wikipediaの戊辰戦争ワロタ

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1名無しさん@お腹いっぱい。
「東北戦争」だけ以上に長いし、所々に会津厨による中傷があるw
↓東北戦争以後が特にひどいw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89
2名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/22(火) 23:38:36 ID:6BdSrHEe0
孝明天皇毒殺が事実なことになってるな。
3名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/23(水) 10:14:37 ID:h0CCA5cT0
>>2
実は会津藩による毒殺
4名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/23(水) 12:08:46 ID:IhtZ+J6F0
こういうのがあるからwikipediaは信用できないない。
5名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/25(金) 02:04:09 ID:pBsM2eeF0
参考文献は星亮一か
6名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/25(金) 16:57:01 ID:99qE08mx0
木戸孝允のとこもなんか凄いな。
7名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/25(金) 21:33:01 ID:PnXbp4z90
ウィキより転載

新政府がイギリスから最新式の銃器を購入したのに対して、北部政府がドイツ(プロシア)から売り渡されたのは、旧式の銃器ばかりだった。この武器の性能の差が勝負を決定づけ、新政府軍を勝利に導いた。

北部政府ってw
8名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 21:49:32 ID:ehkfkJDx0
前には西郷が大村を暗殺したと書いてあったな。
9名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/27(日) 02:45:50 ID:T8U0VwzU0
萩市も凄い。


1986年に、敵として戦った戊辰戦争から120年を記念してそろそろ和解を、と友好都市提携を萩市が持ちかけたが、
会津若松市民の多くが「いまだ時期尚早である」「我々は恨みを忘れていない」として、友好関係の締結は拒否された。
戊辰戦争後、長州藩が鶴ヶ城下に残った2000人以上に上る会津藩士、商人、農民の死体の埋葬を禁じた(放置された藩士や女性、
子供の死体は腐敗し、烏の餌になったとされる)件や、戊辰戦争後も山県有朋ら長州閥によって会津の人達が様々な部分で冷遇された事がその原因とされている。
会津若松市民の中には、賊軍という理由だけで埋葬を禁じた蛮行についての謝罪が一切無いことに対して、未だ許せないと考える人がいる。
現在でも、行政レベル、市民レベルでの交流は幾度と無く試されているが、未だ完全な和解には至っていない。
10名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/27(日) 08:06:30 ID:zaLnz8qnO
明治維新の意味や意義を理解しないと言うか・・・
ゆとり教育の申し子が日本史をろくに勉強もせずって感じだ
もうSF小説に近い・・・
北部政府ってなんだろう?
官軍と賊軍でいいんじゃね?
ゆとりバカが出て来るんだから
しっかし執筆者は仙○、会○の正義とか強調してるけど
最後まで読むと、あまりの悪文に仙○、会○って本当に嫌われ者なんだろうなって感想しかなくなる
ある意味自爆だよ
11名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/27(日) 09:35:23 ID:3LHRx280O
明治維新はクーデターで成り立った。
孝明天皇を発掘調査したら……
12名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/27(日) 16:06:17 ID:mY5dSeMJ0
ちなみに、☆大先生の最新本「偽りの明治維新」では、
孝明天皇は疱瘡で死去した、と書かれている。

今まで散々ついてきた嘘がばれるので、墓をあらためられるとまずい、と
会津擁護小説家や会津系の郷土史家が思っているのでしょう。
13名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/27(日) 19:49:55 ID:zaLnz8qnO
>>12
そう言うゆとりバカがいるから官軍、賊軍って表記が一番いいと思う
中学あたりの教科書レベルで
仙○、会○中心で日本を二分した内戦を戦ったなんて、ゆとり過ぎだよ
幕府すら脇役だしさ
南北戦争の南軍に無理矢理重ね合わせてんだろうけど・・・
>>11
北部政府なんて架空の妄想の中で、その北部政府に政治理念、政治思想が
何もないのにガッカリだね
アメリカの南北戦争をもう少し勉強したら?
14名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/27(日) 21:42:29 ID:TBkSk1e+0
星亮一の戊辰戦争研究会とやらに入っている高校教師が、
授業で高校生に「本当の明治維新」を教えるといって、
星亮一の会津贔屓捏造史観を高校生に刷り込んでいるらしいぞ。

こうして洗脳された高校生が、新たなテロリストとなって
新たな問題「出陳地差別」が行われようとしている。

まさにウィキに書かれた戊辰戦争の内容(参考文献の多くに「星亮一」の著書が入っている)が、
そのまま学生たちが義務教育で教え込まれているのだ。

これは由々しき問題である。
15名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/27(日) 21:45:17 ID:TBkSk1e+0
訂正
出陳地差別→×
出身地差別→○
16名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/28(月) 00:35:40 ID:UNJETVWxO
>>14
会○、仙○の高校レベルが限度だろうね
結局、大学や就職で他地方に行った時その生徒は愕然とするんじゃ?
何せ北部政府って何だ?
勝ってたら仙○が首都?
だよ
何の理念、思想も無く妄想の「北部政府」と、もしそうなったら「仙○が首都だった」だけじゃ
小学生の作文レベルだよ
東北地方だけでも周りを裏切り者呼ばわりしてんだから救いようがない
17名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/28(月) 04:47:08 ID:sV4uCsx+0
会津はともかく、仙台が正義だって言うのは畠山鈴香が無罪になっちゃうようなもんだな。
18名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/28(月) 21:25:03 ID:nt/lHP4Y0
[編集] 「北部政権」
副総督沢為量率いる新政府軍は庄内討伐のため秋田に滞在しており、
世良が暗殺された後は、九条は仙台藩において軟禁状態になっていた。
5月1日、松島に新政府軍の佐賀藩、小倉藩の兵が上陸し、
九条の護衛のため仙台城下に入った。
九条は、奥羽諸藩の実情を報告するために副総督沢と合流して上京する旨を
仙台藩側に伝えた。翌15日列藩会議が開かれてこの問題が討議され、
九条の解放に反対する意見も出たが、結局九条の転陣が内定し、
18日仙台を発って盛岡に向かった。

一方、上野戦争から逃れ、6月6日に会津に入っていた輪王寺宮公現法親王
(のちの北白川宮能久親王)を奥羽同盟の盟主に戴こうとする構想が
浮上した。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請されたが、
結局6月16日に盟主のみの就任に決着、7月12日には白石城に入り列藩会議に
出席した。また、旧幕府の閣老である板倉勝静、小笠原長行にも協力を仰ぎ、
次のような組織構造が成立した。

盟主 : 輪王寺宮
総督 : 仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲
参謀 : 小笠原長行、板倉勝静
また、白石城内には奥羽越公議府が設けられ、
諸藩代表による評議が行われた。プロシア領事、
アメリカ公使に使者を派遣し貿易を行うことを要請している。
輪王寺宮の「東武皇帝」への推戴も構想にあったとされ、
形式的には京都新政府に対抗する権力構造が整えられたとする評価もあるが、
これらが実際に機能する前に同盟が崩壊してしまったとする説もあり、
奥羽政権としての評価は定まっていない。
当時の日本をアメリカ公使は本国に対して、
「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。
現在、北方政権のほうが優勢である。」と伝えている。

19名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/28(月) 21:27:30 ID:nt/lHP4Y0
政権という大層な名が付いているが、
行政や司法をつかさどる部署が無いwww
あるのは軍事だけです?w
20名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 10:05:50 ID:HRacUtZwO
みんな、ゆとり乙ww
21名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 11:22:18 ID:4VospLF60
ウィキが戊辰戦争の参考にしてるのが
小説家のフィクションという所を見ても
まともな会津史がない所が分かる
小説と観光史学を史実にしてる
日本一奇特な福島県
22名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 20:23:05 ID:/S8A5onl0
戊辰戦争絡みの項目の参考文献で、
使われている本の著者「星亮一」「菊池明」・・・
ほとんど二人の著作物だけで書かれている所が凄いイタイw

ところで、ウィキのこれらの項目が、星亮一本人と菊池明本人もしくは弟子たちが書いているという噂を聞いたがホント?
23名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 22:08:24 ID:m3jLLde70
わらうな
24名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/29(火) 23:37:18 ID:q/+Wrp8D0
俺もぉ笑えねえでが〜んす
このぉ人達があ〜はなしぃよりもぉ、
羽胃機の方が〜信用でぎんじゃねえでがんすか?

25名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/31(木) 09:48:12 ID:A66LB9U60
つまりまともな会津史ってないんだよ。
小説が史実になってるような土地なんだから。
参考文書は小説しかない。
NHK歴史番組の解説に出てくるのも
研究かではなく、恨を煽る小説家。
それが福島です。
26:2008/02/01(金) 07:30:21 ID:N/tQnIjtO
本当の事だけど何か?まだたった140年会津の恨みは消えません。真実から目を背け、長州を正当化するのはやめて下さい!
27名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 13:18:57 ID:C9SoM6K0O
>>19
北部政権にそんなものは不要。行政やらなんやらはぜんぶ軍部が担当するから。
現に東北軍閥に乗っ取られた昭和序盤の日本なんてそんなノリだったろ?
28名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 21:02:50 ID:f7qoB0dX0
>>27
ドアホw
それは「軍閥」であって「政権」ではないw
一会桑政権だって政治行政担当の一橋と軍事権の会津、警察権(司法)の桑名と揃ってるだろw
29名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 23:43:38 ID:w9VeIHGC0
会津戦争

薩長軍(新政府軍)は会津戦争の戦死者を「賊徒」として埋葬を許さず、
このために長期間に渡って放置された死体は風雨に晒され、
鳥獣に食い散らかされる悲惨な状況だったと言われている。
見かねた近所の村長が戦死者を埋葬したため、薩長軍に村長職を解かれた
事もあった(飯盛山に彼を顕彰する碑が立てられている)。
実際には疫病の要因になるという理由からようやく死体の処理が許されたのであった。

又、薩摩・長州の藩兵による会津若松城下での略奪・強姦・虐殺も激しく
(特に、長州藩士は気性が荒いことで、当時から有名であった)、
会津藩兵の死体から性器を切り取って口に含ませて放置したり、
薩摩藩兵が「ヒエモントリ」と呼ばれる食人行為を行ったという記録まである。
その野蛮さは、薩長の友軍である土佐藩兵や従軍僧侶が、
日記に批判的に書き記す程であった。
30名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/01(金) 23:59:39 ID:Di1et7Bu0
一時、食人や性器切り取りなどの表現が消されていたのにまた元に戻ってるな
31名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/02(土) 01:27:12 ID:sJrD8Yju0
いくら戦争とは言え、人間がここまで出来るか?と言うような残虐行為や
鬼畜に勝るとも劣らない非道な行為を消したい人がいるんでしょう。

だから、そんな行為をしてるわけですから、wikipediaが小説を参考にしているとか言わないと、
某県の人も困るわけですよ。

史実を否定し、こんなスレを立ててまで工作?活動する訳ですから、お里が知れます。
32名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/02(土) 02:29:05 ID:S1BYYVae0
ウィキペディア

「戊辰戦争」項目参考文献
菊地明(他)編, 『戊辰戦争全史』〈上・下〉, 新人物往来社 (1998/04), ISBN 4404025726, ISBN 4404025734
野口武彦(著), 『幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団』, 中公新書 (2002/11), ISBN 4121016734
星亮一(著), 『会津戦争全史』, 講談社選書メチエ (2005/10), ISBN 4062583429

「会津戦争」項目参考文献
星亮一 『会津戦争全史』, 講談社選書メチエ(2005/10), ISBN 4062583429
宮崎十三八 『会津戊辰戦争史料集』, 新人物往来社(1991/10)
菊地明 『会津戊辰戦争日誌』, 新人物往来社(2001/9) ISBN 4-404-02922-5

「会津藩」項目参考文献
星亮一著『幕末の会津藩――運命を決めた上洛』中央公論新社[中公新書]。ISBN 412101619X

「奥羽越列藩同盟」項目参考文献
星亮一『奥羽越列藩同盟 東日本政府樹立の夢』(中公新書、1995年) ISBN 4121012356
但し同書は、山本帯刀義路を、長岡藩士渡辺氏に生まれて、山本氏の養子となったと説明するなど誤りが散見される。
中山吉弘 編著『明治維新と名参謀前山清一郎』(東京図書出版会、2002年) ISBN 4434013491
33名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/02(土) 07:08:17 ID:d+4NDY3o0
ほとんど全部星亮一w
34名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/02(土) 09:44:17 ID:1l8WA/LI0
>>31 訂正しました。これが事実です。

いくら戦争とは言え、人間がここまで出来るか?と言うような残虐行為や
鬼畜に勝るとも劣らない非道な行為会津がしているから、史実をwikipediaで否定したい人がいるんでしょう。

だから、そんな行為を会津がしてるわけですから、wikipediaが小説を参考にしているとか言わないと、
歴史が歪んで某県の人も困るわけですよ。

会津人は史実を否定し、こんなスレを立ててまで工作?活動する訳ですから、お里が知れます。
35名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/02(土) 09:54:52 ID:1l8WA/LI0
星亮一の著書は史実に基づかない主観捏造の集合体なので、
これをもとにした文章には議論する価値がない。
だから、wikipediaの戊辰戦争関連の記述はほとんど捏造で組み立てられている。

そう言って学生に使うのを禁止したのに、
wikipediaの記述の通りに書いてくる奴が未だにいる。当然単位は出ない。東北での話。
36名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/03(日) 14:39:53 ID:5aZMoiD60
早い話が、まともな資料がないんだよ
だから参考が小説になっちゃう
こういう事実を福島県人や会津ヲタは認識しろ!
37名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/03(日) 15:01:59 ID:xipbtnlM0
まともな史料はあるのに、まともな資料がない。
それは会津研究家と称する詐欺師たちが、
史料の中に書いてある会津にとって都合の悪い事実を隠し続けている為である!
会津のかっこいい所だけを資料に書き、それを読んだ小説家や漫画家が一般に普及。
かくして会津の歴史は嘘と捏造に彩られてていく。
38名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/03(日) 18:34:08 ID:DnUaJbu90
会津の主張する「残虐行為」とやらが、あまりにも突飛というか、
残虐行為としてできすぎていて逆に現実感がない。
有体に言えば、いかにも相手を貶めるための作り話っぽい。
39名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/03(日) 21:16:33 ID:W83swum20
小説家の書いたものしか資料がないのか?
さすが小説家連中に牛耳られてるだけはあるな(福島大恥)
40名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/03(日) 22:15:36 ID:WtSEdeXx0
会津若松市史は、やっぱり恨み節は入ってるけど嘘は書いてない。
遺体の埋葬禁止なんかも「一説によれば」みたいに書いてあるし
「敗者への差別ではなかった」と結論してるぞ。
41名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/04(月) 00:47:16 ID:/i/vVit/0
>>40
敗者だから差別したんじゃないよ。トーホグ土人だから差別したんだよ。
42名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/04(月) 19:03:03 ID:tdKe75Vx0
>>40その参考文章が「小説」ってわかってないの?
43名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/04(月) 20:46:38 ID:XstlSUIA0
>>42話が見えてないみたいね。
会津厨が切り札みたいにしてる「埋葬禁止命令」が実在しないって
会津若松市が公に認めたってことなんだよ。
44名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/05(火) 18:28:01 ID:rZmGFm4+0
つまり会津史なんて小説家が作ったもので
市民も観光協会もそれに乗っかってるって事だろ?
45名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/06(水) 01:17:04 ID:ghsLYtUA0
会津史って資料とかないの?
なんで毎度小説家が出てくるの?
46名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/07(木) 03:21:38 ID:KPFegVAg0
その時歴史が動いたにも小説家が出てたね
他の話しだと大学教授とか研究家が出てくるもんだけど
47名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/07(木) 03:53:56 ID:KPFegVAg0
442 :蓑田胸喜:2008/02/06(水) 20:49:20

>星亮一と言うマスコミ出身の歴史作家がいますが、彼の基本スタンスはジャーナリズムであり、
>情報の収集分析や公表伝達は得意とする所で、彼の執筆する著書はノン・フィクション作品で、
>取材に基づく記事のような物であるから報道の一種と考えられます。ジャーナリストの目線で
>語られる歴史報道は、客観的に事実をありのままに伝えることに重点が置かれています。

http://jbbs.livedoor.jp/travel/5732/


これが福島恨人の見解らしいよ…。寒気がしました。
48名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/07(木) 13:11:27 ID:06IfkIEJ0
>>47
星がジャーナリズムだって言うなら、八切でさえジャーナリズムだぞw
49名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/07(木) 19:56:30 ID:LpRtX8OX0
所詮は福島恨人の戯言っすよ。正当化したいんでしょ?w
50名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/07(木) 22:42:16 ID:UiVI1BQ90
ジャーナリズム?
調べたって?星がか?どこを?
会津戊辰戦争や斗南藩史など会津側の史料に書いてある事柄すら、
都合が悪ければ書いてないフリをする。
これがジャーナリズムなの?
伝言板で、誰かに突っ込まれて「ああ、それは見てませんでした。私の勘違いです」と白々しいコメントを平気で書くのにジャーナリズム?。
しかも間違った箇所は訂正せずに第二版第三版と出し続けてジャーナリズムねぇw

新聞社や雑誌だって誤報をやれば次の号で「おわびと訂正」を入れるのに、星はそれをやったこともないw。
たいしたジャーナリストだよwww
51名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/07(木) 23:06:39 ID:zEE05fKq0
:蓑田胸喜:2008/02/07(木) 21:01:53
おまいら!毎日ご苦労さん。御礼と言っては何だが…、今日は面白い話を聞かせてやろう。
この話は、2chでもまだ語られていない極秘事項なので情報の取り扱いにはくれぐれも注意してくれ!

小泉首相の時に、皇室典範改正の議論で紛糾した事を覚えているか?つまり皇位継承問題である訳だな。
万世一系の男系男子が継承してきた皇位に、女性天皇及び女系天皇を認めるのか?と言う事で議論が起きた。
これは、皇位継承者の終端に愛子内親王様及び眞子内親王様、佳子内親王様しかいない為に、皇室典範の
改正を行わなければ、天皇制を維持継続して行く事が出来ないが為に方法論が論じられたものである。
しかし、幸いにも文仁親王妃紀子様が悠仁親王様を御出産なされ、皇室典範改正問題は沈静化している。

ここからが本題である。皇室典範改正問題の救世主となられた悠仁親王様であられますが、天皇後継までの
道程には紆余曲折が想像される。それは皇室典範の改正を目論み愛子内親王様を持って女系天皇を誕生させ、
天皇家の乗っ取り又は崩壊を企てる勢力が存在する事である。

そこで、最悪の事態を想定し密に水面下で準備がなされている物が、仮称「会津三十年計画」である。
簡単に説明すると、文仁親王妃紀子様の曾祖父の池上四郎氏は、白虎隊少年隊員(当時11歳)として、
会津若松城にて篭城戦を経験、その後、大阪市長や朝鮮総督府政務総監など務めた御方です。
つまり、悠仁親王様は会津白虎隊の血を引く御方なのです。悠仁親王様の継承問題が起こる三十年後に、
万が一にも天皇家が外国勢力に乗っ取られる事態となれば、悠仁親王様には、幕末の京都街下のように
不穏な動きのある首都東京から会津の地に御動座頂き、会津朝を立ち上げた後に王政復古の大号令を
発して頂く計画である。その為には会津の地を穢さんとする勢力の駆逐が必須である事は当然であり、
又、来たる日の為に、会津の武士道精神を未来永劫受け継いで行く事は会津人の使命と言える訳である。

結論!会津を攻撃する事は天皇家に対する朝敵行為に等しいと言う事だ!朝敵行為、慎まれたし!

http://jbbs.livedoor.jp/travel/5732/
52名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/07(木) 23:52:50 ID:UiVI1BQ90
天皇なんて飾りですよ
馬鹿な人にはそれがわからんのです
53名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 04:08:42 ID:Btx+KisI0
>>51そいつ毎度御馴染みでソースもなんもなく発言してるんでしょ?
54名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/08(金) 23:16:23 ID:n9lizNcG0
蓑田胸喜を名乗っているのだからネタで遊んでいるだけでしょ。

因みに本物の蓑田は、戦前にマルクスを原書で読んだ上で反共を叫んだ方。
右翼ゴロと罵られて最後は自殺(発狂死とも言われている)した。
但し、岩波は高い評価を与えているが。
55名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/10(日) 20:27:10 ID:6cIKxN0l0
星亮一の評価は低いよ^^
56名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/10(日) 22:11:51 ID:xSZnMqaX0
>>55
星は会津史談会でも処遇に困っている。
今回の新刊で宮崎の筆禍(ピカドンと会津落城は同じ)を改竄して
掲載したから、また宮崎批判が噴出しはじめた。
星については自分が書いたわけではないと逃げの一手。

因みにアマゾンの書評では批判噴出。散々こき下ろされている。
57名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/11(月) 19:29:39 ID:riLowj0o0
>>12
既に福島では「孝明天皇暗殺」は史実の事として根付いている様です 

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/5732/1195885597/l50

480 :蓑田胸喜:2008/02/10(日) 18:01:25
m9(*^ヮ') 心配すんなってw 飽きたら2chに帰るからw

>明治維新を簡潔に述べれば、他国からのレジュームチェンジ(体制変更)の内政干渉に
>迎合してしまった過激派によるクーデターです。
>対する抵抗勢力の会津藩の行動はレジスタンスとして評価されるべきです。

以前、上記のように明治維新を結論付けたが、三島由紀夫の言葉を借りてもう少し補足すると、
革命と維新とでは意味合いが違う。革命は体制の全否定だが、維新は体制には問題がなくとも、
運営上に問題がある場合に運営責任者の排除を強制的に行う行為である。

明治維新の過程を考察すると、前期は維新であろうが、攘夷に固執する孝明天皇の暗殺による
強制排除以降は、完全な革命的な要素が見て取れる。つまり体制転覆を目的とする革命と言える。

明治維新との比較として二・二六事件を考察すると、同事件は「昭和維新断行・尊皇討奸」が
スローガンであり、勤皇の志士の唱える「尊王倒幕」と類似する。

但し、同事件の蹶起将校達は体制の変革を求めつつも、自身を持って権力機構の運営にあたる事を
目的としておらず、明治維新が権力奪取後に機構の役職を独占した行為とは異なる部分がある。

つまり、誠の維新とは、目的に純粋性を持つ二・二六事件のような道義的に行われた行為であり、
これが維新思想の神髄であり、明治維新などは不純極まりなく誠の維新にあらずと言う事である。

【二・二六事件に至る背景と当時の東北の惨状】
 http://homepage3.nifty.com/yoshihito/niniroku.htm

明治維新など「散切頭を叩いて見れば文明開化の音がする、総髪頭を叩いて見れば王政復古の音がする、
半髪頭を叩いてみれば因循姑息の音がする」この言葉に尽きる。最初の志など何処へやらw
皆さんの大好きな史実の先にあるのも、これまた史実。体制にとって不都合なことは教えないのさw
58名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/11(月) 19:42:54 ID:GDDmKRS70
ふーん、この板の会津厨房は、昨日嘘がばれて行方をくらませましたが。
また来るのかな?
59名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/11(月) 20:59:36 ID:nzmO1bzF0
ネタが忘れられたと思ったころに帰ってくるよ>会津厨
でも、別の会津厨が知らずに同じネタを書き論破されてというループが一番多いでしょう
なにしろイタイ会津厨一匹見つけたら、近くに三十匹はいるってぐらいだからね
60名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/12(火) 15:44:07 ID:Vpd+1Lca0
>>57その人って毎度話を摩り替えてないか?
61名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/12(火) 16:27:18 ID:K8xpXFVn0
>>57
そいつ一人の論で福島に根付いているってどんな暴論なんだか。
孝明天皇は病死したというのが普通の見解だろ。
あまりにも都合よく崩御したから暗殺説が出てきただけ。
62名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/12(火) 17:15:30 ID:HYB3R8Nf0
そういや以前、ウィキの「戊辰戦争」の項目には「姦賊薩長が孝明天皇を毒殺」などと
会津新撰組祭りを彷彿とさせる中傷が書かれていたな。
63名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/12(火) 20:08:58 ID:aHXay7DY0
>>62
会津研究家の大御所星亮一の最新刊にも、まったく同じ論調で書いてあったけどなw
彼らは本気で孝明天皇毒殺したのは薩長と信じ切っているようだよw
64名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/12(火) 20:10:16 ID:aHXay7DY0
ま、ウィキの参考文献って「星亮一の本」だから、そう記述される罠www
65名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/12(火) 23:42:45 ID:Dn9CkaW00
稲川明雄の本も気をつけな。新潟県史と食い違っていたり、史料で都合
の悪い部分を削除しているからw
66名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/13(水) 09:26:20 ID:uCaf/y890
会津新撰組祭りって地元じゃえらい支持されてるみたいよ
福島県人のブログなんか見てると「楽しみ」「またこの時期がきた」とか平気で書いてる。
67名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/13(水) 16:27:23 ID:yfcnDpOi0
洗脳だな。
68名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/14(木) 09:44:23 ID:ZIkBmQVo0
普通あんな祭りは支持されないだろ。やっぱ奇特だな福島。
69名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/15(金) 14:11:13 ID:YX9qtr030
被害者を装って腹ん中で舌だしてるって
会津病や福島市民ははやく気づけ
作家の商魂に乗っかって何か良い事あるか?
ネットが普及した今、昔のように発信しっぱなしは出来ないぞ。
70名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/15(金) 20:20:17 ID:/guai5nX0
>>69
確かにw。
インターネット普及前の星は薩長の誹謗中傷ばかりだった。
ネット普及後は、なにやら長州の高杉が好きだとか会津にも反省すべき点があった
(ただし、会津のそれは情状酌量の余地ありとし、薩長には情状酌量の余地無しというスタイル)
などと言うようになったなw。
その為、昔の本と現在の本では、言っている事が酷く矛盾しているw
71名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/16(土) 03:58:51 ID:a8ZMIJIW0
本当、ダサいよね会津側って。
72会津厨:2008/02/16(土) 08:27:51 ID:f3qizbS6O
会津側ってやめて下さい。作家は会津人じゃありません。
73名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/16(土) 09:10:31 ID:hohxDRfJ0
恨人どもは、捨民ジンケーン派の福島瑞穂さまに相談しろw
74名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/16(土) 11:02:36 ID:WXUlDE0W0
会津側でしょ。会津の小説書いてるんだから。
会津人と言うのはオカシイが、会津側というのはオカシクはない。
75名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/17(日) 13:09:22 ID:Ccup0KMb0
そもそも参考文書が小説家の暴論しかないってのがオカシイだろ!
76名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/17(日) 15:03:53 ID:87bsUBz60
549 :日本@名無史さん:2008/02/17(日) 14:51:21
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E4%BA%AE%E4%B8%80
ウィキペディア「星 亮一」の項目
改造人募集中w
77名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/18(月) 09:11:23 ID:Lo9ej4z30
研究会のバカドモがいいように改造しなければいいがなw
78名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/18(月) 15:38:59 ID:GecxFRGj0
戊辰戦争を改ざんし、幕末の会津藩を美化した作品が多い。

2005年10月、戊辰戦争暴論会を発足、主宰する。会でのハンドルは榎本武揚(総裁)。
79名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/19(火) 10:44:55 ID:fIY/BhdI0
星の何に魅かれて研究会に入るのだろう?アンチ官軍だから?
80名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 11:13:10 ID:RVCA/ta10
単純にバカだからじゃん?類は友を呼ぶって言うじゃん。
81名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 12:56:56 ID:tKU5ySsoO
薩長も会津も禁門の変、戊辰戦争、西南戦争では
それぞれ官軍であり賊軍だったんだから良いんじゃね?
82名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 14:29:52 ID:RVCA/ta10
会津は官軍ではないでしょ。
長州が賊軍になったのは結果論じゃん。
薩摩の場合は新政府と対決したのであって
朝廷と戦争したわけじゃないし。
結局官軍でもなく、賊軍になったのは会津だけだよ。
83名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 19:36:17 ID:RkbdgmmS0
いや、禁門の変の時は会津は官軍であったと思われるのだ。
もちろん、このとき会津と共に戦った薩摩も、官軍ということになる。

そして鳥羽伏見の戦いでは、初日は私兵同士の私戦、
2日目以降は薩長軍が官軍、旧幕府軍は賊軍ということになる。
旧幕府軍が姿勢を変えたわけではない。朝廷が初日の薩長軍の健闘を勝利と見なし、姿勢を変えたのだ。

