1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
領主が平和的に日本の発展のために、、その権利を放棄するなんて外国ではありえない!
まさに日本人の民族的な優秀さを象徴するような出来事である。
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 07:56:29 ID:Xcp3bqQW0
だって、どの藩も破産状態だったんだもん。
負債が消えてスッキリさ!!!!!
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 10:23:19 ID:thTR92NDO
神なのは廃藩置県じゃなくて藩籍奉還
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 10:36:14 ID:Cl5dHAD1O
自転車操業の社長が、給料取りの雇われ社長になった様なもんだろ。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 11:32:16 ID:J0ADQAI90
それがうまくいったってことはほとんどの会社が赤字自転車操業だったってことだよね。
幕藩体制自体が失敗だったってこと?
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/23(日) 11:35:37 ID:drCtM7b70
幕府が藩主たちを生かさぬように殺さぬように統制する体制としては
成功してたんじゃないのか?
>>5 商品経済が発達する最中に米に依存した行政機構では
破綻も必然だっただろうが、
二百数十年保った制度が失敗なら、ナニを成功というのか。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 01:12:30 ID:L9atJzw20
近代中央集権システムのために必要だったにせよ、
藩から自由な権限を奪ったという点では反省点は残るよね。
これからの地方自治ではその長所を回復していくのが課題だね。
藩(=地方)が国家通さないで世界と直通できるようになるのが良い。
昔の藩はそれをやっていた。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/24(月) 12:39:30 ID:d6bmT6lzO
この人的資源の乏しい島で地方自治を強化してどうするの?
田舎だと、議会なんて平気でヤクザの寄り合い所帯になるし、
役場を頂点とする徳治主義社会が展開されてるよ。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 09:03:07 ID:WjDdEMCL0
廃藩置県があったから、地租改正や徴兵令ができた。
いわば、はじめの一歩が廃藩置県。
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 12:41:19 ID:TeptFpra0
普通はもっとひと暴動おこる。
戦国時代に逆戻りしていた可能性は“大陸のとある国の歴史”を見ていればわかりやすい。
パイパン置県
藩という組織自体が経済的にも政治的にも精神的にも死んでいた。
藩主が家臣を率いて反旗を翻してもよさそうだが、そんな事例は一つもない。
僅かに家臣団が武士の特権を剥奪された時に反乱したくらいだ。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 20:10:51 ID:Yhaae4+4O
明治政府のお偉方は絶対
反乱起こると思っていたが蓋を開けると…
>>14 まあ、先に反体制派潰しにある程度成功していたし、
維新官僚に対する反対派が、まとまったオルタナティヴを出せず、散発的に蜂起しただけだったからねぇ。
みんな様子をうかがっているうちに、あれよあれよと事態が変化していってしまったとするほうが妥当かもしれない。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 21:08:41 ID:FNsKcyPl0
知藩事のほとんどは内心喜んでたでしょ。
旧藩主を味方に取り込んだのが成功の鍵。
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/25(火) 21:24:06 ID:g8RQb8w50
幕末時には殆どの藩が財政破綻、火の車。今と違って一企業が行政担当しているようなものだから、
廃藩置県により借金帳消しになって内心ホッとした。
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 01:05:31 ID:H4/0sBPfO
糞ウヨは死んでいいよ
左翼が氏ね
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 12:36:10 ID:W2RUHOc90
>>17 >殆どの藩が財政破綻、火の車
藩主にしてみればそうだが、金を貸した側はどうなんだ?
破産
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 16:28:19 ID:OGd4NdiwO
>20
借財は明治政府が引き継いだから債権者も喜んださ
支払い能力のない藩と違って国が肩代わりしたんだから
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 18:24:11 ID:GGQZFO8K0
>>22 そんなことはない。
外債はきちんと引き継いだけど国内債の半分以上は破却。
引き継いだ債務も超低利超長期償還だから金貸しも相当痛い目みてるよ。
(゚听)<借金無利子で250年分割ね
Σ(゚Д゚;エーッ!!
(゚听)<廃藩置県で借金無効ね
Σ(゚Д゚; エーッ!!
