慶喜を貶めたところで、家茂が無能・無気力な愚か者であることに変わりは無いのに。
江戸時代末期の旗本八万騎の腐敗堕落ぶりは凄まじかった。
武芸や学問という以前に、人間のレベルに達していないというダメっぷり。
こんな連中に延々、家禄という名の高額な生活保護を支給しつづけていたのが徳川幕府。
困窮?
働かざる者食うべからずの、正常な状態になったってだけだろ。
ただ、直参の腐敗ぶりをあれほど容赦なくあぶりだす野口武彦氏が、
慶喜の評価になるといきなり超通俗的な
「慶喜腰抜け!逃げるなんてサイテー!幕臣の皆さんカワイソス!」論者になるのは不思議なり。
慶喜と譜代幕臣達の間に信義による絆は元々無い。
確かに慶喜は幕臣達に冷たかったが、幕臣達も慶喜の脚を引っ張ることをして来た。
在京時に譜代・幕臣に散々いやがらせをされ苦境を味遇わされたのに慶喜は泣き言は言わなかった。
将軍就任前は散々に嫌がらせをして来た癖に己が苦境に陥れられると泣き言のように
恨み節全開になる幕臣達は武士としての慎みも恥も知らないのではないか。
704 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/26(月) 15:13:53 ID:7mB9tJtq0
江戸に帰ってからの慶喜公は残務処理は勝や大久保にまかせ
薩長の矛先は会津藩に向けさせ、自分はひたすら恭順の姿勢をとったのである
維新後の慶喜公は政治にかかわることはなく、
楽隠居として写真や乗馬などの趣味に生きる生活をして、
大正2年(1913年)に77歳で亡くなった。
晩年の1902年には華族の最高位である公爵に列せられている。
歴史上の人物の評価は難しいが、徳川慶喜の場合は
幕末の最終段階までは持てる才能をフル回転させて
倒幕派と対峙したものの、最後の最後でキレてしまい
自己保身に走ったといえるのではないか。
最高責任者として「勝手にしろ」と言って戦争を始めながら
さっさと逃げ出し、責任を部下(松平容保以下会津藩)に押し付けるがごとき行為は
君主失格といわれても仕方がないかもしれない
翻って第14代将軍徳川家茂公は、将軍在位期間も短く歴史的には地味な存在であるものの
人格にもすぐれ多くの人々の敬愛を集めていたという
(勝海舟をはじめ、家茂の人柄に惹かれた幕臣は多い)
江戸城明け渡し後、多くの旧幕臣が各地で戦ったのも
慶喜公のためというより先代家茂公のためだったのかもしれない
705 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 00:20:26 ID:jQJ9QcOZ0
家持を支持するのは腐女子
自分を将軍にするために奔走し、辣腕をふるって憎悪を一身に受けあげくに非業の死をとげた井伊直弼を
家茂は朝廷の機嫌をとるために死後改めて罰している。
家茂の家臣を思う心なんてその程度。
斬新なビジョンもなければ主体性もないから、因循姑息な老中旗本連中にも
勝や小栗といったアクの強い連中にも好かれたんだろう。
707 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/27(火) 12:59:19 ID:CxEJrTqOO
井伊を処罰した時の家茂の年齢はご存知?
>>706
出る杭は打たれるの逆なわけだな。
709 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 09:36:18 ID:/Gm+FFDTO
さすれば家茂は沈鋲頭ですな
鳥羽伏見後、新選組や会津の兵士が慶喜を罵倒した記録が残ってるけど、
敵の3倍に及ぶ兵数でごり押しに出陣して、ボロ負けして討ち死にもせずにのこのこ
帰ってきたことに対する恥じらいってないわけ?
威勢のいいことばかり言って暴走して、失敗して組織全体を窮地に陥れたら
責任はお上のせいって、それでも武士か!と言いたいよ。
なんか新選組―松平容保―徳川家茂という「萌えの枢軸」ができあがってるみたいだよ。
新選組をひいきにしたら、自動的に慶喜をヘタレの口先だけ男にしないとかっこがつかないからな。
実態は逆なんだけどな。
711 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 11:58:45 ID:A5k2URl20
どんな言い訳をしようと兵を捨てて逃げた時点でリーダー失格だね
ソレを何よりわかっていたのが慶喜自身
だから明治では身を慎んだ
あえて批判に甘んじた。
勝をはじめとする旧幕臣が言いたい放題言っているのをこらえた
慶喜は偉いぞ。やはり非凡だ
わかっていないのがお前
責任はお上のせいって、それ当たり前
兵は将の命に従って死地に赴く
上司は部下よりも大きな責任を負うんだよ
これは現代の組織でも言えること
部下は上司の苦労を知らずすき放題言うものも中に入る
組織の中で働いている人にはわかるだろう
人間はそういうもので、組織もまたそういうものだ
それに難癖つけるのはおかしい
まあ敗兵は将を悪く言うのは、自己保身のせいでもあるけどな
それから決め付けはよくないな
ここ最近のやりとりのなかで会津や新撰組を持ち上げる発言があったかな?
