【日露戦争】旅順攻略における白兵戦6【203高地】
>>812 その「悲観論」に絡むことだが、伊地知第三軍参謀長批判の件でも機密日露戦史はおかしい。
「老朽不変の人材」という批判は、第一回総攻撃よりも前の段階、遼東半島を西に攻め上る過程で、
「悲観論」から“慎重策を取る”軍参謀長の態度についての批判であることを説明していないこと。
それどころか、このエピソードを、八月頭の伊地知VS井口の例の論争に絡めるところなど、意図的
なものを感じざるを得ない。
第三軍は、遼東半島西進の時点で、露軍の防備状況を知り、かなり悲観論慎重論に傾いていた。
津野田の著書を読めば、機密日露戦史ではほとんど語られていない遼東半島での戦闘について
かなり詳しく語られているのがわかると思う。ここを省略していきなり要塞本陣地攻略戦について
語るというのは、意図的というのが悪ければ、思慮足らずもいいところだと思う。
「井上幾太郎伝」に、白井中佐の話が載っている。
「二月二十一日、〜〜時あたかも、旅順にあって機密作戦日誌の整理を了した白井中佐来り」
>8月以降の第3軍作戦【日誌】も戦後かかれてたもの
これは間違いで、戦後かかれたものではないことは確定と思います。
というか、なんで「戦後書かれたもの」と決めつけたのか不思議。
>203高地は実際は9月攻撃後より強化
根拠は?
スミルノフは、包囲されたあと「どうして203高地を攻めないのか?」と不思議がっていたそう
だが(wiki)、これはつまりロシア側も重要性は承知していたということだ。
機密戦史の内容(日本軍に攻められて重要性を認識した)とは矛盾する。
津野田がウソをついている?として否定するなら、ではスミルノフの言葉はどう説明する?
>>816 津野田の論は機密とも違うからw
三、この行動が効を奏したとき、中央即ち第二、第四軍を勇躍させ、特に渾河に沿う地区から
第二軍の主力に満州軍の総予備隊を加えて中央突破を決行すること (津野田是重「軍服の聖者」)
∩___∩ ∩___∩
♪ | ノ ⌒ ⌒ヽハッ __ _,, -ー ,, ハッ / ⌒ ⌒ 丶|
/ (●) (●) ハッ (/ "つ`..,: ハッ (●) (●) 丶 今、どんな気持ち?
| ( _●_) ミ :/ :::::i:. ミ (_●_ ) | ねぇ、どんな気持ち?
___ 彡 |∪| ミ :i ─::!,, ミ、 |∪| 、彡____
ヽ___ ヽノ、`\ ヽ.....::::::::: ::::ij(_::● / ヽノ ___/
/ /ヽ < r " .r ミノ~. 〉 /\ 丶
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(_ ⌒丶... :` | ::::| :::|_: /⌒_)
| /ヽ }. :.,' ::( :::} } ヘ /
し )). ::i `.-‐" J´((
ソ トントン 津野田と儲 ソ トントン
第二軍の作戦計画
左翼に隣接すべき第三軍の繞回運動も亦為に容易なるへしと判断し
勤めて後備諸隊を以って右翼方向を守備し同方面の野戦師団を軍の
左翼に集結して主攻撃に任ずるを得策とし2/7之を総司令官に具申し
その同意する所となり且主攻撃に第3師団を使用し得る如く部署せんと
内示を得たり。
第四軍方面と連結している右翼部隊の力を殺いで中央突破を図ろうとしてたのか?
津野田の意見が異常に浮いている。
機密P552 会戦当初の総司令部は第3軍により敵の多くをけん制し 第2軍を以て
決戦を企図せしに対し第3軍ははじめより大々的ぎょう回を計画せしこと是なり
と相反するものでない。
__キッパリ
/ヽ /\ 765:「日誌」と書くと、日露戦争当時のリアルタイムで書いた史料という雰囲気がある
/ (ー −)\ その実これは 後世の回顧録でした、ってのは正直、看板に偽りあり、というところだろう。
( (_人_) )
ノ `-' ヽ 815:少なくとも今話に上っている八月頃の所は
(_つ _つ 既に書いてある事になる。戦後に書かれたものではない。
>>819-820 819:「二月二十一日、〜〜時あたかも、旅順にあって機密作戦日誌の整理を了した白井中佐来り」
,, -──- 、._
.-"´ \.