朝廷とは忘恩のご都合主義者の集まりで、官軍とは所詮その程度のものだ。
しかし、薩長軍が官軍となったことが、この時は明治維新に繋がる決定打となった。
84名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 20:55:46 ID:6NyIF/rS0
っていうかさ、第一日目って公家さん日和ったじゃん
江戸の薩摩藩邸焼き討ちを聞いた時から私戦という態度だったよ朝廷
おっそろしいことに岩倉具視が日和って西郷大久保大激怒の文書がこのっているw
85名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 22:27:28 ID:tKU5ySsoO
西南戦争ん時は薩摩以外が官軍だったろ。
まー薩摩藩だの会津藩だのって藩自体が消滅してたけどな。
86名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 22:34:55 ID:peevHMpC0
ラッタッター
87名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 00:29:26 ID:nN8kuvRA0
>>85
それを言ったら萩なんて萩の乱で朝敵だお
禁門の変も入れると二回目だおw
薩摩も会津も朝敵になったの一回だけだから勝ったお!
88名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 00:40:55 ID:+tEHrVwM0
結局、朝敵とか官軍とかの政治的用語を言葉どおりに受け取って、
現代でも本気で気にしてるのって会津(というか、会津作家)だけじゃね?
89名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 09:48:22 ID:7hY4N54p0
>>87君は歴史を知らないね。萩の乱は明治政府に対する反乱だし
禁門の変は薩摩と会津の画策だよ。長州を朝敵・賊というのは
小説やドラマ坊の言う事だよ。薩摩の西南戦争も明治政府に対する
反乱だから朝敵・賊ではない。朝敵になったのは歴史的には会津だけ。
だから会津系作家が必死に薩長も朝敵・賊だったと叫ぶんだよ。
実質薩長は賊でも朝敵でもないって分かってるから。

しかし星や早乙女って巻末に参考見聞とかちゃんと記載してんのかね?
90名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 16:55:58 ID:YesILGkQ0
>>89
明治政府に対する反乱だと何で「朝敵・賊」にならないの?
意味がさっぱりわからんのだが。
91名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 17:05:20 ID:/xEbFzQV0
明治政府≠天皇 っていう会津史観だろ
92名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 17:37:37 ID:zzunoMDKO
>>89
禁門の変の後、元治元年七月二十三日に孝明天皇が毛利敬親に対し追討令を出されている。
これって長州が朝敵になったってことじゃないのか?
93名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 17:38:27 ID:R0aOptoRO
俺は通りすがりの者だけど、朝廷の話しをしているみたいなので
少し聞きたいが、政府と言っても幕末以降は天皇にお伺いを立てて、最終的に決断をしたのは天皇じゃないの?
少なくとも、第二次世界対戦が終結すまでは。
94名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 20:04:12 ID:qrc35Rgg0
最終的に牛耳ってたのは薩長の要人だろ。
明治後の反乱は内輪揉め。
95名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 20:39:41 ID:Of1HuKSu0
>>94の言う事は素晴らしい!
自由民権運動も明治政府の内輪もめが真実。

そして最後の勝利者は東北人によるう軍閥だ!!ビパ会津!
そして会津の悲願、最後まで徹底抗戦してアメリカが広島に原爆を落とした。
太平洋戦争に負けても長州毛利家(広島は毛利家発祥の地)に復讐した会津人と東北人は偉い!
96名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 21:29:08 ID:qrc35Rgg0
原爆喜ぶとかほんとキチガイだな。
97名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/21(木) 23:35:21 ID:Of1HuKSu0
549 名前:日本@名無史さん :2008/02/21(木) 22:40:25
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E4%BA%AE%E4%B8%80
星 亮一(ほし りょういち、1935年 - )は、日本の作家、歴史家。
彼の歴史哲学は、海外に於いてアイザック・バーリン、ジャック・
デリダなどビッグネームの哲学者から三木清以来の好評価が与えれられている。

98名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 01:08:48 ID:9R0ri0G+0
バーリンはアイザックじゃなくてアイザイアだろ
アホは本当にアホだな
99名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 01:46:11 ID:mQQ5hpVyO
>>93
正確にいうと、明治藩閥時代(1920年頃まで)は
薩長の元老による意思決定の追認機関。
明治藩閥は東北人・士族・マスコミから蛇蠍のごとく忌み嫌われていたから、
天皇の名で政策を行うことで彼らを黙らせていた。

昭和軍閥時代(1920年代から敗戦まで)は、
東北人・士族・マスコミの全面支援を受けた軍閥に振り回されて右往左往。
敗戦後は彼らから戦争責任をなすりつけられそうになった。
100名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 00:28:22 ID:ebLn2OjL0
>>98
馬鹿はお前、アイザックは英語読み。
アイザィアはリトアニア読み。
101名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 01:51:27 ID:KT2SKYzE0
素敵な珍説だね
102名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 01:53:52 ID:KT2SKYzE0
ま、Isaiah BerlinがIsaacと呼ばれてた
ソースを見つけてからまた来てね、おばかさん
103名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 10:31:06 ID:cSCvnIYl0
誰が何を言おうが、ウィキの会津戦争の参考文献は小説家の作品…orz
104名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 11:40:36 ID:JaH/JL060
【不買運動】アウトドアファッションの「パタゴニア」が「捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものです」と宣言!!!【テロ支援】
アウトドアファッションメーカーの「パタゴニア」が
先日、日本の捕鯨船に対して攻撃を仕掛けた狂信的反捕鯨テロ集団シーシェパードを支援していることが明らかになりました。
「パタゴニア」はこの事実を指摘されて
今後もシーシェパードを支援していくと明言、
捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものであるとして、
反捕鯨の立場を明確にしました。
日本の捕鯨は長い歴史と伝統の中で
海の恵みに感謝しながら鯨のすべてを利用して
採り尽くさないように環境にも配慮しながら
行われてきたものです。
白人のように鯨の油を取る為だけに
鯨を殺戮した捕鯨とは違います。
パタゴニアはそのような日本の伝統を無視して
「捕鯨は悪」決め付けて白人の一方的な価値観を
日本に押し付けようとしています。
パタゴニアはアウトドア用品などを売って
人間が自然に入り込んで環境を破壊することに加担しておきながら
反捕鯨と言うことで何か環境に良いことをした気分になっている
自己満足の偽善者たちです。

日本文化の破壊を目論む反日テロ支援企業に対する
不買運動と抗議メールの送信にご協力下さい!!!
105名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 12:44:28 ID:ho2YSvGfO
てかウィキの日本史を信用するのはただのアホ。
106名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/23(土) 23:15:57 ID:WWsZJYPMO
>>93
ほひつ
本屋で売ってる文庫本でも日本国憲法に大日本帝国憲法が
セットになってるのあるから買って読んでご覧
勉強になると思うよ
107名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/24(日) 00:18:17 ID:N4/yWUGV0
>>106
> ほひつ

輔弼?
108名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 00:09:18 ID:D04NRBdd0
しかし会津誅罰スレは一過性の夏厨に留まらないことが確定的となったな。
これはもう既にムーブメントだ。

日本全国各地から会津若松へ、不謹慎な仮装祭りについての謝罪要求・他
府県に対する誹謗中傷についての適法な取締りの実施が要求されている。
福島県の特定思想組織は、日本を分断対立させようとしているのだ。
109名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 00:31:39 ID:SOlsvsLz0
>>108
> 福島県の特定思想組織は、日本を分断対立させようとしているのだ。

分断対立って、福島県とドンゴリ県とそれ以外、の3つにしか分かれてないじゃん。
110名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 08:03:13 ID:nLCEDduu0
会津戦争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E6%88%A6%E4%BA%89

ただし、会津民衆が会津藩を無条件に支持していたかと言えば、それは別問題である。 イギリス公使館付の医者ウィリアム・ウィリスは、
会津軍に関して「会津軍は政府軍の捕虜をすべて殺し、沿道の婦女子に乱暴し、民家から略奪し、反抗したすべての者を殺した。
そのため沿道の人民はみなにげ、会津軍は人夫さえ求めることがでず、みずから兵器や荷物を運ばなければならなかった。
新津の近くでは、会津軍が近づいたので庄屋はほら貝を鳴らして『農兵』を集め、竹槍で会津軍の退路をはばんだ。会津軍は、
うしろからは政府軍の大軍に迫られ、まえからは農民の蜂起で退路をはばまれ、みじめな敗走をつづけた」と記している。
最終更新 2008年2月10日 (日) 18:12。
                                    ↓

ただし、会津民衆が会津藩を無条件に支持していたかと言えば、それは別問題である。 イギリス公使館付の医者ウィリアム・ウィリスは、
会津戦争従軍中、かねてから薩長軍による無差別的な敵軍捕虜の惨殺、沿道の婦女子に乱暴、民家から略奪、
手向かう者の惨殺を新発田に滞在する、北越征討総督 仁和寺宮嘉彰からの使者を通して当局に訴ええた。
最終更新 2008年2月24日 (日) 04:09。
111名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 19:58:00 ID:JGno4XDZ0
>>110
???
改編後のヤツ、よく見ると文章繋がってないぞw
どうせ会津寄りに改編するならもっと堂々とやれば良いのに。
やっぱ日本語が不自由な人たちなのか。
112名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 21:50:13 ID:DjEgOiiG0
白虎隊の悲劇は実は無かった。飯沼の作った捏造である。
113名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 16:51:09 ID:5elBKX4o0
>>112
自分だけが生き残ったから言いたい放題だからね。
あともう一人、白虎隊士見捨てて生き残ったやついたよな隊長の日向日記って奴がwww
114名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 21:55:55 ID:Bb3Zr6fG0
敵前逃亡した少年兵士に、部下に逃げられた下士官。泣けるね。(~一~;)
115名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/27(水) 21:58:19 ID:TttFyl2S0
>>113
飯沼って、死んだ後もしばらくは飯森山の白虎隊墓地に埋葬してもらえなかったんだっけ?
「生き残りの恥さらし」とか罵られて。
116名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/28(木) 02:15:04 ID:BzntCVPNO
>>115
死を美徳とする会津武士道らしくていいじゃないか。
117名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/28(木) 14:54:39 ID:Eat3Q4HR0
>>112
白虎隊は、世間から二度評価された。
一度目は騙された人々から悲劇として。二度目は嘘を見破った人々から喜劇として。
脚本家飯沼乙w、ってところかな。
118名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/28(木) 20:59:56 ID:XKcDB3Kn0
当時に会津武士道なんて言葉はない。
119名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/28(木) 21:52:37 ID:CWxCbTqV0
レッツプレイハ・ラ・キ・リ!!! ハラキリプレイング!!! > 糞会津
120名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 00:05:27 ID:IvJ/8zjz0
>>113
日向内記はあれはあれで頑張ったんだよ。
腹を空かせた少年兵の為、ご飯を求めてはるばる本陣まで……。
残った者たちは、隣の農兵隊から凍ったお握りを分けて貰って飢えを凌いだんだって。
本当に大変だったんだねぇ。



一方薩摩はビスケットを作った。
121名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 00:12:43 ID:ZrjIr9rL0
官軍は、現地では握り飯も作って配布してます。
東京で製造した乾パンは、炊事の行き届かない本当の戦場向けでした。
122名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 00:34:08 ID:siFAYiXY0
そして会津兵は日光を焼き払った。この記述ってウィキにもある?
参考文献が会津系作家の作品じゃ載ってないかwww
123名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/29(金) 09:42:51 ID:1MkJR8eX0
小室直樹大先生も会津出身だお
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AE%A4%E7%9B%B4%E6%A8%B9
5歳の時に同盟通信の記者であった父
が死去。その後、母の故郷である福島県会津若松市に転居する。
福島県立会津高等学校時代、後に政治家となる渡部恒三、
弁護士の渡部喬一(第二東京弁護士会所属)と知り合う。
この3名は校内で「誇大妄想狂」と呼ばれるほど目立つ存在だったという。
1951年、福島県立会津高等学校卒業。京都大学理学部数学科入学。
位相幾何学を専攻。
124名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 10:26:25 ID:YzK9dqcQ0
↑だからそれが何なんだ?
125名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 15:54:43 ID:QCkFgUrY0
>>124
「類は友を呼ぶ」ってことだろ。そうでなければ「朱(会津人)に交われば赤く(基地外に)なる」ってことかも。
126名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/01(土) 23:51:06 ID:IUn0pmkD0
会津はアホばっかという傍証のひとつか?
127名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/02(日) 01:21:05 ID:hIVsQz5q0
渡辺恨三爺も誇大妄想。本当狂ってると思うよ。
128名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/02(日) 08:44:28 ID:efnVLvC10
会津はきちんと謝罪しなければ、国の補助金をだしてやる必要もない。
129名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/02(日) 10:13:06 ID:hIVsQz5q0
国の歴史を改ざんしてるからな。しかも事実無根なのにもかかわらず
阿弥陀寺などのモニュメントを平気な顔して建ててるしな。
130名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/02(日) 17:59:35 ID:DEvJXexP0
国内の反日の種に肥料と水をやる勢力があるんだろ常考
131名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 10:14:04 ID:Psj7T0YPO
>>102
由来が聖書の人名で、前者はイザヤ、後者はイサクだから、そもそも
まったく別の名前だわな。音が一部ちょっとだけ似てるというだけで。
132名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 10:58:00 ID:isft8a5d0
参考文献が星&宮崎の時点で「おかしい」って思えないきゃソイツはオカシイ。
133名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/06(木) 09:36:33 ID:8cVaOQt10
だって会津病と福島恨人はオカシイじゃんwwwwwwwww
134名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/07(金) 22:57:36 ID:WIvpVc/w0
現実と偽りの過去が混同してるからな。
135名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/08(土) 15:30:19 ID:Mx6XEYxa0
事大主義だから都合いいんだよ、魔界村の人々は
136名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/10(月) 18:45:44 ID:ZAf8Wf710
>>134確かに現実と小説が混同してるね、福島恨人と会津病ってwwwww
137名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/11(火) 16:02:44 ID:u4Vq/ZGT0
さー会津系作家の作った詐話が音を崩れて壊れていくぞ〜ww
これまで中傷の的だった鹿児島・山口は思う存分暴れて欲しいな^^
138名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/12(水) 00:27:21 ID:nYPY4Lup0
負け犬の遠吠えといって、薩摩としては、会津がキャンキャン騒いでくれる
方が、薩摩隼人の精強さを全国に喧伝してくれるのでよい。

世の中の真の実力というものを、東北にしらしめることができるので、鳴か
せておけばよい。
139名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/12(水) 00:29:04 ID:6lW03yUS0
あれ?薩摩って西南戦争できゃんきゃん吠えて農民兵にやられたんじゃなかったっけ?
140名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/12(水) 01:58:12 ID:+SlLh38m0
>>139
私的な軍が、国軍相手に善戦した。
束になってボロ負けした東北連合のヘタレよりマシだろw
141名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/12(水) 07:03:55 ID:vhIqGE0i0
>>110
その部分完全に削除されたね。
会津人どもの情報統制っぷりがよくわかる。
板垣も、住民が新政府側につき。
喜んで、荷駄を手伝い、道案内をしたと記している。
だから、封建国家は駄目だとさとり、自由民権運動を志したとしているのに。

彼らは会津武士が、
街道沿い焦土作戦をして、家屋を焼き払ったりしない。
住民を徴発して、畳を持たせて盾にしたりしない。
見得のために、京都守護やって、領民に重税したりしない。
貨幣を鋳造して、贋金を作り、物価のインフレを招いたりもしない。
と思っているんだろうか。
142名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/12(水) 09:27:24 ID:19x3fcBS0
萩市
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%B8%82

友好都市提携を拒否された都市
会津若松市(福島県)
萩市が、会津戦争で会津藩と敵対した長州藩の本拠地である事から。
1986年に、敵として戦った戊辰戦争から120年を記念してそろそろ和解を、と友好都市提携を萩市が持ちかけたが、
会津若松市民の多くが「いまだ時期尚早である」「我々は恨みを忘れていない」として、友好関係の締結は拒否された。
戊辰戦争後、長州藩が鶴ヶ城下に残った2000人以上に上る会津藩士、商人、農民の死体の埋葬を禁じた(放置された藩士や女性、
子供の死体は腐敗し、烏の餌になったとされる)件や、戊辰戦争後も山県有朋ら長州閥によって会津の人達が様々な部分で冷遇された事がその原因とされている。
会津若松市民の中には、賊軍という理由だけで埋葬を禁じた蛮行についての謝罪が一切無いことに対して、未だ許せないと考える人がいる。
現在でも、行政レベル、市民レベルでの交流は幾度と無く試されているが、未だ完全な和解には至っていない。
143名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/12(水) 10:21:07 ID:js5v8pv+0
>>141
> 板垣も、住民が新政府側につき。
> 喜んで、荷駄を手伝い、道案内をしたと記している。
> だから、封建国家は駄目だとさとり、自由民権運動を志したとしているのに。

喜んで手伝いをしたのは、封建国家はダメだと悟ったから?
会津に限らず、どこの庶民がそんなに純真なもんか。庶民というのはもっとしぶとくしたたかな者なんだ。
儒学で頭でっかちな狂信者の会津武士や、「粗暴なリアリスト」な薩摩武士や、議論好きで権高な長州武士なぞ及びもつ
かないほどに。
勝ちそうな側に素早く追従して見せただけ。もし会津側が勝ちそうになったら薩長の乗ったお神輿をひっくり返して会津を乗せ
るだけのことだ。
144名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/12(水) 10:47:50 ID:vhIqGE0i0
>>143
長州藩の場合は、領民が幕府の援助をするどころか、
自発的に参加し、各方面で徹底抗戦をしている。
長州一藩対幕府、兵力差は30倍だ。
これで長州が勝つと思っていたとしたら、よほどめでたい頭をしていたことになる。

また長州藩は、幕藩体制の締め付けが厳しかったため、
藩財政が常に厳しく、ゆえにそこまで民に優しい政治をしていたわけではない。
というか、はっきりいって、かなりきつい取立てをしていた藩だ。
それでも、領民の多くが、藩に協力したのにたいし、
会津は民に見捨てられた、どこまで酷い状況だったか、容易に予想できよう。
145名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/12(水) 11:25:33 ID:js5v8pv+0
>>144
> これで長州が勝つと思っていたとしたら、よほどめでたい頭をしていたことになる。

においだよ、におい。長州側には当時の庶民にしか分らない勝ち馬のにおいがしたんだよ。
だからこそ、カタログデータでは圧倒的だった幕府ではなく長州についた。
そうでなければ、単にスターリンと同じことが長州にはできて会津にはできなかったということだ。
正義不正義ではなく、能力の有無に過ぎない。
146名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/12(水) 12:19:25 ID:vhIqGE0i0
においって言われても。
周囲から、十万以上の大軍が迫っているんだぞ。
それも事前に、馬関戦争で痛めつけられているってのに。
それに当時の志士の日記とかでも、悲壮感が漂っているんだけど。

長州は全ての民の祖国防衛戦争にまでもっていけたけど、
会津の場合は、武士層だけの抵抗に終わった。
これは両者になんらかの大きな差があったと思うけどな。

あとスターリンに近いのは会津だと思うけど、
おおむね長州の場合は志願兵で、徴兵じゃないけど。
会津は二束三文で徴収されて、盾にされたわけだし。
147名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/12(水) 17:36:03 ID:G8cHlloh0
長州藩は徴兵を募る際にも、家庭の事を考えて
長男は徴兵せず、次男から志願に応じたんだよな。
その辺がすでに会津と違うと思うよ。
しかも戦場で盾って・・・。さすが悪政会津藩だな。
148名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/12(水) 23:23:42 ID:7ROvsoX50
>>145
においってのは有るかもねー。
京じゃ庶民はみんな不利な筈の長州贔屓だし、
大坂じゃ将軍家茂への不平不満が小話やらなんやらの形で渦巻いてたしw
(余は下の句は知らぬ、ってのはウケたw)

ただまぁ、板垣が望んだのはそんな不利な状況でも国を見捨てない「国民」で、
そんな国民を作るには自由民権運動だ、と思ったんでしょう。

>>146
会津がスターリンってのは同意。
北の国の「総動員体制」ってのはどうも陰気です。
149名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/13(木) 00:02:42 ID:BVD1msGx0
ソースは星総裁ってのがウケルな〜ウィキも大変だね^^
150名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/13(木) 01:18:18 ID:dta2TW1e0
珍説書いてるIPは京都市中央卸売市場第一市場らしいね
151名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/13(木) 12:39:07 ID:mM+fmAieO
においっていうかまあ晋作ならやってくれるってのはあったと思うが
長州の農民は基本的にはかつての大毛利のころからの配下だからね
領地が減ってもう養えないって言ってるのに、
なら農民になってでも付いていくって言って付いてきた奴ら
152名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/13(木) 13:27:35 ID:Sjj6U1L50
>>151
>長州の農民は基本的にはかつての大毛利のころからの配下だからね
いいかげんだな。
元々農民は人口比で武士より圧倒的多数だから少々武士が農民に転向したとしても、
相変わらず元々農民であった層が多数であることには変わりない。
それに長州は江戸時代の初期から殖産興業だ。農業だけでなく林業、漁業、商業、軽工業など
幅広く産業を興した。武士の転職先は農業だけではなかったということだ。
いくら農民になりたいといっても天から農地が降ってくるわけではない。
正確にいうなら武士の流れを汲む町民も多かったといえるし、そうした町民が長州をリードしたとも
いえる。そうした背景もあるから武士以外にも教育が広がったともいえる。
そうした歴史が幕末をリードする経済力の源になったともいえる。
ただし、長州の農民は基本的にはかつての大毛利のころからの配下だからねは大げさすぎる。

153名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/13(木) 16:56:24 ID:MRvQc6Hs0
>>151オマエの主観なんぞどーでもいい
154名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/13(木) 20:47:27 ID:EBfMVTAB0
逆に会津はよそ者だから、
余り住民に愛着が無かったのかもね。
占領軍とか進駐軍みたいなもん。
155名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 02:04:57 ID:wcrPR+N10
>>151
長州人もとい防長人は大内時代から中央でもブイブイ言わせてるからな。
防長人の革命的な基本は大内時代からすでにあったと思うな。
156名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 06:05:11 ID:s+wnA/qF0
うむ。長州は民度が低いからな。
157名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 15:38:44 ID:I5thZI2F0
>>154
会津戦争の後半は会津領の農民は反旗翻して一揆起こしたんでよなwww
そりゃ畳持たせて盾にしてたら農民もキレるわ。
開戦前にすぐに逃げ出した会津のほとんどの町人商人などは先見の明がある。
158名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 21:22:56 ID:KVhYCQWA0
>>155総括して長州人でOKだよ。ループさせるの好きみたいだけどウザイから止めてね。
それに大内氏の時代は文化の革命だから、関ヶ原以降〜幕末の長州とは別ものだよ。
西京って周防・長門の2ヶ国ではなく周防国山口を指してる事だからね。
大内氏は陶氏によって滅ぼされてるし、陶氏は毛利氏によって滅ぼされてる。
関ヶ原以降の長州藩8万石を改革して幕末には88万石(それ以上とも言われてる)まで
革命したのは毛利氏。大内氏の改革は陶氏に滅ぼされた事によって終ってる。

>>156官民一体になって8万石から88万石にまでのし上げた長州人は民度が低いっすか?
159名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 22:10:47 ID:KVhYCQWA0
あと思うんだが、ウィキの戊辰・会津戦争の参考文献が会津系小説家だけってのもオカシクない?
会津系でなくても戊辰戦争を研究してる研究者とかいるだろうに、何故会津系小説家だけの文献なの?
160名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 22:33:18 ID:whf1yd6d0
八万から88万って、、、
長州藩は37万だぞ(これは実態に即しておらず、初期から52万あって、7割を公称した)
太閤検地で29万。
なお明治維新のときで104万だ。

>>159
それ以外のを記すと、蛮人どもが削除するんだよ。
だからそれをソースとしたものしかのこらない。
161名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/14(金) 22:56:51 ID:UIyux/xq0
と言うか、「山口出身のアーネスト武藤説」と書いたからには、
参考文献に
ttp://fugusuma.blog31.fc2.com/
貼らなきゃいけないんじゃないか?w
162名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/15(土) 08:14:02 ID:GCwjQazB0
>>158
俺がいってる、防長人の革命的な基本があったってのは、
〜革命を成し遂げたとかいうより、大きく動く資質みたいなのね。
スケールのでかさ。
大内氏も西の大大名として名を馳せていたわけだし、
西の京といわれ、周防に本拠地があったとはいえ、防長を統一しおさめてた、
防長の開祖。
163名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/15(土) 18:13:42 ID:osZffdtX0
>>154
会津藩主が芦名、せめて蒲生だったらもうちょっとお互い愛着を持ったんだろうか。
164名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 02:20:19 ID:1BoQfAjW0
長州藩の石高を36万度止まりにしたの徳川幕府だぞ
封印した外様がここまで石高を上げては示しがつかないから
表表記は36万石としていたが、長州藩は官民一体になって
米・蝋・紙・塩などで石高を上げていったんだよ
その結果、確認できる範囲では88万石
おそらくもっと石高はあっただろうとされている
関ヶ原以降は周防・長門合わせても8万石しかなかった

俺が読んだのは堂門冬二の長州藩大改革という
半小説・半研究といった本だ
165名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 02:43:56 ID:ldqoRm7t0
>>164
堂門がソースじゃ元長官や司馬遼をソースにするのと大して変わらんな。
166名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 02:59:08 ID:xS9hcoKc0
>>164
>米・蝋・紙・塩などで石高を上げていったんだよ

それがいわゆる長州の四白と呼ばれた長州藩の多角化経営であり、殖産興業であった。
長州藩は明治新政府の為した殖産興業を既に江戸時代に先駆的に果たして成功したのだ。
そもそも石高制は、米という単品経済を前提とした制度であり、初めから実態には合っていなかった。
それは米が一俵も取れない松前藩が1万石とされていたように、インチキであることは幕府も気づいてはいた。
諸藩の石高は確定申告のような自己申告を元に幕府が最終調整して決めていた。
諸藩の石高は藩の序列、格付けの基準でもあり、課税所得という意味も有った。
ここで注意しなければならないのは、諸藩の石高は元々いい加減な数値であるから、
それを元に藩の経済力を表す値とは使えないうえに、論者によって米の生産量を論じているのか、
経済力を論じているのか、議論が混乱しやすいことである。
いい加減という意味は、自藩の序列を上げたいという見栄の為に実力以上に過大に申告していた藩もあれば、
幕府からの普請命令を逃れたい為に過少に申告していた藩もあり、幕府の最終調整もしょうもない理由に基づく、
根拠の無い押し付けだったりしたことである。

164氏の主張は長州藩は多角化経営により石高より経済力があったということと理解する。
それは全く正しい。値の正確さは別にして。
167名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 03:01:09 ID:xS9hcoKc0
>>165
暴論だ。貴方は学問の資格無し。破門する。
168名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 03:25:35 ID:ldqoRm7t0
>>167
暴論冬二ってか?w
だって単なる税金泥棒崩れじゃん。
169名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 03:44:59 ID:uKjI8rxZ0
デーモンは勘弁してくれorz
170名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 05:22:16 ID:la7Y4rLGO
>>166
江戸期はその期間中に食料増産があったにも関わらず、基本は江戸初期の公表石高から数字を変えていないのが実体。

石高=人口というのは都市部以外ではほぼ成り立つ法則な訳だが、
人口で言えば、
薩摩97万人、長州66万人。
対して長岡23万人、会津21万人、仙台94万人てのが、明治最初期の戸籍調査から明らかになっている。
薩摩は芋を生産したおかげ、長州は元々石高を低く見積り過ぎ。
長岡に関しては利水と治水で江戸期に越後は石高が3倍に上がったのが有名で、人口の実体と名目石高の数字に3倍の開きがあるのは実に理にかなった数字。
仙台も平地の湿地を干拓したりで食料増産に成功している。
で、会津だけが額面=人口で、江戸初期から経済的に発展していない地域だったと断言出来る有り様だ。
長岡は豊かだったから武器を大量に買う金があり強かった。
のに対して会津は弱っちいのは当然な訳だww

さらにお間抜けな話に、都市=衛生状態悪いし白米食べてばかりで脚気になるわの超平均寿命が短い最悪の場所が現実だったのだが、
天領や譜代の領地付近の街である江戸・大坂・京都が農村からの出稼ぎ労働者を殺しまくる作用をしてしまい、
人口は都市から離れた所ばかり増えて、幕府を支えるべき地域は農村人口まで減少していき、
江戸後期には都市に流入する、都市人口を補充にる農村の若者が減ったせいで、1700年頃よりも大幅に都市人口は減ってしまっている有り様だ。
発展した田舎の西側に攻められたら、衰退した幕府側で勝てる訳が無いのは当然の結末だ。
171名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 20:03:38 ID:gJFRMro60
>>164
俺も同じ本もっているけど、
八万石なんて数字だったっけ?
太閤検地のときの膨張で29万石、これはかなり低めに報告しているから、
これより少ないことはない。
28万石か38万石のまちがいじゃあ・

>>170
薩摩97万人もいたのか。薩摩の実高ってじつは籾殻ではかっていたから、
初期はせいぜい40万石、幕末でさえ70あるかないか、という数字なのに。
徴収は100万超えてて、66万
だから三分の二程度が妥当な数字だと思ってんだがな。