なんか、お前、ものすごく視野が狭いぞ
事実を指摘されて逆ギレしているようにしか見えん
自分は正直言って慶喜も家茂もどちらも駄目なヤツだと思ってる
だけど慶喜をこき下ろすつもりはないし、
家茂も同様
ただお前みたいに
「俺は正しい。あんたら馬鹿」
みたいなのは腹が立つ。勝手に人を矮小化するなよ
それぞれがそれぞれの判断基準を持ち、感想を持つのは自由だろ?
だけど人を馬鹿にするのはよくないよな
712 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 14:01:41 ID:BKBof3MwO
兵を見捨てて逃げたのではなく実際には残って後処理する人と一緒に江戸へ行く人を決めているよ。けっして全面的に見捨てた訳ではない
小説ではかなりオーバーに卑怯者扱いだけどね。
リーダーに責任あるのは最もだと思う。だけど部下も戦い停止命令など聞く耳持たないような大興奮してた状況下であったのは差し引いて考えるべきだろう。
713 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 14:34:22 ID:/Gm+FFDTO
そうそう。リーダーには大きな責任があるが
部下だって、部分責任はある。慶喜批判を免罪符にしちゃアカン
当時の幕臣を十把一からげにしてもいかんが
彼らの多くが寄生虫化してたし
慶喜に責を負わせることで、残りのある部分が新政府
官吏などに転身できた
慶喜だって立派な被害者なんだよ
714 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 16:46:52 ID:jNUe6DWQO
鳥羽伏見の戦いで最初に負傷した幕府方は薩長の銃声に驚いて戦線を逃げ出した大目付滝川播磨守具挙の馬に蹴られた連中であった
>滝川播磨守具挙
六角獄に収容されていた浪士を問答無用で惨殺したり、
降伏した天狗党をやはり問答無用で大根斬りにした張本人だが、
己自身の戦いとなると全くの腰抜けぶりで、
少なくともこいつは慶喜を卑怯者とか腰抜けといえるような分際ではない。
717 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/01(日) 00:26:53 ID:q+dPKTu80
またまた慶喜崇拝派の新たなスケープゴート探しが始まったか。。。
いくらやっても慶喜の罪が軽くなるわけでもないに
718 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/01(日) 03:46:51 ID:q+dPKTu80
幕府をつぶしたのは慶喜ひとりの責ではないが、
徳川宗家が70万石まで縮小したのは彰義隊の責任ですな
719 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/01(日) 03:47:40 ID:q+dPKTu80
↑日本語おかしかった
「責ではないが」じゃなくて「責ではない」だ
譜代・旗本の弱体化は隠せない事実で徳川幕府が衰亡しているのはあきらかなのに
幕府は健全で譜代や旗本は立派だったのに腑抜け慶喜一人の所為で幕府が亡びたといわんばかりの慶喜非難。
譜代や旗本等の体たらく、卑怯ぶりまで慶喜個人になすりつけようとする☆等は一種の卑怯さを感じる。
門閥の無能どもと一蓮托生する気は無い
この人の存念はこうだったでしょ多分
722 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/01(日) 09:18:33 ID:KQr1zU5d0
譜代老中=幕府閣僚→任期制なので問題の棚上げによる逃げ切りが可能&最終的な責任は将軍になる。
徳川慶喜=将軍であり逃げる事は不可能。
この差でしょ
723 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/01(日) 10:05:58 ID:fASmbL040
>>721 慶喜が、その門閥の総元締だろうがw
きみ、馬鹿なの?
