一度遊びに来なさいとのお言葉を頂き、ある日曜日に数名で先生宅に御邪魔しまし
た。御多用な先生のこととて来客があり席を外されたりしましたが、ゆっくりしていきな
さいとのお言葉にあまえて、しるこなど御馳走になったりし乍ら、御迷惑をも顧みず夕
方まで遊ばして頂いた懐かしい思い出があります。
やがて数日経って一人一人の名前の一字を読みこんだ御揮毫を各々頂き本当に有
り難い記念となりました。
私の頂いた御揮毫は、克己という名前の克の一字をよみこんだ「克明峻徳」というも
のでした。「克く峻徳を明らかにす。」と読み、意味は、「実直ですぐれた徳をもつ」という
ことと、辞典には述べられています。私に対して「そういう人間になれ」という御教訓を下
さったものと思っています。尚、扁額には、昭和庚辰春、為前島克己君嘱、と書かれ、
前後に、安諦印印と署名捺印されています。ふるさと「安諦」を雅号とされたようです。
卒業間近になった或日、講義のあと先生は、「みんなよく一年間努力してくれた。こと
に一人一人の講義の努力は見るべきものがあった。今年の成績は全員百点満点だ。」
と言われたので思わず爆笑となりました。私達は極めて不十分であったけれど、その努
力を認めていただいたそのよろこびの爆笑でありました。
愈々学年末になってみると、先生のお言葉にたがわず全員百点が与えられていて全く
驚き入ってしまいました。先生の御言葉は、努力に対するおほめの言葉で、まさか現実
に百点とは夢想だにしていませんでした。
本科時代を合わせて六ヶ年の師範学校生活でしたが百点などとは、先は聞いたことも
ない成績でありました。しかも全員に与えられたことはおそらく川嶋先生ならではできない
ことではないかと思っています。
外にも、忘れ得ぬことがあります。
生徒の交替講義中のある時、私はふとふりかえって先生を見たのです。斜後の座席
の先生はじっと目をとじていられるのです。私は二回ふりかえってたしかめました。そし
てこれは本当の居眠であると思いました。他にもこの事に気付いた連中がいて休憩時
間になって、三四人でそれが話題になりました。あれは居眠ではない。目を閉じていた
だけだと主張する者、いや本当に眠っていたという者に分かれました。本当に眠ってい
ないと主張する者は、先生の行届いた補足や訂正には聞き漏らした形跡はなかったと
主張します。私もその点については認めました。しかし私はあれは本当に眠っていられ
たのだと主張しました。今でもそう信じています。私は先生のあの場での居眠りに先生
らしいものを感じました。
先生は豊かなお心の持主でありました。“気宇壮大”ということばもまだぴったりあて
はまりませんが、とに角ゆったりとしたゆとりの感じられるお人柄でした。本当に居眠を
していてそれでいて、大切なことは聞き漏らされていないという先生ならではのものが
私共の心をとらえて離さないのだと思っています。全員百点満点と先生の居眠にはつ
ながるものがあると思います。
専攻科時代はたった一か年で週二時間位漢文の御指導をいただいただけの御縁で
ありましたが、私にとっては今も忘れ難い川嶋庄一郎先生であります。
毎日新聞 和歌山版 1989年8月27日
礼宮さまと婚約の紀子さん 家系、和歌山がルーツ
天皇家の二男礼宮さま(二三)と婚約することになった川嶋紀子さん(二二)の家系
は、和歌山がルーツ。華やかなニュースが二十六日、県内を駆け抜けた。
紀子さんの父辰彦さんの祖父で、後に「県視学」(現在の県教委指導主事)を務めた
庄一郎さんは、有田郡安諦村(現、清水町)の松浦家から、和歌山市本町八に屋敷が
あった富農・川嶋家へ婿入り。その後、庄一郎さん夫妻は東京に移り住み、屋敷は戦
災で焼失。跡地には現在、自動車修理工場、カメラ店、アパートなどが建っている。JR
紀勢線をはさんで向かいの米穀店に昭和五年に嫁いで来た上野山登美子さん(七九)
は「庄一郎さんは釣り好きで、よく着流しで釣りざおを担いで釣りに行っていました。お
二人とも温厚な人柄だったことを覚えています。紀子さんが庄一郎さんのひ孫さんと聞
いて驚きました」と話していた。
一方、庄一郎さんの兄庄太良さんの孫、松浦良子さん(七三)=清水町板尾=による
と、紀子さんは小学校高学年のころに一度、家族で同町を訪ねている。辰彦さんが庄一
郎さんの郷里を紀子さんらに見せるためだったらしく、幼かった紀子さんは「谷川の水が
おいしい」と喜んでいたという。良子さんは「その後、会っていませんが、突然のニュース
でびっくり。これから、いろいろと大変でしょうが、しっかり頑張ってほしい」と話していた。
>>303の記事で、川嶋庄一郎は和歌山県視学とありますが、正しくは和歌山市
視学です。
庄一郎夫妻は、川嶋邸が戦災で焼失した後、東京在住の長男・孝彦氏一家に
もとに身を寄せますが、すぐに和歌山に戻り、昭和22年に亡くなっています。
川嶋家の屋敷があった場所は現在、自動車修理工場、マンション、駐車場など
が建っています。
毎日新聞 和歌山版 1989年8月27日
紀州人の誇りと受け継ぎ 紀子さん
アカデミズムと紀州人の誇り―。川嶋家はこれを家風の柱としている。
一家のルーツは和歌山市。江戸時代から続いた大地主で、紀子さんの曾祖父にあ
たる庄一郎氏(和歌山県内出身)が東京の高等師範学校を卒業後、同家にムコ入り。
その後も教育学の勉学を続けて学習院初等科長まで務めた教育家。その長男孝彦
氏と元大阪市長、池上四郎の末娘、紀子(いとこ)さん=現八十二歳、神奈川県鎌倉
市在住=の間に、紀子さんの父辰彦氏が生まれた。
孝彦氏は佐賀中、一高、東大法学部と進み、大正時代に内務省入りしたエリート
官僚。辰彦氏ら三男二女をもうけた。住居は東京・目白だったが、戦災で消失。一家
は東久留米の疎開先から新宿区早稲田南町の都分譲住宅(約七十平方b)住まいと
、当時の一般国民同様の苦労と質素な生活を体験した。
孝彦氏は昭和二十二年、内閣統計局長を最後に退き、辰彦氏が高校時代の三十三
年に六十一歳で亡くなるまで参議院人事委員会専門委員、国会図書館専門調査員を
歴任。生前、故郷の和歌山への思いをよく語り、東京育ちの子どもたちも「私たちの故
郷は和歌山」(三男・行彦氏)と紀州人の心を継承。辰彦氏らは毎年欠かさず和歌山市
の菩提寺を訪ねている。
庄一郎さんの出身地、清水町へは、約十年前に紀子さんが家族と一緒に訪れた。遠
縁にあたる同町板尾、松浦良子さん(七三)によると、辰彦さんが「おじいさん(庄一郎さ
ん)の郷里を紀子らに見せたい」と松浦さん宅に宿泊。小学校高学年だった紀子さんは
「谷川の水がおいしい」と喜んでいたという。
◇
紀子さんは「きこ」と読ませる。字は父方の祖母、紀子(いとこ)さんと同じだ。祖母は現
存八十二歳。川嶋辰彦さんの姉で鎌倉市に住む小菅宮子さんと同居中。この日、「紀子
が生まれた時、私と顔立ちが似ているというので同じ字を当て読み方を『きこ』とした」と命