:/ _ノ ヽ、_ ヽ.: あのさ君がKYなのをアピールするのは自由だけど、日誌をリアルタイムで
:/ o゚((●)) ((●))゚oヽ: 書かず、旅順戦後に書いているなんて 夏休みの日記じゃないんだからw
:| (__人__) |: 谷はほぼリアルタイムで書いていた長岡日記を元にしたけど
:l ) ( l: 儲は戦後という言葉に偏って全否定するw こういうやつなんだよな。
:` 、 `ー' /:
:, -‐ (_). /
:l_j_j_j と)丶─‐┬.''´
:ヽ :i |:
>>820 津野田は5月から強化されていたと言い張ったのw
大体、重要性は認識してたけど、日本軍からの脅威が東北正面だったらそっちから
対処するのは当然だろw お前はバカか。旅順要塞は未完成だった位把握してるだろうにw
40 名無しさん@お腹いっぱい。 sage New! 2007/07/26(木) 14:56:14 ID:zatSS7Rw0
42 名無しさん@お腹いっぱい。 sage New! 2007/07/26(木) 15:06:51 ID:zatSS7Rw0
/⌒ヽ 捏造記事撒いてやるお
(# ^ω^)ノ>゚+。:.゚
C□ / ゚。:.゚.:。+゚ 「ろくな防備施設がなかったはずなのに、日本軍の攻撃を跳ね返している。|
/ 儲.| | もっと早い時期から地道に工事していたと考える方が妥当
(ノ ̄∪
〃∩ ∧_∧
⊂⌒( ・ω・) はいはいわろすわろす 地区に4個中隊と爾霊山に10個中隊の
`ヽ_っ⌒/⌒c 過去に書いてあるんだけど 違い位確認してね。 ワカランだろうけどw
⌒ ⌒
スミルノフ中将は〜南山戦闘後旅順に帰還せし東狙兵第5連隊をして
爾霊山 大頂子山 化頭溝山近辺の工事に任ず 〜
然れども東狙兵第5連隊及び同第7師団の諸部隊は時々要塞外に
出て前進陣地の防御に任せしと地質一般に堅硬にしてしかも土工具
不足せしとに因り進捗尚遅々たるを免れず。 (公刊戦史)
9月中旬(第1回二百三高地攻撃前) 【西太陽溝堡塁より爾霊山附近に亙る間】を
東狙兵第5連隊第一大隊(第1.3中隊欠)同第28連隊第1中隊及び海兵第6中隊
兵員合計613名 (公刊戦史 第6巻P57)
【西太陽溝堡塁から爾霊山まで第一大隊 第2.4中隊、その他2個中隊 4個中隊のみ。】
9月23日露軍の配備
露軍南山坡山及び水師営附近の前進陣地を失うや更に爾霊山を左翼の拠点とし
新たに老虎溝山 化頭溝山 三里橋北方高地の線を外防御線とし【全力をもって
防備に努めし】 老鉄山 鳩湾附近及び・家大山以南の状況概ね従前に異ならず
・家大山は東狙兵第5連隊第8中隊
爾霊山は同連隊 第6. 第11、同第13連隊 第2中隊、同第14連隊第7中隊
同第16連隊第6中隊 同第27連隊 第7第11中隊 同第28連隊第4 第8中隊
海兵 第6中隊 6インチカノン砲3門 10センチ半カノン砲2門 37ミリ砲3門
機関銃4丁
【爾霊山に10個中隊】 儲には見えてない(見たくない)ようです。
老虎溝山は東狙兵第5連隊第9中隊 同連隊徒歩猟兵一隊及び第13連隊第11中隊
化頭溝山は同第5連隊第3中隊及び 第二(第6.8中隊欠)第3大隊(第9 第11中隊欠)
同徒歩猟兵一隊及び同第27連隊 第9中隊 海軍上陸砲4門機関銃3丁を以って
守備し 大頂子山地区指揮官 トレチャコフ大佐は東狙兵第5連隊第一大隊(第1.3中隊欠)
同第27連隊第12中隊 同28連隊第1.7中隊 第4補充大隊の混成中隊海兵第1,5中隊
野砲6門を予備隊とし・・・・ (公刊戦史 第6巻P143-144)
「配置している兵力が少ない」
↓(偉大なる変換装置)
「防備工事を強化していない」
付き合いきれんね、まったく
『ソ連から見た日露戦争』にはこう書いてあるが、これもウソか?
