徴集にあたって、物理的な暴力が使われていない場合でも連れてきた女性を慰安婦にさせる時に強姦がおこなわれ、
彼女たちの自由が奪われるケースが一般的であった。
また東南アジア地域での徴集の特徴としては、占領地の住民に対する一連の残虐行為の中で、
あるいは並行して慰安婦集めがおこなわれたことである。植民地朝鮮や台湾では、
日本が植民地支配のもとで育てた人身売買のシステムを利用して女性を集めることができたが、
東南アジアのような占領地では、中国での占領地と同じように、軍による暴力・強制力がむき出しになる傾向が強かった。
中国での事例としては、山西省盂県で、日本軍が女性たちを拉致して連行し、
監禁してくりかえし強姦をおこなったことが知られている。
その部隊は独立混成第四旅団傘下の部隊であった。独立混成第四旅団はのちに第六二師団歩兵第六三旅団となり沖縄に派遣され、
ほとんどが戦死している。沖縄戦における日本軍の沖縄県民に対する行動は、こうした日本軍占領地における行動と密接に結びついている。
また戦争末期の1944年以降、ジャワの女性がマラヤやボルネオなどに慰安婦として連れて行かれている。
地元の女性ではないが、インドネシアで日本軍に抑留されていたオランダ人女性200〜300人が慰安婦にさせられている。
慰安婦にさせられた女性は、日本の公文書、日本側と地元の証言・回想録などから判明しているかぎりでは、
日本人、朝鮮人、台湾人、中国人のほかにマレー人、華僑、タイ人、フィリピン人、インドネシア人、ビルマ人、ベトナム人、インド人、
ユーラシアン(欧亜混血)、オランダ人、その他太平洋諸島の島民があげられる。
まだ資料的には確認されていないが、ラオス人、カンボジア人も慰安婦にされていた可能性は大きい。
慰安所における状況は、軍の上級機関が管理し、業者に経営をさせていたケース(大都市に多い)、
警備隊が直轄しているケース(小都市に多い)などによって異なるが、総じて自由を拘束され、
軍人に対する性的「慰安」の提供を強要された。
日本軍兵士による地元女性に対する強姦事件も多かった。
被害者やその目撃者の証言も多いが、陸軍中央でもそのことは問題になっていた。
陸軍省の会議ではとくにフィリピンで日本兵による強姦が多いことが問題にされていた。
1942年8月になっても「南方の犯罪610件。強姦罪多し。シナよりの転用部隊に多し」と報告されている。
こうした事態に対して、軍中央は慰安所の開設・増設によって対処しようとしたのであるが、
1943年2月の会議でも、これは東南アジアだけのことではないが、「強姦逃亡等増加せる外将校の犯罪増加せることに注意を要す」
と報告されている(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。
占領地の女性に対する強姦は慰安所の設置によってもなくならなかった。
慰安所という性暴力のシステムと強姦という性暴力は並行して占領地の女性に向けられたのである。
日中戦争の開始以来、強化されていた皇民化政策は太平洋戦争開始後もさらに推し進められ、
そのうえにたって軍事動員が推進された。朝鮮ではすでに1938年(昭和13)に陸軍特別志願兵制度が導入されていたが、
1943年には海軍にも同じ制度が導入された。同年には朝鮮青年特別練成令が公布され、青年の軍事訓練が義務づけられた。
さらに日本の兵力不足を補うために43年8月朝鮮にも兵役法が施行された。翌年4月から徴兵検査が開始され、
敗戦までに20万9000人が徴兵され、うち復員したのは9万7000人だけであった。
労働力不足を補うための朝鮮人強制連行は1939年の「募集」形式から、
42年には、朝鮮総督府と朝鮮労務協会が各地方行政機関に人数を割り当てて労働者を集め、
日本企業に引き渡す方式である「官斡旋」方式、44年国民徴用令の適用による「徴用」と強制の度合いが強められた。
徴用令によって軍属として徴用された者も多く、一部は捕虜収容所の監視員として南方に送られた。
彼らは捕虜と直接接する機会が多かったために戦後、捕虜虐待の責任を問われ戦争裁判で罰せられた者が多い。
あるいは軍夫(軍のための雑役夫)として各地に送られ、戦闘に巻き込まれて戦死したり、沖縄ではスパイ容疑で日本軍によって殺されたケースも多かった。
日本本土をはじめ南方、沖縄、サハリンなどに強制連行された朝鮮人の数は100万人を越えると見られている。
それ以外に日本軍の慰安婦として連行された女性も多い。
台湾でも、日本語の使用と神社参拝の強要、改姓名という日本式の氏名への変更の強要、
志願兵制から徴兵制の導入など朝鮮と同じような政策がおこなわれた。動員された軍人・軍属は約20万人余りに上り、
うち約3万が戦死した。日本軍慰安婦も徴集されボルネオなど南方に連れて行かれた。
満州では日本の兵站基地として石炭や鉄など重要物資の生産が図られた。
すでに満州では軍部主導の産業開発が進められていたが、太平洋戦争が始まると鉄鉱、石炭、液体燃料、軽金属、
農産物などの軍事物資の日本への供給の増大する方針をとった。炭坑や鉱山などでは中国人労働者が酷使され多くの犠牲を出した。
満州を代表する炭坑である撫順炭坑では強制連行した中国人の使用を含めて、労働強化がはかられ、
1942年だけで1万人以上と推定される死亡者がでた(上羽修「撫順炭坑中国人労働者の大量死」)。
日本軍がアジア各地でおこなったことを考えると日本軍の特質が問題にならざるをえない。
太平洋戦争においてアジアの民衆に対して、日本軍ほど虐殺・暴行など各地で大規模な残虐行為をくりひろげた軍隊はほかにはなかった。
捕虜に対する扱いも日本軍とアメリカ軍とでは、経済力だけでは説明できないほど違いがあった。
沖縄戦で日本軍が沖縄の人々を虐殺、あるいは虐待したことも日本軍の特徴だろう。
いくつかの点から日本軍が残虐行為をおこなった特徴を考えてみよう。
第一に日清戦争・日露戦争以来培われてきた、アジア民衆に対する蔑視観がある。
中国人や朝鮮人に対する蔑視だけでなく、東南アジアの諸民族に対してはより一層見下していた。
たとえば、大本営参謀本部が作成し、マレー戦に参加した将兵に配られたリーフレット『これだけ読めば戦は勝てる』(辻政信が書いたといわれている)には、
東南アジアの民衆を「土人」と呼び、「土人は懶けものが多く、(中略)全く去勢された状態にあるから之をすぐ物にしようとしても余り大きな期待はかけられぬ」
と蔑視観が露骨に示されている。
第二に日本軍が占領地の一般住民を敵視したことである。
