開戦以来、 次々と占領地域を広げていった日本軍は、1942年(昭和17)5月1日にビルマ北部の中心都市マンダレーを占領し、
これにより南方進攻作戦は一段落した。日本軍は、西はビルマ、インドのアンダマン諸島、南はインドネシア、ニューギニア北部からソロモン諸島、
東はギルバート諸島、北はアリューシャン列島のアッツ、キスカ島にいたる広大な地域を占領下においた。
また中国では農村部までは十分な支配をおこなえなかったものの要衝部を占領していた。
1942年8月にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸し反攻を開始してから太平洋の島々、
44年から45年にかけてフィリピンを、また西からは45年にイギリス軍がビルマを奪回したが、多くの地域は最後まで日本軍の占領下におかれた。
日本軍はこれらの占領地に軍政をしき、陸軍が香港、フィリピン、英領マラヤ、スマトラ、ジャワ、英領ボルネオ、ビルマを、
海軍がオランダ領ボルネオ、セレベス、モルッカ諸島、小スンダ諸島、ニューギニア、ビスマルク諸島、グアムなどを担当することとした
(「占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定」1941年11月26日)。
軍政については大本営政府連絡会議が基本方針を決めたが、
ここで日本・満州・中国と東経90度から180度まで、南緯10度以北の地域を「帝国指導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」と決定した
(「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」1942年2月28日)。
これらの地域がいわゆる「大東亜共栄圏」と呼ばれる地域である。
東条首相は42年2月の議会での演説の中で
「大東亜戦争ノ目標トスル所ハ我肇国ノ理想ニ淵源シ大東亜ノ各国家、
各民族ヲシテ各々其所ヲ得シメ皇国ヲ核心トシテ道義ニ基ク共存共栄ノ新秩序ヲ確立セントスルニ在ル」と所信を述べた。
しかし「南方占領地行政実施要領」にはっきりと見られるように、日本がこれらの地域を占領したのは
あくまで日本にとって必要な資源を獲得するためであって、
日本を中心とした秩序のなかで各地域の人々は、日本の必要に応じた役割を求められたにすぎなかった。
戦争時に占領地において占領軍が一般住民にたいして行政をおこなうことがあり、
これを占領地軍政、あるいは単に軍政という。ただ海軍の場合は民政と呼んだ。
1907年(明治40)に結ばれ、日本も批准していた「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(いわゆるハーグ条約)の付属書
「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」にはこうした占領地に関するいくつかの規定が含まれている。
そのなかには「占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、
成ルベク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為為シ得ベキ一切ノ手段ヲ尽スベシ」
「家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ、之ヲ尊重スベシ」
「掠奪ハ、之ヲ厳禁ス」などの内容が記されている。
占領軍といえどもその行動は戦時国際法によって制約されていた。
陸軍では軍政は陸軍省の管掌とされ、南方軍指揮下の各軍に軍政部がおかれた。
その後、初期の軍事作戦が一段落した1942年(昭和17)7月軍政組織の整備再編がおこなわれ、
南方軍総司令部(シンガポール)に軍政総監部(南方軍総参謀長が軍政総監を兼務)、
第14軍(担当地域フィリピン)・第15軍(ビルマ)・第16軍(ジャワ)・第25軍(マラヤ・スマトラ)
のそれぞれの軍司令部に軍政監部(各軍参謀長が軍政監を兼務)が設置された。
ボルネオ守備軍にのみ引き続き軍政部がおかれた。
海軍は海軍省に南方政務部が設置され、各地に民政部がおかれた。
軍政を施行するにあたっては「極力残存統治機構ヲ利用スル」(「南方占領地行政実施要領」)こととしたが、
主な部署には軍政要員が派遣された。軍人だけでなく各省から出向した官僚、金融機関や企業から派遣された者などからなっていた。
したがって軍政は軍のみでおこなわれたのではなく、警察・地方行政などを担当した内務官僚、
財政・経済施策を担当した大蔵・商工などの経済官僚が重要な役割をはたした。
