1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
とりあえず鳥羽伏見の戦いで逃げずに戦うところからシュミレーションしてみてください
最強の幕府艦隊を二つに分け、駿河湾から東海道の薩長勢を叩くとともに、
別働隊が江戸湾に入って艦砲射撃を浴びせる。
後に大村も小栗の主張が通っていたら我々の首は無かったと述懐してる。
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/13(木) 10:46:30 ID:19VdFWzs0
慶喜が徹底抗戦なんてするわけないだろ
そんな権力欲と保身根性にとりつかれたアホだったら、
大政奉還どころか14代将軍継嗣騒動のころから策動しまくってるよ。
あるとしたら、恭順を唱える慶喜に業を煮やした会津と幕臣が慶喜を暗殺し、
亀之助を新将軍にし、フランスから土地を担保に援助を受けて戦う展開
大阪城を拠点に海軍で圧倒的有利な幕軍は港を閉鎖
京都の官軍は補給線を絶たれ敗走
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/13(木) 11:15:16 ID:IV7Bxfkj0
艦隊保全にこだわって時局を見失い敗戦するのが日本の伝統
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/13(木) 12:22:00 ID:/tYNG/Dk0
日本の国土を舞台とした、英仏戦争が勃発する。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/13(木) 13:20:54 ID:Kvr+faJtO
全部コミンテルンの仕業になる。
>>2 はいしつもーん
江戸に向かう経路は果たして東海道だけでしょうか?
どっか重要な街道を見落としてませんか?
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/13(木) 20:50:20 ID:+nEcadXp0
新政府の主力は中山道を通っているんだよな。
ぶっちゃけ関係ないw
>>4 沿岸の砲台や軍から砲撃受けて確実に沈没するよ。
ていうか海軍力でなんとかなるんなら、
長州征伐のときの体たらくはなんなんだよ、
あの長州の海軍にさえ、フルボッコされて逃げ惑っていたってのに。
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/13(木) 22:30:36 ID:igvOAbyV0
>>9 山に挟まれた東山道に主力を並べた状態で幕府が総反撃に出たら、
討幕軍の主力は補給を受けられずジリ貧となり包囲殲滅されてた。
長期戦となった場合は制海権をどちらが握るかが戦況を左右するんだよ。
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/13(木) 22:39:17 ID:KBWuCm8RO
慶喜が逃げなかったら鳥羽伏見の戦いは幕府が負けるにしても官軍の被害も大きくなったのかな?
それとも変わらん?
>>11 当時の弾薬消費量はそれほどでもない。
普仏戦争のときでさえ、フランス深く侵攻したドイツ軍は自国からの補給など絶望的な状況だったが、
結局部隊ごとに持ち出した弾薬で何とかなった。
この状況は第一次大戦でも殆ど変わらず、初動での鉄道網の混乱による補給の途絶、
鉄道の確保が進行速度に追いつかない/駅から前線までの補給路が大混雑によって機能停止している状況でも
微々たる補給で前線を支えている。
この状況の解決は、第二次大戦のアメリカを待たねばならない。
つか、幕府歩兵隊以外でまともに対抗できる戦力は幕府側にあったのか?
その幕府歩兵隊にしても、下士官の不足であの体たらくだし。
ちなみに、当時の目視による索敵、風向・風力に大きく左右される帆船では、一口に制海権といっても並大抵の努力では為し得ない。
ナポレオン戦争のとき、イギリスがフランスを海上封鎖するのにどれだけの努力を必要としたか考えればわかる。
蒸気機関積んでりゃ風向に左右されずに動くことは動けるが、数が少なすぎ。
熟練度にしたって、阿波沖海戦程度のもんだよ。
幕府が恭順しなかった場合、他大名の帰趨が焦点になると思う。
尾張や加賀がどちらにつくかで周辺小藩は巻き込まれるだろうから
両方が幕府についた場合は幕府優位になるだろうな。
官軍にとって最大の泣き所は補給線じゃなくて金。
戦争が膠着した場合、10万の軍勢を維持できるとは思えない。
短期的には幕府歩兵隊を中心に、幕府側についた各藩の新制兵力を糾合して尾張、美濃、加賀ラインを維持。
多少維持できれば幕府軍の銃兵化が進むだろうから、訓練を満了した部隊を逐次戦線投入。
戦争が長引けば薩摩、長州の主力になってる半農兵、農民兵が多分脱落する。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/14(金) 19:29:39 ID:ZEuDhpJ10
慶喜が抗戦なんてするわけがないんだから、
大村益次郎が逢坂で足止めされるなりして、彰義隊早期鎮圧がならずに長引き、
勝の策略どおり慶喜江戸帰還がなり、新政府の役職に就任する可能性を考えたほうが現実的。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/15(土) 00:29:49 ID:bvPvC0/Y0
>>15 金がヤバイのは新政府ではなくて、幕府。
幕府は欧米からも借金を払えといわれており、それが払えなくなってフランスに追加借款を頼んでいる始末。
幕府はつぶれたときに、10万両しか手持ちの金が残っていなかったといわれている。
(借金は商人と外国にやまほどある)
なので長期戦をして、なおかつ軍の近代化をすることは非常に難しい。
だから小栗はフランスに追加借款を打診していたのだが、
フランスは金がほしいなら、担保を寄越せと色々無理をいっている(まあ当然の話だが)
さらに機内を押さえられると、商人の大半を抑えられているわけで、
御用金を巻き上げるのも難しい(つか長州征伐のときに数百万両も御用金をとって金蔵空っぽ)
さらに長州と佐賀は藩を解体したときに、100万両もの貯蓄があったことがわかっており、
長期戦も可能と思われ。
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/15(土) 01:10:03 ID:Rhq5+syEO
仙台藩は財力も兵力もあるから、もうちょっとやると思ってたのに
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/15(土) 02:59:23 ID:Bz+zwEvn0
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/15(土) 03:38:59 ID:ZRSIE2740
>>20 仙台藩は一関藩を含む。明治維新後は処分により武家人口はたった4万人に。
会津藩は若松県となったあと、士族・卒族人口はゼロ。
幕府方の旗本・御家人は、大体旗本が10万人、直属が10万人といわれているが、
明治維新後は静岡藩に士族7万人が残っている。
水戸藩は、処分後の人口なので、幕末の武家人口はもっと多かっただろう。
これらの人口は女子供や老人を含むので、実際に兵力となるのは全体の1/3から1/4程度。
更に武家人口の半数は半農の郷士だったりするので派兵が困難。
それでも薩摩藩は、自分の領地にも守りの兵力を残したまま、数万人規模の兵力を領地外へ派遣することができた。
薩摩藩以外で数万人規模の兵力を領地外へ派遣できるのは、幕府、伊達藩、細川藩、
あと辛うじて鍋島藩と前田藩ぐらい。
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/15(土) 03:46:41 ID:18njGY+c0
>>20 幕末〜明治初期の薩摩の人口統計はデタラメだよ。
基本的に半士半農の郷士は平民扱いなんだけど、
薩摩だけは武家扱いしてるからそういったトンデモな数字になる。
逆にいえば薩摩藩士とは、
畑を耕しながら立ち木相手に木刀を振るってた百姓がほとんどで、
薩摩には本来の武士が存在しなかったということ。
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/15(土) 09:08:26 ID:bvPvC0/Y0
いや薩摩でも城下に住む人は武士といってもいいんじゃないか?
そして両者の間には根深い身分の差があり差別がある。
>>23 幕末の時点では、基本的に農作業をする百姓を武士とは言わない。
薩摩の場合、百姓と武士が未分化の遅れた状態にあったわけだから、
身分差別が他藩よりひどかったかどうかは疑問。
また、薩摩士族はホモ関係を通じた郷中制度が規範となっており、
一般的な武家組織とはかなり異なる特殊な集団だった。
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/15(土) 12:45:10 ID:BUSymsAL0
>>22 明治5年までは卒族という分類があったから、
他藩も郷族は卒族扱いとして平民とは区別されていた。
結局かなりの卒族が平民に格落ちとなったけど。
中村半兵衛は差別されてたんじゃないの?差別と言うとあれだけど
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/16(日) 12:00:48 ID:MsYPfMw6O
以前、鳥羽伏見の戦いの前日に、官軍、幕軍の両兵が談笑しながら一緒に風呂に入ってたという談話が紹介されている記事を見た
藩や立場によってはかなり温度差があったんだろうね
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/17(月) 18:46:12 ID:Sd5l7ezlO
上野介の作戦が採用されて官軍敗北。どんな日本になっていただろうか?
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/17(月) 19:02:52 ID:yLD4faOd0
徳川家を筆頭としたビスマルクばりの強権国家。
慶喜ならできてたはず。それを選ばなかった。
江戸に戻ったのは朝敵とされたからなのかな?
きのうはずいぶんとヘタレだったねえ
それこそイギリスフランスの思う壺
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/18(火) 05:04:07 ID:mJvHEDWcO
大政奉還を断固拒否したらどうなった?
>>32 王政復古クーデタは起きなかっただろうね。
いいれす
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/22(土) 09:02:58 ID:+b7GMEYIO
徹底抗戦したらフランスはもっと援助してくれたかな?
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/22(土) 09:24:54 ID:5u5Lscd60
>>33 王政復古クーデターは形を変えて行われるよ。
徳川幕府討伐の詔が捏造されて諸大名に送られ、
内線がもっと激しくなっていたかも知れない。
>>1 慶喜の出身や考え方からすると薩長土=官軍の図式が成り立ってしまったらほぼ史実に沿って動いてしまう。
鳥羽伏見の際に薩長の動きと狙いを正確に関知していたなら、という前提だが、
何らかの方法で薩長土の朝廷での工作を潰し朝廷の命に背いているという図式をいかに成り立たせるかが重要じゃないか?
幕末の頃の様子をみていると実際の戦いの前に、どうも慶喜は情報戦と謀略合戦に負けたような印象を持ってしまうんだよな・・・
シュミレーションじゃなくてシミュレーションだ、という突っ込みは無しか?
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/22(土) 18:10:41 ID:jOw7fyPy0
慶喜が龍馬の存在を知ったのは維新後だった
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/22(土) 19:31:58 ID:K/Vmhf06O
史上初の、
征夷大将軍兼フィギアスケーターの誕生に
21世紀の日本は大いに湧いたろう
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/22(土) 20:01:46 ID:GjVxyCeUO
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/22(土) 22:45:25 ID:DSZ6f8aV0
慶喜が出陣したら半日で京都を制圧できたのに、朝敵になることを恐れたばかりに
敗北した。薩長に負けたのではなくて水戸学に負けたのだ。
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/22(土) 22:51:23 ID:5u5Lscd60
>>41 だから鳥羽伏見の前に朝敵にならないよう情報収集(諜報)と薩長の謀略潰しをするのが重要。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/23(日) 00:26:39 ID:fNlOhsn20
幕府においてそれができた唯一の人材・原市之進を殺害したのが幕臣なんだから、
もうなにをかいわんや
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/23(日) 09:46:29 ID:Iu8idh0A0
鳥羽伏見の時はオグリンは何してたの?
群馬で処刑されるまで群馬で隠居してたんでしたっけ?
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/23(日) 09:55:22 ID:tOxZ4PoV0
北朝鮮の力
http://ameblo.jp/wadahideki/entry-10119119659.html 日本という国が北朝鮮に実は牛耳られているという話だ
私がしているのは、外交で、いつの間にか北朝鮮ペースで話が進むというレベルの話ではない
表向きは日本の政治家は、北朝鮮への制裁を主張するし、実際、実質的な経済制裁状態は続いている
しかし、いっぽうで、在日の北朝鮮の人たち(日本に帰化したらおそらく通るのにいまだに北朝鮮の国籍を守ろうとしている人たち)
がやっているパチンコ屋やソープランドの税務調査は一切進んでいない
2年ほど前に京都のパチンコ屋に税務調査が入った
5軒ほどのチェーンで年間売り上げは65億円ということだったが、3年間の所得隠しは79億円だった
かつて、総連系の資金源がパチンコ屋とソープランド(北朝鮮の人が、在日になりすまして直営でやっている店もある可能性があるのだ)で、
民団系の資金源がサラ金と闇金言われたが、サラ金の利息に激しい規制がかかり、闇金もがんがん摘発されているのに、パチンコ屋とソープはまったく平気だ
やはり日本は北朝鮮の属国なのである
>>43 その原は穀潰しの使えない旗本リストラ策を唱えていたんだが
それが祟って旗本によって夜陰殺されてしまう。
いわば旗本は今の道路族だな。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/23(日) 11:40:43 ID:or7QV5+H0
>>44 オグリンは、江戸薩摩藩邸を焼き討ちを命令した張本人だよ。
すっかり薩摩と開戦した気分になって、兵隊を鳥羽伏見へどんどん送り、
彼等が勝手に暴発して負け、徳川家に朝敵の汚名を着せました。
家臣の暴走に怒った慶喜サンが江戸に帰ってくると、
当然オグリンに雷が落とされて以後謹慎処分w
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/23(日) 11:49:15 ID:Iu8idh0A0
オグリンが焼き討ちを命令したのかw
オグリンはそこまで暴走するんなら鳥羽伏見に行けば良かったのに
もしオグリンが処刑されなければオグリンはどうするつもりだったんでしょうか?
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/23(日) 12:28:57 ID:or7QV5+H0
>>48 徳川慶喜の意志次第。
慶喜が徳川幕府の存続を臨み戰う場合、
当然譜代大名と言った幕府閣僚がいるから、オグリンは彼等を説得し裁可を得なければ動けない。
オグリンの江戸決戦案は採用されても、オグリンの近代化策は「徳川宗家の大統領化と幕臣の中央官僚化」は、
早い話、中間支配者の譜代大名の幕政からの排除をうたっているので、老中(譜代大名)たちから却下される。
慶喜が恭順する場合は、徳川家は一大名になり、一大名家が譜代とはいえ他藩に運営される訳にはいかないという理屈で、
譜代大名による老中体制が終了排除され、純粋な徳川家臣団による徳川家運営になる。
この場合は、当然主戦派であるオグリンは排除され、穏健派の勝が思う存分仕切れる体制になる。
まぁ史実通りというところか。
オグリンが殺されず生き残った場合は、会津に逃げる事になるが・・・
徳川家臣の彼が会津藩兵を率いる事はできない。
海軍の榎本、陸軍の大鳥らは「徳川宗家の主命に反した」行動覚悟の上だったが、
譜代家臣の小栗が徳川宗家の主命に反する行動を取るのか疑問。
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/23(日) 12:29:18 ID:fNlOhsn20
>43
>旗本リストラ策
この話ところどころで聴くけどソースを知りたい。
まああのハライチさんなら、言ってもぜんぜんおかしくない。
大いにありうるけどねw
>>49 オグリンは海軍の榎本、陸軍の大鳥らと行動を共にする可能性はあったのかな?
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/23(日) 14:22:23 ID:0exzlnXCO
>>49 詳しくありがとう
結局オグリンは生き延びても活躍するのは難しい運命だったんだね
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/23(日) 15:03:45 ID:or7QV5+H0
>>51 オグリンの忠誠心次第だな
榎本や大鳥は徳川家に忠義心がある一方で、日本の将来も考えていた。
つまり徳川は徳川、日本は日本と割る事ができた人達で、故に戊辰戦争が終われば、
あっさりと明治政府に出仕して新生日本建設に活躍できた。
オグリンが、徳川は徳川。日本は日本と割りきれる人ならば榎本と行動を共にできる。
もっと言えば、明治政府に出仕していたかもしれない。
でも現実問題として、徳川家から蟄居謹慎を言い渡されると、唯々諾々とそれを守るようでは無理かもな。
俺を蟄居させるような徳川家など知った事かと徳川家を脱走できれば目があるけど。
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/26(水) 17:49:33 ID:jSENgPUP0
幕府は根元が腐っていたからだめだ。
旗本とか抵抗勢力にすぎんだろ。
慶喜の大政奉還後の構想はどういうものだったのだろう?
>>55 内容的には大統領制という以外は新政府側とそんなに変わらなかったような?
しかし、やはり政治体制が変わる場合多かれ少なかれ既得権益を失う人間は
必ず抵抗勢力になるから、慶喜プロジェクトチームがどんなにいい体制を
考え付いたとしても幕府の殻の中では実現は出来ないか大きく後退したものにしか
ならなかっただろうな。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/26(水) 18:40:55 ID:+/S6C8MoO
「新撰組」は旅籠の酔い潰れた相手に夜襲し攻撃する卑怯なやり方は上手いが。
実戦むきなら「彰義隊」でしょう。
え・・・
「女にもてるから」入隊したやつらが大半で、攻撃日時が指定されると脱走者が相次ぎ、戦闘開始から半日で壊滅した彰義隊が実戦向き・・・?
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/27(木) 20:11:20 ID:h/g91OWe0
やはり、維新は革命であったな。慶喜の判断は英明だったのだろう。
結果的に鳥羽伏見で薩摩軍の謀略にのせられて
正解だったのかも。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/29(土) 19:47:57 ID:UA91WaK80
坂本龍馬の構想が成っていればなぁ
龍馬は新政府が落ち着くまでの臨時トップに慶喜をと考えていたらしい
薩長と違って龍馬は慶喜を倒そうとは思っていなかった
むしろ、新政府に必要であるとまで考えていたのに・・・
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/29(土) 19:50:25 ID:MahDsF11O
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/29(土) 19:57:54 ID:UA91WaK80
流れの止まってたスレなのに
まさかこんなに早くレスが来るとはwwwww
しかし考えてみると慶喜ってトコトン人に嫌われるように立ち回ったな
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/29(土) 20:41:25 ID:nZIEEvt50
人に嫌われるというより、佐幕派(と佐幕ヲタ)が理解してなかっただけでしょw
元々尊皇思想が生まれた水戸の人だよw
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/30(日) 00:40:25 ID:eKLa++VOO
幕末にタイムスリップして慶喜にデジカメを渡せば貴重な写真をたくさん残してくれるかな?
>>64 佐幕だけではなく薩摩藩にも始め将軍候補として担がれていながら
最終的に薩摩藩から嫌われたし尊王攘夷派からも嫌われていたようだし。
欧米の外交官にも始めて謁見したときは良い印象を持たれてたのに
その後のゴタゴタで結局フランスしか味方してくれなかったし。
アーネスト=サトウの日記なんか読むと、散々持ち上げておきながら
彼が鳥羽伏見の戦いの後大坂城から江戸に逃げ帰った後は
笑っちゃうほど思いっきり扱き下ろしてるし・・・
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/30(日) 08:11:27 ID:kOc/JpEy0
>>66 >最終的に薩摩藩から嫌われたし尊王攘夷派からも嫌われていたようだし
薩摩は政敵としただけで嫌ってはいない
尊攘派は開国論を唱える者は全員嫌っていて慶喜だけ嫌った訳じゃない
尊王派の孝明天皇には最後まで好かれていただろ
>その後のゴタゴタで結局フランスしか味方してくれなかったし
別に慶喜を嫌って味方しなかったのではない。
慶喜は大阪城で諸外国に局外中立を保つよう養成し、仏はそれに忠実だっただけ。
>江戸に逃げ帰った後は笑っちゃうほど思いっきり扱き下ろしてるし・・・
サトウは基本的には明治政府の正当性を認める側の人だから、慶喜の正当性を失わしめようとしているだけ。
そもそも君が言っている事がらは、政治状況や歴史的背景を無視し、持論に都合の良い事だけを列挙したに過ぎない。
そんな議論に意味はない。
官軍が江戸に行くには、大井川と箱根を超えなければなりませんが
官軍は大井川をどのようにして渡ったのですか。
中山道
官軍の一部は中山道を通ったというのは知っていますが
全部、中山道だったのですか。
第二軍として東海道を進んだ軍もありますが、
そちらも大過なく通過してますよ。
むしろ、あまりの抵抗の無さに、京都では「意外」との声が頻りでありました。
ありがとうございます。
大井川と箱根を無事に超えた時点で、幕府側の敗北は決まったのですね。
正直なところ、徳川慶喜が30代という若さで
隠居せざるを得なくなったことは無念さを感じずにはいられない
歴代将軍の中には
病弱だったり、大した活躍もせずに一生を終えた人がいるというのに・・・
慶喜は知性と健康に恵まれていて、新しい物好きで
この人ほど新時代向きな人もいないだろう
そーだよ。けーきさんだったらお世継問題だって起こらないよ。
勝にくれてやるぐらい子供つくったんだから。
でも権力の座から降りたからこそ
長寿を全うしたとも考えられるし
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/02(火) 18:26:37 ID:KsZnVtjx0
幕末最大のミステリー
なぜ慶喜は江戸に帰ったのか?
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/02(火) 21:04:16 ID:y4yti3Qz0
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/03(水) 19:27:23 ID:xhd9Cpbj0
第二次長州征伐後ではどうやっても逆転は無理。
あれ幕府は500万両くらい金つかったの。
当然幕府の金蔵は空っぽだし、商人からも御用金を取り立てまくって、
なんとか捻出したもの。
実は大博打だったのよ。
あれで勝っていれば、失った金はともかく、
幕府の威を示せて、諸藩も従っただろうが、それが全て駄目になった、
また勝っても、大散財には違いないので、長州領を直轄地にしても、
その分を回収するのは何年もあとの話。
つまり長州征伐を主張したバカが悪い、慶喜も強硬派だったな。
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/03(水) 19:41:30 ID:xhd9Cpbj0
鳥羽伏見で勝つのは困難。
なぜなら慶喜が逃げなくても勝てない。
なぜならあれ薩長に主力はまだきていないから、
先発部隊の暴走なのよ。大村は主力率いていたら幕府軍は壊滅してて、
呆れたそうな。
また勝てたとしても、長州や薩摩征伐を再び実行するのは無理。
鳥羽伏見で負けた後はさらに無理。
機内を押さえられたら、物流がストップする、
江戸という大消費地は自給できない。
北関東や東北は例年飢饉で、満足な食料は期待できない。
幕府は東海道など主要街道には架橋を禁止し、車輪の使用も禁止した。
つまり陸路での大規模な物流も難しかった。
水運が主流なのだが、これも幕府が色々規制をしてて、
諸藩は大型船の建造を禁止され、西洋風の船は許可がまず下りなかった。
湾口整備もろくにしなかった(全て軍事上の理由)
結果流通が難しく、輸送コストが高く、長州征伐の費用が高騰してしまった。
(大阪に長期間駐留していたので、物価が高騰し調達コストも上昇した)
結論なにをどうやっても勝てない。
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/03(水) 22:50:46 ID:0bMaz2OZO
譜代は散々恩を受けながら寝返るの早過ぎ
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/04(木) 00:14:29 ID:/mpMb9A+0
どうやっても勝てないのは分かったけど、徹底抗戦した時にどれだけ悲惨な結果になるのかとか、イギリスとフランスの動きはどうなるのかとか知りたい
フランスはメキシコ干渉の失敗で一杯一杯。よほど長引けば干渉する余裕も出たかも知れんが。
イギリスはアヘン戦争辺りで帝国拡張の限界が見えて、さらに海軍の大刷新期と財政難が重なって
大軍縮を始めてる時期。軍事的な積極干渉はまず不可能。
アメは周知の通り南北戦争後の混乱とメキシコ干渉でモンロー主義に振れてる時期。
むしろ長引けばロシアからの干渉の可能性のがあるかもな。
徹底抗戦時の悲惨さは、戦場よりもむしろ経済的混乱によるものの方が酷いだろう。
それはそれぞれの政府の都合であって、武器商人にとっては
別な話だろう。
武器商人は買い手がいれば売るだろう。
と、書いたところで思い出したが、買い手の資金がなければ売れないな。
アフリカならダイヤモンド、金、原油などの資源があったが
当時の日本にはないな。
>>82 実際、ロッシュの意向は別としてフランス政府は
イギリスの局外中立に一応同調はしてたね
>>83 そう言えばグラバーは戊辰の内戦が結構早く終わってしまって
売るつもりだった武器が売れなくなり、破産したんだっけ
金は当時はまだ産出されてなかった?
石炭も幕末の頃から段々産出量が増えてきてるし
当時の日本はまだ資源が無かったとは言えない国だったと思うけど
しかも資源が無ければ土地を出せ、というのが当時の欧米だし
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/04(木) 17:32:36 ID:ugcuvvn+0
どうやっても幕府はつぶれるしかなかったのかな?
慶喜の幕引きはどうすべきだったのかな。
徳川家を筆頭とする雄藩連合とかも可能性はあったとも思うが。
>>85 参与会議を有効活用し、将軍になる前に何らかの方法で長州を赦して抱き込み
大政奉還→議会制民主主義へ進む道筋を作れたなら、何か変わったかもね
何をするにも結局人材だから、徳川の旗本直参が無能だから
だめだろう。
>>87 慶喜に徳川旗本直参や譜代親藩以外からも広く人材を
求める仕組みを作る器量があればねえ
慶喜の器量云々よりも江戸方を京都の将軍に従わせるのが先かも。
慶喜が広く人材を受け入れようとしても幕府が受け入れないんじゃないかなw
個人的には板倉勝静って面白い人だと思う。
あの人、北海道まで行っちゃったけど、そこまで佐幕な人なんかね?
なんか勝と正反対な人だw
>>84 操られた龍馬という本を見ると、フリーメーソンの手下になっている人物が
多いので、それで十分だったのかもしれない。
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/04(木) 19:17:54 ID:Sm/iU1De0
>>89 >慶喜の器量云々よりも江戸方を京都の将軍に従わせるのが先かも。
>慶喜が広く人材を受け入れようとしても幕府が受け入れないんじゃないかなw
慶喜さんが新政府代表として既得権益を死守しようとする幕府抵抗勢力をぶっ潰すという手は無かったのかな?w
>>90 なんだ、あの本ってそっち系のだったのかw
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/04(木) 20:09:11 ID:ugcuvvn+0
小御所会議後の外国との会談では、慶喜は幕府が主権って言ってる。
そのときの構想はどういうものだったのだろう?
鳥羽伏見後は恭順しまくってるが。
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/04(木) 20:18:38 ID:tlRaevul0
慶喜は幕府独裁政権で広く人材を集めるより、幕府が政権を返上して、
諸侯会議で国政を運営する新政府を樹立する道を選んだんだろ
あーあーあー、ハライチさえ生きていればなあ!
子母澤の小説じゃボロクソに書かれてるが
勝や小栗なかよりはるかに、徳川が生き延びる為には必要な人材だった。
>>91 雄藩の取り込みって、譜代・旗本の幕閣権力に対抗する意味もあったんじゃないか。
だから大政奉還は必須事項だった。
つっても、その雄藩にしてからが既得権益集団な訳で。
それをどう捌く積りだったのかには興味があるね。
あと、旗本という邪魔者をどうする気だったのか。
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/06(土) 07:39:46 ID:omyREMhs0
農民の出で、尊攘派の渋沢栄一を拾ってきている慶喜だから、それなりに人材は求めていたのでは?
譜代・旗本に対抗する為の一会桑政権とも考えられるな。
結局、会桑が慶喜を信用せず暴走を始めたので崩壊したが、そのツケは江戸に帰ってきて際、会桑に「江戸から出ていけ」と徳川宗家の命令として出されて復讐されている。
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/06(土) 09:29:57 ID:q1oe2zq00
慶喜って、諸藩を説得し日本を纏め上げられるだけの
人望と言うか、カリスマと言うかというか
そういった能力をどの程度持っていたのかな?
>>97 カリスマ性はほとんどない。
幕府や宮中での姑息な裏工作は得意だったけど、それゆえ誰からも信頼されなかった。
南紀派との抗争を根に持ち、井伊大老死後の彦根を減封したりと、
自己中で近視眼的な行動に終始し、結束を誇った徳川家を内部から腐らせたのが慶喜。
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/06(土) 10:10:19 ID:5fLqa9uN0
>南紀派との抗争を根に持ち、井伊大老死後の彦根を減封したりと
史実とまったく正反対
>結束を誇った徳川家
やる気ゼロ能力もゼロだが、
既得権益を脅かす相手には憎悪を剥き出しにする精神のことですね
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/06(土) 10:12:49 ID:omyREMhs0
>>97 君はまったく無知だなw
慶喜のカリスマ性は非常に高い。高くなければ第十四代将軍候補になった。
>幕府や宮中での姑息な裏工作は得意だったけど、それゆえ誰からも信頼されなかった
姑息な手・・・井伊大老が和宮降嫁を成功させる為に「和宮の許嫁の悪口を広めた」という姑息な手より、
よほどまともな姑息な手を用いたな。彼はそうした政略の手を用いながらも、孝明天皇をはじめ会津藩や桑名藩を取り込んでいるし、
松平春嶽、土佐の山内容堂らの信頼は失っていない。彼等は最後まで慶喜を擁護し続けている。
>自己中で近視眼的な行動に終始し、結束を誇った徳川家を内部から腐らせたのが慶喜
慶喜と会津桑名両藩は長州処分と大政奉還を巡り敵対するのだが、その際の会津藩の慶喜批判が君とまったく同じものだったw。
つまり、君は会津藩の言い分を間に受け杉と思われる。
幕府を腐らせたのはむしろ井伊直弼に代表される江戸の幕府譜代老中たちだ。
彼等は和宮との政略結婚を実現させる為、出来もしない攘夷決行を天皇に約束する。
この空約束の為に、慶喜や家茂がどれだけ苦しんだ事か・・・。
これは会津藩も同様だろう。松平春嶽が会津藩に京都守護をお願いし、会津藩は幕府の為に引き受けた。
しかし、春嶽はもともと島津久光の率兵上京によって、慶喜と共に復権を果たした人物で、
南紀派の井伊直弼に失脚させられていた人だ。幕府老中達は、この春嶽を江戸から追い払いうと、
会津藩の京都守護職の手当を停止したり、守護職を解任させようとしている。
『京都守護職始末』の中で、会津藩主松平容保が江戸にいる老中に怒り、将軍家に直訴しようとした事が書かれてあるよ。
薩長らと政治戦を戦う彼等一会桑の足を引っ張って妨害したのが幕府老中たちなのは間違いない。
101 :
100:2008/12/06(土) 10:16:05 ID:omyREMhs0
102 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/06(土) 11:02:09 ID:GrP2uPP10
幕府はだめだ。腐りすぎている。どうしようもなかった。
維新が成って正解。
ただ会桑はかわいそう。
103 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/06(土) 18:29:28 ID:nFsb+Uxt0
もし、勝と西郷の江戸城無血開城の会談の時に勝の代理でオグリンを向かわせたら…
どうなる?
江戸城流血開城
>>103 小栗が薩長に武装解除命令。西郷はそれを無視。会談決裂だね。
その後の展開は
>>2のとおり。
ところでなぜIFスレには、ピロートーク無し、前技無し、いきなり本番!
みたいなタイトルばかりなのだろう?
107 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/06(土) 20:44:06 ID:5fLqa9uN0
>>103 それより原市之進が生きてて官軍総督が大久保で、
勝・西郷ではなく原・大久保会談だったら……を考える方が興味深い
徳川斉昭が長生きしてたら慶喜は徹底抗戦したのかな?
やっぱ変わらないかな?
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/07(日) 08:44:46 ID:CAztLv/u0
斉昭の時代は幕府がなくなるという発想はなかったからな。
一橋派は雄藩連合の案だったから、それが理想では。
南紀派と違い幕府とは一線を画していたはず。
むしろ斉彬が生きていた方が、かなり面白い。
薩摩の動きがかなり変わったはず。
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/07(日) 09:58:45 ID:q1SVN+UE0
そうだなぁ
烈公さんが生きていて、仮に幕政を行える立場だったとすると・・・
たぶん攘夷やっちゃうんじゃね?
一に天皇、二に幕府というお人で、討幕思想は無いが尊王思想の強い人だし。
オグリンとは仲良くならないでしょう。オグリンは開国派だからw。
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/07(日) 10:16:26 ID:AGOQucVk0
>>109 水戸斉昭と島津斉彬どちらも生きていたらなおさら面白いかも?
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/07(日) 10:22:54 ID:CAztLv/u0
烈公も攘夷はさすがにこのころになると無理と気付いたのでは?
斉彬はとにかく海外を脅威と感じていた。
国内戦争よりは、龍馬のような思想で徳川家を頂点とする
雄藩連合で国難を乗り切ろうとしたのかな。
大名だから、幕府を徹底して倒すということはないと思う。
西郷などは下級藩士だったから、倒幕に至ったのだろう。
烈公様は安政の大地震で藤田東湖と戸田蓬軒が死んだあとは迷走気味だからなあ
烈公様とセットで東湖と蓬軒も生きてないと意味がないかも
東湖は幕末の志士の憧れの人ナンバーワンだから
彼の思想がどう変遷するかで後の展開もだいぶ変わったろうね
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/07(日) 23:27:53 ID:SpCI6B5v0
こうなったら孝明天皇にももうちょっと長生きしてもらおう
115 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/08(月) 01:44:09 ID:JCSujCZyO
>>1 おそらくEVA初号機による江戸壊滅作戦が発令され、窮地に追い込まれた幕府はおしっこ漏らす。
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/08(月) 04:44:22 ID:lmhPlA5w0
斉彬が生きていたら史実での慶喜の役割のかなりの部分を斉彬が代行していたと思われ。
京都で尊王攘夷派の暴走を抑え、孝明天皇の頑迷さをほぐし、将軍家茂に助言する。
でも史実の慶喜が働けば働くほど各方面から恨みを買ったように、
仮想の斉彬も「名君だけど謀略が過ぎる」「頭が良すぎて何を考えているのかわからん」
「そもそも薩摩は関ヶ原の敵国。謀叛人の子孫の助言なんか聞けるか!」てなことで
総すかんをくらった思われ(w
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/08(月) 04:48:50 ID:lmhPlA5w0
ただ慶喜は一橋家という「家」とはいえない家の当主だったので、
自己固有の手勢をもたたないので、評判の悪化が即政治力の低下につながったけど
斉彬は天下の大藩薩摩藩の藩主で、西郷、大久保など有能な家臣を抱えていたから
政治力は失速せずに、結局斉彬を中心とした雄藩連合政権が京都に出来たのではないか?
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/08(月) 08:25:56 ID:V+quwHVqO
老中のあべちゃんも長生きしてもらおう
>>117 史実どおりに途中まで行くと、井伊大老さまの安政の大獄で
一橋の一件により烈公さまと同じく蟄居&強制引退させられそうな気が・・・
>>118 あべちゃんは隠れ攘夷派だからどうなるか・・・
120 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/08(月) 09:15:58 ID:qUalV6oA0
斉彬は過大評価されすぎ
ただの新し物好きの浪費家のボンボン
本当に賢明な名君なら国政なんかに色気出さず民政を重んじて領民の暮らしを楽にしてるはず。
実際にやったことはと言えば、最南端の外様のくせに国政参加の野心をもち、
領内の年貢をあげ、将軍候補に首を突っ込んでものの見事にコケている。
家定に直接、慶喜擁立の建白書を送って激怒させたとか、人情の機微を全然解してない。
典型的な、自分は頭良いと思ってるアホだとしか思えん。
もし生きてたら「頭の良い俺の言うことは正しいんだ!」
と老中や天皇を圧迫して、大反発をくってひどいことになってそう。
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/08(月) 13:23:01 ID:oZ/ANwfy0
鹿児島の人はみんな斉彬が好きで久光はあまり好きじゃないらしい
西郷の影響が大きいのかしら?
122 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/09(火) 01:26:11 ID:RFwq6qom0
>>120 260年間国政に進出したくてもできなかったのに
斉彬が国政に進出した
幕府も薩摩藩を止める力はなかった
斉彬は諸大名や貴族に人望があったから薩摩の発言力がより強くなっただろう
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/09(火) 04:18:03 ID:uK2JNvPw0
>>119 うん。安政の大獄の時に兵を率いて出府して井伊を引退に追い込むか
あるいはいったん井伊に屈服して、桜田門外の変のようなことが起きて井伊が
いなくなってから復活するかしてからの話になるよね。
>>120 そういわれると自信がなくなってくる(w。
確かに斉彬が名君だというのも当時の世襲の殿様たちの中では名君ということで
鳥なき里のコウモリみたいなものだから。
ただ相対評価で斉彬が名君であることだけでもかなり重大な意味があると思う。
1867年にそれまで雄藩連合路線だった薩摩藩が(もちろん薩長同盟を結んで武力倒幕の"可能性"は留保していたけど)
武力倒幕路線に決定的に舵を切った最大の要因は、「久光と慶喜が差しで話し合うと必ず慶喜が勝ってしまうので
西郷や大久保の意見が国政レベルで反映されない」ということだろう。
つまり逆にいえば、薩摩藩主が列侯会議で慶喜を圧倒する発言力を持っていれば
西郷や大久保はリスクを負って武力倒幕に踏み切らなかった可能性が高い。
久光は慶喜と直接対決するといつも言い負かされていたけど、
斉彬なら慶喜に議論で勝てたのではないか?
そうすれば、西郷や大久保は雄藩連合路線を貫いて、王政復古クーデターもなかったのではないか?
そんなことを想像する。
伊井存命中は幕府の権威はあったんだから、武力行為にはでんだろw
>>123 史実どおりに事が運び、安政の大獄以後もそのまま存命だったとすると、
将軍後継が家茂になった時点で抗議のため藩兵5000を率いて抗議を計画。
→謀略なども用いて朝廷も上手く利用しうまく事を運ぶ事が出来れば
井伊を失脚に追い込む事が出来るかもしれないが、
井伊が途中で計画に気付き計画を阻止された場合反逆の罪で切腹、
お家お取り潰し、なんて事にもなりかねん・・・。
そんな事になった場合、薩摩藩士が暴走しかねないような気がする。
もし、その前に斉彬が慶喜擁立を断念、家茂擁立に動けば幕政主流派に
入り込むことも出来たかもしれないが、その場合は逆に水戸藩などから
敵視されかねない・・・。
斉彬はあのちょうどいいタイミングで死んだから薩摩藩にとって幸せだったのでは?
大鳥=負け戦、土方=勝ち戦
のイメージが強いんだが、実際どうだったの?
127 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/09(火) 14:48:05 ID:wGSF5xcMO
斉彬の三人の娘の写真を見ると切なくなる
島津斉彬が撮影したと伝えられている写真。斉彬の娘たち。左より典姫(のりひめ)、?姫(てるひめ)、寧姫(やすひめ)。湿板写真。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Shimadu_Nariakira_Family.jpg ?姫(1851〜1869)
典姫(1852〜1903)
寧姫(1853〜1879)
?姫は父斉彬の後、薩摩藩主となった島津忠義(斉彬の甥)の正室となった。
しかし、難産のため15歳で死去(この時産んだ娘は3歳で夭折)。
?姫が若死にしたので、妹の寧姫が島津忠義の後室となった。
しかし、?姫もまた難産のため享年27歳で亡くなった(この時産んだ男子も生後3か月で夭折)。
姫三人のうち長生きできたのは典姫だけ(といっても享年52歳)。
典姫は、重富藩主島津珍彦(島津忠義の弟・のちに男爵)室。
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/09(火) 21:31:46 ID:QkFdmiRR0
よく佐幕屋の著述では鳥羽伏見で幕府兵は勇敢に戦い誠実に職分を果たしたのに慶喜は……
みたいに書かれるけど、実態は逆でしょ。
会津含む幕府兵は「出陣させなきゃ将軍を殺す」といきまいて、いざ戦うと惨めにボロ負けした。
あと慶喜が錦の御旗にびびったからチキンみたいに言われるが、
そもそも最初に御旗を観て腰が抜けて潰走したのは現場の兵士達だ。
だいたいあの当時、衆人環視の中錦の御旗に公然と突撃駆けられるやつっているのかね。
(御所に鉄砲打ち込む某藩をのぞけば)
勝?舟にだって無理じゃ
>>129 その時下っ端の兵士達は『錦の御旗』なんていう代物を生まれて始めて目にして、
それが『錦の御旗』なのか何なのか認識出来なかったという噂もあるが。
実際はそんな所で敵から攻撃されるとは夢にも思わなかった所を急襲され
あまりにも突然の事にびびって潰走したという噂もあるが。
何が本当だかは知らんが。
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/09(火) 23:58:12 ID:64ZUtF+z0
>>126 >大鳥=負け戦、土方=勝ち戦
大鳥の指揮下にいたのが土方だろ
大鳥が負けてりゃ土方も負けてる
土方が勝った時は大鳥も勝つw
だって同じ部隊じゃん
>>129 錦の御旗が押し出した後でも、橋本とかでは普通に激戦して普通に負けてるぞ。幕府軍。
まぁ淀藩の寝返りとか津藩の新政府軍入りとか色々あったが。
錦の御旗云々ってのは、実際の戦闘よりも、幕府見限った諸大名が堂々と新政府に寝返るのに
非常に都合が良かったんじゃないかと思ってるんだが。
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/10(水) 17:41:57 ID:Xx+iqVLc0
結局慶喜は鳥羽伏見で幕府軍の敗退をみて
江戸に帰ったのかな?
まぁ俺なら勝てそうだったら残るだろうね
あそこで戦わなければ慶喜も新政府に入れたのに・・・・(´・ω・`)
136 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/10(水) 21:22:54 ID:JZlDK7EI0
会津や新選組ら幕府兵がフーリガンのように発狂して脅迫したんだから、抵抗なんてできないよ
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/10(水) 21:56:54 ID:/m1vMtPE0
まあ確かに戦ったことで、幕府を滅ぼす大義名分を与えてしまった。
なんで勝てると思ったのかねえ。
その前はその何倍も率いて、長州一藩にすら勝てなかったのに。
>>137 案外、まさか自分を朝敵にするような陰謀は成功するはずがない、
利は自分にあるはずと思い込み、
朝廷とフランスを内心当てにしてただけだったりして。
慶喜自体は果報は寝て待て状態だったような。
あそこで京に進攻さえしなければ……
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/11(木) 17:43:08 ID:s7hjrKij0
でも慶喜は大阪脱出する方がよかったのかな?
大阪に残って打開策もあったと思うが。
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/11(木) 18:46:20 ID:VWn/47RZ0
五稜郭に居たフランスの人は生きて母国に帰れたの?
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/11(木) 20:44:29 ID:QRXMXN4N0
もし土方が五稜郭で戦死しなかったら投降しても政府に処刑されたのかな?
島田とかは生き延びられたけど、土方だと厳しいかな?