でも会津藩は立派だね。
途中で変節した薩摩など、武士道の風上にも置けぬわ
724 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/01(日) 11:08:24 ID:iSU4C3PE0
>>723 いや、会津の方が酷い
だって会津は幕府の京都守護職でありながら、孝明天皇の信任を得て攘夷を幕府に申し入れている。
薩摩は幕政改革で開国方針だった。薩会盟約もその延長だったのに・・・兵庫開港問題で薩摩は会津や慶喜に裏切られている。
裏切った裏切らないという論法なら、先に裏切ったのは会津の方。
幕府も京都守護職を解任しようとして、その手当も停止したが、孝明天皇が怒り、会津を庇ったのでどうする事もできない。
幕府から見ても会津は裏切り者だよw。
725 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/01(日) 19:46:25 ID:Lgq1zd5f0
会津その他幕臣が耐え難い苦難を背負ったのは事実。しかし、慶喜が恭順
姿勢を示し続けたのは破壊的・徹底的内乱を防ぎ、欧米帝国主義の餌食に
ならないようにした、という可能性もある。少なくとも、結果的に植民地化
を防いだ、家康の再来かそれ以上の存在であったはずだ。
726 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/01(日) 19:57:49 ID:q+dPKTu80
家康の再来かそれ以上の存在であったかどうかは価値観の問題なので人それぞれ
だと思うが、
彼の功績は725さんの仰るとおりだと思います
ゆえに旧幕臣からは不人気でしたが、明治政府からは最後には公爵を与えられた
今回の大河、わりと忠実だね慶喜。
家定はアレだが
728 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/01(日) 23:35:29 ID:q+dPKTu80
うん、アレだね
和風ハムレット
ドラマとしては面白いんだけど
729 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/02(月) 00:35:55 ID:ugIv0aYu0
731 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/03(火) 15:02:13 ID:FeJfY4BK0
>>1 そもそも「出陣させなきゃ将軍を殺す」といきまくような連中は忠義の士ではない
732 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/03(火) 15:11:48 ID:83l/0eTK0
まあ忠義とは何かが明確に定義されていないから、なんとも言えないですが
1さんのは「徳川家に対する忠義」なんでしょうな
それでも「元将軍である当主」を殺すといきまくのは忠義の士かどうかはや
はり疑問ですな
言葉は難しいですな
733 :
名無しさん@お腹いっぱい:2008/06/03(火) 17:19:38 ID:SNAwZXOG0
>687 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/22(木) 00:27:09 ID:3YNZSpT40
>だからトータルで判断しないと駄目だって
>1.幕政改革は井伊の死後から行われているよ
> もちろん家茂が将軍の時
> 家茂が行ったのではないけどね(大体年齢的に無理)
これって慶喜が家茂の将軍後見役になってやったことじゃん(w
大体家茂は
自分を差し置いて動き回る朝廷と徳川慶喜を見て、「自分は無能だから辞職したい。後継者は慶喜が良いだろう」
と辞意をもらしたこともある。また、老中と論争をする慶喜を見て、「もうどうにでもすればよかろう」と涙を流したこともあった。
まあ一方で、人柄が大変良く、多くの人に慕われた。特に、上司にはめっぽう辛口で有名な勝海舟ですら心からこの将軍を慕っていたしね
734 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/03(火) 18:29:12 ID:MNLWeKA/O
>これって慶喜が家茂の将軍後見役になってやったことじゃん(w
春嶽さんのこともたまには思い出してやってくれ
735 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/05(木) 21:44:00 ID:F50Mavo40
>>733 734の言うとおり、「慶喜が」やったことではなく、「慶喜も参加した」改革
736 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 08:12:42 ID:Vo+REwwi0
「慶喜の最大のミスは鳥羽伏見で臨戦態勢で行軍させなかったこと」って、
臨戦態勢でないということの意味が分からなくて。
武装しないと言う意味かと思ってたがそんなわけないよなw
「戊辰役戦史」を見ると、
「第一日目からの戦闘を想定しておらず、戦列を組まず銃に弾を装填していなかった」
ということらしい。
これって…ふつうに現場指揮官と兵士の責任じゃないの?
737 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 08:30:06 ID:dVLIN1/10
幕府一万五千に対し、薩長四千。
したがって
幕府の勝利は疑いない
したがって
薩長も負ける戦はしないだろう
したがって
幕府軍の進撃が始まれば、薩長の方が降参するに違いない
したがって
戦いは起こらずに幕府は勝てる
したがって
戦いが起こらないのだから、銃に弾を装填しなくてもいいじゃん
738 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 13:37:10 ID:4vpjP56PO
幕府軍全体的に相手をなめていた雰囲気があり、慶喜だけ責められる問題ではないね。
>>706 一日目は偶発的に起こったと、別の会津藩の史料(菊池明「戊辰戦争日誌」)で見かけたけどな。
京に上洛する際、薩長軍が武装しての上洛は駄目だと通達、足止めくらった。