占領軍である日本軍に対する住民の抵抗はゲリラだけでなくさまざまな形でおこなわれた。
日本軍は住民全体を疑い、村を丸ごと抹殺することさえおこなった。
国際法はまったく無視された。相手が住民であろうと、「抗日ゲリラ」あるいは「抗日分子」という名目がつきさえすれば
「治安粛清」と称して堂々と住民虐殺がおこなわれた。
第三に日本軍の「現地調達」主義である。
日本軍は各地で作戦をおこなう部隊の食糧や馬の糧秣について「現地調達」するという政策をとった。
日本軍は補給そのものを軽視したが、とりわけ食糧については軽視どころか部隊に任せた。
そのため各部隊は戦闘をしながら食糧を確保しなければならなかった。本来は代価(軍票など)を払って購入しなければならないが、
実際には食糧略奪があたりまえのようにおこなわれた。戦地・占領地での略奪は戦時国際法に違反するだけでなく、
日本軍の陸軍刑法や海軍刑法でも「略奪ノ罪」にあたるが、それが取り締まられることはほとんどなかった。
略奪にあたって、住民の抵抗があれば、住民に対する残虐行為がおこなわれた。
女性に対する暴行もその一部だった。それが抗日勢力が強いと見なした村であれば、略奪、女性への暴行、
住民虐殺、放火がおこなわれた。中国ではこうしたなかで若い女性を拉致し慰安婦にさせるケースが報告されている。
中国など人が住んでいるところではこうした方法で食糧が調達できても(略奪された住民の苦しみがあることはいうまでもない)
人のあまりいないジャングルのなかでは、略奪しようにも略奪するものがなかった。
ガダルカナルやニューギニアで多数の日本兵が餓死したのはその結果である。
日本軍兵士の死者の半数以上が広い意味での餓死(飢えに起因する病気による死を含めて)によるものと推定されるが
(藤原彰「日本軍の餓死について」)、みずからの兵士の生命を軽視した「現地調達」主義は、
日本軍を残虐行為に駆り立てたとと同時に日本兵自体の生命をも奪ったのである。
第四に国際法を無視したことである。
第一次世界大戦までは、日本は参戦にあたって国際法を遵守する旨が開戦の詔書には含まれていた。
しかし太平洋戦争の開戦にあたっては、詔書の案の段階ではあった「国際法規の範囲内に於て」という文言が最終的には削られた。
日中戦争にあたっては、戦争ではなく「事変」であるとして戦時国際法を適用する考えはなかった。
日中戦争〜太平洋戦争において日本は、捕虜や占領地の住民の保護など戦争下におけるさまざまな人道的な措置を定めた戦時国際法を守る意思がなかったのである。
第五に日本軍内部の非人間性である。
日本軍でも「私的制裁」は禁止されていたが、実際にはビンタをはじめさまざまな暴力が日常的におこなわれていた。
「死は鴻毛(鳥の羽毛)よりも軽し」という軍人勅諭の言葉通りに兵士の生命は軽んじられ、特に下級兵ほどその抑圧はひどかった。
軍のなかで蓄積された抑圧とストレスは外部に対して、とりわけ弱者に対して向けられた。
占領地の住民はまさにその犠牲者であった。住民に対する兵士たちの残虐行為は軍隊内の秩序を維持するための安全弁として軍上層部は黙認したのである。
軍隊という組織そのものが持つ暴力性はこうした日本軍の特徴によって極度に増幅され、
アジア太平洋地域では他の国とは比較できないほどの残虐行為を引き起こしたのである。
日本軍による過酷な占領に対して、各地で抗日闘争が繰り広げられた。そのあり方は地域ごとに多様であった。
フィリピンではさまざまなゲリラ組織が作られたが、その中心になったのはユサッフェゲリラとフクバラハップだった。
ユサッフェとはアメリカ極東軍のことで、同軍は1942年5月に日本軍に降伏したが、各地に残されていたフィリピン人兵士たちは
ユサッフェゲリラを組織し知識人・政治家・宗教者らと協力し抗日ゲリラ活動をおこなった。
彼らはアメリカに忠誠心を持ったゲリラだった。一方、社会党・共産党系の農民運動を基盤に42年3月中部ルソンで結成されたのがフクバラハップ(抗日人民軍)だった。
彼らは日本軍追放と地主打倒を目標にしていた。両者は対立しながらも抗日活動をおこなった。
マラヤでも多様なゲリラ組織が生まれた。最も強力だったのはマラヤ共産党によって組織されたマラヤ人民抗日軍だった。
華僑が主体のマラヤ共産党はイギリスの植民地支配のもとで非合法化されていたが、
日本軍のマレー侵攻が始まると共産党は英軍に協力を申し出、共産党の選抜した青年たちに英軍がゲリラ用の訓練を与え、
日本軍の後方に送り込むことで合意がなされた。他方、多くの共産党員や国民党員らがシンガポール華僑義勇軍に参加して
シンガポール防衛戦で勇敢に戦い、多くが戦死した。
英軍からゲリラ用の訓練を受けた計165人は4つのグループに分けられて、
マレー半島の南部に送られた。彼らが中心になってマラヤ人民抗日軍が作られた。
北部でも共産党員らが独自にゲリラ活動を組織し、後に人民抗日軍に統合された。
中国国民党系の華僑は華僑抗日軍を組織、主に中北部で活動した。
またマレー人主体の地下抗日組織ワタニアも作られた。
インドからのマレー半島反攻を計画していたイギリス軍は136部隊を編成して潜水艦やパラシュートによってマレー半島に潜入し、
これら各地の抗日ゲリラと連絡を取り、彼らに武器弾薬を提供した。
インドシナでは日本とフランスに反対するベトナム独立同盟会(ベトミン)が結成され、
北部山岳地帯に解放区を設けた。1944年から45年の大飢饉のなかで「敵のモミの倉庫を破壊して人民を救おう」と呼びかけて全土で抗日闘争を活発化させ、
45年9月2日ベトナム民主共和国の独立を宣言した。
タイは当時、東南アジアでは唯一の独立国であったが、実質的に日本軍の占領状態におかれていた。
タイ政府は表面上は日本に協力する振りをしたが、政府や軍・警察関係者らは密かに「自由タイ」という抗日組織を結成した。
抗日的として日本軍に逮捕されタイ警察に引き渡されたタイ人は警察内の自由タイによって密かに釈放された。
また海外にいた外交官や留学生たちは自由タイの国外組織を作って国内とも連絡を取り、連合国からの支援をうけてゲリラを組織しようとした。
日本軍はこの自由タイの動きを察知していたが、手を出すことができなかった。
ビルマではすでに見たように、ビルマでは日本軍によって育てられたビルマ国軍がイギリス軍とともに日本軍をビルマから追い出し、
その後はイギリスの植民地支配の復活を許さず、独立を勝ち取った。
インドネシアでは、オランダによって投獄されていたスカルノやハッタなどの民族運動の指導者たちは、
