皆さんは、小学校の国語、中学の社会、高校の日本史で、足尾鉱毒事件について、田中正造が政府が何もしてくれなかったので、明治天皇に直訴したと教わったと思います。
しかし、これは真っ赤な嘘です。
当事者の古河鉱業は、加害者責任をすぐに認めて被害者に賠償金を支払い、政府は徹底した公害防止対策を立ててこれを命じ、古河はそれを忠実に実行し、その結果、被害農地は直訴以前に回復の兆しが現れ、直訴の3年後には完全に回復しているのです。
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/17(日) 22:11:57 ID:6tgeuDXJ0
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(| |):::: それ本当なの?
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し \:::
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| |r┬-| | 相当な年代ものだから値打ちがあるはずだお!
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http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/occult/1157797995/
一番問題なのは、早くも小学校の国語教科書で「田中正造」を教えていることです。
教育出版の6年の教科書に載っている、童話作家来栖良夫の「田中正造」がそれですが、次のような部分があります。
「明治政府も、銅山のあたえる被害を認めないわけにはいかなくなった。鉱山側も、わずかの補償金を出して、被害地の人たちをなだめすかし、あるいは、<(欧米の)機械を入れて、鉱毒を出さないようにする。>と言ったが、被害はますます激しくなるばかりである。」
事実は全く違います。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 21:22:34 ID:U/H+j67q0
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/18(月) 21:49:48 ID:Ir+HX+Vd0
安彦良和の「王道の狗」に出てきた田中正造像は豪快で面白かったな。
この漫画での悪役は外務大臣の陸奥宗光。次男が古川鉱業経営者の養子だし、
議会で田中正造の質問を「意味が分からない」と一蹴したからね。
住民から石を投げられても、国策の為と自分の考えを曲げない陸奥。どちらも
男だけど、住民はたまったもんじゃないわな。移住するにも知識・資金がないとね。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/19(火) 09:49:25 ID:FWrby6ps0
現実問題として、いまだに足尾ではまともな米も野菜も作れない。作ったと
しても売れない。
>>1の意図が解らない。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/19(火) 10:50:59 ID:wjiPjcSd0
いまだに足尾の植樹とかやってるのを知らないんだろ
田中正造が始めて国会で質問をした2ヵ月半後には、政府は「原因は足尾銅山からの排出物にある」と官報で公表しました。「認めざるを得なくなった」のではありません。
足尾銅山主の古河市兵衛も、この結論に何一つ異議を挟まず、すぐに被害農民と示談交渉を始め、8500戸ほどの被害民に総額で10万円(今のお金で10億円)ほどの損害賠償金を支払いました。
この行為が、なぜ「なだめすかした」ことになるのでしょう。
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/19(火) 21:33:02 ID:IudpM3hL0
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/19(火) 22:05:59 ID:UaxPih5Z0
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/19(火) 23:02:20 ID:ubQ2KkJp0
北海道大学の構内、図書館横には
古河講堂なる明治に古河から寄贈された金で造った
白塗り木造の洋風建築があって今も研究室が入ってる。
観光目的での立ち入り禁止。
横を通る度に「汚い金で作りやがって・・・」と思ってた。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/19(火) 23:07:43 ID:2WO3qrhc0
>>1は古川工業の社員。
ブルジョワの狗は血祭りに上げなければならない。
PCに詳しい人、1の個人情報を晒せww
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/19(火) 23:27:17 ID:u2Iv+g+n0
『直訴は必要だったか砂川幸雄著。足尾鉱毒事件の真実との副題、興味をもって読みました。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/19(火) 23:32:50 ID:IudpM3hL0
直訴しなきゃ、陸奥宗光に握りつぶされていたんじゃ?
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/19(火) 23:47:10 ID:u2Iv+g+n0
足尾の植樹運動凄い。今年の夏見てきました。もう一度足尾の歴史を見直さなければね。「公害の原点の町」なんて気の毒です。
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/19(火) 23:56:28 ID:u2Iv+g+n0
足尾の植樹素晴らしかった。今年の夏みてきたよ。『公害の原点の町」なんて気の毒です。
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 09:28:15 ID:u7i7hACe0
足尾の人達にこのスレ教えてあげたい。どういう反応するか・・・
>>18 >>19 君の言ってる通りなら、公害には企業もかく対処すべしと言うモデルケースとして、
「公害の原点の町」は妥当だし、むしろ誇りにすべきキャッチフレーズではないかな?
「被害が激しくなった」のも、加害企業のせいではありません。明治29(1896)年の夏、渡良瀬川に3回もの大洪水があったため、深刻な不作になったのです。
日本の公害の歴史において、最初から加害者責任を認め、示談金を支払ったケースはありません。
ですから、政府や市兵衛を誉めるのが本当で、文句をつけるのは筋違いというものです。
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 00:23:28 ID:E2ZZIHYRO
>>1は足尾に行ったことあるのだろうか?
未だに植樹を続けなくてはいけない状態の山肌や鉱山跡地を見たことはあるのだろうか?
ゴタク並べてないで自分の目で足尾の現状見てみろよ。
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 01:06:35 ID:++T3rKhh0
>>21 2chでメールアドレス曝すのは、危険きわまりない行為としか言えない気がするのですが…。
かく言う、オレのメアドもスパムメールが99%のとんでもない状況で…。昔ネット懸賞やりまくって
あちこちにメアドを書きまくったせいだろうなあ。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 04:30:53 ID:nX1Anq9B0
渡良瀬遊水地って、田中正造が住んでた村を政府が潰して造ったんだってね。
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 12:02:03 ID:BP7wT5R20
山間部で洪水になるっていうことは、樹木が枯倒して山自体に保水力がなくなった
から起こることだよね?その枯倒の原因になったのはなんでしょう?鉱毒だよね。
(当時としては山の保水力とか大気に含まれる鉱毒成分が樹木に悪影響を及ぼす
なんてことは認識されていなかったのだろうけど)
そして洪水になったから不作になったのではなく、洪水に貯水池の鉱毒がまざり
当年はもちろん、その後何十年も不作に悩まされる結果になったと歴史書物は
語っているが、それはでっち上げだとおっしゃるのかい?
仮の話で申し訳ないが、自分の生まれ故郷が足尾のようになってしまってら、
「認めた」り、「補償された」でその汚染原因の企業に対してあなたは同じ態度
でいられるのかい?sunagawaさん?
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 15:28:35 ID:Vzde40DMO
田中正造は死んだ時はほぼ無一文
いかに選挙妨害され続けても常に当選
人望も厚い人物
古河は陸奥を始め政府要人とズブズブ
結果古河は癒着による繁栄が続いた
銭ゲバ
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/21(木) 20:28:35 ID:Et/1jZ8jO
川淵キャプテンと岡ちゃんも元古河電工社員(サッカー部員)だよな。
ちなみに古河とジーメンスの合弁企業が富士電機(両社の頭文字から)で、そこから独立したのが富士通。
貴重なコメントをいただきましたので、この辺で、皆さんのご意見にお答えいたします。
Aの方へ。アマゾンの『直訴は必要だったか』にある、読者の感想文を読んでみてください。
Dの方へ。明治30年(1897)6月、古河市兵衛の個人商店は、組織を改革して「古河鉱業事務所」と名前を変え、丸の内の三菱館に移転しました。古河鉱業の『操業100年史』に書いてあります。知ったかぶりをしても、すぐ底が割れますよ。
Fの方へ。足尾の地勢は、米や野菜を作るのに適してはいません。
Kの方へ。古河鉱業は、名前が変わっていますが、世間が怖くて、絶対に田中正造のことなど社内報に書きませんよ。
Lの方へ。北海道、東北、九州の三帝国大学は、古河鉱業が、その創立資金すべて(校舎の建設費その他)を、政府の要請で寄付したのです。ご存知でしたか?
Mの方へ。@が誰かはすぐに分かってしまうでしょうが、今は明かしません。ただし、古河とは無関係です。
Oの方へ。陸奥宗光が政治的に動いた証拠はゼロです。田中正造が言っていたとしても嘘です。正造の虚言は、全集を読めばすぐ見つかります。
Rの方へ。「足尾歴史館」には、公害防止工事の写真が沢山展示されていますから、鉱毒事件の真相は、あなたより詳しいと思います。
Sの方へ。鉱毒問題が解決して田畑が復旧したのですから、「公害問題解決の原点」というべきだと、そのうち分かるでしょう。
国語教科書(小学6年)の「田中正造」という文章は、きちんと教えるべき歴史的事実を、生徒に教えないように図っています。
それは、被害民が、「大挙上京請願行動」(「押し出し」と呼んだ)という実力行使を2回も実施したことから、これに対応した政府が、古河市兵衛に徹底した公害防止工事を命令し、市兵衛が、足尾銅山の年商の半分以上の巨費を掛けて、この工事を完遂させたという事実です。
そうしておいて、話を3回目と4回目の押し出しに飛ばすのです。
これは、不都合なことは隠蔽してしまおうという、だましのテクニックにほかならず、生徒に対する裏切り行為です。
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/23(土) 10:25:51 ID:I009/Owo0
年商の半分使っていようが、多くの人間が被害を受けて大変な目に
あったんだからなあ。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/25(月) 00:54:33 ID:3SpEFdC90
>>26 人望も厚い人物と思っていましたが、どうも違うようです。神話になっている一つに「歳費辞退届」を提出し無報酬で国会議員を続ける道を選んだことがあげられるが、その裏では無収入のため選挙支援者やその他の人からの借金を踏み倒して恨まれたらしい。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/25(月) 12:43:57 ID:Z5QxMTLh0
借金を踏み倒したのはどうやら事実らしいが、現代のように支援団体が
あるわけでもないし、現実問題として「返せなかった」のではないかな?
どうして歳費を辞退したのか考えてみよう。
事実だけを理詰めで追求し、その時代のバックボーンや風潮、当事者の
心理心情状態などを無視して当時を語るのは一面性しか捉えていないのと
同じことだ。ソースソースと泣き喚く2チャイルドみたいなまねはおよしなさい。
国語教科書の問題点の続きです。
「田中正造」という文章は、政府に公害防止対策を実施させた1、2回目の押し出し(上京請願デモ行進)については何一つ書かず、
3回目と4回目の押し出しに関しては非常に細かく書いています。
しかし、3,4回目の押し出しは、公害防止工事の効果が出るのを待ちきれなくて実施したもので、
明らかに間違った闘争でした。
4回目の押し出しの翌年に豊作の農地が出始めるからです。
それなのに、作者は、農民を弾圧する政府を告発するごとくに、4回目の押し出しのことを、
子供たちに向けてこう具体的に説明するのです。
「(明治33年2月)13日朝の出発のときに、2千5百人ほどであった一行は、1時間余りで、
1万2千人にもふくれあがり、昼過ぎに、群馬県川俣の利根川のわたし場へさしかかった。
この時、東京へ向かう農民を防ごうと待ち受けた警官、2、3百人が、時の声をあげておそいかかってきた。
農民たちは、田畑をにげ回った。しかも、栃木県界村の助役野口春蔵ら68人は、裁判所へ送りこまれた。」
いったいなぜ、こんな不確定な数字まで小学生に教える必要があるのでしょう。
「裁判所へ送りこまれた。」という文から、作者が、裁判所は何をするところかさえ知らない、ということが分かります。
デモ隊の参加者数は、主催者側と警察側では大幅な違いがあるものです。
教科書はデモ隊側の立場で書いているのですから、明らかに偏向した情報といえます。
岩波新書の『田中正造』も当然デモ隊に同情的ですが、それでも、この部分は下記の
ようになっています。
「館林警察の記録によれば、その数は2500余人という。<下野新聞>1万2000人、
その他被害者の回想では3000あるいは3500人ともいい、その数は確定できない。
被害民の隊列は、渡良瀬川を渡り、館林の町並みを抜けて利根川の河畔に着いた。
ここに防禦線をしいた警官隊180名、憲兵10名と衝突。」
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/27(水) 01:32:58 ID:kvXWbLe9O
田中は聖人
古河は銭ゲバ
田中正造のことを「人望も厚い人物」と信じておられる
>>26の方に。お金を貸したのに
返してもらえず、「金返せ」と悲痛な叫びで訴える農民・島田熊吉、増田清三郎の正造宛
の手紙を、ぜひ読んでもらいたいと思います。全集で、明治41,42,43年の分を探せば、
簡単に見つかるはずです。
歴史は、元の資料に直接当たらなければ、本当のことはわからないものです。
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/27(水) 22:18:19 ID:kvXWbLe9O
田中は私腹を肥やす事無く民の為に一生を捧げた大人物
古河は政治家とズブズブになり私腹を肥やした銭ゲバ
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/27(水) 22:27:40 ID:HBbqfdd60
1さんの言うことが事実として、古河財閥がなぜ歴史的にそのような濡れ衣を着せられるに
なったかについて教えてください。
この後の自虐史洗脳教育へとスムーズに移行できるようにするための布石に決まってんだろ。
全集から探すのは面倒という人のために、正造に貸し金を踏み倒された、埼玉県河辺村の
増田清三郎の督促状を、手を加え、短くして紹介します。
彼は、4年前に、1割2分で人から200円(今の200万円ほど)借りて、正造のために融通し
たのですが、何度催促しても駄目で、東京の逸見斧吉から代わりに少し貰っただけ。
持っていた畑まで借りた人に取られており、残金170円を早く返せと、狂ったように正造を責
め立てています(原文でなければうまく伝えられませんが)。長くなるので以下次回。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/28(木) 22:21:52 ID:gk2liO3H0
狂ったように責め立てたって
>死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、
>小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった
くらいなので逆さにしたってはなぢも出ません。
小石3個は借金取りにぶつけるためかな。
42 :
あき日和の夫:2006/09/28(木) 23:42:54 ID:fvpwykJs0
足尾の人間です。足尾は公害の原点というレッテルが貼られていますが、
日本の産業の原点でもあると思っています。
日本が植民地になるのを防ごうとした「明治維新の気概」を支えた一つが
足尾です。
足尾には光の部分と陰の部分が併存しています。陰があったからこそ、光が
生じたと思っています。
激動の歴史が足尾から生じましたが、近代産業の基盤としての鉱業が、日本
に根付いていく過程で生じた陰の部分を鮮明にし、それを解決していったこ
とこそ足尾の光だと捉えています。
その一番端的な出来事が、鉱害の無害化だと思っています。鉱山は、地中で
安定していた硫黄分を外部に出すことになります。それを人間にとって無害
な形に変えていくことが、鉱山にとって必然的な使命となります。
田中正造の言に疑問は多々あります(『直訴は必要だったか』読むべし)が、
「鉱害を防ぐ」が足尾の根本的な方針として根付くきっかけとなったのは事実
で、それが亜硫酸ガスから硫酸をつくりだす技術の創造につながったと思って
います。(だからどうなのと、ことの善悪を論じ出すときりはないと思います)
人が生きていくことは必然的に負の部分が生じることであり、それをできるだ
け小さくしていこうとするのが、人としての生き方として真っ当だと思ってい
ます。足尾をぜひ訪れてください。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/29(金) 16:36:34 ID:qTkBb1CxO
まあ民の為に一生を捧げた政治家(田中)と
金の為に一生を捧げた銭ゲバ(古河)の違いって事だ
陸奥宗光に言わせると…「日本が欧米に占領されないためにも、富国強兵の道は
必然だ。そのため、多少の犠牲はやむを得ない。明治維新によって移住の自由は
保障されているのだから、嫌なら移住したらよい」ってコトになるんだろうな。
そりゃ、夜中に襲撃されるわな。
これこそ右翼と左翼の論点だな。
右翼・・・国家繁栄の為に多少の犠牲やむなし。文句言う奴は非国民。
左翼・・・市民の生活を脅かす企業や、その肩を持つ国は糾弾すべき。
マンガ日本の歴史でも言い争う場面があった様な。
当時は国家繁栄しなければ欧米列強に脅かされる時代だったから。
難しい問題だ。
(田中正造宛増田清三郎の督促状・明治42年6月20日付)
「貴君は鬼であるか蛇である。盗賊である。所持の田畑を君の利子のために取られてしまい、
家族9人は毎日食べるものがない。いよいよ乞食です。小生は昨年1月より病気です。
この体で毎日毎日仕事に出ている。田中君、君にはゼニがなくても人が食わせる。泊めもする。
人力車も引きます。小生、実に力なし。この書面つき次第に、田中正造殿、刀を持って家族9人
を殺してもらいたい。よく見ろ、考えろ。大至急小生宅の9人を殺せ。鬼どん、殺せ、殺せ。」
.
>>26の方は「死んだときは無一文」と感心していますが、自分で稼ぐことをせず、逸見斧吉等から
お金を貰い、貧乏な農民からまで無心する人が、無一文なのは当然でしょう。
これが、皆さんが知らされていない田中正造の一面の真実です。
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/30(土) 09:08:53 ID:+o4j9GlBO
人気のある人物(田中)にアンチはつきもの
まあ銭ゲバ(古河)よりマシってこった
>>47の方の解釈はあくまでも願望で、時間的に成立しませんよ。
増田清三郎を含む利島村、河辺村の人々が谷中村の闘争を支援したのは、2002年の100年前
ですから、明治35年になるではありませんか。お金を貸したのは明治38年です。
>>49 で、それがどうして願望だと?
だって、増田清三郎氏の墓のすぐ裏に正造の「霊堂」があるんでしょ?
和解したんじゃないのか?
51 :
秋雨前線:2006/10/01(日) 21:48:30 ID:7UhRD6lF0
ある方の話を聞いたことがある。家に田中正造が時々来て、また来たという
感じだけれど、来ると金を用意してもたせていたという。無一文だったので
きっと今時のカンパというところかな。
それにしても、国会議員の報酬を返上して、皆さんに公然と金をもらいに来る
とは、今時の新興宗教の教祖みたい。
今はそういうのは警戒されて殆どないんだけど、数十年くらい前なら
宗教関係や募金関係で「お金をください」って家々をまわってあるく行為は
ふつーに見られたコトだよ。
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 22:39:22 ID:7UhRD6lF0
そうか。もらえるから、国会議員の報酬を断っていちかばちか生活できる
とカンパ生活に入ったのか。
それにしても、職業に就いたことがないと聞いてますが、そうなんですかね。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/01(日) 23:09:00 ID:HEC23pqe0
きっと
>>1は、似たような行為でお金を集める詐欺をやろうとしたけど誰にも相手にされなかったため、
田中正造に八つ当たりしているのでしょう。
そっとしておいてあげてください。
ちなみに宗教関係の戸別訪問の募金が警戒されるようになった最大の原因が
統一協会の綺麗な女信者による夜中の募金から。
せっかく慈善事業に募金をしたと思っても、実は韓国に送金されてて、宗教活動
に利用されていたという…。
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 09:09:18 ID:hTWEji5Q0
田中正造は国会の歳費を断って聞こえはいいけれど、農民のなけなしの金まで
借りて返さなかった。古河は鉱毒予防工事命令に従い104万、今の金にすれば104億
を独力でやっている。金のけたが違うし、内容も違う。自分のやろうとすることの
為に生活費を人に出させる人、本末転倒と公害を防止しようと年商に匹敵する金を
つぎ込みやろうとする人。だからあの渋沢栄一がその人柄に惚れ、終生の友とした。
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 11:13:12 ID:OoBvC46EO
田中は民の為に生きた本当の政治家
古河は金の為に生きた本当の銭ゲバ
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/02(月) 19:47:55 ID:hTWEji5Q0
よく目を開けてみてごらん。頭からちょっとそれを外すと、もっとものがよく見
えるのに。見えない人、気の毒。
選挙支援者、示談金をもらった農民からまで借金を踏み倒し、憎まれていた。
悲痛な手紙が残っているの読んでみて。
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/03(火) 12:54:49 ID:WKu/L0Fx0
あまりにもつくられてしまっている偽像だったんですね。あの写真を見たら
イメージが一瞬に崩れ、納得できましたよ。つくられてしまう像、そういうことは、
よくある話ですからね。
田中正造は、立ち退きに反対してこの村に残った島田熊吉からも借金し、踏み倒しています。
全集には、3年7ヶ月たっても返してもらえないとして、明治43年4月3日に正造に宛てた島田
の手紙が載っていますが、これもまた、あまりにも非常識な内容です。
島田熊吉も、立退き料を貰った村人から借りて正造に融通したので、もし返してもらえなければ、
自分がいつか政府から補償金を貰ったとしても、その返済で消えてしまうと、嘆いています。
正造に貸したのは340円ですが、手紙には「財産を失うのがいやで、この村で頑張り、乏しき、
貧しき生活をして、仮小屋で、僅かの手稼ぎでその日その日を暮らしていますので、あなた様
にご用立てした金円、至急ご返済願います。」とあります。
彼は、遊水池にされる谷中村の農民を助けるために、この村に住み込んだはずです。
それなのになぜ働いて稼ごうとせず、その農民を平気でこのように苦しめたのでしょう。
島田熊吉って調べてみると、田中正造の遺体を一時保管したり、遺品を持っていたりしているぞ。
そんなに酷い関係だったら、ふつーそんな世話したり、遺品もらったりするわけないわな。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 15:55:28 ID:My/7Aseq0
61:のお話しはおかしいですよね。60:のお話しは、実際にあったことでしょう。
こんなにはっきりわかっているんですね。よーくわかってきました。
酷い関係でも、死んでしまったら仕方がないんじゃないんですか。ひどい人でも
正造の遺品持っているからおかしいとは言えないでしょう。そういうことって
ありますよ。
>>62 レッテル張りスンナ
>>60 農民は古河の大開発以降の酷い現状から脱却したい。
古河は、反対運動を抑え込むために、硬軟使い分けて努力する
(当然、事業に対する損を抑え込もうとしてのことである。)
そうしたところに運動家が入ってくる理由があるわけだが、
最初から補償金額つりあげ交渉をやってるゴロじゃないので、
運動にかけた時間と手間に見合った金が入ってくることはないし、
古河の政治的インパクトからすれば、完全勝利など全くムリな状況。
勝ち目の無い戦いを挑んで、一定の成功は挙げたけど、
所詮は近代日本の産業化の流れの中では、主流になりえなかった。
それだけのことであって、金を返せないうんぬんで叩くのは意味が無い。
端から勝ち目の無い戦いを指導して農民を苦しめた、というのであれば、
大東亜戦争とかいって国民を煽り立てた連中の方が、よっぽど失敗しているし、多くの犠牲者を出しているわな
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/04(水) 18:50:42 ID:My/7Aseq0
随分理屈こねる人。そして何気取ってんの。そんなことは全然ないでス。
田中正造の側近でもっとお気の毒な人に、左部(さとり)彦次郎がいます。
群馬県池田村の酒造家の跡取りだった彼は、鉱毒反対闘争の始めから、正造の忠実な弟子として
この運動に没頭し、活動家中ただ一人、正造に従って谷中村にも入りました。
しかし、家業は職人に任せ、活動資金も自腹を切っていたため、代々の酒造家で豪農でもあった
左部家も、このとき没落の憂き目にあっていたのです。
やむなく彼は、正造に黙って谷中から離れ、栃木県の土木部に就職したのですが、腹を立てた正造
は、「谷中もいよいよ盗賊が侵來せり。サトリ、川ナベ今悪魔。」と、知人への手紙で非難しました(川
鍋とは、やはり正造の前から突如消え去った谷中村の活動家)。
この手紙は明治40年2月22日付けです。全集で確認してください。
情報は一応疑ってみるべきです。
「歳費辞退」について「どうして辞退したのか考えてみよう」とおっしゃる.
>>32の方へ。
私が調べた事実を紹介します。
早稲田大学卒の左部彦次郎は、側近の活動家中一番のインテリで、『歳費辞退・田中正造翁』を自費で
出版しましたが(明治32年)、この本によれば、800円を2000円に歳費を増額しようという政府提案に、
正造は最も強硬に反対しました。
しかし、多数決で政府案は通ってしまったのです。
その時正造はどんな行動をとったでしょうか。
増額分1200円を拒否したのみならず、歳費そのものの受け取りを拒否する「歳費辞退届け」を議会に
提出したのです(明治32年4月19日)。
政治家としてなんと立派な人なのかと、皆さんは感心すると思います。
実際彼は、支援者に向けて、次のように見事な言葉を吐露しています。
>>65 両者ともしょうがないと言えばしょうがないつーかw
その程度は目こぼしできんのw > 反田中派の人
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/05(木) 23:48:20 ID:pNWkItGd0
田中正造は明治の田中康夫だったわけですね。
>>66からの続き。辞退届けの2日後に甥の原田定助に宛てた正造の手紙です
(明治32年4月21日)。
「今、議員歳費2000円を辞す。人は馬鹿という。(しかし、この行為は)人心の腐敗に幾分の
矯正を為すこと疑いなし。嗚呼、世の政治家の馬鹿、この理を知らず。宗教・道徳家また、良く
これを行うものなし。」
しかし、正造の後援会の台所事情は大変でした。
すでに明治25年には、佐野銀行への債務は1500円以上ありました。
これは、後援者等が800円の正造の歳費を抵当にして借りたもので、彼らは、
歳費の半分を強制的に取上げ、これで佐野銀行への返済をし続けていたのです。
ですから、支援者の一部の人々は失望のあまり正造の行為を恨み、同情は地に落ち、
反対者も増え、その後、選挙民は正造に何も相談しなくなった、ということです(柴田三
郎著『義人田中正造翁』)。
砂川幸雄?
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 03:32:49 ID:X+GQHvOF0
うーん徹底的な調べ、だから見えてきたんですねー。しっかりと。
田中正造の狂気としか言いようがありませんね。何考えているんでしょうね。
それは支援者は怒るはずです。自分だけいい子になるって感じかなぁ。
嗚呼、世の政治家の馬鹿、この理を知らず、とか言ってかっこつけてますが。
立派な言葉を並べて自分を大きく見せている感じがありますね。この立派な
言葉にだまされるんじゃないでしょうか。歳費を断ったことまでで判断して
しまうと大変素晴らしいと思って聖人にまでなってしまうんでしょうね。
自分を支援してくれている人たちのことは思いやることもできないで、かっこ
つけてもしょうがないですね。
なんか、史料引っ張ってきてる書き込みを読めば読むほど、
田中正造に対する尊敬の念が生れてきたぞ(笑)
学校の授業じゃ、ただの市民運動家の走りみたいで嫌いだったが、
あんな連中、目じゃないぐらいのトンデモない人物だったんだなぁ
仮に田中がいなかったら、渡瀬川周辺の公害問題はチッソ以上のもの凄い状況に
なっていたに違いない。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 22:26:02 ID:X+GQHvOF0
73:どういう根拠でもの凄い状況になっていたと言うのですか。教えてください。
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/07(土) 22:33:27 ID:X+GQHvOF0
間違った資料を読んでいれば尊敬の念が生まれるんでしょう。
本当にとんでもない人物だったんです。
>>74 自主的に古川鉱業が公害対策とるのかw
その可能性は低いんじゃないのか?
>>75 ここのスレの田中批判のために挙げられた史料って間違ってたの?
全部でたらめな批判だったわけ?!
とんでもない信念で引っ掻き回しまくったんだな、田中正造
よかった、周りにこんな信念の人がいなくてw
1はイイ奴だな。
古河も頑張りやさんだと思ったが田中も逝っちゃってて楽しいと思ったよ
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/10(火) 20:09:23 ID:IyPAq7Uf0
公害対策って?世界中の科学者が考えて古河が80年以上止めるのにかかったのに、
偉そうに何が自主的に公害対策とるのかWなんて、簡単に言えたものだ。低かったら
今電気は使えない。そのおかげで、電気を安全に使えるんだし、あなたが出した
ゴミのダイオキシンも無害にできるようになったのよ。
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/10(火) 20:27:57 ID:IyPAq7Uf0
鉱毒ってなんだか全然わかっていない。鉱毒ってどんな毒?
亜硫酸ガスは硫黄分。それを鉱毒なん言わない。鉱物の中には含まれている。
鉱物から金属を取り出す時には、硫黄分は二酸化硫黄になってでる。
それをしなければこの世に金属はない。飛行機も自動車も・・・すべてない。
誰かがどっちみちやったこと。それがだめというなら、電気も携帯も電車もない
世界に戻るしかない。
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/10(火) 20:44:24 ID:IyPAq7Uf0
渡良瀬川はそんなこととは関係なく年中洪水でした。足尾銅山がなくても。
支流が26もあり、関係ない支流のうずま川が氾濫している写真もある。
今の時代の感覚でものを見ていると、ちょっと違う。
治山治水がきちんとなされていない時代です。
実際、収入がゼロになった正造は、きれい事などどこへ行ったか、「600円貸してくれ」
と蓼沼丈吉に無心を要求し、その手紙(明治34年2月23日)に、こう書くのです。
「金銭大必要の最中に歳費を辞したれば、一銭の抵当となるべきものなく、他借の道絶
え非常に困却の折柄、(栃木)第3選挙区民よりは、辞退は名利のためなぞと悪口せられ、
ほとんど進退に苦しみたり。昨春より今春に至るまでは、どしどしやってはおりましたけれ
ども、借金は出来(しゅったい)いたい申し候」
因みに、蓼沼丈吉は正造から選挙区の地盤を譲り受けた人で、当時は三好村村長。正造
の後釜の代議士になっています。正造に渡したお金は選挙の運動資金だったわけです。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/11(水) 01:10:45 ID:1n04ConH0
「国の政策に反対しているのだから、国の禄を食むのは筋違い」
とでも思っていたんじゃないの?
結果として、国の為にもなる仕事をしたんだから
堂々と受け取ればいいのに・・・
だが、そういう堅物だからこそ尊敬されるんだろうね。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/11(水) 15:06:33 ID:V+bFGGMYO
民の為に生きた清貧の男と金の為に生きた銭ゲバとの違いは大きいね
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 03:41:22 ID:w+i6I2Au0
環境ゴロのカリスマ扱いには
本人が一番憤慨するだろうな。
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 12:41:27 ID:yCNH5XF10
87 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/12(木) 13:14:51 ID:gy/FO6s3O
つまり江頭と古河は同類の銭ゲバってこった
いやそれと一緒にされたら古河がかわいそうだろ
>>61の方はお分かりと思いますが、島田熊吉の弟は、正造を崇敬の対称にしていた島田
宗三で、正造の手紙その他、徹底的に資料を集めた人です。
全集に載った熊吉の2通の催促状は、字の書けない彼のために宗三が代筆しているのです。
1通目には、正造が病気をしたときに貸した、と書いてあります。
兄弟は、気持はかなり違うかもしれませんが、正造に鄭重に返済を求めていると思います。
遺品を持っていても、何ら不思議はないではありませんか。
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/13(金) 02:04:40 ID:Xgy8A/gq0
チッソと一緒ではかわいそう。チッソとは大きく違う。よく調べ、事実を知った
方がよい。民のために清貧に生きた男?事実を知らなすぎ。人から金の無心ばかり
している人が?しかも、農民のなけなしの金とか、選挙区を譲り受けた弱みに
つけ込むとかして、無心している。84:思いこみ激しすぎ。金のために生きた
ゼニゲバなら今の国立三大学、北海道大学、東北大学、九州大学建てるのに
105万、今の金で、105億の寄付はしない。国に金がなかった。古河にしても
5年分割で払うほど、大変な金額。金があったとしても、この大金を寄付するのは大変。
自分の活動のため、しかも農民のためとか言いながら生活費を無心する人。
本末転倒。政治家らしそうに、とてつもなく良いことをしているような、大変
偉そうな物言いだけど。聞こえはいいですからね。誠実な人がみんなだまされる。
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/13(金) 02:42:12 ID:1fftO8u0O
山の神みたいなもんか?たしか野垂れ死にするんだよな
あのおかしなしゃべり方する作家が
尊敬する人物にあげてた。
生活費って…田中は極限まで切りつめていたんだから、それほど大した額に
ならなかったんじゃないのか?豪遊していたわけでもないしね。
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/13(金) 13:38:10 ID:3JJPmrk0O
古河は陸奥宗光の息子を養子にし政府とズブズブに癒着し、
多少の寄付こそしたが銭ゲバとして結果莫大な資産を築いた
田中は民の為に尽した聖人らしく死んだ時は無一文
本題の「小学校国語教科書の検討」に戻ります。
明治34(1901)年12月10日は、田中正造が直訴を敢行した日ですが、
作者の来栖良夫は、そのいきさつを次のように、いかにも感動的風にまとめて、
教科書に書いています。
「(明治34年)12月9日の夜、正造は、<万朝報>の記者幸徳秋水を訪ねている。
<もはや、私に残された道は一つである。幸徳さん、あなたはすぐれた文章家だ。
私の下手な文ではおそれ多い。あなたに書いてもらいたい。><田中さん、それは
いけない。やめてください。>」
「若い新聞記者は、おどろいて手を上げたが、正造は石のように動かない。目には、
なみだが光っている。秋水も断りきれず、その夜、正造の下書きをもとにして書き上
げた苦心の文章こそは、天皇への直訴状であった。」
しかし、田中正造の研究者がもしこれを読んだら、飛び上がって驚くでしょう。
デタラメもいいところの捏造話で、作者があまりにも無知だと分かるからです。
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/15(日) 01:31:34 ID:A5mjOxUq0
教科書にも間違った記述がなされている。こう反論してくれる人は少ない。そし
て教科書に限らず、日経、産経、足尾に関する記事のでたらめも多い。産経、HP
の記事16年4月4日探訪足尾銅山の記事中、「木炭に変わってコークスが使われ
はじまると、排煙に有毒の亜硫酸ガスが発生、被害は下流域まで拡大」とある。
燃料が何であれ、亜硫酸ガスは量は、鉱石中の硫黄の量によってのみで決まる。
燃料の種類によって左右されることはない。一流の新聞記者でも中学生ほどの
科学的知識もなくこんな記事も平気で書かれてしまうことに驚く。間違いだら
けの記事である。
コークス作るときに、硫黄とコールタールが出るからそれの影響じゃないのか?
>>94 からの続きです。
12月9日の夜は秋水は家にいませんでしたから、正造が訪ねることも話を交わす
ことも不可能です。
直訴の翌々日、12月12日に秋水は正造に宛てて手紙を出していますが、それには
「恩師の中江兆民が危篤で、しばらく中江家に詰めておりました。ご無沙汰していて
申し訳ありません。」と書かれているからです(秋水、正造の両全集に載っている)。
実際は、この直訴文を秋水は、すでにひと月前に書き上げていました。
『幸徳秋水全集・第9巻』の「自記年譜」には、「明治34年11月12日、田中正造
直訴文を草す」とあります。
ですから、事実は、秋水の草稿をもとにして正造が修正を加えたのであって、
「正造の下書きをもとにして書き上げた(秋水の)苦心の文章こそは、天皇への
直訴状であった。」は、事実とは全く逆なのです。
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 18:52:24 ID:vYaJNw6L0
どれも徹底的な調べだ。だから、事実として見えてくるものがある。
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/16(月) 19:14:28 ID:hAJAY2NpO
でもマクロな視点でいえば富国強兵をかかげ近代化を急ぐ明治政府の明治時代の光と影を足尾銅山事件に見ることができるという点で田中正造という人物が歴史上クローズアップされるのは別に奇異ではないと思うが。
立松和平?だった
田中正造を尊敬してたのは
田中正造が問題なのではなく、田中正造を己に都合よく造り上げようとするマスコミが問題なのだ、というのがこのスレの趣旨か?
てか自分のブログあるんだからそこでやるべきでは?宣伝と見なされてもしょうがないですよ。
101 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/17(火) 03:27:26 ID:KFn2IGW1O
清廉潔白の士とはいえ生活していかなくてはならないから。援助を受けるのはおかしくない。
綺麗事だけでは飯食えないからね。
田中正造をたたくならもっとほこりでる政治家はいるだろう。田中正造は結局路端で死ぬらしいですね。遊興や贅沢にふけるためじゃなかったんだからそういう異端者的な政治家もいたということも日本の懐の深さを示していいと思うけど。
田中正造を称える歌(何をしたとか、どうしたとか)を、よぼよぼの老婆が鳴り物をならしながら
歌っているのをTVで見たことあるな。
単にマスコミ受けだけなら、単に知名度上げる為だけなら、老婆はこんなことをしないだろ。
そもそも、直訴の計画自体、この年の6月8日、秋水とその友人の石川半山が、
同席していた正造に勧めたというのが定説です。
この日の半山の日記には、「余曰く、今は唯一策アルノミ、田中曰く、何事ぞ。
余曰く、容易に語るべからず、田中曰く、謹んで教えを受けん。僕曰く、君唯佐倉
宗五郎タルノミ。田中之を快とし、決起の断行を誓う。」とあるからです(岩波新書
の『田中正造』参照)。
「もはや、私に残された道は一つである。」「あなたに書いてもらいたい。」と、
前日に頼んだとは、あまりにもお粗末な作り話ではありませんか。
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 20:02:28 ID:TMUaF9Ru0
>>46 > (田中正造宛増田清三郎の督促状・明治42年6月20日付)
死ぬ2ヶ月前の大正2年7月2日、増田清三郎は、
「お祭りのゆで饅頭ができたから食べにきてくれ」って正造を
招待してる。
正造は黒砂糖をなめながら饅頭をたくさん食べた。
踏み倒して許せないんなら、饅頭食いにきてくれなんて言わない
だろ。
だいたい、いよいよ困ったら、証文持って足利の原田家に行けば
原田家でいくらかくらいは工面してくれたはずだし、増田はそれ
くらいのことは知ってたはず。
正造は借りたことはすぐ忘れるし、督促されても督促されたこと
もすぐ忘れるのでこういう文面なんでしょうな。
>>95の方が産経の記事のデタラメぶりを指摘されていますが、日経も同様で、
小島編集委員の記事の間違いを批判したところ、驚いたことに、1千万円の
損害賠償を請求して裁判を起こしてきました。
その記事というのが、田中正造の議会演説を引用して、「住友の公害対策は
古河のそれよりはるかに進んでいた」という内容だったので、「それは大間違
い。この演説には何一つ真実が見当たらない。」と正直に書いたために、腹を
立てた日本経済新聞社が私を訴えたわけです。
こんなこと信じられますか?
弁護士に頼らずに、自分で準備書面を書いて対応しましたが、地裁、高裁とも
原告の請求を却下しました(『判例時報』第1814号140頁参照)。
詳しくは、いずれまた書かせていただきます。
106 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/20(金) 20:39:52 ID:GRZwmtKi0
特定できますねこれは・・・
>>104 訂正
誤:死ぬ2ヶ月前
正:正造が死ぬ2ヶ月前
>>106 砂川幸雄だろ?特定もなにも。
1は自分のブログでやれっての。
>>107 物はついでなので。
砂川は、まるで1897年の予防工事で鉱毒がなくなったか
のような書き方をしてるけど、その後も鉱毒反対運動は
(田中の死後も)えんえんと続いて、実は今でも(砂川の
著書の発売後も)まだやってます.....
1917年には、群馬県の農民が陳情を行い、
1925年には栃木県と群馬県の用水路組合が陳情を行い、
1939年には洪水があって鉱毒が田畑に流れ込み
1940年代後半には、鉱毒流して三栗谷用水が抗議を行い、
1958年には、スライム(ゲームに出てくるやつじゃなくて
本物)が大量に流れ出し、
1970年代には米からカドミウムがでて、
1980年代に土地改良がはじまり、
1999年に土地改良が一応おわり、
でも、全部は終わって無くて、
最近の動きとしては、おととしあたり、(砂川の著書の
発行以後)桐生市議会が、
足尾町(当時)中才浄水場に自動採水器をとっととつけろ、
っていう決議をやってます。
110 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 19:53:34 ID:TjcRcEU20
田中正造が良いか悪いかは別として、田中正造を利用して自分達の主張を成し遂げようという輩が多いのが事実。
特に小学校の教科書で田中正造を取り上げて、戦前の政府は国民に暴政をしいたなどという発想を小学生に植え付け、だから日本は戦争に負けて良かっただとか現代の日本は民主主義の発達した良い社会だなどというところへ
誘導させようとする勢力の格好の材料にされている。
されてねーよ。歴史は歴史として学ぶだけ。
同じ理論で大塩平八郎も教えちゃいかんのかいなw
112 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/21(土) 23:19:43 ID:YZphcODN0
ほぼ崩壊している日教組…その存在におびえるネットウヨ。
114 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 12:47:27 ID:SQxdjW7+0
明治後半から勃興してきた社会主義者が弱者である農民の味方で絶対善、古河
は権力と組んで金儲けに終始した絶対悪とし、戦後もこの様に公害の原点として、
ことあるごとに標的にしてきた。田中正造の言った言葉、嘘で評価が定着した。
これらをこの様に信じこんでいる。台風や豪雨によってもたらされた土砂災害、
洪水。治山治水の遅れで、台風の度に各地で土砂災害、水害に見舞われている。
当時の治山治水は現在とは比較にならない程お粗末で河川が至るところで氾濫
した。これを全部、足尾銅山の鉱害としている。
鉱毒といっているが、鉱毒というものはどんなものなのか。そういう名のもの
は存在しない。銅,Fe,Mg,Zn,Pは人間の身体に必要なものミネラル。カドミウム、
鉛、砒素などと違い人体に蓄積して病を発生させることはない。微量は必須ミネ
ラルで鉱毒改め鉱薬である。その証拠にこの様な長い公害歴史中、死人も病人
も一人もいない。
無茶苦茶…。鉱石には銅や鉄だけが入っているわけじゃない。
カドミウムやヒ素、鉛などの成分も微量にはいっており、それが人間に害を及ぼすわけだ。
また微量必須元素である銅も多量に摂取すると、毒になる。以下wikiより引用
***
このように、銅は生物の代謝が正常に行われるうえで必須の元素であるが、同時に過剰供給
されると、足尾銅山鉱毒事件に見られるように毒性を示す。例えば多くの動物にとって慢性的
に過剰な銅の摂取は毒性であり、反芻動物では銅の過多により肝硬変や発育不全、黄疸、な
どが起こりうる。また無脊椎動物の多くは過剰供給となって代謝異常を起こす閾値が脊椎動
物よりも低い
116 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 19:34:48 ID:SQxdjW7+0
鉱石には銅や鉄だけではない、等ということはよーく存じ上げております。
かってに過剰供給にするな。大量にとれば毒 少量なら薬、微量なら無害。
そんなことWikiから大げさに引用するまでもない。ジョーシキ!
>>114 右だ左だの話にしたいのは分かりますが、
足尾銅山からはカドミウムも砒素も出ていて、
実際、検出されてます。それくらい調べてから
書きましょう。
あと、鉱毒原因物質にはほかに硫酸もあり
ます。
銅は、鉱石中に含まれていて安定している
硫化銅の段階と、精錬して単体の銅になった
ときでの毒性はまた全然違います。
精錬途中の銅が、同じく精錬の過程でできる
硫酸と反応して硫化銅になるとこれまた毒性
が違います。
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 20:17:32 ID:Itkemy/r0
教科書に明治政府の言論弾圧の漫画とか田中正造の話が載ってる
わけで、私も左翼の暗躍により反政府的なことが載りやすいのかと
思ってたわけです。
ところが戦前の明治大正昭和回顧80年史を見ても
皇国の躍進に関する写真が中心なのに、そんな中にも
しっかりビゴーの日本のいびつな近代化を表した漫画や、
足尾鉱毒事件と田中正造の直訴が載ってた....あれ?何の話しだっけ
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/22(日) 21:43:49 ID:SQxdjW7+0
>>117知ったかぶりだが、製錬も精錬も区別できていないじゃないですか。
製錬の過程では、硫酸は出ません。出るのは、亜硫酸ガス、SO2、硫酸
は出ません。それがSO3となり、それが水分と反応して硫酸になるのです。
知ったかぶりで、いい加減な書き方はやめましょう。誤解を生みます。
足尾銅山からだけではありません。何処の鉱石にもカドミウム、砒素は
入っているのです。ですが足尾はカドミウムは少ないのです。
1971年には毛里田で収穫された米からカドミウムが検出され出荷が停止された。
とあるが??
>>119 そりゃどこの鉱山にも入ってるだろうけど、
垂れ流していたかどうかは鉱山によって違うでしょうね。
垂れ流した鉱山と垂れ流さなかった鉱山があって、
垂れ流したけど下流に農地がなかった鉱山も
あったかもしれない。
で、毛里田のカドミウム汚染は足尾銅山だって
断定されてますが。
桐生の砒素検出はどうしますか?
二酸化硫黄のことは分かってますけどそこまで
細かく言うつもりが単になかっただけです。
CuSから鉱毒原因物質が生まれるまでの化学式
全部書けば満足ですか?
砂川は、毛里田の話をすると突然、毛里田は
関係ない、明治時代の話じゃないみたいこと言い出す
ので一応書いておくと、
毛里田の用水路組合は、明治30年代には古河と
示談交渉をはじめています。途中で古河が
「状況が変わった」とか言いだして交渉を打ち切っ
ちゃうんですけど。
100年前に交渉打ち切りをしなければ、話はずいぶん
変わっていたかもsぢれませんね。
あともう1つだけ書いておくと、
古河は「1897年の工事で鉱毒はなくなった」
とは言っていません。それは砂川しか言ってません。
古河の主張は、
1897年以降、政府の基準に従っているのだから、
鉱毒が流れても、古河の責任ではない、
です。
鉱毒はなくなった、とか書いてあった時点で、
砂川が古河の手のものでないことは分かりました。
しかし、古河が主張してないようなことを、
あたかも古河の主張のように言うのはやめましょう
1875(明治8)年の創業以来,古河の経営は完全に市兵衛が独裁するところであった。
彼の基本方針は産銅シェアの拡大を主目標とする積極政策で,具体的には足尾を中心
に大規模な設備投資を行うとともに,全国の金属鉱山,特に銅山を買いあさったので
ある。
しかし市兵衛の周囲には,渋沢栄一,陸奥宗光などその積極拡大政策を危ぶむ
者は少なくなかった。1897年の鉱毒予防命令に際し,渋沢の第一銀行は工事費の融資
の条件として経営方針の変更を求め,以後経営の主導権は陸奥の次男で市兵衛の
養嗣子・古河潤吉の手に移った。
>>104 の方へ。資料の出所は書いてありませんが、あなたの言うようなことが
あったとすれば、その事実は否定できません。
しかし、正造に貸した金を踏み倒されて、増田清三郎が恨みの手紙を書いた
事実もまた、否定できません。
その両方の資料をよく検討して、自分で何がどうおかしいかを、より客観的に
判断すればそれでいいのだと思います。
しかし、「正造は黒砂糖をなめながら饅頭をたくさん食べた。」そうですが、何
で甘いものをなめながら甘いお菓子を食べたのでしょう。不思議です。
あなたは、「原田家でいくらかくらいは工面してくれたはず」だとおっしゃいます。
しかし、正造の甥で、長期間にわたり仕送りを続けてきた原田定助が、すでに
明治37年5月15日の時点で、手紙にこう書いています。工面はできないでしょう。
「伯父上にも、昨年はおよそ1000円(今なら1000万円です)もご用達いたし、本
年もすでに170余円に上がり候につき、お気の毒ながら今後1ヶ月20円にご改正
下されたく候」(全集に出ています。皆さんは自分で確認してください)
>>124 島田宗三の『田中正造翁余録』に出てますよ。
あと、原田さんの商売があまりうまくいかなくなって、
晩年、原田家からはあまり金が出せなくなった(だから
こそ農民からも借りた)のは知ってます。
だから「いくらかくらいは工面してくれたはず」って言ってる
わけで決して残額全部原田が払ってくれるとは思いません。
晩年の正造は、金を借りて返さない相手と、
借りて必ず返す相手と、金は決して借りず、泊まる場所と
飯だけをいただく相手に分けていた。農民も、正造に貸した
ら普通は返ってこないことは知っていて、「うちは返して
もらったから格が下だ」とか言っていた。とかいう話は、島田の
息子の嶋田早苗が言ってます。ただ、嶋田早苗って
あんまりものを書いて発表する人じゃないので、こっちの
話は確かめたかったら本人に聞いてください。
.
>>122の方の偏見に満ちた主張は、次の事実で覆されるでしょう。
足尾銅山がある栃木県の学校教師たちは、「栃木県連合教育会」という組織を
持っていますが、同会は、県にゆかりのある人物の簡単な伝記集を、自ら執筆
・編集して『下野人物風土記』という副読本にして刊行しました。
その第3集(1970年刊)の52頁には、次のように書かれています。
「(政府の命令を受けて)銅山がわでは、全力をあげて沈殿池を増設し、たい積
場の完成をいそぎ、抗水・廃水・からみ・廃石・硫煙の処理・護岸工事など、あら
ゆる方面に万全の努力をつくしたのである。」
「かくして、いろいろの予防工事は、予定どうり完成し、長い間の鉱毒問題も、最
後の解決に達したのである。」
「砂川しか言っていない」は、明らかにとんでもない曲解だとわかります。
122番の方は、菅井益郎氏ではないかと私は推察します。
足尾鉱毒事件は、田中正造の政治力や被害農民の住民パワーを受けた明治
政府の公害対策と、加害企業の古河鉱業の誠実な対応により、栃木県連合教
育会の説明のように解決を見ているのに、彼は、この事実を無視し、昭和にな
って発生したまったく別の公害事件をこれに結び付け、『通史・足尾鉱毒事件
1877−1984年』という本を書いています。
いったい、100年以上もひとつの事件が続くことなど、あり得るでしょうか。
「足尾銅山の公害問題」とすべき内容を、公害事件と断じたのです。
そして、解決した鉱毒事件を「百年公害」などと宣伝しているのです。
そのうえ、平凡社や小学館の百科事典に事件の説明文を書いて、虚偽の
情報を世間に流し続けているのです。
国学院大学教授・菅井益郎こそ、北朝鮮を理想の国家といい続けていた
左翼の学者文化人に連なる、はなはだ罪深い学者の一人ではないかと、
私は思っています。皆さんはこういう輩にだまされてはいけません。
>>127 何の根拠も無しに書き込みの相手を個人と認定して、
実名を挙げて攻撃することが果たして適切な議論のやり方でしょうか?
「北朝鮮を理想の国家といい続けていた
左翼の学者文化人に連なる、はなはだ罪深い学者の一人ではないかと」
これこそ「まったく別の」「事件をこれに結び付け」る議論で、誹謗そのものです。
>>122の主張の妥当性を批判することが悪いとは思いませんが、
貴方の主張の妥当性を無にするがごとき書き込みは、慎まれてはいかがかと思います。
>>126 「鉱毒を流していない」と
「鉱毒問題が解決した」ってのは
全然違う話では?
鉱毒は流れ続けたけど、治水
したからもう川の外に鉱毒は
出ないよ、ってのが政府と古河
の主張でしょ。
「砂川しか主張してない」って
言い方が気にくわないなら、
「少なくとも古河や政府は
そんなこと言ってない」でもいい。
それに、栃木県連合教育会は、
「下野人物風土記」の改訂版の
「しもつけ物語」(1988ごろ)を
出してるけど、そっちには
鉱毒はなくならなかった、って
わざわざ追記がしてある。
それは砂川は知ってるはずなのに、
なんで改訂版の出てる本の旧版を
引き合いに出すのか分からない。
鉱毒問題が解消した、って言い方を
してる文献ならほかにもあるだろうに。
ひょっとして砂川のふりした煽り?
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 16:01:36 ID:33oUnBVX0
どうしてこう悪者にしたがるんだ。だいたい人の揚げ足ばかりとって、善人
ぶって鉱毒、鉱毒垂れ流しって、鉱毒ってどんな毒。鉱毒という科学物質
は存在しない。台風の度に押し寄せた洪水を鉱毒、鉱毒と政府や古河に抗議
した。実際はすべて土石流。直情径行な田中正造のでっち上げた鉱毒事件に
左にスタンスを置いた某評論家先生は嘘の論理を上塗りしている。誰も反論
しないから何処でもここでも嘘だらけ。足尾に関する記事の何と荒唐無稽なこと。
、
まあほら、足尾のは周りに天皇家の土地やらがあって煙巻いちゃいけないからって煙突が低かったからしょうがない。
そのせいで足尾だけ被害が酷くなっちゃったわけだし。
てか鉱毒という化学物質は存在しないとかってそれは本気で行ってるわけですか?
そりゃ「鉱毒」という名前のは存在せんでしょうよ。
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 03:03:42 ID:hlsjPo250
先日、子どもと一緒にテレビを見ていました。水俣の美しい景色と、
竹細工のとても趣のある色々な駕篭が映りました。感動しました。
先日テレビを見ていると美しい景色と、色々なとても趣のある竹細工の駕篭
を職人さんが作っている様子が映りました。何と情緒豊な水俣の風情。
水俣というと、公害の水俣病しか思い浮かばなかった何と愚かな私。
もしかして足尾も同じか。公害の町のイメージ。田中正造翁を神様の
ように思っていただけに、皆さんの議論を興味を持って読んでいました。
既成概念を持って物事を判断してはいけないと今回のテレビの件で痛感
したので、皆さんが今まで取り上げた本も参考に読んで見ます。高度の
議論の途中にごめんなさい。
133 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 03:10:49 ID:hlsjPo250
132です。はじめて書き込んだので失敗。勉強します。
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 12:03:02 ID:bVbi/kD20
>>131もち、本気よ。嘘も百回並べられると本気にしていく人もいるから言ったの。
足尾だけが被害がひどくなった?ブー。地域的条件で他の所はあの時代何処も止め
られなかったから高い煙突を立てたの。希釈されちゃった所もあったの。みな
条件が違ってた。そしてそれを止めたの。その技術で、あなたが今、毎日出して
いるゴミのダイオキシンを無害化してるんじゃないの。そして、今あなたがこう
やってメール送れるのも、電車に乗れるのも、電気使えるのも、馬鹿言っていら
れるのも、・・・。この銅があったからよ。
もうちょっとわかりやすく頼む
1から読んだが、日本語が不自由な田中正造たたきが一人張り付いてるね。
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 01:30:04 ID:sFuSrzsz0
46>>読んで、増田清三郎の手紙を読んでみたいと思って探しました。
田中正造全集・別巻にありました。原文の迫力はすごい。
138 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 01:38:33 ID:rFJz3pfV0
>>136 このスレ自体が田中正造たたくために立てたようなものだからな。
砂川が自著の宣伝のために立てたものと理解してたが
140 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/30(月) 13:04:49 ID:jYwIXAYp0
私も公害の原点と言うことしか知りませんでした。足尾銅山と古河の歴史、もち
ろん負も含め感動しました。大変な予防工事とそれをやり通そうとした精神力、
そして技術者達が亜硫酸ガスを止めた世界最高の技術を作っていったその執念
につながり、今に至ります。そして、負をプラスに変えていった技術で、私たち
の今の生活が出来ると思います。後に続くものは、良きにつけ悪しきにつけ見習
うことができました。そして今、砂川氏が徹底的な調べで真実を書いてくれて
います。
素人ですがこれらは、簡単なものではないと思います。
時は百年前、今の時代に当てはめて見てしまうとちょっと違うかもしれません。
本当に困難な時代を乗り越えて、負をプラスに変えるため頑張った人たちの、
足尾に生きた人たちのことを知って欲しいと思っています。そして、後に続く人
がいてここまできたと思っています。もちろんこれだけでなく足尾のその他の部
分も含めてです。
>>140 亜硫酸ガス(二酸化硫黄)を止める技術は海外
からの輸入で、古河の独自技術ではありません。
古河は、世界で2番目だ、って言ってます。
さすがに古河も砂川もそこまでのことは言って
なかったと思いますが、どこでそんなデマ聞き
ましたか? 参考のためにお伺いします。
また、本題に戻ります。
小学6年の国語教科書は、田中正造の直訴の重大性について次のように書いて
います。
「直訴の罪は重く、これが江戸時代であったら死罪はまぬがれず、このころでも
不敬罪に問われて、どうなることかわからない。正造は、死を覚悟したのである」
さて、秋水と正造の合作になるその直訴文には、どんなことが書かれていたか。
文章の断片を以下に紹介します。
「魚族斃死し、田園荒廃し・・・」
「二十年前の肥田沃土は今や化して黄茅白葦(黄色いかやと白いあしの)、満目
(見渡す限り)惨憺たる荒野となれり」
「数十万の無告の窮民空しく雨露の恩をこいねがうて干天に号泣するを見る」
「しかも政府の当局は常に言を左右にしてこれが適当の措置を施すことなし」
「聖明(天皇様)矜察を垂れ給わんことを。臣(私は)痛絶呼号の至りに耐うるなし」
上記の訴えは、本当のことだったのでしょうか。実は違うのです。
皆さんは驚くでしょうが、
>>142 に記した直訴の引用部分は、全くのフィクションです。
政府は4年前に徹底した公害対策を施しています。従って「政府の無策」は明らかに嘘。
被害民は、田中正造が止めに入っているのに、4回も歩いてデモ行進して政府に陳情
・請願運動をしています。ですから、「無告の(苦しみを告げる当てのない)窮民」も嘘。
「満目惨憺たる荒野」の真偽を検討するために、直前の新聞を見てみると、
「両毛の米作(桐生・小山間)十二分の作柄にて、平年の収穫より2割内外の増収
あるべし。」「激甚被害地を除いてきわめて豊作にして、1反につき1石6斗ないし
2石位の収穫を得ること難からずという。」(朝日新聞・明治34年10月6日)
などと報道されています。だから、これも全くの嘘です。
激甚被害地=足尾ちゃうん?
「国語の」教科書の内容批判って、
歴史小説が史実を描いていない!
