになったのは昭和19年からで、
昭和18年まではまだお気楽な雰囲気や自由な雰囲気も残っていた。
昭和19年から一般の兵士の町内会の壮行会等も行われなくなり
一気に暗い世相へ。
128 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/29(火) 06:58:27 ID:5teqAC+90
地方では町内会の壮行会は昭和20年になってもやっていたらしい。
東京や大阪と違って食糧の調達がしやすかったので、生活状態が大都市より
比較的よかったからかもしれない。
地方は大都市と違って結構のんびりしていたのかも?
>>124実体験を立証するのは難しいぞ。
記憶なんてあてならないんだから。
ここでの発言者が嘘をついてる可能性も否定できない。
>>126 私の父(昭和4年生まれ)と伯母(昭和元年生まれ)は、スタンドで見ていたよ。
当時は雪が谷在住で、伯母は鶴見に通学中の女学生、動員されたのではなく、友人たちと連れだって、友人のお兄さんの出征を見送りたくて行ったそうだよ。
伯母の感想は
「大雨で、制服がずぶ濡れで寒かった。まだ軍服が似合わない新兵さんたちが、みんな賢そうな顔をしていて、ああ、勉強を続けたいだろうに…と思うと切なくなった」
父は
「遠くから、雨の中で身じろぎもせずに閲兵をし続ける天皇をみて、さすがに立派だなと思った」
「でも同時にまた、天皇の名のもとにこんなに大勢の犠牲をはらわなきゃならないって、これから日本はどうなっちゃうんだ」と思ったそうだ。
その後、父の一家は昭和20年の京浜地域への空襲で、雪が谷の自宅も、蒲田で祖父がやっていた工場も焼けた。
空襲時は、父は徴用されていた軍需工場の当直をしていた。
3月の東京大空襲の惨状は伝わっていて、火がついたらもう逃げるしかない、バケツリレーなんかしてたら死ぬとみんな知っていたから、当直の軍属も消火作業などしないで、さっさと一緒に逃げたそうだ。
その後、勝浦に縁故疎開していた小学生の弟を迎えに行ってから、祖父の実家がある新潟にみんなで疎開してきた。
空襲以後、新潟に自宅をかまえておちつくまでの苦労話は、父も伯母たちもほとんどしない。
聞いても
「思い出したくない。言葉にできないくらい、いろんな辛いことばかりだったよ。話したくない」という。
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/30(水) 07:59:30 ID:XQRNRQfm0
戦争中のこと。
福沢諭吉の孫は金沢の十一屋という地域の連隊にいたそうだ。
休日になると一時間近く離れた家に電話を借りにいっていた。
当時は電話のある家が少なく、家族の声を聞きたいと思っても電話のある家が近辺にないと、
テクテク歩かなくてはならなかった時代だった。
2.26事件のときは、朝ずっとラジオから音が出なくて、どこの家もおかしいなと思ったが、
理由がわからないまま、ラジオの音の聞こえない静かな朝を過ごした。
ラジオから音が出たのは昼過ぎで、そのときにはじめてクーデターが起こり、
ラジオ局が軍隊に占拠されていたせいで今朝はラジオから音が出なかったとようやく人々は知った。
制限選挙の時代は電話があまり普及していなかった。
衆議院が解散すると、選挙権を持っている人の家には真夜中でも電報が届いた。
群馬出身の婆ちゃんから聞いた話
・昭和18年頃から周囲の家々には疎開してくる人が急増して、楽しそうに見えた。
でも我が家だけは何も変わらず。「なんでうちは他所みたいに人が来ねえだ?」
と母親に聞いたら「うちは東京に親戚がねえからだ」とピシャリと言われたが
子供だったので、なんでうちだけ人が来ないのか、よく分からなかった。
・東京から来た子は服装が垢抜けていて、自分達イナカッペとはえらい違いだった。
田舎にはないゴム毬を見せてもらったときは衝撃だった。あまりの衝撃で、
その日は借りたゴム鞠で夜遅くまで遊んでいて、親に怒られた。
・小学校の前が線路で、学校の男の先生が出征するときは、駅を出た汽車は
学校の前で減速して、生徒全員で旗振って万歳して見送った。
列車の窓の先生は終始無言で敬礼していた。戦死広報が出ると朝礼で校長先生の
「○○先生が壮烈な戦死を遂げられました」という報告があって、凄く悲しかった。
・村で満州開拓に行った家族も多かった。戻って来なかった家族も多かったけど
戻って来た家族も、女性はみんな坊主頭で顔を真っ黒にしてもの凄い状況で、
