1 :
さすらい:
江藤フリーク集まれ!!!
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/06(火) 18:50:55 ID:HW+e4I6C0
2get
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/06(火) 19:02:17 ID:tfRVB7m90
「名前なんてどうでもいい。ニイヒラとよんでくれ。」
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/06(火) 20:28:40 ID:aubDYdvy0
江藤胤雄は佐賀の乱の首謀者。島義勇と共に、さらし首になってしまった。
大久保が・・・
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/07(水) 10:10:13 ID:gZZx59xg0
大久保利通は、内務省の自分の部屋に江藤のさらし首の写真を飾っていた。
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/11(日) 17:10:09 ID:I/JV/NUT0
ほんまかいな?
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/11(日) 18:12:39 ID:55m/jP6v0
ホンマですよ!
大久保の日記にもかなりヒドイ江藤の悪口が書かれていたよーな。
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/12/11(日) 21:10:52 ID:HGig1QCK0
>>9 本当です。しかし裏を返せば江藤が怖かったかも???
生首写真怖いお
12 :
平成天誅党:2006/01/07(土) 07:14:18 ID:HcmxfyXs0
江藤新平さん。いいぜ。
不器用なところがいい!世渡り下手なまま
死んでいったぜ!かっこいいぜ!
(言うまでもなく大久保利通は大嫌いじゃ。)
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/12(木) 18:01:24 ID:KekOPNDm0
江藤は素晴らしい人物である、高俊はたいしたじんぶつでない!!!!
確か伸介の凸凹大学校で
面白い絵描いてた人。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/07(火) 15:29:50 ID:loz1pzpx0
江藤新平さんの欧州視察が実現してたらなあ。
逸材だったのに。
惜しいなあ。もっと司法関係で活躍できたろうに。
大久保のワナにはまってあんな死に方することも
なかったろうに。
もっと顕彰されていいよ。新平さん。
「ただ皇天皇土の我が心を知るあるのみ!」
たねお よりは しんぺい のほうがかっこいいな
17 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/09(木) 22:50:43 ID:J2ZU7bd60
自分が作った刑法で処刑される気持ちはどうなんだろう!
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/10(金) 00:54:15 ID:bi2vy4AB0
大久保は日記でわざわざ「江東」と誤記してるよね。
江藤は日本を法治国家にすることを目指したが、
大久保がまともな裁判もやらずに、人治主義で処刑したわけだ。
法治国家としてまともな裁判をしていたら
政治犯なんだから処刑になんぞなるわけがない。
>>15 確かに江藤の先見性には目を見張るものがある。
しかし、江藤は薩長への憎悪というのか、ひがみ根性に引きずられすぎ。
法治を持ち出したのも、薩長を掣肘する道具として使った面も大きかったのでは?
本当は、江藤のような官僚・学者タイプが欧米に行って、
大久保のような権勢政治家は日本にとどまって国内を固めるべきだった。
しかし、実際は逆になった。
大久保は、日本をどこへ導くべきかを自分の目で確かめるため、
国内の勢力を失う危険を知りつつ、自ら欧米へ行ってしまった。
逆に、江藤は、大久保の居ぬ間に薩長の勢力削減をもくろむため、
日本に残ることを選んだのだろう。
あえて言えば、決定的な瞬間に、
大久保は公を選び、江藤は私を選んでしまったのではないか。
大久保と江藤のどっちが日本に必要だったかと言えば、大久保でしょ。
江藤がまいた法治への種は、ちゃんと育ったわけだし、江藤の仕事は終わってたのかも。
大久保の右腕になっていれば、最強のコンビだったろうにね・・・。
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/10(金) 23:06:49 ID:sx3/+9Gy0
そうだね。新平さんは「私」を選んだのかもしれない。
地元の仲間に引きずられて決起してしまったし。
生まれてくる時期が早すぎたのかもね。もう少し
後の時代なら活躍できたかも。
「大久保の右腕になっていれば・・・」うまく大久保と
組めてれば確かに最強コンビだったろうね。あの2人は
どこか似ているがゆえ、相手の考えが読めてしまって
反発しあったんだと思うよ。
もったいないなあ。組めてれば歴史も違ったものに
なっただろうにね。
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/18(土) 07:26:54 ID:dNIIaSJB0
悪口だけど。
大久保利通の悪口。たまにはいいでしょ。
「江藤新平の生首写真を自分のオフィスの壁に飾った」
変質者。政治家としての資質を疑う。しかも、この件で部下に怒られた
らしいじゃないか。上司としての権威なし。
暗殺される時、暗殺チームの証言では、大久保は「金か?」とか、
「何を欲しいのか?」というようなことを口走ったらしい。
「刺される前に泰然としてコートのほこりをはらった」ウソ!
これは後世の作り話。実際は刀を見て慌てたらしい。
まあ、「天罰」と言っていいでしょう。
(死者を悪く言うのはこの辺でやめておこう。)
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/20(月) 17:30:31 ID:6jGBfpdJ0
俺、大久保も好きだが近代法治国家を作り上げようとした江藤も好き。
両方とも各々魅力があって好きなんだよなあ。
23 :
民族派見習青年:2006/02/25(土) 00:24:34 ID:7CE1JdjF0
政治思想板から参りました。
ここのスレの住人の方は、江藤新司法卿の御曾孫らしい方が、焼身自殺された
ということは御存知でしょうか?
『芸術の上では百万人の人を殺しても、ただ紙の上で殺すにすぎないのに、一たん現実の行為に入
ると、百万人の殺人は歴史上ぬぐいがたい罪になるのである。すなわち、芸術はどこまでいっても無
責任の体系であるのに、政治行為はまず責任から出発しなければならない。そして政治行為は、あ
くまで結果責任によって評価されるから、たとえ動機が私利私欲であっても、結果がすばらしければ、
政治家として許される。また、動機がいかに純粋であっても、結果が見るもおそろしいものになった場
合に、その責任はみずからが取らなければならない。
現在の政治的状況は、芸術の無責任さを政治へ導入し、人生すべてがフィクションに化し、社会す
べてが劇場に化し、民衆すべてがテレビの観客に化し、その上で行なわれることが最終的には芸術
の政治化であって、真のファクトの厳粛さ、責任の厳粛さに到達しないというところにあると言えよう。
東大安田城攻防戦は、大ぜいの観客を集め、人々はテレビドラマに飽きた目をブラウン管に向けて、
時の移るのを忘れた。あるイギリス人のことばによれば、それは巨大なシアターであった。そこに登
場する俳優は遺書を書き、「かっこよく散るぞ」という落書をして、あたかも死のポーズを見せたが、一
人として死ぬ者はなく、手をあげて全員逮捕された。そしてその一幕は終ってしまい、人々はまたそ
の芝居を忘れて、日常の生活へ帰っていった。
しばらくして、二月十一日の建国記念日に、一人の青年がテレビの前でもなく、観客の前でもなく、
暗い工場場の陰で焼身自殺した。そこには、実に厳粛なファクトがあり、責任があった。芸術がどうし
ても及ばないものは、この焼身自殺のような政治行為であって、またここに至らない政治行為である
ならば、芸術はどこまでも自分の自立性と権威を誇っていることができるのである。私は、この焼身自
殺した江藤小三郎青年の「本気」というものに、夢あるいは芸術としての政治に対する最も強烈な批
評を読んだ一人である。 』
三島由紀夫著『若きサムライのために』(文春文庫)P21より
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/07(火) 11:21:32 ID:oQBDD16e0
そうですか・・・。
まあ、お教えいただきありがとう。
ところで、確か江藤新平には実子はいなかったはず。
妾との間に、女児が生まれるも夭折しているし。
参考までに・・・。
40万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾
『嫌韓流2』発売中
意外とおもしれーぞ
27 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/13(月) 20:59:35 ID:3nEwbETK0
「佐賀の乱」と「西南戦争」。江藤と西郷が
申し合わせて同時に戦争おこしてれば
歴史は違ったものになったかもね。佐賀軍は最後
には敗北しただろうけど、はじめは福岡から久留米
あたりで官軍を釘付け、その間に西郷軍が北上して官軍を
撃破して九州制圧ののち、東京へ向かって東上。
あの大久保利通は大慌て。大阪あたりで西郷率いる士族連合軍
と官軍が決戦とかね。その中には江藤新平の姿も。
結局は負けたかもしれないけど。
激しい銃砲撃の中、自刃する江藤新平。そして西郷隆盛。
なんてね。
井上馨をいてこましたのが好きっ!
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/16(木) 20:40:10 ID:8hDm9p540
最凶ツンデレ
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/26(日) 13:13:29 ID:bHFcOegr0
秀才だけど人を糾弾しまくって恨みを買うタイプかね。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/27(月) 01:25:56 ID:oyXjhYuR0
最近出ている、「日本を変えた44人の改革者」って本に江藤新平が書かれてるね。
法制改革や規制緩和が遅々として進まない今の日本に一番欲しい政治家だ。
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/27(月) 12:07:28 ID:zZJ4HTCW0
靖国神社には合祀されてはいませんが
佐賀県護国神社には合祀されております
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/27(月) 12:30:05 ID:rVZnuJkX0
新撰組の永倉新八きょう首の写真持ち歩いていたらしい。出てこ内かなぁ早く!
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/30(木) 13:53:45 ID:p4MqlfvL0
江藤新平司法卿。朝臣。なるも、賊名を着せられ刑死・・。
今の時代じゃ出ない人だね。こんなドラマチックな人は出ないね。
・・・
江藤新平は今頃あの世から現世を見下ろして何を思っているだろう?
インターネットの掲示板に自分のスレがある。
現世人が何人か勝手に意見を書き込んでいる。
あきれてるか。笑ってるか・・・。
どうだろう?
江藤もどってこんかい、と叫んでみる
36 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/30(木) 22:58:15 ID:RPv4Pq7H0
巨人ファンに間違われるのが関の山
極貧武家に生まれ
↓
藩の小役人
↓
脱藩浪人
↓
藩に戻って永久自宅謹慎罪
↓
こっそり志士活動
↓
藩主勅命で特使として上京
↓
朝廷の小役人
↓
国家の大臣
↓
辞職して一般人
↓
反乱軍の首魁
↓
首
藩の罪人から首になるまでがたったの8年間というの人物が他にいるか?
江藤醜態笑止也
身から出た錆
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/32(土) 23:19:48 ID:wOe4O62W0
鯖
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/02(日) 03:55:03 ID:1eAXajTcO
大久保は藩閥には拘わらなかったのでは?
しかし、後継の伊藤と井上は…
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/02(日) 04:02:33 ID:PBvUncip0
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/04(火) 01:12:16 ID:gjo3cocL0
江藤新平は全国各地の書生を全収入を投じて抱え込み、
勉強や学校の世話をしていたから、自らは粗末な衣服を着て、
書生には栄養のある洋食を食べさせていた。
普通に立派なことだと思うが、これをただ、
粗末な衣服を着続けていたことのみを取り上げて、
「ケチ」と一言で片付けている人々が当時も現代もいることは、
非常に残念なことだなあ。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/04(火) 01:16:22 ID:fTRSge6VO
>>43同感ですね。彼の行動はなかなか真似できるものじゃないしね。
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/06(木) 21:42:07 ID:XQvPNSMI0
我輩も同感。
江戸で江藤は、自分を暗殺しにきた男が江藤と出会えずヤケをおこして
隣家の屋根の上で寝ているのを見て、なんと自邸に招き入れて、その男
の話を聞いてやったとか。男は江藤を目の前にして、もはや刺せなかった
とか。
江藤新平。案外、包容力のある人だったのかもしれないね。
46 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/06(木) 22:14:25 ID:xoQmJCIr0
大久保は江藤の才能が怖かったから、裁判ともいえないような裁判を
やって無理矢理処刑。さらし首。
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/07(金) 00:35:27 ID:V7AsBeLC0
福島安正は、江藤家の書生時代に新平さんに徹夜で看病され、
司法省役人に推挙してもらった恩を忘れず、
江藤死後は自宅の神棚に霊を祀り、
67歳で死ぬ前年まで佐賀の江藤の墓まで墓参りを続けていた。
福島安正の義理堅さもすばらしいが、江藤新平以外に、
明治の政治家でここまでされた人物がいるだろうか。
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/09(日) 15:09:02 ID:DdwJlfOr0
おりませぬ。とかく政治家は「大局で見る」などと言い、発熱した書生など、
ほったらかすのが常でしょう。
「在野時代の志は、政庁に入るとすぐ消える。」といいますが、江藤は常に、
在野時代を忘れず、草莽の人であり続けたといえるでしょう。
49 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/09(日) 15:12:17 ID:DdwJlfOr0
47殿にうかがいます。
福島安正という人物は、たしかシベリア横断か南極横断かを
なした方ではありませんか?
当方、恥ずかしながら不勉強なので・・・
教えてください。
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/09(日) 15:28:23 ID:mlQNzwQv0
なんかこのスレの書き込みの典拠は『歳月』ばかりだな。
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/09(日) 18:45:18 ID:5+OnAN+q0
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/12(水) 22:31:05 ID:mKEgddsh0
「人権の父」江藤新平を題材に歌製作
小城市の作曲家、山崎剛昭さん(63)と唐津市の歌手池田輝男さん(53)が、旧佐賀藩
出身で「日本の人権の父」江藤新平を題材にした曲を制作した。14日、佐賀市の神野公園
である「江藤新平銅像まつり」で披露する。佐賀新聞社を訪れた2人は「歌を通じて、江藤
の偉大さを伝えていきたい」と話した。
タイトルは「人権の父 あゝ江藤新平」(キングレコード)。山崎さんが、江藤の「人間はみ
な平等」という考え方に共感し、制作を決心。作詞は東京都在住の長内譲さんが手掛けた。
同曲はスケールの大きなメロディーが特徴。1番と2番の間にある詩吟は、佐賀の乱で
倒れた江藤の短い生涯を惜しむ内容で、山崎さんは「曲名にもある『あゝ』に自分の思いを
込めた」と言う。池田さんは「郷土の偉人の曲に身の引き締まる思い。全力で歌いたい」と
力強く語った。
「人権の父−」はカセットテープで定価1200百円。問い合わせは池田音楽事務所。また
は佐賀市の仁位次治さんへ。
04月12日
http://www.saga-s.co.jp/
男子須く巌頭に悍馬を立たしめよ
って好きな言葉だったんだが、某政治家が座右の銘にしてるらしいんで、
なんだかなあ…
人智は空腹より出づる
脳の神経ネットワークの構築は、空腹時の方が活発化するというのが
最近分かったと、この間、何かのTV番組で言っていた。
55 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/28(金) 11:50:09 ID:2ru8xLSk0
佐賀に行ったとき、江藤が処刑された場所にいってみた。
佐賀気象台付近。
あたりの道路で、江藤が刑場に連れて行かれる時、
一緒に決起した島義勇のことを役人にきいた話を思い出して、
そのシーンを想像した。
「島はどうなったか。」
「すでに斬った。」
「ああ、天というものはあるものか・・・。」
江藤が斬られた場所をながめて、その地面に何か
悔しさの情念のようなものが滲みているを感じた。
徳政の人って出てた。夥しい流血の犠牲の成果が戮賊の巣窟では驚嘆と落胆に映るんだろね。権力者たる責任の在り方はこの人を手本としてるのかも。
>>55 おどろいた。謀反をおこして打ち首獄門にされようとしているのに、
罪を悔いるどころか悪逆仲間の身を案ずるとは。
しかも「ああ、天というものはあるものか・・・。」とは・・・。
絶句。お前がそれをいうかよ。
天というものがあるからこそお前は生首にされるんだろうがw
>57
わかりやすい釣りだな。w
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/13(土) 23:07:56 ID:RH92gaRU0
自分で自分をフォローすんなよw
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/14(日) 11:44:43 ID:ewHGHGhF0
明治六年政変は、江藤追放のために大久保・伊藤が策動したもの
これ定説
江藤って自分の整備した法律で逮捕されちゃったということで
中国古代の商鞅とキャラ被るみたいな言い方されてると思うが
「江藤は頭は良いが法律万能主義で徳のない商鞅みたいな奴だ」みたいな文脈で
江藤のイメージダウンのために言われ始めたのかなと思ったりもする
江藤が捕まって、佐賀城で判決を受け執行されたとき、
それを指図した大久保には、江藤を裁く権限は全くなかった。
もちろん、佐賀へ向かったときは全権を持っていたが、
江藤下向に合わせるように、高慢で有名な岩村県令任命、
反乱が起こる前の鎮台出動指令。
同じく反乱が起こる前の大久保の佐賀下向準備
岩村県令の佐賀士族への度重なる挑発で士族暴発、佐賀城占拠。
戦線消滅後も佐賀に大久保自らが居続け。
確か、ここらで江藤の命を危惧した、三条、岩倉、木戸、副島らが、
大久保の全権を解いて、江藤が東京へ護送されたときの除名嘆願準備を始める。
江藤捕縛の際、東京高等裁判所へ送られるべきところが、
大久保が待ち構える佐賀へ護送。
政府は、江藤、島を、殺さず東京へ護送せよという命令を発信。
大久保は政府からの使者との面会を拒否。親書受け取りも拒否。
公判を行わず打ち首判決。
そりゃ「天というものはあるものか。」と言いたくなるな。
漢字多いけどごめん。
佐賀の乱で敗れた後、何故長崎から上海辺りにでも渡って、政治亡命しなかったのだろうか?