名の由来を明かし喜びをかみしめていた。
庄一郎氏の家は焼失
庄一郎氏が戦前に住んでいた本籍地の家屋は、和歌山市の中心部にあったが空襲
で焼失。現在は、自動車修理工場やアパートなどが建ち並び、広大な田畑を持った川
嶋家の足跡をうかがわせるものは残っていない。
308 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/14(木) 23:08:38 ID:+zl1ixT00
保守age
産経新聞 和歌山版 平成元年8月27日
「紀子さん おめでとう」
かわいくて、明るく 川嶋家ゆかりの人々祝福
「紀子さん、おめでとう」―。天皇家の二男、礼宮さま(二四)が、学習院大学の一年
後輩で同大学院生の川嶋紀子(きこ)さん(二ニ)=東京都豊島区目白一、学習院大
学経済学部教授、川嶋辰彦氏(四九)の長女=と婚約されるニュースが二十六日、全
国をかけめぐった。川嶋家は和歌山市をルーツにした教育一家で知られ、紀子さんの
ひ祖父は清水町出身で、ゆかりの人が多く、関係者の祝福の声が相次いだ。
大きな喜びに包まれたのは、清水町板尾四二五、農業、松浦良子さん(七三)。紀子
さんのひ祖父の庄一郎さん(故人)は松浦家の出で、各地の師範学校で教鞭をとった
教育者。紀子さんの父、辰彦氏と松浦さんは、またいとこに当たる。一度だけだが、紀
子さんと家族が松浦さん宅を訪ねて宿泊。自然いっぱいの山の生活を楽しんだこともあ
る。
良子さんの話によると、紀子さんが松浦家を訪ねたのは、紀子さんが小学校時代の
春休み。突然、大阪の親類から「川嶋さんたちが、すぐそちらに上っていく」との電話が
あり、夕方に野良仕事を終えて帰宅すると、紀子さんの家族五人が到着していた。夫
の愛治さん(故人)と辰彦氏らが談笑。良子さんも紀子さんに山の話をするなど楽しい
ひと晩を過ごした。
良子さんは、「まだオカッパ姿でかわいい子」という印象を持ったが、翌朝のこと紀子
さんは「山の水がおいしかった」と声をかけてくれ、「かわいい、明るい娘さん」の思いを
強めた。礼宮さまのフィアンセになられたことにはは「(親類としては)もったいない話で
すが、紀子さんならきっとよいお嫁さんになられると思います」と喜んでいる。
川嶋家は、和歌山市本町で代々続いた豪農でもあった。米を蓄える蔵が三軒あり、
格子付きの土塀や母屋の朱塗りの建物を記憶している人も多い。この立派な屋敷も昭
和二十年七月の米軍大空襲で焼失。終戦直後、辰彦氏の父、孝彦氏の代になって土
地を売却して一家は東京に移住した。
屋敷跡は現在、写真店や自動車修理工場、民家がたち並んで面影はないが、近くの
専養寺の佐々木祐政住職(六三)は旧家で、背が高く上品な姿のおおじいさんを(辰彦
氏の祖父)を覚えており、「さもありなんという気持ち」と話せば、川嶋家から土地を譲り
受けた鍋屋町一三、主婦、中尾久代さん(七七)も「主人の建築の関係でお屋敷に出入
りさせてもらうなどお世話になりました。紀子さんにはお会いしたことはないですが、心
からお祝いを申し上げたい」と、喜びをいっぱいにしていた。
文中に出てきた川嶋辰彦氏のまた従姉妹にあたる松浦良子さんの父が松浦
康太郎という人物で、安諦村の名村長と謳われた人であったようです。
この松浦康太郎は、板尾村の富森勘之助の次男として生まれ、後に松浦家に
養子入り。
実父の富森勘之助も安諦村長の経験者。明治30年から明治31年まで第二代の安諦
村長を務めています。
また、養父の松浦庄太郎も村議会議員であったようです。
昭和27年 南海情報社刊 丸山啓造『有田新人物誌』より
松 浦 康 太 郎 氏
氏は明治二十四年富森勘之助氏の次男として呱々の声をあげ長じて松浦家に迎え
られた。青年時代から衆にすぐれて賢才の誉れ高く、二十二才のとき村議会から見込
まれて収入役就任を懇請された。議會に出席中の養父庄太郎氏は断りかねて引き受
けて歸宅したが、年が若すぎると生母は猛烈に反對し生母自身が議會に出かけて?
退を申入れて断ったというエピソードが残っている。その後数年してから再び熱望された
ので今度は受諾して役場に入り、収入役を七ヶ年勤めた後助役となって就任中、村民
から蔵の金失いだと笑われながら上西廣一郎氏を社長に、父君が専務取締役となって
安諦水力電氣会社を設立したので、氏も又役場を退いてこの事業を助けることになった
。昭和三年五月工事は見事完成し当初の計画通り二十五キロワットの出力を得て、山
村民に電氣の恩澤を浴さしめたが、馴れない事業だけにその間關係者の苦労は並大
抵ではなかったといわれている。
昭和十年望まれて村長となり農業會長、産業組合長などを兼任した。村長としての氏
はまづ極度の疲弊状態にあった村の経済更正を志し、綿密な基礎調査をしたり山村の
立直しについて先覚者を訪歴して意見を求めたりして、安諦村の環境地質から杉、檜、
シュロの植林と儉約の外策がないという結論に達したので、村民にこれを推奨すると共
に他郷人の手にあった山林跡山の買戻し努力して村の更正をはかり、その他主婦の会
結成や板尾大橋の架設あるは小学校の増設等、多くの功績を残して昭和十八年引退
した。質性すこぶる英邁にして温厚、人情にも厚く村の長老として村民の尊敬を一身に
あつめている。とみゑ夫人も又淑徳の誉れ高く、長女ゑいさんは愛治氏を迎えて三人の
子女を設け、良子、とくゑさんは他家に嫁し、澄子さんは吉備高校を出て自宅に、恒代さ
んは東京の女子大学に在学、趣味は囲碁、浄瑠璃。 (安諦村板尾)
314 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/24(日) 17:00:28 ID:vnDcYqC7O
自分達に都合の良いことだけ、ほざいている敵国の言い分。
自分達に都合の悪い資料はなかったことにしているなんて、今の政治家にも受け継がれている。
貴方達にとっては、素晴らしい伝統文化なんでしょうね
316 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/09(木) 11:46:21 ID:+uUQcu660
..__
│恨┃ /\
│民┃/_會\
│族┃ <丶`∀´> <薩長は捕虜・住民の大虐殺を認め謝罪するニダ!
 ̄┃ /つ恨O
" "'゙''` '゙ ゙゚' ''' '' ''' ゚
317 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/21(火) 23:19:50 ID:EVVdCcQz0
近所に和歌山のお寺出身の方がいらっしゃって、
紀子さまのおじいさまの家を知ってらっしゃるそうですが、
「貧農」だそうです。
そりゃ土地の人の関係知ってる人の方が確か。
誰よ豪農だなんて嘘書いてるの。
川嶋違いでしょう。
あと、母方は船頭だっけ?