軍人以外の軍政要員のために司政官という官職が設けられた。
司政長官、司政官、技師、警部などの軍政要員の定数は最終的に陸軍1万8465人、海軍7689人とされた。
ほかに軍政顧問が設けられ、各軍司令部に政財官の有力者が任命された。
行政の末端においては以前からの公務員など地元住民を使っていたことはいうまでもない。
軍政の最大の目的は重要資源の獲得のためであったが、
開戦直後の12月12日に関係大臣会議で決定された「南方経済対策要綱」では
「開発ノ重点ヲ石油ニ置」き、さらにニッケル、ボーキサイト、クロム、マンガン、雲母、燐鉱石、
その他の特殊鋼原鉱、非鉄金属などの開発を進めること、そのために「極力在来企業ヲ利導協力」させることとしている。
「一地点ノ資源開発ハ努メテ一企業者ノ専任トスルコト」などの原則のもとに担当企業が選定された。
これにより三井・三菱・住友などの財閥系企業や戦前からこれらの地域に進出していた石原産業などの企業が軍と結びついて進出していった。
日本が取得することを期待した資源は、大本営陸軍部が作成した「南方作戦ニ伴フ占領地統治要綱」(1941年11月25日)によると、
フィリピンからマンガン、クロム、銅、鉄鉱、マニラ麻、コプラ、
英領マラヤからボーキサイト、マンガン、鉄鉱、スズ、生ゴム、コプラ、タンニン材料、
英領ボルネオから石油、蘭印から石油、ニッケル、ボーキサイト、マンガン、スズ、生ゴム、キナ皮、キニーネ、ヒマシ、タンイン材料、
コプラ、パーム油、工業塩、とうもろこしとなっている。
最も重要視されていた石油について見ると、
北ボルネオのミリ、スマトラのパレンバンなどの油田を占領後ただちに復旧し、原油生産は1942年2594バレル、43年4963バレルと拡大した。
日本への輸送も42年167万キロリットル(生産量の40パーセント)、43年230万キロリットル(29パーセント)となった。
しかし43年になると米潜水艦による船舶の喪失が急増し、船舶不足が深刻になった。
そのため44年の内地還送量は約80万キロリットルに激減した。
また連合軍による空襲により生産にも支障をきたすようになった。
ほかの鉱物資源の開発も同様の状況であった。
日本軍は占領地に軍票を流通させた。
日本軍は開戦前から現地通貨表示の軍票(蘭印ではギルダー、マラヤではドル、フィリピンではペソなど)を準備し、
占領とともに現地通貨と等価で流通させた。当初の計画では、軍政が順調にいけば軍票を回収し現地通貨のみに戻す予定だったが、
実際には軍票の発行が急増していった。
1942年3月に占領地の資源開発、為替管理、敵産管理などを目的とする南方開発金庫が設立された。
1943年1月南方開発金庫に発券機能が付加され、4月より南方開発金庫券(南発券)を発行しはじめた。
これは軍票ではないが実際には軍票と同じようなものだったので、一般には軍票と思われていた。
外部との交易関係が断たれ、物が不足するなかで、物資を調達するために南発券が乱発された。
発行高は1942年12月に4億6326万円だったのが、44年末には106億2296万円、45年8月には194億6822万円と急増していった。
日本が中国で発券した儲備券の場合は1941年末の2.4億元から44年末には1397億元、45年8月には2兆6972億元にも達した。
この結果、すさまじいインフレが引き起こされた。
シンガポールの物価指数は開戦時の1941年12月を100とすると翌年12月には352、44年12月には1万0766、45年8月には3万5000と350倍になっている。
特に米は開戦時、60キロが5ドルだったのが、45年6月には5000ドルと一千倍にもなっている。
日本軍の軍政を財政的に支えた一つが阿片だった。
イギリスなど旧宗主国も阿片を植民地支配のために利用していたが、日本軍はそれを一層拡大した。
太平洋戦争の勃発によりインドからの阿片の輸入が途絶えたため、日本のかいらい政権のあった中国の蒙疆を阿片の生産地として「大東亜共栄圏」の阿片供給をはかった。
シンガポールは阿片の精製と包装をおこなって周辺地域に阿片を供給する役割をはたした。
日本軍は阿片の専売制をとり、第25軍の1942年度の第一、第二四半期の予算では全経常部歳入の50パーセント以上が阿片収入によることになっていた。
阿片は主に華僑の苦力(クーリー)によって使用されていたが、こうした阿片政策は「大東亜共栄圏」の一面を示していた
東南アジアの諸地域はイギリス、フランス、オランダなどの宗主国やアメリカとの間で世界的な貿易のネットワークを作っていた。
また1930年代になると中国や日本の軽工業製品も入ってきていた。
