大東亜戦争議論スレ

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292名無しさん@お腹いっぱい。
【インドネシア】
 ●労働者の搾取
 主に田舎の住民である「労務者」は、日本に強制的に働かされた。
特に軍の施設や防衛のための防壁や、列車の線路などをつくった。
多くの「労務者」は現場で死んだ。
その悲しい状況は結局、口からロヘ伝えられ、村の人々全員の知るところとなった。

 ●インドネシアが独立した背景

 抗日運動は、インドネシアの独立の実現につながっていった。
対日闘争を実施するのに、インドネシアのリーダーたちは非常に慎重だった。
日本の占領がとても冷酷だと知られていたからだ。
もし、はっきり抵抗すれば、日本占領政府はすぐに誰でも殺すだろう。
このため闘争の方法は、その時々の状況に合わせていた。

(「中学校2年生歴史教科書」=エルランガ出版社)

インドネシア 中学校用「社会科学・歴史科 第五分冊」
「当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。
インドネシア民族は、長く切望した独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。
 どうしてインドネシア民族は、このような期待を持ったのだろうか。
それは日本がやってきてまもなく、つぎのような宣伝を展開したからである。

−日本民族はインドネシア民族の「兄」である。
日本がきた目的は、インドネシア民族を西洋の植民地支配から解放することである。
−日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。

 その実体はどうであったか。
日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。
日本は結局独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。
その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。
資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。」
293名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 08:46:20 ID:bc9stZwjP
この過疎スレは、ゴキブリが涌いてしまったので
早く埋め立てないと、よそにまで迷惑がかかります
ネトウヨコピペゴキブリが自発的に撤退しない限り
このスレは、「消毒」の対象となります

太平洋戦争は植民地解放戦争だったと嘘を吐き
夜ごと東條英機の裸体を空想してはオナニーにふける
ゴキブリは駆除しなければなりません
294名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 08:49:39 ID:bc9stZwjP
>不都合な事実を握りつぶそうとする卑怯な負け犬
お前のことだ、ゴキブリ

名越二荒之助の捏造
「地中海での作戦中、ドイツ潜水艦から魚雷が発射された。その魚雷の発見が
一瞬遅れたときに、日本駆逐艦は連合国船舶の前に全速で突入して盾になり、
撃沈されて責務を果たした。犠牲になった日本海軍将校の霊は、今もマルタ島
の墓地に眠っている」

この部分にも多くのウソがねつ造されています。まず、「作戦中」ではなかったのです。
1917年駆逐艦「榊」「松」はマルタ島に帰還途中ドイツ潜水艦と遭遇し、
艦首に被雷して、大破し59名死亡したというのが事実です。
連合国船舶の護衛任務などではありませんでした。したがって連合国船舶の護衛
のために「盾」となったという、今はやりの国際貢献の美談として書いているが、
全く根拠のないフィクションです。
また地中海で日本駆逐艦が撃沈されたことになっていますが、司令官の報告を
見ても、「撃沈」ではなく艦首の「大破」であり、沈没した事実はどこにもありません。
高嶋伸欣さんが「こっそり訂正していた歴史教科書」というタイトルで、
「ねつ造だった日本海軍手がら話」について書かれています。
扶桑社は採択後の供給本で、この部分も含めて約50カ所もの訂正を内密裏に行っていたのでした。
供給本では次のように書き換えられています。「日本の駆逐艦が、ドイツ潜水艦
によって撃沈された連合国船舶の救助活動で、大きな功績を挙げたが別の任務
の帰路、潜水艦の魚雷攻撃を受け、60名近い戦死者がでた。」
では魚雷攻撃を受けた日本の駆逐艦「榊」はだれが助けたのだろう?
近くにいた「松」は二次攻撃を恐れて手をこまねいていたのだが、急を聞いて
駆けつけた英国艦が迷うことなく接舷して港まで曳航したのだそうです。
称賛されるべきは英国艦であり、日本艦は怯えていたというのが事実。

重要登場人物の名前さえまともに書けない名越の著作に
歴史的学問的価値など微塵もありません
そこにあるのは捏造与太話でしかないのです
295名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 08:52:12 ID:bc9stZwjP
アフマッド・スバルジョ(独立インドネシア初代外相)
 「毎年八月十七日には、共和国記念日を祝して式典が催されてきた。しかし、新聞は、いつもグレ
 ゴリー暦の年月日を用い、紀元二六〇五年の略称である〇五年という、独立宣言の手書きの原文
 に使われていた年号を再現してはいない。原文の写真が新聞に転載される場合ですら、日本の年号
 についてふれてはいず、〇五年は四五年を意味するのだと、当然のことのように考えられている。
 革命的な性格をもつ新たな独立政府にとって、日本の年号をうけいれられないということは、議論
 の余地のないところである。また、従来の植民地政権が使っていた年号に対して、異議を唱えるも
 のもいないのである。
  八月十七日の共和国記念日の式典では、例年、建国以来の式典年数があげられる。たとえば、一
 九七二年の八月十七日には、インドネシア人民は、共和国の二七回めの記念日、あるいは建国二八
 年めを祝ったことになる。その日は、まさに、偉大な“ナショナル・デー”である。一九七二年十
 二月二七日は、オランダ王国がインドネシア共和国を法的に承認してから二三年になるのだが、イ
 ンドネシア人民は、この一九四九年十二月二七日に行われたオランダのインドネシアに対する主権
 委譲の日を、祝ったりはしない。彼らは、八月十七日を、独力で宣言した自分たち自身の独立つま
 り、日本帝国のおかげをこうむらない、まさに、自分たち自身の闘争が成功したが故の、さらには
 一貫した努力のたまものとして勝ちとった独立の日として、その日を祝うのである。日本人がその
 際果たした役割は、単に偶然にすぎなかったわけである」
  (スバルジョ『インドネシアの独立と革命』(龍渓書房 1973)より)
296名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 08:53:57 ID:bc9stZwjP
ボ・ミンガウン(三十人志士メンバー・アウンサン将軍副官・独立後、内相、運輸相等歴任)
 「ビルマの情勢を検討していた東條首相は、そのスローガンである「大東亜共栄圏」建設をめざし、
 同時にビルマ国民の感情をなだめるために、飯田司令官の下に傀儡政府を組織して、名目的な独立
 を供与する準備を進めた。まもなく飯田司令官は、バモオ博士を長とするバホー(中央)行政委員
 会を設置し、一九四二年六月四日に全国に向けて発表した。(中略)この委員会は一九四二年八月
 一日に、「ビルマ行政府」とその名前を変更した。しかし、「ビルマ行政府」とはいっても、飯田
 中将の命ずる範囲の行政事務を担当したにすぎなかった。
                     (中略)
  一九四三年八月一日には「独立」が宣言され、アディパティ(総統)バモオ博士の率いる政府が
 出現した。この政府は、独立した政府とはいうものの、実際には総統にせよ、大臣たちにせよ、日
 本軍指導部の認めた範囲内の権能しか持たなかった。アウンサン将軍は、日本の与えた「独立」が
 本物ではなく、「メッキ」にすぎないことを見抜いていた。将軍はまた日本軍のやり口を熟知して
 いた。さらに、連日のようにビルマ各地で起こっているファシスト日本軍の残虐行為についても将
 軍は目配りを絶やさなかった。そして、もともと胸の内に秘めていた、日本軍に対して反乱を起こ
 すという決意を、さらに固くするのであった。
  日本の与えたビルマ人による行政が、名ばかりでお粗末なものにすぎず、また残虐行為の数々を
 目の当たりにしていたビルマ国軍、人民革命党それに共産党の指導者たちは、一九四四年八月に秘
 密の話し合いを持ち、討議の末に「反ファシスト人民自由連盟」を結成し、対日反乱についてこま
 かい検討を行った」
  (ボ・ミンガウン『アウンサン将軍と三十人の志士』(中公新書 1990)より)
297名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 08:56:55 ID:bc9stZwjP
枢密院の深井英五顧問官は「枢密院重要議事覚書」の中で東條英機の答弁と
それに対する自らの感想を、次のように記している。

