日本国憲法の本質について

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1名無しさん@お腹いっぱい。
 
 日本人はいまだ、この憲法の本質がユダヤ的思考の所産であることを全くご存知ないように思われる。
これは不幸なことである。この憲法の本質を知るには、ユダヤ問題をもたない日本人にはあまりに距離がありすぎるのかも知れない。
これはどうしてもユダヤ人が本質解明の道案内をしなければ、
日本人は永遠にこの憲法のもつ強烈な宗教的呪縛力の桎梏のもとにあえぐことになるかも知れない。
一ユダヤ人として、そうとあらば、このまま放置しておくにはあまりにも重大な責任を負わされているような気がする。

 何故なら、この憲法の作者はユダヤ人であり、
そこに貫かれているものは第二次大戦終結時ではすでに極めて時代錯誤的なユダヤ思想だったのだ。
いや、単に時代錯誤にとどまらないかも知れない。
そこにもっと致命的な我々ユダヤ人の犯した誤ちがあったのだった。

2名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/05(木) 06:35:49 ID:51b28JKK0
日本では最近とみに識者の間で、
今日の日本はワイマール体制末期のドイツに酷似しているのではないか、といわれているようである。
これは真に興味深いことであると思う。
(1919年から1933年までのドイツ共和国を「ワイマール共和国」と呼ぶ。)

 この原因は、ワイマール憲法と日本国憲法の類似性にあると思う。
というより、日本国憲法はワイマール憲法の丸写し──しかもかなりずさん──であるといった方が正確であろう。

ワイマール体制の支柱となったワイマール憲法は、
ご存知の通り、ユダヤ人で内相も務めたフーゴ・プロイス以下3名のユダヤ人によって作られたものである。

 


フーゴ・プロイス(ユダヤ人)。
ドイツの国法学者・政治家。
ワイマール憲法を起草。

 

また日本国憲法はこれもご存知の通り、
ユダヤ人ケーディスを中心としたGHQのニューディーラーによってわずか「2週間」という短日時に作られたものである。

 

3名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/05(木) 06:37:23 ID:51b28JKK0
このワイマール憲法の作者ユダヤ人プロイス以下のユダヤ賢哲達は、
教条主義に陥っていたといわねばならない。
ワイマール憲法の最大の目的はユダヤ人にとって自己の中世以来の差別を撤廃し、
平等権を確立することであった。
この点は、以下に見る如く全てにわたって成功している。
プロイスはそのへんまでで止めておけばよかったのである。
とにもかくにも、ドイツ国民と平等な権利を獲得したのだから。



4名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/05(木) 06:39:30 ID:51b28JKK0
ワイマール憲法と日本国憲法は、
そのイデオロギー性については全くといっていいほど同じものである。
しかるにただ一点、ワイマール憲法下のドイツと日本国憲法下の戦後日本とでは根本的に異なる点がある。
それは、ワイマール憲法下のドイツは直接ユダヤ勢力が君臨するものであったということである。
日本にはユダヤ人は存在しない。ワイマール体制というのは、少数民族たるユダヤ人が権力を初めて握った時代であるということである。

一方、戦後日本では一時期占領軍(これを事実上支配していたのはユダヤ勢力──もっとはっきりいえばニューディール派)というものがオールマイティであったが、
これは日本国内に永久に存在する勢力ではない、いわば国際的ユダヤ勢力である。
占領が終われば、引き上げざるを得ない。そこにケーディス以下の焦慮があったわけである。

だが現実には自分達は引き揚げても、己のエピゴーネンを養成して残していった。
それが日本共産党である。このエピゴーネンは真に忠実に主人のために働き、戦後30余年たった今日でも
ケーディスの心配を吹き飛ばすかの如く日本国憲法には一指だに触れさせていないのである。

5名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/05(木) 06:41:52 ID:51b28JKK0
マルクス主義についてもそうだが、この日本国憲法についても、
すべてを疑ってかからないと永久に迷宮入りになるだろう。
左翼陣営はマルクス主義の宗教的呪縛力でがんじがらめにされているのであるから別であるが、
醒めた正しい考えをもった人々まで、この日本国憲法に関しては
そこに何か動かし難い真理が蔵されているかの如く錯覚しているように私には見受けられる。

その原因を私は考えてみた。
そして発見した結論は、この憲法の中に「理想」を具現化した要素が多分に混入されているということである。
誤解してもらっては困るが、ここでいう「理想」とは「現実的でない」という意味である。
この「理想」が日本人の判断を狂わせているのだと思う。

この「理想」とは夢にすぎないものであるが、
しかし終戦直後の精神的虚妄状態にあった日本人に、この夢にすぎないものまでがかえって感謝されたのかも知れない。
しかし、これは本質的には大衆デマゴギーなのである。
大衆心理を考えると、この「理想」が「非現実的」なものであってもこれを批判することはできないのだろう。
またそうさせているのが「民主主義」というものの悪弊であろうと思う。
あるいは日本の良識ある人々でさえも自らこれを理想的なもの、最も高尚なものと知らず知らずに信じ込んでしまったのだろうか。

私がここで言いたいのは、
何よりも先ず日本人はこの憲法を疑ってかからなければならないということである。
従来まで見てきた角度を捨て、逆の角度からこれをもう一度観察することである。