たとえば英領マラヤでは、輸出品としてはゴムとスズが中心だった。
開戦前、ゴムは世界総生産の約4割、スズは約三分の一を占める、マラヤの二大産業だった。
輸出先は圧倒的にアメリカだった。輸入品としては、シンガポールが中継・加工貿易の拠点であったことから、
石油(蘭印、英領ボルネオから)、ゴム(蘭印)、スズ(蘭印、タイ)、米(タイ)などを輸入していた。
要するにゴム、スズのマラヤの特産品と蘭印などから輸入した原材料を中継あるいは加工してアメリカに輸出し、
食糧はタイなど周辺地域から、工業製品はアメリカやイギリスから輸入するという構造になっていた。
蘭印の場合は、石油などの鉱産物やゴム、キナ皮、コショウ、コプラなどの農作物を輸出し、
工業製品を輸入するという構造であった。輸出先は、アメリカ、オランダ、イギリス、日本などである。
シンガポール向けも多いが、これはすでに述べたようにそこを経由して上記の国々に輸出されていた。
輸入はアメリカ、オランダ、日本などからである。
フィリピンの場合は、輸出入ともにほぼ全面的にアメリカに依存していた。
砂糖、ココナッツ製品、マニラ麻などをアメリカに輸出し、工業製品をアメリカから輸入するという構造で、
貿易に占めるアメリカの比重は1930年代には70%台にもなっていた。
フランス領インドシナはフランス本国と、ビルマはイギリス、インドと密接に結びついていた。
このように東南アジアはその域内ならびにアメリカ、イギリスなどの先進工業国と深い交易関係を結んでいた。
日本とこれらの地域との関係は、1930年代においてはフィリピンにとっては輸出入ともに日本はアメリカについで第2位、
タイと蘭印にとって輸入で第2位の位置をしめていた。 ただその比率は大きくても十数パーセントにすぎなかった。
日本からの輸出品は綿織物を中心とする繊維製品であり、ほかに雑貨類や加工飲食料品などを含めて、消費財の軽工業品が圧倒的な比重を占めていた。
日本の輸入品は生ゴム、石油、鉄鉱、マニラ麻などの燃料・原料が中心であった。
日本軍による占領によって、東南アジアと外部地域との交易関係は断たれ、また東南アジア内の交易関係も寸断された。
日本にはこれらの地域の産物をすべて引き受け、またこれらの地域で必要な工業製品を供給する力はなかった。
日本国内でも日中戦争開始以来、物資不足が深刻化し、食糧や衣類などの配給制、切符制が実施されるようになっていた。
軍需生産のために、国民にとって必要な物資さえも満足に供給できなくなっていたのであり、
広大な「大東亜共栄圏」に工業製品を供給することははじめから不可能であった。
ゴム、砂糖、コーヒーなどの輸出品は輸出先を失い、そこで働いていた労働者は職を失った。
必要な工業製品は入ってこなくなった。
そのうえ日本軍は「現地自活」方針をとって駐留する日本軍に必要な食糧や物資を現地調達したために物不足は深刻になり、
軍票の乱発とあわさってひどいインフレに陥った。
日本は1943年後半よりこの地域で必要な工業製品を地元で生産する方針に転換したがうまくいかなかった。
食糧を輸入に頼っていたマラヤ、フィリピンなどでは食糧自給のために商品作物から米やとうもろこしへの転換が図られたが、
日本軍に食糧を供出させられたこともあり、深刻な食糧不足に陥った。
食糧の多くを輸入に頼っていたマラヤでは人々はさつまいもやタピオカを作った。
タピオカはキャッサバから作ったでんぷんであり、マレーシアでは日本占領時代が食糧難の時代であったことから「タピオカ時代」と呼んでいる。
食糧問題で最も深刻だったのはベトナムだった。
ベトナム北部では1944年末から45年にかけて、100万とも200万人とも言われる多数の餓死者を出した。
タイビン省だけの調査でも人口100万人のうち約28万人が犠牲になった。
この原因としては、日本軍による強制的な食糧の徴発、水田を潰して軍事物資であるジュート(黄麻)への作付けの転換を強制したこと、
戦況の悪化などの理由により南部のデルタ地帯からの米の輸送が途絶えたことなどが指摘されている。
東南アジアには多様な民族が混在していた。それらの民族間の違いや矛盾を日本軍は利用しようとした。
英領マラヤ(マレー半島とシンガポール)はもともとはマレー人の地であったが、
彼らは主に米作などの農業に従事し人口も少なかった。
そこで19世紀以降、植民地化したイギリスが労働力不足をおぎなうために、スズ鉱山の労働者として中国人を、
ゴム園の労働者としてインド人を連れてきた。特に19世紀末から20世紀にかけて、缶詰の普及によるスズ消費の拡大、
自動車生産にともなうゴム消費の拡大はこうした移民に拍車をかけた。