「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、左様の事実
(外交の二元化)は大東亜地域内には成立せず、我国を指導者とするところの外交あるのみ」
(深井評、これ竹越顧問官の所謂大東亜圏諸国をデペンデンシー(従属国)として
取扱はんとする意図を頗る露骨に表示したるものなり。)
「外交の相手は必ず対等者として処遇せざるべからずとするが如きは古き観念なり」とし、
「此の如き観念は排斥す」とて、卓を叩きて叱咤す。
御前会議としては珍しき光景ならん。東條総理大臣は大東亜地域の諸国を従属的に取扱ふの
底意を此に暴露したり。東條総理大臣の興奮は益々激化し
「大東亜圏内には外交なし」と極言す。

アジア・太平洋戦争は
クーデターとテロにより日本の実権を握った軍部が
おのが力におごり高ぶり
東アジアを我がものにしようとして始めた戦争である
東條英機は首相になる前、ことある事に好戦論を口にしていた軍部の首魁である
298名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 09:00:25 ID:bc9stZwjP
マレーシア各地でも日本軍による虐殺記念碑がいくつも残ってるらしい。

<ネグリセンビラン州では40か所以上で虐殺がおこなわれた>
パリッティンギ村では約600 人の村民が子どもまで抹殺された。
当時8 歳だった孫建成氏は両親や兄弟など一家9 人を殺され、
祖母と2 人だけがかろうじて生き残った。
それからまもなくの1942年7 月日本軍はタイとビルマをつなぐ
泰緬鉄道の建設に着工、マレーシアからもロームシャを狩り集めた。
8 月ネグリセンビラン州のセレンバンにいた宋日開氏は町中で日本兵
に呼びとめられた。「軍補」を募集していて、期間は1 か月から長くても
4 か月という話で、今の仕事よりいいと思ったのでそれに応じた。
しかし実際にはビルマ国境に近いテーモンタで過酷な労働につかされ、
一緒に行ったロームシャたちは次々に死んでいった。
セレンバンを出る時には780 人(ほとんどが中国人とインド人で、
マレー人は若干名だけ)だったのに46年7 月に帰ってきた時はわずか
49人になっていた。

<パリッティンギ( カンウェイ) 村の虐殺>                      
マレー半島南西部のネグリセンビラン州の粛清は第 5師団第11連隊( 広島)
が担 当し、42年3 月に6 次にわたって粛清がおこなわれた。
その中で3 月16日におきたのが、この事件である。山中にあるこの村に
「敵性分子」が「相当潜在」しているとして粛清を計画、
日本軍は老幼男女を問わず村民を村の広場に集め、
20〜30人ずつのグループにわけて周辺の山や畑の中に連れていき、
膝まずかせて順番に背後から銃剣で刺し殺していった。
その後、村を焼き払った。ここでの犠牲者は675 人と言われている
299名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 09:08:30 ID:bc9stZwjP
>仮名書きを「ヴ」とするか「フ」とするかはまた悩ましい問題であり,両方の表記が行なわれているようである.
>私は f と区別するために「ヴ」を原則としたが,「ファンデルワールス」など,「フ」で慣用となっている名も多い.
>また,新聞など「ヴ」を使わないことにしている世界ではたとえば va の字訳は「バ」「ファ」のいずれかになるが,
>この場合「ファ」が好まれるのが普通.そして上述のようにそれは実際の発音に近いものでもある.

>vとf, vとw が似ていてわかりにくいという声に対してはそれぞれ出現環境が違うので実際上の困難は
>それほどでもないということだった.