「(主防御線前方の、203を含む)高地毎に前衛陣地がしかれ、そこには塹壕が掘られ、野戦用多面堡が設けられていた」(P187)
露軍は予備隊を市内に温存して、戦況に応じて逐次前線に投入する一種の内線防御をしていたので、
(例えば、第一回総攻撃開始時点で、主戦場たる白銀山〜二龍山の東北正面に居たのは歩兵6中隊砲55門だけ)
まだ本格的に争奪戦が始まっていない段階での兵力が少ないのも、
始まってから兵力が増強されたのも、ごく当たり前の話
ああ、漏れも今後は、AA使ったレスは無視するんであしからず
読みにくいしうざったい
配置した兵力の結果 【防備状況】は激変したよ。そんな事過去スレよめってね。
9/22までの状況
・各山頂に歩兵の為の【野堡一つ】ずつと鉄条網を備えた
400mから500mの2列の散兵壕 上方の(散兵壕)は掩蓋があった
下方のはきわめて平で竣工せず。
・爾霊山の防御は従来その中腹に散兵壕を有するに過ぎさりしも(公刊日露戦史)
・平和の時分にはヴィソカーヤは全くの丸腰であった。戦争が始まってからやっと鉄条網を
めぐらした散兵壕を2段つくり、6インチ要塞砲若干を剥き出しのまま据え付けたに過ぎなかった。
「この陣地についてから、2ヶ月にもなるのに技師の連中は連絡路回収にとりかかってくれないんだよ」
とガーエフは憤慨した。山の指揮官は10ウェルショーク角の梁材から出来ている堅固な掩堡のなかに
いた
旅順口(中)P377
・「・・・ここにどうしても迫撃砲が欲しいね。士官の掩堡のなかに据え付けてもいい。
掩堡はベトン作りで非常に堅固にできているからその窓から水雷発射管の砲口を突き出したら
どうだろう」 掩堡をみまわしてポドグールスキィーは迫撃砲の据え付けに好適との結論を
下した。「屋根があるから 昼間だって作業が続けられますね」とスヴォナリョーフは言った。
掩堡に迫撃砲の部分品が運び込まれたが、水兵と兵隊の祭事をしているブロヒーンの働きぶり
に少尉はびっくりした。 旅順口(中)P379
9/23以降の状況
・山頂の野堡は掩蓋を備え、中径30cmの木材と1cmの鉄板にて覆い
15p砲2門速射砲を咽喉部に設置。散兵壕に掩蔽部を備える。
・西南巌頂に強断面の堡塁を築き、堡塁司令所
を儲け各二層の軌鉄及び厚き石屑を以って之を覆い 中腹の散兵壕との間に
鹿柴を設けまた、東北巌頂にも堡塁を築き6インチ砲を備え 同堡塁より深き
交通壕を以って鞍部の軽砲砲台及び西南巌頂堡塁に至る間、又、暗路を以って
中腹散兵壕に至る間を連絡せしめ、逐日一般に内壕を深くし横梁を増し火戦に
銃眼及び掩蓋を加え、山腹一帯に鉄条網を設け、斜面に数層の木材上に鉄板を
敷置し更に土石を以って之を被覆せる掩蔽部及び弾薬庫を築きそのた交通壕を
補修増設 (公刊戦史6)
・まず日本軍は203高地の双峰の頂きめがけ攻囲砲台を上げて砲火を集中
してきた。レールや丸太で簡単に補強された野戦タイプの塹壕や掩蓋は
11インチ砲弾を受けて見る間に潰れた。 旅順口(下)P257
「配置している兵力が少ない」
↓(偉大なる変換装置)
「防備工事を強化していない」
、 l ,
-(-@∀@) -
' l `
/''⌒\
,,..' -‐==''"フ /防備状況なんて配置している兵力に応じて変化するっちゅうに。変換捏造しまくりの
__ (n´・ω・)η おまえがイウナ〜!!!
 ̄ "  ̄( ノ. \ 、_
" "" (_)_)""" " ,ヽ ユ〜ナ〜/~~\ ⊂⊃
"", ,,, ,, , ,, ,,,"_wノ| ユ〜ナ〜/ .\
"""" v,,, _,_,,, ,,/l ::::... | .....,,,,傘傘傘::::::::傘傘傘...............