>>143 五稜郭に篭ったのは榎本と同じなのだから、
榎本に赦免を与えた以上、土方にも与えないわけには行かない。
黒田清隆の丸坊主助命嘆願は、土方も念頭に加えたものであった。
なのに会津研究者は、彼の坊主頭の写真を掲げては笑いものにする。会津研究者は本当に卑劣な連中だ。
土方歳三は、降伏時に生きていたら、榎本と同じ目に会い、釈放されていた。
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/11(木) 21:16:26 ID:QRXMXN4N0
>>144 ありがとう
そういえば近藤が流山で投降した時も近藤を助命しようとした薩摩藩士が居たような?
近藤が処刑された時も仲間に「お前とはもう二度と口をきかない」って怒ってたというエピソードが…
うーん 誰だっけなぁ。 思い出せない。。
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/12(金) 18:03:04 ID:aAMM2NTC0
幕末ファンというのは討幕派・佐幕派・中間派ふくめどいつもこいつも狂信的
とりあえず「慶喜はヘタレの小才子」ということにしておけば自分のヒイキをマンセーするのに
都合が良いというのはどの立場でも同じのようだ。
>>144 土方には京都での罪状が有るため、近藤と同じく惨首ですよ
榎本とは違うから
>>145 助命では無いから。京都に身柄を送り、然るべき場所で場所で吟味されるべきと訴えたに過ぎない
徳川家は「家臣では無い」と官軍に伝えてる以上、死罪はまのがれない
相馬主計程度の小者でも遠島食らってるんだから土方が死罪を免れるとは思えない。
可能性としては、土方が生きることで新政府に何らかの利益が出るとすれば
政治的に赦免されることも絶対無いとは言えないけど。
151 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/12(金) 19:39:53 ID:9QrelFkF0
なるほど
じゃあ、どうあがいても近藤、土方は処刑される可能性が高かった訳ですね
確か、龍馬殺しの罪で処刑された新撰組の隊士がいなかったっけ?
罪を認めた見回組の隊士は生き延びたのに
>土方が生きることで新政府に何らかの利益が出るとすれば
その可能性は限りなくゼロに近かったのではないかと土方好きな自分ですら思う。
仮にあったとしても、使いこなせる人間が新政府内に存在したか甚だ疑問。
>>150 >土方が生きることで新政府に何らかの利益が出るとすれば
・・・・・・・軍人以外に使い道がないな・・・・・・・明治政府も彼レベルの指揮官には全然困ってないし・・・・・・・・・
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/12(金) 21:16:09 ID:HdRJk9+iO
斉藤一みたいに警察官にしちゃえばどうだろう?
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/12(金) 21:55:13 ID:pB5kz52h0
土方を使いこなせる人間が明治政府には沢山いるよ
むしろ、土方が彼らに仕えるか否かだよ
最大の問題は「ワンマン」では困るという事だ。
土方は組織を与えたら、その中で最大の効果をあげる人物だが、やり方が強引に過ぎる。
常に「規則違反即切腹」では駄目だ。政府機関はヤクザとは違うからね。
ここは新撰組スレですか?
157 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/13(土) 12:21:37 ID:QL+Ue1xh0
佐幕屋の人たちって、なんか、幕府方の人物が好きというより
「幕府方の人物が好きな自分が好き」
というように見える
>>151 見廻組の今井も公務として国事犯を斬っただけなので罪には問われていない。
ただし当初はそうした方針が明らかではなかったため、
今井は龍馬を処刑した実行部隊のメンバーとして、鳥羽伏見で戦死した隊員を並べた。
見廻組実行犯説の根拠に曖昧な部分があるのはこのため。
>>152 箸にも棒にも成らない人物を使いこなすのは無理だよなw
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/13(土) 20:58:02 ID:HWFPJ3MCO
慶喜が龍馬の存在を知ったのは維新後しばらくしてからだったと言われてるけど、将軍時代に他の幕末の志士の事をどれくらい知ってたのかな?
幕臣になった新撰組は知ってるだろうけど近藤とか土方の名前までは知ってたのかな?
龍馬を知らなかったということは中岡や高杉も知らなかった可能性が高いかな?
慶喜が将軍の時には知らなさそうな幕末の志士が知りたいっす
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/13(土) 22:01:04 ID:6+AKJoi00
日本が滅んでたんじゃない
慶喜はなにをやるにしても中途半端で一貫性がない。
幼稚で青白いお坊ちゃん気質が終生ぬけなかった人物。
彼の絶頂期は、井伊大老が育てた改革派に軸足を移して、
怒涛の幕政改革を行った頃。
しかし、それもすぐに飽きて放り出し、
思いつきで大政奉還を行ってみたはいいけど、
討幕派に足をすくわれ、
思い通りにならない現実に腹を立て、
将軍職も幕府も放り出し、
最後はヒッキーになってしまう。
性格的に転落の人生を歩む運命だったんだね。
幾らなんでも高杉は知ってただろ
>>162 >討幕派に足をすくわれ、
むしろ実質は慶喜の側近を殺すような非協力的な幕臣に足をすくわれてる。
慶喜の深謀遠慮も虚しく大政奉還・辞官納地でとうとうキレた幕臣の暴発によって幕府は瓦解したようなもんだし
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/14(日) 09:23:46 ID:vVSritnO0
慶喜アンチは子母澤・司馬・早乙女といった作家の小説を鵜呑みにする患者たち
幕府は機構も人間も骨の髄まで腐りきっていて、慶喜の奮闘で辛うじて若干寿命が延びたとか
慶喜の大政奉還と恭順によって幕府は日本を滅亡させた糞政府に成らずにすんだとか
認めちゃたらアイデンティティーが崩壊しちゃうからね
そうだね
慶喜1人を悪者にしてもしかたないね。
慶喜の前の人間が悪いからね。
薩摩には調所がいたが、幕府にはそのような財政改革を実行する
人間がいなかった。
井伊がもう少し慎重にやっていれば、変わったかもしれない。
それにしても幕府の財政を危機にしたのは大奥なのに
篤姫にはその反省があるのか。
167 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/14(日) 12:28:55 ID:SUJGOThM0
慶喜の好物。
牛肉・豚肉、鳥撃ちの獲物、毎朝朝食前に,甘い焼き味噌をまぶした田楽、
ドラ焼煎餅、富士見軒の西洋料理、永坂の更科の蕎麦、鯛の目玉の佃煮、
鯛の塩汁、お菓子は「風月堂」の特製品、ベッタラ漬、「ハマヤ」のふき豆、
お雑煮は小松菜入りの鴨(本鴨)雑煮、春には,土筆ごぜん、雪が降ると雪見豆腐、
刺身は白身か鮪、煮魚は鰈、青魚は嫌い、日曜の朝はパン食、バタートーストと紅茶、
時にコーンフレーク、味噌汁には砂糖を入れる、鯛、鰹、鮃などの刺身、雲丹、海鼠、
鶏卵の半熟、酒はかなり飲んだ、保命酒、少量の白葡萄酒、桑酒などを晩酌に、
煙草は薩摩の刻みを少し…
慶喜が食やセクースの快楽に惚けるために幕府は滅んだ…
こいつの怯懦な小市民根性はとても醜い。
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/14(日) 12:40:36 ID:4+fbaDHg0
それを言うなら大奥の方だろ
by水戸斉昭
斉昭はセクハラマシーンだったから大奥から嫌われただけで大奥は大好きそう
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/14(日) 13:14:10 ID:4+fbaDHg0
番町水戸屋敷
斉昭
子供がひと〜り
子供がふた〜り
子供がさんに〜ん
(中略)
子供がはちに〜ん
子供がきゅうに〜ん・・・
果てた・・・
慶喜
子供がひと〜り
子供がふた〜り
子供がさんに〜ん
(中略)
子供がはちに〜ん
子供がきゅうに〜ん・・・
尽きた・・・
大阪城を拠点に圧倒的差のある海軍を持って海上閉鎖
兵力を持って京都への陸路も閉鎖
京都の官軍は補給戦を絶たれ敗走
>>1を仮定とするならば鳥羽伏見では旧幕軍に負ける要素は皆無
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/16(火) 17:51:20 ID:WUjUtf9i0
慶喜は鳥羽伏見の段階でまだ30歳。
もう少し年をとってたら少しは変わったかも。
>>171 それが第二次征長で何で手際よく出来なかったのよ・・・
鳥羽方面じゃノコノコ進んで行軍形態を薩摩軍に晒したまま一方的に狙撃の的になるあの失態ではなぁ
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/17(水) 08:49:55 ID:8wxWQHif0
薩摩は自分たちの手のひら返しを棚に上げ
幕臣は自分たちの無為無能を棚にあげ
慶喜を誹謗中傷した。
それに対し慶喜は一言も反論も弁解もしなかった。
ほんと、誠実不誠実なんてのは言ったモン勝ちなんだなーっておもうね。
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/17(水) 14:55:47 ID:Trm3+WXuO
鳥羽伏見の戦いの前に、
もっと兵力を増強した上で、
綿密な作戦計画(京都周辺の包囲網構築や持久戦等)を立てた上で、行動を起こすべきだった…。
なまじ、中途半端な気持ちで上洛しようとしたから、
緒戦で薩摩・長州に良いようにあしらわれる羽目になった。
>>173 戦局が全く違うので比べる事が論外だよw
反対派多数の第二次長州征伐とはなw
あくまでも
>>1の仮定なら鳥羽・伏見では負ける要素は皆無
>>175 結果的に勢いだけで行ったとしか思えないほど良い所がなかったな。幕府軍。
178 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/17(水) 17:36:16 ID:P60MrxWF0
>>173 長州海軍にもボロ負けだからなあ。
優位な海軍力もしれている。
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/17(水) 18:06:02 ID:NNsGdxO20
第二次長州征伐は幕府軍は嫌気ムードだったらしいが、
鳥羽伏見はやる気マンマンだったはず。
盗撮の表も出してるし。
でも結局は変わらずか。
>>178 だ・か・ら
第二次長州征伐と鳥羽・伏見は全然違うからw
>>177 第二次長州征伐は勢いすらなく嫌々だから
慶喜が出陣する前にガタガタだし
将軍職を無くし京都から追い出され背水の陣である鳥羽・伏見
また難攻不落の大阪城を拠点に自領地で戦う鳥羽・伏見
第二次長州征伐のデータなど論外になる
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/17(水) 22:48:50 ID:vgY+mG5Z0
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/17(水) 23:00:12 ID:tmfrYaCI0
勝西郷会談の時に勝は迎撃プランを持ってて攻撃すると大出血するぞとアピールできたため
西郷も江戸城攻撃はリスクが高いとして先頭を回避することが出来たと聞いたが
慶喜が謹慎してるのに本気で幕府は官軍を迎え撃つつもりだったの?
主君である慶喜は恭順謹慎
徳川家の全権を握る勝も恭順
したがって徳川家は恭順
ただ、小栗や彰義隊の天野、榎本武揚、会津藩と桑名藩は徳川宗家の意志を踏みにじって抗戦姿勢。
戦いが始まってしまえば、徳川宗家の恭順は崩れ無理矢理戦いに巻き込める。
負けたら負けたで徳川宗家に全責任を負わせれば良いという考えだった。
事実、会津藩は鳥羽伏見の敗北理由を自分が最前線で負けた事には口を塞ぎ、
慶喜が悪いと記録している。また、会津の記録こそ正しいと叫ぶ「敗者の維新史」提唱者星亮一も
幕末当時の会津藩の主張から何の成長もせずに「慶喜が悪い」と叫んでいる。
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/18(木) 05:38:25 ID:IoK68QOr0
>>181 いや幕閣はやる気まんまんだったろ、諸藩はやる気がなかっただけで。
そして鳥羽伏見は、そもそもやる気のない諸藩はもとから参加しないか、
薩長と組んだだけ。
だから一緒だよ。
186 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/18(木) 09:36:55 ID:SUDIfwrP0
>小栗や彰義隊の天野、榎本武揚、会津藩と桑名藩
新選組(笑)も加えといてねん
浅田次郎と言い、敗者視点のお話は読者の同情を引きやすく売れやすいからね
会津や新選組を「佐幕の節義を貫いた悲劇のサムライ」と見なし慶喜をヘタレ小才子する史観は
特に人口に膾炙してるし、今後もその風潮は続くだろうね。
187 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/18(木) 10:03:06 ID:wIScu3FcO
慶喜は、和戦どちらかをはっきりさせるべきだった。
和の方を選択するなら、明らかに薩摩等の挑発に乗るべきでは無かったし、どんな事をしてでも激昂する配下の者共を鎮静すべきだった。
また、戦の方を選択するなら、
慶喜自身が陣頭指揮を採る位の覚悟を持って、
行動をするべきだった。
(特に、緒戦の敗北だけで、単身、大坂城を脱出して配下を捨てるような事は、将としてすべきでは無かった。)
…まあ、旧幕府側にとって、(鳥羽伏見の戦い直前までは)和戦のどちらを選択しても情勢が良すぎたから、
腰が定まりにくかった面があるんだろうが…。
188 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/18(木) 13:03:33 ID:gQ2KyUkkO
何で仙台藩ってあっさり破れちゃったの?
もっと強いというか善戦すると思ってたのに
実は最初から弱かったの?
詳しい人教えて
>>181 会津や幕府直轄軍はやる気満々だったようだが、他の諸藩は違うだろう。
実際、形勢悪しと見るや速攻で新政府に寝返った様な連中な訳で。その逆もまた真ではあるが。
しかし、大阪城にどれだけの準備があったか分からない状況で籠城というのも……
籠城ってのはそもそも援軍を当てにしての物な訳で。
多少の小競り合い程度の戦闘じゃ、海上封鎖で弾薬を欠乏させるなんて夢のまた夢だよ。
実際、当時のでかい会戦でも弾薬消費量はそれ程大きくないから、弾薬だけなら当時の貧弱な陸運でも何とかなる。
しかも、輸入ルートは大阪湾だけではない。
攻城戦が長期に渡った場合、食料の現地調達に限界が出るかどうかがカギかな。
あと海上封鎖といっても、幕府の限られた船舶じゃ限界があるんで、近くに根拠地を確保する必要がある。
ナポレオン戦争の頃の熟練した英国海軍ならまだしも、そんな技量は無い上に石炭も補給しなきゃならん訳で。
短期ならまだしも長期の海上封鎖なんて出来るかなぁ。
まぁ要するに、積極的な親政府藩への切り崩し構想がないと、籠城して自滅待ちの戦略は通じないと思われ。
しかし錦旗が下された後だとなぁ。
あと、幕府の親兵は奮戦してただろ鳥羽伏見。
それでも京都近郊から叩きだされた訳で。
>>186 新撰組(笑)は鳥羽伏見直前に脱走者を多数出してるから、その時点で崩壊してんだよねw
191 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/18(木) 18:57:44 ID:iK4sEueI0
新撰組って大砲も持ってるけど規模は治安警察レベル
軍隊としてみれば規模も火力も明らかに不足してるだろ。
近藤は新撰組を軍隊規模にまで規模拡大したいと思ってたんだっけ?
>>188 仙台藩は、本当は、戦えばある程度は戦力になったかもしれない。
しかし実際は
1.新政府の会津攻撃停止を呼びかける東北諸藩会議を、陰謀で反薩長軍事同盟に改変
2.白河に大兵力を集め、仙台藩は東北諸藩の君主だと自認
3.白河の大兵力、新政府軍の寡兵に大敗北。地域には留まったが白河城は奪還できず
4.新政府軍に内応したとされる地域を勝手に認定し、占領・略奪
5.郡山に新政府軍が出現すると、臆病風に駆られて逃走。
6.藩内で降伏論が強まり、二本松藩の救援要請を無視し停戦
(藩内の記録には、二本松藩の戦地にするな、という発言のせいで停戦したのだ、
と責任を他藩に擦り付ける記述がある)
7.新政府軍の東北計略中心地として公共施設が建設され、他の東北地域への差別意識が更に増大
という経過を辿っている。
わぁグダグダだぁ
194 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/18(木) 21:58:37 ID:iK4sEueI0
新政府軍側も東北諸藩を敵に回さず穏便に収める方法あったのにな。
長岡藩は中立の立場だったのに無念。
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/18(木) 22:01:50 ID:wIScu3FcO
奥羽越列藩同盟の諸藩の中で、
曲がりなりにも、新政府軍と互角以上に戦えたのは、
長岡藩と庄内藩ぐらいかな?。
…彼等の軍装備や訓練度は水準以上だったようだし。
>>194 土佐の岩村の阿呆タレが談判決裂後にのうのうと河井を城に返しちまっているんだよな
山県の考え通りに決裂と分かるや河井を即拘束していさえすれば長岡も戦地にならずに済んだし
政府軍も余計な血を流さないで済んだ
挙げ句に河井という逸材を残せる可能性だってあったのにのう
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/18(木) 22:58:05 ID:IoK68QOr0
>>189 そもそも籠城に付き合う必要がない。
京都の朝廷さえ押さえとけば、
幕府は自滅する。
籠城するためには莫大な食料が必要で、
それを大阪から調達しないといけないんだが、
米相場が上がっているため、困難だし、
薩長が大阪を占拠せずに、放置していたら、
大阪の人たちのメシを幕府が容易する必要があり。
江戸から食料を輸送する必要すら出てくる。
だが江戸も自給できないので、大変厳しい。
>>194 あれは中立とは言わないよ。
中立だからといって、新政府軍は通さない。
だが列藩同盟が領地内で好き勝手するのを黙認しているんだもん。
誰がみてもグルで、時間稼ぎしているのだとわかる。
中立なら、領内の奥羽列藩同盟軍も排除しないと。
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/19(金) 02:04:00 ID:eGnqStjE0
>>192 詳しく教えてくれてありがとう
兵力以前にまとまりに欠けてたんですね
政宗があの世で激怒しそうな体たらくですね
駄目だこりゃ
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/19(金) 08:57:09 ID:vKeaxLw90
会津と新選組
慶喜のように自分ひとりのプライドや命よりも国の安定を重視する器量など持たず
薩長ムカつくの私情丸出しで戦闘したら思いの外自分たちが弱く相手が強くボロ負け、
引っ込みがつかなくなって会津は東北、新選組は関東の諸藩を巻き込んで
本州上半分を戦場にし、函館にまで戦火を飛び火させて敗北
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/19(金) 11:11:21 ID:k7U6FNzdO
孝明天皇に慶喜は好かれてたんだっけ?
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/19(金) 17:22:11 ID:JXSUaRy4O
誰も籠城なんか言ってないから
兵力でも海軍力でも陣地構成でも勝ってたのは旧幕軍
故に初戦を錦の美旗で征した官軍も大阪までは追撃していない
あくまでも慶喜に戦意があるって仮定ならば大阪城を拠点に海上閉鎖・陸路閉鎖
京都の官軍は西からの補給線を立たれて自然と敗走する
>>197 全く逆。海上閉鎖・陸路閉鎖されれば京都は陸の孤島となり、食料が尽きるのは京都の官軍
鳥羽・伏見では旧幕軍に負ける要素は皆無
203 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/19(金) 19:27:15 ID:xlg7h32p0
>>201 そもそも長州が下関で流通の妨害してしまえば、
上方への流通はストップして、
大阪は干殺しにされてアウト。
また陸路封鎖は無理。
官軍に鎧袖一触で蹴散らされる幕府軍では、止められないよ。
特に京都と大阪の間の街道は守って勝てるところではない。
さらに当時の海軍力で海上封鎖とか無理だから。
つか長州征伐のときの幕府海軍の勇士をしってて言っているのか?
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/19(金) 20:19:04 ID:yYRj7qnh0
戦術的な話はいい。
徹底抗戦したら、薩長も引かないだろうから泥沼の戦争になっただろう。
薩長(西郷)は戦でしか世は変わらんと思っていたし。
205 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/19(金) 21:31:08 ID:YYas4MIqO
徳川慶喜が、再び天下の再統一に成功していたら、
国内の統治の実務は、
やはり小栗上野介を中心とする
幕府の実務官僚群が仕切る事になるんかな?。
>>203 長州が下関を封鎖しても無意味だからw
旧幕軍の補給線は西では無い
また官軍の敗走はあくまでも錦の美旗の為
慶喜に戦意があるって仮定なら大義名文の下に立ち直せる
大阪城を拠点に兵力で上回る旧幕軍を官軍が攻撃する筈はないからw
>>204 京都にいる薩長の兵力は旧幕軍に比べたら僅かな物
戦が1日伸びる毎の旧幕軍が有利になるの
つまり官軍は京都から身動き不可能
旧幕軍も無理に攻めずとも官軍は敗走必至
>>203 てか勘違いしないように
補給線が長いのは官軍の方であり、海路を絶たれたら京都の官軍は絶望的
誰がどう考えても鳥羽伏見では旧幕軍に負ける要素は皆無
「官軍が勝って当たり前」と美化する輩は、客観的に物事を把握出来ない輩であり、太平洋戦争を実行に導いた人間と同じ思考
第二次長州征伐にしろ鳥羽・伏見にしろ討幕・反徳川勢力が勝てたのは奇跡
それが解らないから大国アメリカにも戦を仕掛ける盲目的な輩に成ってしまう
209 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/19(金) 23:46:42 ID:slVQUZUgO
まったくその通り
長州の大村も鳥羽伏見は薩長が負けると予想してた。
西郷も幼帝をさらって広島あたりに逃げのびる予定だった。
シナリオが狂ったのは将軍が想像を絶するヘタレだったことが原因。
ちなみに慶喜が兵を置き去りにして逃げ出したのは、
「足利尊氏になりたくない」という珍妙なこだわりのため。
211 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/20(土) 00:20:41 ID:D15tSEWo0
長州戦争の頃江戸の旗本の間ではガーデニングが流行していて、
戦に生きたくないから幼い子供に家督を譲って隠居する者が多かったんでしょ?
これでよく「幕府が滅びたのは慶喜のせい」だの言えるモンだ。
つうか小栗の郡県制度構想のソースって何なのよ。
「幕臣に開明的な人間がいて欲しい」「小栗なら考えていたかも知れない」っていう
佐幕屋の願望込みの妄想じゃないの?
>>211 オマエは渋沢栄一も知らないのか?
無知な薩長信者は黙ってロムしてろ。
>>210 慶喜の胸中には「たとえ一時戦線を保てようと、我らに西郷・大久保に匹敵出来る人材がおろうか?」
ってな考えの方が強い気がするがな
事実西郷達がもっとも恐れていた慶喜家臣・原市之進は幕臣の手によって殺されてる。
つまり慶喜は皮肉にも身内によって手足をもがれた状態にあった。
倒幕方に朝廷世論を牛耳られたのも原不在に寄る所が大きいと思われる
小栗?奴は口だけだろ
214 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/20(土) 01:33:57 ID:8kzrPr840
結論から言うと、結局「慶喜弱腰が原因で負けた」とほざく輩は、
数百年前に会津藩士や幕臣の負け犬が叫んでいた言い訳とまったく同じという事だw
進歩が無い。
それこそが敗因であり、負け犬の遠吠えと揶揄される原因なんだがなw
錦の旗が出てたのが二日目、慶喜もそれで戦意を失った。
そこで鳥羽伏見第一日目に限定して話しをしよう。
錦の旗が出ていない第一日目に何故負けた?
薩長五千に対し、幕府軍一万五千。兵力は圧倒的だ。
武装は薩長は前装ミニェー、幕府も前装ミニェーで一部はシャスポー。
何故負けた。これで負けるような幕府に勝ちはないよw。
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/20(土) 05:18:50 ID:PwhusjGJ0
>>206 北前航路を知らんのかい。
当時の日本の大動脈だ。
下関を押さえてしまえば、流通が完全にストップしてしまうんだよ。
実際長州征伐のとき物価が高騰して、打ちこわしが多発したのは、
ここが使えなくなって、流通網が止まってしまったから。
>>207 そりゃ先発隊だけだもん。
薩長の主力はまだ届いていない。
>>208 そもそも海路は立てない。
海路を立てれば、とかいっているのは、
何で長州が渡海して、門司を攻略できたと思っているわけ?
>>210 それは違う、主力がいくまで時間稼ぎさせるのが目的で、
先発隊が、早期に負けたの戦略。
現実派、その少数の先発隊に大敗したのが幕府軍。
これで主力が北場合、相手になるわけないでしょ。
>>215 まだ能書き言ってるよw
100歩譲って長州が下関を閉鎖出来たとしようw
なんで大阪だけが干されんだよw大阪が干される頃には海路無き京都は干からびてるよw
んで主力がまだ?大阪城を拠点に海上閉鎖されたら、その主力をどうやって運ぶのよww
補給路が絶たれるって事は増援も不可能だからw
>>215 そうそう。官軍の主力とやらが来ると言うならば、どれだけの兵力でどんな経路を辿り何時着く予定だったの?
君の意見が能書きで無いなら、援軍に関する史料はあるんだよな?
陸戦では直接戦闘で負けっぱなしなのに何で封鎖できると思えるのかが不思議な訳で。
つか、封鎖されたら突破しようと考えるのは当然だろうに。戦国時代ですらすでにそうじゃんw
直接戦闘で勝てないのに、どうやって封鎖保持すんの?
ここは封鎖したから立入禁止!と主張するとか?
つか、鳥羽伏見で参戦した薩長土に鳥取など加えた兵力は、最大でも5千。3千5百なんて説もある。
第2次長州征伐での長州藩の動員兵力ですら3千〜4千。
西南戦争の西郷軍に至っては1万3千ぐらい。
鳥羽伏見に参戦したのが3藩の総兵力で後続はない、なんて考える方がどうかしてないか。
>>218 海軍力で圧倒してるから
また連敗?なら何故官軍は初戦の勝利の勢いに乗り大阪まで兵を進めなかった?
大阪城を拠点にしてる旧幕軍の方が地の利があり、海上閉鎖・陸路閉鎖は容易
いつまでも第二次長州征伐の奇跡にすがってるなよw
客観的に見て慶喜に戦意があるって仮定なら、初戦を錦の美旗出現で敗走しても旧幕軍有利は揺るぎ無い
京都の官軍が何を考えていたか調べれば?
少なくとも大阪攻めなんて無謀な事は考えてないからw
220 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/20(土) 19:43:23 ID:PwhusjGJ0
>>216 正しくは、江戸も流通がストップして大混乱。
官軍は少数なので、補給なんて陸路で十分だし、
京都は最悪捨てても問題ないんだよ。天皇さえ抑えとけばね。
>>217 援軍というか主力も陸路だよ。
大村もこっちにいて、まだ到着していない。
>>218 長州の諸隊の総数は最終的に200。
一隊ごとに、100人前後だから、
最盛期には二万近い。
もっともこれは戊辰後期の兵力で、
さらに国元もがら空きに出来ないし、軍として派遣するなら、その何分の一程度だろうけどね。
221 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/20(土) 19:51:16 ID:PwhusjGJ0
>>219 後続の到着を待っていただけ。
あと奇跡とかいっているけど、
その後もずっと勝ったためしないじゃんw
つかどうやって官軍を止めるわけよ。
実際に戦闘で勝ったためしないのに。
>>220 また能書きをwそもそも長州はどうやって下関を閉鎖すんだよw無差別砲撃でもするとかw
んで陸路って何処をどう通って京都に行くのよ?何の具体制の無い戯言だな
もっと現実的な発想で語ってくれ
旧幕軍は大阪城を拠点に圧倒的な戦力差のある海軍で海上閉鎖。
並びに1万5千の兵力で陸路閉鎖
補給路を絶たれた官軍がどう反撃するのか?
長州から何処をどう通るのか知らないが陸路で何時援軍に来れるのよ?
223 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/20(土) 20:36:44 ID:PwhusjGJ0
>>222 無差別砲撃しないでも、適当に襲うだけでも十分効果がある。
だがそれ以前に、当時の下関は物資の集積地であり、
ここに物資を置いといて、大阪に流すわけ。
相場の変動によっては買い叩かれる恐れがあるので、
ここで供給量を調整して大阪に流していたわけ。
京都にいくのって、京都にどうやって官軍が移動したと思ってんだよw
空飛んでいったとでもいうのか?
そして海軍で海上封鎖できるなら、
長州征伐でも可能だろ。
だが現実にはそんなことできず、
長州の渡海を防げなかった。
そもそも現地調達が可能な状況では補給路なんてあまり意味がない。
金さえあればいくらでも買えるんだから。
>>223 > 無差別砲撃しないでも、適当に襲うだけでも十分効果がある。
おいおいw京都の薩長は錦の美旗を掲げて天下に大義名文を示してるのに、下関では海賊にでもなるつもりかよw
頭大丈夫かぁww
もっと広い視野で考えてくれよw
それと京都に行くのは当然海路だからw
薩摩・長州・土佐は海路で大阪に入り陸路で入京
開戦前の話持ち出してどうすんのよw
んでまた長州征伐かよww進歩しないバカボンだな
もう一度書いてやる
大阪城を拠点に海上閉鎖
意味が解りますか??
長州征伐では戦局が違うんだよ〜〜
225 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/20(土) 21:26:48 ID:PwhusjGJ0
>おいおいw京都の薩長は錦の美旗を掲げて天下に大義名文を示してるのに、下関では海賊にでもなるつもりかよw
幕府のやる海上封鎖と同じ。
>薩摩・長州・土佐は海路で大阪に入り陸路で入京
ソースは?
226 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/20(土) 23:27:28 ID:RLabwWkP0
>>224 >おいおいw京都の薩長は錦の美旗を掲げて天下に大義名文を示してるのに、下関では海賊にでもなるつもりかよw
錦旗なんて岩倉が西陣につくらせたニセ物だから。
幕府は君側の奸を除くとする大義名分を掲げて、天皇の名を騙った逆賊を討伐すればいいだけ。
>>226 > 錦旗なんて岩倉が西陣につくらせたニセ物だから。
なんだこの馬鹿発言は…
錦の美旗が偽物か否かなんか関係ないからね
何故なら旧幕軍にしろ誰も偽物と気が付く事が無く、本物としての効果を発揮したのだから
つまり錦の美旗を掲げ天下に大義名文を示してるのに、下関閉鎖など不可能です
>>225 ソース馬鹿がいたよw
そのぐらい自分で調べろw
てか当時に他の行路があるなら聞きたいもんだな
てか君が幼稚なのは
>>223で解った
君とは話すだけ無駄。支離滅裂した持論でも叫んでなさい
あそこで空気読めない奴が1人でもいて錦旗に向かって発砲してたら
史実とは全然違った展開になってただろうね
だから、橋本とかじゃ普通に交戦して普通に敗北してんだけど。幕府軍。
錦旗にびびって潰走するほど素直じゃないよ。
>>224 ナポレオン戦争の頃のフランスは、ブルターニュから人員満載した快速船で通商破壊活動してるよ。
つか、海賊行為云々って、戦争なのに何言ってんのw
ちなみに、その幕府の海軍力には限りがあるんだけど、具体的にどこ海上封鎖すんの?
京都への補給なら北回り航路でも十分できるんだけど。
つか、援軍は普通に山陽道通って来ると思うよ。
実際錦旗を見ても現場の幕府兵士の反応は鈍かったらしいがな。
別に錦旗が挙がっても普通に交戦はしているし。
ドラマや小説みたいに錦旗を見た途端に幕府兵士が逃げ出すなんて目立った動きは無いんだよね
一方で薩長方は「官軍としてなら死んでも怖かねえや!」
と指揮は大いに鼓舞されたことは間違いないだろうけど。
慶喜の逃亡は朝廷工作の失敗と幕府軍兵士の想定以上の弱さで
逆転の余地無しと判断された上での事だろうな。
水戸出とはいえ慶喜の事情から察するに
「足利尊氏になりたくない」って理屈ではちと蔑み過ぎじゃないのかい
「足利将軍」は江戸時代の歌舞伎でも現政権批判の隠れ蓑に使われたけど、
本当に極悪人になったのは普通教育が行き渡った大正以降でない?
明治になって喜連川家はわざわざ足利姓に復帰したし。
足利尊氏問題で大臣が辞めるなんてことは馬鹿げているけど、
問題発言で大臣が辞めるという構造は今も変わらないか。
錦の旗を出さずともすでに敗北してたんだよな、幕府軍は。
何でその後の歴史書では錦の旗をやたら出すのか分からん。
普通に新政府軍が武力戦で勝ちました、で良いだろうに。
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/21(日) 17:16:21 ID:FoAgDutC0
小説を鵜呑みにする患者達が単細胞見解を拡大再生産するからさ
慶喜は足利尊氏になりたくなかったヘタレということにしておけば、
それ以上は自分の頭で考えなくてよくて楽だからね。
>>233 武力戦で勝ちましたでいいんだけど、錦の御旗は
慶喜の大坂脱出には影響してるんじゃないの?
>>233 そりゃ皇国史観のためには錦の旗は重要なエピソードとなるし。
237 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/21(日) 19:44:14 ID:hxLLeLOS0
つまりソースなしで思い込みでいっていたわけね。
街道通って京都いっただけなのに
当時の港は小さいから、大規模な船団を接舷できる場所は限られているんだよ。
それだけの船団を簡単に調達できるわけねーのに。
だから陸上移動が当時の基本なんだよ。
>>227 錦の御旗があるんだから、幕府方の船を襲うのは、正当な行為になるんですよ。
まあ実際はそんなことするまでもなく、流通が機能しなくなり、
江戸大阪は大混乱になって、幕府は物資の調達もままならず、
高騰した物資の購入の為に、借金で火の車になってしまいました。
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/21(日) 19:51:39 ID:rO3Hi47z0
>>237 錦旗が意味を持ったのは慶喜が夜逃げして恭順したから。
逆に慶喜が薩長を逆賊認定し総反撃に打って出れば錦旗の意味は失われる。
順逆史観はあくまでも事後的に薩長の立場を正当化したものにすぎず、
大混乱の戦場で錦旗が万能の切り札になるとするのは妄想。
239 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/21(日) 20:02:14 ID:hxLLeLOS0
錦の御旗そのものには意味がない。
だが戦国時代でも朝廷の官位に意味があり、
官位を上げる為に。寄進をしていたわけで、
正当性の証明という意味で意味があるんだよ。
240 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/21(日) 23:23:50 ID:m0KV8wP3O
孝明天皇は毒殺されたってねつ造ですか?
誰か教えて
241 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/22(月) 00:06:41 ID:wUur3iNG0
孝明天皇 毒殺 原口清
これでググってみな
>>237 困った時の"ソース出せですね "
当時は他藩の領地を大軍で移動するなんか無理ですよ
禁門の変でも長州は大阪まで海路で来てます
また後続舞台の長州軍も海路で大阪入りしてます
現代の感覚で歴史を語らないでください_(_^_)_
岩倉嫌いだから、孝明天皇は岩倉に毒殺されたでいいよ('A`)
244 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/22(月) 01:56:25 ID:18CntMAi0
原口説は何の証拠もない妄想でしょ。
病死ありきで稀有な病気をもちだして都合のいいネタをつないだだけ。
説明のつかない部分は典医の捏造にしちゃうんだから噴飯ものだ。
ちなみに石井孝は毒殺説を主張し原口と対立してる。
245 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/22(月) 14:09:43 ID:jtYG4Giq0
坂本竜馬の斡旋により犬猿の仲の薩長が手を結び、武力倒幕をめざす薩長同盟が成立
薩摩と岩倉が共謀して孝明天皇を暗殺
慶喜はフランスの力を借りて徳川絶対主義体制の確立をはかるも、
討幕派の機先を制して大政奉還を実行
その意志は権力の最委任と徳川絶対主義体制の確立にあった
坂本竜馬は新政府の人事を立案するがその中に彼の名は入っておらず
窮屈な役人は性に合わず世界の海援隊
しかしその平和路線が討幕派に忌まれ薩摩の手により暗殺される
やがて王政復古のクーデターが決行
一夜明けて初めてクーデターを知った慶喜はびっくり仰天
その後鳥羽伏見で錦旗が出て足利尊氏になりたくない慶喜は江戸に逃げ帰る
こうして薩長土の関ヶ原以来の遺恨は果たされたのでしたメデタシメデタシ
……いまだにこういう史観が世間にはまかり通ってるのか?
246 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/22(月) 15:20:04 ID:gB6oYAqk0
毒殺は薩長・岩倉の陰謀だと喚いていた佐幕派寄りの佐々木克でさえ
いまでは原口説に屈服しているんだがなぁ。
247 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/22(月) 22:26:37 ID:cYnt1Gso0
>>242 だからソースを出せばいいじゃん、
君が妄想を語っているンじゃないなら、簡単な話だろ。
孝明天皇がいても、宮中側近陣の親長州勢の復帰は天皇だけでは止められないし、
第二次長州征伐で勅許まで得ていて、一時は自らまで出陣すると息巻いてたのが、
小倉陥落と九州諸藩一斉退去で、長州との講和に一転したのを考えると、
孝明天皇存命でも鳥羽伏見の敗戦と慶喜江戸撤収は避けられないのかな・・・
249 :
エビちゃんファン:2008/12/22(月) 22:49:40 ID:WEI75hHz0
慶喜のお庭番は西郷だし、
アイツ薩摩の篤姫と出来てたんじゃないの?
出来レースだろ?
最初から戦う気なんて全くなかったんだろ?
篤姫「あら、上様お帰り」慶喜「おう西郷お帰り」
というノリじゃないの?
250 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/23(火) 12:06:54 ID:hmz29RnYO
霊媒師が本当に霊と交信できるなら謎は全部解けるのにね
呼び出された霊が見栄はって嘘ついたり悪いことを人のせいにしようとして
さらに混乱するだけに100ペリカ
>>242 平時は無理だろうが、錦旗が下った時点で名分は整ってるんだよ。
当時の情勢下で、好んで軍勢(新政府・幕府問わず)の移動を妨害しようとするほど
気合いが入った藩がどれだけいるかなぁ。
東北なら居ただろうけど。
253 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/23(火) 14:08:05 ID:EpelxZQ70
野口武彦は慶喜を貶めることを自分の使命と思ってるんだろうな
大政奉還は慶喜の国を思っての本心からの政権返上だったという評価にもう学会ではなってるのに、
時代に逆行してるな。
専門の歴史学者じゃないから、ソンナノカンケェネェ!なのか。
そんな学会の定説聞いたことねえ
徳川家茂は慶喜が毒殺したんだよね?
理由は長州攻で意見が対立していたとか
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/24(水) 03:24:00 ID:G1oupgiH0
>>245 なんかすげーワロタ。
でも冷静に考えてみると
その歴史像でも「そんなに大きな間違いではない、むしろ大筋では正しい」
んじゃねーの?(w
257 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/24(水) 10:12:10 ID:8nxT8iwjO
>>252 また支離滅裂なw
君は京都に居る薩長の軍が陸路で入京したと吠えたのだよw
錦の美旗が挙がったのは鳥羽伏見が始まってから
どうやって陸路できたのよw
てか陸路云々以前に、援軍援軍と言うが薩長がどれだけ援軍の準備をしてたか示してみなよw
>>257 いやその、勝手に他の人格と統合されても、その、困る。
俺のレスの要旨は、「時間軸としては錦旗が下された後となる、後続部隊の陸路による移動を妨げる藩はいないんじゃないの」ってこと。
>君は京都に居る薩長の軍が陸路で入京した
これは別の人のレスだよ。
で、援軍の準備についても推測になるんだけど、年表見てみると東征軍の京進発は2月。
まさかわずか5千以下の軍を、関西+北陸・東山・東海道に分けた訳でもないんじゃないか。
参考として、山県有朋が奇兵隊主力を率いて京に入ったのは3月上旬のようだ。
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/24(水) 17:49:57 ID:v+W9wsK+0
錦の御旗に怯んだのは、ナイーブ過ぎる。
御所を奪還して、倒幕派の公家を排除して、幕府側に、錦の御旗を取り戻せばよい。
長州は、長州征伐で、実質、朝敵になっても怯まず、今度は自分が朝廷側になって、
倒幕の錦の御旗を振り回したw。
まあでも、大規模な内乱が避けられて、結果的には、良かった。
>>258 他人か否かは水掛け論だからスルーしとくよw
んで史実と混同し過ぎ。このスレはあくまでも慶喜が徹底抗戦したって仮定だから
つまり錦の美旗に対抗するだけの大義名文を慶喜が示してるって事だ
鳥羽伏見の時点で初戦こそ敗退したが兵力では幕軍有利であり、大阪港も幕府海軍が陣取っている
幕府が負けたって結果ありきだから「後続部隊を素通りさせる」なんて安易な発想が生まれるんだよ
史実では幕軍が敗走した為に錦の美旗が他藩にも影響したが、幕軍が退かないなら他藩に対する効力は薄い
また陸路で移動した場合、京都の官軍は待てるの?
大阪に幕軍が陣取り港も閉鎖されてれば、京都の官軍補給線は絶たれてるのだよ?