なんか川の中で仕事する家の人らしいよね。
318 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/21(火) 23:41:17 ID:lr4fIsCK0
>>317 松浦家は貧農ではありませんよ。
富農でもありませんが、決して貧農ではありません。
庄一郎の兄の松浦庄太郎は、村議会議員や区長、氏子総代、群議会議員に
も選出されていますし、安諦水力電気会社の設立発起人の一人で、専務取締役
も務めています。
その養子の康太郎も安諦村の名村長で村民から敬愛を一身に集めた
人物です。
319 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/21(火) 23:50:21 ID:lr4fIsCK0
>>317 杉本家は静岡で代々水産加工業を営んで、杉本嘉吉氏の父の吉三郎氏の代
から家具製造業に転じ、従業員20名ほどの鏡台を作る工場を経営していた
とマスコミ各社でも報道されましたけど。
杉本家が船頭を営んでいたという話は聞いたことがありませんが、ソースを
教えてください。
一方、紀子さまの母方のルーツは静岡市にある。母和代さん(47)の両親、
杉本嘉助さん(75)栄子さん(74)夫妻の両親には満鉄関係者が多い。栄子
さんの外祖父、平野平左衛門氏は日本最初の鉄道が走った東京新橋―横浜間(明治
5年開通)で明治12年、技術習得を認められ、日本人第1号の蒸気機関車運転士
に任じられた3人のひとり。平野氏はこのあと満鉄に移った。栄子さんの父、服部
俊太郎氏は満鉄機関区長などを歴任した。
嘉助さんも横浜工業専門学校(現横浜国大)を卒業後、満鉄入りし旧満州にあっ
た8つの鉄道工場を管理する鉄道総局工作局工場課に勤務した。敗戦後、せきつい
矯正器械を開発して特許をとり昭和30年代から一昨年まで静岡市内で指圧療院を営
んでいた。
嘉助さんの祖父、吉三郎氏のめいの夫に静岡県清水市長を務めた鈴木平一郎氏が
いる。
『毎日グラフ増刊 文仁親王妃と紀子妃殿下』
次に転載する『現代人物誌』は、奈良新報社という新聞社が全国各地の
有力者を訪ねて、その人となりを紹介しるという企画で、好評であったた
め現在分っているだけで第18巻まで続いたようです。
その第四巻が和歌山、滋賀編。
この巻に川嶋庄一郎の兄である松浦庄太郎が紹介されています。
また、この巻には川嶋庄一郎の紹介と川嶋家の系譜についても触れられていますので、
それもいずれ転載します。
昭和6年 奈良新報社刊『現代人物誌 第四編』より
有田郡安諦村板尾 松 浦 庄 太 良氏
氏は文久二年十一月二十二日の出生にして、祖父平吉氏は松浦家の基となす。氏は町村制實
施以来引續き村會議員に擧げられ、區長、郡會議員、氏子總代等の名誉職に擧げられ、一面安
諦水力株式會社専務取締役を勤む。性温厚、而も活氣旺盛常に?剌たり。男子なく長女富枝子
に養子康太郎氏を配す。康太郎氏は國勢調査員、収入役、助役等にも推され目下安諦水力會社
に勤務せり。庄太郎氏は登山、圍碁に趣味を有す。家にはゑい、良子、トクヱ、澄子の孫女あり。
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/25(土) 21:37:27 ID:8Yb5xiOb0
什の掟
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
三、嘘言を言うことはなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
六、戸外で物を食べてはなりませぬ
七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。
324 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/29(木) 22:22:22 ID:iCAeW3jr0
大正七年 東洋新報社刊『大正人名辞典』第四版
池 上 四 郎 君 ▽出生地 福島縣
▽現住所 大阪、西、江之子島、東之
町、一
▽生年月 安政四年四月十八日
大阪市長 正五位 勲四等
君は日本全國中最も難治の稱ある大阪市の市尹にして、夙に敏腕家を以て目せら
る。先年、前市長男爵肝付兼行氏が大阪電燈株式會社買収問題に失敗して職を辭
するや、大阪市長銓衡委員の推す所となり、大阪府警察部長の職を抛ちて之れが後
任者となれり。かく君が大阪市民の翹望する所に添ひ、進んで其更迭頻繁なる大阪
市長の椅子に就くに至りし所以は蓋し君が多年大阪府事務官として市の事情に精通
し、市民操縦の術に熟せるを以ての故にして、君は自己の本領を發揮しやがて阪府
未曾有の良市尹たるべく、大阪市は君を戴き安んじて市政を運籌することを得べし。
325 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/29(木) 22:24:42 ID:iCAeW3jr0
君は福島縣會津の藩士武輔氏の二男にして、前函館控訴院検事長池上三郎氏の
實弟なり。安政四年四月十八日を以て生る。夙に官途に志を抱き明治十年東京に出
でゝ警視廳に奉職し、爾来累進して二十年十二月長崎縣典獄、警視廳警視等に歴
任し、三十一年七月進んで千葉縣警察部長となる。三十二年兵庫縣警察部長に任
ぜられ、三十三年十月大阪府警察部長に補せらる、君官海に在る事前後三十有七
年にして、大阪府警察部長たること明治三十三年より大正二年に至る迄實に十四年
の久しきに及べり。而して、菊池侃二氏、高崎親章氏、犬塚勝太郎氏、大久保利武
氏等知事の下に在りて、大阪府に發生したる幾多警務上の大事件を處理し、事毎に
機宜を得、大に命名を博するに至れり。君天資硬直嚴正、己の信ずる所は固く執て
動かず、遂達せずんば止まざるの概あり。極めて吏務に長じ殊に部下を御し人に接
するに巧妙なり。其の?幹の肥大にして風采の堂々たるは、操守の堅くして識見の
卓邁なるを表徴するに餘あるべし。
夫人をハマ子と呼び、男知親、久道、女幸子、外榮子、竹子、政子、勝子、紀子等
あり。長女幸子は、陸軍歩兵小佐青木昇氏に嫁し、次女外榮子は中條庸氏に、三
女竹子は住友銀行員山村法學士に婚嫁せり。
326 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/23(土) 03:27:24 ID:IyxxDUeh0
保守age
大正二年刊『大阪現代人名?辭書』
池 上 四 郎君 (大阪市長)
君は岩代の人、安政四年四月十八日を以て、岩代國會津に生る。本姓源氏、信濃
住人池上新之丞高尚の後裔と稱し、父を高賢といひ、母を梅子と云ふ。君は其の四男
なり。君士人の家に生れて夙に官途に志し、明治十年東京に出でゝ警視局(今の警視
廳)一等巡査を拜命せしを其の官海に入りし始めとす。翌明治十一年警視局警部試補
に任じ、明治十三年一月石川縣警部となり、間もなく(同年二月)石川縣高岡警察署長
に昇任す。明治十五年七月石川縣警察本部第一部長に進み、明示十八年八月東京
に轉任して内務省三等属となり警保局勤務を仰付られしが、翌十九年一月京都府警部
に任じ、同警察本部第二部長に補す。明治二十年十二月長崎縣典獄となり、翌二十四
年四月進んで警視に任じ、警視廳阪本警察署長に補せらる。爾來、下谷、神田、麹町
の各警察署長を経て、同年十二月従七位に叙し高等官八等に進み、明治三十年六月
警視廳巡視に任ぜらる。明治三十一年七月進んで警察部長となり千葉縣に赴任せり。
明治三十二年兵庫縣警部長に補せられ、初めて大阪に來任したり。明治三十六年六月
勲六等を授けられ、明治三十九年二月従五位に叙し、同年四月勲四等旭日小綬章を授
けらる。明治四十年九月高等官三等に陞叙し、明治四十四年四月正五位に陞る。明治
三十三年、前警部長吉見輝の千葉縣書記官となりて轉任せる後を襲ふて、大阪府警部
長となりてより大正二年に至る迄十四年間其の任に在りしが、同年偶々前大阪市長男
爵肝付兼行が大阪電燈買収問題に失敗して職を?し、其後任者を求むるあり、君が久し
く大阪に住して市の事情に精通し、人格高潔にして事務に敏く、且つ棟梁の才たるの故
を以て、大阪市長銓衡委員の推す所となり、同年九月十一日の市會に於て、出席議員
五十七名中、四十二票の多数を以て大阪市長第一候補者に當選し、次いで官を?し大
阪市長の職に就けり。君官海に在る事前後三十有七年、大阪府警察部長たること又た十
有余年に及び、菊池侃二、高崎親章、犬塚勝太郎、大久保利武等四代の知事の下に在
りて大阪府下の警務を統轄し、幾多の大事件を処理して令名ありき。資性硬直廉潔。若
年の時警視廳一等巡査を奉職せし頃は磊落不羈にして能く斗酒を傾け、放縦度なかりし