別人と記憶違いかも知れないけど、確か、
清国にまで密偵が出されていたんじゃなかったかな。
江藤としては亡命よりも、最高裁判所で事の始終を話し、
大久保の謀略で反乱が勃発したことを訴えたかったらしいことは、
山中や香月ら付き人に語っていることから明らか。
江藤本人はそのときに、反乱に加わった士族の助命嘆願を、
首謀者とされた自分と島を死罪にすることで申し出ようとしていたそうな。
せっかく山県と井上を追放したのになあ。
西郷のアホめが
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/27(土) 04:10:58 ID:mbKDYo7a0
ドナルドキーンの明治天皇という本にも江藤について
なんで近代法律や自由民権運動の先駆者であるはずの聡明な人物が
こんな破滅的な封建主義の残滓みたいな連中と交わってしまったのか・・・・
みたいな疑問を書いていたな。
ここらへんが明治時代の最大の謎なんだよな。
なぜ先進的な自由民権運動と古くさい身分制にこだわる守旧の不平士族は表裏一体になっているのか。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/27(土) 04:45:58 ID:+uSrF2H+0
法治国家の礎を築いた人が
人治主義によって斬罪に処されたのは皮肉だね。
自由民権運動の中核は維新によって利得権益を失った者(士族から非人まで)じゃないの。
敵の敵は味方、呉越同舟、現体制を攻撃できるならなんでもよい。それだけよ。
左派から右派までいる民主党が良い例。
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/27(土) 05:51:45 ID:Hm+N9K6dO
顔が変だから腐女子の魔手がのびてないね
>>71 どうも腐女子くさいね。
ホモを描いてないだけマシか。
原敬萌え、原敬イラスト満載のページがあったな。
管理人は男
世間は広い
歳月を読んでいたら、西郷×江藤で妄想できるじゃんと思った。
最後の一夜など腐が好みそうなシーンだ。
しかしどっちもブサメンなので腐女子は食指を動かさない。いいことだ。
リアルホモには受けそうな造詣なんだが。
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/28(日) 02:05:32 ID:HUU3Kz620
沖田総司はどうなるのかと。。。。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/02(金) 23:32:00 ID:4FjbLtMu0
ホモの話するなよ。まあ、西郷は経験あったかもしれんが。薩摩には男色の風習
あったらしいからね。
しかし佐賀は土地柄からして、男色家は即座に斬られたと思うよ。
つ 忍ぶ恋
江藤の弟の子供か孫が本出してた希ガス。
あの話のラストでは大久保が馬車越しで見た江藤弟を
江藤本人だと思ってガクブルしたらしいけど本当かな…
>79
江藤新平の弟源作の長男源九郎の娘、鈴木鶴子さんの書いた本だな。
大久保は、その翌日から、わざわざ人気の少ない道を遠回りして
通勤するようになったのは事実であり、理由不明で謎とされている。
佐賀の乱以降は江藤家はどうもついてない。
82 :
79:2006/06/06(火) 13:02:45 ID:cdwn+rPS0
>81
作者は女性で江藤の血縁の人だったから多分>80氏のだと思う。
でも、他でもよくあるよねこの逸話。やっぱ、意識してたんかな。
暗黒裁判といい、「江東」といい大久保らしからぬ粘着さを感じる。
大久保は江藤に対してだけじゃなく、普通に政敵に対しては粘着だったと思うが・・・・。
ただ、歴史の勝者側の中心人物であるが為に、ネガティブに書かれてないだけ。
粘着=執念深い=信念が強いは、見方を変えれば根底では同じ意味。
大久保が江藤並もしくはそれ以上にボロクソ書いてるのあったっけ?教えてエロイ人
江藤の末路はアレだけど、もうちょっと評価されてもいいと思う。
大久保の事はまだボロクソには書けないだろぉ〜。
政財界の中心に大久保の曾孫世代が大量にいるしなぁ。
ただ最近、明治六年の政変の事は、大久保を中心とした外遊組と長州閥の、
法を無視したゴリ押しの政権奪回クーデターだと書かれているものが多い。
86 :
84:2006/06/09(金) 22:18:12 ID:Y6vfZEiGO
書き方が悪くてスマソ。
大久保が貶めている人は江藤以外にいるかと聞きたかったんだorz
いないだろ。
江藤以外は事前事後、共に何も言わずに殺してるよ。w
大久保が江藤を殺したことを満足気に語ったり物証を残してるのは江藤だけじゃない?
憎悪か嫉妬か何にしても普通じゃないな。
大久保以外の当時の大物は全員が江藤の助命行動を起こしてるから、
やっぱ嫉妬かなあ。w
生首写真持ち歩いてたりとか>大久保
木戸ですら助命嘆願をしてるのに大久保ときたら…
ガクガク(((( ;゚Д゚))))ブルブル
89 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/10(土) 15:46:39 ID:8BUjIIrl0
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/12(月) 21:18:06 ID:6FgLPxMe0
>21、89
自分が聞いた話では「無礼者!」って一喝したとかあったけど。
まあ、どちらにせよ真相はテロリスト達と大久保しか知らんだろう。
…こう言ったら源作氏の大久保ガクブル話in馬車も眉唾ものだけどさ。
個人的に馬車越しの対面話での試合に負けて勝負に勝った感が好きなので
小説で江藤の話を書く作家さんにはあれを採用して欲しい…
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/12(月) 22:14:23 ID:NROtSyAE0
無礼者ぉ!!金が欲しいなら欲しいと言え!何が欲しいんだ?!
92 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/14(水) 00:32:32 ID:gmndbpLK0
>91
ちょっwwwwwww
おまwwwww
…そんな大久保は嫌だorz
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/14(水) 22:55:25 ID:nvAc2+gd0
大久保ならセレッソ復帰ほぼ確定だよ
94 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/25(日) 14:56:14 ID:v7qGu1qA0
>>91 「欲しいのは、大久保!高慢チキな貴様の生首じゃ!」
どおせならテロリストらしく(?)O苦ぼの首を切り取って、さらしてほしかったな。
最近の明治初年について書かれている本では江藤の名前が出てくる事が多いね。
今までは、ヒドいのになると初代司法卿が大木喬任になってたりしたのに比べると凄い進化だ。w
この調子で初代文部省長官として、学制公布までの企画立案してたことや、
その間に宗教改革や民法を立案実行していたのも、まだあんまり知られてないな。
どうも、外遊時や明治六年の政変の大久保の評価が見直される度に
江藤の評価が見直されてる気がする。。。
96 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/27(火) 22:28:46 ID:v4VcFnVE0
そうだ!見直そう江藤新平。佐賀の乱とか、さらし首ばかりで有名なのでシャクだった。
やっとまともな評価をされてきましたね。
明治2年11月〜明治6年10月までに11もの役職に就き、
しかも、複数職の兼任が多く、民政、民法・司法面での活躍ばかり目立ち、
国政面では裏方に徹して、最後は反乱軍の首魁として死んでるので、
調べるつもりで調べないと分からない人物なんだろうな。
国政面では、岩倉からの依頼で、建国策を起草し御礼状をもらい、
国政改革案を起草して、大久保と連名で二人で三条に提出しに行ったり。。。。
明らかに明治初年は国体国政に関しては、三条、岩倉、大久保から頼りにされてたのに。。。。
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/08(土) 06:59:00 ID:sDUnrayF0
97 「大久保と連名で二人で三条に提出しに行ったり」
そう? 知らなかった。2人にはそんな時もあったのか・・。行く途中で
どんな話をしたのかな。まだ藩の縄張りとか一人一人の欲が出る前の、
みんなで一生懸命な頃だったんだろう。
大久保も佐賀の乱が終わってから、その頃を思い出すことがあったんだろうか。
江藤を葬り、西郷を倒し、ひとりさめざめと泣く大久保利通の姿・・・。
>98
まあ、全ては何の成果も無かった外遊中に、ビスマルクに洗脳されてしまった大久保が悪い。
江藤は、対立意見全てを理路整然と一言で江藤案に覆され続けた恨みや、
列強からも、国内マスコミからも評判の良かった立法や警察機構の構築で、
着実に国の根幹を握っていってた江藤に対しての嫉みで私刑してしまい。
西郷には、青年期に会ってから親友面をしながらも、幾度となく西郷を窮地に陥れたのに、
その都度、以前よりも強力になって復活する姿に恐怖を覚えて戦死させ。。。。
粛正と恐怖でやっと手に入れた独裁体制なんて長続きはしないわな。
とりあえず、嘘は書いてないが誰か釣れるかな。
大久保は西郷はともかく、江藤を葬った後はプゲラしてるだろ。
>>100 >江藤を葬った後はプゲラしてるだろ。
そういう、大久保のポーズ/虚勢自体が、大久保を小さく見せるよね。
大久保も日記で超然としてれば良かったのに。
江藤も江藤で佐賀に戻らず、大人しく(?)民権運動をしてれば
そのうち大隈とタッグを組んで肥前閥が出来てただろうに。
余程の恨みと劣等感があったから、江藤を殺した事ではしゃいだんだろうな。
最近勉強中なのであまり詳しくないんだが…
大久保から見れば江藤は征韓論の第一人者なだけじゃなくて
薩長閥を必要悪だとする大久保に対して、長州閥を壊滅状態まで
追いやった江藤は秩序を乱す政敵以上に殺しても飽き足らないくらい
憎い相手だろうよ。しかもよりによって親友西郷を担ぎ上げてるし。
ボロクソに書きたくなる気持ちもわからんでもない。
同じ肥前閥の大隈も江藤を批判してるあたり
(ソースは三好徹の史伝伊藤博文…)
江藤自身も薩長憎しの「私」の部分があっただろうし。
こんな事を言ってるけど、江藤も大久保も好きだ。
江藤の民主制も大事だけど、大久保の独裁制も必要悪だと思うよ。
当時はそんなに民度が高くなかっただろうし。
大久保の悪口ばかり言ってるのもなんなので
河野敏鎌はどうですか?人によって評価が180度違うんだけど。
>>104 おおむね同意だな。
どれだけ陰謀だと言おうが、あの時点で、少しでも世界情勢がわかっていたなら、
日本を滅亡させたくないなら、無駄に国民を殺したくないなら、軽々しく征韓論にくみするべきではなかった。
くみしたとしても、帰国した使節団からの実情報告を聞いたらなら、征韓論を捨てるべきだった。
江藤ほどの賢い人物がかたくなに征韓論にくみしたままだったのは、薩長打破の絶好の機会と思ったんだろうが。
そのために国家を戦争の危機に陥れるのはどうなんだろうか。
江藤が国家情勢も読めないバカな人物でなかった(だろう)だけに、なんとももやもやした気分にさせられる。
(それを言っちゃ数年後の大久保の行動もアレなわけだが)
>>106 >江藤ほどの賢い人物がかたくなに征韓論にくみしたままだったのは、
というのは歴史教科書では定説のようですが、最近の研究では、
そうじゃないみたいですよ。
明治六年の政変前に政府首脳で言い争われていたのは、
「征韓論」ではなく、
西郷を朝鮮へ派遣するか否かという事。
西郷を朝鮮へ派遣する理由は、
新国家の名実ともに代表たる西郷が朝鮮へ伺い、
明治初年よりのわだかまりを、西郷自ら解き、国交を開くというのが目的。
論理的にみてこれ以上に正当な手順は無く、
論理や正義・公平が好きな江藤にしてみれば、絶対的な正解になる。
薩長閥を打破することになるとすれば、
・外遊組は、失態だらけで税金の無駄使い集団と世論から罵られていた。
・外遊組のメインメンバーは薩長出身者が多い。
・留守組で長州閥は、汚職の限りを尽くして、主要ポストを外されていた。
・西郷派の征韓派と言われるメンバーは留守政府首脳。
・大久保派の内治優先派とされるメンバーは外遊組。
という事実から、西郷の朝鮮への派遣が決まれば、
長州閥は、ほぼ息の根が止められ、薩摩閥は勢力半減する。
という極自然な成り行きでしかない。
明治六年の政変も最近は、外遊組による
政権クーデターだとする意見が強くなってきている。
江藤に関しては読みやすい資料がほとんど無いから、
ほとんどの奴は司馬遼太郎や他の歴史小説家の影響を受けすぎだな。
>>108 とりあえず、江藤のことはおいとくとして、征韓論が使節派遣だという学説に真っ向から
反論して、打破したと豪語する学者さんのHPを見たことがある。
その征韓論使節説は、かなり前の毛利氏の説が元になっていると思われるが、そのHPを見るに、
また、残っている文献を見るに、征韓論ではなく使節派遣が目的だったというのはかなり信頼性に
欠けるように感じた。
今、
>>108の述べている平和使節説がどのようなものか知らないので何ともいえないが、次のよう
な点はどう述べられているのか。
そもそも、朝鮮人が新生日本に対してかなり無礼な態度をとったというところからこの問題は始まる。
日本は倭館の守備用として軍艦数隻と陸兵若干を派遣すべきかという閣議がおこった。
そこで、西郷が、「いきなり兵を派遣したら確実に戦争になる。まずは使節を派遣すべきだ。」
というようなことを主張したのは有名だ。この言葉だけを見れば、確かに征韓論ではなく使節
派遣問題のように聞こえる。しかし、残された多くの文献は、事がそれだけではなかったと明示している。
1.西郷は自分が殺されれば、公然とした戦争の理由ができる。士気もあがると思っていた。主張していた。
これについては、多くの人間(本人含む)の日記手紙証言など史料が残っており、史実としてみて間違いないことである。
征韓論使節説はその辺をどう解釈しているのか。
たとえ、名目上、使節だと言ったところで、その結果戦争が起こる可能性が濃厚ならば、内治論者達が
反対するのは当然だ。結果的に、また、伊藤の用ようとした策略が政治クーデターの形になったからといって、
それが、外遊組の陰謀だった、クーデターが目的だったとみるのは、物事の本質をねじまげすぎていやしないだろうか。
間違いないく、「西郷は戦争が起こると思っていた」(くどいようだが本人の手紙も残っている)し、
外遊組は「戦争を止めようと必死だった」と思う。
本当に多くの当時の人間(征韓論派、内治派、その他、本人含む)が、使節派遣を第1として、
第2段階に確実に戦争がくる(起こす)と見ている。
それを後生の史料で事実を想像するしかない学者達が、史料のどこをどう解釈して、
「征韓論はでっちあげ、実は政治クーデター」などという極論に動いているのか知りたい。
>>108がその辺を詳しく知っているなら教えて貰いたい。
もちろん、
>>108がそのような学説を見たというのを疑っているわけでないのであしからず。
学説というのは間違っているものでも、一般人から見れば流行ったりするものだ。(当時の毛利氏説しかり)
あるいは、自分の知らない、政治クーデター論の新史料が出たとでもいうのであれば、その史料の内容に
よっては納得するが。
そうでないなら、征韓論使節説というのは、西郷神聖視しすぎるあまり、今の日本の平和理想主義に無理に
でも彼をおしこめようとした幻想に見える。
110 :
109:2006/07/13(木) 23:33:54 ID:IfQyjqa80
肝心の江藤と征韓論について触れてないが、江藤について触れる前に、征韓論
の位置づけをはっきりさせておいた方がいいと思うので、スレ違いっぽくてスマソ。
112 :
111:2006/07/14(金) 06:09:03 ID:rT5wiUUs0
すみません。上の「108」は
>>109の誤りです。m(_ _)m
113 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/14(金) 22:42:55 ID:dn1nmx440
みんな・・・
内容がすんごいね。議論白熱だねえ・・・。
我輩は鹿児島の鰻温泉にでも行ってくるぞ。
114 :
108:2006/07/14(金) 23:48:44 ID:XZvthW7J0
>109
西郷が朝鮮を侵略する云々の話は会議などの公式発言では一切無く、
ただ、板垣への手紙で味方について欲しいが為に、板垣の望む事を書いただけ。
朝鮮王国の明治新政府に対しての振る舞いは、大人気ないとは言えるが、
朝鮮王国からみれば、明治新政府は、親の敵を討ってくれた恩人を殺害した悪党になる。
例えば、今、アメリカで突然軍事クーデターによる新政権が誕生すれば、
我々日本人が、その新政権を信用するかを考えても想像できるんじゃないか?
西郷は、そう言った不信感を払拭するには、国家の代表が出向いて説明するしかないと考えた。
一国の元首が、就任後に友好国へ訪問するのは当たり前だよね?
