25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
>>6 「潮」(潮出版社)2002年9月号
【特別企画】「戦争」を語り継ぐ
サハリン残留韓国人たちの癒えない傷。 粟野仁雄(ジャーナリスト)
戦前、強制連行などで樺太(サハリン)に渡り、半世紀間
故国に帰れなかった人たちのうち 約1500人が韓国に永住帰国した。
(中略)
1945年のソ連軍侵攻時に樺太にいたおよそ30万人の日本人のほとんどは帰国したが、
日本政府は、戦時中「皇国臣民」として日本語まで強要した朝鮮半島出身者の4万3000人
を「日本国籍がない」と置き去りにした。大半は半島の分断後でいう「南」の出身者。冷戦
でソ連と韓国に国交がなくなり、彼らは半世紀にわたり肉親と生き別れた。
(中略)
仁川にある療養院を訪ねた。99年に日本の支援金で完成した、
帰還者が余生の最後を 過ごす施設といってよい。
(中略)
道案内や通訳をしてくれた李周雨さん(68歳)が意外なことを言った。
「この問題は戦後、サハリンから外へ出さなかったソ連政府が悪いんです。決して日本の
責任ではない。戦争に負けて逃げて帰るのに韓国人のことなど考えられないでしょ。それに
強制連行なんて嘘ですよ。商売や募集で渡った人がほとんどです」
さらに、
「韓国政府は反日感情を煽るために利用しているだけで何もしない。帰れるようになった
功労者はペレストロイカ、そして私たちのために尽くしてくれた日本です」
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 20:59:48 ID:l0zElu/S0
サハリンに残された朝鮮人
高木健一 たかぎ・けんいち (1944− )
『今なぜ戦後補償か』(2001・講談社)
戦後、ソビエト連邦の支配下となったサハリンには、約三〇万人の日本人も残されていた。
終戦直後には、敗戦国民である日本人よりも朝鮮人のほうが、祖国帰還に有利と見られて
いたらしく、一九四六年春に、ソ連の人民警察に身分証明書を申請しなければならなくなった
時、朝鮮人と偽って申請する日本人もいたという。
ところが、その年の一一月、「ソ連地区引揚げに関する米ソ暫定協定」によって引揚げる
ことができたのは日本人だけであった。朝鮮人は引揚げ対象者から外されたのである。
一〇年後の、一九五六年、日ソ共同宣言による第二次集団引揚げで、残りの日本人も
ほとんど全員が帰国した。しかし朝鮮人の場合は、日本人を妻とする朝鮮人のみが日本に
引揚げることができたのである。
(中略)二〇〇〇年一二月に公開された外交文書のなかに、外務省アジア局の本音を語った
文書があった。それは韓国政府が、サハリンの残留韓国人の引揚げを要請したことに対して、
一九五七年(昭和三二年)八月九日付けで外務省アジア局第一課が作成した文書である。
そこには外務省幹部のことばで、「朝鮮人の引揚げは見当違いもはなはだしい」とある。
戦時中の「朝鮮人は何ら差別を受けていたわけではなく、日本人も徴用を受けていた。むしろ、
朝鮮人は終戦近くまで兵役免除の特典を受けていた」「終戦後、朝鮮人は解放者として
いばりだした」などと書かれている。一九五七年といえば日ソ共同宣言の翌年であり、日本人
の第二次引揚げ事業が開始された年である。(中略)
また一九八七年に、ソ連赤十字社のベネディクトフ総裁が日本赤十字社社長に宛てた書簡
のなかに、「一九四五年から一九四八年にかけて、日本国籍の日本人は日本に引揚げて
いきましたが、朝鮮人については、(日本政府は)ポツダム宣言の条文を引用して、以降
日本公民とみなさないように公式に要請してきました。その結果、朝鮮人は無国籍者として
定住すべく(サハリンに)残留しました」という記述がある。これは、最初の日本人の引揚げ
事業と時期的に対応しているのである。
これらの事実は、日本政府が明確に朝鮮人の帰国阻止に動いていたことを示している。
こうした日本政府の棄民政策、原状回復の放棄によって、サハリンに残された人々の上に
異郷の地での五五年の歳月が流れることになる。
http://www.catnet.ne.jp/f451/lib8.html
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 21:00:14 ID:l0zElu/S0