が、後漸く圓熟して謹直を以て聞ゆるに至れり。
家族は北堂梅子(天保七年生)を初め 夫人はま子(東京府士族小菅氏の女、明治四
年生)長男知親(明治二十九年生)次男久道(明治三十五年一月生)五女勝子(明治
三十七年六月生)六女紀子(明治四十年二月生)あり。長男知親、次男久道は西區市
岡中學校に、政子、勝子、紀子の三女は何れも小學校に通学中。長女幸子(明治二十
年二月生)は大阪砲兵工廠門司兵器製造所長陸軍砲兵少佐青木昇に嫁し、又た二女
外榮(明治二十二年八月生)は函館地方裁判所検事中條庸に、三女竹子(明治二十五
年生)は住友銀行員(山村法學士に嫁せり。前函館控訴院検事長従四位勲二等池上三
郎は君が實兄なり。(大阪、西、江之子島東之町一)
ttp://web.archive.org/web/20031205224141/http://kk.kyodo.co.jp/is/column/k-weekly/week-1126.html ■ 秋篠宮の不人気
宮内庁が、皇太子ご夫妻の子供に期待をつなぎ続けた最大の理由は、
陛下―皇太子さま―皇太子さまの子供―という継承順位が最も分かりやすく
、国民に自然に受け入れられやすい選択肢だからだった。
加えて、弟で現在継承順位二位の秋篠宮さまの不人気も、心理的に
「皇太子さま頼み」の空気を強めたとみられる。
元宮内庁幹部の一人は
「皇太子さまを王道とすると、秋篠宮さまは覇道の人」と評する。
別の関係者は「お話をしてみて、やはり皇室を託せるのは皇太子さまだと思う」と述べる。
宮内庁幹部などへの指示をとってみても、秋篠宮さまは「細かすぎる」といわれ、
「国民を常に念頭に置き行動しなくてはならない天皇の器ではない」との
辛口の評価が定着しつつある。
ここ数年、不定期な人事異動の発表が、秋篠宮邸で目立つのも
「人望がいま一歩」なことの裏返しとして語られている。
共同通信の「KyodoWeekly」より抜粋
サンデー毎日 2006年10月1日号
「皇太子さまと秋篠宮さま」公務“逆転”の裏事情
http://www.mainichi.co.jp/syuppan/sunday/news/20060919-203509.html 雅子さまが03年12月、『帯状疱疹』を発症し、長期静養に入って以降、皇太子
さまのご公務は徐々に減り、今年は昨年に比べさらに減っている。そして、秋篠
宮さまとの間で“逆転”してしまったようだ。
紀子さまは妊娠6ヶ月で奈良市にお出かけになっているし、ご出産の入院直前
まで宮邸でのご進講に出席されていた。一方、7月の伊勢市訪問や8月29日に六本
木ヒルズの森美術館を訪れた際は、眞子さまが同伴した。紀子さまの代わりを務
められたのだろう。
秋篠宮さまの友人が語る。
「公務の合間に研究の予定を入れたり、一般の友人たちと会う機会を作ったりし
て、楽しい時間を過ごしていらっしゃる。皇太子さまは立場上、難しいのかもし
れませんが、秋篠宮さまはやり方がうまいと感じます」
宮内庁関係者が言う。
「悠仁さまが生まれたことで、今後はさらに『秋篠宮さまご夫妻に来訪していた
だきたい』という声が多くなるのではないか」
ご公務でも、秋篠宮ご一家の存在感はますます高まりそうだ。
週刊文春 2004年7月15日号 小誌が見た!平成皇室七大事件
秋篠宮 スナックで「結婚したい発言」
「三年前、宮内庁を退職する日に、たまたま秋篠宮ご夫妻にお目にかかることが
できた。殿下は『元気ですか』と声をかけてくださり、『今日で退職するんです』と
申し上げたら、『ついに音楽の道に進まれるのですね』とおどけて話された。私の
趣味を覚えていてくださったのです」(元宮内庁職員の山下晋司さん)
こんなフランクな性格で宮内庁職員からも人望を集める秋篠宮。だが、兄である
皇太子の折り目正しさと比較され、以前はマスコミでも批判されることが多く、「ナ
マズ研究のためにタイを私的訪問し、クリントン米大統領歓迎の宮中晩餐会を欠
席した」「タイに親しい女性がいる」「殿下の女性問題を問いただすため、紀子さま
の父が御所へ怒鳴り込んだ」などと書かれたこともあった。
「愛人報道などはまったくのデマですよ。実際にはすごく地味な性格の方。お酒が
好きだったり、金のブレスレットをしたり、口ひげを生やしたりしていることで、誤解
されやすいのも事実ですが」(皇室関係者)
八九年の皇籍離脱騒動もその一つ。「週刊ポスト」四月七日号が、「新天皇夫妻
を悩ます『礼宮の反抗』」という6頁の特集を組み、皇室の不自由さを嘆く殿下が皇
籍離脱を希望していると伝えた。これを受け、皇太子は同年九月の会見で、「そうい
うことは家族は一度も聞いていない。こういう報道は困る」と抗議された。
「実際には紀子さまとの結婚がなかなか進まないことに愚痴を漏らしたという程度の
ことでしょう。後の婚約会見で話されたように、八六年六月にはプロポーズをしていら
っしゃったわけですから」(皇室担当記者)
週刊新潮 2006年9月21日号 「皇室の危機」は終わらない
日本大学教授 百地 章
http://www.jbook.co.jp/p/p.aspx/1845140/s/ 41年ぶりの親王ご誕生は、数年来続いていた、皇室の先行きを心配する声をか
き消し、一転、国民の間には楽観ムードが漂い始めているかに見える。が、親王
誕生というご慶事をもってしてもなお、皇室が直面する危機に大きな変わりはな
い。
まず、懸念される点として、皇太子ご一家をめぐる問題があげられる。特に、
長引く皇太子妃雅子さまのご病気が心配だ。次の皇后となられる方であり、一日
も早いご回復を祈念申し上げたい。
平成15年12月、静養に入られた雅子妃について、その翌年5月10日、皇太子殿
下が、
「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあ
ったことも事実です」
と発言された。それが発端となり、国民の間では何が原因なのか。誰が悪いの
か。様々な憶測を呼んでしまった。
昨年12月に公表された医師団の見解では、「適応障害」と診断された同妃の病
は皇室にいることそれ自体が原因、とも読み取られかねない。もしそうであれば、
大変なことだ。
ご静養は今年12月で4年目に入る。まだ復帰の見通しは立っていないというが、
国連大学で研究され、外交に関するご進講は東宮御所でお受けになっているご様
子だ。
皇太子殿下はお一人で立派に公務を果たしておられる。しかし、国民の一部に
は、天皇皇后両陛下や秋篠宮ご夫妻が公務でご多忙であるのに比べ、東宮家がそ
のお立場に相応しい公務をなさっていないのではないかとの疑問や批判がある。
天皇陛下は前立腺がんの治療中であり、皇后陛下も体調を崩されることが多い
にも拘わらず多忙なご公務をこなされている。ご静養が長引くにつれ、批判の声
が高まっていく恐れもある。
週刊新潮 2006年9月21日号 「皇室の危機」は終わらない
日本大学教授 百地 章
http://www.jbook.co.jp/p/p.aspx/1845140/s/ 先月には、雅子妃殿下のオランダでのご静養に伴い、皇太子殿下まで2週間も
国内を留守にされた。天皇のご名代ともいうべき方が、私的な静養で海外に出ら
れた前例は、今まで一度もない。
もし、ご高齢の陛下が病気で倒れられるなど万一のことがあった場合、どうさ
れるのか。皇太子殿下には、くれぐれも慎重なご配慮をお願いしたい。
最も心配なのは、皇太子殿下や雅子妃に対する国民の批判が、皇室に対する尊
崇や敬愛の念を失わせ、国民統合の象徴である皇室にひび割れを生じさせかねな
いことだ。それだけは絶対に避けなければならない。
また、雅子妃殿下のご実家である小和田家の皇室に対するスタンスを疑問視す
る向きもある。
2年前の春、雅子妃が静養先に選んだのは、軽井沢にある小和田家の別荘であっ
た。このことに違和感を覚えた国民は少なくない。
335 :
soopllofeiv:2009/06/27(土) 20:47:23 ID:UObqrVew0
過去"俺は神だ!"という天皇がシタ事象
ゼロ戦に人を乗せ敵国の兵器にブツケル策(何故 自決行為が"神風"なのか?)
魚雷に人を乗せ敵国の戦艦にブツケル策(人間魚雷 回天)
大和は戦闘機が殆どナイ状態で戦地に赴いた・・・
(戦艦は不動の物で"飛行機が護衛"でツカナケレバ運用価値はナイ)
終局マジカの日本の戦闘機と戦艦が燃料に使用した物
当時国は 広島&長崎の原爆投下を隠してイタ
在日朝鮮人を従軍慰安婦として戦地に派遣・731部隊は瀬戸内海で人体実験(朝鮮人で)
集団自決と食人をシナガラ日本に逃げる旧日本軍南方戦線部隊(奥崎謙三氏談)
1972年マデ日本で無かった那覇
コノ国は民主主義国家で
日本は北朝鮮みたいに"主体主義"をトッてイナイ
"国民主体なのに王様は必要なのか?"