西郷が朝鮮へ行けば殺されるというのもナンセンス。
朝鮮人は礼儀の通じない土人ではない。仮にも礼を尊ぶ儒教国家だ。
それに、西郷が行くとすれば鉄鋼船になる。
いくら、護衛兵を付けずに行くとしても、当時の朝鮮には到底作りえないもので行くわけだから、
西郷を殺せば、攻め込む大義名分を与えてしまう。攻められれば簡単に占領されてしまう。
その程度の事が分からない朝鮮王国首脳でもないだろう。
西郷の戦略としては、主君島津斉彬の提唱していた、日中韓三国同盟を樹立して、
共同でロシアの南下策にあたるというのが戦略だったに違いない。
江藤も、図海策で、朝鮮北部にロシア南下に対して駐留軍を置くという考えを示している。
(工業の無い朝鮮には兵站を担当してもらうという事らしい。。)
因みに江藤は図海策執筆時点で、ドイツの伸張や、フランスの敗戦などを熟知しており、
英国の隆盛が海洋交易にあることも知っており、日本が手本にするべきは英国だとしている。
しかも、ドイツがその内ヨーロッパ中を敵に回した大戦を起こすことも予言している。
というのは余談。(でもスレ的には本流かw)
>>111 d。Wiki見てきたよ。征韓論、の西郷の後の()の中身は、やはり毛利氏説のを採用してるようだな。
どうやら、自分は
>>108の言いたいことを読み違えてたようだ。
>>108は江藤が征韓論に賛成した
理由を書いてたわけだな。別に、征韓論というのは、政権クーデターを隠蔽するための隠れ蓑、とか言いたかったんじゃないようだな。
早とちりスマソ。
だた、とすると自分がひっかかるのは、
>>108のこの文だ。
>明治六年の政変も最近は、外遊組による
>政権クーデターだとする意見が強くなってきている。
上の書き方では、まるで、外遊組が自分達が政権をとるためだけに、征韓論潰しを行ったように聞こえる。
>>109にも述べたように、実際の所は政権を取る以外に、征韓論をつぶすことができなかったからそうなったということだ。
確かに用いた手段は、政権クーデター的なものであった。
だが、忘れてはいけないのは、少なくともその時点では、外遊組=内治派であり、征韓論を潰そうとしたのも、
純粋(まあ、少々の不純物は混じってそうだが、特に江藤に対する感情は不純物の方が多そうか)に、外征を行うわけにはいかない。
という強い意志からだ。これについては多くの史料が残っているから読んでみればいい。
>>114 ああ、やはり毛利説だったか。西郷が板垣を説得するためだけに板垣の心をくすぐる文を書いたと主張していたな、毛利氏は。
ちなみに、西郷が主君の提唱していた三国同盟樹立に熱心だったのは確かだろう。
だが、そのためにはどうやっても軍を伴った征韓論以外に韓国を変える手だてはない、と見て西郷が征韓論にあそこまで固執したというのが正しいと思われる。
なぜなら、西郷が死の決意をかため周囲にそれを漏らしだしたのは、外務卿副島の、「これ以上(朝鮮との)交渉の余地はなく、あとは兵を伴う問罪使を派遣
するのみ。その問罪使には外務卿たる自分がなる」
という報告を聞いてからであると思われる。それ以前は、西郷は本気で平和交渉が成り立つと考えていたようだ。
話は戻って、使節派遣が一度決定してからも、さらに、こんなことを手紙で送ったのも、板垣を喜ばせたいためなのか。
『(韓国で)無茶をするつもりは無いが、もし自分が死んだら、「西郷は自分から殺されにいった。」という論が起こり、
戦争を回避しようとする策をめぐらすことは確実だ。その時は是非とも、自分の死を無駄にしないようお願いします』
また、板垣だけでなく、黒田清隆に対しては、征韓準備のためすみやかに、軍局の論を定めるように運動してほしい、と手紙で頼んでいる。
黒田は反征韓論であるし、後輩だ。
西郷の目的が平和使節派遣であれば、このような運動を促す必要はあっただろうか。
さらに、別府に対しては、「土州人も一人は死んだ方が跡がいい(一人の土佐藩士が同行を願い出ていた)だろうと考えています」
とのどぎつい手紙も送っている。
それ以外にも辞世の句のような詩も作り、多くの知人に自分が言って殺されたら日本は奮い立つ、そのためなら死は恐れない
というようなことを言っているのだ。
>西郷が朝鮮へ行けば殺されるというのもナンセンス。
西郷が殺されるのがナンセンスというならば、その西郷の覚悟すらナンセンスということになるが。
実は全然ナンセンスではない。少なくとも当時の人間にとってはナンセンスではなかった。
まず、当時の朝鮮について、アメリカ公使フレデリックは、国務長官宛に「朝鮮はペリー渡航前の日本よりも
さらに厳しい鎖国状態にある」と送っている。
というのも、大院君支配下の朝鮮は清人の入国さえ禁じ、入国した一般の清人は全員が暗殺されている。
(明治5年に、日本の外務省から派遣された探索員の報告)。
清人に対してすらこの仕打ちである。西郷が無事である保証がどこにあるのか。
さらに、アメリカの艦隊ですら、江華島からの砲撃を受けている。丸腰の鉄鋼船で行ったところでどうやって、
大院君のいる漢城までいくつもりなのか。
もう一切使節は受け取らんといい、実際そのようにしめしている朝鮮の国内を、丸腰で、海岸ぞいにあるわけ
でもない漢城まで行こうというのだから、殺されないと思う方が不自然だ。
自分が、西郷を神聖視(あるいは、あくまでも善い人物であると見がっている)しすぎと思うのは、これだけ(他にも史料がもっとある)本人が、使節派遣の
結果的には軍を派遣することを予期し、それを望んでいたにもかかわらず、Wikiの「征韓論」にすら、西郷の論は、派遣説だった。というような
説明書きをしているからだ。確かに、形だけみれば派遣説だ。だが、その中身をみれば戦争を起こす気満々なのに、遣韓論はありえないだろう。
117 :
108:2006/07/15(土) 01:30:06 ID:t4W5vDPt0
118 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 23:02:40 ID:UZMCpCPt0
し、しかし、やはり「江藤新平」に書き込む御仁には勉強家が多いですのう。
江藤自身が勉強家だったからねえ。
みんなが書き込みしてるうちに江藤の情念がのり移ってきてるんじゃないか?
うしろを見てみろ。そこに立ってるぞ。
(・・・ウソ)
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 23:23:13 ID:tBXQ+XJU0
江藤かと思ったらエトゥーだった
話を元に戻すと、征韓論がそういう性格のものであるにも関わらず、
江藤がこれに与したのはやっぱ薩長閥を倒そうという政治的動機からってこと?それともほんとに征韓を考えてたんか?
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 16:49:46 ID:mXWyQQme0
考えてたろ、薩長×も倒そうと考えてたけど
対外論では積極的帝国主義者だし
法律制度以外だと3流
時代背景を考えると帝国主義政策を採るのは当たり前。
時代背景を考えずに現代の価値観で非難するのは如何なものか?
帝国主義だと三流なら、大久保利通も三流。
当時の政治家ほとんど三流ということか。。。。。
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/29(土) 23:52:43 ID:Ak1BPWzC0
主義うんぬんじゃねく、国内外の状況冷静に分析もせず状態知らず過激に走ってる
思想が先で現実軽視は左翼や右翼と変わらん
要するに法制いがいは3流
その時代の日本で現実を直視していた奴はいないだろ。
>>124 ただ、政治ってある程度極端をいわねばならないこともある。
常に冷静で客観的な意見を言ってると、傍観者ちっくで評論家にしかなれない。
口では極論・理想論を言って国民をまとめつつ、
頭の中はあくまで冷静で客観的な認識を持っているべき。
最終的に、「強硬派の、あの人が譲歩するのだから、しかたがない」という感じで、
対外交渉をまとめられるとベスト。
江藤は民政家や法律家として超一流だと思う。
民政も法律も、現実を分かっていないと、
的外れな施策や立法で民衆の生活が混乱するが、
立法では、近代日本の基礎を確立し、
民政では、江戸庶民の生活などを大改善している。
江戸後期からの国際情勢は、佐賀藩士なら当たり前のように知っており、
江藤の分析はその中でも、特に秀でていると言われていた。
128 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 23:19:09 ID:RKkm7EBj0
そもそも「征韓論」自体が江藤追い落としのためのスケープゴートだったってことが最近の研究で明らかになりつつある。
歳月が好きで4〜5回は読んだけど、江藤を悲劇のヒーローにするにはああいう性格づけがてっとりばやかったんじゃないかな。
ようは大久保に泣きついた山県や井上馨を助けるために仕組まれた罠ってことみたいだね。
そういう意味じゃ薩長に楯突いたらこうなるぞとの見せしめ的意味合いが強いな、あの写真は。
129 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 23:31:46 ID:vSpzkRNl0
遣欧使節の失敗の挽回(大久保)+汚職続きで窮地に陥った長州閥(伊藤)
=征韓論(実は江藤追放が目的)
ってのが毛利さんの図式
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/20(水) 23:52:08 ID:RKkm7EBj0
汚職追求中に征韓論騒ぎに巻き込まれてまんまと嵌められた江藤が悲しい・・(涙)
でも江藤がこの国の歴史にいたというのは最高に嬉しいぞ、俺は!
131 :
sage:2006/09/21(木) 01:34:53 ID:TD3dV5Xh0
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/23(土) 22:48:19 ID:pyJaI6220
そうよ。北海道では島義勇はよく知られている。札幌の北海道神宮が島に関する本を出版
していた。その中には江藤に関する以外な情報もあった。しかし、今はあの本は絶版だろう。
まあ、北海道神宮に行ってみないとわからないけど。
>128
>129
佐木隆三という作家が、推理や法廷文学的な観点から、
同じようなことを15年くらい前から言ってるな。
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/09/24(日) 00:18:26 ID:Yt5p4LTk0
いっちゃ悪いか
しかし面白い人生だな、この人は
不器用を絵に描いたような男だが、俺は好きだ
と言っても上で批判されてるように「歳月」の影響がほとんどなんだけどね
他に江藤について面白い本があったら教えて欲しい
137 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/10(水) 22:40:01 ID:itQ4LM9Z0
おまえら
明治六年秋の廟堂会議で、
大久保が遣韓使節派遣に論理立て反対した事実はない、
は知っているよな。
>137
うん。
説明を求められても順序立てた弁論はしていないな。
139 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/20(土) 22:49:24 ID:QflmYrax0
江藤新平のさらし首の写真はどこでみられるんだ?
イメージ検索
141 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/30(火) 23:41:21 ID:WKiF9DhU0
143 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/05(月) 18:56:28 ID:17NzRsO50
俺は江戸時代までは確認できる日本人だが、元駐日韓国大使で
あった姜範錫の『征韓論政変』がおもろかった。
毛利本を批判する香具師には、こっちの方が難敵じゃないか。
・大久保は夏頃から国家ヴィジョンをめぐる政敵として江藤を標的に据え、
10月に自身の参議就任受諾の際には江藤ら新参議の罷免を三条・岩倉に
主張する(これが三者の同意書)。
・西郷遣韓使節団の是非について、大久保は裏交渉での打開(西郷の
取り下げ)ではなく、廟堂での決定を要求した。大久保の狙いは使節
延期→西郷辞任→江藤ら新参議の連座辞任にあった。
・廟堂会議は14〜15日の二日行われ、西郷は二日とも出席した。
・西郷は辞任をもほのめかせて自説を強調するが、一方の大久保はたい
した議論は出来なかった。23日に至っても朝鮮出兵の影響は考慮中
であった。七か条意見書は当時の情勢と辻褄が合わず後日の作成の
可能性が濃厚。よって15日の大久保の反駁は歴史の捏造と思われる。
・廟堂会議の議論では西郷が大久保に勝つが、「一の秘策」による
謀略で大久保は逆転する。歴史の捏造は大久保が自己の正当性を高
めるために行った措置と想定される。
144 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/05(月) 23:21:31 ID:SeQOm1LdO
大河ドラマの獅子の時代を見て先生のカッコ良さに心酔しました。
145 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 21:53:32 ID:pNU2vQ6t0
鯱の門を見る度に思うのです。これは決して乱ではない。役なのだ、と。
どうか皆さん、佐賀の役をお忘れなく。新政府の最初の交戦国である佐賀を
侮るべからず。
146 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 15:06:50 ID:lV6Wit47O
甲子園で佐賀の乱が起きている件
新政府軍を撃破した!
今度は鎮圧されんぞ!
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 16:05:36 ID:M/qlU7nFO
↑福島県みたい…。
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 18:28:20 ID:PwtWckk50
>>144 俺も獅子の時代の江藤新平が印象深いね。細川俊之の顔が必ず浮かんでくる。
149 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/23(木) 21:14:11 ID:bq39HHMFO
佐賀北校の生徒は江藤新平について発言しないのか?
反乱した佐賀県人を代表して日本政府に謝罪しろよ、甲子園に出れる身分じゃねーだろが
150 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/25(土) 14:41:32 ID:6L55/T520
江藤案でなく大久保案が実行されていたら大阪が首都になるところだった
首都は法律で決められてないってなんかで見たけど…
152 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 16:16:53 ID:LOLTRSzc0
生前の写真と首級の写真並べて見ると結構笑える
153 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/14(月) 11:13:17 ID:Z2cq9V17O
保守age
154 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/14(月) 11:43:05 ID:vU43PuAj0
告白します
私も、江藤新平と後藤新平をごっちゃにしてた一人です
155 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/14(月) 20:18:06 ID:teBOQXfKO
江藤新平が明治初期で死んだのが惜しい
156 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/14(月) 21:47:11 ID:9ZenHahtO
最期に何て言って死んだんだっけ?
歳月を読んだときに印象的だった。
157 :
司馬遼太郎:2008/01/14(月) 22:02:58 ID:4mYueY1Z0
>>156 「ただ、皇天后土のわが心を知るあるのみ」
158 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/14(月) 22:17:17 ID:9ZenHahtO
感動しました。
劇的な最期ですね。
惜しい人物だったと思います。
159 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/15(火) 19:13:45 ID:1DxZqzC+0
160 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 02:50:19 ID:Dcm3hfrd0
あの大久保利通が唯一恐れた男
そういう触れ出しでいつの日か
大河ドラマ化されてもいいんじゃないかなぁ
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 20:52:13 ID:XwPf1LRaO
すごい人物だな。
あの度量の大きい大久保が憎みきっていたというのは余程のことだろう。
惜しいな。
162 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 23:21:09 ID:rROIBdviO
大久保があの私刑を企まなければ、明治期の日本は民主主義国家になっていただろうに
163 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/16(水) 23:33:52 ID:upvOgUD90
別に大久保が誅してなくても下野した時点で終わりだろ。
164 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 08:34:18 ID:7a1u5DgzO
>>163 下野しても事実政府に戻る人間もいたろう?それに岩倉や三条だって彼の才能を理解していたはず。だから、その可能性は十分あった。そして、江藤の下野はある意味政略の手段。彼に政府に戻らない意思が無かったとも言えない
165 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/17(木) 20:43:09 ID:1Xpru7u5O
才能溢れる人物だが
処世については不器用な人なのかも。
才能だけなら当時最高レベルだろう。
エジソンは、テスラの発明と発想を金と権力でお蔵入りにしたけど、
今の時代はテスラの思い描いていた電力システムが実現されつつある。
大久保と江藤の関係に似てるね。
清濁併せ呑むことが出来ずに逝った典型的な人。
なまじ優秀すぎたために大久保の嫉妬にあって、命を縮めたんだろうね。
この人と小栗忠順はもっと日本国のために尽くして欲しかったな。
まあ両者とも実力ありすぎて、他の政治家に恐れられたわけだけど。
小栗は優秀だが権力を持たせたら売国奴になるタイプ
江藤が大久保の嫉妬の対象だった説って司馬本?
江藤は大久保と決して関係悪くなかったと思うがなぁ〜
留守中に大蔵省の権限取られて、
自分の縄張りを滅茶苦茶にされたと知ってからは憎んだかも知れんが
江藤も大久保も国家を創造するレアな能力を持っていた。
つまり一山に二虎は相容れず。
つーわけじゃ。
171 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/16(水) 23:08:39 ID:nNhQRlUR0
司法試験の勉強してるんですけど、法律やってると、段々と江藤のような
理屈至上主義になってくるのに気づきます。
で、相手の感情を度外視して、理論で正しければ何でも通るはず、と
思えてくるんです。時折反省してます。
>>171 受験時代はある程度はしょうがない。
そういう自覚があればむしろよいことだと思う。
早く合格してください。
ガンバレ
173 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/21(月) 10:09:11 ID:CrcctRvs0
小三郎さんね
右翼辞典に載ってます
174 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/21(月) 12:15:41 ID:FnUKcp51O
江藤新平と後藤新平を間違えて、こんがらがった奴は
俺だけではないと信じる。
175 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 22:30:27 ID:w5DGKHgh0
>>169 当初は大久保に頼まれて省庁改革の原案や国家戦略案を書いてたくらいだからな
関係が悪化したきっかけがなんなのか気になる
どんな原典に当たってもきっかけ部分は不明だ
176 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 02:18:38 ID:LSENRcFX0
きっかけはホモセックスして梅毒をうつしたから関係が悪化した。
177 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/07(水) 07:23:19 ID:XR3jUUlg0
梅毒厨はどこにでも顔を出す。
まったくどこのBやら
hosyu
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/30(月) 06:09:08 ID:683w37760
司馬先生の「歳月」以外に目ぼしい江藤作品が上梓されていないのは何故ですか?
題材として取り上げにくいからですか?それとも。。。
普通にマイナーなだけじゃないか?
明治の顕官でも、一般には名前だけとか変なイメージしか定着してない人なんて腐るほどいると思われ。
そして出しても金にならないから本にならない……orz
昔、知ってるつもり?!で大隈重信を取り上げた時、
この人の晒し首の写真が出てビックリした。
182 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/07(月) 07:25:47 ID:jJkTOWhZ0
司馬作品中で江藤が佐賀へ帰省する前夜、妾の宅で紙に即興で書きつけた詩が印象に残った
吹きおろす 嵐に散れる殿山の 花をふりすて 久かたの
〜〜〜以下 略 大久保ともう少し和解というか距離感縮めて政治活動しておれば
長命したであろうに そして、司法制度のさらなる拡充、整備に扮骨砕身したであろうな
183 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/29(火) 01:14:47 ID:Gj945cNy0
ほしゅ
184 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/02(土) 05:01:24 ID:VkXqMeJD0
江藤「船田 こんな歌を知っているか?」
‘三月の雨は六朝の涙に似たり‘
大久保「江藤、醜体笑止なり」 「卑劣なる事言語に絶する」
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/20(水) 13:07:24 ID:XfRMoQXr0
中公新書の『幕末維新と佐賀藩』という本を読んだ。
江藤新平って
こんなすごい人だとは知らなかった。
薩長の陰謀で抹殺されたのがすごく惜しい。
いろいろやってるのに、
司法関連以外はほとんど自分の名前で発表してないから、
全部他人の業績になっちゃってるよね。
しかも、ひどい本になると、司法卿だったことも抹殺されて
初代司法卿大木喬任って書いてた本もあったなあ。
小説じゃないんだぜ?どっちかいうと資料が多い本で。
大久保の子孫に有力政治家が多いのが影響してんのかな。
麻生さんも、妹は皇族だしな。
まぁ、大久保は嫌いでも麻生さんは好きなんだが。
でも江藤は全国の法学関係者が知ってるじゃないか、有利だよ彼は
大久保の高評価に関係あるとしたら、有力政治家より、歴史学界で
大久保利鎌先生のお弟子さんが多いことじゃない?
10年前に「民法典の百年」って本が出たんだけど、
江藤もちゃんと扱われてたよ、ただ司法卿としては在任期間が短すぎた
大木の時代に法整備とかがどんどん進んでるわけだし、
ボアソナードを連れて来たのは功績だったけどね
189 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/10(月) 22:39:32 ID:mcWtUaNk0
156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/14(月) 21:47:11 ID:9ZenHahtO
最期に何て言って死んだんだっけ?
歳月を読んだときに印象的だった。
157 :司馬遼太郎:2008/01/14(月) 22:02:58 ID:4mYueY1Z0
>>156 「ただ、皇天后土のわが心を知るあるのみ」
山中、香月、両名も江藤門下生の優等生でしたね
時を同じくして断罪
『歳月』/司馬遼太郎著
上記の言葉を3度叫んで日本が産んだ最大の雄弁家であり勤王家の江藤はこの世を去った
惜しいかな。。 歳月はとても好きな作品です
特に前半の桂小五郎と会い帰藩の途上で旅籠で夜更けをしつつ書いた
「京都見聞」の件り‐いつの時代にも情熱を持って仕事に打ち込む仁はおられるんですね
190 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/11(火) 18:00:15 ID:7ZZBLb9z0
佐賀の三兵
江藤新平
大木
大隈 だっけ?