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/26(水) 20:07:03 ID:OGd4NdiwO
あれ?藩札とか太政官札と等価交換してたのに国内債務は半分、踏み倒しかよ
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/14(土) 16:48:00 ID:lpXAirEA0
うん
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/01(火) 22:29:03 ID:ct//2hIO0
パイパンチンゲ
>>25 返済する気はあったのだ・・・貸し手の方が先に廃業していったんだw
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 20:28:15 ID:VlVWuWZI0
しかし、島津久光が廃藩置県の報せを聞いて激怒して、
夜 を 徹 し て 花 火 を 打 ち 上 げ さ せ た
っていうのはなんか笑えるよな。
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 20:38:19 ID:lQxErwZ50
>>5 6が真実を言っているな。
幕藩体制というのは、諸藩を生かさず、殺さずで苦しめ続ける体制だから。
そうやって諸藩を苦しめて国力を弱め、幕府がなにもせずとも、
相対的に幕府の力を挙げるシステムだからね。
家康というより、その後の幕府の初期の将軍と官僚は、ある意味凄いと思うよ。
普通は、諸藩の力を殺ぐことより、幕府の力をいかに強めるか、
に重きを置くんだけど、それよりも諸藩の力を殺ぐことを主目的にしたシステムは、
なかなかない。
なぜなら、そんなことしたら、国力が落ちて、諸外国に飲み込まれるから。
>>17 そこで問題になるのは、一部の財政豊かな雄藩がなぜなにもしなかったか、
なんだよね。
長州や肥前なんて、廃藩置県のときには、100万両という莫大な貯金があった。
ちなみに幕府には15万両しかありませんでした。それも借金は別にあります。
というか幕府の借金はしゃれにならん。外国から借りているから、
踏み倒すこともできん。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 23:22:47 ID:nCQFC83U0
>>1 ならば、細川元首相は県知事時代、「廃県置藩」を唱えてたから
「神の中の神」かな
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/18(水) 23:40:12 ID:q9lLLXVH0
明治元年に発布された政体書によって府・藩・県の三治制がとられ、
江戸時代には儒学者が使っていただけの「藩」という呼称が一般化された。
江戸時代の幕府直轄地(天領という呼称は幕末〜明治時代にかけて天子の領地
という意味で作られたもの)のうち、城代・京都所司代・奉行が管轄した地を
府とし、その他の地を県としたが、大名領である藩がまだあったため、
藩と県が二重状態になってしまった。これを解消したのが版籍奉還で、
ここに藩は消滅して県となった。廃藩置県とはこれに関する一連の政策のこと。
なお、この後も府県統合が何度か行われた。これによって幾つかあった
府が県に降格され、東京府(1943年消滅)・京都府・大阪府の三府だけが
残って今日に至っている。
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/19(木) 01:23:39 ID:lxyzWtqsO
都道府県なんて藩の名残で今や存在意義なんてないんだから、
とっとと廃止して市町村のみの一元的地方自治にすればいいのにな。
平成の大合併も、そのための前フリだろ?
