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辻政信大佐
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203
:
名無しさん@お腹いっぱい。
:
2009/10/09(金) 00:14:50 ID:n/gEVBWX0
>>202
607 日本@名無史さん 2007/04/10(火) 23:20:25
『週刊東洋経済』 2007年4月14日特大(2007年4月9日発売)
The Compass 原田 泰
満州の歴史に見る統制経済の失敗−大慶油田なぜ発見できなかったのか
http://www.toyokeizai.co.jp/mag/toyo/2007/0414/index.html
http://www.excite.co.jp/News/magazine/MAG12/20070409/199/
大慶油田は1959年に発見され、1960年代には年平均5000万トン以上生産したが、
その年間生産量は、日中戦争時の日本の年間石油需要の10倍以上だった。
それをなぜ発見できなかったのか?
満州国が試掘許可を求めたのに、商工省が却下したという説、
その深度まで掘削する技術がなかったという説、逆にそれを超える技術があったとする説、
外国の民間企業に探査を依頼しなかったのはなぜか?外国に情報を握られないようにする
ためだった、などの説を紹介。
そして、石油さえあれば対米開戦につながらなかったのは明白なのに、なぜ戦後の日本で
左右を問わず、この問題が議論されなかったのか、と問題提起。
戦線を石油のある南方に伸ばすために、発見させなかった可能性もある、と
原田氏は指摘している。
204
:
名無しさん@お腹いっぱい。
:2009/10/09(金) 09:10:15 ID:yqJTIy8N0
またコミンテルン陰謀説かよ。
205
:
名無しさん@お腹いっぱい。
:2009/10/09(金) 17:49:50 ID:BJoHt0S00
>>203
地表にまで油膜が出てるトコなら十分日本の技術で採掘できたんじゃないのかな?
日本内地にだって、新潟や秋田に多数の油田があったんだし。
206
:
名無しさん@お腹いっぱい。
:2009/10/10(土) 00:48:30 ID:VnD4xEj50
>>205
軍の調査と併行して満鉄や日本石油の手で,北は興安北省のハイラルから、南は熱河省
まで、石油探査は進められた。両者のボーリング技術は陸軍より進んでおり1500mから
1800mまでの掘削が可能だった。(大慶油田はハルピン・チチハル間の松遼盆地800m地下。
勝利油田は黄河出口の南側でチンタオの傍800m地下である。
片方だけで戦次最高必要量に充分以上で、米国の石油禁輸に対抗できた)
http://plaza.rakuten.co.jp/zaigougunjinkai/diary/200805230000/
しかし、昨日申し上げましたように、仮に日本が大慶油田を見つけたとしても、常温で固まって
しまう特殊なオイルのため当時の日本の技術では大規模な開発は難しかったと思われます。
(大慶から日本までの、パイプライン、タンカー、貯蔵タンク、製油所施設を、全て24時間加熱
しておかねばならない
http://blog.goo.ne.jp/kowmurak/e/d4351916a992f1efe1d5d2809ba26581
そもそも遼河石油の高流動点原油の貯留層深度が6000メートルである事を考えると当時の
石油開発技術では遼河石油の真上地点を探索したとしても検知できなかった可能性もあるだろう。
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/saito/warandoil10.html
戦争と石油 (1) 〜太平洋戦争編〜
http://oilgas-info.jogmec.go.jp/report_txt.pl?id=652&freeword=%E5%A4%A7%E6%85%B6