838 :
保存。:
>>837 どこからどう見ても、「鯨肉料理は日本の食文化」で間違いありません♪
まぁ、なんだかんだ言って反捕鯨派の牙城であるwikiのソースを賛成派が
貼る、というのが最も公正なのかな?^^;
奈良時代から室町時代の鯨肉贈答の記録 [編集]
712年(和銅5年)の古事記のなかで神武天皇に鯨肉が献上されたという記述がある。文献「古事記」
1570年(永禄13年)織田信長が禁裏へ鯨を献上。山科言継は禁裏より織田信長が献上した鯨肉を拝領した。文献「言継卿記」
1577年(天正5年)水野監物が織田信長に鯨肉を贈った、その返礼が信長よりなされており「鯨一折到 来候細々懇
情別而悦入候 猶参上之時 可申候也 正月十六日信長」という内容の感状が書かれている。文献「織田信長から水野監物への黒印状」
1582年(天正10年)鯨肉ではないが、「鯨桶」(鯨肉を運ぶための専用の木桶)が、伊勢国より正親町天皇へ2つ、誠仁親王へ1つ、
勧修寺晴豊へ1つ献上された。文献「晴豊記」
1589年(天正17年)高橋丹波守は北条氏政と北条氏規に鯨肉を献上した。
1591年(天正19年)長宗我部元親が豊臣秀吉に鯨一頭献上。文献「土佐物語」
1612年(慶長17年)里見忠義が榎倉長兵衛を介して伊勢神宮に鯨の尾の皮を献上している。
「一、領分の船、鯨留め候上、壱疋の内より、初尾の為一尺八寸の皮壱枚宛とらるべく候事
慶長拾七 弐月七日 忠義判 榎倉長兵衛殿」文献「千葉県鋸南町の醍醐家の古文書」
室町時代から江戸時代の鯨料理に関する書籍 [編集]
室町時代末期に「四條流庖丁書」という料理書に食材としての魚の格付けとして最高位に鯨、
二番目が鯉、その他の魚は鯉以下として挙げられている。
室町時代に「大草家料理書」(欠年)という料理書に鯨肉の料理が記載されている。
1561年(永禄4年)には「三好筑前守義長朝臣亭江御成之記」のなかで三好義長が自邸宅において
鯨料理で足利義輝をもてなしたという記述が残されている。
1643年(寛永20年)に「料理物語」という料理書の中で10種類の鯨料理が紹介されている。
1669年に「料理食道記」という料理書には、日本各地の鯨肉産地(詳細後述)が記載されている。
1763年(宝暦13年)に「料理珍味集」という料理書に鯨蕎麦切という鯨料理が紹介されている。
1832年(天保3年)には、捕鯨の様子を描いた絵物語の付録として鯨料理専門書「鯨肉調味方」が発行されている。
鯨の約70もの部位についての料理方法として、「鋤焼き」という焼肉風の料理、すき焼きに似た鍋物、揚げ物などが紹介されている。鯨肉普及のための一種の広報誌だったとも言われる。
天保年間には「日用倹約料理仕方角力番附」という家庭料理書の中で「夏場のおかず位付け(ランキング)」の前頭16番目に鯨料理が紹介されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%A8%E8%82%89
839 :
保存。:2009/05/25(月) 21:09:21 ID:LGX7jHi50
>>837 どこからどう見ても、「鯨肉料理は日本の食文化」で間違いありません♪
江戸時代から明治までの日本各地の鯨料理 [編集]
江戸時代より組織的な捕鯨が行われるようになり、それら捕鯨地域周辺の漁村では、鯨肉は常食とされていた。ただし、九州地方の一部では、
初期の突取式捕鯨期には鯨油生産のみが行われて食用習慣が無く、皮下脂肪以外の鯨肉は沖合いに運んで廃棄していたという記録もあるが、
その九州でも網取式捕鯨が始まる頃までには急速に鯨肉食が盛んになる。例えば幕末に捕鯨地の長崎を訪れたシーボルトも、しばしば鯨料理が
供されたことについての記録を残しており、中には「鯨ひげのサラダ」などの特異な献立も記されている。ツチクジラは、現在の千葉県房総半
島太平洋岸のように、該当種の捕鯨が行われてきた地域では古くから食べられ、特有のクセに応じた調理法も工夫されてきた(鯨肉の干物の「鯨のたれ」と呼ばれる加工品など)。
流通の常(つね)で生産地の周辺地域に広く消費される傾向にあるが、大坂など近傍経済圏にもこの頃に生まれた伝統的な鯨肉料理が存在する。
京都では「鯨の吸い物」が食べられているのを井原西鶴が著書の中で紹介している。十返舎一九も東海道中膝栗毛のなかで大坂の淀川で「鯨の