まあ徴収は課税対象がやけに多いから、
正確な石高だけど、余剰分の穀物で養っている人口がいないってことかな。
172名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 22:33:28 ID:HuC141np0
薩摩は琉球を通じた貿易の利益があったしね
173名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/16(日) 23:05:31 ID:okYwo2ie0
>>172
そうした薩摩藩の経済力を恐れた幕府は1754年、露骨な薩摩藩いじめの挙に出た。
それが宝暦治水事件である。
174名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 00:25:49 ID:mbezdnP+0
様々に意見があるがスレチガイなのにそろそろ気付こうぜ。
長州や薩摩が会津と違って地方自治の精神があったって事なんだろ?
会津は事大主義で徳川の用意した椅子(京都守護職)にしか飛びつけない悪政だって事だろ?
そんなのは詳しい内容を知らない俺もで理解できるよw
そういやマサヨ本田(会津の海外工作員)が星サイトで「会津は真面目だから京都守護職を与えられた」
とかカキコしてなかったっけ?大呆けじゃねーかwwwwwwwwwwwwwww
175名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 01:05:12 ID:paPQV/ao0
>>174
スレチガイでもないし、お前の理解も100万光年事実とかけ離れている。
会津は事大主義という訳ではない。会津は専業農家だから農本主義の幕府を支持したが、
経済力には限界があったし、飢饉の時は貧窮農民が離散し人口激減したりしたのに、
幕府に頼りにされ、京都守護職までおおせつかるハメになった。
それに対し薩長は、江戸時代当初から兼業農家で手広く多角化経営をしていて
商工業も発展し貿易もしていたから石高より経済力があった。薩長は幕府にいじめられながらも
幕末には政局をリードする存在になった。
会津にすれば、俺ら真面目にこつこつ頑張ったが貧しいのに、あいつらは外様の分際で
豪勢に外車乗り回しやがって、という醜い嫉妬・ねたみ・そねみの感情があった。
そうして幕府に朝廷にひたすら忠義を尽くしたにもかかわらず、戊辰戦争では朝敵にされ、
薩長にフルボッコにされるという憤懣やるかたない屈辱も味わった。
こうした会津人の怨念がwikipediaの戊辰戦争に現れているという訳だ。
単純・純朴で世渡り下手な会津は情に溺れ、開明・進取で世渡り上手の薩長に巧みにしてやられたという構図も
戊辰戦争の背景にあったということである。
お前は歴史の理解が浅すぎるから、いろんな意見がスレ違いにみえるだけなのにそろそろ気付こうぜ。
話かわるが、単純・純朴を美化すれば真面目といえるかも知れない。
大呆けと評すのは可哀想かな。
176名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 04:12:05 ID:o5vlxkAnO
なんで東北諸藩って稲作以外の産業を興さなかったの?
当時の東北は稲作には向かない環境でちょっと冷夏になれば即壊滅だったのに。
やっぱ、武士に物申す商人等新勢力が台頭して
百姓に対して好き放題に暴政をふるえなくなるのが嫌だったのか?
177名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 07:30:34 ID:S5c7OAzV0
米沢藩の紅花とか南部鉄瓶、あと林業とかあることはある。
178名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 08:59:56 ID:JwnFAOr10
>>176
>なんで東北諸藩って稲作以外の産業を興さなかったの?
興さなかった訳ではない。それなりに興してはいる。ただ西南雄藩ほどの成果を挙げてないという比較の問題。
そして産業を興すのは武士階級であって農民階級ではないという命題がある。
いつの時代でも世界どこでも農民は保守的な性質があるのである。
農民は困窮すれば一揆を起こすか、餓死するか、都市に流入して細民になるかの3パターンしかないのだ。
だから産業が起きるためには武士階級にそうした動機が産まれる必要がある。
長州にも薩摩にもその動機があったから薩長は殖産興業に励んだのである。
東北諸藩は概ね、関が原の合戦で東軍についたから、家康から減封処分は受けてない。
だから、さほど殖産興業の必要性が無かった。例外は米沢藩だが、実際米沢藩では多角化経営はしている。
西南雄藩ほどの成果が挙がらなかった理由の最大のものは、密貿易ができなかったこと。
地政学の関係で、密貿易できる相手がいない。であるから珍しい産品、文化が伝わってこないし、利益も出ない。
>当時の東北は稲作には向かない環境でちょっと冷夏になれば即壊滅だったのに。
それも事実と反する。土壌的な条件としては薩長より稲作に向いた環境であった。
ただし気象の変動から受ける影響は大きかった。だから気象に恵まれれば大豊作で、
恵まれなければ凶作・飢饉となった。そしてその影響をまともにくらうのは農民階級であって武士階級ではない。
そこで前述の「そして産業を興すのは・・・」という言葉が生きてくる。
凶作・飢饉と一揆の発生回数は南部藩がダントツのチャンピオンであった。
壊滅していたのは農民階級だけで武士階級はさほど困らなかったのである。
武士階級が困ったのは幕府からの無理な命令が、その要因としてウエイトが大であった。
179名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 10:37:32 ID:S5c7OAzV0
>>178
> いつの時代でも世界どこでも農民は保守的な性質があるのである。
> 農民は困窮すれば一揆を起こすか、餓死するか、都市に流入して細民になるかの3パターンしかないのだ。

つ 二宮尊徳
180名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 11:59:32 ID:JwnFAOr10
>>179
二宮尊徳は勉学に励み、勤労・倹約の模範となった偉人だ。
自ら模範的な農民像となった人物だが、新産業を興した人ではない。
二宮尊徳は、こうやれば困窮することはないという見本を示したまでであって、
農業は駄目だから、他の産業で儲けようという人ではない。
つまり二宮尊徳も>>178の論を裏付けた人物であるといえる。
181名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 17:04:47 ID:3G4dEGO2O
会津は一門になって松平を許されたからな。
恨み骨髄の毛利、島津とは違うわな。地方自治の精神とか関係ないわけで。
182名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 17:40:22 ID:lTXrPKlD0
憾み云々より時代の趨勢だったんじゃないの。
水戸の天狗党みたいなのもいたし。
島津も篤姫はじめ徳川と結びつき強かったのでは。
183名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 17:48:03 ID:HRKwr2TA0
>>181
会津は保科正之の遺言を家訓として、ひたすら忠実に守り続けたんだよな。
忠義というか愚直というか。もういい加減、義理は果たしたろと思うが。
184名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 17:54:49 ID:HRKwr2TA0
>>182
>島津も篤姫はじめ徳川と結びつき強かったのでは。
それは藩主だけの話。下級武士、郷士にとってはそんなの関係ねー。
薩摩も長州も幕末は実権を失って只のお飾りだからな。
薩長は藩主が明治維新をリードした訳じゃない。もう、そういう古典的な
臣従関係など意味を失っていた。会津は昔のままだったけどな。
185名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/17(月) 21:19:25 ID:3G4dEGO2O
14代将軍に慶喜を推薦させるのが篤姫に課せられた使命であって、それをできなかった篤姫は済彬が死んだ時点で島津にも過去の人。
186名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 01:20:50 ID:3gm0Js/t0
スレ違いですまないが俺も長州藩の石高について語りたい。
いくつか意見が出て少々食い違ってるが、それぞれ言ってる事に違いはないと思う。
ただ、それぞれが述べてる時代が違うんだよ。だから石高に違いが出てるんだと思う。
石高は時期によって動くからね。スタート時、最高時、飢饉時と廃藩置県直前と違うからさ。

慶応5年の地検では29万8480石
慶応15年の地検では53万9260石
で、徳川幕府としては西国に押し込めた毛利が短期間でこれだけの石高を得たとなると
西国に封じた意味が無いとし、全国にこの事実が出回ると関ヶ原の処分が甘かったとされかねないので
正式な表記を7割程度の36万9000石として、将軍が朱印を押したとの事。このせいで長州藩は現在でも
簡単な歴史書なんかでは36万石と表記されるに至っている。
長州藩は初代藩主の毛利輝元の時代ですでに約54万石にまで上げてるのが凄い。この辺はさすが官民一体の藩だと思う。
あとこの石高の上昇は、長州藩という土地が中国きっての穀物の産地だった事が幸いだったと考えられているみたいだよ。
で、その毛利輝元が死ぬ前に行った地検では65万8299石と、さらに12万石近くアップしている。
そして、毛利重就の頃には82万7071石にまで石高を上げているね。

長州藩は度々人口調査をやってるようで、これは国勢調査と戸籍の走りらしいよ。
享保11年では46万1040人、延享元年では53万1531人、安永9年では54万9072人、寛政5年では59万2031人
寛政10年では60万2527人。慶応では日本の人口が3000万で米の石高も3000万だったそうだよ。
単純に計算すれば国民1人に対して1石。60万の人口を抱えていた長州では、米の石高だけで60万石あった事になる。
関ヶ原以降、順調に人口と米の石高、総石高を上げてきた長州藩だけど天災で失われちゃうんだよね。全部じゃないだろうけど。
で、この天災で失われた石高を取り返すのに重要になったのが、長州の4白(塩・米・蝋・紙)
特に塩田が年間で30万石をたたき出す効果があったようだよ。あと村田清風等の事もはずせないだろうね。
で、結果的に長州藩が何万石だったのかは俺には分からない。まぁ明確になってないからこそ
徳川幕府の決めた36万石が一般説になってるんだろうね。
187名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 01:28:36 ID:3gm0Js/t0
>薩長にフルボッコにされるという憤懣やるかたない屈辱も味わった。

薩土佐でしょ。長州の主力は長岡行きだし、合流した頃には会津藩は篭城してたはずだよ。
188名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 03:09:15 ID:Vql1wnHt0
1550年(上位75都市)
*1 690,000 北京[明]
*2 660,000 コンスタンティノープル[オスマン朝トルコ]
*3 480,000 ヴィジャヤナガル[アラヴィドゥ朝ヴィジャヤナガル]
*4 360,000 カイロ[オスマン朝トルコ]
*5 260,000 杭州[明]
*6 210,000 パリ[ヴァロワ朝フランス]
*7 209,000 ナポリ[ハプスブルク朝イスパニア]
*8 182,000 南京[明]
*9 171,000 ヴェネツィア[ヴェネツィア]
10 160,000 広州[明]
19 100,000 平安京
54  60,000 山口
55  60,000 堺

1575年(上位75都市)
*1 706,000 北京[明]
*2 680,000 コンスタンティノープル[オスマン朝トルコ]
*3 300,000 平安京
*4 275,000 カイロ[オスマン朝トルコ]
*5 260,000 杭州[明]
*6 220,000 パリ[ヴァロワ朝フランス]
*7 215,000 ナポリ[ハプスブルク朝イスパニア]
*8 200,000 アグラ[ムガール]
*9 188,000 南京[明]
10 175,000 ペグー[タガウング朝ビルマ]
30  90,000 山口
38  75,000 堺

1600年(上位103都市+4万人以上)
*1 706,000 北京[明]
*2 700,000 コンスタンティノープル[オスマン朝トルコ]
*3 500,000 アグラ[ムガール]
*4 360,000 平安京
*5 300,000 大坂-堺
*6 270,000 杭州[明]
*7 245,000 パリ[ブルボン朝フランス]
*8 224,000 ナポリ[ハプスブルク朝イスパニア]
*9 200,000 カイロ[オスマン朝トルコ]
10 200,000 ビジャプール[アディルシャーヒ朝ビジャプール]
28 100,000 駿府
39  80,000 山口
71  60,000 江戸
96  50,000 金沢
97  50,000 博多 
??? 45,000 鹿児島
189名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 12:14:36 ID:IHxbs1OC0
しかしこうして見ると、長州ファンはデータや事実にそった意見を出してるが
会津系作家をはじめ、福島恨人や会津病は創作ばかりで語ってるよね。
会津ファンは主観・想像で語り過ぎじゃない?ま、発信源が小説家だもんなぁw

しかしウィキは何で参考文献を会津系作家のものだけにしてるの?
そこからしてオカシイって思わない?
190名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/18(火) 13:05:01 ID:pvBK46+N0
>>189
長州ファンという訳ではない。日本の歴史における明治維新の意義を
史実に即して冷静に評価しているだけなのです。藩とか県とか、そんな狭い視野ではない。
でも会津ファンは会津しか見えてないみたいだね。日本のことなんかどうでもいいんだろうね。
191名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/19(水) 15:44:57 ID:dF7+Dl6w0
189は190に対してコメントしてるんじゃないと思うぞ
会津ファンは福島発信だけを鵜呑みにしてるだけでしょうね
他の地域の人間が研究できない壁もありそうだな、会津史って
192名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/22(土) 13:33:37 ID:s2so/v+r0
福島は日本の笑われ者
193名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/23(日) 09:24:13 ID:Wr+82w2w0
ウィキの会津戦争・戊辰戦争の参考文献は、言論の自由を盾に
ある事ない事を書きたてる会津系作家の作品だけで固められてる
自分達は言論の自由を盾にするが、自分達に反する意見は認めない
それが会津系作家のやり口だ!アマゾンでも酷評だw
194名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/23(日) 09:50:23 ID:agwxLLmg0
賞味期限を捏造すればタイーホだが、
歴史を捏造してもタイーホされない。
ここに気が付いた会津研究家は天才である。
研究など必要ない。小説のように作り話を作り、
出版すれば売れる儲かる。
おれもやってみてーw
195名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/23(日) 12:17:49 ID:5TLYhIOD0
>>194
> おれもやってみてーw

もっともらしい捏造をするにも才能はいるからな。なかなか難しいぞ。
河北新報主筆藤原相之助(秋田)の「仙台戊辰史」の捏造に対し、長州側は「義経→ジンギスカン説」の総元締め末松
謙澄(小倉)の才能を以ってしか抗し得なかった。「防長回天史」がこれである。
まさに「捏造を制するに捏造を以ってする」の図である。
会津製捏造史は、両者ほどの才能を持ち合わせた者がいなかったためさらに質が落ちて容易に看破されてしまうのである。
196名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/30(日) 00:29:04 ID:CuluI7PM0
正しいことを曲げようとする会津。真理を歪めて広めようとする福島。

これは正当な学問に対する挑戦であり、公教育に対する冒涜である。
197名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/30(日) 07:44:44 ID:v6dP+Y4k0
負の歴史を隠そうとする支那・朝鮮・福島は恨文化&盗作文化の繁栄地。
国・地域・政治家・郷土家が国民・市民を騙して洗脳している。
198名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/30(日) 23:20:38 ID:Lw+HnDWy0
明治大帝に敵対した逆賊退治に、逆賊の記録など必要であろうか? 必要なかろ。
199名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/31(月) 18:57:53 ID:QWvt9Yvq0
会津系作家以外の文献も参考にしろよ
200名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/31(月) 23:48:41 ID:UYyhAjNV0
>>199
会津系作家以外の参考文献もアップしてたらしいけど、基地外が会津系作家以外は削除しちゃうらしいよw
201名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/01(火) 03:08:44 ID:QrwkkeWhO
よく出てくる土佐の僧侶の日記って出版されてたりする?
一回原文読んでみたいんだけど。
202名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/01(火) 12:03:47 ID:k4nvJj9C0
証言は証拠ではない。これ法治国家の常識。
つまり福島県は言論の自由がなく、法治国家でもない。
203名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/02(水) 22:03:03 ID:3GuL1kQy0
福島ではいまでも家制度と隣組がありますが何か。
204名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/04(金) 16:33:46 ID:OMNk58WJ0
福島はいまでも戊辰戦争継続中ですが何か?
205名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/04(金) 17:47:48 ID:xFbDNT91O
隣組って結構田舎のほうは根強く残ってるよな
206名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/06(日) 11:17:32 ID:A7uJRu900
うっそ?! 福島ってまだ前近代的社会がひろがってるの?
207名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/06(日) 11:41:29 ID:bPYqnfW20
田舎の方は助け合いが基本だからな、回覧板とか寄合いとかあったり地域の繋がりは強いよ
208名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/07(月) 14:39:45 ID:r9h06tSH0
俺も会津厨は嫌いだが今回のこれは軽率すぎると思う
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1207491233/
209名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/07(月) 22:35:51 ID:9isu27Il0
たしかに軽率すぎるな。TBSが「8日午後に全国ネットで謝罪放送をするなんて。必要あるまい。
210名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/08(火) 21:08:30 ID:Z7grVEXL0
史実を突きつけられて火病るのは朝鮮人と福島人
211名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/09(水) 02:06:24 ID:VCJo2AbW0
なんで本当の事を言ったのに謝罪しないといけないの?
だったら福島は鹿児島・山口及び国内外に謝罪しろよ。
どんだけ嘘発信してんだよ、被害者きどりでよ!
212名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/09(水) 20:29:32 ID:3IG7WADp0
慰霊碑くれた外国に謝罪巡業しないとね、福島はw
213名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/09(水) 21:44:39 ID:yc2E2eMB0
なんでここの薩長厨はウィキの手直しとかしないで2chだけでグチグチいつまでも言ってるわけ?
行動しろよw
214名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/10(木) 02:42:32 ID:D2fkW7d90
行動してもフグスマの恨族達が妨害するじゃん。
215名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/10(木) 06:15:42 ID:n/EqiGVx0
>>214
それに屈して2chで泣き言いってんのか?w
どれだけ腰抜けだw
216名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/10(木) 19:54:01 ID:y5ML57vf0
一矢報いたな
217名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/10(木) 23:35:42 ID:0gjIEc9K0
2chは、一過性ではただのネットウヨになり何の評価も得られん。むしろマイナスだ。
しかし継続的に育ったものは化ける。市民権を得てムーブメントとして潮流となった
時にこそ、大地は動くのだ。

今はまだその時ではない。

会津がいままで田舎で隠れてコソコソやってきた罵詈雑言観光の全貌を白日
の元に曝し上げ、糾弾と指弾を加えねばならない。いままで会津が大マスコミ
を使ってきた洗脳に対抗するには、その非道と卑劣さをひとつひしつ追求し
継続的に監視してゆかねばならないのである。
あせることはない。会津の息の根を止めるのは、ゆっくりと楽しめばいい。
218名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/10(木) 23:46:24 ID:/P2OinpDO
>>217
それに関係ないヤツを巻き込むな!

会津を擁護などしてないのに都合悪いと勝手に会津厨に決め付けたりくれぐれもしないことだな
219名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/11(金) 00:26:59 ID:CMC49hOk0
つか、2chですら会津史の嘘がこんだけ垂れ流しなんだし
終ってんじゃないの?会津観光なんて。
糞尿城の暴露であれだけファビョったのは
そんだけ終ってるからなのでは?
220名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/11(金) 00:32:46 ID:muQG+KPR0
>>219
会津史を嘘ってなんですか?
箇条書きで頼む。
221名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/11(金) 21:17:47 ID:nRGMg7OR0
>>220
>>219じゃないけど、さらっと書くよ

@斗南に流罪にされた→斗南と猪苗代の二カ所を示され、会津藩家老山川大蔵が進んで斗南を撰び移住した。
A明治政府の命令で会津藩士の遺体は放置された→そんな命令は存在しない。遺体放置は別の理由だった(ウィキ「会津戦争」の項目を見よ)
B会津藩は恭順していたのに、無理矢理攻められた→会津藩は最初「徳川家処分が決定するまで謝罪しない」と太政官に文書を提出。仙台米沢の説得で武備恭順姿勢となる。
恭順姿勢でありながら、宇都宮の旧幕軍を支援し、会津藩兵まで送っている。
C鳥羽伏見の戦いで負けたのは徳川慶喜のせい→絶対に勝てると言っていた第一日目の戦いで会津兵は負けた。それを見た慶喜の戦意が下がったわけで、会津など旧幕軍の弱さが敗因である。
D会津は朝敵ではない→鳥羽伏見の戦いで、軍を京都へ向けて朝廷を武力恫喝したのは会津など旧幕軍。また錦の旗に向けて発砲しているので朝敵になるのは当たり前。
(禁門の変で長州がそれをやったから、会津は長州を朝敵とした。今度は立場が逆になっただけの事)

まだいっぱいあるけど、あとは自分で調べてくれ
222名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/11(金) 21:19:38 ID:ylqIGOMK0
>>220証拠の定義が揃ってないのに証拠をして
観光モニュメントとか平気で作って
外国にまで小説を史実として発信する事
223名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/11(金) 22:13:31 ID:uNzr5bOg0
>>220
横レスだが会津の最悪の嘘は、会津が恭順していたということだろうね。
百歩譲っても、議論の余地があるのは藩主の松平容保だけであって、
その他の重臣、藩兵に至っては恭順といえそうな事実は皆無、絶無、全く無い。
武装恭順なんてインチキが通るはずが無いだろう。
それだけ会津は明治新政府を舐めきっていたのだろうね。
224名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/11(金) 22:58:00 ID:nRGMg7OR0
俺は「会津藩士戦死者の遺体は、明治政府の命令で埋葬されなかった」って奴だな。
そんな命令は実際には無かったんだし。このネタで薩長の誹謗中傷散々やってる会津って何?
TBSが捏造したって?会津の方が捏造してるってのw。しかもTBSより悪質だしな。
225名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/12(土) 22:37:15 ID:hNg5WKLZ0
会津ってそのうち、日本政府に対して独立を企んでるらしいぞ。
226名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/12(土) 23:51:19 ID:mXH2vNCnO
お前にかなんか日本語が不自由だな
チョンだろw
227名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/12(土) 23:53:30 ID:qez5SCmt0
>>226
自己紹介乙。
228名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/13(日) 00:13:07 ID:SRHhaqnn0
200×年・・・会津は日本政府に対し独立戦争を挑む!
作家☆総帥「君たちの愛してくれた白虎隊は死んだ!何故だ!?」
赤い彗星板垣「坊やだからさ・・・」
229名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/13(日) 08:00:32 ID:+Q9hYnmt0
俺もウィキの戊辰戦争かなんかを読んであきれたよ。
最後に「これはフィクションです。史実ではありません。」と記入すべし!
TBSに対する抗議にもうんざりだ。
胡散臭い市長が出てきて、どうだこうだとバラエティー番組に突っ込み入れて。
本当に大人気ないというか、会津は幼稚だと思う。
糞尿だまりは十分に城内の士気を下げたであろうから、降伏の一要因と見なせる。
くさい環境に一月もいれば降伏するよ人間。それは恥ではない。
恥はそれに対して自らの都合だけを押し付ける会津だな。
都合の悪いものにはふたをする…ふたをするのなら便所のふただね。

230名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/13(日) 11:32:00 ID:vEIl2Log0
>>228
仙台人☆が会津を擁護するのは、実は会津を戦場にしたのが長州人ではなく軽率にも世良を暗殺して全面戦争にしてし
まった仙台人のせいであることと、その馬鹿さ加減を覆い隠すためなんだ。
つまり、会津人は薩長ではなく仙台に対して恨みを持つべきなんだ。
会津人よ、仙台人☆に騙されてはいけない。今こそ正道に還って仙台を叩くべきだ。
231名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/14(月) 14:50:50 ID:l6eS53Aw0
会津が長州に因縁持つのは歴史的にオカシイ。
会津討伐の主力でもないし、多くの会津人が
前原一誠などの長州人に比護されたわけだしね。
つまり会津と長州の因縁をどうこう言う奴は
歴史的無知と自分で言ってるに過ぎないんだよな。
232名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/14(月) 16:20:22 ID:IjNies4y0
>>231
>多くの会津人が
>前原一誠などの長州人に比護されたわけだしね。

嘘いうな
多くない
2、3人程度のどこが多いんだよw
233名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/14(月) 16:21:55 ID:H8iHQQJm0
つかなんで長州怨んでんだ、怨むなら、薩摩と土佐だろ。
戦後統治にも長州加わってないし。

長州が怨まれるとしら、長岡だろうが、
ここの人間はむしろ小栗を怨んでいる。
234名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/14(月) 17:33:38 ID:IjNies4y0
会津征討論の主力が長州だったからじゃね?
235名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/14(月) 19:21:13 ID:SNIK7msY0
とにかく、理由はなんでもいいから、とりあえず長州を恨もうってのが先にあるよな。
気持ち悪いヤツラだ。
理由なんかあとからなんでも捏造すればいいって感じ。
236名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/14(月) 22:30:13 ID:p+G+au8E0
そもそも長州を潰そうとした主力は会津だろ。
その長州に逆襲されただけ。会津が目前に立たねば長州が潰そうとする理由も無い。
好んで火中の栗をひろった馬鹿殿はどこの殿様だい。
そして強硬に長州征伐を主張。これで恨まれないはずは無い。
むしろ会津はそれでも寛大な処置を受けられたのだから感謝するしかない。
もし会津が勝っていれば世の中は最悪、最低だったことだろう。
237名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 00:26:30 ID:HdUbq/LIO
どっちが勝っても最低な世の中だアホ
238名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 00:58:04 ID:wUSBtz8r0
なんか長州マンセーなヤツがいて気持ち悪い。バカじゃねぇの。
長州は民度が高いとかアホか。本州の端っこのド田舎だろうに。
会津と目糞鼻糞だろうがw
ってか、戊辰戦争自体、田舎モン同士の泥臭い成り上がり競争だろw
ま、現代では一地方として脚光を浴びることも無く、廃れ逝くだけの寂しさから、
100年以上前の過去の栄光にすがりたいんだろうけどなw
239名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 04:30:43 ID:CiiootT+0
>>238
はぁ〜あんた歴史理解してる??
戊辰戦争が田舎もんの成り上がり戦争なんて、あんたの歴史理解度はゼロだよ。
田舎もんの成り上がり抗争のなかで徳川幕府は潰れてたっておちか?
そんな認識で大丈夫か?
本州の端っこのど田舎にこてんぱんにやられて滅亡したのが徳川幕府。
ど田舎って強いね。今でも政府の中枢はほとんど田舎もんの成り上がりばかり。
都会っ子ってどこか貧弱で野心もなく駄目だね。
人工的な環境で育つから人工的な人しか育たない。自由な発想を持てない。
だから都会で育った人間は駄目なんだよ。
240名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 05:31:41 ID:QSpQIBuh0
>>238
歴史板なんだから語ってるだけだろ。
今の栄光を語り合いたいならお国自慢板にでもいけよ。
241名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 05:56:41 ID:SmJH3yv60
>>239
と、長州人がやってきて糞の役にも立たないプライド振りかざしてものを申しておりますw
さぁ、プライドの高い会津人もウンコみたいなネタふりまいてこの長州人と泥仕合を見せてくださいw
楽しみにしてますよw
グズとクズの争いをw
242名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 06:21:11 ID:CIWvQfgg0
最近の会津人は、自分を東京人だと思い込んでいるようだな。
243名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 07:15:59 ID:C7HCoZZ20
長州は江戸時代の初期から長州の四白といわれる多角化経営で殖産興業で貿易立国だった。
そうして長州は教育にも注力し、身分制度を打破して四民平等を成し遂げた。
長州は明治日本の先駆けで近代化を果たした。
一方の会津は、お米一筋の単品経営で、不作になるとたちまち飢饉。
それでも武士は情け容赦なく農民から年貢を取り立て、農民は餓死か離散で人口激減の繰り返しを260年間続けた。
会津は殿様マンセー、幕府マンセーの旧態依然の現状に固執し、ついには時代に取り残された。
長州は幕府の執拗なイジメにもかかわらず幕末には時代をリードし、明治新政府の主力となった。
会津はひたすら幕府に忠義を尽くすばかりで時代を読めず、ついには逆賊にまで落ちぶれた。
会津武士は旧態以前の軍装備にかかわらず、明治新政府を侮り、既得権益に固執し、農民を搾取し、
農民を無理矢理巻き込んで日本の近代化に逆らった。
戊辰戦争は明治新政府が逆賊一味を掃討した明治維新の最後のセレモニーであった。
244名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 07:57:49 ID:SmJH3yv60
逆賊が逆賊を討ったのが戊辰戦争
245名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 08:41:49 ID:xh6APh5z0
長州は明治になるまで毎年正月に「殿、今年こそ徳川征伐を!」と、
徳川への恨みを確認する儀式を繰り返してた。
ここまで徳川への恨みを引きずった藩はほかにないだろ。
人種的に朝鮮半島からの影響を強く受けてることも一因。
246名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 08:49:21 ID:QSpQIBuh0
作り話しをさも史実のように語るのはもうやめようぜ。
匿名掲示板だからクオリティを求めるのもあれだが。
247名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 09:15:22 ID:bbapGhsq0
会津、赤穂の歴史偽造がわが国に流した精神的害毒は大きい。
248名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 14:12:33 ID:R2V7WXs40
>>247
会津は仙台人★に騙されてるだけなんだからあんまり苛めてやるなよ。
249名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/16(水) 04:40:15 ID:lCdFylSu0

【小説】福島恨文化【観光史学】
169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/14(月) 15:06:36 ID:3w61leEI
焼き鳥で勝って大喜び
しかもニュースになってる時点でフグスマOUT!