日本軍に協力することによって独立を得ようと考えた。しかし日本軍の過酷な占領に対し、
1944年2月に西部ジャワで農民の反乱がおき、さらに45年2月東部ジャワでペタのブリタル大団が即時独立を求めて反乱を起こした。
このことは日本軍に対して、インドネシアへの独立付与を促したがその動きは遅く、
日本降伏後の8月17日青年らの突き上げをうけてスカルノらは独立を宣言した
日中戦争〜太平洋戦争下におけるアジア各国の被害は甚大なものだった。
死者の正確な数ははっきりしないところが多いが、主に各国政府の公式の発表を基に紹介すると、
中国1000万人以上(調査の進展により最近では2000万人以上と言われ始めている)、
フィリピン111万人、インドネシア400万人、ベトナム200万人、マレーシアとシンガポールで10万人以上、ビルマ15万人、インド150万人、
韓国・朝鮮20万人、台湾3万人などである。このほとんどは民間人である。
ほかに連合軍捕虜4万2千人あまり、民間抑留者1万数千人、オーストラリア1万7744人(捕虜約8000人を含む)などである。
アジアの死者は全体として2000万人という場合が多いが、中国の死者の数によっては大きく増える可能性もある
(『世界』1994年2月、特集白書・日本の戦争責任)。
なお日本の死者が約310万人、うち軍人軍属230万人、民間人80万人である。
日本の場合、沖縄を除くと、軍人の外地での死者が多数を占めているが、アジア諸国の場合には圧倒的に民間人が犠牲になっている。
日本の侵略戦争であったことがここにも現れている。
戦争被害は死者のみに限られない。家を焼かれたり破壊された件数などの物的な被害、難民になった人数は想像がつかない。
人的物的被害とは異なるさまざまな傷痕も残している。
マレー半島では、日本軍は華僑を抑えるためにマレー人を利用した。
華僑粛清という名の虐殺のためにマレー人を道案内に使ったり、マレー人警官を同行させて日本軍の手伝いをさせた。
そのため華僑から見ればマレー人が日本軍の手先となって同胞を殺していることになり、華僑が主体の抗日ゲリラは日本軍に協力しているマレー人を襲撃し、
あるいは豚肉を無理強いするなどイスラム教徒であるマレー人を侮辱する行動にでた。
このためマレー人が華僑の村を襲って村人を惨殺し、それに対して華僑が報復するという事態が戦争末期から戦後にかけて頻発した。
このマレー人と中国系との対立はその後も尾を引き、現在でも大きな問題となっている。
日本軍の残虐行為がその後何十年にもわたって深刻な影響を与えているのである。
ビルマでは、多数派のビルマ族のほかにカレン族やカチン族などの少数民族がいる。
カレン族にはイギリスの影響でキリスト教徒が多く、そのためイギリスが植民地支配のためにカレン族を登用しビルマ族を抑えるために利用した。
日本軍は逆にビルマ族を使い、カレン族に対しては親英的とみなして抑圧した。そのためカレン族が日本軍の残虐行為の対象になったケースが多い。
このためビルマ族とカレン族の対立は一段と増幅された。
戦後、ビルマ族主体のビルマ政府に対してカレン族は武装闘争をおこない、ビルマの不安定要因となっている。
植民地支配は通常、民族を分断し統治するという方法を取るが、日本軍の支配はそれが虐殺などの残虐行為と結びついていたために
民族間の対立を一層増幅させることになった。
日本軍は戦争後期になると日本軍を補うために現地の住民を使って義勇軍などを作った。
ビルマ国軍やインドネシアの郷土防衛義勇軍(ペタ)などはその代表的なものである。
これらの軍隊は戦後の独立にあたって大きな役割を果たした。特に植民地の再建をねらうオランダと独立戦争を戦ったインドネシアの場合は特にそうである。
もちろんこのことは日本軍が日本の覇権のために作った軍隊を、民族運動の組織者が独立のために活用したのであって、
ヨーロッパと日本の二つの帝国主義国の間で両者を利用して独立を勝ち取ったことはいうまでもない。
しかし独立後の軍隊の土台が日本軍によって作られたことは否定できない。問題はそこにある。
インドネシアで1966年にクーデターを契機に政権を握りその後1997年に至っても依然として独裁政権を続けているスハルト大統領はペタの軍人であった。
ビルマで1962年に軍事クーデターで政権を握り、議会を解散し憲法を停止、後に表舞台からは姿を消すが今日に至るまで軍事政権の黒幕と見られている
ネ・ウィンは日本軍の訓練を受けたビルマ独立義勇軍の幹部の一人だった。独立後、長期軍事独裁政権が生まれたインドネシアとビルマではともに
日本軍に育てられた軍隊がそこでも大きな役割を果たし、また日本軍に訓練された将校がその独裁者になっている。
独立後の問題の原因の一つが日本占領時代に起因しているのである。
「日本が中国を荒らしまわるのは日本の勝手であるが、日本への原料や工作機械の輸入を止めるのは反則行為だという主張があります。
国際社会のルールを無視し、自国のことしか考えないで他国の市場までも荒らそうとする国家に、自国の石油や援助を与えるかどうかなんてそれこそアメリカの勝手だというのに。」
「あまつさえ、国際社会に台頭してきた日本が目障りになってきた同国は、日本をつぶそうと画策したなどという陰謀論を主張する人たちまで現れる始末です。
日本をつぶしたかった?
そんなのやろうと思えば、アキレス腱をすべて握っていたわけですから
いつでも赤子の手をひねるごとく簡単にできたのですよ。」
「思うに日本は反抗期だったのではないかと思うくらいです。
万能感だけが強く、自分の実力や真実の姿を一切理解しておらずに、
ただ大人の言うことに反発したかっただけのようです。」
「マッカーサーはこのような日本人の稚拙さや幼児性を評してこのようにいいました。
『日本人の精神年齢は12歳である』と。
まさに反抗期真っ盛りの子供であるというわけです。」
「しかし、まさかさしものアメリカも、すこし自分の立場を日本にわきまえさせようとしたら、突然キレて、後援者である自分を
背後から金属バットで殴りつけるとは予想してはいなかったようですね。」
「少年の心の闇は随分と深いものだったようです。」
「あまつさえ、苦し紛れにこれは聖戦だなどと嘯く始末ですよ。
自分のことは棚に上げて、社会が悪いというわけです。
挙句、若さに酔い、自己陶酔の果てにやらかしたのは特攻と称する体を張った体当たりです。
しかしその改造バイクは保護者の援助で作ったものでした。」
「それが、60年の歳月がたってみると、
彼らはアジア解放のために立ち上がった栄光の軍隊だとかいう人たちが現れるのですよ?