移民してきた中国人はスズ鉱山にとどまらずゴム園や商業にも進出し、マラヤ経済に強い影響力をもつようになった。
そしてついに人口でもマレー人を追い越すにいたった。
インド人は少数派であったが商業や金融業にも進出していった。1941年6月末の推定によると、マラヤの総人口552万0275人、
うち中国人238万2529人、マレー人228万3930人、インド人74万4430人、欧州人・欧亜混血人5万0836人、その他5万8550人となっている。
宗教については、マレー人はイスラム教、中国人は仏教や道教、インド人はヒンズー教やシーク教というように民族ごとに異なっており、
住居も民族ごとに住み分けられていた。一般的に言えば、中国人はマレー人より自分たちの方が優れているという意識が強く、
一方、マレー人は自分たちの土地なのに後から来た中国人の経済力が強いことに反発を感じているという傾向がある。
ただ戦前までは職業的にも地域的にも住み分けがおこなわれていたこともあってその対立はあまり表面化していなかった。
中国人は中国を祖国と考え、インド人はインドを祖国と考えていた。
これらの地域に住む中国人を当時は華僑と呼んでいたが、その言葉には今住んでいるところはあくまでも仮の住まいであって、
いつの日か一旗あげて郷里に帰ろうという意識を持った人たちという意味が込められている。
ただ戦後は住んでいるところが祖国であるという意識に転換し、華人と呼ばれるようになっている。
マレー人は各地のサルタンを政治的宗教的に支配者として仰ぎ、マレー人としてのナショナリズムはまだ未成熟だった。
こうした事情からマラヤの民族運動は周辺地域に比べて未発達だった。
マラヤを植民地にしたイギリスもこれを利用して分断統治をおこなった。
1931年(昭和6)の満州事変、特に1937年(昭和12)の日中戦争の開始以来、東南アジア各地の華僑は抗日救国運動を展開、
中国への義援金募集・日貨排斥(日本製品のボイコット)・抗日宣伝などをくりひろげた。
この運動の中心になったのがマラヤ、特にシンガポールの華僑だった。
たとえば重慶政府が発表した海外華僑からの献金総額2億9400万円(1937年7月から40年10月)のうち1億2500万円(42.5%)が
マラヤの華僑からのものだった。こうしたことから日本軍はマラヤ華僑全体を「抗日的」と見なした。
マラヤの占領とその後の軍政を担当した第25軍が作成した「華僑工作実施要領」によると、
「占領直後ノ応急要領」として「服従ヲ誓ヒ協力ヲ惜シマザルノ動向ヲ取ル者ニ対シテハ其ノ生業ヲ奪ハズ権益ヲ認メ
然ラザル者ニ対シテハ断乎其ノ生存ヲ認メザルモノトス」とし、さらに「第一期作戦終了直後ニ於ケル対処要領」として
「協力ニ参加セザル者ニ対シテハ極メテ峻厳ナル処罰ヲ以テ処理ス 即チ財産ノ没収、一族ノ追放、再入国ノ禁止ヲ行フト共ニ反抗ノ徒ニ対シテハ極刑ヲ以テ之ニ答ヘ
華僑全体ニ対スル動向決定ニ資セシム」ときわめて厳しい姿勢を打ち出している。
また「華僑全体ニ対シ最低五千万円ノ資金調達ヲ命ズル」としている。
この政策の表れがシンガポールやマレー半島各地での華僑虐殺であり、
また5000万円(ドル)の献金の強制だった。1942年4月献納の予定で5000万円の目標額がマラヤの各州ごとに割り振られたが、
なかなか集まらず、2200万円を横浜正金銀行から借入れ、6月に献納式がおこなわれた。
第25軍軍政部の4〜6月期の経常部歳入(予算)が294万ドルであることと比較すると膨大な金額であることがわかる。
こうした残虐行為を含む華僑に対する強硬策は華僑の反発を強め、華僑主体の抗日運動を激化させ、
また経済的実力を持つ彼らの協力を調達することを困難にしてしまった。
一方、マレー人に対してはどうだったのか。
すでに開戦前に日本は急進的な青年らによる民族運動であるマレー青年連盟(代表イブラヒム・ヤコブ)と接触して反英宣伝のために資金を提供し、
開戦後はマレー進攻作戦のなかで、政治工作を担当した藤原機関がかれらと接触、マレー人に対する宣伝工作などをおこなわせて日本軍に協力させた。
こうしたなかで青年連盟の幹部らは「マラヤ共和国」の樹立を提案したが日本軍に拒否され、さらに民族運動を行なう政治結社として認めることを求めたが
日本軍は文化団体としてのみ認めた。日本軍のそうした姿勢にもかかわらずマレー青年連盟は各地で急速に勢力を伸ばし、戦前は200〜300人程度しかいなかったのが、
日本軍のマラヤ占領後二カ月で1万人を越えるに至った。ところが日本軍は1942年6月青年連盟を解散させた。
日本軍はマレー作戦を有利にするために青年連盟を利用したが民族運動としてさえも認めず、勢力が拡大するとそれを危険視して解散させてしまった。