君がいくら騒いでも慶喜に戦意があるなら鳥羽伏見に関しては幕軍が負ける要素は皆無です
薩長は幼帝を連れて西へ逃走するしかありません
261 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/24(水) 18:08:09 ID:v+W9wsK+0
源氏は、壇ノ浦で、安徳天皇を擁する平家を追い詰めている。
幕府側は、錦の御旗が、政略的産物である事を認識すべきだった。
262 :
雲井龍雄:2008/12/24(水) 18:39:45 ID:ik6xVJ6v0
討薩檄
初め、薩賊の幕府と相軋るや、頻に外国と和親開市するを以て其罪とし、
己は専ら尊王攘夷の説を主張し、遂に之を仮て天眷を僥倖す。
天幕の間、之が為に紛紜内訌、列藩動揺、兵乱相踵ぐ。
然るに己れ朝政を専断するを得るに及んで、翻然局を変じ、百方外国に諂媚し、
遂に英仏の公使をして紫宸に参朝せしむるに至る。
先日は公使の江戸に入るを譏て幕府の大罪とし、今日は公使の禁闕に上るを悦んで盛典とす。
何ぞ夫れ、前後相反するや。是に因りて、之を観る。
其の十有余年、尊王攘夷を主張せし衷情は、唯幕府を傾けて、邪謀を済さんと欲するに在ること昭々知るべし。
薩賊、多年譎詐万端、上は天幕を暴蔑し、下は列侯を欺罔し、内は百姓の怨嗟を致し、外は万国の笑侮を取る。
其の罪、何ぞ問はざるを得んや。
(中略)
薩賊、擅に摂家華族を擯斥し、皇子公卿を奴僕視し、猥に諸州群不逞の徒、己阿附する者を抜いて、
是をして青を紆ひ、紫を施かしむ、綱紀錯乱、下凌ぎ上替る今日より甚きはなし、其罪何ぞ問はざるを得んや。
伏水の事、元暗昧、私斗と公戦と孰れが直、孰れが曲とを弁ず可らず、苟も王の師を興さんと欲せば、
須らく天下と共に其公論を定め、罪案已に決して然る後徐に之を討すべし。
然るを倉卒の際、俄に錦旗を動かし、遂に幕府を朝敵に陥れ、列藩を劫迫して征東の兵を調発す。
是王命を矯めて私怨を報ずる所以の姦謀なり。其罪何ぞ問はざるを得んや。
薩賊の兵東下以来、過ぐる所の地、侵掠せざることなく、見る所の財、剽竊せることなく、
或は人の鶏牛を攘み、或は人の婦女を淫し、発掘殺戮残酷極まる。
其の醜穢、狗鼠も其の余を食わず。猶且靦然として官軍の名号を仮り、太政官の規則を称す。
是れ、今上陛下をして桀紂の名を負はしむる也。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。
(中略)
右之諸件に因って之を観れば、薩賊の所為、幼帝を刧制して其の邪を済し、
以て天下を欺くは奔・操・卓・懿(何れも中国の叛臣不義の徒)に勝り、貪残厭くこと無し。
至る所残暴を極むるは、黄巾・赤眉(何れも中国の暴徒)に過ぎ、天倫を破壊し旧章を滅絶するは、
秦政・宋偃を超ゆ。我が列藩の之を坐視するに忍びず。
(以下略)
「薩長の姦賊、暴威を逞うし、幼沖の天子を欺奉り、
私意を縦にし、不正の乱を起し、万民を塗炭に苦しめ…」
「今に於て決せずんば国内の形勢、困難に至るべし。
不倶戴天の難敵眼前に至り、直ちに賊軍を追討し、
御城下を回復し、両者を奉迎し、万民の塗炭を救うの外、
吾輩今日の勤め他事これなく候」
…長岡城奪回の際に河井継之助が全軍に送った書き付け。
「薩長の姦賊、暴威を逞うし、幼沖の天子を欺奉り、
私意を縦にし、不正の乱を起し、万民を塗炭に苦しめ…」
「今に於て決せずんば国内の形勢、困難に至るべし。
不倶戴天の難敵眼前に至り、直ちに賊軍を追討し、
御城下を回復し、両者を奉迎し、万民の塗炭を救うの外、
吾輩今日の勤め他事これなく候」
…長岡城奪回の際に河井継之助が全軍に送った書き付け。
薩長は天皇を欺いて私欲のために乱を起こした賊軍。錦旗はニセ物。
当時、こうした認識は珍しくはなかった。
慶喜が雲井や河井のような筋の通った将軍だったら、
岩倉の大博打は裏目に出た可能性が高い。
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/24(水) 20:41:16 ID:PzK2Kik10
>>260 補給は陸路で可能だし、金さえ持っていれば現地調達は可能。
当時の戦闘で補給線を断つなんてことはできない。
ジャングルを進んでいるわけじゃないんだよ?
数十万の都市で、数千の食料がなくなる分けないじゃないか。
弾薬程度なら、当時はそこまで消費しないので、輸送は十分可能。
また後続部隊というか主力を、幕府軍が止めれるわけないじゃないか。
先発隊にすらボロ負けなのに。
つか兵力差で勝てるなら、長州征伐で勝っているよ
あれ兵力差20倍くらいあるんだぞ。
鳥羽伏見はいいとこ三倍、それも薩長の主力はまだ上京していない。
勝てる要素がないんだが。
また幕府は輸送をどうするの?
幕府には金がもうないんだよ。
>>260 北回り航路忘れてるよ。そっちも封殺しないと。
というか俺は最初から、長州征伐どころか鳥羽伏見でもガチでやって負けた幕府軍に
封鎖を維持する力はあるのか?と言っている。
諸藩については、どこがどっちに付くか判断できるような資料は俺は持ってないので何とも言えない。
>>264 また夢物語をw
陸路路ってどの陸路で補給するの?
大阪が閉鎖されれば京都は陸の孤島ですよ
買いたくても買えないがな…
能書きは良いから具体的に書いてよ
長州・薩摩からどう補給路を確保するか?
>>265 >
>>260 > 北回り航路忘れてるよ。そっちも封殺しないと。
何処の港から補給路を確保するの?その藩とは話が通じてるの?
んで鳥羽伏見がガチで負けた?どんな史実を語ってるのよww
それと維持も糞も官軍には打開しる策が無いから
僅か5千の兵で大阪に攻め込むとか?玉砕必至だなw
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/25(木) 21:06:53 ID:Ohs13EFj0
>>266 淀藩も新政府側についているので、普通に鳥羽街道で十分。
その後は山陽道。
また鳥取藩も新政府側についているし、
丹波の小藩も新政府にあっさり附いていることを考えるよ、
山陰街道からも可能。
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/25(木) 21:48:50 ID:4rMCVY3EO
グラバーに負けた
270 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/25(木) 22:11:05 ID:jm+YPBIrO
どうせ、薩長等の討幕派と戦争をするなら、
徳川幕府が、イギリスやフランスに発注した最新兵器(アームストロング砲やシャスポー銃等)や軍需物資、
アメリカに発注した甲鉄艦ストンウォール号が
幕府側に完全に引き渡されてから、
戦闘を開始すれば良かったのでは?
戦争の時期を先延ばしすれば、幕府軍の練度も向上して来るだろうし…。
一旦、大坂まで撤退したところまでは史実通りかぁ・・・キツイな。
歩兵11、12両連隊長が死んでるのは痛い。窪田連隊長の死は特に。
まぁ、うまいこと大坂の予備兵力結集で盛り返せば、薩長軍は淀か山崎に陣を敷くかな。
そうなったらどうするか?正面攻撃じゃ鳥羽伏見の二の舞だし、後知恵全開でなら、
正面からは牽制の会津・桑名主力軍で、幕府陸軍は大和〜近江方面から京へ
長躯迂回、背後から薩長軍を突きたいところだが、情報戦にも抜かりのない大久保一党には
間違いなく探知されてしまうだろうな。正面牽制軍と迂回軍の連携もうまく行かないだろうし。
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/26(金) 01:01:08 ID:qpn2aiVb0
>>270 慶喜は待ちたかったろうな。やるんならだけどね。
史実の慶喜は、そもそもやる気じゃなかったから。
だから慶喜が待たなかったわけじゃないさ。
問題は強硬な主戦派の暴発を抑えられなかったことだろう。
軍隊を動かすのはヒト、モノ、カネ。
軍事総裁や陸軍奉行というヒト
兵糧、弾薬というモノ
十八万両のカネ
ぜーんぶ大阪城にあったんだよな。
開戦を回避するには、これらのいずれかを慶喜の許可なしには出せなくすればよかったんじゃないか?
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/26(金) 06:16:50 ID:uzqXtqsq0
>>271 機内には大藩がおらず、まとまった軍事力でもって、
幕府を支援できる雄藩がいない、
だからあっさり下っている藩が多いんだよ。
とくにその唯一の大半である津藩が裏切っているからねえ。
それに譜代親藩が多いけど、その多くは国許に帰らず、江戸で幕政をつかさどっているから、
国もとに家老が全権を握っており、勝手に独断で下ってしまうケースも多かった。
数万石程度では、とても抵抗できないからね、これは仕方ない。
これは江戸幕府が機内に有力な藩を作らなかったことにより、構造的な欠陥。
(もちろんその雄藩が朝廷握って、反乱起こさないようにするメリットもあるが)
さらに機内や近辺の紀州、尾張、越前といった一門の雄藩ですら、新政府よりの中立。
鳥羽伏見で敗戦したあとは、全部新政府側、
というのも厳しい。事実上大阪にいる幕府軍が孤立しているに等しいから。
>>272 18万両では、雀の涙にしかならない。
長州征伐のときはその20倍以上の金を使っているんだよ。
軍が大阪に対陣するということは、食料をどこからか調達する必要があり、
それを市場で買えば、確実に高騰しているので、すぐに金がなくなってしまう。
長州征伐のときに、金がなくなってしまったのはこういうからくり。
なので開戦を回避して軍制改革をして、
時間を待つしかない。ただそのためには資金が必要。
>>268 > 淀藩も新政府側についているので、普通に鳥羽街道で十分。
だ・か・ら、そこまでの経路は?
薩長から淀藩の領地までどう行くのよw
頭大丈夫かぁ?
大阪に幕軍1万5千が居ます
忘れないでね
てか主張が最初とは大分変わって来たなw
>>273 鳥羽伏見の時点では多くの藩が中立
官軍よりと言うならば、それは慶喜に戦意無く大義名文を示さなかったからだ
薩長がいくら錦の美旗を掲げようが鳥羽伏見で負けたら何の効力もなくなる
大阪の幕軍が孤立してた言うならば、本国から遠く離れた地で戦う薩長の方が完全に孤立している
勘違いしてはいけないのは鳥羽伏見は薩摩・長州・土佐…vs幕軍の総力戦では無い
京都の官軍5千vs大阪の幕軍1万5千の局地戦である
京都の官軍は大阪に幕軍が居るため補給路を絶たれてしまい完全に孤立した状態
>>273 んでまた第二次長州征伐かよw
もっと頭使って考えてくれ
18万両の価値を単純に第二次長州征伐と比較するのは無意味でしょ?解るよね?解らないのかな?
第二次長州征伐と鳥羽伏見では動かしてる兵力が違い過ぎるからね
鳥羽伏見でも10万の兵を動かすなら雀の涙と言うのは良いが…まぁ〜視野を広く持って下さい
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/26(金) 20:40:12 ID:uzqXtqsq0
>>274 山陽道で十分。間の諸藩はほとんど新政府側。
せいぜい姫路藩くらいのもの。
摂津でも三田藩などそこそこ有力な藩が最初から新政府側についており、
補給を阻害する要素はない。
つかそもそも補給など必要ないんだが。
>>275 遠く離れた地にあるのは幕府も同じ。
大阪に軍を駐留させるだけで、莫大な出費がでる。
補給も陸路は完全に敵の手に落ちているため難しい。
江戸も消費地であり、十分な食料があるわけじゃないので、
兵糧攻めにあっているのと同じだ。
そしてその五千に全く勝てなかったのが幕府なんだがw
どうやって勝つんだい?
また京都には新政府があり、薩長方では当初ないとはいえ。
越前や尾張など新政府への参加を希望している諸藩は多く、
京都を落として、正当性を手に入れないとジリ貧だよ。
幕府はもう大政奉還してなくなっているんだから。
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/26(金) 20:50:31 ID:uzqXtqsq0
>>276 一年ほど大阪に10万近い兵力が駐留したときの経費が、
400万両。(長州で合流した軍の分は当然含めない)
これは実際に長州征伐する以前の経費。
1万五千、だいたい六分の一の軍が、18万両でどれだけ戦えるかな?
ちなみに幕府は商人から無理やり御用金をたっぷり取り上げているから、
これ以上金を出させたり、借金するのは無理、というか返済しないといけない立場。
欧米にも賠償金の払い残しで、何百万ドルという借金がありますしねえ。
どうするんです?
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/26(金) 21:04:11 ID:uzqXtqsq0
ちなみに資金を出す方法はないわけではない。
まず大奥を潰し、そこの女はみな首。
女は遊郭に売り飛ばし、服は古着屋に全部売る。
次に旗本は半知、いや10分の一程度にまで引き下げ。
無駄で複雑な行政機構のスリム化、無駄な仕事を廃止し、
無職になる彼らを一兵卒として、歩兵にする。
もちろん町のチンピラごろつきと同じ待遇でな。
そろばん侍など、優秀な事務屋を抜擢して、
仕事を効率化し、経費を捻出させる。
このくらいはやらないと駄目。
雄藩はそうやって藩政改革をして、経費を捻出したんだから。
280 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/26(金) 21:35:37 ID:pSGwBiIs0
慶喜「まず大奥を潰し、そこの女はみな首。
女は遊郭に売り飛ばし、服は古着屋に全部売る」
原市「旗本は半知、いや10分の一程度にまで引き下げ。
無駄で複雑な行政機構のスリム化、無駄な仕事を廃止し、
無職になる彼らを一兵卒として、歩兵にする。
もちろん町のチンピラごろつきと同じ待遇でな。
そろばん侍など、優秀な事務屋を抜擢して、
仕事を効率化し、経費を捻出させる」
こりゃ殺されるわけだわ
281 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/26(金) 23:06:29 ID:5HijxxYrO
そもそも、徳川直参の旗本・御家人等がしっかりして居れば、
彼等が幕府の洋式軍隊の要員になる訳で、
わざわざヤクザやゴロツキ等を雇用して
洋式軍隊の要員に編入する無駄な事をせずに済んだ筈だが…。
…直参共が全く使い物にならないから、
彼等に無駄飯を喰わせる一方、
余計な経費を使って、
ヤクザやゴロツキ等を雇用して幕府陸軍に編成するという二重の無駄をしなければならなかった…(・_・、)。
どちらか一方でも問題が解消すれば、
少なくとも、その分だけ経費が節約出来たのでは?
282 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/26(金) 23:45:16 ID:pSGwBiIs0
ちなみに今年の大河により日本人には
「大奥は幕府の存続に寄与したすばらしい機関、徳川家定は英邁な将軍、
天璋院は徳川と日本を救った救国の英雄、戊辰戦争なんてそんなものは存在しません」
という歴史観がすりこまれました
283 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/27(土) 06:58:34 ID:YsWXCYua0
そして薩摩藩と西郷、小松が天璋院と共に日本を救ったw
>>277 >
>>274 > 山陽道で十分。間の諸藩はほとんど新政府側。
> せいぜい姫路藩くらいのもの。
何時の時点の話をしてんだよww
>>278 どれだけ戦えるか?その問題は補給路を絶たれたら京都の官軍だろ
もう一度書いてやるよ。鳥羽伏見は局地戦
長州藩に攻め込む戦でも無ければ、薩摩藩を武力で完全に潰す戦では無い
京都にいる5千の兵に勝てば勝利なのだよ
故に長期戦を望まないのは本国から遠く離れた地で戦う官軍
幕軍のネガティブな部分だけほじくり返して騒ぐのでは無く、官軍の方にも目を向けなさい
もう一度書いてやる
視野を広く持て
しかし、慶喜方もただ待てばいいという状態じゃないな。
時間が経てば、慶喜抜きの新政府がどんどん確立されていってしまう。
あと薩摩も長州も本国から増援呼び寄せてるし、京にいる戦力が全てじゃないし、
それまでの幕府軍の戦いを見てると、どう見ても薩長の近代軍を一度の戦いで
殲滅することはできそうにない。
慶喜側が有利に戦っても、薩長や朝廷は比叡山に避難等でにらみ合いになりそう。
そうなると、交渉になって慶喜は何とか新政権に食い込めるかもしれんが、
やっぱ薩長を完全に潰すのは難しい。
>>286 > しかし、慶喜方もただ待てばいいという状態じゃないな。
> 時間が経てば、慶喜抜きの新政府がどんどん確立されていってしまう。
不可能だからw敵対する徳川が大阪に居るのに、新政府確立なんか不可能ww
京都は陸の孤島となり幼帝を連れて逃走するしか術はありません
あしからず
いやだから北回り航路は?
小浜藩は味方してくれるだろうが、鳥羽伏見に出兵してる上、たった10万石弱だぞ?
越前の春嶽公が積極的に動いてくれればいけるだろうが……
>>288 もう能書きの相手は疲れたから良いよwww
君の意見には否定も肯定もしない
好きなように騒ぐが良いさw
まぁ、薩長方も主要補給線の根幹にある大坂を押さえられて、
悠長に構えていられなかったから、一応は取り込んだ松平春嶽や徳川慶勝らの
離反というリスクを犯してでも、慶喜の新政権からの一方的排除とか、
一度は慶喜の政権参加を認めつつも、その後撤回したりとか、挑発を繰り返した。
江戸でのテロ行為もそうだし。
んで、慶喜自身はどうだかよく分からんが、少なくとも竹中重固や滝川播磨守ら
中堅クラスは挑発に耐え切れず、武力対決に乗ってしまった。
太平洋戦争とは違って、鳥羽伏見では旧幕府側にも十分勝機はあったが、薩長の仕掛けた謀略戦が、
統率がガタガタになりかけてた旧幕府の内情をうまく突いてしまったのがまずかった。
291 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/27(土) 18:19:50 ID:kaYD/3IE0
あの世で大河ドラマの篤姫を観た小松が一言
↓
>>290 > 太平洋戦争とは違って、鳥羽伏見では旧幕府側にも十分勝機はあったが
君みたいに薩長が勝って当たり前と考える輩が無謀な太平洋戦争を始めたんだろうなw
真珠湾攻撃以降にルーズベルトが恭順謹慎してくれたら良かったのになww
圧倒的優位だった征長で惨敗した幕府軍の弱体性を慶喜は骨の髄まで思い知らされており、
実戦となれば烏合の衆たる幕府軍が薩長に負けるのは手に取るように分かっていた。
実際に幕府軍の滝川播磨は鉄砲の射撃を受けたら一目散に逃げ出したという。
一見強大に見える幕府軍が実は見掛け倒しであり、それほど諸藩も恐れていなかった。
294 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/27(土) 19:41:16 ID:adxODPrz0
>>285 現地調達が可能な当時の戦闘において補給路など問題ではない。
数十万がすむ京都の町で、5000人の食料に困るわけないだろ。
金さえあれば可能なんだよ。
また鳥取藩や丹波の諸藩も新政府に参加しているため、
山陰道から輸送が可能。
越前藩も新政府よりの中立なので、
戦闘に参加することはないにしても、補給の邪魔までするとは思えない。
また淀藩や摂津の三田藩なども新政府側についているので、
補給を阻害する要素は存在しない。
ちなみに新政府はまだ本国に主力がいるので、長期戦はいくらでも可能、
というか長期戦を狙っていたのは新政府だよ。
なのに緒戦で圧勝してしまっただけ。
>>287 大阪が陸の孤島状態。
完全に包囲網が出来ている。
だから慶喜が逃げ出すしかなかった。
295 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/27(土) 19:58:01 ID:adxODPrz0
>>290 だから勝ち目などない。
運がよければ一戦だけなら勝つことは可能かもしれない。
だが勝ち続けることは無理だ。
勝とうが負けようが、軍というそこにいるだけで、金を消費する。
幕府には軍を維持する金がないんだよ。
だから小栗は金をフランスから借りようと、あの手この手で借款を要求していた。
さらにいえば、もし万が一薩長に一度でも勝てて、
さらに借款が認められ、(なにを担保にするのかしらんが)
軍を維持して、軍の近代化ができたとしても、
長州や薩摩を再征する余力はない。
>>292 幕府こそ当時の日本だな。
勝ち目がないのに、薩長に無駄な抵抗を試みていた。
勝ち目がないのに、薩摩が徴発するわけないだろうが。
ただ、実際、幕府が勝利したとしても、疲弊して、
下手するとフランスの植民地になった可能性もあるけど、どうなんだろう?
297 :
聖上:2008/12/28(日) 00:28:29 ID:IjTDAh+u0
官軍の幹部達が歌舞伎の連獅子の鬘を被っていたのは何の意味があるのですか?
白が薩摩で黒が長州で赤が土佐と各配色まで決まっていたそうですが
298 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/28(日) 00:40:56 ID:BGkEa/yw0
少しは自分で調べろ
299 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/28(日) 08:03:42 ID:aUCOj5Yh0
>>296 そのフランス、翌年にはプロイセンとの戦争に負け、ナ3世が退位。
そうなると借金の抵当になるはずだった横須賀製鉄所はドイツの手に移る。
横須賀は独領ビスマルク諸島への中継基地になったかもな。
西郷は勝ち目がないと思っていただろう。
討幕中止の密勅が出てすぐ、江戸の藺牟田尚平に温和しくしていろと指示。
しかし、そのあとも江戸では御用盗の便乗犯が続く。
無役の旗本が模倣犯をやったのは、これまでも知られていたが
幕府陸軍の歩兵が便乗したという史料を國學院大が持ってる。
つまり11月以降の江戸の混乱は主戦派によるマッチ・ポンプだった。
戦争やりたかったのは、幕府の主戦派だったようだ。
『藤堂藩山崎戦争始末』によると、千両松の激戦前後から、朝廷からの使者なるものが
津藩の陣中に来ていたことが書かれている。薩長側は諸藩の分断工作もしてたらしい。
京の薩長軍そのものは4500あまりだが、他にも新政府寄りの諸藩軍が京に来てるし、
中でも(第二次長州戦以来の協力関係にある)広島藩はほぼ味方同然で、京の薩長軍は
全力投入で出撃できる、脅威になり得る幕府陸軍は最大一万で、一部は伏見に分散、
さらに長州戦の戦い振りから、薩長軍は現有兵力でも五分以上の戦いが出来ると踏んだんだろうな。
>>294 > 現地調達が可能な当時の戦闘において補給路など問題ではない。
大阪を閉鎖されれば現地の物資が不足するんだよw
それと新政府軍に付いた?だから何時の話ししてるの?
んで主力云々が本国に居ても鳥羽伏見に賛成出来ないなら関係ないがなw
何度も書いてるが鳥羽伏見は局地戦で総力戦では無いから
>>295 またまた能書き馬鹿登場かw
まず今の議論は「鳥羽伏見」の話しで、それ以降の話しなんか一つもしてない
んで君の意見の根拠が「勝ち目が無いのに薩摩は挑発するわけがない」ってかww
お話しになりませんがな
まぁ簡単な話しだ
薩長が武力で勝てると思っていたなら、幕軍を大阪からアッサリ逃がしはしないよ
大将が逃走して士気が失われた幕軍を叩くには絶好の機会
何れ来る総力戦を考えれば大阪から逃がすのは問題
しかし官軍は進軍しなかった。何故か?
本国から遠く離れた地で補給路無きままに戦う事が不可能だったからだよ
304 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/28(日) 12:57:29 ID:lmVH7hf50
>>301 京都への流通を完全に阻害したら、
薩長よりではないが、新政府への恭順を誓っている。
多くの諸藩を敵に回す、つまり他の流通手段により補給は可能ということ。
阻害できないなら、市場から調達可能。
そもそも大阪を幕府が維持できるわけがない、薩長に鎧袖一触で蹴散らされるだけ。
>>302 鳥羽伏見の局地戦でも一度も勝っていない幕府が、薩長の軍を止められるわけがない。
そもそも当時の幕府の海軍力で薩長の海軍を止められない。
なぜなら、それ以前も薩長の船がきたら、逃げ出していたからだ。
レーダーもない当時の状況で制海権などというものは意味ないな。
>>303 討伐する前に次々に下っていただけ。
紀伊などは当初幕府側と見られ、幕府の敗残兵の受け入れをしていた。
だから新政府が討伐に軍を挙げようとしていた。
だが即座に紀伊藩は新政府に恭順。
当時機内で起きていたのはこういうことばかり。なだれを売って下っていたから、必要なかっただけ。
>>304 > 京都への流通を完全に阻害したら、
> 薩長よりではないが、新政府への恭順を誓っている。
どんな根拠だよww
てか逃げ出すとか根拠無き妄想ばっかり…
このスレは言った者勝ちなのかよw
話にならんよ…
とりあえず良いお年を(^o^)/
306 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/28(日) 13:24:22 ID:lmVH7hf50
>>305 京都に滞在しているのは、薩長の軍だけではない。
京都の守護を買って出ている新政府に参加している諸藩も迷惑をこうむる。
何をするにも先立つものはカネですが、幕末の時点で、薩摩の串木野鉱山は
金をたくさん出していたのですか。
幕府側の金山はどうでしたか。
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/28(日) 16:23:32 ID:3eLDY19hO
>>307 幕府直轄の金山・銀山は、殆ど掘り尽くされていたのでは?。
もし、優良な金山・銀山がまだあれば、
そこから採掘された金銀で、貨幣改鋳の原料として活用出来た筈だが…。
金銀を採掘し尽くしたから、
幕府は、主に直轄領からの年貢収入に頼らざるを得なくなり、
年貢収入以外からの財源確保に四苦八苦したと思う。
…もっとも、幕末の幕府の財政収入の半分以上が、貨幣改鋳益金や豪商からの御用金では、
どのみち、遅かれ早かれ財政面から幕府は立ち往生したと思われる。
幕府勘定奉行の小栗上野介が、フランスに600万ドルの借款を申し込んだのも、
つまるところ、幕府の財政がにっちもさっちも行かないところまで
追い込まれたからではないかと…。
カネの面ですでに勝負はついていたのですね。薩摩の勝利。
薩摩は自己資金プラス商人からの寄付だけで足りたのだろうか。
イギリスから借金はしなかったのだろうか。
薩摩と長州はイギリスのロスチャイルドの資金をいれているという説を
読んだので気になります。
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/28(日) 18:56:41 ID:lmVH7hf50
薩摩は多少欧米から金を借りている。
長州は一切借りていない。
幕府はフランスから数百万ドル借りて、さらにこれが返せないのに、
追加で600万ドル借りようとした。
311 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/28(日) 21:42:17 ID:muT71r5pO
徳川埋蔵金の在処を篤姫が知っていた可能性が高いと日本史ミステリーの番組でやってたwww
諸藩連合二万の幕軍は、2日から行動を起こし鳥羽・伏見への進撃を開始した。
対する新政権側の主力は五千の薩長軍である。
西郷、大久保の二人は、長州の広沢兵助に相談して応戦の手配を相談しあった。
たとえここで敗れるようなことがあっても、かねてからの計画通りに天皇を擁して山陰道を逃れ、
その地から倒幕の詔を諸国に下せば、ついに勤皇軍が各地におこり、幕府を倒すことができるであろうというのである。
戦略としてはきわめて漠然としていて具体的な戦術も用意されていない。
この時点では、西郷も大久保も、兵力にまさる幕軍に対して薩長軍はとても勝ち目がないと考えていたのである。
313 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/29(月) 21:16:29 ID:k6F7OUQ20
全てのケースに対応していたというだけの話。
行き当たりばったりでなにも考えてない幕府とは違うんだよな。
長州征伐でもまけた場合や、長期化した場合など事細かに方針を決めているのをみると。
役者が違うのが分かるよな。
負けた場合を想定して保険をかけておける、これが大きい。
幕府の最大の難点は、トップがいないことなんだよな。
慶喜が一応はトップなのだが、この人は参謀としてはまだしも指揮官としては線が細すぎ、責任感がない。
部下が何かしでかしたら、俺の責任だ、と腹をくくるのではなく、お前が悪い、と責任転嫁して、自分は責任を取らない。
そして、周囲の幕臣たちは、最後の決断は、慶喜に任せるという悪循環。
鳥羽・伏見の戦いに話を戻すと、幕府軍の作戦は2つあったと思う。
長期持久作戦案と短期決戦案。
長期持久作戦案を取るなら、大坂城周辺をまず固め、そこを拠点に、山陰道、山陽道、大阪湾を封鎖し、京都を兵糧攻めにする。
それと共に、中立派の公家を動かして、朝廷と薩長の間に亀裂を生じさせ、薩長のみで都落ちさせるか、大坂城を強襲せざるを得ない状況に追い込む。
短期決戦案を取るなら、慶喜自ら陣頭に立ち、精鋭の幕府歩兵隊を親衛隊とし、主力は山崎から正面突破を図ると共に、一部を持って、伏見から助攻させる。
そうすれば、幕府軍の士気は高まり、指令系統も一本化され効率的に戦えたろうが、史実の幕府側は、指令系統がばらばらで効率的に戦えていない。
315 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/30(火) 13:53:12 ID:iLG6wKx8O
13代将軍がアホだったことは後に幕府が滅びた事とあまり関係は無かったですか?
どっちかというと聡明とされる14代将軍が、
結婚する前後まで政治に関わっていなかったことの方が大きいのでは。
将軍になった時12歳だしな。
なんで今回の大河ドラマではもっと若い奴を起用しなかったんだろう。
>314
彦根・越前・小浜の各藩で比叡山占拠。
会津を鳥羽伏見方面から引き抜き
迂回して比叡山から洛中と衝かせれば良い。
>>313 > 全てのケースに対応していたというだけの話。
> 行き当たりばったりでなにも考えてない幕府とは違うんだよな。
薩長同盟の密約は長州有利で事が運んだからだよ。
また
>>312を読む限りでは"漠然とした作戦"みたいだね。貴方の言ってる事とは違うみたいだよ
>>315 13代将軍の時に行われた天保の改革が大失敗したのは、将軍のせいではなく、誰も責任を取らない自己利益優先の無責任体制に徳川幕府がなっていたから。
老中の水野忠邦が、江戸湾・大阪湾の警備のために、上知令を立案したら、各大名・旗本が自己利益優先・上知令反対と言って潰した。
水野忠邦が、諸外国が開国を求めてきたときの防衛のために必要と幾ら説いても、神風が吹くから大丈夫、と言って断固拒否。
しまいには神国日本が諸外国に攻められて負けるなど、老中にあるまじき発言と大名・旗本に難詰され、免職減俸処分になった。
そして、ペリーが来たら、歴代の老中を中心とする幕府がきちんと対策を考えていないとは何事、と大名・旗本は幕府を見限った。
自分の利益優先で自分の負担は断固拒否というのは、現代の日本でもよくあるので、大名・旗本を悪くは言えないが。
>>318 薩長同盟はどっちが有利というものでも無いと思うが……
つか、立場的には「助けてもらう」長州の方が不利だったんじゃないか。
だから成立直前でゴタゴタも起きる。
>>320 > 薩長同盟はどっちが有利というものでも無いと思うが……
違いますよ(笑)第二次長州征伐が長州有利で事が運んだから薩摩は同盟内容に従ったのです
長州不利に事が運んだなら薩摩は動かなかったでしょう
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/31(水) 20:32:50 ID:SG5sRCcN0
不利になった場合でも調停工作とかに協力しろ、
講和の斡旋とか、そんなのも同盟のときに話あっているよ。
というか、かなり不利になるのを前提で同盟内容を決めている。
そして長州は単独で戦うつもりだったから、
薩摩はあまり表立って動くことを要求されていない。
>>322 内容だけはね。しかし薩摩は実際に長州有利がはっきりするまで動いて無いんですよ。
合理主義の薩摩が律義に同盟内容を守る訳はありません
長州不利なら平気で裏切ったでしょう
324 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/03(土) 15:50:10 ID:4BO5UFuJ0
>>312 逃げ道を考えただけで負けるつもりは言いすぎじゃないか
>>317 越前は動かず
彦根は寝返ったがw
>>323 薩摩が非義の勅には従わないと動いてないことが長州の助太刀になった
萩口から薩摩が上陸する作戦がご破算になった
>萩口から薩摩が上陸する作戦
薩摩藩は薩英戦争でフネをやられたのに上陸作戦する能力があるのか?
326 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/08(木) 00:01:34 ID:o7QGE9NK0
つかその場合は石州口の戦いは起こらないだろうな。
薩摩がというか、幕府がやる場合も想定して、
長州は大村が軍を動かさなかったから、
そして動かさないという確信をえて、やっと益田に進軍したわけだし。
また最後まで動かさなかった予備軍が1000くらい残っているので、
全体の二割はまだ手元に残しているんだよ。
慶喜の計画だと滝川播磨守の軍配書にある通り、京を包囲してから色々交渉や
計略をするつもりだったんだろうな。そうなると、全く臨戦態勢を取らず、
行軍隊形のまま奇襲されたのも分かる。討薩表を出したのも、朝廷に提出するため。
初めから戦うつもりなら、そんな文書は必要ないし。それを見越されたかされなかったかは
定かではないが、京を包囲する以前に薩長に戦闘を仕掛けられてしまったんだな。
329 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/08(木) 11:28:36 ID:wNGwz72g0
「幕末不戦派従軍記」
こんな連中のために原市之進は殺され、慶喜は人生をズタズタにされたのかと思うと反吐が出る。
つうか作者は頭おかしい。
「慶喜は命惜しさに恭順を決め、なりふり構わず方々に救済を頼んだ」
周囲が目を血走らせてギャーギャー抗戦を叫ぶ中で、恭順の決定をするというのが
どういうことかわかってないというより、
慶喜のやることは全部誹謗中傷しなきゃ気がすまないんだろう。
もし命がおしけりゃ会津の容保のように抗戦しとるわ。
保身根性に加えて、国の運命よりとりあえず家臣に嫌われたくない臆病と罵られたくないという気持ちも
あったんだろう。
330 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/08(木) 20:24:57 ID:YiogJWQS0
井の中の幕府で幸福に生きる大名&旗本こそ元凶。
ペリー来航で閉幕が早まっただけ。
ぺルリがこなかったら、もっと泰平を享受していただろう。
そして手遅れになり、植民地化されてたかもしれん。
幕末の日本人は聡明だった。
>>329 その作者の慶喜評はいつもの事なので、気に入らなきゃスルーが吉。
332 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/10(土) 20:12:46 ID:Glu8jm2l0
国民皆英語で会話している。
333 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/10(土) 21:54:27 ID:l9Q7pJ7T0
幕末不戦派軍記なぁ
函館で榎本はんが開陽出動にこだわりはったんは、、
公方さんが大阪から新門のおよしはんと開陽にのって帰りはったんを
「大事な船は慶喜にベッタリ汚されたのだから戦の血で清めなければならぬ」思いはって
ミソギをしとうおましたんやてぇ
そうして焦ってはったからかえってお船を沈めるようなことになってしまったんや
というのが野口センセの解釈やねんてぇ
☆センセとえぇ勝負できはりますなぁきっと
、
334 :
名無し:2009/01/11(日) 14:49:45 ID:NJKljiUm0
とにかく小栗上野介に任しておけば良かったんだよ。なんであすこで逃げ帰って
小栗を罷免するんだ。小栗に任せておけばよかったんだー。あんな薩長の天下に
ならなくてもすんだのになあ〜。ひいてはアメリカと戦って原爆を落とされる
こともなかったのになぁ・・・。
335 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/11(日) 15:19:00 ID:/bf8XFvb0
小栗なんててんで駄目だろ
小栗に任せたらどうなるか・・・
大阪に榎本海軍を廻し、箱根に防衛線を作る
↓
甲州と越後方向から来た官軍が江戸を攻略
↓
江戸は火の海となって壊滅
↓
徳川お家断絶
↓
榎本海軍や箱根を守っていた幕府軍孤立バラバラ
↓
旧幕府軍会津とフランスを頼る
↓
フランスが会津を支援し軍事介入
イギリス、国際社会にフランスの非を唱え、
英蘭米諸外国軍、明治政府を支援し軍事介入
↓
国際世論にびびったフランス手を引く(小栗との約束で蝦夷地はフランスに譲渡される)
榎本、蝦夷地がフランス領になった事で、蝦夷地開拓の夢消える。
榎本艦隊降伏
↓
東京復興の為に東京遷都
イギリス、明治政府支援協力の代金として鉄道敷設権を獲得
↓
鉄道敷設とそれに伴う都市開発はすべて英国資本になる
↓
イギリス、事実上日本の経済を握り、政治介入可能に
↓
日本、イギリスの植民地となる
336 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/11(日) 17:51:03 ID:oeCJkwmoO
第二次長州征伐を決定した人物って誰ですか?
第二次長州征伐ってやらざるをえない状況だったんでしょうか?
337 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/11(日) 18:47:27 ID:4cIpjp/30
つーか日本が植民地化されるのを防ぐために降伏を選んだんだよ、慶喜は。
338 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/11(日) 20:13:58 ID:E9t+0yXj0
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/11(日) 21:03:09 ID:/bf8XFvb0
>>336 第二次長州征伐の引き金を引いた人
幕府老中小笠原長行
第一次長州征伐で、長州藩主父子を江戸へ人質とし、
長州毛利家は東北で一万石に減封&移封せよと叫び、
長州藩が拒絶すると、第一次長州征伐の継続として第二次長州征伐を続行と朝廷で運動し、
幕府に第二次長州征伐の勅許を天皇に出させた人。
会津藩主松平容保
第一次長州征伐の時の全権は尾張藩主だったっけ?
あの時点で満足して大政奉還→合議政体に邁進していたらどうなっていただろうか。
341 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/11(日) 21:55:12 ID:kDtMHj8y0
家茂に大政奉還を実行する意志も器量も皆無
というのはおいといて
慶喜は幕府にもう日本を統治する力も権威もなくなっていると判断したから大政奉還したんであって
第一次征伐の時点はまだ幕府に威厳があると幕府人一同勘違いできる情勢だったから、
その意味でも大政奉還なんてありえないよ。
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/12(月) 01:44:43 ID:C0enn6I8O
>>334 アメリカとの戦争やそのきっかけとなる中国での泥沼は、
武士道精神を奉じ藩閥を駆逐して政府と陸軍を乗っ取った
東日本の士族と百姓がやらかしたことですよ。
松岡先生は国際連盟脱退、三国同盟、日ソ中立条約と激動の時代の立役者だった。
>>339 第二次長州征伐では勅命は下りてませんよw
345 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/13(火) 19:53:06 ID:tYufLn/F0
会津藩は自業自得なのか悲劇なのかどっちなのか教えて
下級武士にとっては悲劇
347 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/13(火) 22:05:19 ID:mSyVrJ9B0
>>344 降りてるよ
会津藩の主張は「第一次招集征伐は終わっていない。だから長州征伐続行」だから。
第一次の長州征伐の勅許がそのまま第二次征伐の勅許だよ。
会津藩は、これが覆らないように運動し「征伐停止の勅許が下らないように」したの。
朝廷から確約貰っているよ会津は。
それどころか長州戦争で幕府軍の形成不利な状況で慶喜が自ら近代歩兵隊を
率いて討ち入ろうとした際にも、朝廷はちゃんと勅許を出してるんだなこれが。
にも関わらず、慶喜は討ち入りを中止しちゃうんだから、ある意味朝廷への造反行為。
>>347 それは第二次長州征伐に対する勅命が下りないから、一方的な主張なだけ
第二次長州征伐への勅命は下りてません
350 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/14(水) 17:52:37 ID:oG/eCdbQ0
>>345 幕末最大の悲劇は会津藩。ただ時勢を読めず火中の栗を幕府に拾わされた。
幕府もあそこまで幕府に尽くしてくれた会津をもう少し助けても良かったし、
薩長も会津攻めを中止できる人物がいてほしかった。
薩長は調子に乗りすぎていた。
351 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/15(木) 00:46:32 ID:Ak9x4pRl0
>>349 お前馬鹿だろwっていうか、なに必死になってんのwww
事実、これを論拠に長州征伐は行われた。
しかも、徳川慶喜は改めて「第二次長州征伐の勅」を得ていますよw。
ま、その頃には幕府軍総崩れだったがねw。
そんな事を知らないで、知ったか振りなんて恥ずかしいよねw
>>351 必死ですかぁ…客観的に自分を見れない方なのですね
将軍が大阪入りして一年、残念ながら朝廷から長州征伐の勅命は下りませんでした。何故か?薩摩が工作してたからです
幕軍は勅命無きまま戦に踏み切りました
勅命が下りていたら薩摩も参戦を断る大義がなくなってしまいます
残念だけど慶応元年九月二十一日に再征長の勅許がおりてますね。
大久保がその後も撤回させようと運動してますが失敗してます。
でそのことを西郷に愚痴った手紙のなかで有名な
「非義勅命は勅命にあらず」と言う文言が出てきます。
幕府の思惑で出た勅命であって正義がないのでそんなものは勅命とはいえない、と言うことですね。
気に食わないのでしらばっくれたる、ということですね。
勅命が下りて大義はあるけど屁理屈をこねて薩摩は参戦を断ったんですね。
>>353 残念だけど慶応2年ですから
出直して下さい(>人<)
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/16(金) 06:24:51 ID:mDhWxpjg0
アメがイラク侵攻の根拠を、国連で否定されたから、
以前の国連決議を利用したようなもんだろ。
356 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/16(金) 20:55:28 ID:WGqB44PYO
慶喜の肉声テープがあるらしいけど内容知ってる人いますか?
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/16(金) 22:17:17 ID:8Q+DFSCY0
>>353,354
結局、第二次長州征伐のために幕府は勅許を求めたが、
朝廷が応じず、出されなかった訳ですね。
358 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/16(金) 23:03:02 ID:0nyFQA9T0
慶喜が勅を得ていますがwなにか?
勅が出ていないなら、長州大討ち込み取りやめであれだけ揉めませんよ
>>358 なんか必死だな
もっと具体的に書けば?
「得てる」とか「あれだけ」でなく、何時どんな勅命を得たのか?あれだけとは何を指すのか?
答えて下さい。何か?
だから再征長の勅許は
>>353にあるように慶応元年に出てる
薩摩が愚図って実際には慶応二年にまで長州攻めは遅延してるけどね
なんで353をさっぱりなかったことにしてるの?
361 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/19(月) 06:23:08 ID:ccmgFtlXO
慶喜が14代の将軍になってたらどうなった?
362 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/19(月) 17:46:12 ID:5ZMyIA6l0
>>361 一橋派は南紀派を一掃するのかな?多分できないだろう。大奥も南紀派だし。
当時の一橋派には幕閣への影響力がまだまだ小さかったし、
実力行使で幕閣へ圧力をかけることも出来ない以上、
幕閣そのものを抑えている井伊直弼の方が有利だろう。
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/20(火) 18:12:30 ID:7kF8161H0
>>362 一橋派と南紀派の抗争が続いたかもね。
井伊はおとなしく黙ってはいないだろうし。
将軍(慶喜)派と南紀派でいくさになってたかも?
慶喜の対外政策如何じゃない?