さすがに能天気な田舎の子供でも満州での事は聞けなかった。
・戦争が終わると、東京の子達がどんどん櫛抜けみたいに帰って行った。
同窓会は今でも毎年欠かさずにやっているけど、疎開して来てた子は
その後連絡不詳になってて、誰一人呼べないのが悲しい。
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/08(木) 14:52:20 ID:/DXSyVOp0
自分のうちの墓に刻んである名前の中に知らない人がいた
ある時の法事で岐阜から来た親戚の爺さんが、何者なのか教えてくれた
その人物は自分の祖父の兄にあたる人で
戦前の国鉄に勤めていたが、鉄道事故で死んだそうだ
なんでも昔は、貨物列車の積荷交換で突放ってのをしてたそうで
失敗して貨車に挟まれたか轢かれたかで死んだそうだ
余談だが、祖父の兄の葬式の時に香典泥棒が出たそうな
犯人は、踏切り番のおっさん(今でもうちと仲が悪い)らしいと爺さんは思ったそうだが
地元の有力者の親戚だったので咎められなかったらしい
明治始めの廃仏毀釈の際、村には3つの寺があったけど、うちの旦那寺だけが
潰される事になり、鎌倉時代の作と言われる本尊も焼かれる事になってしまった。
檀家総代のうちの先祖(5代前)が一大決心して、仏師に新しい仏像を掘らせ、
仏像焼却の確認に来る県の役人に多額のワイロを握らせて、仏像をスリ換えた。
バレれば投獄さ。鎌倉時代からの由緒正しき仏像は、うちの土蔵を2重壁にして隠した。
75年が経ち、太平洋戦争が激しくなり、うちの村にも土蔵荒らしが出没するようになり
先祖の犯罪がバレてしまうかもしれない、という状況になった。戦争中だから仏像がバレて
「国の指示を守らない非国民の家」という印象を与える事は、当時としては致命的だった。
仕方なく当主は仏像を焼いてしまった。子供だった爺さんがその時の事を覚えているが、
とても無念な表情だったそうだ。曾爺さんから代々命がけで守って来た仏像だからな。
戦争中に仏像焼いてしまって惜しかった、と言うのは簡単だが、その時代時代に、
大切なものを必死で守ろうとした御先祖様達の強い意思を感じるんですよ、私は。
ちなみにワイロを貰った県の役人は、その金で家建てて、その家が昭和30年代まで
あったそうだ。
137 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 13:08:57 ID:EOPfz+Rq0
前のスレにも書いたが、うちの爺さんは子供の頃からカナダ人宣教師に英語を習っていて、英語が出来た。
日本が戦争に負けて、進駐軍がやって来て、英語の出来る爺さんは引っ張りタコになったが、
「通訳は板挟みになるから嫌だ。わざと難解な日本語を使って、相手のアメリカ人を煙に巻こうとする
馬鹿な日本人が多くて困る。米兵はわざと難解な英語使う事はしない」と言ってたそうだ。
でも親父が言うには「爺さんの英語は変だった。俺達が英語の授業で習う英語とは違っていて、
aをアではなくエと読んで面食らった。我々のジャパニーズイングリッシュではなくて
本物の英語だったんだろうな」との事。爺さんには子供3人と孫7人いたが
1人も英語はモノにならなかった。教え方はうまくなかったみたいだ。
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/25(日) 05:41:15 ID:oQc7cZE20
私が昔通っていたお茶の教室にいた人で糸偏工場の多かった地域の出身の女性がいた。
その人は娘時代がちょうど戦後の混乱期で、近辺には朝鮮の人がたくさん住んでいた。
彼らは戦争中に日本の工場に出稼ぎに来ていた人たちだ。大半の人は契約が切れると
お金をもって故郷に帰ったが、中には日本人と結婚して日本に定住した人や、朝鮮人同士で
所帯を持ったが、まだまだ日本で働いて家に送金しなくてはならず、祖国に帰るのが難しいという
人も多かった。
戦後しばらく朝鮮の人たちはどぶろくを作って生計をたてていた。彼らはGHQの監督下にあるとされ、
日本の酒税法違反にはとわれなかったそうだ。GHQも「本当は密造酒は取り締まったほうがよいのかもしれないが、
こっちは忙しいのでそんなことにまで手が回らない。彼らもそれしか生計の手段がない」ということで、
ほとんど放置されていた。
当時は酒が手に入らなかったので、周辺住民は大切な客がくるときはいつも近くの
朝鮮部落まで行き「お酒わけて」というと、奥から「はいはい」といって、朝鮮の人がいつも