ここに東南アジア支配の拠点であるマラヤでの民族運動に対する日本軍の姿勢がはっきり示されている。
その後、戦局が日本軍に不利になってきた1943年12月、日本軍を補うためにマレー人を組織して義勇軍と義勇隊を編成した。
この時、青年連盟の代表であったイブラヒムを義勇軍の指揮官に就任させた。
しかしイブラヒムなどの青年連盟の幹部たちは密かに各地の抗日ゲリラと連絡をとり、さらにイギリス軍がインドから送り込んできた136部隊とも連絡をとって、
連合軍がマラヤに進攻してきたときに内部から呼応して日本軍と戦う準備をおこなっていた。
かれらは裏切った日本軍をけっして信用しなかったのである。
こうしたことは東南アジア各地でも見られた。
ビルマでは、民族主義団体のタキン党(主人を意味する)が第二次世界大戦が始まるとイギリスへの協力を拒否して弾圧されていた。
日本軍の謀略機関だった南機関はタキン党の活動家30人を脱出させ海南島で軍事訓練をおこないビルマ独立義勇軍を編成させた。
南機関はビルマを独立させると約束してかれらを日本軍に協力させ、日本軍とともにビルマに進攻させた。
ところがビルマを担当した第15軍の「占領地統治要綱」(1942年3月15日)では、
「緬甸ニハ将来独立政権ノ樹立ヲ考慮セラルルモ之ガ実行ハ差シ当リ大東亜戦争終了後ト予想ス
従ヒテ将来ニ対スルノ処理ニ関シテ当分之ニ触レザルモノトス」というように「独立」問題を戦争終了後に先送りし、
差当りは独立の言質を与えないという方針をとった。こうしてビルマを占領した日本軍は独立を与える約束を反故にし、
軍政を開始するとともに、2万人以上になっていた独立義勇軍を解散させ、3千人ほどのビルマ防衛軍に縮小改編させた。
1943年8月日本はビルマに独立を与えたが、首相にはタキン党から登用せず、
タキンの指導者アウンサンは国防相になった。アウンサンは地下で抗日活動をおこなうグループと連絡をとり、
44年8月ビルマ国軍、共産党、人民革命党などとともにファシスト打倒連盟(のちに反ファシスト人民自由連盟パサパラ)を組織した。
そして翌45年3月連合軍がインドからビルマに進撃してくると、それを迎え撃つという名目でラングーンを出撃した後、
反転して連合軍とともに日本軍を攻撃、5月にはビルマ国軍の手で首都ラングーンを日本軍から奪い返した。
日本軍はビルマ進攻にあたって、民族主義運動を利用したが、勝利を得ると途端に約束を反故にした。
後に彼らに頼らざるをえなくなり再度登用するが、彼らはもはや日本軍を信用することはなかった。
日本軍が占領した地域を日本の領土にしてしまうのか、それとも独立させるのか、
それは日本の戦争目的に直接関わる、きわめて大きな問題であった。
シンガポール占領前日の1942年2月14日大本営政府連絡会議はシンガポールを昭南島に改称することを決定し17日に発表した。
これはシンガポールを日本の領土とすることの意思表示とも見なされうるものだが、
将来の帰属についてしばらくは公にはされなかった。
1943年1月14日大本営政府連絡会議は「占領地帰属腹案」を決定した。
このなかで「大東亜防衛ノ為帝国ニ於テ確保スルヲ要スルヲ必要トスル要衝並ニ
人口稀薄ナル地域及独立ノ能力乏シキ地域ニシテ帝国領土ト為スヲ適当ト認ムル地域ハ之ヲ帝国領土ト」すること、
「従来ノ政治的経緯等ニ鑑ミ之ヲ独立セシムルコトヲ許容スルヲ大東亜戦争遂行並ニ大東亜建設上得策ト認ムル地域ハ之を独立セシム」ことという「基準」を定めた。
そして後者の「基準」によりビルマとフィリピンに独立を与えることとし、その他の地域については「追テ定ム」と決定を留保した。
ビルマに関しては、すでに1937年にイギリスがビルマをインドから分離し、
ビルマ人の自治政府を組織させていたこと、日本軍のビルマ進攻にあたって、
民族運動家に独立の約束をしてビルマ独立義勇軍を組織させて日本軍に協力させたにもかかわらず、
占領後はその約束を反故にして軍政をしいたが、連合軍の反攻に備えて彼らの協力が再び必要になったことなどの事情が背景にあった。
フィリピンについては、1934年アメリカは10年間の準備期間をおいてフィリピンの独立を与えることを決定した。
これに基づいて憲法が制定され、総選挙を経て1935年フィリピン・コモンウェルス政府が発足し、1946年には独立することになっていた。
ここに日本軍が入ってきたので、建前上、独立を認めざるをえなかった。
しかしこの独立は実質的には「独立」の名に値しないものであった。
ビルマに対しては、 軍事的には「帝国トノ間ニ共同防衛ヲ約セシメ兵力ノ駐屯、軍事基地使用及設定等ヲ認メシメ特ニ軍事的結合ヲ鞏固ナラシム」、