親父は攘夷の親玉だけど一橋派は開国派が多い
この段階で慶喜がトップに立って勅許を得られないからと言って
後は調印するだけとなっていた日米通称修好条約を反故にすれば
下手をすれば一橋派が割れるでしょ
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/21(水) 10:01:10 ID:6oWOWE+s0
篤姫では井伊直弼が
「(家茂は紀州藩主だから)水戸の七男ごときとは格が違いまする」
なんていってたけど、母方の血筋も含めれば
慶喜>>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>>>>>家茂でしょ
367 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/21(水) 21:05:48 ID:g8AzBReG0
本当に凄いのは50数回の戦にて生き残った伝助と言う兵士。
家族を殺されてしまい、死にたいと考え毎回最前線で戦い続けるも毎回生き残ってしまう。
伝助は伝説の兵士。
50数度の戦で関ヶ原、大阪の陣も戦うも死ねず、75歳で死地を求めて宮本武蔵とも対決している。
武蔵は伝助の一撃を避けきれずに尻餅をついたとすら言われている。
ようするに伝助は死にたくても強すぎて死ねなかったという。
そんな彼も武蔵のはからいで共に生活をするが、81歳で死す。
最後の言葉は「ありがとう、宮本さん」らしい。
首切り茂吉と言う農民もいる。
17歳から戦場で戦い、57歳までの間に40数度の闘いに出て居る。
槍も刀も貸し出し品は一切手にせず、鎌一つで戦ったと記録に有る。鎌一つで一度の戦で7人を殺したとも言われてる。
あまりの残虐性と強さのため武将達から「首切り茂吉」と言われていた。
高禄で召し抱えたいと申し出た織田信長を前に、あさりと断り、年貢を免除して貰いたいと願い出た。
自分の申し出を断られ激怒した信長は斬りかかるも、茂吉は信長相手に蹴りを入れて倒して「やるならやんぞ!!」と
怒鳴りあげたと言われている。
その後信長の領地で唯一年貢を免除された男として首切り茂吉は有名である。
かの秀吉も茂吉を召し抱えようとするも「秋だし狩ろうかな」と言われて引き下がったと言われている。
なぜ茂吉が首切り茂吉と言われるか、その自宅には今まで倒した男達の首が置かれており、その数は500を超えていたと言う。
一体人知れずこの男はどれだけの戦功をあげていたのだろうかと織田家中では伝説的な農民であった。
40数度の戦に出て、生き延びた首切り茂吉。有名ではないがまさに最強であり多数の戦をした男である。
57歳の時、ついに茂吉は関ヶ原にて伝助との激戦の末、首を打たれたと言う。
「いっき」の主人公だな
369 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/06(金) 14:51:33 ID:Ud2ldrHq0
幕末の京都にタイムスリップして、岡田いぞうと一晩飲み明かす
朝まで一緒に居て斬られなかったら賞金50万
芹沢鴨が相手でも賞金50万
新撰組の屯所に忍び込み、「士道不覚悟」と叫びながら土方の頭をハリセンで叩いて無事に帰ってこれたら賞金200万
チャレンジする勇者はいますか?
370 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/06(金) 14:59:17 ID:XyCoue8h0
それだよ!日本人の本質は
恐ろしいイザナミの命に会いに行ったイザナミの命は正にそれだったんだ!
371 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/06(金) 15:01:49 ID:XyCoue8h0
こわもての東条首相の頭をはたいたら、天の岩屋戸が開いてしまった
372 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/06(金) 18:13:39 ID:XyCoue8h0
「拍手を打つ」
これは神さまを呼ぶ行いなのかも知れないねw
子供が玄関先で友達の名前を呼ぶのと一緒。
江戸城に篭城して5年くらいは大丈夫だったんじゃない?
374 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/07(土) 12:47:30 ID:b6zfQpmM0
戦国時代ならともかく、五年間もアームストロング砲の砲撃を受け続けて無事でいられるか?
マジやばい
薩長にイギリス、幕府にフランスが支援して
何故かイギリス海軍とフランス海軍が上陸して
日本でドンパチ、イギリス人は江戸、フランス人は京都で略奪しまくり
イギリス「そろそろ飽きたから帰っかw」
フランス「バロスwww これくらいで許してやるよwww」
幕府・薩長・天皇
「あ・・・あ?」
>>374 アームストロング砲が高性能というのは、司馬遼太郎の創作で、実際には欠陥だらけの大砲だったらしい。
薩英戦争で、英軍が苦戦したのは、英軍艦に搭載されていたアームストロング砲が、頻繁に射撃不能になったためで、自爆事故まで起こしている。
更に、アームストロング砲自体も1862年に英軍は採用取消処分とし、旧来の前装砲を再度採用している。
戊辰戦争が集結したとき、明治新政府軍には、アームストロング砲は1門も無かった。
どんだけ暇なんだよ列強www
378 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/07(土) 20:42:00 ID:jkUYIQ5N0
>>373 食料がないよ。
市場では高等してて手が出せない。
>>376 いや高性能なのは事実だよ。
射程距離、破壊力、速射性、どれも優れている。
ただ安定性というか、運用整備が難しかった。
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/07(土) 21:21:11 ID:KMsmqgBT0
米兵は、精神に異常を来たす人が多い
それは罪の無い民間人を殺すから
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/07(土) 21:26:18 ID:KMsmqgBT0
悪い奴は平気で殺せるが、善良な人間を殺すには勇気がいる
その為に人格を傷付けるんだよ
誹謗→虐待→周囲の同意を求める→殺し
381 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/07(土) 23:52:17 ID:fOoJcsni0
>>376 アームストロング砲だけじゃない。それ以外にも西洋式施錠砲がたくさんある。
これら多数の砲撃を受け続けて五年間も堪えられるか?
慶喜が幕府直轄軍の洋式化をしてたって聞いたことがある。
太刀打ちできないかな?
383 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 00:12:44 ID:xxI91Kzd0
豚一さまか
鳥羽・伏見の戦いの頃には、幕府側も直属軍の洋式化がかなり進んでおり、装備も一部では薩長軍をしのいでいる。
当時、最新鋭式のシャスポー銃を装備しているのは幕府側のみで、薩長軍は装備していなかった。
幕府軍の装備が旧式というのは、歴史小説上、そうした方が売れるから、それが広まった。
後、実戦で使用するのに、運用整備が難しいのは致命的。
いい例が、WWUにおける独軍の戦車。実戦で失われるよりも、故障で失われる方が多い、という惨状。
カタログデータがいくら良くても、少し使用したら補修が必要では、実戦で安心して使用できない。
数発撃ったら故障する最新式の大砲よりも、安心して何発も撃てる旧式大砲の方がまし。
>384
いやざ、大坂あたりで雇ったいまでいう派遣みたいな兵隊に最新装備で
会津、桑名、見廻みたいな精鋭に旧式装備供給するのも・・。
>>385 余り書きたくないけど、幕府歩兵隊の成り立ちを調べたら。
幕府歩兵隊は、江戸で雇われて、訓練も施されて、一部は五稜郭の地まで戦い続け、戊辰戦争で最後の華を飾っている。
それを大坂あたりで雇った派遣みたいな兵隊呼ばわりしては、失礼極まりないと思う。
後、少なくとも見廻を精鋭というのはどうかな。基本的に武装警察部隊だし。
会津兵も、鳥羽・伏見の戦いでは、夜は寝るものとして、夜襲の警戒を全くしなかった等の行動からすると、精鋭と呼ぶのは、私は首をかしげる。
それから、当時は(今でもそうですが)最新装備を使いこなすのには、基本的に訓練が必要不可欠です。
だからこそ、幕府は歩兵隊に訓練を施した上で、シャスポー銃を装備させています。
例えば、戊辰戦争で、最新の機関銃が実戦で使用されましたが、訓練不足から役立たずに終わっています。
シャスポー銃は伝習隊でつせ。
388 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 20:48:41 ID:teP5DPB40
>>386 いや派遣以下だよ。
江戸のちんぴらごろつきを集めて、鉄砲持たせただけだもん。
旗本は武士だから、鉄砲なんてものは扱わないから、
彼等低い身分のものにつかわせたんだよ。
当然訓練もおざなり。だから実戦では役に立たなかった。
あと当時の最新式の銃はスナイドル銃だろ。
連発式で南北戦争の花形だ。これは新政府側にしかない。
ジャスポー銃はそれに比べて一歩劣る。
歴史小説とかを鵜呑みにしちゃ駄目だよ。
>>384 俺は高性能というのを否定した人がいるから、高性能だといっているんだよ。
安定性を欠いているのを高性能ではないとはいわんよ。
AKは安定性があるが、高性能とはいわんだろ。
逆に今の最新式の銃は極地使用などには向かないものも多いが。
だからといって、性能が劣っているとはいわない。
389 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 20:59:07 ID:rRlvAHsv0
幕府歩兵の出身はごろつきだが、
函館まで転戦している以上、戦闘意欲もない弱兵であったとは言いにくい。
もちろん、最初は弱兵であった。天狗党の一斉攻撃に算を乱して逃走した。
次はどうだろう、第二時長州征伐時は逃走した彦根に代わって戦線を支えた。
その次が鳥羽伏見の戦いであったのだが、この際は逃走したのは会津桑名と同じだ。
幕府歩兵が弱兵であった、と断定は出来ない。
390 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 21:16:05 ID:teP5DPB40
なら戦功をたてたのか?新政府軍、とくに薩摩や長州の軍を打ち破った事例があるのか?
そういうの揚げ足を取るという。
>>389は「強かった」って言ってるんじゃなくて「弱かったとは言い切れない」って言ってるだけだよ。
392 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 23:16:06 ID:teP5DPB40
ほかがそれ以上に弱兵であったことで相対的によく見えているだけということがある。
戦う相手は代っていないのだから、味方がそれ以上の駄目駄目であることが、
弱兵でない理由にはならん。
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 23:23:01 ID:rRlvAHsv0
弱兵か強兵かは相対的なものだ。
勝てば強兵なのだ。
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 23:32:00 ID:rRlvAHsv0
軍備とは要するに、相手より強くなる、ということだ。
相手がずっと弱ければ、軍事などという無駄は削って産業文化に力を注げばよい。
絶対的な「強兵」など、自己満足だけの無駄な存在だ。
相対的に強ければそれでよい。それを強兵と呼ぶのだ。
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 23:32:38 ID:xxI91Kzd0
たがいに争わせ傷ついた人間を狙うのがハイエナ理論
それはアーミテージの受け売りですか
396 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 23:34:57 ID:xxI91Kzd0
君も依然いた意地汚い女と全く同じことを言うね
マニュアルでもあるのだろうか
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 23:39:04 ID:xxI91Kzd0
核兵器の存在があるんだから「強さ」はまやかし以外の何物でもない
陵辱を受けた人間が陥るただの罠です
398 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/08(日) 23:39:53 ID:xxI91Kzd0
なんで2ちゃんねるは刑務所みたいなことを教えるの?
399 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/11(水) 21:10:54 ID:g6tf7X590
西南戦争の鎮台兵も、初期の植木の戦いの頃は、戦闘になると我先に逃げ出して、
だらしない限りだったけど、田原坂の頃は、精強な薩摩兵と互角に戦っている。
要するに“慣れ”だろ。実戦経験を積むのは大きいよ。
アームストロング砲は、軍艦に搭載する大口径のは薩英戦争で故障続発で、
爆発事故まで起こして、一旦全てお蔵入りしたのは有名だが、
小口径の野砲は南北戦争でも戊辰戦争でも活躍している。
401 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/17(火) 16:56:33 ID:Tp2cIa6eO
徳川幕府がフランスに発注した武器や軍需品は
ある程度(発注額70万$分中、30万$分ぐらい)、日本(横浜)に到着したが、
引き取る為の資金が無い為に、
倉庫から引き出せず、
結局は、何の役にも立たなかった…(泣)。
ついでに、イギリスのアームストロング社にも、アームストロング砲を、
2・30門ほど発注しており、
これも、数門は日本(長崎)に到着したが、
同じく、引き取る為の資金が無い為に、
倉庫から引き出せず、
やがては、新政府軍に渡る事に…(泣)。
戦争は資本だよ兄貴!
しかし、幕末の朝廷工作に始まり、でかい戦役は悉く戦い尽くして
戊辰戦争後ですら100万両近い金を余してた長州藩が金持ちだったのは分かるが、
幕府はそこまで金が無かったんだろうか。
403 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/18(水) 07:11:12 ID:VK/Pxy8CO
>>402 その頃の幕府の財政収入の大半は、
貨幣改鋳益金と、豪商からの御用金、関税収入で占めていた。
これらの財源によって、
辛うじて、幕府の財政収支の均衡が保たれていたが、
慶応年間になると、将軍の上洛費用や、
長州征伐等の軍費、外国への賠償金支払い、
幕府自身の軍備増強の為の費用等で、
とても、幕府の財政に耐えられるような状態でなくなり、
また、幕府の経済基盤がかなり不朽していて、
幕府の経済財政政策が、殆ど効果が無く終わった。
そこで、小栗上野介等が、フランスからの借款や、紙幣発行による資金調達が計画されるようになった。
ちなみに、フランスに発注した武器や軍需品等の費用は、
フランスとの借款が成立するのを前提にして
借款した資金から捻出するつもりだったようだが、
フランスとの借款が不成立に終わった事により、
日本に到着した武器や軍需品等を引き取る為の資金が調達出来ずに、
倉庫の中に眠ったまま、幕府が崩壊した訳ですな。
404 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/18(水) 08:20:19 ID:QiAi+EyY0
長州征伐で使った幕府の金は500万両とも言われている。
それだけの金をつかって、成果なし。
そりゃ潰れるわけだ。
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/18(水) 10:16:08 ID:FAOVghWv0
日本人の金を巻き上げるための戦争だし、従軍したのは普段から生産に従事しない武士なわけだが
敵に武器を売ってもらうようでは勝てる訳もないし
戦争による、人的被害の方が経済に対する悪影響が強い
408 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/19(木) 20:40:53 ID:RRAzmPz+0
外国にも何百万ドルの借金もあったなあ。
貧乏人は戦争できんのだよ。
409 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/03(金) 20:49:57 ID:v98y6bHw0
>>404 頭を使えば外国貿易を独占して儲けることが出来たのにね。
410 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/03(金) 22:24:44 ID:enysNPcv0
まあ実際にそれやってたんだがな。>貿易の独占。
というか幕府はオランダとそれをずっとやってて、
その後はオランダ以外ともやっただけ。
それに諸藩が不満を持ったのも事実。
また庶民は買い叩かれていくので、生糸など国内が品不足になりインフレ。
(貨幣の改鋳もあったしな)
またインド産などの安い綿花などが入ってきて、国内の農家が破産。
>アームストロング砲が高性能というのは司馬遼太郎の創作
>幕府軍の装備が旧式というのは小説上そうした方が売れるからそれが広まった。
幕末のドラマって司馬遼作品のイメージごときに左右されすぎ。特に新撰組。
ごときってほど軽くは無いでしょ
制作側がちゃんと調べてないと言うのはあるだろうけど
413 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/07(火) 10:31:04 ID:FW2XvV7R0
最新刊の半藤一利「幕末史」でも、
鳥羽伏見は洋式軍備で固めた新政府側に対し幕府側は先ごめ銃の旧装備でry
って明言しとるし。
こうしてまた間違った知識が振りまかれる……
414 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/07(火) 20:48:27 ID:EPx3AY+A0
間違ってないだろ、ジャスポー銃なんて殆どもってねーよ。
415 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/08(水) 00:03:28 ID:wDG8kRnL0
実際は、幕府歩兵の鳥羽伏見の戦いに持ってきた新式銃だけで、相手の薩長軍を凌駕する質・量があるのだが。
416 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/08(水) 00:06:03 ID:wDG8kRnL0
というか、半藤は戦後の日本に幕末会津正義神話を広めた元凶のような人間だから、
奴の幕末史にまともな記述は殆ど見当たらない。
417 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/08(水) 11:31:45 ID:tlWAj5pv0
「(慶応三年10月)十七日、西郷、大久保、小松は
藩主出馬を要請するため揃って帰藩の途についた。
(略)
この重大時に、首脳部がそろって兇徒を留守にするのはかなりの決心を要したであろう。
その間に慶喜が巧みな政治工作をすれば、薩摩は完全に追い込まれたにちがいない。
しかし、慶喜の方には大久保に匹敵する人材がいなかった」
毛利敏彦『大久保利通』
永井尚志も新選組も見廻組も舐め切られてるよなー。
原市之進>>西郷大久保小松>>>>(越えられない壁)>>>>幕臣ぜんぶ
418 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/08(水) 11:34:05 ID:tlWAj5pv0
兇徒×
京都○
永井じゃ仕方ない。
原が生きていればどうなったかなぁ。
420 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/13(月) 18:12:35 ID:1cGj186m0
油小路事件とか見ると、大久保らの
「幕臣なんてハライチのぞけば無能な愚図ばっかww」
という観測が実に正しかったことが分かる
小説とかのフィクションでクールぶってる土方(笑)が真底バカに見える。
勝涙目w
慶喜が偽錦の御旗に怯まず決死の覚悟で戦えば充分勝機があったはず
戦にさえ勝てば旧幕府軍が官軍になれたのにさ
勝てば官軍、負ければ賊軍ってこと
御大将が大坂城からこっそり逃げ出した時点でこの戦はおしまい
このヘタレぶりは歴史上慶喜ぐらいじゃないか?
423 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/25(土) 19:25:17 ID:WQitj0rg0
>>422 錦の御旗は、お前の叫ぶような偽物ではない。
朝廷が官軍として認定した証明が錦の御旗なのだから、
小御所会議で薩長を官軍と認定した以上、あれは本物だ。
偽物呼ばわりしている人間は、中村彰彦にせよ、星亮一にせよ、早乙女貢にせよ、全て嘘吐きと社会では認定されている。
藤原正彦ですら「あれはきたない」とは言っても、偽物とは言わない。
京都に向けて進撃開始した時点で分かりそうなもんだけどな。
蛤御門の変が全く逆になったようなもんなんだし。
仕掛け人は西郷と大久保だったけど。
在京の薩長に引き替え、装備兵力といい進軍してくる幕府軍の戦力は圧倒的だからな。
西郷もむしろ敗戦したケースを重点的に考えていたみたいだし
426 :
暴れん坊将軍:2009/04/27(月) 11:28:04 ID:icBQ/q6l0
鳥羽伏見の敗戦を我が徳川宗家慶喜に擦り付け、忠臣を装うとは不屆き千万。
会津松平家共は、罪を恥じて潔く切腹せい!
成敗!
NHKは取材したのか?
【MLB】イチローのマリナーズが韓国最強打者、秋が率いるインディアンスを3タテ
1 :Ψ:2009/07/20(月) 06:10:11 ID:ShPczXN60
マリナーズ5-3インディアンス
勝:ケリー2勝1敗
負:ベタンコート1勝2敗1S
本:(マ)ブラニアン23(イ)フランシスコ7
イチローは4打数3安打2得点1四球1盗塁、通算打率.363(現時点でAL2位)
秋は4打数0安打1四球1三振、通算三振92(現時点でAL6位タイ)
http://live.baseball.yahoo.co.jp/mlb/game/table/?id=2009072001 ※3試合合計
イチロー:11打数5安打2打点2四球1盗塁0三振
秋:12打数1安打0打点1四球0盗塁6三振
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/20(月) 19:08:21 ID:PLBeY/neO
天皇制消滅w
430 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/18(火) 06:42:56 ID:LCz4buUpO
当時の火器で大阪城を落城させるのは全く不可能だし、また、西国との戦線が姫路-高松辺りで、、、
と言う以前に、外国が露骨に介入して来て
日本はメチャクチャになっただろうな。
やはり徳川慶喜こそ
【明治維新の最大の功労者】
全く不可能?
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/18(火) 21:34:37 ID:mZovk1Yh0
むしろ籠城戦じゃダメだよw
会津鶴ヶ城みたいに、四方八方から大砲で撃たれまくるだけ
天守閣や城の構造物なんて格好の標的だお(五稜郭に建造物がほとんど無いのが好例)
大坂城に籠もったら、案外あっさり落ちるよ
戦国時代の鉄の玉が飛んでくるなら落ちないかもしれないが、飛んでくる砲弾は炸裂弾(今でいう焼夷弾や瑠弾)だぜ
まあ大阪夏の陣はどうでしたよって話だよな
秀頼の篭る大阪城を潰したのはほかならぬ家康でねーのさ
434 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/19(水) 04:16:43 ID:9jCzZ9acO
まず鳥羽の戦では幕軍近代装備の3千がまだ大阪城から出城してなかった。仮に大阪付近に戦線が後退しても大阪湾の制海権は幕府側にあった。大阪での戦闘が続けば江戸の幕軍、東北諸藩の援軍が来るし、中立の尾張や和歌山に援軍を頼むと思う。
435 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/19(水) 04:22:47 ID:9jCzZ9acO
紀州の近代装備はかなり強力な援軍になるし地理的に大阪の援軍として極めて重要。、尾張は津や大垣と戦う位置であり、やはり紀州や尾張の動きが勝敗を決めるのかも知れない。
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/19(水) 04:42:32 ID:9jCzZ9acO
仮に和歌山、尾張が慶喜に応じたなら、関西は姫路−高松−大阪ー和歌山が幕府側の戦略拠点になる。いわゆる薩長土肥芸備軍との戦場になるのではないか。東海道もまず尾張が津を破れさえすれば関西−関東−東北のルートが確保出来る。加賀はやる気ないから北陸は平気。
437 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/19(水) 04:51:45 ID:9jCzZ9acO
そもそも幕軍の鳥羽街道の進軍が間抜けである。朝廷に訴えると言って【行軍】の陣形のままで、高台に砲台を構えかつコの字の陣形の薩長軍に【通してくれ】と頼んだ訳だから。。。幕軍は戦闘になるとは余り考えてなかったらしいからな。
仮に仮に仮に仮にって仮定に仮定を重ねてばっかだなおい
カリフラワー作戦
440 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/19(水) 20:09:42 ID:P7rujeq+0
尾張紀州とおっしゃいますが、尾張藩は薩長と一緒に王政復古クーデターに協力して、最初から明治政府に迎えられている藩だおw
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/19(水) 20:18:14 ID:P7rujeq+0
旧幕府軍は軍を出した時点で終わってるでしょ
そもそも「錦旗」出た途端に、徳川宗家を見捨てた尾張紀州両徳川。
仙台米沢など東北諸藩は、会津攻めが現実のものとなってから慌てて動き出し、
勢い余って奥羽越同盟を作っただけだから、自国領から遠く離れた京大阪の戦いなら日和見するでしょうw。
とても援軍になんか来ないって。越後長岡の河合が妙ちくりんな動きをするかもしれないが、
あの藩は石高が小さ過ぎて、近代装備はあっても兵力足らないから脅威にならない。
怖いのは榎本海軍ぐらいだが、陸から攻められれば軍艦は意味無いw。
442 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/22(土) 02:04:04 ID:R0B0LhGv0
>>440 朝廷と幕府が戦うことになれば朝廷につくべしというのが、尾張徳川家初代
義直以来相伝されていますからね。
443 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/22(土) 07:30:34 ID:CRcZ3v3B0
>>442 そうなんだよね。
幕府と朝廷が戦う事になったら朝廷に味方しろという家訓のある尾張藩。
徳川将軍家を一心に大切にし、徳川将軍家を見捨てるような会津藩主は会津藩主に非ずという家訓のある会津藩。
この時の尾張藩主徳川慶勝と会津藩主松平容保は、高洲四兄弟と呼ばれた「実の兄弟」だったという所に、
歴史の皮肉を感じざるを得ない。
そこへ行くと桑名の家訓はどうだったのかね。
一会桑政権と言うぐらいで会津桑名は単純に佐幕とも勤皇とも言いにくいすね
446 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/06(日) 12:51:38 ID:8BxAlTeH0
さらに吉宗が尾張を叩きまくったんで、幕末に尾張はさっさと朝廷側に付いただけでなく、
中山道諸藩を口説いて江戸までほとんど無血行軍させちまっただよ。
んでもって江戸城受け取りは尾張藩が代表して行ったと。
447 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/06(日) 17:41:43 ID:Pe9JDcVn0
>>445 勤王と佐幕は、基本的に矛盾していないよ。
国学的には、武士は藩主に忠勤し、藩主は将軍(幕府)に忠勤し、将軍(幕府)は天皇に忠勤するのが正道。
つまり、藩に尽くす事も幕府に尽くす事も、行き着く先は天皇の為になる事だと教えられている。
問題なのは、黒船が来たとき孝明天皇は攘夷を望み、天皇の支持に従って忠勤を励むと日本が滅びると知っている幕府が、天皇に従わなかった事だ。
もちろん幕府の開国派正しいのだが、尊皇思想を生みだした国学的には間違っており、ここから混乱が始まった。
結局、戊辰戦争で二派対立になった時、はじめて「明治政府支持=勤王」「徳川幕府支持(明治政府不支持含む)=佐幕」と区別されたんだ。
448 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/06(日) 18:33:17 ID:HXpHpLeeO
我は官軍我が敵は
天地いれざる朝敵ぞ
敵の大将たるものは
古今無双の英雄で
それにしたごう兵は〜♪
449 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/08(火) 18:52:55 ID:9CdSP6Yz0
>>448 これは西南戦争の時の歌。時代が違う。
>敵の大将たるものは
>古今無双の英雄で
西郷さんのこと。
450 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/11(水) 16:45:15 ID:h2wsqhhdO
鳥羽伏見で戦死
451 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/29(火) 21:26:11 ID:QqNncali0
452 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/04(月) 12:32:34 ID:hZ8P3GmD0
>>434-437 大体、禿同なんだけど、
尾張藩は、幕府に付かない可能性が、高い。
尾張藩は、1868年の1月25日まで佐幕派「ふいご党」と勤皇派「金鉄組」
に分かれて、藩内で抗争中です。
ですから、青松葉事件でケリがつく前に、幕府軍が尾張藩を攻撃したほうが
良いかと思います。
ただ、大阪城で慶喜が篭城して大阪での戦いが長引いた場合には、
一月二十五日に徳川慶勝が佐幕派弾圧を行えるか不明です。
もう少し日にち的に後にずれるかもしれません。」
ですから、大阪城に慶喜が篭城したほうが、幕府軍は尾張藩への対処にも
時間をかける事ができます。
453 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/06(水) 22:03:49 ID:apcm8R2V0
長州藩は時間をかければ、援軍が京に来るけど、
薩摩藩は、三千数百名の最初の援軍以降は、援軍は来ないと思ったほうがよい。
薩摩藩は、実質30万石しかなく、数千人の動員で目いっぱいな上に
薩摩国元には倒幕反対派が居る。
もともと保守的な土地柄で、門閥家老は武力倒幕に反対がおおい。
おまけに島津一門も倒幕には反対で、久光も倒幕反対派を弾圧はしていない。
実質、倒幕派と公議政体派の両天秤状態。
454 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/07(木) 00:46:56 ID:OPxeNPkw0
北越戦争では薩摩は援軍を送ってるけど?
455 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/07(木) 04:55:23 ID:nTGD7znV0
それは江戸も陥落した後の勝ち戦で勝てると思ったからだよ。
慶喜が大阪城に篭城した場合に薩摩藩が畿内に援軍送るかどうか、かなり不明。
幕府海軍も居るんだし。
また、王政復古のクーデターの直前に討幕藩の挙兵を察知し始めた佐幕藩は、
一部の幕閣と組んで、これに対抗するような、佐幕派クーデター計画を練っていた。
大垣藩藩士の井田五蔵が、討薩の戦略を藩主の戸田氏共と一部老中に進言した。
京の薩摩藩邸、長州藩邸、安芸藩邸、討幕派公家邸などを幕府陸軍と佐幕藩兵
が共に攻撃焼き討ちし、京を大混乱にしてしまう。
その隙に幕府陸軍の一部(伝習隊?)が御所内に侵入し明治天皇の身柄を確保、
慶喜と共に明治天皇を大阪城に連行し篭城し、山陰・九州の討幕藩を討伐しよ
うとする計画だった。
会津藩や桑名藩は、この計画に賛同したと言う。
同じ頃江戸では、紀州藩士の榊原秋之介と竹内孫助の2人が、紀州江戸藩邸に
親藩や徳川一門譜代の家臣団を集めて、大政奉還による朝廷からの上洛令には
従わずに、藩主や藩の重役は、国元や江戸に留まるべきと説き、さらに朝廷に
官位の返上を願い出るべきだと訴えた。
これには賛同者が相次ぎ、11月下旬までに94藩が官位返上を朝廷に願い出た。
このように幕府(江戸詰め)や佐幕派でに討幕派に対抗するような動きがあったが
慶喜は、この動きには同調しなかった。
>>453 少なくともその2〜3倍は動員できるのでは。
藩士数だけで48000余人だし。
457 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/07(木) 14:13:41 ID:fDulSkQI0
>>453 流石に薩摩は籾殻であらわしていたから、表高とおりではないが、幕末の薩摩は60万石はあるよ。
あくまで幕末で江戸時代初期はほんとに30万石ちょいしかなかったけどね。
そして戊辰では7000ちょっとの軍勢を動員しているのが分かっている。
総動員すれば、西南戦争くらいはいける。ただ遠くまで派遣するのは無理だ。
>>455 機内の雄藩は新政府についているから問題ないな。
江戸近辺の親藩譜代とか無意味。
458 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/08(金) 00:06:27 ID:sWYexAEs0
>>453 単に石高だけで見るからなんじゃない?
幕末の薩摩はサトウキビや生糸の貿易でぼろ儲けしていた事実を見逃してはいけない。
幕府と張れるほどに経済的に富強の大国だったよ、薩摩は。じゃなければ、あれほどの発言力はないだろ・
459 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/08(金) 03:58:25 ID:9eScHO8r0
だから薩摩藩の場合は、石高や商品作物や密貿易の上がりとか言う話だけではないんだよ。
門閥家老や島津一門という藩主流派が、そもそも討幕挙兵に賛同していない。
と言う事を言いたいんだけど?
薩摩藩の討幕反対派の旗頭で家老の関山糺なんかは、
「何で長州藩への義理立てだけでそんな危ない橋渡らなければいけないんだ?」
って大久保らに言ってるぐらい。
家老の小松帯力は、大久保や西郷の動きに従い大政奉還に賛同するように
徳川慶喜と会見しているけど、他の家老は、この様な動きをしていない。
在京している薩摩藩門閥家老が小松帯力位しか居なかったという事情もある。
長州藩と同じく薩摩藩全体が討幕挙兵に賛同していると思ったら大間違い。
薩摩藩の武力討幕派は、せいぜい半分ぐらい。
島津久光や藩主忠義は、鳥羽伏見の戦いまでは、公議政体派と武力討幕派に両てんびん賭けている状態。
>機内の雄藩は新政府についているから問題ないな。
畿内の雄藩で誰よ?居ないんだよ、そんな藩はw
畿内で10万石以上の藩で勤王派に鞍替えしたのは、彦根藩くらい。
しかも、藩主が井伊直弼の息子で、水戸藩出身の慶喜が将軍に任官したから
嫌気が差して、畿内第一の佐幕派から勤王派に転向しただけで
南紀派の将軍だった家茂が生存時は、佐幕派で長州征伐に参加している。
大政奉還の頃から、勤王派に接近し始めた彦根藩は、これにより、近場で
かつて同じ佐幕派だった大垣藩と対立し始める。鳥羽伏見の戦いの時は、
彦根藩は大津口で大垣藩兵の備えとして新政府側で動員されている。
460 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/08(金) 04:20:21 ID:9eScHO8r0
畿内で10万石以上の藩で勤王派に鞍替えしたのは、彦根藩くらい。×
畿内で10万石以上の藩で、鳥羽伏見の戦い以前に勤王派に鞍替えしたのは、彦根藩くらい。○
薩長芸以外に鳥羽伏見の戦いの前に新政府側となっていた畿内とその周辺の藩は、
近江彦根藩・近江西大路藩・近江水口藩・近江膳所藩・大和高取藩・河内狭山藩
丹波綾部藩・丹波柏原藩・丹波園部藩・和泉吉見藩・摂津三田藩・丹後田辺藩
の以上12藩です。
山陰地方の鳥取藩も鳥羽伏見の戦いの前に討幕派に事実上鞍替えしています。
461 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/08(金) 05:13:06 ID:9eScHO8r0
和泉吉見藩は、明治時代に設置された藩でした。
幕末には存在しませんでした、間違いです。
薩長芸以外に鳥羽伏見の戦いの前に新政府側となっていた畿内とその周辺の藩は、
近江彦根藩・近江西大路藩・近江水口藩・近江膳所藩・大和高取藩・河内狭山藩
丹波綾部藩・丹波柏原藩・丹波園部藩・摂津三田藩・丹後田辺藩の以上11藩です。
462 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/08(金) 21:13:45 ID:SJ1POurq0
>>459 津藩と彦根藩で70万石はあるぞ、
淀藩が10万石、
ついでに郡山藩も新政府にさっさと恭順している。ここが15万石。
つか郡山藩は鳥羽伏見の前から新政府側だったはずだが?
明確に附いたのは鳥羽伏見のあとではあるが、
ちなみに機内で10万越える藩は、紀州、津、彦根、桑名、郡山、淀だけだぞ。
あと姫路もか。
紀州は日和見で軍を送らず、津と彦根と淀は裏切って、郡山もほぼ直後に下っている。
さらに越前と尾張が朝廷に恭順しているから、大阪城は孤立に近い状態。
463 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/08(金) 23:34:23 ID:hKJZ0rI20
>津藩と彦根藩で70万石はあるぞ、
50万石くらい。
>つか郡山藩は鳥羽伏見の前から新政府側だったはずだが?
知りませんでした。
しかし、新政府サイドもだいぶ畿内では、多数派工作していたみたいですね。
王政復古のクーデター以降に討幕派の公家と藩士が多数派工作したんでしょうが、
意外と早くに討幕派が浸透している感があります。
>ちなみに機内で10万越える藩は、紀州、津、彦根、桑名、郡山、淀だけだぞ。あと姫路もか。
鳥羽伏見の戦いに負けて、慶喜が大阪城に篭城した場合には、津、淀、彦根、郡山の四藩は、
たしかに新政府サイドでしょう。
しかし紀州藩は、新政府側につきますかね?大阪城で幕府軍が頑張っている
最中には紀州藩は、裏切るのは難しいと思いますよ。
もともと紀州藩には佐幕派が多く、慶喜が大阪城から逃げ出さなかったら
新政府にそう簡単に帰順しないと思います。
官軍が大阪城をナカナカ落せないなら尚更でしょうね。
薩長5000人+津藩3000人+淀藩1500人で役1万人ですが、
津藩と淀藩の兵力は、負傷者も多く使い物にならないでしょう。
薩長5000人だけでそう簡単に大阪城が陥落するでしょうか?
幕府軍8000人と会津藩3000名、桑名藩1500名が篭城しています。
12000〜13000名の軍勢が大阪城に篭城している事になります。
大阪城には、鳥羽伏見に出陣しなかった後方予備軍の奥詰銃隊と撤兵隊
3000名が慶喜保護と大阪城防衛の為に無傷で残っています。
おまけに大阪湾には、幕府艦隊がいます。
それに中国地方は、姫路藩、明石藩、備中松山藩、出雲松江藩、丹後宮津藩、等が
佐幕派として期待できます。赤穂藩も史実では1月12日に新政府側に付きますが
大阪城で幕府軍が抵抗を続けている場合は、中立かもしれません。
姫路藩、明石藩、備中松山藩、出雲松江藩、丹後宮津藩には西から長州藩と
安芸藩の部隊が西上して来るでしょう。特に狙われるのは、出雲松江藩で、
長芸同盟では、説得して従わなければ出雲、備前、備中には出兵と記され
ています。鳥取藩もこの同盟に加わっており、これを迎え撃つために姫路藩、
明石藩、備中松山藩、出雲松江藩、丹後宮津藩は、大阪城に援軍は出せない
でしょう。
そうなると幕府軍が東海道を下り名古屋城を攻め落として京を目指すしかない様です。
464 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/09(土) 05:09:01 ID:rsShx1iT0
ちょっと話が変わるが・・・・・
石高とはそもそも土地の収益高のことであり、もちろん、石高において米の
生産量はたいへん重要な地位を占めてはいるが、米の生産量を意味するもの
ではない、らしい。
また、太閤検地以降の公的な石高は生産高と認識されていた時期もあったが、
現在では、年貢や諸役の負担量を前提とした基準高という理解になっている。
安易なたとえかもしれないが、石高とは課税対象収入と理解すべきではなかろうか。
そうすると、公的な石高はじっさいの経済規模と一致しなくなるのであり、
石高と人口が一致するという場合の石高とは、公的な石高なのか、それとも
公儀への届出とは異なる内高(じっさいに各大名が把握している石高)なのか、
あるいは、じっさいの経済規模を示すGDPに近い性質としての石高を推測
して用いるのか、といった問題が生じる。
王政復古の小御所会議の時に慶喜が、
「天領400万石だけど実石200万石だからの納地辞官の納地は、200万石にまけて」
って話しがあるけど、天領400万石の生産高は実はもっと多かった可能性はあるの?
465 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/09(土) 13:32:40 ID:rsShx1iT0
私なりの結論は、慶喜の言う「実石200万石」は、年間の実際の課税収入額を表している事になる。
天領つまり公議御料は、税金が安く四公六民で課税対象額の4割しか課税徴収しないから、
もし、「実石200万石」が、年間の実際の課税収入額だとすると徳川宗家の天領つまり
公議御料は、実際には500万石という事になる。
天領400万石は、表向きの数字で、実際にはもっと石高が多かった可能性がある。
そうなると案外幕府の財政(課税)余力には余裕がある感じもする。
ただ、もう幕末には、金山収入は無くて、貨幣改鋳益金と関税収入の方が
税収としてはだ大きいのだろうけど。
466 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/09(土) 17:02:16 ID:jWmQthGy0
旗本知行領300万石についても幕府の財源であるが、これも実石ならば120万石程度なのだろう、
その半分を幕府は、軍役金として徴収する体制を慶応の軍制改革で整えた。およそ年間60万石になる。
既に財政的に窮乏し西洋軍制に馴染まない旗本には軍役を負担する能力も財政力も
失われていた。そこで遂に慶応の軍制改革で1867年9月、旗本に対する軍役が事実上廃止され、
知行所からの収益金の半分を軍役金に徴収(年4回の分納)する事になった。
この制度は1回目の納付の途中で大政奉還を迎えてしまい、十分に機能する
前に幕府が崩壊することになるが、もしこの制度が機能していれば、軍役
を失った旗本の存在は幕府の「士官候補生」・「官僚予備軍」にしか過ぎ
なくなり、仮に徳川宗家の政治的主導権が存続していたとしても旗本の意味
は大きく縮小していただろう。
467 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/09(土) 22:39:28 ID:jWmQthGy0
1月6日の夕方までには、鳥羽伏見の戦いは、幕府側の敗北が決定視され
その夜に慶喜は大阪城を脱出する。
しかし、もしこの時に慶喜が脱出せずに、大阪城に留まり戦争を続けたのなら
どうなっていたであろうか?
史実では1月11日には、官軍が大阪城に到着する。
そうなれば、1月11日から幕軍と官軍による大阪城の戦いが始まる、と予想される。
大阪城に篭城する兵、幕府軍8000と桑名藩兵約1000、会津藩兵約3000、
合計12000程度だろう。負傷者は一部の幕府艦隊が収容し江戸や国元に回送する。
江戸でも幕府艦隊に歩兵隊を乗せて援軍を送るだろうが、すぐには無理で、当面は
この12000名で篭城する。
大阪城の戦いが始まったら、当然、薩長軍が主力であり、淀藩と津藩は後方支援だろう、
土佐藩、越前藩、尾張藩などの公議政体派は、戦闘に加わるか不明。
7日の朝の大阪城の評定にて慶喜は、篭城を決定し、幕兵と佐幕藩兵に禁足令を出し
城門をすべて閉じて、官軍を迎え撃つ準備をする。榎本武揚は、艦隊を率いて大阪湾
での薩長両藩の船舶の臨検や拿捕え、攻撃を開始する。
その一方で慶喜は、土佐藩、越前藩、尾張藩などには、和平斡旋の依頼もする。
10日には、薩長が橋本を出発し11日には大阪城を包囲する、しかし
かつて佐幕派であった淀藩や津藩も含んだ部隊1万人しかおらず、大阪城を
完全に包囲する事はできなかったが、砲兵隊は大阪城に攻撃準備射撃を開始した。
紀州藩は新政府に合流する気配を見せないまま、官軍は、大阪城攻撃を開始し
大阪城北東部の青?門や北西部の京橋門、南の玉造門また北外堀や東外堀に
薩長や淀、津などの藩兵が、突入を開始した。しかし、官軍の砲兵が大阪城を
攻撃するには数が少なく、官軍の攻撃準備射撃にも幕府方の被害は少なかった
ために幕府陸軍が石垣や櫓、門からの攻めて来る官軍に一斉射撃に行い、
官軍は大損害を出した。特に元込式シャスポー銃を標準装備する伝習隊の一斉
射撃で今の大阪城ホールや太陽広間、記念樹の森辺りには官軍の兵の死体が
多数散らばっていた。そして既に被害の多く戦意の低い淀藩、津藩からは脱走
兵が続出し、官軍の大阪城第一回総攻撃は失敗に終わった。
468 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/10(日) 04:28:08 ID:PsiXyK8U0
この時期の官軍砲兵隊は、アームストロング砲はそれほど保有していない。
だから、大阪城への攻撃準備射撃もそれほど効果があるわけでもない。
また、幕府軍も大阪城に砲台を築いているので、官軍からの砲撃に対抗して
大阪城から官軍砲兵陣地に砲撃を加える可能性が大きい。
第一次大阪城の戦いが、もし官軍不利に終わると、政治的にも慶喜の立場は
変って来る。新政府三職会議の公議政体派の土佐・越前・尾張の各藩が、再度
徳川との和平仲介の動きに出てくるだろうし、そうしたら慶喜も議定か副総
裁就任を条件に講和交渉を新政府としても良い。
畿内で鳥羽伏見の戦い以前に新政府側に立っていた藩は、大阪城攻めには
参加するだろうが、大して役には立ちそうもない。せいぜい後方支援か
陣地の設営ぐらいだろう。大和郡山藩はともかく、それ以外の藩は1万石
前後の石高の藩もあり、人数がそろわない。
それと、長州藩と安芸藩はともかく、薩摩藩は、大阪城の戦いが膠着状態に
なったら援軍は畿内に送らないだろう。幕府海軍の大阪湾での存在を理由に
援軍拒否するかもしれない。
西園寺公望の山陽鎮撫隊の一部が、神戸港を占拠するかもしれないが、
その対応策として幕府海軍が艦砲射撃で神戸港の港湾施設を破壊し、
神戸港から薩摩藩や長州藩が後続の兵や物資を畿内に運び込まない様に
するだろう。
そうなると新政府は、対応策として長州藩と安芸藩を山陰地方の西から
進撃させて来る方が、可能性としては大きい。西園寺の山陽鎮撫隊が山陰
地方の東から長州藩と安芸藩が山陰地方の西から攻撃するだろうが、
山陽鎮撫隊は数としては少なく、山陰の佐幕藩は抵抗するのは可能だろう。
問題は、長州藩と安芸藩進撃に山陰の佐幕藩である姫路藩、明石藩、
備中松山藩、出雲松江藩、丹後宮津藩などが、どう対抗するかだ。
備前も鳥羽伏見の時点で既に新政府についてないか?