,.-r '"l\,,j / |/ L,,/:: i 森
, ,/|,/\,/ _,|\_,i_,,,/ /::./森
_V\ ,,/\,| i,:::Y: :: :i/:: | 森
827 :
過去スレ:2008/08/13(水) 09:49:53 ID:QpsgEkRL0
要塞攻略戦を始める前に、すでにある程度の防御工事が成されていたってことだよ。
要塞総予備隊司令官フォークが津野田に語った言葉。
「余はこの信念に基づき、南山の戦闘後直ちに歩兵第五連隊を彼地の守防に充て、
半永久工事を施さしめた」(斜陽と鉄血)
この防御工事によって二○三高地への初攻は撃退された。
ロシア側がこの要地に備えを作らない筈がないだろう?
機密日露戦史の大澤中将談話を鵜呑みにするのはロシア側をバカにしすぎだよ。
|/-O-O-ヽ| .。oO
| . : )'e'( : . |
~`--=--'~
/ 儲 \
||\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
||\\. \ ∧_∧
||. .\\ \ (; )5月から?
. \\ \ / ヽ. 半永久工事を施さしめた?って命令か?
. \\ / .| | |
. \∧_∧ (⌒\|__./ ./
( ;) \ ∧_∧ フォーク南山戦の後第5連隊配下に入れてたか?
. _/ ヽ \ ( ; )
スミルノフ中将は〜南山戦闘後旅順に帰還せし東狙兵第5連隊をして
爾霊山 大頂子山 化頭溝山近辺の工事に任ず 〜
然れども東狙兵第5連隊及び同第7師団の諸部隊は時々要塞外に
出て前進陣地の防御に任せしと地質一般に堅硬にしてしかも土工具
不足せしとに因り進捗尚遅々たるを免れず。 (公刊戦史)
永久工事を行おうとしたが。土工具不足で 進捗遅くれて要塞戦に突入したんだよ。
つか フォークの言ってる事可笑しすぎるけどw
それを盲信する儲はもっとアホ
>>824 遅まきながら、そうするといいよ。相手するからつけあがるんだ。
こいつ以前にAA貼りすぎて容量オーバーさせたことあるってのにナントカは死ななきゃ治らない。
正直、コピペばっかで中身ないし単なるヤジ将軍と化している。
/⌒ヽ 捏造記事撒いてやるお 機密日露戦史って信用ならねー(第6章以外も同じ書き方)
(# ^ω^)ノ>゚+。:.゚
>>765 C□ / ゚。:.゚.:。+゚ 長岡の回顧録(大正15年)から引用した谷戦史(大正14年)なんだぜ!ってオカシクネ?