>Vlieland ヴリーラント
>Vlissingen フリシンゲン
>Vlaanderen フラーンデレン(フランス語式の「フランドル」が慣用)
>de Vries デ・ヴリース/ド・フリース
>Vecht ヴェヒト川
>Vermeer フェルメール
>Vincent ヴィンセント/フィンセント
>Van Dijk [Dyck] ヴァン・ダイク
>van Eyck [Eijck, Eik]ファン・アイク

どこに「サ」なんて読み方が出てくるのだろうか

おい、コピペゴキブリ、お前は名越の弟子らしく、人名まで捏造かw

コピペゴキブリのやっていること
・名越の捏造本のコピペに励んでいる
・自分は頭がよく、周りにいるものは皆馬鹿だという態度から、敵ばかり作っている
・挙げ句の果てに、人名まで捏造する。「サンティン」「ラグ・クリシュナン」
・他人の発言のコピペだけして、自力で考えることをせず、とってつけたように
 「太平洋戦争は植民地解放戦争である」という結論だけを無理繰りつないでいる
・しかもその発言元が、他サイトに貼られている名越コピーを、ただ拾ってきて貼っている
・誰かを説得しようとか、自分の考え方に賛同を求めるという態度に根本的に欠けている
・もっともそんな意図があったとしても、「ごくまれな例を持ち出して、すべててあるかのように
 言い立てる」という詭弁のスタンダードなので、心あるものは相手をしない
・たまに間違いを正してやろうという親切な人のレスにたいしては、すり替え、誤魔化し、逃亡で応じる
・結局すべてが自己満足のための行為でしかなく、「オナニー豚」そのものである
300名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 09:13:49 ID:bc9stZwjP
フィリピン、ビルマ、インドネシアなどでは戦争の末期に大規模な虐殺が相次いでおこなわれた。
フィリピンでは1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中にゲリラに襲撃された事件がきっかけで
7月から徹底的な粛清作戦が実施された。ゲリラ討伐の名目で実際には子どもから老人まで多数が殺された。
米軍が44年10月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してきてから、特にマニラと南部ルソンで大規模な虐殺が次々と起きた。
バタンガス州とラグナ州では歩兵第17連隊(通称藤兵団)が「対米戦に先立ちゲリラを粛清する」
「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」と命令を下した。
バタンガス州リパの虐殺に加わった兵士の証言によると、16から60歳の男子を通行証明書を渡すという名目で学校に集め、
証明書を渡したうえで10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連れて行き、銃剣で刺して谷底に突き落としていった。
そうして一日がかりで約800人の住民を虐殺した(友清高志『狂気―ルソン住民虐殺の真相』徳間書店)。
フィリピンにおける日本軍による虐殺の犠牲者は数十万人にのぼると見られ、中国に次いで多い。

ビルマでは、これまでわかっているかぎりで最大規模の虐殺は1945年7月のカラゴン事件である。
パラシュート降下したイギリス軍の工作員とゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、
女性子どもも含めて、10人くらいずつ井戸の側に連行し刺殺してから井戸に投げ込み、
合わせて600人以上を虐殺した。現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ死刑になるが、
裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、もし子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺したと弁明している
(英国国立公文書館所蔵英軍戦争裁判記録)。

ビルマではインドからイギリス軍の反攻が行われ、それに呼応してビルマ国軍も日本軍を攻撃した。
また各地の抗日ゲリラも協力して日本軍をビルマから追い出そうとした。
そうしたなかで日本軍は住民全体を敵視し、虐殺したのである。

侵略軍であった日本軍は住民から信頼されていなかったし、
また日本軍も住民をいつ連合軍に寝返るかもしれない存在として、あるいは密かに抗日ゲリラに通じている者と疑っていた。
そうした時には住民全体が「抗日分子」に見えてくる。これは中国での日本軍もそうだった。
日本軍の一連の住民虐殺は、戦争だからという一般論によって説明できるものではなく、侵略戦争のなかでおこなわれた残虐行為であった。
301名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 09:15:05 ID:bc9stZwjP
東條内閣は、開戦直後に国家総動員法にもtづく新聞事業令を公布し
一府県一紙制を原則に新聞の統合を推し進めた。
1942年2月には、各新聞社の自主的統制機関であった日本新聞連盟が
官製の統制機関である日本新聞会に改組された。
さらに各新聞社には新しく検閲課が置かれ、内務省や内閣情報局などによる
検閲は、一段と厳しいものになっていった。
出版についても、政府は1943年2月に出版事業令を公布し、日本出版文化協会を
官製の統制機関である日本出版会に改組させた。
日本出版会は、すべての出版書籍に対して審査制をとり、
従来約6%であった不承認件数を30%に引き上げ、ひたすら政府に迎合する態度を取った。
雑誌の統廃合が強行され、1941年末に18,022あった新聞と雑誌が44年末には2,548に減少した。
企業整理も実施され、整理がほぼ終わった44年5月には
書籍のみ発効するものが2,241社から203社に、雑誌2,017社が996社にそれぞれ減ってしまった。
なかには中央公論社と改造社のように、内閣情報局から「営業方針において戦時下国民の
思想指導上許し難い事実がある」として「自主的廃業」を申し渡されたものもあったが、
その背後の黒幕は陸軍省報道部であった。
戦争目的に合致しないと当局が判断した出版物は、どのような立場のものであれ
削除・改訂・発売禁止の処分を受けた。
そのうえ新聞と出版の関係者は、割当制になっている用紙を確保するため、
関係当局の軍人や官僚にとりいることに狂奔せざるを得なかった。
このように言論と出版の統制は完璧であった。
302名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 13:04:45 ID:bc9stZwjP
昭和18年末、ニューブリテン島のココボで丸山二等兵は、今度行くところは「天国のような場所」と戦友の赤崎から聞く。
彼らは出発前にピー屋に行くが、何十人も兵士が行列を作っているので目的を達せず「女郎の唄」を歌って帰って来た。
そして彼らは若き田所少佐のもと、500名でバイエンに無血上陸する。
丸山は古兵や上官にいびられ、また時には親切にされ、何とかバイエンでの時間を過ごして行く。
だがそこは「天国のような場所」ではなく「天国に行く場所」であった。
敵の攻撃で戦死する者のほかに、陣地構築中の事故で死ぬ者、伝染病で死ぬ者、ワニに食われて死ぬ者、
手榴弾でとった魚を飲み込み窒息死する者・・・。
やがて近辺のワランゴエ河口に連合軍が上陸、橋頭堡を築き攻撃を開始してきた。
徐々に包囲してくる敵に対して、田所は中隊長の「高地にこもり持久戦をすべきだ」という意見を退け、玉砕覚悟の切り込み作戦を敢行する。
その結果、田所は戦死、生き残った者は聖ジョージ岬に撤退するが、負傷した中隊長はその途中で自決する。
そのころラバウル司令部ではバイエン支隊から玉砕の電信を受け、既に彼らは全員死んだものとされていた。
ところが聖ジョージ岬警備隊から、バイエン支隊の生存者数十名が現在ここにいるとの知らせを受ける。
この「敵前逃亡」は「ラバウル全軍の面汚し」とされ、事件処理のために木戸参謀が聖ジョージ岬に派遣されることになる。
木戸の出発の前夜、バイエンの生き残りの軍医がラバウルを訪れて部下の命乞いをするが、談判決裂となり軍医は抗議の自決をした。
軍医の遺骨とともに聖ジョージ岬に来た木戸はバイエン支隊将兵の尋問を行い、その結果、山岸と北崎の2人の小隊長は責任を取って自決、
残りの81名は再突入を行うことになった。
昭和20年6月、聖ジョージ岬に敵の有力部隊が上陸、バイエンの生き残り達は切り込みを敢行する。
その突撃直前に木戸は「玉砕を見届け報告する冷たい義務がある」と退こうとするが流れ弾に当たり戦死。
そして丸山達は「私はなんでこのような つらいつとめをせにゃならぬ」と「女郎の唄」を歌って切り込み、全員玉砕した。
隣の陣地を守っていた連隊長は、後にこの玉砕を聞いて「なぜそこまでして、あそこを守らねばならなかったのか」と述べたという。