34 :
武蔵国 ◆wJE1TEQYNM :2007/07/19(木) 03:26:50 ID:otJaCUgFO
全て律令国に戻せば良い。
偉大なる武蔵国の復活だ。
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/24(火) 22:52:55 ID:noKvOyji0
幕府が朝廷に政権返上した場所は、二条城だったよね。
二条城といえば、徳川家康が豊臣秀頼を呼びつけた場所だ。豊臣と徳川の地位が逆転したことを世間に見せつけた場所だ。
いわば徳川家は、二条城で、豊臣家から政権奪取したとも言えると思う。
徳川家にとって、政権奪取した場所と政権を失った場所が同じところだったとは、実に皮肉だ。
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/25(水) 01:44:04 ID:quyzbMf5O
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/25(水) 02:06:26 ID:/ykwiXHV0
>>36 確かに歴史の皮肉というほかない。しかも、徳川の葵の紋は京都の賀茂社の
紋だからなおさらのこと。
39 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/25(水) 21:34:20 ID:agIZk5um0
島津久光は将軍になるつもりでいたらしいね
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/25(土) 19:01:16 ID:CyM35Ue40
その可能性もゼロではなかったしな
斉彬が存命のまま明治維新が起きたらどうなっていたか
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/25(土) 21:34:58 ID:296EkEf40
ドイツ、イタリアは武力統一したようだな。鉄血宰相ビスマルク、ガリバルディ。シナの北伐も
そうか。日本も廃藩置県の前に戊辰戦争をして各藩を軍事的に押さえたから同じことではないか。
徳川家が版籍奉還したのを見習って各藩もそうしたということだろう。背後に薩長の軍事力が
あり、有無を言わせなかったのだ。
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/26(日) 20:27:45 ID:jpT+kuJf0
>>39 司馬遼太郎の本では、「いつになったら将軍になれるのか」と尋ねたのは
島津だったり毛利だったりと混乱している。
本当にどっかの記録に基づいた記述なのか疑わしい感じもする。
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/27(月) 01:21:56 ID:gC45pvUT0
>>8 藩(=地方)が国家通さないで世界と直通できるようになるのが良い。
昔の藩はそれをやっていた。
・・・そうだな。幕府に内緒で外国と密貿易などをやっていたな。特に薩摩は植民地まで保有していた。
>>43 それなら、長崎が出島が自由だからな
鎖国時代でも出島は自由貿易だからな
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/27(月) 11:13:31 ID:gC45pvUT0
>>44 長崎貿易で幕府以外の藩が兵器なども自由に貿易できていたのか?
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/27(月) 21:15:47 ID:gC45pvUT0
>>44 長崎奉行が幕府に不利になる貿易を許可していたかな?
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/22(金) 02:43:41 ID:Wh1Yc5Y90
東北最高! 西軍あほ
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/22(金) 23:27:33 ID:hgZbtmYg0
会津死ね
今の地方自治体も借金まみれなんだろ。
今度はどうすんの?
廃県置州?
区分けにおかしいとこがいっぱいあるんだよな。
当初からめちゃくちゃ替わってばっかいたんだが、いろいろ無理あるんだけど今の形に落ち着いたのは、もうあれこれ替えるのに疲れちゃったんだろうな。
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/17(水) 17:52:39 ID:8pU1YgFK0
>>29 それと正反対なのが山内容堂公だね。
木戸と共鳴して真っ先に版籍奉還を申し出た。
島津久光は徳川慶喜・西郷・木戸・大隈らに嫌われていて、
頑固でいじっぱりで頭が悪いと有名だったそうな。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/17(水) 21:25:16 ID:S4pz70Ab0
武市を殺した酔っぱらいで虫歯の殿様かw
頑固さでは久光と大差ないと思うぞ。最後まで公武合体寄りだったし。
久光は頭は決して悪くない。先代の斉彬が英才過ぎて評価が低いだけ。
53 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/18(木) 10:56:27 ID:r95qlQhE0
廃藩置県ができたのは桂小五郎のおかげです。
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/18(木) 22:21:22 ID:67hmnbBGO
>>53 うん。それは間違いない。あの人凄い。
三百諸候をして〜というのもだけど、
『朝廷自ら薩長に傾き〜』と告げている辺りが。実際、廃藩置県後の山口県令は幕臣だもんな。
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/16(日) 02:18:34 ID:BsSjeDmPP
>>51 藩籍奉還の時は、島津久光も問題なかったぞ。
激怒したのは廃藩置県
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/16(日) 04:03:01 ID:/8lJLwz80
廃藩置県の実質的提唱者は 伊藤博文と山縣有朋
大久保や西郷は当初、というかずっと? その持つ意味がよく理解できていなかった
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/16(日) 04:08:26 ID:/8lJLwz80
よく明治維新は革命されるものが自らの身分を転覆した革命といわれるが
実は士分でないものが重要な地位にいて、それが伊藤と山縣
実は彼らによるガチンコの革命だったのが、廃藩置県
(木戸と岩倉もそれに乗った。)
大久保や西郷は、最終的に何のことか意味がよくわかってなかったんだよw
>廃藩置県の実質的提唱者は 伊藤博文と山縣有朋
ソースは?