/ 儲.|
(ノ ̄∪
〃∩ ∧_∧
⊂⌒( ・ω・) はいはいわろすわろす
`ヽ_っ⌒/⌒c 根拠を捏造、偏向して資料を出す儲がいる以上指摘するのは当たり前。
つか なんでそこまで おかしいの? 色々なところが。
さらっと回顧録とか引用!してるぜって述べてるが実際調べたら
めっちゃ偏向してたり 捏造多すぎ。
>>825 その、
「ベトン造りで、非常に堅固」な掩堡やら、「10ウェルショーク角の梁材から出来ている堅固な掩堡」
やらは、どこをどう読んだって、第一回203高地戦(9/19〜)以前に準備された物なわけだが
つまり、機密日露P226の大澤中将談話
「203高地には九月中旬までには山腹に僅かの散兵壕があるのみで、敵は茲に何等の設備をも設けなかった」
は、嘘っぱちだってこと。意図的でなければ、単なる誤解か、不勉強なだけ
そのどちらにせよ、
>>814氏の言を借りれば、後世に『機密日露戦史」の名を冠さ れた講義録の程度が知れるというものだ。
/⌒ヽ 捏造記事撒いてやるお 機密日露戦史って信用ならねー(第6章以外も同じ書き方)
(# ^ω^)ノ>゚+。:.゚
C□ / ゚。:.゚.:。+゚
/ 儲.|
(ノ ̄∪
〃∩ ∧_∧
⊂⌒( ・ω・) はいはいわろすわろす
>>12-22 辺りでも読んでくれ。
`ヽ_っ⌒/⌒c 203高地の掩堡なんて最終的に31個もできてるんだけどね。
>>830 その大澤中将談話として項目づけられているところは、ほとんどが「長岡外史回顧録」の引き写し
です。おそらく、正味の大澤中将談話なる部分は、「もう三日寝ていない、他に適任者いれば代わる
が、誰も名案ないだろう」の所だけでしょう。
見比べてみると、機密戦史の第六章の文章は、長岡回顧録そのまんまの文章が非常に多いです。
>「長岡外史回顧録」
おお、貴重な情報をどうもありがとうございます
早速探してみよう
ちなみに「回顧録」とは、長岡の言うところの「日記」を元に作られたものということです。
「日記」、そう、例の「送るに及ばず」、どこにも残っていない第三軍参謀長発電の生まれ故郷です。
上の方で、「ほぼリアルタイムで書いていた長岡の日記」と誰かがヤジ飛ばしてましたが、長岡の日記
なるものは公開されていないはずなんですがね。ヤジ将軍はどこで確認したのやら。ヤジは気楽でいいよなあ。
「日誌」と書くと、日露戦争当時のリアルタイムで書いた史料という雰囲気があるが、その実これは
後世の回顧録でした、ってのは正直、看板に偽りあり、というところだろう。
|/-O-O-ヽ| .。oO
| . : )'e'( : . |
~`--=--'~
/ 儲 \
||\ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \
||\\. \ ∧_∧ 当時8月時点で公刊戦史の偵察の記述も戦後書かれたものだし
||. .\\ \ (; ) 8月以降の第3軍作戦【日誌】も戦後かかれてたもの。
. \\ \ / ヽ.
. \\ / .| | |
. \∧_∧ (⌒\|__./ ./
( ;) \ ∧_∧
. _/ ヽ \ ( ; )
長岡外史の回想記は【大正15年に纏められているが、長岡外史は本稿を日記に基づいて
記述したと記している】。また機密日露戦史は【大正14年】にまとめられているが、長岡日記を
借用したのではないかとなっているね。
看板に偽りありってw こういう風に捏造するのが儲の特徴だけど どうにかならんか?
長岡の日記 なるものは公開されていないはずなんですがね。
/⌒ヽ 捏造記事撒いてやるお
(# ^ω^)ノ>゚+。:.゚
C□ / ゚。:.゚.:。+゚
/ 儲.|
(ノ ̄∪
〃∩ ∧_∧
⊂⌒( ・ω・) はいはいわろすわろす 長岡が回想記(日露戦争ノ回顧)を記したのは
`ヽ_っ⌒/⌒c 【大正15年】に執筆されてガリ版で若干部数すられたが、次男の坂部護郎氏
宅に保管されていた。 この中で長岡中将は本稿を日記に基づいて記述したと
記されている。ちなみに谷戦史は【大正14年】に纏めてる。ちなみにこの回想記
の公開年日は1979年 中将の孫の長岡忠一氏により提供されているんだけど?
大正14年に纏められた本に大正15年に書かれた回顧に書かれた内容が
同じだからなんだってのw バカか?
おっと公開年日は1979年ではなく、1983年だスマソ
結局、日記は公開されてないってことじゃん?
回顧録=日記じゃないんだから。
正直、「送るに及ばず」の文句が載っていると云われる(個人的には信じてない)長岡日記、見れるものなら見てみたい。
多分読めないだろうけど。日記って崩し字が酷いからね。防衛図書館で大庭参謀の日記を閲覧したことがあるが、あんなん解読できんわ。
当時の関係者で、日記を残していてそれが一部とはいえ日記の形で公開されているものは、乃木第三軍司令官のものと井口満州軍参謀の
ものくらいかな。あと誰かいる?