太平洋戦争は、悲惨な戦争であった。「大東亜戦争」と読み替えて聖戦であったと賛美するものはゴキブリである
303名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 13:06:43 ID:bc9stZwjP
1941年1月8日、東條英機陸相によって全陸軍に布達された「戦陣訓」は
明治の健軍以来、帝国軍人の思想的バックボーンとなっていた「軍人勅諭」の戦場版ともいうべきものであった。
「戦陣訓」のなかで特筆すべきことは
「生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。」
「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」
といい、「以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。」として
天皇の名によって軍人に死を強制していたことであった。
たしかに「軍人勅諭」も死に臨む核頃情感に対する絶対服従を要求していたが
「戦陣訓」ほど軍人に対し露骨に死を強制したものはかつてなかった。
ここにみられるのは、国家と天皇と個人を一体のものとしてみる一元的な国家観であり、
天皇への絶対服従によって個人の尊厳を抹殺し、
天皇のために喜んで死ぬことを最高の名誉としてたたえる死の哲学であった

陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月7日に上奏、翌8日の陸軍始の観兵式において全軍に示達した。
同日に新聞などのメディアはこれを大きく報じた。
また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。
一般国民に対しては用紙統制が行われているなか、1941年だけでも少なくとも『戦陣訓述義』『戦陣訓話』など12種の解説書、
『たましひをきたへる少国民の戦陣訓』『少年愛国戦陣訓物語』など5種の教材が出版許可を受けて出版されており、
以後も敗戦まで種々のものが出ている。このほかに、「戦陣訓カルタ」なども作られた。
また、学校での教育にとりいれられ、暗記が推奨された。そのため、現在でも「暗誦できる」人もいる。

今日では太平洋戦争中で発生した日本軍の玉砕や全滅、民間人の自決を推奨し、降伏を禁止させる原因であると理解されている。
日本兵は、捕虜となったことが分かれば不名誉とされた。事実、捕虜となった当人はもとより親兄弟も非国民と罵られ、
心中に追い込まれた家族も少なくなかった。さらに、捕虜交換などによって捕虜が帰ってきた場合、
直後に自決が強要されたり、スパイ容疑や軍規違反を犯したなどの理由によって秘密裏に殺害された捕虜も相当な数に上っている。

さて、東條英機自身はどうであったか
「生きて虜囚の辱を受け」、敵であったものの手によって処刑されたのである
さぞかし靖国での居心地は悪いであろう。
このような東條英機を無責任に賛美するものはゴキブリである
304名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 13:09:35 ID:bc9stZwjP
戦時中の日本で巷に流布されたスローガンの中に、
『ほふれ英米我らの敵 進め一億火の玉だ』というものがありました。
これを見たある人はこの文をもじって、
『むかし英米我らの師 困る億兆火の車』
とか書いた張り紙を路傍の共同便所内に貼り付けたといいます。
第二次大戦における、イデオロギーを抜きにした日本の実際の戦争というものはおよそ、
この言葉に要約されるといってよいでしょう
305名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 13:12:13 ID:bc9stZwjP
おめでたい君に斉藤隆夫の遺稿を再度紹介しよう
ttp://blechmusik.xrea.jp/d/saito/s36/#p05
仮に大体に於て我が軍の勝利に終結を告げるものとして、此の共同宣言が文字通りに運用せらるるかを考うるに、是れ亦頗る困難のことにして、
理想と実際の間には一大懸隔を生ずることを予想せねばならぬ。言うまでもなく大東亜戦争は我が日本独自の立場に余儀なくせられ、
人的、物的其の他有ゆる国力を傾倒して敢行すべきものであるから、
是が完遂の暁に至らば日本は如何なる手段を尽しても先ず第一に国力の回復に向って邁進せねばならぬ。
然らざれば仮に戦争に勝つことありとするも国家を維持することは出来ないこととなる。
古人は戦い勝って国滅ぶと言うて居るが、全く其の通りであるから、是が為には大東亜圏内の他の諸国諸民族の利害等を顧慮する遑はない。
仮令彼等の利益を犠牲に供することあるも、
日本は敢然として国力回復の為に独自の国策を遂行せねはならぬ時が必ず到来するに相違なく、
而して是は戦勝国たる日本の権利であるから他の何者の容喙をも許すべきものではない。
それ故に東亜共栄圏は我が日本の利害と全然一致する場合に於てのみ想像せらるるベきものであって、
利害の一致せざる場合には断乎之を蹂躙するに於て決して躊躇すべきものではなく、同時に此の道理を弁え、
此の覚悟を抱くものにあらざれば将来日本の国政を托することは出来ない。
斯くの如くにして東亜共栄圏殊に道義に基づく共栄圏などと其の文句は立派であるが、
其の実は道義も何もあったものではなく、実際は日本中心の独栄圏となるべく、現に今日戦争中とは言いながら、
東亜諸国、諸民族は戦争目的の名に依って至る所我が国の為に有ゆる犠牲を強要されつつあるは蔽うべからざる事実であって、
是等の犠牲は戦後に至りても益々拡大せらるることあることを覚悟せねばならぬ。
而して事茲に至らば彼等は始めて共栄圏の何ものたるかを挙るに至るべく、
同時に欧米列国の乗ずべき隙も亦此間に生ずると共に、共栄圏崩壊の端を開かるるに相違ない。
固より将来此の東亜の天地に於て如何なる風雲の起ることありとするも、
我が日本に之を凌駕するに足るべき万全の備えあれば何等意に介すべきものではないが、凡そ此等のことは遠き将来に属することであるから、
今日種々の場合を予想して之を論ずべきものではないが、要するに共栄圏の前途には多種多様なる難問題の横たわることを覚悟せねばならぬ。
306名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 13:14:27 ID:bc9stZwjP
 ケンペイタイは、常軌を逸するほど、乱暴で残酷でした。・・・・日本人はどうしてこんなことを
するのか、本当に理解に苦しみました。
(H・B・ヤシンさん)