59 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/17(月) 00:28:43 ID:5xkTuhYL0
>>57 ちょっと訂正
”廃藩置県”の実質的提唱者は伊藤博文 彼が兵庫県知事時代の明治元年くらいに
岩倉に宛てた建白書がそれ
版籍奉還まではそれ以前に各藩でも持ち上がっていたが、版籍奉還後の具体的デザイン
(藩に替え府県を置き、藩主は貴族として上院で隠居させ、そこに公選による府県知事を
置く)まで示した最も急進的案を最初に提出したのは、伊藤博文で間違いない。
で、大久保らによりそれが保守的方向に一旦後退させられたんだが
(県知事は旧領主=殿様の世襲とするとw)
それに強く抗議し(それでは看板のかけかえに過ぎずと)、結局くつがえさせたのも
木戸と伊藤。
廃藩置県は、伊藤の最初の構想どおりに実現することになり、その実現化の過程で
西郷を説得し引き出す役割をしたのが山縣。
ソースは「廃藩置県」という新書本などだが、れっきとした史実なので関連書当ればどこにも
出てるはず。
最初に提案した、西郷を引き出したから
伊藤と山縣が廃藩置県をやったことになるのか?
新政府に手回しし、西郷を説得したのは木戸の政治力じゃないのか
>>59 なぜそれが伊藤が実質的な提唱者って言える証拠になるの?
木戸は鳥羽伏見の直後に提唱し、実現までの間はずっと政権の
中心にいるんだけど。
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/18(火) 04:18:26 ID:VhFTmwPn0
>>60 廃藩置県を「やった」のは確かに維新の三傑だが、そのもつ本当の意味を
最もわかっていたのは伊藤だろう
>>61 木戸以上に踏み込んで、急進的かつ具体的な案を最も早く出したのが伊藤だからだ。
つまり木戸には版籍奉還までは描けていたが、その先の具体的ビジョン
=「廃藩置県(藩・士分の究極的絶滅)」までは踏み込んで構想できなかったようだ。
したがって「廃藩置県」の言い出しっぺ(公的な提唱者)は伊藤博文といえると思う。
やったのは伊藤ではないのだが、結局その流れになっていったw
>〜ようだ
>〜と思う
じゃ弱いと思うけど
>実は彼らによるガチンコの革命だったのが、廃藩置県
これは伊藤は言い出しっぺにすぎないに訂正するわけね
山縣に至っては特に何もしてないと
それなら、大隈重信の「全国一致之政体」の方が明確な具体策じゃない?
当時の明治政府の木戸派(木戸大隈伊藤とか)の中では廃藩置県は共通
の目標で、反対勢力の説得に失敗して版籍奉還で止まってただけ。
伊藤は、版籍奉還を目前に控えた微妙な時期なのに空気を読めず極秘の
政府目標を公開しちゃって政府内でふるぼっこ→謹慎処分となった。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/19(水) 03:20:42 ID:ZpLZbqo50
〜ようだ、〜と思う、なる表現はオタクに多少気を使って筆先を丸めた結果なのだが
そういうコミュニケーションスキルまでもが微細につっこまれるのが2ちゃんらしいなw
なら元通りの断定形でいいよw
木戸は版籍奉還以上の具体的ビジョンを明治元年の時点で「なんら持っていなかった」
ないしは「示しえなかった」。事実として。
従って廃藩置県(つまり士族階級を永遠に廃する原則)の、最初の公的提唱者は
伊藤博文である。事実として。
そして山縣は事実上の、その実行者・首謀者である。
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/19(水) 03:28:55 ID:ZpLZbqo50
7月4日(8月19日)、山縣の下に居合わせた鳥尾小弥太と野村靖(いずれも木戸派に相当する)が
会話のうちにこの状況に対する危機感に駆られて山縣に対して廃藩置県の即時断行を提議した。
新政府を諸藩と対峙させることによって政権両派の再統一と求心力を回復させようとしたのである。
これは、西郷が廃藩置県推進派の木戸と協力して新政府を支える意図があるのかどうかを確かめる
目的もあった。
山縣は即座に賛成し、2人とともに有力者の根回しに走った。
翌日には2人は井上を味方に引き入れ7月6日(8月21日)、井上は木戸を、