どぶろくを売ってくれたという。
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/29(木) 16:20:07 ID:vKUUqhFO0
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.  ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄ ,、-ー-、 電
| r'"´ ̄`ヾ、 気
| リ ,,, ニ ,,,_ ヾト、 つ
| ,ハ ^7 ,^ !.:.\ い け
| /.:.:.V,r''''''ゞyイ.:.:.:.:..ヽ い り
| ノ.:!:.:.:.:`ゞ-<7.:〉.:.:.:i.:.:} だ ゃ
|_,,,/.:.:/:.:.:.:.:.:| }-{/i.:/.:.:.:.:|.:/. ろ
と_」.:/!.:.:.:.:.:.:.!  ̄ リ.:.:.:.:.:り ・
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ヽ;::/::::::....;;;ヽ、 > 'ゝ─‐イ、
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140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/01(日) 18:00:44 ID:2YFrOuMu0
爺さんいわく
昭和30年頃赤線で1発500円、泊りで1500円だったから気軽に行けた。
泊りはゆっくり出来て良かったぞ。一晩だけど情が通じて別れが辛かった。
あれは女郎さんが、いいお客さんと結婚出来るように、という桶屋の
女郎さん救済システムじゃなかったのかなあ
オイルショックで女の値段も急騰して、滅多に行けなくなった。
赤線の女郎さん達元気かなあ。
今は泊まりなんてないって?
ストーカーとかいる時代だから、仕方ないか。
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/15(日) 11:55:43 ID:Vn6objL8O
終戦記念日
戦争体験談が聞きたい
142 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/15(日) 12:54:53 ID:FmSAQ1p60
期待にこたえられないかもしれないけど・・・
戦争中は勤労動員で学生も勉強より労働力を提供しなくてはならなかった。
よく「工場で勤労動員」という話が出てくるので、学生は全員工場での労働についていたと
思われがちだが、実はそうではなかった。
工場にいった人は確かに多かった。でも成績のいい人は工場にはやられなかった。
私の知る限りで女学校で成績のよかった人にどこに行ったかを尋ねると、
貯金局や銀行といった金融機関や保育所である。
こういうところは「勉強ができて品行方正な人を」と言われていた。だからどこの学校でも
一番優秀な人が送り込まれた。
金融機関は事務能力が必要なので勉強のできない人では勤まらなかったし、保育所は
乳幼児から就学前という年齢層の幅広い子供を預かるため、赤ん坊の世話はもちろん就学前の子の
ための文字や簡単な計算等の教材の作成や準備と、覚えるべきことが膨大だったため、
学校のできの悪い人では勤まらなかったそうで、それで金融機関と並んで保育所も「成績優秀にして品行方正」を
求めたのだという。
うちの爺さんは、ソロモンで米軍と戦い餓死寸前まで追いつめられ
日本軍のソロモン撤退により、フィリピンに送られる途中で
パラオ近海で輸送船が敵潜水艦にボカチンくらい、サメのいる海を数時間漂い
奇跡的に駆逐艦に助けられ、フィリピンでも4ヶ月も米軍と激戦を戦い抜いて
生きて帰ってきたと言うツワモノ。
でも、そんなそぶりは全く見せない好々爺だったが、戦友達との絆はすごかった
のを子供心にも覚えている。家族より戦友が大事だったと、婆ちゃんがこぼしていた。
多くの戦友を軍葬で送ったが、平成19年に自分が亡くなる時は戦友が一人も残っておらず
普通のお葬式をした。お袋達は軍葬で送るべきかどうか悩んでいたが、
戦友達に囲まれ見送られる軍葬ならカッコいいが、戦友がもう一人もいないのに
軍葬やってもちょっと場違いになってしまうからね。