そこで大坂へ事情を通達し、判断を仰ぎ、無理矢理通行したとの記述がある。
原口清氏も、「戊辰戦争補論」で武装での上洛は元々許されないことだったと述べてるけど、
慶喜自身はどうだったんだろうね
741 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 18:19:19 ID:dVLIN1/10
>>739 慶喜は知っていたよ
復古記によれば、尾張藩主を通じて「武装せずに上洛すれば、納地問題は再考。徳川家も参議として招く」という事を知らせている。
つまり慶喜の上洛は朝廷からの命令だった。
ただ、上洛を認めたのは徳川だけで、会津と桑名には帰国命令が出ている。
武装しての上洛だけでなく、上洛軍の中に会津桑名がいた事も問題で、これを薩長は拒絶した。
徳川軍は当然薩摩藩の検問に引っかかりストップ。
通せ通さぬの問答の後、ぶち切れた幕府軍指令滝川が「それなら力尽くでも通る!」と言った事から無し崩しに開戦してる。
そういう意味では、慶喜に罪が無いわけではないが、その一方で徳川家臣団と会津桑名両藩が上洛したがり、
強行に慶喜に迫っている。それこそ将軍を殺し、新たな将軍を立ててでも上洛するという者もおり老中の板倉も抑えられなかった。
必ず勝てると皆が叫び、半場脅迫的言動もあった事から、慶喜もその気になって思わず・・・
という展開だろうね。蓋を開けたら大負けしたので、即座に兵を退こうとするが皆がもう暴走状態で止められず、
結局大阪を脱出する事で、無理矢理家臣達の暴走戦闘と止めてしまったらしいという事が「徳川慶喜公伝」に書かれている。
それを信じるか信じないかは個人の自由だw
成る程。やっぱ12月末に江戸城の確か西の丸が焼けたことが、慶喜の強行路線に影響与えたんだろうな。
幕末維新の個性シリーズの西郷のやつで、西郷は関与してなかったとかいう研究者もいたけど…。
まぁ元々、クーデター直後に慶喜は一旦、薩を討つと言い出して岩倉らに止められ断念した経緯があるけど、
薩への恨みは相当なものだったろうな。
最後の最後で判断を誤るとは…
743 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 19:58:23 ID:OptfEuuZO
>結局大阪を脱出する事で、無理矢理家臣達の暴走戦闘と止めてしまったらしいという事が「徳川慶喜公伝」に書かれている。
>それを信じるか信じないかは個人の自由だw
スマン俺は信じないよ、
明治の御代になってからの自己弁明を誰が信じるというのか
もっとも慶喜自身こう言うしかしかたなかったろうし、この頃には自分でもそうだったと信じてたかもしれん
慶喜をつき動かしてたのは恐怖以外の何物でもなかったろう
確かに残された部下の手配はしたかも知れん
その一方で艦長を置き去りにしてまでも発艦したし
艦員に内緒でちゃっかりメカケは乗艦させ、いちゃついたり
馬じるしを置き忘れてたりして、沢以下乗組員を呆れさせている
これも慶喜の記憶からは都合よく抜け落ちてしまったみたいだがな(笑)
人の記憶なんてこんなもんだよ
744 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 20:02:11 ID:guE1QUmT0
そうだ
信じるか信じないかは個人の自由
ただそうした史料が存在している事実だけは信じておけ
それで大丈夫だ
745 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 20:15:41 ID:OptfEuuZO
同様に、慶喜のそういったリーダーにあるまじき行動も、当事者たちの証言が史料として現実に残っていることも覚えておこうな
それと人の記憶の曖昧さと都合よさも
慶喜を評価したいなら慶喜公伝はなるべく避けたほうがいい
746 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 20:21:18 ID:guE1QUmT0
>リーダーにあるまじき行動も、当事者たちの証言が史料として現実に残っていることも覚えておこうな
覚えているよw
負けた会津桑名側が徳川慶喜一人に敗戦責任を擦り付ける為の弁明として、そうした見解を語っている事実は承知している。
ただねぇ
>慶喜公伝はなるべく避けたほうがいい
君のこのスタンスには反対だな。
重視しない事と最初から読まない事は別物。
読んでいないのではお話しにならないw
747 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 20:36:13 ID:OptfEuuZO
>負けた会津桑名側が徳川慶喜一人に敗戦責任を擦り付ける為の弁明として、そうした見解を語っている事実は承知している。
ちっとも承知していないではないか(ノ_・。)
俺は沢以下艦員たちと言ったのに
公伝を読むなと言ったのでもない。これは俺の言葉が足りなかったのだが、公伝の慶喜の、特に鳥羽伏見から水戸謹慎までの証言はあてにするな、という意味
公伝を全否定したように聞こえたなら悪かった
748 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 21:05:27 ID:GO6j0slT0
>>736 官軍が錦の御旗掲げていたのに怖気づいて逃げだしたこと。
将軍自ら「あれはニセ物だ。気にするなとはっぱをかければよかった。
たとえ本物の勅命であっても京都の近くで官軍が敗れれば、朝廷側
は「ニセだった」としてくるわけだから(水戸藩へのち勅錠あるいは
承久の乱のときのように)
「勝てば官軍」なわけだから(この言葉の本当の意味はそれ、逆賊扱い
されても官軍破れば、自分が官軍になり 官軍だったほう賊軍になる
というもの)
749 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 22:43:50 ID:4vpjP56PO
結局だれでも自分にとって都合の良い資料は価値有ると判断するものだね。
結局は慶喜だけでなく会津も幕軍も皆平等に責任があるけど、それを慶喜一人にすべて罪があるようにしてる本は気に食わないね
750 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/07(土) 23:04:04 ID:GO6j0slT0