義祭同盟の俊秀
加えて蒼海先生、こと、副島外務卿(のちの)
葉隠入門の肥前佐賀 佐賀は秀才の多出地であると言うーーー
豚骨ラーメンおいしかですよ。紅ショウガがうまか!!
おいは具は焼き豚と海苔とキクラゲが好きよ。
薬味はネギと紅ショウガね。
マジうまかさ。スープのたまらんもん。あんにおいがよかね!
ああ〜また食いたくなってきた〜。
明日も食うけん!!
>>185 薩長の陰謀て。
長の木戸はまさか即断で処刑されるとは考えてなかったぞ。
佐木隆三著「司法卿・江藤新平」より
参議にして文部卿兼内務卿の木戸孝允は、佐賀へ護送される江藤新平が、佐賀裁判所において死刑判決を申し渡されても、
司法卿の大木喬任の裁可を受け、さらに内務卿へ取りはからうべきであるから、ただちに執行されるなど、夢にも思わなかった。
木戸孝允は、明治6年10月20日、太政官正院への「上書」に記した。
「臣孝允は、刑罰を軽減あるいは赦す「特命」があることを知る。しかし、加刑する『特命』は、これまで聞いたことがない。
もし加刑する『特命』があるのなら、法律を用いる必要のないことは、童子も知るところである」
そのことを思い出しながら、木戸孝允は、太政大臣の三条実美へ、江藤新平を減刑するために、さっそく書簡をしたためた。
「江藤新平をはじめとして、その一統が縛についたことを、一度はよろこび、一度は嘆いております。
もともと同人も、征韓論の巨魁につき、今日すでに政府が、国力をかたむけて台湾の御征伐を決したからには、
彼らが裁判において、申し渡しに服罪したならば、その先鋒を仰せつけられてはいかがでしょうか。
今日、国論の唱えるところは、すなわち昨年、江藤新平らが唱えたことであります」
193 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/17(月) 02:52:00 ID:xJwzSnFu0
佐賀初めより国にさしたる功績無し‐幕末に倒幕戦へまい進する薩長を尻目に
佐賀藩の日和見の態度は桂をして歯噛みさせたし、鎮西の乱についても
木戸は日記にて先ずはどんな事態になっても大久保政権への協力を惜しむまいという意思を述べている
それとは別に(長州嫌いであった江藤に何故か?好意を持ち続けていたのが木戸)
木戸は江藤の死刑即断行とは決して思ってもいなかったであろう
木戸と江藤は政治的基盤は違うけど、気質的には共通点が多そうだからね
江藤は長州が嫌だったのではなくて長州「閥」が嫌だったんだろうから
江藤個人への好意だけでなく、職務定制はちゃんと守れよと言うのもあったと思う
国権と民権の双方重視って、現代風に言えばレフトホーク
195 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/17(月) 17:49:43 ID:xJwzSnFu0
>192
>佐賀へ護送される江藤新平が、佐賀裁判所において死刑判決を申し渡されても、
司法卿の大木喬任の裁可を受け、さらに内務卿へ取りはからうべきであるから、ただちに執行されるなど、夢にも思わなかった。
江藤が東京に移送されれば彼の張る論陣を恐れたのは大久保でしょうね
大久保としては天下の耳目の薄い佐賀の地で急ぎ裁判を開き即刻処断してしまいたかった
後世の我々は江藤が政治犯として(榎本武揚ですら助命されたのに)断罪されたのを知っているが
大久保ははじめから江藤の首を打ち落とす事に神経を注いでいたようにも思えるね
しかし,佐賀の乱の経緯を調べるほど江藤の「軽薄さ」が目に付く.
特に,敗北がみえてからの「江藤党」変わり身の早さは,
「島党」には恨まれただろうな.
197 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/18(火) 01:12:52 ID:Ux5C8JMk0
大久保日記よりー
佐賀の習風(惰弱で億秒)とは申しながら 城を枕に撃ち死にすれば武士の一分はまずまず立とうというもの
佐賀の志士にいたっては一敗するや臆面なく降伏を申し入れてくる始末
江藤輩に至っては徒卒を置き去りにして戦地を逃げ出す有様
さらに最後の断罪の場面、獄卒に縄尻をひかれて尻もちを着いた江藤に対しての評論
江「東」(←藤を敢えて間違えて当てた字)醜体笑止なり
嘗て廟堂で国家の行く末を議論した盟友で参議の座にある者の名前を間違えて日記に記す神経
江藤は大久保という怪物に目を付けられてから下り坂を転げ落ちていったな
198 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/19(水) 06:54:00 ID:9ZRyzNbH0
>ただ、皇天后土のわが心を知るあるのみ
司馬遼太郎「歳月」より
199 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/07(日) 02:14:10 ID:SpCI6B5v0
江藤って調べてみたらなかなかの人物じゃないですか
200 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/08(月) 20:57:28 ID:9Q14MmLV0
江藤は、正直なところ木戸・西郷・大久保に比べて一段劣るなあ。
201 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/08(月) 21:45:41 ID:ZhS2mXcZ0
江藤って石田三成とイメージ被るなあ。
頭脳名析な官僚、大勢に抗う、負けても尚再起を図る・・・
共に40才で亡くなる。後世の印象が矮小化されてる。
家康を信奉する大久保にやられたってのも、なんか。
生じっか頭が切れたけど政治ってのは理屈通りゆかないからね
大久保の方が政治家としての力量は遥かに上だった
江藤は大久保に正面から立ち向かい過ぎたな
「民法編纂と明治維新」
明治5年4月、司法卿推挙を薦めたのは宿敵となる井上馨だったが、
江藤と旧知の渋沢栄一は「江藤は行政の人にあらず」と言ったのに強行している
江藤推挙は留守政府との約定第8款
(諸官省長官の欠員なるは別に任ぜず、参議これを分任し、その規模目的を変革せず)
に違反する行為だったから、取り込み行為だったのかも知れない
そしてこれと洋行はセットだったと思われる
当時江藤は左院での活動が思い通りにならないため洋行を熱望していた節があり、
事実岩倉使節団の理事官に追加任命され(4月30日)大久保・伊藤との同行が決していた、
つまり就任(4月25日)直後に海外視察決定
つまり最初は司法改革や民法編纂を目的として就任を受けたわけじゃなかったんだね
ところが5月11日、三条実美が「司法改革=省務の都合があるから『暫時』渡航は見合わせて欲しい」
と言う書簡を送り残留を望んだため、一時出発を見合わせたらしい
ところが、直後にマリアルズ号事件だの色々な問題が噴出して一時のつもりが…
実際に洋行してたら見聞広めて政治観変わったかな?
配下の川路が行ったから
留守政府で大蔵省と予算の取り合いで喧嘩してなかったのは確実
そのために井上が行っておいでと言ったんだから
>明治5年4月、司法卿推挙を薦めたのは宿敵となる井上馨だったが、
>江藤と旧知の渋沢栄一は「江藤は行政の人にあらず」と言ったのに強行している
おかしいよねw自分を推挙してくれた井上を台閣から追い落とすとこまでやってるし
>>201 大正あたりに書かれた古今東西英雄見比だったかな?では
石田三成と江藤が対になってる昔の人も似てると思ったようだ
石田に江藤を擬する喩えの延長戦で言うなら家康=大久保という事かな
うーん、歳月なスレなんだな、これは。
江藤は子供いるぞ(どっか上の方で誰かいないと言ってたが)。歳月でもいるだろ。
早稲田のアーカイブに息子の日記がある。関係文書もあるぞ。
いまのうちにDLしとけ。こんなのただで読めるのは信じられん果報者だよ>江藤ファン。
江藤が行政局中弁から司法卿になるあたりのことが知りたいのだが、よい本ないだろか?
大木喬任が出てくるのがあれば更にありがたいが。
歳月の大久保が言いたいのは、結局、大したバックもなく、ポッと出の正義の味方が
政府でやれると思ったら大きな間違いだ!ってことじゃないかね。あの頃、あの手の
学があって言うこときかない、一時の尊攘派的な人(言ってることは違うんだけど)
がどっと出てきて、そういうのが出世したがると邪魔なんじゃないか?
それと、あの辺り(九州四国中国)の反乱分子に対して、おれを甘く見るな、ってことと。
江藤はそのメッセージのためのスケープゴートじゃないかと思うんだが。
今日の知るを楽しむって番組、明治の疑獄事件特集なんだが江藤は出るのかね?
一応期待して見てみる。
旧暦で2月9日と言えば江藤の誕生日だな。
グレゴリオ暦じゃ3月18日らしいが。
ほす
213 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/28(土) 00:13:41 ID:LIEMWV4M0
これ、別のスレでも見たけど、第三者の人名って商標登録できるんだね。
それ自体へんだから、反対ネット署名とかあったら教えてくれ。
215 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/28(土) 03:42:54 ID:w9lmjmKM0
>>213 214だが、これ気になるから、いろんなとこにバラバラにしないで
スレ立ててくれ。
216 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/13(金) 22:30:30 ID:VlJW3Xwe0
>>52亀レス御免。
俺佐賀県民だが「江藤新平銅像まつり」ってこんなステキなお祭りがあったとは知らなかった…
今年ももし行われるならぜひ行ってみたいです!
いいよな江藤。
こういう男好きだ
218 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/10(金) 04:22:09 ID:COs1emcc0
歳月の中での(司馬先生の描写で)
京都に出てきて一か月あまり情勢を観察
国もとへ帰る道すがら、旅籠に泊まりつつ京都見聞を夜が明けるまで綴る
暗がり立ちをして一路山陽道を西下 超人的な体力に恵まれつつ夜は宿で書きもの
こういう、天才的で全身活力に漲っている人はいつの時代にもいる
政敵大久保に飲み込まれなければ大臣の位に身を置き(大久保との不和はあったろうけども)
政治改革をいろいろ行い日本近代史に違った形で名を残したかもしれない
江藤 新平 / 鎮西の地に屠られる
安らかにーーー合掌ーーー
219 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/11(土) 10:19:16 ID:CqTG/zb/O
すごい人だと思う
いわゆる征韓論政変で下野した後、西郷の名を借りて大久保利通を罵倒したため、大久保の逆鱗に触れた。
>220
君は何をどうみてそう思ったんだい?
ひょっとして釣り?
222 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/13(月) 23:48:21 ID:S4pNS8Xu0
江藤新平は下野後、毎週のように西郷宅に押しかけては面会を求め、
西郷の名で大久保利通を罵倒する文章を著し、世間にばら撒いた。
江藤の大人げのなさが、大久保の逆鱗に触れた原因なのさ。
江藤は何のために大久保と西郷の仲をこじらせることをしたかったのか。
江藤の性格と仕事から考えて、大久保が西郷に不信感を抱くなり、
仲が悪くなりしても、江藤にはなんの意味ないと思うが。
結果として大久保に殺されるかもしれんが、江藤は大久保を嫌っていたわけ?
特に相手にしてないんじゃないか?
「下野後に文章をばら撒いた」のは、江藤にはそんな道具がないだろうから、
実際にやったのは誰?九州帰る前に東京でやったの?
江藤が西郷とデキてたとか、そういう話か?
224 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/14(火) 04:52:28 ID:u9waYcbB0
江藤と大久保は私的は交際は殆ど無かったみたいだよ
どちらも仕事が趣味みたいな性格というか能力の人だね
惜しいよね 実際に志士活動をして(薩摩)藩ぐるみで革命化しつつ幕府を倒した実績は大久保が断然上
維新の三傑といえば西郷大久保木戸の3人
江藤は佐賀藩が志士活動を藩法で禁じてきたため維新に乗り遅れたのは事実
大久保が誰もが認める維新の功労者であり明治新政府の総裁
江藤は大久保との不仲を認めつつ自分の才の及ぶ分野で活躍できなかったのかな?
司馬先生の「歳月」を読むと内務省設立に当たって警察権力の充実を図った大久保
それに対し司法省初代卿に就任し内務省から警察機構を取り上げてしまおうとした江藤
他の維新あがりの志士達には明治新国家をどういう方向へもっていこうか?さしたる構想も無かったが
不幸にも(?江藤と大久保だけは国家の構想に執着し仕遂げるだけの才能があった
この辺りを絡めて二人の才が衝突せざるを得なかったというように纏めていますね(司馬先生)
まぁ、作品はフィクションですからね 大久保や西郷には郷土の薩摩の仲間達が郷土閥を構成していたようですけど
江藤は門下生はいたものの佐賀藩は維新では遅れてきた勢力ですし明治新政府内での立場発言力も自然と西郷大久保には劣ったでしょうし
司馬先生の作品は読むには面白いし(楽しむ分には申し分無いです) けど、史実では江藤と大久保の私的な(人間的な)対立がそのまま江藤の下野、鎮西の乱へと至
人生とか、政治家(日本を代表する立場の偉人)の行動なんてそんな些細な感情のもつれからあのような大きな乱に結びつくとかとても思えません
>222
>江藤新平は下野後、毎週のように西郷宅に押しかけては面会を求め、
西郷は、明治六年10月24日に下野して、11月10日に鹿児島に到着してる。
当時は東京-鹿児島間の移動は1週間はかかるのに、どうやって毎週押しかけるんだ?
しかも、西郷は下野してすぐに鹿児島へ帰ったことが大騒ぎになったはずだが?
それ以前から、江藤が西郷宅へ行くということはあったが、西郷が江藤宅に行くこともあり、
押しかけるという表現は正しいとは言えない。
>西郷の名で大久保利通を罵倒する文章を著し、世間にばら撒いた。
いつどういった形でばらまいて、どういう内容だったんだ?
そんなものは、西郷、大久保、江藤に関連するどの書籍でも読んだことがないが、
出典は何なのか教えてくれ。
>>222さんの言うところは、西郷下野後後を追うようにして西郷宅(渋谷、金王坂付近、或いは日本橋小網町の寓居)を訪ねたって事でしょうかね?
しかし、江藤は征韓論騒ぎの政争の最中も西郷副島板垣後藤らの征韓論派の人々と密に連絡取り合ってた形跡がないようですね。
大久保、伊藤、岩倉ら、非征韓論派の連中が裏で工作をしてたにも関わらず
世間では江藤をして「策士」の印象が強いが実像の江藤には策士らしい振る舞いは見られなかった‐歳月「司馬遼太郎氏」‐より
江藤の大久保の感情のもつれ そんなの現代の政治家間にでさえ相性の問題くらいあるよ
本当のところ、政治、政策に対する考え方の違いだけだったんだろうか?
司馬先生の作品では根っこのところまで切りこんで描けていないんだよね
江藤ともあろうお方が簡単に下野して勝ち目の薄い反乱に踏み切る
そこんとこ、もう少し詳しく描けなかったものか?
佐賀の乱には、江藤は積極的に関与した形跡はない。
反乱が起こったので鎮圧説得しようとしたら、知った人々が彼を首謀者の席に座らせ、
江藤も一席、反大久保で檄を飛ばしてしまった、とかその程度。
お調子者としての側面が出た、安易な配慮の薄い行為であった。
中央政府への反乱は原則として死罪なのに。
>中央政府への反乱は原則として死罪なのに
内乱罪、国家転覆に該当する行為でも首謀者は断罪(死罪)にはなってないでしょ
江戸時代の旧典にはない 江藤も佐賀で裁判が行われるにあたりまさか死罪を覚悟はしていなかったでしょ
徳川幕府側で最後まで明治新政府軍に抗った榎本武揚ですら助命されている
1月13日 江藤、佐賀へ出発。途中、嬉野温泉に滞在し様子見。
1月25日 佐賀に到着し、何を思ったかすぐに佐賀を離れ、長崎へ向かう。
1月28日 あの、長岡藩の河井継之助を本気で怒らせた、高慢で有名な岩村高俊を佐賀県令に任命。
2月2日 長崎の義弟の元で滞在開始。船遊びなどをしながら様子見。
2月3日 福岡県庁から、佐賀県下で不穏な動きアリと電報が入る。(ナゼ佐賀県庁からでない?)
2月4日 熊本鎮台が出兵を命じられる。(反乱なんて起こってませんが?)
島義勇が三条実美と面会し、佐賀士族を落ち着かせて欲しいと依頼され、佐賀へ出発。
島が船中で、岩村高俊と偶然会い、佐賀の不満分子を蹴散らしてやると言われてムカッとする。
2月10日 大久保利通に、佐賀鎮圧のための、軍事・刑罰の全権が与えられる。(だから反乱起こってませんって)
2月11日 島が長崎に到着し、偶然、江藤と会い、既に軍が差し向けられている事などを話し、岩村から佐賀を守ろうと意見の一致をみる。
2月12日 江藤が佐賀に入る。
2月14日 島が佐賀に入る。
大久保が東京を出発。途中、大阪で軍議を行う。(だから、まだ反乱起こってないのに〜w)
2月15日 岩村が半個大隊を率いて、佐賀県庁入り。佐賀士族への挑発行動を開始する。
2月16日 夜、憂国党員が暴発、佐賀士族が佐賀県庁を襲う。知らせを受けた江藤、島は止めさせようとするが、逆に司令官に祭り上げられる。
2月18日 早朝、佐賀県庁陥落。
2月19日 大久保および政府軍、博多に到着。
2月20日 政府軍、佐賀県下攻撃を開始。
2月22日 政府軍と佐賀士族の最初で最後の野戦決戦で、政府軍が一時崩壊しかけるが、数で押して佐賀士族の戦線崩壊。
2月23日 江藤、犠牲者が増えることを恐れ、佐賀征韓党の解散宣言を行い、佐賀を脱出。西郷の元へ向かう。
2月28日 佐賀県庁陥落。
3月1日 江藤、鹿児島着。
て感じで、大久保は反乱を起こさせるために最大限の努力をしている。
一方、江藤、島は、反乱が起こらないように尽力していた。まぁ、こういう結果になるのも当然だわな。
反乱は全然起きてないの?不穏な動きはあるから、島が送られるんだよね?
