942 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/22(日) 21:15:37 ID:sBMsS9HY0
943 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/28(土) 14:54:18 ID:uL3beY0/0
昭和30年ごろまでは農村では牛で畑を耕してる場所も多かっただろうな。母親からも牛耕の話を聞く。
首都圏・関西圏と地方との格差も凄かったようだ。
大阪万博の頃九州はまだSLも多く、主要国道も未舗装だらけ。対して大阪や神戸は高層ビルや都市高速があった。
父が名神をバイクで走って感動したと言っていた。
爺様婆様の話。自分の祖父母ではないが、仕事で若い頃本物の「大原女」をしていた人と話したことがある。
職業柄、高齢者と話すことは多いが。
944 :
市民:2009/03/01(日) 21:26:41 ID:j4B4BQpO0
945 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/03(火) 01:34:04 ID:FvX20klQO
あと80年もすれば昭和生まれの生き残りは貴重な扱いを受けるのかな?
昭和は戦争(敗戦)があった元号だから、80年後の子供達に戦争を体験した人達だと勘違いされたりして
946 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/11(水) 21:26:38 ID:kClMFA+80
明治33年(1900年)生まれの母方の祖母が10代のころ(大正中期)、
赤坂の細川さんの別邸(本宅ではない)で御殿女中をしてました。
何でも東久邇宮(昭和の皇后の父)さまが時々見えたそうです。
でもエッチな感じであまりいい印象ではなかったとか。
>>943 へー、牛耕か。うちの辺りでは、全て馬耕で、牛耕なんて聞いた事がない。
荷物を運んだり、堆肥を作ったり、子馬が現金収入になったり、
馬は生活には絶対に欠かせない物だった、と婆ちゃんが言ってた。
俺のトコでは、冬、牛にソリを曳かせてたな。
自動車があまりなかった時代は、冬期にソリで堆肥や木材を運ぶのが効率的だったわけだ。
馬は雪原を歩くのは苦手そうだ。
949 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/09(木) 00:51:50 ID:nd9CtkXVO
宮崎からだけど…婆ちゃんに聞いたそのまた婆ちゃんの話。西南戦争のとき、薩摩の落武者?が怪我したり腹が減ったりして、助けを求めて戸を叩いてくることがあったらしい。
苦しそうな若い兵隊が可哀想でならなかったが、お上からのオフレもありなにもしてやれなかったって…
950 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/09(木) 17:04:56 ID:s7A6bDfjO
>>909 ひいばあちゃんが親(自分の曾祖母)から聞いた話。
近藤勇は女子の間でモテていたらしい。
どこまでモテモテだったから分からないけど
彼に会ったり座敷で相手した女性は羨ましがられていた。
京都の三本木というところで過ごした頃の話。
951 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/09(木) 23:02:23 ID:IKCN6ieF0
幕末は飲み屋が面倒だったらしい。酒の上での喧嘩は今でも多いけど
それが侍だとすぐに斬り合いになるので店の被害も大きかったと。
片付けしてると指が落ちてたり耳とかほほが転がったりしてたそうな。
ばあちゃんのばあちゃんのばあちゃんの話
952 :
950:2009/04/22(水) 13:37:49 ID:pJlr9XMBO
ひいばあちゃんによると、
お茶屋の裏口には西洋あさがおが沢山咲いていたそうだ。
母親やまわりの女はその種を煎じてのんでいて
自分も手伝いですり鉢で砕いていたという。
あさがおの種は堕胎や避妊に使っていたらしいが
お座敷で働く女性は年寄りも食べていたと聞いた。
953 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/22(水) 13:50:07 ID:47R3Kvh60
ご先祖様は鍛冶屋でした。
>>947 昔は江戸川区の方面で牛耕が盛んだったが、戦後、朝鮮人に屠殺され食われてしまった。
>>906 朝鮮戦争が終わったら永住許可が取り消されるわけだが、そしたら帰化するんだろうな、白丁の子孫は。
956 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/25(土) 07:28:54 ID:Tz2TcjQhO
それホントですか?
957 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/25(土) 08:06:54 ID:oVEHH5q4O
きヤネヤ 三三郎よしみつ!!
958 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/25(土) 21:02:01 ID:RzyKPMppO
お相手致す!
うちはキチガイ三郎丸にござる!!
きえええー!!
寿司づくし!!
バカ鎮三郎!!
百本槍!!
事前通告!!
玉田雪信!
鎖釜!
自分刺さり!!
