「清帝退位協定」とは、辛亥革命後、朝廷と革命政府間の対立の継続が内乱から無限の民族戦争に発展し、
無辜の大衆が戦乱に巻き込まれ、国民相互の大虐殺が行われることを深く憂慮した隆裕皇太后が六歳の宣統帝溥儀を潔く退位させた際、
清帝国朝廷と中華民国政府(現実には革命に協力する交換条件として孫文から大総統の地位を譲り受けた袁世凱が代表した)
との間に結ばれた国家承継(相続)条約である。これは、清室優待条件、皇族待遇条件、満蒙回蔵各族待遇条件から成り、
清皇室、満蒙王族の特権(年金支給、兵役免除、称号維持等)
および満蒙回蔵各民族の私有財産の完全保護、通商居住信教の完全自由、漢民族に対する完全同等の地位等を保障するもので、
中華民国政府はこれをハーグ国際法廷に登録し諸外国に通達し国際法として遵守することを誓約した
だが中華民国は協定を無視し、彼等諸民族の権利を剥奪し財産を没収してしまい、欺かれた満蒙人は迫害から逃れる為、
憤怒の情を胸中に秘めつつ地下に潜伏し、再起する機会を窺っており、これが伏線となって満洲事変と綏遠事件が勃発したのである。
さらに中華民国政府(黄郛内閣)は一九二四年十一月六日、溥儀と日英蘭の公使の反対を無視して、
清帝退位協定清室優待条件改定に関する大総統令を布告し、溥儀から外国君主としての待遇と皇帝の尊号を剥奪し、
二八年七月には、大総統令第四条「清室の宗廟寝陵は永遠に奉祀し民国により衛兵を附して之を保護す」が
蒋介石の北伐軍によって蹂躙されてしまったのである。
だからこそ侮辱、嘲笑、反清主義者による死の脅迫、宝物の没収、協定の不履行等に耐え忍んできた溥儀は、
遂に堪忍袋の緒を切り、満洲独立運動への合流と復辟とを決意したのであった。
中華民国政府は、全条項に亘って清帝退位協定を蹂躙した以上、
清帝国の版図を継承し満洲蒙古の領有を主張する権利を喪失していたと言え、
充分な資金や武器を持たない溥儀および満洲族が、我が国の軍事力を借りて
、彼らの故郷を南京政府に帰順したアヘン中毒の暴君張学良から奪還したことは正当である。
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