336 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 10:31:18 ID:plrNKRk0O
気違いは母校へお帰りを
337 :
soopllofeiv:2009/06/28(日) 16:41:08 ID:dFd4xXfx0
うるせい!ばばあは死ぬまで黙ってろ!
338 :
soopllofeiv:2009/06/28(日) 16:43:07 ID:dFd4xXfx0
ソレと天皇家が大奥ライクで今でも囲う女達はどうなるんだ
あれはモットキチガイに見えるがね・・
336の糞人間!
雅子や愛子さま盛岡藩士の血引いてるな
340 :
soopllofeiv:2009/06/28(日) 19:34:38 ID:dFd4xXfx0
それがどうしたの?339さん
341 :
soopllofeiv:2009/06/28(日) 19:35:41 ID:dFd4xXfx0
人権擁護の立場だね確かキコの親は
うはは(^^
342 :
soopllofeiv:2009/06/28(日) 19:37:45 ID:dFd4xXfx0
天皇一族はもう以前から呪われてるただそれだけだけど・・
誰が呪うか?
以前の宮内庁関係者の親族だよ
(^^
343 :
soopllofeiv:2009/06/28(日) 19:39:05 ID:dFd4xXfx0
(^^
>>339 最下層のたった二人扶持の極貧の出だけどねw
>>341 沖裏和光が解同の講演会で語ったそうだな。
雅子妃の母方の出自は○○だと。。
そういえば、ある雑誌に江頭家のルーツは○○であると。。。
346 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/30(火) 13:03:17 ID:+jtEjYOy0
で江頭家は佐賀藩士なの?
雅子さまも紀子さまも朝敵の血を引いてるのか
>>346 江頭家のルーツは不明
川口素生『小和田家の歴史』
さて、江頭豊氏の祖父・嘉蔵氏は明治維新までは肥前佐賀藩主・鍋島家の家臣
であったといわれる。ところが、明治初年の二種類の佐賀藩 侍着到(註=現代の
出勤簿に相当)には嘉蔵氏の名が見えない。これについて、豊氏の甥(優美子さん
のいとこ)にあたる作家の江藤淳(本名江頭淳夫)氏は、嘉蔵氏は佐賀藩の「手明
鑓」と呼ばれるクラスの藩士ではなかったかと推測している。「手明槍」は平時は無
役だが、戦時には槍や具足を携えて戦場に赴く者たちを指す。江戸時代中期以降
は無役だった「手明鑓」も藩の役職に採用されたし、幕末維新期には多くが鉄砲を
担当して活躍したといわれる。ただ、嘉蔵氏以前の系図や史料が現存していないた
め、嘉蔵氏が「手明鑓」か否かを含めて、ルーツや俸禄などはまったくわからない。
明治維新前後、嘉蔵氏は家族とともに肥前佐賀郡北川副村木原(現=佐賀市北川
副町木原)に移り住んだ。
348 :
會津萬歳!:2009/07/01(水) 16:26:10 ID:kSiLtt6C0
會津萬歳! \(^O^)/ 會津萬歳! \(^O^)/ 會津萬歳! \(^O^)/
會津は勤皇中の勤皇、官軍中の官軍。
薩長こそ偽官軍。
349 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/03(金) 14:12:29 ID:oKSgh26N0
村上藩は朝敵?
>>344 連合艦隊司令長官まで出世したんだから立派でしょ
>>350 陸軍大将や首相にまで上り詰めた山縣有朋や伊藤博文
だって、出自が下級武士であったことで現在に至るまで揶揄
嘲笑の対象になっているからね。
出自の問題と出世とはまた別問題。
極貧でしかも賊藩出身なのに海軍大将・連合艦隊司令長官までに上り詰めたのは凄い
雅子様にも偉大なご先祖様を見習って欲しいものだ
353 :
二村の金星:2009/07/20(月) 23:51:51 ID:MV3OuPK9O
な
アサヒグラフ 1989.9.8
紀子さんの祖母・紀子(いとこ)さんは旧会津藩士の池上家に生まれた。家系は、秀
吉によって会津に封じられた上杉景勝の家臣にまでさかのぼるという。紀子さんの祖
父、武輔さんは百五十石の中級武士で、戊辰戦争に参戦。新潟・小出島の陣地副将
として立て篭もったが、官軍に敗れ、藩とともに青森・斗南に移った。このとき紀子さん
の父、四郎さんは十歳だったが、場内から大きな唐人たこを上げ、「城はまだ落ちてい
ない」と場外の兵士を励ましたという。後に大阪市長となり、その剛毅さで市民の人気
を集めた。四郎の研究をしている会津若松・白虎隊記念館の早川喜代次館長は「賊軍
の総大将である会津から皇室に、と思うと不思議な因縁を感じます」と話す。
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/14(金) 18:20:08 ID:Gpi0mNS8O
池上四郎は、安政四年(一八五七)四月十八日生まれ。
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/15(土) 05:07:38 ID:plhD7aIUO
小和田家は曾祖父位から怪しいから、
秋篠宮家に皇統が移ってホッとする。
紀子様もそんなに大した事ないけどな
小和田よりは良いに同意だけど
川口素生『小和田家の歴史』所収
●コラム 秋篠宮紀子妃殿下の高祖父・池上武助氏と越後 1
第一部では、雅子妃殿下の父祖の小和田家、田村家が新潟県村上市、上越市、
塩沢町などの越後の各都市とゆかりが深い点についてふれた。さて、秋篠宮紀子妃
殿下の父祖も越後といささかゆかりがある。紀子妃殿下と越後というと、ご成婚まも
ない平成二年二月に第四十六回国民体育大会冬季スキー競技会開会式にご臨席
されるために秋篠宮文仁親王殿下とご一緒に新潟県を訪れたときのことが今も国民
の脳裏に焼きついているように思われる。厳しい風雪のなか、降雪を踏みしめながら
も、決して「紀子さまスマイル」を絶やされることがなかった紀子妃殿下に感銘を受け
た国民も多かったといわれている。この際には紀子妃殿下がかぶっておられた濃紺
のつば広帽子が厳しい風雪のために二度にわたって飛ばされ、ついには毛糸のキャ
ップに替えられたというハプニングがあったことでもしられている。のちに、紀子妃殿下
のお腹のなかには天皇・皇后両陛下にとって初孫にあたる胎児(眞子内親王殿下)を
身ごもっておられたことが発表されて話題となった。
さて、紀子妃殿下の生家・川嶋家は和歌山市本町の旧家で、同市には現在も「川嶋
山」という地名が残っている。紀子妃殿下の父方の曾祖父で、川嶋家の婿養子となっ
た庄一郎氏は和歌山県有田市(ママ)の松浦平吉氏の次男(ママ)である。庄一郎氏
は東京高等師範学校を卒業後、各地の師範学校教師をつとめたのち、明治三十四年
(一九〇一)に学習院教授・初等科長、奈良師範学校長などを歴任した。東京高等師
範学校は現在の筑波大学の前身で、雅子妃殿下の祖父・小和田毅夫氏が卒業した
広島高等師範学校(現=広島大学)とともに当時は教員養成系機関の最高学府であ
った。庄一郎氏の息子で紀子妃殿下の父方の祖父に当たる孝彦氏は東京大学法学
部を卒業して内務官僚となり、内閣統計局長、国立国会図書館専門委員などを歴任し
た。菩提寺である和歌山市の専念寺には孝彦氏までの川嶋家の墓碑が現存している。
川口素生『小和田家の歴史』所収
●コラム 秋篠宮紀子妃殿下の高祖父・池上武助氏と越後 2
孝彦氏の妻は大正時代に大阪市長をつとめた池上四郎(一八五七〜一九ニ九)の
娘・紀子さんであった。紀子妃殿下の父・辰彦氏は孝彦氏・紀子さん夫妻の次男にあ
たる。辰彦氏が長女である紀子妃殿下に母と同じ名をつけたのは、母のような賢夫人
に育ってほしいという願いを込めてのものといわれている。四郎氏は大阪市長に在職
中、市政の浄化、港湾の整備、博物館・図書館など社会施設の整備、水道の拡張な
ど各方面に功績を残し、名物市長と称えられた。大正十二年(一九二三)の関東大震
災のとき、被災地へ最初に救援物資を送ったのが池上市長であったといわれている。
四郎氏は市長退任後、朝鮮総督府政務総監に抜擢され任地に赴いたが、病を得て、