久々きたら内容が若返っていたw
団塊世代とかの話がききたい。つ戦前の話が聞きたいな。
ばっちゃの話
豪農の末娘に生まれ、兄の一人は軍人
戦争末期でも全く喰うに困らず、街から着物を持って物々交換にくるので
きれいな着物にも困らなかった
女学校に豪華なお弁当を持って通っていた
こんな話を徴兵されてひたすら上官から殴られて楽しい思い出がなんにもなかったじっちゃの隣で嬉々と話し続ける
もう25年聞いた
そんなだから当時の友達が一人もいないんだよ
じっちゃの話のほうが聞きたかったけど、話してくれなかった
つらくて振り返りたくなかったんだろうな
じっちゃはもう死んでしまった
963 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/20(月) 12:35:46 ID:PLBeY/neO
良スレじゃん
関東大震災で川の流れが変わったそうな
そこのお寺、10基に1基位は普通に江戸時代のお墓がある。
200基位のお墓があるのだが、自分は父方の都営のお墓と、
母方が新しく建てた明治中〜後期のお墓しかしらないので、
とにかくぶったまげた。
元禄とか、天保なんてのも見かける。
私のご先祖さんも例に漏れず、文政からありました。
なんせ石は欠けているところもあるし、文字は殆ど見えない。
辛うじて文政と戒名の1〜2文字と、信女とか居士みたいなのが確認できた。
家に家系図などは無く、ご先祖さんの名前を知りたい人は、
明治中頃に建てたお墓で、年に1〜2回お参りしているなら、
まだ文字は確認出来るお墓が多いので、
興味のある人は、行ってみると良いですよ。
でちょっとスレタイとはズレルけど、明治20年頃?に生まれた
曽祖父に仕えたお手伝いさんのお話。
曽祖父は学校嫌いで学校に行かず、弁当持っては畑で遊んでいたそう。
だから文字を知らない。だけど奥さんが文字を教えてあげたそうだ。
頭は良かったみたいだけど、色々仕事をするものの挫折ばかり。
七転八倒しようやく芽が出た仕事で
工場を建て、組合長になったそうだ。
会った事も無いけど曽祖父母夫婦の睦まじさがなんとなく想像できて、
お手伝いさんのお話の「くじけちゃいかん」という言葉と、
何やってもだめな三十路ニート引きこもりの俺に、曽祖父を自分にダブらせて、
涙が出てきてしまった・・・
すまん、一行目
→先日、母方のご先祖さんのお墓にがあるお寺行ってきました。
が抜けてた・・・
967 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/29(水) 20:57:44 ID:v+4OofoKO
>>965 天保はともかく、元禄期の墓が現存してるのはすごいな
969 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/01(土) 20:25:06 ID:T5VvOwbGO
970 :
965:2009/08/02(日) 00:07:32 ID:G6amljab0
お手伝いさんのお話じゃなくて、
お手伝いさんが話したお話です。
972 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/03(木) 22:06:33 ID:hD3uzHw4O
子供の頃に明治生まれの曾祖母から聞いた話だけど、町の港に停泊してた官軍の戦艦に、
外国船を装って侵入してきた幕府軍の戦艦が接近して行き、兵士が続々と飛び移って戦が始まったそうだ。数十分切り合いが続いた後、幕府軍の戦艦は逃げ帰った。
翌日には、戦で死んだ兵士達の死体が、続々と浜に流れ付いたが、官軍からは「賊軍の死体など放っておけ。魚の餌にでもなるだろう」との命令が出ていた。
だけど、町の人達は、
「死者に官軍も賊軍も関係ない。死んだらみんな仏様になるんだ」と、
命令を無視して総出で遺体を引き上げて埋葬し、墓を築いて供養したそうだ。
973 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/05(土) 13:00:08 ID:264B+BMDO
次郎長親分さん?
宮古湾海戦のことじゃね?
975 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/08(火) 02:50:06 ID:3V7uNETR0
官軍とか幕府軍って幕末とか明治初頭の話じゃなかった?
なんで明治生まれの人が??
977 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/11(金) 21:10:46 ID:nPivlRkY0
親が武士だった人ってまだ生きてるかな?