住みたくない都道府県は?
877 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/14(月) 15:07:31 ID:3w61leEI
福島県に決まってんだろ?何だよ?焼き鳥戊辰戦争ってwwww
オマエ等小説と観光史学を鵜呑みにしてファビョってんじゃねーよww
今21世紀って知ってるのか?フグスマダベチャーの恨人どもw

朝鮮人と呼べるのは関西人だけ
363 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/14(月) 15:08:05 ID:3w61leEI
朝鮮人と同じように恨の文化が繁栄してる福島県をお忘れなく。
福島県は関東地方?東北地方?

393 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/04/14(月) 15:08:59 ID:3w61leEI
おいおい、焼き鳥戊辰戦争に勝利して狂喜してニュース流したのはどこの地域だ〜い?www

スカ●ロブログの信者は、気軽に人を恨むよね。
しかも捏造も中傷も平気でするし、その上ひどい粘着。
自分の国にカエレ、と素で言いたくなる。
250名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/03(木) 12:00:55 ID:SvZ3XmZ60
>>245それ証拠とかないんだけどね…。なんでそういう証言だけを鵜呑みに出来るの?
もしかして考える力とか調べてみようとう行動力がないの?
251名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/03(木) 17:13:49 ID:ZJU6D57VO
函館戦争
252つんとん:2008/07/26(土) 10:06:08 ID:x/robQoy0

すみません。
今、夏休みの宿題で戊辰戦争について調べているのですが、
お聞きしてもよろしいでしょうか?


戊辰戦争は、ドコとドコの戦いなのですか?

253名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/26(土) 11:13:32 ID:yI5VleEY0
豊臣方の大名である島津と毛利VS徳川方の旧幕府軍である会津松平、桑名松平の戦い
254名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/27(日) 19:34:49 ID:3wg7u/9F0
>>252
まず採点する先生に「薩長と会津どっちが好きですか?」とさり気なく質問しなさい。
薩長が好きと答えたら「薩長を中心とした明治新政府軍と旧幕府軍や会津藩の権力闘争」と答える。
会津が好きと答えたら「幼少の天皇を担いだ薩長ら西軍と旧幕府を中心とした会津藩ら東軍の権力闘争」と答える。

どっちにも特別な感情はないと答えたら・・・・
「統一国家体制を望む明治新政府軍と封建領主制(幕藩体制)の維持を望む旧幕府軍の戦い」と答える。

答え方を間違うと問答無用で0点。上手く答えると100点で、0点か100点の二つに一つという恐ろしい採点がなされるので先生のチェックは重要だよw
255名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/27(日) 20:21:58 ID:G02ek22S0
そこであえて0点の答えをいうが、かなり詳しく考察して、
理論的に武装しとくのがいいと思うんだがなあw
俺は左のせんセーに、テストの問題は間違っている。
と徹底的にテストの設問の間違いから、テストの余白に、
半分くらいの時間を使って、指摘した覚えがある。
一応全てその問題は○になったなw
256名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/06(水) 05:11:28 ID:ZSqR9t6O0
つかウィキの参考文献が会津系作家の作品ばっかりじゃね?
257名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/06(水) 08:41:36 ID:TpUemwJM0
会津は歴史を偽造する
258名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/07(木) 12:27:13 ID:XaCkBJOx0
創作が史実になる会津
被害者意識満載で未来永劫恨文化が繁栄するであろう
259名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/13(水) 10:39:49 ID:66PAvVYH0
福島恨人や会津病のソースは
ウィキか創作か小説家の主観
史料とは呼べない代物ばかり
なんて愚かなんだろう…
260名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/28(木) 21:02:40 ID:G/rzYnv/O
まず研究している御偉い様方に会津マンセが多いんじゃね?
261名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/28(木) 21:45:44 ID:k2LV8IV/0
研究者で会津好き、という人は数人いるが、
どれも会津小説をソースにした言説に出会うと、極端に嫌な顔をする。
(戊辰戦争後埋葬を認められなかった、斗南に強制移住させられた、
 会津は公共事業で差別を受けた、会津人は役職につけなかった、等)
これらの説は全て、会津小説家と地元の人間が作った嘘であることが判明している。
262名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/29(金) 01:45:23 ID:L/jniB7FO
ところで旧幕府はなんで最後まで抵抗したの?北の果てまで追いやられてまでさ。
263名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/05(金) 09:50:08 ID:bmSWIhKM0
>>262簡単に言うとあがき。江戸が開城された時点で大元の徳川が負けたのだから
戦地を拡大する必要もなかったと思う。反乱分子が活動してれば、新政府に潰されるのは必至じゃん?

>>263本当酷い嘘だよね。死体埋葬禁止令の一次史料すらないのに慰霊碑を建設したりね。
斗南藩移送だって会津藩の意思だったのに、強制移送にしてる。
公共事業につけなかった?山本覚馬を筆頭にたくさんいるわ!
会津が役職に就けなかった?・・・。もう朝鮮と変わりないよ、会津は。
264名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/06(月) 20:17:50 ID:CGmP4AA20
ジュール・ブリュネ 1838年フランス生まれ 元フランス陸軍参謀総長   

エコール・ポリテクニーク卒業

「ラスト・サムライ」のモデル

1862(文久2)年からメキシコ戦役に従軍し、プエブラ攻城戦での功で24歳という若さで、レジョン・ド・ヌール勲章
・シュバリエ章を授与される。画技において抜群な才能をもち、戦地において描かれた、
そのデッサンはフランス国内中に公表された。

幕府からの要請によって創設されたフランス軍事顧問団の一員として、慶応3年(1867年)来日を果たす。
しかし、軍事伝習開始後一年たらずで鳥羽伏見の戦いが勃発。ブリュネらはフランス本国の命令により中立の立場を
とることとなる。新政府から使節団の国外退去の旨を伝える書簡を受けとったフランス公使ウトレイは帰国を決定する。
しかしブリュネはそれに賛同できず、横浜のイタリア大使館での仮面舞踏会にカズヌーフ伍長とともに出席し、
舞踏会を抜け出して東北へと向い、その後「開陽丸」に乗り込み榎本武揚の旧幕府脱走軍とともに箱館に入り、 軍事顧問として従軍する。
この時、ブリュネは上司であるシャノワンヌ大尉の机の上に、フランス皇帝ナポレオン3世に当てた手紙を残してきた。
ウトレイ公使やシャノワンヌ大尉、延いてはフランス本国に迷惑のかからないように辞表を出していた。

箱館で旧幕府の海軍副総裁・榎本武揚の行動を支援し、軍事的防衛の援助も行う。
五稜郭に立て籠もる旧幕府脱走軍を新政府軍が攻撃し、五稜郭は陥落、榎本武揚らは投降した。
ブリュネらは陥落前に箱館港に停泊中のフランス軍艦で箱館港から脱出した。その後サイゴンに強制送還され軍事裁判
にかけるためフランスへ連れ戻されるが本国においてはブリュネの心情を理解するフランス国民の後押しにより
軍事裁判にかけられることはなかった。

1870年、普仏戦争が勃発して軍に復帰することを許され、セダンの戦いでプロイセン軍に包囲されたフランス軍は、ナポレオン3世以下全軍降伏し、
ブリュネも捕虜になる。
1871年パリ・コミューンでの鎮圧に参加する。その後ウィーンやローマの大使館駐在武官
1881年榎本武揚の推薦により、勲三等旭日中綬章を授与される。
1895年日清戦争で日本軍の作戦を指導し成功させ、明治天皇から勲二等旭日重光章を授与される。
1898年フランス陸軍参謀総長に就任する。
265名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/15(水) 11:08:09 ID:I9LwoLxh0
その内会津脳が海を越えるか・・・
266名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/03(月) 12:06:46 ID:EkkJZwp50
267DTTX:2009/02/10(火) 06:39:57 ID:e2a3lsVr0
[[Peccafly]] 名古屋大学大学院情報科学研究科渡邊研
268DTTXbb.KUY(プロ”管理”人):2009/02/24(火) 23:57:26 ID:Up15mDcx0

 【中庸な表現】で独自な研究を掻き続けてます。

 [[利用者:Peccafly]] 名古屋大学大学院情報科学研究科渡邉研

月    席替え          ヒソヒソ・・・        「え?まだ居たの?」
曜          グループ学習   歌えないカラオケ
の   調理実習                 体   「あれ?今日呼んだっけ?」    便所飯
朝             修学旅行   怨み 育         休       弁当
 コソコソ・・・            罰ゲーム告白           み  「調子乗ってんじゃねーよ」
        「なんでお前もくんの?」       図       時間
                              書               ト    「えーと、誰?」
  二人組み       好きだったあの子    室       ザワ・・・   イ   鬱
     寝たふり    「なんか臭くない?」   / ̄ ̄ ̄\   落     レ
MDが友達   「おいお前コンビニ行ってこい」/ ─    ─ \  書         飲まされた泥水
                           /  <○>  <○>  \ き
   画鋲   机に花   キモイ・・・      |    (__人__)    |  隠された所持品
ザワザワ・・・・     ガヤガヤ・・・        \    ` ⌒´    /             「旧ユーゴはじめ東欧のスペシャリスト?」
         アドレス帳      嫉妬   /    Peccafly   \                  ただの学生ニートじゃん
269名無し象は鼻がウナギだ!:2009/05/04(月) 10:42:59 ID:4IuYM9+m0
低脳削除荒らし Shota
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/Shota

とにかく目についた気に入らない投稿を役に立つもの立たないもの関係なく出典があろうがなんだろうが
消しまくるクズ。
270名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/04(月) 14:30:41 ID:olRGwov7O
>>252
去年の夏にどんな回答でどんな採点だったのか聞きたいね。
271名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/05(火) 10:27:20 ID:CnkTdm+60
>>264
ラストサムライのモデルはアーネスト・サトウだろw
相方がどうみたって西郷隆盛だぞ(元は政府要人で、南国で不平士族のリーダーだし)
272名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/09(土) 18:25:32 ID:5JKHOgIdO
私たち福島県民は高知県民と薩長が嫌いです
273名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/09(土) 18:38:38 ID:5JKHOgIdO
と言うか最近まで土佐が関わってたなんて知らなかったがな
274名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/10(日) 11:39:36 ID:5WlZQ7k10
福島県民は嘘を覚えこまされているから、
本当の加害者が会津藩士であり、薩長と福島県民が共に会津と戦ったことを知らないんだよ。
275名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/10(日) 14:41:12 ID:NHJyy/j9O
宮城や山形より攻撃しやすいから福島狙っただけだよ
276名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/11(月) 07:32:53 ID:qhz1PXsIO
274は馬鹿か。福島県内の全藩は新政府と戦ったぞ。二本松藩は中でも壮絶だった。相馬は負けそうになったら寝返ったが。
277名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/11(月) 11:10:29 ID:ogGxfgYk0
【WBC】韓国、大統領から受刑者まで決勝戦に熱狂…「よりによって、なぜイチローに」と残念がる韓国ネチズン[3/24]
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1237907715/
278名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/11(月) 15:43:30 ID:Azy/wzVX0
>>276
列藩同盟が郡代を拉致監禁し、城下に火を放った事例もあります。
あなたのような人間を、うそつきというのです。
279名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/19(火) 14:53:44 ID:vCeWHCtuO

文禄・慶長の役が海外で誤解されまくってる件
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1224042272/

280名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/26(火) 23:26:24 ID:RltS8+2c0
福島とか会津とかっていうより白河以北は全部この思想でしょ。

韓国や中国ですら日本の都市との友好提携があるというのに。
281名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/11(木) 10:39:24 ID:WFWssHb20
【戊辰戦争研究会による操作なのか!?】

会津観光史学の中心人物である妄想作家・星亮一の作品に対し
氏の弟子である高橋みちこと思われる人物が、amazonのレビューにて
氏の作品に対し、星5つを与えるレビューを書いてる疑惑が浮上した!

氏の作品は幕末史ファンから酷評されてる事で有名だが
一部に氏を支持する人達からのレビューがあり
学会からも相手にされない妄想・誇張・美化・悲劇化を
好評価する発言に不可解さが指摘されていたが
今回、氏の弟子であると思われる人物の、氏への好評レビューが発見され
これらのレビューは氏が主催する戊辰戦争研究会の会員が
氏の作品の売り上を上げる為に、操作してるのではないかと
幕末史ファンに示唆されている。もしこれらの一連が
戊辰戦争研究会による操作であれば、会津史に加担する
氏の姿勢が問われるのではないだろうか?

http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A3IG32V5DM1ML7/ref=cm_pdp_rev_all?ie=UTF8&sort%5Fby=MostRecentReview
282名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/24(月) 12:33:30 ID:pAtm8vPA0
朝鮮人の皆さんは朝鮮人であることを誇りに思うなら、朝鮮人の名前を使ってください。
283名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/01(火) 17:11:02 ID:51zEfq3DO
まあ戦争引き起こしたのはたぶん喜多方の人だけどね
284名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 14:44:04 ID:R0okWjBiO
林、五十嵐
285283:2009/09/07(月) 04:45:49 ID:aGehz+7RO
まあそれは冗談として
286名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/05(月) 03:02:11 ID:3qeIwayB0
「敗者の維新史」を読もうとしているのだが、
このスレ見つけて、えーと、先にこのスレを読んだほうがいいのかな?w
287名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/05(月) 04:17:05 ID:3qeIwayB0
戊辰戦争、結局イミフ。
黒駒勝蔵って人について調べてるんだけど、
甲州と戊辰戦争と近藤勇?はどう関係しているのやら。。。
288名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/05(月) 18:44:35 ID:W4dBWHTt0
戊辰戦争って鳥羽伏見で終わってるんだよ。
徳川が降伏したんだからね。
残党が北上して連合組んだり戦局を拡大しただけ。
負けて悲劇を売りにしてるだけ。コリアンレベルだよ。
289名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/08(木) 00:05:34 ID:FvZWh8qE0
>>286
そもそも「敗者の維新史」なんぞ読むな
読むなら「戊辰戦争(佐々木克著)」を読め

>>287
江戸薩摩藩邸焼き討ち・赤報隊・相楽総三・東山道を調べてみれ
290名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/08(木) 20:42:14 ID:/Z+rPsgq0
>>289
図書館でたまたま目についた本が「敗者の維新史」でした。
紹介していただいた本、読みます。ありがとうございました。
291名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/24(土) 21:47:18 ID:kVxvW5MJ0
292名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/10(火) 20:36:38 ID:mWsP+++u0
[[61.115.74.75]]
[[203.141.154.203]]
[[210.252.237.95]]
左翼工作員
293名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/15(火) 23:32:30 ID:ZLj8Kwls0

戊辰戦争は、鳥羽伏見の戦いのあとでも慶喜が戦い続ければ幕府勝利でしょう。

幕府陸軍は大阪に5千、江戸に2万5千いて、完全に西洋化軍隊、鉄砲も先込式ではなく、元込式が装備されていた。

負けた方がおかしいと言うか、慶喜に戦う気がないんでしょうね。

戦う気があれば、鳥羽伏見の戦いに負けた後でも大阪城に籠城すればよい話。

大阪湾の制海権は幕府海軍にあるし神戸の薩摩藩汽船を攻撃し徳島沖で撃沈しています。

薩長が大阪城を包囲しても、幕府軍が籠城を続ければなかなか落ちない。

事実、官軍は大阪攻めをどうするか頭を抱えていた。

それに大阪城を包囲している間に東海道から幕府軍が西上してきたら、どうするかでも官軍内部で結論が出ていなかった。

しかし、慶喜が大阪城から夜中に退出し江戸城に船で逃げ帰ったので官軍サイドのこれらの懸案が全て片付いてしまった

困っていたら、慶喜が逃げ出して大阪城が丸焼けになったと聞いて逆に官軍が拍子抜けしたぐらい。
294名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/16(水) 00:26:56 ID:mGX/o7tH0
薩長は天皇を担いで西国に逃走するでしょう
慶喜ら幕府軍は鹿児島まで攻め込まなければ勝てません
鹿児島まで行っていたら、戊辰戦争が一年続いたように最低でも半年以上戦争状態となります。

外国軍がこんなチャンス放っておくかねぇw
慶喜は小栗が進めていたフランス軍介入を、小栗をクビにする事で阻止し、戦わずして恭順しました。
結果的に外国軍が介入する口実が無くなり、辛うじて助かっていますw。
295名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/16(水) 01:44:37 ID:sZAd0v/J0
>外国軍がこんなチャンス放っておくかねぇw

具体的にどこの国が上陸準備をしていたのですか?
清朝の北洋軍閥ですか?オザーさんみたいですねw

>慶喜は小栗が進めていたフランス軍介入を、小栗をクビにする事で阻止し、戦わずして恭順しました。

始めて知りました、列強は局外中立を宣言してたのでは?

フランス軍介入ってフランス軍事顧問団の事ですか?
それともナポレオン3世が日本に遠征軍を準備していたのですか?
どういう意味なんですか?

ナポレオン3世はメキシコにも出兵しているので、超多面戦争ですねw
どうりでプロイセンに負ける訳ですwww
296名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/17(木) 10:28:25 ID:amCo+mMe0
>>294
>薩長は天皇を担いで西国に逃走するでしょう

西郷らの立てた軍事計画でコードネーム“太平記”というモノ
幕府軍が鳥羽伏見の防衛線を突破し下京に突入してきたら
西園寺公望が明治天皇を担いで山陽街道を行幸の名目で広島まで突っ切っる
そして広島藩と長州藩が明治天皇を担いで山陰地方に割拠し幕府軍を迎え撃つ計画
実質、幕府による第三次長州征伐です。
297名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/17(木) 18:27:47 ID:Qy9n+d9u0
慶喜って江戸っ子にとって恩人なの?江戸っ子には嫌われてたって聞いた事あるけど〜どっちなの?
江戸っ子とって英雄?汚点?
298名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/17(木) 20:42:00 ID:75wMd9M10
>>296
京と天皇を抑えられた時点でアウトですな。
東海道からもこれません、何故なら尾張藩は朝廷につくからです。
越前もおそらく朝廷につく、つまり幕府派これません。
大阪に籠城してそのまま終わりですな。

制海権もとれません。長州征伐の時の、貧弱な長州海軍にすら、
ボコボコされた幕府海軍に勝ち目はないです。
299名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/18(金) 05:44:41 ID:OE3HLCN30
>東海道からもこれません、何故なら尾張藩は朝廷につくからです。

これは無理です。
史実でも尾張藩は佐幕派「ふいご党」と勤皇派「金鉄組」の内紛で一致した動きが取れません。
慶喜逃亡後の内紛が続き1月25日の青松葉事件でケリがつくまで幕府に完全には敵対していません。

もし東海道を幕府軍(幕府軍総督小栗忠順・副総督大鳥圭介)が西上し尾張藩兵が迎え撃っても、
兵力・武器等で適いませんし尾張藩も一致して幕府軍に当たれません。
おそらく付け家老で「ふいご党」に近い成瀬正肥あたりが尾張藩からの分離独立を条件に離反し、幕府軍が圧勝します。

名古屋城も直ぐに包囲され仮に京から新政府の議定に就任している徳川慶勝が
来ても籠城するのが精一杯だと思います。
幕府海軍も名古屋湾に侵入し艦砲射撃をしてくるでしょうし、
名古屋城内に居る「ふいご党」が手引きをして城門を空けてしまい
幕府軍が夜襲をかけて名古屋城は落城です。

落城時に徳川慶勝は運が悪ければ、討ち死か切腹、良くても
幕府軍に捕縛されて駿府城に連行され監禁されます。

さて名古屋城落城後の尾張藩は、引き続き慶勝の息子の義宜が幼少により
責任能力無しとされ引き続き藩主を勤めますが、
付け家老の成瀬家は、勲功で幕府軍により犬山藩として独立する事を許されます。
また、勤皇派の「金鉄組」は粛清の対象に成り、幕府軍や「ふいご党」主導の
藩当局から追跡弾圧され大量に斬首されます。
「金鉄組」に近い付家老の竹腰正舊も京に脱出しようとした所を幕府軍に
見つかり逮捕処分され改易蟄居となり「金鉄組」は壊滅します。

名古屋城に入城し中京地区を制圧した幕府軍総督小栗忠順は訓令を発し、
東海道諸藩では大政奉還以後に勤皇派が台頭し佐幕派との対立が激化しため
各藩当局は勤皇派を弾圧し処分するように命令する可能性あります。
さらに越前藩に対しては北陸道では佐幕派の庄内藩と米沢藩、それに越後諸藩の
部隊と会津藩の援軍が南下するので通行を許可するように要請するでしょう。
越前藩は幕府軍の中京地区の制圧と勤皇派「金鉄組」の粛清に驚き、新政府議定の
松平慶永の許しを得る前に藩当局が庄内藩、米沢藩、会津藩、越後諸藩の部隊
の通過を認めてしまう可能性が大きいと思います。

また幕府軍は鳥羽伏見の戦いで幕府を裏切った津藩を攻撃し下す事も行うでしょう。
300名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/18(金) 05:57:07 ID:rgFace+K0
無理だな。史実でもあるように、藩主が反抗的な勢力を全て切腹させて、
朝廷派で藩論を統一している。
幕府が大阪に籠城して、軍を編成して東海道を登ってくることには、
とっくに尾張は新政府軍が駐留するところとなる。
軍を編成して新たに送るのには、数ヶ月以上の時間がかかる。

江戸無血開城も、十分兵力が集らず、幕府内の意見が交戦で徹底していなかったから、
これしかとれなかったというのが現実ってものだ。
301名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/19(土) 02:49:01 ID:BFbcyEMv0
大阪城で慶喜が頑張っている間は、青松葉事件は無理だと思います。

なぜなら薩長が大阪城攻めで手間取る事で京都での越前藩や土佐藩の和平工作を始める隙が生じます。

尾張藩も公武合体派の一員という事でそれに同調するでしょう。

武力討幕派が対徳川戦争に手間取る事で公武合体派の立場が良くなります。

そうなると徳川慶勝も本国で佐幕派弾圧に乗り出せません。

今だ新政府の三職会議に参加していない中立派の肥後藩・筑前藩・阿波藩・岡山藩なども戦闘中止を薩長側に要求し始めるでしょう。

独自の軍事力経済力の無い公家衆は、長期の幕朝戦争を嫌がるでしょう。

また、公家衆は、南北朝時代の坊門清忠みたいに明治天皇の広島行幸にも反対するでしょう。

薩長の対徳川戦争が早期に上手く行かないと公家の間に隙間が出来てしまい、岩倉も辛くなります。

一万人近い軍勢が大阪城に籠城した場合、たかが5千人程度の薩長軍では直ぐに大阪城を落せません。

それに薩長の本国からの援軍ですが、長州はともかく、薩摩の援軍は期待できません。

榎本率いる幕府海軍が健在であれば、本州に兵員と武器を輸送するのは厳しいと思います。

薩長が大阪城を落せず、薩摩の援軍が望めない場合、新政府は名古屋に出兵出来ないと思います。

むしろ新政府は、明治天皇の広島行幸を念頭に長州藩や広島藩の援軍により中国地方の制圧を始めるでしょう。

ただ中国地方には、それなりに佐幕派や譜代の諸藩がいるので中国地方の制圧には時間が掛かるでしょう。
302名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/19(土) 11:17:50 ID:+7WwRT0B0
>>301
ありえないな。何故なら寡兵の新政府軍に負けて、籠城に追い困れた時点で、
幕府から加速度的に人心が失われるからだ、
とくに忘れているようだが、篭城している時点で、京都と天皇を新政府が握っているということ、
この状態では、時間稼ぎをしたところで、新政府派が増え続けるだけ。
長州や薩摩の西南雄藩切り崩しはとても巧妙、長州征伐の時でさえ、
広島や津和野などは長州と密通しており、長州征伐後は熊本などの雄藩も幕府には、
愛想をつかしている。
戦闘中止命令は、朝廷から幕府に武装解除という命令が出るだけだよ。
そして独自の経済力が公家にはないから、長州の莫大な資金援助で抱き込まれているわけ。

さらにいうと、5000の兵力はただの先遣隊で大村らの率いる本体は後から来ていた。
その先遣隊にすら勝てずに、敗北してしまったんだよ。
幕府海軍も無駄、関門海峡を封鎖できた事は一度としてない。
長州征伐で高杉は海峡を自由に渡って、小倉に攻め込んでいる。
その状況で薩摩の軍を止める事は不可能。
303名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/19(土) 11:20:37 ID:BFbcyEMv0

慶喜にもミスが合ったと思います。特に開戦時期が早すぎたと思います。

王政復古のクーデター以後に公武合体派の巻き返して徳川の辞官納地が
ウヤムヤになり、慶喜の議定就任も日程に上って来ました。

更に徳川宗家(江戸徳川家)は最大の大名であり将軍職と内大臣職を代々
務めて来た事から慶喜を議定ではなく副総裁に就任してもらい三職会議
の性格を諸侯会議に変えてしまい、慶喜に副総裁として行政全般の責任
を担ってもらう構想も出てきました。

しかしこうなると薩摩と長州は何の為に王政復古のクーデターを起こしたか
分からなくなり、今までの討幕派の努力は水の泡です。

そこで薩摩は相楽総三ら浪士を集めて江戸市中に放火・掠奪・暴行などを
行わせる攪乱工作を開始し幕府側を挑発しますが、幕府はこれに乗せられて
しまい正月の3日に薩長と開戦します。

本来であればこの時期に暴発的な開戦は避けるべきでしょう。
黙って大阪でじっとしていれば公武合体派の越前藩・土佐藩・尾張藩の工作で
新政府に慶喜の為の良いポストが出来上がるはずでした。

それを阻止したいがために薩摩は関東で破壊工作を開始した訳ですから
慶喜はこれには乗せられず、大阪城で幕府強硬派を説得しじっと公武合体派
の工作を待てば良かったと思います。

もし慶喜が開戦するなら、68年の4月か5月に開戦すべきでしょう。
なぜなら鉄鋼船のストーンウォール号が4月に幕府に引き渡されるからです。
鉄鋼船が幕府に引き渡されてから幕府は薩長と開戦すべきで、もし鉄鋼船が
幕府海軍に有れば、戊辰戦争時に鹿児島湾に幕府海軍が突入し、鹿児島城を
艦砲射撃出来ます。

また、幕末には戦争準備には2ヶ月かかると言われているが、史実でも
12月上旬の長州藩兵の入京時から幕府側は戦争準備を開始している模様で
若年寄の永井尚志がこの時期に長州勢の入京阻止のための武力行使を慶喜に
献策しています。
もしそれならば2月まで開戦を待つべきでした。
幕府陸軍は開戦準備を万端にし、薩摩藩の工作で騒乱状態の関東各地の暴動
や一揆を鎮圧するための治安出動もすべきだった。関東の騒乱を鎮圧した後
に開戦してもよかったはずで、正月の開戦はあまり計画性のある作戦に基づ
いた開戦とは思えません。

また、慶喜は東北諸藩や関東諸藩の有司を集めて列藩同盟を作らせるのも
政治的には効果があるだろうし、史実のように東北だけでなく関東や東海中部
地方でも列藩同盟を作って薩長に対抗するのも良かったと思います。

いずれにせよ、幕府の68年の正月の開戦はいささか無計画で暴発的な開戦に思えます。
304名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/19(土) 16:07:25 ID:9IEToxBz0
>ありえないな。何故なら寡兵の新政府軍に負けて、籠城に追い困れた時点で、
>幕府から加速度的に人心が失われるからだ、

それは違います。鳥羽伏見の戦いで負けた時点では幕府は瓦解していません。
慶喜が大阪城から逃げ出した時点で幕府の崩壊が始まりました。

たしかに津藩や淀藩は裏切りましたし、譜代であった彦根藩や西大路藩、膳所藩
京に近い園部藩や綾部藩・丹波柏原藩・摂津三田藩などは戦闘開始以前から薩長側
についていました。また1月6日には丹波亀山藩が、7日には篠山藩・福知山藩が
新政府側に降伏します。

しかしそれ以外の備中松山藩・伊予松山藩・大垣藩・紀州藩・姫路藩・宮津藩・高松藩
は、鳥羽伏見の戦いに負けた時点でも幕府寄りです。

もし慶喜が大阪城に籠城し徹底抗戦を続ければ、上記以上の諸藩の裏切りは
出ないと思います。なぜなら、これ以降の諸藩の降伏は、慶喜が大阪から逃げ
出した事で官軍の兵力に余裕が出来てしまい、大阪以外の地域まで出兵出来る
様になったからです。
ですから慶喜が篭城を続けて官軍を大阪方面に引付けておけば、これ以上の
新政府への降伏は起き難いと思います。
大阪城には奥詰銃隊や撤兵隊といった部隊が出撃せずにそっくり温存されて
おり、この部隊も含めた篭城戦であれば薩長もかなりの苦戦が予想ます。

>5000の兵力はただの先遣隊で大村らの率いる本体は後から来ていた。

この大村の本隊の人数は何人ですか?装備は先込式ですか後込式ですか?
薩長は薩摩の一部が先込式銃ですが、長州は先込式銃です。
幕府陸軍の方が先込式銃が広く装備されていました。
伝習隊は先込式銃を装備していました。

装備に関しては、むしろ幕府軍の方が最新式でした。
305名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/19(土) 17:38:17 ID:+7WwRT0B0
だから、朝廷と京都を押さえている時点で、新政府は敵対する諸藩に朝敵ということで、
討伐命令を出せるんだよ。愛媛の松山も紀州もそれが嫌で、降伏したんだから。
そして大阪に籠城するかぎり、幕府はこれらの諸藩を守れないから、
瓦解していくことになる。朝廷の命令で敵対的な諸藩討伐の命令が下されるわけだ。
京都と天皇を奪われて長期戦になっても、諸藩が次々に新政府に、
なだれ込んでいくだけで、勝ち目はない。

>武装 新政府の武器は、ミニエー銃ないしエンフィールド銃、それを後ろからつめ込めれるように、
改良したものや、スナイドル銃が主だ。
ちなみに幕府はゲーベル銃が主力、小規模の伝習隊がジャスポー銃をもっていたが、
そんなものでは大勢は覆らない、それに新政府側も七連発式のスペンサー銃を長州薩摩佐賀は、
それぞれ数百丁は保有したいたといわれている。(戊辰後期なら数千丁は越える)
306名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/19(土) 17:41:38 ID:+7WwRT0B0
ちなみにジャスポー銃は、当時フランスしかもってなかったため、
弾が中々手に入らない。高温多湿の日本で運用すると、さびやすく、
手入れが難しい。などで実用性が低かったというのが事実。

さらにいうと長州征伐で幕府が使った金は500万両ともいわれており、
これを幕府ははらえず、借金でまかなっており、
再度長州征伐をする金はない。
307名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 07:15:58 ID:dO+UlvZg0
幕府軍が、鳥羽伏見の戦いで負けたのは、武器水準が低いからでは有りません。
慶喜不在による作戦立案のレベルの低さと部隊間の相互連絡の不全によるものです。

幕府軍は、歩兵の一部(伝習隊)に元込式銃が配備されていた事を見ても
武器水準は薩長に比べて優位です。
少なくても鳥羽伏見の戦いの時点では、幕府軍も薩長軍も主力は先込式銃
(ミニエー銃)が標準配備されており、武器水準において特別に薩長が優位
と言う訳でもありません。

第二次長州征伐の失敗に懲りた慶喜と幕府陸軍局は、全軍銃兵化方針を
打ち出し、慶応三年早々から実行に移していました。

大政奉還も王政復古のクーデターもこの慶応の軍制改革の途中で発生して
おり、幕府陸軍局が銃器を先込式から元込式に徐々に変えている過程での
出来事です。いずれ幕府歩兵隊は、元込式銃が標準配備の銃兵隊に生れ
変る予定でした。

慶喜が、慶応4年元旦に薩長への開戦に躊躇したのは、単に尊王観念から
ではなく、幕府歩兵隊の元込式銃の標準配備が終了していないからと言う
説が有る位です。
逆に言えば、幕府歩兵隊に元込式銃の標準配備が終了したら薩長へ躊躇無く
開戦した可能性があります。また、この時期には幕府海軍局は、鉄鋼船東艦
の引渡しが迫っていた時期でもあります。
308名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 08:02:37 ID:ip9aRp6O0
だーかーらー。
幕府で最新式のジャスポー銃をもっていたのは、伝習隊だけ。
多くの幕府軍は、ゲーベル銃という、旧式の銃で戦っていたんだよ。
新政府はミニエー銃な。ここで大きな差がある。
一部の諸隊に限れば、最新式のスペンサー銃なども装備している。
そしてミニエー銃の改造、スナイドル銃や、スペンサー銃への買い替えは、
新政府のほうが積極的。幕府がジャスポー銃をそろえた時には、
新政府はほぼスナイドル銃や、連発式のスペンサー銃に切り替わっている。
309名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 08:26:13 ID:dO+UlvZg0
>>308
>多くの幕府軍は、ゲーベル銃という、旧式の銃で戦っていたんだよ。

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310名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 08:30:34 ID:Qc+Wh9J+0
>>208
おーい…
鳥羽伏見の時は旧幕府軍だってミニェーだよw。
武器だけで見るなら、旧幕府軍の方がシャスポーが在る分優っているの。
さて、では何で負けたのか?

