『AERA』 2008.2.25
http://opendoors.asahi.com/data/detail/9145.shtml 秋篠宮家 人出不足の限界
秋篠宮ご夫妻はインドネシア訪問で慌ただしい日程をこなした。
舞台裏をのぞくと、「東宮家」との格差が見えた。
気温30度以上、湿度70%以上。現地カメラマンのすき間を見つけては、背伸びして撮
影するから、汗だくだ。しかも、日を追ってカメラの数は増えていった。
現地の報道陣たちは、
「絵になる」
と言う。指定された撮影場所に行こうとしても、行けない。そんなこともしばしばだった。
「プリンセス・キコ」が注目を集めたせいもある。
今回の秋篠宮ご夫妻のインドネシア訪問は、両国の外交関係樹立50周年を記念する
「友好年」行事に参加するのが目的。紀子さまにとっては、2006年9月に悠仁さま出産後
、初の海外公務だった。
ところが、紀子さまは、悠仁さまの育児疲れなどがもとで、手首や首の神経の痛み(頚
椎椎間板症)を患い、昨年暮れから療養していた。今回の海外公務も一時、同行が危ぶ
まれたが、特別に整形外科医を別枠で随行させることで、インドネシア訪問を実現した。
8時間の空旅で、現地に夜に到着した翌1月19日から重い公式行事が目白押しだ。午
前8時半にホテルを出発し、ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地で供花。秋篠宮さま
は黒いスーツ、黒い帽子姿で拝礼した。同11時にはムルデカ宮殿でユドヨノ大統領との会
見、歓迎昼食会に。この席では紀子さまは薄紫の着物に金襴の帯をしめた。
スカーフで隠したもの
昼食会後、いったんホテルに戻り、約1時間の休憩で再び洋服に着替え、大学での
日本語授業の参観、インドネシア結核予防会の視察へ。この時、紀子さまは首に赤い
バティック(ジャワ更紗)のスカーフを巻いていた。よく目を凝らすと、時折、襟元から首
に巻いたコルセット(ネックカラー)が垣間見えた。
同行した医師は言った。
「痛みは残っておられるので、一定時間ネックカラーをつけていただいている」
長時間のフライト、朝早くから密度の濃い公務の後だったため、一時ネックカラーをつ
けたようだ。しかし、翌日の友好年開会式典に再び着物姿で出席したのをはじめ最終
日まで、ずっとネックカラーを外して公務をこなした。
22日にはジャカルタ市内のサンティ・ラマろう学校(児童生徒400人)を訪れ、聴覚障
害児の教育や職業訓練の様子を視察した。
民族舞踊の衣装を着た小学生が色とりどりの花びらを投げかけて、ご夫妻を歓迎した
。手芸や工作の作品を説明する小学生たちに紀子さまは、
「ありがとう」「私もお会いできてうれしいです」
などとインドネシア語の手話であいさつした。
紀子さまは日本語と英語の手話をマスターしているが、今回の訪問前から、インドネシ
ア語の手話の勉強を始めた。現地入り後もホテルに専門家を招いて練習していた。
紀子さまは、公務以外にも、ろう学校、赤十字病院や保健所、結核予防会などを訪問。
学生時代に自ら参加し、その後も交流を続けている東南アジア青年の船の同窓生らを
宿舎に招き、旧交を温めた。
随員・随行員の差
ご夫妻の姿は地元メディアで紹介され、インドネシア国民に好印象を残した。ジョグジ
ャカルタでは、市民の台所・ブリンハルジョ市場も訪れたが、地元市民や報道陣の間で
もみくちゃ寸前となり、一行は歩を速めて「脱出」する場面もあった。
そもそも、天皇、皇后両陛下や皇太子家と違って、宮家の外国訪問には通常同行しな
い。今回の秋篠宮ご夫妻のインドネシア訪問もそのつもりだった。しかし、取材受け付け
締め切り日になっても、「皇室アルバム」を制作する毎日映画社しか希望が出ていない。
「単独取材できるチャンスだ」
と、締め切り日に申し込むと、読売新聞、共同通信、NHKが追随してきた。私のちょっと
した下心は水泡に帰したうえ、急な出張ということもあって、カメラマンは同行しなかった。