山縣は西郷を説得して更に大久保や大隈にも同意を取り付けた。
西郷も現状の政局を打破するために廃藩置県によって政府内の流れを変えることを
望んだのである。
かくして9日(8月24日)、西郷隆盛、大久保、西郷従道、大山厳、木戸、井上、
山縣の7名の薩長の要人間で木戸邸で密かに練られた廃藩置県案は
三条実美・岩倉具視・板垣退助・大隈らの賛成を得たのである。
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/19(水) 03:39:41 ID:ZpLZbqo50
つまりは、<廃藩置県>を最初に構想したのは伊藤博文
それを具体的に実行に移したのが山縣有朋
その両者による革命だった、と言ってもなんら間違いではない。
結果論としてね。
>>64 >当時の明治政府の木戸派(木戸大隈伊藤とか)の中では廃藩置県は共通
>の目標で、反対勢力の説得に失敗して版籍奉還で止まってただけ。
これはそれを裏付ける明確な証拠がない。
その時期に木戸が廃藩まで視野にいれていたかどうかを裏付ける史料がない。
結論が非常に玉虫色であった、木戸らしくw
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/19(水) 03:46:01 ID:ZpLZbqo50
しかも版籍奉還というのは、ほとんど形式上のセレモニーに堕しており
ほとんど本質上の意味をなさないものだった。
廃藩置県にあたっての役には立ったのだが、それが単独でなんらかの
革命的前進といえるものではなかった。
>>66の
>この状況に対する危機感
「この状況」って何を指すかわかってる?
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/19(水) 04:46:01 ID:ZpLZbqo50
政権が割れかけたのは誰と誰が何を巡ってのことだったかってこと
その大きな流れがわかっていれば、伊藤や山縣は脇役なのが見えてくる
wikiを丸々引用しただけで、本当に理解してる?
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/19(水) 05:10:32 ID:ZpLZbqo50
じゃあ
>>66は松尾正人『廃藩置県』を片手に全部自分で打ったのか
失礼した
お疲れさん
>>67 伊藤博文は最初に構想したのではなく、空気を読めず最初に世間に公表しただけ。
彼が実質的提唱者なら、なんで木戸邸での最終的な会議に参加してないの?
木戸のビジョンについては立場上、実施直前まで明確には公表されていないが、
「郡県制による統一国家構想を同士数人に話した時、快諾してくれた仲間は一人
だけだった(伊藤博文?)」と本人の日記に書いている。
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/20(木) 03:07:42 ID:HwNBvqHP0
>>74 伊藤が参加してないのは、大阪に飛ばされてたから。
とにかく色んな意味で急進的過ぎて大久保に嫌われて干されてたんだよw 井上ともども
と同時に、代表して木戸がいるから敢えてそこに伊藤はいらなかったんだろ。
木戸は当初急進的だったが明治3年後半ごろには漸進主義になっているし
急進的だった時期でも府藩県三治体制が「理想の政体」などといってる。
それで上手く運べばそれでもよいか、といった所だろ。
伊藤のような「絶対廃藩」論者ではなかったと思われる。立場上隠すとかではなく。
というのも山縣に促されるまで木戸の側から何の行動も起そうとしてないからね、
さほど、廃藩論について真剣ではなかったということだと思う。
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/20(木) 03:25:36 ID:HwNBvqHP0
まーそれ以前に当時の伊藤はまだ28歳くらいで、重要な政策決定の場に
与れないのも無理からない話だろう。
杉村タイゾウや小泉進次郎が外野席からワーワーいってるようなもんなんだから。
その割りに影響力ありすぎるんだけどね、この人はw
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/20(木) 03:54:20 ID:HwNBvqHP0