「外交」では「緊密提携」、「経済」では「緊密協力」を「約セシム」ことを条件とし、
フィリピンに対してもほぼ同様の条件を規定している。この内容は言い換えると外交・経済は実質的に日本が掌握し、
軍事的にもフリーハンドを確保しようとするものであった。
1943年2月1日の衆議院秘密会において南方の軍政状況を説明した佐藤賢了陸軍少将は
「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、
率直ニ申シマストサウデアリマス」と述べている。要するに「独立」しても軍政下にあるのと変わらないということであり、
このような条件下ではとうてい「独立国」といえるようなものではなかった。
この方針に基づき1943年8月1日ビルマが、10月14日フィリピンが「独立」した。
その他の地域の扱いについては、1943年5月31日の御前会議で決定された。
ここで決定された「大東亜政略指導大綱」によると次のようになっている。
六 其ノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム 但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セズ
(イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム
(ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応ジ努メテ政治ニ参与セシム
(ハ)「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム
(ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス
つまり現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアにあたる地域は日本の領土にするということである。
さらにニューギニア(現在、西部はインドネシア、東部はパプア・ニューギニア)などについて、
ここでは決定していないが日本の領土にするという方向で考えていくことも決められている。
しかもそうしたことは秘密にされた。
このことは日本が東南アジア諸国を欧米帝国主義から解放し独立を与えようとしたのではなく、
石油などの重要資源があり戦略的にも重要な地域は日本の領土にし、
日本が欧米に代わって新たな支配者になろうとしていたことを明確に示している。
この御前会議の決定のなかで同年10月下旬ころに大東亜会議を開催することが決定された。
1943年6月大本営政府連絡会議はマレー北部の4つの州、ペルリス、ケダ、ケランタン、トレンガヌをマラヤから取り上げ、タイに割譲することを決定した。
タイの日本に対する戦争協力を確保するためにとった処置であり、同年10月にこの4州はタイに移譲された。
しかし、これら4州はマレー人の多い地域であり、マラヤのマレー人にとっては日本への反発を与えることになった。
1943年11月5〜6日に東京で大東亜会議が開催された。
この会議には、日本から東条首相、国民政府の汪兆銘行政院長、満州国の張景恵国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバ・モー主席、
タイのワン・ワイタヤコン首相代理、自由インド仮政府のスバス・チャンドラ・ボース首班が出席した。
タイは首相を派遣せず、朝鮮、台湾、マラヤ、インドネシア、インドシナからの代表はいなかった。
会議では「大東亜共同宣言」を決議した。
この中には「大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放」「道義ニ基ク共存共栄」「自主独立ヲ尊重」などの言葉がもりこまれた。
これには連合国の理念として反ファシズム・民主主義を打ち出した大西洋憲章に対抗して
日本側の理念を出そうとする重光葵外相のねらいがあった。しかし日本の本音は必要な領土の拡張であり、
また日本軍による占領の実態はこうした美辞麗句とは正反対であった。
インドネシアに関しては、1944年9月小磯首相は議会で、将来独立を認める旨の演説を行なった。
すでにサイパンが陥落し、米軍のフィリピン攻撃が日程に上ってきていた段階であり、インドネシアからの資源の日本本土への輸送はほとんど分断され、
軍事的にも重要性を失っていた。その後、戦争最終盤の1945年7月17日になって最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議が改編されて設置された機関)が