歴史の流れって面白いですわね(笑)」
インドネシアで日本が感謝されているとしたんなら
SF講和条約で賠償放棄したインドネシアの国民投票で条約締結拒否が決定されたことを
どう解釈したらいいのですか
独立の祝い金とかいうおもろ見解もかまわないですが
祝い金をゆすり取ろうというのが感謝の気持ちならいらんと思いますが。
もう少し詳しく書くとインドネシアはSF講和会議に出席し、
賠償放棄を条文に持つSF講和条約に署名、締結した。
ただし、財産があった場合の差し押さえなどはできるのだが
WW2開戦後の占領地であるインドネシアにはたいしたものは存在せず、
せいぜい未払いの兵補の給料程度のものしか請求できない。
が、このことの是非を問う国民投票で
日本に賠償を請求しないなんてふざけんなという意見が通り批准されずに条約は無効となった。
*この時点で国交回復条項のあったSF条約は無効でインドネシアとの国交は断絶状態継続
んで、国交回復交渉の時に、インドネシア代表が述べたのが日本を恨んでない、”独立祝い金”として金をくれって言葉。
個々だけ取り出してインドネシアは日本に感謝してるニダとウヨさん大喜びなんだが、
感謝しているならそもそもSF講和条約批准してたわけで、
それ+賠償というより厳しい条約を結んだというのになにをいっておるんだという次第。
「それがどん底の社会状況の中であれば、なおさらそういった誇りを求めようとします。
忘れてはならないのが、ゼロ戦の神話というのは、すべて戦後に作られたということなのですよ。
戦時中、ゼロ戦の存在は国民には秘匿され続けました。
新聞などでは、ゼロ戦はただ海軍の『新型戦闘機』などという風に呼称され、
国民によく知られていた戦闘機というのはむしろ陸軍の隼だったのです。」
「日本の敗戦によって、国民は大きなショックをうけました。
それまで自分たちが信じてきた価値観というものが、すべて否定されてしまったのですから当然ですよね。
プライドはずたずたにされてしまいました。
あんなにがんばったのにもかかわらず、跡に残されたのは焼け野原だけ。
とても惨めです。」
「そこへ一筋の光明のごとく現れたのが、
無敵のゼロ戦神話だったのです。」
「自分たちは確かにまちがっていたのかもしれない・・・・
しかしかつて栄光はあったのだと。
完膚なきまで負けはしたが、一時的ながら連合軍をコテンパンにやっつけてやれたんだってね。
この妄想は盛んにマンガ、アニメや映画になって広く流布されます。」
「ところでちょっと思い出してもみてください。最近にもこれと似たような現象って起こりませんでしたっけ?
それというのは第二の敗戦とも形容された平成のバブル崩壊とそれに続く長期の不況です。」
「戦後は国の方向性を180度変えて、経済一筋でやってきたのに、
強大な経済大国としての国際的名声を得たはずなのに、すっかりその権威は失墜してしまいました。
軍事のみならず経済でまで敗北の辛酸を舐めてしまったことに、国民の自信は再び大いに失墜してしまいます。
そういった社会的状況に便乗して、
日本はアジアを解放したとかなんとかいう骨子の『歴史修正主義』などというおよそ怪しげな潮流が台頭したりもしましたよね。」
「戦前の日本人はさながらピエロか何かでしょうか。
日本人はこれからも何か困難にぶつかるたびに、この時代の日本をダシにして、
惨めな自尊心を回復しようとし続けるのでしょうか?」
「ゼロ戦神話のほうは、多分に高度経済成長の原動力の一部になったという利点があるように思えますが、
解放神話は全くといっていいほど日本に益をなしませんでした。
あえていうなら、インターネット上にネオナチネトウヨを量産したということぐらいでしょうか?」
そもそも太平洋戦争は
「日中戦争をどうしたら継続できるか?」ということで
昭和15年1月・・・あたりかな?
陸軍省整備局戦備課が、たとえば満州や、南部仏印や、ジャワスマトラ、タイを
第一経済圏、第二経済圏、第3経済圏と設定して
そこからどうやったら物資を調達できるか
できないばあい、北方作戦、南方作戦で事態を打開できるかという
作戦課の検討からはじまった★資★源★戦★争★なんだが
この時点でできないという結論が出て(S15.01)陸相東条英機も、中国からの自主撤退を検討し始めた
でもS15.06のパリ陥落のドイツ快進撃で
S15.09.15バトルオブブリテン「鷲の日」敗退直後に三国軍事同盟結んだり
もうドイツに目が眩んで、米英戦も辞せずの雰囲気ができちゃった
1943年5月31日御前会議『大東亜政略指導大綱』六項
マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セベレスは
“大日本帝国の領土とし”重要資源の供給源としてその開発と民心の把握に努める
これら地域では当分軍政を継続する
なお、これらの地域を帝国領土とする方針は当分公表しない
資源地帯がなければ、もともと東南アジアに侵攻する予定すらなかったんだよ
日本軍にはな。
植民地解放などお飾りのお題目にすぎない。現にインドネシアは最後まで独立させなかった
>ニミッツの詩とやらも、自衛隊幹部が渡米して、ニミッツの詩で間違い無い、という確証を
>得たから、ベリリュー神社の碑文にしたのだ。
ああ、それも間違いないってのがそもそも嘘ですから。
その自衛隊幹部からの又聞きであり、誰がこれがニミッツの詩ですといったのかすらはっきりしていない。
ほんとに知らなかったんですか?