という批判と同じぐらい不毛だよね・・・。
>>127 砂川は、「田中正造と明治政府と古河鉱業三者
の努力で解決されたといってよい「足尾鉱毒事件」」
と書き、まるで明治時代に鉱毒事件が解決したか
のような書き方をしていますが、これは真っ赤な嘘。
建設省関東地方建設局渡良瀬川工事事務所発行
「渡良瀬 水と緑のふるさと」には、こう書いてあります。
日本の近代化を支えた足尾銅山は、その一方で、
精錬による有害な煙などで周囲の山々の緑を奪って
しまいました。
そして、むき出しになった土肌からは洪水の度に
大量の土砂が流れだし、下流の沿川に多くの被害を
もらたし続けました。
このため当時の内務省は、昭和12年6月、東京土木
出張所足尾砂防工場を開設して、荒廃の著しい仁田元川
で井戸沢口ダム、仁田元ダム、横場山腹工に着手した
のが砂防事業の始まりです。
政府でさえ、昭和12年当時、足尾鉱毒事件の被害が
続いていたと断言しているのに、どうして明治時代に
解決したと言い切れるのでしょう。
>>143 からの続きです。
幸徳秋水が在籍し、当然田中正造を徹底して支持していた『万朝報』でさえ
「被害の薄き部分にては、素人が見て気のつかざる位に稲などのできたる
ところあり。」
「表面の毒土を堀り取りて、大きなる塚をつくりたる毒塚の間は、稲などか
なりに出来おる所もあり。」
などとレポートしています(明治34年10月20日)。
つまり、被害農地は、間違いなく回復の兆しを見せていました。ですから、
直訴文は、とんでもない嘘をついていたことがわかるのです。
ということは、秋水と正造が明治天皇に対して、堂々と嘘の直訴をしたこと
は明らかです。「死を覚悟した」はずの人が、何で天皇にまで嘘をついたの
でしょう。不思議なことではありませんか。
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:05:38 ID:xx4A/jhN0
>>141の方への答え 大変長くなりますが。何処で聞いたのではなく事実なのです。
お断りしておきますが、私は古河とはまったく何の関係もありません。
従来の溶鉱炉、反射炉から出てくる排煙中の亜硫酸ガスの濃度は低く、硫酸として
回収利用されるには不向きだった。
1949年(フィンランド)オートクンプ社は反射炉を改良し、自熔炉を完成させた。
自熔炉とは、鉱石中の鉄Feと硫黄S分を燃料とする為、燃料も熱源もいらない画期的
なものでした。これは、排煙中の亜硫酸ガスの高濃度化を達成した。しかし、これだ
けでは硫酸を回収することはできないのです。
銅の鉱石には、多種の元素の化合物が含まれる。排煙には多種の重金属と亜硫酸ガス
が混じった状態である。これら多種の金属をを完全に除去し、純粋の亜硫酸ガスのみ
にしないと硫酸を回収することはできないのです。すなわち亜硫酸ガスを止めること
はできない。排煙中の重金属すなわち不純物を除去し、きれいな(99,9%等の純度の高い)
SO2にすることが大問題だったのです。
149 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:10:56 ID:xx4A/jhN0
1956年 足尾で独自に開発された電気集塵機は製錬全排ガスを完全に精製する技術
(全量完全に高純度硫酸に転換できるのが特徴)を開発していったのです。触媒である
酸化バナジュウム(V2O5)にSO2を三回接触通過させればよいのですが、鉱石中の砒素が
触媒であるV2O5の寿命を縮めます。すなわち硫酸の生産コストに大きく響くのです。
そこで「耐蝕性の電気集塵機」を開発していかなければなりませんでした。これには
大変な努力と時間を要したのは言うまでもありません。1916年からはじまっているの
ですがその間、戦争も入る為中断もされることにもなります。
この技術に先ほどの(フィンランド)オートクンププロセスとモンサントの硫酸製造
プロセスを前後に組み込んだ新しい銅生産システムを誕生させたのです。組み合わせる
ことも物理と化学に精通していなくてはできないものなのです。
しかも大型の理想的な自熔炉技術を持つことに成功しました。これらは大正15年(1926)
に東大理学部助手I氏、先の東大教授らより依頼を受け、足尾に移り研究・開発がはじま
ってからでも10年もかかってしまいました。
しかし、これは銅産業が抱えていた“公害という宿命”を完全に乗り越えることができた
足尾銅山時代から現在へつながる世界で生き続ける完全無公害銅製錬方式(古河プロセス)
世界最高の技術なのです。そして、国内の他の製錬所もこれに追随していったのです。
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/31(火) 22:16:51 ID:xx4A/jhN0
そして、三菱は遅れること三年、独自の技術を開発していきました。
先に、住友(別子)は転炉からの排煙を硫酸にもっていけました。
ただし全部ではなく、全量でなく部分的(半分)に成功していましが、残りは
どうしても完全にできないため、被害が出ることがわかっているので、製錬所
を島、海にもっていったのです。
フィンランドの「オートクンプ社」が開発した「自熔炉技術」と「古河」が開発
した「耐蝕性電気集塵機」硫酸回収技術は、SO2を全量完全に高純度硫酸に転換
できたのです。きれいなSO2にすることが大問題であったわけです。たったこれ
だけのこと、されど世界中の科学者が考えてもできなかった技術なのです。
しかも、これらを組み合わせることに成功しました。で、とびますが今あなたは
電気を使い、あなたが出すゴミのダイオキシンを無害にできる技術等々に発展
していったのです。3回に分け大変長くなり失礼致しました。以上ご質問のお答えでした。
>>148 古河鉱業の「創業100年史」には、オートクンプ社の
自熔製錬炉(練の字は正確には火へんに楝のつくり)
は、燃料費が不要で排煙から硫酸が全量回収できる
無公害の技術だってはっきり書いてありますよ。
P602から603、特に603ページ下段の説明を読んで
ください。古河の独自技術だなんて一言も言ってない。
ページをめくって604ページに、古河独自の改良を加え
た、って言葉がようやく出てきます。
つまり、古河は、オートクンプの自熔炉は、それだけで
排煙を無公害化する技術だ、と言っていて、それに改良
を加えたものを「古河式自熔製錬炉」(恐らくこれが、
「古河プロセス」とやらのことでしょう)と呼んでいるのです。
古河が改良しなければならなかった理由は、オートクンプ社
の技術は、オートクンプ社の使っている銅鉱石では確かに
煙害除去に役に立ったけれど、足尾の鉱石には少し不向き
だった。だからそこの部分を改良した、というのが実際です。
サイトにもはっきり書いています。100年史がないのでしたら、
こちらをごらんください。
http://www.furukawakk.co.jp/product/metal/ ここでも、「古河・オートクンプ式自熔製錬技術を確立。」と
あり、しかも、それがオートクンプ社の技術を改良したもの
である旨表記してあります。恐らくこれが、あなたの言う、
「古河プロセス」とやらで、100年史では「古河式自熔製錬炉」
と呼ばれている技術でしょう。
それに、電気集塵機の話だって、古河の公式サイトだと、
どう見ても海外からの技術輸入としか見えない書き方です。
http://www.furukawakk.co.jp/environment/torikumi.html 何でも古河がえらかった話にしたいのは分かりますが、
古河でさえ自分の手柄だって言ってない技術を、古河の
手柄にするのはやめましょう。
まるで、古河が、自分では手柄だと明言できないので、
外部の者を装って宣伝をしているようにも見られてしまい、
古河にとっても迷惑でしょう。
(もちろん、そうでないのは分かっています。もし古河関係者
なら、足尾の鉱石とオートクンプの鉱石の違いや、それが
オートクンプ式だけではうまくいかなかった理由であることを
知っているはずですから。それに、古河プロセスなどという、
オートクンプ社の怒りを買いそうな表現は、今ではできない
はずです)
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 03:32:56 ID:OpMUiJZlO
なんで田中正造を今更たたくのか理由がわからない
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 18:27:59 ID:VwBclApV0
>>152 戦前の日本=悪という図式をもって
自虐教育の材料にされるからでは?
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 20:27:05 ID:qFIc5CSf0
田中正造の遺品に新約聖書があったらしいけど
洗礼は受けていたのかな。
>>153 田中正造ほどの愛国者はそうそういないぞ
格好の題材じゃないか
156 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 01:35:21 ID:SK87XSI90
そうかぁ・・田中正造なんか叩いても仕方ないと思うのは俺だけか??
単に精神異常者なんでしょ。1が。
ネットの議論系にはこういうちょっとネジのはずれたのがたまにいる。
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 19:21:33 ID:SK87XSI90
歴史上の人物ってみな大なり小なり虚像と実像があるわけで。
わからないでもないけど。1さんは大学かどこかで研究してんのかなぁ。
もっとおもしろいテーマがあるように思うんだけどな。
>>127 122ですが、すいませんが私は菅井氏ではありません。
むしろ、「足尾鉱毒事件は解決していない」と言ったのは、
そもそも菅井氏ではありません。
たとえば黒沢酉蔵も、板橋明治も、森永だって足尾鉱毒事件は
続いている、って言ってる。何で菅井だけを標的にするのか
わからない。高橋の「百折不撓」の帯だって、「日本の公害の
原点・渡良瀬川鉱毒事件に迫る。一世紀に及ぶ農民の苦難と
「勝訴」への苦闘を再現する。」って書いてあるのに。
それに、菅井なら、ちゃんとした学会の論文誌でちゃんとした
反論をするでしょう。私は、反論のために資料を集めていた
だけです。ただ、砂川論文への反論を書くと、砂川論文よりも
長大になるので(しかも、学術的に全然有用でない)受け取って
くれる学術誌が見つからないので野ざらしにしてただけです。
ところで、砂川は2006年11月5日にこんなことを言っています。
>しかし、この教科書は、政府が、日本の公害の歴史上最も
>徹底した公害防止対策を施し、加害企業の古河鉱業が、
>加害者責任を一切否定せず、被害農民に損害賠償をし、
>足尾銅山の年商の半分以上を使って大規模公害防止工事を
>ほどこし、その結果、5,6年後には農地が回復しているのに、
>歴史上重要なこの事実を完全に無視して、政府と企業を
>攻撃する虚偽の歴史を書いているのです。
これは嘘です。古河が損害賠償を行ったのは、1974年の毛里田
地区鉱毒根絶期成同盟会との調停が最初です。それまでの金銭
提供は、「協力金」などの名目で、決して「損害賠償」ではありま
せんでした。これは菅井以外の著書でもいくらでも言及があり
ます。
農地が回復しているというのも、一部の農地のみです。毛里田村
と三栗谷は鉱毒被害がこの後も続き、しかも、激甚化しました。
むしろ、被害地が減少して、(しかし、被害の総量が減少したという
研究はない)より被害が激甚化したことにより、毛里田と三栗谷の
農民は、他の被害地からの協力を得ることができなくなって、
まるで鉱毒被害がなくなったかのような世論の中で、孤立した
鉱毒反対運動を続けざるを得なくなった、というのが実際です。
『待矢場両堰々史』、『足利市史』別巻鉱毒編などを参照して
ください。砂川は、これらの、鉱毒研究者なら当然参照しなければ
ならない文献を敢えて無視して議論を進めようとしています。
>>159 追記。
足尾鉱毒事件関連学会の渡良瀬川研究会の
『田中正造と足尾鉱毒事件研究』Vol.14.2006が
出ましたが、砂川論文に関する言及はありません
でした。
これが不当なものだとは思いません。砂川は
自身の論文に関する渡良瀬川研究会の布川からの
問い合わせに、
「このやりとりを皆さんはどのように考えますか。」
「私は「正誤表などつける必要はありません」という
返事を出しました。 」
という回答しか提示していません。これでは布川も
言及のしようがないでしょう。
砂川は誤解しているようですが、渡良瀬川研究会と
田中正造大学は全く別個の組織です。
122ですが、訂正です。
「田中正造と足尾鉱毒事件研究」Vol.14-2006を
よく見返したところ、西成健が砂川に少し言及して
いました。
砂川に関しては「別稿にゆずりたい」って書いてる
ので、論文は西成が書くと思いますので私のほうは
書くのはやめておきます。
さて、明治34年12月10日の直訴後のことを、国語教科書の「田中正造」は
次のように書いています。
「この事件は日本じゅうをおどろかした。新聞は、いっせいに十日のできごとと、
正造の直訴文をかかげ、鉱毒事件を伝えた。」
「世論はわきたち、鉱毒問題の演説会が開かれるたびに、多くの人が集まった。
被害地の視察にくり出す者もいた。」
世論は一時的にわきたちましたが、それは、東京に住む社会主義者、婦人運動家、
キリスト者、仏教徒、学生たちなど一部だけで、しかも短期に終っています。
直訴は被害農民を救うのが目的だと、教科書は言っていますが、実際の被害民の
反応はどうだったのでしょうか。
直訴に対しては、彼らはむしろ冷ややかでした。
正造の養女ツルの夫で、「田中党の総大将」といわれた活動家の山田友治郎
は、直訴の直後に正造宛に次の手紙を書いているのです(「全集・3巻」8頁)。
「謹啓。本日の各新聞を見るに、一昨日謹奏せし全文掲載これあり。実に驚き
いり申し候。その文意如何は問わず、はなはだ軽率なる振る舞いと申すべく候
様小生は愚考いたし候。」
「鉱毒被害民のために死を決して尽力するは貴下年来の覚悟なれども、以上の
振る舞いにいたっては、小生帝国臣民として傍観に忍びず、如何なるご所存に
これある候や、謹んでご回答相待ち申し候。」(明治34年12月12日)
正造の返事は、「回答いたさず候。」でした(上記と同じ8頁)。
自分の取りたい様に意味を取ってないか?
直訴した後のその手紙の中身を見て冷ややかというのはいかがなものか?
小生帝国臣民としてとある様にそこまで大それたことをと言う意味合いでは?
>>163からの続きですが、被害農民が正造に反発したのは、運動方針が決定的に
違ったからです。
教科書に説明してあるように、正造が足尾銅山を操業停止に追い込むことだった
(たとえば、清水書院の「中学歴史」)のに対し、農民たちは農地の回復だけが目
的でしたから、正造に反発せざるを得なかったわけです。
川俣事件で逮捕された左部彦次郎は、その裁判で「請願は、操業停止が目的な
のか?」という検事の質問に対して、「いや、敢えて望みません。鉱毒の流出しない
設備を望むだけです。」とはっきり答えています(朝日新聞・明治34年9月2日)。
渡良瀬川の沿岸農民が、一体なんで収穫物を買ってくれるお得意様である足尾
銅山に閉山を求めたりするでしょうか。
田中正造は、農民の気持ちなど理解していなかったのです。
>>165 事件直後に大島村で発刊された「毒砂の原」に
「請願書を認めて銅山停止に願い出し」という文言
があるので、それは当てはまらない。
仮に左部がそう言ったからといって、残りの50人の
被告全員がそう言っていたという保証はないし、
残りの数千の農民全員がそう思っていたのかも
分からない。
野口春蔵に至っては、警察が2月12日(川俣事件
前日)、雲龍寺で鉱業停止を訴える演説をした、と
裁判で言っている。鉱業停止してほしくないなら、
集まった数百の農民は野口のあとくっついて押出し
なんかしないで帰ればいい。農民は馬に乗った野口
にくっついて押出しを始めたんでしょ?
さらに妄想が炸裂してるのは、銅山が被害地農民の
収穫物を買ってくれるお得意様とか書いている部分。
何で自分の意見と違っているだけで別に嘘でもなんで
もないことは平気で全部「嘘」とか言い切れるのに、
ここまで堂々と嘘がつけるのか。
当時の鉱毒被害地から足尾まで、農産物を運ぶ
ルートはない。水運は足利郡梁田村までしかないし、
鉄道は桐生まで。そこからは40キロ以上ある銅街道
を、馬に乗せて運ぶしかない。
(一応、桐生の梅田まで鉄索があった時代もあるみた
いだけど規模も輸送量も不明。どっちにしろ、細尾峠
路線よりは輸送量が少ないのは確実な上、桐生から
梅田までさらに軽く10キロ以上ある)
当時の足尾銅山の物資輸送は、日光の細尾から
足尾の神子内まであった鉄索っていうケーブルカー。
足尾鉄道はまだない。
日光側から物資輸送をしてるんだから、農作物は
当然、日光近辺の今市か鹿沼付近から調達する
ほうが輸送コストもかからないし、わざわざ鉱毒
被害地からしなびた鉱毒入りのまずい野菜や米
を調達しなきゃならない理由が全くない。
小学校の国語教科書はまた、正造の直訴後のことを次のように書いています。
「明治政府も、ようやく、<鉱毒調査会>を作り、足尾銅山には、<鉱毒を取り除く
ように。>と命令し、」
しかし、「ようやく<鉱毒調査会>を作り」も、当然真っ赤な嘘。
すでに5年前に「鉱毒調査委員会」ができていたわけですから。
その第2次の調査委員会は、第1次の委員会(明治30年)が命じた公害防止工事
の効果について、その調査結果から「効果があった」との結論を出しました(明治36
年6月)。
同時に、政府は足尾銅山に堆積場の排水の改良、沈殿池の設備改善などの工事を
命令しました。これは明治政府が足尾銅山に発した5回目の命令です。
つまり、このときはじめて「鉱毒を取り除くようにと命令した」というこの教科書は、事実を
完全に無視し、小学生を完全にだましているわけです。
168 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 02:08:25 ID:Q0GEdUF20
>>166収穫物を買っていたって、足尾に運ぶために買っていたっていう意味でなく、
買い上げていたという意味にもとれるんじゃないんですか。大きく勘違いのよう
に思いますが。労を要して、当時の輸送手段を書いていますが。
169 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 02:19:35 ID://IzEvw60
で 田中正造をおとしめて誰の名誉回復を図りたいの??
もしくは何を主張したいのですか?
170 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 10:18:32 ID:Q0GEdUF20
おとしめる?誰を?そんなことはしません。事実を書いているのでしょう。
名誉回復?何のために誰が?何のためでも、誰のためでもないでしょう。
これも事実ですから。あまりにも違う人物に作られていってしまっているからで
しょう。真実を書いているだけでしょう。
171 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 22:16:44 ID:Q0GEdUF20
>>166そこから40q以上を馬に乗せて運ぶしかないとかおっしゃいますが、足尾
銅山まで買ってくれるんだから運びますよ。明治時代の感覚の40qなんて、今の
感覚と違いますよ。全部歩きなんだから、歩くのが当然な時代でしょう。たいし
て苦にしないと思いますよ。既にあなたは現在の感覚で考えているのが間違いの
元ですね。ケーブルカーだけだだの、鉄道がないだの、40q以上あるだの、これ
は現代の人の考えること。ないのが当然の時代の感覚とは違うでしょう。
やはりそこら辺が既にわかっていない。それに今市が近いからといっても、当時
の足尾の物資輸送には馬何百頭も使い運んでいます。そのぐらい人口もあるので
食料が必要です。同然遠くからでも買うでしょうね、そして食べたでしょうね。
あなたが言う鉱毒入りというやつを。そして死ななかったですよ。死ぬわけない
でしょう。
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 01:04:09 ID:V6ppnF6E0
あまりにも違う人物に作られていってしまっているからで
しょう。真実を書いているだけでしょう。
再三再四 カキコしたんですが
あなたを突き動かす原動力を教えて欲しいと申し上げているのです。
田中正造という人物になぜそこまで魅せられているのか。
ということに興味があるのです
>>166 中学・高校の教科書からは、被害農民がみんな田中正造の下で公害反対運動に
加わった印象を受けます。
しかし、事実は反田中派が大部分で、田中派が足尾銅山の操業停止請願をおこな
った時、反田中派2万2182名は操業非停止の陳情をしました(明治30年2月)。
田中正造の信奉者・花村富士男によっても、この署名数は田中派の10倍近いという
ことです(『田中正造の生涯』)。
つまりは、操業停止派の農民は、被害が最も激甚だった時でさえ、全体の1割程度だ
ったわけです。
ところで、彼らがこの年4月に刊行した本には、次の文章があり、
>>165の主張を裏づ
けています。
「足尾町は栃木県有数の都会で、一個の工業都市を形成している。そのため、沿道の
各地方も運輸交通その他、各種の事業にかかわって利益を得ており、当銅山の盛ん
な消費力は、栃木群馬両県の農工商業のほとんどに、広く潤沢な利益を与えている。
もし、操業を停止したら各地の商工業はどうなるのか。」(『資料足尾鉱毒事件』319頁)
仕入れた知識だけでは、100年前の流通経済の実態は判定できないのです。
ここまで凄いオナニーは初めて見た。
ID変えてまで同じ事を繰り返す。
>>173 そりゃ商工業の話で農業とは書いてないように
見えますが。
それに何度も書くけど、わざわざ越名村や渡瀬村
あたりから(越名は野口春蔵の出身地、渡瀬村は
大挙請願(押出し)のスタート地点)足尾に農作物を
運ぶくらいなら、たとえば神戸(ごうど)、大間々、
桐生、笠懸あたりから運んだほうがはるかに輸送コ
ストは安いでしょうが。(しかも、それらの地域はど
こも鉱毒被害地ではない)
渡良瀬川沿岸から農作物を運んだことは否定しませ
んが、何で近い神戸や大間々からでなく、敢えて
越名や大島あたりから運ばなきゃならないんだかそっちの
理由がない限り、そんな珍説には賛同できませんな。
それに、農民が最初から鉱業停止でまとまっていた
わけじゃない。うちの田んぼに鉱毒が入らなきゃそれ
でいい、そんな農民が大多数だった。ところが砂川は、
左部が鉱業停止を望まない、って発言した、っていう
発言をもって、大多数の農民の心がこの頃に正造
から離れていったかのような印象操作をするから
怪しまれるんでしょうが。
その、鉱業停止ではまとまらない農民たちを組織化し、
「おらたちの村にはあんまり鉱毒被害ないんだよなあ」
「そこをなんとか、押出しに加わってくれ」ってまとめて
大挙請願をやって遂げたのが鉱毒事務所であり、正造
なわけでしょう。(正確には正造は第1回から第3回の
押出しには加担していません)
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 20:17:18 ID:7kJK4YFp0
当時、日光細尾から鉄索(ケーブル)で、峠を越えた後は、馬車鉄道と言って、
馬の背にではなくて、線路を引いて馬に引かせていたのです。テクテクでなく、
スムーズにしかも、平トロという荷物専用の台座付き、棒を四隅に建てて、板
を入れれば沢山の物を入れられます。町内はもちろん群馬は沢入まで馬車鉄道
をかけ、その沢入も黒坂から鉄索で足尾への石灰を運んでいるので、沢入駅前
は旅館も繁盛していました。もちろん渡良瀬沿線、大間々も足尾のおかげが沢山
あったのです。
40qなんてたいしたことないですよ。フルマラソンで人間だって走れる距離で
町中線路を引いてスムーズに馬に引かせていたのです。歩くのが普通の時代です。
良くお考えください。
当時、資材や生活物資も輸送されてくるので、牛馬が長い列をなし、大間々警察署
から他の交通に支障になると、牛車輸送を差し止められたくらいです。
明治21年の上州路は、馬車400輌、牛車120輌 手車200輌がひしめいていました。
それでもまだ、馬車123輌が不足だと言っています。それで馬車鉄道をかけたの
です。しかもそれを運んでくる人、それに関わる人を入れたら大変な数になります。
明治中期には、従業員だけで約1万人を持つ足尾銅山は近代産業都市だったんです。
おかげを被る人々は足尾だけに留まりません。総人口で言えば2万〜3万人の
胃袋を満たすには、どこからでも運ぶのです。沿線だけ、近い等という理由は
成り立ちません。そこからだけなどでは、到底間に合いません。
念のため、梅田にかけた鉄索(ケーブル)は明治33年沢入〜山地(梅田5丁目)
間に延長6339mの鉄索を架設しました、これは石灰石を運んだのです。
車、鉄道がないから輸送手段がないなどとは思ってもいない時代、歩くことが
当たり前の時代。鉄道がないだの、遠いだのそんなこと言っていられない足尾の状況
等も、良くお考えください。
>>176 それは時代が違うでしょ。
明治21年当時はそうだったかもしれないけど、
鉱毒が激甚化、押出しするのは明治30年頃。
川俣事件は明治33年。
明治23年には細尾峠の鉄索はできているんだ
から、21年には大量にいた馬も、23年以降、
量も需要も減ったとみるのが正解でしょう。
それに、何度も書くけどこの時代(明治30年代)
の輸送のメインルートは細尾峠の鉄索。
物資輸送のためにわざわざ鉄索つくったのに、
使わないわけはないでしょう。つくったのは、そ
ちらのほうがコストが安いとふんだからでしょう。
なら、農産物も日光から鉄索で運ばれたと考え
るのが妥当で、大間々からの人馬輸送は残った
としても補助的(たとえば鉄索故障時に備えて
予備ルートとして残していた)と考えるのがもっと
妥当でしょう。
それに、どこからでも運んだのなら、ますます
わざわざ鉱毒被害地から食料を購入する必要は
なくなりますが。
鉄索で峠を越えたあとは馬車鉄道で運んだのも
知ってますよ。ただ、それは、全部を馬車で運ばせ
るのよりは、鉄索を使って一部を馬車にしたほうが
コストがかからないからでしょ。
何で都合のいい時代の値だけ出してくるのかも
これまた分からない。
それに、足尾銅山はこの時代、極端に人を減らし
ています。
明治23年には1万8千人いた従業員が、33年には
6571人に。足尾町の人口も減ってます。
30年推計で27426人、35年推計で22708人。
36年の内務省の値は突然3万を超えますが、それ
は川俣事件のあとの時代です。
>>177 村上安正『銅山の町 足尾を歩く』123ページだとこうですね。
索道は明治二三年八月から工事を開始し、一一月には
運転を開始している。最後に残った細尾と日光駅間の
馬車鉄道が二六年一一月完成、足尾銅山への輸送路は
日光路に集中することになる。
このとおり、鉄索開通後、大間々方面からの輸送は
相当減ったことが分かります。
この本は砂川も参考文献に出してますよね。
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/12(日) 03:01:45 ID:f78VGKDn0
明治30年鉱毒予防工事のため延べ58万3000人の人が働きます。多い日で7000人少な
い日でも2000人。その人たちの食料はどうするの。
鉄索もフル回転ですが、明治30年のその時、群馬側、日光側に馬150輌追加して
います。何度も書くけど、減るどころではありません。それに
>>177のあなた
明治35年の人口は32708人ですよ。1万人も減らしちゃ困りますね。それに
明治30年以降の人口は増えているのです。減らさないで!足尾では戸籍を
もたない人も随分いますからそんなどころではありません。ちなみに明治36年
には明治35年よりちょっと少ない31077人よ。内務省の値は突然3万人越える?
>>179 予防工事やってる間は銅山止めて、
鉱夫も全員、予防工事に回ったんでしょ。
予防工事用だけのために膨大な人間を
別に雇ったわけじゃない。
あとは元から足尾にいた人たちを、手弁当
で動員しました。(ボランティアって言われて
ますね)
それに、フル回転の鉄索も馬車も、
予防工事用の資材輸送でフル回転なんでしょ。
確か、あのとき、日本のセメントの何割って
数えられるくらいの量を足尾で買ったはず。
セメント輸送でフル回転なわけで、別に食料
輸送でフル回転なわけじゃない。
馬車を増やしたから食料も大間々から入れた、
って理由にはならんでしょう。
それに仮にそのとおりだとしても、それは
明治30年というひとつの年だけの例外でしょ。
31年も29年もそんなことはやってないんだから。
そして川俣事件は何度も書くけど33年です。
人口の数字は、『銅山の町 足尾を歩く』に
よります。どっちにしろこの時代の足尾は
推計しかできないからその値もどこかの
推計値でしょうね。
181 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/12(日) 14:02:40 ID:f78VGKDn0
明治28年人口11549人 世帯数2962
明治30年人口27426人 世帯数3516 明治28年の問題は世帯数と人口の格差から
いって30年の人口/世帯数を適応すると推定の2倍に達すると、問題としている
のですが
明治28年23000人 明治30年27426人 明治35年32708人 明治36年31077人 明治40年34824人
明治22年に少なくても2万人半ばまで達していると言われています。その他に要するに
足尾の場合戸籍を移動しない無届けの分を入れると楽に3万人は居るはず。二本の日光側
からの鉄索は一本は荷物専用としたら、もう一本だけでは3万人の食料を調達は大変・・・私調べ。
でも、これは「どうせどこかの推計値」なんてもんじゃないことだけはお断りしておきます。
明治30年以降減ってるどころか、3万〜それ以上を維持しています。
大正5年38428人最高の人口の時、戸籍を持たない方を入れると5万人いたと言われ
ています。この時は既に鉄道も開通していますが。この様に足尾の場合戸籍を
移動しないで来ている方も沢山いるのでどこかの推定値以上、多めに勘定してね。
そうはいってもこの村上の値そのものがそうやって
「水増し」されてるのかどうかも分からない。
水増しした値に水増しをしてさらに水増しをしていっ
たら、100人が10万人にでもなってしまう。
まあどっちにしろ明治30年代に2万から3万人ってい
う推計で話を続けるけど、鉄索で運びきれない分を
大間々から輸送したのは事実かもしれないし否定は
しないが、それはあくまで予備ルート。鉄索で運びき
れないから食料を全部大間々から運んだわけはない
でしょう。
そして仮に大間々から輸送したにしても、わざわざ
渡瀬村や越名村から足尾へ送るべき理由がない。
まわりに笠懸でも新田でも藪塚でも、近いところに
農業地帯はいくらでもあるんだから。
史料を掘り返してみたけど、明治35年に、お上から
「沿岸で鉱毒反対運動をやってなくて、銅山に依存
して生計を立ててる町村はないか」って調べが(何故か
極秘で)来て、大間々町と黒保根村と東村の分の
集計が出てる。ただ、酒と醤油と材木と石灰の数値
しか出てなくて、それ以外の食料を運んだのか運ば
なかったのかは分からない。ただ、そこから分かる
のは、明治30〜34年の間で、輸送量が一番少ない
のは予防工事をやった30年。あとは数字にはあまり
変動はなかった。
輸送業者の数が大間々で10人っての少なすぎる
ような気もするが、東村380人ってのは多すぎ。
ちなみに黒保根は78人だった。
多分、兼業の人も入れてて、馬車鉄道の輸送員も
入れてる(終点沢入は東村)んだろうけど。
ちなみに明治34年大間々から足尾に送り出され
た荷物の量は、
酒7216.320円、醤油36909.360円。
これを見る限り、大間々からの輸送は日持ちのする
加工品類が主だとみていいだろう。だとすると、
まかり間違って鉱毒被害地から足尾へ農作物が
行ったとしても、それは大間々の酒屋や醤油屋を
通してであって、鉱毒被害地は「大間々の醤油屋が
麦を買ってくれる」とは思っても、銅山が買ってくれ
るとは思ってないだろう。
(群馬県史 資料編20)
農民は商工業とは関係ない」とおっしゃる
>>175さんへ。
農家は生産(農業)だけでなく、それを流通卸売り業者に売る(商業の一翼を担う)こと
で暮らしを維持しているのですよ。
本題に戻りますが、直訴よりも半年少し前の明治34年4月28日、正造は、自分のいう
ことを聞かなくなった被害民への不満を、野口春蔵ほか9人の活動家に宛てて、手紙に
次のように書いています。全集で確認してください。
「被害地の馬鹿は自家の権利を縮めることにのみ汲々とし、請願の上京を怖れ、悔い、
・・・嗚呼、これらの馬鹿に貼付すべき良薬なし。・・・(彼らと違い)諸氏は沿岸の先覚な
り。沿岸の神なり、仏なり。・・・よって諸氏の責任や甚大なり。」
正造にとって、自分のいうことを聞かない被害民は、馬鹿でしかなかったわけです。
明治36年になると、正造と活動を共にする活動家はわずか3人しか残っていませんで
した。この年の7月10日に大出喜平、野口春蔵、左部彦次郎の宛てた正造の手紙は
こうです。
「正造は諸氏の護衛兵なり。しかもなお沿岸の人民には分からぬ。・・・諸氏の智、諸氏
の明にして、万一にも少々にても厘ほどにても疑う点あらば、その行き違いよりくる損害
は、幾千円幾万円の金にも変え難からん。小生も諸氏を信ずるあまりに申し上げ候。」
さらにその後、何かのことで野口が正造に腹を立てていたと聞いて、野口春蔵に次のよ
うな詫び状を書いています(同年10月30日)。
「とにかく正造は盗人なり。野口君や大出君や二人の功名を盗んだり。また山本君や
青木君や田野入君や亀井君や稲村君や谷君や糸井君や小野君や新井君矢の功名を
盗んで、正造はこれを我物顔にせし不埒不届きの盗賊の魁である。」
窮地に立った正造が、ほめ殺しの手に出たことが分かります。
>>183 いやその話じゃなくて。
銅山は農作物を買ってくれるお得意さんなんだから、
鉱毒被害地の農民が鉱業停止を主張することなんか
ない、っていう主張は間違いだ、って言ってるだけです。
ちなみに、梁田村と毛里田村の農民数百人は、この
時代(川俣事件の時代)「鉱業停止」の請願書を出してます。
非常に少ないですが、「鉱業停止」を唱えた村はあった
のです。足利市史や群馬県史といった、ごく基本的な
文献に載ってますからちゃんと参照した上で、誤った
認識は直してから出直してください。
ちなみに、足利市史のほうはたまたま手元にあるので
ページも言っておきますね。
別巻資料編鉱毒の413ページ、「銅鉱製錬所禁止の
請願書」が、1901年、梁田村263名の連署で出てます。
先足尾銅山ニ於テ銅鉱製錬ヲ直チニ禁止シ以テ我々
帝国臣民ノ権利ヲ回復シ生命保存ト納税ノ義務ヲ完全ナ
ラシムル様致度ニ就キ銅鉱製錬禁止ノ請願速ニ御採用
被下度此段謹テ悃願仕候
どうです。105年前の梁田村の農民の悲痛な叫びが、
世紀を超えて伝わってくるでしょう。
小学校の国語教科書の「田中正造」は、さらに次のように続きます。
「(直訴後に設置された鉱毒調査委員会が)渡良瀬川と利根川の合流点に近い
栃木県谷中村をとりつぶし、ここを遊水池に変えることにした。洪水のとき、河底
の鉱毒をおし出す水をたくわえるダムがあれば、鉱毒が広がらずにすむ、という
のである。」
この説明もまた、作者の偏向した解釈を子供たちに押しつけたフィクションです。
政府の命令で実施された公害防止工事が、鉱毒の除去に成功したのを確認して、
この鉱毒調査委員会は、渡良瀬川沿岸の洪水防止対策として谷中村の遊水池化
を計画したのです。
それなのになんで、「鉱毒を貯めるダム」などと嘘を言うのでしょう。
「公害防止工事が鉱毒の除去に成功した」という調査委員会の結論は、岩波新書
の『田中正造』にも明記されています。作者はもちろん、教科書の編集者も、この
教科書に疑問を感じない先生方も、あまりにも不勉強ではありませんか。
しかもこの遊水池案は、上流の被害農民も例外なく賛成した計画です。
それをこの作者は、あたかも農民たちの反対を押し切って推進したごとくに書いて、
政府を批判しているわけです。
いったい、文部科学省はどうして、こんな教科書の検定を通したのでしょう。
>>186 由井(岩波新書版「田中正造」の著者)は、第二次鉱毒調査会
が、鉱毒はなくなったと調査委員会が報告した、などとは書いて
ませんよ。
いくら何でもそれは史料の捏造がひどすぎるんじゃないですか。
第二次鉱毒調査会の調査結果は、「鉱毒は減った」です。
なくなった、でもなければ、被害がなくなった、でもない。
由井の本を念のために開いてみましたが確かにそう書いて
あります。
嘘を前提とした主張をするのはやめてください。
ほかにも嘘の主張をされてますが、そこまではツッコミを入れる
気もおきません。
.
>>187のコメントへ。
岩波新書の『田中正造』の177ページにこうあります。
「調査委員会の<足尾銅山に関する調査報告書>は、明治36年5月の
第18議会に報告された。この中で委員会は、作物に被害を与える胴分は、
30年の鉱毒予防命令以前に銅山から排出されて、銅山付近および渡良瀬
川の河床に残留するものが大部分で、現在の操業によるものは比較的小
部分に過ぎないとして、古河鉱業の責任を解除した。」
>>188 「公害防止工事が鉱毒の除去に成功した」
ってのは由井の本のどこに書いてあるんですか?
どこにもないと思いますが。
「この中で委員会は、作物に被害を与える胴分は、
30年の鉱毒予防命令以前に銅山から排出されて、銅山付近および渡良瀬
川の河床に残留するものが大部分で、現在の操業によるものは比較的小
部分に過ぎないとして、古河鉱業の責任を解除した。」
というのと、「公害防止工事が鉱毒の除去に成功した」というのは、
日本語では全く意味が違います。
由井の本に書いてないことを、あたかも由井が主張したかのように
言い張るのはやめてください。
ちゃんと由井は、「鉱毒は減ったがなくならなかった」「調査委員会は
そう報告した」と書いているではないですか。
被害農民の一部は明治30年から足尾銅山の鉱業(操業)停止を求めたが、
明治34年の10月の段階では、その反公害運動の理論的指導者だった左部
彦次郎でさえ、「鉱業(操業)停止は敢えて望みません」と、裁判で検事にそ
の本音を語った。
以上が私の主張したことですが(
>>165)、これに反撃を加えたつもりの方は、
わざわざ私の主張した事実を裏づける証言をしたにすぎません。
「野口春蔵が、明治33年2月に 雲龍寺で鉱業停止を訴える演説をした」(
>>166)
事実も、「梁田村と毛里田村の農民数百人が川俣事件の時代に鉱業停止の請
願書を出した 」(
>>185)事実も、私の主張を正当化するだけではありませんか。
私は、彼らの意識がその後変化したといっているのです。
反論するなら、もっとパンチの効いたものにしてください。
>>190 >165で、
>渡良瀬川の沿岸農民が、一体なんで収穫物を買ってくれるお得意様である足尾
>銅山に閉山を求めたりするでしょうか。
とか嘘をつくから、いや、梁田村や毛里田村は鉱業停止の請願を出してる、って
証拠を出しただけでしょ。
国語教科書の「田中正造」は、最後に、彼の死の時を次のように書いています。
「被害地の視察に出てたおれた正造が、栃木県吾妻村のある農家へ
運びこまれたのは、1913(大正2)年の8月2日である。
<山や川を元に回復することができれば、正造は死なぬ。それができなければ、正造は
山や川とともにほろびる。私を気づかう前に、人の住める土地をとりもどしてくれ。>
かけつけた農民たちに語る71才の正造の体は、あせにまみれた。やがて9月4日、
正造の死を知らせる雲龍寺のかねがひびいていった。」
もし、正造の語ったことが本当だったら、聞いていた農民たちは、
飛び上がって驚いたと思います。理由は次回から説明します。
正造は「人の住める土地をとりもどしてくれ」といって死んだということですが、
それより10年前(明治36年)の秋には、全集別巻の年譜によれば、「鉱毒被
害地の稲は豊作」となり、正造も10,11月の10回にわたる演説会で、「被害地
豊作の実況」などと題して8回演説した、ということです。
つまり、だいぶ早い段階から「人の住める土地」は戻っていたのです。
同年10月23日の日記に、正造は次のように書いています(全集第10巻)。
「渡良瀬、利根沿岸中、河川接近低地、毒の入り易きは、激甚地の小部分は
稲作豊作なり。これ天の与うる地勢論の御勝利として、御会員様に対し謹んで
御礼申し上げざるを得ず。また我々の請願意見の通りに候。人は悪事を働くも
天は真のありがたきをお示し賜れたり。」
また、彼が作った、同年10月29日付けのPR用チラシにはこう書いてあります。
「当年の豊作は天の神様の賜物なり。神仏の恵みである。」
「激甚地の一部は5倍以上の豊作なり。」(全集第16巻66頁)
>>193 一応ツッコミいれとくか。
五倍の豊作になったのは、激甚地の「一部」でしょ。
で、正造が言ってるのは、今は豊作でも、次の洪水で
鉱毒が流れてくるかもしれないし、そこで凶作にならない
とも限らないから、一時的な豊作にうかれるな、ってこと
でしょ。
それは砂川がかなり恣意的な引用をしているストロングの
正造の伝記にも載ってるんでしょ。
ちょっとでもよくなったような史料があると、「全部回復した」
かのような書き方をするのは嘘でしょう。
それに、確か1910年だかの大洪水の鉱毒被害も
正造はずいぶん細かく調査してる。この年鉱毒被害が
「なかった」っていう話は正造はしてないですな。ってのも全集に
載ってるけど、何で1903年に豊作になったってとこだけ
引っ張ってて、そこは無視しますかね。
今の毎日新聞とは無関係の、当時の『毎日新聞』は、正造の友人の島田三郎
の経営で、徹底して正造を支持していた少数派の新聞ですが、同紙でさえ明治
36年10月16日には、次の記事を書いているのです。
「いわゆる堤外地、すなわち毒土数尺を堆積せし所、かえって濃濃たる禾穀を
生じ、多年一穂の穀実を穫ざりし被害民蘇息の思いを為し、世上一般意外の
現象に一驚するに至れり。」
「山や川を元に回復することができれば、正造は死なぬ。」といったそうですが、
10年も前にこれほど田畑が回復していながら、なぜこんなせりふを吐いたので
しょう。敢えて嘘をついたとしか考えられません。
大正2(1913)年8月24日、正造の死の10日ほど前のこと、正造を支援していた
弁護士の花井卓蔵と卜部喜太郎が、栃木県吾妻村下羽田の庭田方見舞いに
訪ずれました。
都新聞記者の柴田三郎は、この二人から、その時のことを次のように聞き取っ
ていますが(『義人田中正造翁』、大正2年)、卜部はこう語っています。
「鉱毒が激甚だった頃は、この辺がことにひどかった。実に満目惨憺で、青いも
のは見たくも見ることができないという有様だった。このくらいの大きい竹が引っ
張るとすぽんすぽんと抜けた。」
「そういうわけで、いよいよ中央にもこの鉱毒というものが認められて政府の方
でも十分の調査をすることになり、鉱毒調査委員会というものができた。そのた
めに古河鉱業主は莫大な金を使っている。」
「しかるに、先達て見舞いに行ったときに見ると、もう、その付近は草木青々と
繁茂して、米もできれば桑も育っている。木々の梢には蝉が鳴いている。どうも
見違えるほど賑わしくなっている。」
「かくこの地方を復活せしめて賑わしめたのは、これ全く翁(正造)のお陰である」
>>196 からの続きですが、卜部とともに正造を見舞った弁護士の花井卓蔵も、柴田
三郎の取材を受けてこう話しています(『義人田中正造翁』、大正2年)。
「田中君は、問題を一身に引き受けて官権、富豪と戦った。ついにその効があら
われて除外工事となり、渡良瀬川沿岸一帯の被害はほとんど復旧し、かつては
稲も実らず桑も出来ず、草さえ生えなかった土地が、今は青々と草木繁り、稲も
実るようになった。これひとえに田中君の功であると言わなければならない。」
「見舞いに行ったときに、野口春蔵君という鉱毒問題当時の大将が看護に来て
いて、<私どもが先祖伝来の土地をこれほどまでに救われた御恩は、とても神
や仏の及ぶところではありません。もし万一のことがあったときには、どうしても
神社でも建てて、遠き数百年の後まで、その御恩を記憶しなければなりません>
と言っていた。」
正造の側近の活動家だった野口春蔵も、谷中村問題では正造と反対の行動を
とりましたが、正造の危篤に接してこのとき看護に駆けつけていたわけです。
彼以外にも、正造から離れていた大勢の公害反対派の農民が、正造の死の床
に集まり、野口同様心から感謝の気持ちをいだきました。
そして、「先祖伝来が土地がこれほどまでに救われた御恩」を何としても伝えた
いと、庭田家に「田中翁病中事務所」を設けて看護に熱中しました。
このように事態が急変した事実は、被害農地が如何にすばらしい回復をとげた
かを、如実に物語っています。
農民は現実主義者ですから、正造がいくら熱心でも、田畑が元に戻るという実質
がなければ、正造を尊敬するわけがありません。
被害農地の復旧は、もとより、正造だけの功績ではなく、農民の活動家たち、政府
当局、栃木・群馬の県会、古河市兵衛などを含めた関係者すべてにあって、彼らが
誠実に努力した結果です。しかし、正造に心酔してやまない『万朝報』の記者・高橋
鉄太郎は、公害防止工事の効果を裏づけに、正造を次のように称賛しています。
「もとより、暴悪なる富豪古河の経営せる足尾銅山除外工事は、決して完全なるもの
というべからず。彼(田中)がこの施設に満足せざるは当然なるも、この工事あるが
故に鉱毒の被害を薄くしつつあることは、公平なる識者の一致する所にして、しかし
て、この除外工事を設けしめたるは、彼が10年獅子吼のたまものたるを失わず。
この点において不本意ながらも彼(田中)は瞑して可なり。」(『義人田中正造』)
新聞記者・高橋は、正造を神として崇敬すべきだと、被害民に次の如く説いています。
「十万町歩の耕地によりてその生活を営める50万の農民は、彼が被害民のために
樹立したる勲功の甚大なることを思うてこれを銘記し、子々孫々に至るまで彼(正造)
の恩を記せしめざるべからず。」
「足尾の鉱毒にその生命財産を奪われんとしたりし渡良瀬川沿岸の人民は、少なくと
も彼を神として子孫に伝えて厚く祭祀せざるべからず。」(『義人田中正造』、大正2年)
正造が所属していた政党の党首であり、当時鉱山業を所管する農商務大臣として公
害防止工事を命令した大隈重信は、正造に対して次の弔辞を贈っています(全集別巻)。
「家を忘れ身を献げて下民の困難を救わんと欲し、議院の内外に呼号して一世の惰眠
を覚破し、よく渡良瀬沿岸十万無告の民を救済せり。君の功もまたあに偉ならずや。」
新聞記者の高橋鉄太郎と政治家の大隈重信の発言から、農民が如何に救われたか、
つまり農地が如何に回復したかが、よく分かると思います。
しつこいかもしれませんが、鉱毒事件が公害防止施設によって解決をみたという証拠を、
更に付け加えます。
昭和10年刊の『国民百科大辞典』(冨山房)で「田中正造」を引くと、次のようにあります。
「義人。・・・足尾銅山鉱毒問題に身命を忘れて奔走。すなわち流出鉱毒が渡良瀬川沿岸
6万町歩を荒らし、136か村、30万人の生命財産に及ぼす被害にかんがみ、対策を講ぜ
んとしたもので、官民ここに悟り、ついに現時の施設を見る。」
正造の努力は報われず、鉱毒問題は解決しなかったという、現在の教科書や事典の記述
とは、全く反対のことが書いてあることが分かると思います。
>>202 しばらく放っておいたけど、たまには出てきますか。
で、その冨山房の本には「施設ができた」って書いて
はあるみたいですが、
「鉱毒がなくなった」ってどこに書いてあるんですか?
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 07:12:42 ID:qwxEL1qxO
粉砕してどうすんの?自分のブログなりで大いに開陳すればいいのにな。
鉱毒問題が解決した否かは、このことに直接かかわった当事者が一番よく知っているは
ずです。
正造の下でこの運動に身を投じた指導者の一人永島与八は、前述した野口春蔵と同じく
被害農民が救われたことに感激し、これを正造の功績に帰して次のように書いています。
「私はつくづく思う。もし田中翁なかりせば、この事件は如何に成り果てたであろうと。かく
のごとき不祥事の起こったことは、実に日本の国史上一大汚点であり、日本国民の一大
不幸であったが、たまたま田中翁のごとき人傑があってこれを適当に解決してくれたことは
日本の国史上一大美点であり、日本国民の一大幸福であった。」
「私の見た田中翁は・・・内容が豊富で高く、広く、深く、大きい。すなわち翁はわが日本が
生んだ奇跡的一大存在であった。ただに明治の義人というだけでなく、実に永久不朽の
義人であり、哲人であり、詩人であった。また古今稀なる政治家であり、道徳家であり、
教育家であった。しかして更に一大宗教家であったと私は思う。」(永島著『鉱毒事件の
真相と田中正造翁』、昭和13年)
>>205 はいはい。じゃあ一応相手してあげますね。
この昭和13年っていう年は、渡良瀬川で大洪水が
あって、鉱毒がまたまたまたまた(中略)またまた
沿岸に流れた年。そのちょっと前の昭和9年にも
鉱毒被害が出てますね。
でもって、永島はこの時代の最大激甚地、三栗谷と
待矢場のどちらの住民でもありません。
待堰か矢場堰周辺の住民がこの時代に「鉱毒が
なくなって幸福です」って書いてる文書があったら
提示してください。
鉱毒被害地は永島の出身地安蘇郡だけじゃあり
ません。
佐野周辺で鉱毒が減ったからって、それはなくなった
わけじゃない。しかも、正造が死んで鉱毒被害地の
ネットワークもなくなると、永島みたいな安蘇郡の
住民は、山田郡がどんな悲惨なことになってるか
それすら知らないままのうのうとこんな文を書い
ちゃう時代になっちゃったんだ、ってのがよくわかる
文書です。
もちろん山田郡足利郡の被害地ではちゃんと
鉱毒なくせって運動をやり続けてます。それも、
正造がまだ生きてた時代から、連続して続けて
いて休んだりしてないわけです。
だから、待矢場の鉱毒反対運動は、田中正造の
ものをひき続いたもので、少なくとも当事者たちは、
そうだと思っていますし、碑にもそう刻んでいます。
大正時代から昭和時代初期の鉱毒反対運動を
なかったことにしたがっているようですが、残念ながら、
とっくの昔に近代足利市史がそれを否定しまくって
くれています。
あと、永島の文には思ったより虚構があってかなり
指摘されてるので利用には注意しましょうね。
(足利市史にも捏造文書だって言われてる文書が
ひとつか二つ紛れ込んでますが、それは、鉱毒被害
が始まった年を異常に早くした文書くらいだと思いました)
農民や公害反対運動の活動家、この事件を取材していた当時の新聞記者たちが、正造を
神格化していた事実は、これでうなずけると思います。
しかし、現在の教科書や辞典類の執筆者や、正造の研究者や学者による正造の神格化と
は、その理由が当時のそれとは大きく違っています。
当事者たちが、鉱毒の被害は、正造の政治力によって解消されたとしているのに対し、今の
研究者たちは、正造の政治力では鉱毒問題は解決しなかったと結論づけているからです。
解決しなくてもなお神格化すべき存在だとしているわけですが、いったいなぜこんな不自然な
結論が生まれたのでしょう。
それは、正造がよく嘘をつく人間だという事実を無視しているからです。
キリスト教徒なのによく嘘をつく?
明治36(1903)年の秋に、鉱毒被害地の稲が豊作となり、正造も「激甚地の一部は5倍
以上の豊作」などと演説していたという事実は、すでにお伝えしました(193)。
ところが彼は、「豊作になった原因は断じて政府の公害防止対策のせいでない」と言い放ち、
とんでもない作り話をでっち上げて、何としてもこれをだれかれに納得させようと、演説で話し
て歩いたり、親友の経営する『毎日新聞』にちょうちん記事を書かせたり、チラシを作ってこ
れを配布して回ったりするのです。
その捏造話には、皆さんもきっとすごく驚かされると思います。
『田中正造全集・第16巻』の16頁に、明治36(1903)年10月29日の日付のある宣伝ビラ
が載っていますが、正造はそれに次のように書いています。
「予防工事は昨年ことごとく破れて、5か年間積もりおきたる毒は、一時に流れ出たるほどな
りしも、これと同時に十里以上の山々崩れ、新たなる山土は天然の新肥料となり、稲は旧年
に比して5倍の豊作となりせば、いかなる愚鈍いかなる馬鹿にも新土のためなるを解しえて、
今は3歳の小児といえども、予防工事のためでないと認めたれば、今回は政府の官吏中に
すらも、往々鉱業停止論を主張するものあるに至れり。」
とても解りずらい文章なので、簡単に書き直せば、豊作になったのは去年の十里以上の山
崩れのせいで、その土が畑の上に載ったからである。このことは、どんな馬鹿でも幼児でも
理解できるし、だれしも豊作は公害防止対策のせいでないと認めているので、政府のお役人
にも、足尾銅山の鉱業(操業)停止論に賛成する人が現れてきた、ということでしょう。
正造の「山崩れ豊作説」がいかにお粗末な嘘かは、十里以上の山崩れはありえませんし、
崩れた土が何十キロも遠くまで移動できませんし、かぶさった土が肥料になるはずはあり
ませんから、皆さんにもよくわかると思います。
「3歳児でも解る」という言い方の中に、彼の自信のなさがほの見えていないでしょうか。
すでに明治34年の秋、つまり直訴の前に、新聞は豊作の兆しがみえると報道しているので、
35年の山崩れ説は無効ですし、被害地の農民たちは、「自分の田畑に新土がかぶさった」
などと、誰一人言っていません。あまりにもナンセンスな捏造話ではありませんか。
10月29日付の宣伝ビラには正造は更に次のように書き、今度は農民たちを脅しています。
「地方人もしこれを知らず、村の悪人等市兵衛の犬どもに欺かれ、あるいは酒を飲ませら
れて、おのれの被害民たるを忘れ、油断して安眠し安座し、運動を怠れば、たちまちまた
神仏の罰を受け、今後は妻子を殺さるるほどの天災も来たらん。」
「まことに正しい運動をなして正しき人たる道に働き、神仏の罰を受けざるこそ、まことに
人たるものの本意である。」(全集・第16巻66頁)
豊作は予防工事のためでないから、足尾銅山の鉱業(操業)停止運動を進めなければ
ならない、古河市兵衛に繋がる連中にだまされて、私の指導する運動に従わなければ、
妻子を殺されるような目にあうだろう、というわけです。
自分の運動目標だけが正しい。これに背けば罰が当たるとは、何と独善的なのでしょう。
同じ年の11月11日付けのビラには、正造はこう書きます(全集・第16巻70頁)。
「鉱毒被害民同志に告ぐ。昨年新土入り、本年豊作の小局部は、20年前300円の
田畑も、昨年までは35円に下落のところ、新土豊作により、たちまちこの局部100円
位には引き戻りたるべし。」
「なお、鉱業を停止せば、年々回復して3、4、500円とも登るべし。よって市兵衛の
田地買収策は破れたれば、彼は離間(仲たがい)の悪策をめぐらして今度は損害賠
償の裁判とか何とか、または鉱業非停止の請願を出さしめ、銅山より旧のごとくどし
どし鉱毒を流し、田地の価を下落せしめつつ、山林盗伐も自由にできる法案の議決
を求めつつあり。群馬栃木の山林は大いに警戒を要し候。」
予防令で鉱毒はなくならなかった、って、国土交通省も言ってるのに、
まだやってるよこの人。
自説を成立するために、事実を無視するのはやめましょう。
http://www.ktr.mlit.go.jp/watarase/07_ryuik/0702_hstr/6_5_1.htm 国土交通省は、渡良瀬遊水地は、鉱毒沈殿目的でつくられた、と、はっきり
書いてます。
1897年の予防令で鉱毒がなくなったおかげで1903年に豊作になった
のが事実なら、1904年過ぎに谷中村に遊水地を作る計画を立てる
必要などないはずです。
(谷中村に渡良瀬遊水地を作る計画が明らかになったのは1904年頃
です。正造もその頃、谷中村に移住してます)
これこそ、1903年の豊作が、予防令による工事のおかげでないことを
明白に証明しているではないですか。
っていうか、国土交通省も、いや、古河でさえ、鉱毒予防令で鉱毒が
なくなったなんて今ではいってないのにそんな嘘をいい続けるのはやめ
ましょう。
(戦時中、終戦直後の国会答弁でそういうのがある(鉱毒は解決済みとい
う答弁が行われたことがある)のは知ってますが、あれはやっぱり不完全
だった、と、あとから認めた時点で古河や国土交通省はまだマシです)
古河の社長が1974年にはんこをついた証文には、直接は書いていません
が、公害等調整委員会が、古河が1877年から1974年まで連続して鉱毒を
流していたことを前提とする計算で古河の負担金額が計算されています。
いわば、古河は、1877年から1974年までの97年間、鉱毒を連続して流して
いたことを認める証文に間接的にはんこをついてしまっているのです。
(当時の社長の姓は古河ではありませんが)
予防令では鉱毒はなくなりませんでした。この時代に鉱毒がなくなった、
なんていうのがそもそも砂川の妄想です。
ちょっと豊作になった、っていう新聞記事を見つけると、たちまち、
鉱毒が全部なくなったかのような超拡大解釈をするくせに、国土交通省
がはっきり言い切ってることはまだ見えないようです。
国土交通省、ちゃんと鉱毒はなくならなかった、って書いてますよね。
>結局、鉱毒問題は、はっきりと解決されぬまま、下流部の谷中村(藤岡町)を
>鉱毒の沈殿場にすることで一応の決着とされました。
by国土交通省 渡良瀬川工事事務所
追記。
台風のときに、鉱毒被害地に莫大な新しい土が
積もったために豊作になった、ってのは、国土交通省
も言ってますね。
国土交通省も認めている事実に、
「あまりにもナンセンスな捏造話ではありませんか。 」
などと書くのはあまりにもナンセンスではありませんか。
http://www.tonejo.go.jp/jigyou/1-2.htm >明治35年8月 利根川洪水。渡良瀬川の氾濫により、
>鉱毒を含まない土砂が堆積し収穫が回復、鉱毒問題は
>急速に下火となる
by 国土交通省 利根川上流河川事務所
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/15(金) 00:17:07 ID:MLQ0XNeF0
田中正造ってうそつきなんですね。なかなかむずかしくて入れないですが、読んで
いて、212は本物って感じですね。教科書にフィクションが書かれたために、みんな
日本中の子どもたちがそれを勉強してしまった。それで、義人を信じてしまって
いる人が多くなったのです。
217 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/15(金) 05:32:14 ID:b7NLeN8dO
近代化を急ぐ明治国家の光と影を象徴するのが銅山事件であり田中正造という人物だろ?
教科書ではそういう扱いのはず
そして公害というのが国家をあげて取り組まなければならないことを教えてくれる。それでいいじゃん。
異様に見える。
田中正造たたくよりもっと埃でるやつたくさんいるだろ。
>>213からの続きです。
古河市兵衛は、正造の最初の国会質問前に対策を立て、質問の直後に損害賠償の
示談交渉を始め、政府の命令にはすべて即応して公害防止工事を履行するなど、公
害の歴史では異例といえる誠実な対応をした経営者です。
総合雑誌『太陽』が実施した「明治十二傑」という読者の人気投票(明治32年6月)で
は、だから伊藤博文や福沢諭吉を押さえて、得票数がトップで、絶対的に人気者だっ
たのです。
このような市兵衛が、正造の言うようなことをするでしょうか。
しかし、教科書などで正造は偉人だと洗脳されている今の人たちは、正造が捏造した
このような悪口を信用して、古河市兵衛が悪者だと思いこんでいるのです。
>>218 いや、「太陽」は確かに当時の代表的な
雑誌だけど、そもそも古河は「太陽」の会員。
ただの購読者じゃなくて、会員。
つまり、太陽は、古河や他の会員を宣伝する
ための雑誌なんだから、そこで1位になっても、
そういう派手な宣伝したんだな、っていうことしか
分からない。
鉱毒事務所が人気投票やって田中正造が1位に
なるようなものですな(そんなことやってないけど)。
明治36年11月13日、正造はまたビラを作り、脅しで農民を説得しようとします。
ここでもまた、ありもしないうわさ話を創作していますから注意深く読んでください。
全集・第16巻の70頁で確認してみることも、お勧めします。
「鉱毒被害民同志に告ぐ。陽には豊作豊作と騒ぎ、陰には鉱毒停止無用なり云々の
書面を秘密裡に上申せし悪漢あり、との悪説あり。政府も為に大いに欺かれてます
ます被害地のためにならぬ悪事をも、またまた企てたりと。嗚呼今日いまだ毒薄しと
て油断せる土地の村人よ、後悔臍を噛んで死することなかれよ。」
公害がなくなり豊作になったことを喜んで、何が悪いのでしょう。
当事者の農民だからこそ、豊作の原因は山崩れでないことを確認したはずです。
どうして、第三者である正造の捏造話など信じるでしょうか。
「村人よ、後悔するな」とは、あまりにもナンセンスではありませんか。
>>220 国土交通省利根川上流河川事務所が
鉱毒を含まない土砂が堆積して豊作になり、
鉱毒反対運動が下火になったと明言している
ところはどうしますか?
どう見ても都合の悪い情報だけを意識的に排除して
理論を組み立てようとしているようにしか見えないん
ですが。しかもその内部で矛盾があるし。
田中正造をこよなく尊敬しているらしい
>>214、
>>215、
>>221の方へ。
国土交通省の言うことが正しいとする根拠は何ですか?
理由のない主張は、裁判では採用されませんよ。
正造は、政府の言うことなど頭から全く信じない反骨の人だったのに、理由もなく
政府を信用するのは、正造ファンのあなたにしてはかなりヘンですね。
私は、文部科学省検定の教科書がウソを書いていると批判しているのです。
「国土交通省が言っているからその批判は間違いだ」という反論は、「兄がこう言って
いるから弟の言い分は正しい」というのと同じで、裁判では採用されません。
論争というものはどう進めるべきか、もっと考えられたらいかが?
>>222 じゃあ、当時の政府がこう判断したとか、
当時の権威ある学者がこう言ったとか、
そういう言い方もやめたらどうですか。
政府から給料もらっている東京帝国大学の
入澤の言及なんか、全くあてにならないん
ですよね。何で入澤論文なんかに言及した
んですか? もちろん、「政府の」鉱毒調査委員会
なんか、全くあてにならないんですよね。何で
鉱毒調査委員会がこう言ったとかいうのを根拠に
出してくるんですか?(しかもその中身が嘘だし)
私は国土交通省と砂川のどちらが子供だましの
嘘かと言われたら、砂川が嘘という方をとります。
証拠もないのに子供だましだとか、都合のよさそうな
情報だけうのみにするとか、それで理論が成立する
なら、「砂川の言うのは子供だましの嘘だ」で、
すべてが済みますが。それでいいんですね?
