滅亡・改易大名家のその後

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604日本@名無史さん
コピペですが…

>正直の嫡子正光は高遠二万五千石を領した。正光は将軍秀忠の庶子正之を養子として家督を譲り、以後姓も松平、「御家門」として御三家・御三卿に次ぐ家格となった。寛永十三年(1636)には出羽二十万石、さらに三万石の加増を受けて会津若松に移された。幕末の松平容保はその後裔となる。
>正直の実子正貞は幼少より家康の側近に仕えたが、兄正光の勘気を受けて浪々、大坂夏の陣に加わって身を立て、慶安七年(1648)一万七千石を与えられ上総国飯野を居所とした。正直には実子の正景があったが出奔して行方知れずとなり、小出吉英の三男正秀を養子として迎えた。その後正景が家に戻って嗣となり、子孫は同所で二万石を領し、明治維新に至った。養子正英には二千石を分与して、旗本家保科氏として続いた。

ということで、名は残っているようです。