簡単に経緯を説明すると日本のスーパーソルジャー船坂弘の著作に見られるのが初出で
産経新聞記者の住田良能記者が1978年に同紙の茨城県版で企画連載した「ペリリュー島78」を収録した部分に
公刊戦史に載っていると記載されている。
その後名越が主張するところではこの詩がペリュリュー神社で見つかったので
元ネタを知りたいと思い資料を探していたところ、公刊戦史などには全く見つからず
自衛官浦氏がアナポリスでニミッツの詩だと教官から教えられたと又聞きであることを明言している。
なぜか名越はこの教官の名前も聞こうとせず、これはニミッツの詩だって大喜び、
元ネタがそもそも掲載されているという公刊戦史に載っていないのに
軽率にも「世界に生きる日本の心」にニミッツの詩だと掲載する始末。
アメリカ側資料にはそのようなものが見られないことはガン無視です。
これが名越における”確証を得た”というなら、
彼の著作は全て眉につばして見なければならないでしょうね。
上述のように名越の調査とは学問的審査に耐えうるものではありません。
又聞きが多すぎる上に、浦氏の例をみても誰が伝えたのかすらはっきりしないものを
確証とかきちんと調査とか呼びませんからw
そもそもニミッツの詩がいつどこでどのように作られたのかが不明な以上、
確証だの調査だのの入る余地がないんですがね。
しかもナシールにいたってはいつどこでだれががまったく明らかにされてません。
まあ、やたらと元○○という無責任な立場の人間だけが
日本人に対してリップサービスできるってあたりが
現地の人間がどう思っているかをはっきり示しているような気がしますがねえw
「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ
―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、率直ニ申シマストサウデアリマス」
(佐藤賢了陸軍少将 1943年2月1日衆議院秘密会にて)
これがアジア独立の本音。
ちなみにこの佐藤とか、戦後になって敗戦した後に自分達のいった事さえ忘れたように、戦争美化に走って反省さえしてない。
国を滅ぼし多くの人命を死なせながら、反省もしない恥知らず軍人の自己正当化の嘘に騙されているんだろうなぁ。
さすが自慰史観患者は痛いw
日本による植民地支配
日本がはじめ、インドネシアの民衆にたいして親切でやさしい態度をとっていたのは確かである。
しかし、時がたつにつれ、日本のインドネシア民衆に対する態度は、変わっていった。日本の行動は残酷なものになっていった。
一般に植民者の態度はどこも同じである。つまり、残虐で、搾取的で、非情である。私たち民族の運命は、トラの口からのがれ、ワニの口に入るということわざにたとえることができる。これは、どういう意味だろうか。
それが意味するところは、日本がやってきたことにより、オランダ植民地時代に受けた犠牲はなくなるどころか、むしろ、事態は悪化したということである。
(「社会科・インドネシア国史2・小学校5年生用」)
太平洋戦争は資源地帯ほしさの侵略戦争であり
日本軍占領下では過酷な軍政が行われた
美化の余地のない歴史的事実である
インドネシアでの教育とやらの実態
教育機関と宣伝機関を握ることによって、民衆との接触は可能になった。
ジャワ島やビルマなど民衆の間に親日的気運が比較的強かったところでは、
一部の現地住民が日本軍の進駐を歓迎し、軍政が順調に実施されるかに見えた
日本の将兵や民間人の中には、善意で現地住民と接触し交際した人たちも多かった。
しかし、善意の押し売りほど始末の悪いものはない。
天皇絶対、忠君愛国という日本にしか通用しない独善的な考え方と日本語を、
善意でいくら教えてみても、それはしょせん軍政という軍事独裁体制を背景にしてしか
通用しないものであった。かなりの地域では、日の丸に対する敬礼、
君が代斉唱、宮城遙拝などの儀式が強制されたが、現地住民は面従腹背の態度を取らざるを得なかった。
まして母国語の使用制限と日本語の押しつけは、現地住民にとっては我慢できない
屈辱であった。
インドネシア初代大統領のスカルノの言葉
「インドネシア独立のためには悪魔の助けもかりる」
「日本軍は私を利用しようとしている。私はこれに応じるつもりだ。9回まで耐え忍んでいく。
最後の1回で取り返せばよいではないか」
太平洋戦争は資源地帯ほしさの侵略戦争であり
日本軍占領下では過酷な軍政が行われた
これを「大東亜戦争」と呼び、解放戦争と美化する輩は
ケダモノ以下のゴキブリである
ケンペイタイは、常軌を逸するほど、乱暴で残酷でした。・・・・日本人はどうしてこんなことを
するのか、本当に理解に苦しみました。
(H・B・ヤシンさん)
私が覚えていることは、おそらく、ケンペイタイがあまりに乱暴だったからでしょう、人びとが日
本に協力することを怖れていたことです。それで、自分から進んで日本のために仕事をしようとする
人はいませんでした。当時は、怖がる人のほうが多かったのです。ですから、みんなは日本に協力し
て利を追うよりも、自分の命を大切にしようとしていました。なぜなら、何か間違いを犯したら、日
本の罰則では死刑になると思っていたからです。日本軍が入ってきたときにすでに役所で働いていた
人たちは、そこから移ることができませんでした。ちょっとした過ちでも平手打ちでしたので、みん
なは、とくに体罰を怖れていました。バゲロー[馬鹿野郎]と言って頭を叩くのです。ところが、イ
ンドネシア人にとって、頭は神聖で敬うべきものなのです[それゆえ、頭を手で撫ぜたり、叩いたり
することは慎むべきことである]。私がケンペイタイと聞くと震えあがってしまうのは、私の親友が
彼らの暴力を受けてけがをして、障害者になってしまって以来のことです。
(バルカ・アルガニス・バスウェダンさん)
電気・ガス局でも、日本人達は乱暴で、下品で、したい放題で、そして、私たちインドネシア人を
見下していました。女性職員に対しても同様でした。
(リリー・ガマル・スタンティオさん)
「しばしば、その時代のケンペイタイの調査官たちの乱暴さは、オランダ時代のPID(諜報局)の同
様の取り調べ方をはるかに越えたものであったと指摘されている。裕福な人びとの住宅地でも、貧
民街でも、さらには役所でも、多くの場所で人びとは日本に対して憎悪の念を示すようになっていた
・・・・」
(インドネシア国立文書館 編著
『ふたつの紅白旗 インドネシア人が語る日本占領時代』(木犀社 1996)より)
おめでたい君に斉藤隆夫の遺稿を再度紹介しよう
ttp://blechmusik.xrea.jp/d/saito/s36/#p05 仮に大体に於て我が軍の勝利に終結を告げるものとして、此の共同宣言が文字通りに運用せらるるかを考うるに、是れ亦頗る困難のことにして、
理想と実際の間には一大懸隔を生ずることを予想せねばならぬ。言うまでもなく大東亜戦争は我が日本独自の立場に余儀なくせられ、
人的、物的其の他有ゆる国力を傾倒して敢行すべきものであるから、
是が完遂の暁に至らば日本は如何なる手段を尽しても先ず第一に国力の回復に向って邁進せねばならぬ。
然らざれば仮に戦争に勝つことありとするも国家を維持することは出来ないこととなる。
古人は戦い勝って国滅ぶと言うて居るが、全く其の通りであるから、是が為には大東亜圏内の他の諸国諸民族の利害等を顧慮する遑はない。