昭和四年(一九二九)に東京で没した。大阪市民は池上前市長の生前の功績を称え
て、昭和十年に大阪・天王寺公園内に二十二メートルの高さの四郎氏の銅像を建立し
た。銅像は金属回収令によって失われたが、戦後、再建された。
川口素生『小和田家の歴史』所収
●コラム 秋篠宮紀子妃殿下の高祖父・池上武助氏と越後 3
四郎氏には函館控訴院検事長となった三郎氏という兄がいたが、越後、特に塩沢と
ゆかりのあるのは兄弟の父・池上武助(武輔)氏である。武助氏は会津藩士で石高は
二百五十石であった。この石高は藩士のなかでは中堅である。ところで、明治維新後、
雅子妃殿下の祖母・小和田(田村)静さんの郷里・越後塩沢(新潟県塩沢町)一帯は
親藩の陸奥会津藩(松平氏)の預り地となっていた。この関係で、越後と上野(群馬県)
の国境にあたる三国峠には会津藩が駐屯して、新政府軍の攻撃に備えていた。慶応
四年(明治元年/一八六八)閏四月二十一日、上野沼田(群馬県沼田市)を出撃した新
政府軍千五百人が三国峠に迫った。峠に駐屯する会津藩側は奉行・町野源之助、池
上武助を隊長としていたが、兵力はわずか五十人であった。新政府軍が三国峠に迫っ
たことを知った町野・池上両隊長は迎撃態勢を敷く一方で、塩沢や越後湯沢(新潟県湯
沢町)の領民に応援を求めた。
川口素生『小和田家の歴史』所収
●コラム 秋篠宮紀子妃殿下の高祖父・池上武助氏と越後 4
領民は主に弾薬や兵糧の運搬、水汲みなどを命じられたといわれる。ようやく、会津
藩側は百五十人近い領民の応援を得たが、二十四日の早朝、迎撃態勢の整わないう
ちに新政府軍の急襲を受け、総崩れとなった。激闘のなかで、町野源之助の弟・久吉
(十七歳)が槍を振るって奮戦。新政府軍の兵士数人を討ち取ったことがしられている。
しかし、兵力の差はいかんともしがたく、会津藩側は三国峠から撤退した。これを三国
峠の戦いという。
現在、土樽の旧家にはこのときに作成された『慶応四年閏四月二十三日 会津藩御
奉行町野源之助様 同池上武助様 国中動乱府入人足取調帳』などの史料が現存し
ている。これらの史料は、三国峠の戦い当時のこの方面における会津藩と地元の領民
の動向をうかがい知ることができる貴重な史料で、一部が『湯沢町誌』(新潟県湯沢町
教育委員会)などに紹介されている。
川口素生『小和田家の歴史』所収
●コラム 秋篠宮紀子妃殿下の高祖父・池上武助氏と越後 5
この後、会津藩は新政府軍の集中攻撃を受け、さらに陸奥斗南へ移封を命ぜられる
など、藩士やその家族は大変な苦労を重ねた。当時のことは会津藩出身の柴五郎陸
軍大将(作家・東海散士の弟)の伝記『ある明治人の記録』(中央公論社)などに詳し
い。鶴ヶ城の攻防戦の際、唐人凧を揚げて味方を励ましたという四郎少年も、斗南で
は苦労を強いられたことであろう。なお、兄の三郎氏も越後とゆかりがあり、検事となる
前の一時期、越後の化成塾で教鞭をとり、洋学を講じていたといわれている。
明治十年(一八七七)、一等巡査となった四郎氏は出世を重ね、各府県の警察関係
の要職を歴任。十三年間、大阪府の警部長(註=現在の府警本部長)をつとめたのち、
地元の人々の推薦を受けて大阪市長に就任したのである。その四郎氏の娘の紀子さ
んが内務官僚である川嶋孝彦氏に嫁ぎ、辰彦氏らの三男二女を産むことになるのであ
る。
川口素生『小和田家の歴史』所収
●コラム 秋篠宮紀子妃殿下の高祖父・池上武助氏と越後 6
ところで、詳細は第二部でふれるが、雅子妃殿下の母方の曾祖父にあたる江頭安
太郎海軍中将、山屋他人海軍大将は、皇太子殿下の高祖父、曾祖父、祖父にあた
られる明治天皇、大正天皇、昭和天皇の三帝に拝謁したり、ご進講や戦況説明を行
ったりしたことがあった。紀子妃殿下の祖母・紀子さんも七十数年前、香淳皇后にお
目にかかったことがあった。大正十二年(一九二三)、もしくは翌年頃、久邇宮殿下、
俔子妃殿下、久邇宮良子妃殿下(香淳皇后)ご一家が妃殿下のご実家にお里帰りさ
れる途中、大阪にお立ち寄りになるということがあった。当時、大阪市長であった池上
四郎氏も、久邇宮家の方々のご接待の責任者の一人であったのであろう。そのよう
な関係から、四郎氏の娘の紀子さんも、久邇宮家の方々にお茶の接待をしたのであ
る。この出来事から七十数年後に、香淳皇后の孫の秋篠宮殿下と、紀子さんの孫の
紀子妃殿下とがご成婚されるのである。このことについて紀子さんは、「不思議なご
縁を感ずる」ともらされたという(松崎敏弥氏著『紀子さまの優しい微笑』フローラル出
版)。一方、紀子妃殿下の母・川嶋和代(旧姓杉本)さんは静岡市出身である。紀子
妃殿下が昭和四十一年九月十一日に静岡市の済生会病院でお生まれになったのは
こういった事情からであるといわれている。なお、川嶋家では辰彦氏が学習院大学教
授である点は一般によくしられている。ほかに、辰彦氏の弟の行彦氏東京国際大学
教授、長姉・小菅宮子さんの夫・小菅茂雄氏が白梅学園短期大学教授、仲姉・佐藤
豊子さんの夫・英一郎氏が元専修大学教授、いとこの池上惇氏が京都大学教授、惇
氏の夫人・順子さんが京都芸術短期大学教授であるなど、一族には学者が多い。
川口氏のコラムでは、川嶋庄一郎は有田市の出身となっていますが、
正しくは有田郡清水町(現・有田川市)の出身。
また、松浦平吉の次男となっていますが、川嶋庄一郎は三男です。
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/27(木) 18:57:14 ID:iUqgmTjI0
389 名前: 本当にあった怖い名無し [sage] 投稿日: 2009/08/27(木) 13:18:21 ID:NzTfrJdYO
天皇は後二代で廃絶する。
天皇制などという軍国主義の亡霊は、真のアジアの盟主によって完全に消滅させられる。
390 名前: 本当にあった怖い名無し [sage] 投稿日: 2009/08/27(木) 13:20:36 ID:xyTuNcXL0
>>389 鳩山さんですね、わかります。
395 名前: 本当にあった怖い名無し [sage] 投稿日: 2009/08/27(木) 13:46:06 ID:6PQBQ4XV0
>>389 国家主権と国家元首(書いてなかったけど)他国への委譲ですね。
友愛精神ですね、わかります。
397 名前: 本当にあった怖い名無し [sage] 投稿日: 2009/08/27(木) 13:49:23 ID:xyTuNcXL0
>>396 鳩山、もう逝ってよし
367 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/27(木) 19:00:20 ID:iUqgmTjI0
407 名前: 本当にあった怖い名無し [sage] 投稿日: 2009/08/27(木) 15:03:27 ID:xyTuNcXL0
本当かどうか分らないが、300超える勢いだという>民主党
ならば、女帝雑系法案などという、まだるっこい事などしないで、
もういきなり皇室制度廃止に持ち込んできても驚きませんよ、
何しろあそこの中の人は旧社会党なんですから。
民主党躍進と聞いて、「これなら女帝雑系法案が通る!」とほくそえむ徳仁さん、
ところがいざ民主が与党になったら、いきなり、
「おまい、もう用無しだから」
と言われて、目を白黒の徳仁さんが目に浮かぶようですよ。
409 名前: 本当にあった怖い名無し [sage] 投稿日: 2009/08/27(木) 16:01:13 ID:xyTuNcXL0
鳩山マジ気違いだから何でもやってくるよ。
東アジア共同体に通貨統合だとよ。
【民主党・通貨】(東アジアで通貨統合、安保協力の)鳩山代表論文を欧米紙など世界各英字紙に掲載 市場原理主義に疑問符。[08/27]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1251350077/ 皇室制度廃止なんて屁でもないだろう、
それどころか日本崩壊だよ、トホホホ…
368 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/27(木) 20:55:39 ID:Bpyfk+R40
パワーバランスで、円が消滅して元になるな・・・
中国ウハウハ!