煮付け」を紹介している。高知県では土佐藩の高知城下を中心に数々の鯨料理が伝承されており、特に「はりはり鍋」は代表的な物の一つである。
江戸城下では鯨肉を素材に調理した「鯨鍋」や「みそ汁」や「澄まし汁」などが食され、「ホリホリ」「鯨のし」などと称した頭部の軟骨を加工
した珍味も売られていた。全体的な傾向としてはシロデモノと総称された皮下脂肪や尾羽が好まれ、尾の身も高級品とされていたが、赤肉につい
ては房総半島の一部などを除くとあまり歓迎はされなかったようである。
行事などと結びついた料理も生まれた。江戸を含め日本各地で12月13日の煤払い(すすはらい)の後は「鯨汁」を食べる習慣が広まり、その様子は
沢山の川柳の記述や物売りが鯨肉を扱っていた記録が残されている。秋田でも鍋物としては珍しく夏の暑気払いとして「鯨貝焼(くじらかやき)」
という鯨のしょっつる鍋が江戸時代から食されており、夏場になると五艘程度の小舟の船団で鯨漁に出ていた記録が残されている。そして明治開拓
以降の北海道の日本海側各地で正月料理として鯨汁が食されるのは、秋田藩を中心とした東北の人々が移り住んだ名残といわれている。北海道のア
イヌ民族の鯨食は江戸時代よりも古いとされる。同じく夏の土用の食べ物としていた地域は多く、九州の農村では土用に備えて各戸で一樽ずつもの
皮の塩漬けを作る地域もあった。塩蔵すれば魚類よりも長期間の保存・輸送に耐えることを活かして、少量は各地に輸送され、一般の海魚の運ばれ
ない山村等で正月などハレ(晴れの席)の料理に供されていた例もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%A8%E8%82%89
840 :
保存。:2009/05/25(月) 21:10:16 ID:LGX7jHi50
>>837 どこからどう見ても、「鯨肉料理は日本の食文化」で間違いありません♪
昭和以前の需要供給、流通 [編集]
江戸時代には、江戸の日本橋の魚市では「大には鯨、小には鰯、貴品には鯛、鰈等があるなかにも堅魚は近海の名産にして、四月八日の初市には、衣を典し衿を売るも必ずこれを食ふの旧習民間に行はる」
という言葉が残されており、江戸城下で鯨肉が広く一般に流通していたことがうかがえる。別の文献によると、土佐の捕鯨地からは、近傍の土佐中心部のほか一大消費地である大阪圏へも多量の鯨肉が供給
されており、初物をいち早く出荷するべく業者が競っていたと言う。冬が本場の鯨漁から「鯨九十九日」という言葉が古くから残されており鯨肉の日持ちの良さを表した言葉である。実際に紀州熊野灘で捕
れた鯨が江戸まで流通していた記録が残っている。オランダで1832年(天保3年)に刊行されたシーボルト著の「江戸参府紀行」によれば鯨は水揚げされたあと、鯨肉など食用にされる部分は各々の魚商が買
い上げ新鮮なうちに、日本中の港に運ばれたと記述している。
前掲の「料理食道記」(1669年)には、鯨肉産地として伊勢や紀伊、肥前のほか、松前焼鯨(北海道のアイヌによる製品)、出雲かぶら骨(頭部の軟骨)などが挙げられている。
他に、現在の岩手県、静岡県、和歌山県や四国、東北、北陸地方の一部、沖縄県の北部などイルカ漁が伝統的に行われている地方では、古くからイルカ肉も流通している。
大型のクジラの鯨肉に比べると
地域性の強い食文化であり、特にそれらの地域では重要な地位にあったといえる。山梨県では古くから隣接する静岡県からイルカ肉が流通している。(沖縄において鯨類は
「ピトゥ」という表現でイルカと区別がなかったのでイルカだけに限定されていたかは定かではない)
外食産業
東京都内の江戸時代から続くどじょう鍋料理店では、160年間以上にわたり「鯨汁」を提供し続けている店もある。江戸時代の江戸城下では、どじょう鍋屋(柳川鍋ともいう)
で鯨汁が出されるのが一般的で、一説では一番小さな魚料理のどじょう鍋に対しての洒落から一番大きな魚の鯨汁を提供したといわれ、だいたいどの店でもどじょう汁と鯨汁
は同じ値段で十六文で売られていた。明治末期にはどじょう汁が一銭五厘、鯨汁は二銭五厘であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%A8%E8%82%89