仮令彼等の利益を犠牲に供することあるも、
日本は敢然として国力回復の為に独自の国策を遂行せねはならぬ時が必ず到来するに相違なく、
而して是は戦勝国たる日本の権利であるから他の何者の容喙をも許すべきものではない。
それ故に東亜共栄圏は我が日本の利害と全然一致する場合に於てのみ想像せらるるベきものであって、
利害の一致せざる場合には断乎之を蹂躙するに於て決して躊躇すべきものではなく、同時に此の道理を弁え、
此の覚悟を抱くものにあらざれば将来日本の国政を托することは出来ない。
斯くの如くにして東亜共栄圏殊に道義に基づく共栄圏などと其の文句は立派であるが、
其の実は道義も何もあったものではなく、実際は日本中心の独栄圏となるべく、現に今日戦争中とは言いながら、
東亜諸国、諸民族は戦争目的の名に依って至る所我が国の為に有ゆる犠牲を強要されつつあるは蔽うべからざる事実であって、
是等の犠牲は戦後に至りても益々拡大せらるることあることを覚悟せねばならぬ。
而して事茲に至らば彼等は始めて共栄圏の何ものたるかを挙るに至るべく、
同時に欧米列国の乗ずべき隙も亦此間に生ずると共に、共栄圏崩壊の端を開かるるに相違ない。
固より将来此の東亜の天地に於て如何なる風雲の起ることありとするも、
我が日本に之を凌駕するに足るべき万全の備えあれば何等意に介すべきものではないが、凡そ此等のことは遠き将来に属することであるから、
今日種々の場合を予想して之を論ずべきものではないが、要するに共栄圏の前途には多種多様なる難問題の横たわることを覚悟せねばならぬ。
1941年1月8日、東條英機陸相によって全陸軍に布達された「戦陣訓」は
明治の健軍以来、帝国軍人の思想的バックボーンとなっていた「軍人勅諭」の戦場版ともいうべきものであった。
「戦陣訓」のなかで特筆すべきことは
「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。」
「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」
といい、「以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。」として
天皇の名によって軍人に死を強制していたことであった。
たしかに「軍人勅諭」も死に臨む核頃情感に対する絶対服従を要求していたが
「戦陣訓」ほど軍人に対し露骨に死を強制したものはかつてなかった。
ここにみられるのは、国家と天皇と個人を一体のものとしてみる一元的な国家観であり、
天皇への絶対服従によって個人の尊厳を抹殺し、
天皇のために喜んで死ぬことを最高の名誉としてたたえる死の哲学であった
陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月7日に上奏、翌8日の陸軍始の観兵式において全軍に示達した。
同日に新聞などのメディアはこれを大きく報じた。
また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。
一般国民に対しては用紙統制が行われているなか、1941年だけでも少なくとも『戦陣訓述義』『戦陣訓話』など12種の解説書、
『たましひをきたへる少国民の戦陣訓』『少年愛国戦陣訓物語』など5種の教材が出版許可を受けて出版されており、
以後も敗戦まで種々のものが出ている。このほかに、「戦陣訓カルタ」なども作られた。
また、学校での教育にとりいれられ、暗記が推奨された。そのため、現在でも「暗誦できる」人もいる。
今日では太平洋戦争中で発生した日本軍の玉砕や全滅、民間人の自決を推奨し、降伏を禁止させる原因であると理解されている。
日本兵は、捕虜となったことが分かれば不名誉とされた。事実、捕虜となった当人はもとより親兄弟も非国民と罵られ、
心中に追い込まれた家族も少なくなかった。さらに、捕虜交換などによって捕虜が帰ってきた場合、
直後に自決が強要されたり、スパイ容疑や軍規違反を犯したなどの理由によって秘密裏に殺害された捕虜も相当な数に上っている。
さて、東條英機自身はどうであったか
「生きて虜囚の辱を受け」、敵であったものの手によって処刑されたのである
さぞかし靖国での居心地は悪いであろう。
このような東條英機を無責任に賛美するものはゴキブリである
昭和18年末、ニューブリテン島のココボで丸山二等兵は、今度行くところは「天国のような場所」と戦友の赤崎から聞く。
彼らは出発前にピー屋に行くが、何十人も兵士が行列を作っているので目的を達せず「女郎の唄」を歌って帰って来た。
そして彼らは若き田所少佐のもと、500名でバイエンに無血上陸する。
丸山は古兵や上官にいびられ、また時には親切にされ、何とかバイエンでの時間を過ごして行く。
だがそこは「天国のような場所」ではなく「天国に行く場所」であった。
敵の攻撃で戦死する者のほかに、陣地構築中の事故で死ぬ者、伝染病で死ぬ者、ワニに食われて死ぬ者、
手榴弾でとった魚を飲み込み窒息死する者・・・。
やがて近辺のワランゴエ河口に連合軍が上陸、橋頭堡を築き攻撃を開始してきた。
徐々に包囲してくる敵に対して、田所は中隊長の「高地にこもり持久戦をすべきだ」という意見を退け、玉砕覚悟の切り込み作戦を敢行する。
その結果、田所は戦死、生き残った者は聖ジョージ岬に撤退するが、負傷した中隊長はその途中で自決する。
そのころラバウル司令部ではバイエン支隊から玉砕の電信を受け、既に彼らは全員死んだものとされていた。
ところが聖ジョージ岬警備隊から、バイエン支隊の生存者数十名が現在ここにいるとの知らせを受ける。
この「敵前逃亡」は「ラバウル全軍の面汚し」とされ、事件処理のために木戸参謀が聖ジョージ岬に派遣されることになる。
木戸の出発の前夜、バイエンの生き残りの軍医がラバウルを訪れて部下の命乞いをするが、談判決裂となり軍医は抗議の自決をした。
軍医の遺骨とともに聖ジョージ岬に来た木戸はバイエン支隊将兵の尋問を行い、その結果、山岸と北崎の2人の小隊長は責任を取って自決、
残りの81名は再突入を行うことになった。
昭和20年6月、聖ジョージ岬に敵の有力部隊が上陸、バイエンの生き残り達は切り込みを敢行する。
その突撃直前に木戸は「玉砕を見届け報告する冷たい義務がある」と退こうとするが流れ弾に当たり戦死。
そして丸山達は「私はなんでこのような つらいつとめをせにゃならぬ」と「女郎の唄」を歌って切り込み、全員玉砕した。
隣の陣地を守っていた連隊長は、後にこの玉砕を聞いて「なぜそこまでして、あそこを守らねばならなかったのか」と述べたという。
太平洋戦争は、悲惨な戦争であった。「大東亜戦争」と読み替えて聖戦であったと賛美するものはゴキブリである
東條内閣は、開戦直後に国家総動員法にもtづく新聞事業令を公布し
一府県一紙制を原則に新聞の統合を推し進めた。
1942年2月には、各新聞社の自主的統制機関であった日本新聞連盟が
官製の統制機関である日本新聞会に改組された。
さらに各新聞社には新しく検閲課が置かれ、内務省や内閣情報局などによる
検閲は、一段と厳しいものになっていった。
出版についても、政府は1943年2月に出版事業令を公布し、日本出版文化協会を
官製の統制機関である日本出版会に改組させた。
日本出版会は、すべての出版書籍に対して審査制をとり、