 私が覚えていることは、おそらく、ケンペイタイがあまりに乱暴だったからでしょう、人びとが日
本に協力することを怖れていたことです。それで、自分から進んで日本のために仕事をしようとする
人はいませんでした。当時は、怖がる人のほうが多かったのです。ですから、みんなは日本に協力し
て利を追うよりも、自分の命を大切にしようとしていました。なぜなら、何か間違いを犯したら、日
本の罰則では死刑になると思っていたからです。日本軍が入ってきたときにすでに役所で働いていた
人たちは、そこから移ることができませんでした。ちょっとした過ちでも平手打ちでしたので、みん
なは、とくに体罰を怖れていました。バゲロー[馬鹿野郎]と言って頭を叩くのです。ところが、イ
ンドネシア人にとって、頭は神聖で敬うべきものなのです[それゆえ、頭を手で撫ぜたり、叩いたり
することは慎むべきことである]。私がケンペイタイと聞くと震えあがってしまうのは、私の親友が
彼らの暴力を受けてけがをして、障害者になってしまって以来のことです。
(バルカ・アルガニス・バスウェダンさん)

 電気・ガス局でも、日本人達は乱暴で、下品で、したい放題で、そして、私たちインドネシア人を
見下していました。女性職員に対しても同様でした。
(リリー・ガマル・スタンティオさん)

「しばしば、その時代のケンペイタイの調査官たちの乱暴さは、オランダ時代のPID(諜報局)の同
様の取り調べ方をはるかに越えたものであったと指摘されている。裕福な人びとの住宅地でも、貧
民街でも、さらには役所でも、多くの場所で人びとは日本に対して憎悪の念を示すようになっていた
・・・・」

(インドネシア国立文書館 編著
  『ふたつの紅白旗 インドネシア人が語る日本占領時代』(木犀社 1996)より)

307名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 13:16:52 ID:bc9stZwjP
インドネシアでの教育とやらの実態
教育機関と宣伝機関を握ることによって、民衆との接触は可能になった。
ジャワ島やビルマなど民衆の間に親日的気運が比較的強かったところでは、
一部の現地住民が日本軍の進駐を歓迎し、軍政が順調に実施されるかに見えた
日本の将兵や民間人の中には、善意で現地住民と接触し交際した人たちも多かった。
しかし、善意の押し売りほど始末の悪いものはない。
天皇絶対、忠君愛国という日本にしか通用しない独善的な考え方と日本語を、
善意でいくら教えてみても、それはしょせん軍政という軍事独裁体制を背景にしてしか
通用しないものであった。かなりの地域では、日の丸に対する敬礼、
君が代斉唱、宮城遙拝などの儀式が強制されたが、現地住民は面従腹背の態度を取らざるを得なかった。
まして母国語の使用制限と日本語の押しつけは、現地住民にとっては我慢できない
屈辱であった。
308名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 13:20:11 ID:bc9stZwjP
すでに植民地であり日本の領土であった朝鮮や台湾ほどには徹底していなかったが、
それら植民地と同じような皇民化政策が東南アジア各地の占領地においてもおこなわれた。
シンガポールでは、日本軍占領時代(昭南時代)の祝祭日として2月11日紀元節、
2月15日マレー新生記念日(シンガポール陥落の日)、3月10日陸軍記念日、4月3日神武天皇祭、
4月10日靖国神社例祭、5月27日海軍記念日、11月3日明治節、12月8日大東亜聖戦記念日など、
天皇にちなんだ日本の祝日や戦争に関わる日が記念日として導入された。学校での日の丸掲揚、
君が代斉唱、宮城遥拝、教育勅語の奉読などもおこなわれた。学校で日本語が教えられただけでなく、
一般住民に対しても日本語が奨励された。
シンガポールの日本軍の宣伝班の発行した新聞『建設戦』(1942年4月29日)は「日本語普及運動宣言」と題して、
マラヤとスマトラの住民に対して、「軍司令官閣下の談話に示された通り、両地区の住民は悉く、
天皇陛下の赤子に加えられたのである。大日本帝国の有り難き国体を彼等住民に理解させることは、
新領土に駐屯する全皇軍兵士にとって尊き責務である。そのためには、まず国民たるの資格として、
彼等に日本語を学ばしめ日本語を使わせなければならない。(中略)国旗のひらめく所、
言葉もまた日本語に満ち溢れなければならなぬ。かくして馬来もスマトラ島も真底から日本の一角となるのである」
と呼びかけている(桜本富雄『シンガポールは陥落せり』青木書店)。
ここには人々の独自の文化や言語を尊重しようとする発想はまったくなかった。

ただ長年にわたって植民地支配を行なってきた朝鮮や台湾と違って、
日本語を公用語として強制することまではできなかった。
マラヤでは、1943年11月「敵性国語駆逐」を実行するとして、
軍政組織が使う言葉を43年6月までに日本語のみにすることを決めた。
しかし住民が日本語の読み書きをほとんどできないのに日本語しか認めないと
行政ができないとの声が軍政担当者からもあがり、結局うやむやになった。
309名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 13:23:03 ID:bc9stZwjP
開戦以来、 次々と占領地域を広げていった日本軍は、
1942年(昭和17)5月1日にビルマ北部の中心都市マンダレーを占領し、
これにより南方進攻作戦は一段落した。
日本軍は、西はビルマ、インドのアンダマン諸島、南はインドネシア、
ニューギニア北部からソロモン諸島、東はギルバート諸島、
北はアリューシャン列島のアッツ、キスカ島にいたる広大な地域を占領下においた。
また中国では農村部までは十分な支配をおこなえなかったものの要衝部を占領していた。
1942年8月にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸し反攻を開始してから太平洋の島々、
44年から45年にかけてフィリピンを、また西からは45年にイギリス軍がビルマを奪回したが、
多くの地域は最後まで日本軍の占領下におかれた。

