作蔵の息子大室寅之祐が明治天皇になったと言える3

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10日本@名無史さん
542 名前:日本@名無史さん 投稿日:2001/06/11(月) 20:50
防長における南朝の系譜/松重 正(転載その四)

一、昭和五八年(一九八三)ごろ、東京から数人のお供を連れた某宮様(高松宮か)
が大室家にやってきた。この人は髭をはやした立派な紳士であったが、近祐翁と
懇談しているうちに次のような打明け話をしたという。
(イ)、今上陛下(昭和天皇・裕仁) の子とされている明仁親王 (一九三三年
生)は、実は陛下のお子ではない。明仁親王が五、六才のころ血液検査をして調べ
たところ、天皇裕仁の子ではないということが判明した。おそらく崇仁親王(三笠
宮)のお子であろう。
(ロ)、もう一人の正仁親王はどうも徳川の血統のようだ。だから、「陛下はご自
分が死ぬるまで譲位はしないご意志である」と語った。
その時たまたま近祐翁の次男明美(いま改名して弘樹・1948年生)の長男貴雄
(当時幼稚園児)が庭先で活発に遊んでいるのを、横目でじ−と見ていた宮様は、
突然、
「この児を天皇家に養子に貰えないだろうか」と言いだした。
 近祐翁が、「どうしてか」と聞くと、「明仁は生来愚鈍でわやだから見ちゃあお
れん、宮中でもどうにかしてくれという意見が多くてこまっているのだ。この児
(貴雄)のような良い子を連れて帰れば、陛下もさぞかしお喜びになるだろう。私
が責任をもって継嗣にするから、是非東京に連れて帰らせてくれ。実はこのような
こともあろうとかと、陛下の内諾も得て来ているのだ。是非是非頼む」
と平身低頭した。
 なるほど、その頃の貴雄ははた目にもとても綺麗で利溌な良い子であったから、
宮様が慾しがったのも無理はない。また明治天皇(大室寅之祐)の弟・大室庄吉の
玄孫を天皇家に入れても血統上おかしくはない。筋の通った話である。

 そこで、
 近祐翁は別室に家族一同を集めて慎重に協議した。みんなでいろいろ話し合った
末に、「天皇家に入ると家族団らんの楽しい生活は期待出来なくなるだろうし、
毎度の食事も一々検査せねばならないような恐ろしい所へ、可愛いい孫をやる訳に
はいかん」 という結論になって、この話を断わることにした。
 だが、この話を断わるについて、大室家の人々には次のような部いつらい思い出
があったのである。
 近祐翁には三人の弟と三人の妹がいたが、そのうち将来を期待された二人の弟と
一人の妹が、天皇家のために戦争の犠牲になつている。それも単なる戦死ではなく
て、明らかに意図的に殺されたとしか思えないような死に方であった。