「東印度」(インドネシア)に独立を与えることを認めた。しかし独立が実現する前に日本は降伏した。
インドネシアと同じく日本の領土と決定したマラヤについて、外務省内で独立問題について検討がなされたが、
結局、独立には困難があるとして見送っている。したがってマラヤに対しては最後まで独立を付与することはなかった。
すでに植民地であり日本の領土であった朝鮮や台湾ほどには徹底していなかったが、
それら植民地と同じような皇民化政策が東南アジア各地の占領地においてもおこなわれた。
シンガポールでは、日本軍占領時代(昭南時代)の祝祭日として2月11日紀元節、
2月15日マレー新生記念日(シンガポール陥落の日)、3月10日陸軍記念日、4月3日神武天皇祭、
4月10日靖国神社例祭、5月27日海軍記念日、11月3日明治節、12月8日大東亜聖戦記念日など、
天皇にちなんだ日本の祝日や戦争に関わる日が記念日として導入された。
学校での日の丸掲揚、君が代斉唱、宮城遥拝、教育勅語の奉読などもおこなわれた。
学校で日本語が教えられただけでなく、一般住民に対しても日本語が奨励された。
シンガポールの日本軍の宣伝班の発行した新聞『建設戦』(1942年4月29日)は「日本語普及運動宣言」と題して、
マラヤとスマトラの住民に対して、「軍司令官閣下の談話に示された通り、
両地区の住民は悉く、天皇陛下の赤子に加えられたのである。
大日本帝国の有り難き国体を彼等住民に理解させることは、新領土に駐屯する全皇軍兵士にとって尊き責務である。
そのためには、まず国民たるの資格として、彼等に日本語を学ばしめ日本語を使わせなければならない。
(中略)国旗のひらめく所、言葉もまた日本語に満ち溢れなければならなぬ。
かくして馬来もスマトラ島も真底から日本の一角となるのである」と呼びかけている(桜本富雄『シンガポールは陥落せり』青木書店)。
ここには人々の独自の文化や言語を尊重しようとする発想はまったくなかった。
ただ長年にわたって植民地支配を行なってきた朝鮮や台湾と違って、
日本語を公用語として強制することまではできなかった。
マラヤでは、1943年11月「敵性国語駆逐」を実行するとして、軍政組織が使う言葉を43年6月までに日本語のみにすることを決めた。
しかし住民が日本語の読み書きをほとんどできないのに日本語しか認めないと行政ができないとの声が軍政担当者からもあがり、結局うやむやになった。
現在でも戦時中に小学校教育をうけた人のなかには、唱歌を歌える人がよくいる。
日本語として覚えられている言葉は「バカヤロウ」や「ケンペイ」という言葉である。
大量の労務者が動員されたインドネシアでは「ロウムシャ」という言葉が今も残っている。
こうした言葉ばかりが残っているところに当時の日本軍と地元住民との関係が示されている。
日本軍は戦争遂行のために労働力の動員をはかった。
特に人口が多く、かつての輸出産業が衰退して仕事を失った労働者が多いジャワ島が労務者供出の重要なターゲットになった。
ジャワからはマラヤ、スマトラ、ボルネオ、タイなどに連行され、そのロウムシャの数は約30万人、うち7万人が犠牲になったと言われている。
ジャワ島内も含めるとロウムシャの数は400万にのぼるとも言われている。
泰緬鉄道の建設にあたっては捕虜だけではなく、民間のロウムシャも大量に使用された。
ここにはビルマ、タイ、マラヤ、ジャワなどから20万人以上が投入され、
少なく見積もっても4万2千人、イギリスの資料では約7万4千人が死亡した。
ビルマでは、ビルマ軍政監部がビルマ民政府にロウムシャの供出を命じた。
勤労奉仕隊として17万7300人が各地方に割り当てられてロウムシャとして狩り出されたが、
その半数は途中で逃げ出したと見られている。マラヤでも地方ごとに割り当てられたが、
建設現場のひどい状況がうわさで広がってくるとなかなか集められなくなった。
すると強引なロウムシャ狩りや騙して集める方法もとられた。
泰緬鉄道の建設現場では、厳しいジャングルのなかでの激しい労働と栄養失調、医薬品の欠乏によって多くが犠牲になった。
死んだものは大きな穴を掘って、そこに捨てられわずかに土がかぶせられただけだった。
あまりのひどさにビルマ政府は日本軍に待遇改善を求めたが効果はなかった。
当時、シンガポールの昭南博物館で働いていたコーナー氏はジャワからシンガポール経由で連行されてきた
インドネシアのロウムシャの模様を次のように書いている(E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館』中央公論社)。
「彼らはタイへ船で輸送されたが、その船は途中シンガポールに立ち寄った。