日本軍はこれらの占領地に軍政をしき、陸軍が香港、フィリピン、英領マラヤ、スマトラ、ジャワ、
英領ボルネオ、ビルマを、海軍がオランダ領ボルネオ、セレベス、モルッカ諸島、小スンダ諸島、
ニューギニア、ビスマルク諸島、グアムなどを担当することとした(「占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定」1941年11月26日)。

軍政については大本営政府連絡会議が基本方針を決めたが、
ここで日本・満州・中国と東経90度から180度まで、南緯10度以北の地域を
「帝国指導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」と決定した(「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」1942年2月28日)。
これらの地域がいわゆる「大東亜共栄圏」と呼ばれる地域である。
東条首相は42年2月の議会での演説の中で「大東亜戦争ノ目標トスル所ハ我肇国ノ理想ニ淵源シ大東亜ノ各国家、
各民族ヲシテ各々其所ヲ得シメ皇国ヲ核心トシテ道義ニ基ク共存共栄ノ新秩序ヲ確立セントスルニ在ル」と所信を述べた。
しかし「南方占領地行政実施要領」にはっきりと見られるように、
日本がこれらの地域を占領したのはあくまで日本にとって必要な資源を獲得するためであって、
日本を中心とした秩序のなかで各地域の人々は、日本の必要に応じた役割を求められたにすぎなかった。
310名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 13:25:33 ID:bc9stZwjP
食糧を輸入に頼っていたマラヤ、フィリピンなどでは食糧自給のために商品作物から
米やとうもろこしへの転換が図られたが、日本軍に食糧を供出させられたこともあり、
深刻な食糧不足に陥った。
食糧の多くを輸入に頼っていたマラヤでは人々はさつまいもやタピオカを作った。
タピオカはキャッサバから作ったでんぷんであり、
マレーシアでは日本占領時代が食糧難の時代であったことから「タピオカ時代」と呼んでいる。

食糧問題で最も深刻だったのはベトナムだった。
ベトナム北部では1944年末から45年にかけて、100万とも200万人とも言われる多数の餓死者を出した。
タイビン省だけの調査でも人口100万人のうち約28万人が犠牲になった。
この原因としては、日本軍による強制的な食糧の徴発、水田を潰して軍事物資であるジュート(黄麻)への
作付けの転換を強制したこと、戦況の悪化などの理由により南部のデルタ地帯からの米の輸送が途絶えた
ことなどが指摘されている。
311名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 13:27:59 ID:bc9stZwjP
1943年8月日本はビルマに独立を与えたが、首相にはタキン党から登用せず、
タキンの指導者アウンサンは国防相になった。
アウンサンは地下で抗日活動をおこなうグループと連絡をとり、
44年8月ビルマ国軍、共産党、人民革命党などとともにファシスト打倒連盟
(のちに反ファシスト人民自由連盟パサパラ)を組織した。
そして翌45年3月連合軍がインドからビルマに進撃してくると、
それを迎え撃つという名目でラングーンを出撃した後、
反転して連合軍とともに日本軍を攻撃、
5月にはビルマ国軍の手で首都ラングーンを日本軍から奪い返した。

日本軍はビルマ進攻にあたって、民族主義運動を利用したが、
勝利を得ると途端に約束を反故にした。
後に彼らに頼らざるをえなくなり再度登用するが、彼らはもはや日本軍を信用することはなかった。

タイの総理大臣ピブーンソンクラームは、第二次世界大戦前より独立国であったタイが、
日本の傀儡政権であった満州国、南京政府、また独立を果たしたものの日本軍の影響下にあった
フィリピン、ビルマと同列に扱われることに不満を表明、
日本側の度重なる慫慂(しょうよう)にもかかわらず、
王族のワンワイタヤーコーンを代理参加させるにとどまった。
公式には「健康上の理由」によるとされた。
タイの大東亜会議不参加はタイ独自の絶妙の外交戦術であった。
米英との間に一定の和平路線をも保っていたのだ。
日本敗戦時の危機にも巧妙に対応した。
当時のアパイオン内閣は舞台裏で「日本軍を一網打尽にする凄い筋書」
を作っていたと言う。
312名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 15:28:08 ID:bc9stZwjP
すでに開戦前に日本は急進的な青年らによる民族運動であるマレー青年連盟(代表イブラヒム・ヤコブ)と接触して
反英宣伝のために資金を提供し、開戦後はマレー進攻作戦のなかで、政治工作を担当した藤原機関がかれらと接触、
マレー人に対する宣伝工作などをおこなわせて日本軍に協力させた。
こうしたなかで青年連盟の幹部らは「マラヤ共和国」の樹立を提案したが日本軍に拒否され、
さらに民族運動を行なう政治結社として認めることを求めたが日本軍は文化団体としてのみ認めた。
日本軍のそうした姿勢にもかかわらずマレー青年連盟は各地で急速に勢力を伸ばし、
戦前は200〜300人程度しかいなかったのが、日本軍のマラヤ占領後二カ月で1万人を越えるに至った。
ところが日本軍は1942年6月青年連盟を解散させた。
日本軍はマレー作戦を有利にするために青年連盟を利用したが民族運動としてさえも認めず、
勢力が拡大するとそれを危険視して解散させてしまった。
ここに東南アジア支配の拠点であるマラヤでの民族運動に対する日本軍の姿勢がはっきり示されている。

その後、戦局が日本軍に不利になってきた1943年12月、日本軍を補うためにマレー人を組織して義勇軍と義勇隊を編成した。
この時、青年連盟の代表であったイブラヒムを義勇軍の指揮官に就任させた。
しかしイブラヒムなどの青年連盟の幹部たちは密かに各地の抗日ゲリラと連絡をとり、
さらにイギリス軍がインドから送り込んできた136部隊とも連絡をとって、
連合軍がマラヤに進攻してきたときに内部から呼応して日本軍と戦う準備をおこなっていた。
かれらは裏切った日本軍をけっして信用しなかったのである。