あなたの言っているのは、「自分の言っていること
と信じていることはすべて正しい」「それ以外は嘘」
という理論の組み立て方なだけではないですか。
自分のほうは子供だましの嘘ではなくて、国土交通省が
子供だましの嘘だ、って判断できるだけの材料を提供
してください。今のところ「砂川がそう言ってた」という
以外の材料しか見つかりません。しかし、足尾にも
鉱毒被害地にも行って検査したことのある国土交通省
の結論が嘘で、鉱毒被害地など行く必要もないとか
言っている砂川のほうが正しいとはどうしても判断でき
ません。もし独自に検査した結果とかあるのなら提供して
ください。今後の鉱毒研究に非常に参考になると思います
から。
どうせ、田村に似たことを言えば「田村の犬」とか、
菅井に似てれば「菅井本人」とか言うだけだから、
わざわざ田村も菅井も言及していない国土交通省の
サイトをひっぱってきてあげているんじゃないですか。
どういう根拠があればご満足ですか?
あなたの主張に沿うならば、
政府の鉱毒調査委員会は、「鉱毒の主原因は足尾銅山
ではない、と判断した」「鉱毒は減少した、と結論した」。でも、
これは政府という嘘つきの出した結論だから嘘だ。
鉱毒の主原因は足尾銅山だし、鉱毒は減りもなくなりも
しなかった、ということになりますよ。ご自身の主張をご自身で
完全に破壊するのはどうしてですか?
あと私は正造ファンでも何でもないです。古河も鉱毒被害地
で言われるほどは悪人じゃないかもしれないし、もう少し違う
評価をされてしかるべき人間かもしれない。ただ、嘘を前提に
善人にされたって、古河は喜ばないでしょう。古河は「太陽」
の会員だ。本人はそれを隠していない。にもかかわらず、
あえてそこを隠して「古河は太陽の明治十二傑の一位になった」
って言って本人喜びますかね。
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 23:18:46 ID:U7bGS1+i0
225 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/21(木) 09:56:40 ID:x2WdbPzy0
そかー,鉱毒は消えていたのかー
しかし今日も遊水地では噴水船が綺麗な虹を作っております
あれは一体何の為なのかな?
>>219に関してですが、「太陽は、古河や他の会員を宣伝する ための雑誌」とは、
あなたはいったい何を勘違いしているのですか。この雑誌を読んだことがあるの
ですか?「雑誌の王者」といわれた高級な総合雑誌なのに。笑われますよ。
参考までに記せば、明治30年1月20日号には、田中正造の「議員の質問と政府
の答弁」という5ページの記事が載っています。
いったい太陽の、何の会員ですか?何かの会員だとして、なぜ市兵衛を他の会員
と区別してトップに選んだのですか?
トップになったのは読者の人気投票の結果ですが、どんな手段で太陽は市兵衛を
最多票にできたのですか?
ちなみにこの時の得票数は、1.古河市兵衛:2万3782、2.伊藤圭介:2万1274、
3.伊藤博文:2万394、4.大隈重信:1万9291、5.福沢諭吉:1万8422でした。
200人以上の得票者のリストには、田中正造は入っていません。
>>226 そっちは本題じゃないですから。
太陽の会員について証拠出せとか言われるかも
しれませんが、資料を掘り起こすのに手間が
かかるのでそっちは置いておいて、
あなたの主張(政府は嘘つき)を受け入れるならば、
鉱毒調査委員会の報告も嘘で、鉱毒の原因は銅山で、
しかも、予防令以降も流れ続けた、ということでよろしい
のですね。こちらには反論されていませんものね。
一応いっておくと、私は政府は嘘つきとまでは言って
ません。予防令で鉱毒が多少減ったのは事実でしょう。
鉱毒の主原因は銅山ではないというのは嘘ですが、
それは後の時代の政府が取り消しをしていますし。
太陽の会員の話はあとできちんと調べておきます。
>>219のコメントの典拠はどこにあるか調べてみました。
おそらく、早稲田大学教授兼一橋大学名誉教授の山本武利著『公害報道の原点』に違
いないと思います。同書の165頁にこう書いてありました。
「当時の最有力総合雑誌<太陽>の鉱毒報道は皆無に近い。それどころか、1899年
6月号の<明治十二傑>という増刊号では、実業家の唯一の代表として古河市兵衛を、
伊藤博文らと並んで選び、彼の実業家としての手腕を称賛し、彼のキャプテン・オブ・イ
ンダストリーのイメージを高めようとしている。ちなみに彼は、<太陽>の賛助会員の一
人であった。」
これでは、読者の人気投票と無関係に雑誌社が勝手に市兵衛を十二傑にしたことになり
ます。こうした嘘をつくことで、山本は太陽と市兵衛が癒着していたとの印象を読者に与え
たのです。田中正造に好意をいだき、古河市兵衛に悪意を感じてのことでしょうが、嘘を
ついて読者をだますとは、学者として最低ではありませんか。
>>228 だから会員なんでしょ。で、太陽も古河市兵衛も、
それを隠していないんでしょ。で、自身の雑誌で
明治十二傑を選んだら古河が1位だった、と。
別に太陽も古河も、隠れてこそこそ自分を1位に
しようとしたわけじゃない。
ところが砂川は、肝心の「古河は太陽の会員」
というところを隠して(書き方からすると知らなかった
のかもしれないけどそれは単に調査不足)、あたか
も古河とは何の関係もない第三者機関的な雑誌が
選んだかのような印象操作をするからそれは誘導
だと言っているのです。
山本の評価が正当かどうかは知りませんが、
古河が太陽の会員だっていうのは事実でしょう。
で、肝心の「政府は嘘つきだから、鉱毒調査委員会の
結論も当然嘘で、鉱毒の主原因は足尾銅山で、予防令の
工事も効果がなかった、と受け取ってよろしいですね」
という部分には未だに回答がないのですが、これは同意
していただけたのですね?
一橋大学名誉教授の山本武利は、「<太陽>の鉱毒報道は皆無に近い」と批判しながら、
「被害民の機関紙的役割を持ち、記事や投書が一方に偏していた」と自ら認める(前掲書
118頁)『毎日新聞』(現・毎日とは無関係)に対しては、「鉱毒報道に熱心だった」と評価
し、正造との癒着など問題にしていません。
私は、かなり詳細に調べて、『太陽』が相当しばしば鉱毒問題を取り上げていたことを確認
しています。だからこそ読者は、同誌に登場することが皆無だったのに、古河市兵衛を高
く評価したのだと思います。
そして、癒着について言えば、『毎日新聞』の社長は正造の親友、主幹は正造に直訴を勧
めた石川半山、名物記者が、社会主義者でその後正造と親密になる木下尚江ですから、
客観報道に徹しなければならない新聞社としては、常軌を逸した関係だったのです。
次回から書きますが、次のような事実があります。
>>230 だーかーらー、田中正造の癒着以前に、彼が
鉱毒問題において果たした功績を評価しろよ。
密接な関係にあろうが、これまでマスコミが取り上げなかった
題材を取り上げられた事で鉱毒問題が解決へ向けて大きく一歩
踏み出す事になったのなら、それはそれで評価すべきでしょ?
アンタは何でそこまで古川を評価して、
一方的な資料ばかり提示したがるのか判らんのだがね。
教科書的史観を批判したいのなら、それこそ自分のHPなり
ブログを立ち上げて、そこで資料をまとめて掲載すれば良い。
細切れにしか出せない2cなぞでそこまで張り切る貴方の
行動の根拠が全く見出せないのだが?
もっと公的な世界で自説を披露する度胸が無いと言う意思表示なのかい?
232 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/25(月) 05:17:01 ID:2+2gLZhXO
そうなんだよ
全く賛成だ。
近代化を急ぐ明治国家の影の部分を
田中正造という人物にスポットあてることでうかがいしることができる。
おそらく似たようなことはあちこちで
発生していたんだろ。高度成長期に大きな社会問題になった公害問題の萌芽をこの事件に見ることができるという点と
公害は政府をあげて取り組まなければ解決をはかれないということをこの事件は教えてくれる。
そしてその運動の中心人物が田中正造。どうかご自身で
ブログなりを開いてやればいい。
研究してるなら
あちこちに論文を
持ち込めばいい。
田中正造の直訴の直後、『毎日新聞』は、「鉱毒地視察修学旅行」という事業計画を立て、
連日社告で東京の学生や生徒に参加を呼びかけました。こんな風に。
「今や学校は冬季休暇に入った。これを空費するより、渡良瀬沿岸の鉱毒地を歩き、わが
窮乏する同胞に一片の同情を寄せてはいかがだろうか。諸君、どうかこの美挙に賛成し、
仲間を誘って参加してほしい。」(明治34年12月19日付け)
弁当2食持参で、交通費などの参加費用が60銭でしたが、12月27日には、この呼びかけ
に応じた、東京大学ほか30余の学生、生徒千人以上が参加したということです。
これを契機に学生運動が盛り上がったのは歴史的事実ですが、いったい、新聞社がこんな
ことにまで手を出すべきでしょうか。明らかに、報道機関としての目的を逸脱した行為ではあ
りませんか。
>>230 「客観報道に徹しなければならない新聞社」とかいうのは
あなたの幻想でしょう。そうしなきゃならんというルールは、
少なくとも私の住んでいる日本国にはありません。仮に
そうだとすると、どこかの政党に都合のいいことばかり書いて
いるあの新聞やあの新聞は存在してはならないことになりますよ。
当時の毎日新聞は、「衆議院議員島田三郎主宰」ってのが
売りなんだから、当然、読者は島田三郎の政治的方針や、
島田の政党の主張を知りたくて毎日新聞を読むはず。
そして毎日新聞は、それを隠していない。逆に売りにしている
わけだ。紙面に島田三郎の名が毎日載っていたかは知らない
が、少なくとも数日おきには島田三郎が署名入り記事を書いて
るはず。そして、読者は、その紙面を見て、島田や島田の政党
は、鉱毒問題にこういう形で取り組んでいるのだというのを知る
わけだ。そこには何の欺瞞もない。「島田はこう考えます」
「島田の政党はこう行動します」それを伝えるための毎日新聞。
仮にそれを禁止したのなら、どうやって島田や島田の政党は、
自身の主張を世間に知らしめますかね。テレビもラジオも
インターネットも何もない時代だ。国会の議事録がボタン1つで
出てくる時代じゃない。あなたの言う嘘つきの政府から、
大日本帝国臣民をどうやって守りますかね?
ところで「太陽」は、多少なりとも古河の息のかかった雑誌だ、
ってのを毎号のように表記してたんでしょうかね。山本の
ツッコミはそのへんにあるのでしょう。
>>233 報道機関が何をして何をしていけないかはあんたの
決めることじゃないでしょう。
>>233 そんなアジテーションなぞ。現在でも何処の報道機関でもやっている。
それこそ太陽だって美術業界等で
「○×美術にもっと着目してみよう!」だとかアジっているでしょ?
それは美術だから無問題?
だったら、アナタは朝日や産経、赤旗や聖教新聞、それから
日中戦争時に、露骨な親国民党報道を行ったTIME等も
報 道 機 関 の 資 格 無 し
と言いたいワケですな?
私は、公害を肯定したり、田中正造の功績を否定したりする発言はしておりません。
教科書にある田中正造の記述が、事実と違うといい続けているだけです。
しかし、
>>231,
>>232のコメントは、私が正造を全否定していると誤解して、私を非難して
います。
困ったことですが、教科書による洗脳の効果ですから、やむを得ないのかもしれません。
ところで、明治の『毎日新聞』の本題に戻りますが、鉱毒の被害にあった田畑が明治36年
の秋に豊作になった折、同紙は驚くべきことに、農民から取材して事実調べをするのでなく、
田中正造のでっち上げた、ばかばかしくて誰も信じないような豊作の原因説を、そのまま全
面採用してわざわざ3回分の社説を書いているのです。
新聞社が特定の人物と癒着すれば、報道が如何にゆがめられるかということが、この社説
を読めばよくわかります。
内容は次回にします。
>>237 >>田中正造の功績を否定したりする発言はしておりません。
そもそも功績については一切無視してるしね
>>237 古河は太陽の会員だけど、砂川はそれを伏せて
あたかも第三者機関的な雑誌で1位に選ばれた
ように見せている、って指摘にはどう答えて
くれますか?
毎日新聞が、その責任で(そして島田三郎の責任で)
鉱毒被害を報道するのは全然問題ないでしょう。
島田は隠れてこそこそやってない。
で、政府は嘘つきなら、予防令の効果はなかったと
いうことになり、この年(明治36)の豊作も予防工事
とは何の関係もない、という、正造の主張と同じ結論
になるわけです。これは再三指摘した上に反論されて
ませんよね。それ(「明治36年の豊作は予防令の
工事によるものではない」)があなたの主張なのです
よね。ところが今回はまるで逆のようなことを言い出す。
これでは会話が成立しませんよ。「政府は嘘つき」か
「予防令の工事で豊作になった」のどちらかを取り下げて
ください。この2つは両立しません。
公害を正当化するつもりがないなら、古河の社長が
はんこをついた証文の意味をよーく見極めてください。
古河の社長は、1877年から1974年まで97年間連続し
て鉱毒を流していた、というのを前提に計算した証文に
はんこをついたのです。当時の計算方法は公開されて
います。古河ですら、この時代(明治36年頃)に鉱毒が
なくなった、とは(今は)言ってません。
まさに百年鉱毒であることを古河自身が間接的に認めて
いるではないですか。(1977年に測定された値が基準を
超えたため、本当に百年鉱毒になってます。3年足りない
とか言わないように)
240 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/27(水) 01:50:25 ID:d0GN+hhA0
>困ったことですが、教科書による洗脳の効果ですから、やむを得ないのかもしれません
爆笑
あなたの発言の趣旨は田中正造は貧しい人からも寸借詐欺まがいな
ことをしていた卑劣人ってことなんですよね?
スレタイからして「神話を粉砕しよう」だしね
で鉱毒は田中正造の活動より以前に古河の手で自発的にとりくまれた結果
もとのような豊かな農村に戻った。。ってことなわけですよね?
田中正造っていう人物の歴史的評価を正そうってひとり2ちゃんで気をはいてる
わけだけど。
田中正造は立派な人物です。少し狂信的なとこもあるけどね。
これは疑いようのない事実ですよ。
多くの資料を集めて自分なりに読み解いてる姿には感服するけどね。
住民運動のさきがけとしても十分に評価に値する人物。
社会運動家としてもまた実践的思想家としても十分評価がなされている。
すこし狂信的なとこもあるけどね。
政治家として最後は無一文で路傍に死すなんてなかなかできることじゃない。
あなたのスタンスはあきらかに公正を欠いているといわれても仕方がない。
そもそも何の目的で洗脳するんだ?おしえてくれ。
>>237 >私は、公害を肯定したり、田中正造の功績を否定したりする発言はしておりません。
どう見ても田中正造が公害問題に果たした問題を無視して、意図的に
彼の否定的側面(どの程度真実か疑わしいが)を過剰に取り上げ、
古河を哀れな被害者呼ばわりしている様にしか見えないが?
一連の公害問題の中で、田中正造が何をして、どう影響を与えたか再評価する
観点で「鉱毒問題の運動の中で彼は、恐喝まがいの事までしており、
彼をTVアニメの様なヒーロー扱いする事はおかしい」と言うなら、
それは確かに傾聴に値するがアンタのコメントは単に
「田中正造はタダのエコロジーアジテータに過ぎないクズ野郎」
と言っているに過ぎない。
もう少し広い視点から論じいかない限り田中正造以下のアジテータ扱いされて終わりだよ。アンタ?
教科書が一方的な見方しかしないから、自分も一方的な見方で構わないと言うのかい?
大体教科書をそのまんま信じているヤツは
@単に歴史のテストで赤点にならない為に覚えていて、
その後、単に忘れずにいた、歴史に興味の無い一般の人
Aタダ信じ込み易い人。逆に言えば「田中正造の負(?)の側面」を読んだら
「彼はタダのクズ」と一方的なソースを撒き散らす様な輩。
のいずれかに過ぎないと思うのだがね?
>>237 あ、後オレは>231だが
>困ったことですが、教科書による洗脳の効果ですから、やむを得ないのかもしれません。
それを覆したいなら、尚の事、こんなまとまった意見を書くのに
最も不向きな2ちゃんでなく一般の書籍や雑誌、HP、最低ブログ等で
まとまった形で、系統だった資料を基に世に訴えるべきだ?
で、それをしない理由は何?出来ない理由でもあるの?
それとも「2ちゃんでウケが良かったらボクちゃん出版してみよっかな?」
とか考えているのかい?
243 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/27(水) 05:22:43 ID:d0GN+hhA0
おそらくは自費出版になると思うが。。。
まさに針小棒大、
ひとつの否定的一面を掘り起こしたいがために
田中正造という人物の評価を一方的に目をつぶっているあたりは
みのがせない。
そもそも洗脳とは?洗脳して何の益があるとでもいうんだ???
どうせ書くなら
せっかく調べてるんだし、もう少し書きようもあるだろ?????
後世の視点は神の視点なんだよ。
一方的に否をあげて断罪することは厳に慎まなくてはならない。
なぜ田中正造が多くの人の評価を受けているかを
調べたほうが近道だと思う。
的外れなコメントばかりなので、かまわずに『毎日新聞』の社説を紹介していきます。
明治36年10月16日の一回目の社説には、こんなことが書かれています。
「世間、本年の意外なる豊穣を見て、従来被害の愁訴を否認せんと試みる者あり。はな
はだしきは、これをもって鉱毒問題は解決せられたりと即断し、その効を除外工事に帰
せんとするものあり。この間、また一種の狡猾の徒付会の言葉をつくりて世人を欺瞞し、
この問題全部を打ち消して、社会に忘却せしめんとする者、また決して少なしとせず。」
豊作になったのは、政府と古河鉱業による公害防止工事ではない、工事の効果を肯定
する者は世間をだましているのだ、とまで言っています。正に、正造の主張の代弁に他
なりません。
>>244 はて。政府は嘘つきとかいっているくせに、
何で政府の命じた工事に効果があったとか
言えるんですか?
あなたは、自分に都合の悪いことを全部「嘘」って
片付け続けたら、自分自身の言っていることが
嘘であることを自ら証明してしまったのですよ。
そもそも、田中正造はこの時期足尾に行ってない
んだから、山崩れがあったかどうかなんて分からないはずだ、
そう主張してるんですよね。
じゃあ、鉱毒被害地に行ったこともない砂川が、
何で鉱毒がなくなったって断言できるんですか?
>>244 >的外れなコメント
アナタの田中批判の方がナンボか的外れだと思いますがね?
それとも都合の悪い意見は黙殺ですか?
248 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/28(木) 08:16:33 ID:xE9w8+fSO
なぜこういうアプローチで田中正造にせまろうとしたのか
そうとう個性的な人なんだな。
精一杯好意的に解釈してるつもりだが。
二回目の社説は3日後の10月19日に1面トップに出ていますが、まず豊作の原因に
ついては次のように説明します。
「昨年9月28日の大風雨は、渡良瀬川本支流より山土を推流して、毒地の上に厚き良土
を置きたるもの、この豊穣の原因となれり。毒土そのものの変質せしにあらず、荒地の回
復せしにもあらず、良好の新土をもって旧廃の地を覆えるものなり。」
ここに書かれていることは、豊作になったのはこの新土のためで一時的だった、鉱毒は無
くならなかった、という現在の教科書の説明と関連しています。
更に、工事の効果を理由もなく否定して、こう書いています。
「明治30年以後、予防工事何の功を奏せず。鉱毒調査会は事実を調査せしのみ、その
結果を公表せしのみ、工事を命令せしのみにして、何等見るべきの施設なき故に、新旧
の工事は、この豊作に何等の関係なきこと明確なり。」
なぜ明確なのかは、全く説明されていません。つまりは正造に言われた通りに書いている
に過ぎません。
三回目の社説は翌10月20日で、驚くべきことが書かれています。
「昨年の大風雨が(渡良瀬川の)本支流水源の山岳を破壊してあまたの新土壌を送り、
浸水引き去りし後に2尺(60センチ)の置土をなす所あり。本年意外の収穫は、この置
土の作用にして、1年に5分との古老の話(これまで、洪水の度に5分の沃土が田畑に
運ばれていたという経験談)を標準とせば、2尺は50年分を一時に流出せしものなり。」
この時は、谷中村周辺以外は洪水は起きませんでした。
何十キロ先で起こった山崩れで、60センチもの厚さの土は運ばれてきません。
その上、そうした置土が良土だったので豊作は当然だった、と次のように結論づけてい
ますが、なんというナンセンスなのでしょう。
「本流の水源足尾より来るものは毒土あるといえども、良土の分量それよりも多く、支
流の良土を合わせれば更に多量なり。本年の奇異なる現象は、吾人の観察において
当然の結果にして、決して奇異のものにあらざるなり。」
>>250 > この時は、谷中村周辺以外は洪水は起きませんでした。
あんたの見たことのある史料にないだけで起きてるの。
> 何十キロ先で起こった山崩れで、60センチもの厚さの土は運ばれてきません。
何で?
「60センチ積もった」って言った人がいたってのは事実なんでしょ。
おおげさなことを言う老人がいたのかもしれないけど。
局地的にふきだめみたいな形で積もったとこがあって、そこでは
60センチ積もった、って言ってるだけじゃないですか。
「一晩で60センチ雪が積もった場所がある」って発言に、
気象台は10センチだとしか言ってないって文句言うような
もんですよ。それは。どこもかしこも60センチ積もったって
書いてあるわけじゃない。
>>249,250
つーか、お前の田中正造その人そのものに対する評価は何なのよ?
多分そこを提示しないとお前の言う事はタダの妄言扱いされて終わりだぞ?
そもそも誰に対して、コメントを放っている?
253 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/30(土) 02:13:42 ID:UZS5RBAn0
直訴も事実だし、足尾鉱毒も事実
田中正造という人物が主導的役割を果たしたのも事実。。。
だがそれについて突っ込むと
洗脳されてるだからな、話になんない。
これは新手の田中ふぇちだろう。そう思うしかない。
きっと田中正造に不利益をこうむったんだよ。
でだれも耳を傾けてくれない。
結果2ちゃんに出動、
『毎日新聞』の社説は、次のような主張で終わっています。
「今日まで弱者貧者をおさえて、強者富者を庇護せし政府は、断然たる処分を施さず。」
「昨年の大水、良土を流出して、その置土のために本年の現象ありといえども、いやしく
も鉱山を処分して水源を清むるにあらざれば、河水は依然毒物をもたらし、置土は再
び毒化せん。怨嗟の声は、社会の良心を感奮せしめん。明年は再び前年来の暗黒な
る形勢を現わさん。」
足尾銅山を鉱業停止(閉山)にしなければ公害は解決しないという、田中正造の主張を
代弁していることが、お分かりと思います。
しかし、政府は、期限内に完工しなければ鉱業停止にするとのきびしい条件で、公害防
止工事を命じ、加害企業の古河は、今のお金に換算すれば100億円以上をかけて命令
に従い、その結果豊作になって、被害民は政府や古河への要求を止したのです。
それなのに、当事者の意志を無視して、第三者の正造が政府に閉山を求めるとは・・・。
単に自己の信条から、国家権力に闘いを挑んでいるだけに他なりません。
つい最近、『小野崎一徳写真帳・足尾銅山』という写真集が出ました(新樹社、3570円)。
足尾銅山の専属カメラマンによる歴史的に貴重な記録ですが、上記の工事写真が数多く
載っており、とても迫力があります。機会があれば、どうかご覧ください。
>>254 結局他人のツッコミは全て無視か。
アンタが中傷する田中正造と同レベルに
自 分 は 他 人 の 話 に 聞 く 耳 を 持 た な い 人 間
だと宣言したかったワケですな。
『毎日新聞』以外は、正造の「山崩れ豊作説」など当然無視しました。
『万朝報』も正造を支持した新聞で、同紙記者高橋鉄太郎など「田中正造は真に偉大
にして嵩厳、神聖にして霊光あり」とまで言っていますが、それでもこの件に関しては、
「この予防工事あるが故に鉱毒の被害を薄くしつつあることは、公平なる識者の一致す
る所」と明言しています(高橋著『義人田中正造』)。
つまり、当事者である被害農民をはじめとする同時代の人たちが無視した正造の虚言
「山崩れ豊作説」は、70年後に昭和の学者たちによって真実として復活し、「鉱毒問題
は解決しなかった」説の根拠になるのですから、不思議としか言いようがありません。
その最初の学者は、宇井純あたりだと思います。
>>256 まだやってたみたいから相手してあげる。
明治35年に渡良瀬川流域で大規模な洪水があって、
田畑に泥が流れ込んだのは間違いのない事実。
『足利市史』に載ってますからちゃんと読んでください。
1902年11月、梁田村から、洪水で田んぼが泥かぶって
困ってるって嘆願書が出てます。正造が豊作の原因は
泥かぶったからだって言い出す1年近くも前です。
つまり、この年、谷中村周辺以外では洪水はなかったなどと
いうのがそもそも真っ赤な嘘。
そもそも、下野とか上毛とか、ちゃんと現地の新聞の原紙
当たったんですか? 東京の新聞は東京近くのことしか
書きませんよ。鉱毒事件が載ったのは、それほどまでに
巨大な事件だったのと、川俣事件の控訴審を東京でやった
からです。毎日以外が載せなかったのは、単に鉱毒事件に
興味がなかったからでしょう。1903年だと仙台控訴審も
終わってますし、単に東京のマスコミの興味がよそに移った
だけでしょう。そういう指摘は以前からありますしね。
当時の新聞が何ページあると思ってるんですか。渡良瀬川に
泥が流れて豊作になった、なんて、行を割いて書く新聞のほうが
少数派なのは当然でしょう。それとも「洪水で泥が流出して
豊作になったわけではない」と明言した新聞でもあったんです
か?
>>256 同盟会長の板橋明治はそれよりずっと前から「鉱毒は八十年
やってる」って言ってますがどうしますか?その前の同盟会長の
恩田も同じようなこと言ってましたね。
そう言ってるのは学者だけじゃないですよ。黒沢酉蔵だって言ってる
じゃないですか。黒沢は明治の鉱毒反対運動に参加し、
田中正造全集が出るまで生き続け、そして、鉱毒事件はまだ
終わってない、って言い続けた人だ。
板橋は物心ついたときにはもう自分ちの田んぼに鉱毒溜が
あって、村内至る所に毒塚があったところに住んでた人だ。
まだ死んでないから生きてる本人の存在そのものが鉱毒が
百年続いた十分すぎる証拠ですね。
毛里田の鉱毒反対運動の歴史を消そうとしても、
ちゃんと証文とかが残ってるのでどうにも消しようがありませんよ。
『待矢場両堰々史』、『待矢場両堰土地改良区史』、『足利市史』、
『群馬県史』はどこまで読み終えたんですか?
桐生市議会は今でも、鉱毒関連費用を予算に計上してますよ。
259 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/13(土) 20:52:14 ID:blee1pCJ0
このスレッドが、なぜか過去ログ倉庫に格納されていたのでしばらく入力不能ででした。
私のコメントを阻止しようとする人の仕業なのでしょう。
しかし、アクセスの仕方を変えてみたら可能になりました。不思議です。
>>256の続き。
昨年の11月に74歳で亡くなられた沖縄大学名誉教授宇井純は、「公害j研究の第一人者
として世界的に知られた学者」(朝日)です。
東京大学都市工学科助手だった彼は、1970年から15年間「自主講座・公害原論」を同大
で開講しました。それは、彼自身が「今ふり返ってみても、夢のような偉業であった」と自
讃するほど(『わたらせ川』1996年号)意義深いものでしたが、その記録を見てみると、
足尾鉱毒事件に関する限り、学者にふさわしくない発言を堂々としている実態が浮かん
できます。
彼は、この講座で、正造の「山崩れ豊作説」をそのまま真実であると理解して、次のように
話しています(『公害原論・1』、亜紀書房、1971年、234頁)。
「1902(明治35)年、もう一度洪水がありまして、その時に運ばれてきた土が、被害地のそ
れまでの鉱毒の上にかぶさったために、被害がやや軽減する傾向が出た年です。」
「(被害農地の上に)運ばれてきた土がかぶさった」は、明らかに正造の虚言のままです。
宇井純は、学者なら検証すべきことを全く怠り、正造の嘘を信じて偽の情報を世間にさら
に広げてしまったわけです。
>>259 1970年なら、毛里田同盟会の恩田のほうが先ですね。
恩田は1958年にはもう半世紀やってるって言ってるから。
あと、2ちゃんねるは板の場所がひんぱんに変わって、
ちょっと前と同じ方法でアクセスできなかったり、調子が悪くて
書けなかったりすることがよくあります。
別に誰かの陰謀ではありません。私も書いたはずの内容が
消えちゃったことがあります。
むしろその程度で何かの陰謀を感じてしまうほうがどっかが
おかしいと思います。
ところで、梁田村から1902年に出ている田んぼが泥かぶった
って文書のほうはどうしますか。
この年、谷中村周辺以外には洪水はなかったという大嘘を
ひっくり返してくれる重要な文書ですが。
そもそも、谷中村周辺以外で洪水はなかった。だから、田畑が
泥をかぶったこともないし、従って1903年の豊作は、田畑が泥
をかぶったせいではない、という理屈でしたよね。実際に泥かぶ
っちゃってる田んぼが足利郡梁田村から出てきちゃいましたが
どうするおつもりですか?
261 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/15(月) 21:23:17 ID:rOmvrafU0
私の発言に執拗に反論する人がいるので、その主張の矛盾を証明します。
谷中村の遊水池計画はなぜ生まれたのでしょう。
明治35年9月の大豪雨が、谷中方面の堤防が破れていたため、この村一帯に
流れ込み、逆に上流の沿岸一帯が氾濫を免れたからです。
そこで、洪水に見舞われなかった農民たちは、野口春蔵等正造の側近だった
者を含めて、皆この政府案に賛成したのです(田川大吉郎著『嗚呼鉱毒論』)。
正造は「銅山から鉱毒が流出し続けている」と主張していたので、「洪水の後の
豊作」説は立てられません。洪水中の鉱毒は沿岸の田畑を汚染するからです。
ですから、彼は「10里以上の山々崩れ新たなる山土が天然の新肥料となりたり」
という話を作ったので、洪水ではこの珍説そのものが成立しません。
これで、私への反論が全くトンチンカンだということが、お分かりと思います。
262 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/15(月) 21:26:22 ID:rOmvrafU0
>>259からの続き。
しかし宇井純は学者ですから、正造のように徹底してはいませんでした。「公害原論」では
「鉱毒防除防止工事完全無効説」は採用せず、次のように話します(前掲書226頁)。
「この工事が有効だったかどうかはかなり疑問でして、相当の手抜きがあったのではない
かという推測も当時なされました。それを裏付けるように、この命令を出した東京鉱山監督
局長の南挺三は、工事が終わりますとまもなくやめまして古河に入社します。」
「工事が有効か無効かは疑問」だとお茶を濁しています。しかし・・・
自分の会社の施設を自分のお金で作るのに、手抜き工事をする馬鹿がいるでしょうか。
工事の監理者の天下りは、手抜きの証明にはなり得ません。憶測にしかすぎません。
学者としてはずいぶんお粗末な理屈で、全く低レベルです。
>>261 はて。その後も鉱毒は流れ続けましたよ。
それは古河鉱業自身が認めているではないですか。
1903年までに鉱毒がなくなったなどという研究結果は
当時発表されていません。
第二次鉱毒調査委員会の報告ですら、「鉱毒は減った」
としか書いてないというのも既に指摘済みではないですか。
少なくとも、1902年、渡良瀬川沿岸では、谷中村周辺以外
では洪水は起きなかったというのはそもそも大嘘なので、
そこはきちんと認めてください。
大嘘を積み重ねてでたらめの結論を導こうとするその
姿勢こそが問題視されるべきです。
ところで同盟会の恩田のほうはどうなりましたか。
>>261 嘘に嘘を積み重ねるとこういうことを平然というように
なってしまいます。
>そこで、洪水に見舞われなかった農民たちは、野口春蔵等正造の側近だった
>者を含めて、皆この政府案に賛成したのです(田川大吉郎著『嗚呼鉱毒論』)。
田川は当時、堂々と名前を出して正造の批判をした人物で、
その著書にはなるほどうなずける部分も多くあります。
しかし、誤りも多いのも事実です。田川の本には、古河が
待矢場両堰普通水利組合と永久示談をしたかのような表現が
あって、契約書とやらも提示されていますが、実際には待矢場
両堰普通水利組合は永久示談を絶対にしませんでした。
後の交渉でも、古河側は20世紀はじめに待矢場両堰と永久示談を
したなどと主張したことはありません。
これは、田川が嘘を書いたというよりは、古河から借りた資料の
中に、準備中の契約書がまぎれこんでいたと解釈されることが
多いです。
しかし、まるで全員が谷中村の遊水池化に賛成したかのような田川の
表現はもちろん大嘘です。実際、栃木県議会にかけられたときは、
強硬な反対意見が出ました。足利鉱毒救済会の荻野萬太郎は、
反対票を投じていますよ。荻野自身は農民ではないとしても、
鉱毒救済会の主宰者だ。田川がこの部分でいかにでたらめを書いた
か、ということだけはよく分かりますね。
265 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/17(水) 20:30:17 ID:9D7te3KK0
宇井純の講義は、更にこんな風に続きます。
「この年(1902年)に谷中村を遊水池としてつぶす案が栃木県会に上程されまして、何回
かの反対をへて1904年に県会を通過します。」
「田中正造はもちろん谷中村をつぶしたって決して鉱毒事件はなくならないことを見ぬい
て、遊水池化案に反対し、谷中村に住みつきます。」
明治政府は、公害防止工事によって鉱毒の流出がなくなったことを確認したからこそ、
それに続く洪水対策として谷中村遊水池化案を立てたのです。
政府は「谷中村をつぶせば鉱毒事件はなくなる」などと、ひとことも言っていないのに、
なぜこんなことを言うのでしょう。
>>265 鉱毒がなくなったなんて明治政府は言ってませんが。
それも何度も指摘されてるのに何で無視するんですか?
鉱毒調査委員会の報告は「鉱毒は減った」でしょう。
それと、島田三郎の毎日新聞に対しては正造の
言ってることをうのみにしているとか文句を言うのに、
田川は古河の言うことをうのみにしているって文句を
言わないのは何でですか?
田川には既に批判があるんですよね。批判のある
文書を、批判があるという部分を隠して提示するのは
何でですか?
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 22:57:15 ID:Jr/A5jtI0
そして、宇井純は、田中正造の行為を全面的に肯定して、次のようにも話します。
「1907年までの県のいろいろの策謀によって谷中村の住民は少しずつ追い立てられ、
この年の7月、住民は全部強制的に立ち退かされます。この立ち退きによって、足尾
の鉱毒事件というのは実質的に終わります。」
遊水池化は、谷中村の住民には苛酷ですが、その上流の住民にとっては、洪水から
身を守ってくれるのですから歓迎すべきことでした。そこで、彼らはこぞって賛成しま
した。
この場合、谷中の住民を支持する方が正しい、という結論は出せないはずです。
このように政府を批判することは、学者の立場を逸脱する行為といえます。
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 22:58:58 ID:Jr/A5jtI0
しかしまた、「被害農地は復旧しなかった」と言ってしまった宇井純は、農民からの
抗議運動が起きなかったわけを説明する必要を感じたのでしょう。
何と、次のような空想上の理論を展開するのです(前掲書236ページ)。
「その後、鉱毒事件に対する運動というのは、ついに(第二次大)戦後まで何も起こ
らない。これは、何十年にわたる鉱毒の被害というものが、代が一代変わってしま
うと、農民にとっていわば自然の一部になってしまい、一人一人の努力なり農業技
術なりで鉱害に耐えねばならなくなる。しかも鉱山側の政治的な力を何十年も見せ
付けられ、立ち上がるだけの運動のエネルギーはなくなってしまうのです。」
農民には公害に対する抵抗力はないとは。学者というものは何と傲慢なのでしょう。
>>267 だからこぞって賛成なんかしてないって。
荻野萬太郎県議が住む足利は、谷中村より
上流でしょ。
それに県議会だって反対票は確か12票出てるんだ。
どこかにどういう県議が反対票投じたのかとかいう
研究なかったかなあ。
反対運動が大戦期まで起きなかったとかいう
のは、宇井が『待矢場両堰々史』とかを単に読んで
なかっただけでしょうね。復刻が出るまでは相当に
読むのが難しい文献だったそうなので。(1971年に
はまだ出てません)近世足利市史もまだ出てません
ね。
『近世足利市史 鉱毒編』は、あれ1冊で足尾鉱毒事件の
研究が全部ひっくり返っちゃったくらいの文献なので、
読まずに鉱毒を語ろうとすると痛い目に逢いますよ。
ってもう逢ってるか。
田中正造にとって鉱毒問題は生涯をかけたライフワークだったので
政府の政策で鉱毒問題が解消されても困るし、鉱毒問題が下火になるのも困る。
田中にとって「政府=悪」「鉱毒=不滅」「住民=永遠の被害者」という構
図は絶対に崩すことの出来ないものだったのです。
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 20:33:35 ID:fhmtt86D0
マスコミの寵児だった宇井純の影響力は非常に大きく、田中正造の作り話に疑問
を抱く人はずっといなかったようです。
早稲田大学教授で、『田中正造全集』を編集した由井正臣は、これを機に田中正造
研究の権威者となり、岩波新書に『田中正造』を書きました。
当然、その影響力はどの類書より大きいはずですが、由井も正造がでっち上げた、
子供でもすぐばれるような作り話を、何の疑いもなく本当の話として受け入れ、驚い
たことに、実際を目で見ている被害農民まで批判します。引用してみましょう。
「(明治)35年9月の大洪水は、10里にわたる山崩れによって鉱毒に侵されない新土
を沿岸にもたらしたため、36年10月の収穫期にはまれにみる豊作をもたらした。この
ことが、政府や古河派の言う、予防工事は効を奏したとする宣伝を信ずる被害民を
生み出し、彼らに治水によって鉱毒被害を防げるかのような幻想を与えたのである」
(183頁)
もしこの年が洪水だったとすれば、鉱毒水が畑を汚染するわけですから、「鉱毒に侵さ
れない新土がもたらされた」、という正造の嘘すら根拠を失います。
由井は、こんな矛盾にさえ気がつかず、豊作の原因をよく知っている被害農民を、正造
の嘘を信じないからといって逆に批判しているのです。あきれるほかありません。
>>271 だから梁田村から11月に出ている文書はどうするの。
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 21:58:45 ID:tYOT+/7b0
岩波新書の嘘は、どんどん広がったようです。
ウイキペディアで「足尾鉱毒事件」を見てみたところ、次のような記述がありました。
「鉱毒反対運動は、(中略)特に1902年の大洪水で鉱毒汚染土の上に汚染されていない
土が積もったことによって豊作になると弱体化した。」
つまり、、「山崩れ豊作説」を採用していたわけですが、私は、試みにこれにクレイムを
つけてみました。昨年の7月ごろだったと思います。
すると、「これはまずいことを書いた」と反省したのでしょう。その次に点検してみたら、
次のように訂正してありました。
「鉱毒反対運動は、、(中略)特に1902年以降、足利郡、梁田郡、安蘇郡、下都賀郡、
邑楽郡の鉱毒被害地が豊作になると弱体化した。」
田中正造は偉い人だと思い込んでいるので、どんなにお粗末な作り話でも、本当の
話だと信じてしまうのです。人間は意外に弱いものだということがよくわかります。
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/24(水) 20:35:34 ID:J+GsaM8r0
第2次世界大戦中の日本人は、大本営という政府の情報機関の嘘に完全にだまされ、
あのような悲劇を味わうことになったではありませんか。私たちは簡単にだまされる体
質を持っているわけです。
しかし、政府やマスコミの流す虚偽情報は、今、当時よりずっと大規模になっています。
昨年の秋に私は、日本在住のカナダ人、ベンジャミン・フルフォード著の『暴かれた9.11
疑惑の真相』と『9.11テロ捏造』を読みましたが、ブッシュや小泉にもともと不信感をもっ
ていたので、アルカイダによるテロはアメリカ政府の自作自演だということを、ただちに
納得しました。つまり、世界中の人々が、情報操作に引っかかっていると了解しました。
理由は、次回に説明します。
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/25(木) 12:42:05 ID:eKoMFrjQ0
おもしろいね
>>273 Wikipediaみたいな、自身に一番不都合な文書を
持ってくるとは思ってもいませんでしたが、
足尾町での鉱毒反対運動とか、入澤論文を入澤本人が
否定してる話とか、鉱毒がその後もどんどん流れた
こととか、ずいぶん不都合なことがいっぱい書いてあります
が。
Wikipediaの方針には「Wikipedia:中立的な観点」って方針が
あって、敵のために書け、と書いてあります。そう書いた
本人が常にそう思ってるわけではありません。
何なら、私がWikipediaの記事に少々書き加えてあげましょうか?
泥をかぶって豊作になった、と。
ところで、1902年11月に梁田村から出ている文書はどうしますか?
未だに「洪水が起きたなら」とか書いてるようですが。
実際に1902年9月には渡良瀬川大洪水があったのです。
>>274 そうですね。大本営があった時代の
政府は、鉱毒問題についても大嘘をつき続け
ましたからね。まるで鉱毒がなくなったかのように。
ところで梁田村には大本営がありません。
1902年11月に梁田村から出た文書はどうしますか?
278 :
東アジアニュース速報+:2007/01/25(木) 19:52:54 ID:TUwmYb2G0
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/25(木) 21:46:11 ID:iCid8T8Y0
フルフォードさんの本によれば、アメリカ政府が同時多発テロのハイジャック犯だと発表
したアラブ人のうち、7人が生きていて「自分は犯人でない」と訴えています。
WTCツインタワーの崩落の様子は、我々が何度もテレビで見せられていますが、飛行機
が衝突した程度ではあのように完璧に、鉄骨が粉末になったように崩壊はしません。
ビル解体のプロが、高度なテクニックで爆薬を仕掛けて爆破する以外は無理です。爆発音
を聞いたという証言も数多く存在します。
意外なことに、ツインタワーに隣接する超高層の第7ビル(47階)が、当局の避難命令が出て
直後に爆破解体されました。その理由は謎のままです。
以上の3つの超高層ビルは、6週間前にリース権者がシルバーシュタインに代わっていますが、
彼はテロ保険に入っていたので、46億ドルを手にしたということです。
「テロとの戦い」は、アメリカ政府がアルカイダの犯行だと見せかけてでっち上げた、「架空の
テロとの無意味な戦い」の可能性が高いのです。
>>279 どっちにしても鉱毒事件はでっちあげじゃないですから。
古河の社長がはんこを押した証文もちゃんとあります。
で、何で足尾鉱毒事件のスレで同時多発テロの話なんか
してるんですか?
>>279 書き忘れたので書き足しておきます。
で、1902年11月に梁田村から出た文書はどうしますか?
田畑に泥かぶったって書いてありますが。
282 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 21:35:48 ID:UzC/IoKO0
真珠湾の奇襲が成功して太平洋戦争が始まったとき、アメリカ政府は、その奇襲を
事前に察知していながら、知らなかったふりをして日本側をいい気にさせ、アメリカ
国民の士気を鼓舞させるという見事な情報操作を行ないました。
戦争に勝つことが確実になっているのに、広島と長崎に原爆を落として何十万という
無辜の日本人を平気で殺しました。
歴史をふり返ると、アメリカ政府はどんな嘘でもつき、どんな非情なことでも実行する
という現実を知ることができます。同時多発テロをでっち上げることだって、彼らにと
ってはそれほど難事ではないに違いないはずです。
>>282 確かに大嘘つきですね。
1902年、渡良瀬川沿岸では、谷中村周辺以外では
洪水など起きてない、とかいう輩は。
ところで、1902年11月に梁田村から出た文書は
どうしますか?
284 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 23:21:45 ID:Qk/fgnJE0
>>282 確かに大嘘つきですね。
1902年、渡良瀬川沿岸では、谷中村周辺以外では
洪水など起きていないとかいう輩は。
ところで、1902年11月に梁田村から出た文書は
どうしますか?
洪水が起きて田んぼが泥かぶったって書いてありますが。
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/31(水) 09:40:39 ID:YW/F64MaO
287 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 15:42:47 ID:J/A61mUvO
こいつはカス
↓
ラノベ板でやれ
wikiをソースにするな
情報ソースは動画と紙媒体のみ認める
これで大抵のネット電波は破滅する
Wikipediaをwikiと略すなー
ええと、まずサーバ移転に気づかずに「アクセス不能」になり
「抜け道」(新しいサーバにちゃんとアクセスするだけ)をみつけて安心してたら
サーバの高負荷のために、read.cgi切ってその結果人大杉になった(専用ブラウザで回避可能)のを
「シャットアウトされ、結局、コメントが全くできなくなってしまいました。」と言ってるわけですね
それをもって「言論統制」やら「言論の自由を奪う」と主張して、論壇目安箱に投稿した、と
本人に連絡可能な方がいらしたらぜひ伝えてやってください
「 半 年 R O M っ て ろ 」 と
292 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 16:03:38 ID:Npz+lr0t0
すな!!!
293 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 16:24:31 ID:7ZBINranO
ニュー速からの援軍が押し寄せてくるぞ
ν速からきました
ν即からきたよ
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 16:39:27 ID:Lg1cXMJu0
297 :
言論統制中ですw:2007/02/14(水) 17:25:25 ID:SMzTwFzAO
おまいらwまた人多杉になっちゃうぞっ☆
298 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 18:26:08 ID:ORjQ9gRT0
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299 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 18:55:37 ID:bsr5eSwY0
なんで復活してるん?
300 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 18:56:40 ID:bsr5eSwY0
300ゲット
301 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/14(水) 19:48:59 ID:9BvRRK/N0
( 平成19年02月13日 ) 投稿者: 砂川幸雄
教科書でも誤って教えられている 「 足尾鉱毒事件 」 の真相を、この欄のほ
かに、このところ 「 2ちゃんねる 」 の掲示板も使って言い続けてきました。
教科書に嘘があってはいけないからです。
しかし、コメント数は300以下なのに、最近、1000以上で始めて適用され
る 「 過去ログ倉庫 」 に格納されてアクセス不能になりました。
ともあれ抜け道があって、何とかこの障害はクリアできたのですが、今度は、
あり得るはずがない 「 人大杉 」 ( アクセスする人が多すぎる ) でシャットア
ウトされ、結局、コメントが全くできなくなってしまいました。
主宰者の西村博之氏に 「 何とかしてほしい 」 と手紙を書いてもナシのつぶて
でした。マスコミが聞く耳を持たないから、インターネットに頼っているのです。
ネットまで言論統制する世の中って、なんて不健全なのでしょう。
http://www.rondan.co.jp/html/mail/0702/070214-2.html
アホの立てたスレがあると聞いて飛んできました
確かに足尾鉱毒事件について言われている事は、?が多い。
田中正造が神格化されている事で、
批判をゆるされない風潮もある。
心情ウヨの砂川君が、鉱毒事件を矮小化したい気持ちはわかる。
そのために、田中正造の私生活をたたき、古河を賞賛する手法をとったのも理解できる。
ただ、反論されて一言も返せないのは情けないと言わざるをえない。
もうすこし勉強されてから2chaに押し出すべきだったように思う。
今後のより一層の精進を期待する。75点。
砂川おじいちゃん、もっと2ちゃんねるの使い方を学習してからいろいろ言った方が恥ずかしくないと思うよ。
○過去ログ倉庫に格納されていた!言論弾圧だ!
→スレッドに誰も書き込みしなかったので、DAT落ちした。二度と誰も書き込むことは出来ません。
2ちゃんねる全体にやたらにスレッドが増えるのを防ぐ為、書き込みが1000に達しなくても過去ログになることが頻繁です。
人気のないスレを立ててしまったのが運の尽き。本当に過去ログになってしまったのであれば諦めましょう。
でも砂川じいちゃんの場合は過去ログじゃないよね。鯖移転しただけ。
○過去ログ倉庫にあったのに書き込みできるようになった!抜け道だ!
→抜け道でも何でもありません。このスレッドを統括する『板』がサーバー移転したため、旧アドレスでは書き込みできなくなっただけ。
ttp://academy5、になっているでしょう?このスレのアドレス。砂川じいちゃんが立てたときは
http://academy3で始まっていなかったかな?
○人大杉ってでる!言論弾圧だ!
→ひろゆきはこんなくだらないスレッドに目を止めていちいち弾圧するほどヒマじゃありません。
このスレッドの置かれているサーバーが断続的に過負荷になるため、IEなどを使っているとそう表示されるのです。
2ちゃんねるブラウザを使うとこの『人大杉』という表示は出ません。
○スレをたてることが出来ない!言論弾圧だ!
→ニュー速+など、『+系』の板にスレを作ろうとしていないかな?+系の板は、特定の記者さんしかスレを立てることが出来ません。
そのほか、板によってはスレを立てるために、いろいろ規制がかかっている場合があります。
(●持ちじゃないとだめ、●持ちでbeログインが必要、記者キャップが必要)
各板のガイドラインをよく読みましょう。
なお、記者さんにはぽっと出のその辺の爺さんが、簡単になることは出来ません。念のため。
どうして初心者の人って、自分で調べることもしないでひろゆきに手紙とか送ってしまうのwww
こんなんちょっと調べればいくらでもわかることなのに恥ずかしいなwwwwwww
307 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 17:03:18 ID:6Ax3L5DQO
晒しage
ニュー即でやれ
309 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/21(水) 12:44:14 ID:IT8O9KOn0
うはっ。
ワロス
帰ってこないなと思ったら
まだ人大杉か
311 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 22:16:11 ID:g1uhUINVO
おじいちゃんマダー?
312 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 01:26:17 ID:/SwvN3Qd0
砂川祭り
お、人大杉じゃなくなったな
帰って来い!
314 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 17:39:42 ID:aUqseNUI0
サーバーの問題は解除されましたよ砂川さん
問題無く見れるんでは
それではここまでの状況を簡単に整理しましょうね。
砂川の主張の破綻は、まず、一次文献に当たったとか言いつつ、
鉱毒をやるならまず最初に必ず当たらなければならないような
重要な文献を全く参照していないこと(例:『近世足利市史』、『待矢場
両堰土地改良区史』)。
自身に不利な史実に関しては「〜するわけがない」としか言えず、何の
根拠さえ提示しない(できない)こと。(例:古河市兵衛がそんなことをする
わけがない、例:農作物を買ってくれるお得意さんである銅山の停止
を、農民が求めるわけがない)
本人や後の研究者によって訂正された文献を平気でさも事実で
あるかのように紹介する。(例:入澤論文、入澤本人が、自身の研究は
急性銅中毒のみの研究で、慢性銅中毒に関しては、「慢性銅中毒が
あるかどうか」という考察も含めて一切行っていない、と断言している。)
鉱毒が多少減ったかのような報道をもって、あたかも鉱毒が完全に
なくなったかのような誇張した主張を展開する。(例:「激甚地以外は
豊作」という報道をもって、まるで鉱毒がすべてなくなったかのような
主張をする」)があります。
ところで1902年11月に梁田村から出た文書はどうしますか?
田んぼに泥かぶったって書いてありますが。
316 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/25(日) 09:08:55 ID:71IfsOrcO
沖縄戦であった赤川中尉の件などと同じニオイを感じるが
古いから暴くのは容易ではないでしょうね
日本人にも嘘を100万回いえば真実になるという朝鮮人みたいな性質があるしな
317 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 00:57:05 ID:rEYbEMXp0
いよいよ帰ってくるぞ〜〜! やったあ 拍手パチパチパチ。
そろそろ堂々颯爽と登場する頃だなあ〜。
こんなのばかりじゃ話にならないもの。wwww wwww
318 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 20:40:54 ID:jMtHNxzS0
直接アクセスすれば、倉庫に格納された状態ですが、フロントページや日本近代史の
掲示板からだと倉庫から搬出されていて、閲覧・コメントが可能になったようです。
しかし、戻ってきてみたら、洗脳された田中教信者や、ネットに詳しければ優秀だと思
い込んでいるネット中毒患者らしい連中しか群がっていない様子。
倉庫に入れられた掲示板は意味がありませんが、そんな掲示板でも、ネットに強い人
が集まってきて、彼らは単に人をけなすことで、劣等感を解消していたのでしょう。
最初の頃は、様々な人々が意見を開陳してくれて賑やかだったのに、倉庫に格納された
あたりからは、意味不明のことを言う酔っ払いのような御仁一人が絡んでくるだけで、何
となく拍子抜けしていました。
まともな反論をしてくれる方を期待していたのですが、そういうことにはならず、一人相撲
しているような感じでした。いささか寂しい思いがしますが、「いよいよ帰ってくるぞ」などと
期待している方もいるようなので、気乗りはしないながら、少しずつ書くことにします。
普通の人が大勢戻ってくることを期待して。
だから最初っから倉庫になんて入ってないんだよ
鯖移転しただけ
>>318 いくら史実との違いを指摘しても、全く返答はなく、
さらにその同じ過ちを含んだでたらめを、どこぞの団体の
街宣のテープレコーダーのようにただ繰り返すだけ。
まるでのれんに腕押しのようで全く張り合いがありませんが、
複雑な真実よりもわかりやすい嘘を簡単に信じてしまう人が
多い以上、これからも誤りを指摘するのをやめるわけには
いきません。
多すぎる過ちを全部指摘しているときりがないのでもう一度
聞きましょう。1902年11月に梁田村から出た文書はどうしますか。
前回の洪水より激しい洪水が起きて、田んぼに泥かぶったって
書いてありますが。
321 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 11:34:46 ID:nsAYjf6y0
2ちゃんねるの単純な仕組もまともに理解できず
すわ言論弾圧とばかりに駆け込む先がよりにもよって論談。
ネットに詳しいか否かの問題ではない、
思考・行動パターンがよくあらわれていますね。
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 20:07:24 ID:TVpozZTj0
何を言おうと勝手ですが、私のことをいろいろけなしている方に、説明しておきたいことがあ
るので、本題に入る前にそのことを書きます。
今年2月の初旬、2ちゃんねるの苦情・質問受付け係りに、倉庫入りに関して問い合わたと
ころ、「2ちゃんねるビューアサポート」から次のメールが来ました。2月12日のことです。
「ご質問いただいた件ですが、スレッドがdat落ちする原因は、@1001までレスが投稿された、
A長い間、書き込みが無かった、のどちらかです」、「それ以外にdat落ちする可能性につい
ては、こちらでは把握しておりません」
全く変な説明ですが、にも拘らず、これが2ちゃんねるの正式回答です。
「理由がわからないのは砂川が馬鹿だから」といって、いろいろ非難していますが、当事者で
さえ把握していないことを、正体不明のあなた方がいろいろ説明しても、どうして信じられるで
しょう。
2ちゃんねるの注意書きにも、「レス数が1000を超えると表示できなくなる」、「サーバの負
荷が高い時に<処理が混んでいる><流量制限中><いろいろ作業中>などが設定され
る」と記してありますが、このような断りは全くなされずに、倉庫に格納されたのです。
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 08:39:56 ID:nWG2X0+K0
>>322 で、何が言いたいんですか?それが不当だとでも?
あんたが何を言おうと他の利用者の多くは2ちゃんねるのそういう仕組を理解してるわけ。
つまりその程度には理解できる仕組みだということだ。
そういう点からもあなたのの調査力とか推察力が劣っているとわかりますね。
さらにはそれをかえりみることもなくあくまで責任転嫁する。
長生きしてるのに、世の中なんでもかんでも親切に説明もらえるわけじゃないとわからんの?
324 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 19:50:26 ID:Ek+Ih0H30
もし彼らが私の主張に反論できるのであれば、徹底的に反論すればいいはずです。しかし、
それができない。だから、真実を報道するというジャーナリストの役割を投げ捨てて、だんま
りを決め込み、皆が忘れてくれるのを待っているのです。
誰一人私に反論できていないという証拠を、更に挙げていきます。
325 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 20:11:50 ID:Ir1vtsfl0
>>324のコメントが不完全のまま入力されたので、再度書き込みます。
>>305「反論されて一言も返せないのは情けないと言わざるをえない。 もうすこし勉強されて
から2chaに押し出すべきだったように思う」には驚きました。反論できたつもりなのでしょうか。
一般の人向けに書いた私の編著書は15冊ありますが、そのうち14冊は新聞や週刊誌が
記事にし、大新聞から4回著者インタビューを受けています。
それなのに、足尾鉱毒事件を書いた本については全く例外で、専門雑誌でさえ1行も触れて
くれませんでした。
なぜでしょう。この本が真実を書いているので、紹介したりすれば、これまで自分たちの流し
てきた情報が嘘だということが明白になり、おそらく、具合が悪いから無視する他ないと考え
たのです。それ以外の理由は考えられません。
もし彼らが私の主張に反論できるのであれば、徹底的に反論すればいいはずです。しかし、
それができない。だから、真実を報道するというジャーナリストの役割を投げ捨てて、だんま
りを決め込み、皆が忘れてくれるのを待っているのです。
誰一人私に反論できていないという証拠を、更に挙げていきます。
>>324 結局、どこのマスコミも自分の説を取り上げないのが
不満だってことですか。
ジャーナリストがあなたの説を取り上げないのは、
単にあなたの説が嘘だからです。
反論ならここで十分して差し上げましたが返答があり
ません。まさか2ちゃんねるのこのスレッドだけを見て
記事を書くようなうっかりなマスコミはいないとは思い
ますが、まあ控えめに見ても、ここまでのあなたの
主張と態度と発言内容を見てわざわざ取り上げようと
するジャーナリストがいるとは到底思えません。
ところで1902年に梁田村から出た文書はどうしますか。
渡良瀬川が氾濫して、田んぼに泥かぶったって書いて
ありますが。
こんな質問にも答えないような(答えられないような)人物
の主張を、どこのマスコミが注目してくれるというので
しょうか。
>>325 『田中正造と足尾鉱毒事件研究』14に出てますよ。
それも指摘したのに何で無視するんですか?
328 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 20:21:07 ID:AZ5XeVzn0
新聞社は、私よりも早く、田中正造に問題があるということを知っていたようです。
事件の真相を一冊分の原稿にまとめたものの出版を引き受けるところがなかったので、地元
である栃木県の『下野新聞社』にも打診してみました。平成15(2003)年夏のことです。
もちろん断られたわけですが、その断り状には次のような部分があったのです。
「(前略)栃木県にとりまして、田中正造は地域住民のために生涯をかけて国家・巨大資本と
闘った義人であり、近代日本の反公害運動の英雄となっております。したがって、私どもが
彼を虚言の異常者とする立場を鮮明にするには、かなり厳しいものがあります。」
「激しい性格により、あるいはアジテーター的な役割によって、相手を傷つけることがあった
という話は何度となく聞いております。その意味では聖人ではなかったのだとも思います。」
「あなた様の研究が間違っているとか申し上げるものではありません。」
>>328 下野新聞は1900年当時、既に田中正造には
批判的でした。
そんなのも既に指摘がありますので出直して
ください。
あと、田中正造が変な人だったってのは否定
してる人はあんまりいません。もっともその前に、
砂川がそう言いだした最初の人ではありません。
変な人だから立派な人じゃないってのは成立
しません。結局田中正造の人格攻撃しかして
ないんじゃ誰も相手にはしませんな。
ところで1902年に梁田村から出た文書はどうし
ますか。
田んぼに泥かぶったって書いてありますが。
>>322 2ちゃんねるに非公開の苦情・質問受付け係りなんてありませんよ・・・
それは返信からも明らかなように、2ちゃんねるビューア(過去ログ閲覧サービス)
の問合せ先にメールしたのでしょう
返信メールの内容も頷けます・・・
331 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 19:47:59 ID:OxDo9HzU0
下野新聞に断られたことに不満はありません。しかし、問題なのはその理由です。
新聞社が標榜する「新聞倫理綱領」には、次の言葉があります。
「新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追及である。報道は正確かつ公正でな
ければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。論評は世におもねらず、
所信を貫くべきである。」
『下野新聞』は、私の主張を否定しない程度に事実を知りながら、倫理綱領に反して「世にお
もね」「所信を貫かなかった」わけです。
これで読者の信頼を保っていけるでしょうか。栃木県には、田中正造の出生の地と同時に、
日本の近代化に大きな貢献をした足尾の地もあるのです。
>>331 私が「実は桐生市は今でも鉱毒関連予算を毎年
計上している」と書いて下野新聞社に送ったら、
下野新聞はそれを紙面にとりあげなきゃいけない
んですか?