日記=回顧録じゃないということが判ってない人には言ってる意味わかんないだろうけど。
840 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/14(木) 13:30:38 ID:BITiRznn0
wikiの203高地から見た写真というのを見ていて、どうにも疑問なのですが。
カラー写真の方は、明らかに近年撮影されたものだから、203高地の山頂から撮影された写真という
ことで間違いないと思う。
しかし、雪まじりの白黒写真の方は、本当に203高地からのものなのか?
撮影位置の多少のずれを考慮するとしても、撮影対象の見え方が違い過ぎると思う。
1・白玉山の位置関係
2・撮影箇所から港湾までの距離感
3・高地から港湾までの間の丘陵地帯が映り込んでいない
写真特有の現象(望遠効果とか)で説明つくものかもしれないが、写真に詳しい人がいるなら、
これが同一位置からの撮影によるものなのかどうか、確認して欲しいです。
>日記=回顧録じゃないということが判ってない人には言ってる意味わかんないだろうけど。
〃∩ ∧_∧
⊂⌒( ・ω・)
`ヽ_っ⌒/⌒c
その通り 大正15年に執筆された回顧録を持ち出して 大正14年に纏められた谷戦史に同じ事が
書かれているから納得できないなんてことはありえない。つか 馬鹿スギ。
更には 書き物には残ってないと書いているのは長岡の記述というのもしっかり書かず、
一部だけを引用して全否定に持ってくのは愚かの極み。
第三軍参謀長宛 8月25日次長の電報を出す。
「巨砲到底間に合わず、送るに及ばず」との伊地知参謀長よりの接した。其の電報が
如何なる訳か書き物の中に残っておらずが、私の日記の中に左の意味が筆記してある。
「陸軍大臣が余り〜(ry 陸揚げした」云々とあり、多分之の返電ならんかそれにしては
時日が少し早過ぎる様なり
次長宛 8月26日 第三軍参謀長
28サンチ榴弾砲は其の到着を待つ能はざるも 今後の為に送られたし。
この時点で第3軍は陥落の予定を立てきれていません。正攻法に転じたといっても、その
攻法ですら 何日かかるかわからない状況です。即効で否定するなんて頑固になっているのか
損害計算、次期攻撃計画に忙殺されているにしても どうしようもない状況になっている。
この時点で乃木が正攻法を決断したのはかなりの力を要しただろうね。
第3軍首脳部がアホすぎやからな。
ごめんなさいAA使いさんとはお付き合いしたくありません。
〃∩ ∧_∧
⊂⌒( ・ω・)
`ヽ_っ⌒/⌒c
意味わからん レスだな。コンナ匿名掲示板で何をいってんだ。
これはいいお断り台詞ですね。これからはAA使いにはこれで対応しよう。
|/-O-O-ヽ| .。oO
| . : )'e'( : . |
~`--=--'~
/ \
〃∩ ∧_∧
⊂⌒( ・ω・) "AA使い"なんてめったに出てこない言葉を使うから
`ヽ_っ⌒/⌒c なんか本人バレバレって感じだなw ID変えてなにをやろうとしているのかw
180 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 20:19:19 ID:lA8ML61IO
AA遣いの分際が信用を語るか。笑わせる。
215 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/04(金) 08:57:51 ID:+zTCBzHPO
じゃ、結論。 AA遣いは信用しない。
過去スレから この遣いも珍しかったけどねw あぁちょっと調べたら公刊戦史を
偏向してみてた儲か。じさくじえんも大変だね。
ID:yH6ppvIrOの発言
【08:36:15】516 名無しさん@お腹いっぱい。 sage New! 2007/06/17(日) 【08:36:15】 ID:yH6ppvIrO
>>515 現実みてないのはそっちだ。
【10:32:28】520 名無しさん@お腹いっぱい。 sage New! 2007/06/17(日) 【10:32:28】 ID:yH6ppvIrO
わけわからんコピペをいっぱい貼っても何にもならんのだが。
【12:31:45】522 名無しさん@お腹いっぱい。 sage New! 2007/06/17(日) 【12:31:45】 ID:yH6ppvIrO
だーかーらー、わけ判らんっての。 馬鹿の一つ覚え?