そして日本がマレーシアの独立を認めることは、ついになかったのである
313名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 15:38:08 ID:bc9stZwjP
インドネシア初代大統領のスカルノの言葉
「インドネシア独立のためには悪魔の助けもかりる」
「日本軍は私を利用しようとしている。私はこれに応じるつもりだ。9回まで耐え忍んでいく。
 最後の1回で取り返せばよいではないか」

太平洋戦争は資源地帯ほしさの侵略戦争であり
日本軍占領下では過酷な軍政が行われた
これを「大東亜戦争」と呼び、解放戦争と美化する輩は
ケダモノ以下のゴキブリである
314名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 15:54:13 ID:bc9stZwjP
日本による植民地支配

 日本がはじめ、インドネシアの民衆にたいして親切でやさしい態度をとっていたのは確かである。
しかし、時がたつにつれ、日本のインドネシア民衆に対する態度は、変わっていった。日本の行動は残酷なものになっていった。

 一般に植民者の態度はどこも同じである。つまり、残虐で、搾取的で、非情である。私たち民族の運命は、トラの口からのがれ、ワニの口に入るということわざにたとえることができる。これは、どういう意味だろうか。
それが意味するところは、日本がやってきたことにより、オランダ植民地時代に受けた犠牲はなくなるどころか、むしろ、事態は悪化したということである。

(「社会科・インドネシア国史2・小学校5年生用」)

太平洋戦争は資源地帯ほしさの侵略戦争であり
日本軍占領下では過酷な軍政が行われた
美化の余地のない歴史的事実である
315名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 16:07:40 ID:bc9stZwjP
「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ
―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、率直ニ申シマストサウデアリマス」
(佐藤賢了陸軍少将 1943年2月1日衆議院秘密会にて)

これがアジア独立の本音。
ちなみにこの佐藤とか、戦後になって敗戦した後に自分達のいった事さえ忘れたように、戦争美化に走って反省さえしてない。
国を滅ぼし多くの人命を死なせながら、反省もしない恥知らず軍人の自己正当化の嘘に騙されているんだろうなぁ。
さすが自慰史観患者は痛いw
316名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 16:11:50 ID:bc9stZwjP
>ニミッツの詩とやらも、自衛隊幹部が渡米して、ニミッツの詩で間違い無い、という確証を
>得たから、ベリリュー神社の碑文にしたのだ。
ああ、それも間違いないってのがそもそも嘘ですから。
その自衛隊幹部からの又聞きであり、誰がこれがニミッツの詩ですといったのかすらはっきりしていない。
ほんとに知らなかったんですか?
簡単に経緯を説明すると日本のスーパーソルジャー船坂弘の著作に見られるのが初出で
産経新聞記者の住田良能記者が1978年に同紙の茨城県版で企画連載した「ペリリュー島78」を収録した部分に
公刊戦史に載っていると記載されている。
その後名越が主張するところではこの詩がペリュリュー神社で見つかったので
元ネタを知りたいと思い資料を探していたところ、公刊戦史などには全く見つからず
自衛官浦氏がアナポリスでニミッツの詩だと教官から教えられたと又聞きであることを明言している。
なぜか名越はこの教官の名前も聞こうとせず、これはニミッツの詩だって大喜び、
元ネタがそもそも掲載されているという公刊戦史に載っていないのに
軽率にも「世界に生きる日本の心」にニミッツの詩だと掲載する始末。
アメリカ側資料にはそのようなものが見られないことはガン無視です。
これが名越における”確証を得た”というなら、
彼の著作は全て眉につばして見なければならないでしょうね。

上述のように名越の調査とは学問的審査に耐えうるものではありません。
又聞きが多すぎる上に、浦氏の例をみても誰が伝えたのかすらはっきりしないものを
確証とかきちんと調査とか呼びませんからw
そもそもニミッツの詩がいつどこでどのように作られたのかが不明な以上、
確証だの調査だのの入る余地がないんですがね。

しかもナシールにいたってはいつどこでだれががまったく明らかにされてません。
まあ、やたらと元○○という無責任な立場の人間だけが
日本人に対してリップサービスできるってあたりが
現地の人間がどう思っているかをはっきり示しているような気がしますがねえw
317名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 16:16:33 ID:bc9stZwjP
そもそも太平洋戦争は
「日中戦争をどうしたら継続できるか?」ということで
昭和15年1月・・・あたりかな?

陸軍省整備局戦備課が、たとえば満州や、南部仏印や、ジャワスマトラ、タイを
第一経済圏、第二経済圏、第3経済圏と設定して
そこからどうやったら物資を調達できるか

できないばあい、北方作戦、南方作戦で事態を打開できるかという
作戦課の検討からはじまった★資★源★戦★争★なんだが

この時点でできないという結論が出て(S15.01)陸相東条英機も、中国からの自主撤退を検討し始めた
でもS15.06のパリ陥落のドイツ快進撃で
S15.09.15バトルオブブリテン「鷲の日」敗退直後に三国軍事同盟結んだり
もうドイツに目が眩んで、米英戦も辞せずの雰囲気ができちゃった

1943年5月31日御前会議『大東亜政略指導大綱』六項
マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セベレスは
“大日本帝国の領土とし”重要資源の供給源としてその開発と民心の把握に努める
これら地域では当分軍政を継続する
なお、これらの地域を帝国領土とする方針は当分公表しない

