作蔵の息子大室寅之祐が明治天皇になったと言える3

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今からおよそ1300年前の高句麗滅亡によって、大勢の高句麗人(高麗人※)がわが国に渡来した。当時の日本より高度な文化を持っていた渡来人は、土木技術や新田開発などで活躍し、喜んで迎え入れられた。

 持統天皇元年(686)、常陸に高麗人56人が赴いたという伝承がある。また、和銅元年(706)に常陸守になっているのが阿倍狛朝臣秋麻呂という人で、この人の2代前の祖先、比等古臣(ひとこのおみ)という人が遣高麗使になっている。行方郡玉造町の三昧塚古墳は帰化人文化の痕跡を辿る重要な遺跡であったが、昭和30年に霞ヶ浦の防波堤を作るため長さ90bの前方後円墳を壊してしまった。内部の石棺から6頭の馬が3頭づつ中心で向き合っている金銅製の豪華な冠が出土している。

 『続日本紀』元正天皇霊亀2年(716)には、「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野7国の高麗人1,799人をもって武蔵の国に移し、はじめて高麗郡を置く」とある。武蔵の国高麗郡とは現在の埼玉県日高市、西武池袋線高麗駅からJR八高線高麗川駅間の高麗本郷のこと。ここには高麗神社があり、隣地には高麗山聖天院がある。

 ほど近い飯能は、「韓(ハン)の地(ナラ)」という意味である。
 都内にも駒沢※・駒込・駒場・狛江※など高麗関連の地名が多い。また、群馬県の上野(こうずけ)には木暮姓が多いそうだが、これも高句麗→コクレ→木暮となったものだ。

 ※駒…馬のことを駒というのは高句麗以外ないそうだ。東京駒込なども高麗の集団が残した地名。山梨県の甲斐駒も同じである。馬というものを東国に広げたのは高麗集団で、関東武士と騎馬民族であった高麗とは深いつながりがある。
 ※狛江…狛江百塚といわれるほど古墳の沢山あったところで、今はわずかに兜塚古墳と、戦後に発掘された亀塚古墳があるだけだが、これは6世紀初めに築造された高句麗系のもの。ということは少なくとも5世紀半ばには高句麗人がそこにいたことになる。
 川崎市の早野横穴、馬絹(まぎぬ)古墳も高句麗系の古墳である。