【16:18:59】526 名無しさん@お腹いっぱい。 sage New! 2007/06/17(日) 【16:18:59】 ID:yH6ppvIrO
>>524 ならあんたはどんだけ知ってんのかと。あんたも素人なんだろ? エラソーにしても意味ないって
【16:24:42】 ※527 名無しさん@お腹いっぱい。 sage New! 2007/06/17(日) 【16:24:42】 ID:yH6ppvIrO
>>525 なにその恣意的な「・・・・・・・」は。
三部隊の解説はすき間なく並んでいるんだが。
【18:43:02】529 名無しさん@お腹いっぱい。 sage New! 2007/06/17(日) 【18:43:02】 ID:yH6ppvIrO
ああゴメン、AA遣いにエラソーも何もないね。
【19:25:50】531 名無しさん@お腹いっぱい。 sage New! 2007/06/17(日) 【19:25:50】 ID:yH6ppvIrO
開き直りとは見苦しいこって。まあ相応しいっちゃあ相応しいか。
悪貨が良貨を駆逐するというのはこの事か
長岡発電電報
「攻城用として28センチ榴弾砲四門を送る、二門は隠顕砲架、二門は尋常砲架」
28榴弾砲に隠顕砲架なんてない。
これも長岡の創作。
長岡嘘ばかり
発電も嘘で着電も嘘、の可能性は?
>>839 >大庭参謀の日記
ありゃ読めないよね〜確かに戦地で走り書きした、貴重な資料だとは思うけど
回顧録の方は普通に読めたけど、なんつーか貧乏陸軍の悲哀が行間から滲み出ていて泣けた
防衛図書館に行く予定なんですが、これは見逃すなみたいな資料があったら教え下さい。
大庭の日記は一応トライするつもりです。
大概の資料はデジタル化されてアジ歴で読めるから、まだされていないのが狙い目だと思う。
「第三軍戦闘詳報」とか、中将時代に書かれた大庭の手記「難攻の旅順港」とか
戦闘詳報なんてあったっけ?
2〜3年前、俺が調べたときはあったよ。今はどうだか知らないが。
強襲法の失敗を第三軍が率直に認めていたのが印象的だった。
あったんだ?もう10年くらい昔に行った時には見つけられなかった。残念。
朱書きの文句って本当にあった?
「斯くの如き命令を受くるは、千載の恨み言なり」とか「二〇三攻撃不首尾の原因、果たして斯くの如きか」とか
書いてあるという、陣中日誌だか機密作戦日誌だかのこと?
いや、それじゃない。俺が読んだ「戦闘詳報」は、第一回攻撃終了後、数週間後に纏められたモノのようだった。
手書きじゃなくて印刷だったし。
858 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/29(金) 20:43:44 ID:pYfvlR92O
乃木さんが馬鹿だからでしょいやホントに
>>857 陣中日誌?だったかな、朱書きの文句があるのって。一度見てみたいと思ってるんだがね。
東京行ったら防研図書館だけじゃなくて国会図書館や靖国文庫も巡りたいものだ。って何日かかるんだ〜
少なくとも週単位で時間ぶち込まないと駄目だな
児玉の旅順行について、時系列を考察したい。
まず機密日露戦史の記述(233〜235P)から時系列を整理した。
【11月28日】
1・大山総司令官は27〜28日までの状況の報を得、乃木第三軍司令官に訓令を発する。
【11月29日】
1・児玉総参謀長は旅順行の決意を示す。
2・20時、児玉総参謀長は烟台を出発。
【11月30日】
1・夜遅く南関嶺に到着。203高地奪還の情報を得、祝電を発する。
2・大連に到着し、同地に宿泊。
【12月1日】
1・児玉総参謀長は大連にて朝食中に203高地被奪還の電報を受ける。
2・児玉総参謀長は烟台の大山総司令官に電報し、歩兵第17連隊の南下を要求。
3・大山総司令官は第三軍に訓令を発する。その末尾に児玉総参謀長の差遣と歩兵第17連隊の南下を伝える。
とりあえず、機密日露戦史からの抜粋はこれでいいと思うが、意見あれば聞きたし(←長岡か!)。
例えば、大山総司令官から乃木第三軍司令官への訓令が発せられたのを28日としているが、これは本当は29日
のはず。しかしP233下段13行に「翌29日」と書いてあるので、ここでは28日としている。
こういう風に、他の資料を吟味したらおかしい、というのは置いといて、機密日露戦史の記述ではどうなって
いるか?とうことをまず確かにしたい。
よろしく。
機密日露戦史の記述はおかしいってこと?