うちの爺さんは諜報機関員として、東南アジアで屋台商人やりながら米軍の動きを連絡してたらしい。
今米兵がバナナ三本買ったとかアメリカは敵だとかwwwwwwwwwwwwwwwすげえwwwwwwwwwwwwwww
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/17(火) 18:38:56 ID:Wa+IhxZmO
ワシが子供の頃はしょっちゅう晒し首を見かけたもんじゃ
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/18(水) 08:20:20 ID:YkBalwlP0
戦争がらみで、涼しくなれるかもしれない話を。
明治45年生まれの婆ちゃんには、3才年下の弟がいた。
この弟が、支那事変が始まるとすぐに召集されて、北支に出征した。
それからしばらくして、婆ちゃんの実家(婆ちゃんはすでに他家に嫁いでた)で土間に女たち6人が集まり、大豆のより分け作業をしていた。
当時はまだ電気がなく、柱から柱に針金をわたし、ランプを下げて照明にしていた。
すると風もないのに急にランプが揺れて、1bくらいの巾でガラガラ音をたてながら、ランプがいったりきたり、2往復した。
女たち(婆ちゃんの祖母、叔母、妹たち)は驚いて
「わあーっ!おっかねえー!」と外にとびだし震えていた。
続き
しかし婆ちゃんの母親だけは
「ああーS坊が命とられたー!S坊が死んで帰ってきたんだやあー切ねえー」と泣き崩れたそうだ。
みんなで「縁起でもねえ、そんなこと言うもんでねえ」となだめたが、
その日から婆ちゃんの母親は仏前にSのぶんの線香と水と飯を供えて、念仏を唱えるようになった。
後日、まさにその日その時刻に、Sが銃撃戦で披弾して亡くなったという報せが届いたという。
婆ちゃんの系統の女には、こういう霊感のようなものを持つ者が何人かいる。
私もその一人で、去年婆ちゃんが入院中、真夜中に急変して亡くなる時、9年前に亡くなった爺ちゃんがきた。
誰かが枕をなでるので目をさましたら、ベッドと壁の15aくらいしかないすき間に爺ちゃんがいて、
「おい、おい、お前行ってやってくれや」という声が聞こえた。
かけつけたおかげで、婆ちゃんの最期をみとることができた。
149 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/19(木) 17:49:46 ID:I96i8rFc0
>>148 ほんとか?その話。
死んだ爺ちゃんとあったのか?
150 :
148:2010/08/19(木) 19:53:01 ID:U6OGvLBSO
>>149 スレチだけど、お尋ねなので簡単に
目覚めた時そこには、ベージュっぽい霧のかたまりのようなものが見えただけなんだけど、なぜか
「あ、爺ちゃん…」と感じた、としか言えないなあ
姿を見たわけじゃないんです
声も「耳で聞いた」というより「頭の中に聞こえてきた」ってかんじ
言葉で説明しきれないんですよ、私にも不思議なことすぎて…
こんなもんですみません
関東の田舎村、関東大震災時の時の話をしてくれた。
・東京方面が真っ赤に夕焼けより赤く染まった。・大空襲の時も同じだった。
・甘粕の話。
・朝鮮人が悪さをして逃げてきたら捕まえろと話されたこと。
などなど。
まわりの農家次男以下は満州に開拓に行ったが、みな戻ってこなかったそうだ。
他にも話してくれたけど忘れちゃった。
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/28(土) 06:14:57 ID:BR7+OJjP0
爺さんは昭和27年の朝鮮戦争の盛りに大学卒業したが、
当時の超花形産業と言えば鉱山、そして紡績、砂糖、肥料(いわゆる3白)。
さらに造船業が猛烈な勢いで復活しつつあった。
結局、教授推薦で食品業選んで、大した波風も無くサラリーマン生活過ごしたけど。
ところが、昭和20年代の花形産業は全て20年ぐらいで壊滅してしまったので
俺が就職活動する時は「20年、30年後を考えて会社を選べ」としつこく言われた。
つっても、そんな先の事分る訳ないじゃん。
結局、輸出産業選んじゃって、円高で今は青息吐息。
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/29(日) 04:38:29 ID:9kvMIkoc0
質問なのですが明治初期って月日の読み方ってなんて言ったかわかりますか?