841 :
保存。:2009/05/25(月) 21:11:07 ID:LGX7jHi50
>>837 どこからどう見ても、「鯨肉料理は日本の食文化」で間違いありません♪
まァ、先ず私がリンクしたwiki「鯨肉」をよく読んでいただきましょう♪
最初は
>>423。
・神武天皇に鯨肉が献上・織田信長が禁裏へ鯨を献上。・高橋丹波守が北条氏政と北条氏規に鯨肉を献上・長宗我部元親が豊臣秀吉に鯨一頭献上
・室町時代末期に「四條流庖丁書」という料理書に食材としての魚の格付けとして最高位に鯨、二番目が鯉、その他の魚は鯉以下として挙げられている。
次、
>>425 ・流通の常(つね)で生産地の周辺地域に広く消費される傾向にあるが、大坂など近傍経済圏にもこの頃に生まれた伝統的な鯨肉料理が存在する。
・江戸城下では鯨肉を素材に調理した「鯨鍋」や「みそ汁」や「澄まし汁」などが食され、「ホリホリ」「鯨のし」などと称した頭部の軟骨を加工した珍味も売られていた。
・行事などと結びついた料理も生まれた。江戸を含め日本各地で12月13日の煤払い(すすはらい)の後は「鯨汁」を食べる習慣が広まり、その様子は沢山の川柳の記述や
物売りが鯨肉を扱っていた記録が残されている。秋田でも鍋物としては珍しく夏の暑気払いとして「鯨貝焼(くじらかやき)」という鯨のしょっつる鍋が江戸時代から食
されており、夏場になると五艘程度の小舟の船団で鯨漁に出ていた記録が残されている。
つまり、江戸以前の中世でも高級食材として為政者・権力者への貢物に
鯨肉が重用されていたし、江戸時代に入ってからは西は九州・四国・大阪・紀州
東は開拓以前のアイヌの人達の捕鯨と開拓後の鯨食、東北秋田も関東・江戸城下町でも
親しんで食われていた、という事だねぇ・・・w
>>427なんか読んでもらえば一目瞭然w日本中各地で鯨肉料理を「庶民文化」として
楽しんでいた様が伺えます・・・♪
愛護反捕鯨ちゃん、シッカリ読みなさいね?^^;w
>江戸時代には、江戸の日本橋の魚市では「大には鯨、小には鰯、貴品には鯛、鰈等があるなかにも堅魚は近海の名産にして、四月八日の初市には、衣を典し衿を売るも必ずこれを食ふの旧習民間に行はる」
842 :
保存。:2009/05/25(月) 22:40:16 ID:LGX7jHi50
431 :七つの海の名無しさん:2009/05/21(木) 16:08:04 ID:EYuIjDw3
あぁ、それから言い忘れてたけど
「クジラさんのお肉は絶対に食えなくなるまで腐敗してた筈!!」
が錦の御旗の愛護反捕鯨ID:iogmFD++くん、
>>427の↓部分をよ〜〜〜く読みなさいね?^^;
冬が本場の鯨漁から「鯨九十九日」という言葉が古くから残されており鯨肉の日持ちの良さを表した言葉である。実際に紀州熊野灘で捕
れた鯨が江戸まで流通していた記録が残っている。オランダで1832年(天保3年)に刊行されたシーボルト著の「江戸参府紀行」によれば鯨は水揚げされたあと、鯨肉など食用にされる部分は各々の魚商が買
い上げ新鮮なうちに、日本中の港に運ばれたと記述している。
>>427 それから「江戸時代から」・「江戸で」クジラさんのお肉を使った「鯨汁」を
庶民相手に提供してた証拠もね↓♪
東京都内の江戸時代から続くどじょう鍋料理店では、160年間以上にわたり「鯨汁」を提供し続けている店もある。江戸時代の江戸城下では、どじょう鍋屋(柳川鍋ともいう)
で鯨汁が出されるのが一般的で、一説では一番小さな魚料理のどじょう鍋に対しての洒落から一番大きな魚の鯨汁を提供したといわれ、だいたいどの店でもどじょう汁と鯨汁
は同じ値段で十六文で売られていた。明治末期にはどじょう汁が一銭五厘、鯨汁は二銭五厘であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%A8%E8%82%89 鯨汁一杯「16文」って江戸庶民に親しまれてた「二八蕎麦」と同じ値段だよね^^;
さて、もうこれでいい加減愛護反捕鯨ちゃん達の
「江戸庶民はクジラさんのお肉なんか食って無いやい!!」
って哀しい主張は完全に砕け散ったと思うんだけど、如何でしょ〜〜〜か?^^;
まだまだ恥を掻き足りない、ってんならまだ幾つか決定的なソースがありますが、
ドウシマショ?w