大隈とか、副島も候補にあがってるんだけど、結局行かなかった。
自分がわかんないのは、なんで佐賀と大した接点のない(出身地ではあるけど、特別
力あるわけでも、影響力があるわけでもない。最近出世したってだけ)江藤が、
いきなり佐賀で反乱の首謀になるのか???ってこと。
>>229 明治維新以降は、中央政府に歯向かったら、首謀者は死刑だろ。
長州の脱隊騒動でも、肥後でも。佐賀より後だけど、前原とか。
江藤の場合は、江藤自身が法律変えて、裁判なしの死刑なんてあり得ないのに、大久保も
それを知ってるのに、裁判なしで死刑になったとこが異常なんだよ。
232 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/15(水) 17:14:44 ID:mGPDlCk40
2月10日 大久保利通に、佐賀鎮圧のための、軍事・刑罰の全権が与えられる。(だから反乱起こってませんって)
軍事、統帥、司法の権限を一身に背負って佐賀へ
この直前に小野商会へ佐賀士族が狼藉を働きに押しかけたって伝信があった
それを大久保は廟堂で大袈裟に発表し「近く自らかが西下する積もりである」と発表した。
他の参議達は何故大久保自身が出かける必要があるのか?首を傾げたみたい
いずれにせよ大久保は最初っから江藤の首を落とす意志が多分にあったであろう事は間違いないね
>>226 実家が佐賀でもと鍋島だが、司馬遼「歳月」と同じ記載の当時(明治初期)の日記が出てきた。
驚いたよ!
234 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/15(水) 17:55:17 ID:mGPDlCk40
>>233 是非、触りだけでの抜粋してご開陳してくださらんか?
鍋島武士の名誉と名に賭けて!w
島義猛、江藤新平儀これあり −−鎮西の地にて明治新政府の政敵大久保に屠られる
島、江藤、(山中一郎、香月経五郎)死罪
ただ皇天妃土の我が心を知るあるのみ×3=公式に残る、江藤が残した最後の言葉
>>234 親族が、生前の司馬遼に見せたと言ってた。なんせ当時の達筆だからね。「コスタリカ号でニューヨロクに回った」とか書いてあった記憶がある。
>>234 親族が、生前の司馬遼に見せたとか言ってた。なんせ当時の達筆だからね。「コスタリカ号でニューヨロクに回った」とか書いてあった記憶がある。
>231
>自分がわかんないのは、なんで佐賀と大した接点のない(出身地ではあるけど、特別
>力あるわけでも、影響力があるわけでもない。最近出世したってだけ)江藤が、
>いきなり佐賀で反乱の首謀になるのか???ってこと。
明治二年に半年ほど佐賀藩の家老みたいなことして藩政改革してるのと、
閑叟公の葬儀委員長をやってるから、佐賀出身の第一人者と捉えられてたんじゃね?
238 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/15(水) 20:17:30 ID:mGPDlCk40
>>235 サンクス
>>237 時流に乗ったとは言え朝臣だからね江藤さん 西郷もだっけ 勲位なんてお飾りみたいなもんだろうけども
それより長命して司法改革、あるいは地方の政治形態について立案企画して欲しかったなぁ
台閣にいなくても地方の首長やったりいろいろ手腕を発揮してくれただろうに
大久保さんも日本一等の頭脳の持ち主江藤さんを消す事は無いだろうにな
>>235 それって、直大公の日記ってこと?!!すんげぇ〜〜〜〜!!!!
読みたい!!(自筆じゃ読めないがorz)
その子孫が2chにいるのも、すんげぇ〜〜〜(T^T) 感激〜
おたくの先祖のファンだよぉ、って言われるの、いやだろうけどなぁ。。。
>>237 江藤って、閑叟の葬儀委員長なの?!なんで?副島とか大木のが妥当じゃないか?
葬儀委員長って、どんな位置の人がやるもんなのか知らんけど。
江藤が佐賀の第一人者ってことないだろ.....どう考えても。
>>238 朝臣は直正(閑叟)もそうでしょ。位が江藤のが上だったってことじゃない?
三位以上が朝臣だっけ?違うよね?
で、結局、大久保があんなに張り切って江藤殺してしまうのは、どうして?
どういう説があるの?西郷一派の牽制だろうけど、大久保にとって江藤が邪魔な理由がわからん。
井上と槇村のことがあるから、木戸なら多少わかるんだが。
240 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/16(木) 03:12:54 ID:Yj+Yo9iA0
西郷を念頭に置いてその他日本中に散らばる不平士族に
「政府を怒らせると前の司法卿=江藤輩であろうとも打ち首だぞ!貴様ら」って
見せしめ的な材料にされたっぽいよね 佐賀の地で急いで裁判開いて河野達判官に死罪にするように予め計画進めさせて
用意周到だもん大久保さん
>>239 明治初期の日記出し、鍋島の当時の開明的な動きが記載されてると思うから、歴史的価値があるなら、いづれ佐賀の資料館にでも寄贈しようとは思っている。
私じゃわからない!
>241
それなら寄贈前に、スキャニングして画像をアップして欲しいね。
スキャナに挟むのが厳しいなら、見開きをデジカメ撮影とか。
そんな重要なもの、寄贈されたら、結局、一般人は内容を知ることが出来ないから。
>239
維新後の論功行賞で、佐賀藩で唯一、報奨があったのは江藤だけなんだから、
新しい時代で一番活躍したのが佐賀人が江藤だと認識されていれば、当然、佐賀の第一人者だろ。
で、その後も、内政、民政に関わる仕事を主にやってるから、外交や学者として有名な副島や、
江藤の後ろばかりを歩んできている大木や、ちょっと軽い大隈に比べれば、
普通に、佐賀で一番有名だったんじゃないか?
頭の居ない反乱軍は、とりあえず手短に居て、かつ賛同してくれそうな有名人を誘って頭にするんだな。
長州の諸隊脱退騒動の時も同じ現象が起こった。
雲行きが怪しくなってから佐賀に帰還したことと、要請を断れなかったのが江藤の最後の失策か。
>>239 ところが実際は、明治政府の重鎮の中で一番江藤に目を掛けて引き立ててたのが木戸なんだな。
>>243 >ところが実際は、明治政府の重鎮の中で一番江藤に目を掛けて引き立ててたのが木戸なんだな。
基本的に、大久保以外全員が江藤への評価は高かったと思う。
三条は置いといても、岩倉でさえ内政関連や、政策の実行方法では頼りきりなとこもあったし。
井上、山縣はどう思ってたか分からんけどw
井上が留守政府との約定を破って彼を司法卿に推挙した張本人じゃないか…
元勲では後藤がいちばん仲良かったと思うけど、変な話で木戸は江藤に暖かいんだよ
大久保が江藤を決定的に憎んだのは、井上と喧嘩して大蔵省の予算をぶん取ったからじゃない?
自分の縄張りを直撃されたわけだから、大久保としては感情的になっていたのは否めない。
246 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/29(水) 15:08:17 ID:T7Qrsrsw0
司馬先生の「歳月」を読むと川路を介して、司法省が警察権を掌握すべきか
それとも内務省に帰属すべきかを描いてるね 結局、江藤が征韓論争いで敗れて下野
江藤の率いる司法省が警察権を握ろうとしたけども大久保の息のかかった内務省が取り返すって件り
ホントかどうかは知らん(史実はどうだったんだろ?
内務省設置はまさに明治六年の征韓論政変後だよね。
それも含めた権限を握る大蔵省を国家経営の核として近代化と安定を図る
そんな大久保に対して左院→司法省と言ういわば行政監視機関を代弁しまくった江藤は、
大久保には近代国家建設を私情で妨害するような存在に見えたんじゃないかなあ。
248 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/06(水) 14:44:46 ID:6/yUhWBR0
警察と司法と行政は本来は一定の自立性を持たせつつそれぞれが機能を果たすのが
近代国家の柱 江藤と大久保の微妙な距離感って一体何に遠因するの?
249 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/06(水) 15:06:37 ID:Rg+sDrDD0
江藤についての伝記で最良なのは毛利さんの?
>248
警察権に関しては、現在のような行政が持つものではなく、
司法が管轄していれば、「警察は民事不介入です」とか言って
悪質なクレーマー逃げる警察がおらず、個人商店が泣かずに済むだろうなあ。
>249
最良とかより、現状で入手できる最も資料の多い書籍が毛利さんのじゃないかな。
amazonで検索かけてみれば分かると思うよ。ほとんど絶版だから。
251 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/08(金) 09:57:48 ID:DigqbvRn0
絶版になってる書籍は古書店を廻るか図書館に保管されてないか?
探すしか手立てがないのかな? 江藤さん、もっと光を当てるべき偉人だと思うぉ
252 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/08(金) 13:26:40 ID:DigqbvRn0
司馬先生は大久保を江藤を主人公とする歳月の中で
ある章の書き出しを「以降、江藤に影響を与える人物として〜〜〜大久保が大きな存在になってくる」
みたいに書き始めてる 結局、江藤は大久保に睨まれて政治家としては根回しも下手で
結果的には大久保に潰された‐という風に(大ざっぱに言って)結論づけてるように読める
同じ台閣に名を連ねる盟友 そんなに犬猿の仲だったのかなぁ?
何度も言うが鎮西の乱の事後処理裁判で江藤輩の首を落とすまでの苛烈な処理をした大久保
何でそこまで憎んでたんだろうか 感情がもつれあってたとしたら
後世の我われは史実を読み解く位では原因が分からないよなぁ
維新前後で大勢人死んでるけど
この人と大村益次郎の二人だけでも後数年、長生きしてたら今の日本はもっと変わってただろうなあ
254 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/09(土) 11:29:03 ID:fMzQ0g8a0
NHKのヒストリア、来週は江藤主役らしいな
256 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/16(土) 07:21:45 ID:UB69OWu6O
>>255 5月20日だね情報ありがとう
裁判員制度絡みなんだろうけど
もっと色んな人に注目されてほしい
番宣見た感じだと司法改革と銘打って裁きの場で拷問を使った場面がちらっっと映ってたな
江藤さんの功績を少しでも知る機会になればいいとは思う
もっともっと初代司法卿に光を当てて欲しい
258 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/18(月) 17:43:04 ID:w7If4Gc/0
江藤先生が特集組まれるのは明日か明後日の番ですかね?
いよいよ近づいてきましたね楽しみです
わくわく
で、裁判員制度の遠回しな批判番組だったら笑うしかないな。
最近のNHKは、反日や遠回しな政権批判の番組が増えてるし。
確かにゆとり世代が大学〜就職期を迎えて一気にマスゴミの制作スタッフの質も低下したと思う
最近のNHKの番組の質の劣化は酷いな
裁判はじめて物語・明治の人はどうしたの?江藤新平の改革▽泥沼の離婚訴訟
今夜22時放映〜NHK総合 お楽しみにぃ
ヒストリア始まった
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/20(水) 22:23:49 ID:u2+gPfcLO
江藤新平は義士ではないか
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/20(水) 22:26:45 ID:u2+gPfcLO
「井上馨有罪」
265 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/20(水) 22:29:23 ID:u2+gPfcLO
江藤先生、長州閥と戦う
山城屋事件
小野組事件
見てきた
胸が熱くなった
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/20(水) 22:48:43 ID:Jqto3cUK0
佐賀の乱の後、佐賀自体が消されちゃうんだ・・・
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/20(水) 22:56:56 ID:u2+gPfcLO
江藤新平は左翼でも
マルキストでもないが
正義のため権力者と戦いました。
まさに義士。
ちなみに、左翼やマルキストが
権力と戦うのは正義の
ためでなく己の願望(共産革命や共産主義)のためという
不純な動機による。
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/20(水) 22:59:40 ID:evwK1VLn0
ヒストリアで大久保利通がほとんど登場しなかったのは現政権への配慮ですか?
270 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/20(水) 23:02:37 ID:Jqto3cUK0
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」
江藤は葉隠武士
>>270 葉隠れは佐賀鍋島の教えだが 江藤は自身の事を志士と認識してはいなかったと思うよ
>>268 義士という(言葉の定義自体はともかく)のも江藤さんに当てはまるのかどうか?
>269
白州次郎のドラマでは、白州と吉田茂の親密振りを示す、吉田家と麻生家の縁談を
取り纏めたエピソードがなかったから、別に、現政権への気は使ってないと思うよ。
大久保利通の男系子孫で影響が強いのは、政治の世界じゃなく、歴史学会だったと思う。
>271
んじゃ、「いひゅうもん」
司馬遼が持ち上げ過ぎただけ
司馬は司法職務定制にも小野組転籍事件やマルアルス号事件にも興味なかったから。
政治党争に仕立て上げちゃった。
尾去沢銅山事件でも「内借」の解釈を島本仲道が無理とか言ったことになってるが、
べつに慣習なら無理でもないだろう。
東京上等裁判所の判決全文は読んでないけど、情を知らなかったってことで罰金払ってる。
何かソースあるのかな。
「歳月」は史実に基づいたフィクションですよね
それとも事実とは大きく離れた虚構寄りの作品なんですか?
>275とか見ると面白いだけじゃ済まされないのかな?
司馬先生の事 じっくり調べて作品を著わしてるとは思うのだが
あまりにも事実とかけ離れてると読者にも間違った認識を与えるかもね
>276
司馬遼太郎の作品は、人物評価や世情の見方は司馬史観と言われるものだけど、
記録や事実に反することは書かれていないよ。
所詮は小説だから、多少の善悪分けをして面白く脚色してるけどね。
アンチ司馬ってのがいるけど、それは歴史小説を歴史書だと思っちゃってる人だろうね。
でも「判例法に従えば助命は当然」と言う誤解を招く推測はどうかと思った。
首魁は処刑と言うのがむしろ「判例法」なので
問題は死刑相当の罪なのに本省送致と言う正規の手続を取らなかったほうにあるでしょ。
「歳月」は司馬の維新後の大久保の有司専制に対する問題意識が色濃く出た作品だと思う。
あり得た選択肢として江藤の「司法国家」を対置させたから、大久保との政治闘争にスポットが当たるんだよね。
それはそれで注目すべき視点なのは確かだが…
正直、司法・立法・行政監視と言う実務家の江藤を見る人間からは違和感を感じるのも確か。
江戸に送らず佐賀で裁判を開いて死刑宣告、即日執行したのがマズイって事?
本省送致って事は江戸で裁判を行うべきであったと?
獅子の時代の細川俊之演じる江藤新平は非常にイメージ通りでいいぞ
>279
一時的とは言え、大臣の任から外れていた大久保が、
たったの数分の審議で処刑を決定し、即日執行することは職権乱用と言える。
現代で例えると、内乱を企てた者を捉えてすぐ、統合幕僚長の独断で処刑するのと同じ。
そもそも、大久保は佐賀の乱の戦闘終了後に全権を解かれて、総督は小松宮彰仁親王になっていた。
しかも、大久保からすれば、上司にあたる正院の三条、岩倉や、同格の参議らからの、
江藤を東京へ連れてくるようにという勅使を、江藤処刑完了まで1ヶ月以上無視し続けた。
大久保の功績や能力は関係なく、こういう行動は近代国家、法治国家としてマズいだろ?
余程江藤が邪魔だったんですね
大久保がそこまでやって
江藤を殺したがったのは何でだろうな。
この二人、政治制度改革案を共同で執筆してたりするけど
決定的な対立があったとすれば、その後なのか。
それとも司馬先生の描くように、とことんソリが合わなかったのか。
政治制度立案に際して異論があっても私的な感情を挟むような狭量な仁じゃないと思うけどな
大久保さんも江藤さんも 歳月は大久保と江藤の私的な闘争という視点で司馬さんが描いていて
それは読み物としては充分面白いんだけどね 江藤さんの(史実に基づく)身辺雑記とか、当時の司法省の役人や
佐賀の乱に参加した志士達の見た江藤像ってのが伝わってこないというか、そんな記録残ってないのかな?
江藤さんは遅れてきた(佐賀勢力)から政治改革に手腕を振るうとしても大久保宰相という大きな壁にぶち当たる場面は予想はできるんだけどね
司馬さんの作品だけじゃどうも二人の巨人の衝突を描ききれていないと思うんだな
ウチの地元あたりじゃ良くいわれないね、江藤さんは。
田手川(吉野ノ里遺跡の線ね)の防御陣地を突破された後、
遅滞戦術をとって神崎市南部を焼き払ったあげく脱出したからね。
後始末は、島義勇とその一派に押し付けて。
上げ潮の時には調子が良い、軽い人物というイメージがあるな。
枕を城に撃ち死にせずに配下を置いて遁走したんだよな鎮西の乱で
あれは武士の美学に反する行為だね
× >枕を城に
○ >城を枕に
恥ずかしすぃ、、、
まぁ、江藤も島も、反乱を起こす気なんて、最後の最後まで無かっただろう。
反乱発生前に討伐軍が差し向けられていたというのが分かっていても、
軍が到着したときに何事もなければ、軍を動かした大久保の面目丸潰れ。
だからこそ、二人とも各々の党に対して軽挙妄動を慎むべしと言っていたわけで。
ところが、常時全力挑発野郎の岩村高俊の鮮やかな挑発で憂国党の若い衆が暴発しちゃったわけだ。
そうなると、せめて防衛体制を整えないといけない。
でも、その防衛陣が破られて佐賀城が丸裸の状態になっちゃうと、抵抗するだけ死人が増える。
だからこそ、二人とも別々ではあっても、そろって鹿児島へ逃亡したんだと思う。
というわけで、>285のいうような島と憂国党に後始末を押しつけたというのはちょっと違うと思うな。
征韓党、憂国党双方の降伏を「否」とする者達に後始末を押しつける形になってしまったというだけで、
意図的にやったわけでは無いと思う。あ、でも焼き払ったのは誰の指示なんだろ?
キョロマの岩村ですかw
だが大久保は反乱の発生を前提に行動しているね。
岩村高俊はむしろ任務に忠実だったので、責めを押し付けるのは同意できないんだな
何と言うか、大久保は政治家としての力量は評価するんだが、
予言の自己成就みたいな行動を取る気持ち悪さはあるね
特に西南戦争の時の「俺と西郷が会えば片付く」と言う超楽観的発想と比較すると
島義勇と大久保の関係は知らないが、島も梟首、それ以前にも雲井龍雄も梟首だし、
江藤への私怨ではなかったと思うんだが、まあ印象は良くない…
291 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/31(日) 15:02:40 ID:6i4bVjMJ0
>>288 >焼き払ったのは誰の指示なんだろ?