>>64 大隈のそれも府藩県三治体制を前提としていて、その徹底による中央主権化の推進
なのだから「廃藩論」ではなくむしろ「存藩論」
岩倉の案も、部分的に廃藩論に接近したにせよ本質的には「府藩県三治」の強化
大久保も木戸も西郷も府藩県三治制で合意している。
廃藩置県が実行される前に「廃藩置県」を唱えてたのって、政府内で伊藤博文だけだよw
廃藩置県を「実際に行った人々」=西郷・大久保・木戸は
その直前まで誰も廃藩置県なんて唱えてなかったんだよねw
唱えていないというか「思ってもいなかった」はずだよw
廃藩やらないと久光と約束してるんだし、西郷は。
山縣に言われてそういわれてみれば・・ああ、そうか、と木戸が思い出したくらいだろう
・・こんな奇妙な「革命」はないよw
やった本人が直前までほとんどその気がないんだからw
78 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/20(木) 04:05:08 ID:HwNBvqHP0
大久保にいたってはそれまで明確に「廃藩反対論者」だったんだからw
郡県制(廃藩論)などカスのようなもので、まともに論議する価値もない「空論」なり
と切り捨ててるw ほんの1年くらい前にw
唱えてなかった=「思ってもいなかった」はず
それは違う
廃藩置県を公然と唱えられるわけないだろ
現に伊藤がそれをやらかして水を差した形になった
それを最初に提唱したと手柄扱いするのはおかしい
いい加減に自論に固執するのはやめたら
伊藤博文が廃藩置県をリードしたならもっとその功績が認められてるはずだろ
廃藩置県を主導したのは木戸、協力したのは西郷、功績者のワンツーがこの二人
>>75 この文章を好意的に解釈しても、伊藤は廃藩置県に関与してない。
木戸に促したのが山縣、やる気になった木戸を中心に西郷大久保を
巻き込んで実施したってことでしょ。
それとも、伊藤の建白書を見ながら木戸大久保が実務レベルの調整
をしたってこと?
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/21(金) 01:25:42 ID:BTxDKXEh0
>>79 そっちの方が既成概念ちゅうか自説に固執し、実証性に欠けてると思うがなぁw
(最初から感じていたが、あんたは伊藤個人に評価が与えられることが
そんなにマズい事情でもなんかあんのか? コンプレックスとかw
できうる限り伊藤の業績を矮小化したいようだが・・w)
木戸は確かに廃藩をほのめかす・・くらいまでは当初いってたフシもある・・ものの
明治3年ごろには廃藩論はサヤに納めていて「10年くらいは様子見でいい」
という考えになっていた。言語による表出、ではなく思想において。
>>80 実際に大筋でほぼ「伊藤の建白書」通りになってるわけだが?w
・藩を全部廃し県を置き
・藩主には爵位を与え貴族にした上で、全員を東京に転居させ
・士族は一部は天皇の兵(親兵)とし残りは土着させる(帰農)・・全部伊藤案の丸写しじゃんw
そしてその謀議?には井上、山縣も加わっていた、ってことは伊藤の身内といえる人間が
二人に木戸も加わってたわけだから、伊藤建白をたたき台に、、っていうか
それで行っちゃおうって話になったんだと思われる。
あんな短兵急に突然決めたんだから、新たにプランを練る時間的余裕もなく
伊藤案が大筋でそのまま採用されたんだろw
となると廃藩置県における伊藤の関与はないどころか大有りだよw
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/21(金) 02:00:51 ID:BTxDKXEh0
>現に伊藤がそれをやらかして水を差した形になった
あんたは「伊藤が空気を読まず」とか「水をさした」とかそればっかだけど、
実際に事の推移がそうなった形跡はどこかにあんのかね?w
もしそうだとしたら伊藤は木戸から最大の不興を買ってなければならないはずだが?
この時期木戸が伊藤を遠ざけたという事実はなかったと思うぞ。
それどころか人事でこの頃も伊藤を庇っていたはずだが、木戸は。
むしろ伊藤が睨まれたのは保守派からだよ、大久保を筆頭とする。
そして木戸がそれを守る形だった。不興を買ったならなぜ?