その綱領はそういうことを言ってるんじゃないでしょう。
誰かがそう言っていて、それを下野新聞社に送って、
下野がそれを知ってたら、100%それをとりあげなきゃ
いかん、そんな馬鹿な話はありません。
それに、既にそういう言及(田中正造は変人だ)は
過去にあったんだし、過去にあった言及を事実だから
ってわざわざ指摘があるたびに紙面に出さなきゃ
ならんというのはどういう理屈なんでしょう。
「あまり知られていないが、田中正造は実は作新学院
の創設者の一人だ」とか、「あまり知られていないが、
渋沢栄一がオーナーの一人だった時代、既に足尾
銅山は鉱毒を流していた」とか「あまり知られていない
が、埼玉県と栃木県は実は接している」とか、もう知られ
ていて単に有名じゃない事実はいくらでもあるんですが、
何で指摘があるたびに下野新聞がそれをいちいち
とりあげなきゃならないのですか?
ところで1902年11月に梁田村から出た文書はどう
しましょう。
渡良瀬川大洪水で田んぼに泥かぶったって書いて
ありますが。
333 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 12:18:25 ID:c+IHZFNH0
言論統制は解除されました
( 平成19年03月06日 )
投稿者: 砂川幸雄
当目安箱への投稿が功を奏したのでしょうか、2ちゃんねるでの
言論統制が解除されました。
掲示板 ( スレッド ) のタイトルは 「 田中正造神話を粉砕しよう 」 です。
興味のある方は、アクセス ・ コメントをどうぞ。
私の主張に対する反論を、特に歓迎します。
言論統制wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
砂川は学生運動崩れか?
334 :
神田太郎:2007/03/07(水) 14:25:12 ID:XSGcfp1s0
「論談」から来ました。
砂川氏の「足尾銅山鉱毒事件」に対する熱意には敬服致します。
ただ、残念ながら氏が論談に投稿された文章を読む限り
氏の書かれている内容は余り素直に信用できないようです。
私は足尾銅山のこの事件について小学生の頃に伝記を読んで感想文を
書いた程度の知識しかないので残念ながら詳しくは知りませんが、
歴史研究というものは現在残っている資料や物品などから客観的事実を
拾い集め、そこから事実を推測していくという作業なのではないかと思います。
ところが、氏の投稿はその他の多くの方々からの客観的と思える
2ちゃんねるのシステムに関する助言や意見を真摯に検討することをせず、
自分の主張を繰り返し押し通そうとするばかりでした。
そこから読み取れるのは、自分に都合の悪い意見や証拠は無視する、と言う
態度です。
そのような方がいくら自説に都合の良い「証拠」を揚げ、世の中の歴史認識が
間違っていると主張しても、(真実はどうあれ)あまり信憑性が感じられない
と言うのが私の素直な感想です。
>>286で2007/02/14(水) 15:27:44に普通に投稿されてるわけですが・・・
何でいまさら言論統制解除とかおっしゃってるのですか?
あなたが今回のが言論統制じゃないことを理解されたら、このスレを全文読もうと思ってましたが
2ちゃんねるの仕組みを理解しようともしないあなたが
世間で知られてない真実に辿り着けるとは到底思えません
さようなら
返答があるとは思っていませんが、
一応その他の人のために書いておきます。
1902年11月に、梁田村から、「渡良瀬川で
洪水があって、田んぼが泥をかぶった」と
書いてある、というのは、近世足利市史に
載っている事実です。
何度も指摘していますが、返答がありません。
行動パターンは読めているので、
次にどういう行動に出るかを予想します。
(1) 都合の悪い事実なのであくまでも無視を
続ける。←今はここ
(2)的外れとか意味不明と言い出す。←梁田村
とか渡良瀬川とか言われて意味不明というの
なら、それは鉱毒以前に日本語を学習する
ことをおすすめします。
(3)洪水があったというのなら、それは自説に
有利な証拠だ、と言い出す。←「1902年に
洪水はなかった」という主張が嘘だ、という
指摘をしているのであって、その事実が誰の
説に有利かは聞いてません。
(4)全く関係ない話をえんえんとし始める。
←WTCの爆破は鉱毒とは関係ないでしょう。
仮にあったとしても、鉱毒のほうが昔です。
鉱毒問題をきちんと解決しなかったから、
WTCは崩壊した、という主張なら、(時系列
的には)成立しますが、逆は成立しません。
さて、これ以外のご回答をぜひとも
頂きたいのですが。
私の主張に対する反論を、特に歓迎します。
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 20:51:19 ID:hZIOXeWG0
足尾鉱毒事件に関する新聞社の認識が間違っていることは、すでに裁判によって証明され
ています。
日本経済新聞が、ある記事に、「別子銅山と足尾銅山とでは天地の差がある。別子の鉱
主・住友は紳士であるから、足尾の古河のように金をもうけさえすればいい、とは考えない」、
といった内容の田中正造の演説を引用したうえで、「義人田中が手放しで称賛するほどに、
別子銅山を改革したのが伊庭貞剛である」、と書いていたので、私は、古河市兵衛の伝記
で、「事実と違う」と批判しました。
古河が、公害が問題になるとすぐに被害者側と示談交渉を始め、今のお金で10億円の賠償
金を支払い、政府から命令されると、200億円以上をかけて公害除去工事を実施したのに
反し、同様に公害問題で反対運動に直面していた住友が、加害者責任を一切認めず、何の
対策も採っていなかった。そういう事実が明白だった(示談金を支払うまでに17年かかった)
のに、逆のことを書いていたからです。
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 20:53:01 ID:hZIOXeWG0
この記事の執筆者・小島編集委員が頭に来て会社を説得したらしく、日経新聞は、出版社と
私に1000万円の損害賠償を求める訴訟を起こしたのです。
ところが、原告は東大卒の弁護士を2人立て、こちらは弁護士なしの本人訴訟で対抗したのに、
1,2審とも原告は敗訴したのです。
つまりは、私の主張は正しく、日経の主張は間違っていたということを、裁判所が認定したわけ
です。これほど権威ある判定はないではありませんか。
ちなみに、この時日経新聞の社長だった鶴田卓彦は、不正行為が問題になってまもなく追放
されました。
>>339-340 保守ご苦労様です。
で、裁判と鶴田氏追放のソースをよろしく。
損害賠償関連は、判決内容を見ないと詳細がわかりません。
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 16:39:52 ID:BtSVEBAX0
>>337 正解は(1)と(4)でした。
それにしても、下野新聞社と日本経済新聞が
どう関係するんでしょうね。
さて、「1902年には渡良瀬川の洪水は(谷中村
周辺以外では)なかった」、
という砂川の嘘をえんえんと指摘してきたわけ
ですが、どなたからも反論がありません。
もちろん、1902年9月に渡良瀬川大洪水があった
のは歴史的な事実が変わるわけではないので
それはそれでかまわないのですが。
ここをごらんの皆々様方は、「洪水は確かにあった」
「砂川はなかった、と嘘をついた」という2点を、
事実として記憶し続けてください。
344 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/12(月) 20:37:44 ID:FoeCZWWd0
>>334の神田太郎様へ。
論談目安箱のそれと同じ投稿をこちらへもされた熱意には感心します。
しかし、残念ながら説得力はまるで感じません。
過去ログ倉庫に格納した以上、アクセスができなくなります。それなのになぜ
「もうずっと人大杉」状態になったのか。システム的には不可能です。
「質問等ございましたらお気軽にお問合せください」というので質問したら、
2ちゃんねるビューアサポートから「スレッドがdat落ちする可能性については、
こちらでは把握しておりません」との回答がありました。システムが原因だと
は、当事者は一言も言っておりません。
それなのにあなたは、「氏の投稿はその他の多くの方々からの客観的と思える
2ちゃんねるのシステムに関する助言や意見を真摯に検討することをせず、
自分の主張を繰り返し押し通そうとするばかり」とおっしゃる。
私を馬鹿にしながら、なされた正体不明の人たちの「システムに関する助言や
意見を真摯に検討すること」など、これでどうしてできるのでしょう。
なぜ「自分に都合の悪い意見や証拠は無視する、と言う態度」になるのでしょう。
「2ちゃんねるビューアサポート」は2ちゃんねるのサポートではありません
346 :
神田太郎:2007/03/12(月) 23:07:54 ID:b58Ctbsi0
>>346 この人には無理だろ。
はなから人の意見,反論なんて聞く気が無いみたいだし、
ただ同意が欲しいだけ。
このスレ自体、意味が無い。
348 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 02:07:07 ID:/Xo5Z1pe0
349 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 20:26:05 ID:Xg52LaFp0
>>341の方へ。
日経が私を訴えた裁判の判決文は『判例時報』1814号の140頁をご覧ください。
その時の社長である鶴田卓彦の解任劇は、この裁判とは直接関係ありませんが、
検索すれば数多くのヒットがあると思います。
私のメモに、解任前の資料として次のものがあります。
「日経子会社<ティーシーワークス>、巨額手形流出?」(週刊朝日、2002年2月15日)
「日経子会社架空水増し発注、裏金作り」(週刊朝日、2002年4月26日)
「日経新聞100%子会社の異常な経営実態」(サンデー毎日、2002年4月7日)
「愛人を装った怪文書まで登場した日経新聞鶴田社長の<不徳>の背景」(噂の真相、
2002年7月号)
「遂に実名の告発メールが飛び出した日経鶴田社長を巡る株主総会の行方」(噂の真相、
2003年4月号)
350 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/13(火) 20:37:31 ID:Y13kY9+mO
足尾銅山のせいで群馬県にはいまだに耕作不能な土地が大量にある。
>>349 >>250 > この時は、谷中村周辺以外は洪水は起きませんでした。
などという大嘘をついたのは何故ですか?
1902年9月、渡良瀬川沿岸では谷中村周辺以外の
上流部でも同時に大洪水があって、死者もたくさん出て
います。
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 21:24:56 ID:iRcb8jbT0
>>348の方へ。「A級戦犯釈放の嘆願署名運動なんて無かった、と言い切ったからね」
ですって?よくそんな嘘をつきますね。2005年11月に私が投稿した文章はこうです。
15日付の投稿者の一人が、「A級戦犯の赦免を求めて4000万人が署名した。」と書いて
いますが、署名が行われていたことさえ私は知りませんし、朝日や毎日の読者ならほとんど
署名しないでしょうから、こんな数字は出るはずがありません。活字による情報は、だから怖
いのです。
すぐばれるような嘘を平気でついて読者をだましたつもりになっているとは、あなたは本当に
お馬鹿さんですね。
>>352 それで、
>>250で
> この時は、谷中村周辺以外は洪水は起きませんでした。
などという大嘘をついたのは何故ですか?
>>353 そうそう。あなたに大変にふさわしい言葉をつけるのを
忘れていました。
すぐばれるような嘘を平気でついて読者をだましたつもりになっているとは、あなたは本当に
お馬鹿さんですね
なんか、このアンカーの付け方だと違う意味に
とられる可能性もあるので改めて書き直します。
>>352 それで、
>>250で
> この時は、谷中村周辺以外は洪水は起きませんでした。
などという大嘘をついたのは何故ですか?
すぐばれるような嘘を平気でついて読者をだましたつもりになっているとは、あなたは本当に
お馬鹿さんですね
356 :
348:2007/03/14(水) 23:09:35 ID:a/uc4Q/w0
>>352 >15日付の投稿者の一人が、「A級戦犯の赦免を求めて4000万人が署名した。」と書いて
いますが、署名が行われていたことさえ私は知りませんし、朝日や毎日の読者ならほとんど
署名しないでしょうから、こんな数字は出るはずがありません。
好意的に解釈するなら、「署名が行われていたことは知らないが、もしかしたらあったのかもしれない。
でも、署名の人数は信じられない」という意味にとれますが、あなたの普段のものの言い様からすると、
「自分は署名のことなんて知らないからお前の言ってることは嘘だ」という様にもとれます。
これまでの議論でもあなたは人の意見を聞き入れてませんよね。だから私も「言い切った」という表現を
使ったのです。
あと、いちいち言葉尻をとらえて人のことを馬鹿だ何だというのはどうでしょうかね?
あなたはそんなに偉いのですか?
これ本当に本出してる本人なの?
そうなら誰も買わなくなるぞw
358 :
348:2007/03/14(水) 23:26:39 ID:a/uc4Q/w0
補足。
>「国会図書館にいけばそのデータがある。」、「この本を読めばいい。」 などと
>もアドバイスされましたが、明治から昭和戦前期までのものはともかく、それ以降の
>歴史の本には興味がもてません。
>それは、この時代を実際に生きてきた以上、直接見たこと聞いたこと考えたこと以外は
>あまり信頼できないことと、その種の本の中には、真偽の疑わしいことがよく書かれて
>いるからです。
私はあなたに歴史書など紹介した覚えはありません。呉善花さんの本が歴史書?あなたの
言い方をまねすれば、「すぐばれるような嘘を平気でついて読者をだましたつもりになって
いるとは、あなたは本当にお馬鹿さんですね」になりますよ。
あと、呉善花さんの本が歴史書なら、砂川さんの本も歴史書ですよね?上記の
引用部分を素直に解釈すると、あなたが書いた本にも真偽の疑わしいことが
よくかかれている、ととらえる事ができますね。
まあ、言葉尻をとらえ合うとこういう方向に話が進むので面白くないでしょ?
少しは相手の言うことをまじめに聞くことを覚えてくださいよ。
359 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 20:31:24 ID:cPDHRNOJ0
何をおっしゃろうと自由ですが、問題はその発言に実質が伴っているかどうかです。
裁判所が私の主張を採用し、客観報道を目標にしている新聞社の主張を否認したのは、こち
らの方がより客観的で、裏づけになる理由があり、裁判官が容認できる内容だったからです。
裁判官は難しい司法試験をパスし、当事者双方の言い分の正否を審判する仕事を専門とする
プロですから、その判断基準の厳しさにおいてはあなた方とは雲泥の相違があります。
つまり、私には実績があり、無責任発言をするだけの、私を単に批判する人たちには何ら実績
がないわけですから、口先でいくら威張っても、何ら重みがないわけです。
それに、他人を批判するには、多少とも何らかの理由を述べる必要があるのに、それがほとん
ど見られないではありませんか。
>>359 理由ならさんざん言っていますよ。「嘘だから」。
1902年9月28日、渡良瀬川では大洪水があって、
谷中村からはるか離れた足利郡でも、大量の土砂が
田畑に流れ込みました。
それは歴史上の事実です。
しかも、それがどこに書いてあるのかまでわざわざ
お教えしていますし、その史料は決して珍しいもの
ではありません。
『足利市史』なんて、どこの図書館にでもあるでしょう。
少なくとも、鉱毒研究者が資料を探すような図書館には。
そんな基本的な文献を見ればすぐにばれるような
大嘘をついたのは何故ですか、と聞いているのです。
たとえどんな実績があろうと、大嘘をついていたことが
分かれば、過去にさかのぼって実績とやらは消去され
ますよ。どこぞの捏造遺跡の「発見者」とやらと同じで。
「嘘を嘘と見抜けないようなお馬鹿さんが、うっかり真に
うけることのないように」
わざわざ指摘して差し上げているのです。
それとも裁判官が「1902年9月には渡良瀬川大洪水は
なかった」とでも言ってるんですか?
もう一度聞きましょう。
> この時は、谷中村周辺以外は洪水は起きませんでした。
などという大嘘をついたのは何故ですか?
すぐばれるような嘘を平気でついて読者をだましたつもりになっているとは、あなたは本当に
お馬鹿さんですね
361 :
348:2007/03/15(木) 22:16:27 ID:5eGy3zi/0
362 :
sage:2007/03/16(金) 03:14:06 ID:MiCHh0Fj0
好きなこと言えよ 箔ついてるんだもん俺
勉強して立派な先生方が判断したんだもんね
お前らとは違うんだよ
箔つきの俺の言う事とただ吼えてるお前らとは次元が違うんだよ
箔つけてから物言えや
と
実は『近世足利市史』という名の本はなくて、
本当のタイトルは『近代足利市史』
だったりします。
1902年9月28日の大洪水で田んぼが泥かぶった、
って文書は、梁田村ではなくて隣の久野村から
出ています。もちろんそれは足利市史に載って
ます。
どっちにしろ、足利市史を開くどころか、そのありか
を探そうともしない人だってのは分かりました。
不都合な文献は、その実在すら確認するおつもりは
ないようですね。
ところで、1902年に久野村から出た文書はどうしましょう。
9月28日の大洪水で田んぼに泥かぶったって書いて
ありますが。
この文書は実在しますから安心してください。
『近代足利市史 別巻 鉱毒編』という、実在する文献の
440ページという実在するページに載ってます。
>>211 >被害地の農民たちは、「自分の田畑に新土がかぶさった」
>などと、誰一人言っていません。あまりにもナンセンスな捏造話ではありませんか。
>>259 >「(被害農地の上に)運ばれてきた土がかぶさった」は、明らかに正造の虚言のままです。
上記の訴えは、本当のことだったのでしょうか。実は違うのです。
とんでもない嘘をついていたことがわかるのです。
田中正造の研究者がもしこれを読んだら、飛び上がって驚くでしょう。
デタラメもいいところの捏造話で、作者があまりにも無知だと分かるからです。
その捏造話には、皆さんもきっとすごく驚かされると思います。
歴史は、元の資料に直接当たらなければ、本当のことはわからないものです。
皆さんにもよくわかると思います。
あまりにもナンセンスな捏造話ではありませんか。
こんなこと信じられますか?
完全にだましているわけです。
あなたの発言の語尾は、あなた自身の発言に
対して使うのが一番合っているみたいですよ。
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 00:15:54 ID:seT0xX5m0
結局この人は、自分の説を構築するのに都合のいい資料のみを取り上げ、
また、資料を自分の説に都合のいいように解釈し、そして都合の悪い
資料は一切無視するという訳か。
>>364 一人で発表させてあげれば?
保守も兼ねてw
どこかのスレで、「水銀は自然界に常に存在する、水俣病は捏造だ。」って
書き込みを続けてる奴が居るけど、ここの
>>1?
367 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/20(火) 09:07:08 ID:TtQ4nUNS0
そもそも本当に歴史的に意義のある発見や主張があるのなら、カネさえあれば裏づけ
がなくても誰でも出版できる本よりも、相応の学会で発表するほうがよっぽど社会的に
認められると思う
という訳で晒しage
過疎っているな。
369 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 21:15:43 ID:kXJK+7He0
コメントに対するアクセスが規制されていたため、しばらくご無沙汰してしまいました。
日本の代表的な大新聞に地裁と高裁の両方で勝っただけでなく、私は30年ぐらい昔に簡裁でも
実質的に勝利しています(中野簡易裁判所昭和52年ハ第5号事件)。
アパートの家賃の値上げ額が不当だったので供託して抵抗したところ、家主が裁判に訴えて
きたので、やむなく本人訴訟で対抗したのですが、結局半額ぐらいで和解したのです。
相手は言論の専門家を代理人に雇う一方、こちらはずぶの素人なのにそれに挑戦し、その結果
国家機関の行司たちが3回も、私の言い分を認めて軍配をあげたわけです。
お気の毒ながら、ただ吠えるだけの気の弱い犬みたいな人たちが、私に勝つのは無理でしょう。
実力や実績がなければ、世間は口先だけの人など信用しないからです。
370 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/26(月) 21:18:04 ID:kXJK+7He0
私が直接間違いを指摘した相手、つまり当事者は、指摘した点に何一つ反論して来ません。
つまり一切否認していませんから、私の主張をすべて容認したということができます。
小学校の国語教科書については、すでにこの掲示板でその間違いを様々に指摘しましたが、
中高の歴史教科書についても多くのウソが書かれてあるので、その出版社に宛てて、訂正を
要請する手紙を出しました。どの点が歴史的事実と異なるのかについては、「足尾鉱毒事件
自由討論会」というブログに「検定教科書の嘘いつわり」というテーマで書きましたので、読ん
でみてください。
ところが、当の教科書の発行元である出版社は、返事をくれないか「執筆者と相談してあとで
回答します」との返事をくれたかのいずれかで、1年以上経っても何の音沙汰もないので、結局
どの会社からも反論はゼロ。彼らは沈黙を守っているというわけです。
裁判の場合は、相手の主張に何の回答もしない場合は、その主張を容認したことになります。
ということは、私が指摘した記述の間違いを、全教科書会社が肯定したことを意味します。ネット
上の匿名の、無責任なコメントで、どうして崩すことができるでしょう。
>>370 そうですね。
「1902年に渡良瀬川で大洪水はなかった」
などと大嘘をついた本人も、
自分が大嘘つきじゃない、なんて言ってませんものね。
沈黙しているんだから、自分が大嘘つきだって認めて
いることになるんですからね。
373 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 08:08:34 ID:ua8aidGt0
この人、相手の意見を全く聞く気がないのに何でこんな糞スレ立てたんだ?
もしかして「キャー、おじいちゃんスゴーイ!」とか言われたかっただけなのか?
要するに学会での実力や実績がなく、歴史家に口先だけの人とみなされ、信用
されてないからこんなところで喚いている訳か。
>>370 >ところが、当の教科書の発行元である出版社は、返事をくれないか「執筆者と相談してあとで
>回答します」との返事をくれたかのいずれかで、1年以上経っても何の音沙汰もないので、結局
>どの会社からも反論はゼロ。彼らは沈黙を守っているというわけです。
相手にされてないだけでしょ?不満なら、内容証明でも送りつければいいのに。
普通手紙なんぞ無視するよ。クレーマーなんぞいちいち相手にしていたらきりがない。
374 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 21:52:55 ID:i0aodxNV0
教科書出版社が私の指摘に対して何一つ反論できないのは至極当然です。
教科書に書かれた嘘偽りの文章というのが、調べれば誰にだってすぐわかる単純なもの
ばかりで、専門家でなくてもすぐに納得できる内容だったからです。
たとえば大阪書籍の「中学社会」には、次のようなひどい間違いがあります。
「政府から古河という財閥に払い下げられた足尾銅山では渡良瀬川に鉱毒が流れ出しました」
事件がおきた当時は、財閥といわれるものはありませんでしたし、足尾銅山は政府の所有でな
かったので、払い下げられてもいません。
古河市兵衛は、足尾銅山を、副田欣一という人から買っています。
いったいどうして、執筆者が平気でこんな単純な間違いをし、教科書会社がそれに気づかず、
文部科学省が検定でこれを見逃し、社会科の教師たちも何の疑問ももたなかったのでしょう。
まったく不思議でなりません。
あなた方も、こんな教科書で教わっていたわけです。
>>374 そうですね。
直接、古河に払い下げられたんじゃない、って
とこは間違ってますね。
でも、大阪書籍の中学教科書は私は見たこと
ないですね。
それに、それ以外の教科書はどこも間違っては
いないみたいですね。
で、1902年9月に渡良瀬川大洪水がなかった、
という嘘をついたのは何故ですか?
さて、ここからはほかの人へのご説明です。
実は、「1902年9月28日に渡良瀬川大洪水は
なかった」という誰かさんの著書の内容は
間違っている、と指摘したのは、実は私が最初
ではありません。
群馬県の郷土史家、布川了氏が既に指摘して、
もちろんそう言いだした人にちゃんと伝わって
います。
布川氏は『足利市史』ではなく違う史料を使って
説明したようですが。
布川氏は足尾鉱毒事件に関する著書も複数
ある人です。少なくともあの歳だと、大阪書籍の
中学教科書で育った世代じゃないですね。
既に間違いだと指摘されていて、それに反論
できていないのに、どうして1902年に渡良瀬川
大洪水はなかったなどと嘘の主張を続けるの
でしょうか。私にはそれが不思議でなりません。
間違いだと指摘されたあとも主張を続けた時点
で、既に大嘘つきだと思いますが。
376 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 19:51:21 ID:HvAX04zW0
>>374 >教科書出版社が私の指摘に対して何一つ反論できないのは至極当然です。
反論できないのと反論する気がないのは全然違うことはお分かりですか?
だからこそ、内容証明を送りつけて今後の裁判に活かせばいいのに。
ここでいう裁判とは、教科書の内容が間違っていることを確認する裁判の
ことですよ。家賃やら、名誉毀損やらではなく、本質的な「教科書裁判」
で勝訴したならば私も砂川さんの言うことを信じます。まあ、やたら長引く
裁判よりも、やはり学会で認めてもらうのがベストだと思いますけどね。
377 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 21:13:43 ID:ifo6hyVe0
大阪書籍の「中学社会」は、最も重要な歴史的事実を隠した上で、次のように記述しています。
「地元の衆議院議員の田中正造は、農民とともに鉱山の操業停止と被害民の救済を訴えました。
しかし、運動は弾圧され、要求は聞き入れられませんでした。」
田中正造や被害農民の運動に動かされたからこそ、明治政府は歴史的といっていい公害防止
対策を策定し、加害者の古河市兵衛は社運を掛けて過酷な工事を履行したわけです。
それがなぜ政府が農民たちの運動を弾圧したことになるのでしょう。大事な事実を隠蔽した上で、
生徒たちに虚偽の説明をしていることは明らかです。
他の教科書も同様の説明をしていますが、工事がなされたという事実は否定しようがありません
から、私の指摘に反論できるはずがなく、これを容認する他ないことになります。
>>377 いくら金かけた工事をしても、効果がなければ
無意味ですよ。
ところで1902年9月28日に渡良瀬川大洪水は
なかった、などという大嘘をつき続けるのは何故
ですか。
既に布川がそれは間違いだと指摘しているでは
ないですか。
そもそも匿名がどうこうとかわめきちらすなら、
何でのこのこと匿名掲示板なんかにやって来た
んですか?
しかも、今は名乗らないでおく、などと、当初から自身の
名を敢えて伏せて先に活動しているのはあなたのほうでは
ないですか。
ひょっとして、都合が悪くなってきたら突然実名とやらを
出して、さあこっちが出したんだからそっちも出せとか言い
だすつもりじゃないですよね?
先に書いておくと、それに従うつもりはありません。念のため。
少なくとも布川は実名で反論してるんだから、布川の
指摘に沈黙するのは布川の主張を認めたことになり
ますね。
で、肝心の布川には、正誤表をつける必要などない、
とか鉱毒被害地を見る必要などない、などとしか返事
してないんですよね。
布川は、「1902年に渡良瀬川大洪水があった」ってとこには
反論してないから、きっと、洪水は本当にあったと思い直して
もらえたのだろうとでも思ってるんじゃないですか。
反論しなかったんだから、同意したとみなされるんですよね。
匿名掲示板にわざわざスレ立てなどしながら実名についてカンチガイを並べ、
掲示板の使い方もわからないのに独断と偏見で全てを知った気になり、
使用法についてアドバイスや丁寧な説明をスレ上で受けてもすべて無視して自分の考えのみに固執し、
スレたてした者だと主張しながらコテもトリもつけず、
自分が問題提起した事柄について反論されてもその内容について検証することをせず、
ただひたすらに壊れたスピーカーのごとく自説を繰り返し述べ立て著書を宣伝し、
で、得られたものってなに?本の一冊も余分に売れやしないでしょ砂川さん。
宣伝の為だけにここに来たのでしょ?でもその宣伝効果すりゃありゃしないよ。
某所に得々と『私が騒いだら規制が解除された』とか書いちゃって…
大物を気取って気分よかった?ハタから見てるとあなたも有象無象の1人。小物ですよ?
あっちでもこっちでも宣伝に明け暮れてるけど、そろそろ量より質を考えたほうがいいんじゃないですかね?
381 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 19:53:17 ID:J66Jbm2X0
>>376の方へ。
ご親切なご指摘、大変ありがとうございます。
出版社や文部大臣宛の手紙は、証拠を残しておくべく、配達証明ないしは内容証明郵便にして
おります。
「執筆者と相談して検討したうえでご返事いたします」といった内容の出版社からの回答は、大切
にとってあります。
しかし、提訴したとしても、「訴えの利益なし」との理由で受理されないと思います。
また、学会は自分たちの権威を侵害するような話を受け入れるはずがありませんし、学者でも大学
の先生でもない者に耳を傾けるわけもありません。
学会とは、真理を追求する世界ではなく、自己保全を目的とする徹底的な閉鎖社会です。
382 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 21:15:57 ID:GULTkfzy0
>>379の方へ。
あなたは、論点をほとんど理解していないのではありませんか。
私は、1902年は渡良瀬川上流に洪水がなかったことから、栃木県や政府が谷中の遊水池化を決定し、
農民もまたこれに賛同したと主張しました。1903年刊の『ああ鉱毒論』(田川大吉郎著)に従ったもの
です。
これに対して、「洪水はあった」という異論が出されました。しかし、ではなぜ遊水池化が決定されたの
かの理由は説明されておらず、これでは全く反論になっておりません。したがって、これに対して私が
コメントするのは無用であり、どちらが正しいのかは読者にゆだねるべきだ、と判断したわけです。
お分かりでしょうか。
>>381に、「自己保身」とすべきところを、うっかり「自己保全」と書いてしまいました。訂正します。
>>382 あなたにとっての論点とは、自分に都合の よい話題という意味なんですね。
あれだけさんざん洪水はなかった、正造のでっちあげだとわめきちらして
おきながら、いざそこが嘘だとばれると論点ではないときたもんですか。
論点じゃないなら、「洪水はなかった」「正造のでっちあげだ」などとどうして
わめきちらしたんですか?
>>250のような、洪水がなかったって嘘を並べただけの発言を何故したんですか。
論点と関係ないことをわめきちらしたのはあなたのほうだということになるでは
ないですか。
で、1902年9月28日に渡良瀬川大洪水が 実際にあったわけですが、
洪水がないことを前提にしたあなたの主張は全部大嘘だと言っているわけです。
遊水池の話をしたいようですが、前提が嘘ならすべての結論は意味を失います。
私は、1902年に渡良瀬川大洪水はなかった、 などという大嘘つきの言う
ことを信じるな、と、他の方に警告しているだけです。
読者がどっちを信じるのかは勝手だというのなら、教科書会社も
文部科学大臣もどっちを信じるかは勝手ですね。
で、教科書会社も文部科学大臣も、あなたの言うことは信じなかった。ただ
それだけのことです。
そして彼らは、正しい判断をしたのです。
ここからは、その他の方へのご説明です。
実はこのお方の言うことはほとんど全部嘘なのですが、ひとつひとつの嘘を
いちいち指摘しきれない上に、(それほど膨大にある)今回のようにしばらっくれて
平気で違う話をこわれたテープレコーダーのようにわめきちらすので、今の段階
では指摘は「1902年渡良瀬川大洪水」の一点に絞っています。
スレを見返してもらえば分かりますが、「渡良瀬川の沿岸農民が、一体なんで
収穫物を買ってくれるお得意様である足尾銅山に閉山を求めたりするでしょうか。 」、
「「公害防止工事が鉱毒の除去に成功した」という調査委員会の結論は、岩波新書
の『田中正造』にも明記されています。」などと、大嘘のオンパレード状態です。
384 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 20:21:40 ID:WCUzzDUM0
教科書の話に戻りますが、桐原書店発行の高校教科書「新日本史B」にも、執筆者が何にも知
らずに書いていると思われる、こんな説明があります。
「足尾銅山は、1877年に京都の古河市兵衛の手に移ってからは、・・・産銅額は飛躍的に増加
していった。」
古河市兵衛は出身は京都ですが事業の本拠はほとんど東京ですから、「京都の古河市兵衛」は
明らかに間違っています。これでは、生徒の皆さんは、市兵衛は京都人だと思い込むでしょう。
執筆者は人物事典さえ引かないで書いたのでしょうが、日本史の先生はなぜこの程度のミスにも
気が付かないのでしょう。ずいぶん不勉強だということがわかります。
教科書会社も文部科学省もなぜ確認できなかったのか、これもまたなんとも不思議。あまりにも
非常識です。こんな実情では、教科書会社が沈黙してしまうのは当然ではありませんか。
で?
>>384 それで1902年の洪水の話はどうなるんですか。
都合の悪い話は論点じゃないで済ませられると
お思いですか?
日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。
※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
【土・日】21:00?24:00
http://www.ch-sakura.jp/index.html
もう学会か雑誌で発表すれば?
砂川さんの情報量はすごいけれど
残念ながら活かされていないんだな。きっと。
もったいない。
と読んで思いました。
390 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 20:37:40 ID:3k9wbZL90
桐原書店の「新日本史B」にはまた、次のようにも書かれています。
「1897(明治30)年、(政府は)ようやく<鉱毒予防命令>を出した。これに対し、政財界に
絶大な影響力を持つ古河は被害農民の一部を買収するなどして運動の切りくずしをはかった」
古河は、上の政府命令を受けて直ちに鉱毒予防工事を履行して完工しました。すでにその前に
被害農民への損害賠償金も支払っています。結果として被害民は救われたのです。
いったい何のために「運動の切りくずしをはかる」必要があるのでしょう。理屈が合わないでは
ありませんか。
この執筆者は、市兵衛に対する田中正造のさまざまな捏造話を本当と思い込んだのでしょうが、
こんなひどい嘘を、高等学校では平気で教えているのです。日本史の先生はよく考えてほしい
と思います。
>>390 それで、1902年9月28日の渡良瀬川大洪水は
どうなりましたか?
「この日に洪水が起きなかった」という前提でつくられた
遊水池論は、洪水が起きたのが事実である以上、無意味
です。
その前に、1902年9月28日に渡良瀬川大洪水がなかった
などと大嘘をついたことへの責任をとってもらわねばなり
ません。
洪水はなかったなどと大嘘をついたのは何故ですか?
392 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 20:54:44 ID:wyqCCX800
桐原書店の「新日本史B」には、もっと驚くべき記述があります。
「その後半生を足尾鉱毒事件に捧げた田中は、1913(大正2)年、<下野の国は大正2年
正月亡びたり>のことばを残して72歳の生涯を閉じる。死に際して、田中はその全財産を被
害農民の対策費として寄付した」
いったい、仕事をして生活費を稼ぐことは容易だったにもかかわらず全く職業につかず、農民
から頼まれもしないのに反国家権力の運動に没頭し、そのためのお金は親戚や人のいいお金
持ちに出させながら、それでも足りないからと、貧しい農民から借金して踏み倒していたこの人
が、いったい、どうして寄付などできるでしょう。
最近作られた正造を描いた記録映画は、「赤貧洗うがごとき」という題ではありませんか。
こうした嘘を暴露されれば、出版社は沈黙するしかなでしょう。ともあれ、一番の被害者はこんな
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 21:18:17 ID:X4GJYLDn0
寄付した事実はなかったのですか?
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 20:19:56 ID:7G3HRe3R0
山川出版社の高校教科書「日本史A」もまた、歴史教科書としては失格だと言うことが明白です。
次の記述を読んで考えてみてください。
「1880年代半ばから、渡良瀬川の水が青白色に変じたときは、必ず魚が浮かんで流れると
いわれるようになった。銅山から流れ込む亜硝酸などによる被害であった。」
川の水は、それ自体青ないし白ですから、「青白色に変じ」ても区別がつかないはずです。
足尾鉱毒事件の資料で、こんな現象が書かれたものも見たことがありません。
それに、「必ず魚が浮かんで流れるといわれるようになった」の、「いわれるようになった」は、
明らかに「確認できない事実」を示しています。こんなあやふやなことを、なぜ書くのでしょう。
「銅山から流れ込む亜硝酸などによる被害」とありますが、銅山で亜硝酸が排出することは、
専門家によれば、あり得ないそうです。
執筆者は、科学的知識なしに、いい加減なことを書いているのだとわかります。
なお、
>>392は、最後の1行「嘘を信じ込まされる高校教師や生徒たちです。」が抜けてしまい
ました。お詫びいたします。
395 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/05(木) 20:32:13 ID:RgEG6Lq10
であれば、亜硝酸ではなかったのかもしれませんね。
改訂するべきでしょうね。
川の色、魚については
>>394の内容ではいい加減かどうか
歴史教科書として失格かどうか全く判断つきませんけれど。
>>394 あんまりにもむちゃくちゃだから1902年渡良瀬川
大洪水とは違う話題だけど出てきてあげますよ。
渡良瀬川が氾濫するときの濁り方は、青白く濁る
「白ニゴリ」と、茶色く濁る「茶ニゴリ」、黒く濁る「黒
ニゴリ」があって、茶と黒は無害、白ニゴリだけが
有害な鉱毒です。
川の水は青いのだから青く濁るのなんかわからない
はずだとかいう主張は、もう、鉱毒がなんだか分かって
ない証拠にしかなりません。
鉱毒、すなわち硫酸銅の水溶液は、ちょうど青インク
のように、青色をしているのです。
そして、青インクを入れた瓶の向こう側に物を置けば、
向こう側の物の色が薄くなるので、それで「青白く」
濁っているのが分かるのです。
鉱毒もこれと同じで、青い、透明な水に、青白い硫酸銅
が混じることによってニゴリが目で見て分かります。
>足尾鉱毒事件の資料で、こんな現象が書かれたものも見たことがありません。
『百折不撓』とかを見ればいくらでもその手の話は
出てきますから読んでください。単にあなたが知らない
だけです。
あと、昨年完成した映画のタイトルは、正造の
「赤貧の洗ふが如き心もて」という文章からとったもの
で、心意気を書いた文章であって別に正造が貧乏だと
いう意味のタイトルの映画ではありません。
この文章もちゃんと正造の全集読んでいたならば
出てますよ。
って一応書いておいても、どうせ関係ないことをまた
またわめきちらすだけなんでしょうけどね。
でも亜硝酸はなんだか変ですね.... ほんとにそう書いて
あったのならそこは間違ってます。恐らく亜硫酸ガスか
亜砒酸を書き違えたのかもしれませんね。ただし、この
時代の鉱毒からは、亜砒酸は検出されていません
(1970年代に検出されました)。
ところで1902年渡良瀬川大洪水はどうしましょう。
田川の著書をよーく読み直しましたが、田川は洪水が
なかったなんて言ってないじゃないですか。
田川の文章まで捏造したのは何でですか?
追記。
田川の言及はこうです。
「?、昨年九月二十八日の風雨は関東に於る近年の大風雨で有った。而
して茨城栃木が最も多く被害を受けた。然るに渡良瀬の沿岸、所謂被害地の害は
それ程で無かったことは、当時世人が専ら日光大谷川の惨状のみを語ったことで
分って居る。」
つまり、田川は、大谷川が氾濫したって大騒ぎはしてたけど、渡良瀬川
の話はあまり聞かなかったから、きっとたいした洪水はなかったんだろう、
としか言ってないのです。
もちろんそれ自身も田川の嘘なのですが、「それ程で無かった」を、
「無かった」にしたどっかの誰かさんは大「大嘘つき」の称号を与え
られるべきでしょう。
田川の文章には、洪水がなかったという前提の妄想がえんえん並ぶ
のですが、もちろん、実際にかなり大規模な洪水があったので、
その田川の妄想を前提とした主張は全く無意味です。
398 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/06(金) 20:54:56 ID:MJqNr9Yv0
東京書籍の「日本史B」は、田中正造の行動を正当化するために、時間を勝手に動かして
完全な嘘を創作しています。いったい歴史を何と考えているのでしょう。以下の文章です。
「鉱山側も鉱毒予防の工事を行ったが、鉱毒による被害はじゅうぶんな解決をみることができ
なかったうえ、政府による遊水池造成はかえって被害の地域を拡大させたので、田中は生涯
をつうじてこの問題に取り組んだ」
遊水池が造成されたのは田中の死後です。「生涯をつうじてこの問題に取り組む」のは不可能
ではありませんか。それに「遊水池造成はかえって被害の地域を拡大させた」と言うことも、実
際上ありえませんから、これも作り話なのは明白です。
東京書籍は上記のことを執筆者に伝えたに違いありません。もしこちらが間違った指摘をしてい
たら、執筆者は猛烈に反発するはずです。しかし反論は何もありませんでした。
教科書の執筆者たちは、何が何でも田中正造の言動を正しいのだとするために、嘘の歴史を書
いていたことが、これではっきりしたと思います。
399 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 01:30:39 ID:NvILIcpG0
思ったのですが、スレ主が書いたと思われる内容に
反論、意見を書いた、たとえば
>>396にスレ主が無視を
決め込むのは
スレ主が出版社に投書した内容を出版社が取り合わないのと
同じ構図が見て取れるのですが。
そこでスレ主の言を借りれば
>>394の内容は
完全な嘘で創作でスレ主は何が何でも自説を正しいのだと
述べたいだけの内容、内容として失格であると言う事が
明白になったのだと思うのですが。
既出?
全部コピペなんじゃないの?
スレ主の目的は何なの?
同意、賛同して賞賛してもらいたいの?
402 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 21:08:23 ID:KOysCr8H0
中学や高校の教科書のとんでもない嘘偽りの原因は、田中正造を反公害運動の英雄として持
ち上げた学者たちが、歴史的事実を無視したり隠蔽したりして、学問から逸脱するような話を
でっち上げたことにあります。教科書の執筆者は、権威ある学者には抵抗しないからです。
公害学者として世界的な名声を博し、東京大学の助手から沖縄大学法経学部教授として迎えら
れた宇井純は、同大学に在籍中の2002年、『岩波講座 環境経済・政策学 第2巻』に、次のよう
に書きました。
「日本政府は、強力な鉱山保護政策をとり、農民の被害の声を圧殺した。不世出の政治家・田中
正造の下の結集した農民は、粘り強い陳情運動を繰り返したが、結局その運動は中央政府の弾
圧に敗北した。」
『田中正造全集』の別巻にある「年表」の明治36年10月のところには、「被害農地の稲豊作」と書
いてあります。日本政府が加害企業の古河に命じた鉱毒予防工事によって、農地が回復し、農民
が救われたのは、学問的には否定し得ない事実です。
つまり、陳情運動が功を奏して「稲が豊作」になったのです。なぜ正反対の「政府の弾圧に農民が
敗北した」という結論が出るのでしょう。田中正造がなぜ「不世出の政治家」なのでしょう。
>>402 >いてあります。日本政府が加害企業の古河に命じた鉱毒予防工事によって、農地が回復し、農民
が救われたのは、学問的には否定し得ない事実です。
何度も言ってますが、1903年の豊作は前年9月28日の
渡良瀬川大洪水によって土砂が田畑に流入したこと
が豊作の主原因であるという主張を覆すものではあり
ません。
実際に洪水はあったし、多量の土砂が田畑に流れ込んだ
という言及も1902年の時点で農民側から出ています。
何度も指摘しているのに、大嘘をつき続けるのは何で
ですか?
洪水はなかった。だから泥は田畑に流れ込まなかった、
豊作になったのは予防工事のおかげだって主張でしたよ
ね。その主張は「洪水があった」という事実によって無効に
なりました。
それに、それまでに田畑にたまった鉱毒は何で予防工事で
消え去ったりするんですか? 鉱毒成分は不揮発性
ってのは当時の調査会資料とかにもありますよね。
田んぼにたまった鉱毒が、足尾でしかやってない予防
工事で消滅する理由を挙げてください。
あと、田川の言及さえも捏造したのは何でですか。
それもまた論点じゃないとかいって逃げるおつもりですか?
まるで田川が「洪水はなかった」って言い切ったような言い方を
したじゃないですか。ところが田川は被害地を見もせずに、
きっとそうだったに違いないとかいう自身に都合のいい推測を
したに過ぎません。そしてその推測は間違っていました。
105年前の久野村の住民たちの行動がそれを証明しています。
このスレ主がとんでもないシグルイだということは、よく分かった。
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/10(火) 21:26:41 ID:GIEc+jUH0
宇井純は、「日本政府が農民の被害の声を圧殺した」のではなくて、「被害の声を」受け入れて
異例の対策を立てたことも、古河市兵衛が誠実な対応をした事実もよく知っていました。
彼が東京大学の助手だったとき、自主講座の「公害原論」で、政府が命じた鉱毒予防工事に関
して、「政府が企業に対して厳しい態度をとった唯一の例だろうと思います。」と話し、工事がいか
に大変だったかについて、次のように講義で語っているのです。
「これを受けまして、市兵衛の方も覚悟を決めまして、6ヶ月以内に工事を全部完了します。ここに
投資された金額とエネルギーは莫大なものであって、関東一円のレンガとわらじの値段が上がっ
たと言う話が残っているほどです。つまり、資材をかたっぱしから買いつけて工事をやったんでし
て、1964年の東京オリンピックぐらいの騒動が、足尾であったと考えていいんじゃないか。」(『公害
原論・T』、亜紀書房、1971年)
宇井は、自分がしゃべったことさえ押し隠し、全集に明記された事実まで無視して、学問とは無縁の
政治的で偏向した、主観的な発言をしているのです。
>>405 それであなたは、自分自身が1902年9月28日に
渡良瀬川大洪水などなかったと大嘘を
ついたことをよく知っているはずですがね。
それに、工事がどれくらい大変だったとしても、
効果がなければ無意味です。
宇井は大変な工事をやったとは言っていても、
工事に大層効果があったとは言っていないでは
ないですか。
もちろんまるで効果がなかったとは言いませんが、
(宇井もそうは言ってはいないでしょう)
予防令の工事で鉱毒が完全に消滅したかのような
できの悪い冗談はやめてください。
それで、田川の言及はどうしますか。
田川は1902年9月28日に渡良瀬川大洪水が
なかったなどと言っていませんよ。
砂川テスト
スレストできないの?
一方的な発言ばっかりで、スレ主以外の人の質問に答えてないじゃん。
409 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/11(水) 21:38:49 ID:VzVSoC4F0
何かを確かめようと思ったとき、たいがいの人は事(辞)典を引きます。ここには間違いなく本当の
ことが書いてあると思うからです。信用度がきわめて高い書籍と言うことができます。
実は、足尾鉱毒事件について調べようと思って事典に当たってみると、なぜか、菅井益郎と言う人の
解説文にぶつかります。
平凡社の『世界大百科事典』、小学館の『日本大百科全書』、同社の『日本歴史大事典』は、いずれも
彼が「足尾銅山鉱毒事件」を説明しています。「日本における経済発展と公害」を研究テーマとしている
(小学館による)この学者が、前述した宇井純の次の世代の学者と目されているようです。
彼はこれらの日本の代表的な事典に、この事件をいったいどのように説明しているでしょうか。実は、
宇井純同様、歴史的事実を極めて主観的にとらえた解説をしているのです。
小・中・高の教科書の嘘・偽りの記述は、明らかに菅井等の学説に準じていることがわかります。
>>409 それで、1902年9月28日の渡良瀬川大洪水の
話はどうなりましたか?
実際に洪水はあったし、多量の土砂が田畑に
流れ込んだし、それは当時の記述で分かるし、
田川は洪水がなかったなんて言ってないんです
が、どうしてそんな大嘘をつき続けるのですか?
菅井がどうこうとかいう言い方をしても、大嘘つき
の言うことなんか誰も信じませんよ。
あなたは自身が大嘘つきだという指摘には反論
していませんよね。
だからあなたは嘘つきです。そして、あなたの
すべての言及は嘘とみなされると思ってください。
反論してないんだから承認したと思っていいん
ですよね。そう言ったのはあなたでしたよね。
>>408 スレストするとこの方は「言論弾圧だ!」とか
わめきだすのでそうしないほうがいいかもしれません。
もっとも、放っておいてもあと600レス後くらいに同じ騒ぎ方を
するんじゃないですかね。
世の中には駄目な奴が居たもんだ。
辞書や教科書以外に見つめ直した方が良い物が沢山有るな、この既知外には。
見つめ直さないからこうなんだろうが。
413 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 20:04:13 ID:S/SvMe6K0
小学館の『日本歴史大事典』で、菅井益郎は、事実を無視して政府と古河鉱業を次のように批判して
います。
「予防工事は技術的にも不完全だったので被害は続き、被害民は翌1898(明治31)年も押し出しを
行うが効果なく、ついに1900年3月に4度目の押し出しを決行した。利根川河畔で官憲は農民に襲い
かかり、主な活動家100余名を逮捕した(川俣事件)」
予防工事が施されたのは1897年の秋で、3度目の押し出しと言うのが1年後の秋です。いったい
わずか1年で畑が元にも戻るものでしょうか。
不備な点もあったため、古川鉱業はその後2回補修工事を施していますし、被害が4,5年続いたと
しても、工事以前の鉱毒は残留しているので、それはやむをえなかったといえます。
したがって、4度目の押し出しを政府が規制したことに、批判すべき根拠はありません。前述のように、
工事の6年後、1903年の秋には「被害農地の稲は豊作」になっているのです。
>>413 鉱毒は5年や10年じゃ田んぼからはなくなりませんよ。
4回目の押出しは、予防工事の2年後です。鉱毒被害は
まだ続いている時代のその押出しを弾圧したからこそ、
歴史教科書にも載るんでしょう。だいたい、政府が「政府
が民衆を弾圧した」って文を教科書に載せさせるのを
認めてるくらいなんだから大層な事件だったのです。
1903年の豊作は、1902年9月28日の大洪水で田んぼに
新しい泥がかぶったからで、別に予防令工事のためでは
ありません。
まあ多少は予防令工事で新しく流れてくる鉱毒の量は
減ったかもしれませんが、田んぼにたまった鉱毒は
予防令工事では減りません。
古河が田んぼの鉱毒汚染土を除去したってのなら話は
別ですけどね。そんな工事をこの時代にやったという話は
聞きませんな。
洪水で新しい泥が混ざれば、当然、土中の銅濃度は減る。
で、今まで不作だった土地でも作物が実る。これが1903年
の豊作の原因です。だいたいそういう文言は、あなたの大好き
な鉱毒調査会報告にしっかり書いてありますよ。「汚染された
田畑には、新しい土を入れてかきまぜろ」って。
そうでないというのなら、1902年に渡良瀬川大洪水が起きず、
新しい泥が田んぼに流れこまなかったというのを証明して
いただかねくてはなりませんな。もちろん、泥とは無関係に、
鉱毒成分が田んぼから消滅する理由を挙げていただいても
結構ですが、鉱毒はそんな都合のよい消え方はしません。
ところで未だにあなたの大嘘に対するお答えがありません。
1902年9月28日に渡良瀬川大洪水はなかったなどという
大嘘をついたのは何故ですか? 田川の文を捏造したのは
何故ですか?
大嘘つきがいくらわめいても、誰も正しいとは思いませんよ。
こういう出鱈目な奴がもっともらしい事を吹聴するのを放置出来ないのは良く解るが、
余りにも徒労に過ぎなくないか?
こんな奴の言う事、誰も相手にしないだろ?
たまに出鱈目を指摘してやれば。
416 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/13(金) 20:24:21 ID:x9moIdWQ0
同じ小学館の『日本百科全書』に、菅井益郎は、明治政府が、上流沿岸民への洪水対策として、渡良
瀬川の下流の谷中村一帯を遊水池にする案を決定したことに、次のごとく批判する歴史解説を行って
います。
「(政府は)日露戦争下、鉱毒問題を治水問題へとすりかえる中で、農民を分断し、1907年、谷中村の
廃村、遊水池化を強行した」
明治36年6月に、明治政府は、「予防工事以降は汚染物質がわずかしか流出していない」旨の調査
結果を発表しました。つまり、鉱毒の流出が止まったことを政府が確認したわけです。そこで、次に
上流の沿岸の洪水防止対策として谷中の遊水池化を決めたのです。だから「鉱毒問題を治水問題へ
とすりかえた」は、根拠のない解釈です。上流の農民もこの計画に賛同しました。「農民を分断し」た
と言う事実は当然あり得ませんし、上流の農民も、谷中の農民の運動は支援していません。
菅井が、田中正造の立場からのみ主観的な歴史を語っていることを、理解できると思います。
砂川さん砂川さん!!
相手の主張に回答しないとその主張を認めちゃう事になっちゃうよ!
>>416 足利鉱毒救済会の荻野県議の言動はどうするんですか。
荻野は県議会で谷中村遊水池化案に反対しましたよ。
>明治36年6月に、明治政府は、「予防工事以降は汚染物質がわずかしか流出していない」旨の調査
>結果を発表しました。つまり、鉱毒の流出が止まったことを政府が確認したわけです。そこで、次に
鉱毒成分はいったん土壌にたまると、不揮発性なのでその場にずっと
留まり続けます。だから、ほんのわずかでも鉱毒が流れ続ければ、
土壌の銅濃度は数十年かけてどんどん上昇し、最終的には耕作不適地
となります。
だいたい、調査会の発表は「わずかしか流出していない」でしょう。
あなたの文章では「鉱毒の流出が止まったことを政府が確認したわけです。」
になってますが、こんな子どもだましの大嘘をつくのは何でですか?
「汚染物質がわずかしか流出していない」と「鉱毒の流出が止まった」は、
日本語では全く意味が違いますよ。
>>415 はい。もちろん分かってます。
複雑な事実より分かりやすい嘘を簡単に信じてしまう人、言い方を変えれば
嘘を嘘と見抜けないお馬鹿さんがたくさんいるので、そういう方々がうっかり
嘘を信じることがないよう、わざわざ警告しているのです。
どちらを信じるのかは読者が判断すればよいそうなので、信じるための判断
材料を提供しているという言い方もできますね。
ところで鉱山学者に聞いたそうですが、その鉱山学者は鉱毒成分は5年や10年
では土壌から消滅したりしないとか、そういう肝心なことはちっとも教えてくれな
かったんでしょうかね?
せめて白ニゴリの正体くらい、鉱山学者なら誰でも説明してくれると思いますが
ね。
420 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 01:20:33 ID:AM3UagXw0
もうどっちが砂川なんだか分からなくなってきたw
どっちかトリ付けてくれw
下げないのが砂さんw
島根県のみなさん、パチンコをするなら、
優良パチンコ店 エイトワン
に行こう! 遠隔(※1)を絶対やってないのは「エイトワン」だけ!
違法ロム(※2)を絶対使ってないのも「エイトワン」だけ!
エイトワンでは、遠隔等が可能な設備は入れていません。 ロムも、警察がチェックしやすいようにしています。
詳しい方はご存知の通り、どんなにパチンコの遊戯人口が変動しても、その市場規模は変わりません(※3)。
要するに、客が減っても、残った客から絞り盗る量を増やして調整しているのです。
しかし、何故それが可能なのか?…ご理解頂けると思いますが、ほとんどの店が遠隔等を行っているからです。
遠隔も違法ロムも、絶対やってないのは「エイトワン」だけです!
※1…遠隔とは
「お、あの客は新顔だな。勝たせて味を占めさせるか。遠隔操作で設定変更しよ」
「客が減ってきたな。ま、設定を絞めて(1人あたりから)搾る量を増やせばいいか」
「あのオヤジ負け続けてるからそろそろ辞めるかもな。今日は勝たせてやるか」
※2…違法ロムとは
「うちのアタリ確率は、もちろん他と同じ『○○○分の1』ですよ!(ロムいじってるからウソだけど)」
※3 市場規模 遊戯人口
平成06年 30兆4,780億円 2,930万人
平成08年 30兆0,630億円 2,760万人
平成10年 28兆0,570億円 1,980万人
平成12年 28兆6,970億円 2,020万人
平成14年 29兆2,250億円 2,170万人
平成16年 29兆4,860億円 1,790万人
423 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/16(月) 20:44:17 ID:WKqFyJzZ0
「1902年は渡良瀬川上流に洪水がなかった」と主張したことについて、気になったので確認してみた
ところ、『直訴は必要だったか』に私自身が次のように書いていました(161頁)。
「(この年)9月28日に関東では近年にないほどの大風雨があり、茨城、栃木の両県は大きな被害を
受けた。ところが渡良瀬川の沿岸の鉱毒被害はそれほどでもなかった。理由は、それ以前の雨で崩
れたままだった谷中方面の堤防から洪水が谷中村一帯に流れ込み、そのおかげで上流の桐生や足
利方面は案外水嵩が増さず、その下流の海老瀬村辺も例年のようには停滞せず、大氾濫がなくて済
んだのである。そこで沿岸農民たちは、谷中に偶然できた遊水池の効果を知り、栃木県も遊水池設
定を計画したと言うわけである」(田川大吉郎著『嗚呼鉱毒論』)
この掲示板に思い込みで間違ったことを書いてしまいました。誠に申し訳なく、深くお詫びいたします。
したがって、「谷中の遊水池化の根拠は、1902年は渡良瀬川上流の洪水が少なかったから」、という
コメントに変えさせていただきます。
424 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/17(火) 21:45:50 ID:3Dnl7/yn0
>>416からのつづきです。
菅井は『日本大百科全書』で、「天産豊かな谷中村は、明治政府のとった(中略)富国強兵、殖産興業
政策の犠牲に供せられたのである」と断言するのみならず、『日本歴史大事典』には、何と次のように
解説しています。
「1958(昭和33)年、源五郎沢堆積場が決壊して群馬県太田市毛里田地区などの農地を汚染。鉱毒問
題が再燃した。足尾山地のはげ山と渡良瀬遊水池は、<百年公害>の実態を今に伝えている」
明治以来、鉄道や道路やダムの建設のために、全国各地の無数の村落が立ち退きを余儀なくされまし
た。谷中村だけが日本経済の発展の犠牲になったわけではありません。しかも、殖産興業政策は日本
国民の総意でしたし、その結果、日本は世界で1,2の経済大国になったではありませんか。
明治時代に発生した事件を、なぜ60年後に起きた別の公害問題に結びつけ、<百年公害>などと敢え
て名づけるのでしょう。この学者は、何がなんでも明治政府と古河鉱業を悪と決め付けたいようです。
しかし、一つの「事件」が100年も続くことはありません。「事件」という日本語には、百年も連続する概念
などふくまれていないのです。
>>424 妄想で勝手な放言をしたあなたよりは菅井のほうが信用
できると思いますがね。
自分の本を見返すのに何ヶ月かかってるんですか?
それとももうろくしましたか?
明治期にうやむやな幕引きをせずに、まともな対策を立てて
いれば、源五郎沢堆積場の決壊は防げた、菅井の主張は
そういうことでしょう。
で、1902年9月28日の大洪水はどうしますか。
未だにたいした洪水はなかったなどという、田川の
妄想にしがみつくのは何でですか?
正造の「正しい」指摘を大嘘とかわめきちらしたくせに、
証拠もない田川の言及が正しいなんてどうして言える
んですか?
実際にはこの日には大洪水があって、多量の土砂が
田畑に流れ込んでいるのです。翌月には久野村から
大量の土砂が田畑に流れ込んだって文書が出てるん
ですよ。
たいした洪水はなかったなどという大嘘をつき続ける
のは何でですか?
1903年の豊作は、1902年9月28日大洪水で土砂が
田畑に流れ込んで、銅濃度が減少したためでたす。
足尾でしかやっていない鉱毒予防工事で、下流の
田畑の銅濃度が減るなどということはありえません。
鉱毒成分は不揮発性で、土壌にたまり続け、しかも、
分解して消滅することもないのです。
これがアンモニアとかだったら、微生物分解で次第に
濃度が減るってのもあり得るでしょうけどね。銅は
元素なので分解できません。何らかの薬品を土壌に
混ぜて銅分を遊離させて下流に流すか、あるいは
土砂ごと除去しない限り、ずっと土壌にたまり続けます。
薬品とかで効果のあるものというと石灰くらいですね。
価格的にも。実際にこの時代から田畑に石灰はまいて
ますけど、焼け石に水程度の効果しかなかったし、
別に古河が予防令工事で自身の金を注ぎ込んで下流の
田畑に石灰をまいたわけでもありません。
そんなのも「専門家」に聞けば教えてくれるんじゃないん
ですか? あなたのお知り合いの「専門家」とやらは、
亜硝酸のことは分かっても、白ニゴリの正体や土壌から
鉱毒が自然に消滅することはない、という基本的なこと
すら教えてくれない、いや、教えられない程度の「専門家」
ですか?