従来約6%であった不承認件数を30%に引き上げ、ひたすら政府に迎合する態度を取った。
雑誌の統廃合が強行され、1941年末に18,022あった新聞と雑誌が44年末には2,548に減少した。
企業整理も実施され、整理がほぼ終わった44年5月には
書籍のみ発効するものが2,241社から203社に、雑誌2,017社が996社にそれぞれ減ってしまった。
なかには中央公論社と改造社のように、内閣情報局から「営業方針において戦時下国民の
思想指導上許し難い事実がある」として「自主的廃業」を申し渡されたものもあったが、
その背後の黒幕は陸軍省報道部であった。
戦争目的に合致しないと当局が判断した出版物は、どのような立場のものであれ
削除・改訂・発売禁止の処分を受けた。
そのうえ新聞と出版の関係者は、割当制になっている用紙を確保するため、
関係当局の軍人や官僚にとりいることに狂奔せざるを得なかった。
このように言論と出版の統制は完璧であった。
フィリピン、ビルマ、インドネシアなどでは戦争の末期に大規模な虐殺が相次いでおこなわれた。
フィリピンでは1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中にゲリラに襲撃された事件がきっかけで
7月から徹底的な粛清作戦が実施された。ゲリラ討伐の名目で実際には子どもから老人まで多数が殺された。
米軍が44年10月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してきてから、特にマニラと南部ルソンで大規模な虐殺が次々と起きた。
バタンガス州とラグナ州では歩兵第17連隊(通称藤兵団)が「対米戦に先立ちゲリラを粛清する」
「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」と命令を下した。
バタンガス州リパの虐殺に加わった兵士の証言によると、16から60歳の男子を通行証明書を渡すという名目で学校に集め、
証明書を渡したうえで10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連れて行き、銃剣で刺して谷底に突き落としていった。
そうして一日がかりで約800人の住民を虐殺した(友清高志『狂気―ルソン住民虐殺の真相』徳間書店)。
フィリピンにおける日本軍による虐殺の犠牲者は数十万人にのぼると見られ、中国に次いで多い。
ビルマでは、これまでわかっているかぎりで最大規模の虐殺は1945年7月のカラゴン事件である。
パラシュート降下したイギリス軍の工作員とゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、
女性子どもも含めて、10人くらいずつ井戸の側に連行し刺殺してから井戸に投げ込み、
合わせて600人以上を虐殺した。現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ死刑になるが、
裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、もし子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺したと弁明している
(英国国立公文書館所蔵英軍戦争裁判記録)。
ビルマではインドからイギリス軍の反攻が行われ、それに呼応してビルマ国軍も日本軍を攻撃した。
また各地の抗日ゲリラも協力して日本軍をビルマから追い出そうとした。
そうしたなかで日本軍は住民全体を敵視し、虐殺したのである。
侵略軍であった日本軍は住民から信頼されていなかったし、
また日本軍も住民をいつ連合軍に寝返るかもしれない存在として、あるいは密かに抗日ゲリラに通じている者と疑っていた。
そうした時には住民全体が「抗日分子」に見えてくる。これは中国での日本軍もそうだった。
日本軍の一連の住民虐殺は、戦争だからという一般論によって説明できるものではなく、侵略戦争のなかでおこなわれた残虐行為であった。
マレーシア各地でも日本軍による虐殺記念碑がいくつも残ってるらしい。
<ネグリセンビラン州では40か所以上で虐殺がおこなわれた>
パリッティンギ村では約600 人の村民が子どもまで抹殺された。
当時8 歳だった孫建成氏は両親や兄弟など一家9 人を殺され、
祖母と2 人だけがかろうじて生き残った。
それからまもなくの1942年7 月日本軍はタイとビルマをつなぐ
泰緬鉄道の建設に着工、マレーシアからもロームシャを狩り集めた。
8 月ネグリセンビラン州のセレンバンにいた宋日開氏は町中で日本兵
に呼びとめられた。「軍補」を募集していて、期間は1 か月から長くても
4 か月という話で、今の仕事よりいいと思ったのでそれに応じた。
しかし実際にはビルマ国境に近いテーモンタで過酷な労働につかされ、
一緒に行ったロームシャたちは次々に死んでいった。
セレンバンを出る時には780 人(ほとんどが中国人とインド人で、
マレー人は若干名だけ)だったのに46年7 月に帰ってきた時はわずか
49人になっていた。
<パリッティンギ( カンウェイ) 村の虐殺>
マレー半島南西部のネグリセンビラン州の粛清は第 5師団第11連隊( 広島)
が担 当し、42年3 月に6 次にわたって粛清がおこなわれた。
その中で3 月16日におきたのが、この事件である。山中にあるこの村に
「敵性分子」が「相当潜在」しているとして粛清を計画、
日本軍は老幼男女を問わず村民を村の広場に集め、
20〜30人ずつのグループにわけて周辺の山や畑の中に連れていき、
膝まずかせて順番に背後から銃剣で刺し殺していった。
その後、村を焼き払った。ここでの犠牲者は675 人と言われている
枢密院の深井英五顧問官は「枢密院重要議事覚書」の中で東條英機の答弁と
それに対する自らの感想を、次のように記している。
「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、左様の事実
(外交の二元化)は大東亜地域内には成立せず、我国を指導者とするところの外交あるのみ」
(深井評、これ竹越顧問官の所謂大東亜圏諸国をデペンデンシー(従属国)として
取扱はんとする意図を頗る露骨に表示したるものなり。)
「外交の相手は必ず対等者として処遇せざるべからずとするが如きは古き観念なり」とし、
「此の如き観念は排斥す」とて、卓を叩きて叱咤す。
御前会議としては珍しき光景ならん。東條総理大臣は大東亜地域の諸国を従属的に取扱ふの
底意を此に暴露したり。東條総理大臣の興奮は益々激化し
「大東亜圏内には外交なし」と極言す。
アジア・太平洋戦争は
クーデターとテロにより日本の実権を握った軍部が
おのが力におごり高ぶり
東アジアを我がものにしようとして始めた戦争である
東條英機は首相になる前、ことある事に好戦論を口にしていた軍部の首魁である
ボ・ミンガウン(三十人志士メンバー・アウンサン将軍副官・独立後、内相、運輸相等歴任)
「ビルマの情勢を検討していた東條首相は、そのスローガンである「大東亜共栄圏」建設をめざし、
同時にビルマ国民の感情をなだめるために、飯田司令官の下に傀儡政府を組織して、名目的な独立
を供与する準備を進めた。まもなく飯田司令官は、バモオ博士を長とするバホー(中央)行政委員