江藤の命令と地元では伝えられている。
田手川の線を突破されて(田手川の流れが血に染まったという)、
佐賀城東方の神崎市千代田町境原の迎撃戦で大敗した後、
北方の三瀬村方面も別働隊に突破されてとの報を受けて、
自派の解散を決定して(島の一派は佐賀城まで後退した後に解散した)、
自らの脱出援護のために集落に火をかけて焼き払った。
政府軍はその消火に協力したと地元では伝えられている。
佐賀藩初期の「治水の神様」成富兵庫茂安が、その設定した遊水池の佐賀市金立町で、
鬼と呼ばれているように、千代田で江藤を良くいう人は今でも居ない。
戦場を落ちのびて土佐の山中で発見されて地元の老子の家に招かれて将棋を打ってる際に
浦、浜谷という者に複製写真を見せられつつ「貴方=江藤、はこの仁(=江藤が江戸で撮った写真)を存じておられるであろう」
って質問される場面があるんだけど司馬先生の「歳月」に
西郷も林有造も敗残の将江藤を匿う事ができなかったのかな?そりゃ自分にも嫌疑、追捕の手が迫るのは怖いですけどね
>291
江藤の指示だと、民政に命を懸けてた人の真逆な行為なだけに信じがたい。
朝日山から佐賀脱出までは
・朝日山を破られたのが22日昼頃
・佐賀の乱最大の激戦、田手川の攻防の敗戦が23日夕方
・江藤、佐賀城へ退却
・23日夜、徹底抗戦を唱える島憂国党とは逆に、江藤征韓党は解散。
・江藤、同日夜、佐賀を脱出。
というわけで、田手川退却から佐賀脱出までの時間で、
市街南部の焼き払いを指示して実行するには、時間的に無理がある気がする。
というか、そんなことするヒマがあるなら、さっさと退却した方が早い。
神埼市街から田手川対岸なら約1km。当時の大砲なら余裕で届くので、
政府軍側の大砲によっての火災被害ではないかという気がしてならない。
むしろ、この時代の市街(に近い)戦で、火災被害が無い方がおかしい。
で、その後、防火作業をするのは、当然、戦勝側の政府軍になるわけだから、
反乱軍のせいで火事になった=焼き払われたという認識になったのではないだろうか。
と、思うんだがどうだろう?
戦場を捨てて逃げたのは事実のようですね
しかし、憂国党の連中も後で江藤輩の遁走ぶりを聞いて改めて
「こんな頭目の下で戦をやってたのかワシらは」と嘆いたであろうね
西郷桐野ら西南戦争で散った薩摩隼人の潔さとは大違い
信長の時代には大将が生き伸びれば後日盛り返して再び戦に出てこれるという希望を託して
大将級を墜ち伸びさせるという手立てがあったが
江藤は臆病だな
無駄に死に急ぐなと吉田松陰も言ってますが?
「死して不朽(ふきゅう)の見込みあらばいつでも死ぬべし 生きて大業(たいぎょう)の
見込みあらばいつでも生くべし」
生き延びても望みは無いというかもしれないけど、そんな事は誰にも判らない。
>294
そう言ってやるのは酷だと思うよ。
元々、江藤は佐賀県庁を襲撃しようなんて思って無かったわけだし、
暴発したのは征韓党ではなく憂国党で、江藤の与り知らぬ者達に巻き込まれただけ。
戦場を脱出したのも、佐賀士族が暴発せざるを得なかった理由、
乱を起こす前にすでに討伐軍が差し向けられたことや、岩村県令の横暴等を
東京の天皇以下政府高官の耳目が集まる前で明らかにして、
佐賀士族の無実を、自分の死罪と引き替えに得ようと思ってのことだったわけだから。
江藤が馬鹿な点は、暴発前の緊張状態の時に、大久保に面談を申し込まなかったことや、
急いで東京へ戻り、何故の軍の差し向けかの是非を政府に問うことをしなかった点にある。
>>294 西郷の挙兵決定だって強い批判が内部からあったよ。
政府が西郷に刺客を差し向けたなら、三者が上京して政府を詰問すれば済む話、
と言う永山弥一郎の正論や、その亜流に対して「暗殺の危険がある」と突っぱね、
篠原は「死を恐れるのか」桐野は「断の一字あるのみ」とか強引に押し切ってしまった。
挙兵反対派の幹部はみんな沈黙させられてる。
西郷も暗殺への不信感があったのか、自身に関することなのに任せっきり。
結果「日本唯一の陸軍大将を擁する」と言う権威が薩軍の名分になったから、
西郷の身辺警護はまるで囚人状態。利用したほうも利用されたほうも無責任だよ。
最後は西郷と桐野は対立状態だったとも言われてるじゃない。
江藤はよく事態が分かってなかったし、軽率だったが、最初から反乱を起こす気も、
また追捕後は法廷での裁判じたいは免れる気もなかったわけだから。
一体何しに西下したんだか?
まるで火に油を注ぐ結果になっただけじゃない江藤さん
>298
江藤と島で一旦は沈静化した。
しかし、岩村県令が、兵を率いるハズの無い県令にも関わらず、軍を率いて佐賀城に赴任し、
言外に佐賀士族を掃討すると込められて、その夜に佐賀士族が暴発しちゃったわけだから、
江藤や島が、火に油を注いだわけじゃない。
岩村は、自身が意識しなくても他人を激怒させるのが特技だしね。
河井継之助の例が良い例だと思うよ。
油(佐賀士族)に、火(岩村)が付けられたという方が正しいんだろうな。
どうして県令ごときにそんな権限があったの?
それは大久保が到着する前?
江藤、島も着く前にその県令が佐賀士族をあおったということ?既に江藤、島はいるの?
歳月読んでないんで、その辺の日にち的な動きがわからん。ぜひおせーてくれ!!
香月はどっから合流?東京から?
岩村って最悪の人物だよね 若さゆに暴発しちゃう
キョロマ、ケトッパチの向こう見ずの体質
こんなバカに鍋島武士が火付けられたのだけが可哀想 大久保も岩村を派遣するとはね
木戸も「よりにもよって岩村のようなキョロマをやるとは」って嘆いたとも。
302 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/07(日) 00:23:34 ID:HyJatxJe0
大久保はわざと岩村を派遣したんだよ。
12/8 岩村通俊権令より大隈宛書簡「憂国党1000人が城下の寺院を占拠。対抗して征韓党2000が旧藩校を占拠。中立党500も発生どうしたものか。」
12月 征韓党の中島鼎蔵、山田平蔵が、江藤、副島に佐賀へ帰って指導(鎮撫)にあたって欲しいと嘆願にくる。
1/13 江藤、東京発
1/14 岩倉具視、皇居付近の赤坂喰違にて、土佐士族に襲われる。
1/下 江藤、伊万里着。嬉野温泉に逗留。
1/25or26 江藤、佐賀に入る。
1/28 大久保利通、佐賀県権令の岩村を更迭し、実弟の岩村高俊を後任に任命。(木戸は傲岸無礼な岩村では状況悪化を招くと反対)
2/2 江藤、佐賀士族の興奮振りや手が付けられないとみて、長崎の義弟の元へ行き静養。船遊びなどを行う。
2/3 福岡県庁から、佐賀城下不穏の電報が届く。
2/4 陸軍省、熊本鎮台に佐賀出兵を命じる。 島義勇、出兵命令を知り三条実美に面会。三条の依頼で佐賀鎮撫に向かう。
2/上 島、佐賀に向かう船で、岩村高俊に会い、不逞分子を一網打尽にしてやるという発言と、文官の身で兵を率いる準備を行っている事実を知る。
2/10 大久保に鎮圧のための軍事・刑罰の全権が与えられる。
2/11 島、長崎着。江藤と面会し、岩村高俊の暴挙を阻止し、郷土防衛を協力することに意見が一致する。
2/12 江藤、佐賀へ入る
2/13 征韓党「決戦之議」を発表。(攻めてきたら自衛戦争を行うぞ!てな内容)
2/14 島、佐賀へ入る。大久保、佐賀討伐のため東京発。
2/15 岩村、半個大隊650名を率いて佐賀入城。(佐賀士族側「その軍は我らを討つためのものか?」 岩村「お前らに答える必要無し」)
2/16 佐賀士族、県庁攻撃を開始。
2/18 佐賀士族、佐賀城占領に成功。
2/19 大久保、博多着。政府、佐賀県下暴徒の征討令を発布。
2/20 政府軍、佐賀県下に進撃
2/22 政府軍、朝日山の防衛戦を突破
2/23 政府、征討総督に東伏見宮嘉彰親王、征討参軍に山県有朋陸軍中将を任命。(この時点で大久保の全権は無くなってる)
江藤、征韓党の解散宣言。夜、佐賀脱出。
2/28 政府軍佐賀入城
3/1 江藤、鹿児島着
佐賀士族が県庁攻撃開始したのは夜明け前で、示し合わせて攻撃をしたのではなく、
誰かが突発的に暴発したということだから、案外、岩村側の自作自演だったりしてなw
大久保が着たときに、反乱が起こってなかったら大久保が困るしってことで。
大久保のアクションも、江藤が佐賀に入った直後にあるのが怪しく感じる。
1/25の佐賀入り -> 先に岩村を派遣して挑発させよう。
2/12の佐賀入り -> 岩村がもうすぐ着くし、今から行けば始まる頃かな
という感じで。
キョロマの岩村を派遣して挑発させて江藤以下佐賀士族をおびき出し
天下には政府軍が追討の為に出動する印象を植える
大久保の作戦通りですねw 江藤醜体哀れなり「大久保日記」より
305 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/07(日) 22:00:10 ID:EqOvDrcf0
ちゃうちゃう、「江藤醜態笑止なり」だよ
江藤、判決日の法廷での最後の言葉
「ただ皇天后土の我が心を知るあるのみ」
3度叫んだ
同日午後死刑執行
江藤スレは立つ度に、大久保の謀殺立証が出て、
詳細な立証が出てくると、「江藤醜態笑止なり」ってレスがあって、
最後は「ただ皇天后土の我が心を知るあるのみ」で思考停止しがちだよなぁ。
かと言って、明治六年政変の話になると、非論理的な嫌韓厨や、、
大久保はスゴイんだってことで、思考停止した大久保信者が沸いて鬱陶しい。
江藤最後の一年間のネタじゃなく、明治6年以前のネタが出てこないものだろうか。
明治初年の、三条、岩倉のブレーンとして活躍してたころなんて普通に素晴らしいと思うんだが。。。
最後の言葉が印象強過ぎて・・・
廃藩置県の考えを戊申戦争の時点で考え意味を理解できない板垣をして「殴ってやろうか」と思った
とまで言わしめた時代の先取り的な発想の持ち主、江藤
長州嫌いの江藤に終生好意を持ち続けていた木戸
やはり、江藤の優秀な頭脳に惹かれたんだろうか?
伊藤博文が大久保利通と師弟関係を結び、
山県有朋も井上馨も寄りつかなくなったから、ああ江藤君はよかった、となったのでしょう。
310 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/10(水) 07:28:41 ID:GTnXq0Jg0
伊藤も山縣も松下塾出身でしたっけ? 偉くなっちゃったし
「俺をいつまで寄宿時代の小僧と思ってる?木戸先生は」って伊藤は歯噛みしたんですよね制韓論で東奔西走してる時期、
木戸さんに「挨拶に来ない、伊藤は恩を忘れたか?」って僻みっぽく言われて。
木戸さんも恨みっぽく神経質な性だから後輩が敬遠しちゃうんだよ
江藤さんに好意を寄せてたのは寄りつかなくなった後輩達への当てつけか?
311 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/10(水) 08:16:52 ID:z/R2vwDcO
江藤とは単純に思想が近いからでしょう。
でも、井上や山縣が江藤から金がらみで江藤から追及受けいた時はかばって奔走していたし。江藤が正しいと思っても、後輩のほうがやっぱりかわいいのでしょう。
山縣とは参議になりたかったのに木戸が軍人が政治に関わっていけないと考えていて反対していて関係は微妙だったし、伊藤は洋行中日本をキリスト教化するべしと主張して木戸に叱責されてギクシャクしてたし。
木戸がもう少し体力あったらな。
でも岩倉使節洋行中に江藤自身が正義のために長州追い払ったから
自業自得な気もしない皮肉。
ところで、江藤を司法卿に推薦したのって井上なんだなw
>313
>ところで、江藤を司法卿に推薦したのって井上なんだなw
たぶん、司法なんてどうでも良いポストだと思ってたから、ちょっと目障りだった佐賀者に、
どうでも良いポストを与えて大人しくさせようと思ったんだろうな。
元々、司法権の独立を目指して司法省設立に奔走したのは江藤だから、
井上が推薦しようがしまいが、設立当初から江藤を司法卿にという声が
正院からも司法省内部からも上がってたし。
そういえば、司法卿就任以前の江藤とその周辺の人間関係ってどんなもんだったんだ?
>315
佐賀出身者では、主要な要人全員が枝吉神陽の義祭同盟(松下村塾の佐賀版)出身者。
副島種臣は枝吉神陽の実弟で、第一の親友は江藤新平だと言っている。
明治期には、藩主、鍋島直正からも、「江藤は働き者で副島は学者なり」と最も信頼されていた。
長州閥からは、木戸からの信頼が最も厚く、井上・山縣の汚職事件以外は、常に江藤に目をかけていた。
気質的には、大村と気があったようだが、親交が始まった途端、大村が暗殺されてしまう。
薩摩閥では、鳥羽伏見直後に、大久保と面会し、以後、岩倉-大久保ラインからの立案依頼が相次ぎ、
大久保・江藤連名で「国政改革案」を太政官へ提出するに至るが、その後、数々の大久保案が
江藤のたった一言の反論で廃案になったことから、江藤に少なからぬ恨みがあったかも知れない。
西郷は、互いの家に往来する茶飲み友達。新政府でずっと古着だったのが西郷と江藤だけだった。
公家では、三条・岩倉ともに、実行案は江藤に頼りきりな面が強く、維新の論功行賞や、
国体の草案など数々の重要な事案の起草を江藤に依頼している。
土佐系では、小笠原唯八と江戸偵察に向かった縁で仲良くなり、小笠原戦死後に
小笠原の同士だった板垣退助らと親交を結ぶ。
こんな感じ?
政府高官になっても個人の贅沢は一切せず、出身地に関わらず大量の書生の衣食住や学費をみていたので、
基本的に嫌う人は少なかったんじゃないかな。
書生の一人だった福島安正は、自宅の神棚に、生涯、江藤を奉り続けたほど恩義と尊敬を受けていたりする。
317 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/18(木) 09:15:44 ID:IIipDQbF0
>書生の一人だった福島安正は、自宅の神棚に、生涯、江藤を奉り続けたほど
福島が学資が不足した為勉強を諦めざるを得ない状況を知り江藤が学費を建て買えたんですよね
福島が病気で寝こんだ時に終夜附き添って看病したのが江藤
318 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/18(木) 12:00:01 ID:5958cdg+O
司馬作品の感想文スレかよw
>318
司馬遼太郎の「歳月」にしても、その他多くの書籍にしても、
「江藤南白伝」を元に書かれているから情報が限られるのは仕方ない。
でも、「歳月」に書かれてなかったというか、新しく発見・公開された資料を
元にした書き込みも少なからずあるよ。
まあ入手可能な江藤関連書籍自体、5冊あるかないかくらいだから、
結局は情報源がものすごく限られてくるわけだけどw
佐賀県民にもっと参加してもらいたいねw
江藤に詳しい人、教えておくれ。
江藤が文部大輔を辞めたのっていつ?しばらく司法卿と兼任だよね?
江藤の後任は、田中?それとも野村?
あと、岩倉使節の頃、ヨーロッパ行くはずだった江藤が、その費用までもらっておいて
行かなかった理由は何?参議だから行けなかった?
江藤の性格だと「行かなかった」だと思うんだが。
江藤新平のスレがあったとはうれしい。
だいぶ前に検索して、見当たらなかったので、
日本人受けしないキャラだよなと思った記憶がある。
>>314 いまでも、法務大臣はどうでも良いポストだな。
322 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 11:18:18 ID:LtURBAO70
>>320 江藤の文部省在籍は明治4年7月18日から8月4日、7月28日に同郷の大木喬任が
文部卿に就任。
文部省の設立は江藤の功績で、教育の基本方針は江藤が作った。(学校の議)
これがなければ、小学校で漢文の素読とかやらされていたかもしれない。
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 12:33:02 ID:jtpffEdU0
私が作家の司馬遼太郎さんでふと疑問に思うのは江藤新平は書いてなぜ山田顕義は書かなかったのかという事。
司馬さん晩年の頃はなぜ山田市を書かないのだと苦情がかなり出たらしい。
同じ司法卿じやあないですか?。
司馬遼太郎さんは最後まで生きて功を成し遂げた人より
江藤や大村益次郎の様に無残な死に様の人物に興味があった?。
>323
ヒーロー性や悲劇性が無ければ小説にはなりにくいわな。江藤だと悲劇性がネタになる。
でも司馬さんの「歳月」の原題は「英雄たちの神話」なんだよな。変な話だ。
「佐賀の乱は政府の謀略だった」 佐賀の研究会が冊子を中学校に配布
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saga/news/20090626-OYT8T01252.htm 明治政府で初代司法卿を務めた江藤新平(1834〜74年)が首謀したとされる
「佐賀の乱」は、政府側の謀略だったとする説を支持している明治維新史研究会
(佐賀市、太田善郎会長)のメンバーが25日、この説を載せた2種類のオリジナル
冊子各60冊を佐賀市教委に贈った。市内の中学校18校に配られる。
佐賀の乱は1874年、県内の士族の一部が起こしたというのが通説。
政府軍が鎮圧した後、江藤は首謀者として処刑された。これに対し、毛利敏彦・
大阪市立大名誉教授が近年、薩摩(鹿児島県)出身の大久保利通が江藤を
抹殺するために仕掛けた謀略だったとの説を展開している。
毛利名誉教授は、佐賀市民会館などで定期的に開かれている明治維新史研究会の
勉強会でも講師を務めている。研究会が市教委に贈ったのは、勉強会での毛利名誉教授の
話をまとめた「佐賀戦争、百三十年目の真実」(B6判、42ページ)と「鍋島閑叟と江藤新平」
(同、33ページ)。
この日は、太田会長ら3人が田部井洋文教育長に冊子を手渡した。太田会長は
「歴史をねじ曲げて江藤を奉るつもりはなく、子どもたちに史実をきちんと伝えたい。
『佐賀の乱』ではなく『佐賀戦争』と表現すべき」と話し、田部井教育長は
「中学校で新しい説を紹介する資料となる」と感謝した。
佐賀市議会6月定例会の一般質問でも、教科書での「佐賀の乱」の呼称変更を求める気が
あるかと議員が質問。田部井教育長は「検討したい。諸説があるので、より深い研究がされることを
期待したい」と答弁した。
326 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/30(火) 03:09:10 ID:6qdWDMt/0
いつも思うのは江藤の周りにいた人が江藤についての口伝を残せばよかったのにということ。
だから江藤像ってのが僅かな資料から残る「理路整然とした思考を持つ有能な官僚」ってこと以外
いまいち掴めない・・・。
南白伝から歳月に連なる一連の江藤像は決して間違いじゃないんだろうが
それだけで所々見せる矛盾した行動(洋行中止、大久保井上あたりとの関係性の悪化、
するとは思えない佐賀の乱での暴発)の理由が全部分かるとも思えない…。
薩長憎しだけでこれだけ頭のいい人が将来を見誤るものだろうか?