資源地帯がなければ、もともと東南アジアに侵攻する予定すらなかったんだよ
日本軍にはな。
植民地解放などお飾りのお題目にすぎない。現にインドネシアは最後まで独立させなかった
318名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 16:21:25 ID:bc9stZwjP
「それがどん底の社会状況の中であれば、なおさらそういった誇りを求めようとします。
忘れてはならないのが、ゼロ戦の神話というのは、すべて戦後に作られたということなのですよ。
戦時中、ゼロ戦の存在は国民には秘匿され続けました。
新聞などでは、ゼロ戦はただ海軍の『新型戦闘機』などという風に呼称され、
国民によく知られていた戦闘機というのはむしろ陸軍の隼だったのです。」
「日本の敗戦によって、国民は大きなショックをうけました。
それまで自分たちが信じてきた価値観というものが、すべて否定されてしまったのですから当然ですよね。
プライドはずたずたにされてしまいました。
あんなにがんばったのにもかかわらず、跡に残されたのは焼け野原だけ。
とても惨めです。」
「そこへ一筋の光明のごとく現れたのが、
無敵のゼロ戦神話だったのです。」
「自分たちは確かにまちがっていたのかもしれない・・・・
しかしかつて栄光はあったのだと。
完膚なきまで負けはしたが、一時的ながら連合軍をコテンパンにやっつけてやれたんだってね。
この妄想は盛んにマンガ、アニメや映画になって広く流布されます。」
「ところでちょっと思い出してもみてください。最近にもこれと似たような現象って起こりませんでしたっけ?
それというのは第二の敗戦とも形容された平成のバブル崩壊とそれに続く長期の不況です。」
「戦後は国の方向性を180度変えて、経済一筋でやってきたのに、
強大な経済大国としての国際的名声を得たはずなのに、すっかりその権威は失墜してしまいました。
軍事のみならず経済でまで敗北の辛酸を舐めてしまったことに、国民の自信は再び大いに失墜してしまいます。
そういった社会的状況に便乗して、
日本はアジアを解放したとかなんとかいう骨子の『歴史修正主義』などというおよそ怪しげな潮流が台頭したりもしましたよね。」
「戦前の日本人はさながらピエロか何かでしょうか。
日本人はこれからも何か困難にぶつかるたびに、この時代の日本をダシにして、
惨めな自尊心を回復しようとし続けるのでしょうか?」
「ゼロ戦神話のほうは、多分に高度経済成長の原動力の一部になったという利点があるように思えますが、
解放神話は全くといっていいほど日本に益をなしませんでした。
あえていうなら、インターネット上にネオナチネトウヨを量産したということぐらいでしょうか?」
319名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 16:23:40 ID:bc9stZwjP
インドネシアで日本が感謝されているとしたんなら
SF講和条約で賠償放棄したインドネシアの国民投票で条約締結拒否が決定されたことを
どう解釈したらいいのですか
独立の祝い金とかいうおもろ見解もかまわないですが
祝い金をゆすり取ろうというのが感謝の気持ちならいらんと思いますが。
もう少し詳しく書くとインドネシアはSF講和会議に出席し、
賠償放棄を条文に持つSF講和条約に署名、締結した。
ただし、財産があった場合の差し押さえなどはできるのだが
WW2開戦後の占領地であるインドネシアにはたいしたものは存在せず、
せいぜい未払いの兵補の給料程度のものしか請求できない。
が、このことの是非を問う国民投票で
日本に賠償を請求しないなんてふざけんなという意見が通り批准されずに条約は無効となった。
*この時点で国交回復条項のあったSF条約は無効でインドネシアとの国交は断絶状態継続
んで、国交回復交渉の時に、インドネシア代表が述べたのが日本を恨んでない、”独立祝い金”として金をくれって言葉。
個々だけ取り出してインドネシアは日本に感謝してるニダとウヨさん大喜びなんだが、
感謝しているならそもそもSF講和条約批准してたわけで、
それ+賠償というより厳しい条約を結んだというのになにをいっておるんだという次第。
320名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 16:40:44 ID:bc9stZwjP
「日本が中国を荒らしまわるのは日本の勝手であるが、日本への原料や工作機械の輸入を止めるのは反則行為だという主張があります。
国際社会のルールを無視し、自国のことしか考えないで他国の市場までも荒らそうとする国家に、自国の石油や援助を与えるかどうかなんてそれこそアメリカの勝手だというのに。」
「あまつさえ、国際社会に台頭してきた日本が目障りになってきた同国は、日本をつぶそうと画策したなどという陰謀論を主張する人たちまで現れる始末です。
日本をつぶしたかった?
そんなのやろうと思えば、アキレス腱をすべて握っていたわけですから
いつでも赤子の手をひねるごとく簡単にできたのですよ。」
「思うに日本は反抗期だったのではないかと思うくらいです。
万能感だけが強く、自分の実力や真実の姿を一切理解しておらずに、
ただ大人の言うことに反発したかっただけのようです。」
「マッカーサーはこのような日本人の稚拙さや幼児性を評してこのようにいいました。
『日本人の精神年齢は12歳である』と。
まさに反抗期真っ盛りの子供であるというわけです。」
「しかし、まさかさしものアメリカも、すこし自分の立場を日本にわきまえさせようとしたら、突然キレて、後援者である自分を
背後から金属バットで殴りつけるとは予想してはいなかったようですね。」
「少年の心の闇は随分と深いものだったようです。」
「あまつさえ、苦し紛れにこれは聖戦だなどと嘯く始末ですよ。
自分のことは棚に上げて、社会が悪いというわけです。
挙句、若さに酔い、自己陶酔の果てにやらかしたのは特攻と称する体を張った体当たりです。
しかしその改造バイクは保護者の援助で作ったものでした。」
「それが、60年の歳月がたってみると、
彼らはアジア解放のために立ち上がった栄光の軍隊だとかいう人たちが現れるのですよ?
歴史の流れって面白いですわね(笑)」
321名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/17(土) 16:42:18 ID:bc9stZwjP
「中国にて」
アメリカ・・・満州事変は条約違反だ、元に戻せ。
日本・・・これからは自主路線だ、さらに介入してやる。
中国・・・内戦を止めて日本と戦うぞ。
日本・・・不都合な中国を潰し、都合良い政権に置き換えてやる。
アメリカ等・・・日本の勝手は許さん。中国を支援だ。

「対米戦へ」
日本・・・アメリカ等の中国支援が邪魔。仏印からの援助ルートとか止めたい。
ドイツ・・・念願のフランス占領。
日本・・・フランス領インドシナ(仏印)に進駐するチャンス。さらに南進できるかも。
アメリカ・・・日本は調子に乗るなよ。これ以上南下したらタダじゃ済まんぞ。
日本・・・南下は会議で決定済み。基地作るぞ。邪魔するなら米英とも戦うぞ。
アメリカ・・・もう石油を売ってやらねえ。
日本・・・ここまで強気で来たが、冷静になるとヤバい。交渉も上手くいかないよ