そんな専門家の言うことは聞かないほうがマシみたい
ですよ。もうちょっとマシな人を選ぶことをおすすめし
ます。
都合のよいことが書いてある文献は、どんなでたらめ
が書いてあるものでもすぐに飛びつくくせに、
都合の悪いことが書いてある「足利市史」を未だに
開こうとしないのは何でですか?
鉱毒調査会が鉱毒がなくなったなどと報告した、とかいう
大嘘をつき続けるのは何でですか?
調査会報告は「鉱毒は減った」でしょう。慎重に読めば、
なくなったなどとはどこにも書いてない。
いずれにしてもあなたは妄想でものを言う人間だという
ことをご自身で宣言なされたのですから、それ以外の
ご自身の主張が妄想でないという根拠を提示してください。
>>425 追記。
石灰をまいても銅濃度が減るわけではありません。
そういうふうにも読まれそうなので訂正しておきます。
土壌に石灰を入れるのは、銅以外の鉱毒成分の1つ、
硫酸の毒性を減らす(酸性に偏った土壌を、中性に
戻す)ためです。
>>424の中での倒錯を指摘するだけで充分じゃね?
こいつ、まともな思考回路を持ち合わせてないのが一目瞭然だぞ?
>谷中村だけが日本経済の発展の犠牲になったわけではありません
通常、そのように読み取らないと思います。
>1958(昭和33)年
これは足尾とは関連しないのですか?
>事件
事件という単語を引用されてないようですが。
429 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/18(水) 21:17:42 ID:ibgUYFrA0
平凡社の『世界大百科事典』では、菅井は小学館の事典以上のごまかし解説を展開します。以下の文を
注意深く読んでみてください。
「政府は、古河に鉱毒予防工事命令を下し、農民には1898年に地租の減免措置をとった。だが予防工
事はきわめて不完全なまま認可され、煙害の被害地である上流の松木村は、1901年ついに全村移転し
消滅した」
つまり、国学院大学教授菅井益郎は、渡良瀬川沿岸の農地が予防工事で復旧した事実は全く無視して
読者に知らせず、代わりに製錬所から出る亜硫酸ガスによる、当時の技術水準では不可能だった煙害
を持ち出して、立退き料で移転したわずか40戸の松木村が「消滅した」と書いて、明治政府や古河鉱業が
公害対策を怠ったごとく、嘘の説明をしているわけです。
明らかに虚偽とごまかしです。何と言う汚い手を使うのでしょう。
明治時代は、政府も加害企業も、昭和40年代と違って公害への取り組みはとても真面目でした。しかし
彼はそういう歴史的事実を全く無視し、政府や会社は昔から悪だったといっているわけです。
>>429 「(同年8月刊の荒畑寒村《谷中村滅亡史》は即日発禁とされた)。」
世界大百科事典の「足尾鉱毒事件」の文でも、こういう自身に都合の悪い文は
見て見ないふりをするんですよね。
荒畑寒村の本を即日発禁にする政府が、どうして誠実な対応をとったなどと
言えるのでしょう?
ついでに書くと、このほかにも「足尾之鉱毒」創刊号とかが発禁になってます。
明治政府は被害民の言論すら弾圧したのです。
発禁本が1冊でも出れば、被害民はおびえて大きな声を出さなくなる。明治政府
の目的はまさにそれです。口封じのために発禁という手段を使ったのです。
だから、鉱毒がなかったり減ったりしたかのような報道があったとしても、それは
文字通りには受け取れないそういう時代です。だって、「鉱毒で大変だ」って書いた
ら発禁にされちゃうかもしれないし、捕まっちゃうかもしれないんですからね。
政府が素晴らしく不誠実な対応をとったからこそ、政府が「政府が民衆を弾圧
した」と教科書に書くことを認めたのです。
発禁が弾圧でなくて何が弾圧だというのでしょう? 大阪書籍の「弾圧した」は、
別に川俣事件だけを指しているわけではないでしょう。
予防令工事で農地が復旧したと書かないのは、予防令工事で農地が回復した
わけではないからですよ。
菅井はあなたのような大嘘つきではないので、予防令工事で農地が回復した
などという嘘は書かないのです。
どうして足尾でしかやってない予防令工事で、下流の農地が回復するんですか?
その原理を教えてください。さんざん言ってるじゃないですか。鉱毒成分は不揮発性
です。土壌にたまって留まり続けます。何十年経っても検出されます。
足尾でやった工事は、新たな鉱毒成分の流出を減少させるだけで、下流の農地に
たまった鉱毒を減らす工事ではありません。
それこそ、「専門家」とやらに聞いてみるべきことじゃないんですか? もっとも、
たいした専門家じゃなさそうですがね。
ところで1902年9月28日にたいした洪水はなかったなどという大嘘をつき続ける
のは何故ですか? 実際にはこの日は大変な大洪水があったのです。
久野村から出た文書がそれを証明してくれます。ほんとはもっと山のように証拠
文献があるのですが、わざわざここで披露するほどのことでもないでしょう。
そしてこの洪水こそが、農地の回復が予防令工事のおかげではないことを証明
するものなのです。
それともう一つ。あなたは自身で、妄想で物を言う人間だと宣言したのですから、
ただわめきちらすだけではなくそれが妄想でない証拠を挙げないと誰も信用
しませんよ。
田川の著書どころか、自分の著書ですらろくに読まずに「正造の大嘘」とか
わめきちらしたんですからね。自分でそう言ったんですからね。
>>428 この方がまともに答えるとは思いませんので事実として分かるところだけ
説明いたします。
> >1958(昭和33)年
>
> これは足尾とは関連しないのですか?
関係します。
足尾銅山で掘った銅鉱石のクズをためる堆積場が、足尾町の渡良瀬川の脇に
あって、そこで大規模な崩壊が起きたという事件です。
足尾銅山で掘った石が足尾にある足尾銅山の施設から流出した、という、まさに
何もかも足尾銅山に起因する事件です。
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/19(木) 21:33:51 ID:b7ixD3bH0
足尾鉱毒事件に関しては、百科事典に限らず、日本歴史の事(辞)典類は、菅井益郎の説明は実を言
えばまだましな方で、ほとんどは本当にいい加減です。
たとえば、丸善の『大百科』は、「(直訴により)社会的注目が集まり、政府は1902年鉱毒調査会を設置
し、予防工事が実施されたが、鉱毒被害は解消されず・・・」と説明しており、5年前に同じ委員会が設置
され、工事がすでに実施されていると言う肝腎な事実を、完全にネグってしまっています。
また、朝倉書店の『日本史事典』は、「この動き(1901年の正造の直訴とその反響)の中で、1897年に
鉱毒調査会を設置し、鉱主に対して鉱毒除去の工事を命じたが効果なく・・・」と、時間を平気で4年前に
戻しています。きっと自分でも何を言っているか判らないのでしょう。
こういういい加減さ、デタラメを放置してはいけないと思ったので、発行元の小学館、角川、河出、朝倉、
丸善、創元社、吉川弘文館、旺文社、講談社などに、それぞれ間違いを指摘する文書を送りました。
『直訴は必要だったか』を出す2年前の2002年5月のことです。
古河市兵衛の伝記を書く過程で加害者の対応を知り、新聞社に訴えられたお陰で被害者の反対運動
も調べたので、大概のことは間違っていないという自信はありましたが、案の定、どの出版社も返事を
するのはまずいと思ったのでしょう、無視するという態度に出ました。
>>432 >>423で
>この掲示板に思い込みで間違ったことを書いてしまいました。誠に申し訳なく、深くお詫びいたします。
とか書いている張本人が
> 大概のことは間違っていないという自信はありましたが
などと言ってのけられるのは何でですか?
あなたの言及はたいがいのことが間違っているのです。
まともな人間や出版社は、誰もあなたを信用しませんよ。
朝倉書店の本とかの指摘部分はどうも間違っているように見えますが、
何しろ、世界大百科事典の「足尾鉱毒事件」の項目にちゃんと政府が言論弾圧
したことが書いてあるのをわざとしらばっくれて都合のよいように抜き出して
文句をつけている人物の引用ですからね。恣意的な引用じゃないと確認
できないのでその点については保留しときます。
ところで、1902年9月28日の渡良瀬川大洪水はどうしましょう。
田川はこの時期ろくに被害地に見にも行っていないし、著書にある現地リポート
も皆、知人の誰かが送ってくれたどうこうとかいう適当な中身です。
洪水が少なかったとかいう主張も、別に見に行ったり現地リポートを元にした
わけじゃなくて、「自分が報道をあまり見なかったから」とかいう適当な(そして
自身に都合のよい)理由をこじつけているに過ぎません。
佐野足利には鉄道が通っているんだから、遠くて見にいけなかったとかいう
言い訳も通用しません。
足尾には行ってるくせに何でなんでしょうね。この人のやり方は。足尾は見に
いくくせに、被害地は自分では確認しようともしないのは、まるで、1世紀後の大嘘
つきの誰かさんとそっくりですね。
ただ、一応言っておくと、こんな人でも、当時の批判としては一番まともだったの
です。控えめに言っても、田川の主張どおりの対応がとられていたら、被害地は
もうちょっとマシなことになっていたかもしれません。田川は、毒土除去を古河の
負担でやるべきだ、遊水池を作るときは、鉱毒被害が起きる前の地価で買い上げる
べきだ、と主張しました。もちろん、古河も明治政府もそんなことは一切しません
でした。
434 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 21:08:47 ID:TzS5oQYN0
>>430 「1902年の洪水こそ、農地の回復が予防工事のせいでない証拠」と言う理由は何ですか?
>>431 「1958年の事件は足尾銅山に起因しない」 と誰が言ったのですか?
>>432の続き。しかし、他の出版社と違って、小学館出版局の事典を担当する編集部だけは、丁寧な
返事をくれました(2002年6月12日)。その内容を引用すれば以下の通りです。
「ご執筆いただいた菅井先生へあなた様の書簡を同封したお手紙をお出しし、見解を求めましたが、別
紙のような返事をいただきました。菅井先生のお話では、そのまま使ってもらっても結構、とのことでした
ので、手を加えることをせず同封いたします。編集部としては、あなた様のご指摘は確かに承りました、と
申し上げるばかりでございます」
>>434 1902年には洪水が起きたことはなく、従って田畑に泥がかぶったこともない。
どちらも田中正造の大嘘だって言ったのはあなたです。もちろん、大嘘つきは
正造ではなくて、田川とあなたのほうでしたが。
田畑に泥が流れ込んでいないんだから、豊作は予防令工事のおかげだ、
って主張したのはあなたですよ。
ところが、実際に洪水はあった。それも相当に大規模なものが。そこで、
あなたの主張の前提「泥が流れ込んだのは大嘘」というのは崩れ去った
のです。
ならば、新たな理由を見つけなければならないのはあなたのほうです。
私はあなたの主張は前提が大嘘なのだから、結論も大嘘だ、と述べている
だけです。
実際に田畑に泥が流れこんだのだから、豊作の理由は泥の流入によって
土壌の銅濃度が低下したことによるものです。
では、私の主張が大嘘だという証拠でも出してもらいますかね。
一応書いておくと、「鉱毒汚染地には新しい泥を入れてかきまぜろ」ってのは、
豊作になる前に鉱毒調査会自身が言っている対処法です。私の妄想ではあり
ません。私はあなたと違って、妄想でそういうものの言い方はしませんので。
それとも「5年待てば鉱毒は消滅するはずだからしばらく待っていろ」って調査会
報告でもあるんですか? そんなのありませんよ。
もし、5年で本当に農地が回復するのなら、調査会だってあれこれいろんな
工事を提案する前に、農家に5年分の休業補償をするとか、そういう対処法の
提案だってするはずです。でも、調査会がそんな提案をしたというのも聞きま
せんね。調査会報告にそんな表現が一言もないのが、あなたの「予防令工事
で農地が回復した」が大嘘であるもう1つの証拠です。
繰り返して書きますが、鉱毒が5年やそこらで土壌から自動的に消滅するなど
というのはあなたの妄想です。当時のどえらい学者も言ってませんし、
権威ある大嘘つきで民衆を弾圧した明治政府も言ってません。そして、事実、
5年や10年で鉱毒は農地から消えませんでした。
渡良瀬遊水地の土壌からは、未だに環境基準を超える銅が局地的に検出され
ます。
ところで、発禁本「足尾之鉱毒」創刊号はどうしますかね。
確か、発行者はショックのあまり、その後、鉱毒反対運動に全くかかわらなく
なってしまいました。
明治政府は言論弾圧をすることによって、運動の弱体化を図ったのです。
そんな政府が誠実なわけないでしょう。そして、後の時代になってようやく、
政府は「政府が民衆を弾圧した」ことを認めるわけです。
明治政府が誠実な対応をしたなどというのは大嘘です。
源五郎沢堆積場の話については、
私はあなたが「足尾銅山と関係ない」って書いたとは言ってませんが。
それに、誰かがそんなことを言ったとも言ってないんですが。
どこをどう読めばそういう意味になるのか教えてください。
ところであなたは428氏への回答をしていないようですが、いつなされる
つもりですか?
そうそう。未だに1902年9月28日には渡良瀬川にはたいした洪水はなかった
みたいな大嘘をついているようですが、いつになったら「足利市史」を開かれる
つもりですか?
足利市史を開かれたら、市史以外の「大洪水があった」証拠文献を提示して
あげますので、さっさと開いてください。
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/23(月) 20:54:19 ID:xr9PFp4d0
小学館宛の菅井益郎の手紙には、次のようなことが書かれていました。これについては、私がコメント
しないことにしますので、皆さんが自分で是非を判断し、できれば感想を寄せてください。
「この手紙を読む限り、この人は鉱毒被害についてほとんど調査したことがないのではないか、また、公
害の特質・問題点を理解していないのではないかと思われます。公害は加害者側からではなく被害者側
から見なくては肝腎なことは何も見えないのであり、そのことはこの手紙の文面からもわかります」
「今でも鉱毒被害の続く太田市の毛里田地区に行って鉱毒根絶同盟会の人たちに対して、古河は明治
30年段階で鉱毒対策を完全にやった、などといったらきびしく問われるでしょう」
「どうも彼は、<古河市兵衛翁伝>や古河鉱業の<操業100年史>など、古河関係の書の記述だけを
信用しているようですが、これでは公害の本質は理解できないでしょう。手紙には歴史研究における<客
観的事実の把握の重要性>が書かれていますが、もう少し調べてから批判を書いてほしいものです」
なお、注釈を加えれば、被害者側には田中正造の方針に従った人たちと、彼らと対立していた人たちがい
ました。
>>436 足利鉱毒救済会委員長でもある荻野萬太郎県議は、
田中正造派ではなく、対立する木村半兵衛派でした。
その荻野ですら、谷中村遊水池化案に反対しているのです。
(ただし、荻野は、足利鉱毒救済会の演説会で、田中正造を弁士として
呼んではいます。正造の都合で当日キャンセルになりましたが)
「この人は鉱毒被害についてほとんど調査したことがないのではないか、」
菅井の言うとおりだと思います。
ところで、1902年9月28日の渡良瀬川大洪水についてはどうしましょう。
未だにたいした洪水はなかったとか言っているようですが、
1902年、つまり、田中正造が豊作は洪水で土砂が流れこんだせいだ、
と言い出す1年も前に、足利郡から、「田んぼに泥かぶった」って文書が
複数出ていますが。
未だに「たいした洪水はなかった」などという大嘘をつき続けるつもりですか?
438 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/24(火) 19:46:52 ID:TQeqhA3/0
>>435に、私の質問への回答が次のように書かれています。
「(1903年の)豊作の理由は、(予防工事のせいではなく、1902年の洪水による)泥の流入によって土壌
の銅濃度が低下したためだ」
この主張が自分の首を締め付けていることに気づいていないとは・・・。全く驚くほかありません。
1898年ごろまでは、渡良瀬川沿岸の農地は、洪水のたびごとに鉱毒に汚染されました。川の中に溜
まっていた鉱毒を含む泥が農地に流入したためです。
ところが彼は、1902年の洪水ではにその泥が農地に含まれていた鉱毒を薄めたのだ、だから、豊作
は予防工事のせいではないと、反対のことを言っているわけです。
本当は、銅山から出るすべての排出物を渡良瀬川に流れ込まないようにした予防工事の効果で、川の中
に鉱毒がなくなったため、1902年の洪水は流出した泥が農地を汚染せず、翌年は豊作になったのです。
洪水を原因とする彼の豊作説は、山崩れの土が被害農地を覆ったという田中正造の豊作説とも対立します。
正造説は、洪水があってその泥水が農地に流入したら成り立たないからです(私の思い違いはこの正造説
に起因します)。つまり、彼は正造の主張まで否定しているわけです。
そもそも、前年の1901年10月の段階で、朝日新聞や万朝報は被害農地が回復し始めたことを報道してい
ます。この現象については彼はどう説明するでしょう。たぶん、新聞はウソを書いたと言うつもりでしょう。
彼は、「洪水はあった。お前は嘘をついている」と言い続けることで、「予防工事が成功した」事実を宣伝し続
けていたわけです。なんてお馬鹿さんなのでしょう。
>>438 >彼は、「洪水はあった。お前は嘘をついている」と言い続けることで、「予防工事が成功した」事実を宣伝し続
けていたわけです。なんてお馬鹿さんなのでしょう。
死ぬほど素朴な突っ込みですが、ご自身が大嘘つきであることは
認めるわけですね?
私はお利口な大嘘つきになるよりは、「正しい馬鹿」であることを望みます
から、それはそれでいいですよ。どうぞお馬鹿さんと呼んでください。
かわりにあなたを、「すぐばれるような嘘を平気でついて読者をだましたつもりに
なっているとは、あなたは本当に お馬鹿さん」と呼んで差し上げます。
あと、予防令工事に何の成果もなかったなんて言ってませんよ。
多少は鉱毒は減ったでしょうね。調査会報告にもそう書いてあるし。
けれど、鉱毒はなくなりませんでした。調査会報告にあるとおり。
私は大嘘つきではないので、「減った」としか書いてない調査会報告を見て、
「鉱毒は完全に消滅した」なんて大嘘は言いません。
ところで、『足尾之鉱毒』創刊号はどうしましょう。
明治政府は、言論弾圧を行って、被害農民の行動を規制したのです。
田中正造はほとんど本を書かず、かわりに莫大な手紙を書いた。
正造がそうするようになった理由の1つが、「手紙なら発禁にならない」
からです。
明治政府の弾圧の影響が、こんなところにもあるのです。
明治政府が民衆を弾圧しなかったなどと大嘘をつくのは何故ですか?
440 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/25(水) 20:30:23 ID:OmQSghg70
本題に戻って、小学館編集部宛の菅井益郎の、私を批判する手紙を続けます。
菅井氏は、1974年になって初めて、古河が被害原因が足尾銅山の操業にあることを認めたとか、損害賠
償をしていないとか、不思議な解釈をここで開陳しています。
「もし仮に100パーセント氏(私のこと)の主張を認めて、予防工事後の被害がそれ以前の残渣だとしても(さ
すがに古河も今日ではこんな主張はしていませんが)、被害に対する損害賠償をしていないことは、非難され
て当然です。氏は、1974年の渡良瀬川鉱毒根絶毛里田期成同盟会との公害等調整委員会のおける調停
で、初めて古河は被害原因が足尾銅山の操業にあることを認めたことを知らないのだと思いますが、それに
しても古河市兵衛を再評価しようとするあまり、公害問題でもっとも大事な被害民の主張に耳を傾けないとい
うことは大いに問題ですね」
怨みつらみが本題なのか。
自分の資質に自覚的だな。
>>440 菅井の書き方は多分、「賠償金払うまでは責任を認めたとはいえない」
ってんじゃないですかね。
確かに当時の契約書には、「古河市兵衛ガ所営ノ銅山ヨリ流出スル粉鉱
土砂等ニヨリ渡良瀬川沿岸町村ニ加害有之、」と書いてあります。
しかし、決して賠償金は払いませんでした。払ったのは「示談金」です。
それは契約書に書いてあります。
「古河市兵衛ハ示談金トシテ左ノ如ク支出スルモノトス」
誰かさんは賠償金とか大嘘をついていますが、当時(1890年代)の契約書の
どこにも「賠償金」という文字はありません。あるなら見せてください。
(1974年の契約書も「補償金」としか書いてありませんが、「15億円の
補償金なら実質賠償金だろう」、ってことで、毛里田同盟会のほうが折れた
(名を捨てて実をとった)のです)
ところで、当時(1897年以降)の契約書をよくよく読むと、古河が金払うかわりに
農民は文句を言えないというたいそう不平等な契約になっています。
もちろんそういう不公平な契約だったのは本当におばかさんは知ってる
はずなんですけどね。
両方が同意したんだからいいのだって言い方はあるかもしれませんが、
契約に手慣れた古河と、契約書なんて見たこともろくにない農民の、
どっちが有利に交渉を進められるかなんて、三歳の子供でもわかるでしょう。
しかも、「農民側は文句を言わないこと」という文があって、「古河は文句を言
わないこと」、という文言はどこにもないのです。
皮肉なことに、その契約書は70年も経ってから足利市によって大量に印刷
され、全国の図書館におさめられました。
口封じのために作った契約書そのものが、「当時いかにして農民の口封じを
したのか」を証明する、動かすことのできない証拠になったのです。
ところで、『足尾之鉱毒』創刊号が発禁になったという事実はどうしましょう。
発行者は、まさか発禁になるなんて夢にも思っていませんでした。
明治政府は、言論弾圧を行ったのです。
政府は民衆を弾圧しなかったなどというのは大嘘です。
>>438 そうそう、あなたがきっとそう言い出すに違いないと思って、
私がわざわざあなたの行動の予告をしておきましたよ。
>>337をごらんください。
(3)洪水があったというのなら、それは自説に
有利な証拠だ、と言い出す。←「1902年に
洪水はなかった」という主張が嘘だ、という
指摘をしているのであって、その事実が誰の
説に有利かは聞いてません。
444 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/26(木) 20:04:50 ID:T1PG0EcU0
小学館編集部宛の菅井益郎の手紙は、さらに予防工事の効果に関して、政府の調査結果を次のように批
判しています。
「氏は政府の公式報告書において、鉱毒の<根源>は足尾銅山にあるが、大部分は予防工事以前から
<残留スルモノ>で<現業ニ起因スルモノ>は<比較的小部分ニスギザル>という結論を鵜呑みにして
理解しているようですが、被害地や除害設備の実地調査をした古在由直や坂野初太郎の報告書をはじめ、
他の報告書もよく読んでいけば、除害工事後も鉱毒は流れていること、出水時は特にその量が多いことを
検証していることがわかります」
「政府報告書をどのように読み解くかは読む人の問題意識にかかわることですので、もともと鉱山派の渡辺
渡や川喜多能達の報告書を全面信用していてはわかるものもわかりません」
参考までに、被害農民側のリーダーだった野口春蔵は、1913年に「私どもが先祖伝来の土地をこれほど
までに救われた御恩は、とても神 や仏の及ぶところではありません」と発言し(.
>>197)、永島与八は「たま
たま田中翁のごとき人傑があってこれを適当に解決してくれたことは 日本の国史上一大美点であり、日本
国民の一大幸福であった。」と自著に書いて(
>>205)、田中正造を称えると同時に、予防工事の結果農地
が回復して農民が救われた事実を明確に表明しています。
>>444 以前からさんざん指摘し続けていますが、渡良瀬川から農業用水を
取水している毛里田と三栗谷ではこのあとも鉱毒被害が続きました。
それは、鉱毒が「なくなった」わけではないからです。
なくなったように見えるのは、河川工事で堤防をつくって、洪水があまり
起きなくなったからです。
渡良瀬川の外にあふれ出さないだけで、鉱毒はこの後もずっと
流れ続けました。流れているからこそ、直接取水の毛里田と三栗谷で
鉱毒被害が続いたのではないですか。
「野口にとって鉱毒がなくなった」は、鉱毒被害地すべてで
鉱毒がなくなった、という意味ではありません。
「永島にとって鉱毒がなくなった」は、鉱毒被害地すべてで
鉱毒がなくなった、という意味ではありません。
そして二人とも、毛里田と三栗谷が(自身が文を書いた時代に)まだ
鉱毒反対運動をやり続けているということを知りませんでした。
鉱毒被害地はそれほどまでに広いのです。
この2人が住んでいたのは、今の佐野市周辺。
毛里田からは直線距離でさえ軽く15キロばかりあります。
今でさえ簡単に確認出来る鉱毒の被害を、何で過去に遡って無かった事として扱えるんだろう?
狂人?
>>394 > 「1880年代半ばから、渡良瀬川の水が青白色に変じたときは、必ず魚が浮かんで流れると
> いわれるようになった。銅山から流れ込む亜硝酸などによる被害であった。」
>
> 川の水は、それ自体青ないし白ですから、「青白色に変じ」ても区別がつかないはずです。
> 足尾鉱毒事件の資料で、こんな現象が書かれたものも見たことがありません。
『百折不撓』は当時ものの史料じゃないとか言い逃れをするかもしれない
ので、一応、当時ものでこの現象について述べたものをわざわざ探してきて
あげましたよ。
あなたがいかに史料を見ていないか、恣意的な資料集めしかしていないか
というのは以前から分かっていましたがさらによく分かりました。
この現象は、足利郡から出た『足尾銅山鉱毒・渡良瀬川沿岸被害事情』
(1891年)という本に出ています。確かこの本も発禁じゃなかったかな。
「神子内より来る流は水清しといえども、他の一流(註:本山方面から流れて
くる松木川の流れのこと)に至りては水色恰も粘土と石灰とを混流せしに異なる
なく、茲に初めて下流水の変じたるは皆之に因ることを知るを得たり(後略)」
長祐之
どうです。長はちゃんと足尾の渡良瀬川の水の色が普通の色ではなく水色に
変色していると書いているではないですか。
しかも、『足尾銅山鉱毒・渡良瀬川沿岸被害事情』なんて、基本中の基本文献。
そんな文献も参照せずに見たこともないなどとぬけぬけと書いて平然としてい
られるとは、長が生きていたら飛び上がって驚いたことでしょう。
>>436 > 手紙には歴史研究における<客
>観的事実の把握の重要性>が書かれていますが、もう少し調べてから批判を書いてほしいものです」
菅井の言うとおりだと思います。
448 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/29(日) 02:28:55 ID:c+5rInKt0
>>447 この文だと、「水の色が水色」ではなくて、
「水の色があたかも」の意味にとれるので、違う史料を探してきました。
庭田源八の『鉱毒地鳥獣虫魚被害実記』にでています。
「鉱毒水はまるでおはぐろの様な色で、泥を合併したよふな水色で、(後略)」
ちょっと訂正。
>>444 菅井の著書には、明治25年(1892年)の農民との契約で、
「古河市兵衛に於ては仲裁人の取扱に任せ徳義上示談金
として左の如く支出するものとす」
と、「自身に責任はないが、ひとまず徳義上、示談金を出す」
という書き方になっているので責任を認めたとはいえない、
という主張のようです。
菅井の著書にはこの契約書そのものの写しは載っていませんが、
「徳義上」を強調しているので、似た他の村の契約書を
みたのかもしれません。
契約書を見ると、梁田村民との契約書には「徳義上」の文字は
ありません。梁田の農民は「そんなふざけた内容でははんこは
押せない」と突っぱねたのでしょう。
一方、久野村民との契約書にはしっかり「徳義上」の文字が残って
います。
このことから、古河は、なるべく「徳義上」の文字を残し、自身の責任を
回避する契約をしようと図ったことが分かります。
なお、「徳義上」の文字については、ほかに詳しい研究があります。
どちらにしても、古河はまず、「徳義上」金を出す、という形を取ろうと
したのは事実で、「責任を認めて賠償金を払った」というのは、
誰かさんの大嘘です。
徳義上ageオンリーの奴の戯言も読んでやるから早く続きを書け、このボンクラ。
粉砕できなさそうじゃね?
古河がいかに誠実でなかったかを、誰かさんのレスを
引用しつつ紹介しましょう。
>>10 > 田中正造が始めて国会で質問をした2ヵ月半後には、政府は「原因は足尾銅山からの排出物にある」と官報で公表しました。「認めざるを得なくなった」のではありません。
> 足尾銅山主の古河市兵衛も、この結論に何一つ異議を挟まず、すぐに被害農民と示談交渉を始め、8500戸ほどの被害民に総額で10万円(今のお金で10億円)ほどの損害賠償金を支払いました。
> この行為が、なぜ「なだめすかした」ことになるのでしょう。
冷静に考えて、この額、変だと思いませんか? 8500戸に今のお金で10億円?
ってことは、1戸あたりの金額はたかだか(今のお金で)11万7647円にしか
なりません。
しかもこの額は、驚いたことに、1890年から1896年6月末日までの6年分の
「示談金」なのです。
ということは、1年あたりの示談金は何と、1戸あたり今のお金で1万9607円!
今のお金でたかだか2万円弱の現金で、一家が1年間食いつなげというのが、
誰かさんが「誠実」とかわめいている示談の内容なのです。
いや、もちろん、田畑の減収が1軒あたり1年で(今のお金で)2万円だというの
なら、そういう理屈も成り立つでしょう。ところがそうではないのです。ほとんど
の農家が、収入の道を絶たれた、つまり、減収80%とか90%とかいう状況で、
この額で食いつなげというのです。
当時の公定価格では、米は1石(約180リットル)7円30銭。
「示談金」を「今のお金」から当時の実際の価格にもう一度直すと、1円96銭と
なります。
被害農民は米が作れなくなりましたので、「示談金」で米を買わなければ
なりません。当時のお金1円96銭で買える米は、何と、48.32リットルです。
ご家庭にあるお米268カップ(268合)に過ぎません。ごはんお茶碗268杯分
です。
しかもこの量が「1人」あたりでなく、「1戸」あたりの額なのです。
今と違ってパンなど食わない時代です。1人で1日に2合や3合は食ったでしょ
う。しかも農業は力仕事。人によっては4合、5合でも足りない人もいたでしょう。
鉱毒汚染土除去はかなり体力を使います。こんな量では1年どころか1月分の
食費にもならないことがよく分かるでしょう。しかも昔は大家族です。
さらに農民はこの金で鉱毒汚染土除去もしなきゃならないし、石灰も買わな
ければならないし、それをまくための手間暇も含めてこの額なのです。
しかも、このときの契約は、古河は、1896年6月までは鉱毒を流してもよい、
という有利な条件付きです。
そして何遍でも言いますが、それまで農民は文句を言わない、という条件
つきです。そして何故か、古河は文句を言わない、という条件はつけられて
いません。
453 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/01(火) 20:06:07 ID:cB1b9cu70
菅井益郎の手紙を続けますが、予防工事は不備だったと言ったはずなのに、豊作の原因は洪水で汚染
されない土が覆った為とも、工事のせいで被害が軽減した為とも、説明しています。しかも、会社の存亡
をかけて行った大工事を「評価できない」と決め付けています。どこが矛盾しているか考えてみてください。
「1902年の秋作頃から被害地では農業生産が回復してきますが、それは02年の9月の大洪水の洪水(?)
によって鉱毒被害農地を新しい汚染されない土砂が覆ったからですが(渡良瀬川支流からの土砂の流れ込
みによって鉱毒が希釈されたと推定)、もちろん、以前のように足尾銅山からの鉱毒の大量流出があれば被
害は拡大したはずですが、その点では除害工事によって鉱毒の流出が減少して下流の鉱毒被害も軽減した
と考えられます」
「もしこの工事を古河が自ら率先して行い、被害地に損害賠償を支払っておれば、市兵衛の評価は高まって
いたでしょうが、彼は結局何もしなかっただけでなく、養嗣子である潤吉の後見役であった原敬は、谷中村を
破壊する土地収用法の認定を下したのです。予防工事も鉱業停止命令の圧力の下で行ったわけで、主体的
に被害を軽減しようとして行ったものではないのですから、それほど評価の対象にはなりえません」
1892年、古河市兵衛は、渋沢栄一や住友の広瀬宰平とともに明治天皇から、勲四等瑞宝章を授与されま
した。それまで、勲章は貴族や政治家や軍人以外には授けられませんでした。民間では最初の勲章です。
1999年には、市兵衛は雑誌『太陽』の読者アンケートで「明治十二傑」に選ばれました。公害防止工事を履
行した勇気を称えられたと考えられます。彼は、終始「鉱山王」と呼ばれていました。
>>453 それで、古河が「太陽」の会員だったという事実は
どうしても伏せて明治十二傑の話だけしたがるわけですか?
不思議ですね。何でそこを伏せるんですか?
古河も太陽も、そこを伏せたりしてませんよ。
どうして、自身の会で十二傑を選んだら会員が1位になった
って事実を隠したがるのですか。
要するに太陽は、古河や古河の知り合いや、古河と意を
同じくする人々が作り、そして売り、読んだ雑誌でしょう。
それは全然不正なことではない。さらに、そういう雑誌が
明治十二傑を選ぶのも全然不正なことでもない。
そして、たまたま会員が1位になったからといって、太陽も
古河も全く不正なことをしているわけではない。
ただ、それを隠してあたかも第三者的な機関が選んだかの
ようなものの言い方をするのは明らかに正義に反します。
菅井の言ってることもなんだかちょっと変っぽいですが、
(何故、1902年大洪水のときだけ、支流からの土砂が多量に
混じるのか、とか)あなたの言ってることのほうが相当に変です。
勲章をもらったらえらい、というのは当時の価値観でしょうが、
1892年は古河が足尾銅山の鉱毒示談交渉を始めた年です。
恐らく最初期とされる契約書の日付が6月23日、古河が勲章を
もらったのが7月19日です。
まさに、鉱毒事件が衆人に知られるようになった最初期だった
からこそ、勲章も出せたのでしょう。(正造の国会質問が前年末)
まさかそのあと100年もこじれる大公害事件の原因つくった
人物だって分かってたら、政府も勲章なんか出さなかったで
しょうね。
それで、『足尾之鉱毒』創刊号発禁事件はどうしましょう。
『足尾銅山鉱毒・渡良瀬川沿岸被害事情』の発禁は?
『女学雑誌』とかも鉱毒で発禁になってますね。
荒畑寒村の『谷中村滅亡史』は、政府を殲滅しろとか書いてある
ので、まあ発禁になってもしょうがないかなあとは少しだけ思って
もいいですが、そのほかのものを発禁にする理由は何ですか?
明治政府は、民衆を弾圧したのです。
明治政府が誠実だったなどと大嘘をつくのは何故ですか?
ところで、1902年9月28日に大洪水があって、たいした洪水は
なかったなどと言い張っているあなたは大嘘つきだということは
認めるんですね?
そうじゃないって反論してませんものね。
>>452 当時の減収率が分かったので一応訂正しときます。
減収80〜90%というのはおおげさで、実際の当時の
減収率は、梁田村で田27%,畑29%でした。(1892年調査、
ただし、値は1890年時点での調査)
ただし、堤外地では田57%、畑62%です。
当時の足利の米価は、中米1石8円95銭2厘で、
梁田では平年、つまり鉱毒のない年では1反(991平米)
あたり1石9斗7升がとれました。
そうすると、減収率27%で計算して、1反あたり(1年で)
4円76銭1厘の減収となります。
ただし、足利地方は当時も今も二毛作です。当然、同じ
田んぼで春には麦をつくってますが、その分はいれて
ません。
かつて、人間は1年に1石の米を食う、と言われていました。
梁田は特にやせた土地ではありません。麦も食っていて、
麦はだいたい反あたり1石5斗とれたようですが、がんばって
それを含めても、1反の田んぼ(兼麦畑)では3人分しか食え
ません。
しかも税金もとられるのです。
おおざっぱに税金を五公五民だとして、1反で食える人間
は1.5人。3世代7人家族だとして、1軒で4反はないと、
メシが食えません。しかも当時のことですから、自分でたく
わえをしなきゃならない。鉱毒の有無にかかわらず、洪水は
しょっちゅうあったのです。それに備えなきゃならんというと、
まあ相当な貧農でも6反7反(約0.6〜0.7ha)くらいの田んぼ
は持っていたでしょう。
7反の減収は、(麦をつくっていたと仮定して)7円16銭8厘。
しかもこれは、相当な貧農の、1年分の減収に過ぎません。
それに、堤外では50%以上の減収になっているのです。
この計算では堤外に田畑を持っていた農家の計算はして
いません。
さらについでに書くと、この減収の計算には、農家がこれから
田畑の鉱毒を中和するためにまかなければならない石灰代は
入っていません。手間賃も。
ところが、古河が払った「示談金」は、農家1軒あたり、何と、
6年分でたった11円76銭5厘にしかならないのです。
1年分に直すと、わずか1円96銭1厘です。
改めて計算し直しましたが、これのどこが誠実な対応なの
でしょうか?
しかも、農民は1896年6月末まで一切文句を言わない、という
条件がついていて、古河は文句を言わないこと、という条件は
ついていないのです。
※当時の麦価1石5.553円で計算。
実際は、査定会の査定額55653円の減収のところ、古河側
の支払った示談金は26266円でした。
査定会の金額は1年あたりの減収額ですが、古河の示談金は
何べんも書きますが6年分です。
>>455 またまた細かい訂正。
減収は1反あたり7.177円でした。
で、農家1軒あたりの田んぼの大きさは、
さっきの計算の7反よりは若干少なかったよう
なので、それを含めてこの下で再計算します。
ちなみに、誰かさんの紹介した値は、
鉱毒被害地全体での平均値です。
実際の示談の数値は契約ごとに違うので
参考のために梁田村大字下渋垂での
示談内容を紹介しますと、農民78人に326円05銭7厘を
古河が払う、という内容です。
示談に応じるのが早いほうが、示談金は高かった
ようで、(これがせかしたの根拠でしょう)
1軒あたりの金額はわずかに4円18銭0厘です。
繰り返しますが、この金額は6年分です。
この下渋垂の契約書には、こんなのじゃはんこは
押せない!と突っぱねた農民が55人いる、とも
書いてあります。そりゃ、こんな額じゃ普通の農民
なら怒りますよね。
上記の値はこの55人分を引いた額です。
で、この55人がどれくらいの田んぼを持っていたか、
というのも書いてあるので、梁田村下渋垂の農家が
1軒あたりどれくらいの田んぼを持っていたかが
推測できます。参考のためにやってみましょう。
283.7反を53で割ると、1軒あたり5.16反。
私の推計もたいしておかしな値ではないことが分かり
ます。
もう一度、5.16反あたりの減収を再計算すると、
37円02銭0厘になります。
1年あたり37円02銭の減収に対して、古河が払った
示談金は6年あたり4円18銭。
そんな契約のどこが誠実だと言えるのでしょう。
そりゃ、突っぱねる農民だっていっぱい出ますよね。
しかも、農民は1896年6月末まで文句を言わない、
という条件が付いていて、古河は文句を言わないこと、
という条件はついていません。
>>453 勲章のほうも調べてみました。確かに古河は勲四等を
もらっています。
しかし、鉱毒反対運動参加者のほうも調べなければ、単なる
一方的な内容です。ひょっとするともっと立派な勲章もらった
人もいるかもしれませんしね。
とはいっても、鉱毒反対運動参加者は数万人単位。全員はとても
無理なので調べられるだけ調べてみたところ、田中正造の弟子で、
「小田中」とまで呼ばれた黒沢酉蔵が、晩年の1981年に、勲一等瑞宝章を
もらっていることが分かりました。
しかも、黒沢自身が企画して発刊された、田中正造全集の完結直後
に受けています。
昭和政府がいかに黒沢の鉱毒反対運動を高く評価していたかという
ことがよく分かります。
まあこんなこと書いても、明治政府は誠実で昭和政府は不誠実とか
わめきちらすだけなんでしょうけどね。
明治政府は、田中正造の文の載った『女学雑誌』を発禁にしました。
昭和政府は、田中正造全集を発禁にはせず、編者の一人に勲一等瑞宝章を
与えました。
ところで、そんなにばんばん鉱毒関連文献を発禁にする明治政府が、
どうして誠実なんて言えるんでしょうね。
458 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/02(水) 20:26:25 ID:RRUHxETI0
菅井益郎は「日本における経済発展と公害」を研究テーマとしているそうですが、足尾銅山の古河鉱業に対
しては、他の会社よりずっと辛い点をつけています。前回に続いて、小学館編集部宛の彼の手紙を引用しま
しょう。
「渡良瀬川源流地帯の荒廃は、氏(私のこと)があっさり書いているように<技術的に亜硫酸ガス対策ができ
なかった>では済まされません。他の鉱山ではいずれもこの点で苦しんだわけで、古河は国有地のうっそう
たる森林を枯らし続けて表土を奪い、それが川床を高めて洪水を長時間滞留させ、排水を悪くして農作物の
生育障害の原因となったのです。古河は今日に至るまで山骨露出した山を残した日本一の環境破壊会社と
いえます。足尾銅山は、この点で別子(住友)や日立などと大いに異なっていますが、これを<技術が未発達
だから当然>と言う氏には強い疑問を呈せざるを得ません」
なお、「技術が未発達・・・」の点に関しては、
>>429を読み直せば判断しやすいと思います。
また、別子や日立、小坂などの銅山も深刻な公害問題に直面しましたが、学校では教えられません。それぞれ
公害にどう対応したかは、『運鈍根の男』と『直訴は必要だったか』を参考にしてください。
少しの間旅をするので、来週いっぱいコメントは入れません。悪口雑言、何でも結構ですからご意見を寄せら
れ、この掲示板を賑やかにしてくだされば幸いです。
>>458 > また、別子や日立、小坂などの銅山も深刻な公害問題に直面しましたが、学校では教えられません。それぞれ
> 公害にどう対応したかは、『運鈍根の男』と『直訴は必要だったか』を参考にしてください。
田川大吉郎以上に信頼できない著者の記述など、参照するに足りるとは
到底思えませんのでそんなものは参照せずにさらに計算を進めましょう。
日立鉱山では1900年に煙害による公害を出しています。いったいどれくらい
莫大な量だったのか調べてみました。そうしたところ、被害面積三反六畝十五歩
(約36a)、被害量は夏蕎麦で二石七斗四升四合(493.92リットル)、そして、鉱山
が払った賠償金は18円3銭3厘でした。
つまり、日立鉱山は、被害が起きると即座に交渉に応じ、しかも、取れもしな
かったソバ粉2.7石を、1石あたり6円57銭2厘も払って「買って」いるのです。
しかも、その年の秋に再び鉱害が発生すると、またまたそれとは別に賠償して
いるのです。
被害面積なんか、梁田村下渋垂の住民1軒の平均の田んぼの大きさ(5反)より
狭いではないですか。
対する古河はどうでしょう。
前回紹介したとおり、1年で37円02銭0厘の鉱毒被害を、たった4円18銭に値切り、
しかも、それが6年分だというのです。
もちろん、日立鉱山が素晴らしく誠実だとは言いません。そんなこと言う前に
鉱毒なんか出さないほうがいいに決まっています。けれど、年に2度も交渉し、
しかも、取れもしなかったソバ粉1石に6円以上の値をつけた日立鉱山と、
37円の鉱毒被害を4円に値切りまくった上に、向こう3年間の口封じまでした
古河のどっちがより誠実だったか、と聞かれたら、私は日立鉱山のほうを
とります。
しかも、日立鉱山は即座に交渉をしているのに、古河は住民が足尾の鉱山
事務所に押しかけてから2年も経たないと最初の契約をしませんでした。
住民側の契約体制が整わなかったとかいくらでも言い訳はできるでしょうが、
そんな体制作りまでしなければならないような莫大な公害を出したという
認識が全くないのです。
もちろん日立の公害はその後もどんどん広がっていくし、その対応が
素晴らしいものだとは思いません。ただ、古河と比べてどっちのほうが
いくぶんでもいいからマシだったかと言われたら、私は日立のほうをとり
ます。
足尾銅山を監視する「鉱毒根絶期成同盟会」は今でもあって活動して
いますが、日立鉱毒根絶期成同盟会ってあるんですかね。いや、その前に、
そんなのが組織されたことがあるんですかね。
私は足尾にも日立にも行ったことがあります。日立のうっそうと茂る森の中に
かつての製錬所跡があって、本当にここで百年前に公害が出たんだろうか
と思えるほどでした。
でも、よく考えて見ると、そもそも100年もはげ続けている足尾の鉱毒が、
それほどまでにひどいものだった、という、それだけのことなのです。別に、
日立鉱山が素晴らしく誠実だったわけではない。足尾を見慣れてしまった
人間は、うっかり、「足尾がそこまでひどかった」ことを忘れてしまいがちです。
ところでどっかの誰かさんは足尾には行ったことあるようですが、日立には
行ったことあるんでしょうかね。
> 少しの間旅をするので、来週いっぱいコメントは入れません。悪口雑言、何でも結構ですからご意見を寄せら
> れ、この掲示板を賑やかにしてくだされば幸いです。
どうぞどうぞ。できれば日立鉱山と梁田村下渋垂にも行ってください。
下渋垂は今でも地名がそのまま(足利市下渋垂町)残ってます。
そして、布川氏の案内で別の鉱毒被害地も歩いてください。
>>458 > なお、「技術が未発達・・・」の点に関しては、
>>429を読み直せば判断しやすいと思います。
> また、別子や日立、小坂などの銅山も深刻な公害問題に直面しましたが、学校では教えられません。それぞれ
> 公害にどう対応したかは、『運鈍根の男』と『直訴は必要だったか』を参考にしてください。
無駄だと分かってますが『運鈍根の男』とやらをぱらぱらとめくってみました
が、川俣事件は弾圧だってはっきり書いてあるしなんだかいつも言ってること
と書いてることが違いますね。
またしても思い違いで間違ったことを書いてしまいましたとかわめくつもりです
かね。それともやっぱりもうろくしましたかね。それとも、砂川のふりした煽り?
ほかにも突っ込みどころはいっぱい見つかりましたがあとのためにとっておき
ます。っていうか例によってこの人の言ってることはでたらめが多すぎて、
指摘しきれません。
で、古河は農民が足尾に押しかけてから2年もしないと示談契約しなかったのに、
日立は被害が起きたその年にすぐに交渉していて、
古河は1軒あたり6年で4円とかいうはした金で口封じまでしたのに、
日立は18円も払った上に、同じ年に続けて起きた被害には別に交渉をしていて、
口封じなんか一切していないというのと、
古河のほうは被害の内が莫大すぎるのに対して、
日立のほうはもともとちっちゃな被害地が広がっていったのをもって、さも、
日立のほうがどんどん被害が増えていったかのような印象操作をしてるのは
何でですかね(日立の被害地全部足しても、足尾鉱毒事件の被害地の10%に
もなりません。もちろんそれをもって日立が誠実だったと言い張るつもりは
ないですが、古河よりはマシです)
それと、その本とやらには、日立の賠償額とかは出てるのに、古河の分は
出てませんね。それも印象操作ですか?
比べっこすれば、どれくらい古河の支払った金額が不誠実だったかとてもよく
分かるのに。
>>438 > 彼は、「洪水はあった。お前は嘘をついている」と言い続けることで、「予防工事が成功した」事実を宣伝し続
> けていたわけです。なんてお馬鹿さんなのでしょう。
これについては、
>>439 >死ぬほど素朴な突っ込みですが、ご自身が大嘘つきであることは
>認めるわけですね?
と、
>>443 そうそう、あなたがきっとそう言い出すに違いないと思って、
私がわざわざあなたの行動の予告をしておきましたよ。
>>337をごらんください。
(3)洪水があったというのなら、それは自説に
有利な証拠だ、と言い出す。←「1902年に
洪水はなかった」という主張が嘘だ、という
指摘をしているのであって、その事実が誰の
説に有利かは聞いてません。
という指摘をしておきましたが返答がありません。
念のために事実が知りたい方のために、この方の主張がどっちにしろ
大嘘だということを説明しておきます。
この方は、すべてを古河と明治政府の功績とやらにするために、一番
重要な要素を故意に消しています。それは、
「農民の不断の努力」です。
農民は、鉱毒が流れ込んだ田畑から、汚染土を運び出しました。
一応書いておくと、古河も政府も一切金は出していません。政府は免租は
行いましたが、それは減収に対する補助であって、別に汚染土除去用に
免租にしたわけじゃない。古河の「示談金」も同様です。
それ以外にも、豊作になる要素があります。たとえば、「小俣川からの清流」。
小俣川には鉱毒がありません。汚染された小俣村の農地に、小俣川の清流
が入れば、多少とはいえ、鉱毒は洗い流されて減ります。しかも、小俣川から
取水するのは、古河のおかげでも明治政府のおかげでもないのです。
同様に、松田川、蓮台寺川、袋川、旗川、秋山川、三杉川といった、鉱毒のない
支流から用水を引くことによって、渡良瀬川左岸の鉱毒は徐々に減っていきます。
(ただし、新たな洪水がない場合)しかもそれは、何度でも書きますが、古河
のおかげでも明治政府のおかげでもありません。
ただし、右岸(梁田村、御厨村、山辺村、毛里田村等)は、これらの支流から
水を引いていません。(一応、矢場川村とかは矢場川から引いてるはずで
すが多分量が少ないです)これらの村では鉱毒被害はやみませんでしたし、
反対運動もこの後も続きました。
鉱毒被害地の減収の理由は、いくつもあって、鉱毒はそのうちの1つです。
複雑な条件がいくつも重なって(天候、鉱毒、洪水、用水路など、など)
被害が起きるのであって(もちろん、最も最大の理由が鉱毒であることは
いうまでもありませんが)、豊作になる条件も、単に「古河と明治政府さまの
おかげ」で済む話ではないのです。ひとつひとつの村の、ひとつひとつの
田んぼごとに、用水は違う、渡良瀬川からの距離も違う、従って、鉱毒の
入り方も違う。同じ村の隣の田んぼで用水が違うなんてこのへんでは
ザラです。とにかく、右岸と左岸で条件は全く違います。それをあっさり
「古河と明治政府さまのおかげ」で済ませようとするのは、最初にそういう
結論をつくって、それに合うような理屈をつけただけに過ぎないことを表して
います。
>>461 さらに細かい訂正。
よく調べると、1900年頃は、足利郡にある左岸の
柳原用水も渡良瀬川から直接取水していました。
ただし、この用水の状況は、待矢場や三栗谷とは大きく
異なります。
まず、規模ですが、明治期の調査で約150町と比較的
小さく、また、用水の比較的上流で蓮台寺川と合流し、
鉱毒が自然に薄まるようになっています。また、用水の
途中で、余った水を渡良瀬川に戻すようにもなっており、
上流から押し流されてきた鉱毒が下流に流れる率も減り
ます。
ただし、昭和28年頃に取水口改良工事をやっていて、
鉱毒を減らすことが目的の1つになっていますので、
やはり鉱毒はこの工事が終わる(昭和35年)までは完全に
なくなったわけではありませんでした。
今ではこの用水は主に松田川から水を引いています。
463 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 20:21:25 ID:YXHi7aKc0
少しの間コメントが途切れましたが、再開します。
>>458からの続きです。
私は、小学館に宛てた手紙に「事典の記述はもっと客観的であるべきだ」と言う趣旨のことを書いたので、菅
井氏は次のような意見を小学館に寄せました。
「氏が述べているように歴史はさまざまな立場や側面から見て、できるだけ客観的に記述しなければならない
のはおっしゃるとおりです。鉱毒問題というのは毒を垂れ流した古河市兵衛が足尾銅山の再開発に成功しな
ければ発生しなかった、このことをまず押さえておく必要があります」
「他人に損害を与え、迷惑をかけたなら、謝罪し、償う、そして二度と迷惑をかけません、と誓うのが市民社会
のルールですし、再び過ちを犯すなら鉱業条例に則って禁止するのが当然です。しかし、古河は国益のためと
開き直り、日清・日露戦争を背景に軍備拡張に邁進する政府はこれを擁護し、その後も1974年に至るまで
古河は鉱毒被害の原因をこれを認めなかった、これが事実なのです」
古河市兵衛がどれほど困難な公害防止工事を敢行したかを、皆さんに知ってほしいと思います。
『足尾銅山予防工事一班』(1898年)という記録が、『資料・足尾鉱毒事件』(1971年、亜紀書房)に採録
されています。、図書館にはあると思いますので、ぜひご覧になってください。
>>463 工事をしたのは事実ですし、その工事が大変な難工事だった
というのも事実ですが、
どんな工事をしようがしまいが、効果がなければ無意味です。
権威ある大嘘つきの大日本帝国政府がやれって言ったとおりの
工事をやったんだから古河にはもう一切責任がない、というのは
事実ではありません。
実際、翌年に小滝浄水場は崩壊しているではありませんか。
もちろんそれは知っていますよね。そしてそれを隠して、さも
自身の都合のよいように読者をだまくらかしているんですよね。
で、運ドンなんとかとかいう本(タイトルを書くと宣伝に加担すること
になるのでやめときます)には川俣事件は弾圧だって書いてあり
ますが、川俣事件が弾圧じゃなかったかのようにわめきちらすのは
何故ですか?
明治政府は農民を弾圧したのです。
『足尾之鉱毒』創刊号発禁事件はどうしますか?
もちろんそのことも知ってるはずですよね。だって運ドンなんとかとか
いう本に書いてあるんですもんね。
明治政府が民衆を弾圧したという事実をよーく知っているのに、まるで
明治政府が誠実だったかのような大嘘をつくのは何故ですか?
しまった。あまり書きすぎたら、「1902年9月28日にはたいした洪水は
なかったなどと大嘘をつき続けるのは何故ですか?」って書く余裕が
なくなっちゃいました。
まあひとまず自分で運ドンなんとかとか言いだしたんだから上の2つに
答えていただきましょうか。
そうでないとどういうスタンスで何をわめきちらしたいのかわからないので
相手をしたくてもできません。
弾圧したんですか? しなかったんですか? どっちですか?
大声で嘘を吐き続けて歴史を捻じ曲げたがってる既知外相手に大声で張り合う。
馬鹿馬鹿しい事だけど敬服します。
俺だったらこんな不誠実な奴、無視して終わり。
466 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/15(火) 21:15:00 ID:r2ltenAN0
小学館宛の菅井益郎の手紙は、最後にこんな風に終わっています。
「多くの農民の被害はそのまま放置されたが故に、今も下流の人たちは、一度は田中正造と袂を分かった
人たちも含めて、正造を尊敬しているのであって、そのことを理解しようとしないのであれば、どんな説明も
無意味でしょう」
「被害が今も続いていること、上流から銅やカドミウムが流れ出ていることは、地元ではよく知られています。
どうぞ、氏には古河が被害地の農民のために何をしてきたか、農民側に立ってそれこそ客観的に事実を
見るように伝えてください」
「公害というものを加害者側に立って見るのは一種の自家撞着に陥り、きわめて偏った見方になりやすく、
被害を過少に評価する一方、逆に対策を過大に評価してしまうことになり、そうした見方は今日経営学で
議論されているコーポレートガバナンスの視点からも得るものはないことを考えてほしい、と思います」
「公害の研究者が加害企業側に立てば、公害はさらに悪化してしまうことを私たちは多くの公害の経験か
ら知っています。本当に企業側が誠実に、かつ持続的に対応したならば評価に値しますが、足尾銅山鉱毒
事件における古河は、全くその評価に値しません」
被害者側に立っていたはずの人が、知らず知らずに加害者になっている場合もあります。
1901年11月30日、前日行われた被害者側の集会を女中に探らせた古河市兵衛夫人は、神田川に投身自
殺しました。
>>466 古河夫人が水死体で揚がったのは知ってますし、
その前日に東京の鉱毒救済会の集会があったのも事実ですし、
「そういや、あのとき、何でだか古河さんちの女中頭がいた」
って言った人がいるのも事実のようですが、
古河夫人が何で死んだのか、自殺なのか他殺なのか事故
なのか、そこは研究がないみたいですが。
それとも、被害地農民が古河夫人死亡の加害者とでもいいたいんで
しょうかね。
もちろんそんなわけはありませんよね。だとしたら、毒たれ流した
古河市兵衛こそが殺した張本人ということになってしまいます
もんね。
ところで川俣事件は弾圧って運ナントカって本にはっきり書いて
あるみたいですが、
まるで政府が農民を弾圧しなかったかのような大嘘を
わめきちらすのは何故ですか?
「足尾之鉱毒」創刊号発禁事件はどうしますか。知らないとは
言わせませんよ。運ナントカに書いてあるんですからね。
明治政府は、鉱毒被害地農民を弾圧したのです。
468 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/16(水) 20:52:31 ID:kgOM8T1u0
公害事件が大きな社会問題になりはじめたのは若くて多感な頃だったので、水俣事件のような悲劇に対
する政府や加害企業の、あまりにも冷淡な態度に私もひどく腹立たしさを覚え、ときどきカンパなどをして
反対運動への支援をしていました。
学生運動にも組合運動にも加担し、選挙で自民党に投票したこともない私が、政府や大企業の側に立つ
必然性などないのです。
実際、『運鈍根の男』は古河市兵衛が主役で田中正造は脇役に過ぎませんから、これを書いたときは
岩波新書の『田中正造』などの2次資料しか参考にせず、したがって、かなり偏向した記述になってしま
いました。偏向していることにはほとんど気づかなかったからです。
ところが、日経新聞に訴えられて、反論のためにやむを得ず『田中正造全集』などの1次資料に当たる
ことになったため、この公害事件に関する世間の常識が、被害者側に完全に偏向していることを知り、
はじめて愕然としたというわけです。つまり、政府や大企業も明治時代には我々に時代のそれとかなり
違うということに気づいたのです。
>>468 やれやれ。今度はあれを書いたときは認識が偏向していたとか言い出すわけですか>運ナントカ
幸いにして、あなたがそう言い出すことはまたしても私が既に予報しておきましたよ。
>>460をごらんください。
>またしても思い違いで間違ったことを書いてしまいましたとかわめくつもりです
>かね。それともやっぱりもうろくしましたかね。それとも、砂川のふりした煽り?
だったらそんな自身が間違ってるって言う本を参照しろとか言わなきゃいいでしょう。それに、
そんな自身が公認するようないかさま本を売り続けて、それでも文筆業のつもりですか?
自身の本さえ、都合のいい部分のみを参照しろ、それ以外は参照するなときたもんですか?
要するにあなたは、自身に都合のいい言及のみは参照し、それ以外は存在すら無視する、
そういうことを自分自身の著書に対しても行うご都合主義の輩だと自分で公言したんですよ?
もしそうでないのなら、ご自身の手で『足利市史』を開いてごらんなさい。
『足利市史』を開けと言ってから、もう数ヶ月が経ちました。あなたはさも立派そうな文献の
名をぽんぽん出してきて、さも調べたかのようなふりをしていますが、他人の言及した文献
には決して触れようとしません。
単に自身の妄想をわめきちらしているだけだからです。
そして、その文献は自身の妄想を完璧に破壊するからです。
妄想の世界には、妄想を破壊する要素は存在していられないからです。
不思議ですよね。私たちの住んでいる現実世界では、『足利市史』は鉱毒をやる研究者は
誰でも一度は目を通す文献で、しかも、それほど珍しい文献ですらないのですが、妄想の
世界では永遠に見ることの出来ないたいそうな稀覯本になっているようです。
私はあなたの言及した『嗚呼鉱毒論』を読み、運ナントカもナントカは必要ナントカも、ひどい
本だと思いながら読みました。大阪書籍の中学歴史教科書とやらにも初めて目を通しました。
ところがこの方は、『足利市史』を開こうともしない。
それとも、妄想の世界では、この本の扉ページは大変に重くて、人力では開くことができないの
でしょうか。
一応はかってみましたが、現実世界ではこの本の重さは約840g。(箱は除きます)
運ナントカよりは少し重いかもしれませんが、持ちきれないような本ではありません。
参考のために同じ重量の米は5.6合。そして、古河が1890年代前半に農民に支払った示談金は、
あなたの主張する値を元にすると、1軒あたり米268合分です。
古河の支払った金で米を買うと、『足利市史 別巻 鉱毒編』47.9冊分の重さの米しか買えません。
何度も書きますがそれで6年分です。しかも、向こう3年間、古河は鉱毒をたれ流してよい、という
条文までついているのです。
このお方は、鉱毒をたれ流してよいという条文がついていることにも、農民は文句を言えないのに
古河は文句を言えるという条文がついていることにも、決して触れようとしません。
妄想の世界で古河がはんこを押した文書には、そんなこと書いてないのでしょうか。それとも、
きれいさっぱり消えてしまったのでしょうか。
ところで1902年9月28日の渡良瀬川大洪水はどうしますか?