かといって歴史法学系の本だと淡々としすぎてて味気ないし。
そういう意味で大隈や副島や大木にはがっかりだが、
去年初めて墓に行った時に見た明治14年?ぐらいの副島の毫には
ちょっと泣けた。
327 :
320:2009/06/30(火) 07:50:44 ID:/fWXReqe0
>322 ありがとう。驚くほど短いんだね。文部省にいたのって。
その短さじゃ、実際、留守政府で文部省やってたのは大木ってことになるのか?
>>325 の教科書に載るという文章を読みたいと思って検索してたら、「佐賀戦争、百三十年目の真実」
というのに対する反論の方がみつかった。中野悟一日記の監修した人の論みたいだけど
個人ページっぽいからURL貼らないけど、面白かった。
自分は、なんで江藤が1)征韓論者なのか?つーのと、2)戦争を起こした(のであれば)のか?
つーのがわからん。どういう得が江藤にあるんだろか。
328 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/02(木) 03:14:53 ID:nwoMmK/50
江藤に関する書籍って目ぼしいのは歳月以外に数冊ある程度?
そういうときは、アマゾンで検索すればいいよ。
>>321 > いまでも、法務大臣はどうでも良いポストだな。
戦前の司法大臣と言えば、大蔵大臣や内務大臣と並ぶ超重要ポストだった。
政党のナンバーツーがついたこともあるとか。
検察は司法大臣の下部行政機関と観念されていたし、
裁判官の人事権があるから、今の最高裁の職権をも一部持っていた。
めっちゃ強力。
司法権の独立=裁判所(裁判官)の独立が理想だが、
当時、司法省が裁判所に人事を通じて介入できたことを前提にすると、
司法権の独立=司法省の独立 ということになる。
(政争に用いられると、統帥権の独立とほぼパラレルの問題がある)
だからこそ司法省のトップには
首相とツーカーの実力者を配置して掌握する必要があった。
よく考えると、江藤存命中の司法省って、実質的に、司法権と立法権を持ってたんだよな。
で、さらに内務省が出来てしばらくまでは、警察権まで持っていた。
そんな状態で執拗に汚職政治家を追求すると、本人にその気がなくても
何らかの野心を持ってると思われても仕方無いと思うな。
しかも、三条・岩倉からは国政に関する意見を常に求められ、外交の副島とはツーカーの仲。
軍事の西郷とも、個人的交遊があり、新政府高官で清貧コンビとして巷で有名。
発案から実行までの過程は違っても、結果としては独裁状態と言ってもおかしくない。
そういうところを危険視する大久保のような人物からすると、抹殺しなければいけない人物なのだろう。
殺さなきゃならないほど、影響力があったのか、ってとこがわからんのだよね。
あの時期、江藤はヨーロッパに行く予定だったわけでしょ。とりあえずヨーロッパに
送ってしまえば、大久保はやるつもりなら、江藤一人殺すくらいわけない。
それをやらないで、日本でああいう大騒動になったのは、大久保や木戸の見積もり以上に
江藤に影響力があったか、西郷一派との提携がほぼ確定だったか、単に誤解か、だと思う。
全部かな、って気もするが。
>331
留守政府が江藤の独裁体制なのは確かにそうなんだけど、どうして可能なんだろうか。
自分はやっぱ、江藤って背景が弱いと思うんだよ。あの人、弘道館も出てないよね?
状況的には独裁可能なんだけど、現実として可能なのかな?というのが不明。
現実に殺されそうになってるしね。
>332
江藤自身は洋行を楽しみにしていたけど、三条と岩倉から再三の延期要請があって、
結局そのまま征韓論争に突入して、ついに機会を逸したんだったと記憶してる。
影響力としては、薩長閥のような派閥の力ではなく、個人的交友関係においての影響力しか
なかったかも知れない。そういう個人主義的なところが佐賀者の特徴のように書かれている
場合もあるけど、幕末に組織力を使った行動をしなかったことが要因なんだろうね。
洋行の必要性に関していえば、佐賀藩出身者の多くは、長崎があったため、オランダ語以外の外国語を
読み書き(会話は別)できた者が多く、江藤はロシア語、大隈は英語を習得している。
当然、江藤はロシア事情に詳しかったと見るべきで、ロシアの拡大主義を警戒しての征韓論だったのかも。
だから、佐賀者は洋行の必要性が、ある意味低かったと言えるかも知れない。
江藤の場合は、図海策でも開国論を唱えたり、プロイセンの急伸から、プロイセンが引き金となる
欧州大戦を予見していたりするので、洋行の目的も、図海策の内容からすると、
民衆の暮らしぶりを見て、殖産興業の方向性や、法律の良いとこ取りをしようと考えていたのかも。
何にしても、佐賀者の場合は、他藩出身者のような勉強しにいくというよりは、
知識の確認や、理解を深めるのが目的だったんじゃないかと思える。
長文スマンの〜。
334 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/03(金) 23:00:15 ID:mOkKT7VnO
司法官 高辻正巳
>>325 『英雄たちの神話』は。当初西南戦争までの予定だったらしいから、たぶん前半の主役が江藤で、後半が西郷だったんだろう。
じゃあ、後編の構想がふくらんで、翔ぶが如くになったんだろうね。
江藤が洋行を望んだのは箔付けの意味も大きいんじゃないかな。
しかしロシア語って、修得がどえらく難しいと言う印象があるんだが
実際どの程度できたんだろう?
338 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/21(火) 11:49:30 ID:bcHrFsKsO
エタとかw
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/25(土) 11:36:22 ID:2DTbhnyU0
江藤は対露戦略を日本の大陸アジア防衛の要としてたみたいだけど
これは鍋島藩主の考えにも多少影響受けてる?
対して島津薩摩藩主は南進論者でベトナムだかに日本の首府を定めて積極的に進出すべきだと説いてるんだよね
まだ、日本が欧米列強の仲間入りどころか藩が群雄割拠してた時代
江藤の頭を常に悩ませていたのは露西亜の南方への進出
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/28(火) 22:15:52 ID:1YGhJOsO0
江藤新平の護憲論について教えてくださいm(__)m
直弟子の西郷隆盛も北辺防備を重視してた。時代の流行じゃないのかな
反対に交換条約を纏めた榎本武揚なんかは「恐露病」に批判的だった。
江藤と榎本じゃ時代が違うんじゃないのか。。。
343 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/30(木) 21:02:14 ID:ouOZJZF5O
江藤って写真見たけど
卑劣そうな顔してたな
いかにも腹黒そう
大嫌いなんだよな、コイツ悪質な佐賀人だけに
顔が江頭にそっくりで
驚いた
榎本の開拓使出仕が明治5年3月、江藤の司法卿就任の直前。
駐露特命全権公使になったのが明治7年1月。佐賀の乱の直前。
榎本は海外で国際法を学び、江藤は国内で両ブスケとフランス法を研究しただけ
でも江藤の文章や草案の議論は理詰めが強くて、司法官らしい司法官の適性がありそう。
榎本は官僚とか企業弁護士みたいな感じ。興味の持ち方や発想の特性が違うんだね。
346 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/01(土) 12:28:42 ID:T5VvOwbGO
江頭
347 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/02(日) 22:59:20 ID:O1y/HFy00
/  ̄ ̄ ̄ \ 「西郷・大久保・木戸マンセー! あとはカス!」
/ / vv
| | | ←三傑厨
| (|| ヽ _______
,ヽヘ / | >_____ | ←江藤
/\\ /  ̄ |⌒ v⌒ヽ |__|
/ \\ __ / | .| . ノ )
/ `\| < ` o `- ´ ノ
| ヽ > /
| | l | /▽▽\
____
\ ───___
<  ̄ ̄ ̄ ̄|
> _________ |
 ̄ ̄ | / \ | |
| /⌒ヽ /⌒ヽ | |
| | ‘ | i ‘ | | | (…何万回聞いたか知れない)
| ヽ.__ノ ヽ._ ノ レ⌒ヽ
ノ o 6 |
/__ \ _ノ
> ノ
<、___ イ
|───┤
/ |/ \ / \
348 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/08(土) 16:29:32 ID:Af3l535p0
>343
腹黒い男が暗殺の憂き目に遭うかもしれない危険を冒してまで
廃藩置県を進める運動に邁進すると思う?
西郷以下薩摩の連中は折角、徳川政権倒したのに功労者である志士(藩の下級武士)を優遇するどころか
先ずは藩を刷新し(その後の)中央集権政府を作ろうという流れへの布石
349 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/22(土) 16:15:00 ID:80Ybpr5z0
>348
>暗殺の憂き目に遭うかもしれない危険を冒して
一回、暗殺団に襲われて重症を負ってるよ。
確か司馬遼太郎の歳月にも書かれてたエピソードだけど、
切られて、一喝して追い払ったんじゃなかったかな。
で、親族の人の著作だったかで、江藤は槍の名手だったと書いて
あった気がするので、気迫だけは凄かったんだろうなと思った。
気迫だけはというか、当時の武術はまず気迫を養うことが強さの源と言う気がする
実際、今でも合気道とか、老齢の師範なんか力で勝てても気迫で圧倒されちゃうもん
武術に限らず、卑賤とは言え自分は武士だと言う強烈な自己規定が
江藤に限らず、地方の下士出身の明治政府大官の職業倫理を支えたんじゃないかねえ。
都市の旧幕臣は技術売ってお給料貰うとか、武士?何それ食えるのって自己意識だっただろうから
だから「徳川御為」が「皇国の為」に変わって、良い意味での転身も速かったんだろうけど
保守
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/26(月) 01:35:31 ID:K8mfwocX0
今の世に生きていれば、小沢・鳩山、その他汚職政治家を徹底的に追い詰めてくれたろうな。
353 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/28(水) 23:58:46 ID:43h4wL780
もう、没後100年以上経ち、清廉な
政治家の面も多々あり、再評価されず、
イマイチ有名になれないのは、
裁判否決制度が見直され、まともに
三権分立になったら官僚や政治家が
まともに集金能力がなくなって、
困るからだろ。
だから、教科書には「佐賀の乱」を
起こした張本人としか載せない。
354 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/29(木) 18:06:32 ID:ZN2nmbh9O
九州江藤で 思いだしたけど衆院の江藤は馬鹿息子だな あれ
あぁいうのがいるから自民党は負けるんだよあの御仁の地元を見てきなさい 時代遅れの知恵おくれ 信じられないよ江藤先生をかついだ人々は…
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/08(日) 07:57:59 ID:CHkZhRxW0
>353
民主党のほぼ全幹部から、三権分立を否定するコメントが出てるよね。
あんまりニュースになってないけど。
あと、小沢さんと一部の人から、司法権の独立を否定するコメントが出てるよね。
法の解釈は政治家が行うとか言って。
356 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/08(日) 16:24:29 ID:1RZgeJeT0
初代司法卿としての江藤の評価は
法史学の分野では固まっていないらしい
なにぶん在任期間が短すぎて
どこまでが江藤の功績か評価しにくいとのこと
ひとつ確定している評価としては
司法書士とか行政書士とか
いわゆる士業(さむらい業)制度の
創始者であることらしい
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/28(土) 04:56:56 ID:NCrxKieT0
今の時代にはいないタイプだ
358 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/28(土) 12:43:46 ID:CbdA4y/U0
>>356 本格的に国政に参加し始めた明治二年から冗談みたいに役職を転々としてるよね。
明治二年 中弁 ・・・ 現在で言えば実質的な内閣官房長官で、さらに強力な権限を持つ。
明治三年 制度取調専務を兼務 ・・・ 今の事業仕分け的な仕事だけでなく、事業創出も行う。
明治四年 文部大輔に就任 ・・・ 卿を断り実質的な初代文部卿。学制公布の実行プランを作成。在任期間は僅か二週間。
明治四年 左院副議長 ・・・ 実質的には、現在でいうところの、参院議長。
明治五年 教部省御用掛兼務 ・・・ 新設した教部省の地ならし的な業務で信教の自由を推進。
明治五年 司法卿 ・・・ 自ら設立した司法省の初代卿に就任。
明治六年 参議を兼務
う〜ん、今の民主党の弱いところが強かったみたいね。
359 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/28(土) 22:56:20 ID:iT4XTye90
維新の三傑のひとり大久保からあれだけ評価されてるとは
恐るべき才能の持ち主だったのではないだろうか?
大久保=江藤くらいの評価でいいと思われる
>>359 大久保 - 謀才 - 後ろ盾(藩閥) + 新制度設立力 = 江藤
こんなかんじ?えらいおおざっぱだけどさ。
>360
大久保 - 謀才 + 語学力 + 海外事情 + 異常な事務処理能力 = 江藤
だと思う。
362 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/01(火) 23:13:55 ID:BEzyWzGQ0
地方反乱軍の親玉くらいにしか教わらなかった
363 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/04(金) 21:20:36 ID:9Learhs80
そのようにしか教えてないだろ。
364 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/12(土) 17:22:25 ID:15ECrnTiO
まあ、反乱軍の親玉に担ぎ上げられるにしても、軍人じゃないからなあ。
その辺が西郷や前原と違うところだ。
365 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/19(土) 23:54:04 ID:H5UNXF1H0
民が潤う事で国が潤うとゆう基本が忘れ去られた今の時代
再評価の必要な人物かもしれない
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 15:50:49 ID:6sUDdK4E0
そうだな。
潤ってるのは脱税首相とかブリジストンとか
ばかりだからな。
今の時代に江藤がいれば、巨額脱税の鳩ぽっぽ首相は
在宅起訴じゃなくてブタ箱行きにしてくれただろうに。
今の時代に江藤がいても、真っ先に友愛されてしまうと思う
麻生と鳩山の党首討論でも、ノーカットで見ると鳩山がまともな受け答えできずに
支離滅裂な発言を繰り返してるだけなのに、マスコミフィルターを通したら、
鳩山が麻生を圧倒したように上手に編集されてたもんなぁ。
369 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/10(日) 17:46:07 ID:9XtkUpS50
大久保が暗殺された翌年には梟首刑は廃止された。
時期的にみても江藤の梟首刑はよくなかったといこうことだね。
370 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/14(木) 18:03:34 ID:aw8W/U0I0
>>369 次の点で、大久保の処置はおかしいんだわ。
・江藤が佐賀落ちした時点で、既に大久保は全権を解かれて何の権限もなかった。
・佐賀の乱の時点で、内乱罪に対する規定がなかった。
・士族身分の剥奪という法律に無い処置。
・梟首は、江藤が残酷であるとして廃止していたのを復活させた。
・朝臣である江藤を、天皇の許可なく処刑した。
大久保のこういうところが、嫌いな人は嫌いな点、好きな人は好きな点なんだよな。
書生とのエピソードが面白いよね。
腹痛をおこした書生のために、ご飯で腹を温めさせて、
冷えたらまたご飯炊かせて夜通し看病したっていう。
それが江藤党的なものを作るためってわけでもなかったっぽいし。
文官では、毛利さんの本に出てくる加太邦憲氏
(大阪控訴院長、大阪法律学校=関西大の前身の校長)も感謝組だね。
一方で司法省で法典翻訳に当たった箕作麟祥はそこまででもない。
江藤は左院主導での法典制定を考えてたからだと言う推測もある。
375 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/18(木) 01:47:57 ID:c6elesjN0
>>374 佐賀の乱に際しては、最後の武雄領主(龍造寺系大配分;親類同格;自治領主;請役家
老職(執政職))であり、佐賀藩最強の教導砲兵団長であった鍋島茂昌も中立のちに恭
順を貫き、一歩も武雄を出ていない。
まあ、維新後に「たかが西郷(隆盛)が陸軍大将で、自分が陸軍少将(兵部大輔)とは
ふざけるな」で武雄に帰ってしまった人なので、絶対に島や江藤の下風に立つはずも無
いが。。。。
佐賀の乱に決起したのは佐賀を始め蓮池、小城、鹿島の旧藩士が大部分で
武雄、多久、久保田なんか僅かな人数だったとか
やっぱり鍋島と龍造寺系では温度差があったんだろかね
何年か前にwikipediaの江藤の項目で、佐賀の乱までの経緯に書かれていた、江藤離京直後から
反乱鎮圧軍が編成されてることや、岩村の挑発行為などの記述がいつの間にか消されてるね。
大久保が岩村に、反乱を起させるための挑発をしろと指示していた公文書が発見されたってのを
最近、何かの本で見かけたんだけど何だったかな〜。
>>372 佐賀では新平さんの墓に詣でると
「百災除去、万願成就の功徳がある」と云われていたらしい
379 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/21(日) 09:31:47 ID:XoGOiMed0
>374、375
私も先祖が佐賀の乱で戦ったことの記録を持っている
誰も知らない事実を知っている
関係者にお見せしたが
いま調査中です
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/21(日) 09:33:56 ID:XoGOiMed0
>376
大事な家を忘れているよ〜
佐賀では中立党のことを語るのは禁でしょうか?
381 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/21(日) 09:35:02 ID:XoGOiMed0
>376
大事な家を忘れているよ〜
佐賀では中立党のことを語るのは禁でしょうか?
