原爆投下を唯々諾々と受け入れる日本人の精神構造

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221名無しさん@お腹いっぱい。
68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/09(木) 19:50:52 ID:UFvNRTCl
週刊朝日 2007年8月17日号

長崎原爆62年目のミステリー
「浦上天主堂」廃墟はなぜ壊されたのか?
消えたもうひとつの「原爆ドーム」
http://opendoors.asahi.com/data/detail/8278.shtml

          ↑
長崎市長を懐柔し、真珠湾攻撃記念日に長崎とセントポールの姉妹都市提携を実現させ、
それをきっかけに広島原爆ドームどころではない世界遺産と成り得た浦上天主堂を見事に
解体させたアメリカのドス黒い陰謀を詳述。

 ■米国の願望
 ささやかれたのは、米国政府からの懇請、あるいは説得、あるいは圧力…。あくまで推測の域
を出ない。だが、天主堂の残骸は、米国への怒りを再生産し続ける、そして世界中のカトリックを
永遠に敵に回すものである。米国にとって保存への動きは好まざることに違いなかった。
 姉妹都市提携は被爆地長崎への慰撫(いぶ)策だった。その意味で「つくられた縁組」あるいは
「用意された姉妹都市」と言っていい。そして、その延長線上に天主堂撤去という米国の願望が
間接的ながら見えてくる。 五八年春、廃墟(はいきよ)の天主堂は姿を消した。その二年後、
広島では急性白血病で亡くなった被爆少女の手記をきっかけに原爆ドームの保存運動が
スタートする。
 広島の取り組みをみるとき、廃墟保存を全市的運動にまで押し広げることができなかった
長崎の思想的未成熟を思わざるを得ない。天主堂喪失―それは核時代の歴史力に欠けた
長崎市民自身の敗北であった。
http://www.nishinippon.co.jp/media/news/0208/genbaku/rensai/dansou/02.html
222名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/08(土) 16:43:03 ID:uL9AtfJY0
>>221
ひと:旧浦上天主堂撤去の謎に迫る 高瀬毅さん

 「見てください。戦後64年たった今でも頑丈に建っている。なぜ取り壊さなければならな
かったのか」
 原爆で破壊された旧浦上天主堂(長崎市)の一部は元の場所から南西約500メートルの
爆心地公園に移されているが、目を留める人は少ない。「そのまま保存されていたら、
核兵器の非人道性を訴える力はもっと強かったはずです」
 7月に出版した「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」(平凡社)が反響を呼んでいる。
長崎市は旧天主堂の廃虚を保存する方針だった。1955年に米セントポール市と日米初の
姉妹都市となり、翌年に当時の田川務市長(故人)が訪米すると突然「撤去」に方針転換。
市議会が全会一致で「保存」を求めたが58年に壊された。
 自身は被爆2世。廃虚となっても荘厳さの残る旧天主堂の写真に「神の啓示のようだった」
と衝撃を受け、謎の解明を始めた。 米国立公文書館を訪れるなど3年がかりの取材で、
田川市長の訪米に当時大統領直轄だった広報・文化交流局の関与が判明。米国での天主堂
再建の募金を報じる現地新聞に、「廃虚の撤去を前提」という記述を見つけもした。「被爆の
痕跡を消そうとする流れを感じます」
http://mainichi.jp/select/opinion/hito/news/20090808k0000m070132000c.html

■取り壊された「浦上天主堂」の廃墟
http://laudate.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_9f3b.html
原爆で廃墟と化した浦上天主堂と被爆マリア像
http://y-sonoda.asablo.jp/blog/imgview/2009/07/05/af545.jpg.html
保管されていれば、間違いなく世界遺産となっていたことを考えると残念でなりません。
http://d1-k.co.jp/kyuukei/maria/maria.htm
長崎 浦上天主堂の被爆した聖人像
http://riseross.blog33.fc2.com/blog-entry-77.html
浦上天主堂
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/uragamitennsyudou.htm
浦上教会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E6%95%99%E4%BC%9A