滅亡・改易大名家のその後

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519のーやん
(安東・松前氏)
 奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、葛西・宇佐美・曽我・工藤などの御家人を配置し
奥州総奉行などを置く。御家人を軸として鎌倉幕府に掌握され、再編成された。
 鎌倉初期に津軽地方が出羽国から陸奥国へ移管されたので、蝦夷ヶ島も陸奥の管轄
に入る。津軽の藤崎にいた安東氏は、執権北条義時のころ蝦夷管領に命ぜられる。
 安東氏は奥州俘囚の長・安部氏の子孫と称した。前九年の役に敗れた阿部貞任の子
高星(たかあき)は津軽に逃れ、代々藤崎で地方の土豪になり、安東氏を名乗った。
安東は安藤とも書く。
 安東氏は蝦夷管領になってからすぐに、十三潟の十三湊(とさみなと)に移り勢力
を伸ばした。
 安東氏は蝦夷ヶ島から下北半島・津軽一帯に勢力をひろめ、一族を各地に配置した
が、鎌倉末期に津軽大乱を引き起こした。
 宗家と庶子家の対立は七年におよび、鎌倉幕府の調停も容易に成功しなかった。こ
のことが鎌倉幕府滅亡の遠因になり、津軽地方における南北朝の戦乱の要因になった。
主流は南朝に属し、末期に南部氏に保護されていた北畠顕家の子孫を浪岡城に迎える。
 安東宗家は津軽下郡(しもごおり)十三湊に拠ったので下国(しものくに)家とよ
ばれ、南北朝時代末期に大光寺城に拠った分家を上国(かみのくに)と称した。
 室町時代に入ると、南部氏が津軽に進出してきた。

 長いので一旦終了