382 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/21(日) 09:37:36 ID:XoGOiMed0
佐賀の乱について知ってみると
胸が熱くなる思いがしたことがあるんですよね〜
383 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/21(日) 09:38:31 ID:XoGOiMed0
江藤新平銅像祭りは今年は何日ですか
384 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/21(日) 10:04:11 ID:XoGOiMed0
江藤は素晴らしく斬新な考えの持ち主だろう。
既存の社会体制の変換が維新だろうから
法のもとに平等な社会を目指した新平は素晴らしいが
佐賀の乱は、その社会変化についていけず、既存の権利を奪われた
士族しかも下級士族が起こしたいわば抗議活動ではないのか?
戦費の市民への助成強要などもあったらしいし
先にも出ていた神埼辺りの町は焼き払われたわけだから
農民、町人からすればいい加減にしろ!という感じなんだろうね。
だから歳月などの諸説でしか、新平のことをしらないが
なぜその首謀者になったのか理解できない。
385 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/21(日) 17:21:30 ID:amWYKuUb0
>>384 同意。
しかし、あちこちで挙兵を拒否された江藤の心理を考えると、実に苦しくなる。
386 :
東条英機 ◆/mR6zOub6o :2010/03/21(日) 18:20:37 ID:VP6XciDc0
JR九州の人吉と吉松の間を走る列車に「いさぶろう・しんぺい」号があるが
この「いさぶろう」は 山縣イサブロウ の名前からきておる。
「しんぺい」は江藤新平じゃったか後藤新平じゃったか忘れたわい。
388 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/21(日) 22:14:47 ID:R9pWeHkc0
>380
江藤新平を素晴らしいと思っているものですが
時代の運命を感じるのです。
書きたいのですが、江藤フリークから不都合なことが起きませんか
>>388 何年も前の江藤スレで荒れたのは、論理的な話が一切通じない、
嫌韓厨と大久保盲信者による征韓論大マンセー論と江藤扱き下ろし論だけ。
それ以外で新しいネタが加わるなら大歓迎w
あ、オレは明治の政治家で一番好きなのは江藤新平です。
大久保利通は好きでも嫌いでもありませんが評価はしてます。
390 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/22(月) 08:48:15 ID:HylcJKZn0
実は先祖に関する手紙が出てきたもので
2年前に頑張って手紙とおり調べました。
白石鍋島家の家老が先祖です。本行寺に行きました。
はじめは何も知らなかったので、オ!江藤新平のお墓だ〜と感動しました。
その奥に白石鍋島家の墓所があるのですが、壁のように並んでいるのが
旧竜造寺家臣の墓のようです。
家計調査をしていくうちに佐賀の乱の古文書に出会いました。
書いていたことは白石鍋島家家臣団は中立党宗龍寺派だったと
いうことでした。
江藤の墓は佐賀の乱の後妻が本行寺町に住んでいたので
移したと聞きました。
なんと複雑な思いがしたのです。こういった背景を知った後に
再びあの空間を訪れた時に胸が温まる思いがしました。
391 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/22(月) 14:34:46 ID:g+kAaG1e0
本行寺に行かれたことありますか?
>390
そういや、佐賀の乱のときの佐賀士族は、征韓党と憂国党ばかりがピックアップされてたけど、
中立だった人たちは何人くらいで比率はどれくらいだったのか知りたいところだね。
ちなみに、本行寺は何宗のお寺ですか?
>>391 3行目に行ったと書いてある。
393 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/22(月) 18:23:37 ID:Lxlt5sz20
日蓮宗
成富兵庫茂安のお寺
初代直弘公は高伝寺に埋葬されるはずだったが
遺言に沿って養父の本行寺に埋葬されたという
血はつながってなくても親子の愛は日本人好みと
お寺の冊子に書いていて、いけばいただけます。
前山清一郎はじめ中立党は裏切り者呼ばわりされ
不運な運命になりますが、一般民衆にとっては
乱自体がどういうものだったのでしょうか
江藤は素晴らしいい人ですが、乱自体の受け止められかたは?
394 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/22(月) 19:57:18 ID:SFVGSDAc0
江藤新平、職場の同僚の祖母宅(四国の庄屋)に泊まったことがあるそうだ。
多分、佐賀の乱失敗後に、宮崎→宇和島を経て、土佐へ逃げた時かな。
>>392 中立とは?
中立党の人数?それとも中立姿勢の士族の人数?
396 :
A:2010/03/22(月) 21:47:54 ID:IQGCKycA0
>391,392両方私です
397 :
A:2010/03/22(月) 21:51:05 ID:IQGCKycA0
中立党は、最初は本当に中立だったのが
どちらからも信用されず、結局どちらかにつくように
選択を迫られた結果のようだが
憂国、征韓両党に入る途を失い去就に迷ってた四十人前後が前山を動かし党首に推している
当初は正義党と名乗り憂国、征韓両党の動静を森参事(権令代理)に通報し、それを森が東京へ打電した
宗龍寺で発会式をあげると千人以上(前山の伝記)集まったと云われているが実際は五百人前後だったらしい
しかし憂国、征韓両党を敵にまわし官軍に内応することがわかると離脱者が相次ぎ、最後まで残って戦ったのは
二百余人(江藤南白/的野半介著では百余人)だったと云う
当初熊本鎮台、のち征討軍(野津少将)の指揮下に入り、道案内をしたり情報集めが役割だったが直接戦闘にも参加した
常に先頭に立たされたが武器も貰えず、また行動の自由も許されず憤慨したニ人が割腹したと云われている
400 :
A:2010/03/24(水) 22:57:22 ID:/bbaUA+H0
そうなんです。道案内とかをさせられたと。しかも官軍につくことが
偽りでないかの踏み絵的な敵の首を差し出せとか言われたり
本当は静観したかったのであろうが、そうは許されなかったのだろう
その後は前山も印旛村で悲運な余生となるが、戦闘に最後まで残った
白石鍋島家の重臣の一部はやはり転居した。
白石鍋島家の子孫の方いませんか
熊本鎮台兵側も最初は前山党には疑心暗鬼を持っていた
そこで前山党は憂国党の三人と征韓党の四人の七人を捕縛し
鎮台兵へ渡したり、首を斬って見せたりして恭順の意を示した
明治九年の論功行賞では佐賀県権令の岩村高俊が七百円、参事石井邦猷が
百五十円を貰ったのに対し、前山清一郎は八百円を貰った
しかし佐賀の郷里では前山を裏切り者として、敵視され、最後は郷里に
居たたまれなくなったところを旧藩主鍋島侯爵家の扶助で前山一党は
千葉県印旛郡小間子で帰農開墾に従事したが、前山は不遇のうちに
明治ニ十九年三月、七十四歳で亡くなったという
402 :
A:2010/03/25(木) 06:19:36 ID:S9EWwHMc0
こういった歴史の裏話が私のような素人には
面白いです
403 :
A:2010/03/28(日) 18:43:15 ID:cuhSS1F+0
800円もらったことが敵視された最大の理由かもしれない。
江藤新平は乱を鎮めるために佐賀に戻った。
白石鍋島河内守は義祭同盟のメンバー
江藤は藩政の中で河内に次いでNO2の実力を持っていた。
404 :
A:2010/03/28(日) 20:47:31 ID:6h7N9vja0
人心維危道心維微
(人心これ危く、道心これ微なり)
故聖人戒之曰誠執其中
(故に聖人これを戒めて曰く、「誠にその中をとれ」と)
余毎懐此言未嘗不感歎敬称也
(余、この言を思うごとに、未だかつて、感嘆敬称ならざるなり)
因移得人心維危語以自戒且賦和歌一首歌云
(因って「人心これ危し」の語を移し得て、以て自戒し、かつ和歌一首を賦す。歌に云う)
郭公 聲待ちかねて つひに将 月をも恨む 人心哉
(ほととぎす 声待ちかねて ついにまた 月をも恨む 人心かな)
>800円もらったことが敵視された最大の理由かもしれない。
前山党一味が裏切り者と軽蔑されたのは「葉隠」に叛いた行動を取ったからと思う
江藤新平は「葉隠」の教えを取った
406 :
A:2010/03/29(月) 07:45:31 ID:is7R7FuP0
葉隠れのどういった内容ですか?
407 :
い:2010/04/02(金) 20:02:03 ID:HeKlYKpP0
毎年4月13は神野公園にて江藤新平銅像まつり 行きたいのはやまやまだが平日だから行けない なんとかならないかね
408 :
龍造寺:2010/04/03(土) 00:03:11 ID:c68HAikJO
江藤
409 :
RYU:2010/04/03(土) 00:07:33 ID:c68HAikJO
佐賀の乱はあまり語り継がれてないはず。
410 :
RYU:2010/04/03(土) 00:54:51 ID:c68HAikJO
首切りは佐賀の士族らにしてみたらそれは恐ろしかったはず。当時の佐賀藩は優秀な人材が多く、他藩にしてみたら恐ろしかったのかも。
411 :
RYU:2010/04/03(土) 09:36:13 ID:c68HAikJO
今の政府も大久保利通の子孫がザラと知ってて、佐賀の人達や世間は佐賀の乱の事語らないのでは?
>>411 今の政府には大久保の子孫はいないんじゃないか?
以前でも麻生くらいでしょ。
413 :
RYU:2010/04/03(土) 10:38:51 ID:c68HAikJO
最近になって、佐賀県では七賢人の事を議会でも取り上げてるみたいだもんね。そういう事かな〜?
>>413 国際的にナショナリズムが高まっているから、その流れでしょ。
ところで、あまり一人で連続して書き込んでるとアホと思われるぞ。
415 :
RYU:2010/04/03(土) 16:04:48 ID:c68HAikJO
気になるんだよね、家は佐賀の乱でバラバラになった類いの出だったと聞いてたから。
416 :
RYU:2010/04/09(金) 23:29:51 ID:fMjxuX9oO
祖先は代官所の役人だったみたいで江藤方についてたらしい。弘道館の事とか詳しく調べたら分かるんかな?
417 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/10(土) 21:59:39 ID:CE6dJHXJO
?
418 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/10(土) 22:56:48 ID:S69ey9fN0
>祖先は代官所の役人だったみたいで江藤方についてたらしい。
なるほど。それで?
>弘道館の事とか詳しく調べたら分かるんかな?
詳しく調べたら分かると思うよ。
419 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/11(日) 01:33:55 ID:4AQbyKrAO
処罰されて熊本に行き何年か後戻って来たらしい。命は助かったのはなんでかな?酷い形相だったとは聞いてる。それから佐賀の乱やらなんやらについては後から少し話したくらいで全然話さなかったらしい。
バラバラになった家族も見つけ出せてない。見つかって殺される事を恐れてバラバラに預けたらしい。
420 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/11(日) 01:56:18 ID:4AQbyKrAO
ちなみに家なんか不平士族だったんだろうから悲しいよ。家じゃ江藤新平はヒーローだけど、追い詰める元だったかもなんて思うと悲しいわ。
佐賀の乱の傷跡は佐賀のものにしたらまだまた残ってるんじゃないの?もっと江藤新平さんのリアルな話しとか探されてないだけよ。
なんていうか、下手な文章だね。
面白そうな話なので、もうちょっと推敲してくれればこのスレも盛り上がるよ。
422 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/13(火) 23:35:54 ID:Z21jdstOO
命日あげ(-人-)
423 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/14(水) 00:18:30 ID:4LyyU+3vO
文章は中学で諦めたから。精一杯だから求めないでくれ。
面白い話?家だけじゃないと思うよ、こんな悲しい話。語られてるかもしれないけど、率先して言ってないんだよ。
425 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/18(日) 21:58:20 ID:Fr8Zbcu3O
もっと大きく取り上げられないものか?
426 :
A:2010/04/27(火) 06:51:12 ID:P1O/4Suf0
進んでいない
江藤と小栗と石田三成の信者って被ってそう
大久保と家康の信者も被ってそう、でも勝信者は被らなさそう
428 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/30(金) 21:21:08 ID:Cw4czD7R0
>>423 うちの先祖も江藤新平に加担して徐族となってるが詳しい言い伝えは全くないよ。
郷土史、佐賀の乱の書物で知ることが多分にある。
429 :
A:2010/05/01(土) 08:06:29 ID:3P/y9Ur60
佐賀には明治政府で中枢にいた佐野、大隈、副島などなど
多くの人がいたと思うが、そういう人たちはこの時にどう動いたのか
私が素人だから知らないだけかもしれないが、全く聞こえてこない。
いつも出てくるのは大久保謀略論のみ
乱そのものは世の中が激変してこんなはずじゃなかった…的な
不満の爆発だろうと思うが
下級武士は、そもそも家禄以外で副業で生活していたんだろうから
もともと世の中変わっても生活できていたんじゃないかな
かえって中級の副業もなく家禄で生活していた者、特に城下では
百姓もできないし、商売もやれるはずもなく
生活に困る者もいたと思う
どうなんだろう?
430 :
A:2010/05/05(水) 06:53:51 ID:HMqvzxln0
本行寺のことをかいたのですが
あの世では白石鍋島家の者と、江藤新平は
仲良く酒を酌み交わしているに違いないと
思うようにしました。
鍋島河内も同じ義祭同盟のメンバーでした
431 :
A:2010/05/21(金) 11:37:48 ID:UZftpsaD0
白石団として6小隊征韓党にくみしていた記録がある
邑の中でわかれていたのか・・・
432 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/02(水) 23:05:01 ID:dN3ocdeDO
除族になるとどうなるんですか?
433 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/02(水) 23:09:57 ID:dN3ocdeDO
義祭同盟のメンバーは分かっているのかな?
お長うございます
435 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/03(木) 23:14:54 ID:kpB7V4LmO
佐賀の歴史て不明な事ばかりのような気がする。
436 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/05(土) 00:48:35 ID:EKKG1xMFO
義祭同盟のメンバーは相当頭が良かったはず
437 :
A:2010/06/05(土) 07:55:22 ID:T9qUoR600
古文書の中に白石家当主から
前山集議に出ないでくれと
言われた…という謝罪文をのこした者がいた
438 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/05(土) 09:53:51 ID:PLX4k/E20
439 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/12(土) 21:08:55 ID:juQ5T77vO
428>>除族になってそのままですか?それって汚名返上はされたですか?
440 :
A:2010/06/30(水) 17:35:26 ID:YuftRKHs0
江藤新平に加担した…は違うんじゃないかな
江藤新平を担いだではないのかな
441 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/05(月) 23:27:33 ID:YzVEZwUK0
江藤のさらし首写真は白黒ばかりだが、
翔ぶが如くではカラーでさらし首を公開されていた。
白黒は本物だが、カラーでは?
443 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/06(火) 12:22:14 ID:eY8/YNhWO
翔ぶが如くはNHK大河ドラマだ。翔ぶが如くの江藤の首級は造り物だろう有料のオンデマンドでよく見てみろ。
444 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/09(金) 16:00:40 ID:1CQtzdrC0
乱後、江藤新平の墓周辺
江藤新平の霊に祈ると諸病が治り盲眼が開き、延引している裁判もたちまち決着するとの
噂がある。そのため士族平民男女別なく江藤の墓参りがされている。
佐賀にとどまらず、久留米、柳川等の人民も加わり、多い日は200人程が来る。
また、午前9時から午後4時までは江藤の亡霊は県庁に行き民政を聞くといって、
この時間の参詣は少なくなる。
連日多数の参詣があるため、墓のある蓮成寺には売店が出た。
県庁が江藤の墓参りを禁じ、また、江藤の亡霊が肥後に行ったという者もあって、
人数は減ったものの、墓参りはやまなかった。
445 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/07/14(水) 23:35:49 ID:JcSyfRxr0
江藤先生のさらし首写真て、どうして普通にネットとかで見られるのだろうか。w
生粋の地元の佐賀民にとって江藤さんは昔から普通に郷土の英雄として称えられております。
早稲田大学の創設者よりも敬愛されてます。
ただ江藤さんを素直に尊敬するあまり、佐賀の乱の後に処刑されたこととか
大久保さんが写真をかざっていたこととか、佐賀民にとってはトラウマになっています。
だから語らないのではなく語れないのです。それほど心の傷は深いのです。
確かに佐賀では大隈の人気は全くないね。
大隈も佐賀を嫌ってたみたいだし。
大隈は先祖が久留米の大隈村ゆかりらしい。
佐賀では真の殿様は竜造寺氏で鍋島氏は化け猫騒動うんぬんでイメージが下がったので、
鍋島の殿様は人気がいまいち空気のような存在。
空気とはいえ幕末期は聡明で質素堅実で傾いた藩の財政を立て直してくれた名君がいたので、
ま全体的な評判は悪くない。佐賀神社に祭られてニッポーサンがはじまると
雨が降るねーという話題と共に県民に語り継がれる存在。
と言う訳でサガの7賢人の一人の江藤さんは存在感のある郷土の英雄である。
目立たないけど戦国〜江戸初期の成富兵庫重安は隠れたヒーロー。
学業や勤労を尊ぶ質素堅実の気風を作り、農民や商人でも志のある優秀な物には
学問を学べる環境を整え、儒教教育にも熱心に取り組み、また藩主自ら
質素な着物と茶粥を食べ、藩士の子弟学問の超厳しいノルマを課して、
学業を怠ると家柄身分問わず禄を減らしたり、
とにかくスパルタ教育によって江藤新平などの後の優秀な人材が育成された。
優秀かつ人徳優れるものが多かったのだが、副作用は純粋培養なので
誘惑や陰謀にいとも簡単にハマってしまったのだ。
幕末佐賀藩が行なった藩政改革は財政、教育、軍事の三点だったからね。
とくに教育改革で弘道館に力を入れている。
東京市政や佐賀藩政改革をみると、今の日本の公務員改革や金融改革、税制改革をやってもらいたい。
453 :
A:2010/07/19(月) 19:08:02 ID:r7LD81u80
わたしの高曾祖父は白石鍋島家の鍋島直章です
財政再建に取り組みました
始祖の養父が成富兵庫茂安です
佐賀藩の財政改革とは
借りた金を70年とか100年とか気の遠くなるような年賦に変更してもらった上
一部を払って残りは踏み倒す。「ソロバン大名」と云われていた。
それは島津も同じだろ。
456 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/12(木) 12:21:47 ID:veigb0C70
ほー