中村彰彦『会津武士道』より @
私は会津と高遠の人々の苗字を調べたことがありますが、高遠から多くの人々が山
形を経て会津に移ったことは間違いありません。高遠には非常に珍しい苗字が多くあり
ますが、会津にも同じ苗字があることからそういえるのです。
具体的にいうと、黒河内、井深という姓は、もともと高遠にしかありませんでした。ほか
にも高遠には、北原、藤沢、伊東、山川、池上、小原、一瀬など特徴的な姓が多いので
すが、これらの姓は今日の会津にも多いことがわかります。ソニー創業者の井深大さん
の井深一族は、会津藩主の正之、正経、正容三代に仕えた名家老を出した家柄で、保
科正光(正之の養父)の頃からの家臣です。同じく高遠から会津に行った池上家からは、
戊辰戦争の際、池上武輔が出撃していますが、秋篠宮紀子さまはその末裔でいらっしゃ
います。
時代は下りますが、戊辰戦争から六十年後の同じ戊辰の年(昭和三年<一九二八>)に
、会津藩最後の藩主松平容保の孫(四男の長女)の勢津子さまが、秩父宮雍仁親王と
ご成婚されました。戊辰戦争で“朝敵”といういわれなき汚名を受けた会津人にとって、会
津松平家のお姫様が親王とご成婚されたことは大きな喜びでした。さらに、平成二年(一
九九〇)には、今度は一般の会津藩士の血筋を引く紀子さまがまたしても親王家に嫁ぐ
と、大喜びとなりました。
中村彰彦『会津武士道』より A
池上四郎―会津藩士の血を受け継ぐ悠仁親王殿下が皇位継承者に
会津武士道についてお話ししてきましたが、この原稿を整理中の平成十八年九月六
日、秋篠宮文仁親王・紀子御夫妻に、悠仁親王が誕生されました。このことは長く会津
史を学んできた者から見ると大変意義深いことと思われますので、そのゆえんを述べて
おきましょう。
まず保科正之が信州高遠三万石を相続する以前から、高遠には池上という姓の一族
がいたと思って下さい。その一部は正之の山形転封に従い、会津池上家となりました。
池上家は十家近くにわかれて栄えていましたが、幕末にそのうちの一家のあるじとなっ
た人に池上武輔がいました。武輔は会津戊辰戦争に出撃して負傷しますが、生きながら
えて斗南へ移住した一人となりました。
その三男は三郎といい、四男は四郎。四郎は安政四年(一八五七)生まれですから、
鶴ヶ城への籠城戦に参加したときには十二歳でした。斗南での食うや食わずの生活の
間にも、武輔は二人にこういって聞かせました。
「お前たちは故郷の安部井先生、高津先生が日新館で説かれたことを基礎として勉学
するのだ。武士の道は刻苦、忍耐と魂の練磨である」(相田泰三『維新前後の会津の人
々』)
中村彰彦『会津武士道』より B
「安部井先生」とは安部井政治、「高津先生」とは高津?山のことで、二人はともに日新
館の名物教師でした。三郎と四郎は父の言葉に発奮し、三郎はのちに函館控訴院の検
事長になりました。四郎の方は銀行家の書生になって便所掃除や風呂焚きまでする苦
労を重ねた末に警視庁巡査になり、明治三十三年、四十四歳にして大阪府の警察部長
に就任。その誠実な人柄と行動力を評価され、大正二年(一九一三)には大阪市長に就
任しました。そして三期十年つとめ、「不世出の市長」といわれました。
四郎は市長時代にかつての斗南藩領を再訪し、移住者の子孫の家で池上姓の刻印の
ある鍬を発見しました。四郎はこれを譲ってもらい、長く家宝とします。「菜根を咬み得ば
万事なすべしを」といえば貧苦に堪えて有用の士になれという意味ですが、四郎は菜根
を咬んだ時代のことを忘れず生きる、ということを人生の指標にしたのです。
都市計画、港湾設備の完成、水道拡張、学校と病院の増設その他に大きな足跡を残し
た四郎を記念して、昭和十年(一九三五)には天王寺公園の一角に「前大阪市長池上四
郎君之像」が建立されました。これは高さが六十八尺(二十・六メートル)もある全身像で、
いまもって日本一大きな人物像だといわれています。
中村彰彦『会津武士道』より C
この池上四郎がすぐれた危機管理能力を発揮したのは、大正十二年九月一日に関東
大震災が発生したときのこと。彼はいち早く救援物資を満載した船を大阪港から横浜港
へむかわせ、罹災した多くの東京・横浜市民から感謝されました(宮崎十三八『会津地名
人名散歩』)。
おそらく四郎は、保科正之が救急医療制度を創設する一方で飢饉に襲われた近隣に
社倉米を貸し出したことを学んでいたのでしょう。しかも彼は、自身が籠城戦を経験してい
ますから、パニックとはどういうものを知っていたはずです。かくて彼は、東京が壊滅状態
となった未曾有の危機に、人を助けることこそ会津武士道だと思いを満天下に示してみせ
たのでした。
さて、池上四郎の娘は名を紀子(いとこ)といい、内閣統計局長などを歴任した川嶋孝彦
に嫁いで川嶋姓に変わりました。そのお孫さんが川嶋紀子(きこ)さん―今日の秋篠宮妃
ですから、秋篠宮と紀子さんの御成婚が決まったとき、会津の人たちは、「かつて会津松
平家から勢津子さまが秩父宮家へ嫁いだら、今度は旧会津藩士池上家から妃殿下が誕
生した」と大喜びでした。
そこへ持ってきて秋篠宮家に悠仁親王が誕生したのですから、ゆくゆくは高遠と会津の
血を引いた天皇が生まれる可能性も出てきたわけです。
会津の人にとっては、まことに喜ばしく、感慨深いことでしょう。
>>373 板違いではないと思います。
日本近代に大阪市長や朝鮮総督府政務総監として活躍した池上四郎
や川嶋家の方たちの業績を振返ることは、板に趣旨に反してはいません。
大正四年刊『現代關西人物史』
池 上 四 郎 君
大阪の市政由來難治を以て聞ゆ、歴代市長として統治の術に當るもの、經驗聲望あり學
識經倫に富むものなきにあらざりしも其任期を完うするもの殆んど之なく、隨つて治蹟の見
るべきもの絶へてなかりき、然るに獨り現市長池上四郎君に到つては、累代失策の後を承け
たるにも關らず聲望益々高きを加へ、些の蹉跌なく失態なくして圓滑に自治機關の運用せる
實績に徹して君の非凡なる手腕識量を認めずんばあらず。
池上君は舊會津藩士池上武輔の二男にして曾て司法會に聲明ありし故池上三郎君の實
弟なり君明治十年初めて官界の人となり、警視廳に歴勤すること多年、累進して大阪府警
部長たりし以來、十有數年の久しき間、職に大阪市民の習俗實情をを研究し衆民の幸福に
寄與したること少からず一昨年大阪市長の銓衡に窮するや市會の興望は翕然として君の頭
上に聚り、請ふて此重任を託す。君乃ち現位地に就き百五十萬市民の主長となる、蓋し空
前の良市長と謂ふべし。
君廉潔沈毅の士、職務に對して熱誠努力あり、今や學識豐饒たる關博士を迎へ、鋪佐役
とし市政上萬一の遺洩なからんことを期す志操堅實の市長に此良助役あり斯くて池上内閣
の前途萬歳なる乎。
<フライデー 2009年9月11日号より>
【 7月中旬、日程がほぼ決まったあとで"要望"が続出し、外務省は右往左往
秋篠宮ご夫妻 「オランダ訪問 ワガママ放題 」のナゼ 】
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7月中旬、日程がほぼ固まり、外務省西欧課が実務的な部分を詰めていた時に、
秋篠宮サイドから以下のような要望があったという。冒頭の外務省関係者が続ける。
「船で運河をめぐる予定を
★ 『暑いからやめてほしい』、 また当初予定になかったのに
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★ 『動物園に行きたい』 とのご要望があったそうなんです。
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警備の予定もあり、日程はそうそう気軽に変えられるものではありません。
この急なご要望には現場の担当者も頭を抱えてしまったと聞いています」--中略---