神戸事件起こすことになった兵は播磨の牽制で鳥羽伏見より前から
薩長側に協力することになってたはず
470 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/10(日) 13:23:34 ID:pPKpcGz/0
大阪城に籠城したら薩摩藩が援軍を送らなかったろうという希望的観測は、都合良すぎないか?
開戦した時点で、薩摩藩内の穏当派や反戦派は一掃されている。
長州征討を拒否するのとはわけが違い、戊辰戦争は薩摩藩にとっても命運を賭けた革命戦争なのだから、当然援軍を出すだろう。
471 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/10(日) 17:48:48 ID:YGzjhEzh0
>>469 1868年3月15日、岡山藩の藩主の池田茂政の隠居により、池田章政は岡山藩の
第10代藩主に就任した。先代藩主の茂政が新政府からの実兄徳川慶喜の追討
の命令を受けた事により隠居した為で、3月15日以前は、岡山藩は討幕派
だととしても、なかなか実際には対幕府戦争を実行出来ていない。
慶喜が1月7日に逃げ出しても、3月15日まで藩主を務めていたのだから
慶喜が大阪城に篭城した場合には、茂政の隠居の時期は更に遅くなる。
>>470 >開戦した時点で、薩摩藩内の穏当派や反戦派は一掃されている。
初耳ですな、公議政体派の薩摩藩家老や島津一門は解任されてるのですか?ソースは?
それに薩摩藩が援軍を送らないのは、単に慶喜が大阪城に篭城しているから
だけではありません。幕府艦隊の存在もあります。榎本艦隊が、神戸港を攻
撃したり制圧していたら、薩摩藩は、畿内にどうやって物資や人員を輸送す
るのでしょうか?
もしかしたら榎本艦隊が、鹿児島湾に突入し薩英戦争みたいな事になるかも知れません。
それと長州藩と安芸藩なら山陰地方を西から制圧して行けば良いかもしれませんが。
472 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/10(日) 17:55:49 ID:YGzjhEzh0
一番良いのは、慶喜が68年一月に開戦するのではなく、5月まで開戦時期を
延ばす事です。そうなれば、幕府海軍にはストーン・ウォール号が入手しま
すし、幕府陸軍の元込式銃の配備がより進んでいるでしょう。
シャスポー銃だけではなく、先込式ミニエー銃を元込式ミニエー銃に改造し
て、幕府陸軍に配備すれば、より早く可能になります。
いきり立つ幕府強硬派をなだめすかし、尚且つ新政府三職会議の公議政体派
の土佐・越前・尾張などの藩と慶喜が連係して、納地辞官をズルズル先延ばし
にして4ヶ月は時間を稼ぐべきです。
473 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/10(日) 18:06:27 ID:pPKpcGz/0
>初耳ですな、公議政体派の薩摩藩家老や島津一門は解任されてるのですか?ソースは?
一掃というのが解任と受け取られたのか。そういう意味では反戦論が一掃されたというべきだったね。
島津久光と藩主より開戦を下知され、家臣は従うほかないと受け取ってもらえば良いかな。
いったん始めた戦争を勝敗が付いていないのに援軍を送らないことなどないでしょう?
官軍の主力部隊が薩摩勢であることを考えても明白。
>榎本艦隊が、神戸港を攻撃したり制圧していたら、薩摩藩は、畿内にどうやって物資や人員を輸送するのでしょうか?
神戸が仮に幕府勢に制圧されていても、下関まで藩兵を輸送して長州軍と合流させ、陸路を行けば済む話では?
474 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/10(日) 22:29:53 ID:wo6gwN/p0
>島津久光と藩主より開戦を下知され、
どちらかと言うと開戦を決めたのは、薩摩藩主と言うよりも鳥羽伏見の官軍指揮官の西郷かなと。
大久保、西郷は、この時点では、藩主と藩士の関係よりも新政府の構成員の1人という立場で幕府と戦争している。
>下関まで藩兵を輸送して長州軍と合流させ、陸路を行けば済む話では?
やけに時間がかかるし、遠周りですね。
それに長州藩が自領内に薩摩藩兵の通過や駐屯を認めるでしょうか?
長州藩と薩摩藩は、便宜的に反徳川で一緒の立場ですが、そんなに仲良くないんですよ。
>>473 大坂城攻防戦で、ふと思ったのだが、補給はどうすんだ。
1万人の兵士は、1日に60石の米+αの副食(おかず)が必要だ。更に、清潔な水が40トン、1日に必要になる。
60石の米は、150俵でそれを運ぶのに、馬が50頭必要で、更にその馬のために飼料が別途、必要になる。
人足で代用すれば、その人足のために食いぶちが別途、必要になる。
大阪湾を幕府海軍が抑えている以上、官軍の補給港は、どこに置かれるかというと、若狭湾か山陰海岸しかない。
瀬戸内海から陸路を運ぶというのは、幕府海軍を利用した海上からの襲撃に補給線をさらすことになり、危険極まりない。
そして、若狭湾乃至山陰海岸から、陸路はるばる補給線を組むことになる。
それよりも、頭が痛くなってくるのが、弾薬の補給。当時の銃は、兵士1人を死傷させるのに、100発以上は射撃している。
それから考えると、100万発の銃弾を準備しないと、大坂城攻撃は行えない。しかも、恒常的にそれを補給できる体制が必要。
弾切れを心配しながら、大坂城攻撃なんてしたくないな。それとも、銃弾がなくても、大坂城は落ちるものだろうか。
476 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/10(日) 23:59:16 ID:pPKpcGz/0
>>474 >それに長州藩が自領内に薩摩藩兵の通過や駐屯を認めるでしょうか?
そりゃ認めるでしょ。
むしろ認めない理由がよくわかりません。
477 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/11(月) 03:28:24 ID:XrJQCcRN0
>>476 そんなに簡単にいかないですよ。
薩摩藩だって国元の反対論を押し切って追加派兵を認めるか判らないですよ。
特に大阪城の戦いが膠着化し、紀州藩が佐幕派を続けた場合は、かなり長期間
幕府軍は、大阪城で抵抗出来ますからね。
大阪湾には幕府艦隊がいます。4月になればストーン・ウォール号も幕府に
入荷します。戦力は時間を稼げば、幕府に有利なんですよ。
幕府陸軍も東海道から主力2万が下ってくるでしょう。関東や東北の佐幕藩も
出兵して来るかも知れません。仙台藩なら一万人ぐらいの軍勢を動員できます。
そうなると尾張藩の去就がヤバイと思います。
何時まで尾張藩が勤王派でいられるかで新政府の命運が決まるでしょう。
長州藩の自領内の薩摩藩兵通過駐屯もすんなり認めるでしょうか?
数が少なければ、認めるかもしれませんが、基本的に長州藩は嫌がると思いますよ。
通過させるぐらい中立でも友好的ならやれちゃうことなのに
同盟結んでる相手が本気で拒むと思ってんのか?
都合が良すぎる想定だ
つか、幕府軍は第二次長州征伐でも薩摩担当の萩口以外は完璧な陣容でかつ正面からやり合ったのに結局は、
芸州口で一進一退、小倉口では押されに押されて結局自壊、石州口と大島口では完敗した訳で。
援軍が上ってくるか、明治帝擁して籠られた場合、何とかできるのか?
明治帝擁して下られる前に京を押さえれば……とか言ったら、そもそも出兵しなければという話になるか。
>>477 木戸が長州の実権握ってる間にそれはないわ。藩内抑え切れないなら、そもそも大村軍制改革も薩長同盟も出来てない。
480 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/11(月) 06:59:16 ID:XrJQCcRN0
薩摩藩兵が長州藩内で何するか判りません。
略奪・強姦も考えないと、意外と薩摩と長州って仲悪いんですよ。
禁門の変の時は、敵同士ですし。
幕末には、徳川宗家が居たので、薩摩藩と長州藩の対立が見えないだけで。
>>401 あと、この書き込みもウソですね。
幕府は金を払うといったのに、グラバー商会が、薩長に肩入れしたために
幕府は、アームストロング砲35門を入手できなかったんです。
幕府もプロイセン人のスネル兄弟からなら入手出来たかも知れないですね。
この商会は佐幕派よりですし、長岡藩はガトリング砲を入手しています。
しかし、このスネル兄弟って謎だらけですねw
プロイセンの諜報部員でしょうね、おそらく。
こういうお前みたいな考えだから、目まぐるしい状況の変化に佐幕側は対応できないんだよ。
お互いの利の為にくっついた薩摩と長州がずっとそんな険悪だったとマジで思ってんの?
140年も恨み節続けるようなとこはそんな割り切った考えが理解できないらしいけどね
>>479 あの後、幕府軍は軍制改革を断行しており、それが戊辰戦争で、五稜郭まで戦い抜けた一因なのだが。
シャスポー銃を既に鳥羽・伏見では一部の部隊は装備していた、という資料もあるくらいで、武装の面では薩長とそう引けは取らない。
戊辰戦争で勇名を馳せた伝習隊・衝鋒隊は、鳥羽・伏見で初陣を飾っている。
薩摩と長州は、仲良しというのは、どうにも疑問がある。木戸は、実際にはかなり薩摩嫌い。
薩長同盟の際にも、本来から行けば、長州の方が困っているので、長州から頭を下げるべきだと思うが、木戸が自分のメンツから下げないと言い張った。
それで、坂本が取りなして、薩摩から頭を下げることで、薩長同盟ができている。
さすがに、鳥羽・伏見の戦いの前後に、長州領内の薩摩藩兵通過の拒否はしないとは思うが。
鳥羽・伏見の戦いから大阪城攻防戦へと戦争が長期戦となった場合、薩摩、長州どちらが、大阪城攻防戦で総司令官になるか、で揉めるのでは。
有栖川宮を総司令官にすれば、といわれるかもしれないが、大阪城に幕府軍が頑張っている状態で、朝廷が火中の栗を拾うかな。
大村益次郎も、薩摩嫌いだったしな。
上野戦争の計画の際に、西郷の目の前で、彰義隊討伐のために、長州藩兵の楯として、薩摩藩兵は全滅してもらいます、と公言し、
西郷が、余りの言葉に、絶句して、何も言えなかったらしい。
>>480,482
うん、幕府歩兵隊が新生なったのはいいんだが、東北諸藩他は相変わらずだよねこの時点だと。
新政府軍からして、近代戦術知らない奴は来なくていいよ令出してる訳で。
つか、最悪でも前線は鳥羽伏見前から討幕派に付いてた鳥取・芸州になるから、気にしなくていいよ、それ。
前線が先にあるのに、嫌いとはいえ味方の通行さえ不許可とかどこのバカだよ。
それに個人的な好悪を抑えて的確な判断できるのが政治家だろうに。
実際の戊辰戦争でも、その連中が共同作戦行ってるんだから。それに、鳥羽伏見の時に指揮で揉めてたか?
>>482 ふと思ったが、戦線が大阪なら最悪でも広島に上陸できるやん。
486 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/11(月) 14:01:33 ID:wfljYTjj0
>>480 >薩摩藩兵が長州藩内で何するか判りません。
>略奪・強姦も考えないと、意外と薩摩と長州って仲悪いんですよ。
>禁門の変の時は、敵同士ですし。
禁門の変では敵同士でも、薩長同盟が後にありますね。
同盟国で略奪・強姦をするアホがいますか? 間違いなく死刑ですね。
討幕の密勅が薩長藩主に下りたのち、薩摩藩主、長州藩主間レベルで協力して幕府に対抗していく事を確約しています。
いわば首脳レベルで戦時協力体制が締結されているのに、薩摩からの援軍を長州藩内で受け入れない事がありますか?
現に王政復古で御所を固め、鳥羽伏見で戦った薩摩藩兵については、汽船での上京途中に下関で上陸し、毛利候による閲兵を受けた後、神戸まで輸送されている。
薩摩の援軍は、長州にとっても官軍全体にとっても援軍になるのに、認めないわけがないでしょ?
>>486 戊辰戦争のときに、薩長側に味方した秋田藩内等で、薩長軍は略奪をほしいままにしたが、何の処罰もなかったと聞くが。
>>487 それは秋田を舐めてたから
トラとライオンの同盟にウサギが味方に加わるような物だから
489 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/11(月) 20:55:08 ID:2QzXDbc9O
同盟国での残虐行為は死罪もの(ただし秋田は除く)
薩長の県民性なんてこんなもんかも
490 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/11(月) 23:11:31 ID:9inGgo0W0
>>487 初耳だな。ほんとに薩長か?
庄内藩が火の海にしたというのは聞くが。
そして会津が同盟国の長岡で略奪暴行していたというのもきくんだが?
491 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/12(火) 04:42:16 ID:HM/xSYYx0
>>482 >大阪城に幕府軍が頑張っている状態で、朝廷が火中の栗を拾うかな。
確かにそうですね、特に皇族議定が動揺するでしょうし、公卿議定も如何動くか判りません。
新政府内の公議政体派(土佐・越前・尾張)は、彼らを取り込んで徳川との和平仲介を始めるかもしれません。
>>484 >それに個人的な好悪を抑えて的確な判断できるのが政治家だろうに。
それにしては彰義隊を叩く上野戦争の前に揉めすぎですね、薩摩と長州は、
大阪城の戦いが膠着状態になったら、薩長は内輪もめ始める可能性あります。
それだけではなく、新政府内の公議政体派(土佐・越前・尾張)も徳川との和平チャンネルを維持するでしょう。
>>485 >戦線が大阪なら最悪でも広島に上陸できるやん。
その広島湾に幕府海軍が急に出現し、艦砲射撃を開始、薩摩藩兵海辺で討ち死に、の可能性もあるんですよ。
それと広島と大阪の間にいくつの佐幕藩が居るんですかね?
彼らの抵抗を排除するだけでも1〜2ヶ月かかりますよ。
その間に幕府陸軍主力2万と仙台藩1万、水戸藩3千、他関東佐幕派諸藩数千、
合計約3万5千人の軍勢が江戸から東海道を下ってきますよ。
北陸道には、米沢藩・長岡藩・庄内藩の合計1万の軍勢も南下し始めます。
北陸の佐幕派部隊も西洋化された部隊です。
いざ自分とこに間近に東征軍が迫って右往左往する
日和見の関東や東北が大阪まで遠征軍送るとか都合よすぎ
西日本の佐幕諸藩が抵抗活発にするとか。ifにifを重ねすぎ
短刀一本あれば逆転可能。岩倉暗殺しろよw
>>491 具体的に豊後水道〜広島にかけて、新政府海軍を阻止できそうな海軍力を持った、
佐幕派の雄藩はどこですか?
よほどの戦力と幕府側につく意思がなければ阻止できないと思うんだけど。
また、広島襲撃については可能性は無くも無いけど、大艦隊が大坂を離れるのは
丸わかりなので、急襲できる可能性は低そうだけど。
495 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/12(火) 17:02:59 ID:YXpBZxnZ0
>いざ自分とこに間近に東征軍が迫って右往左往する
>日和見の関東や東北が大阪まで遠征軍送るとか都合よすぎ
慶喜が抵抗の意志を見せず、江戸城が陥落した段階と、まだ大阪城に篭城している
段階を一緒にしても意味無し、このスレは慶喜がチキンでなく、大阪城で新政府
軍に抵抗した場合をシュミレーションするスレ。
>ifにifを重ねすぎ
そもそもこのスレ自体がイフなんだが、慶喜の大阪城篭城だってイフだろう。
>具体的に豊後水道〜広島にかけて、新政府海軍を阻止できそうな海軍力を持った、
>佐幕派の雄藩はどこですか?
別に海軍の必要はありません。
佐幕藩は、城に篭城すればそれで長州藩と安芸藩の部隊の進撃を阻止する
機能を発します。
山陰地方で、姫路藩、明石藩、備中松山藩、出雲松江藩、丹後宮津藩などの
佐幕派5藩が、篭城を開始したら長州藩と安芸藩の進撃は鈍ります。
長州藩と安芸藩は、大阪や京へ行くよりも、これら山陰の佐幕派諸藩の城を
落す事を求められます。
496 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/12(火) 17:13:48 ID:YXpBZxnZ0
>また、広島襲撃については可能性は無くも無いけど、大艦隊が大坂を離れるのは
>丸わかりなので、急襲できる可能性は低そうだけど。
たしかにそれはありますね。
ただし幕府に甲鉄艦ストーン・ウォール号に入荷したら、幕府海軍の戦力は
より強化されます。そうなれば幕府海軍は、広島湾どころか関門海峡や鹿
児島湾にも突入を繰り返すでしょう。
>北陸道には、米沢藩・長岡藩・庄内藩の合計1万の軍勢も南下し始めます。
米沢藩・長岡藩・庄内藩の三藩だけならば戦力は5千名くらいですね。
仙台藩の別働隊を入れれば一万人は行くかもしません。
仙台藩は、東北での戦争で一万八千名も動員しています。
>>495 姫路藩、備中松山藩は藩主が大坂にいるので、地元との連絡が困難となるのでは?
明石は大きくないし、あと2藩は地理的に無視しても問題にはならないでしょう。
もっとも篭城したとしてもその準備をしていたかが謎なので、時間稼ぎ出来たかどうかは
定かではないと思うけど。
東艦については幕軍優性とならなければ、史実と同様にアメリカは中立をとって引き渡
されない公算が高いのでは。
>>495 鳥羽伏見で負けて既に新政府軍は官軍になってるって想定だろ
いくら慶喜がやる気でも朝敵になってまで本気で抵抗すると
西日本の佐幕藩に期待するのは難しい
それは鳥羽伏見で薩長が負けて官軍になってない場合の想定だわ
>>496 海軍では東艦を待つまでも無く幕府が有利だが、問題点として、
1.薩摩が土佐周りで来る可能性への対処。
2.陸兵の輸送中を邀撃しないと意味が無い。
3.石炭の補給という制限がある以上、鹿児島や下関砲撃しても嫌がらせ程度。2.を防げるなら意味がある。
というのがある。
特に1と2を両立させるには、大阪と玄界灘に海軍を分散する必要がある。
つか、その東艦、例のアームストロング砲のせいで、砲戦能力はそれほどでもなかったという話があるが。
ちなみに、当時の海軍にレーダーなんかないので、敵を発見して襲撃するのでさえ難事。
ナポレオン戦争の時のイギリス海軍なんかは、フランス他の主要港ごとに艦隊を貼り付けることまでしてる。
海峡とかだとまだやり易いけどね。
あと、山陽道では最大の岡山藩がバリバリの勤王派な件。
幕府海軍が大阪湾の制海権を確保している状態で、薩長軍は補給をどうするのだろう。
今みたいに無線がない以上、補給港の変更は、早船、飛脚や早馬で連絡するしかない。
京都市民の米は、大阪から水路で主に運ばれていた。
幕府海軍が大阪湾で遊弋していれば、薩長軍は山陰路しか、安定した補給線として確保できない。
敦賀に米や弾薬を揚陸させ、峠越えと琵琶湖水運をつかうというのは遠すぎるし。
それにそのような事態になったら、米等の物資の値段は京都市中で暴騰するだろう。
大阪冬の陣の際に、徳川軍は米のとぎ汁で飢えをしのいだというが、薩長軍が同じ目にあわずに済むだろうか。
そうなった場合、薩長軍の将兵がどこまで積極的に戦うか、私としては疑問を覚える。
幕府軍も補給が大変だ、という反論があるが、江戸から大阪への海運路は幕府海軍が制海権を確保しており、幕府軍のほうが、補給ははるかに楽。
そして、鳥羽・伏見の戦いの勝利により、大阪商人の大規模な軍資金の提供が得られ、薩長軍の財政基盤が整うのだから、
大坂城に幕府軍が籠城していては、そのような軍資金の提供もなく、下手をすると、兵士への給料の支払いに薩長軍は苦しみだす。
それに、そんな状況下で、外国の商人が現金支払もなしに武器弾薬を薩長に売るだろうか。
お金と補給の両面から、長期戦は、薩長側が圧倒的に不利だと思うのだが、どうだろう。
慶喜が徹底抗戦してたら
慶喜が抗戦しなかったらフランス領日本はどうなった?って
フランス語でフォーラムに書き込んでる
余裕があればいい方
なんでイギリスが支持した薩長が勝ってもイギリス領になってないのに
フランスが支持した幕府が勝ったらフランス領になると思うんだね?
503 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/13(水) 00:10:34 ID:szNg+tz80
>>502 当時、イギリスは中立を守っている。
フランスが一方的に徳川家に荷担している。
504 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/13(水) 00:15:47 ID:K6YDGYTb0
仮に幕府が勝った場合、どういう国になっていただろう?という想像の方がおもしろいね。
幕府に明治維新と同等の改革などできるわけがないので、少なくとも不平等条約の撤廃はずっと先だと思うな。
なぜ幕府だとできないかって?自己の過ちを徹底的に否定して改革していくことなど、どだい無理だからさ。
個人ならまだしも、老朽化した大組織ではなおさら厳しいだろう。
>>502 慶喜が徹底抗戦して幕府の財政をフランス製の武器で溶かして、
その上で薩長が勝利したら今頃イギリス領ジャパンだべ
>>500 江戸時代には北前船や内陸水運というものがあってだな。
まぁ京都市中の経済は苦しくなるだろうが。
あとぶっちゃけ財政的には、御用金令濫発したりフランスに借款要請してた幕府より、戊辰戦争後にも70万両以上を余してた長州のが
まだしも余裕がある様に思えるのだが。
慶喜が主戦派を連れて江戸に逃げるまでは良かった
そこで船から突き落とさなかったのが一番のミス
508 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/13(水) 05:01:41 ID:KUAZ6xO50
>>497 >姫路藩、備中松山藩は藩主が大坂にいるので、地元との連絡が困難となるのでは?
鳥羽伏見の戦いが負けと決定した7日の時点で、慶喜が、姫路藩主、備中松山藩主
丹後宮津藩主、大垣藩主、桑名藩主などは国元に帰して自国での防衛篭城の準備
をさせるのも一案かもしれません。
山陰も重要ですが、大垣藩、桑名藩が中京地域や近江の彦根藩等の勤王諸藩を
押える計画も必要です。
>東艦については幕軍優性とならなければ、史実と同様にアメリカは中立をとって引き渡
>されない公算が高いのでは。
江戸まで官軍が侵攻しているならともかく、大阪城も落せないのなら
アメリカは東艦を幕府に引き渡すでしょう。史実でも4月には横浜まで曳航されています。
>>499 >山陽道では最大の岡山藩がバリバリの勤王派な件。
それがそう単純ではない、藩主は勤王派だが慶喜の実弟であるため
岡山藩は身動きが取れない。結局史実では3月15日に藩主が隠居して
新政府に参加するが、もし慶喜が大阪城に篭城すれば岡山藩主の隠居の
時期はもっと遅くなる。
509 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/13(水) 05:18:24 ID:KUAZ6xO50
大阪城の戦いが始まった場合、大阪町民がどうなるかが大変な問題です。
禁門の変でも京町民2万人が焼け出され、野宿しています。
大阪城の戦いでは、2万人の被災者では済まないでしょう。
もし官軍が、大阪城を迂回し、幕府海軍を攻撃する為に艦隊が接岸されている
地域に接近した場合には、当然幕府海軍は艦砲射撃をするでしょう。
大阪市は丸焼けになりかねません。幕府海軍開陽丸にはガトリング砲が装備
されている事もあり、陸上の官軍兵士との撃ち合いでも有利ではあります。
また、大阪城へ官軍が砲撃した場合でも、流れ弾は市街地に着弾すると
思います。それも大火災の原因になりかねません。
また、薩長両藩兵士が、大阪城と幕府艦隊の連絡や補給を絶つために、また
大阪城攻撃の為に大阪市街地に放火しないとも限りません
当然、薩長両軍の大阪市民への虐殺・略奪・強姦等も考えられるでしょう。
大阪城の戦いは、会津若松市で起きた悲劇をよりスケールアップした形で
具現化するかもしれません。
隠居する前から江戸に兵出してるけどな
慶喜の実弟の前に鳥取池田家とは同じ腹から出た兄弟
鳥取だけ前線出て自分は出しませんなんていうはずがない
朝廷の命が出て動かないようじゃ逆に筆頭家老に隠居早められるよ
>>508 いやそれは間違い。岡山藩は旧暦正月中に備前松山、姫路、桑名征討に参加してる。
池田茂政が隠居したのは東征軍への参加を下命されてからで、
仮に慶喜が大阪城に籠ったとしても、隠居の時期が早まるだけにすぎない。
藩論が佐幕と勤王で別れてるならともかく、岡山藩は最初から勤王派だから勅命下ったらどうにもならん。
山陰と山陽ごちゃ混ぜにしたり西日本のことまともに把握できてない
殊更に薩長の蛮行アピールしたりアレな人なんだろう
姫路征討の前、まだ慶喜が大阪いる段階で備前が藩内通行許可求めたら
宿泊しないならいいよって黙認してんだよね
慶喜が居ようが居まいが姫路は元よりやる気はないよ
>>501 フランスがプロシアに負けてプロシアに割譲され
やがてはドイツ領日本になってたりしてなw
>>508 >姫路藩主、備中松山藩主、丹後宮津藩主、大垣藩主、桑名藩主などは国元に帰して
自国での防衛篭城の準備をさせるのも一案
藩主だけ去るというわけにもいかないので、その分戦力も殺がれますが・・・
それなら小御所会議の前から準備しておかないと。
>アメリカは東艦を幕府に引き渡すでしょう。
大坂に3ヶ月も篭城している状況では優位とは言えないので、アメリカが一方的に
幕府側に肩入れすることは考えられないでしょう。
>>509 多分、そうなったら江戸も焼かれています。
その前に江戸開城よろしく、大坂開城の席が設けられるでしょう。
516 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/13(水) 15:57:07 ID:7B1fgfm70
>>510-513 それらは史実通りだと思います。
このスレは、慶喜による官軍への徹底抗戦をシュミレーションするスレですので、
慶喜が大阪城に篭城し徹底抗戦した場合を考えれば、史実通りの展開とは異なります。
>岡山藩は旧暦正月中に備前松山、姫路、桑名征討に参加してる。
大阪城に慶喜が居る段階で、そうなら問題ないけど、慶喜が居なくなって
岡山藩が、備前松山、姫路、桑名征討に参加したのなら慶喜篭城で事態は
変るのでは?
>仮に慶喜が大阪城に籠ったとしても、隠居の時期が早まるだけにすぎない。
これも良く判りません。直ぐに大阪城が落城するならともかく、官軍が
大阪城をナカナカ落せないなら、そうはならないでしょう。
>まだ慶喜が大阪いる段階で備前が藩内通行許可求めたら・・・・・黙認してんだよね
それって大阪や鳥羽伏見の幕府軍を攻撃する目的だったんですか?
その辺の目的があやふやだから姫路藩は黙認した事は無いのですか?
それに特に大阪城で慶喜が徹底抗戦する場合には、
>>515の様に、なかなか
直ぐに大阪城開城とは行きません
岡山藩は元々尊皇の思想が強く朝敵となることを非常に恐れてる
以前から長州寄りの立場を取っていたに関わらず、思い切った支援が出来ないでいて
日和見的に映って見えていたのはその為
大阪に慶喜が篭った場合朝廷からの援軍要請は更に強くなることが予想される
味方しない場合は・・・って含み持たせられたら加勢するしかない
薩長が官軍になってない想定じゃないと岡山藩は変わらない
>>516 前々から気になっていたけど、シミュレーションね。
で、史実とは異なるのはわかるが、慶喜が好戦的だったからといっても、大坂に篭城
している状態では幕軍優位とは言えないでしょう。
であれば、各藩の状況は戦前同様に考えるのが筋だと思うのですがいかがでしょう。
そもそも、大坂城に篭ってどれだけ耐えられるのかが謎だし。
大坂開城というのは、江戸を焼かれるとなったら、勝などの不戦派がそのように説得
するでしょう。
519 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/13(水) 18:18:31 ID:7B1fgfm70
>大坂に篭城している状態では幕軍優位とは言えないでしょう。
大阪城を官軍が落せず、尚且つ東海道から幕府軍や佐幕藩兵が下って来た場合
には、官軍はカナリヤバイ状況なのでは?
尾張藩に佐幕派があり、青松葉事件で粛清出来ていない状態で幕府軍が
接近してきたらどうなるでしょう。
また、大阪城に慶喜が篭城している段階では、慶勝が青松葉事件起こすのは
難しいでしょう。
520 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/13(水) 18:28:50 ID:7B1fgfm70
>そもそも、大坂城に篭ってどれだけ耐えられるのかが謎だし。
>>475 そもそも(官軍が)大阪城を攻めてどれだけ耐えられるのか謎だし。
幕府軍の方が、補給は有利でしょうね、幕府海軍や紀州藩の存在を考えても。
それと幕府軍は大阪城の周りを地雷だらけにしたらしいですね、
官軍は近づいただけで被害甚大ですね、おまけに伝習隊がシャスポー銃で
石垣の上の土塀から狙い撃ちですね。官軍の砲撃も大して期待できない中
官軍は大阪城を落せるのでしょうか?
>>519 誰が指揮した幕軍が上京してくるんでしょう?
そうなった場合の編成は?
ifにしてもあやふや過ぎてどうしようもない。
尾張に関しては藩主がいなかったら中立状態になるか、藩内で抗争が起きるのでは。
>>520 地雷? 官軍は警戒してたでしょ。だから史実でも被害は無かったし。
砲撃は全くの平城なのでそこそこ期待できると思いますが。
紀州藩は藩主が病身であること、史実でも恭順したことから考えると、積極的には
動かないでしょう。それに反抗していたとしたら官軍に攻められて潰れているのでは。
補給に関しても東路だけだと補給線が長すぎなので、いくら海軍が強力とはいえ
そうは多くを望めないでしょう。
>>519 鳥羽伏見で幕府方の応援として送って間に合わなかった藩は
最初の敗戦の報のみで慶喜がまだ江戸に行ってない時点で引き返してるんだけど
なぜ佐幕藩がすぐに大阪に援軍を送る決断をすると思うの?
二度の敗戦による権威の失墜はいかに幕府が戦力を残していようと重くのしかかってるよ
慶喜が大阪にいるだけで根拠もなく勤皇藩の動きが鈍り
佐幕藩が活発になるってただの楽観的な考えでしかない
>>516 残念でした。岡山藩は慶喜が大坂から落ちる前に出兵してます。明確に対幕府を目的として。
>この事件(神戸事件)について 「赤磐郡誌より引用」
>瀧 善三郎
>(一)
> 徳川氏譜代の大名尼崎藩主松平遠江守に備へる爲め、慶応三年十二月下句、
>備前藩主池田備前守(茂政)に、西宮警備を命ぜられ、翌四年(明治元年)正月
>元日出動を命ぜられ、同5日迄に.総軍二千人を繰り出した。
(以下略)
そもそも、先に示したように、岡山藩主池田茂政が隠居してまで避けたのは、実兄徳川慶喜に直接弓を引く事です。
慶喜が大坂に籠城したとしても、山陽道鎮撫は史実通りに躊躇なく行うでしょう。
鳥取岡山の池田兄弟は征長に1次2次共に反対したのに聞き入れられなかった
その上幕府が負けを晒してもう心は離れてた
かっこがつかないからそうしてただけで、慶喜討伐に本気で嫌がってたわけじゃない
鳥取の兄は山陰鎮撫使の説得で隠居もやめてる
525 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/14(木) 00:04:54 ID:tbc4+NZf0
>鳥羽伏見で幕府方の応援として送って間に合わなかった藩は
>最初の敗戦の報のみで慶喜がまだ江戸に行ってない時点で引き返してるんだけど
それは畿内や山陰の藩の行動です。
関東や東北、中部の各藩は、慶喜が本格的に無抵抗で謹慎してのを見てから
勤王派に転向しています。
>なぜ佐幕藩がすぐに大阪に援軍を送る決断をすると思うの?
東北だけでなく関東や一部中部地方でも佐幕諸藩の列藩同盟が作られると思います。
それと東北や関東の諸藩は、畿内ほど朝廷の意向に左右されていません。
慶喜の大阪城での抵抗が続いており、尚且つ大阪城の戦いが官軍に不利であれば
東北や関東の佐幕派諸藩は、幕府軍と一緒に西進するでしょう。
>慶喜が大阪にいるだけで根拠もなく勤皇藩の動きが鈍り
>佐幕藩が活発になるってただの楽観的な考えでしかない
官軍がそう簡単に大阪城を落城させる事が出来るのでしょうか?
官軍の大阪城攻めが上手く行かない場合には、勤王藩の動きは鈍り
佐幕派や公議政体派の動きが活発化するのは当然でしょう。
>誰が指揮した幕軍が上京してくるんでしょう? そうなった場合の編成は?
老中クラスでも良いですが、もう大政奉還も王政復古も済ませているので
純粋に徳川宗家の家職でも構わないと思います。総督には小栗忠順でも良い
ですし、名目的に関東の譜代大名を総督に持ってきて副総督を小栗でも構いません。
編成は、在江戸の幕府陸軍2万5千のウチ2万は動員し、東海道を西下したいです。
残りは仙台藩や水戸藩などの大藩を佐幕派に引き入れてるしかないと思います。
特に水戸藩は、藩主が危篤である為に京の本國寺党(尊攘派)が戻って来ない
うちに徳川宗家が手を打つ必要があります。
526 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/14(木) 00:11:52 ID:tbc4+NZf0
>砲撃は全くの平城なのでそこそこ期待できると思いますが。
大阪城は、平城といっても、二条城とは違います。
大阪城の堀や門は、保塁に近いと思います。
また、幕府側も大阪城から砲撃を始めるでしょう。
大阪城の戦いの間に江戸の幕閣がスネル兄弟と渡りをつけて、
アームストロング砲やガトリング砲を調達し西下する幕府陸軍に持たせても良いですし。
船で輸送し、官軍の撤退のスキを見て大阪城に搬入しても良いでしょう。
>>525 2万? どこからその数字を割り出したのでしょうか。
慶応4年当時、江戸にいた幕府陸軍は以下の通り。
第6連隊 600
第8連隊 800
伝習第二大隊 600
あとは旗本らの近代化武装でない部隊なのでいたところで・・・
>>526 別に要塞化されているわけじゃないですし。
そりゃ二条城とは違うにせよ、たかが知れてます。
>スネル兄弟と渡りをつけて、アームストロング砲やガトリング砲を調達
長岡藩に渡るはずのガトリング砲でしょうか?それなら前年に引渡し済みだったはず。
仮に中国で調達できたとして、荷が日本に来るのは史実通りの4月ごろでしょう。
それまで大坂城は持たないと思います。
そもそも、1,2門程度で戦局を打破できるものではないですし、それ以前にどこから
その費用を調達するのでしょう?
>>526 それから、スネルがアームストロング砲を多数調達できたのなら、長岡も会津でも
使われていたんじゃないですかね。
まあ大阪城で篭城じゃあ時期が遅すぎるよね
小笠原の卒兵上京の際慶喜がへたれてなければとかならともかく
列藩同盟ってwなんで徳川がいる状態で自藩の防衛でもないのに同盟が出来るんだ
徳川が今までどれだけ藩同士が必要以上親しくならないようにしてたのか知らないのか?
仮にあちこちで出来たら割拠する野心が出て戦国突入で日本滅亡だ
大阪城で篭城じゃ相当な兵力がいるんだろ
慶喜が逃げる寸前にはどの程度確保できたんだろうか
532 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/14(木) 18:34:11 ID:LNYcFgvQ0
>>526 幕府にはその金がありません。
幕府がつぶれた時幕府の金蔵は空っぽ。
>>508 尾張藩主と会津藩主は兄弟だが、
尾張藩主は反対派をすべて切腹させて新政府に参加している。
兄弟だからとかは関係ないだろ。
>>503 つか薩長が英国に関与するなといっているからな。
英国は内戦状態で幕府も薩長も主権をもっていないからということで、
諸外国に中立を求めている。フランスだけは違ったが。
というか幕府が金がないから借款の申し込みをしていただけだけどね。
まあ軍事援助もあるけど。
>>532 それを言うなら、薩長もいい勝負。
上野戦争がなぜ起こったかというと、江戸総攻撃をしようにも、そもそもそのお金がなかったから。
江戸を総攻撃しようと進軍したのはいいが、お金がどうにもない。
西郷にとって、勝の和平交渉は渡りに船、もし、勝が強硬派で、江戸城を枕に討ち死に、と考えていたら、西郷の方が逆に頭を抱えていた。
嘘をつくな、と言われそうなので、反証を幾つか挙げておく。
相楽がなぜ斬首されたかというと、年貢半減どころか増徴しようと考えていたのに、年貢半減を触れまわっていたから。
もし、本当に年貢半減ができるhどお金があるなら、そんな必要は全くない、と思うがどうか。
また、江戸城開城後、十分な資金があれば、彰義隊の設立を認めることなく、薩長軍が人を雇って、江戸の治安警備に当たれば済む。
それなのに、わざわざ彰義隊の設立を求めたのは、治安警備に当たる人の金の手当てがつかなかったから。
更に、彰義隊討伐は大村がお金を強奪することでようやくできたもの。
戊辰戦争勃発で、お金がなくなったから、と反論するだろうが、彰義隊の一例からしても、嘘もいいところ。
長州にお金があったというかもしれないが、それなら上野戦争の大村の行為をどう説明する。
長州は。薩摩やほかの藩に負担を押し付けることで、お金を残していただけ。
>>534 長州は戊辰戦争でも最大級の兵力を投入しているわけだが?
それでもまだ100万両の金を残している。
あと佐賀藩も100万両近い金をもっていた。
そして新政府が勝つことだけが目的ではない。その後日本を統治する責任と義務がある。
江戸を火の海にしたり、莫大な金を使うのは避けたいだけだ。
ちなみに薩摩は多少金を外国から借りているが、
長州や佐賀などは一切欧米から金を借りていない。
そして年貢半減つまり税収を半分にするほどはないだろう、なにを言っているんだおまいは、
ちなみに増税になったのは旧天領だけだ、地方の諸般は減税になっている。
全国一律の基準になっただけ。
そしてなにを言っているんだおまいは、彰義隊の設立は開城前だぞ、
江戸の警備と慶喜の警護が理由だったから新政府がそのまま存続を認めてやっていただけだ。
現地の警察組織を新政府が最初そのまま認めていただけにすぎんぞ。
だが、開城して一月もたたないあいだに、彰義隊が江戸で暴れまくっていたため武装解除命令をだして、
解散させたんだろうが。
>>1は個々に対してその場その場の回答しかしないからボロボロになっちゃってる。
まずはきちっとした戦略を示してくれよ。
あと、もう少し情勢を理解してくれ。
何でも幕府側に優位なように解釈しちゃうのでは議論にならない。
奥羽越列藩同盟も
戦局が悪化した場合の方策をまともに考えてなかったし
非現実的な江戸まで進行など自分のいい方にしか考えれないのは伝統なんじゃね?
538 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/15(金) 02:02:34 ID:zgtxfxwL0
幕府の財政についてだが、色々な幕末ホームページを見ると、
「それほど幕末の幕府の財政は破綻していなかった。」とある。
とくに幕末には開国した為に関税収入が幕府の新たな財源として加わっており
その額が莫大で、幕府が独占した為に兵庫開港問題では、それが幕府と薩長と
の対立の原因の一つになっている。
また、いわゆる“天領”つまり公議御料だが、「表高は400万石で実高は200万石」
という辞官納地についての慶喜の新政府三職会議への報告だが、これは新政府への
天領納地を減らす為に、ワザと少ない数字を慶喜は出してはいないか?
実高とは、領民に年貢を課す際の算定基準として用いられた石高の事であり、
表高は、将軍に認められた額面上の石高である。
しかし天領400万石が額面上の数字で、実高200万石が課税対象額とは
あまりにも少ない数字だと思う、実際にはこの200万石は年間の天領から
上がって来る税収額であり、慶喜は、この数字を三職会議に示したのではないか?
もし天領実高200万石だとすると、天領は税金が安く四公六民だから80万石
しか天領から税収が無い事になる。これはあまりにも少な杉だと思う。
実際には、天領税収が200万石あり、天領表高は500万石有ったのではないか?
江戸時代にアレだけ天領内で新田開発や農業振興をやっている効果で
幕府後期には、米が出来すぎてしまい、米価の維持が幕政の一つの課題に
なっていたぐらいなのに、天領実高200万石は少なすぎる。
また、別件だが江戸城開城後も、旗本御家人は、徳川家には200万石は残される、と思っていた
節があり、静岡70万石の決定が新政府から出た時には、少な杉と言う事で唖然としたと言う。
>>538 それは妄想だろうが、ソースもってこい。
そして関税収入というがそれは初期は20パーセントもあったが、
後に馬関戦争の600万ドルの賠償金がしはらえず、借金返済延長と引き換えに、
5パーセントまで下げられて、関税収入は大幅に減っている。
>>538 石高よりも輸出益の方が大きいだろう。
だが、とにかく支出が多すぎた。
長州征伐、軍備費に加え、攘夷に対しての賠償金、将軍の上洛費等々。
でなきゃ御用金を頻発する必要が無い。
>>534の言うように官軍も金がなかったのも事実で、300万両を借り入れて
戦費としている。
旗本八万騎の人件費がはんぱねーんだよ。
>>540 長州征伐だけでそれ以上借りている。
薩長のアホの尻拭いでだいぶ金使ったからなあ
当初それほどでもなかった条約の不平等がアホどものせいで酷いことになったし
そもそも賠償金を払う必要などなかったんだよ。
英国はふっかけただけだからな。
賠償金払うか、その代わり開港するかと幕府にせまった、
幕府は開港より賠償金を選んだ、それだけのこと。
ちなみに賠償金が払えなかったので、その代償として開港を結局行ってしまい、
さらに借金返済をまってもらうかわりに、関税収入の引き下げをおこなっている。
ぶっちゃけ馬鹿です。
最初から開港しとけば、関税も維持できて、賠償金も払う必要がなかった。
ちなみに借金はほとんど払っていません、結局新政府が前倒しで返済しましたけどね。
もし戦わばってスレで延々と戦わない戦えないという史実を書いてなんか意味があるの?