探せば探すほど、相当にすさまじい洪水があったって記録ばかり出てくるんですが。
ここではわざわざそれらの史料を挙げることはあえてしません。
『足利市史』1冊で十分でしょう。
『足利市史』は偏向した学者の書いたでっちあげの本だから信用できないとかわめきだしたとき
に、改めて別の史料を出してくることにします。
どちらにしても、政府が『足尾之鉱毒』を発禁にしたという事実は消えません。
明治政府は、被害農民を弾圧したのです。
470 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/17(木) 20:13:30 ID:w4Xee/Sd0
日経新聞との訴訟で『田中正造全集』にある田中正造の演説や手紙、日記などをを読んでいく内に、
前述したように、この事件は世間の常識となっている内容とかなり違うと確信しました。
そこで、日本史の事典や百科事典の解説の嘘偽りを指摘して、出版社に注意を促したのですが、その
中で一番巧妙にこの事件を捻じ曲げ、明治政府や古河鉱業がいかにも悪辣だったかのように解説した
学者がいました。私のことを何も知らないにもかかわらず、加害者側に立っているかのごとく批判してい
た上記の菅井益郎です。
彼は、政府の異例とも言える徹底した公害対策も、古河の命がけの公害防止工事も軽視し、反対運動
のリーダーたちも認めるこの対策の成功を否定し、この工事の欠陥とは特定できない大正・昭和期の新
しい公害を理由に、「事件はいまだに解決していない」と、学者にはあるまじき虚偽の学説を打ち立て、
足尾公害事件はいまでも続いているかのように、事典類に書いていたからです。
471 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/17(木) 20:23:54 ID:qsaorEWoO
>>8みたいなレスが、すぐに付くのは、
いまだに何かしら「利権」とかあるのかな?地元に。
>>470 菅井の話してるのはあなただけですが。
それに、『足利市史』が出たのは1976年。
菅井・東海海の『通史足尾鉱毒事件1877-1984』が1984年。
しかも、この本のまえがきでわざわざ言及されている4つの文献のうちの
1つがこの『足利市史』です。
『足利市史』があったからこそ、菅井はその説を打ち立てられたのであって、
その逆はありません。そして、『足利市史』に菅井の名はありません。
菅井の説に文句を言うのなら、先にその前提になった『足利市史』を検証するのが
先でしょう。「菅井は足利市史を読み違えている」とか「菅井の参照した足利市史は
嘘っぱちだ」というのなら分かります。ところがあなたは、足利市史を開きもせずに、
虚構だ虚構だとわめきちらしているだけではないですか。
何で前提を検証もしていないのに、嘘だと言い切れるのですか?
あなたの前提が、『足利市史』よりも正確だという判断は何故できるのですか?
またしても「見たことがない」などと、自身の無知を根拠になさるつもりですか?
あなたの前提は見たところ全部大嘘か、史料の恣意的な読替のようですが、
その前提が何故『足利市史』よりも信頼できるのか、説明をしてください。
>この工事の欠陥とは特定できない
まるで、工事に欠陥があったのに、そうじゃないふりをしようとしているようにしか
見えない書き方ですね。
前に書いたとおり、鉱毒被害は多くの要素がからみあい、原因の特定はきわめて
困難です。だから、この方のように、恣意的に明治時代の分を減らそうとしても、
ちょっと見は嘘だとは分かりません。
そうして、莫大な毒を流したのに→特定できない→あまりなかった→存在しない
と恣意的に事実をねじまげようとする方が、いつの時代にもいるのです。
それは、田川の『嗚呼鉱毒論』をごらんになればよくよく分かると思います。
田川は、1902年9月28日に渡良瀬川大洪水がなかった、などとは言っていません。
田川は「渡良瀬川に大きな洪水があったという報道は目にしなかった」
としか言っていないのです。
ところがそれをネタに、「大洪水があったという報道を目にしなかった→たいした洪水は
なかった→谷中村周辺以外では洪水はなかった→洪水はなかった」と、どんどんと
大嘘をふくらませていくのがこの方のやり方です。
まさか『嗚呼鉱毒論』を見返す人などいないとたかをくくっていたのでしょうかね。
そして、それがばれたとたん、慌てて、思い違いで間違ったことを書いてしまった
などと言い出す始末です。
ばれなければ永遠に嘘をつき続けるつもりだったのでしょう。
そしてあれほど、「洪水はなかった、正造の虚構だ」とわめいていたのに、
そのでたらめの尻ぬぐいもせずに、関係ない新しい大嘘をつきはじめるのです。
ところで「欠陥とは特定はできない」という書き方は「否定もできない」というのと同義です。
もし否定できるのだったら、「欠陥ではない」と書くべきですからね。
ところで特定できないというのは、どこの時代のどんなえらい学者とどんな政府の
つくった権威ある委員会の報告にあるんですかね。
ところで、1902年9月28日の渡良瀬川大洪水はどうしましょう。
田川は大洪水がなかったなんて言ってないし、
探せば探すほど、このとき大洪水があったという記述ばかりが出てきます。
未だにたいした洪水はなかったなどと大嘘をつき続けるのは何故ですか?
474 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 00:07:05 ID:IxsE2P+W0
途中を省略して引用すれば、菅井益郎は、平凡社の『世界大百科事典』に「足尾銅山鉱毒事件」を
次のように書いています。この説明がどう問題なのかを、何回かに分けて解説していきます。
「鉱毒被害は1885年頃から渡良瀬川の魚類の大量死として顕在化し、90年8月の大洪水によって
被害が深刻化したため、鉱毒反対の陳情活動が開始された」
「翌91年12月の第2議会で田中正造は鉱毒質問を行い、足尾鉱毒問題は全国に知れわたった。その
鎮静化のために、被害民と古河の間にわずかの補償の示談契約が締結されたことから運動は一時
後退するが、96年9月、未曾有の大洪水が発生し、被害が茨城、埼玉、東京、千葉まで拡大したため、
田中正造らは反対運動を再編強化し、97年3月、数千の農民が2回にわたって政府に直接請願を行い、
鉱毒問題は一大社会問題となった」
「同年、政府は第1次鉱毒調査委員会を設置し、古河に鉱毒予防工事命令を下したが、工事はきわめ
て不完全なまま認可され、煙害の被害地の松木村は1901年、ついに全村移転し消滅した」
最後の2行をよく読んでください。
実際は、渡良瀬川沿岸の農地は復旧して何十万の彼害民は救われました。松木村の煙害は当時の
技術レベルでは解決不可能でしたjから、古河は全村40戸にお金を払い、立ち退いてもらいました。
それなのに、いったいなぜこんな嘘をつくのでしょう。まるで陰謀ではありませんか。
>>474 どこが嘘なのか、そこから説明してください。良く解りません。
>>474 どこも嘘じゃないじゃないですか。
松木が「全村移転」したのも、「消滅」したのも事実です。
(正確には1戸が残りましたし、当時の松木はもう足尾町と合併したあと
でしたが。戸数も40ってのは違いますけどね)
予防令工事が不完全なまま認可されたことは、翌年、つまり、
完工後1年もしないうちに小滝浄水場が崩壊したことでも明らかです。
もちろん小滝浄水場が崩壊したことは知ってますよね。
知ってて隠して、さも古河が立派だったように見せようとしているんですよね。
被害が出たから全村移転になったのであって、別に無関係な話をしている
わけではないでしょう。
それに、松木に被害が出るようになったのは、皮肉にも予防令工事のせいです。
それまで鉱毒ガスは本山・赤倉・間藤付近に主に流れていましたが、大きな
煙突を作ったせいで、遠方の松木にまで被害が広がったのです。
だからこそ、不完全な予防令工事の話の次に松木の話が出てくるのではない
ですか。
それはもちろん知ってるんですよね。
ところで1902年9月28日渡良瀬川大洪水はどうしましょう。
未だにたいした洪水はなかったなどと言ったまま訂正すらせず、知らん顔をして
関係ない新しい嘘をわめいているようですが。
実際にはこの日、大洪水があったのです。
菅井はきっと『足利市史』を見て、やあ、やっぱりこの日には大洪水があったんだ、
と考えたのでしょう。
>>474 書き忘れてたのでついでに書いておきます。
>実際は、渡良瀬川沿岸の農地は復旧して何十万の彼害民は救われました。松木村の煙害は当時の
>技術レベルでは解決不可能でしたjから、古河は全村40戸にお金を払い、立ち退いてもらいました。
またまた大嘘が。
当時の技術レベルでは解決不可能?
そんな馬鹿な話はありません。当時の技術で煙害を完璧に防ぐ方法が少なくとも1つ
あります。
それは、「鉱業停止」
製錬所を止めれば煙害は止まります。そんな簡単なことを何故古河はしなかったのでしょう?
それくらいのことをしたって、古河が路頭に迷うだけで松木村村民は誰も困りません。
足尾町民3万人の雇用がとかなんとか言い出す人もいるのでしょうが、それは
技術レベルとは何の関係もない話です。
>実際は、渡良瀬川沿岸の農地は復旧して何十万の彼害民は救われました。
救われなかった住民もいたわけですよね。少なくとも毛里田と三栗谷の住民は
救われませんでした。
それに、全部が古河さまのおかげで復旧したわけでもない。
トラブルが発生したら、「古河のせいとは断言できない」で、
復旧したら「全部が古河さまと大日本帝国政府のおかげ」では誰も信用しませんよ。
都合のよい部分だけ全部古河さまのおかげになってるのは何故ですか?
あなたの言い方が正しいのなら「被害地が復旧したのは、古河のおかげとは特定できない」
になるんじゃないですか?
478 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 20:00:51 ID:vBdobAHt0
平凡社の『世界大百科事典』で菅井益郎は、「足尾銅山鉱毒事件」をさらに次のように説明します。
「1902年、政府は第2次鉱毒調査委員会を設置し、鉱毒問題の治水問題へのすりかえをはかった。
そして、上流と下流の被害農民を分断し、甘言と強権をもって下流の谷中村民を遠くは北海道のサロ
マベツ原野などに移住させた」
「1907年、前年まで古河鉱業の副社長だった内務大臣原敬は、遊水池化に抵抗する16戸の残留
民に土地収用法を適用し、強制破壊を行った。田中正造と残留民はなおも仮小屋をつくって住み続
けたが、1910年、渡良瀬川の大改修工事が着手され、13年に正造が死亡したために、残留民た
ちもついに17年旧谷中村を立ち退き、鉱毒問題は社会の表面から消えた」
これをよく読んでどこが問題かを考えてみてください。
2ちゃんねるの希望は「コメントはなるべく短く」ですから、私の批判は次回にします。
>>474 それで、
>「同年、政府は第1次鉱毒調査委員会を設置し、古河に鉱毒予防工事命令を下したが、工事はきわめ
>て不完全なまま認可され、煙害の被害地の松木村は1901年、ついに全村移転し消滅した」
という部分のどこが嘘なんですか?
という質問には全く答えていないようですが。
どう見ても、あなたの文章よりははるかに正確な記述ですが。
で、指摘部分は、サロマベツ移住はちょっと時代があとかなあ、という程度で
ほかに重大な誤りはありません。
それともう1つ。
未だに1902年9月28日に渡良瀬川ではたいした洪水は無かったなどと大嘘をついて言って、
訂正もしていないようですが、
どう比較しても、菅井よりはあなたのほうがはるかに問題のあることを書いているように
見えます。
菅井が参照した『足利市史』はごらんになりましたか?
>>478 私の手元にある「世界大百科事典」では、
>07年かつて陸奥の秘書で前年まで古河鉱業の副社長だった内務大臣原敬は,
>遊水池化に抵抗する16戸の残留民に土地収用法を適用し,強制破壊を行った
>(同年8月刊の荒畑寒村《谷中村滅亡史》は即日発禁とされた)。田中正造と残留
>民はなおも仮小屋をつくって住み続け,(後略)
となっていて、あなたの引用と全く内容が異なるのですが、
その世界大百科事典は第何年に刷られたものですか?
まさかとは思いますが、荒畑寒村の著書が発禁になった事実を隠すために、
恣意的にの部分を消去して引用したとかいうわけではないですよね。
>(同年8月刊の荒畑寒村《谷中村滅亡史》は即日発禁とされた)。
この部分が抜けたまま印刷され刊行された世界大百科事典をぜひ見てみたい
ので、何年の何刷本なのか教えてください。
>>478 さらに追記
この方の引用とやらをよくよく本物の「世界大百科事典」と比較すると、
その他の部分も全く違っていました。
まるで、全く違う世界大百科事典が2種類あるかのようです。
この方が参照した版は、恐らく、菅井がこの項目を執筆したと書いてあるからには、
1988年以降の版だと思うのですが。もちろん世界情勢の変化に合わせて
細かい訂正はされていると思うのですが、「足尾鉱毒事件」の項目を、数年で
これほどまで大規模に改変する必然性が私には分かりません。
それにそれほどまでに大改訂するなら、執筆後に判明した事実を元に古い
記述を訂正をするほうが先でしょう。
私の参照した版は、2000年以降の版なのですが、奥付には「1988年
第2版」としか書いてなかった気がします。
>02年第2次鉱毒調査委員会を設置し,鉱毒問題の治水問題へのすりかえを
>はかった。そして日露戦争下世論の鉱毒問題離れが進むなかで,上流と下流の
>被害農民を分断し,甘言と強権をもって
この方の引用では、「そして日露戦争」かから「なかで」までが抜けています。
まるで、鉱毒の報道が減ったことを別の理由に仕立て上げようとしているかの
ようです。
>古河に鉱毒予防工事命令を下し(以後,全国の鉱山に不十分ながら鉱毒予防
>施設の設置が義務づけられた),農民には翌98年に地租の減免措置をとった。
>だが予防工事は
「以後,全国の」から「減免措置をとった。」までが抜けています。
>田中正造と残留民はなおも仮小屋をつくって住み続け,土地の不当廉価買収
>訴訟を起こし(1919年控訴審で一応勝訴)谷中村復活を目ざした。しかし10年
>渡良瀬川の大改修工事(1927完工)が着手され,
「土地の不当廉売」から「復活を目ざした」までと、「(1927完工)」が抜けています。
まるで、住民側が一応は勝訴したことを隠そうとしているかのようです。
また、明治期(1910年)から昭和期(1927年)まで、政府が古河市兵衛のたれ流した鉱毒
の後処理のための治水工事をし続けていたことを隠そうとしているかのようです。
>これをよく読んでどこが問題かを考えてみてください。
一番の問題点は、私の参照した「世界大百科事典」と内容が全く異なることです。
482 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 22:56:13 ID:unCA7ewU0
ははははは・・・・・・
手許に「世界大百科事典」がなくてすぐには参照できないと踏んで、
テキトーなことを言っていたみたいですね。まるでw
すげえ、ここまで卑劣な奴初めて見た。手口としてはつまらない奴の良く使うお馴染みのだけど。
484 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 21:08:28 ID:UQhooPNs0
>>475の方へ。これ以上やさしく書くのは無理です。どうか自分の頭で考えてください。
政府の第2次鉱毒調査委員会は、すでに述べたように予防工事の効果が出て鉱毒問題は解決した
から、次の対策として洪水の防止を目的に谷中村の遊水池化をはかったのです。「鉱毒問題の治水
問題へのすりかえ」などしていません。だからこれは彼の完全な屁理屈にすぎません。
上流の被害農民は、洪水を防いでくれるこの遊水池化に例外なく賛同しました。だから田中正造に
協力しなかったわけです。政府が「上流と下流の被害農民を分断した」も、事実無根です。
原敬は、「古河鉱業の副社長だった」から「土地収用法を適用した」のではなく、担当する内務大臣
だったからそうしただけです。学者が憶測で判断してはいけません。政府のバックには大多数の国
民がいるのです。原敬がどうして個人的な理由で土地収用法を発令できるのでしょう。
菅井益郎氏は、「公害は被害者側に立つべきだ」といいながら、ここでは、野口春蔵ら渡良瀬川上流
の圧倒的多数の被害民ではなく、下流の16戸の被害民と田中正造の側に立って、政府を批判して
います。それはなぜでしょう。ずいぶん勝手な話ではありませんか。
>>484 すいません。その世界大百科事典が第何年の版なのか
教えてください。
私が参照したのと完璧に同じ版はすぐには見ることができませんでしたが、
「1988年初版 1996年印刷」とある版では、私の引用したものと
一字一句全く同じ文言でした。
そして、あなたの引用とやらとは全く違いました。
さらに私の手元の「世界大百科事典」の記述と全く異なる部分が見つかりました。
文章全体の意味が全く変わってしまうような、重大な違いです。
>>474 >鎮静化のために、被害民と古河の間にわずかの補償の示談契約が締結されたことから運動は一時
>後退するが、96年9月、未曾有の大洪水が発生し、被害が茨城、埼玉、東京、千葉まで拡大したため、
私の手元にある記事ではこうです。
>その鎮静化のために被害民と古河との間に,わずかの補償とひき換えに
>いっさいの苦情を申し立てないことをうたった示談契約を締結させた。
>この示談工作と日清戦争の勃発により鉱毒反対運動は一時後退するが,
>96年9月未曾有の大洪水が発生し,鉱毒被害は栃木,群馬の2県から茨城,埼玉,さらには東京,千葉
>にも拡大したため,
「いっさいの苦情を申し立てないことをうたった示談契約を締結」が抜けています。
菅井はこの部分をわざと書き落とすような研究者では絶対にありません。
そんな世界大百科事典が世の中に出回っているとしたら、平凡社社長が菅井に
土下座しても償いきれないほどの重要な違いですので、ぜひともその「世界大百科
事典」のありかを教えてください。
私には、まるで、「いっさいの苦情を申し立てないことをうたった示談契約」が
存在したことを隠すために、わざと消したようにも見えますが。
まさか、勘違いで違う文章を書いてしまったとか言い出すことは
ないですよね。
>>484 理解しました。論理の講義で最初にやるやつですね。謎掛けだとは思わなかった。
>>484さん面白いな。
嘘つきが嘘っていってる事柄は嘘か本当か?って事ですね。
大学時代が懐かしいです。
488 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 21:04:45 ID:OPF8UcHM0
>>480,
>>481,
>>482,
>>483 の方へ。
>>474 を見てください。「途中を省略して引用すれば」と断っています。長い文章をそのまま引用する
のは、学術論文ではありませんから、不適切です。だからそうしたまでです。日経新聞が甲第3号証
として提出したコピーで、1988年3月5日初版、1994年印刷となっているものを使いました。
内容の要旨が伝わるとともに、原文をそのまま生かしながら相当大幅に削除し、それによって生
ずるつなぎ目の不自然さを直して読みやすくしてあるはずです。
全体のうちのどの部分をどう引用するかは、引用者の自由に任せられています。引用の仕方に
不満があれば、どうぞいくらでも自由にご意見を寄せてください。
その主張が正当かどうかは、読者が判断してくれるはずです。
>>488 それは引用とは言いませんよ。捏造です。引用なら省略した場所に「(中略)」と入れます。
それに省略したといいつつ全く違う文字が挿入されているのではないですか。
勝手に勝手な文字を挿入して何が「省略」して引用ですか。
「途中を省略して引用すれば」という日本語には、どこを略したのか書かずに、
勝手に文字を書き加えるという意味はありません。
>内容の要旨が伝わるとともに、原文をそのまま生かしながら相当大幅に削除し、それによって生
>ずるつなぎ目の不自然さを直して読みやすくしてあるはずです。
それが捏造というのです。原文をそのまま生かしながら? 冗談じゃない。
「いっさいの苦情を申し立てないことをうたった示談契約」という文言が入らない
限り、この文章は死んだも同然です。一番重要な部分を省略した上に、勝手に
違う文字を書き加え、しかも「(中略)」とさえ書かない。それは捏造以外の何物
でもありません。
だいたい、以前、途中を省略したときには「(中略)」って書いてたじゃないですか。
>>273や
>>328や
>>424ではそう書いてますよ。あなたはそう書かなきゃ、
ものかきとして信用を失うということを知っているはずですよ。それとも、
2ちゃんねるでは名前は出てない。自分が書いたんじゃないとかしらをきるつもりです
かね。それとも、最初のうちはちゃんと「(中略)」と書いて読者を信用させておいて、
肝心なときは捏造をやらかそうという魂胆ですかね。
>全体のうちのどの部分をどう引用するかは、引用者の自由に任せられています。
どこを引用しようが勝手ですがね。文章を切り刻んで違う意味の文章を製造する
ことは引用とは言いませんよ。
「示談契約を締結させた。」と「示談契約が締結された」では意味が全く違うでは
ないですか。あなたにとっては「殺させた」と「殺された」が同じ意味なんですか?
一文字でも変えたらそれは引用とはいいません。最低でも変えた場所に、
ここをどこの誰がいじったとどの読者も分かる印をつけなければいけません。
あなたはまるで、「いっさいの苦情を申し立てないことをうたった示談契約」
がまるで存在しないかのような文章を菅井が世界大百科事典に書いた、と
大嘘をついたのです。「(中略)」とあれば、ああ、引用部分にはないけど、
この「(中略)」の中に、いっさいの苦情を申し立てないことをうたった示談契約の
ことが書いてあるんだろうな、と、読者は推測することができます。しかしあなたは
それすらわざと怠ったのです。恣意的に嘘の情報を信じさせるために。
そうしなければならないことは、
>>273や
>>328や
>>424を書いた以上知っているはずなのに。
いずれにしても、ものかきとしてのあなたの寿命は今日を限りに終わりになりました。
どうぞ降壇してください。あなたがそうさせたのです。
「恣意的に引用するのは俺の勝手だろ」って一行で書けば良いのに。
記述を捻じ曲げてる自覚は有るのか。
犯罪的だな。
491 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/24(木) 20:08:18 ID:tEXQCugt0
>>486の方へ。騙されないでください。『世界大百科事典』の「いっさいの苦情を申し立てないことを
うたった示談契約を締結」は、事実ではありません。実際の契約書は以下の通りなのです。
「第1条 古河市兵衛は、粉鉱の流出を防ぐため明治26年6月30日を期し、精巧なる粉鉱採集器
を足尾銅山の工場に設置すること」
「第2条 古河市兵衛においては仲裁人の取り扱いに任せ、徳義上示談金として左のごとく(省略)
支出するものとす」
「第3条 前条の金円を古河市兵衛より支払いたるについては、明治29年6月30日までは、粉鉱
採集器の実効試験中の期間として、契約人民は何らの苦情を唱うるを得ざるはもちろん 、
その他行政および司法の処分を乞うがごときことは一切なさざるべし」
「第4条 明治29年6月30日以降に至り、粉鉱採集器がその効を奏したるときは、この契約は終
尾とし、互いに和親睦合すべし」
「第5条 粉鉱採集器が万一にも奏効を見ざるときは、更に明治26年7月より起算し、なお、将来
につき臨機の協議を遂げ、別段の約定をなすこと」
「第6条 古河市兵衛は、渡良瀬川の源流に連なる諸山の立木を伐採することあるも、該水源の涵
養を害せざることに努め、伐採跡へ苗木植付けを怠らざること」
つまり、契約は、「明治29年6月末までは苦情は言えないが、公害防止装置の効力がなければ協議
して契約の更新ができる」という内容で、実際、効力がなかったため仲裁が始められました。しかし、
この年の3回の大洪水によって被害が拡大し、被害民側に足尾銅山の閉山を求める運動が起こった
ため、協議は中止されたのです。『足尾銅山鉱毒事件仲裁意見書』(横尾輝吉の手記)で確かめてくだ
さい。
>>491 私は、菅井が「(前略)いっさいの苦情を申し立てないことを うたった示談契約を締結(後略)」
と書いた。
どっかの誰かは、それを消し去って、あたかも菅井の文章のように提示した。
それは捏造だといっているだけで、「いっさいの苦情を申し立てないことを うたった示談契約」が
あったかなかったかは問題としておりません。
それにあなたが手をかけた文章はここだけではないではないですか。
そうやって話をそらして、自身が菅井の文章に手をつけたことから読者の目をそらす
つもりですか。あまりにも見ていて見苦しいのでそれはやめたほうがいいですよ。
それよりも、すぐに全版元に連絡してご自身の著書のすべてを絶版にするほうが
あなたが先にやらなければならないことではありませんか。
494 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/25(金) 19:51:28 ID:gMYx3P560
>>492の方へ。
>>474も
>>491も、私です。
国学院大学教授の菅井益郎のごまかしは、次の点に最もよく現れています。
彼は「鉱毒問題は社会の表面から消えた」と書いたあとに「現代の鉱毒問題」という項目を付け加
え、そこに足尾銅山に起因する全く異なる公害問題を持ち出して、足尾鉱毒事件があたかも今日
まで続いているかのごとく説明しているのです。
「だが、1958年5月足尾銅山の源五郎沢堆積場が突如決壊し、群馬県毛里田村を中心に6000
haの農地が汚染され、鉱毒問題は再燃した。その後渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会の運動により
渡良瀬川にも水質保全法が適用されるが、農民の期待を裏切るものでしかなかった」
足尾銅山には、鉱毒事件により政府の命令で作られた廃石の堆積場の他に、1912年から60年
まで11箇所ほど堆積場が作られました。源五郎沢のそれは1943年に堆積が始まっています。
ですから、この公害事件は明治政府の命令による鉱毒予防工事とは全く関係がないのです。
日本経済新聞社は裁判で、この記述を証拠に「予防工事では農地が回復しなかった」と主張しま
した。そこで、事実を証明して相手を沈黙させましたが、大新聞社も菅井益郎の偽情報にだまされ
たわけです。ましてや一般の人は百科事典を頭から信じていますから、完全に情報操作されている
といえます。
>>494 それで、あなたが菅井の文章を捏造したという指摘についてはどうするんですか?
またしても知らないふりをして新しいでたらめをたれ流し続けるんですか?
まるで古河がたれ流した鉱毒と同じではないですか。
菅井の主張が正しいか正しくないのかは聞いてません。
あなたは、菅井の文でないものを、あたかも菅井の文だと思わせるような提示の仕方を
して、しかも、それを元に菅井が嘘つきだとかわめきちらしたんですよ。
他人が自分の都合に合わないことをちょっとでも書くと、嘘だ虚言だとわめきちらし、
自身の嘘がばれると素知らぬふりをする。
>ずいぶん勝手な話ではありませんか。
前にも書きましたが、あなたの発言の語尾は、あなたの文に対して使うのが
一番似合っているようですよ。
さて、ここからはそれ以外の方への忠告です。
冷静に
>>491を見返してください。この方の主張は既に内部で崩壊をしているのです。
契約書の文章に「徳義上」と書いてあるのは確認できますよね。既に指摘があるとおり、
古河は「金は出すが責任は認めない」という態度で示談交渉を始めました。契約書に
「徳義上」と書いたら、責任は認めないという意味です。それは明治時代から現代まで
変わりません。真っ先に責任を認めたというのは大嘘です。
ただ、そんな契約書を見て、何か徳義上だふざけるなってぶち切れた農民がいっぱいいて、
そのおかげで以前
>>449で紹介したとおり、「徳義上」の文字がない契約書も残っている
わけです。
繰り返しますが、「加害者責任をすぐに認めて被害者に賠償金を支払い、」という部分が
全くの虚言。加害責任をいっさい認めずに金だけ払おうとしたがそうは問屋がおろさなかった」
というのが事実です。
それに、明治29年6月末まで苦情は言えないことになっていたが、その後の分は再度契約
交渉をしようとしたら、新たな鉱毒被害が出て契約交渉どころじゃなくなったというのも事実
です。
しかし、それを認めるのなら、古河は、明治29年7月から、明治30年11月末まで、つまり、
予防令工事が完璧だった、と仮定したにしても、その時期の賠償をいっさいしていない、
ということになります。もちろんそれは事実です。
つまり、古河は被害が出たのに賠償もしていないというのを自身で明言してしまって
いるのです。
>>495 追記。
「自身で明言」というのは、この、菅井の文を捏造した方が明言した、
という意味で、古河が明言したというわけではありません。
念のため。
>>494 >
>>492の方へ。
>>474も
>>491も、私です。
好意的に言うと「信念の人」ですね。
では再度訊きますが、あなたは砂川幸雄さんですか?
匿名の掲示板と言えども、自分の責任で一連の書き込みを行ってらっしゃいますか?
ここ読んでたら
昔ヤフー掲示板にあった「ガス室はなかった」トピを思い出した。
(そこのスレ主さんはマルコポーロを廃刊させた記事の著者・・・)
異論なき事実と思われていたことに対する反証って歴史として見ると興味深い。
反証や再検証は大事だが、この人のは酷い。
「ガス室」が収容者の間での恐怖からのデマだったっていう話と、「田中正造は異常なんだもん、古河は悪くないんだもん。鉱毒被害はなかったんだもん。」
っていうのは比較できない。
みんなが大好きな南京虐殺の件で言うと、南京で大虐殺が有ったという事は再検証に値する。
でも、そこから日本軍は大陸で何も酷い事をしなかったっていう風に繋げると誰にも聞いてもらえず
2ちゃんをうろうろする位しかする事が無くなる。
500 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 20:13:38 ID:s6C+j0Aa0
>>497の方へ。「自己責任で書く」のは当然です。ここは匿名が原則になっており、皆さんが匿
名で書いています。私だけなぜ名前を明かす必要があるのでしょう。とてもヘンな話ですね。
私が誰なのかはどうぞ勝手に推測してください。
501 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/28(月) 20:56:45 ID:Ebo01wLU0
へえ、砂川じゃないのかもしれないんだ。こりゃ驚いた。
匿名だから何でも書き放題だそうだ。
だから無責任に人の文章や資料を恣意的に引用(捏造)したり、
デマを流したりも平気なのか。
一つの文章の中でも破綻してる人だから驚きはしないけど。
>>500 >>370で匿名がどうこうとかわめきちらした人とは別人のようですね。
それにしても日経と裁判やった匿名の人というのも珍しいですね。
そもそも民事裁判で匿名のまま被告席に立てるんですかね。
ところで、
>>494で、菅井の文を捏造した方はどうしたんでしょう。
自身のしたことの重大さにやっと気づいたんでしょうかね。
さて、ここからはそのほかの方への訂正です。
足利の柳原用水ですが、よくよく調べたところ、松田川からは直接は
取水していませんでした。
松田川の先に井戸が掘ってあって、そこから引いた水を、松田川をまたいで
送水しているそうです。何でそんなややこしいことをしなきゃならないのか、
門外漢の私にはさっぱり分かりませんが。
その柳原用水は、昭和28年(1953年)に鉱毒防止などを理由に取水口改良工事を
はじめています。それまで渡良瀬川からとっていた文を、上で紹介した新しい
井戸に差し替えたのです。
古河市兵衛の時代からこの時代まで、鉱毒は流れ続けていました。
つまり、鉱毒が止まったなどというのは真っ赤な嘘。
源五郎沢堆積場の崩壊はこの5年後の話です。つまり、源五郎沢堆積場
があろうがなかろうが、それとは別に古河は遅くとも1885年頃からずっと、
鉱毒をたれ流していたのです。それを、巨大な「源五郎沢堆積場崩壊事故」
を目くらましに使って、「源五郎沢は関係ない」と騒ぐことによって、それ以前
の19世紀からえんえんと垂れ流していた、その後もたれ流し続けた鉱毒を
「なかった」ことにしようとしているのです。
そして、そもそも、源五郎沢堆積場と予防令工事が関係ないというのも
大嘘です。古河鉱業が源五郎沢堆積場をつくったのは、1897年予防令が
あったからなのですから。堆積場に捨てるようにしなきゃだめだよ、という
1897年予防令は、1948年になってもまだ生き続けていたために、この
堆積場がつくられたのです。関係ないどころが大ありです。
ところで、1896年7月から1897年11月までの分の「賠償金」を、古河はいつ
払ったんでしょうね。
503 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/29(火) 21:04:29 ID:iqbTHPQb0
平凡社の『世界大百科事典』で菅井益郎は、この事件の解説文を次のように結んでいます。
「今、はげ山化したおよそ3000haの足尾山地では巨額の国費を使って緑化工事が進められて
いるが、一度失われた自然の回復はきわめて難しい」
「他方、最下流の旧谷中村を中心とする3300haの渡良瀬遊水池では、首都圏のための水がめ
化工事が進行中である」
「この上流と下流に広がる広大な荒野こそ、日本の急速な近代化の裏面史であり、<明治政府
失政の遺跡>ともいうべきものである」
被害地は疑いなく復旧しました(これを否定できる当事者の発言はありますか?)。
公害は日本経済の発展過程における必要悪で、その防止対策に政府がこのように成功した事例
は日本の公害の歴史上なかった、と見ることもできます。それなのに、なぜ<明治政府の失政>
という見解だけを書くのでしょうか。
その是非は別として、執筆者は、このような自分の見解を百科事典に書いていいのでしょうか。
百科事典は事項の解説書であって、自分の思想・信条を発表する著作物とは違うのです。
504 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/29(火) 21:38:46 ID:n/bHAZdS0
疑いなく復旧しましたって、未だに禿山が残っているというのに。
100年以上も経つのに・・・・・・
>>503 > 被害地は疑いなく復旧しました(これを否定できる当事者の発言はありますか?)。
そんなのはいくらでもあるので、まずは、菅井の文を捏造した上に、
その捏造した文を元に菅井が嘘つきだとわめきちらした理由を教えてください。
読者をだます以外の理由があるのならお聞きしましょう。
もう書き間違ったとか思いこみで間違ったことを書いたとかいういいわけは誰も
聞きませんよ。
「すべての被害地が復旧したわけではない」という当時の当事者の言及は、
『足利市史』にもあるとは思いますが、直球でそのまんまなことが書いてある
『群馬縣議会史』、『群馬県議会百年史』とかを開かれるとよいと思います。
さて、ここからはそれ以外の方への忠告です。
この方の言うことは全部嘘、それも、でたらめというよりは、読者をだますための
虚言のほうがはるかに多く、いちいちつっこみを入れていると、この方の文1行に
3行の突っ込みが必要なので、全部は到底書き切れません。
そもそも荒畑寒村の本を即日発禁にしたのが成功なんですかね。この人に
とっては。しかも、その荒畑寒村の本を即日発禁にしたことは、世界大百科事典
の「足尾鉱毒事件」の項目にはっきり書いてあるのに、それを削除した上で、
「政府がこのように成功した」などとでたらめをわめきちらしているわけです。
さらに、この方は菅井の文章の重要部分を全部外した引用をしています。
それは文章を捏造したわけではないので、「引用ではない」などとわめきません
が、そもそも菅井がこの項目で書いた本質的な部分はここです。
「今日の公害問題の特質のほとんどをそなえているため,日本の〈公害の
原点〉と称される。」
鉱工業を優先にして農業(など一次産業)をないがしろにしたこと、
毒のたれ流しを政府が事実上認めたこと
はした金を配ったことを元に、大金を賠償したかのように宣伝したこと
毒の垂れ流しの尻ぬぐいに莫大な血税を投入し続けていること
結局、毒の垂れ流しを認めたことによって、百年経っても回復しない、
重大な環境破壊を生じたこと
探せばこれ以外にもいくらでもありますが、要するにこういう、「いくら毒をたれ
流しても、尻ぬぐいは被害民が払った血税」という構図をつくりあげたのが古河
市兵衛であり、そして明治政府であるというのが菅井の主張です。
そしてそれが「公害の原点」と呼ばれるゆえんであるというのが菅井の主張です。
2007年も煙害復旧工事は続いているわけです。いつ全面解決したんですか。
下流域の用水路の鉱毒防止装置は、いつ操業を停止したんですか?
何で、梁田村民の血税を使って、足尾の山林に植林をしてよい理由があるんですか。
507 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/30(水) 19:56:10 ID:FDy2KQX50
日本史の辞典や百科事典の間違いやごまかしの原因は、田中正造が多くの嘘や捏造話を
執筆者たちが信じてしまったことにあります。皆さんは、嘘を言う人は信じないでしょうが、彼
らはそうではなかったのです。
すでに正造の「山崩れ豊作原因説」についてはかなり詳しく述べましたので、それ以外の正
造のうそ偽りについてこれからコメントを入れて行きます。
政治家の嘘、お役人の嘘、会社経営者の嘘、新聞やテレビの嘘など、最近は不感症になる
ほど嘘偽りがあふれかえり、犯罪と被害のニュースが絶えませんが、こんな状態は何とかか
えて行きたいものです。
だから、「ほら吹き」といっていいほど嘘をついていたこの人の実像を、あえて知っていただ
きたいと思うのです。「信じられない」でしょうが、事実だからしょうがありません。
>>507 ところで、菅井の文章を捏造した上に、その捏造した文章を元に菅井が嘘つき
とかわめきちらしたのは何故ですか?
読者をだます以外の理由があるのなら教えてください。
> 日本史の辞典や百科事典の間違いやごまかしの原因は、田中正造が多くの嘘や捏造話を
> 執筆者たちが信じてしまったことにあります。皆さんは、嘘を言う人は信じないでしょうが、彼
> らはそうではなかったのです。
私も嘘を言う人は信じないので、あなたの言うことは信じません。
> すでに正造の「山崩れ豊作原因説」についてはかなり詳しく述べましたので、それ以外の正
> 造のうそ偽りについてこれからコメントを入れて行きます。
この件に関し、1902年9月28日にはたいした洪水はなかったなどと未だに大嘘を
つき続けるのは何故ですか?
嘘つきは田中正造ではなくてあなたではないですか。
いつになったら足利市史をごらんになるんですか?
> 政治家の嘘、お役人の嘘、会社経営者の嘘、新聞やテレビの嘘など、最近は不感症になる
> ほど嘘偽りがあふれかえり、犯罪と被害のニュースが絶えませんが、こんな状態は何とかか
> えて行きたいものです。
あなたの嘘が抜けていますよ。
私もあなたの嘘があふれかえる状態は変えていきたいので、どんどん嘘をあばいて
いきますよ。
> だから、「ほら吹き」といっていいほど嘘をついていたこの人の実像を、あえて知っていただ
> きたいと思うのです。「信じられない」でしょうが、事実だからしょうがありません。
相当控えめに言いますが、あなたのほうがはるかに大嘘つきです。
それも、読者をだますために恣意的に製造した嘘を垂れ流しています。
ところで、
>>503 >被害地は疑いなく復旧しました(これを否定できる当事者の発言はありますか?)。
否定できる当事者の発言で、とても簡単に手に入るものがありましたので
ご紹介します。
鉱毒根絶毛里田同盟会が1972年に公害等調整委員会に申し立てたときの調停申請書に
書いてありました。
「(前略)毛里田地区においては明治二三年第一回洪水以後、今日まで八〇年の
苦痛に耐えてきた」
鉱毒がなくなったなどというのは大嘘です。群馬縣議会史とかのほうが
はっきり書いてありますけどね。
こんなに事実を突きつけられても、きっと関係ないとかわめくのが関の山でしょう。
いや。それすらしないでしょう。
そしてどっかの誰かさんは、これからも大嘘を垂れ流すのです。
古河の鉱毒のように。
こんな態度の奴が何を粉砕出来るんだよ。
日本史(特に7世紀以前)の本出してる民間の自称研究者はこんな奴ばっかりだけど、
近代史で同じ事を出来ると思ってるのが凄い。
510 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/31(木) 19:42:03 ID:QAEpAXFn0
学者や研究者も公認した正造の嘘でかなり重要なのが、「公害発生年」の捏造です。
足尾銅山で公害が発生した時期は、明治17(1884)年あたりというのが今の定説ですが、
長い間明治13(1890)年ごろとされていました。
田中正造が議会で何度もそう言い続けていたので、田中正造を義人と称えていた学者・研
究者たちが、何の疑いもなくその発言をずっと信じていたからです。
彼は、帝国議会でしばしば鉱毒は明治13年、あるいは14年、あるいは15年に発生した、
と発言し、その上、「栃木県知事の藤川為親は、渡良瀬川が汚染されているので、漁をする
ことも獲れた魚を売買することも禁止する、という布達を出した。この措置に不満を持った政
府は、知事を島根県に追いやった」という話まで創作しました。
511 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/31(木) 20:08:33 ID:67a/fgqQ0
話がまるで違うのかもしれないが、水俣病の発生年が「昭和××年から」と特定できるのだろうか?
イタイイタイ病の発生年が特定できるのだろうか?
明確に「昭和○○年から」と特定できなくても、原因企業の有毒物垂れ流しにより、多くの人が亡くなり、
あるいは病に倒れ、その惨禍は今もなお続いている。これは間違いない。
>>510 それで、菅井の文章を捏造した上に、その捏造文を元に菅井が嘘つきとかわめきちらしたのは何故ですか?
大嘘つきがいくらわめいても誰も信用しませんよ。
さて、ここからはそのほかの方への忠告です。
田中正造は、何故か、鉱毒発生年を明治13年ごろと言っていました。
で、藤川県令(今の県知事のようなもの)が「鉱毒があるから渡良瀬川の魚は売買禁止」という県令(県の命令)を
出した、と、国会演説で言ったのです。
最終的にはそれは間違いで、実際の鉱毒の発生は1885年頃、つまり、明治でいうと18年ごろというのが分かっています。
藤川の命令というのも存在しませんでした。
で、何で正造がそんな演説をしたのか、という話に移りますが、これには、鉱毒の話を正造に持ちかけた左部(さとり)
彦次郎という運動家が関係しています。
実は、正造は最初、鉱毒にはあまり積極的に動きませんでした。
ところが、農民たちが鉱毒反対運動を始めると、民衆を弾圧した明治政府によってたちまち弾圧されて本を発禁にされて
しまい、村議会で議決をしても、県や国によって握りつぶされ、運動は盛り上がりません。
困った農民たちは、「そういえば代議士って制度ができたそうだから、地元の代議士に頼んでみんべー」とおそらく足利弁で
相談し(佐野弁であった可能性もあります)、そして正造のところに話をもっていったのです。だから、最初のうちの演説は、
どっちかっていうと農民の主張がそのまんま入っています。
で、ここからが本題ですが、実は、明治13年に渡良瀬川の魚の売買を禁ずる布告がでた、というところを創作したのは、
正造ではありません。最初に正造に話をもっていった左部の創作だということが分かっています。左部はこれ以前に
役所勤めをしていたことがあったので、そのときの命令書の綴りの中で見た、というようなことを言っているようです。
まあ要するに、今の政治家と同じで、演説の陰にはブレーンがいた、そして、悪いことに、正造は質の悪いブレーンを使って
しまった、というのが実際です。
どっかの誰かさんはきっと、そんな嘘は調べればすぐ分かるとか大嘘をつくと思いますが、実は、この時代、つまり、正造が
最初の国会演説をした時代にはそれは調べることが物理的にできませんでした。
なぜなら、栃木県庁はそれ以前に火事で焼けてしまい、当時の記録は残っていなかったからです。
にもかかわらず、そんな命令がなかったことが分かったのは1970年代で、あるところに残っていた当時の県令の綴りを全部
ひっくり返した人が、「なかった」と証明したのです。
当時の県令を全部ひっくり返すのに80年以上かかったわけで、そんな調べればすぐ分かる、というのは大嘘です。先に書い
ておきます。
で、学者によっては、これはコレラが流行したときに魚を売買するな、って命令がでたのを混同したんじゃないか、って言ってる
人もいます。
ただ、コレラ予防のため魚の売買禁止、という命令書も未だに見つかってません。
で、「命令は口頭で伝えられた」とか言ってる人もいますが、そんな命令がでたのなら、沿岸住民の一人や二人は書き留めて
残しておくだろうけどそんなのもない、と反論してる人もいます。
最後はおまけでした。
というわけで、「正造の捏造」というのは大嘘で、「正造は左部の嘘をまんまと信じてしまった」が正解です。
正造はこのあと、「13年から繰り返し禁令がでた」と、演説での主張を変えます。
それが自身の保身のためだという人もいますが、私はほころびが見つからないよう、左部がつじつま合わせを図ったんじゃ
ないかと思います。
>>511 今では鉱毒発生が明治13年というのは、はっきり嘘だと考えられています。
そもそも当時の足尾のプラントは原始的なもので、大量の鉱毒を作れるほど、
産出量も多くはありませんでした。
それを、防毒もせずに莫大に拡張し、鉱毒をたれ流したのは何度も書きますが
古河市兵衛です。
で、ついでなのでさらに話を続けましょう。
この、「嘘の明治13年発生説」に対して、正造は悪人とか嘘つきとか言ってる
研究者はあまりいません。
まず第一に、左部の創作に乗せられたのが確実だってのが分かってますし、
第二に、発生年を明治13年にしたからといって、正造が得することがないからです。
むしろ、当時既に鉱毒があったのなら、そのとき県会議員で最後は議長までやった
正造は無策だ、と非難されるはずですから。
むしろその程度の間違いは、この時代の文書では普通です。
ところがこの人は、鉱毒発生年は正造の捏造!捏造!などとわめいておきながら、
田川大吉郎が自説の根拠とするために渡良瀬川大洪水はなかったんだろう
とか上流の農民は例外なく谷中村遊水池化案に賛成したなどという捏造を、
事実かのようにわめきちらしているのです。
正造の公害発生年に比べ、田川の捏造は相当に恣意的で、かつ悪質なものです。
当時の報道とかも見てみましたが、当時(1902年9月28日)に渡良瀬川ですさまじい
大洪水があった、という新聞報道があります。
それも、足利のどこで破堤したとか相当具体的なものです。
田川は大嘘をついたのです。それも、うっかり追求されても、「報道を見なかった」
とは書いたけど、洪水がなかったなんて書いてないよ、と言い逃れができるよう、
形を整えた上で。
谷中村遊水池化案についても、反対が多すぎて全然議会を通らなかったという
事実を知っていたはずです。
しかし、あたかも自身の説が正しいかのように読者を誘導するために、上流農民は
みんな賛成したとか大嘘をついたわけです。
いやむしろ、自説の賛成者を増やすために捏造したというほうが近いかもしれません。
でも何度も書きますが、この時代の鉱毒反対運動への批判者では、田川はこれでも
一番マシな人でした。
514 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/01(金) 20:37:32 ID:JizU36ML0
しかし、前述した話は全くの捏造だということが、1975年になって研究者の一人の東海林
吉郎により明らかにされました。
古河市兵衛は赤字の鉱山だったから足尾の山を買うことができたわけですから、この時期
にはまだ銅の鉱脈は見つからず、生産はほとんどゼロに近い状態でした。鉱毒汚染など起
こりようがないのです。
東海林が正造の捏造に気づいたのは当然ですが、彼はこの捏造を「正造の戦略的虚構」だ
として、決して批判してはいません。しかし、私に言わせれば正造の嘘は他にいくらでもあり、
戦略などまるで考えていない、単なる「ほら」に過ぎません。
>>514 ところで菅井の文を捏造した上に、その捏造文を
元に菅井が嘘つきとかわめきちらしたのは何故ですか?
なんだか、戦略的な嘘ならついていいのだとでも
言いたそうな書き方ですね。
ただ、残念ながら、明治13年説は単に左部の創作を真に
請けただけで正造のつくった嘘ではありませんでした。
で、単なる調査不足やミスと嘘をどうやって見分けます?
私にはそんな古い時代の人の言ったこと、書いたものの
ミスと嘘は簡単には見抜けませんね。
おまけにその場でばんばん思ったとおりのことを書いちゃうし
言っちゃう人ですからね。思いこみで違ったことを書いたり
言っても驚きはしません。
21世紀に生きている、大嘘つきと言われても反論もできない
大嘘つきの嘘ならもう少し簡単に見抜けますが。
何しろ未だに1902年9月28日には渡良瀬川大洪水はなかった
などと大嘘をついて、指摘されても直さないんですもね。
>>503 > 被害地は疑いなく復旧しました(これを否定できる当事者の発言はありますか?)。
あなたの住む世界では稀覯本の『足利市史』にも載ってたので引用してあげますよ。
「(前略)足尾銅山鉱毒問題は一時の小康にして未だ安全の域に達せず吾人は常に之が監視を怠ざるべし」
これは、「三栗谷用水普通水利組合書類」にはさまっていた、当時の大正14年2月26日付上毛新聞の切り抜き
です。(現物は私も見ていません。見たかったら三栗谷用水の事務所に行ってください)。記事は、群馬県側で
鉱毒反対の農民集会が行われたというもので、引用部分はそのときの決議の最後の部分です。
明治42年ごろから大正14年ごろまで、鉱毒関連の文書はほとんど出ません。
どっかの誰かさんは、そういうのを元に「明治の分は古河市兵衛の分で、大正以降の分は古河鉱業の分で関係
ない」とかまたしても我田引水な大嘘をつきまくると思いますので、予防のためにこれを引用しておきます。
鉱毒は予防令後も全くなくならず、鉱毒調査委員会は「予防令工事の前の分がまだでている」などと苦しいいい
わけをしましたが、予防令後28年経っても全然鉱毒がなくなりませんでした。何で予防令前の分が30年近くも
流れ続けるんですかね。そんなに流れ続けるんだったらその分の補償も当然古河がすべきですよね。
この時代、たまたま渡良瀬川に大規模洪水が少なく、他の水系の用水を使う農地の鉱毒は洗い流されて減って
いきました。そうして鉱毒被害地は徐々に減り、つまり、被害農民も徐々に減り、田中正造も死んで、組織が
壊滅してしまったおかげで鉱毒反対運動が盛り上がらなかっただけです。
しかし、渡良瀬川から用水を引いていた三栗谷、待矢場両堰の2つの用水路組合では、鉱毒被害は全くなくなり
ませんでした。鉱毒溜※はこの時代もなくなりませんでした。
何度も書きますが、明治42年から大正14年まで鉱毒に関する言及がないことは、鉱毒が消滅したことにはなりません。
ついでに書いておくと、「ここからここまでの分はうちの出した鉱毒じゃない」とかいう便利な嘘は、誰かさんの
大嫌いな古河鉱業のやりくちと全く同じです。
古河鉱業は、毛里田同盟会との調停交渉で、害があるのは明治時代の分で、今は時効だとかわめきちらしたのです。
公害の発生源を、そして、どこからどこまでを誰が出したのかを完全に判定するのはきわめて困難です。それを元に、
「誰々の出した分はこれしかない」とか根拠もなしにわめきちらすのはこの方や古河鉱業に限ったわけではあり
ません。そしてそれが、公害被害者救済をいっそう遅らせることになったのです。
そういう手法を編み出したのも、古河市兵衛ですね。だって古河は、仲裁人が被害額を計算するまでビタ一文も
出しませんでしたし、しかも、その被害額を値切りまくったのです。
まさか古河も、自分が死んで104年後の2007年に、自分のたれ流した鉱毒を除去するプラントが下流の太田で動いて
るなんて思いもしなかったでしょう。
これまたそういう100年後にツケをおいていく手法を生み出したのも古河市兵衛です。
※鉱毒溜:用水路と田んぼの境目に掘る深い(1〜2メートル)深い池。ここで鉱毒を沈殿させます。毛里田の田
んぼには1890年代から1970年代まで、田んぼ1枚ごとに必ずあり、それがなくなった時代は決してありませんでした。
1970年代に取水口改良工事をやったおかげでなくなりました。でも念のために書いておくと、その取水口改良工事は
国家事業として行われました。
はて? 鉱毒除去に被害民の血税を使うって手法を編み出したのは、どこの古河市兵衛でしたっけ?
鉱毒溜がなくならなかったことが、明治から昭和まで一度も鉱毒が途切れた時代がなかったことの証明です。
あと、ここでは古河市兵衛や古河鉱業がたいそう悪者になってますが、いくら何でも今の古河はそこまでろくでも
ない会社ではありません。
って書いても皮肉にしか見えないかもしれませんが....
一応、ちゃんと責任を認めて15億5000万円を払い、はじめて、「もう毒は垂れ流さない」って証文にはんこをついた
のです。
そういや古河市兵衛は、「もう毒は垂れ流さない」って証文なんかにはんこついてませんね。出てくるのは毒を垂れ
流すことを前提とした証文ばかりですね。
そんな輩のどこが誠実なんだか私にはさっぱり分かりません。
517 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/02(土) 18:11:50 ID:G+Id537c0
奥さんは、古河の嫁とは思えないほど誠実ですね。
人をやって鉱毒糾弾集会の様子を聞き、その後身を投げてしまった。
518 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/03(日) 01:02:48 ID:GzZiHanl0
砂川さんは足尾鉱山の実態はあまり詳しく無いけど、古河の栄光の歴史には詳しいよ。
519 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/04(月) 20:14:36 ID:Tsh7IoA90
公害がいつから起きたかは、被害民も加害企業もわかっていますし、布達が出たかどうかも
公文書ですから、調べれば虚偽だということはすぐばれます。
その当時正造は栃木県会の議員でしたから、「なぜあなたは反対運動をしなかったの?」
と聞かれれば、答えられないではありませんか。
こんなできの悪い捏造話が、どうして戦略的といえるのでしょう。私には全く不可解です。
公害発生年をごまかしたこの嘘は、当然のこと、同時代の人々はだませませんでしたから、
戦略的には何らの成果も生みませんでした。
しかし、当時のことは頭で考えるしかない昭和の学者たちをだますことには、大いに成功し
ています。
正造を公害反対運動の闘士として持ち上げた学者、研究者たちが、この嘘を頭から信じて
疑わなかったからです。次回からその実例を紹介していきます。
>>519 ところで菅井の文を捏造した上に、その捏造文を元に
菅井は嘘つきとかわめいたのは何故ですか?
しかし、私の言ったとおりの反応をする人ですね。
栃木県庁はその前の明治21年に焼けていて、明治13年の分の
記録は残ってませんよ。って書いたでしょう。
そんなのも知らずにわめきちらしたんですか?
焼けてなければ正造だって県庁に行って調べたでしょう。
じゃなければ県庁に人をやって調べさせたでしょう。
どちらにしてもこの人は、人の言うことなど何も聞かずに
ただ自分の都合のいいことをわめいているだけですね。
>調べれば虚偽だということはすぐばれます。
というのは真っ赤な嘘。どうやって焼け落ちた栃木県庁から書類を
探せるというのでしょう。
そもそも、この部分は左部の創作です。もちろんこの方は、それは
知ってるはずです。質の悪いブレーンを使った、と文句を言うなら
まだしも、まるで正造が嘘を製造したかのような言い方をするとは、
まさに読者をだまそうとしているとしか思えません。
521 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/05(火) 19:51:07 ID:uQasobKB0
社会主義者の荒畑寒村は、その時新思想にかぶれた若者にすぎなかったので、実
地には何も調べず、正造から聞いた通り次のように書きました。
「明治14年、栃木県知事が渡良瀬河岸の魚族の斃死を見て、初めて鉱毒問題の先
鋒をなすや、政府は実に鉱業主の利益のために、16年知事を島根県に追いたりき」
(『谷中村滅亡史』、明治40年)
参考までに記せば、この本はすぐ発禁になりました。わざわざ発禁になるようなことを
書いたからです。末尾の文章はこうなっています。
「ああ悪虐なる政府と、暴戻なる(人道に外れた)資本家階級とを絶滅せよ。平民の膏
血(油と血)をもって彩られたる、彼ら主権者の冠を破砕せよ。而して復讐の冠をもって
その頭(こうべ)を飾らしめよ」
>>521 はて、足尾鉱毒の「公式」発見者になっている須永金三郎も
やっぱり明治13年説を唱えました。
須永の著書『渡良瀬川』には確かそう書いてあります。
ちょっと手元にないので確認できませんが。
もっとも、須永がそう言い始めたのは、田中正造が国会質問を
してからです。
正造よりも先に鉱毒って言い始めた須永も言ってるんだから間違い
ないだろうって、当時の人もそれ以後の時代の人も思ってたのです。
>公害発生年をごまかしたこの嘘は、当然のこと、同時代の人々はだませませんでしたから、
というのは真っ赤な嘘。
そうそう。『足利市史 鉱毒編』にも似た記述があって、これは当時の
人が嘘を書いたんだろうって言われてますね。
ところで、菅井の文にある「いっさいの苦情を申し立てないことを
うたった示談契約を締結」 という部分を消去して違う文字をさし加えた
上に、その文を元に菅井が嘘つきとかわめきちらしたのは何故ですか?
それともう1つ。
明治24年の時点で、栃木県の出した命令を全部閲覧するには、
いったい、何という役所のどの部署に行けばよかったんですか?
栃木県庁は明治20年に焼けてますよ。それも全焼です。
正造は、左部の創作を確認しようにも、そのすべがなかったのです。
『谷中村滅亡史』は発禁になって当たり前みたいこと言ってますが、
『足尾之鉱毒』創刊号はどうしますか?
『足尾銅山鉱毒・渡良瀬川沿岸事情』は?
『女学雑誌』は?
明治政府は発禁という手段をとって民衆を弾圧したのです。
政府が民衆を弾圧しなかったなどというのは大嘘です。
ああ、書き忘れましたが
>(同年8月刊の荒畑寒村《谷中村滅亡史》は即日発禁とされた)。
この部分を消し去った上に引用だとかわめきちらして菅井の文を
捏造して提示したのは何故ですか?
それにしても、
>当時の県令を全部ひっくり返すのに80年以上かかったわけで、そんな調べればすぐ分かる、というのは大嘘です。先に書い
>ておきます。
ってわざわざ言ってるのに、そのとおりのことを書くとは、本当に
人間じゃなくて壊れたテープレコーダーというのがぴったりですね。
テープレコーダーじゃなければ、言うことを多少は変えますものね。
私なんか、実は自作自演じゃないかと疑われないかと心配に
なるほどです。
523 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/06(水) 21:02:39 ID:IDsyLnoA0
>>516の方へ。大正14年に書かれた新聞記事の「未だ安全の域に達せず吾人は常に
之が監視を怠ざるべし」が、どうして農地が復旧しなかった証拠になるのでしょう。
あなたの指摘する公害は、発生期は40年後、被害地域は渡良瀬川沿岸一帯でなく、
待・矢場両堰水利組合の関係地域だけ、主役の古河市兵衛も田中正造も登場しませ
ん。ですから「足尾鉱毒事件」とは全く無関係の事件です。
政府命令による予防工事以後多くの廃石堆積場がつくられましたから、原因も当の工
事の欠陥にあるとは特定できません。何の反論にもなっていませんよ。
>>520の方へ。正造の嘘を左部の創作にしてしまいましたね。しかも栃木県の文書が火事
で焼けたとか。県会議員だった正造が、なんで群馬県の造り酒屋の主人から、栃木で起こ
った公害や知事の人事や通達の話を聞かされ、だまされるわけ?
研究者たちが合意する通説まで否定するつもりですか?できの悪い嘘はつかないことです。
524 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/06(水) 21:15:07 ID:LfcFXpfN0
>>523 はて? 「主役の古河市兵衛も田中正造も登場しませ
ん。」ですと?
鉱毒予防令が不完全で鉱毒がまだ流れてるって群馬の県民が言ってるんじゃないですか。
だいたい、古河鉱業は、古河市兵衛のやりかたをそっくり引き継いで、鉱毒をたれ
流しまくるという手法をとったのではないですか。どこが違うんですか?