しかし、“ご要望”はこれにとどまることはなかった。
「日程の後半に夫婦と随行員が一緒に食事をする予定だったのですが、
★ 『夫婦ふたりだけにしてほしい』 とおっしゃられたそうなんです。
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通常、この会食には随行員の慰労も兼ねて食事をするという目的もあるのですが…。
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その趣旨を理解されていらっしゃらないのかなと、外務省内には
首をかしげる者もいましたよ」 (先の外務省関係者)
記事スキャン画像
http://file.mrsoakelyfisheer.blog.shinobi.jp/bcc84733.jpg 魚拓
http://s02.megalodon.jp/2009-0902-0858-14/file.mrsoakelyfisheer.blog.shinobi.jp/bcc84733.jpg
▼ 悠仁さまお茶の水幼稚園に 同世代との触れ合い増やす ▼
宮内庁は3日付で、秋篠宮家の長男悠仁さま(3)が来年4月、
お茶の水女子大付属幼稚園(東京都文京区)に入園すると発表した。
皇室の子女の多くが学習院幼稚園(2年保育)に入園しているが、宮内庁によると、
ご夫妻は長女眞子さま、次女佳子さまの経験を踏まえ、積極的に同世代の子どもと
触れ合う機会を増やすため3年保育の幼稚園を希望。教育関係者の推薦を受け、
お茶の水女子大付属幼稚園の受験を決めたという。
お茶の水女子大などによると、紀子さまが同大で心理学を研究していることから、
一般入園とは別枠として、大学が昨年創設した女性研究者を支援する特別入園制度を利用。
2日午後、紀子さまが付き添って面接などを受け、入園が決まった。
同制度での入園は悠仁さまが最初という。 来春、一般枠で40人が入園する予定。
同園は1876年に開園した日本最初の幼稚園。卒園児のほぼ全員が付属小学校に進むという。
記者会見した永原恵三園長は「通常通りの保育をしていく。ご夫妻もそうお望みと考えている。
警備などは大学が今後、宮内庁と相談する」と話した。
2009/12/03 05:02 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009120201000904.html
382 :
s:2010/03/12(金) 22:16:00 ID:K9ok5og80
せいぜいうなってろ所詮海外から攻撃されたら君らの考えはかわるのだから
383 :
s:2010/03/12(金) 22:17:28 ID:K9ok5og80
いい血筋なんて所詮幻想だよw
384 :
s:2010/03/12(金) 22:19:54 ID:K9ok5og80
この国は持たないだろうそのときに皇族は清算をもとめられる
歴史の教科書に乗らないかもしれないが地獄ではその清算を求められる
385 :
s:2010/03/12(金) 22:20:55 ID:K9ok5og80
ぼくはもういうのがめんどくさい
愚かな猿どもの相手はあきた
386 :
s:2010/03/12(金) 22:21:38 ID:K9ok5og80
地獄で会おう
たっぷりなぶってやるからw
387 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/12(金) 22:40:25 ID:FI6zE8Jp0
<丶`∀´>戦犯日王一族を破滅に追い込む為にも
朝鮮学校生に日本の一般学生と同等の身分を与えて
日王一族の生徒を徹底的に虐めてやるニダ〜。
388 :
會津萬歳!:2010/03/23(火) 17:42:03 ID:bjP9ON5p0
會津萬歳! \(^O^)/ 會津萬歳! \(^O^)/ 會津萬歳! \(^O^)/
會津は勤皇中の勤皇、官軍中の官軍。
薩長こそ偽官軍。
389 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/24(水) 01:33:21 ID:qbXmcroH0
はいはいw
寝言は寝てから言ってね、萌え萌えキュン
>>388誰だっけ?そのファンタジー書いた小説家。
391 :
soopllofeiv:2010/03/24(水) 17:35:10 ID:Y1XEvEgA0
カワシマ家は被差別部落民の家系です
393 :
soopllofeiv:2010/03/25(木) 19:49:58 ID:odVlD3Ev0
カワシマ家は被差別部落民です=どこが高貴かな
>>393 そんなら美智子皇后の生家の正田家は被差別部落出身で、
雅子妃の母方の江頭家も被差別部落出身だと噂の真相に書かれた
けどねw
被差別部落出身なのが何でいけないのかな?
部落出身を攻撃するなら正田家や江頭家にも矛先を向けるべきだね。
産経新聞 1989年8月27日
川嶋家はアカデミック
礼宮さまとの婚約が内定した学習院大学院生、川嶋紀子(きこ)さんは国際派感覚のお
嬢さん。川嶋家は旧華族などの血は引いていないが、大学教授の家庭らしい質素でアカ
デミックな雰囲気に包まれ、親族にも学者が多い。その家系を追ってみると―。
父、辰彦氏は昭和十五年四月二十日、東京都で生まれた。東大経済学部で統計学など
を学び、同大大学院へ進学。大学院終了後、米国・ペンシルベニア大学に留学、博士号を
とった。米国のあとオーストリアのウィーンにある国際研究所「IIASA(国際応用システム解
析研究所)」で二年間、都市発展の地球的規模のシステムについて研究、五十一年から学
習院大教授を務めている。専攻は計量経済学、米国の国際平和学会の日本側の最高責任
者を務める国際派学者だ。「都市の快適性」などの著書がある。
同僚の間で辰彦氏は「持って回った言い方はしないフランクな人柄」との評判が高く、人望
も厚い。三年前から、天皇陛下がOBでもある同大馬術部の部長を務めている。
辰彦氏の弟の行彦氏は東京国際大学商学部教授。専攻は商業政策。今年五月から同大
米国分校(オレゴン州)の分校長として家族とともに渡米している。
辰彦氏の長兄、敬一氏は一歳で亡くなったが姉の長女、宮子さん(六〇)は白梅学園短大
教授、小菅茂雄氏の夫人。二女、豊子さん(五七)の夫は元専修大教授、佐藤英一郎氏(故
人)という学者一族だ。
孝彦氏の妻、紀子(いとこ)さんは、元大阪市長で朝鮮総督府政務総監だった池上四郎氏
の六女。
川嶋家は戦前まで本籍の和歌山市本町の自宅周辺に広い土地を所有していた豪農。辰
彦氏の祖父母が終戦までこの地に住んでいた。しかし、戦争で被災したため、家屋を売却、
東京に移り住んだ。
396 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/09(日) 15:53:19 ID:zET65lHd0
既 に 皇 族 に は 薩 長 土 肥 大 名 の 血 が 流 れ て い る
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/09(日) 16:19:44 ID:D1er2Ee50
つかエタの大室でしょw
薩と肥は分かるけど。香淳皇后・伊都子妃
長と土は流れてたっけ?
399 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/12(水) 18:15:47 ID:YUuN1V2n0
たしか現皇后美智子様の母君は東肥前佐賀の副島家出身…だっけか
400 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/13(木) 11:39:26 ID:bYps6sJV0
会津ってどこにあるの