経済的に戦えないのに開戦しちゃったって例は多々あるんだし。
545 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/15(金) 12:28:11 ID:OolNEIlp0
どちらにせよ幕府は滅んでたと思う
>>544 それは簡単に言うと
X+1=Y Y+1=Zて式があって
ここでif X=1でZを求めようとしてるのに
if Y=3をつけてZを出そうとしてるようなもの
XからYにいく式が無視されてる
548 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/15(金) 18:22:27 ID:09tzLeii0
勝海舟も言うように官軍と幕府軍が戦えば勝てたよ。
小栗だって、そう思っていた。
もう直ぐ、ストーンウォール号だって手に入るんだし
それだから、慶喜の裾まで掴んで、江戸から反撃させようとしていた。
ぶっちゃけ、ストーンウォール号が手に入る68年4月以降の開戦の方が
より幕府軍に有利だけどね、三職会議での辞官納地や慶喜の議定、副総裁
就任問題をダラダラ4ヶ月引っ張ればよかった。
それと幕府は、薩摩藩の江戸市内や関東地方一円でのテロ支援活動を三職会議
にチクッてやればよかった。新政府内部で公議政体派や皇族議定が、武力討幕派
をさぞかし批判してくれただろう。
そしてその4ヶ月の間に幕府陸軍は、訓練を兼ねて関東の御用盗や浪士、
武州や甲州、北関東の一揆を鎮圧していればよかった。
549 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/15(金) 18:43:05 ID:09tzLeii0
勝海舟も言うように官軍と幕府軍が戦えば勝てたよ。×
勝海舟も言うように官軍と幕府軍が戦えば幕府軍が勝てたよ。○
また、江戸幕府がトーマス・グラバーを介して35門もの多数を発注したが、
グラバーが引き渡しを拒絶したために幕府の手には届かなかったのは、
残念だった。
幕府は、グラバーではなくてスネル兄弟に注文すればよかったのに。
そういえば、グラバーは、薩長が注文した武器弾薬の代金を軒並み踏み倒されたために、明治3年に破産しているな。
戊辰戦争の最大の恩人に、この仕打ち。
薩長の金の無さが表れている気がしてしょうがない。
>>548 座礁させるだけだろ、運用のスキルがある人材がないんだよ。
長州征伐のときの幕府海軍の活躍を思い出してみろ。
そしてその間に、政権から確実に追い出されている旧幕府。
確実に領土の返納は求められる、断ったらそのまま征伐されるだけ。
>>551 その征伐ができたかどうかが、極めて疑問なんだよ。
鳥羽・伏見の戦いは、幕府側には、統一した現場指揮官が不在で、一部の部隊が暴走。
更に最初の一発が、幕府側から放たれたことで、官軍に弓を引く賊軍という立場に幕府が転落。
薩長に好意を寄せていた藩には、薩長に味方する絶好の口実を与え、幕府に好意を寄せていた藩は、幕府に味方し辛くなってしまった。
鳥羽・伏見の戦いを起こす前に、慶喜がリーダーシップを発揮して、幕府軍の暴走を食い止め、ひたすら恭順の意を示していたらどうする。
それでも薩長が攻撃を仕掛けてきたら、それこそ幕府側に同情が集まり、幕府に好意を寄せていた藩が仲介の労を取ろうとするだろう。
更にその状況下で薩長が攻撃を仕掛けてきたら、劣勢な側が攻勢を取ることになり、自滅的な攻撃を行うことになりかねない。
その結果、薩長軍敗北、中立諸藩の幕府側参入という事態が起こると思うがな。
薩長だけで、幕府+中立諸藩に圧勝して、日本を制圧できると551は思い込んでいるようだから、言っても無駄とは思うが。
>>548 普通に考えて徳川を放置しておく訳ないでしょ。
ひたすら恭順を示すだけなら、今度は徳川領の切り取りと幕府歩兵隊の解体が現実に
議題になるでしょう。公武合体論者といっても、徳川をそのままの勢力で残しておくことは
新政府に対する脅威と考えるだろうし。
関東で幕府軍がやる気満々でいたら尚更の事だと考えられる。
>>553 徳川領の切り取りというが、ひたすら恭順を示す相手に、そんな態度を示したら、中立諸藩に明日は我が身の恐怖を与えるだけだぞ。
そんな理不尽には応じかねる、といって慶喜が対案を示したら、交渉拒否だ、と言って、自分から最初の一発を薩長は撃てるだろうか。
それが撃てるくらいなら、江戸の乱暴狼藉を薩摩はしていない。
江戸で薩摩が乱暴狼藉をしても、当時の情報の伝達速度等から、知らぬ存ぜぬを、京都では薩長は貫ける。
しかし、大阪や京都で同様のことをしたら、非難されるのは、薩長側なのは間違いないぞ。
>>554 それでも日和見している諸藩が佐幕に傾くことはちょっと考えられないね。
それなら小御所会議の後でもそうなっていたはず。
慶喜も一旦は受け入れた以上、拒否することはできないよ。
それにこの時点で慶喜は幕府内強硬派を抑えきれる力を持っていなかった
わけだから、鳥羽伏見でなかったにせよ、相当早い段階で強硬派が暴発した
のは避けきれないでしょ。
まぁ幕内主戦派押さえられるんなら、鳥羽伏見なんぞやらん方が
慶喜にとっちゃ実入りが大きかったかもなぁ。
でもその場合、いきなり明治帝擁して都落ちするって選択肢もあるんでは?
ちょっとスレタイからも外れてるが。
>>550 薩摩始め諸藩、もしくは雄藩って記事は検索してたら見当たるが、長州藩は入ってたのか?
あと、廃藩置県で回収が困難になったって記事もあるが。
だとしたら多分、諸藩債務削減ん時に纏めてやられたんだろうなぁ。
557 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/16(土) 04:08:52 ID:FGqnTWQS0
>>527 戊辰戦争時には、
「東軍(幕府軍)3万と称す、これは総数にて・・・・・実際伏見鳥羽出戦に従事したのは数千人に過ぎず」
と記録されている。
>>550 幕府は、無理して薩長寄りのグラバー商会にアームストロング砲を注文しなくても良かった。
むしろプロイセン人のスネル兄弟にクルップ砲を注文すべきだった。
アームストロング砲もクルップ砲もたいして飛距離は変らないのだから
もっと大量にクルップ砲60門注文でもよかった。
既に開陽丸には16門のクルップ砲とガトリング砲2門が搭載されている。
>座礁させるだけだろ、運用のスキルがある人材がないんだよ。
開陽丸は、悪天候の中、大阪城から脱出した慶喜を江戸まで届けている。
幕府海軍は、阿波沖海戦でも買っている。
特別、薩摩の操船技術が幕府海軍より上手かった。という資料は無い。
>鳥羽・伏見の戦いは、幕府側には、統一した現場指揮官が不在で、一部の部隊が暴走。
基本的にこの時期に戦うべきではなかった、5月まで引き伸ばすべきだし、
薩摩の挑発には乗るべきではなかった。
幕府陸軍は、元込式銃をもっと配備べきだった。
1万5千挺もの元込銃を輸入しストックしているのに、何してたんだろう?と思う。
>>554 >知らぬ存ぜぬを、京都では薩長は貫ける。
もし薩摩が恍けたら、幕府は、証拠物件や報告書を三職会議に提出し、ガンガン薩摩藩に抗議すべき。
出来れば、小栗あたりを上阪させて、松平春岳や徳川慶勝あたりに薩摩藩のテロ支援活動鎮圧作戦の
事情聴取させれば良かったのに。
大久保、西郷は、小沢みたいに任意出頭を拒否するだろうけどw
>>557 3万といっても、そのうち近代化されていたのは7700のみで、あとは旧装備の旗本御家人
でしょ。ものの数に入らんよ。
>もっと大量にクルップ砲60門注文でもよかった。
クルップの8cm野砲が日本に来たのは1875年だから間に合わない。
船や要塞に取り付けられたのを外して行軍するのはできないと見ていい。
できたら両軍ともに戊辰戦争で投入してる。
>幕府陸軍は、元込式銃をもっと配備べきだった。
銃は弾薬と使える人間がいなければ意味がない。
江戸開城時にシャスポー銃が残されていたのはそういった問題があるのだろう。
559 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/16(土) 18:20:19 ID:YWsW7bLO0
幕府は、先込式銃15000挺輸入しており、エンフィールド銃は5000挺
カービン銃7000挺、マスケット銃(騎兵も含めて)1000挺となる
エンフィールド銃は、後部を改造してスナイドル銃に改造出来る。
また、元込式銃は、機種は不明ながら15000挺輸入している。
もちろん大砲、ガトリング砲も輸入している。
これだけの数の銃器を輸入ストックしながら幕軍3万が銃兵化されていない?
3つの伝習隊は、基本的に元込式銃兵隊なんだけど?
慶応3年早々から慶応の軍制改革が始まっているんですがね。
この慶応の軍制改革は、木戸など薩長を恐れさせており、それ故にこの軍制改革が
完成しないうちに討幕挙兵をしようとした。
シャノアン大尉は、「幕府は、4万挺の小銃を持っているが、錆び付いて直ぐには使用できない。」
と言っているが、別に全部捨てろとは言っていない。
修理しないと実戦や訓練には使えないって事だろう。
>クルップの8cm野砲が日本に来たのは1875年だから間に合わない。
開陽丸にはすでにクルップ砲16門が装備されている。
野砲も早く幕府が手を回していれば、戊辰戦争に時間的に間に合う様にもっと早く手に入った。
鳥羽伏見の戦いにおいて、薩摩が約3000人、長州が1000人、土佐が1200人、、併せて5200人といったところだったかな。
問題は、薩長側にそれ以上の増援の見込みがなかったということ。備前や安芸がいるという主張があるだろうが、
薩長土以外の藩兵は、火縄銃や槍が未だに現役兵器で、訓練もろくにされていない、という状況で、旗本御家人といい勝負。
更に、備前や安芸の藩兵がくることは、違う弾薬を準備しなければならないということで、弾薬補充に頭を抱えることになる。
そして、幕府海軍がいる以上、そうそう薩摩や長州本土を空にできない。
戊辰戦争で、薩長側がやったように、幕府海軍によって海路をつかった本土強襲をされたらどうする。
そういった状況からすれば、薩長側が、幕府を挑発することによって、幕府側に開戦させての短期決戦戦略にこだわった理由が見えてくる。
幕府側から開戦させることで穏健派を黙らせ、更に緒戦で勝利をおさめて、中立諸藩を味方にするしか、薩長側には勝算がなかった。
なんだかんだ言っても、鳥羽伏見の段階では、幕府の方が日本の多くを実効支配していたのだから、長期になればなるほど、幕府の方が有利になる。
神戸事件の証言見てないのか?備前が火縄銃はないよ
>>561 備前藩兵全部が火縄銃を廃止して、後装式ライフル銃が装備されていたほど、備前藩が装備を近代化していたとは初耳。是非、ソースを教えてほしい。
もし、それが本当なら、薩長を遥かにしのぐ装備で、備前藩は、当時日本最高の装備を完成していたことになる。
私が読んだ資料では、戊辰戦争に出兵したのは、備前藩兵の一部で、それ以外は火縄銃等を現役装備しなければならない現状だったと書いてあった。
それ故、役に立たないから、という理由で藩兵全部を備前藩は出兵しなかった、と読んだのだが、間違った書き込みをしたようで、すみません。
563 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/16(土) 20:18:42 ID:u4RwiuOO0
>戊辰戦争で、薩長側がやったように、幕府海軍によって海路をつかった本土強襲をされたらどうする。
結果、幕府海軍は壊滅的打撃を受けて機能しなくなる。
薩長は列強の艦隊との実戦を経験しており、沿岸の砲台強化は戦争前以上に充実している。
はたして幕府海軍が完全アウェーである西南諸国へ、やぶれかぶれの自殺的突撃を実施するだろうか?
>>563 西南戦争で、海上迂回した政府軍により、西郷軍はあっさり薩摩本土を制圧されていますな。
沿岸の砲台を強化したといっても、そこに配備する人員が京都への出兵によりいなくなったら、それは張り子のトラですよ。
それに沿岸砲台にどれくらいの大砲を装備していたの。
アームストロング砲を何百門も装備しないと、薩摩、大隅、日向、長門、周防の長い海岸線を防備できないと思う。
拠点だけ整備しても、陸上部隊を揚陸して、陸から砲台が攻められることを考えたら、各砲台に守備隊を百人単位で配置したいところだが。
そんなことをしていたら、京都を守る部隊をどこから薩長は準備すればいいのだろう。
>>557 阿波沖海戦は本土に寄港中の薩摩海軍に襲い掛かって、輸送船を座礁させただけで、
薩摩の軍船は沈められなかった、薩摩の船を本土まで寄港している。
目的を達成したのは薩摩だな。
長州征伐でも少数の長州艦隊にぼろ負けで逃げまくっている。
結果大島でも関門でも長州の上陸にはなんら邪魔は入らなかった。
幕府が薩長の増援の上陸を邪魔するのは不可能だろう。
邪魔できた史実が存在しないのだから。
時間を置けば、薩摩の増援がくる。薩摩は戊辰戦争では7,8千の軍を東北まで送っており、
まだ半分しか投入していない。
そしてまだ1000程度しか送っていない長州の本体が到着する。
長州の本体がきたら、幕府が全軍投入しても勝ち目ないよ。
時間稼ぎも無駄ですね、幕府が軍事を増強する以上のスピードで西南雄藩は軍事力を増強していきます。
ミニエーからエンフィールド、スナイドルと次々に変わって行き、スペンサー銃もある程度そろってきます。
幕府の軍事改革は西南雄藩よりも遅いんですよ。
誰も全て後装式ライフルなんて言ってなくね?流石に火縄が主力はねーよって言ってるだけで
というか自分でソース要求しながら自分が読んだ資料はスルーなんだな
>>564 上陸できるポイントはある程度限られている。
長州の場合は遠浅の瀬戸内の海岸で上陸させようとしたら、
かなり沖に船を浮かべて小船で上陸させないといけない。
時間もかかるし、待ち構えられてぼこぼこ、下関などの湾口は砲台だらけで、
幕府の貧弱な海軍ではひとたまりもない。
またそもそも何千という兵士を乗せるだけの輸送船を幕府はもっていないだろう。
568 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/16(土) 21:24:39 ID:u4RwiuOO0
>>564 薩英戦争では英国艦隊が甚大な被害を蒙っているな。あと薩英戦争では水雷も使っているよ。
あと、薩摩には郷土防衛に必要な人数は十分残しているよ。
鹿児島城下沿岸まで進出してきて砲撃する想定だと思っていたのだが、違うの?
海賊のように現われて商船を襲う程度の事を言っているレベルなら大したことないな。
それに幕府海軍程度のために、薩摩から周防までの長大な海岸線をわざわざ防備する必要があるの?
幕府海軍が何万人もいる大艦隊であるなら話は別だが。
廃藩置県時の軍備調査の南坊平造論文見ると意外な結果に驚いて面白い
散々財政難を理由に出兵渋ってた徳島がやたら軍備充実してたりしてて
571 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/16(土) 22:00:47 ID:a3th84GL0
>薩摩の船を本土まで寄港している。
春日丸逃げまくりw
>薩摩は戊辰戦争では7,8千の軍を東北まで送っており、
>まだ半分しか投入していない。
島津一門や島津藩家老関山糺などの武力討幕反対派がおり、大阪城の戦いが
官軍サイドに有利に働かない限り、薩摩藩の追加派兵は無理。
ましてや神戸港は、幕府海軍の封鎖か破壊で使えない。
>そしてまだ1000程度しか送っていない長州の本体が到着する。
長州藩と安芸藩は、確かに中国地方の西から進撃してくるだろうが、
中国地方には、佐幕藩の姫路藩、明石藩、備中松山藩、出雲松江藩、
丹後宮津藩などがおり、これらの抵抗や篭城を排さないと大阪や京
までは長州藩と安芸藩は来れない。
>>562にあるように岡山藩は、それほど藩兵を西洋化銃兵化していないし
鳥取藩も同様であろうから、これらの藩が討幕派に合流しても大した戦力
にはならない。
>幕府が軍事を増強する以上のスピードで西南雄藩は軍事力を増強していきます。
これは、ソースも無い大嘘ですね。
幕府陸軍よりも近代化が進んでいるのは、鍋島藩くらい。
>ミニエーからエンフィールド、スナイドルと次々に変わって行き
ほんの少しの改造で、前装式ミニエーは、元込式ミニエーできるんですが?
幕府では、日本人の鉄砲職人が銃の整備・修理・改造をやっています。
横須賀以外にも小銃や大砲の工場も作っています。
スペンサー銃は函館戦争の頃になっても全軍の数%しか配備されていません。
>そういった状況からすれば、薩長側が、幕府を挑発することによって、
>幕府側に開戦させての短期決戦戦略にこだわった理由が見えてくる。
>幕府側から開戦させることで穏健派を黙らせ、更に緒戦で勝利をおさめて、
>中立諸藩を味方にするしか、薩長側には勝算がなかった。
それに乗せられた幕府強硬派はつくづくアホですね。残念です!
12月13日に慶喜は大阪城に退去しましたが、いっその事そのまま江戸城に帰った
方が良かったですね。幕臣や佐幕藩士には、東帰割拠論を言う人物も居ましたが、
慶喜には三職会議の議定や副総裁の地位がチラついていた為に大阪城に居座りました。
もし家茂なら、王政復古のクーデターの後に江戸城に帰っただろう。
>>571 五月ごろならそのくらいの装備はそろっている、史実なら江戸開城後だな。
薩摩や長州は連発式のスペンサー銃を、それから数ヵ月後には長岡や会津で使った記録がある。
基本がエンフィールド銃だからな。幕府なんてぶっちで抜いているわけ。
今頃様式装備とか遅れているくらい。
さらに問題のジャスポー銃だが、五月つまり旧暦の五月だから、今の六月のことかな?
梅雨の真っ只中で開戦とかアホ過ぎる。
ジャスポー銃がエンフィールド銃などと比べて錆び易く、高温多湿の日本の風土には合っていない。
梅雨に使ってもさび付かせるだけ、実際史実でもさびてしまう、運用に難があった。
フランスもベトナムで使用して、現地の火縄銃に負けている。
>>571 ミニエーとエンフィールドがまったく違うぞ、
エンフィールドからスナイドルには簡単な改造で済むので、戊辰戦争中に改造されていった。
また薩摩はスペンサー銃を万単位に注文しているし、
長州も数百(同じく最新式の連発銃であるヘンリー銃などもあわせると千こえる)
佐賀も2000丁はもっていた。
>春日丸逃げまくりw
もともと輸送するのが目的なのだが、輸送が終わったら本国に戻る。
そしてその後も運用されており、別に船に激しい損傷があったわけではない。
>官軍サイドに有利に働かない限り、薩摩藩の追加派兵は無理。
不利になるわけがないし、不利になるなら余計派兵される。
そもそも派兵反対派など幕府にこそ多い。
>ましてや神戸港は、幕府海軍の封鎖か破壊で使えない。
不可能、当時の幕府海軍程度で封鎖はできない、
長州征伐のときもまったく封鎖できなかった。
せいぜい補給路を脅かすくらいだな。
そしてそれは大阪城を助けられる程度ではない。
松江や松山がろくに援軍の望めない時間稼ぎの捨て駒になる篭城をなぜやると思うんだね?
>>564 簡単に増援も送れないような遠隔地に、たった数千の根なし草抛り込んでも意味が無い。
地理も分からずうろうろしてる内に消滅するのがオチ。嫌がらせにしかならん。そんな露骨な死地じゃまず士気が保てんわw
そんな芸当するなら、西南戦争で政府軍がやったみたく、官軍本体の後背へ送り込んだ方がまだマシ。
>>571 松江や松山が籠城しても、それこそその時代遅れの兵で包囲して捨て置けばいいだけの話ではw
あと慶喜が大坂に居るだけで圧力になるから、あそこに居た意味は一応ある。
居るだけでいいのに、実際に手を出しちゃったからあのザマになったが。
慶喜の出自からして、朝敵として歯向かうというのは無理があるように思うな。
こんなところを無視して前提を鳥羽伏見のあとから始めちゃった
>>1には大反省
してもらいたいところだ。
一旦大阪で篭城決意しても
朝敵になってまで戦うことに葛藤して折れるのがオチだもんな
軍事力でしか物事を見ず、人の思想とか一切合切無視じゃもしもにならない
ただ人間や藩を単純に色分けしてゲーム妄想してるだけ
慶喜に主戦派を抑える力がなかったからなあ
江戸に連れて帰った後もそうだが手に余って野に放ってしまったのが
後の混乱を招いてしまった
579 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/17(日) 04:07:22 ID:yqNTvo380
>松江や松山がろくに援軍の望めない時間稼ぎの捨て駒になる篭城をなぜやると思うんだね?
なぜ援軍が来ないと言い切れる?
東海道を下ってくる幕府軍2万と仙台藩1万、関東佐幕派諸藩5千が、名古屋
城を占拠するか通過して京か大阪まで来れば畿内は再び幕府の影響下。
北陸道にも庄内藩、長岡藩、米沢藩、仙台藩別働隊の合計1万が越前を飛騨に
迂回するかそのまま通過して近江北部に到着し東海道幕府軍と合流する。
その後、広島に行幸した明治天皇を追い幕府軍は中国地方で第三次長州征伐を
開始する。
>あと慶喜が大坂に居るだけで圧力になるから、あそこに居た意味は一応ある。
>居るだけでいいのに、実際に手を出しちゃったからあのザマになったが。
確かにそう思う、三職会議で慶喜を議定や副総裁に迎える云々の話しは、
大阪に幕府軍が集結割拠して、京を封鎖する勢いが出て来たから、皇族
や公家の慶喜の新政府参加を飲んだ、という背景もある。
一番いいのは、王政復古あのクーデターで慶喜が東帰割拠して江戸まで帰るのが
一番良い。家茂ならそうしただろうけど。
580 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/17(日) 04:23:32 ID:yqNTvo380
一番いいのは、王政復古あのクーデターで慶喜が東帰割拠して江戸まで帰るのが
一番良い。家茂ならそうしただろうけど。 ×
一番いいのは、王政復古あのクーデターで慶喜が東帰割拠して江戸まで帰る事。
家茂ならそうしただろうけど。 ○
>>579 第三次長州征伐というか、それじゃ旗本の乱だよね。
ま、それやったら討幕の勅が降りるから薩長の格好の餌になるけど。
逆に平身恭順している慶喜も東進している旧幕軍を攻めるんじゃないの?
あと、冬の高山道を通るって何かのギャグでしょうか?
そもそも篭城だけでも慶喜には無理があるのに
天皇に向かって攻めていくなんて出来るはずがねえ
慶喜の親の名前を言ってみろアホたれ
黒部越えですか
佐々以来ですね
仙台が1万以上長州まで遠征出来るんだ。すげーなあ(棒読み)
マジでお前ゲーム脳
585 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/17(日) 14:25:17 ID:CTI9Rxku0
つーか朝敵となってまで、幕府のために何でそんな義理立てをする諸藩が現れると思うんだか。
力のない幕府に愛想を尽かして、天皇を推し立てようとしている時代に。
後に引けない庄内藩はともかく、鳥羽伏見の時の長岡や米沢や仙台なんて
佐幕でもなんでもないだろ。ただの日和見なのになんでそんなに期待してんの?
ふと思ったのだが、幕末の頃、そんなに朝廷に権威があったのだろうか。
明治以降の後知恵で朝敵になるのがとても恐ろしかったというイメージで語られている気がする。
朝廷の許可なくして、幕府は通商条約を米国等と結んでいるが、一部の志士(私の目からすればテロリストにしか思えないが。)が
憤激してはいるが、それを理由に藩で幕府の権威を否定して、朝廷に味方した藩があったろうか。
神戸・堺事件が起こるまで、外国は幕府を日本の正統政府として対応しており、朝廷もそれに異議を唱えていないし、薩長も抗議していない。
そんなに朝敵になるのが恐れられていたなら、何ゆえ、薩長は外国が幕府を窓口にするのに抗議していなかったのだろう。
長州に至っては、賠償金の支払いを幕府に押し付ける始末。正統政府として幕府を認めていないのなら、何故、そのような態度をとったのか。
お金は、70万両以上もあったのだから、払えたろうに。お金は幕府に払わせるが、正統政府として認めない、というのなら、アルカイダ以下だな、長州は。
アルカイダみたいに、お金は払わない、正統政府としても認めない、という方が筋が通る。
鳥羽・伏見の戦いに勝利し、大阪を抑えたことで、朝廷に権威ができて、神戸・堺事件においても、幕府ではなく朝廷が正統政府と外国に認知され、
中立諸藩も朝廷になびくようになったと思う。鳥羽・伏見の戦いが起きてない段階では、朝廷に力はそんなになかったと思うな。
関東や東北まで京や大阪の戦場の様子が伝わるのはあの時代じゃ凄い時間掛かるんだよ
2連敗の幕府が朝敵になった上に前線の様子もまともに分からない状況だと誰だって及び腰
589 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/17(日) 20:55:35 ID:0IpAGEaS0
>>587 当時の知識人層にとっては常識。
そして幕府は朝廷以下だと思うけど?
んで賠償金は、そもそも打ち払い令は幕府がだしたんじゃなかったっけ?
長州が朝廷に働きかけて、幕府がそれに従った形だがね。
>>587 朝敵になっても幕府相手に戦ったところと、朝敵になった途端ヘタレた誰かとは
大違いと言いたいわけだね。
錦旗を下賜された後朝敵になる仙台藩とかには権威なかったんじゃない?しらんけど
592 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/17(日) 21:31:35 ID:CTI9Rxku0
幕末の頃、そんなに朝廷に権威があっただろうかとか、アホかこいつは。
長州の攘夷実行にしろ、朝廷の勅に従って幕府が攘夷を約束したことが発端になっている。
開国で行くかと思えば、やはり孝明天皇による鎖国に戻せという意向を跳ね返せずに、折衷策として横浜鎖港を約束したりしている。
幕府の態度が、外国にも朝廷に対しても終始優柔不断であり続けたことが、朝廷の権威を跳ね上げた原因でもあるのだが。
そもそも幕府がしっかりしていれば、薩長にしろ倒幕運動などやってない。
薩長ですら、孝明天皇を平然と暗殺しているのに。
孝明天皇の病状経過をみる限り、暗殺は間違いない。
朝廷に権威があるなら、天皇暗殺なんてできないよ。
594 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/17(日) 22:20:04 ID:CTI9Rxku0
おまえは安重根かw
伊東博文が孝明天皇を暗殺したってなw
本音と建前の使い分けで建前でおしきらたってとこですね
本気で敬ってたのは当時何人くらいいたものか
>>592の言うように幕府の失敗が建前に権威を与えてしまったってとこだろうね
本音と建前の区別のかなかった水戸の出のくせに
本音と建前の区別をつけられちゃったのが慶喜の不運なとこか
596 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/17(日) 23:00:09 ID:0IpAGEaS0
>>593 ぶっちゃけ暗殺したとしたらその容疑者は幕府かと。
徹底的な譲位主義者である孝明天皇を幕府は扱いかねていた。
当時京都を制していたのも幕府。
>>595 まあ早い話が、自民党を批判されまくっていたので、
なんとなく民主党がましに見えてくるようなもんだろ。
まあ幕府と自民はにてなくもないが、民主と新政府を同レベルで語ってほしくないな。
民主なんてゴミとはなあ。
>>593 それ逆に権威があること証明してるだけじゃん
権威がなければほっとけばいいだけだろ
>>587 なんつーか、幕末史の概要すら全く知らないのは分かったw
どうも、会津擁護の人が乱入してきて、妄想をひけらかしている感じ
600 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/18(月) 00:46:44 ID:vJP5AR3K0
会津は戦乱のあった幕末最期の5年間しか登場してこないから、擁護者も単純な佐幕と勤皇の二元論に終始しがち。
もっと薩長の言い分も理解しないと、幕末の歴史は見えてこないよ。
朝廷の権威なんて壬生浪でさえ畏れおののいちゃうほど時代の常識なのに。
601 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/18(月) 06:00:11 ID:qJd9TiE80
>>587 >ふと思ったのだが、幕末の頃、そんなに朝廷に権威があったのだろうか。
>明治以降の後知恵で朝敵になるのがとても恐ろしかったというイメージで語られている気がする。
幕末に何故天皇が出て来たかと言えば、徳川宗家のオールマイティを相対化する為。
ペリー来航や開国のドタバタの中で武家の中での徳川宗家の絶対的優位性が
怪しくなって来た為に征夷大将軍を天皇が任命している事が武家にとって
重要な意味を持ち始めた。
公家の頭だった天皇が、慶喜に代わって武家を束ね、次いで武家そのものを
廃止してしまったのが明治維新。
もし天皇がやらなければ、慶喜がやった。
というか本来、武家廃止(廃藩置県)の仕事は、慶喜の仕事。
その時の御親兵は、幕府歩兵隊で、帝国陸海軍は、幕府陸海軍が中心となって成立していた。
ある意味、維新後の明治天皇は、徳川慶喜の身代わりであり、なり代わりともいえる。
将軍徳川慶喜の西洋軍装の全身写真などが良い例。
徳川版大久保利通は、小栗忠順か?
602 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/18(月) 06:31:12 ID:3MahuIgN0
江戸時代でも、朝廷から官位もらう為に莫大な寄進をしているわけだが。
603 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/18(月) 11:08:16 ID:qJd9TiE80
徳川宗家のオールマイティには変わりが無い。
オールマイティって何?
オーソリティーじゃないの?
605 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/18(月) 11:31:56 ID:qJd9TiE80
■小栗忠順の反撃計画■
@開陽を始めとする幕府海軍が、東海道を進撃してくる官軍を駿河湾の
遮蔽物の無い沿道で艦砲射撃して退路を断つ
Aフランス式の訓練を受けた幕府陸軍の歩兵・騎兵・砲兵の精鋭に元込式銃等
の最新式の装備を配備して、箱根以東に誘い込み迎撃する。
B幕府海軍を大阪に送り込み制圧、九州の反薩長藩の決起を促す。
※慶喜が大阪城に篭城を続けていた場合、Bは半分実行されているから、
やはり幕府の反撃には、慶喜の大阪城は有効だって事。
>>605 小栗の反撃案は色々問題あるな。
・大坂に篭った場合はそこで消耗戦が展開されるので、反撃案として考えていた戦力
が減少している。特に撤退する場合は撤退側の方が損耗が激しくなる。
大坂に篭らなかった場合でも
・戦費調達の問題(小栗は何とかするといったが、フランスの情勢から言って、フランスが
今まで同様に投資してくれるかが怪しい)
・2連敗した幕府軍にそこまで士気があったかどうか。
・諸藩が兵を出してくれるほど、幕府に信頼があったとは思えない。
・東山道鎮撫総督軍に対しての策
という問題が残る。
Bについては、大坂を根拠地にしていた時の遭遇戦と、大坂を根拠地にできない場合では
シチュエーションが全く違うので。
オグリッシュは目先の勝利にとらわれて日本を滅ぼすタイプ
608 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/18(月) 18:36:22 ID:3MahuIgN0
そもそも篭城にたる十分な糧食があったのか疑問なんだがな。
その前に長州に大軍を送っており、十分な備蓄があるかどうか疑問。
新たに購入する余裕もあったか疑問。
当時米価は何倍にも高騰しており、買い占めるのには無理がある。
小栗の案は、東山道や北陸道の手当はどうすんのといつも思う。
>>605 慶喜が大坂に籠った場合、誰が征西軍の指揮取るんだろうな。
小栗は実戦能力未知数だしなぁ。
まだ慶喜が大坂脱出して指揮取った方がいいんでない?
それに、後続の無い上陸作戦は意味が無い。
まだ軍艦と共同してヒットアンドアウェイしてた方がいい。つか、本体に組み込んだ方がいいのでは。
610 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/19(火) 01:02:56 ID:1AoXzjQS0
幕府歩兵って、百姓や江戸のあぶれ者をにわか調練した部隊だろ?
斬り込みをかけられたら銃をすてて逃げ出す烏合の衆じゃないか。
同じ近代装備でも、出自が侍ばかりの薩長兵に勝てんのか? 兵隊の質がそもそも違う。
鳥羽伏見では結構頑張ってたぞ。富ノ森陣地とか千両松付近とか。
薩長に正面から撃破されてるけど。
そう。
幕府歩兵はいつも最後には敗北撤退したので、
歴史上に強兵という評価を残せなかった。
しかし、宇都宮城占拠と各地に残る旧幕府軍略奪暴行伝説は、
彼ら幕府歩兵の勲章だ。
素行は最悪だったが、十分戦った歴戦の勇者ではある。
だが、幕府歩兵にはいつも何かが足りなかった。
613 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/19(火) 04:39:11 ID:hT+1zFFq0
>小栗の案は、東山道や北陸道の手当はどうすんのといつも思う。
北陸道は、放って置いても良いだろ、越後で戦争になるのは少し後。
問題は中山道で幕府陸軍の別働隊が甲府城で篭城するか、信州あたりで
迎え撃つしかない。
また慶喜は、1月下旬には松本藩と高崎藩に碓氷峠を防衛させている。
>幕府歩兵って、百姓や江戸のあぶれ者をにわか調練した部隊だろ?
これも幕府側とフランス人教官の間で論争になっていて、フランス人は、
天領は広いのだから足腰が丈夫で、上の言う事を聞く農民子弟を徴兵する
ように言っているのに、大鳥圭介あたりが、都市部のプロレタリアートを
徴兵してしまった。
ただ幕府の人間にもこの問題を判っている人物も居て、伊豆代官の江川家は
天領の農民子弟を徴兵した御料兵を組織している。
>>611が言うように、鳥羽伏見の戦いの2日目の鳥羽方面では、善戦している。
特に伝習隊が訓練とシャスポー銃の性能の良さもあり、善戦している。
ただ伏見奉行所が陥落し伏見方面が総崩れになり、結局淀城まで撤退した。
出雲松江藩は、史実では2月の下旬に官軍に降伏している。
大阪城で慶喜が篭城している場合には、出雲松江藩の降伏にはもっと時間がかかる。
中国地方の佐幕藩である姫路藩、明石藩、備中松山藩、出雲松江藩、丹後宮津藩
等を官軍が大阪城を攻撃しながら制圧するのはかなり時間がかかるだろう。
>>613 大坂にいたところで幕府が支援できるわけじゃなし、西の佐幕藩の指揮は上がらんよ。
史実通り勝った勢いで一気に落とせるだろう。
大坂一帯を保持し続けているようなら別だが、上京してきた戦力では、広範な土地を
保持し続けるのは難しいだろうし。
特に防御施設のない港を維持するのは難しいだろう。大坂に篭城した場合は真っ先に
攻められて、大坂と海軍が分断されることになるよ。
2連敗の幕府軍を間近で見てる西日本が本気で対抗すると考えるのが理解できない
自分とこが戦災になってまで幕府に忠義なんて考える馬鹿はいないよ
松江は恭順の姿勢見せてたが、態度が曖昧で鎮撫使の訪問を受けたり
運悪く故障した藩船が宮津に寄港して疑われたりして認められるのが遅れたんだけど
Wikipediaの戊辰戦争の項目見ただけの知識で語られても困る
617 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/19(火) 21:07:01 ID:z9zL02kR0
>>610 長州は半分くらいは農民だけどな。
だが非常に士気と錬度が高いけどね。
>>613 いやただのやくざとニートだろ。士気も低いから戦況が悪くなったら、
即効で逃げ出す。
会津ヲタが小説で得た知識で妄想してるだけじゃん
会津が関わらない西日本鎮撫や、それ以前の征長の各藩の動向とか会津びいきの小説家はスルーだから
全く知識がない
619 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/20(水) 00:12:27 ID:6JUGOgia0
これだけは言える。
慶喜が徹底抗戦してたら、結果はどうあれお前たちは生まれていなかった。
久々にここを見て考えたのだが、どうも話がかみ合っていない気がする。
慶喜が勝つと言っている方は、鳥羽・伏見の戦いが史実通りに起こらずににらみ合いが続くか、慶喜が主導権を握って幕府軍を積極的に指導し、鳥羽・伏見の戦いが史実とは全く違う形になるのを前提として書き込みをしている人が多いように読める。
慶喜が負けると言っている人は、鳥羽・伏見の戦いが史実通りに起こったことを前提に書き込みをしているように読める。
前提が違うと、永遠にかみ合わない話が続くと思うな。
追加。
私の考えを書くと、鳥羽・伏見の戦いが史実どおりに起こっているなら、幕府は勝ち目がない。
史実通りに鳥羽・伏見の戦いが起こっているということは、幕府側は軍勢の統制が取れておらず、そんな状況で勝てる戦争なんて絶対にあり得ない。
>>620 >>1に鳥羽伏見で逃げずに戦うとあるだろ。
どちらも慶喜が江戸に帰らず、大阪にいることを前提にしているよ。
>>622 鳥羽・伏見で逃げずに戦うといっても、史実と異なり、慶喜がきちんと統制を保って戦う、とするのか、
それとも、史実通りに戦って、それから盛り返そうとするのか、で状況が全然変わってくるよ。
例えば、彦根藩とかは、鳥羽・伏見の戦いが始まるまでは、親幕派ではなかったっけ。
少なくとも日和見。鳥羽・伏見の前から、薩長に味方して、幕府に刃は向けていなかったと思うが。
>>623 それなら鳥羽伏見というより、幕府軍の京出兵からとか、伏見への押し出しがなく、大阪に篭城したとか、前提をちゃんと書いておくべきだったな。
つか、鳥羽伏見の結果が出てなきゃ、その勝敗次第じゃないの?
625 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/20(水) 23:20:03 ID:i0QkZmhN0
いや、大政奉還の時点で、慶喜だけでなく幕府はもう終わりだよ。
なにせ自分から政権を手放してるんだからな。
いつまでも未練がましい幕府に対して、薩摩は江戸でのテロ活動で挑発したのさ。
苦し紛れに大政奉還しておきながら、そんなに新政府に納得できなきゃ戦で白黒つけるか?ってな。
正しいスタート地点は鳥羽伏見ではなく、もし大政奉還しなかったら?だろ。
626 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/21(木) 10:36:30 ID:e+FA8KYg0
>>620 違うな、そもそも鳥羽伏見の時点では幕府にはどうあがいても勝ち目はない。
ということだよ。
627 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/21(木) 10:53:07 ID:U6e+WsLl0
誇り高い日本になったかもしれんな
薩長は謀略で政権奪取したから後々海外進出においても謀略を好むようになる
結果それが後の敗戦に繋がった
西郷は政権をとるまでは謀略をこのんだが奪取後は人が変わったようになったのは
その危険性を見抜いていたのかもしれない
井伊の大老就任は綺麗な謀略。
引き際全くわきまえず本土決戦マジでやって日本滅亡させちゃうだろ
630 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/21(木) 23:08:30 ID:li3cKTxH0
幕府も十分謀略をやってるけどな
260年間、謀略と独裁の連続だろ。
631 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/22(金) 11:41:52 ID:dTMgosMA0
幕府の謀略は国内だけだからな
徳川幕府がロッシュとつるんで売国行為を重ねたことについては、
良い売国ですか、そうなんですね。
幕府の謀略は治安維持活動
薩長の謀略は反乱
634 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/22(金) 14:55:32 ID:IBmvnltJ0
幕府=売国
635 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/22(金) 14:59:08 ID:IBmvnltJ0
徳川が外国とつるんで売国行為を重ねていたことについて、
誤魔化している。
>>631が大嘘だったことがばれて、
外国への売国行為を棚上げにして、議論を他にそらそうと狙っている。
これこそ邪悪。
636 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/22(金) 16:24:33 ID:dTMgosMA0
薩長もパークスとつるんでたから
637 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/22(金) 19:11:54 ID:IBmvnltJ0
イギリスは中立です。
薩長とつるんでいた、というのなら証明が必要です。
会津小説家の嘘に惑わされ、馬鹿なことを主張しているのなら、
そのことについて、十分反省すべきでしょうね。
陰謀論者はフリーメーソンスレで思う存分持論を披露して頂きたい。
本題からずれた話題が続いていますね。
640 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/22(金) 23:28:00 ID:IBmvnltJ0
どうも、フリーメイソンだか薩長イギリス陰謀論だかに
とり付かれた人間が来襲して困ります。
実際のところ、幕末期に国家を背景に日本へ介入していたのは、
ロッシュ公使を擁するフランスなのですから。
フランスの徳川幕府への肩入れは本国政府の意思では無く公使ロッシュの独断で、
さらに、明治新政府の樹立という形で失敗したことで、彼は本国に更迭され帰国することになります。
当時イギリスは、あくまでも中立から踏み出しませんでした。
トマスグラバーと薩長との関係を挙げる人間がいますが、彼は政府の人間ではなく、商人です。
明治維新は政争であり、内乱です。
謀略があって当然なのですが、敗色が濃くなると、「我々は誠意の人間であった、相手が謀略を使った」
などと
>>627のような嘘を主張する人が出ます。
半藤一利あたりの暴論をそのまま鸚鵡返ししているのでしょうが、それ自体恥じるべきことです。
641 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/23(土) 00:16:43 ID:b0SA7C3c0
まあ、日本人全体の将来を見れば幕府より明治政府の方がいいよな。
当時の人間にはわからないにしても、将来の発展が証明している。
アヘン戦争における清の惨状を見れば、幕府のままであった日本の未来がよくわかるだろう。
ま、会津厨りには到底わからんだろうけどw
642 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/23(土) 00:23:10 ID:S9mRwtCS0
イギリスがホントに中立を保ってたと思うならお花畑だな
まあいいけど
643 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/23(土) 00:45:49 ID:b0SA7C3c0
イギリスが中立かどうかなんて、日本には対して関係あるまい。
連中は自国の商売が保障されるのなら、どちらにも尻尾を振るさ。
ヨーロッパの凶暴な意志は、商行為が阻害された時のみ発揮されるが、特にイギリスの傲慢さは特筆できる。
要はイギリスを中心とする西洋列強がアジアに侵攻する流れに、日本が対応していけるかどうかだろう。
鎖国を祖法としてきた幕府のままなら、障害が多すぎて無理だったってこと。
イギリスが薩長にくみしたのは、役人がろくに機能しなくなった幕府よりも、商行為が円滑に進むと判断したに他ならない。
そういや軍事顧問団のシャノワーヌは陸軍大臣、ブリュネは参謀総長にまで上り詰めてるんだよな
645 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/23(土) 18:40:43 ID:5NZ40Ugk0
>>642 完全な中立だよ。
外国に内乱に干渉するなと圧力すらかけている。
もっとも外国に日本にたいして干渉するなというのが、
薩長支援に見える佐幕派には理解できんだろうがw
あれ、イギリスは、アームストロング砲を初めとする兵器等を中立を理由に幕府に売ることを拒否する一方で、
薩長側に売ることは黙認していなかったっけ。幕府が抗議したら、民間業者が勝手に密輸している、と言い逃れしている。
更に、米仏等に、自国と同様の態度をとるように圧力をかけていたと思うが。
そのために、幕府は「甲鉄」等を最終的に購入できなかったし、シャスポー銃の弾薬が不足する始末等を引き起こしたのだが。
それって、中立国のとる態度だろうか。
>>646 シャスポー銃の弾薬は欠陥商品だったからだろ。
英国が中立と言い難いのは確かだが、そこまで英国のせいにするとはさすがに
頭沸きすぎ。
648 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/23(土) 22:09:41 ID:UsAjEuPk0
君の説明では、イギリスは黙認してないじゃん。
偏向カキコとは、こういうものなんだね。
>>646,648
アームストロング砲の引き渡しをグラバーが拒否したってのは聞いた事あるが、
イギリス政府が拒否したなんて聞いたこと無いぞ。
甲鉄の引き渡しを拒否したアメリカ政府とごっちゃになってね?取引相手違い。
あと、別に中立だからって、中立国による兵器の輸出が禁止されている訳ではない。
んなこと言ったらWW2のスイスなんざ中立じゃないってことになるし、1907年ハーグ条約以前なら尚更。
んな条約があるなら教えて欲しい。
650 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/24(日) 17:26:09 ID:UiE/sbXf0
>>646は、意図的に誤認させるような記述をしているのさ。
そうしないと、イギリス政府が中立であったという事実に文句がつけられないから。
結論から言えば、フランスは公使ロッシュの斡旋により徳川幕府に強く肩入れしていたが、
他国は中立を越えなかった。
>>631の嘘を誤魔化すために、誰かが延々粘着している。
というか、単に知識不足なんだろ。
今までもそうだったじゃん。
会津は自分とこばかりが戦火に見舞われたのがそんなに嫌だったのか
他の地域巻き込みたかったんだな。ほんと主戦派の人って迷惑
>>649 前者はともかく、後者に当たりそうなのは、4カ国共同覚書にある密輸入の禁止じゃない?
