643 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
『FACTA』10月号(9/20発売)の中の記事まとめ
(同誌は元日経記者(編集委員もした)を経て
会員制雑誌『選択』の編集長をしたジャーナリストが創刊して3年目)
@「秋篠宮が敢然と兄宮批判」
まず、雅子妃の外国へ行けなくてつらい発言や皇太子の人格否定発言など、
皇太子と同妃の発言は「臣下」を公然と批判した発言で、
皇族として前代未聞のことであると記者は書く。
また「天皇に私なし」は天皇家の伝統、天皇皇族としての心がまえ。
天皇の心は、「国平かに民安かれ」であり、
江戸時代の後水尾天皇は「天地には私なく人には私あることんれば、
深く慎まるべきことこそ」大事であると記している。
昭和天皇も「公を先にして私を後する」と側近に語っている。
紀宮も「公務は私事に先んじるという陛下のご姿勢は、
私が幼いときから決して崩れることのないこと」と誕生日会見で語っている。
しかし、雅子妃が皇室に入ってから、
公と私の問題で天皇家に不協和音が生まれたのではないか。
伝統的公務をリストラして自分たちの思うような公務をしたいという皇太子と
同妃の発言は「私」としての主張であり、
皇室の伝統にそぐわないと、秋篠宮は諫言したのだ。
644 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/07(火) 17:56:32 ID:mUOpHJyp0
A「皇后と雅子妃の違い」(中味は天皇家の歴史の中での兄弟について)
雅子妃の日常は、親が東宮御所に出入りし家族と行き来を繰り返し、
実家の別荘で静養など、これらはすべて「私」である。
一方の美智子皇后の実家は、娘は皇室に差し出した今や公人であるという認識だった。
皇后の母、正田富美子の臨終のとき
皇后は秋篠宮と紀宮だけを連れて行き天皇、皇太子は遠慮してもらったのは、
皇位継承者の見舞いは「おそれ多い」と考えたからだ。
ヤンチャ坊主だったアーヤが皇太子夫妻に
諫言するまでに大きく成長したのは、皇室の危機感であろう。
兄弟についていえば、昭和天皇と、秩父宮、高松宮の間には、
はっきりした確執があった。
ヒトラーと会見し国家改造論に共鳴していた秩父宮と昭和天皇は、
三国同盟などについて激論する。
高松宮とも終戦をめぐりたびたび衝突する。
敗戦責任をとつて退位し、幼い皇太子に譲位する構想も一部では考えられたが、
「そうなると高松宮が摂政になる」と懸念している。
兄姉弟間の継承は過去に27例ある。
古代の5〜7世紀は兄弟継承が多く、27代安閑天皇から28代、29代は、
26代継体天皇を父とする。
30代敏達、31代、32代、33代(推古・女帝)の4人は、
欽明天皇の子だ。当時は兄弟間で皇位を継ぐのが通例だった。
それに逆らったのが38代天智天皇で、
弟の大海人皇子を即位させずにわが子の大友皇子を即位させた。
39代弘文天皇である。そこで大海人は兵を挙げ(壬申の乱)、
天皇を追い落として自害させ40代天武天皇となった。
皇位継承という観点から皇太子と秋篠宮の関係を見ると、
秋篠宮が皇太子に継いで継承すれば127代となる。
次は悠仁親王で再び直系に戻り,秋篠宮家の血統が続く。
645 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/07(火) 17:57:23 ID:mUOpHJyp0
B「東宮と一般皇族待遇差」
将来の天皇が出る秋篠宮家は、
皇太子家に比べ予算や人員が貧弱であるという声が出始めていが、
東宮がいかに特別な待遇かを説明。奈良時代の持統天皇から始まる独立組織で、
もう一つのミニ宮内庁といえるほど独立性が高く、天皇も遠慮がちだ。
C「断ち切れぬ兄弟の力」
確執のあった昭和天皇と他の兄弟も、高松宮は象徴天皇の形成に奔走し、
昭和天皇は後に弟宮たちを思う歌を詠んでいる。
皇太子と秋篠宮に親しい兄弟付き合いがあるとは耳にせず、
最近では世間の一部から
「皇太子を廃嫡して秋篠宮が継いだらどうか」という発言も飛び出す。
しかしそれはできない。兄弟は不仲とはいえず、
弟宮にすれば今後も諌めもするがともに皇室のために働こうという決意である。
何より今上陛下と皇后陛下の作り上げた温かい家庭でともに育った兄弟であるのだから、
そこで育まれた兄弟の緊密な絆、簡単に断ち切れることはない。