彰義隊や会津の悲劇はどうみても慶喜の罪。
8月15日の玉音放送のように「全大名 幕臣は新政府に投降せよ。」
という命令を大々的に出すべきだった。
751 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 00:00:03 ID:y9CPsK58O
彰義隊は慶喜公の命令を受け山岡鉄舟以下精鋭隊士が再三解散を訴えている。
それでも解散せず戦ったのは慶喜うんぬんではなく江戸っ子としてのプライドだろう。
会津は慶喜が関与せずとも「やるならやってやる!さあこい!」というような抗戦的勢い、どのみち戦争になるね。
慶喜の鳥羽伏見逃亡を責める方々は、よっぽど自分の精神力に自信があるのだろう
あの時点で慶喜が味わっていた重圧、精神的疲労、絶望は
おそらく人間に耐えられる限界を超えていた。
あの時の慶喜は満年齢で30歳と3ヶ月だった。
これらの事実をふまえた上で「俺ぁ慶喜よかずっと上出来な行動がとれるぜ!」
と断言できる人間だけが責めればいいんじゃないのか。
あとさー、メカケ連れて逃げたと言うが、かよわい女を
怒り狂うであろう兵士たちの中に置いて単身逃げろとゆーのか。
753 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 00:23:14 ID:k2u67+070
>慶喜公の命令を受け山岡鉄舟以下精鋭隊士が再三解散を訴えている
この時すでに慶喜に実験は無いよ
水戸に移ったからね
解散を促したのは勝や大久保らの終戦処理内閣だ
確かに戦争にもつれこんだのは旧幕府に忠義立てしたためではなく、薩長への
反発によるものだろうね
ただそこまで事態をこじらせたのは慶喜の、そしてその後には勝の、読みの失敗
にある。
俺が慶喜の明治での証言を信用しないのは、彼自身の政治的立場を考えてのこと
で、決して慶喜を無能だとか非常だとか思っているわけではない
立場上めったなことは言えないだろうよ、なにせ足利尊氏が逆賊として、足利出身
というだけでいじめられたご時世だものね
慶喜自身の身の安全もあるだろうし、関係者のことも考えれば、本当のことを
どこまで証言したかは疑問だ
もちろんその行動はいろんな人が記録しているから、ウソはつけないけれど、
俺が疑うのはその動機だよ
当時の心情をそのまま語れないだろうし、自分でも封印するうちに記憶違えを
しているかもしれない
勝の明治の談話をそのままうのみにはしないでしょう?
だからといって、勝の業績を否定しないでしょう?
それと同じですよ
754 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 00:35:27 ID:k2u67+070
>>752¥
俺は一言も慶喜を責めてはいないよ
「慶喜に責任は無い」とか
「慶喜は家康の再来だ」とか
「将の器だ」
とか言う人たちに、反論しただけ
妾云々の話も「リーダーにあるまじき」と言っただけ
俺だったら、やはり心配で連れて行くだろうね
ただ部下はそれを見てあきれるのもとうぜんだろう?
自分たちは館長を置き去りにして、逃げ帰る、なのに俺たちのリーダーは。。
と言う話、憤慨するのも、人間としてわかるよね?
俺が慶喜の立場だったら、もっと取り乱していたと思うよ
ただあなたの言うような「その人より上の実力、精神力がある人しか批判でき
ない」というのは、ちょっと乱暴じゃないかな
野球評論化がみな超一流の選手でもなくていいでしょう?
美術評論化がみなすぐれた画家でなくてもいいでしょう?
それと同じですよ
755 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 00:59:33 ID:vfgMprIGO
開陽丸副艦長沢太郎左衛門は、慶喜がお芳を連れてきたとは一言も言ってない
そもそも、大坂にお芳を連れてきたかどうかも、実のところ不明
だから開陽丸士官の
「艦長室にお芳がいた」
というのも、慶喜をおとしめるためかも知れん
艦長榎本を置き去りにして逃げることが、よほど腹にすえかねたんだろうな
756 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 01:03:35 ID:k2u67+070
>>755 なんと、そうなのか?
勇み足をしたか
すまんかった
757 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 01:07:18 ID:8FHvTe910
でもさ、なんだかんだいっても、維新後、困窮する元部下を
尻目に、自身は悠々自適の生活とはちょっといただけない。
758 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 01:29:46 ID:vfgMprIGO
まあ、そうだね
だから「百才あって一誠なし」なんて言われるんだろうな
ただ、あえて弁護すれば、慶喜には勝、大久保、山岡といったお目付役がいて
行動を制限されていたからなあ
勝としては、慶喜が旧幕臣らに担ぎあげられる事態を招く種は
避けたかったんだろうと思う
士族の反乱相次ぐ中で、最大「野党」である旧幕臣のコントロールには腐心していたから
自分は高位高官になって、旧幕臣らに援助したけど
自分なら微賎の出だから、担がれることもないと思ったんだろう
事実勝の世話になりながら、彼を嫌った者はたくさんいた
渋沢も勝のこと気に入ってなかったみたいだし、あまり批評しない慶喜でさえ
勝の功績は誇張があると言ってたもんな。
幕府全体が堕落・弱体化しているのを誤魔化そうとする
旗本や譜代が慶喜1人をスケープゴートにしているに過ぎない。
「困窮する元家臣らを尻目に悠々自適」
慶喜を評するさいに必ず持ち出される決まり文句だが、幕臣らは慶喜を主君とも将軍とも
思っていなくて、家臣らしい忠義を尽くそうとしなかっただろう。
だから慶喜にとって彼らは「家臣」じゃない。
そもそも彼らが「幕臣」の名に値するかどうかも疑問。
幕府存続のために指一本動かさないどころか文武に励むことさえしなかった。
長州戦争のさいかり出された幕臣たちの行状はひどいものだった。
大坂では女郎買い・土産の品評・絵描きの内職……
今週の週刊新潮の野口武彦の連載でも読んでみたら?