まぁ薩摩名義で長崎から仕入れてたけど、パークスは確かにそれを黙認してた。
つかまぁ、パークスも倒幕までは考えてなかったんだけど。望んでたのは、平和裏に幕府・諸藩合議体制へ移行すること。
大政奉還によって各藩が政治力を付け、日本全土に自由貿易体制が布かれればベストだった。大政奉還を大歓迎したのはそのため。
だから、幕権強化によって自国に有利な貿易体制を構築しようとしたフランスとは対立した。
ロッシュが生糸貿易の独占を教唆したのなんかがその例か。
まぁ日本の立場から見れば、イギリスの望む自由貿易も十二分に性質が悪いんだけどね。
ムハンマド・アリの野望が潰えたのも、これが重要な因子だし。
英仏共に豺狼である点には変わりない。
特にフランスは生糸の産出量が往時の1パーセント以下に落ちてるから必死だよね
655 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/16(火) 11:44:50 ID:QIbtjuok0
>>613 まるで鳥羽方面の幕府歩兵隊が自主的に撤収したみたいだが
実際は撃破されて陣地を奪われてる
ただシャスポー銃をうまく使って善戦したことは確かであり
あと数年経ってたら薩長軍を超える戦力になったかもしれん
656 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/16(火) 12:41:41 ID:uHbmdtDI0
>>655 残念ながら薩長の軍部拡大のほうがはるかに早い。
それはわからぬ。
鳥羽伏見の時点でも、幕府歩兵が密集隊形による突撃戦術に固執せず、
散兵戦術と遮蔽物による隠蔽射撃に徹することが出来ていれば、
あれほど木っ端微塵に敗北逃亡することはなかっただろう。
その意味では、フランス人軍事顧問の頭が古かったのではないか?
それ以前に幕軍は四境戦争の敗北を何も学んでいなかったのか?
へたれ下級武士とちんぴらゴロツキを無理やり集めて幕府歩兵を作っているんだから、
そんなやつ等に散兵戦術とかできるわけないだろ。ばらけたらそのまま潰走してしまうだけ。
あれは高い士気と錬度が必要なんだよ。
それって奇兵隊の事?
当時の長州は、大東亜戦争下の日本みたいなもんなんだよ。
庶民が大砲を作るために鉄や銅を供出して、
志願兵が大勢あつまり、戦死してもおくにの為によくやったといって、
村でちょっとした祭りになるくらいなんだよ。
祝った後で、家族が密葬するって感じかね?
不退転で集まっているのだから、兵が逃げないし戦うんだよ。
軍を軍として機能させるのは非常に大変なのさ。
野口の鳥羽伏見の戦い読んだが、中々面白い。
ケーキちゃんの評価については相変わらず辛口だがw
でも以前よりはマイルドになったな。
663 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/20(土) 00:41:13 ID:6Juz4X0C0
士気・練度ともに薩摩兵が最強ごわす。というか勢いが最強。
この時代の薩摩集団は、やはりエネルギーが他集団とは桁違いに違う。
地下でたまりたまったマグマが、大地震とともに地表に湧き上がるようなものだ。
この時代の鹿児島は、まさに日本の火薬庫だったのだ。
鹿児島で爆発すればよかったのに他所に持ってきて爆発すんな
665 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/20(土) 12:03:47 ID:3IXKjSeD0
薩摩が暴発したわけではない
大坂にいた旧幕府軍が暴発しただけだw
666 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/20(土) 17:33:04 ID:6Juz4X0C0
664は東北系の人かなw
667 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/26(金) 13:42:55 ID:5hzVCfny0
野球は阪神!阪神は球界の盟主やで!
何?広島が反抗??広島球場へ攻めるで!
檻に中日に楽天にソフトに横浜の連合軍や!
初回に点取られて、ずるずるやられっぱなしやいか、何でや?
まだ5回で悪いけど、オーナーが死んだから試合やめや
あんたも親が死んだら、会社休むやろ!それと一緒や!
ほんま使えんやつらやで、ま〜アウェエやしな(第二次長州征討)
岡山で広島の2軍がおるがな、岡山やったらホームみたいなもんや!阪神の強さ見せたるで〜
何挑発しとんのや!攻めたるで〜今度は負けへんで〜
なんで2軍に負けるねん!甲子園まで撤退や!(鳥羽伏見の戦い)
こら!檻なんで裏切んねん!楽天よ、お前近鉄やないのか?おい横浜長年の友達やないか!
阪神百貨店で謹慎しますから、許してくんなはれ(慶喜謹慎)
藤井寺球場でPLが徹底抗戦、西京極球場で大阪桐蔭、平安が連合して抗戦(奥羽越列藩同盟)
情けないな、高校球児はがんばったのにプロ何しとんねん
阪神なんかいらんかったやんや!(慶喜の本音)
668 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/26(金) 19:29:02 ID:mUkVwrW30
薩長芸以外に鳥羽伏見の戦いの前に新政府側となっていた畿内とその周辺の藩は・・・・
近江彦根藩
近江西大路藩
近江水口藩
近江膳所藩
丹波綾部藩
丹波柏原藩
丹波園部藩
摂津三田藩
大和高取藩
河内狭山藩
丹後田辺藩
の以上11藩です。
669 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/26(金) 23:23:50 ID:n2v8Lcoa0
12月9日、「王政復古の大号令」が発せられ、徳川慶喜は軍勢を率いて京から撤収した。
その後に新政府は従来の京都町奉行所に替わって「京都市中取締役」を設置、
膳所藩・篠山藩・亀山藩の3藩をこの職にあてた。
しかし、篠山藩・亀山藩の2藩は、官軍が藩領に接近するまで、どちらかと
言うと幕府よりだった。こうして膳所藩のみが、鳥羽伏見の戦い以前から
完全に新政府の側に組み込まれた。
670 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/27(土) 17:31:25 ID:inwNwXGo0
篠山藩・亀山藩のように散々朝廷や公卿から新政府参加の打診があったのに
それを袖にして鳥羽伏見の戦いで旧幕府が負けるまで佐幕派だった為に大損した藩もあれば、
彦根藩の様に別に朝廷に誘われてもいないのに勝手に新政府に接近し
(水戸家出身の慶喜の将軍任官が嫌なだけ)、その結果、勤王藩として美味しい思いをした藩もある。
丹波園部藩は、大政奉還という早い段階から、朝廷の誘いに応じ、幕朝戦争で
万が一京が戦火に飲み込まれる事となった場合は天皇を園部藩主の居城園部城
に避難させるという策が立てられた。
結局、京は戦火から逃れ天皇も京にとどまったが園部城は幕末に天皇の避難所
としての機能を保つべく大改築されている。
>>670 彦根藩は、おいしい思いをしていたっけ。
昔、テレビで、井伊家の現当主で彦根市長を務められていた方が、桜田門外の変における逆恨みから、明治維新後、井伊家は薩長新政権に味方したにも関わらず、虐待されました、
とコメントしていたのを覚えている。
実際、井伊家は35万石もあったにも関わらず、何だかんだといちゃもんを付けられ、伯爵止まり。
宇和島藩の伊達家ですら、7万石で侯爵に列せられたのと比較すると、明らかに冷遇されていると思うけどな。
ちなみに、徳川四天王の一角、庄内藩の酒井家は、戊辰戦争で薩長に敵対したにもかかわらず、石高15万石で、伯爵に列せられている。
これで、彦根藩は美味しい思いをしたと言えるのだろうか。
672 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/20(土) 11:42:57 ID:spPyqCyt0
>桜田門外の変における逆恨みから、明治維新後、井伊家は薩長新政権に味方したにも関わらず、虐待されました、
桜田門外の変というより、安政の大獄だろ? これも因果応報ってやつだ。
生き残っていたら新政府で活躍していた人材が大勢処刑されているからな。
まあ、一番恨んでいたのは薩長よりも水戸なんだけどな。
逆に天狗党の乱においては、桜田門外の変の恨みから、彦根は捕えた天狗党員に壮絶な虐待を行っている。
最後にちょっぴり登場する庄内藩と終始血生臭い彦根藩とでは、とても同列には語れない。
やはり、彦根藩は美味しい思いはしていないのですね。
最後の場面で、寝返っても、薩長の恨みは晴らされるどころか、却って増えそうですし。
そういえば、鳥羽伏見で寝返った井伊家のことを、薩長出身の高官が、関ヶ原の小早川と同列視したと聞いたことがあります。
これは事実でしょうか。
>>671 叙爵基準は別に井伊家を差別してない。
別に利益もないけど。
彦根藩25万石が実高で伯爵相当だってだけのこと。
鳥羽伏見での裏切りといえば藤堂家のほうが印象が強いw
井伊は幕府から冷遇されてた関係で新政府側についても全く不思議じゃないし。
675 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/24(水) 06:49:38 ID:tQ0Py3rq0
676 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/26(金) 00:31:37 ID:4URBXi190
>>674 >鳥羽伏見での裏切りといえば藤堂家のほうが印象が強いw
旧幕府軍の出兵計画に藤堂入ってないってばw
藤堂藩の言い分では、自発的に山崎に兵を出したが、新政府も旧幕府も「味方になってくれ」と言われていない。
先に官軍の使者が来て、朝命が伝えられたので新政府側に入っただけ。
だそうですw。
地元郷土史家の言葉を借りれば、旧幕府側がかってに味方だと思い込んでいただけだとの事w
677 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/29(月) 14:36:40 ID:0wAduORt0
王政復古のクーデターの直前に朝廷の命令で上洛した藩は、全国266藩のうちたった16藩しかない。
薩摩・芸州・尾張・越前・彦根・郡山・大聖寺・膳所・竜野・尼ヶ崎・福知山・園部・水口・柏原・西大路・狭山
で、その16藩のうちの王政復古直前の頃には
薩摩 彦根 西大路 水口 膳所 柏原 園部 狭山 竜野は、既に討幕藩だし、
芸州 尾張 越前 大聖寺 尼ヶ崎は中立藩、郡山は一応中立藩だが討幕寄りで、
佐幕藩は、福知山ぐらいしか居なかった。
基本的に11月5日に紀州藩士の榊原秋乃介と竹内孫介の2人が謀主となって
親藩・譜代は朝廷からの上洛令を拒否し朝廷新政府への参加を拒絶するように
呼びかけており、それに応じ佐幕藩は上洛していない。
佐幕っつか様子見じゃね?
鳥羽伏見に幕府側で出征したのは何藩で、
鳥羽伏見敗戦後も大坂城に篭ろうとしたのは何藩?
679 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/29(月) 17:48:06 ID:0wAduORt0
一応紀州藩の2人の藩士は、「天皇の家臣には成らずに徳川宗家の家臣に留まる為に」という名目で上洛しない事を呼びかけているから。
上洛16藩の中には、幕府側で出征した藩は無いでしょう、当然大阪城に篭ろうとした藩も。
680 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/29(月) 19:41:46 ID:0wAduORt0
鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間 (中公新書) (新書)
野口 武彦 (著)
は、面白かった、一気に読んでしまった。
やはり、この本にも慶喜の没落の原因は、大阪城の放棄にあると記している。
物資も豊富に貯蔵してあり数ヶ月の篭城も可能で薩長もなかなか落せなかったのでは?
との意見である。
大阪城が落せなかったら急ごしらえの新政府もどうなったかは判らず
返す返す慶喜の臆病風には残念がっている。
また、江戸東帰後も抗戦を考えて居るようだが、応援を頼んだフランス公使の
ロッシュから借金の返済を求められ、フランス軍の直接介入も示唆された為に
急にヤル気がなくなったと記している。
やはり慶喜は大阪城での篭城戦で挽回を期すべきだった。
681 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/29(月) 20:41:32 ID:EKwpwdf40
>鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間 (中公新書)
ありゃダメだw
特に慶喜に関しての部分は救いがたい悪書だった。
たとえば野口は松平春嶽の評を鵜呑みにして「父と同じく慶喜も決断力がない」というような事を書いてるが、
問題は「父(水戸藩松平斉昭)と同じく」という部分だ。野口が使った春嶽の史料によると…
「春額は、十四代継嗣問題の時に斉昭に騙されて一橋慶喜を将軍へ据えようと運動させられた。実際には水戸藩の斉昭は幕府乗っ取りを画策していたんだ。騙された」
と飛んでもない事が書かれている。史実では、春嶽は、斉昭に頼まれた訳でもなく橋本左内の献策で一橋慶喜を将軍に据えようと運動していた。誰よりも水戸藩よりもだw。
慶喜の記述もその延長上にある。春嶽が”何か事実を曲げないといけない”と思ったんだろうね。
ちなみにこの野口が使った資料を鵜呑みにするなら…
幕府の勘定奉行小栗は「金が無いので紙幣を刷ろう」と政治総裁だった春嶽に提案し、
春嶽は「金も無いのに紙幣作ったら、貨幣価値が暴落して大恐慌だろうが!馬鹿者」という
”小栗は所詮小役人で、経済の毛の字も知らない馬鹿”という評価も事実になってしまうw。
野口は、こうした勝海舟の”テキトー人物評”並の人物評を鵜呑みだぞw。
とてもじゃないが信用できないw。
ついでに言えば、野口は「大坂城に籠城すれば数ヶ月は耐えられた」と書いているが、
「籠城すれば勝てた」と書いていない事に注目すべきだよ。つまり、佐幕贔屓の野口にして「勝てる」と断言できなかったということさw
682 :
681:2010/03/29(月) 20:43:21 ID:EKwpwdf40
スマソ。名前間違えちったw
×;松平斉昭
○:徳川斉昭
むしろ春嶽こそ慶喜と同様の口先だけの小才子だよね
684 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/29(月) 21:56:51 ID:0wAduORt0
>野口は「大坂城に籠城すれば数ヶ月は耐えられた」と書いているが、
>「籠城すれば勝てた」と書いていない事に注目すべきだよ。
>つまり、佐幕贔屓の野口にして「勝てる」と断言できなかったということさw
幕府軍が有利な事には変わりが無い。
大阪城の数ヶ月間1万人以上の兵隊が篭っていたら、薩長は兵力をそっちに
取られて東征どころではない。その間に関東から幕府軍と佐幕藩2〜3万が
西上してくる。
慶喜は、大阪城の戦いをやるべきだった。
会津若松城でもアソコまで戦えたのだから、大阪城ならもっと大規模な戦いになるし
大阪城の砲兵隊や大阪湾の幕府海軍を使って薩長を逆に大損害を与える事ができる。
大阪で薩長が損害を出して戦争が上手くいかなくなり、東海道を幕府軍が
西上してきたら、京で土佐藩が越前藩や肥後藩・筑前藩・阿波藩を巻き込み
幕朝妥協の動きが出てくる。
王政復古後に慶喜が大阪に下った後、この様な動きがあった。
一番良いのは、幕府はストーンウォール号を手に入れてから戦争を開始する事
西郷も関東でテロ活動していた連中に「戦争は2〜3ヶ月してから始まると思った」
と言っているぐらい。
685 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/29(月) 23:41:25 ID:hSVpP+Rz0
慶喜は何で素直に大政奉還を受け入れたの?
慶喜は何で王政復古のクーデターの後、大人しく大阪に引っ込んだの?
慶喜は何で大阪城から逃げ出したの?
全てが逃げ腰w これじゃ負けても仕方ないよね。
むしろ慶喜が何でこれほど弱気だったのかがイマイチわからない。
686 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/30(火) 09:34:26 ID:FxaxLrz/0
大阪城逃亡だけが徳川宗家にとってマイナスで、他はむしろ討幕派の方が困っている。
野口氏は、慶喜は、基本的に臆病だと断じている。
野口氏だけでは無い、松平春嶽も同じ事言っている。
慶喜の大阪城逃亡を聞いて一番驚いているのは、新政府側。
どうしたら大阪城を落せるか西郷も頭抱えていた。
特に大阪城の大型の堀や砲台には困っていた。
新政府による大阪城攻めで大量の死傷者が続出すると覚悟していた。
薩長は、補給が続かずにいた為に
「薩摩兵は一ヶ月大阪に釘付けにされたら死んでしまう」と西郷は嘆いた位。
慶喜による大阪城篭城は徳川にとって有利な事ばかり。
鳥羽伏見の戦いの負け戦も大阪城の戦いで挽回できた。
687 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/30(火) 20:27:18 ID:Q8XhaP1/0
まあ大阪城からの逃亡が早すぎたのは確実だと思う。
大阪城を落とすのは当時の薩長軍では非常に困難だろうな。
何しろ日本の当時の洋式軍備は銃兵中心なんで、攻城については装備もスキルも低い。
ただ慶喜をフォローすると、とにかく幕府軍には将来のビジョンがない。
目標である京都制圧が全く不可能なんで、戦略目標が達成不能なら江戸に戻って状況を立て直す。
これも一つの判断かもしれん。
結果論で言えば篭城で時間稼ぎして、中立雄藩が調停を斡旋してくれるのを待つのが正解。
岩倉あたりもどこまで幕府を追い込めるか微妙だと判断してたようだし、調停があれば受け入れる可能性も高い。
688 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/30(火) 20:56:20 ID:kcCjjRGO0
もしもwもしもwもしもばっかりw
そのもしもも”都合の良い事ばかりが起こる事を想定”してばっかりw
じゃ、聞くけど
”もしも大坂城籠城をやってみたら、諸藩の多くが官軍に味方して負けてしまった?”
”もしも大坂城で籠城したのに、朝廷との周旋してくれる藩がいなくなったら?”
言っておくけど、鳥羽伏見の戦いが起こる直前まで土佐や福井が調停を周旋してるんだよ。
戦いが起こった途端、土佐や福井はさじを投げた。
彼ら曰く「徳川から戦争仕掛けちゃ救いようがない」
で、戦争にしちゃった後で大阪に籠もってどうするのw
つか、薩長の三倍の兵で勝てず、緒戦に負けたといっても二倍以上の戦力あるのに籠城策ですか?www
徹底抗戦するなら籠城じゃなくて、攻めて進撃策でしょうよ。でなけりゃ士気もあがらんw。
689 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/30(火) 22:18:50 ID:9vgJ6hbd0
>もしもwもしもwもしもばっかりw
お前も頭固いな、このスレ自体が仮定のスレなんだから
もしを考られないなら、巣に帰れ!
”もしも大坂城籠城をやってみたら、諸藩の多くが官軍に味方して負けてしまった?”
鳥羽伏見の戦いで負けたら、当然官軍に味方する藩は増えるだろ
そんな当たり前このことイチイチ得意になって言うな!
まあ攻勢を取るという選択もある。
ただし鳥羽伏見の前なら。
京都に入るだけなら正面切って北上する理由もないから
数方面に部隊を分割して進撃すれば、数で劣勢の官軍側は対応が困難になる。
でも負けて後退した状況では京都に続く道は、にわか官軍に監視されるし
士気の面からも分進は困難になるだろう。
まあ、旧幕府軍は一ヶ月程度大阪城にいて京都の封鎖を行えば、
薩摩軍だけでなく京都市街全体が干上がっただろうから、
薩摩は天皇を連れて山陰経由広島入城、ってな運びになったと思うのだよ。
つまり、鳥羽伏見の戦いは徳川慶喜には絶対の自信があり、
負けるはずのない戦いであった。だから負けた場合の備えがなかった。
そして、ひとつうまくいかなかったら、慶喜はすべてを放棄してしまった。
692 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/31(水) 12:33:29 ID:EOR57KvF0
のぐっちは慶喜を叩くのがライフワークだからな
慶喜が臆病とかすぐ逃げるとか…笑止!
参与会議の解体とか兵庫開港とか、慶喜ほど全身全霊をかけて、逃げずに幕府存続のために
戦った男はいない
幕府の再生が不可能と悟れば、潔く大政奉還する大度量の持ち主でもある
独断といわれるが、それは自分で全責任を負う覚悟があるということ
「責任逃れのために衆議にかける」ということをしないだけ
その慶喜に幕府は一体何をしてくれた?
安政の大獄での4年にわたる監禁、水戸天狗等の虐殺、原市之進の暗殺…
そして慶喜を担ぎ上げた自称・改革派の薩摩や松平春嶽はその後何をした?
手のひら返しで討幕側にまわって、もしくは安全地帯で幕府のために何一つせず
慶喜を罵倒しまくり、敵対したじゃないか。
旗本?
長州戦争の時にいったい何をしてた?
大坂城の時点で、慶喜はまだ30歳だったんだぞ。
その年で、まる10年幕府すべてを背負わされきててただでさえ心身ボロボロになってるところに
、KYDQNの幕府兵や会津が「出陣させなきゃ将軍を殺す」→「ごめん負けちゃったw」
と帰ってくりゃ、そりゃもう逃亡したくもなるわな。
何その我儘いっぱいの屁理屈wwww
御三家御三卿に連なる立場なくせに幕府は何をしてくれたってw
慶喜が幕府のために何かをしなきゃいけない立場でしょw
694 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/31(水) 18:14:01 ID:uxAoBZGV0
慶喜は、朝廷での政治工作なんか見てると結構強引なところがある。
だったら戦争でも、少しぐらい負けてもふてぶてしく戦争を続けて欲しい。
>>690>>691 野口氏や勝海舟も幕府軍は、何故奈良街道や西国街道、丹波口を経由しなかったのか?
って言っているぐらいだからな〜それに鳥羽街道を北上するだけでなく、
その西隣の街道(西国街道?山崎通?)を北上すれば京の七口の東寺口に出る事が出来る。
その街道を北上すれば薩摩藩の司令部兼補給基地の東寺のすぐ近くに行けるのに
その街道をまったく使っていない。
完全に作戦ミス、戦う姿勢が無く、幕府軍は完全に不意を疲れた格好なのが鳥羽伏見の戦い。
薩長に鳥羽伏見から橋本まで押し捲られてしまったので、一気に大阪城まで撤退し篭城するも良いし、
枚方で会津・桑名・幕府軍で戦線を構築し再度野戦をしても良い。
当初は、枚方で薩長を迎え撃つ予定で大阪城内の砲兵隊を枚方に移動させ砲台を作っていたが
幕府軍が守口に向けて撤退してしまい、在阪閣老はもう大阪城を出て野戦をヤル気が無くなって
居る為に全軍大阪城に撤退、篭城と決めた。
枚方で決戦しても良いが、既に大政奉還の頃から勤王藩に転向していた摂津三田藩
大和高取藩 河内狭山藩 あたりが幕府軍の敗北と新政府からの勅命により大阪城を
攻撃するかも知れないし、大和の大藩郡山藩も王政復古前あたりから勤王派に近づ
いており幕府軍も鳥羽伏見の戦い以前から大阪〜奈良間の街道に姫路藩兵を配置し
警戒していたから、やはり枚方会戦よりも大阪城での篭城の方が作戦としては上策
だと思う。
695 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/10(土) 23:55:14 ID:BI10mZsw0
鳥羽伏見の戦いの直ぐ後では、官軍にはアームストロング砲は入手していない
から大阪城を官軍が落すのは無理だな、大阪城の篭城戦が長引けば、京で幕府
寄りの諸藩が、仲介工作を始めるだろう。
開陽丸のクルップ砲を何門か大阪城に運んだら、むしろ官軍の方が砲兵に関し
ては装備が弱体。
鍋島藩もどちらかというと幕府寄りだし、土佐、越前、尾張、徳島、肥後も薩
長にはなびかない。
篭城とは言うけど、戦力差が微妙だからねえ・・・
官軍が積極的に大阪城を攻めたら戦力を消耗しすぎて反攻されるかも。
完全な包囲なんて無理だよね。
697 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/11(日) 01:14:22 ID:/9xcsVyM0
まあ勝って当たり前の幕府軍が反撃して薩長に勝っても、昔日の威信は取り戻せないだろう。
そこまで追い詰められたという事実に幕府の威厳などガタ落ち。
やがて江戸・京・大阪で民衆蜂起が頻繁に起こり、市民による革命運動が起きていたかもしれない。
民衆蜂起を武力で制圧する幕府軍に列強から非難が集中、内乱に付け入った列強軍隊によって日本は植民地化の末路を辿ることに・・・
まるで、どこかの憐れな国のようだ。
そういう意味では明治維新は比較的流血が少なかった方だね。
もし幕府が勝って幕藩体制が継続したとしたならば…
再び鎖国が出来ない以上、今度は西洋革命思想が流入する。
明治に流行った自由民権運動が、幕藩体制のまま起こったら…
文字通りの「市民革命」となる。
市民革命の典型的パターンとして、特権階級=武士の虐殺皆殺し処刑になりかねない。
この場合は、将軍大名は元より天皇すら殺される。
もちろん市民達に武力を貸し与え、反乱を煽るのは欧米列強w
699 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/11(日) 07:15:07 ID:3YIsK1890
京・大阪で民衆蜂起は起きないよ、そんな要因が無い。
ただ関東では、関東一円で一揆や暴動が起きているので幕府軍が治安出動した方がよい。
>>699 >そんな要因が無い
んな事は無い。
「人の権利」という思想が外国から輸入され蔓延すれば、
大坂や京都の民衆も自然に「権利主張」はじめる。
関東一円で「武士の特権を奪え!農民町民に自由の権利を!」
と広まれば、大阪商人達の支持を集める事は必至だろうw
701 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/11(日) 20:58:58 ID:HxIklJpv0
>>681 小栗が経済音痴のばか者ってのは事実なんだが。
紙幣ってのは信用で成り立っている、信用の低い幕府が紙幣を発行しても、
誰も使用しないので、当時のインフレがいっそう激しくなる。
>>684 無理東海道の諸藩はみんな新政府に史実でも下っている。
尾張藩が幕府よりの人間を切腹させて新政府に下っている現状では、
尾張より向こうにはいけない。
702 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/12(月) 06:27:40 ID:DzYaFjHA0
>無理東海道の諸藩はみんな新政府に史実でも下っている。
それは大阪城を慶喜が放棄して逃げ出したからだろ。
大阪城で篭城戦が始まり、関東から幕府軍数万が西上する事態になったら
そうは行かない。
>尾張藩が幕府よりの人間を切腹させて新政府に下っている現状では、
>尾張より向こうにはいけない。
これだって大阪城で慶喜が徹底抗戦したら、簡単に幕府サイドの家臣切れませんよ。
ましてや東海道を数万の幕府軍が西上し始めたら、なおさら。
703 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/12(月) 06:36:45 ID:QjCQC6150
>>702 新政府軍を撃破しない限り、尾張は確実に新政府につくし、
尾張が下れば東海道の諸般もすべて下る。
むしろ篭城したら、率先して処刑するだろうな。これは新政府に忠誠を示すために、
率先して行った行為だからな。
篭城している限り、機内は新政府のもので幕府は何もできない。
紀州とかも降る。
大政奉還の3ヵ月後の鳥羽伏見には、
大室寅之祐は馬上から閲兵してたらしいからな。
とんでもない謀略が起きてる事は、
慶喜も承知していたからこその大政奉還なんだろうけど、
具体的にどこまで把握していたのかな?
謀略察知の時期によっては、打つ手無しになるんじゃね?
705 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/12(月) 23:56:27 ID:4DQcu5uU0
つーか、幕府が負けて良かったんじゃね?
チョンまげが消えただけでも明治維新はナイス。
706 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/13(火) 09:38:41 ID:9hSBM4rz0
>>703 大阪城を落せないなら畿内は、新政府のものとはいえません。
膠着状態なら紀州藩は、佐幕姿勢を維持するでしょう。
土佐藩、尾張藩、越前藩、肥後藩・筑前藩・阿波藩は、京から幕朝仲介に乗り出して来るかも知れません。
大阪湾で薩摩海軍が逃げ出したのなら尚更です。
長州海軍が瀬戸内海から大阪湾に侵入しても、徳川海軍に撃破される。
局所的に幕府が勝っても、後ろのイギリスを叩けなければ勝てない事を悟っていたんじゃないかな。
708 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/13(火) 22:15:15 ID:L6mEMuR50
>>706 幕府軍が動けない状態でどうやって機内の親幕府勢力が動けるというのか。
孤立して括弧撃破されるのみ、というか機内の諸藩はほぼすべて新政府にこのとき下っている。
紀州にしても、鳥羽伏見の前、つまり幕府が朝敵になる前ですら、
新政府につくかどうかで迷っており、篭城して動けなくなれば、
幕府につく義理はない。鳥羽伏見で負けた時点で勝敗は決している。
そのまま将軍もろとも、脱出の機を失い滅亡するだけだ。
また薩摩海軍は逃げ出してなどいない、ただ任務を果たしのた「一隻」帰っただけ。
薩摩の海軍はまだまだいるし、長州の海軍もいる。
また長州海軍に手も足も出なかったのが史実の幕府海軍であり、
最後の行はほとんど妄想といってよい。
709 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/13(火) 23:55:06 ID:z+8nIY0P0
たしか薩摩の軍艦には若き日の東郷平八郎が乗ってたんだよな。
潰瘍丸に大砲を命中させて大阪湾を悠々と去っていった。
榎本艦隊の海軍力は、見掛け倒しだったかもしれない。
現実には、函館での浮上砲台としてしか、活躍例を知らない。
第二次長州出兵:周防大島で略奪暴行を働き、高杉晋作に撃退される
阿波沖海戦:帰国中の薩摩艦への捕捉失敗、榎本艦隊は江戸に帰還し制海権は薩長へ
江戸逗留:抑止戦力なだけ
東北戦争:傍観、兵員積み込み、手遅れな時期に一回艦砲射撃
松前:艦砲射撃で占領に貢献したかと思ったら、暴風で沈没
函館:甲鉄艦に撃退される、浮上砲台として一戦を行い沈没
なんでそんなに弱いの?
作戦下手? 砲撃下手? 操舵下手?
その全部だろ
まだまともな運用方法すら確立されてなかっただろ
幕府は何でも指揮が下手。
戦争のスペシャリストがトップにいないんだよね。
洋式軍隊を作っても指揮官は洋式の訓練を受けてない。
多分薩長との差はその点だと思う。
あちらは洋式軍隊の組織化の段階から現場に関わってた連中が指揮してるからね。
鳥羽伏見の時の軍指揮官達なんてその最たるもんだな。
薩長には装備で勝ってた歩兵隊を生かせず、確たる戦略も無しに前進して、数で劣る敵に各所で負け続ける。
伏見から脱出した部隊が、指揮官がさっさと淀まで逃げたせいで、無為に一夜を明かしてから三々五々に撤退とか何の冗談かと。
歩兵隊の奮戦も、会津武士の決死の攻撃も、結局何一つ生かせなかった。
慶喜が本当に絶望したのは、その辺かとすら思うわ。
>>681 野口氏が慶喜に厳しいのはいつもの事なんだから気にするなよ。
その慶喜批判も、昔に比べれば随分マイルドになってるじゃないかw
>>692 春嶽は大政奉還の後、容堂と一緒に幕府の為に御所で奮戦して良い所まで行ってたんだから、
せめてその辺は評価してやってくれよw
715 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/15(木) 00:15:12 ID:/1sDXW9D0
指揮官が天下りばかりではどうしようもない。
慶喜の立場に立てば、幕府の弱さは身に染みているだろう
長州征伐
慶喜「負けようのない戦だよな!」
幕閣「ボロっかすに負けましたが。何か?」
慶喜「口あんぐり…」
長州征伐パートU
慶喜「今度は俺がやる!長州大討ち込みだ!」
幕閣「いえ…もう小倉もほったらかして皆帰ってきました…最前線には誰もいませんが。何か?」
慶喜「口あんぐり…」
鳥羽伏見
慶喜「戦やるっていうけど、負けたらシャレじゃすまない。あぶないなら戦争しない方法で…」
幕閣「いえ、今度は絶対に勝てますから、戦争しましょう!」
慶喜「で?結果はどうなった?」
幕閣「負けましたが。何か?」
鳥羽伏見パートU
幕閣「上様が御出馬すれば、士気も上がって勝てます!」
慶喜(ロクに作戦案も出さずに、俺が出て行くだけで勝てるか馬鹿共が…)
慶喜「じゃ、出陣するぞ!」
幕閣「わーい…って上様逃げた!負けたのは上様の責任で、俺たちは悪くないって事で!」
江戸
小栗&幕閣「今度は間違いなく戦ったら勝てます!」
慶喜「もういい…恭順な…」
小栗「絶対に絶対に勝てますってば!」
慶喜「うるせー黙れ、お前ら全員クビな。勝呼べ。恭順だ」
>>716 第一次長州征伐は失敗していたか。
戦っていない、と思うが。
718 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/15(木) 22:01:20 ID:/1sDXW9D0
第一次長州征伐は西郷が丸く収めたからな。
慶喜とは、常に薩摩に振り回されてる操り人形のような存在だと思う。
久光に対しては所々で反抗期の若者の如く無為な反発が見られるが、自己顕示欲から発しているため周囲から理解が得られない。
西郷「あん若造の好きにさせてはいけん。妨害すっと」
慶喜「またしても西郷め〜!」
幕末日本の最大野党である薩摩藩に終始挫折を強いられ、
薩長連立政権の樹立で幕府は幕を閉じた。
719 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/15(木) 23:03:26 ID:1hb4Yv5b0
>>708 官軍への補給が確保出来ていないのにどうやって大阪城の包囲をどうやって続けるのか?
幕府軍は、大阪天王寺に莫大な食料と弾薬を集めている。
コレを大阪城に運び込んでしまえば幕府軍の補給は確保される。
下手に大阪城を官軍が攻めれば、補給の厳しさから大阪市内で略奪をしかねない。
おそらくそうなるだろう、また、大阪市内に突入した官軍に幕府海軍が艦砲射撃
を加えて大阪市は丸焦げになりかねない。
大砲の性能関しては、鳥羽伏見の戦いの時点では官軍と幕府軍の差は無い。
むしろクルップ砲もつ幕府海軍を加えれば幕府軍が有利かもしれない。
大阪城の大堀や土塀を超えられなければ、大阪城攻防戦に官軍は負けるだろうな、
便宜的に京へ戻るとか行って。
>>719 >大阪天王寺に莫大な食料と弾薬を集めている
大坂は尊攘派のたまり場ですので、放火されて燃やされるでしょうw。
慶喜が大坂城に入った段階で運び込んでいない(それほどまでに幕府は馬鹿)のならば無理ですねw
721 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/15(木) 23:57:32 ID:/1sDXW9D0
籠城軍相手の補給線の確保なんて、時間の問題だろ。
初戦で勝っている官軍が下手に大阪城を攻める必要がそもそもないわけで・・・
どんだけ頭悪いんだ。
ぶっちゃけ大政奉還で幕府の負けは確定してるじゃんw
戦に勝った所で政権は無いw
むしろ戦うほどに不利になるだろう
政権を返上したのに京都へ向けて兵を送り、朝廷を武力で脅し上げた時点で朝敵ケテーイ
723 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/16(金) 04:55:15 ID:b4MYq4890
>慶喜が大坂城に入った段階で運び込んでいない(それほどまでに幕府は馬鹿)のならば無理ですねw
そこまでしなくても勝てると思ったんだよ。
>>723 >そこまでしなくても勝てると思ったんだよ
戦争しようってのに兵糧の確保もしていない
その間抜けな行為を”そこまでしなくても”と言っている時点でダメでしょ。
君の油断は幕府上層部の油断そのもの。
その油断が、絶対に勝てる戦を負けにしたのだ。ここに真の敗因がある。
だからどうあがいても幕府は負ける
>>722 鳥羽伏見って、実は睦仁親王の救出作戦だったんじゃないのかな?
726 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/16(金) 12:34:52 ID:PBNTgeUv0
>>724 >君の油断は幕府上層部の油断そのもの。
>その油断が、絶対に勝てる戦を負けにしたのだ。ここに真の敗因がある。
その戦いの敗因とは鳥羽伏見の戦いの事で、
慶喜の大阪城放棄は彼の個人的属性や精神状態がある。
鳥羽伏見の戦いの敗因と大阪城放棄の理由は全くの別物。
大軍率いて少数の薩長に負けて、おまけに朝敵
彦根藤堂淀など次々と裏切られて、大阪城内は疑心暗鬼
恭順派、篭城派、再び京出兵派と小田原評定状態
松山藩が裏切るぞ!姫路藩が慶喜の首持参して官軍投降計画!
など城内は色んな噂が飛び交う
夜が明けるごとに兵が減る、落ち延びる兵と強硬派が切り合い刃傷事件も発生
そんな中、慶喜の脱出計画未遂に切れた強硬派が慶喜を監禁
一応篭城して官軍の出方を待つ事に決まる
逃亡兵防止と、篭城の準備をもたもたしている間に
官軍には次々と西国大名が参陣、西国の譜代親藩は降伏し、西日本は大阪を除き官軍一色
その頃江戸城では、逆賊薩長を討つべし!と西上軍編成を整える中、鳥羽伏見の敗戦の報を聞く
意見は分かれ、交戦派と恭順派官軍寝返り派による戦いが各地でおこる
どうにか鎮圧した交戦派は、再三の大阪からの出兵要請に応え、1万余の軍勢を整え出兵を開始する
関ヶ原の先例により、陸は東海道、東山道の二手に分かれ、水軍を含めた3方による編成
急遽じたてで整えた水軍ではあるが、名を真官懲薩無敵艦隊
しかし肝心の船が無い!なんとか掻き集めた旧式の船と、漁師に借りた船で西上
それを江戸湾で見た勝海舟は「この時勢に鯨漁とは徳川にも余裕あるなかれ」と日記に認める
5千の兵で出発した東海道軍、東海道の諸藩が加わり数万の軍勢に膨れ上がると豪語していたが
諸藩は城門を閉ざし中立の姿勢、恫喝するも無視され、とりあえず西上
少々の義勇軍も加わり、尾張に着く頃には6千の軍勢に
藩主慶勝による青松葉事件で佐幕派を弾圧し、完全な勤王藩となった尾張藩だが
東海道軍と一戦交えるのも躊躇し、素通りさせるのにも潔しとせず
京にいる慶勝の御意向を聞くまで、しばし待たれよと言われ、東海道軍はここで清閑
東山道も同じように諸藩は中立を保ち、義勇軍が少々加勢した中で美濃に到着
洋式銃の装備で鳥羽伏見、長州征伐で活躍した大垣藩
一旦ここで東海道軍との連携も踏まえ軍勢を整え、次なる進軍を決め大垣城に入城しようとしたら
城から洋式銃による鉄砲の雨が降り注ぐ
家老小原鉄心により官軍に寝返っていた大垣藩の攻撃は躊躇無し
一旦兵を引き、城攻めか西上を急ぐか意見が分かれる中、官軍に寝返った加賀前田6千が南下し美濃関ヶ原に到着
前田軍は関ヶ原で西軍がとった鶴翼の陣で東山道軍を囲む
兵数は260年前と比べ1/10ほどだが、東軍西軍の関ヶ原の再戦が実現した
今回の西軍には小早川や空弁当を食う兵もいない。西軍圧倒的有利。しかし前田は弱かった
火縄銃で応戦し、槍と刀で立ち向かう前田軍。装備だけは一応洋式を揃えた東軍に適うはずもなく
旧石田が陣取った笹尾山の陣が崩れ、旧宇喜田の陣も壊滅
松尾山からは馬に乗り馴れない将兵が落馬し軍が混乱、山を降りる頃にはケガ人続出
南宮山軍は道に迷い、ようやく山を降りた時は反対側に到着していた
勝ったいうより相手が自滅したような戦だったが、とりあえず圧勝
大権現さまが我が軍に御味方した!薩長並びに西国の大名を征伐すると意気込む徳川軍
まず手始めに裏切り者の彦根藩討伐を企てる
しかし近江には薩長の精鋭に数万に膨れ上がる西国大名、後には大垣藩を中心とした官軍に投降した美濃信濃が万を超える
大村益次郎による徳川殲滅作戦が着々と進み、アームストロング砲を備えた佐賀藩が牙を向く
その頃、東海道を進み尾張で進軍が止まっていた東海道徳川軍
尾張藩の煮え切らない態度に業を煮やす中、食料も尽きて来た
一部の将兵による尾張の村への略奪行為が始まり、ついに尾張藩は重い腰を上げ戦闘開始
兵力に勝る徳川軍有利な戦況に、美濃近江の国境で東山道軍惨敗の報を聞く
たちまち兵は逃亡し、一夜にして2千にまで兵が減り、三河遠江から官軍を名乗る諸隊が誕生し押し寄せる
一旦江戸へ兵を引く事を決意。しかし官軍色に染まった東海道の帰路は草狩り場と化す
ところで海路を行く真官懲薩無敵艦隊はどうしたかと言うと
あまり航海技術の無い兵による操縦は困難を極めた。ようやく辿り着いた紀州だったが、紀州藩の態度は冷ややか
目的地の大阪へと最後の航海を進む中、鳴門の渦潮に巻き込まれ遭難
多くの犠牲を払ったが、一部の舟がようやく陸に辿り着く。しかしそこは薩摩の国だった
私としては、鳥羽・伏見の戦いの前段階の幕府の決断が全てを決めたような気がするな。
もし、薩長と決戦するなら、慶喜公自ら先頭に立つか、前線総指揮官を決める。
そのうえで、具体的な京都攻略作戦を立案して、作戦計画を立てて、行動すべきだった。
決戦回避なら、大坂城に軍の主力をとどめ置き、大阪から京都への物流を遮断し、ひたすらにらみ合いを続けるべきだった。
ところが、史実で採用したのは、中途半端な幕府軍の威容を示しての京都への行軍で、戦う覚悟がまるでできてない。
慶喜公にしても、部下がそうしたいなら勝手にそうしろで、うまくいけばめっけもの、という態度。
これでは、幕府軍との一戦の決意を固め、孝明天皇を暗殺する等の謀略を駆使していた薩長に勝てるわけがない。
729 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/17(土) 00:16:27 ID:KI+Ex9y60
>>728 禿同!