会を設置し、一九四二年六月四日に全国に向けて発表した。(中略)この委員会は一九四二年八月
一日に、「ビルマ行政府」とその名前を変更した。しかし、「ビルマ行政府」とはいっても、飯田
中将の命ずる範囲の行政事務を担当したにすぎなかった。
(中略)
一九四三年八月一日には「独立」が宣言され、アディパティ(総統)バモオ博士の率いる政府が
出現した。この政府は、独立した政府とはいうものの、実際には総統にせよ、大臣たちにせよ、日
本軍指導部の認めた範囲内の権能しか持たなかった。アウンサン将軍は、日本の与えた「独立」が
本物ではなく、「メッキ」にすぎないことを見抜いていた。将軍はまた日本軍のやり口を熟知して
いた。さらに、連日のようにビルマ各地で起こっているファシスト日本軍の残虐行為についても将
軍は目配りを絶やさなかった。そして、もともと胸の内に秘めていた、日本軍に対して反乱を起こ
すという決意を、さらに固くするのであった。
日本の与えたビルマ人による行政が、名ばかりでお粗末なものにすぎず、また残虐行為の数々を
目の当たりにしていたビルマ国軍、人民革命党それに共産党の指導者たちは、一九四四年八月に秘
密の話し合いを持ち、討議の末に「反ファシスト人民自由連盟」を結成し、対日反乱についてこま
かい検討を行った」
(ボ・ミンガウン『アウンサン将軍と三十人の志士』(中公新書 1990)より)
アフマッド・スバルジョ(独立インドネシア初代外相)
「毎年八月十七日には、共和国記念日を祝して式典が催されてきた。しかし、新聞は、いつもグレ
ゴリー暦の年月日を用い、紀元二六〇五年の略称である〇五年という、独立宣言の手書きの原文
に使われていた年号を再現してはいない。原文の写真が新聞に転載される場合ですら、日本の年号
についてふれてはいず、〇五年は四五年を意味するのだと、当然のことのように考えられている。
革命的な性格をもつ新たな独立政府にとって、日本の年号をうけいれられないということは、議論
の余地のないところである。また、従来の植民地政権が使っていた年号に対して、異議を唱えるも
のもいないのである。
八月十七日の共和国記念日の式典では、例年、建国以来の式典年数があげられる。たとえば、一
九七二年の八月十七日には、インドネシア人民は、共和国の二七回めの記念日、あるいは建国二八
年めを祝ったことになる。その日は、まさに、偉大な“ナショナル・デー”である。一九七二年十
二月二七日は、オランダ王国がインドネシア共和国を法的に承認してから二三年になるのだが、イ
ンドネシア人民は、この一九四九年十二月二七日に行われたオランダのインドネシアに対する主権
委譲の日を、祝ったりはしない。彼らは、八月十七日を、独力で宣言した自分たち自身の独立つま
り、日本帝国のおかげをこうむらない、まさに、自分たち自身の闘争が成功したが故の、さらには
一貫した努力のたまものとして勝ちとった独立の日として、その日を祝うのである。日本人がその
際果たした役割は、単に偶然にすぎなかったわけである」
(スバルジョ『インドネシアの独立と革命』(龍渓書房 1973)より)
名越二荒之助の捏造
「地中海での作戦中、ドイツ潜水艦から魚雷が発射された。その魚雷の発見が
一瞬遅れたときに、日本駆逐艦は連合国船舶の前に全速で突入して盾になり、
撃沈されて責務を果たした。犠牲になった日本海軍将校の霊は、今もマルタ島
の墓地に眠っている」
↓
この部分にも多くのウソがねつ造されています。まず、「作戦中」ではなかったのです。
1917年駆逐艦「榊」「松」はマルタ島に帰還途中ドイツ潜水艦と遭遇し、
艦首に被雷して、大破し59名死亡したというのが事実です。
連合国船舶の護衛任務などではありませんでした。したがって連合国船舶の護衛
のために「盾」となったという、今はやりの国際貢献の美談として書いているが、
全く根拠のないフィクションです。
また地中海で日本駆逐艦が撃沈されたことになっていますが、司令官の報告を
見ても、「撃沈」ではなく艦首の「大破」であり、沈没した事実はどこにもありません。
高嶋伸欣さんが「こっそり訂正していた歴史教科書」というタイトルで、
「ねつ造だった日本海軍手がら話」について書かれています。
扶桑社は採択後の供給本で、この部分も含めて約50カ所もの訂正を内密裏に行っていたのでした。
供給本では次のように書き換えられています。「日本の駆逐艦が、ドイツ潜水艦
によって撃沈された連合国船舶の救助活動で、大きな功績を挙げたが別の任務
の帰路、潜水艦の魚雷攻撃を受け、60名近い戦死者がでた。」
では魚雷攻撃を受けた日本の駆逐艦「榊」はだれが助けたのだろう?
近くにいた「松」は二次攻撃を恐れて手をこまねいていたのだが、急を聞いて
駆けつけた英国艦が迷うことなく接舷して港まで曳航したのだそうです。
称賛されるべきは英国艦であり、日本艦は怯えていたというのが事実。
重要登場人物の名前さえまともに書けない名越の著作に
歴史的学問的価値など微塵もありません
そこにあるのは捏造与太話でしかないのです
【インドネシア】
●労働者の搾取
主に田舎の住民である「労務者」は、日本に強制的に働かされた。
特に軍の施設や防衛のための防壁や、列車の線路などをつくった。
多くの「労務者」は現場で死んだ。
その悲しい状況は結局、口からロヘ伝えられ、村の人々全員の知るところとなった。
●インドネシアが独立した背景
抗日運動は、インドネシアの独立の実現につながっていった。
対日闘争を実施するのに、インドネシアのリーダーたちは非常に慎重だった。
日本の占領がとても冷酷だと知られていたからだ。
もし、はっきり抵抗すれば、日本占領政府はすぐに誰でも殺すだろう。
このため闘争の方法は、その時々の状況に合わせていた。
(「中学校2年生歴史教科書」=エルランガ出版社)
インドネシア 中学校用「社会科学・歴史科 第五分冊」
「当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。
インドネシア民族は、長く切望した独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。
どうしてインドネシア民族は、このような期待を持ったのだろうか。
それは日本がやってきてまもなく、つぎのような宣伝を展開したからである。
−日本民族はインドネシア民族の「兄」である。
日本がきた目的は、インドネシア民族を西洋の植民地支配から解放することである。
−日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。
その実体はどうであったか。
日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。
日本は結局独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。
その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。
資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。」
太平洋戦争は、資源ほしさゆえの日本による侵略戦争であり
現地では過酷な軍政が行われた
これをねじ曲げて「大東亜戦争」と呼称し
植民地を解放したなどと法螺を吹聴するものは
国を誤る有害なゴキブリである