それに、鉱毒と古河は切っても切れない関係ですが、別に田中正造と鉱毒は切れ
れば切れる関係ですよ。垂れ流した本人でもないし、田中正造自信は被害農民ですら
ないのですから。正造の話がないのだから鉱毒と関係ないというのは大間違いです。
待矢場両堰は、1891年に医科大学教授丹波敬三を呼んで、(これは、足利郡が
呼んだ古在とかとは別です)結果報告会をしています。鉱毒溜をつくるといいよ、
っていったのは、実は丹波なのです。そして、丹波の時代から1970年代まで、
鉱毒溜は待矢場から消えませんでした。
毛里田の鉱毒防止プラントは、「いつ」操業を停止したんですか?
鉱毒溜以外にも待矢場の取水口部分には鉱毒防止装置がついてます。確か1890年
代に古河に金を出させてつくらせた装置がその起源で、私の知る限り、その装置が
止まった、という話は聞きません。もちろん何度も作り替えられましたが。そして、
作り替えられた理由は、鉱毒が予防できなかったからです。この前書いちゃってから
心配になって見にいきましたが、やっぱり今のプラントはまだ動いてましたよ。そんな
ものを作って維持して動かすのにだって、農民から用水代として金をとらなきゃなら
ないのです。鉱毒がなくなったのならそんなプラントはさっさと止めるはずでしょう。
そうでなければ、被害の少ない下流部の農民から突き上げがきます。
もう一度具体的に聞きましょう。「待矢場の鉱毒防止プラントが止まったのはいつです
か?」私の知る限り2007年現在まだ動いてます。そして、1890年代から止まったこと
がありません。
そもそも、鉱毒予防令で鉱毒がなくなったなんて、何度も言ってますがあなたの大好
きな当時の権威ある学者や権威ある調査機関は誰一人として言ってませんよ。
何度も言ったじゃないですか。予防令は1897年。1903年の鉱毒調査委員会は、「鉱毒は
まだある」と結論づけました。で、なくなった、って書いてある報告はどこにあります?
ところで、正造が鉱毒に出会うきっかけは、左部ではなく、足利郡の長と早川でした。
長らは、『足尾銅山鉱毒・渡良瀬川沿岸事情』を出したのですが、たちまち発禁に
されて困って正造のところに行ったようです。正造の日記で最初に「鉱毒」という文字の
現れる、その3行右に長と早川の名があります。
3行後は足利郡に鉱毒の視察にいったというもので、それ以前の長らの行動や、
最初に正造が見に行った場所が安蘇郡や群馬県ではなく足利郡というところからも、
最初のきっかけは長らだったとみるのがより真実には近いようです。
しかし、正造は、この年(1891年)12月28日、左部がとりまとめた群馬県側の被害
農民の請願書の提出を手伝っています。
正造の最初の鉱毒に関する国会質問はこの10日前に行われています。
このことから、左部が正造の鉱毒運動の最初期からかかわっていたというのは
まぎれもない事実でしょう。
「最初もっていったのは左部」というのは「最初に群馬側の被害の話を持って行った
のは左部」に訂正しますがそれ以外のところは直す必要はありませんね。
それに、正造は明治24年の演説では13年説は唱えてないじゃないですか。25年まで
の演説では、長とかの書いた内容をそのまま使ってるっぽいです。その後の演説でも
藤川県令はなかなか出てきません。
全集をざっとだけ見たところ、明治30年2月26日、はじめて藤川県令の命令とやらが
出てきます。もうこの時代は左部がばりばり正造のブレーンとなって活躍していた
時代でしょう。しかも、命令文を見た、という言及を残しているのは実は左部だけなのです。
長くなりすぎて入らないので、「菅井の(後略)」は今回省略します。
526 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/07(木) 20:34:34 ID:Bsw5yEPX0
自主講座・公害原論で東大教授よりはるかに有名になった東大助手の宇井純は、
「明治11年には魚の死骸が見られ、明治13年には知事が布告を出した」
と講義しました。
日本史の歴史事典の中で最も権威ある『国史大辞典』(吉川弘文館)には、
明治13年に栃木県知事が、「渡良瀬川の魚族は衛生に害があるにより
一切捕獲することを禁ず」と布告した、とまるで本物の資料を引用したかの
ように解説しています。
布告が事実なら、公文書ですから証拠があるはずです。執筆したのは経済学者
の塩田庄兵衛ですが、学者なのになぜ証拠を探そうとしなかったのでしょう。
>>526 そりゃ、何度も書くけど栃木県庁がそれ以前に焼けてるのを
知ってたからでしょう。
命令書の綴りも、栃木県庁の敷地からは出てきませんでした。
「13年の禁令はなかった」と証明した人も、あの栃木県庁の
敷地の外でそれを見つけたのです。
あそこが敷地の外かよって突っ込みはあると思いますがね。
そういうあなたは本当に栃木県の命令の綴りを全部めくって
調べたんですか? 「なかった」って言ってる人が嘘つきかも
しれないじゃないですか。
さあ、あなたのめくった栃木県の命令の綴りはどこにありましたか?
学者の学術論文じゃないからいいとか言い逃れをするつもりですか?
公文書なら記録が残ってるはずだってのなら、谷中村の村長の名前
を順に全員、任期も含めて提示してください。17年しかなかった村だ。
村長の名前を全部挙げるのなんか簡単ですよね?
そうそう。その前に、足尾にある堆積場すべての認可日を提示してく
ださい。まさか、源五郎沢堆積場の認可書類は戦時中のどさくさで
見つからないなんていう、古河鉱業や政府みたいな言い訳はしません
よね。公文書なんだから、証拠が残ってるはずですよね。
だいたい、あの学者はうそつきとかわめていてるくせに、
いざとなると通説とか違うとか、ほかの学者の権威にすがるのは
何でですか。
そうそう。今回は言い忘れないように書いておきますね。
菅井の文から「いっさいの苦情を申し立てないことを うたった示談契約を
締結」という部分を消し去って別の文字を差し加えた上に、その文を
あたかも菅井の文のように提示したのは何故ですか?
さて、ついでにちょっと訂正です。
急いで書いた分が多いので、綿密に調べたらいくつか違ったことを書いて
しまいました。どっかの誰かと違って、突っ込まれる前にちゃんと訂正して
おきます。
>>206 >鉱毒被害地は永島の出身地安蘇郡だけじゃあり
永島の出身地は群馬県邑楽郡(安蘇郡の対岸)でした。
>>459 >日立鉱山では1900年に煙害による公害を出しています。いったいどれくらい
1907年の誤りです。
>>502 1897年予防令は、1948年になってもまだ生き続けていたために、この
1948年ではなく、1943年の誤りです。
>>522 >栃木県庁は明治20年に焼けてますよ。それも全焼です。
明治21年の誤りです。
528 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 10:15:50 ID:+vD0qnjN0
田中正造の嘘は、客観報道をしなければならないはずの新聞記者まですっかり
洗脳しました。
毎日新聞の木本正次記者は、『四阪島 公害とその克服の人間記録』(1971年)
に、正造のでっち上げた作り話を何ら検証することなく、嘘の中身を更に増幅し、
次のような尾ひれをつけています。
「早くも明治14年頃から魚類の死滅、農作の不振となって地元の怨みを買った」
529 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 10:18:12 ID:+vD0qnjN0
同じく毎日新聞の元記者である川名英之は、自己の想像力を膨らませ、『ドキュメ
ント・日本の公害』というタイトルなのに、小説を上回る次のようなフィクションを書
きました(第4巻、1989年)。
「明治12年夏、渡良瀬川ではそれまでにない魚の大量死が発生した。白い腹を
見せて浮かび上がった魚は推定数万尾。さらにこの年の初秋には出水し、水と
一緒にあふれ出たウナギは弱っていて、幼児さえつかめたほどだった。この年、
古河市兵衛は、足尾銅山に銅を製錬するための機械を据え付けて稼動させ、
鉱毒が大量に渡良瀬川に流れ込み始めたからである。」
足尾銅山が本格操業をしていない時ですから、機械も据え付けていませんし公
害も発生していません。全部がドキュメント作家を騙る川名英之の創作です。
>>529 相当控えめに言いますが、あなたのほうがはるかに創作ですね。
菅井の文から「いっさいの苦情を申し立てないことを うたった示談契約を
締結」という部分を断り無く消した上に関係ない文字を書き加えて
「引用」とか言ってるんですからね。
確かにそれは創作に違いありません。
>に、正造のでっち上げた作り話を何ら検証することなく、嘘の中身を更に増幅し、
そこまで言うなら、あなたは当然、検証したんですよね。
当時の県の命令書の綴りは一体どこにあったんですか?
もちろん、見た人がいるんだから、その綴りは明治時代から今まで、ずっと
日本のどこかにはあったのですが、ずっとあったことは簡単にいつでもずっと
読めたという意味にはなりません。
>に、正造のでっち上げた作り話を何ら検証することなく、嘘の中身を更に増幅し、
さらにもう1つ。そこまで言うなら、あなたは田川大吉郎のでっち上げた作り話を
当然、検証したんですよね。
1902年9月28日に渡良瀬川で大洪水があった、という記述は探せば探すほど
莫大に出てきます。当時の東京の新聞にも出てますよ。
田川は報道を見なかったとしか言わなかったんだから、当然、それを
検証するために、当時の報道は全部当たったんですよね。
うらやましいですね。私は当時の下野新聞をまだ読んでません。
下野の本社は空襲で焼けて、この時代の分は完全には本社にも完全
には残ってないからです。
ぜひ、あなたが当時の下野新聞を読んだ場所を教えてください。
まさかその場所は、妄想の国ではないですよね。
で、結局この「明治13年説」は、ただの間違い以上の何物でもありません
でした。
13年が本当は18年だっただからといって被害を被った人もいないし、そ
れで田中正造が得をしたこともないからです。
だからこそ、歴史学者たちは「何でそう言いだしたのか」「どういう意図が
あったのか」を気にして研究しているわけです。
ところが田川の嘘は、自身の主張を読者に信じ込ませるために嘘を
ついたのです。
1902年9月28日に渡良瀬川大洪水がなかったなどというのは大嘘です。
洪水がなかったということにすると、以後の「谷中村が自然遊水池に
なって上流の洪水が防げた」という大嘘が成立するので、田川はどうしても
そういう事実を捏造したかったのです。
531 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/08(金) 23:18:21 ID:SqqwJq050
頭悪そうなスレ主に突っ込み
で、直訴の3年後に完全に回復したはずの農地が、
つい最近まで禿山だったのくらい知ってんだろ?
532 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/09(土) 14:30:03 ID:da8PQGhp0
ちょっと待てよ。
>>531 農地は山じゃないだろう?
砂川さん、夏ばてか。
534 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 19:53:10 ID:mTVl+4La0
規制のためしばらくコメントできませんでした。「ほら吹き正造」のつづきです。
正造のでっち上げた嘘に更なる脚色を加えて世間をだましている悪質な小説
家がいます。
それは、無から有を作ることが得意な三好徹で、『日刊ゲンダイ』に連載した
『政・財腐食の100年』に、彼は堂々と次のように書いています。
「渡良瀬川の川魚が危ないことは、明治13年に栃木県知事藤川為親の通達
で知れ渡った。彼は、川魚を食べたものが吐いたり手足がしびれたりするとい
う報告を受けて、川魚を食べてはいけないと通達した。そのために島根県に
転任となった」
しかも、驚いたことに、三好はこの箇所より少し手前に次のように書いています。
ですから、自分が書いている話の矛盾にも気づかずに嘘をいっているのです。
「(足尾銅山の)操業許可は明治10年10月である。しかし、はじめは赤字だった。
いっこうに眠れる鉱脈にぶつからなかった。明治17年5月。ついに新しい鉱脈を
掘り当てた」
535 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 19:55:31 ID:mTVl+4La0
また、『幕末・明治 陰の主役たち』という著書に、三好はこう書いています。
「古河の妻のお為は、神田上水で投身自殺をした。新聞は鉱毒と結びつけて書き立
てた。古河は銅を掘りつづけた。妻の死にも動じなかった。<鈍>とはそういうことかも
しれなかった。妻の葬式の日にも、各営業所への指示書をいつものように書いた」
これは完全な作り話だと確信したので、当時の新聞を調べてみました。
すると、次の記事が見つかりました。
「夫人の横死せし以来、(古河市兵衛は)とかく鬱々として引きこもり、一昨日は青山
博士の来診を請うなどした」(『時事新報』明治34年12月13日)
>>535 三好徹という人のことはよく知りませんが、
あなたが菅井の文章を捏造したのは何故ですか?
夫人が死んだときの古河市兵衛に関する記述は断片的なものしかありません。
「葬式の日に指示書を書いた」人物が同時に「来診を請うた」としても、
それは両方成立しうるではないですか。
少なくとも、古河市兵衛は、夫人が死んでも銅を掘り続けたのは事実では
ないですか。「もう銅掘るのやめた」って言ったんじゃないんだから、少なくとも
その部分は嘘ではないですね。
だいたい、それこそ、「主役の古河市兵衛も田中正造も登場しない」ではないですか。
都合が悪くなったときだけ、「主役の古河市兵衛も田中正造も登場しません。」ですか?
三好徹も古河夫人も、鉱毒事件の当事者ではありませんよ。
ところで、そこまで当時の新聞を調べるのなら、1902年9月末から10月頭までの
新聞は当然、調べうる限り調べたんですよね。
9月28日に渡良瀬川大洪水があった、って書いてる新聞がありますよ。
その新聞は今は私の手元にはありませんがね。
足利郡では借宿と田中で破堤して、鉱毒汚染土が田畑に流れ込み、
山辺村から梁田村に達し、それでもおさまらなくて、久野村まで達したそうです。
この記述は、室田忠七日記や、久野村から出ている文書に一致しますね。
少なくとも新聞記者が嘘っぱちを書いたのではないのは確実です。
しかし、田川大吉郎は大嘘を書きました。
しかもあなたは、田川の大嘘をうのみにして、「洪水はあった」と言った田中正造を
嘘つきよばわりしたのです。
あなたにはまだまだ答えていただかなくてはならないことがたくさんあります。
> この時は、谷中村周辺以外は洪水は起きませんでした。
などという大嘘をついたのは何故ですか?
足利市史をごらんになりましたか?
あなたの前提が、『足利市史』よりも正確だという判断は何故できるのですか?
ご自身が大嘘つきであるということは認めるわけですね?
1891年から現在までの間で、待矢場の鉱毒防止装置がなかったのはいつから
いつまでですか?
明治30年当時、栃木県の出した命令書の綴りはどこにありましたか?
源五郎沢堆積場の認可書類を出してください。
「公害防止工事が鉱毒の除去に成功した」
ってのは由井の本のどこに書いてあるんですか?
鉱毒調査会が鉱毒がなくなったなどと報告した、とかいう
大嘘をつき続けるのは何でですか?
調査会報告は「鉱毒は減った」でしょう。
鉱毒がなくなった、というのは、いつの時代のどんな政府の何という権威ある委員会で、
何という権威ある学者が言ったんですか?
>この掲示板に思い込みで間違ったことを書いてしまいました。誠に申し訳なく、深くお詫びいたします。
とか書いている張本人が
> 大概のことは間違っていないという自信はありましたが
などと言ってのけられるのは何でですか?
まるで政府が農民を弾圧しなかったかのような大嘘を
わめきちらすのは何故ですか?
「足尾之鉱毒」創刊号発禁事件はどうしますか。知らないとは
言わせませんよ。運ナントカに書いてあるんですからね。
ああ、あと、誰もあなたを規制なんかしてませんよ。
537 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 21:54:12 ID:PlKIIPz20
また規制とか言ってるのか。学習能力無いなあ。
現在の2ちゃんの利用の仕方や運営の現状もも理解出来てない人が、
明治の事柄を検証しようって時点で能力超えてないか?
さすがにまた「論談」にわけのわからない電波は飛ばさないのですね
>>537 いや、大先生はたぶんdion軍w
全員規制されてた。
540 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 20:10:42 ID:82OtROc10
公害発生年については、正造が起草した明治30年2月26日付けの「鉱毒被害地復
旧請願書」には、次のように遠慮がちに述べられていました。つまり、農作物の被
害がはっきりしたのは明治23年だった、といっていたわけです。
「栃木、群馬、埼玉、茨城4県に及ぼせる損害は、すでに明治12年にその兆候あり
といえども、われら人民は・・・ついに久しく被害の現象を見ることなかりき。しかるに
同13年に至り栃木県令藤川為親氏より衛生上の注意として渡良瀬川の魚を食す
べからず、売買すべからずとの諭告ありしにもかかわらず、・・・田畑における鉱毒の
害なお隠微にして未だ著しく人目を引くものあらざるをもって、わずかに魚類の死亡を
怪しみたるのみなりしが、物代わり時移り、明治23年の洪水に至りて、農作物の発生
せざるを認めしより、ここに初めて鉱毒の害を知り、大いに喫驚せり」
541 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 20:12:33 ID:82OtROc10
ところが、なんと正造は同じ栃木県の被害農民である野口春蔵宛の、明治36年9月4日
の手紙には、全く別のことを書いているのです。彼の言うことは次々変わっています。
「去る明治14,5年の頃、小山八郎の庭宅、下羽田の問屋の近く、雲竜寺辺、下野田の
石川輝吉の庭宅などが、15,6年前に比べ、見るかげもない有様になっていた。惨憺た
る鉱毒はすでにかくのごとし」
何時ごろから公害が起こったのかは、被害農民が一番よく知っています。
栃木県植野村の被害農民・関口幸八の日記にはこうあります。
「明治18から19年のころより始めて鉱毒のきざしあり」(『校注足尾鉱毒事件史料集』)
542 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 21:09:58 ID:I06fXTzP0
>>539 一面的な事実のみを取り上げる悪質なデマと同じ手法でも真実に辿り着く事は有るんだな、
ごく稀に。
>>541 それで、菅井の文章を捏造したのは何故ですか?
1902年9月28日に渡良瀬川大洪水はなかったという大嘘をつき続けるのは何故ですか?
田中正造の鉱毒発生年の食い違いは、誰がどこで いつ嘘を言ってそれを正造がいつ
真に受けたのかがさっぱり分からないので相手にしようがありません。
明治18年には、朝倉村から、数年前に鉱毒があったって文書が出てる
んですからね(この文書は、朝倉村の住民の捏造だろうと言われています。
ちなみに、この文書の作成には田中正造は関わっていません)
正造の国会演説とかを見ると、最初のうち(明治24〜29年頃)は、
『足尾銅山鉱毒・渡良瀬川沿岸事情』に基づいた、正しいことを言っています。
あとになればなるほど、どうも事実と食い違いが多くなるのは、被害農民が
いつから鉱毒が起きたのかよく覚えていないのに言ったことだけうのみにして
そのまま演説とかに使った分も大いにあるでしょう。
当時の鉱毒反対運動参加者で、日記とかをつけていたのは室田忠七とか
数えるほどです。著名な運動者の中にも文盲も何人もいます。ここでも何度も
出ている島田宗三の兄、嶋田熊吉も文盲です。熊吉名義の文書は全部、 宗三の代筆です。
文字も読めないような人々が当時の記録を残しているはずもなく、
ということは、鉱毒発生年についての言及も、あとの時代になればなるほど
あやふやでいい加減なことになるのもまた当然です。
そして、後世の時代に残るのは、当時としてはどちらかといえば例外の、
「当時既に文字の読み書きができた農民」による記載のみです。
文字による記録の時代じゃないものを、文字による記録に頼ろうとすれば、
言及と記述に食い違いが生じるのは当然でしょう。
それは「正造の嘘」と呼べるものとは質的に全く異なるものではないですか。
それらの食い違いで正造が得をしたこともなければ、誰かを窮地に追い詰めたわけでもない。
何度も書きますが、誰も得も損もしていない以上、それは積極的につくった
嘘とは認めがたいです。
あなたにとって嘘と間違いの違いは何ですか?
私の見る限り、あなたにとって都合のよい食い違いは「嘘」、都合の悪い食い違いは
「間違い」という区分けしかしていないようですが。
ところが、田川大吉郎は、事情をよく知らない人に自説を信じ込ませるために、
1902年9月28日に渡良瀬川大洪水がなかったかのような大嘘をついたのです。
だいたい、谷中村で破堤したからといって、上流の洪水は防げません。
だって、上流のほうが標高が高いんですよ。
谷中村の標高は13メートル。5メートルの堤防をつくったとして、洪水が防げる場所は
標高18メートルよりも低い場所だけです。
しかも、当時はそんな立派な高さの堤防はありません。
足利の標高は30メートルくらいあります。標高30メートル地点にとって、
田川の主張は、前提時点で既に破綻しているのです。
標高18メートルの堤防は何の意味もありません。
だから、当時、渡良瀬川は、足利郡と下都賀郡谷中村で別々に破堤したのです。
そんなことはちょっと考えればすぐ分かるのに、田川は、あたかも谷中村が
自然遊水池化したことによって上流の洪水が防げたかのような大嘘をついたのです。
「正造の嘘」とやらは、どう見ても正造が得をするような内容ではない。
しかし「田川の嘘」は、自身の主張を真実であるかのように見せかけるための、
人をだますための嘘です。
田川は知ってたはずですよ。自身が嘘をついていることを。それは当時の田川
の言動から推測できます。印刷されて図書館におさめられた文献に、そうだと
考えなければ成立しない記述が残っています。
まあ、田川が生きてたら、そんなことを書いたことを忘れていたとか、誰かさん
みたいな言い訳をきっとすると思いますがね。
さあ、その文献はどこの図書館にあるでしょうか。そしてその文献の名は。
そういう文献があるというのははったりじゃなくて事実です。
もちろん、どっかの誰かさんは当然、その文献をあたったんですよね。
そして、どっかの誰かさんは、田川が意識的に嘘を書いたのだとはっきり分かる
文献をわざわざ出してきて、洪水はなかった、正造は嘘つきとかわめきちらしたのです。
544 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/17(日) 20:23:27 ID:SQjtnErB0
正造の嘘にみごとに引っかかってしまったのは、小説家の立松和平です。
彼は足尾鉱毒事件かかわるものとして、『恩寵の谷』と『毒 風聞・田中正造』という
二つの小説を書いていますが、後者には、公害発生年の正造の嘘に完全にだまさ
れた証拠が見られます。
この小説の第2章には次のような部分があります。
「マルタという魚の最盛期は、桜の花の盛りです。ハヤは、梨の花の盛りを
旬(しゅん)といたします。渡良瀬川の川幅いっぱいに網を張りますと、慶応
より明治12,3年の頃までは一晩に百貫以上はとれました。(中略)鉱毒被
害以来、マルタもハヤもまったくとれません。」
「明治12,3年頃を境に魚がとれなくなった」とするこの記録は、まぎれもなく正造
によって捏造された「公害の発生は明治12,3年頃」説に準拠しています。
545 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/17(日) 20:25:31 ID:SQjtnErB0
実は、立松がここにほぼそのまま引用した資料は、庭田という農民が正造に言われ
て明治31年に書いた「鉱毒地鳥獣虫魚被害実記」という作文ですが、この作文自体
よく読むと相当いい加減なものだと言うことがわかります。
上記のように、この記録は「昔は自然がこのように豊かだったが今は違う」といって
いるだけです。全部がこのような書き方になっていて、どの程度の自然破壊があった
のかは、どこを読んでも具体的には何も述べられていないのです。こんな話なら誰だ
って書けます。「実記」ではなくて明らかな「創作」で、まともに取り上げるような資料で
はないのです。
546 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/17(日) 20:37:57 ID:2IVG5spz0
で、砂川さんの嘘に見事に引っかかった人っていうのは出て来てますか?
このスレの最初の方でで砂川さんがどれだけスットコドッコイな人間かという事に気付かずに
ホイホイ同調してた一部のオッチョコチョイ以外に。
そんな人も最近では現れなくなりましたが。
>>545 あのですね。それは「明治12,3年頃までは魚がいた」って書いて
るだけで、「13年に大被害があった」って書いてないんじゃ
ないですか? 別に嘘でも何でもないでしょう。
庭田の文のほうは全文を読みましたが、残念ながら庭田は「いつ」が
鉱毒発生年なのだかは明言してませんよ。
庭田の文章はそれなり以上に正確だって言われてます。
庭田の文によって、渡良瀬川沿岸にかつて存在していて明治31年までに
絶滅した動植物が何種も分かっているのに都合が悪いと誰でも書ける
作文になるそうです。
そんな作文は誰でも書けるというのなら、ワタラセツリフネソウが当時
庭田の家のまわりにどれくらいの頻度で分布してたのか、「作文」して
くださいよ。
庭田はワタラセツリフネソウについては記述を残しませんでした。
もし分かったら相当な大発見ですよ。
「立秋七月の節、田面の水を干ます時、水門又は堰抔を払ゐますと、
田毎に水の落口にうけを置ますると、鰌、小魚が多く取れました。
近頃鉱毒被害のため、更に取れません。」
これが誰でも書ける作文なんですかね。私は吾妻村で田んぼを
耕してる人にしか書けない文章に見えますがね。
ところで作文というのなら、どこがどの程度事実と異なっているのか、
当然、権威ある政府の権威ある委員会で権威ある学者がそう発言した
んですよね。1870年代、吾妻村の田んぼについて、ドジョウはとれな
かった、と明言したえらい学者の名前を教えてください。
いやその前に、庭田の文章のどこが作文なんですか。
じゅんさいは元から吾妻村ではとれなかった、って断言したえらい
学者の名前も教えてください。
当時、渡良瀬川沿岸にホタルは存在しなかった、と明言したえらい
学者の名前も教えてもらわなくちゃいけませんね。
ところで、菅井の文章を捏造したのは何故ですか?
庭田は明治12,3年頃まで魚がいっぱいいた、って書いただけで、
別に嘘を書いたわけではありません。
ところがあなたは、菅井の文は捏造する、1902年9月28日に渡良瀬川
大洪水はなかったなどと、当時の誰も言っていない大嘘をつく、
それで相手をしてもらえるだけで有り難いと思ってください。
それに作文したのはあなたですよ。菅井の文とやらを作文したんです
からね。
548 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/18(月) 19:34:27 ID:UEfQm02j0
明治30年代の、何時ごろ公害が発生したかをはっきり知っている被害者がいた頃で
さえ、『足尾銅山鉱毒問題実録』(明治30年刊)のような文書が出回り、次のような情
報を流していました。
「明治13年、足尾銅山で欧州より輸入した大型機械を据えつけると渡良瀬川の魚が
死にはじめた。この年の夏、荷物を積んで東京と栃木・群馬を渡良瀬川を往来する船
があったが、喉が乾いて水夫が川の水を飲めば、唇はただちに紫色に変じた。沿岸
の農民が洪水時の流木を拾って焚き火をすれば、顔面も手足もたちまちにして亀裂
するのだった」
もちろん、明治13年には足尾銅山では銅の富鉱が見つからず、生産力がなかったの
で大型機械を買うことなどできるわけがありませんし、公害が起きるわけもありません。
それなのに、これほど本当らしい話を創作したのですから、多くの公害反対動家が、正
造の嘘に合わせて虚言を吐いていたと考えるべきではないでしょうか。
被害者は受けた被害を大きく言うし、このように嘘も言うものです。それにしてもひどす
ぎると思いませんか。
>>548 ところで菅井の文を捏造したのは何故ですか?
私は、菅井の文を捏造したことに比べれば、そんな、 被害額がたいして変わるわけ
でもないような違い、それも、どう見ても人をだますためではない違いは取るに足ら
ない 問題に見えます。
菅井の文を捏造したというのは重大な問題ですがね。
そこまで書くなら、明らかな古河の手下の書いたもっともっとひどい文献がいくらでも
ありますけど、そっちも出してきたほうが いいんじゃないですか?
要するにこの時代は、鉱毒被害者と、古河の手のもの(ほとんどが匿名で、田川のみ
が実名で本を出しました)が文書を互いに出して 泥仕合を繰り広げていた時代。
そんな泥の投げっこの、一方の記述のみを取り上げる理由がよく分かりませんな。
まあ、そういう文献を出してきても、自身の都合のよいものだけは「こんな事実がある!」で、
都合の悪いものは「誰でも書ける作文」で 済ませるつもりでしょうけどね。
で、明治17年が明治13年に書き換わってたからといって、誰かが大変な損をしたんで
すか? あるいはそう思いこませることによって、誰がどれくらい得をしたんですか?
誰も得も損もしていない以上、それは意識的な嘘と言い切るのはとても難しくて、
ただの間違い以上の何物でもないかもしれませんよ。
まあ、田中正造が積極的に嘘をついた、って言ってる学者もいるようなので、間違い
だって断言はしないでおきますが、私は間違い説をとりますよ。
もし、何か理由のある嘘だとしたら、明治13〜17年に農商務大臣だった人物の失脚を
狙うため、というくらいしかネタが考えつきません。
念のため調べたところ、明治13年時点の農商務卿(まだ農商務大臣じゃなかった
時代)の河野敏鎌は、明治30年の正造の最初の「明治13年」演説の前に死んでます。
明治14年から17年の農商務卿は西郷従道。正造の質問の頃は海軍大臣で元帥に
なってます。そのあと内務大臣にもなってますから別に失脚とは無縁の生活だった
ようです。明治35年(1902年)に死んでます。ひとまず、誰かの失脚をはかるために
正造がつくった陰謀ではないことだけは確かです。
ところが田川大吉郎は、自身の主張がさも真実であるかのように読者をだますために、
1902年9月28日の渡良瀬川大洪水がなかったかのような嘘を意識的に書いたのです。
標高13メートルの谷中村が自然遊水池になっても、標高34メートルの足利郡の破堤は
防げません。
もうその時点で嘘を書いているというのが分かるのに、田川は人をだますために
洪水がなかったかのような書き方をしたのです。
しかも、あとで突っ込まれても、報道を見なかったとは書いたが、大洪水がなかった
なんて書いてない、と逃げ口上が言えるように、形を整えた上で。
そしてどこかの誰かさんは、田川の嘘をさらにふくらませ、まるで田川が「渡良瀬川
大洪水はなかった」と書いたかのような言い方をして、またしても読者をだまそうとしたのです。
ところで、明治10年代に既に渡良瀬川沿岸にホタルはいなかった、って断言した
えらい学者の名前のほうはどうなりましたかな?
そんな学者はいないと思いますよ。いたとしてもえらくはないでしょうね。
あと何度も書きますが、庭田は明治13年に被害があったなんて書いてないですよ。
550 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/19(火) 19:51:17 ID:kVeZPcaR0
たとえば鉱毒の被害面積について調べてみると、正造の発信するデータが如何に
デタラメかということに気づかされて愕然とします。
明治25年6月14日に国会に提出した質問書に、彼は「被害田畑の総反別およそ
1650町歩」と書きました。
しかし、5年後の明治30年2月26日には、彼は「7年を経て、1万6500余町歩、
10倍にも大きくしてしまったのでございます」と、帝国議会の演説で訴えました。
前の年の明治29年には、7,8,9月と3回も渡良瀬川が洪水に見舞われたので、
広がったのは当然だったと言えます(「7年を経て」という嘘にも注目してください)。
ところで問題は、これからひと月も経たない3月24日の数字です。帝国議会に
提出した彼の質問書では、なんと次のように急増するのです。
「被害の反別は各種合わして、およそ4万3774町8反2畝26歩なり」
しかもここには「8反2畝26歩」という端数までついています。いったいどうして急
に数字が3倍近くに変化し、1町歩未満の数字まで調べられたのでしょう。
面積が倍増したのは明らかに嘘そのものですが、端数をわざわざ加えたのは、
本当らしい数字を使うことによって信用させようというテクニックだと思います。
>>550 それで、菅井の文を捏造したのは何故ですか?
「殺された」も「殺させた」も同じになるというあなたの主張を受け入れるならば、13年も
18年も16500町歩も43774町8反2畝26歩もたいして変わりありませんよ。
数字が倍増してるのは、それまで被害地とされてなかった場所が加算されたからでしょう。
足尾町の被害地を入れるか入れないかだけで1万町歩は軽く変わりますからね。
最初の値は明らかに足尾町の被害地が入ってませんね。
(菅井の値を信じると、1988年現在で残っている被害地は3000町歩くらいになりますが)
「あそこの被害地の分が入ってない」ってんで慌ててつけ加えたから、数十日で値が
大きく変わるのでしょう。
待矢場だけで6000町歩ありますからね。(しかも、全部が被害地です)控えめに書いて
も、最初の値は足尾町の分が入ってないとみるのが正しいでしょう。
それに、田中正造の持つネットワークは、栃木県、群馬県がメインです。
埼玉県、茨城県、千葉県の被害地についても、あとから五月雨式に調査結果が出て
くるとそういう値も出てくるでしょう。
さて、今回は場所が余りましたので、ご好評のその他の方への説明です。
(毎回、4Kぎりぎりまで書いていたので最近場所がありませんでした)
この方の文章を読むと、まるで、田川が「洪水はなかった」と書いたかのような、庭田
が「明治13年に被害が起きた」と書いたかのような、1903年に鉱毒調査委員会が
「鉱毒はなくなった」と書いたかのような印象を受けますが、それは全部嘘です。
ついでに書くと、「鉱毒が消滅した」という当時の報道もありません。
激甚地の「一部」が1903年に5倍の豊作になった、という報道をもって、鉱毒は完全に
消滅したとか大嘘をついているのです。
激甚地の「大部分」は5倍の豊作にはならなかったのだし、当時激甚地ではなかった
待矢場では被害がこの時代からあとどんどん増大しました。
どうしてそうなるのかもご説明したのでみなさんおわかりだと思います。
ところがこの方は、どこにも存在しない「当時の言及」とやらを元にして、勝手に妄想を
事実かのように述べているだけなのです。
古河プロセスの人も、もち、本気の人もどこかへ行ってしまいました。
恐らくだまされていることに気付いたからでしょう。
それとも、酸化バナジウムで煙に巻こうとしても、そうは問屋がおろさないと
分かったので退散したんですかね。
552 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/20(水) 20:39:08 ID:8ZnTxxFl0
3年後、明治33年2月13日の帝国議会の演説で田中正造のあげたデータは、
前記の嘘の更に2倍に拡大するのですからまたまた驚きます。
「被害民の調べが6万町歩であって、実際は8万町か9万町歩に及んでおると
思います」
3年の間に渡良瀬川の洪水が何度かあったので被害は拡大はしたでしょうが、
この数字はあまりにもオーバーです。
「調べが6万町歩で、実際は8万町か9万町歩」という言い方に、そのいい加減
さが如実に現れているではありませんか。
この演説の4日前の2月9日に彼は議会に質問書を出しているのですが、そこ
では「6万町歩」としてあるのです。
>>552 それで、菅井の文章を捏造したのは何故ですか?
1902年9月28日に渡良瀬川大洪水がなかったなどと大嘘をつき続けるのは
何故ですか?
正造の出した値がどれくらい信用のおけるものなのかは、学者の間でも
いろんな説があるようです。恐らくそのデータは、雲龍寺の鉱毒事務所に蓄積
されていたはずなのですが、その後散逸しました。
これらの値は正造がつくったわけではなく、ブレーンとなるべき岩崎、左部、
野口、永島などの運動家が調べたデータを元に鉱毒事務所が集計したもの
であって、別に正造の創作ではありません。
どちらかというと、鉱毒事務所がどれくらい信頼できるのか、あるいは、鉱毒
事務所にどれくらい真実に近い値が集まっていたのか、というのが歴史の世界
で調べる対象でしょう。
まあ、農民はおおげさには言ったでしょう。それをちゃんと再調査せずにうのみに
したという指摘ならまあまあ聞くに値する話かもしれませんが、何でもかんでも
正造の捏造と妄想では相手になりませんな。
まるで正造がでたらめを製造したかのような言い方ではないですか。
そもそもあなたの言及が捏造と妄想の固まりではないですか。
いつになったら「足利市史」をごらんになるのですか?
いつの時代にも、代議士の影にはブレーンがいた。それは第1回衆議院選挙で
当選した田中正造でも例外ではない。ブレーンがどれくらい有能だったのか、
ブレーンがどれくらい正しい結果を集めたか。とはいっても、正造のブレーンは
みんなただの農民で統計学者は一人もいません。そういう意味で値はきっと
真実からは少しずれてはいるはずですが、ただ、正造の値よりも正しいと
確信できる値が存在しないのも確かです。
念のために書いておくと大蔵省の免租面積とか持ち出してもだめですよ。
あれは、「免租にしなきゃならないほどの鉱毒被害」になった土地だけに適用されたの
であっって、実際の被害地よりは少ないのですから。
さて、ここからは長期連載のそのほかの方への忠告です。
ところで、群馬県は、鉱毒免租によって税収が減ってしまいました。
「この減収は群馬県のせいじゃなくて古河市兵衛のせいなんだから、減収分は
古河市兵衛に払わせろ」って決議が群馬県会を通っています。
もちろん古河市兵衛は、群馬県にビタ一文も払いませんでした。
古河市兵衛が誠実な対応をとったとかいうのは大嘘です。
きっと誰かさんや古河は、「そんな決議があったのは古河市兵衛は知らなかった」
とかいう逃げ方をするんでしょうね。
増えた事より、それが実態と比べてどうかという事が問題だと普通は考えるな。
増えた事でどうこうっていうのは一切言えない。というか、意味が無い。
被害者側に正確な数字を出す義務は無い。それは加害者や行政の仕事だ。
このスレ、人の言うこと全然聞かないキチガイの宣伝場所になってるんだから
さっさと埋めて落とそうぜw
他者と対話する気がないなら ブ ロ グ で や れ
556 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/21(木) 20:16:03 ID:j496PlXE0
ちなみに、大蔵省は、明治31年4月の数字ですが、土地税の免除の対象にした
被害農地の面積を、2万4450町2段8畝11歩と算定しています。
また、政府の第2次鉱毒調査委員会が明治36年6月に発表した数字は、1万
5811町歩となっています。
どちらの数字が信用できるかは、当然組織的な調査体制のある政府機関です。
一方の正造のデータで一番疑問なのは、電話も車もない時代に、ほんのわずかな
被害民だけで、どうして6万町歩もの広大な農地を調べることができたのか、という
ことです。そんなことは不可能です。だからデタラメというしかないのです。
つまり組織的な調査体制の無い奴等が概算で被害を訴えるなと。
訴えが6万で免税の対象が2万5千弱ならかけ離れてるとは思えないんだが。
被害者の前で同じ事言ったら袋叩きにされると思うけどな。
どういう種類の勇気だろ、こういう種類の人の大胆さって。
2ちゃんがお似合いっていう事は言えるかもしれないけど。
なんの間違いで出版社はこういう人の言い分を本にしちゃったんだろうな。
言論の自由は素晴らしい。
558 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/22(金) 20:22:59 ID:Mn6FUMSE0
明治31年6月6日の議会演説で正造は言っています。数字の根拠などないのです。
「始まりは1600町、その後が3000町、昨年の第一の質問の時(明治30年2月26日)
には3万町と諸君にご披露を申した。その後第2の質問の時(同年3月24日)にはすで
に4万町に達し、今日(明治31年6月)では4万6000町というので、江戸川の用水など
を取り調べまするというと、5万町以上になるのでありまする。何分にも貧民が調査をす
ることで、手が回りませぬから、先へ行けば行くほど、多くなるばかりでありまする」
これでは、「調査ができないからデタラメで数字を増やしていくのだ」と告白しているような
ものではありませんか。
調査を進めるごとに被害の大きさが明らかになるのは自然な事ですよ?
揚げ足取りにもなってない。
あなたはちゃんと学校教育を終えられた方ですか?
どうも根本的な理解能力に問題があるようですが。
>>558 ところで、菅井の文章を捏造したのは何故ですか?
「殺された」と「殺させた」が同じ意味になるというあなたの理屈からすれば、
2万町歩も5万町歩も全然差はないではないですか。
正造の値は鉱毒事務所の集計を使ってますよ。
「根拠などない」と言い切れる根拠はどこですか?
それにしても、鉱毒免租面積なんか出しても無駄だってわざわざ行ってさしあげ
たのに、その直後に鉱毒免租地の話をしはじめるとは、あなたは本当に壊れた
テープレコーダーですね。
免租が決まった時点で4万6千町歩ってのなら別に鉱毒免租地とも
激しい隔たりはないではないですか。
それに何度も書きますが、鉱毒被害地と鉱毒免租地は違います。
まず、鉱毒被害に遭っても、免租を申請しなかった農民がいました。
それにはいろんな理由がありますが、免租になると選挙権がなくなるので
特に議員や議員になるつもりの人は申請したくでもできなかったのです。
正造派の運動員らは怒って「ちゃんと免租申請しろ」って文書が出てます。
あと、申請書には何故か「鉱毒」って文字を入れると申請が通りませんでした。
それでも意地になって「鉱毒」って文字の入った申請書を出し続けた農民がいます。
それに、足尾のはげ山はどうしますか。確実に鉱毒被害地ですよ。
正造は、古河市兵衛が自身の持つ足尾のはげ山に対して鉱毒免租申請したら
通すのかよ、みたいな嫌みをどっかで言ってた気がします。実際に古河市兵衛が
免租申請したのかどうかはすぐには確認ができませんでした。
そういや普通の足尾町民が、自分の家のある宅地を鉱毒免租申請とかしたん
ですかね(当時、宅地でも鉱毒免租はありました)。してないんだったら、その分
も抜けてますね。
そんなわけで、鉱毒被害地と鉱毒免租地を同一かのようにわめきたてる誰か
さんは大嘘つきです。何度も書きますが、免租になったのは、とてもこの土地から
は税金なんか取れない、というほどの被害地のみです。それに申請制ですから、
申請してない人は免租になってません。申請制だったのに、さも、全部の農地を
大蔵省が検地して免租地を決めたかのようにわめきちらす誰かさんはさらに
大嘘つきの上塗りとでも呼ぶのが適当ですかね。
さて、ここからはそのほかへの説明です。
前回、鉱毒免租によって減収になった税収は、古河市兵衛に払わせろ、って決議が、
当時の群馬県会を通った話はしましたね。
ところが、いつになっても古河市兵衛からは金が届きません。
そこで、群馬県会は翌年、また決議をしました。
「この減収は群馬県のせいじゃないのだから、減収分は明治政府に払わせろ」という、
しごくもっともな決議です。
もちろん、明治政府は群馬県にビタ一文も払いませんでした。
明治政府が誠実だったなどというのは大嘘です。
今度は明治政府が「そんな決議があったとは知らなかった」とはシラを切れません
からね。
だって、当時の群馬県知事は、政府が任命してたのです。仮に群馬県知事が
握りつぶしたのだとしたら、そんなおバカを任命した明治政府が悪ということに
なってしまいますからね。
明治政府は不誠実な対応をとっただけでなく、群馬県民全員を見殺しにしたのです。
この決議をするとき、ある県議が手を挙げてこんなような意味のことを言いました。
こんな決議をしたって、政府が金なんか出すわけないだろう。この決議は、県会は
一応、鉱毒のこともやりましたよ、ってアリバイ工作にしかならないじゃないか。
しかし、ほかの県議が、だったら何もしないで指くわえて見てろってのかよ、
と突っ込まれて、結局、この決議は県会を通ります。
明治政府が不誠実だということは、決議前に県議らに見抜かれていたのです。
561 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/25(月) 19:53:19 ID:PU25//5U0
今度は、被害民の数について、帝国議会で彼がどう述べているかを見てみます。
明治30年2月26日、「昨年の9月8日の大洪水で損害を受けた人口が9万8880人」
明治30年3月24日、「毒水に浸るものが13万5000人ばかりになった」
明治33年2月13日、「天皇陛下の臣民たる我ら被害民30万人民の亡滅」
こんな風に次々に被害者が増える原因は、しかし特別には見当たりません。
何でこう増えていくのか、嘘を言って人をだましているからです。当時の人々はあまりだま
された様子はありませんが、昭和の学者たちはまるで疑っておらず、信じているのだから
これが問題なのです。
>>561 それで、あなたの大嘘「1902年9月28日に渡良瀬川大洪水がなかった」
にだまされた人は何人いますか?
後世の人が、何か文句いってる人がいなかったみたいから、本当は
洪水なかったんじゃないの?とか言い出さないように、これからもあなたの
大嘘をどんどんあばいていきますよ。
そして、菅井の文章を捏造したのは何故ですか?
で、話は戻りますが、たんぼ1反で1年で取れる米がだいたい1石、つまり、
人間が1年で食べる量です。もっとも明治時代には生産性が上がって、
梁田村では1.97石くらいとれた話はしましたね。
正造の言う4万3774町8反というのは、反に直すと43万反になります。取れる「はずの」
米は約85万石。だいたい85万人分を養うことができます。まあ蓄えとか税金も
ありますから差し引いても、40万人という値は全然ありえない数字ではありません。
鉱毒免租地だけでも2万4450町あるわけですから、48万石の米がとれます。
人間48万人分です。免租地だけでの集計でもそういう値が出るのだから、全然むちゃ
くちゃな値だとは私は思いません。(※米の生産量は、梁田村と同じとして計算)
もちろんこの計算の中には、被害地の近くに住んでいて、農家から米を買って売って
生活していた商人とかも入っているわけですから、純粋な「鉱毒被害農民」だけの数
にはなりませんが、基本的に当時の農民は自給自足なので、そんなに莫大な金銭の
やりとりはなかったとして計算しました。
で、何でこれがでたらめな値なんですか? まあ、実際の値とは若干違いは
あったでしょうね。ただ、それが10倍とか100倍とかいう差ではないのは確か
です。仮に2倍5倍の差があったとしても、「被害者加害者の出す値がその
くらい差があることは今だってよくあります」
どういう根拠でこの数値がありえないと主張できるのですか?
あなたの大好きな鉱毒免租地から算出したって、48万人という数字が出て
くるんですよ。どういう値が出てくれば、あなたは納得するんですか?
どういう算出法で出せばあなたは納得するんですか?
私はあなたの大好きな鉱毒免租地から48万人という値を出しました。
この、ずいぶん控えめな計算ですら、正造はずいぶん控えめな値を出した
もんだと思えるほどの値が出るのです。
※この集計は、鉱毒被害地の生産が「0」になった、という計算ではありません。
2万4450町の田んぼを持つ農家には、家族を含めてどれくらいの人間が存在
しうるか、という推算です。ちなみにこの集計には麦の分が入ってません。
麦がとれる計算なら(何度も書きますが、鉱毒被害地は二毛作です)、2万
4450町の田んぼで養うことのできる人間の数はもっともっと増えます。
で、何度も書きますが、いつになったら足利市史をごらんになるのですか?
足利市史には2万町とか4万町とかいう話はちっとも出てきませんが、
あなたの言うことが全部でたらめだというのは最初から書いてあります。
それも、あなたがそんなことをわめきだす30年近く前に既にそう書いてあったのです。
1902年9月28日には渡良瀬川大洪水がありましたし、明治期に鉱毒は決してなくなり
ませんでしたし、荻野萬太郎県議は最初から最後まで谷中村遊水池化案に反対し
ました。そして、明治政府も古河市兵衛も、決して誠実な対応などしませんでした。
全部、足利市史に出ています。
妄想の国では現物はどうしても手に入らないというのでしたら、足利まで行って、市役所
なり図書館なりで現物をごらんになったらどうですか?
それとも妄想の国は、ネットはつながっていても、足利市には道はつながって
いないんですか?
でも足尾には行ったことあるんですよね。どうしても行けないようでしたら、
足尾においでになってから、そのまま足利に行ってください。妄想の国から
足尾まで来れたのなら、足利まではすぐです。行き方は、わたらせ渓谷鉄道
の列車の車掌に聞いてください。ただ、足利市役所に行くなら平日にどうぞ。
図書館は土日もやってます。
相手にされない本を一冊だけ出して、ここでコテンパンにやられるだけなんだから可愛いもんだといえば可愛いもんなんだけど、
なんとも嫌な気分になるスレだ。
門外漢の好事家で評伝なんかを書き飛ばしてる人の中にはこういう人も居るっていうのが解ったのが唯一の収穫。
あぁ、後もう一つ。
古河っていう会社がどういう会社で鉱毒事件がどういったものなのか興味が湧いてwikiを覗いて驚いた事が一つ。
20世紀末になっても足尾地区には多い年で30億もの公金が地産事業として投入されているのに、
古河がこれに関して支払ったのは1960年の360万だけっていう事。記述されて無いだけで本当はもっと払ってるのかな?
しかも植林されてる土地の多くは現在古河所有となってる山だって言うんだから驚いた。
近鉄並みの害虫企業じゃね?
564 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/25(月) 22:51:58 ID:GJNpzplR0
565 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/26(火) 19:54:47 ID:S8ePVupx0
正造は、「野口が千葉と東京に新たな被害地を1万308町4段6畝見つけた」などと、
細かい数字を挙げてもっともらしく演説でしゃべっています(明治30年3月24日)が、
このやり方も、明らかに、本当らしく思わせるためのだましのテクニックといえます。
キリスト者の内村鑑三は終始田中正造を支援していた人ですが、正造の数少ない味
方の彼でさえ、何と次のように発言しているのです。
「鉱毒問題に関しては、多少の政略、術策を用い、事実よりも大きく言う傾向がある。
あるいは6万町歩30万人、あるいは7万町歩35万人、日によっては40万人と叫ぶこと
もある。また、被害地は茫々たる荒野となり一茎の草だに生ぜず35万の民は炊ぐに
物なくして飢えに倒れんとすと言う。しかし、鉱毒地には草も生えているし、餓死した人
もいないではないか」(『福音新報』明治35年4月9日号)
>>563 林野庁と栃木県が巨費を投じて足尾に植林をしてるのは知ってた
のですが、この方のでたらめにつきあっていたら、そんな話をする余裕も
ありませんでした。
ところで、
>>491にある契約書の内容を、古河市兵衛は誠実に履行したので
しょうか。
もちろん、しませんでした。
古河が誠実な対応をとったなどというのは大嘘です。
古河は100年前の証文を、まだ履行していないのです。
第6条をごらんください。古河は植林するって意味のことが書いてあります。
古河が木を切った土地は1万町歩を越えます。契約書のとおりなら、古河は
その1万町歩全部に木を植えることになるはずです。
ところが、実際に植えた土地はわずかに53町歩でした(58町歩という数字もあり
ます)。
当時の古河派の人間が書いた文章に、古河市兵衛ほどの立派な人だから、
58町歩も植林したのだ。ほかの人だったらはんこついただけで全く植林しない
だろうみたいなむちゃくちゃなことが書いてあるものがあるそうですが私は未見
です。
はて? どっかの時代の誰かさんと言い方がそっくりですね。
残りの土地にいつ古河が木を植えるのだろうと期待してるのですが、何故か、
栃木県が植えるばかりで古河が大規模植林をしたなどという話はいまだにぜんぜん
聞きません。(廃鉱石の流出を防ぐために、堆積場の上に植林とかはしてます)
足尾で木を植えている企業はないことはないのですが、その会社は、鉱毒とは
ちっとも関係ない「イオン株式会社」です。
「木を植えています」なんていう嘘っぽいキャッチコピーを使ってる会社ですが、
ちゃんと足尾で木を植えてるそうです。(足尾以外でも植えてます)
ネットで調べたら、国土交通省が巨費を投じているという内容にぶちあたりました。
これは、林野庁や栃木県の分とは別なんでしょうかね?
http://www.ktr.mlit.go.jp/kyoku/kisha/h18/459/tochigi.pdf 昭和63年から始まって、22年かけて足尾の松木渓谷の山腹工事をやるそうです。
お値段は88億円。1年あたり、国土交通省だけで4億円をかけているのが分かります。
ここって国有林なんですかね。
で、チッソと古河を比べるのではチッソのほうがかわいそうかもしれませんね。
だって、チッソは古河のやり方をまねたわけですから。
いくら毒を流しても、尻ぬぐいは被害民の払った血税、っていうところまで、古河と
同じです。
もっとも、企業イメージはだいぶ違うでしょうね。
誰も書いてないのでついでに書いておくと、古河は鉱毒を出しても全然賠償しなかった
ので大もうけができ、どんどん事業を拡張していきました。
古河電工が古河系なのはご存じの方も多いと思いますが、富士電機とか
富士通も古河系です。意外に横浜ゴムもそうですよ。
568 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 20:49:22 ID:uRX7Be2Z0
田中正造と一部の過激派被害民が発表し、これを支持する今の学者たちがそのまま
流しているデータ(1900年頃の被害面積と被害人口)がいかにオーバーかを、他の
機関のデータと比較して示してみます。
キリスト教同志会: 4,360町歩/8414人
政府の第2次鉱毒調査委員会: 1万5811町歩(1903年6月の数字)
農学博士・横井時敬: 2万町歩
大蔵省: 2万4450町2段8畝11歩(1898年4月の数字)
鉱毒問題解決調査事務所: 4万6733町8反6畝9歩(『足尾鉱毒問題解決処分』から)
田中正造/: 8万ないし9万町歩/30万ないし35万人
野口春蔵の調査: 10万453町反2畝29歩/51万7343人
『田中正造全集』と岩波新書の『田中正造』が採用している被害規模は野口春蔵の調査
した上記中の最大値で、彼が「1府5件市20郡2区251町村の11万9331戸」を調べた
としてありますが、野口一人でいったいどうやってこの広範囲の土地人民の調査ができ
たのでしょう。出来るはずがありません。明らかに根拠のない数値。デタラメです。
次回に、上記の出所について説明します。
>>568 1902年9月28日に渡良瀬川大洪水はなかったなどと大嘘をつき続けるあなたに
朗報です!
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ところで、菅井の文章を捏造したのは何故ですか?
田川が「洪水はなかった」かのようなことを書いた、と嘘をついたのは何故ですか?
由井が、「第二次鉱毒調査会が鉱毒はなくなったと報告した」というようなことを
書いたかのような、大嘘をついたのは何故ですか?
それにしても、野口一人で調べられるわけがない、って、鉱毒事務所が手分けして
調べて野口の名で発表したに決まってるじゃないですか。何書いてるんですか。
出任せもいい加減にしてください。デタラメを言っているのはあなたです。
押出しのときは少なくとも数百人が雲龍寺の鉱毒事務所に集まってるんですよ。
集まった七百人で手分けすれば、10万町歩なんてすぐじゃないですか。
ほかの方からも指摘が出てますが、農民は被害を正確に調査できないんだから
文句を言うな、といっているようにしか見えませんよ。
しかも、それぞれの被害地は基準が全く違う。大蔵省のものは何度も書きますが、
「こんな土地からはとても税金をとれない」というほど荒れ果てた被害地のみです。
実際の被害地は、大蔵省のものよりは相当多いとみるべきでしょう。
それに、用水路とか、村有地みたいな、元々税金がかかってない場所は、最初から
免租になってないんですよ。というか、しようがないんですけど。
大蔵省の値からはその分も足さなきゃなりませんね。
ところで、免租になって不足した税金分は、当然、古河市兵衛が群馬県に払うべき
ですが、いつ頃払ったんですか? 領収書はありますか?
古河が誠実だったなどというのは大嘘です。
さて、ここからはそのほかの方への説明です。
内村鑑三の原文は手に入りませんでしたが、内村自身が被害民の数を「数十万人」
と書いている文は見つかりましたのでご紹介します。
「悲しむ者は一府四縣の民数十萬人なり、喜ぶものは足尾銅山の所有者一人なり、
一人が富まんが為めに萬人泣く、之を是れ仁政と言ふべき乎。」
ただ、同じ本(『よろづ短言』)の別の場所では十数萬人とも書いてますがね。
要するに内村はそのときの気分で値は結構変わっちゃうひとだったようです。
あと、古河がどれくらい植林をしてるかですが、
古河機械金属の「環境・社会報告書」2006年版によると、2005年度、保有する山林は
全国で796ha、自社有地山林維持管理のためのコスト2900万円、というのが出て
ました。
国土交通省の出してる金額とは桁が違いますね。しかも、「全国」の古河所有林の
話で、決して足尾の分ではありません。
私はそれより、毎年1トンものヒ素化合物を埋め立ててる、って書いてるほうが気に
なるんですが。
残念ながら、ヒ素以外の鉱毒物質(銅やその化合物、硫酸、亜硫酸ガス)などに
ついては言及が見当たりませんでした。
一応、いつもの予報もしておきますか。
この方はそのうち、「足尾の山林の荒廃は、古河のせいだとは断言できない」
とか言い出すと思います。もう言ってたかもしれませんが。
570 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/28(木) 19:42:04 ID:LO60x1pf0
キリスト教同志会と農学博士・横井時敬の数字は、田川大吉郎著『鉱毒問題解決論』
(1901年)に出ていたもの。横井博士は正造たちに同情的な学者で、川俣事件の裁
判で現地の被害状況を鑑定しました。
大蔵省のデータは、土地税を免除した被害農地の合計数ですが、被害の程度により、
次のように分類され、1年免租とか2年免租とか免税年数によって区分しました。
これで相当程度の被害農地がカバーされていたことが分かります。
激甚地といっていい「特類地」
作物には適さない「第1類地」
銅分に抵抗力の強い作物のみ出来る「第2類地」
改良すれば栽培可能な「第3類地」
ほぼ同様な「第4類地」
銅分の害はない「第5類地」
鉱毒問題解決調査事務所とは、田中正造の直訴後に結成された民間の学者たちの
団体で、彼らが独自に鉱毒除外工事の効果を調査するなどして、問題解決のために
必要な提言を行いました。
>>570 それで、キリスト教同志会が、全鉱毒被害地にネットワークを持っていた
野口春蔵よりも精密な検地ができたという根拠はどこですか?
野口は鉱毒事務所の主要メンバーです。野口が雲龍寺から全被害地宛に
郵便を出せば、必ず返事が返ってきます。
野口がそういう人物だということをわざわざ隠して、まるで、何もできない能なし
の一村民が一人で歩いて調査をするしかないような書き方をするのは何故ですか?
あなたの書き方は、農民は被害額が算出できないのだから、被害を受けても
文句を言うなという言い方にしかなりませんよ。
そして、あなたの大好きな明治政府は、農民が押出しをするまで、鉱毒調査
委員会すら立ち上げようとしなかったのです。
押出しがあったからこそ、第1次調査委員会は開かれた。
被害額はお上が算出するんだからそれまで何も文句を言わずにだまっていろ
という言い方では誰も納得しませんよ。
古河や明治政府が誠実な対応をとったかのような大嘘をつくのは何故ですか?
古河は、未だに100年前の証文にある植林さえ満足にやっていないし、鉱毒被害
自治体が税収減になっても、それを賠償することすらしませんでした。
明治政府も同様で、税収減を補填することはなく、鉱毒被害自治体を見殺しに
したのです。
「足尾之鉱毒」創刊号は発禁にするわ、、『足尾銅山鉱毒・渡良瀬川沿岸事情』
は発禁にするわ、そんな政府のどこが誠実なんですか。
それと、菅井の文を捏造したのは何故ですか?
大好評絶賛発売中の、『足利市史』別巻史料編鉱毒は、当然もうお持ちか、
既に注文済みですよね。来週はじめまでには妄想の国にも届くと思いますので、
楽しみにしていてください。
さて、ここからはそのほかの方への説明です。
「1902年9月28日に渡良瀬川大洪水はなかった。正造のついた嘘だ」などという大嘘に
うっかりだまされないように、「近代足利市史」をぜひ購入しましょう!