「1週間前」とかは言わないのでしょうか?
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/29(日) 10:42:47 ID:JsKD33Uw0
太陽暦(グレゴリオ暦)の採用は明治5年から。
当然、七曜制もそこからで、それまで1週間や火曜日なんて言葉はなかった。
もちろん日曜日は仕事休み、なんて習慣はなし。
それまで勤め人の休みは盆と正月だけ。だから盆と正月の意味は大きかった。
陰暦の月は、睦月・如月・弥生・卯月・・ってのは学校で習っただろ。
陰暦は農作業と深く関わっているから、特に農村部ではなかなか廃れなくて
明治時代のカレンダーは、陽暦と陰暦の並記の物が多い。
陽暦がすぐに浸透したのは、日曜休み&土曜半ドンの役所と学校ぐらい。
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/04(土) 09:06:23 ID:jxoOW31W0
鉄道技師だった爺さんは辺鄙な場所での鉄道建設が多かった。
戦中の労働者は朝鮮人やアカとか、いつ本格的反乱起こすか分らない連中で
しかも山中の仕事なので女性とか全くいない場所だから、皆がピリピリしていて
現場を預かる人間として「慰安所を作るべき」と上司に進言したと言ってた。
上司が却下したから良かったが、もし許可が降りていたら「慰安所問題」で
戦犯扱いされてたかもしれない、って言ってた。
連れて来られるピーが、ちゃんと労働契約して来たのか、強制されたモノなのか
なんて神のみぞ知る話だもんね。送られて来てから強制されて来たと分ってもどうにもならない。
でも山中の男所帯の重労働だとケンカが絶えないから、慰安所作るのは
作業効率アップには効果的なので、現場の知恵だと言ってた。
戦後も売春婦を建設したばかりの線路で列車に乗せて
現場に連れて来たって言ってた。鉄道建設ばかりじゃなくて
道路建設もダムも送電鉄塔もトンネル工事も、みんなやってたって。
赤線地域以外で行為をするのは違法だけど、警察も黙認してたってさ。
156 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/05(日) 08:52:38 ID:e9XqWjZ20
婆さんと一番仲の良かった友達は、名古屋の飛行機工場に勤労動員中に爆撃されて亡くなった。
戦後、一緒に勤労動員に行って半死半生で帰って来た人達に聞くと、
飛行機工場が狙われているのは分っているから爆撃される事が分ると社員は逃げてしまうんだが、
最後に工場の門を閉めて勤労動員の生徒が逃げ散らないようにしてしまい
多くの勤労動員の生徒が工場内で焼け死んだそうだ。
可哀相になあ。まだ16とか17才の乙女達。夢や希望も沢山あったろうに。
と、嘘つきばかりである。
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/06(月) 07:53:10 ID:IV8G9cpd0
つまり142の話から結論付けるに、学校の成績がよければ工場にやられないので助かったのにってことか。
やはり勉強はしっかりやっとくことだという教訓をわれわれは得ることができるね。
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/06(月) 09:30:40 ID:/DlRLQAa0
インテリは軍から信用されず、学徒兵なんて特攻隊に集中的に送り込まれた。
中国の文革もそうだけど、狂気の世界の中ではインテリは迫害される。
何か嫌な事でもあったのかい?