幕府側には計画性が無いね、行き当たりばったりで。
それに正月早々に開戦した理由も良く判らん、西郷でさえ開戦には、あと2〜3ヶ月後かと思っている。
730 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/17(土) 00:46:08 ID:ZnpKm8mC0
孝明天皇暗殺を決めつけているしw
さすが会津観光史学はキモイ
>>730 孝明天皇の病状の急変を見れば、暗殺を疑うのは当然だろう。
順調に回復していたのに、いきなり急死するなんて。
余りにも薩長に都合がよすぎる。
>>731 君の言っている事は古いw。たぶん君の言う病状の変化とは
「疱瘡になる→回復に向かう→突然急変悪化→死亡」だろ
最近の学説では…
「疱瘡になる→朝廷は政局への影響を考慮し回復に向かうと嘘を発表→でも実際は悪化の一途を辿る→
さすがに隠しきれない朝廷は、容態が急変したと言い訳→死亡」
これは、医者の記録とやらでは「回復しつつあり」とあるが、孝明天皇に近い公家の日記では発病するや一方的に悪化し死に至っている事、
疱瘡の病状から医者の記録より、この公家の日記の方が自然である事から、孝明天皇の回復の兆しは政局を考慮した政治的な意志により捏造されたのだろうとされている。
>>726 >その戦いの敗因とは鳥羽伏見の戦いの事で、
このスレは鳥羽伏見のスレではないのか?
また鳥羽伏見に限らず、第二次長州征伐でも、
”幕府軍がまず最初に負ける”然る後に”慶喜が弱気になり…”
であり、慶喜をそういう精神状態にしたのは”幕府軍の弱さに原因がある”の。
>鳥羽伏見の戦いの敗因と大阪城放棄の理由は全くの別物。
別物wって。一緒でしょ。
第一日目、薩摩に買って京都に入って買っていれば慶喜が大阪を捨てる必要は無かったし、
そもそもそういう計画だったはずだ。そして薩摩に勝てるだけの数倍の兵力も装備も持っていた。
結局、それで勝てないのは幕府主戦派の油断にあり、そこに真の敗因がある。
しかもそれはこの時一度ではないよね。
第二次長州征伐でも全く同じ油断からボロ負けしてるだろw。
735 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/17(土) 11:45:42 ID:stMRIUSn0
>>734 明治天皇すり替え説かw
アレにいたっては論外だ。
バカバカしくて学会でも取り上げられていない俗説中の俗説。
そもそも根拠となる史料が全くない。
故に説としても成立せず、信じている奴の方が馬鹿だろw
もうちょっと詳しく言えば…
この説は孝明天皇が毒殺されている事が前提で始まる。
学会では毒殺ではないという学説が一般的だから、出発点から話しにならない。
また、すり替えられた睦仁親王のその後がまったく言及されていない。
すり替えられたとは言うが、では本物の明治天皇のその後に関しては何も語っていない説でありご都合主義的に過ぎる。
第三に、この説の出所は大室近祐の話で、大室一族の売名行為でしかなく、
本質的には、昭和初期に昭和天皇を訴えて「私が本物の天皇だ」と言い張った熊沢天皇事件と何ら変わらない。
736 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/17(土) 11:52:40 ID:stMRIUSn0
ついでに言っておくが…
孝明天皇の死んだ日は、長州征伐の最中で朝廷は幕府の一橋会津桑名が確保している時期だ。
長州系は手が出せず、薩摩藩も然りだ。
岩倉具視の京都から追放されている身の上で、彼が復権を果たすのは王政復古前夜。
天皇は殺せても、その後の幼少の明治天皇を手に入れた幕府が好き放題やれるんだよw。
そんな馬鹿げた時期に殺すと思うか?。
下手を打てば、長州藩の朝敵解除する天皇が居なくなり、長州藩は永遠に朝敵のままだぞ。
737 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/17(土) 13:33:22 ID:cyCl6yNO0
長州戦争のために旗本を徴兵しようとしたら、みんな子供に家督を譲って隠居してしまいました
738 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/17(土) 13:36:09 ID:ZnpKm8mC0
証拠などないのに、俗説・巷説でしかない天皇暗殺説を信じたいのが会津観光史学洗脳者
憐れというか・・・
それだけ、孝明天皇暗殺説を掲げる文芸春秋という雑誌に権威を感じている、ということ。
実際のところ、この説にはなんら根拠もない。
当時天皇及び皇子の周りにいたのは、一橋慶喜・松平容保・松平定敬らであった。
岩倉具視は蟄居中で、文芸春秋が犯人と呼ぶ女官も含め宮中に身の置き場がなかった。
長州は朝敵にされており京都にすら近づけず、薩摩すら天皇に近づけたか怪しいほどだ。
明治天皇を薩摩が自らの陣営に引きずり込んだのは、外戚の大原重徳と
接近してからであり、孝明天皇在位中ではない。
要するに、孝明天皇在位中の宮中の警備責任は、一会桑にある。
暗殺が行われたのなら、一会桑が犯人なのだろう。
孝明天皇病死説の最大の難点は、誰から感染したのか、不明なのだよな。
あの頃、天然痘が京都で流行していたという記録はない。
また、孝明天皇が亡くなる前後に、孝明天皇の近臣が天然痘に感染したという記録も見た覚えがない。
天然痘は極めて感染力の強い伝染病なのだから、孝明天皇だけ天然痘に感染したというのはどうにも不自然。
原口氏の著作を読んだが、誰から感染したのか、は書いていない。
一体、誰から感染したのだろうか。
「明治天皇が大原重徳を信頼し、彼の意見なら容れる」なんてことは、
孝明天皇が死んだ後でなければわからない。
孝明天皇が死ぬまでは、明治天皇は孝明天皇の意思に完全に従っていたのだから。
要するに、大原重徳というキーパーソンを薩摩が知り、万難を尽くして同盟者にしたのは、
孝明天皇の死後ということになる。
新政府側孝明天皇暗殺説を語る人間は、結果から類推するので
事後関係や過程がおかしい。
当時の条約改定問題を考えれば、一会桑の側こそ怪しい。
742 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/17(土) 18:18:19 ID:kRljRtEM0
>>740 松平定敬が天然痘に罹患したときも、
周囲に患者がいた、という記録は聞いたことがありません。
>天然痘は極めて感染力の強い伝染病なのだから、孝明天皇だけ天然痘に感染したというのはどうにも不自然。
この意見は、撤回すべきでしょう。
>>742 松平定敬の看護をした近臣が感染した、という記録を読んだのだが、あれは大ウソだったのか。
744 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/17(土) 19:25:22 ID:kRljRtEM0
>>743 「定敬の看護をした近臣が感染した」
逆ですね。きちんと患者に医者がいて適切な処置をとれば、
その人から感染することはありません。
むしろ、その貴人の罹患以前に周辺に患者がいたのか、
それが問題です。あなたの返答は意図をはぐらかすものでしょう。
どうも、不利な質問があると、意図的にずらした回答を出してくる人が
佐幕派、と呼称される人には多いような気がします。
佐幕派と呼ばれる人の文章には、不自然が過ぎます。
慶喜は朝廷の裏事情も知っていたようだが、維新後はとぼけて沈黙している。
側近の原市之進はしばしば岩倉と密談していたという
岩倉の側近だった香川敬三(これも元水戸藩士でしかも元慶喜側近)の証言もあり、
岩倉と慶喜が裏では折衝してたことを伺わせる。(慶喜に強硬だったのは薩摩)
しかし岩倉も慶喜も香川もその辺の関係は沈黙を通した。
747 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/17(土) 23:36:13 ID:ZnpKm8mC0
>>745 なるほど、佐幕派は自身の欺瞞をはぐらかす為に薩長へ疑惑を転嫁する。
会津観光史学の正体を見た気がする。
748 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/18(日) 07:42:06 ID:0ueb/MQS0
というか当時の状況を考えれば、暗殺したのは幕府だろうがw
孝明天皇はがちがちの攘夷論者。開港問題で幕府と朝廷は対立していた。
特に孝明天皇は幕府が攘夷してくれると思っていたから、幕府よりだっただけで、
天皇を幕府が裏切った場合、天皇が敵に回りかねない。
だから天皇を暗殺して、幼君を担ぎ出した。
という説のほうがよっぽどもっともらしいわw
佐幕派はほんと頭おかしいよ。
なるほど、そうすると本当の朝敵はやはり薩長ということですな。
750 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/18(日) 21:02:00 ID:h1GabcMG0
たしかに佐幕派は頭おかしい。
まともな会話ができないようだな。
明治天皇って、鳥羽伏見で馬上から閲兵したんだろ。
こういう関わり方って天皇がするものなのか?
進行中の戦争の首謀者・司令官だぜ。
仮にそうだとしても、明治政府への関わり方が薄くない?
飾りとして閲兵させたなら、それこそ薩長は朝廷軽視もはなはだしいと思うぜ。
752 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/19(月) 17:10:32 ID:kwBZwMAr0
江戸時代を通じ、天皇は御簾の内より出ることはない。
それを西欧式に閲兵させたのが薩長だ。
それまでの伝統を重んじるか、以後の西欧君主のやり方にするか、
対応に差があったということであり、
何でもかんでも薩長を叩けばよい、という意見はまともではない。
753 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/19(月) 18:01:31 ID:7Gp/julq0
つうか当時の人間も現代人も、何でもかんでも慶喜に押しつけすぎ
260年直参と大奥が溜めにため、溜まりに溜まった膿を、
どうやったらたったひとりの人間が解消できるってんだ
慶喜が大政奉還と恭順をして、その後の人生においても沈黙を貫いたからこそ
騒乱はあの程度で済んだんだと理解するべき
754 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/19(月) 20:18:39 ID:EzKRKdcE0
>>751 >飾りとして閲兵させたなら、それこそ薩長は朝廷軽視もはなはだしいと思うぜ
一つ質問させてくれ。
天皇の閲兵で、天皇が飾りじゃなかった閲兵式ってあったか?
日本史に限らず、世界で王様が閲兵した時、飾りじゃなかった王様って居たっけ?。
是非教えてくれ。
>>754 内戦で天皇が閲兵した戦を教えてけれ。
お前が言ってるのは、明治以降の観兵式のことじゃないのか?
もしくは大海人皇子あたりまで遡るとかw
756 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/19(月) 23:08:08 ID:EzKRKdcE0
>>755 >内戦で天皇が閲兵した戦を教えてけれ。
あのさ…
俺に聞いてどうすんの?w
「飾りとして閲兵させたなら、それこそ薩長は朝廷軽視もはなはだしい」とお前が言ったんだよ。
ということは、そうじゃない事例を知っているから言ったわけでしょw
それを俺が質問してるの、
ぶっちゃけ「大海人皇子」まで遡っても良いからw教えてくれ。
757 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/19(月) 23:11:30 ID:EzKRKdcE0
補足しておくが…
「天皇が見てただけ」は「飾り」だよ。
大抵、時の権力者が天皇を担ぎ出して”飾り”とし、兵士の士気を鼓舞したり大義名分にしたりしている。
こうした事例なら、俺も多く知っている。
そうじゃない事例を教えてくれ。
そうじゃないだろ、内紛に天皇を利用するような人間・集団が薩長の他に居るのか?
それを聞いているのだ。
少し訂正しよう。 利用するしないでは解釈に幅があるからな。
内戦で天皇が閲兵した戦があるかないか、お前が知っているか居ないかだけを聞いている。
Yes/Noだけでいい。因みに751とは無関係だw
760 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/20(火) 20:27:00 ID:qDtoulJb0
>>758 それまでの揶揄と、質問の中身を変えて正当化を図っている。
この文章は卑怯なのではないか?
慶喜は二条城を幕府・旗本などと折り合いの悪い水戸藩に敢えて任せて大阪に引き上げている。
薩長との武力対決を考えていたなら有り得ない配置。実際二条城に入ってきた幕府軍を
水戸藩は強硬な態度で追い出した。王政復古後、これら水戸藩士達は慶喜の恩赦、減罪を朝廷に嘆願し、
これは慶喜の幕府倒壊に際しての保険だったのかもしれない。
762 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/22(木) 14:33:03 ID:hwcTXbJa0
幕末史をかじった身で関ヶ原の戦いや大坂の陣に関する文章を読むと切なくなってくる
武備兵力では負けていないのに、戦略眼がなく指揮系統の混乱・相互不信などによって惨敗した西軍
深慮遠謀を駆使した家康の指揮の下整然と統率されて闘い勝利した東軍
大坂の陣とは、15年にわたる家康の豊臣勢力削減作戦の総決算だったにすぎない
その家康公の薫陶を受けた徳川の精兵も、250年の安楽には勝てなんだか……
>>762 それを言うな。
井伊直政や井伊直孝が、幕末の彦根の赤備えの体たらくを見たら、号泣するぞ。
毛利兵から、かほどに弱い兵がいるとは、と嘲笑され、江戸市民からは、俺たちが志願した歩兵隊と比較してなんだ、と馬鹿にされたそうだから。
そして、強いものには巻かれろ、と速やかに幕府から薩長に鞍替えする始末。
錦旗が出る前に、慶喜を裏切っているのだから、弁解のしようがないな。
赤備えが根本的に時代錯誤なのを全く理解してないw
ゲーベル銃ではミニエー銃に対抗できないとか、そんなの当たり前で
幕府軍にもミニエー装備した部隊があるんだから事前に把握しとけw
装備面で明らかに不利なのは事実でも、状況を把握してれば戦いようもあるはずなのに。
彦根藩が裏切るも何も、朝廷が尾張藩と同様に朝廷の警備にお誘いしただけですってば。
ただ、あの時点で天皇と朝廷を押さえているのは、
子御所に集いし明治新政府の連中なのですが。
766 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/23(金) 19:17:22 ID:II6Ut3+/0
>>762 別に東軍も一致団結していたわけでも、統率がとれていたわけでもない。
豊臣恩顧の大名が裏切ってもおかしくなかったし、
謀略がすべて不発に終わる可能性だってあった。
戦は運だよ。
毛利がさっさと進軍していたら、福島加藤らが裏切ったかもしれんし、
小早川はどっちにつくかで悩んでいた。東西両方が参加大名に裏切りの約束をしていた。
>>764 赤備えが時代錯誤ねえ。
イギリス陸軍の軍服には21世紀になった未だに赤が現役なのだが。
763は、関ヶ原から大坂冬の陣、夏の陣の彦根藩兵と比較して、幕末の彦根藩兵の体たらくを嘆いて書いたものにしか読めないのだが。
後、ミニエー銃は、戊辰戦争で旧式呼ばわりされていなかったっけ。あんな前装式ライフル使えるか、と後装式ライフルが主流に戊辰戦争では移行していた筈。
赤備えが赤いから時代錯誤だという意味ではないだろう
>>767 >>768の言うとおりなんだけど、井伊の赤備えってのは甲冑、篭手、脛当、旗差物に到るまで
全てを赤で統一した装備。
井伊はこれらの軍装を第二次長州征伐に持ち込んだわけで。
幕府軍だってちょっと気の効いた者は軽装で参戦してるなかで、あまりにも時代が違いすぎる。
イギリス陸軍の軍服は実戦では違うだろw
それと鳥羽伏見の戦いまでが両軍とも前装だと思う。
その後は後装に次第に切り替わる。
長州兵が後装を受領したのが江戸入城の頃だったらしい。
770 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/23(金) 22:33:12 ID:wSsCGWAQ0
>>358 >そうじゃないだろ、内紛に天皇を利用するような人間・集団が薩長の他に居るのか?
>それを聞いているのだ。
いっぱいいただろうw
日本史上のほとんどの権力者がそうだったでしょうにw
古くは物部一族、蘇我一族、藤原一族
鎌倉時代前後は平清盛に源頼朝
南北朝では足利尊氏
戦国時代は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康
江戸幕末では、徳川幕府佐幕派
公武合体などその最たるもので、一橋慶喜、桑名藩松平定敬、会津藩松平容保らがこれをやろうとし、
長州征伐の折には勅を出して貰う朝廷工作を三人がしている。
長州征伐に失敗したので意味が無かったがねw。
そして薩長も又天皇権力を利用した。
>少し訂正しよう。 利用するしないでは解釈に幅があるからな。
>内戦で天皇が閲兵した戦があるかないか、お前が知っているか居ないかだけを聞いている
答えられなくて困り果てたからって、勝手に訂正すんなよw
聞いているのは俺の方なのw
先に俺の質問に答えろ。話しはその後だよ。
イギリスが幕府について近代化が行われたら、
あらゆる点で今の日本とは違う形になったと思う。
772 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/24(土) 08:00:15 ID:S4tcMVDW0
>点で今の日本とは違う形になったと思う
天皇はイギリス皇室と同じ扱いだが、
幕府自体はヨーロッパ式の市民革命思想(人は生まれながらにして平等の権利がある=キリスト教国の革命思想の原典)
をイギリスから注入されて破滅するだろう。
この場合、明治維新では大名に一人も処刑されなかったが、ヨーロッパで行われた革命のように特権階級=上級武士は全員ギロチンw。
凄い流血の末に、素晴らしい民主主義国になるかもねw
>>769 戦国時代に名をはせた真田家、松代藩は、会津戦争において、苦戦する薩摩藩兵をしばしば救援し、さすが日本一の兵の末裔、と感嘆された。
また、井伊直政と並ぶ徳川四天王の酒井忠次の子孫、庄内藩も会津戦争で、薩長軍を敵に回し、一歩も引かぬ奮戦を果たし、先祖の名を辱めなかったのに。
彦根藩の体たらくは、余りにもひどすぎないか。
774 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/25(日) 01:22:32 ID:2iy2MRsF0
イギリスが幕府について近代化が行われたら、
まさに同時代の清か帝政ロシアのような末路が予想できる。
そして日本は今頃、共産主義国家になっているんじゃないか?
775 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/02(日) 20:35:10 ID:p+04b6hMO
>>773 彦根の井伊の祭備えは、
第二次長州征伐で、長州藩に散々痛い目にあわされた後も、
旧式軍備のまま、明治維新を迎えたのかな?
鉄砲を揃える金がないから、警備用人員さ。
大多数の藩がそうだったので、別に佐幕野郎が罵倒すべき問題とは思わない。
しかし幕府軍は、フランスの顧問団まで引き入れてた割に、何であんな残念なことになったんだろう。
なんか部隊指揮官ですら戦場に騎乗のまま乗り込んで狙撃されてるし。
ですら、ではなくて部隊指揮官が最大の癌w
優秀な歩兵隊を指揮するのが洋式訓練を逃げ回った上級旗本では勝てない。
大鳥みたいな実力で成り上がった指揮官がいればそれなりに戦えたんだけどね。
>>776 大多数の藩の財政が破たんしていて、更に戊辰戦争について寄らば大樹の陰で日和った、と書くのが正解だろうな。
780 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/04(火) 19:48:18 ID:TYOGPKiP0
>>766 関が原の戦いの後だって、西軍が挽回するチャンスがあった。
関が原で西軍を破った東軍は、大阪城に進軍し、史実では大阪城に居た毛利輝元と
家康と交渉し豊臣家には手を出さない事を条件に毛利勢は大阪城を出て国元に帰り
大阪城をも徳川が抑えた。
しかし、その時に大阪城には豊臣家直属の軍勢2万と毛利勢3万、合計5万の
軍勢が大阪城には居た、もしこの時に毛利輝元が断固家康と決戦を主張し5万
の軍勢で篭城していたのなら、家康は大阪城を落せなかっただろう。
家康の東軍は、関が原では勝ったとはいえ、被害も大きく補給もままなら無い
事から、大阪城を落せなかった可能性もあるのだ。
鳥羽伏見の戦いの後に慶喜が篭城すれば、同じ事が起きたかもしれない。
鳥羽伏見の戦いで勝った薩長も補給がままならない状態だったのだ。
>>780 このスレの薩長側の主張を信じるならば。
彦根藩の寝返りにより、薩長には若狭湾からの補給が確保されていた。
逆に幕府海軍は練度が不足しており、百戦錬磨の薩長海軍により大阪湾の制海権は薩長側にあった。
したがって、鳥羽伏見の戦いの後、大阪城に幕府軍が籠城していれば、兵糧攻めで幕府軍はあっという間に崩壊していた。
というのが、このスレで既に確定している。
780は、幕府びいきの妄想もいいとこ
782 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/05(水) 00:51:56 ID:vg2Zd78K0
幕府厨房よ、とうとう気が狂ったか。
誰もそのような馬鹿な議論はしていない。
お前の理論が通らない部分を他人が指摘し、
お前が勝手に極端な例に潤色しなおして自己正当化しているだけではないか。
783 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/05(水) 01:03:04 ID:vg2Zd78K0
幕府厨房の言う「無敵の榎本艦隊」とやらは、
実際の歴史では張子の虎で、実戦で役立つことがほとんどなかった。
でも、旧幕府艦隊は、理論上は圧倒的な海軍力があったため、
薩長から警戒されていたというのも史実だ。
錬度は甚だ不足、薩長艦船からは逃げられ、あるいは乗員上陸時を叩かれ
おまけに暴風雨で主力艦まで失った。
しかし、まともに役に立つ機会がなかったわけではない。
徳川慶喜の江戸からの退去までは、抑止力として十分機能している。
大阪湾に駐留していれば、似た展開になった可能性は十分ある。
徳川慶喜が大阪城もろとも、その可能性を消したのだけどね。
784 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/05(水) 06:46:45 ID:+y+VJYMt0
勝海舟→軍艦は日本を守る為の力
佐幕贔屓の厨房→軍艦は幕府を守るもので、敵は薩長。利権を奪われたり植民地になっても幕府が残れば勝ち!
(勝ってどうするという事は考えないw)
薩長は畜生だから、幕府が勝てばよかったのに
>>783 何が言いたいのか、分からない。
錬度は甚だ不足等々と言っているが、それが本当なら、抑止力にも何にもならないではないか。
大阪湾に駐留していても、薩長海軍にとって、何の脅威にもならないではないか。
そして、薩長はそれを熟知していたからこそ、開戦したのに。
787 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/06(木) 00:32:56 ID:2GKHF7XcO
>>781 籠城ってwww
時間かけたら江戸から幕府の主力部隊が来て、薩長やられるだろw
788 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/06(木) 02:11:30 ID:x3gOApxb0
>>787 幕府の主力部隊って、腰抜け旗本とチンピラ歩兵隊のことか?
薩長の餌食にされるだけだw
>>787 薩長の主力もまだ京都まできてねーんだよ。
大村益次郎はまだ状況してねー、
つまり幕府軍10万以上を蹴散らした長州軍はまだ1000しか到着してないわけ。
どうやって幕府軍勝つんだよw
戊辰戦争で旧幕府軍が勝った戦いは何度かあるが、寄せ集めの諸藩が崩れただけで、
薩摩や長州の軍はまず負けていないぞ。
>>789 長州軍1人をもって、100人以上の幕府軍と戦えるのだぞ。
これで、旧幕府軍が勝てるというのは、妄想だな。
791 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/07(金) 10:57:45 ID:IIvZ0EHt0
>>790いわく
>長州軍1人をもって、100人以上の幕府軍と戦えるのだぞ。
まーそれは兎も角、在江戸の歩兵隊は1650名ぐらいだろ?
それに幕府海軍の練度は知らんが、海域封鎖し続けるって結構大変だぞ。
捕捉手段が目視のみの時代だから、少なくとも大阪-兵庫沿岸に軍艦を貼り付け続ける必要がある。
場所が内海だからその辺は蒸気船に有利だが、石炭・食料・水・弾薬他の
補給港は近くに必要になる訳で。ずっと海上封鎖し続ける積りなら。
793 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/08(土) 01:24:46 ID:qRSt6XI80
>>789 いくらなんでも幕府軍10万を蹴散らすは言い過ぎだろ。
薩摩3,000 + 長州1,500 VS 幕府軍15,000 と記憶しているが。
さらに官軍で実際に鳥羽伏見の初戦の戦闘に出たのは、最前線守備の1,500ほどで薩摩が主力。
残りの官軍は京都の守りについていた。土佐は忘れたが1000もいない。
幕軍の最大人数が戦闘に参加したとしても、前線の比率は官軍1に対し幕軍10くらいでないの?
にしても幕府弱すぎだがw
幕府方15,000といっても、やる気と行動力がともなってるのは会津と新選組で3千ちょいでしょ。
武装は貧弱だし、そのへんの内実は最近まで幕府方だった薩摩はよく知ってただろうから、
というか知ってたから、薩摩3,000(最新武装)でも絶対勝てると決行したんでしょ。
海軍は知らんが。
確かに幕府海軍の実力は未知数だが征長の際には座礁事故を多発させて作戦がまともにできていない。
薩英戦争では、英国の海軍とはいえ余りカッコいい活躍はしていないからな。
当時海軍が決定的な役割を果たすのは海軍同士の戦いの場で、
相手が海軍を持っていない or 内陸の戦いが主だったりすると全く役に立たない存在。
>>796 南北戦争の北部海軍は、役立たずだったっけ。
南部に対する海上封鎖等々で活躍してないか。
南部にろくな海軍はなかったはずだが。
通商破壊はできるが、海上封鎖は無理。
つまり幕府の大阪は完全に孤立するってこと。
幕府海軍の操舵技術のお粗末ぶりからして座礁事故が多発し
通商破壊だの海上封鎖どうこうというような段ではないと思う。
無事に航行することが出来れば上出来といったレベル。
たとえばナポレオン戦争の基準だが、封鎖艦隊は被封鎖艦隊に対して、予備艦含め1.7倍の戦力が必要という論文がある。
敵戦力が封鎖されていない状況での海上封鎖はより困難になる。
敵が戦力の集中場所・時期を選択できるのに対し、それを迎撃する封鎖艦隊は、それ以上の戦力を常時維持する必要があるから。
801 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/09(日) 04:01:37 ID:/mV5Kh0H0
幕府海軍を貶める薩摩厨がいるようだが、
薩摩海軍もそれほど錬度があると思えない。
大阪湾では幕府海軍に反撃すら出来ずに、逃げ出した。
802 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/09(日) 04:04:54 ID:WRtQVpE+0
反撃した上で、当初の予定だった薩摩への帰還をしたのですが、
何か妄想に幕府厨房は取り付かれているらしい
803 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/09(日) 09:43:48 ID:D1er2Ee50
>>801 薩摩の艦艇は大坂にいたのは春日一隻のみ。
開陽が沈めたのは輸送船。
むしろ、江戸の庭羽田沖で取り逃がし、兵庫沖でも取り逃がした幕府海軍の下手ぶりがw
幕府海軍は、戦時体制で羽田と兵庫に展開していたのにw
804 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/09(日) 15:22:57 ID:ZP1a1Zgm0
東郷平八郎
805 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/13(木) 23:48:54 ID:WRocP0mI0
京都奪還に失敗した時点ですべてをあきらめた慶喜は立派だと思うよ
大坂や江戸で籠城すれば長期戦になる
徳川は敗北しないだろうが天下再統一もない
ダラダラ長期化して外国が喜ぶだけ
806 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/16(日) 09:47:18 ID:fthfzMne0
フランス「慶喜君、兵隊と武器貸してあげるね♪お礼は蝦夷地まるごとで良いよ」
イギリス「薩長君、幕府とフランスを倒せる兵隊と武器貸してあげるね。お礼は蝦夷地と鉄道敷設権でいいよ」
ロシア「なに?北海道くれるの?じゃあ、俺は北海道と対馬くれよ。参戦理由?邦人保護で強引にはじめちゃえばいいじゃん!」
アメリカ「んじゃ、俺は小笠原を貰おう!日本の政府は割れて、事実上無いようなもんだろw」
グラバー&スネル「なんでもいいよw美味い儲け話があればどっちが買っても損失でないから」
諸外国の統一意見「で、どこで線引きする?アフリカみたいに適当に分割しちゃっていい?日本列島」
当時、ワシントンポストが、日本の政情を語るコラムがあれば、
「ヨシノブはルービーなチキン・・・」と書いただろう。
808 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/16(日) 17:51:39 ID:99tSBlLC0
と、南北戦争でそれどころじゃない事を知らない佐幕ヲタがトンチンカンな書き込みをしている
>>805 あきらめたというより財政的に脆弱な新政府
薩摩討幕派を戦わずにつぶし、新政府に自分が
食い込むチャンスはまだあると思い込んで大坂を
捨て「天朝に異心なし」工作に踏み込んだ。
しかし大坂城には城を放火して城を枕に自決する
者がいてこの工作が台無しになったばかりか
福井藩が慶喜に悔悟謝罪を「異心なし」の担保に
要求したため慶喜は失脚し、城外謹慎江戸開城に
追い込まれた。勝義邦が慶喜の復権に尽力するも
「異心なし」工作が旧幕府軍抗戦派を補給させず
自滅に追い込み上野戦争が徳川政権復活の根を絶った。
>>806 イギリスは財政難で緊縮財政。そんな余裕はない。
フランスは慶喜が江戸に帰って来た段で支払い要求してる。
アメリカは南アメリカに夢中で、東アジア自体に余り興味無い。
そんな時期。
>>810 アメリカは南アメリカに夢中って、何かしてたっけ。
ざっとネット検索をかけたが、それらしいのが見当たらないのだが。
メキシコなら、北アメリカになるだろうし。
そもそも、当時はアメリカは国内再建に手いっぱいだったと思う。
いったい、何をしたの。
812 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/17(月) 23:37:39 ID:E5Lf0GGv0
最高の倒幕の志士は幕府直参衆ってことでよろしいですね?
志士身中の虫・・・
>>811 アメリカの貿易額と海軍の配置の推移。
種本はアジアの海の大英帝国だが、いま手元に無いので具体的な数字は勘弁な!
>>814 それは、ちょっと根拠として微妙な気が。
1930年代、日本の最大の貿易相手国は米国で、海軍も対米重視だった。
だからといって、日本は1930年代に米国に夢中だったとはいえない。
実際には、日本が中国大陸重視だったのは否定できないと思う。
つーか、そのときアメリカは日本移民排斥法を作るなど、
日本人への警戒感が強かった。
だんだん時代が・・・
>>815 対中外交でも、アメリカは積極的な関与を放棄してるんだよ。それは対日外交でも同じ。
列強が干渉したら、その後追いして美味しい所だけ頂こうってハイエナ作戦。
もうちょっと具体的な記述あったかもしらんが、それは再来週まで勘弁してくれw
819 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/25(火) 00:28:07 ID:ErYR9Wz10
>>793>>794 鳥羽伏見の戦いでは、むしろ幕府軍の方が武器の性能は上ですよ。
幕府軍は運用を大失敗した。
運用って言うか、これらが問題じゃね?
1.上層部に戦略を立案できる人材が居なかった (鳥羽・伏見街道への無駄な集中)
2.指揮機能の分散が出来ていない (伏見撤退時の醜態など)
3.上層部の指揮能力不足 (戦力を適時投入できず好機を逸する)
2については、薩長軍が部隊指揮官同士の合議で進退や部隊移動を即決・行動出来たのに対して、
幕府軍は現場のトップが不在になると何も出来なかった。
特に伏見奉行所放棄後、指揮官がさっさと淀まで退いたせいで、何をするでもなく一晩明かしてから
部隊ごとに三々五々淀へ撤退していった辺りは酷い。
特に通信が発達してなかった頃の戦いでは上級司令部が全ての戦線をリアルタイムで統括することは実質不可能なので、
現場現場での判断が大切だと思うのだが。
821 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/19(月) 10:29:58 ID:LMksr72n0
慶喜は鳥羽伏見で玉砕覚悟で徹底抗戦するべきだった
822 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/19(月) 21:38:58 ID:1Z7WNHQgP
姫路城の二の舞
日本人の半分ぐらいが新撰組になるんじゃないか?
824 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/22(木) 14:30:39 ID:GSiXeBsf0
慶喜が鳥羽伏見で壮絶に討ち死にしたらまた歴史は変わったのかな?
鳥羽伏見には、すり替えさんが錦旗として登場してるから、
もう慶喜は戦えないよ。
睦仁親王救出が間に合わなかったんだろうな。
>>825 孝明天皇暗殺は公知の事実なのだろうか。
それを否認するのは、陰謀論者だけなのだろうな。
実際、孝明天皇崩御から睦仁親王即位の経緯は余りにも怪しすぎる。
それをおかしくない、と言い張るのは、無知な人だけ。
827 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/23(金) 22:47:15 ID:3x+391C80
そして、孝明天皇崩御によって一番得をした人間、徳川慶喜の将軍就任
天皇と将軍の死、この2つの中心に徳川慶喜と松平容保がいる事実
>>827 > そして、孝明天皇崩御によって一番得をした人間、徳川慶喜の将軍就任
> 天皇と将軍の死、この2つの中心に徳川慶喜と松平容保がいる事実
827の言うとおりで、何とも言いようのない陰謀がめぐらされたのは否定しきれない。
これで陰謀が無かった、というのは私は無知なのです、と言い張るようなもの。
829 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/23(金) 23:33:51 ID:3x+391C80
慶喜は、自らが率いた長州征伐が惨憺たる敗北に帰すると、在京の松平容保と連絡を取った。
すると徳川家茂は速やかに死亡し、これを理由として長州征伐は一方的に慶喜が終了させた。
家茂の死によって、慶喜は自らの京都の政権「一会桑」に、政府としての権威と官僚を
幕府から引き抜き、付与することが可能となった。
が、当時朝廷と幕府はひとつの懸案を抱えていた。兵庫開港問題があった。
幕府首脳が再三欧米列強に約束していたのに、孝明天皇の強い反対で実現していなかった。
孝明天皇の意思に従うことを明言していた慶喜は、この時期は将軍就任を固辞し続けた。
そして孝明天皇が急病で突然崩御するのとほとんど同時に、慶喜は征夷大将軍に就任することをいきなり快諾し、
最後の将軍となる。
兵庫開港問題は、孝明天皇の不在の中、徳川慶喜による開港説得成功により、幕府の意見が通り決着する。
830 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 20:24:47 ID:6WnQLQxYO
家茂
まだ孝明天皇暗殺なんて状況だけでほざく馬鹿がいるのか
フルベッキ(笑)がソースの大室(笑)も信じてるのかな?
832 :
松平伊豆さんの野望:2010/08/25(水) 05:47:47 ID:kKtfiXt30
水戸出の若衆公達は多分そんなことできません、カァちゃんも賢きあたりのオシメ様でし。
しかし漏れも斉彬も孝明天皇も紀州慶福の家茂も家定も毒飼には違いなかろうとも思う。
つうか、屋台骨の十分以上に軟弱化したことを自分でイヤという程自覚してきた幕府=征夷大将軍を継いだのはなんでだお?
以前から固辞していたのは征夷大将軍のみで崩御にあたって徳川宗家だけは祖宗に申し訳たたぬ故継ごうと思って江戸に帰る訳だし。
ほとんど同時だけど若干猶予期間はあるでし、まず徳川家だけを相続してる。
敏腕国事掛の岩瀬が罷免でいないから帰る方がいいかなと思ったんだろう、所詮育ちは殿様だから。
幕閣といっても味方はほとんどいねぇ、将軍つうても殿の中の殿で首長国連邦最有力首長でしかねぇ。
帰って戦力温存しようと逝っても旗本連中は誰も聞かねぇだろうし、会津とか自分の兄弟たちと側用だけで帰ったんだろ。
大局の見えねぇ猪武者ならともかく、御三家と皇室を親戚に持った教養人なら大概同じようなことをするだろうよ。
まあ、慶喜にしてみれば逃げたわけじゃなく、
薩摩は裏切るし、幕府内も人の足引っ張るような輩ばかりだし、
おれの責任じゃねえとキレたわけだろ。
安部総理がそんな感じの辞め方してたな。
実に無責任だよな
てかそういうのを逃げたと言うんだと思うがね
835 :
松平伊豆さんの野望:2010/08/25(水) 19:53:47 ID:IWqpQa5m0
Yo生まれながらの殿様yo
写真もニヤけてるヤシ大石、モレは飄々としてていいとおもうが
慶喜は、自分の責任を他人に転嫁する名人だからな。
インパール作戦の失敗を部下のせいにする牟田口といい勝負、
といったら、牟田口が怒り出すレベル。
牟田口の場合は本人が確実に戦犯だから、
慶喜の場合は五割くらいかね。やらなくてもいい二次征伐やって大敗したのは慶喜の責任。
ただ幕府そのものがもうボロボロで、人材も枯渇していたのだから仕方ない面もある。
安倍の場合は年金とか閣僚の不祥事とか、ほんと自分と関係のないところで責任を負わされた印象があるけどな。
いや組織のトップってのはつまるところ最終的な責任の担い手って事だから
839 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/25(水) 21:35:32 ID:lwQXrBW/P
二次征伐はなんで慶喜の責任なんだ?
家茂の責任だろうが
840 :
松平伊豆さんの野望:2010/08/25(水) 22:24:00 ID:IWqpQa5m0
公方様若年にて後見職禁裏後守衛総督にでもなすり付けときゃ万事収まるだろう
わかりやすいしな
841 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/26(木) 02:18:19 ID:gAZcCrvh0
慶喜が徹底抗戦を主張しても、幕府内で人望がないので結局はダメだろ。
とどのつまり、水戸からやってきたお雇い将軍としてしか江戸の幕閣から見られていないからな。
徹底抗戦しても結果はたいして変わらないと思うし、最終的に処刑されていたと思う。
鳥羽伏見の敗戦時点で先を見通して恭順したのは、ある意味エリート育ちらしく、賢くもか弱い選択。
西南戦争で西郷隆盛が行くとこまで行って、助命嘆願を鼻で笑って最後は自決するのとは対照的で面白い。
別に慶喜ファンでも何でもないので、一切フォロー無しで客観的に語りました。
西郷が鼻で笑って自決とか、客観的な史実なのか?w
843 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/27(金) 01:52:02 ID:Or6xUw3C0
慶喜は勝つ戦争しかしたがらないだろ。
勝てると思っていなかっただろうから、薩長と戦争したくはなかっただろうが、配下が暴走したので鳥羽伏見は渋々従った。
はっきり負けとわかると、もう限界!こんなバカバカしい負け戦さやっていられるかと江戸へ逃走。
これはピンチに追い込まれた時の貴族に多い動きであって、前線の兵士を裏切ってまで江戸への逃走に踏み切れたのは、
ある意味、慶喜が優秀であり勇気がある証拠。
844 :
原:
まあ、たまに読むと○カ○カしいけどおもしろいわな、歴史群像みたいなムックも。
なぜか将軍後見職として軍艦で大阪港経由入洛した一橋刑部卿。
墨染めの紋付に縮緬の袴、月代はコザッパリつるりとしてモトドリもごく小さい。
水戸のオヤジは好色だが先進志向と文才は周知、またその絶倫の御陰か全国の藩に兄弟がいる。
その涼やかな弁舌で賢きあたりの一層の信頼を確かな物とし洛中本陣たる二条城に。
水戸勤王の家柄に生まれた参勤交代御免の御三家である、国許で年寄の守役に育てられた。
父親不在の江戸屋敷の乳母温室育ちではない。
ぱからっぱからっぱからっぱからっぱからっ。騎乗の人は一橋刑部卿そのひとである。
京洛を与力数駒と伴に疾駆する、町家の住人はアラブ馬など見たことがない。
さらに騎乗の公達は何やら見慣れぬ装束である。
それもそのはず、卿は仏蘭西より贈られし騎兵隊軍装にて京中を駆けていたのである。
「あないをたのもう」
ついた先は「学習院」、勉学所といえば聞こえはいいが、不良公卿、志士ばらの類いかたむろする巣窟である。
なな、慶喜だと!水戸の悪龍のセガレがなんの故あってじゃ!
当時の公卿は貧窮している、言論同調している志士ばらは各藩財政からの台所賄、つまりパトロンなのだ。
「七郎麻呂なんか非常に美味いこと逝って詰問したが覚えてねぇ」
これもまた涼やか鮮やかに詰問を終え
「貴殿らも日本男児の端くれとあればこのことよく吟味せよ」
颯爽とアラブ馬にさし跨がり二条城に帰ったという。カコイイかも