1.旧幕府軍の指揮官が馬鹿だった
2.旧幕府軍の主戦派が馬鹿だった
311名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 09:04:55 ID:ip9aRp6O0
>>309ー310
幕府軍の主力、つまり大半の装備の事だろ。
なら間違いなくゲーベル銃。

伝習隊くらいしか、ジャスポー銃は支給されていない。
ミニエー銃も、一部の隊が使用していた記録はあるが、大半は旧式銃。
312名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 10:51:37 ID:Qc+Wh9J+0
>>311
>ミニエー銃も、一部の隊が使用していた記録はあるが、大半は旧式銃

んな事は無いw
伝習歩兵=シャスポー
幕府歩兵(君の言う大半の兵)=ミニェー
ゲベールは、資金不足で洋銃が買えなかった会津と桑名ぐらいでしょw
313名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 11:33:51 ID:dO+UlvZg0
>ゲベールは、資金不足で洋銃が買えなかった会津と桑名ぐらいでしょw

そう佐幕派諸藩は、基本的にゲベール銃が標準装備

ただ一部の先進的軍備の整備を目指した藩は、スナイドル銃やエミニー銃を配備した。
スナイドル銃は、長岡藩や、仙台藩の額兵隊、それに一部幕府諸隊にも配備された。
エミニー銃は、会津藩の一部にも配備された。

だからあんまり戊辰戦争時に佐幕派が武器水準で決定的に薩長に劣っていた訳でもない。
314名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 13:16:45 ID:ip9aRp6O0
>>312-313
幕府軍15000のうち、幕府歩兵がどれだけいたと思っているんだ?
基本諸藩の寄せ集め、さらに幕府からも、幕府歩兵以外も当然いるし、
そして幕府歩兵が全部ミニエー銃を装備していたわけでもない。

だから幕府軍の多くがゲーベル銃を装備していたで間違いないよ。
315名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 13:23:30 ID:ip9aRp6O0
あと言っておくが、幕府歩兵は全部あわせても15000人いないからな。
そもそも鳥羽伏見の幕府軍は、幕府の軍だけじゃないから。京都周辺で動員された、
諸藩も多くいる。
どうも基礎的な知識がなさ過ぎるなお前等は。
316名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 13:31:33 ID:Qc+Wh9J+0
必至なようだがw同じ事は薩長にも言えるんだっつーのw
薩長も全部隊がミニェーを装備していた訳ではない。
そして薩長に組みした官軍のすべてがミニェーを持っていた訳でもない。
そういう意味では、数量的に圧倒的な兵力をもっていた幕府軍が有利だっつーの。
兵器性能だけみれば、結局は「幕府軍の方が高性能は兵器を装備していた」になるんだっつーの
その程度も解らないのか?
317名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 13:31:38 ID:EyquXU480
ttp://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/tobafusimi/main.html
ここには幕府軍の半分以上は幕府歩兵と書いてあるが、その幕府歩兵だけで
薩長兵より多く、幕府歩兵は全員ミニエーを持っていたと書いているがどうなんだろう?
318名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 13:45:20 ID:LD0hVH6b0
>>317
幕府歩兵は四境戦争に敗北して以後、
というか洋銃とくにミニェー性能の意力を知って以後は武器をミニェーに転換している(『幕府歩兵隊(中公新書)』を読め)。
したがって、幕府歩兵隊の基本装備はミニェーと断じてよく、そういう意味では全員ミニェーだと言って差し支えない。
(中には、ミニェーじゃない奴も例外的にいたぐらいはあったかもしれないが)
319名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 13:57:30 ID:LD0hVH6b0
ついでに言えば、ゲベールは火縄銃を作っていた鍛冶職人も技術を覚え、
国内で大量に生産可能になっている。そういう意味で価格が安くなり普及した。
しかし、四境戦争以後は幕府もミニェーに転換し、諸藩の大多数も積極的にミニェーを装備した。
諸藩で数を揃えられない場合は、ミニェー装備の新鋭部隊とゲベール装備の一般部隊を作っている。
鳥羽伏見の戦いでは、諸藩はこの新鋭部隊を持ってきているから、すべての藩ではないがミニェー装備の藩の方が多いw。

ちなみに、鳥羽伏見の戦い第一日目の幕府敗北は、新選組や会津、京都見廻組といった刀剣部隊が先頭で戦争したので負けるに決まっている。
二日目になり、幕府歩兵が出てくると官軍の方が苦戰し、戦局は膠着状態になっている。
結局三日目になり錦旗が出た事で、幕府軍が総崩れになるわけで、鳥羽伏見の戦いで武器の性能を論じても意味ないぞw。
むしろ、第一日目の緒戦で刀剣部隊を先鋒に置き、幕府歩兵を後方にしていた幕府が馬鹿だったとしか言いようがないだろう。
320名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 14:05:15 ID:ip9aRp6O0
>>316
長州藩の場合は、ミニエーを強制購入されている。これもってないと、
そもそも入隊できない。自分で金だして、ミニエー銃を買うことが絶対の条件となっている。

薩摩にしても、送られた兵力以上のミニエー銃を所持している事がわかっている。
薩長両藩はスペンサー銃なども、この時期にある程度保有していたことがわかっている。
薩長の両軍で、新政府軍の殆どを占める。土や芸などは数百人程度だからな。
だから兵器だけみても、幕府のほうが高性能というのは当てはまらない。
>>317
幕府歩兵が薩長軍以上は、投入された連隊の数などからすれば、5000を越える為あっているが、
だが全員ミニエーは嘘だな。この当時はまだゲーベルからミニエーへの移行期。
321名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 14:10:23 ID:ip9aRp6O0
>>318
彼のは幕府歩兵も長州戦争も持っているがなにか?
他にも保谷の戊辰戦争なども詳しいな。
そしてその上で、まだ全部ミニエーにはなっていないと言っているんだが。
幕府は連隊の規模を増加させるのに必死だったんだよ。
だからそのままゲーベル装備だった連隊も多い。
322名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 18:53:27 ID:KevEw6EC0

もう戦争イヤだから江戸に帰る!←徳川慶喜

もう戦争イヤだからテキサスに帰る!←リンドン・ジョンソン

>>319
>鳥羽伏見の戦いで武器の性能を論じても意味ないぞw。

確かにそうです。
ま〜俗説で幕府軍の装備が古いから負けたとあるので、事実の開陳も必要かなと・・・・

>第一日目の緒戦で刀剣部隊を先鋒に置き、
>幕府歩兵を後方にしていた幕府が馬鹿だったとしか言いようがないだろう。

68年の正月に幕府軍が京へ出動する時は、確か慶喜が風邪で寝ていたはず、
やはりこの時期、慶応の軍制改革も途中でもあり、開戦するのは反対だったのでは?

「新政府で土佐藩や越前藩や尾張藩が工作して辞官納地がウヤムヤになったし
漏れ(慶喜)の議定就任が日程に上り始めたのに、なんで開戦しないといけないの?
三条も岩倉も戦争回避でグラついているよ。」

ってのが慶喜の本音かと
323名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 23:38:56 ID:9GldKLUp0
鳥羽伏見は官軍が4500名、幕軍が15000名ともいわれているが、
官軍で実際に戦ったのは1500名ほどらしいぞ。
残りは京都の守りを固めていたらしい。
幕軍で実際に戦った人数は知らんが、圧倒的な兵力を擁しながら負けてしまったのは確かだろう。
薩摩揚げが強すぎたのかな?
324名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 23:51:38 ID:SKnFsxFH0
鳥羽伏見は官軍が当初劣勢だったんだろ?
板垣の土佐藩兵の到着参戦と錦旗かかげで形勢逆転じゃなかったっけ?
325名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/21(月) 00:09:16 ID:pjQEPoVgO
錦旗が揚がるまで食い止めりゃ良いだけだからな。楽勝よ。
326名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/21(月) 05:16:05 ID:E02HAlkm0
慶応の軍制改革では、いずれ全軍銃兵化をし、元込式銃のシャスポー銃か
同じくスナイドル銃を標準装備する心算だったのでしょう。

ただ部隊の現場からシャスポー銃の使い難さや故障の報告が相次ぎ
ナポレオン3世から折角贈与してもらったけど、日本の高温湿気には
合わないという事で幕府陸軍は、最終的にはスナイドル銃を標準装備
しようかと考えていた感はあります。
戊辰戦争の頃にスナイドル式銃尾装置によりミニエー銃を元込式へ
比較的簡単に改造する方法がイギリスから伝えられた事から、
幕府陸軍局は、元込式ミニエー銃を併用する事も考えていたかも知れません。

ただこの時期アームストロング砲35門をグラバー商会に注文したのに
引渡しを阻止されたのは幕府にとって痛かったかもしれません。

この幕府の慶応の軍制改革は、単に陸軍の力を増すためにフランス軍事顧問団
の指導を受けさせ、洋式による陸軍を日本に広めたり、兵器の輸入をするだけ
の計画ではなかったと思います。小栗忠順が横須賀に当時ではアジア最大の製
鉄所や造船所や造り、軍艦や銃器の国産化を目指していた事から、幕府の経済
政策とパッケージした計画だと思います。

小栗は、製鉄所や造船所の建設を進めつつ、江戸・横浜間の鉄道設営計画を
も併行して進めていました。この計画はアメリカ側に経営権がある「外国管轄方式」
であり、後に明治政府により「自国運営方式」に変更されます。
また私も当時の帝国主義を考えると「自国運営方式」の方が良かったと思います。

これは、小栗が、慶応の軍制改革を交通網の設置もパッケージとして考案していた
事になり、単なる兵器購入計画や軍備増強計画だったとは言えない点です。
むしろ小栗忠順の慶応の軍制改革は、明治維新の第一歩であり、原型であると言える
でしょう。

大隈重信が後年、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と
発言した様に明治以降の富国強兵は、小栗の計画の後をなぞった感があります。

ちなみに勝海舟は、小栗の造船計画を「500年経っても上手くいかない!」と
評していましたが、現実には明治政府の手で富国強兵が完成しています。
327名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/21(月) 06:29:37 ID:53XhjpCs0
幕府歩兵、つまり戦列歩兵というものは、日本で始めておこなったのは、
幕府ではない、幕府は諸藩が始めて30年くらいたってやっとはじめただけ、
それもちんぴらごろつきを集めてな、武士は鉄砲なんぞ足軽の使うもの、
という認識があったため、使わなかった。

ちなみに小栗のやったことは、西南雄藩がすでに行いつつあったものを、
取り入れただけなんだが、もう全てにおいて遅れているんだよ。
328名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/21(月) 06:48:21 ID:E02HAlkm0
鳥羽伏見の戦いの頃の小栗忠順は、陸軍奉行であり、かつて勘定奉行を
務めた経緯から勘定奉行並を兼任していた。
小栗と老中稲葉正邦は、薩摩藩の江戸や関東全域でのテロ活動に対し庄内藩
と幕府陸軍に治安出動を命令しており、薩摩藩邸焼き討ちを命じた。
老中稲葉正邦は、淀藩主でもあり、後に幕府を裏切るが、この時点では小栗
と一緒に大阪よりも先に薩摩への攻撃の口火を切ったことになる。

この頃の幕府強硬派には、正確には2つのグループに分ける事が出来る。
超保守派と幕権派と言われる派閥である。

幕府超保守派は、幕藩体制や参勤交代を維持し、現状のままで徳川宗家家督
による独裁体制の維持を図る勢力である。特に近代化や富国強兵を模索する
訳でも無く従来通りチャンスが来たら鎖国も考えており、公武合体にも反対
している。井伊直弼がこの勢力の代表的な人物であり、閣老クラスの譜代大
名に最も多い。

幕権派は、徳川宗家家督による独裁体制の維持を図る事は幕府超保守派と同じ
であるが、幕藩体制には拘らず、共和制でも慶喜主導の朝廷でも構わないと考
える勢力である。徳川宗家家督支配体制を維持するには自ら体制変革を行う必
要を認めている勢力であり、その意味ではスマートであるが、徳川宗家家督が
政治の実権を握り続ける為には軍事力の行使に積極的である。さら雄藩よりも
政治的軍事的に優位に立つ為には、幕府の軍事と経済の西洋化と近代化には貪
欲で明治維新政府の富国強兵と同じ性格を持つ政策を立案している事から、武
力討幕派との政治的性格の類似性を指摘されてもいる。
幕権派は、ナポレオン3世のボナパティズム体制に深い感銘を受けた事から、
この体制をモデルとした郡県制の中央集権体制の実現を政治目標としており
徳川宗家による薩長征伐と廃藩置県(武家廃止)更に対外進出策も検討している。
そして開国や幕府の軍事と経済の西洋化近代化をその実現の為の政策ツールに
過ぎず徳川宗家家督支配体制を阻害するような国際化は認めない。

ちなみに征韓論を正式に政策として立案したのはこの勢力であり、老中板倉
勝静は、幕府海軍と陸軍を利用した李朝朝鮮征服計画を慶喜に上程した。

この勢力の代表的人物は小栗忠順、栗本擾雲、大鳥圭介、榎本武揚などで
大名クラスよりは旗本出身者が多く、いわば幕府官僚である。
また、明治政府でも活躍した人物が多く、外交官としても有能であった。
329名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/21(月) 06:52:26 ID:E02HAlkm0
>>327

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330名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/21(月) 08:01:22 ID:53XhjpCs0
小栗の妄想はただの幕府独裁体制であって、郡県制を模索していたというのは、
裏付けがあったわけでもなんでもない。現に小栗がそれを幕閣に提唱したという資料は存在しない。
幕府内の領地を将軍の下に一元化していない、幕府にはどだい無理な話。
331名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/21(月) 08:05:53 ID:53XhjpCs0
ちなみに全軍の銃兵化もできていないのが、幕府なんです。
鉄砲なんて足軽の武器を使いたくないから、ちんぴらごろつきを雇って、
彼らに撃たせていたわけですよ、新政府の兵士が、武士も足軽同様、
鉄砲をもち、伏せうちの練習をしていたのと。
馬上で指示しかできなく、旗本連中。

組織改革が全くできていないわけですよ。
この上に書き込みしている馬鹿は、妄想で色々書いていますけど、
所詮妄想であって、史実ではありません。
史実は、旗本連中は誰も鉄砲を使わず、馬上から命令を下していただけです。
332名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/21(月) 08:09:36 ID:53XhjpCs0
ちなみに幕府のアホな所は、上に書き込みしている馬鹿は知らないようですが、
全て外国の資金援助でやっているだけという事なんですよ。
鉄道の敷設も外国に許可をだしている。

明治政府の近代化は、お雇い外国人などから技術を習得して、
日本の資本で、日本人技術者を育てて、近代化を成し遂げたわけですが、
幕府は、全て欧米人にまる投げ。当然日本に技術は蓄積されません。
工廠や造船所ができても、その成り立ちから、運用までまるで違う。
この程度の事も理解していないから、小栗なんて小物と、
明治政府の改革の違いが理解できないというわけです。
333名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/21(月) 08:18:01 ID:53XhjpCs0
そもそも鉄道の敷設、運営を外国任せるという事の危険性を小栗は理解していなかった。
鉄道の敷設させた場合、その鉄道は外国のものであり、
その利権を守る為に、外国は軍を駐留させてくるのが当時の常識。
その程度のことすら理解していないから、小栗はパアなのです。
日本を植民地にしようと、必死に頑張っていただけですな。

払える見込みもない莫大な借款も全て日本を潰そうとしていたとしか思えない。
列強の戦略は、反乱軍を討伐する為とかいって、莫大な金と武器を貸し、
その見返りで日本の権益をとっていくというもの。これは列強がアジア諸国を、
植民地化していった経緯と合致している。小栗は無脳なのでこれに気付かなかった。

そもそも長州再征、薩摩も征伐とかアフォかw
長州征伐で幕府が失った資金は500万両にも上る。
これは御用金や借金などでまかなっており、幕府の金庫は空。
だからそれだけの資金はありません。そしてそのない金のかわりに、
フランスから追加借款という、どうみてもシステム金融状態ゲラゲラw
334名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/21(月) 08:46:23 ID:E02HAlkm0
>>330-333
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335名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/21(月) 13:26:03 ID:53XhjpCs0
低能君は反論もできないようだね。まあ史実を知らないんだからしょうがないが。
336名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/21(月) 16:33:56 ID:q35dDk3R0
>小栗の妄想はただの幕府独裁体制であって

はい、うそ。

小栗は、当初は反対していたが慶喜の説得で朝廷への政権返上を受け入れている。
また、横須賀の製鉄所や造船所も朝廷に差し出すことも認めている。

小栗たちは、別に幕府独裁には固執していないんだよ、オオバカヤロー!

大政奉還以後、王政復古のクーデターのまでの間の時期に二条摂政は、
討幕派の公家の突き上げや孝明天皇の崩御もあり、辞任の意向を漏らしていた。

そして後任には、徳川慶喜がその筆頭候補に上がっており、徳川宗家家督で
ある慶喜が、400万石の天領を保持したまま摂政に任官し、朝廷一元体制を
構築する構想があった。

そうなれば朝廷一元体制下でも徳川宗家の領国は維持され政治的な実権も
保たれてしまう為に薩長は、慶喜の摂政任官には断固反対の動きをし始めた。
337名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/21(月) 17:25:07 ID:53XhjpCs0
説得?ただ慶喜の命令に従っただけだろう、
所詮官僚だからな、殿様の命令に従っただけ。
幕府独裁を企んだが、慶喜に否定されただけってことさ。
338名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/21(月) 20:02:20 ID:cTxV7uvdO
諸賢に質問です
徳川慶喜はありなの?
いたずらに混乱を招いたような感じもするけど…
339名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 00:49:51 ID:gSiDjQXi0
というか、征長に限っていえば、全権を西郷に一任している時点で
幕府も人材がいないというか、もう終わりだなという感じがするのだが。
逆に薩摩藩って、現代で認知されているより、はるかに力があったんでないかい?
340名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 05:24:23 ID:j976Yq2w0
>>337
確かに説得と言うよりは、命令でしょうね。
一応、小栗クラスなら慶喜は方針を説明しているでしょう。

>その利権を守る為に、外国は軍を駐留させてくるのが当時の常識。

はい、ブー!ダウト

当時の日本には、横浜に英国兵1000名が駐留しており、それが外国軍
の最大の勢力だった。この英国兵が駐留する事になった理由は、生麦
事件で久光が外国人を殺傷したからで、責任は幕府では無く薩摩にある。

幕末の日本の場合は、鉄道利権ではなく、討幕派の薩摩藩のアホな殺人行為で外国軍が横浜に駐屯する事になった。
幕末の日本の場合は、鉄道利権ではなく、討幕派の薩摩藩のアホな殺人行為で外国軍が横浜に駐屯する事になった。
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341名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 05:37:36 ID:j976Yq2w0
>幕府は、全て欧米人にまる投げ。当然日本に技術は蓄積されません。
>工廠や造船所ができても、その成り立ちから、運用までまるで違う。

コレもウソ!

幕府は、当初はお雇い外人の技術依存していたが、自分達でノウハウを獲得した後は、
お雇い外人には、帰ってもらい、後は自分達で運営するつもりだった。
この時期の艦船の操縦は、既に日本人が行っており、幕府がその教習所を運営している。
勝海舟は、そこの校長。
342名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 08:48:11 ID:VnMMumh40
>>340
なにが違うんだ?この低能。
欧米の植民地化の流れをしらんのか?
>>341
運営するつもりだったはウソだな。さらにいえば運営できていたかと言われたら、
幕府では出来なかっただろうな。
実際鉄道なども、運営を欧米にまかせるというのが、幕府の計画だ。
もともと日本が運営する目的だった明治政府とは雲泥の差。
勝にしても彼は船酔いで、まともに甲板に立てなかったというのが史実だ。
343名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 10:10:14 ID:j976Yq2w0
>>326
>慶応の軍制改革では、いずれ全軍銃兵化をし、元込式銃のシャスポー銃か
>同じくスナイドル銃を標準装備する心算だったのでしょう。

当初、幕府陸軍局はイギリスに陸軍の伝習を頼んだが、あまりにも
イギリスが薩長に肩入れするので、途中でフランスに換えたという
経緯がある。そしてその交渉は、栗本鋤雲が行った。

このフランスからの伝習で、シャノアン大尉などは大鳥圭介などに、
都市部のごろつきを金で集めるのではなく農村部の健康な農民子弟を
徴兵するように要望している。一部では伊豆代官の江川英武が御料兵
として農民兵千名を徴兵しているが、幕府天領全体でこの農民徴兵案
を遂行する前に王政復古のクーデターが始まってしまった。
大鳥圭介は、この伊豆御料兵の事を「強くは無いが、身持ちが良い」
とし、暴動や略奪などをしない兵として評している。

また、小栗忠順は、シャスポー銃の性能を知り幕府陸軍の正式銃にする
つもりだった。普仏戦争でも戦勝国のプロイセンが使うドライゼ銃より
も倍の射程性能がある等性能が良く、村田銃を開発した村田経芳も絶賛
している。なおナポレオン3世から幕府に2000挺贈与されている。

老中松平康英は慶応3年3月にエミニー銃の払い下げを通達しており、幕府は
前装式のエミニー銃はいずれ廃止し、シャスポー銃で全軍銃兵化を目論んでいた。

>>319
>二日目になり、幕府歩兵が出てくると官軍の方が苦戰し、戦局は膠着状態になっている。

この2日目と3日目の鳥羽方面の幕府歩兵の奮戦は、伝習隊に因るものが大きい。

伝習隊は、全部で3個大隊の2400名以上で構成されている。
1大隊が800人で2個大隊1600名が鳥羽伏見の戦いに参加している。
ちなみに鳥羽伏見の戦いに参加した幕府兵は5000名

伝習隊1600名は当然全員シャスポー銃の標準装備で、日ごろの訓練が役
に立ち、佐幕派の藩兵や他の幕府兵よりも薩長の部隊と対等に戦闘を繰り返
し、鳥羽方面では2日目・3日目の薩摩軍の攻勢を被害も少なく撃退している。

しかし、伏見方面では司令官の竹中重固が不在で指揮命令系統が混乱し
各部隊が勝手に戦う状態となり、鳥羽方面でも薩長の攻勢に押され始め、
淀まで撤退した。
344名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/23(水) 19:49:06 ID:2Y0Ul7W10
>>319
>結局三日目になり錦旗が出た事で、幕府軍が総崩れになるわけで

幕府軍が総崩れになるのは、4日目に藤堂藩(津藩)が朝廷の工作に応じて
寝返り、幕府軍の本営を砲撃して時。

3日目は、幕府軍は、淀城に篭城し様としたが、淀藩が裏切り、
淀城の門を閉め切り幕府軍を中に入れなかった。

で仕方なく、幕府陸軍と会津藩と桑名藩と藤堂藩は、橋本まで撤退し
そこで防衛線を引いて薩長軍を向かえ撃とうとした。
幕府軍と会津藩と桑名藩は、木津川と淀川の南岸に陣を引き、河川を
防衛線として活用し、薩長軍を迎え撃とうとした。
また藤堂藩は、天王山に陣を引き砲台を急造し薩長を迎え撃とうとした。

天然の隘路であり、天険の地である橋本〜天王山の地は、幕府軍や佐幕藩
にとって絶好の反撃出来る地形であり、ココに踏み止まり、大阪からの援
軍が来たら、鳥羽伏見の戦いは、絶好の反転攻勢の場所と成り得た。

事実4日目の早朝に薩長が、幕府軍や会津藩と桑名藩の陣地を攻撃して来た
時は、薩長は陣地をなかなか突破できずに、攻撃に難渋していた。
しかし、午前11時ごろに藤堂藩が裏切り幕府軍や会津藩と桑名藩の陣地を
砲撃してきた時に幕府軍は、総崩れとなり、大阪に逃げ出した。

藤堂藩は、前日に淀藩の裏切りを見て、自分達も裏切る事に躊躇が無くなったと言われる。

また、橋本に地は、あっさりと薩長に占領され前線には見廻組と会津藩兵
だけが残り、奮戦し負傷者の収容などに当たっていた。
345名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/23(水) 22:46:23 ID:MAC10u7B0
結局、最後に笑った者が勝ちでしょ。
346名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/24(木) 07:16:34 ID:MCA0Ymii0
いやだから、諸藩が裏切ったのは、錦の御旗が官軍に翻ったからだろ。
その時点でもう負けなんだよ。

ちなみに天王山のところは隘路でもなんでもない。
京都は街道が広く整っており、基本防衛にむかないから、仕方なく近くの山に布陣しているだけ。
明智も街道に布陣しても守れないから、天王山をとろうとしたわけ。
347名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/24(木) 08:07:54 ID:/wOIHTzN0
>諸藩が裏切ったのは、錦の御旗が官軍に翻ったからだろ。その時点でもう負けなんだよ。

錦の御旗が、前線に出てきたのは、戦闘4日目の6日だと言われているが、
この時点で幕府を裏切っているのは、淀藩と津藩、丹波亀山藩ぐらいだ。
7日には篠山藩・福知山藩も裏切るが、紀州藩などの大藩は裏切っていない。

