作蔵の息子大室寅之祐が明治天皇になったと言える3

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9日本@名無史さん
538 名前:OCRは便利 投稿日:2001/06/10(日) 21:52
防長における南朝の系譜/松重 正(転載その参)

一、大正一〇年(一九二一)一一月、大正天皇の病状が思わしくないため、皇太子
裕仁(二〇才)が摂政となった。
 大正一二年九月一日、関東大震災おこる。
 同年一二月二七日、山口県熊毛郡立野の代議士難波作之進の五男大助(一八九九
年生)が、恋愛中の学習院の下級生・久邇宮良子(一九〇三年生)を皇太子妃とし
て横取りされたことを無念に思い、伊藤博文がロンドンで買入れて作之進に与えて
いたステッキ銃を持出して、摂政裕仁が乗った車へわずか一二cmの側まで近寄り、
「俺の女を取りやがって」と叫びながらステッキ銃の筒先を空へ向けてぶっぱなす
という虎の門事件をおこした。
 大正一三年一月二六日、難波大助を共産主義を信奉するテロリストに仕立てて、
国民に真相を隠したまま、皇太子裕仁と妃殿下良子の成婚式を挙げた。
 同年一一月一三日、大助に死刑の判決。
 そのわずか二日後の一五日、死刑執行。何ともあわただしいことであったが、
ヒロヒトも当局もいったい何を恐れたのであろうか。

一、こうして無理矢理結婚して、大正一五年(昭和元年)一二月、昭和天皇となっ
たものの何年たっても二人の間に子供は生れなかった。
 見ざる、言わざる、開かざるの鉄仮面の王とされ、終世、伊藤博文のパペット
(あやつり人形)に甘んじねばならなかった明治天皇は、酒と女にうつつをぬか
す連日の生活が続いたため、次第にストレスがたまっていた。
 明治天皇が五〇才になつた時、皇統譜を絶やさないようにするため、年若い息子
の嫁・節子と同衾して子づくりに励むことになってストレスは解消され、そのお陰
で三人の新しい皇子も生れた。
しかしこれらの皇子には天皇の酒害が遺伝して、子種がなかったと云われている。
 つまり国民には、大正天皇の子と知らされている裕仁、やす仁、宣仁の三皇子が、
実は天皇の子でなく、しかもこの三人の皇子にはすべて子種がなかったというので
ある。