作蔵の息子大室寅之祐が明治天皇になったと言える3

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7日本@名無史さん
535 名前:OCRは便利 投稿日:2001/06/10(日) 21:09
防長における南朝の系譜/松重 正(転載その壱)

大室家の人々の篤くべき証言
 大室近祐翁が逝ったあと、大室家には二人の媼が残された。一人は麻郷奥の前田
家から嫁いで近祐翁と苦楽を共にしてきた静江(大正12年生)夫人と、いま一人
は近祐翁の妹ヒサ子(明治44年11月18日生)さんで当年87才、故あってず
っと大室家で暮らしてきた方である。
 この二人の媼が大室家と近祐翁にまつわる思い出をぼつりぼつりと話してくれる
のだが、その中にはなんとも驚くような証言が含まれているのでそのあらましを解
説する。
一、田布施町役場の戸簿謄本を見ると、頭出しに、
山口県熊毛郡麻郷村第五百五拾四番屋敷
前戸主亡夫大室弥兵衛長男
大室庄吉(嘉永三年正月十日生)とあり、つぎに庄吉の母として、
亡祖父文右衛門長女・亡夫弥兵衛妻
 ハナ (文化十二年十二月五日生)
 つぎに庄書の妻(同村峠嘉右衛門長女)
 マチ (嘉永二年八月二十三日生)
 そして庄書とマチの間の子として、
長男儀作(明治十九年十一月二十三日生)
長女モト (〃四年正月八日生)
二女タカ (〃八年十一月二十四日生)
三女ツネ(〃十一年十一月一日生)
四女ヨネ(〃十四年十月二十四日生)
五女ツユ(〃十七年六月二十八日生)
二男音吉(〃ニ十二年九月二十六日生)
と記してある。

 しかし実際の大室弥兵衛の長男は、大室寅之祐(嘉永四年・一八五一年生)で
あって、文久三年八、九月、七卿が大室家に滞在したとき、三條実美らはこの寅
之祐(当時一二才)を掌中の珠のように可愛がり慈しんでいたという。
そのため二才年下の次男庄助(一〇才)は、別府村の高城家に預けられて別居す
ることになった。この庄吉が実家の大室家に帰ったのは、慶応二年一〇月、伊藤
俊輔が寅之祐を萩の杉家(松陰の実家)へ連れ出した後のことであって、翌三年
四月、寅之祐が「玉」として上洛したとさ、庄吉は一四才であった。
 これがもし戸簿謄本に記されている通りの生まれ年としたら、兄寅之祐の行方
について、郡の大庄屋時政藤五郎ら宰判所役人の取調べを受け、しぶとくしらを
きり通した時、一七才ということになるから一人前の青年扱いされて、とても命
はなかったであろう。だが実際には一四才であったから、「少年だから命は助け
よう」ということになって実家に帰ることを許されたのである。
 すると、
 田布施町役場の戸籍謄本に、大室弥兵衛長男庄吉(嘉永三年正月十日生)とあ
るのは誤りで、実際は弥兵衛次男庄吉(嘉永六年生で月日不明)というのが正し
いことになる。
 また庄吉の妻マチの年令も、当時の慣習からして初子の出産年令が高いことを
考えると、庄吉の年令かくしに合わせたものであって、それは寅之祐の出自を不
明にするために大室家の戸籍を改ざんした結果である。
 かくして寅之祐の戸籍は抹消され、あわれ明治天皇はほんとうの雲上人・無籍
者になってしまった。