彦根藩は、慶喜に近い家老岡本半介が大阪城に詰めてはいるが、藩主の
井伊直憲や勤王派の谷鉄臣や大東義徹など藩の主力は、大政奉還の頃から
朝廷に擦り寄っていた。鳥羽伏見の戦いの時も彦根藩の主力部隊は、最初
から新政府軍に属して大津を固め、大垣藩からの攻撃の防備に回っていた。
また、薩長の本営である東寺でも彦根藩兵は、薩長の後方支援に回っている。

紀州藩には、6日に朝廷からの命令で大阪城を攻撃するように言われているが、
紀州藩はこの命令を無視している。さらに慶喜が逃亡した後に大阪から幕府軍や
佐幕藩の藩兵が紀州に逃げてきているが、紀州藩は彼らを収容し船で江戸に逃が
している。幕府の京都見廻組長の佐々木只三郎は、鳥羽伏見の戦いで負傷し紀州
で治療中に死亡する。

この様に既に裏切る藩は慶喜が逃亡する前に裏切り、それ以外の藩は、
中立か幕府側に留まっている。畿内や山陰地方で本格的に諸藩が朝廷側に
鞍替えするのは、慶喜が大阪城から逃げ出したのを知ってからだ。

従って、慶喜が6日の夜半に逃げ出さず、大阪篭城を決めて徹底抗戦をしていれば、
彦根藩・西大路藩・淀藩・津藩・丹波亀山藩・篠山藩・福知山藩以外の藩は、なかなか
身動きは取り辛いだろう。特に紀州藩は、大阪城に慶喜がいる間は、大阪湾の幕府
艦隊の存在もあり、朝廷側には鞍替えするのは難しいと思う。

紀州藩が下手に朝廷に鞍替えすれば、幕府海軍から和歌山城下を艦砲射撃されかねないし、
元々、鳥羽伏見の戦いでも紀州藩も参加する予定だったが、藩兵が到着する以前
に幕府軍が出動してしまった。
348名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/24(木) 08:52:44 ID:MCA0Ymii0
色々間違っている、そもそも紀州藩は幕府と心中するか、朝廷につくかで、
かなり揉めている。一応幕府につくとしたがそれはもう鳥羽伏見の戦いが始まった跡で、
その後幕府不利となった時点で、即効で方向転換している。
そして朝廷には、幕府と戦う、幕府の兵は一兵も入れないと言ったんだよ。
だから新政府は当初見逃した。
ただ二重外交をしていたに過ぎない。

だが実はひそかに匿っていたのがばれたあとは、紀州藩は朝廷から追討令が出されそうになると、
朝廷に完全に屈服して、藩士を1000名以上、
倒幕の為に派遣し、軍資金を十数万両も献上している。
慶喜が逃げ出したもの、慶喜が朝的となって追討令がでたからだぞ。
朝敵になった時点でほぼ全ての藩は朝廷についているんだよ。
朝敵になってまで、幕府に従った藩がどれだけあるんだよ。

京都と天皇を失った時点で幕府は勝てないんだよ。
349名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/24(木) 09:01:23 ID:MCA0Ymii0
そもそも幕府海軍とかたいしたことないんだが。阿波沖海戦にしても、
「座礁」させたのは、輸送艦であって、そもそも春日丸は普通に帰っている。
とてもではないが制海権を握っていたとはいえない。
そもそも大阪に、何千もの大軍を上陸させ、鳥羽伏見の戦いが起こっている時点で、
制海権を握っていたは無理がある。
350名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/24(木) 09:15:33 ID:/wOIHTzN0
>そもそも大阪に、何千もの大軍を上陸させ、鳥羽伏見の戦いが起こっている時点で、
>制海権を握っていたは無理がある。

薩摩藩が、王政復古のクーデターの為に3千人の藩兵を神戸に陸揚げしたが、
この情報を知った、若年寄の永井尚志や軍艦頭の榎本武揚は、この薩摩藩の
入京を阻止する事を慶喜に献策したが、拒否されている。

慶喜は、大政奉還を平和裏に遂行しようとしていた為に、この永井らの薩摩藩兵入京阻止策を
受け入れなかったとされている。武力討幕派は、武力で戦う心算なのに慶喜は、
この時期は特に武力行使に逡巡している。

この薩摩藩兵入京阻止策をやっていれば、徳川宗家は、後々楽だったと思われる。
351名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/24(木) 09:29:20 ID:/wOIHTzN0
>慶喜が逃げ出したもの、慶喜が朝的となって追討令がでたからだぞ。

だから慶喜には、ガッツが無いと思う。
そんな事知らん振りして戦争を続けていれば、慶喜追討令や朝敵なんてどっかに行ってしまう。

だいたい長州藩主の毛利敬親・元徳親子だって朝敵なんだよ。
でも、長州征伐で幕府軍を撃退したから、朝敵は取り消しになった。

朝敵取り消しは、王政復古以後ではない、親徳川派の二条摂政の下での最後の朝議で、
毛利親子の朝敵は取り消しになり、岩倉も赦免され、長州藩兵は入京出来る様になった。
その翌日に王政復古のクーデターとなる。
352名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/24(木) 09:41:00 ID:/wOIHTzN0
>そもそも幕府海軍とかたいしたことないんだが。阿波沖海戦にしても、
>「座礁」させたのは、輸送艦であって、そもそも春日丸は普通に帰っている。

あっそ。でも本国に逃げ出したのだから、幕府海軍の勝ち!
353名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/24(木) 10:42:26 ID:hJboBkMv0
>>352
阿波沖海戦後、本国に逃げ出したのは、旧幕府海軍。
つまり、旧幕府海軍は阿波沖海戦では敗北なんだよ。

薩摩の「春日」はその後も旧幕府軍が手放した制海権を利用し、
兵員輸送に従事している。その後で修理回航された。
354名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/24(木) 20:38:58 ID:59UtPpym0
>阿波沖海戦後、本国に逃げ出したのは、旧幕府海軍。
>つまり、旧幕府海軍は阿波沖海戦では敗北なんだよ。

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355名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/24(木) 23:12:32 ID:hJboBkMv0
事実を提示され、会津火病中
356名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/25(金) 07:51:40 ID:siXpZNZC0
>>350
だから阻止できねーって。
幕府海軍なんて使えないんだから、長州征伐の時に、大島沖で高杉に夜襲されて。
撤退に追い込まれ、大島の幕府軍は孤立し、長州軍が海を渡って上陸している。

また関門海峡も長州軍は楽に行き来して、小倉を攻撃していたのにたいして、
幕府海軍をこれを制止できなかった、何度か妨害をしようとしたが、
貧弱な長州海軍にフルボッコにされて撤退している。
ましてや長州以上に海軍に力を入れている(それまでの戦いで長州海軍は欧米艦隊に沈められている)
薩摩海軍とめられるわけがないだろ。
阿波沖にしても、元々薩摩海軍は本国に帰る途中だったのを追撃しただけで、
それも足の遅い輸送船を、座礁させるのが限界だった。薩摩の春日が帰還している。
357名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/25(金) 07:54:41 ID:siXpZNZC0
>>351
だから京都と天皇を抑えられた状態で、籠城しても状況は変わらないどころか、
悪化の一途をたどるだけだが?
朝敵をなんとか覆さないといけないわけで、篭城ではそれは覆らない。

また一か八かで、京都奪還を狙ったほうがいい。
358名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/25(金) 13:12:18 ID:SL3ibSXw0
あのへんの海域は幕府管轄で、そこを薩摩軍艦がいたから停船を命じた
なのにそれを無視して逃走
どうみても逃げ出してるのは薩摩だが?
359名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/25(金) 13:31:33 ID:a/2GdA3Q0
>>358
そういう事!

【論説】 「鳩山首相のあだ名は?…『エヴァンゲリオンのシンジ君』回答に、思わずプッと噴き出した」…日経新聞
http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1261705539/

碇シンジは、ああ見えても意外と芯が強い
錦の御旗と追討令でイジケテ逃げ出した慶喜は、碇シンジを見習うべき!
360名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/25(金) 17:41:11 ID:GTV7zl8E0
[[61.115.74.75]]、[[203.141.154.203]]、[[210.252.237.95]]、[[218.46.197.107]]

記事破壊の左翼糞IP
361名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/25(金) 21:50:27 ID:hERyPdoO0
>だから京都と天皇を抑えられた状態で、籠城しても状況は変わらないどころか、
>悪化の一途をたどるだけだが?

ハイ、ダウト!大はずれの大間違いw

12月9日に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の5藩兵(翌日に長州藩も合流)が、
京都御所の9つの門を制圧、事実上京都御所を軍事占領した。
王政復古のクーデターであるが、この時点で、天皇と御所は、幕府の手には無い。

しかし、この王政復古のクーデターに参加した6藩のうち、武力討幕派と
言えるのは、薩摩・長州・安芸の3藩だけである。
土佐藩は、下級武士に少数派閥として討幕派が居るだけで、藩主や藩執政、
家老(在国・在京・在江戸共に)は全て公武合体派であり、しかも徳川宗家家督
の主導権を認める立場である。

12月10日に小御所会議で徳川宗家の辞官納地が決定するが、その直後から
土佐・尾張・越前の公武合体派3藩主は、執拗な抵抗と巻き返しを図り、
結局、辞官納地案は次第に骨抜きとされてしまう。

また、徳川慶喜は、京都で佐幕派藩兵と討幕派藩兵が小競り合いを始めた
事から、天皇のお膝元での武力衝突を避ける為に、12月13日に幕府
陸軍や佐幕派藩兵と共に大阪城に撤退した。
つまり天皇と京都を完全に放棄した格好だ。
しかしこれが逆に徳川慶喜の立場を強化する。

なぜなら慶喜が京から離れた事により、天皇の権威から外れ従来から徳川
宗家家督が幕府の将軍であり主権者だったと言う事実が表に出てきた。

さらに大久保利通がこの時期に非難する様に徳川サイドに大阪で朝廷も
圧迫される位の軍勢を集結させ割拠させてしまった。
慶喜が天皇と京都を放棄し大阪に撤退した事で逆に京の新政府が、
徳川に圧迫され包囲される可能性が出て来たのである。

慶喜が大阪に撤退した13日以降に土佐・尾張・越前の公武合体派3藩は、
猛然と巻き返しに出る。12日にはまだ新政府に参加していない肥後藩・
筑前藩・阿波藩までもが御所からの軍隊引揚を薩長側に要求し始めている
のに乗じて13日には、岩倉と慶喜が辞官納地を行えば議定就任と前内大臣
の待遇を認めさせるまでに妥協させてしまう有様w

14日には、議定で皇族である仁和寺宮が、皇族から見れば身分の低い藩士達
が参与として藩主クラスの議定を押し退けて積極的に発言し、三職会議を主
導する事に反発しだし、岩倉や大久保ら身分が低い者を抑えるべく身分秩序
を正すことを求める意見書を提出した。これにはさすがの岩倉も弱り始め、
三条実愛と共に大久保と西郷にしきりに徳川宗家との妥協を説き始める始末www

また、議定である土佐・尾張・越前の3藩主は、皇族が参与(下級武士)の台頭
に反発している状況を利用して三職会議を議定会議と参与会議に分離し前者を
上院、後者を下院とし、上院議長として議定の中から副総裁を選出し、それを
慶喜とする工作を開始した、議定も薩長芸三藩主以外は反発を示さなかった。

これは、慶喜は上京した暁には、副総裁兼前内大臣として新政府に参加する事を意味する。
ちなみに有栖川宮総裁は、従来通り三職会議全体の議長としての任務を遂行する。

天皇と京都を放棄した慶喜は、公武合体派の土佐・尾張・越前の3藩主と組んで
ここまで討幕派を追い詰めているんだよ!
362名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/25(金) 21:54:29 ID:hERyPdoO0
>13日には、岩倉と慶喜が辞官納地を行えば議定就任と前内大臣
>の待遇を認めさせるまでに妥協させてしまう有様w →×

13日には、岩倉に慶喜が辞官納地を行えば議定就任と前内大臣
の待遇を認めさせるまでに妥協させてしまう有様w →○
363名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/25(金) 22:02:45 ID:ihg5mVB70
二条城で会津藩兵が決起し
攻めこんでたら、勝利or敗北どっち?
364名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/25(金) 23:04:47 ID:hERyPdoO0
会津藩のみの決起では、如何だろ?
勝つのは、きつそうだけどな〜

幕府陸軍が参加しない事には、どうしようもない感じがする。

また、12月10日前か後かにもよる、長州藩が居るか居ないかでも違う。
365名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 01:25:28 ID:F+zjsTh/0
二条城で会津藩兵だけが決起しても、御所を固めてる薩摩の精鋭部隊には勝てんだろ。
どこに勝てる要素があるんだw
366名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 02:19:08 ID:eMbs1aEQ0
ま、基本は幕府側の御人よしさに薩長がつけこんでやりたい放題やった挙句に全てを簒奪したってのが結果だな
367名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 02:23:30 ID:F+zjsTh/0
ま、薩摩藩にとっては願ってもない武装蜂起だなw
368名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 02:46:31 ID:eMbs1aEQ0
とにかくウマくやった感じだなw薩摩はww
369名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 03:26:01 ID:eMbs1aEQ0
薩摩と安芸はわかるが土佐・尾張・越前の3藩兵は誰がどうやって動かしたわけ?
容堂の小御所会議での発言からみると、このクーデターでの藩兵出動による御所封鎖を了解もしてないだろうし知ってもいなかったようにみえるけど
その3藩の岩倉に近い人間がそれぞれ独断突出で勝手に動かしたってことですかい?
370名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 05:28:32 ID:3aZRZ5ZR0
日露戦争時代人物烈伝
http://www.youtube.com/watch?v=wNrmNS_x-qY
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9086196

日露戦争の人物烈伝を映像にしてみました。
児玉源太郎、大山巌、 乃木希典、西郷従道、山本権兵衛、東郷平八郎
といった代表的な人 物は勿論のこと、随所で一所懸命の活躍・苦闘を
遂げる明治人には 胸を熱くするものがあります。
371名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 05:29:05 ID:3aZRZ5ZR0
正論 1月号
奉祝 天皇陛下御在位二十年 平成「臣民」論 皇學館大学教授 松浦光修
http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0912/mokji.html

楠木正成、北畠親房、山崎闇斎、吉田松陰…
歴史を紡いできた忠臣の声に今耳を傾ける

(要約)
楠木正成公を代表する日本精神、武士道における「忠」とは?
問題点1.後醍醐天皇は”不徳”であるから、大楠公の「忠」は誤りではないか?
問題点2.親房が「正統」とした南朝の系統は断絶したではないか?
              ↓
解決1.”不徳”は儒教の「徳治主義」における問題であり、易姓革命の根拠。
 山崎闇斎は「拘幽操」にて”徳”という条件を排除し、易姓革命を否定。
  ”不徳”の「君」に「忠」を尽くす大楠公こそ、忠義の精髄である。
解決2.皇朝における「正統」とは神武天皇の血筋であること。
 加えて皇位継承の条件は”三種の神器”。

(まとめ)儒学における「正統」→血筋+徳
 日本精神(崎門の学、水戸学)における「正統」→神武天皇の血筋+神器

参考文献
『神皇正統記』北畠親房
http://www.amazon.co.jp/dp/4861810248
http://www.youtube.com/watch?v=5tnxwHbKEbU
『拘幽操』山崎闇斎
http://www.youtube.com/watch?v=n16zgmFu9zs
『保建大記』栗山潜鋒、『大日本史』水戸光圀、『保建大記打聞』谷秦山、『太平記』
372名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 05:29:21 ID:3aZRZ5ZR0
崎門学 山崎闇斎 拘幽操
http://www.youtube.com/watch?v=n16zgmFu9zs
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7538203

山崎闇斎は江戸時代の儒者、神道家であり、朱子学では「崎門学」、神道では「垂加神道」
を開き、後世の尊皇攘夷思想に大きな影響を与えました。
寛文五年(一六六五年)、幕閣・会津藩主保科正之の賓師に迎えられ、殉死の禁止など
幕藩政治にも影響を及ぼしました。弟子では浅見絅斎が著名であり、更にその弟子の若林
強斎や、土佐南学の谷秦山らがその継承者として知られています。更に幕末では、橋本景岳、
梅田雲浜、横井小楠ら、明治時代では西南戦争の谷干城将軍(谷秦山の子孫)が知られて
います。闇斎は心神(人の心)は天神からの賜物であると考え祀りました。現在は下御霊神社
内の猿田彦社に配祀されています。「拘幽操」は周の文王の幽閉を題材にした韓退之の詩で
すが、これを闇斎は考察し、忠義のあるべき姿としました。

会津藩初代藩主 保科正之
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B

江戸幕府第3代将軍徳川家光の異母弟で、家光・家綱を補佐し、幕閣に重きをなした。
賓師に山崎闇斎を招き、殉死の禁止など、会津藩、幕政に功績を残した。
373名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 05:29:32 ID:3aZRZ5ZR0
湯武革命論 山崎闇斎 崎門学
http://www.youtube.com/watch?v=7GK19ytBXkU
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7541823

山崎闇斎は江戸時代の儒者、神道家であり、朱子学では「崎門学」、神道では「垂加神道」
を開きました。寛文五年(一六六五年)、幕閣・会津藩主保科正之の賓師に迎えられ、殉死
の禁止など幕藩政治にも影響を及ぼしました。弟子では浅見絅斎が著名であり、更にその
弟子の若林強斎や、土佐南学の谷秦山らがその継承者として知られています。更に幕末
では、橋本景岳、梅田雲浜、横井小楠ら、明治時代では西南戦争の谷干城将軍(谷秦山
の子孫)が知られています。闇斎は心神(人の心)は天神からの賜物であると考え祀りまし
た。現在は下御霊神社内の猿田彦社に配祀されています。「湯武革命論」は湯武放伐を
程子、朱子の論を基に考察し、革命を否定した重要な書です。これが後世の尊皇攘夷思想
に大きな影響を与えたものの一つになりました。

会津藩初代藩主 保科正之
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B

江戸幕府第3代将軍徳川家光の異母弟で、家光・家綱を補佐し、幕閣に重きをなした。
賓師に山崎闇斎を招き、殉死の禁止など、会津藩、幕政に功績を残した。
374名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 08:51:01 ID:ajxJogNe0
>>369
王政復古のクーデターでは、土佐・尾張・越前の3藩兵は、それぞれの藩主
の了解で動いている。この時期はまだ藩主の許可がないと藩兵は動かせない。
また、このクーデターで一番兵力が大きいのが薩摩藩。

山内容堂は、不満だが、このクーデターに渋々参加している。
その結果、小御所会議で慶喜の処遇を巡り岩倉具視と論争になる。

>>361
>三職会議を議定会議と参与会議に分離し、前者を上院、後者を下院とし、
>上院議長として議定の中から副総裁を選出し、それを慶喜とする工作を開始した

これは、皇族議定が、身分の低い藩士や下級公家が参与としてうるさいので
議定が発言する場から遠ざけようとする考えから始まったもので、そこを公
武合体派の議定に上手く利用された。

また、この14日以降に大阪の慶喜も政治的な攻勢に出始め、大阪で諸外国
の大使と謁見し、外交権は今だ幕府にあることや内政不干渉を約束させた。

さらに19日には、慶喜は朝廷に対して王政復古の大号令の撤回を公然と
要求し始め、幕府陸軍や佐幕派諸藩の兵力を大阪に集結させる命令も出した。
薩長との軍事衝突も視野に入れつつ、公武合体派諸藩との政治的連係を強め
慶喜は新政府の議定もしくは副総裁への就任を政治日程に入れ始めた。

新政府の討幕派も、19日にはこれに対抗して大久保利通と寺島宗則が、新政
府の諸外国への承認獲得と外交権を獲得すべく、新政府から諸外国への通達詔
書を作成した。しかし同日の小御所会議は、この外交詔書の文面が、公武合体
派の議定から問題視される。小御所会議(議定会議)は、いまだ少数の藩主しか
参加していない為、列藩会議とは言えないとされた。

この事態に対応する為に三職会議では、議定の定員数の増加も議論され、今後
は議定会議が諸侯会議として機能する事になり、慶喜が新政府参加の折にはこ
の議定会議の議長役としての役割を担う事が、公武合体派の了解事項になった。
375名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 13:25:37 ID:dGel8PH00
てことは、この王政復古がそもそも秘密裏に行われるクーデターだと他の3藩はわかっていたということだよね
しかも二条、中川宮が排除されることも事前にわかってるわけだ
岩倉主導で
ということは、政局がどう転ぶか予測できたと思うがな
それなのにしぶしぶだが賛同したというのも整合性がないと思うんだが
376名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 18:04:36 ID:VAmcxtOW0
>>375
>しかも二条、中川宮が排除されることも事前にわかってるわけだ

徳川慶喜は、武力倒幕の密勅が近く薩長宛てにでる事を山内容堂から報告されて知っている。
山内は、後藤象二郎から、後藤は、坂本竜馬から船中八策がらみで報告を受けている。
だから、その対応策として徳川慶喜は大政奉還に打って出た。
とりあえず言葉だけでも政権を朝廷に返してしまえば、武力討幕の大義名分は無くなるし、
朝廷は、どうせ幕府に大政再委任せざるを得ないとの読みがあった。

事実、二条摂政は、大政奉還後に辞任の意向を示し、後任に徳川慶喜が挙がっていた。
現時点での徳川宗家家督の慶喜が、400万石の天領と西洋化された幕府陸軍3万
それに幕府海軍8隻、横須賀の製鉄所と造船所、全国の奉行所と陣屋、江戸城や
大阪城などの幕府の城など全てを保有したまま摂政に任官する計画で、事実上幕府は
幕府統治機構は朝廷の下部組織として位置づけられるが、摂政に慶喜が任官して明治
天皇の代理人として統治を継続する格好だ。

それを断ち切る為の薩長の王政復古クーデター計画だが、二条、中川宮は知っていても
まさか12月9日に起きるかどうかまでは知らなかったはずで、基本的に親徳川の公卿は、
慶喜頼りでやってきたし、これからもそのつもりだった。

>政局がどう転ぶか予測できたと思うがな

薩摩、長州、芸州ら武力倒幕藩だけならともかく、土佐、越前、尾張などの公武合体派
までも王政復古に参加しているから、事前の予想は出来ないんじゃないかな。
特に、まだ新政府に参加していない肥後藩・筑前藩・阿波藩までもが御所からの軍隊引揚
を薩長側に要求し始めたのは計算違いでしょう。
あと皇族議定までもが、下級藩士が任命された参与を嫌いだし、三職会議を
分割するだの話しは、薩長からすれば想定外で、公武合体派には上手く上げ
足取られた格好だと思う。しまいには慶喜は公然と王政復古の取消を要求しているし。

事実、倒幕派は、12月中旬以降の公武合体派の巻き返しで、慶喜が新政府三職会議の
議定か新政府bQである副総裁に就任予定とされるまでに追い詰められている。
外交権も、慶喜が大阪から逃げ出す前には新政府は獲得に失敗している。

12月19日に徳川慶喜が、新政府に王政復古の取消を要求しだした頃から
薩摩藩は三職会議での話し合いでは埒が明かないし、むしろこのままでは、
幕府と公武合体派に追い詰められると自覚し、江戸や関東全域でのテロ活動
に走ったと思われる。
377名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 21:07:48 ID:VAmcxtOW0
12月9日に王政復古のクーデターを起こした討幕派は、一応朝廷から
親徳川派の公卿達を追出した事になってはいるけど、三職会議内部で
公武合体派と討幕派の話し合いや多数派工作が続いている事から
事実上の徳川シンパは、新政府三職会議にも存在するのが実態。

討幕派は、三職会議の特に公武合体派の多い議定会議の場で慶喜との
丁々発止を王政復古以後もやっている感じ。
土佐・越前・尾張三藩の後ろには慶喜が居る訳で、絶えず慶喜の議定任官を
求めてくる。しまいには副総裁任官構想まで持ち出してきた。
そうはさせまいと、下級藩士の多い参与は、ギャーギャー騒ぐので皇族
議定は嫌気が差してきた。そこで公武合体派は、三職会議の分割案を提示
し参与を議定会議から遠ざける事で皇族議定と公卿議定の取り込みに成功し、
議定会議の過半数を握った。

こうなると討幕派は、三職会議や議定会議での慶喜への高等戦術は、
通用し無い事が判って来る。討幕派は三職会議での公武合体派の多
数派工作に破れ、むしろ慶喜は大阪に割拠してからの方が、京に居
た時よりも政治力が増している。
幕府陸軍の増強と佐幕派藩兵の集結による軍事力増強もこの状況を
後押ししている。

したがって薩摩藩の江戸や関東でのテロ支援工作は、討幕派が追い詰められた
事による、一種の賭けでもあった。史実はこの薩摩藩の挑発に幕府強硬派が乗
せられ開戦となるが、やはりここでは幕府は、じっとしているべきで、暴発す
べきではなかったであろう。

12月28日に江戸薩摩藩邸へ庄内藩が攻撃した事の知らせが大阪に来た時には
慶喜は、強硬派に引きづられ開戦するのではなく、彼らを押さえて、むしろ
慶喜が強硬派をつれて江戸に帰り、幕府陸軍や関東諸藩の藩兵を治安出動
させ関東全域に広まった一揆や打壊しを鎮圧する行動を取るべきではなかったか?

庄内藩の攻撃を薩摩藩が批判した場合は、三職会議や議定会議の場で薩摩藩の
一連のテロ支援活動を公武合体派の手で追及させ、討幕派への批判や制裁を
三職会議から引き出す良い口実にすれば良かったのではないかと思う。
378名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 21:07:54 ID:dGel8PH00
門を固めるということは二条、中川宮を入れるなという話と直結するわけで
その5藩はそれを認識して警備してたのは間違いないだろ
つまり幕府よりの公家衆は入れず、入れるのは薩長方の公家のみ
この時点でつまりどうなるかなんて簡単にわかりそうなもんだろ

で、藩兵は藩主なりの了承なくては動かせなかったのなら
そこまで進言なり報告してる容堂あたりからクーデター決行の話が岩倉からあったというタレコミが幕府側になかったのもおかしいと思うが
しかも慶喜が遠い江戸にいたのならまだしも近場にいてこれはありえないと思うんだが
379名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/27(日) 03:56:04 ID:kZwwIQT40
[[61.115.74.75]]
[[203.141.154.203]]
[[210.252.237.95]]
[[218.46.197.107]]

日本近代史の分野、特に政治的な分野において必要のない言い換えが目立つ。
380名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/27(日) 09:05:06 ID:q3jyc7JH0
>>378
>その5藩はそれを認識して警備してたのは間違いないだろ

計画立案者は、薩長だからな。

>つまり幕府よりの公家衆は入れず、入れるのは薩長方の公家のみ

公家ほど当てにならないものは無い。

>タレコミが幕府側になかったのもおかしいと思う

タレコミは、有ったけど、慶喜が事前阻止に動かなかった。

京で戦争したくなかったんだろう。平和裏に大政奉還をやりたかったし、
新政府になっても、公武合体派を使えば、多数派工作で新政府に参加できると踏んでいた。
381名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/27(日) 11:56:00 ID:9Lp7qFYQ0
>>361
色々間違っている。
公武合体派の藩は幕府とは汲んでいない。
ただ内戦が起こることを危惧していただけ。そして内戦になったら、
必ず朝廷側にたつ藩でもある。幕府はすでに見限られている。

大久保らの領土を返せば、政府に参加させてやるというのはそのまま本音だろう。
領土を諸藩クラスにまで引き下げて、領土を新政府直轄地にしてしまえば、
旧幕府の影響力はなくなる。
朝廷という権威も、領土もなくなった幕府など新政府からすれば、生かすも殺すも自由。

さらに言うと、三藩のなかでも純粋な公武合体は、山内くらいで、土佐には倒幕派も多数おり、
藩士が普通に暴走したと思われる。
そもそも土佐藩主には、郷士にはそこまで影響力はないからな。
382名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/27(日) 12:03:06 ID:9Lp7qFYQ0
>>376
幕府は諸外国から、600万ドルの借金を返せと迫られ、その借金を返せなくて、
追加借款をお願いしたり、借金の返済の延期の為に、開港や関税の引き下げを余儀なくされている始末。

長州征伐の費用は500万両を軽く越える。商人から御用金や借金でまかなっており、
幕府が倒れた時には、幕府には現金は15万両程度しかなく、莫大な借金の返済を迫られていた。

つまり幕府が新政府に参加してもなにも出来なかったのが史実ってもんだ。
すでに終わっているんだよ。長州征伐に失敗した時点でな。
383名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/27(日) 15:10:27 ID:QuVMFdPt0
>>380
ごめん
せめるつもりじゃないが、言ってることが全然説得力ないわ

>計画立案者は、薩長だからな。

立案は薩長&岩倉によるものだろ
御所を固めた5藩の重臣をクーデター前日に岩倉の屋敷に集めて実行に移ってる
ここでなに故の御所の封鎖なのか話し合われなきゃおかしいだろ
なぜ二条、中川宮を筆頭とする親徳川派公家を排除にいたるのか?
でなきゃ当日に薩安以外の3藩は禁裏に入れてしまうよな
藩兵出動には藩主格の人間の了承なしてば動かせなかったというなら藩主自身もこの事実を知ってないとおかしい
しかも赦免されたばっかの岩倉によるもので
入れるのは薩長方の公家、つまり徳川が加わる公議朝廷政府の否定派だけ
これだけでも策略のニオイぷんぷんで胡散臭いもんだろ
これがどう転ぶかなんて容易に見当つくはずだが

>公家ほど当てにならないものは無い。

そんな一言で片付けられてもだからどうなのよって感じだが


タレコミあったのに動かなかったのは完璧慶喜の失策だな
384名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/27(日) 20:23:23 ID:FMy2XVaM0
>ここでなに故の御所の封鎖なのか話し合われなきゃおかしいだろ

当然、御所の軍事占拠は話しているんじゃね。

>藩主自身もこの事実を知ってないとおかしい

薩長以外の藩主は、このクーデターを知っていたとしても、
クーデターに大賛成の芸州藩主と、
イヤイヤ付き合っている土佐・越前・尾張三藩とは態度が全然違うぞ、
クーデター兵力だって薩摩藩兵が段違いに大きい。

土佐・越前・尾張三藩は、せいぜい一つの藩につき100人位しか出兵していない。
しかし長州藩は、1500名、薩摩藩は3000名以上、芸州藩は、4〜600名
ぐらい出兵している。
しかも芸州藩は、藩主も国元は親長州だが、京の芸州藩の代表者の辻将曹は、
公武合体派であり、しかも江戸に詰めている芸州藩の役人は佐幕派という分裂状態。

>これがどう転ぶかなんて容易に見当つくはずだが

つかないから12月13日以降に新政府三職会議で公武合体派が巻き返しに成功するんだよ。

言いだしっぺの岩倉や長州派の三条は、当初薩長に歩調を合わせていたが、
大阪で徳川の軍勢が集結し、皇族議定が、公武合体派に取り込まれた為に
逆に追い詰められ始めた、当初に比べてだいぶグラつき始めた。
特に幕府と朝廷の全面戦争は、回避するように岩倉と三条は薩長に言い始めている。

>そんな一言で片付けられてもだからどうなのよって感じだが

事実だからなw

>タレコミあったのに動かなかったのは完璧慶喜の失策だな

この時期に慶喜が動かないのは、京で戦闘を開始し天皇に迷惑をかけたくない
という尊王の思いもあるのでしょが、慶応の軍制改革が途中であり、幕府陸軍
3万人に全て元込式銃が標準装備されていない状態であり、甲鉄船ストーン・
ウォール号がまだ幕府に納入されていない状態だからではないか。
甲鉄艦が日本に来るのは1868年(慶應4年)4月2日でありこの時期までは、
慶喜は薩長と開戦したくなかった筈。
385名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/28(月) 01:12:28 ID:PYoOOxqD0
>>384
やっぱりその話には無理がないか?