稲垣史生いわく、
「これでは鳥羽伏見で敗れたのも無理はないし、旗本八万騎がこんな情けない状態だったから
慶喜将軍はあっさり恭順したのである」
何もしなかったから幕府が倒壊して生活費はストップ、
文武も身につけてないから困窮、無能のくせプライドだけは無駄に高いから仕事もできない
これのどこが可哀想なんだよ!
まあ幕臣でも優秀な人は新政府にどんどん登用されたけどね。
まあ新政府自体、人材不足で旧幕府の役人がいないと仕事が回らないってのもあるけど(w
それでも使えない奴、無能な旗本とかは自業自得だろ?
763 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 14:43:16 ID:yUcuSE8Z0
>>761 明治になってからの慶喜は自分が旧幕臣に担がれる(反新政府で)
のを防ぐために、わざと、旧幕臣に嫌われる(彼らの苦労をはばからず
に贅沢な悠々自適の生活をして彼らが自分を嫌うようにする。)
ようにしたんでないの?慶喜がのちに明治政府から高く評価され
(公爵にもなる)のはそういうことへの功労としてではないにか。
764 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 15:03:54 ID:1SG6HA5U0
慶喜が力を入れた幕府歩兵隊の主要身分は百姓町民w
最初旗本を歩兵にしようとしたが、彼らは欠勤や病欠といって誰も来なかった。
家臣に無視された慶喜は、仕方が無く「出勤しないなら資金だせ」と金だけ出させ、
その金で百姓町民を傭兵として幕府歩兵隊を作った。
薩長と決戦しよう!と叫び暴走したのは、この糞幕臣旗本たち。
慶喜が見放して当然だと思うよw。
だって、こいつら自分の事しか考えてないもん。
そんな奴らが困窮した途端に慶喜批判w
慶喜にしてみたら「働かざるもの喰うべからず・・・なにか?」という感じでしょw
実際に慶喜の公爵叙勲は旧側近で当時宮内省にいた香川敬三が尽力した。
また慶喜自身も側近で暗殺された原市之進の墓には何度か参詣したというので、
慶喜が全く家臣達に人望が無く、また家臣達に思いやりが無いというわけでもない。
766 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 18:07:22 ID:yUcuSE8Z0
>>765 側近は別だと思うが 大多数の家臣たちには思いやりがないように
思わせ、人望を無くそうとわざとしてたんでないのか?
自分を担いだりしないように。あるいは「江戸時代のほうがよかった」、
と明治政府に反抗しないように。
767 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 19:01:19 ID:1SG6HA5U0
>>766 そう言い切れるだけの史料が無いなぁ
ただ、慶喜は新政府の評論を一切しないし、幕末の話しもせずに暮らしたという話しだが。
彼自身、迂闊な事を言って反政府活動に利用されないようにしていたっぽいね。
768 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 19:10:53 ID:yUcuSE8Z0
>>767 以前NHKで松平定知が司会してる番組で
慶喜が反感を買うような贅沢を見せびらかしている時期は
西南戦争とか自由民権運動で反政府の盛り上がっている時期
に一致している、とやっていた。
769 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 21:09:10 ID:1SG6HA5U0
いやぁ〜状況的にそうだったのかもしれないけど、
本人がそう言ったとか日記にそうした目的でやったと書かれた史料でないと証明できないでしょう?