木戸が当初から廃藩置県を希求していて、版籍奉還はいわば「ダマシ討ちのための具」であり
ところが伊藤が軽率にも空気読まずそれに水を指し阻害した、というのは
恐らくあんたの脳内フィクションw
版籍奉還はもっと哲学的・思想的事情から要請されたものであり
木戸はそこに何らかの魂胆をもつようなタイプの人じゃないんだよ。
なので、伊藤建白も単に「直情的で正直なもの」として評価してただろう。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/21(金) 02:14:42 ID:BTxDKXEh0
仮に廃藩置県があんたの考えるような「ダマシ討ち」の形をとったのなら、
もっと汚い歴史になってるし藩主士族の反発も大きかったろう。
伊藤が明治初年にあのように堂々と、そしてあっけらかんとw自ら思う国家構想
として廃藩置県を公にぶちあげた上で版籍奉還も行われたことで、
そこにあるのは国家に対する真情だけであって裏がないってことに
逆になっているんだと思うよ。
明治政府が廃藩置県をアンタのゆう「隠密裏」に全く公にせず進めてたとしたら
それこそただの陰謀になってしまっただろ?w
>伊藤は木戸から最大の不興を買ってなければならないはずだが
木戸は同郷人には滅多なことでは怒らないし、面倒見がいいんだよ
国を真摯に思っての勇み足の失敗には誰が相手だろうと寛大
木戸が伊藤に激怒したのは岩倉使節団の時の
軽薄なキリスト国教化を唱えた時くらいだ
ところで伊藤が廃藩置県最大の功労者だと言いたいのなら
脳内ソース以外の文献を教えてくれ
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/21(金) 02:41:25 ID:BTxDKXEh0
明治元年・五箇条のご誓文の「万機公論に決すべし」
血気盛んな伊藤はこれを一番乗りにやっただけのこと。
臆せず自分の所信だけを述べたんだよ、国家建設プランを。
そこに裏なんかなにもない。
せっかく望外の出世した自分の身が、今後どうなろうと知ったこっちゃない。
(実際酷い目にあうがw)
岩倉はこの伊藤建白を読んでいたく感動し、以後一貫して伊藤の
政治的庇護者となっていく。
その政治的先見の鋭さと潔い心意気に心打たれたのだ。
木戸も内心動かされるものがあったと思うよ、理念に殉じるというのは
木戸の属性でもあるから。
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/21(金) 02:46:54 ID:BTxDKXEh0
>ところで伊藤が廃藩置県最大の功労者だと言いたいのなら
そんな事はいっていないw
少なくとも伊藤と山縣が普通に大功労者だろ、ということと
伊藤は明確に認められる最初でほぼ唯一の「廃藩置県の公的提唱者」だということ。
これはもっと評価されてもいいわけだが、伊藤にはその他の評価される
ことが多すぎるから、後回しになっても仕方がないとは思う。
大功労者って抽象的すぎてどの程度のランクかわからない
>岩倉はこの伊藤建白を読んでいたく感動し、以後一貫して伊藤の
>政治的庇護者となっていく
何かの伊藤博文マンセー小説の受け売りか?
岩倉は廃藩置県に反対の大久保と歩調を合わせて
何度か木戸派の追い落としを図ってるんだが
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/21(金) 03:31:57 ID:BTxDKXEh0
>>87 小説ではないな。伊藤の小説なんてほとんどないだろw
昨年出た伊藤の評伝本。ほぼ一次資料のみに基づいているので学術的価値は高い。
俺は歴史小説はほとんど読まないよw
しかしアンタ、伊藤が嫌いだねぇ・・小説には脇役でしか出てこないからなw
好き嫌いで言ってるんじゃないっての
そう思うのはそっちが史料いい所取りの
好き嫌いの感想でしか語ってないからじゃないか?