航海は二週間であったが、それに耐えられないような年寄り、障害者、病気のジャワ人たちは船から吐き出された。
それで、博物館と私たちの住んでいた旧セント・アンドリュー・スクールのあいだの空地に、彼らを収容するためのバラックが建てられた。
彼らはよたよたと生気のない足どりで歩きながら、そのバラックにはいっていった。
航海中に死んだ者も少なくなかった。そういうときには、死体を米袋に入れ、生き残った仲間が海に捨てた。
米袋は穴だらけであったから、穴から手や足が突き出ていた。
バラックのなかでもたくさん死んだが、やはり死体を米袋に入れて、海へ投げ捨てていた。
(中略)女性については、若くてきれいだと、カトンの近くにある兵営に売春婦として送られた。
そこで、彼女たちが『助けて、助けて』(マレー語)と助けを求めて泣き叫ぶ声は、通行人の心を引き裂いた。」
カトンには日本軍の慰安所があり、ロウムシャとともに女性が慰安婦として連行されてきたことを示している。
東南アジアの住民とは言えないが、英軍兵士としてシンガポールで日本軍の捕虜となったインド人が約6万7千人いた。
これは捕虜になった英軍の約半数にあたる。かれらの一部は日本軍が組織させたインド国民軍に加わるが、
一部は日本軍の労働力として東南アジアや太平洋諸島に連れて行かれ、日本軍の飛行場や陣地の建設に使われた。
連合軍の反撃のなかで犠牲になっただけでなく、連合軍の上陸が迫るとスパイをしたり寝返ったりするのではないかと疑いをかけられ、
日本軍によって処刑されたケースを多かった。
香港では強制移住政策がとられ、占領当初の人口約150万人は45年には50〜60万人にまで減少した。
その一部は海南島での日本窒素による鉄鉱石の開発にために連行され、多くの犠牲を出した。
太平洋戦争の開始前から日本軍は占領地での慰安所設置を計画していた。
すでに1941年7月陸軍省内の会議で蘭印調査から帰ってきた深田軍医少佐が
「村長に割当て厳重なる検梅の下に慰安所を設くる要あり」と報告し、
しかも村長に事実上、強制的に集めさせることを提案している。
42年9月の陸軍省の会議では、慰安所について、
「北支100ケ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ケ所」を作ったと報告されている
(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。
マレー進攻作戦においては、その作戦中から慰安所の設置がおこなわれた。
占領後、42年夏ころまでにはマレー半島の日本軍が駐留していた主な町に慰安所が設置された。
その町の数は30以上にのぼると見られる。
東南アジアでは朝鮮や台湾、日本本土から連れてこられた女性もたくさんおり、
また中国本土の女性もビルマなどに連れてこられている。しかし東南アジア地域の日本軍慰安婦の多くは
現地の女性であったと推定されている。東南アジア各地での日本軍慰安婦の徴集方法の特徴は次のように整理できる。
第一にマラヤでは残っていた元からゆきさんに慰安婦集めを委託したケースである。
クアラルンプールでは日本軍の兵站の担当者が市内に残っていた元からゆきさんたちを集めて慰安婦集めと慰安所の管理を任せた。
第二に新聞などで募集したケースがある。
シンガポール占領直後に日本軍の宣伝班のもとで刊行された新聞『昭南日報』には「接待婦」(慰安婦)を募集する宣伝が掲載されている。
この場合、応募してきた女性は仕事の内容を承知していたと見られるが、その場合でも想像を越える過酷な扱いを強要されたケースもある。
たとえば、シンガポールのある慰安所では、応募してきた女性が「予想が狂って悲鳴をあげ」拒否したのに対して、その女性の手足をベットに縛り付けて、
「慰安」を強制したことを当時の将校が証言している(総山孝雄『南海のあけぼの』叢文社)。
第三に日本軍が駐留する地元の住民組織の幹部に慰安婦集めを命じたケースである。
マレー半島の町クアラピラーではそうして女性18人を集めさせて将校用と兵士用の慰安所を設けている。
この方法はインドネシア、フィリピンなど各地でおこなわれている。
第四に詐欺による募集である。いい仕事があるから、事務員やタイピスト、看護婦にするからというような口実で集めて、
結局は強姦してから慰安婦にするというケースである。第一〜第三の場合もこの詐欺による場合が多かったのではないかとみられる。
第五に暴力的な拉致によるケースである。
日本兵が家に押し入り、暴力的に若い女性を拉致し、兵士たちが輪姦した後に慰安婦にした例はフィリピンで数多く報告されているが
インドネシアやマラヤでもそうした事例が報告されている。