一行目
特に意見なしということで次に進む。
さて「公刊日露戦史」にはこの辺りどう書いてあるのだろうかと読んでみると、526-527Pにて僅かに触れている
ばかりであった。
「是日(一日)正午総参謀長児玉大将第三軍司令部に着し」
「是より先、同大将は途中において二十八日夜爾霊山を失いし報を得、直ちに満州軍総予備隊たる第八師団の歩兵
一連隊を派遣せんことを総司令官に請い、同第十七連隊は二日鉄道輸送により長嶺子に向かい遼陽を出発せり」
これらは先の機密日露戦史記述と矛盾しない。というか続き、補足するものといえる。
12月1日の記述を追加補足する。
【12月1日】
1・児玉総参謀長は大連にて朝食中に203高地失陥の電報を受ける。
2・児玉総参謀長は大連より烟台の大山総司令官に電報し、歩兵第17連隊の南下を要求。
3・大山総司令官は第三軍に訓令を発する。その末尾に児玉総参謀長の差遣と歩兵第17連隊の南下を伝える。
4・児玉総参謀長は、正午、第三軍司令部に到着。
【12月2日】
1・歩兵第17連隊は遼陽を出発。
このように他資料の記述と照らし合わせ、不足する所は追加し、矛盾するところは取捨選択して、今の時点で
判っている限りでの児玉来順の時系列を再確認していきたい。
>>864 機密日露戦史の記述はおかしいってこと?
ところで>訓令が発せられたのを28日としているが、これは本当は29日
これの29日の根拠は?
>>865 おかしなところもある。
他資料から不足な所は追加、矛盾する所は検証の上で取捨選択していきたい。
>29日の根拠は?
明治軍事史。詳しくは次回に。というか今書いてます。
上記訂正。
「公刊戦史」の「同大将は途中において28日夜爾霊山を失いし報を得、直ちに満州軍総予備隊たる〜」
は、事実と異なる。「29日夜爾霊山を失いし報を得、直ちに〜」が正しい。
では続き。
「明治軍事史」1447-1448Pに児玉来順についての資料がある。元々は「参謀本部文書、満州軍機密作戦日誌」
によるとのこと。
○37年11月29日
○本日命令せし件
第三軍司令官へ 11月29日午前11時50分発電 総司令官より
命令《※1》【203高地攻撃履行に関する総司令官の命令】
再度203高地を奪取して再度敵に奪取せられたるは余の大いに遺憾とする所なり。この際宜しく用い
得べき諸団体を挙げてこれを203高地の攻撃に用い必成の攻を期せらるべし。一般の戦況上この攻撃
を逡巡するの甚だ不利なるを認む。
○本日訓令せし件
11月29日午後5時40分発電 総司令官より
訓令《※2》【右に関する総司令官訓示】
今回203高地に対する戦闘の状況不利なるは、指揮統一の宜しきを得ざるもの多きに帰するといわざるを
得ず。畢竟高等司令部および予備隊の位置遠きに失し敵の逆襲に対してこれを救済するの時期を誤りたる
ものなり。貴官深くこれに鑑み明朝の攻撃に富りては必ずこの弊を除き、各高等司令部適当の位置に進出
して自ら地形と時期とを観察し占領の機会を逸せずかつその占領を確実にすることを期せざるべし。
(次項の朱書き参照)
この、(次項の朱書き参照)というのがとても気になるところ。満州軍機密作戦日誌とは、現在どこ
かで確認できるものなのだろうか。