通史編にも鉱毒の話は何度も出てきますが、一番重要なのは「別巻資料編鉱毒」
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1902年9月28日大洪水の話はもちろん、谷中村遊水池化案に対し、足利鉱毒救済会
委員長でもある荻野県議が最後まで反対し続けた話、予防令後も鉱毒のたれ流しが
続いた話など、誰かさんの大嘘を全部粉砕してくれる「正しい真実」がたっぷり含まれ
ています。
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572 :
結論:2007/06/28(木) 23:05:48 ID:r2KEaxwB0
1、直訴は必要だった
2、砂川は呆け老人
3、世の中には半可通を許さない真面目な人が居る。
4、糞野郎が真面目な人を怒らせたら勝ち目が無い
573 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/29(金) 20:08:07 ID:ifL/vhwi0
前回紹介した『鉱毒問題解決論』(1901年)に、著者の田川大吉郎は、田中正造や
野口春蔵が被害を極端に大きく言うことに対して、次のような感想を漏らしています。
彼は報知新聞や都新聞の記者だったため、仕事として現地の被害状況を取材できた
わけで、情報の確かさは一般の人よりはるかに上だと思います。文章は現代文に直
してあります。
「田中らは、7万町歩、35万人の住む区域に被害が及んでいると叫んでいる。しかし、
現地視察で人がよく訪れる海老瀬、下羽田などが、本当に穣じょうたる黄茅白葦、他
に一枝の禾穀をも生ぜざるまでに荒れ果てているかどうかを、よく注視してほしい」
「わずかに海老瀬の一地方の状況を見て、その他を類推し30万の民正に死につつあ
りと断定できるのか。海老瀬地方の惨状は確かにひどく、自分も悲憤を感ずるが、その
激甚の区域は70ないし80町歩ぐらいである。これから推察して、7万町歩にわたって
同様の状況だと叫んでいる者たちに、私は承服することなどできない」
田川って砂川ほどじゃないにしろ随分バイアスの掛かった人ですよね?
これまでのやり取りを見てると。
その人の文章を額面通りに受け取れと?
>>573 いかさま野郎の田川の言うことを信じろっていうほうが難しいとかいう突っ込みを
入れたいところですが、それよりも重要なことが見つかりましたので書いておきます。
>>565 >キリスト者の内村鑑三は終始田中正造を支援していた人ですが、正造の数少ない味
>方の彼でさえ、何と次のように発言しているのです。
>
>「鉱毒問題に関しては、多少の政略、術策を用い、事実よりも大きく言う傾向がある。
>あるいは6万町歩30万人、あるいは7万町歩35万人、日によっては40万人と叫ぶこと
>もある。また、被害地は茫々たる荒野となり一茎の草だに生ぜず35万の民は炊ぐに
>物なくして飢えに倒れんとすと言う。しかし、鉱毒地には草も生えているし、餓死した人
>もいないではないか」(『福音新報』明治35年4月9日号)
原文を確認しましたが、これは、内村鑑三が「書いた」文章ではありませんね。
内村は福音新報明治35年4月9日号には寄稿していません。
内村の演説を「聴いた」という匿名の読者の投稿が載ってます。
しかも、文章が全然違います。
まさか、現代文に書き下したとかいうでたらめな言い訳はしませんよね。
というか、するならば提示するときにしなきゃだめですよね。
どっちにしろ、文章の意味が全然違い、現代文への書き下しにすらなってませんしね。
どちらがいかさま野郎なのか、原文の該当部分を提示して、読者の方に判断して
いただこうではありませんか。
一. 斯問題を正しく解決せむには三点の規箴を要す、其一は誠実也、従来鉱毒
問題を議するもの、多少の政略、多少の術策を用ゐ、事実よりも声言を大にしたる
跡あるは争ふべからざるが如し、或は六万町歩三十万人、或は七万町歩三十五万人、
頃日に至りては四十万人と叫ぶもあり、何れが果して真なる乎、はた或は鉱毒被害地は
茫々たる荒野となり一茎の草だに生ぜすといひ、三十五万の民は炊ぐに物なくして
飢に斃れむとすといふ、左れど鉱毒地には草も生ひ居れり、餓死者もある無し、斯の
如きは声余りに大に失せり、勿論余は鉱毒の惨を認むるに於て人後に落ちず、唯だ
これを説き、これを訴ふるには必ず誠実にせむことを望むのみ、若し幾分にても
虚偽の在するあらば正しき解決は望み得べからず、事実有りのまゝに一点の偽るなく、
誠実を主とするは第一の道也。
要するに、古河に対しても誠実に対応せよ、嘘をつくな、という文章なわけで、
別に被害農民がいかさまだという文ではありません。
三.まで続く文なので後半は省略しますが(出せと言われれば出しますが)、
書いてあることの中身は、いかさま野郎の古河の相手をするのに、被害民も
いかさまをやるのではだめだ、という内容です。
あと、後続の文を見る限り、内村は鉱毒被害農民と古河との示談交渉の内容を十分には
把握していないように見えます。
内村の文章の中には、古河市兵衛をほとんど人間扱いしてない文章もずいぶんある
みたいですが、そっちも提示してあげたほうがいいんじゃないですか?
その文章の中には「三十万人」って書いてあるものもあるんですよ。
この文章は、福音新報という信頼できそうな新聞に載ったこと、別に「内村はそんなこと
言う人じゃない」って文句も出てないことから、恐らく、だいたい同じようなことを話したん
だろう、ということに(研究者の間では)なっているようです。
田川大吉郎の大嘘を粉々に打ち砕く、「近代足利市史 別巻史料編鉱毒」は、
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今なら、その田川の嘘を事実であるかのようにわめきちらした誰かさんの妄想も、一緒に
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砂川さんの恣意的な引用(捏造)にはもう飽き飽き。
かなり多数の人にどうしようもない嘘吐きと思われて過ごす晩年、楽しいですか?
豊かな人生ですね。
577 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/30(土) 20:28:02 ID:yMp7r6mx0
田中正造を批判する2冊の本を執筆した田川大吉郎という人は、東京市の助役、東京
商科大学(今の一橋大学)の講師、衆議院議員、明治学院総理などの経歴を持つ人で
すが、彼のほかにもう一人、正造に厳しい批判を浴びせたのが高橋菊太郎です。
どんな人物かはわかりませんが、『鉱毒問題秘聞録』という本を明治30年5月に自費で
出版しており、よほど正義感に駆り立てられたのだと思います。
彼は、「この年の2月までは、田中正造の弁論術が実に痛快で大いに共感し、彼の胸の
うちには赤心以外に何物もないと思っていた。しかし、今は疑問だらけだ」として、正造の
言動がいかにおかしいかを、具体的なデータをあげてわかりやすく説明しています。
次回に、明治30年の春の段階での、正造の言う被害面積と栃木県の調査結果との食い
違いに触れます。
578 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/30(土) 20:29:55 ID:yMp7r6mx0
高橋菊太郎は、前述の本で、
「正造の議会質問を読むと4県2郡の被害反別は3万3000余町歩、鉱毒浸水家屋は
1万6000余戸、被害漁業者7015人としてある。しかし、栃木県の3つの郡の面積に
ついて、正造の挙げる数字と県庁による調査と比較すれば、これだけ違う」
として、次のデータを挙げています。
正造の数字 県庁の数字
足利郡 5100町歩 1798町余
安蘇郡 1272町余 1015町余
下都賀郡 4670町余 686町余
合計 11042町余 3499町余
その上で高橋はさらにこう書いているのです。
「しかるに、なお所轄の税務署で実地に調べた結果は、足利郡において田畑226町歩余
が免租地となったに過ぎない。上の3郡中で全く耕作できなくなったのは、わずか5町歩余
に過ぎない」
>>577 田川がどんなでたらめを書き散らしたのか、その「公害問題解決論」から
引用して説明してさしあげましょう。
のみならず、横井氏の二萬町歩の中には、山林も、原野も、宅地も、皆含まれて居る、
此等を除き去て、實際の耕地反別を見るときは、二萬町歩は更に減じて一萬町歩と
為るかも知れません、一萬町歩は、更に減じて五千町歩と為るかも知れません。
(中略)
此際、被害民、其他、之に同情ある人々は、
田畝 甲 六萬町歩
乙 七万町歩
被害民 甲 三十萬人
乙 三十五萬人
と聲言して居ます、前來の説の、いづれに較べても、甚しき相違であります、紛々たる
此の如し、此問題の決せざるのは、抑も故ありです。
自分では2万町歩を四分の一の5000町歩に値切っておきながら、被害民が
3.5倍の7万町歩だと主張するとでたらめだとわめく。
自分のほうが大量に数字をいじっているのに、そんな言い方をして平気な人なのです。
要するにこの方は、自身にとって都合のよい場合はいくらでも数字をいじってよくて、
都合の悪い方向にいじるのはでたらめだとわめいているだけなのです。
内容からして、田川が鉱毒のことを何も知らずに書いているのが非常によく分かり
ます。たとえば、古河が木を切って山林が荒廃したとか言ってるけど、地元住民も
いっぱい切ったんじゃないの?みたいな、証拠もない決めつけをしています。もちろん
それは嘘です。確かに地元民も木を切りましたが、地元民たちはちゃんと植林しましたので。
私は足尾から少し離れたところにある、かつて、古河に木や炭を売っていた木こり
がいた場所を訪れたことがあります。
うっそうと木が茂っていました。彼らはちゃんと、植林をしたのです。古河と違って。
それにこの本には、存在しない「待矢場両堰普通水利組合との永久示談契約書」
とやらが提示されています。前にも紹介しましたよね。この契約は存在しませんで
した。普通は、田川が古河から借りた資料の中に、準備中の契約書がまぎれていた
んだろうと言われることが多いのですが、古河が、「待矢場ですら永久示談した」と
被害農民に思わせるために、わざと偽情報を田川に渡した、と、うがった見方をする
こともできますし、そう考える人もきっといるでしょう。もっとうがったものの見方をする
人なら、田川は、この契約書とやらが偽物と知っていて、わざと提示したのだろう、と
考える人がいても不思議ではありません。
そんなものが載っている文書を出してくるだけで、「でたらめが書いてある文献に、
こう書いてありました」と言っているのも同然なのに、その、「でたらめが書いてある」
の部分を隠して、何故「鉱毒問題解決論」を出してくるんでしょうね。
さて、田川は何でこの時期に、こんなでたらめな本を書いたのでしょうか。
これは、田川の野望に関係があります。田川は政界入りを企んでいました。
そして、この本が出た明治35年の選挙に出馬するのです。結果は落選でした。
この本は、田川が売名のために、そして、「古河と相性のいい政治家がもう1人くらい
増えてもいいんじゃない?」ってメッセージを出すために出した本です。
>>579 少し解り難いのですが、それは高橋の本の中に引用されてる田川の出している数字の批判なのですか?
それとも
>>579さんが文中を通して田川と高橋を混同して記述されてるのですか?
自身にとって都合のよい場合はいくらでも数字をいじってよくて、都合の悪い方向にいじるのはでたらめだとわめいているだけ
の古河に擦り寄る俗物。何かそういう人をこのスレでよく見掛ける気がしますね。
>>580 すいません。579では、高橋の話はしてません。
出てくる数字(横井2万町歩、田畝、被害民甲乙6万、7万町歩、30万、35万人)
というのは、全部、田川の本、鉱毒問題解決論に出てくる値です。
その著書の中で、田川は横井の2万町歩を四分の一の5000町歩に値切っている
わけです。
ところが、田川は、ほんの数ページ先になると、被害者に同情的な者の中には6万とか
7万町歩と言っている者もいる、と文句を言うわけです。
慌てて書いた本なのでつじつまがあってないのはしょうがないのですが、こんなところ
で田川は馬脚を現していました、という説明でした。
で、そんな数字に関してでたらめなことをやっている人間が言っている数字に、どれ
くらいの信用ができるのか、と聞いているわけです。
高橋の話もしようと思えばできるのですが大混乱しますのであとに回します。
参考のため、田川という人について、
この方は長崎出身で、旧大村藩士の家に生まれ、東京で新聞報知社の記者になり、
その後すぐに都新聞主筆になります。日清戦争にも行きました。
「鉱毒問題解決論」が出た明治35年に地元長崎から選挙に出ますが落選。41年に
当選し、以後、落選をはさんで9回当選します。東京市助役もつとめました。
キリスト教徒で、明治神宮建設の建議に一人で反対したそうです。
明治期に、書いたものが問題になって1回入獄しています。
大正末に明治学院総理になりますが、議員生活で多忙だったのと、財政難から
(財政難になったのは別に田川のせいではないようです)キャンパスを売って郊外
に移転する案を立てますが理事会に反対され、総理をやめます。
翼賛選挙のとき、翼賛会から推薦されなかったのに出馬して目をつけられ、応援
弁士が不敬罪で逮捕されると直後に上海に亡命、終戦後東京に戻り、社会党・
共産党の推薦で最初の都知事選に出ますが落選。昭和22年に没しました。
というのが、遠藤 興一による伝記「福祉に生きる 4」 に出てくるエピソードです。
鉱毒の話もこの伝記にはさらっと出てきますが、田中正造と衝突した、くらいの
書き方でした。田川を語るには避けては通れないけどあまり深くは説明したくない
出来事なのかもしれません。
この遠藤という人は、繰り返し、田川の都市論には貧者が出てこない、と書いて
ます。多分、遠藤の専門がそっち方面なんだろうと思いますが。鉱毒の話を考える
と、何だか意味深な言及です。田川の研究や評価はほとんどありませんが、
明治学院には多少は資料があるようです。
まあ、鉱毒に関して余計なくちばしをはさまなくなってからはちょっとは出世しました
くらいの人ですかね。
若い頃ろくでもない方が晩年、多少はマシになることはよくあることなので、
明治学院総理が若かりし頃、鉱毒に関してとんちんかんなことを書いていても、
私は驚きませんよ。
そういや、遠藤の伝記にはわざわざ、田川はただの古河の犬ではないみたいなこと
が書いてありますが、わざわざ書くってことは、そう言われていることを遠藤は認識
してるのでしょう。
あ、鉱毒問題解決論っていう本は田川の本なんですか。一次資料にも当らない不勉強な人間だという事を露呈してしまい恥ずかしいです。
>>577の人の書き方だと高橋の著書に見えたもので。
>>577はきっと砂川さんじゃないですね。プロの物書きはこんな下手な文章書か無いでしょうから。
>>582 混乱してる人がほかにもいるかもしれないので書いておきますね。
「鉱毒問題解決論」明治35年4月、田川大吉郎
「鉱毒問題秘聞録」明治35年5月、高橋菊太郎
「嗚呼鉱毒論」明治36年8月、田川大吉郎
これらが公刊されて現代まで残っている田中正造への主な批判文書類です。
「鉱毒問題解決論」はさっき書いたとおりあまりにもひどい我田引水な書き方ばかり
している本です。それは数字の扱いで分かると思いますがそれ以外のところもそうです。
「鉱毒問題秘聞録」は、単なる怪文書です。高橋菊太郎という人物は実在しないという
ことが分かってます。内容から、古河の飼い犬と考えられています。正造は選挙に負け
そうになったので慌てて鉱毒を選挙の道具に使った、などと事実無根のことをわめき
ちらしているので、全く信用されていない文書です。(実際には、対立する木村半兵衛と
の票差は大きく開いており、そんな工作は元から必要なかった上に、そんなことをしたと
いう形跡も全然ありません)ただ、この文献は古河の飼い犬が書いただけあって、古河
関係者しか手に入れられない情報が少し入っていて、それは今でも参照されることが
あります。
だいたい、著者の住所が「東京市下谷區車坂町廿番地梅澤フキ方」、印刷者の住所が
「東京市京橋區南鍛冶町五番地寄留」ですよ。
他人方の住所に寄留の住所。要するに、この書き方は、どちらも借り物の番地で、本人は
(実在すればですが)たまにこの番地に立ち寄って郵便や電報を確認するだけですね。
そんなものがろくな文書じゃないのは奥付で分かるのに、さも立派な文献のように提示
している誰かさんは大嘘つきですね。でも、この高橋の著書のネタは莫大にあるので、
今回はこの程度で。
「嗚呼鉱毒論」は、政府の第二次鉱毒調査委員会報告が出てから田川が書き直した
ような本で、前作で出した馬脚を今度は現さないように少しは考えて書いてますが、
前述したとおり、標高15メートル地点の破堤で標高30メートル地点の洪水は防げない、
という、根本的かつ基本的なところに全然気付かずにでたらめを書いて、やっぱり馬脚を
現している本です。ただ、この3冊の中では一番言っていることはまともです。
※地形図を見返したら、旧谷中村の標高は15メートルくらいであることが分かりました。
ので2メートルだけ訂正しますが主張に大きな変更は必要ありません
3冊とも、国会図書館の電子ライブラリーに入ってますから、今すぐにでも、世界中
どこに居ても全文を見ることができます。これらの文献の著者やどっかの誰かさんが
どれくらい誠実なのかは、実物を見て確認してください。
国会図書館近代デジタルライブラリーはこちら。
http://kindai.ndl.go.jp/index.html ここの検索窓に書名を入れるだけで、該当文書全文を見ることができます。
584 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/05(木) 20:33:10 ID:UFikbjRX0
足尾鉱毒事件の関連書からは外されているのですが、高橋菊太郎のこの本は、正造の言
う被害データを決定的に覆す反証を挙げていて、実に説得力があります。
高橋は、
「試みに全国の米作比較表をかかげ、もって昨年(明治29年)の天災は栃木群馬の2県の
人民のみに対して不幸を与えたるものに非ざるを示さん」
と書いて、全県の収穫高と平年との増減値(百分比)一覧をかかげているのです。
増減値のうちの一部を取り出すと次のとおりで、3つの県がずっと高いことがわかります。
群馬 −3.5
栃木 −0.6
茨城 −1.6
埼玉 −1.1
愛知 −5.1
三重 −4.4
滋賀 −3.9
全国 −0.88(平均)
>>584 最初に「鉱毒問題秘聞録」の刊行年ですが、明治30年(1897年)5月の間違い
でした。国会図書館には、五月「二」日、と、「二」のところだけが手書きのものが
蔵書されています。
さて、高橋菊太郎という偽名による文書がどれくらいでたらめなのか、
一応紹介しておきましょう。
>>578にある数値は、578では時代が書いてありませんが、明治30年に刊行されています
ので、その時点での値と思ってよいでしょう。
ところが、この年、明治30年には、「鉱毒免租を行う」というのは決まっていましたが、実際の
免租は次の年にずれこみます。それほど膨大な調査が必要だったわけですが、実際に免租
になった土地は、次のとおりです。
では、みなさん。テキストの用意はよろしいでしょうか。では、お手元の「足利市史別巻史料編
鉱毒」の227ページを開いてください。栃木県による、鉱毒免租地の値が出ています。これは、
栃木県によって最終的に確定した「明治31年」鉱毒免租地の値です。
その量は、「田2157町、畑1311町、宅地193町、山林385町、原野62町、池沼4町、雑種地1町
(1町未満切り捨て)」です。総計すると、4144町強となります。正造の値とされる「5100町強」と
いうのは、全然おおげさな数字ではないではないですか。むしろ、高橋という偽名による1798町と
いうのが偽造された数字でしょう。どんなに好意的に解釈しても、県庁の集計途中に、「まだ郡の
半分も調べきれてないよ」って時点の値を無理矢理郡全体の値として持ち出したとしか考えようが
ありません。それとも、明治30年5月過ぎに巨大洪水が足利郡を襲って、鉱毒汚染地が超拡大
したとでも言い始めますかね? まあ先に書いておくと、年中洪水が起きてる川ですから、流域全体
で一度も洪水が起きなかった、というほうが逆にありえない話ですが、きっとこの方は、今度は小規模
な洪水を超巨大洪水であったかのような言い方をしはじめるでしょう。先に予告しておきます。
あなたはまたしても、「足利市史」ですぐにでたらめだと分かる内容を持ち出してきて、さも、自分が
事実を述べているかのように装ったのです。
偽名の高橋名の文献が全く信用できないというのは十分知っているはずなのに。
そして、その嘘は、「足利市史」を見ればすぐにばれると分かっているのに。
「足利市史」を見ればすぐにばれるような嘘を何度もつき続けるのは何故ですか?
まさかとは思いますが、あなたは、「足利市史」の販売セールスマンか何かですか?
この、高橋という偽名による文書には、こんな文が載ってるのですよ。(※漢字のみ、
現代のものに差し替えました)
第十四駒
人或ハ云ハン吾子ノ言ノ如クンハ田中正造ハ無情の奸物ニシテ第二ノ錦織剛清トモ云フベキ
モノナルカランヤト然レドモ吾儕ハ田中ヲ以テ斯カル人物ナリトハ猶為スヲ屑トセザルノミナラズ
寧ロ彼ハ当世ノ政治家タル一資格ヲ有スルコトヲ信ゼント欲スルモノナリ何トナレバ本件ノ基因ハ
全ク田中正造カ選挙区ノ人望を収攪セントヅルノ一手段タルニ外ナラザレバナリ言ヲ換ヘテ之ヲ
云ヘバ選挙区民ハ勿論天下ノ耳目ハ一田中正造ノ為メニ玩弄セラレンナリ
ひどい中傷文書じゃないですか。これを怪文書と言わずに何というのでしょう。
ところで、どうしてこの古河の飼い犬は、こんな文書をわざわざつくったのでしょうか。
それは、この文献の出る時代に重大な関係があります。この、明治30年5月始めという
のは、政府が古河に大規模な予防令を出す直前なのです。5月中にあの大規模予防令
が出ます。
政府の動きにあせった古河の犬が、慌てて文書をつくったので、こんなでたらめ、かつ、
現代から見てもまさに「怪文書」が出来たのです。
何度でも書きますが、全文は国会図書館サイトで読めます。
http://kindai.ndl.go.jp/index.html このサイトの検索窓に「鉱毒問題秘聞録」と入れて検索ボタンを押してください。
って何だか最近はやりのテレビコマーシャルみたいですね。
砂川さん、ひょっとして自分の使う資料の批判(検証)を一切してないのか?
587 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/06(金) 13:47:02 ID:MPb1LFoS0
>>586 てゆうか、自分に有利(そう)な資料があれば、ダボハゼのごとく飛びつく。
588 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/06(金) 19:29:30 ID:uHC//dRF0
明治30年5月刊の『鉱毒問題秘聞録』に、高橋菊太郎はまたこんなことも書いています。
田中正造は「渡良瀬川沿岸の漁業者は今では一人もいない」と演説している。しかし、これに
異議を唱える人たちは、データをあげて次のように言っているではないか。
「明治18年以来沿岸の漁業者が減ったのは事実だ。しかし、一人もいないとはとんでもない嘘
だ。現に黒保根村だけでも51人もおり、漁獲高に至っては、明治26年以来かえって増えている。
下都賀郡の被害村落の漁獲高は、明治26年が3476円、27年が4615円、28年が6453
円だったのだ」
>>588 だからそんなでたらめな文献を出してきてどうするんですか。こんなものを註釈なしで提示すること自体が、
ただの大嘘つきの仕業ですよ。何で、怪文書だという事実を隠して提示するんですか?
その前にその本がどれくらい信用に値するのかそっちを教えてください。
私は、全然信用できない、ということを、具体的な数値を提示してお教えしました。
あなたは単にわめいているだけです。
それとも、2ちゃんねるでは名前を出していないから、でたらめな文献でも使いほうだいとでも考えているんですかね。
ところで、菅井の文を捏造したのは何故ですか?
大嘘にさらに大嘘を上塗りしていけば、菅井の文を捏造したという事実も覆い隠せるとでもお思いですか?
鉱毒の研究している人は、梅澤フキがどういう人物なのか、南鍛冶町五番地から古河本店までの距離は何メートル
だとか、そういうのを研究してるんですよ。
あなたのような底の浅いでたらめは、すぐにばれますよ。
さて、そのほかの方への忠告です。
高橋菊太郎名義の「鉱毒問題秘聞録」は、単に匿名で田中正造を中傷するための怪文書であることは先に述べました。
従って、まともな鉱毒研究者は、絶対にこの本には触れません。
ただし、この文書がどういう性質のものなのか、を提示して紹介する人はいます。森長英三郎「足尾鉱毒事件」上巻にこうあります。
80ページ
伐採山林面積について古河側の史料は見あたらない。古河側文書といえる前記『鉱毒問題秘聞録』は、田中正造が明治三〇年
二月二六日の質問演説で(後略)
このように、古河側の文書だとして扱われることはあります。
この、森長の文では「前記」と書いてあるのですが、80ページより前にこの文献の名前は見つかりませんでした。たぶん見落としだと思います。
で、以前、古河が農民との示談契約書に書いた植林を全くしなかった話をしましたね。この森長の文は、その話に続きます。やっとどこで見た
のか思い出せました。しかも、原文は「鉱毒問題秘聞録」にあるのです。
せっかくなので、森長の文ではなく、「鉱毒問題秘聞録」にある原文をあたってみましょう。
p.84
第二ノ點に関シテハ田中派ハ之ヲ説明スラク明治二十八年末ニ於ケル銅山附近ノ山林伐採ノ状況ヲ見ルニ官林ノミニ就キテ言フモ既往ノ伐採
反別ハ七千六百三十二町餘ナルニ植附反別ハ五十三町餘即チ僅カニ其百四十分ノ一ニ過ギス且ツ銅山事務員ノ言ニ依シハ是レ實ニ銅山カ
古河ノ手ニ仮シテ以来ノ苗木植付反別ナリトハ山林ノ濫伐モ亦極ラザルヤ」ト是レ田中派ノ議論中最モ價値アルノ議論ナリ然レドモ?ムラクハ
鑛山ノ害トハ別問題ニシテ古河ニ対シ何等ノ痛痒ヲ与フルコト能ハザルモノゝ如シ
二十九年度ハ實ニ洪水ヲ以テ鼻ヲ衝クカト疑ハルヽマデニ洪水ノ流行セシ年ナリ世人皆云フ是レ山林ノ濫伐ニ基因セリト山林ノ濫伐ハ鑛山ノ
有無ニ関スルモノニ非ズ山林當局ノ人ニシテ無頓着ニ拂下ゲヲ許可シタランニハ何レノ山林モ皆濫伐セルルヽニ至ルベシ何ゾ獨リ鑛山地ノミ
ナランヤ
足尾山林ニシテ餘人ノ手ニ拂下ゲラレタンニハ五十三町餘タリトモ苗木ノ植付ハナサヽリシナルベキニ之ヲ古河ノ手ニ拂下ゲタレバコソ幾分ノ
植付ヲ為シタリトセバ沿岸人民ハ寧ロ古河ノ為メニ被害?カリシヲ謝セザルベカラザルノ理ナリ然ルニ山林濫伐ノ罪ヲ古河に?スルガ如キハ
所謂恩ニ報ユルニ讐ヲ以テスルモノニ非ザルナキヲ得ンヤ
読めない字は「?」で代用しました。で、以前、古河が切った林は1万町歩と書きましたが、実際に正造が国会演説で使った値は7000町歩、
高橋名義の文では7632町歩でした。
ただ不思議なことに、実際に伐採許可が出た面積はこれより少し少ないようです。1万町歩というのは、煙害で木が枯れた場所の面積も含む値
でしたので念のために訂正しておきます。
それにしてもこの文章はひどいですね。古河市兵衛だから53町歩とはいえ植林したのだといっているばかりか、被害農民は
植林した古河に感謝しろとかまで書いてますよ。
そんな高橋菊太郎名義の文献がどれくらい信用できないものなのか、どなたにもよく分かるでしょう。
何度も書きますが、この文献はオンラインで誰でも全文を読むことができます。
明治時代の代表的怪文書、高橋菊太郎「鉱毒問題秘聞録」全文をごらんになりたい方はこちらへ。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40067687&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0 今なら、この文献がさも信用できる立派な文献であるかのように偽った誰かさんの
大嘘を粉々に粉砕してくれる便利なオプション付きです。
590 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 20:59:42 ID:7oW9A5ns0
事件当時に刊行された田中正造の言動に批判的な資料には、高橋菊太郎と田川大吉郎による
前述の3点のほかに、次のような本もあり、うち4点は『資料足尾鉱毒事件』(亜紀書房、1970年)
に採録されています。
中沢丙一編・発行『足尾銅山鉱毒事件仲裁意見書』(明治29年)
関口範十郎編・発行『足尾銅山鉱業非停止陳情書』(明治30年)
高岩安太郎著・発行『足尾銅山鉱業停止請願に対する告白書』(明治30年)
古河鉱業事務所編・発行『足尾銅山鉱毒予防工事現況一班』(明治35年)
小手川豊次郎他著『足尾鉱毒問題解決処分』(穴山篤太郎発行、明治35年)
蓼沼丈吉著『足尾銅山鉱毒被害救済私見』(山田友次郎発行、明治35年)
栃木県史その他の2次的資料や教科書等にはこの種の1次資料は使われていません。そのため
多くの点で事実が誤って伝えられていますので、これらの資料に当たってみる事をお勧めします。
「こういう資料は信用できない」といった話は信用せずに、自分で是非を判断することが大切です。
それから、どの資料であれ、ミスがゼロというものはありませんから、完全だと思うのも禁物です。
>>590 亜紀書房の本が出た頃には、亜紀書房の本に入っていた史料は皆、存在が知られていました。
けれど、公害列島とか言われて、公害に関する感心が高まると、そういう史料の需要が高まり、現物を見る
ことが難しくなったので、そういう、鉱毒史料集のようなものが何冊も出たのです。
あなたのペンフレンドの布川了氏も、史料集を出してますよ。ご存じでしょう。
そして、栃木県史とかにそれらの史料が採用されなかったのは、単純に、「もう亜紀書房の本に出てるから
わざわざ再録する必要がない」からです。
そんな単純なこともおわかりにならないのですか? だいたい、栃木県史には、足利市史に載ってる分は
省いたみたいなことも書いてあるじゃないですか。ああいう史料集では直前に出た史料をあえて省くのは
常識です。
ところが、『足利市史 別巻史料編 鉱毒』に掲載された史料の大部分は、1976年当時、ほとんどの研究者に
知られていない文書でした。
当時、足利市には、鉱毒を専門にやっている研究者が全然いませんでした。
そして、その中には確実に捏造文書がいくつか含まれると考えられました。
けれど、当時の足利市には、どの文書が捏造なのかを判断できる研究者がいませんでした。
しかし、収録しなければ、これらの史料は闇に埋もれる。そして大部分は、永遠に失われる。
当時の足利市史編纂委員会は、「捏造文書も入っている」と言われる危険性を十分に承知した上で「全部
刷る」ことを決断したのです。
それはずいぶん勇気がいることだったに違いありません。何しろ、当時の「定説」とは全然違う文書がいっぱい
入ってたんですから。
それに、捏造文書がまぎれていたら、当時の長竹市長や、編纂委員に名を連ねるえらい学者の顔に泥を
塗ることになります。
しかしそれでも、足利市は、見つかった鉱毒文書を「全部刷る」ことにしました。
そして、今でも絶賛発売中です。
「足利市史」には、「足利市史」の前には大部数が刷られて配布されたものでないものが多く入っています。
当時の鉱毒委員の日記や、発禁本(とはいっても十数ページの冊子です)の復刻、そして、古河のはんこの
ある契約書の実物。
それが亜紀書房の本と「足利市史」の本の違いです。かたや、「既に知られていた稀覯本の復刻」、かたや、
「全く知られていなかった文書の掘り起こし」。
そういう重要な文献を、菅井も由井も、そして探したら布川了も、「足利市史を読め」みたいなことを書いている
のに、どうしてあなたは未だに、足利市史をごらんになろうとしないのですか?
通販を使ったとしても、妄想の国にももう本は届いているくらいの時間が経ちましたが。
1902年9月28日に渡良瀬川大洪水がなかったというあなたの大嘘を粉々に粉砕してくれる『足利市史 別巻
史料編鉱毒』は、足利市役所で絶賛発売中です。
今なら、田川の嘘や、高橋菊太郎名義の怪文書のでたらめも同時に粉砕してくれる便利なオプション付きです。
足利市史 別冊史料編鉱毒 2,780円、送料450円!
大嘘にだまされて、後世まで大笑いされる前に、足利市史をぜひどうぞ!
大嘘で人をだまそうとして見破られて、後世まで大笑いされる前に、足利市史をぜひどうぞ!
電話 足利0284-20-XXXX 内線1701 足利市役所市民資料室まで!
ああ、あと、菅井の文を捏造したのは何故ですか? 亜紀書房の本を出しても捏造は取り消せませんよ。
592 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 20:05:37 ID:+6pRW+KQ0
田中正造の発言の疑問点は、数字的なデータ以前の話や文章の誇大な表現ぶりにも、明確に
見られます。彼の言い方は大袈裟で、極端で、最高、最低の形容詞で虚飾されています。
こんなことはあり得ないと思うことまで、平然と書いたりしゃべったりするので、常識のある普通の
人なら眉に唾をつけて聞くような内容だということもできます。
つまり、彼の話や文章そのものに真実性が欠けており、私のようなものには、はなから信用でき
かねるのです。この判断が果たして正しいかどうかは今から何回か文章の実例を挙げますので、
ご自分でその是非を判定してみてください。
正造の文章の大袈裟さは、明治天皇への直訴状にも極端な形で出てきます。直訴状には、いっ
たいどんな風に書かれていたでしょうか。次回に紹介します。
もう紹介しなくていいよ。
君の連載は打ち切りにさせてもらう。
>>592 ところで、『足利市史』に書いてある、「ちゃんとした」値や「ちゃんとした日付」を無視して、
匿名の怪文書とか、洪水があったか見にもいってない田川とかのでたらめにはたちどころに
飛びつくのは何故ですか?
どう見ても、正造よりも怪文書の数値のほうが「栃木県庁の値」からはるかに乖離しているでは
ないですか。
ずっと前に書きましたよね。あなたは、自身に都合のよい内容なら、どんなでたらめな文章でも
使い、都合の悪い内容なら、自身の著書の中身でさえ、そのあたりの書き方は間違っていたとか
言い出すでたらめを今もやり続けているのです。
どうせ、直訴状の中身はおおげさだ、とか書くと思いますので、最初に書いておきます。
直訴状の中身は、秋水が書いたもので、正造の直筆ではおそらくありません。
秋水は鉱毒地の惨状を正造ほどには詳しくは知りませんでしたので、
中身は結構違ってます。まあそんなやつに直訴状の代筆を頼んだ正造が悪いとか、
代筆してもらった直訴状を、ろくに訂正しないで使ったとかいう主張ならまあまあ
聞くに値するかもしれませんがね。
何故、正造がそれほどまでに急いだのか、何故、修正する時間がなかったのか、当人たちは
みんな死んでしまい、何故そうなったのかはもう分かりません。いろんな研究者が理由付けや
当日や前日の当人たちの動きを追っていますが、未だに全部は解明できていないし、恐らく、
ちゃんとした証拠でそれらが解明されることはないでしょう。
ただきっとこの人は、都合のよい内容だけ持ち出してきて、また「ということが分かっています」とか
言い出すでしょうから先に予告しておきます。
残念ながら、『足利市史』には、直訴の話はほとんど出てこないのです。
>>590 >「こういう資料は信用できない」といった話は信用せずに、自分で是非を判断することが大切です。
ご安心ください。「ちゃんとした」史料を使って、それらの史料が全くのでたらめだということを
「自分で判断」しましたから。私は誰かさんのように「こういう(田中正造の作った)資料は信用できない」
とかいう大嘘には流されません。どうぞ安心してください。
※これは、亜紀書房の史料集が信用できないという意味ではなく、田川大吉郎と高橋名義の合わ
せて3つの文献が信用できないという意味です。あ、あと、運ナントカと直訴ナントカも入るので
ここで挙がった文献で全く信用できないのは5つですね。
それにしても高橋名義を出したのはやぶ蛇でしたね。あなたのおかげで、古河が「まだ」被害農民に
約束した植林をやってないというのがばれてしまったではないですか。
そんな古河のどこが誠実なんですか?
高橋名義が信用できるとかわめきちらしたんだから、当然、その本に書いてある「古河は約束した
植林をまだやっていない」も認めるわけですよね。
古河市兵衛が誠実だったなんて大嘘じゃないですか。しかも、あなたはわざわざご自身でそれを
提示したのですよ。
ところで、1902年9月28日に渡良瀬川大洪水がなかったなどと大嘘をつき続けるのは何故ですか?
私も「ご自身で判断」しますよ。ちゃんと。報道を見なかったからたいした洪水はなかったんだろうとか
いってる田川よりは、私は『足利市史』を信じますよ。それに、この日の渡良瀬川大洪水について書いた
文書は、これ以外にも山のようにあるのです。前に書きましたよね。田川は渡良瀬川大洪水があった
ことを、確実に「知って」いた。その証拠があります。知っていた上で田川はでたらめを書き連ねたの
です。後に田川は少しは名を挙げますが、それは鉱毒や農業や治水とは何の関係もない分野でした。
明治学院で田川が公害論の講義をしたというのは聞きませんね。いやその前に、私がヘボンだったら、
あんなのと一緒に並べられるのは御免ですけどね。
あと、いくら直訴のことを書いても、あなたが菅井の文を捏造したという事実は消えませんよ。
俺に解るのは、「直訴は必要だったか?」とかいう本を書いた人が、
全くのアマチュアだっていう事くらいかな。
この人の書いてる事は別冊歴史読本やムーと同じ様なものなんだろう。
世の中には色んな人が居て良いと思うし、人を楽しませる為だったら嘘も有りだと思う。
嘘だと解るように穴を作ってるのがこの人の良心なんでしょう。
だから誰も相手にしてないし、笑い飛ばしてる。
良い商売じゃないですか。社会的影響力がゼロなんだから誰にも迷惑は掛からない。
596 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/11(水) 14:57:35 ID:FX2laCEOO
597 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/11(水) 20:14:36 ID:96cuRWt30
直訴状の断片を以下に紹介します。たとえばこんな具合でした。
「河身激変して洪水また水量の高まること 数尺。毒流四方に氾濫し、毒さ(鉱毒の沈澱物)の
浸潤するところ茨城栃木群馬埼玉四県およびその下流の地数万町歩に達し、魚族斃死し田園
荒廃し、数十万の人民のうち産を失えるあり、或いは業に離れ飢えて食なく病んで薬なきあり」
「かくのごとくにして二十年前の肥田沃土は今や化して黄茅白葦(黄色いかやと白いあしだけの)
満目 (見渡す限り)惨憺の荒野となれり」
「人民の痛苦その極に達せるを見て憂悶手足を置くに所なし・・・しかも政府の当局は常に言を
左右にしてこれが適当の措置を施すことなし」
「数十万の無告の(苦しみを告げる当てのない)窮民空(むな)しく雨露(大きな恵み)の恩をこいね
がうて干天(ひでり)に号泣するを見る。ああ、これ聖代(陛下の世)の汚点に非ずといわんや。而し
てその責や実に政府当局の怠慢こう職(職務怠慢)・・・」
「聖明(天皇様)矜察を垂れ給わんことを(ご推察ください)。臣(私は)痛絶呼号の至りに耐うるなし
(耐えられません)」
あ〜君
もう帰っていいよ。
直訴全文は2000文字に満たない小文で、ネット上にも公開されている物なのに、
そちらを紹介しないのは何故でしょう?
いつもの手口ですか?
600 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 19:20:56 ID:GcavJ+SC0
直訴文を批判してみます。天皇陛下に対してまで、どうしてこんな虚言を吐いたのでしょう。
毒流とか毒さ(鉱毒の沈澱物)とか言いますが、あまりにもオーバーな表現ではありませんか。
銅という金属は毒性をもつ物質ではないのです。
「飢えて食なく病んで薬なき」なども、いかにも文学的な表現で嘘っぽいことがわかります。
政府は4年前に徹底した公害対策を施しています。従って「政府の無策」は完全な嘘。
被害民は、東京まで4回も歩いてデモ行進し、政府に陳情・請願運動をしています。実に戦闘
的でした。ですから「無告の窮民」も農民たちを馬鹿にした話だし、真っ赤な嘘。
「満目惨憺たる荒野」もとんでもない大嘘。直訴直前の新聞はこう報じているのです。
「両毛の米作(桐生・小山間)十二分の作柄にて、平年の収穫より2割内外の増収 あるべし」
「激甚被害地を除いてきわめて豊作にして、1反につき1石6斗ないし2石位の収穫を得ること
難からずという」(朝日新聞・明治34年10月6日)
川俣事件の裁判で被害農地を鑑定した農学博士・横井時敬は、群馬県の多々良村の原武八
の田んぼが1反当り3石余も収穫したと報告しているのです(鉱毒事務所発行『足尾銅山鉱毒
被害地臨検分析鑑定書』、明治34年12月)。
時系列も脈絡も無視してこれだもんな。
見え透いてて開いた口の閉じ方さえ忘れてしまった。
>>600 「激甚被害地を除いてきわめて」
「激甚被害地を除いてきわめて」
「激甚被害地を除いてきわめて」
あなたの捏造にはもううんざりです。
激甚地は豊作にならなかったのだから、あなたの主張は成立しません。
鉱毒のたれ流しと被害はこの後もえんえんと続いたのです。
1年で10万人を殺した殺人犯が、1年で1万人しか殺さなくなった。
だから被害がなくなったのだとわめいているのと同じですよ。
ところで、
>>590 >栃木県史その他の2次的資料や教科書等にはこの種の1次資料は使われていません。そのため
これも大嘘じゃないですか。
『足尾銅山鉱毒事件仲裁意見書』と『足尾銅山鉱業停止請願に対する告白書』の2つは、栃木県史に
載ってましたよ。もっとも、中沢という人物の名は見あたりませんでしたが。
同じ名前の全く違う史料があるのかと思って、亜紀書房の資料集と比べっこまでしちゃいましたよ。
「栃木県史その他の2次的資料や教科書等にはこの種の1次資料は使われていません。」
などと大嘘をついたのは何故ですか? というか、ほんとに栃木県史を見たんですか?
いったい、栃木県史のどこを見たんですか? というか、その栃木県史って私の世界で出版された
「栃木県史」と同じものなんですか? まさか、旧「栃木縣史」じゃないですよね。あの時代には亜紀
書房の資料集なんかないですからね。
一体、資料を全然見てないのか、見る気がないのか、自分に都合のよい場所しか見えないのか、
一体どっちなんですか?
ところで、菅井の文を捏造したのは何故ですか?
>どの資料であれ、ミスがゼロというものはありませんから、完全だと思うのも禁物です。
とかわざわざ書いたのですから、当然、田中正造の資料に多少のミスがあってもかまわないです
よね。何で田中正造の資料に多少のミスがあると嘘だ虚言だとわめきちらし、自身が菅井の文を
捏造したのがばれるとどうして知らない振りをするんですか? そして、高橋名義の怪文書とかを
さも立派な史料であるかのように持ち出すんですか。
ああ、あと、古河が被害農民に約束した植林をやったのはいつですか?
高橋名義の怪文書に、ほとんど植林してないって書いてあるみたいですが。
古河市兵衛が誠実だったというのは大嘘です。
砂川はひとつひとつの疑問点に答えること。
さもないと削除依頼を出してこのスレ消滅させるぞ。
市兵衛の評伝を書く時に入手した古川の為の資料から自分だけの物語を作ってるのかな?
そろそろ板違いだね。
自分だけの架空の歴史は紺碧とかと一緒なんだし、学問じゃなく文学だろ。
605 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 20:20:02 ID:Fmh1augE0
前述した『資料足尾鉱毒事件』(亜紀書房、1970年)には、川俣事件の控訴審における鑑定人
調書も採録されていますが、裁判長の質問と、被害農地の作柄を調査した前記の横井時敬
博士の答えが、次のように載っています。
この質疑応答によって、直訴直前の秋における被害地の回復ぶりと、直訴状の嘘偽りぶりが
お分かりになるだろうと思います。
問 「植物を採取した土地はきわめて豊饒であるとの意見だが、なぜそのように認めたのか」
答 「土壌調査の結果です。つまり、土壌の性質と収穫物が良好だったためで、桑のごときは
普通にはない300貫以上の収穫を示したので、きわめて豊饒と認めました」(続く)
>>605 ところで、
>>590 >栃木県史その他の2次的資料や教科書等にはこの種の1次資料は使われていません。そのため
などと大嘘をついたのは何故ですか? それとも、間違えたんですか? それとも、調査不足ですか?
それとも、野口春蔵はろくに調査ができなかったはずだとかわめいている本人の調査能力は、野口以下だということを
わざわざ証明したいだけですか?
それと、横井の鑑定書の文を見ましたが、原の土地が豊作になったのは古河さまのおかげだとか、明治政府の
おかげだとか書いてないじゃないですか。
該当部分を引用しましょう。(漢字のみ、現代のものに改めてあります)
> ●鑑定番号 第廿三号 供試材料 水稲
>一田 群馬県邑楽郡多々良村大字日向小字内谷第五百二十一番 原武八所有
> 坪刈ノ成績改算一反歩当リ収穫米三石〇〇五合
> 泥深キ水田ニシテ排水ヲ為スニ至ラハ土地更ニ良好ヲ加フヘシ此ノキ多量ノ収穫アル所以ハ手入ノ懇到ナルト
>気候ノ良好ナルニ帰因スルモノト認ム土中ニハ銅分ヲ含有スルアルヲ見ス
よく手入れをしたのと、気候がよかったのが豊作の原因だとはっきり書いてありますよ。政府の鉱毒対策の
おかげなんてこれっぽっちも書いてないじゃないですか。
しかも、この数字は、横井がこのとき鑑定した農地のうち一番できがよかったものの値です。全部引用してさしあげましょう。
鑑定番号:1反あたりの収穫(単位 石)。
1:0.8914 2:0.8458 4:1.3273 5:1.4000* 5:0.2380* 7:0.2380 10:0.1772*
11:1.0500 11B:2.1000 13:1.2090 14:0.4320* 17:0.2030* 18:1.2940 19:2.1770
20:1.5900 21:0.4900* 22:1.4890 23:3.0050 24:0.8057* 25:2.1580* 26:1.4780
34:1.6470 35:1.5290* 38:1.4400* 38B:1.7250*
*印は陸穂で、他は水穂です。欠番は桑畑などで、横井は別に集計しています。桑畑の値は省略します。
5番が2つあるのは同じ田んぼの別の場所を別々に測定したためです。
1反あたり0.2石なんていう値がばんばん出てくるのに、さも、23番の原の値が標準的で、しかも、豊作の理由を勝手に
政府の鉱毒対策のおかげにかのようにねじまげるのは何故ですか?
横井は政府の鉱毒対策のおかげなんて書いてませんよ。しかも、原のこの田んぼからは銅が検出されていませんよ。
ということは、そもそも鉱毒被害地だったかどうかも怪しいですよ。被害地だったとしたら、原自身が毒土をよそに捨てた
のでしょう。それは農民の不断の努力によるもので、明治政府のおかげでも古河さまのおかげでもありません。
この「多々良村日向」という場所は、今で言うと東武多々良駅付近になります。そもそも、渡良瀬川に接してすらいないじゃないですか。もちろん、洪水のときは矢場川を鉱毒水が逆流してきますから、多々良村日向に
被害地が全くないとはいえません。しかし、ほかの渡瀬村とか久野村とかで徹底的にひどい値が出ているのに、
そもそも鉱毒汚染土をかぶったかどうかすら怪しい場所の値、それも、全データの平均値ですらない値を出して
くるのは何故ですか? 読者をだます以外の理由があるならお聞きしましょう。4日以内にお答えいただけないのでしたら、
読者をだますために恣意的なデータのみを抽出したのだと判断します。
そもそもこの23番は「鉱毒がなければこんなに収穫があるのだ」というのを推測するためにわざわざ鑑定した場所
なんじゃないですか? 何度も書きますが、この土地からは「銅が検出されていません」よ。
ちなみに横井は、鉱毒がなければ、平均して陸穂で25番くらいの収穫があるはずだと推測しています。
ああ、あと、いくらわめいても、菅井の文を捏造したという事実は消えませんよ。
608 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 19:02:49 ID:0sC4o1fi0
川俣事件の控訴審における、裁判長と鑑定人農学博士・横井時敬の一問一答を続けます。
問 「無害の標準地として(比較のために)採取した、No38の陸稲畑の坪刈りの成績は1反歩
につき1石4斗4升で、被害指定地の収穫が1石7斗もしくは2石ですが、このように、被害
地が無害地よりも収穫が多いという理由は?」
答 「鑑定No38の畑地は土質が劣等で、多量の銅分を含んでいたので、No25の畑地を無害
地の標準としました。No25は銅分がゼロなので収穫が2石1斗5升8合でしたから、被害
指定地の標準を2石と見たのです」
裁判所の依頼で鑑定人の横井博士が調べたのは、直訴の2ヶ月前の明治34年10月です。
上の問答から、その時点で被害地の陸稲の収穫が無害地のそれとあまり変わらなかったという
ことがわかります。
この問答から、渡良瀬川沿岸には冠水しなかった無害農地もあって、「満目 (見渡す限り)惨憺
の荒野」 と言う景色はそもそもあり得ないだけでなく、被害農地も無害地に近い回復を見せてお
り、直訴状の文章は現実を無視していることがわかります(続く)。
>>602へ。私は「 栃木県史その他の2次的資料」 と書いたのです。あなたの言うのは「史料編」
で1次資料。2次資料に当たるのは、栃木県史の「通史編」です。
>>608 >上の問答から、その時点で被害地の陸稲の収穫が無害地のそれとあまり変わらなかったという
>ことがわかります。
1石4斗4升と2石1斗5升8合が「あまり変わらなかった」ときたもんですか。
「減収33%」なんですが。
割り算の仕方は分かりますよね。1.440/2.158=0.66728ですよ。
「減収33%」ですよ?
減収33%が「あまり変わらない!」こいつはびっくりですね。
だったら、田中正造の出した値なんか、どれも、実際の値と「たいして変わらない」んじゃないですか。
あなたは田川大吉郎以上のでたらめっぷりですね。
>>608 言い逃れはやめてください。それらの史料が栃木県史に載っているというのは事実です。
あなたは「栃木県史にはこういう資料は一切載っていない」かのような大嘘をついたのです。
それならあなたは、「栃木県史が二次資料である」かのような大嘘をついたことになりますよ。
「「栃木県史に載っていない」という大嘘をついた」ことにするか、「「栃木県史が二次資料である」かの
ような大嘘をついた」か、あなたはどちらかを選べますが、大嘘つきであるという事実は消せません。
まあどうせ、ろくに栃木県史すら読んでいない野口春蔵以下の情報収集能力しかないことはよーく
分かりましたけれどね。
ところで、栃木県史が読めるということは、当然、足利市史もごらんになりましたね。それとも、
あなた程度の情報収集能力では、「足利市史」を探すこともできないのですか? 探し方は教えて
あげましたよ。足利市役所に電話して「市史の鉱毒編を通販してくれ」って言うだけです。
それはそうと、今度は横井の文も捏造してるのは何故ですか?
あなたのは現代文書き下しにすらなっていない恣意的なでたらめな文章なので、
ちゃんと原文を引いてください。
横井の文の一部を原文で見てみましょう。
>元来桑畑ハ特別原因ヲ有ス即チ桑ハ深ク土中ニ植込ムヲ以テ下層良質土ナルニ於テハ其根ハ下層ニ
>至リ発育スルガ故ニ好結果ヲ得新ニ植込ミタルモノハ下部ノ根十分ニ繁生セザルヲ以テ往々枯死スル
>コトアリ鑑定番号第卅一号ノ如キハ其例ニシテ地表面以下八十五仙米ノ処ニ至リ根ノ繁生シ居ルヲ以テ
>実ニ三百六十貫ノ収穫アルニ至リタルノデス
つまり、土壌は豊饒だが、その上に鉱毒汚染土が乗っているので凶作になっているのだ、と横井は言って
いるのです。
ただし、桑畑の場合、鉱毒被害前に植えた分で、根が地下84cmのところまで伸びているような場合、桑の
根は、表層の毒土から水や養分を吸わず、下層の「豊饒」な土地から水や肥料を吸うので、桑畑では例外
的に、土壌から銅分が多量に検出されても豊作になっていることがある、と言っているのです。さらに横井は
いくら桑畑でも、既に鉱毒に犯された土地にあとから桑を植えた場合、桑は「豊饒」な下層部分まで根を伸ば
す前に枯れてしまうこともある、と、「鉱毒地に桑を植えると豊作になる」わけではないと念を入れて述べています。
横井の発言を最も端的に現しているのはこの部分でしょう。
>問 然レバ収穫ノ減少ハ全ク銅ノ毒ナリト断言することを得ルカ
>答 重ニ銅ノ毒ナリト信ジマス
この部分をわざわざ消し去って、まるで横井が鉱毒がなくなったのは政府と古河さまの
おかげと発言したかのような大嘘をつき続けるのは何故ですか?
ああ、あと、何度も書きますが、あなたが菅井の文を捏造したという事実は消えませんよ。
>>609 一応追記しておきましょう。
>>608 の質問では、38番は鉱毒「無害」地の標準であるかのような言及があります。
ところが、横井は、無害地のつもりで鑑定を始めたけれど、あとから確認したら土壌から銅が出たので、
「38番は鉱毒無害地の標準としては使えない、25番を無害地の標準に使おう」ということで、標準地を
取り替えたのです。
つまりこの
>>608 の発言では、38番を無害地であるかのような書き方をしていますがこれは真っ赤な嘘。
38番は土壌から「銅分」が検出されている「被害地」なのです。
だから私の計算では、38番は被害地としての計算です。
被害地ではがんばっても1.44石しか取れないが、無害地では2.158石とれる。
全然、「「あまり変わらなかった」ではないではないですか。
ところで肝心の『足尾銅山鉱毒被害地臨検分析鑑定書』には、肝心の38番の鑑定結果の詳細が出て
いません。
これは国会図書館の人がうっかりコピーを忘れたのか、出版者がページ抜けのまま発行してしまった
のか、どなたか完本をお持ちの方がいたらフォローをお願いします。
国会図書館の電子図書ライブラリーには、鑑定番号38番が載っているはずの「30-31ページ」が
見あたりません。
それとも国会図書館蔵書版が乱丁本で、違うところに30ページがあるのでしょうか。
611 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/17(火) 19:39:23 ID:cFh3xX7l0
被害農地の成績が良すぎるので、裁判長は、鑑定人に次のごとくしつこい質問をしています。
問 「無害標準地のNo29の桑畑は240貫の収穫なのに、各被害指定地のうちに300貫の収穫
を示している所があるのは、前と同じ理由ですか?」
答 「そうです。No31の桑畑は多量の銅分を含んでいますが、下層に固有の良質土があって
発育が十分であるため、300貫以上の収穫を示したのです」
問 「1万分の4強の銅分を含めば、収穫は減少しますか?」
答 「ええ、溶解性銅分が存在すれば、植物はそれを吸収しますから被害があります」
問 「あなたは、No1の指定地は、その害鮮少、No4は軽少だとしているのみならず、銅分は
1万分の2もしくは3を含有し、鑑定番号No22のごときは、銅分1万分の8以上を含有しな
がらその害は軽少だと認めていますが、なぜでしょう」
答 「溶解性銅分が僅少で、栽培の仕方が適切であることによって被害が軽少だと認定したわ
けです」(続く)
先に釘を刺されて、インチキも指摘されて、それでも書くか、知恵遅れ。
>>611 その桑とかの話は私が既にしているではないですか。
それは、鉱毒被害があっても桑の場合は豊作になることがある、というのを、
桑の持つ特性を理由にしているのであって、政府の鉱毒対策のおかげだと
は横井は言ってません。そんなところ今から恣意的に自説に有利な証拠にしよう
としても無駄ですよ。
横井の鑑定の結果、豊作になったのは
(1) 鉱毒無害地だった(土壌から銅が検出されなかった)
(2) 持ち主の手入れがよかった
(3) 元々桑が植えてあって、その根が深くまで伸びていた
のいずれかです。横井がそれ以外の例を挙げているのなら提示してください。して
ませんから。まあ豊作の理由に、天候がよかったのは挙げてますけどね。しかし天候は
被害地も無害地も同じです。横井は、豊作になったのは明治政府と古河さまの鉱毒対策の
おかげなどとは言ってませんし書いてません。
横井はわざと被害地だけでなく、無害地も鑑定したのです。だって、被害地だけの検査だと、
「無害地はこれだけ収穫があるのだから、減収は何割だ」という計算ができなくなります。
だからこそ、わざわざ同じ地方の同じ村の同じ字の無害地を数カ所選んで同じ方法で鑑定
しているのです。ところがどっかの誰かさんは、横井がそうやって比較のために選んだ無害地の
値だけを提示してきて「豊作になったのは鉱毒対策のおかげだ」とか大嘘をついているわけです。
もう一度書きますが、横井は鉱毒対策のおかげで豊作になったなどと言ってないし書いてない
ですよ。そんな大嘘をついたのはどこのえらい博士ですか? 嘘をつけばしょっぴかれるような、
裁判所の中とかでそう言ったえらい博士がどこにいるんですか?
>問 然レバ収穫ノ減少ハ全ク銅ノ毒ナリト断言スルコトヲ得ルカ
>答 重ニ銅ノ毒ナリト信ジマス
横井の発言のこの部分をわざわざ削除して、まるで横井が全く逆のことを言ったかのような
捏造を繰り広げるのは何故ですか?
> 答 「土壌調査の結果です。つまり、土壌の性質と収穫物が良好だったためで、桑のごときは
> 普通にはない300貫以上の収穫を示したので、きわめて豊饒と認めました」(続く)
あなたの恣意的な書き下し文にこうありますが、横井はちゃんと、桑が300貫とれたのは、
>元来桑畑ハ特別原因ヲ有ス即チ桑ハ深ク土中ニ植込ムヲ以テ下層良質土ナルニ於テハ其根ハ下層ニ
>至リ発育スルガ故ニ好結果ヲ得新ニ植込ミタルモノハ下部ノ根十分ニ繁生セザルヲ以テ往々枯死スル
>コトアリ鑑定番号第卅一号ノ如キハ其例ニシテ地表面以下八十五仙米ノ処ニ至リ根ノ繁生シ居ルヲ以テ
>実ニ三百六十貫ノ収穫アルニ至リタルノデス
古河さまのおかげではなく、桑の根が深くまで張っていたからだと言っているではないですか。
恣意的に「被害地で桑300貫」のところだけ抜き出したのは何故ですか?
私にはまるで、豊作になったのが鉱毒対策のおかげであったかのように見せかけるための嘘にしか
見えませんが。
実際にはこの豊作は鉱毒対策のおかげではなく、桑の持つ特性によるのです。少なくとも横井は
そう言っています。
それに、鑑定番号1番とか10番の値はどうするんですか?
1反あたり0.2石以下ですよ。9割の減収じゃないですか。
そういう値を恣意的に無視するのは何故ですか?
ああ、それと、1902年9月28日に渡良瀬川大洪水がなかったなどと大嘘をついたのは何故ですか?
そしていくらわめいても、菅井の文を捏造したという事実は消えませんよ。
614 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
裁判長と農学博士・横井時敬との以下の質疑応答から、被害民への農業学者の同情振りが伝
わってきます。医学者や鉱山学者とは違って、農学者はつねに被害民の味方でした。
問 「指定被害地の田畑は、毒土を除去したり土中深く埋めたため、このような収穫があったの
だとあなたは認定しています。その理由は?」
答 「鑑定番号No15の桑畑のごときは、ほとんど収穫がありません。毒土のあった場所は普通
の草でも生育しません。たまたま生育したところは、毒土を取り除き、または埋め立てた形
跡があります。したがって、このような鑑定をしたわけです」
問 「No11とNo11・Bは、本来の地力が同一と認められますが、なぜ、このように収穫に大きな
差が出るのですか?」
答 「No11は毒性が濃厚で、No11・Bはよく毒土を除去してあるため、毒性が希薄になっている
からです」
問 「毒土を蒙った以上、農業経済上は収支が償わないとあなたは認定しましたが、理由は?」
答 「毒土を除去するには大変な労力と莫大な費用を要し、且つ大量の肥料を施す必要があり、
利益が出ないのは明らかだと算定したのです」
問 「収穫の減少は、全く銅の毒のためだと断言できますか?」
答 「主に銅の毒だと信じます」
学者でありながら「信じます」としか言えないほど、公害の原因は単純でないのです。