実証できなければ、説として語る事はできても事実と認定するところまで行かないんじゃないかな。
770 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 23:07:36 ID:k2u67+070
そうだね。歴史も科学だから、実証できないことはすべて「かもしれない」
になるよね
贅沢していたかどうか知らないが、この明治20年代という時期は、東京に戻り
たい慶喜を勝が説教したらしいことが記録に残っている
771 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 23:43:51 ID:yUcuSE8Z0
>>769 770
旧幕臣が静岡で茶を作りそれを慶喜に献上しよう
としたさいに冷たく追い返したり、とわざと嫌われるように
していた と松平が司会してた番組ではいっていた。
772 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 00:03:44 ID:BZtKPhdY0
決して意地悪で言ってるわけじゃあないんですが、
そういう行為をした、という事実があっても、それがどんな思惑だったかは
769さんの言うように、日記等記録にないと、本当に憶測になっちゃうもんです
これは現代でもそうですよね
松平さん、つまりNHKが慶喜のそういった史料を踏まえているのか
(もっと言えば、こういった番組は専門家に色々聞いて、その説を松平さんが
代弁している)どうかは不明なので、
なんともいえませんが
そして当事者の証言も、上の方にあるように、時間が経てば経つほど記憶違い
や装飾が紛れ込んできて、
はて何をどこまで信ずればよいやら
というのが歴史のややこしさであり、また面白さですよね
773 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 00:06:40 ID:OxmUeP6Y0
巨人の原の心境かな。
774 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 00:48:48 ID:EYJ+RVuM0
>>772 そういうことをいうと証拠隠滅したものが勝利ということになるが。
768や771のような状況証拠(NHKのアーカイブスにでも行ってね)
はあるわけだから。
775 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 01:31:15 ID:8iSNguVL0
いや、まさにその通りで。
ある出来事があったか、なかったかの証明ならまだしも
その時当事者たちがどのような心理だったかというのは、これは歴史であると
現在の事件であるとにかかわらず難しい、というか不可能に近い。
裁判でも結構もめるでしょ
そして新しい証言や証拠が出るとひっくり返されることもままありますでしょ
決して批判しているんじゃあないんですよ
これまでこのスレで語られた多くも、同じことですからね
ただ荒れる、とはいかないまでも結構堂々巡りしているから
誰が正しい、というのでもなく、これが決定ともいえないと
まあ、それを言いたいわけで
私もこの時期の慶喜はそのポジションからそのような行動をとらざるを得なかった
と思ってます
776 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 01:48:39 ID:EYJ+RVuM0
本人の心境はわからなくても本人がどう行動していたかは
引きこもってなければわかるが。
お茶を献上しようとしたのを(本人が出なくても
使用人に受け取らせることはできたし、自転車で遊ぶのも
他から見えるようにやっていたわけだし)
777 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 01:55:53 ID:8iSNguVL0
だからそのように772で言うとりますがな(つд`)
769さんも「状況はそうだが、目的はわからないんじゃない?」
と書いていらっしゃる
よく読んでね
>>752 それはちょっと極論じゃないだろうか。
状況でいえば、蛤御門からの長州の情勢のがよっぽど絶望的だった訳で。
薩摩も……薩摩も…………上手くやってんな薩摩w
779 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 04:57:59 ID:k67BfCSVO
牧之原開拓士族はちゃんと慶喜にお茶を届けているよ、それとその他旧幕臣もよく慶喜に挨拶に来たり土産物を送ってる。
冷たく追い返したなんて記録は無い。
詳しくは慶喜家の日記を訳した前田匡一郎編著「慶喜邸を訪れた人々」(羽衣出版)を見てくれ
いやぁ凄く読みごたえのある面白いスレだ
新選組や会津の愚直さも慶喜さんの解りにくい達観度合いも
同じくらい好きな自分には一寸肩身が狭い気もするけどw
資料も色々呈示されてて、浅学な身には非常に有り難いです
図書館で資料あさる参考にさせて頂きます。
781 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 10:02:52 ID:u2xeT7AMO
となると、松平さん(というよりNHK)は何を 根拠にした誰の説を取り上げたか、だな
そこをはっきり示してくれないと
前も揉めたんだよ、あの番組は
勝手に人の説を取り上げてね
松平さんの罪じゃあ、ないんだけどね
782 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 13:16:22 ID:8iSNguVL0
>>774 NHKのアーカイブスに行くのはいいが(というよりNHKが何を根拠に番組
作成したか、出演者だけでなく協力者等もテロップで出るから、是非見たいの
だが)、
どの番組のどの回を見ればいいのか教えてくれなきゃあ、とてもじゃないけど
見れないよ
779さんのようにソースを明記するのが礼儀だよ
大将が討たれたらそれまで
大将が逃げるのは当然でしょ?
後の日本軍もやったこと
784 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 16:46:11 ID:u2xeT7AMO
確かにそうだが、じゃあその旨をきちんと伝えないとね
「明日は出陣する」と言いながら脱出したからね
まあ、確かに朝廷に上奏したり、尾越に後を託したりはしたよ
しかし眼前のものたちを騙したのも確か
慶喜は事前の根回しというか人間のつながりをつくるのが下手なんだな
詳しくは河合重子『謎とき徳川慶喜−−なぜ大坂城を脱出したか』を読め
そして頭を冷やせ
ここのスレでは慶喜を吊し上げてる訳ではない
785 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 17:13:41 ID:k67BfCSVO
私も河合氏の本読んだが、
味方を騙す形で脱出したのは逆にそうまでしなければ慶喜を監禁してでも強引に戦い続ける可能性もあったからじゃないかな。
現に会津藩は慶喜の江戸帰還を聴いてそれを阻止する行為に出たと河合氏の本に書いてある。
>>779 でも家近良樹氏「その後の慶喜」の中で、慶喜は旧幕臣との面会は極力避けてたとあるぞ?
天皇への謁見もしばらくは断ってたし。
勝に表に出るなと釘をさされていたみたいだが。
松平さんの言葉もどっから来てるのか知らんが、幕臣に冷たかったのは慶喜が明治天皇と会い、功績を認められる前後の違いじゃないのか?