廃藩置県に関してお宅の言い分は過大評価だって言ってるんだよ
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/21(金) 03:46:10 ID:BTxDKXEh0
>大功労者って抽象的すぎてどの程度のランクかわからない
最大の功労者5人の中の一人ってランクだろ
逆にじゃー誰が真の功労者なのかって考えると、他にもあんまりいなさそうなんだよw
西郷・大久保はその場でなんとなく話に乗っただけなんだし
木戸もその時までどこまで思い切れていたのかが不明確。
自ら企画なんぞ全くしてないわけだし。
全員があれよというまに勝手にドミノが倒れた感じだろw
ならばそもそも最初に話を持ち上げた人間の「貢献責任」も大きいはずだ。
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/21(金) 03:56:14 ID:BTxDKXEh0
そもそもの「事の起こりが」山縣邸で酒飲みながら部下二人が
こうなったら廃藩置県やっちまいましょうよ、チェストー!!(薩摩藩士だったら)
ってノリだけなんだからw
西郷は明らかに「戦をしたかった、または武威を用いたかった」衝動だった
と思われるしw
だ〜か〜ら〜
中央集権化のために廃藩置県が必要だって認識は
伊藤に限らず大久保含めて新政府が持ってたっつーの
でも、どうやら他人の意見は一顧だにせず「w」で済ますようだし
何言っても無駄なんだな
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/21(金) 04:28:07 ID:BTxDKXEh0
>>92 うそだぁw 少なくとも斬新論だったよ政府首脳は。府藩県三治体制の。
「持ってた」という完了形の表現はおかしいんで、「持った」んだよその時にw
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/21(金) 04:36:38 ID:BTxDKXEh0
中央集権化のための藩政改革のあれやこれやの諸規制を政府が試行してたわけで
その実も出だした頃だった。
なので「なぜ今なのだ?」という声も諸藩や政府の中で多かった。
木戸や大久保、西郷も私情としては廃藩なんてやりなくなかった
に決まってるしね。
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/21(金) 05:04:39 ID:BTxDKXEh0
俺が類推するには、木戸、西郷、大久保は自分が廃藩の「直接の下手人」になるのは
嫌だった。
誰か背中を押してくれる人(と時代状況)が必要だったんだよ。
その”時代の機運”を醸成したのが伊藤であり、背中を押したのが山縣。
政治的停滞・・というのも彼らの(無意識かもしれないが)
エクスキューズだったかもしれないとウガつこともできるよ。
だって、あの政治状況を打開するために云々ってのも、
そんなに悲観的状況じゃないんだよねw単に3週間くらい空転してただけでなんで。
当時も今も、直接の下手人として認識されてるのは木戸、西郷、大久保だ。
翌日の新聞に「伊藤が提唱し、山縣が促して実施となった」
とでも書いてない限り、責任は全て政府首脳が負う事になる。
下っ端に背中を押してもらっても気休めにすらならない。
あと、伊藤や陸奥が連名で出した建白書は、版籍奉還、徴兵規則など
に続く改革として簡単に類推できるもので、現在に至るまでほとんど評価
されてない。時代の機運を高めたという新説を出すなら証拠がほしい。
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/23(日) 15:29:35 ID:TlNR0GaS0
>>11 >>普通はもっとひと暴動おこる。
・・・不平士族の反乱が各地で勃発していたな。西南戦争では日清戦争より戦死者が多かったらしいし。
その前に戊辰戦争も起こった。反乱のあとは自由民権運動が吹き荒れた。
武力闘争から合法的政治闘争へ以降したんだから日本は先進的だった。
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/23(日) 15:39:58 ID:TlNR0GaS0
>>11 シナはいまだに自由民権運動も抑圧されていて日本でいえば薩長藩閥政治段階のままだな。
議会を開設しているといっても共産党大政翼賛会みたいなものだし。
99 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/23(日) 15:47:54 ID:gc6LBCRl0
伊藤山縣厨は逃亡したか
どこも財政が苦しかった藩主層が受け入れたのが大きかったんじゃ?
元藩主を今後どう扱うかでまた新政府内で一揉めしたけど
廃藩置県って教科書では簡単に扱われるが、既得権益層である武士階級をよくつぶせたな。
反乱起こしそうな空気読めないとこはその前の戦争で潰れてるから。D達さんとか
つまり幕府支持勢力のほうが黒字財政だったってことだな
仙台は金無いよ。京に藩士滞在もまともに出来ずに帰るぐらいだし
反新政府に過ぎないのを、わざわざ幕府支持勢力と言うのは見栄?
島津や毛利に顎で使われるなんてムカツクと大藩のプライドで対抗して
ドンゴリしちゃいましたじゃかっこ付かないもんな