藩兵の出動は藩の一部の討幕派による独断突出による行動でなけりゃそうにはならなくね?
藩主などの首脳部は知らなかったから小御所会議で慶喜が排除されてることを怒ってるんだろ?
藩兵の出動に藩主の了解があったのならクーデターの意図や詳細を理解した上で動かしてるわけで
それなのになんで小御所会議がそんなに紛糾する必要があるのか?

他には御所を固めたうえで岩倉がなにを奏上するのか知らなかったというのも考えられるが
でもそれはあまりにもおかしく矛盾した話
岩倉が禁裏に上がってなにをするのかわからないのに何故藩兵を出さなきゃならないのかという話になるわけで

とにかく整合性がないよ
386名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/28(月) 03:44:09 ID:THFSVZDZ0
>藩主などの首脳部は知らなかったから小御所会議で慶喜が排除されてるとを怒ってるんだろ?

知っていようが、いまいが、土佐・越前・尾張の公武合体派三藩は、慶喜救済に動く。

なぜなら慶喜は、大政奉還で幕府独裁を放棄し朝廷の元で多数の藩主との話し合い
で新政府樹立の意志を見せているから。

これで公武合体派の主張を慶喜が汲んだ事になる。

その新政府に徳川宗家を参加させるか否かで薩長と土佐・越前・尾張の公武合体派三藩は揉めている。

徳川宗家が、四百万石の天領や幕府陸軍3万などの武力を持ったまま
新政府に参加した場合は、徳川宗家の意向が強く反映される事になる為に
薩長ら討幕派は、慶喜の新政府参加に反対しているだけ。
387名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/28(月) 08:03:25 ID:U4VXVSdQ0
土佐越前尾張の三藩は、この時期に大規模な内戦になるのを恐れたのであって、
内戦になるくらいなら、旧幕府を参加させてもいいじゃん、って話なんだが。
で薩長は参加するのはいいが、それなら官職と領土は返上しろよそういう話。
388名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/28(月) 10:22:52 ID:CjPMDoVf0
>>387
>土佐越前尾張の三藩は、この時期に大規模な内戦になるのを恐れたのであって、

現実には、内戦になってるじゃん。

>薩長は(徳川宗家が新政府に)参加するのはいいが、それなら官職と領土は返上しろよそういう話。

現実には、薩長、特に薩摩藩は、王政復古以後に関東一円でテロ支援活動を
行い、幕府強硬派を挑発し、戦争に無理やり追い込もうとしている。

薩長に徳川宗家家督を新政府に参加させる気は無いね、
幕臣には、勝海舟や栗本鋤雲、榎本武揚、大鳥圭介など新政府に
勧誘された人材は多数居るだろうが。

薩長と幕府強硬派は、お互いに戦争したいんだよ、
それを慶喜と公武合体派三藩が押えていたのに、薩摩藩のテロ支援活動で
慶喜は、幕府強硬派を押えられなくなった。

慶喜は、ここで何とか幕府強硬派を押さえ込み、むしろ江戸市内を含む
関東地方の一揆や打壊し、奉行所や陣屋への浪士襲撃を鎮圧すべきだった。
389名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/28(月) 13:08:24 ID:U4VXVSdQ0
内戦は回避したかったが、内戦になったら朝廷につくのが、
その三藩なんだが。
390名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/28(月) 18:14:20 ID:sMzMf/Sg0

       、--‐冖'⌒ ̄ ̄`ー-、
     /⌒`         三ミヽー-ヘ,_
   __,{ ;;,,             ミミ   i ´Z,
   ゝ   ''〃//,,,      ,,..`ミミ、_ノリ}j; f彡
  _)        〃///, ,;彡'rffッ、ィ彡'ノ从iノ彡
  >';;,,       ノ丿川j !川|;  :.`7ラ公 '>了   
 _く彡川f゙ノ'ノノ ノ_ノノノイシノ| }.: '〈八ミ、、;.)
  ヽ.:.:.:.:.:.;=、彡/‐-ニ''_ー<、{_,ノ -一ヾ`~;.;.;)  
  く .:.:.:.:.:!ハ.Yイ  ぇ'无テ,`ヽ}}}ィt于 `|ィ"~
   ):.:.:.:.:|.Y }: :!    `二´/' ; |丶ニ  ノノ    逆に考えるんだ
    ) :.: ト、リ: :!ヾ:、   丶 ; | ゙  イ:}
   { .:.: l {: : }  `    ,.__(__,}   /ノ   「内戦にならなければ、公武合体派三藩は朝廷側に付かない」と
    ヽ !  `'゙!       ,.,,.`三'゙、,_  /´
    ,/´{  ミ l    /゙,:-…-〜、 ) |       
  ,r{   \ ミ  \   `' '≡≡' " ノ
__ノ  ヽ   \  ヽ\    彡  ,イ_
      \   \ ヽ 丶.     ノ!|ヽ`ヽ、
         \   \ヽ `¨¨¨¨´/ |l ト、 `'ー-、__
            \  `'ー-、  // /:.:.}       `'ー、_
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391名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/29(火) 11:24:49 ID:QqNncali0
内戦って言っても、鳥羽伏見の戦いみたいな新政府参加の藩と幕府の戦争のことで、
関東の一揆や打壊しへの治安出動は別に問題ないからな。

庄内藩も、在京家老が、新政府三職会議に薩摩の一連のテロ支援活動をチクッてやれば良い。

薩長や参与を嫌がっている公武合体派や皇族の議定連中が、
薩摩藩を追い落とすさぞかし良い口実が出来るだろうなw
392名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/29(火) 20:46:41 ID:NiVWG/vh0
>>390
薩摩は内戦を起こさせる為に、幕府を徴発していたんだよ。
そして内戦で必ず勝つ為に、朝廷を抑える必要があった。
朝廷をおさえておけば、諸藩の多くが幕府より、朝廷を選ぶとわかっていたから。

幕藩体制は諸藩。とくに外様にはいいシステムではなかったからな。
親藩でも尾張のように本家と対立しているところもあるし。
393名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/29(火) 21:40:57 ID:QqNncali0
>朝廷をおさえておけば、諸藩の多くが幕府より、朝廷を選ぶとわかっていたから。

ウソつき!
慶喜が、大阪城から逃げ出す以前は、佐幕派の方が全然多い。

鳥羽伏見の戦いに負けた時点での、幕府裏切り藩は
彦根藩・西大路藩・淀藩・津藩・丹波亀山藩・篠山藩・福知山藩の8藩だけ。

>薩摩は内戦を起こさせる為に、幕府を徴発していたんだよ。

そんな事、慶喜は痛いほど判っていた。幕閣は判っていないみたいだけど。
だから、慶喜が戦争するのに反対し、新政府に参加した公武合体派の多数派
工作をジリジリ待っていたんじゃないか。

ただ、甲鉄艦が納入される4月以降になると慶喜も戦争するかもしれないけど。
幕府陸軍にも、元込式銃のシャスポー銃がもっと配備されている。
394名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/29(火) 22:20:52 ID:NiVWG/vh0
>>393
慶喜が逃げたからではなくて、朝廷が敵になったからだよ。
朝廷を恐れたからだよ。
紀伊も朝廷から討伐令がきそうになったら、服従した。
そして慶喜本人も、逆賊になるのは嫌だった。
幕府は権威でなりたっていた存在、権威を失ったら滅ぶしかない。
実力は長州征伐で失っている。

>彦根藩・西大路藩・淀藩・津藩・丹波亀山藩・篠山藩・福知山藩の8藩だけ。

機内で幕府方で参戦していた藩の殆どじゃねーかw
これに尾張越前なども含めれば、事実上幕府軍は江戸から完全に孤立している。
長期戦は不可能。

>幕府陸軍にも、元込式銃のシャスポー銃がもっと配備されている。

この銃はフランスしかもってないので、増えません。そこらの武器商人では中々手に張らない。
そして時期が遅れれば遅れるほど、新政府のほうが戦力が整う。
その頃新政府はスナイドル銃がある程度揃っていた。資金力は新政府のほうがあるんだよ。
幕府は借金だらけだったんだが、
長州や(後に参加する佐賀)は100万両は金を溜め込んでいた。
395名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/30(水) 11:49:56 ID:WE5SUUXn0
光栄の[[維新の嵐]]はどう見ても武力倒幕ではなく説得工作などでしか勝利条件は満たせないような希ガス。
人斬り集団である程度がんばれば要人を斬れるけどな。
396385:2009/12/30(水) 14:04:03 ID:g0o05Sr80
>>386
>知っていようが、いまいが、土佐・越前・尾張の公武合体派三藩は、慶喜救済に動く。
知ってて救済するならそのやり方がおかしいだろ
わざわざ支援する側も不利な立場になることわかって、その状況に至ってから救済するという道理はなんなの?
普通なら不利にならないように支援するんじゃないか?
人間の行動として整合性がない
肝硬変患ってる患者に薬の投与も治療もせず、わざわざ癌になってから必死に治療する医者がいるか?

>なぜなら慶喜は、大政奉還で幕府独裁を放棄し朝廷の元で多数の藩主との話し合い
>で新政府樹立の意志を見せているから。
それを表明してるのに目の前で起きてる慶喜排除のクーデターをなんで見過ごして加担までしてるわけ?

討幕派の行動の意図はわかる
何故徳川を排除したいのか
ただこの3藩の行動には疑問や不思議な点が多すぎ

>>387
>内戦になるくらいなら、旧幕府を参加させてもいいじゃん、って話なんだが
この根拠は?ソースは?
この3藩のスタンスは最初から徳川を含む雄藩連合構想が元になってるのでは?

>>389
結果論はそうだが
そう言い切る事前根拠は?
397名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/30(水) 19:28:45 ID:Mg5tawRs0
>>396
>この3藩のスタンスは最初から徳川を含む雄藩連合構想が元になってるのでは?

自分の藩の影響力を増大させたいと考えるのが普通だろう。
そのために邪魔な徳川を排除したいと考えるのは妥当な流れだと思うが?
400万石近い所領をもつ大藩が加入した場合、主導権を旧幕府にとられる恐れがある。
雄藩連合のほうが、この三藩はより強い影響力を新政府に行使できる。
398名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/30(水) 21:14:30 ID:RAvCULrM0
単に、四侯会議が徳川慶喜・松平容保(会津)・松平定敬(桑名)の手によって
崩壊させられた関係から、
松平春嶽・山内容堂・伊達宗城・島津久光の4人が、
一会桑とは離れた場所に自らの権威を確立させようとした、ということでしょう。

これに、薩長に通じる浅野(芸州)と、徳川慶喜に反感のあった井伊(彦根)、
独自姿勢を保つ尾張徳川家が加わり、勤皇という名目で、実際は反一会桑勢力として統合された。

一会桑さえ排除されれば、そのあとは自らの雄藩藩主連合で主導権が執れる、
その程度の考えだったんじゃないのかな。

実際は徳川幕府側勢力の排除とともに、兵馬の権をもった薩長下級武士に権限が集中し、
彼らが日本を一体の中央集権国家に改造した。
399名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/31(木) 10:40:58 ID:+sEJEBf80
しかし、井伊(彦根藩)までもが幕府から離反していたのには驚く。

かつての南紀派と一橋派の争いや水戸浪士に井伊直弼が討ち取られた経緯が
あるので徳川慶喜を嫌がったのだろうが、畿内を押える第一の譜代大名として
彦根藩は、機能していたはず、彦根藩は、鳥羽伏見の戦いでも味方してくれる
と思い込んでいる幕臣(榎本武揚)の手紙も有るくらい。

実際には一部の佐幕派家老が大阪城に詰めていただけで藩主以下彦根藩主力部
隊は、薩長の司令部である東寺に合流し薩長の後方支援や大津にて大垣藩の侵
攻を防衛する動きをしてしまう。

西大路藩も鳥羽伏見の戦い以前に薩長側に付きますがは、
同じ近江の彦根藩の動きに呼応したのでしょう。
400名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/31(木) 14:11:38 ID:+sEJEBf80
薩摩・長州・安芸の倒幕三藩以外で鳥羽伏見の戦い以前に朝廷側となっていた
藩は、↓の通り、ほぼ畿内11藩で彦根藩以外は、ほとんど数万石前後の小藩と言ってよい。

近江彦根藩・近江西大路藩・近江水口藩・大和高取藩・河内狭山藩・丹波綾部藩
丹波柏原藩・丹波園部藩・和泉吉見藩・摂津三田藩・丹後田辺藩
401名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/31(木) 14:42:42 ID:7vBqyZGO0
彦根は長州征伐で長州にボコボコにやられたのに恨みはなかったんだろうか?
402名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/31(木) 15:24:59 ID:RDHBdJc00
>>397
自藩の影響力を増すためならとにかく徳川は目の上のタンコブでしかなく
それだったら他の3藩も薩長安と同じ慶喜排除を進めるだろ
それなら小御所会議にてなんで徳川が排除されてることをあれほど食い下がって場を紛糾させるんだ?
クーデターによって徳川が排除され自藩持つの影響力は増大して万々歳ではないか
そしなのにその後における必死の巻き返し行動
この整合性のなさをどう説明できる?
人間の生理行動としては不可解すぎるだろ

春嶽あたりはそれこそかなりの初期から徳川を盟主とする雄藩連合構想を持ってる
しかも近代国家に変革するのに中央集権化も必須だったことも認識している
これと似た構想は容堂も義勝も持ってる
総合して3藩とも徳川を盟主とする雄藩連合なり諸侯会議だったりの公議政体論者
最初から徳川が幅を利かすのを理解認識してての新体制を支持
大政奉還での慶喜が言った言葉や意思も、最も汲み取っていた3藩であるわけだ
だから巻き返も計るし排除されてることに猛抗議もするんだろうに


>>398
参預会議、四候会議の瓦解はたしかに久光と慶喜の対立によってなってる
薩摩はこれで最初は幕政改革推進だったのが参預会議の崩壊で雄藩連合/諸侯会議へと舵をきり
四候会議の対立でもって倒幕へと変化
たからその後の動きは判る
3藩は一会桑に辟易してたのは事実
けど終始徳川盟主による公議政体を唱えてる
本当にそれなら徳川を盟主しては仰がないで独自の公議政体を模索するはずだが
403名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/31(木) 16:42:39 ID:eIS1/hGm0
>>402
一会桑の意思は、四侯会議の破壊と一会桑を中心とした政権作りだった。

ゆえにこの四侯は、徳川慶喜の意思には従わずに朝廷小御所に集う形で会議を復権させ、
その上で、そのうちの三侯はこの会議を実力で徳川慶喜に認めさせようとした。
だから、会津と桑名を排除した上で徳川慶喜を小御所会議に参加させよ、という主張になる。

一方、島津久光(及び彼に委任された西郷隆盛)は徳川慶喜自身を見限っていた。
朝廷の長州に対する朝敵認定を解くよう説得し、芸州浅野を招き、自派殿上人を動員し、
長州も招き寄せ、小御所自体を反一会桑勢力の集う場へ作り変えていった。

この場に一会桑率いる旧幕府軍が戦いを仕掛け、敗北した。
その結果、朝敵となった一会桑を討ち滅ぼす、という形でこれらの人々の意見が集約化した。

小御所に徳川慶喜を招き、小御所に集う諸侯の権限を認めさせる、という三侯の意見は、
旧幕府軍の敗北によって彼ら自身が時代遅れとして放棄した。
敗北し朝敵となった徳川慶喜は見捨てられた。
404名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/31(木) 22:12:47 ID:ppgVrPfz0
結局、大政奉還から王政復古を経て鳥羽伏見の戦いまでの政局図は・・・・・
佐幕派(徳川宗家・会津藩・桑名藩・上級公卿等)vs公議政体派(土佐藩・越前藩・尾張藩等)vs討幕派(薩摩藩・長州藩・広島藩・下級公家等)
の三つ巴の争いになっている。

公議政体派と討幕派が手を組み、討幕の密勅に応じたという理由で王政復古
のクーデターを起こし佐幕派を排除し倒幕を開始する計略を練っていたが、
土佐藩が、この件を慶喜に報告したために慶喜が、大政奉還で政権を朝廷に
返上してしまう。
慶喜は、本音では佐幕派なのだが、この時ばかりは、公議政体派+討幕派と
ガチンコ対決しても敵わない、慶応の軍制改革もまだ完了していないし、
元込式銃の標準配備も甲鉄艦ストーン・ウォール号の入手も完了していない。
だから公議政体派の土佐藩の助け舟に乗って、とりあえず言葉だけでも朝廷
に政権を返したと言ってしまう。そして親幕派の二条摂政に受け取ったと言
わせる。

言葉だけだが、これで討幕派は幕府攻撃の口実が無くなり、倒幕の密勅も取止めとなる。

しかし、実態は変らずで、幕府の統治は継続し、二条摂政臨席の列藩会議で
列藩会議の議長に慶喜を任命、さらに二条摂政は退任し、慶喜を後任として
明治天皇に推薦し、晴れて徳川慶喜は、四百万石の天領と幕府陸海軍を持っ
たまま、摂政兼列藩会議議長に就任する。幕府統治機構は、朝廷の下部組織
として利用し、徳川摂政兼列藩会議議長が、執行する形となる。
なお列藩会議は、藩主の議会として上院とし、各藩士は、下院を構成する。

これが慶喜のシナリオだった。
405名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/31(木) 22:22:03 ID:3Mdru2tj0
>>402
幕府を無理に潰そうとすると内乱となるし。
内乱が長期化するのがなにより不味いと判断していた。
尾張も越前も長州征伐にも反対であり、内乱を何より嫌っていた。
ただのまたある程度庇っていれば、
新政府に幕府が参加しても、自らの影響力を確保できるという狙いがあった。
土佐は個人的な恩義もあるんだろ。
ただ幕府があれほどあっさり崩壊するとは、三藩は思っていなかっただろう。
もしそれが分かっていれば、徳川の討伐を薩長以上に主張したかもしれんな。
406名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/31(木) 22:40:33 ID:3Mdru2tj0
>>402
小御所会議の時に、徳川を盟主に抱いてとか言っていた奴が誰かいたっけ?
土佐が唱えていたのは、旧幕府への寛容論であって、彼らに大きな権限を認めろと主張をしているわけではない。
ただの助命論に過ぎない。
そもそも小御所会議の総裁が長州派の有栖川である時点で、
ほぼ会議の結果は決まっているようなものだ。

土佐が粘ったが、せいぜい領地返納も取り消せず、みなで議論して、
どれくらい残すか決めます、という後回しにするのが限界だった。
407名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/31(木) 23:56:26 ID:ppgVrPfz0
>>401
幕府の命令で出兵しただけだけなのと、一応その時は家茂が生きてたし、
彦根藩は南紀派の将軍には忠節を尽くすのだろう。

近江彦根藩・近江西大路藩・近江水口藩は、本来佐幕派でもおかしくない藩である。
しかし、佐幕派内部の対立から大政奉還の頃から新政府に自ら接近し討幕派として活躍する。
近江三藩は新政府に勧誘されて討幕派になったと言うよりは、佐幕派内部の対立から討幕派に転向したと言える。

鳥羽伏見の戦いに幕府が負けた時点で丹波亀山藩・丹波篠山藩・丹波福知山藩は、
新政府に恭順した。大政奉還の頃から、これら丹波三藩は、薩長藩士や討幕派
公家からしきりに勧誘されていたが、頑として佐幕派のスタンスを取り続けていた。

山陽街道、西国街道を通る丹波は、薩長や討幕派公家達から重要視されており
明治天皇の広島行幸の場合には、丹波亀山城を経てからさらに山陽街道を西に
下るコースだったために、特に亀山藩の態度は朝廷から重要視されていた。

鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大阪に逃げてしまうとこれら丹波三藩は1月7日までに新政府に降伏する。

大和高取藩・河内狭山藩・丹波綾部藩・丹波柏原藩・丹波園部藩・和泉吉見藩・摂津三田藩・丹後田辺藩は、
完全に新政府に勧誘されて討幕派になった藩である。
特に河内狭山藩や和泉吉見藩・摂津三田藩は、大阪城の近くに位置し鳥羽伏見
への路の途中や付近に位置しており、幕府軍は、薩長と激突する前にこれら
の弱小討幕藩を制圧すべきではなかったかと思う。

また、丹波綾部藩・丹波柏原藩・丹波園部藩などは、山陽街道ぞいに位置して
おり、また数万石の小藩でもあり、藩主の居城も無く、陣屋や奉行所を居城
の代わりとしていた藩もある。兵力も二〜三百人程度と思われるため幕府主
力部隊とは別に幕府別働隊がこれらの藩を事前に制圧し、鳥羽伏見で主力が
戦っている間に幕府別働隊が京の西の嵯峨口天竜寺付近から突入を図るのも
手ではないかと思う。
408名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/01(金) 05:09:06 ID:LIIrvy4wP
今はネットやウィキペディアがあって、中高生は
政府が押し付ける教科書を超えて
手軽に真実をうかがい知ることができるから
歴史学習が楽しいであろう
409名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/01(金) 14:14:28 ID:YVHF23R90
だが、現状は会津若松の嘘が横行している。
問題だね。
410名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/01(金) 17:53:38 ID:seDn7QS60
>>407
正面で押されているのに、さらに別働軍を作るってのか?
411名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/01(金) 18:14:36 ID:YVHF23R90
元々鳥羽伏見の戦いにおいて旧幕府軍は兵力では優勢で、後備も多数あった。
鳥羽街道・伏見街道だけでなく、西国街道からも進軍させれば
それだけで、旧幕府軍勝利で終わったかもしれない。

実際は実戦準備も無く、延々と交渉で時間を空費した上に
夕方に一方的に砲撃の標的になり戦闘開始、
夜間は狙撃対象として追いまわされ、
2日目には旧幕府軍敗北と京で世評が満ちて、親王が薩長側で錦の旗を持ち進軍。
淀城に篭ろうとしたら既に勅命が下り、賊軍となった旧幕府軍の入城は認められず、
さらに山崎で陣を張ったら、対岸の津藤堂藩が勅令に従い旧幕府軍に砲撃してくるので退散。
そして徳川慶喜は榎本艦隊の指揮権を上司権限で掌握し艦隊ごと江戸へ逃走。
他の旧幕府軍は、総大将が逃走したのを聞いて士気が砕けて解散。

その結果朝廷、その中でも小御所会議が新政府そのものになってしまった。
412名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/01(金) 22:15:17 ID:ytCjFmf40
近江膳所藩も鳥羽伏見の戦い以前に新政府側です。
畿内の近くではないですが、鳥取藩も新政府側で、天皇の広島行幸のおりには、
薩長芸と合流し山陰地方で幕府軍を迎え撃つ計画でした。

ですから、薩長芸以外に鳥羽伏見の戦いの前に新政府側となっていた藩は、
近江彦根藩・近江西大路藩・近江水口藩、近江膳所藩・大和高取藩・河内狭山藩
丹波綾部藩・丹波柏原藩・丹波園部藩・和泉吉見藩・摂津三田藩・丹後田辺藩
鳥取藩の以上13藩です。

>>407
鳥羽伏見の戦いの時には、大阪城には、幕府軍は8000人居ました。
出動したのは5000人で、残り3000人は、奥詰銃隊・撤兵隊と言われる予備軍で
徳川本営の大阪城防衛と慶喜警護の為に出動していません。

これを本来なら、紀州藩兵や姫路藩兵、赤穂藩兵、備中松山藩兵と共に
丹波方面 に出兵させ、西国街道をつたって京の嵯峨口を攻撃すべきだった。
嵯峨口には、たいした兵力は無く、西園寺公望の山陽鎮撫隊が出発準備していた
だけだった。山陽鎮撫隊は大した兵力ではないので、撃破するのは簡単だ。

嵯峨口を突破したら、すぐ近くの二条城に入城し確保、ここを御所への攻撃拠点とべきでしょう。

当然、薩長は反撃してくるだろうが、そうなると鳥羽伏見方面の部隊を削る
必要がでて来る。これで2日目の幕軍への攻撃は弱まるだろう。
ここで幕軍の反撃のチャンスが出てくる。

>>411
結局、幕府軍崩壊の原因は、慶喜が桁違いのチキンであった、という説明になる。
慶喜は大阪城で頑張り、戦争続けていれば新政府もどうなったか判らない。
413名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/02(土) 07:15:10 ID:VoACPyc80
慶喜一人に責任を押しつける訳にはいかないだろう。
『徳川慶喜公伝』や慶喜の回顧談など見ると、ほとんど主戦派に脅迫されて言いなりになった様子が伺える。
老中の板倉は、主戦派の言う通りにしないと、慶喜を殺すとまで言う家臣までいると嘆いて、言いなりになることを勸める始末だぞ。
慶喜をチキンにして、絶対勝てる戦に負けた主戦派のミスを隠すのは良くない。
兵力数で圧倒的であった旧幕府軍がしっかりしていれば、総大将抜きでも勝てたはず。
ましてや、この時代の総大将は基本的に「お飾り」だぞ。
戊辰戦争に於ける明治政府軍など、総大将や各方面隊の隊長は全部公家でお飾りだった事を思えば、はやり問題は幕府軍そのものにあったと言えるだろう。
414名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/02(土) 16:28:58 ID:sgKLfL3O0
「阪城にて甚だだ敷く上様へ相迫り候者は、滝川播磨、塚原但馬、小野内膳正にて之れあるべしと申すこと」
という松平春嶽の証言もあるし、江戸城に逃げ帰った慶喜に大鳥圭介が薩長反撃計画を上申している時に慶喜が、
「そういう事を言っていつも騙される。・・・・・・大阪で無理やりに兵を出兵させ途中で衝突し、戦争はやはり上手く行かない」
といじけてぼやいている。

たしかに幕府主戦派の作戦ミスは大きい。
特に西国街道から丹波を経て嵯峨方面を迂回攻撃しなかったのは致命的大失敗。

大阪幕府軍司令官の大河内正質と現場指揮官の滝川具挙や竹中重固の三人が
まったく事前に作戦会議をやらないで、京都に出兵したのがそもそもの間違い。

しかし、だからと言って慶喜が慌てて大阪城から逃げ出すほどの事態かな?とも思う。

幕府陸軍の予備兵力は、無傷で残っているのだし、主力の幕府陸軍5000名と
会津藩兵3000名や桑名藩兵1500名もまだ居る。幕府側の死者は1千名近いが、
万を超える地上部隊が大阪城に居るので、篭城戦でも戦える。
幕府海軍も居るし、まだまだ戦える余地は大有りだ。

慶喜が江戸に援軍を要請するのは当然としても、大阪城で篭城する事で
新政府との交渉も出来る様になる。なぜなら官軍はすぐには大阪城を落せないからだ。
史実では1月11日に大阪に官軍が到着するが、11日から大阪篭城戦が始まったら
官軍も戦果を直ぐには出せないし、官軍サイドの被害も続出するだろう。
ここで始めて、徳川宗家は、新政府と交渉できるし、土佐・越前・尾張などの公議政体派
の主張も重みを持ってくる。

緒戦のチッポケな負け戦で逃げるから、徳川宗家は、新政府に駿府70万石まで削られてしまう。
ガンガンに抗戦して、新政府に打撃を与えれば、徳川宗家は新政府との交渉の余地が出てくる。
415名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/02(土) 17:39:04 ID:ggcZfZr60
>>411
兵力では勝っていても、実際の戦闘で負けているだろ。
ここで兵力を分割しても正面の幕府軍の崩壊が早まるだけ。
416名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/02(土) 22:19:19 ID:HqeWOJ6w0
>>414
>しかし、だからと言って慶喜が慌てて大阪城から逃げ出すほどの事態かな?とも思う。

逃げ出す程の事態だろう。何しろ朝敵にされたんだぞ。
そもそも、君の言う緒戦に勝っていれば慶喜も勝ち戦ならばと逃げ出す事もしなかった。
緒戦に負けた後にも挽回できたなんて妄想は誰にでも言える事だw。
現実を直視しなって。
錦の旗が薩長に立ち、徳川が朝敵になったとき、幕府軍に加わっていた藩の裏切りがいくつ出た?。
戊辰戦争で、紀州徳川家や尾張徳川が会津藩のように戦ったか?。
こんな体たらくで、賊軍になった状態で大坂城に籠もって勝てるか?。無理だろうw。
417名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/02(土) 22:26:49 ID:F7VaaMqk0
鳥羽伏見へ進撃した15000人は削らず、その他の大阪城駐屯部隊を
西国街道を上らせ丹波から京を攻撃すればよい。

だいたい大阪には、全部で幕府軍と諸藩の兵合計で23000人居たと言われる。

そのうち鳥羽伏見に出動したのは、15000人だけ、
あとの8000人はなにしてタン?って話し。

幕府陸軍の予備軍の奥詰銃隊と撤兵隊の3000人は、大阪城に居るだけ
紀州藩やら姫路藩、宮津藩、明石藩はマジで何してたんだろう?
418名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/02(土) 23:00:35 ID:ggcZfZr60
紀州藩は幕府につくかどうか迷っていた。そして鳥羽伏見の直前で幕府につこうとしたら、
即効で幕府が負けた。そしてその後は二枚舌外交。
新政府がいいかげんにしろ討伐するぞと脅したら簡単に降伏。

早い話が、幕府にとって紀州藩は敵に回るかもしれない藩だったってことさ。
だから大阪を空っぽにはできなかった。
また長州や薩摩は全軍を鳥羽伏見にまわしていたわけではないから、
当然大阪をからにできない。薩摩は3000、長州は1500くらいで、まだ半分も動かしていない。

薩摩は戊辰戦争に7000は動員して東北に軍を送った記録があるし、
西南戦争では薩摩だけではないが、17000もの大軍を動員している。
長州も戊辰戦争後期になると最終的に2万近い兵力を持っていたといわれている。
その全てを東北に送ったわけじゃないけどね。
419名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 02:58:15 ID:OPyVSsgj0
>>416
>逃げ出す程の事態だろう。何しろ朝敵にされたんだぞ。

いいや、朝敵のレッテルは軍事情勢の転換でいつでも剥がせる。長州藩がそうだ。

>緒戦に負けた後にも挽回できたなんて妄想は誰にでも言える事だw。

官軍自身が、そのように考えていた。特に大阪城攻めをどうするか頭を抱えていた。

>現実を直視しなって。

そっちこそ、先込式ミニエー銃を標準装備した幕府陸軍3万と幕府海軍8隻を良く見るように、
4月には甲鉄艦ストーン・ウォール号が幕府海軍に引き渡されるし、
既に陸軍では伝習隊2400人は、元込式シャスポー銃を標準装備している。

>錦の旗が薩長に立ち、徳川が朝敵になったとき、幕府軍に加わっていた藩の裏切りがいくつ出た?。

だから錦の御旗以前にも、大政奉還の頃から関西や山陰地方の小藩は、
新政府サイドに転向し始めているって!
それに慶喜が大阪から逃げ出してからの方が、諸藩の裏切りは全然多い。
慶喜の踏ん張り具合で、諸藩の裏切り行為は減らせる。

>戊辰戦争で、紀州徳川家や尾張徳川が会津藩のように戦ったか?。

佐幕派と会津藩と公議政体派の尾張藩が同じ行動するわけないだろう。
また紀州藩は、大阪城で慶喜が篭城を開始した場合には、
史実とはかなり異なる行動を取ると思う。
420名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 03:06:07 ID:OPyVSsgj0
>>418
薩摩藩は、公称70万石だが、実態は30万石程度で、何とか奄美や沖縄での
砂糖栽培や密貿易でやり繰りしていた。
40万石で1万人の動員だから薩摩藩の7000人の動員は、そんなもんだと思う。

長州藩は、公称30万石だが実質100万石となっており、40万石で1万人の
動員数とすると2万人近い兵力は、満更ではないと思う。
ただ人口が少ないので、2万人の兵力のうち仕官クラスは、藩士でも
兵クラスは、農民や下層民をカナリ動員したと思う。
421名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 04:03:35 ID:U8mnyroL0
スレチならすいません。吉村昭の『生麦事件』を読み終わったところです。
なぜ薩長が鳥羽伏見で幕府に勝てたかについて、興味深いことが書かれていたので、以下に掲載します。
定番かもしれませんが・・・

**********************

 夕刻から幕府軍は総崩れとなって大阪方面に敗走し、鳥羽伏見の戦いは、薩長両藩の圧勝として終結した。
 西郷は、この戦いについて鹿児島で久光を補佐していた家老桂久武へ書状を送り、
「三日より六日迄の連戦、一歩も退かず、少しの敗なく勝通しの軍(いくさ)は未だかつて之有らざるの戦にて…
…賊(幕府)軍は五増倍の事に御座候得共、かくの如き勝利はいまだ聞かざる儀に御座候」
と、記した。

 薩摩、長州両藩の軍勢が圧倒的に優勢な幕府軍になぜ大勝したのか。
それは、ひとえに両藩が優れた銃器を所持し、それぞれ西洋の陣法を身につけていたからであった。
 両藩兵は、最新の施条銃を全員手にして椎の実型弾を連射し、散開して幕府軍を猛射した。
また、両藩の砲隊は、アームストロング砲をはじめとした鋳鉄砲を砲車で自在に移動させ、
威力絶大の砲弾を遠距離または近距離から幕府軍に連続して撃ちこみ、甚大な被害を与えた。

 これに対して、幕府軍の武備は旧態依然としたものであった。幕府は、第二次征長を戦訓として
多量の洋式銃砲の輸入を企てたが、発注した銃はまだ入手できず、大きな期待をいだいて注文した
アームストロング砲三十五門も二十一門が長崎に到着していたものの、陸揚げされたままの状態であった。
フランス士官の指導を受けていたとは言え、幕兵の主銃は火縄銃で、会津、桑名両藩兵も依然として
火縄銃、和砲と弓矢、刀槍を武器としていた。

 薩摩、長州両藩兵は、それぞれ薩英戦争、四ヵ国連合艦隊との戦争で実戦を経験し、
その教訓から得た近代装備によって幕府軍を壊滅させたのである。

(中略)

 二月三日、朝廷は親征の詔を発し、
「今度慶喜以下賊徒等江戸城へノガレ、益々暴逆ヲ恣(ほしいまま)ニシ、四海鼎沸、万民塗炭ニ堕ントスルニ
忍ビ給ハズ、英断ヲ以テ御親征仰セ出サレ候」
として、諸藩に出兵準備を命じ、朝廷軍にぞくした諸藩の兵は一気に五万余にふくれあがっていた。

 九日、有栖川宮職仁親王が東征大総督に任ぜられ、西郷隆盛、広沢真臣、宇和島藩士林玖十郎と
二人の公卿が参謀となった。

 十二日と十三日に薩摩藩の諸隊は先鋒として京を発し、親王ひきいる本隊は、十五日に新発した。

 薩摩、長州両藩の兵は、朝廷軍の中で一人残らず施条銃を肩にしていて目立ち、
また砲隊は、砲車でアームストロング砲をはじめとした鋳鉄砲を曳き、江戸にむかって進んだ。

**********************

なお、鳥羽伏見開戦時の薩長サイドの小銃装備事情は、以下のようです。

○薩摩藩
エンフィールド銃三千挺、ミニエー銃一万六千挺以上保持で、ゲベール銃は完全撤廃。
○長州藩
第二次長州征伐以降、薩摩名義でミニエー銃を七千挺追加購入。
422名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 06:33:26 ID:P2Blbxxn0
>>419
>いいや、朝敵のレッテルは軍事情勢の転換でいつでも剥がせる。長州藩がそうだ

お前馬鹿か?。長州は長州征伐に勝ち、鳥羽伏見に勝った。
朝敵のレッテルを剥がせるというが、それは勝てての話しだ。
幕府軍は、長州征伐に負け、鳥羽伏見にも負けた。
両方とも「勝って当たり前。負けるはずのない戦いに負け」てるんだよ。
レッテルを貼られたら最後、剥がせる状況じゃないだろうw。

>そっちこそ、先込式ミニエー銃を標準装備した幕府陸軍3万と幕府海軍8隻を良く見るように

現実を直視しなさいってw
それを持っていても「負けた」という現実をw
これだから妄想厨房やミリヲタは馬鹿にされるんだよw。

>それに慶喜が大阪から逃げ出してからの方が、諸藩の裏切りは全然多い。
>慶喜の踏ん張り具合で、諸藩の裏切り行為は減らせる。

だから現実を直視しろと言っているだろうw
慶喜が大阪から逃げていない内から、それだけ裏切りが出ているなら、慶喜が踏ん張っても無駄だ。
どうせ負けるなら、戦わずに上手い負け方をやった方がいい。勝海舟の江戸開城など、負けであっても評価されている。

>佐幕派と会津藩と公議政体派の尾張藩が同じ行動するわけないだろう。

だから現実を直視しろと言っている。
つまり、会津桑名ぐらいで慶喜を助けてくれる奴はいない。
慶喜が踏ん張っても無駄って事だよ。

>史実とはかなり異なる行動を取ると思う。

”と思う””のはずだ””に違いない”ばっかりw
妄想ばっかり。現実を直視せず、夢と希望と妄想ばかり。
シミュレーションしたけりゃゲームでもやってろw。
423名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 07:26:05 ID:cE6mWHu10
>>419
>いいや、朝敵のレッテルは軍事情勢の転換でいつでも剥がせる。長州藩がそうだ。

だから鳥羽伏見で負けて大阪に引きこもっても、軍事情勢も政治情勢も悪化するだけだよね。
次々に諸藩が新政府につくよね。

>官軍自身が、そのように考えていた。特に大阪城攻めをどうするか頭を抱えていた。

正直籠城できたかどうか疑問。兵糧があったんだろうか、武器弾薬も。

>既に陸軍では伝習隊2400人は、元込式シャスポー銃を標準装備している。

薩長もそのくらいの装備だからなあ。無理じゃね。

>それに慶喜が大阪から逃げ出してからの方が、諸藩の裏切りは全然多い。

朝廷と京都を新政府が握っているからだろ。

>また紀州藩は、大阪城で慶喜が篭城を開始した場合には、

鳥羽伏見の前から新政府に参加するかどうかで迷っている紀州藩には期待できんだろう。
機内の藩は全て新政府につくと判断したほうがいい。
史実でもあっさりついているし。
424名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 09:33:37 ID:P2Blbxxn0
>>419

君は軍事偏重過ぎる。
世界はミリタリーバランスのみで成り立つのではない。
軍事は所詮政治の道具である。
その道具を使うのは人だ。

当時の人々は国学を一般常識の知識思想として持っている。
尊王思想や攘夷という思想も、この学問から出てきたものだ。
天皇が日本の王であり、幕府はその王から政治の大権を預けられているだけと人々は常識として持っている。
その天皇に逆らった謀反人”朝敵”の名を与えられた以上、人心は徳川家から離れざるを得ない。
会津桑名両藩が徳川の為に戦うのは当たり前だ。彼らも一緒に朝敵とされたんだからな。
逆に言えば、それ以外の藩は味方に付く事を躊躇する。徳川軍は一枚岩ではいられないんだよ。
こんな状態にしたのは、慶喜ではない。
土佐や福井は、そうならないように頑張っていた。
それを全部ぶっ壊したのは佐幕主戦論者たちだ。
負け負け負け。負けの連続。
それを全部総大将の慶喜に一人に転嫁して、戦ったら勝てたはずだって?
そういう事は一回でも勝ってから言ってくれよw。

425名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 12:39:22 ID:9ldu1Rxn0
間違った事実認定とそれに基づいた結論を出すのは、役所でもあること。

しかし大村益次郎は、鳥羽伏見の戦いで薩長は勝てないと断言していた。

本当なら勝てる戦を幕府軍は負けたことになる。
426名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 15:49:34 ID:fOuVNs/80
鳥羽伏見で旧幕府軍は勝てたか?

・史実では大阪城詰となった8000人を西国街道に出せたか?
→政情不安の折、全てを京に上らせるのは不可能。
 但し、そのうちの3000程でも西国街道から桂川を渡河させれば、薩軍本営の東寺は指呼の距離。
 東寺が最前線となると、すぐ南の鳥羽の戦線も不安定化し、とても親王が東寺入りするような状況ではなくなる。
 ゆえに錦旗は出ない。

・その場合、旧幕府軍は薩長軍の戦線を突破し、京に入城できたか?
→戦術自体の欠陥があり、難しい。
 旧幕府軍の鳥羽伏見の戦いで用いた戦術は密集隊形+一斉射撃。高嶋流由来の既に時代遅れとなったもの。
 薩摩のとった、重砲で砲撃後散兵歩兵が各自遮蔽物に隠れつつ銃撃進軍して制圧するという
 重火器と散兵術の併用には無力であった。

つまり、戦線は東寺の南で膠着化し、錦旗も出ないが旧幕府軍の突破入城もない。
そして旧幕府軍は補給は十分あり、薩長軍は補給は乏しく朝廷は流動的だ。

結論、薩長軍は当初の予定通り、天皇を連れて広島で政府樹立宣言(誰も相手にしない)へ。
空になった京都に徳川慶喜が帰還、正統政府として統治再開。
以後南北朝時代の再来のようなことになるんじゃないかい。

旧幕府軍の敗戦原因は、旧幕府軍進軍を担当した人々があまりに馬鹿であった、ということなのだろう。
徳川慶喜は、この点に関与するような立場ではない。ただし大阪城からの逃走は、拙速だろう。
427名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 16:45:17 ID:P2Blbxxn0
>>426
あのさぁ、だからな。
戦線が不安定だから錦旗を出さないなんて事は無いの。
錦旗は出るの。出した後で安定している所まで前進させただけなの。
だいたい戦線=戦場が不安定なのは当たり前だろ。君のその考え方なら、
大坂城から幕府軍が逃げ出し、近畿地区一円が安全地帯にならんと錦旗出ないじゃんw。
これだからミリヲタは政治を知らんと言われるのだ。
政治がわからんから、戦略が出来ない。
戦術論だけではダメだよ。
428名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 16:47:45 ID:U8mnyroL0
すいません。素人ですが、ちょっと無理があると思うので質問です。

>但し、そのうちの3000程でも西国街道から桂川を渡河させれば、薩軍本営の東寺は指呼の距離。

この場合、薩軍が全力で駆逐しにかかると思うのですが、それでも東寺の南で戦線は膠着化しますか?
火縄銃、ゲベール銃を主とした旧式装備の幕軍が三千いたくらいで、最新兵器を装備した薩軍主力部隊による砲撃と散開射撃を前にして、持ちこたえられるのでしょうか?
429名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 20:56:01 ID:cE6mWHu10
>>426
長州が禁門の時には丹波からまわってきたわけで、
その対策を新政府が行っていないとは考え難い。
430名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 22:47:12 ID:TYuEPclF0
>>426
>そのうちの3000程でも西国街道から桂川を渡河させれば、薩軍本営の東寺は指呼の距離。
>東寺が最前線となると、すぐ南の鳥羽の戦線も不安定化し、とても親王が東寺入りするような状況ではなくなる。

東寺周辺で市街戦になると、それこそ下手をすると、下京が丸焼けになるかも、
禁門の変でも御所周辺がカナリ焼けたみたいだけど。
それと東寺の防衛と補給業務は、彦根藩と西大路藩等の近江勢がメインだから薩摩藩兵は
それほどの人数は東寺にはいない、そうなると東寺市街戦は、幕軍有利。

>結論、薩長軍は当初の予定通り、天皇を連れて広島で政府樹立宣言(誰も相手にしない)へ。

おそらく山陰地方で、佐幕派諸藩と討幕派諸藩の内戦激化、事実上の第三次長州征伐に。
長州藩と芸州藩に隠れ討幕派の鳥取藩が合流し佐幕派寄りの出雲松江藩を攻撃する。
松江藩救助のため、丹後宮津藩、姫路藩、赤石藩が出動して出雲戦争となる。
山陰の大藩である岡山藩は、討幕派ながら藩主が慶喜の実兄であるために中立宣言。
また、芸州藩攻撃と明治天皇の身柄奪還の為に、備中松山藩や幕府陸海軍が
安芸東部を海と陸から攻撃を開始する。幕府海軍には、ストーンウォール号も含まれる。(芸州戦争)

>以後南北朝時代の再来のようなことになるんじゃないかい。

案外、長州藩が早くバンザイして、薩摩と手を切り徳川長州連合で新政府運営開始、
徳川慶喜の全武家廃止令(廃藩置県)に反発する薩摩藩を攻撃し西南戦争へ。

>>428
>火縄銃、ゲベール銃を主とした旧式装備の幕軍が三千いたくらいで、

だから、幕府陸軍は、先込式ミニエー銃を標準装備だって何度も言っているだろうが!

>>429
>長州が禁門の時には丹波からまわってきたわけで、その対策を新政府が行っていないとは考え難い。

山陽鎮撫隊(総督:西園寺公望)が1月5日に鳥羽伏見方面の薩長両藩兵から抽出され結成されている。
せいぜい千数百名の部隊でこの部隊が丹波口の制圧を開始するだけだから、
幕府陸軍3000名が西国街道を上って丹波口を攻撃したら官軍はひとたまりも無い。
431名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 23:02:30 ID:cE6mWHu10
>>426
広島に遷都した時点で、天皇をおさえられているので、幕府はもうなにもできないよ。
諸藩が全て新政府についていくだけ。幕府派相手にされない。

>おそらく山陰地方で、佐幕派諸藩と討幕派諸藩の内戦激化、事実上の第三次長州征伐に。

無理、長州征伐に掛かった費用は500万両、それだけの金は幕府にはない。
つまり軍を維持して、遠征する費用が幕府には存在しない、結果軍事行動は不可能。

というか都合のいい妄想を組み合わせているだけだ。
>だから、幕府陸軍は、先込式ミニエー銃を標準装備だって何度も言っているだろうが!

間違いだな。標準装備はゲーベル銃、幕府方の諸藩もゲーベル銃。
432名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 23:03:08 ID:U8mnyroL0
>だから、幕府陸軍は、先込式ミニエー銃を標準装備だって何度も言っているだろうが!

それは大ウソw
幕府はミニエー銃を500艇しか購入してないですよ。
433名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 23:26:23 ID:TYuEPclF0
>幕府はミニエー銃を500艇しか購入してないですよ。

それこそ大嘘!
幕府は、エミニー銃を数千艇単位で輸入している。

元込式シャスポー銃も3000艇持っていてナポレオン三世から贈与して
もらったのは1800艇だけで、残り1200艇は別途幕府が輸入した。
434名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 23:27:19 ID:TYuEPclF0
幕府は、エミニー銃を数千艇単位で輸入している。×
幕府は、ミニエー銃を数千艇単位で輸入している。○
435名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/04(月) 02:12:14 ID:6TLcR0Mj0
ふむ。何か裏付けのとれる資料を知っていたら教えてください。
では砲は?この時代の野戦で一番重要だと思うけど。
436名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/04(月) 04:26:22 ID:uj4wsSND0
幕府は、元込式銃だけでも1万5千艇輸入しているんだけど?

それとこの議論は、

慶喜が官軍に徹底抗戦したら日本はどうなった?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1226531105/

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/13(木) 08:05:05 ID:LaM/x0jM0
とりあえず鳥羽伏見の戦いで逃げずに戦うところからシュミレーションしてみてください

でやった方が良いのでは?
437名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/05(火) 19:19:28 ID:6Ou8tyTQ0
>>436
一言でいうと、鳥羽伏見の時点では幕府が同あがいても勝ち目なし。

幕府が頑張っても、長州再征とかむりだから。
つまり日本が分裂する大割拠か、新政府に徳川が参加する状態以外ありえない。
438名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/06(水) 13:36:27 ID:agchHzwZ0
>>403
>ゆえにこの四侯は、徳川慶喜の意思には従わずに朝廷小御所に集う形で会議を復権させ、
>その上で、そのうちの三侯はこの会議を実力で徳川慶喜に認めさせようとした。
>だから、会津と桑名を排除した上で徳川慶喜を小御所会議に参加させよ、という主張になる。
このことはなにを根拠にそう言ってるか詳しく頼む

>>404
報告までする容堂(他、公議政体派2藩)がなんで王政復古のクーデターに参加するのかがわからないから聞いてるんだが

つまり報告するということは、このままでは京都政局を薩長に牛耳られてしまいますよということだろ
クーデター、討幕挙兵の前に報告しておいて大政奉還を促しておいて王政復古のクーデターに参加するという矛盾
公議政体を唱える一派が独自な派閥ならば徳川の排除は当たり前に考えるだろ
それが徳川ありきの構想だ
独自一派というより、かなり佐幕寄りの考えだろ
それが薩長が都合よく牛耳れるようになる政変に加担するにはとても無理があるだろ

>>405
>ただのまたある程度庇っていれば、
>新政府に幕府が参加しても、自らの影響力を確保できるという狙いがあった。
このことはなにを根拠にそう言ってるか詳しく頼む

>土佐は個人的な恩義もあるんだろ。
>ただ幕府があれほどあっさり崩壊するとは、三藩は思っていなかっただろう。
>もしそれが分かっていれば、徳川の討伐を薩長以上に主張したかもしれんな。
これも詳しくその根拠を頼む

>>406
小御所会議のときは盟主云々は言ってない
それよりも慶喜が参加してないこと自体が争点だったから

その有栖川宮をトップに据えるクーデターに3藩は参加してるわけだよ
それなら会議が紛糾することもないだろ
439名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/09(土) 00:21:07 ID:vFSykiLi0
>>374
藩主が了解してるってどこからのソースなの?

ちなみに土佐は豊範が藩主だったが、豊範は了解してたということか?
実権を握ってる容堂が知らないのに豊範が了解してことがなったということ?
440名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/11(月) 08:34:34 ID:hwD6R6d00
幕府歩兵の装備云々については、どちらもソースを出してみればいいのではw
441名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/12(火) 23:39:33 ID:Ir+V3epj0
交戦勢力の左に負けた側の幕府を持ってきてるのが醜いな
Coreaっていう連中みたいな安いプライドなのかな
442名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/16(土) 20:37:52 ID:8G9mbBRV0
>>426
錦旗が出る前から在京諸藩に徳川を討てと朝廷が言ってるんだけど
在京の鳥取藩が加わったのはその為
錦旗は幕府軍に分かりやすく賊軍になったってのを示しただけ

鳥羽伏見で勝とうが慶喜の出自や思想から見て、天皇抑えられたら戦うことはもう出来ない
主戦派を抑えられずに京に向けて出した時点で終わってた
443名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/18(月) 13:02:46 ID:nc3UB3Tf0
天皇抑えられたらそうなるのわかってて禁裏の門を諸藩が固めたことも
直後の王政復古のクーデターもスルーした慶喜って…
444名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/21(木) 22:37:30 ID:I2miXeq9P
>>1
言語による意思の疎通ができなかった朝鮮人のために日本人が作ってやった言葉だからね
日本人にとっては易しいけど日本語圏外の人々にとっての難易度は日本語と大差ないよ
まあ当然といえば当然なんだけどね
445名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/24(水) 00:20:59 ID:eF5qvDIP0
誰か助けてください。
多分在日朝鮮人だろうと思いますが、思いっきり朝鮮寄りな視点で編集して韓国に不都合な記述を削除していきます。


利用者の投稿記録
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%8A%95%E7%A8%BF%E8%A8%98%E9%8C%B2/121.109.122.152

ウィキ-東北工程
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%B7%A5%E7%A8%8B
446名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/24(水) 02:50:29 ID:EIwvq0j00
>>88
2・26事件関係者遺族で構成される仏心会も、青年将校たちが叛乱軍にされたことに対して戦後もながく気にしていたし、
天皇、あるいは皇軍に背いたといわれることに対してトラウマをもっているのは一概に会津だけとも言えない。
447名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/13(土) 07:46:04 ID:B9266fw+0
>>443
その王政復古に参加した藩の内、薩長を除いた土佐、福井、尾張は親徳川だよw
尾張に至っては御三家だぞ。
慶喜が焦って騒ぐ必要はまったく無い。なにしろクーデターが行われる事を事前に知ってたしw
448名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/16(火) 00:13:01 ID:i4xaPrnF0
>なにしろクーデターが行われる事を事前に知ってたしw
これ詳しく
449名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/20(土) 09:12:05 ID:pIpCnlGk0
ウィキ★ノート:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%98%9F%E4%BA%AE%E4%B8%80
★ホームページ:http://www.mh-c.co.jp/prof.html

本人自ら書いたものを、そのままウィキにコピペして紹介するってどうよ?
450名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/20(土) 22:15:08 ID:spPyqCyt0
wikiのは偽りの戊辰戦争史だなw
思わず吹いてしまったよ。これも★とやらの仕業か?
451名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/28(日) 11:47:05 ID:bjWLtRHQO
慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争は、塩原温泉
をも巻き込んだ。旧幕府軍の形勢が不利になると、
会津軍や凌霜隊などにが、塩原を焼き払おうとした。
この時焼き払われた民家は、149戸だったという。
妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺
新五左衛門が会津軍に嘆願したため
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。

松楓楼松屋の歴史より
452名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/20(火) 07:22:44 ID:dizdO5h80
[[利用者:ジャスティスブレイブ]]

なんかまた痛そうな奴が現れた
453名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/20(火) 18:07:23 ID:qDtoulJb0
今度の一件は
会津系偏見を連ねるカキコ人が現れ、
別の人間がそいつの偏見を削り、
粗方削ったところで、脇から見ていた管理者が文章を保護した、って感じ。

現在の版も、東北戦争の部分とか、詳しすぎてわけが判らない部分もあるけど、
北部政府だの東北人は差別されているだの陰謀だの、変な記述は消えて良くなった。
454名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/26(月) 21:43:09 ID:nyQXIY5Q0
>>453
そうか?
俺が見る限りでは。

会津系偏見を連ねるカキコ人が現れ
薩長系に偏見をもった別の人間がそいつの偏見を削り、
かつ”そいつは誰それで精神病持ちだのなんだかんだ”と無関係な怨念を持ち込み、
脇から見ていた管理者が介入、文章を修正した上で保護した、って感じ。

だろ
455名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/02(日) 23:39:40 ID:Mj+iwEe/O
偽りの★亮一
竜馬の望まなかった★亮一

題名変更キボンヌ
456名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/03(土) 22:19:24 ID:xrLE0lXx0
上野戦争の項目も無茶だな
画像の説明で赤しゃぐまは土佐兵って書いてるが。土佐は北関東で大鳥とやりあってていないだろ
そもそも藩ごとで色分けされてたってのが嘘なのに
457名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/07(水) 14:56:16 ID:TmvOPmNl0
ふむ
458名無しさん@お腹いっぱい。
 

Wikipedia管理人「おはぐろ蜻蛉」が裁判で丸焼きになるもょぅwww

http://toki.2ch.net/test/read.cgi/tubo/1255829937/34