あと勝の死去した後
西南戦争に関して慶喜の心境をはっきりと示す史料がないのは当然。渋沢が時勢について聞いても一切言わない人だし。
ただ血気盛んな旧幕臣との面会を避けたのは明治の始めの彼の特徴。
788 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 17:47:21 ID:k67BfCSVO
だから実際に「慶喜邸を訪れた人々」を読んでみればいいじゃない。
確かに直接慶喜に会った記録はそのことも書いてあるし、明治20年ごろに徳川家達が久しぶりに静岡へ訪れた時は公の場にも姿を表している。
慶喜邸は会う会わない関わらず頻繁に旧幕臣達が慶喜に挨拶に来る場所だったのさ、
元将軍と言う肩書きが重いため政治的に絡むと疑われる行動は慎み、気軽に誰とでも会うわけにはいかなかったである。
>>788 でも断った人物もいるのは紛れもない事実。天皇への謁見を断ったのも事実。
自分が言いたいのは、慶喜の心境を示す史料がないのは彼の性格からして当然であり、
血気盛んな幕臣との面会を一部断っていたのも事実であるということ。
よって西南戦争における松平さんの意見は必ずしも否定できないということだ。
790 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 18:00:07 ID:Kg4jBPDQ0
本と言えば、★や早乙女は会津キチガイの慶喜アンチのくせに
(「偽りの明治維新」では、慶喜を「幕府を滅ぼす為に将軍になったような男」と書いてた)
大河ドラマ「徳川慶喜」の放送開始の前後には慶喜本を書いてやがる。
サイッテーだな!
791 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 19:35:12 ID:k67BfCSVO
仮に慶喜が鳥羽伏見の戦いで撤退命令を出したとする。
その場合、皆素直に「はい、そうですか」とって言うこと聴くだろうか?
そもそも鳥羽伏見の戦い直前には止めようなら慶喜を殺しかねない勢いだったという。
出陣命令の後脱出
ありえない
不可解な行動
と評されるが、私には現場の状況を考えると十分にありえる行動であると思う。
鳥羽伏見の直前、慶喜は二条城を出る際に水戸藩を残し家老の大場に自らの太刀を与えている。
大場以下水戸藩の面々は感激し、残った水戸藩は二条城に入ろうとする幕府人士を締め出した。
その大場一真斎は新選組!では近藤に「お手前がたは何をした!」とほざかれ、
土方に「命のやりとりの仕方が知りたければ、教えて差し上げますよ」などという
ふざけきった台詞を吐かれてたな。
武田耕雲斎の盟友・大場は新選組の若造なんかより、ずっと辛い目にあってきたのに……
もちろん慶喜の描かれ方も最悪だったあのドラマは。
794 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/10(火) 13:03:41 ID:zJrOAGTgO
まあ大河「ドラマ」ですから
あまり目くじら立てても
何も知らない人に影響力があるから困るんだよ…
大河はさ。
796 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/11(水) 08:35:59 ID:rIXgsDOn0
慶喜アンチはかなりの高率で新選組信者・会津信者と被ってると思うんだけど
「部下を置いて逃げるなんてひどい!
「維新後困窮する元家臣を尻目に悠々自適なんてサイテー!」
なーんてご立派なことを言いながら
言いがかりのような理由で仲間や部下を殺しまくり、あげくに油小路なんていう
ゲス過ぎる事件を引き起こした近藤・土方や
神保修理の切腹をかわぎりに、拙劣な対応で女子供含む藩士4500人を戦死させ
会津の土地と人民を蹂躙しておきながら自分は無傷で生き延び、
維新後側室抱えて10人近い子供を作った容保をマンセーするのは不思議すぎる。
結局ダイスキな新選組や容保公には言い対応をしなかったから嫌いなんであって、
長年幕府のために粉骨砕身してきたことや、大政奉還と恭順で無血政権委譲ことなんて
どうでもいいってかんじだよね。
恥知らずのダブスタ人間どものことなんかどうでも良いんだが、それが幕末ファンの意識に大きな影響を
与えまくってるから困るよ。
と、自分の好きな人物を批判しているやつらはみんな酷い連中、と思い込むのも迷惑幕末ファンの特徴w
798 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/11(水) 12:27:19 ID:CCz1oQVqO
慶喜を批判しているのは、もっと広範囲に及びますよ
あなたのおっしゃるような「信者」が見当違いの事を言うのは、放っておけばよろしい
毀誉相半ばする人物ですから、きちんとした批判には目を通し、聞く耳もたなければ
それこそあなた「信者」ですよ
799 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/11(水) 13:28:52 ID:rIXgsDOn0
そうですね
本当は、戦争に関する慶喜の事績でいちばん責められるべきは鳥羽伏見で逃げたことではなく、
(逃げたせいで犠牲者が増えたわけではなくむしろその反対)
長州戦争を長引かせて死傷者を出したことだと思います。
でもそれにしたって、要衝がおとされたと見るや批判もメンツを失うことも恐れず
あっという間に出陣停止を決めたというのはそれなりに立派ではないかと思うのですが……
歯抜けの青びょうたんを支持する腐女子も忘れてもらっては困るな。