IT音痴の還暦記者が新しいデジタルカメラを購入した。
不安いっぱいで乗り込んだのは、日航機だった。両陛下や皇太子ご夫妻は主に政府
専用機だが、宮家は勝手が違う。
随行する職員の数も違う。
両陛下の場合は、随員・随行員は元首相・外相級の首席随員や宮内庁首脳、外務省
からも大使ら34人前後。美容師もいる。皇太子ご夫妻の場合も、大使級の首席随員を筆
頭に、東宮職の幹部ら16人前後が一緒に行動する。
留守宅に実母の応援
今回の秋篠宮ご夫妻には、元フィンランド大使の近藤茂夫氏が首席随員を務め、元
大使夫人の沼田恭子(宮内庁宮務課嘱託)、宮内庁の女性式武官、宮家の宮務官と
侍女長補の計5人がついた。今回は特別に、整形外科医と和服の着付けをする美容
師が別途合流する配慮がされた。しかし、いわゆる事務方といえるのは、式武官、宮
務官、侍女長補の3人だけ。両陛下や皇太子ご夫妻と比べると、雲泥の差がある。現
地大使館が全面的にバックアップしたが、側近らは日程管理や関係者との連絡や外
務省への報告などに追われ、一睡もできない日もあったようだ。
留守の間、ご夫妻の気がかりだったのは幼い悠仁さまのことだったろう。
ふだん、宮邸では、職員はコックや運転手を除くと5人で、私的に雇用している侍女2
人を合わせても7人。皇太子家を支える東宮職は、大膳課員や運転手を除いても職員
50人余の体制で、敬宮愛子さまの養育係の女性2人が配置されているほか、看護師
4人、小児科を含む侍医4人、東宮女官長以下女官5人、東宮侍従長以下侍従5人や
東宮内舎人、東宮女嬬各4人、事務官らがそれぞれ当直ローテーションを組んでお世
話しているとは大違いだ。
今回は職員2人が同行したことで、留守の宮邸を守る職員は事務官3人と宮家が私
的に雇用している侍女2人だけ。
悠仁さま誕生後は、宮内庁病院の定員枠を使うなどして特別に3人の看護師が交代
でついてはいるが、眞子さま、佳子さまのお世話やご夫妻の帰国後の公務の準備など
もあり、とても完全な当直体制を組めない。元侍女長ら元女性職員のほか、紀子さまの
母・川嶋和代さんも応援に駆けつけ、また眞子さまや佳子さまも離乳食をつくるなどして
「人の和で乗り切った」(宮内庁幹部)という。
ところが、ようやく乗り切ってみんなほっとしたのか、帰国翌日の26日、久しぶりに両
親と再会し、庭で遊んでいた悠仁さまが、ちょっと目を離したすきに転んで唇の上を切り
、愛育病院に運ばれ治療を受けるアクシデントがあった。幸い跡も残らないというが、ご
夫妻は肝を冷やしたことだろう。
インドネシアはもともと親日国と言われ、日本にとっても液化天然ガス(LNG)の最大の
供給国で、輸入全体の4分の1を占める。戦後賠償やODA、留学生の交流も盛んだった。
しかし、日本の関心は中国、ベトナム、インドへ移り、日本企業の撤退も相次いだ。アジ
アの多極化に伴って関係が薄れる気配があった。
アジア経済研究所地域研究センターの佐藤百合専任調査役は言う。
「この10年はインドネシアにとっては民主化・分権化の産みの苦しみの時代でした。この
『失われた10年』から立ち直り、『民主化を果たしたイスラム大国』として国際舞台でのプ
レゼンスを回復させるためにも、インドネシアは対外関係を多極化しようとしています」
望まれる体制の見直し
昨年、経済連携協会(EPA)が結ばれ、両国関係は新たな時代を模索しようとしてい
る。そんな矢先に、ご夫妻はインドネシアを訪問した。
1月19日、ムルデカ宮殿でご夫妻と会見したユドヨノ大統領は、語りかけた。
「日本が様々な支援をしてきてくれたことに感謝する。今後は資源依存の関係だけで
なく、両国民の心と心の関係を深めていきたい」
皇室の公式外国訪問はデリケートで重い。近年、天皇j・皇族方も高齢となり、皇太
子家も雅子さまが療養中で国内外の公務が難しい。秋篠宮ご夫妻への負担が増えて
いる。そろそろ、体制の見直しがあってもよいのではないかと感じた。
朝日新聞編集委員 岩井克己