978 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/11(金) 21:55:00 ID:ZSiecjGcO
近所のおばあちゃん(70)が話してくれた事なんだが…。おばあちゃんが自分の祖母から聞いた話。
青森の津軽(南部?住)に用事で行き、そこでその祖母は函館に行く旧幕府軍を見掛けた。皆、目にはよく分からない光をたたえていて怖くも、悲しくもある雰囲気だったと。
その中に居た血色の悪い肌にばさばさした黒い髪の美男がいて、少しだけ目があったと言う。その人は周りとは少し違っていて悲しげな雰囲気は無かった。「もしかしたら祖母がみた美男は土方歳三かしらねぇ」とおばあちゃんが笑ってた。昔の人の話は面白い。
979 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/11(金) 22:17:04 ID:QXEvzV830
一応、武士
まあ、農家は基本的に武士がデフォだけどね。
980 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/12(土) 07:40:37 ID:Zf89QM1x0
婆さん(75)の話。伊達家が分家して帰農した農家の出身なので、
戦時中も食べ物には困らなかったそうだ。商家に嫁したんだが川向こうに廓があって、
毎月の検診日?になるとお女郎さんがぞろぞろ列作って橋渡って診療所に歩いてく光景が
見れたんだと。
友人の祖父は近衛兵だったそうだが、ある戦場で華族が乗る軍馬の轡取ってたら
ぱらぱら〜って上から灰が降って来るから「何ぞ?」と思って見上げたら
当の華族様がそれは旨そうに一服してたそうな。
981 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/13(日) 12:47:47 ID:kHEfl41EO
982 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/13(日) 13:18:25 ID:hkW34iBu0
婆さんに戦時中の話を聞いた時、俺の家の前が防空壕だったと。
あと駆逐艦の形をした文鎮があったとか曾婆さんが満州鉄道の株券を持ってたとかの話しかなかった。
解放された長吏(穢多)が一致団結して公民への糾弾を開始する。
984 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/13(日) 19:33:09 ID:2qlBgE/A0
うちの爺さん、支那事変から陸軍に入隊してそのまま太平洋戦争に移行
したんだけど、南支に派遣されて戦っていたら割に小才が利くんで(実際
頭はそんなに良くないけど仕事の段取りとか準備は卒が無い人です)連隊
本付けになり、事務処理方々実績をつんでいざ米英と戦争となったときに
は経歴も長い方で俄かに出世していて、開戦劈頭の南方進出でジャワ島や
フィリピンに敵前上陸とか行け行けドンドンの時期をすごして、その後も連隊
本部付けだから前線に行くわけもなく、内地に帰ってから終戦を迎えたって言う
幸運の歴史です。だからうちのじいちゃん曰く、(戦争は楽しかったよ、死んだ
人には悪いけど南方の島々は気候も良いし見たことも無い鳥や果物があって
本当にいいとこだと思った)そうな
うちの父方の死んだおばあちゃんはお武家の家系だったらしい。というか、お金持ちだったとかも聞いたような…。
死ぬ前に聞いとけば良かったかな。
20年前に亡くなった信州佐久出身の爺さんは、自分が子供の時に大人達から聞いた
天狗党と困民党の乱の話を、耳にタコができるほど話してくれた。
爺さんは体験していないのに話が妙にリアルだった。村全体で家財道具を持って、
山に逃げ込んだそうだ。
爺さんは、なぜか戊辰戦争や日露戦争、太平洋戦争の話は全くしなかった。
まあ、信州では戊辰戦争で戦場にならなかったし、松本歩兵50連隊は
日露戦最も被害の少ない第2軍だったし、太平洋戦争で佐久に空襲はなかったし、
爺さんは兵隊行ってないし、田舎だから食料は豊富だったからなあ。
天狗党や困民党が、自分達の所にやって来る恐怖に比べたら、
戦争なんて別に大した事もなかったのかな?
人づてに聞いた話は孫に話しやすかったが、自分が体験した話は
話しにくかったのかな?
4年間の兵隊生活と2年間のインドでの捕虜生活を経て、日本に帰って来た爺さんを待ち受けていたのは
小学生からの投石だったとか…お前たち兵隊がしっかりやらなかったから負けたという小学生なりの意思表示だったらしい
博多から故郷の佐〇に帰るまでは軍服だったけど、家に着いてソッコー私服に着替えたみたい
で、近所の人たちは台湾くらいは取り戻したいって話をして盛り上がってたとか
大日本帝国臣民が如何に武闘派だったのか物語るエピソードだと思う
988 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/14(月) 15:21:45 ID:0KdxzERmO
領土を差し上げようとしてる今の日本人が聞いたらぶっ倒れるような言葉だなwww
最近84歳で亡くなったうちの親父
終戦までの5〜6年を満州の鉄工所で過ごしたらしいんだけど
引き揚げ時期の大混乱の中、仲間と一緒に一時八路軍にいたらしい。
なんでも日本人向けに、八路軍が入隊案内していたらしい(!)
親父も仲間も、共産主義でもなんでもなかったが(どころか
「ロスケに比べたらアメリカの方がまだ紳士だった」と言っていたくらい)
タダ飯欲しさ半分面白がり半分で「匪賊集団」に入ってみたらしい。
けど途中、仲間の一人が戦闘に巻き込まれて、野戦病院みたいな所で死んじゃったことから
シャレにならんともう一人の仲間とトンズラしたらしいw
当時(死んだ仲間も)みんな18歳。
ウチの爺さんは日本軍の電気技師だったから、終戦後、八路軍からも国民党軍からも
「教えてくれ」とスカウトが来たそうだ。色々あって国民党軍で教える事に
なったそうだが、その地域で八路軍が優勢になって、八路軍で教えていた
時期もあったそうだ。武器やエンジンと違って、電気は目に見えない物だし、
当時の中国では満州以外では電気はほとんど普及してないなかったから、
教えるのに非常に苦労したとの事。大陸では教官として特別待遇だったのに
日本へ帰って来てからの方が食えなくて、大陸にいた方がよかったかなと、
朝鮮特需が始まるまでは悩んでいたとの事。
991 :
名無しさん@お腹いっぱい。: